今日までの研究で、いわゆる出雲神話は存在しないことが明らかになっている(注1)。古事記に載るスサノヲによるヤマタノオロチ退治の話は出雲風土記に載っていない。イナバのシロウサギの話は日本書紀にさえ載っていない。なぜそのよ…More
オニ(鬼)のはじまり
オニ(鬼)というヤマトコトバは飛鳥時代ごろに生まれたものと思われる。仏教が中国に入って道教の影響を受けたものが日本へ流れて来て、中世には地獄の獄卒として活躍したのがよく知られる鬼の姿となっている。波状的に中国の思想が…More
日本書紀古訓考証─「顧」(ヒソカニ)について─
日本書紀は古い時代から訓まれてきた。原文の漢字に振り仮名や送り仮名が付されている。それを古訓と称し、「古訓の漢土訓詁学上より見て極めて正確なる」(神田1983.414頁、漢字の旧字体は改めた、以下同じ)ものであると攷証…More
神代紀第七段一書第二の白和幣(しろにきて)・青和幣(あをにきて)について
和幣にきてという語は、古事記上巻や神代紀上巻に見られる。榊の枝に麻や楮こうぞ(榖)の布帛を取りかけたもののことで、神に祈るときに用いられる。後には絹や紙が用いられ現在に至っている。 上代の文献例は次のとおりである。 …More
日本書紀冒頭部の訓みについて─原文の「搏」や「埸(堨)」とは何か─
一 はじめに 日本書紀は次の文で始まる。 古天地未剖陰陽不分渾沌如鶏子溟涬而含牙及其清陽者薄靡而為天重濁者淹滞而為地精妙之合搏易重濁之凝埸難故天先成而地後定然後神聖生其中焉…… この文章は、古くから淮南子を含めた漢籍…More
日本書紀冒頭部の「薄靡(タナビク)」をめぐって─古訓と釈日本紀の理解のために─
一 日本書紀の冒頭に次のようにある(注1)。 古いにしへに天地あめつち未いまだ剖わかれず、陰陽めを分わかれざりしとき、渾沌まろかれたること鶏子とりのこの如ごとくして、溟涬ほのかにして牙きざしを含ふふめり。其それ清すみ…More
蘇我入鹿は「咲(わら)ひて」剣を解いたか、「咲(ゑら)きて」剣を解いたか
皇極紀によると、乙巳の変の三韓の調の儀式に参内する際、蘇我入鹿は腰に佩いた剣をはずしている。 中臣鎌子連なかとみのかまこのむらじ、蘇そ我入鹿臣がのいるかのおみの、為人ひととなり疑うたがひ多くして、昼夜ひるよる剣たち持…More
滑石製刀子副葬の意味
古墳に、滑石製のミニチュアが副葬されていることがある。各種あるが、ここでは滑石製刀子の意味について考える。 その様子を見ると、鞘に納められている姿で模造している。わざわざミニチュアを拵えた理由は、刀子を表したかったから…More
和名抄の「梟」について
源順の和名抄、羽族部・鳥名の「梟」に次のようにある。 (a)梟 説文云─〈古堯反布久呂布弁色立成云佐計食父母不孝鳥也尒雅注云鴟梟八別大小之名也〉鴟 梟 説文に云はく、梟〈古堯反、布久呂布ふくろふ、弁色立成に佐計さけと…More
和名抄の「田」について
源順の和名類聚抄は平安時代の承平年間(931~938)に成立した百科事典的な古辞書である。古来、権威ある辞書の代表格として利用されてきた。江戸時代には、元和三年(1617)に那波道円の古活字本(二十巻本系)が刊行され、…More
「日下」=「くさか」論
クサカさんという方がおられる。「日下」と漢字表記されることが多い。その歴史は古い。 然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之内、全…More
ヒルコ論
国生み説話(注1)において、いわゆる生みそこないが起こっている。その生みそこなった子は、ヒルコ(水蛭子、蛭児)である。 然れども、くみどに興おこして生みし子は、水蛭子ひるこ。此の子は葦船あしふねに入れて流し去すつ。次…More
「不改常典」とは何か
「不改常典」については、これまであまりにも多くの議論が重ねられてきた(注1)。筆者は、それらが不毛であったことを以下に示す。用例として見られるのは続日本紀の詔で、宣命体で書かれているがここでは訓読文のみを示す(注2)。…More
「稲羽の素菟」論
古事記にのみ所載の稲羽(因幡)の素菟(白菟)の説話は、子ども向けの童話のように考えられている。 故かれ、此の大国主神おほくにぬしのかみの兄弟あにおと、八十やそ神かみ坐いましき。然れども皆国をば大国主神に避さりき。避り…More
枕詞「あまだむ」と「軽(かる)」の関係と、槻の木のこと
允恭記に、木き梨なし之軽太子のかるのおほみこと軽大郎女かるのおおいらつめの話が載る。異母兄弟の関係は許されるが、二人は同母兄妹の間柄のためインセストタブーを冒したとされて流罪にあっており、悲恋の物語として受け止められて…More
履中記、墨江中王の反乱譚における記75・76歌謡について
履中記に墨江中王すみのえのなかつみこの反乱譚が載る。紀の話より充実している。大嘗祭後の豊明節会において天皇が寝てしまったところを、弟の墨江中王が天皇位を簒奪しようと放火するに及び、側用人的な存在であったと思われる阿知…More
仁賢紀、難波小野が自死した記事にある「不敬」について
仁賢紀に、先帝、顕宗天皇の皇后であった難波小野が自死した記述がある。 二年の秋九月に、難波なにはの小を野のの皇后きさき、宿もと、不敬ゐやなかりしことを恐りて自ら死みうせましぬ。〈弘を計けの天皇すめらみことの時に、皇太…More
崇峻天皇が暗殺された理由―彼の発言はなぜ覚られたのか?―
崇峻天皇の暗殺事件は、天皇が臣下によって殺された事案として歴史上唯一のものとされている。どうしてそのような王殺しが平然と行われ、さしたる混乱もなく王朝は継続して行っているのか議論されてきた(注1)。しかし、肝心の、口は…More
「醜(しこ)の御楯(みたて)」考(万4373)
次の歌は先の大戦において称揚された歌である。万葉集での意味は誤解されていた。 今日けふよりは 顧かへりみなくて 大君おほきみの 醜しこの御み楯たてと 出いで立たつ我われは〔祁布与(注1)利波可敝里見奈久弖意富伎美乃之…More
有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しほやのこのしろ)について
有間皇子の謀反事件は、蘇我赤兄の裏切りによって未然に露見し、首謀者たちは行幸先へ護送され、皇太子(中大兄)の尋問の後、処罰されている。 戊子に、有間ありまの皇子みこと、守君大石もりのきみおほいは・坂合部連薬さかひべの…More
崇神記のパンデミック記事について
一 我が国における爆発的感染パンデミックの最初の記録は崇神天皇の時代に遡る。卑弥呼の頃、3世紀初めと推測される。当時のヤマトの国はおおむね奈良盆地を版図としていたと考えられる。 此天皇之御世伇病多起人民為盡(真福寺本…More
醜(しこ)の醜草(しこぐさ)─離絶数年を経て大伴大嬢に贈る歌─
大伴宿禰家持の坂上家さかのうへのいへの大嬢おほをとめに贈る歌二首〈離さかり絶ゆること数年あまたとしにして、復また会ひて相聞往来わうらいせり〉〔大伴宿祢家持贈坂上家大嬢謌二首〈離絶數年復會相聞徃来〉〕(注1) 忘れ草 …More
高橋虫麻呂の龍田山の歌
高橋虫麻呂には富士山を詠んだ歌がある。 不ふ尽山じのやまを詠む歌一首〈并あはせて短歌〉〔詠不盡山歌一首〈并短歌〉〕 なまよみの 甲斐かひの国 うち寄する 駿する河がの国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の…More
ヤマトタケルの伊吹山の難
古事記におけるヤマトタケルの伊吹山の難については、これまでの議論では要領を得ない。 故かれ、爾しかくして御み合あひして、其の御刀みはかしの草那芸剣くさなぎのつるぎ以て、其の美夜受比売みやずひめの許もとに置きて、伊服岐…More
舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─
舎人とは 舎人とねり(トは乙類)は、天皇や皇族に近侍する従者で、護衛、身辺の雑事に奉仕する。令制によって整備されたが、令外の舎人も置かれている。日本書紀では、トネリは「舎人」(雄略紀十六年七月ほか多数)のほか、「帳内」…More
