「頂(いなだき)に きすめる玉は 二つ無し」(万412)について

 万葉集巻三・譬喩歌に載る次の歌では、キスムという珍しい語が用いられている。

  市原王いちはらのみこの歌一首〔市原王歌一首〕
 いなだきに きすめる玉は 二つ無し かにもかくにも 君がまにまに〔伊奈太吉尓伎須賣流玉者無二此方此方毛君之随意〕(万412)(注1)

 「きすむ」という語は万葉集でこの一例、他に播磨風土記に類例がある。

伎須美野きすみの 右、伎須美野となづくるは、品太ほむたの天皇すめらみことみよ大伴連おほとものむらじ等、此処ここを請ひし時、国造くにのみやつこくろわけして、地状くにのかたちを問ひたまふ。の時、こたへてまをさく、「へるきぬひつの底にきすめるが如し」とまをす。故、伎須美野と曰ふ。〔伎須美野 右号伎須美野者、品太天皇之世、大伴連等請此処之時、喚国造黒田別、而問地状。爾時対曰、縫衣如蔵櫃底。故曰伎須美野〕(播磨風土記・賀毛郡)

 これらをもって「きすむ」という語は、大切な品をしまう、隠しておく、の意であると考えられている(注2)
 播磨風土記の例を、櫃の底の方に一張羅の服をしまっておいたという意と捉えたのである。
 しかし、「縫衣」を「櫃底」にキスムことが、箪笥の奥の一番下に札束をしまっておくように蔵することだというのはおかしい。反物屋を営んでいるわけではない家では、ストッカーである「櫃」には、上から下まで「縫衣」を入れておくはずである。縫っていない衣はすぐには着れない。縫っていない衣の下に、櫃の底にすぐ着れる「縫衣」を入れておくという状況は、設定としてかなり特殊なこととしてしかあり得ない。物色する相手をたぶらかすための工夫ということになる。
 「縫衣」を「櫃底」の位置に置いている。そして、それが何かある事情、それも卑近な光景として知られているありさまとして述べている。そうでなければコミュニケーションとして成り立たない。
 そのような状況設定について考えると、「櫃」は服をしまうストッカー以外の目的で使われているものになる。当時の櫃には正倉院の財宝がおさめられているような四角いもの以外にも、米櫃や飯櫃のようなものがある。
 櫃の底に縫った衣を入れておくことは、ご飯のお櫃の中に下敷いて蒸れを取る役割をする場合がある。
 だが、そのことをキスムという語が表しているとは思われない。
 他の可能性を考えてみれば、キ(酒、キは甲類)+スム(澄)、つまり、酒を濾している様子が思い浮かぶ。濁り酒を縫った衣、つまり、あるいは袋状の布を櫃の底とし、そこへ流し込んで濾過して清酒にする。じっくりと滲み出させるのである。
 結桶・結樽は中世になって登場する。古代には丸い櫃が使われ、大きなものでも曲げ物で作られていた。今日でも目にする絹篩のように、縁が曲げ物の輪になっていて、底を縫った衣で作った道具が使われていたのだろう。
 正倉院文書に「清酒」、「清」とあり、平城宮跡出土木簡に「清酒」、また、伝飛鳥板蓋宮跡出土の木簡に「須弥酒」の名をみる。関根1969.に、「文書例で滓、濁と対比しているのは、清酒が濁り気のない酒であったからだろう。……酒滓をみるから、当然酒と滓との分離が行なわれていたのであり、恐らく上澄みか、布様のもので(濾カ)過したものかであったろう。延喜造酒司式造酒雑器中に 「篩料絹五尺」、「篩料薄絁五尺」、「糟垂袋三百廿条〈二百四十条酒料、度別六十条、八十条酢料、度別廿条、竝以商布一段八条、一年四換〉」と、酒を瀘過したと思われる裂類がみえ、奈良時代にもかような用具で濾して清酒を得たに相違ない。」(266頁)とある。スミサケと呼ばれていたと思われる。
 播磨風土記のキスミ野のありさまは、周囲が山に囲まれた野であり、そこへ濁った水が流れ込むが、出てくる水は澄んでいたということのようである。「縫衣如蔵櫃底」は、「縫衣如櫃底」ではなく、「縫衣如蔵櫃底」、つまり、「へるきぬきすみ櫃底ひつぞこの如し」と訓み、縁を立てた円盤状の形、オオオニバスの葉のような形に仕立てたことを言っているものと思われる。「蔵」字を酒を濾す意と考えて支障がないのは、酒滓(酒糟、酒粕)をすくい集めるからである。「蔵」字はツムとも訓み、アツム(集)と類語であると考えられている。「玉藻刈りめ〔玉藻苅蔵〕」(万360)とある。
 この意であると仮定すると、万葉集の市原王の歌も趣向が変わってくる。

 いなだきに きすめる玉は 二つ無し かにもかくにも 君がまにまに(万412)

 「いなだき」はイタダキの音転とされている。頭頂部の髪のまとめ方、ここではいわゆる「束髪於額ひさごはな」のことを言っているものと考えられる(注3)

 是の時に、厩戸皇うまやとのみ束髪於額ひさごはなにして、〈いにしへひと年少児わらはの、年十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にし、十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦しかり。〉いくさうしろしたがへり。(崇峻前紀)

 ひさごの花のように髪をひと束ねに結い上げた形である。ひさご、つまり、瓢箪の花のような形にまとめている。花が終わると膨らんできて瓢箪になるところを頭蓋骨部と譬えている。瓢箪は容器として用いられ、種、水、そして、酒を入れておいた。酒は須恵器の瓶、壺に入れて保存貯蔵され、持ち運んで行って飲むときには瓢箪に小分けされた。大陸から伝わっていた古代の瓢箪は、今日よく知られているような腰のくびれたものではなく、丸かった。つまり、「いなだきにきすめる玉」とは、清酒を入れた瓢箪を一つ、私はお持ちしました、ということである。
 その証拠に、この歌の作者は市原王である。イチハラノミコというのだから、マーケットに関わりがある歌を歌って聞く人を楽しませているものと推測される。市場では商品の売り買いをする。瓢箪、つまり、ウリ(瓜)の一種に入れて売るものと言えば澄んだ酒である。当時の瓢箪の栽培法は定かではないが、棚作りせずとも畑で地面の上で実るから、ハラ(原)の産物である。ミコという呼び名は、特徴的な髪型をしていたウマヤトノミコ(厩戸皇子)を連想させる。年齢的にそういう髪型をしていたようである。そんな「束髪於額ひさごはな」のくっついている瓢箪の入れ物は二つとない。その清酒すみさけをどうするか、あるいは飲んで酔っ払ってしまった私をどうするか、あなた様にすべてお任せします、と洒落を言っているのであった。

(注)
(注1)「頭の上に結んだ髻(もとどり)の中に大切にしまった玉は二つとないものです。どのようにもあなたの思し召しのままに。」(新大系文庫本291頁)と現代語訳されている。仏典では、王が結髪の中に秘蔵する宝玉を髻中けいちゅうの明珠というとし、それに基づいた歌ということになっている。愛娘を髻中の珠に譬え、信頼する若者に託したのがこの歌の趣旨であるとしている(古典集成本、西宮1984.、伊藤1996.、阿蘇2006.、多田2009.も同様)。参照歌として次の歌があげられている。

 あも刀自とじも 玉にもがもや いただきて みづらの中に あへかまくも(万4377)
 新室にひむろの 壁草刈りに いましたまはね 草のごと 寄りあふ娘子をとめは 君がまにまに(万2351)

 第一例では、母君も玉であってほしい、もしそうであったなら、みづらの中に巻き込めてしまうものを、と仮定して歌っている。設定が説明されているから譬えられているとわかる。一方、万412番歌ではその説明はなく、当たり前のこととして髻中けいちゅうの明珠に譬えられているのだとされている。作者の市原王が仏典・漢籍に精通していたからそう歌われたのだとする考えであるが、聞く側は初耳の話である。一人よがりのモノローグになり、コミュニケーションは成立しない。そもそも愛娘を大切にして隠しているのに、婿殿がすでに決まっているというのは矛盾している。
 「此方此方毛」は、コナタカナタモと訓むべきとする説(例えば、澤瀉1958.487頁)もあり、あなたのお心のまにまに何方へなりと従いましょう、の意であると解している。西宮1984.は、コナタ・カナタという語は当時存在しなかったという。
(注2)キスムを独立語と認め、「キスムはヲサむる事なり」(井上通泰・萬葉集新考、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225909/1/260)とするのが現在の潮流である。「キスメルは、来住也」(仙覚・萬葉集註釈、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970584/1/79)、「きすめるは令著なり」(契沖・万葉代匠記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979062/1/381)、「伎は久々里の約にて紋なり、須売流はスヘルるなり」(賀茂真淵・万葉考、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1913084/1/163)、「伎は笠ヲキルなどのキルに同じ。……スメルは統にて、」(橘千蔭・万葉集略解、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1019539/1/30、本居宣長説所引)、播磨風土記のキスミは「櫃底」で万412番歌のキスメルは「著澄める」とする説(土屋1976.183頁)も唱えられてきた。また、山﨑2024.は、キスムという語の用例が少ないことを指摘し、慎重な取扱いが求められるとして判断を保留している。菅家文草269「寄白菊四十韻」の「紫襲衣蔵筺 香浮酒満罇」を例にあげ、それらを全体的に考察する必要性を説いているが、播磨風土記の「縫衣」と同等に扱うことは的外れのように思われる。
(注3)井上通泰・萬葉集新考は、「箭蔵頭髻」(景行紀四十年)や「各以儲弦于髪中」(神功紀元年三月)、「乃斮-取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髪」(崇峻前紀)について、「皆髻珠とは目的を異にせり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225909/1/260)としている。「髻珠」という考え方のほうが異例であり、疑われなければならない。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 二』笠間書院、2006年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
井上1928. 井上通泰『萬葉集新考 第一』国民図書、昭和3年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225909
澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第三』中央公論社、昭和33年。
古典集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 万葉集一〈新装版〉』新潮社、平成27年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解 1』筑摩書房、2009年。
土屋1976. 土屋文明『萬葉集私注 二(新訂版)』筑摩書房、昭和51年。
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
山﨑2024. 山﨑福之「「蔵」とヲサム・ツム・カクル・コモル」『萬葉集漢語考証論』塙書房、2024年。

加藤良平 2025.3.4初出

聖徳太子のさまざまな名前について

はじめに

 聖徳太子の名にまつわる紀の記事は以下の二つである。

 元年の春正月の壬子の朔に、あな部間べのはしひとの皇女ひめみこを立てて皇后きさきとす。これよたりひこみこれます。其のひとりうまやとの皇子みこまをす。〈またなづけて豊耳聡聖徳とよみみとしやうとくといふ。あるいは豊聡耳とよとみみののりの大王おほきみと名く。或いは法主のりのうしのおほきみまをす。〉是の皇子、初め上宮かみつみやましましき。後に斑鳩いかるがに移りたまふ。とよ御食みけ炊屋かしきや姫天皇ひめのすめらみことみよにして、東宮みこのみや位居まします。万機よろづのまつりごと総摂ふさねかはりて、行天皇事みかどわざしたまふ。ことは豊御食炊屋姫天皇のみまきに見ゆ。(用明紀元年正月)
 皇后[穴穂部間人皇女]、懐姙開胎みこあれまさむとする日に、禁中みやのうち巡行おはしまして、諸司つかさつかさ監察たまふ。馬官うまのつかさに至りたまひて、乃ちうまやの戸に当りて、なやみたまはずしてたちまちれませり。生れましながらものいふ。ひじりさとり有り。をとこさかりおよびて、ひとたびたりうたへを聞きて、あやまちたまはずして能くわきまへたまふ。ねて未然ゆくさきのことを知ろしめす。また内教ほとけのみのり高麗こまほふし慧慈ゑじに習ひ、外典とつふみはかかくに学びたまふ。ならびことごとくさとりたまひぬ。かぞ天皇すめらみことめぐみたまひて、おほみやの南の上殿かみつみやはべらしめたまふ。かれ、其の名をたたへて、上宮厩かみつみやのうまや戸豊聡耳とのとよとみみの太子ひつぎのみこまをす。(推古紀元年四月)

 聖徳太子のもつさまざまな呼び名のバリエーションをまとめると、(a)厩戸、(b)豊聡耳、(c)上宮、(d)聖徳、(e)法王に大別される。それぞれの名の由来は文字に記されているとおりとされている。けだし、厩戸という名は、母親の穴穂部間人皇后が禁中巡行の際、馬官の厩の戸にぶつかって安産したことによる、豊聡耳という名は、一度に十人の訴えを聞いて間違えることがなかったという故事に基づく、上宮という名は、父親の用明天皇が溺愛して、宮殿の南の上殿に住まわせたという出来事から来る、聖徳という名は、神聖視されるようになってからの抽象的な美称である、法王という名は、法華経譬喩品にある仏教用語に由来し、仏教との立場から神聖化した抽象的な美称である、というのである(注1)
 それらの説明は説明としてみても、それ以前のこととしてなぜこれほどたくさんの名を持っているのか疑問である。用明紀に「更名」とあるのは、別称、渾名のことであろう。当時、本名という概念があったか、また別名との間に位置づけの違いがあったか定かではない(注2)。命名の謂れとなっている説話は、紀を編んだ人がわざわざ譚として記すに値すると認めていたものである。古代の人に特徴的な思考法として捉え返さなければならない(注3)
 記紀には人名の命名説話がいくつかあり、天皇や太子のそれには次のような例がある。

 既に産れませるときに、ししただむきの上にひたり。其の形、ほむたごとし。是、皇太后おほきさきををしきよそひしたまひて鞆をきたまへるにえたまへり。〈肖、此には阿叡あへと云ふ。〉故、其のみなを称へて、誉田ほむたの天皇すめらみことまをす。〈上古いにしへの時、よのひとともひて褒武多ほむたと謂ふ。〉(応神前紀)
 初め天皇生れます日に、木菟つく産殿うぶとのとびいれり。……大臣おほおみこたへてまをさく、「吉祥よきさがなり。また昨日きねふやつかれ[武内宿禰]がこうむ時に当りて、鷦鷯さざきうぶに入れり。是、亦あやし」とまをす。ここに天皇の曰はく、「今が子と大臣おほおみの子と、同日おなじひに共にうまれたり。並にみつ有り。是あましるしなり。以為おもふに、其の鳥の名を取りて、おのおのあひへて子に名けて、後葉のちのよしるしとせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて、太子みこに名けて大鷦鷯おほさざきの皇子みこのたまへり。木菟の名を取りて、大臣の子に名けて、木菟つくの宿すくへり。(仁徳紀元年正月)
 生れましながらみは一骨ひとつほねの如し。容姿みかたちみすがた美麗うるはし。是に、有り。瑞井みつのゐと曰ふ。則ち汲みて太子ひつぎのみこあむしまつる。時に多遅たぢの花、井の中に有り。因りて太子の名とす。多遅の花は、今の虎杖いたどりの花なり。故、多遅たぢ比瑞歯別ひのみつはわけの天皇すめらみことと称へ謂す。(反正前紀)
 [白髪武広国押稚しらかのたけひろくにおしわか日本やまとこの]天皇、生れましながらしらにましまし、ひととなりておほみたからを愛みたまふ。(清寧前紀)

 反正天皇の名、多遅比瑞歯別は、生まれながら歯が一本の骨のようにきれいな歯並びで、瑞井という井戸の水を産湯にしたところ、タヂの花、すなわち、今のイタドリの花が井戸のなかに落ちた。それで名とした。イタドリはタデ科の多年草である。茎を噛むと酸っぱく、スカンポと呼ばれる。タヂが持ち出されたのは、一つには、酸っぱくて歯を剥き出すから歯並びのことが思い起こされ、二つには、そのイタ(板)+ドリ(取)という名から、板を取る鋸、古語にノホギリといわれるものを連想させるからである。歯を剥くと鋸のようなきれいな歯並びをしていた、ないしは出っ歯だったということを、直接的には「如一骨」といいつつ、間接的には井戸にイタドリの花が落ちたとの逸話を拵えて伝えているものと思われる。ただし、その際、「瑞井」と称しており、仁徳紀の瑞祥話と同じく太子の名にするのにふさわしいとのこじつけが含まれている。仁徳天皇の名以外は生得的な肉体的特徴を名としている。今日でも渾名としてよく聞かれるものである。
 聖徳太子の名の場合、あまりに数が多く、また、直接、身体的な特徴を語ることもなく、盛んに逸話めいた話ばかり出てくる。名の由来を語るものが命名説話であるとしても、名は周囲の人から呼ばれてはじめて名となる。数が多すぎてはアイデンティティが拡散してしまう。逸話を真に受けてばかりでは本質に迫ることはできない。本稿では、彼の名が一つの身体的特徴に由来し、多様に言い換えられたものであることを明らかにする。

厩戸

 厩戸皇子については、誕生譚に述べられている厩について大掛かりな検討が必要となる。その点については別に論じた(注4)。ここでは結論のみ述べる。うまやに当たるものとしては馬が出て来れないようにするもの、マセバウ、マセガキがある。たった一本棒が横に架されただけで馬は出られない。厩戸の本質とは何かと言われれば、そのことだと言って間違いないだろう。だから、ませた餓鬼やませた坊やのこととして命名されている。洒落となぞなぞと知恵を駆使して綽名にうまく嵌め込んでいる。
 では、彼の身体的特徴とは何か。皇后は諸司の監察を行っている。いろいろな部署を見てまわっており、馬官の一箇所を重点的に見ているわけではない。馬官では馬の様子をちょっと見たいだけに過ぎない。厩舎を開けて建物の具合や室内の衛生状態をチェックする必要はない。馬の顔を見れば大事にされているかどうか見通せるからである。つまり、彼女にとっての厩の戸は、厨子の上部に付けられた観音開きの戸と同じく覗き窓で十分であった。まど(ドは甲類)は、マ(間、目)+ト(戸)の意といい、和名抄に、「牖 説文に云はく、牖〈与久反、字は片戸甫に従ふなり。末度まど〉は壁を穿ちて木を以て交へと為す窓なりといふ。」、「窓 説文に云はく、屋に在るを窓〈楚江反、字は亦、牎に作る。末度まど〉と曰ひ、墻に在るを牖〈已に墻壁具に見ゆ〉と曰ふといふ。兼名苑に一名に櫳〈音は籠〉と云ふ。」とある。諸字の載る名義抄に、「牖 音誘道、マド、向」、「窓 楚江反、マド、亦牎〓〔片偏に忩〕 和ソウ」、「扆 俗通〓〔尸垂に衣〕字、マト」などとあり、清濁両用あった可能性が高い。
 マトという言葉には、円、的がある。円いさま、形状のマドカナルところから的のことをいう。的は和名抄に、「的 説文に云はく、臬〈魚列反、万斗まと、俗に的の字を用ゐ、音は都歴反〉は射る的なりといふ。纂要に云はく、いにしへは射る的を謂ひて侯〈或は堠に作り、音は侯と同じ〉と、皮を以て的をるを鵠〈今案ふるに鴻鵠の鵠は射る処なり、古沃反、唐韻に見ゆ〉とといふ。」とある。「鵠」字には、正鵠を射ると使われる射る的のほか、鳥の名のクグイの意もある。古語に、クグヒ、クビ、コヒ、コフなどというハクチョウのことである。豊後風土記速見郡条に、餅を的にしたら白い鳥になって飛んで行ったとする説話があり、山城風土記逸文(存疑)にも見える。また、「白鳥しらとりの」という枕詞は「さぎ」にかかることがあり、「白鳥の 鷺坂山の 松蔭まつかげに 宿りてかな 夜も深け行くを」(万1687)といった例がある。的は、白鳥や鷺とイメージが通じていたもののようである。
 窓も、当初は円形に開けられるものとして認められていたのではないか。絵巻物では民家に円い窓が開けられている。そして、その円い窓を塞ぐように蓋をするに値するものとして円座、藁蓋わらふだ・わらうだがつけられている(注5)

左:窓と窓ふさぎの藁蓋(慕帰絵詞模本、鈴木空如・松浦翠苑模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590851/11をトリミング)、右:板葺の家の的(志貴山縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574277/21をトリミング)

 円座は、稲藁や藺草などを渦巻き状に編んだもので、主に板の間で用いられた。今日でも神殿や囲炉裏の周り、和風の内装にこだわる蕎麦屋などで使われている。宮中では、縁取りに布を縫い付け、官位によってその色を使い分けたという。また、家の壁面に円いものがつく光景としては、家の破風に的を掲げる風習が知られる。正月に行われる的の神事で頭屋を務める家が、的を描いたものを入口の上に出して印としていた。
 では、このマト(窓・的・円)は、太子の何を表しているのであろうか。それを推察させるものに彼の髪型がある。物部守屋と蘇我馬子との戦いの際の記述に次のようにある。

 の時に、うまやとの皇子みこ束髪於額ひさごはなにして、〈いにしへひと年少児わらはの、年十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にし、十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦しかり。〉いくさうしろしたがへり。みづか忖度はかりてのたまはく、「はた、敗らるること無からむや。ちかひことあらずは成しがたけむ」とのたまふ。乃ち白膠木ぬりでり取りて、天王てんわうみかたに作りて、頂髪たきふさに置きて、ちかひててのたまはく、〈白膠木、此には農利泥ぬりでといふ。〉「今し我をしてあたに勝たしめたまはば、必ず護世四ごせしわう奉為みために、寺塔てら起立てむ」とのたまふ。我馬子がのうまこの大臣おほおみ、又誓を発ててはく、「おほよ諸天王しよてんわう大神王だいじんわうたち、我を助けまもりて、利益つことしめたまはば、願はくはまさに諸天と大神王との奉為に、寺塔を起立てて、三宝さむぼう流通つたへむ」といふ。誓ひをはりて種種くさぐさいくさよそひて、進みて討伐つ。(崇峻前紀)

 古代における年齢階梯と髪型については、江馬1976.ほかに論じられている。髪の毛が伸びるにしたがいまとめ方を変えていっていた。ただし、いまだ確定的なことはわかっていない。そもそも髪型は、若者組や職業による決まりごとによって制約を受ける一方、風俗の流行り廃りの影響もあり、また、個人的な好みによっても大きく異なってくる。したがって、一概にどのような髪型をしていたかを定め切れるものではない。むしろ、記紀や万葉集に出てくる言葉によって、個々のケースでどのようなニュアンスを込めているかを見ていくことが大切になる。
 束髪は、ヤマトタケルの熊襲征伐の際の記述に見える。

 の時に当りて、其のかみひたひひき。……しかくして、其のうたげの日にのぞみて、童女をとめの髪の如く、其の結へる御髪をけづれ、其のをば御衣みそ御裳みもして、既に童女の姿と成り、女人をみなの中にまじり立ちて其のむろの内に入り坐す。(景行記)
 ……日本やまと武尊たけるのみことつかはして、くまたしむ。時にみとし十六とをあまりむつ。……是に、日本武尊、髪を解きて童女の姿とりて、ひそか川上梟帥かはかみのたけるうたげの時をうかがふ。(景行紀二十七年)

 童女の髪とあるのは、髪を束ね揚げずに垂らした髪をいっている。髪型の名としては、髪が短くて束ねられずにばらばらのままの子どもの髪型のワラハ(童)、髪を垂らしたまま項にまとめた形のウナヰ(髫髪)、伸びて長い髪を垂らしたままにした髪型のハナリ(放髪)などがある(注6)。この個所の記述については、結局のところ垂らした髪によって女装したという以上のことはわからない。
 一般には、ヤマトタケルと聖徳太子の記事の二つに額に髪を結うことが記されているため、太子はこのとき十五・六歳であったと考えられている。吉田2011.によれば、聖徳太子の年齢については、伝記類ごとに、物部守屋征伐の時に、十六、十四、十五歳説があるという(44~45頁)。崇峻前紀の分注を吟味せずに解釈したところから派生した説であるように思われる。この部分には奇妙なところがある。「古俗……」と紹介しておきながら、「今亦然之」と終っている。昔も今も同じであるにもかかわらず、言わずもがなのことを勿体ぶって言っている。不可解な断り書きの分注を付けるにはそれなりの理由があるのだろう。実は太子の年齢は十七八の間で、「角子あげまき」(総角)にすべきところをあえて「束髪於額ひさごはな」にしていたということではないか。ヤマトタケルも変装のために髪型を変えていた。太子が年相応の髪型をしていたり、年齢以上の早熟性を語りたいのなら、「古俗、年少児、年十三四間、髫髪、十五六間、為束髪於額。今亦然之。」と記せばよいことだろう。
 角子(総角)は、頭上に髪を両分して左右に揚げて巻き輪をつくったものをいう。そして、「束髪於額」はヒサゴハナと訓まれている。これはあまりにも洒落た不思議な訓であり、深い意味合いが隠されているものと考えられる。髪を額に一束に束ねあげると、形状がヒサゴの花、つまり、ユウガオの花に似ているからとされる。花の形が似ているばかりか、下につける実を人間の頭と対照させたことによるものと思われる。実からは干瓢を取る。厩戸に連想されたマド(窓・窗)は、簡略した字体が囱である。囱のなかの字は夕に見えるが、これは木を以て交わらせた格子窓、櫺子窓を意味する字形である。ただ、囱に似た囟は、ひよめきを表す。すなわち、国構の部分が頭部、つまり、顔である。顔が夕となっているから夕顔である。この夕顔については後述する。

左:瓢箪のしぼみかけた花、右:ヌルデの虫こぶとヌルデシロアブラムシ

 太子の身体的特徴、特に、渾名で揶揄される特異点を示しているのである。髪型の名を「束髪於額」と断っている。「額」は和名抄に、「額 楊雄方言に云はく、額〈五陌反、和名は比太非ひたひ〉は東斉に之を顙〈蘇朗反〉と謂ひ、幽州に之を顎〈五各反〉と謂ふといふ。」、「顱〈髑髏附〉 文字集略に云はく、顱〈落胡反、字は亦、髗に作る。加之良乃加波良かしらのかはら〉は脳の蓋なりといふ。玉篇に云はく、髑髏〈独婁の二音、俗に比度加之良ひとがしらと云ふ〉は頭骨なりといふ。」とある。万葉集にも、「わぎ妹児もこが ひたひふる 双六すぐろくの 特牛ことひのうしの くらの上のかさ」(万3838)という歌が載る。ヒタヒとは顔面上部のおでこの部分である。太子は頂髪、つまり、髻に四天王像を置いている。白膠木とはヌルデのことで、それを彫塑した。仏像に象るとは、当時、金銅像や脱活乾漆像のように中空であることが一般的であったから、なかが空洞であるほうがふさわしい。ヌルデには、ヌルデノミミフシ(ないし、ヌルデシロアブラムシ)という虫がついて虫瘤ができる。付子ふし(五倍子)である。薬用のほか染色に用いられる。同じく誓いを立てた蘇我馬子はそのようなことはしていない。太子は付子のことを知っていたから、身近に生えていたヌルデの虫瘤を斮り取って彫像している。付子は鉄漿かねに混ぜてお歯黒に使われた。ヌリデの語源も塗ることと関係するからとされている。膠木と記されるが、字とは裏腹に黒く塗ることがあった。いかにもわざとらしい話に拵えられている。すなわち、ヌリデによって禿が目立たないようにカモフラージュしたことを表すのだろう。太子の頭は真ん中が禿げていて、窓が開いているようであるとも、正月の奉射の頭屋の印の的のようであるとも譬えられた。十七八歳になっているけれど、髪を両分すると真ん中の禿が目立ってしまい見た目が変なことになる。厩の戸にぶつかった後遺症であるかのような、髪が脱落したたん瘤に見えるし、それはまた、ヌルデノミミフシのようなつるっとした膨らみになっていたのだろう。みっともなくないように、太子はヒサゴハナに結っていた。夕顔の実にはわずかに柔らかい毛が生えている。
 太子は、「疾作四天王像、置於頂髪。」している。頂髪は、髪を手繰り上げて房のように束ねたところ、頭髻である。

 是を以て、頭髻たきふさかくし、たちころもの中にく。或いは党類ともがらあつめて辺界ほとりをかし、或いは農桑なりはひのときを伺ひて人民おほみたからかすむ。(景行紀四十年七月)
 時に武内宿禰たけしうちのすくね三軍みたむろのいくさのりごとして、ふつく椎結かみあげしむ。因りて号令のりごとして曰はく、「おのおの儲弦うさゆづるを以て髪中たきふさをさめ、まただちを佩け」といふ。(神功紀摂政元年三月)

 それぞれ「是以箭蔵頭髻」、「各以儲弦于髪中」とあり、弓で使う箭や予備の弦の儲弦を、束ねてたくし上げてまとめた髪の中に入れて隠していた。髪の毛があるから隠すことができるのであり、太子の場合だけ顕れている。四天王は仏法を守護する持国天・増長天・広目天・多聞天のことである。四つの像を作ったのか、あるいは代表して一つを作ったのか明らかではない。信貴山に伝わる伝承のように、毘沙門天、すなわち、多聞天を彫り上げたとも考えられるが、ヌルデについた虫瘤の、凸部が四つあるものをそれぞれの四天王の様子に見立てられるように、四面一像に象ったと考えたほうがわかりやすい。誓いを立てて建てると言っていた「寺塔てら」、塔は、東西南北それぞれに顔を持つ。後代の作例では五鈷鈴の周囲に四天王を配置し象ったものが見られる。
 「置於」という状況も不思議である。「置く」という言葉は、何かを持ってきて安定したところにものを設置することで、手を放して放置することでもある。自然現象の、雪や霜の降り積もってとどまることにもいう。古典基礎語辞典の「おく【置く・措く】」の解説では、「物に位置を与える意と、手から離してそのままにする意とがある。」(226頁、この項、筒井ゆみ子)とする。また、白川1995.は、「「おく」のうち、ものを置くことには置、ものをとり除くのには除を用いる。「おく」はその両義をかねる語で、〔万葉〕では置をその両義に用い、「くまも置かず」〔九四二〕、「あまも置かず」〔一四九一〕のようにいう。〔記〕〔紀〕などでは、置と除との字義は正確に使いわけられている。」(174頁)としている。
 太子の束髪於額ひさごはなと記される髪型は、夕顔の花のような膨らんだ形をしていたのであろう。通常のタキフサであれば、そこに白膠木で作った四天王像を差し込むことはできても、太子が曲芸師であったとは記されていないから、フィギュアをそこに「置」くことは不可能である。髪の束の上は安定せず、ゆたかな髪の毛に滑り、反発を受け、転げ落ちるであろう。手を添えていた場合、それは「置」ではなく「載」という字が、また、髷の先を切りそろえてその頂点に貼りつけたのなら、それは「置」ではなく「着」などという字が選ばれるだろう。タキフサに置けたのは、束髪のなかに四天王像を安置して揺るがないスペースがあったことを示している。すなわち、髪の毛が生えていない平らな部分が頭部にあったということである。四天王像をもって相手を威圧しようというのだから、「かく」しや「をさ」めではなく、遠くから見て像が見えなければならない。バーコード状の髪の毛が透け、外から確認できるようによく見えたということだろう(注7)
 太子の頭部には丸い的のように窓が開いていた。円座・藁蓋との関係で言うなら、尻に敷くものと頭に開いた窓との洒落になっている。紀では「頂髪たきふさ」と断られている。たぶさのことである。景行紀、神功紀の北野本別訓にはタブサとある。崇峻紀にタキフサときちんと訓じられてあるのは、尻を隠すべきタフサキ、すなわち、「犢鼻たふさき」という褌とを関連させて洒落としたものではないか。頭部が臀部のようであるとの謂いを強めたいための物言いである。冠位十二階を設けて官人に冠を被らせたことも、実はあれは禿隠し、頭の尻隠しなのであると、無冠の者たちの口さがないささやきが聞こえてくる(注8)

豊耳聡・豊聡耳

 「豊聡耳」については、巷間に、聖徳太子は十人の人が一度に言うことを聞き分け、とても耳が良かったので名に冠するとされている。後に作られた伝記にもある。

 おほきみみこといときなわかくして聡敏さとさとり有り。長大ひととなるに至りて、一時に八人のまをす事を聞きて其のことわりさだむ。又一を聞きて八をさとる。故、号を厩戸豊聡八耳命と曰ふ。(上宮聖徳法王帝説)
 八人時に声を共にして事を白す。太子一一ひとつひとつを能く辨じ、おのもおのもこころを得、復た再びふこと無し。聡敏叡智なり。是を以て名を厩戸豊聡八耳皇子と称す。(上宮聖徳太子伝補闕記)
 政を聴しめす日、宿むかしの訴の未だ決せざる者八人、声を共に事を白す。太子一一に能く辨じ答へ、各其の情緒せいしよを得て、復た再び諮ふこと無し。大臣、群臣已下を率ひて敢て御名を献る。厩戸豊聡八耳皇子と称す。(聖徳太子伝暦)
 太子三つの名あり。一つには厩戸(豊聡耳)皇子と申しき。王の厩のもとにて生まれたまひ、十人一度に愁へ申すことをよく聴きて一事を漏さずことわりたまふによりてなり。二つに聖徳太子と申す。生まれたまひての振舞ひ、よそほひみな僧に似たまへり。勝鬘経、法花経等の疏を作り、法を弘め、人をわたしたまふによりてなり。三つに上宮太子と申す。推古天皇の御世に太子を王宮の南に住ましめて、国の政をひとへに知らしめたまふによりてなり。(三宝絵詞)

 伝暦には、また、慧慈・慧聡に学ぶに、「一を問て十を知り、十を問て百を知る。」というふうに数が出てくる。伝記類での解釈では、十人ではなく八人であるとの説も多い。そして、一見、「耳」をもって聞く能力とするかに見える。「みみ」という言葉の付いた名は古代に散見される。「天忍穂あまのおしほ耳尊みみのみこと」(神代紀)、「ぎし耳命みみのみこと」・「かむ渟名ぬなかは耳尊みみのみこと」・「かむ八井やゐ耳命みみのみこと」(綏靖前紀)、「豊耳とよみみ」(神功紀元年二月)、「すゑみみ」(崇神紀七年八月)などである。神功皇后は「紀直きのあたひおや豊耳」なる人物に、怪異現象の理由を問うている。そこから、「耳」には天文異変の原因を判断できる能力を表すと考える向きもある。しかし、記事では、その人は答えられずに「一老父」が答えている。陶津耳の名は、スヱ(地名)+ツ(連体助詞)+ミミ(霊霊)、すなわち、男子の尊称のことで、スヱ村の村長さんほどの意かという。この伝でいけば、豊聡耳とは、トヨは美称、ミミは男子の尊称だから、実質的にはト(甲類)という名であったことになる。厩戸のト(甲類)と同じ音である。
 新撰字鏡に「聆 令丁反、聡也、聴謀也、止弥々とみみ、又弥々止志みみとし。」とある。「し」のトも甲類で、「研(磨)ぐ」と同根の語である。研ぐものは砥石で、古語に「」といい、粗い目のものは荒砥あらと、細かい目のものは真砥まとと呼ばれた。和名抄に「砥 兼名苑に云はく、砥〈音は旨〉は一名に〓〔石偏に肅〕〈音は篠、末度まと〉、細かき礪石なりといふ。」とある。「砥」でありつつ「窓」、「的」、「円」なものがマトである。
 紀の原文に、「生而能言、有聖智。及壮、一聞十人訴、以勿失能辨、兼知未然。」とある。「生而……。及壮……。」の構文である。大人になって生来の聖智ぶりがこれでもかというぐらいに見られたということにはなっても、「みみ」という言葉自体に聖明叡智さを表す意はない。「聞く」という言葉には、➀音声・言葉などを耳に感じ取る、耳にする、注意して耳を傾ける意、➁聞いて内容を知る、知識を得てそうだろうと思う、言い伝えや噂を耳にする意、➂相手の言葉に従う、承知する、聞き入れる、許す意、➃訊く、人に尋ねて知る、考えや気持ちなど相手の答えを求め問う意、➄訴えを取り上げて裁く、よく聞いて政治的な処理をする、是非を判断する意、➅香をかぎ味わう意、➆酒の良し悪しを味わってみる意、などがあげられ、中古まで➃の例は確認しがたいとされる(注9)。このうちの➄は、「聴訟」の和訓に由来する言い方ではないかという。彼が聞いているのは「訴」である。憲法十七条の五曰には次のようにある。

 五に曰はく、あぢはひのむさぼりを絶ちたからのほしみすることを棄てて、あきらかに訴訟うたへさだめよ。其れ百姓おほみたからうたへひとわざあり。一日すら尚しかるを、いはむや歳をかさねてをや。このごろ訟を治むるひとどもくほさを得て常とし、まひなひを見てはことわりまをすを聴く。便ちたから有るひとが訟は、石をもちて水に投ぐるが如し。ともしき者のうたへは、水をもちて石に投ぐるに似たり。是を以て、貧しきおほみたから所由せむすべを知らず。やつこらまの道亦ここに闕けぬ。(推古紀十二年四月)

 裁判官の心得、司法へのアクセスの保障をうたったものと評価のある条文である。「訴」の訓には、ウルタヘ、ウタヘ、促音便化したウッタヘの形がある。「憂へ訴ふる人」(孝徳紀大化元年八月)とあるように、訴えるとはもともと神に憂いを告げることをいい、審判を仰ごうとしたものである。つまり、推古紀の話は、「訴」を「辨」ずること、裁判の話である。「辨」は、ややこしいことにけじめをつけてわけて処理すること、とりさばくことで、辨理の義である。ワキダムとも訓み、紀では「別」や「節」字も当てている。また、コトワル(判・断)といった古訓でも表される。いずれにせよ聴覚能力が優れているという話ではない。
 用明紀に、「豊耳聡」・「豊聡耳」の両用が記されている。これまで、天寿国繍帳銘に「等已刀弥々乃弥等」、元興寺丈六光背銘に「等与刀弥々大王」などとあることから、「豊耳聡」は「豊聡耳」の誤りであるとされてきた(注10)。ただ、それらの証拠となるものが、はたして当時のものであったかという疑問点も添えられている(注11)。彼が実際に、トヨトミミとしか呼ばれず、トヨミミトとは呼ばれなかったと断定することは不可能である。諸本に「豊耳聡」と書いて伝わっているのでそういう呼び方もあったと考えられる。
 「豊耳聡」は呼び名であり、音として空中を行き交う。漢字の字義に限って伝えるものではない。トヨミミト(ト・ヨは乙類、ミ・ミは甲類、トは甲類)と連なる音には、トヨミ(ト・ヨは乙類、ミは甲類)(響鳴・動)+ミト(ミ・トは甲類)(水門)という意がある。「とよむ」とは、あたり一面に音が鳴り響く、どよめく、とどろくことである。また、ミトには、➀港(湊)、➁水門、➂港湾の船を航行させる水路、澪、の三つの意がある。上代には➀の意が確かとされ、➂は見られず、➁は和名抄に、「水門 後漢書に云はく、水門の故処は皆、河中に在りといふ。〈日本紀私記に水門は美度みとと云ふ〉といふ。」とある(注12)。この意味が確かにあった証拠にミトサギと呼ばれる鷺がいる。和名抄のサギ類の記事を示す。

 蒼鷺 崔禹食経に云はく、鷺に又、一種有り、相似て小さく色、蒼黒く、並びに水湖の間に在りといふ。〈漢語抄に蒼鷺は美止佐岐みとさぎと云ふ〉
 鵁鶄 唐韻に云はく、鵁鶄〈交青の二音〉は鳥の名なりといふ。弁色立成に云はく、鵁鶄〈伊〓いひ〔山冠に微〕〉は海辺に住み、其の鳴くこと極めてかまびすき者なりといふ。
 〓〔睪偏に鳥〕〓〔虞偏に鳥〕鳥 唐韻に、〓〔睪偏に鳥〕〓〔虞偏に鳥〕〈澤虞の二音、漢語抄に護田鳥、於須売止利おすめどりと云ふ〉と云ふ。爾雅集注に云はく、鴋〈音は紡〉は一名に沢虞、即ち護田鳥なり、常に沢中に在りて人を見れば輙ち鳴き、主守官に似ること有るが故に以て之を名づくといふ。
 鷺 唐韻に云はく、〓〔舂偏に鳥〕〓〔鋤偏に鳥〕〈舂鋤の二音〉は白鷺なりといふ。崔禹食経に云はく、鷺〈音は路、佐岐さぎ〉の色は純白にして其の声は人の呼ぶに似れる者なりといふ。

アオサギ(井の頭自然文化園)

 水門にいる鷺がミトサギである。常陸風土記逸文にも「青鷺みとさぎ」(塵袋・第三、存疑)とあり、名義抄に「〓〔兒偏に鳥〕 五狄反、水鳥、アヲサキ」とある。蒼鷺は、今日いうアオサギのことであろうが、動物分類学上の同定に定まらないところがあり、江戸時代にはゴイサギ(五位鷺)やミゾゴイ(溝五位)とする説があった。上の和名抄にも、鵁鶄、イヒ、〓〔睪偏に鳥〕〓〔虞偏に鳥〕、護田鳥、オスメドリ、鴋などとある。また、ウスメドリ、ヒノクチマモリと呼ばれるものもいる。爾雅・釈鳥に「〓〔紡冠に鳥〕 沢虞」とあり、注に「今の〓〔女偏に固〕沢鳥、水鴞に似る。蒼黒色、常に沢中に在り、人を見て輒ち鳴き喚びて去らず。主守之官を象する有り。因りて名けて云はく、俗に護田鳥と呼び為す。」とある。ヒノクチ(樋の口)とは、樋の水門のことである。水路などで水量、水位を調節するために戸口がたてられ、必要に応じて開閉した。導管の樋が丸ければ、土手から覗く口の戸、窓には、円い弁をもって塞ぐことになる。開閉して動くベンの意の弁は瓣の略字である(注13)。辨の略字も弁であり、髪を被うかんむり、冕冠の意の〓〔小冠に白と儿〕の略字も弁でもある。獄訴の時に誓いをたてる辯も略字は弁で、崇峻前紀で太子は戦勝祈願をしていた。
 水をどの田にどの程度配分するかは、洋の東西を問わず人々の利害争いにつながる。 rival という語が river をもととすることによく表れている。正しく分水するとは水の量を適切に捌くことである。それを守る神のような存在がミトサギで、田の水を管理していると譬えられて護田鳥と呼ばれたのだろう。単にヒというだけで樋の口の意もあり、水を堰き止める仕切りの弁を表したらしく、「人をしていけに伏せ入らしむ。外に流れ出づるを、みつほこを持ちて、刺し殺すことをたのしびとす。」(武烈紀五年六月)とある。弁を開けて水とともに流れてくるところを、十文字の矛で突き殺したようである。和名抄に、「池〈楲附〉 玉篇に云はく、池〈直離反、和名は以介いけ〉は水を蓄ふるなりといふ。淮南子注に云はく、つつみさくりて楲〈音は威、和名は伊比いひ〉をひらくといふ。許慎に曰はく、楲はつつみあなを通す所以なりといふ。」とある。イヒのイ音の脱落した形というが、鵁鶄の訓みのイヒとの関係も注目されよう。主守之官とは倉庫番のことである。じっとして動かずに、泥棒が来ても逃げずに声をあげて助けを呼ぶ(注14)
 ミトサギはウスメドリとも呼ばれる。目のところに丸メガネのような模様がある。眼つきが鋭い印象からオスメドリと言われ、訛ったものとされている。あるいは、鷺一般にみられる特徴の、臼に舂くしぐさになぞらえられたことによるものかもしれない。首が長く、その先の頭には前に嘴、後ろにしようとも呼ばれる冠羽をつけている。崇峻前紀で太子が四天王像に彫った白膠木は、別名にカチノキとも呼ばれ、馬子の誓いの言葉にある「利益かち」という訓と符合するものでもある(注15)。鷺が餌を啄む時、まさに横杵で臼を搗くように見え、ウスメドリと呼ぶに値する。また、うずくまるというように、じっとしていることはウズと表現する。名義抄に、「踞 シリウタグ、シリウケヲリ、シリソク、ウズクマル、オゴリ、音據、ウズヰ」とある。
 冠毛のことは耳毛ともいう。サギと同様に耳の形が長いのが特徴的な動物をウサギ(ギは甲類)と呼んでいる。また、サギの耳毛は細く長いから、中国では〓〔絲偏に鳥〕、糸禽ともいう。頭の後ろに糸を二本引いたように見え、針に糸を通した様子に譬え得る。針の孔、めどのことは耳といい、「はりのみみ」(宇津保物語・俊蔭)と言った。耳の付いた縫い針は、弥生時代から見られ、舞錐によって開けられたとされている。細かい砥石のマトを使って毛羽立ったバリを取って仕上げたことだろう。バリを取ってハリ(針)の耳ができあがる。トヨ(豊)+ト(砥)+ミミ(耳)となっている。
 糸は針に付いている。ハリがツクのは磔である。裁きによって磔刑が命じられた。ハリツケには、ほかに貼り付けがある。壁などに紙を貼り付けたものをいう。裁判所のことは「刑部」と記されている。養老令・職員令に刑部省は置かれている。ウタヘタダスツカサと訓まれ、貞観七年三月七日官符に「訴訟うたへ之司のつかさ」を「定訟之司うたへさだむるつかさ」と改めたとある。紀には「刑官うたへのつかさ」(天武紀朱鳥元年九月)、「判事ことわるつかさ」(斉明紀四年十一月・持統紀三年二月)とあるほか、氏姓として「神刑部かむおさかべ」(垂仁紀三十九年十月)、「刑部おさかべ」(允恭紀二年二月、允恭記)、「刑部靫部おさかべのゆけひ阿利斯登ありしと」(敏達紀十二年是歳)(注16)、「刑部造おさかべのみやつこ刑部連おさかべのむらじ」(天武紀十二年九月)などとある。地名の「忍坂」(神武即位前紀戊午年十月)と関係するらしい記事があり、「於佐箇おさか」(紀9)と言っている。また、万葉集にも刑部氏の歌がいくつか載る。
 壁土がボロボロと落ちて来ないように、押さえの紙を貼り付けたものが貼り付けである。磔は、裁判の判決が申し渡され、体を柱、十字架、板、壁に張り付け、動けなくして殺し、晒し者にした。壁に磔にされた場合、雨曝しになったとしたら、ちょうど受刑者の体の跡だけ壁土が残ったのであろう。貼り付けの役を果たして果てている。
 そして、ミトサギ(アヲサギ)も、頭は糸の付いた針のように見えるし、魚を捕るために彫像のようにじっとして動かずにいて、まるで磔にあっているようである。ハリツケなのだから、壁の紙、刑部ということになり、鷺は磔の刑を下してあの世へ送る役割をしているとも見なされる。仏教でいえば閻魔に当たる存在である。記上に、「鷺を掃持ははきもち、」とある。アメワカヒコの殯の場面に登場している。遺体を棺に入れて行う儀式であり、箱張付に相当するものといえる。死者の魂をあの世へ掃くように送るのは、ヒノクチマモリのミトサギが水門を開けて、あるいは箒を使って水を捌(吐)くようにしたという譬えであろう。灰色がかったアオサギの頭部をみると、黒っぽい耳の毛が二筋に後ろに伸び、頭頂部は白くて禿げているように見える。さらに、水門を調節する弁について、樋の口を塞ぐ形が丸く、窓を塞ぐようなものと同じと捉えれば、それは藁蓋のような円いもの、つまり、的であると思われたことであろう。ここに、トヨミミトとトヨトミミとは、ともにアオサギの肉体的、行動的、象徴的特徴を表していることになる。
 新撰字鏡に、「磔 古文〓〔广垂に乇〕、竹格反、入、張也。開也。死身保度己須ほどこす。」とある。藤澤・伊藤2010.に、「磔には、元来、裂く、割る、張る、開く、解くなどの意義があり、刑屍を裸体のまま城上に磔するいいであったが、日本においては、幡物はたもの機物はたものはたものはつつけはつつけ八付はつつけ張付はりつけと呼び、平安朝末期以降、木、板、柱または杭に結び付ける仕方であった。」(49頁)とある(注17)。日本では、拷問の際に身動きを取れなくするやり方もハリツケと言ったようである。串刺、車裂、牛裂、逆磔、水磔、土八付、板張付、箱張付など、いろいろあった。磔の架のことを「幡物はたもの」(今昔物語・巻二十九の三・十)と呼んでいる。寺院で灌頂幡を吊り下げるのにはT字型の旗竿を使う。そのような形の農具にえぶりがある。
 エ(柄)+フリ(振)の意かという。竿の先に横板をつけてT字形にしたもので、穀物の実を集めたり、水田の土を均すのに用いられた。朳の字は扒、捌に通用する。数字の八は大字に捌と書く。伝記類に十人ではなく八人とあったのは、このようなところに生じた異伝かもしれない。すなわち、磔にすること、また、磔刑を申し渡す判断をすることを、サバクといったのではないか。上代にサバク(裁・捌)という語の用例は確かめられない。やがて、手に取って巧みに扱うこと、ばらばらにほぐすこと、入り組んだ物事を適切に処理すること、理非を裁断し裁判すること、意のままにふるまうこと、料理において動物や魚類を解体することを指す語として用いられた。それぞれをそれぞれとして分けることである。裁判で裁くことを指す語の由来ははっきりと身をもって捌くことをいうのであろうから、十字架に縛するような極刑にこそ当てはまる言葉であろう。
 推古紀に「兼知未然。」とつづいている(注18)。この世界の「未然」のことを「」る予知能力は、きわめて特殊な能力と考えられていただろう。それほどのことを「兼ねて」するとある。紀の通例として、「兼ねて」は、合わせて、統合して、かつまた、兼任して、といった意で使われている。推古紀の文章は、何と何とを兼ねていたのかが問題となる。裁判官は重要な役職であり、間違えることがない名判事は偉い。補闕記には、「太子一一能辨、各得情、無復再訪」、伝略に、「太子一一能辨答、各得其情緒、無復再諮」とある。裁きの結果が、訴え出た申立人それぞれのいずれをも得心させ、異議を挟むことがなかった。とはいえ、一つ一つの主張や一つ一つの判決を「兼ねて」いるとするのは当たらない。この「兼ねて」の用法は、万葉集に見られるような「あらかじめ 兼ねて」の意であり、それを伝えるのに必要な何事かを物語ろうとして「知未然」と言っていると考えられる。
 将来の見通しを含め、兼ね合わせて考え、予測する意味の「兼ねて」の例は万葉集にある。

 …… かけまくも あやにかしこく 言はまくも ゆゆしく有らむと あらかじめ 兼ねて知りせば ……(万948)

 アラカジメはク語法の「有らく」たる未来を含めて予測する語で、「兼ねて」と畳み掛けて使われており、事を予知する意である(注19)。「兼ねて知りせば」(万151・3959・4056)の形で用いられている。将来のことは人にはわからないのがふつうである。それが聖徳太子には知れているから、聖、すなわち、日知りと言われる所以であるという論調になりがちであるが、なぜわざわざ、「兼ねて」の紀の常法と異なる使い方をし、しかもヤマトコトバの口語の通例である「兼ねて知りせば」とも異なる使い方をしているのか(注20)。おそらく、まわりの誰でもがそうなると知っている事柄を、しかし常人ならわかっていても認めたがらない事柄を自覚していた、だから聖であるということなのであろう。すなわち、いずれは頭頂に日が出ることを知り、つるっ禿になることを悟っていたのである。蒼鷺が鶴に進化するであろうと自虐的な冗談まで飛ばすほどの鷹揚さがあったということになる。

聖徳

 「聖徳」という名については、生前からそれほど尊ばれるのは不思議だから、後の人のつけた名であろうとか、聖徳太子は実在しないという説の根拠に挙げられることもある。紀には、「豊耳聡聖徳」(用明紀)のほか、「東宮ひつぎのみこ聖徳」(敏達紀四年五月)とある。家永1942.は、今日最もポピュラーな称呼である「聖徳太子」という成語は、天平勝宝三年(751)に書かれた懐風藻の序文あたりを最古とするのではないかとする。また、天平十年(738)年頃に作られた令義解の公式令所引の古記に、諡の説明として、上宮太子を聖徳王と称する類のことであるとあるから、死後に付けられた名前であるという。東野2011.も踏襲しており、慶雲三年(706)の法起寺露盤銘文に「上宮聖徳皇」とあるから、その時点では聖徳と言っていたと推考している。新川2007.は、聖徳という名に紀自身は解説を施さないものの、ひじりという語が圧倒的に多く出て来るので、太子の死亡記事にある「はるかなる聖のいきほひ」という表現を経由して聖徳と尊称するようになったと考えている。仁藤2018.は、死後の称号として聖徳と用いられ、それは日本書紀成立段階には既成のものであったとしている。
 枚挙にいとまがない説には盲点がある。聖徳はシャウトクと読み慣わされている。紀の写本の「聖徳」部分に声点の付けられたものがあり、シヤウトクとの傍訓のあるものもある。釈日本紀にも「シヤウトク 私記云、音読」とある。声点は、聖の字に平声(伊勢本用明紀、兼右本用明紀)、徳の字に入声(図書寮本用明紀、伊勢本敏達紀・用明紀、兼右本敏達紀・用明紀)と付けられている。中国では、聖の字は、集韻に式正切、去声敬韻、シャウ(聖)は呉音である。漢語の聖徳セイトクという語は、知識・徳行ともに優れ、物事に普く通じた至高の境位を指し、天子の御徳を称しても言った。その意味を伝える諡ならば、四声に混乱があれどもセイトクと読まれて伝えられたはずである。河村秀根・書紀集解は、史記・三王正家の「躬親仁義、體行聖徳。」などを引いている。8世紀の新羅王興光の諡に聖徳王とある。本邦ではセイトクワウと読んだことだろう。欽明紀に、6世紀の百済・聖明王をセイメイワウと読むとおりである。そこで、シャウトクは寺院側から出た尊称ではないかという説が早くから行われている。延暦六年(787)の日本霊異記に、「進止ふるまひ威儀よそほひほふしに似て行ひ、しかのみならず勝鬘・法花等の経の疏をつくり、法を弘め物を利し、考績功勲の階を定めたまふ。故、聖徳と曰す。」(上・四)とある。太子の勝鬘経義疏の歎仏真実功徳章の釈に、仏地の万徳円備を称えて「聖徳無量」とあり、まさにその通りなのではないかというのである。だが、もう一方の徳の字を、紀の記載時点ではたしてトクと読んだか確かではない。徳の字は、集韻に的則切、入声職韻で、写本の声点と合致するものの、紀には徳をイキホヒ・ウツクシビといった訓義のほか、音としてトコと読む例が見られる。

(1)トコ
 (a)一般の倭人名……ひのくまの博徳はかとこ(雄略紀)、[蘇我]善徳ぜんとこ難波徳なにはのとこ摩呂まろ(推古紀)、吉博徳きのはかとこ(斉明・孝徳紀)、書智徳ふみのちとこ竹田たけだの大徳だいとこあかそめの徳足とこたりとこ麻呂まろ(天武紀)、おほともの長徳ながとこみみなしの道徳だうとこ中臣徳なかとみのとこ(孝徳紀)、くるくまの徳万とこまろ(天智紀)、勢徳せのとこ(皇極・孝徳・斉明紀)など
 (b)地名 とこ津宮つのみや(仲哀紀)
(2)トク
 (a)一般の倭人名……むなかたの徳善とくぜん(天武紀)
 (b)僧尼の倭人名……鞍部くらつくりのとくしやく(推古紀)、善徳ぜんとく妙徳めうとく徳斉とくさい(崇峻紀)、とく(孝徳・持統紀)
 (c)朝鮮半島・中国の外国人名……徳王とくわう徳執得とくしふとく劉徳高りうとくかうなど
 (d)百済の官品……とくとく徳率とくそちなど
 (e)倭の官位……大徳だいとく小徳せうとく

 万葉集にも、「おほのとこ太理たり」(万3926)、「ものの部歳徳べのとしとこ」(万4415)、そして、「上宮かみつみやの聖徳しやうとこの皇子みこ」(万415)とある。僧尼に徳をトクの音とするのは、高僧の意に「大徳ほふし」(持統紀元年八月)とすることと通じている。おおむね、一般の倭人名の場合、徳はトコと訓む。以上からわかることは、第一に、「聖徳」とあるといって紀の記載がただちに尊号であるとは決められないこと、第二に、太子が得度したとは知られないから「聖徳」はシャウトと呼ばれていた可能性が高いことである。用明紀の分注に、「更名」と明記されていて諡とは一言もない。播磨風土記・印南郡条でも「聖徳王」はシャウトコノオホギミと訓まれている。
 聖の字は、耳と口と壬から成り、耳と口とがまっすぐに伸びていることを表している。まさに鷺である。ヒジリと訓み、ヒ(日)+シリ(知)の意とされる。未然のことを知ることに違いはないが、日とは太陽である。太陽のような円いものが、シリ、すなわち、尻にあるのは円座、藁蓋である。徳をトコと訓むに当たっては、「とこ津宮つのみや」が紀伊続風土記の「薢津郷」に比定されるところから、ヤマイモのことをいうトコロ(野老、冬芋蕷)に同じ音とされ、ト・コはともに乙類である。ただし、この例は上代に遡るものではない。伊吉博徳の用字に「伊吉博得」(孝徳紀)があり、万葉仮名の「得」はト(乙類)なので、トコのトが乙類であることは確かなようである。
 正倉院文書の大宝・養老戸籍に「徳太理」、「徳売」とあり、また、「等許太利」、「止許売」ともある。正倉院文書には上代特殊仮名遣いに揺らぎが見られ、これらが同一の人名とは言い切れないながらも、ト・コともに乙類であることを示唆している。
 新撰字鏡に、「徳 悳同、都篤(反)、得也。厚也。致也。福也。升也。恵也。」とある。升の意味だけ異質に感じられるが、礼記・曲礼上に、「車にりて旌を結ぶ。(徳車結旌。)」とあり、徳車は乗車のことである。紀で「徳」をノリノワザなどと訓むのは、法・則・憲・規・律などのノリ(ノは乙類)の意ばかりでなく、乗車の乗り(ノは乙類)であることを掛けて洒落ているものであろう。洒落でわかったとき、言葉は腑に落ちて理解される。車は馬車、牛車である。牛車の人の乗るところを車のとこ(ト・コは乙類)という。名義抄に「輫 音裴、トコ、クルマノトコ」とある。つまり、徳は訓仮名としてトコなのである。そして、床とはそもそも座るために一段高くした場所のことである。頓智として考えれば、車の床とは、車輪のような形をした座布団、すなわち、円座・藁蓋のことだとわかる。また、磔の話において壁に紙を貼り付けるのにも糊(ノは乙類)を使う。ノリと訓む同様の意の規の字は、ぶんまわしを表す。コンパスのことで、円を描くのに使われる。壁を穿つ窓や矢を当てる的も、規を使って下描きしてから作ったものだろう。すなわち、生まれながらにしてコンパスで測ったように正円を描いたような、いわゆるザビエル型の禿げ頭であったということを示している。海苔(ノは乙類)を貼り付けてカモフラージュしたか、海苔を食べると発毛にいいということがすでに俗信としてあったかは定かではない。
 聖徳太子はいなかったという現代の噂話は、ショウトタイシはいなかったというには正しく、禿げているショウトタイシは実在したのであった。

法王

 「法王」という名は、一般には仏教から来る語とされている。法は略体で、初文は灋である。説文に、「灋 刑也。平らかなること水の如くして水に从ふ。廌は直ならざる者に触るれば去る所以にして去に从ふ」とあり、「廌 解廌は獣なり。山牛に似て一角なり。古者いにしへうたへさだむるに、不直なる者に触れしむ。象形、豸省に从ふ。凡そ廌の属は皆廌に从ふ」とある。タイは、カイなどとも呼ばれる一種の神獣で、曲直をただちに知って邪人に触れるとされるところから、中国では糾弾を掌る御史のことを豸史といい、法冠を獬豸冠といった。
 倭で御史に当たるのは弾正台である。二十巻本和名抄に、「台 職員令に云はく、弾正台〈和名は太々須豆加佐ただすつかさ〉といふ。」とあり、養老令・職員令に、尹、弼、大忠、少忠、大疏、少疏、巡察弾正の役職が定められている。ただすのかみの職掌は、「風俗を粛清し、内外の非違を弾奏することを掌る。」とある。「風俗」について、古記は、「但し此の条の風俗の字の訓は、法なり、式なり、国家の法式を立て糺正すのみ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949629/90)とあり、官人の綱紀粛正をいうとする。憲法十七条が官人の心構えを説いていたのと同じことに当たる。また、弼・大忠・少忠・巡察弾正に、「内外を巡察し、非違を糺弾することを掌る。」とある。巡察するのが仕事である。聖徳太子の母、穴穂部間人皇后は巡察中に産気づいていた。生まれた聖徳太子は、生まれながらにして弾正台の性格を有するにふさわしいことになる(注21)
 太子は弾正台のような検察官の性格を担うことになっていた。だから法王と呼ばれた。用明紀に「豊聡耳法大王」、「法主王」とあり、ノリノオホキミ、ノリノウシノオホキミと訓まれている。後者の「主」は、ヌシ、ウシと訓み、ウシは大人とも書く。領有、支配することを「うしはく」といい、ハクは佩くの意とされる。土地などをあるじとして持っている。領く人がウシである。大系本日本書紀は、「[上宮聖徳法王]帝説にも見える。法主は仏典によれば仏陀・説法者などを意味するから、太子にふさわしい名号として唱え出されたか。」(55頁)と推測し、新編全集本日本書紀ではさらにすすんで、「「法王」は仏法の主。「主」はウシ(大人)ではなく、ヌシであろう。」(500頁)とし、ノリヌシノオホキミとルビを振っている。しかし、ここはウシと訓むのが正しい。太子は在家信者で出家していたわけではない。真面目な意味では、釈尊に比せられるほどではないものの、洒落の意味では、僧侶のように髪の毛がなかったことを指している。
 支配することは「す」ともいう。食す人が「をさ」である。食べ物を食べる意味から領地を支配することへと語義が展開している。収穫した穀物を税としておさめさせて統治するから「をさむ」と言った。収税にまわる在地の行政官は「里長さとをさ」である。中央からは巡察弾正よろしく農村を検分して回る官僚もいた。彼らは国のあるじに当たる。庶民との違いは服装に一目瞭然である。地べたに座らせた百姓たちを前にして、折り畳み椅子の床几に腰掛け、股を開いて威を張って訓辞を垂れたかもしれない。貫頭衣姿の庶民とは異なり、官僚はツーピースのスーツを着ている。第一の特徴は、ズボンに当たる袴を履いている点である。うしはく人たる大人うしくのである。また、牛が草を食すときには、何度も反芻しながら臼のような歯で細かくしている。胃から戻ってきてはいるようだが、牛がくのは地球温暖化に負荷の大きいげっぷだけである。古語で「おくび(ビの甲乙不明)」という。着物の部分をいう袵(衽)も、オクミ、オクビという。
 その袵のついた袍という上着を羽織っているのが第二の特徴である。官吏の勤務服として、文官は脇を縫った縫腋袍ほうえきのほう、武官は脇をあけた闕腋袍けつてきのほうを着た。これがやがて束帯へと変容する。作りとしては、襖、狩衣、水干も同様である。他の和服との違いは襟が立っていることである。袍は、盤領まるえりにして刳形くりかたに沿ってハイカラ(5~6㎝)な襟をめぐらせている。その様子は天寿国繍帳にも見える。和名抄に「袵 四声字苑に云はく、袵〈如甚反、於保久比おほくび〉は衣の前襟なりといふ。」、新撰字鏡に「衽 人任反、去、又千王反。衿也、袪、裳際也、衣前蔽也、宇波加比うはかひ。」とある。衣服の部分を指すオホクビには、➀袍、狩衣などの首の周りをぐるりと囲むように作った前襟、盤領の前襟の称、のぼりともいう、➁方領かくえりの制の直垂、大紋などの襟の称、➂おくみのこと、の三つの意がある。現在のエリ(襟・衿)という語は中世末に見られるようになったもので、古くは、新撰字鏡に「裓 古北反、入。衿也。戒也。古来反、衣襟。己呂毛乃久比ころものくび。」、和名抄に「〓〔衤偏に令〕 釈名に云はく、〓〔衤偏に令〕〈音は領、古呂毛乃久比ころものくび〉は頸なり、頸をく所以なり、襟〈音は金〉は禁なり、前に交へて風の寒きをふせく所以なりといふ。」、天武紀元年六月条に「其のきぬのくびを取りて[馬より]引き堕して」とあるように、クビと呼んでいた。エリとクビが共用されたのち、オホクビから転化したオクミとエリとは、意味範囲を分けるようになったとされている(注22)
 和服にいうおくみは、前身頃に付け足して左右が重なるように身幅を増やしたところを指す。オホクビが訛ってオクビ、オクミとなったのには、当初、袍のように立てた襟を大きく重なるように廻らせていたことに由来するのであろう。新撰字鏡には、また、「〓〔衤偏に令〕 呂窮反、去。領衣上縁也、〓〔君冠に巾〕也、己呂毛乃久比乃毛止保之ころものくびのもとほし。」とあり、モトホスとは廻繞する意である。袍は、上領あげくびから褄となる襴に至るまでダブルに重ねており、その長方形の部分全体をオホクビ(オクミ)と言ったのであろう。盤領の盤の字も、盤曲、盤渦など、蟠る意である。新撰字鏡に「盤 莫香反、又猛音。佐良さら、又久比加志くびかし。」とあり、首に廻らせて自由を奪う首枷のことをも指している。廻らせているから、衽(〓〔衤偏に令〕)は衣の前を蔽ったり、風の寒いのを禁禦したりすると説明されているのである。ウハガヒに同じである。上交うはがひはやがて上前のこと、すなわち、衣服を前で合わせるときに上(外側)になる方の部分を指すことになる。服制としては、養老三年(719)に、「初めて天下の百姓をして、襟を右にして、職事の主典已上に笏を把らしむ。」(続紀)とあり、左前から右前に変更している。うしはく人のえりは、牛の吐くのと同じオクビであるという洒落になっている。
 ノリノウシと訓んで牛を強調していたのには、廌の姿が牛に似ているとされることにもよる。廌という神獣の訓は知られないが、名義抄に「廌 ススム、タツ、ノボル」とある。草冠のついた薦の字と通用している。薦はまた、和名抄に「薦 唐韻に云はく、薦〈作甸反、古毛こも〉はむしろなりといふ。」とある。敷物のむしろのことをコモといい、丸く蟠らせて構成したものは円座・藁蓋であった。また、その材料となる植物もコモと呼んだが、それは今のマコモである。説文に、「薦 獣の食せる艸、廌に从ひ艸に从ふ。古者は神人、廌を以て黄帝に遺す。帝曰く、何を食し何に処すかと。曰く、薦を食し、夏は水沢に処し、冬は松柏に処すと。」とあり、植物の薦を食べて生きていたことになっている。そして、牛同様、角が生えている。牛の角は二つあるが、廌は「似山牛一角」(説文)と記されている。当時の成年男性のふつうの髪型は総角あげまきで、角が二つあるように作っていた。しかし、太子は束髪於額ひさごはなで、角が一つのようにしていた。ウシはウシでも太子は廌、獬豸に当たる。

左:牛と獬豸(中村惕斎・訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11446248/4をトリミング合成)、右:頭の角(総角?(善財童子像、康円作、鎌倉時代、文永10年(1273)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0010128)と束髪於額?(広隆寺弥勒菩薩像、Internet Archive “Japanese Temples and their Treasures, Vol. 2” 14p., https://archive.org/details/JapaneseTempleTreasuresVol2/page/n13/mode/2up(14/157))

 マコモは、水辺に群生する大型のイネ科の多年草で、太く横にはった地下茎があって葉と茎を叢生する。茎は太い円柱状で中空、高さは1~3mに達する。秋につける果実(菰米)は、東アジアでは中国でわずかに救荒作物として食べられた。食用としたのはむしろ茎の部分である。茎の先に黒穂病菌のウスティラゴ・エスキュレンタ・ヘニングスが感染し、茎が肥大化して白っぽくて柔らかい、小さな筍のような状態になって食用となっている(注23)。今日、マコモタケ、コモノコ、コモノネ、カンヅルなどと呼ばれ、漢名を茭白筍こうはくじゆんという。古語に菰角こもづのといい、和名抄に「菰〈菰首附〉 本草に云はく、菰は一名に蒋といふ〈上の音は孤、下の音は将、古毛こも〉。弁色立成に茭草〈一に菰蒋草と云ふ、上の音は穀肴反〉と云ふ。七巻食経に云はく、菰首、味は甘、冷といふ。〈古毛不豆呂こもぶつろ、一名に古毛都乃こもづの〉」とある。神獣の廌が食べた薦も、このマコモタケのことと推量されていたことだろう。マコモタケはそのままにしておくと、植物体内に黒い胞子が満ちてきて食べられなくなるが、その胞子は集められて塗料に用いられた。黒色の真菰墨と呼ばれるもので、お歯黒や眉墨、絵具、彫刻した漆器の塗料に使われる。直径が6~9μと粒ぞろいのため美しく表現できるという。すなわち、廌の一角は菰角であるという洒落である。禿顱部分に黒いチックを塗って目立たなくさせるという意味である。それは、ちょうど、崇峻前紀において、束髪於額ひさごはな姿の太子が、物部守屋討伐の戦場で、ヌルデのフシをもって毘沙門天像を彫塑し、戦勝祈願した時と同じ表現である。ヌルデのフシからも、お歯黒に用いられる黒い染料がとられる。
 以上から、法大王・法主王という名は、髪が薄いために一つの角の姿の束髪於額ひさごはなにした、道徳を説いて巡察してまわる太子の特徴をよく表した渾名であったといえる。

上宮

 「上宮かみつみや」の名は、父親の用明天皇が、「父天皇愛之、令宮南上殿。」(推古紀元年四月)ことによるとされている。「是皇子初居上宮、後移斑鳩。」(用明紀元年正月)ともある。メグムという語は、端から見るに忍びない意からいとしくて心にかけることをいう。子ども時分から禿げていては、からかわれ、いじめられていたのだろう。そこで宮殿内の離れに住まわせた。少女の、美しく黒い髪の毛が、ゆたかになっていくときの髪型は「はなり」である。場所は宮の南である。ミナミ(ミはともに甲類)は「みなわた(ミは甲類)」のミナと同じ音である。「か黒き髪」に掛かる枕詞である。ヤドカリのことをいうカミナ(蟹蜷)=カミ(髪)+ナ(無)と対照して表現されている(注24)
 宮殿の設計では本殿の南側には大庭を設ける。「南庭おほば」(推古紀二十年是歳)とある。そこに、わざわざ離れを築いている。宮殿の南に面する大きな庭は、朝廷と言われるようにまつりごとを行う儀式の場である。ふだんから広い空間を確保しておかなければ朝賀は行えず、三韓の使節も招き入れることができない。特別に建物を造るのは大嘗祭のときの大嘗宮である。大嘗宮は朝堂院の南庭に造営され、行事が終われば取り壊された。これは民俗行事の新嘗屋と同じく仮小屋である。「上宮」もまた、飛鳥時代の人にとっては仮小屋であると思念されただろう。「上」なる敬称を付けて「上宮」とするも、「かみ(ミは甲類)」は「髪」と同音である。髪の毛は人体のかみに生えるからそう呼ばれたといわれる。万葉集の傍訓にはウヘツミヤとあるが、紀では図書寮本永治点にカムツミヤとある。そして、仮小屋で生活をする生き物といえば、宿を借りているという名のヤドカリ、カミナである。髪が無いから「上宮」に住まわせて然りなのである。
 上宮の場所を、用明天皇の都した池辺双槻宮いけのへのなみつきのみやか、後に聖徳太子が移った斑鳩の地に求めればいいか、考古学の発掘調査も含め議論されている。しかし、「上宮」は、「上宮かみつみやの大娘姫いらつめのみこ」(皇極紀元年是歳)、「上宮かみつみやの王等みこたち」(皇極紀二年十月)とあるように、場所の名ではなく一族の名へと移って行っている。ただし、それはむしろ、地名や族名といったものがもとからあるのではなく、名が名としてあったものを、土地や一族に名として当てたと考えたほうが適当である(注25)。いわゆる上宮家に与えられたとされる名代、乳部みぶ壬生部みぶべとの関連から、さらに確認されることである(注26)
 広く知られるように、髪の毛の薄さはAGA(Androgenetic Alopecia)、男性ホルモン型脱毛症によることが多い。男性ホルモン受容体の感受性の強い遺伝子を引き継ぐことで遺伝的に発現していく。聖徳太子の息子の山背大兄王もその一人であったらしい。蘇我入鹿によって滅ぼされたことを記す皇極紀に童謡わざうたが載り、後文にその解釈が添えられている。山背大兄王は「山羊かましし小父をぢ」(紀107)と歌われ、「山背王の頭髪みかみ斑雑毛ふふきにして山羊かまししに似たるに喩ふ。」(皇極紀二年十一月)と解説されている。「上宮王等」は、髪の毛に特徴が出る家系の人たちを表す隠喩であると捉えることができる。カマシシは列島固有のニホンカモシカのことである。和名抄に、「〓〔鹿冠に霝〕羊 爾雅注に云はく、〓〔鹿冠に霝〕羊〈力丁反、字は亦〓〔羊偏に靈〕に作る、和名は加万之師かましし〉は羊よりとほしろく、大き角なりといふ。内蔵式に云はく、〓〔鹿冠に霝〕羊角は零羊といふ。」とある。カモ(氈)+シシ(鹿)のことといい、和名抄に「氈 野王曰はく、氈〈諸延反、賀毛かも〉は毛の席なり、毛をひねりて席に為るなりといふ。」とあって、毛皮を敷物に用いたところからの命名とされている。ニホンカモシカは山奥に生息するものの、クマと違って人を襲うことも少なく、人が呼ぶと近づいてきてしまうため容易に捕えることができたという。皇極二年十一月、入鹿の急襲を逃れていったんこま(生駒)山に隠れた後、斑鳩寺に自ら帰ってきて潰え果てた様子が描かれている。ニホンカモシカの生態に似たところがあると思われている。
 坂本1989.は、紀にカマシシに山羊という漢字をあてた理由として、山に棲む羊というくらいの意味でカマシシに山羊の字をあてたのであろうとする。しかし、本草和名はカマシシノツノを零羊角と記している。日本書紀編者が大陸のヤギと混同を起こしたとは言い切れない。時代は下るが、運歩色葉集に「毯 ムクケ」とある。ヤギの最大の特徴はその尨毛状態にあると捉えられていたようである。ニホンカモシカの場合は夏毛と冬毛の違いがあり、雪が積もっている冬場、ゆたかな冬毛の毛皮を求めて狩猟の対象となっていた。事件は十一月に起こっている。絶好の冬毛の頃であったことが、そう当てさせた遠因ということになる。
 尾形2001.は、古代中国の獣毛を素材とした染織品はヤギ以外の例を聞かず、正倉院の花氈と色氈の電子顕微鏡による繊維観察でもすべてヤギの毛であることが判明しているとする。ただ、中国では、絨毯などの毛織物が多く残っているにもかかわらず、本邦にはフェルトばかりが残っている。西域、中国、日本の、時代的、気候的、文化的な違いが遺物に表れているのではないかとされるが、確かなところは未解明である。言えることは、我が国ではヤギの毛を使ったフェルトの毛氈を、尻の下に敷くむしろとすることが慣行とされていたらしいということである。聖徳太子のキーワード、円座・藁蓋も敷物であった。太子は、頭にあるべきくるくる巻いているつむじがなくて、尻の下に敷くくるくる巻いた円座・藁蓋をトレードマークにあてられ綽名されていた。同様に、山背大兄王は、巻いて持ち運んだニホンカモシカの毛皮を、やにわに広げて尻の下に敷いていた。それを伝えるための用字として「山羊」が選ばれたのであろう。紀の編者の苦心惨憺ぶりが垣間見られて興味深い。
 また、カマシシという語については、新撰字鏡に「狭 侯夾反。隘也、加万志ヽかましし、古作陿。」とある。そして、カマカマシという言葉を載せる。「佷 又作很、胡墾反。戻也。違也。不測也。顔也。恨也。暴也。世女久せめく、又伊加留いかる、又加太久奈かたくな、又加万ヽヽ志かまかまし。」、「譶 直治反、徒合・徒立二反。利色也。又言音不訥也。疾言利也。加万ヽヽ志かまかまし。」、「猋 不遥反、平。群犬走㒵。加万ヽヽ志かまかまし。」とある。うるさくせっつくことを表している。「法王」の件に見た弾正台のように、道徳をうるさく、やかましく言うことと符合する言葉である。あるいは、番犬のけたたましく吠えることをカマフという。新撰字鏡に、「〓〔犭偏に參の彡部分が氺〕 山監反、上。〓〔犭偏に監〕〓〔犭偏に參の彡部分が氺〕也。一犬聲、犬加万不かまふ也、云々。」とある。「豊耳聡・豊聡耳」の件で見たミトサギが樋の口を守る様子が主守之官、すなわち、倉庫番のようで、動かずにいながら騒ぎ立てることと一致する言葉である。山背大兄王をカマシシと渾名することは、聖徳太子をミトサギや廌と渾名することと連動しているのである。
 聖徳太子が兼ね持つさまざまな名前は、禿頭という身体的特徴から捻られアレンジされた綽名である。用明紀や推古紀に書いてある呼称は諱ではなく、生前から当人に対して、また、周囲の人の間でそう呼ばれていたものである。上代語は現代のわれわれにとってよくわからない言語である。と同時に当時の人にとっても、無文字文化のもと、生活圏を異にしながら共通の言語を話すことにあっては、平板に理解できるものではなかったと推測される。ウィトゲンシュタイン2013.に、「人間に共通の行動の仕方が座標系(参照システム)である。それを手がかりにして私たちは未知の言語を解釈する。」(157頁)とある。当時の人が手掛かりにした参照システムは、ヤマトコトバの間に張りめぐらされた言葉のネットワークであり、それをもって確かなものとして築き上げられ、確かなものと感じられ、確かなものとして使用されていた。言葉が言葉を自己定義するかのように循環論法的な説明をくり返して、頓智、洒落、なぞなぞの如く思われるのは、無文字社会における参照システム構築の都合上、必然の成行きであった。太子のそれぞれの「更名」も、座標系を適切にとれば一つの関数上に定位しているとわかる。太子がさまざまな名前を持つからくりからについて考える際にも、記紀万葉研究の主眼としては、上代語であるヤマトコトバの座標系を正確に捉えることに据えられなければならない。そしてまた、ほとんどそれに尽きるとさえ言える。人は言葉で考える。言葉がわかることはすなわち、当時の人のことがわかるということである。

(注)
(注1)諸解説による。なお、「厩」という字には各種の異体字があり、本文、解説書に各様に用いられているが、本稿では「厩」字にて統一した。引用文中も「厩」字に変えた。
(注2)「更名」の意味合いを、本名と別称のことと捉えてよいものか実は定かでない。現代のように戸籍名があったとしても、源氏名ばかりで生活して他の誰も本名を知らないこともある。また、無戸籍の人の存在も知られていて、本名を自身でさえ知らない人もいる。固有名詞は一般名詞と違い、個別性を有しており、指示代名詞に近い使われ方をする。違いは、指示する対象が不在の時も、指示することが可能である点で、その名を与えられているものが固有名詞である。すなわち、呼ばれるものが名前である。「更名」として愛称を持っていることがあっても不思議ではない。成年式を経て幼名から変わった、得度して法名になった、死後、戒名が授けられたといった時間的な経過によって複数となることはある。また、同時期にもたくさんの役割をはたしていて呼び名がいくつもあることも、職場では部長、家庭ではお父さん、近所ではおじさん、と呼ばれることもある。ただし、その場合は役割の名、演者の名に従っているにすぎず、代役にとって代わられれば固有名詞とはならない。すると、一人の人を指示するためにある名前が異例ともいえるほどたくさんあって、一見とても一つの範疇におさまりきらないような複数名を同時期に有しているという記述を目にしたら、言葉として検討の価値があると勘づかなければならない。
 今日までの聖徳太子研究に、このように真正面から対そうとする姿勢はない。小倉1972.は、「……実に多くの単独称呼があるばかりでなく、それらを組み合せた「厩戸豊聡耳皇子」とか「上宮聖徳法王」とか、種々様々の複合称呼が数々用いられています。この事自体が超人的聖者として伝説化さて[ママ]いる証拠というべきでありましょう。」(22頁)と決めてかかっている。日本書紀に書いてあることをそのままそのとおりに読むこと、そこに辻褄を見出すことが肝要であると考える。
(注3)近現代のものの考え方を当てはめても何もわからない。津田1963.119~120頁、新川2007.24頁参照。
(注4)拙稿「聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について」参照。従来の「厩戸」の由来説に、キリスト教、地名、午年、養育氏族を根拠とするものなどが見られるが、それらでは何のために具体的な出生譚が記されているのか説明がつかない。譚は必ず他に還元できない個別具体性を伴う。
(注5)拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」参照。なお、名義抄の「扆 俗に〓〔尸垂に衣〕に通ず、マト」などから、戸につけられた小窓のことをいうかと考えられるが、厩に戸があって小窓が丸く付いていたという考古資料が確認されているわけではない。
(注6)ハナリである「放髪をした女性は、性愛関係を持つ。」(服藤2005.556頁)とされる。ただし、古代女性の髪型の呼称は訓みが定まらず、時代的にも移ろいがあるらしく未解明な点が多い。
(注7)大阪府八尾市太子堂の大聖勝軍寺、兵庫県揖保郡太子町鵤の斑鳩寺には「植髪太子」像が祀られている。
(注8)「頭隠して尻隠さず」という諺は「雉子の草隠れ」と出自が同じであるとされている。真偽のほどはわからないが、雉のオスには肉冠、いわゆる鶏冠がある。つまり、その部分、頭髪がない。それが本稿といかなるかかわりがあるか、何とも言えない。
(注9)角川古語大辞典23頁参照。
(注10)大系本日本書紀53頁、新編全集本日本書紀500頁など。
(注11)石井2016.51頁参照。
(注12)狩谷棭齋の箋注倭名類聚抄に源君の誤りとの記述がある。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991786/44参照。
(注13)「天尾羽張神あめのをはばりのかみは、さかしまに天の安の河の水を塞き上げ」(記上)ていた道具は、円座・藁蓋であろう。拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」参照。
(注14)これと「蔵人の五位」との関係については識者の言を俟ちたい。
(注15)蘇我馬子の発言、原文は「凡諸天王・大神王等、助-衛於我使利益、願当為諸天与大神王、起-立寺塔-通三宝。」である。兼右本に、「使タマハ使利益カツコト」と傍訓があり、それに従って訓まれている。ただ、下二段活用の動詞ウ(獲・得)は、補助動詞として~できる、の意で上代から用いられている。「もののふの 八十やそ氏川うぢがはの 早き瀬に 立ちぬ恋も われはするかも」(万2714)、「しましくも 一人在りる ものにあれや 島のむろの木 離れてあるらむ」(万3601)などとある。仏典語による表記「利益」を勝つの意に用いているのであり、「使利益」をカチ○○エシメ(タマハ)バと訓むことに実は疑問がない。歌に補助動詞の用例が見られるのだから、会話文中に漢文訓読調のカツコトヲエサシメ……と冗漫に訓むほうが違和感がある。
(注16)大系本、新編全集本とも敏達紀に「刑部をさかべ」と振られている。疑問である。
(注17)文献等により確認されているのが平安朝末期以降ということであり、時代を遡る可能性を否定するものではない。
(注18)未来を予知することができた人としては、紀にやまと迹迹日ととびもも姫命ひめのみことがいる。

 是に、天皇のみをば倭迹迹日百襲姫命、聡明さと叡智さかしくして、能く未然ゆくさきのことりたまへり。(崇神紀十年九月)

 倭迹迹日百襲姫命は箸墓古墳に葬られ、魏志倭人伝の卑弥呼ではないかと推測される人物である。この箇所は、少女の歌う歌の「しるまし」を彼女が読み取り、謀反の企てを未然にキャッチして天皇に教え、鎮圧に導いたときの解説である。
(注19)白川1995.239頁参照。この部分の「兼」について、「かねて(あらかじめ)」の意で用いるのは倭習であるとの指摘が、森2011.179~180頁にある。それはそのとおりなのであるが、日本書紀の倭習部分は後人の加筆であるとしている理由は不明である。万葉集に使われている使い方で「あらかじめかねて」の意で書いてあるのは、単純に、日本書紀がヤマトコトバを表記したものであることの証左とすべきなのではないか。シャープペンシルやサラリーマンが和製英語、つまりは日本語であるのと同じく、ヤマトコトバを漢字で書いたらそうなったということであろう。日本書紀の区分中、歌謡の音が漢音に忠実に再現できるα群であっても、それはβ群と同じくヤマトコトバの歌謡である。外国人(中国人)にヤマトコトバを伝えようとして、上代語のなかでも使い方を伝えにくい言葉をわざわざとりあげて後人が書き添えて何になるのだろうか。
(注20)筆者は、上代語の、日本書紀や万葉集のなかでの言い方を問題にしている。漢籍、仏典の「兼」字の用法との比較検討をしたいわけではない。事が起こる以前から予測していた、という意味合いを、古語にカネテユクサキノコトヲシロシメスと言うことにしていて、それを文字に起こした時に「兼知未然」と書いている。アンチョコ例文集を参考にしながら工夫して書いている。本邦にしか見られない漢字を国字というが、それを間違いであるとするのは相当にサカシラ(賢)であると笑われたであろう。新しい漢字を作って楽しむことは健全な言語活動である。
(注21)天武紀十一年十一月条の詔に、「親王みこたち諸王おほきみたち及び諸臣まへつきみたち庶民おほみたからに至るまで、ことごとくに聴くべし。凡そのりを犯す者を糺弾たださむには、或いは禁省之中おほうちにも、或いは朝廷之中まつりごとどころにも、其の過失あやまちおこらむ処に、即ち見聞かむまにまに、匿弊かくすこと無くして糺弾ただせ。其の犯すこと重き者有らば、まをすべきは請し、捕ふべきはかすゐよ。」とあり、背後に弾正台のような組織のあったことをにおわせるという。
(注22)原色染織大辞典に「「おきみ(置身)」からとの説もある。」(172頁)とある。
(注23)中村2000.参照。
(注24)拙稿「十月(かむなづき)について」参照。
(注25)仁藤2018.は、「「上宮」号は、宮殿名称から派生し地名化するとともに、上宮王が移住した「斑鳩宮」およびその経済的権益や政治的地位を象徴するものとして一族に対しても二次的に用いられたと考える。」(472頁)と解釈している。
(注26)拙稿「壬生部について」参照。

(引用・参考文献)
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家永1942. 家永三郎「聖徳太子御名号考」『上代佛教思想史』畝傍書房、昭和17年。
家永1951. 家永三郎『上宮聖徳法王帝説の研究 各論篇』三省堂出版、昭和26年。
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小倉1972. 小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰 増訂版』綜芸舎、1972年。
角川古語大辞典 中村幸彦・阪倉篤義・岡見正雄編『角川古語大辞典 第二巻』角川書店、1984年。
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坂本1989. 坂本太郎「カモシカと山羊」『坂本太郎著作集 第十一巻─歴史と人物─』吉川弘文館、平成元年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
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新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
津田1950. 津田左右吉『津田左右吉全集 第二巻─日本古典の研究 下─』岩波書店、昭和38年。
東野2011. 東野治之「ほんとうの聖徳太子」『大和古寺の研究』塙書房、2011年。
中村2000. 中村重正『菌食の民俗誌─マコモと黒穂病の利用─』八坂書房、2000年。
仁藤2018. 仁藤敦史「「聖徳太子」の名号について」新川登亀男編『日本古代史の方法と意義』勉誠出版、2018年。
服藤2005. 服藤早苗「古代女性の髪型と成人式」吉村武彦編『律令制国家と古代社会』塙書房、2005年。
藤澤・伊藤2010. 藤澤衛彦・伊藤晴雨著、礫川全次解題『日本刑罰風俗図史』国書刊行会、2010年。
前之園2016. 前之園亮一「厩戸皇子の名前と誕生伝承」『共立女子短期大学文科紀要』59号、2016年1月。共立女子大学リポジトリ https://kyoritsu.repo.nii.ac.jp/records/3114
森2011. 森博通『日本書紀成立の真実』中央公論新社、2011年。
吉田2011. 吉田一彦「聖徳太子信仰の基調」同編『変貌する聖徳太子』平凡社、2011年。

加藤良平 2021.2.1改稿初出

聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について


厩戸皇子の出生譚

 「厩戸皇子」という名は、いろいろな名前を持つ聖徳太子が生まれたときの逸話として語られている。

 夏四月の庚午の朔にして己卯に、うまや戸豊聡耳とのとよとみみの皇子みこを立てて皇太子ひつぎのみことす。りて録摂政まつりごとをふさねつかさどらしむ。万機よろづのまつりごとを以てことごとくゆだぬ。たちばなの豊日とよひの天皇すめらみこと[用明天皇]の第二子ふたはしらにあたりたまふみこなり。いろは皇后きさきあな部間べのはしひとの皇女ひめみこまをす。皇后、懐姙開胎みこあれまさむとする日に、禁中みやのうち巡行おはしまして、諸司つかさつかさ監察たまふ。馬官うまのつかさに至りたまひて、すなはうまやに当りて、なやみたまはずしてたちまちれませり。れましながらものいふ。ひじりさとり有り。をとこさかりおよびて、ひとたびたりうたへを聞きたまひて、あやまちたまはずしてわきまへたまふ。ねて未然ゆくさきのことを知ろしめす。また内教ほとけのみのり高麗こまほふし慧慈ゑじに習ひ、外典とつふみはかかくに学びたまふ。ならびに悉にさとりたまふ。かぞの天皇、めぐみたまひて、おほみやの南の上殿かみつみやはべらしめたまふ。かれ、其の名をたたへて、上宮厩かみつみやのうまやとの豊聡耳とよとみみの太子ひつぎのみこまをす。(推古紀元年四月)

 話の内容は、皇后の穴穂部間人皇女が懐姙し、出産した日にどうしていたかというと、役所を巡って仕事ぶりを監察して回っていた。馬官のところへ来たとき、すぐに厩の戸に当たって難なく出産した。生れるや否やよく言葉を喋り、聖の知恵がある人であった、というものである。そこから、厩戸皇子という名前が導き出されたという口ぶりである。
 「厩戸」という名について、キリスト降誕説話の伝承が伝来したとする説(久米1988.)、うまや戸部とべ出身の乳母が養育に当たったとする説(井上1996.)、生年の干支の午年生まれに基づく可能性が高いとする説(大山1996.)、地名または氏族名によるとする説(大系本日本書紀(四))、大和国高市郡の厩坂宮(舒明紀十二年四月条)に由来するとする説(古市2012.)、養育した額田部(湯坐)が深くかかわった馬匹に由来するとする説(渡里2013.)、捜神記など中国の志怪小説の影響とする説(前之園2016.)、仏伝によって潤色されているとする説(石井2016.)などが唱えられている(注1)

厩のさまざま

左から、a.厩(馬医草紙、紙本着色、鎌倉時代、文永4年(1267)、東博展示品)、b.彦根城馬屋、c.堅田図(伝土佐光茂筆、室町時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0018303をトリミング)、d.上賀茂神社神馬舎、e.南部曲屋の厩(川崎市立日本民家園、旧工藤家住宅)、f.越前の庄屋の厩(福井市おさごえ民間園、旧城地家住宅)

 厩は、馬を飼っておく独立した建物や、人と一つ屋根の下で馬を飼う部屋のことである。a図では乗馬用の馬を飼っておくために板敷のしつらえとなっている。梁から吊るされた腹綱で引き揚げ、大事な脚を休ませる工夫もしていた。b図でも飼われていたのは駿馬で、駿馬は公家や武家の邸宅、神社、寺社に在籍していた。c図は、あるいは来客者が乗ってきた馬を停めるための厩かもしれない。d図は馬を観覧するために設けられている。e・f図では耕作・運搬用の馬が飼われていた。土間になっていて馬は手綱から解放されている。曲家のように人の家と合体している馬小屋もあれば、独立して馬が外を眺められる馬小屋もある。他に、街道筋の旅籠に置かれた駅家うまやや、競馬をする際に一時的につなぐために設営された厩もあった。それらすべてをウマヤと言っている。
 今日でいえば、乗用車と、耕運機兼軽トラックの格納場所を、「厩」と一括りにして言葉としている。ガレージであって、同じく馬を飼う屋だからウマヤなのである。和名抄に、「厩 四声字苑に云はく、厩〈音は救、上声の重、无万夜むまや〉は牛馬の舎なりといふ。」、「駅 唐令に云はく、諸道に須く駅を置くべきは三十里毎に一駅〈音は繹、無末夜むまや〉置け、若し地勢さがしくへだたり、及び水・草無き処はたよりに随ひ之れを置けといふ。」とある。雰囲気がまるで別物であるものが同じくウマヤと呼ばれている(注2)。厩とは何かについて、分野が跨るためかじっくりとは研究されていない。多くは、馬を飼うための専用の小屋ということで納得されている。万葉集の厩の例をあげる。

 赤駒あかごまを うまやに立て 黒駒くろこまを 厩に立てて そを飼ひ が行くがごと 思ひづま 心に乗りて 高山の みねのたをりに 射目いめ立てて 鹿猪しし待つが如 とこ敷きて が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
 もも小竹しのの ののおほきみ 西の厩 立てて飼ふ駒 ひむがしの厩 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふがに 水こそば 汲みて飼ふがに 何しかも あしの馬の いばえ立ちつる(万3327)
 鈴がの 早馬はゆま駅家うまやの 堤井つつみゐの 水をたまへな いもただよ(万3439)
 今日けふもかも 都なりせば 見まくり 西の御厩みまやの に立てらまし(万3776)
 厩なる なは断つ駒の おくるがへ いもが言ひしを 置きて悲しも(万4429)

 万3278番歌の「床敷きて〔床敷而〕」については、「とこしくに」と訓んで永遠の意であるともされている。筆者は、板敷の厩の連想からこの句は成っていると考える。万3776番歌で、遠い都の彼女を思うのに、どうして厩の外に立っていたかについては、逢引していた場所が厩の外だったからではなく、馬が超特急で今日中に都へと連れて行ってくれる乗物だったからであろう。作者の中臣なかとみの宅守やかもりは越前配流下にあり、国府の東の厩よりも西の厩の方が都に近いためと考えられる。馬に乗るには、まず、馬を厩から引き出して、厩の外で馬の右側から乗ったようである。万4429番歌について、防人に出掛けてしまう夫に対して、縄をはずされた馬はじっとしてはいませんよと言った、という解釈は通じない。防人に該当する人が暮らす場にいる馬は農耕馬である。農耕に使う馬は厩では縄を外して寛がせるものである。厩に閉じ込められたまま、つまりは家に残されたままにされることへの不満を訴えたもので、縄を着けて連れて行って頂戴よ、と言われたものと捉えた方が切なさが身に染みる。ともあれ、万葉集の歌から厩の種類について推量することはできない。
 乗馬用であれ、農耕馬、運搬馬用であれ、厩の形状に共通点は多い。第一に、前面に戸がない。板敷上の駿馬は手綱が橡金に繋がれているから逃げ出すことはない。土間に藁の敷かれたところにいるお馬さんは、横木が渡されていて柵となっていて出て行くことはない。厩の造りにおいて、馬の前方に当たる方に厳重な戸を設けることがあったかなかったか、また、その歴史的な変遷を知ることはできないが、競馬のレース直前に、ゲートのなかで暴れ出してゲート入りを全頭やり直すことがある。ストレスがかかるのである。運搬する場合にも、トラックでは十分な注意が払われている。馬は閉所を嫌う動物であるらしい。そもそも厩は馬を休ませるところだから、健康的に休める環境を整えることが肝要である。暑いのが苦手で、また、湿度が高いのを嫌うようである。体温は38℃ほどで触るとあたたかい。発汗性動物で、汗をかいて体熱を放散させている。特に夏場は風通しを良くしてあげる必要がある。極寒時期でなければわざわざ厩に戸をたてるには及ばないのは、犬小屋に戸がないのと似ている。オオカミ対策は別にして、牧で高い塀を築かずとも逃げて行くことはない。厩は牢獄ではないのであって、厩に戸というのは矛盾した形容の言葉である(注3)
 この自己矛盾、自己撞着の語が人の名として刻まれていることは、ヤマトコトバの言語論理によく合致している。語用論的パラドックスによる、なぞなぞ、頓智の世界である。e・f図の厩の例では横木が渡されている。今ではすっかり民俗語彙になってしまったが、マセ、マセボウ、マセンボウ、マセカキと呼ばれている。

厩の造り

 仮にa・b図のような立派な厩に戸をつけるとしよう。扉は、建築構造上、木の形状のままに円柱形をしている柱に直接取り付けるものではない。円柱に角材を取り付け、そこへ扉を納めるようにする。その小柱を方立ほうだてという。建築用語らしく重箱読みである。上代にはほこだち(矛立・桙立)と言った。和名抄に、「棖 爾雅注に云はく、棖〈音は唐、和名は保古多知ほこたち、弁色立成に戸の類を云ふ〉は門の両旁の木なりといふ。」とある。ホコダチの語源は知られない(注4)が、威儀を示すことと関係があるのではないかとの説がある。すなわち、矛(方立部分)と盾(扉部分)とを設けることを表すのではないかというのである。話に矛盾があることを臭わせている。
 開き戸を閉めた時にぶらぶらしないように、扉の上下の部分に当たりをつけている(注5)。家屋の内外を隔てるところは下部は土台部分、敷居となっており、踏んではいけないと躾けられる。古語にしきみである。和名抄に、「閾 爾雅注に云はく、閾〈音は域〉は門限なりといふ。兼名苑に云はく、閾は一名閫〈苦本反、之岐美しきみ、俗に度之岐美とじきみと云ふ〉といふ。」とある。一方、上部は、建てあげてから後、戸の大きさとの兼ね合いを考えながら設置される。まぐさである。楣は新撰字鏡に「門眉 万久佐まぐさ」、和名抄に「楣 爾雅に曰はく、楣〈音は眉、万久佐まぐさ〉は門戸の上の横梁なりといふ。」とある。まぐさ(馬草)との洒落が成り立ち、厩に「戸」を仮定すると、それはマグサに違いないとおもしろがられよう。和名抄に、「秣 漢書注に云はく、秣〈音は末、万久佐まぐさ〉は粟米を以て飼ふを謂ふなりといふ。」とある。この秣という語は、古く清音でマクサと言っていたともされるが、濁っていけないこともなく、世の中は澄むと濁るの違いにて、の小咄かもしれない。厩にマグサはない。あるのはマクサだけだ、といったことである。あるいは、用もなく楣が付いているが、肝心なのは秣である、という洒落かもしれない。戸をつけないのにわざわざ楣を拵えることは民俗の慣習としてままあり、お札を貼ったり絵馬を掲げたりしていた。洒落としての巧妙さを考えた場合、上にも下にもマグサ(楣・秣)があるところが人屋ではなく馬屋(厩)の特色であると言いたいようである(注6)
 基本的に厩に戸(扉)はない(注7)。だから、戸(扉)を取り付けるための方立も必要ないのだが、方立のようなものが中途の高さまで付けられており、両側に穴が穿たれていて、マセ、マセボウ、マセガキとなる横木を渡して馬が出られないようになっている。柱の場合で言えばそれは柱貫に相当する。和名抄に、「欄額 弁色立成に云はく、欄額〈波之良沼岐はしらぬき〉は柱貫なりといふ。」とある。柱と柱とを架け渡すために横に貫いている。「欄額」という字の示す通り、柱と柱の間に楣、欄間など、立派な装飾物を掛け渡すための仕掛けとして考案された。狩谷掖斎の箋注倭名抄には、「按欄額、謂柱上方所貫之材、其状如楯闌而在上、故名欄額、今伊勢神宮屋舎有之、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/991786/1/31、漢字の旧字体は改めた)などとある(注8)。ところが、厩の場合、その柱貫に取り外し可能な丸棒がかけられることになる。横に棒を貫いて柵となり、障害物となって馬は外へ出られない。マセは、塀や垣、柵と同じ機能を担っている。サクという語は地面から垂直に立った障壁を指す語のようである。和名抄に「柵 説文に云はく、柵〈音は索〉は竪木を編むなりといふ。」とある。
 マセが掛けられている方立は柱に添えられている。柱は、鉛直に立てて建物上部の荷重を支える。和名抄に、「柱〈束柱附〉 説文に云はく、柱〈音は注、波之良はしら、功程式に束柱は豆賀波師良つかばしらと云ふ〉は楹なりといふ。唐韻に云はく、楹〈音は盈〉は柱なりといふ。」とある。その柱という語は、上代では神さまや高貴な人を数える助数詞として用いられた。厩戸皇子も、用明天皇の「第二子ふたはしらにあたりたまふみこ」とハシラ扱いされている。次男坊でフタハシラに当たることに興味が向いている。ヒトハシラ(一柱)では戸もマセも作れない。フタハシラだから二つの柱の間にマセが渡される。ハシラと数えられる神さまどうしは一緒にすると喧嘩をするとされ、集会を開くに当たっても「天安あまのやすの河辺かはら」(神代紀第七段本文)で集まっている。大系本日本書紀の補注に、「古語拾遺に「天八湍河原」とあるので、ヤスはヤセ(八瀬)の転であろう。」((一)341頁)とあり、の多いところで川をはさんで対面している情景を想い起こさせる。同根の語かとされるセ(狭)なるセ(瀬)が幾筋もあるようである。柱は別々に立っているものである(注9)
 厩は建物なのに戸(扉)がないこと、また、時に装飾するためでないのに欄額を作ることは、方立という「矛盾」した特徴をよく表現している。あるのはマセばかりである。和名抄に、「籬〈栫字附〉 釈名に云はく、籬〈音は離、字は亦、㰚に作る、末加岐まがき、一に末世ませと云ふ〉は柴を以て之れを作り、疎にして離々なるを言ふといふ。説文に云はく、栫〈七見反、加久布かくふ〉は柴を以て之れを壅ぐといふ。」とある。竹や柴で作った粗い目の垣根である。マセには、籬、馬柵、馬塞、間狭などといった字を当てる。牧の柵、横木を渡して作った垣の棒のこともマセ棒、ウマセ、マセンなどといい、厩と用途、仕様が同じである(注10)。馬が出なければそれでいいのだから、一般の垣根よりも開放的で、ただ横に一~二本、棒が渡してあるだけである。このマセこそ厩においては「戸」に当たる。万4429番歌の「厩なる 縄断つ駒の おくるがへ 妹が言ひしを 置きて悲しも」の侘しさは、駒を曳き立てる縄(=夫)がいなくなって厩に閉じ込められたままにされたとき、マセがあるために自力ではどこへも行くことができず、ただ呆然と日がな暮らさなければならないところにある。

厩戸皇子の才能

 皇后が厩の戸に当たって生まれた皇子はどのような能力を持っていたか。「生而能言、有聖智。」である。頓智好きにはたまらない設定である。すぐれた人が厩で生れていることから、後に、聖徳太子伝暦などに、甲斐の黒駒に乗って富士山を駆け登ったとする伝承が成立しそうなことは予感されることである。厩の戸の造りは、戸(扉)の代わりにマセが渡されている点が重要である。「厩戸」とは、このマセ、マセボウ、マセンボウ、マセガキのことを指している。早熟で大人びた子どものことをマセという。ねびる、およすくことである。上代に確例は知られないが、四段動詞マス(増・益)の語意には、他に比べて優っていることをいうことがあり、また、敬語の動詞マス(坐・居)の義にも適うから、その已然形を名詞として捉え、生まれながらにして既に優っていらっしゃったという意に使われたのではないか。マセルという動詞は名詞マセから後で作られたものと推測される。すなわち、ませた餓鬼だからませ籬、ませた坊やだからませ棒なのである。良家の小児のことを、坊や、お坊ちゃん、と呼ぶことがいつからあるか、口語表現のためわからない。それでも、厩戸皇子の場合、「父天皇愛之、令宮南上殿。」とあって、坊(房)を与えて住まわせている。坊やに違いない(注11)。また、子どものことを餓鬼というが、その言い方がいつから一般的になったかも不明である。お行儀を躾け切れず野放図に食べ物を貪ることから言われた比喩のようである(注12)。いずれも仏教から伝えられた言葉であり、早期幼児教育のおかげか仏教に精通した人物を表すにはもってこいの命名となっている。ませた餓鬼、ませた坊やのことは、語用論的形容矛盾表現に集約させて「厩戸」となる。
 「厩の戸に当りて」の「当りて」について、石井2016.は、「ちょうどそのところで、ということ」(58頁)と説明し、場所としてアタルという語を考えている。新編全集本日本書紀は「まさしく戸(入口)の所での意」(530頁)、井上1987.は「うまやの戸につき当たり」(125頁)、宇治谷1988.は「うまやにあたられた拍子に」(87頁)としている。時代別国語大辞典に、「あたる[当](動四) アツ(下二段)に対する自動詞。もとは……あてられる、の意。①あるものが他の何かに触れる。あるいはぶつかる。……②あたる。相当する。二つのものごとの力・価値・意味などが対応しあう。……③ちょうどその時にあう。」(27頁)とある。語釈の③は、時に関してアタルと使うことを示している。中古には状況や方角について同様のアタルという語意は見られるが、上代には見られない。アタリ(辺)とアタル(当)は同根の語であろうが、ウマヤノトニアタリテ(「当厩戸而」)のアタリを、アタリ(辺)という名詞と捉えることは無理である。原文の「而」は接続助詞のテである。
 原文は「皇后懐姙開胎之日、巡-行禁中-察諸司。至于馬官、乃当厩戸而不労忽産之。」で、主語は「皇后」、述語は「巡行」、「至」、「当」、「産」である。いつ当たったか、「乃」である。どこで当たったか、「馬官」でである。誰が当たったか、「皇后」である。何に当たったか、「厩戸」にである。いかに当たったか、結果として「不労忽産之」にである。4W1Hがはっきりしている。皇后が、ふらふらっと「厩戸」にぶつかったと明記されている。上に述べたように、面(plane)としての戸(扉)はない。柵となるマセに当たるように小咄に仕上がっている。柵は縦なるものをいうから、厳密には横なるもの、らちといえば良いのであろう。すなわち、埒が開いたのである(注13)。皇后はマセを手すり代わりにしたところゆるゆるだからスポッと抜け、転ぶような形になって出産した。マセが開いたら馬が出てくる。ウマれたのである。無事な安産であった。案ずるより産むが易し、ということである。

出産と厩形状区画の先例

 出産とフェンスとの関連を示す例は言い伝えに既出である。

 ふたはしらの神、みことまにまに酒をまうく。こうむ時に至りて、へへもかなら大蛇をろちに当りてまむとす。(至産時、必彼大蛇、当戸将児焉。)(神代紀第八段一書第二)

 スサノヲがヤマタノヲロチを退治する場面である。本文に、「乃ち脚摩あしなづなづをして八醞酒やしほをりのさけみ、あはせて仮庪さずき〈仮庪、此には佐受枳さずきと云ふ。〉八間やまを作り、おのもおのもひとさかふねを置き、酒を盛らしめて待ちたまふ。」とある。飼葉桶のような大きな容器八個に酒を入れ、八つ設けた桟敷、すなわち、籠のように編んだ台に置いて、ヤマタノヲロチ(八岐大蛇)の八つの頭がそれぞれの籠台の編目の隙間から入って槽の酒を飲むようにさせている。一書第二では、「将児焉。」時、編目の隙間から伸び入ってきている八つの頭ごとに酒を飲ませている。「児」の代わりに「酒」を呑ませた。ヤマタノヲロチは(コは甲類)を呑もうとして頭を伸ばしてきている。そうするとわかっているから仮庪(桟敷)を編んで作る。編み方は(コは甲類)と同じである。ヤマタノヲロチは、を呑もうとしてに誘導され、酒を飲んで酔っ払ってしまった。
 「(トは甲類)」とあるのは、平面を形成する一枚板の杉戸などではなく、適当に編まれた籬のような戸、その隙間のゆるやかなもの、あたかもマセ棒、マセ籬によって仕切られたところを暗示しているようである。脚摩乳・手摩乳の「ふたはしら」によって準備が整えられている。柱が二つあるから戸口はでき、欄額(柱貫)のように渡されてマセになる。マセのこちら側に飼葉桶、ふねがそれぞれに一つずつある様子は厩と同じである。動物園でも、ヒツジ類は一つの餌場からみな仲良く食べているが、ヤギ類は喧嘩になるから頭数により分けて餌を与えている。ウマは首を出して秣を食む。つまり、ウマヤ(厩)をもってウブヤ(産屋)に譬えられている。バウバウバウを示すことは、一区画のことをいうことによって確かめられる。坊やとは、坊屋のことと思われ、マセ籬によって区割りされた厩のような分譲地区画の謂いであろう。ヤマタノヲロチに応じて八区画整備している。のためにで囲われた坊があてがわれる。良馬、コマ(駒、コは甲類、もとうまの約とされる)が養われることになっているものであり、ヤマタノヲロチはそれぞれの区画ごとに置かれたうまい酒を飲んだ。マセにそれぞれの首を突っ込んだまま酔っ払ったら身動きは取れなくなる。厩図屏風などで手綱で繋がれているのと同じように、大蛇の首は互いに繋がれてしまうことになっている。そしてまた、馬が腹帯で吊られている点は、産屋の力綱さえ連想させる(注14)。「馬」と「うま(殖)はる」との音の関係が意識にのぼる。馬のお腹が張るごとに産まれてはうまいこと馬の数は増えていく。
 一棟の厩で何区画(馬立うまだち)にするかには例がある。ヤマタノヲロチを入れるのに「蛇立」なるものを思考実験したのであろう。コマは駒であり、こまれのこまであり、小さな間のことを言うのであろう(注15)。「八間やま」、すなわち、八コマ作るというのは不自然である。脚摩乳・手摩乳にはすでに「たり少女をとめ」(神代紀第八段本文)があって、年毎に既に呑まれたという。ヤマタノヲロチがその頭数の八人を呑んだのなら、九人目の奇稲くしいなひめは呑まれるはずはないように思われる。頓智話だから何でだろう? と不思議がる必要がある。八間厩のように並列を想定するのではなく、四角い空間に井桁状に仕切りを入れて九コマに分け、「囲」という字に象形されるように想像するのがいいようである。「囲」形の場合、中央一マスには仮庪さずきとなる籠編みを作らず、すなわち、マセ棒を渡さず、周囲の八コマに籠台を設けて槽を置き、八醞酒やしほをりのさけを入れておいたということになる。ヤマタノヲロチが酔っ払い、寝ぼけて編み籠に絡んでいる時を見計らって、中央の通路にスサノヲは自由に入って上側へ抜け、周囲の大蛇の首をぐるりと斬って回ったということになる。反対に、下側へ行って切った時、一つにカチッと鳴り当たったというのがいわゆる草薙剣である。
 上代では「かくむ」という。上述の和名抄の「籬〈栫附字〉」項に「栫〈七見反、加久布〉以柴壅之」とあった。万葉集には、囲まれて八方塞がりになっている状況を示す例が見られる。

 …… 父母は 枕のかたに 妻子めこどもは 足の方に かくて 憂へさまよひ ……(万892)
 …… 妻も子どもも 遠近をちこちに さはかく 春鳥の ……(万4408)

 スサノヲは八方塞状態に自ら陥る形をとって逆にヤマタノヲロチを近い場所に酔っ払わせて眠らせ、一網打尽(?)に斬り殺したということなのであろう。「中区うちつくに蕃屏かくみ」(成務紀四年二年、別訓カクシ)の出典としてあげられる左伝・僖公二十四年条の疏に、「蕃屏者、分地以建諸侯、使京師蕃籬屏扞也。」とある。これはヤツガシラの芋が数を増やすのに匹敵する。漢語では九面芋と書く。収穫期には親イモのまわりに子イモが八つ、親イモと同じぐらいに大きく成長して、しかも癒着した状態になる。外からは八面芋に見えるが、「囲」字の形のように九マスに芋が増すことを言っている。こういう考え方が卑近に見られていたからヤマタノヲロチの話も人口に膾炙することとなり、そこから厩の坊区の割り付けを思考実験することに及んで、「馬」と「うま(殖)はる」こととの関係は訓義の面でも通じていることなのだと、ヤマトコトバのうえで納得したということになる。そこから、どんどんお産を促進させる馬小屋は「囲」字形の外向き厩で、「不労忽産之。」と相成ったのだとする話として形成されたと考えられる(注16)
 厩戸皇子という名は、厩になどないのに、戸の代わりをするマセバウ、マセガキに当ってませた餓鬼やませた坊やが生まれ、坊どころか「上殿かみつみや」を作って愛育したことを物語る、洒落となぞなぞと知恵の押し詰まった命名譚、おもしろ小咄として仕上がっていた。古代における名とは何か。それは呼ばれるものである。綽名と言えばわかりやすいだろう(注18)

(注)
(注1)そのほか、近松門左衛門・用明天王職人鑑・第五に、「御誕生の若宮を、厩戸むまやどの王子と名付け参らせらる、これ駒繫こまつなぎのほとりにて降誕がうたんなりし故ならし。」ともある。
(注2)日本史大辞典に、「うまや 馬を飼っておく独立した建物や家屋内の馬(ときには牛)を飼う部屋で、馬屋とも書き、「まや」とも呼ぶ。……乗馬用の馬を飼う武家屋敷や神社・寺院の馬屋と農耕馬を飼う農家の馬屋とでは構造が異なる。」(781頁、この項、宮沢智士)とある。解説としてはそれに尽きるが、かなり様子の違うものを一緒にしていてよいのか、戸惑うばかりである。鎌倉時代、御家人が、いざ鎌倉へ、と乗ってきた馬は、必ず乗馬用の馬であったか。ふだんは農耕に使っている馬の荷鞍を取り替えて、チャグチャグ馬子のようなことをした貧乏武士もいたのではないか。時代によって馬の大きさが変わる以上に、まず個体差があり、人間の利用目的に従って乗馬用と農耕用で鍛える筋肉が異なり体形が変わってくる。何を大切にすべきかで厩の形態も違ってくるだろう。
(注3)和名抄に、「戸 野王案に、城郭に在るを門と曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとす。」とある。白川1995.は、「と〔門・戸(戶)〕 内外の間や、区画相互の間を遮断し、その出入口のために設けた施設をいう。門を構え、戸を設ける。また河や海などの両方がせまって、地勢的に出入口のようになっているところをもいう。戸は開き戸にするのが普通であった。トは甲類。」(531頁)、古典基礎語辞典は、「と【戸・門】名……両側から迫っていて狭くなっている所。その狭い部分でのみ、水が流れたり、人や物が通ったりできる。また、建造物で人の出入りする所やそこの建具。」(821頁。この項、白井清子)とする。「厩戸」という言葉を考える際、第一に馬小屋の出入口の戸のことであると考えるべきであろう。ト(甲類)としては、「(処)(トは甲類)」、「(トは甲類)」もある。外という語は、戸(門)と語源的に関連があるらしい。所(処)という語はそれらとは異なる義で、それを「厩戸皇子」に当てはめると、万葉仮名の訓仮名の当て字ということになり、「戸」字に表意性がなくなる。管見ではあるが、「厩戸」を厩のそとのことと解する説は見られない。馬が厩の外でお産をしたという変な話は、皇后が外でお産をしたという話とリンクする。ウマヤ(厩)とウブヤ(産屋)とが洒落として考えられているなら、外でのお産をもって名の由来譚とすることは噺として興味深くはある。けれども、「厩の戸に当りて」という文章が捻られているのだから、基本的に、開き戸との衝突のことを念頭に据えて検討すべきことである。「厩皇子」、「馬皇子」、「馬子皇子」、「馬養うまかひ皇子」、「馬部うまべ皇子」、「厩門うまやかど皇子」という名が問題なのではない。
 厩の後ろ側についている扉(aやd)をもって「厩戸」と捉えることも、方便としては可能である。春日権現験記絵に見える厩(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1286816/1/17)の場合は、前(?)ないし横(?)上部が蔀になっているようにも見える。「厩作〈附〉飼方之次第」に、「一、後ノ方、小キヒラキ戸ノ入口ヲ求ルコト有。是ハ極テ明クルコトハ非ス。其廐ノ様子ヨルヘキ也。〈○後ノ方小キ戸ハ、急変・急火ノ時、前へ難出時此口ヨリ馬ヲ出サン為ナレハ、其厩ヨリ便利宜シキナラハ明ル不及也。又ハ前後サシ支へ等有リテ、アカリ入少キ厩ナラハ、夏向ナト掃除ノタメニモ宜シ。故実作法ト云アラス。其時ノ頭入ノ功ヨルヘシ。大寸法ハ極ナケレハ、馬ノ出入成程スへシ。大方五尺、或五尺五寸宜也。〉」(『日本農書全集60』133頁、漢字の旧字体は改めた)とある。その前の項に、厩舎後方は羽目板にして上方は無双窓を付けることが望ましいと記されている。推古紀の記述においては、皇后は、厩舎の後ろ側へ回って戸にぶつかったとは思われない。なぜなら、彼女は、「巡行禁中監察諸司至于馬官」である。身重の皇后が監察して回っていて、馬に対してこそこそと裏から探りを入れるという設定は想定しにくい。ごくふつうに考え、「厩戸」というのは形容矛盾であると捉えるのが適切である。
 乗馬用であれ農耕用であれ、馬の健康面を考えて厩は作られた。中国では早くは呉子・治兵に、「れ馬は必ず其のる所を安んず。……冬は則ち厩を温かにし、夏は則ちひさしを涼しくす。(夫馬必安其処所。……冬則温厩、夏則涼廡。)」とある。本邦では、佐瀬与次右衛門の会津農書・下巻・厩囲に、「馬屋ハ内厩に居なから見る様にしてよく、外厩ハ寒くして馬瘠る。馬屋を広く穴を深く掘るへし。……」(『日本農書全集19』195頁、漢字の旧字体は改めた。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1065840/1/95~96参照)、また、百姓伝記・巻四・屋敷構善悪・樹木集に、「土民、馬屋を間ひろく作り、しつけ[湿気]すくなき処をハ、ふかくほりて、わら草を多く入てふますへし。……冬ハさむくなきやうに、わらにて外をかこひ、夏ハ冷しきやうにして馬をたてよ。……しつけの地にハ屋棟をたかくして、腰板をうち、竹を以垣をするかして、わら草なとの飼やう、多く入やうにすへし。」(『日本農書全集16』123頁)とあり、農業に必要な馬肥を得る方法も記されている。また、比良野貞彦・奥民図彙には、夏の夜に涼しく過ごせるように、木で埒を結った囲いを設けて夏馬屋とすることが描かれている。その厩には、戸どころか壁すらなく柵に囲まれているだけである。
(注4)康煕字典に、楊氏方言註を引き、「棖 ……傾きを救ふ法なり。門のほゝだてなり」と述べている。説文に「棖 つゑなり」ともあり、門が頬杖をついているように見立てたところに由来するものらしい。
(注5)本邦では引き戸は平安時代、寝殿造りにおいて現れるとされている。
(注6)d図のように、マグサ(秣)が下でなく上でもなく真ん中ぐらいに台に載せてある例もある。
(注7)前掲の「厩作〈附〉飼方之次第」に、「厩四節心得ノコト」として、四季の気候に応じて「戸ヲ開キ」、「前後ヲ取払」、「幕ヲ張ル」、「戸ヲ垂テ」などとあって、「戸」のことが記されているが、門戸のことをいうのではなく、窓の意味のことを言っている。通風や保温、採光の話である。むろん、寒さを防ぐためにマセの外から戸を立てることはあっただろうが、それを「厩戸」と呼ぶ例は管見に入らない。
(注8)狩谷掖斎のいう「伊勢神宮屋舎」のそれが何か筆者にはわからない。
(注9)東大寺大仏殿のそれは、束ねたものを一柱とし、それを何本も立てて建物を構築している。神さまは居られず、仏様がいらっしゃる。
(注10)古い時代の牧が外周で囲われていたか疑問視する議論もある。今日は、土地所有の問題や周囲への迷惑から設けられている。家畜として馴らされたウマが、自ら逃げて野生化することのメリット・デメリットなど、多くを考えなければ理解することは難しい。牧が人に放棄された場合はその限りではない。ウマも生きるのに必死になる。
(注11)棒は、歴史的仮名遣いをボウとする説もあるが、鎌倉・室町期の資料からバウであるともされている。呉音にボウなるも、広韻に歩項切、集韻に部項切である。バウバウといった区切られた区画、部屋のことに引きずられて漢音をとった可能性がある。マセによって空間を仕切る際は直線的に仕切ることになり、四角い坊(房)が形成される。和名抄に、「房 釈名に云はく、房〈音は防、俗に音は望と云ふ〉は旁なり、室の両方に在るなりといふ。」、「坊〈村附〉 声類に云はく、坊〈音は方、又、音は房、末智まち〉は別屋なり、又、村坊なりといふ。四声字苑に云はく、村〈音は尊、無良むら〉は野外の聚り居うるなりといふ。」とある。マセ棒を架けるところは方立である。歴史的仮名遣いにハウタテであり、棒立ての意を汲んでいるとも捉えられる。
(注12)拙稿「餓鬼について」参照。
(注13)埒は、馬場の周りに逃げないように設けられた柵のことをいう。駒くらべ(競馬)では埒が左右に設けられる。一遍聖絵に見える厩(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591582/1/15)は、備後国一の宮の馬場に設けられている。ウマはまっすぐに走るのがあまり得意ではなく、埒を目印にして走っているとされている。人を乗せて走ることはウマにとってははなはだ迷惑、不自然なことであり、また、鞭で叩かれながら全速力でひた走るのも不条理極まりない。和名抄に、「馬埒 四声字苑に云はく、埒〈力輟反、劣と同じ、此の間に良知らちと云ふ〉は、戯馬の道なりといふ。」とある。ラチというラ行で始まる言葉がヤマトコトバにもとからあったとは思われず、用例も九世紀のものしか知られないが、馬の到来とともに本邦に伝わった技術として飛鳥時代にも存した言葉と考える。口語表現をよく伝える日葡辞書に、「Rachi. ラチ(埒) 柵・垣.¶比喩.rachiuo aquru.(埒を開くる)物事をうまく解明する.¶Rachino aita fito.(埒の開いた人)素直で,道理にはすぐ服する人.¶Rachiuo coyuru, l, yaburu.(埒を越ゆる,または,破る)規則や禁制条項を破る,または,道理に背く.」(523頁)とある。マセボウ、マセガキと綽名された聖徳太子は、憲法十七条に記されているとおり埒を開けて物事の道理を説く人であった。憲法十七条が推古朝に作られたものではないという説も提出されているが、そういう議論をしても埒が開かない。
(注14)拙稿「稲荷信仰と狐」参照。
(注15)コマ(コは甲類)という語については、上代にどこまで洒落とされていたか不明である。「こまけし(コは甲類)」という語は新撰字鏡に「壌 古万介志こまけし」と見える。粒状、粉状のものを「こま」と称したように感じられる。芝居や映画、マンガのこまという語は近代になってからの語のようであるが、「細」という語ばかりでなく「小間こま」(コは甲類)という語を想定したり、将棋の「駒」という語の連想から生まれたもののように感じられる。将棋の駒は入るマス目が区切られている。また、小間使いという語の文字面からも連想が働いたのではないか。高麗こまという語については、万葉集に「巨麻尓思吉こまにしき」(万3465)という仮名書きがあり、コは乙類かとされるが東歌の唯一例である。「高麗」をなぜコマと訓むかについては諸説あるが定説に至らない。とはいえ、「高」の字がためらいなく用いられているので、コは甲類である可能性がある。古典基礎語辞典の「こま【高麗・狛】」の項に、「†*koma」(515頁)と記され、甲類と推定している。
 和名抄に「馬〈駒字附〉 ……王仁煦に曰はく、駒〈音は倶、古万こま〉は馬の子なりといふ。」とある。こま(コは甲類)は子馬の状態で船に載せられて本邦に連れて来られた。騎馬民族、高麗の人によってである。飼育技術が伴わなければ連れて来ても意味がない。連れてきたのは子馬である。まるで狛犬のように小さい。そんなものに人が乗って早く馳せることができるのだろうか。倭の人は不思議に思っていると、彼らは手を拱いて見ているばかりではなく、飼葉を与えて上手に育て、かつ人に馴らせてよく言うことを聞かせ、人が乗っても猛スピードで走らせることをやってのけた。古語に「こまぬく」という。ぬきのマセを柵として活用していたことが言葉の端々に感じられる。儒者のする挨拶のポーズ、拱手キョウシュは、胸の前で通せんぼの形になる。「是に、古人大兄ふるひとのおほえしきゐりて逡巡しりぞきて、手をこまぬきていなびてまをさく、……」(孝徳前紀皇極四年六月)とある。古人大兄のポーズは、両手を腕の前で重ねて行う礼のような、しかし、それは倭の人にとって、挨拶ではなくて厩のマセのように見えるから、拒絶の意を表すことになっている。
 なお、推古紀元年四月条に、「且習内教於高麗僧慧慈」とある点について、「高麗のほふし慧慈ゑじ帰化まうおもぶく。則ち皇太子ひつぎのみこのりのしとしたまふ。」(推古紀三年五月)と後述される点や、蘇我氏が百済と関係が深かったことなどから、石井2016.は本当に「高麗」の人なのか疑問視している(70~74頁)。来訪して師匠にしたとされる僧侶の慧慈の朝鮮半島でのもとの国籍が、当時においてどれほどの意味を持ったか疑問である。厩戸皇子の話(噺・咄・譚)としてなら、コマ(駒 ≒ 高麗)である点はとてもおもしろく、重要な要素であると思われる。
(注16)「戸」はヤマトコトバでト(甲類)である。万葉仮名としても訓仮名で「(トは甲類)」は常用されている。音読みでは、漢音にコ、呉音にグ・ゴ、上顎音である。広韻に「戸」は侯古切である。音仮名の万葉仮名では、コ(甲類)に「古」があり、広韻に公古切、ゴ(甲類)に「侯」があり、戸鉤切である。仮に戸(コ)という音が音仮名に当てられたとすれば、甲類と感じられたであろう。の意味は、律令制で、戸令に里を構成する単位とされ、「凡そは、じふを以てさとと為よ。」とあり、家父長のことを戸主、独立家屋のことを戸建て住宅という。田令でも、「其れ牛は、いちをしていちはしめよ。」とある。さらに、「」は酒の量をいう語でもある。呑む量が多い人は「上戸じゃうご」、少ない人は「下戸げこ」という。つまり、ヤマタノヲロチの話は、に当ってを呑まずに、ならぬ状のところからいちずつ、全部ではちについて頭を入れて覗き込み、上戸か下戸か知らないが、それぞれという一丁前の酒量を呑んだということなのである。伊呂波字類抄に、「戸 コ〈酒戸也。上戸・中戸・下戸〉」とある。厩戸皇子と書いて、実はウマヤノミコなのだと、漢字のわかるインテリたちにおもしろがらせていたのかもしれない。太子が乗ったのは白馬あをうまだったとされるのは、呑むほどに青くなる人だったからとの推論も可能である。
 律令の「」が推古朝にあるはずはなく、法隆寺献物帳にサインの残る葛木主もヌシである。したがって、ウマヤノミコなる発想はあり得ず、そもそもがウマヤトノミコというのも後人の修文、潤色であると説かれることも多い。しかし、そう片付けてしまうには、このなぞなぞのレベルはあまりにも高い。上代の人の観念、心性に近づかなければ、了解には至らない。
(注17)市村1987.に、「綽名をつける能力の衰退は、間違いなく社会における相互的関心の稀薄化と批評感覚を含む文化水準の低落とを意味しているだろう。」(12頁)とある。今日、為人ひととなりへの関心は薄れ、目の前にしていながらその人の名刺にある肩書、キャリアばかり気にしている。仕事を離れた人と人との関係は築きにくく、ともすれば築く気さえはじめから持ち合わせていない。人と人との関係性、その網の目こそが文化であるとするなら、文化水準は飛鳥時代からひどく低下し、雲泥の差が生じている。日本書紀を頭ごなしに史書としてしか見ない姿勢にもつながっていて、日本書紀の内側に入って読むことは退けられ、外側から議論(のための議論が)されるばかりになっている。演算処理としてしかテキストを読まなくなったらもはや人の学ではない。すべてAIに取って代わられることをしていて空しくないだろうか。
 なお、「厩戸」という綽名の表す他の意味については、拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」参照。

(引用・参考文献)
石井2016. 石井公成『聖徳太子─実像と伝説の間─』春秋社、2016年。
市村1987. 市村弘正『名づけの精神史』みすず書房、1987年。
井上1987. 井上光貞監訳『日本書紀 下』中央公論社、昭和62年。
井上1996. 井上薫「聖徳太子異名論─なぜさまざまな異名をもつのか─」『歴史読本』1996年12月号。
宇治谷1988. 宇治谷孟『全現代語訳日本書紀 下』講談社(講談社学術文庫)、1988年。
大山1996. 大山誠一「「聖徳太子」研究の再検討(上)」『弘前大学国史研究』第100号、1996年3月。弘前大学学術情報リポジトリ http://hdl.handle.net/10129/3146
久米1988. 『久米邦武歴史著作集 第1巻 聖徳太子の研究』吉川弘文館、1988年。
群馬県立歴史博物館2017. 群馬県立歴史博物館編『海を渡って来た馬文化─黒井峯遺跡と群れる馬─』同発行、平成29年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』『同(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
日本史大辞典 『日本史大辞典1』平凡社、1992年。
『日本農書全集16』 岡光夫・守田史郎校注・執筆『日本農書全集16』農山漁村文化協会、昭和54年。
『日本農書全集19』 庄司吉之助翻刻ほか『日本農書全集19』農山漁村文化協会、昭和57年。
『日本農書全集60』 松尾信一・白水完児・村井秀夫校注・執筆『日本農書全集60』農山漁村文化協会、1996年。
古市2012. 古市晃「聖徳太子の名号と王宮」『日本歴史』768号、2012年5月。(『国家形成期の王宮と地域社会━記紀・風土記の再解釈━』塙書房、2019年。)
前之園2016. 前之園亮一「厩戸皇子の名前と誕生伝承」『共立女子短期大学文科紀要』59巻、2016年1月。共立女子大学リポジトリ https://kyoritsu.repo.nii.ac.jp/records/3114
渡里2013. 渡里恒信「上宮と厩戸」『古代史の研究』第18号、2013年3月。

加藤良平 2024.8.31改稿初出

聖徳太子の髪型と疫病(えやみ)の関係について

 我が国における爆発的感染パンデミックの最初の記録は、崇神天皇の時代に遡る。卑弥呼の頃、三世紀初めと推測される。

 此天皇之御世伇病多起人民為盡(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1184138/1/17)
 天皇すめらみこと御世みよに、やみさはに起りて、人民おほみたから尽きなむとす。(崇神記)

 中国大陸では西暦220年に後漢が滅ぶ。国の混乱から逃れようとして朝鮮半島を過ぎ、列島へ渡る人もいたことだろう。風土病が伝染病となる契機である。伝染病のことを「伇病」といっている。和名抄に、「疫 説文に云はく、疫〈音は役、衣夜美えやみ、一に度岐乃介ときのけと云ふ〉は民の皆病むなりといふ。」とある。トキノケとは一時的に流行する病気の意味である。今日的表現では、集団免疫をつけて克服する病ということであろう。ほかに、「伇気え(やみ)のけ」(崇神記)、「疾疫えのやまひ」(崇神紀五年)、「疫病えのやまひ」(崇神紀七年十一月)などとある。疫の字は疫病、疫病神の疫である。記の真福寺本にある「伇」字は、万葉集にも「課伇えつき」(万3847)と見える。エはヤ行のエである。
 e(ア行のエ)……得、榎
 ye(ヤ行のエ)……兄、江、枝、柄、胞
 we(ワ行のヱ)……絵、餌、会、廻、恵
 中国で「役」字は、公役にあてられて家から離れて遠く赴き、戦争や土木工事に使役されることをいう。ヤマトコトバでは、「役」をエ、ないし、「つ」と続けてエタチという。各地から徴用され、そのうちの誰かが伝染病の病原体を持っていると、必然的にうつし合う集団感染、いわゆるクラスターを作り、一斉に発病、伝播する。よってエヤミという。「役」をエと訓むのは、「「疫」の中国北方の字音 yek の k の脱落したもの。」(岩波古語辞典201頁)からとされている。釈名に、「疫 伇なり。鬼行有るを伇と言ふなり」とある。「役」は、呉音にヤク、役所、役割、役者など、漢音にエキ、兵役、服役、現役、使役などと使われている。もともとの「役」の字は、彳は道が交差しているところの形、殳はほこを手で持っている様子を示している。よって、人が遠いところへ行かされてこき使われることを表す。古代日本では、溜池、道路、古墳、都城、大仏などを造らされたり、防人に行かされたとき、またその後も前九年の役、文禄・慶長の役、西南の役など、辺地での戦に駆り立てられたときに用いられた。
 古事記に見える「伇」字は、集韻に「役に同じ」とされるが、楊子方言に、「拌 棄つるなり。楚にては凡そ物を揮棄する、之れを拌と謂ふ。或いは之れを敲と謂ふ。淮汝の間、之れを伇と謂ふ」とある。管見であるが、「伇」字が太安万侶によって選択的に使われている理由については、今のところ検討されるに至っていない。
 エ(ye)というヤマトコトバの共通項を考えてみる。は、花を咲かせ実をつける部分で、収穫物が期待できる素敵なところである。分かれていくほどその数が増え、また、幹と違い折れやすい。は、海(湖)岸線が陸地のほうへのびているところで、潮の干満で水没を繰り返しており、船の停泊がかなう素敵な場所である。は、赤ん坊が生まれて後から出てくる後産あとざんで、胎児を包んでいた膜や胎盤のことである。懸命に新しい命が母胎から分かれ出ることを意識した言葉である。は、鎌、鋤、鍬の刃の部分につけたつか(束)である。柄杓の柄のように伸びていてつかみやすく使いやすいが、壊れやすくもあった。柄があるから刃を立てやすくなって農耕や土木は長足の進歩を遂げた。については、古代は末子相続であったため、兄弟の兄のほうは新しく家を構えて進出するフロンティアであり、大成功をもたらすことがあるものの大きなリスクを伴う存在でもあった。
 このエのついた形の髪型と思われるものがある。

 是の時に、厩戸うまやとの皇子みこ束髪於額ひさごはなにして、〈いにしへひと年少児わらはの年、十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にす。十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦然り。〉いくさうしろに随へり。(崇峻即位前紀用明二年七月是時)

 聖徳太子(厩戸皇子)の髪型は「束髪於額ひさごはな」である。ヒサゴは、瓠、匏などと書かれ、瓢箪のことをいう。上の記事は物部守屋と蘇我馬子の戦の場面での記述である。戦争に当たっては髪の毛が煩わしかったから、額部分に瓠の花のようなとんがった形に束ねていて不自然さはない。ちょうど十五六の年恰好の少年がする髪型なのだという。その後も武士は髪を一つにまとめ、さらに長くなるとそれを曲げてわげに結った。相撲取りも取っ組み合うのに危険なので束ねている。幕下ぐらいまでは髪が短く、部屋の兄貴分にならないと結えない。エ(ye)の髪型と言える。

左:ユウガオの花(しぼみかけ)、右:ユウガオの実(熟れきった状態、11月)

 瓢箪はウリ科で、花柄は瓢箪の実のお尻の部分になる。酒や香辛料を入れる瓶の役目を担わせた実をつける植物の名である。半分に割れば水を汲むのに便利な柄杓ひしゃくになる。もとの存在を離れて新しい価値のものになっていて、フロンティアの名として呼ぶのにふさわしい。作るに当たっては中の種子を腐らせて取り出す。戦のなかで命を落とすと敵に生首を取られ、手柄の証拠とされる。束髪の部分が柄のように握られた。やがて毛は抜け中身の脳みそ部分は腐っていく。ちょうど瓢箪と同じ過程を経てしゃれこうべができあがる。額の部分は、瓠同様、酒や水を汲む髑髏杯になった。
 つまり、「束髪於額」がエ(ye)にあたる。徴兵をエタチというのは床山がエを立てるからである。古代律令制において、徭役の要員には、正丁、すなわち、二十歳から六十歳の男子から選ばれた。それは、髪の長さにおいては子どもは短いから除かれ、髪の硬さにおいては女性は柔らかいから外され、髪の濃さにおいては老人は薄いから弾かれるということを表している。結おうにも結えないのである。成年男子だけがヒサゴハナに結うことが可能であった。紀に「古俗……今亦然之。」とあり、論旨に混乱があるとも受け取られかねない注が付けられている。髪型年齢はそのままに、成人年齢だけが十五歳から引き上げられたことの謂いであろう。
 太安万侶は、「役」ではなく「伇」字を好んだ。殳はホコツクリ、また、ルマタという。股は胯と同じである。夸は大きく広がっている様子を表し、足を広げれば跨ぐことになり、大げさな物言いをすれば誇ることになる。瓠とは、瓜の仲間で内側が大きく広がってうつろになったものである。殳=夸である。頭部の髪型を瓠の花のようにし、死しては瓢箪における器扱いをされてしまう頭をした人は楊氏方言にも適っていることになり、「伇」の字で表せばよいことになる。そのような髪型に結える人は村落のなかで兄貴分になったわけで、エ(ye)と呼ぶのにふさわしく、「伇」の字を使いエ(ye)と訓み宛てているのである。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹明広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
尾山2018. 尾山慎「「疫(え)」と「伇(え)」」「古代語のしるべ」第五回、三省堂、2018年。三省堂総合ホームページ https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kodaigo05
白鳥1925. 白鳥清「古代日本の末子相続制度に就いて」池内宏編『東洋史論叢─白鳥博士還暦記念─』岩波書店、大正14年。

加藤良平 2025.3.1加筆初出

記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について

 上代の伝承では、アマテラスのあめいは立て籠もり事件の解決に、シリクメナハが必須アイテムとして登場している。
 天の石屋に閉じ籠ったアマテラスは、外の不思議な気配に身を乗り出したところ、タチカラヲに引きずり出され、後ろにはしめ縄がかけられて戻れないようになった。しめ縄は、標縄、注連縄と書かれ、シメは占有のしるしをいう。神前において不浄なものの侵入を禁ずるために張ったり、立ち入り禁止のしるしとして張り巡らせたりした。今でも神社や神棚、地鎮祭で見られる。

 ……即ち布刀ふと玉命たまのみこと、尻くめ縄を以て其のしりわたして、白して言ひしく、「此より以内うちに還り入ること得じ」といひき。(記上)
 是に中臣神なかとみのかみ忌部神いみべのかみ、則ち端出之縄しりくめなは〈縄、亦云はく、左縄のはしいだすといふ。此には斯梨倶梅儺波しりくめなはと云ふ。〉ひきわたす。(神代紀第七段本文)
 則ち、天児あめのこ屋命やねのみこと太玉命ふとたまのみことひのつな〈今、斯利久迷しりくめなはといふ。是、日影のかたちなり。〉を以て、其の殿みや廻懸ひきめぐらし、大宮売神おほみやのめのかみをして御前みまへさもらはしむ。(古語拾遺)

 記の「尻くめ縄」は原文に「尻久米〈此二字以音。〉縄」とある。和名抄に、「注連 顔氏家訓に云はく、注連して章断すといふ〈師説に注連は之梨久倍奈波しりくべなは、章断は之度太智しとだち〉といふ。日本紀私記に端出之縄〈読みて注連と同じなり〉と云ふ。」とある。「章断しとだち」とは、葬送の時、死霊が家に中に帰って来ないように、出棺のあと門戸にしめ縄をひきわたすことをいう。
 各書に見られる特徴を整理すると、①名称はシリクメナハ、シリクベナハである。②端が出ている。③左に綯った縄である。④日影の形と関係がある、といった点が挙げられる。シメナハと言わずにわざわざシリクメナハと呼んでいるのには理由があるのだろう。八十万の神々が天の安の河原に参集していろいろ準備している。長鳴鳥を鳴かせる、採石・採鉄して鍛冶をする、鏡を作る、勾玉の玉飾りを作る、祝詞をあげる、鹿卜を行う、白幣・青幣も捧げる、植物で襷や髪飾りを作って飼葉桶をひっくり返した舞台で踊る、など、非常に用意周到である。では、最後にひき渡すためのしめ縄は、いつ用意したのか。その記述はない。最初からあったと考えるのが妥当であろう。

 日神ひのかみ新嘗にひなへきこしめさむとする時に及至いたりて、素戔嗚尊すさのをのみこと、則ち新宮にひなへのみやましの下に、ひそかに自ら送糞くそまる。日神、知ろしめさずして、ただみましの上にたまふ。是に由りて日神、みみこぞりて不平やくさみたまふ。(神代紀第七段一書第二)

 この箇所は、記には「亦、其の、大嘗おほにへきこす殿に屎まりちらしき。」、紀本文には「また、天照大神の新嘗きこしめさむとする時を見て、則ちひそか新宮にひなへのみや放𡱁くそまる。」とある。新嘗祭にあたり、板の間に席を設けるが、そこにスサノヲは大便をしている。スサノヲのいたずらについては、アマテラスは良いように捉えようと腐心している。他のいたずら、田のはなち、溝埋めは、田の面積を広げようとしたのだとアマテラスは解釈し直しており、一応は納得できる。天の斑馬ふちこま逆剥さかはぎにして忌服いみはたに投げ込んだのも、斑模様の衣を織るようにとの依頼とも取れなくはない。大便について、記は「屎の如きは、ひて吐き散すとこそ、」としているが、多少無理がある。スサノヲが大便をする場所と勘違いしたとすれば了解が得られやすいだろう。クソマルは、屎るの意であるが、マルは円(丸)と同音で、おまる(虎子)のことが連想される。座る場所でまるいところといえば、円座、すなわち、わろうだである。古語に「わらふだ(藁座、藁蓋)」という。和名抄に、「円座 孫愐に曰はく、〓〔艹冠に榆〕〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ひ、一に和良布太わらふだと云ふ〉はまるき草の褥なりといふ。」とある。藁でできた縄をまるく巻くようにして結いつけ、座布団状にしたものである。現在では、特に渦円座ともいい、神前や洒落た蕎麦屋などに置かれていることが多い。まるいから、古語拾遺の「日影之像」にも合致している。慕帰絵詞には円窓のふさぎとして使われている図がある。スサノヲは藁蓋をおまるの蓋だと思い、それを開けて大便をしたということになる。最終的に、その藁座をとっさに解き、しめ縄としてひき張ったのである(注1)。端がなかったものから端を出したから「端出之縄」と注されている。

左:竹の縁台簀子の上の円座(慕帰絵々詞模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590855/14をトリミング)、右:閑居の裏手の窓のふさぎ(同、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590851/11をトリミング)

 尻くめ縄のクメについては、記紀では神武、顕宗、また、万葉集に載る「来目(久米)部」、「来目(久米)のわく(若子)」を考え合わせなければならない。けの天皇すめらみこと[顕宗天皇]は、「目稚めのわく」(顕宗前紀)とも言った。播磨はりまの国司くにのみこともち来目くめべのだてとの関係からそう呼ばれたとされている。

  博通法はくつうほふ紀伊きのくにに往きて、三穂みほいはを見て作る歌三首
 はだすすき 久米の若子が いましける〈一は云ふ、けむ〉 三穂の石室は 見れど飽かぬかも〈一は云ふ、荒れにけるかも〉(万307)
  和銅四年辛亥、河辺宮人かはらのみやひとの姫島の松原に美人よきひとかばねを見て、哀慟かなしびて作る歌四首
 風早かさはやの 美保のうらの しらつつじ 見れどもさぶし 無き人思へば〈一は云ふ、或は云はく、見れば悲しも 無き人思ふに〉(万434)
 みつみつし 久米の若子が い触れけむ 磯の草根の 枯れまくしも(万435)

 中西2007.は、流竄を性格とするのが「久米の若子」の性格で、久米部が朝廷に仕えるようになって貴種流離の物語に加担する存在になっていくとする。また、三浦2003.も、クメノワクゴという名前には漂泊し放浪する少年のイメージがつきまとうと解している。仁賢(オケ)と顕宗(ヲケ)の兄弟が、受難を耐え忍んで後に凱旋するという物語が受け継がれて、紀伊や播磨の伝承へと転化して万葉集に残ったというのである。伝承が失われたと尤もらしく架空しているが、来目稚子と呼ばれたのは兄弟の一方のみである。
 弘計天皇のヲケ(ケは甲類)は、ヲ(緒)+ケ(異、ケは甲類)と聞こえたのであろう。緒はと同根の語で、撚り合わせた繊維のことである。その緒がなる状態であるとは、撚り方が通常とは異なるということか、使い方が通常とは異なるということだろう。今村2004.は、人の手で綯われたものの99%までは右綯で、神事と葬儀のみ左綯であるとする。そしてまた、緒の使い方が不思議なのは、藁縄が円座になっている時である。緒にはふつう両端があるはずのところ、緒がぐるりと巻かれてしまい端がなくなっている。つまり、ヲケとは、左縄のしめ縄や円座のことを意味している。弘計天皇は尻くめ縄と密接な関係があると考えられる。
 枕詞「みつみつし(ミは甲類)」は、「久米(来目)(メは乙類)」にかかる。万435歌のほか、記10(2例)・11・12歌謡、紀9歌謡に見られる。ミツは「稜威いつ」の音転として、軍事にかかわる久米氏の勇ましく勢いあることを褒めるものと考えられている(注2)。しかし、クメにしかかからない理由について説明されていない。

子をとろ子をとろの図(喜多川季荘・守貞漫稿、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592414/28をトリミング)

 クメにまつわる語に「ひふくめ(比比丘女、ヒ、メの甲乙は不明)」がある。別名を、子をとろ子とろ、ことろことろなどともいう。児童のする鬼ごっこ遊びのひとつで、一人は鬼、一人は親、他はすべて子となり、子は親のうしろにつかまって順に連なる。鬼は最後尾の子を捕えようとし、親はそれを両手を広げて妨げ、その攻防を楽しむ。すると、列の形は蛇行したり、渦巻きになったりする。ちょうど、円座のようになる。ヒ+フ+クメとあるのを+クメと聞いたとすれば、久米(来目)は「みつ(ミは甲類)」に当たるからミツミツシという枕詞を作りあげたと推定されるわけである(注3)。さらに、わらはの遊びだからわらと関係すると思い、クメは若子でなければ話にならないと考えられたと類推されるのである(注4)。藁とはもともと稲穂のことだから御穂みほにまつわると思われ、地名の「三穂」、「美保」から上掲の万葉歌二首はイメージされていったと解される。
 ヤマトコトバと呼ばれる上代語は、言語体系として完結するシステムとしてあった。一つの閉じた系である。外来の言葉を知っていなければ意味が通らないということなどなく、ヤマトの人の間で言葉づかいの片務性など存在しなかった。無文字時代において何の不自由も感じることなく、人々は互いに言葉を交わすことだけで十分にコミュニケーションがとれていた。言葉の下の平等が保たれていた時代であったといえる(注5)

(注)
(注1)この考え方では、しめ縄をほどいたときに屎がついていないかと疑われるが、ついていればいるほど触れないようにするご利益があったと捉え返される。
(注2)例えば、新編全集本古事記に、「いかにも勢いが強いの意。ミツ(厳)は、イツ(厳)と同源。」(154頁)とある。
(注3)神武天皇代の物語にいわゆる久米歌の件がある。紀から抜粋する。

 時に、道臣命みちのおみのみこと[大来目の帥]、乃ちちてうたよみしてはく、
 さかの 大室おほむろに 人さはに 入りりとも 人多に 来入きいり居りとも みつみつし 来目の子らが 頭椎くぶつつい 石椎いしつつい持ち 撃ちてし止まむ(紀9) といふ。時に我がいくさ、歌を聞きて、倶に其の頭椎剣くぶつちのつるぎを抜き、一時もろともあたを殺しつ。虜のまた噍類者のこるもの無し。皇軍みいくさ大きに悦びて、あめあふぎてわらふ。因りて歌して曰はく、
 今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子あごよ 今だにも 吾子よ(紀10)
といふ。今し来目部くめらが歌ひて後に大きにわらふは、是、其のことのもとなり。又歌して曰はく、
 蝦夷えみしを 一人ひだり ももな人 人は云へども 抵抗たむかひもせず(紀11)
といふ。此皆、密旨しのびのみことを承けて歌ふ。敢へて自らたうめなるに非ず。(神武前紀戊午年十月)

 「大室屋」は天の石屋を連想させる。久米歌の後に「咲(哂)ふ」のは藁と関係すると思うからだろう。「だり」が登場するのは、左縄と関係すると思うからだろう。「たうめ」と古訓にあるのは、産婆をいう「専女たうめ」、すなわち、「子取り」を思い起こすからだろう。「子取り」とは、ひふくめのことでも、産婆のことでもある。
 鎌倉中期の名語記に、ひふくめを比比丘女と当て、地蔵菩薩の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四部の弟子を、獄卒が奪い取ろうとする真似である講釈した説が載る。「トリヲヤガトラウトラウヒフクメトイヘルハ、獄(ママ)ガトラウトラウ比丘・比丘尼トイヘル義也」。佐竹2009.は、「ヒフクメということばを「比丘比丘尼云々」で説明した語源説」は、「荒唐無稽な附会でしかな」(320頁)いと断じている。寒川2003.は、「本遊戯[比々丘女]の日本への伝来時期は弥生時代以後が想定されてよい。なぜなら,東アジアでは本遊戯は鶏とかかわっているが,Eberhard……[Eberhard,W., The local cultures of south and east China, E.J.Brill : Leiden,1968.pp.431-32]による中国文化史では,鶏の習俗は,日本に水稲稲作をもたらすことになる揚子江下流域の越文化の要素があるからだ。つまり,本遊戯は越文化の地から直接にあるいは朝鮮半島南部を経て間接に日本にもたらされたものであり,仏教の民衆教化が盛んになる鎌倉時代のころに仏教化が果たされたものと考えられる。」(21頁)と結論づけている。いずれも、言葉と習俗、時代性を考えた見解である。批判の矛先として考えるなら、無文字社会において人々に共通の記憶として伝承されるものは、日々の生活に根づいた感覚と言葉であり、それに「比丘」という文字を当てては誤解するという点に尽きよう。
(注4)無文字文化の基調的な思考法として類推思考があげられている。レヴィ=ストロース1976.参照。
(注5)このあり方は「国家に抗する」(P・クラストル)言語というに等しい。お上に対する批判は時に洒落や地口をもって行われる。人々がひそかに隠し持つ頓智の力の発現である。

(引用・参考文献)
今村2004. 今村鞆「朝鮮の禁忌縄に関する研究(抄)」礫川全次編『左右の民俗学』批評社、2004年。
佐竹2009. 佐竹昭広「「子とろ」遊びの唱えごと」『佐竹昭広集 第二巻』岩波書店、2009年。
寒川2003. 寒川恒夫「鬼ごっこ「比々丘女」の起源に関する民族学的研究」『遊びの歴史民族学』明和出版、2003年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
中西2007. 中西進「古事記を読む 二」『中西進著作集 2』四季社、2007年。
三浦2003. 三浦佑之『古事記講義』文藝春秋、2003年。
名語記 経尊撰、北野克写『名語記』勉誠社、1983年。
レヴィ=ストロース1976. クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房、1976年。

加藤良平 2023.5.31改稿初出

天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─

 記紀にアマテラスがイハヤ(石屋・石窟)に籠る話がある。本稿では、そのイハヤのあり方とその話にまつわるヤマトコトバについて検討する。
 スサノヲの心が「善」いものか「あし」きものか判断するのに、天の安の河をはさんでウケヒ(誓約)合戦をしている。スサノヲは身勝手な解釈をして、勝った勝ったと言い張ってはさまざまないたずらを働く。アマテラスははじめのうちは咎めないで勘違いがあるのだろうと好意的な解釈をしていたが、しまいには天の石屋に籠ってしまう。

 かれここに、天照大御神あまてらすおほみかみかしこみ、あめいはの戸を開きて、刺しこもりしき。……是を以て、八百やほよろづの神、あめやすの河原に神集かむつどひ集ひて、……。……天手力男神あめのたぢからをのかみ、戸のわきかくり立ちて、……。是に、天照大御神、あやしと以為おもひ、天の石屋の戸を細く開きて、内よりらししく、……天照大御神、いよあやしと思ひて、やくやく戸より出でて臨み坐す時に、其の隠り立てる天手力男神、……尻くめ縄を以て其のしりわたして、まをして言はく、「此より以内うち還り入りまさじ」といひき。(記)
 此に由りて、発慍いかりまして、乃ち天石窟あまのいはやに入りまして、いはしてこもしぬ。……時に、八十やそ万神よろづのかみたち天安河辺あまのやすのかはらつどひて、其のいのるべきさまはからふ。……亦、手力雄神たちからをのかみを以て、磐戸のとわきかくしたてて、……。……乃ち御手みてを以て、ほそめに磐戸を開けてみそなは〔穴冠に視〕す。時に手力雄神、則ち天照大神あまてらすおほみかみの手を奉承たまはりて、引き奉出いだしまつる。……則ち端出之縄しりくめなは〈縄、亦云はく、左縄のはしいだすといふ。此には斯梨倶梅儺波しりくめなはと云ふ。〉ひきわたす。(神代紀第七段本文)

 天石屋(天石窟)に籠っている。「天石屋戸」、「磐戸」はあくまでも「戸」である。日本の玄関によく知られる外開きドアであろう。タヂカラヲはいかに力持ちでも、戸に取っ掛かり(ドアノブ)がないから開くことはできない。アマテラスは、外がにぎやかで気になって戸の隙間から窺ってみたが、全体の様子を見渡すことはできなかった。タヂカラヲは「隠-立戸掖」(記)、「立磐戸之側」(紀)っているから、アマテラスの視界には戸が遮りになって容易に隠れられていた。次いで、アマテラスはさらにドアを押し開いたので、その手を取って引きずり出した。その戸が引き戸であることは建具の歴史からもあり得ない。

「開天石屋戸」くこと

 記紀で若干の違いがある。記の原文に「開天石屋戸而刺許母理 〈此三字以音〉坐也」とある点を検討する。「天石屋戸を開きて、刺しこもり坐しき。」と訓める。西郷2005.に、「戸を開いてこもるといういいまわしは日本語としておかしい。書紀にも「天石窟に入りまして磐戸をしてコモしぬ」(本文ならびに一書)とあるし、ここは文句なく「閇」または「閉」であるべきところだと思う。もっとも伝来の諸本みな「開」とあるから、それを重んじようとするのは分る。しかしだからといって「開」をとるならば、文献学的誤謬(fallacy)に陥り、文献に忠勤をはげむあまりかえって日本語をないがしろにする結果になりかねない。」(129~130頁)とある。そして、本居宣長・古事記伝にならって「開」は、「閇」、「閉」の誤字としている(注1)。西宮1975.はこの説を批判し、元来閉じられていた戸を開いて内に入り、お籠りになったという意であると解している。その場合、「刺し」は下接する自動詞の意を強める接頭語で、自発的に籠ったことを表し、天石屋戸は閉じているのが常態だからわかり切ったことは書かないのであるという。この考えを踏襲して、新編全集本古事記も、「もともとは閉じている戸を開いてこもるのである。」(63頁)とする。筆者はこれらの議論に飽き足らない。天石屋戸は自動ドアなのであろうか。
 サシについて、(a)接頭語、(b)鍵をかける、の二義が考えられる。接頭語であったとしても元来の動詞の「さす(刺・指・挿)」に由来しており、原義を留めていることがある(注2)。垂仁記に、「に刺しいだしき。(刺-出城外。)」の例があり、勢いよく出たことを表すとされ、自動詞的接頭語に自動詞が下接し、強意の接頭語であると類型化されている。しかし、稲の俵を積み上げた防御壁から外へ出たのだから、突き抜け出たという方向性を保っている。さしあがる、さしのぼる、さし曇る、さし並ぶ、さし向かふ、さし寄る、など、軽い接頭語とされるが、方向としてまっすぐであることをニュアンスに持っている。アマテラスの「刺しこもり」のサシを接頭語とすると、石屋(石窟)の内でのお籠りの、動きのない状態とはそぐわないことになる。天石屋戸は、アマテラスが難なく開けることができたのに、力の強いタヂカラヲは開けることはできなかった。すなわち、サシは動詞である。「さす(閉・鏁)」は鍵をかけること、「戸さす」の鎖すに当たり、戸に刺して鍵をしめる意である。鍵を「しめる」は、扉の把手を紐で結わえて締めることに由来する語であろう(注3)

左:落とし桟(法隆寺金堂)、右:くるる鉤と唐戸の落とし桟の構造(向日市文化資料館再現展示)

 合田1998.は、古代日本における施錠具には、いわゆる海老錠と呼ばれるものと、くるるかぎやくいつなどと称されるものの二つに大別している(注4)。前者は錠前と鍵のセットで機能するもの、後者はL字状に大きく折り曲げた細長い鉄棒に木の柄をつけた鉤である。海老錠は、いわゆる観音扉につけられていたり、櫃の箱と蓋をさすのに用いられていた。廉価な神棚でも、飾り具として形だけ海老錠をつけているものが多い。一方、鉤は、戸に開いた鍵穴からしのばせて、内側のくるる、すなわち、落とし桟や、かんのき(閂、貫木、関木)(かんぬき)、または、かすがいを外側から操作するものであった。鍵穴の例としては、九世紀後半と目される埼玉県池守・池上遺跡の井戸枠転用の観音開き扉の片方の出土物があり、慕帰絵詞には引戸らしき戸につけられている図も残る。
 文献に見られる「鏁子」は錠前で、「鑰」、「鎰」はくるる鉤であるとされる。新撰字鏡に、「鑰 以灼反、開鑰、止佐志とさし」、「鏁着 戸佐須とさす」とある。和名抄には、「扃 野王案に扃〈音は経、度佐之とさし〉は戸扇の鉄鈕、内に用ゐ以て門をふさぐ所なりといふ。」とある。

 家にありし ひつかぎ刺し〔樻尓鏁刺〕 をさめてし 恋の奴の つかみかかりて(万3816)
 群玉の くるに釘刺し〔久留尓久枳作之〕 固めとし 妹が心は あよくなめかも(万4390)
 かど立てて 戸もしたるを〔戸毛閇而有乎〕 いづゆか 妹が入り来て いめに見えつる(万3117)
 門たてて 戸はしたれど〔戸者雖闔〕 盗人の 穿れる穴より 入りて見えけむ(万3118)
 …… 隣の君は あらかじめ 己妻おのづまれて 乞はなくに かぎさへ奉る〔鎰左倍奉〕 ……(万1738)

 万葉集の一例目は海老錠に鍵をかけること、二例目は枢に釘を刺して戸を開かなくした意、三例目は内側から戸をしめている。四例目も同様ながら下の句に「穴」とあり、鍵穴からの連想とも感じられる。盗人は地面に穴を掘って鍵を無効にしたとも考えられるが、鍵穴から侵入した話としては崇神記の三輪山伝説がよく知られる。ここに、サスとあるのは、細いものを穴に差し込むことで、三・四例目の戸の鍵も枢である可能性が高い(注5)。五例目は、鍵を持つことが主婦の象徴とされたことを示すもので、戸を支配する者から主婦のことをぬしの転で刀自とじという。記紀に見える「鉤」の例には次のようなものがある。

 故、をしへの如くして、旦時あしたに見れば、針に著けるは、戸の鉤穴かぎあなよりき通りて出で、唯に遺れる麻は三勾みわのみなり。(崇神記)
 故、訶和羅之かわらのさきに到りて沈み入りき。故、鉤を以て其の沈みし処を探れば、其のきぬうちよろひかかりて、訶和羅かわらと鳴りき。故、其地そこを号けて訶和羅之前と謂ふ。(応神記)
 門毎かどごとに水をるる舟一つ、かぎ数十とをあまりを置きて、火のわざはひに備へ、恒に力人ちからひとをしてつはものを持ちて[蘇我の]家を守らしむ。(皇極紀三年十一月)

 一例目は「鉤穴」とあり、鉤の存在が確認される。鉤がくるる鉤であるところから、曲っていることを示し、麻が勾(輪)に残っているように記している。二例目、三例目はL字状の道具のことで、どこか特定の鍵として用いられているものではない(注6)。先の曲った金属の棒の転用可能性を示している。
 以上のことを踏まえれば、記に「開天石屋戸而刺許母理〈此三字以音〉坐也」とあったのは、アマテラスが天石屋戸の鉤を持っていて、それを使ってロックを外して戸を開け、中に入ってから再びロックしたと考えることができる(注7)。神社の本殿の鍵を預かる人のことを鍵取り、鍵主、鍵預かりといい、創始に深くかかわった家の人が世襲することがあった。刀自が家の鍵を預かるのに似ている。すなわち、アマテラスは天石屋の戸主、ないし、創始者ということであろう。
 記の話の進め方は巧みである。記で「天石屋戸」、つまり、石屋の戸と考えているものが、紀の場合、「磐戸」、つまり、戸が磐のように堅固なものと形容している。この形容は、ひとつには、戸自体は壊すことができない堅牢な鎧戸のようになっていることを表すものであろう。むろん、戸(トは甲類)は、あくまでも出入口である。和名抄に、「戸 野王案に、城郭に在るをかどと曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとす。」とある。地勢的に出入口のようになっているところもトという。

 天離あまざかる ひなながゆ 恋ひ来れば 明石のより 倭嶋やまとしま見ゆ(万255)

 逆に言うと、出入りができなくなれば、それは戸ではなくなる。「磐戸」は、一見、形容矛盾であるが、堅牢で鎖す機能に優れて動かないけれど、出入りするときには動かすことができることを言っている。それこそが鍵の機能である。正倉院文書に、「不動鎰」、「常鎰」、「挙鍵」、「久留理鍵」、「折鍵」などとあり、その実態は特定できないものの表現したかったイメージは伝わってくる。
 天石屋戸(磐戸)にどのような鍵の機能があるか考究することは、いつ頃の人がその伝承を創作したかを知るヒントになる。今日、記紀のなかの「神話」(注8)と称されるものを、歴史学、考古学、文化史学、そして何より言葉から読み解いていくことであり、それこそが総体としての古代研究の醍醐味である。

イハヤに籠ることと救世観音

 「あめいは天石窟あまのいはや)」のイハは堅牢なさまを表す。天孫降臨条に「あめ石位いはくら(天磐座)」とあって、堅くて確かな神の御座所のことを表している。イハクラのイメージは、山の尾根、馬の背と呼ばれるところに当たる。また、「あまのいは樟櫲くすぶね」、「あま磐境いはさか」、「あめ石靫いはゆき」なども同様である。したがって、イハヤとは、堅固な家屋か岩窟のようなところである。岩窟のことはムロ(窟、室)ともいう。

 是の日に、御窟殿みむろのとのの前におはしまして、倡優わざひとどももの賜ふことしな有り。亦歌人うたひと等に袍袴きぬはかまを賜ふ。(天武紀朱鳥元年正月)
 丙寅に、浄行者おこなひひとななたりを選びて、出家いへでせしむ。乃ち宮中みやのうち御窟院みむろのまち設斎をがみす。(天武紀朱鳥元年七月)
 室〈無戸室附〉 白虎通に云はく、黄帝、室〈音は七、无路むろ〉を作り、以て寒暑を避くといふ。日本紀私記に無戸室〈宇都无路うつむろ〉と云ふ。(和名抄)

 僧坊、庵室のことも「むろ」(孝徳紀白雉四年五月)という。天武紀の記事は「神話」とされる天石窟のやりとりを再現したものといえよう。そして、イハヤ、ムロと仏教との関わりもにおわせる。石屋(石窟)が堅固な家屋とするなら、屋根が石材系の瓦葺きであることに対応している。瓦葺きの屋根は当時珍しく、天皇の宮殿でさえ飛鳥板蓋宮あすかのいたふきのみやと断っている。寺院建築に先行しており、斎宮忌詞では寺院を「瓦舎かはらや」という。すると、天の石屋条の話は、アマテラスが瓦葺きの寺に籠ってしまったので、アニミズムの神々が集まって安の河原で引き戻そうと談じたものであるとの解釈も成り立つ(注9)。「やす」は八洲やすで、たくさんの洲のある河原のこと、水を間にしているので神さまたちは互いに喧嘩することがない。
 籠って何かをしようとした著名人は聖徳太子である。法隆寺東院の八角円堂を、いま、夢殿と呼ぶのはその名残である。彼はお堂に籠り、良い知恵が浮かぶのを待っていた。瓦を載せたこじんまりとしたお堂は、金堂や五重塔などの大建築とは異なり、僧坊的、石屋的な印象がある。彼の名はイハヤトに似たウマヤト(厩戸皇子)である。夢殿に安置されている仏像は救世観音である。フェノロサが開くまで長く秘仏とされてきた。扶桑略記に、「百済国の客日羅来朝す。身に光明有り。状火焔の如し。廐戸王子相会ひて清談す。日羅合掌して言へらく、「敬礼救世観世音、伝燈東方粟散国」といへり。」(敏達天皇十二年)、日本往生極楽記に、「母妃皇女夢むらく、金色の僧あり謂ひて曰く、吾に救世の願あり、願はくば后の腹に宿らむ。妃問ふ、誰とか為す。僧曰く、吾は救世菩薩なり。家は西方に在り。」、法隆寺東院縁起に、「則ち八角円堂に太子在世に造り給ふ御影、救世観音の像を安置す。」などとある。太子は救世観音であり、救世観音像は太子の等身大像と言われている。
 救世観音の救世とは世の衆生を救うことで、特に観音のことをいう。いわゆる観音経に、「観音妙智力、能救世間苦。」とあることに由来する。法隆寺ではクセ、四天王寺ではクゼと呼び慣わされている。そもそも観音は、「若し無量百千万億の衆生有りて、諸の苦悩を受けん。是の観世音菩薩を聞きて一心に名を称せば、観世音菩薩は即座に其の音声おんじやうを観じて、皆解脱することを得せしめん。(若有無量百千万億衆生受諸苦悩。聞是観世音菩薩。一心称名。観世音菩薩即時観其音声皆得解脱。)」(妙法蓮華経・観世音菩薩普門品)とあるによるとされる。観ることに主眼を置いた仏さまである。実際には見えないこと、未然のことまで観るためには夢に見るのが一法である。だから、お籠りをして眠るのである。
 クセには曲瀬、すなわち、川の浅瀬の砂や石が多く集まったところの意味がある。

 たま久世くせの 清き川原に 身祓みそぎして いはふ命は 妹が為こそ(万2403)

 「玉久世」は地名とされる。「山城の 来背くせの社」(万1286)、「山城の 久世の鷺坂」(万1707)、「山城の 来背くせわく」(万2362)などともある。今の木津川、もとは泉川と呼ばれた川に面した地である。新撰字鏡に、「〓〔灘の隹の代わりに鳥〕灘 同、正、呼早[旱?]反、しをるるかたち也。水にれ乾く也。又かわく為にるる也。涒に同じ。歳申に在る也。加波良かはら久世くせ、又和太利世わたりせ、又加太かた」(天治本)、「灘 佗単反、平、又勅丹・恥叚二反。砂聚まる也。浅き水顕るるを曰ふ也。一に曰はく、大歳申に在り。涒灘とんだんを曰ふ。加波良、久世、又和太世わたせ、又加太」(享和抄本)とある。涒灘は太歳にさるに当たる。詩経・王風・ちゆう谷有蓷こくいうたいに、「中谷にたい有り 其の乾けるを暵かす(中谷有蓷 暵其乾矣)」とあり、蓷(メハジキ)が水切れでしおれるさまを歌っている。つまり、クセとは河原である。お堂に救世の観音があるとは、「かはら」のなかに「河原かはら」があるようなこと、すなわち、河原と瓦とは同じことだということである。河原は見た目に、瓦同様、石ころがごろごろして、それに直射日光が当たってきらきら光っていることだけでなく、建物を瓦葺きにするのは防火の要請によるもので、河原において消火用水に恵まれることと同じことなのである。河原で禊ぎをして潔斎のために夜明かしすることと、お堂にお籠りして過ごすことは、心のお勤めにおいて同じことである。
 新撰字鏡の親切な説明は、衒学のためではなく、古代の言葉を理解するために必要な事柄を記したもので、辞書として面目躍如たるものがある。
 吉田2008.は、玉川、玉浦、玉江とあるようなタマには、「拾い集める宝石・貝などのタマもあるが、……迂回する・くねりめぐる意の動詞タム(回・曲、自動詞四段)の活用形タマの名詞化したもの」(156頁)ということもあると地勢の上に見ている。筆者は、語の展開という意味ではなく、上代の人の言葉遊びに大いにあり得ることだと考える。すなわち、タマクセ(玉久世)は、まわりまわり、めぐりめぐる渦の状態を同語反復的に示す言葉になっている。念の入ったところで念じているという諧謔を歌っている(注10)。木津川が北流へと屈曲する部分を渦が巻くようだと感じたのかもしれない。

左:木津川の「久世」の「空中写真(1945年~1950年)」(国土省国土地理院「地理院地図(電子国土web)」http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.68001,139.778066&z=16&base=std&ls=ort_USA10&vs=c0j0l0u0をトリミング) 右:タマ川の河原(曲っているところは石が堆積している)

 天の石屋は、説話にあって唐突に出現したように思われている。しかし、スサノヲのいたずらのなかに「天の斑馬ふちこま」を投げ入れることがあり、また、石屋の前でアメノウズメが躍った舞台は、「うけを伏せて」作っていた。転がっていたウケ(ケは乙類)とは飼葉桶のことであろうから、石屋は厩を想定したものであったろう。厩と観音堂の共通点は、中に入っているものが大切なものだから鍵をかけること、湿気を嫌うものだから中を板敷にすること、そして、そこで寝ることなどがあげられる。厩の守り神が猿とされ、扉の鍵の落とし桟の別名は猿である。サルのおかげで中で安心して眠ることができる。クセなる涒灘は、太歳に十二支のさるの別称であった。
 安眠、熟睡のことを、「やす」、「うま宿」という。坂本1972.は、ヤスイは一人寝の安眠、ウマイは男女の共寝の相違と捉えている。万葉集にヤスイは、「またも近江の 安の河 安寐も宿ずに〔安寐毛不宿尓〕」(万3157)、「安寐も宿しめず〔安寐不令宿〕」(万4177)、「安寐なしめ〔安宿勿令寐〕」(万4179)、「安寐しさぬ〔夜周伊斯奈佐農〕」(万802)、「安寐も寝ずて〔夜須伊毛祢受弖〕」(万3633・3771)とある。他方、ウマイは、「人の寐る 味宿は寐ずて〔味宿不寐〕」(万2369)、「人の宿る 味宿は寐ずや〔味宿者不寐哉〕」(万2963)、「人の寐る 味宿はずて〔味眠不睡而〕」(万3274)、「人の寐る 味宿は宿ずに〔味寐者不宿尓〕」(万3329)とある。また、「ししくしろ 味宿ねしとに〔于魔伊禰矢度儞〕」(紀96)ともある。シシクシロは「宍串ろ」、肉の串刺しから美味いを導くとされている。ウマイに「人の寐る」と冠するのは、対するヤスイが安らかな眠りのことながら、天のやすの河原のことから神々の眠りを連想させるからであろう。すなわち、八洲やすによって水に隔てられているから、八十万(八百万)の神々は喧嘩せずに参集できており、眠る時もそれぞれ邪魔されずに安眠できた。よって、ヤスイは一人寝と考えて正しい。この河原のことに対して、瓦の載った建物でよく眠れるのは、神のことではないから「人の寐る 味宿」といい、対照的に共寝のことを表したのではなかろうか。石屋(石窟)と似ているものとしての畜舎としての厩は、馬医草紙絵巻の図に瓦葺きが認められ、官衙の駅家に多く瓦の出土例を見る。馬は複数、時に十頭以上が共寝する。ウマイは馬寐としても機能している。
 天の石屋は観音堂さながらの構成をしている。観音像が堂内に安置されている状態は、厨子に収められているのと同じである。厨子はもとは両開きの食器戸棚であったが、玉虫厨子や橘夫人念持仏厨子のように、仏像を安置する仏龕のこともそう呼ばれるようになった。厨子のヅは慣用音で、また、竪櫃とも呼ばれる。扉は両開きで、観音開きと称されている。仏龕の龕は、岸壁や仏塔の下に彫りこんだ室のことを言った。まさに石屋(石窟)である。法隆寺五重塔の仏龕には釈迦の一生が彫塑されている。家具としての厨子も、正倉院に残る赤漆文欟木厨子を見ていると、ケヤキの木目模様から石窟の印象を与えられる。つまり、観音堂は石窟であり、厨子である。

厨子づしつじ

 故、八十万の神を天高市あまのたけちかむつどへつどへて問はしむ。(神代紀第七段一書第一)

 記、紀本文の神々の参集の場所は「天安之河原(天安河辺)」であった。そのとき、かはら河原かはらとが同等であることを示していた。一書第一に「天高市」が出てくるのは、厨子づしつじとが同じということを示すものであろう。水がかりしない高いところに物品を持ち寄って集まり、市が開かれたところを指して「高市たけち」と言っている。籠り堂となる観音堂も高く険しくそびえる岩窟を利用したり、基壇の上に設けられている。高いところから飛び降りる勇気の形容として使われる清水の舞台のような構造物を伴うこともある。

 海石榴市つばいちの 八十やそちまたに 立ちならし 結びし紐を 解かまく惜しも(万2951)
 紫は 灰指すものそ 海石榴市の 八十の衢に 会へる児やたれ(万3101)
 言霊ことだまの 八十の衢に 夕占ゆふけ問ふ うらまさる 妹はあひ寄らむ(万2506)
 …… 百足らず 八十の衢に うらにもそ問ふ 死ぬべき吾が故(万3812)

 交差点になったところに市は開かれ、四つ辻に立って往来の人の言葉を聞いて物事を占った。ゆふ辻占つじうらである。占いは未然のことを観ることである。観音という語が依ってたつ意と同じである。お籠りとは、未然のことを知る知恵を授かるためのものである。すなわち、籠り堂、「厨子づし」は、衢のことをいう「つじ」と同等である。天孫降臨に先立つ場面やイザナミの死ぬ場面に次のようにある。

 「天の安の河の河上の天の石屋に坐す、名は伊都之尾いつのを羽張神はばりのかみ、是つかはすべし。若し亦、此の神に非ずは、其の神の子、建御雷たけみかづち男神をのかみ、此遣すべし。また、其の天尾羽張神あめのをはばりのかみは、さかしまに天の安の河の水をき上げて、道をふさるがゆゑに、あたし神は行くこと得じ。故、こと天迦久神あめのかくのかみを遣して問ふべし」(記上)
 時に、天石窟に住む神、稜威いつの走神はしりのかみみこ甕速日神みかのはやひのかみ、甕速日神の子熯速日神ひのはやひのかみ、熯速日神の子武甕槌神たけみかづちのかみす。(神代紀第九段本文)
 故、斬れるたちの名は、あめ尾羽張をはばりと謂ふ。亦の名は、伊都之尾羽いつのをはばりと謂ふ。(記上)

 「所斬之刀」とは、カグツチを斬った十握剣とつかのつるぎのことを言っている。それが天の石屋にあるという。石屋には厨子があったはずだから、ヲハバリ、ないし、ヲハシリとは、ヅシやツジと関係があることになる。
 新撰字鏡に「躑 馳戟都歴二反、蹢字同、踦也、躅也、乎波志利をばしり」とある。漢語の躑躅テキチヨクは、行っては止まりすること、二、三歩行っては止まること、さらに、片足跳びのケンケンのことをいう。武烈前紀に、「躑躅たちやすら従容たちほこる。」とある。この熟語はまた、ツツジとも訓む。植物のツツジの語源は明らかでないが、和名抄に、「羊躑躅 陶隠居に云はく、羊躑躅〈擲直の二音、伊波都々之いはつつじ、一に毛知豆々之もちつつじと云ふ〉は羊、誤りて之れを食ひ躑躅して死ぬ、故に以て之れを名づくといふ。」とある。今日、レンゲツツジと呼ばれる種とされている。アセビが古語に「あしび」、万葉集に「馬酔木」とも書かれ、馬がこの葉を食べるとすぐに酔うから名づけられたとするのと同様とされている。和名のあしびについては、あししひ(癈)の意かとされている。葉や茎の煎汁を駆虫剤にし、ピクニックの敷物に含ませて活用した(注11)
 羊には、仏教に「羊の歩み」という慣用句があり、源氏物語・浮舟にも使われている。大般涅槃経に、「是の寿命を観ずるに、常に無量の怨讎の遶る処と為り、念念に損減して増長する有ること無し。猶ほ山の瀑水の停住するを得ざるがごとく、亦朝露の勢久しくは停まらざるが如く、囚の市に趣きて歩歩死に近づくが如く、牛羊を牽きて屠所に詣るが如し。(観是寿命、常為無量怨讎所遶、念念損減無有増長。猶山瀑水不得停住、亦如朝露勢不久停。如囚趣市歩歩近死、如牽牛羊詣於屠所。)」(巻第三十八)とある。羊は生贄に捧げられるべき動物とされていたことによるという。すなわち、囚人同様、市中引き回しのうえ獄門である。死のことである涅槃と密接な関係にあると捉えられており、見せしめのために首をさらされる刑場は、人々の集まる河原や大路の交差点であり、辻に牽かれるからヒツジと和訓に名づけられたと考えられる。く、羊とも、ヒは甲類である。推古紀七年九月条に、「百済、駱駝一匹・うさぎうま一匹・羊二頭・白雉しろきぎす一隻を貢れり。」と、本邦に棲息しないものが献上されている。他に、雄略紀二年十月条に、「遂に林泉しま旋憩めぐりいこひ、藪沢やぶさは相羊もとほりあそび、行夫かりひとやすめて車馬みくるまかぞふ。」とある。車輪のだんだん止まっていく様を形容している。
 歩みが遅くなることは、足の病気、アシナヘである。新撰字鏡に「癖 疋亦反、入、腹内癖病也、あし奈戸なへ也」、「䮿 才安反、あし奈戸久なへぐうま」、和名抄に「蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓は阿之奈閇あしなへ、此の間に那閇久なへぐと云ふ〉は行くこと正しからざるなりといふ。」とある。蹇の音がケンなので片足跳びをケンケンというのかもしれない。名義抄には「癖 音へき、ヒヤク、クセ、宿食不消」とある。消化不良の病の字とされ、腹が痛いから脚を曲げて痛みをこらえている形になる。つまり、救世観音のクセとは、「久世」と記された曲瀬ばかりでなく、ツツジを食べて「足なへ」になった羊のことでもあることになり、漢語、躑躅の意とオーバーラップしている。厨子とは辻なのである。
 万葉集では、ツツジバナの用字に「茵花」(万443、3305)とあり、和名抄に「茵芋 本草に茵芋〈因于の二音、迩豆々之につつじ、一に乎加豆々之をかつつじと云ふ〉と云ふ。」、新撰字鏡に「槃 上字同、豆々自つつじ」、「茵芋 岡豆々志つつじ、又云、伊波豆々志いはつつじ」、「羊躑𨅛花 三月に花を採り陰干しにす、毛知豆々自もちつつじ」とある。槃は般に通じ、めぐる、もとほるの意である。茵芋(茵蕷)(注12)は本草経集注に記載がある。茵はしとねである。説文に「茵 車の重席ちようせきなり、艸に从ひ因声」とあり、儀礼・燕礼・大射礼に「司宮、重席をあはせ捲き、賓の左に設けて東を上とす。(司宮兼捲重席、設於賓左東上。)」とある。この座布団は、円座、藁蓋のことと思われたのであろう。縄をまるく巻き、それを車状にとめたものである(注13)。ツツジのツツは、ハブを表すこしきの異称、「筒」のことと考えられたのではないか。羊躑躅のこととされるレンゲツツジをはじめツツジの特徴として、枝が車枝になることが知られる。剣の神が縄の変形であるのは、剣に蛇身を見るからで、蛇はまたクチナハといい、朽ち縄の意かという。馬の毛に見られる旋毛つむじを巻くように、蜷局とぐろを巻いたようになっている。渦巻く様子は円座、藁蓋を髣髴とさせる。したがって、ヲバシリとはツツジである。
 また、「尾羽張」については、つむじ風のとき、鳥は尾、羽をピンと張る。和名抄に「飆 文選詩に云はく、廻飆、高樹を巻くといふ〈飆の音は焱、和名は豆无之加世つむじかぜ〉。兼名苑注に云はく、飆は暴風下より上るなりといふ。」とある。「飄風」(神功前紀仲哀九年三月)、「飃」(万199)、「猛風〈川牟之加世つむじかぜ〉」(霊異記上34)、名義抄に「辻 ツムシ」とあり、馬の旋毛のこともいい、ツジの古形、ないしは同形とされている。やはりぐるぐると巻きあげるイメージである。そして、旋風が起こりやすいのは河原である。水の上と地の上では太陽熱による気温上昇に違いがあり、大気の状態が不安定化しやすい。よって、「尾羽張」と「雄走」とは同じ意味でひとつの言葉、ツジを表し、厨子の変改したものであることを語っている。記では「逆塞-上天安河之水」とある。河の水を堰き止めてダムにすることが「逆」になるには、道具の用法が通常とは反対という意味であろう。円座は、藁蓋なる蓋であるから、上から被せ敷くのが順当なところ、逆に下から持ち上げる形で排水溝にあてがって塞ぐことを言っている。つむじ風が下から上へと逆方向に吹くと、葺いてある屋根瓦が剥がれ飛ぶ。厨子に当たる石屋(石窟)に籠っていたアマテラスは覚悟して再度現れることになっている。ヤマトコトバの言葉の論理のキー、癖のある曲った鉤が開いたということである。論理階梯を踏み越えて和訓が定まった瞬間を物語る説話になっている。
 この話は、枢戸があり鉄製のくるる鉤があること、馬がいて厩の様子がわかること、瓦をカハラとヤマトコトバに理解して瓦葺きの建物を見ていること、観音ならびに観音堂のことを知っていること、といった条件が揃ってはじめて生まれるものである。お堂に籠ることが伝承で聖徳太子に結び付けられている以上、この話は太子によって創られたか、その周辺の産物と見るのが確からしい。相当な知恵をもっての作であることから考えて、並大抵の頭脳ではなかったとされる聖徳太子その人に起因するものと筆者は考える。それを外側から証明する術はない。しかし、言葉の上では、話の内側から完結的に自己定義して閉じた一つの系を得ている。文字を持たなかった人たちが知恵を駆使してすべてを話のなかに落し込みくるみあげてしまったものが、たまたま文字時代の幕開け期に書記化されて記紀の形で残っている。異なる文化圏の異なる考え方による傑作として迎えられなければならない。

(注)
(注1)「○閇、旧印本延佳本共に開とカケるは誤なり、今は一本に依つ、さて多弖々タテテと訓むべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/200、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注2)時代別国語大辞典329頁。
(注3)正倉院の扉は海老錠のうえに封印することで知られる。
(注4)カギとしては、開き戸のあおりどめも絵巻等には見られるがここでは割愛する。
(注5)鎹は掛金とも呼ばれ、その場合は鍵は「かける」ものであろう。
(注6)くるる鉤の場合、長さや曲り具合の角度を調節すればにわか作りのものでも開かないことはない。鍵開け師がどこでも使えるマスターキーとして持ち合わせていたと思えばよいだろう。
(注7)倭姫命世記には、「天の磐戸のかぎあづかり賜はりて」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018230/9?ln=ja参照)とある。
(注8)「神話」という言葉は myth の訳語として明治時代中期に発明されたものである。その呼称に囚われて、神さまのことだから人がすることとは別次元であり、空想の産物であると考えるのは不適切である。
(注9)岩窟に籠る修行も仏教由来かと感じさせられる。この話が創作されたのは、案外新しく、少なくとも弥生時代まで遡ることはできないだろう。
(注10)「玉久世」について、山田1955.は、「按ふに[新撰字鏡]天治本の注の「カハラ」と「クセ」とは二語にして同義のものなるべし。「クセ」といふ語はこれの外に普通には見えねど、地名には山城国に久世郡、久世郷あり。その地は蓋、木津川の渡瀬のありし所なるべし。又巨勢と云へる地名もこの「クセ」の一転せし語ならむ。さてこの歌[万2403]を顧みるに「玉久世」は字のまゝに「タマクセ」とよみ、その久世即ち河原の石の清きを玉になぞへて称美したる語なるべく清き河原といへる語に対して重ねていへる語にして殆ど枕詞といふべき位置に立てりと認むべし。さればこの歌たゞ清き河原に身祓きして妹が為に斎ふといふに止まれるに似たり。」(147頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注11)今日、鹿の食害に悩まされ、庭園のツツジの新芽、花の芽は食べられるため、代りにアセビが植栽されることがある。
(注12)木下2010.378~381頁はシーボルトの標本をも引き、「茵芋」はミヤマシキミではないかと推論している。
(注13)和名抄に「茵〈褥附〉 野王曰はく、茵〈音は因、之土祢しとね〉は茵褥、又、虎・豹の皮を以て之れを為るといふ。唐韻に云はく、褥〈而蜀反、辱と同じ、俗に音は迩久、今案ふるに毛の席の名なり〉は氊褥なりといふ。」、「円座 孫愐に曰はく、䕆〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ひ、一に和良布太わらふだと云ふ〉は円い草の褥なりといふ。」とあり、別項ながら「褥」の一種として円座を捉えている。拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」参照。

(引用・参考文献)
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山田1955. 山田孝雄『万葉集考叢』宝文館、昭和30年。
吉田2008. 吉田金彦『吉田金彦著作選2 万葉語の研究 下』明治書院、2008年。

加藤良平 2023.5.31加筆初出

大化改新を導いた「打毬」記事について─蹴鞠かポロかホッケーか─

皇極紀の「打毱」記事

 皇極紀にある「打毱」は、中臣鎌足なかとみのかまたり中大兄なかのおほえとが厚誼を通ずるきっかけとなった出来事として有名である。脱げた靴を拾ってあげたことが感動的な出来事として扱われてきた(注1)。二人は出会い、後に大化改新へとつながった。藤氏家伝には「蹴鞠」とある。

 ……中臣鎌子なかとみのかまこのむらじを以て神祇伯かむつかさのかみす。再三しきり固辞いなびてつかへまつらず。やまひまをして退まかりいでて三嶋にはべり。……中臣鎌子連、為人ひととなり忠正ただしくして、ただすくふ心有り。乃ち、我臣入がのおみいる鹿が、君臣きみやつこらま長幼このかみおととついでを失ひ、社稷くに𨶳〓うかが〔門構に視の旧字、門構に俞〕ふはかりことわきばさむことをいくみ、歴試つたひて王宗きみたちみなかまじはりて、功名いたはりを立つべき哲主さかしききみを求む。便すなはち、心を中大兄なかのおほえに附くれども、䟽然さかりて未だ其の幽抱ふかきおもひぶることず。たまたま中大兄の法興ほふこうつきの樹のもと打毱まりくうるともがらくははりて、皮鞋みくつの毱のまにまに脱け落つるをまもりて、掌中たなうらに取りちて、すすみてひざまづきてつつしみてたてまつる。 中大兄、むかひざまづきてゐやびてりたまふ。これより、むつみして、倶におもへるを述べ、既にかくすこと無し。後にひとしきりまじはることをうたがはむことを恐りて、倶に手に黄巻ふみまきりて、自ら周孔しうこうのり南淵先生みなぶちのせんじやうもとに学ぶ。遂に路上みちのあひだ往還かよころほひに、肩を並べてひそかに図る。相かなはずといふことなし。(皇極紀三年正月)
 更欲君。歴-見王宗。唯中大兄雄略英徹。可与撥_乱。而無参謁。儻遇于蹴鞠之庭。中大兄皮鞋随毬放落。太臣取捧。中大兄敬受之。自茲相善倶為魚水。(家伝上・鎌足伝、天平宝字四年(760))

 大系本日本書紀に、「毱は鞠に同じで、まり。打毱は打毬をもいう。打毬には二義があり、一に騎馬で曲杖をもって毬をうつポーロ風の遊戯をいい、荊楚歳時記や史記正義では、蹴鞠(けまり)をいうという。蹴鞠は数人が一団となり、両団が相対して、まりを蹴る競技。競馬の打毬は平安朝に行われたが、ここのは蹴鞠のこと。家伝に「儻遇于蹴鞠之庭」とある。クウルの訓、岩崎本の古い朱の傍訓による。蹴の古い活用は、奈良時代の蹴散、クヱハララカスに見られるように、ワ行下二段活用。ここは、その連体形でクウルの実例とみるべきもの。」(217頁)と適切な解説が付されている。一方、新編全集本日本書紀には、「「打毱」は『和名抄』にマリウチの訓がある。蹴鞠けまりとは異なり、打杖で毱まりを打って勝負を争う、今日のポロまたはホッケー風の競技。本条もこれであろう。」(86頁)とある。新編全集本が引くのは、狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に所載の和名抄である。「打毬 唐韻に云はく、毬〈音は求、打毬は内典に或に之れを拍毬と謂ひ、萬利宇知まりうちと云ふ。〉は、毛丸打つ者なりといふ。劉向別録に云はく、打毬は昔、黄帝の造る所なり、もと兵勢に因りて之れをつくるといふ。」とある。他の十巻本諸本にはその記述はなく、「蹴鞠 伝玄弾棊賦序に云はく、漢の成帝之れを好むなりといふ。〈世間に末利古由まりこゆと云ふ。蹴の字は千陸反、字は亦、蹵に作る。公羊伝注に、蹴鞠は足を以て逆に蹈むなりと云ふ。〉」とある。大系本の注にあるとおり、「打毬」には二義あって、後にダキュウと呼ばれるポロ風の競技と、今日まで伝わる蹴鞠とが一つの漢語で表されていた。狩谷棭斎もそう考えている(注2)

ダキュウのこと

 ダキュウは、西宮記六・五月「幸武徳殿」に、「打球者四十人列殿前再拝、雅楽挙幡奏楽。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200019272/198?ln=ja)などと記されるとおり、左右楽を伴って華やかに賑やかに騒々しく行われる宮中行事として伝わっている。その最初の記事は万948・949番歌の左注にみえる。

  四年丁卯の春正月、もろもろおほきみ・諸の臣子おみのこ等にみことのりして、授刀寮じゆたうれう散禁さんきんせしめし時に、作れる歌一首〈并せて短歌〉
 くずふ 春日かすがの山は うちなびく 春さりゆくと 山のうへに 霞た靡き 高円たかまとに うぐひす鳴きぬ もののふの 八十やそともは かりの 来継ぐこの頃 かく継ぎて 常にありせば 友めて 遊ばむものを 馬並めて かまし里を 待ちかてに 吾がせし春を かけまくも あやにかしこく 言はまくも ゆゆしく有らむと あらかじめ ねて知りせば 千鳥鳴く 其の佐保さほがはに いはふる すがの根採りて しのふ草 はらへてましを く水に みそきてましを 天皇おほきみの 御命みことかしこみ ももしきの 大宮人の 玉桙たまほこの 道にも出でず 恋ふるこの頃(万948)
  反歌一首
 梅柳 過ぐらくしも 佐保の内に 遊ばむことを 宮もとどろに(万949)
  右は、神亀四年の正月にあまた王子おほきみ、及び諸の臣子等おみのこたちの春日野につどひて、打毬うちまりたのしびす。其の日、たちまちあめくもり雨ふりかみなりいなびかりす。此の時に、宮中にじゆ、及びゑい無し。みことのりして刑罰つみに行ひ、皆授刀寮に散禁して、みだりに道路みちに出づることを得ずあらしむ。時に悒憤おぼほしく、即ちこの歌を作れり。作者は未だ詳らかならず。

左:「打毬(だきゅう)」(宮内庁ホームページhttp://www.kunaicho.go.jp/culture/bajutsu/dakyu.html)、右:蹴鞠(しゅうきく保存会実演)

 宮中から人々がいなくなるほどの大スポーツ大会を勝手に催したらしい。職務をさぼって大騒ぎ、大はしゃぎをし、事後、大目玉を食らい、しょんぼりおとなしくしている風情を歌っている。喧噪と静寂が対比されている点が、歌の眼目になっている(注3)

