「大室屋」は天の石屋を連想させる。久米歌の後に「咲(哂)ふ」のは藁と関係すると思うからだろう。「一人」が登場するのは、左縄と関係すると思うからだろう。「専」と古訓にあるのは、産婆をいう「専女」、すなわち、「子取り」を思い起こすからだろう。「子取り」とは、ひふくめのことでも、産婆のことでもある。 鎌倉中期の名語記に、ひふくめを比比丘女と当て、地蔵菩薩の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四部の弟子を、獄卒が奪い取ろうとする真似である講釈した説が載る。「トリヲヤガトラウトラウヒフクメトイヘルハ、獄率ガトラウトラウ比丘・比丘尼トイヘル義也」。佐竹2009.は、「ヒフクメということばを「比丘比丘尼云々」で説明した語源説」は、「荒唐無稽な附会でしかな」(320頁)いと断じている。寒川2003.は、「本遊戯[比々丘女]の日本への伝来時期は弥生時代以後が想定されてよい。なぜなら,東アジアでは本遊戯は鶏とかかわっているが,Eberhard……[Eberhard,W., The local cultures of south and east China, E.J.Brill : Leiden,1968.pp.431-32]による中国文化史では,鶏の習俗は,日本に水稲稲作をもたらすことになる揚子江下流域の越文化の要素があるからだ。つまり,本遊戯は越文化の地から直接にあるいは朝鮮半島南部を経て間接に日本にもたらされたものであり,仏教の民衆教化が盛んになる鎌倉時代のころに仏教化が果たされたものと考えられる。」(21頁)と結論づけている。いずれも、言葉と習俗、時代性を考えた見解である。批判の矛先として考えるなら、無文字社会において人々に共通の記憶として伝承されるものは、日々の生活に根づいた感覚と言葉であり、それに「比丘」という文字を当てては誤解するという点に尽きよう。 (注4)無文字文化の基調的な思考法として類推思考があげられている。レヴィ=ストロース1976.参照。 (注5)このあり方は「国家に抗する」(P・クラストル)言語というに等しい。お上に対する批判は時に洒落や地口をもって行われる。人々がひそかに隠し持つ頓智の力の発現である。
思うに、状況がどのようなものか毎回毎回定まるのは、それが個々の出来事、少なくとも社会的な出来事をまとめて体系化する原理・原則に依って立っているからであるし、そんな原理・原則に自ら自身が与っていることに依って立っているからである。すなわち、フレームという言葉を使って進んでゆけば、私にも見極め可能な初歩的な細事に落とし込めるのである。フレームがどう決まるかこそが、私の議論の要である。「フレーム分析」という言い回しをスローガンにして研究の初めの一歩を踏み出せば、経験がいかに体系化されているのかを知ることにつながるのだ。(I assume that definitions of a situation are built up in accordance with principles of organization which govern events―at least social ones―and our subjective involvement in them; frame is the word I use to refer to such of these basic elements as I am able to identify. That is my definition of frame. My phrase “frame analysis” is a slogan to refer to the examination in these terms of the organization of experience.(Goffman, 1974. 10-11pp.))
解釈する人の心の中で、言葉の形や文法構造、言葉遊びが慣習となっていればそれがフレームの指標として働き、自然とこれはそういうフレームなのだと「喚び起こされる」ことになるし、他方、よく定まらない場合でも、解釈する人がテキストの筋が通るように当てがってゆくにしたがって、全体に行きわたる解釈のフレームを「想い起こす」ものである。(On the one hand, we have cases in which the lexical and grammatical material observable in the text‘evokes’the relevant frames in the mind of the interpreter by virtue of the fact that these lexical forms or these grammatical structures or categories exist as indices of these frames; on the other hand, we have cases in which the interpreter assigns coherence to a text by‘invoking’a particular interpretive frame.(Fillmore, 1982. 124p.))
(引用・参考文献) 王2011. 王小林『日本古代文献の漢籍受容に関する研究』和泉書院、2011年。 大村2013. 大村明広「『古事記』天之日矛渡来条に見られる日光感精譚について─出典論を中心に─」『上智大学国文学論集』46、平成25年1月。上智大学学術機関リポジトリ http://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000033255 烏谷2019. 烏谷知子「天之日矛伝承の考察」『学苑』939号、2019年1月。昭和女子大学学術機関リポジトリ https://swu.repo.nii.ac.jp/records/6698 河野1994. 河野通明『日本農耕具史の基礎的研究』和泉書院、1994年。 Goffman, 1974. Erving Goffman, Frame Analysis : An essay on the Organization of Experience, Harper & Row, New York, 1974. 佐伯1970. 佐伯有清『日本古代の政治と社会』吉川弘文館、昭和45年。 Fillmore, 1982. Charles J. Fillmore, Frame Semantics. In The Linguistic Society of Korea (ed.) Linguistics in the Morning Calm, Hanshin Publishing, Seoul, 111-137pp, 1982. 福島1988. 福島秋穂『記紀神話伝説の研究』六興出版、1988年。 三品1971. 『三品彰英論文集 三巻 神話と文化史』平凡社、昭和46年。 村上2013. 村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』塙書房、2013年。 門田2011. 門田誠一「東アジアにおける殺牛祭祀の系譜─新羅と日本古代の事例の位置づけ─」『佛教大学歴史学部論集』創刊号、2011年3月。佛教大学論文目録リポジトリ https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_RO000100004710(『東アジア古代金石文研究』法藏館、2016年。)
(注2)「ソガヒはソキアヒ(離き合ひ)の縮約形であり、互いが離反する、背反する、対峙する意である」(坂本1980.49頁)とする異説も見られる。ただ、ソク(離、退)は離れる、遠のく、の意の自動詞で、アフ(合)を連接させることは考えにくい。 (注3)解釈史、ならびに万葉集の「小舟」についての詳細な解説は、坂本2008.参照。 (注4)母音交替形の「もこ(婿)」のコは甲類であることが、「聟 毛古もこ、又加太支かたき」(新撰字鏡)から知られている。 (注5)赤人歌を叙景にすぐれた歌とする理解はいまだ蔓延しているが、例えば、知らない土地の景色を巧みに言い回した歌が披露されたとしても、ツーリズムとは何かさえ知らずに暮らしている人たちの心に響くはずはないだろう。すなわち、アララギ派が赤人歌に見たものとは、端的に言えば、近代ツーリズムに洗脳された理解でしかなかったのである。そしてまた、歌枕的な解釈をもって理解しようとする試みも、平安時代に成立、定着した文学、文芸を前提に据えたもので、時代考証に錯誤がある。中古以降の文学、文芸は、書かれた歌、描かれた絵など、記録物を媒介としている。基本的に無文字の社会に生きた上代人は、視覚に頼ることなく聴覚のみですべてを掌握しようと努めた。ヤマトコトバのシステムである。舶来の新技術もことごとくヤマトコトバに作られ、今となってはどうやって考え出したのだろうと不思議に思う言葉が目白押しになっている。伝来した織物技術として、ハタ(機)、ヒ(梭)、仏教関係でいえば、ホトケ(仏)、テラ(寺)、焼成品なら、カハラ(瓦)、スヱノウツハモノ(陶器)といった言葉が作られている。いわゆる和訓として認められ、ヤマトコトバとしてあたかももとからあるような顔をして使われている。言葉を声に出して言ったとき、それだけで何を言っているのかすべてをわかり合える世界、それが上代の言語空間であった。 (注6)その点、ソムク(背)という語と一脈通じていると言えよう。「素直に考えれば、後ろに見るという行為は、そもそも論理的に成立し得ない。」(永藤2009.134(5)頁)という考え方をしていたら、なぞなぞは一問も解けないだろう。 (注7)藤田2011.は、「さき竹」、「山菅」について自然観察の結果とする説を唱えている。自然科学的観点は、上代の人に行われていたことが皆無であったとは言わないが、多くの人に認められなければ言葉として成り立たない。タケやスゲが倒れていることなど知ったことではないのである。 (注8)ヤマスゲ(山菅)と歌に詠まれるとは、言葉として確固たるものと認められていたということである。クサ(草)から範疇としてヤマスゲを析出したことは、人々にとって意味あるものとして言語化する営みが行われたということである。植物学などない時代、人は利用するために自然を見ている。「ある語の意味とは、言語におけるその語の使用である。(Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache.)」(L.Wittgenstein, Philosophische Untersuchungen §43)という説法(erklären)は箴言のようにいくらでも応用が利く。 (注9)死者を雲に見立てる発想は万葉集中に見られ、死ぬことを「雲隠くもがくる」とも言った。 (注10)このような使い方が行われていることから考えると、言葉の論理学に通じる人たちにとっては、「そがひ」という言葉は興味深いものとして歓迎されていたのではないかと感じられる。万葉歌は、いかにレトリックを駆使するかという側面も有していたから、当時歌を作りたがる人にとっては格好の言葉であったかも知れない。
34 At the time of an imperial visit to the Land of Kii, a poem graciously composed by Prince Kawashima. Another (text) says it was composed by Yamanoue no Omi Okura. On the white-waved beach, the pine branch with a cloth offering since then how many ages how many years have passed? one says “how many years had passed?” The “Chronicles of Japan” say that in the fourth year of Akamitori, Yang Metal Tiger, in Autumn in the ninth month, the Heavenly Sovereign visited the Land of Ki. 35 At the time of crossing over Mt. Se, a poem graciously composed by Princess Ahe This must be that which when in Yamato I long for that which is on the road to Ki Mt. Se that bears the name(p.186)
日本語訳であるダシー2023.には次のような英訳を載せる。ダシー氏は題詞(headnote)や左注(endnote)の書き方に統一性がないことから『万葉集』の多様性を見、「歌集編成をめぐる対抗関係ポリティクスの徴証と捉えるべきものだと思われる。」(164頁。“Rather, such diversity is evidence of a contested politics of anthologization that takes place within the Man’yōshū itself.” Duthie, 2014, p.180)として論を展開しているにも関わらず、訳本末尾に載る英訳には題詞や左注がない。訳者が付けたものか。anthologization のために headnote や endnote を付けているわけではなく、歌自体の枠組みを示すために当初から付けられたものであることは本論で述べたとおりである。
34 For the offering on the branch of a pine upon the beach of white waves, for how long have years been passing by? one says, “had years been passsi[ママ]ng by” 35 This must be that, which being in Yamato I did yearn for, which on the road to Ki bears the name of Mt. Se.((13)頁)