ヤマトタケル譚の尾津前の一つ松をめぐって
尾津の崎の一つ松 ヤマトタケルは東征からの帰途の終盤、尾を津前つのさきの一つ松のところへ来たところ、以前置き忘れていたで刀がまだ残されていたので感興を覚えて歌を歌っている。記紀で話の展開に相違があって順路が異なるほか、…More
「男じもの」について
万葉集に使われる表現に「…じもの」という形がある。全部で二十八例を数える。ほとんどの場合、~のように、と訳すことができる。「鳥じもの」は鳥のように、「鹿猪じもの」は獣のように、「鴨じもの」は鴨のように、「馬じもの」は馬…More
仁徳記、枯野説話の伝承地「免寸河」について
仁徳記に「枯野」の船の逸話が載る。応神紀にも「枯野」という名の船の説話がある。ただし、場所の設定が違っている。記では巨木伝承から説き起こされる。免寸河の西に大木があり、その影は朝は淡道島、夕方は高安山を越えるものであっ…More
枯野伝説について
本稿では、応神紀、仁徳記に載る「枯から野の」という船にまつわる説話について検討する。カラノと特別に命名されていることはそれなりの古代的観念によるものであり、それを解き明かすことが最重要課題である。上代の人たちはものごと…More
後行研究について その三
「一重山(ひとへやま) 隔(へな)れる」歌村田右富実「家持をめぐる相聞─大嬢に贈る歌─」『恭仁京と万葉集』関西大学出版会、2025年。 村田氏は万葉集の相聞部に載る恭仁京時代の歌のうち、大伴家持と女性との間にくり広げら…More
景行記の「恒令経長服、亦勿婚而惚也。」について
景行記のはじめのほうに、天皇が息子の大碓命を使者として地方の美麗な姉妹を献上に与らせる記事がある。しかし、大碓命おほうすのみことは自分のものとしてしまい、代わりの姉妹を選んできて名を詐称させ、天皇のもとへと送り届けた。…More
黒木歌群─大伴家持と紀女郎の相聞歌─
大伴家持おほとものやかもちと紀女郎きのいらつめの間では相聞贈答歌が何度か交わされている。「百歳歌群」(巻四・万762〜764)、「戯奴歌群」(巻八・1460〜1463)などである。これらは紀女郎が歌を贈って家持が返して…More
後行研究について その二
安積山の歌(万3807)保坂秀子「『万葉集』の『陸奥国』─巻十六・三八〇七番歌から─」『古代文学』第64号、2025年3月。 保坂氏は安積山の歌の左注にある「緩怠」に注目している。宣命にある言葉で、国司が緩怠であるとは…More
聖武天皇の節度使に酒を賜う御歌─「たむだく」の語義をめぐって─
万葉集巻六に、聖武天皇が派遣する節度使に向けて作ったとされる歌が載る。 天皇すめらみこと、酒みきを節度使せつどしの卿まへつきみ等たちに賜ふ御歌おほみうた一首〈并あはせて短歌〉〔天皇賜酒節度使卿等御謌一首〈并短哥〉〕…More
雄略記「上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下枝は鄙を覆へり」歌は、「負へり」の誤りである
雄略記に三重の采女うねめの逸話が載る。天皇が長谷はつせの百もも枝え槻つきの下で豊楽とよのあかりをしたとき、伊勢国の三重の采女がお酌をしていた。葉っぱが杯に浮かんでいたので粗相をしたと咎め立て手打ちにしようとした。采女は…More
「事の 語り言も 此をば」考
記の歌謡に、コトノカタゴトモコヲバ(事の 語り言も 此をば)という慣用表現がある。記2~4歌謡は「神語歌」、記100~102歌謡は「天語歌」と命名されており、それらの名称と関連させてこの言辞が何を表すかについて解説され…More
後行研究について その一
本ヤマトコトバ学会サイトに筆者の論文を発表後、そのテーマに関連する論文が雑誌や書籍で新たに起こされることがある。筆者の築き上げたパラダイムについては興味がなく、関知もせず、なおも固陋なレベルにあって検討するに値しない内…More
ミヲシ(進食・御食)のこと─ミヲ(水脈、澪)との関連をめぐって─
記紀のなかに、ミヲシ(進食・御食)と呼ばれる食事光景が記述されている。現在、そう通訓されている箇所は次のとおりである。 壬申に、海路うみつちより葦北あしきたの小こ嶋しまに泊りて進食みをしす〔自海路泊於葦北小嶋而進食〕…More
ヤマトタケルの「あづまはや」について
古事記の中巻、景行天皇条にヤマトタケルの東征説話がある。東征を終えて帰る途次、足柄山で「あづまはや」と歎き叫んだからその国を「あづま」と言うという地名譚が載る。 [倭建命やまとたけるのみこと]其そこより入いり幸いでま…More
ヤマトタケル論―ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件―
ヤマトタケルの命名譚 記紀の説話に、ヤマトタケルという有名人が登場する。 是ここに天皇すめらみこと、其の御子の建たけく荒き情こころを惶おそりて詔のりたまはく、「西方にしのかたに熊曽建くまそたける二人有り。是これ、伏まつ…More
上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について
一 上代に見られるヲグナ(童男)という語については、オミナ(嫗)─ヲミナ(少女)と対照させ、オキナ(翁)─ヲグナ(少年)の関係にあると考えられている(注1)。年長(オ)に対する年少(ヲ)という論理を映す語であるという。…More
壬生部について
壬生部みぶべ(ミは甲類)とは有力な皇子の養育のために置かれた部民で、厩戸皇子のために設定されたものと考えられている。「乳みぶ部べ」とも書き、上宮王家にのみ所有され、その軍事的・経済的基盤になっていたとされる。また、皇子…More
皇極紀の新興宗教─太秦(うつまさ)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも─
皇極紀に、新興宗教の記事が載る。 秋七月に、東国あづまのくにの不ふ尽河じのかはの辺ほとりの人、大おほ生ふ部多べのおほ、虫祭ることを村里の人に勧めて曰はく、「此これは常とこ世よの神なり。此の神を祭る者ひとは、富と寿いの…More
舎人皇子と舎人娘子の歌の掛け合い─「ますらを」考─
万葉集巻二、相聞の歌に舎人皇子と舎人娘子の歌の掛け合いが載る。新大系文庫本の訳(135頁)を添える。 舎人とねりの皇子みこの御歌一首 ますらをや 片恋かたこひせむと 嘆なげけども 醜しこのますらを なほ恋ひにけり〔…More
万葉集の「ますらをと 思へる吾や」について
万葉集のなかで「大夫ますらをと 思おもへる吾われ」の形をとる歌は次の五例である。 大夫ますらをと 思へる吾われを かくばかり みつれにみつれ 片思かたもひをせむ〔大夫跡念流吾乎如此許三礼二見津礼片念男責〕(万719…More
酢香手姫皇女のことは推古紀に「見」えないか?
用明前紀に、酢香手すかて姫皇女ひめのみこが伊勢神宮で日神の祭祀に奉仕した記事が載る。そのなかで、「見二炊屋姫天皇紀一。」とありながら、実際に炊屋姫かしきやひめの天皇すめらみことの紀、すなわち、推古紀を探すと不明であると…More
大伴坂上郎女の献天皇歌(万725・726)について
ここにあげる歌は、大伴坂上郎女おほとものさかのうへのいらつめが聖武天皇に献上した二首である。 天皇すめらみことに献たてまつる歌二首〈大伴坂上郎女の春日の里にして作るぞ〉〔獻天皇歌二首〈大伴坂上郎女在春日里作也〉〕 …More
万葉集のホホガシハの歌
万葉集には朴の木を詠んだ歌が二首ある。葉が大きくて柏と同様に飲食の器(注1)に用いられ、ホホガシハと呼ばれていた。講かう師じの僧ほふし恵行ゑぎやうと大伴家持が歌のやりとりをしている。 攀よぢ折れる保宝葉ほほがしはを…More
「八雲立つ 出雲八重垣」について
「八雲立つ 出雲八重垣」歌をめぐって スサノヲ(須佐之男命・素戔嗚尊)は、宮をつくる場所を出雲国に求めた。スガ(須賀・清地)というところにたどり着き、宮を造って住もうとする。初め宮をつくっていた時に、そこから雲が立ち上…More
仁徳天皇は「聖帝」か?