「打毱」は蹴鞠であること

 他方、蹴鞠は、懸りと呼ばれる木の下で、丸く円を描くように並び立って鞠を蹴り合う遊戯であり、私語が禁じられている。現在の蹴鞠儀式でも、観客向けのアナウンスや観衆の歓声以外は静かである。蹴る人が合図に発するアリ(また、ヤクワ、ヲウとも)という言葉以外、本来、無言のゲームである(注4)。平安末期の蹴鞠故実書、藤原成通(承徳元年(1097)~ 応保二年(1162))の成通卿口伝日記に、次のようにある。

一足ぶみのべ足の事。
よの人皆左をさきにたつ。心々の事となれども。右の足を先にふむ。かたがたいみじき事也。是又左をかろくなさん為なり。右を先にたつれば。一またにのびんと思に。のびらるゝ様なり。左を先にふめば。右ふみかへられ。ちがへざればすくれたり。能々心得よ。必ず右の足を先にふむことしつくべし。
一鞠の時の身の振舞の事。
心をゆるに思べからず。心の中に躰をせめよ。あらはにせめつれば。こはくみえてたはやかならず。足を後ろへにがし頭をすゝむるはよしといふ。その様をしつけつれば。猶たはやかならず。只心のうちにおもへば。色にいでぬはたをれたる物からしたゝかなり。又庭にあらむ人とに。心をゆるにすまじ。皆敬ひ畏まりて。うちとくる事なかれ。さりとてにらみはるにはをよばざれ。打とけつれば。しどけなきことの侍也。心を潜めてうはなだらかなるべし。
一鞠に立て。しげく物いふべからず。いたり様に物をしへすべからず。高く笑ふべからず。さりとてにがりたるけしきにみゆまじ。心に面白く思へ。
一鞠にたちて。ゆめゆめべちの事を思べからす。ひとへに鞠に心を入よ。……(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879539/200・202)

 また、作者不詳の蹴鞠百五十箇条に、「百三十八 まりの場に出ては。こひごゑの外。うむの事いわぬものなり。」、室町時代の飛鳥井雅康(二楽軒宋世)(永享八年(1436)~永正六年(1509))の蹴鞠百首和歌には、「ありといふ声より外にいふ事は鞠のかかりにせぬとこそ聞け」(各、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936508/42・28)とある。次に蹴る合図にアリという掛け声をかけることだけが許されていた。
 なぜそうしたのか。集中しないとできない曲芸なのだからそう約束している。言葉を発してよいのは、蹴られた鞠を次に受ける時に発するアリなどという合図に限られていた。鞋が脱げてまさかのタイムの状態になっていても言葉を発してはならなかった。言葉を発することなく鎌足は中大兄の求める意のままに行動し、意気投合している。このようなことは男女間の恋愛において時に見られる。互いに一目惚れをした時、あるいは、交際中の絶好調の時、お互いに目と目を見つめ合ってウンウンと頷くだけで思いが伝わる。数年経てばあれは誤解であったと気づくのであるが、当人同士は恋に夢中なのでどうしようもない。運命の出会いだと思っている。恋愛は感動的である。鎌足と中大兄の出会いは、状況設定が蹴鞠の場という言葉を発してはならないところで言葉を発せずに意思が伝わったから恋愛のように感動的なのである。
 皇極紀の記事には、鎌足が中大兄の「候皮鞋随毱脱落、取-置掌中、前跪恭奉。」に対し、中大兄は「対跪敬執。」とある。終始、無言である。これはパントマイムである。そんな無言劇が演じられた背景を想定するとすれば、舞台設定としておしゃべりが禁じられている蹴鞠だからである。そして、「皮鞋随毱脱落」とあるのだから、皮鞋と毱とが当初から密接な関係になければならない。蹴ったから同じ革製品が一緒に飛んで行ったのである。ポロやホッケーの場合、「[自握手]杖随毱脱落」ということになるし、木製品と革製品とが同時に動いてもおもしろくない。その杖は箸よりも格段に長いから、「取-置」というわけにはいかない。
 鎌足は、天皇家に蘇我氏が並び立っている政治体制を打破したいと考えている。冠位十二階の制定以来、蘇我氏も位を授ける側にあるという通念を打破しなければならない。当たり前だと思われていることを覆すには、たくさんのことを語らなければならない。しかし、世は蘇我氏が牛耳っており、妙な動きが知れれば中大兄ともども身の危険にさらされる。神祇伯を固辞して出仕しなかったり、南淵請安先生のところへ勉強に行くふりをして道々二人だけで語らう時間を作るなど、蘇我氏側、すなわち、時の政権側に悟られないように腐心している。皇極紀の「打毱」の記事は、たくさん話したい→無言劇→たくさん話す、という流れの結節点になっている。わかりやすい構図が示されている。
 紀の執筆者は、「打毱」という語の、喧騒と静寂、饒舌と沈黙の両者がまとめられている点に興味をもち、わざわざ「打毱」と記したように思われる。もし、皇極紀の「打毱」がポロ風の競技とすると次のような矛盾にも陥る。鎌足と中大兄はポロの最中にふつうに会話を交わすことができる。そのようにして意気投合したと仮定すると、話が蘇我氏側に聞こえてしまい直ちに拘禁されることになる。戦前の日本やスターリン時代のソ連を思えばわかるように恐怖政治時代である(注5)。話をしているという形式だけでクーデターを計画しているという内容にまで見なされてしまう。そういう意味合いを込め、紀の記述は行われている。逆に、ポロ競技の大騒ぎの最中にパントマイムを演じているとすると、あまりにも場違いで不自然であり、それこそ蘇我氏側に怪しまれるだろう。偶然にも、中大兄は言葉を交わすことが禁じられている蹴鞠をしていた。皇極紀にはきちんと「偶」と記されている。話をせずに好を交わす千載一遇のチャンスであったことが明示されている。「随」や「偶」など、語一語に意味を込めながら録していくふひとの姿勢は、司馬遷を髣髴させるものがある。

軽皇子像描写による傍証

 恐怖政治の下にあっては、安易に人を介して話をしたりすることは慎まなくてはならない。世に知れれば命はないからである。そういう用心深さがあるかどうか、それは蹴鞠の場の無言に耐えられるかどうかに象徴的に表れる。中大兄はそれができたから中臣鎌足の目にも頼もしく映った。それ以前に鎌足が厚誼を通じていた軽皇子(後の孝徳天皇)はそうではなかった。冒頭にあげた日本書紀の中略部分に、軽皇子の挙動が記されている。藤氏家伝には前段記事として載っていて評価も下されている。

 時に、軽皇かるのみ患脚みあしのやまひしてまゐりつかへず。中臣鎌子連、いむさきより軽皇子にうるはし。かれの宮に詣でて、侍宿とのゐにはべらむとす。軽皇子、深く中臣鎌子連の意気こころばへ高くすぐれて容止かたちれ難きことをりて、乃ち寵妃めぐみたまふみめ阿倍氏あへしを使ひたまひて、別殿ことどのきよはらへて、にひしきねどこを高くきて、つぶさかずといふことからしめたまふ。ゐやあがめたまふことことなり。中臣鎌子連、便ちめぐまるるにかまけて、舎人とねりに語りて曰はく、「こと恩沢みうつくしびうけたまはること、さきよりねがへるに過ぎたり。たれか能く天下あめのしたきみとましまさしめざらむや」といふ。〈舎人を充てて駈使つかひとせるを謂ふ。〉舎人、便ち語らへるを以て、皇子にまをす。皇子大きに悦びたまふ。(皇極紀三年正月)
 于時軽皇子患脚不朝。太臣曽善於軽皇子。故詣彼宮而侍宿。相与言談。終夜忘疲。軽皇子即知雄略宏遠智計過_人。計特重礼遇全得其専。使寵妃朝夕侍養。居処飲食甚異異于人。太臣既感恩。潜告親舎人曰。殊蒙厚恩。良過望。豈無汝君為帝皇耶。君子不言。遂見其行。舎人伝語於軽皇子。皇子大悦。然皇子器量不与謀大事。(家伝上・鎌足伝)

 鎌足は舎人を使って伝言を聞くに慎重かどうかを探っている。軽皇子は、「患脚」だから蹴鞠ができない。つまり、黙っていることができないことが暗示され、人づての話を真に受ける程度の人物は、「器量不与謀大事。」であると断じられているのである。恐怖政治下においてクーデター計画を練って実行する際、共謀者に求められる資質が述べられている。皇極紀の「打毱」が蹴鞠であることを支持している。

蹴鞠の動作のフムとクウ

 蹴鞠は難しい。和名抄の「蹴鞠」の項に、「以足逆蹈也。」とあった。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄には、「所引公羊伝注、宣六年文、原書作足逆躢曰_踆、蹋躢同、見広韻、蹋踏同、見集韻、唯作踆与此所_引不同、按唐石経公羊伝作踆、与今本同、釈文亦云、踆音存、則源君所引似誤、然慧琳音義引作足逆蹋曰_蹴、五見皆同、蓋古有蹴本也、曲直瀬本以足上有蹴字、那波本有蹴鞠二字、鞠字衍、山田本踏作蹈、那波本同、按踏躢皆蹋字異文、踏蹈並訓践、然非同字、踏与公羊伝注合、則作蹈誤、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1872112/1/137、漢字の旧字体は改めた)とある。蹴鞠は逆に蹈むことが明示されており、足の行方として、フムとは逆の言葉、上代語のクフについて、きちんとした理解が求められている。
 時代別国語大辞典は解釈に苦しんでいる。

くう【蹴】(動下二)蹴る。「若沫雪くゑハララカス倶穢簸邏邏箇須くゑハララカス〉」(神代紀上)「此雷悪怨而鳴落、くゑ久恵くゑ践於碑文柱」(霊異記上一話興福寺本)「偶預中大兄於法興寺槻樹之下くうるマリ之侶」(皇極紀三年)「当麻蹶速くゑハヤ」(垂仁記七年)【考】梁塵秘抄には「馬の子や牛の子にくゑさせてん、ふみわらせてん」のように古形を存しているが、名義抄では「蹢クヱル」のほかに、「蹴 化ル、クユ、コユ」という形も見える。「天皇祈曰、朕将此賊、当くゑムニ茲石、譬如柏葉而騰、即くゑタマフニ之、騰柏葉、因曰蹶石野クヱイシノ」(豊後風土記直入郡)の「蹶」はクヱとも訓まれるが、フムとも訓めることは次の地名説話との関連においてもいえる。「朕得土蜘蛛者、将フマムニ茲石、如柏葉而挙焉、因フミタマフニ之、則如柏上於大虚、故号其石蹈石ホムシ也」(景行紀十二年)。第三例の「打毱」の岩崎本の朱点傍訓はクウル(マリ)とあり、釈日本紀・秘訓にはクユルと見える、名義抄や世尊寺字鏡にあるように、蹴るの意味で、クユという語もあったらしいが、上代における存在は疑わしい。これと関係づけて考えるべきは、新撰字鏡の「〓〔足偏に可〕〓〔足偏に巴〕〓〔足偏に可〕行皃、用力也、立走、又古江奈良不こえナラフ・〓〔足偏に商〕万利古由マリコユ、又乎止留」、和名抄の「蹴鞠末利古由マリコユ」、その他「脚ノ指ヲモチテ地ヲエテ足ヲ壊リツ」(小川本願経四分律甲本古点)「右ノ足ヲ以テ之ニユルニ足復粘着ス」(石山寺本大智度論古点)や前掲の名義抄などに見えるコユという語である。これが果たして、いわゆるケルという意味を有する語であったか、あるいは、強く踏む・おどり上がるの意で、むしろ越ユと関係づけられる語であったかなどの点は問題であるが、アゴエという語が、これととの複合語であったとすれば、この語の上代における存在を想定することもできよう。クユは、あるいは、クウが、このコユへの類推によって変化して、生じた形かもしれないが、また一説には、クウという終止形はなく、古くルは、ク・ク・クル・クル・クレ・クヨのように下一段活用としたとの考え方もある。→あごえ・ふむ(252頁)

 ふつうに考えれば、足を地面へ押し当てるように step , tread することがフムであり、足を使って物を上方ないし前方など、地面とは違う方向へ kick することがクウという言葉であろう。だから、和名抄に「以足逆蹈也。」とある。「蹈む」という語の範疇に、「蹴鞠」の「蹴」の語意が、方向として逆であるが含まれている(注6)。上代語のクウ(下二段活用、クヱ・クウ・クウル)という語は、その後廃れてケルという語に取って代られた。その中間的な、他語とないまぜの形として、名義抄に、「蹴 化ル、クユ、コユ」などとあると考えられる。
 蹴鞠において、鞠を蹴るということは、なによりも第一に、前段階として、地面を踏むことが必要なのである。ステップすることがキックの要件である。それは、今日のサッカーにおけるリフティングでも同じことなのかもしれないが、蹴鞠では右足だけで蹴ること(注7)、重々しいユニフォームを身に着けていて動きにくいこと、鞠が正球を目指しているわけではなく二球を合体させたようなものであること、かかりの木のような煩わしいもののあるところで行うこと、人の輪の方を向いて蹴るのが正式であること、などの条件が課せられている。非常に難しい。ここに、古語の、クウ(蹴)という語とフム(踏・蹈・蹶)という語とが、相反しながら親近する性格が見えてくる。

相撲のフムとクウ

 クウとフムは、豊後風土記や景行紀の用例に見られるように、両訓可能な点で概念に重なるところがある。次に挙げる相撲の起源話には、「蹶」という字にクヱともフムとも傍訓が付いている。

 ……左右もとこひとまをしてまをさく、「当麻邑たぎまのむらに勇みこほひと有り。当摩蹶速たぎまのくゑはやふ。其の為人ひととなり、力こはくして能くつのかぎぶ。恒に衆中ひとなかに語りて曰はく、『四方よもに求めむに、あに我が力にならぶ者有らむや。いかにして強力者ちからこはきものに遇ひて死生しにいくことはずして、ひたぶる争力ちからくらべせむ』といふ」とまをす。天皇すめらみこときこしめして、群卿まへつきみたちみことのりしてのたまはく、「われ聞けり、当摩蹶速は、天下あめのした力士ちからびとなりと。けだし此にならぶ人有らむや」とのたまふ。ひとりまへつきみ進みて言さく、「やつかれうけたまはる、出雲国いづものくに勇士いさみびとはべり。見宿みのすくと曰ふ。こころみに是の人をして、蹶速にあはせむとおもふ」とまをす。そのに、倭直やまとのあたひおやなが尾市をちつかはして、野見宿禰をす。是に、野見宿禰、出雲よりまういたれり。則ち当摩蹶速と野見宿禰と捔力すまひとらしむ。二人相むかひて立つ。おのもおのも足を挙げて相む。則ち当摩蹶速が脇骨かたはらほねを蹶みく。亦其の腰をくじきて殺しつ。かれ、当摩蹶速のところりて、ことごとくに野見宿禰に賜ふ。是以これ其の邑に腰折こしをれ有ることのもとなり。野見宿禰は乃ちとどまり仕へまつる。(垂仁紀七年七月)

 今日の大相撲の四十八手に、上の例のような足で踏みつけるような技、殺すような仕儀はない。天武紀には隼人の相撲の例が載る。

 是の日、大隅おほすみ隼人はやひと阿多あたの隼人と朝廷みかど相撲すまひとらしむ。大隅隼人勝ちぬ。(天武紀十一年七月)

 この天覧相撲の場合も、今日の興業に見られるものに近いものであったろう。余興としての性格が強く、ローマのコロッセオのような殺し合いはなかったものと思われる。垂仁紀の「二人相対立。各挙足相蹶。」は、今日の相撲において「仕切り」とされる仕儀に当たるのではないか。今日、呼びあげられて土俵に上がり、まず、徳俵のところで「二人相対立。各挙。」という動作となっている。仕切り動作の最初に、拍手を打つ仕種をするのは、手に何も持っていないことを示すためでもあろうし、それが相手に対して足を使って蹴るものではなく、手を使って押したり引いたり投げたりはたいたりする競技であることを誓うものでもあろう。「各挙足相蹶。」とは、土俵の隅の塩や水のあるところへ一度行ってからのことで、そこで四股を踏んでいる。
 すなわち、野見宿禰は、仕切りの際の準備運動の四股をフム所作を実際の試合のこととしてしまい、いきなり(「則」)フミ(蹶・蹈)つけたということではなかろうか。出雲国出身の田舎者には相撲のしきたりがわからなかったのである。シキリとはシキタリのことである。出雲国から「まういたれり」とあって、「きたり」とは書いてない。説明がなかったのだから野見宿禰に悪気はない。勝ちは勝ちである。大しておもしろくない洒落であるが、他に考えようがない。そして、言葉としては、フムことがケルことに先んずることを物語っている。蹴鞠の所作と同じである。神代紀にも、スサノヲを迎えるにあたってアマテラスは、髪や服装、装身具、武器を整え、それにつづいて見得を切るような所作をとる。

 ……堅庭かたにはみてむかももふみぬき、沫雪あわゆきごとくに蹴散くゑはららかし、〈蹴散、此には倶穢簸邏邏箇須くゑはららかすと云ふ。〉……(神代紀第六段本文)

 その後、雄叫びをあげている。先に「蹈」んでから「蹴散」、今日の言葉で言えば蹴散らしている。堅い大地を股まで左足は踏みしめて、軸足を確かなものにして、それから勢いよく右足を振り抜いて蹴っている。軸足が不確かでは蹴ることはできない。クウはフムが前提なのである。ここに蹴鞠の絶対的なルールとしての無言劇が立ち現れる。大相撲においても、土俵上で取組中に声をあげることに抵抗感があったり、仕切りの姿勢が行き過ぎると違和感があると評されるのは、人々の意識の底に「相撲とは何か」についての考えが根づいているからだろう(注8)。フムことについての観念が行き渡っている。

フムの奥義

 蹴鞠においておしゃべり、私語がなぜ禁止されているのか、その理由についてはこれまで深く考究されたことはなかった。口伝書に、キックの新技などが盛んに記される陰で、当たり前の事として書かれている。当然のことだからである。第一に、集中しなければ、鞠を地面につけないようにして一定の高さを保って蹴り合い続けることは難しい。スポーツとして、運動の技能としてそのとおりだろう。と同時に、第二に、上手に蹴るためには上手に蹈むことが求められるのである。四股と言いながらも二足歩行動物である。歌いながらダンスをするパフォーマンスは進歩したが、フリートークをしながら同じダンスをすることはかなり難しい。そして第三に、釈日本紀・巻第十六の秘訓一に、有名ながら途方もないこととされている解釈が載っている。

 ○問。書字不美フミ読。其由如何。○答。師説。昔新羅所上之表。其言詞太不敬。仍怒擲地而踏。自其後訓云不美フミ也。今案。蒼頡見鳥踏地而所往之跡文字。不美云訓依此而起歟。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/379)

 フミ(文・字・書)を踏むことと、何とかして結びつけて解釈しようとしている。その指向は間違っていないと思われる。フミ(文・字・書)があれば必然的に黙読することができる。黙っていても意味が相手に伝わる。そのようなことは無文字社会ではあり得ないことであった。ということは、逆に、フミという語に関係のある事柄は、黙ってしなければならないことを相即的に約束しなければならない。それが、言霊信仰のもとでの人々の集合意識であった。ことこととが一致するところに、人々の共通認識が設定されていた。そうしなければ、人々の間に伝わるということがなく、社会は成り立たない。言い換えれば、社会とは持続的なコミュニケーションシステムそのものである。
 蹴鞠が鞠を蹴るうえで踏むことを前提にしているのは、フミ(文・字・書)としてあって黙って伝えることを、鞠を介して行う競技だと見立てられていたからである。両者は相似を成している。蹴鞠の情報伝達の方法は黙読である。とはいえ、具体物としてのフミ(文・字・書)を備えているわけではない。カンペとなる笏も持たない。弘安九年(1285)の革匊要略集の「二 威儀」に、「一笏事 示云、笏者鞠庭へ不持出者也、示云々」(渡辺・桑山1994.211頁)、13世紀末の内外三時抄の「装束篇」に、「釼ハして鞠場に出へし、シヤク扇同之」(同373頁)とある。フミは「踏」をもって全うしているのである。
 蹴鞠という仕儀は、三次元的な広がりの中でありつつ懸の木に邪魔されながら、あるいは、目印、目安にしながら、片足だけである程度の高さへ蹴上げて伝えている。よほどの動体視力と運動能力を必要とする。正球ではなく、また、鞠ごとに違う感触を確かめては、そのときにくり広げられる鞠場の環境を認知して、対面しながら周囲にいる鞠足と呼ばれる選手の力量を探っていっている。膨大な量の情報処理を行っている(注9)
 万葉集にあるフミタツという語が、鳥を追い立てる形容にのみ使われている点は興味深い。「鶉雉み立て」(万478)、「鳥み立て」(万926)、「千鳥ふみたて」(万4011)、「鳥ふみたて」(万4154)と見える。釈日本紀にあるフミ(文字)は鳥の足跡に由来するとする説と近しい。最も人々に身近な存在となった鳥はニワトリである。すると、にはとりと蹴鞠とで、言葉の範疇として、どこかで交差する地点があったかもしれないと推測が行く。鶏と蹴鞠との関係を「鞠場まりには」のニハ(庭)に見た可能性がある。ニハ(庭)という言葉は、神事の場、狩猟・漁労の場、邸内の農作業の場、邸内の庭園、など多様な意味がある。蹴鞠の court の意も含む。
 釈日本紀の鳥の足跡説のように、鳥のなかに歩を進めるとき、蹴爪も露わにして地面を踏み蹴っていくものがいて足跡がついている。現代語の「蹴るように歩く」意は、上代語でフム(踏・蹈・践)である。蹴爪を持った鶏が足跡をつけてフムのを観察すれば、釈日本紀説はかなり学問的な解釈に映る。むろん、それはフミ(字・文・書)という語の語源を、フミ(踏・蹈・践)であると考えたわけではなく、平安時代当時の人たちがそのように捉えて納得していたことがよく了解されるという意味である(注10)。古代において、言葉は語源を尋ねるものではなく、どうしてそのように構成されているかをおもしろがるものであったと考えられる。結果的に、記紀万葉のなかでの言葉の使い方は、洒落やなぞなぞが多発していくことになる。無文字文化から文字文化への過渡期にあった飛鳥時代の人たちは、頓智がよく働いていた。
 以上、基本動作であるフム・クウをヤマトコトバのなかで詮議し、皇極紀の大化改新へつながった「打毱」競技が蹴鞠であったことを確かめた。

(注)
(注1)黒田2007.237~238頁、黒田2011.51頁に、感動的ではないとする意見がある。
(注2)狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄の「打毬」の注に、「……七略別録二十巻、漢劉向撰、見隋書唐書、今無伝本、荊楚歳時記、打毬鞦韆施鈎之戯、注引劉向別録云、蹴鞠黄帝所造、本兵勢也、或云起於戦国、初学記題打毬、引別録、与歳時記同、後漢書梁冀伝注引作蹴鞠者伝言黄帝所作、或曰起戦国之時、蹴鞠兵勢也、太平御覧同、按歳時記初学記打毬注引別録、其文作蹴鞠、則二書所謂打毬、即蹴鞠、非拍鞠也、而拍鞠亦名打毬、唐有打毬楽、其伎為曲杖毬子之勢、又有馬打毬子、封氏聞見記載、……源君見其名同、以歳時記初学記打毬、誤為拍鞠、遂改別録蹴鞠字打毬是、又諸書所引、皆無昔字、疑是者字譌、或与黄字形似誤衍也、……」、「拍毱見涅槃経梵網経喩伽論、按毬毱一声之転、蓋同字也、然二字皆説文不載、即鞠俗字、慧琳音義、毱亦作毬、並俗字也、今俗呼音求者、諸字書竝無、毬字正作鞠、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1872112/1/137、漢字の旧字体は改めた)と説明する。「打毬」なる字が書いてあるからそれはダキュウ(ポロやホッケー)のことであると短絡して考えるのは、浅学な現代の人に限られることらしい。ダキュウか、蹴鞠か、いずれであるかを冷静に考えたい。
(注3)ポロとしての打毬の様子は、平成二十七年五月三十日、平成天皇皇后両陛下のご傘寿の賀の記念として、皇居にて母衣引ともども古式馬術が披露されている。古式打毬については、marugotoaomori「【青森の魅力】騎馬打毬 - 紅白舞いて、ちはやぶる(八戸市)」https://www.youtube.com/watch?v=8_xE3GUAnbg参照。
(注4)古今著聞集・巻十一にも、「毱を受くるにはヤクワといひ、アリといひ、ヲウと云ふ。」とある。
(注5)恐怖政治(terreur)は、権力者が、自らに反対するものを殺戮、投獄して弾圧することで国民に恐怖心を抱かせ、人々の口封じをして自らの権力を保つような政治体制をいう。それは必ずしも政権に由来するばかりでなく、幕末期の京都でテロリスト集団の新選組が暗躍し、意見を言うことができなくなってしまった状況も同様と言える。
(注6)これに対して現代語では、「蹴って歩く」というように、「蹴る」という語が「蹈(踏)む」という語よりも広い概念として捉えられているかと思われる。
(注7)室町初期まで蹴鞠の宗家としてあった御子左家では左足でだけ蹴ったという。
(注8)現在の大相撲(日本相撲協会)においても、立ち合い前の発声を慎まれている。
(注9)捻挫防止のために、フム・フム・クウの三拍子で足を使うように言っている。池2014.、渡辺2000.参照。
 クウ(蹴)については、白川1995.に、鋭い指摘がある。

くう〔蹶・蹴〕 下二段。「くゑ・くう・くうる」と活用する。のち「ける」の形となった。足ではげしく蹴ることをいう。おそらく擬声語であろう。「ゆ」とも関係がある語であろう。……けつけつ声。厥はものを彫刻するけつの刀。これで強くものをけずることをいう。そのような状態で足のあたることを蹶という。〔説文〕二下に「たふるるなり」とみえる。またはね起きることを蹶然という。「くゑ」と同じく、擬声語である。(283頁)

 ヤマトコトバにクウは擬声語ではないかとしている。漢語でもケツがやはり擬声語であるという。入声のケツは、ケッという音として感じられる。ヤマトコトバのクヱ・クウなどは、ク・クゥと感じられたのであろう。蹴鞠(蹶鞠)という語も、ク+マリ & ケッ+マリ→ケマリへと転じたとも考えられる。語構成としては、ケル+マリ→ケマリ説ばかりに限られはしないのである。もともとが擬声だからである。説文の説明から、垂仁紀七年条で当摩蹶速が捔力(相撲)に負けたのは、その名のとおりと知れる。たおれてまれたことを嘆いて、感嘆の助詞のハヤと補う名前になっている。
 木村2009.に次のようにある。

 ……「立つ・居る(すわる)・寝る」とは、人の動作の基本的な三態だが、「立つ」時には必ず「踏む」という動作が一体となっている。「立つ」とは全身のありようだが、その時の足のはたらきが「フム」である。したがって「フム」という言葉は、人が自らの身体をそうしたありようを意識し始めた時からあったに違いない古来の言葉である。「フム」とは、足裏の下に土や石や床等を体重によって自然に押し付けることだから、普通に立ったり歩いたりする時のような無意識の場合と、行進の「足踏み」などのような意識的な場合とがある。「踏切」もまた、つまづいたりしないように注意して(意識的に)踏んでいることが多いのだろう。(171頁)

 筆者は、上代語のフムにおいて「普通に立ったり歩いたりする時のような無意識の場合」の存在することを支持できない。蹴鞠が、フム・フム・クウの三拍子を一セットの動作と捉えるとき、それは意識的なものである。「堅庭は向股むかももに蹈みなづみ、沫雪の如く蹶ゑ散かし、いつのたけび蹈みたけびて待ち問ひたまはく、……」(記上)とあるとき、明らかに意識して地面を踏んでいる。椅子に腰かけて足が地面や床に接している時、例えば半跏思惟像の片足などは、フムとは言わないように思われる。万葉集ではフミタツという語は、鳥を追い立てる形容にしか用いられない。それ以外のフミ○○という複合動詞の用例(み起す、踏み越ゆ、蹈み鎮む、踏み平らぐ、踏み通る、踏みならす、踏み貫く、み求む、み渡る)も、動詞+動詞の関係のままにあり、後続の動詞が補助動詞化したり、フミが接頭語化したりはしてはいない。単独で使うフムという動詞の用例のほとんどに、それを明かすための対象物、「石」、「岩根」、「地」、「跡」、「雪」、「足」、「道」といった語(名詞)を伴って説明している。無意識の、ないしは、単に立っている時の step on , tread on の際に、ヤマトコトバのフムという語は用いられていないようなのである。木村2009.の概念規定の説明では、観念の表れとしての言語、記号操作の出発点としての言語、イメージ抽象の元素としての言語、という立場に反すると考える。
(注10)古今集の「忘られん 時しのべとぞ はま千鳥 ゆくへも知らぬ 跡をとどむる」(よみ人しらず、雑下・996)という歌は、記紀歌謡の「浜つ千鳥」(記37・紀4)が一語化し、かつ、中国古代の黄帝時代に、蒼頡そうけつが鳥の足跡を見て漢字を作ったという故事を踏まえて詠まれたとされている。平安時代には、砂浜に残る鳥の足跡を字のようであると感じたり、千鳥が砂浜を踏む意の「踏み」と、手紙の「ふみ」とを掛けて喜んでいる。千鳥のあしらわれた蒔絵の文房具が残ることを傍証とする説もあるが、足跡や踏む様を描いているわけではないため牽強とも思われる。それでも釈日本紀のフミの語義説は、当時の風潮からすれば案外平易なことであったと考えられる。むろん、それは、平安時代当時の感覚としてそうであったというだけのことである。そして、もはや漢字のことなのか仮名のことなのか、どうでもよくなっている。古墳時代に文字(漢字)は流入しており、その5~6世紀にフミという言葉が造られたのであろうと筆者は考える。さまざまな知恵を駆使し、いわゆる和訓として創作されたヤマトコトバなのであろう。

(引用・参考文献)
池2014. 池修『日本の蹴鞠』光村推古書院、平成26年。
木村2009. 木村紀子『原始日本語のおもかげ』平凡社(平凡社新書)、2009年。
黒田2007. 黒田智『中世肖像の文化史』ぺりかん社、2007年。
黒田2011. 黒田智『藤原鎌足、時空をかける』吉川弘文館、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
渡辺・桑山1994. 渡辺融・桑山浩然『蹴鞠の研究─公家鞠の成立─』東京大学出版会、1994年。
渡辺2000. 渡辺融「フットボール、昔と今」『大学出版』第47号、2000年10月。大学出版部協会ホームページ https://www.ajup-net.com/web_ajup/047/dokusho47-2.shtml (2025年2月13日確認)

加藤良平 2020.7.26改稿初出

古事記の天之日矛の説話について─牛耕を中心に─

 応神記に天之日矛の説話が載る。前半は新羅での奇譚話、後半はヤマトに至ってからの系譜となっている。ここではその前半部を考察対象とする。

 又、昔、新羅しらき国主こにきしの子有りけり。名はあめ之日のひほこと謂ふ。是の人ゐ渡り来つ。参ゐ渡り来つる所以ゆゑは、新羅の国にあるぬま有り。名は阿具奴摩あぐぬまと謂ふ。〈阿よりしもつかた四字、こゑを以う。〉此の沼のほとりに、あるいやしきをみなひるす。ここに日の耀かかやくことぬじごとく、其の陰上ほとを指す。またある賤しきをとこ有り。其のさましと思ひて、つねに其の女人をみなわざうかがふ。かれ、是の女人をみな、其の昼寝せし時より妊身はらみて、たまを生む。しかくして、其の伺へる賤しき夫、其の玉を乞ひ取り、つねつつみて腰にく。
 此の人、田を山谷やまたにつくれり。故、耕人たがへすひとども飲食を、一つの牛におほせて山谷のうちに入るに、其の国主くにぎみの子、天之日矛に遇逢ふ。爾くして、其の人に問ひて曰はく、「何ぞ飲食を牛に負せて山谷に入る。汝は必ずや是の牛を飲食」といひて、即ち其の人を捕へて獄囚ひとやに入れむとす。其の人答へて曰はく、「われ牛をとするには非ず。ただ田人たがへすひとを送るのみ」といふ。然れどもなほゆるさず。爾くして、其の腰の玉を解きて、其の国主の子にまひなふ。故、其の賤しき夫を赦し、其の玉をて、床のに置けば、即ち美麗うるはしき嬢子をとめる。仍りてまぐはひして嫡妻むかひめ。爾くして、其の嬢子、常に種々くさぐさ珍味ためつものけて恒に其の夫に。故、其の国主の子、心おごりてるに、其の女人をみな言はく、「およの妻とるべきをみなに非ず。吾がおやの国にかむ」といひて、即ちひそかにぶねに乗りて、逃遁わたり来て、なにに留まりき。〈此は難波の比売碁曽ひめごそやしろ阿加流比あかるひ売神めのかみと謂ふぞ。〉(注1)(応神記)

 応神記の天之日矛の説話の前半部分で、太字部分の訓みについては後述する。「又昔」で始まる一ストーリーである。その前には「海人あまなれや、おのが物からねなく」の諺話があり、その後には「秋山あきやました壮夫をとこ春山之霞はるやまのかすみ壮夫をとこ」の説話が控えている。応神天皇の御代に、ああいう話もあった、そういう話もあった、こういう話もあった、というとりあげ方である。一話完結の話が三話続けられている。それぞれの話だけで理解し切れる内容になっているものと考えられる。一つの話でわかり切るためには、話を外側から概観、分析すれば済むというものではなく、話の内側に入り込んでなるほどと得心が行く解釈でなければならない。その話が無文字時代に作られたと想定されるならなおのことである。口頭で伝えられただけでまったくその通りだ、話に一点の曇りもない、と納得されなければ、次の人、次の世代へと伝承されることは難しいからである。話に曖昧な点がないことが肝要である。
 実際の史実を物語っているかどうかは関係がない。一つの「話」としてその話の枠組みが作られていて、その枠組みのなかで話が自己完結しているかどうかが重要である。例えば、家族のなかで何か一つの話が行われると仮定してみよう。その話が円滑に成立するには、それまで営々と築き上げられてきた家族の関係性とその記憶が前提となり、当該の話は成立する。「今日、給食の時間にいじわるされたのよ」と子供が両親に向かって言ったとき、親二人の間には六年以上前のとある日の夜に仲良し行為が行なわれ、その結果新しい命が芽生え、その娘なら娘がゆっくり成長して小学校に入学してあるクラスに入り、その学校には給食があって、といった延々と続く経緯を前提として踏まえて話がなされている。上代の人が応神記の天之日矛の話を唐突に聞かされたとしても、聞く側にきちんと聞き取るだけのキャパシティーがあった。聞き手は、難波にあるとされる比売碁曽の社の郷土保存会の人たちではない。皆、天之日矛の話など初耳の人たちである。それなのに聞いただけで理解して、腑に落ち、他の人に伝えていくだけの力量、自信までも持ち合わせている。そうでなければこの話は伝えられずに消えていたことだろう。
 そこにはある仕掛けがひそんでいる。我々現代人の感覚では、先に前提となる枠組みが定まってあるものとして内容を吟味していく。上の例でいえば、家族のなかでの関係の記憶がそれに当たる。それに対して、無文字時代の人にとっては、話に出てくる言葉が話の枠組みまでも決めていくものと考えられていた。今では少しトリッキーに聞こえるかもしれないが、文字時代ではなく、情報化社会でもないのだから、言葉が自己言及しながら話を構成していくことは、方法論的にたくましい言葉の利用法であったといえる。それがゆえに、ヤマトコトバに言霊ことだま信仰があったとされている。言霊信仰とは、言葉に霊力があったということではなく、ことことであると厳密化して使うことで言葉に力があるように思われたということである。

 天之日矛の話は何の話か。例えば、韓半島との人的交流の歴史について、外側から史料を宛がうのではわからない。あくまでもテキストの内側から、ヤマトコトバで何と話していたのか、きちんと検証することによってのみ話の枠組みも再構成され、それを前提に内容にも理解が向かう。したがって、稗田阿礼の声を太安万侶が書記したことの逆ベクトルをもってヤマトコトバの再現に臨むことが求められる。訓読文の確認こそが議論の焦点になる。
 新羅の国主の子、天之日矛が来朝した次第が述べられている。その理由について荒唐無稽な話が展開されている。新羅にアグヌマという沼があり、そのほとりで身分の賤しい女が昼寝していたら虹のように日が耀いていて陰部を照らしていた。同じく賤しい男が見ていて不思議に思い、その女の様子を窺っていたら、女は昼寝している最中に妊娠したようで玉を産んだ。賤しい男はその玉を欲しがって取ってしまい、いつも包んで腰につけていた。男は山の谷間に田を拓いた開拓者だった。そして、耕作に当たる人たちのために、飲食物を牛の背に乗せて運んでいた。そんなとき、国主の子である天之日矛に遭遇した。天之日矛は、「どうしてお前は食べ物飲み物を牛に背負わせて山谷に入るのか。お前はきっとこの牛を殺して食べるつもりだろう」と言いがかりをつけ、その男を捕まえて牢屋に入れようとした。男は答えて、「自分は牛を殺そうなどとはしていません。ただ耕作に当たる人たちに食べ物を持って行っているだけです」と言った。それでも許さなかったので、男は腰につけていた例の玉を天之日矛に渡して許してもらった。天之日矛はその玉を持ち帰り、寝床のそばに置いておいたら美女に変わった。そこで結婚して妻の一人に加えた。彼女は、いつもいろいろな珍しい食べ物を用意して国王の子である天之日矛に食べさせた。意のままになることで慢心した国王の子は、妻をののしるようになった。すると彼女は、「そもそも私はあなたの妻になる程度の女じゃないわ。お里に帰らせていただきます」と言って、ひそかに小さな船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。
 この話の後段には、天之日矛も後を追って海を渡るが、難波に来ようとしたら渡の神がさえぎって入れず、但馬国で船を泊め、そこで現地の女性と結婚して子をなし、それから代々、誰々という人がいると系譜が紹介されている。そして、天之日矛が持って来た品々が挙げられている。この後段については、事実的に解釈することで済まされるのかもしれない。しかし、前段の荒唐無稽な話については、その荒唐無稽さを解き明かさなければ理解したことにならない。稗田阿礼、太安万侶は、この話のなぞなぞを理解していたから伝えていると考えられる。
 玉を産む奇譚と、牛にまつわる話、代償に払った玉が美女に変身したこと、彼女が海を渡って来朝したことが述べられている。話の流れは支離滅裂とさえ思える。玉に関する奇譚はいかにも奇譚であるから置かれているのだろうと想像される(注2)が、途中の牛の話は何のことか意味不明である。そのうえ、どうして牛に食べ物を乗せて運んでいたら牛を食べると咎められることになるのか。それらについて、これまで訳がわからないままになっている(注3)。上代には訳がわかっていたはずである。その点にスポットを当て検討する。

 日本書紀では垂仁紀に分注形式で同様の記述がある。

 一に云はく、初め都怒我阿羅斯等つぬがあらしと、国にはべりし時に、黄牛あめうじ田器たうつはものおほせて田舎ゐなか将往く。黄牛たちまちせぬ。則ちあとままぐに、あとある郡家すきの中にとどまれり。時に、ひとり老夫をきな有りて曰はく、「いましの求むる牛は、此の郡家の中に入れり。然るに郡公すぐり曰はく、『牛のおほせたる物にりておしはかれば、必ず殺しくらはむとまうけたるなり。し其のぬし覓ぎ至らば、物を以ちてつぐのはまくのみ』といひて、即ち殺しみてき。若し『牛のあたひ何物なにを得むとおもふ』と問はば、財物たからをな望みそ。『便たより郡内すきいはひまつる神を得むと欲ふ』としか云へ」といふ。しばらくありて郡公すぐり等到りてはく、「牛の直は何物を得むと欲ふ」ととふ。こたふること老父おきなをしへの如くにす。其の祭れる神は、これ白き石ぞ。乃ち白き石を以て牛の直にてつ。因りてて来てねやの中に置く。其の神石いし美麗かほよ童女をとめりぬ。是に、阿羅斯等、大きに歓びてまぐはひせむと欲ふ。然るに阿羅斯等、他処あたしところきしに、童女、忽に失せぬ。阿羅斯等、大きに驚きて、おのに問ひて曰はく、「童女、いづにかにし」といふ。対へて曰はく、「東方ひむかしにき」といふ。則ちもとめてぐ。つひに遠く海に浮びて、日本国やまとのくにに入りぬ。げる童女は、難波にいたりて、比売語ひめごそのやしろの神とる。また豊国とよくに国前郡みちのくちのくにに至りて、また比売語曽社の神と為る。ならび二処ふたところいはひまつられたまふといふ。(垂仁紀二年是歳)(注4)

牛に牽かせる唐耒(室町時代、月次風俗図屏風、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0020882をトリミング)

 記では「飲食」、紀では「田器たうつはもの」を牛に乗せている。どちらも牛を殺して食べようとしている証拠と捉えられている。
 タウツハモノは田を耕す農具のことである。黄牛に背負わせているところから、農耕に牛を使役したことが想起され、牛にひかせる唐耒からすきの類ではないかと推測が向く。それをわざわざ「田器」としている。タウツハモノは、タ(田)+ウツ(打)+ハ(刃、歯)+モノ(物)と聞こえ、先端に鉄の刃がついたすきのことを指しているとわかる。犂を牛が背負っていて、どうしてそれが牛を食べることを表しているのか。次のような用例がある。

 子麻呂等、水を以て送飯いひすき、恐りて反吐たまひつ。(子麻呂等、以水送飯、恐而反吐。)(皇極紀四年六月)
 食 スク、クフ、メス/シキ、曽力(法華経単字、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1192401/1/21)
 〓〔米偏に幺の下に八、その下に㣺〕 スク、呑也(色葉字類抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186813/113)

 食べ物を水で流し込むすすり食いのような食べ方である。皇極紀の例は、寛平・延喜年間の岩崎本写本に依っている。この訓の正しさは、その場面が蘇我入鹿暗殺事件の三韓進調儀式においてのことに示されている。儀式の際に宮殿内で下士官が腹ごしらえをしているのは一見不自然であるが、給禄のひとつに食べ物が振舞われたと解釈されよう。三韓からの貢納品を食べるために、韓半島式の食べ方を真似していたわけであり、慣れないこともあり緊張して反吐している。
 「き(キは甲類)」と「すき(キは甲類)」は同音である。舞台は新羅国の「一郡家」である。従来の訓では「郡家」をムラ、「郡公」をムラノツカサと訓んでいるが、古代朝鮮語に村のことはスキ(キは甲類)、村主のことはスグリである。

 是を以て、百済くだらのこにきしかぞと荒田別・木羅斤資等、共に意流おるすきに会ふ。〈今、州流須祇つるすきと云ふ。〉(神功紀四十九年三月)
 大唐もろこし軍将いくさのきみ戦船いくさぶね一百七十艘をて、白村江はくすきのえ陣烈つらなれり。(天智紀二年八月)
 さの村主すぐりあを(雄略紀二年十月是月)
 鞍部くらつくりの村主すぐり馬達まのたち(敏達紀十三年是歳)
 大友村主高聰おほとものすぐりかうそう(推古紀十年十月)
 磐城いはきの村主すぐりおほ(天智紀三年十二月是月)
 桑原村主くははらのすぐり訶都かつ(天武紀朱鳥元年四月)
 上村主うへのすぐり百済くだら(持統紀五年四月)

 したがって、犂を負った牛は、「郡家すき」では「き」の対象であるととらえられたという話になっている。わざわざ朝鮮語の言い方をするほど念の入った洒落になっている。それをヤマトの人たちが納得するのは、タ(田)+ウツ(打)もの、地面に打ちこむものは「くひ(ヒは甲類)」であり、「ひ(ヒは甲類)」と同音になっているからである。日朝両語において、パラレルに洒落が成り立っている(注5)

 他方、どちらが先かはわからないが、そのアレンジ形と思われるものが記の「飲食」である。この語には、クラヒモノ、ヲシモノといった訓が試みられてきた(注6)。筆者は、紀の用例からみてスキモノという訓がふさわしいと考える。クラヒモノ、ヲシモノという言葉を表す場合には、太安万侶は「食物」と書けば良かったであろうが、ここでは「飲食」と書いている。飲み食べるような動作は「く」行為であり、その対象はスキモノであろう。牛の背に荷物を乗せるには、荷鞍を据えてその上に荷物を載せる。居木部分が面状の板になっている人の乗る鞍とは異なり、横木で前輪と後輪を繋ぐだけではあるが鞍であることには違いない。唐耒を牽くためにも同様に、前枠、後枠を横木によって構成した背鞍(小鞍)を置く。そこから綱を唐耒につないで牽いている。すなわち、牛に何かを載せることは、カラスキ(唐犂)を載せる場合も、スキモノ(喰物)を載せる場合も、同様にヤマトコトバのスキという言葉に直結している。だから天之日矛は、すすり飲んで食べるようなことを考えているに違いないとして罪に問うている。言いがかりであるとばかり見られているが、文化的なギャップも見逃せないところである。
 唐耒の牽引法が本邦と新羅とでは異なっていた。河野1994.によれば、「背鞍を使う胴引き法や首引き・胴引き法は、日本以外のアジア諸国には見られないものであって、それは古く日本人の考案・開発したもの」(230頁)なのである。アジアの牛・水牛の牽引法について、河野氏の分類がわかりやすい。

 「首引き・胴引き法」は、首木と背中の鞍を併用して引くもので、胸繋を欠く場合も多いとされ、「胴引き法」は、首木を使わず背中の鞍のみで引くもので、胸繋は併用するのが普通であるとする(226~229頁)。
 つまり、新羅の国主の子である天之日矛にとって、牛に鞍を載せて何かを背負わせることなど見たことがなかった。ヤマトから半島へ来ていた人のやり方は奇異に映った。垂仁紀の「田器」を載せて行くことは、ヤマトの胴引き法をするつもりでいたこと、応神記の「飲食」を載せて行くことも、着いた山谷の間の田ではやはり鞍を活用して胴引き法でくつもりなのであった。そんな文化的な違いについて語るために、説話において日朝の言葉の意味を取り違えながらごちゃごちゃ言っている。高等テクニックの洒落が上手に散りばめられている。
 皇極紀四年六月条の用字に、応神記の天之日矛説話の牛問答を解く大きなヒントが顕れている。「飯」とある。賤夫は「吾非牛、唯送田人之食耳。」と抗弁している。「送」は「送」でもオクルのであって、「田人之食」を「おくる」のみである。「牛」を「く」のではない。「牛」を「く」気などさらさらないと言っている。
 設定からして穿っている。「山谷之間」に「営田」して、そこで働く「耕人等」の「飲食」を送り届けようというのである。「耕人」はタヒト、タカヘスヒトと訓まれてきた。抗弁の言葉に「田人」とあるからそれはタヒトと訓み、「耕人」はタカヘスヒトと訓むのが良い。田は、毎春、表土を返して柔らかくし、そのあとに水を張りつつ馬鍬などで土塊を砕いて表面を平らに均して田植えをする。「営田」して「耕人」とある場合、タ(田)+カヘス(返)+ヒト(人)の意のタカヘスヒトと訓まれなければならない。天之日矛は牛の背に鞍を置いて農耕に使うなどという天地のひっくり返るようなやり方に驚かされている。その文脈を理解できるように、当初から話の設定が組み立てられていたわけである。言葉だけで話が枠組まれつつ成立して行っている。

 そもそも、「牛」を食べることはそんなに悪いことなのか。仏教の影響から殺生が嫌われていた反映であると考えるのは賢しらである。殺牛祭儀との関わりを説いてみたところで、支配層から咎め立てされる筋合いのことではない。そういうことではなく、「うし」は「大人うし」と同音で、領有・支配する人の総称で、支配者層一般のことを指すことによるのだろう。

 大人うし、何ぞうれへますことはなはだしき。(履中前紀)
 今、群臣まへつきみたちうしはかる。(用明紀二年四月)

 天之日矛の話では、「一賤夫」が「其国王之子」を飲み込んで食べてしまうことを暗示しているとして逮捕して獄に入れようとしていた。そういう背景が組み込まれている。国主の子としては、国が乗っ取られるのではないかと心配して拘禁しようと考えたのである(注7)。それはそれで一理ある言い分ということになる。
 そして、代償として「一賤女」が生んだ「袁玉」を提出している。「日の耀くことぬじの如く」したことに由来する言い方である。虹の古訓はヌジである。

 乃ち河上かはのほとりぬじの見ゆることをろちの如くして、四五丈よつゑいつつゑばかりなり。(雄略紀三年四月)
 伊香保ろの さか堰塞ゐでに 立つぬじの〔多都努自能〕 あらはろまでも さをさ寝てば(万3414)

 ヌジ(虹)はヌシ(主)が持つのが相応だから、差し出すのが良いという発想である。アグヌマ(阿具奴摩)とあったのは、「山谷之間」に「営田」した際に、水利上、上流域の水を貯めるべく、堰を設けていたことを示しているのだろう。上流域の田をアゲタ(「高田」)(記上、神代紀)という。アグ(上)+ヌマ(沼)の意である。
 また、「一賤女」が生んだ「玉」については、「赤玉」と意改した鼇頭古事記に従う傾向にあるが、赤色の琥珀のようなものではない。原文は「袁玉」であり、ヲタマと訓むべきである。ヲ(緒)+タマ(玉)と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、ヤマトの話に不思議な妊娠譚として知られる三輪山伝説の「閇蘇へそ紡麻うみを」(崇神記)のことである。麻を紡んで一条に巻きこんだもので、臍のように作られている。糸を引っ張り出しても内側から引かれるため転がっていかないようになっている。本当なら妊娠するはずはないのにヘソの話になっているのは、「閇蘇へそ」のことだからという洒落である。いま、新羅の話に援用されている。だからこそ日新の文化的対立が極められている。そして、そのとき、「赤玉」ではなく「たま」であることが正しいのは、「虹」のように陰部を照射してできたとも記されているからである。何色の「閇蘇へそ」かといえば、虹を七色と捉えるならば七色の糸を巻きこんだものであったろう。「比売碁曽ひめごそ」と同音の記述である肥前風土記・基肄郡・姫社郷ひめごそのさと(注8)では織女神として祀られている。機織りと関係する玉は「閇蘇へそ」である。それが証拠に、カラフルな糸で織られた最上級の織物のことはにしきという。天之日矛は新羅のこにきしの子であった。すべてが語呂合わせによって成り立っている話である。
 以上、応神記にある天之日矛説話の文脈の frame analysis (注9)を行った。話を読みながらその話を編成する枠組みまでも把握することに努めた。記紀の説話に frame analysis 的解釈が効果的なのは、それらが無文字によって成立したものだからである。記述という手段を介さずに想起しつつ記憶するには、使われている言葉の音以外に頼るところがない。そんな時代の人々に共有されるためには、必然的に、言葉で言葉を語る自己循環的な戦略が求められた。音が空中を飛んでいるその瞬間に、相手がなるほどと納得して記憶が定着しなければならないからである。話が起こされるに当たり、従前の話とは別の話が流れるように起こりながらもそれが一個の話として枠組まれなければ、話は話として成り立たない。話という<図>が、<地>から区別されて立ち上がるためには額縁が必要である。その額縁について話すのと同時並行的に話の内容を作り上げていくことが、上代説話に特徴的な、ミラクルとも言える言語活動である。記紀説話が何を言っているのかわからないからといって、その外部から史実や遺物などを使って解釈しようとすることは、額縁を軽視していて<図>を見誤ることになる。記紀説話を「読む」ためには、その内部から話の額縁を定位しつつ話の内実を探る以外に方法はない。記紀の説話を考えた上代の人たちは、そうやって話を拵えていたのだから、その順序をたどり直せばそもそもの上代人のものの考え方に近づくことができる。それは記紀万葉を対象化して研究することを超えて、臨場して現場検証をすることになる。記紀万葉に生きた人々は、我々とはものの考え方が異なると知ることができて、はじめて「読む」価値のあるものだとの認識に至る。異世界、異文化、異次元のこととして理解され、ようやく本来の姿が日の目を見ることになる。これまでの漫然とした記紀万葉研究は無意味であったと気づかされ、土台から覆されることになるだろう(注10)

(注)
(注1)以下に、真福寺本を底本に校訂したテキストを字体の出力が可能な限りにおいて示す。

又昔有新羅國主之子名謂天之日矛是人參渡来也所以參渡来者新羅國有一沼名謂阿具奴摩〈自阿下四字以音〉此沼之邊一賤女晝寢於是日耀如虹指其隂上亦有一賤夫思異其状恒伺其女人之行故是女人自其晝寢時妊身生袁玉尒其所伺賤夫乞取其玉恒褁著腰此人營田於山谷之間故耕人等之飲食負一牛而入山谷之中遇逢其國主之子天之日矛尒問其人曰何汝飲食負牛入山谷汝必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛唯送田人之食耳然猶不赦尒解其腰之玉幣其國主之子故赦其賤夫将来其玉置於床邊即化美麗孃子仍婚為嫡妻尒其孃子常設種々之珎味恒食其夫故其國主之子心奢詈妻其女人言凡吾者非應為汝妻之女将行吾祖之國即竊乗小船逃遁度来留于難波〈此者坐難波之比賣碁曾社謂阿加流比賣神者也〉

 多くは現行本と同じ校訂となっている。ただし、「……必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛……」の二つの「飲」字は、真福寺本どおりにした。兼永筆本の字について、本居宣長・古事記伝は「殺」の異体字であると認め、以降みな従っている。しかし、「殺」字の異体字、俗字の類に、「煞」、「〓〔ヒトヤネの下にヨを偏として戈〕」、「敏字の毋部分をヨの下に/」(欧陽詢・史事帖、日本書紀(例えば、書陵部本日本書紀、宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430007/4577c33cc21742429c0a379afb7634cf(32/36))とあるものの、似て非なる字である。兼永筆本は「飲」字の欠けを見たように思われる。(図は、「……必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛……」部分、左:真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438931/50をトリミング、右:猪熊本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438706/66をトリミング)

 また、「妊身生袁玉」の「袁玉」は、鼈頭古事記に従い諸本に「赤玉」とするが、「袁玉」で正しいものとした。(図は、「妊身生袁玉」部分、左:真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438931/50をトリミング、中:猪熊本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438706/65をトリミング、右:延佳神主校正・鼈頭古事記、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100181864/127?ln=jaをトリミング)
(注2)神話学では日光感精説話と卵生説話の合体したものであると目されている。中国の史書や仏典や韓半島の思想的な背景をもって天之日矛伝承は育まれて成立し、文章化されて一史料として古事記に収められたと考えられている。それらの議論の根拠は薄弱で、ただ話が似ているからというに過ぎない。だから何なのか、どうして古事記にこのような話が載せられているのか、という本質的な問いに答えようとしていない。昨今は、古事記の字面の書き方のお手本に何を使ったかという、いわゆる出典論(「手紙の書き方」という文献と字面が似ていることを辿っても生産的ではない)に注意が向けられている。三品1971.、福島1988.、王2011.、大村2013.による。
(注3)文献資料から、牛を殺して捧げものとする信仰には、雨乞いを中心とした農耕儀礼に関わるものや漢神を祀って祟りを祓うものがあったことが知られている。「[大旱ニ対シテ]村々の祝部はふりべ所教をしへままに、或いは牛馬を殺して、もろもろの社の神をいのる。」(皇極紀元年七月)、「あるいは、昔在むかし神代に、大地主神おほなぬしのかみ、田をつくる日、牛のししを以てひとに食はしむ。時に、御歳神みとしのかみの子、其の田に至りてあへつはきて還り、かたちを以てかぞまをす。御歳神、怒りを発して、おほねむしを以て其の田に放つ。苗の葉たちまちに枯れせて篠竹しのれり。是に、大地主神、片巫かたかうなぎ志止々しとととり〉・肱巫ひぢかむなぎ〈今のかままた米占よねうらなり。〉をして其のよしを占ひ求めしむるに、「御歳神たたりを為す。白猪・白馬・白鶏しろかけを献りて、其の怒りを解くべし」とまをす。教へに依りてみ奉る。御歳神答へて曰はく、「まことに吾がこころぞ。麻柄あさがらを以てかせひに作りて之を桛ひ、乃ち其の葉を以て之を掃ひ、あめの押草おしくさを以て之を押し、烏扇からすあふぎを以て之を扇ぐべし。若し此の如くして出で去らずは、牛の宍を以て溝の口に置きて、茎形はせがたを作りて之に加へ、〈是、其の心をまじなふ所以なり。〉薏子つすだま蜀椒なるはじかみ呉桃くるみの葉、また塩を以て其のあかち置くべし〈薏玉は都須つすだまといふなり。〉」とのりたまふ。仍りて其の教へに従ひしかば、苗の葉また茂り、年穀たなつもの豊稔ゆたかなり。是、今の神祇官、白猪・白馬・白鶏を以て、御歳神を祭る縁なり。」(古語拾遺・御歳神)といった例が引かれる。殺牛祭祀があったとされるのであるが、天之日矛が祭祀を咎めているとは読み取れない。本邦では一般に、神へのお供え物として捧げたものはお祭りが終わったら下げてきて皆で食べていた。その点を含めて整理した論考はいまだなく、理解は深まっていない。牛に荷を載せて運ぶ姿を見せた途端、牛を食べるのではないかと疑われた日には、農耕、土木、運輸などの肉体労働者はとてもじゃないがやっていられない。天之日矛の言いがかりについて、それが何故行われて然りとされたのか見極められなければならず、論点をすり替えていては何もわからない。佐伯1970.、門田2011.、村上2013.、烏谷2019.等参照。記紀説話の問題点はそのあたりの理屈にあるのではなく、言葉のなぞなぞにある。一回性の語りのなかで本質が直観させられなければ、話は伝わるものではあり得ない。
(注4)以下に原文を、字体の出力が可能な限りにおいて示す。訓読においては、筆者の考えにより、古訓に見られないものも施してある。

一云初都怒我阿羅斯等有國之時黄牛負田器将往田舎黄牛忽失則尋迹覓之跡留一郡家中時有一老夫曰汝所求牛者入於此郡家中然郡公等曰由牛所負物而推之必設殺食若其主覓至則以物償耳即殺食也若問牛直欲得何物莫望財物便欲得郡内祭神云に俄而郡公等到之曰牛直欲得何物對如老父之教其所祭神是白石也乃以白石授牛直因以将来置于寝中其神石化美麗童女於是阿羅斯等大歡之欲合然阿羅斯等去他處之間童女忽失也阿羅斯等大驚之問己婦曰童女何處去矣對曰向東方則尋追求遂遠浮海以入日本國所求童女者詣于難波為比賣語曽社神且至豊國々前郡復為比賣語曽社神並二處見祭焉。

(注5)上代語に「く」、「ふ」と言葉にカテゴライズされている。本邦において、食事はふつうならば「ふ」ものであり、韓半島に「く」のが習慣になっていると把握されていたのだろう。これは、米飯を主とした食べ物に、いかなる調理法で、いかなる食事法で摂っていたかという問題と絡んでくるとも考えられるが、議論が散乱してしまうのでここではこれ以上は深入りせず、ひとまずは、韓半島からの貢ぎ物には乾物系の品が多かったからと理解しておきたい。
(注6)本居宣長・古事記伝に、「○飲食は、久良比母能クラヒモノと訓べし、【飲字にカヽハるべからず、又飲物ノミモノを兼てもくらひものと云べし、土左日記に、おのれし酒をくらひつればなどもあり、】次に食とあるも同じ、書紀神武巻に、盛クラヒモノ、宣化巻に、クラヒモノ天下之本也、天武巻に、以タダビト供養クラヒモノ之など、皆然訓り、【神代巻又持統巻などには、飲食を、ヲシモノ○○○○と訓たれど、はよろしきほどの人に云言と聞ゆ、】」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/302、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注7)佐伯1970.256頁に、延暦期に殺牛祭祀が強く禁じられていた理由に、時の桓武天皇が丑歳であったことと関係するとしている。人々が牛を殺して漢神をまつり、怨霊をなぐさめ、その祟りを国家の支配者たる桓武天皇に向けられることは断じてあってはならないと感じたであろうからとしている。同じ構造が、ヤマトコトバのうし大人うしの間にあったと天之日矛が一人考えていたのであろうと考える。桓武天皇は神経質である一方、天之日矛の話は頓智話である。
(注8)「其の夜、いめに、臥機〈久都毗枳くつびきと謂ふ。〉と絡垜〈多々利たたりと謂ふ。〉と、儛ひ遊び出で来て、珂是古かぜこし驚かすと見き。ここに亦、女神ひめがみなることをりき。即ち社を立てて祭りき。それより已来このかた、路行く人殺害ころされず。因りて姫社ひめごそと曰ひ、今は郷の名と為せり。」(肥前風土記・基肄郡)
(注9)社会学者のゴフマンによる。議論は、現実自体を問うのではなく、どのような状況下で経験や世界はリアルとなるのか、その現実感について問うことから始まる。

思うに、状況がどのようなものか毎回毎回定まるのは、それが個々の出来事、少なくとも社会的な出来事をまとめて体系化する原理・原則に依って立っているからであるし、そんな原理・原則に自ら自身が与っていることに依って立っているからである。すなわち、フレームという言葉を使って進んでゆけば、私にも見極め可能な初歩的な細事に落とし込めるのである。フレームがどう決まるかこそが、私の議論の要である。「フレーム分析」という言い回しをスローガンにして研究の初めの一歩を踏み出せば、経験がいかに体系化されているのかを知ることにつながるのだ。(I assume that definitions of a situation are built up in accordance with principles of organization which govern events―at least social ones―and our subjective involvement in them; frame is the word I use to refer to such of these basic elements as I am able to identify. That is my definition of frame. My phrase “frame analysis” is a slogan to refer to the examination in these terms of the organization of experience.(Goffman, 1974. 10-11pp.))

 言語学者のフィルモアのフレーム意味論では、フレームは経験的知識であり、テキストに接するとき、私たちは心の中にフレームを想起したり、喚起させられたりしているとする。

解釈する人の心の中で、言葉の形や文法構造、言葉遊びが慣習となっていればそれがフレームの指標として働き、自然とこれはそういうフレームなのだと「喚び起こされる」ことになるし、他方、よく定まらない場合でも、解釈する人がテキストの筋が通るように当てがってゆくにしたがって、全体に行きわたる解釈のフレームを「想い起こす」ものである。(On the one hand, we have cases in which the lexical and grammatical material observable in the text‘evokes’the relevant frames in the mind of the interpreter by virtue of the fact that these lexical forms or these grammatical structures or categories exist as indices of these frames; on the other hand, we have cases in which the interpreter assigns coherence to a text by‘invoking’a particular interpretive frame.(Fillmore, 1982. 124p.))

(注10)応神記に天之日矛説話は所載されている。都怒我阿羅斯等の記事は垂仁紀に所載されている。応神天皇は中国の史書に倭の五王の讃に当たるかとする説がある。それによるならば5世紀前半である。一方、本邦において、牛耕で唐耒が用いられ始めたとされている時期は、それよりもずっと遅れて7世紀かとさえ言われている。遺物として唐耒が出土しないからであり、農耕には牛よりも馬がよく使われたとも考えられている。小鞍を載せるようになったのも、馬の鞍に由来すると考えられている。ただし、牛の骨の出土例からすると馬と同じ頃には渡って来ているとも言う。考えなければならないのは牛馬の絶対数である。乗馬のための威信財として馬が盛んに飼育され、そのうちの駄馬は農耕に回されたとすると、馬に馬鍬を牽かせるという本邦に独特な方法も理解できる。数が少ない牛による唐耒の活用法については、馬に倣って独自に開発したと仮定するなら、韓半島に見られない牽引法による牛の一頭引き胴引き法が行われ、それが珍しがられたということもあり得ることである。河野1994.に、「馬が馬鍬で代掻き作業をするときの在来の牽引法は、田鞍や代鞍と呼ぶ背中の鞍による胴引き法であった。」(229頁)とある。理屈としてはそのように解釈可能であるが、時代考証的にはさらに検討が必要である。後考を俟ちたい。
 なお、蔚山地域では、倭人が鉄鉱石の採取活動に関わっていた痕跡があるとされている。

(引用・参考文献)
王2011. 王小林『日本古代文献の漢籍受容に関する研究』和泉書院、2011年。
大村2013. 大村明広「『古事記』天之日矛渡来条に見られる日光感精譚について─出典論を中心に─」『上智大学国文学論集』46、平成25年1月。上智大学学術機関リポジトリ http://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000033255
烏谷2019. 烏谷知子「天之日矛伝承の考察」『学苑』939号、2019年1月。昭和女子大学学術機関リポジトリ https://swu.repo.nii.ac.jp/records/6698
河野1994. 河野通明『日本農耕具史の基礎的研究』和泉書院、1994年。
Goffman, 1974. Erving Goffman, Frame Analysis : An essay on the Organization of Experience, Harper & Row, New York, 1974.
佐伯1970. 佐伯有清『日本古代の政治と社会』吉川弘文館、昭和45年。
Fillmore, 1982.   Charles J. Fillmore, Frame Semantics. In The Linguistic Society of Korea (ed.) Linguistics in the Morning Calm, Hanshin Publishing, Seoul, 111-137pp, 1982.
福島1988. 福島秋穂『記紀神話伝説の研究』六興出版、1988年。
三品1971. 『三品彰英論文集 三巻 神話と文化史』平凡社、昭和46年。
村上2013. 村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』塙書房、2013年。
門田2011. 門田誠一「東アジアにおける殺牛祭祀の系譜─新羅と日本古代の事例の位置づけ─」『佛教大学歴史学部論集』創刊号、2011年3月。佛教大学論文目録リポジトリ https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_RO000100004710(『東アジア古代金石文研究』法藏館、2016年。)

加藤良平 2024.5.3改稿初出

タヂマモリの「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」説話について

 垂仁天皇の晩年に、多遅摩毛理たぢまもり(田道間守)の登岐士玖能迦玖能ときじくのかくのこの(非時香菓)探索の話が載っている。話の次第は次のようなものである。長寿を願う垂仁天皇は、時じくのかくの木の実を手に入れようと考えた。そこで、三宅連等みやけのむらじらの祖先にあたる多遅摩毛理に、常世国とこよのくにへ行って探して来るよう命じた。多遅摩毛理は何年もかけて常世国にたどり着き、入手してようやく持ち帰った。しかし、帰還した時、すでに垂仁天皇は崩御していた。多遅摩毛理はひどく悲しみ、持ち帰った時じくのかくの木の実を飾り立てたもの八個を二つに分け、半分の四個を皇后に献上し、残り半分の四個を天皇の御陵の地に置き、泣き叫んで死んでしまったというのである。

 又、天皇すめらみこと三宅みやけのむらじおや、名は多遅摩毛理たぢまもりを以て常世国とこよのくにつかはして、ときじくのかくのこのを求めしめたまひき。かれ、多遅摩毛理、遂に其の国に到り、其の木実を採りて、かげかげほこほこち来る間に、天皇、既にかむあがりましぬ。しかくして、多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分け大后おほきさきたてまつり、縵四縵・矛四矛を以て天皇の御陵みさざきの戸に献り置きて、其の木実をささげて、さけおらびてまをさく、「常世国のときじくのかくの木実を持ちてのぼりて侍り」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。其のときじくのかくの木実は、是、今のたちばなぞ。(垂仁記)
 九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間たぢまもりみことおほせて、常世国につかはして、非時ときじく香菓かくのみを求めしむ。〈香菓、此には箇倶能未かくのみと云ふ。〉今、たちばなと謂ふは是なり。……
 明年くるつとしの春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国よりかへりいたれり。則ちもてまうでいたる物は、非時の香菓、竿ほこかげなり。田道間守、是にいさ悲歎なげきてまをさく、「おほみこと天朝みかどうけたまはり、遠くより絶域はるかなるくにまかる。万里とほくなみみて、はるか弱水よわのみづわたる。是の常世国は、神仙ひじり秘区かくれたるくにただひといたらむ所に非ず。是を以て、往来ゆきかよあひだに、おのづからにとせりぬ。あにおもひきや、ひとりたかなみを凌ぎて、また本土もとのくにまうでこむといふことを。然るに、聖帝ひじりのみかど神霊みたまのふゆりて、わづかかへまうくること得たり。今、天皇既にかむあがりましぬ。復命かへりごとまをすこと得ず。やつかれけりといふとも、亦、何のしるしかあらむ」とまをす。乃ち天皇のみさざきまゐりて、おらきて自らまかれり。群臣まへつきみ聞きて皆なみたを流す。田道間守は、是、三宅みやけのむらじ始祖はじめのおやなり。(垂仁紀九十年二月〜垂仁後紀九十年明年)

 この話が何の話なのかについては、食物史にお菓子の始まりを述べたものであるとする考え(注1)がある一方、神話学に常世国との関連で考えようとする潮流があり、また、歴史学に三宅連の始祖譚としての重要性を指摘する向きもある(注2)。国文学(上代文学)はタヂマモリとタチバナモリとの類音性を指摘したり、新羅国王の末裔である点を重視している(注3)。新編全集本古事記は、「多遅摩毛理は新羅国王の子孫であり、天皇に対する忠誠心が渡来人にも及んでいることを語る話になっている。」(211頁)という。筆者は、ヤマトコトバを入念に探究して記紀万葉を読解する立場に立つ。話として自己完結していなければ伝承されているはずはないと考えている。
 最初に登場人物を確認しておこう。三宅みやけのむらじの祖先筋に当たるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)である。紀の表記に田道間守とある点から義を考えるなら、田んぼの畦道を守る存在であろうことが見てとれる。朝廷の直轄領である屯倉みやけが置かれたのは、土着勢力がもともと拓いていたところよりも新田開発されたところである。自然のままに水稲栽培に適した水深の浅いところではなく、それまでは水が溜まることがなかったり、水が深いところを田となるように整備したところ、すなわち、畦を整えることではじめてできた田である。ミヤケを名乗る人物の祖先がタヂマモリである所以である。
 田んぼの畦道を守り整える道具は鍬である。土を盛り塗って守っている。アゼ(畦、畔)のことはアと言った。須佐之男のいたずらに「田のあをはなち(離田之阿)」(記上)とある。アという言葉には、畦以外に足のことも指した。「ゆひ〔阿由比〕」(記81)、「よひ〔阿庸比〕」(紀106)とある。どうして畦と足とが同じヤマトコトバ(音)で成っていて違和感を覚えないのか。それは、ともにクハ(鍬)に関係する語だからである。鍬によって作られるのが畦である。鍬の形は柄に直角的に角度をつけて刃となる面がついている。その様子は、足の脛に対して靴に入る足の甲、足のひらのつき方と同じである。
 白川1995.に、「くはたつ〔企・翹〕 下二段。「くは」は鍬。足でいえばかかとから爪先までの部分が、鍬の平らかな刃の部分にあたるので、鍬腹くわはらという。かかとから先をまた「くは」といい、「くはゆぎ(曲肘)」「くびす(跟)」などの語がある。遠くを望み見るとき、そこを立てるのが「くはたつ」で、かかとをあげ、背のびしてみることをいう。「くはたつ」は、仏典の訓読語にみえるほかには、用例は殆どない。「くは」は稲作以前の原始農耕の時代からあったと考えてよい。〔華厳音義私記〕「翹音は交、訓は久波多川くはたつ」、〔名義抄〕に「肢・竚・尅・翹・企クハタツ」、〔字鏡抄〕には企・の二字のみ録する。」(301頁)とある。語史的には、身体用語としてクハという語があり、後に農具として現れたものがその形になぞらえられてクハと呼ばれるようになったと考えられている。
 このことからすると、タヂマモリという人物名は、畦を作っては崩れていないかいつも見守り修繕する人を表していると考えられつつ、足が巧みに働くこと、また、遠くへ行くにはまず先を見渡さなければならないが、そのために企てて背伸びをするのにもってこいであることを示している。名に負う人物として遠い世界へ赴くことが求められているといえる。当然ながら遠路を行くには時間がかかる。その時間という概念をクローズアップさせてみたとき、時間とは無関係なほどに常に畦道を守る人のことが思い起こされている。あるのが当たり前と思われ、時間の概念から解放されているかに見えて、その実、たゆまぬ努力をもってメンテナンスが行われている。見た目が変わらないことを生業の目的とするのがタヂマモリという農道整備者である。だから、天皇としてみれば、その治世、天皇の御代の常にあらむと願うことがあるなら、タヂマモリにかなえてもらおうということになる。そして、ヨ(代、世)が常にあるとされている常世国へと足の達者なタヂマモリを派遣して、それをかなえそうな象徴的なお土産を持ち帰るように指示している(注4)
 それが登岐士玖能迦玖能ときじくのかくのこの(非時香菓)である(注5)。農道整備に使う鍬は、地面を浅く掘り起こし混ぜ返すのに便利な道具である。表面付近に根の張った雑草を根切りしながら土を耕すことができる。草は腐って作物の肥料となる。また、人肥を下肥にするため、農地に混ぜ込むのにも鍬は用いられる。すなわち、鍬はこえと深い関係にある。足を意味するクハも、足を上げることを蹴鞠にコエ(蹴、コユの連用形)といい(注6)、遠く山越え谷越えて移動するのに役立つ。コエ(肥)をコエ(超)て臭いのきつく凌駕するもの、それもアシ(足)なるアシ(悪)きものではなく、良きもので常に覆いつくすようなものが求められることになる。それが、カクなるもの、香しいものである。
 そんな木の実(香菓)があったら持ち帰るようにと言っている。ここで、トキジクノカクノコノミとは何かという問題に向き合わねばならない。「其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。」(記)、「今謂橘是也。」(紀)から、これはミカンの類の橘の実と考えられることが多い(注7)。ただし、お菓子の歴史を研究する側からは、「非時香菓」(紀)と書き示されているからには、日持ちする菓子のことではないかという意見が根強く、お菓子の起源譚であるとされている。持続性、永遠性を求めているのだから、生の菓子に当たるフルーツではなくて、加工された干菓子ではないかというのである。
 「橘」とあるからヤマトタチバナ(ニッポンタチバナ)のことを指すとする見方があるが、ヤマトタチバナは古くから自生しており遠く求める必要はない。柑橘類の総称であろうとする説もあるが、ならばどのような品種か見分けられなければならず、また、長く枝に成っていることを「縵四縵・矛四矛」、「八竿八縵」と受け取るように読むのは少し苦しいように感じられる。葉があるのが縵で、葉をもぎ取ったのが矛や竿とするとして、どうしてそのような小細工で分け隔てをするのか、何か説明されるなり自明でなければならないはずであるものの、理解への糸口はこれまでのところ見出されていない。
 なにより、記紀の言い方は念を押したような形をとっており尋常ではない。

 其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。(記)
 天皇命田道間守、遣常世国、令非時香菓。〈香菓、此云箇俱能未。今謂橘是也。〉(紀)

 平たく尋常な言い回しから見てみる。「今謂」とする叙述としては他に、記に一例、紀に八例見える。

 故、其の所謂いはゆ黄泉よもつ比良ひらさかは、今、出雲国の伊賦夜いふやさかと謂ふ。(故、其所謂黄泉比良坂者、今謂出雲国之伊賦夜坂也)(記上)
 因りて、なづけて浪速国なにはのくにとす。亦、浪花なみはなと曰ふ。今、なにと謂ふはよこなまれるなり。〈訛、此には与許奈磨盧よこなまると云ふ。〉(因以、名為浪速国。亦曰浪花。今謂難波訛也。訛、此云与許奈磨盧。)(神武前紀戊午年二月)
 かれ時人ときのひと、改めて其の河を号けて挑河いどみがはと曰ふ。今、泉河いづみかはと謂ふは訛れるなり。(故時人改号其河挑河。今謂泉河訛也。)(崇神紀十年九月)
 はかまよりくそおちし処を屎褌くそばかまと曰ふ。今、くすと謂ふは訛れるなり。(褌屎処曰屎褌。今謂樟葉訛也。)(崇神紀十年九月)
 故、其のところを号けて墮国おちくにと謂ふ。今、弟国と謂ふは訛れるなり。(故号其地墮国。今謂弟国訛也。)(垂仁紀十五年八月)
 故、時人、其のうきを忘れし処を号けてうきと曰ふ。今、いくはと謂ふは、訛れるなり。(故時人号其忘盞処浮羽。今謂的者訛也。)(景行紀十八年八月)
 故、時人、五十迹手とて本土もとつくにを号けて伊蘇国いそのくにと曰ふ。今、伊覩いとと謂ふは訛れるなり。(故時人号五十迹手之本土伊蘇国、今謂伊覩者訛也。)(仲哀紀八年正月)
 故、時人、其の処を号けて、梅豆めづ羅国らのくにと曰ふ。今、松浦まつらと謂ふは訛れるなり。(故時人号其処梅豆羅国、今謂松浦訛焉。)(神功前紀仲哀九年四月)
 鳥、此の田を以て、天皇の為に金剛こむがうを作る。是、今、南淵みなぶち坂田さかたの尼寺あまでらと謂ふ。(鳥以此田、為天皇金剛寺。是今謂南淵坂田尼寺一。)(推古紀十四年五月)

 紀の地名譚の七例は「訛」字が続いており、音の変化を「謂」で表している。推古紀の例は寺の名称変更を示している。それらから推して考えると、記上の例も、坂の名を今はそう呼んでいると言っているだけである。
 対して、尋常ではない言いっぷりを見てみる。垂仁記の「是今……也。」とする叙述は、他に記に一例、紀に一例見える。

 此の、やま多豆たづと云ふは、是、今の造木みやつこぎぞ。(此、云山多豆者、是、今造木者也。)(允恭記)
 酒君さけのきみこたへて言さく、「此の鳥のたぐひさはに百済に在り。ならし得てば能く人に従ふ。亦、く飛びてもろもろの鳥をる。百済のひと、此の鳥を号けて倶知くちと曰ふ」とまをす。〈是、今時いまたかなり。〉(酒君対言、此鳥之類、多在百済。得馴而能従人。亦捷飛之掠諸鳥。百済俗号此鳥俱知。〈是、今時鷹也。)(仁徳紀四十三年九月)

 允恭記の例の「山たづ」、「造木みやつこぎ」とも今日に伝わる名称ではなく、ニワトコのことであるとされている。勢い込んで「是今……者也。」と口にしているところから、太安万侶が書いた「今」時点で通称とされていたのではなく、聞く相手に対し、言っていることの頓智を悟れ、と促しているように思われる。みやつこと呼ばれる地方の有力者でありながら中央の被支配者層が、木を使って木に似せたものを造った、それが「造木」である。ニワトコは材質が柔らかく、削り掛けと呼ばれる飾り物の材料に使われた。おもちゃのお金のことを考えるとわかりやすい。お金でおもちゃのお金(ミヤツコガネ?)を買うという不思議なことをしている。
 また、仁徳紀の例は、百済ではたくさんいて、馴らして狩りに使うものでクチと呼ばれている、という点に関して、これは今のたかのことであると注している。この場合、 hawk が新しく種として百済からもたらされたということではない。これまで本邦でも棲息していたものの、飼い馴らし調教して狩りに使うことはしていなかったが、今日ではよく利用されるようになっていて、今言うたかのことを指しているのだと説明を施している(注8)。「造木」、「鷹」とも、種の同定をしているのではなく、人間にとってその動植物はどのような役目を果たしているかという点を考え落ちに語っている。すなわち、改められた概念を呈示している。そのことを謂わんがために、「是今……也。」という念を押す言い方が行われている。
 垂仁記同様、垂仁紀の例でも、最後に「是也。」と強調して終わっている。名称、呼称に変化があったということよりも、以前はその言葉の範疇に収められておらず、新たに認識されてその言葉に組み込まれるようになったと含み伝えるために記されている。田道間守が常世国から持ち帰ったというのはそのとおりだろうから、自生していたヤマトタチバナのことをそのまま言っているのではない。それまで思っていたのとは異なる柑橘類として「非時香菓」が将来したと考えなければならない。「非時香菓」の出現によって「橘」概念が拡張されている。起爆的に従来の「橘」概念が壊され、新しい「橘」概念が築きあげられたということである。
 その可能性の第一はお菓子の到来である。いわゆる「唐果からくだもの」である。大陸から到来した「果物」であり、「木実」に当てがわれている。和名抄に、「果蓏 唐韻に云はく、説文に木の上にあるを果〈古火反、字は亦、菓に作る。日本紀私記に古能美このみと云ひ、俗に久多毛乃くだものと云ふ〉と曰ひ、地の上にあるを蓏〈力果反、久佐久太毛能くさくだもの〉と曰ふといふ。張晏に曰はく、核有るを菓と曰ひ、核無きを蓏〈核は果蓏具に見ゆ〉と曰ふといふ。応劭に曰はく、木の実を菓と曰ひ、草の実を蓏と曰ふといふ。」とある。「唐果」とは、フルーツに似せて作った加工食品、お菓子のことである。加工されて木の実に似せられたお菓子をどのように理解すればよいか。李が伝わった時、ももに似ているのでスモモと呼ぶことにしたことはすでにあったらしい。フルーツなのだからそれで構わない。今回、何だこれは? はたして木の実と言えるのか? という代物が伝わっている。允恭記の「造木」と同様の言語活用法が試されている。
 和名抄に従うかぎり、このは、木の上に成っていて「果」または「菓」の字で表され、俗にクダモノと呼ばれているものである。一般的にいう橘の実がそのまま食用とされることはないが、近縁種のミカン類は食用となっている。和名抄に、「柑子 馬琬食経に柑子〈上の音は甘、加無之かむじ〉と云ふ。」とある。また、橘の実の皮は調味料とされている。和名抄に、「橘皮 本草注に云はく、橘皮は一名に甘皮といふ〈太知波奈乃加波たちばなのかは)、一に岐賀波きがはと云ふ〉。」とある。香り高く、甘味を含んだ風味をつけるために、料理に刻みあえている。
 すると、ニワトコの枝を使って「木」を造ったように、橘の皮を用いながら「菓蓏このみ・くだもの」を造作したものが、トキジクノカクノコノミであると言えるのではないか。そして、カクと冠されるのは、かくからなのか、かくからなのか、その両方からなのかということになるだろう。今日、柚子などの皮が香りづけに用いられているとおり、乾燥保存されて常時用いられていた(注9)。時季に応じることなく、旬にこだわることのなく造作される果物という意味で、トキジクノカクノコノミと言っている。

「かくのあわ」(?)(トルファン出土品、日中友好会館展示パネル)

 和名抄に、「結果 楊氏漢語抄に結果〈形は結ぶ緒の如し、此の間に、亦、之れ有り。今案ふるに、加久乃阿和かくのあわとかむがふ。〉と云ふ。」(注10)とあるのがそれである。結びつけるような形状にして、揚げ句の果てに成ったもの、油で揚げたお菓子のようである。油で揚げれば泡立ち、その泡のしずくのような不思議な形をしたものができている。三次元的に複雑な形状をしていて泡立つようでありつつ、今にも崩壊して泡の如く消えて行ってもおかしくないものである。ぐるぐるっと巻き結んで拵えているところは、自然界ではなかなか見られそうにない。いかにも人工的なお菓子は、逆の意味で「非時」性があり、なるほどトキジクノカクノコノミとは人間の強欲の末にたどり着いた「結果」であると悟ることができる。不老不死というあり得ないことを考えることは、あり得ないものをないものねだりすることであり、世界が反転するほどに訳がわからなくなっている。
 そのような意味合いを含めて「たちばな」という言葉で言いくるめようとしている。そこに第二の可能性が見てとれる。それ自体が果物を求めるものではない樹木の存在、からたちである。いつのことかは不明ながら古い時代に列島に持ち込まれている。

 からたちと うばら刈りけ 倉建てむ くそ遠くれ 櫛造る刀自とじ(万3832)

 名称は、カラ(唐)のタチバナ(橘)の意である。そして、「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話はよく知られている。「橘は淮南に生ずれば則ち橘と為るも、淮北に生ずれば則ち枳と為ると。葉は徒に相似るも其の実の味同じからず。然る所以の者は何ぞや、水土異なればなり。(橘生淮南則為橘、生于淮北則為枳。葉徒相似、其實味不同。所以然者何、水土異也。)」(晏子春秋・内篇・雑下)、「江南に橘有り、斉王、人をして之れを取らしめて、之れを江北に樹うるに、生じて橘と為らずして、乃ち枳と為る。然る所以は何ぞ。其の土地之れをして然らしむるなり。(江南有橘、斉王使人取之、而樹之於江北、生不為橘、乃為枳。所以然者何。其土地使之然也。)」(説苑・奉使)とある。端的に言えば、所変われば品変わる、の意である。橘と枳とには互換性があり、枳が本邦に入ってきたとき、それをカラ(唐)のタチバナ(橘)であると認め、「橘」概念が拡張された。
 こうして、お菓子のことをカラクダモノと言って木の実の範疇に入れることは、からたちたちばなの範疇に入れるのと間にパラレルな関係性が生まれている。タヂマモリがトキジクノカクノコノミを飾り捧げる方法は、「縵八縵・矛八矛」(記)、「八竿八縵」(紀)であった。葉がついたものは「縵」、ついていないものは「矛」や「竿」と解されている。通説では、ミカンの実に葉をつけておくかつけておかないかの差のように考えられているが、そうではなく、カラタチの樹全体に、葉がついているか葉が落ちてしまっているかを指している。柑橘類のなかでも特異な存在として、カラタチには葉を落とす習性がある。葉が完全に落ちていても茎部分に葉緑体があるので生きている。「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話も生き生きとしたものになっている。

左:カラタチの垣根(川崎市立日本民家園)、右:七支刀復元品(鋳造、平成18年復元プロジェクトチーム制作、橿原考古学研究所附属博物館展示品)

 カラタチは刺が出ていて生垣に利用されている。泥棒を含めた獣除けのために果樹園の周囲にめぐらされた。水田に米が稔るのは、田に水がたまる仕掛けに拠っていて、その田の周りは畦がめぐらされていて稔りを守っていたのと同じである。タヂマモリはその名がゆえに耕作地の周りを守る仕事に徹していた。果樹園に果物が実らない最大の理由は鳥獣による被害である。それを防ぐには畦同様の仕掛けが必要となる。葉が茂って「縵」があれば果樹園の中を見えなくし、葉がなくても刺や枝が入り組んでいれば「矛」や「竿」の役目を果たす。侵入できない通せん棒、鉄条網、警備具と化している。とげとげしている様は、まるで七支刀のような矛である(注11)。カラタチが生垣としてあれば、果樹園では果物がよく実り、香り高く熟するまで枝につけておけて美味なるものを収穫することができる。それこそカクノコノミであり、カラタチは果物そのものと等価である(注12)。タヂマモリは、常世国で自らが派遣された理由を理解するのに時間を要したようであるが、ヤマトコトバの論理学において、その名を負わなければ果樹園守の任は果たせなかったのであった。結果、カラタチは樹種的には柑橘類であり、フルーツの「橘」概念を刷新させている。「是今橘者也。」(記)、「今謂橘是也。」(紀)と記されたのは、頓智力の高い考え落ちであった。
 記に、「爾、多遅摩毛理、分縵四縵・矛四矛、献于大后、以縵四縵・矛四矛、献-置天皇之御陵戸而、……」とあるのは、「縵八縵・矛八矛」を半分ずつに分配したということである。荻生徂徠・南留別志に、「ふたつはひとつの音の転ぜるなり。むつはみつの転ぜるなり。やつはよつの転ぜるなり」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100173233/54?ln=ja)とある。すなわち、「や(八)」としてではなく、「よ(四)」としている。「や」は「よ」の母音交替形でその倍数である。どちらも「弥」字で表すように、極めて数が多いことをいうが、垂仁天皇が当初求めた目的は、御代の常ならんことであった。程度の甚だしいことを表す副詞に用いられている。

 …… 堅く取らせ した堅く や堅く取らせ だり取らす子(記102)
 霞立つ 長き春日を 挿頭かざせれど いや懐かしき 梅の花かも(万846)
 夕凪に 寄せ来る波の その潮の いやますますに その波の いやしくしくに わぎ妹子もこに ……(万3243)
 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793)

 つまり、(ヨは乙類)(世、齢)の長かりしことを願っていたのであって、同音の乙類のヨ(四)こそふさわしい数であった。それなのに、いやますますの意味でヤ(ハ)ピース(piece)持ち帰って来てしまった。多いほどいいだろうと考えていたから、光陰の如しというようにヤが飛ぶように時間がかかり、天皇はすでにこの世を去ってしまっていた。必要にして十分なピース数はヨ(四)であった。だから、大后に四ピースを献上し、残りの四ピースを陵墓へと持って行った。間に合わなかった責任は自分にあると思って後悔し、泣き叫んで死んでしまったという話で終わっている。「常世」なのだからトコ(床)+ヨ(四)、つまり、四角形の牀、胡床のことだとまで頓智が利かなかったのは、タヂマモリをしていながらまだ田が条里制以前のことで、四角四辺がヒントなのだと気づかなかったからだろうか。
 タヂマモリの非時香果の説話がこのような様相を呈するように、ヤマトコトバの言語ゲームの粋の賜物としてさまざまな説話が記紀に残されている。

(注)
(注1)「菓子の文化史」参照。
(注2)中村2015.は、「こうした[田道間守がお菓子の神さまとして祭られるにいたる]後世の伝説の進化は、ある種、物語としての宿命なので是非はないが、本来の田道間守と非時香菓の物語は、どういう意図をもって記述されたのかを探る必要はあろう。」(188頁)といい、垂仁陵を青々と飾るために橘の木が選ばれて、三宅氏の陵墓管掌の役割を確かならしめるためにこの話は創作されたのであろうとしている。
(注3)西郷2005.は、タヂマモリの話の意味合いは、《帰化族》の宮廷への忠誠譚であるとし、また、三宅ミヤケ連の祖のことから、武蔵国橘樹タチバナ郡に橘樹郷とヤケ郷とが並んで見えることが、屯倉ミヤケ(宮廷領)とタチバナとの因縁を想わせるという(355~356頁)。
(注4)「土産みやげ」という言葉の出所は未詳であり、いつからある言葉かも定かでない。そのミヤゲ(土産)とミヤケ(屯倉、三宅、ケは乙類)が関係する語なのかも不明ではある。
(注5)「時じ」については、➀絶え間なく〜する、いつでも〜だ、②その時ではない、時節はずれだ、の二つの意味があると考えられている。用例を見ると、いずれかの意味にとれば理解されることが多いため、当初から二つの意味があったように思われている。そして、この「時じくのかくの木実」の場合、➀と②の両方を含んだ重層的な意味合いを表していると指摘されている(佐佐木2007.)。しかし、「時じ」という言葉の原義は、時そのものを内に含んでしまい、時間という概念を超越することであると捉えたほうがわかりやすい。だからこそタヂマモリとは何か、という哲学的な問い掛けが主題を構成するのにふさわしいのである。
 トキ(時)という言葉は、古典基礎語辞典で、「古くは、今あると思ったことが過去となり、やがて来るであろう未来が現前しているというように、次々と移り変わるものとしてトキを意識している。」(827頁、この項、白井清子)と解説されている。それに否定の形容詞を作る接尾語がついているのだから、「時じ」の意味の原型(prototype)は、移り変わりの適時感が失われている点にこそあるのだろう。すなわち、動画の停止ボタンがうまく働かないことを表している。ジャストタイムに停止しないことも、ボタン自体が利かないことも、同じく「時じ」という一語に当たる。
(注6)蹴鞠の足の使い方は独特である。渡辺2000.に、「蹴鞠では鞠を蹴上げる足は何故か右足に限られていた。箸を右手で扱うのが正しい作法であるという観念と共通の文化風土の産物であろう。したがって、一人で続けて鞠を蹴上げる場合、サッカーのリフティングのように歩行と同じリズムで、左・右、左・右と交互に蹴ることはできない。蹴鞠の術語ではフットワークを足踏と言う。連続的に鞠を蹴上げる場合の足踏の要領は次のとおりだった。まず、右足で鞠を蹴上げた後、右足を着地する、次に左足を(挙げて)着地し、しかる後に、右足を挙げて鞠を蹴る。つまり、ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)→ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)、………、という、日常的な歩行とは異なるリズムの繰り返しになった。これを三拍子と呼んだ。」(9頁)とわかりやすく説明されている。足を意識して動かしている。その際、足首を伸ばすことなく鍬同様にL字形に保った動きを繰り返している。
 蹴るの古語は、古くクウ(下二段活用)という言い方があり、「蹴散くゑはららかす」(神代紀第六段本文)という例がある。名義抄には、「蹴 化ル、クユ、コユ」とあり、コユは「越ゆ」と同根とされている。蹴る動作と踏む動作がセットになっている。鍬が土を掘り蹴上げるばかりでなく、反対面を使って泥土を押し撫でつけて畦を作ることができるようになっているのと同じことである。
(注7)ミカン科のなかには、ダイダイ(橙)のように一旦黄色くなったものが翌春になると再び緑色になり、果実が二三年落ちずにいる種もある。筆者はこれをトキジクノカクノコノミに宛がわない。トキジク性を欠いている。
(注8)鷹狩り用の鷹が、空間的に「渡り」鳥であるばかりか時間的にも「渡り」鳥であるように、巧みなレトリック表現としてある点については、拙稿「允恭記の軽箭と穴穂箭について」参照。
(注9)七味唐辛子にはミカンの皮が入っている。人見必大・本朝食鑑の「蕎麦」の項に、「別に蘿蔔汁・花鰹・山葵・橘皮・番椒・紫苔・焼味噌・梅干等の物を用ゐて、蕎切及び汁に和して食す。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569413/1/57)と見える。
(注10)和名抄に菓子類と思われる食べ物が記載されている。食べ物のうち菓子に分類されるものは、その嗜好性によるのであろうが、どこまでを嗜好品としてデザートやおやつに食べるかは判断がつきにくい。太田2005.の挙げるものについて、以下に京本の順にて記す。

餅腅 楊氏漢語抄に云はく、裹む餅の中に鵝鴨等の子、并びに雑菜を納れ煮合せてけだに截るものは、一名に餅腅〈玉篇に腅は達監反、肴なり〉といふ。
糉〈角黍、粽なり〉 風土記に云はく、糉〈作弄反、字は亦、粽に作る、知末岐ちまき〉は菰の葉を以て米を裹み、灰汁を以て之れを煮て爛熟せ令め、五月五日に之れをふといふ。
餻 考声切韻に云はく、餻〈古労反、字は亦、𩝝に作る、久佐毛知比くさもちひ〉は米屑を蒸して之れをつくるといふ。文徳実録に云はく、嘉祥三年の訛言に、今玆ことし三日に餻を造るべからず、母子無きを以てなりと曰ふといふ。
餢飳 蒋魴切韻に云はく、〓〔飠偏に咅〕飳〈部斗ぶとの二音、亦、〓〔麥偏に咅〕𪌘に作る、布止ぶと、俗に伏兎と云ふ〉は油煎餅の名なりといふ。
糫餅 文選に云はく、膏糫は粔籹といふ〈糫の音は還、粔籹は下文に見ゆ〉。楊氏漢語抄に糫餅〈形は藤葛の如き者なり、万加利まがり〉と云ふ。
結果 楊氏漢語抄に結果〈形は緒を結ぶ如し、此の間に、亦、之れ有り、今案ふるに加久乃阿和かくのあわ〉と云ふ。
捻頭 楊氏漢語抄に捻頭〈無岐加太むぎかた、捻の音は奴協反、一に麦子と云ふ〉と云ふ。
索餅 釈名に云はく、蝎餅、䯝餅、金餅、索餅〈無岐奈波むぎなは、大膳式に手束索餅は多都賀たつかと云ふ〉は皆、形に随ひて之れを名くといふ。
粉熟 弁色立成に粉粥〈米粥を以て之れを為る、今案ふるに粉粥は即ち粉熟なり〉と云ふ。
餛飩 四声字苑に云はく、餛飩〈渾屯の二音、上の字は亦、餫に作る、唐韻に見ゆ〉は、餅を肉としてきざみて麺とし之れを裹み煮るといふ。
餺飥〈衦字付〉 楊氏漢語抄に云はく、餺飥〈博託の二音、字は亦、𪍡𪌂に作る、玉篇に見ゆ〉は衦麺、方に切る名なりといふ。四声字苑に云はく、衦〈古旱反、上声の重〉は摩りぶるための衣なりといふ。
煎餅 楊氏漢語抄に云はく、煎餅〈此の間に字の如しと云ふ〉は油を以て熬る小麦の麺の名なりといふ。
餲餅 四声字苑に云はく、餲〈音は蝎と同じ、俗に餲餬と云ふ。今案ふるに餬は食に寄するなり、餅の名とるは未だ詳かならず〉は餅の名、麺を煎りて蝎虫の形に作るなりといふ。
黏臍 弁色立成に黏臍〈油餅の名なり、黏り作り人の膍臍に似せるなり、上の音は女廉反、下の音は斉〉と云ふ。
饆饠 唐韻に云はく、饆饠〈畢羅の二音、字は亦、〓〔麥偏に必〕𪎆に作る。俗に比知良ひちらと云ふ〉は餌の名なりといふ。
䭔子 唐韻に云はく、䭔〈都回反、又、音は堆と同じ、此の間に音は都以之ついし〉は䭔子なりといふ。
歓喜団 楊氏漢語抄に歓喜団と云ふ。〈しなじなの甘物を以て之れをつくる。或説に一名を団喜と云ふ。今案ふるに俗説に梅枝、桃枝、餲餬、桂心、黏臍、饆饠、䭔子、団喜は之れを八種の唐菓子と謂ふ。其の見ゆる有るは、すでに上文に挙ぐ〉

(注11)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」参照。
(注12)カラタチ自体の実のことなどどうでもいいことにされている点が、なるほどと理解に至る考え落ちになっている。頓智にすぐれたおもしろい話として際立つ構成である。このように頭を捻るおもしろ味があるからこそ、本説話は伝承されてきていたと考えられる。話を伝えることが生きる知恵に直結している。カラタチは、名を捨てて実(果樹園のなかの果樹の実)を取ったことになっている。

(引用・参考文献)
太田2005. 太田泰弘「唐菓子の系譜─日本の菓子と中国の菓子─」『和菓子』第12号、虎屋文庫、平成17年3月。
「菓子の文化史」 「菓子の文化史」(平成22年度)『文化史総合演習成果報告』奈良女子大学大学院人間文化研究科(博士前期課程)国際社会文化学専攻、2011年3月。奈良女子大学ホームページ http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/index.html(2024年5月2日閲覧)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』 筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む─声から文字ヘ─』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
次田1980. 次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
中村2015. 中村修也「田道間守と非時香菓伝説新考」『言語と文化』第27号、文教大学、2015年3月。文教大学学術リポジトリ https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/records/3032
渡辺2000. 渡辺融「フットボール、昔と今」『大学出版』第47号、大学出版部協会、2000年10月。大学出版部協会 https://www.ajup-net.com/web_ajup/047/web47.shtml(2024年5月2日閲覧)

加藤良平 2024.5.4加筆初出

蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─

記紀の国生み説話

 ヤマトの名は、記紀の初めにある国生みの説話にすでに見られる。まず、あめの浮橋うきはし天上あまの浮橋うきはし)から天沼矛あめのぬほこあま之瓊のぬほこ)を下して掻き混ぜ、潮が凝りて淤能碁呂おのごろしま(磤馭廬嶋)となったところで、イザナキとイザナミがあひ遘合みとのまぐはひ(共為夫婦・為夫婦・合為夫婦))をした。その結果、いくつかのしま(洲)ができたなかの一つが、おほやまと豊秋とよあきしま(大日本豊秋津洲)であった。

 是に、ふたはしらの神、はかりて云はく、「今が生める子良からず。猶あまかみもとまをすべし」といひて、即ち共に参ゐのぼり、天つ神のみことひき。しかくして、天つ神のみこと以て、ふとまにに卜相うらなひてのりたまひしく、「をみな先に言へるに因りて良からず。亦還りくだりて改め言へ」とのりたまひき。故、爾くして、かへり降りて、更に其のあめ御柱みはしらめぐること先の如し。是に伊耶那いざなきのみこと、先に言はく、「あなにやし、えをとめを」といひ、のちいも伊耶那いざなみのみこと言はく、「あなにやし、えをとこを」といひき。如此かく言ひをはりてあひして、生みし子は、あは道之穂之ぢのほの狭別島さわけのしま。次に、伊予之いよの二名島ふたなのしまを生みき。此の島は、身一つにしておも四つ有り。面ごとに名有り。かれ予国よのくに愛比売えひめと謂ひ、讃岐国さぬきのくに飯依いひより比古ひこと謂ひ、粟国あはのくにおほ宜都比売げつひめと謂ひ、左国さのくに建依別たけよりわけと謂ふ。次に、隠伎之おきの三子島みつごのしまを生みき。亦の名は、あめおし許呂ころわけ。次に、筑紫島つくしのしまを生みき。此の島も亦、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、筑紫国つくしのくにしらわけと謂ひ、豊国とよくにとよわけと謂ひ、肥国ひのくにたけむかとよ久士比泥くじひねわけと謂ひ、熊曽国くまそのくにたけわけと謂ふ。次に、岐島きのしまを生みき。亦の名は、あめ比登ひと都柱つはしらと謂ふ。次に、しまを生みき。亦の名は、あめ之狭手のさでより比売ひめと謂ふ。次に、度島どのしまを生みき。次に大倭豊秋津島おほやまととよあきづしまを生みき。亦の名は、天御あめのみ虚空そら豊秋とよあき津根づねわけと謂ふ。故、此のしまを先に生めるに因りて、おほ島国しまくにと謂ふ。しかくして後に、還りしし時、びのしまを生みき。亦の名は、たけ方別かたわけと謂ふ。次に、小豆あづきしまを生みき。亦の名は、おほ野手比売のてひめと謂ふ。次に、大島おほしまを生みき。亦の名は、おほ多麻流たまるわけと謂ふ。次に、女島ひめしまを生みき。亦の名は、天一根あめひとつねと謂ふ。次に、訶島かのしまを生みき。亦の名は、あめおしと謂ふ。次に、両児島ふたごのしまを生みき。亦の名は、天両屋あめのふたやと謂ふ。〈吉備児島より天両屋島に至るまでは、并せて六つの島ぞ。〉(記上)
 こうむ時に至るに及びて、先づ淡路洲あはぢのしまを以てとす。みこころよろこびざれるなり。かれなづけて淡路洲と曰ふ。すなはおは日本やまと〈日本、此には耶麻騰やまとと云ふ。しも皆此にならへ。〉豊秋とよあきしまを生む。次に予二名洲よのふたなのしまを生む。次に筑紫洲つくしのしまを生む。次に岐洲きのしま度洲どのしまとを双生ふたごにうむ。ひと、或いは双生むこと有るは、此にかたどりてなり。次に越洲こしのしまを生む。次に大洲おほしまを生む。次にびのしまを生む。是に由りて、始めて大八洲国おほやしまのくにおこれり。即ち対馬嶋つしま岐嶋きのしま、及び処処ところどころしまは、皆是しほあわりて成れるものなり。亦は、水の沫の凝りて成れるとも曰ふ。(神代紀第四段本文)  遂に為夫婦みとのまぐはひして、先づひるを生む。便ち葦船あしのふねに載せてながしやりてき。次に淡洲あはのしまを生む。此亦の数にれず。故、還復かへりてあめに上りまうでで、つぶさに其のありさままをしたまふ。時に天神あまつかみ太占ふとまにを以て卜合うらふ。乃ちをしへいでてのたまはく、「婦人たわやめこと、其れすでに先づ揚げたればか。更に還りね」とのたまふ。乃ちとき卜定うらへてあまくだす。故、ふたはしらの神、改めてまたみはしらを巡りたまふ。かみは左よりし、かみは右よりして、既に遇ひたまひぬる時に、陽神、先づ唱へて曰はく、「妍哉あなにゑや可愛少女をとめを」とのたまふ。かみ、後にこたへて曰はく、「妍哉、可愛少男をとこを」とのたまふ。然して後に、宮をおなじくして共に住ひてみこを生む。おほ日本やまと豊秋とよあきしまと号く。次に淡路洲あはぢのしま。次に予二名洲よのふたなのしま。次に筑紫洲つくしのしま。次に岐三子洲きのみつごのしま。次に度洲どのしま。次に越洲こしのしま。次にびのしま。此に由りて、これ大八洲国おほやしまのくにと謂ふ。(神代紀第四段一書第一)
 一書に曰はく、ふたはしらの神、合為夫婦みとのまぐはひして、先づ淡路洲・淡洲あはのしまを以てとして、大日本豊秋津洲を生む。次に伊予洲。次に筑紫洲。次に億岐洲と佐度洲とを双生ふたごにうむ。次に越洲。次に大洲。次に子州。(神代紀第四段一書第六)
 一書に曰はく、先づ淡路州を生む。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に億岐洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に壱岐洲。次に対馬洲。(神代紀第四段一書第七)
 一書に曰はく、おの馭廬ごろしまを以て胞として、淡路洲を生む。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億岐洲と佐度洲とを双生む。次に越洲。(神代紀第四段一書第八)
 一書に曰はく、淡路州を以て胞として、大日本豊秋津洲を生む。次に淡洲。次に伊予二名洲。次に岐三子洲きのみつごのしま。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲。(神代紀第四段一書第九)
 一書に曰はく、陰神先づ唱へて曰はく、「妍哉、可愛少男を」とのたまふ。便ち陽神のみてりて、遂に為夫婦みとのまぐはひして、淡路洲を生む。次にひる。(神代紀第四段一書第十)

 記では、それぞれの「島」について亦の名の神名を記す。一方、紀では、「洲」の名を連ねるに止まる。記では、淡道之穂之狭別島、伊予之二名島、隠伎之三子島、筑紫島、伊岐島、津島、佐度島を生んでから大倭豊秋津島を生んでいる。以上から大八島国といったとする。その後、吉備児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島を生んだとしている。紀本文では、「及至産時、先以淡路洲胞。」とあり、すぐに大日本豊秋津洲を生んでいる。「胞」とは胞衣えなのことで、胎児をくるむ羊膜である。通常、臍帯などと同じく、後産あとざんとして子の出たあとから娩出される。これらをすべて胞衣えなと称するようになっている。胞が先に出てきて子が後から出て来ているのが問題で、順序が逆になっている。その後、伊予二名洲、筑紫洲、億岐洲、佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲の順で生み、以上で大八洲国の名前ができたとする。淡路洲は胞だから大八洲の勘定に入れていない。また、対馬島、壱岐島とその他の諸々の島々は、みな潮の泡が凝り固まってできたものであるとしている。洲と島とを使い分け、厳密な表記を心掛けている。
 紀一書第一では胞の話はなく、大日本豊秋津洲、淡路洲の順で、大島が除かれて大八洲国としている。一書第二から一書第五までは国々の記載はなく、一書第六は、淡路洲・淡洲を胞として大日本豊秋津洲を生み、以下本文と同じである。一書第七は、淡路洲、大日本豊秋津洲、伊予二名洲、億岐洲、佐度洲、筑紫洲、壱岐洲、対馬洲の順である。一書第八になると磤馭慮嶋が胞にされ、淡路洲を生み、次に大日本豊秋津洲、伊予二名洲、筑紫洲、吉備子洲、億岐洲、佐度洲である。一書第九では、淡路洲を胞として大日本豊秋津洲、その後に淡洲が登場し、伊予二名洲、億岐三子洲、佐度洲、筑紫洲、吉備子洲、大洲、一書第十では淡路洲、蛭児を生んで終わっている。異同が多い点が、かえって厳密に記そうとしていた意図を伝えることになっている。

アハヂの謎(虻蜂取らず・蜘蛛の子を散らす)

 生まれる順として、淡路島を出発点にして、本州から四国、九州、日本海側、瀬戸内海へと回るか、四国の次に隠岐、佐渡があって九州が後回しにされるか、記のように本州が大八島国の最後になるかいろいろである。紀に見られる「」は、国が生まれるときの梃子として効いており、淡路島がキーになっている。紀本文に「意所快。故、名之曰淡路洲。」とある。何が気に入らなかったのか、また、アハヂという名がどうして不快を表す名に値するのか。大系本日本書紀に、「第一子は産みそこないをするという当時の伝承がある通り、その第一子は生みそこないであったので、その第一子にアハヂ(吾恥)の島と名づけたという意(これはアハヂ島という、当時すでに存在していた島の名の地名起源説話の一つがここにからんだもの)。意に満たないので、この島は、おそらく流し捨てたのであろう。ここでは淡路州は大八洲の数に入っていない。この部分は古事記のヒルコの話に相当する。」(331頁)とある。新編全集本日本書紀には、それに加えて、「あるいは軽蔑する意の「淡あはむ」をかけたか。」(27頁)ともある。淡路島はヒルコと違って流されずに現在も大きく存在する。国生みの話は、記、紀本文、一書第一~第十まであるが、一書の第二以降は大雑把で噺のレベルに達しておらず、説話として体を成しているのは、記、紀本文および一書第一だけであり、紀本文にのみ何食わぬ顔で淡路島の悪口が書かれている。
 大系本にいうとおり、すでに存在していた地名に託けた地名譚であろう。先に阿波あはという地名があり、それに引きずられてできたであろうあはという地名があった。そのアハヂという地名にからんで説話が創られている。そして、後先かまわず胞が先に出てきていることから、ちぐはぐさを感じさせる内容を表していると考えられる。おそらくこれは、諺の「虻蜂取らず」の訛った形の頓知であろう。虻蜂取らずとは、どっちつかずや中途半端なことの譬えに用いられている。abu+fati→afadi である。自ら張った巣の中央にクモがおり、巣の対角線上にアブとハチとが同時にかかった。両者ともクモにとっては獲物として大物で魅力的だが力も強い。クモは、どちらを捕ろうかと迷っているうちにどちらも捕れないまま逃げられてしまう(注1)。すなわち、畿内にある朝廷は、西方からの侵入者に対し、明石、鳴門の両海峡を防ごうとして、淡路島の真ん中に城を一つ構えて守ろうとしたが叶わなかった。それを虻蜂取らずの淡路島と洒落ている。
 クモの巣は高いところできらきらしている。移動に際して糸を伸ばして風に乗り、海を越える種もあり、それを糸遊いとゆうと呼ぶ。3~7mmの成体のクモが細い糸を吐き、風に乗って移動する現象である(注2)。ただし、一般に糸遊といえば陽炎のことを指す。現象としてはいずれもぼやぼやっとしてちらちらっと目に映る。漢語の「遊糸」は、梁の簡文帝の詩賦などに見えており、芸文類聚にいくつも例が載る。本邦では和漢朗詠集や菅家文章にも見え、また、和訳して「糸遊」という語も作られている。空海は仏典に拠って「陽燄」の語を用いており、陽炎と遊糸がイメージのなかで混同しているとも考えられている。平安朝の仮名文学においても、「かげろふ」はほのかな光の揺らぎ、光ってはかげり、かげっては光る心もとない現象として想起され、人の世やわが身のはかなさの譬えとして表現されている。
 秋津島は淡路島を胞として出てきた。淡路島は、古代以来、一つの島で一つの国、淡路国を形作る。その胞を破って、蜘蛛の子を散らすような状態になった(注3)。ものすごい数のもじゃもじゃが現れた。一つの島(本州)にたくさんの国(近江、丹波、信濃、上総、出雲、伊勢、吉備、紀伊、伊豆、美濃、播磨、……)がある。淡路島と本州との間は明石海峡である。明石はタコが名産である。そのタコを特に蜘蛛蛸と呼んでいる。「蛸」の字は中国ではアシタカグモのことを指し、巣を張らずに家にいてゴキブリなどを食べて生きている。そんな「蛸」に似た水中の昆虫といえば、トンボの幼虫、ヤゴである。

左:アシタカグモ雌成虫(Jinn「アシダカグモ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アシダカグモ)、中:明石のタコ(松岡明芳「明石市内の商業地区魚の棚で販売される明石ダコ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/明石ダコ)、右:コヤマトンボのヤゴ(Keisotyo「ヤゴ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ヤゴ)

 成虫のトンボは空を飛び、糸遊のように高いところで羽根がきらきらしている。したがって、カゲロフである。透き通った羽根がぼやぼやっとちらちらっと見えるのは、縁紋と呼ばれるステンドグラスの鉛線ケイムのような筋が入っていて、模様となっているからである。
 大倭豊秋津島(大日本豊秋津洲)の秋津とはトンボのことで、蜻蛉と記される。和名抄に、「蜻蛉 本草に云はく、蜻蛉〈精霊の二音〉は一名に胡〓〔勑冠に虫〕〈音は勅、加介呂布かげろふ〉といふ。釈薬性に云はく、一名に蝍蛉〈上の音は即〉といふ。兼名苑に云はく、虰蛵〈丁香の二音〉は一名に胡蝶は蜻蛉なりといふ。」とある。「蜉蝣かげろふ」とは、今いうカゲロウ目やウスバカゲロウのようなアミメカゲロウ目の昆虫だけでなく、トンボ一般のことを指した。そして、「陽炎かげろふ」は、光がちらちらと揺れ動くように見える現象をいい、「かぎろひ(ギ・ロは甲類、ヒは乙類)」の転とされ、ヒは火の意である。万葉集では、炎・蜻火・蜻蜓火といった字を当てている(注4)
 万葉集中に、アキヅとして記される例は全部で二十一例である。内訳は、地名のアキヅが七例(「秋津」(万36・911・1368・1713)、「蜻蛉」(万907)、「飽津」(万926)、「蜻」(万3065))、地名のアキヅノが六例(「秋津野」(万693・1345・1406)、「蜻野」(万1405)、「蜓野(万2292・3179))、枕詞のアキヅシマが五例(「蜻嶋」(万2・3250・4254)、「秋津嶋」(万3333)、「安吉豆之萬」(万4465))、昆虫としてのアキヅが二例(「あき津羽づは」(万376)、「蜻領あきづひれ」(万3314))である。

 あき津羽づはの 袖振る妹を 玉くしげ 奥に思ふを 見たまへ吾が君(万376)
 …… たらちねの 母がかたと 吾が持てる まそみ鏡に 蜻領あきづひれ 負ひめ持ちて 馬へ吾が背(万3314)

 「秋津羽の袖」はうすもの製の袖、「蜻領巾」はオーガンジーの領巾のことである。いずれも透けるだけでなく、トンボの羽根の縁紋のように模様が施されていてきらきらと輝くものであったものと思われる。

トンボの羽根模様と秋津島

 このように、アキヅが特別な言葉として扱われた理由は、国生みの説話と関係があるからであろう。トンボは秋になって成熟し、交尾できるようになると、その縁紋は左右の羽根でぴったり揃うようになる。交尾して産卵できるようになった証拠である。万376番歌は、題詞に「湯原王宴席歌二首」とある。女性が成長して高貴な皇子と婚約を発表した宴席に、湯原王が侍して祝った歌と思われる。トンボの縁紋を画に描くと、本州(大倭豊秋津島・大日本豊秋津洲)にたくさんの国のある様を描いた日本地図のようになる。

大日本図(拾芥抄、慶長十二年(1607)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2580206/63~64をトリミング合成)

 今日に伝わる古い日本地図としては、14世紀初めの仁和寺蔵日本図や金沢文庫蔵日本図、14世紀半ばのものを伝える拾芥抄所収の大日本国図が知られている。中世までの日本図を総称して行基図という。仁和寺蔵日本図に「行基菩薩御作」、拾芥抄に「大日本国 ハ行基菩 ノ スル也。」と注記されている。いずれも、今日のものと比べ、本州に関東地方部分からの北方向への屈曲が少なく、また、諸国が丸みを帯びた形でつなぎ描かれている。行基図は独鈷図ともいう。まんなか辺がくびれているのを密教の法具のとっに見立てたようである。拾芥抄には、「此 ノ形如 ノ テ仏法滋盛ナリ ノ形如 ノ ニ金銀銅鉄 ノ珍宝。五穀豊稔ナリ。」とある。地理的には、列島は若狭湾から琵琶湖を通って伊勢湾へ抜けるところが細くなっているから、それが独鈷の中心ということであろう(注5)
 また、金沢文庫蔵日本図に、我が国を取り巻くように、ヘビか何かのような鱗状の模様が描かれている。その外側の異域の記述は、今昔物語集に典拠があるとする考証が応地1996.にある。また、鱗状の模様については、龍を描いて国土が守られるようなデザインであるとの考証が黒田2003.に行われている。龍が描かれるにいたった根源には、龍が雨水を導く雷神と深い関係がある点にあるという。五行説では、青龍は東の方位と位置づけられるが、国を巡る形で描かれていることは古代末期以降の雨の神としての龍神信仰によるものとしている(注6)。ただ、地図は古代からあったと考えるのが自然である。我が国の場合、諸国の編成に分国はあっても異民族に分断されたことはなく、大勢に変化はない。また、宗教的なドグマに支配された暗黒時代も訪れず、名称の点にのみ、行基図、独鈷図と呼ばれた程度で、特段に形が抽象化されたり偏向が行われた形跡は見られない。おそらく、既存の地図を目にしながら、模写や修正を繰り返して新しい地図は作られ続け、結果的に現存する行基図へとつながり、一部に龍のような芸術性を伴ったものが現れたのだろうと推測される。
 古代の地図が仁和寺蔵日本図に遠くないものとすれば、東西に延びている国々の様子は、トンボが羽を広げた姿に準えられて考えられたのではないか。その特徴を一言でいうなら縁紋的である。棚田の広がる風景が、縁紋のつづく様子に合致することも重ね合わせて納得されたに相違あるまい。なかでも、赤トンボの生育環境として田圃ほどふさわしい場所はなく、水田稲作の展開によって我が国では赤トンボがたくさん見られるようになっている。本州は、大倭豊秋津島(大日本豊秋津洲)、赤トンボの島とイメージされたのである(注7)
 国生みのはじめが淡路島なのは、明石海峡の地名によっている。アカシ(証)になるのがアカシ(明石・赤石)である。

 白髪しらかの天皇すめらみことぎてだてつかはして、しるしを持ち、左右もとこ舎人とねりて、あかに至りて迎へたてまつる。(仁賢即位前紀)

 勅使の証は「節」である。竹の節を割ると左右で合うものはほかにないから証明になる。節度使とは、竹の節によって勘合したことからくる名である。中央から勅を授かって地方の行政に当たっている。和名抄で蜻蛉の一名を「胡〓〔勑冠に虫〕」とし、〓〔勑冠に虫〕が勅の虫と記されていたのには深い意味があったようである。成熟したトンボの左右の羽の縁紋の形は、まるで「節」のように対称に揃っている。赤トンボは、子孫を残せるほど成熟した証として縁紋が揃いもし、赤くもなって、二羽が合わさって交尾をし、水田で子をたくさん生む。水田で稲が赤く熟するのと良く合致している。紀では、「秋津あきづしま赫赫さかりにして」(継体紀七年十二月)、「熟稲あからめるいね」(皇極紀元年五月)と表現されている。
 秋津島では秋になると蜻蛉の縁紋が合う。辻褄が合うという言葉で譬えられよう。辻褄とは、万葉集にいう「秋津羽」、「蜻領巾」同様、服飾用語である。辻は縫い目が十文字に合う所をいい、褄は着物の裾の左右がそろう所をいう。そこから、辻褄が合うとは、合うべきところがきちんと合って物事の道理が合うことをいい、辻褄が合わないとはちぐはぐなことをいう。先に胞となって出てしまった淡路島はヤゴではなかった。辻褄の合わない、すなわち、成熟してもトンボにならない蜘蛛、蛸、また、蜘蛛蛸のことを言っていたわけである。ヤマト朝廷の勢力が本州部分において、稲作にかなう地として東西に版図を広げていくなか、文様が左右対称状になっているのを正当なこととするように構想されていた。それが、aki(秋)+tudituma(辻褄)→akidusima(秋津島)である。

トンボと太鼓と雷

 トンボという名は飛ぶ棒の訛りかという。飛ぶ棒といえば太鼓を叩くばち(枹)が連想される。和名抄に、「大皷〈枹付〉 ……兼名苑に云はく、槌は一名に枹〈音は浮、字は亦、桴に作る。俗に豆々美乃波知つづみのばちと云ふ〉は大鼓を撃つ所以なりといふ。」とある。国生みの話では、当初、イザナキとイザナミのあひ遘合みとのまぐはひ(共為夫婦・為夫婦・合為夫婦))において、「あなにやし(あなにゑや)」と唱える順序が逆であったため、蛭児や淡洲が生れて失敗している。そこで、「故、還復上詣於天」している。できちゃった結婚(授かり婚)は駄目で、神前できちんと結婚式をしてからでなければならない。順序がちぐはぐでは罰が当たるという戒めになっている(注8)。文字の点からいえば、「桴」の字は、淡路島は、明石、鳴門とも海峡に挟まれていることから連想される。「かひ」に挟まれている。秋になってできる稲穂とは「かひ」である。また、「枹」の字は「」の字から連想される。「枹」の字はまた、ケラ(螻蛄)をも指す。形はヤゴによく似、地中で生活する。
 ヤゴは別名をタイコムシという。人々にとっての太鼓の原体験はでんでん太鼓である。抱っこされながらあやされるのに用いられる。記紀説話の最初の舞台、淤能碁呂おのごろじま(磤馭廬嶋)は、雷公をイメージしていたようである。オ(感嘆符のOh!)+ノ(助詞)+ゴロ(擬音語)、つまり、雷鳴を表すと考えられる。天沼矛あめのぬほこあま之瓊のぬほこ)のヌは玉飾りのことである。そのような装飾が鞘などに施された、あるいは刀身自体の形容であるなら、きらきら光る矛を高いところから下ろしたとは、稲光をイメージした表現ということになる。民俗において稲妻は、稲を稔らせるパートナーの意であるとされている(注9)
 でんでん太鼓を背負って桴を振り回している様は、風神雷神図として描かれている。現存する古いものとしては、絵因果経、北野天神縁起絵巻、三十三間堂の彫像などが知られる。
 その雷神の持物は桴に違いなかろうが、中がくびれて両端が膨らんだ形をしているようにも思われる。太鼓をたたくふつうの桴ではなく、でんでん太鼓のための桴、すなわち、玉を糸で止めたものに近いように感じられる。両方に振られるのを異時同図に描けば、桴の先端が膨らんでいると捉えれば独鈷にも見立て得るから、日本図を独鈷図と呼んでいたことと通じていることになる。そして、雷は雲のなかに起こる。雷神が握っている物は雲を掴むようなクモ、つまり、蜘蛛や蛸のようなものだと洒落を言っているように聞こえる。それらから総合的に推察すると、古代においては雷神の桴の形としても秋津島は見られていたことになる。紀では黄泉よみの国からの帰還後、イザナキは結果的に雷を生むことになっている。

 一書に曰はく、弉諾ざなきのみこと、剣を抜きて軻遇突智かぐつちり、きだす。其の一段ひときだは是雷神いかづちのかみと為る。(神代紀第五段一書第七)
 時に弉冉ざなみのみこと脹満太高たたへり。うへくさ雷公いかづち有り。伊弉諾尊、驚きてげ還りたまふ。是の時に、雷等いかづちども、皆ちて追ひきたる。時に、道のほとりに大きなる桃の樹有り。故、伊弉諾尊、其の樹のもとかくりて、因りて其の実を採りて、以て雷にげしかば、雷等、皆退走しりぞきぬ。これ桃を用て鬼をふせことのもとなり。時に伊弉諾尊、乃ち其のみつゑなげうててのたまはく、「ここより以還このかた、雷じ」とのたまふ。是を岐神ふなとのかみまをす。此、本のは、来名戸くなと祖神さへのかみまをす。やくさの雷と所謂ふは、かしらに在るは大雷おほいかづちと曰ふ。胸に在るは火雷ほのいかづちと曰ふ。腹に在るは土雷つちのいかづちと曰ふ。そびらに在るは稚雷わかいかづちと曰ふ。かくれに在るは黒雷くろいかづちと曰ふ。手に在るは山雷やまつちと曰ふ。足の上に在るはつちと曰ふ。ほとの上に在るは裂雷さくいかづちと曰ふ。(神代紀第五段一書第九)

秋のヤマトと「山跡」とアキヅシマ

 秋津(蜻蛉)なる赤トンボが飛んでくるのが秋である。稲を刈り、市へ持ってゆき、売り買いする。秋だからあきなひという。分量をはかるのに必要なのがはかりで、天秤棒に吊るす。価値が釣り合うようにしなければならない(注10)。天秤棒の大型のものは杠秤ちぎり(扛秤)といい、雷神の桴に似て棒の中ほどが支点となるので多少細くなっている。左右が釣り合ったところが辻褄が合うところである。もとは織機の経糸を巻く円柱の榺、すなわち、緒巻に由来するという。和名抄に、「榺 四声字苑に云はく、榺〈音は勝負の勝、楊氏漢語抄に知岐利ちきりと云ふ〉は織機のたていとを巻く木なりといふ。」とある。ちぎりとは約束、因縁のことである。今でも契約書には割印を捺す。勘合により確かめられる。
 秋にはかりも渡ってくる。季節をはかる鳥である。肥えた獲物を探して狩りにもゆく。トンボのような形の火鑽杵のような形の弓矢を使って射ると、手負いの獣は血痕を残しながら逃げていく。どこへ、いつごろ逃げて行ったかは、地面に残る血の跡を見れば推しはかれる。和名抄に「蹤血は波加利はかり」とある。山に残る跡だから、秋津島は一つの意味として「山跡やまと」と結びつくことになる。
 万葉集におけるヤマトの用字としては、「山跡」が十八例(万1・91・303・319・484題詞・551・570・1219・1221・1376・1677・1956・2128・3248・3249・4245・4254・4264)、「倭」が二十二例(万29・同或云・35・64・70・71・73・105・112題詞脚注・255・280・894(2)・944・954・966・1129題詞・3128・3236・3250・3254・3333)、「日本」が十七例(万44・52・63・359・366・367・389・810題詞・956・967・1047・1787・1175・1328題詞・2834・3295・3326)、その他に十一例(「山常」(万2)、「八間跡」(万2)、「夜麻登」(万3363・3457・3648・4487)、「夜麻等」(万3608左注)、「也麻等」(万3688)、「大和」(万4277左注(行政単位としての国名))、「夜萬登」(万4465)、「夜末等」(万4466))がある。
 「倭」の用字は魏志による。「日本」は聖徳太子、あるいは、天武天皇時代に新たに作られた国号とされている。それらと同等に数多い用字に「山跡」がある。この表記が好まれたのは秋津島(洲)との関わりがあったからに違いない。もともとのアキヅシマは、奈良盆地南部の地名、御所市室の小地名にすぎなかったのではないかと考えられている。孝安天皇の都の名は「葛城かづらきむろ秋津島宮あきづしまのみや」(記中)、「秋津嶋宮あきづしまのみや」(孝安紀)である。それが奈良盆地全体へと拡張した。トンボが交尾して胴体を丸くしたときの形が、畿内の大和国を取り巻く外輪山に準えられたかららしい。

 三十有一年の夏四月の乙酉の朔に、皇輿すめらみことめぐいでます。因りて腋上わきがみ嗛間丘ほほまのをかに登りまして、国のかたちめぐらしのぞみてのたまはく、「姸哉あなにや、国をつること。〈姸哉、此には鞅奈珥夜あなにやと云ふ。〉うつ木綿ゆふ迮国さきくにいへども、猶し蜻蛉あきづなめの如くにあるかな」とのたまふ。是に由りて、始めてあきしま有り。(神武紀三十一年四月)
 やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣あをかき 山ごもれる 倭しうるはし(記30)

左:稲穂にとまるナツアカネ、右:アキアカネの交尾(産総研ホームページ「赤トンボはなぜ赤い?動物で初めて見つかった驚きのメカニズム」https://www.aist.go.jp/aist_j/aistinfo/bluebacks/no23/)

 アキヅシマの地理的範囲の拡張は、ちょうどやまとが、三輪山や巻向山の山麓付近の一地名であったのが、今の奈良盆地を表す大和やまと、列島全体を表す日本やまとへと拡張していったようにである。神武紀に、「由是、始……」と注意書きされるのは、秋津洲の意味合いも拡張していったことを含意しているからだろう。朝鮮半島南部の加羅からが、半島全体のから、中国のからまで指し示すようになったのと同様である。アキヅシマがヤマトにかかる枕詞となっている例には、先にあげた万葉集の五例のほか、紀62・63歌謡にも見られる。水田稲作の広がりこそがヤマトの広がりであるとの意識が底流にあったようである。日本図に見られる田一枚を一国とするような描きぶりは、ヤマトの版図が、トンボが羽化して羽根を広げていくことに準えていたからと思われる。
 国生みで生んだのはシマである。紀ではシマに「洲」字を当てて表している。地形的には川の中州のように現れたり消えたりするところでありながら、「洲」は「水中可居者曰洲」(爾雅・釈水)、「聚也、人及鳥物所聚息之処也」(釈名)と説明されている。アキヅシマという言い方をすれば、トンボが集まり憩うところということになる。水田が何面も広がって拡大していく版図のことをアキヅシマと名づけて得意になっていたらしい。ヤマトコトバの言語体系において論理的な最適解を得、矛盾なく統合的に表すことができている。縁紋の話だけに、話の辻褄が合っている。

でんでん太鼓のばちのこと

 縁紋のように畦は田の水を取り巻いている。取り巻きといえば女なら芸者、男なら太鼓持ちのことをいう。倭の字は女が身をくねらせて舞っている様を表す。舞は見ていてちらちらする。目がくるめいてちらちらするのは眩暈めまひである。舞舞はかたつむりである。その貝殻はぐるぐる巻いている。頭部の突起がでんでん太鼓の桴に似るからか、でんでん虫という。カタツムリの通った跡は粘液できらきらしている。でんでん太鼓は、また、張鼓はりつづみ振鼓ふりつづみという。立派なものとしては、雅楽に用いられるふりつづみがある。双方に張った小鼓を柄で貫き、両側に糸の玉を垂れた楽器で、柄を振れば玉が鼓の皮に当たって鳴る仕掛けである。和名抄に、「𪔛皷 周礼注に云はく、𪔛〈徒刀反、字は亦、鞉に作る。不利豆々美ふりつづみ〉は皷の如くして小さく、其の柄を持ちて之れを揺すらば、則ち旁の耳還りて自ら之を撃つといふ。」とある。雅楽のほか、追儺の行事で、最後に群臣が鬼を追うのにも用いられた。
 海野2004.は、仁和寺蔵日本図の奥書の最後を、追儺関連の記述と見て次のような興味深い解説を行っている。

 行基の名を日本図に結びつけたのは、ほかならぬ悪鬼を払うついの儀式であったと考えられる。根拠の一つとして挙げられるのは、行基の作であることが明記される仁和寺所蔵図……に「嘉元三年大呂たいりょ(一二月)寒風ヲ謝シテ之ヲ写ス。外見ニ及ブ可カラズ」(原漢文)とあって、書写という行為における自己強制と図そのものの非公開性が強調されていることである。その第二としては、行基を開基とする山崎(山城国)の宝積寺ほうしゃくじの縁起に、追儺のはじまりが慶雲三年(七〇六)の行基の奏上にあるとしていることである(『漢三才かんさんさい図会ずえ』巻四おにやらひの項)。かつて追儺が朝廷における大晦日の行事であったことは、『延喜式』の記事からも明らかであるが、のち広く寺院でも行われ、その際えきが入ってはならない国土の範囲を視覚に訴えるため、日本図が用意されたものと思われる。仁和寺所蔵図の書写の時期すなわち一二月は、この推定を裏付ける有力な証拠である。(91頁)

 陰暦の十二月、追儺行事のために仁和寺蔵日本図は描かれたものではないかとするのである。宮中での追儺より以前から、寺院において鬼やらいは行われていたのであろうが、その点は措く。この仁和寺蔵本には金沢文庫蔵本のような龍様の囲みはない。龍が穢悪疫鬼を防ぐのではなく、追儺の行事を以て異域へと追い払うという解釈である。
 追儺の行事は、当初、周礼をもとに考案されたと考えられている。赤、青、黄の三匹の鬼を、黄金四つ目の仮面を著けた方相氏が大声を上げながら矛と盾を打ち鳴らし、追い払う。その後、公卿が清涼殿の階から桃の弓で矢を放ち、また、殿上人らはでんでん太鼓を振って邪気を一掃した(注11)。鬼を追う全体の様態は、雷神が羯鼓を鳴らしながら暴れ回って驚かせるのととてもよく似ていて受け容れやすかったのではないか。そして、そのでんでん太鼓とは、トンボつりの時に赤トンボがブリという飛び道具によって絡め捕られる様子にとてもよく似ており、だからこそ準えられたのではないか。
 ブリとはトンボ捕りの際に用いられる疑似餌釣りである。糸の両端に、小石などを結びつけ、投げあげる。トンボが小石を餌と間違えて飛びつくと、石についている糸が体に絡みつき、そのまま地上に落下したところを生け捕りにする。かなり高度なテクニックを要するが、夏から秋にかけての夕暮れ時など、トンボが餌を求めて群がり飛んでいる時には上手に放物線を描けば引っかかってくれるという。
 つまり、でんでん太鼓の真ん中に居る雷神は、秋になると赤くなっていく赤トンボ同様、色変化していくものと考えられていたのであろう(注12)。そしてそれは、ヤマトの国の、秋になると稲穂が赤く色づいて一面に拡がる田圃の風景と呼応しているのである。令集解・職員令の鼓吹司に、「伴に、吹の音は呼飢反と云ふ。山海経に曰はく、『東海のうちりうざん有り。獣有りて牛の如く、蒼身にして角无く、水に出入すれば則ち必ず風雨有り。其の光は日月の如く、其の声は雷の如し。其の名をと曰ふ。黄帝之を得て、其の皮を以て鼓を作り、声五百里に聞え、以て天下をおどろかす』といふ。周礼・地官・司徒上に曰はく、『鼓人は六鼓を教ふるを掌る。雷鼓を以て神祀を鼓す。〈雷鼓は八面鼓なり。〉霊鼓を以て社祭を鼓す。〈霊鼓は六面鼓なり。社祭は地祇を祭るなり。〉路鼓を以て鬼享を鼓す。〈路鼓は四面鼓なり。鬼享は宗廟を享すなり。〉賁鼓を以て軍事を鼓す。〈大鼓は之を賁と謂ふ。賁鼓は長さ八尺なり。〉鼛鼓を以て役事を鼓す。〈鼛鼓は長さ丈二尺なり。〉晋鼓を以て金奏を鼓す。〈晋鼓は長さ六尺六寸。金奏は楽を謂ひ、編鐘を撃つに作る。〉』といふ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2570154/25~26)とある。雷神の鼓は八つと決まっていたらしい。クモやタコが八本足であったのに対し、昆虫のトンボは六本だから叩く手が二本足りない。そこで、秤にもなる杠秤のような亜鈴型の桴が考案されたか、トンボ捕りのブリが引き合いに出され、八つの鼓を同時に叩けるとのオチに及んだようである。

トラの話

 鼗同様の打楽器としては外来の銅鑼どらがある。銅鑼は反響が激しく、近場に本当に雷が落ちたほどになる。目上の人が大声で猛烈に怒るのを雷が落ちるという。とらが吼えるほど恐い。同じく外来の物に名づけられたと思われる語である。銅鑼は船の出港のときに鳴らす。もやいを河岸から外すと船はふらふら揺れ始める。トラはネコのようであるが、身体に比べて頭が大きい。バランスが悪いから頭をふらふらさせている。首の揺れる張り子の虎の起源である。

左:張り子の虎(信貴山の縁起物)、右:秋の棚田(日本財団・海と日本PROJECT in 京都「伊根町「新井の棚田」稲刈り体験」https://kyoto.uminohi.jp/event/20170914/をトリミング)

 酔っ払って管を巻いている人のことをトラという。頭がふらふらしている。眠気がさしてまどろむようにとろとろの状態だからである。片栗粉のとろみ、まぐろの身の脂肪に富んだ部位のとろ、川の水深が深くて流れが緩やかなとろ、雷鳴の音のどろどろ、水が混じって粘性を増した土の泥、煮炊きに勢いの乏しいとろ火、皆同じ感覚から生まれた言葉であろう。神武紀元年正月条に、「妖気わざはひはらとらかせり。」とある。列島にいなかったタイガーのことを渡来人から聞いて、その頭のとろとろの揺れと、どろどろの雷のような吼え声からトラと名づけたらしい。蕩かすとは、人に本心をすっかり見失わせて完全に迷わせることをいう。確かにトラを前にしたらすっかり参ってしまうだろう。そして、トラの模様は棚田を高いところから見たような縞模様であり、中国ではしるしの形に合うものとして虎符が用いられていた。
 「倭」の字は、「楽浪の海中に倭人有り。分れて百余国を為す。(楽浪海中有倭人、分為百余国。)」(前漢書地理誌)の場合、音はワである。説文にはヰの音で、「順ふ㒵なり。人に从ひ委声。詩に曰く、周道倭遅ゐちたり」と、詩経・小雅・鹿鳴之什の四牡を引いている。倭は佞と同義で、諂う、媚びる、阿るの意味である。相手の気に入られるように取り入って振舞い、迎合して空気を読み、追従口、おべっか、お世辞を言って回ることである。太鼓持ちの所作をいう。おもねるとは、面練ること、顔を左右に向けることが原義とされる。トラが首を左右に振っているのは、本来は獲物を探しているのかもしれないが、張り子の虎は阿っていると捉えられたようである。

まとめに代えて

 記の上巻や神代紀の叙述について、今日の一般的な解説では、天皇による支配の正統性を主張するために祖先神話が語られているとされている(注13)。けれども、当の紀の巻一初めの「神世七代」以外に、カミノヨと訓むべき箇所はない。イザナキ、イザナミの出現までが「神世」である。巻一・巻二を「神代上」・「神代下」とするのは、他の巻の漢風諡号同様、後の時代に加筆されたものと考証されている。はじめに神があったとするのはイザナキ、イザナミまでのことで、以降ははじめに言葉ありきということのようである。紀冒頭で淮南子を引きながら作為している箇所には次のようにある。

 其れ清陽すみあきらかなるものは、薄靡たなびきてあめと為り、重濁おもくにごれるものは、淹滞つつゐてつちと為るに及びて、精妙くはしたへなるが合へるは搏偏むらがり易く、重濁れるが凝りたるはかたまり難し。(神代紀第一段本文)

 きらきら輝くものがひらひらと天になって、うまい具合にできているものがぴったり合って群がっているとする。まさに赤トンボの形容であろう。本稿で見てきた国生みの話は、全体を俯瞰すればヤマトにかかる枕詞、アキヅシマという言葉をめぐっての壮大ななぞなぞ体系である。記・神代紀第四段の国生みの説話に代表され、それらは倭人がオリジナルに創作したと思しい。そこでも上空できらきら輝くものがぴったりと符合すると語られている。紀の冒頭部分は、その連想から漢籍の字面を引きながら自らの考えを表したものである(注14)。修文、潤色の範囲を超えておらず、和魂漢才の記述である。
 国生みによって生まれた島は、本州、四国、九州とその周辺の島であった。それらの地域をヤマト朝廷が版図におさめたのは、5世紀、倭の五王の時代である。豊秋津島たる本州を、東は伊勢、西は出雲まで治めるに至ったのはその少し前のことであろう。聖徳太子等が記紀の種本となる天皇記・国記・本記を録したのは推古二十八年(620)のことである。その時点で、つい数百年前に過ぎない最近のできごと、伝えられてきていた説話をシリーズ化したということではないか。基本的に無文字社会であった上代人の文化、観念がわかれば、記紀の説話は民族の祖先神話でも、天皇家を正統化する神話でもなく、手の込んだなぞなぞ話であることは理の当然と了解される。そこにあるのはヤマトコトバだけである。無文字に暮らした上代の人たちは知識を盾にして生きたのではない。ヤマトコトバという知恵のかたまりのなかに生きていたのであった。

(注)
(注1)虻蜂取らず、という言葉の源や、古い用例について詳細は不明である。拙稿「允恭紀、淡路島の狩りの逸話、明石の真珠について」参照。
(注2)錦2005.参照。糸遊は山形県米沢地方で「雪迎え」と呼ばれている現象で、gossamer のことであると特定されている。
(注3)蜘蛛の子を散らす、という言葉の源や、古い用例について詳細は不明である。
(注4)白川1995.の「かぎろひ」の項に、「蜻火・蜻蜓火のように、とんぼの羽の繊細なかがやきとして表現するのは、おそらく他に例をみないような細やかな感覚である。」(209頁)とするが、疑問なしとしない。拙稿「履中記、墨江中王の反乱譚における記75・76歌謡について」参照。
(注5)黒田2003.は次のようにまとめている。考え方は古代のそれとは相容れない。

 行基図の謎解きによって浮かび上がったのは、〈日本図〉が独鈷の〈かたち〉をしていたという事実である。その〈日本図〉を、中世人は役行えんのぎようじや・聖徳太子・天照大神などと同体の仏神である行基菩薩が製作したものと考えた。中世人にとって、聖なる存在は同体だったのである。聖なるモノである独鈷の〈かたち〉も融通ゆうずう無碍むげであり、棒状・柱状をした聖なるモノは、何でも独鈷とイメージで結びつき、独鈷になりえた。結局のところ、行基図とは、仏神が描いた聖なる〈日本図〉なのであり、天皇の印である神璽でもあった。〈国土〉は独鈷の〈かたち〉にかざりたてられ、〈日本〉・震旦・天竺の三国は、それぞれ独鈷・三鈷・五鈷とするシンボリズムによって、荘厳な世界としてイメージされるに至ったのである。(54頁)

(注6)淮南子・墬形訓に、「雷沢に神有り、龍身にして人頭、其の腹をちてたのしむ。(雷沢有神、龍身人頭、鼓其腹而熙。)」、山海経・海内東経に、「雷沢中に雷神有り。龍身にして人頭、其の腹を鼓し、呉の西に在り。(雷沢中有雷神、龍身而人頭、鼓其腹、在呉西。)」とある。
(注7)赤トンボと称されるトンボが種として何に当たるかについて、西日本では主としてウスバキトンボ、東日本では主としてアキアカネのことを指すようである。上田哲行氏は、人間に与えるインパクトの共通性という意味で「文化的同一種」という言葉を提唱しており、示唆的である。いずれの種も、田圃という人為的に管理され、安定した生息環境によって多数発生し、それを人々が親しんで、「風景としての赤とんぼ」と化しているわけである(東・沢辺・上田2004.)。上代の人が赤トンボをいかに捉えたかは、生物学ではなく、文化人類学的な考察が必要である。
(注8)罰が当たるという言葉のバチという慣用音については、仏典によるとも思われるが、上代の用例は不明である。
(注9)雷電のことをイナヅマ(稲妻)というのは、稲が共寝をして子を宿して稔るからという理屈が箋注和名抄や東雅に唱えられ、民俗学で通説化している。和名抄には、「雷公〈霹靂電付〉 ……玉篇に云はく、電〈音は甸、和名は以奈比加利いなびかり。一に以奈豆流比いなつるびと云ひ、又、以奈豆末いなづまと云ふ〉は雷の光なりといふ。」とある。しかし、植物の稲に交尾つるびの譬えをして上代の人々に通じたのか、俄かには信じがたい。
(注10)釣り合わない例として、「高麗こま使人つかひしくまの皮一枚ひとひらを持ちて其の価をはかりて曰はく、『綿わた六十むそはかり』といふ。市司いちのつかさわらひて避去りぬ。」(斉明紀五年是歳)とある。
(注11)夏官・方相氏に、「方相氏。熊皮を蒙り、黃金の四目、玄衣・朱裳、戈を執り盾を揚げ、百隸を帥ひて時にし、以て室をもとめて疫をることを掌る。大喪にきゆうに先だつ。墓に及びて壙に入り、戈を以て四隅を擊ち、方良を敺る。(方相氏。掌蒙熊皮、黃金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時難、以索室驅疫。大喪先柩。及墓入壙、以戈擊四隅、驅方良。)」とある。本邦での実際の様子としては、栄花物語に、「例の有様どもありて、はかなく年も暮れぬれば、今の上、童におはしませば、つごもりの追儺に、殿上人振鼓などして参らせたれば、上ふりけうぜさせ給もをかし。」(巻第一・月の宴)、「つごもりになりぬれば、追儺とのゝしる。上いと若うおはしませば、ふり鼓などしてまゐらするに、君たちもおかしう思ふ。」(巻第三・さまざまの悦)、大江匡房・江家次第に、「殿上人於長橋内射方相、主上於南殿密覧、還御之時、扈従人忌最前方逢方相、振鼓・儺木・儺法師等種々事〈皆故実有〉……」(十一十二月)とある。
(注12)一説に、雷神の肌の色は儀軌に赤と定められていたとされる(田沢2014.320頁)が、根拠は不明である。
(注13)諸説をあげるには及ばない。「神話」という語が明治時代に訳語として登場していることを承知のうえで行われている。たまたま平成から令和時代の初めにかけてドグマと化しているだけである。
(注14)拙稿「日本書紀冒頭部の訓みについて─原文の「搏」や「埸(堨)」とは何か─」参照。

(引用・参考文献)
海野2004. 海野一隆『地図の文化史』八坂書房、2004年。
応地1996. 応地利明『絵地図の世界像』岩波書店(岩波新書)、1996年。
黒田2003. 黒田日出男『龍の棲む日本』岩波書店(岩波新書)、2003年。
産総研ホームページ「赤トンボはなぜ赤い?動物で初めて見つかった驚きのメカニズム」 https://www.aist.go.jp/aist_j/aistinfo/bluebacks/no23/
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
千田2003. 千田稔「聖なる場としての国家領域─「神国」の表象─」『聖なるものの形と場』18号、国際日本文化研究センター、2003年3月。日文研オープンアクセス https://doi.org/10.15055/00002965
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
田沢2014. 田沢裕賀「風神雷神図屏風 俵屋宗達筆」(解説)東京国立博物館・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション編『特別展 栄西と建仁寺』読売新聞社・NHK・NHKプロモーション、2014年。
錦2005. 錦三郎『飛行蜘蛛』笠間書院、2005年。(丸ノ内出版、1972年初出。)
東・沢辺・上田2004. 東和敬・沢辺京子・上田哲行「もう一つの赤とんぼ」上田哲行編著『トンボと自然観』京都大学学術出版会、2004年。

加藤良平 2024.2.19改稿初出

鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について

 いわゆる記紀神話の最後に登場するウカヤフキアハセズノミコトは、記に、「天津あまつ日高日子ひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあはせずのみこと」、紀に、「ひこ波瀲なぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみこと」とあって、ヒコホホデミノミコト(日子穂穂手見尊、彦火火出見尊)とトヨタマビメ(豊玉毘売、豊玉姫)の子で、母親の妹のタマヨリビメ(玉依毘売、玉依姫)に育てられた後、妻として迎えて神武天皇が生まれた話へとつながっている。紀ではウカヤフキアハセズノミコトまでを神代、神武天皇以降を人代としており、「神話」の最後の神さまということになっている。ウカヤフキアハセズノミコトの名は、母親のトヨタマビメが海辺にうぶを造る時、鵜の羽で屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに陣痛が始まり、その中に入って産んだことに由来するとされている。お産の現場を見るなと言ったのに見られて恥をかかされたと言ってトヨタマビメはお里へ帰ってしまい、妹のタマヨリビメが代わりに遣わされて乳母になり、育てられたことになっている。

 是に海神わたつみむすめ豊玉毘売命とよたまびめのみことみづかでてまをさく、「あれすで妊身はらめり。今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其のうみ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。是に其の産殿未だ葺き合へぬに、御腹みはらにはかなるにへず。故、産殿に入りす。爾くして、まさに産まむとする時に、其の日子ひこぢまをして言はく、「おほよ他国あたしくにの人は、産む時に臨みて、本国もとつくにの形を以て産生むぞ。故、妾、今もとの身を以て産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ」といふ。是に其の言をあやしと思ひて、ひそかに其のまさに産まむとするをうかかへば、八尋やひろわにとりて匍匐はらば委蛇もごよふ。即ち見驚きかしこみて退く。爾くして、豊玉毘売命、其の伺ひ見し事を知りて、うらはづかしと以為おもひて、乃ち其の御子を生み置きて白さく、「妾、つね海道うみつぢとほりて往来かよはむとおもへり。然れども吾が形を伺ひ見つること是いとはづかし」とまをして、即ち海坂うなさかへて返り入りき。是を以て、其の産める御子をなづけて、天津日高日子あまつひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあへずのみことと謂ふ。〈波限を訓みて那芸佐なぎさと云ふ。葺草を訓みて加夜かやと云ふ。〉しかくしてのちは、其のうかかひしこころうらむれども、ふる心にへずして、其の御子を治養ひたよしに因りて、其のおと玉依毘売たまよりびめけて、歌をたてまつる。其の歌に曰はく、
  赤玉あかだまは さへ光れど 白玉しらたまの 君がよそひし たふとくありけり(記7)
 しかくして、其のひこぢ、答ふる歌に曰はく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘れじ 世のことごとに(記8)(記上)
 後に豊玉姫とよたまびめはたしてさきちぎりの如く、其の女弟いろど玉依姫たまよりびめひきゐて、ただ風波かざなみをかして、海辺うみへた来到きたる。臨産こうむ時におよびて、ひてまをさく、「やつここうまむ時に、ねがはくはなましそ」とまをす。天孫あめみまなほしのぶることあたはずして、ひそかきてうかかひたまふ。豊玉姫、みざかりに産むときにたつ化為りぬ。しかうして甚だぢて曰はく、「し我をはづかしめざること有りせば、海陸うみくが相通かよはしめて、永くへだて絶つこと無からまし。今既にはぢみつ。まさに何を以てか親昵むつましきこころを結ばむ」といひて、乃ちかやを以てみこつつみて、海辺にてて、海途うみつみちを閉ぢてただぬ。かれ、因りて児をなづけまつりて、彦波瀲武ひこなぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみことまをす。(神代紀第十段本文)  是より先に、別れなむとする時に、豊玉姫、従容おもふるに語りてまをさく、「やつこ已に有身はらめり。風濤かざなみはやからむ日を以て、海辺に出で到らむ。ふ、我が為に産屋を造りて待ちたまへ」とまをす。是の後に、豊玉姫、果して其のことごと来至きたる。火火出見尊ほほでみのみことまをして曰さく、「妾、今夜こよひこうまむとす。請ふ、なましそ」とまをす。火火出見尊、きこしめさずして、猶櫛を以て火をともしてみそなはす。時に豊玉姫、八尋やひろ大熊鰐わに化為りて、匍匐逶虵もごよふ。遂にはづかしめられたるを以てうらめしとして、則ちただ海郷わたつみのくにに帰る。其の女弟いろど玉依姫たまよりびめを留めて、みこ持養ひたさしむ。児のみなを彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊とまを所以ゆゑは、の海浜の産屋に、また鸕鷀かやにして葺けるに、いらかおきあへぬ時に、児即ちれませるを以てのゆゑに、因りてなづけたてまつる。(神代紀第十段一書第一)
 是より先に、豊玉姫、天孫あめみままをして曰さく、「妾已に有娠はらめり。天孫のみこを、あに海の中に産むべけむや。かれこうまむ時には、必ず君がみもとまうでむ。如し我が為にうぶやを海辺に造りて、相ちたまはば、是所望ねがひなり」とまをす。故、彦火火出見尊、已にくにに還りて、即ち鸕鷀の羽を以て、葺きて産屋うぶやつくる。いらか未だふきあへぬに、豊玉姫、自ら大亀おほかめりて、女弟いろど玉依姫をひきゐて、海をてらして来到いたる。時に孕月うむがつき已に満ちて、こうときみざかりせまりぬ。これに由りて、葺き合ふを待たずして、ただに入りす。已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかがふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。既にみこれまして後に、天孫きて問ひてのたまはく、「児のみないかなづけばけむ」といふ。こたへて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号くべし」とまをす。まををはりて、すなはわたわたりてただぬ。時に、彦火火出見尊、乃ちうたよみしてのたまはく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘らじ 世のことごとも(紀5)
亦云はく、彦火火出見尊、婦人をみなを取りて乳母ちおも湯母ゆおも、及び飯嚼いひかみ湯坐ゆゑびととしたまふ。すべ諸部もろとものを備行そなはりて、ひたし奉る。時に、かり他婦あたしをみなりて、を以て皇子みこを養す。これよのなかに乳母を取りて、を養すことのもとなり。是の後に、豊玉姫、其のみこ端正きらぎらしきことを聞きて、心にはなはあはれあがめて、また帰りて養さむとおもほす。ことわりきてからず。かれ女弟いろど玉依姫をまだして、きたして養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌かへしうたたてまつりてまをさく、
  赤玉あかだまの 光はありと 人は言へど 君がよそひし たふたくありけり(紀6)
凡て此の贈答二首ふたうたなづけて挙歌あげうたと曰ふ。(神代紀第十段一書第三)
 是より先に、豊玉姫、出できたりて、まさこうまむとする時に、皇孫すめみままをして曰さく、云々しかしかいふ。皇孫従ひたまはず。豊玉姫、大きに恨みて曰はく、「やつこことを用ゐずして、あれ屈辱はじみせつ。故、今より以往ゆくさきやつこ奴婢つかひびと、君がみもとに至らば、また放還かへしそ。君が奴婢、もとに至らば、亦復還かへさじ」といふ。遂に真床覆衾まとこおふふすま及びかやを以て、其のみこつつみて波瀲なぎさに置き、即ち海に入りてぬ。此、海陸うみくがあひかよはざることのもとなり。あるに云はく、「児を波瀲に置くはし。豊玉姫命、自らいだきてくといふ。ややひさしくして曰はく、「天孫のみこを、此のわたの中に置きまつるべからず」といひて、乃ち玉依姫をしていだかしめて送りいだしまつる。初め、豊玉姫、別去わかるる時に、恨言うらみごと既にひたぶるなり。故、火折尊ほのをりのみこと、其のまた会ふべからざることをしろしめして、乃ちみうたを贈ること有り。已にかみに見ゆ。(神代紀第十段一書第四)

 最初に名号の訓み方について確認しておく。紀の伝本の傍訓にはフキアハセズとある(鴨脚本、兼方本、丹鶴本など)。フキアヘズと訓みたがるのは本居宣長・古事記伝による。「○葺不合は、……不合を、阿閇受アヘズと云る、イト宜し、必古きヨリドコロぞありけむ、是に従ひて訓べし、阿波世受アハセズツヾめて、阿閇受アヘズと云は、古言なり、下巻朝倉御哥に、麻那婆志良マナバシラ袁由岐阿閇ヲユキアヘとあるも、ユキアハなり、此ホカにもアハ阿閇アヘと云る例多し、【フキアハセズノ○○○○○○○命と訓はわろし、あはせずと云言、御名に似つかはしからず、凡て上代の名に、然詞の調シラベあしきは無きをや、】さて凡て屋をフクには、ナタナタノキより、葺上フキノボりて、ムネにて葺合フキアハせて、ヲフることなる故に、葺終るを、葺合フキアハすとは云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/443~444、漢字の旧字体は改めた)とある。「葺終るを、葺合フキアハすとは云なり」と断じていながら、「御名に似つかはしからず」として退けており、必ずしも歯切れのいいものではない。ただ、現行の解釈ではどれもフキアヘズとなっている。葺き終わらないうちに生まれたことを表すという。アフは「敢」、「堪」などの字を当てる下二段活用の動詞で、補助動詞として、終わりまで持ちこたえる意を表している。しっかと〜する、〜しおおせる、の意になっている。一例をあげる。

 常の恋 いまだまぬに 都より 馬に恋ひば になへむかも(万4083)

 アフという語は、打消、疑問、反語と結んで、不可能や困難な意を表すことが多い。すなわち、ウカヤフキアヘズという言い方は、そもそもが鵜の羽を茅葺屋根のように最後まで葺くことなどできようはずがない、ということを含意していると考えられる(注1)
 常識をもって考えれば、鵜の羽をもって屋根を葺くなどという話は奇想天外である。そんな話(咄・噺・譚)が構想され、創作され、伝達されている。天才作家が機智、頓智を駆使して意図的に物語を拵えたものであろう。上代の人たちは、話のなかに散りばめられている機智、頓智をとてもおもしろく感じ、互いによろこびながら話し伝えたものと想像される。
 話(咄・噺・譚)のなかで水鳥のウ(「鵜」(記)・「鸕鷀」(紀))の羽をもってして屋根を葺いている。この発想はとてもユニークである。古く釈日本紀に、「大問云、以此鳥羽産屋。有由緒哉、如何。先師申云、無慥所見。但、廻今案、鸕口喉広、飲-入魚、又吐-出之、容易之鳥也。是以象産出平安、令此羽於産屋者歟。以産屋、称鷀葺屋者、以鸕鷀羽葺之本縁也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12866187/1/25~26、返り点等を付した)とする説が載る。納得できるものではない。産屋とはウム(生)+ガ(助詞)+ヤ(屋)のことだからウ(鵜)+カヤ(草)であろうとする俗説は、着想として考えた場合には当たっているかもしれない(注2)。とはいえ、ウ(鵜 cormorant)という鳥の名がことさらに唱えられており、その羽を葺き草に使ったことを皇子の名前に反映させている。ガチョウやアヒルの羽をもって羽毛布団を作ったというのなら現実的でわかりやすいが、鵜の羽を産屋の屋根材に用いると言っている(注3)。比喩として話しているとしか考えられない(注4)
 何が変か。他の鳥ではなく鵜が選ばれているところである。
 「以鵜羽葺草、造産殿。」(記)などとある。草で屋根を葺くように鵜の羽を使っていると考えられている。訓注に「訓葺草加夜」とある。カヤとは、屋根を葺くのに適した丈の長い葉をした比較的堅い草の総称である。近代に伝わる茅葺屋根の例としては、ススキやアシ、チガヤ、スゲ、カリヤス、ムギなどが用いられた。耐久性の点でススキやアシは好まれたらしい。イナワラを使うこともあったが、数年で駄目になってしまう。それらの草を刈り取って乾燥させて束ねたものを屋根材に使っている。話(咄・噺・譚)ではその代わりに「鵜羽」を用いたことになっている。実際にあり得ないどころか想定することも滑稽である。鵜の実状を見ればわかる。

羽を乾かす鵜

 鵜という水鳥は潜水に特化した種とされている。一般的な水鳥、ハクチョウやカモなどでは、尾脂腺から脂肪分の多い分泌物を出し、嘴を使ってそれを羽に塗りつけることで水をはじいている。浮き進む時、船のように見える。他方、ウの場合、脂が羽に付いておらず、水上で浮かんで進む様子も潜水艦が浮上運行しているように見える。そして魚を捕まえようと水に潜ってはびしゃびしゃになっている。目的を果たした後は陸に上がっては羽を大きく広げ、バタつかせて乾かしている。
 そんな鳥の羽をわざわざ選んで屋根材にしようなどとは誰も思わない。雨漏りしてかなわないではないか。つまり、名義のウカヤフキアへズという言い方自体、自己矛盾を抱えていながらも絶対的に肯定されているのである。鵜の羽を葺草かやにして屋根を葺くなどということはあり得ないし、仮に着手して時間をかけたとしても屋根には仕上がらない。論理学的禅問答を名としているのであった。
 その証拠に、名のなかにカヤという言葉が含まれている。助詞のカヤ(カ、ヤ)は疑問の意を表す。また、詠嘆を表すこともある。

 慨哉うれたきかや大丈夫ますらをにして、〈慨哉、此には于黎多棄伽夜うれたきかやと云ふ。〉いやしきやつこが手を被傷ひて、報いずしてやみなむとよ。(神武前紀戊午年五月)

 この例は、何ともいまいましいことよ、の意である。カ(終助詞)+ヤ(間投助詞)の構成である。他に、カ(係助詞)+ヤ(間投助詞)の形で、特にトカヤという形をとって、……といったか、……とかいうことである、の意を表す場合、また、カ(係助詞)+ヤ(係助詞)の形で、活用語の連体形に下接し、疑問や反語の意を表す場合がある。それらのカヤという意味合いをカヤ(「葺草」)という言葉に塗り込める使い方を行っていると仮定すると、「以鵜羽葺草」という言い方は、鵜の羽をもって葺草とするとはいったいぜんたいどういうことなのか、これはまた何とすごいことか、そんなことはとてもあり得ないよ、といった激しい気持ちを吐露する表現となっている。説明調に置き換えてみれば、「鵜の羽を以て葺草かやるかや」などと畳み重ねた言い方になる。それを簡潔に記している。無文字時代、言語のすべてが口頭の音声言語によるものであった以上、いま発した言葉に自己循環的な論法で言及し、それをこそがなるほど納得の言葉づかいであると考えたに相違あるまい。すなわち、「以鵜羽葺草」という珍妙な形容は、その言葉自体にその言葉のからくりが語られている。鵜の羽でカヤにするとはねぇ、何たることだろうねぇ、という意味を包含しており、言辞自体がわざとらしい珍奇な言い分であることを主張している。
 鵜の羽は始終濡れている。濡れるは古語でヌル(濡)という。ヌルには髪などがゆるんでほどける意がある。

 松浦川まつらがは 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせるいもが すそれぬ(万855)
 家づとに 貝をひりふと 沖辺おきへより 寄せ来る波に 衣手ころもで濡れぬ(万3709)
 嘆きつつ 大夫ますらをのこの 恋ふれこそ わが髪結かみゆひの ぢてぬれけれ(万118)
 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに き入れつらむか(万123)

 束ねようにもほどけてしまうのがヌルである。鵜の羽は濡れていて、屋根材に適用するために束ねようにもその段階からしてできないのである。鳥の名はウ(鵜)である。否応なく、なかば強制的に応諾させられる際の発語は、同音のウ(諾)である(注5)。ウ、ウ、ウと言葉に詰まりながら認めざるを得なくなっている。鵜の羽は屋根材のカヤに当たらないのに、葺けと強要されて否応なくそうしている。だから完成には至らない。最初から決まっている。
 出産を迎えるに当たってトヨタマビメは、その場面を見るなとオモフルニ言っている。ホホデミノミコトはその禁を破って見てしまう。いわゆる見るなのタブーを冒した顛末が描かれている。紀一書第三に、「已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかかふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。」とある。話として古事記とよく似ており、神代紀本文にも「従容おもふるに」要請する描写がある。どうしてオモフルニと形容しているのか。オモフルニはゆったりしたさまを表す。語源はともかく音感からは、オモ(面)+フル(振)ことをしていると感じられる。オモ(面)+フル(振)こととは左右を見ながらゆっくりと歩くことである。ねりようのような所作である。トヨタマビメは用心深く作戦をることをしている。聞かされたヒコホホデミノミコトは、いやに用心深いではないかと思っただろう。相手がネルことをしてきているのだから、こちらはその真相をネラフことで対処しようとする。それが言葉の理にかなっている。ネラフ(狙)とは、ひそかに獲ようと目をつけることである。動物を狩るときの行為である。彼はもともと山幸彦(山佐知毘古)であった。獲物を捕らえるには物陰に隠れて狙う。斥候うかみ(窺見)をするようにウカカフ(覘、窺、伺)のである。他者に知られないように周囲に目を配りながら相手の真意や事の真相をつかもうとすることである。そういう展開にふさわしい言葉が選ばれている。そして、ウカカフという言葉の名詞形、ウカカヒ(ヒは甲類)は、隙を狙うことを表す。生まれてきた子の名前に絡んでいる。ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)とよく似た音である。上代の人にとって、鵜とはウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)のために飼育された動物であった。彼らに動物分類学的な種の同定の意識は薄く、実用面から鵜飼に使う鳥 cormorant のことをウと呼んだのである。一旦飲み込んだ魚をウッと吐き出すからウと名づけたと考える。この箇所に鵜を登場させているのは、山幸彦が海神の宮へ行って学んだ、魚に対する狩猟法こそが鵜飼なのだということを述べているからと考えられる。

 …… おほき戸より うかかひて 殺さむと すらくをらに 姫遊ひめなそびすも(紀18)
 御真木入日子はや 御真木入日子はや おのを 盗みせむと しりつ戸よ いたがひ 前つ戸よ い行き違ひ うかかはく 知らにと 御真木入日子はや(記23)
 このをかに 小牡鹿をしかみ起こし 窺狙うかねらひ かもかもすらく 君ゆゑにこそ(万1576)
 窺狙うかねらふ 跡見とみ山雪の いちしろく 恋ひばいもが名 人知らむかも(万2346)

 古事記には、トヨタマビメが到来していることについて、「「今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其のうみ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。」と語られている。出産するのに実家のある海原うなはらでは駄目で、うみ波限なぎさに来ている。そこに産屋を造って出産準備を整えている。民俗的風習としては、母屋とは別に産屋を造ることは珍しいことではない。だが、実家で出産することに問題があるとは考えにくい。農耕を主体とする人と漁撈を主体とする人との間の関係を示すものとも考えられている。その際、海原うなはらうみへの移動は何を物語るのか。うみ(の波限なぎさ)は海岸の波打ち際のことだから、漁民の領域であるようにも思われる。そんなところへ産屋を建てるのはおかしなことである。満潮時、水に濡れてしまう。だからこそ、鵜の羽はゆるんでほどける意のぬれ○○ることになり、屋根は完成しなかった。
 ナギサ(波限、波瀲、渚、汀)の語源は不明であるが、語の音感として同根の語と思われるナグ(凪、和)と関係がありそうで、海の波が穏やかであることを表すように思われる。と同時に、草が薙ぎ払われたように横倒しになっている様子もイメージされる。「故、其の剣を号けて草薙くさなぎと曰ふといふ。」(景行紀四十年是歳)とある。ふだんは静かでも台風などが来れば生えていた草も家もなぎ倒される。だから、産屋は完成に至っていない。
 記紀の話の五伝(記、紀本文、紀一書第一、第三、第四)のうち、産屋を作ったとする話が三伝(記、紀一書第一、第三)、生まれてきた赤ん坊をかやなどで裹んだとする話が二伝(紀本文、紀一書第四)にある。このうち、産屋を作ったとする話では、ヒコホホデミノミコトが造ったように語られている。紀一書第一や第三では、トヨタマビメ側から造って待っているようにと要請されている(注6)。鵜飼に使う鵜の羽を使って産屋を建てようとしている。鵜に首結いをつけて、大きな魚は食道に留まるようにして、それを吐かせて獲物とした。そのように鵜自体を使って魚を捕まえるばかりでなく、鵜の羽を竿やロープに付けておいて、それを川面に叩きつけるなどしてあたかも鵜が近づいて来たかのように魚に思わせ、驚いて逃げていくところを一網打尽に網で捕獲する漁も行われていた。それも鵜飼の一種とされ、万葉集では「かは(を)立つ」(万38・3991・4023・4190・4191)と言い表している。囲っておいて鵜が来たようにして逃げ惑う魚を捕ったのである。もちろん、その囲い立てに屋根はない。
 鵜の羽だけを使った鵜飼をする場合、鳥の鵜はおらず、つまり、ふつうなら鵜は魚を飲み込んで胸を膨らませているところだがそれがない。鮎を飲み込んでふくらんだ大きな胸は見られないのである。鵜のオホムネ(大胸)が見られないということは、鵜の羽ではオホムネ(大棟)は作れないということである。そのことは鵜の観察から証明されている。鵜の両翼は、背のいちばん高いところへ被さるわけではない。羽を広げて乾かす時など、羽根のない背中が露出している。尾脂腺から脂が出ないから、背中の頂部に羽毛をまとうには及ばない。すなわち、ウカヤフキアハセズという言い方はその言葉自体で論理が完結している。ウカヤなるものが仮にあったとしても、それはフキアフ(葺合)ことは体現され得ず、完成されることは決して望めないものであることがまたしても証明されているのである。
 大棟とは屋根のいちばん高いところのことである。棟木が渡されており、そこを覆う屋根のことをイラカ(甍)と呼んでいる。新撰字鏡に「屋脊 伊良加いらか 甍 上に同じ」、和名抄に「甍 釈名に云はく、屋の脊を甍〈音は萌、伊良加いらか〉と曰ひ、上に在りて屋を覆蒙おほふなりといふ。兼名苑に云はく、甍は一名を棟〈音は多貢反、訓は異なる故に別に置く〉といふ。」とある(注7)
 和名抄では、また、「棟 爾雅に云はく、棟は之れを桴〈音は敷、一音に浮、無祢むね〉と謂ふといふ。唐韻に云はく、檼〈隠の音、去声〉は棟なりといふ。」とある。紀一では「甍未合時」(一書第一)をイラカオキアヘヌトキニ、「屋蓋未合」(一書第三)もヤノイラカイマダフキアヘヌニと訓んでいる。それぞれその前に「全用鸕鷀羽草葺之」、「即以鸕鷀之羽、葺為産屋」と断られている。鵜飼は鵜飼でもやり方が違うからできないのだとわかるようになっている。産屋は産屋でも、鵜の羽で造るということは、鵜の巣にするのがせいぜいのものであって、いわゆるお椀形にしかならない。ウ(鵜)+ス(巣)の形はウス(臼)の形である。甍を載せることなどないのである。
 オホムネのないことが語られている。白川1995.に、「おほむね〔概(槪)・略〕 中心となる重要な点。「むね」は趣旨のあるところで、「むね」「むね」「むね」と同根の語。本来名詞であるが、のち副詞的に用いることがあった。副詞としては概・略などの字を用いる。」(191頁)とある。話の主旨のことから概略のことまで表している。

 二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰をはりのよりどころよろづの国の極宗おほむねなり。(推古紀十二年四月、寛文版本にヲホムネ、岩崎本傍訓に「極」にキハメ、「宗」にムネ、その下にナリとある)
 此則西方南海法徒之大帰オホムネ矣。(南海寄帰内法伝・第一、長和五年頃点)
 みだりに去就して其のおほむねくこと有ること无れ。(大唐西域記・第三、長寛元年点)
 語言は異なりと雖もおほむねに印度に同じ。(同)
 ヲホムネ天子之孝也。(古文孝経・天子章第二、仁治二年点)
 盖 居泰反、フタ、ケダシ、オホフ、キヌガサ、オホムネ、フタ、カブル、禾カイ(名義抄)

 名義抄では、大垣・大分・大都・大底・槩・概・梗槩・略・枑・率・盖といった字にオホムネの訓みを載せている。なかでも「蓋(盖)」をオホムネと訓む例は示唆的である。「屋蓋」(一書第三)はヤノイラカであり、屋根に蓋をすることである。説文に、「蓋 苫なり、艸に从ひ盍声」とある。とまはチガヤの類で、菅茅を編んで作った覆いをいう。覆い被せてフタのように雨露から守る肝心なところがオホムネということになっている。ウカヤフキアヘズとは、主旨も概略もないということ、まとめとして何かがあるということではなく、事の次第としてそうなったのだということを物語っていると考えられる。
 肝心要のオホムネの類義語に、要害、要衝の地、大切な場所を表すヌミという語がある。

 賊虜あたる所は、皆是要害ぬみところなり。(神武前紀戊午年九月)
 凡そ政要まつりごとのぬみ軍事いくさのことなり。(天武紀十三年閏四月)
 新羅に要害ぬまところを授けたまひ、(欽明紀二十三年六月、兼右本左傍訓)

 このヌミにはヌマという別訓も見られる。同音に沼の意がある。古形は一音のヌである。足をア、水をミと言っていたのと同様とされる。幸田露伴『音幻論』に、「沼はヌであり、塗はヌルであり、……海苔・糊・血はすべてノリである。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366/38~39)とあり、ヌには、濡れていて、どろどろしていて、ぬめりのあるものの意があり、糊状のものとは塗るべき対象であるとしている。そして、沼はまた一音でヌともいい、ヌには瓊の意がある。瓊が塗るべき対象かといえば、勾玉を磨く時に、砥石に水を塗ってそこで磨いていくとやがてどろどろとぬめりを帯びてくる。そこで、タマ(玉、瓊)のこともヌと呼ぶことがあったものと思われる。トヨタマビメやタマヨリビメという女性役は、「たけばぬれ」る髪の毛を持っていたと措定していたのではなかろうか。

 行方ゆくへ無み こもれる小沼をぬの 下思したもひに われそ物思ふ このころのあひだ(万3022)
 廼ちあま之瓊のぬ〈瓊は玉なり。此にはと云ふ。〉ほこを以て、指し下してかきさぐる。(神代紀第四段本文)
 其の左のもとどりかせる五百箇いほつみすまるたまひきとき、瓊響ぬなと瑲瑲もゆらに、あまの渟名井まなゐに濯ぎ浮く。(神代紀第七段一書第三)

 以上、ウガヤフキアヘズノミコトの誕生の説話について考究した。民俗的な風習があってそれを表すために説話が構想されたものではない。ヤマトコトバの理解のために、言葉を循環的に説明すると必然的に生じるおかしな話(咄・噺・譚)が述べられている。今日の人が神話として読みたがる記紀の説話には、ヤマトコトバの自己言及的語釈の要素が必ず含まれている。無文字時代の言語が言語としてあり得たのは、その言葉を声に出して絶えることなく発し続けていたことによる。記録する手段の文字がなく、記憶のみによって残された言葉であった。言葉が言葉として成立する前提がすべて発声に負っているのだから、民族の記憶庫から忘れらないようにときどきは声に出して諳んじてみなければならない。その場合、単なる棒暗記では対応できない。棒暗記の共有は、教育勅語の強制に見られたように限界がある。誰もが興味深く感じ、なるほどと思い、おもしろがることのできるテキストが求められる。洒落と頓智の入り混じった話(咄・噺・譚)がかなっている。記憶を確かなものにして、多くの人へ、また、次の世代に伝えていくのに役立つ。社会言語学的に言えば、ヤマトコトバの世界征服の魂胆が、頓智話に籠められているといえる。記紀説話を創作した構想の一端には、ヤマトコトバファーストをモットーとして、ヤマトコトバ語族を広げて確かならしめようとする野望のようなものが垣間見られる。その限りにおいてのみ、記紀の叙述は、古代において支配の正統性を担保するものであったと言える。

(注)
(注1)筆者旧稿の考えを改め、現行の解釈を凌ぐものとなっている。
(注2)思想大系本古事記に、「鵜の羽で産殿を葺いたというのは、鵜の羽に安産の霊力があると信じられていたためであるという説(可児弘明)がある。鵜の羽を持っていると安産できるという俗信がかつて沖縄にあり、また中国では妊婦が鵜を抱いて安産を願う信仰があったという。ただし産殿(うぶや)の意にあたる「うみがや(うむがや、生むが屋)」の転化がウガヤとなり、そのウが鵜に結びつけられたとする解釈もある。」(361頁)とある。可児1966.には、「豊玉姫神話がウの安産に関してもつ霊力を反映したものだとすれば、なぜ羽だけに限定されたかは別にして、ウによって安産を願う日本の宗教思想はウの胎生説とともに中国から渡ってきたにちがいない。」(49~50頁)と、かなり乱暴な議論が行われている。
(注3)そのようなことは歴史を遡ってみても聞いたことがないばかりか、試そうという気にすらなれない。民俗慣行のおまじないにヒントを求めても、話のなかで鵜の羽をわざわざとり上げて屋根を葺いている理由を説明しきれるものではない。
(注4)仏典に膨大な比喩の話を典拠とするなら、典拠を示すことで研究は完成、終了ということになるだろう。それをもって何を解明したというのだろうか。瀬間1994.は、海宮訪問の表記とストーリーには経律異相と一致するところがあると述べている。書き方の問題は太安万侶の筆には関わろうが、稗田阿礼の誦習とは無関係である。
(注5)拙稿「事代主の応諾について」参照。
(注6)記でも、産気づいて「入-坐産屋」とあるから、それまではそこに近づいていなかったことがわかり、トヨタマビメが自ら産屋を造っていたのではない。
(注7)イラカは、屋根の最も高いところ、大棟の上を覆って雨を屋根の左右へ別ける役割を果たしている。イラカという語については、イロコ(鱗)と同根とする説と、イラ(莿・苛)+カ(処)という構成とする説がある(注11)。イラという語には、草木のとげのことを指すほか、魚の背びれの棘のことも言う。鱗にしても背びれの棘にしても海神の宮にあったとしたらよくかなうものである。異国風の情景を思わせるために、瓦製の甍のことがイラカという言葉の原初であるかもしれない。「海神わたつみの 殿のいらかに ……」(万3791)とある。瓦葺き屋根は波立つ海面の様子にもよく似ている。
 それに対して山幸彦であるヒコホホデミノミコトは、屋根のすべてを葺草かやによって葺こうとしている。海原うなはらうみ(の波限なぎさ)で作ろうとしていたから気づかなかった。もしうみではなくかはへと河口から川を遡っていたら気づいたかもしれない。かはのことは川原かはらとも言う。同音にかはらがある。かはらというヤマトコトバは防火対策に特段の効果があるから注目された結果なのだろう。川原に建物を建てて消防用水に恵まれることと同様だと考えられて和訓となった可能性が高い。

 冬十月の丁酉の朔にして己酉に、小墾田に宮闕おほみやを造りてて、瓦覆かはらぶき擬将せむとす。……是の冬に、飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやひつけり。かれ飛鳥川原宮あすかのかはらのみやうつおはします。(斉明紀元年十月~是冬)

 尤も、イラカという言葉がすべて瓦製のことを指していたとは思われない。
 イラカという語については、角川古語大辞典に、和名抄の解説を受けて、「「甍」の字義よりすれば、瓦葺きの屋根の棟(むね)、また、その棟瓦をさし、「屋背」の字義よりすれば屋根の棟をさし、「在上覆蒙屋」の字義は、棟をさすとも、屋根一般をさすともとれる。しかし上代の用例では、一般の屋根にはいわず、瓦とは断定できないが、みな立派な御殿についていい、中古以降は特に瓦屋根の意に用いられる。」(338頁)とある。また、日本国語大辞典の「語誌」には、「語源については、その形態上の類似から、古来「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かった。確かにアクセントの面からも、両者はともに低起式の語であり、同源としても矛盾はしないが、上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる。」(1375頁)とある。また、古典基礎語辞典の「解説」には、「瓦で葺いた屋根のいちばん高い所。」(157頁、この項、西郷喜久子)とある。上代の用例にイラカ(甍)が瓦製かどうか、文例から完全には掌握できないため何とも言えない。筆者は、元来が他の屋根部分とは異なる造りであることを示した言葉ではないかと考える。結果的に素材の違いになって現れることもあったということである。
 板葺き(杮葺き)や樹皮葺き(檜皮葺)の屋根でも、棟部分だけ、他とは別に丸く包んで押さえる方法がとられている。棟包みと呼ばれる桟に当たるものを使い、棟の端から端まですべてを途切れることなくつなぎ覆っている。記紀では、産屋を造る伝とは別にかやなどで子を裹んだとする文がある。「乃以草裹児、棄之海辺、閉海途而俓去矣。」(紀本文)、「遂以真床覆衾及草、裹其児之波瀲、即入海去矣。此海陸不相通之縁也。」(紀一書第四)。苞にして贈り物を贈るやり方でパッケージングしているのは、屋根の甍の造りと同様だからだろう。ただし、茅葺屋根の棟部分にのみ棟瓦を敷き置いて被覆する方法は、瓦巻き、瓦棟などと呼ばれて現在残されているが、この棟仕舞は明治時代以降の流行と言われている。
 まとめると、面として屋根を葺いたのとは別仕立てで、大棟部分から雨が侵入しないように工夫したところをイラカと呼ぶことにしていたものと考える。イラ(棘)のある籬を動物が避けるように、イラのあるところを雨は左右へ避けるのである。雨は屋根の最下部まで伝って行って流れ落ちている。
 下図の家形埴輪の例は鰹木を載せたイラカとなっている。家や屋根の傾斜以上に大棟部分が肥大して作られており、あたかも甍形埴輪の様相である。当時の人々の関心の所在が明らかとなっている。

左から、天平の甍(新薬師寺)、家形埴輪(今城塚古墳出土、古墳時代、6世紀、今城塚古代歴史館展示品)、東三条殿?(年中行事絵巻模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574885/18をトリミング)、イワヒバを冠した芝棟(川崎市立日本民家園)

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
可児1966. 可児弘明『鵜飼─よみがえる民俗と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
幸田露伴『音幻論』 幸田露伴「音幻論」『露伴随筆集(下)』岩波書店(岩波文庫)、1993年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1126366
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
思想大系本古事記  青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
瀬間1994. 瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』おうふう、平成6年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、1935年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273

加藤良平 2025.1.6改稿初出

二人の彦火火出見について

 日本書紀において、別人物(あるいは別神格)に、ひこ火火出見ほほでみという名がつけられている。山幸ことひこ火火出ほほでみのみことと神武天皇のただのみなひこ火火出見ほほでみである(注1)。紀の本文に、皇孫のあま彦彦火ひこひこほの瓊瓊ににぎのみことが降臨し、鹿葦津姫かしつひめ木花之開耶姫このはなのさくやひめ)と結婚、火闌降ほのすそりのみこと、彦火火出見尊、火明命ほのあかりのみことが生まれたという彦火火出見と、その子、ひこ波瀲なぎさたけ鸕鶿草葺がや不合尊ふきあへずのみことの子である神武天皇として知られる彦火火出見である。

 この点については従前より議論されている。

 神武天皇をここ[第二の一書]に神日本磐余彦火火出見尊という。第三の一書も同じであり、さかのぼって第八段の第六の一書……に神日本磐余彦火火出見天皇といい、くだって神武紀でもそのはじめに、諱は彦火火出見、同元年正月条……には神日本磐余彦火火出見天皇とある。神武天皇をまた彦火火出見尊という理由について、記伝は簡単に、彦火火出見尊の名は「天津日嗣に由ある稲穂を以て、美称奉れる御号なる故に、又伝賜へりしなり」とし、通釈も、ただ彦火火出見尊とだけ書いたのでは祖父の彦火火出見尊とまがうので、神日本磐余彦の六字を加えて区別したという。これらは神武天皇と瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊はもとより別人だが、ともに彦火火出見尊といったと頭からきめてかかった上での解釈である。しかし津田左右吉[『日本古典の研究』]は、神代史の元の形では、瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊が東征の主人公とされていたが、後になって物語の筋が改作され、彦火火出見尊に海幸山幸の話が付会されたり……、豊玉姫や玉依姫の話が加わったり、鸕鷀草葺不合尊が作られたりした。また他方では東征の主人公としてあらたにイワレビコが現われたのだとする。その際、元の話が全く捨てられなかったために神日本磐余彦火火出見尊(天皇)という名が記録されたり、神武の諱は彦火火出見であるという記載が生じたのだという。(大系本日本書紀197頁)
 神武即位前紀に、諱ただのみなとして「彦火火出見」……、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」……とみえる。 これについて諸説がある。一つは、神武天皇と彦火火出見尊(祖父に当る)とは別人だが、同名で紛らわしいので「神日本磐余彦」を冠して区別したとする説。また、元来彦火火出見尊が東征説話の主人公であったが、後に海幸・山幸の話や豊玉姫・玉依姫の話が付加され、鸕鷀草葺不合尊が創作された。そこで神武天皇の諱が彦火火出見となったり、神日本磐余彦火火出見尊(天皇)となったりしたものとする説もある。前説は襲名の慣習を認める観点に立つものであり、後説は同名の箇所に不自然さを認め、合理的な説明を試みようとする観点に立つものである。しかし、いずれも正当性を証明する手だてはない。(新編全集本日本書紀189頁)
 神武紀冒頭に「神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見」とあり、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」とする。これについて『纂疏』は「彦火火出見の名、祖の号を犯せるは、孫は王父の尸為(タ)るが故なり」という。「王父」は祖父の尊称。「尸」は祭祀の際死者に代わって祭りを受ける役……。『礼記』曲礼上に「礼に曰く、君子は孫を抱き、子を抱かずと。此れ孫は以て王父の尸為るべく、子は以て父の尸為るべからざるを言ふなり」。鄭玄注に「孫と祖と昭穆を同じくするを以てなり」。「昭穆」は宗廟における配列の順。中央の太祖に向かい偶数代を右に配し(昭)、奇数代を左に配す(穆)。(新釈全訳日本書紀289頁)

 「総て上代は、神また人名に、同しきさまなるもあまた見えたれと、近き御祖父の御名を、さなから負給はむこと、あるましきことなり。」(飯田武郷・日本書紀通釈、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115817/1/207、漢字の旧字体と句読点は改めた)、「帝皇日嗣の僅か一世を隔てた前と後とに於いて同じ名のが二代ある、といふことは、甚だ解し難い話である」(津田1963.552頁)と捉えるのは考え方として疑問である。中臣なかとみの烏賊津使主いかつのおみという人物は、仲哀紀九年二月条、神功前紀仲哀九年三月条、允恭紀七年十二月条に現れ、前二者と最後の人とは別人と目されている。幡梭はたびの皇女ひめみこは、仁徳紀二年三月条、履中紀元年七月条にあるが別人である。今日でも同姓同名の人は数多い。そして、古代において、名は、名づけられてそう呼ばれることをもって成り立っている。人がそう呼ばれることとは、その特徴からそう呼ばれる。いわゆる綽名こそ名の本質をついている。したがって、ヒコホホデミという名を負った登場人物が二人いたとしたら、その両者に共通する特徴があり、ともにそのように呼ばれたと考えるのが本筋である。
 神武天皇のことをいう「彦火火出見」については、神武紀冒頭に、「かむ日本やまと磐余いはれ彦天皇びこのすめらみことただのみなは彦火火出見。」、すなわち、実名であると記されている。明記されていることを疑っていては虚無を生むばかりである。神武天皇の名の表記としては、「神日本磐余彦尊」(神代紀第十一段本文・一書第一)、「磐余彦尊」(同一書第二)、「神日本磐余彦火火出見尊」(同一書第二・第三)、「磐余彦火火出見尊」(同一書第四)、「神日本磐余彦火火出見天皇」(第八段一書第六)ともある。神代紀を筆録した人がそれと知りながら二人のことを同じ名で呼んで憚っていない。名は呼ばれるものであると認識していたからだろう。
 神武天皇の彦火火出見という名は、系譜上、その祖父に当たる彦火火出見尊と同じ名である。名は体を表す。別人でありながら、人物像、事績に共通項を見出したようである。ヒコホホデミは、ヒコ(彦、男性の称)+ホホデ+ミ(霊)の意と解釈される。ホホデについては、穂穂出、火火出の意が掛け合わされているとされている(注2)。しかし、神武天皇の人物像や事績に、穂や火の意を直截見出すことはできない。違う視点が必要である。
 山幸こと彦火火出見尊と神武天皇のただのみなの彦火火出見は、両者とも、敵対者に対して呪詛をよくしている(注3)

 時に、ひこ火火出ほほでみのみことたまとを受けて、本宮もとつみやに帰りでます。ある海神わたつみをしへまにまに、先づ其の鉤を以てこのかみに与へたまふ。兄いかりて受けず。故、おとのみこと潮溢瓊しほみちのたまいだせば、潮大きにちて、兄みづか没溺おぼほる。因りてひてまをさく、「われまさいましみことつかへまつりて奴僕やつこらむ。願はくは垂救活けたまへ」とまをす。おとのみこと潮涸瓊しほひのたまを出せば、潮おのづからにて、このかみ還りて平復たひらぎぬ。すでにして、兄、さきことを改めて曰はく、「吾はこれいましみことの兄なり。如何いかにぞ人の兄としておととに事へむや」といふ。弟、時に潮溢瓊を出したまふ。兄、見て高山たかやまげ登る。則ち潮、亦、山をる。兄、たかのぼる。則ち潮、亦、る。兄、既に窮途せまりて、去る所無し。乃ち伏罪したがひてまをさく、「吾已にあやまてり。今より以往ゆくさきは、やつかれ子孫うみのこ八十やそ連属つづきに、つねいましみこと俳人わざひとらむ。あるに云はく、狗人いぬひとといふ。ふ、かなしびたまへ」とまをす。弟還りて涸瓊を出したまへば、潮自づからにぬ。(神代紀第十段一書第二)
 よひみみづかうけひてみねませり。みいめ天神あまつかみしてをしへまつりてのたまはく、「あまの香山かぐやまやしろの中のはにを取りて、〈香山、此には介遇夜摩かぐやまと云ふ。〉天平瓮あまのひらか八十枚やそちを造り、〈平瓮、此には毗邏介ひらかと云ふ。〉あはせていつを造りて天神あまつやしろ地祇くにつやしろゐやまひ祭れ。〈厳瓮、此には怡途背いつへ〉と云ふ。亦、厳呪詛いつのかしりをせよ。如此かくのごとくせば、あたおのづからにしたがひなむ」とのたまふ。〈厳呪詛、此には怡途能伽辞離いつのかしりと云ふ。〉天皇すめらみことつつしみて夢のをしへうけたまはりたまひて、依りて将におこなひたまはむとす。(神武前紀戊午年九月)
 是に、天皇すめらみことにへさよろこびたまひて、乃ち此のはにつちを以て、八十やそひらあまの手抉たくじり八十枚やそち〈手抉、此には多衢餌離たくじりと云ふ。〉いつ造作つくりて、丹生にふ川上かはかみのぼりて、天神あまつかみ地祇くにつかみいはひまつりたまふ。則ち菟田うだがは朝原あさはらにして、たとへば水沫みなはの如くして、かしけること有り。(神武前紀戊午年九月)

 ふつう、神に祈りを捧げることは自分たちに良いことがあるように願うものである。それに対して、「とごふ」や「かしる」は、憎む相手に悪いことがあるように願うことであり、本来の祈り方とは真逆のことをやっている。祈りが裏返った形をしている。
 神に祈る際、我々は柏手かしわでを打つ。二回とも四回ともされるが、その拍手はくしゅのことをカシハデと呼んでいる(注4)。小さな我が手を叩いているのを、大きな木の葉の柏になぞらえて有難がろうとするものであろうか(注5)。柏の葉は大きくて、しかも、冬枯れしても離層を作らず、翌春新しい葉が芽生えるまで落葉しないことが多い。その特徴は、ユズリハのように「葉守りの神」が宿ると考えられ、縁起の良い木とされるに至っている。

上左:カシワ(ズーラシア)、上右:落葉しないで越冬するカシワ、下左:ホオノキ、下右:朴落葉

 同じようにとても大きな葉を、カシワ同様、輪生するかのようにつける木に朴木ほおのきがある。古語にホホである。和名抄に、「厚朴〈重皮付〉 本草に云はく、厚朴は一名に厚皮〈楊氏漢語抄に厚木は保々加之波乃岐ほほかしはのきと云ふ。〉といふ。釈薬性に云はく、重皮〈保々乃可波ほほのかは〉は厚朴の皮の名なりといふ。」とある。すなわち、ホホデは、カシハデと対比された表現ととることができる。季語にあるとおり朴の葉は落葉する。しかも、表を下にして落ちていることが多い。葉の縁が内側に巻くことによるのであるが、確かに裏が現れることとは、占いに未来を予言するとき良からぬことが思った通りに起こることを表しているといえる。
 以上のことから、山幸も、神武天皇こと神日本磐余彦も、呪詛がうまくいったという観点から、ホホデ(朴手)的にしてその霊性を有する男性であると知られ、そのように名づけられていると理解できる。だから両者とも、ヒコホホデミ(彦火火出見)なる名を負っている。名は呼ばれるものであり、そう呼ばれていた。それが確かなことである。その呼ばれるものがひとり歩きして二人が紛れるといったことは、少なくとも名が名として機能していた上代にはなかった。文字を持たないヤマトコトバに生きていた上代において、人の名とは呼ばれることが肝心なのであり、己がアイデンティティとして主張されるものではなかった。自分が好きな名をキラキラネームで名乗ってみても、共通認識が得られなければ伝えられることはなく、知られないまま消えてなくなる。人が存在するのは名づけられることをもって現実化するのであり、その対偶に当たる、名づけられることがなければその人は存在しなかったかのように残されないものであった。「青人草あをひとくさ」(記上)、「名をもらせり。」(紀)として終わる(注6)。それで一向に構わない。それが無文字時代の言葉と名の関係である。
 近世の国学者と近現代の史学者の誤った説に惑わされない正しい考え方を示した。

(注)
(注1)古事記では、神武天皇にヒコホホデミという名は与えられていない。
(注2)語の理解を助ける解釈についてはいずれも説の域を出ず、証明することはできない。ホホデについてその出生譚から炎出見、ホノホが出る意、また、ホノニニギに見られるように農耕神の性格から穂出見、稲穂が出る意とが掛け合わされていると考えられることが主流である。他説も多くあるだろう。
(注3)呪詛の詳細については、拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」参照。
(注4)「柏手(拍手)」にカシハデと訓の付いている文献は実は古代には見られない。とはいえ、神前にて心を整え神妙な面持ちで間隔をあけて手を打つことと、スタンディングオベーションで興奮しながら何十回、何百回と打ち鳴らすことでは、込めている気持ちが違うことは認められよう。
(注5)貞丈雑記・巻十六神仏類之部に、「手をうつ時の手の形、かしはの形に似たる故、かしは手と名付くる由也、」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/1003?ln=ja)とある。
(注6)十訓抄に由来する「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」という戒めの言葉があるが、上代における名づけとは位相が異なる。