Levy 1981. は次のように訳している。
34 Poem by Prince Kawashima at the time of the procession to the land of Ki One book has Yamanoue Okura as the author. How many generations has the prayer cloth passed hung from a branch of the pine on the beach where white waves break? In the Nihonshoki it is written that in autumn, the ninth month, of the fourth year of Akamitori (690), the Empress went on a procession to the land of Ki. 35 Poem by Princess Ae when she crossed Se Mountain Ah, here it is, the one I loved back in Yamato: the one they say lies by the road to Ki bearing his name, Se Mountain, “mountain of my husband.”(pp.55-56)
Cranston 1993.は次のように訳している。
34 A poem composed by Prince Kawashima when the Empress [Jitō] made a progress to the province of Ki (or by Yamanoue no Omi Okura, according to another source) Where the white waves splash Across the branches of the pines Along the sandy shore, How many ages have they passed, These offerings on the boughs? Nihongi states: “In the fourth year of Akamitori [689], Metal-Senior / Tiger, in autumn, ninth month, the Empress made a progress to the province of Ki.”(p.185) 35 A poem composed by Princess Ahe when crossing over Senoyama Is this then the spot For which I yearned in Yamato, The famous mountain Said to lie along the road to Ki, Senoyama, Husband Peak?(p.272)
Vovin2017.は次のように訳している。
34 A poem composed by Imperial Prince Kapasima at the time when the Empress went to Kïyi province. Some say [it was] a composition by Yamanöupë-nö omî Okura. The safe passage offerings on the branches of pines at the shore [that is washed] by white waves for how long the years would pass [until they remain]? A variant: the years would have passed [since I tied them]? The Nihongi says that in the ninth lunar month in the autumn of the fourth year of Akamî töri the Empress went to Kïyi province.(pp.103-104) 35 A poem composed by Imperial Princess Apë at the time when [the imperial excursion to Kïyi province] was crossing Mt. Se. Is this Mt. Se that bears [this famous] name that is said to be on the road to Kï[yi province], for which I am longing for when [I] am in this Yamatö [province]?(pp.105-106)
34 The white waves come and go on the beach. Here, it is well known that a famous person died. Since then, people would offer grass to the branches of the pine tree growing on it. After a long time, the grass is withered and looks completely different, like a bird’s nest. My name is “Prince Kahasima”. “Kaha” means river and “sima” means island or sandbank. So we know it well that sandbanks appear and disappear, just like the waves come and go and the ground appears and disappears. In early Japanese, river banks and bird’s nests were both called “su”. 35 Oh, this is just Mt. “Se”, which is the famous mountain on the road to Ki, that I heard about when I was in Yamato. My name is Ahë. In Yamatö, people called me “Ahë”, which was also the realis form of the verb “to meet”. So, Hearing the sound “YamatöAhë” demands a recognition “already met a mountain”. “Yamatö” sounds like “Yama”-“tö”. In early Japanese, “Yama” means mountain, “tö” means “face to face”, and “Ahë” means “already met”. I didn’t know what they were saying until now, but I just understand. Now, I confront this mountain, it’s name is “Se”. “Se”, in early Japanese, means my darling. We can say that I already met the mountain, so called my darling.
(補論2) ダシー氏は海外の万葉集研究家である。万葉集の歌よりも題詞や左注に注目して、編纂において「帝国のインペリアル」歌集を志向する暗黙知があったと考えている。「律令国家と平安の宮廷文化が徐々に崩壊した結果、『万葉集』は再評価されて、平安時代に確立した作歌修練とは別個に取り扱われたり、研究されたりすべき古代のテクストとして位置づけ直された。これと同様に、二十世紀後半には文化・文学研究において国民という枠組みが崩壊した結果、古典文学が近現代世界と切り離して捉えられるようになって、『万葉集』自体の語るところを読み取ろうとする可能性もそこから開けてきたのだと思われる。」(ダシー2023.181頁。“Just as the gradual breakdown of the ritsuryō state and Heian court culture led to a reevaluation of the Man’yōshū as an archaic text that should be treated and studied independently from the practice of waka poetry established in the Heian period, so perhaps has the breakdown of the national frameworks of cultural and literary scholarship in the late twentieth century and the consequent perception of classical literature as irrelevant to the modern world opened up the possibility of trying to read the Man’yōshū on its own terms.” Duthie, 2014, p.200)という。万葉集をどう捉えるかという枠組み(frame)について再検討を求めている。ところが、万葉集に記されている題詞や左注は、それぞれの歌の枠組み(frame)を個別に定め示すために加えられたものである(注6)。歌だけを取り出すことができないのは、一定の状況の設定において歌が歌われているため、舞台設定を明示する必要があるからである。作者名が記されるのは、名に負う存在として言葉を吐いているものが歌だったからで、他の人が歌ったのでは意味を成さないことも多かった。くり返すが、題詞は編纂過程で新たに付けられたものではない(注7)。 括弧つきの『万葉集』を見て歌を見ず、に陥った議論は今日の研究に散見される。古典文学が近現代のそれとは別物であることはそのとおりであるが、万葉集など上代のテキストは、平安時代以降の古典文学とさえ別物である。なぜなら、古典日本語で作られているのではなく、ヤマトコトバで作られているからである。万葉集の編纂には、ヤマトコトバの用例集作成を志向する傾向があったという側面さえ認められる。言語ゲームの所産であった。 万葉集というタイトルについて、よろづのことのはの集と考えていた仙覚の説は、万世に伝わるように期待されたものとする捉え方以上のものである。Collection of myriad leaves という逐語訳はある程度正しいと考える。「葉」の原義は植物の葉である。それが言葉のことを表すのは、タラヨウに字を書いたものを葉書(letter)としていたことからも首肯される。歌の備忘のために言葉が書き付けられたたくさんの紙片をひとつに集めたものを万葉集と名づけたのであろう。編纂者の意図が勝つわけではなくて、collect したというよりは gather したという感触が強い。防人歌のうち、「但有拙劣歌十一首不取載之」(万4327左注)と記す理由は、編纂者の判断で取捨することをお許しくださいとの断り書きである。万葉集の編纂者は撰者ではなかった。雑歌、挽歌、相聞といった部立や、おおむね時代順に並べられているのも、そう整理しておいたほうがわかりやすく、歌ごとにいちいち説明をつける必要もなくなるからそうしておき、一つの体裁として整えている。その意味では assenble していたということだろう。 ダシー氏は、「この[神野志2007.の「複数の古代」という]考え方は、私見では、『万葉集』の歌に施された種々の題詞や注記から窺える多様な歴史的立場、また多様な歴史化の様式にも適用可能だと思われる。この、歴史的枠組みの複数性こそが、テクスト内部に歌集編成のポリティクスを発生させるのだろう。」(同上171頁、“This [what Kōnoshi has called “multiple antiquities” (複数の古代)] is a concept that, in my view, also applies to the converging of different historical perspectives and styles of historicization in the various notes and commentary that surround the poems in the Man’yōshū. It is this multiplicity of historical frames that creates a politics of anthologization within the text.” ibid. p.188)という。題詞や注記は当該歌のために記されたもので、編成のポリティクスを示そうと(無意識的にさえ)意図されたものではない。歴史的枠組みとしてではなく、当該歌の枠組みを示すために存在している。それぞれの歌が主役であり、歌を定位させるために題詞や注記は記されている。 便宜のため、ダシー氏の主張の根幹部分を引いておく。