仁徳天皇には、「高き屋に のぼりて見れば 煙けぶり立つ 民の竃は 賑ひにけり」(新古今707)なる伝承歌があり、あたかも本当に「聖帝」であったかのように語られることがある。 是に天皇すめらみこと、高き山に登りて四方よ…More
稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─
記序の稗田阿礼の人物評に及ぶ箇所は次のようにある。 是ここに、[天武]天皇すめらみことの詔のりたまひしく、「朕あれ聞く、諸もろもろの家の賷もてる帝紀すめろきのふみと本辞さきつよのことばと、既すでに正実まことに違たが…More
長田王の水島の歌
長田をさだの王おほきみ(注1)の筑つく紫しに遣つかはさえて水島みづしまに渡りし時の歌二首〔長田王被遣筑紫渡水嶋之時歌二首〕 聞くが如ごと まこと貴たふとく 奇くすしくも 神かむさび居をるか これの水島〔如聞真貴久奇母…More
古事記の名易え記事について
題材 応神天皇に名易えの話が載る。 故かれ、建内宿禰命たけうちのすくねのみこと、其の太子おほみこを率ゐて、禊みそぎせむと為て、淡海あふみと若わか狭さとの国を経歴ふる時に、高志こしの前みちのくちの角つぬ鹿がに仮宮を造り…More
「かがなべて」考
ヤマトタケル(倭健命、日本武尊)は東国征伐からの帰還の途において、筑波問答として名高い歌のやりとりをしている。 其そこ[走水海]より入り幸いでまし、悉ことごとく荒ぶる蝦夷えみし等どもを言こと向むけ、亦、山河の荒ぶる神…More
「頂(いなだき)に きすめる玉は 二つ無し」(万412)について
万葉集巻三・譬喩歌に載る次の歌では、キスムという珍しい語が用いられている。 市原王いちはらのみこの歌一首〔市原王歌一首〕 頂いなだきに きすめる玉は 二つ無し かにもかくにも 君がまにまに〔伊奈太吉尓伎須賣流玉者無…More
聖徳太子のさまざまな名前について
はじめに 聖徳太子の名にまつわる紀の記事は以下の二つである。 元年の春正月の壬子の朔に、穴あな穂ほ部間べのはし人ひとの皇女ひめみこを立てて皇后きさきとす。是これ四よたりの男ひこみこを生あれます。其の一ひとりを厩うまや…More
聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について
厩戸皇子の出生譚 「厩戸皇子」という名は、いろいろな名前を持つ聖徳太子が生まれたときの逸話として語られている。 夏四月の庚午の朔にして己卯に、厩うまや戸豊聡耳とのとよとみみの皇子みこを立てて皇太子ひつぎのみことす。仍…More
聖徳太子の髪型と疫病(えやみ)の関係について
我が国における爆発的感染パンデミックの最初の記録は、崇神天皇の時代に遡る。卑弥呼の頃、三世紀初めと推測される。 此天皇之御世伇病多起人民為盡(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl…More
記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について
上代の伝承では、アマテラスの天あめの石いは屋や立て籠もり事件の解決に、シリクメナハが必須アイテムとして登場している。 天の石屋に閉じ籠ったアマテラスは、外の不思議な気配に身を乗り出したところ、タチカラヲに引きずり出され…More
天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─
記紀にアマテラスがイハヤ(石屋・石窟)に籠る話がある。本稿では、そのイハヤのあり方とその話にまつわるヤマトコトバについて検討する。 スサノヲの心が「善」いものか「邪あし」きものか判断するのに、天の安の河をはさんでウケヒ…More
大化改新を導いた「打毬」記事について─蹴鞠かポロかホッケーか─
皇極紀の「打毱」記事 皇極紀にある「打毱」は、中臣鎌足なかとみのかまたりと中大兄なかのおほえとが厚誼を通ずるきっかけとなった出来事として有名である。脱げた靴を拾ってあげたことが感動的な出来事として扱われてきた(注1)。…More
古事記の天之日矛の説話について─牛耕を中心に─
一 応神記に天之日矛の説話が載る。前半は新羅での奇譚話、後半はヤマトに至ってからの系譜となっている。ここではその前半部を考察対象とする。 又、昔、新羅しらきの国主こにきしの子有りけり。名は天あめ之日のひ矛ほこと謂ふ。…More
タヂマモリの「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」説話について
垂仁天皇の晩年に、多遅摩毛理たぢまもり(田道間守)の登岐士玖能迦玖能ときじくのかくの木この実み(非時香菓)探索の話が載っている。話の次第は次のようなものである。長寿を願う垂仁天皇は、時じくのかくの木の実を手に入れようと…More
蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─
記紀の国生み説話 ヤマトの名は、記紀の初めにある国生みの説話にすでに見られる。まず、天あめの浮橋うきはし(天上あまの浮橋うきはし)から天沼矛あめのぬほこ(天あま之瓊のぬ矛ほこ)を下して掻き混ぜ、潮が凝りて淤能碁呂おのご…More
鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について
いわゆる記紀神話の最後に登場するウカヤフキアハセズノミコトは、記に、「天津あまつ日高日子ひこひこ波限なぎさ建たけ鵜う葺草かや葺不合命ふきあはせずのみこと」、紀に、「彦ひこ波瀲なぎさ武たけ鸕鷀う草葺かや不合尊ふきあへずの…More
二人の彦火火出見について
日本書紀において、別人物(あるいは別神格)に、彦ひこ火火出見ほほでみという名がつけられている。山幸こと彦ひこ火火出ほほで見みの尊みことと神武天皇の諱ただのみな、彦ひこ火火出見ほほでみである(注1)。紀の本文に、皇孫の天…More
四天王寺創建説話と白膠木のこと
崇峻前紀に、物部守屋を攻め滅ぼす戦の場面がある。厩戸皇子は白膠木を四天王像に作って戦勝祈願をしている。これが四天王寺発願のこととされて今日でも議論の対象となっている。 是この時に、厩戸皇うまやとのみ子こ、束髪於額ひさ…More
隼人(はやひと)について
隼人は、古代の九州南部の人をいい、朝廷で隼人舞や警護の任についた。隼人(はや(ひ)と)の名義については、これまでに多くの説が唱えられてきた。中村1993.の研究史整理をもとにした原口2018.の分類をあげる。 (1)性…More
龍(たつ)という語について
中国から伝わった龍(竜)は、なぜかタツと訓まれることがある。地名「龍たつ田た」に当てられることも多い。空想上の生き物としてのタツは万葉集の例(注1)が名高く、日本書紀にも「龍」は見える。 伏ふして来書らいしよを辱か…More
日本書紀古訓オセルについて
日本書紀の古訓にオセルという動詞がある。「臨睨」、「望見」、「瞻望」、「廻望」、「望」、「遥望」、「遠望」、「望瞻」、「遥視」といった用字に対して訓まれている。上から下を見おろすことをいい、また、押シアリの約かとされて…More
欽明紀の「鐃字未詳」について
日本書紀には字注を入れることがあり、「未詳」と記すことがある。 俄にはかにして儵忽之際たちまちに、鼓つづみ吹ふえの声おとを聞く。余昌よしやう乃ち大おほきに驚きて、鼓を打ちて相あひ応こたふ。通夜よもすがら固く守る。凌晨…More
応神二十八年条の高句麗上表文について─「教」(ヲシフ)字を中心に─
一 日本書紀に、高麗から朝貢の使節がやってきたが、そのときに持ってきた文書を読んで、菟道稚郎子は礼儀知らずと言って怒り、破り捨ててしまったという話が載る。 はじめに問題とする日本書紀の箇所を示す。 廿八年秋九月、高…More
「家内に養ふ鶏の雄者を殺せ」(雄略紀)の真相
雄略紀の朝鮮半島との関連記事に、これまでの解釈では意味の通じない記述がある。 天皇すめらみことの位みくらゐに即つかせたまひしより、是こ歳としに至るまでに、新羅国しらきのくに、背そむき誕いつはりて、苞苴みつき入たてまつ…More
飛騨の匠について─日本紀竟宴和歌の理解を中心に─
日本書紀は講書が行われ、竟宴和歌が作られている。ここにあげる葛井清鑒の歌は、天慶度(天慶六年(943))の作である。左注は院政期に付けられたものと考えられている。講書で教授された日本書紀の該当箇所は雄略紀十二年十月条で…More
世の常に 聞くは苦しき 呼子鳥(万1447)
大伴坂上郎女おほとものさかのうへのいらつめの歌一首〔大伴坂上郎女謌一首〕 世の常つねに 聞くは苦しき 呼よぶ子こ鳥どり 声なつかしき 時にはなりぬ〔尋常聞者苦寸喚子鳥音奈都炊時庭成奴〕(万1447) 右の一首は、天…More