(引用・参考文献)
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
津田1963. 津田左右吉『日本古典の研究 上 津田左右吉全集第一巻』岩波書店、昭和38年。
日本書紀纂疏 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編『天理図書館善本叢書 和書之部 第二十七巻 日本書紀纂疏・日本書紀抄』天理大学出版部、昭和52年。

加藤良平 2025.2.13改稿初出

四天王寺創建説話と白膠木のこと

 崇峻前紀に、物部守屋を攻め滅ぼす戦の場面がある。厩戸皇子は白膠木を四天王像に作って戦勝祈願をしている。これが四天王寺発願のこととされて今日でも議論の対象となっている。

 の時に、厩戸皇うまやとのみ束髪於額ひさごはなにして、〈いにしへひと年少児わらはの、年十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にし、十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦しかり。〉いくさうしろしたがへり。みづか忖度はかりてのたまはく、「はた、敗らるること無からむや。ちかひことあらずは成しがたけむ」とのたまふ。乃ち白膠木ぬりでり取りて、天王てんわうみかたに作りて、頂髪たきふさに置きて、ちかひててのたまはく、〈白膠木、此には農利泥ぬりでといふ。〉「今し我をしてあたに勝たしめたまはば、必ず護世四ごせしわう奉為みために、寺塔てら起立てむ」とのたまふ。我馬子がのうまこの大臣おほおみ、又誓を発ててはく、「おほよ諸天王しよてんわう大神王だいじんわうたち、我を助けまもりて、利益つことしめたまはば、願はくはまさに諸天と大神王との奉為に、寺塔を起立てて、三宝さむぽう流通つたへむ」といふ。ちかをはりて種々くさぐさいくさよそひて、進みて討伐つ。……みだれしづめてのちに、摂津つのくににして、天王寺てんわうじを造る。(是時、厩戸皇子、束髪於額、〈古俗、年少児、年十五六間、束髪於額、十七八間、分為角子。今亦為之。〉而随軍後。自忖度曰、将無見敗。非願難成。乃斮取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髪、而発誓言、〈白膠木、此云農利泥。〉今若使我勝敵、必当奉為護世四王、起立寺塔。蘇我馬子大臣、又発誓言、凡諸天王・大神王等、助衛於我、使獲利益、願当奉為諸天与大神王、起立寺塔、流通三宝。誓已厳種々兵、而進討伐。……平乱之後、於摂津国、造四天王寺。)(崇峻前紀)

 この記述については、前後の文章と筆法が異なると指摘され、日本書紀の編纂の最終段階で挿入されたと考えられることがある。ただし、所詮は推測に過ぎず、根拠は薄弱である(注1)。日本書紀を編纂している人たちは、史上ほぼ初めて自分たちが使っている言葉を文字に書き起こしている。使っていた言葉とはヤマトコトバである。話し言葉としてあり上手に話していた。それを中国語に訳そうと漢文風に書いたのではなく、試しに漢文調で書いてみて、ヤマトコトバで理解できるように工夫している。ヤマトの人たちの間で通じればいいのであり、倭習と呼ばれる書き方は間違いではない。だからこそ今日の我々でも理解できる。
 森2002.は、㋑「今亦然。」、㋺「成。」、㋩「蘇我馬子大臣発誓言、」、㋥「助衛我使獲利益、」、㋭「誓已種種、而進討伐○○。」が倭習、筆癖、潤色箇所であると指摘している。㋭は、小島1962.が、金光明最勝王経・護国品の「、発向彼国、欲為討伐○○。」によるものであろう(467頁)と推測する箇所である。
 金光明最勝王経の義浄訳は703年に成ったから、それ以降に書かれたもの、つまり、この文章全体はすべて後から付け足されたものと決めつけている。しかし、清書する前の段階であれば何度でも書き足すことは可能であり、この文章がまるごといっときに追加されたものなのかはわからない。もとより、金光明最勝王経に依った文飾と、「又」は「亦」でなければならないとチェックする採点とでは次元を異にする。可能性として、㋑〜㋥は日本書紀の種本となる「天皇記すめらみことのふみ国記くにつふみ」(皇極紀四年六月)にそう書いてあったからそのまま引き写し、㋭に関してのみ後に潤色したということも考えられる。日本書紀は、すべからく日本書紀区分論を反映して書かれていなければならないと考えるのは本末転倒な研究姿勢である。
 それ以上に困ったことに、文章の印象から後に加えられたものであるとする議論がある。榊原2024.は、「その内容は、物語性が強く、不自然で、いかにも説話的であり、創作されたものであろう。当時の人々の間で自然に発生した伝承ではないと思われる。これまでの研究においても、崇峻即位前紀七月条……の[四天王寺]創建説話に記された内容は、歴史的な事実とは考えられず、創作された説話だとする見解が繰り返し提示されてきた。」(311~312頁)としている。
 断っておきたいのは、日本書紀に書いてあることをもって四天王寺の創建説話ととることは、日本書紀の本意ではない点である。日本書紀に書いてあることは、崇峻前紀であれば崇峻天皇が即位する前にどんなことがあったかということである。四天王寺が自らの創建を日本書紀に求めることはかまわないが、その逆はない。また、榊原氏の言う「物語性」、「不自然」、「説話的」、「創作されたもの」という位置づけにおいて、それはいわゆる「歴史的な事実」とは相容れないものとして低い評価しか与えられていない。その底流には近代の価値観があるのだが、それで上代の文献を切り取ろうとしても大した成果は得られないだろう。なにしろ、日本書紀に書いてあることはヤマトコトバであり、話し言葉である。当時伝えられていた言葉は話し言葉として伝わっている。物語的、説話的、創作的であって自然なのである(注2)
 義浄訳金光明最勝王経に依っているとする説では、「護世四王」と「白膠」という文字面を気にしている。「護世四王」という言い方は他の仏典にも見えるが、「白膠」は義浄訳金光明最勝王経を待たなければ現れず、厩戸皇子の所作と祈願はその渡来以降に創られた話なのだとされている。「白膠木で四天王像を作ったという記述も、[仏教伝来記事]同様に『金光明最勝王経』の思想と用語に基づいて記述されたものとしてよいだろう。」(吉田2012.101頁)という。
 この議論はおかしい。義浄訳金光明最勝王経に出てくる「白膠」は、洗浴の法として香薬を三十二味を取れと言っている中の一つである。「牛黄」、「松脂」、「沈香」、「栴檀」、「丁子」、「鬱金」などに混じり、「白膠 〈薩折羅婆〉」とある。西大寺本金光明最勝王経においては、「膠」字にカウと白点(平安初期点)が付けられている(巻七・金光明最勝王経大弁財天女品第十五、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1885585/1/72)。つまり、この「白膠」はビャクカウのように読まれるものである。
 白膠は、鹿の角などから得られる香材である(注3)

 白膠 味甘平、温無毒。主傷中労絶、腰痛、羸瘦、補中益気、婦人血閉無子、止痛安胎。療、吐血下血、崩中不止、四肢酸疼、多汗淋露、折跌傷損。久服軽身延年。一名鹿角膠。生雲中、煮鹿角作之。得火良、畏大黃。/今人少復煮作、惟合角弓、猶言用此膠爾。方薬用亦稀、道家時又須之。作白膠法、先以米瀋汁、漬七日令軟、然後煮煎之、如作阿膠法爾。又一法、即細剉角、与一片乾牛皮、角即消爛矣、不爾相厭、百年無一熟也。(陶弘景・本草経集注)
 白膠 一名鹿角膠。和名加乃都乃々爾加波かのつののにかは(本草和名)

 金光明最勝王経の「白膠」は、日本書紀で記されている植物のヌルデ(白膠木)とは無関係である。字面として「白膠」が義浄訳の金光明最勝王経に見えるからと言って、それをもとにヌルデの木のことを崇峻前紀で「白膠木」と書いたとは決められない。すでに本草経集注にも見えている(注4)
 ヌルデの木のことは、新撰字鏡に、「檡 舒赤・徒格二反。正善也、梬棗也。奴利天ぬりで木也」、和名抄に、「㯉 陸詞切韻に云はく、㯉〈勅居反、本草に沼天ぬでと云ふ〉は悪しき木なりといふ。弁色立成に白膠木と云ふ。〈和名は上に同じ〉」とある。「㯉」は「樗」の異体字である。医心方には「樗鷄 和名奴天乃支乃牟之ぬでのきのむし」とある。ヌルデの木についた虫こぶが、鶏冠のような形状を示していたからこのように書かれたものと推測される(注5)

ヌルデの虫こぶ

 ヌルデの木を材として仏像彫刻とした例は知られない。ウルシ科の落葉高木で、樹液は白く、塗料や接着剤に使うことができた。塗る材料の意を表してヌリデと称したというのは合っていると思われる。わざわざ皮膚がかぶれかねないウルシ科の木材を使って彫像することはない。そんなヌルデ(古名ヌリデ)を漢字表記するのに、樹液が白くて膠のような性質を帯びているからということで「白膠木」と記すことに特段の不思議はない。筆者は、厩戸皇子は、ヌルデの虫こぶが膨らんでいるのを四天王像に見立てたものと考えている(注6)。ヌルデの木に注目が行って実用としているのは、医心方にあるとおりその虫こぶであったと考えられる。虫こぶからは付子ふし(五倍子)が取れ、薬用のほか、黒色の染料として用いられた。太子はヌルデの虫こぶを斮り取って彫像しつつ付子によって髪の毛の薄いのを誤魔化すことをしていた。最終的に摂津の国に四天王寺を建立することになったのは、付子はお歯黒に用いられたからで、口の中にはがいっぱいだから、ふさわしいのはツの国だということに相成ったのであろう。ヤマトの人は、母語であるヤマトコトバでものを考えている。
 崇峻前紀に記されている「白膠木ぬりで」は話の素材として欠かせないものである。話し言葉のヤマトコトバにとてもよくマッチした話(咄・噺・譚)に仕上がっている。古代の人のものの考え方に近寄ろうとしないで独りよがりな議論を展開してはならない。

(注)
(注1)文字(漢字)の使用法をもってすべてがわかるほど、書かれた文章が言葉の多くを占めているわけではない。また、程度の問題としても、書いてあることからわかることは、書くことに慣れた近現代人よりもずっとわずかなことしか理解されないことを悟らなければならない。
(注2)「歴史」は書き言葉、文字によって作られた。ヘロドトス『歴史』、司馬遷『史記』のようにである。日本書紀は言い伝え、すなわち、話し言葉を基礎とする言葉を文字に落とし込もうとして、漢籍の字面を応用している。出典研究が行われて久しいが、漢籍を典拠として新たに物語ろうとして創作された文章はわずかであろう。なぜなら、書き残そうとしていることはヤマトの昔のことで、中国の思想的背景とは脈絡が合わないし、当時のヤマトの人はほとんど知らない。ヤマトの昔のことごとは近代の価値観に基づいて見たところの歴史的事実ではないかもしれないが、話(咄・噺・譚)として一話完結で成り立っていて、当時の人々のなかで自然に発生した伝承である可能性がきわめて高いと考えられる。おもしろくてわかりやすいから語り継がれる。馴染みのない中国の伝承が語り継がれることは至難である。
(注3)満久1977.によれば、中国や日本にはインドボダイジュやウドンゲノキがないから、日本の真言宗ではヌルデが護摩木に代用されたという。白い汁が出る木をもって代えて使うようにと仏典に指示があるという(139頁)。ヌルデは香木というわけではなく、和名抄に「悪木」扱いされているから、吉田2012.が推測するように霊木であったとも考えられない。新修本草にある楓香脂の一名に白膠ビャクキョウコウとあるが、フウの樹脂を基原とするという(木下2017.307頁)。
(注4)久米邦武・上宮太子実録に、「四天王像の原料白膠木・・・は、倭名ヌリテ、異名を勝軍木という、香脂にして木材にはあらず。本草綱目に楓香脂、一 ハ白膠香とあり、李時珍の註に、 ニ香楓、金光明 ニ其香須薩折羅婆香、即此木謂漆也とある、脂といひ、にへといひ、漆といふ、今ならばゴム質といふべき物なり。其香膠にて作りたる小き像によりて、四天王寺の大伽藍を起せりとは一笑談なれど、勝軍木にちなみたる落想なるべし。釈日本紀に、白膠木(ぬりての木)私記曰、大政殿下 テ曰、白膠木之意如何、 シ云、師説不たしか其後問 ノ有識、或 フ白膠者甚有霊之木也、故修法之壇、取此木乳而塗用也、或 ニ シ仏之心[]入 ハ此木、取 ルニ_霊、及不朽乎、 ハ華山僧 ノ諸儀軌之文説とあれば、亦有霊の意にも取たるなり。要するに白膠は仏像に塗る用にして、仏像を刻むべき原料にあらず。俗にシヤク旃壇センダンの霊木と称ふるも、此楓香脂を誤認したるにてあるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/780770/1/74、漢字の旧字体は改めた)とあり、これを受けて村田1966.は、「勝軍木または呪薬香だから用いたことが察せられる。」とし、「白膠については北涼曇無讖訳『金光明経』になく、隋釈宝貴の「合部金光明経大弁天品第十二「一切悪障悉得除滅……是故我説呪薬之法……白膠香」とあり、義浄訳『金光明最勝王経』大弁才天女品第十五 「如是諸悪為障難者、悉令除滅……当取香薬三十二味、所謂…白膠〈薩折羅婆〉 」とある。」(76頁)と註している。
(注5)いずれも我が国独自の用字であるという。木下2017.150頁参照。
(注6)「乃斮‐取白膠木四天皇像、」とあり、すぐにできあがっている。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」参照。ヌルデの虫こぶ一つを四面の像と仮定したが、虫こぶは鈴なりに成ることがあるから、一枝に四つできた虫こぶを「四天王」だと洒落て見立てたということかもしれない。戦にあっては、あまりの緊張から萎縮することがある。それを除くためには適度のリラックスが必要であり、厩戸皇子は自らおどけながら仏法による加護が得られることを期待してみせて、軍勢に対して安心感を与えつつ鼓舞することにも成功したという話であると考える。

(引用・参考文献)
春日1969. 春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』勉誠社、昭和44年。
木下2017. 木下武司『和漢古典植物名精解』和泉書院、2017年。
小島1962. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 上』塙書房、昭和37年。
榊原2024. 榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建─「厩戸皇子」像の検討─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。
本草経集注 陶弘景校注『本草経集注』南大阪印刷センター、昭和47年。
満久1977. 満久崇麿『仏典の植物』八坂書房、1977年。
村田1966. 村田治郎「四天王寺創立史の諸問題」『聖徳太子研究』第2号、昭和41年5月。
森2005. 森博達「聖徳太子伝説と用明・崇峻紀の成立過程─日本書紀劄紀・その一─」『東アジアの古代文化』122号、2005年2月。
吉田2012. 吉田一彦『仏教伝来の研究』吉川弘文館、2012年。

加藤良平 2024.10.4初出

隼人(はやひと)について

 隼人は、古代の九州南部の人をいい、朝廷で隼人舞や警護の任についた。隼人(はや(ひ)と)の名義については、これまでに多くの説が唱えられてきた。中村1993.の研究史整理をもとにした原口2018.の分類をあげる。

(1)性行説
隼人の名義がその性質・性格・行動・しぐさによるとする説。
○敏捷・猛勇な隼人の性行が、古語でハヤシなどということにもとづくとする説(本居宣長)。
○「凶暴な人」を意味するチハヤビトにもとづくとする説(内田銀蔵)(注1)
(2)地名説
○『新唐書』にみえる「波邪」という地名にもとづくとする説(喜田貞吉)。
(3)方位説
○マリアナ語では南を「ハヤ」といい、南風を意味する「ハエ」と同様に「ハヤ」が南方をさすとする説(松岡静雄など)。
○四神思想で南方を意味する朱雀は、漢籍では「鳥隼」と関係があるとされる場合もあり、隼人の名義がここから採用されたとする説(駒井和愛・中村明蔵・原口耕一郎)。
○隼人・熊襲・蝦夷の名義は、天・陸・水という宇宙三界を表象するという説(大林太良)。
(4)職掌説
隼人の朝廷における職掌によるものとする説。
○ハヤシビト(囃し人)にもとづくとする説(清原貞雄)。
○隼人の歌舞のテンポが他の歌舞よりも早かったことによるとする説(井上辰雄)。
○隼人の狗吠/吠声から「吠人(はいと)」とされたことによるとする説(高橋富雄・菊池達也)。(原口2018.73~74頁に原口氏説を加えた)

 どうしてハヤヒトと呼ばれていたかを問うことはあまり生産的なことではない(注2)。言葉の語源を正すことは、歴史的に、すなわち、文献的に証明されるもの、例えば近代に生まれた翻訳語のように証明されるものならともかく、なぜ spring のことをヰ(井)というのかを考えても始まらない(注3)。地名のうちのかなりのものも、所与のものとしてあり、それを後からこじつけて何を表しているのか考えているだけである(注4)。このハヤヒトの場合も、由来を辿って行き着くところがあったとしても、そのことを「証明」と呼ぶことはできない。その点を承知のうえで筆者なりの意見を述べるなら、海人族として海に潜っていたことと関係があるかと考える。素潜りだから長く息を止める。ナガ(長)+イキ(息)、約してナゲキ(嘆)である。ナゲク(嘆)様子は助詞のハヤに表される。だからハヤヒト(隼人)である。文字によらない口語的世界、ブリコラージュとしての言葉遊びのなかで輝いて聞こえる言葉である。
 終助詞のハヤは、感動、感嘆、哀惜など、歌謡の例にあるように口に出して発話する言葉として用いられた。崇神紀十年九月条に「御間城みまき入彦いりびこはや」とあり、何かを言っているのではなくただ歌っているだけであるという。景行記に「あづまはや」とあり、倭建命やまとたけるのみことが東征からの帰路で溜息まじりにつぶやいている。同じく「その大刀たちはや」ともあり、自分から離れてしまったことに言葉が続かなくなっている。雄略紀十二年十月条に「いひし工匠たくみはや あたら工匠はや」とあり、処刑されそうな大工を惜しんでいる。允恭紀四十二年十一月条に「うねめはや、みみはや」とあり、朝貢した新羅人がうねやま耳成山みみなしやまを嘆き讃えた声が訛っていて、朝廷側は采女と姦通したのではないかと疑っている。
 海人族のナガ(長)+イキ(息)からナゲキ(嘆)の声、ハヤを冠する族名となっている。海人族は他にも多いから、他の地域の海人もハヤヒトと呼ばれておかしくないが、南九州の人のみそう呼ばれている。どうしてそう落ち着いたのかは不明であるが、翻って、ハヤヒトと呼ばれたことを出発点として議論は始まることになる。「隼人はやひとの名に負ふ」(万2497)とはどういうことかと組み立てて行っている。史料や木簡などには「隼人」という用字が常用されている。当時の人たちの共通認識として、そう宛てがうのがふさわしいと感じられたからだろう。先にハヤヒトという言葉があり、それに漢字を当てている。もし「隼人」という漢字が先にあって律令制のもとに初めて定められたとするなら、音読みしてシュンジンなどと名づけられていたのではないか(注5)。上代の人はハヤヒトとあることについて疑問を持つことなく、否定することはまったくなく、その名に値する行動をとるように集合意識として求めていくことになっている。

 凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人かんにん二人・史生二人、大衣おほきぬ二人・番上の隼人二十人・いまの隼人二十人・白丁びやくちようの隼人一百三十二人を率て、分れて応天門おうてんもん外の左右に陣し〈蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず〉、群官初めてらば胡床あぐらよりち、今来の隼人、吠声はいせいを発すること三節〈蕃客入朝は、吠の限りに在らず〉。(延喜式・隼人司)
 凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉ぐぶせよ。〈番上已上は、みな横刀を帯び馬にれ。但し大衣已下は木綿鬘ゆふかづらけよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ。〉其の駕、国界及び山川道路のまがりを経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
 凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近きみゆきは吠せざれ。(延喜式・隼人司)
 凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。すべて大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
 朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初めそむき、後にしたがふなりと。うべなふに請ひて云はく、すでに犬と為り、人君に奉仕つかへまつらば、此れ則ち隼人となづくるのみと。(令集解・巻五)
 歌儛教習けうしふせむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)

 養老令や延喜式にみられる隼人の任務としては、①朝廷における儀式への参加、②吠声を発すること、③竹器の製作にあたること、の三つに大別される(注6)。延喜式では、宮廷に仕える隼人は、元日即位の日や外国使節の入城、践祚大嘗祭に、応天門の外に異様ないでたちで立ち、赤い模様に飾られた楯と槍を持ち、吠声を発する決まりになっている。また、行幸に際しても、同行して国境や曲がり角で吠声を発することになっている。ハヤヒトという名から役割が整えられていっており、ハヤヒトという名ゆえに言い伝えにも反映したものとなっている(注7)。海幸山幸の話のなかで、最後に相手が屈服して仕えると誓ったとき、それを「隼人」の祖であるとし、「狗」とし、「俳優」としている。「隼人」、「狗」、「俳優」がヤマトコトバのなかで同一にカテゴライズされて納得が行っている。

 ここを以てほの芹命せりのみこと苗裔のちもろもろ隼人はやひとたち、今に至るまで天皇すめらみこと宮墻みかきもとを離れずして、よよに吠ゆる狗にして奉事つかへまつる者なり。世人よのひとせたる針をはたらざるは、これ、其のことのもとなり。(神代紀第十段一書第二)
 照命でりのみこと〈此は、隼人の多君たのきみおやぞ〉。(記上)
 ほの降命そりのみことは、即ち田君たのきみはし本祖とほつおやなり。(紀本文)
 [火酢芹命ノ曰サク]「吾已にあやまてり。今より以往ゆくさきは、やつかれ子孫うみのこ八十やそ連属つづきに、恒にいましみこと俳人わざひとと為らむ。あるに云はく、狗人いぬひとといふ。はくはかなしびたまへ」とまをす。(神代紀第十段一書第二)
 [火酢芹命ノ曰サク]「……願はくは救ひたまへ。し我をけたまへらば、やつかれ生児うみのこ八十やそ連属つづきに、いましみこと垣辺かきへを離れずして、俳優わざをきたみたらむ」とまをす。(同第四)
 [火照命ノ]頓首ぬかつきてまをししく、「やつかれは、今より以後のち汝命ながみこと昼夜ひるよる守護まもりびとて仕へ奉らむ」とまをしき。かれ、今に至るまで其のおぼほれし時の種々くさぐさわざ絶えずして、仕へ奉るぞ。(記上)

 海幸山幸の話の末尾で、ホノスセリが屈服した様子を「いぬ」に喩えている(注8)。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢をとり、屈服を表明していると見受けられる。そして、儀式や行幸の際には、隼人が犬の吠声をたて、あるいは辟邪を司ったとされている。

 …… 犬じもの 道に伏してや いのち過ぎなむ〈一に云ふ、我が世過ぎなむ〉(万886、山上憶良)
 ……其の大県あがたぬしかしこみ、稽首ぬかつきてまをさく、「やつこにし有れば、奴ながさとらずして、あやまち作れるはいとかしこし。かれ、のみの幣物まひものたてまつらむ」とまをして、布を白き犬にけ、鈴をけて、おのうがら、名は腰佩こしはきと謂ふ人に、犬の縄を取らしめて献上たてまつりき。(雄略記)
 冬十月の壬午の朔にして乙酉に、みことのりしたまはく、「犬・馬・器翫もてあそびもの献上たてまつること得じ」とのたまふ。(清寧紀三年十月)
 新羅のこきし献物たてまつるものは、馬ふた・犬三頭みつ・鸚鵡ふたかささぎ二隻及び種々くさぐさの物あり。(天武十四年五月)

 雄略記の例のように、犬を献上することで犬のように屈服、恭順していることを表明することがあった。鷹狩り用の犬も献上されていた(注9)。飼主の言いつけに従わない犬というのはいない。人に噛みついたり、狂犬病を発症した犬は殺された。雑令に規定されるほか、厩庫律・幖幟羈絆条(逸文)に、「凡畜産及噬犬、有蹹齧人、而幖幟羈絆不法、若狂犬不殺者、笞卅、以故殺傷人者、以過失論、若故放令‐傷人者、減闘殺傷一等、即被雇療畜産、〈被倩者、同過失法〉及無_故触之而被殺傷者、畜主不坐」とある。
 この要件は犬的な人である隼人にも当てはまる。履中即位前紀に、住吉仲皇すみのえのなかつみの「近くつかへまつる隼人」が、ひそかに瑞歯別みつはわけの皇子みこから褒美をあげるといわれて主人を暗殺し、挙げ句の果て、自分の主君を殺すのはけしからんということで殺されている。主人や鷹を傷つけた犬は即刻殺されるということである。飼い犬に手をかまれるとの諺になっている。記では、「墨江すみのえの中皇なかつみに近くつかへたる隼人、名は曾婆加理そばかり」といい、紀には、「近くつかへまつる隼人有り。さし領巾ひれと曰ふ。」と指定されている。
 犬の躾には、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする(注10)。意のままに動くさまを舞と見立てたのが隼人舞である。
 舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名からはやすことが期待されている。お囃子をつかさどって隼人は「俳優わざをき俳人わざひと」となっている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるように、元日や即位の際の儀式において左右に分かれて位置して「吠声」を発している。延喜式・隼人式に、「分陣応天門外之左右一二、……今来隼人発吠声三節」とあるとおりである。そんな掛け合いがなされるのは、まるで山にいるオオカミの遠吠えの掛け合いのようである。猟犬、番犬である飼犬もつられて呼応したものだったろう。まことにうまい形容である。ヨバフ声を発していたわけである。
 ヨバフは、ヨブ(喚)に反復、継続の動詞語尾フのついた形である。その際、聞かせるべき相手は必ずどこかにいる。くり返し大きな声をあげて相手に向って注意を向けさせようとしていたり、見えないけれど必ずいるはずの答えてくれるべき相手を探すように声をあげている。よく通る声でなければならない。崇峻前紀では、鳥部とりべのよろづが犬のように地に伏し、誰かまっとうに話のできる相手はいないかとヨバフことをしている。この話にはよろづの飼っていた犬の話などがエピローグとして付いている(注11)。「犬(狗)」とは何かについて深く考えられている。

 隼人はやひとの〔早人〕 名にごゑ いちしろく が名はりつ 妻とたのませ(万2497)
 かきしに 犬呼び越して がりする君 青山の しげやまに 馬休め君(万1289)
 隼人、多に来て方物くにつものたてまつる。是の日に、大隅隼人と阿多隼人と、朝廷みかど相撲すまひとる。大隅隼人勝つ。(天武紀十一年七月)
 五月丁未の朔にして己未に、隼人大隅にへたまふ。丁卯に、隼人の相撲とるを西のつきもとる。(持統紀九年五月)

 万2497番歌では原文に「早人」とあり、ハヤト、ハヤヒトという名に負うのが大きな夜声であるとしている。令集解・職員令にも「已為犬、奉‐仕人君者、此則名隼人耳。」とある。隼人舞や犬の吠え声から囃す人のこと、敏捷で動作が速い、隼人舞のテンポの速いこととする説などがあげられている。しかし、犬の本義に近づいていない。猟犬として使うのは鷹狩においてである。鷹狩に使うはやぶさは、猟犬同様、飼い主に忠実である。狩りで捕まえたのだから自分で食べてしまえばいいのに食べずにいる。感嘆に値するし、食べてしまったらお仕置きが怖いから食べることができずに彼らは嘆息しているように見える。嘆く時に使う助詞はハヤである。鷹狩には鷹、隼、鷲など猛禽類が使われるが、そのなかで隼は最も人に馴れやすく、ペット化しやすい。犬と同等である。

止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)

 鷹狩に使う鷹(隼)を調教する際(「振替ふりかえ」)にも、ホッ、ホッと静かに、そして通るように鷹を呼ぶ。ワンワン(bow-wow)言ったら近づいてこない。ホォー(howl)と遠吠えする声が「吠声はいせい」である。
 番犬として考えた場合、ドーベルマンのように警護の役に就くことには整合性がある。警護のために使う道具は楯である。平城宮跡から隼人の楯は出土している。犬という存在は、主人の楯となって主人を守る楯の役割を果たす。猟犬の記憶、さらにはオオカミの記憶としては、主人以外の人に対して敵対行動をとり、飼犬が楯となって守るのである。その際、誰をご主人様と思うかによって拒絶する相手は変わってくる。延喜式・隼人司に、「凡元日即位及蕃客朝等儀、……」、「凡践祚大嘗日、……」、「凡遠従駕行者、……」、「凡行幸経宿者、……」などとある各条は、すべて天皇を主人として隼人が振る舞うために定められた条項である。
 門番と考えるならそれは仁王に値する。大隅隼人と阿多隼人との二地域をあげたのは、左右(東西)に配置させるためで、力自慢の力士による天覧相撲が開かれている。九州南部の人の身長は低かったとされており、大相撲ではなく、犬相撲、闘犬に近い。ガードマンは通せん坊をする。入って来ようとするのを「いなぶ」ことをする。嫌がり拒むことは、古語で「すまふ」ともいうから「相撲すまひ」を取っている(注12)
 人がいちばん嘆くのは大切な人が亡くなった葬儀の時である。亡くなることは古語で「ぬ」という(注13)。死ぬことは姿が見えなくなることだから、婉曲的に死ぬことをイヌ(去・往)(万1809)と言い、人は死ぬとき横になって眠るような姿態をとる。だから、イヌという言葉が両方の意味を表していてわかりやすい。なにしろ、動詞イヌ(寝・去・往)を名詞のイヌ(犬)が体現している。イヌ(犬)がイヌ(去)ことをしたという例(桜井田部連膽渟の例、崇峻前紀用明二年七月)もある。まるで、辞書の用例として載っている一連の例文をもって一つの話にまとめられたかのようである。語学的にとても丁寧な解説となっている。ヤマトコトバはヤマトコトバをもってして、言葉を了解的に循環説明し、納得の域に達せしめている。わかりやすく、おもしろくてためになる。そんな話(咄・噺・譚)が披露されている。何のための話なのかといった問いはもはやナンセンスである。この件は辞書的説明が説話の形を整えたものである。イヌ(犬・寝・往)という言葉の本意を伝えるために話が成っている。
 犬であるハヤヒトにも活躍の場が設けられている。隼人はもがりに参列し、番犬の役割として警備に当たる。ゆえに守護人となって隼人司は衛門府に属している。忠犬よろしく殉死することもあったように描かれる(注14)

 輪君わのきみさかふ、隼人をして殯庭もがりのには相距ふせかしむ。(敏達紀十四年八月)
 冬十月の癸巳の朔にして辛丑に、大泊瀬おほはつせの天皇すめらみこと丹比高鷲たぢひのたかわしはらのみさざきに葬りまつる。時に隼人、昼夜みさざきほとり哀号おらび、くらひものたまへどもくらはず、七日なぬかにして死ぬ。有司つかさ、墓を陵のきたのかたに造り、ことわりを以てかくす。(清寧元年十月)

 犬は飼い主に忠実であるが、ホォー(howl)と遠吠えする声は何を言っているのかわからず、ただ嘆いているばかりに聞こえる。今日でも、愛犬が救急車のサイレンに反応して遠吠えを始めたら、飼い主は何が起こっているのか戸惑うばかりで、大丈夫だよと声をかけてなだめている。九州南部出身者の方言は、外国語に勝るとも劣らぬほどわからなかったといわれ、まるで犬の声のようであったというのは話のオチのようなことであるが、そこから翻って彼らをハヤヒトと名づけたかどうかはわからない。
 以上のことごとを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことを記録するものであるとか、時代的に言っていつのことに当たるのか、ハヤヒトがいつからそう呼ばれ定められていったかについては問うことができない(注14)。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁民と同様であったろう。たまたまハヤヒトという名を持っていたから、役回りとして上のようなことを担うように要請されたと語学的に証明された。今日的な概念規定、例えば「服属儀礼」、「華夷思想」、「呪力」といった術語タームで考察しようとしても的外れである。

(注)
(注1)宮島1999.は彼らが海人族で、「執檝者かぢとり」に速い人とする説を唱えている。
(注2)『鹿児島市史Ⅰ』が「いくらその語のもつ意味を正確にとらえたところで、大した意義はないように思う。」(100頁)、『鹿児島県史第一巻』が「ハヤに特種の意味を持たせる事は果して適当であらうか。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261640/1/49、漢字の旧字体は改めた)という言い方に、中村氏は反発している。
(注3)幸田露伴の音幻論など、見るべきものがないわけではない。
(注4)くずの地名の由来について古事記は語っている。「皆たしなめらえて、くそ出で、はかまに懸る。かれ其地そこなづけてくそばかまと謂ふ。〈今は久須婆くすばと謂ふ。〉」(崇神記)。
(注5)文字によらずにハヤヒトという言葉があるということは、歴史のない文化を発祥とするということであり、名義の始期を問うことは筋違いである。今日、歴史学では、天武朝からハヤヒトと呼ばれたとし、記紀の説話は後付けで創作された文飾であると考えられるに至っている。文献を歴史学的視座からしか見ていないとそうなる。記紀に書いてあることは話(咄・噺・譚)である。文字を持たずに言葉を操っていた話の時代があり、その話の言葉を文字に書き写して残そうとしたものなのである。ことことでなければ収拾がつかなくなるから、必ずことことになるように話(咄・噺・譚)とした。嘘をつくことは固く戒められ、ありもしないことをでっちあげることは慎まれた。火のないところに煙が立つようなデマは伝えられることなくかき消されただろう。情報化社会とは真逆で、基本的に人の口から口へ、一人から一人へしか伝達の術はなかったからである。その間の誰か一人でも覚えることをしなかったら伝わることはないのである。積極的に相手に覚えさせようとするための「おもしろさ」こそが話(咄・噺・譚)の命であった。
(注6)➂の竹器製作の理由については拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」参照。
(注7)言い伝えが先か、条文が先かを問うことに関心が向かっているが、見当違いである。言葉として言い当てた時からすべては始まる。話としても法としても創られていく。
(注8)官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である。令集解に「朱云、凡此隼人者良人也。」とあるとおりである。
(注9)「貢上犬壱拾伍頭、起六月一日尽九月廿九日、并一百四十七日、単弐仟弐伯伍頭、食稲肆伯肆拾壱束、〈犬別二把〉」(正倉院文書・天平十年筑後国正税帳)と見える。
 なかには貴族邸で完全に愛玩用に飼われていた犬もいたようである。『平成29年度平城宮跡資料館新春ミニ展示「平城京の戌」リーフレット』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所https://sitereports.nabunken.go.jp/21939参照。
(注10)犬の動作については、それが飼犬である限りにおいて、人によって決められている。基本的な躾に従った動きが求められる。柳亭種彦・足薪翁記に「犬のさんた」のことが記されている。

 犬にさんたせよ\/といへば、前足をあげとびつく事のありしが、他国はしらず。江戸にてさる戯をする者を見ず。手をくれといふが此餘波ともいはん歟。三太はでつち又小僧などいふ下童の通称なれば、かのでつちの狂ひまはるまなびをせよと云事なるべし。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2553925/1/63、漢字の旧字体は改めた)

(注11)拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」参照。物部守屋もののべのもりやの「資人つかひと」という立場であるが、「犬」という言葉をよく写したものになっている。
(注12)佐佐木2007.は、「いないなび・び・犬」は音が似通っていて、イメージとして連想される言葉であると指摘する。もちろん、実際の使用においては文脈に依存する。
(注13)寝ることは「ぬ」(下二段動詞)、死ぬことも「ぬ」(ナ変動詞)である。

 大原の りにしさとに いもを置きて われねかねつ いめに見えこそ(万2587)
 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐宿ねにけらしも(万1511)
 …… 隠沼こもりぬの したへ置きて うち嘆き 妹がぬれば ……(万1809)
 おくて われはや恋ひむ いな見野みのの 秋萩見つつ なむ子ゆゑに(万1772)
 明日よりは いなの川の 出でてなば とまれる吾は 恋ひつつやあらむ(万3198)
 まことまさに遠く根国ねのくにね。(神代紀第五段本文)

(注14)殉死が盛んだった中国殷代の様子を白川2000.にみると、殷代の殉葬には、(a)身分関係の如何を問わず、王との親近関係によって、王の歿後においても、なおその側近にあることを要求される親信貴戚・武人・輿馬侍衛・包丁膳宰・𠬝・妾の類と、(b)専らその墓域を修祓潔斎する目的を以て、犬や牛羊とともに埋死された女子小人・閹寺、あるいは同様の目的を以て殉殺される羌・南等の外族犠牲の二種があるという。清寧紀元年十月条の記事は、犬牲の色彩を強くにじませた内容となっている。
(注15)文字言語のもとにある文明ではなく、無文字時代の口頭言語の文化の産物である。無文字文化に「歴史」はない。記憶と記録の違いである。(注5)参照。
 なお、隼人が人間として従ったのではなく、犬の立場に立つ形で仕えたということから、南九州地方に古墳がないことを説明できるかもしれない。埴輪は殉死の代わりとして供えられたという考えが垂仁紀二十八・三十二年条に表れている。今日の歴史学では時代的に合わないこと、殉死の風はヤマトに顕著とは言えず実態を伴わないこと、埴輪の発祥は吉備の特殊器台から転じた円筒埴輪に求められ、形象埴輪を語る記述はあやしいことから、その記述は否定的にばかり見られている。しかし、埴輪とはすなわち古墳を造ることであると据えてみれば、古墳を造ることは殉死の代わりになることと定位することができる。隼人=犬を埋葬するのに、犬の墓に犠牲の犬を求めることは辻褄が合わないから、ヤマト朝廷は南九州の勢力には古墳を作らせることがなかったと理解できるのではないか。日本書紀の記述について、まだまだ感覚として読めていないところが多いと感じさせられる。

(引用・参考文献)
伊藤2016. 伊藤循『古代天皇制と辺境』同成社、2016年。
『鹿児島県史第一巻』 『鹿児島県史第一巻』鹿児島県、昭和14年。国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1261640
『鹿児島市史Ⅰ』 鹿児島市史編さん委員会編『鹿児島市史Ⅰ』昭和44年。
熊谷2019. 熊谷公男「蝦夷・隼人と王権─隼人の奉仕形態を中心にして─」仁藤敦史編『古代王権の史実と虚構』竹林舎、2019年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川2000. 白川静「殷代の殉葬と奴隷制」『白川静著作集4』平凡社、2000年。
高林1977. 高林實結樹「隼人狗吠考」横田健一編『日本書紀研究 第十冊』塙書房、昭和52年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
中村1998. 中村明蔵『古代隼人社会の構造と展開』岩田書院、1998年。
永山2009. 永山修一『隼人と古代日本』同成社、2009年。
原口2018. 原口耕一郎『隼人と日本書紀』同成社、2018年。
前川1986. 前川明久「隼人狗吠伝承の成立」『日本古代氏族と王権の研究』法政大学出版局、1986年。
松井1995. 松井章「古代史のなかの犬」『文化財論叢Ⅱ』同朋舎出版、平成7年。
宮島1999. 宮島正人『海神宮訪問神話の研究─阿曇王権神話論─』和泉書院、1999年。
守屋1973. 守屋俊彦「隼人舞と犬吠え」『記紀神話論考』雄山閣、昭和48年。

加藤良平 2024.10.14改稿初出

龍(たつ)という語について

 中国から伝わった龍(竜)は、なぜかタツと訓まれることがある。地名「たつ」に当てられることも多い。空想上の生き物としてのタツは万葉集の例(注1)が名高く、日本書紀にも「龍」は見える。

  して来書らいしよかたじけなみ、つぶさほううけたまはる。たちまち隔漢かくかんの恋を成し、またはうりやうこころを傷ましむ。ただねがはくは、去留きよりうつつみ無く、遂にうんを待たまくのみ。〔伏辱来書具承芳旨忽成隔漢之戀復傷抱梁之意唯羨去留無恙遂待披雲耳〕……
 たつも 今も得てしか あをによし 奈良の都に きてむため〔多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠尓与志奈良乃美夜古尓由吉帝己牟丹米〕(万806)……
 龍の馬を あれは求めむ あをによし 奈良の都に む人のたに〔多都乃麻乎阿礼波毛等米牟阿遠尓与志奈良乃美夜古邇許牟比等乃多仁〕(万808)……
 豊玉姫とよたまびめみざかりこうまむときにたつ化為りぬ。(神代紀第十段本文)(注2)
 大将軍おほきいくさのきみ紀小弓宿きのをゆみのすくたつのごとくあがり、とらのごとくて、あまね八維やもる。(雄略紀九年五月)
 其の馬、時に濩略もこよかにして、たつのごとくにぶ。(雄略紀九年七月)
 さかりいたりておほとりのごとくのぼり、たつのごとくひひり、ともがらことたむらえたり。(欽明紀七年七月)
 大鷦鷯おほさざきのみかどの時、龍馬りゆうめ西に見ゆ。(白雉元年二月)(注3)
 ……空中おほぞらのなかにしてたつに乗れる者有り。……西に向ひて馳せぬ。(斉明紀元年五月)

 想像上の動物である「龍」は中国で考えられていたものである。日本で昔ながらのものとしてヤマタノヲロチや、ヤヒロワニ、クラオカミ、クラミツハは龍に似ていると思われているが、「龍」字を当てることも、○○タツと呼ばれることもない。万葉歌や雄略紀、斉明紀の例に見られるタツは、空を飛び駆ける馬のような存在として認識されている。トヨタマビメがお産のときに変じていたという「龍」については、古事記や紀一書第一・第三ではヤヒロワニになっていたとされている。
 「龍」は天駆ける馬であり、それをヤマトコトバでタツと造語している。どうしてそう命名したか、ながらく疑問とされている。説として、身を立てて天にのぼるところからタツ(立・起)と言ったのだろうという説が古くから行われている。瀬間2024.は説文、玉篇、易経、管子などを渉猟し、龍に「身を立つ」に相当する記述はないと指摘し、漢字の一部を取って訓としたという説を提示している。「龍(竜)」字のなかに「立」字があるからタツと命名した字形訓であるという(注4)
 この説は興味深いものだが、なかなかにあり得ない。なぜなら、その字を知らない人にとっては何を言っているのかわからないからである。
 虎についても日本には生息していないが、話に頭が大きくて揺らしながら歩くネコのような生き物だと伝えられた。毛皮を見せながら説明されたのだろう。それを字音でコと言っても誰にも通じないから、頭を揺らしては時折大声を張り上げる生態の生き物のことを連想している。酔っ払いである。彼らは「とらかせる」状態にあるから、トラと命名している。酔っぱらいのことを指してオオトラというのは、tiger に先んじて考えられていた言葉ということになる。
 龍という生き物は天駆ける馬のことだと考えている。もちろん、天駆けるような horse がいて駿馬だとありがたがられていても、実際に天駆ける horse というものはいない。つまり、龍は龍であり、馬は馬である。天上を駆けるのと地上を駆けるのとで種類は別である。
 この間の事情を物語る逸話を紹介する。列仙伝の馬師皇に次のようにあり、賛が付いている(注5)

 馬師皇者、黄帝時馬医也。知馬形気生死之診、治之輒愈。後有龍下向之、垂耳張口。皇曰、此龍有病、知我能治。乃鍼其唇下口中、以甘草湯飲之而愈。後数数有疾龍出其波、告而求治之。一且龍負皇而去。
  師皇典馬 厩無残駟 精感群龍 術兼殊類 霊虬報徳 弭鱗御轡 振躍天漢 粲有遺蔚

 黄帝の時に名獣医がいた。その馬師皇に診てもらった馬は必ず良くなった。そうしているうちに、龍が空から下ってきた。皇は龍が病気だと言い、鍼治療をし薬を与えた。口コミで龍がたくさん訪れるようになり、治してやっていた。ある日、龍は皇を背に乗せてどこかへ行ってしまった。そういう話である。
 賛の部分をいま仮に訓む。

 師皇 馬をつかさどるに、うまやに残れるくるま無し。群れる龍をくはしくるに、すべ兼ねてたぐひつ。くすしきみづち いきほひこたへ、いろこととのくつわらしむ。 天漢あまのがはおどりて、しらげてのこせるよもぎ有り(注6)

 馬を診るのと龍を診るのとでは種類が違うのだから、馬医ではなく龍医でなくてはならないはずである。もちろん、龍は空想上の動物であり、龍医という職業はない。たぐいまれな馬医であった師皇の医術は、馬にも龍にも通じ兼ねたものであって、種類の分け隔てを断つものであった。
 この逸話がどれほどヤマトの人に知られていたかは定かではない。ただ、「たつの馬」と歌にいきなり歌われるぐらいだから、龍は馬と近類だと考えられていたことは確かである。筆者が列仙伝のこの賛に注目したのは、「つ」というヤマトコトバゆえである。「殊儛たつづのまひ」という舞がある。大系本日本書紀は、「タツヅはタツイヅの約であろうか。立つのと、進むのとを合わせいう語か。殊は断(たつ)の意があるために、立つに通用させたものか。」(111頁)と注している。

 だてかたりて曰はく、「可怜おもしろし。願はくはまた聞かむ」といふ。天皇、遂に殊儛たづつのまひ〈殊儛、古に立出儛たつづのまひと謂ふ。立出、此には陀豆豆たつづと云ふ。かたちは、あるいはち乍いはて儛ふなり。〉たまふ。たけびてのたまはく、
 やまとは そそはらあさはら おとやつこらま。
 小楯、是に由りて深く奇異あやしぶ。更にはしむ。天皇、誥びて曰はく、
 石上いそのかみ ふる神榲かむすぎ〈榲、此には須擬すぎと云ふ。〉もとり すゑおしはらひ、〈伐本截末、此には謨登岐利もときり須衛於茲婆羅比すゑおしはらひと云ふ。〉いちの辺宮へのみやに 天下あめのしたしらしし、天万あめよろづ国万くによろづ押磐おしはのみこと御裔みあなすゑやつこらま。(顕宗前紀)

 「殊儛たづつのまひ」は龍の舞をイメージしているようである。「殊」という字をあえて用いている。ふだんの舞い方と類を異にしているのに一類に入れて「舞(儛)」であるとするように込めた言葉だからだろう。現在の市川團十郎(十三代)が高校在籍中、授業のダンスがうまくできず、「先生、舞えません」と訴えていたという。ダンスは舞ではない。長崎くんちの龍踊に見られるように、龍は日本舞踊のように腰を低くし続けるものとは違い、竿を使って上下動をくり返す踊りである。
 「龍」は、言葉の範疇として、馬と近縁性を持ちつつ類を殊にすることをもってうまいこと立つことを示すようにヤマトコトバにうつしとられ、タツと呼ばれるようになったのではないかと考えられるわけである。むろん、了解されるという次元のことであり、語源を正したというものではない。

(注)
(注1)拙稿「万葉集の「龍の馬(たつのま)」について」参照。
(注2)他書では八尋わになどに変じている。ここで龍を登場させた理由は不明であるが、お産の苦しみにおいて腹這ひもがくようにではなく、踊るようにもがいていたと表したかったからかもしれない。
(注3)この例では中国の祥瑞記事に倣い、音読みされる。
(注4)161〜163頁。宮崎1929.に、「糴」をイリヨネ、「莣」をワスレグサ、「禾(芒)」をノギと訓む例をあげている。それと同様に考えようというのであるが、ノギははたしてノという片仮名が生まれた後、はじめて使われた語なのだろうか。古事記には「頃者このころ赤海鯽魚たひのみどのぎありて、物を食はずとうれへ言へり。」(記上)とある。
(注5)国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300051310/12?ln=ja参照。日本国見在書目録の雑伝の最後に「列仙伝三巻〈劉向撰〉」 と記載されている。
(注6)「天漢」は万806番歌の題詞にある「隔漢之恋」と通じている。天の川は、空中をも水中をも進む龍を表すのにうってつけの舞台である。

(引用・参考文献)
瀬間2024. 瀬間正之「漢字が変えた日本語─別訓流用・字注訓・字形訓の観点から─」『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(『日本語学』第41巻第2号、2022年夏。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
宮崎1929. 宮崎道三郎「漢字の別訓流用と古代に於ける我邦制度上の用語」『宮崎先生法制史論集』岩波書店、昭和4年。

加藤良平 2024.9.23初出

日本書紀古訓オセルについて

 日本書紀の古訓にオセルという動詞がある。「臨睨」、「望見」、「瞻望」、「廻望」、「望」、「遥望」、「遠望」、「望瞻」、「遥視」といった用字に対して訓まれている。上から下を見おろすことをいい、また、押シアリの約かとされている(注1)。「押スは平面に密着して力を加える意。そのように、力をこめて下界を見る意。」(大系本日本書紀(一)131頁)と説明がある(注2)

「背骨の曲がった男」(病草紙断簡、鎌倉時代、文化庁蔵。文化庁文化財第一課『国有品図版目録』文化庁、2022年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12360121/1/2)

 大系本日本書紀や岩波古語辞典の語構成による説明、押シアリ説は誤りであろう。オセルは、語幹オセに動詞化するルが付いた形と考える。オセとは、曲がった背、猫背のことをいう。「おせたかくて龍のわだかまりたるやうなるものあり」(紙本著色病草紙断簡(背骨の曲がった男)、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/589900)とある。また、オセグムは、背が曲がる、猫背であることをいう。「たけ高くおせぐみたるもの、赤鬚にて年五十ばかりなる、太刀はき、股貫ももぬきはきて出できたり。」(宇治拾遺物語・九・五)とある。つまり、オセルとは背を丸めて見ることを言っている(注3)。上の二例にあるとおり、くぐつのように小さく縮こまるのではなく、背の高いものが屈みこむ姿勢を言っている。

 したがって、高いところにのぼって下界を睥睨するようなときに用いられる言葉であると推定される。日本書紀の用例にそのように受けとれるならそれで正しいことになる。以下、網羅の保証はないが多くの例を見てみる。
 まず、オセルと訓んで確かと思われる例について見る。

A.オセルと訓んで確かと思える例
 是の時に、勝速日天忍穂耳尊かちはやひあまのおしほみみのみことあまの浮橋うきはしに立たして臨睨おせりてのたまはく、「くに未平さやげり。不須也いな頗傾かぶししこ目杵之国めきくにか」とのたまひて、……(是時、勝速日天忍穂耳尊、立于天浮橋、而臨睨之曰、彼地未平矣。不須也頗傾凶目杵之国歟、……)(神代紀第九段一書第一)
 九月の甲子の朔にして戊辰に、天皇すめらみこと菟田うだ高倉山たかくらやまいただきのぼりて、くにうち瞻望おせりたまふ。(九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。)(神武前紀戊午年九月)
 因りて腋上わきがみ嗛間丘ほほまのをかに登りまして、国のかたちめぐらしおせりてのたまはく、「姸哉乎あなにや、国をつること。……(因登腋上嗛間丘、而廻望国状曰、姸哉乎国之獲矣。)(神武紀三十一年四月)
 則ち藤山ふぢやまを越えて、みなみのかた粟岬あはのさきおせりたまふ。(則越藤山、以南望粟岬。)(景行紀十八年七月)
 亦相模さがむいでまして、上総かみつふさみたせむとす。海をおせりて高言ことあげして曰はく、「是ちひさき海のみ。立跳たちをどりにも渡りつべし」とのたまふ。(亦進相模、欲往上総。望海高言曰、是小海耳。可立跳渡。)(景行紀四十年是歳)
 かれ碓日嶺うすひのみねに登りて、東南たつみのかたおせりて三たびなげきて曰はく、「づまはや」とのたまふ。(故登碓日嶺、而東南望之三歎曰、吾嬬者耶。)(景行紀四十年是歳)
 便ち高きをかに登りて、はるか大海おほみおせるに、曠遠ひろくして国も見えず。是に、天皇、神にこたへまつりて曰はく、「われ周望みめぐらすに、わたのみ有りて国無し。……」とのたまふ。(便登高岳、遥望之大海、曠遠而不見国。於是、天皇対神曰、朕周望之、有海無国。)(仲哀紀八年九月)
 丁酉に、高台たかどのに登りましてはるかみそなはす。時にみめひめはべり。西にしのかたおせりておほきになげく。……こたへて曰さく、「近日このごろやつこかぞいろはおもこころはべり。便ち西にしのかたおせるに因りて、おのづからに歎かれぬ。……」とまをす。(丁酉、登高台而遠望。時妃兄媛侍之。望西以大歎。……対曰、近日、妾有恋父母之情。便因西望、而自歎矣。……)(応神紀二十二年三月)
 時に皇子みこ、山のうへよりおせりて、野のなかたまふに、物有り。其の形いほの如し。乃ち使者つかひつかはしてしむ。(時皇子自山上望之、瞻野中、有物。其形如廬。乃遣使者令視。)(仁徳紀六十二年是歳)
 太子ひつぎのみこ河内国かふちのくに埴生坂はにふのさかに到りましてめたまひぬ。なにかへりおせる。火の光をみそなはして大きに驚く。……則ち更に還りたまひて、そのあがたいくさおこして、従身みともにつかへまつらしめて、龍田山たつたのやまよりえたまふ。時に数十人とをあまりのひとの、つはものりて追ひる有り。太子、はるかみそなはしてのたまはく、……(太子到河内国埴生坂而醒之。顧望難波。見火光而大驚。……則更還之、発当県兵、令従身、自龍田山踰之。時有数十人執兵追来。太子遠望之曰、……)(履中前紀)

 「天浮橋」、「腋上の嗛間丘」、「藤山」、「碓日嶺」、「高き岳」、「高台」、「山の上」、「河内国の埴生坂」、「龍田山」から、葦原中国、「域の中」、「国」、「南粟岬」、「海」、「東南」の平野部、「大海」、「西」、「野の中」、「難波」のほうを見晴らしている。観察者は標高の高いところにいて、見る対象の方が低い。全体を一望のもとに掌握できている。その時、視線は下を向いており、体勢としては少し背中が曲がることになる。よってオセルという言葉が適当であるとわかる。
 応神紀の例で、天皇は見巡らせているからミソナハス、妃の兄媛は西の方角の故郷一点を見つめてうなだれているからオセルと訓んでいる。同じ漢字で「望」と書いても、オセルとは訓まない確かな例となっている。仲哀紀や応神紀、履中紀の「周望」、「望」、「見」字にオセル以外の訓みがあるのは、必ずしもオセル姿勢になっていないということである。

B.オセルとは訓まないであろう例
 また那羅ならやまりて、進みて韓河からがはに到りて、埴安彦はにやすびこと河をはさみていはみて、おのおのあひいどむ。……埴安彦みのぞみて、彦国葺ひこくにぶくに問ひてはく、……(更避那羅山、而進到輪韓河、与埴安彦挟河屯之、各相挑焉。……埴安彦望之、問彦国葺曰、……)(崇神紀十年九月)
 九月の甲子の朔にして戊辰に、周芳すはのくに娑麼さばに到りたまふ。時に天皇すめらみこと、南にのぞみて、群卿まへつきみたちみことのりして曰はく、「南のかた烟気けぶりさはつ。ふつくあたらむ」とのたまふ。(九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。時天皇南望之、詔群卿曰、於南方烟気多起。必賊将在。)(景行紀十二年九月)
 時にかは板挙たな、遠くくぐひの飛びし方をのぞみて、追ひぎて出雲いづもいたりて捕獲とらへつ。(時湯河板挙、遠望鵠飛之方、追尋詣出雲而捕獲。)(垂仁紀二十三年十月)
 十七年の春三月の戊戌の朔にして己酉に、子湯県こゆのあがたいでまして、もの小野をのに遊びたまふ。時にひむかしのかたみそなはして、左右もとこひとかたりて曰はく、「是の国はなほく日の出づるかたに向けり」とのたまふ。(十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯県、遊于丹裳小野。時東望之、謂左右曰、是国也直向於日出方。)(景行紀十七年三月)
 四年の春二月の己未の朔にして甲子に、群臣まへつきみたちみことのりして曰はく、「われ高台たかどのに登りて、はるかみのぞむに、烟気けぶりくにうちに起たず。……七年の夏四月の辛未の朔に、天皇、たかどのうへしまして、はるかみのぞみたまふに、烟気さはに起つ。(四年春二月己未朔甲子、詔群臣曰、朕登高台、以遠望之、烟気不起於域中。……七年夏四月辛未朔、天皇居台上、而遠望之、烟気多起。)(仁徳紀)
 即ち羅山らのやまを越えて、葛城かづらきみのぞみてみうたよみして曰はく、……(即越那羅山、望葛城歌之曰、……)(仁徳紀三十年九月)
 今大王きみ、時を留めもろもろさかひて、号位なくらゐを正しくしたまはずは、臣等やつこら、恐るらくは、百姓おほみたからのぞみえなむことを。……願はくは、大王、もろもろねがひに従ひたまひて、あながち帝位みかどのくらゐきたまへ。(今大王留時逆衆、不正号位、臣等恐、百姓望絶也。……願大王従群望、強即帝位。)(允恭前紀~元年十二月)
 四年の春二月に、天皇すめらみこと葛城山かづらきやま射猟かりしたまふ。たちまちたきたかき人を見る。きたりて丹谷たにかひあひのぞめり。面貌かほ容儀すがた、天皇に相似たうばれり。(四年春二月、天皇射猟於葛城山。忽見長人。来望丹谷。面貌容儀、相似天皇。)(雄略紀四年二月)
 丙戌に、あしたに、朝明あさけのこほり迹太とほかはにして、天照太神あまてらすおほみかみ望拝たよせにをがみたまふ。(丙戌、旦、於朝明郡迹太川辺、望拝天照太神。)(天武紀元年六月)

 「望」を希望のノゾムの意としたり、望み見るのであるが高いところに立っているわけではない場合や、上方や遠方を見たり、河や谷を挟んで反対側を見る時、また、遠く神さまを遥拝する時には背は屈まらないからオセルとは訓まない。景行紀や仁徳紀の烟気を見る場合も、烟気が立ちのぼる様を確認する作業だから、高台から見ていても烟気の立ちのぼるところへと目が追っていき、また、遠くの烟気を探すために頭を動かしていくから前屈みに固まる姿勢が印象づけられるものではなく、オセルという言い方はふさわしくない。仁徳紀三十年条の「那羅山」から「葛城」を見通す時も、奈良盆地の北側の標高の高いところから、南側の標高の高いところを遠望する様だから首がうなだれることはない。
 以上をもってオセルの使い方の基本は概ね定まるが、なお曖昧な例が見られる。次にその例をあげるが、二種に類別されるようである。

C.オセルと訓むか決めかねる例
①睥睨しているのか瞭然としない例
 是の時に、石瀬河いはせのかはほとりに、人衆ひとども聚集つどへり。是に、天皇はるかおせりて、左右もとこひとみことのりして曰はく、「其のつどへる者は何人ぞ。けだあたか」とのたまふ。(是時、於石瀬河辺、人衆聚集。於是、天皇遥望之、詔左右曰、其集者何人也。若賊乎。)(景行紀十八年三月)
 〈時に天皇、あはしまいでまして遊猟かりしたまふ。是に、天皇、西にしのかたみそなはすに、数十とをあまり麋鹿おほしか、海に浮きてきたれり。〉(〈時天皇幸淡路嶋、而遊猟之。於是、天皇西望之、数十麋鹿、浮海来之。〉)(応神紀十三年九月)
 天皇、高台たかどのしまして、ひめが船をみそなはして、みうたよみして曰はく、「あはしま いやふたならび 小豆あづきしま いやふたならび ろしき嶋々しましま かたあらちし 吉備きびなるいもを あひつるもの」とのたまふ。(天皇居高台、望兄媛之船以歌曰、阿波旎辞摩、異椰敷多那羅弭、阿豆枳辞摩、異椰敷多那羅弭、予呂辞枳辞摩之魔、儾伽多佐例阿羅智之、吉備那流伊慕塢、阿比瀰菟流慕能。)(応神紀二十二年四月)
②見てこわがっている例
 やつかれこのかみ兄猾えうかしさかしまなるわざをするかたちは、天孫あめみま到りまさむとすとうけたまはりて、即ちいくさを起しておそはむとす。皇師みいくさいきほひ望見おせるに、へてあたるまじきことをぢて、乃ちひそかに其のいくさかくして、……(臣兄々猾之為逆状也、聞天孫且到、即起兵将襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潜伏其兵、……)(神武前紀戊午年八月)
 然るにはるか王船みふねおせりて、あらかじめ其の威勢いきほひぢて、心のうちにえ勝つまじきことを知りて、ふつくに弓矢を捨てて、のぞをがみてまをさく、「あふぎて君がみかほれば、人倫ひとすぐれたまへり。けだし神か。姓名みなうけたまはらむ」とまをす。(然遥視王船、予怖其威勢、而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拝之曰、仰視君容、秀於人倫。若神之乎。欲知姓名。)(景行紀四十年是歳)
 新羅しらきこきしはるかおせりて以為おもへらく、非常おもひのほかつはものまさおのが国を滅さむとすと。ぢてこころまとひぬ。……(新羅王遥望以為、非常之兵、将滅己国。讋焉失志。……)(神功前紀仲哀九年十月)
 是に、倭彦やまとひこのおほきみ、遥かに迎へたてまつるつはものおせりて、懼然おそりておもへりあやまりぬ。(於是、倭彦王、遥望迎兵、懼然失色。)(継体前紀)
 ここに、船師ふないくさ、海にいはみてさはに至る。両国ふたつのくに使人つかひ望瞻おせりて愕然かしこまりおづ。乃ち還りとどまる。(於是、船師満海多至。両国使人、望瞻之愕然、乃還留焉。)(推古紀三十一年是歳)
 夏四月に、陪臣へのおみ、〈名をもらせり。〉船師ふないくさ一百ももあまり八十やそふなひきゐて、蝦夷えみしつ。あぎしろ二郡ふたつのこほりの蝦夷、おせぢてしたがはむとふ。(夏四月、阿陪臣、〈闕名。〉率船師一百八十艘、伐蝦夷。齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞降。)(斉明紀四年四月)

 C①の、睥睨しているのかはっきりしない例は、Aのオセルと訓んで確かな例としてあげた応神紀二十二年三月条、「望」をミソナハス、オセルと別々に訓んでいる例が参考になる。天皇は高台から遠いところをさまざまに「みそなはす」ことをしているが、隣にいる妃、兄媛は、西の方にある故郷の一点を「おせる」ことをしている。対象を見やって動かない場合にオセルという語が用いられている。同様に仲哀紀八年九月条の例でも、対象物をはっきり捉えようとして「おせる」ことをしているが、見えなかったから他にないかいろいろと探したと強調するため、「周望みめぐらす」と答えている。まとめると、屈みこむ姿勢に固まって一点を見続ける場合はオセルと訓み、それ以外の首を動かしてあちこち見回すようなときはオセルとは訓まない。
 C①の用例で言えば、対象が動かない「人衆聚集」の一点を見続ければオセルと訓み、「数十麋鹿、浮海来之。」や「兄媛之船」の動くのを見る場合は、高台から見ていたとしてもオセルとは訓まないとわかる。
 C②の、見て怖気づいている例は、言葉とは何かを知るうえでとても興味深いものである。四例目の継体前紀の例に、「おせりて、懼然おそりて」と見える。そう表現している理由は明確で、似た音のオセルとオソルの地口である。こうなると、もはや、視点の高さや対象物をはっきりと捉えているかどうかなど二の次となる。音をオセルとオソルに揃え合わせなければならないと直観させられる。言葉とは伝えるためのツールなのだから、音声言語の優位性が適用されて然るべきである。
 「皇師の威を望見おせるに、敢へて敵るまじきことをおそる。(望見皇師之威、懼不敢敵。)」(神武前紀戊午年八月)と句点で切れる。「然るに遥に王船をおせりて、予め其の威勢をおそりて、……(然遥視王船、予怖其威勢、……)」(景行紀四十年是歳)、「新羅の王、遥におせりて以為へらく、非常の兵、将に己の国を滅さむとすと。おそりて志失ひぬ。……(新羅王遥望以為、非常之兵、将滅己国。讋焉失志。……)(神功前紀仲哀九年十月)、「両国の使人、望瞻おせりて愕然おそる。乃ち還り留る。(両国使人、望瞻之愕然、乃還留焉。)」(推古紀三十一年是歳)、「齶田・渟代、二郡の蝦夷、おせおそりて降はむと乞ふ。(齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞降。)」(斉明紀四年四月)である。古訓では、「威勢をおそれて、」(景行紀四十年十月、熱田本訓)と見える程度であまり意識されていない。しかし、言葉を吟味すればオヅよりもオソルと訓んだほうがよく、音感としてもかなっている。
 古典基礎語辞典は、「[オヅは、]相手に直面して恐怖感を抱き、身体的に萎縮してしまう意。[気持ちが萎えることで、どちらかというと、心的また内面的に変化する場合に使われる。]……オソルは、相手に直面していない場合も含めて、危険を予想し、心配したり畏縮したりすることで、特に身体的な変化は伴わない。オビユは、相手に恐怖感を抱く点ではオヅと似ているが、すっかり生気を失ったり、ぶるぶると震えたりなど、身体的変化が顕著に表れる。」(239頁、この項、我妻多賀子)と解説する。すなわち、オヅは怖気づいて委縮すること、オビユはこわいと感じてびくびくすること、オソルは「畏」と書くこともある畏怖の念も含んでおそれをなすこと、という違いがある。
 C②の用例は、皆、戦おうにも敵兵の勢力、威勢を一目見て、まともではとてもかなわないと直観している。身体的反応を起こして身動きが取れなくなったり、泡を吹いているわけではない。武装解除して投降したり、策略を案じ潜入して騙し討つ作戦に切り替えている。そのことを表す言葉はオソルである。
 神功前紀の例では、これまで「ぢてこころまとひぬ。(讋焉失志。)」と訓まれており、「讋」字について、書紀集解以来、説文や漢書・武帝紀の顔師古注にある、「讋 失気也」を引いているものとされている。しかし、気を失い、心が乱れた、という言い方は、撞着を含んだ畳語的な言い方である。後漢書・班固伝の「陸はおそれ水はおそれ、奔走して来賓せざるは莫し。(莫陸讋水慄、奔走而来賓。)」部分の注に、「爾雅曰、讋、懼也。音之渉反」とある。それによるなら、「讋焉失志」は恐懼して気が動転した、という意に解することができてわかりやすい。それはまた、継体前紀の例の、「懼然おそりておもへりあやまりぬ」、怖くなってふだんの表情でなくなった、とも照合するものである。
 神田喜一郎氏の言に、「一、古訓の漢土訓詁学上より見て極めて正確なること 一、古訓の一見疑はしきものも、必ず何等かの典拠に本づくものなること」(神田1983.415頁、漢字の旧字体は改めた)とある。他に二点指摘があるが、これら二条を補完する但し書きのようなものである。要するに、古訓は相当に正しく、今の常識で生半可に疑ってかかるほうが浅知恵の賢しらごとである。

(注)
(注1)リを完了の助動詞とする説もある。
(注2)新編全集本日本書紀は、古訓にとらわれずにノゾムといった訓を与えている。中村1993.は、漢字表記においてそのように感じられないとし、「臨睨以下、望、望見等の語は本来、「力を加えて見る」こととは無縁であるから、「オシ有り」は望文生義的な造語であり、削除すべき訓であると結論しておきたい。もちろん、古代における邪視や、見ることの威力への信仰は否定するものではないが、書紀本文はこれとは無関係に、あくまでも字義に即して正確に付訓すべきものと考える。」(81頁)と、古訓自体を存疑としている。
(注3)動詞オセルが名詞オセから派生したと考えるよりも、語幹オセを共にする一群の言葉として、オセ、オセル、オセグムという語が成っていると考えるべきであろう。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集 第二巻』同朋舎出版、昭和58年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2・3・4 日本書紀①・②・③』小学館、1994・1996・1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)~(五)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
中村1993. 中村宗彦「『日本書紀』訓釈十題」『山邊道』第37巻、天理大学国語国文学会、1993年3月。天理大学学術情報リポジトリ https:/opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3066/

加藤良平 2024.2.26初出

欽明紀の「鐃字未詳」について

 日本書紀には字注を入れることがあり、「未詳」と記すことがある。

 にはかにして儵忽之際たちまちに、つづみふえおとを聞く。余昌よしやう乃ちおほきに驚きて、鼓を打ちてあひこたふ。通夜よもすがら固く守る。凌晨ほのぐらきに起きてひろの中を見れば、おほへること青山あをむれの如くにして、旌旗はた充満いはめり。会明あけぼの頸鎧あかのへのよろひひと一騎ひとうまくすびせる者〈鐃の、未だつばひらかならず。〉二騎ふたうま豹尾なかつかみのをせる者二騎、あはせ五騎いつうま有りて、連轡うちととのひて到来いたりて問ひて曰はく、……(俄而儵忽之際、聞鼓吹之声。余昌乃大驚、打鼓相応。通夜固守。凌晨起見曠野之中、覆如青山、旌旗充満。会明有着頸鎧者一騎、挿鐃者〈鐃字未詳。〉二騎、珥豹尾者二騎、并五騎、連轡到来問曰、……)(欽明紀十四年十月)

 この「未詳」との注釈は、日本書紀の筆録者がよくわからないから注として入れたものだとされている。書き写す際に正しいのかどうかわからないということで入れたのだろうと思われている。けれども、雄略紀の例にあるとおり、筆録者が意図的に入れたもの、考え落ちを示すところと捉えたほうがいいだろう(注1)。彼らは筆録者というよりも述作者であり、作文をしているのだから、書きながら意味がわからないと注することは態度としてむしろ不自然である。
 日本書紀について、出典論を重んじ、その書き方手本をもとに再構成しようとする立場の人は、元ネタの漢籍をよく理解しないままに誤ったものであると強引に押しつけてしまう。
 「鐃」とは何か。クスビ、クスミと訓まれている。

 鐃 小鉦也。軍法、卒長執鐃。从金堯声。(説文)
 鐃 似鈴無舌、軍中所用也。(玉篇)
 鉦者、似鈴柄中上下通也。饒者、如鈴無舌有柄、執鳴之而止皷也。(令義解・喪葬令)

 これらの説明を読めば、鐃は二枚合わせて音を出すシンバルや空也上人が首から下げる円形の鉦ではなく、鐸の中に舌のないもので、上に向けて下に柄をさしこんでその柄を持ち、槌で敲いて音を出すものであったと理解されるだろう。現在残るのは銅製部分だけであるが、木製の柄をつけ、それを腰帯なり着物の合わせなりへ挿し込んでいたと考えられる(注2)
 ところが、むしゃこうじ氏は「翹」の誤写説を提唱している。そして、次のような文献をあげている。

 花、以猛獣皮・若鷲鳥羽之、置杠上。若所謂豹尾者、今人謂之面槍。将軍花、不物名、其数或多或少、其義未詳。鈴、行路置駄馬上、或云鐸。(三国史記・巻四十・志・職官下・武官)

 欽明紀の原史料は、猛獣皮のものを「豹尾」としたのに対して鷲羽のものを「翹」 とした可能性があるとし、その「翹」を「鐃」とどこかの段階で誤ってわからなくなり、「饒字未詳」と書き込んでいるのではないかというのである。
 瀬間氏はさらに、推古紀や旧唐書を追加し、梁職貢図の復元模型を補足資料として呈示している(瀬間2024.364頁)。髻花として豹尾と鳥尾が見られ、その鳥尾が「翹」だというのである。

 十九年夏五月五日……是日、諸臣服色、皆随冠色。各著髻花。則大徳小徳並用金。大仁小仁用豹尾。大礼以下用鳥尾。(推古紀十九年五月)
 高麗官之貴者、則青羅為冠、次以緋羅、挿二鳥羽及金銀飾。(旧唐書・巻一百九十九上・列伝第一百四十九上・東夷)

 鐃を軍令を伝える小鉦とした場合、「挿」はおかしいから日本書紀編述者(あるいは養老の講書のときの学者(むしゃこうじ1973.228頁))は不審の念を抱いて「鐃字未詳」と表示したものと見ている。そして、「編述者は、高句麗・新羅・倭国の風習を知らなかったが故に未詳とのみ記述するに留まったと考えられる。東夷諸国の風習を知っていれば、雄略紀459割注「擬字未詳。 蓋是槻乎。」のように「鐃字未詳。蓋是翹乎。」とすることが可能だったはずである。」(瀬間2024.365頁)と我田引水の議論に進んでいる。
 しかし、記事は百済と高麗(高句麗)とが陣を向かい合わせている戦時のものである。「鐃」ではなくて「翹」であると強く言えるものではない。夜間に高麗側の「鼓吹之声」が聞こえたから、百済側は「打鼓」して応じて守りを固めている。「鼓」を叩くのを止めさせる合図に「鐃」を打った。撤退の合図かもしれない(注3)
 瀬間氏はこの部分、編述者が大幅な潤色を施していると見ている。編述者に中国系渡来人を想定するに至っているが、大幅な潤色が施せるぐらいなら言葉について鋭敏でよく理解していたことは確かであろう。そして、「鐃」字には古訓としてクスビという訓みが伝えられている。下に図版としてあげたもののことをヤマトコトバとしてクスビと呼んでいたのである。
 「鐃」字は「金」と「堯」から成っている。「堯」は高いという意味である。説文に「堯 高也。从垚在兀上、高遠也。」とある。高い金ならタカガネ、約してタガネとなっておかしくない言葉である。だが、タガネには鏨の意味がある。対して「鐃」をクスビと言っている。クスビはクサビ(楔)とよく似た音である。クサビ(楔)とタガネ(鏨)は横から見るとともにV字型の打ち込み部分があり形がよく似ている。一体で柄を有するのはタガネ(鏨)であり、刃を鋭利にして木の柄をつけたらノミ(鑿)になる。クサビ(楔)、タガネ(鏨)、ノミ(鑿)の先は一枚で尖っているが、クスビ(鐃)では分れて空洞となっている。ただし、シルエットとしては皆よく似ており、木の柄をつけたものとしてはノミ(鑿)とクスビ(鐃)は相対していることになる。
 だから、「鐃」という文「字」はどうしてそういう字なのかわからず、クスビという「」はどうしてそういう名なのかわからないと思い、「鐃字未詳。」と言っているのである。
 この日本書紀編述者=筆録者=述作者は、ヤマトコトバと併せて漢字の形を考えている。「挿鐃」ことに何の疑問も抱いていない。言葉を理解しすぎるほどに理解していて、余裕をもって割注を入れて洒落を飛ばしている。今日までの出典論や日本書紀区分論などは、それ自体としてはともかく、日本書紀をきちんと読むための根拠とするにはおよそナンセンスであり、履き違えた結論を導いている。日本書紀はヤマトコトバを書き表したものであり、対外的に流伝させるために作られたものではない。ヤマトの国の自己満足の史書とさえ言えるものであった。

(注)
(注1)拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論」、拙稿「雄略前紀の分注「称妻為妹、蓋古之俗乎。」について」参照。

左:青銅 獣面文鐃(せいどうじゅうめんもんどう)(商時代、前16~前11世紀、高18.2・15.7・13.7㎝、和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアムhttps://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/005/0050035000.htmlをトリミング)、右:鐃(鉦)と桴を持つ騎乗の人(成都青杠坡三号墓画像磚模写、後漢時代末期)

(注2)林1976.の插図9-7(180頁)は「鉦」であるが、その小型のものを「鐃」と呼んだとする。左に示した久保惣記念美術館蔵品も令義解の説明どおり、銅の柄の部分(甬)は中空で舌のない鈴部へ筒抜けになっている。「正面を打ったときと側面を打ったときと、1つのどうで2音、この組み合わせでも6音の音階をもったことになる。宮殿や廟だけでなく、軍征行旅のとき、狩猟の際にも携行して打ち鳴らされたものであろう。林巳奈夫氏によってしょうと呼ぶのが正しいと考証されているが、いまは旧称のままにした。」(和泉市久保惣記念美術館2004.50頁)と解説されている。
(注3)周礼・地官・鼓人の「以金鐃止鼓」の鄭玄注に、「鐃、如鈴、無舌有秉、執而鳴之、以止擊鼓。」とあり、賈公彦疏に、「是進軍之時擊鼓、退軍之時鳴鐃。」などと見える。

(引用・参考文献)
和泉市久保惣記念美術館2001. 『第三次久保惣コレクション─江口治郎コレクション─ 図版編』和泉市久保惣記念美術館、平成13年。
和泉市久保惣記念美術館2004. 『第三次久保惣コレクション─江口治郎コレクション─ 解説編』和泉市久保惣記念美術館、平成16年。
瀬間2024. 瀬間正之「欽明紀の編述」『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。
『中国音楽史図鑑』 劉東昇・袁荃猷編著、明木茂夫監修・翻訳『中国音楽史図鑑』科学出版社東京、2016年。
林1976. 林巳奈夫編『漢代の文物』京都大学人文科学研究所、昭和51年。
むしゃこうじ1973. むしゃこうじ・みのる「『日本書紀』のいくさがたり─「欽明紀」を例として─」『日本書紀研究 第七冊』塙書房、昭和48年。

加藤良平 2024.9.9初出

応神二十八年条の高句麗上表文について─「教」(ヲシフ)字を中心に─

 

 日本書紀に、高麗から朝貢の使節がやってきたが、そのときに持ってきた文書を読んで、菟道稚郎子は礼儀知らずと言って怒り、破り捨ててしまったという話が載る。
 はじめに問題とする日本書紀の箇所を示す。

 廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰、高麗王教日本國也。時太子菟道稚郎子讀其表、怒之責高麗之使、以表狀無禮、則破其表。(応神紀二十八年九月)

 これを古訓に従いながら次のように訓んでいる(注1)

 二十八年の秋九月ながつきに、高麗こまこきし使つかひまだして朝貢みつきたてまつる。りてふみたてまつれり。其の表にまをさく、「高麗の王、日本国やまとのくにをしふ」とまをす。時に太子ひつぎのみこ道稚郎子ぢのわきいらつこ、其の表を読みて、いかりて、高麗の使をむるに、表のかたちゐやきことを以てして、すなはち其の表をやりすつ。(応神紀二十八年九月)

 何が問題となるかというと、本当にそのようなことはあったのかということと、「教」という字をヲシフと訓むのが正しいのかということである。
 当時の東アジア情勢をかんがみた時、本当にそのようなことがあったのか疑問視されている。「五世紀前半の高句麗は好太王・長寿王父子の治政で、日本とは常に敵対関係にあり、日本に対する朝貢や上表の事実があったとは考えられない。」(大系本日本書紀215頁)、「五世紀前半のこととするならば、『三国史記』によれば、高句麗は広開土王(三九二~四一三)・長寿王(四一三~四九一)父子の治政で、日本への朝貢や上表は疑問。」(新編全集本日本書紀492頁)、「「教日本国」との表文が問題になったという話が中心記事であり、目的は太子菟道稚郎子の識見を称讃するにある。表文に日本国などとある筈がなく、高麗使の来朝も史実と見做し難い。撰者の造作と見る外はない。」(三品1962.253頁)などとある。
 撰者の造作であるとして、ならばどうしてそのような造作が行われているのかが次の課題として浮かび上がる。字が読めたら偉いのか、称讃に値することなのか。この応神紀の文章も、菟道稚郎子が上表文を読んで高麗の使者に無礼であると叱責して破り捨てたというだけである。称讃の話と捉えることはできない。
 そこで関わってくるのが、もうひとつの疑問、「教」をヲシフと訓むので正しいのかという点である。
 菟道稚郎子が上表文を読んでいることは疑い得ない。読んで意味がわかるということは、まずまず日本語として読んでいるということになる。本居宣長・漢字三音考に、「彼皇子ノサバカリ ク了達シタマヒテ。同御世ニ高麗国王ヨリ使ヲ奉遣マダセシ時ニ。其表ヲ読タマフニ。無礼ナル詞ノアリシニヨリテ。其使ヲセメタマヒシヿナドモ見エタレバ。当時ソノカミ既二此方ニテ読ベキ音モ訓モ定マレリシナリ。 シ音訓ナクバ。イカデカ ク読テ其表文ノ無礼ナルヲ弁へ リタマフバカリニハ了解サトリタマハム。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200002911/16?ln=ja)とある。どこが「無礼」なのかといえば、「高麗王教日本國也」としか書いてないから「教」字によるのだろうと思われている。
 伝本の「教」字付近には、熱田本、北野本、兼右本、内閣文庫本、徳久邇文庫本、寛文版本の傍訓に「ヲシフト云」とある。仮名日本紀、谷川士清・日本書紀通証、河村秀根・書紀集解もヲシフとしている。飯田武郷・日本書紀通釈では、別の箇所の古訓から「ノル」と訓むのがよいと述べている(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115832/1/321)。瀬間2001.は「ミコトノル」がよいとしている。瀬間氏は多方面から考察し、論拠を確かにしようと努めている。まず、中国周辺諸国での「教」字の意味合いについての検討があり、朝鮮半島やベトナムなどでは「詔」字は中国皇帝以外に認められていないから用いられておらず、それに代えて「教」字を使用していると考証する。次いで日本書紀での「教」字の例について調査している。そのなかに、ミコトノリ、ミコトという古訓が見られるから、当該応神紀二十八年条はミコトノルと訓むべきであろうと述べている(注2)
 瀬間氏は、述作者が「教」字の半島での使い方をよく知っていて、それをここに当て嵌めて詔勅を下している表現とし、そのことに菟道稚郎子が気づいたから「無礼」であると言っているのだとしているようである(注3)。高麗の王様が日本国に対して詔ることをしているとなると、高麗王は日本国をも支配しているということになり、国の面子を潰そうとしていることになるから親善外交とは言えないというわけである。
 とはいえ、そう訓んだところで完全には疑問は解消しない。高麗王は日本国に何とミコトノってきているのかわからない。王様が話をすることをヤマトコトバにミコトノルというだけのことではないのか。日本国の庶民はミコトノルことをしないが、天皇は妻子にひそひそ話をする場合もミコトノルと言っていて、日本書紀では中国皇帝が使うように平気で「詔」字を使っている。高麗王が喋りたいのであればいくらでもミコトノってくれてかまわないような気もするし、確実にミコトノルと訓ませたいのなら、「高麗王日本國也」と書けばいいだろう。日本書紀述作者は朝鮮半島での文字使用をよく心得ていたから「教」字を用いているのだと言えばそうなのだが、そんなことを言わんがために、当時、没交渉ともいえる高麗を持ち出している理由はどこにあるのだろうか。
 また、ヲシフという訓み方であっても、立場的に上位者が下位者に対してすることに当たる(注4)。白川1995.に、「ことに対処する方法を告げ知らせる。また誤りを正して指導し、あるいは知識や技芸を人に伝えることをいう。……いくらか強制の意を含むものであるから、「をさむ」との関係などが考えられよう。」(821頁)とある。たとえ知識や技芸の上だけであったとしても、そこに相手を見下している意識がないかといえばやはり存在する。そして、「教」字は「勅」や「詔」と互換可能であることを知っていて適用されたのだとも考えられはする。とはいえ、上下の分別を欠いているから菟道稚郎子は怒ったのだとしても、そんなことを言うために史実にないことをでっちあげ、フェイクニュースを流した動機は奈辺にあるのだろうか。

 

 漢字ばかりで書かれている日本書紀の巻第十に五十五文字紛れ込ませている。日本書紀述作者は何がしたいのか。
 高麗との外交文書記事には興味深いやりとりがある。敏達紀に、高麗からの外交文書を王辰爾だけが読み解いたという話が載っている。

 丙辰に、天皇、高麗こま表䟽ふみを執りたまひて、大臣に授けたまふ。諸のふひとを召しつどへて読み解かしむ。是の時に、諸の史、三日みかの内に皆読むこと能はず。爰に船史ふねのふひとおや王辰わうじん有りて、能く読み釈きつかへまつる。是に由りて、天皇と大臣と倶に為讃美めたまひて曰はく、「いそしきかな辰爾、きかな辰爾。いまし、若しまなぶことをこのまざらましかば、誰か能く読み解かまし。今より始めて、殿のうち近侍はべれ」とのたまふ。既にして、東西やまとかふちの諸の史に詔して曰はく、「汝等、習へるわざ、何故からざる。汝等おほしと雖も、辰爾にかず」とのたまふ。又、高麗のたてまつれる表䟽ふみ、烏のに書けり。、羽の黒きままに、既にひと無し。辰爾、乃ち羽をいひに蒸して、ねりきぬを以て羽にし、ことごとくに其の字を写す。朝庭みかどのうちふつくあやしがる。(敏達紀元年五月)

 この話が史実によるものかここでは問わない。文の前半は、高麗(高句麗)の表䟽を諸史に読み解かせたが三日経っても誰も読むことができず、船史の祖である王辰爾のみ能く読み釈いた。天皇と大臣はともに讃めて、お前が学ぶことをしていなかったら誰も読み解けなかっただろう、今後は殿中に近侍せよと言い、他方、東西の諸史に対しては、お前たちが習っているワザはどうして身についていないのか、多数いても王辰爾一人に負けているではないかと言っている。
 文の後半は、高句麗の表䟽は烏の羽に書いてあり、文字は羽の黒さにまぎれて識別できる者がいなかった。王辰爾は羽を飯炊きの蒸気にあてて布帛を羽に押し当て、ものの見事に写し取った。朝庭の人たちは皆あやしがった、と言っている(注5)
 これらの不思議な話は、高麗の表䟽ふみに関してのもので、同様の事象がすでに応神紀のふみの記事に示されているということらしい。敏達紀の表䟽は手紙であり、草書で書かれるのが大陸の習慣となっていた。楷書や隷書ばかりに慣れ親しんでいた東西諸史には判読できなかったが、王辰爾は読むことができた。草書を読むためにはその書き方の癖のようなものを知らないといけないから、王辰爾はすでに草書を目にしていた、あるいは隷書を自分で速書きしていたということだろう。王辰爾は「学」んでいたが、東西諸史は「習」うことしかしていなかったと日本書紀は語っている。両者の違いを表す示唆深い話をしている。この箇所でも大陸の表䟽ふみの手法を知っていて話が作られている。応神紀で大陸での「教」という字の使用法を知っていたというのと同様の作りになっている。
 烏の羽に字を書いたという記事と、この菟道稚郎子がゐや無しと思った記事とはモチーフとして通じるところがあるようである。史実としてではなく、述作者の話術としてである。
 烏の羽が持ち出されているのは、それが鳥だからと考えられる。書いてあるはずなのはフミである。ヤマトコトバに文字のことをフミという理由については、早く釈日本紀・巻第十六・秘訓一に解釈が載る。「○問。書字乃訓於不美フミ読。其由如何。○答。師説。昔新羅所上之表。其言詞太不敬。仍怒擲地而踏。自其後訓云不美フミ也。今案。蒼頡見鳥踏地而所往之跡文字不美フミ云訓依此而起歟。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/379)である。鳥の足跡説、踏むからフミであるという説が広まっていたとすれば、上書きして文字の読み取れない黒い対象物にふさわしいものとして烏の羽は捉えられたと考えられる。全身真っ黒なカラスを表すために「鳥」字から目を除くことで「烏」字を作ったとする説はよく知られている。
 何と書いてあるのかよくわからないとは、どう言っているのかよくわからないということである。「ひ」(ヒは甲類)がわかるために「いひ」(ヒは甲類)の気を用いて対処している。口にするもの、口にすることをイヒ(飯・言)と言っていて、両語は同根の語と考えられている。相手が「烏」なのだから「枯らす」ことが問題だと知って蒸気によって湿らせている。目には目を、歯には歯を、で知るところとなっている。そのワザは「写す」ことである。文字は書き写すことをもって伝えられるものであった。白川1995.は、「しやはもと寫に作り、べんせきとに従う。宀は廟屋、舃は儀礼のときに用いるくつでその象形字。〔説文〕七下に「物を置くなり」とし、形声とする。〔玉篇〕に「盡く」「除く」の訓がある。履をぬぐので除の訓があり、すべてものを他の器に移すことを寫という。」(154~155頁)と解説する。すなわち、写したら鳥の足の形そのものではないが、ゲソ痕がバレて犯人の名(「」)はわかるのである。
 説文はまた、「吐 寫なり。口に从ひ土声」ともする。吐瀉の意である。ヤマトコトバにハクである。shoes もなぜか知らないがハク(履)ものである。取調室で吐いた言葉が自供である。「いひ」と「ひ」とが同根であるように、口から出すもの、出すこととしてハクという語もこじつけて考えられたらしい。ハク(吐)とハク(履)とに通じるところがあるという意味である。ハク(吐)ことが「寫(写)」だと舶来の権威ある字書に定義されているのを参考にして、ハク(履)ものだと推定して行ったわけである。もたらされた「表䟽ふみ」は「高麗こま」からのものである。「高麗こま」は「こまこま)」と同音であったと考える。「こま」はうまの約である。「表䟽ふみ」は「み」と同音で関連づけられて思われていた(注6)。馬が足に履くものは馬の草鞋わらじである。草を編んで作る。したがって、コマのフミは草である。草書体で書かれていたことの裏が取れた。
 これらはヤマトコトバにおいてのみ理解可能な頓智、なぞなぞである。ヤマトコトバ的思考のなせるワザである。菟道稚郎子の時の上表についても同じように捻られていると予想される。

 

 「高麗王教日本國也」の「教」はミコトノリの意味ではあるが、そう訓んでは身も蓋もない。「教」はヲシフと訓んではじめてヤマトコトバとして意味が通じる。ヲシフとはどういうことか考え及んでいるのである。ヲシフのヲシはヲシカハ(韋)のヲシである。

 酒君さかのきみ、則ちをしかはあしをを其の足にけ、すずを以て其の尾に著けて、ただむきの上にゑて、天皇すめらみことたてまつる。(仁徳紀四十三年九月)
 韋 唐韻に云はく、韋〈音は闈、乎之賀波をしかは〉は柔皮なりといふ。(和名抄)
 滑革 ナメシ(運歩色葉集)
 Namexi.l,Namexigaua.ナメシ.または,ナメシガワ(鞣.または,鞣革) なめした革(日葡辞書)
 ……さなかづらの根を舂き、其の汁のなめを取りて、其の船の中のばしに塗り、むにたふるべく設けて、……(応神記)(注7)
 今、大倭国やまとのくに山辺郡やまのへのこほり額田邑ぬかたのむら熟皮高かはをしのこは、是其の後なり。(仁賢紀六年是歳)

 「熟皮をしかは」という名前に使われているヲシは動詞ヲス(なめらかにする)の連用形と思われている。応神紀の話では高麗は朝貢したことになっている。高麗からの献納品として有名なものに虎の毛皮がある。フ(斑)のあるヲシカハ(韋)のことが念頭にあってヲシフと器用に述作されている。
 生きている獣を捕獲し、解体処理して皮を取り、腐らないように加工する。付いている肉や毛をとってきれいにし、揉んだり乾かしをくり返し、脳漿に和えたりする方法がとられていた(注8)なめしの技法である。だからヲシカハ(韋)のことはナメシガハ(鞣革)とも、ただナメシ(滑)とも言う。刷毛に着いた液を皮に塗ることを、まるで唾液の着いた舌で(嘗)めるようなことだと譬え見なしたのかもしれない。そのナメシと同じ音に、ナメシ(無礼)という言葉がある。宣命の例にあるとおり、「無礼ゐやなし」は「なめし」とほぼ同じ意味である。今日でも「なめんなよ」と使っている。

 仮令たとひ後にみかどと立ちて在る人い、立ちの後にいましのために無礼ゐやなくして従はず、なめく在らむ人をば帝の位に置くことは得ずあれ。(仮令後在人、立乃多米仁无礼之天不従、奈米久乎方許止方不得。)(続紀・淳仁天皇・天平宝字八年十月、29詔)
 倭道やまとぢは 雲がくりたり 然れども わが振る袖を 無礼なめしとふな〔無礼登母布奈〕(万966)
 何の故か二つの国のこきしみづから来り集ひて天皇のみことのりを受けずして、なめく使をまだせる。(継体紀二十三年四月)

人工皮革で作ったスルメイカ

 高麗が「をしふ」と言ってきたことがナメシ(無礼)だとして菟道稚郎子は怒っている理由が明らかになった。もちろん、立場の上下を弁えていないことから正そうとしたものではあるが、それを「いかり」にして表すには及ばない。イカリとして表したのは、イカ(烏賊)がスルメイカとして朝廷に献上されていて菟道稚郎子も食べていたであろうからである。菟道稚郎子は太子であり、国を治める人として嘱望されていた。国をヲス(食)人が、食べるを意味する尊敬語、ヲスものとしてスルメイカはあった。スルメイカの様態はヲシカハ(韋)ととてもよく似ている。為政者の立場にある人が、朝貢とともに上表された文章のなかにヲシ(フ)とあったから、イカ(リ)を発するに至っている。
 ナメシ(韋、鞣、滑)の話になっているのには、上表を寄こしたのが高麗こまだからでもある。こまこま)をもたらした国であり、たくさんの馬が生産された。死ぬと皮はことごとく鞣されて活用された。馬とその使用法、ならびにその生産方法ばかりか、死後の活用法も同時に高麗から移入された(こととして理解されていた)。馬の脳を使って馬の皮を鞣した(注9)。ヤマトの人は言葉、いわゆる和訓を造る際、意味を重ね、塗り込め、抱え込むように工夫していた。それがヤマトコトバであった。奥深い知恵がヤマトコトバのなかに造形されていることについてよく心得つつ活用していたのである。それによって書き表された「高麗王教日本國也」の八文字は、簡にして要を得た端的な物言いで、上代語表現のミクロコスモスの感をなしている(注10)
 応神紀で「教」という字を用いたのは、大陸でのその文字の使用法を知りつつ、ヤマトコトバでヲシフという言葉が表す深い意味、頓智を深く理解していたからである。だから、イカリ(怒)の文脈で滞りなく披露している。敏達紀で、大陸で表䟽の書体が草書体であることを知りつつ、ヤマトコトバでイヒやハクという言葉が表す深い意味、頓智を披露していたのと同じである。日本書紀述作者はヤマトコトバに通暁した人たちであった(注11)

(注)
(注1)「王」はキミ、「曰」はイハク、「破」はヤブリツ、ヤブリスツなどとも読まれている。
(注2)日本書紀の他の例に見られる「教」字では、岩崎本平安後期点(10~11世紀)として、「(ウチ)ツノリ」(推古紀元年)、「(ホトケの)ミノリ」(推古紀三年五月)、「トホ(の)ミノリ」(推古紀十四年五月)、「所教ヲシヘ」(皇極紀元年七月)、「周孔之ノリ」(皇極紀三年正月)、前田本(11世紀写)に「脩教マツリコトセシム」(継体紀元年三月)、書陵部本(12世紀写)に「ヲシフ」(清寧前紀)、鴨脚本(嘉禎二年(1236)写)に「勅教ノ□フコト」(神代紀第九段一書第二)、兼方本(弘安九年(1286)写)・兼夏本(嘉元元年(1303)写)に「ウケタマハリミコトノリ(を)」(神代紀第六段本文)などと見える。
 なお、ミコトノリスの形の古訓が行われたことはあるが、ミコトノルと動詞に訓んだ例は見出されていない。
(注3)瀬間氏の論文では当初の問題提起、「菟道稚郎子は何故怒ったのか」から議論が逸れて行っていて、断言はされていない。
(注4)日本書紀通証や書紀集解は、「表」と「教」字について釈名を引いている。「下言於上  也。」、「教 倣也下所法倣一 スル也」とあり、ベクトルは反対ながら上下の関係にあることを示している。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1917894/1/20、https://dl.ndl.go.jp/pid/1157899/1/215参照。
(注5)以下のことは拙稿「烏の羽に書いた文字を読んだ王辰爾」参照。
(注6)フミはカミ(紙)が kan(簡)に i が付いてニがミに交替した形と同じく、フミ(文)は fun(文)に i が付いて交替したものと考えられている。そのばあい、ミは甲類である可能性が高い。
(注7)和名抄に、「㿃 釈名に云はく、痢の赤白を㿃〈音は帯、赤痢は知久曽ちくそ、白痢は奈女なめ〉と曰ふといふ。滞りて出で難きなるを言ふ。葛氏方に云はく、重下〈俗に之利於毛しりおもと云ふ〉は今の所謂、赤白痢なりといふ。下部をして疼き重からしむ故に以て之を名づくと言ふ。」とある。このナメは血を含まない下痢便を指している。皮を鞣すときに使う、馬・鹿・牛などの脳を一年ほど熟成させた脳漿とよく似ていて、白痢のことをナメと言って正しいと思われたと考えられる。
(注8)延喜式・内蔵寮の造皮功条に次のように記されている。

 牛の皮一張〈長さ六尺五寸、広さ五尺五寸〉、毛をおろすに一人、膚肉たなししを除すに一人、水にひた潤釈くたすに一人、さらし踏みやはらぐるに四人。皺文ひきはだを染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、かしの皮を採るに一人、麹・塩を合せちて染め造るに四人。
 鹿の皮一張〈長さ四尺五寸、広さ三尺〉、毛を除し、曝し涼すに一人、膚宍たなししを除し、浸し釈すに一人、削り曝し、なづきを和ちてり乾かすに一人半。
 くりに染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、焼き柔げ熏烟ふすぶるに一人、染め造るに二人。(原漢文)

 ヲシカハ(韋)の製造法とヲシフ(教)との間には、イメージに似通ったところがある。何かを教える時、そのまま現物を持ってくることは、持って来られるようなものであればそれが最善であるが、その場合、教え教えられの関係にあるのではなく、見て直感しているだけである。本邦に棲息しない虎を教えるのに、その毛皮を見せることで教えることは、教えることの本来の意味に当たるだろう。抽象的な概念でも、鞣しの方法のように、本質を抽出し、相手にわかるように揉みくだいでわからせるようにしている。どうしたらわかってもらえるか脳を使っていて、時にはアレンジを加えながら、どこへ行っても決して腐ることなく説明を続けている。言葉の普及活動は布教活動のようである。それがヲシフ(教)という言葉の眼目である。
(注9)厩牧令・官馬牛条に、「凡そ官の馬牛死なば、おのおの皮、なづき、角、れ。若しわう得ば、ことたてまつれ。」とある。
(注10)無文字時代のヤマトコトバの最大の特徴としてかねがね指摘しているところであるが、ひとつの言葉が当該言葉(音)をもって自己循環的に定義し直されながら、そのことにより言葉自体の正しさを証明しつつ言明が進行していっている。この応神紀の五十五文字からなる挿話では、一つの言葉のなかにある深い知恵について賢明で名高い菟道稚郎子に語らせていて、物語の精度をあげている。
(注11)ヤマトコトバのあり様、上代の人たちの言葉の使い方が問われなければならない。文字時代の今日の言語とは異なる使用法がとられていた。これまでの研究はその肝心な点を等閑視して進められており、得られる成果は限られている。

(引用・参考文献)
川村1953. 川村亮『皮のなめし方』天然社、昭和28年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2021. 瀬間正之「菟道幼稚郎子は何故怒ったのか─応神二十八年高句麗上表文の「教」字の用法を中心に─」『古事記年報』六十三、令和3年3月。(『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
三品1962. 三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証 上巻』吉川弘文館、昭和37年。(天山舎、平成14年。)

加藤良平 2024.9.16改稿初出

「家内に養ふ鶏の雄者を殺せ」(雄略紀)の真相

 雄略紀の朝鮮半島との関連記事に、これまでの解釈では意味の通じない記述がある。

 天皇すめらみことみくらゐかせたまひしより、としに至るまでに、新羅国しらきのくにそむいつはりて、苞苴みつきたてまつらざること、今までにとせなり。しかるを大きに中国みかどみこころおそりたてまつりて、よしみ高麗こまをさむ。是に由りて、高麗のこきし精兵ときいくさ一百ももたりりて新羅を守らしむ。
 しばらく有りて、高麗の軍士いくさびと一人、取仮あからしまに国に帰る。時に新羅人を以て典馬うまかひ〈典馬、此には于麻柯比うまかひと云ふ。〉とす。しかうしてひそかかたりて曰はく、「いましの国は、吾が国の為に破られむことひさに非じ」といふ。〈一本あるふみに云はく、汝が国、果して吾がくにに成ること久に非じといふ。〉其の典馬、聞きて、いつはりて其の腹をむまねにして、退まかりて在後おくれぬ。遂に国に逃げ入りて、其のかたらへるを説く。
 ここに新羅のこきしすなはち高麗のいつはまもることを知りて、使つかひつかはしてせて国人くにひとげてはく、「ひと家内いへのうちやしなとり雄者をとりころせ」といふ。国人、こころりて、ことごとく国内くにのうち高麗こまひところす。ここのこれる高麗こまひと一人有りて、ひまに乗りてまぬかるること得て、其の国に逃げ入りて、皆つぶさ為説ふ。高麗の王、即ち軍兵いくさおこして、……(雄略紀八年二月)

 新羅と高麗(高句麗)との間の攻防についての記述である。新羅は、倭が攻めてくるだろうと恐れ、高麗に精鋭部隊を派遣するように友好条約を結んだ。その時、一人の高麗兵が休暇をとって帰ることがあった。馬の世話をさせた新羅人とともに帰路についていたが、その兵士はいずれ高麗は新羅を滅ぼすだろうとひそひそ話をした。新羅の馬の世話人は、おなかの具合が悪いと言って列から遅れ離れて国へ帰ってその旨を説いた。情報は新羅王のもとに届き、王は高麗との間の条約は偽計であったと悟り、国中の人に対して国内にいる高麗人を殺そうと図った。そのときに用いた布告の言葉が三段落目にある「人殺家内所養鶏之雄者」である。その結果、「国人知意、尽殺国内所有高麗人」ということになった。それでも一人生き残った高麗人がいて、国へ帰って状況を話した。そこで高麗国は兵をあげ、全面戦争へとつながっている。
 話の肝となる部分が理解されていない。どうして「人殺家内所養鶏之雄者」という言葉が、高麗人一斉殺害の暗号として機能したのか。これまでに検討された見解を三つ示す。

 「水戸公所修史新羅伝曰悉人頭折風形如士人捕二鳥新羅諷告蓋指乎」(河村秀根ほか・書紀集解、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100258449/447?ln=ja)
 「「鶏之雄者」は高句麗の将兵を示唆した表現であることは明らかである。……高句麗人を「鶏之雄者」といったのは、……[軍人の]服飾や標識によったとも考えられる。……[また、]新羅では軍隊の単位をと呼んだ。幢は……「毛thŏrŏk, mo」、現訓は thŏr で、鷄の古訓 tork, tok, tak と通用する。……進駐中の高句麗軍に対して、「鶏の雄者」すなわち tork(鶏→幢・対盧)を謎々的に示唆したものと解し得るのである。話そのものが謎的であるから、むしろこの方の解釈が妥当しよう。」(三品2002.103頁)
 「[三品氏の]いずれの説を採るにせよ、「人殺家内所養鶏之雄者」の表現は、三韓の習俗、言語に精通していなければ為し得ない表現であることに違いない。とすれば、この記事は半島系の原資料に依拠した可能性が高い。」(瀬間2024.23頁)

 「人殺家内所養鶏之雄者」→「国人知意、尽殺国内所有高麗人」という流れである。「高麗人」が殺され、生き残った「高麗一人」が生還している。これは、「精兵一百人」のうちの「高麗軍士一人」が休暇で帰り、残りの九十九人を殺そうと謀ったが、九十八人は殺したものの一人は生還したということなのだろうか。そうではなく、新羅国王は、民間人を含めて国中にいる「高麗人」を一掃しようとしたということではないのか。三品氏の前提は誤っていると考える(注1)
 そもそも、朝鮮半島記事だからといって、ヤマトの末裔である日本人がよくわからないのは仕方がないと考えるのは間違いである。なぜなら、日本書紀は、対外的に流布させようと企図して作られたものではなく、ヤマトの人が理解できるように書かれた書物だからである。自己満足の史書であると言っても過言ではない。読者として想定されているヤマトの人がわかるように暗号文を創作しているはずなのである。朝鮮半島の風習や言語に依拠していてよくわからないというのでは話にならない(注2)
 ヤマトコトバで考えた時、雄鳥の訓みのヲトリとは囮(媒鳥)のこと、すなわち、ヲキ(招)+トリ(鳥)の約であるとされている。鳥をもって鳥を捕まえる猟法である。いざ高麗との間で戦争になれば、派兵されている高麗の精鋭部隊だけでなく新羅国内の親高麗派の人たちも呼応蜂起して混乱に陥れ、新羅は敗れることになるだろうというのである(注3)。国家存続の危機感をいだいて新羅王はお触れを出している。
 「所養鶏」の部分、「やしなふ鶏」と訓まれている。ヤシナフは、やすに複語尾のナフが付いた形で、す~うしなふ、ふ~まひなふ、ぐ~ねぎらふ、と同様の語形変化であるとする説がある。幼児を育て養うことはヒダスといい、また、ハグクムという。ヤシナフは生活全般に及ぶ語で語義が広いとされている(注4)。問題は、鶏を飼うことをヤシナフと言っていることにある。聞いただけで何か変だなと気づくことであろう。「所飼鶏」ではなく「所養鶏」と明示してある。
 鶏はヤシナフという言葉で表されるような対象なのか。家畜として動物を飼う場合、ウカヒ(鵜飼)、タカカヒ(鷹飼)、ウマカヒ(馬飼)などといい、また、コ(蚕)を飼うからカヒコ(蚕)という(注5)。ヤシナフトリとは豪勢なことである。
 鶏の雌鳥は卵を産むから大事にされた。民家の内に鶏を飼う場合、一羽飼うのなら、昼間は家の外へ出していても夜はイタチなどに襲われかねないから家へ入れ、高い止り木に掴まらせて身の安全を確保した。その場合、飼っているのは雌鳥で卵を取っていた。記事では「雄者」と指定されているから数多く飼育していたことになる。多数鶏がいれば、人との同居は収拾がつかなく困難だから別にヤカ(宅、舎)を設け鶏舎で飼ったと思われる(注6)。一部は孵らせて雛鳥として育てて大きくし、雌鶏ならばさらに卵を取ろうと目論む。求められているのはもっぱら雌鶏である。飼育され続けている「雄者」、つまり雄鶏は何をしているのか。卵を取るためでも若鶏の肉を取るためでもなく、動物として本来の寿命、すなわち、繁殖のため、受精のために生かされている。雄鶏一羽で雌鶏五羽の相手ができるそうである。自然界と同じ営みである。ただし、鶏は家畜化された鳥類であり、人間のもとでのみ生を永らえている。しかも雄鶏は、去勢された畜牛馬のように人間のために使役されることもない。それをヤシナフトリと呼んでいる。われているのではなくやしなわれていると言えるのである。
 ヤシナフトリとしての雄鶏は何不自由なく暮らしている。止り木にとまってコケコッコーと鳴き叫んだり、けたたましくせわしなく動き回っている。止り木を備えた鳥小屋が与えられ、その小屋は騒がしく揺れんばかりである。ヤ(屋、舎)+シナフ(撓)ほどなのである。中にいるとりは、をどりでも踊っているように見える。踊るとは、足で弾みをつけてジャンプするような動きをいう。歩きながら小刻みに上体、顔を上下に、また前後に動かしている。足踏みして跳躍する動きをしている(注7)
 飼育動物のなかでそのような動きをするものとしては馬があげられる。馬が驚いて跳びあがるさまは踊っているように見える。単発的な跳躍だけでなく、継続的な跳躍も馬はする。細かな足さばきをしながら軽く走る軽速歩である。この軽速歩を操るためには、騎乗者は馬上で立ったり座ったりして上下の反動を抜く乗り方をする。騎乗者が立ったり座ったりするというのは、立つのはあぶみに着けた足を踏ん張ること、座るのはそれを緩めて鞍に座ることである。馬が踊っているとともに騎乗する人も踊っている。それを細かくくり返す。だから、踊りをする雄鶏とは、馬のことをいうこまのこと、また騎乗している精兵、軍士のことを言っていて、つまりは高麗こまのことを指しているとわかる。植民者として高麗人はすでに存在していた。
 高麗の野心が伺い知れたのも、出張中の高麗精鋭が新羅で雇った典馬うまかひが送っていった時に聞きつけたからであった。馬を飼うこととは、ただその馬に食事を与えたり洗ってあげたりするメンテナンスに限らず、交尾させて繁殖させることも含まれる。馬が年を取って死んでしまったら、典馬は馬飼いではなくなってしまう。産まれてきた仔馬のことは特にこまとも呼ぶ。典馬が高麗軍から聞き出した秘密は信憑性が高いとわかるのである。
 典馬になった新羅人は高麗兵が連れてきた馬の世話をしていただけだと思っていたが、高麗が考えていたのは新羅で高麗こま人を繁殖させて「うまはる」(注8)ことなのだと悟ったのである。駒(仔馬)が来て、牡馬と牝馬に育てば繁殖して数が増える。そこらじゅう駒だらけになって、つまりは高麗人だらけに陥り新羅は滅亡する。そういうシナリオを描いて精鋭部隊まで駐屯させている。上げ膳据え膳で養っていては大変なことになる。高麗の陽動作戦に引っ掛かったら国は傾くということである。だから、「家内いへのうちやしなとり雄者をとりころせ」と命じて、皆、殺すようにと言っている。それぞれの家は人間(新羅人)の家よりも鶏舎を大事にしていてはいけない、本末転倒になると警鐘を鳴らしている。

(注)
(注1)高麗から民間人は来ていなかったとする考え方もなくはないが、国境に壁が作られていたわけでもパスポートやビザの制度があったわけでもない。
(注2)三品氏や瀬間氏は朝鮮半島の習俗、言語によった表現であるとし、半島系の原資料に依った表現であると考えているが、そのような資料は見出せていない。
(注3)現今の世界情勢を鑑みても、親ロシア派が住む地域はロシアの占領下に入って行っている。在留ロシア人の保護のために戦うというのがロシア側の言い分である。
(注4)白川1995.766頁。
(注5)「養」字でカフと訓む例もあるが、雄略紀のこの部分、書陵部本、前田本、熱田本ともヤシナフと訓んでいる。
(注6)鶏の飼い方は、宮崎安貞・農業全書に記されている。

  にはとり第二
 には鳥は人家に必ずなくて叶はぬ物なり。鶏犬の二色は田舎に殊に畜ひ置くべし。……
 多く畜はんとする者は、広き園の中にきびしくかき[垣]をし廻し、狐狸犬猫の入らざる様に堅く作り、戸口を小さくしたる小屋を作り、其中にとやを数多く作りて、高下それぞれの心に叶ふべし。尤わらあくたを多く入れ置きて、巣に作らすべし。さて園の一方に粟黍稗を粥に煮てちらし置き、草を多くおほ[覆]へば、やがて虫多くわき出づるを餌とすべし。是時分によりて三日も過ぎずして虫となる。其虫を喰尽すべき時分に、又一方かくのごとく、年中絶えず此餌にて養へば、鶏肥へて卵を多くうむ物なり。園の中を二つにしきりをくべし。又雑穀のしいら[しひな]、其外人牛馬の食物ともならざる物を多く貯へて、[喰]み物常に乏しからざる様にすべし。卵も雛も繁昌する事限なし。甚だ利を得る物なれども、屋敷の広き余地なくては、多く畜ふ事なり難し。凡雄鳥二つ雌鳥四つ五つ程畜ふを中分とすべし。春夏かいわりて廿日程の間はひな[雛]巣を出でざる物なり。飯をかはかして入れ、水をも入れて飼ひ立つべし。
 甚だ多く畜ひ立つるは、人ばかりにては夜昼共に守る事なり難く、狐猫のふせぎならざる故、能よき犬を畜ひ置きてならはし守らすべし(但しかやうにはいへども、農人の家に鶏を多く飼へば、穀物を費し妨げ多し。つねのもの是をわざ[業]としてもすぐしがたし。しかれば多くかふ事は其人の才覚によるべし)。(325〜326頁、漢字の旧字体は改めた)

(注7)踊るように見えない雄鶏は元気がないから繁殖用に適さない。
(注8)雄略紀には次のような用例がある。

 是に高麗こま諸将もろもろのいくさのきみこにきしまをしてまをさく、「百済くだら心許こころばへ非常おもひのほかにあやし。やつこ、見るごとに、おもほえず自づからにまとふ。恐るらくは、また蔓生うまはりなむか。こひねがはくは、逐除おひはらはむ」とまをす。(雄略紀二十年冬)

 高麗は百済を滅ぼしたが、残党は飢えに苦しみながらもそのままでいた。これを許してその地に留めたら再興しようとするに違いないから、この期に一掃してしまってはどうかと進言している。地盤があるところに居続けたら次の選挙の時どうなるかというのと同じである。どぶ板活動をして支持者を増やしていく。それを「蔓生うまはる」という言葉で表している。高麗こまの諸将は駒が増えていくこととはウマハルことなのだと自覚、認識していたということである。

(引用・参考文献)
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
瀬間2024. 瀬間正之「雄略紀朝鮮半島記事の編述」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝承』雄山閣、令和6年。
三品2002. 三品彰英『日本書紀朝鮮関連記事考證 下巻』天山舎、2002年。
宮崎安貞・農業全書 宮崎安貞編録、貝原楽軒刪補、土屋喬雄校訂『農業全書』岩波書店(岩波文庫)、昭和11年。

加藤良平 2025.2.3初出

飛騨の匠について─日本紀竟宴和歌の理解を中心に─

 日本書紀は講書が行われ、竟宴和歌が作られている。ここにあげる葛井清鑒の歌は、天慶度(天慶六年(943))の作である。左注は院政期に付けられたものと考えられている。講書で教授された日本書紀の該当箇所は雄略紀十二年十月条である。併せて掲げる。

  秦酒はたのさけのきみを得たり〔得秦酒公〕
               外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〔外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〕
 琴のの あはれなればや 天皇君すめらきみ 飛騨のたくみの 罪をゆるせる〔己止能祢濃阿波麗那礼波夜数梅羅機㳽飛多能多久美濃都美烏喩留勢流〕(竟宴歌謡50)(注1)
 わかたけの天皇すめらみこと、飛騨の匠御田みたおほせて、楼閣たかどのを作らしめ給ふに、御田、楼閣に登りてく走ること、飛ぶが如し。これを、伊勢の采女、あやしみ見るほどに、庭にたふれて、ささげたる饌物みけつものこぼしつ。天皇すめら、采女を御田がおかせるかと疑ひて、殺さんとする時に、酒公さけのきみ、琴をきて、そのこゑを天皇に悟らしめて、罪を赦さしめたり。(日本紀竟宴和歌)
 冬十月の癸酉の朔にして壬午に、天皇すめらみこと木工こだくみげの御田みた一本あるふみ猪名いなべの御田みたと云ふは、けだあやまりなり。〉にみことおほせて、始めて楼閣たかどのつくりたまふ。是に、御田、たかどのに登りて、四面よも疾走はしること、飛びくがごときこと有り。時に伊勢の采女うねめ有りて、楼の上をあふぎてて、く行くことをあやしびて、庭に顛仆たふれて、ささげらるるみけつもの〈饌は、御膳之物みけつものなり。〉をこぼしつ。天皇、便たちまちに御田を、其の采女ををかせりと疑ひて、ころさむと自念おもほして、物部もののべたまふ。時に秦酒はたのさけのきみおもとはべり。琴のこゑを以て、天皇に悟らしめむとおもふ。琴をよこたへて弾きて曰はく、
  神風かむかぜの 伊勢の 伊勢の野の さかを 五百経いほふきて が尽くるまでに 大君に 堅く つかまつらむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠たくみはや あたら工匠はや(紀78)
 是に、天皇、琴の声を悟りたまひて、其の罪をゆるしたまふ。(雄略紀十二年十月)

 雄略紀にある「闘鶏御田」がいつの間にか「飛騨の匠」であることになっている。不審であるというので、「[竟宴]和歌は『日本書紀』の内容を読み替えて歌われ、その解釈は同時期に実在する飛騨工とリンクしながらも、一方で実在から離れたイメージ(解釈)としての飛騨の匠を生み出していっているともいえる。」(水口2024.118頁)と認識されるに至っている。その分析では、「御田」=「飛騨の匠」という概念は、日本書紀講書の初期の段階から解されており、院政期に作成されたと思われる左注も疑いを抱いておらず、受け継がれていたことがわかるという。
 飛騨の匠(「飛騨工」)は律令制のもとで実在している。

 凡そ陁国だのくには、庸調俱にゆるせ。里毎さとごとに匠丁十人てむせよ。〈四丁毎に、廝丁かしはで一人給へ。〉一年に一たび替へよ。余丁よちやう米をいだして、匠丁しやうちやうじきに充てよ。〈正丁しやうちやうに六斗、次丁しちやうに三斗、中男ちうなむに一斗五升。〉(賦役令)

 実態としては、「徴発された匠丁は、木工寮、造宮省、修理職などに配属され、一日に米二升を支給さて作業に従事したが、その労働条件は苛酷であったらしく、逃亡する匠丁も多く、またその技術のためか匠丁をかくまう者もあり、しばしばその禁令が出された。仕丁の制度の一変型とみられ、飛驒国が都に比較的近く、山林が多いので特に木工の供給地とされたらしい。」(国史大辞典936頁、この項、中村順昭)という(注2)
 しかし、「[賦役令の]この条のように一国のみを対象とした規定は律令のなかでも特異なものである。」(思想大系本律令593頁)と奇異に見るのが大勢である。竟宴和歌で「闘鶏御田」=「飛騨の匠」と同義とされて何の疑いも入れていないことも疑問である。どうしてそういう人がいるのか、どこから生まれてきた考え方なのか。その謎を解いて当時の人たちの考え方に迫ろうとするのでなければ、賦役令も竟宴和歌も理解したことにはならない。古代の人たちの心性に近づいていないからである。飛騨国に限らずとも大工や木工職人などは必ずいる。どうして飛騨の匠は特別扱いされて造宮や修理に重用されていたのか、それが問題である。
 タクミ(匠、工)の例としては次のような記事がある。

 是歳、百済国より化来おのづからにまうくる者有り。其の面身おもてむくろ、皆斑白まだらなり。しくは白癩しらはた有る者か。其の人になることをにくみて、海中わたなかの嶋にてむとす。然るに其の人の曰はく、「若しやつかれまだらはだを悪みたまはば、しろまだらなる牛馬をば、国の中にふべからず。また臣、いささかなるかど有り。能く山丘やまかたく。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為にくほさ有りなむ。何ぞむなしく海の嶋に棄つるや」といふ。是に其のことばを聴きて棄てず。仍りて弥山みのやまの形及び呉橋くれはし南庭おほばに構かしむ。時の人、其の人をなづけて、路子みちこのたくみと曰ふ。亦の名は芝耆摩呂しきまろ。(推古紀二十年是歳)

 「芝耆摩呂しきまろ」という名はおそらく石畳を敷くことと関係させたもので、「路子工みちこのたくみ」は道路舗装職人の謂いであろう。この渡来人は、近世に城造りにたけた穴太衆のように、石材の加工に優れた石垣職人であったろう。
 この逸話は有間皇子事件のときに振り返られている。塩屋しほやの鯯魚このしろという家来が助命嘆願するのに、「願はくは右手みぎのてをして、国の宝器たからものを作らしめよ」(斉明紀四年十一月)と小理屈を述べている(注3)。右(ミ・ギの甲乙は不明)を指す言葉には、ヒダリ(左、ヒは甲類)に形を合わせたミギリという言い方がある。ここでは、みぎり(ミ・ギは甲類)と関係させて言っているものと推測される。古語では、軒下の石畳や敷瓦(磚)を敷いたところ、また、水限みぎり(ミ・ギは甲類)の意もあって、境界にあたるところをいう。説文に「砌 階の甃なり。石に从ひ切声、千計切」とある。和名抄には、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階の字を波之はし、一訓に之奈しな〉は堂に登る級なりといふ。兼名苑に云はく、砌は一名に階〈砌の音は細、訓は美岐利みぎり〉といふ。」とある。境のところにある瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段のこと、推古紀にある「呉橋」はそれに相当するものではないか。また、「須弥山」は、仏教の世界観において世界の中心にそびえる高い山のことをいう。それを形象化して像として飛鳥の地に置いている。

 辛丑に、弥山みのやまかたを飛鳥寺の西に作る。また盂蘭瓫会うらんぼんのをがみまうく。ゆふへ貨邏人くわらのひとへたまふ。(斉明紀三年七月)
 甲午に、甘檮丘あまかしのをかひむかし川上かはらに、須弥山を造りて、陸奥みちのくこしとの蝦夷えみしに饗へたまふ。(斉明紀五年三月)
 又、石上いそのかみのいけほとりに須弥山を作る。高さ廟塔めうたふの如し。以て粛慎みしはせ四十七人に饗へたまふ。(斉明紀六年五月是月)

 斉明朝は土木・水利事業が推められた時代であった。石造の噴水も作られており、亀の形をした水の流れ出る祭祀遺跡も出土している。技術的要請として、生活用水、農業用水の適切な給排水を求めていたという時代背景が考えられる。

左:埤湿ふけの田(深田)の排水方法(大蔵永常・農具便利論、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2556765/1/34をトリミング)、右:狭山池東樋(飛鳥時代、大阪府立狭山池博物館展示パネル)

 そんな時、ヒダ(ヒは乙類)のタクミという音を聞けば、ヒ(樋)+タ(田)なる巧妙な仕掛けを作った人たちなのだと理解されよう。水田に用水を取排水するのに、それぞれの田の水位が一定になるように、樋(楲)が設けられているということである。溜池による用水の確保や、沖積平野への展開が進んでいったのがヤマトコトバの爛熟期、古墳時代から飛鳥時代に当たる。土木技術を駆使した灌漑、排水装置を伴った田が運営されて行っていた。「味張あぢはり忽然たちまち悋惜をしみて、勅使みかどのつかひ欺誑あざむきてまをさく、「此の田は、天旱ひでりするにみづまかせ難く、水潦いさらみづするにみ易し」とまをす。」(安閑紀元年七月)などと記述されている。溜池の底樋のつくりなどには確かな水密性が求められ、渡来人等によって伝えられた高度な技術の賜物と言えよう。そのための巧みな工作技術を担ったはずなのがヒダの匠ということになり、飛騨人というだけで重んじられた。実際にどのような形のヒ(樋)が行われていたか、必ずしも全体像がわかっているわけではないが、ヒ(樋)+タ(田)と呼ぶのに遜色ないものと思われる(注4)

 五年の夏六月に、人をしていけに伏せ入らしむ。に流れ出づるを、みつほこを持ちて、刺し殺すをたのしびとす。(武烈紀五年六月)

 水量を計測的に保って流す仕掛けとしては、都の人の周知するところとなっている。中大兄(天智天皇)が作ったこくである。

 又、皇太子ひつぎのみこ、初めてこくを造る。おほみたからをして時を知らしむ。(斉明紀六年五月是月)
 夏四月の丁卯の朔にして辛卯に、こくあらたしきうてなに置く。始めて候時ときを打つ。かねつづみとどろかす。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇すめらみことの、皇太子ひつぎのみこまします時に、始めてみづか製造つくれるぞと、云々しかしかいふ。(天智紀十年四月)

 漏刻(漏剋)は水の流れを正確に測って時間を告げている。きちんと水をげた時に、確かな時をげることができている。
 ここに、ツゲノミタ(闘鶏御田)という人は、漏刻(漏剋)のように正確に水流を測って流すことができる樋(楲)を造作していたということになる。言葉としてそう認識され、「名に負ふ」人として活躍していたと考えられるのである。時を告げるに値するように、田のなかでも天皇のための田、御田の生育をきちんと管理できるような導排水の仕組みを拵えたというのである。ツゲ(黄楊)の木は狂いが生じにくく、櫛のような細工物に多く用いられている。細密な木工である。
 つまり、並みいる諸国の匠のなかでもヒダの名を冠する飛騨の匠こそ、精密な樋を作るのに長けた匠であるということになる。これは、ヤマトコトバを常用しているヤマトの人たちにとって、通念であり、常識とされた。ことことであると認めていた人たちにとっては、言葉が証明していることになっている。飛騨の匠について日本書紀に書いてないのに講書の竟宴和歌に登場しているのは、日本書紀の精神、すなわち、ヤマトコトバの精神を汲んでいるからである。竟宴和歌に歌われて違和を唱えられずに伝えられていることから翻って考えれば、日本書紀はヤマトコトバで書かれていることの紛れもない証明となっている(注5)。漢籍に字面を求める出典論は日本書紀研究の補足でしかない。

(注)
(注1)梅村2010.は、「琴の音色が素晴らしかったからであろうか、天皇が飛騨の匠の罪を許したのは。」(214頁)と訳している。「あはれなればや」の「や」は反語を表す。天皇が飛騨の匠の罪を許したのは、琴の音色が素晴らしかったからであろうか、いやいやそうではない、の意である。
(注2)水口2024.は、飛騨工ひだのたくみについて次のように位置づけている。すなわち、大宝令以降に定められたものであり、藤原宮の造営のように木工に対する需要が高まってきたことと関係がある。そして、木工寮は木作採材を司る宮内省被官の官司、また、八世紀初頭から史料に現れる造宮省(職)は、 宮城の造営を司る令外官であり、平城宮・平安宮などの造宮には大いに活動した。奈良朝から散見する修理職は弘仁期から常置され、宮殿の修理造作に従う令外官であった。飛騨工は、律令制定時ぐらいから造宮に携わり、奈良〜平安前半(少なくとも九世紀段階)の間、飛騨工は造宮(修理)に当たる者であるという認識があった。
(注3)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」参照。
(注4)日本書紀や万葉集のなかで飛騨に関する記述としては次のようなものがある。筆者は、仁徳紀六十五年条の異様な人物は、飛鳥の石神遺跡出土の石人像の噴水の形とよく似ていると思う。

 六十五年に、騨国だのくに一人ひとりのひと有り。宿すくと曰ふ。其れ為人ひととなりむくろひとつにしてふたつかほ有り。面おのおのあひそむけり。いただき合ひてうなじ無し。各あし有り。其れひざ有りてよほろくびす無し。力さはにしてかろし。ひだりみぎつるぎきて、よつの手にならびに弓矢をつかふ。是を以て、皇命みことに随はず。人民おほみたから掠略かすみてたのしびとす。是に、珥臣にのおみおや難波なにはの根子ねこ武振熊たけふるくまつかはしてころさしむ。(仁徳紀六十五年)
 又みことのりしてのたまはく、「新羅しらきの沙門ほふし行心かうじむ皇子みこ大津謀反みかどかたぶけむとするにくみせれども、われ加法つみするにしのびず。飛騨国の伽藍てらうつせ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)
 冬十月の辛亥の朔にして庚午に、進大しんだいを以て、白き蝙蝠かはぼりたるひと飛騨国の荒城あらきのこほりのひと弟国部弟おとくにべのおとに賜ふ。あはせふとぎぬむら・綿もぢ・布むらを賜ふ。其の課役えつきは、身を限りてことごとくゆるす。(持統紀八年十月)
 白真弓しらまゆみ 斐太ひだほその〔斐太乃細江之〕 菅鳥すがとりの 妹に恋ふれか かねつる(万3092)
  黒き色を嗤笑わらふ歌一首
 ぬばたまの 斐太ひだ大黒おほぐろ〔斐太乃大黒〕 見るごとに 巨勢こせぐろし 思ほゆるかも(万3844)
 斐太ひだひとの〔斐太人之〕 真木まき流すといふ 丹生にふの川 ことかよへど 船そ通はぬ(万1173)
 かにかくに 物は思はじ 斐太人の〔斐太人乃〕 打つ墨縄すみなはの ただ一道ひとみちに(万2648)

 語呂合わせの地口にヒダノタクミと言っているに過ぎないから、高度な技術を持っていたかは不明であり、ちょっとした水口用の細工だけでもかまわない。それまでの掛け流し灌漑と違う方法で、畦畔に樋口をつけるだけであっても一枚の田が崩壊せずに済むことは、場所によってはとてもすばらしい新技術であったろう。
(注5)上代、人の名は、名に負う存在だからその体現に努めたとされるが、その名とは呼ばれるものであった。戸籍があって誕生と同時に命名されるものではなく、人にそう呼ばれることで名を体した。今日いう綽名に近いものである。そういうことだからそういうことにし、そういうことだからそういうこととして暮らしていた。文字を持たない文化は、言事一致、言行一致を求めることで確からしい全体状況に落ち着くことができた。その前提が崩れたら、無文字社会はカオスに陥ってしまう。

(引用・参考文献)
梅村2010. 梅村玲美『日本紀竟宴和歌─日本語史の資料として─』風間書房、2010年。
工楽1991. 工楽善通『水田の考古学』東京大学出版会、1991年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、平成2年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1976年。
西崎1994. 西崎亨『本妙寺本日本紀竟宴和歌 本文・索引・研究』翰林書房、平成6年。
日本紀竟宴和歌・下 藤原国経ほか『日本紀竟宴和歌 下』古典保存会、昭和15年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1115791
水口2024. 水口幹記「日本書紀講書と竟宴和歌─「飛騨の匠」の形成と流布─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。

加藤良平 2024.11.14初出

世の常に 聞くは苦しき 呼子鳥(万1447)

  大伴坂上郎女おほとものさかのうへのいらつめの歌一首〔大伴坂上郎女謌一首〕
 世のつねに 聞くは苦しき よぶどり 声なつかしき 時にはなりぬ〔尋常聞者苦寸喚子鳥音奈都炊時庭成奴〕(万1447)
  右の一首は、天平四年三月一日に佐保のいへにして作れり。〔右一首天平四年三月一日佐保宅作〕
 世間よのなかの つね道理ことわり くさまに なりにけらし ゑし種子たねから(万3761)

 万1447番歌の場合、題詞で作者のこと、左注で詠まれた日と場所が明記されている。特に日時が指定されていることは珍しいことである。三月一日とは、一月から三月を春と決めていた令制において、「孟春はじめのはる」、「仲春なかのはる」、「季春すゑのはる」の別のうちの「季春すゑのはる」の最初の日に当たる。スヱという言葉の語義は、漢字で書いた時、「末」、「陶」、「須恵」、「据」に限られる(注4)。万3761番歌にもこのスヱという言葉が見え、世の常のこと、ものごとの道理のことは、スヱという言葉で言い表す対象であると考えられていたようである。時間が経って、スヱ(末)となっても世の常の道理は変わらないからであろう。万1447番歌の場合、時間が経ってスヱ(季)の春になったら状況が一転したと言っている。その機知を歌に詠んでいる。
 動詞「据う」を用いた万葉歌に、次のような例がある。

 大君おほきみの さかひたまふと 山守やまもり据ゑ るといふ山に 入らずはまじ(万950)
 かたの 鷹を手に据ゑ 三島野に 狩らぬ日まねく 月そにける(万4012)

 「据う」という言葉は、ものごとを根を下ろさせるようにしっかりとその場に置きつけること、人間を含めた生き物をそれにふさわしい位置に置くことをいう。三月一日、スヱの春になったのであらためて据え置いてみた。何をどこに据え置いたか。ス(巣)にヱ(餌)を置いたのである。巣に餌を運んで育てることは鳥として当たり前のこと、世の常のことである。それまで世の常のこととして嫌な鳴き声をあげて鳴いていた呼子鳥がいたのだが、この時、呼子鳥はすでに巣立ってしまっていたというのだろう。親鳥は呼子鳥がいなくなっているので、その声が懐かしいと思っている。
 呼子鳥については、万葉集中での用法としては、呼んでも答えてくれないのになお呼び続ける鳥として片恋の苦しさを表すことがある(注5)。ただし、それがすべてではない。実際の鳥類の何に当たるのかについては諸説あるが、カッコウではないかとする説が有力である。カッコウは生態として特徴的なところがある。托卵である。別の鳥の巣に卵を産んで育ててもらうのである。カッコウは大きくなる鳥だから、体の小さな代理の親鳥が体の大きなカッコウの雛に給餌することになる。はたから見ていれば実に滑稽である。大きさからしてみれば、どちらが親でどちらが子なのかわからないことになっている。そこでヨブコドリ(呼子鳥)と洒落た命名をしたらしい。呼子鳥という名は、巣にいる体の大きなカッコウが、その子のような体の小さな鳥を呼んでいるような変なことだというわけである。巣のなかで餌をねだる声が汚く聞こえるというよりも、托卵は詐欺行為であり、それが進行してなお騙し続けていて、大きな体をしているのに小さな鳥に餌を運ばせているところが「聞くは苦しき」存在なのである。

自分より大きなカッコウの雛に餌を与えるオオヨシキリ(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/托卵、Per Harald Olsen氏撮影)

 三月一日、スヱの春になると、今までどおり甲斐甲斐しく偽られたままに自分の子だと思っていたカッコウのもとへ、巣に餌を運んできた代理親鳥は、自分の子だと思っていた鳥が、飛び方も教えぬまま突然いなくなってしまっていたため育児ロスに陥っている。この時、親鳥はすべてを悟ることになる。自分とは比べ物にならないほど大きくなっているのに餌をねだっていた。変だなあと思ってはいた。そうか、あれは自分の子ではなく、カッコウだったのだ。自分の実の子、産んだ卵は巣から蹴落とされて死んでしまった。いまいましいことである。とはいえ、育てたことには違いがなく、あれほど大きくなるまで手がかかったことを思えばかえって情が湧くのも当然のことである。道理としてこのようになるものだというのが言い方として通例である。万3761番歌では「くさまに なりにけらし」と言っている。
 このようにあるのは尤もなことだと言っている。斯くある、は、上代語でラ変動詞カカリといった。似た言葉に、かかっている、よりかかる、関係がある、という意味の四段動詞カカル(懸)があり、形容詞カカラハシという語に派生している。

 初めより 長く言ひつつ 頼めずは かる思ひに はましものか(万620)
 要仮たとひ縄にかかるとも、進みありくことあたはず。(顕宗紀二年九月)
 …… 世の中は くぞ道理ことわり 黐鳥もちどりの かからはしもよ ゆく知らねば ……(万800)

 第三例のように、世の常としての道理を説くのに、カク(斯)と一緒にカカラハシという言葉を使うのは、高度に修辞的な用法と言えるだろう。
 万1447番歌の場合も、いた時には「聞くは苦しき」といい、いなくなったら「声なつかしき」と言っていて、呼子鳥の鳴き声のことに注意が向いている。呼子鳥はどのように鳴いたか。おそらく、その鳴き声をカカと聞きなしていたのであろう。古代には、鳥の鳴き声として「かか鳴く」とする例が見られる。そう捉えれば、カカリ(斯有)、カカル(懸)と音が通じ、言葉の使用のすべてにおいて理にかなった修辞となっていることになる。

 つく波嶺はねに かか鳴く鷲の のみをか 泣き渡りなむ 逢ふとはなしに(万3390)
 嚇 唐韻に云はく、鳴〈音は名、奈久なく〉は鳥の啼くなり、囀〈音は転、佐閉都流さへづる〉は鳥のうたふなりといふ。文選蕪城賦に寒鴟嚇鶵と云ふ。〈嚇の音は呼格反、師説に賀々奈久かかなく〉(和名抄)
 世のつねに 聞くは苦しき よぶどり 声なつかしき 時にはなりぬ(万1447)

 世の常のこととして、托卵して育てられている体の大きくなったカッコウの雛の鳴く声を聞くと、あんまりだと苦しい思いがするものだが、日時は三月一日となり、春も末の時季を迎えて雛は勝手に巣立って行ってしまった。きっと親鳥はス(巣)にヱ(餌)を運んできて、ほらお食べと上げ膳据え膳をしていることだろうが、いつの間にかいなくなっていて、切なくなつかしく思っていることだろう(注6)
 左注に、制作場所として「佐保のいへ」があげられている。万葉集で「佐保」は、サ(接頭語)+ホ(百)の意からか、チ(千)+ドリ(鳥)と関連させて同じ歌に使われること九例にのぼる。すなわち、作者、坂上郎女は、作歌の場所から呼子鳥を育てた親鳥は千鳥と総称される小さな鳥であったという構想を得ていたらしく、また、万葉集の編者もそのことをよく理解していて後世に伝えようと注したものと考えられる。

(注)
(注1)「尋常」字に対してヨノツネと訓む例は、名義抄、遊仙窟に見られる。
(注2)澤瀉1961.61〜62頁。
(注3)渡辺1978.、武市2004.、山﨑2024.参照。山﨑氏は、漢語「尋常」の歴史的転義を考証している。そして、文言と白話の意味の違いを見、両用の訓、解釈を試みている。
(注4)白川1995.は、「その間に何らかの関係があるかも知れない。」(427頁)としている。
(注5)渡辺1978.。
(注6)中西1980.は、「世の常として聞くのは不本意な呼子鳥だが、声に心ひかれて聞く時になったことだ。」(174頁)という訳は、肝心の言葉遊びの要点、三月=スヱの春、スヱ=巣餌の義を述べてはいないが、訳自体としては近似解と言える。

(引用・参考文献)
澤瀉1961. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第八巻』中央公論社、昭和36年。
高野1980. 高野正美「喚子鳥─坂上郎女覚書─」『太田善麿先生退官記念文集』太田善麿先生退官記念文集刊行会、昭和55年。
武市2004. 武市香織「巻八の大伴坂上郎女歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第十巻』和泉書院、2004年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
山﨑2024. 山﨑福之『萬葉集漢語考証論』塙書房、令和6年。
渡辺1978. 渡辺護「呼子鳥の歌九首」『岡山大学法文学部学術紀要』第39号、昭和53年12月。

加藤良平 2024.11.25初出、2025.2.1補筆

大伴家持の布勢水海遊覧賦

 越中国にあった大伴家持は、その地の地名を詠み込んだ「賦」を作って楽しんでいる。「遊-覧布勢水海賦一首〈并短歌〉」は、大伴池主の賛同を得て、「敬-和遊-覧布勢水海賦一首并一絶」を追和されている。

  布勢ふせ水海みづうみ遊覧あそぶ賦一首〈あはせて短歌 此の海は、射水郡いみづのこほりふるむらに有るぞ〉〔遊覧布勢水海賦一首〈并短歌 此海者有射水郡舊江村也〉〕
 物部もののふの 八十やそともの 思ふどち 心らむと 馬めて うちくちぶりの 白波の 荒磯ありそに寄する 渋谿しぶたにの さき徘徊たもとほり まつ田江たえの 長浜ながはま過ぎて 宇奈比うなひかは 清き瀬ごとに かは立ち かきかく行き 見つれども そこもかにと 布施の海に 船ゑて おくぎ に漕ぎ見れば なぎさには あぢむらさわき しまには ぬれ花咲き 許多ここばくも 見のさやけきか たまくし 二上山ふたがみやまに つたの きは別れず ありがよひ いや毎年としのはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと〔物能乃敷能夜蘇等母乃乎能於毛布度知許己呂也良武等宇麻奈米氐宇知久知夫利乃之良奈美能安里蘇尓与須流之夫多尓能佐吉多母登保理麻都太要能奈我波麻須義氐宇奈比河波伎欲吉勢其等尓宇加波多知可由吉加久遊岐見都礼騰母曽許母安加尓等布勢能宇弥尓布祢宇氣須恵氐於伎敝許藝邊尓己伎見礼婆奈藝左尓波安遅牟良佐和伎之麻末尓波許奴礼波奈左吉許己婆久毛見乃佐夜氣吉加多麻久之氣布多我弥夜麻尓波布都多能由伎波和可礼受安里我欲比伊夜登之能波尓於母布度知可久思安蘇婆牟異麻母見流其等〕(万3991)
 布勢の海の 沖つ白波 ありがよひ いや毎年としのはに 見つつしのはむ〔布勢能宇美能意枳都之良奈美安利我欲比伊夜登偲能波尓見都追思努播牟〕(万3992)
  右は、かみ大伴宿禰家持作る。 四月二十四日〔右守大伴宿祢家持作之 四月廿四日〕

  布勢ふせ水海みづうみ遊覧あそぶ賦につつしこたふる一首〈あはせて一絶〉〔敬和遊覧布勢水海賦一首并一絶〕
 藤波ふぢなみは 咲きて散りにき の花は 今そ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥ほととぎす 鳴きしとよめば うちなびく 心もしのに そこをしも うらこひしみと 思ふどち 馬うち群れて たづさはり 出で立ち見れば みづがは みなとどり 朝凪あさなぎに かたにあさりし しほ満てば 妻呼びかはす ともしきに 見つつ過ぎき 渋谿しぶたにの 荒磯ありその崎に 沖つ波 寄せ来るたま かたりに かづらに作り いもがため 手にき持ちて うらぐはし 布勢ふせ水海みづうみに 海人あまぶねに かぢかいき 白栲しろたへの 袖振り返し あどもひて 我が漕ぎ行けば 乎布をふの崎 花散りまがひ なぎさには 葦鴨あしがもさわき さざれ波 立ちてもても 漕ぎめぐり 見れども飽かず 秋さらば 黄葉もみちの時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見もあきらめめ 絶ゆる日あらめや〔布治奈美波佐岐弖知理尓伎宇能波奈波伊麻曽佐可理等安之比奇能夜麻尓毛野尓毛保登等藝須奈伎之等与米婆宇知奈妣久許己呂毛之努尓曽己乎之母宇良胡非之美等於毛布度知宇麻宇知牟礼弖多豆佐波理伊泥多知美礼婆伊美豆河泊美奈刀能須登利安佐奈藝尓可多尓安佐里之思保美弖婆都麻欲妣可波須等母之伎尓美都追須疑由伎之夫多尓能安利蘇乃佐伎尓於枳追奈美余勢久流多麻母可多与理尓可都良尓都久理伊毛我多米氐尓麻吉母知弖宇良具波之布施能美豆宇弥尓阿麻夫祢尓麻可治加伊奴吉之路多倍能蘇泥布里可邊之阿登毛比弖和賀己藝由氣婆乎布能佐伎波奈知利麻我比奈伎佐尓波阿之賀毛佐和伎佐射礼奈美多知弖毛為弖母己藝米具利美礼登母安可受安伎佐良婆毛美知能等伎尓波流佐良婆波奈能佐可利尓可毛加久母伎美我麻尓麻等可久之許曽美母安吉良米々多由流比安良米也〕(万3993)
 白波の 寄せ来る玉藻 世のあひだも 継ぎて見にむ 清きはまを〔之良奈美能与世久流多麻毛余能安比太母都藝弖民仁許武吉欲伎波麻備乎〕(万3994)
  右は、じょう大伴宿禰池主作る。〈四月二十六日に追ひてこたふ。〉〔右掾大伴宿祢池主作〈四月廿六日追和〉〕

 神堀1978.、橋本1985.、伊藤1992.、廣川2003.などに、家持と池主との共同の営為の作品であると捉えられている。そして、池主の「敬和」とは家持の心を汲みつつ対応させながら補足するように歌い、両者が互いに補完しあって一つの作品として完結するとしている。
 コタフ(和)という語のダイアローグ性が理解されていない。コタフはコト(言)+アフ(合)の約と考えられ、言われたことに対して言葉で応じることをいう。一つの見方から言われたことに対して、それを十分に認めながら、別の見方からするとこうも言えるだろう、というのが「敬和」であろう。言葉の累積、累乗ではあっても補完し合ってようやく一となるという弁証法ではない。家持の歌だけでも、また、池主の歌だけでもきちんと一つの作として完成していると考える。

 まず家持の「遊‐覧布勢水海賦一首」(万3991)を見てみよう。この歌は前半と後半に分かれている。「物部もののふの …… そこもかにと」までと、「布施の海に …… 今も見るごと」とである。前半でいろいろと巡り見たが満足できなかった。そこで後半、布勢の海へと進んでいて、そこは遊覧するのにすばらしいところだからこれからも何度も通ってきては遊ぼうと言っている。題詞もそのように成っている。
 多数出てくる地名も、前半に「渋谿しぶたにの崎」、「まつ田江だえ」、「宇奈比うなひかは」、後半に「布勢ふせうみ」、「二上山ふたがみやま」と分かれている。これらは地誌的知識として歌に交えられているようには思われない。そもそも、紀行歌を歌ったとしても聞いた人の興味にかからなければ場の共有に属すことはない。知らない地方の知らない地名を言われても困惑するばかりである。すなわち、自然詠として情景を歌いたくて入れているのではないのである。
 「渋谿しぶたに」とあれば、そこはシブという言葉の示すところであると言葉解きをしている。船の遅くなることをシブ(渋)といい、後には滞ることをシブク(渋)と言ったようである。万1205番歌の例では、船を沖合まで出せば岩礁にぶつかる心配が減るから、一生懸命に漕ぐ必要はなくなって船の進行を遅くしても大丈夫になるが、力を抜いた水夫は出港した地、故郷の方を振り向いて見たいと思ったが、岬の陰になって望み見ることができず惜しいことだと言っている。今昔物語の例では、逃げる際に蔀戸を外してそれに跨ってムササビのように滑空して行った時の様子を言っている。蔀のおかげで抵抗が増して落下速度が遅くなっている。

 沖つかぢ やくやくしぶを 見まく欲り がする里の かくらくしも〔津梶漸々志夫乎欲見吾為里乃隠久惜毛〕(万1205)
 しとみのもとに風しぶかれて、谷底に鳥の居る様に漸く落ち入りにければ、……(今昔物語・十九・四十)

 つまり、「渋谿しぶたにの崎」というところは、ヤマトコトバにタモトホル(徘徊)ところ、同じ場所をぐるぐるめぐることになるに違いないところだからそう歌っている。「まつ田江たえ」という地名も、マツ(待)+タエ(絶)という意味、すなわち、長い時間が経過してもはや誰も待ってはいないことを意味しているはずだから、そこは「長浜」であって、時間は「過ぎて」いるというのである。同様に、「宇奈比うなひかは」というところも、ウ(鵜)+ナヒ(綯)するのがふさわしいところで、鵜飼の縄を綯って使うのが順当である。だから、「鵜川立ち」と続いていくわけである。「鵜川立つ」とは、鵜飼をする場所を決めて鵜飼を行うことをいう。鵜飼は、鵜にまつわるさまざまな漁法のことをいい、魚が鵜を怖がって逃げる習性を活かして行う漁すべてを言った。鵜の羽を竿の先や縄の各所にとりつけて川のなかに入れ、魚を脅かして網へと追い込みをかける漁もその一つである。宇奈比うなひかは=ウ(鵜)+ナヒ(綯)+カハ(川)のことだとすれば、「清き瀬ごとに」場所を決めて追い込み漁をしてはあちらこちらへ行ったということを言っていることになる。
 このように、渋谿しぶたにまつ田江たえ宇奈比うなひかはという地名をピックアップして駄洒落を言っている。そして、これらでは言辞として満足できないということを、遊覧するのにふさわしくはないと歌に昇華している。言葉遊びをしていることを、あたかも紀行しているかのように歌に取り繕っているものなのである。
 後半が歌の主意となる布勢水海遊覧への推奨部に当たる。後半で出てくる地名は、「布勢ふせうみ」、「二上山ふたがみやま」である。二上山についてはすでに「二上山賦」に詠まれている。赤ん坊が二つカミ(噛)する山に喩えられるチチ(乳)と、伝承されている海幸山幸のへの話で「一千」を作って償おうとしたのに受け取らなかったこととを掛けて歌にしている(注1)。この歌でも題詞の脚注に「此海者有射水○○郡舊江村也」と断られている。水に射ても魚は得られず釣り針()を失うばかりなのである。海幸山幸の話では、最終的にもとの釣り針を返せと責めたてていた相手を屈服させ、犬(狗)のように従わせたということになっている。犬を躾けて服従させた代表的なポーズに「伏せ」がある(注2)

「伏せ」のポーズ(埴輪 ひざまずく男子、古墳時代、6世紀、東京国立博物館特別展はにわ展示品、群馬県太田市塚廻り4号墳出土(文化庁、群馬県立歴史博物館保管)、茨城県桜川市青木出土(大阪歴史博物館保管))

 今、大伴家持は越中国に赴任していて、フセという地名のあることに思いを馳せている。すでに二上山賦で記紀の説話にある海幸山幸のへの話で「一千」について歌にしていた彼は、さらに「布勢ふせの水海」という地名を知り、さらに輪をかけて一連の話として歌に歌い込み楽しみとしている。「遊-覧布勢水海賦」で家持が歌いたいのはただそれだけである。言い伝えに伝えられていることが越中の地名としてあるから、そこへ行って遊ぼうと歌っている。彼が今しているのは言葉遊びである。
 「思ふどち」という言葉が家持長歌に二つ、池主敬和長歌に一つ出てくる。気の合った親しい人同士、の意と考えられており、ここではともに布勢水海に遊覧した越中国の国府に勤める官人のことを指すと思われている(注3)。しかし、「思ふどち」は文字どおり思う者同士の意であろう。布勢水海遊覧の意味を同じように理解する者同士のことである。海幸山幸の伝承の顛末の地として名のあるところ、目的地の布勢水海はを返した時に反抗してきたら溺れさせることのできる水海のことなのだ、と比喩のうちに理解し合えるということである。それがこの歌の主題である。「かくし遊ばむ」とは言葉遊びをすること、ヤマトコトバに戯れて作った歌のことと実際の地名のこととが重合するのを喜ぼうではないか、というのである。布勢水海でアクティビティを楽しもうというのではない。

 池主の「「敬-和遊-覧布勢水海賦一首」を見ていく。
 「かぢかいき」について解釈が定まっていない。筆者は、国府勤務の官人が「海人あまぶね」を借りて漕ぎ出していることを考え併せ、何艘かの船を出すなか、操作法がわからずに「かぢ」として船の左右にオールを出して漕いでいる人もいれば、一人乗りのせいなのか「かい」として掻いて使っている人もいるということを言いたくて変な言い方をしているものと考える。「かい」という語は奈良時代からイ音便で使われていた珍しい例として知られている。
 「うちくちぶり」は未詳の語である。諸説あるが不明である。「…… 馬めて うちくちぶりの 白波の ……」と続いている。万葉集長歌の性質として、尻取り式に言葉が数珠つながりになっていることが指摘されている。ただの尻取りであると考えるなら、馬と白波をつなぐことを示すものとして、馬の口の内のことが想起されるだろう。轡を嵌められながら歯を食いしばって息荒く進む時、口のなかは泡だらけになっている。「荒磯ありそに寄する」白波のような状態である。現代語ではあるが、何か言いたげな口ぶり、と言えば、何かを言いたそうにしている様子のことをいう。馬の口ぶりを想像するなら、ただ草を食べたいということだけだろう。よだれが垂れている口の内は、草をむことができずに馬銜はみばかり喰んでいる。白波が立っている。
 「花散りまがひ」の花は具体的に何の花かと特定はできないとされている。ではどうしてこのような句が出てくるか。そこが歌い方のミソである。ヲウノサキ○○(乎布の崎)と言ったから、サキ(咲)の次はチリ(散)ことになり、「散りまがひ」となるのである。その後でもだらだらと対義語を並べて述べ立てている。「さざれ波」は「立つ」を導いているだけなのであるが、すかさず「立ちてもても」と人間の姿勢へと話が転じている。論理展開をして行っているのではなく、音楽的に転調の妙とでも言うべき言葉を尻取り式に繰り出して進んでいる。そのことを池主も「敬和……賦」と言っている。だらだらとヤマトコトバの音声が続いているが聞いてゆけばわかる歌を、だらだらと漢字が続いているが読んでゆけばわかるものである「賦」になぞらえてそう呼んだということである(注4)
 大伴家持の言葉遊びは、この布勢遊覧賦において「敬和」する人を得た。ヤマトコトバの「賦」は、駄洒落、地口のオンパレードである。近現代の人にとっては、常日頃の感覚では近づくことのできない言語空間に、家持や池主は「賦」の歌のなかで「遊覧」(注5)していたということになる。言葉遊びの極みであった。

(注)
(注1)ここでは海幸山幸の話を再現させて歌に詠んでいる点しか示さない。詳細は拙稿「大伴家持の「二上山賦」について」参照。海幸山幸の話の顛末は、ホヲリノミコトが地上に戻った時、相手のホデリノミコトを完全に屈服させている。そして、ホデリノミコトは隼人の多君たのきみの祖であると断られている。職員令の定めとして、隼人は、宮門を守護する役を担うこと、溺れた時の様子で歌儛を演じること、竹笠を造作することが定められている。その様子は、狗(犬)のようであると譬えられ、隼人司が演じるべき職掌となっている。犬は「伏せ」と言われたら伏せてじっとしているように躾けられている。服従している。なお、隼人の吠声は犬が遠吠えをするように声を発することである。「本声」、「末声」、「細声」の実態を知りたければ、オオカミの飼育されている動物園を訪れるといい。数頭の飼犬に救急車のサイレンを聞かせても反応して遠吠えすることがある。サイレンが「本声」、応じて一斉に吠え返すのが「末声」、余韻をもって後でも鳴いている一頭のそれが「細声」である。隼人についての史学の議論には不可解な論調が多数見受けられる(補注1)
(注2)犬の調教用語は文献に残らない。ただし、今日でも「お座り」、「待て」、「おいで」、「お手」と並んで「伏せ」と言って躾けている。往時から番犬、猟犬として利用する場合に確実に行われていただろう。松井1995.は、長屋王の邸宅で鷹犬が米を餌にして飼われていたことを論証している。躾けられているから食べ物が目の前にあっても調理や狩猟の際、人間の邪魔をしない。

止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)

(注3)廣川2003.はさらに、官人の結束への願望が表出されて家持の歌に重出して用いられているとしている(151頁)。
(注4)「賦」と名づけた家持の考えについて、中国の詩文との関連を重く受け止める見解が多く見られる。文心彫龍・詮賦編に「賦者鋪也、鋪采檎文、体物写志也。」と説明されていることなどをどう捉えるか、真面目くさって議論している。実際に「賦」を目にしたダイレクトな印象から思い及んで名づけていると考えてはどうか。家持の作った「賦」の歌の特徴としては、言葉のつながりばかり重視されている点にある。内容面からまともに受け取ろうとすると空疎さが感じられ、歌としては低い評価が下されることが多い(補注2)。近現代の歌とは違う言葉づかいを実践しているのが万葉集の歌である。それは、長歌という形式が万葉集の終結をもって消滅したこととも関係する。尻取り式に言葉を継いで行って歌にしていることがあり得たのは、それが声に出して歌われたものだったからである。内容面から長歌を評価するなど、はじめからおよそナンセンス、まるで勘違いである。これらの長歌は、頓智話、なぞなぞの問題文として作られて歌われている。
 なお、本稿では万3991〜3994番歌の細部には検討を加えていない。家持と池主のやっていることが何なのかを探ることで完結とした。付き合いきれないという気持ちも浮かんでしまった。後考を俟ちたい。
(注5)「遊覧」という語について、中国文学の影響を指摘する説は根強い。例えば、山﨑2024.は、「萬葉集の「遊覧」の全……十例のうち八例までが家持と池主の好尚に関わっていること、それも「遊於松浦河序」に顕著な漢籍志向の「勝景を賛嘆する中に心の解放、遊びを求める」内容をそのまま取り入れたものであった。「遊覧」は、越中における家持の心を捉えていた詩想の一つであったと言えるかもしれない。」(166頁) とまとめている。漢字という形に溺れて按図索驥に陥っていないだろうか。

(補注)
(補注1)中村1993.は諸説をあげ考究している(「隼人の名義をめぐる諸問題」)。この点については拙稿「隼人(はやひと)について」参照。ハヤヒトと呼ばれていたことが重要で、「隼人はやひとの名に負ふ」(万2497)という発想が生まれている。上代の人はそのことについて疑問を持つことは少なく、否定することはまったくなく、「名に負ふ」状態にあり、その名に値する行動をとるようにと集合意識として求めている。
 海幸山幸の話の末尾で屈服した様子を「いぬ」に喩えている。官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である(「朱云、凡隼人者良人也。」(令集解))。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服し、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢は屈服を表し、最たる躾けの姿勢であるが、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする。意のままに動くさまを舞いと見立てたのが隼人舞である。舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名からはやすことが期待されている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるよう、左右に分かれて位置して「吠声」を発している。元日や即位の際の儀礼に参与したのである。そんな掛け合いがなされるのはまるでオオカミの遠吠えのようであり、飼犬もつられて呼応したのを見て取っている。まことにうまい形容であると認められよう。
 ハヤという言葉は嘆く時に用いられる助詞である。いちばん嘆くのは身近な人が亡くなった時である。隼人は殯に参列している。また、犬なのだから番犬の役割を果すべく守護人となり、隼人司は衛門府に属している。
 これらのことを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことは史実として反乱を経てなのかといったことはあまり問題にならない。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁の民と同様であろう。他との違いをあげるなら、南九州には古墳がない。墓制の問題であり、究極のところ生活誌の違いということになるだろう。だから殯に参列はしても埋葬には呼ばれていない。「山(陵)」を造らない理由として考えられるのは、彼らが「海」の民、海人族だったからということになろう。海人として海に潜って漁をしたとすれば、息継ぎをせずに長時間潜水をしていることになり、長い息をしていたということになる。ナガ(長)+イキ(息)を約してナゲキ(嘆)という言葉はできあがっている。嘆くからハヤという助詞に親和性がある。そんなこんなでハヤヒトという名を持つことになっていて、それに順ずる役回りを担うように要請されたということになる。「名に負ふ」ことの諸相によって語学的証明となっている。今日的な概念、例えば「服属儀礼」、「中華思想」、「呪力」といった術語ワードで考察しようとしても的外れである。関連事項を以下に列挙した。

 ここを以て火酢芹命ほのすせりのみこと苗裔のちもろもろ隼人はやひとたち、今に至るまで天皇すめらみこと宮墻みかきもとを離れずして、よよに吠ゆる狗にして奉事つかへまつる者なり。世人よのひとせたる針をはたらざるは、これ、其のことのもとなり。(神代紀第十段一書第二)
 隼人はやひとの 名にごゑ いちしろく が名はりつ 妻とたのませ(万2497)
 …… 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ〈一に云ふ、我が世過ぎなむ〉(万886、山上憶良)
 かきしに 犬呼び越して がりする君 青山の しげやまに 馬休め君(万1289)
 ……其の大県主、かしこみて、稽首ぬかつきて白さく、「奴にして有れば、奴ながら覚らずしてあやまち作れるはいたかしこし。故、のみの幣物まひものたてまつらむ」とまをして、布を白き犬にけ、鈴をけて、己がやから、名を腰佩こしはきと謂ふ人に、犬の縄を取らしめて献上たてまつる。(雄略記)
 凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人かんにん二人・史生二人、大衣おほきぬ二人・番上の隼人二十人・いまの隼人二十人・白丁びやくちようの隼人一百三十二人を率て、分れて応天門おうてんもん外の左右に陣し〈蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず〉、群官初めてらば胡床あぐらよりち、今来の隼人、吠声はいせいを発すること三節〈蕃客入朝は、吠の限りに在らず〉。(延喜式・隼人司)
 凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉ぐぶせよ。〈番上已上は、みな横刀を帯び馬にれ。但し大衣已下は木綿ゆふかづらけよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ〉。其の駕、国界及び山川道路のまがりを経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
 凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近きみゆきは吠せざれ。(延喜式・隼人司)
 凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。すべて大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
 朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初めそむき、後にしたがふなりと。うべなふに請ひて云はく、すでに犬と為り、人君に奉仕つかへまつらば、此れ則ち隼人となづくるのみと。(令集解・巻五)
 歌儛教習けうしふせむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)
(補注2)高評価を与えている論考もある。風景描写として捉え、そこに讃美する精神を読み取って優れているとしている。論評に値しない。

(引用・参考文献)
伊藤1992. 伊藤博「布勢の浦と乎布の崎─大伴家持の論─」吉井巖編『記紀万葉論叢』塙書房、平成4年。(『萬葉歌林』塙書房、2003年。)
內田2014. 內田賢德「或る汽水湖の記憶─「遊覧布勢水海賦」をめぐって─」『萬葉語文研究』第10集、和泉書院、2014年9月。
奥村2011. 奥村和美「家持の「立山賦」と池主の「敬和」について」神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十二集』塙書房、平成23年。
小野1980. 小野寛『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。
神堀1978. 神堀忍「家持と池主」伊藤博・稲岡耕二編『万葉集を学ぶ 第八集』有斐閣、昭和53年。
菊池2005. 菊池威雄「遊覧布勢水海賦」『天平の歌人 大伴家持』新典社、平成17年。
清原1994. 清原和義「家持の布勢水海─あぢ鴨の群れと藤波の花─」『高岡市万葉歴史館紀要』第4号、高岡市万葉歴史館、1994年3月。
島田2002. 島田修三「布勢水海遊覧の賦」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
辰巳1987. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。
中西1994. 中西進『大伴家持 第三巻 越中国守』角川書店、平成6年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
橋本1985. 橋本達雄『大伴家持作品論攷』塙書房、昭和60年。
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院、2003年。
西2001. 西一夫「大伴家持論─大伴池主との贈答・唱和作品を中心に─」(博士論文)、2001年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3187651
山﨑2024. 山﨑福之『萬葉集漢語考証論─訓読・漢語表記・本文批判─』塙書房、2024年。
※隼人に関する参考文献は割愛した。拙稿「隼人(はやひと)について」を参照されたい。

加藤良平 2024.10.28初出

タカヒカル・タカテラスについて

 万葉集に「高光」と「高照」という語があり、ともに「日」にかかる枕詞とされている。
 両者の違いについて議論されている。検討するにあたっては、これらは言葉であることが基本である。タカヒカルでもタカテラスでも「日」にかかることは想像がつく(注1)。ヒカルとテラスの語義の違いが意味の違いになっていると考えるのが順当だろう。ヒカル(光)はぴかっと光線を発したり、反射したりすることをいい、テル(照)は光を放って周りが明るくなることをいう。上代音ではヒが今日のピに当たることはよく知られる。ピカル(✨)のがヒカルである。蛍や稲光はヒカルことはあってもテルことはない。このような二つの動詞のニュアンスの違いが、タカヒカル、タカテラスが単に「日」にかかるということにとどまらず、下に続く文意に影響を及ぼしている、ないしは、全体の文意からタカヒカル、タカテラスと使い分けている、というのが筆者の考えである(注2)。古事記歌謡にタカヒカルが仮名書きで5例(「多迦比迦流」(記28・72)、「多加比加流」(記100・101・102))見られ、それにより「高光」はタカヒカルと訓むものと考えられる。

「高光」
 たかひかる わが日の皇子みこの 万代よろづよに 国らさまし 島の宮はも〔高光我日皇子乃萬代尓國所知麻之嶋宮波母〕(万171、舎人)
 高光る わが日の皇子の いましせば 島のかどは 荒れずあらましを〔高光吾日皇子乃伊座世者嶋御門者不荒有益乎〕(万173、舎人)
 やすみしし わご大君 高光る 日の皇子 ひさかたの あまつ宮に かむながら かみといませば そこをしも あやにかしこみ ひるはも 日のことごと よるはも のことごと 嘆けど 飽きらぬかも〔安見知之吾王高光日之皇子久堅乃天宮尓神随神等座者其乎霜文尓恐美晝波毛日之盡夜羽毛夜之盡臥居雖嘆飽不足香裳〕(万204、置始おきそのあづまひと
 やすみしし わご大君 高光る わが日の皇子の 馬めて り立たせる 弱薦わかこもを かり小野をのに 猪鹿ししこそば いをろがめ うづらこそ い匍ひもとほれ 猪鹿ししじもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り かしこみと 仕へ奉りて ひさかたの あめ見るごとく まそ鏡 あふぎて見れど 春草の いやめづらしき わご大君かも〔八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃馬並而三獦立流弱薦乎獦路乃小野尓十六社者伊波比拜目鶉己曽伊波比廻礼四時自物伊波比拜鶉成伊波比毛等保理恐等仕奉而久堅乃天見如久真十鏡仰而雖見春草之益目頬四寸吾於富吉美可聞〕(万239、柿本人麻呂)
 かみより 言ひらく そらみつ やまとの国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊ことだまの さきはふ国と 語りぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷みかど 神ながら での盛りに あめの下 まをしたまひし 家の子と えらひたまひて 勅旨おほみことかへして云ふ、おほみこと〉 いただき持ちて もろこしの 遠き境に つかはされ まかりいませ 海原うなはらの にも沖にも かむづまり うしはきいます もろもろの おほかみたち 船舳ふなのへに〈反して云ふ、ふなのへに〉 導きまをし 天地あめつちの 大御神たち やまとの 大国おほくにたま ひさかたの あまそらゆ 天翔あまかけり 見渡したまひ 事をはり 還らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手みてうち掛けて 墨縄すみなはを へたるごとく あぢかをし 値嘉ちかさきより 大伴おほともの 御津みつの浜びに ただてに ふねは泊てむ つつみく さきくいまして はや帰りませ〔神代欲理云傳久良久虚見通倭國者皇神能伊都久志吉國言霊能佐吉播布國等加多利継伊比都賀比計理今世能人母許等期等目前尓見在知在人佐播尓満弖播阿礼等母高光日御朝庭神奈我良愛能盛尓天下奏多麻比志家子等撰多麻比天勅旨〈反云大命〉戴持弖唐能遠境尓都加播佐礼麻加利伊麻勢宇奈原能邊尓母奥尓母神豆麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等船舳尓〈反云布奈能閇尓〉道引麻遠志天地能大御神等倭大國霊久堅能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利見渡多麻比事畢還日者又更大御神等船舳尓御手打掛弖墨縄遠播倍多留期等久阿遅可遠志智可能岫欲利大伴御津濱備尓多太泊尓美船播将泊都々美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢〕(万894、山上憶良)

 万171・173番歌は「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」のうちの二首で日並皇子尊が亡くなった時の歌、万204番歌は「弓削皇子、薨時置始東人作歌一首〈并短歌〉」で弓削皇子が亡くなった時の歌である。殯の時に故人を偲んで歌われている。殯をしている今、この瞬間を歌にしている。万239番歌は「長皇子遊獦路池之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」で長皇子が狩りへ行った時の歌である。反歌一首を伴うが、夜、月の出ているその時の光景を詠んでいる。万894番歌は「好去好来歌一首〈反歌二首〉」で遣唐大使丹比広成へ贈った歌である。第五回遣唐使を選んだのは時の天皇、聖武である。代々のことを言っているのではなく、その時のことに限って言っている。ピカッと光ったその瞬間のことしか言っていないことになる。

「高照」
 やすみしし わご大君 たからす 日の皇子 神ながら 神さびせすと ふとかす 都を置きて 隠口こもりくの はつの山は 真木まき立つ 荒きやまを いはが根 さへ押しなべ 坂鳥さかどりの 朝越えまして たまかぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎あきの大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿たびやどりせす いにしへ思ひて〔八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須等太敷為京乎置而隠口乃泊瀬山者真木立荒山道乎石根禁樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去来者三雪落阿騎乃大野尓旗須為寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而〕(万45、柿本人麻呂)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒栲あらたへの 藤原ふぢはらうへに す国を したまはむと 都宮みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も りてあれこそ いはばしる 淡海あふみの国の 衣手ころもでの 田上山たなかみやまの 真木さく つまを もののふの 八十やそ氏川うぢかはに たまなす 浮かべ流せれ を取ると さわたみも 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きて わが作る 日の御門に 知らぬ国 巨勢道こせぢより わが国は とこにならむ ふみへる くすしき亀も 新代あらたよと 泉の河に 持ち越せる 真木の嬬手を ももらず いかだに作り のぼすらむ いそはく見れば かむからにあらし〔八隅知之吾大王高照日乃皇子荒妙乃藤原我宇倍尓食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等神長柄所念奈戸二天地毛縁而有許曽磐走淡海乃國之衣手能田上山之真木佐苦檜乃嬬手乎物乃布能八十氏河尓玉藻成浮倍流礼其乎取登散和久御民毛家忘身毛多奈不知鴨自物水尓浮居而吾作日之御門尓不知國依巨勢道従我國者常世尓成牟圖負留神龜毛新代登泉乃河尓持越流真木乃都麻手乎百不足五十日太尓作泝須良牟伊蘇波久見者神随尓有之〕(万50、藤原宮役民)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の ふぢが原に おほかど 始めたまひて 埴安はにやすの つつみの上に あり立たし したまへば 日本やまとの あを香具かぐやまは 日のたての 大き御門に 春山と みさび立てり うねの この瑞山みつやまは 日のよこの 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成みみなしの 青菅山あをすがやまは 背面そともの 大き御門に よろしなへ かむさび立てり 名くはし 吉野の山は 影面かげともの 大き御門ゆ くもにそ 遠くありける 高知るや あめかげ あめ知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井みゐ清水ましみづ〔八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原尓大御門始賜而埴安乃堤上尓在立之見之賜者日本乃青香具山者日経乃大御門尓春山跡之美佐備立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門尓弥豆山跡山佐備伊座耳為之青菅山者背友乃大御門尓宣名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門従雲居尓曽遠久有家留高知也天之御蔭天知也日之御影乃水許曽婆常尓有米御井之清水〕(万52)
 明日香あすかの きよはらの宮に あめの下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 いかさまに おぼほしめせか 神風かむかぜの 伊勢の国は 沖つ藻も みたる波に しほのみ かをれる国に うまり あやにともしき 高照らす 日の皇子〔明日香能清御原乃宮尓天下所知食之八隅知之吾大王高照日之皇子何方尓所念食可神風乃伊勢能國者奥津藻毛靡足波尓塩氣能味香乎礼流國尓味凝文尓乏寸高照日之御子〕(万162、持統天皇)
 天地の 初めの時 ひさかたの あま河原かはらに 八百やほよろづ 千万神ちよろづかみの 神集かむつどひ 集ひいまして 神分かむはかり はかりし時に 天照らす ひるみこと〈一に云ふ、さしのぼる 日女の命〉 あめをば 知らしめすと 葦原あしはらの みづの国を 天地の 寄り合ひのきはみ 知らしめす 神のみことと 天雲あまくもの 八重やへかきけて〈一に云ふ、天雲の 八重やへくも別けて〉 神下かむくだし いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の きよみの宮に 神ながら 太敷きまして 天皇すめろきの 敷きます国と あまの原 いはを開き 神上かむあがり あがりいましぬ〈一に云ふ、神登かむのぼり いましにしかば〉 わご大君 皇子みこみことの 天の下 知らしめしせば 春花はるはなの たふとからむと 望月もちづきの たたはしけむと 天の下〈一に云ふ、食す国〉 四方よもの人の 大船おほふねの 思ひ頼みて あまつ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき ゆみの岡に みやばしら 太敷きいまし 御殿みあらかを 高知りまして 朝言あさことに こと問はさぬ つきの 数多まねくなりぬれ そこゆゑに 皇子の宮人みやひと ゆく知らずも 〈一に云ふ、さす竹の 皇子の宮人 行方知らにす〉〔天地之初時久堅之天河原尓八百萬千萬神之神集々座而神分々之時尓天照日女之命〈一云指上日女之命〉天乎婆所知食登葦原乃水穂之國乎天地之依相之極所知行神之命等天雲之八重掻別而〈一云天雲之八重雲別而〉神下座奉之高照日之皇子波飛鳥之浄之宮尓神随太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上々座奴〈一云神登座尓之可婆〉吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃満波之計武跡天下〈一云食國〉四方之人乃大船之思憑而天水仰而待尓何方尓御念食可由縁母無真弓乃岡尓宮柱太布座御在香乎高知座而明言尓御言不御問日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛〈一云刺竹之皇子宮人歸邊不知尓為〉(万167、柿本人麻呂)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子の こしす 御食みけつ国 神風かむかぜの 伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高くたふとし 川見れば さやけくきよし みななす 海も広し 見渡す 島もたかし ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやにかしこき 山辺やまのへの 五十の原に うち日さす 大宮つかへ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ栄えて 秋山の 色なつかしき ももしきの 大宮人は 天地あめつち 日月と共に 万代よろづよにもが〔八隅知之和期大皇高照日之皇子之聞食御食都國神風之伊勢乃國者國見者之毛山見者高貴之河見者左夜氣久清之水門成海毛廣之見渡嶋名高之己許乎志毛間細美香母挂巻毛文尓恐山邊乃五十師乃原尓内日刺大宮都可倍朝日奈須目細毛暮日奈須浦細毛春山之四名比盛而秋山之色名付思吉百礒城之大宮人者天地与日月共万代尓母我〕(万3234)

 万45番歌は「軽皇子宿于安騎野時、柿本朝臣人麻呂作歌」で軽皇子が泊りがけで狩りへ行った時の歌である。長歌では朝から夕までの時間経過が歌われている。つづく短歌四首では夜から日が出てきてだんだん明るくなっていくところを詠んでいる。「日」によって周りが明るくなることを言いたいからテラスと表現していてふさわしい。万50番歌は「藤原宮之役民作歌」で藤原宮の建設作業員の歌である。かなりの日数を拘束されて作業している。当然、造営した藤原宮は一瞬だけあってすぐに捨てられお終いというものではなく、何年、何十年、何百年と栄えあるところであってほしい。万52番歌は「藤原宮御井歌」で最後にその井戸のことに触れた藤原宮賦とでも呼ぶべき歌である。二つの藤原宮の歌とも継続的な様子を表し、永続することを期待しているからテラスというのがふさわしい。万162番歌は「天皇崩之後八年九月九日、奉御斎会之夜、夢裏習賜御歌一首〈古歌集中出〉」で天武天皇が亡くなったために御斎会、すなわち僧侶が読経供養する行事の日の夜に、妻の持統天皇が夢に見たことを歌にしたものである。「夢裏習賜御歌」の「習」はくり返し唱えることを指す。御斎会だから読経が流れ、くり返しくり返し経文が唱えられていた記憶から、夢のなかでもくり返し念仏のように歌を唱えたということである。事跡として持統は天武と長年苦楽を共にしてきたわけだから、くり返し夢で唱えたことは事理一致の趣きを呈している。長い年月くり返すことといえば、日が出ては沈むをくり返すことが代表である。その「日」は一瞬またたくものではなく、周囲を明るくするものである。万167番歌は「日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」で万171・173番歌同様、日並皇子尊の殯の時に歌われたものだが、長々と天照大神以来、天孫降臨のことなどを使って説き起こして系譜上に日並皇子尊を据えている。長い長い時間の経過を歌に詠み込むには、「日」はテラスものとしてあるものである(注3)。万3234番歌では伊勢の地を褒め称える歌のために一般論を唱えている。「御食つ国」としてある伊勢の国とは、代々天皇に献上する国であるということである。そのことはこれまでもこれからも続く。「日」が出ては沈むをくり返しながら周りを明るくテラスことで食料は育つのである。
 このように、その時、その場のことではなく、時間的に永続するさまを表したい場合、「高照らす」という形になっていると帰納される。
 例外的に存する「高輝」については、歌意から推し測り、タカテラスと訓むのが正解であると演繹される。

  柿本朝臣人麻呂の新田部皇子に献れる歌一首〈并せて短歌〉〔柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首〈并短歌〉〕
 やすみしし わご大王 高輝たかてらす 日の御子 しきいます 大殿おほとのうへに ひさかたの あま伝ひ来る 白雪ゆきじもの きかよひつつ いやとこまで〔八隅知之吾大王高輝日之皇子茂座大殿於久方天傳来白雪仕物徃来乍益乃常世〕(万261)
  反歌一首〔反歌一首〕
 釣山つりやま だちも見えず 降りまがふ 雪のさわける あしたたのしも〔矢釣山木立不見落乱雪驟朝樂毛〕(万262)

 歌意のとり方が問題なのである(注4)。まだ子供である新田部皇子に対して、人麻呂はユキ(雪、靫)の歌を献じている。ゆきのなかゆきを背負いながら駿馬を駆って海幸・山幸の話のように時間的に一気に行くことを想定している。あなたの名前はニヒタベで、ニヒタ(新田)を作ることは、ひたひたとニ(荷)に迫られること、借りたものは定めに従って返すものである(定めに従わずに受け取らないのもいけない)という言葉の「定義」の歌であった(注5)。一瞬のこと、例えば殯の晩に限ったことではなく、忘れられるまで背負い続けるのが名前である。

(注)
(注1)「日」、「月」が主語となって動詞ヒカルをいう例は見られないから、タカヒカルは「日」にかかっているのではなく「日の皇子」にかかっているとする説が宮本1986.にある。「赤玉は緒さへ光れど」(記7)、「夜光る玉といふとも」(万346)、「あしひきの山さへ光り」(万477)、「松浦川川の瀬光り」(万855)、「天雲に近く光りて鳴る神の」(万1369)、「あしひきの山下光る黄葉の」(万3700)、「内にも外にも光るまで降れる白雪」(万3926)、「わが妻離る光る神鳴はた少女」(万4236)と用例をあげていて本旨にも参考になる。ピカル(✨)時に用いられ、周りが明るい時には使われない。
(注2)タカヒカルからタカテラスへと推移したのには思想上の変化が背後にあったとする説が桜井1966.に見られ、稲岡1985.橋本2000.もタカテラスを君臨を表す語としている。タカテラスの「ス」を敬語と見て扱いに違いを見出すことは不可能ではないが、天皇の威光が大きく臣下を覆って君臨していることを強調する言葉がタカテラスであるとは考えられない。なぜなら、タカテラスは「日」を導く枕詞だからである。タカヒカルと聞けば、高く光っている、ああ、お日さまのことだ、タカテラスと聞けば、高く照らして周囲を明るくしている、ああ、お日さまのことだ、と思う。それを修辞句化して枕詞にしている。テラスは他動詞である。
 今日通説化しているように、「やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子」が常套句となっているのは、全体として天皇支配を翼賛する文句であって万葉の歌はおおむね政権側のアジテーションなのだと捉えようとしても、タカテラスが枕詞であることを忘れることはできない。声に出して歌われる時、聞き手は次は何と言ってくるかなと聞き耳を立てて待っている。全体を聞き流しているのではなく、発せられた言葉と次に来る言葉とに、その瞬間その瞬間に、その都度ごとに意識を集中させていると考えられる。
(注3)「高照らす日の皇子」という言い方が、天皇の直系継嗣と関係があるかのようにまことしやかに語られている。戦前の日本で「君が代」を歌う時のようなものと考えられているらしい。論評に値しない。
(注4)漢字「輝」の中国での字義から訓みが決定すると短絡してはならない。名義抄には、「輝 ヒカル」(僧下九九)、「煇 睴輝三正音渾又喗又暈又瑰 ヒカリ、フスフ、テル」(仏下末四四)と両用に訓まれている。日本語(ヤマトコトバ)を表すために漢字を使い、国字まで編み出している。
 歌は音声によって発せられ、その場で聞き取られるものである。その条件下に縛られずに議論のための議論に堕してはいけない。歌は祝詞ではない。大仰な文句をもって天皇やその継承者に対する讃辞、資格表現であると捉えると本質を見失う。タカヒカルやタカテラスは「」にかかり、アマテラスは「ひるみこと」にかかっている。一つ一つ別の言葉として個別具体的にあってそれぞれに使用されている。言語の意味とはその使用なのだから、そのことを無視して言葉を弄して勝手な思い込みを仮構しても、それは虚構である。
(注5)拙稿「「献新田部皇子歌」について」参照。

(引用・参考文献)
稲岡1973. 稲岡耕二「人麻呂「反歌」「短歌」の論─人麻呂長歌制作年次攷序説─」五味智英・小島憲之編『萬葉集研究 第二集』塙書房、昭和48年。
稲岡1985. 稲岡耕二『王朝の歌人1 柿本人麻呂』集英社、1985年。
門倉1989. 門倉浩「「獻新田部皇子歌」と表現主体」身﨑壽編『万葉集 人麻呂と人麻呂歌集』有精堂、1989年。(「「獻新田部皇子歌」と表現主体」『古代研究』第13号、昭和56年6月。)
門倉1999. 門倉浩「新田部皇子への献呈歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第二巻 柿本人麻呂(一)』和泉書院、1999年。
姜1997. 姜容慈「新田部皇子への献歌」『古典と民俗学論集─櫻井満先生追悼─』おうふう、平成9年。
桜井1966. 桜井満『万葉びとの憧憬』桜楓社、昭和41年。
橋本2000. 橋本達雄「タカヒカル・タカテラス考」『万葉集の時空』笠間書院、2000年。(「タカヒカル・タカテラス考」『萬葉』第142号、平成4年4月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1992
宮本1986. 宮本陽子「万葉集に於けるタカヒカル・タカテラス」『駒沢大学大学院国文学会論輯』14、昭和61年2月。
吉田1986. 吉田義孝『柿本人麻呂とその時代』桜楓社、昭和61年。

                              加藤良平 2024.9.2初出

万葉集の「そがひ」について

 万葉集に十二例見える「そがひ」という語は難解とされている。「うしろの方」の意であると単純に思われていたが、用例に適さないものがあり、「斜めうしろの方」という意などいろいろ使い分けられていると解されていた。しかし、万葉集以降見られなく語に複数の義があるのは不自然と思われ、一義的に理解されることが求められた。「遥か彼方」説(山崎氏)、「遥か遠く」説(池上氏)、「遠く離れてゆくイメージ」説(小野氏)、「漢語「背向」の翻訳語」説(吉井氏)、「正面から外れる方向の、向こうに離れて」説(西宮氏)などが提唱されている。諸説とも、そう思おうと思えばそう受け取れないことはないが、どれも歌によってはしっくり来ない点が残るものばかりである。
 筆者は、「そがひ」という言葉について、単語の語義しか考えていないところに不足を感じる。必ず助詞「に」を伴って動作の状態を表している(注1)と受けとれる点からして、複雑な含意を表すために用いられている語である可能性を予感させるし、万葉集中の言葉の使い方のなかには、言葉遊びともとれる修辞を駆使した言い回しが数多く見られるからである。
 検討のため用法別に列挙する。

「そがひに見つつ」
 武庫むこの浦を 漕ぎぶね 粟島あはしまを そがひに見つつ〔背尓見乍〕 ともしき小舟(万358、山部赤人)
 …… 佐保さほかはを 朝川あさかは渡り 春日かすがを そがひに見つつ〔背向尓見乍〕 あしひきの やまを指して ……(万460、大伴坂上郎女)
 …… あまさがる ひなくにに ただ向かふ あはを過ぎ 粟島あはしまを そがひに見つつ〔背尓見管〕 朝なぎに 水手かこの声呼び 夕凪に かぢの音しつつ ……(万509、丹比真人笠麻呂)
 …… とのぐもり 雨の降る日を がりすと 名のみをりて しまを そがひに見つつ 二上ふたがみの 山飛び越えて 雲がくり かけにきと 帰り来て ……(万4011、大伴家持)
 大君おほきみの みことかしこみ 於保おほの浦を そがひに見つつ〔曽我比尓美都々〕 都へのぼる(万4472、安宿奈杼麻呂)

「そがひに見ゆる」
 なはの浦ゆ そがひに見ゆる〔背向尓所見〕 沖つ島 漕ぎる舟は つりしすらしも(万357、山部赤人)
 やすみしし わご大君の 常宮とこみやと 仕へ奉れる さひ賀野がのゆ 背向そがひに見ゆる〔背匕尓所見〕 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波さわき ……(万917、山部赤人)
 此間ここにして そがひに見ゆる〔曽我比尓所見〕 わが背子せこが かきの谷に 明けされば はりのさ枝に 夕されば 藤のしげみに ……(万4207、大伴家持)
 朝日さし そがひに見ゆる〔曽我比尓見由流〕 かむながら 御名みなばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま 冬夏と くこともなく 白栲しろたへに 雪は降り置きて ……(万4003、大伴池主)
 つく波嶺ばねに そがひに見ゆる〔曽我比尓美由流〕 あしやま しかるとがも さね見えなくに(万3391、東歌)

「そがひにしく」
 わが背子を いづ行かめと さき竹の そがひにしく〔背向尓宿之久〕 今しくやしも(万1412)
 いとし妹を いづ行かめと 山菅やますげの そがひに寝しく〔曽我比尓宿思久〕 今し悔しも(万3577、防人歌)

 ソガヒはソ(背)+ムカヒ(向)の約とする考えは説得力があり、それが原義であろう(注2)。そこから、背中合わせ、後ろの方の意であると捉えられていた。ところが、「そがひに見つつ」の場合はそれで意が通っても、「そがひに見ゆる」や「そがひに寝しく」の例では文意に合わないと感じられた。そこで、三種の用法を包括する意として、遠く離れた、といった類の意とする説が提出されたのである。近年の用語解説でも、「そがひ」はもともと「背を向けて」の意であったが、物理的な意味から心理的意味合いへと拡張し、さらに物理的、心理的距離感を表すようになったとする説(大浦氏)へとまとめられている。
 ソ(背)+ムカヒ(向)の約であるとする考えはわかりやすい。ところが、その語釈からどんどん離れて行き、ときには否定してしまうところまで展開してしまっている。吉井氏が翻訳語説を提唱するに至ったのも、収束する一点を見出そうとした試みなのだろう。諸説は皆、検討の前提段階で陥穽におちいっている。「そがひ」の語義を一義に収めるために、それぞれの歌の解釈は既定のもので正しいとして出発している。しかし、どうか。「そがひ」の用例は少ない。つまりは、当時の人にとってもあまり馴染みある言葉ではなかっただろう。そんななか、「そがひに見つつ」と「そがひに見ゆる」といったわずかな言い違いで語義が定まりにくくなることはない。かと言って、珍しい「そがひ」という言葉が、遠く離れた、のような語義であっては語構成を辿ることができず、初耳の万葉人は理解できないだろう。無文字時代の人が言葉を使うときには音だけが頼りなのだから、音から言葉の意味を直接、肌感覚として理解できなければならない。理解できなければ伝わらず、それはすなわち、言葉として成り立っていないということである。けれども、「そがひ」という言葉は現に使われていた。
 山部赤人の連作のなかに二つのタイプの「そがひ」が現れる。

 なはの浦ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 漕ぎる舟は つりしすらしも(万357)
 武庫むこの浦を 漕ぎぶね 粟島あはしまを そがひに見つつ ともしき小舟(万358)

 現代の研究者は、二例目は武庫の浦で粟島を後ろに見ながら小舟が進むことを表してわかるとしつつ、一例目で縄の浦から沖つ島を漕いで回っている舟を見たら方向としては後ろに当たらないと思い、議論の俎上にあげている。同じ時に歌われた歌のなかの同じ言葉は、ほぼ同じ意味で使われていると思われるからである。だが、今日の議論は、歌の解釈を含めて誤っている。現在通行している釈として、多田2009.の現代語訳を引用する。

 縄の浦から対向に見える沖の島、そこを漕ぎめぐっている舟は釣りをしているらしいことだ。(万357)
 武庫の浦を漕ぎめぐっていく小舟。妻に逢うという粟島を背に見ながら、うらやましくも漕いでいく小舟よ。(万358)(293頁)

 「遥か彼方」と訳し変えてみてもかまわないのだが、それで歌意は汲めているだろうか。
 「そがひ」が背後に見るという意味で問題なく通じる万358番歌においても、「小舟」を故郷の大和の方向へと漕いでいく船とする説と、地元の漁船とする説とに分かれている(注3)。「粟島あはしま」は妻に「ふ」ことへの連想を指摘する説は根強くあるが、それはおかしい。
 アハシマはアハとあるのだから、アハズ(逢はず)の意に通じると見るべきである。万358番歌に「小舟」は二度も出て来ている。直前の万357番歌の「舟」と同じで、地元の漁船のことを言っている。万357番歌の様子からしても、赤人が都の妻に逢うかどうかという意を差し挟んでいる歌とは考えがたい。漁民の仕事と「そがひ」という言葉をモチーフにして詠まれた歌であると定位される。
 万358番歌の、「武庫むこの浦を漕ぎ廻る小舟」とは、同音のムコ(婿、コは甲類)(注4)が通い婚で毎日のように夜這いに来ていることを表し、「粟島あはしま」という逢わないことと関係する島と無関係であることを言っている。毎日のように通いに来ることができて羨ましいなあ、というのである。「粟島あはしま」を背にしたまま、決して目指すことも近づくこともなく、ムコ(婿)であることを続けたいがために武庫の浦で漕ぎ廻っていると見立てている。ラブラブですね、ごちそうさま、と言っている。

左:地引網図、右:船釣り図(広重・六十余州名所図会・上総・矢さしか浦通名九十九里、嘉永6年、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1308321、同・土佐・海上松魚釣、安政2年、同https://dl.ndl.go.jp/pid/1308360をそれぞれトリミング)

 万357番歌でも同様の譬喩が行われている。「沖つ島漕ぎ廻る舟はつりしすらしも」と「なはの浦」とは無関係であり、背反したことが行われていると言っている。沖合にある島のまわりを漕いで廻っている舟では船釣りがされているらしいと推量している。一方の「なはの浦」で行われているであろうことといえば、縄を引く地引網漁であろう。両者の関係は、同じく魚を捕ることでありながら正反対のことである。だから、背中合わせを意味する「そがひ」という言葉が使われている。「そがひ」という言葉を使うことで、どこが背中合わせの背反事項なのか、聞く人の興味を誘っている。謎掛けがおもしろいから歌として作られ、知的好奇心を満足させている。赤人の歌は叙景歌ではなく頓智歌である(注5)
 「そがひ」という言葉の意味はすでに明らかとなっている。原義としては、ソ(背)+ムカヒ(向)の約と考えて間違いない。ただし、それを二者の物理的、心理的方向の関係を指す語とのみ捉えるのは浅はかである。背を向けるとは対象が背後になることばかりでなく、全体の状況として、背反し裏腹な関係になることでもある(注6)。そこまで表しているのが「そがひ」という言葉である。歌の高度な修辞法に巧みに採り入れられている。
 裏腹感を強調した用法は、「そがひに寝しく」がよく表している。

 わが背子を いづ行かめと さき竹の そがひにしく 今しくやしも(万1412)
 いとし妹を いづ行かめと 山菅やますげの そがひに寝しく 今し悔しも(万3577)

 万1412・万3577番歌は挽歌である。後者は、いとしい妻は他の男のところへなど行くことはないだろうと安心して、慢心して、背を向けたまま夜を過ごした。ところが、あれよあれよという間にあの世へ逝ってしまった。その女歌バージョンが前者である。「さき竹の」や「山菅の」が「そがひ」の枕詞となっている(注7)。山菅はスゲの仲間のうちで丈高く伸びるもの、細工物にする材料のスゲを指したのであろう。用途として真っ先に思いつくのは菅笠である(注8)。編まれた大きな菅笠は、頭部ばかりでなく体全体を覆うことができた。すなわち、日差しも雨も防ぐことができ、晴雨両用に用いられた。どう転んでもうまくいくだろうと思って背を向けて寝たのであった。ところが、起きてみると天気は晴れでも雨でもなく、曇りだった(注9)。笠は役目を果たさず背負い持って行くこととなった。荷物が増えてしまった。愚の骨頂である。思惑とは状況が違背していた。想定していたのとは裏腹な天気だったのである。よって、「そがひ」を導き出すのに用いられている。「さき竹」の用途も笠であろう。竹を細く削り割いたものだから、網代に編んで笠にした。「さき竹」は樋に使うような「割り竹」ではない。
 それら枕詞のおかげで「そがひに寝しく」という句は際立ってくる。二人は仲良しであった。仲良しだったがその晩は仲良しをしなかった。背を向けて寝たけれど仲違いしてなどいない。気持ちとは裏腹なことであった。「そがひに寝しく」という言葉のなかに、「そがひ」という語の意味を自己循環的に二重に込めた使い方をし、結果的に笠に期待していたことが外れるという裏腹な事態に陥っていることを表している。高度なレトリックである。

 大君おほきみの みことかしこみ 於保おほの浦を そがひに見つつ 都へのぼる(万4472)

 万4472番歌は、「八日に、讃岐守さぬきのかみ安宿王あすかべのおほきみたちの、出雲掾いづものじよう安宿あすかべの奈杼麻呂などまろの家に集ひて宴せる歌二首」の最初の歌である。出雲に赴任していた安宿奈杼麻呂が帰ってきたので宴を開き、その場で歌われたものとされる。出雲国に「於保おほの浦」というところがあったようである。勅命で於保の浦を背にして都へ上ると言っている。言葉を逐語的に考えるなら、オホ・・キミの命令は本来、オホ・・ノウラへ行け、居ろ、というもののはずである。ウラ(浦)という言葉はウラ(心)と同音だから、「大君おほきみみこと」の心意は、オホのウラでなくてどうすると一瞬思った。だけれども、背を向けて帰ることは言葉の上で裏腹な状況になるのだから、「そがひ」の一語にまとめ上げることができる。なるほど天皇の命令は「かしこ」いことだ、と頓智解釈を披露している(注10)

 つく波嶺ばねに そがひに見ゆる あしやま しかるとがも さね見えなくに(万3391)