私が『万葉集』を「帝国の」歌集と称するのは、巻ごとに異なる編纂の原理と様式とを通じ、歌の集積を帝国の歴史として、また帝国の空間的表象として、さらには天皇を中心とする詩的表現の広大な世界として構成しようとする傾向を捉えてのことである。……本章で明らかにするように、『万葉集』に表象される〝国体〟は、さまざまな社会階層の人々が共通の生得的感性を通して統合された国などではない。あくまでも古典的な帝国的世界レルムであって、そこでは、歌が媒介となって宮廷の文化的感性を全土に広め、天皇と宮廷を中心とする広大な文明的な感情世界を生み出すとされる。(同上149頁、“The reason I describe the Man’yōshū as “imperial,” is that throughout the various different principles and styles of anthologization that each of its volumes exhibits, there is a pervasive commitment to configuring the collection as an imperial history, a spatial representation of the empire, and a universal realm of poetic expression centered on the figure of the sovereign. ……As this chapter will make clear, the “shape of the state” represented in the Man’yōshū is not that of a nation in which various people of different social classes are united by a common native sensibility, but that of a classical imperial realm, in which poetry serves as a vehicle for the cultural sensibility of the court to spread throughout the provinces and create a universal world of civilized feeling centered on the sovereign and the imperial court.” ibid. pp.161-162) 繰り返すが、『万葉集』が〈帝国のインペリアル〉歌集だということは、天皇のインペリアル命で編纂された──勅撰──という意味ではない。さまざまな構成原理と長期にわたる編纂史にもかかわらず、この歌集の組織には帝国史と帝国世界とを表象しようとする一貫した志向が看取されるという意味である。(同上157頁、“The Man’yōshū may not be an “imperial” anthology in the usual sense of having been imperially commissioned (勅撰), but it is in the sense that among its variety of structural principles and long compilation history one can nevertheless detect a pervasive commitment to organizing the anthology as a representation of imperial history and of the imperial realm.” ibid. p.172) 改めて言おう。帝国史、帝国世界の空間的表象、大伴氏一族に関する脇筋という三つの側面は、どれも単一の視点からではなく、相互に衝突しがちな複数の立場パースペクティヴを交えて描かれている。『万葉集』が相異なる複数の立場から成り立っているのは、単に、長期にわたる編纂過程を通じて帝国の理念が変質したためではないだろう。むしろこの多様性は、『万葉集』自体の内部に刻み込まれた、歌集編成をめぐる対抗関係ポリティクスの徴証と捉えるべきものだと思われる。(同上164頁、“As I noted earlier, none of these three aspects─the imperial history, the spatial representation of the imperial realm, or the Ōtomo lineage subplot─are represented from a single viewpoint. All of them include multiple perspectives that are often mutually conflicting. The fact that the Man’yōshū is made up of different perspectives is not simply due to imperial ideals changing over time throughout the long process of compilation. Rather, such diversity is evidence of a contested politics of anthologization that takes place within the Man’yōshū itself.” ibid. p.180)
(引用・参考文献) 伊藤1974. 伊藤博『萬葉集の構造と成立 上・下』塙書房、1974年。 市瀬・城﨑・村瀬2014. 市瀬雅之・城﨑陽子・村瀬憲夫『万葉集編纂構想論』笠間書院、平成26年。 稲岡2004. 稲岡耕二「大名持神社と人麻呂歌集─人麻呂の工房を探る(其の三)─」『萬葉』第188号、2004年6月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2004 澤瀉1957. 澤瀉久隆『万葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。 窪田1951. 窪田空穂『万葉集評釈 第1巻』東京堂、昭和26年。 神野志2007. 神野志隆光『複数の「古代」』(講談社(講談社現代新書)、2007年。 阪下2012. 阪下圭八「初期の山上憶良」『和歌史のなかの万葉集』笠間書院、平成24年。(『万葉集を学ぶ』有斐閣、1977年。) 新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。 武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈三』角川書店、昭和31年。 ダシー2023. トークィル・ダシー、品田悦一・北村礼子訳『万葉集と帝国的想像』花鳥社、2023年。 多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。 村瀬2005. 村瀬憲夫「妹勢能山詠の諸問題」『萬葉集研究 第27号』塙書房、2005年。近畿大学学術情報リポジトリ https://kindai.repo.nii.ac.jp/records/1269 村瀬2021. 村瀬憲夫『大伴家持論 作品と編纂』塙書房、2021年。 ワトソン2017. ワトソン・マイケル「万葉集の英訳について」『万葉古代学研究年報』第15号、2017年3月。奈良県立万葉文化館ホームページ https://www.manyo.jp/ancient/report/pdf/report15_12_english.pdf Cranston 1993. Edwin A. Cranston. A waka anthology. Vol. 1: translated, with a commentary and notes. California, Stanford University Press. 1993. Duthie 2014. Torquil Duthie. Man’yōshū and the Imperial Imagination in Early Japan. Leiden, Brill, 2014. Goffman 1974. Erving Goffman. Frame analysis: an essay on the organization of experience. Massachusetts, Harvard University Press, 1974. Levy 1981. Ian Hideo Levy. Man’yōshū: A Translation of the Japan’s Premier Anthology of Classical Poetry Volume one. New Jersey, Princeton University Press.1981. Vovin 2017. Alexander Vovin. Man’yōshū : Book 1: a new English translation containing the original text, Kana transliteration, Romanization, glossing and commentary. Leiden, Brill, 2017.
(注6)木下1962.に、「大雑把に言へば、……イカニはドノヤウニ ‘how’ であり、……ナニ以下はドウシテ、ナゼ ‘why’ の区別がある。」(3頁、漢字の旧字体は改めた)に従うなら、「いかさまに思ほしめせか」は、‘What did he think?’ であろう。嫌味な言い方として、How do you think?(自分で考えればわかるでしょう?)という言い方もあり、そう受け取ることもできないことではない。言葉が持つ両義性の領域に入る。契沖・万葉集代匠記にも、「いかさまにおぼしめしてかといふによりて見れば、此帝の都を遷し給ふ事を少し謗れるか、民のねがはざること題の下に引ける天智紀の如し、摠じて都を遷す事は古より民の嫌へる事なり、史記殷本紀曰、……、況や上に引ける孝徳紀にいへる如く、豊碕 ノ宮をば嫌ひ給ひて、倭京にかへらせ給ふべき由、奏請したまひながら、御みづからは又あらぬ方へ都を移させ給ふ、不審の事なり、又按ずるに、第二第十三にも、いかさまに思し食てかといへるは、たゞ御心のはかりがたきを云へり、殊に今の帝は大織冠と共に謀て蘇我 ノ入鹿を誅し給ひ、凡中興の主にてましませば、七廟の中にも太祖に配して永く御国忌を行はる、智證の授决集にも見えたり、然ればたゞ御心のはかりがたき故にも侍らんか、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936702/47~48、漢字の旧字体は改めた)とある。 (注7)「近江荒都歌」なる誤った枠組みが与えられて、その表現が挽歌的であるとしたり、天智天皇と天武天皇とを天秤にかけて、時の持統天皇に歌いかけた離れ技であると誤解されるに及んでいる。寺川2003.に、持統天皇の思いを「忖度し」(24頁)ているとある。 (注8)柿本人麻呂は長歌を得意としたが、彼は門付け歌人に過ぎなかったから、聞いてもらいたくてワーワー騒いでいるのである。今日から考えて表現がうまいかどうかという点は、その後に来る活動(meta-poetry)であり、当時の人たちにどのように評価されたか不明である。経歴等も史書に一切記載がない。 (注9)諸説ある。白村江の敗戦によって防衛力を強化するため、戦勝国である唐の要求による、交通上の要衝で高句麗との連絡や蝦夷を意識した、渡来人が多く居住していて生産力が高かった、旧勢力の本拠地飛鳥から離れようとした、飛鳥の地における再開発の頭打ちとなって生産力が低下したため、近江にも大王家の基盤を求めたため、秦の始皇帝の真似をして水徳を主張して水の都を建設した、などといった説があり、それらの複合したものであるとも唱えられている。「遷都理由に断案だんあんはない」(森2002.83頁)のが現状である。 (注10)万305番歌は「近江京認識歌」の一員である。「楽浪」が意識的に用字されている。
(注11)口承文化から文字文化への移行の段階において、なぞなぞ段階があったということはこれまで論じられたことはない。けれども、我々は容易にその事実について気づくことができる。幼少期の子どもは、口承文化から文字文化へ移行していっている。その間、文字を習い始める過程において、小学校低学年を中心に、特異な傾向としてなぞなぞが興味津々に楽しまれている。同じ現象が飛鳥時代の人々に起きていたと考える。ヤマトコトバと訓義を表す漢字との、絡み合いを楽しむやりとりが行われていたと推測される。 コナトン2011.の「社会の記憶」に関する次の論考のうち、「経済化 economisation」は「省力化」のこと、「懐疑論 scepticism」は「ほんまかいな?」のことであると捉えてかまわないであろう。そして、コミュニティの記憶の構成要素として、「記念式典」と「身体」とを社会の記憶の特質として検討を進めている。万葉集の「雑歌」とは何かと問われれば、「記念式典」に当たって口承の伝達の役割を果たすものであったと定めることができると考える。 「社会の記憶に対する文書化ライティングの影響インパクトはしばしば論じられ、それが非常に大きかったことは明らかである……。口承文化から文字文化への移行は、具体化の実践から表記の実践への移行を意味する。文書化の影響は、表記によって伝えられる物語はすべて変更できないほど確立される事実、その構成過程が閉鎖的である事実から来るものである。スタンダード版や正典はこの典型である。この不変性こそが変革イノベーションを促すバネとなる。文化の記憶が「生の」語りではなく、その表記の再生産によって伝達されるようになると、即興はますます困難になり、変革は制度化される。音声表記は経済化と懐疑論という二つの過程を促進することによって文化的変革をはかる。ここでの経済化とは、コミュニティの記憶が韻律という形式への依存から解放されることである……。懐疑論とは、コミュニティの記憶の内容が系統的システマティックな批評の対象になることである……。」(134頁。わかりにくいので原文を付す。