大伴家持の布勢水海遊覧賦
越中国にあった大伴家持は、その地の地名を詠み込んだ「賦」を作って楽しんでいる。「遊二-覧布勢水海一賦一首〈并短歌〉」は、大伴池主の賛同を得て、「敬下-和遊二-覧布勢水海一賦上賦一首并一絶」を追和されている。 布勢ふ…More
タカヒカル・タカテラスについて
万葉集に「高光」と「高照」という語があり、ともに「日」にかかる枕詞とされている。 両者の違いについて議論されている。検討するにあたっては、これらは言葉であることが基本である。タカヒカルでもタカテラスでも「日」にかかるこ…More
万葉集の「そがひ」について
万葉集に十二例見える「そがひ」という語は難解とされている。「うしろの方」の意であると単純に思われていたが、用例に適さないものがあり、「斜めうしろの方」という意などいろいろ使い分けられていると解されていた。しかし、万葉集…More
万3・4番歌、狩りの歌と舒明天皇即位について
万葉集3・4番歌 中皇命なかつすめらみことの狩りの歌は、長歌と反歌の二首によって構成される。ここに見える「天皇」とは舒明天皇のことである。「宇智の野」は現在の奈良県五條市付近の野という。以下、原文、読み下し文に加え、現…More
万葉集巻十六「半甘」の歌
万葉集巻十六「有由縁并雑歌」には諧謔の歌が多く、そのほとんどは明解を得ていない。次の「戯嗤僧歌」、「法師報歌」の問答も誤解されたままである。 戯たはむれに僧ほふしを嗤わらふ歌一首〔戯嗤僧歌一首〕 法ほふ師しらが ひ…More
枕詞「おしてる」「おしてるや」について
枕詞「おしてる」「おしてるや」は「難なに波は」に掛かるが、掛かり方は未詳とされている。説としては、難波に宮があり、朝日・夕日のただ射す宮だからと褒めたたえる意であるとする説、おしなべて光る浪の華の意であるとする説、岬が…More
万葉集巻十七冒頭「傔従等」の歌について
万葉集巻十七の冒頭に、「悲傷羇旅」の歌が載る。「羇旅」は旅の道行きのことであるが、畿外へ出ることを指すとする考えもある。だが、後代のようにこの語が部立として用いられているわけではなく、キリョという漢語が意識されていたと…More
八代女王の献歌(万626)について
万葉集巻四の相聞の部立に八代女王やしろのおほきみの献歌がある。 八代女王については情報が限られている。万葉集にこの一首、続日本紀に位階についての記述が二か所あるだけである(注1)。 八代女王やしろのおほきみの、天皇…More
佐伯宿禰東人と妻の相聞歌
万葉集巻四の「相聞」の歌である。 西海道さいかいだうの節せつ度使どしの判官じょう佐伯さへきの宿すく禰ね東人あづまひとが妻つま、夫せの君に贈る歌一首〔西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻贈夫君歌一首〕 間あひだなく 恋こふ…More
留京歌(万40~44)について
持統六年三月、天皇は伊勢へ行幸した。中納言三輪朝臣高市麻呂は時期が悪いから延期するように諫言したが天皇は強行した。その時に歌われた歌が万葉集巻一の万40〜44番歌である。最初の三首は柿本人麻呂の歌で、当麻たぎまの真ま人…More
紀伊行幸時の川島皇子と阿閉皇女の歌─題詞のフレーミング機能について─
持統天皇の紀伊行幸時、四年九月に歌われたとされる歌二首である。 紀伊きの国くにに幸いでましし時に川島皇かはしまのみ子この作りませる御み歌うた〈或に云ふ、山上臣憶良やまのうへのおみおくらの作〉〔幸于紀伊國時川島皇子御…More
山部赤人の印南野行幸歌
万葉集巻六の前半に、笠かさの金村かなむら、車持千年くるまもちのちとせ、山部赤人やまべのあかひとによる長反歌からなる行幸従駕歌がある。ここでは山部赤人の印南野行幸従駕歌について検討する。 山部宿やまべのすく禰ね赤人あ…More
万葉集の「辛(から)き恋」
万葉集に「辛からき恋」という言い方が三首に見られる。「辛からし」という言葉は、舌を刺すような鋭い感覚、塩辛いばかりでなく酸っぱい場合にも用いられる味覚の意味と、そこから派生して骨身にしみるようなつらい気持ちに陥る状態の…More
駿河采女の歌の解釈
万葉集中には、駿河するがの采女うねめの歌が二首ある。天皇の宮に仕える駿河出身の下女のことであり、同一人物の作かどうかはわからない。 駿河するがの采女うねめの歌一首〔駿河婇女謌一首〕 敷栲しきたへの 枕ゆくくる 涙な…More
大伴家持の二上山の賦
大伴家持は越中国司として赴任中、賦と称する長歌を三首作っている。それに大伴池主が「敬和」したものを含めて「越中五賦」と呼ばれている。「賦」は漢文学からとられた用語である。 二上山ふたかみやまの賦ふ一首 此…More
「有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」について
有間ありま皇子みこの自傷歌として知られる挽歌は、万葉集の巻二に見られる。 有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首〔有間皇子自傷結松枝歌二首〕 磐代いはしろの 浜松が枝えを 引き結ぶ ま幸さきくあらば また還り見む…More
安積山の歌(万3807)
次の歌は古今集の序(注1)にも引用されてとみに有名であり、また出土木簡にも見出されている(注2)。けれども、歌の解釈には諸説あっていまだ定説を得ていない。歌の主旨について左注を絡めて全体として理解されるに至っていない。…More
万葉集巻一・大宝元年紀伊行幸時の歌について
大宝元年の紀伊行幸の際に歌われた歌は、万葉集中に少なくとも二十一首を数えるという。巻一・54~56番歌、巻二・143・144・146番歌、巻九・1667~1679番歌、同・1796~1799番歌が確かなものとされている…More
「一重山(ひとへやま) 隔(へな)れる」歌
万葉集巻四に、大伴家持が坂上大嬢さかのうへのおほをとめを思って歌った歌を横にいて聞いていた藤原郎女ふぢはらのいらつめが引き取って一首歌い、そこでさらに家持は二首歌を作り坂上大嬢に贈っている。 久邇京くにのみやこに在…More
玉藻の歌
万葉集巻一の万23~24番歌は、罪科に問われた「麻続王をみのおほきみ」という人にまつわる歌である。原文と伊藤1995.の訓読、訳をあげる。 麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時人哀傷作歌 打麻乎麻續王白水郎有哉射等籠荷四間…More
枕詞「あぢさはふ」について
枕詞「あぢさはふ」は「目」や「夜(昼)」にかかる枕詞である。万葉集では五首に見られる。原文の用字はすべて「味澤相」である。諸例をあげる。 …… 敷栲しきたへの 袖携たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月もちづきの …More
近江荒都歌について
「近江荒都歌」? 万葉集の研究者によって「近江荒都歌」と呼ばれる歌は、万葉集巻一の29~31番歌、柿本人麻呂の初出の歌である。壬申の乱後に廃墟と化した近江大津宮を悼んで詠んだ歌であると考えられている。自然との対比によっ…More
佞人(ねぶひと)を謗る歌(万3836)
万葉集巻十六、3836番歌は「佞ねぢけ人びとを謗そしる歌」とされている。 佞ねぢけ人びとを謗そしる歌一首〔謗侫人歌一首〕 奈良山の 児手柏このてがしはの 両面ふたおもに かにもかくにも 佞ねぢけ人びとの伴とも〔奈良…More
大伴家持の「亡妾」歌(万462)─夏六月に秋風が寒く吹く理由を中心に─
大伴家持がまだ若い頃に「妾」を亡くして詠んだとされる歌が万葉集の巻三に載る。万462番歌を皮切りに、弟の書持の「即和歌」一首を含めて万474番歌まで計十三首(長歌一首)あり、家持は深い悲嘆に暮れたと捉える見方が大勢を占…More
家持の立山の賦と池主の敬和賦
一 万葉集巻十七に、大伴家持と池主との間で交わされた、越中国の立山にまつわる歌のやりとりが載っている。当時はタチヤマと呼ばれていた。 立山たちやまの賦ふ一首〈并せて短歌、此の立山は新川郡にひかはのこほりに有るぞ〉〔…More
高橋虫麻呂の龍田山の歌
一 万葉集の歌のなかには、いまだに訓みの定まらない歌がある。訓みが定まらなければ、歌全体の完全な理解には至らない。巻九の高橋虫麻呂歌中から出たとされる龍田山歌群もその一例である。 春三月に諸もろもろの卿大夫まへつ…More
あしひきの 山桜戸を 開け置きて(万2617)
次の一首は、万葉集巻十一、「正述心緒」の歌の一首である。 あしひきの 山桜戸やまさくらとを 開あけ置きて 吾わが待つ君を 誰たれか留とどむる〔足日木能山桜戸乎開置而吾待君乎誰留流〕(万2617) 三句目「開置而」に…More
湯原王の蟋蟀(こほろぎ)の歌