 万3391番歌は東歌で、地名の語呂に基づいた頓智の歌である。ツクバネとは羽根突きのこと、通常、身体の前で羽根を突くものである。背面で操作することは、バドミントンでさえよほどの上達者以外には見られない。この歌では体の後ろ、背中側で羽根を突くことが思考実験され、言葉遊びをしている。ふつう硬い板を使って羽根を突くところ、アシホという名の示す葦の穂のような柔らかなもので突くことなんて、まるで体の後ろ側で羽根突きをするのと同じことだと譬えているのである。何か悪いことをしたわけでもないのにハンディを負った罰ゲームを強いられているが、その理由は見られないのに、と嘆いている。譬喩で体の後ろ側のことにしているが、それはまた、ちゃんと羽根突きをしようと思っている相手に対して違背する状況でもある。ちゃんと対峙してよ、アシホヤマさん、ということである。その二つの意味を重ね合わせて「そがひ」という言葉で表している。
 以上、「そがひ」という言葉の使われ方について、短歌六例に限り瞥見した。見てきたように、「そがひ」は二者の関係を言う言葉でありながら、「そがひに」は二者の関係を言いながら全体状況に対する譬喩表現を担うことになっている。論理学に長けた人たちの使う高等言語であり、語義を平板に定めて歌意(文意)を理解しようと努めても解決には至らない。現代では行われることのない言葉づかいが上代に行われており、多くの論者がさまざまな語義説をくり出しても釈然としないところが必ず残るのはその所為である。巧みな修辞術のアイテムとして機能している言葉であり、万葉時代のものの考え方を深く知る上でこの上ない素材である。他の六例はみな長歌である。「そがひ」という言葉がそれらの歌全体の意味合いを左右する肝となっているものと思われ、個々の歌を詳しく検討する必要がある。それぞれの文脈のなかでどのように状況が裏腹になっているかが課題である。後考を俟つ。

(注)
(注1)次の例では、「しなふ(撓)」の連用形名詞に助詞「に」がつき、姿態のしなやかなさまを萩の木の茂りたわみ靡く様子に譬えている。

 ゆくりなく 今も見がし 秋萩の しなひにあらむ いもが姿を(万2284)

(注2)「ソガヒはソキアヒ(離き合ひ)の縮約形であり、互いが離反する、背反する、対峙する意である」(坂本1980.49頁)とする異説も見られる。ただ、ソク(離、退)は離れる、遠のく、の意の自動詞で、アフ(合)を連接させることは考えにくい。
(注3)解釈史、ならびに万葉集の「小舟」についての詳細な解説は、坂本2008.参照。
(注4)母音交替形の「もこ(婿)」のコは甲類であることが、「聟 毛古もこ、又加太支かたき」(新撰字鏡)から知られている。
(注5)赤人歌を叙景にすぐれた歌とする理解はいまだ蔓延しているが、例えば、知らない土地の景色を巧みに言い回した歌が披露されたとしても、ツーリズムとは何かさえ知らずに暮らしている人たちの心に響くはずはないだろう。すなわち、アララギ派が赤人歌に見たものとは、端的に言えば、近代ツーリズムに洗脳された理解でしかなかったのである。そしてまた、歌枕的な解釈をもって理解しようとする試みも、平安時代に成立、定着した文学、文芸を前提に据えたもので、時代考証に錯誤がある。中古以降の文学、文芸は、書かれた歌、描かれた絵など、記録物を媒介としている。基本的に無文字の社会に生きた上代人は、視覚に頼ることなく聴覚のみですべてを掌握しようと努めた。ヤマトコトバのシステムである。舶来の新技術もことごとくヤマトコトバに作られ、今となってはどうやって考え出したのだろうと不思議に思う言葉が目白押しになっている。伝来した織物技術として、ハタ(機)、ヒ(梭)、仏教関係でいえば、ホトケ(仏)、テラ(寺)、焼成品なら、カハラ(瓦)、スヱノウツハモノ(陶器)といった言葉が作られている。いわゆる和訓として認められ、ヤマトコトバとしてあたかももとからあるような顔をして使われている。言葉を声に出して言ったとき、それだけで何を言っているのかすべてをわかり合える世界、それが上代の言語空間であった。
(注6)その点、ソムク(背)という語と一脈通じていると言えよう。「素直に考えれば、後ろに見るという行為は、そもそも論理的に成立し得ない。」(永藤2009.134(5)頁)という考え方をしていたら、なぞなぞは一問も解けないだろう。
(注7)藤田2011.は、「さき竹」、「山菅」について自然観察の結果とする説を唱えている。自然科学的観点は、上代の人に行われていたことが皆無であったとは言わないが、多くの人に認められなければ言葉として成り立たない。タケやスゲが倒れていることなど知ったことではないのである。
(注8)ヤマスゲ(山菅)と歌に詠まれるとは、言葉として確固たるものと認められていたということである。クサ(草)から範疇としてヤマスゲを析出したことは、人々にとって意味あるものとして言語化する営みが行われたということである。植物学などない時代、人は利用するために自然を見ている。「ある語の意味とは、言語におけるその語の使用である。(Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache.)」(L.Wittgenstein, Philosophische Untersuchungen §43)という説法(erklären)は箴言のようにいくらでも応用が利く。
(注9)死者を雲に見立てる発想は万葉集中に見られ、死ぬことを「雲隠くもがくる」とも言った。
(注10)このような使い方が行われていることから考えると、言葉の論理学に通じる人たちにとっては、「そがひ」という言葉は興味深いものとして歓迎されていたのではないかと感じられる。万葉歌は、いかにレトリックを駆使するかという側面も有していたから、当時歌を作りたがる人にとっては格好の言葉であったかも知れない。

(引用・参考文献)
池上1986. 池上啓「ソガヒについて」『学習院大学上代文学研究』第11号、1986年3月。
大浦2014. 大浦誠士「そがひ【背向】」多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
小野1979. 小野寛「「そがひに」考」『論集上代文学 第九冊』笠間書院、昭和54年4月。(『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。)
垣見2012. 垣見修司「そがひ追考」『高岡市万葉歴史館紀要』第22号、2012年3月。
坂本1980. 坂本信幸「赤人の玉津島従駕歌について」『大谷女子大学紀要』第15号第2輯、昭和55年12月。
坂本2008. 坂本信幸「山部宿祢赤人が歌六首(巻3・三五七〜三六六)について」萬葉語学文学研究会編『萬葉語文研究』第4集、和泉書院、2008年12月。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
西宮1992. 西宮一民「上代語コトムケ・ソガヒニ攷」『皇学館大学』第30輯、平成4年1月。(『古事記の研究』おうふう、1993年。)
永藤2009. 永藤靖「万葉・「ソガヒに見る」考」『文化継承学論集』第5号、明治大学大学院文学研究科、2009年3月。
中村1989. 中村宗彦「「越中立山縁起」・「そがひに見ゆる」考」『天理大学学報』第160輯、平成元年2月。
藤田2011. 藤田富士夫「万葉集の「そがひ」に関する若干の考察」『人文社会科学研究所年報』第9号、敬和学園大学、2011年5月。敬和学園大学機関リポジトリ https://keiwa.repo.nii.ac.jp/records/701
藤田2012. 藤田富士夫「万葉集「敬和立山賦」の「そがひ」に関する実景論的考察」『人文社会科学研究所年報』第9号、敬和学園大学、2012年。敬和学園大学機関リポジトリ https://keiwa.repo.nii.ac.jp/records/720
古舘2007. 古舘綾子「「そがひに見ゆる」考─赤人紀伊国行幸歌を中心に─」『大伴家持 自然詠の生成』笠間書院、2007年。
山崎1972. 山崎良幸「「そがひに見ゆる」考」『万葉歌人の研究』風間書房、昭和47年。
吉井1981. 吉井巌「万葉集「そがひに」試見」『帝塚山学院大学日本文学研究』第12号、昭和56年2月。(『万葉集への視角』和泉書院、1990年。)

加藤良平 2024.8.28初出

万3・4番歌、狩りの歌と舒明天皇即位について

万葉集3・4番歌

 中皇命なかつすめらみことの狩りの歌は、長歌と反歌の二首によって構成される。ここに見える「天皇」とは舒明天皇のことである。「宇智の野」は現在の奈良県五條市付近の野という。以下、原文、読み下し文に加え、現代語訳を多田2009.から引用する。

  天皇遊獦内野之時中皇命使間人連老献歌
 八隅知之我大王乃朝庭取撫賜夕庭伊縁立之御執乃梓弓之奈加弭乃音為奈利朝獦尓今立須良思暮獦尓今他田渚良之御執能梓弓之奈加弭乃音為奈里
  反歌
 玉剋春内乃大野尓馬数而朝布麻須等六其草深野

  天皇すめらみこと宇智うちの野に遊獦みかりしたまひし時に、中皇命なかつすめらみこと間人連老はしひとのむらじおゆをしてたてまつらしめたまへる歌やすみしし 大君おほきみの あしたには 取りでたまひ ゆふへには いり立たしし みらしの あづさの弓の 中弭なかはずの おとすなり あさりに 今立たすらし ゆふりに 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり(万3)
  反歌
 たまきはる 宇智うちおほに 馬めて 朝ますらむ その草深くさふか(万4)

  (舒明)天皇が宇智野で薬猟くすりがりをなさった時に、中皇命が間人連老に命じて献上なさった歌
 あまねく国土を支配なさるわが大君が、朝には手に取ってお撫でになり、夕には寄り添ってお立ちになった、ご愛用の梓の弓の中弭の音が響いてくるのが聞こえる。朝の猟りに今お立ちになるらしい。夕の猟りに今お立ちになるらしい。ご愛用の梓の弓の中弭の音が響いてくるのが聞こえる。
 霊魂のきわまるうち、その宇智の荒野に馬を連ねて、この朝踏み立てておいでになるのでしょう。その草深い野よ。(16~17頁)

 今日まで、多く議論されている点は、「中皇命」とは誰のことを言っているのか、「中弭」とは何のことなのか、の二点である。もう一つの疑問点は、「使間人連老献歌」という煩わしい言い回しである。これは左注ではなく題詞である。当初から、歌の歌われる設定として、必ずそうでなければならなかった条件が示されている。その点についての理解は行き届いていない。
 「中皇命」については、万10・11・12番歌の題詞にも登場する。その左注に、「右は、山上憶良大夫の類聚歌林をかむがふるに曰はく、「天皇の御製の歌なり云々」といふ。」とある。皇極・斉明と重祚した天皇で、この時点では夫君の田村たむらの皇子みこが舒明天皇として即位し、皇后の地位に就いたたからの皇女ひめみこのことと考えられる。万3番の長歌は、構造上、繰り返しや対句表現、枕詞に始まる常套句が多く、宮廷歌謡の影響が指摘されている。たいへんよく似たものとして指摘されるのは、雄略記の歌謡である。

 やすみしし が大君の あさには い寄りたし ゆふには い寄り立たす 脇机わきづきが下の 板にもが 吾背あせを(記104)

 意識的に真似したとも考えられており、宮廷寿歌と献歌とが似通った性格をしているからともいう。ただ、この歌は恋心を歌った歌である。歌ったのは「春日かすが之袁杼比売のをどひめ」という采女である。采女は、天皇の側近くに仕え、給仕や着替えなどの身の回りの世話をした下級の女官である。地方豪族が姉妹や娘などを朝廷に貢物の如く進上し、服属した証としての人質の性格も有していたとされている。養老令・後宮職員令に、「凡そ諸の氏は、氏別ににょせよ。皆年三十以下十三以上を限れ。氏の名に非ずと雖も、自ら進仕せむことねがはば、ゆるせ。其れ采女貢せむことは、郡の少領以上の姉妹及び女の、形容かたち端正きらぎらしき者をもちてせよ。皆中務省に申して奏聞せよ。」(原漢文)とある。いずれにせよ、女性が男性に対して、それも天皇に当たる人に対して歌った歌である点が共通点である。

中弭の謎掛け

 「中弭」という語は未詳とされている。弓の両端の弦をかけるところを筈といい、射る時に上になる方を末筈うらはず、下になる方を本筈もとはずという。弓の筈と弦とが合うことから、当然のこと、道理、わけの意にも使われる。しかし、中弭なる語は他に見られない。そこで、弓束の半ばの握りの部分に儀礼用の鈴か何かがつけてあったとする説(新大系文庫本)、原文の「奈加弭」は文字の転倒で金筈のことではないかとする説(吉永登)、鳴弦の音とする説(契沖、窪田空穂)、中仕掛けがあって鞆と当たって音を発するとする説(吉村誠)、弩弓の弩牙にあたるとする説(井出至)、特に気にかけないで単なる発射音とする説(福沢健)などが行われている(注1)。しかし、ハズという言葉は自明の理を表す。したがって、それらの臆説は道理にかなわない。当時の人々にとって、十分に得心のいく説明があり、そのとおり、そのはずだ、と理解されていたと考えられる。言葉が自己循環的、自己言及的に自らを規定するから誰もが納得する。解かれた時になるほどとわかるもの、今日でいえばなぞなぞに当たるものが隠されていたのであろう。
 万3・4番歌は、過去に歌われた歌の内容だけでなく、歌の歌われた状況をも巧みに使って何かを言おうとしている。二つの歌に非常によく似た出だしのワンセットの歌が仁徳紀に見える。河内の人が、雁が卵を産んだと言ってきた。雁は渡り鳥で、越冬のために列島を訪れても繁殖することはない。

 天皇すめらみこと、是に、みうたよみして武内たけしうちの宿禰すくねに問ひてのたまはく、
 たまきはる 内の朝臣あそ こそは 世の遠人とほひと 汝こそは 国の長人ながひと あきしま やまとの国に かりむと 汝は聞かずや(紀62)
 武内宿禰、かへしうたしてまをさく、
 やすみしし 我が大君は うべな宜な われを問はすな 秋津嶋 倭の国に 雁産むと 我は聞かず(紀63)(仁徳紀五十年三月)

 武内宿禰の答えは、わが大君よ、よくぞ私に聞いてくださった、倭の国で雁が卵を産むとは一度も聞いたことがございません、というものである。
 これが何の話なのかは紀だけではわからない。当該部分を記に見ると、内容的にはほとんど同じ問答が繰り広げられ、その後に建内宿禰が御琴をいただいて歌った歌が付け加えられている。

 御子みこや つひに知らむと 雁は産むらし(記73)

 我が御子様よ、永遠にこの国をお治めになるという瑞祥として、雁が卵を産んだのでございましょう。太安万侶は、これを「本岐ほきうた片歌かたうた」、すなわち、寿ぎの歌の短いものであるとコメントをつけている。
 むろん、この話は言い伝えであり、科学的根拠などあろうはずもない。当時の人は、珍しい話があると良い兆候と考えていた。後の大化改新政府でも、しろきぎすが献上されたら瑞祥であると喜び、孝徳天皇は白雉と改元している。白雉元年二月条には、高麗、中国の例や、応神・仁徳天皇のときに現れたという白烏しろきからす竜馬りゆうめの話を持ち出し皆で盛り上がっている記述が載る。記73歌謡の「御子みこや」の部分を、あなたの御子様たちが、というように、系譜が続くという解釈もあり得はする(注2)が、それでは瑞祥の瑞祥たる珍しさが合理的な解釈に通じてしまいおもしろくない。日本書紀にその歌を載せないのは、中国の史書を手本に歴代の天皇を編年体で書こうとした書物だから、瑞祥どおりに永遠に仁徳天皇の時代であっては困るものとして、言い伝えで伝わっていた言寿ぎの部分が割愛されたものと思われる。
 登場していた武内宿禰という人は記紀に活躍が記録されている。言い伝えの内容を総合すると、歴代の天皇の側近くに仕えた忠臣で、特に神事において霊媒者の役割を果たし、とても長寿を保ち、紀では300歳ぐらいまで生きたことになっている。この伝承の人物については、七世紀になってから有力豪族の手によって架空されたものであるとも、また、そうではないともいろいろ指摘されている。伝承とは、いろいろな人の口が加わったものである。おそらく、現在だけでなく初期万葉の時代にも、正確なことはわからず、伝承を伝承として受け取っていたものと思われる。ポイントは「武宿禰」、「の朝臣」とあるウチについて、内廷に近侍する「内臣うちつおみ」に関係している点、また、宇智うちという地名と関連すると考えられたことである。
 万3・4番歌の作者は、武内宿禰の伝承を受け、それに準える形にした。題詞から宇智の野で狩りをしていたのは事実であろう。「宇智」は武内宿禰にゆかりの地である。それをヒントに歌が構想された。当然、歌は、天皇と長老との間で交わされなければならない。そこで「間人連老」なる人物に託されている。この人は、孝徳紀白雉五年二月条に載る「中臣間人なかとみのはしひとのむらじおゆ」、第三回遣唐使の「判官まつりごとひと」にあたると推測されている。当人が高齢であったかどうかはわからないが、武内宿禰のような長老を思わせる「老」という名前であった。
 天皇と武内宿禰の問答では雁の卵の話がテーマになっていた。長老も聞いたことがない謎の出来事である。中皇命の歌において謎に当たるのが「中弭」である。弭は弓の両端に弦をかける部分を指す。二箇所でとめるものだから中弭なるものは存在しない。狩りに使う弓において中弭は、雁が卵を産むことが知られないようにないのである。
 歌を献上された舒明天皇としても最初は耳を疑ったことであろう。いきなり袁杼比売の歌のパロディーで愛を告げられているかと思えば、中弭などと奇妙なことを言っている。中に弭などない筈である。ところが、その音がはっきり聞こえると歌っている。曰くありげに「中弭の 音すなり」と、五・五音が続いて目立つようになっている。ほかはきれいに、五・七・五・七と続いている。怪訝な顔をしながらもそのまま聞き流して行った。天皇の表情の変化を見て取った間人連老は、笑みを浮かべながら歌い続けた。一曲目が終わり二曲目に入る。タマキハルウチノと聞いて、一曲目にあったヤスミシシワガオホキミノが思い出されたことだろう。そう、これは狩りの歌ではなく、言い伝えに聞く雁の卵の話なのだと。
 大意は、愛しい我が大君が、朝には手に取って撫で、夕方には側に立ってポーズを決めていらっしゃった、御愛用の梓の弓の、この世にあるはずもない中弭の音がはっきりと聞えます。朝方の狩りを今なさっているらしいその時です。宵の口の狩りを今なさっているらしいその時です。御愛用の梓の弓の、この世にあるはずもない中弭の音がはっきりと聞えますのは。これは言い伝えに聞く雁の話同様、瑞祥でございましょう。
 武内宿禰の雁の卵の話では、仁徳天皇の永遠の治世を示す瑞祥であると語られていた。中皇命の狩りのときの中弭の話では、宝皇女の夫である田村皇子、後の舒明天皇の即位を促す歌で、豪族たちの信任の厚いことを語り、説得しているのである。コロンブスの卵の話は、即位の前に歌われている。
 新撰字鏡に、「弭 ゆみ波受はず」、「箭筈 也波受やはず」、和名抄に、「弓 四声字苑に云はく、弓〈音は弓、由美ゆみ〉は箭を遣る所以の器なりといふ。釈名に云はく、弓の末は彇〈音は蕭、由美波数ゆみはず〉と曰ひ、中央は弣〈音は撫、由美都賀ゆみつか〉と曰ふといふ。」、「箭 釈名に笶〈音は矢、〉は其の体を簳〈音は幹、夜賀良やがら〉と曰ひ、其の旁を羽〈去声〉と曰ひ、其の足を鏑〈的の音〉と曰ふといふ。或に之れを鏃〈子毒、楚角、才木三反、訓は夜佐岐やさき、俗に夜之利やじりと云ふ〉と謂ふ。唐韻に云はく、筈〈古活反、夜波須やはず〉は箭の弦を受くる処なりといふ。」とある。

推古天皇の後継者争い

 推古天皇が亡くなったのは、推古三十六(628)年三月七日、亡骸を陵墓に葬ったのは九月二日である。紀には、葬礼が終った後、大臣のがの蝦夷えみしが豪族たちを集め、自宅でパーティーを開いたと記されている。その席上、次期天皇のことを話題に取り上げた。それまでにも蘇我蝦夷は豪族間を説いて回って多数派工作をし、山背大兄王やましろのおほえのみこではなく田村皇子を擁立しようと画策している。そして、への麻呂まろに天皇の遺言を発表させ、列席者たちの意見を訊いている。

 ……天皇すめらみこと臥病みやまひしたまひし日に、田村皇子にみことのりしてのたまひしく、「天下あめのしたおほきなるよさしなり。本よりたやすく言ふものに非ず。いまし田村皇子、慎みてあきらかにせよ。おこたらむこと不可まな」とのたまひき。のちに山背大兄王に詔して曰ひしく、「いましひと喧讙とよきそ。必ずまへつきみたちことに従ひて、慎みてたがふな」とのたまひき。則ち是天皇の遺言のちのおほみことなり。……(舒明即位前紀)

 抽象的で、道徳を述べているばかりに感じられ、白黒はっきりしていない。群臣たちの反応も鈍く、なかなか発言しようとしなかった。結局、田村皇子を擁立すべきとの意見と、山背大兄王がふさわしいという意見とに割れてしまった。田村皇子を推したのは、蘇我蝦夷、阿倍麻呂のほか、おほ伴鯨とものくぢら采女うねめの摩礼志まれし高向宇たかむくのう中臣弥なかとみのみ難波なにはのざし、山背大兄王を支持したのは、勢大せのおほ麻呂まろ佐伯さへきのあづまひと紀塩きのしほ、中立の立場をとったのが、我倉がのくら麻呂まろであった。
 「遺詔のちのみことのり」の直接の記事としては、田村皇子と山背大兄王の二人に語られている。亡くなる前の日のことである。田村皇子には、

 天位たかみくらに昇りて鴻基あまつひつぎをさととのへ、万機よろづのまつりごとしらして黎元おほみたから亭育やしなふことは、本よりたやすく言ふものに非ず。恒に重みすることなり。かれいまし慎みてあきらかにせよ。かるがるしく言ふべからず。(推古紀三十六年三月)

山背大兄王には、

 いましきもわかし。し心に望むといふとも、とよき言ふことまな。必ずまへつきみたちことばを待ちて従ふべし。(推古紀三十六年三月)

と言ったとある。やはり、曖昧な内容である。群臣の推挙がなければ天皇の位に就くことができなかったことを指すものでもあろう。また、古代史上、群臣たちが次期天皇を推挙していたのはこの時が最後である。山背大兄王は、斑鳩宮にあって、境部さかひべの摩理勢まりせ三国みくにのおほきみ桜井和さくらゐのわ慈古じこらとともに、自らが次期天皇になるものだと早合点していたようである。推古天皇から自分が聞いたとする「遺詔のちのみことのり」は次のように受けとられている。

 われ寡薄いやしきみを以て、久しく大業あまつひつぎいたはれり。今暦運きなむとす。以てやまひむべからず。故に、いまし本より心腹こころたり。めぐあがむるこころたぐひをすべからず。其れ国家みかど大基おほきなることは、是朕が世のみに非ず。本よりつとめよ。汝肝稚しと雖も、慎みて言へ。(舒明前紀)

 蘇我蝦夷一派が検閲し、部分的に割愛して阿倍麻呂が豪族たちに公表したようである。推古天皇の違勅を実際に聞いたのは、二人の皇子と中臣弥気、側近くに仕えた女性たちであった。
 係争はもっぱら蘇我蝦夷大臣と山背大兄王の間の駆け引きとなる。両者は伯父と甥の関係にあった。それでも、蘇我蝦夷にとっては、聖徳太子の息子である山背大兄王が天皇になることを嫌った。自分の意、ならびに豪族の意に沿った振る舞いをする人物が好まれた。天皇親政では困るというのが多くの豪族たちの考えであったに違いない。それは、飛鳥と斑鳩の距離の離れ方にも表れている。田村皇子は控えめな性格であったと見える。即位の記事には、形式的にせよ、いったんは辞退する言葉を発している。

 大臣おほおみ群卿まへつきみたち、共に天皇すめらみこと璽印みしるしを以て、田村皇子に献る。則ちいなびて曰はく、「宗廟くにいへ重事おもきことなり。寡人おのれ不賢をさなし。何ぞ敢へて当らむ」とのたまふ。(舒明紀元年正月)

 時に我馬がのうまの葬礼があった。二年ほどかけて作った大きな墳墓、現在、石舞台古墳と呼ばれている墓に納体し、参列した人は墓の近くのいほに一晩宿っている。物忌みの行事である。孟子・滕文公章句上に、厳格な儒者の話として、「五月廬に居り、未だ命戒有らず。(五月居廬、未有命戒。)」とある。馬子は一族の首領であったから、蘇我系の諸族の人々が多数参加した。そのとき、境部摩理勢は自分の廬を壊して逃げて行った。蘇我蝦夷は、父親の馬子が侮辱され、自ら倭国に導入した斎宿の儀式も軽蔑されたと感じただろう。
 境部摩理勢と蘇我蝦夷との仲は険悪になった。この両者も叔父と甥の間柄にあったが、皇位継承問題が蘇我氏の内輪揉めの様相を呈してゆき、結局、境部摩理勢は蘇我蝦夷に滅ぼされた。境部摩理勢の長子、毛津けつは尼寺に隠れた。尼僧と情事を重ねていたら、相手にされない尼僧が嫉妬して告発した。追手が来てうねやまに逃げたが包囲され、自害した。「時の人」の歌が舒明即位前紀に記されている。

 畝傍山 立薄たちうすけど 頼みかも 毛津のわくの こもらせりけむ(紀105)

 畝傍山は隠れる木立も少ないのに、それでも頼みにして、毛津の若様は籠もっておられたのであろうか、という意味である。実際の畝傍山に木が少ししか生えていなかったらしいところから、山背大兄王派の無勢をも頼って滅んだ境部一家への同情、揶揄が込められているとされている。万4番歌にあった、「馬並めて」という表現が、「木立薄」と対照的なことがわかる。それはまた、山背大兄王の頭髪が薄かったことからの比喩でもあろう(注3)。皇極紀二年十一月条に、「山背王やましろのみこ頭髪みぐし斑雑毛ふふきにして山羊かまししに似たるに喩ふ。」とある。
 また、今日までほとんど触れられていないが、「畝傍山」については、ウネビとウネメとの音の近似性による洒落が考えられる。

 ここに新羅人、恒に京城みやこほとり耳成山みみなしやま・畝傍山を愛づ。則ち、琴引坂ことひきのさかに到り、顧みて曰はく、「宇泥咩巴椰うねめはや弥弥巴椰みみはや」といふ。是未だ風俗くにひと言語ことばを習はず。故、畝傍山をよこなばりて宇泥咩うねめと謂ひ、耳成山を訛りて瀰瀰みみと謂ひしのみ。時に倭飼部やまとのうまかひべ、新羅人に従ひ是のことばを聞きて、疑ひて以為おもへらく、新羅人、采女にたはけたりとおもふ。(允恭紀四十二年十一月)

 推古天皇の山背大兄王への遺勅を実際に聞いたのは、田村皇子、中臣弥気、栗下女王くるもとのひめみこ、ほかに采女八人ほどの計十人ぐらいしかいない。中臣弥気、栗下女王が蘇我蝦夷の推す田村皇子派についてしまえば、最後の頼みは采女である。その采女も、多くが蘇我蝦夷側についてしまって本当のことを証言してはくれない。それを「畝傍山 立薄たちうすけど 頼みかも」と喩えたという意味にも解釈できる。田村皇子は、舒明天皇として即位する。皇統譜に次のようにある。

 又、吉備国のやの采女うねめして、やの皇子みこしませり。(舒明紀二年正月)

 いつの時期の采女であるかわからないが、仮に推古天皇に仕えた采女であるとすると、田村皇子は当時、後宮に通じていたことをにおわせる。山背大兄王が推古天皇に招喚されて、自らが遺勅を聞いた時の状況を述べる件でも田村皇子はその場にいる。

 おのれ、天皇、臥病みやまひしたまふとうけたまはりて、馳上まうのぼりて門下みかきもとに侍りき。時に、中臣連弥気、禁省みやのうちよりまかでてまをさく、「天皇のおほみことを以てす」とまをす。則ち参進まうすすみて閤門うちつみかどまうづ。亦、栗隈采女黒くるくまのうねめくろ庭中おほばに迎へて、大殿にまゐる。是に、近習者ちかくつかへまつるもの栗下女王をこのかみとして、女孺めのわらはしびたり、併せて数十人とをあまりのひと天皇之側おほみもとに侍りき。また、田村皇子しましき。(舒明即位前紀)

 推古天皇の側に、近習の者たちとともに田村皇子が当たり前のようにいるのである。女帝の病室となっている大殿に女性の近習ばかりなのは頷けるが、田村皇子がいるのは、采女たちに気に入られていたプレイボーイであったのかもしれない。それは、境部毛津のように、尼僧のなかから嫉妬した者が現れるような下手な遊び方ではなかったことを意味しよう。また、後宮に仕える采女たちにしてみれば、見た目が「頭髪斑雑毛」を好まなかったということかもしれない。さらに、山背大兄王のように品行方正でなく、身分違いのスキャンダルを田村皇子が抱えていれば、豪族たちに弱みを握られているということになり、蘇我蝦夷らは扱いやすいと思ったことだろう。

薬猟をめぐって

 万3・4番歌が歌われたのは、推古天皇が亡くなった後、推古三十六年の夏のことと推測される。紀によると、推古朝には、三度、薬猟くすりがりが行われている。狩るのは鹿である。鹿の角袋は滋養強壮、精力増強剤になると信じられていた。

 十九年の夏五月の五日に、だのに薬猟す。鶏鳴時あかときを取りて、藤原池ふぢはらのいけほとりつどふ。会明あけぼのを以てすなはく。(推古紀十九年五月)
 夏五月五日に、薬猟して、羽田はたに集ひて、相連あひつづきてみかどまうおもぶく。(推古紀二十年五月)
 二十二年の夏五月五日に、薬猟す。(推古紀二十二年五月)

 紀の日付の記述に「五月五日」とある。干支以外の書き方は特殊である。推古天皇時代に派遣された遣隋使が、中国の風習を伝えたことを示すものかもしれない。推古朝の薬猟は、服、冠、冠に添える飾りなど冠位十二階の制に従った正装をしたきらびやかなイベントであったらしい。その推古天皇を偲ぶためにも、恒例の五月五日の薬猟を開こうとして宇智の野に挙行されたのであろう。蘇我蝦夷を筆頭に、田村皇子を天皇に擁立しようとする多くの豪族たち、そして、下にも置かずに主賓とされたのが、後に舒明天皇となる田村皇子その人と、正妻の宝皇女、後の皇極・斉明天皇であった(注4)
 万4番歌に「馬」が出てくる。推古紀には、初春を祝う賀において、蘇我馬子と天皇の君臣唱和の歌にモチーフとして歌われている。

 二十年の春正月の辛巳の朔にして丁亥[七日]に、置酒おほみきをめして群卿まへつきみたちとよのあかりす。是の日に大臣おほおみ寿上おほみさかづきたてまつりてうたよみしてまをさく、  やすみしし 我が大君の かくります あま八十やそかげ 出で立たす そらを見れば 万代よろづよに くしもがも 千代にも 斯くしもがも かしこみて 仕へ奉らむ をろがみて 仕へ奉らむ 歌きまつる(紀102)
 天皇、こたへてのたまはく、
 真蘇我まそがよ 蘇我の子らは 馬ならば むかこま 太刀たちならば くれさひ うべしかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき(紀103)(推古紀二十年正月)

 正月七日の年賀の宴はこの記事が最初である。薬猟同様、中国からの文化移入と思われ、七草粥として残っている人日じんじつと呼ばれる風習である。馬子は宮讃めをし、忠誠を誓っている。天皇は、蘇我氏を馬なら名だたる日向の駒、太刀なら呉の真刀のような優秀なものだから、使うのは尤もなことである、と返している。この唱和が、推古朝に薬猟の盛んなりし頃に記憶されている。
 万4番歌においても、薬猟において馬に実際に騎乗したというばかりでなく、歌語として使われていることからいって、紀103番歌の馬の譬えの意味を含んでいると考えられる。すなわち、「宇智」は、原文に「内」とあるとおり、宮廷内のこと、「朝」は、朝廷のことである。よって「朝庭」という用字がされ、「馬」は、田村皇子を擁立しようとしている蘇我氏以下の豪族勢力のことを表している。四句目と五句目の間の切れについては、「朝ますらむ」ことの理由を「その草深くさふか」と説明したものである。馬にしてみればたくさんの草を食むことができるし、騎乗の人であれば獣を追い出して獲物を得ることができる、win-win の関係であるとの本音が歌われている。
 万3・4番歌の典故にあげた仁徳天皇と武内宿禰の雁の歌は、問いと答えの問答の歌であった。中皇命の3・4番歌の狩りの歌は、問答無用の歌である。作者が謎掛けし、作者自身が解いている。仁徳天皇と武内宿禰の関係を再生するには、一方が未だ位についておらずに躊躇している人物ならば、宇智の大野において、間人連老をして武内宿禰のように振る舞わせしめればわからせることができるのである。アクセントをも等しくする「雁」と「狩り」の洒落にも、故事を伝える力は潜んでいる。無文字時代に暮らしていた初期万葉の宮廷人は、言い伝えられてきたとおりに言葉が準えられればそのとおりに理解され、実行されもした。ことことであることを旨としていたから、言葉が事柄をそのままに表すよう実践に励むことに躊躇はなかった。そういう言語空間に暮らしていたのである。すぐれたレトリックとしてのなぞなぞが、政治演説に用いられていたのであった。

(注)
(注1)福沢2016.参照。鳴弦とする説は、原文の「奈加弭」を矢筈に見立てた撥のようなものと架空するものらしい。しかし、狩りに行く前の儀式的な楽器演奏を、天皇自らが行って従者が聞いているという光景は想像しがたい。
 万3番歌のハズについては、「梓の弓の 中弭の 音すなり」とあるから、ユハズ(弓弭)であることは動かないであろう。ただし、ハズという語にはヤハズ(矢筈)もある。現在の弓道では、筈溝を思い思いにヤスリ等で加工して調製していると聞く。松尾2013.に、「矢の筈は、古くは竹製・木製・鹿角しかつの製などがあり、特殊なものとしては、ぞう・水晶なども用いられている。現在、弓道で一般に用いられる筈は、ほとんどが水牛製、プラスチック製である。これらの筈は箆に差し込む形式で、継筈つぎはずと呼ばれる。笠筈かさはず、ぬた筈と呼ばれる筈も継筈の一種である。戦場で使用する征矢そやなどでは、箆に直接切り込みをいれて使用していた。これを筈といい、ふしはずとも呼ばれる。」(77頁)とある。正倉院の箭にも、ヨハズ(余筈)らしき切れ込みがある。
 国語学的に注目すべき点は、ハズの種類について、ハズ、ハズ、ハズと、ヤ行ばかりを冠するところである。後考を俟ちたい。
(注2)新編全集本古事記に、「御子みこ」を「あなたさまのご子孫。実際その言葉どおり、仁徳天皇の皇統が継がれてゆくことを『記』は語る。」(304頁)とある。
(注3)頭髪の薄毛は遺伝する。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」参照。
(注4)吉村2012.は、「皇極は、即位以前の舒明と結ばれる前に、用明天皇の孫にあたる高向たかむく王と結婚して、「あや皇子」を生んでいた。出産経験のある皇女が再婚し、皇后となり、やがて即位したのである。前夫との間に子供をもうけた女性が、後に天皇となる皇子と再婚し、さらに自ら即位するという、珍しい例である。」(86~87頁)としている。政治的資質に長けていたから重祚して斉明となる。その政治力は演説の巧みさに由来するものであろう。飛鳥時代において、万葉集の巻一の前半に区分される「雑歌」とは、政治的なアジテーションの形のものが多い。薬猟に際して雁の瑞祥の言い伝えを持ち出して群卿以下宮廷社会の人々の人心を掌握している。宝皇女=皇極・斉明劇場が開催されている。それは、後に、お抱えスポークスマンの額田王の力を借りることも多くなっていった。

(引用・参考文献)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
福沢2016. 福沢健「乙巳の変と『万葉集』1三~四」『流通科学研究』第15巻第2号、2016年3月。中村学園大学学術リポジトリ https://nakamura-u.repo.nii.ac.jp/records/2558
松尾2013. 松尾牧則『弓道─その歴史と技法─』日本武道館、平成25年。
吉村2012. 吉村武彦『女帝の古代日本』岩波書店(岩波新書)、2012年。

                加藤良平 2020.9.30改稿初出

万葉集巻十六「半甘」の歌

 万葉集巻十六「有由縁并雑歌」には諧謔の歌が多く、そのほとんどは明解を得ていない。次の「戯嗤僧歌」、「法師報歌」の問答も誤解されたままである。

  たはむれにほふしわらふ歌一首〔戯嗤僧歌一首〕
 ほふらが ひげ(注1)剃杭そりくひ 馬つなぎ いたくな引きそ ほふしはにかむ〔法師等之鬢乃剃杭馬繋痛勿引曽僧半甘〕(万3846)
  ほふの報ふる歌一首〔法師報歌一首〕
 檀越だにをちや しかもな言ひそ 里長さとをさが 課役えつきはたらば いましもはにかむ〔檀越也然勿言弖戸等我課伇徴者汝毛半甘〕(万3847)

 二句とも最後の「半甘」の訓みが難解とされてきた。昨今の通釈書では、万3846番歌の結句「僧半甘」を「ほふしかむ」ととるのが一般的で(注2)、「ほふし含羞はにかむ」意とするのは、武田1957.(280~282頁)、稲岡2015.(124頁)程度である。ここは、「含羞はにかむ」と訓むのが正しい。その意味するところを以下に述べる。
 ハニカムは、「〓〔齒偏に査〕 亦作摣抯二形、則加反、捉也。波尓加牟はにかむ、又伊女久いめく」、「齵 五溝反、齒重生也。波尓加无はにかむ、又久不くふ、又加无かむ」、「𪘮 五佳反、齒不齊皃。波尓加牟はにかむ、又久不くふ」、「齱 側鳩反、齵也、齒偏也。波尓加牟はにかむ、又久不くふ」、「〓〔此冠に齒〕 士佳反、平、𪘲也、齒不正也。波尓加牟はにかむ、又伊女久いめく」(以上、新撰字鏡)、「眥 如上、又云、波尓加美はにかみ、又云、伊支□美」(霊異記・上・二興福寺本訓注)とあり、霊異記の用例(「の犬の子、家室いへのとじに向ふごとに、期尅いのごにらはにか嘷吠ゆ。」)を参考にして、歯をむき出して怒る意として捉えられてきた(注3)
 しかし、ヤマトコトバのハニカムは、もともとはにむことで、土を口に入れて噛めば、何だこれは? と口をひんまげる動きになるところを指しているものと考えられる。すなわち、両目をひん剥いたり歯を剥き出しにして怒る意ではなく、顔を少し横に向かせ傾け、口角が片方だけ上がるようなさまをいう。何を! と勢い込んでみたものの、虚を突かれていることに気づいて半笑いを浮かべるような恰好のことである。ちょっと恥ずかしいところがあり、現在使う含羞はにかむに通じている。また、苦笑いのことも指すだろう。っっったく〜! といった顔面神経痛的な偏った顔つきになる。それが題詞の「嗤」に表されている。新撰字鏡に、「嗤 亦、蚩に作る。充之・子之二反、戯也。阿佐介留あざける、又曽志留そしる、又和良不わらふ」とある。「戯嗤僧歌」とは、「戯」れに「檀越」が「僧」を笑いものにしたということであるが、虚仮にしているのではない。特定の僧侶について嘲笑ったのではなく、話(咄・噺・譚)に作り上げている。ふだんなら尊敬されるはずの「僧(法師)」に対し、機知あふれる言葉でからかう歌を作り、一本取られたと思わせたということである。それに対して「法師」の方も「檀越」に対してやり返し「報」いている。「僧(法師)」も「檀越」も一般名称である。
 万3847番歌は、四句目原文の「弖戸等我」が難訓箇所であるが、訓めなくてもわかりやすい。檀越よ、そうは言うなよ、里長(?)が租税を無理矢理徴収しにかかったら、お前だって苦笑いするしかないだろう、という意味である。
 「檀越」は寺や僧尼に財物を施す信者、施主である。法師に寄進できるぐらいだったら税金をきちんと納めろと、徴税官に細かな取り立てにかかられたら、参ったなと思って笑うしかないだろうというのである。税務署に変な口実を与えてしまったわけで、口角が片方だけ上がることになる。これが「報歌」である。
 ならばもとの歌、万3846番歌も、同様の頓知をもって歌は構成されていると考えられる。法師らの鬢の剃り残しに馬を繋いでひどく引っぱるな、法師は苦笑いを浮かべる、という意味である(注4)
 「ほふ」は、のりの師のことである。ノリ(法、典)は仏法だけでなく法律や規準のことも言い、ノル(宣、告)という動詞に由来する。ノは乙類で、同音にノル(乗)がある。「法師」はノリの師なのだから身ぎれいにしていなければならないだろう。戒律としても定められている。ひげの剃り後から生え出してきている無精ひげを放置したままでいいはずはない。清潔さを保てないなら、ノリ(乗)の師となるように乗り物の馬をつないでしまえ。ひどくは引っ張らなくていい、ゆるく引っ張ればいい。それがユルシ(緩、許)というものだ、と戯れている。法には適用という側面があることをきちんと伝えている。ノリの師である法師は苦笑いするしかないだろうというわけである。
 「馬繋」と馬が出てくるのは法師がノリの師であるゆえである。「半甘」をハニカム(含羞)と訓むのは苦笑いのさまを表すためである。檀越と法師との間で軽妙なやり取りが行われていたから万葉集に収められている。
 万3847番歌の四句目原文、「弖戸等我」は「里長さとをさが」と訓まれている。それで正しい。この部分を難訓に記している理由は、実際に里長がこの歌を知ったなら、檀越から徴収しに掛かるだろうからである。法師と檀越とは持ちつ持たれつの関係にある。ちょっとからかわれたぐらいで反論を口外していては、自らの実入りがなくなって困る。おそらく、当初「五十戸我」と書いたのを改めたものと思われる。行政上、五十戸を一まとまりにしてさとという支配単位にした。そこに一人の徴税官を配置し、里長と呼んだ。五十はヤマトコトバでイである。現代では馬の鳴く声はヒヒーンと聞きなしているが、上代ではイとしていた。「嘶」字で表されることのあるイナク、イバユのイである。歌に馬が出てきていたのは、それをヒントにしたものかも知れないし、馬が嘶く時には左右どちらかに頸を曲げ傾けて鳴いている。形の上ではハニカム(含羞)のと同じ姿態である。その五十という数は、五と十から成っている。五と十から成っているのにヤマトコトバでは一音である。つまり、五であり十である何かがヤマトコトバで存在しているということである。それは身近にある。手の指である。片手で五、両手で十になる。そこで「五十」を「手」と書き、さらにそのテという音に合わせて「弖」と改めた。
 この書き改めの肝は、五と十とが同等に存在するものを探すことにあった。このヒトシ(等)という語は、一の意のヒトに由来していると考えられる。ヒが甲類、トは乙類である。同音にヒト(人)がある。「弖戸」=「手戸」=「五十戸」であり、「五十戸」に等しい人とはそこに一人だけいる徴税官、「五十戸長」=「里長」ということになる。鹿持雅澄・万葉集古義に「弖(氐)」は「五十」の誤字(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1883823/1/234)、井上通泰・万葉集新考に「等」は「長」の誤字(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1882760/1/123)であるとする説は結果的には正しいことになるが、実際には「戯書」の類に当たる。問答の最初の題詞、「戯嗤僧歌一首」にある「戯」の義はここにも顕れていると言えるのかも知れない(注5)。手の込んだ「有由縁」話(咄・噺・譚)が詠われている。

(注)
(注1)原文に「鬢」とあるからビンと音読みすべきという説が見られる。ホフシ、ダニヲチと字音語があるのだからという。後藤1980.参照。万3835番歌の「鬢」については、梅谷2013.参照。「……麻呂と鉄折かなをりと、鬢髪ひげかみりて沙門ほふしらむとまをす。」(持統紀三年正月)と見え、「鬢」をヒゲと訓むことに疑義を見出し得ない。ヤマトコトバのヒゲを書き表すのに「鬢」字を用いたのであり、その逆ではなく、そうしたからといって咎められる筋合いのものでもない。頭部に生える人毛は、ヤマトの言語体系ではカミとヒゲであった。丸山1981.参照。
(注2)往年は、「ほふしなからかむ」と訓み、引っ張ったら僧侶が半分になってしまうという意に解されていた。
(注3)したがって、武田氏や稲岡氏はハニカムに「含羞」字を当ててはいない。稲岡2015.の訳は次のとおりである。

 坊さんの鬢のそりあとが、のびて杭のようになった所に馬をつないで、ひどく引っぱるなよ。坊さんが歯をむきだして怒るだろうから。(万3846)
 檀越さん。そんなことをおっしゃるな。里長が課役を強制したら、お前さんだって歯をむき出して怒るはずだ。(万3847)(124頁)

(注4)助詞ニが省かれることの少なさを検討したうえで、ウマツナギを薬草の狼牙のこととする説が工藤1977.に見られ、池原2013.も追認する。「ひげ」から「馬繋」への連想が飛躍、誇張が過ぎると思われていた経緯があり、このようなおもしろ味に欠ける解釈に陥っている。
(注5)万葉集の書記法の一つ、「戯書」という名が上代にあったわけではない。ただ、「戯」なのだから書き方も「戯」にしようと考えることは語義をよく反映することである。

(引用・参考文献)
飯泉2013. 飯泉健司「大山を削る─平城京の天皇・僧と民の文学─」『日本文学』第62巻第5号、2013年5月。J-STAGE https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.62.5_20
池原2013. 池原陽斉「『萬葉集』巻十六・三八四六番歌の訓読と解釈─「馬繋」と「半甘」を中心に─」『上代文学』第110号、2013年4月。上代文学会ホームページ https://jodaibungakukai.org/data/110-06.pdf )(「「戯嗤僧歌」の訓読と解釈─「馬繋」と「半甘」を中心に─」『萬葉集訓読の資料と方法』笠間書院、2016年。)
稲岡1976. 稲岡耕二「万葉集における単語の交用表記」『萬葉表記論』塙書房、昭和51年。(「万葉集における単語の交用表記について」『国語学』第70集、昭和42年9月。国立国語研究所・雑誌『国語学』全文データベース https://bibdb.ninjal.ac.jp/SJL/view.php?h_id=0700190450
稲岡2015. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(四)」』明治書院、平成27年。
梅谷2013. 梅谷記子「萬葉集巻十六・三八三五番歌の解釈─遊仙窟との比較を通して─」『上代文学』第111号、2013年11月。上代文学会ホームページ https://jodaibungakukai.org/data/111-03.pdf
尾山2006. 尾山慎「萬葉集における二合仮名について」『萬葉語文研究』第2号、2006年。
工藤1977. 工藤力男「上代における格助詞ニの潜在と省略」『国語国文』第46巻第5号(513号)、昭和52年5月。(『日本語史の諸相 工藤力男論考選』汲古書院、1999年。)
後藤1980. 後藤利雄「鬢と髭と檀越と─万葉巻十六の歌三首について─」『国語と国文学』第57巻第8号、昭和55年8月。
武田1957. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 十一』角川書店、昭和32年。
丸山1981. 丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、1981年。

加藤良平 2024.8.20初出

枕詞「おしてる」「おしてるや」について

 枕詞「おしてる」「おしてるや」は「なに」に掛かるが、掛かり方は未詳とされている。説としては、難波に宮があり、朝日・夕日のただ射す宮だからと褒めたたえる意であるとする説、おしなべて光る浪の華の意であるとする説、岬が突堤のように押し出しているとする説、襲い立てるように浪速なみはやだから、などいろいろ理由づけている(注1)が、いずれも決定打に欠けている。枕詞以外の動詞「おし照る」等を含めて上代の例をあげる。

 おしてる〔於辞氐屡〕 難波の崎の ならび浜 並べむとこそ その子は有りけめ(紀48、仁徳紀二十二年正月)
 …… 大君おほきみの みことかしこみ おしてる〔押光〕 難波の国に あらたまの 年るまでに ……(万443、大伴三中)
 おしてる〔押照〕 難波のすげの ねもころに 君がきこして 年深く 長くし言へば ……(万619、大伴坂上郎女)
 おしてる〔忍照〕 難波の国は 葦垣あしかきの りにしさとと 人皆の 思ひ休みて ……(万928、笠金村)
 天地あめつちの 遠きが如く つきの 長きが如く おしてる〔臨照〕 難波の宮に わご大君 国知らすらし ……(万933、山部赤人)
 おしてる〔忍照〕 難波を過ぎて うちなびく くさの山を 夕暮に が越え来れば ……(万1428)
 おしてる〔押照〕 難波堀江の あしには かり寝たるかも 霜の降らくに(万2135)
 おしてる〔臨照〕 難波菅笠すがかさ 置きふるし 後はが着む 笠ならなくに(万2819)
 おしてる〔忍照〕 難波の崎に 引きのぼる あけのそほ舟 そほ船に 綱取りけ ……(万3300)
 そらみつ 大和やまとの国 あをによし 平城ならの都ゆ おしてる〔忍照〕 難波にくだり 住吉すみのえの 御津みつふなり ……(万4245)
 皇祖すめろきの 遠き御代みよにも おしてる〔於之弖流〕 難波の国に あめの下 知らしめしきと 今のに 絶えず言ひつつ ……(万4360、大伴家持)
 おしてるや〔淤志弖流夜〕 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島あはしま 淤能碁呂おのごろしま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ さけつ島見ゆ(記53、仁徳記)
 直越ただこえの この道にして おしてるや〔押照哉〕 難波の海と 名付けけらしも(万977、かむこそのおゆ麻呂まろ
 おしてるや〔忍照八〕 難波の小江をえに いほ作り なまりてる 葦蟹あしがにを 大君すと …… さひづるや 唐臼からうすき 庭に立つ うすに舂き おしてるや〔忍光八〕 難波の小江の 初垂はつたりを からく垂れ来て 陶人すゑひとの 作れるかめを ……(万3886、乞食者ほかひびと
 おしてるや〔於之弖流夜〕 難波の津ゆり 船装ふなよそひ あれは漕ぎぬと 妹に告ぎこそ(万4365、物部道足)
 春日かすがやま おして照らせる〔押而照有〕 この月は 妹が庭にも さやけかりけり(万1074)
 我が屋戸やどに 月おし照れり〔月押照有〕 霍公鳥ほととぎす 心あれよひ 来鳴きとよもせ(万1480、大伴書持)
 窓越しに 月おし照りて〔月臨照而〕 あしひきの 下風あらし吹くは 君をしそ思ふ(万2679)
 さくらばな 今盛りなり 難波の海 おし照る宮に〔於之弖流宮尓〕 きこしめすなへ(万4361、大伴家持)

 動詞の用例では、月が照り輝いて夜なのに明るいことを示そうとしている。万1480番歌では、鳥目のホトトギスでも今夜、来て鳴いてくれと歌っている。そんな「おしてる」が「難波」にかかっており、当たり前のつながりであると感じられて枕詞となっている。強烈な太陽光線がナニハという言葉にかかって然るべきとする考えは、難波の平野部に展開された水田が干上がって畑になっていることをもって成り立つ。むろん、実景を述べるものではない。ナニハという地名が先にあり、そのナニハという言葉(音)が、ナ(菜)+ニハ(庭)を意味し、畑を表すからである。光が押し照るから全部畑になってしまったようなところ、それがナニハだ、と笑っている(注2)。文字を持たなかったヤマトコトバが言葉の音を頼りにしながら戯れていた言語遊戯である。不思議な言語ゲームをくり広げており、書契以後の我々とは言葉に対する向き合い方が異なっている。ものの考え方が稚拙であるというものではないが、我々の現代的な思考法のなかに何かをもたらすかといえば、下手な暗号のようなもので、ほぼ何ももたらさないと言えるだろう。

(注)
(注1)時代別国語大辞典は、万977番歌をとりあげ、生駒山から難波の海に日が照っているのを見て言っているのを、この枕詞に対する万葉人の一つの解釈を示すものとしている(149頁)。作者、神社老麻呂は、ただとぼけたことを言っているものと筆者は考える。真面目に言っているとしたら、歌として聞く人は窮屈なことを歌っていると思い、ブーイングを発したことだろう。
(注2)似たような枕詞に、「しなてる」がある。「かた」に掛かるが、掛かり方は未詳とされている。

 しなてる〔斯那提流〕 片岡山かたをかやまに いひて こやせる そのひとあはれ 親無しに なれりけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その田人あはれ(紀104)
 しなてる〔級照〕 かた足羽しはかはの さ塗りの 大橋の上ゆ くれなゐの あかすそ引き 山藍やまあゐもち れるきぬ着て ただ独り い渡らすは 若草の つまかあるらむ 橿かしの実の 独りからむ 問はまくの 欲しきわぎが 家の知らなく(万1742)

 シナは坂の意である。登る坂があってそこへ照りつけていたら、峠を越えて反対側で降りる坂のほうには照りつけていない。片方にしか照らないから、シナテルはカタ(片)に掛かるのであろう。

(参考文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。

加藤良平 2024.8.9初出

万葉集巻十七冒頭「傔従等」の歌について

 万葉集巻十七の冒頭に、「悲傷羇旅」の歌が載る。「羇旅」は旅の道行きのことであるが、畿外へ出ることを指すとする考えもある。だが、後代のようにこの語が部立として用いられているわけではなく、キリョという漢語が意識されていたとは考えられず、ヤマトコトバのタビを書き表すのに恰好をつけて記しているにすぎない。タビという言葉は、遠近にかかわらず他所へ寝泊りすることと考えられている。
 題詞に記されている状況説明が問題視されている。大宰帥として赴任していた大伴旅人が大納言に任ぜられて平城京へ戻った。その旅路に従者を伴っている。そして、「傔従等別取海路京」した時、「悲-傷羇旅各陳所心作歌」が十首あげられている。「傔従」ないし「傔従等」とはどういう人たちか、「羇旅」を「悲傷」するとはどういうことなのか、明解が得られていない(注1)。ここでは専論である関谷2021.が載せる現代語訳を併せて掲げる(注2)

  天平二年庚午の冬十一月に、大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみだいごんけらえ〈帥を兼ぬることもとの如し〉、みやこに上りし時に、傔従等けんじゅうらこと海路うみつぢを取りて京に入る。是に羇旅たび悲傷かなしびておのもおのも所心おもひべて作る歌十首〔天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言〈兼帥如舊〉上京之時傔従等別取海路入京於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首〕
 背子せこを 安我あが松原まつばらよ 見渡せば 海人あま娘子をとめども たま刈る見ゆ〔和我勢兒乎安我松原欲見度婆安麻乎等女登母多麻藻可流美由〕(万3890)
  私の愛しいあの人を、私が(再会を待つ)松原から見渡すと、海人娘子たちが玉藻を刈っているのが見える。
   右の一首はののむらじ石守いそもりの作。〔右一首三野連石守作〕
 あらの海 しほしほち 時はあれど いづれの時か が恋ひざらむ〔荒津乃海之保悲思保美知時波安礼登伊頭礼乃時加吾孤悲射良牟〕(万3891)
  荒津の海には干潮や満潮の時が決まっているが、私は今後いつでも、恋しく思わないことがあろうか。
 いそごとに 海人あま釣船つりぶね てにけり 我が船泊てむ 磯の知らなく〔伊蘇其登尓海夫乃釣船波氐尓家里我船波氐牟伊蘇乃之良奈久〕(万3892)
  海人の釣り船たちもそれぞれの磯に戻ってしまった。私たちの船を泊める磯はまだ決まっていないのに。
 昨日きのふこそ ふなはせしか いさなとり 比治奇ひぢきなだを 今日けふ見つるかも〔昨日許曽敷奈〓〔亻偏に弖〕婆勢之可伊佐魚取比治奇乃奈太乎今日見都流香母〕(万3893)
  つい昨日、船出をしたのに。(いさなとり)比治奇の灘を今日見ることだ(もうこんな所に来てしまった)。
 あはしま 渡る船の かぢにも われは忘れず いへをしそ思ふ〔淡路嶋刀和多流船乃可治麻尓毛吾波和須礼受伊弊乎之曽於毛布〕(万3894)
  淡路島の瀬戸を渡る船の、一漕ぎの間にも、私は忘れず(後にして来た)「家」のことをひたすら思う。
 大船おほぶねの 上にしれば 天雲あまくもの たどきも知らず 歌乞我が背〔大船乃宇倍尓之居婆安麻久毛乃多度伎毛思良受歌乞和我世〕(万3898)
  大船の上に揺られているので、天雲のようにやるせない。歌をお願いします、私の愛しいあなた。
 海人あま娘子をとめ いざり焚く火の おぼほしく 都努つの松原まつばら 思ほゆるかも〔海未通女伊射里多久火能於煩保之久都努乃松原於母保由流可問〕(万3899)
  海人娘子が焚くいざり火のように、ぼんやりと角の松原のことが思われる。
 たまはやす 武庫むこわたりに 天伝あまづたふ 日の暮れけば 家をしそ思ふ〔多麻波夜須武庫能和多里尓天傳日能久礼由氣婆家乎之曽於毛布〕(万3895)
  (たまはやす)武庫の渡しにて、(天伝ふ)日が暮れて行くので、(後にして来た)「家」のことをひたすら思う。
 家にても たゆたふいのち 波のうへに 浮きてしれば おく知らずも〔家尓底母多由多敷命浪乃宇倍尓宇伎氐之乎礼八於久香之良受母〕(万3896)
  「家」にいても不安定にただよう命であるが、波の上に浮かんで揺られていると、物思いが果てしない。
 大海おほうみの おくも知らず 行くわれを 何時いつ来まさむと 問ひしらはも〔大海乃於久可母之良受由久和礼乎何時伎麻佐武等問之兒良波母〕(万3897)
  大海のように果てしなく遠く出て行く私を、「何時お帰りなのですか」と尋ねた、あああの子よ。
   右の九首は、作者の姓名をつばひらかにせず。〔右九首作者不審姓名〕

 「傔従等」とある「等」は、「傔従」とは呼ばれない人のことを指すと考えられ、それは一首目の作者として名のある三野石守が該当する。三野石守が傔従を統率して船を進めた。どうして主人である大伴卿、大伴旅人と「別」なのか。延喜式・民部省下に、「凡そ山陽・南海・西海道等の府国、新任の官人、任に赴く者は、皆海路を取れ。仍りて縁海の国をして例に依りて食を給はしめよ。〈但に西海道の国司、府に到らば、即ち伝馬に乗れ〉。其の大弐已上は乃ち陸路を取れ。」とある。この条に関連する記述としては、続紀・神亀三年八月三十日条がある(注3)。虎尾2007.は、当該万葉歌でも、傔従等は別に海路で、大伴旅人は陸路を取って上京していると読むのが自然であろうとしている。長官は交通上の安全や、各地の巡察を兼ねながら陸路で行き、家来は効率を重視し、荷物運搬の都合上、船を使ったと考えられるのではないか。  両者が別行動をとり、到着した奈良の都に合流した時、旅すがらでの思いについて歌を詠むように促し、傔従等が作った十首を採っている。すなわち、旅自体はすでに終わっており、旅装は解いて寛ぎながら、その間のこと、また、旅を総括するような思いをそれぞれ歌にしている。「悲傷」、「所心」とあっても、「羇旅」はすでに完了しているから、旅の最中まっただ中のつらさを吐露したものではない。
 「悲傷」した理由について、大伴卿と別行動だからというので「悲傷」したという説があるが、道中ご主人様の尊顔を拝することができなくて寂しかったと、現在目の前にしながら歌を詠むとは思われない。主従の関係にあることと同性愛的な恋情は直結するものではなく、職務を執行しているところへ私情を差し挟んで公にするとも考えにくい。「傔従」は筑紫で現地任官された人たちで、都まで随従しなければならなかった点をもって「悲傷」の主因と考えるのが妥当であろう。故郷から離れて寂しいという気持ちは容易に想像できる。九州で採用された人をわざわざ都に向かわせる状況を想定しづらいとする考え方もある(注4)が、「傔従」という立場の人は、大宰府の役人、地方公務員ではなく、大伴旅人に仕える従者、資人や舎人に当たる人を雇ったということであろう(注5)。下働きに働く人たちは、主人の旅人が引っ越すならその引っ越しに携わらなければならず、海路に就いたなら当然ながら船を漕ぐ水夫の役割を担っていただろう。
 すなわち、最初の一首、三野石守の作のみが官吏、残り九首を作った作者不明の人が「傔従」である。それらは彼らが水夫として働いていた時の歌ということになる。

 背子せこを 安我あが松原まつばらよ 見渡せば 海人あま娘子をとめども たま刈る見ゆ(万3890)
  右の一首はののむらじ石守いそもりの作。

 「我が背子」は、三野石守が大伴旅人に対して呼びかけたものである。アガマツバラという地名があったとする説と、「松原」を「待つ」と掛けるための序詞とする説がある。尤も、アガマツバラという地名であっても「待つ」と掛けていることに変わりはない。所在は不明であるが、「傔従等」の「等」に当たる三野石守は大伴旅人とは別行動で、海路をたどって先に畿内まで来ていて、主人の到着を待っていたものと思われる。今か今かと松原から望んでいると、海人の乙女たちが玉藻を刈っているのが見えた。この歌に趣意があるとするなら(注6)、有名な麻続王をみのおほきみの玉藻の歌になぞらえた、広義の典故となる歌ということになるだろう。麻続王をみのおほきみは島流しの刑にあっていた。大伴旅人は太宰帥という体のいい島流しから帰ってきている。

 あらの海 しほしほち 時はあれど いづれの時か が恋ひざらむ(万3891)

 この歌は、アラツという地名のツ(津)、船の停泊場に適したところがあり、それに引っ掛けて歌を作っている。潮の干満の時間は月の運行に合わせて起こる。干潮の時、満潮の時がある。一般に、「いすれの時か」とあるのを、干潮の時、満潮の時といったこととは無関係にいつでも、と解されているが誤りである(注6)。津が津として船の停泊にかなうのは、当時の大型船である準構造船の停泊形態として、潮が引いた時に干潟に乗り上げる形で逗まるものだったからである。アラツ(荒津)というだけのことがあって潮の干満の水位差が大きかったのであろう。停泊するのに確かで、停泊させたつもりなのにどこからか水があふれてきて船が流されるというようなことはなかった。すなわち、大型船を停泊させたり出航させたりするのに一日のうちで「時」は限られているけれど、干潮の時、満潮の時のどちらかが恋しいと思わないことがあろうか、いやいやそのようなことはなく、両方とも恋しいのだ、と歌っている(注8)

 いそごとに 海人あま釣船つりぶね てにけり 我が船泊てむ 磯の知らなく(万3892)

 この歌は、大型船で出航してから途中でどこかへ停泊させて休もうと思っていた時、海岸沿いは岩場のあるところばかりで、漁船は磯に近づいて漁民がさっさと陸にあがっているのを見て詠んだものであろう。漁船は小型船で、丸木舟だったかもしれない。ボートを泊めるには磯に近づけてロープでくくりつけておけば済むのだが、大型船の場合、船体を岩場に当てると壊れる恐れがある。砂浜に乗り上げたく、なかでもラグーンのような波の静かなところが求められた。さて、どこに停泊させたらいいというのか、接岸させるのに適した場所があるのか知らない、と嘆いている。

 昨日きのふこそ ふなはせしか いさなとり 比治奇ひぢきなだを 今日けふ見つるかも(万3893)

船肘木のある建物(相国寺庫裏)         

 ヒヂキの灘というところは未詳である。昨日、出帆し、今日目にするのはヒヂキの灘だと言っている。ヒヂキとして知られる言葉は建築用語の肘木である。建築の組物を構成してますけたを支える横木のことであり、うでともいう。和名抄に、「枅 唐韻に云はく、枅〈音は鶏、漢語抄に比知岐ひぢきと云ひ、功程式に肱木と云ふ〉は衡を承くる木なりといふ。」とある。直線的にしか受けない肘木のことを特に船肘木と言っている。「傔従等」が「別取海路京」と題詞にあり、船を使ったことを言わんとしているから、出航した時に船として海に浮かべていたものが、都に入ってみると宮殿や寺院には建築部材に転換していることを歌っているのだろう。人が水上での乗物だと思っていたものが頭の上にあって安定して桁を受け、上層部を支えている。「陳所心作歌」として、「今日」、「みやこ」で詠まれている。

 あはしま 渡る船の かぢにも われは忘れず いへをしそ思ふ(万3894)

 アハヂという語については、諺の「虻蜂取らず」の訛った形の頓知と考えられていたと推測される。Abu+fati→afadi である。虻蜂取らずとは、どっちつかずや中途半端なことの譬えに用いられている。自ら張った巣の中央に蜘蛛がおり、巣の対角線上に虻と蜂とが同時にかかった。両者とも蜘蛛にとっては獲物として大物で魅力的だが力も強い。どちらを捕ろうかと迷っているうちに、どちらも捕れないまま逃げられてしまう。すなわち、畿内にある朝廷は、西方からの侵入者に対し、明石、鳴門の両海峡を防ごうとして、淡路島の真ん中に城を一つ構えて守ろうとしたが叶わなかった。それを虻蜂取らずの淡路島と洒落て呼んでいるのだと見立てていた(注9)
 淡路島の、すなわち海峡には、二つの海峡があるとの思いが強かった。オールを使って水を掻き漕ぎ、楫を返すときには空中にあげて戻す。その空中にある時間のことを、「かぢ」と呼んでいると一般に考えられている。「」を時間的な意味で捉えているわけだが、空間的な意味に用いる例も見られる。その場合、「かぢ」は楫と楫との間、ふなばた(船端)のことと捉えることもできる。すなわち、ここで使っている「かぢ」という言葉は、その二つの意味を掛けて使っていると考えたほうが適当だろう。船のハタ(端)には右舷、左舷の二つがあり、淡路島の両側にがあることと対応している。淡路島の海峡を渡る船には明石海峡、鳴門海峡を通過するものがあるが、そこは流れが速くなることがあるから必ず舷側の両側に楫を備えた船でなければならない。
 この様子を上代語で表現する場合、ハタ……ヤ、ハタ……ヤ、という形で表すことがあった。ハタは「将」字で表すことも多い。また、「はたや」、「はたやはた」といった展開形になることもある。

 いましはた我に先だちて行かむ、はた我や汝に先だちて行かむ。(神代紀第九段一書第一)
 ここ勢臣せのおみ王子せしむくゑいに問ひて曰はく、「為当はた此間ここに留まらむとや、為当本郷もとつくになむとやおもふ」といふ。(欽明紀十六年二月)
 かむさぶと いなとにはあらね はたやはた かくしてのちに さぶしけむかも(万762)
 す痩すも けらばあらむを はたやはた むなぎを捕ると 川に流るな(万3854)

 すなわち、「あはしま 渡る船の かぢ」では、ハタ……ヤ、ハタ……ヤと、いずれの場合であれヤと疑問を表す助詞を伴うことになっている。右舷であろうが左舷であろうが、明石海峡であろうが鳴門海峡であろうが、つまりは、船のはたであれ、島のはたであれ、ハタは必ずヤで承けることになっている。ヤという言葉(音)にはの意味があり、家の建物のことをいう。いへという言葉でも、家屋のことを指して使われている。

 いへに来て を見れば 玉床たまどこの よそに向きけり いも木枕こまくら(万216)
 ゆふづく日 さすやかはに つくる屋の かたよろしみ うべよさえけり(万3820)
 小林をばやしに われ引入ひきれて し人の おもても知らず いへも知らずも(紀111)
 玉敷ける 家も何せむ 八重やへむぐら おほへる小屋をやも 妹としらば(万2825)

 というわけだから、必ず家のことを思うに決まっているのである。この作者はヤマトコトバの言葉遊びに長けていて、巧妙なジョークを歌にして開陳し、大伴卿の耳にもその頓智がよく通じたということである(注10)

 大船おほぶねの 上にしれば 天雲あまくもの たどきも知らず 歌ふ我が背〔歌乞和我世〕(万3898)

 この歌の五句目は難訓とされていた。筆者は、この歌群が、上京の途中で別行動をとっていた傔従等に対して、都に着いてから道中の思いを歌にしてごらんと大伴旅人が促し、その時に作られて歌われたものと考えている。「歌乞和我世」の「我が背」は旅人のことを指していると考えて間違いないから、旅人が歌を作って披露するようにと傔従たちに求めたことを言っていると理解できる(注11)。唐突に指名されて歌を歌えと言われて困っている。そこで、どうしたらいいかわからないという気持ちを、船中にいた時の、ふだんとは勝手が違ってどうしたらいいかわからなかったことと重ねることで一首を成している。大船の上に揺られていて、天雲がどちらへ向かっているのかわかるすべがない状況でした。今、ご主人様が歌を作れと乞うてくるのと同じようなものでした、と言っている。

 海人あま娘子をとめ いざり焚く火の おぼほしく 都努つの松原まつばら 思ほゆるかも(万3899)

 ツノノマツバラは万279番歌(「角松原」)にもあり、現在、兵庫県西宮市の津門つとの海岸を指すとされている。その地の風光が問題ではなく、そのように呼ばれていることをどう理解したらいいかに関心が向いている。海岸線に松原が広がっていたのであろうが、船が寄港するツ(津)でありつつ水がかりが悪いノ(野、ノは甲類)であるという。この矛盾した地名に対し、奇妙で間抜けな命名であると直感が働いている。そして、その謎解きをしようとして歌にしている。
 「いざり焚く火」とは松明たいまつのことであろう。脂分の多い松の枝を伐ったものが重宝され、明り取りのために火をつけた。盆栽のように芽を摘んだものではなく、自然に徒長した枝を乾燥させて使う。松葉が茂り伸びて行っているのが燃え、枝分かれしているところが鹿の角のように思われる。鹿がいるのはノ(野)であり、ツノ(角)があるから、白砂青松の海岸の名にしてかまわないし、集魚灯がぼやぼやっと光っているぐらいにぼやぼやっと理解できることだと述べている。ツノノマツバラの地名譚の歌を作っている。
 この観点は、「おぼほし」という形容詞で表現している点から検証される(注12)。オボホシには、視覚的、聴覚的にぼんやりして明らかでないさま、心が晴れなく不安であるさま、間抜けでおろかであるさま、の語意があるが、それらの意をかねて使われている。

 ぬばたまの ぎりの立ちて おぼほしく 照れるつくの 見れば悲しさ(万982)
 朝日照る 島のかどに おぼほしく ひともせねば まうらがなしも(万189)
 しきやし おきなの歌に おぼほしき ここのらや かまけてらむ(万3794)

 松明の集魚灯は少し明るいだけで集まって来るからぼんやりしている。ツノという語義撞着はどうにも間が抜けている。鹿の角の形をした松明から命名された地名かといえば、すっかり明らかになったとは自信が持てるものではない。三つの意をかねて歌に表現している。

 たまはやす 武庫むこわたりに 天伝あまづたふ 日の暮れけば 家をしそ思ふ(万3895)

 ムコという言葉には婿(聟)がある。和名抄に、「婿 爾雅に云はく、子の夫を婿〈音は細、字は亦、聟に作る。和名は無古むこ〉とといふ。」とある。娘のところへ渡り通ってくる婿殿がいて、日が天を伝うように毎日、暮れになると通い婚にやって来ていた。そんなことを武庫というところへ来て思い出し、家のことを案じている。

 家にても たゆたふいのち 波のうへに 浮きてしれば おく知らずも(万3896)

 タユタフ(猶預)という言葉とオクカ(奥処)という言葉に、それぞれ二つの意味を掛けて使っている。家にいても落ち着かずに不安で生きた心地もしなかったが、波の上に浮いているとまったくゆらゆら揺れ動いて生死をさまよっている気がする。すなわち、この男はやきもち焼きなのである。家にいても女房が近所の男とちょっと話していたりしたら気が気でなかったが、旅人の帰京に同行させられて船で荷物を運び、都へ単身赴任することになってしまった。家に置いてきた妻は浮気をしているのではないかと際限のない不安に駆られている。オクカ(奥処)は、海の果てのどこだか知れないところへ船出していることと、夫婦が将来どうなるかわからないこととを掛けている。オク(奥)はオキ(沖)と同根の語である。空間的に入口から深く入った所、人の行かない神秘的な所、心理的に大切にする心の底、また、時間に転用してこれからの行く先、将来のことも言った。

 大海おほうみの おくも知らず 行くわれを 何時いつ来まさむと 問ひしらはも(万3897)

 大海の果てがどこなのか、そんなわからないところまで行く自分に対して、今度はいつ来られますかといとしいあの子は問うている。大宰府から沖ノ島へ行くなら明日にもまた逢えようが、海は海でもあなたの知らない海の果てなのだよ。なかなか帰ることは難しいし、ひょっとすると将来に渡りもう逢えないかもしれないよ、というのである。「おく」という言葉は効いている。空間的な場所ばかりでなく時間的な将来のことを言っている。この歌では題詞の「悲傷」が直截的な意味合いになっており、一連の歌を締めくくるのにふさわしい。
 以上、万葉集巻十七の巻頭にある傔従等の歌を解釈した。これまでの通説では、歌に対する評価としては取り立てて言うほどもないもの、構成としては大宰府から平城京まで、傔従等の上京絵巻であるかのように海路を辿るように詠まれていると考えられていた。本稿では、入京後に、傔従等が道中でこみ上げた思いについて大伴旅人が歌にするように求め、各々が作った歌を集めたものであると捉え直した。題詞にもそう記されている。そして、歌のなかに地名が登場していても、その地の実景を写したものでも、歌枕的な地誌があったわけでもなく、言葉(音)としていかに解されるか、頓智、駄洒落を肝要とした歌であることが明らかとなった。当時は基本的に無文字社会であり、非情報化社会であった。言葉を口伝てに伝える以外に伝達の手段を持たなかったのである。「安我あが松原まつばら」、「あら」、「比治奇ひぢきなだ」、「あはしま」、「武庫むこわたり」、「都努つの松原まつばら」という地名を耳にしても、実際に訪れた者以外にはその地の様子を思い浮かべることはできない。行動を別にしていた主人、大伴旅人の知らない場所を歌の文句に取り入れて、風景を思い浮かべさせようとしたりはしないだろうし、その場には他の客人も招かれていたかもしれない。知られていないことを披露しても場が白けるばかりである。歌は一回性の芸術で一度きりしか口にせず、当然、相手に通じることしか歌わない。低評価と判断して憚らない近代的な思考の枠組みとはまったく異なる切り口、言葉(音)のみで伝え得る最大限の情報量を盛り込んだ駄洒落の歌がこの十首の歌である。書契の時代以降に暮らしている人とはものの考え方が根本的に違う、異文化の作品であった。この点を知ること以上に万葉集を学ぶ理由も価値も存するものではない。

(注)
(注1)平舘1998.は、題詞の「悲傷」は他の万葉歌の題詞では、挽歌の類に見られると指摘し、文選の「羇旅」という語に流浪、軍旅、望郷などの憂いを感じるところから「悲-傷羇旅」と題していると考えている。しかし、文選の賦を成すような博識にして筆の立つ文士が歌を作っているわけではなく、「傔従等」が「各陳所心作」した歌十首が一連の歌群として構成されている。身分が低く教養も乏しい従者たちの「所心」に憂いがあるかどうかよりも、そのような人たちが作った歌を採録するに足りていることが重要である。天平二年十一月の時点で大伴卿が聞いて歌として体を成していると認め、よって記し残され、後に万葉集に採られている。「作者不姓名」の歌九首は、おそらく九人の「傔従」がそれぞれ一首ずつ作ったものであろう。「傔従等」の憂いの気持ちなど、大伴卿にとってもその他の人にとってもどうでもかまわないことである。表現としてうまくできていることが注目され、褒めるに値すると認めたということである。言葉づかいの技巧を評価した歌と捉えるのが正しい接近法である。
(注2)158~159頁。寛文版本に従う校本万葉集の歌の配列で歌番号(国歌大観)は付されているが、現在信頼が置かれている西本願寺本や元暦校本とは違っている。
(注3)「太政官処分すらく、『新任の国司、任に向ふ日、伊賀・伊勢・近江・丹波・播磨・紀伊等六国にはじきを給せず。志摩・尾張・若狭・美濃・参川・越前・丹後・但馬・美作・備前・備中・淡路等十二国は並食を給はず、自外の諸国くにぐにには、皆伝符を給へ。但し、大宰府并せて部下の諸国の五位以上には伝符を給ふべし。自外は使に随ひて船にらば、縁路の諸国、ためしに依りて供給せよ。史生も亦此になずらへよ』といふ。」(原漢文)とある。新大系本続日本紀(一の417頁、二の520頁)では、和銅五年五月十六日格を参照しながら、万446~450番歌の「天平二年庚午の冬十二月に、大宰帥大伴卿のみやこに向ひて上道みちだちせし時に作る歌五首〔天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作謌五首〕」は、「鞆の浦」や「敏馬の崎」を詠んでいて、海路をとったことを表すとされているが、陸路の可能性もあると指摘している。筆者は、大伴旅人が進んだのが陸路か海路かはともかく、万3890~3899番歌では「傔従等別取海路京」と、傔従等とは別行動だったから、都で合流した時に道中の様子を歌にせよと乞われ作られたものと考えている。そして、自ずと「悲-傷羇旅」の「所心」を述べることになったのがこの歌群だったのだろう。
(注4)関谷2021.161頁。「傔従」が単なる身辺警備のSPではなく、身の回りの世話をする舎人的性格を有しているとすると、都へ戻って新規採用してまた一から教え込み慣れ親しませなければならないことを考えれば、付き従わせることに何の不思議もない。
(注5)かん1988.は、続紀・和銅元年三月二十二日条、「みことのりして、大宰府の帥・大弐、并せて三関と尾張守等とに、始めてけんぢゃうを給ふ。其のかず、帥に八人、大弐と尾張守とに四人、三関の国守に二人。其の考選・事力と公廨くげでんとは、並に史生に准へしむ。」(原漢文)を挙げ、「傔従」を「傔杖」、武器をとって高官を護衛する従者の意と関連づけて捉え、また、続紀・大宝二年三月三十日条、「大宰府にもはらに所部の国の掾已下と郡司等とを銓擬することをゆるす。」(原漢文)を挙げ、現地採用したものであると捉えている。そして、特に万3891・3896・3897番歌は、そのような従者が離郷の心情を歌っているものとするのが自然であるとしている。神野1993.では歌の解釈の面から同様の内容をも発表している。にもかかわらず、「傔従」が現地採用の官人で、旅人に従って都へ出てきたとする見方に疑問を投げかける向きが絶えないのは、歌の解釈が覚束なかったためである。本稿の歌の解釈、ヤマトコトバ言語ゲーム論は、神野氏の主張を支持する形となっている。
(注6)なかろうはずはない。もしないのなら多くの人に広めても誰も理解することはない。伝えるに値しなければ伝えることはなく、伝わることはない。伝わっていなければ、万葉集に載せられて今日その存在を知ることもない。
(注7)Aの時があり、Bの時がある、その「いづれの時か」と言うとき、AかBかの二者択一を示すと考えられる。「いずれの時」と反語のヤで承けるのであれば、Aか、いやいやAではない、Bか、いやいやそうではない、私がいとおしく思わないだろう時はAとかBとかいうことではない、すべての時において、いつもいとおしく思うだろう、という意味になる。この場所は「荒津」であり、潮の満ち干が激しい。大船は干潟に乗り上げる形で停泊させるから、満潮時に船は停泊や出航が可能で、干潮時に下船や乗船が可能になる。「潮干」の時も「潮満ち」の時も恋しく思わないことはないだろう。しかし、その間の中途半端な水位の時には、船員は何もすることがなく手持ち無沙汰となり、いわば船員でなくなる時であって全然恋しくない時ということになる。
 「荒津」というのだから、船を動かせる満潮の時間帯も、乗客を乗り降りさせる干潮の時間帯も十分に長く確保される場所であったのだろう。思うように仕事に勤しめたから歌にしている。ひょっとすると、難波津の停泊があまりうまくいかなかったことを暗に指しているのかもしれない。
(注8)これまでの解釈では、「恋ふ」という語について、異性の誰かに気持ちが引かれるという意に解し、残してきた人に対する恋心など、人を相手とする恋であるとする解釈が行われてきた。しかし、「恋ふ」には比喩的に、慕う、なつかしむ、の意がある。

 いにしへに 恋ふる鳥かも 霍公鳥ほととぎす づるの 御井みゐの上より 鳴き渡り行く(万111)

 あくまでも「海路」のことを歌っているのだから、引き潮の時、満ち潮の時のいずれの時も「津」としての機能を発揮するからいとおしいのであり、だからこそ「荒津」を歌っているのである。
(注9)拙稿「蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─」参照。当時の常識として通行していたと考える。
(注10)現代語訳に誤りとする点はないが、「淡路島」をとりたててモチーフにしている理由について省みられたことはなかった。
(注11)状況が定まらないながらも、ウタコヘワガセ、ウタコハムワガセ、ウタへコソワガセ、ウタヒコソワガセなどと訓まれてきている。
(注12)「おぼほし」という語については、清濁に移行があったかとも考えられており、オホホシ、オボボシという形も想定されている。挙例中の歌でも仮名書きからオホホシとするべきものがあるが、ここでは一律にオボホシとした。

(引用・参考文献)
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新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
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橋本1985. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。
平舘1998. 平舘英子『万葉歌の主題と意匠』塙書房、1989年。

加藤良平 2024.8.2初出

八代女王の献歌(万626)について

 万葉集巻四の相聞の部立に八代女王やしろのおほきみの献歌がある。
 八代女王については情報が限られている。万葉集にこの一首、続日本紀に位階についての記述が二か所あるだけである(注1)

  八代女王やしろのおほきみの、天皇すめらみことたてまつる歌一首〔八代女王獻天皇歌一首〕
 君により ことしげきを 故郷ふるさとの 明日香あすかの川に みそぎしに行く〈一尾に云はく、たつ越え 三津みつはまに 禊ぎしに行く〉〔君尓因言之繁乎古郷之明日香乃河尓潔身為尓去〈一尾云龍田超三津之濱邊尓潔身四二由久〉〕(万626)
 二月戊午、天皇、でうに臨みたまふ。従四位下栗林王に従四位上を授く。無位三使王・八釣王にならびに従五位下。従四位上橘宿禰佐為に正四位下。従五位上藤原朝臣豊成に正五位上。正六位上多治比真人家主、外従五位下佐伯宿禰浄麻呂・阿倍朝臣豊継・下道朝臣真備に並に従五位下。正六位上三使連人麻呂に外従五位下。四品水主内親王・長谷部内親王・多紀内親王に並に三品を授く。夫人无位藤原朝臣の二人〈名をけり。〉に並に正三位。正五位下県犬養宿禰広刀自・无位橘宿禰古那可智に並に従三位。従四位上多伎女王に正四位下。従四位下檜前王に従四位上。无位矢代王やしろのおほきみに正五位上。従五位下住吉王に従五位上。无位忍海王に従五位下。従四位下大神朝臣豊嶋に従四位上。従五位上河上忌寸妙観・大宅朝臣諸姉に並に正五位下。従五位下曾禰連五十日虫・大春日朝臣家主に並に従五位上。无位藤原朝臣吉日に従五位下。正六位上大田部君若子・従六位上黄文連許志・従七位上丈部直刀自・正七位上朝倉君時・従七位下尾張宿禰小倉・正八位下小槻山君広虫・无位盧郡君に並に外従五位下。(続紀・天平九年(737)二月)
 十二月丙午、坂東の騎兵・鎮兵・役夫と夷俘等を徴しおこして、桃生城・小勝柵を造らしむ。五道倶に入りて並に功役に就く。従四位下矢代女王やしろのおほきみ位記ゐきこほつ。先帝せんていかうせられてこころざしあらたむるをもちてなり。(続紀・天平宝字二年(758)十二月)

 新大系本続日本紀に、「以先帝而改志也。」とは、「かつて聖武の寵愛をうけながら、その後志を変え、他の男性と関係をもった、の意か。」(295頁)という。
 この歌の解釈については、大きく二つの潮流がある。一つは、天皇の寵愛を受けた八代女王が、周囲からの噂が嫉妬や中傷の域にまで達してやりきれないので禊ぎに行こうと歌ったものとする考えであり(注2)、もう一つは、互いの親密な間柄のもとで、甘えかかったり恋心に苦しむ思いを託したとする考えである(注3)。後者の考えでは、続紀の「毀従四位下矢代女王位記」の記事は歌とは無関係であるとしている。
 近年、影山2017.が、後者の立場から展開した見解を提出している。その際、献呈歌でありながら異伝を伴うことへの不審を語っている。相聞贈答に異伝を伴うことはそもそも不自然で、ましてや天皇への献歌において歌詞が彫琢しきれていないというのはおかしいという。
 筆者はそうは考えない。異伝は「一尾云」の形で示されている。「尾」などと記す類例は「尾句」といった例はあるものの他に見られない。ここで、「一尾云」として五句目までをすべて記し、「一尾云、龍田超三津之濱邊尓潔身四二由久」と書いてある。変えているのは三・四句目だけだから、「一云、龍田超三津之濱邊尓」と書くだけでよいのに念を入れて書いている。このことは、その部分が「」であるとの意識のなせるわざであろう。上代語の「」は、鳥や魚の尻から伸びた先の毛や鰭のこと、また、山の裾のことを表していた。すなわち、三句目以降は尾鰭であって、本体はその前の「君によりことしげきを」で尽きている。そこまで言えれば歌の主旨は十分放たれていることを伝えている。
 「ことしげき」とはどのようなことか。「こと」=「こと」である(はずである)から、人が言うことが事実であるということになる。その場合、それを現代語でいう「噂」の意であると思って逐語的に訳すと誤謬が生じる。

 人言ひとごとの〔人言之〕 よこしを聞きて 玉桙たまほこの 道にも逢はじと 言へりしわぎ(万2871)

 この例では、「人言ひとごと」がどのような性質のものか述べられている。「よこし」な「人言ひとごと」、誹謗中傷である。逆に言えば、ただ「人言ひとごと」としかない場合、人がいろいろと言っていることそのことを指している。それがどのような評価を得たものなのかいまだ判断していない、あるいは判断できないものである。ましてや「こと」(「人言ひとごと」)が「しげし」なとき、数多く言われているから、讃頌しているのか、中傷しているのか、いろいろだから決めつけられない。人々の話題にのぼっているということ、ただそのことを指すのが「こと」(「人言ひとごと」)である。慣用表現になっていて、「ことしげき」、「ことしげけく」、「ことしげく」、「ことしげき」、「人言ひとごとしげし」、「人言ひとごとしげく」、「人言ひとごとしげく」、「人言ひとごとしげき」、「人言ひとごとしげみ」などと使われている。「しげし」は草木が繁茂することを指す言葉である。草がわんさか生えてくること、それは何か特定の栽培品種を一律に生えさせた様子ではなく、多種多様な草がそれぞれに丈を伸ばし、蔓を絡ませ、根をはびこらせて繁茂するさまを指している。雑多な生長が見られるのだが、統一的な条件がある。一定の気温になっていることと一定の雨量が得られていることである。遅霜で枯れたり、大雨で水浸しになったり表土が流されてはならない。そのようなときにしか使えない「しげし」という言葉を「こと」(「人言ひとごと」)に当てはめて使っている。すなわち、「人言ひとごとしげし」などと使う場合、その「こと」(「人言ひとごと」)とは、歌を歌う人が男女関係ができた当事者となっていて、そのことについて周りからキャーキャー言われていることを表している。あの人とあの子とができてるんだって、ヒューヒュー、といった噂である。国家転覆を謀っているという噂、汚職贈収賄の噂、大麻等薬物使用の噂などは含まれない。それら犯罪にまつわるような噂は、雑草が繁るように種々にあれこれ向きを違えて立つことはなく、また、誰もが関心を持つことも当事者が属している世間全体に広まるものでもない。
 すなわち、「しげし」となる「こと」(「人言ひとごと」)とは、誰かさんと誰かさんが麦畑、チュッチュチュッチュしている、ということ以上のものではない。当人たちが「こと」(「人言ひとごと」)を煙たいと思うのは、いきなり写真週刊誌に報じられて世間から注目され、面食らうからである。
 念のために万葉集に使われている「こと」(「人言ひとごと」等を含む)に「しげし」(「しげみ」等を含む)が絡んで使われる例を確認しておこう。40例ある。

 心には 忘るる日無く おもへども 人のことこそ しげき君にあれ〔人之事社繁君尓阿礼〕(万647)
 はむ夜は 何時いつもあらむを 何すとか そのよひ逢ひて ことしげきも〔事之繁裳〕(万730)
 ことしげき〔事繁〕 里に住まずは 今朝けさ鳴きし かりたぐひて 行かましものを(万1515)
 いはそそく 岸のうらに 寄する波 来寄きよらばか ことしげけむ〔言之将繁〕(万1388)
 黄葉もみちばに 置く白露の いろにも 出でじと念へば ことしげけく〔事之繁家口〕(万2307)
 しましくも 見ねばほしき わぎ妹子もこを に来れば ことしげけく〔事繁〕(万2397)
 近江あふみの海 沖つ島山 おくまけて 吾がふ妹が ことしげけく〔事繁〕(万2439)
 人言ひとごとの しげりて〔人事之繁間守而〕 逢ふともや なほ吾がうへに ことしげけむ〔事之将繁〕(万2561)
 すりころも りといめに見つ うつつには いづれの人の ことしげけむ〔言可将繁〕(万2621)
 淡海あふみの海 沖つ島山 奥まへて 我がふ妹が ことしげけく〔言繁苦〕(万2728)
 ただに逢はず あるはうべなり いめにだに 何しか人の ことしげけむ〔事繁〕 (万2848)
 波のむた 靡く玉藻の 片思かたもひに 吾がふ人の ことしげけく〔言乃繁家口〕(万3078)
 年きはる 世までと定め たのみたる 君によりてし ことしげけく〔事繁〕(万2398)
 ことしげみ〔事繁〕 君は来まさず 霍公鳥ほととぎす なれだに鳴け あさ開かむ(万1499)
 旅にすら ひも解くものを ことしげみ〔事繁三〕 まろがする 長きこの夜を(万2305)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔人事乎繁美許知痛美〕 おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る(万116)
 人言ひとごとの しげきこのころ〔人言之繁比日〕 玉ならば 手に巻き持ちて 恋ひずあらましを(万436)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔他辞乎繁言痛〕 逢はずありき 心あるごと な思ひ背子せこ(万538)
 吾が背子し げむと言はば 人言ひとごとは しげくありとも〔人事者繁有登毛〕 でて逢はましを(万539)
 現世このよには 人言ひとごとしげし〔人事繁〕 む世にも 逢はむ吾が背子 今ならずとも(万541)
 初花はつはなの 散るべきものを 人言ひとごとの しげきによりて〔人事乃繁尓因而〕 よどむころかも(万630)
 あらかじめ 人言ひとごとしげし〔人事繁〕 かくしあらば しゑや吾が背子 奥もいかにあらめ(万659)
 人言ひとごとを しげみか君が〔人事繁哉君之〕 二鞘ふたさやの 家をへだてて 恋ひつつまさむ(万685)
 人言ひとごとは なつの草の しげくとも〔人言者夏野乃草之繁友〕 いもわれとし たづさはりば(万1983)
 人言ひとごとを しげみと君に〔人事茂君〕 玉梓たまづさの 使つかひらず 忘ると思ふな(万2586)
 人言ひとごとの しげると〔人事茂間守跡〕 逢はずあらば つひにや子らが おも忘れなむ(万2591)
 人言ひとごとを しげみと君を〔人事乎繁跡君乎〕 うづら鳴く 人のふるに 語らひてりつ(万2799)
 人言ひとごとの しげき時には〔人言繁時〕 わぎ妹子もこし ころもにありせば 下に着ましを(万2852)
 逢はなくも しと思へば いやしに 人言ひとごとしげく〔人言繁〕 聞こえ来るかも(万2872)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔人言乎繁三言痛三〕 わぎ妹子もこに にし月より いまだ逢はぬかも(万2895)
 ただ今日けふも 君には逢はめど 人言ひとごとを しげみ逢はずて〔人言乎繁不相而〕 恋ひ渡るかも(万2923)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔人言乎繁三毛人髪三〕 我が兄子せこを 目には見れども 逢ふよしもなし(万2938)
 人言ひとごとを しげみと妹に〔人言繁跡妹〕 逢はずして こころのうちに 恋ふるこのころ(万2944)
 ねもころに 思ふわぎを 人言ひとごとの しげきによりて〔人言之繁尓因而〕 よどむころかも(万3109)
 人言ひとごとの しげくしあらば〔人言之繁思有者〕 君も吾も 絶えむと言ひて 逢ひしものかも(万3110)
 人言ひとごとの しげきによりて〔比登其登乃之氣吉尓余里弖〕 まをごもの 同じ枕は はまかじやも(万3464)
 潮船しほぶねの 置かればかなし さ寝つれば 人言ひとごとしげし〔比登其等思氣志〕 かもむ(万3556)
 うら若み 花咲き難き 梅をゑて 人のことしげみ〔人之事重三〕 おもひそがする(万788)
 きはまりて われも逢はむと 思へども 人のことこそ しげき君にあれ〔人之言社繁君尓有〕(万3114)
  五年正月四日に、治部少輔石上朝臣宅嗣の家にして宴せる歌三首
 ことしげみ〔辞繁〕 あひ問はなくに 梅の花 雪にしをれて うつろはむかも(万4282)
  右一首、主人石上朝臣宅嗣

 これらの例にある「こと」、「人言ひとごと」は、男女の間に関係ができたことに関する噂である。最後の万4282番歌のみ、梅の花に言葉をかけることのようなものとして用いられているが、これは、恋愛関係にある男女の間についての周囲の噂のことを、あたかも梅を恋人であるかのように擬して利用したもので、宴の席での戯歌である。興味深いことに、「こと」(「人言ひとごと」等を含む)と「しげし」(「しげみ」等を含む)とが絡んで慣用句的に使われた例はほぼ巻十二までであり、その後は巻十四の万3464番歌、そして巻十九の万4282番歌に見られるのみである。歌の表現として飽きられたからなのか、鄙の歌を採集する時には人口が少なくて噂で持ちきりになるようなことがなかったからか、社会変化のために恋愛事情が変わって行ったからか、「人言ひとごと」が「他人事ひとごと」になったといった意識の変化があったからか、定かではない。
 「しげし」を伴わなくても、「こと」(「人言ひとごと」)だけで男女の誰かと誰かが付き合っている、どこまで行ったか、といった噂のこととして捉えられる例も見られる。

 かきなす 人言ひとごと聞きて〔人辞聞而〕 吾が背子が こころたゆたひ 逢はぬこのころ(万713)
 恋ひ死なむ そこも同じそ 何せむに ひと他言ひとごと 言痛こちたがせむ〔人目他言辞痛吾将為〕(万748)
 人言ひとごとは〔人事〕 しましそわぎ つな引く 海ゆまさりて 深くしそおもふ(万2438)
 人言ひとごとの〔人言之〕 よこしを聞きて 玉桙たまほこの 道にも逢はじと 言へりし吾妹(万2871)
 人言ひとごとは まこと言痛こちたく〔他言者真言痛〕 なりぬとも そこにさはらむ われにあらなくに(万2886)
 まかなしみ ればこと さなへば 心のろに 乗りてかなしも(万3466)

 以上のように、「ことしげき」とは男女の間に関係ができたと周囲の人が噂を立てて騒ぐことであり、その噂のなかに好意や悪意があるかどうかとは無関係で、評価は中立的である。
 八代女王の歌にある「ことしげきを」についても、天皇と八代女王との間に男女関係ができたという噂であって、そこにやっかみや嫉妬などがあるかどうかについては述べていない。
 では、なぜ八代女王は噂が立っていることを嫌がって、あるいは、汚らわしく思って、禊ぎに行くと言っているのか。
 簡単なことである。
 男女関係ができているというのは、両性の合意により成っているのが基本である。ところが、歌のなかで八代女王は「君により」と言っている。聖武天皇一人が言い寄ってきているために噂が立っていると言っている。これだけを聞けばわかることである。八代女王のほうに天皇への気持ちはない。
 八代女王が聖武天皇から寵愛を受けていたのは確かであろう。彼女がどういう思いであったか時系列で追うことはできないが、二人はできていると人の噂になっているのを嫌だと思ったから、万626番歌のような歌を声に出して言い放った。一・二句目だけで、ああ、そういうことか、と周知に至る内容である。
 筆者の推測にすぎないが、絶対的な権力を握っている天皇からお召しがあれば、初めのうちは疑うことなく参内して相手になっていたことだろう。その時、別段、恋愛感情を意識するようなことはなかった。ところが、天皇からはたびたび御召しがあるようになった。寵愛を受けているということである。周りから嫉妬の目で見られたか、中傷されたり、陰口をたたかれていたか、それはわからないし、その点を八代女王は問題にしていない。問題はそこにはない。例えば彼女自身に他に意中の男性がいたとしたら、ただ天皇の寵愛を受けているという噂が立つことだけでも嫌なことである。そうでなくても若い女性が、中年おやじのパワハラ的なセクハラに対して、キモイ、けがらわしい、と思うことはあって当然なことである。天皇からの誘いを今後一切断る方法として、啖呵をきった歌を献上した。それが万626番歌である。歌とは大きな声をあげて「こと」を伝えることだから、周囲にバレバレになって事は解決するのである。

 君により ことしげきを 故郷ふるさとの 明日香あすかの川に みそぎしに行く(万626)

 聖武天皇、あなたによってまるで愛し合っているかのような噂が立っています。私は自分の身が穢れたように感じています。明日香の川に禊ぎをしに行きます。
 若い八代女王にとって冗談ではないのである。どうして天皇の遊び女にならなければならないのか。無位だったのがなぜか年頃になったら位を授けてくれていたけれど、そういう魂胆だったのね、けがらわしい。私は嫌、さようなら。それが言いたくて歌を歌っている。後は付け足し、尾鰭である。実際に明日香や三津へ出掛けていって禊ぎをしたかどうかなどどうでもいいことである。要するに、権力を笠に着て忍従させられ弄ばれる関係から逃れたく、振りほどいて、断ち切ってしまいたいのである。だから、フルを被る「故郷ふるさとの」と歌い、タツを被る「たつ越え」と歌っている。
 次の例では白波の立つ、と龍田山のタツとを掛けている。

 わたの底 おき白波しらなみ たつやま 何時いつか越えなむ いもがあたり見む(万83)

 音を地口的に遊ぶために言葉を用いることは万葉集の常態であった。地名を導き出すために序詞を設けているばかりでなく、その反対の、言葉を訴えたいために地名を設定することも行われた。すなわち、万626番歌では、禊ぎの場所としてどこへ出掛けるかは問題ではなく、どういう音(言葉)が歌の主旨にかなうかによって詠まれている。その部分は「尾」鰭である。相聞贈歌に異伝を持つことは異例であったとしても、訴えたいことをきちんと伝えるため異例なことをしてわざわざ交換可能な「尾」鰭をつけて歌っている(注4)。禊ぎの場所は別のところでも一向にかまわない。関係をキルを言いたければ、「霧が峰 たるふちに 禊ぎしに行く」なども候補であろう。
 以上、八代女王の献歌について検討した。古代の言葉づかいは端的で、必要十分な最小限を記録することで事の真相を表明することとなっている。だからこそ三十一文字(音)で済む。現代的な感覚で解釈しようとしても本質理解には至らないことがよくわかる例である。

(注)
(注1)影山2017.は、「作歌事情の詳細を伝えない詠への接近は宿命的に動揺する」としつつ、「天平宝字二年の記事と当該歌との短絡が不当であることは確認しておくべき」であるとする。「短絡」はいけないが、確かに論証されるのであれば両者は関係する事項として認めざるを得ない。なぜなら、ほかに事跡のない人物の情報が、よりによって歌に一首、事立てた記事に一か所あれば、その人はそのことでのみ記録されていると考えられるからである。記録する側にモチベーションが働いている。同様の例に、麻続王をみのおほきみの例がある。天武紀四年四月条に流罪になったとする記事が載る。万23・24番歌の左注に紀を引用しているように、関係づけて考えることに不自然なところはない。
(注2)阿蘇2006.に、「「君により」とあるので、女王の恋情のせいではなく、天皇の寵愛のせいで人々に嫉まれ中傷され辛い立場にあることを訴えようとしたものであろう。……聖武天皇の寵愛がかなり目立ち、周囲の反発をかうほどであったことを示している。」(633~634頁)とある。
(注3)伊藤1996.に、「神祭りか何かで明日香へ旅することがあった時、恋の噂を払うために行くとことさら大げさにうたうことで、日頃、恋心に苦しんでいるという思いを託したものか。「献歌」には作品を奉ずるという傾向がある。これも恋を主題にしたもので、こんな歌ができましたという次第で献じたものであろう。」(545頁)とある。
(注4)影山2017.に、「ごくふつうに考えて相聞贈答に異伝を伴うこと自体がまず不自然であり、加えてそれが天皇への献歌であるとしたときに抱かれる不審感は小さくない。献呈に際して詠作者がどれほど心を砕いてことばを紡ぎ、表現を練り、より高い純度の完成形を目指そうとしたか、が容易に想像できるからだ。」(61頁)とあって、迷宮入りしている。「常識的に見て寵愛を受けることは歓迎すべき状態であり、それを迷惑と嫌悪したり、ましてや穢れとして忌避したりする慣習は、ふつうは成立するはずがない。」(66頁)ともいう。歌が心情を表していけないとでもいうのであろうか。基本的姿勢としていただけない。

(引用文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第2巻』笠間書院、2006年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
影山2017. 影山尚之『歌のおこない─萬葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。(「八代女王の禊ぎ」『武庫川国文』第78号、2014年11月。武庫川女子大学リポジトリ https://doi.org/10.14993/00000579 ) 新大系本続日本紀 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀 三』岩波書店、1992年。

加藤良平 2024.7.30初出

佐伯宿禰東人と妻の相聞歌

 万葉集巻四の「相聞」の歌である。

  西海道さいかいだうせつ度使どし判官じょう佐伯さへきの宿すく東人あづまひとつまの君に贈る歌一首〔西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻贈夫君歌一首〕
 あひだなく ふれにかあらむ 草枕 旅なる君が いめにし見ゆる〔無間戀尓可有牟草枕客有公之夢尓之所見〕(万621)
  佐伯宿禰東人のこたふる歌一首〔佐伯宿祢東人和歌一首〕
 草枕 旅に久しく なりぬれば をこそ思へ な恋ひそわぎ〔草枕客尓久成宿者汝乎社念莫戀吾妹〕(万622)

 現在の一般的な解釈を多田2009.の訳出で確認する。

  西海道の節度使の判官佐伯宿禰東人の妻が夫の君に贈った歌一首
 絶え間なく恋しく思っているからなのか、草を枕の旅にあるあなたが夢に見えることだ。
  佐伯宿禰東人が答えた歌一首
 草を枕の旅にも久しくなったので、お前のことをこそ思っている。そんなに恋に苦しまないでくれ。わが妻よ。(95~96頁)

 これでは意が通じない。少しもおもしろくない(注1)
 佐伯宿禰東人あづまひとが西海道の節度使の判官として単身赴任していた時の歌のやりとりである。アヅマヒトという名の人の妻が、アヅマヒトのことを思うとなると東国の人のことを思うことになる。しかし、当の佐伯東人は今、西海道にいる。妻の夢に出て見えたというのは、ひょっとして東国にいる人のことで、自分のことではないかもしれない。妻は寂しさにかまけて浮気をしかねない様子である。そんなことは嫌だという思いを歌に作って、機知あふれる和歌としたのが万622番歌である。こういう歌を返してもらったら、何言ってんだか、あの人、とにやにやしながらまんざらでもなく思うものだろう。

 「をこそ思へ」、君のことを私のほうが思うことはあっても、「な恋ひそわぎ」、決して恋い焦がれてくれるな、と言っている。彼の名はアヅマヒトである。ヤマトタケルは東方遠征の帰り道、足柄の坂で「づまはや」と妻を偲んで三度歎いたものだった(注2)。この話はよく知られ、上代の人たちの通念としてあっただろう。だから、男の自分のほうが妻の不在を歎くのが正しいのである。そして、もし「」がアヅマヒト、アヅマヒトと恋してしまったら、きっと本当のアヅマヒト、普通名詞の「」であるアヅマヒト、東国の人に巡り合って恋に落ちてしまい、気持ちは自分から移ってしまうであろうというのである。  「の君」である西海道節度使判官佐伯宿禰東人は落ち着かない。最愛の妻が東国の人に取られかねない。セの君なのであるが、妻の言ってきた歌を「」と肯定できる状況ではない。だから、「な恋ひそわぎ」と禁止、否定してかかっている。禁止を表す「」が「」を湧出させることも懸けて作っている。
 歌に題詞が付いている。わざわざ書いてあるのは、歌がどういう舞台設定で歌われているのか、きちんと示すためである。すなわち、アヅマヒトという名の人が関わらないのであれば、このような歌は少しもおもしろくない歌、ひいては歌として体を成していないもの、歌とは呼べない代物ということになる。題詞とからめて味わうことで、初めて本当の歌の姿、言語ゲームとしての歌意が伝わる。これまでの解釈はハズレであった。

(注)
(注1)多田氏は講釈を加えている。何をか言わんや。

▷恋と魂逢いと夢─相手との直接の出逢いが妨げられた時、相手の魂との逢会ほうかいを求めて魂が遊離する状態が恋。魂の遊離は主体の統御を超える作用だから、恋は受動的である。魂逢いが実現すれば、互いに夢を見る。六二一歌では、妻が自分の恋によって、夫を夢見たとうたっている。一方、反対に相手が恋したので、相手が夢に現れたとうたった例もある。→六三九。魂逢いによる夢は、どちらにも及ぶ相互作用だったことがわかる。魂は生命力の本質でもあるから、魂の遊離は持ち主にとっては危険な状態を引き起こしかねない。そこで、六二二歌では、「な恋ひそ我妹」と相手を気遣うことになる。(95~96頁)

(注2)拙稿「ヤマトタケルの「あづまはや」について」参照。
 題詞の「西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻」の「妻」を「め」と訓む釈が目につく。新大系文庫本では「つま」とありながら「くん」とルビが付いている。「づまはや」の逸話に近づけておらず、上代の人の心に届いていない。

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解 2』筑摩書房、2009年。

加藤良平 2024.7.24初出

留京歌(万40~44)について

 持統六年三月、天皇は伊勢へ行幸した。中納言三輪朝臣高市麻呂は時期が悪いから延期するように諫言したが天皇は強行した。その時に歌われた歌が万葉集巻一の万40〜44番歌である。最初の三首は柿本人麻呂の歌で、当麻たぎまのひと麻呂まろの妻、石上大臣いそのかみのおほおみが一首ずつ加えている。

    勢国せのくにいでます時に、みやことどむる柿本朝臣人麻呂の作る歌〔幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌〕
 嗚呼の浦に ふなりすらむ 娘子をとめらが たますそに しほ満つらむか〔鳴呼見乃浦尓船乗為良武𡢳嬬等之珠裳乃須十二四寳三都良武香〕(万40)
 くしろく たふさきに 今日けふもかも 大宮人おほみやひとの たま刈るらむ〔釼著手節乃埼二今日毛可母大宮人之玉藻苅良武〕(万41)
 潮騒しほさゐに 伊良虞いらごしま 漕ぐ船に いも乗るらむか 荒きしまを〔潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎〕(万42)
  当麻たぎまのひと麻呂まろの作る歌〔當麻真人麻呂妻作歌〕
 背子せこは いづくくらむ 沖つ藻の ばりの山を 今日けふか越ゆらむ〔吾勢枯波何所行良武己津物隠乃山乎今日香越等六〕(万43)
  石上大臣いそのかみのおほまへつきみ従駕おほみともなりて作る歌〔石上大臣従駕作歌〕
 わぎ妹子もこを いざ見の山を 高みかも 大和やまとの見えぬ 国とほみかも〔吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞〕(万44)
  右は、日本紀に曰はく、「朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔にして戊辰に、浄広じやうくわう広瀬王ひろせのおほきみ等を以て留守官とどまりまもるつかさと為す。是にちうごんわの朝臣高市あそみたけち麻呂まろ、其の冠位かがふりきてみかど擎上ささげ、重ねていさめてまをさく、『農作なりはひさきに、車駕みくるま、未だ以て動くべからず』とまをす。辛未に、天皇、諌めに従ひたまはず。遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔にして庚午に、胡行宮ごのかりみやいでます」といふ。〔右日本紀曰朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以浄廣肆廣瀬王等為留守官於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位擎上於朝重諌曰農作之前車駕未可以動辛未天皇不従諌遂幸伊勢五月乙丑朔庚午御阿胡行宮〕

 これらの歌はいわゆる行幸従駕歌と見られている(注1)がそうではない。四首目まで行幸時に京を守るために残された側から歌われている。この時の行幸では、三輪高市麻呂が反対し、冠位を捨てる覚悟で諫言している。なぜ天皇は行幸を決行したのか、なぜ三輪高市麻呂は猛烈に反対したのか、その理由等については、これまでにも諸説あげられてきたが、なお要を得た回答は得られていない。
 ただ言えるであろうことは、都に留まる側から行幸する人への思いを歌った歌が冒頭から四首も続いているのだから、三輪高市麻呂の立場と同じ思いを歌っている可能性が高いという点である。この歌を万葉集に採録した人はそのことを理解していて、適切に左注を施したのだろう。  三輪高市麻呂は、諫める理由に「農作なりはひ」をあげている。憲法十七条の第十六条に、「十六に曰はく、おほみたからを使ふに時を以てするは、古の良きのりなり。かれ、冬の月にいとま有らば、以て民を使ふべし。春より秋に至るまでに、農桑なりはひこかひときなり。民を使ふべからず。其れなりはひせずは何をかくらはむ、こかひせずは何をかむ。」(推古十二年四月)とある。季節的にも「春三月」なら田植えの時期に近い農繁期に当たり、人民は多忙を極めていたことであろう。農作業に支障が出ては農本主義は成り立たない。当然の主張である。一連の歌のなかでは、万43番歌が農作業にかかわらせて歌を詠んだものと思しい。

 背子せこは いづくくらむ 沖つ藻の ばりの山を 今日けふか越ゆらむ(万43)

 人麻呂の三首に続いて当麻たぎまのひと麻呂まろの妻が歌を作っている。タギマノマヒトマロのことを思ってのことであろう。どうして登場しているのか。タギマという音が、タク(動詞)+ウマ(馬)のこと、馬の手綱をたくし上げるように操ることと関係していると思ったからであり、思わせたいからであろう。春の農作業、田作りをとりあげている。馬を使う作業としては、田起しや田均しがある。馬に馬鍬を引かせて代掻きをした。「農作之前」にすることである。なのに、当麻真人麻呂は従駕させられ、あろうことか農耕に使うべき馬に乗って出かけてしまった。田作りは疎かになってしまっている。我が夫はどこを進んでいるのだろう、藻が流れていってどこへ行ったかわからないように隠れてしまうという、そのナバリの山を今日あたり越えているのだろう、いい気なものだ、とぼやいている。伊勢への行幸だから、海にまつわることを持ち出すために「沖つ藻の」という枕詞を登場させ、ナバリという地名を歌っている。流れ流れてどこへ行ったものか、代掻きもしないで、という意味である。そのとき、ナバリには、ツナ(綱)+ハリ(張)の意を込めていたのだろう。条里制の田で一気に代掻きをするために、嫌がる馬を泥田へと手綱を張って引き入れて馬鍬を引かせていた。

 わぎ妹子もこを いざ見の山を 高みかも 大和やまとの見えぬ 国とほみかも(万44)

 さらに石上大臣いそのかみのおほおみの歌が載っている。彼はイソノカミという名を負っている。いそいそと勇んで見ようとしている。従駕しているから、大和の方を見るために振り返っている。ちょうどイザミという山のあるところを通過している。さあ、見ようというのだが、イザミの山が高いからか、大和国が遠いからか、大和は見えない。進みながら振り返って見ようとすることは、振り返りつつ離れて行っている。上代では「振りけ見る」という。そういう行為に石上大臣いそのかみのおほおみは適任である。なぜなら、イソノカミという音は、イシノカメという音の転訛したものと思われるからである(注2)。石のかめ(メは乙類)は酒を入れておく容器である。石を穿って作ったものではなく、石のような風合いの須恵器のことを指している。「さけ」(ケは乙類)は「け」(ケは乙類)と同音である。どんなに勇んで見ようとしても、それにふさわしい名を負っている私が見ても、大和を目にすることはできない。早く帰ろうよ、と歌っている。
 人麻呂作の三首も、同じように諫言の気持ちをもって歌われたものと考えられる。伊勢(志摩を含む(注3))地方の地名を詠み込みながらなじるような歌になっている。

 嗚呼の浦に 船乗りすらむ 娘子をとめらが たますそに 潮満つらむか(万40)

 万40番歌では、「たますそに潮満つらむか」と言っている。今は「農作之前」である。尻をからげながら泥田の水に浸かって作業をすべきところである。タヅクリ(田作り)の時、きれいな衣装を身に纏うこと、タヅクリ(手作り)などしない(注4)。「大和やまとの 忍 おし のひろを 渡らむと よひづくり 腰づくらふも」(紀106)とあり、「づくり」は手で衣類の紐を結ぶなどして身づくろいすることをいう。盛装していながら海辺で遊んでいる場合ではないのである。
 この歌で、「らむ」は二つ使われている。現在そうしているだろうと推量しているわけだが、後者のそれは疑問の助詞「か」を伴っている。裳の裾に潮が満ちているだろう、と言っているのではなく、裳の裾に潮が満ちているのだろうか、と疑問を投げかけている。情景を到底見ることなどできない都にいながら、推量に疑問を加えている。意図してそう歌っているとしか考えられない。場所は「嗚呼の浦」である。当時の船の停泊形態としては、大型船の場合、ラグーンのようなところへ乗り入れて潮が引くのを待ち、干潟に乗り上げるようにしていた。出航形態はその逆をたどる。水位が増してきて船が浮かび、初めて航行が可能となる。
 ところが、その場所はアミノウラである。アミ(網)+ノ(助詞)+ウラ(浦)ということは、浦という、海からみて奥まったところに海の水が満ちるのを待たなければならない。船の周りに潮を持って来ることを考えると、桶や盥で汲んできて満たせば何とかなるのだが、網では水を汲もうにも汲むことはできない。だから、いつまで待ってもちっとも船出はできないのではないか。「たますそに潮満つらむ」ことなんてないのではないか、と皮肉を言っているのである。

 くしろく たふさきに 今日けふもかも の たま刈るらむ(万41)

 この歌の原文では、元暦校本などにより「今日」としているが、西本願寺本には「今」とある。「今もかも」と訓む可能性が残されている(注5)。筆者は、歌意を理解するうえで、「今もかも」が正しいと考える。
 万40番歌で歌っていた「たま」を引き継いで、「たま」を歌っている。当たり前の話であるが、たまを刈るのは漁民の仕事であって、大宮人おほみやひとのすることではない。では、宮廷社会の人間がタマモカルことがなかったかといえば、一度事件になったことがある。麻続王をみのおほきみ事件である。麻続王がその子どもを相手に、天皇の冠、中国で皇帝が被るぎょくそうと呼ばれる冠を被せて遊んでいた。天武天皇は激怒し、子どもを含めて流罪にした。天武四年(675)のこの事件のことは万葉集の万23・24番歌にも録されており、17年経過した持統六年(692)でも人々の間に記憶されていたことであろう。ぎょくそうを借りるのとたまを刈るのとを絡めた洒落の歌が歌われた(注6)。すなわち、万41番歌においては、今でも玉藻を借りて遊ぶ輩がいるらしいと皮肉を言っていることになっている。
 この解釈が正しいのは、序詞風に歌われている上の句が証明している。「くしろく たふさきに」の「くしろく」はタフシという地名の頭音、タ(手)を導く枕詞である。くしろというブレスレットは、手に巻くからたまきとも呼ばれる。そんな手の関節、タフシ(手節)のことを表してしまう地名、たふの、さらに先のことを問題にしている。手首の関節よりも先にあるのは指である。古語にオヨビと言った。和名抄に、「指 唐韻に云はく、指〈諸視反、由比ゆび。俗に於与比およびと云ふ〉は手の指なり、指扐〈音は勒、於与比乃万太およびのまた〉は指の間なりといふ。」とある。ヨの甲乙は不明ながら仮に乙類であるとすると、オヨビは動詞オヨブ(及)の連用形と同音である。「及ぶ」とは、至る、達する、の意で、時間的にも、空間的にも使われた。今に至るまでもまだぎょくそうを借りてたまを刈るようなことになっているのだろう、と皮肉っている。
 では、この人麻呂の歌はいつ歌われたのか。実際に行幸へ出掛けてしまってから都で歌われたものが、使者によって伊勢へ届けられたとは考えにくい。題詞を注意深く読むと、「幸于伊勢国時、留京柿本朝臣人麻呂作歌」と書いてある。行幸へ出掛けようとする寸前に、天皇一行がまだ都にいるときに歌われた歌である可能性がある。三輪高市麻呂が諫言したのとほど近い時に歌われたものであると推測される。

 潮騒しほさゐに 伊良虞いらごしま 漕ぐ船に いも乗るらむか 荒きしまを(万42)

 この歌は、「船にいも乗るらむか」とあり、船に彼女は乗船するのだろうか、と疑問を呈している。潮がさわさわと音を立てていて、島のめぐりは荒波が立っている。そんな伊良虞いらごの島のあたりで船に乗ろうとしないのではないか、というのである。行幸へ行っても波が荒くて船に乗りたがらない女性たちがいて、ちっともおもしろくないよ、と言いたいのである。行幸に反対する意を表明している。
 イラゴというからには、イラ(苛・莿)なる性格を有するところだろうと推測している。都から遠く離れたところの実際の地誌については知られていない(注7)。それでもイラゴノシマというところなのだから、イラ(苛・莿)なる島であろうと知恵が働いている。少なくとも歌を歌い、その歌われた歌をその場で聞いた人たちの間では、そのように思われたであろうと考えられる。それ以外にイラゴノシマという地名がとり上げられた理由は見出だせない。
 何がイラ(苛・莿)なのか。島の性質なのだから、磯が多くて岩礁、暗礁がめぐっている島だと感じられよう。だから、やたらと潮騒の音がすることになっている。潮流の激しい時に海鳴りがしているのである。ざわざわと音がするのは、潮の流れが海中の巌にぶつかっているからである。海のなかにあって上からは見えない岩石のことを、上代語でイクリ(海石)と言った。「門中となか海石いくりに」(記74)とある(注8)。時に船が接触して難破する危険性がある。
 そんな海石いくりが「しま」、つまり、島をめぐっている。だから、イラゴノシマはどこを取ってみても「荒きしま」になっている。イクリがメグリにある。ということは、「漕ぐ船」というのは、航行において比較的安定した大型船ではなくて、小さなクリブネであると直感される。クリという音が連想されるからである。遠くを進む刳船を陸上から見ると、波立つところで波に揉まれ、船端は高い波に隠れているに違いない(注9)。ちょうど、海石いくりが海面に隠れて暗礁となっているようにである。刳船には海水が入ってきていつ沈むか知れやしないから、暗礁が周囲にある島であえて船に乗ろうとするだろうか。女官が尻込みするような危険なことを無理強いしてどうなるのか、伊勢行幸は止めたらよいのではないか、というのがこの歌の主張である。
 以上、伊勢行幸時の留京歌(万40〜44)ほかは、三輪高市麻呂と同じく行幸を思い留まらせようとして歌われた歌であった(注10)。題詞の「幸于伊勢国時、留京柿本朝臣人麻呂作歌」にある「留」字は、自動詞トドマルではなく、他動詞トドム(下二段)の連体形と、上二段活用のトドムの連体形を兼ねた表現である。他動詞のトドムは、引き留める意であり、上二段の用例は山上憶良の歌に限られる。「留みかね」の形で使われており、留めておくことができないニュアンスを含んでいたかと思われる。これらの反対意見を排して持統天皇は行幸に出立した。行幸は公式行事である。御用歌人の人麻呂が自発的に留まると言って留まることなどできるはずはなく、随伴しなければならないのだが、減らず口を挟むのなら留まっていなさいと命じられて留まっていたということだろう。

(注)
(注1)これまでの、なぜ左注が記されているのかを無視した解釈や、そこに「農作なりはひ」とまで明示されている点を顧慮しない臆説については、各種注釈書や参考文献を参照されたい。
(注2)拙稿「「石上(いそのかみ) 布留(ふる)」の修飾と「墫(もたひ)」のこと」参照。
(注3)「……及び伊賀いが伊勢いせ志摩しまのくに国造くにのみやつこども冠位かうぶりを賜ひ……」(持統紀六年三月)とあって、この頃に分国したと考えられている。
(注4)タツクリと、共に清音であったかもしれない。紀歌謡原文には「陀豆矩梨」とある。
(注5)中西1978.70頁に適切な注釈が施されている。
(注6)拙稿「玉藻の歌について─万23・24番歌─」参照。
(注7)無文字時代に知識の集積体である歌枕的な発想はない。歌をやりとりする上で皆が共有してはじめて歌枕は利用可能となる。万葉集に見られる上代においては、言葉(音)だけが頼りであり、言葉と一体となる事柄だけが求められた。文字が読めない人ばかりの時、そうでなければ通じないからである。本来の意味での言霊とは、言=事なる一致点を強調した考え方による。
(注8)イクリ(海石)という言葉は、「涅 唐韻に云はく、涅〈奴結反、和名は久利くり〉は水中の黒土なりといふ。」と関連がある語と考えられている。「農作」、つまり、田作りの時に行幸を決行しようとする天皇への諫言を助勢する歌である。タツクリ・・と韻を踏んでいる。和名抄にも、「佃 唐韻に云はく、佃〈音は田と同じ、和名は豆久利太つくりた久利〉は作り田なりといふ。」とある。そしてまた、砂浜で見ることができる大きめの貝にハマグリ・・がある。石ころのようなものをクリと呼んでいるわけで、イクリはイソ(磯)+クリ(栗)の約かもしれない。和名抄に、「栗 兼名苑に云はく、栗〈力質反、久利くり〉は一名に撰子といふ。」とある。
(注9)クル(刳)、クリブネ(刳船)という言葉の確例は上代に見られない。ただ、単材式刳船、いわゆる丸木舟は、岩礁の多い海岸の小型漁船として近代まで活躍していた。ぶつかっても全壊することは少なく、重心も低く傾いても復元力を有していた。
(注10)神野志2010.に、澤瀉1957.が「をとめら」→「大宮人」→「妹」と対象を狭めながら歌い進んでいるという指摘(307頁)を推し進め、最終的に公的な立場から離れた私的領域を歌うことになっていて、連作のなかで私的領域までからめるかたちになっているという。そして、「『万葉集』の「歴史」は、私的領域を見出しながら、そこまで組みこんだ世界をあらわしだすのだといってよいであろう。」(215頁)と結論づけている。人麻呂唯我論が始まっているようである。論じてきたように、人麻呂の歌(万40〜42)に続く当麻たぎまのひと麻呂まろの歌(万43)、石上大臣いそのかみのおほまへつきみの歌(万44)は一連の歌であり、左注冒頭の「右」はそれら五首すべてにかかる。当たり前の話だが、人麻呂が宮廷社会の中心にいるわけではないし、歌を中心に世界が回っているわけでもない。

(引用・参考文献)
尾崎2015. 尾崎富義『万葉集の歌と民俗諸相』おうふう、2015年。
澤瀉1957. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
神野志2010. 神野志隆光「私的領域を組み込み、感情を組織して成り立つ世界─泣血哀慟歌から考える─」高岡市万葉歴史館編『生の万葉集』笠間書院、平成22年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
多田2017. 多田一臣『柿本人麻呂』吉川弘文館、2017年。
辻尾2018. 辻尾榮市『舟船考古学』ニューサイエンス社、平成30年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
廣岡2021. 廣岡義隆『萬葉風土歌枕考説』和泉書院、2021年。

                                    2024.7.22初出

紀伊行幸時の川島皇子と阿閉皇女の歌─題詞のフレーミング機能について─

 持統天皇の紀伊行幸時、四年九月に歌われたとされる歌二首である。

  紀伊きのくにいでましし時に川島皇かはしまのみの作りませるうた〈或に云ふ、山上臣憶良やまのうへのおみおくらの作〉〔幸于紀伊國時川島皇子御作歌〈或云山上臣憶良作〉〕
 白波しらなみの 浜松はままつの 向草むけぐさ 幾代いくよまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉〔白浪乃濱松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃経去良武〈一云年者経尓計武〉〕(万34)
   日本紀に曰はく、朱鳥あかみとり四年庚寅の秋九月、天皇すめらみこと紀伊国に幸すといへり。〔日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國也〕
  の山を越えし時に閉皇女へのひめみこの作りませる御歌〔越勢能山時阿閇皇女御作歌〕
 これやこの 大和やまとにしては ふる 紀路きぢにありといふ 名にの山〔此也是能倭尓四手者我戀流木路尓有云名二負勢能山〕(万35)

 一首目は、川島皇子が作ったとことになっている歌で、山上憶良が代作したものかもしれないということを題詞が伝えている。諸説に、有間ありまの皇子みこの挽歌との関係が指摘されているが、有間皇子の歌は政争に負けて刑死させられたときのただならぬものである。有間皇子の歌は、斉明天皇の「紀温湯きのゆ」(斉明紀四年十月)への行幸時の歌を元歌にして作られている。また、有間皇子の挽歌に感銘して追和した歌もある。

  中皇命なかつすめらみこと紀温泉きのゆいでましし時の御歌〔中皇命徃于紀温泉之時御歌〕
 君が代も が代も知れや 岩代いはしろの 岡のくさを いざ結びてな〔君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去来結手名〕(万10)
 吾が背子せこは かり作らす 草なくは 小松が下の 草を刈らさね〔吾勢子波借廬作良須草無者小松下乃草乎苅核〕(万11)
 吾がりし しまは見せつ 底深き 阿胡根あごねの浦の たまひりはぬ〈或頭に云ふ、吾が欲りし 子島こしまは見しを〉〔吾欲之野嶋波見世追底深伎阿胡根能浦乃珠曽不拾〈或頭云吾欲子嶋羽見遠〉〕(万12)
   挽歌
  後岡本宮御宇天皇代のちのをかもとのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ天豊あめとよ財重たからいかし日足姫ひたらしひめの天皇すめらみこと譲位じやうゐの後に後岡本宮にあまつひつぎしらしめす〉
  有間皇子の自らいたみて松がを結ぶ歌二首〔挽謌/後岡本宮御宇天皇代〈天豊財重日足姫天皇譲位後即後岡本宮〉/有間皇子自傷結松枝歌二首〕
 磐代いはしろの 浜松がを 引き結ぶ まさきくあらば また帰り見む〔磐白乃濱松之枝乎引結真幸有者亦還見武〕(万141)
 家にあれば に盛るいひを くさまくら 旅にしあれば しひの葉に盛る〔家有者笥尓盛飯乎草枕旅尓之有者椎之葉尓盛〕(万142)
  長忌寸ながのいみき意吉麻呂おきまろの結び松を見てかなしびむせぶ歌二首〔長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首〕
 磐代いはしろの 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも〔磐代乃崖之松枝将結人者反而復将見鴨〕(万143)
 磐代の なかに立てる 結び松 こころけず いにしへ思ほゆ〈未だつばひらかならず〉〔磐代之野中尓立有結松情毛不解古所念〈未詳〉〕(万144)
  山上臣憶良やまのうへのおみおくらの追ひてこたふる歌一首〔山上臣憶良追和歌一首〕
 鳥かけり ありがよひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ〔鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武〕(万145)
   右のくだり歌等うたどもは、ひつぎく時に作らえずといふとも、歌のこころ准擬なぞらへるが故以ゆゑに挽歌のたぐひに載す。〔右件謌等雖不挽柩之時所作准擬歌意故以載于挽哥類焉〕

 有間皇子事件は斉明四年(658)のことである。万34番歌、川島皇子の歌は左注によれば朱鳥四年(689)のことである。30年も前の壮絶な事件について、風化とまでは言えないが、単なる過去の記憶へと転化していたことであろう(注1)。持統天皇の行幸で古跡地を通過しているときに、なまなましい記憶を蘇らせようとして歌ったものではなく、座興的に同行者の心をなごませるものであったはずである。
 有間皇子は松の枝を結んでいた。中皇命が草(根)を結んでいたことに対抗した歌い方である。亡くなった有間皇子を悼んで花輪が掛けられることがあったかもしれないが、ひょっとすると草で作った草輪が掛けられたかもしれない。「向草むけぐさ」はふつう、手向けのために置かれた幣のこと、その種類のことをいうからタムケグサと呼ぶと思われている(注2)。実際そうであったのだろうが、タムケグサという言葉がいったんできあがってしまったら、手向けるために雑多なものを用いたとしてもヤマトコトバとしては理にかなう。クサは grass のことも variety のことも表すからである。
 今回の行幸で通過した折、そんな「向草むけぐさ」が浜松の枝に懸かっていて、時間が経過して枯れた状態になっていると思われるものが見えた。「いくまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉」と贅言を尽くしているのは、もとは「向草むけぐさ」だったと思われるものが目についたということであろう。それは何か。鳥の巣である。左注にも秋九月とあるから、鳥はみな巣立っており、放置された残骸が残っている(注3)。それを目にしながら川島皇子は歌っている。ほのぼのとした歌である。

左:鳥の巣、右:川の洲

 この歌は、題詞の注にあるように、たとえ山上憶良がネタを考えたとしても川島皇子しか歌うことはできない。彼の名は川島である。川の中にある島は、川の流れに従って姿を変え、まったく姿を消すこともある。それをという。樹上のを歌にしてふさわしく、聞いた人たちがおもしろがることができるのは川島皇子をおいて他にない(注4)

  紀伊きのくにいでましし時に川島皇かはしまのみの作りませるうた〈或に云ふ、山上臣憶良やまのうへのおみおくらの作〉 白波しらなみの 浜松はままつの 向草むけぐさ いくまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉(万34)

 白波が寄せては返す浜辺の松の枝にタムケグサとして捧げられたかに思われる草が、どれほど年月を経たのだろうか、打ち棄てられた鳥のになっている。そこでの名の負う私(川島皇子)は呟いてみたよ。どうだね皆さん。
 二首目の歌も、おそらく同じ時に紀伊行幸に同行していた閉皇女へのひめみこ(ヘは乙類)が作っている。都は大和にあって、このたび行幸で都を離れている。都にいる間じゅう、アヘの皇女は、会へ、会へと言われていた。そのヘは乙類だから、アフ(会・逢)の已然形である。誰とすでに会っているのかわからないが、そういう名なのだから呼ばれるたびに会っている、会っていると言われている気がしていた。彼女は女性だから、意中の男性、ダーリンに、つまり、古語で「」に会っているのだと思っていた。ヤマト(トは乙類)でそう言われていた。山とすでに会っている、と言われていたということである。助詞の「と」は乙類である。今、紀伊路の「背の山」と会っている。彼女でしか歌えない歌を時を逃さず歌っている(注5)。頓智の効いた名歌である。

  の山を越えし時に閉皇女へのひめみこの作りませる御歌〔越勢能山時阿閇皇女御作歌〕
 これやこの 大和やまとにしては ふる 紀路きぢにありといふ 名にの山(万35)

 これがかつて聞いていた背の山なのですね。ヤマトにいるとき、会っている、会っていると呼ばれては、恋しいヤマトすでに会っている、と言われているようでした。いま、まさしく山とすでに会っています。あなた、と呼べる名前をもつ、紀伊路の背の山とすでに会っています。おもしろいじゃありませんか。
 万葉集は、基本的に題詞と歌で構成されている。題詞は歌が歌われる場面設定、舞台の説明、歌の枠組みを決めている。その条件下で歌が歌われている。フレームが呈示されているから、歌で何が歌われているか理解することができる。歌の意味、内容が理解できる。題詞に示された額縁を外して中の歌の画面を見ようとしても、どこまでが地で、どこからが図なのかわからない。近代短歌では、いきなり歌だけを取り出して評価することがあるが、それは、近代という枠組み、短歌という枠組みのなかで暗黙の裡に作品として成り立っているからである。万葉歌を歌だけ引き出して内容を理解しようとしても、中途半端なものになり、多くの場合、誤解が生じる。題詞を無視した歌理解は、上代の文芸ばかりでなく、古代史についても誤った見方を与える。近代的な視座を古代に持ちこんで捻じ曲げ歪めることにしかならない。無文字時代に使われていたヤマトコトバには、そもそも物事を抽象化する意図がない。ブリコラージュとして具体的に語っていた。メタメッセージを抽き出して現代の議論の場で論じることは、記紀万葉のテキストから離れてテキストに即さない空理空論を弄することになる。

(補論1)
 これまで行われている万葉歌の英語訳は、日本における研究を反映して万葉歌の醍醐味であるヤマトコトバの地口、頓智、言葉遊びについて無視していることが多い。現状で理解されていないのだから仕方がない。ヤマトコトバ→(古典日本語→)現代日本語→英語へという訳出過程は変わるはずもなく、英語を母語とする万葉集研究者の手による訳で本質に違いが出たりはしない。「万葉和歌の「文学的な」翻訳への道のりはまだまだ遠い」(ワトソン2017.109頁)という発想は、万葉集を既成概念の「文学」であるとする立場に立っている。万葉歌の真の理解から程遠いものである。
 Duthie 2014. の英訳を載せる。原文と対照されていて、歌部分にはローマ字がルビとして振られている。「濱松pamamatu」と奈良時代当時のハ行音を表しているが、「幾代ikuyo」とヨの乙類であることを示していない。上代特殊仮名遣いでは、「yo」(甲類)と「」(乙類)は別音であった。

34
At the time of an imperial visit
to the Land of Kii, a poem
graciously composed by Prince
Kawashima. Another (text) says it was
composed by Yamanoue no Omi Okura.

On the white-waved
 beach, the pine branch
with a cloth offering
 since then how many ages
how many years have passed?
one says “how many years had passed?”
The “Chronicles of Japan” say that
in the fourth year of Akamitori,
Yang Metal Tiger, in Autumn in the
ninth month, the Heavenly Sovereign
visited the Land of Ki.

35
At the time of crossing over Mt. Se,
a poem graciously composed by
Princess Ahe
This must be that
 which when in Yamato
I long for
 that which is on the road to Ki
Mt. Se that bears the name(p.186)

 日本語訳であるダシー2023.には次のような英訳を載せる。ダシー氏は題詞(headnote)や左注(endnote)の書き方に統一性がないことから『万葉集』の多様性を見、「歌集編成をめぐる対抗関係ポリティクスの徴証と捉えるべきものだと思われる。」(164頁。“Rather, such diversity is evidence of a contested politics of anthologization that takes place within the Man’yōshū itself.” Duthie, 2014, p.180)として論を展開しているにも関わらず、訳本末尾に載る英訳には題詞や左注がない。訳者が付けたものか。anthologization のために headnote や endnote を付けているわけではなく、歌自体の枠組みを示すために当初から付けられたものであることは本論で述べたとおりである。

34
For the offering on the branch of a pine
upon the beach of white waves, for how long
have years been passing by?
 one says, “had years been passsi[ママ]ng by”
35
This must be that, which being in Yamato
I did yearn for, which on the road to Ki
bears the name of Mt. Se.((13)頁)

 Levy 1981. は次のように訳している。

34
Poem by Prince Kawashima at the time of the procession
to the land of Ki
  One book has Yamanoue Okura as
  the author.
How many generations
has the prayer cloth passed
hung from a branch
of the pine on the beach
where white waves break?
  In the Nihonshoki it is written that in
  autumn, the ninth month, of the
  fourth year of Akamitori (690), the
  Empress went on a procession to the
  land of Ki.
35
Poem by Princess Ae when she crossed Se Mountain
Ah, here it is,
the one I loved back in Yamato:
the one they say lies by the road to Ki
bearing his name,
Se Mountain,
“mountain of my husband.”(pp.55-56)

 Cranston 1993.は次のように訳している。

34
A poem composed by Prince Kawashima when the Empress [Jitō] made a progress to the province of Ki (or by Yamanoue no Omi Okura, according to another source)
 Where the white waves splash
Across the branches of the pines
 Along the sandy shore,
How many ages have they passed,
These offerings on the boughs?
Nihongi states: “In the fourth year of Akamitori [689], Metal-Senior / Tiger, in autumn, ninth month, the Empress made a progress to the province of Ki.”(p.185)
35
A poem composed by Princess Ahe when crossing over Senoyama
 Is this then the spot
For which I yearned in Yamato,
 The famous mountain
Said to lie along the road to Ki,
Senoyama, Husband Peak?(p.272)

 Vovin2017.は次のように訳している。

34
A poem composed by Imperial Prince Kapasima at the time when the Empress went to Kïyi province. Some say [it was] a composition by Yamanöupë-nö omî Okura.
The safe passage offerings on the branches of pines at the shore [that is washed] by white waves for how long the years would pass [until they remain]? A variant: the years would have passed [since I tied them]?
The Nihongi says that in the ninth lunar month in the autumn of the fourth year of Akamî töri the Empress went to Kïyi province.(pp.103-104)
35
A poem composed by Imperial Princess Apë at the time when [the imperial excursion to Kïyi province] was crossing Mt. Se.
Is this Mt. Se that bears [this famous] name that is said to be on the road to Kï[yi province], for which I am longing for when [I] am in this Yamatö [province]?(pp.105-106)

 筆者の英試訳を記しておく。題詞や左注は歌の訳に含めてしまった。万葉集はヤマトコトバで歌われてはじめて poem となるものである。駄洒落を他言語に訳すことは、dictionary =字引く書也、のように、双方の言語で語呂合わせが揃わなければならず、困難を極める。

34
The white waves come and go on the beach. Here, it is well known that a famous person died. Since then, people would offer grass to the branches of the pine tree growing on it. After a long time, the grass is withered and looks completely different, like a bird’s nest. My name is “Prince Kahasima”. “Kaha” means river and “sima” means island or sandbank. So we know it well that sandbanks appear and disappear, just like the waves come and go and the ground appears and disappears. In early Japanese, river banks and bird’s nests were both called “su”.
35
Oh, this is just Mt. “Se”, which is the famous mountain on the road to Ki, that I heard about when I was in Yamato. My name is Ahë. In Yamatö, people called me “Ahë”, which was also the realis form of the verb “to meet”. So, Hearing the sound “YamatöAhë” demands a recognition “already met a mountain”. “Yamatö” sounds like “Yama”-“tö”. In early Japanese, “Yama” means mountain, “tö” means “face to face”, and “Ahë” means “already met”. I didn’t know what they were saying until now, but I just understand. Now, I confront this mountain, it’s name is “Se”. “Se”, in early Japanese, means my darling. We can say that I already met the mountain, so called my darling.

(補論2)
 ダシー氏は海外の万葉集研究家である。万葉集の歌よりも題詞や左注に注目して、編纂において「帝国のインペリアル」歌集を志向する暗黙知があったと考えている。「律令国家と平安の宮廷文化が徐々に崩壊した結果、『万葉集』は再評価されて、平安時代に確立した作歌修練とは別個に取り扱われたり、研究されたりすべき古代のテクストとして位置づけ直された。これと同様に、二十世紀後半には文化・文学研究において国民という枠組みが崩壊した結果、古典文学が近現代世界と切り離して捉えられるようになって、『万葉集』自体の語るところを読み取ろうとする可能性もそこから開けてきたのだと思われる。」(ダシー2023.181頁。“Just as the gradual breakdown of the ritsuryō state and Heian court culture led to a reevaluation of the Man’yōshū as an archaic text that should be treated and studied independently from the practice of waka poetry established in the Heian period, so perhaps has the breakdown of the national frameworks of cultural and literary scholarship in the late twentieth century and the consequent perception of classical literature as irrelevant to the modern world opened up the possibility of trying to read the Man’yōshū on its own terms.” Duthie, 2014, p.200)という。万葉集をどう捉えるかという枠組み(frame)について再検討を求めている。ところが、万葉集に記されている題詞や左注は、それぞれの歌の枠組み(frame)を個別に定め示すために加えられたものである(注6)。歌だけを取り出すことができないのは、一定の状況の設定において歌が歌われているため、舞台設定を明示する必要があるからである。作者名が記されるのは、名に負う存在として言葉を吐いているものが歌だったからで、他の人が歌ったのでは意味を成さないことも多かった。くり返すが、題詞は編纂過程で新たに付けられたものではない(注7)
 括弧つきの『万葉集』を見て歌を見ず、に陥った議論は今日の研究に散見される。古典文学が近現代のそれとは別物であることはそのとおりであるが、万葉集など上代のテキストは、平安時代以降の古典文学とさえ別物である。なぜなら、古典日本語で作られているのではなく、ヤマトコトバで作られているからである。万葉集の編纂には、ヤマトコトバの用例集作成を志向する傾向があったという側面さえ認められる。言語ゲームの所産であった。
 万葉集というタイトルについて、よろづのことのはの集と考えていた仙覚の説は、万世に伝わるように期待されたものとする捉え方以上のものである。Collection of myriad leaves という逐語訳はある程度正しいと考える。「葉」の原義は植物の葉である。それが言葉のことを表すのは、タラヨウに字を書いたものを葉書(letter)としていたことからも首肯される。歌の備忘のために言葉が書き付けられたたくさんの紙片をひとつに集めたものを万葉集と名づけたのであろう。編纂者の意図が勝つわけではなくて、collect したというよりは gather したという感触が強い。防人歌のうち、「但有拙劣歌十一首不取載之」(万4327左注)と記す理由は、編纂者の判断で取捨することをお許しくださいとの断り書きである。万葉集の編纂者は撰者ではなかった。雑歌、挽歌、相聞といった部立や、おおむね時代順に並べられているのも、そう整理しておいたほうがわかりやすく、歌ごとにいちいち説明をつける必要もなくなるからそうしておき、一つの体裁として整えている。その意味では assenble していたということだろう。
 ダシー氏は、「この[神野志2007.の「複数の古代」という]考え方は、私見では、『万葉集』の歌に施された種々の題詞や注記から窺える多様な歴史的立場、また多様な歴史化の様式にも適用可能だと思われる。この、歴史的枠組みの複数性こそが、テクスト内部に歌集編成のポリティクスを発生させるのだろう。」(同上171頁、“This [what Kōnoshi has called “multiple antiquities” (複数の古代)] is a concept that, in my view, also applies to the converging of different historical perspectives and styles of historicization in the various notes and commentary that surround the poems in the Man’yōshū. It is this multiplicity of historical frames that creates a politics of anthologization within the text.” ibid. p.188)という。題詞や注記は当該歌のために記されたもので、編成のポリティクスを示そうと(無意識的にさえ)意図されたものではない。歴史的枠組みとしてではなく、当該歌の枠組みを示すために存在している。それぞれの歌が主役であり、歌を定位させるために題詞や注記は記されている。
 便宜のため、ダシー氏の主張の根幹部分を引いておく。

 私が『万葉集』を「帝国の」歌集と称するのは、巻ごとに異なる編纂の原理と様式とを通じ、歌の集積を帝国の歴史として、また帝国の空間的表象として、さらには天皇を中心とする詩的表現の広大な世界として構成しようとする傾向を捉えてのことである。……本章で明らかにするように、『万葉集』に表象される〝国体〟は、さまざまな社会階層の人々が共通の生得的感性を通して統合された国などではない。あくまでも古典的な帝国的世界レルムであって、そこでは、歌が媒介となって宮廷の文化的感性を全土に広め、天皇と宮廷を中心とする広大な文明的な感情世界を生み出すとされる。(同上149頁、“The reason I describe the Man’yōshū as “imperial,” is that throughout the various different principles and styles of anthologization that each of its volumes exhibits, there is a pervasive commitment to configuring the collection as an imperial history, a spatial representation of the empire, and a universal realm of poetic expression centered on the figure of the sovereign. ……As this chapter will make clear, the “shape of the state” represented in the Man’yōshū is not that of a nation in which various people of different social classes are united by a common native sensibility, but that of a classical imperial realm, in which poetry serves as a vehicle for the cultural sensibility of the court to spread throughout the provinces and create a universal world of civilized feeling centered on the sovereign and the imperial court.” ibid. pp.161-162)
 繰り返すが、『万葉集』が〈帝国のインペリアル〉歌集だということは、天皇のインペリアル命で編纂された──勅撰──という意味ではない。さまざまな構成原理と長期にわたる編纂史にもかかわらず、この歌集の組織には帝国史と帝国世界とを表象しようとする一貫した志向が看取されるという意味である。(同上157頁、“The Man’yōshū may not be an “imperial” anthology in the usual sense of having been imperially commissioned (勅撰), but it is in the sense that among its variety of structural principles and long compilation history one can nevertheless detect a pervasive commitment to organizing the anthology as a representation of imperial history and of the imperial realm.” ibid. p.172)
 改めて言おう。帝国史、帝国世界の空間的表象、大伴氏一族に関する脇筋という三つの側面は、どれも単一の視点からではなく、相互に衝突しがちな複数の立場パースペクティヴを交えて描かれている。『万葉集』が相異なる複数の立場から成り立っているのは、単に、長期にわたる編纂過程を通じて帝国の理念が変質したためではないだろう。むしろこの多様性は、『万葉集』自体の内部に刻み込まれた、歌集編成をめぐる対抗関係ポリティクスの徴証と捉えるべきものだと思われる。(同上164頁、“As I noted earlier, none of these three aspects─the imperial history, the spatial representation of the imperial realm, or the Ōtomo lineage subplot─are represented from a single viewpoint. All of them include multiple perspectives that are often mutually conflicting. The fact that the Man’yōshū is made up of different perspectives is not simply due to imperial ideals changing over time throughout the long process of compilation. Rather, such diversity is evidence of a contested politics of anthologization that takes place within the Man’yōshū itself.” ibid. p.180)

(注)
(注1)2024年の30年前、1994年のトップニュースは自社さ連立村山内閣の発足であるが、今日、村山富市氏の眉毛について知らない人、忘れている人のほうが多いのではないか。
(注2)「手向草」については古くから何を指すか諸説立てられている。

手向草、只手向なり、草は万にそへて云詞にて、……幣を初て、何にても神に物を奉るを云、今は松か枝を結て奉るなるべし、有間皇子の結松の事あれど、昔はさしも忌べからざる歟、(契沖・万葉集代匠記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/874349/1/69、漢字の旧字体は改めた)
手向草とは、古松の枝にかゝる蘿也。……これを手向草と名付るは松が枝に垂たるさま、さかきか枝にしらがつけと詠る如くに垂に似たれば手向草とはいふ也。其色白くして、浜松にかゝりたるは、波のかゝれるとみゆるが故に、白浪の浜松が枝乃手向草とよめる歟。(荷田春満・僻案抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970572/1/62、漢字の旧字体は改めた)
手向草 「タムケグサ」とよむ。……神を祭る為に供ふるをいふ。「草」は「料」字の意にてこゝは何にても手向くる料をいふ。行旅の時人々道々に「ぬさ」をとりて神に手向け往来の恙なからむことを祈たるは古の習俗なり。その「ぬさ」は布帛を主とせり。されば、こゝにも浜の松が枝に白き布などの誰人かの手向けたるまゝに残りてありしを見てよまれしならむ。或る説にこの巻二の有間皇子の磐代の結び松の故事を思ひてよみたまひしかといへれど、行幸の折にさる忌はしき事を古とてもよむべくもあらず。又この手向草を松枝を結びたるなりといふ説あれど、これも松を結びて神に手向けたりといふ事例を知らず。(山田孝雄・萬葉集講義 巻第一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880297/1/91~92、漢字の旧字体は改めた)
手向草。「手向」は、神を祭る為に供へる物の総称。「草」は、料の意の語で、手向の物の意。古へは行旅の際、途中の無事を祈る為に、行く先々の神に幣物を供へて祭をするのが風で、その幣物は、主としては布であつたが、木綿ゆふ、糸、紙なども用ゐた。……行幸の供奉をしつつ、途中、浜辺の松の枝に附けてある手向草を見られての感である。「幾代までにか」と云はれてゐるので、比較的長く朽ちない布であつたらうと思はれる。(窪田1951.91頁、漢字の旧字体は改めた)
手向草 タムケグサ。タムケは、行路にあつて、無事であることを願つて神を祭ること。天神を招請して、邪悪の神を拂うのが原義で、ムケは征服の義。コトムケのムケと同語であろう。タは接頭語、手の意がある。それから転じて、道路の悪神に、幣帛を捧げて、災禍を免れようとする思想に移つた。そこで手向として幣帛を献ずる意になるのである。クサは料の義。タムケグサは、手向の祭の材料。幣帛をいうので、実質としては、布、木綿、糸、紙等が数えられる。それらのものが、古くなって松が枝に懸かつているのを見て、いつの代からの物かと疑うのが、この歌の意である。(武田1956.174頁、漢字の旧字体は改めた)

 近年の注釈書では次のようにある。

手向け草─道中の無事を祈って神に捧げる幣帛へいはくの類。木綿ゆうなどを用いた。「草」は、材料の意。松の枝に懸けたり、結んだりしたのだろう。松は土地の霊の宿る神木とされた。この地が岩代いわしろなら、有間皇子事件(六五八年)への意識がある。あるいは、一四三、一四四歌と同時の作か。事件後三十二年。(多田2009.47頁)
「手向くさ」は旅の安全を祈って道の神に捧げた幣帛(へいはく)。作者は、浜松の枝に幣(ぬさ)を掛けようとして、古の旅人が残した古幣を目にして感慨を催した。それは「古(いにしへ)にありけむ人も我がごとか三輪の檜原(ひばら)にかざし折りけむ」(一二八)にも似た懐古の思いであっただろう。(新大系文庫本81頁)

(注3)鳥は巣の素材を選ばない。都市に棲む鳥は、洗濯ハンガーやビニール袋なども使って作っている。幣となっていた布帛であれ何であれ、すなわち、クサと呼ぶに値する名もなき存在を用いる。一般大衆は名もなき存在、「青人草あをひとくさ」(記上)と呼ばれていた。「くさ」と「くさ」はアクセントを異にするから語として起源的に別とされるが、混用する条件は整っている。
(注4)山上憶良の作とする類歌が巻九にある。

 白波しらなみの 浜松はままつの木の 向草むけぐさ いくまでにか 年はぬらむ〔山上歌一首/白那弥乃濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄経濫/右一首或云川嶋皇子御作歌〕(万1716)

(注5)「背の山〔勢能山〕」について、稲岡2004.は、阿閉皇女にとって亡き夫、草壁皇子への追慕の念があり、雑歌に入れられているが相聞歌に他ならなかったと推測している。注釈書ではその考えが続いている。筆者は、副次的にそういう気持ちが存在していたのか可能性を推し測ることをしない。澤瀉1957.も、「むやみに悲痛な感情をこのお作に汲み取らうとするのは正しくこのお作を会する所以ではない。」(279頁、漢字の旧字体は改めた)と述べている。当該歌が歌われて、周囲で聞いた人に、ああ、旦那さんを亡くされてお気の毒になあ、という感情を惹起させたとは思われない印象の歌である。彼女の名、アヘ(ヘは乙類)と、地名のヤマト(トは乙類)と、山の名のセとを掛け合わせてはじき出されたヤマトコトバの頓智に聞き入って感心し、記憶され、書きとめる者がいて、後にそのジョークをよく理解していた人が万葉集に組み入れたのだろう。当然、雑歌に分類される。
(注6)Goffman 1974. ほか参照。
(注7)万葉集にある標目や題詞を見て、全体の構造ないし構成を考えようとする一派がある。伊藤1974.、市瀬・城﨑・村瀬2014.、村瀬2021.など参照。

(引用・参考文献)
伊藤1974. 伊藤博『萬葉集の構造と成立 上・下』塙書房、1974年。
市瀬・城﨑・村瀬2014. 市瀬雅之・城﨑陽子・村瀬憲夫『万葉集編纂構想論』笠間書院、平成26年。
稲岡2004. 稲岡耕二「大名持神社と人麻呂歌集─人麻呂の工房を探る(其の三)─」『萬葉』第188号、2004年6月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2004
澤瀉1957. 澤瀉久隆『万葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
窪田1951. 窪田空穂『万葉集評釈 第1巻』東京堂、昭和26年。
神野志2007. 神野志隆光『複数の「古代」』(講談社(講談社現代新書)、2007年。
阪下2012. 阪下圭八「初期の山上憶良」『和歌史のなかの万葉集』笠間書院、平成24年。(『万葉集を学ぶ』有斐閣、1977年。)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈三』角川書店、昭和31年。
ダシー2023. トークィル・ダシー、品田悦一・北村礼子訳『万葉集と帝国的想像』花鳥社、2023年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
村瀬2005. 村瀬憲夫「妹勢能山詠の諸問題」『萬葉集研究 第27号』塙書房、2005年。近畿大学学術情報リポジトリ https://kindai.repo.nii.ac.jp/records/1269
村瀬2021. 村瀬憲夫『大伴家持論 作品と編纂』塙書房、2021年。
ワトソン2017. ワトソン・マイケル「万葉集の英訳について」『万葉古代学研究年報』第15号、2017年3月。奈良県立万葉文化館ホームページ https://www.manyo.jp/ancient/report/pdf/report15_12_english.pdf
Cranston 1993. Edwin A. Cranston. A waka anthology. Vol. 1: translated, with a commentary and notes. California, Stanford University Press. 1993.
Duthie 2014. Torquil Duthie. Man’yōshū and the Imperial Imagination in Early Japan. Leiden, Brill, 2014. Goffman 1974. Erving Goffman. Frame analysis: an essay on the organization of experience. Massachusetts, Harvard University Press, 1974.
Levy 1981. Ian Hideo Levy. Man’yōshū: A Translation of the Japan’s Premier Anthology of Classical Poetry Volume one. New Jersey, Princeton University Press.1981.
Vovin 2017. Alexander Vovin. Man’yōshū : Book 1: a new English translation containing the original text, Kana transliteration, Romanization, glossing and commentary. Leiden, Brill, 2017.

                                     加藤良平 2024.7.15初出

山部赤人の印南野行幸歌

 万葉集巻六の前半に、かさの金村かなむら車持千年くるまもちのちとせ山部赤人やまべのあかひとによる長反歌からなる行幸従駕歌がある。ここでは山部赤人の印南野行幸従駕歌について検討する。

  山部宿やまべのすく赤人あかひとの作る歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作謌一首〈并短歌〉〕
 やすみしし わご大君おほきみの かむながら 高所知須 印南いなみのの 大海おほみの原の 荒栲あらたへの ふぢの浦に しび釣ると 海人あまぶねさわき 塩焼くと 人そさはにある 浦をみ うべも釣りはす 浜をみ 諾も塩焼く ありがよひ 御覧母知師 きよ白浜しらはま〔八隅知之吾大王乃神随高所知須稲見野能大海乃原笶荒妙藤井乃浦尓鮪釣等海人船散動塩焼等人曽左波尓有浦乎吉美宇倍毛釣者為濱乎吉美諾毛塩焼蟻徃来御覧母知師清白濱〕(万938)
  反歌三首〔反謌三首〕
 おきつ波 邊波安美 いざりすと ふぢの浦に 船そ騒ける〔奥浪邊波安美射去為登藤江乃浦尓船曽動流〕(万939)
 印南野の あさ押しなべ さの 長くしあれば いへしのはゆ〔不欲見野乃浅茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生〕(万940)
 あかがた しほの道を 明日あすよりは したましけむ 家近づけば〔明方潮干乃道乎従明日者下咲異六家近附者〕(万941)

 これら赤人の行幸従駕歌は、一般に、土地の讃美をもって王権讃美に代えた作とされ、柿本人麻呂の吉野讃歌の様式に則ったものと捉える見方が主流となっている(注1)。筆者はすでにいわゆる吉野讃歌が王権を讃美するためのものではないことを明らかにしている(注2)。当該長反歌も、土地の讃美や王権の讃美ではない。第一に、釣りをしたり塩焼きをしたりすることを歌うことがどうして土地の讃美になるのか皆目わからない。第二に、万940・941番歌では家に帰りたい気持ちを歌っていて、訪れている印南野に名残惜しさが感じられず、長歌と反歌の関係性が不明である。第三に、これらの歌は行幸時に歌われていると考えられるが、歌を聞く対象は従駕している人たちで、つまりは都から来ている人たち、ふだんから王権を支えている宮廷人たちであり、辺鄙なところで自画自賛しても何も始まらないからである。
 虚心坦懐にこれらの歌を聞いた時、印南野はこんなところです、よく来ましたねぇ、目的は達成されましたから、さあ、そろそろ帰りましょうよ、と歌っているように感じられる。歌は歌である。理屈を並べて陳述してみてもその場で耳で聞く人の心には届かない。人々が共感する内容が歌われたから、歌として成立しているものと考えられる。それ以外のものはわからない歌であり、記憶されず、記録もされなかっただろう。
 長歌には訓みに難がある箇所が見られる。「高所知須」、「御覧」、「邊波安美」の訓みが定まっていない。「高所知須」については、「須」字を西本願寺本で「流」とするが、元暦校本では「須」とし、右傍に「流イ」としながら朱で見せ消ちがあって「須」が正しいと認識されていた。讃美の歌だという色眼鏡で見てしまうと、「高所知」を採って訓みを歪曲し、「たか知らせる」と誤って訓みたがってしまう。そして、「御覧」については、「ます」や「さく」などと訓まれている。フラットな気持ちで向き合わなければ本文校訂はできない。
 まず、「神ながら」という言葉の意味を捉え直す必要がある。「神ながら」という言葉は、「神の性質として。神であるままに。」(岩波古語辞典340頁)の意とされ、天皇が神性を有して支配することを表すための語であると考えられてきた。しかし、「神」という言葉は人知を超えたところにあることを強調する。人間が神となるにはある特殊な状況が求められる。死んだら神になる(注3)。今、挽歌を歌っているわけではない。「神ながら」という言葉は、天皇が神さながらにうまく「高所知須」ことをしているということではなく、「神」がいて当たり前に通じていること、人の意向を超越し、予定調和的にうまくかなっていることを表しているものである。歌の文句の「やすみしし わご大君」という枕詞による掛かり方が、神業的に絶妙な言い回し、あやなす巧みな言い方であると追いかけながら形容している言葉、それが「神ながら」である(注4)。「神ながら」が登場する他の歌を見ても、「蜻蛉あきづしま やまとの国」や「葦原あしはらの みづの国」などと常套句が現れている。ただの「わご大君」や「倭の国」や「瑞穂の国」では「神ながら」とは言えない。「やすみしし わご大君」、「蜻蛉島 倭の国」、「葦原の 瑞穂の国」と、形容表現として慣用化していることに対して言葉に神意が顕れているとして、「神ながら」と称しているのである。当たり前に「やすみしし わご大君」という言葉づかいをするように当たり前に「高所知須」ことになっていると言っている。何が当たり前といって、オホキミと呼んだ時点で支配者であることを認めているのだから、どこだって支配するのは当然のことなのである。嫌だ嫌だという意味のいなむと呼ばれているイナミノというところであれ変わりはない。長歌の冒頭、「やすみしし わご大君おほきみの かむながら 高所知須 印南いなみの」の歌意はただそれだけである。
 ここまでの検討で、長歌で何を歌いたいかかなり明らかになっている。印南野に行幸しているが、ここは天皇が支配している。ここへは行幸で来ているのであって、敵地へ遠征に来ているのではない。天皇の支配が確立しているところである。わかりきったことを歌にしている。そんなことを歌って何になるか。それはそもそも長歌というものの性質にかかわる。だらだらと尻取り式に語句を並べ、対句をとり入れながら歌い進めている歌を聞き取ることができるのは、最初から聞き手が歌の内容を理解しているからである。もし何か殊更の主張があったら、聞く人は徐々に疲れてきて聞かなくなってしまうだろう。だからこそ、歌に予定調和的な言葉が配されており、よく似合っているのである。
 もちろん、わかっていることをだらだら漫然と述べて話にオチがないというのではおもしろくない。オチを期待してだらだら続く言葉列を聞いている。この歌のオチは「きよ白浜しらはま」である。歌っているのは赤人である。赤人という名を負っていて、色について論じるのにもってこいの人物である。最後のオチ、シラハマへ向け、収斂するために歌の中の語句は散りばめられている。「高所知須」、「御覧母知師」の訓みはこれにより定まる。
 「高所知須」については、七音に訓もうとして「たかろしめす」(紀州本)といった案が出されている。しかし、無理に七音に訓む必要はない。「神ながら」が予定調和、慣用句を示しているのだから、その点を強調するためには五音で訓むことに支障はないし、かえって効果的でさえある。すなわち、「たからす」と訓めばよいのである。「やすみしし わご大君おほきみの かむながら たからす 印南いなみの ……」と歌えば、われらが天皇陛下が支配なさるのは当たり前の印南野のことですがね、と前置きをしていることになる。五音で言い切ることで、イナミノが否もうがどうしようが支配するに決まっているじゃないか、と印象づけることに成功している(注5)。歌のオチはシラ・・ハマであり、タカシラ・・スという訓みの正しさが検証されている。シラの音が掛かっている。
 次に「御覧母知師」について考える。「覧」字は万葉集中に他に六例ある。「梅の散るらむ〔梅乃散覧〕」(万1856)、「行くらむわきも〔徃覧別毛〕」(万2536)、「妹待つらむか〔妹待覧蚊〕」(万2631)、「くるらむわきも〔明覧別裳〕」(万2665)、「乳母おももとむらむ〔於毛求覧〕」(万2925)、「今日か越ゆらむ〔今日可越覧〕」(万3194)である。みな助動詞ラムを表している。
 「御覧母知師」は素直にミラムモシルシと訓めばよい。現在の推量を表す。「ありがよひ らむもしるし」、つまり、いつも通ってきて見ることになっているらしい徴候として「きよ白浜しらはま」はあるのだ、と言っている。「しるし」は名詞、助詞モは不確かさを表している。印南野に来るのははじめてで、今後も通ってきて見るように常態化するかどうかは本当のところはわからないため、不確かさを表す助詞モを伴っている。どうしてそのように奥歯に物が挟まったような言い方をしているのか。簡単である。帰りたいのである。また来ればいいじゃないかと思っている。だから、常に通って見るだろうと言い、その証拠に、きれいなシラハマがあることを示している。地名としてはイナミ(否)だけれど、実態としては支配、領有されることを嫌がってなどいない。完全にヤマト朝廷の版図内である。シラハマ(白浜)があるとおりシラス(知・領)ところなのだからいつでも来れますよ、と言っている。ホームシックの気持ちを歌う反歌(万940・941)との整合性もとれている(注6)。行幸に従っている宮廷人たちの間に帰りたい気持ちが募っていたから、その気持ちを代表して歌にして声をあげている。これまで論者が述べていたように万940・941番歌で私情を詠むことの意味を問題にする必要はない。なぜなら、土地褒めも王権讃美もなく、〈公〉と〈私〉の区別もないからである。長歌から一貫して、ねえ帰ろうよと歌っているだけである。頭をひねって何事であるかを議論する対象ではない(注7)
 第一反歌の「邊波安美」の訓みについては、ヘナミヲヤスミ、ヘナミシヅケミ、ヘツナミヤスミ、ヘナミヤスケミなどが案としてあげられている。澤瀉1960.は「波に対して「安し」と云つた例は無」(73頁、漢字の旧字体は改めた)いとし、鈴木2024.は「赤人の作品中、……「を」はすべて「乎」ないし「矣」で表記され、読み添えとなる例はない。」(155~156頁)と指摘して、ヘナミシヅケミと訓む説を主張する。傾向としてはそうかもしれないが、例外を排除するものではない。
 長歌において、「御覧母知師」を「らむもしるし」と訓むことが確認された。将来的な徴候について語っている。すなわち、この反歌でも、将来の見通しについて安心していられること、以後も波が立たずに気兼ねなく漁に出られることを言おうとしているものと考えられる。それを古語にヤスシ(安・易)という(注8)
 漁をするのに船を出す際、気をつけなければならない波には二通りある。船を出すときの海岸での波と、出てからの波浪である(注9)。海岸に打ち寄せる波は受けても命にかかわらないものの、ひどく水が入ったり船が横倒しになったりしてやり直しになることがある。船出した後の波は操舵の自由を奪われたり、魚がおびえて釣果が乏しかったりする。その両方を対比して言おうとしているから、「おきつ波」と「つ波」と形をそろえているものと考えられる(注10)。よって、ヘツナミヤスミと訓み、「つ波やすみ」の意であると捉えるのがふさわしいだろう。「おきつ波」も「つ波」も、今もそうだがこれからも安らかであるだろう、そう言えるのは、「きよ白浜しらはま」が「らむもしるし」としてあるのだから、という理屈である。もちろん、科学的な言説ではなく、言葉づかいのロジックを語っている。声に出して歌って周囲の人に聞いてもらうのが上代の歌だから、その場で通じて聞いただけで楽しめることを言っているのであった。

(注)
(注1)梶川1997.、神野志2001.など。
(注2)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」参照。
(注3)「現人神あらひとがみ」(景行紀四十年是歳)、「現人之神あらひとがみ」(雄略紀三年四月)、「現人神あらひとがみ〔荒人神〕」(万1020・1021)といった例もあるが、人の形となって現れた神という意味合いが強く、神の万能性を述べたものではない。景行紀の例は、蝦夷えみしに対する威圧のための方便としてその子であるとヤマトタケルが言い放った言葉、雄略紀の例は一事主神ひとことぬしのかみが人の姿となって現れて言った言葉として登場している。万1020・1021番歌の例は、「住吉すみのえの 現人神あらひとがみ」とあり、海神である住吉神を指しており、あるいは人の形に作って船霊として祀られていたものかもしれない。
 また、「あきつ神〔明津神〕」(万1050)と歌の冒頭にあって「わご大君」に被さっているのは、「久邇くにあらたしきみやこたたふる歌二首〈并せて短歌〉」のもとに詠まれた歌で、古の神代の言い伝えによりながら遷都していることを歌ったものだから、神が人の形となって現れていると形容するために冠せられているものと考えられる。拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」参照。
(注4)天皇が支配することを讃美して「神ながら」と形容しているとしたら、一介の下級役人の分際で評論していることになりはなはだ不遜である。拙稿「「言挙げ」の本質にについて」、「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」参照。
(注5)神野志2001.や廣川2023.は、「高知らす」や「高知る」、「高知ります」には、「宮」、「高殿」、「大御門」「御舎みあらか」などの言葉を伴って、建物の高さ、壮大さを表すはずであると指摘している。続紀・神亀三年九月条に、「従四位下門部王・正五位下多治比真人広足・従五位下村国連志我麻呂等一十八人を以て造頓宮司とす。播磨国印南野に幸せむとしたまふ為なり。」なる記事があるものの、「頓宮」は仮殿以上のものではない。印南野には立派な離宮は存在しない。そんなところで「高知らす」と口を滑らせている。破格の五音で歌うことで、豪華な別荘もないところにいつまでも留まることに対する疑問の念を表明としてふさわしい。
(注6)第二・第三反歌は、長歌の主題を受け継ぎ、内容を要約するという一般的な反歌のあり方とは異なっていると考えられ、それが定説化している。そのうえでの辻褄合わせの考えが梶川1987.、伊藤1996.、稲岡2002.、清水2005.、阿蘇2007.、神野志2013.、廣川2023.、鈴木2024.に見られる。みな長歌の意が酌めていない誤読である。「行幸の時の歌であっても、……[私情を社会化して]歌うべきものであったというべきなのであり、私情までをからめてとり込んであることを、『万葉集』の世界の本質として見るべきなのである。」(神野志2013.22頁)、「[万940・941番歌の]「望郷の心」も〈君臣の共感〉に裏打ちされたものであると理解できる。」(廣川2023.38頁)、「プロパガンダ的なパフォーマンスという意味が明らかにな[り、]……有徳の天子として喧伝される必要があった。」(鈴木2024.169頁)などと大風呂敷を広げてみても、歌から離れた空理空論でしかない。
(注7)歌は歌われて周囲の人々に聞かれることで成り立っている。印南野に行幸したご一行の気持ちを表すために「山部宿禰赤人の作る歌一首〈并せて短歌〉」が歌われている。題詞に書いてあること以上/外の事柄、例えば聖武天皇は偉いなあ、といったことは歌われていない。歌詞にないことを読み取ろうとすることは、「こくご」の科目では御法度、零点である。
(注8)ヤスシの意味として、物事のなりゆきに障害や不安がないから安心していられる。その感覚には時間の感覚を含んでいて将来不安がないことをいう。これからも平穏無事だと思えなければヤスシにならず、夜も寝られない。

 たまきはる うちの限りは たひららけく 安くもあらむを 事も無く  も無くもあらむを ……(万897)
 さは 多くあれども ものはず 安く寝る夜は さねなきものを(万3760)

 第一例に「平らけく 安くもあらむ」とあり、当該反歌、万939番歌の用例と合致した使い方である。
(注9)波に風浪とうねりの違いがあることは知られていたであろうが、船を出して「鮪釣」、マグロ釣りをするのに支障があるものとして山部赤人という都会人が考えている。歌の言葉に沖の波と波打ち際の波とを対比させて歌にしている。
 なお、東1935.は、マグロは瀬戸内海にいないから別の魚を候補にあげている。しかし、この歌は忠実に叙景しているとは認められないから、通例のとおりマグロと考えるのが妥当である。「浦をみ」を「うべ」の根拠としている。船を漕ぎ出して沖釣りをする際、魚種を「浦」の様子から想定することはできないではないか。
(注10)「おきつ波」に対して「なみ」のケースが多いものの、「おきつ波」と「つ波」の形も存在する。

 …… わぎ妹子もこや が待つ君は おきつ波 来寄きよ白玉しらたま つ波の する白玉 求むとそ ……(万3318)

(引用・参考文献)
阿蘇2007. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第3巻』笠間書院、2007年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
稲岡2002. 稲岡耕二『萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
澤瀉1960. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第六』中央公論社、昭和35年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
神野志2013. 神野志隆光『万葉集』の「歴史」世界─巻六をめぐって─」『萬葉』第214号、平成25年3月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2013
神野志2001. 神野志幸恵「赤人の印南野行幸歌」坂本信幸・神野志隆光編『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
清水2005. 清水克彦『万葉論集 第二─石見の人麻呂他─』世界思想社、2005年。
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。(「山部赤人の神亀三年印南野行幸従駕歌」『東京大学国文学論集』第9号、2014年3月。東京大学学術機関リポジトリ https://doi.org/10.15083/00035090
東1935. 東光治『万葉動物考』人文書院、昭和10年。
廣川2023. 廣川晶照「山部赤人「播磨国印南野行幸歌」について」『美夫君志』第106号、令和5年4月。

                                     加藤良平 2024.7.17初出

万葉集の「辛(から)き恋」

 万葉集に「からき恋」という言い方が三首に見られる。「からし」という言葉は、舌を刺すような鋭い感覚、塩辛いばかりでなく酸っぱい場合にも用いられる味覚の意味と、そこから派生して骨身にしみるようなつらい気持ちに陥る状態のことを指した。「辛き恋」の歌はその二通りの意味を掛けたもので、序詞で塩辛さを伝え、その「辛き」という言葉で表されるようなつらい感覚の恋をする、という比喩表現である(注1)

志賀しか海人あまの 火気ほけ焼き立てて 焼くしほの からこひをも あれはするかも〔壮鹿海部乃火氣焼立而燎塩乃辛戀毛吾為鴨〕(万2742)
  右の一首は、或るに云はく、石川君子朝臣いしかはのきみこのあそみ作るといふ。〔右一首或云石川君子朝臣作之〕
  つくたちに至りてはるかに本郷もとつくにを望みて、悽愴いたみて作る歌四首〔至筑紫舘遙望本郷悽愴作歌四首〕
➁志賀の海人の ひとも落ちず 焼く塩の 辛き恋をも 吾はするかも〔之賀能安麻能一日毛於知受也久之保能可良伎孤悲乎母安礼波須流香母〕(万3652)
  (平群氏女郎へぐりうぢのいらつめの、越中守こしのみちのなかのくにのかみ大伴宿禰家持に贈る歌十二首〔平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首(万3931題詞)〕)
須磨すまひとの うみつね去らず 焼く塩の 辛き恋をも 吾はするかも〔須麻比等乃海邊都祢佐良受夜久之保能可良吉戀乎母安礼波須流香物〕(万3932)
  (右のくだりの歌は、時々に便たより使つかひに寄せて来贈おこせり。一度ひとたびに送らえしにはあらず。〔右件歌者時々寄便使来贈非在一度所送也(万3942左注)〕)

 歌の内容は、海浜で塩を焼いていて、そこでできあがる塩のように辛い恋なんかを私はするのかな? と歌っている。塩焼きのことと恋のことは無関係(注2)だから、修辞を先行させてとぼけた歌を歌っているとしか考えられない。
 文法学の論者は、このように表面的に受け取ることを嫌う。序詞を用いた表現と用いない表現の違いを指摘し、序詞表現の効果を言い立てる。
 序詞によらない場合は、形容詞……「辛き」が直接「恋」を形容している。それに対して序詞を用いた……[歌で]は、恋の……「辛さ」を「志賀の海人の……焼く塩の辛き」事実に即しながら、具象的・象徴的に表現しているのである。少なくとも……「辛し」のみによっては、それがどのように……「辛き」恋であるのかを具象化することは不可能である。ここに、序詞の表現上の特質があると言わなければならない。(和田2022.221頁)
 「辛き恋」だけではどのような恋だかわからないというが、重労働である塩焼きの結果できた塩のような「辛」さで譬えられるような「恋」なのだ、と言われてもどのような恋なのかわからない。片思いや三角関係のような大がかりなつらさを伴うものから、男女間のささいなやりとり、その際にいちいち気になる心の襞のようなものまで、「辛き恋」にはいろいろあるだろう。それをぐずぐず述べるとき、はじめてその恋は具象化する。そもそも唐突に「辛き恋」と言って相手に伝わるとは思われない。塩焼きが何たらかんたらと前置きすることによってのみ、「辛き恋」という表現はあり得ただろうということである。「辛し」という言葉のもつ二つの側面を使う限りにおいておもしろい表現となり、だから悦に入って歌にしていたということである。
 ➀は、巻十一の「物に寄せておもひぶる歌三百二首」の一首である。逆に言えば、物に寄せずに歌うことなどかなわない内容であるとも考え得る。➀と➁は、「志賀の海人」が塩焼きしていることを思い浮かべている。「志賀の海人」は漢委奴国王の金印で有名な福岡市の志賀島の海人のことである。➁は、巻十五、遣新羅使の歌である。筑紫まで来て奈良の都を振り返って思い悲しんでいる。大陸へ行くということは、すなわち、カラ(からから)へ向かうわけだから、カラ(辛)いことを歌いたかった。➀でも、渡海の起点となるところだからカラの地が意識されている。そういうところの海浜で焼いてできあがる塩はさぞかしカラいものだと洒落を言っていて、辛い恋という言い方が成立している。冗談のような成り立ちであるが、言葉が音でしかなかった無文字時代、ないしその余韻を残している万葉の時代には、決定的である。誰かが語呂合わせに気づいて言葉遊びをした。その言葉遊びの延長線上でこれらの歌は歌われている。
 ➂はその応用形である。「志賀の海人」が「須磨の海人」(注3)ではなく「須磨人」に代わっている。平群氏の女郎は九州へ出向いていないし、歌を贈る相手は越中にいる。近場でどこか「辛き恋」を歌うのに良いところはないかと探して、スマヒトだったら行けるのではないかと思いついた。スマノアマでは駄目である。
 スマヒトという言葉(音)にはスマヒという言葉(音)が隠れている。あるいは、スマヒビトの約かもしれない。すなわち、相撲取りのことである。相撲節会のため、部領使ことりづかひを各地に派遣して力士を都へ召し出していた。同じく防人を招集して引率する者も部領使ことりづかひと呼ばれていた。コトリはコト(事)+トリ(執)の約と見られている。区別するために「相撲すまひの部領使ことりづかひ」(万864序)、「防人さきもりの部領使ことりづかひ」(万4327左注)とも言っている。
 スマヒトは部領使に連れられて行く人のこと、同じ部領使に連れて行かれる防人かもしれず、となるとそれはカラ(韓・唐)に対して防衛に当たる人のことで、塩焼きすればことのほかカラ(辛)い塩ができあがっただろうと連想が働いている。スマヒ(相撲)は現在の相撲よりも範囲が広く、二人が組み合って力比べをする武技を言っていた。
 ➁と➂で、「一日も落ちず」、「海辺常去らず」と否定形を表現内に含めており、旅の慕情や旅人の非日常性へと導く表現であるとも考えられている(注4)。しかし、述べてきたように、カラ(韓・唐)と関係があり、カラ(韓・唐)に対抗的な役目を果たす防人の要素をスマヒトは持っている。動詞形のスマフは平安時代になって確例が見られるが、抵抗する、身をもって拒む意を表す。組み合ってする力比べは、相手の力をいかに防ぎ拒むかに力点が置かれると見られていたようである。その点は「志賀の海人」でも似ていて、予備自衛官の役目を兼務していたのだろう。塩を焼くには「一日も落ちず」、「海辺常去らず」見ていなければならない。同様に、敵であるカラ(韓・唐)が襲ってこないか見張るためには、休むことなく常時監視していなければならなかった。レーダーが故障していたら敵軍の攻撃に抵抗することはできない。
 万葉集の研究でこれら三首がとりあげられるのは、序歌としてのありかた、序詞表現をどう捉えるかという視点からであることが多い。その際、序詞は本意を導き出すためのものと思われている。当該歌でいえば、「辛き恋をも我はするかも」が歌の本意であるとされ、三句目までは序詞で「辛き」を導き、そこまでが「恋」を修飾する言葉であると見られることが多い。「辛き」を「つなぎことば」と措定する見解もあり(注5)、また、序詞が下の句(本意)のどこまで掛かるかが議論にのぼることもある。

               (和田2022.221頁を縦横改変)

 ところが、いま見てきたように、「辛き恋をも我はするかも」を伝えたいために歌が作られているとは一概に言えないのである。すてきな修辞法が考えついたから歌にして歌い、聞いてもらっている。聞いた相手も、つらい恋ですねえ、お気の毒に、頑張ってくださいね、などとは受け取らなかった。カラだけにカラとはうまいこと言いますね、お話がお上手ですね、なかなかに賢いですね、というのが感想であったろう。恋心を伝えるために言葉を使っているのではなくて、言葉心を伝えるために言葉を使っている。序詞や枕詞という修辞法をなぜ使うのか。言語が持つ魔性が一役買っていることは疑い得ない(注6)。頓知、洒落、地口、なぞなぞなどの言葉遊びも含めて言語ゲームと呼ばれている。

(注)
(注1)序歌に関し、伊藤1976.は、「つなぎことばそのものは、本質において掛詞、結果において譬喩で、れっきとした二重表現と考えられる」(257頁)と述べている。
(注2)平舘2015.に、三首に加えて万5番歌「…… 海人娘子らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心」をあげ、「塩焼きの景色を恋心に重ねるこの手法は人口に膾炙していたことが知られる。」(244頁)との妄言がある。「下心」(万5)は恋心とは限らないだろう。当該三首は「焼く塩の辛き恋をも我はするかも」を常套句にしてそれぞれに捻った作となっているにすぎない。「塩焼きが導く「辛き恋」に対して、家人を思うその辛さを詠むのではなく、それをする「我」を内省する表現には、もはや都と通じ得ない遠い地に居るという心情の反映を窺える。」(同245頁)も妄言である。「塩焼き」が「辛き恋」を導いているのではなく、「……焼く塩の」が「辛き」を導いている。なお、平舘氏の主張は、現在の通行している序詞一般についての標準的な見解から外れるものではない。考え違いが横行していると筆者は考えている。
(注3)須磨の海人が塩焼きをしていたことを歌に詠んだものは二例ある。塩屋という地名が知られている。前者は「大網公人主宴吟謌一首」、後者は「過敏馬浦時、山部宿祢赤人作謌一首〈并短謌〉」の「反歌一首」である。塩を焼いたらどこでも「辛き恋」を導くかと言えば、上代人にとってはそうではないのである。

 須磨の海人あまの 塩焼きごろも ふぢごろも とほにしあれば いまだ着なれず〔須麻乃海人之塩焼衣乃藤服間遠之有者未著穢〕(万413)
 須磨の海人の 塩焼きぎぬの れなばか 一日も君を 忘れて思はむ〔為間乃海人之塩焼衣乃奈礼名者香一日母君乎忘而将念〕(万947)

(注4)平舘2018.は、万2742番歌の序詞の表現、「火気焼き立てて焼く塩の」が「繋がる本旨の「辛き恋」に激しい炎が燃えるような恋の思いを連想させる」(367頁)のに対し、万3652番歌の「「一日も落ちず」は欠けることの無い時間の把握と共に相聞的な情調をすでに包含していることを窺わせ……、旅の日々の中で一日も欠けることなく重ねられてきた慕情に導かれるものとしてある」(369頁)とし、「序詞中の否定の表現を含む用法が、その表現によって、事象の継続を意味し、本旨の心情の在り方に、単なる継続以上の時間性を反映させていることが考えられる」(372頁)としている。この考え方の誤りについては(注2)参照。
 万葉集で他に「からし」の例とされるのは以下のとおりである。一首目はカラクニ(韓国)という音がカラク(辛)を導き出しているところに興趣を覚えて歌っている。二首目は蟹の塩漬けのことを歌っているが、実態はよくわかっていない。それでも、カラウス(唐臼)とカラク(辛)との間には音の連繋が見て取れる。三・四首目は原文に「少可」、「小可」を「苛」の誤字としてカラクと訓む説である。カラシ(辛)は骨身にしみることをいうのだから語義に合わないと思われる。アシク(悪)、ツラク(辛)と訓む説があり、そちらが穏当であろう。すなわち、カラシ(辛)という語を歌に使う理由は、カラ(韓・唐)との音の戯れがおもしろいからなのである。

 昔より 言ひけることの 韓国からくにの からくも此処ここに 別れするかも〔牟可之欲里伊比祁流許等乃可良久尓能可良久毛己許尓和可礼須留可聞〕(万3695)
 …… さひづるや 唐臼からうすき 庭に立つ うすに舂き おしてるや なに小江をえの 初垂はつたりを からく垂れ来て 陶人すゑひとの 作れるかめを 今日けふ行き 明日あす取り持ち が目らに 塩りたまひ きたひはやすも 腊賞すも〔……佐比豆留夜辛碓尓舂庭立手碓子尓舂忍光八難波乃小江乃始垂乎辛久垂来弖陶人乃所作〓〔瓦偏に缶、缻の左右反対〕乎今日徃明日取持来吾目良尓塩漆給腊賞毛腊賞毛〕(万3886)
 黙然もだあらじと ことなぐさに 言ふことを 聞き知れらくは 辛くはありけり〔黙然不有跡事之名種尓云言乎聞知良久波少可者有来〕(万1258)
 大夫ますらをと 思へるわれを かくばかり 恋せしむるは 辛くはありけり〔大夫登念有吾乎如是許令戀波小可者在来〕(万2584)

(注5)伊藤1976.。同書では当該三首をとり上げていないが、「万葉の序詞は、リズムの快感をたのしむ表現であるとともに、寄物して陳思する心物融合の修辞表現だったと考えられるのである。」(262頁)としている。「つなぎことば」による二重表現は、「同音異義語に富み、連想性の豊かな日本語固有の性格に由来することはいうまでもない。」(同頁)としていながらそこで止まっている。万葉歌は、ヤマトコトバを使っているうちに言葉がひとり歩きをし、その結果、成果として声に出して歌われているという側面を多分に持っているのである。
(注6)鈴木1990.は当該三首をとり上げていないが、序詞を使った万葉集の表現構造を、「事物現象を表す言葉と心情を表す言葉がたがいに対応しあうことによって、歌中の〈心〉〈物〉いずれの言葉をも超えて新たなイメージを構築しうるというしくみ」(138頁)と捉えている。言葉についてフラットにしか見ていない。実態は、さまざまな意味合いを錯綜させながら再生産しつづけるのが言葉というものである。

(引用・参考文献)
伊藤1976. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
鈴木1990. 鈴木日出男『古代和歌史論』東京大学出版会、1990年。
平舘2015. 平舘英子『萬葉悲別歌の意匠』塙書房、2015年。(「辛き恋─遣新羅使人歌の旅情─」『萬葉』第206号、平成22年3月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2010
平舘2018. 平舘英子「序歌の方法」芳賀紀雄監修、鉄野昌弘・奥村和美編『萬葉集研究 第三十八集』塙書房、2018年。
和田2022. 和田明美『古代日本語と万葉集の表象』汲古書院、2022年。

加藤良平 2024.6.24初出

駿河采女の歌の解釈

 万葉集中には、駿河するがの采女うねめの歌が二首ある。天皇の宮に仕える駿河出身の下女のことであり、同一人物の作かどうかはわからない。

  駿河するがの采女うねめの歌一首〔駿河婇女謌一首〕
 敷栲しきたへの 枕ゆくくる なみたにそ うきをしける 恋のしげきに〔敷細乃枕従久々流涙二曽浮宿乎思家類戀乃繁尓〕(万507)
  駿河するがの采女うねめの歌一首〔駿河采女謌一首〕
 沫雪あわゆきか はだれに降ると 見るまでに ながらへ散るは なにの花そも〔沫雪香薄太礼尓零登見左右二流倍散波何物之花其毛〕(万1420)

 万507番歌は、枕から濡れこぼれる涙が溢れ、水鳥のようにその水に浮かぶ思いで寝ている、恋心が激しいので。万1420番歌は、消えやすい泡のような雪が、まだらに降るかと見まがうほどに流れつつ散っているのは何の花だろうか、といった意味であると解されている。雪の降るさまは梅の花の散ることになぞらえることがある(注1)から、ここでも梅の花を意識していると捉えている釈が多い。これらの内容は誰が歌ったとしても意味が通じる。茫漠とした一般論を詠んでいるように感じられる。しかし、特段に駿河出身の采女が歌ったと記録されている。その理由はどこにあるのだろう。また、駿河出身の采女には名はなかったのだろうか。
 前後を見ると、万505・506番歌の題詞は「倍女郎へのいらつめの歌二首」、万508番歌には「三方みかたの沙弥さみの歌一首」、万1419番歌の題詞は「かがみの王女おほきみの歌一首」、万1421番歌には「尾張をはりのむらじの歌二首〈名をもらせり〉」とある。名のある人、また、闕名の人の間にある。
 題詞が歌の内容の枠組みとなるフレーミング機能を果たすものであるなら、スルガノウネメというだけでその職掌が定まり、個別的特異性をもって歌が歌われていると目されよう。采女は下働きの女官なのだから、天皇の宮における雑事のうち、スルガの名を冠したものに与えられたであろう役割にまつわる歌が詠まれていると考えられる。その第一候補は、スルガというのだから、スル(摺・摩・擦・擂・磨)+ガ(処)の意で、何かをスルことを仕事としていた者として認識されていただろう。実際にそうしていたかについては記録はない。それでも古代には、名負氏の考えがあって職掌が名と深く結びついていた。名に負う存在として宮廷に仕えていたのである。
 古代の人がスル(摺・擂・擦・磨)といえば、食料製造のためのスル、顔料製造のためのスルが考えられる。万507番歌からは、涙のように液体が涌き出ていること、万1420番歌からは、雪のように思える花が関係することという二つの条件が示されている。両者を兼ね備えた事柄としては、菜種を擂って菜種油をとることが導き出される(注2)

青味だいこん(アブラナ科の十字花、花の色は白い)

 奈良時代に栽培が確認されているアブラナ科の植物として、ダイコン(注3)があげられる。食用とされており、他の蔬菜類よりも高価であったことが知られている(注4)。食べる時期に収穫せずに放置すれば薹が立って白い菜の花を咲かせ、莢の状態の種を採ることができる。絶対に種を採ることがあったのは、翌年も栽培するために欠かせないからである。種には油分を多く含んでいる。そこで、エゴマなどと同様、油をとることが行われたと考えられる(注5)。炒る、擂る、蒸す、搾る、濾す、の工程を経て菜種油ができあがる。液体の上澄みが油で、下には水分が沈んでいる。この油は食用ではなく灯明用の灯油である(注6)。松明などと比べて煤が少なく、魚油と比べれば臭いもきつくない。庶民に手が出る値段ではなく、皇室や高級遺族の屋敷、寺院でのみ使われていた。宮中での生活に使うために作っていたのだろう。名に負う駿河采女が製作に携わっていた。
 以上を前提として歌を再解釈すると次のようになる。

 敷栲しきたへの 枕ゆくくる なみたにそ うきをしける 恋のしげきに(万507)
 枕のような擂臼のところから流れ出る涙のようなものに、不安な思いをいだきながら身を横たえるように低くしてのぞき込む。油がとれていることにとても関心があるので。
 沫雪あわゆきか はだれに降ると 見るまでに ながらへ散るは なにの花そも(万1420)
 沫雪がまだらに降るかと見立てられるほどに、流れ飛び散っているのはいったい何の花でしょう。(あれはアブラナ科のダイコンの花ですね。私の出番は間近なようです。)

 万507番歌では、「恋」という言葉を比喩的に用いている。苦労して油を搾っており、滲み出てきたので賞愛するようになっている。また、万1420番歌の修辞表現は、「何の花そも」とふるったものになっている。ふつうなら食べるために収穫されてしまい、ダイコンの花を目にすることはなく知られていないからである。今日でも白い十字花を目にした人は驚いて、黄色くない菜の花に蝶は気づくのだろうかと想像をめぐらせる感想を発している。このように、両首はスルガノウネメでなければ歌い得ない歌なのであった。

(注)
(注1)例えば次のような歌がある。

  紀少鹿女郎きのをしかのいらつめの梅の歌一首
 十二月しはすには 沫雪あわゆき降ると 知らねかも 梅の花咲く ふふめらずして(万1648)

(注2)神野・中村・深澤2014.に、「奈良時代には荏胡麻油、胡麻油、麻子油、曼椒油、椿油、胡桃油、閉美油(イヌガヤ)の7種類の油があったことが文献史料にみえる。」とある。延喜式に書いてあるのが手がかりであるが、史料類から原材料を正確に搾り出せないのは、結果的に灯油がとれて明りになればそれでよいから任せておいたということだろう。
(注3)和名抄に、「葍 爾雅注に云はく、葍〈音は福、於保禰おほね、俗に大根の二字を用ゐる〉は根、正に白くして之れを食ふべしといふ。兼名苑に萊菔〈上の音は来〉と云ふ。本草に蘆菔〈音は服〉と云ふ。孟詵食経に蘿菔〈上の音は羅、今案ふるに萊菔、蘆菔、蘿菔は皆、並びに葍の通称なり〉と云ふ。」と見える。
(注4)関根1969.参照。
(注5)深津1983.は、アブラナの油料としての利用は江戸時代をあまり遡らないと推定している。市場に出回る製品レベルではそうであったかもしれないが、使えるものは使うのが民俗的な知恵である。
(注6)食用にしたことがないとは言い切れないが、現在の精製油と違い酸化が進んでいて、あまりお薦めできる代物ではない。

(引用・参考文献)
神野・中村・深澤2014. 神野恵・中村亜希子・深澤芳樹「「曼椒油」再現実験」『香辛料利用からみた古代日本の食文化の生成に関する研究』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所、平成26年9月。奈良文化財研究所学術情報リポジトリ http://hdl.handle.net/11177/2851
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
辻本1916. 辻本満丸『日本植物油脂 訂正増補再版』丸善、大正5年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/981096
深津1983. 深津正『燈用植物』法政大学出版局、1983年。

加藤良平 2024.7.3初出


大伴家持の二上山の賦

 大伴家持は越中国司として赴任中、賦と称する長歌を三首作っている。それに大伴池主が「敬和」したものを含めて「越中五賦」と呼ばれている。「賦」は漢文学からとられた用語である。