The impact of writing on social memory is much written about and evidently vast. The transition from an oral culture to a literate culture is a transition from incorporating practices to inscribing practices. The impact of writing depends upon the fact that any account which is transmitted by means of inscriptions is unalterably fixed, the process of its composition being definitively closed. The standard edition and the canonic work are the emblems of this condition. This fixity is the spring that releases innovation. When the memories of a culture begin to be transmitted mainly by the reproduction of their inscriptions rather than by ‘live’ tellings, improvisation becomes increasingly difficult and innovation is institutionalised. Phonetic writing generates cultural innovation by promoting two processes: economisation and scepticism. Economisation: because the form of communal memory is freed from its dependence on rhythm. Scepticism: because the content of communal memory is subjected to systematic criticism. pp.75-76. ともに(注)部分は割愛した)。 また、「文化の継承において、その構成に不自然や矛盾と感じることがあっても、それを明らかに口にすることははばかられる。……その矛盾が文化への永続的な影響を生むとは考えにくい。懐疑論は個別に働くものであり、文化として蓄積するものではないからだ。」(135頁)ともある。「「ささなみ」=「楽浪」=「楽浪郡」」? という「懐疑論」は、日本書紀のような正史文書にはばかられ、口承文化のなかに残滓をとどめている所以である。 (注12)万250・3606番歌は、野島崎近辺のことを歌っている。前者は海路を、後者は陸路を進んでいる。ここは万3606番歌の仮名表記からスグと訓む。万250番歌において、船はどんどん進んで行くなか歌を詠んでいる。船は野島崎に近づきはするが上陸することはないだろう。岩礁が危険だからである。 「右三首過二鞆浦一日作歌」(万448左注)とあって「鞆浦」に寄港しており、スグと訓むべきと考えられる。ヨキルと訓むことに抵抗があるのは、「天平二年庚午冬十二月、大宰帥大伴卿向レ京上道之時作謌五首」(万446題詞)中の歌であり、「右二首、過二敏馬埼一日作謌」(万450左注)ともあって、通過地点であると考えたほうが無難だからである。船に乗っている人の中で一番偉い客であったとしても、ちょっと物見遊山に進路を変更してくれ、上陸させてくれと、船長に言えるものではない。 (注13)西大寺本金光明最勝王経と景行紀四十年是歳条の例は、➀➁のいずれにも解釈可能であり、辞書に➀ととる説と➁ととる説がある。スグに、停止しない意があると考えると、伊勢神宮の前を通り過ぎつつ拝むというのは、鳥居から中に入らないで拝むという忙しい現代人の参拝方法になる。 なお、伊藤1983.に、万29番歌の題詞の「過」は、「集中の他の題詞や左注の「過」の字を検討するに、やはり「立ち寄り(見)つつ通過する」意に解するのが穏当だと思う。」(131頁)とある。それに従う注釈書も多く見られるが、語義を理解しているように見受けられない。ヨキルという語はもとからあるヤマトコトバである。「「避よく」の再活用語であろう。「避よき道ぢ」「曲よき道ぢ」という語もある。……道の途中で立寄る。また途中で通り過ぎることをいう。「避よく」の関係からいえば、目的のところに直行せずに、何らかの理由でわき道する意である。」(白川1995.784頁)。 (注14)万葉集の題詞に、「過」という字は全部で14例あるが、通過(万794、万942、万1800、万3638、万4159)、経過(万886、万3967)、超過(すぐれる、まさる)(万802、万3973)の意味が多く、寄り道して立ち寄る意味のヨキルの例としてあげられるのは、最大限次のものであろうか。
三句目「開置而」には、アケオキテ以外にヒラキオキテと訓む可能性も指摘されている。現代語で、開けっ放しにしておくというのと、開いたままにしておくというのとの違いである。ニュアンスの違いは語の本義のうちに理解される。アクは「開」のほか「明」とも字が当てられる。ヨアケ(夜明け)とはいうが、ヨヒラキ(夜開き)とは言わない。明るくなるからアケである。戸を開けておくと薄暗い部屋の中にまで日の光が差し込んでくる。開いたままにしておいたとしても明るくはなるが、そのことを言うのにふさわしい言い方は、アケである。 歌の作者は、さかんに戸を open にしておいて、いつでも welcome であることを示している。にもかかわらず、他の誰かが引き留めてか恋しい彼は訪れないと嘆いている。もちろん、戸を open にしていても、本人が不在では仕方がない。在宅であることがわかるように open にしているのである。 その場合、この戸は、門の戸ではなく、家屋の戸であるほうが似つかわしい。土塀や生垣に囲われた家の門の戸を開けておいて中の様子が窺い知れるとする間接的な表現ではなく、相手に強くアピールするためのもの言いであったと考えられるからである。実際にそうであったかではなく、そのつもりで開けておいているのですよ、と相手に歌を贈ることをしている。「歌」というコミュニケーション手法ならではのことである。家屋の戸が開いていれば、昼間は日の光が差して姿が確認できるし、夜間には火の光が外に出て影が動くのがわかる。ほら、私は在宅しています、来てください、と訴えている。 そういうことを言いたいのだとすれば(注1)、中が丸見えであることを含んだ言い方、アケオキテがふさわしいと判断される。そしてまた、「山桜戸」なるものの実態も理解される。 万葉集中にある他の「山桜」二例は、「山桜花」の例である。桜の花、また、花びらの数の多さを特徴として見ている。第一例は日数の多さに譬え、第二例はたくさんあるのに反して一目さえ見ていないことを歌っている(注2)。
いつまで生きられる命かわからない、命を神に捧げたわけではないごくふつうの人であるなら、恋をしつづけないということは、どういうことかというと、忌詞で死んでしまうことを表すナホル、というのと同じことである。ふつうの意味のナホル(直・治)は、険悪、異常な状態からもとの平静、平常な状態にもどることである。天気、機嫌、病気、拘禁状態などから回復することをいう。そのままの意味で解すれば、恋煩いをせずにいるということは、平静であるということである。それはそのとおりなのであるが、それははたして人の人生というに値することなのであろうか、というのが歌の作者、抒情というものを少なからず良いものと思っている人にとっての感慨である。神と結婚してしまう斎宮様じゃないのだから、恋に狂うことなく生き続けるなんてもったいないよ、と言いたいのである。そこで、忌詞を使って歌にし、その点を強調するために「死上」という義訓書きにしている。シヌの上等表現がナホルである(注15)。 そして、「つつ」の二つ性は、この「直る」という言葉の二重性、heal と die に表れている。
歌の言葉は歌が歌われている最中にしか聞かれない。空中を飛び交うにすぎない歌の言葉、それも次にくる言葉を予感させるにすぎない枕詞は言葉遊び(Sprachspiel)の極地にある言葉である。ましてやそれが新語であるのなら、前後の文脈を丹念に拾わなければ理解できないということはあり得ない。聞き直すことがないのが歌である。えっ、何だって? と聞き返さなければならなくなったらその時点でその歌は失敗作である。失敗作が書き残されている可能性はなくはないが、成功作であることを第一の前提として歌を解釈し、それが可能ならその解釈が正しい。 そのことは、歌の言葉である枕詞にイデオロギーが持ちこまれることがなかったであろうことにも通じる。聞く側の理解が追い付かなければ用をなさないからである。言葉とはそういうものである。天皇制を讃美する言葉ではなく、この歌の例が唯一例で、人麻呂の造語である。 「そらにみつ」という枕詞を創出するに当たって人麻呂は何を考えたか。まず、「そらにみつ」は「やまと」に掛かるとして聞く人にもすぐに納得されるであろうと考えている。「やまと」を「日本」と書くことがあった。当時の人々の共通認識として知られていた(注2)。「やまと」という地方や国が、どういうわけかは知らないが、「日本」と書くということが知られていたら、「やまと」というところは「日」の「本」、sun が originally にあるところ、つまりは、to be filled with the sun in the sky な状態にあるということである。これを訳せば、「空に満つ 日本」ということになり、表記するに当たり「天尓満倭」と書いている。非常にシンプルな着想であり、「そらにみつ」という新語はその場に居合わせた人に無理なく聞き入れられたであろう(注3)。 枕詞は言葉のつながりをおもしろがるために工夫された修辞である。例えば、次のような例を参照すれば、ヤマトコトバが漢字による表記を伴うことになり、言葉に対する興味を深めていった様子が見て取れる。
(注) (注1)井手1975.276~279頁には、縦書きの左右に傍線を引いて解説している。歌の番号などの一部の乱れは正した。 a (欲り) c 妹が目を見まく堀江のさざれ波頻きて恋ひつつありと告げこそ(巻十二・万三〇二四) b a (穢) c 恋衣着奈良の山に鳴く鳥の間無く時無し吾が恋ふらくは(巻十二・三〇八八) b a (振る) 娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我れは(巻四・五〇一) b a (清み) c (壊ゆ) 妹も我れも浄の川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ(巻三・四三七) b a (たか) c 妹が髪上げ竹葉野の放ち駒蕩びにけらし逢はなく思へば(巻十一・万二六五二) b a (逢ふ) c 我妹子に相坂山のはだ薄穂には咲き出ず恋ひ渡るかも(巻十・二二八三) b a (又打ち・・・)c 橡の衣解き洗ひ真土山もとつ・・・山にはなほ如かずけり(巻十二・三〇〇九) b a (取り替ひ) c 洗ひ衣鳥飼川の川淀・の淀・まむ心思ひかねつも(巻十二・三〇一九) b a (降る) c とのぐもり雨布留川のさざれ波間無くも君は思ほゆるかも(巻十二・三〇一二) b
➀明日香皇女ハ、(It was thought that Princess Asuka ……) 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひなびける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひの 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へには 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時どき 出でまして 遊びたまひし 御食向かふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ ➁夫君ハ、(It was thought that Prince X ……) しかれかも あやに哀しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見ゆれば 慰もる 心もあらず ➂私ども参列者ハ、(It was thought that we ……) そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名にかかせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の 形見にここを
➀段落の「うつそみと 思ひし時に」の「思ふ」の主語は「我」ではないかとの指摘もあろうが、話が皇女の亡くなった後のことばかりになってしまっていたので、生前のことを語ろうとして話を転換しようとしている。時制の変更を行うためには、一端、第三者的視点から見直す必要があり、挿入句が持ち込まれているのである。……, by the way, when she was alive, ……の意味であるが、「うつそみ」という上代人ならではの言葉を使っている。〓〔瓦偏に缶〕が中空の器であったのに対して、その型に象られたもの、蝉の抜け殻に対する成虫の蝉のことである。拙稿「一言主大神について」参照。こういった修辞的形容のためには、成虫の蝉であることを確認する観察者がいて「思ふ」必要があり、挿入句主語表現が登場している。 形式主語の転換が起きる箇所に、「然れかも」、「そこ故に」と、それまで述べてきたこと全体を指示する語が用いられて、聞く人にわかるように構成されている。➂段落では、何もしてさし上げられないので、お名前をもって追悼いたします、と歌っている。それが短歌二首にも反映されている。 (注7)彼の地では、「轜」は馬車仕立てで馬が牽いたかもしれないが、本邦に馬車の歴史は明治時代までない。牛が牽いていた。拙稿「轜車について」参照。
A:Ownership of the bottle transfers to where the glass goes. B:Well, it seems that it will be Glasgow’s. A:I wasn’t able to eat in the best country of my trip to Europe. B:Well, it’s Hungary.