湯原ゆはらの王おほきみの蟋蟀こほろぎの歌一首〔湯原王蟋蟀歌一首〕 夕月ゆふづく夜よ 心もしのに 白露しらつゆの 置くこの庭にはに 蟋蟀こほろぎ鳴くも〔暮月夜心毛思努尓白露乃置此庭尓蟋蟀鳴毛〕(万1552) 近年の解…More
「君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」(万3724)
万葉集巻十五には、中臣宅守なかとみのやかもりと狭野弟上娘子さののおとがみのをとめとの贈答歌が多数収められている。目録に、「中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもり、蔵くら部べの女嬬にょじゅ狭さ野弟上娘子ののおとがみのをとめ…More
柿本人麻呂の「夕波千鳥」歌について
柿本朝臣人麻呂の歌一首〔柿本朝臣人麻呂歌一首〕 淡海あふみの海うみ 夕波ゆふなみ千ち鳥どり 汝なが鳴けば 心もしのに 古いにしへ思ほゆ〔淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努尓古所念〕(万266) この歌は、柿本人麻呂が淡…More
湯原王の鳴く鹿の歌
湯原ゆはらの王おほきみの鳴く鹿の歌一首〔湯原王鳴鹿歌一首〕 秋萩あきはぎの 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 声の遥はるけさ〔秋芽之落乃乱尓呼立而鳴奈流鹿之音遥者〕(万1550) 鉄野2011.の訳ならびに…More
湯原王の菜摘(夏実)(なつみ)の川の歌
湯原ゆはらの王おほきみは万葉集に十九首の歌を残している。いずれも短歌である。 湯原王の吉野にして作る歌一首〔湯原王芳野作歌一首〕 吉野にある 菜な摘つみの川の 川淀かはよどに 鴨そ鳴くなる 山陰やまかげにして〔吉野…More
弓削皇子と額田王の贈答歌(万111~113)
万葉集に載る額田ぬかたの王おほきみの最後の歌は弓ゆ削げの皇子みことの間で交わされたもので、巻第二の「相聞」の部立の歌としてよく知られている。 吉野宮に幸いでます時に、弓削皇子の額田王に贈り与ふる歌一首〔幸于吉野宮時…More
桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)
次の歌は万葉集のなかでもよく知られた歌である。 桜さくら田たへ 鶴たづ鳴き渡る 年魚市あゆち潟かた 潮しほ干ひにけらし 鶴鳴き渡る〔櫻田部鶴鳴渡年魚市方塩干二家良之鶴鳴渡〕(万271) 題詞に、「高市たけちの連むら…More
万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─
万葉集で、慣用的に「恋ひつつあらずは」という言い回しが使われている。 上代におけるズハの用法は、文法学的にとても難しいものと思われている。「ンヨリハ」説(本居宣長)、「ズシテハ」説(橋本進吉)以降もさまざまに解釈されて…More
丹比笠麻呂の「袖解きかへて」考
万葉集巻四に載る丹比笠たぢひのかさ麻呂まろの長歌と反歌の歌はあまり取りあげられることはないが、理解が行き届いているものではない。筑紫国へと下向する時、離れてしまう相手の女性への思いを歌にしているが、反歌にある「袖そで解…More
枕詞「はしたての」について
枕詞「はしたての」は「倉椅山くらはしやま」のクラ、また、「嶮さがし」、地名「熊くま来き」にもかかるとされている。高倉式倉庫には梯子を立て掛けて登るからかかるのであると考えられつつ、クマキにかかる意味は不明ながら同じく枕…More
大伴旅人の讃酒歌について
大伴旅人の「讃酒歌」は、契沖・万葉集代匠記(注1)に考察されて以来、研究が積み重ねられ、中国の古典を典故として歌われた歌であると捉えられるに至っている。本稿では、その考え方が悉く誤っていることを明らかにし、正しい解釈を…More
門部王の恋の歌
万葉集巻四に、門部王が出雲守に赴任していた時の「恋歌」がある。 門部かどへの王おほきみの恋の歌一首〔門部王戀謌一首〕 飫宇おうの海の 潮しほ干ひの潟かたの 片思かたもひに 思ひや行かむ 道の長なが手てを〔飫宇能海之…More
大宰府における長屋王の変関連歌(万328~335・955~956)について─「思へや(も)」の用法とともに─
万葉集巻六に、大宰府の帥である大伴旅人に対して、都のことを思わせるよう導く歌が二連載る。本稿では、それらの通訓の誤りを指摘し、歌の内実に迫る。 「思ふやも君」 大宰だざいの少せう弐に石川いしかは朝臣のあそみ足人たる…More
万葉集巻七の「臨時」歌について
万葉集巻七に、「臨時」の標題の歌十二首が収められている。 さほど議論されてきた歌群ではない。そもそも「臨時」、すなわち、「臨レ時」とはどういうことか。そのことはそれぞれの歌の理解と深くかかわることであるが、これまでの解…More
「人なぶり」の語義
万葉集巻十五に、「中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもりの狭さ野弟上娘子ののおとがみのをとめと贈り答ふる歌」がある。目録には「中臣朝臣宅守の、蔵くら部べの女嬬によじゆ狭野弟上娘子に娶あひし時に、勅みことのりして流す罪に断…More
枕詞「そらにみつ(天尓満)」(万29)について
柿本人麻呂の近江荒都歌として知られる長短歌三首はよく知られる。ここでは、長歌に現れる枕詞と思しい「そらにみつ」という語について考察する。 近江あふみの荒れたる都を過よきりし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌 玉だすき 畝…More
万葉集の「小雨降りしく」歌について
ぬばたまの 黒髪山くろかみやまの 山菅やますげに 小こ雨さめ降りしき しくしく思ほゆ〔烏玉黒髪山々草小雨零敷益々所思〕(万2456) 大おほ野のらに 小こ雨さめ降りしく 木この本もとに 時と寄り来こね 我が思おもふ人〔…More
万葉集の「恋忘れ貝」と「忘れ貝」─「言にしありけり」とともに─
「恋忘こひわすれ貝がひ」という言い方は万葉集に五例見られる。それを手にすると恋を忘れることができるといわれる貝である。「置き忘れ貝」や「忘れ草」などからの連想で「恋忘れ貝」というのだという。特定の種を指すのではないと考…More
万葉集の修辞法、「二重の序」について
一 万葉集の序歌に「二重の序」と呼ばれるものがある。序詞が重ね用いられたものである。序詞によって導かれた地名が掛詞になっていて、それがさらに序詞となって下文を導いている。詳細に検討した論考として井手1975.がある。そ…More
万葉集の「龍の馬(たつのま)」について
万葉集巻五には、漢文の書簡文を標題にもつ贈答歌がある。大宰府にいる大伴旅人が奈良の都にいる人と手紙をやりとりし、そのときに歌のやりとりをしている。漢詩文からの影響が大きい歌が作られていると見られている。新大系文庫本の訳…More
藤原卿と鏡王女の贈答歌
一 万葉集巻二、相聞の部立に藤原鎌足と鏡王女の歌が載る。 内大臣うちつおほまへつきみ藤原卿ふぢはらのまへつきみの、鏡かがみの王女おほきみを娉つまどふ時、鏡王女の内大臣に贈る歌一首〔内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大…More
「あれど」について
「あれど」は動詞「あり」の已然形に接続助詞「ど」が付いた形である。「ど」は逆接の接続助詞だから、その前で言っていることと後で言っていることが対比されつつ逆の関係、逆の評価を受けるものと考えられる。ところが、単純にアルケ…More
舎人のハタコ(八多籠)の歌
万葉集巻二の草壁皇子の死を悼んだ舎人たちの「慟傷作歌」二十三首の最後に次の歌がある。左注がすぐ後ろに付いている。 (皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首) 八多籠良我夜晝登不云行路乎吾者皆悉宮道叙為(万193) 右日本紀…More
万葉集巻五「員外」の歌について─「雲に飛ぶ薬」をめぐって─
万葉集巻五に、員外の人の歌が載る。員外とは員外官のこと、律令制で、令に定められた定員以外の官吏のこと、臨時雇いの役人のことである。大伴旅人の梅花歌三十二首に続いており、歌会の行われた宴の際の召使か何かと考えられる(注1…More
神亀五年の難波行幸歌
一 万葉集巻六に、神亀五年の「幸于難波宮時作歌」がある。これまで、記録には載らない難波宮行幸があり、宴会において男女の間で交わされた比喩の歌であると考えられてきた。しかし、歌の解釈はどれも判然とせず、要領を得ていない。…More
万葉集の序詞の「鳥」が「目」を導く歌
万葉集のなかに、序詞で「鳥」と言い、「目」を導いた歌が二首ある。巻十二「古今相聞往来の歌の類の下」の「物に寄せて思ひを陳ぶる歌」と、巻十四「東歌」の「常陸国の相聞往来の歌十首」のなかのそれぞれ一首である。 小竹しのの…More