  二上山ふたかみやま一首 此の山は射水郡いみづのこほりに有るぞ〔二上山賦一首 此山者有射水郡也〕
 水川みづがは いめぐれる 玉櫛たまくし 二上山ふたがみやまは 春花はるはなの 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて け見れば 神からや そこばたふとき 山からや 見がしからむ 皇神すめかみの すその山の 渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそに 朝凪あさなぎに 寄する白波 夕凪ゆふなぎに 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく いにしへゆ 今のをつつに かくしこそ 見る人ごとに けてしのはめ〔伊美都河伯伊由伎米具礼流多麻久之氣布多我美山者波流波奈乃佐家流左加利尓安吉能葉乃尓保敝流等伎尓出立氐布里佐氣見礼婆可牟加良夜曽許婆多敷刀伎夜麻可良夜見我保之加良武須賣加未能須蘇未乃夜麻能之夫多尓能佐吉乃安里蘇尓阿佐奈藝尓餘須流之良奈美由敷奈藝尓美知久流之保能伊夜麻之尓多由流許登奈久伊尓之敞由伊麻乃乎都豆尓可久之許曽見流比登其等尓加氣氐之努波米〕(万3985)
 渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそに 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ〔之夫多尓能佐伎能安里蘇尓与須流奈美伊夜思久思久尓伊尓之敞於母保由〕(万3986)
 玉櫛たまくし 二上山ふたがみやまに 鳴く鳥の 声のこひしき 時はにけり〔多麻久之氣敷多我美也麻尓鳴鳥能許恵乃孤悲思吉登岐波伎尓家里〕(万3987)
  右は、三月三十日に、興に依りて作れり。大伴宿祢家持〔右三月卅日依興作之大伴宿祢家持〕

 「二上山賦」と銘打たれた長歌は、前半こそ二上山を題材にしているようでありつつ、後半にはせり出している海の様子を詠んでいる。それをまとめて「二上山○○○賦」と呼んでいて、題詞との間にズレがあるように思わせるものである(注1)
 題詞には脚注が付けられていて、二上山が射水郡に位置していることを殊更に印象づけている。とてもわざとらしい。おそらくは歌の内実を解くヒントゆえのことだろう。歌の最後の方に「いにしへゆ 今のをつつに」とあって、太古の昔から今に至るまでずっとのことであると述べられている。「いにしへ」という言葉は、イニ(往)+シ(助動詞キの連体形)+ヘ(方)のことで、過ぎ去ってしまってはるか遠い昔のこと、自分が実地に知ることのできない、言い伝えられている神話的説話の時代のことを指している。そんな大昔のことを持ち出すことができるのは、二上山があるのが射水郡だからということのようである。
 みづという言葉から連想される言い伝えとしては、海幸・山幸の話がある。山で狩猟をしていた山幸が、海で漁撈をしていた海幸との間で、互いにサチを交換しようということになった。サチとは得られた獲物を表すと同時に、それを捕獲する手段となる、とっておきの道具のことも表した。それさえあれば獲物は捕れたも同然だからである。そのとっておきの道具とは、狩猟では弓矢の矢の先につける鏃であり、漁撈では釣りをするとき糸の先につける釣り針()のことと考えられた。鉄器で製作されるようになり、生産性が高まったことに基づいての考えからであろう。そして、鏃と釣り針を互いに交換し、持ち場も替えてみたのである。狩猟民が釣りにおいても弓矢を放つのと同じだろうと思い、魚をめがけて放ったところ、ただ失われるばかりのこととなった。水に向けて矢を射ることをした場所として、イ(射)+ミヅ(水)という言葉が想起されたのである。
 山幸こと、ホヲリノミコトは、兄である海幸こと、ホデリノミコトに、失くしてしまったを返すようにと責めたてられた。そこで、佩いていた十拳剣とつかのつるぎを鋳潰して、千個の鉤にリサイクルし、償いとしようとしたが受け取ってはもらえず、頑なにもとの鉤を求めてきた。途方に暮れて海辺に佇んでいると塩椎神しほつちのかみ塩土しほつつのを)が知恵を授けてくれた。その後、海神宮わたつみのみやを訪問する話へと展開していく。千個の鉤のことは、「一千」(記上)と言っていた。チチはちちと同音である。乳と言えば赤ん坊が求める女性のそれが代表であり、二つある。それを赤ん坊は噛んでは吸っている。フタガミヤマ(二上山)という言葉(音)から何をイメージしているか理解されよう。すなわち、「二上山賦」は、海幸・山幸の説話をもとにした地名譚を創案して朗々と歌われたものなのである。海幸・山幸の言い伝えが人口に膾炙していて、それをもとにすれば射水郡のいくつかの地名は繙くことができた。そのため、それらをつなぐ言葉として、「いめぐれる」(注2)と述べている。心のうちに想念として人々が共通して持っている昔語りを自然の景観に託しなぞらえて歌にしている。恋情を自然に託しなぞらえて歌にするのと同じ手法である。
 全集本は、「秋の葉」は「春花」の対偶語で、ともに翻訳語であろうという(206頁)。なぜ対偶的な言葉が求められているかといえば、フタ○○ガミヤマ(二上山)を詠んでいるからであろう。二つ対立するように述べ立てている。「春花はるはな」が「春花しゆんくわ」、「秋の葉」が「秋葉しうえふ」を訓んだ翻訳語かどうか決める決定打はない。春には植物が花を咲かせることが特徴としてある。対して、秋はどうかと言ったとき、色づいた「葉」が目につくと思うことに不自然なところはない。漢籍を知らなければ生まれることがない言葉であるとは考えにくい。その後も、フタ○○ガミヤマ(二上山)を強調して表すために、「神からや」、「山からや」というように対句形式を用いている。カラはから、本性、性格の意である。二上山ふたがみやまの神の性格、山の性格とは何か。乳のことであると見立てているのだから、貴いのはおっぱいが出て乳児はそれを飲むことができて健やかに育つことかとも思われる。見たいと思うのは男性がそう思うということであろう。今、乳を望んでではなく二上山を望んで歌にしている(注3)。したがって、あるいはそういうことであろうか、と疑問の意を含めるために「や」という疑問の助詞が付いている。
 「かむから」という言い方は、一般に、うまい具合に表現している常套句コロケーションなど、ヤマトコトバとして上手に連絡していて言い得て然りとする時に用いられる(注4)。おっぱいが出ることは自然の摂理だが、なかには出の悪い方もいる。神の性格、なせる業と考えることは用法として少し無理がある。二上山に見立てられる乳房の二つあることと「一千」という言い伝えの言葉とがうまく連動してわかりやすくなっているところこそ、まるでそこに神が実在しているかのようなからくりであると見て取って「かむから」と言っている。このヤマトコトバには神が宿っているようではないか、と言っている。

裳の襞がプリーツスカートのように凸凹している飾襞付き裳裾部分(高松塚古墳壁画・女子群像、明日香村教育委員会)

 神代の時代に乳房をたくわえた神さまといえば、女神と限定され、その代表格はアマテラス(天照大御神、天照大神)である。そこで、「皇神すめかみ」という言い方で言い直している。スメカミは一地域を領する最高位の神のことも指すからである。女神を前提にしているから、山裾のことは女性が身につける裳の裾のことともイメージが重なって的確である。裳の裾にはたくさんの襞があり、裾を廻るには上り下りをくり返すことになりそうだと形容している。ちょうどそこに「渋谿しぶたに」という地名がある。シブ(渋)とは進行が遅くなることをいう言葉のようである。下にあげた万1205番歌の例では、船を沖合まで出してしまえば岩礁にぶつかる心配が減るから、一生懸命に漕ぐ必要はなくなって船の進行を遅くしても大丈夫になるが、力を抜いた水夫は出港した地やさらにその先の故郷の方を見たいと思い振り向いたが、岬の陰になっていて望み見ることができず惜しいことだと言っている。今昔物語の例では、逃げる際に蔀戸を外してそれに跨ってムササビのように滑空して行った時の様子を言っている。蔀のおかげで抵抗が増して落下速度が遅くなっている。

 沖つかぢ やくやくしぶを 見まくり がする里の かくらくしも(万1205)
 しとみのもとに風しぶかれて、谷底に鳥の居る様に漸く落ち入りにければ、……(今昔物語・十九・四十)

 山からすれば谷に当たる所、そこが凸凹していて浜を有さずに磯となって海に面している。「渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそ」とは、そういう海に埋没した山裾の様子を言っている。
 次にも対句形式が来ている。「朝凪あさなぎに」、「夕凪ゆふなぎ」である。しかし、凸凹した磯場では潮が引いても浜が現れることはない。いつも海水を被っている。「寄する白波」、「満ち来る潮」と言っている。そしてそのことをもって「いや増しに 絶ゆることなく」と続いて行っている。このように引くことのない様子を歌にしているのは、当初から歌に込めている元ネタ、海幸・山幸の話による。山幸こと、ホヲリノミコトは、を見出だせずに途方に暮れていると、海神の宮への行き方を教えられて行ってみた。何年か過ごした後、鉤が見つからずに責められていたことを打ち明けると、鯛の喉にあることがわかり、なおかつ海神から鉤の返し方を教えられた。念の入った呪詛法で、相手の兄が逆ギレして攻撃してきた時のことまで踏まえていた。すなわち、攻めてきたら相手を溺れさせることが可能になっていたのである。だから、いま越中の地で見えている光景も、白波が寄せたり潮が満ちて来たりして、「いや増しに 絶ゆることなく」という状態になっている。それは「いにしへ」以来のことであり、「今のをつつ」、現在の実景にも当てはまることだと言っている。まさにこのように、この地の有り様を目にする人は、言い伝えどおりであることを皆よくよく心に「かけてしのはめ」、海幸・山幸伝承をダブらせて思いを致すのだろう、と言っている(注5)
 短歌二首が添えられている。

 渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそに 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ(万3986)

 万3986番歌は長歌の内容を念を押した作である。同じく「いにしへ」とあって、言い伝えにある海幸山幸の話、を返した時の対応によっては溺れることになるという話が自然と思い出されると歌っている。「寄せる波」が「しくしく」、つまり、く寄せてくるように、呪詛の言葉により溺れる話が思い出されることとを言い重ねている(注6)

 玉櫛たまくし 二上山ふたがみやまに 鳴く鳥の 声のこひしき 時はにけり(万3987)

 万3987番歌では、「鳴く鳥」が登場している。この鳥はホトトギスのことを指していると考えられている。この歌群の一つ前に前日の歌が載る。

  りつ四月うづきは既に累日るいじつて、なほ未だ霍公鳥ほととぎすくを聞かず。因りて作る恨みの歌二首〔立夏四月既経累日而由未聞霍公鳥喧因作恨謌二首〕
 あしひきの 山も近きを 霍公鳥ほととぎす 月立つまでに 何か鳴かぬ〔安思比奇能夜麻毛知可吉乎保登等藝須都奇多都麻泥尓奈仁加吉奈可奴〕(万3983)
 玉にく 花橘はなたちばなを ともしみし このが里に 鳴かずあるらし〔多麻尓奴久波奈多知婆奈乎等毛之美思己能和我佐刀尓伎奈可受安流良之〕(万3984)
  霍公鳥は立夏の日に来鳴くこと必定ひつぢゃうなり。又、越中こしのみちのなかの風土は橙橘たうきつのあることまれなり。此れに因りて、大伴宿禰家持、おもひをこころおこしていささかに此の歌をつくる。三月二十九日〔霍公鳥者立夏之日来鳴必定又越中風土希有橙橘也因此大伴宿祢家持感發於懐聊裁此歌 三月廿九日〕

 二上山賦の反歌に「霍公鳥ほととぎす」が詠まれている理由は、ホトトギスが、ホト+トギ、と間髪を入れずに鳴く鳥であると聞き做されつつ、ほとんど時は過ぎる、というようにも解されていたからである(注7)。時が過ぎてしまうことを指す鳥が霍公鳥ほととぎすなのだから、いにしへの故事を偲ぶのにふさわしい鳥として登場させている。しかも、山幸ことホヲリノミコトの海神宮探訪は、いわゆる浦島伝説の本となるもので、いやがうえにも時の経過を思わせる故事であった。ほとんど時は過ぎるとされた鳥、霍公鳥はそのことをよく体現しているわけであった。
 左注に、「興に依りて作る。」とある。心中に感興をもよおして、の意であると思われている。「依レ興」という言葉を特に使っている点について、例えば、伊藤1976.は、文字どおり感興に乗って表現すること自体を目的としたものと考え、橋本1985b.は「非時性」を見、小野2004.は、「賦」という新しい試み、積極的な新しい歌作りをさせしめた感興をいうとし、鉄野2007.は、自己の情動そのものを捉える語であるとする。みな印象論にとどまっている。見てきたように、古からの言い伝えを越中の地名譚として見出すことができて家持は喜んでいる。うまいことを思いついたから、その「興」に「依」ってうまいこと歌にした。それを左注に記している。捻って考えたらおもしろく考えられたということを書き添えて、皆さん、私の頓知がわかりますか、と出題のヒントに加えている。聞く人たちは家持の意図がわかっただろうか。おそらく少なからずわかる人がいたと思われる。通じないことをぐずぐず言ってみても仕方なく、その場合、世の中から消去、抹消されたに違いないからである。通じる人が多くいて、相変わらずうまいことを仰るなあ、家持卿、と一目も二目も置かれたから、家持としてもまんざらではなく、この歌群は後世に残されることになった。そしてまた、他の「賦」の歌、布勢水海遊覧賦、立山賦の創作へと駆り立てることとなった。見事だと思う人のなかには池主もいて、後で作られた賦には「敬和」した作が追和されている(注8)
 今日の人がこの歌、題詞に「賦」とまであるにもかかわらず何ら新鮮味を覚えることなく、ただの冗漫な、二上山への讃歌(注1)であると解するようなことは、歌が歌われた当時あり得なかった。それほどまでに、奈良時代の人にとっても、古からの言い伝えは人々の間に流布し、人々の思考を拘束していて、時には不可解に思われる政治情勢についても言い伝えを鑑みれば理解の助けになるものなのである。

(注)
(注1)この歌群についての評価としては、好悪を問わず、二上山讃歌であるとする見方が大勢を占めている。「国守の任国の地勢把握の作」(內田2014.62頁)とする控えめなものから、「風土記の撰進に類した国守の職掌としての意識も加わって、意欲的に作られている」(坂本2021.146頁)、「国守として、天皇の「みこともち」として、天皇の「遠の朝廷みかど」を讃える歌として、その王土の象徴たる二上山の讃歌を作ったのである。そしてそれが「興に依りて作」られたのである。」(小野2004.93頁)とする事大評価までいろいろである。なお、小野2004.には、刊行時点までの諸論が紹介されているので参照されたい。本論はそれらと無関係なのでほとんど触れない。
(注2)橋本1985b.は、「この「い行きめぐれる」が二上山を讃える条件の一つとした表現であることはいうまでもあるまい。」(188頁)と断じている。二上山賦を山への讃歌であると捉え、その意味合いを妄想的に深化させる議論ばかり目につく。
(注3)諸論では、二上山を讃め称え、聖なる山として崇めたものであろうと勘違いしている。家持は「立山賦」(万4000)も作っている。越中の山は聖なる山だらけということになってしまう。聖地で禁足地となると入り会いすることができず、生業に差し支えることになるだろうし、三輪山や宗像沖ノ島のように入山に規制がかかったとする歴史も持たない。「玉櫛たまくしたまくしげ)」という美しい語が登場するが、そのような櫛を入れる箱は蓋付きだからということからフタにかかる枕詞で「フタ○○ガミヤマ(二上山)」を導出している。言葉尻を捉えることしかしていないのである。
(注4)拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」参照。
(注5)諸説に、「かけて」は心にかけての意と、口にかけての意とがあるが、そのいずれかが問われている。前者とする説では、「偲ふ」は思慕するがゆえに賞で讃えるの意ととり、心にかけて賞美する、と解している。後者とする説では、今、家持が二上山の賦を言葉にあらわして詠んで讃美していることと解している。しかるに、「かけて」は「かく」に助詞テのついた形である。「かく(懸)」は、何かに何かを懸ける、何かと何かを懸けることが原義である。漠然と心にかける、心がけるということではない。
 「いにしへゆ 今のをつつに」とあり、現在のことを詠んでいるのなら結句は「しのふらめ」が自然な表現であり、字余りを避けたものかとしている(新大系文庫本377頁)。海幸・山幸の言い伝えを詠み込んでいるのだから、「しのはめ」がふさわしい。
(注6)今日では、この「いにしへ」(万3985・3986)について、漠然と遠い昔のこと、のように考える向きが多い。大伴氏の歴史の始まりを含めるように解する説もある(阿蘇2013.)。以前の研究では、この山には上代に謂れがあった(賀茂真淵・萬葉考)、神代に二上山に何かめでたい故事があったが現代には伝わっていない(鹿持雅澄・萬葉集古義、井上通泰・萬葉集新考、山田1950.)、名山として地方人に謡われていた(鴻巣1934.)などと考えられていた。越中の故事ではなく、ヤマトコトバを話すヤマトの人なら誰でもが知る故事でなければ互いに話は通じない。二上山の故事が特別にあるなら、巻十六の「有由縁」歌にあるように、題詞などに縷々書き記してかまわないことである。
(注7)拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。
(注8)もちろん、家持と池主の二人だけの間で楽しまれたということではない。一家族だけで使われるだけとなった20世紀後半のソグド語のような様態を、よりによって書記に努めることはない。

(引用・参考文献)
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第9巻』笠間書院、2013年。
伊藤1976. 伊藤博『万葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
稲岡2015. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(四)』明治書院、平成27年。
內田2014. 內田賢德「或る汽水湖の記憶─「遊覧布勢水海賦」をめぐって─」『萬葉語文研究』第10集、和泉書院、2014年9月。
小野1980. 小野寛『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。
小野2004. 小野寛「家持「二上山賦」のよみの現在」万葉七曜会編『論集上代文学 第二十六冊』笠間書院、2004年。
鴻巣1934. 鴻巣盛広『北陸万葉集古蹟研究』宇都宮書店、昭和9年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225871
坂本2021. 坂本信幸「越中万葉の文化的意義」奈良県立万葉文化館編『大和の古代文化』新典社、2021年。
集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典文学集成 萬葉集五』新潮社、昭和59年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。 
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集5 萬葉集四』小学館、昭和50年。
大系本 高市市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系7 萬葉集四』岩波書店、昭和37年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
鉄野2007. 鉄野昌弘「「二上山賦」試論」『大伴家持「歌日誌」論考』塙書房、2007年。(『萬葉』第173号、平成12年5月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2000
橋本1985a. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。
橋本1985b. 橋本達雄『大伴家持作品論攷』塙書房、昭和60年。
針原2002. 針原孝之「二上山の賦」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
山田1950. 山田孝雄『万葉五賦』一正堂書店、昭和25年。
中西1983. 中西進『万葉集 全訳注原文付(四)』講談社(講談社文庫)、1983年。

加藤良平 2024.10.21初出

「有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」について

 有間ありま皇子みこの自傷歌として知られる挽歌は、万葉集の巻二に見られる。

  有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首〔有間皇子自傷結松枝歌二首〕
 磐代いはしろの 浜松がを 引き結ぶ まさきくあらば また還り見む〔磐白乃濱松之枝乎引結真幸有者亦還見武〕(万141)
 家にあれば に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る〔家有者笥尓盛飯乎草枕旅尓之有者椎之葉尓盛〕(万142)

 万141番歌の三句目の訓みが第一の問題である。後の人が有間皇子を偲んで「自傷」と仮託したという説も唱えられている。題詞と万142番歌の歌の内容とは関わりがないのではないかとも指摘されている。小さな椎の葉にどうやってご飯を盛りつけたのかも長らく課題のままである。
 有間皇子の性格について日本書紀に記述がある。

 九月に、有間皇子、ひととなりさとくして陽狂うほりくるひすと、云々しかしかいふ。牟婁温湯むろのゆきて、病ををさむるまねしてまゐき、国の体勢なりを讃めて曰はく、「ひただところを観るに、病おのづからに蠲消のぞこりぬ」と云々いふ。天皇すめらみこときこしめし悦びたまひて、おはしましてみそなはさむと思欲おもほす。(斉明紀三年九月)

 有間皇子はアリマという名を負っている。そんな彼が湯治へ行くのなら、その名のとおり「あり間温湯まのゆ」(舒明紀三年九月・十年十月)へ行くべきである。なのに「牟婁温湯むろのゆ」へ行っていて、「陽狂」の証左となっている。バカなふりをする人物が謀反の廉で捕らえられ、護送される際に歌を詠んでいる。題詞にある「自傷」について、「柿本朝臣人麻呂の、石見国に在りて臨死みまからむとせし時に、自ら傷みて作る歌一首」(万223題詞)と同様のストレートな意味を持つとは考えられない。万141番歌の題詞は「自傷結松枝歌」であり、「自傷作歌」ではない。松の枝を結ぶことが自ら痛むことであった。むろん軍手着用を促す話ではない。結果的に歌が歌われている。歌が「自傷」行為であったことが推定される。
 初期万葉における歌には政治的なメッセージが込められていることが多い。たとえそれが「挽歌」の部立の筆頭にあげられていても、いわゆる高尚な「挽歌」とは違う。そもそも自らへの「挽歌」であるとは何らかの抗議を示すものであり、センセーショナルな歌であった可能性がある。彼の歌は万葉集にこの二首しか載らない。衆目を浴びたから残っている。
 皮肉たっぷりに、自分を捕らえた政権側への抵抗歌としてこの歌は歌われた。三句目を、「引き結び」と連用形中止法で訓むとの解釈が根強く、一首は最後まで一連に続いていると考えられている。

 ○磐代の 浜松が枝を 引き結び○○○○〈引結〉 ま幸くあらば また帰り見む(万葉二・一四一)
 この歌について、ヒキムスブは現在の動作、カヘリミルは未来の動作と考えるのが普通である。しかし、……[連用形中止法(連用形並立法)の連用形の動詞の時制(テンス)は後続の動詞句に決まるという]観点からして、そのような解釈は、まず成り立たない。前半を現在の動作と見るならば、原文「引結」をヒキムスブとして、一旦切るべきである。ただし、それでは歌の流れが中断してまずいなら、ヒキムスビと訓んで、それも未来の動作と考えるべきであろう。マサキクアラバが間に割り込んでいるから、ヒキムスビとマタカヘリミムとの時が変わってもよいような印象を与えるが、それは、連用形並立法の性格をとらえそこなった解釈である。(山口2011.415頁)(注1)
 歌末の「む」と呼応するものだという吉永[1997.]や山口[2011.]の解釈は妥当なものではない。この[「引き結び」]句がつぎの「ま幸くあらば」という仮定表現と呼応して「引き結ぶことによって本当に無事でいられたら」という意味をあらわすものであり、その「ま幸くあらば」の「時」が「引き結び」という連用形にもおよぶために、この連用形があらわす動作もまた作者によって仮想されたものになるのだと解すべきである。」(佐佐木1999.7頁)

 これらの議論は、連用形中止法における決まり事、テンスの一致を適切化させるために、針の穴を通すように考案された解釈である。「引き結び」と連用形に訓んでしまうと、有間皇子はまだ松の枝を引き結んでいない。これからの未来に「引き結び」をすると、それが原因となって「ま幸くあらば」という事態が生じて、「還り見む」ことへとつづけようとしている。「ま幸くあらば」という厄介な挿入句を取り置いた時、意味的には、まだ「引き結」んでいない「浜松が枝」を「また還り見む」と言っていることになっている。これは、文法的に宙ぶらりんの解釈に思われる。佐佐木1999.は、文法構造上よく似た万918番歌からそのように帰納されるとしている。

 磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む(万141)
 沖つ嶋 荒磯の玉藻 しほみち い隠りかば おもほえむかも(万918)

 潮が満ちて隠れてしまったら、の意であるのと同等であるとする。しかし、万918番歌の第五句目にある「む」と万141番歌にある「む」とを同様に推量の意と捉えてよいのか問題が残る(注2)

 「また還り見む」=「また」(副詞)+「還り見る」(動詞)+「む」(助動詞)(万141)
 「念ほえむかも」=「念ほゆ」(動詞)+「む」(助動詞)+「かも」(助詞)(万918)

 万918番歌の「念ほゆ」は、「念ふ」に自発の助動詞「ゆ」が接続した形で、自然と思い出されるという意味である。詠嘆の助詞「かも」がつづくことにより、「む」が推量の意を示すことは確かになっている。一方、「還り見む」という句だけ見れば、その「む」は、第一義的には自己の行為についての意志・希望を示していると捉えたいところである。意志を表したいとき、その前提となる条件設定がすべて仮想であることは考えにくい。何か実際に行為をすでに行い、そのうえで、~したい、と言うのが一般的な主張の姿である。何もしないでいて、これから引っ張って結ぶことで幸いであるならば、また還ってきて見よう、という言い方に、人の(強い)意志を込めることは難しい(注3)。だからといって、薄弱な意志であれば推量と言えるのだと考えられるのか。「また還ってきて見ることになるのだろう」という物言いは、何を謂わんとしているのか不明である。助動詞「む」を動詞の後に付けてモダリティ modality 形式にしている(注4)。発話者である有間皇子が、事柄をいかに心のうちで判断評価しているのか、それを表そうとして助動詞が用いられている。文の述べ方を示す添付資料として助動詞「む」は働いている。
 助動詞「む」については、岩波古語辞典に、「一人称の動作につけば「…よう」「…たい」と話し手の意志や希望を表わし、二人称単数の動作につけば相手に対する催促・命令を表わし、二人称複数の動作につけば勧誘を表わす。三人称の動作につけば予想・推量を表わす。」(1479頁)と単純化されている。発話者の心の態度を表わす部分だから、その使われ方によって意味合いが変わってくる。意志や希望を表わす場合には一人称でなければならないが、逆に一人称であれば必ず意志や希望を表わすものかといえばそうでもない。

 吾が命し ま幸くあらば 亦も見む 志賀の大津に 寄する白波(万288)
 うつそみの 人なる吾や 明日よりは 二上山を いろせが見む(万165)
 水伝ふ 磯のうらの いはつつじ 茂く咲く道を 又も見むかも(万185)

 これらの例では、主語は一人称であるが、「む」の意味は推量で、「寄せる白波をまた見るだろう」、「二上山を弟として見るだろう」、「イワツツジが盛りに咲く道をまた見るだろうか」などの意味である。その場合、「亦も」、「と」、「又も……かも」といった語が共起している点に注意したい。不確実性を表わす「も」や比喩の措定の「と」、詠嘆を示す「かも」が付いてきたら、一人称が語り手になっていても「む」が意志を表わすことにはならない。白川1995.に、「「む」がもつ種々の用義法は、[漢字の]将の……虚詞的な用義と一致するところがある。」(731頁)と興味深い指摘がある。将来の未確定用件に関して希望的観測をもって心の底に思うことが、意志や推量、勧誘、命令といった幅広い用義に広がっているものと言えよう。だから、認識的に「…ろう」という意味を持ったり、行為的に「…たい」、「…よう」という意味を持つという膨らみが出てくる。
 話を万141番歌に戻そう。「引き結び」と連用形中止法に訓む限り、「まだ引き結んでいないけれど、これから引き結ぶことによって本当に無事でいられたら、還ってきて浜の松の枝を見ることになるのだろう」という意味になる。この言い方は、文にモダリティ性を与えているのか、削ぎ落しているのか不明な陳述である。逆説的に捉えて、還ってきて見ることになるのだろうから、松の枝を引き結ぶことは呪術性が高くて効果的に無事でいられる方法である、だから、今から引き結びます、というもって回った言い方であると解釈できないことはないかもしれない。しかし、そんな風に言いたいときには、ヤマトコトバではそのための格好の用法がある。反語の助詞「や」である。それを使わないのは、そう表現したいわけではないからである。
 「引結」を「引き結び」と連用形に訓まなければならない理由は見られない。ここは、「引き結ぶ」と終止形で三句切れと考えるのが妥当である。「また還り見む」対象は、「引き結」んだ「磐代の浜松が枝」である。「また還り見む」の対象が、上二句において終止形で閉じられたものである点は重要である。この歌にとって、それこそが「自傷」行為となるもので、題詞にかなう肝心なところである。
 すなわち、紀の湯へ行幸している天皇や皇太子の中大兄をはじめ、宮廷社会の人々全員に対するメッセージとして歌は歌われている。イハシロという地名が喚起するイメージを伝えたいから、わざわざ「磐代の」と断って歌い出している。有間皇子がいま連行されている場所は、しばらく前、天皇が行幸するときに通って歌を詠んだところである。

 君が代も 吾が代も知れや 磐代の 岡の草根を いざ結びてな〔君之歯母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去来結手名〕(万10)(注5)

 ~シロという言葉は、苗代という言葉が苗を生育するために区切られた培地であるように、特別なところである。また、身代金という言葉が身代わりのお金であるように、等価の物である(注6)。すなわち、イハシロ(磐代)という言葉は、磐と同じ力をもつことを示しつつ、磐を生育させるための場所ということになる。そして、「浜松が枝」、「岡の草根」とつづくのだから、イハシロという地名は、砂「浜」や土砂の堆積した「岡」が、磐のシロなのだと認められていたと理解される。万141番歌でみれば、松は浜に生える。磐にも少しの凹みさえあれば種は発芽し生えてくる。では、砂浜のようなところが磐が生育するかといえば、今日の日本国民であれば、それは確実に生育するであろうことを知っている。火山学の知見ではなく、君が代の歌詞である。君が代は、一般に、古今集の和歌を本歌とすると言われている。

 わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで(古今343、読み人しらず)

 巻七・賀の歌の巻頭歌である。歌いかける相手の命の長からんことを寿ぐ点に眼目がある。そういう修辞法の淵源、萌芽に当たるものは万葉集にすでに見られる。

  市原王いちはらのおほきみの、宴に父の安貴王あきのおほきみく歌
 春草は のち落易かはらぬ いはほなす ときいませ たふとき吾が君(万988) 
  楽宮らのみや
  和銅四年歳次辛亥に、河辺宮人かはべのみやひとの姫嶋の松原に嬢子をとめかばねを見て悲しび嘆きて作る歌二首
 妹が名は 千代に流れむ 姫嶋の 子松がうれに 苔むすまでに(万228)
 花らふ このむかの 乎那をなの ひじにつくまで 君がもがも(万3448)

 有間皇子は、実は少し不思議な場所を通過している。「磐代の浜」である。浜は砂浜であろう。磐であり、かつ浜であるところというのは形容矛盾である。そこに松が生えていて、二本の松の枝を引っ張って結び付けている。松は常盤木で長く枯れないことを表わす表象とされている。松の力を借りながら、浜の砂が磐になることもあるだろうという類推思考が行われている。だから、イハシロという地名は、いまは砂浜であるが、そのうち磐に成長するところであって、それを促進させる援助として有間皇子は松の枝を引っ張って結ぶ行為をしているということになる。万10番歌で、天皇一行はイハシロの意味を認めていたではないか。その構図に則って自らも陳述しているわけである。全体を誓約うけひのような形で主張している。
 「ま幸く有」るとは、自分が幸いなことに存命であれば、という意味であることはそのとおりであるが、それが叶うかどうかは旅の安全を祈るといった対自然界の問題ではなく、謀反の咎に関して政権側がどのような処罰を下すかという対人間界の話にかかっている。だから、まずなによりも、歌いかける相手の政権側、自分を逮捕拘束して強制連行させている天皇に対して、長寿繁栄を祈る言葉を設けている。斉明天皇の治世長からんことを願うと謳いあげて、それは同時に自分が存命であらねばならないことにつながるというレトリックである。現天皇の治世の、砂が磐に生長するまで続くことは、これすなわち、自分の命も長らえることと同じことである。反対に、もし自分の命を奪うようなことがあるなら、天皇の治世も長くはないであろう。そういうことを暗に示して呪言的な脅迫を行っている。
 そのようなコミュニケーション法は、上代の言語活動において常態として行われていた。伝承説話の世界では、コノハナノサクヤビメの逸話が知られる。結末の個所を引く。

 爾くして、大山おほやま見神みのかみ石長いはなが比売ひめを返したまひしに因りて、大きに恥ぢて白し送りて言ひしく、「我がむすめふたり並べて立て奉りし由は、石長比売を使はさば、天神あまつかみの御子の命は、雪り風吹くとも、恒にいはの如くに、ときはかきはに動かず坐さむ。亦、木花このはな之佐久夜毘売のさくやびめを使はさば、木の花の栄ゆるが如く栄え坐さむと、うけひて貢進たてまつりき。く、石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売のみを留むめたまふが故に、天つ神の御子の御寿みいのちは、木の花のあまひのみ坐さむ」といひき。故、是を以て今に至るまで、天皇命すめらみことたち御命みいのち長くあらぬぞ。(記上)
 時に皇孫すめみま、姉は醜しとおもほして、さずしてけたまふ。おとと木花開耶姫このはなのさくやびめ]は有国色かほよしとして、してみとあたはしつ。則ちひと有身はらみぬ。かれ磐長姫いはながひめ、大きにぢてとごひて曰はく、「仮使たとひ天孫あめみまやつこしりぞけたまはずしてさましかば、生めらむみこ寿みいのち永くして、磐石ときはかちは有如あまひ常存とばにまたからまし。今既に然らずして、唯いろどをのみひとり見御せり。故、其の生むらむ児は、必ず木の花のあまひに、移落ちりおちなむ」といふ。一に云はく、磐長姫恥ぢ恨みて、つはいさちて曰く、「顕見蒼生うつしきあをきひとくさは、木の花のあまひに、しばらく遷転うつろひて衰去おとろへなむ」といふ。これ世人ひと短折いのちもろことのもとなりといふ。(神代紀第九段一書第二)

 姉妹二人が結婚相手に送られている。そのうち、磐を醜いと思って石長いはなが比売ひめ(磐長姫)を受けなければ、命は長くないと大山津見神は言っている。いま、有間皇子はイハシロにおいて、磐を作ろうとして引き結ぶ作業を行っている。松の枝が結ばれてあることは自然界ではふつう見られない。ひとつのしめとして認知される。そしてそれが磐へと固まっていくとしたら、天皇であれば無碍にはできない。言い伝えのもとに生きていたから、「天つ神の御子の御寿みいのちは、木の花のあまひのみ坐さむ。」(記)、「故、其の生むらむ児は、必ず木の花のあまひに、移落ちりおちなむ。」(紀)ということになってしまうからである。古代には、似たような二つの事案を並立させるようにして考える癖があり、占い法として誓約うけひという形に定式化している。ある条件をあらかじめ設定しておき、その成否によって、本願が叶うかどうかを占うものである。だから文の進行がパラレルになる。類推思考の円熟の賜物とも言える(注7)
 有間皇子の歌は呪詛の言葉として機能した。斉明天皇は、自分の長男である中大兄、後の天智天皇を皇太子に据えている。今、中大兄が「天神御子」に当たる。磐の製造促進を受け入れないと、中大兄は「木の花のあまひのみ坐さむ」ことになってしまうという。かわいいわが子が死ぬかもしれないと思わせられ、斉明天皇は癇に障った。無文字文化において、言葉と事柄とが同一になるとする言霊信仰下にあっては、論理術に正しく言葉にされてしまうと本当にそうなるだろうこととなってしまう。ヤマトコトバの社会において圧力がかかるのである。
 引き結んだ枝は松である。松は常盤木である。長寿を連想させることもさることながら、藤や葛などの蔓性植物ではない点も考慮されなければならない。蔓性植物が「結ぶ」ことはごく自然に起こる。だから、藤や葛は引き結んでも人目にそれとわかる人為にならない。人為的に行われていると知れるから人々の間でわかるのである。標として顕著となり、占有地として人に認めさせることができる。しめ縄が張りめぐらされた結界は、他の人に入るなということを示している。その意味するところは人間には通じても、動物には通じない。イノシシやシカのための防護柵を設けることとは次元が異なる。しめ縄が張りめぐらされていたとしても、逸脱者である本気の泥棒であれば、その内側にある幣の絹織物など財宝を奪っていく。賽銭泥棒と同じで、行うのは簡単である。しかし、神の祟り、天罰が下ると信じられている。常識を弁えていると、恐れ多くて結界に侵入することは憚られる。いま、有間皇子は、砂浜に生えている松の枝を結んで標にして、さざれ石どころか砂から巌を作りましょう、と大風呂敷を広げている。「また還り見む」と言っているのは、自分が個人的に見たいというばかりではなく、さあ、皆さんもご覧になれますよ、と大見得を切っているのである。
 言説が悪質で、確信犯的である。「陽狂」して見せたほどの人物像が目に浮かぶ。三句目の「引結」を「引き結び」と連用形中止法と訓むべきか、「引き結ぶ」と句切れに訓むかについて、この解釈からも「引き結ぶ」と句切れに訓むことが正しいと知れる。虚心坦懐に考えるのにふさわしいからである。歌を歌として歌う理由が生じているから歌が歌として歌われている。一人称の主語、有間皇子が、内心に積極的な意志を抱いて「む」という助動詞を用いて一首を歌い切っている。その際に、自分の意志は皆さんの意志にもかかわることでしょうと巻き込むように弁舌を振るっている。初期万葉の歌が持つ政治性はこの歌にも当てはまる。

 磐代の 浜松が枝を 引き結ぶ ま幸くあらば また還り見む(万141)
 磐代の浜に生えている松の枝を引き結びます。(はい引き結びました。こうなったからには、天皇はじめ皆さんよ、もうあなた方に選択肢はないのです。枝の話だけに。磐長姫のお話をご存知ですよね。あなた方もついこの間、この磐代の地で歌を歌って盛り上がっていましたから。あなたの大切な御子君の中大兄がアマヒノミに短命になってもいいのですか。そんなことは私も望みません。ですから、お互いに何も手出しをせずにいましょう。そして、私が刑に処せられずに)本当に無事でいられたら、また還ってきて結んである松の枝を見ましょう。(皆さんも同じように無事に還れますよ。)

 歌意を示すと説明調になり長くなる。その理由は「引き結ぶ」ことの意味が重いからで、だから終止形にして句切れとなっている。ぶっきらぼうに二つの文章が提示されている。

 [私ハ]磐代の浜松が枝を引き結ぶ
 [私ハ]ま幸くあらばまた還り見む

 この二つが連続して不思議でないのは、歌を歌った有間皇子にとっても、それを聞くことが予測されていた紀の温湯に滞在中の斉明天皇、皇太子中大兄、またとり巻きの宮廷社会の人々にとっても、共通認識として持っていたからである。上代の人の常識なのだから、一見つながらないように思われる二つの命題が、直線的に一つの歌につづけて歌われている。ハッと気づいて納得させられ、やられたと思う内容となっている。論理哲学の授業が紀伊路で繰り広げられている。無文字の時代の言葉は音声だけに依っていた。言葉は一つ一つその底流にそれぞれの背景を背負いながら成り立っている。それらを一つ一つよく理解していたから、互いに得心が行くように伝え合うことができた。コノハナノサクヤビメ、イハナガヒメの話は当時の人の百科事典的な知識として共通認識となっていたから、イハシロは磐を生育させるところでありつつ、君が代ゆかりの天皇家の人々がその寿命のことを気にかけたくなるところだった。イハは大切にしないといけない、有間皇子の言い分は理屈として通っている。聞かざるを得ないではないか、と感じられたのである。
 「また還り見む」という言辞は贅言に聞こえる。カヘリミルには大略、①もう一度やってきて見る、②ふり返ってみる、の二義がある。①の場合、「還る」ことがあれば当然「見る」ことはある。もう一度やってきて見る、という語を発する際、万葉集では「また還り見む」(万37・911・1100・1114・1183・1668・3056・3240・3241)が常套句化している。「ま幸くあらば還り見む」ではなく、「ま幸くあらばまた・・還り見む」と有間皇子が歌ったから踏襲されている。有間皇子の歌の影響は計り知れない。この念の入れようは、言葉に念を込めているからである。松の枝を結ぶこと自体に何か呪力があるのではなく、念じ込めた言葉のなかに力があると信じられていたのである。言葉と事柄とは相即の関係にあるとする考えが言霊信仰の真相である。以上のように捉えていくことによって、この歌の意味深さが理解でき、後述する万142番歌に「椎の葉に盛る」といったふざけた表現も行われていると得心するに至る。
 「有間皇子、ひととなりさとくして、陽狂うほりくるひす」(紀)という指摘は正鵠を射ている。少し賢しらであったため、言語の論理学において天皇側に勝ってしまい、時の政権に鋭く突き刺さるような言辞になっている。その結果、かえって政権から憎まれて、「藤白坂にくびらしむ」(斉明紀四年十一月)ということになった。その場所が「藤白」である点にも注意したい。フヂシロという地名からは、藤の栽培促成地であって藤蔓の代わりにも当たるところとの印象を得る。天皇側の言い分はこうである。引き結びたければいくらでも引き結べるように、藤蔓のあるところへ行きなさい。いくら引き結んでもただフジが絡まっているようにしか見えなくて、人為的な標にはなりませんよ。その藤蔓であなたの首を括ってあげましょう。アリマ(有間)と言う名前は間がある文様、マダラ(斑)のこと、言い換えればブチ(斑)のことで、あなたにはフヂシロがお似合いですよ、という発想である。藤白坂と紀の温湯の間に磐代は位置するとされている。つまり、有間皇子は、「また還り見」ることができた後、絞殺された。言葉として放った事柄は達成されて、言=事とする言霊信仰に過不足はなかったということになる。
 政変時の歌である。言葉の応酬ばかりである。初期万葉における歌は言葉の応酬である。無文字時代にコト(言)はコト(事)と同一とされていた。そして、政治とは言葉である。初期万葉の歌は政治的表明である。
 次に、万142番歌について検討する。「椎の葉」にご飯を盛るのかについて長く議論されてきたが、なお未解決である。

 家にあれば に盛るいひを 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(万142)

 「椎の葉に盛る」という表現は、飯を盛るには椎の葉は小さすぎて異様に映る。有間皇子の食べようとするご飯なのか、「紀州磐代の道祖神の神前に供へ」た神饌(注8)なのかで意見が分かれている。今日では前者が優勢である。後者の考えに立つと、歌で表現しようとする「家」と「旅」の対比がうつろになり、「余りにも抽象化し、ふやけた発想になってしま」う(注9)と批判されている。ご飯を「椎の葉に盛る」ことはあり得ないとする再批判には、安楽な家を離れて旅の不自由さの嘆きを表わさんがために詠んでいると強調されている。また、万141番歌の前にある題詞に、「有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌」とある点との関わりが不明ともされている。
 日本書紀をあわせ読めば、歌が歌われた時点は、万141番歌は有間皇子が謀反の疑いで都から紀温湯へ護送される途中で、万142番歌申し開きが適わずに紀温湯から都へ護送される途中で歌ったものである。拘束感が違うと読み取れる。万142番歌は、藤白坂で絞殺刑に処せられる直前のものである。

  十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我赤兄臣、語有間皇子曰、天皇所治政事、有三失矣。大起倉庫、積聚民財、一也。長穿渠水、損費公粮、二也。於舟載石、運積為丘、三也。有間皇子、乃知赤兄之善_己、而欣然報答之曰、吾年始可兵時矣。甲申、有間皇子、向赤兄家、登楼而謀。夾膝自断。於是、知相之不祥、倶盟而止。皇子帰而宿之。是夜半、赤兄遣物部朴井連鮪、率宮丁、囲有間皇子於市経家。便遣駅使、奏天皇所。戊子、捉有間皇子、与守君大石・坂合部連薬・塩屋連鯯魚、送紀温湯。舎人新田部米麻呂従焉。於是、皇太子、親問有間皇子曰、何故謀反。答曰、天与赤兄知。吾全不解。庚寅、遣丹比小沢連国襲、絞有間皇子於藤白坂。是日、斬塩屋連鯯魚・舎人新田部連米麻呂於藤白坂。塩屋連鯯魚、臨誅言、願令右手、作国宝器。流守君大石於上毛野国、坂合部薬於尾張国。〈或本云、有間皇子、与蘇我臣赤兄・塩屋連小戈・守君大石・坂合部連薬、取短籍、卜謀反之事。或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人、一日両夜、邀牟婁津、疾以船師、断淡路国。使牢圄、其事易成。或人諫曰、不可也。所計既然、而無徳矣。方今皇子、年始十九。未成人.可成人、而得其徳。他日、有間皇子、与一判事、謀反之時、皇子案机之脚、無故自断。其謨不止、遂被誅戮也。〉(斉明紀四年十一月)

 問題点を整理する。旅先で食べるために盛ったご飯は握り飯なのか、糒(乾飯)、つまり、ホシヒ、ホシイヒ、カレヒ、カレイヒの類なのか、そこがポイントである。「握飯」とすると、「罪人として護送中の囚われの身であれば、そのまま手づかみでたべたのであって、わざわざ食器や椎の葉に盛ってたべるという手間ひまをかける必然性はまったくない」し、「乾飯」とすると、「椎の葉に盛って食べるということはちょっと無理であろう」とフローチャートを組んだ解説が行われている(注10)。「盛る」と明示された作業を考究しなければならない。
 「家に有ればに盛るいひ」とある「(ケは乙類)」とは何か。ご飯をよそう器であると信じ込まれている。和名抄に、「笥 礼記注に云はく、笥〈思吏反、和名は〉は食を盛る器なりといふ。」(注11)とある。食器のことを指しながら、そこへよそった食べ物のことも同じく「(餉)(ケは乙類)」と呼んでいる。御食みけあさというケである。関根1969.に次のようにある。

 ……これら笥類の用途であるが、『万葉集』によると、
  家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(一四二)
とあり、飯を盛るという。武烈紀の影媛の歌に「拖摩該玉笥儞播、伊比佐倍母理拖摩暮比玉盌儞、瀰逗佐倍母理」とあり、神功皇后紀十三年条に「命武内宿禰太子角鹿笥飯大神」などとあるのも笥に飯を盛った証左となろう。また近時の藤原宮跡出土木簡にも「コ二大御莒二大御飯笥・・匚」(〈『同概報』〉)とみる。
 まず大笥については、経師〜雑使五八人分として大笥五八合を計上し(⑯六七~六八)、同じく経師〜雑使四四人分として大笥四四合を計上(⑯五一三)しており、人別一合の割となる。ただここで問題となるのは、飯を盛るといっても今日の飯茶碗のように、それで食事をとったのか、あるいは今日のオヒツのように、ただ飯を入れるだけのものであったのかは定かでない。前掲『万葉集』では前者の意になろうか。(307頁)

 茶碗に当たるのか、オヒツ(飯櫃)なのか、推測だけで決定されていない。和名抄も、「飯を盛る器」としていて、それが銘々の茶碗(お椀、お弁当箱)に当たるものなのか、オヒツに当たるものなのか、用途細目には触れていない。筆者は、142番歌の「笥」はオヒツ(注12)に当たると考える。
 歌に、「家にあれば……」と「旅にしあれば……」を対比させている。本当の対比とは、やることがことごとく正反対ということであろう。家では、ご飯は炊いた後、オヒツに入れて余分な水分を木地に吸ってもらって良い頃合いの食感となる。反対に、旅路で糒(乾飯)を食べるときには、水分を与え吸わせてふやけた状態にする。ふやかさなければ硬くて食べられない。糒は携行食であるが、けっして飲みこむものではない(注13)。米粒の水分の出し入れがちょうど反対になるから、家と旅との対比が鮮明になる。わずかな時間に限り、くり返されることなく空中を飛び交う言葉が歌なのだから、瞬時に聞き取られ聞き分けられるように、そのぐらいはっきりしていて当然である。

 ここ烏賊いかつの使主おみおほみことうけたまはりて退まかる。ほしひころもうちに裹みて坂田に到る。……仍りて七日経るまでに庭の中に伏せて、飲食みづいひ与ふれどもくらはず。しのびみふところの中のほしひくらふ。(允恭紀七年十二月)(注14)
 餱 胡溝反、平、乾飯也。食也。加礼伊比かれいひ、又保志比ほしひ。(新撰字鏡)(注15)

 「椎の葉」は、「笥」=オヒツと対となるものである。ほしひ(ヒは甲類)に水分を与える容器に、しひ(ヒは甲類)ほどふさわしいものはあるまい。ホシヒとシヒの洒落は侮れない。歌は空中を飛び交う音声言語だからである。無文字文化のなかでコミュニケーションは独自の豊かさをそなえていた。「旅にしあれば」の「飯」とはホシヒにほかならず、それが「家にあれば」の「飯」の水分調節を「笥」=オヒツが担っていたことを直観させるのである。「椎の葉」に糒を盛って水分を与えることができるかといえば、あまり生産的、効率的、実用的ではないのだが、それが旅路での不便を物語るのにふさわしい。小さな葉一枚一枚に、糒を一粒一粒載せていって、水をポトリ、ポトリと垂らしていく。その結果、「椎の葉」上に、一粒一粒ご飯がよみがえる。それを一粒一粒拾って食べるという話にしている。謀反の大罪を犯した罪人とはいえ、天皇家の皇子、有間皇子である。実際に行ったわけではないであろうが、屈辱と感じたのであろう。政争に敗れても口の減らない嫌味を吐いている。すぐに絞首刑に処せられたから最後の捨て台詞になっている。生かしておいたらどこまで減らず口をたたくか知れたものではない。
 処刑されてお骨になった。お骨の一粒一粒のことは仏教に舎利である。ご飯の一粒一粒も舎利である。色彩、形状が似ているから、言葉の上で同様に扱われた(注16)。すなわち、有間皇子が「自傷」の歌として詠んだという題詞は、この万142番歌においてさらに際立っている。あと何分かで皇子、あなたは舎利になりますよ、と告げられての辞世の歌なのである。命乞いの歌ともとれる。なぜなら、シヒ(ヒは甲類)には、ほかに、メシヒ(盲)、ミミシヒ(聾)などのシヒ(癈、痺)という語があり、どんな不具も受け入れるから、命だけは助けてほしいという訴えにも受け取れるからである。日本書紀には、謀反に参加した塩屋連鯯魚しほやのむらじこのしろの命乞いが記されている。「塩屋連鯯魚、ころされむとして言はく、「願はくは右手をして、国の宝器たからもの作らしめよ」といふ。」とある(注17)。万142番歌は緊迫した場面での丁々発止のやりとりの反映であった。
 二つの歌が歌われた時点を確かめておく。往路と復路でそれぞれ詠まれている。護送されて行く時に、有間皇子は、藤白坂を通過してから万141番歌を歌い「磐代」と言っている。有間皇子はそのように口に出して歌ってしまった。そして、「ま幸くあらばまた還り見む」と続けている。無事である、良好な状態であるなら、再度見ようと言っている。斉明朝の天下は、完璧に良好な状態を保っているとするのが政府の方針である。全体主義的な国家は言論統制に傾く。そのなかで、言葉として発せられてしまった以上、言霊信仰下にあっては言=事であるから、「また還り見」るところまでさせなければ、「ま幸く」ないことになる。上に見たように、この歌には明示される形で主語が据えられているわけではない。有間皇子一人のこととして理解されるばかりでなく、宮廷社会全体について言い及ぶアジテーションとしても効果を発揮している。斉明朝の政策は、少なくとも歌が広まる宮廷社会のなかでは秩序を保つように向かっていた。したがって、復路において有間皇子が歌を歌った「磐代の浜松が枝を引き結」んだ地点までは生かしておき、「ま幸くあ」ることを「還り見」させることで、社会全体の安寧の揺るぎないことを確定させている。それは天皇や皇太子たちにとっても「ま幸くある」ことになるからである。しかる後、有間皇子が藤白坂へさしかかるなりすぐに絞首している。藤の蔓を引き結んでも何の標にもならない。まったく同じ道を戻らせて「還り見」させつつ、道(=道徳)にもとると断罪した。題詞の「松が枝を結ぶ」との指定、拘束は、二首目の万142番歌の時点にも生きている。呪縛の貫徹をもっての解放が、有間皇子の処刑としてもたらされている。万142番歌は彼の辞世の歌なのであった。

(注)
(注1)「引き結び」と連用形中止法に訓むことを早く論じた吉永1969.に、「この歌は
      バ────────↴
 ……引き結び……またかへりみ→む
となるのであって、決して「……引き結び……またかへりみむ」でないことは諸注例外がないのである。」(40頁)とある。諸注が研究不足で、解説者も考察不足であった。なお、本稿では、有間皇子自傷歌の先行研究において、訓さえ定まらないまま憶測に終始している数々の論考を紹介しない。連用形中止法についての議論にのみ絞って引用文献として掲げた。
(注2)付け加えると、主語─述語の関係も二つの歌では異なり、文法構造がよく似ているとまでは言えない。主語が変わるかどうかの違いである。万141番歌は、含意を見渡すとその限りではないものの、有間皇子を一人称の主語としてとることができるようになっている。

 [私ガ]磐代の浜松が枝を引結、ま幸くあらば、[私ハ浜松が枝ヲ]また還り見む(万141)
 沖つ嶋荒磯の玉藻[ガ]潮干満、い隠り去かば、[人ニハ荒磯の玉藻ノコトガ]念ほえむかも(万918)

(注3)三田2011.では、助詞の「む」が使われている点に関して、その意味が推量を示すものか、意志を示すものかについて、「ま幸くあらば」という仮定の条件節の読みに置き換え(可能で)、「つまるところ、諦観が表現されるか、積極的な意欲が表現されるかは、仮定表現がおかれた一首全体の状況に支配される。」(15頁)としている。「ま幸くあらば、また還り見む」という言い回しにおいて、本当に無事であったらまた還ってきて見るだろう、というのと、本当に無事であったらまた還ってきて見よう、というのとのバイアスは、何とでも受け取れるものだという。そして意見として、「「ま幸く」あることを無条件に信じ得ない境遇のなかで、それでもわずかに「生きていさえすれば必ず」と再訪への意欲をこめた表現と受け止めたい。」(16頁)と述べている。しかし、歌はそもそも思いを込めて作られている。その歌の状況は、そこに使われている言葉づかいに表れているに違いあるまい。
 確かに、連用形中止法に「引き結び」と訓めば、すべての前提条件が仮想されていて、これから松の枝を引き結んで本当に無事であったらまた還ってきて見るだろう、という解釈に進まざるを得ず、漠として要領を得なくなる。そんな仮定に仮定を重ねるようなことを想定するためには、引き結ぶ行為自体がおまじないの所作として確立していると前提されなければならず、きっとそのはずであったと仮構する方向へ向かっていく。白川1995.に、「紐を結ぶことは、古くはけつじょうとして種々の制約に用いたが、のち愛情を約する行為として〔詩〕にもみえ、〔万葉〕にはことにその例が多い。ものを結ぶことは、そこに何らかの霊的なものを結び留める象徴的な行為とされた。草を結び、またものを著けて結びつけることなどもおこなわれた。」(737頁)と解されている。神社に凶などと引かれたおみくじが結びつけられてあるが、力を封じ込めるためのしきたりなのかも知れない。
 とはいえ、結ぶことなら何もかにも、呪的行為であり、神秘的な力を発揮するものかと言えば、そのようなことはあり得ない。生業全般にわたって日常的に結ぶ作業は行われている。まじないの気持ちで結んだ時、結んだものははじめてまじないの力を有する。
 自然に生えている松の枝を結びつけることが、当時の呪的風習として広がっていたとは考えにくい。松の枝を結ぶことは、万葉集において、有間皇子自傷歌とその追和歌以外では、大伴家持作の万1043・4501番歌に限られる。家持の歌は有間皇子自傷歌に学んだものであろう。自傷歌に出てきているのは、個別具体的に二本の松の木の枝を引っ張ってきて結ぶという行為である。屋外のことで言えば、しりくめ縄を結ぶことはあったかもしれないし、コマツナギを獣道に結んでおくことはあったかもしれない。また、松ということで言えば、門松や松飾りの源流のようなことがあるかもしれない。けれども、イハシロという場所の砂浜に生えているものに限って松の枝を引っ張り結ぶことが、当時の通念として理解されていたとは考え難い。紀の国の磐代というところは都から遠く離れている。行幸で皆が通ったといってもお初にお目にかかった場所である。道祖神に神饌を捧げたとか、その地の民俗風習に松の枝を結んで旅の安全を祈ることが行われていたとする説もあるが、政局に機敏で「陽狂」してみせる天皇家の傍流に当たる要注意人物が、民俗学に通じて歌を歌ったところで何としよう。当時の政局において世間を騒がせるかどうかが問題である。政局とのかかわりが大きいので、謀反人として逮捕、連行されていて、宮廷社会の人にとって大事件であり関心の的となっている。その人が唐突に民俗採集を始めても意味あることにはならない。人々の関心を得られないとなると、マスコミはとり上げず、歌が歌われても誰も聞かず、記憶されることもなければ後に記録されることもなく、万143~145番歌が追和されることもなかったであろう。ショッキングな出来事であったから、有間皇子の歌は人々の心に残り、さらに追和されたと考えられる。
 万141番歌の最後の「む」に、「ま幸くあらば」という条件句が投入されているためにわかりづらくなり、意志の意が乏しく推量とする解釈が通行している。そして、上の句で歌われる松の枝を結ぶ行為の意味づけに波及している。結んだ枝が解けないことと有間皇子が無事であることとが同等のことと呪術思考されたとか、磐代の神への信仰によって磐代の土地神の栄えと有間皇子の命の平安とが一体的なものと把握されたとか、「松」の枝が解けることなく自分を「待つ」存在となることを願ってそのしるしになるように結んだとする考えが提案されている。その結果、歌全体の意味が、死を覚悟してさようならを言っている歌であると捉えられる傾向が強くなっている。そんな諦めモードの歌ということになると、謀反に問われているとき、罪状を認めて心情として死を受け容れていることになる。題詞にある「自傷」という言葉も、単に辞世の歌を示すものとして平板な形象語に捉えられる。しかし、仮にそうなら、世の中は実はとても穏やかであろう。オーディエンスの心は掻き立てられることはなく、追和の歌が歌われることもないに違いなかろう。
 今日でも著名人が世間をお騒がせした場合、謝罪会見を開くことがある。その席上、謝罪の色が窺えないととられたり、真の反省になっていないと受け止められたら、さらなる社会的制裁を受ける。すなわち、その会見での発言が自らを傷めることになる。有間皇子の場合も、「ま幸く有」るのであれば「また還り見」たいと発言してしまった。それが形式的に天皇家の幸を祈るかのような形で行われると、天皇総本家としては、天皇家というものはこのようなことでよいのか、臣下たちへの示しがつくかといった点まで考えざるを得ないムードになる。結果的に、有間皇子は天皇家のメンバーから除外する、すなわち、この世から抹殺して消し去るしかなくなった。謹慎や出家、勘当では済まされないのが社会的公器としての天皇家であった。余計な歌を歌ったがために、当初の想定以上の重い処分に至ったと見なされる。歌を歌ったことが、かえって自らを傷める結果へとつながったから、「自傷結松枝歌」のように細やかに記されている。
(注4)モダリティの英語の例としては、may、must、will、can、should、have to、need to などがあげられる。
(注5)佐佐木1999.に、テナ構文に二類あり、Ⅰ[─てな。(なぜなら)─ため。]、Ⅱ[─。(だから)─てな。]のうち、Ⅱの構文に当たるものであるとする。「一首の全体は、「君の寿命も私の寿命も、知ることなどできるものではありません。(ですから、君の御代の繁栄を祈願して)さあ、磐代の岡の草を結んでおきましょう」というような意味であろう」(335頁)と解している。歌中の「所知哉」についても、「この歌の構文や内部的な意味関係は、君がも吾が代も所知哉。(だから)─磐代の岡の草をさあ結ぼう。」(334頁)になっているはずだから、「知る」は一般に解されているような領有するの意ではなく、知る、認知するの意である。知られようかいやいや知られないと反語で語っているのだから、シレヤと動詞の已然形で訓まれなければならないとする。筆者も同意見である。その場合、「君」や「吾」が誰に当たるかという問題が浮かび上がるが、「吾」は作者の「中皇命」、すなわち、斉明天皇自身、「君」は「君」として崇めるべきと推奨されている皇太子、中大兄に当たると考える。
(注6)西宮1990.に、シロという語についての詳論がある。二群に分けられて説かれるシロという語の両者の間には、根底に共通する意義素をもっているがために深い関係があると検討されている。最終的に辞書的な記述として、次のような見解が示されている。「しろ〔代〕シル(領知)が原義。㊀占有する、特別な場所。①~となるための特別地。「苗代」「山代」。②~するための特別地。「矢代」「糊代」「城」。③秘密の占有地。④助数詞。土地の広さの単位。㊁領知する人・所・物・事。①代りの人・物・所。「親代」「御名代」「網代」「咲かぬが代に」。③代りの物が本物と同じ機能をもつもの。「物実」。」(361頁)
(注7)拙稿「呪詛の関するヤマトコトバ序説」参照。
(注8)高崎1956.。
(注9)稲岡1973.。
(注10)川上2015.。
(注11)狩谷棭斎・箋注和名抄に、「曲禮上注作下簞笥盛飲食、文選思玄賦注引、作並盛食器、与此所_引合、按曲禮注又云、圓曰簞、方曰笥、禮記引兌命曰、惟衣裳在笥、然則笥又可衣裳、故説文云、笥、飯及衣之器也、依以上諸書、笥非皇國所[け]、只以飯食之耳、古所謂介、蓋土器、後有銀造者、内匠寮式銀器有御飯笥、不源君所載者、其狀奈何、」とある。源順は、お茶碗に当たるものを「笥」と呼ぶとするのではなくて、「笥」というのは食べ物を盛る器でケというものだよ、と指摘している。「木器」の項に載せているのは、彼の目に木製のものが一番ポピュラーに映ったからであろう。曲物のオヒツのことである。
 延喜式に、「笥」、「板笥」、「飯笥」、「板飯笥」、「銀飯笥」、「熬笥」、「大笥」、「縄笥」、「円笥」、「筥笥」、「平笥」、「藺笥」、「笥杓」、「麻笥」、「水麻笥」とある。金田1999.に、「……延喜式(九二七)では、麻笥と桶とは区別せずに使用しているが、(~)ケと(~)ヲケとは助数詞の合と口によってあきらかに区別されている。」(171頁)と指摘がある。(~)ケ系は13種33例中31例に「合」(蓋付き容器)が使われ、(~ヲケ)系は7種44例中41例に「口」(蓋なし容器)が使われているという。今検討している「」は、蓋付き容器であると考えられる。
 正倉院文書に載る経師~雑使に支給された「大笥」は、重箱でうな重か何かのようにそのまま食べろと渡されたのではなく、オヒツを渡されて各々よそって食べるようにしろということであろう。経師~雑使に采女のような仲居さんが給仕して回るとは思われないからである。余りは持ち帰って家族も食べたのであろう。
 年中行事絵巻などに描かれるように、強飯式のごとく山盛りにご飯が器に盛られた場合、その器に蓋をすることはできない。それが仮に常態であったなら、最初から蓋のないもの、つまり、「口」として数えられる(~)ヲケ系になってしまい、万142番歌は「家にあればヲケ(笥)に盛る飯を……」と字余りになる訓み方をしなければならなくなる。妥当とは言えない。
(注12)オヒツ(飯櫃)は、炊いたご飯をそこへ移し替えて盛り入れ、食事の場へ運んで各々の茶碗へよそうための道具である。オヒツという女房言葉が一般化している。木製の桶形のもの、竹籠様のもの、また、それを保温するための外装品や吊るし懸けるものなど、いろいろあった。水分の出し入れや保温、腐敗の進行を遅らせるなど、時に応じて種々の形態のものを活用していた。ハレの場では、塗物の櫃も使われている。旅館で出てくるオヒツでは、内に布巾をかける工夫もされている。筒江2011.参照。宮本1973.では、「飯櫃めしびつ」と「飯籠めしかご」とに分けて、後者を特に夏季のご飯保存用具としている。用途からの切り口ではなく、製作物としての曲物を総括された論説に、岩井1994.がある。史料文献としては乏しく、守貞漫稿や物類称呼などにしかオヒツについて記されていない。当たり前すぎて気に留めなかったのであろう。

オヒツ(一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591580/1/31をトリミング)

(注13)寺島良安・和漢三才図会に、「不多食、在腹甚膨張」と注意喚起されている。
(注14)「糒裹裍中」という書き方は注目すべきである。直に懐中に入れているらしい。糒はそれ用の弁当箱に入れたのではないかとも考えられるが、必ずしも決まっていたわけではなさそうである。和名抄に、「樏〈餉付〉 蒋魴切韻に云はく、樏〈力委反、楊氏漢語抄に樏子は加礼比計かれひけと云ふ。今案ふるに、俗に所謂いはゆる破子は是。破子は和利古わりこと読む〉は樏子、中に隔ての有る器なりといふ。四声字苑に云はく、餉〈式亮反、字は亦、𩜋に作る、訓は加礼比於久留かれひおくる〉は食を以て送るなりといふ。」とある。樏という字は、中仕切りのある楕円形のお弁当箱を指しており、小判型の中央に仕切りを入れたΘ形は、ちょうど雪を踏むカンジキにそっくりなので字を通用(「欙」とも書く)しているとする説がある。カンジキの語が寒敷に由来するのか筆者は知らない。火を使わない寒食かんじきの食事がお弁当である。半分にご飯、半分におかずの詰まったものが多く行われている。破子の片側半分に水を入れて餉(乾飯)をふやかすのに使ったのではないかとも想像される。烏賊津使主は持っていないし、「与飲食而不湌」とあるので、お腹がパンパンになったり脱水症状を起こさなかったかと心配になる。下のワリコの弁当箱の例は、真ん丸でないいびつな楕円形をしている。イビツという語が飯櫃いひびつに由来するとの説はかなり正しいのであろう。
(注15)新撰字鏡に所載の字は、「餱」の旁の「侯」部分は「候」である。
(注16)空海・秘蔵記に、「天竺呼米粒舎利。仏舎利亦似米粒。是故曰舎利。」とあるのが早い由来説とするが、サンスクリット語の米の意 sari が遺骨の sarira とに混同があることや、色や形の類似によってもそう感じられるところは誰にも否定できない。米を脱穀する際に臼の中で米粒がうごめくさまを、小さな猿がじゃれる風に見て取ったり、作業現場で砂利の小粒の動きを連想したり、あるいは、サル~サリ~シャリ~ジャリ系の語に共通の思惑を込めた言葉と考えた方が、語学的には正しかろうと考える。
 有間皇子が椎をとりあげている底流には、椎の実が食用となり、まるで糒のように見えることが前提しているのであろう。次の例では、歯の一本一本が、椎の実のようにきれいに粒ぞろいであることを言っている。歯は生きているうちから露出している舎利(お骨・米粒)である。

 …… 遇はし嬢子をとめ 後姿うしろでは を楯だてろかも 歯並はなみは 椎菱なす ……(応神記、記42)

椎(2017年7月3日)

 新編全集本古事記に、「前から見て、歯並びをほめる。椎と菱とを持ち出したのは、形よく並んでいることをいうためか。殻を割って取り出した実の白さから、白いことを形容するという説があるが、従いがたい。」(262~263頁)とある。しかし、両者とも樹上や水面に形よく並んで結実しているとは言い難い。八重歯、乱杭歯といった叢生、また、歯抜けになっていることもある。椎も菱も食用にしたので、殻を剥いてみて大きさが粒ぞろいで歯の形に似て色も白いところからそういう形容をしたと考えた方がしっくりくる。椎の実は、クヌギやコナラの実と違ってあく抜きが不要という。菱の実にもえぐみなどはないという。食べる器官である歯の美しさを讃める謂いにふさわしいよう、おいしく食べられるものを選んで譬えとしている。上代人の「形容」には奥深さがある。
 なお、村上2013.に、「は並なみは 椎菱なす」はつづく「櫟井の 和邇坂の土」にかかる序詞とする説があるが、長歌のだらだら表現の一句一句の発想の柔軟さが理解されていない。
(注17)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」参照。

(引用文献)
稲岡1973. 稲岡耕二「有間皇子」『萬葉集講座』第五巻、有精堂、1973年。
岩井1994. 岩井宏実『曲物』法政大学出版局、1994年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
金田1999. 金田章宏「笥・麻笥、桶・麻績み桶をめぐる一考察」至文堂編『国文学 解釈と鑑賞』第64巻1号(812号)、ぎょうせい、1999年1月。
川上2015. 川上富吉「椎の葉に盛る考─有間皇子伝承像・続─」『萬葉歌人の伝記と文芸』新典社、平成27年。
佐佐木1999. 佐佐木隆『萬葉集と上代語』ひつじ書房、1999年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本文学全集 古事記』小学館、1997年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
高崎1956. 高崎正秀「萬葉集の謎を解く」『文芸春秋』昭和31年5月号。
筒江2011. 筒江薫「櫃・イジコ・飯籠[ヒツ・イジコ・メシカゴ]」『食の民俗事典』柊風舎、2011年。
西宮1990. 西宮一民「ヤシロ(社)考」『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。
三田2011. 三田誠司「ま幸くあらばまたかへり見む─有間皇子自傷歌追考─」『岡大国文論稿』第39号、平成23年3月。
宮本1973. 宮本馨太郎『めし・みそ・はし・わん』岩崎美術社、1973年。
村上2013. 村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』塙書房、2013年。
山口2011. 山口佳紀『古代日本語史論究』風間書房、2011年。(初出は、「万葉集における時制(テンス)と文の構造」『国文学 解釈と教材の研究』第33巻第1号、学燈社、1988年1月。)
吉永1979. 吉永登『万葉─通説を疑う─』創元社、昭和44年。

加藤良平 2020.3.23改稿初出

安積山の歌(万3807)

 次の歌は古今集の序(注1)にも引用されてとみに有名であり、また出土木簡にも見出されている(注2)。けれども、歌の解釈には諸説あっていまだ定説を得ていない。歌の主旨について左注を絡めて全体として理解されるに至っていない。この歌が言葉遊びを極めた歌であることを指摘した論も見られない(注3)

 安積香あさかやま 影さへ見ゆる 山のの あさき心を が思はなくに〔安積香山影副所見山井之浅心乎吾念莫國〕(万3807)
  右の歌は、伝へて云はく、「葛城かづらきのみこ陸奥みちのくのくにつかはさえし時に、国司くにのみこともちつつしみてうけたまるに緩怠おほろかなることはなはだし。時に、みここころよろこびず、いかりの色おもあらはる。飲饌をくと雖も、うたげたのし不肯かへしたまはず。ここさきうね有り、風流みやびたる娘子をとめなり。左の手にさかづきささげ、右の手に水を持ち、みこひざちての歌をむ。爾乃すなはち王のみこころよろこびて、楽しび飲むこと終日ひねもすなり」といへり。〔右歌傳云葛城王遣于陸奥國之時國司〓(示へんに弖)承緩怠異甚於時王意不悦怒色顯面雖設飲饌不肯宴樂於是有前采女風流娘子左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌尓乃王意解悦樂飲終日〕

 歌の解釈においてこれまでに問題視された点としては、歌にある「山の井」に映っているのは何か、「さへ」はどういう意味か、「井」の水は澄んでいるか、「あさ」という音の反復は意識されているか、上三句の序詞は「浅き」のみにかかるか下二句全体にかかるか、ナクニ止めで終わっている歌の余韻をどう捉えるか(注4)、があげられている。現在の通釈書の現代語訳は次のようになっており、特に違和感はない。

 安積山、山影まで見える山の泉の水のように、浅い心で私はあなたを思うのではありません。(新大系文庫本269頁)
 安積香山の、山の姿までも映って見える山の泉のように、浅い気持であなたのことを思っているわけでは決してありませんのに。(阿蘇2012.302頁)
 安積山の影までが映って見える山の井のような浅い心で、私は思ったわけではないのに。(多田2010.148頁)

 しかし、左注との関係についてとなると、途端に皆、奥歯に物が挟まったような解説となる。
 万葉集巻十六は、「由縁有り、并せて雑歌〔有由縁并雜歌〕」という標題のもとさまざまな歌が採録されている。「由縁」とは経緯があって歌が詠まれているということであり、状況設定について題詞や左注に説明されることが多い。この歌でも、葛城王が陸奥国に派遣された時に、国司主催のおもてなしの宴会が開かれたが、礼に欠けるものであったため葛城王はふくれていた。その時、「前采女」が気の利いた歌を歌いかけたので、気をとり直して楽しんだと事情が説明されている。
 万葉集巻十六の編者がはるかに遠い陸奥国で歌われた歌を書き留めて置こうとしたのは、この歌に「由縁」が有ると考えたからだろう。そういう状況だったらそういう歌を歌って興趣が生まれ、聞いた王の気持ちも楽しくなるだろう。まことにその場にふさわしい歌であると認めたということである(注5)。何がふさわしいかと言えば、歌は言葉でできているから、言葉づかいが洒落ていて場面に合い、見事だということである。
 「前采女風流娘子」とは、以前都へ行き采女を務めていて今は国元の陸奥へ帰って来ていた女性のことである(注6)。「風流みやび」とは、都会風、宮廷風ということだが、所作ふるまいがミヤビである(注7)ということよりも、言葉をうまく使って歌を歌ったところがミヤビなのである。なぜなら、歌の左注の文章に書かれているからである。歌は言葉でできていて、それ以外のものではない。
 誰もが気づく言葉づかいの妙は、「あさ・・か山」と「あさ・・き心」を掛けている点である。陸奥みちのく国、つまり、道の奥の遠い国だから、都で重んじられている礼を知る者がおらず、お客様には失礼をおかけしていてお恥ずかしい限りですと歌っている。「山のの あさき心を」と掛かる時、「山のあさき」というのがどういう状態なのか議論されている。水深が浅いとする説と地上から水面までの距離が浅いとする説である。関連して、水が清浄かどうかということも考慮されている。井戸の話をするのに、井戸水が涸れそうなことを「浅い」と表現するものか筆者は知らない。井戸が「浅い」のは深井戸の反対で、水位が地面に近いことを指すものである(注8)。水汲みがたやすいことを言っている。誰の仕事か。宮中でいえば采女の仕事である。だから「前采女」の歌として伝わっている。深井戸なら屈強な男性が跳ね釣瓶などで汲み揚げたであろう(注9)

左:自噴井戸(扇面法華経下絵、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/967638/1/24をトリミング)、右:撥ね釣瓶の井戸(一遍聖絵(写)、同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591575/25をトリミング)

 彼女は、「左手捧觴、右手持水、撃之王膝」っている。この状況はどういうことなのか注意が必要である。手が空いていないのに膝を撃つことはできるのか。また、葛城王の膝がその体に密着していると撃つことはできない。体勢としては胡床あぐらと呼ばれる座り方なのだろう。左手でさかづきを捧げていたというのは元采女が昔取った杵柄のごとき所作であるが、右手はどうやって水を持っているのか。ふつうならお酌をして回るのだから酒を入れた銚子や提子を持っていなければならない。なのに水を持っている。觴に水を注ぐというところが「国司〓〔示へんに弖〕承緩怠異甚」の核心を突いているようである。宴なのに酒の用意がなかった。
 酒を注がずに水を持っている。そして、井のことが歌われている。井戸から汲み揚げた水を手にしている(注10)。右手にあって中身が水である容器はヒサコ(瓢、瓠)で、コは古く清音であったものと考えられている。容器の素材は土器の可能性もあるが、その呼称は用途を同じくするからヒサコと呼ばれたものと推測される。水を汲む容器にしているヒサコには、植物のヒサコ、すなわち、瓢箪の類の核を刳り抜いたものを利用した。植物名の場合、ヒサとも言ったとされている。ヒサコを手にしているから、その右手で王のヒザ(膝)を撃った。ヒザ(ヒは甲類)のザは濁音であるが、清濁相通じて言葉を掛ける例はよく見られる。ヒサコとは手にさげること、古語にいうヒサグ(提)ことのできるところに特徴を見たものでもある。そのヒサグという語はヒキ(引)+サグ(下)の約と考えられている。ヒク(引)のヒは甲類だから、ヒサコのヒも甲類だったろう。人間の膝の方には膝頭の骨がある。いわゆる膝のお皿である。柄杓ひしゃくのように水を掬い溜めることができるものと見立てられる。その両者を撃ち合っておもしろがっている。機知あふれる言葉遊びを実行に移している。
 ヒサコ、ヒサ、ヒザが一連の言葉群を構成している。「前采女風流娘子」は、ヒサコでヒザのコ、膝頭の骨部分をコツンと撃ったのである(注11)。どうしてウツ(撃)ような真似に出たのか。それはその場がウタゲ(宴)だからである。ウタゲという言葉は、ウチ+アゲの約、酒宴の際に手をうちたたくことに由来する言葉とされている。ここでは、手と手をうちたたくのではなく、ヒサとヒザをうちたたいている。歌う時に撃っているから拍子を取っているわけである。ヒサ(久)にヒサにと囃している。宴で囃子言葉の歌が歌われたことは知られている。

 冬十二月の丙申の朔にして乙卯に、天皇すめらみことおほ田田根子たたねこて、大神おほみわのかみいはひまつらしむ。是の日に、いく、自ら神酒みわささげて天皇にたてまつる。りてうたよみして曰はく、
 此の御酒みきは 我が御酒ならず やまとなす 大物主おほものぬしの みし御酒 幾久いくひさ幾久(紀15)
如此かく歌して、かみのみやとよのあかりす。即ち宴をはりて、諸大夫等まへつきみたち歌して曰はく、
 味酒うまさけ 三輪みわ殿とのの あさにも でてかな 三輪の殿とのを(紀16)
ここに、天皇歌してのたまはく、
 味酒 三輪の殿の 朝門にも 押しびらかね 三輪の殿門を(紀17)
即ち神宮のみかどひらきて幸行いでます。所謂いはゆる大田田根子は、今の三輪君みわのきみ始祖はじめのおやなり。(崇神紀八年十二月)

 酒をささげたてまつり、幾世までも久しく栄えよと歌った歌が伝わっていた。「前采女」はそれを伝えようと瓠で膝を撃っている。そういう伝承が思い起こされたなら、同様に、宴の席で采女が歌ったとされる歌も思い出されたことであろう。それはちょうど今、葛城王が怒っているように、雄略天皇が怒っていた時に三重の采女が歌を歌ってそれを鎮めたという話に沿っている。わざわざ王が怒っているときに采女が歌う設定にしている。昔話を踏襲しているからである。「前采女」は、無礼を詫びながら楽しませる機知を持っていた。

 又、天皇すめらみこと長谷はつせももつきしたいまして、豊楽とよのあかりたまふ時に、勢国せのくに三重みへうねめ大御盞おほみさかづきを指し挙げてたてまつりき。しかくして、其の百枝槻の葉、落ちて大御盞に浮く。其の婇、おちさかづきに浮くこと知らずて、なほおほ御酒みきを献る。天皇、其の盞に浮く葉を看行みそこなはして、其の婇を打ち伏せ、たちを以て其のくびに刺して、らむとしたまふ時、其の婇、天皇にまをしてはく、「が身を殺したまひそ。白すべき事有り」といひて、即ち歌ひて曰はく、
 纏向まきむくの しろの宮は 朝日の 日る宮 ゆふの 日がける宮 竹の根の 根る宮 の根の 根ふ宮 八百土やほによし いきづきの宮 真木まきく かど 新嘗にひなへに てる ももる つきは つ枝は あめへり なかつ枝は あづまを覆へり しづは ひなを覆へり 上つ枝の 枝のうらは 中つ枝に 落ちらばへ 中つ枝の 枝の末葉は しもつ枝に 落ち触らばへ 下枝の 枝の末葉は きぬの 三重みへの子が ささがせる 瑞玉盞みづたまうきに 浮きしあぶら 落ちなづさひ みなこをろこをろに しも あやにかしこし 高光る 日の御子 事の 語りごとも をば(記99)
かれ、此の歌をたてまつりしかば、其の罪をゆるしき。爾くして、おほきさき、歌ふ。其の歌に曰はく、
 やまとの たけに だかる いち高処つかさ 新嘗屋に てる びろ 椿つばき が葉の ひろいまし の花の 照り坐す 高光る 日の御子に とよ御酒みき たてまつらせ 事の語り言も 是をば(記100)
即ち、天皇の歌ひて曰はく、
 ももしきの 大宮人おほみやひとは うづらとり 領巾ひれ取りけて 鶺鴒まなばしら へ にはすずめ 群集うずすまて 今日けふもかも さか水漬みづくらし 高光る 日の宮人みやひと 事の語り言も 是をば(記101)
 此の三つの歌は、天語歌あまがたりうたぞ。
 かれ、此の豊楽とよのあかりに、其の三重のうねめめて、あまたのたまひものを給ふ。(雄略記)

 しかし、この雄略記だけでは万3807番歌の状況を定めきれない側面がある。「前采女」は酒を持っていない。持っているのは水である。酒が切れていて用意できなかったのだろう。ために井戸から水を汲んできてそのまま葛城王に提供しようとしている。そのような逸話は記紀説話のなかにある。ソラツヒコの話である。海神わたつみの宮を訪れた火遠ほをりのみことひこ火火出ほほでみのみこと)は、海神から虚空津日高そらつひこ(虚空彦)と呼ばれている。海神の宮を訪れてカツラの木の上に登って様子を見ていたことが発端である。

 即ち、其の香木かつらに登りていましき。しかくして、海神わたつみむすめ豊玉とよたま毘売びめ従婢まかたち玉器たまもひを持ちて水をまむとする時に、かげ有り。あふぎ見ればうるはしき壮夫をとこ有り。いと異奇あやしと以為おもひき。爾くして、火遠ほをりのみこと、其のまかたちを見て、水を得まくしと乞ふ。婢、すなはち水を酌み、玉器たまもひに入れて貢進たてまつりき。爾くして、水を飲まずてくびたまを解き、口にふふみて其の玉器につはき入る。是に其のたまもひきて、婢、璵をはなつこと得ず。かれ、璵を著けしまにまに、豊玉毘売命にたてまつりき。爾くして、其の璵を見て、婢に問ひて曰はく、「し、人、かどに有りや」といふ。答へて曰はく、「人有り。我が井のの香木のうへいます。いと麗しき壮夫ぞ。我がきみしていとたふとし。故、其の人水を乞ひしがゆゑに水を奉れば、水を飲まずて此の璵をき入る。是、離つこと得ず。故、入れし任にち来てたてまつる」といひき。爾くして、豊玉毘売命、あやしと思ひ、出で見て、乃ち見でて、目合まぐはひして、其の父に白して曰はく、「吾がかどに麗しき人有り」といひき。爾くして、海神、自ら出で見て云はく、「此の人はあま津日高つひこ御子みこ虚空津日高そらつひこぞ」といふ。即ち、内にりて、みちの皮の畳八重やへを敷き、亦、きぬ畳八重を其のうへに敷き、其の上にいませて、百取ももとりつくえしろの物をそなへ、あへて、即ち其の女、豊玉毘売命にはしむ。(記上)

 万3807番歌の左注にあるカヅラキノミコ(葛城王)は、カツラキ(香木、桂)+ノ(助詞)+ミコ(御子)であるとなぞらえられている。井戸にゆかりがある人だから井戸水を汲んできて提供しようとしている。「前采女」は従婢まかたちの役目を担っている。着席している様は、板の間に藁蓋などを敷いたところに座らされているのではなく、たくさんの敷物を重ねたところに腰掛けるような具合になっていると考えられる。胡床あぐらになるからヒザ(膝)が出て、ヒサコ(瓢)で「撃」つことができた。「みちの皮の畳八重やへを敷き、亦、きぬ畳八重を其の上に敷き、其の上にいませて」という状況である。陸奥みちのく、ミチ(道)+ノ(助詞)+オク(奥)の地である。ミチという言葉にはアシカの意味もあり、アシカの毛皮が敷物に利用され、カヅラキノミコ(葛城王)はミチの皮を何枚も積み重ねたところに座らされていた。実際のところ、ミチノクはアシカの毛皮の大生産地でもあった。
 「前采女」が葛城王に伝えようとしているのは、陸奥国は海神が住むほど遠い国で、国司は王のことをぞんざいに扱っているわけではなくて、龍宮城のような別世界のおもてなしをしているのですよ、ということであった。王はまるでソラツヒコのようで、見目麗しくいらっしゃる。だからその先例に従っておもてなしをしているというのである。題詞中の「飲饌」は、オモノ(御物)、あるいは、ツクエシロノモノ(机代物)などと訓めばよいのであろう。御馳走がいろいろ並べられている。
 これまでの解釈では、宴と井の水とを結びつけて捉えられていなかった。井の水の神聖性を歌ったとも考えられていたが、その場合、畏怖の念を覚えはしてもおもしろいと思うことはなく、酒宴との関係も不明である。畏まることになって「王意解」のことはあっても「悦楽飲終日」には至らないだろう。この日、「王」は何を「飲」んでいるのか。「前采女」が持っていた「水」である。すなわち、ナクニ止めで語られている安積香山の歌の共通項とは、水である。酒の用意がされていないことに「怒色顕面」となっていた葛城王は、「雖飲饌、不宴楽。」であったが、「前采女」に膝を撃たれながら歌われた歌を聞いてなるほどと思い、酒ではなく水の飲み会、ソフトドリンクの食事会を一日中楽しんだということになる。
 以上のように、左注に記されていることとの整合性を保った理解が行われることではじめて、この歌は万葉集巻十六、「有由縁」歌として蘇ることができるのである。

(注)
(注1)古今集・仮名序に、「難波津の歌は、帝の御初めなり。安積山の言葉は采女の戯れより詠みて、この二歌は、歌の父母の様にてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と見える。
(注2)紫香楽宮跡から出土している。天平十六〜十七年当時のものと推定されている。
(注3)言語は、主張、問いかけ、命令、祈り、約束、懇願、脅迫、言葉遊びなど、無数のゲーム的な行為の束である。この歌がそのうちのどの要素を強く持っているかを探ることが万葉集研究の唯一無二の方法である。ところが、村瀬2010.は、左注の「伝云」について、「作りものの語り」であると決めて歯牙にもかけない。「「左手に觴を捧げ、右手に水を持ち、王の膝を撃ちて」という振舞いは千手観音ならいざしらず、現実の采女の行動としては不自然である。思うにこれは、もともとあった安積香山歌……に、「伝云」に記されたような盛りだくさんな内容(宴席で詠まれた歌、采女が詠んだ歌、王への忠誠の心を吐露した歌等々)を付与したがために生じた無理に起因するのであろう。」(95頁)とする。わざわざ左注を記して「有由縁」として編んだ採録者の意図を無視している。仮に後から話を作ったとした場合、最終的に馬脚を現すことはあり得ても、最初から誰もが疑問視するような話を付け足すようなことはない。話にならないからである。
(注4)ナクニは、打消の助動詞ズがク語法によって体言化された形、クニに助詞二が下接したもので、ナクニ止めで終わる歌には独特の余韻を残す効果がある。鉄野2008.は、「ナクニ自身は、単に否定的な状況を提示するに過ぎない。しかし、その否定的な状況に対して、それに応じようとすれば、両者の関係はおのずと逆説的にならざるを得ない。更にナクニで言いさしにすれば、自分には、その状況に対して如何ともし難い、乃至はそれ以上何も言えない、といった気持を暗示することになる。口ごもることによって、以下は察してくれ、あるいはあなたはどうしてくれるのか、などと、聞き手に下駄を預ける体なのである。」(5頁)と解説する。そして、「ナクニ止めの歌のように、最後に全体を否定する形では、その語[「つなぎことば」(伊藤1986.)]は結局否定される側にあることになる。……そうした時、序詞は本旨に対して多様で微妙な関係を結ぶことになる……。その関係の多くは、何らかの比喩である。比喩が、異なるもの同士の中に共通の要素を見出すことに成り立つのだとすれば、そこには必ず裏面として、差異が存することになる。」(14頁)としている。そして、安積香山の歌では、「差異(山の井は浅いけれども、自分の心は深い)をあえて挙げることで、かえって共通項(清らかであること)が浮かび上がる仕組みになっている。」(同頁)と結論づけている。以下に述べるように、共通項が井の清らかであることと捉えるのは誤りである。
(注5)史書に見られないから史実ではなかっただろうとの主張もあり、また、説話化された歌であるとの見方もある。しかし、なにより歌の理解が第一である。講釈はその後で(したければ)することである。
(注6)采女の制に合わないから嘘であるとする生真面目で融通の利かない、文学的でない見解も見られる。また、多田2010.に、「「采女」は水司や膳司に配属されたが、井の聖水に奉仕する「水の女」としての役割がその職掌の一端であったらしい。」(147頁)と尤もらしいことが語られている。しかし、女中が主人に仕える卑近な仕事は、おーい、お茶、と呼ばれた時、さっと茶を入れて差し出すことであろう。
(注7)これまでの説ではそう捉えられている。「都から来訪した葛城王を適切にもてなす術を唯一心得ていた「前采女」の洗練された振舞いと関わって用いられている。」(高松2007.168頁)という。具体的には、膝を撃つことに色っぽさを含むとする説に、鉄野2008.、上野2018.などがある。また、拍子を取るリズミカルな撃ち方とする説に、折口1971.、藤井1987.などがある。
 なお、「芸能」として捉えようとすると「風流」はもはやミヤビでは意が解し尽くせないから音読みするとする説が佐藤2024.に見られる。評するに値しない。
(注8)木村2008.が指摘していて正しい。近年の注釈書では、多田2010.や阿蘇2012.はこの説に依っている。だが、現在でも研究者のなかには否定的に捉える向きもある。加藤2019.は、「「安積山…」詠のように、単に「山の井」について「浅き」といった場合は、山の井の水の深浅についていわれたものと理解するのがふつうで、そのような自然な理解を排して水面の位置のことであるとするのは、説明を重ねる中でしか発動しない読解と言わざるをえない。」(15〜16頁)と批判している。井戸水を汲み揚げることを知らないようである。万葉集のなかで「井」に関して浅い、深いと形容しているのはこの歌だけである。「井」は飲み水を得るためのもの、「田井たゐ」は稲の飲み水のあるところ、つまりは水田のことを言っている。人は「井」から水を汲み揚げて使う。電動ポンプはない。

 もののふの 八十やそ娘子をとめらが 汲みまがふ てらの上の かた香子かごの花(万4143)
 勝鹿かつしかの 真間ままの井を見れば 立ちならし 水汲ましけむ 手児名てこなし思ほゆ(万1808)
 山辺やまのへの 五十御井みゐは おのづから 成れる錦を 張れる山かも(万3235)

 上二首は水を汲むことが歌われている。最後の歌は、井戸端にきれいな着物を着た女官が集まっていることを、錦を張った山のようだと譬えている。井に水が溜まっている、その水深について、当時の人は頭に浮かべたことがあったのだろうか。溜池の水深なら深くあることが望まれただろう。たくさんの水を貯えていることを指すからである。しかし、井の場合は、湧泉であれ、掘井であれ、「走井はしりゐ」のような川の水の活用であれ、水の深さは求められていない。次から次へと湧き出してくるところを「井」と呼んでいる。汲み揚げたらじわっと滲みだして次に汲む時にはまた満ちている。それが「井」である。角川古語大辞典は「山の井」の項を設け、「山中にわき出る泉。掘り井戸ではないために、たまっている水の量が少なく、浅いことのたとえに用いられる。」(764頁)としている。これは誤解だろう。水を汲むのに十分な条件がそろわないところを「井」とは呼ばなかっただろう。日本国語大辞典では、「山中の、湧水をたたえたところ。掘井戸に対して、それが浅いところから、和歌では「浅い」の序詞の一部としても用いる。」(190頁)としている。水量の問題ではなく、釣瓶を使わなくても汲むことができることをいうものとしている。これが正しい。
 廣岡2005.に、「古代において、影(姿)を写すことは神秘なものと理解され、その魂まで宿すものと考えられていた。ここはそういう深い井を言うものであろう。古代における井の多くは湧泉であり、この歌の井も泉をいう。山名もアサだけではなくて、アサカの音は浅からずの否定形を内にもっていると理解してよい。その清泉の水を右手に持って歓待したというのは、この陸奥の地霊の奉仕を意味している。」(320頁)とある。後付けの空論である。波立たない水面は影を写す。田に水を張れば影を写す。盥の水も同じである。盥が魂を宿す祭具となり、実用から外されたことはない。そして、この講釈によって、葛城「王意解悦、楽飲終日。」ことになるとは考えられない。しかも、井戸がとても深かったら、覗き込んだ自分の顔も見えなくなるだろう。清泉で歓待することを地霊への奉仕と論理を飛躍させ、反証不可能な言辞にしている。
(注9)影が映るのだから水はきれいで深くないといけないとする考えが意外に多くみられる。契沖・万葉代匠記に、「影さへみゆるは山の井のきよきによりてなり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979065/1/66)とあるのが発端かもしれない。しかし、影が映るのは水の表面の反射による。水面が風波に揺らいでいたり、水草が水面から出ていたり、藻が繁殖しすぎてガスが発生して泡立っていたりしたら映らないが、水面が穏やかなら水中の色は乱反射により全体のトーンにはなるが影が映らないことはない。強い光が当たる場合や他に光が乏しい夜景などが、水鏡の映りやすい条件である。
 むろん、安積山を映した井の水はきれいだっただろう。なぜならそれは井であり、井は飲み水を供するところだからである。飲用に適さなくなった井戸が廃される時、独特なお祭りをして埋めたであろうことは出土状況から確認されている。もはや「井」ではないということである。
(注10)廣岡2005.は、三句目までの序詞と主意を表す下句との関係について、「[序詞は]一般には下句の「浅し」へ冠すると理解するが、……今の場合、「浅き心を我が思はなく」という全体に冠するものであろう。そうでなかったら序詞にする必要はなく、「安積山」だけの枕詞でよい。」(320頁)などと乱暴なことを言っている。左注で「前采女」は「右手持水」していて、「井」のことを歌のなかに歌い込んでいる。歌と左注をもたれ合いの関係にして伝えようとしているのだから、両者を一括して理解しなければならない。
(注11)コツンという擬音語がコツという字音に由来するのかはわからない。

(引用・参考文献)
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內田1999. 內田賢德「綺譚の女たち─巻十六有由縁─」『伝承の万葉集』笠間書院、平成11年。
折口1986. 折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集14』中央公論社、1996年。
加藤2019. 加藤睦「「安積山影さへ見ゆる…」詠(万葉集・巻十六)について」『立教大学大学院日本文学論叢』第19号、2019年10月。立教大学学術リポジトリ https://doi.org/10.14992/00018924
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第五巻』角川書店、平成11年。
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佐藤2024. 佐藤陽『古代的心性研究序説』武蔵野書院、2024年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
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日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第十三巻』小学館、2002年。
廣岡2005. 廣岡義隆「積山さかやま 影さへ見ゆる やまの 浅き心を が思はなくに(16・三八〇七)」『セミナー万葉の歌人と作品 十二巻 万葉秀歌抄』和泉書院、2005年。
藤井1987. 藤井貞和『物語文学成立史』東京大学出版会、1987年。
村瀬2010. 村瀬憲夫「「安積香山」歌と「伝云」」『国語と国文学』第87巻第11号、平成22年11月。

加藤良平 2024.7.9初出

                                 

万葉集巻一・大宝元年紀伊行幸時の歌について

 大宝元年の紀伊行幸の際に歌われた歌は、万葉集中に少なくとも二十一首を数えるという。巻一・54~56番歌、巻二・143・144・146番歌、巻九・1667~1679番歌、同・1796~1799番歌が確かなものとされている。
 巻一に載る持統上皇の紀伊行幸にまつわる歌は以下の三首である。これらの歌について深く考察された議論は見られない。他に十八首もありながら、なぜ巻一の編者は紀伊行幸の題詞において三首しか採らなかったのか。当該題詞のもとにいかに枠組まれたのか、疑問さえ呈されていない。

  大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊きのくにいでます時の歌〔大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌〕
 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を〔巨勢山乃列々椿都良々々尓見乍思奈許湍乃春野乎〕(万54)
  右の一首は坂門人足さかとのひとたり〔右一首坂門人足〕
 あさもよし ひとともしも 土山つちやま 行きと見らむ 紀人羨しも〔朝毛吉木人乏母亦打山行来跡見良武樹人友師母〕(万55)
  右の一首は調首淡海つきのおびとあふみ〔右一首調首淡海〕
  或る本の歌〔或本歌〕
 河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は〔河上乃列々椿都良々々尓雖見安可受巨勢能春野者〕(万56)
  右の一首は春日かすがの蔵首くらのおびとおゆ〔右一首春日蔵首老〕

 現状の解釈では、紀伊へ向かう途中、巨勢山、巨勢の春野、真土山について、その景勝を歌にしたかのように捉えられている(注1)。秋に行幸しているから椿の花の咲く春の野のことは今は偲ぶしかない(注2)、あるいは、真土山は明媚なところで紀州の人は上京の折ごとに愛でられて羨ましい、といったことを歌っていると思われている。しかし、その考え方には無理がある。 「巨勢こせはる」は固有名詞であろう。季節が秋であってもコセノハルノである。また、「ひと」であっても、都へ行き来することがなければ「土山つちやま」を見ることはない。なのにすべての「紀人」について「ともし」と評している。つまり、何を言っている歌なのか、まったくわかっていないのである。深く考えることなくなんとなくわかった気になり、放置されたままになっている。

 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を(万54)

 作者の坂門人足さかとのひとたりがどのような人であったか、行幸に従駕していたという以外わからない。それでも、さかという氏であり、巨勢山を登っていく坂の入口に関係があるらしく思われ、そのあたりで歌を詠んだものと推測される。
 峠を越えるために坂を上っていくのは、つらく疲れる。その山道の両側に椿の木が生えていて、それを目にして歌にしたという推測は当たっているであろう。道には道端が二つある。両サイドである。前を向いて歩いていれば、顔の左右のツラ(面)に当たるところに椿が生えている。道の真ん中に生えていたら伐採されるから、自ずと左右のツラに生えていることになる。だから、「巨勢こせ山のつらつら椿」という言い方が妥当になる。それをよくよく見ながら、「巨勢こせはる」のことを思い描いて慕ってみようよ、と言っている。
 どうして「巨勢の春野」を思慕しなければならないのか、理解に苦しむ。そのため、伝誦歌として万56番歌があり、有名だったから、それに似せた歌が歌われたと思われている(注3)。しかし、この考え方を100%追認することはできない。「河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢こせはるは」という歌は、どうして人口に膾炙していたのだろうか。仮に都で歌われたものだとすると、春日老かすがのおゆという人が紀伊に遣わされ、帰京後に道中どうだったか聞かれて歌を歌い、天皇以下居並ぶ群臣たちから拍手喝采を受けたと想定することになる。不可能ではないものの、そのとき記憶されたとしてはたして人々に伝えられるものだろうか。確かにツラツラの部分の言い回しはおもしろいが、それ以上の含蓄を持っているわけではない(注4)。覚えておく必要のないことを口ずさんだものとは考えにくい。
 歌は歌われた時、ほとんどその時にのみ人々の関心を呼び、頭脳に働きかけるものである。奈良時代までの古代の歌は、その刹那的な瞬間芸、一回性の芸術として存在していた。無文字時代の歌だったということである。万54・56番歌に「巨勢こせはる」という言葉がくり返されている。そこに焦点が当たっているのだから、コセノハルノという言葉に人々の興趣をそそるものがあったと考えるべきであろう。もちろん、コセノハルノは地名であり、固有名詞である。すなわち、固有名詞以上のことを表しているからおもしろがられて使われていると考えられる。要するに駄洒落である。
 コセ(巨勢)のコは乙類である。下二段活用の動詞、コス(遣)の連用形と同音である。希求の助詞コソと同根の語とされ、呉れる、寄こすの意のオコスのオが脱落した形と考えられている。

 …… の鳥も 打ちめこせね〔宇知夜米許世泥〕 いしたふや 天馳あまはせ使づかひ 事の 語りごとも 此をば(記2)
 霍公鳥ほととぎす 初声はつこゑは われにこせ〔於吾欲得〕 つきたまに まじへてかむ(万1939)(注5)
 奥まへて 吾を思へる 吾が背子は とせ五百いほとせ 有りこせぬかも〔有巨勢奴香聞〕(万1025)
 白玉の 五百箇いほつつどひを 手にむすび おこせむ海人あまは〔於許世牟安麻波〕 むがしくもあるか(万4105)

 他の動詞の連用形に連なる形のケースが多く、〜してくれる、の意に解されている。その後どうなってもかまわずにすることを表していて、ヤル(遣)の意に極めて近い。ヤルは、遠くへ派遣させたり、先行きがどうなってもかまわないものとして人を遣わせたり、くよくよ考えずに物事を進行させたりすることである。遠くへ行かせる、先へどんどん進めるの意からは、思いを晴らす意の心を遣るという言い方が生まれている。

 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心をるに あにしかめやも(万346)
 忘るやと 物語りして 心遣り 過ぐせど過ぎず なほ恋ひにけり(万2845)
 もののふの 八十やそともの男の 思ふどち 心遣らむと 馬めて うちくちぶりの ……(万3991)

 上代の人たちは、この意を、コセ(コは乙類)という音を聞いた時に感じ取っていたのだろう。心が晴れるところ、だから、巨勢には春野という特定の場所があって当然だと納得し、歌に歌われるのを耳にしておもしろがっていたのである。
 いま、紀伊への行幸の途上にある。峠を越えようと難儀な行進を続けている。本当にここを登って行ったらその先に紀伊への道は開けているのだろうか、と不安がり、嫌がる気持ちを抱く人もいたことであろう。そんな心配は無用だと、この歌は歌っている。どんどん進めば思いは晴れると地名に謳っているではないか。なるようになる、案ずるより産むが易しなのだ。予定していたよりも遅れがちな鹵簿の歩みを鼓舞する歌として歌われている。

 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を(万54)
 巨勢山で進行が遅くなっているけれど、道の両側に並び生えている椿を、遅い歩みに従ってよくよく見てごらん、そして、ここは巨勢の春野のすぐ近くであることを思い出してごらん、コセノハルノというのは、どんどん進めば心が晴れるところのことだっただろう、何のことはない、どんどん先へ進んでいけば良いことがあるに決まっているじゃないか。紀伊への道を急ごうよ。

 あさもよし ひとともしも 土山つちやま 行きと見らむ 紀人羨しも(万55)
  右の一首は調首つきのおびと淡海あふみ

 枕詞「あさもよし」については、麻裳の産地として紀伊国が挙げられるからという説が有力視されている(注6)。この考え方は誤りであろう。そうと知らなければ成り立たなくなってしまうからである。枕詞と被枕詞との関係は、知識の有無とは無関係に成り立っているはずである。無文字時代の人にとって、言葉は誰にでも共有されなくては存立しない(注7)。それが嵩じて、今となっては訳がわからないほどに不思議な連着をもよおしている。そのようなことが成り立つ根拠には、ああ、そういうことかと納得するに足る頓知が控えているに違いないのである。
 誰にでも(子どもにでも)わかる連着の理由は、アサモというものが、喪着として使われていたことによる。キ(キは乙類)には、、そして、(注8)がある。棺を前にするにはあさを身につけるのがふさわしい。だから、「あさもよし」はキ乙類の枕詞になるのである。次のアサモノミソは、あさ御衣みその意であろう。

 七年の七月の丁巳に、[斉明天皇]かむあがりましぬ。皇太子ひつぎのみこ[中大兄]、素服あさものみそたてまつりて称制まつりごときこしめす。(天智前紀皇極七年七月)
 [道稚郎子ぢのわきいらつこ]乃ちまたひときに伏してかむさりましぬ。是に、大鷦鷯尊おほさざきのみこと素服あさのみそたてまつりて、発哀かなしびたまひて、みねしたまふこと甚だぎたり。仍りて菟道うぢの山の上にはぶりまつる。(仁徳前紀応神四十一年二月)
  霊亀元年歳次乙卯の秋九月に、きの親王みこかむあがりましし時の歌一首〔并せて短歌〕
 …… 玉桙たまほこの 道来る人の 泣く涙 こさめに降り 白栲しろたへの ころもひづちて 立ちまり 吾に語らく ……(万230)

 このような言葉どうしの結びつきは、この歌でさらにくり広げられている。
 「土山つちやま」は固有名詞で、もともと地名としてあった言葉である。それを受けて、マツチヤマとはどういうことか謎解きをしている。万葉人の語義解釈、洒落解きである。ヤマ(山)には、山岳の意のほかに山陵の意味もある。真の土でできた山陵、ないしは、真の槌の形をした山陵である。饅頭形にしててっぺんに槌の柄が立っていたとすれば、墳墓の墓標の様子さながらである。ひととはひと、葬る人のことで、紀伊の棺人はあらかじめ墳墓が用意されていて世話いらずであると、きつい洒落を飛ばしているのである。したがって、四句目の「行きと見らむ」の主語は紀人ではなく、いま行幸に従駕している人々のことを指している。つまり、文句たらたらで進んでいる人に対して、遭難しても大丈夫だ、ひとひとになってうまいこと葬ってくれる、すでに寿陵として土山つちやまが用意されているじゃないか、と言っている。トモシ(羨)という形容詞は、稀少性をもって評価の判断にする語である。ただ少ないことばかりでなく、逢うことや触れることの少なさから心が惹かれること、そこから、そういう経験を有する存在はうらやましい、という意に展開している。行幸先が紀伊きのくにで、そこの住人はひとであり、いつでもひとになってくれる。後の心配はいらないということである。そんなことは他の国へ行く際には見られないことだから、トモシ(羨)であるとしているのである。

 あさもよし ひとともしも 土山つちやま 行きと見らむ 紀人羨しも(万55)
 麻の喪服もうまい具合に合っているのがひとならぬひとで、そんな稀な合致はめずらしくて心惹かれるなあ、なおさらマツチヤマという、いかにも墳墓にふさわしい名の山があって、我らは行きにも帰りにも目にすることだろうよ。ああ、ひとならぬひとというめぐり合わせはめずらしいものだなあ。どんなことがあっても後の心配が要らないなんてすごいじゃないか。どんどん先へ進もうよ。

 「大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊きのくにいでます時の歌」の題詞の下に、行幸の歩みを促す歌が二首並べられている。題詞と歌との関係がすっきりしている。同じ機会に歌われたであろうが、人々を進ませるために歌われたのか定かではない歌は、「或る本の歌」ということになる。

  或る本の歌
 河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(万56)
  右の一首は春日かすがの蔵首くらのおびとおゆ

 この歌は、万54番歌との類似性からそのもととなったとも、また、歌としてはこちらのほうがうまいとも評されることがある。しかし、それらの観点は度外視して編者は採っているものと推測される。「大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊きのくにいでます時の歌」であることに違いはないが、趣旨が異なる。皆に統一したい意思とは、紀伊国への行幸の達成である。途中でぼやぼや物見遊山することは、目的達成の妨げになりかねない。だから、「或る本の歌」というように脇へ置かれている。作者は春日老という人である。この人は当時、閲歴からして老人であったようだが、若い頃から「おゆ」という名であった。歩くのが遅いと目され、見物に夢中になって道草を食うなと注意されているようである。
 証拠がある。続紀の記事に次のようにある。

○[九月]丁亥(18日)、天皇すめらみこと紀伊きのくにみゆきしたまふ。○冬十月丁未(8日)、きよ武漏温泉むろのゆに至りたまふ。○戊申(9日)、従へるつかさ并せて国・郡のつかさどもに階を進め、并せてきぬふすまを賜ふ。また国内くぬちの高年に稲給ふことおのおのしな有り。としの租・調でう、并せてしやうぜいくぼさることからしむ。ひとり、武漏郡のみほんならびゆるし、罪人つみひときよくしやす。○戊午(19日)、車駕、紀伊より至りたまふ。○己未(20日)、駕に従へる諸国の騎士に当年の調・庸とたんの田租とをゆるす。(続紀・文武天皇・大宝元年)

 往路で二十日もかかっている。何か問題が生じたのか記されていないが、例えば豪雨による崖崩れなどに遭遇して逗留を余儀なくされていたかもしれない。そんなとき、無聊を慰めるためにこの歌が歌われていたのではないか。河が流れていれば、河には岸が両サイドにあり、だからツラ(面)は二つあるから「つらつら」にあるのであり、「つらつらに」あれば「つらつらに」見ることになるだろうが、足止めを食っているのなら文句を言わないで、ここは良いところだ、見ても見ても飽きないところだと無理やりに褒めて、人々の不満の捌け口になるような歌が歌われたのだろう。いきり立った気持ちは和んで、腰を落ち着かせることとなった。だが、これは「紀伊きのくにいでまの歌」ではあっても、行幸の列の進行を歌ったものではないことになる。だから、万54番歌を生む本歌であっても「或る本の歌」としてしか収まらないのだった。
 このように読み解くことによってはじめて、万54〜56番歌は、その題詞のもとで三首採られていることに合点が行き、編者の意図ともども理解することができるのである。

(注)
(注1)「五四は、交通の要衝「巨勢山」の景物を、春野を表現に呼びこむことでほめた歌、五五は、その地から先の国境いの山「真土山」を、現地の人を呼びこむことでほめた歌。……旅先の土地や景物を楽しんでうたいながらも、過ぎ行く重要な地の土地ぼめを行ない、安全な羈旅を願う古くからのしきたりの上にも立っている。……地名はうたいこまれるだけで、すでに祭られたことになる。愉楽の中にも、こうして、過ぎて来た道を、今過ぎる道も、そして先行く道も安まるのである。」(伊藤1983.229〜230頁)などと、先入観にとらわれた評論が行われている。
(注2)シノフという言葉は、賞美する、の意のほかに、遠方の人、故人などを思慕する、慕う、の意があるが、同じ場所のめぐる季節について使われたとする確例は見られない。
(注3)山田孝雄・萬葉集講義に、「上の「巨勢山」の歌[万54]の意の本づく所はこの歌[万56]によめる如きものにして、上の歌はこの歌の如きを本としてよめるものなるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880297/1/142)とあるように、万56番歌が先に伝誦されていて、それを踏まえて万54番歌が紀伊へ向かう途上で歌われたとする考え方は広く行き渡っている。森1987.は、万56番歌に作者の春日蔵首老の名が明記されているからには、同じ紀伊行幸時に詠まれた歌であったとしている。
(注4)有間皇子事件の岩代の浜松のような強烈な印象を与えることはない。
(注5)三句目は「吾にもが」と訓まれることが多い。「吾にこせ」は木下1993.の案で、新編全集本萬葉集が採っている。
(注6)村瀬1986.。
(注7)ある村だけで通じるいわゆる方言のようなものや、特定の技能に関する専門用語のようなものは、誰にでも通じるものとは言えないが、文字に定着させる術がないという条件からすれば、永続するには危うい言葉であったと考えられる。残り伝えられる言葉に秘匿性、秘儀性がないということについては、人は言葉で考え、言葉を共有することによって人であるという基本的な位置づけを顧みた時、古代における暮らしの全般、相聞、祭祀、権力など再検討されるべき課題は多いことを示唆している。
(注8)白川1995.に「き〔棺〕 ……「き」が「おく」、また木の意ならば、キは乙類である。」(265頁)とある。

(引用・参考文献)
伊藤1983. 伊藤博『万葉集全注 巻第一』有斐閣、昭和58年。
木下1993. 木下正俊「万葉集存疑訓注─枕詞「味凝」のことなど─」『萬葉』第146号、平成5年4月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1993
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集➂』小学館、1995年。
福井1960. 福井久蔵、山岸徳平補訂『枕詞の研究と釈義 新訂増補版』有精堂出版、昭和35年。
村瀬1986. 村瀬憲夫『万葉の歌─人と風土─9 和歌山』保育社、昭和61年。
森1987. 森淳司「春日老歌論─「つらつら椿」をめぐって(一)─」犬養孝編『萬葉歌人論─その問題点をさぐる─』明治書院、昭和62年。

加藤良平 2024.6.17.初出

「一重山(ひとへやま) 隔(へな)れる」歌

 万葉集巻四に、大伴家持が坂上大嬢さかのうへのおほをとめを思って歌った歌を横にいて聞いていた藤原郎女ふぢはらのいらつめが引き取って一首歌い、そこでさらに家持は二首歌を作り坂上大嬢に贈っている。

  久邇京くにのみやこに在りて寧楽ならいへに留まれる坂上大嬢さかのうへのおほをとめを思ひて大伴宿禰家持が作る歌一首〔在久迩京思留寧楽宅坂上大嬢大伴宿祢家持作謌一首〕
 ひとやま へなれるものを つくよみ かどで立ち いもか待つらむ〔一隔山重成物乎月夜好見門尓出立妹可将待〕(万765)
  藤原郎女ふぢはらのいらつめ、之れを聞きて即ちこたふる歌一首〔藤原郎女聞之即和歌一首〕
 みちとほみ じとは知れる ものからに しかそ待つらむ 君が目をり〔路遠不来常波知有物可良尓然曽将待君之目乎保利〕(万766)
  大伴宿禰家持、更に大嬢おほをとめに贈る歌二首〔大伴宿祢家持更贈大嬢謌二首〕
 都路みやこぢを 遠みか妹が このころは うけひてれど いめに見えぬ〔都路乎遠哉妹之比来者得飼飯而雖宿夢尓不所見来〕(万767)
 今知らす 久邇の都に 妹に逢はず 久しくなりぬ 行きてはや見な〔今所知久迩乃京尓妹二不相久成行而早見奈〕(万768)

 この歌群では問題点がいくつか挙げられている。一首目の題詞に「思」とあり、妻の坂上大嬢のことを思って家持は歌を作っているが、それをなぜか藤原郎女が引き取って「即和」して歌を作っている。しかる後、家持は「更贈」る歌を二首作っている。最初は「思」うだけだったのが、今度は「贈」ることになっている。この間の事情についてどう考えたらよいか。
 多くの論者は、万765番歌の題詞に「思ひて……作る歌」とあり、万767番歌の題詞には「更に……贈る歌」とあるから、最初から贈る歌として作られていたのを横から藤原郎女が割り込んだと考えている。村瀬1988.は、「言わば一対一の男女の密室の相聞であるべき歌に、第三者……が「これを聞きて即ち和ふる」というかたちで介在してくるところに、言わば広間の相聞へと広がりをみせる」(60頁)ものであると論評している。鈴木2017.は、万765番歌の「つくよみ」について、万735・736番歌の「つく」という言葉を踏まえた表現であると指摘し、二人の記憶に残された思い出の言葉なのだという。影山2019.は、この四首の背後には、妻に逢えずにいることを距離感をもって表すほかはないというやりきれない気持ちがあったとする(注1)。そして、家持に特有の歌群構成の手法によりできあがったものであると決めつけ、その経緯を推測して二通りの可能性を見ている。

1 当初は宴席などで交わされた家持歌と藤原郎女歌とを後日大嬢に贈ることになり、その二首と内容の上で連続する書簡歌二首を取り合わせ、全体を浄書して「寧楽宅」へ届けた。
2 家持歌と藤原郎女歌とは宴席などで交わされたのだったが、家持七六五歌一首は後に大嬢に届けられ、さらに後日、七六七、八歌を大嬢に贈った。歌集編集段階に及んで後部二首詠作の導因となった藤原郎女歌をこの位置に据え、全体を一連の作品として再構成した。 いずれに拠るときにも、全体が家持によって整えられた歌群であることに変わりはない。(30頁)

 なぜこのように曲げて解されなければならないのか。筆者はシンプル、素直に解釈する。家持が妻を思って歌を口ずさんだら、横にいた人がそれにこたえるように歌を歌った。なるほど、そういう言葉づかいもあるなと家持は思い返し、さらに歌を作って妻のもとへ計四首を伝えることにした。ただそれだけのことではないか。「浄」などしていないと考える。この点は根本的な問題である。  相聞歌について、二人だけの内密なやりとりであるとする考え方は以前からある。村瀬1988.が想定するような、二人だけの相聞歌、密室の相聞歌、限られた相聞歌という捉え方である。しかし、歌なのだから声に出して歌われており、近くにいる人は自ずと聞いてしまう。二人だけで完結して他の誰にも聞かれないとすると、当事者が書き残す以外に後の時代に伝えられるはずはない。万葉集の編纂者の一人に違いない家持なら可能であると考えることは、他にも相聞歌が多数あることからして捻くれた見方である。相聞の歌は、歌として歌われて、周囲の人が耳にしていた。当時の歌は、歌われ、聞かれて、はじめて歌として成立していた。至極あたり前のことである。その前提で当該歌群を見直してみると、題詞のあり方に議論を呼ぶような不可解なところはない。
 家持は久邇京にあって、奈良の屋敷に留まっている大嬢のことを思って歌を歌った。当初は伝えようとは考えていなかったのだろう。それを横で聞いていた藤原郎女がすかさず合いの手を入れた。それを聞いて家持は、興が乗り、さらに二首の歌を作った。前の歌、自身の歌と藤原郎女の歌も併せて坂上大嬢に贈ることにしたのである。歌としてのおもしろさを伝えるには、声に出して聞かせることが肝要である。ましてや文字が読めたか不確かな妻へ、書いて贈ったりはしない。使者に覚えさせ伝言としたのである。
 ようやく本論の入り口にたどり着いた。問題点は二つある。第一に、藤原郎女はどうして家持の万765番歌に即座にこたえる歌を歌ったのか。第二に、家持はどうして藤原郎女の歌を聞いて、さらに二首作り、妻のもとへまるごと伝えようと思ったのか、である。興が乗った理由こそが理解されなければならない。それがわからなければ、この歌は、本当のところわかっていない。

 ひとやま へなれるものを つくよみ かどで立ち いもか待つらむ(万765)
 みちとほみ じとは知れる ものからに しかそ待つらむ 君が目をり(万766)

 最初の二首の問答の本旨は、「ひとやまへなれるものを」を「みちとほじ」で返したところにある。現在の通釈書では、「一重山ひとへやまへなれるものを」は、一重の山が隔てているだけのものを、と解して、いつだって来れるだろうからと妻は門に立って待っていることだろうという意と捉えている。それに対し、「みちとほじ」と承けている。ちぐはぐな受け答えである。それが実は、藤原郎女が家持の歌意を的確に受け取ったことの証でもある。どういうことか。
 恭仁京遷都に当たり、聖武天皇は平城京からほど近い恭仁京へまっすぐ向かったわけではない。藤原広嗣の乱の最中でありながら行幸が伊勢へ向かって始まり、美濃、近江をめぐって山背の恭仁京へ遷っている。天平12年(740)10月29日に出発し、12月15日に恭仁宮に入っている。壬申の乱の時の天武天皇の行路になぞらえていると考えられている。二か月にも及ぶ「みちとほ」い行脚をしている。さぞや遠いところへ行ってしまったのだろうと、奈良の都に留まっている妻、坂上大嬢は思うことであろう、というわけである。藤原郎女が坂上大嬢の代弁をしている。

「聖武天皇の「大行幸」行程図」(栄原2014.39頁に「一重山」(⛰⛰⛰⛰)を加筆)

 では、どうして「ひとやまへなれるものを」と冒頭から断っているのに、相手は近くにいるとは気づかなかったのか。それは、次の「つくよみ〔月夜好〕」という文句である。ツクヨヨミ(はじめのヨは甲類、後のヨは乙類)は、月夜が良いので、月明かりがきれいなので、の意に解されている。だがそればかりではない。「つく」という語には月の意を表すことがある(注2)。すなわち、ツクヨヨミ(はじめのヨは甲類、後のヨは乙類)はツクヨ、すなわち、月をヨミ(読)した。つくみとは月日を数えることである。したがって、万765番歌は、一重の山が隔てているだけなのだけれども、迂回しなければ往き来できなくて、行った時に二か月かかったように、妻のもとへ帰るのには同じだけ日数がかかるだろうから、あと何日か、あと何日かと月日を数えては、妻は門に立って待っていることだろうという意にも捉えられるわけである。
 こういう機知あふれる歌を家持は歌にした。そうでなければそこにいない人のことを思った歌を、これ見よがしに声を張って歌ったりしない。妻を思って歌を歌って悪いとは言わないが、お宅のことなど知ったことではない、大人なんだからぐずぐず言わない、といったところがもっぱらの反応ではないか。洒落た言い回し、頓知の歌ができたから家持は歌を披露した。その意をよく理解した藤原郎女がすぐに歌で和した。家持さん、うまいじゃないの、と敬意を抱いている。興に乗った家持は、加えて二首作り、奈良に留まっている妻のもとへ、こんなやりとりがあったよ、おもしろかったよ、お前もおもしろいと思うだろう、と伝えているのである。

 都路みやこぢを 遠みか妹が このころは うけひてれど いめに見えぬ(万767)
 今知らす 久邇の都に 妹に逢はず 久しくなりぬ 行きてはや見な(万768)

 万767番歌にあるウケヒは、願って、の意と解する説が多い。多田2009.に、「「ウケヒ」は、ここでは夢を見るよう祈誓すること。「ウケヒ」は、本来、神意を判断する呪術。A→a、B→bのように、生ずる事態とその判断とを前もって定めておき、得られた結果を神意と見なした。……大嬢の魂が通って来れば、魂逢いによって夢が見られる。自分を思ってくれないことへの恨み言。」(174頁)と説明がある。だが、ここで言いたいのは「妹」への恨み節ではなく、「都路みやこぢを遠みか」を示すところにある。藤原郎女が代弁する形で「道遠み」と言っていたように、「寧楽の宅」から「久邇京」まで50日弱かかる道のりのことを指している。「妹」は50日弱かかると思っているから夢に現れてくれないのだろう、ととぼけたことを歌っている。ウケヒと断っているのも、「妹」が「寧楽の宅」と「久邇京」とは「ひと重山やまへなれる」にすぎず、実は近いところだと思っているのなら近いのだから夢に現れるだろうし、50日弱かかる遠路だと思っていたら遠いから一晩のうちでは辿り着けずに夢に現れないだろう、と仮定しているわけである。
 仮にこの歌で恨んでいるとすると、家持のほうが思いが強い片思い的な状況になる。すると、次の万768番歌が、家へ帰って「妹」の顔を早く見たい、それで夫婦関係を安定させたいというやきもち的な内容を歌っていることになる。しかし、それでは、万765番歌で「かどで立ちいもか待つらむ」と歌っていたこととの間に齟齬が生じてしまう。万767・768番歌の題詞に「更」(注3)とあることに反することになる。筆者の捉え方に依れば矛盾なく受け取ることができる。
 そして、万768番歌も、「寧楽の宅」と「久邇の都」との間の距離感をおもしろがって歌にしたものだろう。「今知らす久邇くにの都」と冒頭に歌われている。既知のことがらをなぜ詠むのか疑問視する向きもあるが、遷都した意味を述べるのではなくて、その都の名について頓智としているのである。クニの都というのは、国都を意味する。「今知らす」とは、今、天皇が領有しているという意味で、その版図の中心にあるのが都である。対外的に「日本」と表記される国であるが、訓みはヤマトである。その中心に位置して都があって然るべきなのは、行政単位としての大和やまと国である。ところが、平城京から一山越えただけの恭仁京は、行政単位としては山背やましろ国にある。言葉の論理の上では少々問題が起きている。だからこそ、「今知らす」と当たり前のことを冠して歌っているわけである。
 つまり、この歌は、山背国にある「久邇くにの都」がはたしてヤマトの国の都としてふさわしいのか、長い行幸の末に遷都したところよりも、平城京へ戻った方が賢明なのではないか、といった感慨を「妹」と早く逢いたいと歌うことによって言わんとした可能性を含む歌なのである。論理的誤謬に対して聖武天皇は秘策をくり出している。「大倭国やまとのくにを改めて、大養徳やまとのくにとす。」(続紀・天平九年十二月二十七日)、「なづけて大養徳やまと仁大宮にのおほみやとす。」(同・天平十三年十一月二十一日)とある。天皇は、ヤマトを「大養徳」と書くように命じている。天皇が大いなる徳を養ってそのために垂れる国になるようにというのである。だから、天皇の在所は「大養徳」なるところであるはずで、行政区分では山背国に当たるのかもしれないが、「大養徳恭仁大宮」だと言って憚らないのである。
 この「大養徳恭仁大宮」なる命名(命字)が当該歌よりも先であったなら、「今知らす久邇くにの都」は「大養徳やまとの仁大宮にのおほみや」であり、「寧楽の宅」同様、ヤマト・・・にあるのだから、近いのだから、「はや見」ることは簡単なこと、すぐにでもできることである。「ひとやまへなれる」だけだということを言い方を変えて歌にしたのである。

(注)
(注1)影山氏の生硬な言い回しを筆者なりに砕いた。
(注2)ツクヨミという語に、「月読つくよみ(ミは乙類)」の意とは別に、「つく夜霊よみ(ミは甲類)」、月の意のツクヨに神の意のミがついた形があって、早くから混同されていた。
(注3)「更」字を「また」と訓む説もある。

(引用・参考文献)
影山2019. 影山尚之「坂上大嬢に贈る歌─距離の感覚と作品形象─」『萬葉』第227号、平成31年3月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2019 (『萬葉集の言語表現』和泉書院、2022年。)
栄原2014. 栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』敬文舎、2014年。
鈴木2017. 鈴木武晴「家持と書持の贈報再論─異論を超えて真実へ─」『都留文科大学研究紀要』第85集、2017年3月。都留文科大学学術機関リポジトリ http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/handle/trair/802
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解2』筑摩書房、2009年。
田野2007. 田野順也「『万葉集』における隔絶感の表現─中臣宅守歌の「山川を中にへなりて」をめぐって─」『同志社国文学』第66号、2007年3月。同志社大学学術リポジトリ https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000005382
村瀬1988. 村瀬憲夫「家持の相聞歌─恭仁京時代─」『上代文学』第60号、1988年4月。上代文学会ホームページ https://jodaibungakukai.org/02_contents.html (『大伴家持論─作品と編纂─』塙書房、2021年。)

加藤良平 2024.6.10初出

玉藻の歌

 万葉集巻一の万23~24番歌は、罪科に問われた「麻続王をみのおほきみ」という人にまつわる歌である。原文と伊藤1995.の訓読、訳をあげる。

  麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時人哀傷作歌
 打麻乎麻續王白水郎有哉射等籠荷四間乃珠藻苅麻須
  麻續王聞之感傷和歌
 空蟬之命乎惜美浪尓所濕伊良虞能嶋之玉藻苅食
  右案日本紀曰天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯三位麻續王有罪流于因幡一子流伊豆嶋一子流血鹿嶋也是云配于伊勢國伊良虞嶋者若疑後人縁歌辞而誤記乎

  みのおほきみ、伊勢の国の伊良虞いらごの島に流さゆる時に、人の哀傷かなしびて作る歌
 二三 を 麻続をみおほきみ 海人あまなれや 伊良虞いらごしまの たまります
  麻続王、これを聞きて感傷かなしびてこたふる歌
 二四 うつせみの いのちしみ なみれ 伊良虞いらごしまの たま
 右は、日本紀をかむがふるに、はく、「天皇の四年きのとの夏の四月、戊戌つちのえいぬつきたちきのとに、三位麻続王罪あり。因幡いなばに流す。ひとりの子をば伊豆いづの島に流す。一の子をば血鹿ちかの島に流す」といふ。ここに伊勢いせの国の伊良虞いらごの島にながすといふは、けだし、後の人、歌のことばりて誤りしるせるか。
 ……
 打ち柔らげられた麻、そのみのおおきみは海人なのかなあ、まるで海人そっくりに、伊良虞の島の玉藻を刈っていらっしゃるよ。(二三)
 この世に持つ命の惜しさに、波に濡れながら、私は伊良虞の島の、玉藻を刈って食べています。(二四)(98~100頁)

解釈の現状と「和歌」

 背景の事情はよくわからないものの、万23番歌は、島流しにあった麻続王が海岸で藻を採っておられるのを人々が同情して詠んだ歌であるとされている。そのことは次の万24番歌の「和ふる歌」を併せて考えれば明らかだという。ただし、「和歌」と呼べるものは、先に作られた歌を主とし、それに応えて従とされる歌のはずであるとも考えられている(注1)。筆者の予断ではあるが、「和」さずとも一首で十分に歌として機能して完結しているものに、さらに加えて厚みを増す作用を示したものが、「和歌」と呼ばれたのではないかと考える。同じ事柄について別の視点から歌としてあわせたという意味である。歌う立場が異なるのは贈答歌である。伊藤1995.を含め、現状の解釈では、万23番歌+α の歌として計二首を捉えるのか、逆に万24番歌を導く伏線として万23番歌が置かれているか、いずれにせよ、そうだそうだと言い合っているに過ぎないものとして考えられているように感じられる。足して1になるのではなく、足せば2以上の効果、膨らみがあるのが「和歌」なのではないか。
 なお「白水郎」はアマと訓んで「海人あま」のこととされる。もとは中国南方の白水地方の郎、すなわち男性の称から来ているという(注2)。また万24番歌の第一句、「うつせみの」は、現実の世の意味から「命」を導く枕詞とされている。ほかに、第五句は、「玉藻刈りす」、「玉藻刈りむ」と訓ずる説もある。この五句目と一句目の訓は、これらの歌の眼目である「和歌」の真髄において正しく訓まれなければならない。現状の解釈では不十分である。
 影山2011.は、万17・18番歌の額田王の近江下向の歌に続く万19番歌の井戸王の歌に「即和歌」とある点について、次のように論じている。

……「即和歌」と記される事例は単に詠作の即時性もしくは瞬発性をいうのでなく前歌との即応性および直結性を重点表示するものと見るのがよい……[「瞬間性の表示には「応声」が別に用意されている(6・九六二左、16・三八〇五題、16・三八二四左、16・三八三七左)。場と時を異にした唱和を意味する「追和」(2・一四五題、6・一〇一五題など)は「即和」とは対照的な営みである」(46頁)]。贈答歌にしばしばみられる反発・切り返しが➀~➃[➀3・二八五・二八六、➁3・四〇一・四〇二、➂3・四六二・四六三、➃4・七六五・七六六]に顕在化せず、むしろ前歌に対して肯定的あるいは順接的な様相を呈しているのも、こうしたやりかたと連動するのであろう。(27頁)

 万19番歌は左注にあるように和歌に似ていないとされている。万葉集の編纂者は時代を追って引き継いでいったものと考えられるから、厳密に文字を使い分けていたかどうかは定められないものの一定の目安にはなるであろう。「即和歌」にはもう一例、左注で記される万3844・3845番歌がある。そこでは「左注」に記されており、お互い、からかい喧嘩の言い合いになっている点から、影山2011.の考察では対象としていない。
 万23・24番歌は、「和歌」とだけあり、「即和歌」ではないが、➀~➃の例と共通点が多い。そこで、以下にそれらの例を示す。

  丹比たぢひの人笠麿ひとかさまろ紀伊きのくにきての山を越えし時に作る歌一首
 栲領巾たくひれの けまくしき いもが名を この勢の山に 懸けばいかにあらむ〈一に云ふ、へばいかにあらむ〉(万285)
  春日かすがの蔵首くらのおびとおゆすなはこたふる歌一首
 よろしなへ の君の にし この勢の山を 妹とは呼ばじ(万286)
  大伴坂上郎女おほとものさかのうへのいらつめ親族うがらうたげする日にうたふ歌一首
 山守やまもりの りけるらに 其の山に しめひ立てて 結ひのはぢしつ(万401)
  大伴宿禰駿おほとものすくねする麿まろの即ち和ふる歌一首
 山主やまもりは けだし有りとも わぎ妹子もこが 結ひけむ標を 人かめやも(万402)
  十一年己卯の夏六月に、大伴宿禰家持おほとものすくねみまかりしをみなめ悲傷かなしびて作る歌一首
 今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長き宿む(万462)
  おと大伴宿禰書持おほとものすくねふみもちの即ち和ふる歌一首
 長き夜を 独りや宿むと 君がへば 過ぎにし人の おもほゆらくに(万463)
  久邇京くにのみやこに在りて寧楽ならいへとどまる坂上大嬢さかのうへのおほおとめしのひて大伴宿禰家持の作る歌一首
 ひとやま へなれるものを つくよみ かどで立ち いもか待つらむ(万765)
  藤原ふぢはらの郎女いらつめのこれを聞きて即ち和ふる歌一首
 みちとほみ じとは知れる ものからに しかそ待つらむ 君が目をり(万766)

 以上の歌のやり取りの特徴として、即座にその場にいた作者が、前の歌に和して歌い返していること、そして、応酬の場を具体的に想定できることがあげられている。さらに、影山2011.は、「鸚鵡返しや人称の一方通行」(27頁)が見られることを指摘する。「前歌との接続性を主張するために言語上の密な関係を構築しようとする所為と理解され、いうならば本来は贈答唱和を期待していない詠歌に対し自ら進んで「和歌」として連なろうとするのが「即和歌」であると考えられるのである。」(25~26頁)という。万23・24番歌も、即時性や同場性は欠けているものの、これらととてもよく似た傾向にある。両歌の主語は麻続王である。同時代性と共場性を有した歌ということができるのではないか。麻続王は自ら進んで「和歌」として連なろうとしたのである。
 村田2004.は、万23番歌「哀傷作歌」の作者について、紀歌謡に現われる「時人歌」の特徴と共通すると論じている。「すなわち、➀歌の表現上に事件に関する固有名詞が登場し(麻続王)、➁作者に興味を示されず(人)、➂短歌形式であり、➃事件最中(後)の詠であり、➄話者の感想が歌われる(海人なれや)」ことから、「当該歌は「時人歌」の一つとして把握してよいであろう。」(277頁)とする。「時人歌」的な性格を持った万23番歌に対して、事件渦中の当事者である麻続王が「和」したことになり、きわめて特殊な歌群である。
 この点は、歌の字句にある「玉藻」を「刈る」ことに関しても指摘されている。内藤2012.は、万葉集中の「玉藻刈る」歌全24例について概観し、「玉藻」を「刈る」主体がアマ(海人)やアマヲトメ(海人娘子、海人通女、海少女)の例が多く、他には後に触れる41番歌に「大宮人」が「玉藻」を「刈る」歌があるなか、万23・24番歌は、罪を得て配流された王自らが「玉藻」を「刈る」歌となっていて、「『万葉集』において他に類例のない特殊な「玉藻刈る」歌である。」(272頁)と評している。

歴史事件との関係

 左注の記事と現行の日本書紀との間には、日付の干支に違いが見られる。紀では天武四月朔日をきのえいぬ、麻続王が罪を得た日を辛卯かのとうに作る。しかし、いずれにせよ18日に当たっているので、事実に誤りはないものと考えられている。結局、麻続王は因幡、一人の子は伊豆大島、もう一人は五島列島に流罪になっている。
 辛卯に、三位みつのくらゐ麻続王罪有り。因幡に流す。一の子をば伊豆嶋に流す。一の子をば鹿嶋かのしまに流す。(天武紀四年四月)(注3)
 新大系文庫本万葉集に、「左注の日本書紀の言う通りだとすれば、遠流・中流・遠流の三つのうち、罪の主体と考えられる王が近流の因幡、連座したと思われる子の一人が中流の伊豆、一人が遠流の九州の血鹿島(→八九四)に流される重い刑を受けたことになり、尋常ではない。史料に何らかの混乱があったか。」(73~75頁)とする。「罪の主体」が「王」であるという前提は先入観にすぎない。子どもの方が罪を犯し、親が連座させられているのだろう。連座でも罪は罪だから、「三位麻続有罪。」と記されても不思議ではない。少なくとも、その可能性を排除して史料批判をしてはならない。
 天武朝は中央集権的な国づくりが進んだ時代であった。斉明天皇が構想していた天皇中心の国家像は、律令制度の導入によってより完成されたものになっていく。人々にとって、それは「百姓おほみたから」にせよ、官人にせよ、必ずしも明るく伸びやかで自由な風潮の時代であったとは限らない。実際、天武天皇は当初から諸々の禁令を発している。

 癸巳にみことのりしてのたまはく、「群臣まへつきみたち百寮つかさつかさ天下あめのした人民おほみたからもろもろのあしきことすことまなし犯すこと有らば、事に随ひて罪せむ」とのたまふ。(天武紀四年二月)

 漠然とした一般論に見えるが、推古朝に聖徳太子が山背大兄王やましろのおほえのみこ等に語ったとされる遺言、「諸のあしきことそ。諸のよきわざ奉行おこなへ。」(舒明前紀)に由来し、大本は七仏通誡偈「諸悪莫作、諸(衆)善奉行、自浄其意、是諸仏教」によっているとされている。聖徳太子が親族の心の戒めとして言っているのに対して、天武天皇は治安維持のために言っている。道徳の内面化を社会全体に広めようとした政策である。教育勅語のようなものと考えればわかりやすいだろう。

 癸卯に、人有りて宮のひむかしの丘に登りて、妖言およづれごとして自らくびはねて死ぬ。是の夜のとのゐに当れる者に、ことごとくかがふり一級ひとしなを賜ふ。(天武紀四年十一月)

 夜中に、飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやの東の岡、現在の明日香村岡に登って、反体制のアジテーションを行って自決した者がいた。宿直の者全員が一階級増されているところを見ると、政権は口封じをしたようである。

 丁酉に、宮中みやのうち設斎をがみす。因りて罪有る舎人とねりどもゆるす。乙巳に、飛鳥寺のほふし福楊ふくやうつみしてひとやに入る。庚戌に、僧福楊、自ら頸を刺してみうせぬ。(天武紀十三年閏四月)

 罪科を問うておいて恩赦を与えたり、牢獄へぶち込んだ僧侶が自死している。事をとり立てている記事ではないから、当たり前のことと思われる世相であったと考えられる。窮屈な世の中に暮らし続けると、だんだん感覚が麻痺してくる。全体主義的な時代を経験している。職務を全うすることに明け暮れた役人は、良心を滅却して火もまた涼しくなる。

 壬寅に、杙田史名倉くひたのふひとなくら乗輿きみ指斥そしりまつれるといふに坐りて、伊豆島に流す。(天武紀六年四月)
 丁亥に、小錦せうきむ努臣ののおみ摩呂まろ詔使みかどのつかひむかこばめるにりて、官位つかさくらゐことごとくらる。(天武紀四年四月)

 律令では名例律の規定として、「八逆」の大罪の一つ、「大不敬だいふきやう」の罪に、「……乗輿じやうよ指斥ししやくするが情理じやうり切害せつがいある、及びぜう使むかこばむで人臣にんじんらい無きをいふ。」とあげている。それぞれ本来なら斬首、絞首に相当する罪である。罪が軽くなっているのは、厳格に適用するのには当たらない低俗なものだったからであろう。後者の事例で登場する久努摩呂という人は、諫言する人物であったようである。同じ天武紀四年四月条に、「辛巳に、みことのりしたまはく、『小錦せうきむじやう当摩公たぎまのきみ麻呂まろ・小錦下久努臣摩呂、二人、朝参みかどまゐりせしむることなかれ』とのたまふ。」とありながら、天武天皇の亡くなった朱鳥元年九月条に「直広肆ぢきくわうしへののの朝臣あそみ麻呂まろ刑官うたへのつかさの事をしのびことたてまつる。」と再出する。天皇は反省して適材を適所に復帰させていたようである。しかし、天武四年の段階では、完璧なるイエスマンが求められている。社畜ならぬ国畜になり切らないといけない生きづらい時代になっていた。
 その天武四年四月、麻続王は罪を得た。彼が子どもともども連座して流されているのは、大不敬のような重罪を犯しつつ、罪一等を減じられたということであろう。子どもの方が都から遠いところに流されているから、子どものいたずらの責任を親が負わされたに違いあるまい。久努麻呂という人が懲戒処分で官位を奪われてからわずか四日後である。あるいは、麻続王事件に関係してのことではなかろうか。査問委員会か懲罰委員会にかけられた麻続王一家のことについて、どうだっていいじゃないかという久努麻呂と、こういうことこそ大事なのだという天皇の使者との間のいさかいである。玉藻の歌とは、その時の事件簿であった可能性が濃厚である。

無文字時代の「歴史」

 それは、歌の題詞と左注との間の齟齬からも感じ取れる。左注の筆者は、万19番歌(「綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓着成目尓都久和我勢」)に左注を施したのと同一人物である蓋然性が高い。万19番歌では、「右の一首の歌は、今かむがふるにこたふる歌に似ず。ただし、旧本、このつぎてす。このゆゑになほ載す。」と注している。一方、万24番歌においては、「和歌」とある点についていっさい疑問を呈していない。左注の筆者は、「和歌」であることはそのとおりであるとしている。「歌辞」にある「伊良虞嶋」自体も不審に思っていない。歌辞ではなく、設定としての題詞のほうに疑問をいだいている。題詞に、流された場所を「伊勢國伊良虞嶋」としている点について間違えではないかと感じている。現在伝わる紀にも引用と同等の記事があり、麻続王が「伊勢國伊良虞嶋」に流罪になったという事実はないようである。
 では、左注の言うように、歌の字句のために題詞を間違えたかと考えてみると、そもそも歌の字句がなぜ「伊良虞嶋」の話になっているのかという疑問が浮かぶ。「伊良虞嶋」は現在の愛知県の渥美半島の先端、伊良湖岬かその近辺の島に比定されている。半島をもってシマと呼ぶ例は、志摩国が半島であるなどあり得ることである。しかし、「伊良虞嶋」は伊勢国ではなく三河国である。もとより当時の国境がいかなるものであったか確かではなく、伊勢湾を挟んで隣接する「国」である。その間にある神島を指しているとする説(澤瀉1957.227~228頁)もある。しかし、むしろ、伊勢国と三河国の間に、志摩国が位置していることに注意が払われるべきであろう。
 左注を付けた人は万葉集の最初の編者とは別の人であったと思われる。最初の編者はシンプルに、標目、題詞、歌だけを記し、それを引き継いだ二番目の編者が、左注を施したうえで歌の採録を続けていったのだろう。万19番歌の左注に、「旧本」と記されており、左注を付けた人は「旧本」を写しているとわかる。この両者の間には時代の展開、文化的な大転換点があった。完全な無文字文化から一部に生得的に文字を学んだ世代がいる文字文化への転換である。それは同時に、律令制の導入時期にあった。万葉集の歌においても、それとちょうど対応するように、額田王の口承の歌から、柿本人麻呂の筆記メモ帳の歌へと転換していった(注4)。その両文化の間にあるクレバスは深く、無文字文化の文化について、文字文化の人には時にわからないことが起きるようになっている。言い伝えに伝えられた説話の内容は、無文字文化で当たり前のこととして常識として受け止められていたが、文字文化の時代が進むにつれ、常識ではなくなっていった。世の中を学ぶことの意味合いが、それまでの言い伝えを聞いて悟って知るという方法から、書いてある文字を見て知識を積み上げて理解するという方法へと変っていった。脳の使う部位が異なってきた。音声言語によりかかった思考と、視覚言語(文字)によりかかった思考とでは性質が異なる。知恵と知識の違いとして表されよう。なぞなぞとクイズの違いと言っても良い(注5)
 万24番歌に左注を施した人はネイティブに文字に親しんで育った人であり、麻続王よりもひと世代後の人、つまりは異文化に属していた。反対に、麻続王事件を歌った「人」と彼に和した「麻続王」は、ともに同時代の無文字文化の人である。それらの歌詞を聞くと、狐につままれたような感じになる。記紀に残されている語句があらわれている。万23番歌に見える「海人あまなれや」という句である。この句は、言い伝えのなかの諺に登場する。応神記、仁徳即位前紀の皇位継承辞退の話に、「海人あまなれや、おのが物からねなく」などとある。

 ここに、大雀命おほさざきのみこと宇遅能和紀うぢのわき郎子いらつこふたはしらおのおの天下あめのしたを譲りたまふ間に、海人あま大贄おほにへたてまつりき。しかくして、いなびておとたてまつらしめ、弟は辞びて兄に貢らしめて、あひゆづれる間に、既にあまたの日をぬ。如此かく相譲ること一二時ひとたびふたたびに非ず。かれ、海人、既にゆきに疲れて泣きき。故、ことわざに曰はく、「海人なれや、己が物にりてく」といふ。(応神記)
 [道稚郎子ぢのわきいらつこ、]既にして宮室おほみや菟道うぢててします。なほみくらゐ大鷦鷯尊おほさざきのみことに譲りますにりて、久しく即皇位あまつひつぎしろしめさず。ここ皇位きみのくらゐむなしくして、既にとせを経ぬ。時に海人有りて、鮮魚あざらけきいを苞苴おほにへちて、道宮ぢのみやたてまつる。太子ひつぎのみこ、海人にのりごとしてのたまはく、「我、天皇すめらみことに非ず」とのたまひて、乃ち返してにはたてまつらしめたまふ。大鷦鷯尊、亦返して、菟道に献らしめたまふ。是に、海人の苞苴、往還かよふあひだあざれる。更に返りて、あたし鮮魚を取りて献る。譲りたまふことさきの日の如し。鮮魚亦鯘れぬ。海人、しばしば還るにたしなみて、乃ち鮮魚をててく。故、諺に曰はく、「海人なれや、己が物からねなく」といふは、其れ是のことのもとなり。(仁徳即位前紀)

 当時、皇太子のウヂノワキイラツコとオホサザキノミコト、後の仁徳天皇とが皇位を譲り合っていた。そして、菟道宮、今の宇治市と難波、今の大阪とに分かれて住んで三年が経過していた。時に漁師が鮮魚を贄として天皇に献上しようと菟道に持って行ったところ、ウヂノワキイラツコは自分は天皇ではないと言って断り、難波に進上させた。ところが大オホサザキノミコトも固辞して今度は菟道へ向かわせた。行き来する間に贄の魚は腐ってしまい、漁師は泣いたというのである。そこから、自分の持ち物が原因で憂き目を見ることがあるという諺になったと伝えている。
 この諺の焦点は、真ん中のヤが反語の助詞で、海人であるからか、そうではないのに、自分の持ち物が故につらい目に遭う、という意味のことである。応神記、仁徳前紀の逸話は、諺に「海人」が持ち出されている謂われを語っている。逸話があって諺が成立したのではなく、諺はもともと存在し、それを後講釈するのにとてもうまく合致する贄献上の出来事があったので、それに託けて逸話をまとめ上げているものと考えられる。
 万23番歌にしても、麻続王は海人ではない。諺を意識して上の句を挿入しているとすれば、歌の後半の玉藻を刈ることがつらいことという考えに固まってくる。けれども、諺が持つべき本来の意味、言葉の変化技が少しも生きてこない。ただ泣きを見たというのでは冴えない。意外なことに自分の持ち物が災いして泣く結果に至ったという展開が欲しい。修飾形容のために諺を引いてきた理由は必ずやあるだろう。
 反歌の万24番歌の題詞に、「麻続王、聞之感傷和歌」となっている。この歌を作ったのは麻続王である。前の万23番歌を受けて歌っている。結果、四・五句目が繰り返し調になっている。この箇所の訓については、意図的に用字を変えているようであり、違えて訓むのであろうとする見解も多く見られた。しかし、用字を変えた真の理由は、同じ言葉、言い伝え世代にとって重要な音を強調するためであったとも考えられる。題詞には、「和歌」と明記されている。影山2011.の指摘どおり、同じ言葉(音)の反復をこそ求めている。微妙なニュアンスや音韻の違いを引き立たせるべき理由は見当たらない。ただし、単に同じ語句(意味)を追従したというのではない。この場合、音は同じであるが意味は異なるということではないか。なぞなぞ的発想である。
 コタフルウタに「和歌」と記されている。「応歌」、「答歌」とはされていない(注6)。論語・子路篇に、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。(君子和而不同、小人同而不和。)」の有名な文句がある。この言葉の例証としては、春秋左氏伝・昭公二十年条に載る、斉の景公と晏氏(晏嬰)の問答が分かりやすい。景公が狩りから帰った時、腹心の部下が急いで駆けつけてきた。それを見て景公は、彼だけが心が和合すると言った。それに対して晏氏は、彼はただ君と心を同一にしているだけで、和合してなどいないと答えた。その時景公は、「和と同と異なるか。(和与同異乎。)」と尋ねた。晏氏は、和というのはあつもの、すなわちスープを作りようなことだと譬えている。狩りの獲物でスープをこしらえるとき、料理人は火加減、水加減、味加減を調節する。それが「和」であると言っている。足りないところは増やし、多すぎるところは減らす。塩梅アウフヘーベンである。
 「和歌」とはその原初段階において、弁証法的なものであったと推測される。つまり、万23・24番歌の下の句の類似は「和合」の一致をみている。しかも万24番歌の作者は、流罪にあった当人だから、流刑地が「伊良虞嶋」でないことはもとより承知している。にもかかわらず、前の歌を踏襲しているということは、「射等籠荷四間乃珠藻苅麻須」=「伊良虞能嶋之玉藻苅食」にはワザがあって、歌意を示す重要なキーワードが隠されているということである。この四・五句目の訓みこそがこの歌の焦点である。

「玉藻」とは何か

 「たま(珠藻)」は、美しい藻のことで、「玉(珠)」は美称であるとされている。ほかに「たま」という言葉もあり、美しいスカートのことを指す。柿本人麻呂には、この二語の類想から作られたらしい歌がある。

  勢国せのくにいでます時に、みやことどむる柿本朝臣人麻呂の作る歌
 嗚呼の浦に 船乗ふなのりすらむ 娘子をとめらが たますそに しほ満つらむか(万40)
 くしろく たふさきに 今日けふもかも 大宮人おほみやひとの たま刈るらむ(万41)
 潮騒しほさゐに 伊良虞いらごしま 漕ぐ船に いも乗るらむか 荒きしまを(万42)

 これらの歌は、持統六年(692)三月、諫言を聞き入れずに行幸を決行したときの歌である。三首目には「伊良虞」の地名まで登場している。この時、三河へ渡ったという記事は見られない。持統天皇は後に退位し太上天皇となり、文武天皇の大宝二年(702)十月に三河まで足を延ばし、その年の十二月に亡くなっている。問題は、飛鳥時代の後半当時、文字に慣れていた人麻呂すらが、「玉藻」と「玉裳」の同音異義語の駄洒落を楽しんでいる点である。歌はヤマトコトバで作られ続けており、言語空間は声を中心に成立していて、基本的に無文字時代と変わりがなかったのである。人麻呂は、万23・24番歌を参考にして、万40~42番歌を作ったようである(注7)
 「玉藻の歌」において、伊良虞なる地名は地名本来の役割を果たしていない。麻続王と関連性がないのである。「伊良虞の島の」は序詞で、「玉藻」を導く字詞として使われた可能性が高い。その地と歌との間に何らつながりはなく、駄洒落として地名が引っ掛けられて採用されているにすぎないからである。流された因幡は今の鳥取県の東半で海沿いではあるが、彼が漁師に転職したという話は伝わらない。また「玉藻」ではなく、「玉裳」であったと仮定しても、麻続王が女装したために刑に処せられたとは考えにくい。ヤマトタケルが女装して熊曾(熊襲)を征伐したという騙しの話は伝わるものの、罰則を伴った女装禁止令は見られない。最後に残るのは、「玉藻」=「珠藻」とあるのは、ふつうのタマモ、万葉集中の海藻のタマモではないという説である。玉藻は、中国の冕冠べんかんぎょくそうのことを指し、その訓読語のようなものではないか。そして、「海女なれや、……」の諺を引用している。

 打麻うつそ(注8)を 麻続王をみのおほきみ 海人あまなれや 伊良虞いらごの島の たます(万23)
 うつせみの 命をしみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食す(万24)
 〔打麻を〕麻続王はおほ海人あまの皇子みこ(注9)(天武天皇)なのであろうか、大海人皇子ではないのに、(伊良虞の島といえばお馴染みの)たまならぬぎょくそうのついた冠を借りて国を治めるとは。(万23)
 〔うつせみの〕命が惜しいから、浪に濡れて(伊良虞の島で名高い)玉藻を刈って食べるような暮らしに甘んじるのだよ。(万24)

 礼記・玉藻篇に、「天子はぎょくそう、十有二りう、前後、延をふかくす、りょうかんして祭る。(天子玉藻、十有二旒、前後邃延、龍巻以祭。)」とある。天子の冕冠には、垂れ玉を十二条つけるように指示されている。冠の前後は、糸で玉を貫いて飾りとしていた。麻続王よりもその子どものほうが遠流になっているので、天皇だけが被ることのできる垂れ玉付きの冠を子どもたちが遊んで被ったらしい。
 増田1995.165頁によれば、袞冕十二章は、中国の天子が元日朝賀の儀に身につける服装で、唐書・車服志に、「袞冕者、践祚・饗廟・征還・遣将・飲至、加元服、納後、元日受朝賀、臨軒冊拜王公之服也。広一尺二寸、長二尺四寸、金飾玉簪導、垂白珠十二旒、硃絲組帯為纓、色如綬。深青衣、纁裳、十二章、日・月・星辰・山・龍・華蟲・火・宗彝八章、在衣、藻・粉米・黼・黻四章、在裳。衣画、裳繍、以象天地之色也。自山・龍以下、毎章一行為等、毎行十二。衣・褾・領画以升龍、白紗中単・黻領・青褾・襈・裾、韍-繍龍・山・火三章、舄加金飾。」とあるように、頭に冕冠を被り、深青色の衣と纁色の裳をつけるようになっているという。
 中国で旒の垂れる冕冠の形態が整えられたのは、後漢・明帝の永平2年(59)のこととされている(注10)。冕冠の古い絵画作品できれいに残っているものとして、宋代の模写、20世紀の加筆も見られつつつも、唐・閻立本(?~673年)の「歴代帝王図巻」がある(注11)
 説苑・君道篇、呂氏春秋・審応覧・重言篇、史記・晋世家本紀には、周の成王と唐叔虞との逸話が載る。成王は年の離れた幼い弟、唐叔虞に対し、大きな桐の葉っぱを細工して冠の形に作り、爵位を与えて諸侯にしてあげようと言った。子どもだから喜んで、叔父さんの人格者、周公旦、のちに孔子が理想の聖人と考えた人のところへ報告に行った。周公旦は成王に会見して、「天子に戯言無し。(天子無戯言。)」と説いた。そこで、言葉通りに幼い弟を封じたという。上に立つ者は発言を慎重にしなければ、治まるものも治まらない。麻続王も子どもたちをきちんと躾けておいてもらわないと困るのである。三位(注12)麻続王は、天武天皇(大海人皇子)の冠帽を整える役職にあったのかもしれない。「麻績王」という名があったのは、名に負う役職に就いていたからという可能性は十分にある。冕冠の本体は絹製かもしれないが、ガラス玉を垂らす紐は麻の緒でできていたのではないか。そして、仕事場へ子どもを連れてきて、遊び場と化していたようである。
 下二句は、「たま」と「ぎょくそう」、「借り」と「刈り」の準え、駄洒落から成っている。カルはいずれもアクセントを等しくする。万23番歌の用字は借訓である。五句目はともにヲスと訓む。統治する意味と食べる意味の敬語とを掛けている。万24番歌のヲスは、自嘲的に使われた自称敬語なのであろう。編者は万23番歌の原文に、「白水郎」、「藻」などと紛らわしい表記を施して、当局に感づかれないようにしている。政権に対するシニカルな諷刺戯歌(万23)が先にあり、それに呼応する形で諦観の歌(万24)を唱和した掛け合わせになっている。麻続王は、「(大)海人あま(皇子)なれや、己が物から泣く」羽目に陥ったらしい。

「うすせみの」と服制

 万24番歌の冒頭、「うつせみの」は、一般に「世」や「人」を導く枕詞である。この言葉の由来はウツシオミにあると指摘されている。

 ここに答へて曰はく、「あれはえつ。かれ、吾、先づ名告なのりをむ。吾は、しき事なりといへど一言ひとことき事なりと雖も一言、言ひはなつ神、葛城かづらき一言主ひとことぬし大神おほかみぞ」といふ。天皇すめらみこと、是におそかしこみてまをさく、「かしこし、が大神。うつしおみに有ればさとらず」と白して、おほたちと弓矢とを始め、百官もものつかさひとたる衣服ころもかしめて、をろがたてまつる。(雄略記)

 「うつしおみ(宇都志意美)」(ミは甲類)は、「現し臣」がもともとの言葉とされている。雄略天皇は山中で謎の人物に出会い、横柄な態度をとっていた。すると相手が一言主神ひとことぬしのかみであるとわかった。そこで、自分は現世において神に仕える臣下だからわからなかったと謝っている。つまり、「うつせみ(うつそみ)」という言葉は、現在という時制を表すだけでなく、この世の人、なかでも天皇を指した言葉であった。
 続紀に、「天皇命すめらみこと」(文武元年八月・慶雲四年四月ほか)という表記がある。詔を記した宣命体の話し言葉の場面で用いられている。古代の言文一致運動の成果である。「皇」=スメ(ラ)、「命」=ミコト(御言)が本来である。ミコトに命の字を当てることは、古事記に「倭建命やまとたけるのみこと」とすでに使用されている。高貴な方のお言葉、「こと」とは命令である。よって、「うつせみの」は命という字で表される言葉を導き、寿命の意味でイノチとも言うから、枕詞的な序詞に流用されたのであろう。
 中国の真似をして天皇が玉藻のついた冕冠を被った記録としては、奈良時代の天平四年(732)正月、聖武天皇の朝賀の儀からとされている。続日本紀に、「四年春正月乙巳の朔、大極殿だいごくでんおはしましてでうを受けたまふ。天皇始めて冕服べんふくす。」とある。朝賀の儀の記述は、大宝元年(701)正月条に、「天皇、大極殿に御しまして朝を受けたまふ。」とあるのが最初である。だが、その半世紀前の天武天皇(大海人皇子)代、さらにその前にも、賀正の礼の記事はある。

 丁未[二日]に、皇子みこより以下しもつかた百寮つかさつかさ諸人ひとびと拝朝みかどをがむ。(天武紀四年正月)
 五年の春正月むつきの庚子の朔に、群臣まへつきみたち百寮つかさつかさ拝朝みかどをがみす。(天武紀五年正月)
 二年の春正月の甲子の朔に、賀正礼みかどをがみのことをはりて、すなは改新之詔あらたしきにあらたむるみことのりのたまひてのたまはく、……。(孝徳紀大化二年正月)
 ただ元日むつきのつきたちのひには髻花うずす。(推古紀十一年十二月、冠位十二階の制の付帯事項)

 また、大仏開眼会のような仏教行事の関連で言えば、まさに天武四年四月にも行われている。

 夏四月うづきの甲戌の朔にして戊寅に、ほふしあま二千四百余ふたちあまりよほたりあまりせて、大きに設斎をがみす。(天武紀四年四月)

 天武天皇(大海人皇子)は、髪形や服装を中国風に改めたほど中国にかぶれている。

 乙酉に、詔して曰はく、「今より以後のち男女をのこめのこことごとくに髪げよ。十二月しはすの三十日みそかのひより以前さきに、へよ。唯し髪結げむ日は、亦勅旨おほみことのりなぞらへ」とのたまふ。婦女たをやめの馬に乗ること男夫をのこの如きは、其れ是の日におこれり。(天武紀十一年四月)

 髪形を中国のように髷に結わせようとしている。服装のほうもやかましい(注13)

 辛酉に、詔して曰はく、「親王みこたちより以下しもつかた百寮つかさつかさ諸人ひとたち、今より已後のちくらゐかがふり及びまへもひらおび脛裳はばきも、着ることまな。亦、膳夫かしはで采女うねめどもすき肩巾ひれ〈肩巾、此には比例ひれと云ふ。〉ならびることまな」とのたまふ。(天武紀十一年三月)

 襅は前裳、褶は枚帯、脛裳は脚絆、手繦は襷、肩巾は肩にかける薄い布切れである。

 又みことのりして曰はく、「男女をのこめのこ、並に衣服ころもは、すそつき有り襴無き、及びむすびひも長紐ながひも任意こころのままよ。其れ会集まううごなはむ日に襴衣すそつきのころもを着て長紐つけよ。唯し男子のみは、圭冠はしはかがふり有ればかがふりして、くくりをのはかまを着よ。女の年四十よそぢより以上かみつかたは、髪のかぬ、及び馬に乗ること縦横たたさまよこさま、並に任意こころのままなり。ことかむなぎはふりたぐひは、髪かぎりに在らず」とのたまふ。(天武紀十三年閏四月)

 前半は中国風の服装について、子細は自由にして構わないとの記事である。後半は、二年前の髪形、馬の乗り方についての規定を緩めるお達しである。巫覡のような神職に垂れ髪を許すのは、憑依による神憑り儀礼のときに、髷を結っていては様にならないためであろう。さらに三年後に、中国の服装、髪型の導入が失敗に終わったことを物語る記事がある。

 秋七月ふみづきの己亥の朔にして庚子に、みことのりしてのたまはく、「また男夫をのこ脛裳はばきもを着、婦女めのこ垂髪于背すべしもとどりすること、なほもとの如くせよ」とのたまふ。(天武紀朱鳥元年七月)

 以上の服制についてのごたごたを勘案すれば、玉藻のついた冕冠も、最初は飛鳥時代のほんの一時期、天武朝期に皇位を重々しく見せるための装飾品として利用された可能性が十分にあると考えられる。賀正の礼や設斎に被ったのだろう。
 歌の本来の意味について、左注を付けた人は微妙な言い回しをしていて、理解しているようには見えない。言葉を表面的に検索するばかりでは、無文字時代特有のなぞなぞの知恵が施された歌意にたどり着くことはできない。

伊勢国の伊良虞島という設定

 最後に、この「玉藻の歌」が、なぜ配流地と関係のない「伊良虞嶋」に設定されているか、また、それを編者は、なぜ「伊勢国」と断り記したかについて検証する。「伊良虞嶋」が唐突に登場しているのには、天武紀の麻続王事件の記事に近いところにヒントがある。

 壬午に、詔して曰はく、「諸国もろもろのくにいらしのおほちから、今より以後のちあきらか百姓おほみたからて、富貧とめりまづしきことを知りて、しなえらび定めよ。りて中戸なかのへより以下しもつかた貸与いらしたまふべし」とのたまふ。(天武紀四年四月)

 種籾を貸与しておいて、収穫に当たっては利子として税を徴収するという政策である。その割り当てについて、種籾を十分に持たない者を優先して貸し付けるようにと通達している。中小企業ローンの促進策のようなものである。「貸」とは、上代語でイラスである。すなわち、イラゴとは利子のことである。それが税にプラスされて上納される。中小零細農家に貸し付ければ、種籾を持てないぐらい切迫しているから、秋に収穫した新米で返済することになる。大規模富裕農家だと、前年以前に収穫した古米を取り置いて充てるかもしれないから返された米は美味しくない。そうならないように、中小零細を使っている。この新米の上納とは、伝統的にいえば、いわゆる速贄のことである。速贄の言い伝えは、古事記のサルタビコとサルメキミの話の終わりに添えられている。

 是に、さる田毘たび古神このかみを送りかへり到りて、乃ちことごとはた広物ひろもの・鰭のものを追ひあつめて、問ひて言はく、「なむちあまかみ御子みこつかまつらむや」といふ時に、もろもろうを、皆「仕へ奉らむ」とまをす中、海鼠、白さず。爾くして、天宇受売命あめのうずめのみこと、海鼠に謂ひて云はく、「此の口や、答へぬ口」といひて、ひも小刀かたなを以て其の口をきき。かれ、今に海鼠の口は拆けたるぞ。是を以て、御世みよみよに島の速贄はやにへたてまつる時に、猿女君さるめきみに給ふぞ。(記上)

 「海鼠」が「嶋之速贄」になっている。「嶋之速贄」が、イラ(貸付利子)であると思えば、イラゴは島である。また、「伊良虞嶋」は志摩国であるけれど、もともと伊勢国に含まれており分国したものである(注14)。貸付金の元本が伊勢国、その利子が志摩国に相当するというアナロジーである。題詞はそれを物語る。元本よりも利子の部分を先に返して「速贄」とするという考え方は、取り立てる側に立った業者ばかりか、一度でもローンを組んだことのある人なら納得のいく話であろう。利息が複利で膨らんでいく。借りた金額が2倍になるのは、年利5%で14.21年、10%で7.27年、15%で4.96年である。養老律令・雑令の規定では、「出挙すいこ」は5割、「出挙すいこ」は10割の利息を徴収できることになっている。当時の利息制限法である。また、複利計算はしない定めになっている(注15)。天武四年四月の施策は、「中戸より以下」の余裕のない者をローン地獄に陥れようという質の悪いものである。そこまで計算した上で、万葉集の「麻続王の歌」は、題詞とともに録されたと考える。
 麻続王は、自分の子どもに、天子だけが被ることの許される「ぎょくそう」=タマモを遊びで貸してあげた。おそらく麻続王は、子どもにねだられて、余った玉の飾りを使って子ども用の小さな冕冠を製作し、被せてあげたのであろう。いらは利子のことで、利子は古語でカガという。カガフル(被)ものが「かがふり(爵)」である所以である。
 実際に被ったのは「海鼠」ならぬ子どもである。罪の重さは被った者がより大である。形式が問題だからである。けれども、きちんと返している。子ども用に作った小さな冕冠とは、冕冠の利子分である。所詮は遊び、元本も利子分もきちんと返したのだから良いだろうと主張したのは、久努摩呂らであったろう。高金利で貸し付けて「嶋之速贄」を貪ろうとする政策のほうがよほど宜しくないのではないか。そういった政権批判の思いが諷刺としてはじめから万23番歌にあり、万葉集の編者も、採録するに当たってその意を込めたと考えられる。筆者は、万葉集の当初の編纂過程に地下出版の傾向を見て取る。
 借金の返済金が、租税に上乗せされる+α の+α 分となり、それは確実に手にできる「速贄」(=新米)であろうと考える神経(無神経)とは、天皇が神の側へ回っていることを表す古代天皇制の確かな証拠である(注16)。役人の狡猾さは、実は平凡な人が仕事熱心になることで生まれる。良心が欠落していて自らの論理の矛盾に気づくことがない。そして天皇は、もはや神なのだから人の心は持ち合わせる必要さえない。天武天皇(大海人皇子)には人の心が若干残っていたから、当摩麻呂と久努摩呂の2人の諫言が耳に痛くて、会いたくないと「勅」していた。それが可能なのは、天皇の恣意が罷り通るほど絶対化されていたからである。
 初期万葉の歌とは、政権の座に就いたものを中心と考え、その磁場が強い核心部分ほど身勝手なプロパガンダを表明している。万葉集に載る「玉藻の歌」は、言論の自由などとうてい保障されない時代、子どものいたずらも冗談も通じない気難しい世相のなかで、何とか事の真相を後世に伝えようとした苦心の記録である。飛鳥時代、政治的に相容れない行動をとった皇族には、政治的な敗北と同等の過酷な環境が待ち構えていた。それは、そのまま文芸的敗北ともいえ、敗者が言葉にした、ないし、したかったことは、お決まりの辞世の歌か、挽歌か、よほどの難訓のワザが施された歌にしか残されていない。万葉集の最初の編者は、標目、題詞、歌だけをシンプルに記すことで、時代の空気を伝えることに成功している。無文字文化と文字文化との間のクレバスに、巧みに橋を架け渡したのであった。

(注)
(注1)ヤマトコトバのコタフは、コト(言・事)+アフ(合)の約とされている。古典基礎語辞典に、「『日本書紀』の中では、「答」「対」「応」「報」「和」の五つの漢字をコタヘ、コタフと訓んでいる。「答」「対」は日常生活から公事に至るさまざまの事柄・出来事・心情などの問いかけに応じてする説明・回答を意味する。特に「対」は問者と向きあった形で問いただされたことに答えることもいう。「報」は戦況報告や騒乱の状況を告げる場合もみられる。「応」は反響する、反応する、手ごたえを感じる意で、山彦の声にも使っている。「和」の字のコタフは、唱和することの意。……「和」の字のコタフとは、事が合いすべて丸くおさまるということを意味する。」(495頁。この項、西郷喜久子)と記されている。この日本書紀の使い分けは、万葉集の題詞や左注の使い方に通じるものがあると思われる。ヤマトコトバのコタフの多義性に、漢字のニュアンスを合わせる形で用いている。「和歌」とある場合、先に歌われたものが主、後から唱和されたものが従の印象が生じていることに適っている。それは、歌が「和」されて歌われ、唱和されて歌どうしが和合している意と解される。(注5)参照。
(注2)小島1964.に、「会稽郡(浙江省)白水郷(地方)の漁民達が有名であり、やがてその漁業を生業とする者の代名として「白水郎」の名をもつてするやうになつたと思はれる。上代人がこの文字を使用し始めたのは、渡唐南路に当つて活躍した「白水郎」を実地に見聞した結果かと思はれる。従つてこのアマの文字表現「白水郎」は、必ずしも文献にのみよつたものとは断定できない。つまりこれは耳より聞く口頭語を背景としたとみる方が可能性が大である。萬葉文字表現の背後には、一語一語にその由来する複雑な経路をもつもののあることは、これによつてその一端が知られる。……「白水郎」の如き例は、恐らく中国文献を経ない例の一つかとも思はれ、萬葉集文字表記の複雑性を示すものと云へるであらう。」(855頁、漢字の旧字体は改めた)とある。文献を経ないで「白水郎」という字を書いている点について、筆者には完全に腑に落ちる説明とは言えないが、現在までのところ、これに代わる有力な説を見出せていない。そしてその物言いはとても慎重である。
(注3)流刑地については、他に常陸風土記にも別の伝承が残る。
(注4)山崎1986.に、「麻續王に関する二首の唱和の歌は、口から口へと歌い継がれることによって練り上げられたに違いない、そういう表現のまるみと磨き上げがなされているように思うのである。それはしかし、もともと一人の即興詩人によって詠じられたものであったはずであるが、それが民衆の前で演じ歌われているうちに、個としての感情の表現から、いわば抽象的人間の情感へと昇華されて行ったのであろう。しかもそこでは、一般に動作的イメージを喚起する表現を伴ったようである。そのことこそ初期万葉の中に見られる古代歌謡的性格と解されるのである。」(16頁)とある。筆者は、万23番歌について、即興詩人などといった洒落た存在ではなく、洒落は洒落でもきつい洒落を言う「時の人」の、世相諷刺の題材にされた要素が強いと考えるが、口承の歌である点については意見を共にする。
(注5)万葉集の表記法のなかに、戯書や義訓と呼ばれる機智を働かせた文字遣いがある。どこまでが真っ当な書き方で、どこからが戯れの書き方かの線引きは、後代の人の思考回路にしたがって恣意的に成されている。いくつか例をあげる。脳味噌の使いっぷりを検証して頂きたい。➀「左右まで」(万34・180・230)、➁「去来いざ」(万10・44・63)、➂「三五もちづき」(万196)、➃「金風あきかぜ」(万1700・2013・2301)とある。
 ➀「左右」をマデと訓むことは、平安時代の源順(911~983)にとって難しいことであった。石山寺縁起にその逸話が載っている。馬引きが両手を使って「待て」と言っているのを耳にしたとき悟ったという場面が描かれている。一方の手がかた、左右両方の手が両手まてである。揃っているのがマ(真)、二つセットのうち一つしかないのがカタ(片)である。音声言語を聞かないと理解に至らない。
 ➁の「去来」については、陶淵明の帰去来辞の、「帰りなん去来いざ、田園将に荒れなんとす。」という句を知っているから慣れっこになっている。文選の知識に裏打ちされたものであるということはできるが、かといって、漢籍の知識にべったりかというとそうでもない。「去来」を訳すと、ヤマトコトバのサア、ドレ、イザといった言葉に当たるだろうというところに由来している。ここで、サア、ドレとは訓まずにイザとしか訓まない理由は、上代語としてそれしかなかったからであるが、より深く考えるなら、対立、対抗、反抗を表すイサカヒ(諍)、イザコザ(諍)などの語幹イザが、一方の言い分と他方の言い分が行ったり来たりする点に準え得るからであろう。「去来」という字面に去ったり来たりすると書いてある。漢籍の知識があれば確実に訓めるというものではなく、ヤマトコトバに慣れ親しんでいなければわからないものである。漢語、朝鮮語を話す人たちにとって、万葉歌は遠くかけ離れた存在である。
 ➂の「三五月」は、掛け算の九九である。十五夜の日は望月だからモチヅキである。しかし、掛け算の九九は、いま、漢字の音読みで成立している。訓読みで、ミィ×イツがトアマリイツ(十あまり五)とはしなかった。中国文明直輸入であった。ヤマトコトバのモチヅキへの変換は、単純な逐語的な訳、二進法的な訳である。知識偏重で知恵に乏しい。
 ➃の「金風」は今日の人には訓めないだろう。五行思想で「金」は方位では「秋」に当たるからアキカゼと訓む。完全に漢籍に負っており、知識がなければ訓むことはできない。逆に、知識があれば簡単に訓むことができる。そこにいう知識とは、易経にたくさん見られる単なる記号変換である。知恵は介在しない。屋上屋の知である。深意というものがない。
 ➃の用法は、文字を知っている人が漢籍に慣れ親しむことで賢しらに記したものである。「白風」(万2016)もアキカゼと訓む。五行思想の決め事によるクイズである。歌の内容に陰陽五行の思想は含まれていない。③は、小学校低学年の児童に算数を教えるのにも役立つ。②は、高校で漢文を習う時に悟ることができる。①は、いつ悟れるか。馬引きを見たときであろう。学校とは関係しない。そして、マデと訓むのだと知っているからと言って、あまり自慢にならない。なぞなぞの世界である。
 万葉集の筆記という作業は、ほぼ音声言語としてのみあったヤマトコトバにとって衝撃であった。かくて、無文字文化の文化が文字文化に出会うことによって不思議な現象、文字化のなぞなぞが生じている。文字文化以前の無文字文化の特徴が、なぞなぞにあることを示唆してくれている。なぜ示唆しかしてくれないかといえば、なぞなぞは記号変換ではないからである。駄洒落や地口は説明されるものではない。解説をつけると同時に興がさめてしまう。a comic stage dialogue(大喜利)がしらけてしまう。それまでは音声でしかなかったから、「人」や「麻続王」が歌を歌った時、音声言語として歌が歌われている。無文字時代の文化に基づいて、裏打ちされて、歌が歌われている。その無文字文化の常識として、記紀にさまざまな説話が残されている。偉大なる我らがヤマトコトバの無文字文化の結晶である。日本の古代がどのようなものであったのかを知るためには、中国文明との交渉ばかりに囚われず、なぞなぞ文化を解き明かしていくことが早道である。
(注6)万葉集に、「応歌」に類した「応詔歌」などや、「答歌」に類した「答御歌」などがある。それぞれの特徴について検討すべき課題は多い。促されて応じたり、問われて答えたりしたことを意味する用字ではないかと推測する。仮にそうであるとすると、それらはコタフルことが予定されていた歌ということになる。一方、俎上の「和歌」は、影山2011.の指摘どおり、自然発生的に唱和して和合したという意味合いを帯びていると考えられる。
(注7)拙稿「留京歌(万40~44)について」参照。
(注8)「打麻乎」をウチソヲと訓むべきか、ウツソヲと訓むべきか、どちらでも「歌の解釈に直接影響を与えるほどではない。」(村田2004.282頁)とする説がある。ヤマトコトバが文字を持たなかった時代に、言葉は音声言語としてのみ存在した。現代人の頭で解釈することにおいて差がなかろうとも、飛鳥時代の言葉としては、必ず一つの音で歌われた。二つの理由による。第一に、「」という名詞、すなわち、体言に、動詞が掛かっているので基本的に連体形であろうと思われる。小田2015.334頁、「終止形・連用形による連体修飾」の項に、「終止形が直接名詞に続くことがある」例として、「射ゆししを」(紀歌謡117)、「ゆ竹の」(万420)、「流る水沫みなわ」(万1382・4106)、「流るさきの」(万4156)、「田に立ち疲る君」(万1285)、「新室を踏み鎮む児し」(万2352)、「連用形が直接名詞に続くことがある」例として、「恋忘れ貝」(万3711)、「植ゑ小水葱こなぎ」(万3415)の例を載せている。「打麻乎」をウチソヲと訓むとする考えは、連用形が直接名詞に続くことの一例と扱われなければならない。しかし、小田氏のあげる例に限ればどちらも東歌である。文法的に破格と推される。連用形が直接名詞に続く他の例があるか、指摘を仰ぎたい。
 第二の理由として、万23・24番歌は、題詞にあるとおり、「和歌」として綴られている。影山2011.の「即和歌」の検討に、「鸚鵡返し」的な性格があるとの指摘があった。この万23・24番歌についても、鸚鵡返し的に同じ言葉、同じ音をもって返しているところに、「歌」としての特徴が見出されるものと考えられる。万24番歌の歌い出しが、ウツセミノとあるのは、万23番歌がウツソヲとあったから、そのウツの音を捉え返して「和歌」を歌ったものととるのが妥当であろう。今日の人にとって何となく心地よいという理由でウチソヲと訓んでいるにすぎず、そう訓まれるべき根拠は見当たらない。以上から、「打麻乎」はウツソヲと訓む。元暦校本萬葉集古河家旧蔵本の左側墨書傍訓、西本願寺本右側不思議な色傍訓にウツアサヲともある。他にウテルヲヲとする伝本もある。「麻続王」をミノオホキミと訓むなら、ウツヲヲかもしれない。いずれにせよ、「打」の訓は、ウツでなければならない。
(注9)「天武天皇」は漢風諡号である。生前の名前は、オホアマさんであった。
(注10)後漢書・輿服志に、「冕服広七寸、長尺二寸、前円後方、朱緑裏、衣上、前垂四寸、後垂三寸、係白玉珠、為十二施、以其綬采色組纓」、「爵弁一名冕、広八寸、長尺二寸、如爵形前小後大、繪其上爵頭色」などとある。なお、山東省沂南県の画像石、尭舜禅譲図に刻されていても、尭舜のころに冕冠があったわけではない。秦始皇帝が冕冠を被っている像が見られるが、時代考証的にどうなのか不明である。筆者がここに展開している天武朝冕冠起源説も時代考証にまつわる問題であるため記しておく。


左から、伝閻立本・歴代帝王図巻(唐時代、7世紀、絹本着色、ボストン美術館蔵、武皇帝劉秀(後漢光武帝)、ウィキペディアhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファイル:Han_Guangwu_Di.jpg)、「玉藻」のついた冕冠図(3:沂南漢代画像石墓の冕冠、4:司馬金龍墓出土の漆画屏風に描かれた楚王の冕冠、5:集安高句麗壁画の仙人が戴く冕冠、沈・王1995.216頁、王亜容挿図)、孝明天皇の冕冠(ウィキメディアhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Benkan_emperor_komei.jpg)、御冠残欠(正倉院北倉157、真珠・瑠璃玉垂飾、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020681&index=2をトリミング)

(注11)沈・王1995.に、「[歴代帝王図巻の]画中で表現された服装は、隋・唐時代の画家が、ただ漢代の輿服志の三礼六冕の旧説および晋・南北朝時代の絵画や彫刻中の冕服を踏襲して描いた皇帝の冕服と侍臣の朝服の形式であり、漢や魏の本来の服装とは符合していない。しかし、この種の冕服形式および服飾の文様は後世に影響を及ぼし、封建社会の晩期においてもなお役立ち、宋(および遼・金)元・明の約1000年にわたって踏襲されたのであった。」(215頁)とある。
 似た形状に、孝明天皇の礼冠があるが、旒は周囲にめぐらせてある。旒に用いたのではないかとされるものが、正倉院に残っている。
 米田1998.によれば、この礼服御冠残欠は、聖武天皇・光明皇后が、天平勝宝四年(752)四月九日、東大寺大仏開眼会において身に着けたものという。続日本紀、同日条に、「盧舎那大仏のみかた成りて、始めて開眼す。是の日、東大寺に行幸みゆきしたまふ。天皇、みづから文武の百官を率ゐて、設斎大会したまふ。其の儀、もはぐゑんにちに同じ。」とあって、儀場の雰囲気(装束や施設、音楽や舞)が同様であったとされている。「元日朝賀の儀とは、元日に天皇が大極殿において群臣から賀を受ける儀式である。当日大極殿前庭に礼服を着た群臣らの居並ぶ中、天皇は冕服べんぷくを着して大極殿中央に設けられたたかくらに上り、群臣の再拝を受け、ついで前年に起こった祥瑞しょうずいの奏上を、さらに群臣の代表者が賀詞を奏上するのを聞かれ、新年のせんみょうを宣下する。ここで群臣らは称唯しょうい再拝し、舞踏再拝する。この時、武官は立って旗を振り、万歳を唱える。かくして儀式は終了し、天皇は退出される。」(30頁)とある。
(注12)左注、天武紀四年条とも、「三位麻續王」と記されている。「續」字は「績」字の通用である。中国でもわずかにそのような例がある。「續」字は、今日、「続」字をもって常用としている。むことは、麻の繊維をとり出して撚ったり結んだりして継いでいくことだから、糸として続(續)くことになる。意味的な連関がある。また、「売(賣)」は常訓として、ウルと訓む。ウムとウルで語幹を共にする。と同時に、麻続王一家は連座させられている。芋蔓式に罪に問われた。績んだ麻は芋蔓のようである。また、ヲミノオホキミは三位であるはずが、降下させられて四位になるほどの罪を犯したという意味にもとれる。どういう罪かといえば、冠にまつわり天皇の位を冒するものであった。よって、「續」なる「四」の字が混入した字、「賣」の字が入っている字が好まれているようである。紀や初期万葉における異体字には、筆記者の熟慮の跡が見て取れると感じられることがある。異体字研究に、一字=一音=一義の中国に倣い、一字=一訓=一義のヤマトカンジを創作したふしがあると付言しておく。
(注13)「婦女の馬に乗ること男夫の如きは、其れ是の日に起れり。」との記事は、注目に値する。女性が乗馬する風がこの日からというのではなく、男性のような乗り方、すなわち、跨って乗るのがこの日からとするものかもしれないからである。それまでは横座りであったかとも考えられるのである。古墳から出土する埴輪の横座り用の鞍は、実際にあったのかもしれない。
(注14)志摩国が伊勢国から分立したのは、「……及び伊賀いが伊勢いせ志摩しまのくに国造くにのみやつこども冠位かうぶりを賜ひ……」(持統紀六年三月)とあるところから七世紀後半頃かとされている。記紀の説話上で問題なのは、「嶋の速贄」なる語句と、「モズの早贄」という常套句との関係である。また、「百舌鳥もずの耳原みみはら」(仁徳紀六十七年十月)という言葉も検討に値しよう。
(注15)公出挙の場合、aを貸し付けられると、一年後に完済するための返済額は計算上3/2×a(=1.5a)である。これは借金の返済だけであり、公租公課は別であったと思われる。養老令・雑令に、「凡そ稲粟たうぞくを以て出挙すいこせらば、ほしきままわたくしけいに依れ。官、理することず。仍りて一年を以てさだむること為よ。一倍にすぐすこと得じ。其れ官ははんせよ。並にほんに因りて、更にさしめ、及び利を廻らして本と為ること得ず。若し家資けし尽きなば、亦上の条に准へよ。」、同・賦役令に、「凡そ調物でふもち及び地租ぢそ雑税ざふぜいは、皆明らかに、いだすべき物の数を写して、を坊里に立てて、衆庶しゆしよをして同じく知らしめよ。」の「雑税」の個所、義解に、「謂、出挙稲及義倉等、是也」とあり、地租とは別に出挙稲という借金の返済があった。ただし、地租負担は3%程度と軽かったそうである。結局、公出挙をa受けて、班田の収量をbとすると、1.5a+0.03bを税として納めることとされていた。一粒万倍には今日でもならず、300倍程度であろうか。仮に飛鳥時代の標準的な収量が1粒50倍であったとして、まるごと種籾を公出挙で借り受けていると、10000粒獲れても200粒借りているから300粒(公出挙分)+300粒(地租分)で計600粒納める計算になる。手取りは9400粒である。政府の側からすると、豊作不作の別なく基本料のように毎年入ってくるのが公出挙の返済分ということになる。200粒借りて、不作の年で5000粒しか獲れなくても、公出挙分は変わらず300粒、地租分は150粒、計450粒納めることになる。手取りは4550粒である。出挙の重税感は否めないであろう。豊作の年には翌年の種籾を確保して出挙で借りないようにしておかないと、不作で堪らない年が来ることになる。
 以上は取らぬ狸の皮算用にすぎない。とはいえ、近世に稲を作付せずに畑にしてしまったり、現代に減反補助金を当てにしながらの三ちゃん農家が増えてしまったり、後継者不足で自家作以外は放棄されてしまうなど農政が難しいのは、取らぬ狸の皮算用がある程度利いてしまうせいであろう。
(注16)藤田2012.参照。なお、「ぎょくそう」のついた冕冠を天武天皇が被ったとして、それをタマモと呼んだとは限らないではないか、という設題に対しては、非常に高い精度をもってタマモという訓をあてたであろうと考えている。政治史において、純粋な意味での天皇制は歴史上二回しかなかったとされる。近代天皇制と古代天皇制である。いずれも科学技術や文化芸術を先進的な外国に負いながらも、精神的支柱を自らの内に求めようとするため、近代においては敵性語である英語を使わずに不思議な言い換えが行われた。古代においても然りであろう。事は精神論である。ともに先進的な外国文化に憧れて実用としながら、外国語は使わないという矛盾した行いをしている。言葉を拠りどころとすることこそ、民族という幻想を抱かせるのに最も適した方法といえる。藤田2012.のいう天皇制の真髄は、言語学的にも確かで、ヤマトコトバが天皇制成立の基礎であった。ただし、麻続王の「玉藻」のような語は、ほぼヤマトコトバで成り立つ万葉集において例外的な言葉といえる。歪んだ国粋主義を諷刺した歌が万23番歌である。タマモという言葉を使うこと自体が、語用論的にシニカルである。他のいわゆる訓読語(ケダシ(蓋)、イマダ(未)、ホリス(欲)といった語)は、古墳時代後期から飛鳥時代前期に作られたと思われる新語ではあるが外来語ではない。economy を「経済」、battery を「電池」と言って日本語化したことの古代版かとも見紛うが、近代には主に名詞が造語されている。両者の共通点、相違点について検討すべき課題は多く、とても興味深いものがあるが、本稿の主旨からは離れるので問題提起に止めておく。

(引用・参考文献)
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釋注一』集英社、1995年。
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
澤瀉1957. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
影山2011. 影山尚之「額田王三輪山歌と井戸王即和歌」稲岡耕二監修、神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十二集』塙書房、平成23年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 中』塙書房、昭和39年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
沈・王1995. 沈従文・王㐨編著、古田真一・栗城延江訳『増補版 中国古代の服飾研究』京都書院、1995年。
内藤2012. 内藤聡子「三河湾の『玉藻』の歌」印南敏秀編『里海の自然と生活Ⅱ─三河湾の海里山─』みずのわ出版、2012年。
藤田2012. 藤田省三『天皇制国家の支配原理』みすず書房、2012年。
増田1995. 増田美子『古代服飾の研究─縄文から奈良時代─』源流社、1995年。
村田2004. 村田右富実『柿本人麻呂と和歌史』和泉書院、2004年。
山崎1986. 山崎良幸『和歌の表現─表現学大系各論篇第一巻─』教育出版センター、1986年。
米田1998. 米田雄介『正倉院宝物の歴史と保存』吉川弘文館、平成10年。

加藤良平 2024.6.30改稿初出

枕詞「あぢさはふ」について

 枕詞「あぢさはふ」は「目」や「夜(昼)」にかかる枕詞である。万葉集では五首に見られる。原文の用字はすべて「味澤相」である。諸例をあげる。

 …… 敷栲しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月もちづきの いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出でまして 遊びたまひし 御食向みけむかふ きのの宮を 常宮とこみやと 定めたまひて あぢさはふ○○○○○ ことも絶えぬ しかれかも〈一に云ふ、そこをしも〉 あやに悲しみ ぬえどりの 片恋づま〈一に云ふ、しつつ〉 朝鳥あさとりの〈一に云ふ、朝霧あさぎりの〉 通はす君が ……〔……敷妙之袖携鏡成雖見不猒三五月之益目頬染所念之君与時々幸而遊賜之御食向木〓〔瓦偏に缶〕之宮乎常宮跡定賜味澤相目辞毛絶奴然有鴨〈一云所己乎之毛〉綾尓憐宿兄鳥之片戀嬬〈一云為乍〉朝鳥〈一云朝霧〉徃来為君之……〕(万196)
 あぢさはふ○○○○○ いもが目かれて 敷栲しきたへの 枕もまかず 桜皮かには巻き 作れる船に かぢ貫き が漕ぎ来れば 淡路の しまも過ぎ ……〔味澤相妹目不數見而敷細乃枕毛不巻櫻皮纒作流舟二真梶貫吾榜来者淡路乃野嶋毛過……〕(万942)
 あさを 早くな開けそ あぢさはふ○○○○○ 目がる君が 今夜来ませる〔旦戸乎速莫開味澤相目之乏流君今夜来座有〕(万2555)
 あぢさはふ○○○○○ 目は飽かざらね たづさはり ことはなくも 苦しくありけり〔味澤相目者非不飽携不問事毛苦勞有来〕(万2934)
 …… 黄泉よみさかひに つたの おのが向き向き 天雲あまくもの 別れし行けば やみなす 思ひまとはひ 射ゆ猪鹿ししの 心を痛み 葦垣あしかきの 思ひ乱れて 春鳥はるとりの のみ泣きつつ あぢさはふ○○○○○ 夜昼知らず かぎろひの 心燃えつつ 嘆き別れぬ〔……黄泉乃界丹蔓都多乃各々向々天雲乃別石徃者闇夜成思迷匍匐所射十六乃意矣痛葦垣之思乱而春鳥能啼耳鳴乍味澤相宵晝不知蜻蜒火之心所燎管悲悽別焉〕(万1804)

 「あぢさはふ」は、多く「目」に掛かっている。万942番歌の場合も「妹が目」の「目」に掛かっている。例外は万1804番歌の「夜(昼)」に掛かる例である。
 鳥のアヂ、アヂガモは、今日、トモエガモと呼ばれる小型のカモの仲間のことをいい、アヂ(味鳧)+サハ(多)+フ(経)の意で、味鳧が夜昼となく群れ飛ぶところから、ムレの約音メにも冠するとする説(冠辞考)、アヂ(味鳧)+サハ(サフの未然形)+フ(継続の助動詞)の意で、味鳧を捕る網を昼夜張っておくところから網の目および「夜昼」にかかるとする説(井手至)が主な説である。
 井手氏が狩猟方法を視野に入れて検討している点は注目すべきである。なお、網の目から「目」に掛かるというのは一面で、味鳧が網の目がよく見えずに網にかかってしまうこと、つまり、味鳧の目と網の目が合うことの謂いとして「目」を導いているようである。すなわち、アジ(味鳧)+サヘ(障、遮)+アフ(合)の約として「あぢさはふ」という語が造られているとも考えられる。このとき、サヘには助詞のサヘも含意していると考えられる。味鳧でさえ遮られて合うことになるのは、メ(目)だというのである。味鳧は群れを成して騒がしく鳴き、動き回る。群れがざわざわと動くところに統率のとれた集団行動的な秩序は見られず、それぞれが勝手に動いているように見える。雁のように∧型に雁行するのであれば互いにぶつからない理由もわかるが、スクランブル交差点で一斉に歩き始めても接触せずに横断しきるように、味鳧はランダムに動いているようでいてしかもぶつかる気配がない。目がいいからだと思われるそんな味鳧が、皮肉なことにぶつかるものが仕掛けられた網である。この網の様態がどのようなものか、注意が必要である(注1)
 万2555番歌については、四句目の「目之乏流君」の訓が定まっていない。佐佐木1999.によれば、少なくとも「目欲る君が」ではなく「目欲る君が」であるべきで、さらに、「目のかるる君」と訓み、五句目は「今夜来ませり」と訓むのが良いとしている(477~486頁)。カルは「離(放)る」、つまり、離れる、の意である。筆者は、類似の考えをしつつも次のように訓むことが正しいと考える。

 あさを 早くな開けそ あぢさはふ 目のあるる君 今夜来ませる(万2555)

 アルは「離(散)る」、はなれるの意で、「あら」の動詞形を表していると考える。味鳧を捕獲するために張ってある網の網目はこまかいものではなく、網の目としてはゆるく大きく粗略に感じられるものである。飛んできた味鳧はそこに身体の一部が引っ掛かって身動きが取れなくなる。蚊が入らないようにした網戸ほど目が詰んでいたら、味鳧はぶつかりはするが羽が引っ掛かることはなく、びっくりするだけで反対側に逃げて行ってしまう。一方、大きな網目の鳥網の場合、味鳧の頸が通ったり広げた翼が引っ掛かってもがくことになる。そんな隙間だらけの網のほうが鳥を捕まえるのに適している。つまり、そのことを恋愛に喩えて、殿方を捕まえるのにも入りやすく出にくい方法をとることが肝要である。よそ見をする浮気性な男性でも一晩を共にし、明るくなる前には帰れないようにしてしまえば、噂が立って他の女のところへは行きづらくなるだろう。そういう罠に嵌めようというのである。
 すなわち、味鳧を粗々な網で捕まえようとすることと、目移りする浮気性の君というのとが掛かるように構成されている。技巧的な修辞のために枕詞「あぢさはふ」が用いられている。一般に言われるように、ただ「目」を導くためにだけに用いられているのではない。
 その点は次の歌にも該当する。

 あぢさはふ 目は飽かざらね たづさはり ことはなくも 苦しくありけり(万2934)

 この歌は、見るということで満足しないわけではないが、手を取り合って言葉を交わさないのは苦しいものだ、という意であるとされている。感染症対策のためにアクリル板越しに見つめ合うことはできても、ディスタンスを保って非接触で飛沫が飛ばないように発声しないこととするのは誤解である。通常、手を取り言葉を交わすときに見つめ合わないことは考えにくい。となると、上二句「あぢさはふ目は飽かざらね」で言っているのは、職場で仕事をしている最中に視線が合うことはあり、相手の表情や機嫌の変化などに気づくものの、多忙など事情により、二人だけのデートを楽しむことがなくなっているときのようなことと感じられる。ここでいう「目」は至近距離で見つめ合う「目」ではなく、ある程度距離の離れてしか見ることのない「目」である。このような「目」は、味鳧を捕まえるための網にある「目」が粗々なものであることとよく通じ合う関係にあり、そのための修辞にこの枕詞が用いられていると言える。

 あぢさはふ いもが目かれて 敷栲しきたへの 枕もまかず 桜皮かには巻き 作れる船に かぢ貫き が漕ぎ来れば 淡路の しまも過ぎ ……(万942)

 この歌は、山部赤人の羇旅の歌である。船で瀬戸内海を航行して進んでいる。そのはじめに「あぢさはふ妹が目かれて〔味澤相妹目不數見而〕」とある。「あぢさはふ」はメ(目)にかかる枕詞であり、ここでは「妹が」が挿入されている。原文の「不數見」はしばしばは見ないの意だから、「かれ」(離・放)と訓むとされている。上に見た万2555番歌同様、ここも「あれ」(離・散)と訓むべきであろう。そうすれば、味鳧用の網の目の粗々なことと妹の目から遠ざかっていることが掛かっていることになる。そして、「あれ」は「れ」とも同音で、波風が激しくなることに通じる。船路に就いていることを表す言葉としてふさわしい(注2)
 味鳧は群れをなす。それを「あぢむら」(万3991)と言っている。群れてできた集住の地をムラ(村)と言い、そのムラ(村)のことはアレとも言う。「石村いはれ」(万282)というのは、イハ(石)+アレ(村)の約である。すなわち、味鳧はヤマトコトバのネットワークのなかで、アレという言葉と緊密な関係にあると認識されていたと理解される。この点からも、「あぢさはふ」にまつわって「不數見」とあれば、「あれ」と訓むべきである。

 …… 御食向みけむかふ きのの宮を 常宮とこみやと 定めたまひて あぢさはふ ことも絶えぬ しかれかも〈一に云ふ、そこをしも〉 ……(万196)

 この歌は柿本人麻呂の明日香皇女挽歌である(注3)。「あぢさはふ」が果たしている役割は、次のメ(目)の導く枕詞にとどまらない。味鳧にはアヂムラの語がついてまわるように、寄り集まって鳴き声を上げてうるさい性質がある。だから、通例のように「あぢさはふ」がメ(目)に掛かるばかりか、その後の「こと」にも関係しているように立ち回っている。味鳧は一斉に鳥網にかかって捕まえられ、一帯から鳴き声は絶えてしまった。明日香皇女の姿も声もなくなってしまい、世界はとても寂しく荒廃している。「れたる都 見れば悲しも」(万33)とあるように、荒れすたれているからアレに関係する「あぢさはふ」という言葉を使っている。
 このように、「あぢさはふ」は、ただ後続の言葉を導く枕詞である以上の機能を果たす修辞語であると考えられる。ところで、「あぢさはふ」には、メ(目)以外の語、「夜昼」にかかる例がある。

 …… 黄泉よみさかひに つたの おのが向き向き 天雲あまくもの 別れし行けば やみなす 思ひまとはひ 射ゆ猪鹿ししの 心を痛み 葦垣あしかきの 思ひ乱れて 春鳥はるとりの のみ泣きつつ あぢさはふ 夜昼知らず かぎろひの 心燃えつつ 嘆き別れぬ(万1804)

 この歌の「あぢさはふ」の後は、元暦校本、藍紙本に「宵晝不知」とあり、「夜昼知らず」と訓まれている。しかし、他の伝本、元暦校本赭書を含め諸本に「宵晝不云」とある(注4)。この校異についてあらかじめ正しておく必要がある。上に見たように、「あぢさはふ」はただ後続の語を導く、いわゆる枕詞だけにとどまらない修辞語と考えられるからである。
 「夜昼」という語は、万葉集では当該1804番歌を含めて六例確認されている。

 とこにと が行かなくに かなに ものがなしらに 思へりし 吾が児の刀自とじを ぬばたまの 夜昼といはず〔夜晝跡不言〕 思ふにし 吾が身はせぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 古郷ふるさとに この月ごろも 有りかつましじ(万723)
 ますらをの うつごころも あれは無し 夜昼といはず〔宵晝不云〕 恋ひし渡れば(万2376)
 思ふらむ その人なれや ぬばたまの 夜昼といはず〔夜晝不云〕 が恋ひ渡る(万2569或本)
 夜昼と いふわき知らず〔夜晝云別不知〕 が恋ふる 心はけだし いめに見えきや(万716)
 が恋は 夜昼かず〔宵晝不別〕 ももなす こころし思へば いたもすべなし(万2902)
 父母が しのまにまに 箸向かふ おとみことは 朝露の やすきいのち 神のむた 争ひかねて 葦原の 瑞穂の国に 家無みや また還りぬ 遠つ国 黄泉よみさかひに つたの おのが向き向き 天雲の 別れし行けば やみなす 思ひまとはひ 射ゆ猪鹿ししの 心を痛み 葦垣あしかきの 思ひ乱れて 春鳥はるとりの のみ泣きつつ あぢさはふ 夜昼知らず〔宵晝不知〕 かぎろひの 心燃えつつ 嘆き別れぬ(万1804)

 「夜昼といはず」、「夜昼といふわき知らず」、「夜昼かず」とある。当該歌のように「夜昼」の「別」を示さずにいきなり「夜昼知らず」というのは例外的な用法と考えるべきであろう。当該歌の性格は、阿蘇2009.に、「枕詞が多過ぎて、しかも肉親の弟を亡くした悲しみと必然的な結びつきもないような枕詞を無造作に用いており、感情の素直な表出をかえって妨げている感がある」(269頁)とあるのが正当な評価である。枕詞を駆使しすぎるほど駆使していると、互いの表現から新しい表現を溶接することも現れてくる。すなわち、多すぎる枕詞の側から見れば、「宵晝不知」をもって正しいこととなる。
 「あぢさはふ」という枕詞がメ(目)を導くことを当然視するなら、そのメ(目)を「夜昼」のことに拡張させて夜と昼の境目のことを考えていると推測される。万1804番歌では、「夜昼」+否定形の慣用表現をもじる形で「夜昼知らず」と言っている。つまり、夜と昼の境目がわからなくなったことを言おうとしている。だから「あぢさはふ」を枕詞に持ってくることにかなう。「あぢさはふ」こと、味鳧がその飛翔の障害となって引っ掛かり、捕まってしまうことは、鳥網の目が粗々に作られてそれとわからないように作られているためである。それほどまで夜と昼との境目がはっきりしなくなるほどに心をたぎらせて別れを嘆くことだ、と歌っている。「黄泉の界に 延ふ蔦」とすでに出ているように、境目の曖昧化がモチーフである。「夜昼知らず」につづいて「かぎろひの」とあるのも、単にその後ろの「心」にかかる枕詞であるばかりでなく、ゆらゆらと揺らめく陽光は夜から昼への移り変わるとき、それが夜の時間か昼の時間か区別しきれない境の時間帯だからである。自然な流れとなって言葉が続いている。「夜昼といはず」では、夜だ、昼だ、と言うことはなく、という意味で、境界のことに頓着しておらず、かえって機微を伝えないこととなる(注5)

(注)
(注1)井手2009.参照。
 専論として「あぢさはふ」という語を検討したものとしては井手氏以外に見られない。枕詞の掛かり方についての諸説もまとめられている。そして、枕詞の背景、成立の基盤を解き明かそうと、「つのさはふ」という似た言葉ともども探っている。そして、「味」と呼ばれていた味鳧の羅猟法から「あぢさはふ」という言葉が造られたのであろうと推測し、「目」が羅眼、網の目のことを指しているという重要な指摘も行っている。前現代(前近代的に現代において廃れる以前)に行われていた羅猟法、鳥網によって捕獲する方法を引いて論拠を明らかにすることも怠っていない。出色の論考である。
 ただし、鳥網の網の目のあり方、理解の仕方において、井手氏は誤解している。井手氏は羅網の網の目を細かいものと考えている。

(1)巴鴨を羅障によって捕獲するものであること
(2)羅網が夜間もしくは昼夜を問わず張られていること
(3)その猟法が人々の耳目に達する仕掛けであったこと
の三項をほぼ満足せしめ……枕詞「あぢさはふ」から推定される上代の巴鴨猟におおむね該当する猟法の存在が確認されたことは、翻って「あぢ障はふ──網目」「あぢ障はふ──よる(宵昼といはず)」と表現された上代における巴鴨の羅猟の存在の蓋然性を高め、「あぢさはふ」という枕詞を鴨の羅猟と関係づけて解明することが決して無稽な空論ではないことを証するものであると思うのである。(282頁)

左:張切羅(農商務省・狩猟図説、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/993625をトリミング)、右:「上州霞網鳧」(一勇斎国芳画・山海めでたい図会・よい夢でも見たい、ボストン美術館https://collections.mfa.org/download/217315をトリミング)

 井手氏もあげている図絵を示す。
 狩猟図説の図に網にかかっている鳥とほうほうのていで逃げていく鳥とが描かれている。逃げていく鳥の後ろには取れてしまった羽根が数枚ずつ描かれている。一度網に突っ込み、からくも絡まることなく逃れたところを示している。つまり、網に体の一部、特に頸が網に入って抜けなくなるような場合には絡んで捕まるが、翼部分が網に当たるなどしたら羽根は多少失っても戻って逃げ飛ぶことができたことを表している。漁業で言えば刺網漁の原理と同じである。獲物の方から網に刺さり絡まっているのを網ごと引き上げ、魚を一つ一つ網から外して果実とする。対象となる魚類が逃げられないようにそれよりも細かな網をめぐらし、まるごと掬いあげる曳網漁やまき網漁、敷網漁などとは網の目の意図が異なっている。
 すなわち、味鳧猟のやり方として、網によって行く手をさえぎって一網打尽に巻き込んで捕らえるのではなく、獲物が網に絡まることをもって捕獲するのである。罠や罠に準ずる方法、あたり一帯を罠化するものではないということである。図には、籠を持って引っ掛かっている鳥を捕りに行く人の姿が確認される。
 網目が細かすぎると鳥は網に引っ掛からない。狩猟図説の解説では、あみは一寸三分目、二寸目、三寸目ばかり(約4~9㎝)にキ(ヒ)たるものを使っているとしている。ヤマトコトバにおいても、枕詞「あぢさはふ」が「目」に掛かる、その掛かり方が井手氏の考えは違っている。掛かる言葉だけに、網へのかかり方は正確を期さねばならない。網目は味鳧の頸や脚が入るほどに粗い。だからこそ、それが網だと気づかず突入してしまう。よく見えていないのではないかと思えるほどである。結果、味鳧の目が大雑把、粗々だと思うに至っている。粗い目には粗い網目を、という(言語学的)結論に到達している。したがって、「あぢさはふ」が「目」に掛かる枕詞としてばかりでなく、言葉の続き方として「あれ」という語へと連なっていて正しい用法だと当時の人たちは思ったのであろう。用例のように「あぢさはふ」という言葉が、前後に群として用いられている所以である。味鳧は群れなす性質があるだけに前後まで気を配られた使用となっている。
 なお味鳧、すなわちトモエガモは美味なようである。「手賀沼では明治中葉頃まで、何万という大群が押し寄せたという。「それ味鴨(方言)だ!」 鴨網はそっちのけにし、味網を出した。」(堀内1984.431頁)と記されている。
(注2)遠称の代名詞にカレ(彼)があり、それは「れ」とよく対応しているが、音転したアレ(彼)も同じ意を表している。このようにパラレルな対応を示していることは、意味的なつながりではなく単なる音転によるものと考えられるが、上代の基本的に無文字文化のなかにあっては、口頭言語として口に出し、声として聞いた人にとっては重要なことであったと思われる。今日、さまざまな駄洒落が流布して実際の言語活動となっていることから顧みても、疎慮してはならないであろう。言語とは使用されるものであり、その実態を措いて言葉や歌謡、文学の研究などあり得ない。
(注3)拙稿「「明日香皇女挽歌」について─特異な表記から歌の本質を探って─」参照。
(注4)木下2000.は古い写本のほう(宵晝不知)が誤りであるとしている。「宵晝不知」であれば「夜昼の別もなく」(大系本)、「夜昼のわかちも知らぬばかりに」(注釈)となるが、「しかし、「夜昼知らず」のままで果たしてそのような解釈ができるものだろうか。店員急募の広告なら「男女不問」と書くこともあるかも知れないが、それでは舌足らずで、正しくは「男女の別は問わず」と言うべきではないか。」(木下323頁)とし、集中に「夜昼といはず」の例が多いからそちらが正しいとしている。
(注5)「夜昼」ではなく「昼夜」という転倒した言い方が行われていなかった理由も垣間見られよう。通い婚を前提とした造語なのに、歌謡に関して間抜けな言い方が行われることはない。

(引用・参考文献)
阿蘇2009. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第5巻』笠間書院、2009年。
金田1983. 金田禎之『日本漁具・漁法図説 改訂版』成山堂書店、昭和58年。
木下2000. 木下正俊『万葉集論考』臨川書店、2000年。
狩猟図説 農商務省編『狩猟図説』東京博文館、明治25年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993625
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注・訳『日本古典文学大系 萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
注釈 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第九』中央公論社、昭和36年。
堀内1984. 堀内讃位『写真記録 日本伝統狩猟法』出版科学総合研究所、昭和59年。

加藤良平 2024.5.31初出

近江荒都歌について

「近江荒都歌」?