ここで「痛」字はコチタシの ita 音に使われている。噂が立てられて心が痛むので、誰の目にもつかないように朝の早い時間帯に川を渡ったというのである。そんな薄暗がりのなか川を渡ることは危ないことだから、良い子も良い大人も真似をしてはならない。 ➀の万643番歌にあるイタセノカハについて、そういう名称の川があったことは知られない。女が男のもとへ通うと噂を立てられて心がひどく痛むことを比喩にしたもので、激しい急流で渡るのに難儀する瀬のある川という意に用いられているのであろう。それでも相手の男のこと、それは「背せ」と呼ぶ相手である安貴王のことが好きだから、「瀬せ」を渡るのである。「吾が渡る」とあるのだから、私(紀郎女)は渡っている。同じように、世の中のふつうの女性であれば、渡ることができないなんてことはあるだろうか、いやいやない、と言っている。「渡りかねめや」の主語は、冒頭の「世の中の女」である。自分のような気持ちの小さな人間でも素敵な安貴王のところへ渡っているのだから誰だって渡るものだ、という意である。紀郎女は、自分が「思い切ったことができないのを嘆」いているわけではない。恋のライバルがいて、同じように安貴王のもとへと通っていることに気づいてしまったのである。だから、二首目以降へとつながる(注3)。 その恋敵とは誰か。多く指摘されているように、因いな幡ばの八上やかみの釆うね女めであろう。注目されるべき記述は、万葉集巻第四において既出である。
これらの状況を勘案した時、「瑞祥としての亀の出現は、天智朝にはじまるとしても、持統朝においては、極めて斬新な新しい思想であったことを確認しておかねばならない。」(北野1999.161頁)とする考えはいたって怪しい。どのようなことが祥瑞に当たり、時の政府がいかに対処するかについては、儀制令の祥瑞条とその集解(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1878432/102~103)、また、延喜式・治部省の祥瑞条(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991103/338~339)に明文化されているとともに、参考にしたと考えられている芸文類聚・祥瑞部上~下(China-US Million Book Digital Library Project(CADAL)https://archive.org/details/cadal?query=藝文類聚、巻九十八~九十九)のほか、日本書紀、続日本紀の具体例をもとに考えられている。律令制定以前の事柄に関しては、論者によって採るか採らないか判断が分かれるものもある。例えば、東野2017.は「赤亀」(天武紀十年九月)を祥瑞として採りはするが、式に見えないことに注意している。天武紀を読む限りにおいては、珍しい色をした亀が朝廷に献上され、庭の池に放っただけのことと考えられ、それを祥瑞記事と決めてかかる根拠は特にない(注8)。 以上見てきたのは、宮廷の上層部のものの見方である。そんななか宮廷を差し置いて、690年代の前半、万50番歌において、「役民」の言葉として亀の出現が祥瑞であると信じられている、あるいは話としてそういうことが中国の思想にあるらしいと知られている、とはなかなかに考えにくい。この歌には「役民」仮託説があるのだが、仮にそれが真相であったとしても、歌い手を「役民」と定めている限りにおいて、歌う側もその歌を聞く側も第一義的には「役民」であったと想定されなければならない。すなわち、「役民」全般に祥瑞思想が浸透していない限り、風変わりな(?)亀=祥瑞という設定は成り立たないのである。語弊を顧みずに言えば、「役民」は田舎者であり、田舎に亀はいくらでもいて、なかには変てこなのもいた。風変わりな模様だというのも、それはもちろん模様に着目して風変わりだと見ようとするから初めてそう気づくものであって、数多く見ている目には単に個体差であると済まされるに違いない。いま一度整理すれば、7世紀において、「亀、背書二申字一、上黄下玄、長六寸許。」や「赤亀」、「白鱉」、「白亀」なる特徴は、宮廷の人にとって珍しくはあっても、だからと言って必ずしも祥瑞と考えていたとは認められず、ましてや田舎者の「役民」の発想に浮かぶものではないと言える。 捉え方を180° 転換しなければならない。 「圖負留」の「図」は、模様のことではなく、天智紀にある「申」のように、文字のことを指している。「役民」と瑞応図とは無縁である。しかも、それをフミとしか表現できていないところこそ、それが「役民」であることを如実に表している。彼らは基本的に字が読めない。読めなくて不自由しないから学ぼうとしない。何と書いてあるかはわからないが、それがフミ(文字)であることはわかる。歌の筆記者はその事情をうまく伝えるために、「圖(図)」という文字を当てていると思われる。
黄泉国の位置については、それがこの世から見てどの方向に当たるかという議論が行われているが、黄泉のもう一つの義である地中の泉との関連性からすれば、下の方にあると思われて不思議ではない。万905番歌に死後世界のことをシタヘと呼んでいる。すなわち、シタ(下)オフ(追)ことをして「慕ふ」ことになっていると思われる。 このように、秋になって山の木の葉が色づくこと、シタフことになることは、言葉(音)として黄泉国とつながりのあるものとなっている。説文に「黄 地の色なり」とある点からも、地中の泉が黄泉であることは納得され、Leaves turn red and yellow in autumn. について「黄」字を用いると、ヤマトコトバの体系性を最も正しく表すことになる。そこで用字に「黄」が好まれて使われ、定着化していたと考える。
ON the sea of heaven the waves of cloud arise, And the moon’s ship is seen sailing To hide in a forest of stars. (Donald Keene) In the sea of sky The waves of cloud rise up, And the moon-boat Is seen rowing out of sight Into the forest of the stars. (Edwin A. Cranston) In the sea of heaven cloud waves rise and the moon boat sails into a forest of stars, then is seen no more (Janine Beichman) On the sea of heaven the waves of cloud rise, and I can see the moon ship disappearing as it is rowed into the forest of stars. (Hideo Levy) Cloud waves rise in the sea of heaven. The moon is a boat that rows till it hides in a wood of stars.(Peter MacMillan)
(引用・参考文献) Donald Keene Donald Keene, 1940. THE MANYŌSHŪ. INTERNET ARCHIVE https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.182951/page/n139/mode/2up Edwin A. Cranston Edwin A. Cranston, 1993. A WAKA Anthology Volume One: The Gem-Glistening Cup Translated, with a Commentary and Notes. California, Stanford University Press. p.236. Hideo Levy リービ英雄『英語でよむ万葉集』岩波書店(岩波新書)、2004年、77頁。 Janine Beichman 大岡信著、ジャニーン・バイチマン訳『対訳 折々のうた』講談社インターナショナル、2002年、97頁。 Peter MacMillan ピーター・マクミラン『英語で味わう万葉集』文藝春秋(文春新書)、2019年、155頁。 飯島2018. 飯島奨「はやし・はやす─「乞食者詠」鹿の歌の「はやし」とは何か─」吉田修作編『ことばの呪力─古代語から古代文学を読む─』おうふう、2018年。 勝俣2017. 勝俣隆『上代日本の神話・伝説・万葉歌の解釈』おうふう、2017年。 時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。 白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。 新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。 多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
(English Summary) The poem of Manyōshū No.1068 is misinterpreted. Since the moon is brighter than stars, the moon cannot hide in the “forest of stars”. In ancient Japanese, the word “Hayashi” which was forest or woods, also meant to serve as a foil to something else. We can understand that they could see stars well when the moon hid in the cloud.