万葉集巻二十の冒頭歌─附.「や」+疑問詞について─
万葉集巻二十の冒頭に、昔、こんな歌のやり取りがあったという歌が載る。 山村やまむらに幸行いでましし時の歌二首 先の太上天皇おほきすめらみこと、陪従したがへる王臣おほきみまへつきみたちに詔みことのりして曰のたまはく…More
高安王の鮒を贈る歌
万葉集巻四に、女性に鮒を贈って気を引いた王族の歌が載る。 高安王たかやすのおほきみの裹つつめる鮒を娘子をとめに贈る歌一首〈高安王は後に姓かばね大原真人の氏うぢを賜ふ〉〔高安王褁鮒贈娘子歌一首〈高安王者後賜姓大原真人…More
弓削皇子の吉野に遊ばす時の歌と春日王の和歌(万242~244番歌)について
万葉集巻三に弓ゆ削げの皇子みこの吉野での歌とそれに和した春日かすがの王おほきみの歌があり、別伝一首が付されている。 弓ゆ削げの皇子おほきみ、吉野に遊ぶ時の御歌一首〔弓削皇子遊吉野時御歌一首〕 滝たぎの上の 三み船ふ…More
庚辰年の七夕歌(万2033)について
万葉集巻十の次の七夕歌は、定訓が得られていない。 天あまの川がは 安やすの川原かはらに 定而神競者磨待無(万2033)〔天漢安川原定而神競者磨待無〕 此の歌一首は庚かのえ辰たつの年に作れり。〔此歌一首庚辰年作之〕…More
万葉集における「心」に「乗る」表現について
万葉集において、「心」に「乗る」という表現が見られる。「心に乗りて」、「乗りにし心」、「妹いもは心に乗りにけるかも」の三つの形がある。 「心に乗りて」 ももしきの 大宮人は 多かれど 情こころに乗りて 念おもほゆる妹い…More
恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─
恭仁京遷都 天平十二年(740)十月二十六日の東国巡行出発から十七年(745)五月十一日の平城京還都まで、恭仁宮、難波宮、紫香楽宮を渡り遷った五年間は「彷徨五年」と呼ばれている。聖武天皇が何を意図して転々としていたのか…More
七夕歌の歌一首 并せて短歌(万1764・1765)について
万葉集の七夕歌は132首を数える。 巻八 15首 山上憶良1518~1529(うち長歌1(1520)) 湯原王1544~1545 市原王1546 巻九 2首 (藤原房前宅)17…More
「明日香皇女挽歌」について─特異な表記から歌の本質を探って─
「明日香皇女挽歌」 万葉集巻第二の明日香皇女挽歌は、柿本人麻呂の作った長い長歌と反歌二首からなる。本稿では、新大系本萬葉集があげる表記の特徴を検討していくことで、この歌群の性質に迫ろうと考える。最初にテキストを掲げる(…More
明日香皇女挽歌の第二反歌(万198)について
柿本人麻呂の明日香皇女挽歌の第二反歌、万198番歌は解釈が定まっていない。長歌(万196)に対する反歌だから、同じ事柄を別の角度から見て歌って全体で大きなまとまりとなっていると捉えられなければならない。 明日香川 明…More
「大君は神にしませば」歌(万4260・4261)の語用論的解釈
一 万葉集には「大君は 神にしませば」という歌詞を上二句とする歌が全部で六首ある。オホキミは現天皇、皇子、諸王を指すから、天皇を神として考えていたのではないかとする考えが通行している。「いずれも下三句にうたわれる行為を…More
柿本人麻呂「日並皇子挽歌」の修辞法「春花の 貴からむと 望月の 満しけむと」について
万葉集の日並皇ひなみしのみ子こ挽歌(万167)について、挽歌とは何かという大きな問題として検討されてきた。殯宮は殯かりもがりのために設営される宮舎であり、お別れの儀式として誄しのひことを言って形を整えることが行われてい…More
礪波の関にまつわる大伴家持歌について
一 大伴家持の次の歌は、歌われた年月日、歌われた場が正確に記されている。 天平感宝元年の五月五日に、東大寺の占墾せんこん地ぢ使しの僧ほふし平栄へいえい等を饗あへす。時に、守かみ大伴宿禰家持の、酒を僧に送る歌一首〔天…More
枕詞「山たづの」について
一 枕詞「山たづの」は記歌謡と万葉集に計三例用いられている。 君が行ゆき 日け長くなりぬ 造木やまたづの 迎むかへを行かむ 待つには待たじ〔岐美賀由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能牟加閇袁由加牟麻都爾波麻多〕〈此の、山やま…More
紀郎女の怨恨の歌─万葉集の題詞、左注のウラムをめぐって─
万葉集に「怨恨」の歌がある。もっぱら大伴坂上郎女おほとものさかのうへのいらつめと紀郎女きのいらつめの歌が取り上げられ、彼女らが男性に対して怨恨を抱いたうらみの心情を吐露した歌であると考えられている。しかし、それ以外にも…More
田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」考─「現つ神」、「わご大君 神の命の」の正しい理解によって─
万葉集の「神」という語が天皇即神の表現として用いられていると考えられているなかに、「現あきつ神かみ〔明津神〕」(万1050)と「わご大君 神かみの命みことの〔吾皇神乃命乃〕」(万1053)という例がある。いずれの歌も巻…More
「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考
一 万葉集では、柿本人麻呂作の万38・45番歌に、「神ながら 神さびせすと」という言い回しがある。 (吉野の宮に幸いでます時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌) やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ…More
「さやけし」考─キヨシ(clean)とサヤケシ(clear)の違いをめぐって─
「さやけし」という語については、岩波古語辞典のように明晰に定める見解(注1)と、時代別国語大辞典のようにキヨシとの違いをはっきり説明しきれないとする見解(注2)がある。筆者の立場は前者にある。簡潔に言えば、キヨシは c…More
「心もしのに」探究
一 万葉集には、シノニという言葉が十例、うち九例が「心もしのに」という形で慣用句化している。また、シノノニという形で二例あって、シノシノニの約かとされている。 ①淡海あふみの海 夕波ゆふなみ千ち鳥どり 汝なが鳴けば …More
枕詞「刈薦(かりこも)の」について
枕詞「刈薦かりこもの」についてはほとんどわかっていない(注1)。一般には、刈り取った薦は乱雑になりやすいから「乱れ」にかかり、恋の思いに乱れにもまつわるから「心」にもかかるのだと説明されている。しかし、刈り取った植物が…More
山部赤人の不尽山の歌
山部赤人が富士山を詠んだ歌はあまりにもよく知られている。 山部やまべの宿禰すくね赤人あかひとの不ふ尽山じのやまを望む歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人望不盡山謌一首〈并短謌〉〕 天地あめつちの 分わかれし時ゆ 神か…More
「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論
「吉野讃歌」の誤解 万葉集には、吉野行幸に供奉して詠んだ作があり、一般に「吉野讃歌」と称されている。この「吉野讃歌」という名称は1950年代の論考からすでに見られ(注1)、今日定着している。一般に次のように解説されてい…More
「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論
拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」(注1)で扱いきれなかった他の「吉野讃歌」について検討する。 題詞にもない「讃」が主題であると勝手に決めてひと括りに「吉野讃歌」と捉え、吉野を讃えることが天皇を讃美することに…More
藤原宮の御井の歌
「藤原宮御井歌」の問題点 藤原宮の御井みゐの歌〔藤原宮御井歌〕 やすみしし わご大王おほきみ 高照らす 日の皇子みこ 荒栲あらたへの 藤井が原に 大おほ御み門かど 始めたまひて 埴安はにやすの 堤の上に あり立たし …More
藤原宮の役民の作る歌─「図(ふみ)負へる 神(くす)しき亀」について─
万葉集巻一の万50番歌は、藤原宮を造営するときに駆り出された労役の民が作った歌として記されている。 藤原宮の役民えのたみの作る歌〔藤原宮之役民作歌〕 やすみしし 吾が大王おほきみ 高照らす 日の皇子 荒栲あらたへの…More
「夕されば 小倉の山に」(万1511・1664)歌について