 万葉集の研究者によって「近江荒都歌」と呼ばれる歌は、万葉集巻一の29~31番歌、柿本人麻呂の初出の歌である。壬申の乱後に廃墟と化した近江大津宮を悼んで詠んだ歌であると考えられている。自然との対比によって旧都への悲しみの情が際立てられているとし、表現が繰り返され、反復されることによって強調され、深化して行っているとされている。さらに、反歌二首では擬人法が用いられ、前半に自然、後半に人事が語られている。逆説の助詞「ど」「とも」が有効に活用されているという。全体として、「挽歌」的と捉える向き(注1)と、歴史叙述として時間を主題化した歌であるとする向き(注2)と、廃墟詠として漢詩の影響を見る向き(注3)などがある。
 「挽歌」と捉えることには難がある。万葉集のだてとして、巻二の「挽歌」に類別されず、巻一の「雑歌」に入っている。歴史叙述と捉えることも難しい。天皇の所在地を示す「宮」の歌を詠んだ歌が、「藤原宮御宇天皇代」という標目のもと、行幸時の歌を含めて万28~44番歌に羅列されていて、そのなかに登場した歌が万29〜31番歌である。一つの歌のなかに昔日のことを思うことがあっても、ただちに歴史「叙述」であるなどと言うことはできない。歌の調子には叙事詩の片鱗すら見えない(注4)。漢詩の影響があると決めることは、反証不可能な点で学問的ではない。山上憶良には万葉集の「序」に漢詩文を見ることができても、人麻呂にはその欠片もなく、彼の作った漢詩が懐風藻に載っているわけでもない。
 現代の人が万葉歌の解釈を再解釈していかなる象牙の塔を建てようが、上代の人の考えとは無縁のことである。万葉集のこの部分を撰録した人は、「宮」の歌のアンソロジーを「雑歌」の部類において編纂しようとしていた。どういう意図かはともかく、そこから離れてはならない。すなわち、「近江荒都歌」として柿本人麻呂の万29~31番歌ばかりを抽出するのは、撰者の目指したものと異なるのである。万葉集研究の本来の課題は、高市古人(高市黒人)の万32・33番歌までを含めて、近江大津宮を藤原京時代にどのように捉えていたかについて考えることであろう。歌の表現方法がどうであったかということは、後から振り返ってみて受け取れるというに過ぎない。そもそものはじめに、その歌を歌わんとしたきっかけ、主旨、本意、目的がどうであったかについて考えなければ、万葉集の歌を理解したことにはならない。
 そこで、一人歩きしてしまった「近江荒都歌」という眼鏡を外し、高市古人の歌まで含める形で、藤原京時代における近江京認識の歌(以下、「近江京認識歌」と仮称する)として捉え直すことにする。参考のため新大系文庫本の訓みと訳を引く(76〜81頁)。

  近江あふみ荒都くわうとよきりし時に、柿本朝臣かきのもとのあそみひと麻呂まろの作りし歌
  近江の荒れた都に立ち寄った時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌
 玉だすき うねの山の 橿原かしはらの ひじりの御代みよ或いは云ふ、「宮ゆ」 れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに あめの下 知らしめししを 或いは云ふ、「めしける」 そらにみつ 大和やまとを置きて あをによし 奈良山を越え 或いは云ふ、「そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて」 いかさまに 思ほしめせか 或いは云ふ、「思ほしけめか」 あまざかる ひなにはあれど いはばしる 近江あふみの国の 楽浪ささなみの おほの宮に あめの下 知らしめしけむ 天皇すめろきの  神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁くひたる かすみち はるれる 或いは云ふ、「霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる」 ももしきの 大宮おほみやところ 見れば悲しも 或いは云ふ、「見ればさぶしも」(万29)
 (玉だすき)畝傍の山の、橿原の聖なる神武天皇の御代から〈或る本には「宮から」と言う〉、お生まれになった歴代の天皇が、(つがの木の)次々に続いて、天下を治められたのに〈或る本には「治めて来られた」と言う〉、(天にみつ)大和を捨てて、(あをによし)奈良山を越え〈或る本には「(そらみつ)大和を捨て、(あをによし)奈良山を越えて」と言う〉どのようにお考えになったものか〈或る本には「お考えになられたのだろうか」と言う〉、(あまざかる)辺鄙な田舎ではあるが、(いはばしる)近江の国の、楽浪(ささなみ)の大津の都で、天下をお治めになった、あの天智天皇の旧都はここだと聞くけれど、宮殿はここだと言うけれど、春の草がびっしり生えている、霞が立って春の日が霞んでいる〈或る本には「霞が立って春の日が霞んでいるせいか、夏草が茂っているからだろうか」と言う〉、(ももしきの)この都の跡を見ると悲しい或る本〈或る本には「見ると心がふさぎこんでしまう」と言う〉。
 楽浪ささなみの 志賀しが唐崎からさき さきくあれど 大宮人おほみやひとの 船待ちかねつ(万30)
 楽浪の志賀の唐崎は、今も無事で変わらぬが、昔の大宮人の船をひたすら待ちかねている。
 楽浪ささなみの 志賀の 一に云ふ、「比良ひらの」大わだ よどむとも 昔の人に またもはめやも 一に云ふ、「逢はむと思へや」(万31)
 楽浪の志賀の〈一本に「比良の」と言う〉入り江は、今このように淀んでいても、昔の人にまた逢えるだろうか〈一本に「逢うだろうとも思えない」と言う〉。
  高市古人たけちのふるひとの、近江あふみきう感傷かんしやうして作りし歌 しよいはく、「高市連たけちのむらじ黒人くろひとなり」といふ
  高市の古人が近江旧都の荒れた築地の塀を見て悲しんで作った歌 或る書に、高市連黒人と言う
 いにしへの 人にわれあれや 楽浪ささなみの 古きみやこを 見れば悲しき(万32)
 私は古(いにしへ)の人なのだろうか。楽浪の古い都の跡を見ると悲しい。
 楽浪ささなみの 国つかみの うらさびて 荒れたるみやこ 見れば悲しも(万33)
 楽浪の土地の神様の威勢が衰えて、すっかり荒れてしまった古い都を見ると悲しい。(注5)

 「近江京認識歌」について、これまでの「近江荒都歌」の捉え方、壬申の乱によって廃墟と化したことを悲しむ歌であるという見方を踏襲できるだろうか。人麻呂作歌に限ったところで、筆者は否定的に考える。万29番の長歌の中で、「いかさまに思ほしめせか」と歌っているのは、どのようにお思いになって都を近江へ遷都されたのだろうか、という意味である(注6)
 自問することから歌い出されている。そして、その問いに自答する形でだらだらと字句が並んでいる。ぐだぐだの字句に足元をすくわれずに全体を俯瞰すれば、藤原京時代、近江京のことをどのように認識していたかが語られている。どうしてあんな辺鄙なところへ都を移す必要があったのか、いま打ち捨てられて草ぼうぼうに荒れているではないか、と言うに尽きている。
 近江遷都は天智天皇の治世のことである。何を思ってのことかと問われているのだから、その時のこと、天智六年(655年)のことを言っているのであって、天武元年(660年)の壬申の乱とは無関係である(注7)

ささなみ(楽浪)

 「いかさまに思ほしめせか」の問いについて、答えは与えられないままに歌が終わっていると考えられてきた。しかし、「近江京認識歌」には五首すべてに特徴的な字句、キーワードが含まれている。「ささなみの」である。柿本人麻呂にも高市古人にも共通の認識があった。そこが「ささなみ」の地であったから、そんな辺鄙なところへ都を遷したのだと考えていたと理解される。
 「ささなみ」は今の滋賀県南部、琵琶湖の西南岸を広く指す地名であるとされている。そう考えられて構わないのであるが、「近江京認識歌」の地名表現は冗長に過ぎる。

 近江の国の ささなみの 大津の宮(万29)
 ささなみの 志賀の唐崎(万30)
 ささなみの 志賀の〈一に云はく、比良の〉大わだ(万31)
 ささなみの 古き京(万32)
 ささなみの 国つ御神(万33)

 単に地名を表すのであるなら、万29~31番歌において、「ささなみの」という語は無くても通じる。日本書紀では、「五十八年の春二月の辛丑の朔辛亥に、近江国に幸して、志賀にしますこととせ、是を高穴穂宮たかあなほのみやまをす。」(景行紀五十八年二月)とあり、「ささなみの」と冠されていない。定型的な枕詞ではないとすると、逆に「近江の国の」(万29)、「志賀の」(万30・31)はなくても構わないように思われる。「志賀」は、二十巻本和名抄に、近江国の郡名として「滋賀〈志賀〉」と見え、ほかに、栗本、甲賀、野洲、かま、神﨑、愛智えち、犬上、坂田、浅井、がこ、高島の諸郡が記されている。滋賀郡内の郷名としては、ふる、真野、大友、錦部にしこりと記されている。今の滋賀県南部の琵琶湖の西南岸を広く指す地名が「志賀」のようである。どうして「ささなみの」と言いたがるのか、それが謎を解くヒントである。柿本人麻呂が「過近江荒都時」に感を覚えて歌いたかった点は、「ささなみ」であったろう。荒れ果てた近江の旧都を歌い、長歌の最終的結論として「見れば悲しも 或いは云ふ、「見ればさぶしも」」と言っている。
 ヨーロッパの石造建築物と違い、利用されなくなったからといって廃墟となって目にするわけではない。建材は多く新都へと運ばれて再利用された。「近江荒都」の光景は草がぼうぼうに生い茂っているばかりである。それを見て悲しい、寂しいと言っている。壬申の乱で焼失した建物が仮にあったとしても、柿本人麻呂は焼け焦げた残骸を見ているわけではない。草ぼうぼうの所など田舎へ行けばいくらでもある。たまたまそこが一昔前に都であったというだけである。人麻呂の耽る感傷の表現は、枕詞を多用しながらぐだぐだと歌っているだけである。言葉に新鮮味はなく、歌いたいことは「ささなみの」の一語に尽きるようである。「ささなみの」という言葉を歌いたいから歌を作っている。基本はそこにある。端的には、それ以外の言葉は歌い回すために並べられているに過ぎない(注8)
 「いかさまに思しめせか」という問いの答えが「ささなみ」ということである。何がどうしてなんだろうかというのは、大和地方、今の奈良盆地に都があったのに、近江国へ遷都した理由を問うているのである。その間の事情は、歴史的に東アジア世界の外交情勢による。滅亡した百済の再興を目指すために朝鮮半島に出兵し、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗し、敗戦国として要求を受け入れざるを得なかった。白村江の戦いの後、朝鮮半島では唐と新羅が反目して対立する構図となっていた。百済の旧地を領有していた唐は、それまでは連合していた新羅から攻撃を受け、物資の補給路は黄海を跨がなければならず窮地に立たされている。ヤマトは唐側につき、百済の鎮将劉仁願の顧問団に従うことになっていた。ヤマトは百済との同盟関係から、唐との同盟関係へと舵を切り、一貫して新羅に対抗したのである。唐の顧問団からの指導によって、太宰府付近にはみづが築造され、各地に山城や烽火台も設営されている。さらに、都を大和の地から近江へ遷している。遷都にどのような理由や意味があったのか、歴史学に議論されている(注9)が、十分に理解されているとは言えない。
 万葉集では額田王の歌に近江遷都の歌(万17~19)がある。天智称制時代、667年に遷都する際に歌われた。宮廷内にも反対意見があったため、それを宥めるためにも歌が歌われたのだろう。柿本人麻呂や高市古人の歌は、持統朝の694年以降に作られたと考えられる。673年に飛鳥浄御原宮で天武天皇は即位し、694年に持統天皇は藤原宮に遷都している。「近江京認識歌」の一つ前が持統天皇の御製歌で、その前にある標目に「藤原宮御宇天皇代〈高天原廣野姫天皇元年丁亥、十一年譲‐位軽太子、尊号曰太上天皇〉 」とある。標目に従って時代を推定することは適切であろう。近江京が捨てられてから20年の歳月が経過している。20年経てば朽ちるものは朽ちていた。都があったとは思われない荒れ方であり、廃墟景を詠じたものではない。すなわち、柿本人麻呂や高市古人の言わんとしていることは、額田王が訴えていたことと同じである。途中、壬申の乱という内乱があり、天皇も変わってはいるが、天皇制という体制が変わったわけではなくヤマト朝廷は継続している。近江大津宮への遷都は、ヤマトの人々にとって、耐え難きを耐え忍び難きを忍んで行われたものであると思われていた。その理由は何であったのかを、今さらながら歌にしている。その答えが「ささなみ」である。
 ササナミの表記に、「楽浪」(万29・30・32・33)と記されている。ササを「楽」と記すのは、神楽で「ささ」と囃すことによるとも、神楽の採り物に笹葉を用いたからとも、楽器のささらによるとも考えられている。これらの説は、ササを「楽」と記す説としては正しいが、「ささなみ」と記すときに「楽浪」とする点に答えておらず、今日まで検討されたことがない。「ささなみ」の表記は次のとおりである。

 楽浪(万29・30・32・33・218・305(注10)・1715・3240)
 神楽浪(万154・206・1253)
 神楽声浪(万1398)
 左散難弥(万31)
 佐左浪(万1170)
 左佐浪(万1170)
 狭狭浪(神功紀元年三月)
 筱浪(天武紀元年七月)
 沙沙那美(仲哀記)
 佐々那美(応神記、記42)

 「楽浪」とは、前漢の武帝時代に版図が朝鮮半島に及んだとき、そこに置かれた郡の名である。漢書・地理誌に、「楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ。(楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。)」と見えるのが、中国の正史における本邦の初見である。白村江の戦い前後においても、中華帝国は版図を朝鮮半島に広げている。ヤマトの人たちにとっては、旧百済の地を支配した唐の出先機関は、往年の楽浪郡に当たるものと考えたのであろう。その唐に付き従うのであれば、都は「ささなみ」の地、今の滋賀県南部に移さざるを得ないと感じられたものと思われる。ヤマトの人にしか通じないなぞなぞなのであるが、当時、ヤマトの人の使っていたヤマトコトバは、文字ならびに文字文化を学び始めた段階にあった。初めて接する漢字表現に、思考が絡みとらわれていたと考えられる。そう分かるのは、柿本人麻呂自身が、「いかさまに思ほしめせか」と表現しているからである。推測したことは、漢字文化圏に中華帝国の楽浪郡の人達に従うために、ヤマトの楽浪郡に都をおけば良いということである。合理性から言えば論外の論理展開である(注11)が、絡め取られているから仕方がない。政権のトップにいた天智天皇等がそう考えて決め、なぞなぞ的論理からは正しいと認めざるを得なかったから皆従ったということであろう。

題詞の「過」

 今、柿本人麻呂は近江大津宮の旧跡地を訪れている。題詞に「過」という言葉で状況が語られている。この語をどう訓むかについては、実は未だ決定できていない。「ぐ」と訓む説と「よきる」と訓む説が並立している。「よぎる」という言葉は上代では清音であった。対象が場所である場合の例をあげる。

スグ
 ➀ある場所やそこが視界に入る付近、ある道筋を通ってその先へ行ってその場所から離れていく。通過する。通って去る。
 いすかみ 布留ふるを過ぎて こもまくら 高橋過ぎ ……(武烈前紀、紀94)
 新治にひはり 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる(景行記、記25)
 …… あをによし 奈良を過ぎ だて やまとを過ぎ ……(仁徳記、記58)
 因りて曰はく、「これよりな過ぎそ」とのたまひて、即ち其のみつゑを投げたまふ。(神代紀第五段一書第六)
 青駒の がきを速み 雲居にそ 妹があたりを 過ぎて来にける(万136)
 霍公鳥ほととぎす まづ鳴くあさ いかにせば かど過ぎじ 語り継ぐまで(万4463)
 珠藻刈る みぬを過ぎて 夏草の 野島の崎に 船近づきぬ(万250)
 玉藻刈る 乎等女をとめを過ぎて 夏草の 野島が崎に いほりわれは(万3606)(注12)
 (➁時間、➂衰退、➃程度、➄消去、……) 
ヨキル
 ➀前を通り過ぎる。通過する。
 よきりおはしけるよし、ただ今なむ人申すに、驚きながら、……(源氏物語・若紫)
 騎をつらねて相よきる。(猿投本文選正安四年点、左傍訓にスク、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10481687_po_ART0004667295.pdf?contentNo=1&alternativeNo=19)
 ➁途中で立ち寄る。通りすがりに訪問する。
 餘は第二十六の客旧相ひよきるの章の説に同じ。(南海寄帰内法伝巻第二、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967414/22)
 死して地獄に過りて、果を楽受せず。(菩薩善戒経・九)
 閻羅の界において三塗の極苦には、復よきらじ。(西大寺本金光明最勝王経平安初期点、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885585/85)
 漸く次ぎに城邑聚落に遊行すとして、空沢の中の深く険しき処によきりぬ。(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885585/96)
 戊午に、道をよきりてせの神宮かむのみやを拝む。(景行紀四十年是歳)
 是の時に、征新羅将軍吉備臣尾代、きて吉備国に至りて家によきりたり。(雄略紀二十三年八月)
 毛野臣の傔人ともなるひと河内馬飼首御狩にあひよきれり。御狩、ひとかどに入り隠れて、ものこふ者のぐるを待ちて、……(継体紀二十三年四月)
 第六度にいたりて日本によきりたまへり。(唐大和上東征伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190773/65)
 呂禄、酈寄を信じ、時にともに出でて游獦し、其の姑呂媭によきる。(史記呂太后本紀、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3439455/27)
 又、旅に盩厔に次し韓士別業によきる詩に云はく、(文鏡秘府論・地、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100231578/44?ln=ja)

 スグは、「空間的には、止まるべきところ、立ち寄るべきところに、止まらず、立ち寄らず、先に進む意。」(古典基礎語辞典637頁、この項、須山名保子)、「ある一点をはさんで、その一方の側から他の側へ移動する意を示す。……通過する。寄らずに通りすぎる。移動の意が強い場合と、そこに留まらない意が強い場合がある。」(時代別国語大辞典384頁)と解説されている(注13)
 これらの例から考えてみても、万29番歌の前に記されている題詞の「過」は、ヨキルの②の用例と捉えるのがふさわしいであろう(注14)。柿本人麻呂は、所用があってどこか東海道へ赴く際、途中で近江大津京に立ち寄った。そこで歌を詠んだ。一人で出かけたわけではなく、ある程度の人数の人とともに出掛け、せっかくだから寄って行こうと訪れて、都の面影がなくなっていたことに感慨を覚える人たちを前に歌を歌ったということであろう。歌うには手控えがあって、どう歌おうか草稿段階のものも残されていた。それを都へ持ち帰ったために、異伝も伝わっているのではないか。
 都があったとは思われない荒れた情景を前にして思うことは皆同じで、どうしてまたこんなところに遷都したものかねぇ、というものだったのだろう。それは、天智天皇が遷都しようとしていた時の状況と変わるものではない。まったくもって、「いかさまに思ほしめせか」としか言いようがない。その答えはわかっている。当時の国際的な緊張情勢から遷都は行われたのであり、いまさら歴史を塗り替えることはできないし、目の前の光景は元の木阿弥の草ぼうぼうである。単に都のことを歌っているばかりで、壬申の乱の兵どもが夢の跡を見ているのではない。言葉の羅列が長々と続くため、今日の人には挽歌的に聞こえたり、歴史叙述的に聞こえるかもしれないが、それは今日の人々の受け取り方にかかるばかりである。万葉集巻一のこれらの部分を録した編纂者にとって、およそ考え容れないことであった。
 「楽」浪といかにも楽しそうな字面をしているが、そこで開かれていた宴も歌舞音曲も、ヤマト朝廷の人々にとっては心から楽しむには落ち着かない時代であったと、20年以上前のことを振り返ってみて言えるのである。二つの反歌に「大宮人」、つまり、宮廷の人たちが船遊びをしたように歌われているが、あまり楽しいものではなかったということである。なぜなら、白村江の戦いでは船戦において敗れたのである。白村江の想定外の干満差になすすべを知らず、惨敗を喫している(注15)
 「ささなみ」程度の穏やかな波のところで静かにしていなさいという神のお告げであったと納得して、内海である琵琶湖、「淡海」国に遷都したとも言えそうである。「近江京認識歌」は、当時の人々の認識に合致する歌を歌ったものである。認知的不協和を生まずに聞き入れられている。

古人ふるひとに われ有るらめや(万32)

  高市古人たけちのふるひとの、近江あふみきうかんしやうして作りし歌 しよいはく、「高市たけちのむらじ黒人くろひとなり」といふ
 いにしへの 人にわれあれや 楽浪ささなみの 古きみやこを 見れば悲しき(万32)

 今日行われている上のような訓読は、とても不思議なものである。原文は次のようにある。

 古人尓和礼有哉樂浪乃故京乎見者悲寸

 西本願寺本、寛永版本に、「古人ふるひと 和礼われ有哉あるらめや 樂浪ささなみ 故京ふるきみやこ みれ悲寸かなしき」(国文学資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200000985/22?ln=ja)とあり、意味が通じている。歌の作者に「高市古人」、あるいは「高市連黒人」であろうと注されている。歌意は、私は「古人」という名を負っていて、きっとそれを体現するように歳をとった古い人間であるからか、古い都を見ると悲しい、という意味である。フルという音が連ならなければ、この歌を聞いただけで直ちに納得することはできない。「ふるひと」は、第一に古老のことである。昔のことを知らない人には、大津京の存在すら不明である。廃墟の姿が焼けた柱や礎石に見えるのではなく、草ぼうぼうなばかりだからである。
 第二に、古人大兄皇子のことが思い浮かぶ。舒明天皇の子で、中大兄(天智天皇)の異母兄弟に当たる。大化改新時の逸話が語り継がれている。宮殿上で皇極天皇の次に席していた。その時、前庭で蘇我入鹿暗殺事件が起こっている。天皇は中大兄に何事かと問うて問答をしたのち、「天皇、即ちちて殿のうちに入りたまふ。」こととなり、一方、「古人大兄、見てわたくしの宮に走り入りて、人に謂ひて曰はく、「韓人からひと鞍作臣くらつくりおみ[蘇我入鹿]を殺しつ。〈韓の政に因りてつみせらるるを謂ふ。〉吾が心痛し」といふ。即ち臥内ねやのうちに入りて、かどして出でづ。」(皇極紀四年六月八日)ことになっている。彼は中大兄(天智天皇)のことを、「韓人」と定義している(注16)。その後、十四日には、天皇位に就くように軽皇子(孝徳天皇)から薦められたが固辞し、出家して吉野山に入った。同年九月十二日には謀反人として殺されている。
 今思い返してみれば、「古人」皇子が言っていたように、確かに先帝、天智天皇(中大兄)はカラヒトであった。カラ(唐)の政に従って「楽浪」の地に遷都するようなかぶれたことをしていたものだ、という意味にとることができる。私は「古人」だからだろうか、「楽浪」が「韓政からのまつりごと」に因るところで、ラクラウ(楽浪)に合わせてササナミ(楽浪)の地が求められていたことが今よくわかる、まったく悲しいことよ、と歌っているわけである。
 「いにしへのひと」という訓みはいただけない。「にし」という語は、我々生きている人にとってたどり着くことのできないほど太古のことを表すからである。古典基礎語辞典に、「遥か遠くに過ぎ去っていて、伝承などで自分がその時点のことを聞いていても確かめることのできない過去をいう。」(137頁、この項、白井清子)とある。万葉集では「いにしへのひと」ははるかに離れた存在として伝説上の人物を指し、またそれが中国のことである例もあり、また、まったく漠としか想像できない昔人のことを言っている。

 いにしへの大き聖(万339)…魏の徐邈じょばく
 古の七のさかしき人ども(万340)…竹林の七賢
 古にやな打つ人(万387)…拓枝伝の味稲うましね
 古の賢しき人(万3791)…孝子伝の原穀(原谷)
 古のますらをとこ(万1801)…葦屋のうなひ処女をとめを争った男
 古の小竹田しのだをとこ(万1802)…同
 古に ありけむ人も 吾がごとか 妹に恋ひつつ 宿ねかてずけむ(万497)
 今のみの 行事わざにはあらず 古の 人ぞまさりて にさへ泣きし(万498)
 妹が紐 ゆふ河内かふちを 古の 皆人見きと ここを誰れ知る(万1115)
 古に ありけむ人も 吾がごとか 三輪のに 挿頭かざし折りけむ(万1118)
 古に ありけむ人の 求めつつ きぬに摺りけむ 真野の榛原はりはら(万1166)
 古の 賢しき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れど飽かぬかも(万1725)
 古の 人の植ゑけむ 杉がに 霞たなびく 春はぬらし(万1814)(注17)

おわりに

 以上見てきたように、「過近江荒都時、柿本朝臣人麻呂作歌」、「高市古人感‐傷近江舊堵作歌」の五首の歌は「近江京認識歌」であった。藤原京に遷都後の持統朝において、20年以上前に置かれていた近江京のことを人々がどのように思っていたか、その共有している認識について、旧都の地を訪れて歌に表したものなのである。柿本人麻呂が近江京が荒れた姿をしているのを見て、他の人にない表現方法をとって独創的な歌にしたという考え方は、その基盤の据え方からしてあやしい。歌は誰かに聞かれなければ歌ではなかった。誰かが聞いた時、聞いた人に共感されなければ歌として創立しえない。筆記されて伝えられてはいるが、個人的な作詞練習ではなく、書いたものを誰かに見せて見た人が楽しんだというものでもない。歌われた瞬間、即座にそうだそうだと認められなければ、それは相手にされていないということであり、歌として不成立である。コミュニケーションが成り立っていなかったら、万葉集に採録されるはずがない。権威に基づく資格ということではなく、最初から意味を持たないということである。すなわち、万葉集の、少なくともこの部分以前にある歌は、政治的合理性を歌った歌であると考えられるのである。どのようにお思いになってこの辺鄙な近江の地に都を遷されたのか、それは「ささなみ」が「楽浪」郡を示唆するからだった、そうだそうだ、そういうことだった、と聞いている人を巻き込み、その場にいる人々皆が皆ヤマトコトバのなかで腑に落ちた。なぞなぞの答えが解けたのである。その次第を歌にしたものが「近江京認識歌」なのである。

(注)
(注1)挽歌と捉えるのに好都合な歌として、巻第九の「挽歌」の部立の冒頭歌に、「治若郎子ぢのわきいらつこみやどころの歌一首」「妹らがり いまの嶺に 茂り立つ 嬬松つままつの木は 古人ふるひと見けむ」(万1795)がある。ただし、宇治若郎子はダシに使われて二重重ねになっているばかりで、「今木」に「いま」ばかりでなく、「いま(キは乙類)」、奥つの城のことを懸けているところがこの歌の眼目である。
(注2)例えば、神野志1992.。
(注3)辰巳1995.。
(注4)青木1998.参照。
(注5)原文は以下のとおりである。

  過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌
 玉手次畝火之山乃橿原乃日知之御世従〈或云自宮〉阿礼座師神之盡樛木乃弥継嗣尓天下所知食之乎〈或云食来〉天尓満倭乎置而青丹吉平山乎超〈或云虚見倭乎置青丹吉平山超而〉何方御念食可〈或云所念計米可〉天離夷者雖有石走淡海國乃樂浪乃大津宮尓天下所知食兼天皇之神之御言能大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流〈或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留〉百磯城之大宮處見者悲毛〈或云見者左夫思母〉
 樂浪之思賀乃辛碕雖幸有大宮人之舩麻知兼津
 左散難弥乃志我能〈一云比良乃〉大和太与杼六友昔人二亦母相目八毛〈一云将會跡母戸八〉
  高市古人感傷近江舊堵作歌〈或書云高市連黑人〉
 古人尓和礼有哉樂浪乃故京乎見者悲寸
 樂浪乃國都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛

(注6)木下1962.に、「大雑把に言へば、……イカニはドノヤウニ ‘how’ であり、……ナニ以下はドウシテ、ナゼ ‘why’ の区別がある。」(3頁、漢字の旧字体は改めた)に従うなら、「いかさまに思ほしめせか」は、‘What did he think?’ であろう。嫌味な言い方として、How do you think?(自分で考えればわかるでしょう?)という言い方もあり、そう受け取ることもできないことではない。言葉が持つ両義性の領域に入る。契沖・万葉集代匠記にも、「いかさまにおぼしめしてかといふによりて見れば、此帝の都を遷し給ふ事を少し謗れるか、民のねがはざること題の下に引ける天智紀の如し、摠じて都を遷す事は古より民の嫌へる事なり、史記殷本紀曰、……、況や上に引ける孝徳紀にいへる如く、豊 ノ宮をば嫌ひ給ひて、倭京にかへらせ給ふべき由、奏請したまひながら、御みづからは又あらぬ方へ都を移させ給ふ、不審の事なり、又按ずるに、第二第十三にも、いかさまに思し食てかといへるは、たゞ御心のはかりがたきを云へり、殊に今の帝は大織冠と共に謀て蘇 ノ入鹿を誅し給ひ、凡中興の主にてましませば、七廟の中にも太祖に配して永く御国忌を行はる、智證の授决集にも見えたり、然ればたゞ御心のはかりがたき故にも侍らんか、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936702/47~48、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注7)「近江荒都歌」なる誤った枠組みが与えられて、その表現が挽歌的であるとしたり、天智天皇と天武天皇とを天秤にかけて、時の持統天皇に歌いかけた離れ技であると誤解されるに及んでいる。寺川2003.に、持統天皇の思いを「忖度し」(24頁)ているとある。
(注8)柿本人麻呂は長歌を得意としたが、彼は門付け歌人に過ぎなかったから、聞いてもらいたくてワーワー騒いでいるのである。今日から考えて表現がうまいかどうかという点は、その後に来る活動(meta-poetry)であり、当時の人たちにどのように評価されたか不明である。経歴等も史書に一切記載がない。
(注9)諸説ある。白村江の敗戦によって防衛力を強化するため、戦勝国である唐の要求による、交通上の要衝で高句麗との連絡や蝦夷を意識した、渡来人が多く居住していて生産力が高かった、旧勢力の本拠地飛鳥から離れようとした、飛鳥の地における再開発の頭打ちとなって生産力が低下したため、近江にも大王家の基盤を求めたため、秦の始皇帝の真似をして水徳を主張して水の都を建設した、などといった説があり、それらの複合したものであるとも唱えられている。「遷都理由に断案だんあんはない」(森2002.83頁)のが現状である。
(注10)万305番歌は「近江京認識歌」の一員である。「楽浪」が意識的に用字されている。

  高市連黒人の近江旧都の歌一首
 かくゆゑに 見じと云ふものを 楽浪ささなみの ふるき都を 見せつつもとな〔如是故尓不見跡云物乎樂浪乃舊都乎令見乍本名〕(万305)
  右の歌は或る本に少弁の作なりと曰ふ。未だ此の少弁なる者は審らかならず。

(注11)口承文化から文字文化への移行の段階において、なぞなぞ段階があったということはこれまで論じられたことはない。けれども、我々は容易にその事実について気づくことができる。幼少期の子どもは、口承文化から文字文化へ移行していっている。その間、文字を習い始める過程において、小学校低学年を中心に、特異な傾向としてなぞなぞが興味津々に楽しまれている。同じ現象が飛鳥時代の人々に起きていたと考える。ヤマトコトバと訓義を表す漢字との、絡み合いを楽しむやりとりが行われていたと推測される。
 コナトン2011.の「社会の記憶」に関する次の論考のうち、「経済化 economisation」は「省力化」のこと、「懐疑論 scepticism」は「ほんまかいな?」のことであると捉えてかまわないであろう。そして、コミュニティの記憶の構成要素として、「記念式典」と「身体」とを社会の記憶の特質として検討を進めている。万葉集の「雑歌」とは何かと問われれば、「記念式典」に当たって口承の伝達の役割を果たすものであったと定めることができると考える。
 「社会の記憶に対する文書化ライティング影響インパクトはしばしば論じられ、それが非常に大きかったことは明らかである……。口承文化から文字文化への移行は、具体化の実践から表記の実践への移行を意味する。文書化の影響は、表記によって伝えられる物語はすべて変更できないほど確立される事実、その構成過程が閉鎖的である事実から来るものである。スタンダード版や正典はこの典型である。この不変性こそが変革イノベーションを促すバネとなる。文化の記憶が「生の」語りではなく、その表記の再生産によって伝達されるようになると、即興はますます困難になり、変革は制度化される。音声表記は経済化と懐疑論という二つの過程を促進することによって文化的変革をはかる。ここでの経済化とは、コミュニティの記憶が韻律という形式への依存から解放されることである……。懐疑論とは、コミュニティの記憶の内容が系統的システマティックな批評の対象になることである……。」(134頁。わかりにくいので原文を付す。The impact of writing on social memory is much written about and evidently vast. The transition from an oral culture to a literate culture is a transition from incorporating practices to inscribing practices. The impact of writing depends upon the fact that any account which is transmitted by means of inscriptions is unalterably fixed, the process of its composition being definitively closed. The standard edition and the canonic work are the emblems of this condition. This fixity is the spring that releases innovation. When the memories of a culture begin to be transmitted mainly by the reproduction of their inscriptions rather than by ‘live’ tellings, improvisation becomes increasingly difficult and innovation is institutionalised. Phonetic writing generates cultural innovation by promoting two processes: economisation and scepticism. Economisation: because the form of communal memory is freed from its dependence on rhythm. Scepticism: because the content of communal memory is subjected to systematic criticism. pp.75-76. ともに(注)部分は割愛した)。
 また、「文化の継承において、その構成に不自然や矛盾と感じることがあっても、それを明らかに口にすることははばかられる。……その矛盾が文化への永続的な影響を生むとは考えにくい。懐疑論は個別に働くものであり、文化として蓄積するものではないからだ。」(135頁)ともある。「「ささなみ」=「楽浪」=「楽浪郡」」? という「懐疑論」は、日本書紀のような正史文書にはばかられ、口承文化のなかに残滓をとどめている所以である。
(注12)万250・3606番歌は、野島崎近辺のことを歌っている。前者は海路を、後者は陸路を進んでいる。ここは万3606番歌の仮名表記からスグと訓む。万250番歌において、船はどんどん進んで行くなか歌を詠んでいる。船は野島崎に近づきはするが上陸することはないだろう。岩礁が危険だからである。
 「右三首過鞆浦日作歌」(万448左注)とあって「鞆浦」に寄港しており、スグと訓むべきと考えられる。ヨキルと訓むことに抵抗があるのは、「天平二年庚午冬十二月、大宰帥大伴卿向京上道之時作謌五首」(万446題詞)中の歌であり、「右二首、過敏馬埼日作謌」(万450左注)ともあって、通過地点であると考えたほうが無難だからである。船に乗っている人の中で一番偉い客であったとしても、ちょっと物見遊山に進路を変更してくれ、上陸させてくれと、船長に言えるものではない。
(注13)西大寺本金光明最勝王経と景行紀四十年是歳条の例は、➀➁のいずれにも解釈可能であり、辞書に➀ととる説と➁ととる説がある。スグに、停止しない意があると考えると、伊勢神宮の前を通り過ぎつつ拝むというのは、鳥居から中に入らないで拝むという忙しい現代人の参拝方法になる。
 なお、伊藤1983.に、万29番歌の題詞の「過」は、「集中の他の題詞や左注の「過」の字を検討するに、やはり「立ち寄り(見)つつ通過する」意に解するのが穏当だと思う。」(131頁)とある。それに従う注釈書も多く見られるが、語義を理解しているように見受けられない。ヨキルという語はもとからあるヤマトコトバである。「「く」の再活用語であろう。「よき」「よき」という語もある。……道の途中で立寄る。また途中で通り過ぎることをいう。「く」の関係からいえば、目的のところに直行せずに、何らかの理由でわき道する意である。」(白川1995.784頁)。
(注14)万葉集の題詞に、「過」という字は全部で14例あるが、通過(万794、万942、万1800、万3638、万4159)、経過(万886、万3967)、超過(すぐれる、まさる)(万802、万3973)の意味が多く、寄り道して立ち寄る意味のヨキルの例としてあげられるのは、最大限次のものであろうか。

 過勝鹿真間娘子墓時、山部宿祢赤人作謌一首〈并短謌〉〈東俗語云、可豆思賀能麻末能弖胡〉(万431題詞)
 過敏馬浦時、山部宿祢赤人作謌一首〈并短謌〉(万946題詞)
 過敏馬浦作謌一首〈并短哥〉(万1065題詞)
 過葦屋處女墓時作謌一首〈并短謌〉(万1801題詞)

 第二・三例の「敏馬浦みねめのうら」の歌は、散歩に出かけて行って海人の様子を見ている風情がある。第四例は、巻九の「挽謌」のなかにあり、ひとつ前の「過足柄坂死人作歌一首」(万1800題詞)と似たような意味合いなっているが、この場合、「足柄坂」を通過することは当初から旅程の中に入っており、通っていたらたまたま「見死人」ことになったので歌を作ったという意味であろう。一方、「葦屋處女墓」の歌は、そのあたりを通過して長歌と短歌二首を作ったというのではなく、第一例と同じく、お墓があるからお参りしようと出掛けた時に歌を作ったという意味であろう。「葦屋處女墓」を「過」ぎてから先どこへ行こうというものでもないので、ヨキルと訓むのが正しいと考える。
 なお、辰巳1987.に、「人麻呂以後に墓下の作や景勝地での作に「過」を用いるのも、……中国詩の「過」の文学的形態に含まれる作品であることは確かであろう。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3132454/50)とある。題詞と歌との関係は見なければならないが、題詞と中国詩との関係を見なければならないとは筆者は考えない。中国ではそう書いているから、それに倣ってお題を書いておけば良かろう程度のことであると考える。
(注15)拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」参照。
 第二反歌に、詠作者の人麻呂ら一行が船に乗って行こうとしているとする説(江富2016.13頁)があるが、趣味が悪いと思われる。竹生・西2006.は疑問を呈するが、「大わだ淀むとも」とは白村江河口の潮流のことを暗示した表現であり、流れが止まっていたらあれほどみじめ敗戦にはならなかったと「修辞的仮定」(大系本萬葉集333頁)により言い表している。日本書紀などにどこにもそのように記されてはいないが、誰しもが言い「淀む」ことであったに違いあるまい。
(注16)拙稿「乙巳の変の三者問答について」参照。
(注17)他に、今日「いにしへびと」と訓んでいる例が一つある。

 まよ掻き 下いふかしみ 思へるに 古人いにしへびとを 相見つるかも〔眉根掻 下言借見思有尓去家人乎相見鶴鴨〕(万2614)
  或る本の歌に曰ふ、眉根掻き 誰をか見むと 思ひつつ 長く恋ひし 妹に逢へるかも〔或本哥曰眉根掻誰乎香将見跡思乍氣長戀之妹尓相鴨〕
  一書の歌に曰ふ、眉根掻き 下いふかしみ おもへりし 妹が容儀すがたを 今日見つるかも〔一書歌曰眉根掻下伊布可之美念有之妹之容儀乎今日見都流香裳〕(万2614)

 この歌は、昔なじみの人という意味で「いにしへびと」と訓み、家から去っていった夫のことを言うとされているが、中古・中世に例がなく、不審とする向きもある。他に用例がないのであれば、「にし家人いへびと」と訓むことも気にならない字余りなので可能である。「家人いへびと」は、召し使いの下男や下女のことばかりでなく、夫・妻のことも指して使われている。

 家人は 帰りはやと 伊波比いはひしま いはひ待つらむ 旅行くわれを〔伊敝妣等波可敝里波也許等伊波比之麻伊波比麻都良牟多妣由久和礼乎〕(万3636)

(引用・参考文献)
青木1998. 青木生子「柿本人麻呂の歌の原点─「いかさまに思ほしめせか」をめぐって」『青木生子著作集 第4巻─萬葉挽歌論─』平成10年。
伊藤1983. 伊藤博『萬葉集全注 巻第一』有斐閣、昭和58年。
江富2016. 江富範子「楽浪の歌─近江荒都歌第二反歌をめぐって─」『国語国文』第85巻第7号(983号)、臨川書店、平成28年7月。
木下1962. 木下正俊「『なに』と『いかに』と」『萬葉』第44号、昭和37年7月。萬葉学会HP http://manyoug.jp/memoir
神野志1992. 神野志隆光『柿本人麻呂研究』塙書房、1992年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
コナトン2011. ポール・コナトン著、芦刈美紀子訳『社会はいかに記憶するか─個人と社会の関係─』新曜社、2011年。(Connerton, Paul. 1989. How Societies Remember, Cambridge University Press, England.)
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
竹生・西2006. 竹生政資・西晃央「びわ湖の環流と柿本人麻呂の近江荒都歌」『佐賀大学文化教育学部研究論文集』第11巻第1号、2006年9月。佐賀大学機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1730/00018447/
辰巳1995. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3132454
寺尾2017. 寺尾登志子「人麻呂の近江荒都歌をめぐって─作者の創意と時代背景─」『専修大学人文科学研究所月報』第283号、2017年5月。専修大学学術機関リポジトリ http://doi.org/10.34360/00007029
寺川2003. 寺川眞知夫「近江荒都歌─その表現の背景─」『万葉古代学研究年報』第一号、奈良県立万葉文化館、2003年3月。奈良県立万葉文化館 http://www.manyo.jp/ancient/report/
土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。
森2003. 森公章「倭国から日本へ」森公章編『日本の時代史3 倭国から日本へ』吉川弘文館、2003年。
渡瀬2003. 渡瀬昌忠『渡瀬昌忠著作集 第七巻』おうふう、2003年。

加藤良平 2021.4.30改稿初出

佞人(ねぶひと)を謗る歌(万3836)

 万葉集巻十六、3836番歌は「ねぢけびとそしる歌」とされている。

  ねぢけびとそしる歌一首〔謗侫人歌一首〕
 奈良山の 児手柏このてがしはの 両面ふたおもに かにもかくにも ねぢけびととも〔奈良山乃兒手柏之兩面尓左毛右毛侫人之友〕(万3836)
  右の歌一首は、博士はかせなのぎやうもんの大夫まへつきみ作れり。〔右歌一首博士消奈行文大夫作之〕

 本文校訂により、「俀」字を尼崎本などにより「侫」(「佞」の俗字)に改めている。
 これが理解を阻む原因となった(注1)
 「佞人」ではなく「俀人」であったなら、「倭人」のことになる。魏志に「倭人」とあったのを、隋書では「俀人」としている。歌の作者、博士はかせなのぎやうもんは大学寮の教員を勤めた養老年間の学者であり、新羅の人であった。すなわち、「倭人」の特徴を捉えて歌を作っていると解し得るのである。
 康煕字典に、「俀」は「集韻、吐猥切、音腿。シナヤカ也。」とある。ヤマトの人のことを中国では「倭人」「俀人」としている。「倭」については、説文に「倭 したがかほなり、人に从ひ委声。詩に曰く、周道倭遲ゐちたり。」とあり、しなだれるような姿を特徴として捉えていたということのようである。
 歌にはなぜか「児手柏このてがしは」が持ち出されている。葉が縦に立っていて、左右どちらが表とも裏とも言えない。そこで、八方美人に振舞う喩えとして使われている。他の似たような葉ではなく、コノテガシハが選ばれている。カシハ(柏)の類であることが求められているものと思われる。カシハ(柏)は、葉が大きく、神事においてなどに料理をよそう器として利用された。だから、料理人のことを膳夫かしはでという。カシハデには拍手かしはでの意もある。神さまの前で拍手を打って挨拶する。儀式的には二礼二拍手一礼をとることが多く、四拍手することもある。一般には、二回手を打ち合わせて頭を下げて拝むことが多い。この拍手の挨拶は、倭人の慣行として中国、東アジアに知られていた。魏志倭人伝に、「大人のうやまへるにふときは、但だ手をちて以てはいに当つ。(見大人所敬、但搏手以当跪拝。)」とある。「搏手」=拍手の礼は我が国独自の法である。
 周礼・春官・大祝に「辨九拝、一曰稽首、二曰頓首、三曰空首、四曰振動、五曰吉拝、六曰凶拝、七曰奇拝、八曰褒拝、九曰粛拝、以享右祭祀。」とある。その「振動」の語について、鄭玄の注に「動読為董、書亦或為董、振董、以両手相撃也」、唐初の陸徳明の釈に「振動、如字李音董、杜徒弄反、今俀人拝、以両手相撃、如鄭大夫之説、蓋古之遺法。」とある。唐初においても、拍手礼が倭人特有の儀礼であると考えられていたようである(注2)。下記の例、大安寺資財帳の例は、筑紫朝倉宮で病に倒れた斉明天皇が百済大寺の造営を中大兄に託して崩御した時の記事である。

 爾の時に、手をちて慶び賜ひてかむあがり賜ひき。(爾時手柏(拍)慶賜而崩賜之)(大安寺伽藍縁起并流記資財帳)
 公卿まへつきみ百寮つかさつかさ、羅列あまねをがみたてまつりて、手つ。(持統紀四年正月)
 乙酉、参河国みかはのくにまをさく、「慶雲けいうんあらはる」とまをす。ほふし六百口をくつして西宮さいくう寝殿しむでん設斎をがみす。慶雲見るるを以てなり。是の日、りよの進退、また法門ほふもんおもぶき無し。手を拍ちて歓喜くわんきすることもは俗人ぞくじんに同じ。(続紀・神護景雲元年八月)

 日本在来の儀礼として、慶賀・歓喜を表現するのに拍手礼が行われていたことを示している。これが新羅人の消奈行文(注3)には珍しかったから歌に詠んでいる。彼は新羅から来日する前に、漢籍を読んで倭国のことを勉強していたのだろう。文献にはほかにも次のようにも書いてある。

 俗はばん無く、くにかしを以てす。食ふに手を用ゐてくらふ。(俗無盤爼、藉以檞葉、食用手餔之。)(隋書・俀国伝)

 俀人はカシハを食器にして手づかみで食べているという。実際に目にしてみると少し事情は異なるが、勉強した本の内容が完全に誤りであったわけではなさそうである。書物には祭祀場面ばかり重視して書いてあったということのようである。多少のギャップを埋めるべく、頓智を利かせた歌を詠もうとした。漢籍に「俀人」と書いてあったことを「そしる歌」としている。単にそういう人をけしからんと言っているのではなく、ヤマトの人のことをそのように記していることが不親切だと指摘しつつ、当然ながら人前で座興として歌を歌うのだからおもしろくなくてはならない。歌の勘所は頓知にある。
 「倭人」≒「俀人」である。ヤマトの人は礼をして頭を下げたり上げたりしつつパチパチと手を叩いている。「俀」という字は、人偏に妥の旧字体である。礼の仕方として「妥」という言葉は使われている。「天子にはることかふよりのぼらず、おびよりくださず。国君には妥視だしし、大夫にはかうし、士には視ること五歩ばかりす。(天子視不上於袷、不下於帯。国君、妥視、大夫、衡視、士視五歩。)」(礼記・曲礼下)とある。「妥」は「綏」の意である。えりもとの上あたりを見ることを言った。挨拶の礼として頭を下げたり上げたりしている。そういう人たちなのだというのが、「俀人」と記された理由なのだろうと解釈している。
 そして、手を拍つ様子を植物のコノテガシハと絡めて語るとするならば、葉がどちらからも表となって剥げないのとは異質な状態、手を打ち合わせるように葉を合わせて裏だけになる植物のことを思い浮かべて対比させていると考えられる。ネムノキである。ネムノキは夜になると葉を閉じて眠る。古語ではネブリ、ネブリノキ、ネブと言った。ネムノキのことを「合歓木」と記すところは、歓喜を表すのに拍手礼が行われていたことをよく表すものである。拍手かしはでを打って手を合わせるように寝ている。

 昼は咲き 夜は恋ひる 合歓木ねぶの花 君のみ見めや 戯奴わけさへに見よ(万1461)
 合歓樹 无採時、祢夫利ねぶり(新撰字鏡)
 合歓木 唐韻に云はく、棔〈音は昏、禰布利乃岐ねぶりのき〉は合歓木、其の葉は朝に舒び暮にをさむる者なりといふ。(和名抄)
 眲 莫卑反、眠也、目合也、祢夫留ねぶる、又伊奴いぬ(新撰字鏡)
 ひてねぶる。(神代紀第八段本文)
 既にして穴穂あなほの天皇すめらみこと皇后きさきの膝に枕したまひて、昼ひて眠臥みねぶりしたまへり。是に、眉輪まよわのおほきみ、其の熟睡とけてみねませるを伺ひて、刺しせまつれり。(雄略前紀安康三年八月)
 猿、なほ合眼ねぶりて歌ひて曰はく、……(皇極紀三年六月)

左:コノテガシワ、右:ネムノキ(夜間)

 すなわち、万3836番歌は、「倭人」≒「俀人」がお辞儀をしたり手を叩いたりする礼について、居眠りをしては手を叩いて起こそうとしている、または、それでも上瞼と下瞼がついて寝入りそうになるうところと見て取ったのである。ヤマトの人はカシハデを重んじている。神さまに祈りを捧げる時、拍手を打ち、膳夫にお供えを作らせ、串を使って柏の葉を器の形に象って饌物を供えている。拍手を打ってお祈りをするのにどこの神さまと分け隔てすることなく、その時その時で都合のいい神さまに対して「両面ふたおもに」お願いをしている。その都度お辞儀をして手を打っていて、その都度居眠りをしては手を打って起きている。ことほど左様に「かにもかくにも」、「倭人」は眠くてたまらない「俀人ねぶひと」なのだと洒落ている。その一大集団がヤマトの人である。ヤマトの人たちは本に書いてあったように、「俀人ねぶひととも」だと気づいたというのである。

  俀人ねぶひとそしる歌一首
 奈良山の 児手柏このてがしはの 両面ふたおもに かにもかくにも 俀人ねぶひととも〔奈良山乃児手柏之両面尓左毛右毛俀人之友〕(万3836)
  ヤマトの人のことを隋書に「俀人」と書いてあるところから着想を得たが、「俀人」の意味するところの居眠りする人のことを感心しないと思う歌
 奈良山のコノテガシワが両面とも表を見せるのと同じように、膳夫が料理を供えては拍手を打ってはお辞儀するのがヤマトの人の習わしのようだが、その仕種、実際のいずれにせよ、居眠りをこいている人ばかりの集団のようになっていて東アジア世界で浮いていないかなあ。

(注)
(注1)「佞人」をネヂケビトと訓むと字余りになるから、他の訓み、コビヒト、カダヒト、また、音読みしてネイジンも試みられている。
 「ねぢけびと」に限らずいずれの訓みでも、皆、権力者に対して媚びへつらい、あちらにもこちらにもいい顔をする人のこと、右顧左眄のおべっか野郎の意味と捉えられ、それを揶揄、非難する歌であろうとする解釈は定着している。「なら坂や児の手がしはのふたおもてとにもかくにもねぢり人かな」(南都名所集)、「奈良坂や児の手柏の二おもてとにもかくにも侫人ましけひとかな」(南都名所八重桜)などへと流伝している。
(注2)西本1987.に負っている。西本氏は内裏儀式の「両段再拝・拍手・揚賀声」が内裏式で「再拝・舞踏・称万歳」へと変わっていることを指摘している。
(注3)又詔して曰はく、「文人ぶんじん武士ぶしは国家の重みする所なり。……百僚きやくれうの内より学業がくげふ優遊いういうし師範とあるに堪ふるひとぬきいだして、こと賞賜しやうしを加へて後生こうせいを勧めはげますべし。」とのたまふ。因りて、……第二の博士正七位上背奈せな行文かうぶん・……に、各あしぎぬ十五疋、糸十五絇、布卅端、鍬廿口。(続紀・養老五年正月)
 従五位下大学助背奈王行文 二首(懐風藻)

(引用・参考文献)
白川・字通 白川静『字通』平凡社、1996年。
西本1987. 西本昌弘「古礼からみた内裏儀式の成立」『史林』第70巻第2号、1987年3月。京都大学学術情報レポジトリ http://hdl.handle.net/2433/238914
橋本2006. 橋本亜佳子「佞人を「謗る」歌─萬葉集巻十六・第二部の題詞の特質─」『古代中世文学論考 第17集』新典社、平成18年。
山﨑2024. 山﨑福之「「佞人」とネヂケビト」『萬葉集漢語考証論』塙書房、2024年。
※上記、橋本氏、山﨑氏が引く参考文献は割愛した。「佞人」ではなく「俀人」について論じた。

加藤良平 2024.12.19初出

大伴家持の「亡妾」歌(万462)─夏六月に秋風が寒く吹く理由を中心に─

 大伴家持がまだ若い頃に「妾」を亡くして詠んだとされる歌が万葉集の巻三に載る。万462番歌を皮切りに、弟の書持の「即和歌」一首を含めて万474番歌まで計十三首(長歌一首)あり、家持は深い悲嘆に暮れたと捉える見方が大勢を占めている。ここでは、そのうち最初の四首をあげる。歌い始めの最初の歌、万462番歌を詳しく読み解くためである。

  十一年己卯の夏六月みなつき大伴おほともの宿禰すくね家持やかもちの、みまかりしをみなめ悲傷かなしびて作る歌一首〔十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首〕  今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長きむ〔従今者秋風寒将吹焉如何獨長夜乎将宿〕(万462)
  おと大伴宿禰書持ふみもちの即ちこたふる歌一首〔弟大伴宿祢書持即和謌一首〕  長きを ひとりやむと 君が言へば 過ぎにし人の おもほゆらくに〔長夜乎獨哉将宿跡君之云者過去人之所念久尓〕(万463)
  又、家持の、みぎりの上の瞿麦なでしこの花を見て作る歌一首〔又家持見砌上瞿麦花作謌一首〕
 秋さらば 見つつしのへと いもゑし 屋前やど石竹なでしこ 咲きにけるかも〔秋去者見乍思跡妹之殖之屋前乃石竹開家流香聞〕(万464)
  つきたちに移りて後に、秋風を悲嘆かなしびて家持の作る歌一首〔移朔而後悲嘆秋風家持作謌一首〕  うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒み しのひつるかも〔虚蟬之代者無常跡知物乎秋風寒思努妣都流可聞〕(万465)

 書持の万463番歌の一・二句目にある「長きひとりやむ」は、家持の万462番歌の四・五句目の「いかにかひとり長きむ」を受けて言い換えているだけである。亡くなった人のことが思われるねえ、と言ったところで、そもそも家持は「悲-傷亡妾作歌」を歌っているのだから当たり前のことをくり返しているだけである。兄貴、あなたが寝られないと訴えている理由がわかるよ、亡くなったあの娘のことが自然と思われるよ、と同情した、それをわざわざ歌に拵えて周囲に聞かせたというのだろうか。書持の歌の意図は理解できないし、言語芸術になっていないことになる(注1)
 最初の一首に疑問がある。題詞に、夏六月のこととされながら歌詞に「秋風」とある。大切な人を亡くしたから夏でもうすら寒い風が吹いたと感じられたのだろうとか、暦のめぐりあわせだろうと考える向きがある(注2)。個人的な感慨は思うのは勝手でも、歌に作り声に出して訴えられたら心理カウンセリングの対象としなければならない。弟の書持はそこに狂気も不自然さも感じずに「即和歌」を作っている(注3)。暦意識が根づいていてその妙を捉えた歌とするなら、書持もそれに倣っていていいはずだがそうはしていない。そして、万465番歌に至っては、「移朔而後、悲-嘆秋風」と、性懲りもなく再び「秋風」の寒いことを歌っている。「移朔」、つまり、月が改まって秋七月一日になったら「秋風寒み」と詠んでも何の不思議もない。
 そうなると、夏六月時点での万462番歌は、暦の話ではなく特別な修辞によって歌が作られていると考えなければならない(注4)。聞いている人がすぐにわかることが歌われている。相手が、そして周囲の人が理解できないことが仮に歌われたとしても、そのようなものはすぐに忘れられるから万葉集に残されることはない。
 どういう状況のもと歌われたかは題詞に明記されている。題詞は歌の設定、枠組みを示すために置かれている。
 ヲミナ○○メ(妾)のことをミナ○○ツキ(六月)に歌っている。ミはともに甲類である。ミナという言葉が歌の全編を覆う仕掛けということだろう。ミナ(ミは甲類)には蜷という言葉がある。今日、ニナと呼んでいる巻貝である。巻貝のことを連想しているのは、マク(巻、纏)という動詞を意識してのことと考えられる(注5)。共寝することをマクと言った。歌っているのは大伴さんである。オホトモなのだから、トモに寝ることに齟齬はない。共寝、つまり、纏くみなに当たるヲミナ○○メ(妾)が突然亡くなった。ミマカル(亡)という言葉も、ミ(身、ミは乙類)+マカル(罷)の意で、マカル(罷)はマク(任)と同根の言葉である。ミナ○○ツキ(六月)なのに纏いて寝る相手がいなくなって独り寝を強いられている。そのことを歌っているのである。
 人が亡くなっているのをネタにして駄洒落の歌を歌っている。倫理的にどうなのかと思うかもしれないが、この「をみなめ」が家持とどのような関係にあったのかについては議論がある(注6)。実際に男女の関係にあったかは推測の域を出るものではない。家持が独り寝のことを歌っているからと言って、家持が実際にこのをみなめと共寝をしていたという証拠にはならない。なにしろ家持は、一連の「亡妾」の歌の冒頭で駄洒落の歌を歌っている。考え方によっては、身分が低く名も明かされないをみなめのことを追悼するのに歌に作って歌うということは、良い供養であると思われたかも知れないのである。
 廣川2003.は宴席の場での歌だとしている。万462・463番歌は宴の晩に詠まれたものであろう。家持が、今からは秋風が寒く吹くことだろうよ、どうやって一人で長い夜を寝るつもりなのか、寝ないで宴を楽しもうよ、と歌ったのに対して書持は、長い夜を一人で寝るのか、いやいや寝ることなんてできないよ、蜷を食べていると亡ったを妾のことが自然と思い出されるもの、と答えている。楊枝のようなもので一生懸命にくるくるっと巻きながら「みなわた」(万804・1277・3295・3649・3791)(注7)を引き出していたところだったらしい。一人で寝られないとは、宴会で酒を飲んで酔っぱらい、寝そうになっている参加者を無理やり起こしていたということである。家持は最初の歌で、今、お配りしたのは蜷ですよ。宴も酣ではございますが、夜も押し詰まって参りますと六月なのに季節外れの秋風が寒く吹くことでしょうから、と言っている。亡くなった妾を弔うために、この長い夜、一人で寝るなんてことできないでしょう、いつまでも起きていて飲み明かしましょう、と盛り上げようとしていたのであった。  家持は地口、駄洒落で歌を作り、その意図が書持にも伝わり「即和歌」し、二人とも歓喜している。ミナ(ミは甲類)のことを言っているのだね、と書持がピンと来て「即和歌」して言語芸術は成立し、万葉集はその歌を収録している。万葉歌は知的な言語ゲームの成果であった(注8)

(注)
(注1)秋風が吹いたら悲しくなるものだ、という日本的情緒(?)がこの歌で初めて表明されたのだといった感想は現在も語られるが、実証的でなく、学問の名に値しない。上野誠「『万葉集』はいかなる歌集か…日本文化+中国文明=万葉集?」(テンミニッツTV – 1話10分で学ぶ大人の教養講座) https://www.youtube.com/watch?v=M-BRU6YPc24 (10:04~10:21、2024年12月25日閲覧)参照。
(注2)この天平十一年は、暦の上で六月二十四日が立秋のため、暦月と節月のずれを述べているとする見解(大濱1991.や廣岡2020.)がある。「年のうちに 春はにけり ひととせを 去年こぞとやいはむ としとやいはむ」(古今集1)と同様だと考えるわけだが、題詞に「ふる年に春たちける日よめる」と断られている。家持にはホトトギスの歌をはじめ暦に基づいた歌があるが、その場合も題詞などに明記されている。そうしないと歌意がわからないからである。
(注3)廣川2003.は、「即和歌」とある場合、儀礼や宴席という場が存在するという。
(注4)鉄野2017.は、暦の上での立秋によって歌っているとする説を追認し、「父旅人の歌の表現や方法を踏襲し、それを露わに見せながら、一方ではそれと異なって、季節やそれによる景物の変化とともに妻の死を捉えようとする姿勢が見られる。」(8頁)という。
(注5)古典基礎語辞典には、「まく【負く】自動カ下二/他動カ下二 解説 マクは上代・中古で「負」「敗」「纏」「蜷」の訓として使われる。マク(負く)とマク(巻く)とは共に『名義抄』によるアクセントが「上平」で語源が同じ。マク(負く)はマク(巻く、カ四)の受身形で、相手の力に巻き込まれること、圧倒され動きがとれなくなることが原義。」(1103~1104頁。この項、須山名保子)とある。
(注6)この歌群については虚構論議が行われた。例えば中西1963.に、「第三者の「亡妾」であったか、全く架空であったかは不明だが、少くとも家持自身の事ではなかろうと考える。」(451頁)とある。現在、「亡妾」は実在したのか、家持との関係はいかなるものか、という事実をめぐる議論は下火となっている。例えば、鉄野2017.は、家持との間に「若子みどりご」(万467)を成しているはずとの立場から、「思うに、妻のような身近な人の死を悲しむ情は、時を経て初めて歌いうるのではないだろうか。死別の直後の悲哀は、後から振り返って自らを造形し直す以外には表現しえない。」(17頁)という。
(注7)「みなわた」は枕詞で「か黒き髪」を導いている。実体として使われている言葉ではないものの、身近な存在だったから形容するために用いられたのだろう。
(注8)歌人大伴家持について、その経歴と歌作とを結びつけて考えようとする傾向が強くなっている。しかし、そのようなことは可能なのか、また、有効なのか。現今でもドラマや舞台で活躍する俳優や、ライブや配信で人気の歌手がいる。顔、声、演技、歌唱に魅せられることがあるが、その人の真の人柄を知らないことも多い。親戚でも近所に住んでいるわけでもなく、会ったことすらないのがほとんどである。彼ら彼女らの実生活とその表現との間に強いて関連するところを探ることなど、週刊誌的、パパラッチ的、SNS的関心でしかないのではなかろうか。万葉集研究は変な方向へ向いていないだろうか。

(引用・参考文献)
有木1970. 有木節子「「亡妾歌」の真実─家持文学のアプローチとして─」『国文目白』第9号、1970年1月。
大濱1991. 大濱眞幸「大伴家持作「三年春正月一日」の歌─「新しき年の初めの初春の今日」をめぐって─」『日本古典の眺望 吉井巖先生古稀記念論集』桜楓社、平成3年。
小野寺1972. 小野寺静子「「悲傷亡妾歌」歌」『国語国文研究』第50号、北海道大学国語国文学会、昭和47年10月。
倉持・身崎2002. 倉持しのぶ・身崎寿「亡妾を悲傷しびて作る歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐藤1993. 佐藤隆『大伴家持作品論説』おうふう、平成5年。
鉄野2017. 鉄野昌弘「結節点としての「亡妾悲傷歌」」『萬葉』第224号、平成29年8月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2017
中西1963. 中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、昭和38年。(『万葉論集 第一巻 万葉集の比較文学的研究(上)』講談社、1995年。)
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
橋本2000. 橋本達雄『万葉集の時空』笠間書房、2000年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。(「家持の亡妾悲傷歌─作品形成における季の展開について─」『三重大学日本語学文学』第4号、1993年5月。三重大学学術機関リポジトリ http://hdl.handle.net/10076/6466
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院文学研究科、2003年。
松田2017. 松田聡『家持歌日記の研究』塙書房、2017年。(「家持亡妾悲傷歌の構想」『国文学研究』第118巻、1996年3月。早稲田大学リポジトリ http://hdl.handle.net/2065/43573
身﨑1985. 身﨑壽「「家持の表現意識─「亡妾悲傷歌」を例として─」『日本文学』第34巻第7号、日本文学協会、1985年7月。J-STAGE https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.34.7_23
森2010. 森斌『万葉集歌人大伴家持の表現』溪水社、平成22年。(「大伴家持亡妾を悲傷する歌群の特質」『広島女学院大学日本文学』第15号、2005年12月。広島女学院大学リポジトリ https://hju.repo.nii.ac.jp/records/567

加藤良平 2025.1.2初出

家持の立山の賦と池主の敬和賦

 万葉集巻十七に、大伴家持と池主との間で交わされた、越中国の立山にまつわる歌のやりとりが載っている。当時はタチヤマと呼ばれていた。

  立山たちやま一首〈并せて短歌、此の立山は新川郡にひかはのこほりに有るぞ〉〔立山賦一首〈并短謌 此立山者有新川郡也〉〕
 天離あまさかる ひなに名かす こしなか 国内くぬちことごと 山はしも しじにあれども 川はしも さはけども 皇神すめかみの うしはきいます 新川にひかはの その立山たちやまに 常夏とこなつに 雪降りしきて ばせる 片貝川かたかひがはの 清き瀬に 朝夕あさよひごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや ありがよひ いや年のはに よそのみも 振りけ見つつ 万代よろづよの かたらひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて ともしぶるがね〔安麻射可流比奈尓名可加須古思能奈可久奴知許登其等夜麻波之母之自尓安礼登毛加波々之母佐波尓由氣等毛須賣加未能宇之波伎伊麻須尓比可波能曽能多知夜麻尓等許奈都尓由伎布理之伎弖於婆勢流可多加比河波能伎欲吉瀬尓安佐欲比其等尓多都奇利能於毛比須疑米夜安里我欲比伊夜登之能播仁余増能未母布利佐氣見都々余呂豆餘能可多良比具佐等伊末太見奴比等尓母都氣牟於登能未毛名能未母伎吉氐登母之夫流我祢〕(万4000)
 立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず かむからならし〔多知夜麻尓布里於家流由伎乎登己奈都尓見礼等母安可受加武賀良奈良之〕(万4001)
 片貝かたかひの 川の瀬清く く水の 絶ゆることなく ありがよひ見む〔可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由流許登奈久安里我欲比見牟〕(万4002)
  四月二十七日に、大伴宿禰家持作れり。〔四月廿七日大伴宿祢家持作之〕

  立山たちやまの賦をつつしみてこたふる一首、并せて二絶〔敬和立山賦一首并二絶〕
 朝日さし そがひに見ゆる かむながら 御名みなばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま 冬夏と くこともなく 白栲しろたへに 雪は降り置きて いにしへゆ ありにければ こごしかも いはかむさび たまきはる いくにけむ 立ちてて 見れどもあやし 峰だかみ 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内かふちに 朝去らず 霧立ちわたり 夕されば くもたなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひすぐさず く水の 音もさやけく 万代よろづよに 言ひ継ぎかむ 川し絶えずは〔阿佐比左之曽我比尓見由流可無奈我良弥奈尓於婆勢流之良久母能知邊乎於之和氣安麻曽々理多可吉多知夜麻布由奈都登和久許等母奈久之路多倍尓遊吉波布里於吉弖伊尓之邊遊阿理吉仁家礼婆許其志可毛伊波能可牟佐備多末伎波流伊久代經尓家牟多知氐為弖見礼登毛安夜之弥祢太可美多尓乎布可美等於知多藝都吉欲伎可敷知尓安佐左良受綺利多知和多利由布佐礼婆久毛為多奈毗吉久毛為奈須己許呂毛之努尓多都奇理能於毛比須具佐受由久美豆乃於等母佐夜氣久与呂豆余尓伊比都藝由可牟加波之多要受波〕(万4003)
 立山に 降り置ける雪の 常夏に ずてわたるは かむながらとそ〔多知夜麻尓布理於家流由伎能等許奈都尓氣受弖和多流波可無奈我良等曽〕(万4004)
 落ちたぎつ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も まず通はむ〔於知多藝都可多加比我波能多延奴期等伊麻見流比等母夜麻受可欲波牟〕(万4005)
  右は、じょう大伴宿禰池主和へたり、四月二十八日〔右掾大伴宿祢池主和之四月廿八日〕

 家持が「立山たちやま(注1)として作った万4000番歌は、これまで立山を賞讃する歌であるとばかり思われ、都から離れた鄙の地にありながらそれなりの素晴らしさを述べているものと考えられてきた。二上山の賦の流れを汲んでいるとも、人麻呂等によって歌われたいわゆる吉野讃歌や、赤人の「望不尽山歌」(万317〜318)、「登神岳歌」(万324〜325)の表現を踏襲しているとも捉えられている(注2)
 もし仮にそうであったとしたら、これら立山を詠んだ歌には歌としての新鮮味はなく、前作を凡庸に引き継ぎながら立山を対象に替えて詠んだに過ぎないことになる。しかし、そのようなことは考えにくい。歌は、その時その場において声として発せられたものである。テーマを変えながら同じようなことを言っているだけだとしたら、作者も、その歌を周囲で聞いた人も、ましてその歌に対して敬して和した歌を歌った人も、それまでも周りで聞かされている人も、漫然と替え歌のど自慢を耳にしているだけということになる。耐えられない退屈さである。おもしろくないことは覚えられることはなく、編纂したとされる人は最初の歌を作った家持であるとされるが、誇りをもって自身の作を採録することはないだろう。

 何がおもしろかったか。万葉の歌は言葉遊びである場合がきわめて多いから、それがおもしろかったのであろう。最初の万4000番歌の長歌後半部分に、歌句に現れていて明らかである。「万代よろづよの かたらひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて ともしぶるがね」。タチヤマという言葉を告げれば羨ましがること間違えなしと言っている。言葉が問題なのであって実景など適当に見繕っている程度ということになる。当該歌群はこれまで十分に理解されてこなかったのである。  最初の「立山賦一首」(万4000)の題詞には「此立山者有新川郡也」(注3)と脚注があって殊更に強調されている。歌のなかで出てくる地名としては、「こしなか」、「新川にひかは」、「立山たちやま」、「片貝川かたかひがは」がある。これらの地名に関連した語呂合わせが行われていると考えられる。
 最初の「こしなか」は越中国のことで言わずもがななのであるが、解釈が定まっているわけではない。「天離あまさかる ひなに名かす」はどこに懸かっているのかが問われている。「懸かす」の「「す」は「こし」の国の神に対する尊敬語。」(集成本98頁)なる説がある。そして、「立つ」ということを名に懸けて、名高い、の意ゆえ「その立山の」に掛かるとする説(橘千蔭・万葉集略解所引の本居宣長説(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/874431/1/145)、大系本229頁、全集本214頁、中西1983.121頁、橋本1985.239〜240頁、多田2010.312頁、新大系文庫本387頁、稲岡2015.230頁)があり、「以下九句は「その立山」を修飾する挿入句。」(多田2010.312頁)などと説明されている。他方、直下の「越の中」に掛かるとする説(契沖・萬葉代匠記(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979065/1/146)、鴻巣盛広・萬葉集全釈(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1259724/1/151)、武田1957.477頁、窪田1985.278~279頁、廣川2003.153〜154頁、阿蘇2013.221~222頁)がある。「「鄙に名懸かす」は、その地方で有名な、の意。」(阿蘇2013.222頁)などと説明し、「都から遠く離れた地方で名高い越の中の国の至る所に」(同221頁)と訳している。
 言葉尻というものがわかっていない。次の歌は、柿本人麻呂が作った明日香皇女への挽歌である。

 …… 御名みなかせる 明日香あすかがは ……(万196)

 名に負っている、の意である。万196番歌の場合のスは尊敬の助動詞ととれはするが、万4000番歌の場合は自発の助動詞と捉えたほうがいいだろう。名に負うことについては、固有名詞である地名は、根拠が先にあって名づけられたわけではなく、すでにそう呼ばれていたものに対してこじつけをして理解の足しにすることが行われた。すなわち、「ひなに名かす」とは、ひなという言葉に自発的にかっている、の意である(注4)。都ではなく鄙であるとは、都から国境を乗り越えてやってきたところのことである。乗り越えてやってくることは古語で「こし」というから、その名のとおり鄙に値するというわけである。鄙であることを地名「こし」は勝手に懸かっていると言っている。「ひなに名かす」は「こし」を導く枕詞的序詞とも呼び得るであろう。
 これは歌である。だらだらと言葉を発し続けている時、九句飛ばして懸かっていることはあり得ない。聞いている人のメモリー機能のキャパシティを超えている。「新川にひかはの その立山たちやまに」の「その」を九句飛ばしの理由、思い出させるための指示詞と捉える説もあるが、題詞の脚注に「此立山者有新川郡也」と念を押しているように、ニヒカハとタチヤマとの意外な結びつきを暗示するための言葉であろう。この続き方の所以として考えられることは、ニヒカハが、ニヒ(新)+カハ(革)、新しく鞣された皮革を示唆している点にある。新しく作った鞣革を使って作った鞘におさめて整ったタチ(大刀)、そのタチという音を持ったタチヤマ(立山)に、云々、と続いて行くということである。その前にあるのは「皇神すめかみの うしはきいます」である。ウシハクとウシ(牛)が出てきていて、牛革がイメージされていたのだとわかる。これによって、越中国の二つの地名の地名譚がなるほどと思われるのである。タチヤマ(立山)はニヒカハ(新川)の郡にあって然るべしということであり、ゆえに、「新川にひかはの その○○立山たちやまに」と強調して言っている。
 「常夏とこなつに 雪降りしきて」(注5)とあるのも、鞘の話をしているからである。サヤという音は、サヤ(清)、サヤカ(亮、涼)、サヤケシ(分明)などの意をも表す。サエ(冴)と同根の語で、冷たく、くっきりと澄んでいるさまをいう。冷たいから夏でも雪が降っておかしくないのであり、夏じゅう雪が消えないというのは印象的なできごとである。けっして消えることがなく、雪の存在がくっきりしている。それをサヤという状態言が表している。実際、雷鳥の生息域にある万年雪は氷河であることが確認されている。むろん、現実を写実的に表そうと意図したわけではないが、結果的に言葉巧みに言い当てている(注6)
 タチヤマという音は、タチ(大刀)が山のようにあることを言っている。同じ刀剣類でも諸刃のツルギ(剣)のことではなく、片刃の大刀である(注7)。越中国で立山(連峰)をめぐる川は片貝川である。カタ○○カヒカハの名のとおり、半分ぐらいしか立山をめぐっていない。川が交差して両側から包んでいるのでもなく、片側からしか流れていない、ないしは、その名を体するのに十分な流路を形成している。カタカヒの対義語はマガヒ(紛)である。マガフ(紛)という動詞のうち他動詞になると、入り乱れてあるものを他のものと見間違え、区別がつかなくなることの意になる。

 が丘に 盛りに咲ける 梅の花 残れる雪を まがへつるかも(万1640)

 マガフことがないのがカタカヒ状態である。二つの河川が交わる時、清流と濁流とが流れ込んでどちらの川の水であるか区別がつかなくなっていることがある。そういうことなく、上流から流れてきた水はどこの瀬をとってみても清らかなまま流れてきていると言っている。そして、そこから沸き立った霧も、けぶってよく見えずに紛うことへと影響を及ぼすことがない。なぜなら、タチヤマなのだから、そこの霧は必ずタツ(断、絶)に決まっているというのである。霧という言葉自体、キリ(切)と同音である。
 地名譚としてこのように定めてしまえば、「かたらひぐさ」(注8)として長く受け継がれ、皆羨ましがるであろうと述べている。「万代よろづよの かたらひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ」は、都へ帰って土産話にしようということではない。興味深いことに、「人にも告げむ」と意志を表しているが、何を告げるかと言えば、いま歌にしているその歌の内容をである。歌のなかで歌っていることをそのまま告げると歌っている。枠組みフレームを設けずに論理階型を撞着させたもの言いである。このようなパラドキシカルなもの言いこそ、ヤマトコトバの論理術の特徴である。ある言葉が別の言葉と同じ音だからということでこじつけてしまう思考をくり返していれば、言葉は入れ籠構造としながら表に現れることになり、メビウスの輪、クラインの壺のような様相を呈することになるのである。
 大伴家持の「立山賦」は立山の地名譚であった。中国詩文の「賦」は、万葉集の題詞において、いかにも万葉集らしく転義されて用いられている。立山の情景を歌い、讃えていつつ、その実、地名の由来を語呂合わせによるこじつけで新解釈として披露し、洒落が利いていておもしろいだろうと誇るものであった。ことことであり、その限りで誤謬なくカタル(語、騙)ることができた時、歌の場に居合わせた人たちは、言葉の魔術師にすべての興味を持って行かれたのであった(注9)

 池主の「敬和」した一首、万4003番歌については議論が絶えない。「朝日さし そがひに見ゆる かむながら 御名みなばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま」を考えるとき、朝日のさす方向と立山の方向とばかりを見比べて、背中の方に当たると考えて「そがひに」関係を理解しようとしている。しかし、歌われて宙に放たれる言葉の連なりにおいては人々のメモリーの容量を超えている。そんなに離れている言葉どうしだけを対比させることはあり得ない。「そがひに」は背反している状態のことを指している(注10)。何が背反しているのか。朝日がさし込んでいる方向と立山の見える方向とばかりでなく、「朝日さし」のサシ(刺)と「立山」のタチ(断)とである。立山はタチヤマ(大刀山)であると聞こえる。タチ(大刀)は刺すことを主眼に作られたものではなく、断ち切ることを主目的として作られた刃物である。その点が背反して見えることを「そがひに見ゆる」と言っている。「かむながら 御名みなばせる」とはもちろん「立山」という名のことを指している。実景として朝日はさしているのだろうが、それとは反対ごととしてタチヤマという名の山があり、日の差す方向とは違う方に見えている。その妙を示す言葉が「神ながら」である。神意のままに、の意であると無批判に受け止められているが、どこに神は存在すると考えているのだろうか。ヤマトコトバを第一に重んじた上代の人は、言葉のなかに神がいると考えた。もちろん、それぞれの言葉に恣意的に神が宿ると考えていたわけではなく、Aという言葉はどうしてそう言うのだろう、その音の意味するところは別の言葉Bでもある。すると、Aという言葉とBという言葉とはどこかに通底する意味合いを含んでいるはずだと、時には強引に理屈づけて考察に及んでいた。その時、考えオチとして頓知的解釈が成り立ったなら、なるほどヤマトコトバは神憑っていると納得し、それを「神ながら」と表現している。
 池主は家持のモチーフを敬んで受け継ぐ形で和える歌にしている。タチ(大刀)の山のことをさらに深めて言おうと試みている。家持は「霧」としていたが、池主は「雲」と変えている。名刀「あま叢雲むらくも(注11)のことを思い浮かべているものと思われる。「いにしへゆ ありにければ」という句が正しく成り立つためには、事実としてそうだというその土地の人の昔語りだけではなく、いにしへからの、今日、神話と呼ばれる言い伝えが必要である。「ありにけり」に推量を示す言葉は含まれていない。
 しかし、それは「あま叢雲むらくもつるぎ」であり、諸刃である。片刃のタチ(大刀)ではない。だからこそ、白雲を帯びていながらタチ(断、絶)てしまうところがあって、それこそがタチヤマ(立山)なのだと強弁している。白雲を断って、さらには突き抜けて、天に向けそそり立っている。遠く眺めてみると、なるほど言葉どおりにそうなっていて、白雲が何重にもかかるものの、その白雲を断って押し別けるように聳え立っている。すなわち、タチという一語(音)のもとにタチ(断)でありつつタチ(立)であるという、背反していながらも無矛盾な状態、すなわち、「そがひに」状態になっている(注12)
 「そがひに」という語を持ち出して長歌を作った作者、大伴池主の修辞力は、今日から見れば異常に優れていると思われるかもしれない。けれども、上代の人、少なくとも歌をやりとりしている家持と池主、ならびにそれを聞いている人たちは、その時、その場で難なく理解したことであろう。つまり、理解を超えたものではなかった。うまくできているなと感心されはしても、それ以上のものではない。なぜなら、それ以前に誰かが、背反性、裏腹性を示す「そがひ(に)」という言葉を考案した時点で、すでに考え済みのことだからである。言葉の核心を突いてうまく応用して使っているから、おもしろいと思われ、皆が興ずることができたのである。

 二首ずつ付けられている短歌(絶)も形、内容とも「敬和」して対称形を成している。

 立山たちやまに 降り置ける雪を 常夏とこなつに 見れども飽かず かむからならし(万4001)
 立山に 降り置ける雪の 常夏に ずてわたるは かむながらとそ(万4004)

 五句目の「かむからならし」、「かむながらとそ」の意は、これまで、立山が神の山であってその性格に違わない、神そのままの姿としてある、などと解されてきた。これらは理解し難い。他にかむ奈備なびやまとされる山で万年雪をいただいているところは知られない。尋常ごとではないから神さまの仕業だろうと考えることも違和感がある。見てきたように、言葉の魔術師たちが言葉巧みに歌を作っている。彼らが専念して考えていることは修辞であり、語呂合わせである。そして、トコナツという言葉を用いている。雪は夏にはふつう見られないが、トコナツ二はあるのだと言っておもしろがっている。どうしてそんなことが言えるかと言えば、トコ(常)はトコ(床)と同音だからである。万年床のように雪が降り置いている。ヤマトコトバはこのようにうまい具合にできている。まさに神の性格ゆえらしい、神の意向ということである、と言っている。言葉のアヤを「かむから」、「かむながら」と表現しているのである。

 片貝かたかひの 川の瀬清く く水の 絶ゆることなく ありがよひ見む(万4002)
 落ちたぎつ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も まず通はむ(万4005)

 カタカヒの対義語がマガヒ(紛)だから、カタカヒは紛うことがないことを指していると上に述べた。家持は片貝川は他の濁った川と交わらないからどこの瀬でも清らかだと言っている。池主は片貝川は紛れもなく存在しているということで、絶えなく流れるさまを表している。この捉え返しのうまさは、第一に、「立山」をタチ(断)と絡めて考えていたこととあわさることになって意味の強化が図られている点にある。第二に、長歌でいにしへからの言い伝えを含意して歌っていたことを、ここで今後のことへと転じて時間軸の上に据えているところにある。
 以上見てきたように、大伴家持の「立山賦」、大伴池主の「敬和立山賦」は、言葉遊び(Sprachspiel)の歌である。言葉だけでやりとりし得る限りで最大限の言語ゲーム(Sprachspiel)のあり方としてヤマトコトバの歌は歌われ、それをもって歓びとしていた(らしい)。無文字時代の言葉は、耳に届くものでしかやりとりできなかったのである(注13)

(注)
(注1)「賦」と記されている三首(また池主の「敬和」歌を含めて五首)について、山田孝雄『万葉五賦』の、「都人士に語らひ草として見せむの下心もありしならむ思はる。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1340920/1/23)とする指摘が罷り通っている。鴻巣盛広『北陸万葉集古蹟研究』の、「任地にある名所を賦して、都への土産とする考であつたかも知れない。」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1225871/1/51、漢字の旧字体は改めた)を承けている。
 家持が「賦」と記した越中での長歌三首には、題詞に小注が付けられていて地理的情報を記している(「此山者有射水郡也」(二上山賦)、「此海者有射水郡旧江村也」(遊-覧布勢水海賦)、「此山者有新川郡也」(立山賦))。歌中でも風土にまつわる歌いまわしが行われており、それをもって山田氏のような言い分は生まれているわけだが、そんなことが行われたとは思われない。越中の地誌的知識を都で語ったとして誰が聞くだろうか。知らない土地の、今後とも交わることのない場所について、想像の翼を広げて思いを致すほど暇ではない。わざわざ小注を付けているのは念を押しているのである。そこにあるイミヅ(射水)、フルエ(旧江)、ニヒカハ(新川)という音が及ぼすヤマトコトバの膨らみを駆使して歌を作っている。だからそれをヒントになぞなぞを解いて欲しいと断っているのである。上代びとにとっての歌とは、音声言語の戯れであった。
 歌はその時、その場で聞いて意が理解され、共有されるものである。後になってよくよく考えて意が通じても役に立たない。周りにいる人を巻き込んで場を盛り上げる形で命脈を保つものが一回性の芸術、上代の歌である。そのために詠まれている。したがって、家持が越中でどのように暮らし、どのような人事があって異動となるのかを調べてみても、歌の内容を繙くことに資することはほとんどない。なぜ題詞に「賦」と称されているのかについても、文選などの中国詩文の影響があり、池主との間で詩歌の応酬をすることで中国趣味が高まっていた(辰巳1987.)といえばそのとおりであろうけれども、それは記述の問題で、人々の前で歌を披露した時に表明されたものではない。池主は「敬和」と承け、「并二絶」とあって、「賦」に対して「絶」という中国詩文の用語を持ち出している。これとても、周囲の人にとって「絶」として聞かれたのではなく、ウタとして聞かれたことに違いあるまい。ちょっと格好をつけて書いてはみたものの、結局流行らずに終わっている。
 行幸で宮廷人が連れ立って行っている地の地名を持ち出しているのではなく、ただ家持が赴任しているところの地名を持ち出しているにすぎない。ヤマトコトバの中心地とは距離があるのに歌の文句にしていたら、ほとんど東歌レベルになるわけであるが、ただその地の景観を歌っているのではなく、都にいる人たちを含めてヤマトコトバを話す人なら誰にでもわかり、おもしろがられる歌を創案したから皆さん聞いてくださいね、という意図をもって「賦」などと特別な名称を付けているのであろう。中国詩文の「賦」は漢字でずらずら書き連ねられているが、漢字が皆読める(ことを前提としている)のが中国の学芸水準の基本であった。(芳賀1996.は文選の初めから見られる長い賦ではなく、小篇の賦、経国集に収められている藤原宇合・棗賦のように「乱」の添えられていないものを引き合いに出しているが、家持の意図するところは、ずらずらと連なっていて一見理解できないかも知れないと思われるということを示そうとして「賦」と書いているものと考える。)彼の地の人がいちいち漢字をたどっていけば理解できるように、一見知らない地名が出てきたとしても、ヤマトの人ならその言葉をいちいちたどっていけばわかるようになっている、そういう歌のことを示そうとして、中国詩文の「賦」という書き方を採用したものと思われる。中国に影響されて受動的に「賦」という書き方をしているのではない。
(注2)諸論による。数多くの論者が、歌句が同じである、または似ているということを理由にして、立山賦以前に歌われた歌からの影響を指摘している。以前歌われた歌の歌句を継ぎ接ぎした時、歌意も以前歌われた歌と同じであると言うことらしい。万葉の時代に換骨奪胎はなかったとの主張なのか。筆者自身はこの次元の議論に与しない。
(注3)翻って、万196番歌の「懸かす」も、明日香皇女のお名前につけておいでの明日香川、という意ではなく、明日香皇女のお名前に自発的に懸かっている、勝手に名前がゆかりあるものになっている明日香川、という意味に受け取るべきである。
(注4)原文は校訂において、西本願寺本のような「此山者……」ではなく、「此山者……」(元暦校本等)と「立」字があるのが正しいだろう。理由は以下に述べている。
(注5)「常夏とこなつに」という語については、夏中通して、ととる説と、夏に限らずいつも、ととる説と、今を盛りの夏に、ととる説があげられている。雪を頂いている立山の表現を、常夏の島ハワイという現代語から推測することはできそうにない。「常初花とこはつはなに」(万3978)が、いつも咲き始めの花のように初々しいことを言おうとした表現であることから鑑みれば、いつも夏である時のこと、つまり、毎年夏が来た時にその間じゅう、のことを言っていると考えられる。つまり、トコナツ二という言い回しは、助詞の二の意味が効いているのである。冬はもちろん、春や秋であっても雪が降ることはある。しかし、夏に雪が降ることは想定されない。だから、夏という季節の間にまでも、それは毎年のことであるが、雪が降りしきっているということを言っている。
(注6)言い当てることこそ、ことことと相即となるという点で上代の言語使用の根幹をなしている。無文字時代にあって、ことことと一致するように努めることが、上代の人たちが言葉を使うに当たっての第一目的であり、「言霊ことだまさきはふ国」(万894)と呼べる言語空間の完成形であった。
(注7)全集本では、「立山」を現在の剱岳一帯を指すのではないかとするが、それがツルギダケと呼ばれていたとすると区別がついていないことになる。タチ(大刀)、ツルギ(剣)と別語としてあるのは、カテゴリー分けされていたことを物語る。
(注8)クサという言葉はどこにでもあって何の変哲もない有象無象のものであることを含意する。今後、特別な時、例えば祭礼において述べられる祝詞などの形で伝えられるのではなく、誰もが当たり前のこととして語られることを示す。ヤマトコトバに根を張ったクサ(草)ということである。
(注9)これが万葉集の歌の実相である。今日まで理解されていないのは、テキストがエクリチュールとしてあるため、文字文化のなかにある我々にとっては、空間をいっとき飛んだパロールであったという認識にたどり着きにくいからである。結果、現代の概念を持ち込んで、立山の聖性、国褒め、王権の讃美、漢詩文の影響などというキーワードによって解されている。これまで築いてきた研究土壌の上に皆立っている。しかし、それらは架空、幻想である。万葉集の歌を理解するということは駄洒落を理解することであると認め、高等教育の場に位置づけられる「万葉」なるものを解体していくこと、築いてきたものはみな虚構であったと気づいていかなければならない。
(注10)拙稿「そがひについて」参照。
(注11)「時に戔嗚さのをのみこと、乃ち所帯かせる十握とつかのつるぎを抜きて、つだつだに其のをろちを斬る。尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。かれ、其の尾を割裂きてみそなはせば、中にひとつの剣有り。これ所謂いはゆる草薙剣くさなぎのつるぎなり。〈草薙剣、此には倶娑那伎能都留伎くさなぎのつるぎと云ふ。一書あるふみに曰はく、もとの名は天叢雲剣あまのむらくものつるぎけだ大蛇をろち居る上に常に雲気くも有り。故、以てなづくるか。日本武皇子やまとたけるのみことに至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ。〉素戔鳴尊の曰はく、「これあやしき剣なり。吾いかにぞへてわたくしけらむや」とのたまひて、天神あまつかみのみもとたてまつりぐ。」(神代紀第八段本文)と見える。
(注12)万4003番歌で「そがひに」という言葉が「朝日さし」のサシと「御名」=「立山」のタチばかりでなく、「立山」が雲を帯びていながらそのたくさん重なっているのを押し分けてそそり立っているという背反性をも示していると考えている。万4000番歌で九句も飛び越えて懸かるはずはないとしていたのに、「そがひに」という言葉が六句先まで及んでいるのは矛盾しているという意見もあるだろう。だが、万4003番歌は万4000番歌をきちんと承けて「敬和」した作である。池主の「敬和」して漫然と同じことをくり返しているのではなく、違う角度から捉え直すとこういう見方もできるのではないですか、という歌を作っている。モチーフは「そがひに」の一語である。「そがひに」をもって立山を表現し、通奏低音のように「そがひに」という語を全編に響かせている。一見、どうでもいいような対句表現(「冬」と「夏」、「立ちて」と「居て」、「峯高み」と「谷を深み」、「朝去らず」と「夕されば」、「立つ霧の」と「行く水の」)が見えるのも、「そがひに」状況を申し述べていることを強調するために付加されているのだろう。
(注13)近代の識字教育の観点に囚われてこの点を卑下するには及ばない。なぞなぞ的な修辞のレベルは近現代人の理解をはるかに超えている。人類の別の道として、そういう言葉の世界もあったことを我々は知るべきである。

(引用・参考文献)
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加藤良平 2024.7.9初出

高橋虫麻呂の龍田山の歌

 

 万葉集の歌のなかには、いまだに訓みの定まらない歌がある。訓みが定まらなければ、歌全体の完全な理解には至らない。巻九の高橋虫麻呂歌中から出たとされる龍田山歌群もその一例である。

  春三月にもろもろの卿大夫まへつきみたちの、なにくだときうた二首〈あはせて短歌〉〔春三月諸卿大夫等下難波時謌二首〈并短哥〉〕
 白雲しらくもの たつの山の たぎの ぐらみねに 咲きををる 桜の花は 山高み 風しまねば 春雨はるさめの ぎてし降れば は 散り過ぎにけり しづに 残れる花は 須臾しましくは 散りなみだれそ 草枕 旅行く君が かへり来るまで〔白雲之龍田山之瀧上之小桉嶺尓開乎為流櫻花者山高風之不息者春雨之継而零者最末枝者落過去祁利下枝尓遺有花者須臾者落莫乱草枕客去君之及還来〕(万1747)
  反歌〔反謌〕
 きは なぬは過ぎじ たつひこ ゆめこの花を 風にな散らし〔吾去者七日者不過龍田彦勤此花乎風尓莫落〕(万1748)
 白雲の 龍田の山を 夕暮ゆうぐれに うち越え行けば たぎの 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり ふふめるは 咲きぎぬべし 彼方此方こちごちの 花の盛りに 雖不見左右 君がみゆきは 今にしあるべし〔白雲乃立田山乎夕晩尓打越去者瀧上之櫻花者開有者落過祁里含有者可開継許知期智乃花之盛尓雖不見左右君之三行者今西應有〕(万1749)
  反歌〔反謌〕
 いとまあらば なづさひ渡り むかの 桜の花も 折らましものを〔暇有者魚津柴比渡向峯之櫻花毛折末思物緒〕(万1750)

 訓みが定まらないのは万1749番歌の「雖不見左右」の句である。紀州本等には「雖不見左」ともある。「左右」はマデと訓まれることが多く、五音に収まりきらなくなるために「雖不見左」をとって「ミサレトモ」(紀州本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1143069/1/25)、「さずとも」(多田2009b.382頁)、あるいは「在」の誤りかとされて「あらずとも」(佐佐木信綱・新訓万葉集、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1258483/1/182)、「あらねども」(大系本391頁)、「見えねども」(中西1978.268頁)などと訓まれている(注1)
 「雖不見」の例は万610番歌にもあるが、異訓が多い。

 近有者雖不見在乎弥遠君之伊座者有不勝自(万610)
 近くあれば 見ねどもあるを いやとほに 君がいまさば ありかつましじ(新大系文庫本(一)380頁)
 近くあれば 見ねどもあるを いや遠く 君がいまさば 有りかつましじ(伊藤2009.306頁)
 近くあらば 見ずともあらむを いや遠く 君がいまさば ありかつましじ(中西1978.309頁)
 近くあれば 見ずともありしを いや遠に 君がいまさば ありかつましじ(大系本277頁)
 近くあらば 見ずともあるを いや遠く 君がいまさば ありかつましじ(多田2009a.88頁)

 いま問題にしたいのは「雖見」の部分である。ミネドモ説、ミズトモ説に分れている。ドモとトモの違いは、逆接の確定条件か、逆接の仮定条件か、すなわち、事実逢っていないけれども、と、仮に逢わないことになっても、の違いである。「雖」字は万葉集中で、ド、トモ、ドモ、イヘドと訓まれているからいずれにも訓まれ得る(注2)。誤謬を生む曖昧な表記である  一方、万1749番歌の「雖不見左右」という表記は、正確を期すための綴り方のように見受けられる。訓みを限定するための書き添えとして、「左右」と書いたとする見方である。万葉集中で「左右」はマデに当てることが非常に多い。「左右手まで」(万1189)という例もあり、左右両方の手のことを言うから片手に対してマテ(真手)、よってマデ(迄)に使われている。それ以外に、「左右」をカモカクモ(万399)、カニモカクニモ(万629・3836)、カモカモ(万965・1343)と訓む例があり、万1749番歌の試訓にも見られていた。「左右」はどちらにとってみても、の意味を表したものであろう。すなわち、AでもBでもどちらでも、ということである。条件A、条件Bの二つが与えられた時、どちらもふたつともに適うという意にほかならない。つまり、「左右」の意は、助詞トモの義を表している。「雖見左右」とあれば、「雖」字はドモやトではなく、トモと訓むべきことを「左右」の字が指示している。「左右」の用字は、意味を限定するための添え字的な役割を果たしているようである。
 そのように考えれば、これまで行われた訓のなかで、「さずとも」とする訓み方が最も妥当であるといえる。「…… ふふめるは 咲き継ぎぬべし 彼方此方こちごちの 花の盛りに さずとも 君がみゆきは 今にしあるべし」によって言わんとしているのは、蕾のものは咲き継いでいってあちらこちらに花の盛りなるところができるだろうが、それをご覧にならないままであっても、わが君様が難波へ向かって進み行くことはまさに今であるべきです、という意になる(注3)。花見に興じる(注4)ことなく目的地へ向かうことの是なることを陳述している。
 「みゆき〔三行〕」とあるのは、花見に行くことを言っているのではなく、題詞にあるように「下難波」ことを指している。「みゆき」は偉い人のお出ましであり、それに随行しているのが高橋虫麻呂である。龍田山中にあっても、「みゆき」が目指しているのはただただ難波である。作者高橋虫麻呂の仕えていた関係から、藤原宇合の一行を「みゆき」と見る説も多いが、万葉集で「みゆき」といえば天皇の「行幸みゆき」のことである。天皇の難波行幸があり、少し遅れて難波へ向かった「諸卿大夫等」がいて、それに虫麻呂は付き従ったものと考えられる。遣唐使船が中国へ向かった際にも、船団すべてが同時に行動しているのではなく、先に着く船もあれば遅れる船もあり、難破して到着しない船もある。それらすべてを第○次遣唐使と呼んでいる。同様に、天皇の難波行幸に従っているなかで、天皇の一行から遅れてしまった「諸卿大夫等」の一団があった。あまり遅れてはならないから急いでいるものと思われる。
 だから、道行きの急ぐことに関して、反歌に「いとまあらば ……」という承け方をし、時間があれば向こう側の山の高いところに咲いている桜の枝を(私が)折って来ましょうものを、時間がないのでできません、と言っている。
 その点は歌群の最初、万1747番以降通底している。桜の花が散っているところもあり、咲いているところもあり、帰ってくるまで散らないでいておくれと願い事をしている。万1748番歌に「きは なぬは過ぎじ」と心づもりの予定を述べて、桜の花を散らせることになるであろう風、その風を司るとされる龍田の神(注5)のことを「龍田彦」と呼び、散らさないでほしいと呼びかけ訴えている。

 

 筆者の捉え方はすでに述べたところであるが、今日の研究事情では、万1747番歌に「君」とあり、万1748番歌に「吾」とあって、一組の長短歌中に矛盾を含むのではないかと疑問視されている。そのため、長歌は見送りの者の歌、反歌は旅行く者の歌であると解されることもあった(注6)。それに対して、長歌は下僚たる自分を表面に現さず、反歌では自分も含めて一行の意で述べているとする見方もある(注7)。さらには、「旅行く君」、「吾が行く」と対照的に表現する理由は不明であり、万1749・1750番歌、さらには復路にあたる万1751・1752番歌まで絡めて解されるべきとする意見まである(注8)
 この点を精査することは歌の理解に実はとても重要である。筆者は、長歌の「君」を天皇のことと考えている。反歌の「吾」が属する「諸卿大夫等」の一団は、難波へ向かって遅れを挽回すべく急いで旅している。万1749番歌に「君がみゆき」とあるのに「今にしあるべし・・」と「吾」から命令するかのように言っている。下僚の「吾」が「君」に対してそのようなことを言えるものか。唯一考えられるのは、一緒にいる「諸卿大夫」のことを「君」と言うのではなく、先に行ってしまってここにはいない天皇のことを「君」と呼んでいる場合である。天皇は龍田山中の花には目もくれず、難波へと進んでしまって「諸卿大夫等」は遅れをとっている。
 その遅れた責任は「諸卿大夫」にあるといった批判を下僚の分際の虫麻呂が呟くことはない。題詞には「諸卿大夫等」とあり、「等」に含まれるであろう虫麻呂も一蓮托生である。「諸卿大夫等」の総意として歌い、そのとおりだ、うまく言ってくれたと皆に認められたのがこれらの歌群であろう。
 では、なぜ「君」と「吾」とが入り混じる歌い方をしているのか。それは、「君」と「吾」とで決定的な違うところがあるからである。交通手段が違う。「君」は馬に乗っているが、「吾」は徒歩である。どちらが速いか。馬である。どちらが楽か。馬である。万1748番歌において、とんぼ返りで七日以上かからずに帰ってくると決意表明して有意味なのは、徒歩での弾丸ツアーが催行されている「吾」しかいない。だから歌に歌い、同行している騎乗の「諸卿大夫」からおもしろがられ、歌として完成しているのである(注9)
 状況を整理してみよう。道行きの途上で龍田山に通りかかり、桜の花が咲いたところはすでに散ってしまっており、まだ咲いていないところはもう少しすれば咲くだろうといった景色である。だからといって、止まっていようなどと悠長なことは考えていてはいけない。天皇のもとへ、とにかく難波へ向けて急ぎ進まなければならない。しかるに、主旨をそのまま歌にしたとしても、気が焦るばかりでストレスしか感じられない。少しも楽しくないはずなのに歌われていて、「諸卿大夫等」一行の間でおもしろがられている。何がおもしろいのか。それは、語呂合わせがいくつも生まれるからである。
 「諸卿大夫」が騎乗するためには馬の背に「鞍」を置く。歌は声に出して歌われたものだから、クラという音が重要である。だから、「小桉(をくら・・)の嶺」、「桜(さくら・・)」、さらには「夕暮(ゆふぐれ・・)」といった語が使われている。暗くなったからクレという。すなわち、この歌群はクラの歌の集まりである。
 桜という花は、後の時代のように特に愛でられた対象ではなかった。古代にあっては、そもそも実用を旨としていたから、桜といえば樹皮が重宝されてそこに関心が向いている。曲物の綴じ皮として利用されていた。人々の認識の核はそこにあった。そして、上代の人の語感では、サクラはサル(猿)+クラ(鞍)の約、サルノコシカケのことをイメージしていた。曲物の綴じ皮用に樹皮を剥げば樹勢は衰え、キノコが生えやすくなる。木の子の意である。桜(櫻)という字が木の嬰児という形になっている点も合点がいく。乗馬用の鞍はヒトノコシカケなわけだが、それに引っ張られる形でサクラの話になっている(注10)
 桜がサル(猿)+クラ(鞍)の約であるという認識のもとでは、桜の花が咲いたり散ったりしながら旅行く人の人目に立つというのは、猿が人を導いているように見てとれたことを意味する。龍田山に猿がいたかどうかは問題ではない。猿がいると見立てられるということである。上代の人にとって、旅行く人に対して果たす猿の役割はサルタヒコ(猿田毘古神、猨田彦神)のそれである。導きの神である。

 しかくして、日子番能邇々ひこほのににぎのみこと天降あまくだらむとする時に、あめ八衢やちまたて、かみたか天原あまのはらてらし、しも葦原あしはらの中国なかつくにを光す神、ここに有り。……かれ、問ひ賜ふ時に答へてまをさく、「やつかれは国つ神、名はさる田毘たび古神このかみぞ。出で所以ゆゑは、あまかみ御子みこ天降あまくだすと聞くが故、さきに仕へ奉らむとして参ゐ向へて侍り」とまをす。(記上)

 ここかしこで道案内してくれているのだから、それに従って先へと進むのがよい。今は桜の花を見ようと立ち止まっていてはならない。帰って来た時に見ればよい。だからそれまで散らないでほしいと願っている。その願う相手の神さまは、道行きの神の猨田彦ではなく、その場所に在する龍田彦である。龍田彦という呼び方が一般化していたとは思われず、猿田彦から連想してこの時に作られた呼称であろう。龍田神は風の神として祭られていたから、うまく言い当てたことになっている。
 神は遍在する。導きの神である猿田彦は難波への道の難所である龍田の山のあちこちにいて、時に桜の花として見え隠れしている。それに従っていけば山を越えて行くことができる。反対に、従わなければ道に迷い、進むことができなくなる。どうなるか。足取りは覚束なくなって、「たづたづし」く、「たぎたぎし」くなる。

 「たづたづし」
 夕闇ゆふやみは みちたづたづし 月待ちて ませ背子せこ そのにも見む(万709)
 夏の夜は 道たづたづし 船に乗り 川の瀬ごとに さをさしのぼれ(万4062)
 「たぎたぎし」
 ……が心、つねそらよりかけかむとおもふ。しかれども、今吾が足、歩まずてたぎたぎしく成りぬ」とのりたまふ。かれ其地そこなづけて当芸たぎと謂ふ。(景行記)

 山越えの「たつ」の山は、その名の示すとおり、ともすればタヅタヅシくなりそうな場所である。桜の花などに気を取られて行きつ戻りつすれば絶対にタヅタヅシくなる。たどたどしくて進もうにも進めない。特に山中の急流である「たぎ」の上の桜の花に注意が行くようにしている。そんなものを見ていたらいつ花が散るかと気が散って危険である。確実にタギタギシくなる。道が凸凹したり足を患って利かなくなって進もうにも進めない。そういったことがないように、今はひたすら先へ進むのがよいというのであった。

 

 歌の作者の高橋虫麻呂について、歌人としていかに評価するかは、(評価することが何かしら有効なことであるか否かは問わず、)歌が訓めた後にはじめて行うことができる。そしてまた、以上のように、言葉遊びに興じるのをモットーとして歌われていたと知れば、現代的な意味合いでの文学的な評価など無意味なことと悟られよう。外部の情報から「諸卿大夫」が具体的に誰のことを指すのかを詮索し、「君がみゆき」とは藤原宇合のお出ましのことではないか、天皇行幸に先立って下準備に行っているものか、などと曲解を弄することなどとんだ心得違いである。歌が声でしかなかった時代に、その場限りの声がその場限りに共有されただけである。万葉集に書き記すにあたり、ただそれだけのことがわかるよう、必要十分な事情説明のみ題詞に与えられている。今この万葉集の歌を目にすることができて、我々は無文字時代の人々の思惟について多くのことを知り得るわけだが、それは現代人の思惟とは似ても似つかない。現代の研究者が勝手に作り上げた作品論、歌人論の理念型など、旅の道すがら「たづたづし」や「たぎたぎし」の言語ゲームに興じている人たちにとっては理解不能なことだろう。

(注)
(注1)「左右」のままに訓むとして、「ミズトヘド カニカクニ」(賀茂真淵・万葉集考、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1913072/1/257)、「ミズトイヘド カニカクニ」(橘千蔭・万葉集略解、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2576192/1/28)、「ミザレドモ カニカクニ」(武田1956.347頁)、「メサズトモ カニモカクニモ」(塙書房本万葉集219頁)など、破格ながら一句設ける説もある。
(注2)「雖」字一般の訓みについては稿を改めて論じたい。
(注3)稲岡2002.は、原文を「雖不見左」として「さずとも」と訓み、「あちらこちらのすべての花の盛りをごらんにはなれずとも、我が君のおでましには、今がちょうど良い時でしょう。」(434~435頁)と解している。「さず」に可能の否定の意はない。一方、同様に「さずとも」と訓んだ多田2009b.は、「あちこちの花の盛りにご覧にならなくても、あなたのご旅行はまさに今でこそあるべきだ。」(382頁)と解している。
 また、「さずとも かにもかくにも」と訓んだ一派は、「つぼんでいるのは 続けて咲きそうである あちらこちらの 花の盛りに ご覧になれなくても とにかく あなたのお出ましの時期は この今でございましょう」(全集本413頁)、「蕾のままのはすぐに続いて咲くでしょう。あちらの花もこちらの花も一度に咲き揃ったさまを御覧になるわけにはいかないにしても、ともかくご主人様がたのお出ましには、今がいちばん結構な時期でございます。」(古典集成本405頁)、「つぼみでいたのは続けて咲くことでしょう。あちらこちらの花の盛りにはご覧になれなくても、何はともあれ、あなたのお出ましになる時はまさに今なのです。」(新大系文庫本(三)65頁)と解している。
 坂本1993.は、メサズトモの訓では、「みゆき」は行われている最中のこととて、共に桜を見ている人々に対してご覧になれなくても、というのは理屈に合わないとしている。注意深く歌の言葉を聞けば、咲いたものはすでに散り過ぎてしまっていて、蕾のものはこれから咲き継いでくるであろう、と言っている。その咲き継いだら見事に盛りになるであろうと予想される候補地はいくつもあるけれど、盛りになるのを待たずに今は「みゆき」の途に就くべき時なのだ、と主張している。
(注4)古代に花見、それも桜の花見、さらにはヤマザクラの花見が行われることが常であったとは知られていない。ましてや目的外の花見、山中の峠越えの難所での旅行団による花見が行われていたとは知られていない。高橋虫麻呂は諧謔の精神を持ち合わせていたようである。
(注5)「夏四月の戊戌の朔にして辛丑に、龍田たつたの風神かぜのかみ広瀬ひろせの大忌神おほいみのかみを祭る。」(天武紀五年四月)とあるのが記録の最初である。
(注6)全集本は長歌に対する反歌を「贈答歌に似せたものか。」(413頁)としている。
(注7)鴻巣盛広・万葉集全釈 第三冊。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1259696/1/63~64
(注8)瀧口2014.。
(注9)無文字時代に口頭で歌われた歌が成立する瞬間は、歌を聞いた人が、そうだそうだと賛同し、記憶した時である。歌は、歌い手と聞き手の双方が互いに持ち合った時にはじめて焦点を結ぶ。
(注10)拙稿「サクラ(桜)=サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)説」参照。

(引用・参考文献)
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版万葉集二 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
小田2015. 小田芳寿「諸卿大夫等の難波に下る時の歌─「散り過ぎにけり」を手がかりに─」『京都語文』第22号、2015年11月。佛教大学論文目録リポジトリ https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_KG002200008468
古典集成本 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集二』新潮社、昭和53年。
坂本1993. 坂本信幸「花之盛尓雖不見左右─万葉集巻九・一七四九番の訓詁─」『ことばとことのは』第十集、和泉書院、平成5年12月。
新谷2001. 新谷秀夫「虫麻呂の難波に下る時の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻』和泉書院、2001年。
新大系文庫本(一) 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新大系文庫本(三) 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集3 萬葉集二』小学館、昭和47年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
瀧口2014. 瀧口翠「高橋虫麻呂の龍田の歌」『上代文学』第112号、2014年4月。上代文学会http://jodaibungakukai.org/02_contents.html
武田1956. 武田祐吉『増訂 万葉集全註釈 七』角川書店、昭和31年。
竹本2020. 竹本晃「高橋虫麻呂の桜花の歌の創作」『大阪大谷大学歴史文化研究』第20号、2020年3月。大阪大谷大学機関リポジトリ http://id.nii.ac.jp/1200/00000359/
多田2009a. 多田一臣訳注『万葉集全解2』筑摩書房、2009年。
多田2009b. 多田一臣訳注『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1978年。
塙書房本万葉集 佐竹昭広・ 木下正俊・ 小島憲之『補訂版 万葉集 本文篇』塙書房、平成10年。

加藤良平 2024.5.20再掲初出

あしひきの 山桜戸を 開け置きて(万2617)

 次の一首は、万葉集巻十一、「正述心緒」の歌の一首である。

 あしひきの 山桜戸やまさくらとを け置きて が待つ君を たれとどむる〔足日木能山桜戸乎開置而吾待君乎誰留流〕(万2617)

 三句目「開置而」には、アケオキテ以外にヒラキオキテと訓む可能性も指摘されている。現代語で、開けっ放しにしておくというのと、開いたままにしておくというのとの違いである。ニュアンスの違いは語の本義のうちに理解される。アクは「開」のほか「明」とも字が当てられる。ヨアケ(夜明け)とはいうが、ヨヒラキ(夜開き)とは言わない。明るくなるからアケである。戸を開けておくと薄暗い部屋の中にまで日の光が差し込んでくる。開いたままにしておいたとしても明るくはなるが、そのことを言うのにふさわしい言い方は、アケである。
 歌の作者は、さかんに戸を open にしておいて、いつでも welcome であることを示している。にもかかわらず、他の誰かが引き留めてか恋しい彼は訪れないと嘆いている。もちろん、戸を open にしていても、本人が不在では仕方がない。在宅であることがわかるように open にしているのである。
 その場合、この戸は、門の戸ではなく、家屋の戸であるほうが似つかわしい。土塀や生垣に囲われた家の門の戸を開けておいて中の様子が窺い知れるとする間接的な表現ではなく、相手に強くアピールするためのもの言いであったと考えられるからである。実際にそうであったかではなく、そのつもりで開けておいているのですよ、と相手に歌を贈ることをしている。「歌」というコミュニケーション手法ならではのことである。家屋の戸が開いていれば、昼間は日の光が差して姿が確認できるし、夜間には火の光が外に出て影が動くのがわかる。ほら、私は在宅しています、来てください、と訴えている。
 そういうことを言いたいのだとすれば(注1)、中が丸見えであることを含んだ言い方、アケオキテがふさわしいと判断される。そしてまた、「山桜戸」なるものの実態も理解される。
 万葉集中にある他の「山桜」二例は、「山桜花」の例である。桜の花、また、花びらの数の多さを特徴として見ている。第一例は日数の多さに譬え、第二例はたくさんあるのに反して一目さえ見ていないことを歌っている(注2)

 あしひきの 山桜花やまさくらばな ならべて かく咲きたらば いと恋ひめやも(万1425、山部赤人)
 あしひきの 山桜花 ひとだに 君とし見てば あれ恋ひめやも(万3970、大伴家持)

 「山桜戸」についても、それは数の多さを示すための言い方であると悟ることができる。なぜなら、ヤマザクラは株立ちして生えることがあるからである。「戸」の素材が桜から取った板であるかどうか(注3)というよりも、家にあるたくさんの「戸」、四方八方についている「戸」を開けて待っていて、どの方向から見ても在宅であることがわかるようにしていることを言っている。そのように言いたいから「山桜戸」なる言葉を創作して使っている。歌のなかでの言葉づかいが巧みな、手の込んだ修辞をほどこした歌ということになる。
 これまでの鑑賞に、「待つ愛人の来ないのを、恨む心持である」(土屋1977.166頁)、「来ぬ男を遠廻しに恨む、女の歌」(古典集成本萬葉集239頁)、「男を待つ閨怨の歌」(新大系本萬葉集67頁)、「板戸を開けてまんじりともせず待つ妻の心にふと湧く不安」(阿蘇2010.374頁)、「嫉妬とはいへ、柔らかみのあるものとなっている」(窪田1966.146頁)とあるような捉え方は、みな中途半端なものである。歌の聞きどころは待っている女の感情にあるのではなく、ヤマトコトバの選択にある。武田1956.に、「アシヒキノ山桜戸のような美しい語を使つたのが特色である。」(63頁)とあるのはどこまで意を理解しているか不明ながら適評である。

(注)
(注1)それ以外に何を言いたいというのだろう。
(注2)日本における桜鑑賞の文化史は、花を選びながらサトザクラを作っていたわけではないため上代に遡ることはできない。万葉集では、名がサクラということが優先されて、名に負う存在として「咲く」、そして、「散る」という言葉を導くために活用されている。樹種としてのサクラは今日いうところのヤマザクラが主であったろう。株立ちする傾向があれば、花は数多く咲いていると見立てることにつなげることができる。「暗茂くれしげに」(万257・260)、「くれごもり」(万1047)を導いているところからも株立ちの特徴を捉えていることは窺い知ることができる。株立ちが好まれたと思われるのは、多くの桜皮が採れ、曲げ物の綴じ皮などに多用されたし、炭に焼くにも適度な太さの材が得られるからである。実用をもって言葉が選ばれている。花見が観光と密接につながっていることからわかるように、桜の花を愛でる対象として捉えるようになったのは人類史においてごく最近のことである。

ヤマザクラの株立ち姿と樹皮

(注3)土屋1977.に、「ヤマサクラドは、或はヤマカニハドで、桜皮を以て、蝶番風に綴ぢ付けた戸であるかも知れない。」(166~167頁、漢字の旧字体は改めた)と穿った見方もある。この説の弱点は、蝶番の素材にヤマザクラの樹皮を使っていることをことさらに歌に歌う理由が見られないところである。

(引用・参考文献)
阿蘇2010. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第六巻』笠間書院、2010年。
影山2023. 影山尚之「山桜戸を開けて待つ」『武庫川国文』第94号、令和5年3月。
窪田1966. 窪田空穂『窪田空穂全集 第17巻 万葉集評釈Ⅴ』角川書店、昭和41年。
古典集成本萬葉集 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集 三』新潮社、1976年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系 萬葉集 三』岩波書店、2002年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 九』角川書店、昭和31年。
土屋1977. 土屋文明『万葉集私注 第六巻 新訂版』筑摩書房、昭和52年。

加藤良平 2024.5.13初出

湯原王の蟋蟀(こほろぎ)の歌

  湯原ゆはらのおほきみ蟋蟀こほろぎの歌一首〔湯原王蟋蟀歌一首〕
 夕月ゆふづく 心もしのに 白露しらつゆの 置くこのにはに 蟋蟀こほろぎ鳴くも〔暮月夜心毛思努尓白露乃置此庭尓蟋蟀鳴毛〕(万1552)

 近年の解説書の代表として多田2009.を見ると、「夕月の照る夜、心も切ないままに、白露の置くこの庭に蟋蟀が鳴くことよ。」と訳し、次の注釈、評言がある。

 ○蟋蟀─コオロギ、キリギリスなど、秋鳴く虫の総称という。……○夕月夜─夕方、西の空に出る月。また、その夜。七日頃までの月で、すぐに沈む。○心もしのに─「しのに」は、対象にひたすら心が向けられてしまう状態を示す言葉。→二六六。ここは、対象が示されないまま、心の切なさを示す。○白露─漢語の訓読。→五九四。▷露や月光とともに蟋蟀を描く例は、漢詩文に多い。漢詩文の世界の景物を点綴てんていして、美しい心象風景を構成。新感覚の歌。(260頁)

 「心もしのに」という言い方は、シノが植物の篠、竹や笹の仲間の中程度のものを指し、ふしでつながりながらを重ね続けることを表して、よよ、とばかりに泣いて、涙を流すことが筍のように水をほとばしり出す様子と相称していることを示す修辞表現である(注1)。篠のは、代々引き継がれて永劫に続くことを表している。ヨ(節)とヨ(世、代)は同根の語である。
 「夕月ゆふづく」、夕方、西の空に出る月、すなわち、三日月のような月のことを前提として歌にしている。しばらくすると地平線に沈んでしまう。見えなくなることを惜しんでナク(泣)から涙をよよと流すわけで、庭の草の葉ごとに白露がびっしりと降りている。誰がナク(鳴)くのかといえば、「秋の雑歌」にふさわしく秋の虫、「蟋蟀こほろぎ」である。今日、種として同定されるコオロギばかりでなく、スズムシ、キリギリス、クツワムシ、マツムシ、ウマオイなどの総称である。鳴き声は多彩である。コロコロ、リンリン、チンチロリン、キリキリ、ガチャガチャ、スイッチョン。たくさん鳴いているからたくさん泣いて、涙が溢れて庭に白露を置いているということになる。
 三日月よ、沈まないでくれ、と虫たちは大合唱をしている。その様子を歌につくっている。言葉遊びである。問題は、「心もしのに」のシノ(篠)の様と合うようで合わないところである。ナクことがあり、涙がいっぱいで白露が輝くばかりの庭は、なるほどそういうことかとも思えるが、月が見えなくなるということは、ツキ(月、キは乙類)がツキ(尽、キはは乙類)るということである。ツキ(月)とツキ(尽)は同根の語と考えられているから、その点では矛盾はないが、シノ(篠)であるなら、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と永続するはずである。よよ、とばかり涙で庭が潤うところは合っているが、月は、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と続かずに途絶えてしまう。これはさてどうしたことか。その不確定な点を示す言葉が末尾に付けられている。終助詞「も」である。岩波古語辞典では次のように解説する。

 終助詞としては、主に奈良時代に例があって、形容詞終止形を承けるものが極めて多い。動詞の終止形、あるいは否定形を承けることもあるが、これらの「も」は、用言の叙述を言い放たずに、不確定の意を添えてその表現をやわらげるものと思われる。(1497頁)

 例としてあげている歌を引き、大意を添える。

 梅の花 散らまくしみ わがそのの 竹の林に うぐひす鳴くも(万824)
 梅の花の散ることを惜しんで、わが庭園の竹の林に鶯が鳴いている。(大系本75頁)

 鶯の鳴く真意は、鶯に聞いてみなければわからない。それはできない相談である。しかも、梅に鶯を合わせることは、自然界では少し無理がある。時期的に梅の花に寄って来て鳴いているのはメジロなどである。ウグイスはもう少し春が進んでから目にする。すなわち、終助詞「も」が置かれているのには意味がある。梅の花の散ることを惜しんで、わが庭園の竹の林に鶯が鳴いているなどということがあるのかどうかよくわからない、季節も合わないし、どういうことなのだろうかなあ、と不確定さを込めながら一応の結論を述べているのである(注2)
 標題歌の万1552番歌の場合も、蟋蟀こほろぎに聞いてみなければわからない。それに加えて、言葉の厳密な使い方からは矛盾を孕んでいるから言い放つことができない。だから終助詞「も」を伴っている。この歌の鑑賞のツボはそこにある。

 夕月ゆふづく 心もしのに 白露しらつゆの 置くこのにはに 蟋蟀こほろぎ鳴くも(万1552)
 夕月に照る三日月は、心まで篠のようによよと涙を流し泣くほどに切なく、結果、この庭には白露がたくさん置くことになっていて、それはたくさんの秋の虫たちが盛んに鳴いているがためなのだが、すると、よよよよよ、と代々続くように月が照っていなくてはならないはずだが、切ないことにじきに西へと沈んでしまう。ああ、どういうことなのかなあ。

 自然詠として捉えてきたこれまでの考え方は払拭されなければならない。漢詩文の影響からこじつけようとする講釈も慎まなければならない(注3)。上代の歌びとたちは、素朴実在論によって世界を捉えていたのでもなかった(注4)

(注)
(注1)拙稿「「心もしのに」探求」。「よよ」と泣く用例は中古の作品に見られる。

 御いづるに、食ひ当てむと、たかうなをつと握り持ちて、しづくもよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
 開けて見るに、悲しきこと物に似ず、よよとぞ泣きける。(大和物語・一四八)

(注2)梅に鶯の取り合わせが常態化したのは、この歌の本意に理解が及ばなかったからではないか。
 本来なら、ここで終助詞「も」の用法について、筆者の考えがすべての例で合致するか調査しなければならないところではある。しかるに、あまりにも数が多いため、後考を俟つことにする。
(注3)シラツユという言葉が漢語の訓読語、翻訳語、翻案語であるとする根拠はどこにあるのだろうか。万葉集の原文(写本)に「白露」と記されているのが漢籍に見える「白露ハクロ」と同じであり懐風藻にも使われているからといって、ヤマトの人がオリジナルでシラツユという言葉を作り、使っていたことを否定することなどできはしない。
 新大系文庫本は、「「こほろぎ」の原文は「蟋蟀」。「蟋蟀」は詩文にしばしば詠まれる。蟋蟀を月光や露の中に描くことも、「朗月閑房を照らし、蟋蟀戸庭に吟ず」(晋・陸機「擬明月皎夜光」・文選三十)、「蟋蟀堂に在りて露階に盈()つ」(同上「楽府燕歌行」・玉台新詠九)とあった。」(379頁)、稲岡2002.は、「潘岳の「秋興賦」にも「月瞳朧として光を含み、露凄清として冷を凝らす。熠燿しふえう階闥粲あきらかに、蟋蟀軒屛に鳴く」と月・露・蟋蟀が悲秋の景物となっている。「秋興賦」は湯原王も熟知していたであろう。王は悲秋を最初に詠んだ歌人とも言える。」(341頁)と注している。大谷2008.は、万葉集のコホロギの歌七例について、漢詩文の「蟋蟀」の例と見比べ、万葉歌に詩文の世界の発想を見出している。「秋の虫の声を詠む歌については、それを歌の素材とすることを初めとして、和語「こほろぎ」を漢語「蟋蟀」と表記し、それを秋を待つ虫としてとらえること、そして月光のもとの虫、露にぬれる虫、牀下に入って鳴く虫の姿を描くという具体的な表現に至るまで、歌が中国の詩を学んできたことは明らかであろう。歌は、詩の世界をこのように取り入れることによって、表現の素材を拡充し、表現の方法を多彩にしてきたのである。」(36頁)。鉄野2011.は、「前半に視覚的な景、後半にそこに聞こえてくる音を歌う構成……[により]、夕月夜の薄明かりに白露がきらめく庭は、極めて洗練された美を感じさせる。……湯原王は、その[懐古の]表現を露に濡れた庭草の質感と結び付ける点に特徴を持つ。景と情とが巧みに響きあうのである。そこに蟋蟀の小さな声がしみ透ってくる。蟋蟀は巻十の歌などにも詠まれているが、もともとは六朝の詩集『玉台新詠』などの、離れている男を思う女の情を歌う詩に多く用いられる景物である。雄が雌を呼んで鳴く蟋蟀は、嬬問い・嬬恋いの象徴になる。」(107頁)と解説する。中嶋2009.は、「中国古典を意識し、その素材の醸し出すありように揺れ動く心のありさま、ほのかな恋情を詠出した、それが湯原王の蟋蟀歌であろう。「蟋蟀」の表現の上での可能性を存分に生かし、「心もしのに」を巧みに用いた名歌といえよう。」(46頁)とまとめている。
 月・露・蟋蟀の組み合わせは、秋を感じるとき、ありふれていて陳腐なものである。漢詩文を勉強しなくても、現代の大都会で空調の整った室内に籠るのではなく、奈良時代の都住まいでさえ自然に触れる機会は開かれているから誰でも気づくことであったろう。中国でもありきたりの発想だから、詩文に作られていて不思議なところはない。コホロギが「とこに〔吾床隔尓〕」きて鳴くという歌(万2310)を作るのに、作者が漢詩文で「牀」字を学び、ベッドで寝る必要もない。筵の上で寝ているからコホロギもすぐ側で鳴いている。そもそも歌として歌われているのだから、それを聞く誰しもがわかることでしかあり得ない。聞く人あっての歌である。漢詩文を勉強していなければ通じない文芸サロンの作品であったとは記されていない。上代において、秋の虫の総称であるコホロギの鳴き声を、一律に嬬問い、嬬恋いの声と聞きなしていたとする根拠などどこにもない。
 湯原王はコホロギを詠んでいる。詩経の「蟋蟀在堂 歳聿其莫」などを典故にしてシッシュツを詠んでいるのではない。コホロギという言葉には、ホロ(ホ・ロは乙類)という音を含んでいる。ホロ(ホ・ロは乙類)はハラの母音交替形で、ばらばらなさまを表す。
 天雲あまくもを ほろに踏みあだし 鳴る神も 今日けふにまさりて かしこけめやも(万4235)
 秋の虫の総称をいうコホロギの鳴く声には、コロコロ、リンリン、チンチロリン、キリキリ、ガチャガチャ、スイッチョンとさまざま、ばらばらである。涙をたくさん流すときの泣き方は、よよと泣く、というほかに、ほろほろ、はらはら、とも形容される。「心もしのに」という言葉を使っている以上、たくさんナクことが求められており、コホロ・・ギを言葉に使わなければオチにならない。
(注4)人は言葉でものを考える。上代人の思考の素となっているヤマトコトバのからくりを見ずに、現代人の見方によって万葉歌を評価することは、現代短歌には何がしか資するところはあっても、万葉集自体の研究にとっては意味がなく、誤謬を与えるばかりである。

(参考・引用文献)
稲岡2004. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店、2013年。
大谷2008. 大谷雅夫『歌と詩のあいだ─和漢比較文学論攷─』岩波書店、2008年。(『列島の古代史6 言語と文化』岩波書店、2006年。)
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
鉄野2011. 鉄野昌弘「湯原王」神野志隆光監修『別冊太陽 日本のこころ180 万葉集入門』平凡社、2011年4月。
中嶋2009. 中嶋真也「湯原王蟋蟀歌小考」『駒沢国文』第46号、2009年2月。駒澤大学学術機関リポジトリ http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/29855/rkb046-03.pdf
中西2019. 中西進『新装版 万葉の歌びとたち』KADOKAWA、令和元年。(『万葉の歌びとたち 万葉読本2』1980年。)

加藤良平 2024.5.1初出

「君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」(万3724)

 万葉集巻十五には、中臣宅守なかとみのやかもり狭野弟上娘子さののおとがみのをとめとの贈答歌が多数収められている。目録に、「中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもりくら女嬬にょじゅ野弟上娘子ののおとがみのをとめきし時に、みことのりしてながす罪にことわりて、越前国こしのみちのくちのくにながしき。是に夫婦めをとの別れ易く会ひ難さを相嘆き、おのもおのもいたこころべて贈り答へる歌六十三首」とある。最初の八首は、中臣宅守が流罪と決まったときに交わされた歌とされている。先に狭野弟上娘子が四首歌い、中臣宅守が四首返している。

  中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもり野弟上娘子ののおとがみのをとめと贈り答へる歌〔中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌〕
 あしひきの やま越えむと する君を 心に持ちて やすけくもなし〔安之比奇能夜麻治古延牟等須流君乎許々呂尓毛知弖夜須家久母奈之〕(万3723)
 君が行く 道のながを 繰りたたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも〔君我由久道乃奈我弖乎久里多々祢也伎保呂煩散牟安米能火毛我母〕(万3724)
 我が背子せこし けだしまからば 白栲しろたへの 袖を振らさね 見つつしのはむ〔和我世故之氣太之麻可良婆思漏多倍乃蘇〓〔亻偏に弖〕乎布良左祢見都追志努波牟〕(万3725)
 このころは 恋ひつつもあらむ 玉櫛たまくし 明けてをちより すべなかるべし〔己能許呂波古非都追母安良牟多麻久之氣安氣弖乎知欲利須辨奈可流倍思〕(万3726)
   右の四首は、娘子をとめの別れに臨みて作る歌〔右四首娘子臨別作歌〕
 塵泥ちりひぢの 数にもあらぬ 我ゆゑに 思ひわぶらむ いもかなしさ〔知里比治能可受尓母安良奴和礼由恵尓於毛比和夫良牟伊母我可奈思佐〕(万3727)
 あをによし 奈良のおほは 行きよけど この山道やまみちは しかりけり〔安乎尓与之奈良能於保知波由吉余家杼許能山道波由伎安之可里家利〕(万3728)
 うるはししと ふ妹を 思ひつつ けばかもとな 行き悪しかるらむ〔宇流波之等安我毛布伊毛乎於毛比都追由氣婆可母等奈由伎安思可流良武〕(万3729)
 かしこみと らずありしを みこしの 手向たむけに立ちて 妹が名りつ〔加思故美等能良受安里思乎美故之治能多武氣尓多知弖伊毛我名能里都〕(万3730)
   右の四首は、中臣朝臣宅守、上道みちたちして作る歌〔右四首中臣朝臣宅守上道作歌〕

 これらの歌の後も、中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌は続くのであるが、ここまでが一つの問答群である。中臣宅守は、狭野弟上娘子の歌の内容を受けた形で答えている。本稿では、よく知られた万3724番歌について考察する(注1)

  君が行く 道のながを 繰りたたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも(万3724)

 狭野弟上娘子の歌った万3724番歌は、恋歌の絶唱、絶叫と評されることが多い。あなたが行く道、その長い道のりをたぐり寄せて 折りたたみ、焼き滅ぼしてしまうような天の火があったらなあ。これをスケールの大きい、恋の情熱のほとばしった歌として好意的に評価するか、表現に誇張があって、巧妙さが鼻につくと非好意的に評価するか、意見が分れている(注2)。だが、そもそも、現状の歌の理解はかなり不可解なものである。
 道を繰っては畳んで焼却してしまうという表現は、比喩として受け容れられていたのだろうか。斬新さが狭野弟上娘子の魅力だとする見方もあるが、その歌を聞く側として、聞いた瞬間に、道路を折り畳むという意味がピンと来るものではない。地震でアスファルトの路面が隆起して道路がぐにゃぐにゃになっているのを目にし、アスファルトが原油由来であることを知っていても、「道」が焼けてなくなるとは思われない。「あめの火」は漢語の「天火」の訓読語かともされている(注3)が、狭野弟上娘子が漢籍を勉強していたのだろうか(注4)。そして歌にして歌うからには、聞く人が聞いただけですぐにわかる言葉づかいがされていなければならない。多くの人が「天火」→「天の火」なる造語があると知っていたとは思われない。「天の火」という言葉はこの歌にしか見られない孤語である。
 「道のなが」という語については、長い道のり、の意、それも、国境を越えても道が続いてなお進んでいくという意味合いを包含する言い方であろう。古代のアウトバーンである。律令国家のインフラとして整備された。その結果、「道の長手」という修辞表現が生れていると考える(注5)。古代の行政単位である「国」を二つながらつないでいて続く道を指している。だから、万3724番歌で「繰り畳ね」と言っているのも、国ごとにある道を屏風のように畳んでいくことを示そうとしているらしくはある。
 新しく墾かれた道である。路面が平らになるように工夫されている。その路面を引き剥がして畳むさまを思い浮かべたとされている。とはいえ、道路を「繰り畳ぬ」が何を指した表現なのか、さらにそれを焼いてなくしてしまおう、そのための「天の火」があったらなあ、と願っている点は、飛躍が甚だしくて理解が追いつかない。我々の理解ではなく、奈良時代当時にそのような言い回しが通行していたのか定かではないということである。作業として具体性に乏しい。歌はあくまでも口にまかせた言葉で作られているものだろう。
 道は新しく国と国とをつなぎ貫いていくように敷かれている。「道」が敷かれるものとする考えは、シク(及)という言葉にあるとおり、後から後から追いついていき、行き渡るように造成されることをもってよくかなう。大規模土木造成工事の結果生まれた官道は、シク(敷)というのに値する。シクを漢字で表した「く」、「く」、「く(く)」はみな同根の語である。

恋ヶ窪遺跡展示パネル(国分寺市姿見の池)  

 古代道路の工法としては、場所に応じてさまざまな手法がとられていたことがわかっている。近江2013.によれば、大略、➀地盤を造る、➁路盤を造る、➂路面を造る、➃側溝を掘る、に分類される。➀では、今日までのところ、掘込作業の跡は道路では見られないが、軟弱な地盤を掘って砂などよく締まる土で埋め戻した例、敷葉工法といって軟弱地盤上に葉のついた木の小枝を大量に敷いてその上に土を盛っていき、流されないように工夫した例が見られる。➁では、路盤に石混じりの砂で盛り土をして透水性を高めた例が見られる。➂では、路面に砂を敷いたりきめの細かい土に土器片や小石を混ぜ込んで敷いた例も確認されている。茂っている葉を次々に置いていくのを敷葉というほどに、道は敷かれるものとなっていっていた。
 ミチ(道)を敷くという考えから、敷物としてのミチが言葉の上で意識されることとなった。ヤマトコトバでは敷物としてのミチは既存であった。ミチはアシカの古語、アシカの毛皮を敷物にしていた。

 是の時に、おとのみこと海浜うみへたきて、うなだめぐりてうれさまよふ。時に川鴈かはかり有りて、わなかかりて困厄たしなむ。即ち憐心あはれとおもふみこころを起して、解きて放ちる。須臾しばらくありて、塩土老しほつつのを有りてまうきて、乃ち無目堅間まなしかたまぶねを作りて、火火出ほほでみのみことを載せまつりて、わたの中にし放つ。則ち自然おのづからに沈み去る。たちまち可怜うまし御路みち有り。故、みちまにまでます。おのづからに海神わたつみの宮に至りたまふ。是の時に、海神、みづから迎へてき入れて、乃ち海驢みちの皮八重やへ舗設きて、其の上にゑたてまつらしむ。……海驢、此には美知みちと云ふ。(神代紀第十段一書第三)

 みちをはるばる伝ってきたホホデミノミコトを、海神は海驢みちを敷いて出迎えている。ミチの話として頓智が効いていてよく理解できる。「可怜うまし御路みち」として想定されているのは、古代官道をイメージしたものであろう。国境を越えて続いていくから、別世界へ辿り着いている。
 そうした考え方により、「道の長手」と呼べるほどのものは、アシカの敷皮が連なっているのと同じことなのだという発想も生まれる。敷皮が後から後から追いかけては追いつくように続いている。つまり、敷皮が敷川になって水が流れるように思われるところが、古代官道、「道の長手」である。水が流れている道は水道で、古代には木樋が使われていた。樋(ヒは乙類)は火(ヒは乙類)と同音である。だから、水道は火の道にも転化しうるのだというのが上代の人たちの考え方である。つまり、ミチとヒ(乙類)とは切っても切り離せない語であり、道は敷くものだから敷物の畳とも大きく関係すると考えられていたのである。
 そのことは、一つには忌詞に展開している。失火のことをミヅナガレ(水流)と呼んだ。火と樋がともにヒ(乙類)で通じ合うから作られた言葉であろう。

 日日夜夜ひるよる失火みづながれの処多し。(天智紀六年三月)

 同様に、ヤマトタケルの物語でオトタチバナヒメが走水で入水した話にも構成、展開している。

 そこより入りいでまして、はしりみづうみを渡りし時に、其の渡神わたりのかみなみおこして、船をもとほして進み渡ること得ず。しかくして、其のきさき、名はおとたちば比売なひめのみことまをさく、「あれ、御子にかはりて海の中にらむ。御子は、つかはさえしまつりごとを遂げて、かへりことまをしたまふべし」とまをして、海に入らむとする時に、すがたたみ八重やへかはたたみ八重、きぬたたみ八重を以て、波の上に敷きて、其の上にしき。是に、其のあらなみおのづからぎて、ふね、進むこと。爾くして、其の后、歌ひて曰はく、
 さねさし さが小野をのに 燃ゆる火の なかに立ちて 問ひし君はも(記24)
かれなぬの後に、其の后のくしうみに依りき。乃ち其の櫛を取りて、はかを作りて治め置きき。(景行記)

 ヤマトタケルの東方遠征では、進む道にいろいろ支障が生じている。まず、相武国で野火の難に遭っている。彼は草薙剣を用いて草を薙ぎはらい、ふくろいて火打石を取り出し、向い火を放つことで対抗できた(注6)。次の試練は走水での波浪の難である。そのときはオトタチバナヒメが、「妾、易御子而入海中。」と言い、ヤマトタケルの代わりに海に入り、波を凪いでいる。き波に対して畳をいて応戦している。苦難に対処する方法、ナグ(薙・凪)を受け継いでいる。焼津の「火(ヒは乙類)」に改めて走水に現れた困難とは、水が馳せるように走る道、人工的な構造物に譬えるなら水道だったことで、今、浦賀水道と呼んでいる。古語に「(ヒは乙類)」と言う。三種類の畳を八重に荒れる波の上に敷いてその上に入水したところ、凪いだのである。「かはたたみ」とあるのは、ミチ(海驢)の皮製であり得る。水が流れるところはカハ(川)でもあるから、カハ(皮)で対抗しようというのである。
 ヤマトタケルは遠征するミチの途上、ヒ(火・樋)の難に遭っている。樋に対して、妻が皮畳を使ってナグ(凪)ことをして難を逃れ、先へ進むことができた(注7)
 万3724番歌では、中臣宅守が流罪で行くミチ(道)(注8)を前にして、妻の狭野弟上娘子は、ミチ(海驢)の皮畳を重ねることでヒ(樋)、それは罪を得て流される道なのだから水道、樋に違いないわけだが、難を逃れさせるのではなく、ヒ(火)の難、ミヅナガレ(失火)に遭わせて先へ進めなくならないものかと思案したのである。ヤマトタケルは天災から逃れる術を工夫し、狭野弟上娘子は天災が訪れることを願った。
 中臣宅守との別れに臨んで狭野弟上娘子が歌った「君が行く 道の長手を」の歌は、無文字時代の言語文化、伝承のネットワークのもとに成り立っているヤマトコトバで歌われていた(注9)。歌を歌うほどの力があるとは、上代の言語能力に長けているということであり、ヤマトコトバを深く認識、洞察していたということに他ならないだろう。言葉を使いこなせて巧みな表現ができ、歌に結晶させることができたのであった。

 君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも(万3724)
 あなたが流されて行く道の、長い道のりを、ミチ(海驢)の皮だとして引っ張り畳んで、ヤマトタケルの東征の時とは反対に、ヒ(乙類、火・樋)の難を得たまま逃れられず先へ進めなくなるように、失火みづながれのように全部焼いてなかったことにしたいなあ。流罪の流れを止めるような人知の及ばない天のヒ(乙類、火・樋)があったらなあ。

 「天の火」は漢語に由来するものではない。ヒ(乙類)というヤマトコトバが、流れるものとして想定されていることに思いを致し、そうではないヒ(乙類)がどこかにないか、人の世界ではなく、天の世界にそのようなものがあるのではないか。あるのなら欲しいものだ、と言っている。上代のヤマトコトバ使用という点で、当時の人の通念であった言い伝えの話を重厚に歌に込めている。現代の評価とはまったく別の意味で秀歌なのかもしれない。

(注)
(注1)中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌は巻十五に63首も載せられている。それを「歌語り」とする論(伊藤1975.)があり、それに対する批判(神野志1992.)もある。歌群全体を文学史上いかに位置づけるかという議論になるが、まずもって一つ一つの歌がきちんと解釈されてもいないのに現代的観点から贅言を尽くしても仕方あるまい。
(注2)評価は別にして、解釈としては研究者による最近のものでも、「長い道のりを一筋の帯に見立て、たぐり寄せてたたみ、さらには、その道を焼き滅ぼしてしまうような「あめ」を希求する。スケールの大きな歌ですね。」(松田2021.25頁)「「道の長手」を「繰り畳」むとは意表を突く大胆な発想だが、それほどに強く宅守を引き留めたい衝動に発していることは容易に想像できよう。」(影山2022.255頁)とある。
(注3)「天火焼城門。」(漢書・燕刺王伝)、「自然天火能焼海水。」(大乗本生心地観経・巻第四)などとある。
(注4)目録に「蔵部女嬬」とあり、大蔵省に勤める女官とされるが、キャリアウーマンではなくて雑用係だろう。「女嬬に漢籍的教養があったか否か。和歌も記載時代に入っている。最下級とは言え宮廷に仕え、簡単な漢語知識やそれを和語化する程度の力はあったものか。」(佐藤1978.93頁)との推測がある。漢語「天火」は簡単なのか、和歌が記載時代に入っているのか、いずれも不明である。
(注5) 万葉集に「みちながを」という言い回しを使った歌は次の五例である。他の歌をまたいで位置する題詞や左注は原文のみを載せている。

  門部かどへのおほきみの恋の歌一首〔門部王戀謌一首〕
 意宇おうの海の しほかたの 片思かたもひに 思ひやかむ 道の長手を〔飫宇能海之塩干乃滷之片念尓思哉将去道之永手呼〕(万536)
  右は、門部王の、出雲守にけらえし時に、ない娘子をとめく。未だ幾時いくばくも有らずて、既に往来かよふこと絶ゆ。月をかさねし後、またいつくしみの心を起す。仍りて此の歌を作りて娘子をとめ贈致おくる。〔右門部王任出雲守時娶部内娘子也未有幾時既絶徃来累月之後更起愛心仍作此謌贈致娘子〕
 〔大伴宿祢家持更贈紀女郎謌五首〕
 ぬばたまの 昨夜きぞは帰しつ よひさへ われを帰すな 道の長手を〔野干玉能昨夜者令還今夜左倍吾乎還莫路之長手呼〕(万781)
  大伴おほともの君熊凝きみくまこりの歌二首 大典だいてん麻田あさだの陽春やすの作〔大伴君熊凝謌二首 大典麻田陽春作〕
 国遠き 道の長手を おほほしく 今日けふや過ぎなむ ことひもなく〔國遠伎路乃長手遠意保々斯久計布夜須疑南己等騰比母奈久〕(万884)
  〔敬和為熊凝述其志謌六首〈并序〉/筑前國守山上憶良/大伴君熊凝者肥後國益城郡人也年十八歳以天平三年六月十七日為相撲使某國司官位姓名従人参向京都為天不幸在路獲疾即於安藝國佐伯郡高庭驛家身故也臨終之時長歎息曰傳聞假合之身易滅泡沫之命難駐所以千聖已去百賢不留况乎凡愚微者何能逃避但我老親並在菴室侍我過日自有傷心之恨望我違時必致喪明之泣哀哉我父痛哉我母不患一身向死之途唯悲二親在生之苦今日長別何世得覲乃作謌六首而死其謌曰〕
 常知らぬ 道の長手を くれくれと いかにか行かむ かりてはなしに〈一に云ふ、かれはなしに〉〔都祢斯良農道乃長手袁久礼々々等伊可尓可由迦牟可利弖波奈斯尓〈一云可例比波奈之尓〉〕(万888)
  〔羇旅發思〕
 な行きそと 帰りもやと かへり見に 行けど帰らず 道の長手を〔莫去跡變毛来哉常顧尓雖徃不歸道之長手矣〕(万3132)
  〔中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答謌〕
 君が行く 道の長手を 繰りたたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも〔君我由久道乃奈我弖乎久里多々祢也伎保呂煩散牟安米能火毛我母〕(万3724)
  〔右四首娘子臨別作謌〕

 よく似た言葉に「なが」とあり、長い道のこと、次の三例が見られる。

  〔柿本朝臣人麿覊旅歌八首〕
 天離あまざかる ひなながゆ 恋ひ来れば あかより 大和やまとしま見ゆ〈一本に云ふ、家のあたり見ゆ〉〔天離夷之長道従戀来者自明門倭嶋所見〈一本云家門當見由〉〕(万255)
  〔當所誦詠古謌〕
 天離る 鄙の長道を 恋ひ来れば 明石の門より いへのあたり見ゆ〔安麻射可流比奈乃奈我道乎孤悲久礼婆安可思能門欲里伊敝乃安多里見由〕(万3608)
   柿本朝臣人麻呂の歌に曰はく、大和島見ゆ〔柿本朝臣人麿歌曰夜麻等思麻見由〕
  〔天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌〕
 たちばなの 美袁利みをりの里に 父を置きて 道の長道は 行きかてぬかも〔多知波奈能美袁利乃佐刀尓父乎於伎弖道乃長道波由伎加弖努加毛〕(万4341)
  右の一首ははせつか部足べのたり麻呂まろ〔右一首丈部足麿〕〔/二月七日駿河國防人部領使守従五位下布勢朝臣人主實進九日歌數廿首但拙劣歌者不取載之〕

 「長手」と「長道」は同義かとされているが、最後の万4341番歌は両者を混同した例であり、当てにならないと考える。「ひななが」という言い方は、地方の遠路のことを指している。一方、「みちなが」という言い方には、「今日の今朝」、「木の材木」に似て同語反復がある。
 「みちなが」の対概念として「みち短手みじかて」を想定していたとすると、道には国道のように長いものと、町道、村道のような短いものとがあると認識されていたことによるのではないか。律令制において全国に道路をめぐらせようとし、アウトバーンさながらの直線道路が作られたことが知られている。行政単位としての「国」、大和国、河内国、摂津国、播磨国のそれぞれの国境を越えて続くようにした。現代に当てはめれば、NEXCО各社が運営している高速道路網のようなものについて、「道の長手」という言い方は当たるのだろう。
 とはいえ、歌に詠むとき、「道の長手」の形にしている点は気になるところである。語順が逆さまの「長手の道」のほうが、長く作った道、という意に解しやすい。歌のなかで「道の長手」は、長い道のり、の意として捉えられている。道を進み、国境を越えてもまた道が続いてそこを進む。その点を「道の長手」という修辞表現にしているのではないか。再掲してひとつひとつ検証してみる。

 意宇おうの海の しほかたの 片思かたもひに 思ひやかむ 道の長手を(万536)
 ぬばたまの 昨夜きぞは帰しつ よひさへ われを帰すな 道の長手を(万781)
 国遠き 道の長手を おほほしく 今日けふや過ぎなむ ことひもなく(万884)
 常知らぬ 道の長手を くれくれと いかにか行かむ かりてはなしに〈一に云ふ、かれはなしに〉(万888)
 な行きそと 帰りもやと かへり見に 行けど帰らず 道の長手を(万3132)
 君が行く 道の長手を 繰りたたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも(万3724)

 万536番歌では、潟の潮干、つまり、満ちたり引いたりするのが本来だが、その片方だけ、引いている時のことしか言っていない。だから、「片思」のことへとつながっている。片方しかないとなると、国境を越えてもう一つの国にも道がある、「道の長手」を行くという状況と相容れなくなる。だから、反語の助詞「や」を用いて不審視する歌を作っている。
 万781番歌では、通い婚で通ってきている男が、昨夜は返され、今夜も返されるとなると、二人の間には国境があるということになる、そんな隔てのある関係でこれからもいようというのですか、と言っている。
 万884番歌は、道が国境を越えてあることを直接表している。
 万888番歌では、「くれくれと」とくり返し言葉が使われている。暗い気持ちで、という意味合いながら、国境をまたいで二つの国でいずれも暗い気持ちで進むから、くり返し言葉を使っている。
 万3132番歌では、行くのと帰るのと、どちらへも動いている。国境を越えても二つながらに道があるのと呼応するように仕組まれている。
 万3724番歌では、「繰り畳ね」と、国境を越えて続く道について、国単位で一枚、一面、一扇として屏風のように畳んでいく様子を示している。
 以上のように捉えられるから、「なが」と「なが」は、ニュアンスを異にすると考えるべきだろう。
(注6)拙稿「ヤマトタケルの野火の難─「焼遺」をめぐって─」参照。
(注7)拙稿「記紀のオトタチバナ説話について」参照。
(注8)中臣宅守は流刑地まで連行されて歩いて行ったものと思われる。「凡そ流移るいの人、 路に在らば、皆たがひぢやうらう給へ。粮けむ毎に停まり留まること、二日にすぐすこと得ず。其れでん給不たまはむたまはじは、時に臨みて処分せよ。」(獄令)、「凡そ行程ぎやうぢやう、馬は日に七十里、かちは五十里、車は三十里。」(公式令)と規定されている。足で歩くのか、それとも馬に乗って行くのか、「伝馬給不」は「臨時処分」である。身分が高いわけではないから無理だったろう。徒歩では一日に26kmほど進むことになっていた。筋肉痛が激しかっただろう。「伝馬給不、臨時処分」の項が知られていたのなら、「海驢みち」が別名、アシカのことであるのは納得がいく。足か? 馬か? は切実な問題である。和名抄に、「葦鹿 本朝式に葦鹿皮と云ふ。〈阿之賀あしか、陸奥、出羽の交易雑物の中に見ゆ。本文は未だ詳かならず〉」とある。
(注9)橋本1997.に、万3724番歌の上三句の発想を古事記神話の「みちなが歯神はのかみ」によるとする説がある。「長乳」は「長道」、「歯」は「岩」を表すかとし、帯の形状からうねうねと続く長い道が連想され、その帯から「繰り畳ね」という表現が生まれたかと推量している。伝承を承けた発想と見ているが、「長道」なるアウトバーンを作るようになって「道之長乳歯神」は想を得たのではないか。ヤマトコトバはずっと厳密に構成されていると筆者は考える。神話が言葉を作っているのではなく、言葉が話を作っている。今、その一部を「神話」と誤解している。

(引用・参考文献)
伊藤1975. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 上 古代和歌史研究5』塙書房、昭和50年。
近江2013. 近江俊秀『古代道路の謎─奈良時代の巨大国家プロジェクト─』祥伝社(祥伝社新書)、2013年。
神野志1992. 神野志隆光『柿本人麻呂研究』塙書房、1992年。
国分寺市2017. 国分寺市教育委員会教育部ふるさと文化財課編『古代道路を掘る』国分寺市教育委員会、平成29年。
佐藤1978. 佐藤美知子「中臣宅守・狭野茅上娘子群歌抄」伊藤博・稲岡耕二編『万葉集を学ぶ 第七集』有斐閣、昭和53年。
橋本1997. 橋本達雄「万葉集の悲恋─中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌─」久保朝孝編『悲恋の古代文学』世界思想社、1997年。

加藤良平 2024.4.20初出

柿本人麻呂の「夕波千鳥」歌について

  柿本朝臣人麻呂の歌一首〔柿本朝臣人麻呂歌一首〕
 淡海あふみうみ 夕波ゆふなみどり が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ〔淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努尓古所念〕(万266)

 この歌は、柿本人麻呂が淡海の海、琵琶湖での光景を目にして、天智天皇が都した近江朝時代のことへ思いに耽っている歌と解されてきた(注1)。ただし、細部において意見は分かれており、本当のところはよくわかっていない。近年の通釈書でも、新大系文庫本に「近江の海の夕波千鳥よ、おまえが鳴くと、心もしおれるばかりに過ぎし日々が思い出される。」と訳し、釈に「人麻呂屈指の名歌。「夕波千鳥」は体言を重ねた造語。ほかに「山清水」(一五六)など。「汝が鳴けば」の「な」は、二人称の代名詞、多くは男から女に、さらには動植物などにも親愛感を込めて言う。「心もしのに」のシノは、動詞「しなふ」などのシナと同源の語。結句「古(いにしへ)思ほゆ」、既出(一四四)。 近江朝の栄枯盛衰を偲んだ歌であろうか。」(231頁)とある一方、多田2009.には「近江の海の夕波千鳥よ、お前が鳴くと、心もひたすらに過去のことが思われてならない。」と訳し、釈に「○タ波千鳥─夕波の上を飛ぶ千鳥。人麻呂の造語。ただし、「夕波」を背景に「千鳥」は岸辺にいるとする説もある。……○心もしのに─「しのに」は、対象にひたすら心が向けられてしまう状態を示す言葉。「しなゆ」の類語とする説は誤り。→二七七九、三九七九、三九九 三、四一四六。○古思ほゆ─「古」は、いまは廃墟となった近江宮の繁栄の過去。「イニシへ」は現在にまでつながると意識される過去。「ムカシ」には断絶感がある。「思ほゆ」は、「思ふ」の自発形。 思わされる。心が「古」への思いにすっかり領有されてしまったことを示す。千鳥の鳴く音が、その思いを引き起こす。」(240頁)とある。
 「夕波千鳥」(注2)、「心もしのに」(注3)、「古」の語について、はっきりしないところがある。
 大浦2007.は、「心もしのに」についての論稿の最後のところで、万3255番歌原文の「小竹」という用字から、シノニという語は「その直線性において、「小竹(篠)」とも通底しているのではないか。」(62頁)と鋭い指摘をしている。
 シノ(篠)という植物は、大型のタケ(竹)、小型のササ(笹)のあいだの、中ぐらいの大きさ、太さのものを指すと考えられている。厳密な区分があるわけではなく、あいまいに区分けして言葉を使っていたとされている。

ヨの続く篠の概念図

 そのシノ(篠)という言葉は、古代の人が、ヨシノ(吉野、ヨは乙類、ノは甲類)という地名について思っていたことと関わりがある。今日の我々から見ればほとんど駄洒落としか考えられないような理解である(注4)。ヨシノとは、ヨ(節、ヨは乙類)+シノ(篠、ノは甲類)の意で、フシ(節)につないで伸びていくこと、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものとしてあるものと悟っていたのである。ヨ(節)はヨ(代)と同根とされる言葉で、代々続くことを言い表すから、ヨシノ(吉野)は代々続くこと、未来永劫天皇の世が続くことを表すおめでたいところだと考えられていた。ために離宮が造られ、持統天皇はたびたび行幸していた。持統天皇のツボにはまった駄洒落であったようである。
 また、ヨヨという語は、多く「と」、「に」を伴って使われる擬態語・擬声語である。筍のように水があふれだすことを表す擬態語、さらには涙を流しておいおいと泣くことを表す擬声語としても使われた。

 御いづるに、食ひ当てむと、たかうなをつと握り持ちて、しづくもよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
 開けて見るに、悲しきこと物に似ず、よよとぞ泣きける。(大和物語・一四八)
 八月より絶えにし人、はかなくて睦月になりぬるかしとおぼゆるままに、涙ぞ、さくりもよよにこぼるる。(蜻蛉日記・下)

 源氏物語の例に見るように、竹類は春に筍として出てきて非常に多くの水気を帯びて生育する。小ぶりのシノ(篠)とて同じである。つまり、ヨシノ(節+篠)なるところは「よよ」と瑞々しいのだといい、それはまるで川の流れのたぎつところを思わせるほどであって、その観念のもとに吉野では川こそが持て囃されるにふさわしくあるということになり歌に歌われている(注5)。特にシノ(篠)とされるものは、成長してなお、カハ(皮、葉鞘)の残したままにあるものが多く、だから、水のたぎるように流れるヨシノ(吉野)のカハ(川)こそ、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なる概念を具現化したところとして歌に詠まれて宜しとされていたのである。結果、水気の多い状態を表すウル(潤)という語と関連すると考えられて、一緒に使われることがある。

 あさかしは うるかはの 小竹しのの芽の しのひて寝れば いめに見えけり(万2754)
 かむ奈備なびの あさ小竹しのはらの うるはしみ わが思ふ君が 声のしるけく(万2774)

 上代の人たちには、シノという言葉(音)の持つ本意、含意に、小竹の意が絡んでいると認められていた。「心もしのに」という形容句もその観念のもとで成立している(注6)。その点を考慮すれば、標題歌、万266番歌は次のように解釈され直そう。

 淡海あふみうみ 夕波ゆふなみどり が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ(万266)
 夕波千鳥よ、お前が鳴いたら、こちらの心もヨヨと泣けてくるもので、それに見合うように淡海の海、琵琶湖は水が満ちている。ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と何代も何代も遡っていにしえのことが思われる。

 「夕波千鳥」という語についても、情景を詠むために造られた言葉であるとばかりとは限らない。たくさんの鳥が鳴いて、その泣く涙を集めたから、湖にはたくさんの水がある。鳥は鳴く時、涙を流さないと考えるのは科学的思考である。ヤマトコトバの発想ではナク(鳴、泣)の一語にまとめられている。一つの範疇を表している。
 このことは、「千鳥」という語にも当てはまる。「千鳥」を詠む歌は万葉集に二十六例ある。鳥は鳴くものだから、泣くことの譬え、歌では序のように扱われることがあり、泣けば涙が出るから千鳥が水辺にいることと論理的に合致する。理屈が通じるから好まれて、水のあるところ、川や海、瀬、「うら」などと絡めて歌われ、二十例を数える。特に「佐保」の地と関係して詠まれる例が九例にのぼり、詠み合わせ、歌枕と捉える見方もある(注7)。だが、そうではなく、サホという音が、サ(接頭語)+ホ(百)の意を印象づける点で、チドリという音、チ(千)+ドリ(鳥)と組み合わされている。百と千との数詞つながりで好まれたのである(注8)
 千鳥がよくナクのは、千鳥が今いる場を離れなければならない状況に陥っている時であろう。ぼやぼやしていられない、ああ、嫌だ嫌だ、と泣いていると捉えている。そんな時とは、夕方になって寝るために帰路に就く時や、波が立っておちおちしてはいられない時である。だから、「夕波」に「千鳥」は最もよく鳴く。千羽もいてよく泣くということは、涙がヨヨと流れて、設定されている水がいっぱいの琵琶湖によくかなうことになる。「夕波千鳥」は人麻呂の造語と考えられているが、「千鳥」が仕方なくそこから離れる時のことを思い浮かべて造ったものであろう。
 「心もしのに」についても、心にもヨヨと涙がたくさんあることでありつつ、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+とヨ(代、世)がたくさんあることが自動的に頭をよぎることでもある。過去へ向かっていれば、かなり遠い時代の天皇の御世のことになる。通説にあるような数代前の天智天皇の御代、近江朝のことを歌っているものではない。なにしろ、千鳥がナクほどである。単位が千なのだから相当前の御代を指している。古の時代のことで、「淡海の海」について人々の間に語り継がれよく知られる話としては、神功皇后とその御子、後の応神天皇が、腹違いの忍熊王おしくまのみこと戦った戦のことがある。最終的に忍熊王は追い詰められ、船から琵琶湖へと入水自殺している。話のクライマックスに当たる部分は歌謡をもって盛り上げられている。

 是に、其の忍熊王おしくまのみこ伊佐いさひの宿禰すくねと、共に追ひ迫めらえて、船に乗り海に浮きて、歌ひて曰はく、
 いざ吾君あぎ 振熊ふるくまが いたはずは 鳰鳥にほどりの 淡海あふみの海に かづきせなわ(記38)
即ち、海に入りて、共に死にき。(仲哀記)
 忍熊王、逃げてかくるる所無し。則ち、五十ちの宿禰すくねびて、うたよみして曰はく、
 いざ吾君あぎ 五十ちの宿禰すくね たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手いたではずは 鳰鳥にほどりの かづきせな(紀29)
則ち共に瀬田のわたりおちりてまかりぬ。時に、武内宿禰、うたよみして曰はく、
 淡海あふみの海 瀬田のわたりに かづく鳥 目にし見えねば いきどほろしも(紀30)
是に、其のかばねけども得ず。然して後に、日菟道うぢがはに出づ。武内宿禰、亦うたよみして曰はく、
 淡海あふみの海 瀬田のわたりに かづく鳥 田上たなかみ過ぎて 菟道うぢとらへつ(紀31)(神功紀元年三月)

 この話は言い伝えられていて、飛鳥・奈良時代にも巷間に流布し、通念となっていたものと考えられる。人麻呂は人々の常識に従って歌を作っている。ヤマトコトバで「むかし」は現在につながらない断絶感を帯びている一方、「いにしへ」は現在にまでつながると意識される過去のことを指す。記紀にいわゆる人代として言い伝えられている時代は「いにしへ」に当たるわけである。人麻呂の作歌時点から三十年ほど前でしかない天智天皇の近江朝について、イニシヘ(にし)と形容することはあり得ない。

 淡海あふみうみ 夕波ゆふなみどり が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ(万266)
 淡海の海の夕波に千鳥が鳴く。お前が鳴いたら、こちらの心もヨヨと泣けてくるもので、その涙を集めたかのように淡海の海、琵琶湖は水が満ちている。ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と何代も何代も遡っていにしえのことが自然と思い出される。忍熊王おしくまのみこは行き詰まって、ここ淡海の海に投身自殺した。私の心がしっとりと濡れるのと同じように、さぞかし水に濡れたことであろうから。

(注)
(注1)天智天皇の皇后、倭姫王やまとのひめおほきみ倭大后やまとのおほきさき)の歌(万147・148・149・153)からの連想を説く見方も散見される。
(注2)「棚無たななしぶね」(万58)などと同様の造語で、「彼[柿本人麻呂]がことばによって日本人の感受性を開拓していった跡を知ることができる。」(西郷2011.175頁)という評は、ヤマトコトバとは何かという根本的問題を踏み外している。
(注3)これまでの諸説や見解については、中嶋2003.、大浦2007.を参照されたい。
 そのなかの一つ、亀井1985.は、象徴的な「しのに」という語の存在により、動詞「しのぐ」、「しなふ」、「しのふ」を互いにパロニムとして古代人は把握していたとする。ところが、「なかんづく、人麿の作は、悲しみをこめて別離をうたってゐるのである。そこへ、単なる類音・・しゃれ・・・を用ゐてゐるとすれば、それは、あまりにも技巧として軽すぎるといはねばなるまいと、わたくしはおもふ。」(108頁)としつつ、言語現象を言語の表現美として捉えるフォスラー一派の学説を引き、「狭義の[社会的に固定した形態として成立する]コンタミネーションは、すべて、パロニミーにおける意味論的価値関係の転換であり、変革である。そして、えせ語源・・・・(étymologie populaire, Volksetymologie)もまた、この点、おなじである。」(109頁)として、「より大なる表現力への欲求から生まれた機能的形態とみらるべきもの」(同頁)として是認、評価している。本稿では、単なる類音と片づけることのできない駄洒落を見出している。言葉が言葉を生んでいく生成論的過程である。
(注4)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」参照。
(注5)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」に詳述した。
(注6)拙稿「「心もしのに」探求」参照。
 「吉野讃歌」とされる歌も、「心もしのに」という表現が使われる歌も、万葉集において柿本人麻呂の作を初出と認める傾向にある。ただ、当時の歌を網羅したのかわからない万葉集の用例をもってして表現の発案者が誰であるかは定められない。そして、そのようなことをしてもあまり意味のないことである。言葉は誰かが言い出したからといって言葉になるのではなく、受けとる側が賛同して受容しなければ言葉とならない。今日、表現の創作者としての人麻呂論は数多く展開されているが、眉唾ものとして扱わなければならない。
 なお、シノを詠み込む次の歌は、訓みに問題が残る。

 あきかしは うるかはの 細竹しのの芽の 人にはしのべ 君にあへなく〔秋柏潤和川邊細竹目人不顔面公无勝〕(万2478)

 四句目の原文は「人不顔面」である。これを「しのぶ(ノは乙類)」の意ととっているが、「しの(ノは甲類)と音が違う。奈良朝末期にノの甲乙の対立が消えたとされているが、無理があるように感じられる。
(注7)廣岡2021.76~79頁。
 次のような例を見れば、「千鳥」が鳴くことと作者が心に泣くこととを並立的に詠み合わせているものとわかるだろう。第一例では、涙で水がいっぱいになっていて、海や川のことを絡めて歌っている。第二例では、千鳥が友を呼んで鳴くのと、作者の大神女郎おほかみのいらつめが大伴家持が近くにいなくて涙しているのとを絡めて歌っている。

 意宇おうの海の 河原の千鳥 汝が鳴けば 我が佐保川の 思ほゆらくに(万371)  さなかに 友呼ぶ千鳥 物思ふと わびをる時に 鳴きつつもとな(万618)

(注8)チドリのチを数詞(千)と意識して作られている例は他にもある。

 かどの の実もりむ ももどり 千鳥はれど 君そまさぬ(万3872)
 …… 朝猟あさかりに 五百いほつ鳥立て 夕猟ゆふかりに 千鳥踏み立て ……(万4011)

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『万葉集全歌講義 第2巻』笠間書院、2006年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
大浦2007. 大浦誠士「「心もしのに」考究」『萬葉語文研究 第3集』和泉書院、2007年。
亀井1985. 亀井孝「「情毛思努爾」『亀井孝論文集4 日本語のすがたとこころ(二)』吉川弘文館、昭和60年。
西郷2011. 西郷信綱『西郷信綱著作集 第4巻』平凡社、2011年。(『万葉私記』未来社、1970年。)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
中嶋2003. 中嶋真也「「心もしのに」考」『国語と国文学』第80巻第8号、平成15年8月。
中嶋2014. 中嶋真也「しのに」多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
廣岡2021. 廣岡義隆『萬葉風土歌枕考説』和泉書院、2021年。(「万葉「歌枕」の成立─詠み合はせ・伝聞表現・既定表現から─」『美夫君志』第26号、昭和57年。)

加藤良平 2024.4.11初出

湯原王の鳴く鹿の歌

  湯原ゆはらのおほきみの鳴く鹿の歌一首〔湯原王鳴鹿歌一首〕
 秋萩あきはぎの 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 声のはるけさ〔秋芽之落乃乱尓呼立而鳴奈流鹿之音遥者〕(万1550)

 鉄野2011.の訳ならびに「鑑賞」をあげる。

 秋萩が華やかに散り乱れている辺りで、妻を呼び立てて鳴く鹿の声の、なんと遥かなことよ。
 萩と鹿とは夫婦一対のように見なされることが多い。この鹿は散り行く秋萩を惜しんで鳴くのであろうか。その声の「遥けさ」に、この歌の抒情の焦点がある。この語によって、 周囲の静けさが表され、空間が情趣に満たされる。視覚による近景(萩)と聴覚による遠景(鹿鳴)。遠近法によって、風景が立体的に構成されている……。遥かに聞こえてくる音に対する関心は、やはり「地ははるかにして遥蟬を聞く」(せいしゃちょう「張斉興に答ふ」詩)といった六朝・初唐詩に喚起されたのであろう。鹿鳴は『毛詩』(小雅)に詠われているが、その後の詩には余り見えない。この歌は日本的な景物を、漢詩的な描写法で捉えたものといえよう。湯原王は、詩の方法を摂取した先駆者として、大伴家持に影響を与えたと見られる点でも注目される(注1)(注2)。(105頁)

 的外れな解釈である。
 文法的に、「鳴くなる鹿の」の「なる」は伝聞が表すことは指摘のとおりである。一方、「散りのまがひに」の助詞「に」は、「散り乱れる時にの意。」(稲岡2002.340頁)ではなく、動作の状態を表す用法である。

 時雨しぐれの雨 なくな降りそ くれなゐ にほへる山の 散らまくしも(万1594)
 ゆくりなく 今も見がし 秋萩の しなひあらむ いもが姿を(万2284)
 あまむ かる嬢子をとめ いたかば 人知りぬべし 波佐はさの山の 鳩の した泣き泣く(記83)
 慣用句として用いられている言葉づかいが「散りのまがひ」や「声のはるけさ」に見られる。
 …… 大船おほふねの わたりの山の 黄葉もみちばの 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず ……(万135)
 世間よのなかは 数なきものか 春花の 散りのまがひに 死ぬべき思へば(万3963)
 夏山の ぬれしげに 霍公鳥ほととぎす 鳴きとよむなる 声の遥けさ(万1494)
 よひの おほつかなきに 霍公鳥 鳴くなる声の 音の遥けさ(万1952)

 慣用表現を並べて湯原王は何を詠おうとしているのか。
 秋の萩の花が散りまがうような状態に、雌鹿を呼び立てて鳴くという牡鹿の声は、遥かなるものであると歌っている。
 この意が何を意味するのか理解されるに至っていない。なのに、名歌と評されている。
 秋萩に絡めて鹿の鳴く声の遥かなことを歌っている。この「秋萩」という語の使い方は万葉歌に特有のものである。

 わぎ妹子もこに 恋ひつつあらずは 秋萩あきはぎの 咲きて散りぬる 花にあらましを〔吾妹兒尓戀乍不有者秋芽之咲而散去流花尓有猿尾〕(万120)

 ズハについて、上代の特殊用法などと誤解されている。「は」の前で表している内容は、「は」の後で表している内容と同じことである。たまたま、「は」の前で表している内容に「ず」が含まれている。ただそれだけなのだから、PデナイノハQデアル、つまり、~P≒Qとでも書ける様相を呈している。

 「吾妹子に恋ひつつあらず」ハ「(花にあらませば)秋萩の咲きて散りぬる花にあらまし」ヲ

 彼女に対して恋しつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に自分が花であるとしたら、秋のハギが咲いて、散ってしまった、その花であったらよいのになあ、というのと同じことである、という意味である。
 花のなかには椿の花のように花の形をとどめたままに散るものもあるし、蓮の花びらのように散華として手厚く思われるものもある。ソメイヨシノの散る様子を花吹雪として愛でることもある。しかし、一般には、散ってしまった花は見る影もないものが多い。とりわけ萩は花びらが小さく、塵くずのように見える。そんな萩を「秋萩」として歌に採用している。アキハギ(キは甲類、ギは乙類)という言葉(音)は、ハ(葉)とキ(木、キは乙類)(ハギで濁音化)がアキ(飽、キは甲類)てしまった様子を示しているように聞こえる。つまり、散ってしまったあの小さな花弁は、ハ(葉)ギ(木)に飽きられて捨てられた残骸である。花のなかでも恋を表す点では最低、最悪の花、それが「秋萩の咲きて散りぬる花」である。そんな最低、最悪の花になりたいわけはなく(反実仮想)、彼女に恋しつづけると宣言している。PでないのハQであるモノヲ、という論理式風の構文に作っているわけである(注3)
 湯原王の万1550番歌では、そんな秋萩が散りまがうという。ハ(葉)とキ(木)にアキ(飽)られてどこへ行ったかわからない散り方をしている。ちょうど同じように、鹿が異性を呼んで鳴く声が入り乱れていて、それらの声は遠いところから聞こえている。雌鹿に飽きられた牡鹿は、心理的に遠いところにあり、物理的にも遠いところにいるのがふさわしい。
 遠いところから未練がましく鳴いている。どんなふうに聞こえたら一番その状態をよく表すか。
 鳴く牡鹿には角がある。秋になって角が立派になった頃、発情期を迎えて盛んに鳴く。体格がよく角が立派で力の強い牡鹿一頭が十頭ほどの雌鹿を囲うハーレムを形成する。まれに他の強い牡鹿にハーレムごと乗っ取られることもあるが、弱い牡鹿は近づこうとしてはすぐに撃退されている。実際に繁殖するに当たっては、牡鹿一頭が種付けするのには肉体的にも時間的にも限度があり、周囲にいた牡鹿が隙を見て抜け駆け的に子孫を残すことも多いと言われている。それでも、十頭以上の雌鹿を一頭が牛耳っているように観察される。すなわち、他の牡鹿は離れたところでむなしく鳴き声をあげていることになる。
 牡鹿には角がある。異名をカセギというのは、先の分かれた角の様子が糸をかけて巻くのに使うかせによく似ているからである。遥か遠くからカセを頭に着ける鹿の鳴く声が聞こえている。声は風に乗って届いているようなものである。カセ(桛)とカゼ(風)の洒落、ヤマトコトバの概念体系に確かなことを述べている。頓智の効いた歌いっぷりである。遠い所からいくつもの声が同時に聞こえてきている。一つ一つを聞き分けることができずにまがうことになっている。秋萩の花が散ってしまい、もとどこについていた花弁なのかさっぱりわからず、まがうのと同じだというわけである。
 一頭しかハーレムのボスにはなれないから、多くの牡鹿が鳴く声は重なり合って何を言っているのか聞き分けられず、まがうものとなっている。何と言っているのかはっきり聞き取れない声を表すには、「云々しかしかいへり。」(注4)という言い方をした。言葉を表わす際に省略するやり方だが、何と言っているのかわからないながらも発言は確かにあったという場合にも用いられる。ハーレムに近寄れずに遠くから鳴いて呼び掛けるばかりのたくさんの牡鹿の声は、「云々しかしかいへり。」でまさに合っている。鹿だけにシカシカ言っているというのである。
 湯原王はアキハギという言葉に興趣を感じ、繁殖期の鹿のハーレムのあり様を理解しつつ、群れに近寄れない発情期の牡鹿の鳴き声について秋萩になぞらえる形で歌を詠んでいる。ヤマトコトバのおもしろさに感じ入って、なぞなぞのような歌に仕上げている。既存のヤマトコトバを既存のヤマトコトバによって循環的に解説しておもしろがっている。ヤマトコトバを使って知恵の輪を作っている。それ以上のこともそれ以外のことも、何も足し引きしていない。つまりは、この歌には叙景も抒情もない。地口的技巧によって作られた歌、今日の評価基準でいえばくだらない歌である。ヤマトコトバとはいかなる言語体系か、その点を抜きにして万葉びとの心に近づくことはできない。
 萩と鹿の組み合わせは萩の花の咲き散るのと鹿の繁殖期とが秋という季節で合致することはするのであるが、それは単に条件であって、頓智的言葉遊びにかなうことをもって、興趣をそそって多用されるに至ったものである。古典文学で常套的に組み合わせられているのは、その極意が不明になって以降に伝統化していったものである。

(注)
(注1)ほかにも、中西2019.に、「鳴く鹿をよんだものだが、すでに秋萩は視野をまぎらして散りつづけている。その中で鳴く鹿は、姿を明瞭にしがたいのだが、さらに鹿は声だけだという。そして声は遙けきそれであるという。すべては分明でない。しかしそれは 朦朧と霞みこめて不分明なのではない。……王の歌に現れる動物は……すべて鳴き声だけで、姿は一つも歌われていない。王は清らかな物を見る目を持っていたと同時に、鋭敏な聴覚の所有者だったのである。」(219~220頁) とされている。
(注2)鉄野氏は、「万葉集に歌を収める貴族たちにとって漢詩漢文は第一の教養としてあった。何より彼らがかかわる律令制による統治体制がそれをもとめた。 万葉集を可能にした、歌を文字で記し、それを歌集としてまとめるという営み自体、漢詩漢文の教養がなければできないものである。 彼らの漢詩作の一端は『懐風藻』などの漢詩集に見ることができる。万葉集でも漢詩や漢文による序が、とくに山上憶良、大伴旅人・家持にかかわる巻五、十七~十九に見られる。そうした教義の基盤の上に彼らは歌を構想し、表現を模索したのである。」(105頁)と、万葉集作歌の背景に漢詩文があると決めつけているが、防人歌や東歌を並列させて一つの歌集「万葉集」として編むものだろうか。漢詩文の教養をひけらかしたければ漢詩を披露する機会があるのだからそこですればいい。
 人間の思考は母語に基づいて形成される。懐風藻にも万葉集の漢詩文風な序も、はたまた記紀の表記においても、倭習とも呼ばれるエセ漢文が記されている。中国人にわからせるために書記されているのではなく、ヤマトの人たちがどうやって母語を表記したらいいか、模索の過程でさまざまな方法をとり、副産物、派生物としていろいろな形となったと考えるのが妥当である。今日のように外国の文化、特に欧米の文化を受け容れてそれを基にしたテーマパークで楽しんでいても、一般に日常会話を英語で交わしているわけではない。会社でも海外事業を除けば、英語が公用語化されるケースはきわめて稀である。通じ合わなければ共同作業にならない。万葉集でも歌の作者がいくら漢詩文を勉強して表現の幅を広げてみせたところで、相手に通じなければ話にならない。だからそのようなことはせず、慣用表現を組み合わせながら少しアレンジを加え、聞き手の誰もがなるほどと思えるようなものを思案して歌っていた。舎人や采女が聞いているところでウケない歌を詠んだりはしない。万葉集はウケを無視した講義ノートではあり得ないということである。
(注3)拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」について」参照。
 ハの前の文で「つつ」とある。二つながらにあることを示している。PハQ、と助詞ハでつながっているから、ハの後の文でも、「咲きて」と「散りぬる」にきちんと照応させてある。あるいはまた、「は(葉)」と「ぎ(木)」でもあり、「はぎ(萩)」=「は(葉)」+「ぎ(木)」と「花」とでもあるのだろう。正確な言葉遊びの才覚を駆使しながら、否定と否定とを両立させる高等表現を展開している。
(注4)「おほみことのりしてのたまはく、「なむぢ軽皇かるのみ」と云々しかしかのたまふ。〔策曰咨爾軽皇子云々〕」(孝徳前紀)のような例が日本書紀に見える。

(引用・参考文献)
鉄野2011. 鉄野昌弘「湯原王」神野志隆光監修『別冊太陽 日本のこころ180 万葉集入門』平凡社、2011年4月。
中西2019. 中西進『新装版 万葉の歌びとたち』KADOKAWA、令和元年。(『万葉の歌びとたち 万葉読本2』1980年。)

加藤良平 2024.4.8初出

湯原王の菜摘(夏実)(なつみ)の川の歌

 湯原ゆはらのおほきみは万葉集に十九首の歌を残している。いずれも短歌である。

  湯原王の吉野にして作る歌一首〔湯原王芳野作歌一首〕
 吉野にある つみの川の 川淀かはよどに 鴨そ鳴くなる 山陰やまかげにして〔吉野尓有夏實之河乃川余杼尓鴨曽鳴成山影尓之弖〕(万375)
 「吉野の菜摘の川の川淀には鴨が鳴いているようだ。山の陰になっているところで。」(多田2009.304頁)