万49番歌の歌の眼目は並ぶことの機知にある。日並しの皇子が馬を並べていた、横並びでどんぐりの背比べ、当たり前のことを印象づけ、「御狩り立たしし時」が当たり前に訪れた、と人麻呂は歌っている。つまり、狩りの時は当たり前に到来したこと、春が過ぎて夏が来るように必然的な時間の進展であると申し述べている。それを「来向ふ」と表現している。時という言葉に抽象性を認める余地はない。その時が向こうからやって来る(The time is coming from over there.)と言っているのではなく、その時がとうとう訪れた(At last, the time has come.)と言い放っている。 これは、時計を手にした人たちが思うように、まったく同時刻に狩りが行われたことを示すものではない。並んでいるのだから並んでいるのであって、同様に経過するのは至極当然のことであると言っているまでである。あたりが明るくなってきて狩りが行われようとしている様について、言葉遊び的な使い方として、「並」ぶという言葉なのだから特段のことではなくて並のこと、ふつうのこととして、「時し来向ふ」と歌っている。 ここに、反歌三首目の「月西渡」の指し示している意が理解されよう。月が西に渡っていったとき、反対に、東から日が出始めている。夜の鵜飼猟と違い、どんなに月光が明るかろうが、日の光によって明るくならなければ馬を駆って狩りなどできない。満月に近い日に安騎の野へ行って一夜を明かしたのである。「月西渡」に対し、四首目は「日東出」を意味していよう。結果的に、「日雙斯皇子命」の「日に並なら(配)ぶ」こととは月のことを表していると確かめられる。
ヤマトコトバの形容詞「ひねひねし」については、先行する注釈書に、➀古びたさま、➁恨めしい、の二つの説がある。上代の文献に「ひねひねし」という言葉は孤例なので意味が定め切れないから、新編全集本のように恨めしいといった不思議な解釈も可能となっている。 方言や民俗語彙の「ひね」を取り上げて、恨めしい、という語義があると捉えられているがあり得ないことである。 一句目から三句目までの 「あらき田の 鹿猪田の稲を 倉にあげて」が、四句目の「ひねひねし」を導く序詞であるとされている。「ひね」という言葉が「干稲」という文字で表されているところが夢→現への結節点なのである(注2)。単に干した稲に悪いイメージは付与されない。本邦の稲作は弥生時代早期以降、水田耕作が主である。この歌に示されている原文「荒城田」=「新墾田」も水田で、陸稲ではない。万一陸稲であったとしても構わない。とにかく稲作においては稲を刈り取ったら干す。現代でも、天日干しによく干された稲は上等のものとして高値で取り引きされている。いかに上手く乾燥させるか、それが米生産の最後の仕事である。湿ったままだとカビが生えたり発芽したりして廃棄せざるを得なくなる。 「干稲」は、それがどんなに古くなろうが食べることはできる。今日、ヒネという言葉は、新玉ねぎに対してヒネの玉ねぎという使い方がされている。ヒネには新玉ねぎのみずみずしさはなくとも、保存が効き、ふつうに食べられる。「ひね」という言葉は、時間的経過、また、時間的に経過したものを表すと考えられる。和名抄に、「稲 唐韻に云はく、稲〈徒皓反、以祢いね、早晩は和世わせ、晩稲は比祢ひね〉は𥝲稲なりといふ。𥻧〈音は兼、漢語抄に美之侶乃以祢みしろのいねと云ふ〉は青稲白米なりといふ。」とある。 今日、秋の早い時期に収穫されるものを早稲わせ、遅い時期に収穫されるものを晩稲おくてと呼ばれている。和名抄ではワセ/ヒネの対比としている。新米は水分が多いから、炊くときに水加減は少なめにして炊くととてもおいしく炊きあがる。おいしいものには需要がある。米の流通において、上流階級の富裕層が金に飽かせて求めるほど特別視されていたことは想像に難くない。季節先取り的に旬のものを求める風潮はそんなところから生まれたのだろう。我先に我先にと新米を求めるとすれば、米の品種としてのワセ/オクテの意味ではなく、消費者の需要面で、品質の違いによるワセ/ヒネの対比、炊く際の水加減の違い、おいしさの違いを名として捉えた可能性が見えてくる。和名抄の説明は、米の乾燥度合いをもって分類を試みて漢字に当てはめた記述と考えられる。 日葡辞書に、「Fine. ヒネ(陳・古) 一年を過ぎた古い種子.」、「Finegome. ヒネゴメ(陳米・古米) Furugome(古米)に同じ. 一年, または, 二年たった古い米.」(233頁)などとあるのは、需給のだぶつきから備蓄米のことを言うようになり、晩稲のことがいつからかオクテと呼ばれるようになったものかもしれない。その結果、ヒネという語が、大人びてこましゃくれていること、ひねくれることといった意味にオーバークロスしていると考えられたのではないか。用字に「干稲」とある点を広義にとらえれば、和英語林集成に記されるように、「Hine ヒ子 老(furu) Old; not new or fresh: hine-gome, old rice; tane ga hine de haenu, the seed is old and will not germinate.」(161頁)ことはあっても、それを食糧とする限り、おいしさを度外視すれば食べられるのである。 したがって、「ひねひねし」は、時間的にとても久しく、が本来の意であると考えられる。民俗語彙から上代語を捏造してはならない。用例の乏しい語ほど単純な理解が望ましい。それがなぜ恋歌かといえば、通説と異なり、恋心が保存可能なように永久不変にあり続けているよ、という意味に取れるからである。忌部首黒麻呂という人は、少し歳を重ねているのかもしれないが、恋においてはまだまだ現役であると主張している。現役ではあるが、「種がヒネで生えぬ」ことはあるかもしれない。下品な歌を書いて贈られた友は、二度びっくりということで、興醒めするように目が「覚」めることになっている。そうわかるのは、これが夢の歌だからである。寝なければ夢は見ない。忌部首黒麻呂は、老いらくの恋に若い女性と共寝したのであろう。それを友に言ってきている。トモ(友・伴)とは、「鵜う飼かひが伴とも」(記14、万4011)などというように同じような身分のものをいい、フレンドの意味よりも仕事仲間の同類のことを指している。鳥に使う場合、千鳥なら千鳥、鶴なら鶴、鶯なら鶯のことである(注3)。
(注13)伊藤2009.に、「父草壁、弟文武、母元明が時の元正天皇にとっての亡き人。」(278頁)とある。 (注14)新大系文庫本万葉集に、「一首の意味は判然としない」(145頁)とある。山口2017.は、「〈AヲBミ〉型のミ語法の場合、ヲの後に疑問あるいは詠嘆のヤが入ることは考えにくいから」(68頁)、訓み方を「本つ人 ほととぎすをば めづらしび 今も汝が来る 恋ひつつをれば」としている。ミ語法については、青木2016.参照。 (注15)「ことば遊び」という術語は言語学上いまだ確立途上の概念によるが、上代の「ことば遊び」はさらにその辺縁、あるいは極限に位置づけられるもので、これまで検討されたことはない。ほとんど研究対象とされていないなか、滝浦2005.は、ヤーコブソンにならって「あらゆることば遊びが遊びとしての相互行為性を有する限り,「指示的機能」の背景化の度合いに応じて,……「交話的機能」の機能レベルは上昇する.ここに,ことば遊び全体に共通のコミュニケーション論的機能を見ることができる.」(408頁)としている。ここではその滝浦氏の行論にあえて従って考えることにする。 上代語であるヤマトコトバは、無文字時代にやりとりされた音声言語である。峠を越えた隣村の人とやりとりするためには、この「交話的機能」が大前提となっていなければならない。そのときはじめて言葉は「指示的機能」を有しうる。反対から言えば、ヤマトコトバは「ことば遊び」でなければ存立しえなかったのである。“伝え合う”行為は、“ともに遊ぶ”行為を条件としていた。そのことは、「言こと向むけ和やはす」という言い方に最もよく理解されるであろう。なぜ言うことによって敵対勢力は和してくるのか。交話可能になって言葉においてともに遊ぶことができれば、ヤマトコトバを共有するものどうしとして、ヤマトコトバ人としてアイデンティティを得て特権的な意識が育まれるからである。ヤマトコトバの生成動態段階と言ってよく、ヤマトコトバ圏の版図の拡大段階に一致する。その「ことば遊び」のコードは、ヤマトコトバの民に共有されるべき基礎的な伝承、すなわち、記紀に記されて残っている共通の記憶体系としての諸説話群を「百科事典的知識」とし、基にしている。その「ことば遊び」のルールは、言葉が一音、一義であるとする約束事に従っていた。現代人のような圏外の人からは、説話は秘儀的に見えるがけっして神話ではなく、新たに加わることとなった周縁地域の人々にとっても速やかに了解され得るものであった。説話自体が「ことば遊び」、なかでも「ゲーム型」に当たる〈なぞなぞ〉の上に成り立っていたからである。〈なぞなぞ〉がヤマトコトバの本質であり、「交話的機能」と「指示的機能」を両立させて最大化することにかなっていた。そのような状況下にあっては、滝浦氏が想定する語用論的な逸脱も、情報性の低減や欠如ももたらさない。 滝浦2002.は、グライスが「会話者が(特別な事情がないかぎり)遵守するものと期待される大まかな一般原理」とする「協調の原理 Cooperative Principle」のもとに具体的な「格率 maxims」が置かれているとしていることを引き、次のように指摘する。「ことば遊びにおける格率違反は,何はともあれ言葉の流れそのものを撹乱することによって行なわれる違反である。それによって大文脈は背景に退くか,少なくとも一旦は宙吊りにされ,その分だけ情報の伝達性は(意味的にというよりもむしろ,端的に物理的に)阻害されることになる。つまり,その限りにおいて,ことば遊びは,多かれ少なかれ“本当に伝えない”のであって,その点ではまさしく,「合理的」ではないコミュニケーションの一形態であると言わなければならない」(90~91頁。