万葉集の「夕されば 小倉の山に」歌(万1511・1664)は古来名高い。 秋の雑ざふ歌か 〔秋雜謌〕 崗本天皇をかもとのすめらみことの御製歌一首〔崗本天皇御製謌一首〕 夕ゆふされば 小を倉ぐらの山に 鳴く鹿は …More
笠金村の三香原離宮での歌(万546~548)について─「言寄す」の語義から見えてくるもの─
笠金村の三香原離宮での歌 笠金村の三み香原かのはら離宮行幸時の歌は、万葉集の巻四の相聞の部立に載る。 二年乙丑の春三月、三香原離宮みかのはらのとつみやに幸いでましし時に娘子をとめを得て作る歌一首〈并せて短歌〉〔二年…More
吉備津の釆女挽歌考
万葉集巻第二の挽歌に、宮仕えをしていた采女の死を悼む歌がある。稲岡1985.の訳を添え載せる。 吉備津きびつの釆うね女めの死みまかりし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首〈并せて短歌〉〔吉備津釆女死時柿本朝臣人麻呂作歌一…More
大津皇子辞世歌(「ももづたふ 磐余の池に」(万416))はオホツカナシ(大津悲し・覚束なし・大塚如し)の歌である論
万葉集巻第三に、大津皇子の辞世歌ではないかとされる歌が「挽歌」の部立に載る。中西1978.232~233頁の訓みと訳を載せる(字間は適宜改めた)。 大津おほつの皇子みこの被死みまからしめらえし時に、磐余いはれの池の…More
「小竹の葉は み山もさやに 乱友」(万133)歌の訓みについて
柿本人麻呂の石見相聞歌のうち、万133番歌はよく知られながら必ずしも定訓を得ていない。 小竹ささの葉は み山もさやに 乱友 吾われは妹いも思ふ 別れ来きぬれば〔小竹之葉者三山毛清尓乱友吾者妹思別来礼婆〕(万133) …More
久米禅師と石川郎女の問答歌─万96~100番歌─について
万葉集巻第二の久米禅師と石川郎女の相聞歌は、一・二・二首の計五首から成る。多田2009.の現代語訳を添えて掲出する。 久く米禅師めのぜんじの、石いし川かはの郎女いらつめを娉よばひし時の歌五首 久米禅師が石川郎女に…More
万葉集の題詞、左注にあらわれたる「娉」字の読み方について
万葉集には、「娉」の字が使われた題詞、左注が見られる。 内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首(万93題詞) 久米禅師娉石川郎女時歌五首(万96~100題詞) 大伴宿祢娉巨勢郎女時歌一首〈大伴宿祢諱曰安麻呂…More
万葉集の「黄葉」表記について
「黄葉」についての捉え方 上代の主要文献である万葉集に、モミチ(古く清音であった)を「黄葉」と記すことがきわめて多い。今日、モミジの色づきについて「紅葉」と記すことが一般的である。そこで、どうして古代に「黄葉」の表記が…More
「大原の このいつ柴の いつしかと」歌(志貴皇子)について
志貴皇子の歌は万葉集に全部で六首残されている(注1)。次の歌は、いつ歌われたのか、何を言うために歌われたのか定かでないものとされている。 志し貴きの皇子みこの御歌一首〔志貴皇子御歌一首〕 大原の このいつ柴しばの …More
「葦辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて」歌(志貴皇子)について
万葉集のなかにある志し貴きの皇子みこの歌六首のうち、作歌時点が題詞からわかる唯一の例が次の歌である。 慶雲三年丙午に難波宮なにはのみやに幸す時に〔慶雲三年丙午幸于難波宮時〕 志貴皇子の作ります歌〔志貴皇子御作歌…More
「むささびは 木末求むと あしひきの」歌(志貴皇子)について
志貴皇子にはムササビを歌った歌がある(注1)。 志し貴きの皇子みこの御歌一首〔志貴皇子御歌一首〕 むささびは 木こ末ぬれ求むと あしひきの 山の猟夫さつをに 逢ひにけるかも〔牟佐々婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄尓相…More
「石走る 垂水の上の さわらびの」歌(志貴皇子)について
万葉集巻第八の巻頭、「春雑歌」の標目の最初の歌は、高等学校の教科書にも採用されている(注1)。諸注釈書に、題詞の「懽」について何をよろこんでいるのか未詳であるとされている。歌を詠んだ状況設定がわからないということは、歌…More
万葉集の「磐瀬の社」の歌─志貴皇子作歌(万1466)を中心に─
万葉集には「磐瀬の社」の歌が三首ある。 志し貴きの皇子みこの御歌一首〔志貴皇子御謌一首〕 神かむ名火なびの 磐いは瀬せの社もりの 霍公鳥ほととぎす 毛け無なしの岳をかに 何時いつか来き鳴かむ〔神名火乃磐瀬之社之霍公…More
「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について
万葉集巻第一に、采うね女めの袖を吹きかえす明日香風を歌ったとされる歌が載る。 明日あす香宮かのみやより藤ふぢ原はらの宮みやに遷居うつりし後に、志し貴きの皇子みこの御作つくりたまふ歌〔従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子…More
万葉集の「はねかづら」の歌
万葉集に「はねかづら」の歌が四首ある。多田2009.の訳を付けて挙げる。 大伴宿禰家持が童女をとめに贈る歌一首 はねかづら 今する妹を 夢いめに見て 情こころの内に 恋ひ渡るかも〔葉根蘰今為妹乎夢見而情内二戀度鴨〕…More
万葉集の「月人壮士」をめぐって
拙稿「「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」(万1068)の解釈の誤りについて」で、七夕歌において「月の船」、すなわち上弦の月は明るすぎて、主役の牽牛、織女の光を打ち消すから雲間に隠れたのであるとする…More
「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」(万1068)の解釈の誤りについて
万葉集巻第七の巻頭歌は、天を詠んだ歌として知られている。 雑歌ざふか〔雑歌〕 天を詠める〔詠天〕 天あめの海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠かくる見ゆ〔天海丹雲之波立月船星之林丹榜隠所見〕(万1068)…More
額田王の三輪山の歌と井戸王の綜麻形の歌
はじめに 万17~19番歌は、近江遷都時の三輪山の歌として知られている。原文ならびに新編全集本萬葉集による訓、現代語訳を記す。 額田王下近江國時作歌井戸王即和歌 味酒三輪乃山青丹吉奈良能山乃山際伊隠萬代道隈伊積流萬…More
万葉集の「泳(くくり)の宮」の歌(万3242)について─「行靡闕矣」の訓みとともに─
万葉集巻13の3242番歌は、定訓を得るに至っていない。 百岐年三野之國之高北之八十一隣之宮尓日向尓行靡闕矣有登聞而吾通道之奥十山三野之山靡得人雖跡如此依等人雖衝無意山之奥礒山三野之山 右一首 ももきね 美濃の国の…More
「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」(持統天皇作、万28番歌)考
持統天皇の御製歌、万28番歌は次のように訓まれている(注1)。 藤原宮御宇天皇代〈高天原広野姫天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇〉 天皇御製歌 春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山 春過ぎて 夏来きたる…More
鏡王女(かがみのおほきみ)の歌─天智天皇にからんで─
鏡かがみの王女おほきみの歌は重出を含めて万葉集に五首残されている。ここでは天智天皇がらみの歌について検討する。 額田ぬかたの王おほきみの、近江あふみの天皇すめらみことを思ひて作る歌一首〔額田王思近江天皇作謌一首〕 …More
万葉集巻七、吉野の歌(「芳野作」)について
万葉集巻七の目録、雑歌に「芳野作謌五首」とあり、吉野関連の歌が五首おさめられている。 吉野にして作る〔芳野作〕 神かむさぶる 磐いは根ねこごしき み吉野の 水分山みくまりやまを 見れば悲しも(万1130)〔神左振磐…More
「舟公宣奴嶋尓」(万249)(柿本朝臣人麻呂の羇旅の歌八首)の訓
万葉集巻三の万249番歌は、「柿本朝臣人麻呂の羇旅の歌八首」(注1)の最初の歌である。「宣」という字があって「のる(告・宣)」の意であろうとされているが、いかんせん字数が足りずに難訓とされている。 三津埼浪矣恐隠江乃…More
万葉集のトイレットペーパーの歌─山部赤人の吉野の歌、万924・925番歌─