 この歌を一言で評すれば、「感のとおった叙景歌。」(古典集成210頁)とするのが通説である(注1)が、誤りである。吉野にあるナツミ川の風情をSNSにアップした歌ではない。
 吉野に、ナツミという川が流れている(注2)。既存の固有名である。その言葉(音)を使って機知ある歌を作っている。吉野にあるナツミ(ミは甲類)という川の流れ方は、ヨシノというナ(名)+ツミ(積、ミは甲類)と積み重ねて表現するに値するものだと思われたのである。ヨシノという名を体現して止まないとするのである。ヨシノは、ヨ(代・世)+シノ(篠)という語呂合わせから、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と代々続くところと捉えられてめでたがられていた。このヨ(乙類)という音は、また、助詞のヨ(乙類)と同音である。助詞のヨは、相手に呼びかけ、念を押し、自分の考えを相手に押しつける気持ちを表している。確かに、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と、呼びかけのヨが連呼されるとすれば、それは念を押している意であると感じられる。
 そのように、ヨが渋滞して川の流れがとどこおっているから、そこは「川淀」ということになり、歌に歌われている。ヤマトコトバからして、これはおかしなことである。ヨシノがヨ(代・世)+シノ(篠)という語呂合わせからヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と捉えられるなら、ヨヨと涙を流すように止めどもなく流れ続けることを表すはずである(注3)。川で言えば、たぎと呼ばれるようなところに当たる。川淀かはよどのように滞留していることは言葉の義に反する。川の形状が実際にどうだったかは問題ではなく、ヤマトコトバが撞着しているところに興味が向かっている。上代の人は言葉と事柄とは同じことを示すように志向した。それが上代の人たちの言葉に対する考え方であった。だから、この歌では、自分では確認できないことにしている。実見したわけではないから伝聞の助動詞「なり」を使い、物理的に見ることができないことを「山陰」だからと断って念を押している。助詞のヨの意味を強調し、具現化した構成になっている。
 ヨシノという名が積まれたところとして、ナツミなる川の名がたまたま付いていた。ヨシノの地にあるのだから、ヨ(代)の意味のヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……の集積地ということになるだろう、なるだろう、と念を押すヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところである。念を押さなければならないということは、本当のところは定かではないから相手に無理強いをすることになる。本当のところはわからないが、きっとそうだろうという言い方、眉唾ながらの詠嘆を表すには助詞のカモが使われる。助詞のカモのモは本来乙類であるが、早くからモの甲乙の区別はなくなり、鴨(モは甲類)の音と紛れ、万葉集の表記に「鴨」字を当てることがきわめて多い。ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところ「かも」しれないし、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところではない「かも」しれない、と、鴨が代弁して鳴いているらしいと伝え聞いたと話している(注4)。湯原王は自分で確認することはできない。なにしろ吉野は山の地で、「山陰」のために見えやしないと言い訳を付け加えている。冗談を言っているのだから、マジで受け取られては困るのである。
 このような冗談の歌、言葉遊びの歌、諧謔の歌を前にして、叙景のすばらしさを褒めているとする現代の解釈は如何ともしがたい。湯原王が歌った時の意味とは別方向へ一人歩きしてしまっている。現代人が、聴覚と視覚を組み合わせて立体的に描写した叙景歌であるととるようには、万葉の時代に解されてはいなかった。そもそも、吉野の菜摘の川のうち、淀になっているところで鴨が鳴いているということだ、山の陰になっていて私の視界には入らないが、という意味のことを聞いたとして、上代の人にとって何かの役に立つことはない。湯原王は、万631番歌の題詞脚注に、「志貴皇子之子也」とあるが、続日本紀に系譜、閲歴はおろか、記事にも登場していない。皇族ではあるが重要人物ではない。少しばかり高貴なおじさんの目に、鴨の姿が入るか入らないかなど知ったことではない。
 近代以降、短歌を志す人にとっては、歌の歌い方がうまく、表現に深みがあると評価されることになった。しかし、音声言語でしかなかった時代には局地的な風情など意に介してはいられない。記憶のキャパシティを超えて覚えるに及ばないことは雑音でしかない。文字がないということは、記録がないということであり、検索することもできない。すべてはヤマトコトバの言葉のうちに込められた情報だけで生活していた。言い伝えられながらさまざまな知恵を凝らしたものがヤマトコトバで、ヤマトコトバを伝え聞くことで暮らしの知恵として役立てていた。すなわち、ヤマトコトバをもって歌を詠むということは、何か新しい情報を伝えるためではなく、頓智を凝らして聞き手をおもしろがらせる芸であった。基本的に娯楽作品なのである。うまいことが言えた時にのみ周囲の喝采を浴びて人々の間に歌として共有され、聞き手の記憶に残って拙い表記法で書きとめられ、やがて万葉集にも載ることとなった。人間の記憶には限りがある。叙景にせよ、歌枕にせよ、やりたければやればいいが、聞き手がついて来られない歌が空中をひとたび舞ったとしても、聞き流され、忘れられたに違いあるまい。

(注)
(注1)この歌について、澤瀉1958.は、「第三期の終より第四期のはじめへかけての作、天平のはじめ頃のものであり、優美婉麗の作風で、当時の新風をしめしてゐる。」(386頁、漢字の旧字体は改めた)、西宮1984.は、「この歌も王の代表作で、声調はn音とk音とが重ねられて鴨の鳴声と協和音をかなでる如く、しかも清澄な景色がそれによって鮮明に描かれている。「山蔭にして」とシテ止めにしているのも余情の表現となり、ニシテ止めの先駆をなしたものとして注意される。」(265頁)と評している。また、鉄野2011.は、贅言を尽くしてうがった見方をしている。「湯原王は、……宴席歌や相聞歌も達者であるが、優雅で清新な自然詠に特に優れる。この歌は吉野での作。夏実(菜摘とも)は、吉野宮のあった宮滝よりやや上流で、水の静かに流れるところである。「鴨そ鳴くなる」の「なる」はいわゆる推定の助動詞ナリで、音声が聞こえてくることをいう。それは鴨の姿が見えないことを表すが、一方で、「山影にして」と続けることで具体的に鴨のいる場所も示される。聴覚と視覚とを組み合わせた構成によって、景が立体的に描かれているのである。しかも、第四句と第五句を倒置したうえで、「…にして」と言いさしにしていることで、まるで鴨の声に引かれ山影に誘い込まれていくような余情がもたらされており、まことに効果的である。漢詩の対句には、聴覚・視覚といった感覚の個別性が意識されることが多いが、湯原王の描写法にも、その影響があると考えられる。」(104頁)。
 湯原王の歌全体については、中西2019.に、「湯原王の歌は輝くような太陽の代わりに月を好み、豪快なけものの肢体よりも小動物の声の世界に愛し、優美な新しい風雅の中に歌われた。そしてそれらの中に一点の物思いの曇りもとどめてはいない。」(222頁)、川島2005.に、「湯原王の詠作には、詩嚢の豊かさ、あるいは丹精のこまやかさといったものを、窺うことができる。」(182頁)と評されている。
(注2)「吉野なる」という訓み方も見られるが、原文に「吉野尓有」とあるから「吉野にある」と訓む。周知のことではないのだからそう訓むのがのぞましい。
(注3)中古の例文をあげる。

 御いづるに、食ひ当てむと、たかうなをつと握り持ちて、しづくもよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
 開けて見るに、悲しきこと物に似ず、よよとぞ泣きける。(大和物語・一四八)

(注4)万葉集中に、鴨が詠み込まれた歌は二十例ほどある。そのうち、その鳴き声だけを捉えて歌った歌は、標題歌以外、次の防人歌に限られる。

 あしの葉に 夕霧ゆふぎり立ちて 鴨がの 寒きゆふへし をばしのはむ(万3570)

 歌末の「む」は推量の助動詞である。防人に行って、夕方に葦の葉に霧が立ち、鴨が飛来して寒い夜に鳴き声が聞えるようになったら、絶対にあなたのことを思うだろうと言っている。どこか他人事のような言い方なのは、防人に出掛ける時、別れの時に歌った歌だからである。今はまだ季節が春か夏なのであり、晩秋になって鴨が渡ってきて鳴いたら、という将来を仮定して推量している。将来のことだからそうなる「かも」しれないし、そうならない「かも」しれない。だから同音の「鴨」を登場させて諧謔している。鴨が何と鳴くと聞き分けたか、擬音語化し定着していた言葉は知られない。助動詞のカモを表出させるために方便として登場させている。その点、万375番歌と同じ使い方である。誰もが聞いてわかるようになっている。

(引用・参考文献)
澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第三』中央公論社、昭和33年。
川島2005. 川島二郎「湯原王の歌」神野志隆光・坂本信幸編『万葉の歌人と作品 第十一巻』和泉書院、2005年。
古典集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 万葉集一〈新装版〉』新潮社、平成27年。(『新潮日本古典集成 万葉集一』新潮社、昭和51年。)
多田2009. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
鉄野2011. 鉄野昌弘「湯原王」神野志隆光監修『別冊太陽 日本のこころ180 万葉集入門』平凡社、2011年4月。
中西2019. 中西進『新装版 万葉の歌びとたち』KADOKAWA、令和元年。(『万葉の歌びとたち 万葉読本2』1980年。)

加藤良平 2024.3.13初出

弓削皇子と額田王の贈答歌(万111~113)

 万葉集に載る額田ぬかたのおほきみの最後の歌はげの皇子みことの間で交わされたもので、巻第二の「相聞」の部立の歌としてよく知られている。

  吉野宮にいでます時に、弓削皇子の額田王に贈り与ふる歌一首〔幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首〕
 いにしへに 恋ふる鳥かも づるの 御井みゐの上より 鳴き渡り行く〔古尓戀流鳥鴨弓絃葉乃三井能上従鳴濟遊久〕(万111)
  額田王のこたへ奉る歌一首〈倭京やまとのみやこよりたてまつり入る〉〔額田王奉和歌一首〈従倭京進入〉〕
 いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥ほととぎす けだしや鳴きし おもへるごと〔古尓戀良武鳥者霍公鳥盖哉鳴之吾念流碁騰〕(万112)
  吉野よりこけせる松がを折り取りてつかはす時に、額田王の奉り入る歌一首〔従吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌一首〕
 み吉野の 玉松がは しきかも 君がことを もちてかよはく〔三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久〕(万113)

 万111番歌に対して万112番歌が歌われており、万113番歌はそれと同時、または同時期であろうとされ、同じく吉野宮にいる弓削皇子と倭京にいる額田王という位置関係で歌われている。
 すでに説かれているように、弓削皇子が額田王に謎掛けをし、きちんと答えたのが万112・113番歌の「相聞」の実態である。どういう謎掛けをしたかは額田王の和した歌からわかる。ホトトギスである。「古」のことをホトトギスという語が印象づけている。万葉びとには、ホトトギスという言葉のなかにトキ(時)という語を読み取っていた。そして、彼らがホトトギスという語を語構成として考えた形は、語形としてはホト→トギと間髪を入れずに鳴き交わすものとして、語意としてはほとんど時は過ぎるの意として了解されていたと考える。
 中国に「霍公鳥」と書いた例はなく、本邦上代に作られたようである。「霍」は「靃」に同じで、説文に、「靃 飛ぶ声也、雨ふりてならびて飛ぶ者、其の声靃然たり」とあるが羽音を意識したとは考えにくい。むしろ、「霍霍」の義に声のはやいことを表すことがあり、「霍乱」ははげしい吐瀉をともなう病のことである。鳴いて血を吐くほととぎす、といわれるほど口の中が赤く、その鳴き声ははやく、二羽がならんで掛け合うようにかぶせ気味に鳴い交わしているものと思われていたと推測される。すなわち、上代においては、ホト→トギと聞いたということである。語尾のスは鳥名に多く見られ、ウグイス、カケス、カラスなどと同じ用法である。
 そして、ホトトギスという言葉を意味の方から考えると、ホト(ホトホト(殆・幾)の語幹、ホ・トは乙類)+トキ(時、トは乙類、キは甲類)+スグ(過)の約と思われていたと考えられる。ホトホトは白川1995.に、「「ほとんど」の古い形。あることがらが実現しようとする寸前の状態にあること。まだ一歩だけ完全な状態に達していないことをいう。そのような状態にあることを、推測していうこともある。」(680頁)とある(注1)

   夏の相聞
  鳥に寄せたる〔夏相聞 寄鳥〕
 春されば 蜾蠃すがるなす野の 霍公鳥ほととぎす ほとほと妹に 逢はず来にけり〔春之在者酢軽成野之霍公鳥保等穂跡妹尓不相来尓家里〕(万1979)

 この歌は、単にホトトギスの音をもってホトホトへと続く序詞にしているばかりであるが、万葉びとの関心は、言葉の音に注がれていることを知ることができる。
 トギスは、トキスグの転訛(tökisugu → tökisug → tögisu)と捉えられた。その結果、ホトトギスという鳥の名は、ほとんど時は過ぎるという意味になる。この洒落の意味において、ホトトギスという言葉は興味深く迎え入れられている。アプリオリにホトトギスという言葉があり、それを万葉時代に独自の解釈を行っておもしろがって使い、意味の派生、展開を楽しんでいる。

 信濃なる 須我すがあらに 霍公鳥ほととぎす 鳴く声聞けば 時過ぎにけり〔信濃奈流須我能安良能尓保登等藝須奈久許恵伎氣婆登伎須疑尓家里〕(万3352)
  右の一首は、信濃国の歌〔右一首信濃國歌〕

 この歌は、スサノヲが清々すがすがしいと言った須賀すがの宮の話に準えた歌である。出雲ではなく信濃にあり、八重垣をめぐらせる宮があるようなところではなくて荒れた野である。これはいったいどういうことか。それをホトトギスが鳴いて教えてくれた。ほとんど時は過ぎる、ほとんど時は過ぎる、と鳴いていて、なるほど時間は経過していて、空間的にも離れたところにたどり着いたものだと気づかされた、と歌っている(注2)
 ホトトギスは、ほとんど時は過ぎるということだから、古いことを示す語とともに用いられている。「いにしへ」という語も該当する(注3)

  霍公鳥のくを聞きて作る歌一首〔聞霍公鳥喧作歌一首〕
 いにしへよ しのひにければ 霍公鳥 鳴く声聞きて 恋しきものを〔伊尓之敝欲之怒比尓家礼婆保等登藝須奈久許恵伎吉弖古非之吉物乃乎〕(万4119)
 いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥ほととぎす けだしや鳴きし おもへるごと(万112)

 額田王の万112番歌については、中国の蜀魂伝説と結びつける解釈が、はやくは北村季吟・万葉拾穂抄(秋田県立図書館デジタルアーカイブズhttp://da.apl.pref.akita.jp/lib/item/00010001/ref-C-438484(10/59))から行われてきた。しかし、額田王が中国の逸話を熟知して拡大解釈するほどの勉強家であったとは伝えられておらず、想定することも困難である(注4)
 弓削皇子の歌い掛けに、「づる御井みゐの上より鳴き渡り行く」とある。弓削という名を負っているから、弓を削り作る人としての言にふさわしくあるべくして弓具に関連するづるつながりの植物を持ち出している。づるは今日いうユズリハ、トウダイグサ科の常緑高木である。春に出た新葉が大きく整った頃に古い葉が落ちて、もとからある葉が新しい葉に譲っているように見えるのでその名がついたとされている(注5)。また、その用字に見られるように、上代の人の考えの中では弓弦と関係を持っていそうである。弓の弦は弦巻に巻いて控えとしていた。葉が控えとしてあることがユズリハの意なら、弓弦が弦巻に巻かれていることは言葉の義によく合致している。言葉は事柄であるとする上代の人たちの考え方にかない、わかりやすいものであったろう。
 弦巻のように巻くもので「御井みゐ」と呼ばれる井戸と関係がありそうな事柄は、井戸滑車のことと推測される。円形に従って同じように蔓が巻きつけられている。「御井みゐ」には、滑車を備えた車井戸を有するものがあったものと考えられる。車井戸では、一つの甕(桶)が登場するとき、もう一つの甕(桶)は落ちていく。ユズリハの落葉に擬せられる。
 考古学では、出土品が見られず、絵巻物などの絵画資料に描かれることがないから、井戸に滑車を用いた例は近世になって出現したとされている(注6)。しかし、万葉歌の比喩的用法を鑑みるに、上代にすでに存在していたとしなければならない。前近代のものの考え方として、技術が知られていないから使われていなかったととると事を見誤ることになる。船の帆をあげる滑車が使われていたのは、他に代替できずに航行に欠かせない必須アイテムだったためである。井戸の場合、滑車を細工して作ることとその便益とを比べた時、人力で引き揚げることが可能で、身近な井戸に設置した場合に子どもが遊ぶと危険で、ほかに撥ね釣瓶井戸にする方法も知られていたから、中古・中世にかえって廃れていたと考えたほうが妥当であろう。古墳時代の形象埴輪に象ったものがいまだ見られないので、それ以降に移入されたものかと思われる(注7)

左:一乗谷朝倉氏遺跡の復原井戸、中:灰陶井戸(前漢時代、前3~後1世紀、茂木計一郎氏寄贈、愛知県陶磁美術館展示品)

 明器の「漢代の井戸」に見られるもののうち、左と中はいわゆる車井戸、右は轆轤井戸である。前者は甕(桶)がロープの端にそれぞれ付けられていて片方が下りればもう片方が上がる仕組みである。後者はロープの片方に甕(桶)が付けられていて、もう片方は人が握り、幅広の滑車を利用して体重をかけて楽に引き上げる仕掛けである。いま、弓削皇子が「づる御井みゐ」と言っているのは前者に当たる。片方が上がればもう片方が下がる。ユズリハの新葉、旧葉のように、呼応、連動するメカニズムである。その時、滑車はきしむ音をあげる。その音は何の鳥が鳴いている声と聞きなすか。間髪を入れずに声をあげていると目される鳥は、ホト→トギと鳴くと思われていたホトトギスである。そのホトトギスは、ほとんど時を過ぎる、の意であるとも思われていたから、弓削皇子は「いにしへに恋ふる鳥かも」と形容しているのである。その謎掛けは倭京にいる額田王にすぐに通じ、一・二句目がほとんど同じ「和歌」を返し奉っている。
 また、万113番歌の題詞、「従吉野‐取蘿生松柯遣時、額田王奉入歌一首」にある「蘿生松柯」は、コケのついた松の枝のこととする説と、サルオガセの巻きついた松の枝とする説(注8)がある。和名抄に、「蘿 唐韻に云はく、蘿〈魯何反、日本紀私記に蘿は比加介ひかげと云ふ〉は女蘿なりといふ。雑要决に云はく、松蘿は一名に女蘿といふ。〈万豆乃古介まつのこけ、一に佐流乎加世さるをがせと云ふ〉」とある。サルオガセは樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣類のことである。命名の由来は、サル(猿)+ヲ(麻)+カセ(桛)の意であろう。ヲガセ(麻桛)は麻糸をかせに巻きつけていく様子を示している。森のなかでそのような様が見られるからには人のすることでなく、木登り上手な猿の仕業であろうと考えてその名があるのだろう。ここでは、松の枝に何らかの地衣類の付いたものを弓削皇子が折り取って、吉野から都にいる額田王のもとへ贈ったことに対し、彼女は歌を返しているように受け取れるから、弓削皇子と額田王との間で二度やりとりされていると考えられないこともない(注9)(注10)
 なぜそのような桛木が送られているのか。額田王はこれまでずっと行幸に参加してきた。内閣官房付きの歌人である。場を盛り上げるために歌を歌う大役を担い十分な活躍を見せてきた。けれども、今回の吉野行幸には参加していない。足が不自由になって同道できなかったのである。都にとどまっている彼女に吉野の状況を伝えつつ、慰みにもなる贈り物として考えられるのは杖である。そこで、鹿杖かせづゑが求められ、洒落で鹿角のような枝分かれした桛木が贈られている。
 なぜわざわざ「蘿」の着生したものを選んでいるのか。サル(猿・猨)で思い浮かぶ「いにしへ」話はサルタヒコ(猿田毘古神、猨田彦神)のことである。衢にいて道案内をする神である。杖の役割にふさわしいと考えられる。樹種に「松」である点は、松葉が二股に分かれた形姿をしているから、鹿杖の先が分かれていることを示すのにちょうどいいと考えられたからであろう。ひょっとすると額田王は骨折かなにかしていて、松葉杖を必要としていたということかもしれないが、鹿杖の松葉杖転用例はこれまでのところ確認されていない。
 すなわち、万113番歌の題詞の主語は弓削皇子で、万111番歌が贈られたときに使者の手に持たせた品であると考えることができる。サルオガセのついた松の枝、すなわち、鹿杖に当たる桛木を手にし、記憶としては万111番歌を持たせて遣わされている(注11)。だから、万112番歌を返しているし、そのためには、確かにこの使者は用命をきちんと果たしていると確かめられなければならないわけであるが、それができているということが、「君がことを 持ちてかよはく」と確認している。あなたの従者はちゃんとお使いを果しましたよ、という受取証として万113番歌は機能している。
 和名抄の記事にあるように、「蘿」は松に着いた苔のことであり、また、サルオガセでもあると認識されていたようである。「従吉野‐取蘿生松柯」と状況説明されている。吉野については、その地の名がヨシノということをもって、ヨ(節・代)+シノ(篠)の意に解されて、何世代にも渡って長く続く誉れある地と持て囃された(注12)。したがって、吉野の地にあって、常盤木にして永久を思わせる松の木に、さらに苔生している枝、その苔の一種がサルオガセであるが、それを折り取って都へと贈ったとすれば、なるほど弓削皇子の謎掛けで言いたいことは、ものすごく古い時代からずっと続いていることを表したいのだとわかる。「君が代」と同様の使い方であり、万葉集にも例がある。

   楽宮らのみや
  和銅四年歳次辛亥、河辺宮人かはべのみやひとの姫島の松原に嬢子をとめかばねを見て悲しび嘆きて作る歌二首〔寧樂宮/和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫嶋松原見嬢子屍悲嘆作歌二首〕
 妹が名は 千代に流れむ 姫島の まつうれに こけすまでに〔妹之名者千代尓将流姫嶋之子松之末尓蘿生萬代尓〕(万228)

 弓削皇子は、額田王の長寿を祝うためではなく、万111番歌の謎掛けのヒントとして「蘿生松柯」を寄こして来た(注13)。ずいぶん洒落たことをするじゃないかと額田王は弓削皇子に言いたかった。それが万113番歌である。形容詞ハシの用例を並べてみる。

 み吉野の 玉松がは しきかも 君がことを もちてかよはく(万113)
  宴席に雪、月、梅の花を詠む歌一首〔宴席詠雪月梅花歌一首〕
 雪の上に 照れるつくに 梅の花 折りて贈らむ しきもがも〔由吉乃宇倍尓天礼流都久欲尓烏梅能播奈乎理天於久良牟波之伎故毛我母〕(万4134)
  右の一首は、十二月、大伴宿祢家持の作〔右一首十二月大伴宿祢家持作〕

 ハシは、いとしい、可憐だ、慕わしい、愛らしい、といった意である。「しき」にはちょっと気の利いたことをしたくなるというもので、花の咲いている枝を折り取ってプレゼントにしてみるような、そんな相手が欲しいと言っている。額田王も、「蘿生松柯」を折り取ってくるとなんて粋なことをするねえと、ハシという言葉で形容している。
 万113番歌の題詞にある「蘿生松柯」は、「君がことを 持ちてかよはく」ことの「こと」、すなわち、謎掛けの歌である万111番歌の問いについて、それを解くための重要なヒントとして働いている。「蘿生松柯」は、ものすごく古い時代からずっと続いて来ている、さて、それを表す鳥はなーんだ? と問うています、と重ねて示しているわけである。額田王はヒントなしに答えがわかって万112番歌を歌い、「蘿生松柯」を目にしてなかなかやるねえと思い、万113番歌を追って歌ったのであろう。すなわち、吉野宮と倭京とのやりとりは一回きりである。若い弓削皇子が、ヤマトコトバの言語遊戯のルールのなかで謎掛け形式の歌を贈ることにより、都にとどまったままの老練な歌詠みである額田王の無聊を慰めた、そのやりとりを録したのがこの相聞歌であった。

(注)
(注1)月野2001.は、以下にあげる万3352番歌を引き、「「時過ぎにけり」と聞くことのできる霍公鳥だからこそ、やがて「懐旧」の鳥と理解されるに至ったと考えておきたい。」(9頁)としている。筆者の説は、ホト→トギと間髪を入れず呼応する声であると名を見立てたことと、ほとんど時は過ぎるとの意を名が表しているとすることとの合わせ技と見ている。拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。
 上代の人にとって、ホトトギスの鳴き声ではなく、ホトトギスという呼び名にしか関心がなかったと考える。なぜなら、彼らが世界を表すのに使うのは言葉であり、その言葉は音声言語でしかなく、なぜそう呼ばれるようになったかは当時すでに不明であったが、彼らなりに考えて共通認識として分かち合おうとしていたに違いないからである。すなわち、世界を言葉によって表すのと表裏一体の関係にあること、言葉が世界を表すことに関心の中心があった。 (注2)この歌についても拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。
(注3)ムカシは「」で、自分や自分の知る人が体験した出来事から時間が経過して、目の前の現実とは離れて記憶のなかにのみとどめられている過去のことであるのに対して、イニシヘは「にし」のことで、過ぎ去ってしまっていて伝承などで耳にすることはあっても、再確認することのできない遥か遠い過去のことを表している。万111・112番歌の「いにしへ」を諸説のようにたかだか二十年前の天武天皇代の壬申の乱のことととるのは、言葉の義に合わない。万111・112番歌の「いにしへ」について、契沖・万葉代匠記(初稿本)に、「天武のもろともにみゆきしたまひし折をこひおほしめすとなるへし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979062/220~221)として以来、天武天皇代の吉野行幸時、ないしは、壬申の乱前の天武天皇の吉野雌伏のこと、あるいはまた、天智天皇の近江大津宮時代のことを言っているとする説が行われている。21世紀のものでも、阿蘇2006.、多田2009.、梶川2009.、新大系文庫本萬葉集などに見られる。また、影山2022.は、額田王にとって亡夫でもある天武天皇のことを偲ぶものであるとしている。
 年を重ねた人が若いころを懐かしんだとして、それをイニシヘと言っていた可能性はきわめて低い。当人は生きているから、「にし」ていないからである。岩波古語辞典に、「過ぎ去って遠くへ消え入ってしまったことが確実だと思われるあたり、の意。奈良・平安時代には、主として、遠くて自分が実地に知らない遙かな過去、忘れられた過去などの意に多く使われた」(124頁)との指摘がある。
 記紀万葉時代のホトトギスにまつわる「いにしへ」話として代表的なものとしては、田道間たぢまもり(多遅摩毛理)の話がある。常世国とこよのくにに橘の実を求め帰還してみると、時間は経過していて捧げるべき垂仁天皇はすでに亡くなっていた。ほとんど時は過ぎる状態が生じていた。実地では知らないが話としてそう伝えられている。結局、田道間守自身は後追い自殺をしている。「にし」のことである。万葉集でホトトギスがタチバナとともに使われる例が多いのは、その話が人々のあいだで共通に認識されていたからである。

 大和やまとには 鳴きてからむ 霍公鳥ほととぎす が鳴くごとに き人おもほゆ〔山跡庭啼而香将来霍公鳥汝鳴毎無人所念〕(万1956)

 この歌は、ナキ(鳴)とナキ(亡)との掛詞に過ぎないかもしれないが、垂仁天皇の御陵は奈良市佐紀にあって「大和」のことである。田道間守もその御陵で叫び哭いて自死している。
(注4)月野2001.や影山2022.は否定的見解を述べており、触れていない注釈書もある。だが多くは、中国の故事に触れて説明しようとしている。21世紀に入ってからのものでも、阿蘇2006.、多田2009.、梶川2009.、伊藤2009.、廣川2019.に見られる。中国の伝説を知るには、中国人から直接、ないしは間接に話を聞くか、書物を読んで目にするか、いずれかがなければならない。そのことは日本の伝説を知る要件と何ら変わるところではない。日本の昔話は幼少期から聞かされていたと考えられる。額田王もそうして知ったであろう。古事記も日本書紀も成立する前に成人している。そして、額田王の歌には、口誦性が指摘されている。文字で書いて歌が作られているわけではなく、口に出して暗誦しながら一首として世に送り出している。身﨑1998.は「〈口誦〉から〈記載〉への和歌史の転換期をいきぬいた」(42頁)、梶川2009.は当該歌について「明らかに文字で遣り取りされた歌だ」(268頁)としているが、誤認である。彼女は生涯、文字の読み書きをしなかったであろう。律令制にもとづいた文書主義的なお役所仕事が始められた頃に、額田王はこの最後の歌を歌っている。年配の女性が必要もないのに一から字の読み書きを勉強を始め、ふだんは借り受けられない舶来の書物まで手にして読むことができたとは考えにくい。蜀魂伝説を知ったのは華陽国志・蜀志に所載のものそのものではなく、引用文を参照したとしても、よほど吹きこまれなければ通暁することはないであろう。説文に「巂 周燕也。从隹、屮象其冠也。㕯声。一曰蜀王望帝、婬其相妻、慙亡去、為子巂鳥。故蜀人聞子巂鳴、皆起云望帝。」、芸文類聚・巻六に「十州忠曰。蜀王杜宇、自号望帝。」、文選・蜀都賦の「碧出萇之血、鳥生杜宇之魄。」部分の注に「蜀記曰。昔有人、姓杜名宇。王蜀号曰望帝。宇死。俗説云。宇化為子規。子規鳥名也。蜀人聞子規鳴皆曰望帝。」と見えはするが、学究精神を持ち合わせていなければわかるものではない。我が国でこの逸話をヒントに記されたものとしては、菅家後集・叙意一百韻の「啼声鵑杜乱」部分があげられている。飛鳥時代に文化人のサロンがあり、「香炉峰の雪いかならむ」などと言って悦に入っていたのに似た事例として蜀王望帝の逸話が楽しまれていたとは知られず、行幸にも参加できなくなっている額田王のまわりで行われたとも思われない。
 伝来した中国の書物を読んで理解したとして、鳥名のホトトギスを、万葉集に「霍公鳥」と記しているが、中国の書物にそのような字面を見出すことはできず、「子䳏」、「杜宇」、「子鵑鳥」、「杜鵑」、「巂」などと見える。なぜそれらの用字を万葉集が用いずに「霍公鳥」とばかり記すのか、説明されたことはない。
 現代の研究者は、長期間にわたる学習経験を経ているが、万葉歌人の歌詠みはそうではなかった。まずもって学校というものがない。ひとり博覧強記なことを言ったからといって、聞く側にそれを勉強する気がなかったら、その場においてコミュニケーションは成り立たない。一般民でもわかるから声を出して歌うことができる。したがって、通じない歌は記録されることはない。弓削皇子と額田王の間だけで通じたのだという考え方は棄却されなければならない。人々の間で歌われた歌を書いて残そうとする営みにおいて、当事者にしかわからないものは、その最初の書記化の段階のおいて記録して残そうとはしない。多くの人に理解されたから伝えて残そうという意欲が起こり、題詞や左注をつけて状況を説明し理解の助けとしている。蜀魂伝説は七夕伝説とは違い、他に用例がなく、後代にほとんど続いていない。当時の人々に共有されていた常識ではなかった。現代人にとってよくわからない歌があると、すぐに漢詩文の影響を指摘しようとする向きがある。しかし、万葉集が歌われた人々の間は、歌界と呼ぶに近く、学界と呼ぶには遠いところであったろう。
(注5)万葉集には他に一首、ユヅルハの例が見られる。

   譬喩歌〔譬喩謌〕
 へか 阿自久麻あじくまやまの づるの ふふまる時に 風吹かずかも〔安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎尓可是布可受可母〕(万3572)

 他の語源説に、葉の形が弓の弦のようだとする説もある。また、ウツル(移)は古語にユツルとも言ったことと関係するかもしれない。弓弦の例とユツル(移)の例をあげる。ユツル(移)の例が月とともに用いられるのは、時の移ろいを月齢、太陰暦で数えていたことからイメージを膨らませているものと考えられる。

 あづさゆみ すゑはらに 鷹狩とがりする 君がづるの 絶えむとおもへや〔梓弓末之腹野尓鷹田為君之弓食之将絶跡念甕屋〕(万2638)
  池辺いけべのおほきみうたげうたふ歌一首〔池邊王宴誦謌一首〕
 松の葉に 月はゆつりぬ 黄葉もみちばの 過ぐれや君が 逢はぬ夜の多き〔松之葉尓月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多焉〕(万623)
 まそ鏡 清きつくの ゆつりなば おもひはまず 恋こそされ〔真素鏡清月夜之湯徙去者念者不止戀社益〕(万2670)
 ぬばたまの 夜渡る月の ゆつりなば さらにや妹に 吾が恋ひらむ〔烏玉乃夜渡月之湯移去者更哉妹尓吾戀将居〕(万2673)
 天の原 富士の柴山 くれの 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ〔安麻乃波良不自能之婆夜麻己能久礼能等伎由都利奈波阿波受可母安良牟〕(万3355)

(注6)鐘方2003.に、「日本では、滑車による揚水が近世までみられないようなので、このような[井戸滑車を備えるべき]構築物がそれ以前の井桁上に存在した可能性はほとんどない。」(13~14頁)としている。
(注7)滑車が出土しないからなかったと考えることができないのは、轆轤が出土しないからといっても轆轤挽きしたとしか考えられない器が残されているとき轆轤はあったと想定されることと対比すれば理解できよう。
(注8)21世紀のものとしては、阿蘇2006.、多田2009.、伊藤2009.、新大系文庫本萬葉集などに採られている。
(注9)二度のやりとりがあったとする説は、伊藤1995.、菊地1997.、身﨑1998.に見られる。
(注10)鹿の角は枝分かれしていてかせのようになっているから、鹿の古名をカセギといい、その形状を示す杖を鹿杖かせづゑという。枝分かれしている方を下にして地面につけるのか、上にして儀仗のように構えるのか区別がある。宮本2011.、網野1993.参照。弓削皇子は枝分かれしている方を下にして額田王に使ってもらうことを期待していると考える。現代の介護用品にも四つ脚のものが用いられている。

杖の諸相(賀茂祭縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542592/21をトリミング

(注11)古くから枝に消息文を挟んで往来したとする説がある。梓の木の枝に挟んだことがあったから、その代わりに松の枝が選ばれているというのである。武田1956.は、「上古まだ文字の無かつた時代には、使者を遣わすに、草木の枝などを持たせて遣わした。使者は、その持参した物に寄せて口上を述べたので、これが寄物陳思、乃至序詞、枕詞の起原になるのである。後世になつて文を通わすようになつても、これを草木の枝につけることが残り、漸次手紙の方が主になつても、正月の懸想文などは花の枝につけたのであった。今、吉野から玉松の枝が君の御言を持つて通つたというのは、その枝に御言が寄せられて来たことを言う。文が松枝につけられてあつたという解釈は、かならずしも誤りではないが、松が枝をほめた本意はそこには無い。」(369頁、漢字の旧字体は改めた)と評している。額田王のこの歌を「文筆に依つて作られた知的成立に依る」(367頁)と考えているため、ふみが松の枝に付けられているという想定が先に立っている。21世紀の解説書でも、阿蘇2006.、多田2009.、伊藤2009.、新大系文庫本万葉集に見られる。しかし、そう考えることの難点は、わざわざ「蘿生松柯」と限り断る必然性がない点である。湿度充満の木に挟んだら墨も滲みかねない。伝達に不要な情報を題詞に記した理由も不明となる。(注4)で述べたように額田王は文字を読まなかった。ふみが送り届けられたり、木簡代わりにされたのではなく、吉野宮から使者が暗記して行って額田王へ口頭で伝えた。そのとき、弓削皇子の言葉の意味合いをよく伝えるために小道具として「蘿生松柯」を持たされていた。「君がことを もちてかよはく」とは、言葉の内容の真相をそれを以てよく伝えている、という意味である。
(注12)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」、「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」など参照。
(注13)通説に、「蘿生松柯」をプレゼントしたことについて、額田王の長寿を祈るものとする説があるが、他の行幸の例でもせいぜい一週間程度の吉野宮滞在時に、わざわざ使者を遣わせて長生きしてくださいと言った理由を説明するものはない。

(引用・参考文献)
網野1993. 網野善彦『異形の王権』平凡社(平凡社ライブラリー)、1993年。
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第一巻』笠間書院、2006年。
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釈注一』集英社、1995年。
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版 万葉集一 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡1985. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第二』有斐閣、昭和60年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
影山2022. 影山尚之『萬葉集の言語表現』和泉書院、2022年。
梶川2009. 梶川信行『額田王─熟田津に船乗りせむと─』ミネルヴァ書房、2009年。
鐘方2003. 鐘方正樹『井戸の考古学』同成社、2003年。
菊地1997. 菊地義裕「額田王と季節観─弓削皇子との贈答歌の発想─」古典と民俗学の会編『古典と民俗学論集─櫻井満先生追悼─』おうふう、平成9年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 三』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
月野2001. 月野文子「弓削皇子と額田王の贈答歌─どのように「懐旧」を読み取るか─」『香椎潟』福岡女子大学国文学会、平成13年12月。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
廣川2019. 廣川晶輝「中国故事受容と和歌表現」上野誠・大浦誠士・村田右富実編『万葉をヨム─方法論の今とこれから─』笠間書房、令和元年。
身﨑1998. 身﨑壽『額田王─万葉歌人の誕生─』塙書房、1998年。(「いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎす」『萬葉』第133号、平成元年9月。萬葉学会ホームページ http://manyoug.jp/memoir/1989
宮本2011. 宮本常一『山に生きる人びと』河出書房新社(河出文庫)、2011年。
吉井1976. 吉井巖『天皇の系譜と神話二』塙書房、1976年。
洛陽焼溝漢墓 中国科学院考古研究所編輯『中国田野考古報告集 考古学専刊 丁種第六号 洛陽焼溝漢墓 洛陽区考古発掘隊』科学出版社出版、1959年。(北九州中国書店、1982年再刊)

加藤良平 2024.3.1改稿初出

桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)

 次の歌は万葉集のなかでもよく知られた歌である。

 さくらへ たづ鳴き渡る 年魚市あゆちかた しほにけらし 鶴鳴き渡る〔櫻田部鶴鳴渡年魚市方塩干二家良之鶴鳴渡〕(万271)

 題詞に、「高市たけちのむらじ黒人くろひと羈旅たびの歌八首」とあるうちの一首である。現在の解釈の主流は、「桜田の方へ鶴が鳴きながら渡って行く。年魚市潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴きながら渡って行く。▷干潮の年魚市潟に餌を求めて移動する鶴の声。「たづ」は「つる」の歌語である。「桜田」は名古屋市南区元桜田町の周辺か。「年魚市潟」は「桜田」の海浜部であろう。」(新大系文庫本233頁)である。以前は、「見れば作良の田の方へ鶴の鳴きつつ移るなる。かくあるは蓋し、鶴の今まで居たあゆち潟は塩干になりて、魚を求食るに便なくなりしが為ならむとなり。蓋しこれは作者が作良の地より以外にありて、そこよりながめてよみしならむ。」(山田1943.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880320/1/88、漢字の旧字体は改めた)と、ツルは年魚市潟から桜田へ鳴きながら飛翔していると捉えていた。桜田と年魚市潟の位置関係が問題となり、現在の名古屋付近の地理について論じられることもあった。
 その議論は不毛である。桜田や年魚市潟に土地勘がなくてはわからない歌が歌われて、それが多くの人に享受されることは考え難い。高市黒人の羈旅たびの歌であり、黒人もその付近の地理に詳しいわけではない。歌が歌われた場で聞いた人も、また、歌を万葉集に採録した人も同様である。知らないところの風景を言葉にされて、それを聞いて情景を思い浮かべられるほど情報化社会ではなく、ツーリズムが流行っていたわけでもない。耳にした人や後から知った人も理解できる歌であったはずである。
 ツルが鳴いて渡っているのを黒人は目にして歌っている。桜田の方へ向かっていて、その理由は、年魚市潟が干潮になったらしいからだと推測している。干潟が現れたらどうしてツルは鳴きながら移動して行っているのか。これまでツルが餌を求めて移動していると思われていた。ツルはどういうところで餌を食べるのかばかり気にかけていた。しかし、鳴き声をあげて進んで行ったら獲物は逃げるのではないか。
 ツルは水があるところで立って眠る。水位の浅い水があるところで一本足で眠る。水が張っていれば天敵の哺乳類が近づきにくく、水面を伝わってくる波紋で接近を知ることができるからと言われている。年魚市潟でアユ(年魚・鮎)を食べておなかがよくなりウトウトしていたところ、潮が引いて水がなくなってしまった。潟には潮の満ち干がある。キツネでも近づいたのだろうか。あわてて鳴きながら逃げ飛んで行って、水のある田圃のところ、桜田へと移動しようとしている。寝る場所を確保するためである。寝るのだから暗くないといけない。サタというのだから、少しクラくて寝るのに好都合である。アユチガタもサクラタも実際に存在した地名で、その名を使って地口にした歌が万271番歌である。自然詠を志向した近代の短歌界でもてはやされたのとはまったく別の動機、ヤマトコトバの言葉づかいによって作られている。無文字時代にヤマトコトバを使うこととは、頓智や洒落をルールとした言語ゲームであった。

 さくらへ たづ鳴き渡る 年魚市あゆちかた しほにけらし 鶴鳴き渡る(万271)
 桜田へ鶴が鳴きながら渡って行く。年魚市潟は潮が引いたらしい。(潮が引いてまわりに水がなくなったら天敵に襲われかねない。アユを食べて満腹になってその場で寝落ちすることはできない。厳しいな、泣けてくるよと思いながら、寝場所を求めて薄暗がりの名のついた浅い水が常時あるところ、桜田へ)鶴が鳴きながら渡って行く。

(引用・参考文献)
出水市ツル博物館・クレインパークいずみ「ツルの生態」 https://www.city.kagoshima-izumi.lg.jp/page/page_80087.html (2023年12月28日閲覧)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
山田1943.山田孝雄『萬葉集講義 巻第三』宝文館、昭和18年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1880320/

加藤良平 2024.4.1初出

万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─

 万葉集で、慣用的に「恋ひつつあらずは」という言い回しが使われている。
 上代におけるズハの用法は、文法学的にとても難しいものと思われている。「ンヨリハ」説(本居宣長)、「ズシテハ」説(橋本進吉)以降もさまざまに解釈されてきている。同じズハの形であるのに巧妙に訳し分けることが行われている(注1)。以下の用例では現状の解釈を示すために多田一臣氏の訳を引く(傍点筆者)。

 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山たかやまの いはし巻きて 死なましものを(万86)
  こんなにばかり恋い焦がれてはいずに・・・・・、いっそ高い山の岩を枕に死んでしまいたいものを。
 立ちしなふ 君が姿を 忘れずは 世の限りにや 恋ひ渡りなむ(万4441)
  しなやかに立つあなたの姿を忘れずに・・、生きている限り恋い続けることだろうか。
 もろの 神の帯ばせる はつがは 水脈みをし絶えずは われ忘れめや(万1770)
  みもろの神が帯にしておられる泊瀬川、その流れが絶えないかぎりは・・・・・・、私はあなたをどうして忘れることがあろう。
 夕々よひよひに が立ち待つに けだしくも 君来まさずは 苦しかるべし(万2929)
  夕べごとに私は立って待っているのに、もしも万一あなたがおいでにならないとすると・・・・・・・・、つらいことに違いない。

 筆者はズハという結びつきによって構文が成されたものであるとは認めない。すなわち、ズハという言葉を連語として有意であるとは考えない。仮定や比較を表すとは見なさないのである。考えないのだから、ズハの前項が未実現か既実現かを考慮して仮定の用法を分類して事態の先後関係を順行、逆行と仕分ける(注2)には及ばないと考える。実例に沿って議論を進めてみよう。
 ズハのある文には、「まし」を伴うことが多い。

 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の いはし巻きて 死なましものを〔如此許戀乍不有者高山之磐根四巻手死奈麻死物乎〕(万86)

 「まし」は反実仮想を表す。現実の事態に反した状況を想定し、もしそうなら、これこれの事態が起こったであろうのに、と想像する気持ちを表す。「ものを」は「もの」と「を」が複合した間投助詞で、順接にも逆接にも使う。「まし」で現実に反することを仮想しておき、「ものを」で逆説的に現実に帰る機能を果たしている。
 「まし」の使い方としては、「ませば……まし」、「ましかば……まし」が基本形であり、前件が省略されることがある。省略されていても意味が通じるからである。
 万86番歌の例で省略を補ってみれば、次のような構文になるであろう。

 「かくばかり恋ひつつあらず」ハ「(死なませば)高山の磐根し巻きて死なまし」モノヲ

 ハの前は、これほどに恋しつつあることがない、の意である。
 ハの後は、もし仮に死ぬとするなら高山の磐根を巻いて死にたい、のだけれどなあ、の意である。
 この両者が、助詞ハによって結ばれており、文章全体の骨格を決めている。
 これほどに恋しつつあることがないのは、もし仮に死ぬとするなら高山の磐根を巻いて死にたい、のだけれどなあ、という回りくどい言い方をしている。
 これを例えば、こんなに恋しているくらいなら高山の磐根を巻いて死んだ方がましだ(注3)、の意に解するのは誤りである。第一に、当時は人生を肯定的に捉える傾向があり、「恋ひつつあり」が辛い状態にあるとは考えにくい。第二に、助動詞「まし」の語義を、「益し」の意と捉えることは間違いである。第三に、「高山の磐根し巻きて」の修辞的意味を封殺したら、何のために歌を考えひねり作っているのかわからないことになる。
 どうして「高山の磐根し巻きて」という表現が生まれているのか。
 それはこれが恋の歌だからである。恋をして男女は同じ枕を巻いて寝る。「巻く」は「く」と同根の語で、妻として抱く意を包含する。すなわち、この歌では、共寝すること、恋をすることに対して否定的な言動は一切見られていない。前半で恋を否定しておいて、そんなことはとてもじゃないが嫌な話で、当然ながら死ぬのは同等に嫌なこと、つまりは、仮に死ぬとするなら彼女を娶かないで、共寝の枕を巻かないで、高山の岩盤なんかを巻いて首吊りするほどに嫌なことだよなあ、と言っている。
 本当に言いたいことは、それとは真逆のことである。このように恋し続けていって、首吊り自殺なんかしないで枕を共にしながら生きていければいいよなあ、ということである。首にロープを巻くのではなく彼女を娶いて生きていければいいよなあ、このように恋を続けて、という意である。
 「恋ひつつ」とは、恋して恋して、の意である。「つつ」という言い方の「つつ」は、二つながらにあることを示している。「恋ひつつ」とは、恋して恋して、の意である。ハの後でも「巻く」ことが二つながらにあることを示唆している。首にロープを巻くのか、腕を巻くのかである。「ハ」は前と後とをつなぐ助詞である。前と後とがつながるものであることを支持する要素として、両者が絡みんでいることの明示となっている。言葉に忠実な表現が行われている。

 かくばかり 恋ひつつあらずは 朝にに 妹が踏むらむ つちにあらましを〔如是許戀乍不有者朝尓日尓妹之将履地尓有申尾〕(万2693)
 「かくばかり恋ひつつあらず」ハ「(地にあらませば)朝に日に妹が踏むらむ地にあらまし」ヲ

 このように恋をしつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に私が地面になるのであれば、朝に昼に彼女が足蹴に踏みつける地面でありたいというとんでもない倒錯になるよなあ、の意である。
 当たり前のことであるが、人間が地面になることはない。反実仮想である。仮に地面になるとして、最悪のなり方は朝や昼に足蹴にされる地面になることである。これは恋の歌である。恋の時間で大切なのは夜である。夜に足蹴にされることは、M的な性癖を持っていたらひょっとすると許されたり喜ばれたりするかもしれない。ところが、朝や昼に踏みつけられる地面になるとはそういうことではなく、ただ路盤になるということである。冗談じゃないのだが、それが恋を続けないということだと言っている。つまりは、これまでどおり恋を続けていきたいと高らかに歌っている。「つつ」の二つ性が指しているのは、「朝に」と「日に」でもあり、「朝に日に」と「夜に」を暗示したものでもあり、あるいは「踏む」足が右足、左足であるからでもある。

 わぎ妹子もこに 恋ひつつあらずは 秋萩あきはぎの 咲きて散りぬる 花にあらましを〔吾妹兒尓戀乍不有者秋芽之咲而散去流花尓有猿尾〕(万120)
 「吾妹子に恋ひつつあらず」ハ「(花にあらませば)秋萩の咲きて散りぬる花にあらまし」ヲ

 彼女に対して恋しつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に自分が花であるとしたら、秋のハギが咲いて、散ってしまった、その花であったらよいのになあ、というのと同じことだ、と言っている。
 散ってしまった花は見る影もないものである。どうしてよりによって「秋萩」を採用しているのか。それは、アキハギだからである。アキハギ(キは甲類、ギは乙類)とは、ハ(葉)とキ(木、キは乙類)(ハギで濁音化)がアキ(飽、キは甲類)てしまった様子を示しているように聞こえる。つまり、あの小さな花弁は、ハ(葉)ギ(木)に飽きられて捨てられた残骸なのである。花のなかでも恋を表す点では最低、最悪の花、それが「秋萩の咲きて散りぬる花」である。そんな最低、最悪の花になりたいわけはなく(反実仮想)、彼女に恋しつづけると宣言している。
 この歌で「つつ」の二つ性が後半部で指しているのは、「咲きて」と「散りぬる」でもあり、「は(葉)」と「ぎ(木)」でもあり、「はぎ(萩)」=「は(葉)」+「ぎ(木)」と「花」とでもある。こういう言葉遊びの才覚を隠しながら、否定と否定とを両立させる高等テクニックの表現を展開している。

 おくて 恋ひつつあらずは 紀伊の国の いもの山に あらましものを〔後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山尓有益物乎〕(万544)
 「後れ居て恋ひつつあらず」ハ「(山にあらませば)紀伊の国の妹背の山にあらまし」モノヲ

 置いてけぼりを食わされて後に残り恋しつづけないということは、もし私が山であったとしたら、紀伊の国のイモセの山、それはイモ(妹)とセ(背)とが吉野川を挟んであって一つにはなれない山であるが、そうだといいのになあというのと同じことだ、と言っている。山は動かないから合体することはない。間に川が流れているから大地震があっても一つにはならないだろう。そうだといいなあというのは、取り残されて相手のことを忘れて恋しなくなるというほどのことである。
 これは恋の歌である。今言ったようなことは、とてもじゃないが容認することはできない。言いたいことはその真逆で、旅に行くなら一緒に出掛けて恋をしつづけて、恋が爆発して一つの山になることがあるのを望んでいる。
 「つつ」という言い方の二つながら性は、ハの後でも、山が二つながらになっている。「妹」の山と「背」の山である。

 よそて 恋ひつつあらずは 君がいへの 池に住むといふ 鴨にあらましを〔外居而戀乍不有者君之家乃池尓住云鴨二有益雄〕(万726)
 「外に居て恋ひつつあらず」ハ「(鴨にあらせば)君が家の池に住むといふ鴨にあらまし」ヲ

 離れていてあなたのことを恋しつづけないということは、もし仮に人間である私が鴨であるとしたら、あなたの家の池に住んでいるという鴨でありたいというのと同じことだなあ、と言っている。庭の池に鴨をペットとして飼っていたことがなかったとは断言できないが、アヒルやガチョウではないから、怪我でもしたのか飛び立てなくなった鴨が、渡りの季節を過ぎてもいつづけているということであろう。当然、一羽でいる。そんな取り残されて動けない鴨になりたいわけではない。つまりは、遠距離になったからといっても恋しつづけたいのである。
 「つつ」という言い方で表す二つ性は、後半部で「池(ケは乙類)」と「け(ケは乙類)」(注4)とに示されている。「行け(ケは乙類)」は「行く」の已然形で、すでに行ってしまったこと、渡り鳥の群れが渡ってしまっていることを指している。だから「に住むといふ」などと変にもったいぶった言い方をしているのである。そして、「住む」ところは「家」のはずだから、「家」と「池」とが二つながら存在していることにも対応していると言える。

 おくて 恋ひつつあらずは 田子たごの浦の 海人にあらましを たま刈る刈る〔後居而戀乍不有者田籠之浦乃海部有申尾珠藻苅々〕(万3205)
 「後れ居て恋ひつつあらず」ハ「(海人にあらませば)田子の浦の玉藻刈る刈る海人にあらまし」ヲ

 置いてけぼりを食わされて行ってしまったあなたのことを恋しつづけないということは、もし仮に私が海人であるとしたら、田子の浦で玉藻を刈って刈ってをくり返す海人でありたいというのと同じことだなあ、と言っている。あなたと一緒に連れ立って出掛けたいのであって、田子の浦で玉藻刈りに専念しなければならない海人にはなりたくなどないのである。
 最後のとってつけたような「珠藻刈る刈る」は、前半にある「つつ」と対応させるために「刈る」と「刈る」を示すためにつけられていると思われ、際立たせるための倒置表現となっている。田子の浦の海人が玉藻を刈っては刈ってをくり返すという地口はわかりやすいものである。そこがタゴ(原文に「田籠」)だから、タコ(蛸)のようにたくさん手(足?)を持っていて、藻刈鎌を同時に複数使うことができるからである。この玉藻についてはよく知られた歌がある。

  みのおほきみの伊勢国の伊良虞いらごの島に流さえし時に、人の、哀傷かなしびて作る歌
 打つを 麻続王 海人なれや 伊良虞の島の たま刈りをす(万23)
  麻続王、これを聞きて感傷かなしびて和ふる歌
 うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈りをす(万24)
  右は日本紀をかむがふるに曰はく、「天皇四年乙亥の夏四月戊戌の朔乙卯に、三位麻続王、罪有りて因幡に流し、一子は伊豆の島に流し、一子は血鹿の島に流す」といふなり。是に伊勢国伊良虞の島にながすと云ふは、若疑けだし後の人の歌のことばに縁りて誤り記せるか。

 この歌では、天皇の被る天子だけに許された冠、玉藻を、我が子の遊びのためにちょっと拝借したため天武天皇の逆鱗に触れ、流罪になったことについて歌にしている(注5)。すなわち、玉藻を借ることを海藻である玉藻を刈ることに準えて歌っている。その歌の意を加味すれば、後に残されて恋をしつづけないということは、もし海人となるとしたら、もちろん海人になるなどということはないが、好ましからざる海人になって蛸のように手がたくさんあって玉藻をどんどん借りてしまい流罪の憂き目に遭うのが必定な田子の浦の海人になりたいというのと同じぐらい駄目なことであると言っているとわかる。言いたいことはその真逆で、私のことを置いていかないで恋しつづけさせてくれて、仮に海人となるにしてもほとんど玉藻をカル(借・刈)ことのない海人、魚や貝を獲るのが専門の海人になることが望ましいですよねえ、と言っている。
 よく知られた麻続王の玉藻の歌を踏まえているとすれば、その左注に見えるように、天皇の玉藻を拝借したがために連座させられることを示唆していることになる。私のことを放って遠くに行くと、私は玉藻を借りる海人になって、あなたも連座させられて罪になりますよ、と恋の脅迫を仕掛けているのである。

 かくばかり 恋ひつつあらずは いはにも ならましものを 物思はずして〔如是許戀乍不有者石木二毛成益物乎物不思四手〕(万722)
 「かくばかり恋ひつつあらず」ハ「物思はずして(石木にもならせば)石木にもならまし」モノヲ

 これほどに恋しつつあることがないのは、もし仮に私がもの思いをしないで岩石や樹木になるのだったら、岩石や樹木になるであろうことよ、という意である。当然、人間らしい感情を持たない木石ではないのだから、このように恋し続けているのである。
 「つつ」という言い方で表す二つ性は、後半部では「石」と「木」に反映されている。
 表面上はこのように解されるが、これまでの例と比べると、修辞として物足りない感がぬぐえない。もう少し突っ込んだもの言いをしているのではないか。
 初句で「かくばかり」と言っている。それがどれほどのものなのか、歌の内部には説明されていないように見える。しかし、それでは何を言っているのかわからない歌ということになる。
 なぜ「石木いはき(キは乙類)」と言っているのか。これは同音の「いは(キは乙類)」のことなのではないか。岩城とは、岩で造られた墓の石室のことである。死者を埋葬する空間として確保されている。古墳の横穴式石室では、追葬されることがあらかじめ準備されていた。すなわち、寿陵のように死んだ後のことまで考えられている(注6)。念の入った準備である。物思いにふけることなく、行く末のことに悩み煩うことも一切ない。老い先の心配はいらないよ、死んだ後までも、というきつい冗談を言っている。木石が「物思はず」であるばかりか、死んだら入るべき「岩城」がすでに決まっているというのは「物思はず」にいられることである。これほどまで恋しつつあることがないのは、他人のものになることはなくて必ず自分のものになるからあれこれ気にかけることがないお墓を持っているように、何かと思案することがないのと同じことだ、ということである。「つつ」は後半部で、「石木」と「岩城」の二つに表れている。本心は、恋の煩いに遭いながらこんなにも恋し続けるのが良いことで、寿陵をこしらえて死んだ後の安心感を得ようとするなんて棺桶に片足を入れた人の考えること、ご免だね、そんな全然楽しくないことは、と言っている。

 家にして 恋ひつつあらずは ける 大刀たちになりても いはひてしかも〔伊閇尓之弖古非都々安良受波奈我波氣流多知尓奈里弖母伊波非弖之加母〕(万4347)
 「家にして恋ひつつあらず」ハ「汝が佩ける大刀になりても斎ひてしか」モ

 「てしか」は、テは完了の助動詞ツの連用形、シカは回想の助動詞キの已然形である。もう済んだ話で不可能だが、もしそれが可能なら~したいものだ、という意味である。これは、反実仮想の一様式といってよいだろう。「ませば……まし」と似た表現である。
 「斎ふ」という言葉は、将来の吉事、幸福、安全が得られるように、善い行いを重ね、悪い行いを慎しむことが原義である。吉言を述べ、まじないをすることも広くイハフと言っている。ここでは、安全が護られることを期待するために、守り刀になろうものをという呪言的な意味合いを含めて言っている(注7)
 家にあって恋しく思い、また恋しく思うをくり返すことがないというのはどういうことかというと、実際にはできっこしないことであるのだが、お前(自分の子)が腰に着けている大刀に私がなってでも安全が護られるようにしたいものよ、というのと同じことでもある、の意味である。「つつ」の表す二つ性は、「大刀たち」は諸刃の剣で、どちら側にも刃があることを表している。そしてまた、守り刀となって安全を護るという言い方に、親が子を護るという意味と、防人が国を護るという二つの意味を兼ねるからである。
 つまり、お前が腰につける大刀になってでも護ることができるようにというほどに、善い行いをし、悪い行いを慎んで家にずっといて、お前のことを恋しく思い続けているよ、と言っている。家にい続けていれば、インターネットにつながってもいないのだから、悪いことをしようにもできないのである。初句の「家にして」の意味はここにおいてのみ明らかとなる(注8)

 吾妹子わぎもこに 恋ひつつあらずは 苅薦かりこもの 思ひ乱れて 死ぬべきものを〔吾妹子尓戀乍不有者苅薦之思乱而可死鬼乎〕(万2765)
 「吾妹子に恋ひつつあらず」ハ「苅薦の思ひ乱れて死ぬべき」モノヲ

 この歌は、下を「まし」で承けていない。上に多く見た例に寄せれば、次のようになるだろう。

 吾妹子に 恋ひつつあらずは 苅薦の 思ひ乱れて 死なましものを(万2765改)
 「吾妹子に恋ひつつあらず」ハ「(死なませば)苅薦の思ひ乱れて死なまし」モノヲ

 彼女に対して恋しつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に死ぬのだったら、(苅薦の)思いが乱れて死んでしまいたい、というのと同じことだなあ、ということである。万2765番歌はその同類表現で縮約されたものと考えられよう。
 彼女に対して恋しつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に死ぬのだったら、(苅薦の)思いが乱れて死んでしまうべきなのだ、というのと同じことだなあ、ということである。死に方として、同じ死ぬにしても、思いが乱れて死んでしまうのではなくて、一途に思い続けて死んでしまうことのほうが、彼女に恋する身として誠実というものである。それなのに、ノイローゼを患って自死を選ぶ場合、思いが乱れて死ぬという言い方をする。そういう言い方をする以上、そんな死に方は死に方としてふさわしくないのである。だから、思いが乱れて死ぬようなことなく、一途に彼女のことを恋いつづけている、というのが本音であり、歌の本意である。
 この歌における「つつ」の二つ性はどこにあるのだろうか。枕詞「苅薦かりこもの(刈薦の)」は、薦筵に編んだものの長さを部屋の大きさに合わせるために端を刈ることをしたら、せっかくの綴じ目がなくなるから緯糸にも経糸にもしているこもが区別なくバラバラになることを指して作られた言葉ではないかと考えられる(注9)。「つつ」の二つ性は、経糸と緯糸の二つがあるところを指しているということだろう。
 「恋ひつつあらずは」が倒置されている例も多い。

 白波の 来寄きよする島の ありにも あらましものを 恋ひつつあらずは〔白浪之来縁嶋乃荒礒尓毛有申物尾戀乍不有者〕(万2733)
 「恋ひつつあらず」ハ「(あらませば)白波の来寄する島の荒磯にもあらまし」モノヲ

 恋いつつあることがないというのは、どういうことかというと、もし仮にあるとしたら、白波が来て寄せる島にある荒磯でもありたいものだなあ、ということに相当する、と言っている。激しい波がしきりに打ち寄せる荒磯などにはなりたくはない。アップアップしたくはないからである。ずっと息継ぎのことしか考えていなければならないなんて、それは泳いでいるのではなく溺れているのである。金がなくて賃労働を得ようと翻弄されるだけ、あるいは、権力闘争に明け暮れて落ちつく暇もないといった状況に陥り、浮いた話の一つもない人生などまっぴらご免である。荒れた海のなかで露頭を顕わにしている岩などになるのではなく、恋をしつづけたい、というのが本心である。
 波が「白波」と呼べるほどのものである限り、何度も何度も来ては寄せ、来ては寄せをくり返すものである。「つつ」の二つ性はそこに表れている。「あり」に「り」、「荒磯あらいそ」に「らまし」といった韻も関係するかもしれない。

 秋萩あきはぎの うへに置きたる 白露の かも死なまし 恋ひつつあらずは〔秋芽子之上尓置有白露乃消可毛思奈萬思戀管不有者/秋芽子之上尓置有白露之消鴨死猿戀乍不有者〕(万1608・2254)
 「恋ひつつあらず」ハ「(死なませば)秋萩の上に置きたる白露の消かも死なまし」

 恋いつつあることがないというのは、どういうことかというと、もし仮に死ぬとして、秋のハギの上に置いた白い露が消えるように死んでしまいたい、というのと同じことである、と言っている。
 ハギの花は露が置いたように点々と咲くものであり、露があったことは紛れていてわからないまま消えていくことになる。シラツユであり、露知らずの意を含んでいる(注10)。すなわち、この歌は、恋しつづけないということは、アキハギの上に置いた白露が、存在すらおよそ意に介されないままに消えてなくなるように、無碍なことに死んでしまいたいというのと同じことに当たると言っている。これは恋の歌である。恋する相手から、いるかいないか気に留められないのではかなわない。たとえ嫌われようとも、それは異性として認められているということで、まだ救いがあるというものである。そして、これからも恋しつづけていたいと歌い、できることなら相手に振り向いてもらいたいと願っている。奥ゆかしく、情熱的な歌である。
 この歌での「つつ」の二つ性は、後半部では、白露が置くのは霧の「(ケは乙類)」によるが、それが「(ケは乙類)」となることを言っている。

 秋の穂を しのに押しべ 置く露の かも死なまし 恋ひつつあらずは〔秋穂乎之努尓押靡置露消鴨死益戀乍不有者〕(万2256)
 「恋ひつつあらず」ハ「(死なませば)秋の穂をしのに押し靡べ置く露の消かも死なまし」

 恋いつつあることがないというのは、どういうことかというと、もし仮に死ぬとして、秋の穂がしっとりと濡れておし靡かせるほどに露がかかっている、その置いている露が消えるように死んでしまいたい、というのと同じことである、と言っている。
 実際の思いはその真逆である。死んでしまいたくなどなくて、それも最悪の死に方、絶対に簡単には消えないはずの大量の露が忽然と消えるような死に方はしたくない。秋の穂をぐっしょり濡らし、秋の穂を押し靡かせ垂れさせている露は、そう簡単には消えるはずもなくて長くありつづける、そのように恋いつづけたいと告白している。もしも露が簡単に消えるとなると、押し靡かせて頭を垂れている稲穂も元通りになり、稔っているはずが稲粒は空っぽだったということになり、凶作であるほどに不吉である。
 「つつ」の二つ性は、上の万1608・2254番歌にあるのと同じく、「(ケは乙類)」と「(ケは乙類)」によるものと思われる。また、「しのに押し靡べ」にもあるのだろう。シノという音(言葉)は、「篠」字で常用される小さな竹、つまり、ササ(笹)のことをいう。「篠は小竹なり。此には斯奴しのと云ふ。」(神代紀第八段一書第一)、「小竹を訓みて佐佐ささと云ふ。」(記上)とある。サとサの二つ性を隠していることになる。言語遊戯の歌である。

 秋萩あきはぎの 枝もとををに 置く露の かも死なまし 恋ひつつあらずは〔秋芽子之枝毛十尾尓置霧之消毳死猿戀乍不有者〕(万2258)
 「恋ひつつあらず」ハ「(死なませば)秋萩の枝もとををに置く露の消かも死なまし」

 「置く露の 消かも死なまし」の三例目である。
 恋いつつあることがないというのは、どういうことかというと、もし仮に死ぬとして、秋萩の枝もたわむほどに置いている露が忽然と消えてなくなるように死んでしまいたい、というのと同じことである、と言っている。
 実際の思いはその真逆である。死んでしまいたくなどなくて、それも最悪の死に方、秋萩の枝がたわむぐらいまでついている大量の露が消えてなくなるような死に方はしたくない。秋萩の枝をぐっしょり濡らしている露は、容易に消えるはずもなく長くありつづける、そのように恋いつづけたいと告白している。露が簡単に消えるとなると、枝のたわみは大したことはなくて元どおりになるということである。それは本当のところ秋萩と呼ぶことはできないのかもしれない。枝が十分にたわむほどになると、萩の枝は充実したことの証となる。そんな萩の枝は、刈り取って簾に編まれた。これは恋の歌である。御簾みすを作って部屋に掛け、中を隠して情事に至る。だが、萩の枝が充実していないと簾は完成しない。二人の関係がそこまで進んでいないということや、まだ若くて未熟だから不適当であるということを意味する。
 「つつ」の二つ性は、同様に「(ケは乙類)」と「(ケは乙類)」によるものと思われる。また、「とををに」という言葉にもあるのだろう。トヲヲはタワワの母音交替形であるが、トヲトヲを約したものと受けとれるから、トヲとトヲの二つ性を含んでいる。
 「恋ひつつあらずは」を助動詞「む」ばかりで承ける例もある。

 おくれ居て 恋ひつつあらずは 追ひかむ 道のくまに しめへ吾が背〔遺居而戀管不有者追及武道之阿廻尓標結吾勢〕(万115)
 「後れ居て恋ひつつあらず」ハ「道の隈廻に標結へ吾が背、追ひ及か」ム

 置いてけぼりを食わされて行ってしまったあなたのことを恋しつづけないということはどういうことかというと、道の曲がり角には目印をつけていってください、追いかけていって追いついてしまうつもりですよということです、と言っている。本心は真逆で、置いてけぼりを食わされてもここでずっとあなたに恋しつづける。道の曲がり角ごとに目印をつけて目立つようなことはしないでほしい、追いかけていって追いつこうとしたくならないように、と言っている。
 題詞に「勅穂積皇子近江志賀山寺時、但馬皇女御作歌一首」とある。歌の作者は但馬皇女で、相手は穂積皇子である。但馬皇女は高市皇子の宮に在って人妻なのである(注11)。恋しつづけないということは、後先考えずに行動するのと同じことなのだ、と言っていて、この歌で伝えたいのは、置いてけぼりを食わされても一人恋しつづけているのが好ましく、人目に立つような下手な行動は互いに慎もうということである。
 このような場合でも、ハの上にある「つつ」の二つ性は後に反映されている。「道の隈廻」はくねくね曲がる道の曲がりごとにということであり、左カーブ、右カーブが交互に現れるし、「追ひ及かむ」というのも「追ふ」ことが「及く」、つまり、「追ひ追ひ」することを指している。

 つるぎ大刀たち もろうへに 行き触れて 死にかも死なむ 恋ひつつあらずは〔剱刀諸刃之於荷去觸而所煞鴨将死戀管不有者〕(万2636)
 「恋ひつつあらず」ハ「剣大刀諸刃の上に行き触れて死にかも死な」ム

 恋いつづけていないとは、どういうことかというと、(剣大刀)諸刃の上を行くように触れて、いずれにせよ死んでしまうように死んでしまいたい、というのと同じことだ、と言っている。これは恋の歌である。本心では、死んでしまいたいのではなく、恋しつづけたいのである。「剣大刀諸刃の上に行き触れて」という比喩は、情勢がどちらに転んでも死罪になるような緊張状態を言っている。うまく立ち回ることで生き続けてきたのであるが、それがバレてどのみち死ななければならなくなっている状況に陥ってしまった。やはり忠誠を誓うなら一人の主君に仕えるのでなければならず、二君に仕えようとしたことが誤りであった。恋も同じで、一人の人を恋しつづけるのでなくてはうまくいかない。今、自分は、あなたのことしか考えていないのであって、これからもあなたのことしか考えないで恋しつづけたい、と言っている。
 ハの前の「つつ」の二つ性は、ハの後のどちら側にも刃がある諸刃のさまと、「死にかも死ぬ」という言い方に表れている。助詞のハとハ(刃)とを絡めあげて使っているようである。

 住吉すみのえの もりびきの 浮子うけの 浮かれかかむ 恋ひつつあらずは〔住吉乃津守網引之浮笶緒乃得干蚊将去戀管不有者〕(万2646)
 「恋ひつつあらず」ハ「住吉の津守網引の浮子の緒の浮かれか行か」ム

 恋いつづけていないとは、どういうことかというと、住吉の津守が網を引くときの浮子がついているロープのように浮かんで行ってしまいたい、ということと同じことだ、と言っている。
 「住吉の津守」は港の安全管理に当たる人で、船の出入りを円滑にする仕事をしている。網が設置されていたら船の行く手を阻み、接岸する邪魔になる。だから本来すべきことではないが、内職として「網引」をしているように描かれている。船が見えたらロープは切って流れるままにしていたという設定なのであろう。これは恋の歌である。相手に訴えたいことは正反対で、恋いつづけて、放たれたロープについた浮子がプカプカ浮かぶようなことにならず、あなたのもとに引き寄せられたいと言っている。
 ハの前の「つつ」の二つ性は、ハの後の「浮子」に表れている。網にはいくつもの「浮子」が付けられていた。「浮子」と「浮かれ」という言葉の表出にも表れている。

 いつまでに かむ命そ おほかたは 恋ひつつあらずは 死なむまされり〔何時左右二将生命曽凡者戀乍不有者死上有〕(万2913)

 この歌は訓みが確定していない。結句の原文「死上有」はシヌルマサレリ(元暦校本など)、シヌゾマサレル(荷田春満・萬葉集童蒙抄)、シナムマサレリ(鹿持雅澄・萬葉集古義)、シナマシモノヲなどと訓まれている(注12)
 字面だけからわかることとして、恋しつづけないでいるということは、死ぬこと以上のことである、の意であろうと推測される。シヌルウヘニアリ、シヌルウヘナリと訓むことはできるが、ウヘを比較の上位を表す語として使う例は上代に見られない。そこで、上等の意からマサルという語を当てようとされてきた。「上」字はアガルとも訓み、「神あがり〔神上〕」(万167)の例に従えば、カムアガリアリのように死ぬことと関連させて訓むことも可能ではある。ただし、貴人について使う言葉であり、三句目にある「凡者」と釣り合わない。その「凡者」は不注意なことに、オホカタハ、オホヨソハ、オホロカニなどと訓まれている。万2532番歌に「凡者」をオホナラバと訓む例があるから従えばよいのだが、歌意を曲解した先入観からここには当たらないと却下されている(注13)
 上の句で命が限られていることが詠まれている。限られた命をどのように使うかは、時のイデオロギーやプロパガンダに左右されることはあっても、基本的にはその人その人の判断で決められることである。人生を神仏に捧げるというのではない人であるなら、という意味で使っている。通り一遍、いい加減、平凡のことをいうオホ(凡)の意をそのまま表している。神に仕えるために斎宮へ行くような特別な場合を除き、ふつうの人、凡人であるならば、恋をしつづけないということは、死んでしまう以上につまらないことである、と読みとれる(注14)。五句目の「死上有」は、斎宮忌詞を用いた言い回しではないか。「死を奈保留なほるふ。」(倭姫命世記)、「死を奈保留なほると云ふ。」(延喜式・斎宮寮式)と見える。

 いつまでに かむ命そ おほならば 恋ひつつあらずは なほることあり(万2913)
 「いつまでに生かむ命そおほならば恋ひつつあらず」ハ「直ること」アリ

 いつまで生きられる命かわからない、命を神に捧げたわけではないごくふつうの人であるなら、恋をしつづけないということは、どういうことかというと、忌詞で死んでしまうことを表すナホル、というのと同じことである。ふつうの意味のナホル(直・治)は、険悪、異常な状態からもとの平静、平常な状態にもどることである。天気、機嫌、病気、拘禁状態などから回復することをいう。そのままの意味で解すれば、恋煩いをせずにいるということは、平静であるということである。それはそのとおりなのであるが、それははたして人の人生というに値することなのであろうか、というのが歌の作者、抒情というものを少なからず良いものと思っている人にとっての感慨である。神と結婚してしまう斎宮様じゃないのだから、恋に狂うことなく生き続けるなんてもったいないよ、と言いたいのである。そこで、忌詞を使って歌にし、その点を強調するために「死上」という義訓書きにしている。シヌの上等表現がナホルである(注15)
 そして、「つつ」の二つ性は、この「直る」という言葉の二重性、heal と die に表れている。

 以上、万葉集の「恋ひつつあらずは」の用例を見てきた(注16)。すべての例で確認されたように、「ズハ」という連語を考えて無用な混乱に陥る必要はなく、係助詞の「ハ」が前と後とを等価であると示すことで理解されるものであった。PハQとあれば、P=Q(P≒Q)のことと考えればよいのである。「ハ」は前後を機械的に結合するのが役割である。前件に「……アラズ」と否定形が置かれているのは、そこで条件節になる(P→Qなどで示される)のではなく、否定している事柄ないし否定したい事柄どうしを結合させて、実際にはその真逆のことを主張しようとしている。「ハ」を現代語に訳すとき、ンヨリハやズシテハ、デナクテ、セズニ、ナイデなどではなく、Pナンテ(マルデ)Qダ、に近いものがあるだろう。「クリープを入れないコーヒーは、日焼けした写真プリントのようだ。」といった言い方が例となる(注17)。この例は商業広告である。クリープを入れないことを広告主は推奨するのではなくて入れてくれることを求めていて、写真プリントも日焼けして色がわからなくなるようでは困るから耐久性のある顔料が望まれるのである。
 否定的な言辞どうしを「ハ」で結ぶ言い方によって、その表現とは真逆のことを言い表そうとする手法は、上代人にとってさほど難しいものではなかったと思われる。昨今、皮肉が通じなくなったと言われることが多い。皮肉を言っていることを理解しあえるリテラシーが失われた、ないしは、共有されなくなったからであると説かれている。その場合、まったく同じ言い方で褒めているのか貶しているのか状況から読み取らなくてはならない。広義の反語についても同様なことと言われている。ところが、上代では、同じ言い方ではなく、已然形+「ヤ」が反語を表すように、はっきりした文型をもって反語表現が行われている。否定的な言辞どうしを「ハ」で連接させるのも、一つの文型として確立しているものだから、疑問の余地は生じない。
 短詩文形式の歌が隆盛を誇っていたのが上代の文体の特徴的なところである。短い言葉だけで言いたいことを全部言うにはどうしたらよいかということを一生懸命に考え、端的な表現が指向されていたと言えるだろう。反語表現を現代語に訳す際、~であろうか、いやいや~であろうことはない、などと二重に訳している。つまりは言葉が二倍に膨らんでいる。三十一文字(音)のうちに短縮化したいのだから、半分で済む言い方は重宝されることになる。否定的な言辞動詞を「ハ」で結ぶ言い方も、~でないのは、~というのと同じことだ、つまりは、~であって、~にならないようにしたいものだ、と、否定を裏返して訳して結果的に四倍に膨らんでいる。四倍の量のことを一気に言えるのだから、この言い方は修辞的表現として当時の言葉の使い手たちにたしなまれたのである。なぜそれほど短く言おうとする圧力がかかっていたのか。それは、文字を持たなかったからであろう。記憶にとどめられるように短くしていきたかった。その傾向の最たる言葉は枕詞である。意味が多層に重なり合って訳そうにも訳せない代物と化している。なぜ枕詞というものが生まれたのか。すでに述べたことと同じであろう。

(注)
(注1)浜田1986.は、「恋ひつつあらずは」は、「恐らく話者の意識の中に「こんなにいつまでも徒に恋しく思っていたくない○○」という気持がある為に、それが打消の「ず」となって、現るべからざる「かくばかり恋ひつつあらば○○○」という条件句の中に現れる結果となったものではないかと思う。」(243頁)とする。
(注2)小柳2004.ほか参照。個別具体的に用例を検証し、可能的未実現、既実現、不可能的未実現、可能的仮定条件句、不可能的仮定条件句、などと分類している。一つの言葉、「ズハ」にまとめられるはずはなかろうことを無理にまとめようとしている。解釈は袋小路に入っており、不毛な議論が絶えない。
 本稿では「恋ひつつあらずは」の例をとりあげている。これまでの「ズハ」の分類では既定の事態を受けるものの一方に偏っている。もう一方の未定の事態を受けるものとする分類の例を二、三採りあげ、検証しておく。

 立ちしなふ 君が姿を 忘れずは 世の限りにや 恋ひ渡りなむ〔多知之奈布伎美我須我多乎和須礼受波与能可藝里尓夜故非和多里奈無〕(万4441)
 「立ちしなふ君が姿を忘れず」ハ「世の限りにや恋ひ渡りな」ム

 しなやかに立つあなたの姿を忘れないということは、どういうことかというと、生きている限りであろうか、いやいやそうではなく死んだ先できっと恋い続けるであろう、ということである。あなたの雄姿を忘れないというのは、向こうの世界でも恋い続けていることだ、と言っている。この場合、空想を空想が「ハ」で承けているとすれば、空想だとわかっているからわざわざすべてを反転させて解さずとも済むとも考えられる。しかし、それでは何を訴えるために歌っているのかわからないことになる。多田氏による現状の解釈、「しなやかに立つあなたの姿を忘れずに、生きている限り恋い続けることだろうか。」という訳では、この歌がモノローグとなってしまう。声に出して歌を歌うとは、相手に直接、あるいは、間接的につてとしてであれ、まずは何かを相手に訴えるために発していると考えるべきである。
 この歌は恋の歌である。言いたいことは、現実的に、生きている今、しなやかに立つあなたの姿を目にしたい、この世の限りとして燃える恋がしたいということである。あの世で恋をしているなんて、今恋をしていないの裏返しである。そんなことはまっぴらである。本心は真逆で、このまま放って置かれたらあなたの素敵なお姿を忘れるでしょう、あたり前の話ですがあの世で恋しても仕方がないでしょう、今、私のことを気にかけてくださいね、と言っている。

 吾が袖は もと通りて 濡れぬとも 恋忘こひわすれ貝 取らずはかじ〔和我袖波多毛登等保里弖奴礼奴等母故非和須礼我比等良受波由可自〕(万3711)
 「吾が袖は手本通りて濡れぬとも恋忘れ貝取らず」ハ「行か」ジ

 この歌は遣新羅使歌群中の歌である。対馬まで来たところで詠んだ歌である。私の袖は袂からどんどん濡れてしまっていても恋忘れ貝と呼ばれる貝を取ることはない、とはどういうことかというと、ここからどこかへ行くつもりはないということである、と言っている。袖が濡れたのは自分の涙によってである。恋をしているのに現状では職務がら郷里に帰ることなどかなわない。すでに袖は濡れているのだから、水の中の恋忘れ貝を手に取るとしても大して変わりはないが、そうはしない。それはここを去って行くつもりはないということだ、と言っている。逆に言うと、恋忘れ貝を取ってはじめて新羅へ行くことができるようになる、というのである。それは、あなたへの恋心を忘れてしまわない限り、異国へ行くなんてできることではない、ということであり、当たり前の話だがお上の命令で新羅へ遣わされていて、仕事なのだから行かないわけにはいかないのであるが、後ろ髪を引かれる思いとして唯一あるのはあなたへの恋心なのだ、と言っている。
 この解釈は、竜頭蛇尾の文型によく適合している。五句目の途中までを「行かじ」だけで承けている。「行く」は新羅へ行くことである。何かかんかいろいろ条件をクリアしてようやく行くことができるというのが頭でっかちの文にしている。むろん、宮仕えの身で行かないという選択肢はない。なのにそのことを天秤にかけ、恋心が激しくてどうにもならないと大げさに訴えている。誇張表現のために「恋忘れ貝」という言葉を用いている。
 現状の解釈(多田氏)では、「私の袖が袖口あたりからすっかり濡れ通ってしまおうとも、恋を忘れさせるという貝を拾わずには帰るまい。」とあり、望郷の念、故郷にいる妻への情を振り払おうとする思いを歌っていることとしている。しかし、この解釈では単なるモノローグとなっており、しかも「行く」を新羅へ向かうことではなく妻のもとへ帰ることと捉えている。そもそも恋を忘れさせる貝を拾って恋人のところへ帰るというのでは理屈が通らない。

 わぎ妹子もこが 屋戸やどの橘 いと近く 植ゑてしからに 成らずはまじ〔吾妹兒之屋前之橘甚近殖而師故二不成者不止〕(万411)

 現状の解釈(多田氏)では、「あなたの家の庭の橘を私の家のすぐ近くに植えたのだから、実らせずにはおかないつもりだ。」とする。実が成るのと恋愛が成就するのとを掛けて歌われている。それはそのとおりであろうが、「いと近く」がどこに近いのかが問題とされている。通説では自分の家の近くのこととされている。

 「吾妹子が屋戸の橘いと近く植ゑてし故に成らず」ハ「止ま」ジ

 あなたの家の庭の橘をすぐ近くにごく最近植えたせいで実が成らないとは、終わりにならないということと同じである、と言っている。「近し」という形容詞は、場所だけでなく時間についてもいう。つまり、ここでは、とても最近、植えたということも含み示している。
 橘の実のことは、「ときじくのかくのこの」(垂仁記)、「非時ときじくの香菓かくのみ」(垂仁紀九十年二月)とも呼ばれている。タヂマモリが常世国とこよのくにから将来したとされている。「時じく」は時間に関係なく、の意で、いつでも香りが豊かであることを表している。橘の実が成るということを恋愛成就と掛けているのだから、時間とは無関係の実が成るのなら永久に変わらない愛を手に入れることができたということになる。だが、つい最近植えたということは、時間とは関係がないとはまだまだ言えそうにない。実が成らないうちは、育成の作業は終りにならない。反対に、実が成ったら終わるというのは、実が成ったらそれは「非時香菓」だから、時間とは関係がないレベルに超越できたことを意味する。つまり、永久不変の愛を手に入れることができたことになる。目下のところ、その愛を育み中ということになろう。彼女の家の橘を場所的にも時間的にも「いと近く」植えた。「橘」を移植したとは彼女が自分の側に、ごく最近やってきたということで、相手に惚れ抜いて一緒になった新婚さんの歌である。「止む」とは、動きが自然におさまること、物事が途中で行われなくなること、事が決着することである。夫婦として落ち着きを見せるまでしばらくかかりそうだと客観的に自分を見ている。よって、「殖而師故二」は「植ゑてしゆゑに」ではなく、「植ゑてしからに」と訓むのが正しい。この歌は、「大伴坂上郎女の橘の歌一首」(万410)に「和ふる歌」である。大伴坂上郎女が、娘のことを心配する歌を詠み、その歌に「和」している。若い娘は客観視できているから、この歌のやりとりをもって「止む」、つまり、母親の心配について決着がついている。
 くり返しになるが、この場合、「ズハ」をもって「可能的未実現」を示すと考えるのは誤りである。「橘」が「非時香菓」であることを伝える歌とならず、時間軸を超える関係性を視野に入れていることを汲み取ることができなくなる。
(注3)高山の磐根を巻いて死ぬならば、これほどに恋い続けてあることはない、という因果関係に捉えることはできない。高山の磐根を巻いて死ぬなどと大仰なことをしなくても、感染症に罹ったり、栄養失調がもとで死んだり、足を踏み外して溜池に落ちて溺死することは日常的なことであった。死因とは関係なく、死んでしまえば恋い続けることも、息をし続けることも、毎朝納豆を食べ続けることもできない。「恋ひつつあり」を拒むために山の巌で首つり自殺するという歌をノイローゼの歌と解するのは誤解である。つないでいるのはハであって、バではない。
(注4)イク(行、往)はユク(行、往)に比べて新しく、俗な形かと思われており、万葉集歌では字余りの句に現れている。この駄洒落もかなり俗な部類のものである。
(注5)拙稿「玉藻の歌について―万23・24番歌―」など参照。
(注6)薄葬化し、火葬されるようになっていた時、どのような寿陵が営まれていたのか詳細は不明である。
(注7)「大刀たち」は「断つ」から派生した語と考えられ、守り刀となる短いもの、ただしカタナとはないから短刀ではなく短剣のことであろう。
(注8)家に放火するといったことは悪い行いだが、そうなると「家にして」でなくなるから除外される。
(注9)拙稿「枕詞「刈薦(かりこも)の」について」参照。コモが敷物とされるだけでなく、コモヅノとなって食用や真菰墨の採集にも用いられていることから、その二つの様態を表して「つつ」に対応しているとも考えられる。
(注10)上代に副詞のツユの確例は見られない。
(注11)万114番歌の題詞には、「但馬皇女在高市皇子宮時、思穂積皇子御作歌一首」、万116番歌の題詞には、「但馬皇女在高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首」とある。不倫関係にある女性が邸宅を抜け出して思い人のところへ追いかけて行くほど大胆なことをしたら、ちょっとたいへんなことになるだろう。
(注12)「ズハ」という語について本居宣長や橋本進吉に議論されて以来、先入観があるからこれらの訓み方が定着している。ラ変動詞のマサレリ(優・勝)は集中ではほかに、「益有」(万492・1206)、「益流」(万3016)、「麻佐礼留」(万803)、「益」(万3083)という用字が行われている。マサル(優・勝・増・益)でも、訓字を用いた場合には「益」「増」字が使われている。「上有」そのままで義訓されている例はない。
(注13)澤瀉1963.71頁。吉井2021.225頁。
(注14)推古紀三十二年四月条では、仏道に励む僧尼のことを「道人おこなひするひと」、一般人を「俗人ただひと」と対置している。
(注15)ナホルという忌詞が上代に使われたとする確例はないものの、斎宮忌詞以外の忌詞は、例えば、「失火みづながれ」(天智紀六年三月)などとある。
 三句目の「凡者」はオホナラバと訓むのが一番しっくりくる。平凡な人であるならば、の意として解することができるのだから、この訓み方は説得力を持つものと考える。
 「……こと有り」という形は、「……」について別に説明することを予感させる言い方である。

 いにしへの人、云へること有り。「娜毗騰耶皤麼珥なひとやはばに。(汝人や母似?)」。〈此の古語ふるごと未だつばひらかならず。〉(雄略紀元年三月)

 「云へること」が「有」るとまず呈示しておき、その「云へること」とは何か、次に述べている。万2913番歌の筆者の新訓と対照させると、「恋ひつつあらずは、直ること有り。」というのは、もともとは倒置形であってもおかしくなかったことを感じさせてくれる。助詞「ハ」の力量である。忌詞の「直る」を言って落ちとしているから歌のような語順になっている。「直る」に当たるところが落ちでも何でもなければ、倒置して「恋つつあらずは」を文末に持ってきていたであろう。倒置形になっていないという点から考えても、「死上」は「直る(こと)」と訓むのが正解に近いと理解できる。
(注16)「恋ひつつあらずは」から少し形の崩れた類例がある。

 長き夜を 君に恋ひつつ けらずは 咲きて散りにし 花にあらましを〔長夜乎於君戀乍不生者開而落西花有益乎〕(万2282)
 「長き夜を君に恋ひつつ生けらず」ハ「(花にあらませば)咲きて散りにし花にあらまし」ヲ

 長い夜を君に恋いつづけて生きているのではないということは、どういうことかというと、もし花であるなら、もちろんそんなことはないのだが、仮にそうであったら、咲いて散ってしまって見る影もない花でありたいなあという、まことにみじめなことであるよ。
 つまり、秋の夜長にあなたのことを恋いつづけて、もし花であるなら、すでに咲いて散ってしまった花などではなくて、盛んに咲いている花であるように、あなたの注目を浴びていたいことよ。
 現状の解釈を多田氏に見れば、「この秋の長い夜を、あなたに恋い続けて生きているよりは、いっそ咲いて散ってしまった花であったらよかったものを。」となっている。恋心に悩み疲れるというのはわからなくはないが、だからといってそれで自暴自棄に陥っていると悪態をつかれたら、聞く相手は嫌になる。

 おくれ居て 長恋ひせずは そのの 梅の花にも ならましものを〔於久礼為天那我古飛世殊波弥曽能不乃于梅能波奈尓忘奈良麻之母能乎〕(万864)
 「後れ居て長恋ひせず」ハ「(梅の花にならませば)御園生の梅の花にもならまし」モノヲ

 置いてけぼりを食わされて宴に参加できずに、長く慕いつづけることがなく無関心になるのは、どういうことかというと、もし仮に自分が梅の花になるのであれば、もちろんそんなことはないし望んでもいないけれど、よりによって御屋敷の庭の梅の花になりたいものだなあ、というのと同じことである。
 この歌は、令和の出典とされた大伴旅人の「梅花歌三十二首〈并序〉」に奉和した歌である。作者の吉田宜はその宴席に参加できなかった。後日旅人から宴のことについて手紙が来て、それにこたえる歌として作っている。その宴席で梅の花の散るのを雪のることになぞらえて歌に作りなさいとお題が示されていた。それが「序」である。謎掛けを仕掛けた歌会であった(補注1)
 実際にどうかは別問題として、そういう想定のもとであれば、宴から日を経て吉田宜が作歌している今、大伴旅人邸の梅花は散ってしまって見る影もないことであろう。風流ぶって楽しむことなどできない。旅人邸の「そのの梅の花」は梅の花として最悪の花である。そんなみじめな梅の花にはなりたくないのである。今、野山でちょぼちょぼ咲いている梅の花になるほうがまだ救われている。
 万862番歌は、大伴旅人の「梅花歌」の歌会を見事に承けた歌として機能している。本心は、宴に参加したかったのに参加できずに残念でした。季節をわきまえずに散ってしまうお庭の梅の花になどならないで、咲いているのを愛でられて楽しめるものになりたいです、と言っている。花が咲いていれば人目に付く。そのことは、出席できずにお目にかかることがなかったことへの詫びにもなっている。
 なお、現状の解釈では、「後に残されていて、いつまでも恋い慕っていないで、いっそ御庭の梅の花にもなりたいものを。」と捉えられている。題詞に「奉-和諸人梅花歌一首」とある。諸人が梅の花をモチーフにして歌った歌に対して、宴会が終わってから唱和している。リモート参加ではないから、今から大伴旅人の庭の梅の花になっても仕方あるまい。

 あひ見ずは 恋ひざらましを いもを見て もとなかくのみ 恋ひばいかにせむ〔不相見者不戀有益乎妹乎見而本名如此耳戀者奈何将為〕(万586)
 「相見ず」ハ「(恋ひざらませば)恋ひざらまし」ヲ、「妹を見てもとなかくのみ恋ひばいかにせむ」

 お逢いしないということは、どういうことかというと、もし仮に私が恋をしないというのであれば、あなたに対して恋をしないであろう、というのと同じことである。あなたを見てわけもなく起こる恋心をどうしたらよいのだろうか。  この歌は二句切れである。逢わないなどということは、ちょっと考えられないことで、もし私が仮に恋をしない人種に属しているとしたら、よりによって最悪なことにあなたに対して恋をしないというのと同じことである、と言っている。本心は真逆であり、私は恋をする人種であり、その相手はまぎれもなくあなたである。なにしろあなたに逢っている。ああ、あなたを見ると自動的に湧きおこる恋心をどう扱ったらよいのだろう。どうかよろしくお願いします、という意味である。
 「ズハ」を連語とする説に依拠すれば、もし~ないなら、~なかったら、の仮定条件ということになり、一句目で仮定していたのをさらに五句目で再び仮定するのはおかしいことになるとして、「恋ふるはいかにせむ」(補注2)と訓むと解されることがある。「ズハ」は連語ではなく、P≒Qという命題を提示し、句切れの後の三句目以降は、その命題下における具体的な状況への対処法について追及することで相手に訴えかけようとするものである。

 なかなかに 君に恋ひずは 比良ひらの浦の 海人にあらましを 玉藻刈りつつ〔中々二君二不戀者枚浦乃白水郎有申尾玉藻苅管〕(万2743)
 「なかなかに君に恋ひず」ハ「(海人にあらませば)玉藻刈りつつ(ある)比良の浦の海人にあらまし」ヲ

 中途半端にもあなたに恋しないとは、どういうことかというと、もし仮に私が海人であるのなら、よりによって比良の浦の海人でありたがるのと同じことであり、そうなるといつまでも玉藻を刈りつづけることに陥るものだ、と言っている。「ハ」の上に「なかなか」とあり、下に「つつ」とある。「恋ひつつあらずは」の例に見られたように呼応関係にあると考えられる。海人のなかで特定の地名を有する海人について言及している。ヒラの浦は琵琶湖に面したところとされているが、この歌で取りあげているのはその音の妙である。ヒラというのだから、ひらひらしていて原文に「枚」と書かれている形状について示している。ひらひらしているものはおおよそ平板なもので、形式的に表と裏があるかのように扱っているが、本質的には区別がなく、見えている面をオモ(テ)、見えていない面をウラと便宜的に呼んでいるにすぎない。となると、ヒラノウラというところは、裏を確かめようとひっくり返しても、またその反対面が気になってまた裏を確かめようとひっくり返す、の堂々巡りになる場所であることを示している。そんなことに明け暮れていたら、恋をすることなく人生は終わってしまう。
 なぜそう言えるかといえば、ウラ(裏)という言葉は、裏、内側、中、心、思い、の意を範疇としているからである。中にあるであろう心を知ろうにも薄っぺらくて知ることができない。「ハ」の上には「なかなかに」とあり、ウラの意に注目させる仕掛けとなっている。常套表現に「うらも無く」と使われている。

 うらも無く 我が行く道に 青柳の 張りて立てれば 物つも(万3443)

 何心なく歩いて行くと、の意である。ヒラノウラというところは、心に何も物を思わなくなるところ、つまり、恋とは無縁のところの謂いなのである。
 海人の性質に堂々巡りをするところがあるのは、オホサザキノミコト(大雀命、大鷦鷯尊、仁徳天皇)とウヂノワキイラツコ(宇遅能和紀郎子、菟道稚郎子)とが互いに位を譲り合っていた時、その間を大贄おほにへ(苞苴)となる魚を奉るために持ってまわって腐らせて哭いたとする話が載っている(応神記、仁徳前紀)。それは、海人は魚や貝を獲るばかりではなく、藻を刈り採ることもあった点と関連する。モという言葉(音)は、助詞のモ、並列を表し、あれもこれもの意を表すことと対照される。助詞のモと名詞のモ(藻)との間に語根的、語源的なつながりがあるとは知られないが、同じ音、同じ言葉として使われていたら、同じ意味合いでその言葉を使ってみたい、聞く人の心に訴えるところがあるに違いない、と思う人があっても不思議ではない。
 万2743番歌では、中途半端にではなくあなたに恋をすると宣言していて、藻を刈り続けることに一生を捧げて恋もせず、何が楽しかったのかと言われるような失策人生など歩みたくない、大好きなんだ、あなたのことが、と言っている。
 現状の解釈では、「なまなかにあなたに恋したりせずに、いっそ比良の浦の海人ででもあったらよいものを。玉藻を刈りながら。」としている。海人は常民とは異なる存在で、卑賤視された、あるいは、落魄のイメージが強いなどという。根拠の不明な見解であり、三句目以降の語句を選択した必然性もないことになる。

 なかなかに 君に恋ひずは 留牛馬なはの浦の 海人にあらましを 玉藻刈る刈る〔中々尓君尓不戀波留牛馬浦之海部尓有益男珠藻苅々〕(万2743或本)
 「なかなかに君に恋ひず」ハ「(海人にあらませば)玉藻刈る刈る留牛馬の浦の海人にあらまし」ヲ

 同じように、「ハ」の上の「なかなか」と下の「刈る刈る」は呼応関係にある。
 この歌ではナハが持ち出されている。縄は綯うことでできあがる。藁縄であれば藁と藁とを縒り合わせて二本の藁が一本の縄と成っている。右縒りであれ左縒りであれ、目をつけた個所のウラ(裏)は何かと探るには、ひっくり返してためつすがめつ見てみたり、時によっては少しほどいてみることもあるかもしれないが、ほどいたらもはや縄ではないからわからなかったということになる。「うらも無く」「玉藻刈る刈る」人生を送ったりはしない。あなたのことで頭がいっぱいだ、と言っている。
(注17)往年のCMの例は、「クリープを入れないコーヒーなんて、ピンボケの写真のようだ。」といった譬えを使っていたと記憶する。ここでは日焼けの写真プリントに改編した。写真プリントがコーヒー色に焼けることを含ませたかったからである。「ハ」の前と後とが絡んでいなければ歌のレトリックとしておもしろみがない。あるいはこうも言えるだろう。「ハ」の前と後とでかけ離れたことを言っていて、それをつなぐ助詞「ハ」に負荷がかかっている。どうして両者を「ハ」でつなぐことができるのかという疑問に対して、ほら、よく考えてごらん、前と後とで絡んでいるところがあるだろう、と証明してみせているのである。
(補注1)拙稿「令和の出典、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」について─「令」が「零」を含意することを中心に─」参照。王羲之の蘭亭の序を意識した催し物で、実際に梅の花を見て歌を作っているわけではないことは暦日からも窺える。
(補注2)中西1978.304頁。
(補注3)原文の「留牛馬」部分については異動がある。「留鳥浦之」をアミノウラノ、「留牛鳥浦之」をニホノウラノと訓む説もある。それらの訓みに有意性を見出せないので、通訓のナハに従った。

(引用・参考文献)
澤瀉1963. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第十二』中央公論社、昭和38年。
小柳2004. 小柳智一「「ずは」の語法─仮定条件句─」『萬葉』第189号、2004年7月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2004
多田2009.&2010. 多田一臣『万葉集全解1・2・3・4・5』筑摩書房、2009年、『同6・7』2010年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
浜田1986. 浜田敦『国語史の諸問題』和泉書院、1986年。
吉井2021. 吉井健「副詞「おほかたは」について」『萬葉集研究 第四十集』塙書房、令和3年。
※「ズハ」については数多くの論文を参照したが、引用したものに限って記載した。

加藤良平 2024.2.1初出2024.12.31一部訂正

丹比笠麻呂の「袖解きかへて」考

 万葉集巻四に載る丹比笠たぢひのかさ麻呂まろの長歌と反歌の歌はあまり取りあげられることはないが、理解が行き届いているものではない。筑紫国へと下向する時、離れてしまう相手の女性への思いを歌にしているが、反歌にある「そできかへて」がどういう意味なのか、解釈が落ち着いていない(注1)。本稿では、この「そできかへて」という語に焦点を当て、この長短歌を正しい理解へと導きたい。はじめに、現在の解釈で標準的な、新大系文庫本の訳を添えて歌を呈示する。

  丹比たぢひの人笠ひとかさ麻呂まろ筑紫国つくしのくにくだる時に作る歌一首〈あはせて短歌〉〔丹比真人笠麿下筑紫國時作歌一首〈并短謌〉〕
 おみの くしに乗れる かがみなす 御津みつはまに さにつらふ ひもけず わぎ妹子もこに 恋ひつつれば れの 朝霧あさぎりごもり 鳴くたづの のみし泣かゆ が恋ふる 千重ちへひとも なぐさもる こころもありやと いへのあたり が立ち見れば 青旗あをはたの 葛城山かづらきやまに たなびける 白雲しらくもがくる あまさがる ひなくにに ただ向かふ あはを過ぎ 粟島あはしまを がひに見つつ 朝なぎに 水手かここゑ呼び 夕なぎに かぢおとしつつ 波のうへを いきさぐくみ いはを いもとほり いなつま うらを過ぎて とりじもの なづさひ行けば 家の島 荒磯ありその上に 打ちなびき しじひたる なのりそが などかもいもに らずにけむ〔臣女乃匣尓乗有鏡成見津乃濱邊尓狭丹頬相紐解不離吾妹兒尓戀乍居者明晩乃旦霧隠鳴多頭乃哭耳之所哭吾戀流干重乃一隔母名草漏情毛有哉跡家當吾立見者青旗乃葛木山尓多奈引流白雲隠天佐我留夷乃國邊尓直向淡路乎過粟嶋乎背尓見管朝名寸二水手之音喚暮名寸二梶之聲為乍浪上乎五十行左具久美磐間乎射徃廻稲日都麻浦箕乎過而鳥自物魚津左比去者家乃嶋荒礒之宇倍尓打靡四時二生有莫告我奈騰可聞妹尓不告来二計謀〕(万509)

宮仕えの美しい女性の櫛箱に乗っている鏡、その鏡を「見つ」という名の美しい御津の浜辺の仮寝で、妻が結んでくれた(さにつらふ)赤い下紐を解き放つこともせずに、妻を恋い慕っていると、夜明け方の薄暗い朝霧の中に鳴く鶴のように声を挙げて泣けてくる。
私が恋しく思う心の千分の一でも慰むこともあろうかと、我が妻の家のある大和の方を立ちあがって眺めるが、(青旗の)葛城山にたなびく白雲に隠れて全く見えない。
(天さがる)鄙、西国の筑紫国に向かって、難波の真正面に見える淡路島を通過し、粟島を後ろに見ながら、朝凪に水夫は掛け声を合わせて漕ぎ、夕凪に梶の音をきしませて波の上を進みかねて、岩の間を行きなやんで、稲日つまの浦の周辺を過ぎて、(鳥じもの)難渋しながら進んで行くと、家島が見えて来たが、その荒磯の上に、波に靡いて生い茂っている名告藻(なのりそ)は、「な告りそ」と禁じているのでもないのに、どうして私は妻に大事な別れを告げずに来てしまったのだろうか。(343~345頁)

  反歌
 白栲しろたへの そできかへて かへむ 月日をみて きてましを〔白細乃袖解更而還来武月日乎數而徃而来猿尾〕(万510)

(白たへの)袖を解き交わして、筑紫から家に帰って来る月日を数えて、妻の家に行って戻って来られたらなあ。(345頁)

 解説に、「寝物語に旅の日数を計算して、帰宅の日を妻に約束できるように、船から家に行って帰ってこられたらなあと願う。類例、「み空行く雲にもがも今日行きて妹に言問ひ明日帰り来む」(三一〇)。「袖解き交へて」は「帯解き交へて」(四三一)に類似するが、帯ではなく袖を解くことが理解しにくい。」(同頁)とある。
 「そできかへて〔袖解更而〕」という言い方は孤例である。「そでへて」か「そでへて」か意見が分かれている。類例には次のような歌がある。

 敷栲しきたへの 袖へし君〔袖易之君〕 玉垂たまたれの 過ぎ行く またも逢はめやも(万195)
 いにしへに 有りけむ人の 倭文しつはたの 帯へて〔帯解替而〕 ふせ立て つまひしけむ 葛飾かづしかの 真間まま手児名てこなが おくを こことは聞けど ……(万431)
 麗錦まにしき 紐解きはし〔紐解易之〕 天人あまひとの 妻問ふよひぞ われしのはむ(万2090)
 垣ほなす 人は言へども 高麗錦 紐解きけし〔紐解開〕 君にあらなくに(万2405)

 男女が情事を交わすことを暗示する言い方である。しかし、「袖解・・更而」とある。洗濯の際に縫い目をその都度ほどいていたことからも、袖をほどいて交換することを歌っていると考えるべきである(注2)。「トキカヘテは、旧衣の紐を解いて、別の衣に著換えてである。妻のもとに行つてさつぱりした衣服に著換えてで、次の句を修飾する。」(武田1957.69頁)、「官服の長い筒袖を縫い目から外して解いて交換することをうたっていると考える……。ただし、……「妹」のもとへ行く前の行為と見る。」(関谷2021.145頁)などとも説かれている。
 丹比笠麻呂は筑紫国へ下る途上、船のなかで歌を歌っている。解き洗いを船中で行うことは考えられない。海の水で洗うはずはなく、縫い直す人、女性も同乗していない。また、着ている服が官服かどうかもわからない。
 長歌で歌っていたのは、どうして「妹」に何も告げないで出立してしまったかという後悔の念であった。用命で筑紫へ行くことになったからしばらく逢えないことになると、きちんと言って出かけてきたらよかったのに、何も言わないでいつものようにまたね、と言っただけで別れてきてしまった。長いこと逢えなくなると悲しむからとその場しのぎに黙っていたが、実際に逢うことのない日が続けば彼女はいろいろと悩むだろう。彼女にとっても自分にとっても良いことではなかったと気づいたのである。こんなにつらいものだとは思わなかった。自分のほうでも声をあげて泣けてくる。事情を聞かされずに放られた彼女のつらさは自分以上であろう。だから、……ということを反歌で歌っている。
 「きて」という言い方は、とんぼ返りに行って帰ってくること、短時間で行って帰ってくることをいう。

 たつも 今も得てしか あをによし 奈良の都に 行きてむため(万806)(注3)

 この例では、空想上の駿馬「龍の馬」に乗って瞬間移動する時に用いられている。丹比笠麻呂は、今、船上にいるわけだが、ささっと「妹」のところへ行って帰って来たいものだ、と思っている。もちろん、現実にできることではないのだが、行っておよその日程を告げたいと言っている。それが下の句である。
 課題の句もそれと同じことを言っている。袖を解いて交換する必要が生じている。夜明け方の鶴のように声をあげて泣いてしまい、袖はぐっしょり濡れているから彼女のところへ行って解いてもらい、違うものに交換して縫ってもらって帰って来よう、と言っている。涙に袖を濡らす例は万葉集中にいくつか見られる(万135・159・614・723・2518・2849・2857・2953)。丹比笠麻呂は気持ちが悶絶していて慟哭の歌を歌っているのである(注4)

  白栲しろたへの そできかへて かへむ 月日をみて きてましを(万510)
 (白たへの)袖を解いて濡れていないものに代えてすぐに還って来ましょう。筑紫での日程がどのくらいになるか彼女に数え伝えて、とんぼ返りに行って帰って来たいものですよ、ああ。

(注)
(注1)解釈が定まらない反歌を措き、長歌の道行的叙述について和歌史的に重要であったとする考えが清水1980.に見られる。作者の丹比笠麻呂は伝不詳で、他の作品としては万385番歌があるばかりである。およそ何時頃の人かと推定し、他の万葉歌について先後の関係から表現を受け継いでいると見ようとするのであるが、万葉集に載らなかった歌がなかったのか、確かめようがないことである。論証できないことを議論する以前に、丹比笠麻呂が歌に込めた意味を理解することが求められよう。清水氏も校注者の一人である集成本に、「第二段では、船旅の困難さと重ねて、逢う意を思わせる 「淡路」「粟島」、妻が隠れている意の「稲日都麻」、さらに「家島」と続く地名にかけて、家から離れて行く心細さを述べ、妻恋しさに戻っている。」(267~268頁)とある。地名をあげているのは地口による暗示の性格が強い。古事記にくず(「久須婆くすば」)という地名が「くそばかま」の訛ったものとする説明があるように、上代の人にとって当たり前のことであったろう。言葉を考えることは言葉を使うことを考えることで、言葉の使用史を和歌史に限ることはほぼ無用である。
(注2)そのような指摘は散見される。洗濯方法については、拙稿「万葉集における洗濯の歌について」も参照されたい。
(注3)拙稿「万葉集の「龍の馬(たつのま)」について」参照。
(注4)近年の解釈に、「あの子と白妙の袖をさしかわし紐を互いに解きあって還って来たい。月日を数えて行って帰って来ようと思うのだが。」(稲岡1997.296頁)、「(いとしい妻と)白栲の衣の袖をさし交わし、帰って来る日までの月日を数えて行って来るのであったよ。」(阿蘇2006.485頁)、「(白たへの)袖を解き替えて、帰って来るだろう月日を数えて、(それを教えに大和に)行って(難波に戻って)来るのだった。」(関谷2021.125頁)などともある。
 阿蘇氏は、三句目と五句目に妻のもとに行って戻って来たいと繰り返すのは、気持ちを抑えきれず性急に畳みかけていることになり、長歌ののびやかな調べにそぐわないとしている。しかし、長歌で歌っていることは道行きではなくて、「などかもいもに らずにけむ」という後悔である。壮大な序を構えて、事情を告げず、いつまた逢えるか見当をつけることもないままに放ってしまった、その事の重大さを引き出そうとしているのである。
 全集本の語注に、「帰り来む─都の妻に逢ってから現在歌を詠んでいる地点まで引き返して来ようの意。ここで句切れ。」、「行きて来ましを─この行キテ来は妻の家に行って「来」、現在の地点に戻ってくることをさす。」と正しい判定ながら、「袖解きかへて」の語釈が覚束なく、また、「月日を数みて」について、「筑紫下向に要する日程(筑前まで下り十四日)をつめて遅れないように努めることをいう。」(310頁)と、あたかも実際に都へ行って戻ってくることを想定しているように解している。丹比笠麻呂が船をチャーターしているとは考えられないし、船団のうちの一隻のうちの最高位の乗客で他の船から離れて別行動を取ってかまわないということもない。この歌は船上で歌われ、同乗者がいて聞き、理解されたに相違あるまい。聞く人がいてはじめて歌となる。
 その他、長歌のはじめにある「おみ」は官女のことで、「わぎ妹子もこ」や「いも」との関係を指摘する向きもある。同一人物としたり、二人別にいるとしたりして考えようとするのである。しかし、「おみの くしに乗れる かがみなす」は「御津みつ」を導く序詞である。丹比笠麻呂が通う妻は、官女ではなくて、いい鏡も持っていない(持たせてあげられていない)。安物の鏡に映るようなところをミツと呼ぶのはふさわしくない。多少歪んでいても見えるから見ツであるとは思われない。ミツ(ミは甲類)がミ(御)ツ(津)に当たらなくなり、語感に合わない。
 また、「葛城山かづらきやま」とあるのは、その付近に丹比笠麻呂やその「わぎ妹子もこ」の居住地があるからとする向きもある。「いへのあたり が立ち見れば 青旗あをはたの 葛城山かづらきやまに たなびける 白雲しらくもがくる」も修辞表現である。すでに「くし」や「かがみ」が出てきている。十分に自分の容姿を確かめたがっていることを匂わせている。「わぎ妹子もこ」は年若いようである。美容にこだわりがあるのだから髪飾りも大事であり、ウィッグであるカヅラ(鬘)がうまく装着しているか見ようとしている。だから、大和の地にある山でも特別に「葛城山かづらきやま」を取りあげている。地名を歌に詠み込む理由は、地理的な意味よりも地口として伝えたいからである。地図に書き記して行程を示す旅の栞ではなく、一度きり大きな声で歌って周囲の人の興味を引く瞬間芸であった。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第2巻』笠間書院、2006年。
稲岡1997. 稲岡耕『和歌文学大系1 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
清水1980. 清水克彦『萬葉論集 第二』桜楓社、昭和55年。
集成本 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮古典文学集成 萬葉集一』新潮社、昭和51年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
関谷2021. 関谷由一『万葉集羇旅歌論』北海道大学出版会、2021年。
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集 萬葉集一』小学館、昭和46年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
武田1957. 武田祐吉『増訂萬葉集全註釈 五』角川書店、昭和32年。

加藤良平 2024.1.15初出

枕詞「はしたての」について

 枕詞「はしたての」は「倉椅山くらはしやま」のクラ、また、「さがし」、地名「くま」にもかかるとされている。高倉式倉庫には梯子を立て掛けて登るからかかるのであると考えられつつ、クマキにかかる意味は不明ながら同じく枕詞であるとされている。
 万葉集巻七の旋頭歌に「右廿三首柿本朝臣人麿之謌集出」(万1294番歌の左注)のうちの三首に「はしたての倉椅くらはし……」の歌が三首載る。

 はしたての 倉椅山くらはしやまに 立てる白雲しらくも 見まくり 我がするなへに 立てる白雲〔橋立倉椅山立白雲見欲我為苗立白雲〕(万1282)
 はしたての 倉椅川くらはしがはの 石の橋はも ざかりに 我が渡りてし 石の橋はも〔橋立倉椅川石走者裳壮子時我度為石走者裳〕(万1283) 
 はしたての 倉椅川くらはしがはの 川の静菅しづすげ 我が刈りて 笠にも編まぬ 川の静菅〔橋立倉椅川河静菅余苅笠裳不編川静菅〕(万1284)

 これらの歌は恋の歌であると見られている。
 巻七の雑歌の部立に上の旋頭歌も含まれている。雑歌の歌は恋の歌とは決めつけられない(注1)。これら「はしたての倉椅……」の歌も、そこで歌われている歌い手とされているワ(「我」・「余」)に関して、性別としては二首目から男性と見られるが、どのような対象と見るのがふさわしいか俄かには判断できない。三首とも、一句目にある「はしたての」は枕詞で、往時の倉は高床式で梯子をかけて上り下りしたからクラにかかるとされているが、弥生式集落を復元してみると倉庫ばかりでなく首長の館か集会場のような施設も高床式であったことが知られている。「はしたての」と言えば次にはクラが必ず導かれるとは、言葉からだけでは想定できない。この枕詞解釈には再考の余地がある。
 筆者は、その語が「はしたて○○の」であり、「はしかけ○○の」ではない点に注目する。梯子段はどこかに掛けているのではなく、梯子段は立てられている。梯子段が自立するためには、それは梯子が互いに向き合った状態、すなわち、脚立のことを指しているのだろう(注2)。そんな脚立の立っているのがクラ(ハシ)へと義が収斂する形で続くとすると、クラは倉庫のことではなく、馬の背に載せる鞍、それも荷鞍のことであろうと推測される(注3)。荷鞍は乗馬用の鞍とは異なり、中央が高く横から見ると三角形に突起しており、脚立を背に載せているように見える(注4)
 すなわち、これらの歌の歌い手であるワ(「我」・「余」)は、馬を主人公に擬人化して詠まれた歌ではないか。クラハシという語も、馬にまぐさラハシていることと結びついていて正しいと知れる。三首目(万1284)で、「我が刈りて 笠にも編まぬ 川の静菅しづすげ 」とあるのは、馬が川辺に生えているスゲを刈る、すなわち、んで噛み砕いてしまったら菅笠に編もうにも編むことなどできない。二首目(万1283)には訓みの誤りがある。「我度為」は「我が渡してし」と訓むのであろう。壮年期の力がみなぎっていた頃、馬力を使って石橋を架けることに使役された。牽引に労されたことを思い出すなあと、老馬を擬人化し、語らせている。
 一首目(万1282)の「我がするなへに〔我為苗〕」の「する」とは何をしているのであろうか。馬が使役されているのだから、農耕ないし運搬の可能性が高い。「我がする」と言って言い当てていると考えられることとしては、田の代掻きがあげられる。田植え前の田に水を充たし、土塊を砕いて土を平らに均す作業である。荒代あらしろ中代なかしろ植代うえしろの三回ほど行うことで水田は整えられた。馬の背に据えた農耕用の鞍に綱をつけて馬鍬を引かせたのである(注5)。マグワ、マンガなどと通称されている。

左:荷鞍(高岡市立博物館蔵、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282520)、右:農耕鞍に馬鍬(大和耕作絵抄、黒川真道編『日本風俗図絵』第五輯、日本風俗図絵刊行会、大正3年。国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1266538をトリミング)

 だから、「我がするなへに」と言ったときの「する」という動詞は、馬なのだから馬鍬を使ったあの代掻き作業のことだと理解される(注6)。ここで使われている「なへに」という助詞は、とともに、と同時に、につれて、という意味ばかりでなく、なへを植えるための準備作業であることを示唆する洒落にもなっていて、代掻きのことに違いないと確かめられる。

 はしたての 倉椅山くらはしやまに 立てる白雲しらくも 見まくり 我がするなへに 立てる白雲(万1282)
 馬の荷鞍のように脚立が立っている様子をしている峻嶮な山に立ちのぼっている白い雲、その白い雲を見たいと思い、馬である私は代掻きをすると、それとともに、水を張った田の土は均されて田の面に白い雲の姿が映り立ちのぼる。

 「はしたての」が「倉椅山くらはしやまに」にかかる例は古事記にも見える。

 はしたての 倉椅山を さがしみと いはきかねて 我が手取らすも〔波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登伊波迦伎加泥弖和賀弖登良須母〕(記71)
 はしたての 倉椅山は 嶮しけど いもと登れば 嶮しくもあらず〔波斯多弖能久良波斯夜麻波佐賀斯祁杼伊毛登能爐禮波佐賀斯玖母阿良受〕(記72)

 仁徳記の女鳥めどりのおほきみ速総別はやぶさわけのおほきみの逃避行において交わされた歌である。倉椅山は現在の桜井市倉橋の地にある山のこととされているが、駄馬の背に荷鞍が置かれ、それに乗って行こうとしていたことを物語っていると考えられる。片側に一人乗るとバランスが取れないが、両側に乗れば荷鞍でも人は運ぶことができる。

二宝荒神(十返舎一九『続膝栗毛 九編上』江島伊兵衛、明治14年。 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/878868/1/20をトリミング)

 そうやって二人乗りすれば、乗馬のように速く翔ることはできなくなる。大きな力を持つ馬が身の自由を奪われている。それをよく表すのが、馬に荷鞍を着けたときである。荷鞍を馬に着ける際、馬の背が擦れて傷にならないように間に敷物を入れる。敷物のことは和名抄に、「茵〈褥付〉 野王に曰はく、茵〈音は因、之土禰しとね〉は茵褥、又、虎、豹の皮を以て之をつくるといふ。唐韻に云はく、褥〈而蜀反、辱と同じ、俗に音は邇久にく、今案ふるに毛の席の名なり〉は氊褥なりといふ。」とある(注7)。つまり、ニクラ(荷鞍)はニク(褥)+ラ(等)あってのことだとわかる。重い荷物を載せて運ぶ馬の鞍は、荷物の尻のためではなく、馬の背と鞍との間に十分なクッションが必要である。藁を芯に入れて畳表や布などでくるんだものを左右の鞍床に結いつけて馬の背当てとし、痛くないようにしている。
 同じ仁徳天皇代のこととして、紀にも「はしたての」歌が載り、そこでは「さがし」と続いている。

 はしたての さがしき山も わぎ妹子もこと 二人越ゆれば やすむしろかも〔破始多弖能佐餓始枳揶摩茂和芸毛古等赴駄利古喩例麼揶須武志呂箇茂〕(紀61)

「捕洞中熊」(蔀関月著・法橋関月画図・日本山海名産図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575827/40をトリミング)

 この歌も、「はしたての嶮しき山」は逃げ延びて行く山のことと荷鞍のことを掛けて表現したものである。駄馬に荷鞍を載せて左右に人が居られるように囲いをつければ、座るのに安定して難しいことではないから「やすむしろ」であるかもしれないではないか、と言っている(注8)。
 二人乗り同様米俵を複数載せられれば、馬としても重くて暴れることもできず、黙々と運搬に従事するしかなくなる。梯子桟のような形の上に重いものが載っていてその場から逃げ出せなくなる状況は、力の強い猛獣の罠檻の仕掛けと通じるところがある。それをオシ、また、オソと言った(注9)。「押機おし」(神武記)と見える。もっぱら熊狩りに用いられている。
 ということは、梯子桟の形状の上に重いものを載せることは、力の強い動物の動きを抑制するものであると納得される。オシ、また、オソという罠に熊が来て身動きが取れなくなるから、梯子桟のことを指す枕詞「はしたての」は地名クマキ(熊来)にもかかると捻られたと考えられる。

  能登国の歌三首〔能登國歌三首〕
 はしたての くまのやらに しらをの 落し入れ わし かけてかけて な泣かしそね 浮き出づるやと見む わし〔堦楯熊来乃夜良尓新羅斧堕入和之河毛〓〔⺅偏に弖〕河毛〓〔⺅偏に弖〕勿鳴為曽祢浮出流夜登將見和之〕(万3878)
   右の歌一首は、伝へて云はく、或はおろかひと有り。斧を海底におとして、くろがねの沈みて水に浮ぶことわり無きをらず。いささかに此の歌を作りて口吟くちずさみてさとしとり。〔右一首傳云或有愚人斧堕海底而不解鐵沈無理浮水聊作此歌口吟為喩也〕
 はしたての くまさかに 真罵まぬらるやつこ わし さすひ立て て来なましを 真罵らる奴 わし〔堦楯熊来酒屋尓真奴良留奴和之佐須比立率而来奈麻之乎真奴良留奴和之〕(万3879)
   右は一首〔右一首〕

 枕詞「はしたての」について上代の人たちが一語に込めた観念を洞察することで、当時の生活技術をビビッドに理解することができ、歌の解釈ともども上代の人たちがどのように思惟していたのかに近づくことができた(注10)

(注)
(注1)旋頭歌は五七七─五七七の形式を持つため、問答や唱和を思わせるが、相聞の部立に分類されているわけではない。
(注2)梯子段の自立する姿は鞍掛、木馬にも見られる。梯子を立てる様子は今日、園芸三脚にも見られるが、それがいつ頃からあるものなのか不明であり、また、支柱に掛けられているという印象をぬぐえないため考察から除外する。
(注3)狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「結鞍今俗荷鞍也。凡駄物於馬縄結束、故名結鞍也。」とある。
(注4)馬具としての鞍は乗馬鞍、荷鞍、牽引鞍に分けられる。牽引鞍は主として農耕用に発展したものである。伝統的な荷鞍や牽引鞍は、乗馬用の鞍のように鞍橋くらぼねの前輪、後輪が美しくアーチ状にカーブした一枚板(時に飾縁を付けたもの)を備えているわけではない。前脚・後脚と呼ばれ、山形に屈曲した棒や二本の棒を組んで作られている。農耕鞍を含め、枠木の形状から山枠、千木枠と称されている。乗馬用の鞍では幅のある居木を使って前後を連結させているが、荷鞍や牽引鞍では棒を数段使って横桟としており、山形の頂部にわたすものは鞍棟とも呼ばれる。踏段とも呼ばれる小型の脚立のような形となっている。
 荷鞍は幅70㎝、奥行き40㎝、高さ50㎝ほどの枠木で構成されている。田鞍、小鞍とも称される農耕用の牽引鞍には、荷鞍のスタイルのまま小型化したものがある。牽引に際しては荷物を載せる時のように鉛直方向の力が働くわけではないからである。引綱渡し首木を鞍に似せて用いようとしたことから別の形のものも生まれている。「はしたての」という枕詞を用いた時、双橋鞍タイプのものを前提に歌っていると考える。荷鞍を馬から外した時、乗馬鞍のように鞍掛に掛けて仕舞うようなことはしない。そのままでも自立していて、まるで鞍掛のミニチュアのように見える。「はしたての」という言葉ならではのことである。
 なお、乗馬鞍は有職故実の、牽引鞍は河野通明氏の研究に詳しいが、荷鞍の研究はほとんど行われておらず、信州における近世運送業者の研究しか管見に入らない。
(注5)農具の牽引法については、河野2016.に、「中国でも朝鮮半島でも農具を引かせるのは牛か水牛であり、馬は農耕には使わなかった。ところが日本では大型家畜は馬しかいなかったので、馬に水田用の耙を引かせることになり、その耙はウマグワ(馬鍬・マグワ・マンガ)と呼ばれるようになった……。……背中の鞍に引綱を付けて胴体で引くので「胴引き法」と呼ばれる。これが日本初の牽引法で、馬の胴引き法は東アジア初の特異な牽引法であった。」(183頁)とあるように、古代の馬鍬牽引は鞍に負っていた。和名抄に、「馬杷 唐韻に云はく、杷〈白賀反、一音に琶、弁色立成に云はく、馬杷は宇麻久波うまぐは、一に馬歯と云ふ〉は田を作る具なりといふ。𨫒楱〈漏奏の二音、漢語抄に和名は上に同じと云ふ〉は鉄歯の杷の名なりといふ。」とある。
(注6)河野2000.は、津守国基(1023‐1102)と源俊頼(1055~1129)による連歌、「田笠きて はたけ(畠)に通ふ 翁かな」、「牛にむまくは(馬鍬) 掛けたるもあやし」から、平安時代に馬の代わりに牛を使い出していたと考えている。
(注7)乗馬用の場合、人の尻を保護するために敷物を敷く。和名抄に「鞍褥 楊氏漢語抄に鞍褥〈久良之岐くらじき、俗に宇波之岐うはじきと云ふ〉と云ふ。」とあるのがそれで、虎や豹の毛皮も用いられた。一方、木の鞍と馬の背との間に入れるのは、和名抄に「韉〈䪌附〉 唐韻に云はく、韉〈則前反、之太久良したぐら〉は鞍韉なり、䪌〈仕陥反、今案ふるに俗に駒韉と云ふか〉は韉の短きものなりといふ。」とあるものである。人は荷物に比べてはるかに軽い。
(注8)新編全集本日本書紀に、「梯子はしごを立てたような、の意で、嶮さがシキ(険しい)山の修飾語。本文の文脈からすると、この山は素珥山である。記には「梯立の倉椅山は嶮しけど妹と登れば嶮しくもあらず」。この場合の「梯立の」は「倉」にかかる枕詞。元来、梯立はY字形の叉木またぎで、それを立てて神の宿る神座かみくらとしたことに基づく。ここでの山は奈良県桜井市倉橋の山で、これを東へ越えると宇陀郡へ出る。」(58頁)とある。梯子は立て掛けるもので、地面を掘って一部を埋め、立てるものではない。
(注9)民俗語では地域にもよるが、熊の罠猟で餌を使う猟をオシ、使わない猟をオソと呼ぶというという。池谷1988.参照。梯子状の道具をもって暴れものの動きを封じるオシ(押機)のことをオソとも呼ぶことがある点は、記紀の女鳥王の説話を読み解くうえでも貴重なヒントを与えてくれる。拙稿「女鳥王の物語─機と機屋をめぐって─」参照。
(注10)「はしたての」という言葉は、ほかに名勝、天橋立に残る。風土記逸文に見え、上代に遡る命名と推測される。地形学的な見方からすれば、砂嘴が両岸から延びていってつながったのを、二本の梯子の組み合わせとして見て取った言い方なのではないか。すなわち、脚立が立って天まで届くかと思われたら、頂点を保たずにへたり延びて平板な砂州を形成するに至ったとする逸話なのではないか。股覗きという風習も、あるいは股を脚立と思って始まった仕儀なのかもしれない。

 丹後国たにはのみちのしりのくにの風土記に曰はく、さのこほり郡家こほりのみやけ東北うしとら隅方すみのかた速石里はやしのさと有り。此の里の海に長大とほしろさき有り。〈長さは一千二百廿九丈、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。〉先をあまの椅立はしたてと名づけ、しり志浜しのはまと名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈いざなぎのみことあめ通行かよひまさむとして、はしを作り立てたまひき。かれ、天椅立と云ふ。神の御寝みねませる間にたふれ伏しき。仍ちくしびますことあやしびたまふ。故、久志くし備浜びのはまと云ふ。此より中間なかつよ久志くしと云ひ、此よりひむかしの海を謝海さのうみと云ひ、西の海を蘇海そのうみと云ふ。是のふたおもての海に、くさぐさ魚貝うをかひども住めり。但、うむぎ乏少すくなし。(丹後風土記逸文)

(引用・参考文献)
池谷1988. 池谷和信「朝日連峰の山村・三面におけるクマの罠猟の変遷」『東北地理』第40巻第1号、1988年1月。みんぱくリポジトリ http://hdl.handle.net/10502/00005923
井手2004. 井手至「垂仁紀「はしたて」の諺と石上神庫説話─枕詞「はしたての」と「はしたて」の習俗をめぐって─」『遊文録 説話民俗篇』和泉書院、2004年。
河野1994. 河野通明『日本農耕具史の基礎的研究』和泉書院、1994年。
河野2000. 河野通明「農具から聞いた古代の人たちの話」宮田登編『ものがたり日本列島に生きた人たち8 民具と民俗 上』岩波書店、2000年。
河野2014. 河野通明「農耕・畜産・山樵用具─民具から歴史を探る─」『国際常民文化研究叢書 第6巻─民具の名称に関する基礎的研究─[民具名一覧編]』神奈川大学国際常民文化研究機構、2014年。神奈川大学学術機関リポジトリ http://hdl.handle.net/10487/12817
河野2016. 河野通明「在来犂と牽引法から見た古代瀬戸内海地域の政治・社会動向」『論集「瀬戸内海の歴史民俗」』神奈川大学日本常民文化研究所、2016年11月。神奈川大学学術情報リポジトリ http://hdl.handle.net/10487/15207
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
野地2023. 野地優太「信州中馬の荷鞍」『民具マンスリー』第56巻第1号、2023年4月。
文化庁1977. 文化庁文化財保護部編『中馬の習俗』財団法人国土地理協会、昭和52年。

加藤良平 2023.3.31加筆初出

大伴旅人の讃酒歌について

 大伴旅人の「讃酒歌」は、契沖・万葉集代匠記(注1)に考察されて以来、研究が積み重ねられ、中国の古典を典故として歌われた歌であると捉えられるに至っている。本稿では、その考え方が悉く誤っていることを明らかにし、正しい解釈を示す。
 まず、題詞に次のようにある。

 大宰帥だざいのそち大伴おほともきやうの、さけむる歌十三首」〔大宰帥大伴卿讃酒歌十三首〕

 酒を褒めているのだからそのままだろうと思われているが、「讃」字はホムだけでなくタタフとも訓まれる。タタフとは「湛」字で表すことがあるように、たくさんの水で満たされることを指す言葉である。この十三首も、酒のことをたくさんの言葉で満たして讃嘆しているのだから、タタフと訓まれなければならない。
 誰が酒を讃えているかといえば、作者の大伴旅人である。歌の言葉はヤマトコトバで、それを集めてきたのは旅人である。仮にゴーストライターがいたとしても漢籍に従うものではない。なぜなら、ヤマトコトバで歌のダムを満タンにしているからである。漢詩文典故説は歌それ自体を理解していない研究者による作り話である(注2)

 大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみの、さけたたふる歌十三首」〔大宰帥大伴卿讃酒歌十三首〕

 中国の古典を典故としているとする考え方を示して批判しながら解釈を述べるために、新大系文庫本の訓み、訳、注釈を掲示してから逐次私見を述べることにする(注3)

 しるしなき ものをおもはずは 一坏ひとつきの にごれる酒を 飲むべくあるらし〔驗無物乎不念者一坏乃濁酒乎可飲有良師〕(万338)

何のかいもない物思いをするくらいなら、一杯の濁り酒を飲むべきであるらしい。
▷大宰府の長官大伴旅人が酒を讃えた歌十三首。
酒を讃美することは中国の詩文に例が多い。なかでも、竹林の七賢の一人、晋の劉伶の「酒徳頌」(文選四十七)は、紳士君子が目を怒らして飲酒の悪を攻撃し、礼法を説くことを冷笑する。そのような超俗の姿勢としての飲酒の意味づけは、「酒を讃めし歌十三首」における「賢しら」批判にも一貫している。この歌は、十三首の総論にあたる。「濁れる酒」は隠者の飲む、白濁した下等の酒。「濁酒一盃、弾琴一曲、志願畢(をは)れり」(晋・嵆康「与山巨源絶交書」・文選四十三)。

 ズハの用法についていろいろと議論されている(注4)。現代語にどう反映させるか訳出の問題として捉えられ、無用の混乱を来しているように見受けられる。~ズハ~という形は、~ハ~という形の一類型であることに違いあるまい。ハは係助詞である(注5)。助詞ハの作用にはおもしろいところがあり、「長男はジョンです。」とも「ジョンは長男です。」とも言える。使われている実態に対して、そのハの用法は何か、と文法学では後付けの解説をする。そんなことはお構いなしに、実社会では「ジョンはジョンです。」とも使っている。
 主語、述語が異なるセンテンスどうしをハでつなぐときもある。ハの前に打消のズがあるときにも上代人は使った。今ではそうは使わないからわからなくなっている。どういう意味を表しているか、どのように訳したらいいか、へ関心が向く。三十一文字で何ごとかを言いたくて歌を歌っているのだから、ズハの前と後とが絡んでいるはずで、その関係を条件や因果ではないかと勘ぐってしまうのである。意味内容の吟味、訳出上の問題からいったん離れれば、構造上は助詞のハによって前と後とが結ばれたものであることが確認される。
 P:験なき ものを思はず
 Q:一坏の 濁れる酒を 飲むべくある
 PはQ:「験なきものを思はず」ハ「一坏の濁れる酒を飲むべくある」ラシ
 考えるといいことがある見込みなどないことを考えずにいること ≒ カップのどぶろくを買って飲むのがよいだろうということ
 「≒」記号に、ハとラシを含めて表している。
 現代語でも似たようなハの使い方は行われている。「クリープを入れないコーヒーは、日焼けした写真プリントのようだ。」を上代流に直すなら、「コーヒーにクリープを入れずは、写真プリントの日焼けするらし。」ということになるだろう(注6)
 いま構造しか見ていないが、万338番歌の前半部の否定に否定を重ねた表現を噛みくだいていけばさほど難しいものではない。考えても仕方がないことを考えずにいることとは、カップのどぶろくを飲むことを推奨するということらしい。甲斐のないことを考えないためには、濁り酒を一杯飲むべきであるようだ。下手の考え休むに似たりだ、安酒飲んでくよくよするな。
 これらの訳はみな当たらずといえども遠からずで、おおむねそれで妥当な訳である(注7)。安酒であっても飲めば自ずと酔っぱらって考えごとができなくなる。頭が回らないという点でハの前と後とが絡んでいる。そのことを完全に見失い、~よりは~すべきであるらしい、~しないで~すべきであるらしい、とパターン化してしまうのはいただけない。なぜなら、ズハと言っているからである。~よりは、の意味を表したいなら上代から常用されているヨリハという。~しないで、の意味を表したいならセズテという。何のためにその言葉が存在し、使われているのか忘れてはならない。
 俗っぽい内容であった。文選を理解している必要などまったくない。酒を讃える詞章は酒を知っている民族ならおそらくどこにでもあり、この歌と似た考えも必ずと言っていいほどあるに違いない。大伴旅人は大宰帥の地位にあり、漢詩文に見られるような隠者ではない。酒造りは濁り酒を作ることから始まり、今でも市販されていて、隠者のための限定商品でもない。

 酒の名を ひじりおほほせし いにしへの おほき聖の ことよろしさ〔酒名乎聖跡負師古昔大聖之言乃宜左〕(万339)

酒の名を聖人と名付けた、古の大聖人というその言葉の適切さよ。
▷禁酒令の行われた魏の時代、酔客たちが秘かに濁酒を賢人、清酒を聖人とよんだという説話(「魏略」・芸文類聚・酒)によって、その命名の絶妙を賛嘆する。第二句の「聖」を、第三・四句で「古の大き聖」と繰り返す。結句の「言」は言葉。

 漢土でさえ「魏略」にあるような考え方が普及していたのかよくわからない(注8)。不確かなことを大伴旅人が公言していたとはなかなかに想定しにくい。百歩譲って旅人が勉強して知っていたとしても、地方行政機関で働く役人たちが周りにいて旅人が歌うのを聞いたとき、誰も理解できないであろう。
 ヤマトにおいて酒の銘柄として「ひじり」という名で呼んでいたことは知られていない。銘柄として呼ばれたかもしれない例としては「吉備の酒」(注9)というのがあるが、こことは無関係である。銘柄名ではなく、酒のこと自体をヒジリという言葉と関係することとして呼んだとしか考えられない。酒のことはミワ(ミは甲類)と呼んだことがある。神に供える酒のことという。ミワはまた、三輪山のミワ(ミは甲類)である。酒の神として通っている。古事記の三輪山伝説では、赤土を撒いておいてうみを裾につけておいたところ、鍵穴から抜き出ていって三勾みわ残っていた。辿っていくと三輪山に着いたというのである。

 哭沢なきさはの 神社もり神酒みわゑ 祷祈いのれども わご大君は 高日知らしぬ〔哭澤之神社尓三輪須恵雖祷祈我王者高日所知奴〕(万202)
 神酒 日本紀私記に神酒〈美和みわ〉と云ふ。(和名抄)
 かれ、其の三勾みわのこりしに因りて其地そこを名づけて美和みわと謂ふ。(崇神記)

 ミワは御輪のこと、御所車などに使う牛車の車輪のことをも指していたと考えられる。輻で構造体を支える巧妙な仕組みでできており、車の直径を2mほどにまで大型化でき、軽量化に伴い動かしやすく壊れにくい。和名抄に、「輪〈輞附〉 野王案に云はく、輪〈音は倫、〉は車脚の転進する所以なりといふ。四声字苑に云はく、輞〈文両反、楊氏漢語抄に於保和おほわと云ふ。一に輪牙と云ふ〉は車輪の郭曲木なりといふ。」、「輻 老子経に云はく、古車に三十輻〈音は福、〉有り、月に象るを以ての数なりといふ。」とある。車輪(輞)を輻が支える構造で、ひとつの車にスポークが30本あるのはひと月が30日であるからとしている。周礼・冬官・輈人に、「軫之方也、以象地也。蓋之圜也、以象天也。輪輻三十、以象日月也。蓋弓二十有八、以象星也。」とあるのがもともとの拠りどころとされる(注10)
 つまり、酒のことをいうミワという言葉は、古く、ひと月が30日であると知っていたから成り立っているといえる。日のことをよく知っていてできているのがミワであり、ミワという言葉は酒の別名でもある。ゆえに、大伴旅人は酒のことをヒ(日)+シリ(知)=ヒジリ(聖)であると歌っている。太古の昔、三輪山伝説のことを考えた人は、酒や車のこともよくよく弁えていた人で、日月のことを心得た「大き聖」であったと想定されることを歌っている。昔の人はうまいこと言ったねえ、というのが歌意である。
 歌はヤマトコトバで歌われ、ヤマトコトバで聞かれ、ヤマトコトバで理解され、ヤマトコトバで伝えられている。裏を返せば、ヤマトコトバでしか理解されず、それ以外のことは理解されておらず、行われていなかった。

 いにしへの ななさかしき 人たちも りせしものは 酒にしあるらし〔古之七賢人等毛欲為物者酒西有良師〕(万340)

古の七賢人もまた、欲しがったのはもっぱら酒だったらしい。
▷「古の七の賢しき人たち」は、俗世を避け、飲酒、清談、弾琴に遊んだ魏晋の「竹林の七賢人」。

 この歌は、中国の魏晋南北朝時代の竹林の七賢人のことを歌っているとされている。そのとおりであろう。海を隔てたヤマトにおいて、田舎の役人たちが聞いてわかるかと言えば、なんとなく聞いたようなことだからわかると言えよう。この歌では、「古の」で始まり「らし」で終っている。例えば、万13番歌では、「神代」「古」「うつせみ」の3つの時制が詠まれて「らし」で結んでいる。そうらしいと歌うことは、聞き手も、へえ、そうなんだってさ、と軽い気持ちで受けとることができる。聞き手にとって、それまでぼんやりとしか知らなかったことであっても差し支えがない。もちろん、誰一人として知らないというのでは過去のことを勝手に創作していることになり、出鱈目や嘘の作り話に当たるから歌にされることはない。

 …… かみより かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき(万13)

 注意しておきたいのは、話としてそれらしいと知っているということと、中国の詩文を典故としているということは別物であるという点である。前者はあくまで話の世界、後者は文字を介して勉強した結果である。後者は万葉集の歌にほとんど登場しないと筆者は考える。歌が歌われて周りで聞いている人がその時にわからなければ、歌として成立していないからである。万葉の宴は教室の講義でもなければ、研究者たちが集まる学会後の打ち上げでもない。
 この歌も、酒を讃える歌であって一般論を歌にしており、七賢人はその目的のために引っ張り出されている。「七の賢しき人たちも」の「も」は、自分を含めた「さかし」くはない有象無象だけでなく「七の賢しき人たち」でも、の意である。どうして「七の賢しき人たち」が酒を欲したのかについては、詠まれていないからわからないし、わかる必要もない。そういう話として聞いていて、そうであるらしいと言っているからそのままに受けとるのが解し方として正しい。

 さかしみと 物言ふよりは 酒飲みて ひ泣きするし まさりたるらし〔賢跡物言従者酒飲而酔哭為師益有良之〕(万341)

賢いからと偉そうにものを言うより、酒を飲んで酔い泣きする方がまさっているらしい。
▷「賢しみと」は、理由を表すミ語法に、引用のトの接した形。「酔ひ泣き」→三四七・三五〇。

 この歌には漢詩文との関係は指摘されていない(注11)。逆に、「賢しみと物言ふ」ことを否定していて、これまで歌ってきたことの教養語りを否定することにもなるとする指摘もある(注12)。筆者はすでに、それらが教養語りではないことを示している。また、泣き上戸のことをいう「酔ひ泣き」について、好まれないことと考えられていたとする説もある(注13)
 この歌では、~ヨリハ~と比較していて、どちらが優っているかといえば後者であるとしている。この表現の巧みなところは、マサル(優・勝)という語を使うところにある。マサルはマス(益・増)という語から派生した語と考えられているが、音としては、マサ(正)とつながりが認められる。マサシ(正)、マサニ(正・将・当)といった語の語幹であり、形状言である。正しいさま、条理にかなったさま、確かなさまをいう。木材を切って材として扱うとき、その切り方で年輪の筋が直線的に平行に入っているのがまさである。マサニという副詞は、二つの事柄や物が合致していることを意味している。
 つまり、ここでマサルという語を使っているのは、「賢しみと物言ふ」ことと、「酒飲みて酔ひ泣きする」こととでは、明らかに「酒飲みて酔ひ泣きする」ことのほうがマサなる点においてマサっていると自己言及的に語ろうとしているためである(注14)
 「賢しみと物言ふ」とき、格好をつけて喋るから、尾鰭をつけて話そうとすることになる。一方、「酒飲みて酔ひ泣きする」とき、思考は停滞して外面をよく見せようとする意識も薄らぎ、憚ることなく本音を吐露している。心と言葉がマサ(正)なる関係、揃っている状態にあるのは、泣き上戸になっている時であると言っている。頓智の利いた名歌である。

 言はむすべ せむすべ知らず きはまりて たふときものは 酒にしあるらし〔将言為便将為便不知極貴物者酒西有良之〕(万342)

言いようもなく、どうしようもないほど、最高に貴重なものは、酒であるらしい。
▷「極まりて」は漢語「極」の訓読語。「極貴」の文字は、巻五、山上憶良の「沈痾自哀文」にも見える。

 評価しづらい注が付いている。ヤマトコトバに、キハム、キハマルという動詞があり、助詞のテを付けてキハメテ、キハマリテの形をとっている。この例では副詞的に使われているものの、自然な語展開、語構成であり、「極」字を学ぶことから得られた言葉とは定められそうにない。平安時代以降、漢文訓読に用いられたともされている(注15)
 「極貴」の字面は、山上憶良・沈痾自哀文に載ってはいる。「かれ、知る、生の極めて貴く、命の至りて重きを。〔故知生之極貴命之至重〕」。そこではキハメテと訓んでいて、キハマリテではない。
 この歌では酒のことを一等すばらしいと言っているだけで、特段に何かを語ろうとしているわけではなく、「無内容」(注16)であると評されることもある。
 「極貴」なる筆記について、それが仏書によるものであるかどうかはあまり問題ではないが、キハマリテタフトキモノなる言い方は、信仰心と関わりがありそうな言い回しである。信仰心があれば、ましてそれが最高潮に達するときには、人は言葉を発したり、特定の所作をもって奉仕するようなことにならない。祝詞をあげたり二礼二拍手一礼したりと儀式ばることはない。ただぬかづいて祈るばかりである。古語では動詞でノム、連用形名詞でノミ(ノ・ミは甲類)といい、「叩頭、此には廼務のむと云ふ。」(崇神紀十年九月)と見える。このノム・ノミ(叩頭)は、ノム・ノミ(飲、ノ・ミは甲類)」と同音である。言うことでもすることでも方法を知らずに感極まっている様子は、ノム・ノミ(叩頭)ことであるから、ノム・ノミする対象である酒こそが最高に貴重なものなのだと洒落を飛ばしている。頓智の利いた名歌で、漢詩文とは一切かかわりなく、歌詞の言葉は肥沃なヤマトコトバのなかにある。

 なかなかに 人とあらずは 酒壺さかつほに なりにてしかも 酒にみなむ〔中々尓人跡不有者酒壺二成而師鴨酒二染甞〕(万343)

なまなかに人間であるよりは、酒壺になってしまいたい。酒気が染みこんでくるだろうから。
▷三国時代の呉の大夫鄭泉が、酒を好むあまりに、死なばわが屍を窯場の側に埋めよ、やがて陶土となって「酒瓶」に作られたいと遺言した故事(琱玉(ちょうぎょく)集・嗜酒篇)による歌。「染む」は「紅に深く染みにし心かも」(一〇四四)、「香にぞ染みぬる」(古今集・春上)の例のように、色や香りや液体などが物に浸透すること。酒が、酒壺となったわが身に染みこむことを願う。壺は清音のツホ。第四句のニは助動詞ヌの連用形。テシカは願望の助詞。

 この歌でも、中国詩文に典故があるとされている。聞いた人が誰一人わからないような難しいことを言っているとは思われない。
 「なかなかに 人とあらず」とは、中途半端な暮らしぶりしかできていないことを指している。リッチではない、富んでいない、上層階級ではない、ということである。リッチな家は律令制で「上戸じゃうこ」という。貧しい家は「下戸げこ」である。体質的に酒の飲めない人のことを「下戸」というのは、酒を買うお金がないから酒が飲めないことを指したのに由来するとする説がある(注17)。つまり、「なかなかに人とあらず」とは、貧乏で酒が買えないのだけれど、だからといって酒を飲まずにいるなんてとてもじゃないが我慢できるものではない、そんな境遇に置かれるのはまっぴらご免で、せめて酒壺にでもなってしまいたいものだ、じわじわっと酒が体にしみ込んでくる。「下戸」の二つの意味をうまくとり入れている。
 その証拠に、サカツボは、傾斜地の一区画の土地、「坂坪」のことにも当たる。平らなところではあるが貧乏暮らしを強いられるぐらいなら、人間が住むにはふさわしくないかもしれない山奥にポツンと一軒家を構え、酒を密造して楽しみたいではないか(注18)。頓智の効いた名歌である。

 あなみにく さかしらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば さるにかも似る〔痛醜賢良乎為跡酒不飲人乎𤎼見者猿二鴨似〕(万344)

ああ見苦しい。賢明ぶって酒を飲まない人をよく見たら、猿にでも似ているかな。
▷初句切れ。浅智恵の人を猴(猿)のようだと貶めることが中国の詩文には多く見られる。「志性軽躁にして猶ほ獼猴(びこう)の如し」(仏蔵経・中)とも。

 浅知恵の人のことを猿知恵とも言う。その呼び方は漢籍に依らなければ起こらなかったものなのだろうか。
 「みにく」という言葉は、ミ(見)+ニク(憎)の意、見るのが難しい、見たくない、というのが本義である。なのに歌の後半では、「人をよく見ば」と一生懸命に見ることをしている。周到に仕組まれた修辞表現であると考えるべきである。
 「よく見ば」は、よくよく見れば、の意である。古語に「つらつら見れば」のことである。つらつら見て猿にも似ているということは、猿の横顔、ツラ(面)の特徴を見たということである。ツラは左右にあるからつらつらに見ている。人にはなくて猿にあるツラの特徴と言えば、猿頬である。頬袋があって食べ物を貯えておくことができる。食べ物を見つけたら一気に口に入れて頬張り、安全なところへ移動してから噛み直しては飲み込んでお腹に入れている。大伴旅人が酒を讃える歌で歌おうとしているのは酒を飲むことである。
 これまでの解釈では、「賢しらをすと酒飲まぬ人」というのは、賢ぶって酒を飲まない人、賢しらである状態を保とうとして酒を飲まない人という意味に捉えられている。「賢しらをす」の意味が、酔わないでおいて後で賢しらごとをすること、酒を飲まずにしらふでいて賢明さを発揮しようとすることと思われていた。そうではあるまい。
 「「賢しらをす」と」は後続の「酒飲まぬ」に直接かかる。「と」は指示、資格を表す。つまり、「賢しらをす」ることとは「酒飲まぬ」ことそのものである。酒を飲んでいるかと聞かれれば、ああ、飲んでいると言いながら実際には酒を飲んでいないというのが、酒の席でもっとも「賢しら」なことであろう。どういうことか。
 せっかくの宴の席で酒を飲まない人は何をしているか。ご飯を食べている。昔、醸造技術の初期段階では、酒を造るために、蒸し米を口に含んで噛んでから甕などに戻し入れて貯蔵し、醗酵するのを待った。口噛み酒である。酒をむというのはその名残りである。酒を飲んでいると言いながら飲んでいない輩は、蒸し米を噛んで貯えているから酒を飲んでいるのと同じことだと醜い言い訳をしている。賢しらな理屈である。蒸し米はどこへ行ったのか。食べてはいないと言っている。ということは、さては猿にある頬袋でも持っているということだな。発想自体が猿知恵で、やってることも猿にそっくりだ、と言っている。頓智の利いた名歌である(注19)

 あたひなき たからといふとも 一坏ひとつきの にごれる酒に あにまさめやも〔價無寳跡言十方一坏乃濁酒尓豈益目八方〕(万345)

価の知れない珍宝といっても、一杯の濁酒にどうしてまさろうか。
▷「価なき宝」は、仏典語「無価宝」「無価珍」などの翻訳語。結句は反語。漢文訓読の語法か。

 「価なき宝」という言葉は漢訳仏典(法華経)からとられた語であるとされている。しかし、その言葉が背景とする思想までそのまま享受して歌で表しているとは言えない。例えば次のような歌がある。

 しろがねも くがねも玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも〔銀母金母玉母奈尓世武尓麻佐礼留多可良古尓斯迦米夜母〕(万803)

 この歌は、山上憶良の「子等を思ふ歌一首〈并せて序〉/釈迦如来の、こんに正に説きたまはく、「等しく衆生を思ふこと、羅睺羅らごらの如し」と。又説きたまはく、「うつくしびは子に過ぎたるは無し」と。至極のたいしやうすら、尚ほ子をうつくしぶる心す。況むや世間よのなか蒼生あをひとくさの、たれか子をうつくしびざらめや。〔思子等歌一首〈并序〉/釋迦如来金口正説等思衆生如羅睺羅又説愛無過子至極大聖尚有愛子之心況乎世間蒼生誰不愛子乎〕」の反歌である。「価なき宝」という言い方は比喩に使われ、「子」のことを指している。今日でも常識的にそう思われいる(注20)
 そんな子どもよりも一杯の濁り酒のほうがまさっていると歌っている。どういうことか。
 子(コは甲類)と濃(コは甲類)は同音である。つまり、さけ(醴)よりも濁り酒のほうがいいと言っている。「醴 四声字苑に云はく、醴〈音は礼、古佐計こさけ〉は一日一宿の酒なりといふ。」(和名抄)、「醪 力兆反、平、汁滓雑酒也。古云、一夜酒、謂有滓酒也。古佐介こさけ」(新撰字鏡)、「醴酒者、米四升、よねのもやし二升、酒三升、和合醸造、得醴九升。」(延喜式・造酒司)、「醴 音礼、コザケ」(名義抄)、「醅 音盃、カスゴメ、俗用糟交二字、コサケ、アマサケ、サケ」(名義抄)とある。日本書紀には、「因りてざけを以て天皇に献りてうたよみしてまをさく、」(応神紀十九年十月)と見え、嵩増しした甘酒のようなものかとされている。と濁り酒は見た目はあまり変わらないが、吞兵衛としては濁り酒のほうがいいに決まっている。酔いたくて飲むのであって、欲しいのはアルコールである。吞兵衛が飽きずに洒落を言っているよと、内容ともどもおもしろがられたことであろう。

 夜光よるひかる たまといふとも 酒飲みて 心をるに あにしかめやも〔夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣尓豈若目八方〕(万346)

たとえ夜光る珠玉であっても、酒を飲んで思いを晴らすことにどうして及ぼうか。
▷隋侯が得た「夜光珠」は、天下の至宝として有名であった。「珠は夜光と称す」(千字文……)。結句の動詞「しく」は、追いつくこと。

 「夜光珠」なるものが記された漢籍を典故としているという主張らしい。千字文が当時の地方自治体の役人の間でどれほど勉強されていたのかわからない。千字文というものがあって、ワニという人が我が国にもたらした、という大枠の知識としてなら通っていただろうが、そのなかの一節、「剣号巨闕、珠称夜光」について、あるいは他の関連記事、史記・鄒陽列伝や捜神記に所載の知識が常識化していたとは考えられない。もし仮に常識化していたのなら、同時代の上代の文献のなかで、酒を讃える歌一か所にしか見られないという状況は起らないだろう(注21)

左:ヒオウギの実、右:檜扇(平城宮内膳司推定地東隣接地区SK820出土、奈良文化財研究所蔵、平城宮いざない館「のこった奇跡 のこした軌跡─未来につなぐ平城宮跡─」展展示品)

 夜光る玉として万葉人に知られていたものと言えば、「ぬばたま」「うばたま」の類である。枕詞になっている。「ぬばたま」はヒオウギの実のことかともされている。古語にヒアフギ、同音の言葉に「檜扇ひあふぎ」がある。「檜扇ひあふぎ」は恋の相手と交換することが行われた。自分の恋心を示すために贈るもの、遣るものである。恋の駆け引きに使われるプレゼントと、飲んでしまって開放的な気分になる飲み物とで、どちらが「心を遣る」点ですぐれているかといえば、絶対に酔いが回る酒の方である。「檜扇ひあふぎ」を渡したからといって、その効果のほどは定かではない。恋の相手の心変わりもあるし、最初から素振りだけの場合もある。恋の証として相手に求めるものは、檜扇やダイヤモンドやブランド品やお金でもなくて、肉体関係であることもある。「心を遣る」(注22)という意味においては、心がとろけるほうがふさわしいということである。人間の性をよく心得ながら、頓智的に巧みな比喩を凝らした酒讃歌である。

 世の中の 遊びの道に たのしきは きするに あるべかるらし〔世間之遊道尓冷者酔泣為尓可有良師〕(万347)

人の世の遊びの道において最も楽しいことは、酔い泣きをすることであるらしい。
▷第三句の原文は諸本「冷者」。「冷」を「怜」の誤りと見てタノシキハと訓んだ本居宣長説(玉の小琴)により改める。飲酒の歌には「楽し」という語がふさわしい。→二六二。ただし、「怡」字であった可能性もある。「怡 タノシフ」(名義抄)。

 三句目の「冷」字を「怜」の誤写ととる解釈が行われている。しかし、諸本とも「冷」字に揺るがない(注23)
 考えるべきは、「遊びの道」とは何かである。上代において「道」は、往来するところのほか、仏道・学問・芸術などの正しい修行の過程のことを表したり、世間のならい、慣習のことを表したりする。また、「遊び」(名詞)は、神前での舞や音楽のこと、宴会のこと、狩猟のこと、ほかに、「遊行女婦うかれめ」のように集団で遊芸を行う女性のことも指した。この「遊び」と「道」の組み合わせとして考えられるのは、後の時代に考えられたような伝統芸能を継承するための修行の類ではなく、道路上で行われる音楽のことを言っていると推測される。そのような「遊び」の例は天若あめわか日子ひこもがりの様子に描かれている。

 かれ天若あめわか日子ひこ下照したでる比売ひめく声、風と響きてあめに到りき。是に、天に在る天若日子が父、天津国玉神あまつくにたまのかみと其の妻子めこと、聞きてくだり来て哭き悲しび、すなは其処そこ喪屋もやを作りて、河鴈かはかりをきさりもちさぎははきもちと為、翠鳥そにどり御食みけびとと為、すずめうすと為、きぎしなきと為、 如此かく行ひさだめて、八日やか八夜やよ以て遊びき。(記上)

 もがりの際に専門業者を雇っている。それぞれ決められた所作が行われ、それを「遊ぶ」と言っている。「なき」がいて、声をあげて泣いている。儀礼上の舞や音楽のことだから、これは「遊び」に違いない。どこでするかというと往来であるし、所作は一途に決まっている。つまり、「世の中の遊びの道」というのは、殯のときに専門業者が哭き声をあげることが世の中では一般に執り行われていることを言っている(注24)。歌の後半の「酔ひ泣きする」ことと関わりが出てきて正しい解釈であると確かめられる。
 そして、「冷」字はサム(寤、醒、覚、冷)と訓むとわかる。眠りからさめること、迷いからさめること、酔いからさめること、熱気からさめることをすべてサムといい、サムシ(寒)と同根の言葉である。名義抄では「覚」「冷」「涼」「寤」「蘇」「醒」などにサムの訓みがある。
 葬儀業者のすることはお決まりだから、葬式でどんなに大きな声で泣かれても心が籠っていない気がして興ざめする。泣き方として下手だということである。真心から泣いているように聞こえるのは「酔ひ泣き」である。万341番歌同様、「酔ひ泣き」を肯定的に捉えて歌を歌っている。酒を讃える歌なのだから、酒を飲んだ結果の「酔ひ泣き」を否定的に捉えたら讃える歌とならない。

 世の中の 遊びの道に めたれば きするに あるべくあるらし(万347)
 世の中で礼法上行われている殯のときの「遊びの道」の泣き声に皆興ざめしてしまっているので、酔っぱらって泣き上戸になって声をあげて泣くことが世の中にあってしかるべきこととなっているようだ。

 このにし 楽しくあらば む世には むしとりにも われはなりなむ〔今代尓之樂有者来生者蟲尓鳥尓毛吾羽成奈武〕(万348)

この現世に、楽しくしていられたら、来世には虫にも鳥にも私はなってしまおう。
▷「この世」「来む世」は、もと仏典の「此世」「来世」の訓読にもとづく語であったか。この歌と次歌には酒に関する語がないが、「楽し」によって飲酒の快楽が暗示される。古代語「楽し」は飲酒の場に集中して用いられる。「酒は不善諸悪の根本」(涅槃経二)などと説く仏典には、悪業によって鳥や虫に化する報を受けることを言う。「虫に鳥にも」は、七音句の制約により「虫にも」のモを略した。

 この歌には酒の文言が入っていない。酒との関連を探ると、酒を飲むことが楽しいことであろうことは確かである。そして、「酔ひ泣きする」ことを盛んに述べているので、酒を飲むと泣き上戸で酔って泣くのが常のようである。ということは、この世でそうやっているように、来るべき新たなる生においても同じようにナクことがしたいから、鳴く生き物、虫や鳥になりたいな、ととぼけたことを歌っている。きっと虫や鳥が鳴いているのも、酒を飲んで「酔ひ鳴き」しているに違いないからというのである。この洒落た表現について、因果応報の考えの表れととることは無粋であろう。

 生まるれば つひにも死ぬる ものにあれば このなるは 楽しくをあらな〔生者遂毛死物尓有者今生在間者樂乎有名〕(万349)

生まれたら、後には必ず死ぬと決まっているものだから、この世に生きている間は楽しくありたいな。
▷「生まるる者は皆死に帰し」(無常経)、「人生まるれば要(かなら)ず死す、何為(なんす)れぞ心を苦しめん」(漢・広陵王胥「歌」)。また、「酒に対して当(まさ)に歌ふべし、人生幾何(いくばく)ぞ」(魏・武帝「短歌行」・文選二十七)は、どうせ短い生なのだから、酒を飲んで楽しくすごそうと詠う。

 この歌にも酒の文言が入っていない。万348番歌同様、「楽し」いこととは酒を飲んで酔って泣くこととすれば、この世に生きているうちは酔っぱらって泣いていたいものだ、と言っていることになる。上三句で人生について大きなことを語っているように見えながら、酔っぱらって泣き上戸になっていることをお茶目に肯定するために構えている。生まれたら必ず死ぬわけであるが、だからといって、死んだら酔うことも泣くこともできないということを言うために大仰に述べているのだとは考えにくい(注25)。なぜといって、これは酒の讃歌である。前世、今生、来世を並べて、今生は「酔ひ泣き」して楽しくありたい、酒があるのは今生だけだ、来世では香を嗅ぐしかできないのだ、などと言っているとは考えられないからである。
 人は泣きながら生まれてくる。死ぬともう泣くことはないが、万347番歌で見たような雇われたなきの儀礼的仕儀であれ、周りの者は泣く。その二者の泣きに挟まれているのが「今生」なるこの世である。「今生在間者」は「この世にあるは」(注26)と訓むものと思われる。生まれる時のことと死ぬ時のことの二者をあげているから「遂に」と言っていて、「遂に」ではないのだろう。生まれた時と死ぬ時に訳もわからず泣くのと違い、その間だけは楽しく泣きたい、「酔ひ泣き」したいと言っている。その間のことを「この」と戯れに呼んでいる。人生の最初、最後と、その間とでは、泣く心が違うようにしたいと主張し、うまい具合に泣き上戸を正当化している。巧みなレトリックを漢籍由来の観念と解くことはできない。

 もだりて さかしらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なほしかずけり〔黙然居而賢良為者飲酒而酔泣為尓尚不如来〕(万350)

むっつりと賢そうにしているのは、酒を飲んで酔い泣きをすることにやはり及ばない。
▷「もだ」の原文は「黙然」。黙っていること。上二句は、仏典語の「賢聖黙然」に通ずる。

 これまでも出てきた「賢しら」と「酔ひ泣き」にまつわる歌である。「賢しらす」とは黙っていて賢明なふりをすること、おしゃべりは銀、沈黙は金、のようなことと思われている。しかし、「賢しらに」と副詞に使う場合、自分の判断で積極的に、の意に用いられる。「賢しら」は、自分の判断は何にもまして正しいのだと我勝ちに自信を持った言動のことを指している。万344番歌において「賢しらをすと酒飲まぬ」こととは、「賢しらをす」ることがすなわち「酒飲まぬ」ことであった。この歌でも、同様に考えればよいのであろう。
 「賢しらす」には何か言動が伴っている。「黙然居りて」とは、黙っていること、また、何もしないでいることを表す。両者の結びつきは一見矛盾するトリッキーなものである。「黙然居りて賢しらする」とは、「賢しらする」ことが「黙然居りて」いることなのである。酒を飲むか飲まないかといったやりとりにさえ加わらずに黙っていて、局外中立的に何もなかったかのようにやり過ごそうとすることである。でも、そんなことは、酒を飲んで酔っぱらって泣き上戸に陥って止まらないことにはやはり及ばないものだと気がついた、と言っている。「なほ」とあるのは、万344番歌と同じように、の意と、とり上げてはみたがやはり何といっても、の意を兼ねたものと解される。酒宴において、やってますか? と聞かれて、はい頂いていますと答えながら飲んでいないのもだが、会話の輪に入らずに隅っこで飲まずに黙っていてただ時間が過ぎるのを待っている人も、酔っぱらって泣き上戸になって心が溶けているのには比較にならないものだと了解するに至ったと言っている。何を「けり」と悟ったのか。
 万349番歌では、生まれた時と死ぬ時に泣くのは気持ちが張り詰めて泣いていることと見られていた。楽しくて泣いているのではないのである。気持ちをゆるゆるにすることが楽しいことのはずだから、酔っぱらって泣き上戸に泣くことこそ楽しいことである。酒はなんてすばらしいのだろう。せっかく酒が用意された宴席で、黙ってやり過ごして酒を飲まないなんて、生れて死ぬまでの間の人生を楽しもうとさえしないこと、最初から放棄していることで、ただ命を長らえているだけの何もない人生を送っているということではないか。酒というありがたいものがあって、気持ちを弛緩させることができるのに、知らぬ存ぜぬを通すなど、話にならないことだとよくわかったと述べている。

 以上、大伴旅人の讃酒歌を検討してきた。すべては酒のすばらしさをヤマトコトバで讃える歌であった。
 歌はヤマトコトバでできている。ヤマトコトバは母語であり、ものを考えるのにヤマトコトバで考え、ヤマトコトバで言葉に表してコミュニケーションをとっている。
 至極当たり前のことである。声をあげて歌を歌ったとき、周りの人が聞いて理解できなければそれは歌として存立しない。中国ではこれこれこういうことを言っている、と言われても、そんなこと知らないよ、だってここは中国じゃなくてヤマトの国だから。誰に向かって歌っているの? そんなに中国かぶれのことを言いたいのなら、漢詩にして発表したらいいじゃないの、字もろくすっぽ読めないし書けない私たちを詩会に呼んだりしないでね、ということである。
 言葉は使われて言葉である。もともと漢語であり、翻訳語として成った言葉であれ、ヤマトコトバとして使われている。使われているということは、すでにあるということである。そのことと中国の詩文から目で見て得られる「知識」とは異なる。漢籍にある「夜光珠」という知識は、上代のヤマトにおいて言葉として使われておらず、広く知られてはいない。それが実情である。もちろん、中国から伝来して普及した技術は数知れない。「うま」、「かめ」、「はた」、「ほとけ」、「ふみ」……。これらは皆、ヤマトコトバの顔をしてヤマトコトバとして使われている(注27)。すでに自家薬籠中におさめた技術は既知のことであり、つまりはヤマトコトバに造られていて日常言語として使われている。他方、唐突に知らないことを声を張り上げて歌うことは、選挙でもないのに一人街頭に立って演説を始めるようなもの、「狂言たはこと」や「逆言およづれごと(妖言)」に受けとられかねない。そのようなことは完全になかったとは言わないが、あったとしても周りが理解できない。歌が歌われる空間において音声言語として成り立っていなければ、歌として認められることはあり得ない。万葉歌の内容を理解するには、歌われている言葉(音)のヤマトコトバとしての性格を「正しく」理解することが先決である。どんなに漢籍を繙いてみても、筆記の研究や漢文で記そうと試みられた題詞や左注、山上憶良の文などを除き、直接つながることなどない。万葉集を歌っていた上代人に近づくためには、我々現代人の感覚としてではなく当時の人々の感覚でヤマトコトバを「正しく」理解していくことが唯一の方法である。誰が聞くこともウェルカムであった万葉集の歌は、そこに現代に対する付加価値があるかどうかは別として、今日でも万人に開かれている。

(注)
(注1)巻之三中、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979062/1/351~参照。
(注2)万葉集の歌は、ヤマトコトバで考えてヤマトコトバで作ってある。片仮名外来語を挿入してあたかもすごいことを言っているように見せかける政府文書ではない。白書は国民が読んだりしないからそれでかまわないが、万葉集に載る歌は、声をあげて周りにいる人が聞いたものである。周りにいる人が聞いてわからなければ歌として安定、定着しない。ものの考え方が漢籍の外注でできているとして事足れりとする発想は、ヤマトコトバの内実、ヤマトの人のものの考え方に迫ろうとする気がないばかりか、漢籍の出典を示してどこか誇らしげな様子でさえある。曲解の挙げ句に「個人的感懐の表現」(寺川2005.5頁)、「酒という具に基づいて思いを述べる精神文化の成熟」(辰巳2020.63頁)であるなどと評されている。「讃酒歌」のなかで「賢しら」と詠まれているそのものの姿を身にまとっている。お勉強屋さんの、お勉強屋さんによる、お勉強屋さんのための万葉歌解釈は、防人歌や東歌を同列に含めて驕るところのない万葉時代の人たちの、万葉時代の人たちによる、万葉時代の人たちのための万葉集歌とは別のところにある。
(注3)新大系文庫本261~265頁。
 「讃酒歌」を歌群としてその構成を読み解こうとする研究も見られるが、これまでのような覚束ない解釈のままに歌群の構造がどうなっているのか論じても仕方がなく、当面の課題としない。
(注4)本居宣長・詞玉緒、橋本1951.、山口1980.、西宮1991.、大野1993.、佐佐木1999.、鈴木2003ab.、小柳2004.、栗田2010.、古川2018.など参照。
(注5)ハへと接続している「ず」、ラシへと接続している「ある」はそれぞれ適した活用形になっている。「ず」は連用形でいわゆる連用形中止法になっている。「ず」を未然形、ハを接続助詞とする説もみられる(小田2015.268頁)。
(注6)往年のCMの例は、「クリープを入れないコーヒーなんて、ピンボケの写真のようだ。」といった譬えを使っていたと記憶する。ここでは日焼けした写真プリントに改めた。写真プリントがコーヒー色に焼けることを含ませたかったからである。「ハ」の前と後とが絡んでいなければ歌のレトリックとしておもしろみがない。あるいはこうも言えるだろう。「ハ」の前と後とでかけ離れたことを言っていて、それをつなぐ助詞「ハ」に負荷がかかっている。どうして両者を「ハ」でつなぐことができるのかという疑問に対して、ほら、よく考えてごらん、前と後とで絡んでいるところがあるだろう、と証明してみせているのである。
(注7)井伏鱒二の名訳を引く。三・四句目のつながりが訳出に失われていない。なお、上代のズハの用法については拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」も参照されたい。

  勧酒    于武陵
 勧君金屈巵 コノサカヅキヲ受ケテクレ
 満酌不須辞 ドウゾナミナミツガシテオクレ
 花発多風雨 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
 人生足別離 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 この詩と大伴旅人の歌とでは大きな違いがある。旅人の歌は酒を讃える歌であり、自分がこれから酒を飲むとか、相手に酒を勧めるといった歌ではない。一般論を歌っている。歌の文句にあるような験なき物思いも一般論であって、具体的になにか煩わしい事態に直面していたことを反映するものではない。
(注8)大伴旅人がどの漢籍を見て学んだかを突き止めようとする努力が行われている。書名が記載された大伴旅人の日記が発見されでもしなければ特定されることはない。論拠の後ろ盾を持たない推論は空論である。
 讃酒歌について旅人の独吟、モノローグであるとする見方も行われている。上代における「歌」とは何かについて、根本的なところを理解しようとしていない。
(注9)「吉備能酒」(万554)とあるが、産地名のことではなく「きびの酒」のこととも考えられている。
(注10)絵巻物に描かれた牛車ぎっしゃでは、輻の数は21本、24本などのことが多い。外枠の板の数が奇数になっているのは技術的な問題で、板の継ぎ目が上下に揃わないようにして壊れないようにしているからという。周礼の理念には反するが、致し方ないということだろう。
(注11)漢詩文に「酔泣」という語も見られないという。このような例を認めておきながら漢籍出典説を唱えることはダブルスタンダードになるだろう。
(注12)鉄野2016.100~101頁。
(注13)「酔ひ泣き」の語は万347・350番歌にも出てくる。節操を欠いているとか、みっともないことだといったニュアンスは受け取れない。書いてないからわざわざ色眼鏡でみる必要はない。
(注14)二者を比較してどちらが良いかと尋ねるときに、言葉を自己言及的に活用している例としては、「いづれそ」(垂仁記)の例がある。拙稿「古事記のサホビメ物語について」。上代の人は、AとBとを比べるという時、何の点において比べているのかを非常に厳密に、厳格に比べており、AとBのなかにその言葉を意味するところがないか、えぐるように探っている。
(注15)岩波古語辞典379頁。
 小島1964.は、「極貴」は後漢書・梁皇后紀に見え、「極貴は訓読による漢籍語の応用と云へる。」(932頁、漢字の旧字体は改めた)としているが、「応用」などと言い出されたら証明のしようも反証のしようもない。どうやって言葉を捻り出しているかが焦点になるのではなく、どうしてそのような言葉を使っているのか、使用の問題として考えなければならない。使用されて通じているから言葉として成り立っている。
(注16)鉄野2016.101頁。
(注17)田令に、「凡課桑漆、上戸桑三百根、漆一百根以上、中戸桑二百根、漆七十根以上、下戸桑一百根、漆卌根以上、五年種畢。郷土不宜、及狭郷者、不必満__数。」、紀では、「諸国もろもろのくに貸税いらしのおほちから、今より以後のちあきらか百姓おほみたからて、先づ富貧とめりまづしきことを知りて、しなえらび定めよ。仍りて中戸なかのへより以下しもつかた貸与いらしたまふべし。」(天武紀四年四月)とある。法制度上では、三等戸と九等戸の二種類の分け方があり、三等戸制は丁数(成年男子数)による分類、九等戸制は資財量(貧富)による分類であると見られている。ここで「上戸」、「下戸」という観念は、天武紀に記されているように貧富の差を示すものである。
(注18)「なかなかに 人~」とつづく歌は、他に次の歌がある。

 なかなかに 人とあらずは くはにも ならましものを 玉のばかり(万3086)

 注17で示した田令の公課に桑のことが記されている。だから蚕のことをいう「桑子」が出てきている。中途半端な暮らしぶりしかできていない人、下戸は、短期間でも桑子にもなりたいものだなあ、と思い願うものであると言っている。下戸は暮らしに余裕がなく、税も多くは納められず、絹とは縁のない生活をしている。それでも桑を一百根課されている。蚕に桑の葉を食べさせて糸を吐かせ、絹を生産するためである。下戸はわずかにしか貢献していない。それに対応するように、「玉の緒」という言葉を使っている。「玉の緒」は短いから、「玉の緒ばかり」はちょっとでも、の意である。少しの桑拠出でできた絹の緒を使う「玉の緒」になってみたいとずるっこい考えをくり広げている。絹の緒は貴重だろうが、結ぶ玉石のほうが価値はずっと高い。つまりは玉の輿に乗りたいというのである。
(注19)このような頓智的思考と、芸文類聚から得た知識を使って歌を作ったのだという知識的思考は相容れるものではない。鉄野氏の議論では、猿に似ているのは酒を飲んで赤ら顔をしたほうであるとし、酔いが回っているから言葉が転倒しているとまで言う(105頁)。しかし、これらの歌は「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」であって、「大宰帥大伴卿酔酒歌十三首」ではない。
(注20)何度も断っているように、歌は歌われて聞かれて理解されてナンボのものである。ちまたの常識を基にしなければ通じることはない。「無価宝珠」は現世においてずっと安楽に暮らせるだけの富をもたらすものであると解されることがあるが、年金や投資のセミナーにおいて作られた歌ではあるまい。
(注21)中古では、源氏物語・松風に、「若者は、いともいともうつくしげに、よる光りけむ玉の心地して、袖よりほかには放ちきこえざりつるを、……」と見え、源順集などにも例がある。紫式部の頃には中国では最も珍重な宝物の代表と認識されるに至っている。それは容易に想像がつく。源氏物語は紫式部が文字として書いている。文字から得られた知識を文字に落としている。一方、それを遡ること270年ほど前に、大伴旅人は言葉(ヤマトコトバ)として声をあげて歌っている。知識を発表するために歌があるのではないし、三十一音で発表されても何を言っているのか理解できなくては用をなさない。歌に使われる言葉は、歌い手ばかりでなく聞き手もすでに、ともに、肌感覚で認識している言葉でなければ聞き取ることはできない。
(注22)小島1964.は、「心やる」(遣悶・遣情・消悶)、「この世」(現世)、「来む世」(来世)、「濁れる酒」(濁酒)、「いにしへの七の賢しき人等」(七賢人)、「価なき宝」(無価宝珠)、「夜光る玉」(夜光之璧)、「生ける者遂にも死ぬる」(涅槃経純陀品)を大伴旅人による翻訳語の造語であるとし、漢籍を「眼」で学んだことが明らかであるという(931頁)。どうして旅人による造語であると決めてかかれるのか、そもそもそれらは「いにしへの七の賢しき人」以外、漢籍と関わらなければ生れ出るはずのない考え方なのか、確証は得られない。古墳に埋葬して副葬品を供えたのは、「来む世」があると思っていたからのようであるし、酒には澄めるのと濁れるのとがあると戯れて言うことは至極自然な発想であろう。それらのヤマトコトバを筆記するに当たり、漢籍ではどのように書いてあるかを瞥見したところ、それらしい書き方を見つけて当て字をしたためたら、あたかも翻訳語を造語しているかに見えているだけのことではないか。このことは、それらの語が登場する歌の解釈と直結する。これまでの研究による歌の解釈は、「酒を讃ふる歌」の解釈として履き違えている。
(注23)「冷者」はスサメルハ(童蒙抄ほか)と訓む説のほか、スズシクハ、スズシキハとオーソドックスに訓む例も多い。ただし、「冷」をスズシと訓んでも、心が清く爽やかととる説ばかりでなく、心が荒涼として楽しまないととる説もある。
(注24)「世間」という漢字の字面は仏教語である。それをセケンと音でよめば仏教語由来の言葉である。ところが、万葉集ではヨノナカと訓み、ここでは一般に通行していることを表している。このヨノナカという言葉は、仏教語から派生したものなのか、あるいは仏教語が侵食してきたものなのか。
 ヨノナカという語はヨ(世・代)+ノ(助詞)+ナカ(中)という語構成によって作られている。ヨ(世・代、ヨは乙類)をイメージするうえでは、竹のふしふしの間のことをいうヨ(節間)という言葉が大いに与っている。区切られた間のところ、かぐや姫が入って光っていたところがヨである。そのヨ(節間、ヨは乙類)という言葉を説明調に表したら、ヨノナカという言葉ができあがる。
(注25)同じく大伴旅人の歌に次のようにある。

 世の中は むなしきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793)

 一般性を表現する形式をなすものとして「もの」という語が使われている。この歌は仏教語の「世間空」と関連があるとされ、万349番歌でも「仏者の生者必滅といふ常套語をとり来りて語をなしたるなり。」(山田1943.国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880320/1/254~255)と捉えられている。次の例も参照される。

 …… 生まるれば〔生者〕 死ぬといふことに まぬかれぬ ものにしあれば ……(万460、大伴坂上郎女)

 「生者」は「けるもの」、「生けるひと」といった訓もあるが、山田氏は「生まるれば」と訓むとする考えで、筆者も採る。
(注26)西宮1984.221頁に一案として示され、古典集成本や伊藤1996.178頁が採っている。
(注27)和訓と呼ばれる言葉群である。翻訳語と呼ぶべきものではない点に思いを致すことは、当時の人たちが言葉をどのように考えて使っていたのかについて深い洞察へと導いてくれる。

(引用・参考文献)
板倉1993. 板倉聖宣『日本史再発見─理系の視点から─』朝日新聞社、1993年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
大野1993. 大野晋『係り結びの研究』岩波書店、1993年。
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
栗田2010. 栗田岳「上代特殊語法攷-「ずは」について-」『萬葉』第207号、平成22年9月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2010
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 中』塙書房、昭和39年。
古典集成本萬葉集 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『萬葉集一 新装版』新潮社、平成27年。
小柳2004. 小柳智一「「ずは」の語法─仮定条件句─」『萬葉』第189号、平成16年7月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2004
櫻井2012. 櫻井芳昭『牛車』法政大学出版局、2012年。
佐佐木1999. 佐佐木隆『萬葉集と上代語』ひつじ書房、1999年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂 、1967年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
鈴木2003a. 鈴木義和「いわゆる「上代特殊語法のズハ」について─「~まし」「~てしか」型の例を中心に─」藤岡忠美先生喜寿記念論文集刊行会編『古代中世和歌文学の研究』和泉書院、2003年。
鈴木2003b. 鈴木義和「いわゆる「上代特殊語法のズハ」の解釈─推量型、勧誘・意志型の場合─」『国文論叢』第33号、2003年3月。
辰巳2020. 辰巳正明『大伴旅人─「令和」を開いた万葉集の歌人─』新典社、2020年。
鉄野2016. 鉄野昌弘「「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」試論」『萬葉集研究』第三十六集、塙書房、平成28年。
鉄野2021. 鉄野昌弘『大伴旅人 新装版』吉川弘文館、2021年。
寺川2005. 寺川眞知夫「旅人の讃酒歌─理と情─」『万葉古代学研究所年報』第三号、2005年3月。奈良県立万葉文化館ホームページ https://www.manyo.jp/ancient/report/
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻三』有斐閣、昭和59年。
西宮1991. 西宮一民『上代の和歌と言語』和泉書院、1991年。
橋本1951. 橋本進吉『上代語の研究』岩波書店、昭和26年。
古川2018. 古川大悟「上代の特殊語法ズハについて─「可能的表現」─」『萬葉』第225号、2018年2月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2018
山口1980. 山口堯ニ『古代接続法の研究』明治書院、昭和55年。
山田1943. 山田孝雄『萬葉集講義 巻第三』宝文館、昭和18年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1880320
※大伴旅人の讃酒歌の論考については近年のものに限って記載し、注釈書も特筆すべき点のない場合は割愛した。

加藤良平2023.12.1初出2024.3.31加筆

門部王の恋の歌

 万葉集巻四に、門部王が出雲守に赴任していた時の「恋歌」がある。

  門部かどへのおほきみの恋の歌一首〔門部王戀謌一首〕
 飫宇おうの海の しほかたの 片思かたもひに 思ひや行かむ 道のながを〔飫宇能海之塩干乃鹵之片念尓思哉将去道之永手呼〕(万536)
  右は、門部王の、出雲守いづものかみけらえし時に、ない娘子をとめく。未だ幾時いくだも有らずして、既に往来かよひを絶つ。月をかさねて後に、またいつくしみの心を起す。仍りて此の歌を作りて娘子に贈り致す。〔右門部王任出雲守時娶部内娘子也未有幾時既絶徃来累月之後更起愛心仍作此謌贈致娘子〕

 この歌は上のように訓まれて、歌作の事情は左注のとおりであるとされている。左注をどう捉えるかにより歌の解釈も変わってくる。門部王が出雲守として赴任して娘子と情事を持つ関係になったが、それほど時も経たないうちに通わなくなった。さらに何か月か後に再び愛情が湧いたのでこの歌を作って娘子に贈ったというのである。結句にある「道のなが」について、門部王が娘子に会うために出掛けた道とする(注1)か、出雲国を離れて上京する道とするか意見が分かれるが、昨今の注釈書では後者にとる説が有力なようである(注2)
 後者をとる評言に、「たわいもない由来のようだが、一度切れた関係が再燃したというところが話の種になったのであろう。とくに女性にとっては心のぬくもる話で、享受者に女たちを想定することができる。」(伊藤1996.446頁)、「再会を期しがたい時に当たって、せめて任期中は愛を全うしたかったとの思いにかられたのであろうか。序詞から「片思」を起こす技巧は、下三句のしんみりした気分に反して軽やかで、風流の侍従と称された門部王の作であることを思えば、……」(阿蘇2006.525頁)などと見える。
 これらの解説は歌の真意を理解していない。
 作者の門部王が帰京する時の歌であるといったことは左注に一切触れられていない。「更起愛心。仍作此歌」とばかり書いてあるのだから、「行かむ道のなが」は「娘子」のところへ「往来」する道のことであろう。
 題詞に「門部王恋歌○○一首」とある。万葉集中の題詞や左注に「恋歌」とあるのは、他に巻四の万559~562番歌の題詞「大宰大監大伴宿禰百代恋歌四首」、巻十五の万3603~3605番歌の左注「右三首恋歌」、巻十六の万3848番歌左注「忌部首黒麿夢裏作此恋歌友」である。これら「恋歌」について、伊藤1975.は、「現代にあってあまりにもポピュラーなこの語は、万葉集にはいたって少ない。……どれも物語的な歌ばかりで、実用の贈答ではない。……「恋」をテーマにする仮装の歌」(233頁)であるとしている。「実用の贈答ではない」とは実際の恋、実地の恋の贈答歌ではなく、それらしく歌に作ってみたというにすぎないということである。万559~562番歌は、宴席での戯歌として老いらくの恋を歌ったものと考えられている。万3603~3605番歌は「所に当りて誦詠する古歌〔當所誦詠古歌〕」のなかにあって、「誦詠」は宴席などの場で歌を口吟することをいい、古歌としてあるものを口ずさんでいるだけで本人に恋の気持ちがあるわけではない。万3848番歌は、夢のうちに歌を作っていたというものでやはり仮構の歌である。この万536番歌でも門部王は恋心を率直に歌っているわけではなく、「恋」をモチーフにしてでっちあげた歌を拵えているのである。
 そのことと呼応するように、左注には「起愛心、仍作此歌」と記されている。言葉遊びの戯れの結果として語られたことが示唆されている。門部王が娘子に復縁を願って送った歌ではないのである。左注の最後にも「贈娘子」とあって「贈娘子」とはない。「致」字を付けているのは、ただ歌を届けたにすぎず、答歌を求めておらず、今後も没交渉であることを表している。即興的なおもしろさのために、恋心を表しているかのように擬した歌を作ったということである(注3)
 これだけ条件が揃っていながらなにゆえ理解が進んでいないのだろうか。それは、歌の訓みが誤っているからである。
 万葉集中に「思哉」、「念哉」、「念也」などは「思へや」と訓まれることが多い(注4)。已然形+ヤの形である。「念甕屋」(万2638)、「念倍也」(万3013)、「於毛倍也」(万3604)などと仮名書きの例もあって確かである。したがって、次のように訓まれるべきである。

 飫宇おうの海の しほかたの 片思かたもひに 思や行かむ 道のながを〔飫宇能海之塩干乃鹵之片念尓思哉将去道之永手呼〕(万536)

 一・二句目の「飫宇の海の潮干のの」は「思」を導くためだけの序であると考えられてきた。しかし、それほど単純なものではなく、潮の干満と密接に絡んだ事柄を表すのではないか。
 「道のなが」という言葉づかいは万葉集に六例あり、本当にすごく長い道のりのことを表すだけでなく、夜這いに通うことのできるほどの近距離を表す例も見られる(注5)

 国遠き 道の長手を〔路乃長手遠〕 おほほしく 今日けふや過ぎなむ ことどひもなく(万884)
 ぬばたまの 昨夜きそかへしつ よひさへ われを還すな 道の長手を〔路之長手呼〕(万781)

 上の例が本来の姿であって、下の例はそれを援用した誇張表現であるとわかる。万536番歌の場合、「道の長手」を誇張表現とするには少々ネックがある。「潮干」状態で「道の長手を」娘子のもとへ通おうとすると干潟を進むということになる。干潟に長い道が現れたかもしれないが、それがいかに長かろうと、次に潮が満ちてくるまでに歩くことができる距離しか表し得ない。何を言っているのだろうか、というところにこの歌の妙味がある。
 左注の説明に、「未幾時、既絶往来。累月之後、更起愛心」とあり、「起愛心」したのは門部王のほうである。それで再び娘子のところへ通おうと思って「行かむ」と歌っている。その道は飫宇の海、今、中海と呼ばれているところが、弥生時代に潟湖ラグーンであった砂州が奈良時代当時、崩れたようになっていて、潮が引いたときにのみ現れる道のことを言っていると考えられる(注6)。そして、「飫宇の海の潮干の潟の」は「片思」を導く序でありつつ、反転して「片思」であるから「飫宇の海」は「潮干の潟」になっていると想定している。すなわち、双方向にかかると考えているのである。「片思」だから「道の長手を」「行かむ」と思っているが、娘子のほうに気がないのでは行っても仕方がない。両思いなら行きたいのだが、そうなると「片思」ではないから「潟」はなくなってしまって「道の長手」は水没して行こうにも行くことはできない。もう、どうにもならないね、と興じている。この解釈は、万葉集に特異な「恋歌」という題詞の特徴、その恋が仮装、仮想、仮構されたものであるという意味によく合致し、また、左注の説明書きの文言と齟齬を来すこともない。ゆえに、他の説は棄却され、本説においてのみこの歌は解されて正しいと言える。

 飫宇おうの海の しほの潟の 片思かたもひに 思へや行かむ 道のながを(万536)
 飫宇の海の潮干の干潟をいう片思いに思うのか、いやいやそうではなく満ち足りた両思いであるのだから長い道のりをあなたのところへ行こうと思うが、そうなるとカタではないからカタはなくなり道は水没して消えてしまい行くことができません、いやはやとんだことですね。

(注)
(注1)娘子に会うために出掛けた道とする説の比較的新しいものとして、窪田1949.の見解をあげる。

 作歌の事情は、左註で明らかである。管内の一娘子に関係し、中絶した後、再び通つて行かうとした際のもので、この歌は、今夜娘子の家へ行かうとした日、予め使をもつて贈つた歌である。歌はその事情に即したもので、一面には国守として高く地歩を占めつつ、同時に一面には、細心な注意をもつて娘子に訴へてゐ、その矛盾が技巧を生み、それがまた文芸的ともなつてゐるものである。「飫宇の海の鹽干の潟の」は、「片念かたもひ」の「片」にかかる序詞で、「片念」を強く云はうとしてのものである。今は「片念」といふべき関係ではなく、王自身その点は恃むところあつてのことと思はれるから、これは訴である。又これは、下の「道の長手」に響いてゐるもので、道の労苦を強めていふ意で、同じく訴である。更に又「鹽干」は、ここは夕暮の干潮であらうから、その意では今夜といふこと、或は時刻までも暗示してゐるものである。即ち序詞に他の意味の複雑なものも持たせたもので、これは技巧である。「思ひやかむ」の「や」の詠歎にも、訴の心があつて、「道の長手を」と響き合つてゐる。一首、心を籠めたもので、かうした実用性の歌が、既に文芸的となつてゐたことを示してゐるものである。(94~95頁、漢字の旧字体は改めた)

(注2)解釈史については澤瀉1959.158~160頁参照のこと。他に儀礼歌の形骸化したものとする曲解説が飯田2002.にある。ただし、飯田氏があげている類聚三代格・巻七、「勅、比季国司多娶所部女子妻妾。自今以後、悉皆禁断。国雖隔越輙娶。若嫁与郡司者解-却見任、百姓者准見任之。但家妻聴自将去。」(天平十六年十月十四日)の禁令については後考を俟ちたい。門部王のこの歌がその周囲に受容されているとなると、男女の関係において優越的地位の濫用に当たるような事例であり、「勅」は本歌の余波として発せられているのではないかと疑われる。
(注3)左注は、実態のない恋を詠じた歌に実態を付与するために後付けされたとする被翻弄説が新谷2005.、影山2013.にある。
(注4)「思へや」と訓む点については、拙稿「大宰府における長屋王の変関連歌(万328~335・955~956)について─「思へや(も)」の用法とともに─」も参照されたい。
(注5)ナガテは原文に「長手」、「永手」、「奈我弖」とある。他にナガチが三例あり、原文では「長道」、「奈我道」と記されており、同義とされている。地理的特性を汲み取りながらも、「道のなが」を直線的に延びる古代道路のことをいうとする牽強説が神2011.にあって興味深い。この二語は別語であろう。
(注6)「飫宇おうの海」のオウは出雲風土記に「意宇」と表記され、「入海いりうみ」と呼んでいる。現在の中海に当たる。門部王が言っている「なが」が具体的にどこのことを指すか定められないが、モンサンミッシェルや江の島に似た環境であろう。古地理学では、奈良時代には海水準が高くなり、弓ケ浜砂州が途絶えて海水が侵入し、中海中心部より東側では鹹度が上がっていたという。出雲風土記に海産物が見えているのはその影響であると説かれている。