滝浦2000.は、「ただし、《なぞなぞ》のような「論理」遊びはここでは除外して考える。」(23頁)と断っている。)。上代人の言語活動における「ことば遊び」はその限りではない。強いて格率違反であると捉えるなら、滝浦2002.が指摘する「グライスの論じたような「含み」を生み出す“見かけ上の格率違反”」であり、話し手は「協調の原理」を遵守しており、聞き手は、「発話の意味」と「発話者の意味」とがヤマトコトバの体系のなかに一致していることを目の当たり、耳の当たりにして、驚きをもって迎え入れざるを得なかったのである。 ベイトソンの文脈に則していうところの滝浦氏のいう「ことば遊び」が、「これは遊びだ」というフレーミング(framing)においてのものであるとしている点からして、上代のヤマトコトバの「ことば遊び」はすでに虚を突いている。ヤマトコトバは「ことば遊び」であることを当初から前提としており、「ことば遊び」でなければ言葉ではないのである。ヤマトコトバの「ことば遊び」は単なる to play language ではなく、to play language that is played であること、メタ「ことば遊び」がヤマトコトバなのであった。ふだん使いの言葉が「遊び」であることをモットーとしているので、発言を取り消す気などさらさらなく、発せられた言葉はそのまま残されることを期待している。「交話的機能」と「指示的機能」、“伝え合う”行為と“ともに遊ぶ”行為を同時に成し遂げることが目途とされていた。話し手は言葉の字義をたゆまず再定義していく過程のなかで言葉を発していて、そこに生まれた新たな意味の含みが旧来の意味との整合性をその瞬間に理路整然と証明して見せるほどに気合いの入った発言にこだわっていて、聞き手もそのつもりで本気で聞いていたのであった。すべての言葉は〈なぞなぞ〉のなかでやりとりされている。言葉と事柄との間で相即性を保ち、けっして違わないようにしていた様相については、筆者はそれを「言霊」信仰と呼んでいる。ヤマトコトバの生成者、創出者として生きていた彼ら彼女らは、発言に際して慎重を期し、逆に言葉を手玉に取ることを目指しているかのような入れ籠構造に作った言葉を飛び交わさせるようにしていた。挙句に、今日の人ばかりか中古の人にとっても理解できない枕詞といった独自の言葉の発表大会が、歌の歌われる場面でくり広げられていた。発言、発語、発話に際しては、「ことば遊び」によって生ずる小文脈を大文脈との間の誤謬を意味的に調整することこそ、頭のひねりどころだったわけである。メッセージとメタ・メッセージとを行きつ戻りつする「遊び」、〈なぞなぞ〉の活動こそ、上代人が行っていたヤマトコトバの言語活動(「ことば遊び」)である。無文字時代、音声言語ばかりが言語なのだから、発し発せられる言葉はメタ言語的であることが常に意識の上にあり続け、今日的感覚とは異なる緊張状態が継続していたのである。 「ことば遊び」の性質としてあげられる、「“伝えつつ伝えない”ことと“伝えないことにおいて伝える”こととの間を往復する運動」である点は、本稿にとりあげている万葉集のホトトギス歌がよく“伝えて”くれている。コミュニケーション論の立場から上代のヤマトコトバとは何かについて定位しておく必要が求められるが、壮大なテーマなのでいつの日か改めて論ずることにしたい。 (注16)中西1983.は、「卯の花が咲くのといっしょに鳴くので、ほととぎすは一層愛すべきであるよ。名告り出るように鳴くにつれて。」(168頁)と訳している。 (注17)クロンキスト体系、新エングラー体系などによる。 (注18)ショウブについて、漢語の菖蒲、石菖、白菖蒲などの総称で、平安時代からそれをシャウブ、サウブと呼ぶようになっている。和漢三才図会(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569772/6)参照。 (注19)「倭文、此には之頭於利しつおりと云ふ。」(天武紀十三年十二月)とある。 (注20)荊楚歳時記に、「五月五日、謂之浴蘭節。四民並蹋百草之戯、採艾以為人、懸門戸上、以禳毒気。以菖蒲或鏤、或屑以泛酒。」などとあるが、藝文類聚に菖蒲の件は載らない。 続紀・天平十九年五月五日条に、「太上天皇[元正]、詔して曰はく、「昔者むかし、五日の節せちには、常に菖蒲あやめを用もちて縵かづらと為す。比来このころ已に此の事を停めぬ。今より後、菖蒲の縵に非ずは、宮中うちに入ること勿れ」とのたまふ。」とあって、菖蒲あやめぐさを蘰にすることが一時期廃れていたところを見ると、節句─蘰─アヤメグサ─ホトトギスという結びつきは弱く、アヤメグサ─漢女─機織り─「ホト」「トギ」スという結びつきが強かったようにも見受けられる。また、大伴家持作歌が全十二首中九首を占めており、万1955・4035番歌は同じ歌だから、家持以外に歌ったのは山前王と田辺史福麿だけで、汎用されていたのか不明である。以下に示す菖蒲蘰の作り方も、復古的な擬作なのかもしれない。藤原師輔・九暦・五月節(天慶七年)条に、「一、造菖蒲蘰之體、用細菖蒲草六筋〈短草九寸許、長草一尺九寸許、長二筋、短四筋、〉以短四筋当巾子・前後各二筋、以長二筋廻巾子、充前後草結四所、前二所後二所、毎所用心葉縒組等、」(大日本古記録https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/06/0901/0061?m=all&s=0055&n=20、漢字の旧字体は改めた)とある。 また、いわゆる「薬玉」とされるものが、万葉集の「玉(珠)」とどのように関係しているのか、疑問なしとしない。 (注21)靑木1971.に、漢書・楊雄伝第五十七の、「徒恐鷤繯之将鳴兮、顧先百草為不芳。」とある箇所の顔師固注に、「鷤、鴂鳥、一名子規、一名杜鵑、常以立夏鳴、鳴則衆芳歇。」とあるのによるとある。(e国宝https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101356&content_part_id=001&content_pict_id=012&langId=ja&webView=参照) 橋本1985.はその説をあげつつ、「なお、植木久行氏によれば家持を中心とする日本におけるほととぎす熱愛、ないしは憧憬の念は、六朝以来の中国の詩文の影響下に生まれたものではなく、万葉人独自の美意識によるものであるとしている……。」(204頁)と注している。植木1979.参照。 なお、この題詞に見られる「暮」をクレと訓むべきかについては不詳である。 (注22)一応の傾向として見ている。万葉集のホトトギスに関連する歌の中でどこまでがホトトギスという語自体にまつわるもので、どこからがホトトギスを自然景として見切っていったものなのか峻別することはできない。作者に聞いてみなければわからないことである。以下の歌はその分類上、分類しきれないままに積み残した。後考を俟つ。
この用法までも含めて多様に解釈されるように、「色に出づ」という慣用句は構成されているのではないか。色になって出ると、色にして出すと、ばかりでなく、色のように出ると、色のように出すと、の意を含んでいるということである。すなわち、染め物の次第をよく表している。「言」「穂」「音」が具体的な言葉(I love you.)、ススキの穂、水の音であったように、「色」という語も抽象的な言葉として考えられていたわけではない。そのうえまた、「色」が既定的に存するものであるとも考えられていなかった(注3)。染め物において「色に出づ」ることは、一回一回のオーダーメイドであり、たいへんな労力と長年の勘に支えられたプロフェッショナルな流儀であった。紫色を参考にする。
植物の色素がそのまま衣に染まることを言っていて、上代の人たちは、衣類に発現するものとして「色」を感じ取っている。では紅葉(黄葉)した葉から赤や黄色の色素を抽出してそれを染め物に使えるかと言えば、ほとんどできない。真っ赤に色づいたモミジの葉を摺りつけても色は移らず、煮出せば赤い液はできるが、繊維に染めることはほぼ不可能で、くすんだ薄いピンク色にしかならない。しっかり赤く染めたければ、紅花や茜などを使う。万2307番歌の、「黄葉に置く白露の色端にも出でじ」とは、「黄葉」が衣類を染めるのに全然役に立つ代物ではないし、ましてやその上の「白露」などまったく発色することはないと言っている。 「色」の関心の中心はファッションであった。「色に出づ」という表現も、布や糸が染料の色に染まることをもって言葉にしている。 (注3)よく知られるように、古代語において「色」として概念化されていたのはもとは四色に過ぎない。赤・黒・白・青である。現代に色名としてある名詞に、シを後接してそのまま形容詞となるものがもとからあった色の名であると考えられている。今日思われている赤・黒・白・青の色のゾーンとは異なり、「明あかし」/「暗くらし」の二項対立から赤と黒が認識され、また、「灼しるし」から白、そのほかバイオレット~ブルー~グリーンの領域は漠とした色として「青あをし」とする青の一語でまかなっていた。その後の段階で、染料や顔料の原材料の名から、どんどん新しい色名が生まれて行ったものと考えられている。それぞれの民族によって色の認識がそれぞれにあることについてはエヴァンズ=プリチャード1978.参照。このことは、ヤマトコトバに「色」というものがあらかじめ存在しているのではなく、人間が作っていっているという認識、「み苑生」に植物を植えることから始めて根気のいる作業をくり広げた結果得られるものであるという実践感覚であったことを示唆してくれている。 (注4)“The plant from which purple dye is obtained is an endangered species. Mr Yoshioka works with farmers in Taketa to revive its cultivation. Murasakisō (purple gromwell) The colourant is contained in the roots. Successful dyeing requires intimate understanding of the effect temperature and dye concentration. How the thread or close is dipped is also very important. The whole range of purples can be made using dye extracted from just the one type of plant. The colour obtained depends on the number of times the cloth or thread is dipps.”(Victoria and Albert Museum, “In Search of Forgotten Colours – Sachio Yoshioka and the Art of Natural Dyeing” https://www.youtube.com/watch?v=7OiG-WjbCQA&t=11s(13:23~17:40)の字幕文、ピリオドを付した)