万葉集巻六の山部赤人の吉野での作歌は、いわゆる「吉野讃歌」(注1)として捉えられている。 山部宿禰赤人の作る歌二首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作謌二首〈并短歌〉〕 やすみしし わご大君の 高知らす 吉野の宮は たた…More
万葉集の「葦垣」の歌について
万葉集で「葦垣あしかき」という語が登場する歌は次の十首である。「葦垣の」の形で名詞とするものと枕詞とするものがある。実際の情景を詠んだとは言えずに唐突に「葦垣」と出てくる場合、下の語を導くために冠る語、すなわち、枕詞で…More
万葉集の「荒垣」の歌について
万葉集で「荒垣あらがき」という語が登場する歌は次の二首である。 里人の 言縁妻ことよせづまを 荒垣の 外よそにや我が見む 憎くあらなくに(万2562)〔里人之言縁妻乎荒垣之外也吾将見悪有名國〕 金門田かなとだを 荒垣…More
「明石潟 潮干の道を」(万941)考─山部赤人行幸従駕歌の意味合いについて─
万葉集巻第六に、山部赤人の行幸従駕歌とみられる歌がある。「三年丙寅秋九月十五日、播磨国印南郡に幸しし時、笠朝臣金村の作る歌一首〈并せて短歌〉」(万935~937)に続くものである。神亀三年(726)、都は平城京にあり、…More
石川女郎と大伴田主の歌合戦について─「みやびを」論争を超えるために─
石川女郎と大伴田主の歌合戦 万葉集巻2・126~128番歌は、石川女郎と大伴田主の二人による歌問答である。三首目の万128番歌を含めた一歌群であり、三首目まで通観できる理解が得られないうちは正解とは言えない。 石川…More
万葉集における「埋木(うもれぎ)」の歌
万葉集に、「埋木うもれぎ」の歌は二首ある。時代別国語大辞典に、「うもれぎ[埋木](名) 埋もれた木。木の幹が土や水の中にながくうまって、炭化し化石のようになったもの。材質は黒檀に似る。」(133頁) と、他の多くの辞書…More
「玉かぎる」と「かぎろひ」について
枕詞「玉かぎる」は、万葉集中十一例を数える。岩波古語辞典では、「玉がほのかに光を出すことから「ほのか」「はろか」「夕(ゆふ)」「日」にかかり、岩に囲まれた澄んだ淵の水の底で玉のようにほのかに光るものがあるという意から「…More
安騎の野の歌、「東野炎立所見而反見為者月西渡」(万48)について
万葉集、安騎野歌群は議論がかまびすしい。はじめに歌群の原文を示し、今日の一般的な訓読を載せる。 軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌 八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須等太敷為京乎置而隠口乃泊瀬山者真木立荒山…More
人麻呂作歌、安騎野の歌、万49番歌の「来向ふ」について
安騎野の歌 万葉集、安騎野歌群は議論がかまびすしい。とりわけ万48番歌は、その訓みから議論の対象となっている(注1)。その次の万49番歌は、「時」という表現に新しさをおぼえるとして考察の対象となっている。短歌の構成は、…More
万葉集において漢字字義とずれるかにみえる用字選択の賢さについて─「結」「音」「乏」「空」「竟」「尽」を中心に─
万葉集における上代の漢字利用として万葉集の例について検討する(注1)。万葉集は録音記録として残っているのではなく、文字記録として今日に伝わっている。そこに書かれてある漢字は、もともと表したかったヤマトコトバの語義に当て…More
忌部首黒麻呂作、万葉集巻16・3848番歌を考える─「誦習」しないとはどういうことか─
万葉集巻16・3848番歌の実態 万葉集の研究に民俗学を持ち込もうとする立場があり、万葉民俗学と呼ばれている(注1)。巻十六の万3848番歌について、太田2019.は、歌中の「ひねひねし」という言葉の語義に関して、さま…More
万葉集のホトトギス歌について
霍公鳥ほととぎすという鳥 万葉集で、ホトトギスは百五十六首に歌われている。初期に少なく後期になるにつれて増え、なかでも大伴家持は一人で六十五首も詠じている(注1)。ホトトギスには、訓字として「霍公鳥」という特殊な文字が…More
万葉集における「色に出づ」表現について
万葉集に「色に出いづ」という慣用表現がある。記紀歌謡には見られない。恋の歌に用いられることが多く、「色」を景物の色彩と人間の顔色との掛詞の意に解されることが多い(注1)。しかし、態度や行動、言葉について表す用例もあり、…More
万葉集と漢文学─万850番歌の「奪ふ」、「雪の色」は漢語と無関係であること─
元号「令和」出典である大伴旅人の歌宴は、天平二年正月十三日に執り行われた。少し長めの序が記され、その後に三十二首の歌が歌われている。さらにその歌群を追補する形で四首の歌が載っている。 後に追ひて梅の歌に和こたふる四…More
上代語の「数(かず)」と「数(かぞ)ふ」と「数(よ)む」について
万4番歌の「馬並なめて」の用字に「馬數而」とある。数(數)の字は、馬を数多く連ねたことを表すもので、数えることを表すものではないとされる。並ぶことを表すが、それは縦列駐車ではない。「船並なめて」(「船並而」(万933)…More
上代語「衣(そ)」の上代特殊仮名遣い、甲乙の異同について
時代別国語大事典の「そ[衣]」の項の「【考】」に、「袖ソデを衣コロモ手デともいうことを思えば、このソはソデのソと同じ甲類と思われるのに、事実は「在衣辺」 の一例のみを除いてすべて乙類のソを表わす訓仮名に用いられている。…More
額田王の春秋競憐歌について(万葉集16番歌)─附.中大兄論─
額田王の春秋競憐歌 万葉集の16番歌は、額田王の春秋競憐歌としてよく知られている。新大系文庫本万葉集により訓読と訳を示し、原文も添える。 近江大津宮あふみのおほつのみやに宇御あめのしたをさめたまひし天皇すめらみこと…More
熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─
万葉集巻一・8番歌は、額田王の熟にき田津たつの船出の歌としてよく知られている。 後岡本宮のちのをかもとのみやに天の下知らしめしし天皇の代〈天豊あめとよ財重たからいかし日ひ足姫天皇たらしひめのすめらみこと、後に後岡本…More
万葉集3223番歌の「日香天之」と1807番歌の「帰香具礼」の解釈
万葉集3223番歌の「日香天之」と1807番歌の「帰香具礼」について、その語義を明らかにする。 霹靂かむとけの 日香天之 九月ながつきの 時雨しぐれの降れば 雁かりがねも いまだ来鳴かぬ 神かむ南備なびの 清き御田屋…More
枕詞「たたなづく」、「たたなはる」について
枕詞に「たたなづく」、また、「たたなはる」という語がある。上代の用例は次のとおりである(注1)。 倭やまとは 国の真秀まほろば たたなづく 青垣あをかき 山籠ごもれる 倭しうるはし(記歌謡30) 倭は 国の真秀らま …More
万1895の「幸命在」の訓―垂仁記の沙本毘売命と天皇との問答における「命」字を参照しながら―
一 万1895番歌は、次のように訓まれて解されている。 春去れば まづ三枝さきくさの 幸さきくあらば 後のちにも逢はむ な恋ひそ吾わぎ妹も〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895) 春になればまず咲く、サキクサ…More
万葉集における洗濯の歌について
万葉集で洗濯の解とき洗あらいを言い表した歌に、次のようなものがある(注1)。全解の訳を添えて示す。 A橡つるばみの 解とき濯あらひ衣ぎぬの あやしくも 殊ことに着き欲ほしき この夕ゆふへかも〔橡解濯衣之恠殊欲服此暮可聞…More
令和の出典、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」について─「令」が「零」を含意することを中心に─
新元号「令和」の出典として、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」の「于レ時初春令月、気淑風和。」があげられている。本稿では、その「序」を記した大伴旅人の真意について検討し、元号の出典秘話を紹介する。 梅の花の歌三十…More
万葉集2433番歌「如数書吾命」とウケヒについて
万葉集2433番歌は原文に「水上如數書吾命妹相受日鶴鴨」とある。多くの注釈書に次のように訓んでいるが異説もある。 水の上に 数書く如き 吾が命 妹いもに逢はむと 祈うけひつるかも(万2433) 二~三句目については…More
万葉集のウケヒと夢
ウケヒについての現在の通説は次のようなものである。 ウケヒは、本来、神意を判断する呪術・占いをいう。その動詞形がウケフ。 あらかじめ「Aという事態が生ずれば、神意はaにある。Bが生ずれば、神意はbにある」というように…More