(引用・参考文献) 伊藤2009. 伊藤博訳注『新版万葉集二 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。 伊原2010. 伊原昭『増補版 万葉の色─その背景をさぐる─』笠間書院、2010年。 エヴァンズ=プリチャード1978. エヴァンズ=プリチャード著、向井元子訳『ヌアー族─ナイル系一民族の生業形態と政治制度の調査記録─』岩波書店、1978年。(平凡社(平凡社ライブラリー)、1997年。)(原著:Evans-Pritchard, E.E. 1940. The Nuer: a description of the modes of livelihood and political institutions of a Nilotic people, Clarendon Press, Oxford.) 澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第三』中央公論社、昭和33年。 駒木1976. 駒木敏「「色に出づ」考─慣用句と発想法─」『萬葉』第92号、昭和51年8月。学会誌『萬葉』アーカイブ https://manyoug.jp/memoir/1976 新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店、2014年。 多田2009. 多田一臣『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。 中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。 吉岡2002. 吉岡幸雄『日本の色を染める』岩波書店(岩波新書)、2002年。 吉岡2007. 吉岡幸雄『日本の色を歩く』平凡社(平凡社新書)、2007年。
布を染料に浸す回数のシホ(入)という語との関係の指摘は見事である。上がったり下がったりがシホという語の源流にあると考えられるのである。そして、染色には、色落ちを防ぐために salt を用いることがある。日本列島に住む人々にとってシホ(塩)とは、大潮の際に潮が満ちてきたときのみ海水がかかるような潮だまりが岩窟のような雨のかからない所にあり、そこで結晶化しているのを発見したところから生まれた言葉ではないか。 「潮」の意味としては、上代に見られる例では、①満ち干する海水、また、海水が満ちることと干ること、②潮流、③海水、の意味が考えられている。筆者は、この②潮流、の用例に疑念を抱く。万葉集に、単語として、①満ち干する海水のことは、「満」を伴うケースが二十五例(万40・121・388・617・919・1144・1165・1216・1394・1669・2734・3159・3243(2)・3366・3549・3610・3627・3642・3706・3891・3985・3993・4045・4211)、「干」を伴うケースが十三例(万271・360・388・917・1064・1163・1164・1386・1671・3710・3852・3891・4034)ある。そのほかの例としては、万8番歌以外に次のような歌がある。
四月十一日。午前六時、栗田録事らが舶に乗ったのでまもなく出航、帆を上げて真っ直ぐに進んだ。南西の風が吹く。東海県の西に行こうとしたけれども、風にあおられてすぐに浅い浜に着いてしまった。そこで帆を下ろして櫓を動かしたわけだが、船はますます浅い方に行ってしまう。仕方がないので棹さおで海底を突いて船の通る個所をはかるためにしばしば船足を留める始末だった。こうして一日中苦労してやっと東海県に着いたのであるが、潮が引いて船は泥の上に居坐ってしまい動くことができない。夜に入ってそこに停泊した。 そこに陸から舶に上って来た人がいて彼が言うには「きょう宿城村から手紙があって、その知らせによると、日本の九隻の船のうち第三船は密州の大珠山に漂着した。午後四時、押衙と県令(県知事)の二人が宿城村にやって来て『日本国の和尚を探し出して日本船に戻した』と言っていたという(「覓本和尚却帰船処」)。なおその一船(第三船)は萊州の管内に漂着し、流れに任せて密州の大珠山に着いている。他の八隻の船は海上でいずれも見失って行方不明である、云々」と。午後十時、ともづなを曳いて船を引っ張り、泥の浅瀬から出ようと試みたが、まだ浮かび上がらず動くことができない。 ○「覓本和尚却帰船処」=「却帰」はふたたび元に帰す。(小)[小野勝年『入唐求法巡礼行記の研究 第一巻』鈴木学術財団、昭和39年]「和尚が船処に却帰せんことを求めぬ」日本の和尚が船から抛却されたところを尋ねた。置き去りの意に解し、(ラ)[ Dr.Edwin Oldfather Reischauer. Ennin’s Diary, THE RECORD OF A PILGRIMAGE TO CHINA IN SEARCH OF THE LAW,1955,RONALD PRESS CO., NEW YORK]はleftと訳し、「圓仁たちが船から離れた場所を尋ねて宿城村にやって来た」とする(堀)[堀一郎訳「入唐求法巡礼行記」『国訳一切経和漢撰述部史伝部二十五』大東出版社、昭和14年]「和尚の船処を覓求して却帰せり」これは帰り戻ったの意(洋)[足立喜六訳注・塩入良道補注『入唐求法巡礼行記1』平凡社(東洋文庫)、昭和45年]「和尚を覓め船処に帰却せり」「和尚を発見して日本船に帰した」。この説をとった。 十一日卯時粟録事等駕舶便発上帆直行西南風吹擬到東海県西為風所扇直着浅浜下帆揺櫓逾至浅処下掉衝路跓終日辛苦僅到県潮落舶居泥上不得揺動夜頭停住上舶語云今日従宿城村有状報偁本国九隻船数内第三船流着密州大珠山申時押衙及県令等両人来宿城村覓本和尚却帰船処但其一船流着萊州界任流到密州大珠山其八隻船海中相失不知所去云々亥時曳纜擬出亦不得浮去 四月十二日。明け方、風は東風になったり西風になったりして一定しない。 船はまだ浮かばず動けない。また県庁から連絡の文書が来て良岑判官らに知らせていうには「朝貢使の船のうち第三船は当県の管内に漂着した。この船は先日出港したものである」と。私は正式の書状をまだ見ていない(「先日便発者未見正状」(洋)「先日送った知らせはまだ正確な情報ではなかった」(堀)「先日出港したものであるが、まだ正確な情報ではない」)。風向きはしきりに変わって一定しない。 十二日平旦風東西不定舶未浮去又従県有状報良岑判官等偁朝貢使船内第三船流着当県界先日便発者未見正状風変不定 四月十三日。早朝、上げ潮となり、船は出発しようとした。しかし風向きが定まらないので何度も往ったり戻ったりした。午後、風は南西から吹いて向きを変え西風となった。午後二時、潮が満ちて舶は自然に浮かんで東へ流れて行く。そこで帆を上げて進んで行った。東海県の前から東へ向かって出発した。舶上の小舟に上ってお祓いをし、同時に住吉大神を礼拝、海を渡りはじめる。風はかなり強く吹いている。大海に入って間もなく、水夫一人が前々から病いに臥していたが、午後五時ごろ死去した。死体はむしろに包み海中に押し落とすと、波にゆられて流れ去った。海の色はやや澄んでおり、夜に入ると風がしきりに吹く。東を指して真っ直ぐに進んだ。 十三日早朝潮生擬発縁風不定進退多端午後風起西南転成西風未時潮生舶自浮流東行上帆進発従東海県前指東発行上艇解除兼住吉大神始乃渡海風吹稍切入海不久水手一人従先臥病申終死去褁之以席推落海裏随波流却海色稍清夜頭風切直指東行(圓仁・深谷1990.174~177頁)
万葉集中に「幸」とある場合、万5・191・196・295・315・322にイデマシ(幸、幸行、行幸)、万531・543・1032にミユキ(御幸、行幸)のほかは、サキクと訓み、その例は多い。「雖幸有さきくあれど」(万30)、「真幸有者まさきくあれば」(万141・288)、「間幸座与まさきくいませと」(万443)、「幸也吾君さきくやあがきみ」(万641)、「命幸いのちさきく」(万1142)、「幸在待さきくありまて」(万1668)、「幸来座跡さきくきませと」(万2069)、「幸座さきくいますと」(万2384)、「幸有者さきくあらば」(万3240・3241)、「言幸ことさきく」(万3253)、「真幸而まさきくて」(万3538)とある。 これらサキクと訓む例は「幸」の一字でサキクと訓んでいる。そんななか、万1895の「幸命」をサキクと訓むのだろうか。「幸命」の「命」字を life の意に解しているようであるが疑問である。集中で「命」字はミコト、イノチと訓むのが通例である。