(引用・参考文献)
伊藤1975. 伊藤博『万葉集の歌人と作品 下』塙書房、昭和50年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第2巻』笠間書院、2006年。
飯田2002. 飯田勇「「遊行女婦」をめぐって─万葉歌を読む─」『人文学報』第330号、東京都立大学人文学部、2002年3月。
澤瀉1959. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第四』中央公論社、昭和34年。
影山2013. 影山尚之「門部王の詠物二首について」『武庫川国文』第77号、2013年11月。武庫川女子大学・武庫川女子大学短期大学部リポジトリ https://doi.org/10.14993/00000574
窪田1949. 窪田空穂『萬葉集評釈 巻第四』東京堂、昭和24年。
新谷2005. 新谷秀夫「門部王の「恋の歌」をよむ」『高岡市万葉歴史館紀要』第15号、平成17年3月。
神2011. 神英雄「門部王(かどべのおおきみ)「飫宇の海」歌の景観論的考察」『人文社会科学論叢』第20号、2011年3月。宮城学院女子大学機関リポジトリ https://doi.org/10.20641/00000183
土佐2023. 土佐秀里「二人の門部王─万葉集の「出雲守」「弾正尹」の検討を中心に─」『日本文学論集』第82冊、国学院大学国文学会、令和5年3月。
「宍道湖・中海のおいたち「古地理のうつりかわり」」島根県ホームページ https://www.pref.shimane.lg.jp/infra/kankyo/kankyo/shinjiko_nakaumi/kosyou_suishitu_hozen_keikaku/03/sn_03keikaku_oitachi.html (2023年11月4日閲覧)

加藤良平 2023.11.4初出

大宰府における長屋王の変関連歌(万328~335・955~956)について─「思へや(も)」の用法とともに─

 万葉集巻六に、大宰府の帥である大伴旅人に対して、都のことを思わせるよう導く歌が二連載る。本稿では、それらの通訓の誤りを指摘し、歌の内実に迫る。

「思ふやも君」

  大宰だざいのせう石川いしかは朝臣のあそみ足人たるひとの歌一首〔大宰少貳石川朝臣足人謌一首〕
 さすだけの 大宮人おほみやびとの 家と住む 佐保さほの山をば 思ふやも君〔刺竹之大宮人乃家跡住佐保能山乎者思哉毛君〕(万955)
  そち大伴卿おほとものまへつきみこたふる歌一首〔帥大伴卿和謌一首〕
 やすみしし わご大君の す国は 大和やまともここも 同じとそ思ふ〔八隅知之吾大王乃御食國者日本毛此間毛同登曽念〕(万956)

 これら二首の歌は大宰府において歌われた歌である。歌われた状況は明らかではない。ただし、大伴旅人が大宰帥に任命されたのが神亀四年(727)冬頃、赴任したのは翌神亀五年(728)二月頃とされており、石川足人が大宰府を離れ上京したのも同じ神亀五年(728)のことなのでその年に歌われたと考えられている(注1)
 万955番歌の五句目は「思ふやも君」と訓まれている。これまで異議が唱えられたことはないようである。「や(も)」は疑問の助詞とされて、大宮人が風雅を楽しんだ高級住宅(注2)として住んでいる佐保の山すじのことを思いますか、大宰帥の大伴旅人卿様、と石川足人が聞いたのに対して、我らが天皇陛下が治めていらっしゃる国は、大和であれここ筑紫であれ同じだと思う、と答えたものと考えられている。大伴旅人の平城京での屋敷の一つも佐保の地にあったことが知られている(注3)
 「や(も)」という助詞は誤解されることがある。「や」という言葉は感動詞として掛け声に始まっている。歌のなかに投入され、間投助詞と呼ばれて詠嘆の意を表す。歌いかける相手に気合をかけ、相手にかかわっていく気持ちを表している。さらには、係助詞と呼ばれるものへと展開し、「や」が終止形の下について文末にあれば相手に問いかける疑問の用法になり、「や」が已然形の下につくと否定的な問いかけを表す反語の用法になる。こういった展開に振り回されて理解に迷うことがある。しかし、「や」はもともと掛け声で、投入されたものなのだから、「や(も)」がなくても文意は成り立つもので、基本的には動詞などの活用形そのものの意をそのまま表しているとみて差し支えない。
 具体的に万葉集で用法を見てみる。ここでは、「思ふ」ならびに「思ふ」系統の語の下に「や(も)」が下接する形(助動詞が介するものも含む)を例に見る。

 藤波ふぢなみの 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君〔藤浪之花者盛尓成来平城京乎御念八君〕(万330)

 「思ほすや君」の「や」は、問いかける側に一つの見込みないしは予断があることが多いとされている(注4)
 そして、この歌は、万955番歌を下敷きにして作られた歌であると考えられている。大伴四綱おほとものよつなが大伴旅人に対して歌いかけたもので、一首目からして石川足人と大伴旅人の歌のやりとりを踏襲している。前後にわたる一連の歌群を掲げる。

  大宰少だざいのせう弐小にを野老朝臣ののおゆのあそみの歌一首〔大宰少貳小野老朝臣歌一首〕
 あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふが如く 今盛りなり〔青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有〕(万328)
  防人さきもりの司佑つかさのすけ大伴四綱の歌二首〔防人司佑大伴四綱歌二首〕
 やすみしし わご大君の 敷きませる 国のうちには 都し思ほゆ〔安見知之吾王乃敷座在國中者京師所念〕(万329)
 藤波ふぢなみの 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君〔藤浪之花者盛尓成来平城京乎御念八君〕(万330)
  帥大伴卿の歌五首〔帥大伴卿歌五首〕
 が盛り また変若をちめやも ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ〔吾盛復将變八方殆寧樂京乎不見歟将成〕(万331)
 が命も 常にあらぬか 昔見し きさがはを きて見むため〔吾命毛常有奴可昔見之象小河乎行見為〕(万332)
 あさはら つばらつばらに ものへば りにし里し 思ほゆるかも〔淺茅原曲曲二物念者故郷之所念可聞〕(万333)
 忘れくさ 吾が紐に付く 香具かぐやまの りにし里を 忘れむがため〔萱草吾紐二付香具山乃故去之里乎忘之為〕(万334)
 吾がきは ひさにはあらじ いめのわだ 瀬にはならずて ふちにあらむかも〔吾行者久者不有夢乃和太湍者不成而淵有毛〕(万335)

 何か曰くありげな歌群であるが、その点については後に見ることにし、いま、文法的問題について考える。
 万330番歌に「御念八君」とあって「思ほすや君」と訓んでいる。「思ほす」と尊敬語になっていて、主語は「君」(帥大伴卿)のこととされる。お思いになられますか、あなた様、の意である。二人の立場の違いから敬語で問いかけられている。自分より身分の高い相手だから失礼のないように、最低限「思ほす」などと敬語で問いかけているわけである。ただし、ニュアンスとしては誘導尋問になっていて、お思いになられますよね、あなた様、と言っているように感じられる。解釈において腑に落ちないところがあるが、その点は後述する。ひるがえって万955番歌をみたとき、どうして一切敬語表現を用いていないのか疑問が生じる。

 いもそで 別れてひさに なりぬれど ひとも妹を 忘れて思へや〔妹我素弖和可礼弖比左尓奈里奴礼杼比登比母伊毛乎和須礼弖於毛倍也〕(万3604)

 「和須礼弖於毛倍也」とあって「わすれておもへや」としか訓めない。主語は歌の作者、「妹」の夫君ないしはフィアンセである。一日だって妻のことを忘れることなどない、と言っている。「忘れて思へや」という反語は、忘れて思うか、いやいや忘れて思うことなどない、すなわち、忘れるか、いやいや忘れることなどない、という意である。
 万330・3604番歌の二例を比較したとき、「思ふ」という言葉と「や(も)」という言葉のつながりについて、独特な性質があるのではないかと予感させられる。「思ふ」とは内心の出来事である。オモ(面)に表れることなく内心深く感情が起こることを指すのが原義であるとも解されている。岩波古語辞典に、「オモヒが内に蔵する点に中心を持つに対し、類義語のココロは、外に向って働く原動力を常に保っている点に相違がある」(254頁)と解説されている。
 現代語であっても、ねえねえ、どう思う? と尋ねるとき、対象となることについてどこかしら否定的なニュアンスを含んで聞いていることがある。単純な疑問文として、この電車の次の停車駅は上野駅だと思いますか? と言った場合、これまた、どこか否定的ニュアンスを有している。答えとして肯定的な回答を求める場合には、あなたは「思う」か? ではなく、この電車の次の停車駅は上野駅ですか? とストレートに聞くのがまともな問い方である。「思う」を差しはさむことは、「思う」人の内心に入り込み、問う側の意向を強要し、相手の気持ちを矯正するようなところがある。
 上代においても、「思ふ」と「や(も)」との接続において、疑問の用法で扱われる際にはその傾向があったのではないかと類推される。大宮人が高級住宅地として住んでいる佐保の山すじのことなんかを、思ったりするのですか、大宰帥の大伴旅人卿様、という意味である。どこか詰問にも似たところがある。また、他でもない佐保の山のことを思いますか? と尋ねたのに対して、大和もここも同じだと答えている。しかるに、思うか? と聞かれたら、yes、no、思う、思わない、で答えるのが問答の論理としては正しい。レトリック使いに秀でていて、大和もここも同じだと答えたのだとされているのであろうが、「大和もここも」と言っていて、「佐保もここも」とは言っていない。佐保の山ふもとに大伴卿の豪邸があったから、それを見越して石川足人は問いを投げかけたのだというのが一般的な捉え方である。佐保の山ふもとには時の高官のみが邸宅を構えることができたようである。とても贅沢なことであった。それを思い出さないか、と聞くことは、贅沢な境遇のことを今でも望んでいますか、と聞くことと同じことである。官職として太宰帥も高位である。都から離れて辺鄙で文化のないところへ押しやられることには左遷の印象がつきまとう。筑紫文化圏を気負うのも、鄙びたところへ追いやられたことの裏返しと言えそうである。そんなデリケートな問題についてずけずけものを言うことはとても失礼なことである。下位の役人が長官に対して、その内面に立ち入るような真似をしていることになる。その失礼に対して、大伴旅人はやんわりとかわしたということなのだろうか。納得の行かない解釈である。
 他の可能性としては、万955番歌の「大宮人の 家と住む 佐保の山」は、当時権勢を誇っていた長屋王の邸宅のことを暗示していて、反長屋王派の手によって、大伴旅人は都から遠ざけられたのであろうとする説が浮かびあがる。大宰府帥に任ぜられても実際に赴任することのなかった例もあるなか、しかも旅人はそのとき60歳を超えて高齢であったにもかかわらず九州へ行っている。左遷説には辻褄の合うところが多い。万955番歌は、大宰府に遷されてなお長屋王のことを慕う気持ちがあるかどうかを問い質した歌なのではないか。大伴旅人は歌に通じた人だから、相手の言わんとしていることがわかり、遠回しに、婉曲的に答えている。「佐保」という地名には触れずに、「大和もここも」と言ってごまかしているという考え方である。この見方は見方としてはかなり正しいものと考えるが、文法的に「や」を疑問の助詞と捉えている限りにおいて疑問は解消しない。なにしろ、長屋王の変は翌年、天平元年(729)のことである。いまだ長屋王は罪人(注5)でもなく、健在であるなか、立場も弁えずにそのように問うことなどあるのだろうか。「思ふやも君」という言い方は、土足で位が上である相手の心に上がり込んでいることに変わりはなく、無礼きわまりない。

「思へや(も)」

 このように考えてくると、「思ふやも君」という訓み方自体に問題があるのではないかと悟られよう。万葉集の他の例を見ると、「や(も)」を疑問の意で用いることは稀で、反語の用法で使われることがきわめて多い(注6)

 楽浪さざなみの 志賀しがの大わだ よどむとも 昔の人に 逢はむとへや〔左散難弥乃志我能大和太與杼六友昔人二将會跡母戸八〕(万31一云)
 大伴の 御津みつの浜にある 忘れ貝 家にある妹を 忘れて思へや〔大伴乃美津能濱尓有忘貝家尓有妹乎忘而念哉〕(万68)
 明日香川 明日だに見むと 思へやも わご大君の 御名みな忘れせぬ〔明日香川明日谷将見等念八方吾王御名忘世奴〕(万198)
 真野まのの浦の 淀の継橋つぎはし 心ゆも 思へや妹が いめにし見ゆる〔真野之浦乃与騰乃継橋情由毛思哉妹之伊目尓之所見〕(万490)
 なつ行く 鹿しかの角の つかも 妹が心を 忘れて思へや〔夏野去小壯鹿之角乃束間毛妹之心乎忘而念哉〕(万502)
 飫宇おうの海の しほの潟の 片思かたもひに 思へや行かむ 道のながを〔飫宇能海之塩干乃鹵之片念尓思哉将去道之永手呼〕(万536)(注7)
 ありゆも まして思へや 玉の浦 離れしまの いめにし見ゆる〔自荒礒毛益而思哉玉之裏離小嶋夢所見〕(万1202)
 河内かはちの 手染てぞめの糸を 繰り返し 片糸かたいとにあれど 絶えむと思へや〔河内女之手染之絲乎絡反片絲尓雖有将絶跡念也〕(万1316)
 思ひ寄り 見ては寄りにし ものにあれば ひとの間も 忘れて思へや〔思依見依物有一日間忘念〕(万2404)
 あらたまの 年はつれど しきたへの 袖へし子を 忘れて思へや〔璞之年者竟杼敷白之袖易子少忘而念哉〕(万2410)
 あづさゆみ すゑはらに がりする 君がづるの 絶えむと思へや〔梓弓末之腹野尓鷹田為君之弓食之将絶跡念甕屋〕(2638)
 わぎ妹子もこや を忘らすな 石上いそのかみ 袖布留ふる川の 絶えむと思へや〔吾妹兒哉安乎忘為莫石上袖振川之将絶跡念倍也〕(万3013)
 伊豆いづの海に 立つ白雲の 絶えつつも 継がむとへや 乱れそめけむ〔伊豆乃宇美尓多都之良久毛能多延都追母都我牟等母倍也美太礼曽米家武〕(万3360或本)
 妹が袖 別れてひさに なりぬれど ひとも妹を 忘れておもへや〔妹我素弖和可礼弖比左尓奈里奴礼杼比登比母伊毛乎和須礼弖於毛倍也〕(3604)
 こしの海の 信濃の浜を 行き暮らし 長き春日も 忘れて思へや〔故之能宇美能信濃乃波麻乎由伎久良之奈我伎波流比毛和須礼弖於毛倍也〕(4020)
 垂姫たるひめの 浦を漕ぐ船 かぢにも 奈良のわぎを 忘れて思へや〔多流比女能宇良乎許具不祢可治末尓母奈良野和藝弊乎和須礼氐於毛倍也〕(4048)
 春山の 霧にまとへる うぐひすも 我にまさりて 物思はめや〔春山霧惑在𪄙鴬我益物念哉〕(万1892)
 年にありて ひと妹に逢ふ 彦星ひこほしも 我にまさりて 思ふらめやも〔等之尓安里弖比等欲伊母尓安布比故保思母和礼尓麻佐里弖於毛布良米也母〕」(万3657)
 天離あまさかる ひなにある我を うたがたも 紐解きけて 思ほすらめや〔安麻射加流比奈尓安流和礼乎宇多我多毛比母登吉佐氣氐於毛保須良米也〕(万3949)

 「や(も)」は、「思ふ」やそれに助動詞がつく形で、已然形を承けて反語を表している。疑問の用例は見られないから、万955番歌も反語と解して捉え直してみる。

 さすだけの 大宮人おほみやびとの 家と住む 佐保の山をば 思やも君〔思哉毛君〕(万955)

 「さす竹の 大宮人の 家と住む 佐保の山をば 思やも」の主語は、歌の作者、話者である石川足人その人ということになる。大宮人が高級邸宅として住んでいる佐保の山すじのことを思うか、いやいや私は思わないですよ、大伴長官、と言っている。歌のイメージががらりと変わる。
 高級官僚の豪邸のことなんか屁とも思わない、と石川足人は言っている。そして九州くんだりへ来た大伴旅人に、同情ではなく同調を求めている。なぜそんなことをしているのか。「や(も)」を疑問の意ととる説においても、慰めの心が成した歌であると評されることがあった。それはあるいはそのとおりなのかもしれない。
 問題はそこではない。歌の主がそういうことを言うのにふさわしい人物だったから、そう歌わしめたと考えられるというところが肝である。
 彼の名は「足人」である。足ることを知った人である。禅宗の到来よりはるかに遡る奈良時代人であるが、欲望を追えばきりがなく、そんなことをしなくても満足できるものだと自得している人、そのことを名に負っている人であった。名に負っているのだから実際にそういう言動をする人物だったのだろう。そんな人の発言だから、歌を受けた大伴旅人もまともに受け答えをし、問いかけられた旅人ばかりでなく、周りで聞いていた人々も、なるほどそういう歌を足人なら大伴卿に投げかけるよね、と理解されたということになる。
 石川足人なる人物は、大伴旅人様は、大宮人が高級邸宅として住んでいる佐保の山すじのことを思うことがありますか、懐かしいですか、と聞いているのではなく、自分がその立場だったら、大宮人が高級邸宅として住んでいる佐保の山すじのことなど思わないだろう、と主張しておいて、大伴卿に対してどうでしょうか、と同意を促す歌を歌っていたのである。
 それに対して大宰府の長官である大伴卿は、赴任間もない時点にあって、その立場上、まったくそのとおり、都近くの豪勢な住まいのことなど屁とも思わない、と答えようとしている。あるいは、そう答えざるを得なかった。題詞に「帥」と規定されている。大宰府を統率するのが役目である。大宰府仕えの下級役人たちを前にして、建前を述べる必要がある。部下の心が離れて行かない配慮が求められていた。この時点で、もはや「佐保」のことなど等閑視されなければならない。都のある大和と今いる筑紫大宰府しか、議題にさえ載せられなくなっている。だから、「大和もここも同じ」という自らの内心を、たとえそれが本心ではなかったにせよ表明することになっている。題詞と歌が明記されて、歌の歌い手が作るべくして作った歌が歌われたこととなっているのである。
 したがって、「や(も)」は、通説のいう疑問を表す助詞ではなく、已然形を承けて反語を表している。

 さすだけの 大宮人おほみやびとの 家と住む 佐保の山をば 思へやも君(万955)
 (さす竹の)大宮人と称し、大宮に仕えながら、豪邸暮らしをしている大宮外れの佐保の山のことなどを、私だったら思うだろうか、いやいや思いません、どうでしょう大伴長官。

 この解釈によって、この歌はなかなか鋭い問いかけであったと気づかされる。都にある大伴旅人の家は左保の地にあったが、佐保の邸宅といえば何より長屋王のそれが第一に思い浮かぶ。この歌問答は、その長屋王に与するかどうか試したものなのであった。
 長屋王の変は、神亀六年二月のこと、旅人の大宰府赴任の翌年である。石川足人は、この歌問答を携えて「遷任」されて都へ戻っている(万549~551)。反長屋王派、すなわち、藤原氏側は、長屋王に同調しかねない大伴氏の族長である旅人を大宰府へと遷し、しかも九州で王に呼応して反乱を起こしたりしないことを確認した上で王を誣告して自刃に陥れている。旅人はこの歌問答によって時局に抗えないようにされている。文芸サロンで親交を深め、公務上も便宜を図ってもらっていたかもしれない長屋王が次期天皇になることはなく、皇太子の首皇子、後の聖武天皇が位に即くことを了解せざるを得なくなったということである。だから、和ふる歌として、国の体制についての歌を歌っている。この国はすべからく天皇制の下にあるべしというのが原則である。「わご大君の 食す国」という言い方で歌われている。

 やすみしし わご大君の す国は 大和やまともここも 同じとそ思ふ(万956)

 この「和歌」は、藤原氏側の密偵のような石川足人による若干の政情批判に対して、天皇制の原則を述べることで和した歌である。大伴旅人は政局について、立場上も言動に注意していた。今置かれているのは筑紫国の大宰府なのだから、国政の局外にあるように振舞って「足人」の主張に添う歌を作り、「帥」たるにふさわしく応えたのである。問題となっているのは「佐保」大臣たる長屋王のことだから、「佐保」については触れないことにし、足るを知れば都も鄙も変わらないと言っている。石川足人は満足し、また、因果な勤めも無事に果たしたということになる。おかげで早々に都へ帰ることがかなっている。
 以上の解釈によって、万955番歌の「や(も)」の例も、已然形+「や(も)」の形を成して、反語を表すことが示された。

「思ほせや君」

 藤波ふぢなみの 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君〔藤浪之花者盛尓成来平城京乎御念八君〕(万330)

 作者の大伴四綱は集中に五首の歌が載る。そのいずれもが「大伴四綱」と記され、姓表記を持たない。同じ大宰府に従っていて、大伴旅人を族長と仰ぐ人物であろう。旅人の心に寄り添う歌を作って問いかけているはずである。間諜のような心休まらない石川足人の歌を下敷きにしている。ご主人様が仰られましたとおり、この国の大君がお治めになっているわけですが、そのうち一番に思われるのはやはり都のことでございます、そうでございましょう、その都では藤の花が盛りになったそうです、奈良の都のことをお思いになられますか、ご主人様、という意味に解されている。
 上述したように、万330番歌の「御念八君」を「思ほすや君」と訓む限りにおいては、万329番歌からの流れとして、お思いになられますか、ご主人様、の意となる。それに対して大伴旅人は、万331~335番歌で、とても気弱な歌で応えている。もう都は見られずじまいになりそうだ、吉野の象の小川を見たいから長生きしたいなあ、物思いに行ければ明日香の里のことばかり思い出される、いっそのこと香具山のある明日香の故郷のことなんか忘れてしまいたい、吉野の夢の川の屈曲部分は早くは流れないで自分の老い先同様ゆっくりと流れてほしい。
 この敗北感はどこから生まれるのだろうか。大伴四綱は何を歌いかけたのだろうか。
 「藤浪の 花は盛りに なりにけり」の「けり」は、目前の事態に対する気づきというよりも、伝聞としてはじめて知ったことを表している。つまり、藤の花が盛りになっているというのは大宰府のことではなく、奈良の都での状況である(注8)。奈良の都で藤の花が盛りであるとは、長屋王が滅ぼされて藤原氏が権勢を誇っている様子を表している(注9)。石川足人に無理強いに答えさせられ、結果的に奈良の都は藤原氏ばかりになってしまった。そんな奈良の都のことを思って見ても仕方がないでしょう、と大伴四綱は具申しているのである。

 藤波ふぢなみの 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほや君〔藤浪之花者盛尓成来平城京乎御念八君〕(万330)

 この部分も已然形+「や」の反語表現である。お思いになられますか、お思いになどなられませんでしょう、ご主人様、の意である。
 だから、藤原氏が権勢をほしいままにしている奈良の都はもう見ないのではないかと歌い、思い出すは奈良以外の故郷のことだと言っている。吉野の象の小川、明日香の古京、吉野を流れる夢の屈曲部である。「思ふ」対象として、長屋王が亡くなり、藤原氏に席巻されている奈良の都のことを、極力忌避しているのだった(注10)
 それらの旅人の歌を導いた大伴四綱の歌は、小野老の歌を受けたものである。

 あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふが如く 今盛りなり(万328)

 「にほふ」という動詞は、赤い色が浮き出ることから、色美しく映えること、顔色の美しいことをいうが、色に染まるという意にも使われる。香りについて使われるのは平安時代からである。次の歌では、馬の毛に黄土を混じらせてきれいに見せようと思っている。

 馬のあゆみ さへとどめよ 住吉すみのえの 岸の黄土はにふに にほひて行かむ(万1002)

 単に花の都パリならぬ花の都奈良のことをいうのであれば、「如く」と言い添えたりしない。「あをによし」は奈良の枕詞である。あをの二色が含まれている。混ぜれば藤色である。奈良京の美しさを詠んでいるのではなく、ひね媚びたことに権力闘争の結果を語っている。都で今盛んに咲いている花は藤である、もちろん実際に wisteria が咲いているわけではないのだ(注11)が、喩えとして藤原氏の権勢が盛んなることを言っている。「にほふが如く」と、周りまで染まっていっているかのようだというのは、どんどん藤原氏に染まって行っていること、清盛時代のように平氏にあらずんば人にあらず状態になっているということを表している。これまで行われてきた凡庸な解釈は見直されなければならない。
 小野老という人物は、石川足人の跡を襲って大宰少弐として赴任してきている。長屋王の変に功績があったらしく、天平元年三月に叙位を受けて従五位上となり、そのときに大宰少弐に任ぜられて大宰府に来たのではないかと考えられている(注12)。小野老という人は、自分が昇進していっていることを鼻にかけ、都の藤原氏勢力の盛んなさまを大宰府に来て吹聴している。藤原氏に必ずしも同調しているわけではない大伴旅人にとって愉快なものではない。大伴四綱はそのことを理解していて、小野老が上機嫌で歌って立ち去った後、残っている旅人に対して、かつて石川足人が歌によって探りを入れていた歌詞を踏まえ、旅人の心情に寄り添う歌を歌ったのであった(注13)

(注)
(注1)万549題詞に、「五年戊辰大宰少貳石川足人朝臣遷任餞于筑前國蘆城驛家謌三首」と見える。
(注2)別邸かとも考えられている。近江2015.参照。
(注3)姪に当たる大伴坂上郎女の万葉集歌の題詞や左注を依りどころとしている。万525・526番歌、万528番歌左注、万979番歌題詞、万721番歌題詞脚注、万1447番歌左注参照。
(注4)岩波古語辞典1499頁。
(注5)実際のところ冤罪で謀反など企てていなかった。要するに政争に敗れて亡き者にされたということである。続紀に次のようにある。
 二月辛未(十日)、左京人従七位下漆部造君足、無位中臣宮処連東人等告密称、左大臣正二位長屋王私学左道、欲国家。其夜、遣使固守三関。因遣式部卿従三位藤原朝臣宇合、衛門佐従五位下佐味朝臣虫麻呂、左衛士佐外従五位下津嶋朝臣家道、右衛士佐外従五位下紀朝臣佐比物等、将六衛兵、囲長屋王宅。壬申(十一日)、以大宰大弐正四位上多治比真人県守、左大弁正四位上石川朝臣石足、弾正尹従四位下大伴宿禰道足、権為参議。巳時、遣一品舎人親王・新田部親王、大納言従二位多治比真人池守、中納言正三位藤原朝臣武智麻呂、右中弁正五位下小野朝臣牛養、少納言外従五位下巨勢朝臣宿奈麻呂等、就長屋王宅、窮‐問其罪。癸酉(十二日)、令王自尽。其室二品吉備内親王、男従四位下膳夫王、無位桑田王・葛木王・鉤取王等、同亦自経。乃悉捉家内人等、禁‐着於左右衛士・兵衛等府。甲戌(十三日)、遣使葬長屋王・吉備内親王屍於生馬山。仍勅曰、吉備内親王者無罪。宜例送葬。唯停鼓吹。其家令・帳内等並従放免。長屋王者依犯伏誅。雖罪人、莫其葬矣。長屋王、天武天皇之孫、高市親王之子、吉備内親王、日並知皇子尊之皇女也。丙子(十五日)、勅曰、左大臣正二位長屋王、忍戻昏凶、触途則著。尽慝窮姧、頓陥疏網。苅‐夷姧党、除‐滅賊悪。宜国司莫_衆。仍以二月十二日、依常施行。戊寅(十七日)、外従五位下上毛野朝臣宿奈麻呂等七人、坐長屋王交通、並処流。自余九十人悉従原免。己卯(十八日)、遣左大弁正四位上石川朝臣石足等、就長屋王弟従四位上鈴鹿王宅、宣勅曰、長屋王昆弟・姉妹・子孫及妾等合縁坐者、不男女、咸皆赦除。是日、百官大祓。壬午(二十一日)、曲‐赦左右京大辟罪已下。并免長屋王事徴発百姓雑徭。又告人漆部造君足・中臣宮処連東人並授外従五位下、賜食封卅戸、田十町。漆部駒長従七位下。並賜物有差。丁亥(二十六日)、長屋王弟・姉妹并男女等見存者、預禄之例。(天平元年二月)
 東人、即誣‐告長屋王事之人也。(天平十年七月)
(注6)異伝の類は該当するもの以外割愛した。
 また、「思ふ」+「か(も)」についても似た傾向が見られる。「か」は内心の疑問を自分に投げかけることが原義とされ、個人的な内心の活動をいう「思ふ」に続けば確からしさのなさの二乗(「も」を伴えば三乗)のような言い方になり、なりゆきとして反語的なもの言いに用いられることになるのであろう。
 用例を見ると、「思へかも」(万198一云・499・583・611・3055・3162)、「思へか君が」(万617)、「物思へかも」(万2137)、「あど思へか」(万3572)、「いかに思へか」(万3647)、「われを思へか」(万3791)とあって已然形に接続している。
 助動詞、補助動詞を間にはさむ形では、「思ひけめかも」(万460・633)、「思ひいませか」(万443)、「思ひをれか」(万217)と已然形に接続するものと、「家思ふらむか」(万1696)、「思はるるかも」(万3372)、「思ひつるかも」(万649・1841)と連体形に接続するものがある。
 「思ふ」+「か(も)」の形としては、「思ふ」に自発の助動詞ユが付いた「思ほゆ」の形に「か(も)」が接続した例のほうが圧倒的に多く、「思ほゆるかも」は40例を超え、「思ほえむかも」も10例近くある。理の当然として思われるというのであれば、強い反語を表明することはないから連体形に接続して「かも」は詠嘆を表すことになる。また、尊敬の助動詞スが付いた「思ほす」では、「思ほしめせか」、「思ほしけめか」という已然形に接続する例が見える。疑問詞の「いかさまに」などと結びついて表されており、お思いになられたのでしょうか、いやいやそのようなことは私どもには、まして今さらわかることではない、と反語的な投げかけをしていると考えられる。
 なお、現状の注釈書では、疑問なのか、反語なのかについて、必ずしもきちんと訳し分けられているわけではない。
(注7)万536番歌の訓みについては拙稿「門部王の恋の歌」参照。
(注8)大宰府で藤の花が咲いているとする見方は、西宮1984.、伊藤1996.、稲岡1997.、阿蘇2006.などに見られる。
(注9)この考え方はこれまでもときどき述べられてきた。尾山1935.は、「藤浪の花の盛りは、観方によれば藤原氏の世盛りを意味する。其処で旅人はかういふ歌を作つて四[綱]に報いたものと見える。次の四首もその嘆息の延長である。」(9頁)といい、中嶋2012.は、「老の昇進の一か月前、都では大きな政変せいへんがあった。……ながおうの変である。それは藤原氏の専横せんおうによるへんであり、都は藤原氏とともに印象付けられる状態であったのは間違いない。四綱は、たまたま開花したであろう藤の花と、小野老のおめでたい歌とを生かして、旅人に問いかけたのではないか。」(29頁)としている。
(注10)諸注釈書には、旅人の望郷の対象は、人生でもっとも長い時間を過ごした明日香古京や、従駕した吉野であったのである、などといった悠長な解説が見られる。
(注11)佐藤1984.によれば、華都の発想は万葉集では他に見られないという。小野老も華都を歌おうとしていたわけではない。
(注12)北村1983.参照。
(注13)万328~335番歌は、同一の宴席で歌われたとされることが多い。だが、宴席が題詞に提示されているわけではない。「大宰少貳小野老朝臣歌一首」、「防人司佑大伴四綱歌二首」、「帥大伴卿歌五首」と記されるばかりである。心和む宴の席の歌作ではなかったからであり、それぞれに作者を記してその時にあった事実を伝えているのであろう。小野老が着任の挨拶をしに政庁へ来て、帥の旅人の前でこれ見よがしの歌を披露して呵々とばかりに笑った。帰った後、苦々しく思った大伴四綱が、かつて奸佞にして狡猾な歌をぶつけていた石川足人の言葉を思い出して、逆手に取るように歌を作って旅人を慰撫しようとしている。とはいえ、政治的な敗北は如何ともしがたく、旅人は気弱な歌を歌っている。藤原氏の権勢に歯向かうことなどかなわなかった。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『万葉集全歌講義 第2巻』笠間書房、2006年。
伊藤1996. 伊藤博『万葉集釈注 二』集英社、1996年。
稲岡1997. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
近江2015. 近江俊秀『平城京の住宅事情─貴族はどこに住んだのか─』吉川弘文館、2015年。
大浦2016. 大浦誠士「万葉集巻三「大宰府望郷歌群」考─小野老歌・大伴四綱歌の機能─」『専修国文』第98号、2016年1月。専修大学学術機関リポジトリhttp://doi.org/10.34360/00001341
尾山1935. 尾山篤二郎『作者別萬葉集評釈 第四巻 大伴旅人・山上憶良篇』非凡閣、昭和10年。
川口1976. 川口常孝『大伴家持』桜楓社、昭和51年。
北村1983. 北村進「長屋王の変と小野老」『上代文学』第50号、1983年4月。上代文学会ホームページ http://jodaibungakukai.org/02_contents.html
佐藤1984. 佐藤美知子「旅人帥時代の少弐たち─小野老の都讃歌を中心として─」五味智英・小島憲之編『萬葉集研究』第十二集、塙書房、昭和59年。
鉄野2021. 鉄野昌弘『大伴旅人 新装版』吉川弘文館、2021年。
中嶋2012. 中嶋真也『コレクション日本歌人選 大伴旅人』笠間書房、2012年。
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。

加藤良平 2023.11.3初出


万葉集巻七の「臨時」歌について

 万葉集巻七に、「臨時」の標題の歌十二首が収められている。
 さほど議論されてきた歌群ではない。そもそも「臨時」、すなわち、「臨時」とはどういうことか。そのことはそれぞれの歌の理解と深くかかわることであるが、これまでの解釈では究められていない。それぞれの歌が男の詠作なのか女の詠作なのかも意見が分かれている。最初に、すべての歌について多田2009.の訳を付して掲げ、現時点での一般的な解釈を示す。

  時にのぞめる〔臨時〕
  その時々に臨んだ歌
 月草つきくさに ころもむる 君がため まだらの衣 らむとおもひて〔月草尓衣曽染流君之為綵色衣将摺跡念而〕(万1255)
 月草の色に衣を染める。あなたのために、色模様の衣を摺り染めにしようと思って。
 はるかすみ ただに 道はあれど 君にはむと たもとほりも〔春霞井上従直尓道者雖有君尓将相登他廻来毛〕(万1256)
 春霞がかかる井のほとりを通ってまっすぐに道はあるが、あなたに逢おうと回り道をしてやって来ることだ。
 道のの 草深くさふか百合ゆりの 花みに みしがからに つまと言ふべしや〔道邊之草深由利乃花咲尓咲之柄二妻常可云也〕(万1257)
 道のほとりの草深い中に咲く百合の花のように、私が微笑みかけたからといって、もう妻などと呼んでよいものだろうか。
 もだあらじと ことなぐさに 言ふことを 聞き知れらくは しくはありけり〔黙然不有跡事之名種尓云言乎聞知良久波少可者有来〕(万1258)
 黙ってもいられまいと言葉だけの慰めとして言うことを、聞いてその心がわかってしまっているというのは、何とも不愉快な気分がしたことだった。
 伯山へきやま の花持ちし かなしきが 手をし取りてば 花は散るとも〔佐伯山于花以之哀我子鴛取而者花散鞆〕(万1259)
 佐伯山の卯の花を持っていたいとしい人の手を取ることができたなら、花は散ってしまっても構わない。
 時ならぬ まだらころも しきか 島の榛原はりはら 時にあらねども〔不時斑衣服欲香嶋針原時二不有鞆〕(万1260)
 時節はずれの斑に摺り染めにした衣が着たいことよ。島の榛原は、まだ実をつける時期ではないが。
 山守やまもりの さとに通ふ 山道やまみちそ しげくなりける 忘れけらしも〔山守之里邊通山道曽茂成来忘来下〕(万1261)
 山の番人が里へと通う山道に、草がすっかり生い繁ってしまった。通うのを忘れてしまったらしいことよ。
 あしひきの やま椿つばき咲く やつ越え 鹿猪しし待つ君が いはづまかも〔足病之山海石榴開八峯越鹿待君之伊波比嬬可聞〕(万1262)
 あしひきの山の椿の咲く峰々を越えて鹿や猪を迎え待つ、あなたが大切にする妻よ。ああ。
 あかときと 夜烏よがらす鳴けど この山の ぬれの上は いまだ静けし〔暁跡夜烏雖鳴此山上之木末之於者未静之〕(万1263)
 もう暁だと夜烏は鳴くが、この山の梢の上はまだ鳥たちも鳴かずひっそりとしている。
 西にしいちに ただひとでて め並ならべず 買ひてしきぬの あきじこりかも〔西市尓但獨出而眼不並買師絹之商自許里鴨〕(万1264)
 西の市に一人で出かけて行って、自分の目だけで見て買ってしまった絹の、買い損ないであったことよ。
 としく 新島守にひしまもりが あさごろも かたのまよひは たれか取り見む〔今年去新嶋守之麻衣肩乃間乱者誰取見〕(万1265)
 今年新たに出かけて行く島守の麻衣の肩のほつれは、いったい誰がつくろってやるのだろう。
 大船おほぶねを 荒海あるみ やふねたけ が見し子らが 目見まみはしるしも〔大舟乎荒海尓榜出八船多氣吾見之兒等之目見者知之母〕(万1266)
 大船を荒海に漕ぎ出して、ますます船を漕ぎに漕いで行くと、私の逢ったあの子の眼差しがありありと面影に立つことよ。

 巻七は、「雑歌」、「譬喩歌」、「挽歌」の三部立構成で、「雑歌」の前半は、「詠天」「詠月」「詠雲」「詠雨」「詠山」「詠岳」「詠河」「詠露」「詠花」「詠葉」「詠蘿」「詠草」「詠鳥」「思故郷」「詠井」「詠倭琴」「吉野作歌」「山背作歌」「摂津作歌」「羇旅作歌」と具体性のある標題が並ぶ。後半は、「問答」(万1251〜1254)、「臨時」(万1255〜1266)、「就所発思」(万1267~1269)、「寄物発思」(万1270)、「行路」(万1271)、「旋頭歌」(万1272~1295)という標題でまとめている。最後の「旋頭歌」は歌の形式による区分である。「就所発思」の万1267番歌の左注に、「右の十七首は、古歌集に出づ。〔右十七首古謌集出〕」と記され、「問答」「臨時」の歌はみな古歌集由来のものであるとしている。そのため、「臨時」という標題も古歌集にあったものをそのままに録しているとする見解も見られる(注1)
 その「臨時」は、「時に臨めり」「時に臨む」「時に臨みき」などと訓み、その時々にのぞんで歌った歌のこと、暮らしの折々の歌のことであるとされている(注2)
 ノゾム(望・臨)という言葉は、ノゾク(覗・覘)と同根とされ、のぞきこむように見ることをいうという。それに従えば、「時に臨む」は、ある特筆すべき時があり、その時のことを深く思惟して作られた歌であるということになる。特別な時のことを、まるで穴の中をのぞきこむように歌にしている。遠くから表面だけ見ていたのでは気づかない穴を見つけ、その中をよくよく覗いてみれば、それぞれ特別な「時」がどんなときであったかに理解が及ぶ。折にふれて片手間に思いを綴ったものではない。これまでの解釈は不十分であった。

 月草つきくさに ころもむる 君がため まだらの衣 らむとおもひて〔月草尓衣曽染流君之為綵色衣将摺跡念而〕(万1255)

 二句目の「染流」をシムルと訓む説もある。四句目は原文に「綵色衣」とあり、イロドリコロモ(西本願寺本など)、マダラノコロモ(萬葉集古義)、シミイロゴロモ(定本萬葉集)、シミノコロモヲ(古典大系本)、また、元暦校本の本文などには「深色衣」ともあり、フカイロコロモとも訓まれている。
 二句目は、「」が係助詞で「染流」は下二段動詞の連体形である。ソムとシムは母音交替形で、意味の上で明瞭な違いがあるものかわからない。
 おおよその見当として、男女間の歌であろうことは相違あるまい。女が染色に携わっていて男のために仕事しているとする見解が有力視されている。ツユクサ(「月草つきくさ」)は着色しても水で洗えば流れてしまうから、わざわざ染料として摺り染めることがあったか詳らかではない。下絵描きに使われたとも考えられるが、方法として摺り染めはそぐわない。いずれにせよ意中の人のために摺り染めをしているようである。最終的に染めた品を相手にプレゼントするつもりなのか、現状の解釈ではそれもよくわからない。「綵色衣」=「まだらの衣」とする説は、ツユクサで淡く青く染め、その後にさらに他の色を摺り染めするとするということだろう。しかし、多色の上等な染め物を作る場合、容易に脱色、変色してしまうツユクサを使うとは思われない。
 この歌の肝となる点は、それが淡青色に摺り染めにすること、ならびに、相手のことを「君」と言っていることである。「君」という語は相手のことを指すばかりでなく、主君、特に天子、天皇のことを指す。すなわち、相手のことを天皇扱いして持ち上げている。

小忌衣図(貞享四年大嘗会調度図、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0032753をトリミング)

 青い摺り染めの衣には小忌をみごろもがある。大嘗会だいじやうゑの大祀の時に、厳重な斎戒ものいみが執り行われた。その役を勤めるのが小忌をみびとで、その時身にまとうのが小忌をみごろもである。白い麻の衣に花鳥草木の模様を山藍などで青く摺り染めにした。つまり、この歌では、相手のことを、これからは私の主君ですと宣誓しているのである。その条件設定として大嘗会を捩り、新たに「君」に就任する人のための潔斎用の衣のことを歌っている。「綵色衣」をマダラノコロモと訓むのは不適当である。「君」が天皇の位に就くと喩えているのだから、プロポーズの歌といって間違いないであろう。一世一代の時に臨もうというのである。
 そのように読み解くなら、「衣曽染流」は、具体的に衣を染色することをもって潔斎した状態に入り、穢れを寄せ付けないしめの域内であることを表すととれる。そして、相手のことを自分専用にして他者が触れることができないようにして独占する、しめのものとすることでもある。しめしめしめ)(メはともに乙類)の二義は無関係の語かもしれない(注3)が、口頭言語では、同じ音の言葉が同時に表されて包括的に意味を伝えることが、技巧的であれ無意識的であれ尊重されるものであった(注4)。言語とは使用されるものであり、使用されたときにその含みを受け手に通じさせることができれば使用として成功と言える。相手を自分の「君」に仕立てようと潔斎になぞらえているのだから、次のように訓むのが正しい。

 月草つきくさに ころもめる 君がため 綵色しめいろころも らむとおもひて〔月草尓衣曽染流君之為綵色衣将摺跡念而〕(万1255)

 この歌は二句切れである。道を外れてツユクサが生えているところへ踏み込んだら自然と衣が染まった。「る」は自発を表している。お転婆なことをことをしておいて、自然と衣が染まったのは、あなたが主君となる儀式のための小忌衣を摺り染めにしようと思っていたからそうなったのでしょう、とおどけているのである。

 はるかすみ ただに 道はあれど 君にはむと たもとほりも〔春霞井上従直尓道者雖有君尓将相登他廻来毛〕(万1256)

 井戸のあるところからまっすぐに道はあるけれど、あなたに逢おうとまわり道をして来たと言っている。「春霞」はなかなか消えないで続けるから同音のヰ(井)にかかる枕詞である。通説では、水汲みに来た女が家へ通じる直線道路を外れ、男のところへ寄って来たものとされている(注5)。しかし、水の入った桶を頭にのせたまままわり道をしたとは考えにくい。重いし、目立つ。歌なのだから架空の話なのかもしれないが、設定として無理がある。
 男の歌とみることができる。男は井の近くから彼女に逢いに来た。彼女の家がまわり道をしなければ来られないところに位置していたということではない。彼女の家までまっすぐに道は延びている。なのにタモトホリしていると言っている。タモトホリはタ(接頭語)+モトホリ(廻、連用形)である。パロディとして作られている。

 見渡せば 近き渡りを たもとほり 今か来ますと 恋ひつつそる(万2379)

 この歌では、人目につくのを避けるためにまわり道して通ってくることを言っていて、相手の訪れを今か今かと待つ心を歌っている。待っている女が、男のなかなか来てくれないことを軽くなじり、早く来て欲しいと懇願しているようにも聞える。人目につかないようにしてプライベートな時間を大切にして共有して楽しみたく、人言ひとごとが繁くなるのを嫌がるから遅くなっている。
 万1256番歌では、この「たもとほり」を洒落として捉え返している。男が「井の上」から直線道路を「たもとほり」して来ているというのは、タモト(手本)+ホリ(掘)、つまり、手ずから掘ったら水が出た井戸から来ているということである。井戸掘りがうまくいき、今溢れ出てきたきれいでおいしい飲み水を一番に彼女にプレゼントしようと訪れている。以前から好意を寄せてはいたが、なかなかきっかけがつかめずに近づけずにいた。そんなある日、ある時、彼は井戸を掘りあてた。だいぶ遠回りになったが絶好の機会が訪れた。なかなか求愛できなかったという事情を道に譬え、井戸掘りに成功したことを千載一遇のチャンスと捉えて歌った歌である。

 道のの 草深くさふか百合ゆりの 花みに みしがからに つまと言ふべしや〔道邊之草深由利乃花咲尓咲之柄二妻常可云也〕(万1257)

 女の歌とする説と男の歌とする説がある(注6)。筆者は、男の歌であると考える。
 ヱミ(咲)という言葉が、花が咲くことと笑顔になることと、二つの意味で使われて歌が作られている。ただし、咲いている花はユリに限定されている。しかも、そのユリは「草深」なところに咲いている。「草深」なところとは山のことであろう。ヤマユリのことはサヰと呼ばれていた。

 たまきはる 宇智うちの大野に 馬めて 朝踏ますらむ そのくさふか(万4)
 其の河を佐韋さゐがはと謂ふゆゑは、其の河のに山ゆり草あまた在り。故、其の山ゆり草の名を取りて佐韋河となづけき。山ゆり草のもとの名は佐韋さゐと云ふ。(神武記)
 …… 倭文しつまきの 胡床あごらに立たし 猪鹿しし待つと がいませば さ待つと〔佐謂麻都登〕 我が立たせば ……(紀75)

 サヰはまた、イノシシのことも指す。サ(接頭語)+ヰ(猪)の意である。「草深」いところに棲息している。イノシシに牙のあるのを、まるでほほえんでいるかに見て取れるというのである。雌のイノシシの牙は短いが、八重歯がちらりとのぞくのをチャーミングな笑顔だと思う心理である。意図的か、無意識的か、偶然かといったことにかかわりなく、ヤマトコトバはそのように体系的な構成となっている。つまり、ユリのような女の笑顔はひょっとするとイノシシかも知れず、野生のイノシシを「妻」と言うことができるかと言えば、暴れて手なずけられそうにないからそうは言えないということになる。最後の「や」は反語である。
 このように「さゐ」の両義性を捉え、「笑み」に見えるものが猪の牙を八重歯に見立てて歌っていることを念頭に置けば、三句目までは序詞で、素敵な笑顔を見せられたからといってそう簡単に妻として認めたら大変なことになるかもしれない、ということを歌っている。草刈りの現場で笑顔を見せられたことによって惹起された恋愛模様を歌うものではない。バイト先で即席的な男女の出会いがあっての歌とするのは臨時的な嬥歌かがひに当たるかもしれないが、「臨時」ではない。魅力的な女性がこちらの目を見て微笑んだその一瞬をとらえている。「草深」なところにはどんな魔物がひそんでいるか知れない。とはいえ、その「笑み」が真正面から自分に向けられると、体が火照るほどに悩殺されるのも事実である。そのドキッとした一瞬を捉えることで、人間に深く根差す動物的感覚のあり様を歌にしている。
 では、この歌が歌われた「臨時」と呼べる「時」とはいつのことだろうか。
 「草深」なところでイノシシに遭うことを詠んでいる。万3番歌の例にあるとおり狩りに出たときである。それも、宮廷の儀礼としての狩りである。五月五日に恒例の行事として行われている。

 十九年の夏五月の五日に、だのくすりがりす。鶏鳴時あかときを取りて、藤原池のほとりに集ふ。会明あけぼのを以て乃ちく。(推古紀十九年五月)

 万1257番歌では、特別な時、五月五日の行事にまつわるものとして歌が作られている。だから、「臨時」歌としてまとめられている。

 もだあらじと ことなぐさに 言ふことを 聞き知れらくは しくはありけり〔黙然不有跡事之名種尓云言乎聞知良久波少可者有来〕(万1258)

 五句目の原文に「少可者有来」とある。アシクハアリケリ(武田1956.、「小可者在来」(万2584)参照)のほか、「少可」を「苛」、「奇」、「劣」の誤字と見る説もあり、誤写か否かはさておき、「からくはありけり」(土屋1951.)、「つらくはありけり」(中西1980.)と訓む説もある。
 この歌は、女が男から慰めだけの言葉をかけられて、うわべの言葉にすぎないのだと思って女が嫌な気持ちになることを歌っているものと考えられている(注7)
 しかし、そうではない。問題は、二・四句目である。「聞き知れらくは」とあるのは、聞いて知ったことは、の意である。「知り聞けらくは」、そうと知りながら聞くのは、ということではない。黙ってはいられないと言葉をつなぎ発していると聞いて知ったその内容は、というのが直訳である。聞いて知ったその言葉がひどく悪いものである、と言っている。ということは、あの人は私にお慰みを言っていると知ったということではなく、黙っていては気まずいからと言葉を発してみたら本心が露呈してしまって聞くに堪えないと言っている。「ことなぐさ」であって「なぐさこと」ではない。慰めの言葉ではなく、事実を言葉にして自慰すること、いい気になることを指している(注8)。黙っていてくれたらまだ救いがあったろうものを、と女は思ったということである。
 男が黙っていられなくなって発してしまった言葉に女がたいそう傷ついたのである。君は醜くて勃起しないよ、などといったことである。そんな言葉で追い打ちをかけられたら、ひどい、あんまりだ、と思うことであろう。何もわざわざ追い打ちのようなことを言わなくても、別れようというならただ別れればいい。なのに、自分の気持ちを押し殺していられなくなったからといって、相手の人権まで踏みにじる言葉を言い継ぐ必要などないではないか、と憤慨している。
 この解釈は、コトという言葉が言葉でもあり事柄でもあるという上代の考え方によって支えられている。言葉と事柄とが相即であるとする考え方からすると、ブスだったらブスと言わなければ気が済まないということになる。
 では、このような歌がどうして「臨時」の歌なのか。男女の別れの時、今日と同様に、泥仕合をするのが常だったからであろう。
 離別に関して、当時の人たちにとって共通認識となっていた百科事典的知識に基づき、歌として作られている。彼らが互いに共有していたヤマトコトバのバックボーンは、記紀に記された範囲を出るものではない。語り継がれて伝えられてきた話を聞いて育っている。母語を身につけるうえで必須条件であり、それが彼らの素養となっていた。ヤマトコトバを知るテキストとして、記紀に載ることとなった話はそれ以前から語られ続けられ、聞かれ続けている。無文字時代に世代を超えて一つの言葉が体系的に使われていた所以である。
 万1258番歌のように、別れの際に黙っていられなくなって悪口を並べて相手を傷つけたであろう例は、イザナキとイザナミの別れの時のこととして知られる。

 一書あるふみはく、伊奘いざ諾尊なきのみこと、追ひて伊奘いざ冉尊なみのみこと所在す処に至りまして、便ち語りてのたまはく、「いましを悲しとおもふがゆゑつ」とのたまふ。答へて曰はく、「うがら、吾をなましそ」とのたまふ。伊奘諾尊 、従ひたまはずしてなほみそなはす。かれ、伊奘冉尊、恥ぢ恨みて曰はく、「汝すでに我があるかたちを見つ。我、また汝が情を見む」とのたまふ。時に、伊奘諾尊またぢたまふ。因りて、出で返りなむとす。時に、ただもだして帰りたまはずして、ちかひ曰はく、「うがらはなれなむ」とのたまふ。又曰はく、「うがらけじ」とのたまふ。乃ちつはく神をなづけて速玉はやたま之男のをまをす。次にはらふ神をよも事解ことさか之男のをなづく。すべふたはしらの神ます。其のいろもよもつ平坂ひらさかに相あらそふにいたりて、伊奘諾尊の曰はく、「始めうがらの為にかなしび、思哀しのびけることは、是吾がつたなきなりけり」とのたまふ。時に泉守道者よもつちもりびとまをしてまをさく、「のたまふこと有り。曰はく、『吾、汝と已に国をみてき。奈何いかにぞ更にかむことを求めむ。吾は此の国に留りて、共にぬべからず』とのたまふ」とまをす。是の時に、菊理媛神くくりひめのかみ、亦白す事有り。伊奘諾尊きこしめしてめたまふ。乃ち散去あらけぬ。(神代紀第五段一書第十)

 イザナキがどんどん心情を吐露していくところの言い方にはひどいものがある。「うがらはなれなむ」、「うがらけじ」、「始めうがらの為にかなしび、思哀しのびけることは、是吾がつたなきなりけり」。「族離」は離婚しよう、「不於族」はもはやかたき同士だ、負けないぞ、「始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣」は、一緒になったことは一生の不覚、汚点だと気がついた、という意味である。だんだんエスカレートして行っている。「不直黙帰、而盟之曰、」とあり、「もだあらじと」自分の言いたいことを野放図に言い放っている。そんなことを聞き知ることになったらたまらない。「しくはありけり」なのであった。

 伯山へきやま の花持ちし かなしきが 手をし取りてば 花は散るとも〔佐伯山于花以之哀我子鴛取而者花散鞆〕(万1259)

 四句目は原文に「鴛取而者」とあるものを「鴛取而者」と意改している。卯の花を持っているのは手だからという理屈であろう。小さな花だから持っているのは花のついた枝ということになる。ここは「子」で正しい(注9)
 「卯の花」にコ(子)がつくことがある。ヒメヤママユガの幼虫、天蚕の一種がウツギの葉を食べる。「」が取れたら花などどうでもかまわない。古代の人は圧倒的に実用を重んじた。ましてや高級衣料品の材料、絹のうち、軽くてやわらかい最高級の繊維がとれるのである。
 歌の冒頭は「佐伯山」である。どこのことか未詳とされているが場所を伝えたいわけではない。歌の言葉としてその音から、さえぎって障害となり、邪魔をする山のことを表したいから使われている。行く手をさえぎるその山を越えて先へ進みたい、あるいはその山の神がもたらす障りが気になって行動を起こせないでいた。そんな山に分け入ってみると「卯の花」をゲットすることができた。ウ(卯)という言葉(音)は、ウ(諾)という言葉(音)を示そうとしている。今回はさえぎりません、越えて行って、あるいは、新しいことを始めてもOKですよと「佐伯山」が認めている。これ幸いに進もうと思ったが、せつなくいとしいことに卯の花は散りやすく、雨が当たって駄目になることも多かった。つまり、行動を起こす前にみるみる散ってしまった。だから越えて行くのはNGということになったが、そんなウツギの枝に天蚕がついていた。そうなると話は変わってくる。出掛けている場合ではない。うまく育てて繭を作らせ上等な絹糸に仕上げたい、という歌である。機を見て敏なことを詠んでいる。

 時ならぬ まだらころも しきか 島の榛原はりはら 時にあらねども〔不時斑衣服欲香嶋針原時二不有鞆〕(万1260)

 五句目は原文に「時二不有鞆」とあり、「時にあらずとも」とも訓まれる。
 「斑の衣」は多色に染められた衣服のことである。手間をかけた高価な服を着てみたいと思っている。いろいろな色で染めるはずなのに、「はり」、つまり、ハンノキの実で染める黄茶色のことしか言っていない(注10)。万葉集に「榛原はりはら」の歌は十首を数え、「蓁揩はりすり御衣おほみそ三具みよそひ」(天武紀朱鳥元年正月)とも見える。そのハンノキが、「島」に「榛原はりはら」として群生しているとしている。「島」は飛鳥の島の庄のことと目されている。しかし、島の庄にハンノキばかり繁茂しているところがあったとは知られていない。前歌同様、地理的な関心があるのではない。「島」は島流しの島、つまり、流刑地のことを指しているのだろう。罪を得て流罪になっている人は、当然ながら贅沢な衣服を身につけることは禁じられている。「斑の衣」は着たいと思っても許されることではない。だから、「時ならぬ」ことであり、「時にあらず」なのである。何時ということなく、罪が許されない限りずっと、「時ならぬ」時であり、「時にあらず」な時であることが続く。その「時」という言葉の重みを歌うのがこの歌ということになる。
 この歌のおもしろさは、流刑地の島のハンノキが実を落として拾える時ではなくても、多色に染められた衣服を着てみたいものだとはぐらかしたもの言いをしている点にある。罪人には、何の色にも染められていない生成りの衣しか支給されていなかったのだろう。一気にカラフルに染められた衣を身にまとうことはできなくても、汚れが目立つからそうはならないようにまずはきれいな茶色に染めてみたいのだが、実が落ちる時期にも合わない。つまりは、罪をせいぜい一等程度は減じてもらえたらいいのにと思うが、それさえ許されない状況に置かれていることを暗示している。「斑の衣」を着ることははるか遠い夢物語、到底かなわぬことなのである。
 どうしてこのような歌が歌われているのか。「斑」と「島(嶋)」とが類語的な語、連想語であると考えられていたからであろう。

 とし、百済国より化来おのづからにまうくる者有り。其の面身おもてむくろ、皆斑白まだらなり。しくは白癩しらはた有る者か。其の人になることをにくみて、海中わたなかの嶋にてむとす。然るに其の人の曰はく、「若しやつかれまだらはだを悪みたまはば、しろまだらなる牛馬をば、国の中にふべからず。亦臣、いささかなるかど有り。能く山丘やまかたく。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為にくほさ有らむ。何ぞむなしく海の嶋に棄つるや」といふ。是に其のことばを聴きて棄てず。仍りて弥山みのやまの形及び呉橋くれはし南庭おほばに構かしむ。時の人、其の人を号けて、路子みちこのたくみと曰ふ。亦の名は芝耆摩呂しきまろ。(推古紀二十年是歳)

 斑白まだらな人は白癩しらはたある感染症患者ではないかとして、島に棄てようと思いつかれている。そのことは、シラハタ(白旗)を掲げたのは敗者、戦いに敗れた人を流罪にして島流しするのと同等である。だから、百済からの来訪者をいきなり島流しにしようとしている。このような言葉の感覚が通念とされており、したがって、戦いに敗れて白旗を掲げて投降した人には、その身体を「斑」にすべく、刑として入れ墨が施されて是とされたのだろう。ヤマトコトバとして辻褄が合う。次の記事は参考になる。

 夏四月の辛巳の朔にして丁酉に、阿曇連浜子あづみのむらじはまこを召してみことのりしてのたまはく、「いまし仲皇なかつみと共にさかふることをはかりて、国家くにかたぶけむとす。罪、しぬるに当れり。然るに大きなるめぐみを垂れたまひて、ころすつみゆるしてひたひきざむつみおほす」とのたまひて、そのめさききざむ。此に因りて、時人ときのひとづみと曰ふ。亦、浜子に従へるしま海人あまが罪を免して、やまと蒋代屯倉こもしろのみやけつかふ。(履中紀元年四月


 ここで、死罪の罪一等を減じて入れ墨にするだけでなく、野嶋にいた海人たちを屯倉で使役することにしている。海人たちは島流しされていたのだと認知され、解放してやったというのが言い分なのであろう。隷属させられた海人にとってはいい迷惑である。


 山守やまもりの さとに通ふ 山道やまみちそ しげくなりける 忘れけらしも〔山守之里邊通山道曽茂成来忘来下〕(万1261)

 「山守」を山の番人、例えば林業関係者だと考えるのは誤りである。
 ここでいう「山」はみさざきのこと、「山守」は古墳警備員のことである。地形を利用して造られた古墳もある。天皇陵や大豪族の古墳の場合、氏族の先祖の墓として大切にされたことであろう。しかし、律令制の導入によって門閥の勢力がそがれると、徐々に管理が行き届かなくなっていった。近代まで古墳は放置されたままとなり、うっそうとした森に変化しているところが多い。造営当初の姿は、草木が生えているわけではなく、葺石が敷かれて日に輝いていたり、埴輪が植えられて目につくところもあった。
 そんな「山」から村へ通じる道も、はじめのうちは草が覆っていたりはしなかった。でも、ご先祖様も、その墓のことも、かつての栄華についても、忘れられて打ち棄てられたらしいのである。歌い手にとっては、自分の家柄は門閥とは関係ないから実情がどうなのかは推測といえば推測なのであるが、時が経って忘れられるということの象徴であると十分に理解できたのである。「時」ということをよく解いた歌である。

 あしひきの やま椿つばき咲く やつ越え 鹿猪しし待つ君が いはづまかも〔足病之山海石榴開八峯越鹿待君之伊波比嬬可聞〕(万1262)

 「鹿猪しし」を待つ君の妻なのだから、猟師の奥さんのことである。そんな彼女が「いは」ふとは、猟の成功を祈念することである。
 どうして「やま椿つばき 咲くやつ越え」て猟に出向いているのか。実際にそうであったということではなく、彼女が旦那の猟の成功を願うこと自体が、「やま椿つばき 咲くやつ越え」と歌うことそのものなのではないか。
 狩猟で獲物を得る方法としては、山に入って獣道などを見つけ、そこで待ち伏せして矢を射たり、罠を仕掛けておいたりしていた。もちろん、猟銃と違い、矢を的中させたからといって即死することは少ない。出血して弱りながらも逃げて行く。その血の跡をたどって行って見つけ、あるいは罠のなかでもがいているところを棍棒で殴打して絶命させていた。大型獣を叩くための棍棒の材料としてツバキは適していた。硬くて比較的まっすぐに、細まることなく伸びている。二メートルぐらいとれないと猛獣を相手にするのは危険である。叩いてもどこも折れることがなく、また、追いかけて走りながらの作業となるなど、すぐ手に取って打撃を加えられるものでなくてはならない。持ち手か叩きどころかを区別することなく、上下逆さまになっても威力を発揮できるものが望まれる。ツバキ製の棍棒はその用途によくかなった。ツバキを詠む歌に「つらつら椿」とあるのは、川の両岸に生えているところを詠じているわけだが、上下を逆さにしても使用可能なことを弁えての言葉づかいである。ツバキは、ツバ(鍔)+キ(木)、どちらでも鍔の木と受けとめられていたと考えられる。
 狩猟では複数人で獣を追い詰める作戦をとっていた。勢子せこが円を描くようにして中心へと追い込んでいく巻狩りが知られている。山間部の場合、両側の尾根から谷へと追い込むこともあった。追い込まれて出て来た獣を待ち構えていた猟師が弓矢で射たのである。すなわち、「やつ越え」とは、八つの尾根から谷へと追い込んでいくこと、逆に谷から尾根へ追い上げていくことの両方を指すのであろう。八つ尾根があるとは、尾根から谷へ八体、谷から尾根へ八体、計十六体の獣が得られるという計算になる。奇妙な捕らぬ狸の皮算用であるが、その数字合わせが祈願する時に求められている。九九くくの導入によって知られた数字の読み上げ方のシシになるからである。8✕2=16=4✕4、掛け算でシシ(四四)、すなわち、シシ(鹿猪)が獲れるということである。そう歌に歌うことが「いは」ふということである。旦那が狩猟に出掛けた時におまじないに歌を作るなら、こういう歌を作るといいね、ということを言っているのであった。

 あかときと 夜烏よがらす鳴けど この山の ぬれの上は いまだ静けし〔暁跡夜烏雖鳴此山上之木末之於者未静之〕(万1263)

 原文の「山上」は、ヤマノウヘ、ヤマノヘ、ミネ、ヲカ、モリといった訓が試みられている。筆者は、タケ(岳、嶽)と訓むと考える。次の歌にあるとおり「たけばぬれ」の意を含んでいると考えられる。だからヌレの音の一致する「ぬれ」という語も使われている。

  三方みかたの沙弥さみ園臣生羽そののおみいくはむすめを娶りて、未だいくばくの時をずして病に臥して作る歌三首
 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 このころ見ぬに 掻き入れつらむか〔多氣婆奴礼多香根者長寸妹之髪此来不見尓掻入津良武香〕〈三方沙弥〉(万123)

 この歌の「たく」は髪を束ねることをいい、今でも、たくし上げる、という。手を使ってうまいことすることをいい、船で櫂を使うこともタクという。また、「ぬる」という言葉は、「自然にほどける。結んであった髪が解けて垂れたり、蔓草つるくさが引かれてぬけてきたり、人の心がうちとけてきたりすることをいう。」(時代別国語大辞典558頁)とあるように、上代に特殊な語である。「たけばぬれ」という言い方は、たくし上げればまた自然とほどけて垂れてしまうやわらかい髪のことを指してのもの言いである。それは、船を漕ぐのに櫂を使ったら自ずと櫂は濡れるものだということと同じだということで、同じ言葉に作られておさまっている。「たく」時には必ず「ぬれ」る、世の中そう決まっているというわけである。その「たく」は四段動詞で、已然形の「たけ」のケは乙類、タケ(岳、嶽)と同音である。

 あかときと 夜烏よがらす鳴けど このたけの ぬれの上は いまだ静けし〔暁跡夜烏雖鳴此山上之木末之於者未静之〕(万1263)
 東の空が白み始めたと夜烏が鳴くけれど、まるで高い山に生える木の梢、あなたがたくし上げた私の髪の髻の結い上げたところは、そのままになっていて静かなままですよ。

 「たけばぬれ」でなければならないはずである。美容院ではないのだから、ただ髪をたくし上げて整髪料を塗って整えただけというのでは仕方あるまい。髪をタクことをしたら必ずヌレてほどけることに相成らねばならない。つまり、タクのは次にムダク(抱)、ウダク(抱)、イダク(抱)ためであり、自然と髪はヌレることになる。それは髪が解けることであり、同時に帯も解ける。そのトキ(解、トは乙類、キは甲類)のトキ(時、トは乙類、キは甲類)を今か今かと待つ、そのためにタクことをした。一夜を共にし、女の髪を整えてきれいだなあと褒めて写真を撮るだけで、肝心の情事に進まないというのはおかしなことである。「思ひ乱れて」にかかる枕詞「朝髪あさかみの」(万724)も作られている。早くしてほしいと思う時を詠んだ歌である。「臨時」の歌である。

 西にしいちに ただひとでて め並ならべず 買ひてしきぬの あきじこりかも〔西市尓但獨出而眼不並買師絹之商自許里鴨〕(万1264)

 よくよく見定めもしないで買い物をして失敗したと言っている。それがどうして歌になるのか。つまりは、言葉の使い方がおもしろいと聞いた人の興趣を誘う要点は何か、今日まで理解されていない。
 難しいことではない。買い物をしたのは平城京の西の市である。絹製品を買うのに間違いをおかしてしまった。ヤマトの国の西にあるカラ(唐)の国からの舶来品だと一人早合点していたからである。キヌ(絹、キは甲類)と言うから「ぬ(キは甲類)」、つまり舶来したのだと聞き違えたのである。そして、舶来の絹製品として上等なのはにしき(キは甲類)だから、きっとそれだと思って誰にも相談せずに買ったら、西にしの市というだけでキが欠けていた。だから「あきじこり(キは甲類)」だというのである。市の立つ日は月の何日と決まっていた。常設ではない。その時が勝負で、次の日行っても誰もいない。フリーマーケットの出店のように二度と現れない相手との取引も多かったであろう。返品がきかないことは、取引自体あったかどうかさえ証明することが困難だからである。文字を使わない時代に領収書、レシートの類は存在しない。

 としく 新島守にひしまもりが あさごろも かたのまよひは たれか取り見む〔今年去新嶋守之麻衣肩乃間乱者誰取見〕(万1265)

 「島守」は防人と同じこととされ、「新防人にひさきもり」と訓まれることもある。それでは意味が通じない。「島」に派遣される者として捉えられていたからそう言葉にされ、そう書いてある。半島を含めた辺境の島は、唐や新羅などから侵略されないように防衛に当たるわけだが、島にはもう一つの役割がある。流刑地である。中央から罪人が送られてくる。ヤマトの、とりわけ政権の中枢にいたような人である。ついこの間まで偉い人として遇されていたのに、罪を得て流されてくる。そうなると、中央から島に来た人は、派遣された役人なのか、それとも罪人なのか、簡単には判別がつかない。どちら方なのか迷うことを、着物の肩の部分のほつれ、偏りを表す「まよひ」に喩えて言っている。

 こもりくの はつの川の 彼方をちかたに〔乎知可多尓〕 妹らは立たし この方に〔己乃加多尓〕 我は立ちて(万3299或本歌頭句云)
 此の時、おしくまのみこなに吉師部きしべおや伊佐いさ比宿ひのすくを以て将軍いくさのきみ太子おほみこかたは、邇臣にのおみが祖、なに波根子はねこ建振たけふる熊命くまのみことを以て将軍と。(仲哀記)
 絁〈紕字附〉 唐韻に云はく、……紕〈匹毗反、漢語抄に万与布まよふと云ふ。一に与流よると云ふ〉は繒の壊れむとるなりといふ。(和名抄)

 新任の島守には区別がつかない。偉そうな態度をとっているのは味方なのか、ヤマトに歯向かう敵方なのか、それとも罪人なのか、迷ひが生じる。麻の衣の肩のところに「まよひ」があるといい、誰がほころびを取り繕うのか、誰がきちんと指導してくれるのかと言っている。流罪には「隠び流し」というような左遷のケースもあり、新人にはその対処法もわからない。赦免になれば自分よりもはるかに高位高官に座ることもあるから、どう立ち回ったらよいか迷うところである。
 「新島守」として派遣されるその時に歌われている。前任者が船で帰還し、引き継ぎもないままその船に乗って交替ということだったと思われる。なにしろ顔写真の付いた書類などないのである。着任してみたら、島では、せいぜいが牢名主であろう人が役人面していたということも無きにしも非ずなのである。

 大船おほぶねを 荒海あるみ やふねたけ が見し子らが 目見まみはしるしも〔大舟乎荒海尓榜出八船多氣吾見之兒等之目見者知之母〕(万1266)

 大船の航海でいちばん苦労するのは漕ぎ出すときである。岩礁にぶつかって転覆、沈没する危険性が高い。慎重に水路を見極めて、水夫が檝や櫂を操って沖まで漕いでいく。腕を使ってたくし上げるような動作を取ることが「たく」という言葉である。いったん沖合に出れば、後は帆を張って帆走すればよくなり、水夫が緊張を強いられる場面は少なくなる。
 安全な水路のことを「水脈みを」といい、その標識のことを「みをつくし」という。ミヲ(水脈)+ツ(助詞)+クシ(串)の意である。大きな河川の河口部に津、湊は設けられていたから、その河川の主要流路こそ、水深が確保されていて大船の運航に支障がないところとなっている。少しでも外れると土砂の堆積物が多く、見た目は大きな河川でもそこは水深が浅くて大きな船が進むことはできない。それを知らせるための目印として澪標は立てられていた。

 みをつくし〔水咫衝石〕 心尽して 思へかも 此間ここにももとな いめにし見ゆる(万3162)
 遠江とほとあふみ いなほその みをつくし〔水乎都久思〕 あれを頼めて あさましものを(万3429)

 三句目の「やふねたけ」は一般に、已然形が逆接の前提条件を表す珍しい語法であるととられているが、順接と受けとることができる。「や船」はたくさんの船のこと、航海の経験回数が非常に多いことを言っている。
 つまり、この歌では、大船を荒海に漕ぎ出し、これまでもたくさんの船を漕ぎ出すのに檝や櫂を動かしているので、私が逢ったあの子の魅力的な視線がはっきりと思い出される、と言っている。櫂を振るう時、滅多やたらに漕いでいるのではなく、百回目の出航でも千回目の出航でも、出航の時であれば必ず澪標を目印にしながらふるっている。それはまるで好きになった子の目つきが魅力的で、吸い寄せられるようなもので、その子のために心を尽くしたのと同じことだなあと言っている。万3162番歌の例のように、澪標は必ず目にして外さないものであるとともに、心を尽くして思い続けることを印象づけるものである。
 出航の「臨時」の歌である。古代の大型船、準構造船の停泊形態の多くは潟に乗り上げる方式であった。満潮時にのみ船の周りに水が来て船は浮かぶ。多くて日に二回しかないチャンス、ひょっとすると大潮まで待たなければ訪れない時の歌であった。

(注)
(注1)例えば、澤瀉1960.197頁。
(注2)歌はすべて折々、時々に詠まれるものであろうとする正論が影山2022.68頁に述べられている。
(注3)「む」は「む」ことであり、その状態は「湿しめる」ことである。赤ん坊の小便を吸収させるあて布はおしめという。飼い犬は散歩の折にマーキングにつとめて自分のなわばりであることを確かめたがる。すなわち、しめしめ)を示そうとしている。シメの奥義である。
(注4)一つの音の言葉を二つの意味の交点として用いる掛詞が知られるが、同根の語が二つの意味に分岐したのであれ、もとは別々の語であったものが邂逅したのであれ、一つの音のもとでいわば金環蝕を起こすような使用が行われたとき、人はそれをうまいと評する。言葉づかいの機知に魅了され、脱帽せざるを得ない。
(注5)次の歌は似た歌としてあげられることがある。

 青柳あをやぎの 張らろかはに を待つと みどは汲まず たちならすも(万3546)

 澤瀉1960.は、海岸の井戸水がよくないために、村の女が山裾へ水汲みに来ているのを見たという。まわり道をしているというのは、万2379番歌の例にあるとおり、人目を忍んで逢いたいからまわり道をしているのだと解されている。
(注6)女の歌とする説に、「求婚を拒否する女の歌。」(大系本235頁)、男の歌とする説に、「路傍で女のほほ笑みをうけた男の自問自答」(伊藤1996.214頁)といった説がある。
(注7)男の歌とする見方もある。窪田1950.は、「男が女に求婚して、女から程よく婉曲に断られて、それと察して別れて来た後に、その時のことを思い出しての心である。」(156~157頁、漢字の旧字体は改めた)とする。
(注8)集中には、「ことなぐさ」の例がもう一首ある。

 われのみそ 君には恋ふる 背子せこが 恋ふといふことは ことなぐさそ〔言乃名具左曽〕(万656、大伴坂上郎女)

 通説では、あなたが恋していると仰るのは言葉だけの慰めですよ、と解されている。上二句は、私だけがあなたに恋している、と言っている。それは、他の誰もあなたに恋していない、私が独占的にあなたに恋している、つまりは、私はあなたしか目に入らない、神さま、助けてくださいと思うほどである、という意味である。それに対して、あなたが恋していると言っているのは、自分の気持ちを満足させているだけであって、恋の質が全然違う、と訴えている。このように捉えることができた時、はじめて大伴坂上郎女の情熱的な歌の本意が理解される。
 ほかに、「恋のなぐさ」という言い方もある。

 あさはら 小野をのしめふ 空言むなごとも 逢はむと聞こせ 恋のなぐさに〔戀之名種尓〕(万3063)

 両想いの恋ではなく、私の片思いであるが、その恋の自慰となるように大袈裟な言葉を掛けてください、と言っている。実際にはけっこう仲のいい間柄での恋の歌と目される。このように、「なぐさ」という言葉は、対象となる語がそれによって自ずと慰められることを指して使われている。
(注9)武田1956.は「子」を花の実のこととし、複雑な訓みを展開している(404頁)。
(注10)古代では、煎汁で染め重ねたか灰汁媒染したと考えられており、その時の色である。

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 四』集英社、1996年。
澤瀉1960. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第七巻』中央公論社、昭和35年。
窪田1950. 窪田空穂『萬葉集評釈 第六巻』東京堂、昭和25年。
影山2022. 影山尚之『萬葉集の言語表現』和泉書院、2022年。(「暁と夜がらす鳴けど─萬葉集巻七「臨時」歌群への見通し─」『萬葉語文研究 第12集』和泉書院、2017年。)
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 第六』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
土屋1951. 土屋文明『萬葉集私注 第七巻』筑摩書房、昭和26年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。

加藤良平 2023.11.2初出


「人なぶり」の語義

 万葉集巻十五に、「中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもり野弟上娘子ののおとがみのをとめと贈り答ふる歌」がある。目録には「中臣朝臣宅守の、くら女嬬によじゆ狭野弟上娘子にひし時に、みことのりして流す罪にさだめて、越前国こしのみちのくちのくにはなちたまへり。ここ夫婦めを別れ易く会ひ難きをあひ嘆き、各々おのもおのもかなしみこころべて贈り答ふる歌六十三首」とある。中臣朝臣宅守が流罪になり、狭野弟上娘子(また、狭野さのの茅上ちがみの娘子をとめとも伝わる)と会えなくなって、その悲しみ、嘆きを互いに歌いあっている。名歌として知られる「君が行く 道のながを たたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも」(万3724、狭野弟上娘子)以外にも六十二首あり、次の歌もその一つである。

 さすだけの 大宮人おほみやひとは 今もかも 人なぶりのみ このみたるらむ〈一に云ふ、今さへや〉〔佐須太氣能大宮人者伊麻毛可母比等奈夫理能未許能美多流良武〈一云伊麻左倍也〉〕(万3758、中臣朝臣宅守)

 原文では仮名書きである。ナブル、ヒトナブリといった語は用例が少なく、語意がはっきりしているとは言えないが、概ね、もてあそぶ、悩ませる、の意とされている。

 をとこひて入りなぶる。(霊異記・中34)
 ……ゑつらかあざけりてなぶるに、……(霊異記・下19)
 ……五嫂、為人ひととなり饒劇ゼウゲキとひとなぶりなり、(五嫂為人饒劇、)……(遊仙窟・真福寺本訓、文選読み、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100115923/20?ln=ja)
 㛴嬈嬲 三形同、奴道反、𢙉字同、弄也。和豆良波須わづらはす。(新撰字鏡)
 嬲 音㑲、奴了反、舊木・明秘・古押・女衫[ママ]反皆未詳、ヒキシロフ、タハフル、ナフル、ナヤマス、マサクル(名義抄)

 最初に確認しておきたいのは、今考えたいのは、ヤマトコトバのナブル、ヒトナブリであって、必ずしも「嬲」の字義ではない点である。「嬲」という字を目にすれば、いわゆる3Pセックスのようなものかという考えが浮かぶ。男女を入れ替えた「嫐」という字もある。しかし、この歌のヒトナブリはそのような意味ではない。
 ヤマトコトバとして推測してみれば、ナブリは、ナ(刃)+フリ(振)、刀を振り回すことではないかと想像される。伐りつけるために刃物を揮うということではなく、見ている人をはらはらさせる曲芸であり、手玉に取ることと同義ではないか。ジャグリングしてもてあそぶことも見る者をはらはらさせる。すなわち、これらはもともとサーカス用語であったと思われる(注1)

 庚申、[聖武]天皇すめらみこと、北の松林におはしまして、騎射うまゆみみそなはす。入唐にふたう廻使くわいしもろこしの人、唐国もろこししらがくつかへまつりて、挊槍ほことる。(庚申、天皇御北松林、覧騎射。入唐廻使及唐人、奏唐国・新羅楽、挊槍。)(続紀・天平七年五月)
 弄槍 楊氏漢語抄に弄槍〈保古斗利ほことり〈已上は本注〉、槍の音は倉、征戦の具に見ゆ〉と云ふ。(和名抄・雑芸類)
 弄丸 梁武帝千字文注に云はく、宜遼は楚の人なり、弄丸〈此間に多末斗利たまとりと云ふ〉を能くし、八つ空中に在り、一つ手中に在るといふ。今の人の弄鈴は是なり。〈楊氏漢語抄に弄鈴は須々土利すずとりと云ふ〉(和名抄・雑芸類)

左:「弄剣」(信西古楽図、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1194190/1/34~35をトリミング接合)、右:薙刀振り(石山寺縁起模本、狩野晏川・山名義海模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/E0055242.jpgをトリミング)                     

 万3758番歌の大意は、大宮人と呼ばれる者は今でもそうであろう、人を手玉に取ることを好んでいるのだろう、といったことである。これまで、ヒトナブリという語を、もてあそぶことなのか、悩ませることなのか解釈が分かれていた。官人たちがヒトナブリにすることとは、流罪になる前に中臣朝臣宅守がからかわれていたのを思い出してのことなのか、現在も都にいる狭野弟上娘子に対する振舞いが彼女を悩ませていると案じてのことなのか、議論されてきた(注2)
 けれども、この歌の前後に並ぶ中臣朝臣宅守の歌は、二人が離れ離れになってしまったことばかりを嘆く歌である。

 くわなしに せき飛び越ゆる 霍公鳥ほととぎす 多我子尓毛 まずかよはむ(万3754)
 うるはしと いもを 山川を なかへなりて やすけくもなし(万3755)
 向かひて ひともおちず 見しかども いとはぬ妹を 月渡るまで(万3756)
 が身こそ 関山せきやま越えて ここにあらめ 心は妹に 寄りにしものを(万3757)
 たちかへり 泣けどもあれは しるしみ 思ひわぶれて しそ多き(万3759)
 さは 多くあれども 物はず 安く寝る夜は さねきものを(万3760)
 世の中の 常のことわり かくさまに なりにけらし ゑし種から(万3761)
 わぎ妹子もこに 逢坂山あふさかやまを 越えて来て 泣きつつれど 逢ふよしもなし(万3762)
 旅と言へば ことにそやすき すべもなく 苦しき旅も 言にまさめやも(万3763)
 山川を 中に隔りて 遠くとも 心を近く おもほせわぎ(万3764)
 まそ鏡 懸けてしのへと まつりす かたの物を 人に示すな(万3765)
 うるはしと おもひしおもはば 下紐したびもに け持ちて やまずしのはせ(万3766)
  右十三首、中臣朝臣宅守

 彼が感じているのは、引き離されて再会する見込みがないこと、手玉に取られて自分たちの思いがままならないことだけである。「今もかも」と言っているのは、昔も今もずっとそうなのだろうか、の意である。自分一人が「大宮人」にからかわれたことでも、彼女一人が「大宮人」に悩まされていることでもなく、二人が一緒にいることができない状況のこと、それはまさしくなぶりものにされているのと同じことだと歌っている。人をナ(刃)+フリ(振)のごとき見世物にし、それを見ては喜んでいるのが「大宮人」なのだろうかと推量している。一抹ではあるが、恩赦を願っての言なのである。
 漢字の「嬲」「嫐」字はセクシャルな印象を強く意識させる字である。愛し合う二人(だけ)が一つになれないことを一応表意してはいるものの、万葉歌に使われているわけでもそれが本意であるわけでもない。

(注)
(注1)刀を手玉にとる曲技は「跳剣」や「かたなだま」とも呼ばれている。弄玉(品玉)の様子は、正倉院宝物の墨絵弾弓や東寺伝来の雑伎彩絵唐櫃(現MОA美術館蔵)にも描かれている。ナ(刃)+フリ(振)の義と解する場合、石山寺縁起に描かれるような、手もとで刀をくるくる振り回すような仕儀かと思われる。文献に見える「弄槍」は、「おそらく舞楽の曲目に編成されて内容が変化した」(角田1981.290~291頁)演技の絵として古楽図に載る。もはやスリリングには見えない。古楽図は日本平安初期に成立とする説のほか、中国唐代成立、遣唐使により将来とする説もある(福島2006.参照)。なお、続紀所載の「挊」字は「弄」の俗字である。
(注2)近年の通釈書でも、新大系文庫本は前者、多田2010.は後者の立場をとっている。

(引用・参考文献)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
多田2010. 多田一臣訳注『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
角田1981. 角田一郎「散楽の芸能」芸能史研究会編『日本芸能史 第1巻』法政大学出版局、1981年。
中川2019. 中川明日佳「『萬葉集』中臣宅守の三七五八歌の表現とその位置づけ─「人嬲り」を中心に─」毛利正守監修『上代学論叢』和泉書院、令和元年。
福島2006. 福島和夫「〔古楽図〕考 付陽明文庫本影印」『日本音楽史研究』第6号、上野学園大学日本音楽史研究所、2006年3月。
吉井1988. 吉井巖『萬葉集全注 巻第十五』有斐閣、昭和63年。

加藤良平 2023.11.1初出


枕詞「そらにみつ(天尓満)」(万29)について

 柿本人麻呂の近江荒都歌として知られる長短歌三首はよく知られる。ここでは、長歌に現れる枕詞と思しい「そらにみつ」という語について考察する。

  近江あふみの荒れたる都をよきりし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
 玉だすき うねの山の 橿原かしはらの ひじりの御代みよゆ〈或に云ふ、宮ゆ〉 れましし 神のことごと つがの木の いやぎ継ぎに あめの下 知らしめししを〈或に云ふ、めしける〉 そらにみつ 大和やまとを置きて あをによし 奈良山を越え〈或に云ふ、そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて〉 いかさまに 思ほしめせか〈或に云ふ、思ほしけめか〉 天離あまざかる ひなにはあれど 石走いはばしる 近江あふみの国の 楽浪ささなみの おほの宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇すめろきの 神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂くひたる 霞立つ はるれる〈或に云ふ、霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる〉 ももしきの 大宮おほみやところ 見れば悲しも〈或に云ふ、見ればさぶしも〉(万29)
  過近江荒都時柿本朝臣人麿作歌
 玉手次畝火之山乃橿原乃日知之御世従〈或云自宮〉阿礼座師神之盡樛木乃弥継嗣尓天下所知食之乎〈或云食来〉天尓満倭乎置而青丹吉平山乎超〈或云虚見倭乎置青丹吉平山越而〉何方御念食可〈或云所念計米可〉天離夷者雖有石走淡海國乃樂浪乃大津宮尓天下所知食兼天皇之神之御言能大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流〈或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留〉百礒城之大宮處見者悲毛〈或云見者左夫思母〉

 枕詞「そらにみつ」は、柿本人麻呂が作ったと考えられている。もともとあった枕詞「そらみつ」を五音化したと考えられている。「そらみつ」は「やまと(のくに)(大和(国))」に掛かる。「そらにみつ」も、何が「そらにみつ」なのかはいまだわかっていないものの、「やまと(大和)」に掛かる。そして、新語を登場させてまで同じ掛かり方をする理由について問題にすることがある。その際、枕詞において最大のテーマであるはずの、何に掛かるかという点で二つの立場がある。「そらにみつ」は「やま(山)」に掛かり、結果的に「やまと(大和)」を導くとする説と、「そらにみつ」は「やまと(大和)」に掛かるとする説である。それぞれ、専論によって示す(注1)

 [万29番歌にある「奈良山」は、]大和を離れるに当たって別れを惜しむべき山であり、大和と鄙との境界の山で、大和を離れるに際して特別の感慨を抱かせた山である。畝傍の山→そらにみつ山─大和→奈良山と、山を繋いだのが人麻呂の意図ではなかったかと推測される。神武天皇紀に見える当時の解釈、神が「空見つ」をもとに、人麻呂が新しい枕詞を創り出したことによって、このような歌の流れが生まれた。「大和をおきて」「奈良山を越え」とうたったことによって、五音+七音のリズムが整うとともに、境界としての奈良山が鮮明になる。……これらの表現の存在や文脈を思えば、「大空から見て良い国だと選び定めた」「神の霊威のあまねく付着した」と神と関わって捉えられていたであろう枕詞[「そらみつ」]を改めて、山に統一して、山に囲まれたとの古事記以来の伝統を継承したほめ言葉を連想させる「そらにみつ」を創出した[のだろう。](岡内2015.23~24頁)
 「天」が王都であることを補強するものに「そらみつ」の枕詞がある。この枕詞は「山」にかかるのではなく「やまと(大和)」にかかる。「天」はアメではなくソラと訓む。アメと訓むと、同歌(二九)中の他の「あめ」の語との間に意味上の矛盾をきたす。しかし作者人麻呂が「そらみつ」(二九或云)を「そらみつ」と推敲の結果変えたのには明らかな「天」志向があろう。「倭が『そら』に満ちている」のは、倭が日の御子なる天皇のもとに繁栄していることを表す。倭讃美であり天皇讃美の枕詞である。「そらみつ」を「そらみつ」と変えた人麻呂の推敲は成功しているのであって、決して平板化した失敗作ではない。失敗というのは我々の感性が人麻呂に及ばぬかない人麻呂とは異質であることを証するに過ぎないのではなかろうか。(金井2019.183頁)

 歌の言葉は歌が歌われている最中にしか聞かれない。空中を飛び交うにすぎない歌の言葉、それも次にくる言葉を予感させるにすぎない枕詞は言葉遊び(Sprachspiel)の極地にある言葉である。ましてやそれが新語であるのなら、前後の文脈を丹念に拾わなければ理解できないということはあり得ない。聞き直すことがないのが歌である。えっ、何だって? と聞き返さなければならなくなったらその時点でその歌は失敗作である。失敗作が書き残されている可能性はなくはないが、成功作であることを第一の前提として歌を解釈し、それが可能ならその解釈が正しい。
 そのことは、歌の言葉である枕詞にイデオロギーが持ちこまれることがなかったであろうことにも通じる。聞く側の理解が追い付かなければ用をなさないからである。言葉とはそういうものである。天皇制を讃美する言葉ではなく、この歌の例が唯一例で、人麻呂の造語である。
 「そらにみつ」という枕詞を創出するに当たって人麻呂は何を考えたか。まず、「そらにみつ」は「やまと」に掛かるとして聞く人にもすぐに納得されるであろうと考えている。「やまと」を「日本」と書くことがあった。当時の人々の共通認識として知られていた(注2)。「やまと」という地方や国が、どういうわけかは知らないが、「日本」と書くということが知られていたら、「やまと」というところは「日」の「本」、sun が originally にあるところ、つまりは、to be filled with the sun in the sky な状態にあるということである。これを訳せば、「空に満つ 日本」ということになり、表記するに当たり「天尓満倭」と書いている。非常にシンプルな着想であり、「そらにみつ」という新語はその場に居合わせた人に無理なく聞き入れられたであろう(注3)
 枕詞は言葉のつながりをおもしろがるために工夫された修辞である。例えば、次のような例を参照すれば、ヤマトコトバが漢字による表記を伴うことになり、言葉に対する興味を深めていった様子が見て取れる。

 …… はる 春日かすがを過ぎ〔播屢比箇須我嗚須擬〕 ……(武烈前紀、紀94)
 …… はるの 春日かすがの国に〔播屢比能哿須我能倶儞儞〕 ……(継体紀七年九月、紀96)
 はるを 春日かすがの山の〔春日乎春日山乃〕 ……(万372)

 「かすが」という言葉を表記した時「春日」となり、それは「はるひ」とも訓める。だから、「かすが」に掛かる枕詞として、「はるひ」「はるひの」「はるひを」などという言葉が案出されている。言葉遊び(Sprachspiel)の次元として枕詞はこのレベルである(注4)。「やまと」を「日本」と書くのだ、と知った時の喜び、驚きが、もとからあった「そらみつ」という枕詞とは掛かり方の粘着としては別種の、「そらにみつ」なる枕詞へと昇華しているのである(注5)。前後の文脈(注6)やイデオロギーでこじつけて修辞がなされていると考えるよりも、はるかに言葉の実勢に合致していると言えよう。万葉集の歌をネタに頭でっかちな理念を押し付けている論者には、言葉とは何かについて猛省が求められている。

(注)
(注1)多くの万葉集研究では、先行研究を研究史的に長々と記述するのが慣例となっている。ここでは比較的最近の論考を紹介するに限り、筆者の議論に直接関係しないものは本文に掲げていない。
(注2)万葉集中の「やまと」の表記としては、「山跡」は14例、「倭」は20例、「日本」は16例ある。古事記では「倭」が常用され、日本書紀では「倭」、「大倭」ともあるが、特に、「すなはおほ日本やまと〈日本、此には耶麻騰やまとと云ふ。しも皆此にならへ。〉豊秋とよあきしまを生む。」(神代紀第四段本文)と注されている。拙稿「聖徳太子薨去後の高麗僧慧慈の言葉「玄聖」について」において、「やまと」という語を「日本」と表記していたことを慧慈が認識していたように記されていることから、「日本」と書くようになったのは聖徳太子の発案であったらしいことを推定した。
 なお、「やまと」という言葉を書き表す際に「日本」と書くことにおいて、いかなる思想的背景を担っていたかを問うことは、言葉の語源を問うことと同じく証明のしようがないことである。逆に、どうして「日本」と書いて「やまと」と訓めるのかという視点は、「倭」、「大和」、「大養徳」と書いて「やまと」と訓むことにしたことの謎を解こうとする営みと同じく、上代の人の思考の跡を辿ることにつながるから正しい研究姿勢といえる。本稿では、「やまと」を「日本」と書いたことから派生する言葉の展開について検討している。
(注3)「満」の字義について、「さてミツとは、山のミチタリて、蒼天ソラまでソヽリ上れるを フ。」(橘守部・稜威言別、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1069688/1/158、漢字の旧字体は改めた)、「天空に霊威の充満するさまを賛美したものか。」(多田2009.43頁)、「「空」を満たすように山々の頂が存在する「大和」として、大和賛美の系譜を引いた」(岡内2015.22頁)ものとする説が行われてきている。これらの考えは、漠然としていて聞き手に伝わるとは限らず承服しがたい。
(注4)枕詞一般について、そうではないとする説が、稲岡1985.、井手2009.、西郷2011.などに見られて今日の主流となっている。対して、廣岡2005.は「言語遊戯としての枕詞」(355頁)を考えている。「「言語遊戯」が不真面目な表現を意味するものでは決してない。古代口承世界における自由な言語活動のありようであったと考えられる。」(356頁)と肯定的に捉えている。筆者は、ほぼそれと同じ見方をするものの、もう一歩進んで次のように述べたい。言語活動には真面目も不真面目もなく、伝わるか伝わらないかしかない。伝わったら言語活動であり、伝わらなかったら言語活動ではない。言語活動として失敗であって、言語活動とは呼べないのである。逆に、言語活動のなかにある洒落のわからない奴は、言語活動から排除されるだろう。
(注5)井手2009.に、「枕詞「そらに満つ」の例は、「天見つ」から「天に満つ」へ新解釈とともに語形の変化をも伴ったものと考えられる。」(87頁)とある。
(注6)本稿の解釈に従えば、次の解説は反証を得たことになる。

 柿本人麻呂における枕詞の用法については、すでに個々の作品および枕詞に即して具体的に考察されており、それらは、おおむね人麻呂の枕詞が、文脈に関わるように作られているという方向で一致する。(白井2005.29頁)

 文脈依存性があるかどうかを措くとしても、人麻呂の枕詞の用法と記紀歌謡ないし初期萬葉の用法との間には大きな差があると認められるとされる。口承から記載へと歌の性質が変化したことによって、枕詞も質的な変化を来していると考えられている。その点は、この「そらにみつ」が「やまと」に掛かる理由が「やまと」を「日本」と記してはじめて生まれたことにも表れていると言える。ただし、記紀歌謡においても、前掲の枕詞「はる(の)」が「春日かすが」に掛かるように、記載しなければそうは連想されなかった例が見られる。枕詞に対する理解は、現代の研究者の整理整頓された頭脳には当てはまらない側面が多い。

(引用・参考文献)
阿蘇1990. 阿蘇瑞枝「枕詞と地名」『東アジアの古代文化』第64号、1990年7月。
井手2009. 井手至『遊文録 萬葉篇二』和泉書院、2009年。
稲岡1985. 稲岡耕二『万葉集の作品と方法─口誦から記載へ─』岩波書店、1985年。
岡内2015. 岡内弘子「「そらにみつ 大和」と「そらみつ 大和」」『香川大学国文研究』第40号、平成27年9月。
澤瀉1941. 澤瀉久隆『萬葉の作品と時代』岩波書店、昭和16年。
金井2019. 金井清一『古代抒情詩『万葉集』と令制下の歌人たち』笠間書院、令和元年。(「「天尓満」─人麻呂枕詞考─」『古典と現代』第54号、1986年9月。「柿本人麻呂─その「天」の用例、「天離」など─」和歌文学会編『論集万葉集 和歌文学の世界 第11集』笠間書院、昭和62年。)
西郷2011. 西郷信綱『西郷信綱著作集 第4巻』平凡社、2011年。(「枕詞の詩学」『文学』第53巻第2号、岩波書店、1985年2月。)
白井2005. 白井伊津子『古代和歌における修辞─枕詞・序詞攷─』塙書房、2005年。(「修辞としての枕詞─人麻呂の方法─」『萬葉』第167号、平成10年10月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1998
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。(「言語遊戯としての枕詞─「生命指標(らいふ・いんできす)」説は成り立つか─」『萬葉の風土・文学 犬養孝博士米寿記念論集』塙書房、1995年。)
村田1983. 村田正博「人麻呂の技法─近江荒都歌をめぐって─」『萬葉の歌人とその表現』清文堂出版、2003年。(『人文研究』第35巻第3号、大阪市立大学文学部、1983年。大阪市立大学学術機関リポジトリ https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_DBd0350302

加藤良平 2023.10.16初出


万葉集の「小雨降りしく」歌について

 ぬばたまの 黒髪山くろかみやまの 山菅やますげに さめ降りしき しくしく思ほゆ〔烏玉黒髪山々草小雨零敷益々所思〕(万2456)
 おほらに さめ降りしく もとに 時と寄りね 我がおもふ人〔大野小雨被敷木本時依来我念人〕(万2457)

 ここにあげた「小雨降りしく」の歌は万葉集巻十一にある。「寄物陳思」の部立にあり、万2516番歌の左注に「以前一百四十九首柿本朝臣人麿之謌集出」とあるから人麻呂歌集歌のうちの二首であった。「寄物陳思」は物にことよせて恋情を表現した歌であるとされている。「寄物陳思」の部立のある巻十一と十二は、目録に「古今相聞徃来謌類之上・下」とあるからそう受け取られている。分類として「正述心緒」と対置されるが、その区分は恣意的なものであると指摘する向きもある。ただし、「寄物陳思」の歌は必ず物を詠み込んでいて、また、序詞形式がその典型を成している(注1)。万葉集に歌を配置するに当たり、編纂者が区切りを入れて集めた結果、今日の形として残されているのだろう。目録にある「古今相聞往来歌類」は後付けであるかもしれず、その示すところのミソは「類」にある。「相聞」とあっても恋の歌を互いにやりとりしているのではなく、一首ずつの断片としてある歌を並べている。そして、上にあげた二首は恋情を表す歌ではないと筆者は考えている(注2)。従来からの通説的な解釈(注3)を、稲岡1998.によって示しながら行論する。

 ぬばたまの 黒髪山くろかみやまの 山菅やますげに さめ降りしき しくしく思ほゆ〔烏玉黒髪山々草小雨零敷益々所思〕(万2456)
 (ぬばたまの)黒髪山の山すげに小雨がしきりに降るようにしきりに思われる。(稲岡1998.278頁)

 稲岡1998.の評言に、「類音を繰返す序詞ではあるが、黒髪山の山菅に降りしく雨が象徴的な印象さえ与える。」、「文字以前の声の文化における同音反復の序詞には無かったと思われる巧緻な情調を感じさせる歌である。」(279頁)という(注4)。こういった評価は近代の視点によるものである。疑問点としてまず挙げられるのは、この歌の設定が「黒髪山」になっているが、その理由は奈辺に由来するのか、また、小雨が降りしくところにあるものは何故「山菅」でなければならないのか、といった点である。「黒髪山」は佐保山の一部であるとされているが、その山を知らない人が聞いた時、この歌はほとんどわからないことになる。そこに「山菅」が生えていることを知らない人には、さらにちんぷんかんぷんである。若い女性の黒髪を象徴して「黒髪山」を登場させ、「山菅」もなよなよとした葉が髪のように映ったのだとされているが、スゲの葉には幅があって髪の毛の一本一本を表すものでも、女性の髪の柔らかさを表すものでもなく、そのような譬喩の例は他に見られない。
 筆者の訓みと解釈を以下に述べる。

 ぬばたまの 黒髪山くろかみやまの 山菅やますげに さめ降りしき ますます思ほゆ〔烏玉黒髪山々草小雨零敷益々所思〕(万2456)
 (ぬばたまの)黒髪山の山菅に小雨がしきりに降っていて、雨に濡れる私は頭髪を覆う菅笠を被りたくなり、ますます黒髪山の山菅のことが自ずと思われる。

 この歌の音の連なりはシキ(シク)→シクシクにあるのではない。「益々所思」と言って思う対象を別れてきた妻のこととするとされてきた。しかし、そうではなく、「山菅」こそが「益々所思」の対象であり、主題であるのだろう。
 小雨が降り続いているのである。そのとき欲しいのはカサ(傘、笠)である。誰しもそう思う。佐保山の地理に疎い人でもである。当時一般的に使われていたのは頭に被る笠で、材料にはスゲが多く使われていた。菅笠すげがさである。

 真野まのの池の すげを笠に はずして 人のとほを 立つべきものか〔真野池之小菅乎笠尓不縫為而人之遠名乎可立物可〕(万2772)(注5)

左:菅笠(喜田川季荘・守貞漫稿、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2592415/1/27をトリミング)、中:笠を被る男子頭部(埼玉県熊谷市野原古墳出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)右:カサスゲ(10月)

 菅笠をかぶって黒髪を覆って雨を防ぐ。だから黒髪山の菅の歌に作られている。それも「山菅」である。ヤマス○○ゲという音には真ん中にマスという音が入っている。だからマス○○マス○○思うと言って正しいのである。自然と思われること、「思ほゆ」ことである。単純明快である。
 文字以前の声の文化における巧緻な頓智が冴えわたる傑作である。恋情を述べたものではなく、物(「山菅」)にことよせて思い(菅笠が欲しい)を表現した「寄物陳思」の歌ということになる。

 おほらに さめ降りしく もとに 時と寄りね 我がおもふ人〔大野小雨被敷木本時依来我念人〕(万2457)
 大野に一面に雨が降りしきる。これを良い機会として木の本にお寄り下さい。私の思う人よ。(稲岡1998.279~280頁)

 稲岡氏の訓考に次のようにある。

 「小雨被敷」の「被」の字、万象名義に「皮被反表也具也䨱也加也」とあるように、雨などが降る意を表わす文字ではない。従ってフル意味に用いた例は見られない。前歌にも「小雨零敷」とあった。なぜ「被敷」であって、「零敷」としなかったのか考える必要がある。雅澄の古義に「被敷はフリシクと訓がたし、本居氏、誤字ならむ、といへり、さもあるべし」と宣長の誤字説をあげているのは、むしろ当然の疑問とも考えられる。……「被敷」がフリシクに相当すると言っても「被」をフリに宛てて書いたわけではないのであろう。「オホノラニコサメフリシク」または「オホノラニコサメフリシクコノモトニトキトヨリコネワガオモフヒト」を表意的に漢字で表現しようとすると「大野小雨被敷……」の方がふさわしいと判断されたということである。「小雨敷」だと「山草小雨敷」のように狭い範囲に焦点が搾られ易いが、「小雨敷」だと「被」に覆う意味のあるところから、大野を一面に覆う小雨が想像される。それで「木の本に時とより来ね」という下句の誘いも生きるだろう。さらに言えば、「大野 小雨敷 木本……」とするとオホノラノコサメフリシクコノモトというふうに第二句までが木の修飾語と解される可能性も生ずるが、「敷」だと大野全体にかかわることが明らかなので、二句目に区切れを置いて読まれ、「木」の修飾語とはならないのである。そうした区切れへの配慮も感じられる。(280~281頁)

 我田引水の解釈である。大きな野に小雨が降りしいたという時、それが木の生えているところだけに降り続いている状況は尋常ではない。「小雨被敷」と書いても「小雨零敷」と書いても、声にしたらコサメフリシキ(ク)となる。フリシクという語彙は、「ふりしきる……[ことだが、]シクにはしきりに~する・重ねて~する意も、一面に敷きつめる意もあり、雪フリシクの場合、平らに薄く敷きつめる意にもとれる。」(時代別国語大辞典、644頁)という両義性がはじめからそなわっている。対象によってどちらの意に重きを置くか自ずと決まるもので、思いを込めて文字を選んで書くという意味合いはあっても、借字、義訓、戯書が混淆しているのが万葉集の表記である。表意性によって歌意を汲むのにはリスクが付きまとう(注6)
 「被敷」でフリシクとは訓めないとする考えは、万葉集の鷹揚な義訓表記法と相容れないものである。「被」はカブル、カブリと訓め、前歌に菅笠を被ることを歌にしていたところからその音を借りていると予想がつく。下二音を使ってフリにも当てながら、小雨が大野一面に降り被っていることを表すために「被」字を使っているのだと理解できる。ただそれだけのことで、それ以上の意味は持たないだろう。
 また、「時依来」について、雨宿りをこれ幸いとしてその時に、私のところへ寄って下さいの意として、トキトヨリコネと訓んでいる。「時」をトキドキと訓んでトキドキヨリコ、一定の時ごとに寄って下さい、とする説、ヨリヨリと訓んでヨリヨリヨリコ、その度ごとに寄って下さい、と言葉遊びに類音を繰返しているとする説もある(注7)。いずれにせよ、思い人が自分のところへ寄ることを願って言ったもの、寄物恋歌であると考えられている。大きな野で小雨がしきりに降っていて、なんとか雨宿りになりそうな木を見つけて寄って来るように異性のところへ身を寄せるというのであれば、伊藤1997.のように実景に近く受け取って、「二四五七も山中での実感を漂わせる。人気のない野の木蔭で雨を避けている女の姿が浮かんでくる。この女は、高貴な女、深窓の女ではあるまい。下級官人の娘または労働に従う農村の女性なのであろう。女の息が聞こえてくるような切迫感があって、やはり捨てがたい。」(128頁)と解されたり、それを比喩表現ととっても、伊藤氏の解釈の先にあるのは夜鷹でしかなく、あるいは、付き合い下手で友だちがおらず誰も相手をしてくれないなか私なら包容力をもって迎えますよ、と言っているということになる。品位からしてそういう歌のはずはないとは言えないが、根本的に読み誤っていると考える。前の歌は菅笠の歌であった。この歌も恋情を歌っている可能性は低い。

庄内藩「曽根原家名子松植付ノ図写」(日本林制史・口絵1頁、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242757/1/8をトリミング)

 「野」は、山ではないが小高い地形で水がかりが悪く、草や灌木が生い茂っていて開墾して作物を育てようとは思わないところである。放置されて野生動物が棲息し、狩猟の地となっているが、生産性ははなはだ低い。そんなところに「木の本」と呼ぶに値する大きな木が生えていて雨宿りができる。その可能性は存在する。植林である。木の苗を植えて育てる(注8)。植え付ける時には水やりに困らないように小雨の時に行き、時々巡回してはうまくいっているか確認する。枯れていたらまた苗を植え、土砂が流されていたら鋤で整え、周囲に雑草木が生えてきたら下刈りし、木が増えすぎていたら間伐し、きれいな用材を得るためには枝打ちする。「なへ(ヘは乙類)」は「もと」である。
 そして、ナヘ(ヘは乙類)という言葉には、助詞のナヘの意味もある。ナヘニの形でも使われ、……とともに、……と同時に、……につれて、の意である。書き直すと次のような意を隠し持っている。

 おほらに、さめ降りしくなへに、時々寄りへる人(注9)〔大野小雨被敷〈木本〉時依来我念人〕(万2457改)
 大きな野に小雨が降り続くのにあわせて植えた苗のところに、時々巡回しに来てください、私が望む人よ。

 類歌には次のようなものがある。

 黄葉もみちばを 散らすしぐれの 降るなへに 夜さへそ寒き ひとりし寝れば〔黄葉乎令落四具礼能零苗尓夜副衣寒一之宿者〕(万2237)
 おほらに さめ降りしく もとに 時々寄り へる人〔大野小雨被敷木本時依来我念人〕(万2457)

 大野に小雨が降り続く、そこにあるコノモトに時々寄り来てください、我が期待する人よ、その人は、コノモトなるナヘ(苗)を大野に小雨が降り続くナヘ(ととも)に植えては、そこに時々寄り来て見守ってください、そう私が願う人よ。
 類歌としてあげた万2237番歌ともども、助詞のナヘニを用いている。助詞のナヘ、ナヘニについては、大浦2018.に使用法の詳細が検討されている。そこでは、用例を前期万葉と後期万葉とにひとまず分けて論じ、後期万葉の例から明らかとなっている点について次のように説いている。

 季節歌の用例においては、主体の積極的行為・関与はあまり歌われず、一見すると主体の存在は表現の背後に隠れているようにも見えるが、視覚・聴覚・皮膚感覚等の感覚表現が「なへに」「なへ」によって複合されることによって、それらの現象を受け止め、知覚する主体が、むしろ存在感を伴って立ち現れてくる。……「なへに」「なへ」の語釈が「併行」「偶然継起併存」という説明……自体に誤りはない。「なへに」「なへ」そのものには、因果といった論理的な意味は希薄である。「なへに」「なへ」の語法においては、むしろ、明確な因果関係において捉えられないものとして前件と後件が提示される──ただ提示される──ことによって、かえってその背後にある人知を超えた連動と、それを感じ取り受け止める主体が感得されるのだと言うべきであろう。(77頁)

 万2457番歌を改変を含めて考えている。そこに大浦氏の指摘する「なへに」「なへ」の特徴は見出し得るか。
 前件の「おほらにさめ降りしく」は、万2237番歌の「黄葉もみちばを散らすしぐれの降る」同様、感覚表現である。後件の「時々寄り」がはたして感覚表現と言えるものなのか、疑問とされる向きもあるだろう。しかし、ここは「時」を確実にトキドキと訓むことにおいて、感覚表現であると見て取ることができる。前件の「おほらに さめ降りしく」とどのような変化を見るか。土が濡れて色が変わる。そのような光景は海浜においてよく目にする。潮の満ち引きによって砂浜の色が変わる。海水が寄り来ることによって濡れれば濃くなり、反対に引けば乾いて薄くなる。その変化は繰返される。繰返されることを表す「時」は、一定の時間ごとの意であり、トキドキという言葉がふさわしい。そう訓むことによって、「もと」は「なへ(ヘは乙類)」のことであるという頓智はひときわ精彩を放ち、歌全体がまとまりをもって訴えてくることになる。
 この歌では、「陳思」の意味が木を植えて育てる人への思いを陳べることとなっている。もちろん、「木本」はコノモトニと訓まれ、コノモトとは何のことかな? というなぞなぞが仕掛けた歌となっている。なぞなぞを問い掛けることは聞く人がいなければ行われない。万葉集の歌の何よりの特徴は、聞く人がいるから歌われ、それが記し残されたものであるということである。聞き手不在のモノローグ、日記のような備忘録とは性質を異にしていた。当時の人はそれを「歌」と認識していた。
 この歌では、そのなぞなぞの問いかけとなぞなぞの答えとを「もとに」という句に隠し持たせている。その言葉がカギになっていることは、モトという言葉が「ことのもと」を表すことからも、上代のヤマトコトバの操り手に気づきやすく仕掛けられているとわかる。結果、一つの歌に問いと答えの問答が併せ詠まれている。一つの言葉のつながりのなかで二つの意味を重ね合わせる言語手法は、万葉集の歌では「二重の序」の形式として知られている(注10)。三十一文字(三十一音)で簡潔にして豊富な情報量を盛り込むすべを、上代の人たちはものにしていた。万葉集では助詞の「なへ」「なへに」に「苗」字を当てて書くことがある。それは音声である歌を記し残すために行われた手法である。学校教育のようなものが流行って字義を重視して理解する識字文化に染まったならば、助詞のナヘの意を他の意と連動させて理解することは難しくなっていく。この歌は、文字以前の言語コミュニケーションによるもので、その粋を集めたような傑作と言えるのである。恋情を述べたものではなく、物(「木本」)にことよせて思い(植林して欲しい)を表現した「寄物陳思」の歌である。

(注)
(注1)大浦2008.73頁。
(注2)「寄物陳思」の歌はほとんど寄物恋歌である。「妹」「君」「吾妹子」「吾が背子」「恋」「逢ふ」「纏く」「相見し」など、キーワードとなる言葉が入っていることが多い。例外的に恋の思いを陳べるのではない歌は他にもある。次の一例も誤解されている。

 大船の とりの海に いかり下ろし 如何いかなる人か 物思はずあらむ〔大船香取海慍下何有人物不念有〕(万2436)
 (大船の)香取の海にいかりを下ろしいかなる人が物思いをせずにいられようか。(稲岡1998.233頁)

 「いかり」と「如何いか」とを掛けている。この歌の「物思はずあらむ」は恋に悩むこととは決められない。どのような人が物思いにふけらずにいようか、とは、必ず物思いする人がいるということである。それが誰なのか、実は歌のなかで歌われている。大きな船がカトリ(香取)の海に碇を下ろしたら、その大きな船に乗っているカトリ(楫取)、すなわち船を漕ぐ水夫たちは、自分たちはどうしたらよいのかと自己撞着に悩むというのである。楫を漕いでなんぼの人がカトリであるのに、カトリの海にとどまることが強要されてしまっている。冗談じゃないと怒りたいところだが、怒りは下ろしているとされている。物思いせずにはいられないわけである。「寄物陳思」の歌であり、「陳思」の意味が歌の内部へクラインの壺の如く入り込んでいる。論理学的興味から歌が作られている。
(注3)この二首については専論、大島2019.があり、訓みと解釈について問題点がまとめられている。
(注4)稲岡1998.は齋藤1939.669~670頁、鴻巣1932.445頁を引いている。
(注5)スゲ製の笠を詠んだ歌には、他に、万1284・2771・2818・2819・2836・3064・3875番歌がある。
(注6)コヒ(恋)を「孤悲」と書いてあるからといって、上代の恋の観念はすべからく一人居して恋い焦がれていることを指すものとはならない。スミノエを「住吉」と書いたら誤読して地名がスミヨシに後に変わることになったとはいえ、往時、その地がスミノエと呼ばれていたことに変わりはない。
(注7)新大系文庫本は、「「よりより」は度ごとにの意。行き来のたびに雨宿りせよと言う。……「時 ヨリ\/」(名義抄)。」(267頁)としている。万葉集中、「時」をヨリヨリと訓む例はこの一例である。トキドキとヨリヨリの違いは、トキドキに一定間隔ごとにの意を持つ例がある点である。
(注8)植林方法としては、苗木を植える方法、種子を播く方法、挿し木を行う方法がある。日本では他の植物が繁茂しやすいので播種や挿し木はあまり行われていない。
(注9)「我念人」は、アガモヘルヒトと訓むべきであるという。鶴1995.194~196頁参照。
(注10)「二重の序」についての通説に飽き足りない点については、拙稿「万葉集の修辞法、「二重の序」について」参照。

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 六』集英社、1997年。
稲岡1998. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第十一』有斐閣、平成10年。
大浦2008. 大浦誠士『万葉集の様式と表現─伝達可能な造形としての〈心〉─』笠間書院、平成20年。
大浦2018. 大浦誠士「万葉集「なへに」の表現性」『萬葉集研究 第三十八集』塙書房、平成30年。
大島2019. 大島信生「人麻呂歌集「寄物陳思」歌二首の解釈─巻十一・二四五六番、二四五七番─」毛利正守監修『上代学論叢』和泉書院、令和元年。
鴻巣1932. 鴻巣盛廣『萬葉集全釈 第三冊』大倉廣文堂、昭和7年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
齋藤1939. 齋藤茂吉『柿本人麿評釈篇巻之下』岩波書店、昭和14年。
鶴1995. 鶴久『万葉集訓法の研究』おうふう、平成7年。
日本林制史 農林省編『日本林制史資料 第十二巻』朝陽会、昭和7年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1242757
八木2004. 八木京子「懸詞的用法における文字選択─人麻呂の序詞を中心に─」『美夫君志』第69号、平成16年11月。

加藤良平 2023.10.7初出

万葉集の「恋忘れ貝」と「忘れ貝」─「言にしありけり」とともに─

 「恋忘こひわすがひ」という言い方は万葉集に五例見られる。それを手にすると恋を忘れることができるといわれる貝である。「置き忘れ貝」や「忘れ草」などからの連想で「恋忘れ貝」というのだという。特定の種を指すのではないと考えられている。諸説あるが、「拾ふ」、「岸に寄る」と形容されるところから、打ち上げられた貝殻と考えられ、二枚貝の片方だけが残されているものをいうとされている(注1)。一枚の貝殻であるアワビについては、そもそも貝殻が一片のため片恋、片想いの比喩に用いられている(注2)。「恋忘れ貝」のほうは、生命体としての二枚貝は死んで身は失われ、その貝殻も片方だけとなり、貝合わせの道具にもならないものをいうのであろう。二つが合わさるのなら身がなくても形式的には一つの貝、人であれば気持ちはともあれ二人は出会うことに相当しようが、波にもまれてもう片方は行方知れずとなっている。そんなものを拾ったら、恋はなかったことになるというので恋を忘れる貝であるとされたのだろう。結果的に、「恋忘れ草」と同じように使われている。

 実地に歌を検討しながら確認していこう。

 吾が袖は もと通りて 濡れぬとも 恋忘こひわすがひ 取らずはかじ〔和我袖波多毛登等保里弖奴礼奴等母故非和須礼我比等良受波由可自〕(万3711)

 現行の解釈では、私の袖がたもとからすっかり濡れ通ってしまうとしても、恋を忘れさせるという貝を拾わないではここを去って行くことはできない、袖口からぐっしょりと濡れたとしても、恋の辛さを忘れさせるという貝は何としても採ろう、の意であるとされている。この歌は遣新羅使歌群中の歌である。望郷の念、故郷にいる妻への情を振り払おうとする思いを歌っているのだとしている。
 しかし、そう捉えては単なるモノローグとならないか。また、上代に「ズハ」の構文とされるものがあったのか疑問である。
 筆者は、通説で「ズハ」の構文と呼ばれているものは存在しないと考えている。すべて、PハQという形で理解可能である。係助詞ハによって、PはQである、PはどういうことかというとQである、PはQと同等なものである、といった内容を示す(注3)

 「吾が袖はもと通りて濡れぬとも恋忘こひわすがひ取らず」ハ「か」ジ

 私の袖は袂からどんどん濡れてしまっていても恋忘れ貝と呼ばれる貝を取ることはない、とはどういうことかというと、ここからどこかへ行くつもりはないということである、と言っている。袖が濡れたのは自分の涙によってである。恋をしているのに現状では郷里に帰ることなどかなわない。すでに袖は濡れているのだから、水の中の恋忘れ貝を手に取るとしても大して変わりはないが、そうはしない。それはここを去って行くつもりはないということだ、と言っている。逆に言うと、恋忘れ貝を取ってはじめて新羅へ行くことができるようになる、というのである。それは、あなたへの恋心を忘れてしまわない限り、異国へ行くなんてできることではない、ということであり、当たり前の話だがお上の命令で新羅へ遣わされていて、仕事なのだから行かないわけにはいかないのであるが、後ろ髪を引かれる思いとして唯一あるのはあなたへの恋心なのだ、と言っているのである。
 竜頭蛇尾の文型である。五句目の途中までを「行かじ」だけで承けている。「行く」は新羅へ行くことである。何かかんかいろいろ条件をクリアしてようやく行くことができるということを示そうとして頭でっかちの文にしている。むろん、宮仕えの身で行かないという選択肢はない。なのにそのことを天秤にかけ、恋心が激しくてどうにもならないと大げさに訴えている。誇張表現をするために「恋忘れ貝」という言葉を用いている。

 「恋忘れ貝」と「ことにしありけり」が絡む例が二首見られる。

 住吉すみのえに くといふ道に 昨日きのふ見し 恋忘こひわすがひ ことにしありけり〔住吉尓徃云道尓昨日見之戀忘貝事二四有家里〕(万1149)
 手に取るが からに忘ると 海人あまの言ひし 恋忘こひわすがひ ことにしありけり〔手取之柄二忘跡礒人之曰師戀忘貝言二師有来〕(万1197)

 これらの「ことにしありけり」について、現行の解釈では、言葉にすぎないことだった、言葉だけのことであった、名前ばかりであった、といった意にとられ、「恋ひ忘れ貝」の効果がなかったと解されている。この考え方は誤っている(注4)
 上代語において、コトという言葉は言葉でもあり、事柄でもあった。その両者が一致することが強く意識されていた。当時は無文字時代である。言葉にしていることが実際に起こっている事柄と齟齬を来すと、もはや言葉は内実を伴わないということになり、すべてが虚ろな表出となってしまう。文字を持たず、文字を使わないとは証文が取れないということである。そんな時代に言葉が事柄と遊離してしまったら、言うことに担保が取れず、社会はカオスと化して成り立たなくなる。そもそも何のために言葉があるのかさえわからない。だから、そうならないよう気をつけて言葉を使っていたのが「こと」であった。
 「言にしありけり」は、強意を表す助詞シを含んでいることから確かなように、言葉≒事柄であったことである、まったくうまく言い当てたものであった、の意である。上の二首の歌の大意は次のようになる。

 この道を道なりに行くと住吉へ着くという道で昨日、恋忘れ貝を見た。恋忘れ貝というだけのことはあった。
 手に取るとそれでもって忘れられると海人が言っていた恋忘れ貝は、まったくそのとおりだった。

 これらの解釈は通説とは相容れない。よく見るとこの二つの例には共通点がある。スミノエとアマである。スミは須弥すみ、すなわちしゆせんのこと(注5)、アマはあまのことである。須弥山は仏教が構想している世界観で、大海に囲まれた世界の中心に聳える山をいう。そこへ通じる道が「住吉すみのえに行くといふ道」であるととぼけている(注6)。仏道の道にあれば、実際はともあれ色欲から解放されることになる。世俗にあって悩んでいた恋のことは自動的に雲散霧消する。尼僧を意味するあまも同様である。実際がどうかではなく、観念としてそういうことになっている。だからそれを歌に詠んで楽しんでいる。機知あふれる歌ということになる。

 時間があったら拾おうという歌が二首ある。

 背子せこに 恋ふれば苦し いとまあらば ひりひて行かむ 恋忘こひわすがひ〔吾背子尓戀者苦暇有者拾而将去戀忘貝〕(万964)
 いとまあらば ひりひにかむ 住吉すみのえの 岸に寄るといふ 恋忘こひわすがひ〔暇有者拾尓将徃住吉之岸因云戀忘貝〕(万1147)

 現行の解釈では、いとしい人を恋うていると苦しいから恋を忘れるという貝を時間があったら拾って行こう、住吉の岸に寄って来るという恋を忘れるという貝を時間があったら拾いに行こう、という意に解している。
 これまで「いとまあらば」などと条件をつけている理由が検討されて来なかった(注7)。反対の状況を想定すればわかりやすい。時間がなくて「恋忘れ貝」が拾えないのである。「いとま」のことを官吏の職務時間外のことを表すとも考えられているが、忙しい現代人と同じように思ってはいけない。そうではなく、今、この時には、拾おうにも拾えないという状況下にある、だから「いとま」が必要とされている。
 万964番歌の題詞に、「同じく坂上郎女のみやこに向ふうなに浜を見て作る歌一首」とある。船に乗って進んでいる。時間が許せば見えている浜に上陸して貝殻拾いをしよう、と呑気なことを言っているのではなく、今、船を泊めようにも泊められないというのであろう。古代には、潮の満ち引きに従って船を停泊させていた。潮が満ちている時に陸に寄せ、潮が引いたらそこに取り残される形で船は泊まる。再び潮が満ちて来たら、海に水に浮かぶことができて出航可能となる。今、坂上郎女は船の上から浜を見ている。浜が見えているということは潮が引いているということで、船を泊めることはできない。満ちたら船は泊められるが、そのとき浜は海面下に沈んでいる。となると、貝殻拾いはできない。貝殻拾いをするには潮が引かなければならないから、一日に二回、潮の干満をくり返すとしても、船の停泊から出航まで、半日その地にいなければならない。今は干潮時だから満潮を待ってということになる。「いとまあらば」と歌っただけで、その船の同乗者の笑いを誘ったことであろう。
 すなわち、「いとまあらば」とあるところがこの歌の肝である。もし、この三句目のない形、「が背子に 恋ふれば苦し ひりひて行かむ 恋忘れ貝」といった言辞があるとして、それはなんら歌とはならない。いとしいあの人のことを恋しがると苦しいから恋忘れ貝を拾って行こう、などと言うのでは、恋忘れ貝の取扱説明書にすぎなくなる。「いとまあらば」の句を挟むと、一転して、恋忘れ貝のことは実はどうでもいいこと、恋忘れ貝を拾うつもりなどさらさらないことを示すことになる。それが歌を歌った時の郎女の心である。あの人のことが恋しいという思いを技巧的に歌にしている。
 万1147番歌で「いとまあらば」とあるのも、同じように船の上から詠まれたものと考えられる。「住吉すみのえ」は津としての機能を持つ名立たる地である。恋忘れ貝がその「岸に寄るといふ」としている。須弥山関連の地だからそう言われていると伝聞形式にしている。仏道に関係すると目されて色欲が消えると思われてである。この歌は巻七の雑歌、「摂津作歌」の標題として集められている。他意は特にないと考えるべきで、シンプルに歌のみで論理的に整合する解釈が求められる。今乗っていて降りることのない船とは、歌い手の人生を譬えたものと捉えるのが妥当である。仏門に下る暇のない人生を送っている、ごくふつうの人である私は、恋をしています、ということを歌っている。

 「恋忘れ貝」に似て、ただ「忘れ貝」という言葉も万葉集には五例見られる。

 大伴おほともの 御津みつの浜なる 忘れ貝 家なるいもを 忘れて思へや〔大伴乃美津能濱尓有忘貝家尓有妹乎忘而念哉〕(万68)
 の国の あくの浜の 忘れ貝 我は忘れじ 年はぬとも〔木國之飽等濱之礒貝之我者不忘年者雖歴〕(万2795)
 海人あま娘子をとめ かづき取るといふ 忘れ貝 世にも忘れじ いもが姿は〔海處女潜取云忘貝代二毛不忘妹之容儀者〕(万3084)
 わかうら」に 袖さへれて 忘れ貝 ひりへどいもは 忘らえなくに〈或本の歌の末句に云はく、忘れかねつも〉〔若乃浦尓袖左倍沾而忘貝拾杼妹者不所忘尓〈或本歌末句云忘可祢都母〉〕(万3175)
 秋さらば 我が船てむ 忘れ貝 寄せ来て置けれ 沖つ白波〔安伎左良婆和我布祢波弖牟和須礼我比与世伎弖於家礼於伎都之良奈美〕(万3629)

 はじめの四例は序詞として用いられており、「忘る」を導くために「忘れ貝」が登場している。この「忘れ貝」も「恋忘れ貝」同様、実態としては二枚貝の貝殻の片方だけとなったものを見ているものと思われる。万3084番歌から、海人娘子が捕るのだから、身が入っている生きた貝であるとされている。しかし、上述の須弥山や尼の洒落に同じく、海人娘子も尼僧のことを想定してのもの言いと考えられる。「潜き取るといふ○○○」とあり、「潜き取りてし」などとない。「といふ」(「とふ」)は、そういう話だ、の意である。アマというのだから仏道に励んで恋をしない禁欲者の性格をもっていて、そんなアマは殺生も慎むから、潜って取る貝も身のない貝殻ばかりだととぼけている。
 このような言語遊戯性は、序詞の内実となっている地名にも当てはまる。万68番歌の「御津みつ」(ミは甲類)は「満つ」、万2795番歌の「あく」は「飽く」ことを連想させる。満ち飽きる状態となれば固執することはなくなる。だから、忘れることができるというので、「忘れ貝」のある場所として選ばれている。序詞といえども手抜かりなく周到に作られている。
 万3629番歌でも語呂合わせの趣向がとられている。この歌は万3627番の長歌の第二反歌である。題詞は「属物発思の歌一首〈并せて短歌〉」で、遣新羅使が海路の道中において作った歌である。現在、往路にあり、新羅に向かう途上である。この歌意は、秋になれば新羅から帰る頃だからまたここに停泊しよう。沖の白波よ、忘れ貝を寄せてきて置いておけ、といったことである。長歌と第一反歌では玉の話をしている。第二反歌では一転して貝のことをとりあげている。一転しているのは今のこと、往路のことを歌うのではなく、未来の、復路のことを歌うことでもある。そして、「秋」はアキ(「飽き」、キは甲類)との音つながりで固執することがないこと、よって「忘れ貝」のことを歌う準備としている。
 すべてを縁語的に考えるこの考え方を万3175番歌の「わかうら」に及ぼせば、「うら」は「うら」のことを連想させようとしているかと推測される。若い占いとは、まだ始まったばかりの新しい占い法ということで、それはとりもなおさず「忘れ貝」を取ると忘れられるというもののことを指していると思われる。ところが、そんな貝殻拾いに際して袖を濡らしている。潮が満ちてきていた。その状態のことは、「かた無し」(万199)である。カタは卜象うらかたのこと、古くから伝わる正統派の占いである鹿の骨を焼いた時にあらわれ出るひび割れの形のことをもいう。それが無いのだから、「忘れ貝」を取ったからと言って忘れることがないのは当然のことなのである。
 これらの「忘れ貝」を「恋忘れ貝」とまったく同じこと、恋を忘れる貝の意ととるのは誤りである。何であれ一般に忘れることを促すものとして「忘れ貝」と言っている。実体としては二枚貝の貝殻の片割れで同じでも、言葉にしたときの概念カテゴリーは少し外れるのである。

(注)
(注1)東1935.に、「この時代迄に知られた貝の名称はアハビ、サヾエ、ニシ、カキ、ハマグリ(オフ、ウムキ)、イガヒ(クロガヒ)、アカガヒ(キサ)など数種に過ぎず、しかも皆何かの特長を持つもの許りである。今日云ふワスレガヒの棲息する場所や、その空貝の打上げられた海岸には、ハマグリ、アサリ、カガミガヒ、ナミノコ、ユフシホガヒ、シホフキ、バカガヒ、オキシジミ、シラヲガヒなど何れもよく似た貝が一所に混在してゐる筈である。これ等の貝類の中で、大した特長も持たないワスレガヒだけを、分類学には無頓着な当時の人が、果して識別し得たであらうか。……私の解釈も肉の失せた空殻ではあるが、忘貝とは二枚介(即ち斧足類)の空になって、一枚一枚に放れた一片を云ふのであつて、後世の所謂片し貝・・・、或は片せ貝・・・の事であると考へるのである。」(481~482頁)とある。
(注2)「伊勢の海人あまの 朝な夕なに かづくといふ あはびの貝の 片思かたもひにして」〔伊勢乃白水郎之朝魚夕菜尓潜云鰒貝之獨念荷指天〕(万2798)などとある。全集本萬葉集では一枚貝の鰒も「恋忘れ貝」に含めているが誤りであろう。
(注3)拙稿「恋ひつつあらずは」参照。
(注4)「ことにしありけり」の形は以下の例にも見られる。

 忘れ草 吾が下紐したひもに けたれど しこ醜草しこぐさ ことにしありけり〔萱草吾下紐尓著有跡鬼乃志許草事二思安利家理〕(万727)

 「ことにしありけり」は、通説では名ばかりのことであったと解されているが、「し」は強意である。まことに言葉どおりであった、の意のはずである。この歌については拙稿「醜(しこ)の醜草(しこぐさ)─離絶数年を経て大伴大嬢に贈る歌─」参照。

 いめのわだ ことにしありけり うつつにも 見てるものを 思ひし思へば〔夢乃和太事西在来寤毛見而来物乎念四念者〕(万1132)

 「いめのわだ」と呼ばれるところは吉野にあり、宮滝近くの吉野川の湾曲した部分の淵である。通説では、「ことにしありけり」を言葉だけだったととり、夢のわだという名は言葉だけのことで、ひたすら見たいと思っていたので現実にこうして来て見たのだなあ、という意味に解されている。筆者は、言葉どおりであったととる。見たいと思っていたから現にこうして来て見ているのは、まさに、夢のわだという名の示すところである、の意である。
 イメ(夢)という語は、イ(寝、寐)+メ(目)の意であろうとされている。万葉集での「いめ」は、①夢は睡眠中に見る像、②夢で見るような非現実のこと、③夢でしか見られないような美しいこと、また、もの、を表している(古典基礎語辞典154頁。この項、大野晋)。
 「いめ」と「うつつ」とを二つながらあげている例に次のものがある。②の意の一例とされている。

 うつつにも いめにもわれは 思はずき りたる君に ここに逢はむとは〔現毛夢毛吾者不思寸振有公尓此間将會十羽〕(万2601)

 旧知のあなたにここで逢おうとは、覚めていても夢でさえも私は思わなかった、と歌っている。この「うつつ」と「いめ」とは並置されている。だからともに「にも」で承けている。この発想は万1132番歌でも同様であろう。「いめのわだ」という地名に対して「うつつにも」と言っている。この部分が「うつつ」とあるのなら、通説のように解されてもおかしくはないが、「うつつ」とある限りにおいて、「いめにも」見ているはずなのである。なぜなら、「いめ」はイ(寝、寐)+メ(目)だからである。

 草山ぐさやま ことにしありけり 吾が恋ふる 千重ちへひとも なぐさめなくに〔名草山事西在来吾戀千重一重名草目名國〕(万1213)

 通説では、ナグサ山というのは言葉だけであったなあ、私の恋心を千に一つも慰められないことだのに、の意であるとされている。原文の「千重一重」は万207番歌同様、「千重ちへひとも」と訓む。恋心が何重にも重なっているというレトリックが使われている。
 この通説は正確な語義理解を欠いている。ナグサ(慰)は、波立ちを静め、おだやかにする意である。その意が心情に対応するようにさせられて、波立つ心を鎮静化させるかもしれないもの、気休めのもののことをいう。次の例でも、恋の気休めになるから、大げさですぐに嘘とわかることでいいから逢おうと言ってください、という意味で使っている。

 あさはら 小野をのしめふ 空言むなことも 逢はむと聞こせ 恋のなぐさに〈或本の歌に曰はく、むと知らせし 君をし待たむ……〉〔淺茅原小野尓標結空言毛将相跡令聞戀之名種尓〈或本歌曰将来知志君矣志将待……〉〕(万3063)

 万1213番歌の五句目の「なぐさめなくに」の「なぐさめ」は、下二段活用の動詞「なぐさむ」の連体形である。なぐさめられる、という受身形の意味を表す。
 これを直訳すれば、気休め山というのは言葉どおりであった、私が恋しているその千分の一も慰められることはないのに、ということになる。これだけなら理解されることだが、ナグサという言葉を入れてナグサ山とすると、途端にその名を負っているのに慰められないではないか、だから、「ことにしありけり」は言葉だけの偽りだった、と誤解してしまう。
 上代には、自動詞としては四段活用の「なぐさもる」があり、他動詞には下二段活用の「なぐさむ」があった。自動詞は、おのずとなぐさめになる、自然と気持ちの波立ちがやわらぐ、他動詞は、気持ちの波立ちがやわらげられる、という意味である。それら動詞の出自が名詞の「なぐさ」である。気持ちの波立ちのやわらぐことをいう。波立っているのは事実であり、それを穏やかにするには穏やかになるまで待っているのが常道である。消極的な対応である。側に寄り添い、見守るのが唯一の方法である。
 この歌では、おもしろいことに、波立っているのを静めるという意味のナグサがなぜだか山となっていて、その様子につながるであろう形容として「千重ちへの」と言っている。連峰的な様相の山なのであろう。波立ちはなかなか収まりそうにない。ナグサヤマという名は慰めているだけで解決策があるわけではないことを如実に語る名なのであり、恋心の波立ちをやわらげられるべくもないのである。
(注5)「仍りて弥山みのやまの形及び呉橋くれはし南庭おほばけとおほす。」(推古紀二十年是歳)とある。この部分の「須弥」には、岩崎本の平安中期末点として声点(去上)が加えられている。
(注6)万葉集のなかで地名の「住吉すみのえ」は四十例ほどを数える。後述の万1147番歌はやはり須弥山のこと、仏道から恋を忘れるものと捉えている。実際の住吉の地のことを言うばかりではなく、地口として須弥山と関係して歌われている。その際、「須弥すみ」は言葉としては知っていても話でしか知らないから、伝え聞いたことであることを表すために「とふ」、すなわち、……という、という語をはさむことになっている。次の例も同様である。

 住吉すみのえの 浜に寄るといふ うつせ貝 なきこともち 吾恋ひめやも〔住吉之濱尓縁云打背貝實無言以余将戀八方〕(万2797)

(注7)賀古1965.は「[万1147番歌]の内実は、「恋」の「憂」にたえず苦しみながらも、その「憂」を一時的にも「忘れ」させてくれるという「貝」を「拾ひに行く」「暇」さえもない苦しさを歌い表わしている歌である。」(601頁)としている。

(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
村田2018. 村田右富実「「(恋ひ)忘れ貝」と「(恋ひ)忘れ草」」『美夫君志』第97号、平成30年10月。
賀古1965. 賀古明『万葉集新論─万葉情意語の探究─』風間書房、昭和40年。(「萬葉情意語の生成─「忘れ貝」・「恋忘れ貝」─」『上代文学』第13号、1962年11月。上代文学会ホームページ http://jodaibungakukai.org/02_contents.html
全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集 萬葉集三』小学館、昭和48年。
東1935. 東光治『万葉動物考』人文書院、昭和10年。

加藤良平 2023.10.6初出

万葉集の修辞法、「二重の序」について


 万葉集の序歌に「二重の序」と呼ばれるものがある。序詞が重ね用いられたものである。序詞によって導かれた地名が掛詞になっていて、それがさらに序詞となって下文を導いている。詳細に検討した論考として井手1975.がある。そこでは次の歌をあげて説明している(注1)。以下、訓みは井手氏に従いつつ、用字については筆者の判断で改め、原文を添えて示す。

 いもが目を 見まくほりの さざれ波 きて恋ひつつ ありと告げこそ〔妹目乎見巻欲江之小浪敷而戀乍有跡告乞〕(万3024)

 最終的に述べたいのは「きて恋ひつつありと告げこそ」である。その主意部分を起こす叙景序として「堀江のさざれ波きて」が上にある。さらにそれを起こす抒情序として「妹が目を見まくり」が置かれている。りとほりとが掛けられている。そのうえ、中間の叙景部分を挟んで上の抒情序と下の抒情の主意部分が意味的に密接に関係していて、情報を付加しているとみている。すなわち、いちばん上の抒情序は、最後の主意に対する「曖昧句」であるとし、口語訳する際にはその意味を生かさなければならないと主張する。妙味のある掛かり方が巧みに繰り広げられている。同様の構造を持つものとして以下の歌がとられている。

 こひころも 着奈良きならの山に 鳴く鳥の 無く時無し 吾が恋ふらくは〔戀衣着楢乃山尓鳴鳥之間無無時吾戀良苦者〕(万3088)
 未通女等をとめらが そで布留ふるやまの 瑞垣みづかきの 久しき時ゆ 思ひき吾は〔未通女等之袖振山乃水垣之久時従憶寸吾者〕(万501)
 いもも吾も きよみの河の 河岸かはぎしの 妹がゆべき 心は持たじ〔妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持〕(万437)
 いもが髪 上竹あげたか葉野はのの はなち駒 あらびにけらし 逢はなく思へば〔妹之髪上小竹葉野之放駒蕩去家良思不合思者〕(万2652)
 わぎ妹子もこに 相坂山あふさかやまの はだすすき 穂には咲きでず 恋ひ渡るかも〔吾妹兒尓相坂山之皮為酢寸穂庭開不出戀度鴨〕(万2283)
 つるばみの きぬき洗ひ 土山つちやま もとつ人には なほかずけり〔橡之衣解洗又打山古人尓者猶不如家利〕(万3009)
 あらぎぬ 鳥飼河とりかひがはの 河淀かはよどの 淀まむ心 思ひかねつも〔浣衣取替河之河余杼能不通牟心思兼都母〕(万3019)
 とのぐもり 雨布留ふるかはの さざれ波 無くも君は 思ほゆるかも〔登能雲入雨零川之左射礼浪間無毛君者所念鴨〕(万3012)

 解釈に疑念の残るものがあるが、その点は後述する。二重の序の構造、すなわち、序の掛かり方についての井手氏の整理は基本的に正しいと考える。ただし筆者は、二重の序の説明には不足する点があると考えている。これらの歌は、古代の人が文法的、構文的な意識のもとで作文したわけではなく、無意識のうちに、ないしは意識下に沈んだままに口ずさんで歌いながら作ったものと考える。書き付けておいて壁に貼り付け、推敲に推敲を重ねた末に成ったものではない(注2)
 まず注目すべき点は、掛詞接合の序詞の重複する部分、一番上の抒情序と中間の叙景序が掛かるところである。固有名詞の地名になっている。固有名詞の地名を提示して、語呂合わせでありつつ名は体を表しているものとも捉えられている。その考え自体に誤りはない。もともとその場所につけられた地名があり、それを口に出して言ってみるとそれらしい雰囲気を醸し出すからそういうところなのだろうとしている。呼ばれるもの、それが名前である。曰く因縁があって名づけられたり、コピーライターが捻り出したり、人気投票の結果としての命名ではなく、すでに呼ばれていた地名について後から何かこじつけができないかと考える対象であった。無文字の時代に言葉は音声言語でしかなかった。音がそうであるなら意味もそれと関係するとして正しいと定めたがる傾向にあった。そうではあるまいと否定的な見解を提出することも可能ではあるが、音声言語しかない言葉を使う人にとっては煩わしいばかりである。音がそうであれば意味もそうであるとして何ら不自然ではなく、一様にわかりやすく不都合もない。その具現例として、上にあげた二重の序なる修飾が行われ、もって回った言い回しが展開されている。
 二重の序は、固有名詞を掛詞としたものに限られる(注3)。言い換えれば、そのような二重の序の構成になっている固有名詞の地名は、そのような意味合いに捉えることによって再活性化し、生き生きとみずみずしく人々の脳裏に思い浮かんでくる名となっている。二重の序としては、他に次のような例があげられている。みな固有名詞の地名に掛けられている。

 わぎ妹子もこを 聞き都賀野辺つがのへの しなひ合歓木ねぶ は忍び得ず 無くし思へば〔吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歓木吾者隠不得間無念者〕(万2752)
 わぎ妹子もこに ころも春日かすがの よしがは よしもあらぬか いもが目を見む〔吾妹兒尓衣借香之宜寸川因毛有額妹之目乎将見〕(万3011)
 わぎ妹子もこに またも近江あふみの 野洲やすの河 やすも寝ずに 恋ひ渡るかも〔吾妹兒尓又毛相海之安河安寐毛不宿尓戀度鴨〕(万3157)
 君により 吾が名はすでに たつやま 絶ちたる恋の しげき頃かも〔吉美尓餘里吾名波須泥尓多都多山絶多流孤悲乃之氣吉許呂可母〕(万3931)
 しらゆみ 今春山に く雲の 雪や別れむ こほしきものを〔白檀弓今春山尓去雲之逝哉将別戀敷物乎〕(万1923)

 井手氏の二重の序の説明に不足する点があると述べた。その点を考えるために、井手氏のあげていた二重の序の例のなかから疑問のある一首をとりあげる。万501番歌である。「柿本朝臣人麻呂歌三首」の一つである。これには類歌がある。万2415番歌である。「寄物陳思」の歌で、万2516番歌の左注、「以前一百四十九首、柿本朝臣人麻呂之謌集出」のうちの一つである。

 未通女等をとめらが そで布留ふるやまの 瑞垣みづかきの 久しき時ゆ 思ひき吾は〔未通女等之袖振山乃水垣之久時従憶寸吾者〕(万501)
 処女をとめらを そで布留ふるやまの 瑞垣みづかきの 久しき時ゆ 思ひけり吾は〔處女等乎袖振山水垣久時由念来吾等者〕(万2415)

 これまでの説明では、どちらも二重の序に当たる歌と考えられているようである。しかし、筆者は、万501番歌の人麻呂作歌は二重の序ではなく、万2415番歌の人麻呂歌集歌のみが二重の序であると考える。「久しき時ゆ」は、久しい時、長い間じゅうずっと、の意である。「ゆ」は経過中を表す(注4)
 万501番歌のように「思ひき吾は」と続けば、ずっと思っていたのは過去のことで、自身の頭の中ではっきりしていて今は完了している。思い出が主意である。それに直接に掛ってくるのはその前にある「布留山の瑞垣の」である。古くからの山の立派な垣根なのだから「久しき」と続けて適当である。さらに前にある「未通女らが袖る」は「布留ふる山」を導く序になっている。つまり、全体として、「未通女らが袖る」が「布留ふる山の瑞垣の」に対する小序、「未通女等が袖=る/布留ふる=山の瑞垣の」が「久しき時ゆ思ひき吾は」の序に当たる構造である。それ以外に捉えようがない。「未通女等が」のガは主格の助詞であり、袖を女の子たちが振っている。対して主意は、「久しき時ゆ思ひき吾は」であり、倒置を直すと「吾は久しき時ゆ思ひき」である。主語は一人称の「吾」であり、思っていたのは過去である。最後の主意と離れた場所にある先頭の序とでは人称が異なり、時制も過去となると、二重の序の「曖昧句」とはなり得ない。感慨が対象化され、セピア色の静止画になっている。
 曖昧にして絶妙に主意に掛かって来る感覚は万501番歌にはないが、万2415番歌には満ちている。

 処女をとめらを そで布留ふるやまの 瑞垣みづかきの 久しき時ゆ 思ひけり吾は〔處女等乎袖振山水垣久時由念来吾等者〕(万2415)

 お嬢さんたちのことを、お嬢さんたちが袖を振るという布留山の瑞々しい垣根のように古くから久しい間じゅうずっと思っていたと気づいたよ私は、お嬢さんたちのことを、お嬢さんたちが袖を振るという布留山の瑞々しい垣根のように長く久しい間じゅうずっと思っていたと気づいたよ私は、お嬢さんたちのことを、お嬢さんたちが袖を振るという布留山の瑞々しい垣根のように長く久しい間じゅうずっと思っていたと気づいたよ私は、お嬢さんたちのことを、……という歌である。
 歌詞に、「瑞垣の久しき時ゆ」とある。「瑞垣」はぐるりと取り囲むものである。その側をまわり始めてみると、どこまで行っても終わることはない。久しき間じゅうずっと、に掛かっていることがわかるとともに、歌の詞の流れ自体がぐるぐる旋回していることを自己主張する仕掛けになっている。助詞ヲは感動詞、間投助詞に始まり格助詞へとすすんだ懐の深い助詞として見てとり、助動詞ケリはああそうだったと今気づいた、の意である。ああそうだった、ああそうだった、ああそうだったんだなあという気づきが繰り返されている。

二重の序概念模式図

 本稿の主旨はここにある。二重の序が固有名詞を伴う傾向に偏っているのは、その固有名詞の意味を決める役割までも歌が担っているゆえである。最初の抒情序が主意に関わるのは、主意が最初の抒情序を決める力を持っているということでもあるからである。両者が互いの契約関係の中で拘束しあい、ひとまとまりになっていること、言い換えれば、最後に語られる主意が最初の抒情序を先行させているということである。二重の序として連鎖的に続けられているから、詠み進んで最後まで行って最初に戻って、また進んで最後まで行ってまた最初に戻って、の繰り返しである。つまり、循環構造になっている。それが二重の序という修辞の本旨である。二重の序という修辞は、循環論法に歌うための方策としてあったといえる。そして、時として、循環を示唆する言葉を内に含み、言辞のカテゴリーがメタ化している。この点を踏まえなければ二重の序の理解として正解とならない。
 最初の例で説明すると、次のようになる。

 いもが目を 見まくほりの さざれ波 きて恋ひつつ ありと告げこそ〔妹目乎見巻欲江之小浪敷而戀乍有跡告乞〕(万3024)

 彼女の目を見たいと欲する、その堀江に立つさざれ波が重なってしきりに及んでくるように恋心があると告げて欲しい相手の彼女の目を見たいと欲する、その堀江に立つさざれ波が重なってしきりに及んでくるように恋心があると告げて欲しい相手の彼女の目を見たいと欲する、その堀江に立つさざれ波が重なってしきりに及んでくるように恋心があると告げて欲しい相手の彼女の目を見たいと欲する、……という歌である。
 この歌は、一言でいうと何の歌かと問われれば、高度な言語遊戯の歌ということになる。主意はたしかに主意なのであるが、短歌のなかに序を重ねて置くという離れ業をしてしまったら、もはや形式主意とでも呼ぶしかない状態になる。この歌では歌詞にそのことが確認される。「きて」とある。後から後から波が続いてくると歌いながら、歌自体が後から後から続いてくることに自己言及している。伝言を一度きり頼んだのか、何度も何度も頼んでいるのかと問うとするなら、明らかに、何度も何度も繰り返している。念には念を入れた、度重なる懇願が歌の基底にある。

 この考え方の正しさを検証するために、他の例についても逐一見ていく。解釈の難しい歌は後回しにする。

 わぎ妹子もこに 相坂山あふさかやまの はだすすき 穂には咲きでず 恋ひ渡るかも〔吾妹兒尓相坂山之皮為酢寸穂庭開不出戀度鴨〕(万2283)

 吾妹子に、逢うというその相坂山のはだ薄のように穂には咲き出ることもなく恋ひ続けるのかなあ吾妹子に、逢うというその相坂山のはだ薄のように穂には咲き出ることもなく恋ひ続けるのかなあ吾妹子に、逢うというその相坂山のはだ薄のように穂には咲き出ることもなく恋ひ続けるのかなあ吾妹子に、……という歌である。
 次の例は、掛詞部分が抒情の序にも主意にも掛かっていて、さらに技巧的である。この場合、掛詞部分の掛かり方の優劣の判断までもその言葉自体で言い切ってしまうという自己言及的な言説をおかしている。短歌という三十一文字のなかで、今発した言葉がその言葉自体について言及して行っている。歌として、主意を謂わんとしているのかさえもはや不分明、不可解になっている。洗濯は繰り返されるものである。

 つるばみの きぬき洗ひ 土山つちやま もとつ人には なほかずけり〔橡之衣解洗又打山古人尓者猶不如家利〕(万3009)

 洗濯をするのに、橡の衣を解いて洗って又打つから真土山というところがあるというけれど、真土山というのは「もとつ」の訛りで、「もとつ」、つまり、本来のものであって、本の人にはやはりかなわないと気がついた、けれどまた洗濯をするのに、橡の衣を解いて洗って又打つから真土山というところがあるというけれど、真土山というのは「本つ」の訛りで、「本つ」、つまり、本来のものであって、本の人にはやはりかなわないと気がついた、けれどまた洗濯をするのに、橡の衣を解いて洗って又打つから真土山というところがあるというけれど、真土山というのは「本つ」の訛りで、「本つ」、つまり、本来のものであって、本の人にはやはりかなわないと気がついた、けれどまた……という歌である。
 衣類は汚れたら洗濯をする。解き洗いをするから作業的には仕立てるのと同じことをしてきれいになるのだが、どうしても仕立て上がりの衣裳にはかなわない。いくら頑張ってみても、彼の初恋の人にはかなわないところがあるという喩えに使っている。

 あらぎぬ 鳥飼河とりかひがはの 河淀かはよどの 淀まむ心 思ひかねつも〔浣衣取替河之河余杼能不通牟心思兼都母〕(万3019)

 衣を洗うときに、解いてから洗わないと衣が破れて取り替えなければならなくなることが多い、その名を負う鳥飼河の河淀のように、淀んで前に進まないためらいの気持ちが起こってどうしたらいいのか思いかねている、それはあらかじめわかっていたことだけれど、衣を洗うときに、解いてから洗わないと衣が破れて取り替えなければならなくなることが多い、その名を負う鳥飼河の河淀のように、淀んで前に進まないためらいの気持ちが起こってどうしたらいいのか思いかねている、それはあらかじめわかっていたことだけれど、衣を洗うときに、解いてから洗わないと衣が破れて取り替えなければならなくなることが多い、その名を負う鳥飼河の河淀のように、淀んで前に進まないためらいの気持ちが起こってどうしたらいいのか思いかねている、それはあらかじめわかっていたことだけれど、衣を洗うときに、……という歌である(注5)
 恋模様の忸怩たる思いが渦巻いていることをメタレベルから眺めやることになっていてよく伝わる。

 とのぐもり 雨布留ふるかはの さざれ波 無くも君は 思ほゆるかも〔登能雲入雨零川之左射礼浪間無毛君者所念鴨〕(万3012)

 雲がどんどんかき曇って雨が降るという、その布留川のさざ波の絶え間がないようにあなたのことは、心に思い浮かんでくるように雲がどんどんかき曇って雨が降るという、その布留川のさざ波の絶え間がないようにあなたのことは、心に思い浮かんでくるように雲がどんどんかき曇って雨が降るという、その布留川のさざ波の絶え間がないようにあなたのことは、心に思い浮かんでくるように雲がどんどんかき曇って……という歌である。

 わぎ妹子もこに ころも春日かすがの よしがは よしもあらぬか いもが目を見む〔吾妹兒尓衣借香之宜寸川因毛有額妹之目乎将見〕(万3011)

 吾妹子に衣をすことがあった、その春日かすがにあるよし川というのにまつわるよしも再びあるだろうか、どうなっても構わないから妹が目を見たい、その吾妹子に衣を貸すことがあった、その春日にある宜寸川というのにまつわる縁も再びあるだろうか、どうなっても構わないから妹が目を見たい、その吾妹子に衣を貸すことがあった、その春日にある宜寸川というのにまつわる縁も再びあるだろうか、どうなっても構わないから妹が目を見たい、その吾妹子に衣を貸すことがあった、……という歌である。
 「よしがは」は「よし」と掛けているばかりでなく、「妹が目を見む」の希望「む」に対しても「よし」の意として掛かっている。他人妻となってしまった元カノと逢うとどんな事態が待ち受けているかわからないが、それでも構わないから逢いたいと願っている。衣を貸すほどの間柄、つまり、情事を共にしていて仲良かった過去を引きずっている。

 わぎ妹子もこに またも近江あふみの 野洲やすの河 やすも寝ずに 恋ひ渡るかも〔吾妹兒尓又毛相海之安河安寐毛不宿尓戀度鴨〕(万3157)

 吾妹子に、またも逢うという近江の野洲やすの河というのにまつわるやす、つまりは安眠もしないで恋い続けるのかなあ吾妹子に、またも逢うという近江の野洲の河というのにまつわる安寐、つまりは安眠もしないで恋い続けるのかなあ吾妹子に、またも逢うという近江の野洲の河というのにまつわる安寐、つまりは安眠もしないで恋い続けるのかなあ吾妹子に、……という歌である。
 野洲やす八洲やす、つまり、たくさんの洲があり、吾妹子に逢うためにはたくさんの洲を越えて行かなければならない。近江あふみと言っているのだからまた○○えるかと思えば、うのは障害となる洲ばかりである。川がまたになってたくさんの洲が形成されている。だから、やすもできずにひたすら歩みを続けなければならない。それが吾妹子への恋なのかもしれないというのである。

 君により 吾が名はすでに たつやま 絶ちたる恋の しげき頃かも〔吉美尓餘里吾名波須泥尓多都多山絶多流孤悲乃之氣吉許呂可母〕(万3931)

 君のせいで、私の名はすでに広く立ってしまった、その龍田山というので私は恋心を絶ったつもりでいたがその恋心はまた燃え上がるこの頃であることよ、君のせいで、私の名はすでに広く立ってしまった、その龍田山というので私は恋心を絶ったつもりでいたがその恋心はまた燃え上がるこの頃であることよ、君のせいで、私の名はすでに広く立ってしまった、その龍田山というので私は恋心を絶ったつもりでいたがその恋心はまた燃え上がるこの頃であることよ、君のせいで、……という歌である。

 しらゆみ 今春山に く雲の 雪や別れむ こほしきものを〔白檀弓今春山尓去雲之逝哉将別戀敷物乎〕(万1923)

 あの雪のように白いまゆみで作った弓に矢をつがえて張るという今、春になったばかりの今春山に飛んでゆく雲が降らせる、その「き」なる雪は別れ行くでしょう、恋しいに決まっているのだが、あの雪のように白い檀で作った弓に矢をつがえて張るという今、春になったばかりの今春山に飛んでゆく雲が降らせる、その「行き」なる雪は別れ行くでしょう、恋しいに決まっているのだが、あの雪のように白い檀で作った弓に矢をつがえて張るという今、春になったばかりの今春山に飛んでゆく雲が降らせる、その「行き」なる雪は別れ行くでしょう、恋しいに決まっているのだが、あの雪のように白い檀で作った弓に……という歌である。
 「今春山」を普通名詞に解する説が多いが、固有名詞として捉えた。

 解釈の定まらない歌についてみてゆく。最初に、訓みに難点のある歌をみる。

 わぎ妹子もこを 聞き都賀野辺つがのへの しなひ合歓木ねぶ は忍び得ず 無くし思へば〔吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歓木吾者隠不得間無念者〕(万2752)

 原文の「靡」をシナフ(撓)、「隠」をシノブ(忍)と訓むのが通説となっている。しかし、「靡」をナビク、「隠」をナバルと訓んで音を掛けていると考えることもできよう。ナビク、ネブ、ナバリエズと続き、掛詞として掛かっている感じがさらに強くなると考える。ネムノキは、日が当たると葉が開き、暗くなると閉じる。だから、靡いているように思われ、葉が開いているときは葉陰に隠れられるが、閉じれば露呈することになる。ネムノキの幹がしなうのではない。以下、その試訓で解する。

 わぎ妹子もこを 聞き都賀野辺つがのへの なび合歓木ねぶ なばり得ず 無くし思へば〔吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歓木吾者隠不得間無念者〕(万2752)

 吾妹子のことを、人づてに聞き継ぐ、その都賀野つがののほとりに葉が開いたり閉じたりして靡く合歓ねむの木に私は隠れきることができない、絶え間なく思っているから吾妹子のことを、人づてに聞き継ぐ、その都賀野のほとりに葉が開いたり閉じたりして靡く合歓の木に私は隠れきることができない、絶え間なく思っているから吾妹子のことを、人づてに聞き継ぐ、その都賀野のほとりに葉が開いたり閉じたりして靡く合歓の木に私は隠れきることができない、絶え間なく思っているから吾妹子のことを、……という歌である。
 「間無くし思へば」と、「間無く」に強意の助詞シが付いている。「間」があれば隠れることはできるが、「間」がないから隠れきることができないと言っている。ネムノキの葉の開閉に合わせて思ったり思わなかったりすればいいのだが、自分は常に思い続けているということを歌っている。
 次に、キナラ(「着楢」、「服楢」)の歌についてみる。

 こひころも 着奈良きならの山に 鳴く鳥の 無く時無し 吾が恋ふらくは〔戀衣着楢乃山尓鳴鳥之間無無時吾戀良苦者〕(万3088)

 恋の衣を着慣れているという、奈良の山に鳴く鳥が絶え間なく時を定めず鳴くような、私の恋は、恋の衣を着慣れているという、奈良の山に鳴く鳥が絶え間なく時を定めず鳴くような、私の恋は、恋の衣を着慣れているという、奈良の山に鳴く鳥が絶え間なく時を定めず鳴くような、私の恋は、……という歌である。
 奈良の山には「楢」の木が生えていて、そこに鳥は止まって鳴いていると解釈するのがより正しいだろう。

 からころも 着奈良きならの里の 島松に 玉をし付けむ き人もがも〔韓衣服楢乃里之嶋待尓玉乎師付牟好人欲得〕(万952)

 ここでは、「松」と「待つ」が掛けられている。樹木が取り沙汰されているのだから、原文の「楢」を借字とばかり言い切れないわけである。
 なおこの歌、原文の「嶋」を誤字として「つま」に意改する解説が多い。白井2019.はそう訓んだうえで二重の序の一例にあげている。「韓衣 着奈良の里の 嬬松に 玉をし付けむ 好き人もがも」の意は、上等の韓衣を着慣れているという奈良の里の嬬を待つという松に玉をつけたくなるようないい人がいればなあ、あるいは、玉をつけてくれるようないい人があったらなあ、といった意であろうか。「もがも」は実現困難な願望について、……したい、という意と捉えられている。しかし、上等の韓衣を着こなす奈良の里の「つま」と、松に玉までもつけたくなる(つけてくれる)ほどの「好き人」とは、どのように関係するのか疑問である。「奈良/慣ら」、「待つ/松」と二つの掛詞が並立しているだけで、並列にはなっていない(注6)。それでは二重の序ではないことになる。「待つ」と「もがも」は類義である。意改はふさわしくない。
 「島松」は、庭の山斎しまの松のことを言っていると考えたほうがわかりやすい。奈良の山が野趣あふれる楢などの雑木林であることの対比として「里」であると定めている。手入れをして造った庭こそ、整序ある文様の韓衣を着るのに似つかわしい。
 この歌の題詞は「五年戊辰/幸于難波宮時作歌四首」である。聖武天皇が幼い皇太子を東院庭園に見舞いに行くときのことを歌にしている(注7)山斎しまの松のことと、島流しにあった罪人が恩赦を待つこととが意味的に掛けられている。恩赦をすれば皇太子の病気が治ると思われたらしい。山斎の松に玉飾りをつければ、幼子も喜んで元気になるという願いでもあった。
 「もがも」、「もが」は、対象の所有や状態の存在を願望する意を表す。➀……が欲しい、……があったらなあ、➁……であってほしい、……でありたい、……になりたい、……であったらなあ、の二様の表現に使われる。「好き人もがも」とある場合、よい人が欲しい、と、よい人になりたい、のいずれの場合にも用いられる。➁の例に次のようなものがある。

 たまきはる いのちに向ひ 恋ひむゆは 君がみ船の 楫柄かぢからにもが(万1455)
 よしゑやし ただならずとも ぬえ鳥の うらりと 告げむ子もがも(万2031)

 万952番歌は、自分自身に対する希望、……でありたい、の意と解せられる。自分自身の内面のことだから、訴えかけては自らに返ってくる自己循環的な歌に体現されている。口に出して言ってみて耳から入って再確認して再度口に出して、という繰り返しをそのまま形にしている。ただこの場合、天皇自身が歌っているのではなく、天皇の気持ちが代詠されている。天皇は自分が聖人君子たる「好き人」であるか、そうでありたいものだ、という意味で歌われている。善行を積めば皇太子の病も治ると信じているところを歌にしている。

 からころも 着奈良きならの里の 島松に 玉をし付けむ き人もがも〔韓衣服楢乃里之嶋待尓玉乎師付牟好人欲得〕(万952)
 その人は、韓衣を着慣れているという、その奈良の里の庭の山斎の松に玉飾りをつける、すなわち、島流しにあっている罪人に恩赦を与える立派な人でありたいものだというその人は、韓衣を着慣れているという、その奈良の里の庭の山斎の松に玉飾りをつける、すなわち、島流しにあっている罪人に恩赦を与える立派な人でありたいものだというその人は、韓衣を着慣れているという、その奈良の里の庭の山斎の松に玉飾りをつける、すなわち、島流しにあっている罪人に恩赦を与える立派な人でありたいものだというその人は、韓衣を……という歌である。

 いもも吾も きよみの河の 河岸かはぎしの 妹がゆべき 心は持たじ〔妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持〕(万437)

 この歌は難解な歌とされている。歌の左注は当時からわからないものであったことを伝えている。題詞とともに示す。

 和銅四年辛亥、河辺宮人かはへのみやびとの姫嶋の松原に美人をとめかばねを見て、哀慟かなしびて作る歌四首〔和銅四年辛亥河邊宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首〕(万434番歌の前)
 右は案ふるに、年紀としと所処、また娘子をとめの屍の歌を作れる人の名は已に上に見えたり。 但し歌のことば相違ひ、是非き難し。因りてかさねてつぎてに載す。〔右案年紀并所處及娘子屍作歌人名已見上也但謌辞相違是非難別因以累載於茲次焉〕

 歌の内容だけを捉えるなら、意味に通じないところはない。カップルがいて、彼女のほうが何かしら後悔して自死してしまった。川岸の堤防の「ゆ」と掛けて「ゆ」と歌っている。しかし、二人とも、何らやましいところはないはずである。誹謗中傷があったと訴えている歌である。無実なのだから「きよみの河」で晴らそうというわけである。そうなったとき、題詞の姫島の松原と関係がないではないか、また、女性の死体を見て無関係なはずの歌の作者が「妹も吾も」という言い方をするのは変ではないか、というのが左注の見解である。
 意味が通じるのに実状がよくわからない。けれども歌われていて記録に残っている。今日の我々および万葉集を編纂した人には不明でも、それ以前に現場で歌を歌った人やそれを直接聞いた人にはわかるものであったということであり、当時の人には通念となっていた典故があったと考えられる。歌が歌われた場では常識として共有されていた。「妹」が亡くなったのは「清の河の河岸」である。そのような話は雄略紀に伝えられている。当時知られていた逸話を下敷きにして、万437番歌は歌われている。作歌者は廬城部連武彦いほきべのむらじたけひこの立場で歌っている。

 三年夏四月、閉臣国へのおみくに、〈またの名は特牛ことひ〉。たくはたの皇女ひめみこ湯人ゆゑ廬城部連武彦いほきべのむらじたけひことをしこぢて曰く、「武彦、皇女をけがして任身はらましめけり」といふ。〈湯人、ここには臾衛ゆゑと云ふ。〉武彦の父枳莒喩きこゆ、此の流言つてことを聞きて、わざはひの身に及ばむことを恐る。武彦を廬城河いほきのかはあとたしみて、あざむきて使鸕鷀没水捕魚うかはするまねして、因りて其不意ゆくりなくして打ち殺しつ。天皇、聞こしめして使者つかひを遣して皇女をかむがへ問はしめたまふ。皇女対へてまをさく、「やつこらず」とまをす。にはかにして皇女、あやしきかがみり持ちて、五十すずのかはほとりでまして、人のありかぬときをうかがひて、鏡を埋みてわなき死ぬ。天皇、皇女の不在なきことを疑ひたまひて、恒に闇夜やみのよ東西とさまかうさま求覓ぎしめたまふ。乃ち河上かはのほとりぬじの見ゆることをろちの如くして四五丈よつゑいつつゑばかりなり。虹のてる処を掘りて神鏡を移行未遠たちどころにして皇女のかばねを得たり。割きて観れば腹中はらのなかに物有りて水の如し。水の中に石有り。枳莒喩、これに因りて、子の罪をきよむること得たり。還りて子を殺せることを悔いて、たむかひに国見を殺さむとす。石上いそのかみの神宮かむのみやに逃げかくれぬ。(雄略紀三年四月)

 「五十鈴河のほとり」とあるのが、歌にある「清の河の河岸かはぎし」である。歌ったのが「河辺宮人かはへのみやびと」だったから河の話にしている。栲幡皇女とその使用人、すなわち「宮人」である「湯人ゆゑ」とが讒言されているから、由縁ゆゑ有る歌を歌っている。登場人物が歌の枠組みをフレーミングしている。二重の序の循環構造になぞらえて、歌詠の前提に据えている。異なるカテゴリー錯誤を自ら楽しんでしている。

 妹も吾も きよみの河の 河岸の 妹がゆべき 心は持たじ〔妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持〕(万437)

 お前も私も清廉潔白なのだから、それを示すきよみの川の川岸が、えるようにお前がいるような心は持つまいよ、お前も私も清廉潔白なのだから、それを示す清の川の川岸が、崩えるようにお前が悔いるような心は持つまいよ、お前も私も清廉潔白なのだから、それを示す清の川の川岸が、崩えるようにお前が悔いるような心は持つまいよ、お前も私も……という歌である。

 いもが髪 上竹あげたか葉野はのの はなち駒 あらびにけらし 逢はなく思へば〔妹之髪上小竹葉野之放駒蕩去家良思不合思者〕(万2652)

 この歌は訓みに問題がある。「小竹」とあるのをタケ、タカと訓み、髪をたくしあげることと考えようとしている。また、「放駒」をハナチゴマと訓み、放牧しているもののように解している。そして、「蕩」字をアラブ(荒)と訓んで、放牧している馬の性格が荒れていると解している。
 しかし、万葉集に「小竹」はシノ(篠)と訓まれることがほとんどである(注8)。「蕩」字は集中に他に万2041番歌にしか見えず、また、トラクと訓むことがある。散り散りになるという意である。

 秋風の 吹きただよはす 白雲しらくもは 織女たなばたつめの あま領布ひれかも〔秋風吹漂蕩白雲者織女之天津領巾毳〕(万2041)
 ……能く諷歌そへうた倒語さかしまごとを以て、妖気わざはひはらとらかせり。(神武紀元年正月)
 仳 疋視反、平、別也、分也、醜面也、和加留わかる、又止良久とらく(新撰字鏡)

 「放駒」は、柵を越え出て野生化してしまった野良馬のことと捉えてわかりやすい。そして、コマ(駒)はうまの約とされる語であるから、「いも」とあるのも sister の意の幼い「いも」を指した可能性が高い。「妹」と呼ぶことがあったような人が自分のところから離れて、自分の意のままにはならない年齢に長じたという意である。すると、「髪上」とある「髪上げ」は、「放駒」と関係があると気づく。

 未通女をとめらが はなりの髪を〔放髪乎〕 木綿ゆふの山 雲なたなびき 家のあたり見む(万1244)
 たちばなの 古婆こばはなりが〔古婆乃波奈里我〕 思ふなむ 心うつくし いでわれかな(万3496)
 大君の みことかしこみ うつくしけ 真子まこが手はなり〔麻古我氐波奈利〕 島づたく(万4414)
 はなに〔波奈礼蘇尓〕 立てるむろの木 うたがたも 久しき時を 過ぎにけるかも(万3600)
 たたみけめ 牟良自むらじが磯の はなの〔波奈利蘇乃〕 母を離れて 行くが悲しき(万4338)

 「はなりの髪」とは、髪を切らずに伸ばしながら結うことなく左右に振り分けにした髪のことである。おおよそ八歳から十五、六歳までの少女がそのようにしていたから、その頃の年齢の少女のこともそのように呼ぶ。時代別国語大辞典に、「女児は二、三歳ごろは髪の末を切り、成長すれば頭上で両方へかき分けて垂れ、肩のあたりで切り揃える。「年の八歳をきり髪の」(万三三〇七・万三三〇九)とあるから、八歳ぐらいまではこれであろう。このころから髪を切らず、一五、六歳ごろまでのばす。この髪型をハナリノ髪と言い、このころの女性を童女ウナヰと言う。……既婚の女性は結髪していた。」(587頁)とある。下二段活用の「はな(離)る」には、あるいは上代東国方言ともされるが四段活用の形があった。また、「離り磯」、「離れ磯」の両様があった。ならば、野生化してしまった馬のことを、「放れ駒」、「放り駒」の両様で呼んでいたとしても不思議ではない。これは、柵のなかで放牧させたり、儀式の際に一時的に「放ち駒」としたものとは異なる。冬を迎えたり、儀式を終えて再び厩舎に呼び戻されればおとなしくしている。
 「小竹」はシノ(ノは乙類)と訓み、シノフ(思(偲)、ノは乙類)と掛けている。「しのふ」には、➀慕う、思いをはせる意と、➁賞美するという意がある。切下髪の、前髪をぱっつんにしたおかっぱ頭は「禿かぶろ」とも親しみをもって呼ばれていた。そんな幼い妹の前髪をあげてかわいいねと賞美していた頃と違い、八歳を過ぎて髪を伸ばしにかかり、髪同様に気持ちも御せなくなってしまって思い偲ぶばかりだという歌である。万葉集中に、「思」字をシノフと訓む例は十例以上ある。同時に「小竹」をシノと訓んでいる例をあげておく。

 朝柏あさかしは うるかはの しのの芽の しのひてれば いめに見えけり〔朝柏閏八河邊之小竹之笶思而宿者夢所見来〕(万2754)(注9)
 いもが髪 上竹あげたか葉野はのの はなち駒 とらきにけらし 逢はなくしのへば〔妹之髪上小竹葉野之放駒蕩去家良思不合思者〕(万2652)

 妹の髪をあげて賞美することをいう偲ぶことを意味するであろう上竹あげたか葉野はのという名の野に、柵を越えて放れてしまった仔馬は、髪が散るように心も自分のところからは散ってしまったらしく、全然逢うこともなくただ慕い偲ぶ、その妹の髪をあげて賞美することをいう偲ぶことを意味するであろう上竹葉野という名の野に、柵を越えて放れてしまった仔馬は、髪が散るように心も自分のところからは散ってしまったらしく、全然逢うこともなくただ慕い偲ぶ、その妹の髪をあげて賞美することをいう偲ぶことを意味するであろう上竹葉野という名の野に、柵を越えて放れてしまった仔馬は、髪が散るように心も自分のところからは散ってしまったらしく、全然逢うこともなくただ慕い偲ぶ、その妹の髪をあげて……という歌である。
 妹の髪の毛を上げてかわいいねと賞美することと、妹がもはや自分になつかずに身近におらずに思いをはせるばかりであることを、同じ「偲ふ」という一語に圧縮している。それを上小竹葉野という地名の意と解して二重の序に丸め込んでいる。それらをつなぐキーとして、「放り」という語を使って馬と髪の「蕩」化を掛けている。思春期にさしかかる妹が兄のもとから遠ざかって行っていることを歌った歌である。

 以上、万葉集に二重の序と呼ばれる序歌形式について検討した。二重の序とは歌の循環を促す修辞法であり、それにより声がだまするような歌となっている。主意はあるにはあるが、それよりも修辞自体のほうに関心が向いており、言語遊戯の巧みなものとして評価されるべきである(注10)。あまり馴染みのない地名が歌中に現れ、聞く人は何か訳があるだろうと聞き分けるよう努めた。結果、掛詞として機能していると理解され意が通じている。
 万葉集の二重の序の歌は、それが語呂合わせの洒落の数珠つながりであるばかりか、循環的に歌われることが可能であることを前提として知っているから興趣あるものと理解されたようである。二重の序が施された歌の主意は、取り立てて問題とはされない。その時、歌は歌(歌唱)、歌われているその場限りの口承文芸(注11)となり切っている。掛詞にあらわれる地名は、その場所が有意味なのではなく、その言葉の音に活用されているだけである。例えば、近江の野洲の河に、待ち合わせ場所として休憩用のホテルが建っていたりはしない。現実が問題なのではなく、歌われる声に興味があった。のど自慢大喜利大会とでも譬えればわかりやすいか。無文字時代の音声言語芸術には裏返されたアウラがあった。

(注)
(注1)井手1975.276~279頁には、縦書きの左右に傍線を引いて解説している。歌の番号などの一部の乱れは正した。
a        (欲り)      c
妹が目を見まく江のさざれ波頻きて恋ひつつありと告げこそ(巻十二・万三〇二四)
         b
a   (穢)         c
恋衣着奈良の山に鳴く鳥の間無く時無し吾が恋ふらくは(巻十二・三〇八八)
    b
a      (振る)
娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我れは(巻四・五〇一)
      b
a    (清み)       c (壊ゆ)
妹も我れもの川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ(巻三・四三七)
      b
a    (たか)        c
妹が髪上げ葉野の放ち駒蕩びにけらし逢はなく思へば(巻十一・万二六五二)
      b
a   (逢ふ)       c
我妹子に坂山のはだ薄には咲き出ず恋ひ渡るかも(巻十・二二八三)
     b
a       (又打ち・・・)c
橡の衣解き洗ひ真土もとつ・・・山にはなほ如かずけり(巻十二・三〇〇九)
          b
a  (取り替ひ)    c
洗ひ衣鳥飼川の川まむ心思ひかねつも(巻十二・三〇一九)
    b
a       (降る)       c
とのぐもり雨布留川のさざれ波間無くも君は思ほゆるかも(巻十二・三〇一二)
        b

 この図解は、かなりわかりやすいものである。この井手1975.論文は、井手2006.に収録されているが、二重の序部分は割愛されている。説明不足でおさまりが悪いと考えられたかと推察する。なお、「主意」という言葉は「主想表現」に改められている。
(注2)以下に、人麻呂作歌の万501番歌と人麻呂歌集歌の万2415番歌を例に述べた。万2415番歌は口承の歌を人麻呂が採譜したもの、万501番歌はそれを下敷きにして人麻呂が作ったものと考える。
(注3)歌に固有名詞が出てきて、同音ゆえに掛詞となっている歌について、さてそれが何を謂わんとしているのか真向から相手するのは大変である。その地で歌われたものなのか、それともその地にゆかりがある人が歌ったものなのか、語呂合わせでただ登場している地名なのか、判断のしようがない。地名なのかどうかさえ定めきれない語も多々ある。それを一律に「地名」として捉えるのには無理がある。さらにまた、口承的な歌と文字に書いて作った歌とに分けて論じることを交えるにしても、その両者の間には無文字文化と文字文化の違いが横たわっていることを念頭に置かなければならない。万葉集研究の枠、文学研究の枠、さらには言語研究の枠さえも超えて行かなければ理解できるものではない。ましてや、それは別世界、異次元の事柄なのだから、進歩や進化と捉えることは誤りである。
 白井2005.は、「序詞と本旨とが明らかな同音異義の懸詞によって接続する例を検してみると、地名を導く例を除けば、わずかに……[万2407・3663・2347・2643・2722・1539・2766・2990番歌]などを挙げうるに過ぎない。」(282頁)とし、その少なさから「一般的なありようではなかったことを物語っていよう。……『萬葉集』の序歌は、表象性を喚起するような例をひとつの極としつつも、あくまで音と意味を主たる契機として、景物の事象(序詞)を、それと有縁的な人事(本旨)に関連付けてゆくことを本来とする修辞であったと言ってよいのではなかろうか。」(283頁)としている。本稿では、二重の序の修辞は堂々巡りの言語遊戯であるとみている。掛詞から地名を除いて序歌全体のあり様を議論するのはかなり乱暴ではあるが、当たり障りのない結論であるともいえる。
 反対に、二重の序に普通名詞を掛けたケースがあるかが問われよう。演繹的に考えれば、ないように思われる。歌は歌われるものであった。それが言葉遊びなのだと聞き手が理解し、互いに共有されなければ歌とならない。遊戯性の担保のためにも、限定性を示す固有名詞の地名が出てくることが求められたのではないか。それにより、歌の主意(本旨)が宙ぶらりん状態になって、恋をしたとき恋心を一時いっとき、一心に訴える歌としては必ずしもふさわしいものではなくなっており、常態として思い続けているという歌に多く採用されている。伊藤1976.は、二重の序の説明において、要となる掛詞部分が普通名詞である例も含めているが、井手氏の指摘にあるような、抒情序+叙景序+主意の連続的連結と、最初の抒情序と主意とのそこはかとない連携を示しているとはいえない。伊藤1976.に指摘されている二例を示す。

 春去れば まづ三枝さきくさの さきくあらば のちにも逢はむ な恋ひそわぎ〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895)
 春になるといつもまっさきに咲く、その三枝というではないが、達者でいたら、将来、ナニハサテオイテモマッサキニ逢おうぞ、だから、そんなに恋い焦れるな。(伊藤1976.7頁の訳)

 この拡大解釈は論理矛盾を引き起こしている。「後にも逢はむ」を「まづさき」の意と絡めてしまうと、その季節は「春」のことなのかという疑念が生じる。四句目の「後にも逢はむ」に掛詞の掛かりが見られず、同形反復や同語反復も見受けられない。三句目までで説き起こしておいて、四・五句目を対置的に承け、時間的な先後、サキ←→ノチの対比によった言い回しと解される。歌の上の方でごちゃごちゃ掛かりながら言っていることに対して、主意のほうからすり寄ることはない。すなわち、形式主意ではない。なお、この歌を二重の序とする捉え方には稲岡2011.も与しているが、その際には訓み方も変えている。拙稿「万1895の「幸命在」の訓─垂仁記の沙本毘売命と天皇との問答における「命」字を参照しながら─」参照。

 もののふの 八十やそ氏川うぢがはの 早き瀬に 立ち得ぬ恋も 吾はするかも〔物部乃八十氏川之急瀬立不得戀毛吾為鴨〕(万2714)

 この歌に対して、伊藤1976.は、「「早き瀬に」までは、「立ち得ぬ」(耐えてゆくことのできない)を起こす譬喩の序で、その中の「もののふの八十」は、「氏」と「宇治」とを掛けた序とされている。とすれば、これも二重の序である」とし、「この作者が「もののふの八十氏」の一族であったかどうかは、今知るよしもなく、また考える必要もない。」(9頁)とする。しかし、「もののふの」は枕詞である。「もののふの八十氏」の全体が抒情序になっていると言えるものではない。主意に対して起こしの序として、そこはかとなく意味的に関連しているとは言えない。集中には他にも「もののふの八十宇治川」という慣用表現が行われており、この歌を二重の序の範疇に整理することはできない。
(注4)奈良時代までに見られる助詞「ゆ」について、「久しき時ゆ」はふつう、「久しい時から」と訳されている。久しい時の間じゅう、久しい時の間を通して、とした例に、武田1956.、同1957.がある。
(注5)慣用表現の「予め兼ねて」によって「兼ぬ」という語の真意が知れる点については、拙稿「万葉集における洗濯の歌について」参照。
(注6)「並立」はそれぞれの場所で並び立っているだけなのに対して、「並列」は電気の回路図のようにめぐって還ることを指して言っている。
(注7)拙稿「神亀五年の難波行幸歌」参照。
(注8)「小竹」を植物のシノと訓む例に万1349・1350・1830・2754番歌、「しの(偲)ふ」の当て字に使う例に万1786番歌、地名に当てる例に万1802・2774・3327番歌、副詞シノニ・シノノニに当てる例に万1977・3255・3993番歌がある。また、「小竹」を植物のササと訓む例に、万133・2336・2337番歌がある。タケ・タカと訓む例はない。
(注9)この歌が二重の序に当たるか、筆者にはよくわからない。
(注10)歌は、作った人の歌う歌である限りにおいて、本来的に主意を述べることを目的としている。修辞に偏重して主意をなおざりにすることは、何のために歌っているのかわからなくなって本末転倒である。といって修辞がなければ、言葉に妙味がなく、知恵ある人にとっては稚拙さに耐えられない。どうにかしてうまく表せないかといろいろ試行錯誤した。結果、二重の序のような、修辞にばかりとらわれて主意が二の次になっているかに思える歌が、歌声ばかりを聞かせるための歌として、それはそれで一つの到達点となっている。他方、主意を述べることと修辞を具えることとを両立させるために、言い回しの精髄として生まれたのが枕詞である。枕詞も序の一種であるが、多義を四、五音にまとめ切ってもとの意味を忘却するに至っている。短歌の音数を占領してしまうような二重の序よりも使い勝手が良かったから、たくさんの枕詞が用いられたのだと言えよう。その言語感覚は、無文字言語であったことが根本にある。無文字時代の言語活動の到達点が、枕詞や二重の序であったと考える。白井2005.参照。
(注11)口承文芸という概念は、時としていわゆる神話と親和性を持っている。しかし、ここで見てきた二重の序の施された歌にそのような性格を窺うことはできない。伝えられることを期待されていなかった一回性の歌謡技術練習回答、歌唱能力検定回答が、たまたま記述されて残っているとさえ感じられる。反復されないのに反復を内在する自己循環、自己問答する歌となっている。歌うことを自己目的化し、それを完遂して無色透明化するに至っている。歌の内容は括弧に入れられ、括弧に入れられているという気配を漂わせる工夫が見られている。言語遊戯に極まって自己満足しており、いわゆる文芸の地平は崩れていて、文芸の概念から逸脱しているとも言える。そもそも無文字時代に文字はない。文のない文芸とは自己矛盾である。文芸の概念は転回されなければならない。

(引用・参考文献)
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白井2005. 白井伊津子『古代和歌における修辞─枕詞・序詞攷─』塙書房、2005年。(「序歌の意味と形式」『萬葉』第181号、平成14年7月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2002 、「『萬葉集』歌における枕詞・序詞と懸詞─『古今和歌集』へ─」『文藝言語研究 文藝篇』第47号、2005年。つくばリポジトリ http://hdl.handle.net/2241/9887
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武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 八』角川書店、昭和31年。
武田1957. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 五』角川書店、昭和32年。

加藤良平 2023.10.5改稿初出2025.1.15加筆

万葉集の「龍の馬(たつのま)」について

 万葉集巻五には、漢文の書簡文を標題にもつ贈答歌がある。大宰府にいる大伴旅人が奈良の都にいる人と手紙をやりとりし、そのときに歌のやりとりをしている。漢詩文からの影響が大きい歌が作られていると見られている。新大系文庫本の訳を添えて掲げる。

  して来書らいしよかたじけなみ、つぶさほううけたまはる。たちまち隔漢かくかんの恋を成し、またはうりやうこころを傷ましむ。ただねがはくは、去留きよりうつつみ無く、遂にうんを待たまくのみ。〔伏辱来書具承芳旨忽成隔漢之戀復傷抱梁之意唯羨去留無恙遂待披雲耳〕
  歌詞両首〈大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみ〉〔歌詞兩首〈大宰帥大伴卿〉〕
 たつも 今も得てしか あをによし 奈良の都に きてむため〔多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠尓与志奈良乃美夜古尓由吉帝己牟丹米〕(万806)
 うつつには ふよしもなし ぬばたまの 夜のいめにを ぎて見えこそ〔宇豆都仁波安布余志勿奈子奴婆多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曽〕(万807)
  答ふる歌二首〔答歌二首〕
 龍の馬を あれは求めむ あをによし 奈良の都に む人のたに〔多都乃麻乎阿礼波毛等米牟阿遠尓与志奈良乃美夜古邇許牟比等乃多仁〕(万808)
 ただに会はず あらくも多く 敷栲しきたへの 枕去らずて 夢にし見えむ〔多陀尓阿波須阿良久毛於保久志岐多閇乃麻久良佐良受提伊米尓之美延牟〕(万809)

 お手紙ありがたく頂戴し、お気持のほど十分に承りました。 拝読するや忽ちに天の河を隔てる彦星のように恋しく、また橋梁を抱い て人を待った尾生(びせい)と同様に心を痛めまし た。ただ旅のあなたもとどまる私もつつがなく日を過ごし、両地を隔てる雲を開いてお帰りになるのをお待ちするのみです。
 竜の馬が今すぐにでも欲しい。(あをによし)奈良の都に行って戻って来るために。(万806)
 現実には逢うすべもありません。(ぬばたまの)夜見る夢に絶えず現れて下さい。(万807)
 竜の馬を探してみましょう。(あをによし)奈良の都に帰って来ようとする人のために。(万808)
 直接お目にかかれない年月も積もりましたが、(しきたへの)枕辺を離れずに、あなたの夢の中に現れましょう。(万809)(59~61頁)

 「たつのま」という語については、漢語「龍馬」の翻読語であるとする見解が根強い。先行研究の諸説について、仲谷2021.のまとめを下に示す。

【典拠、及び翻訳語であることを指摘するだけのもの】
『仙覚抄』、『代匠記』(初/精)、『略解』、『楢の杣』、『古義』、『私注』、『大系』、『全集』、『新編全集』、小島論文(注1)
【実在的存在として解釈するもの】
A 駿馬と理解する説
『管見』、『楢の杣』、『攷證』、『新考』、『全釈』、(『総釈』)、『金子評釈』、『窪田評釈』、『全註釈』、『集成』、『全注』、『釈注』、『全歌講義』、露木論文(注2)
B 良馬と理解する説
『拾穂抄』、『童蒙抄』、『万葉考』、『注釈』
【空想的存在として解釈するもの】
C 想像上の飛行する馬とする説
『評釈万葉集』、『新大系』(注3)、『全解』、『和歌大系』、『岩波文庫』
D 車を牽く馬の役目をする龍とする説
荻原論文(注4)(33頁を一部整理)

 どの漢籍に拠るかの違いや駿馬、良馬、天馬、想像上の馬、車を牽くものといった違いがあるだけである。漢籍を読んで理解し、その観念に従って言葉を作ったというのである。漢詩文にもたれかかった舶来趣味とまで言われている。造語を使うことで歌としておもしろみがあるから使ったのであろうが、現状の解釈では、「たつのま」という言葉をあえて作ってまでして使っている理由が明らかにされていない。それら漢籍に学んだとする考え方は、万葉語がどんどん翻訳語を取り入れ膨らんでいっていたとする立場から、当該歌群が漢文の書簡を序にもつことによるとする見方まで、程度の差こそあれ、歌の詞を狭義のヤマトコトバから解放してしまおうととする捉え方によっている。この考え方は無反省に広まっており、漢籍に字面の類似したものを見つけてきっとそうだろうと言っている。根拠はそれだけである。「双六すぐろく」といった外来語が万葉集には見られる。なぜ漢語のままに「龍馬りうめ・りようま」とせずに翻読語としてあるのか、説明されていない(注5)
 歌は歌われて存在している。歌った時に聞いている人がいて、その人たちに通じているから成り立っている。多くの人々が聞いて、誰一人とまでは言わないがほとんど取り残されることなく理解されなくてはならない。ここで「たつのま」という言葉が唐突に現れている。記紀万葉で他に例がない(注6)。聞いた人たちが「龍馬」の翻読語だと、聞いた瞬間に理解できだろうか。たとえこの歌が書簡と関係があるとしても、その書簡の内容が中国の故事をふんだんに盛っているものであったとしても、「龍馬」と書き記しているのではなくてタツノマと音声で発せられている(注7)。漢籍に「龍馬」という漢語がいろいろ見出されても、「たつのま」という新語をはじめて耳にした人が即座に理解できるはずはない。よしんば書いてあるから何日もかけて頭をひねってみてわかろうとしたとして、間違える可能性があるとすると最初からその言葉は使わないであろう。今日の人が四庫全書をデータベースにしていかに辿り着いたとしても、今の理解は1300年前の理解と同じにならない。文字という担保が「たつのま」にはないからである。すなわち、歌のなかで「たつのま」という言葉が使われているなら、奈良時代当時の人たちはきっとこういうことを言っているのだろうと当てがあったに違いない。良馬、駿馬、天馬など、諸説にいうように「たつのま」を認識していたとは考えられない。認識していたら、この二首にしか見られない孤語にはならないだろう。「たつのま」という言葉を意図的に発することで謎掛けとしているというのが妥当な考え方で、何かしらそれとなく気づく存在があり、それに基づいてこの新語は構想されたのだろう。聞き手がすぐにそれとわかるから、歌の詞として使われていると考える。

左:蒼龍旗復元品(平城京天平祭)、右:平城京幢幡遺構整備展示

 たつうまとが関係のある概念とすることは、諸説の説くとおりであろう。その龍はもちろん中国から移入されたもので、それを「たつ」と和訓している。雄略紀や欽明紀には、馬が龍のように翔るといった表現が行われていることも指摘どおりである。周礼・夏官・廋人の「馬の八尺以上を龍と為し、七尺以上を騋と為し、六尺以上を馬と為す。」部分の鄭注に、「鄭司農、説くに月令に以てして曰く、蒼龍に駕すといふ。」とある箇所は「たつのま」の語の基としてあげられている。ここにある蒼龍とは青龍のことである。この青龍について、奈良の都にいた人は具体像として知っている。玄武・朱雀・白虎・青龍の四神の一である。天皇の即位儀礼で、大極殿院前に幢幡が立てられ、そのいちばん東側には青龍を象った絵を描いた旗が立てられていた(注8)。龍は蛇のように胴が長く、四足を持ち、角や爪が生えている。胴が短くなれば馬に似てくる(注9)。肝心な点は図像として多くの人の目に触れていることである。だから、「たつのま」という言葉が成り立っている。聞いた人が、ああ、あれのことか、と気づくことができる(注10)。他の人に受け入れられてはじめて造語は言葉となる。これまでの翻読語説、翻案語説、翻訳語説はこの検証を欠いている。

  歌詞両首〈大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみ
 たつも 今も得てしか あをによし 奈良の都に きてむため(万806)
  答ふる歌二首〔答歌二首〕
 龍の馬を 我れは求めむ あをによし 奈良の都に む人のたに(万808)

 具体的に歌のうえで考えてみる。「たつのま」が出てくるのは万806・808番歌である。
 「たつのま」に乗って奈良の都へ行って帰って来るために、「たつのま」なんかを今にも得たい、「たつのま」を私は求めよう、奈良の都に来ようという人のために、という意味である。青龍に乗ることができるなら、体を伸び縮みさせてあっという間に大宰府から平城京までを往復することがかなうであろう(注11)。そして、「たつのま」が青龍のことを言っている証拠として、枕詞「あをによし」が使われている。アヲが掛かっており、平城京の大極殿院前に幡が立てられたこととも結びついている。
 題詞に「歌詞両首」と断られている。「歌二首」の意であるはずが、わざわざそう断られている。歌詞、すなわち、「たつのま」が大事であり、大伴卿が作った二首とも「たつのま」の歌だということである。その点は「答歌」にも一貫している。「答歌」で「たつのま」を求めようと言っている。「たつのま」は青龍で、旗に描いてあるからそれを調達しようと思っているとおどけてみせている。つまり、「たつのま」(青龍)は奈良の都にあるもので、大宰府ほか地方にはないということである。万806・808番歌はほとんど同じことを言っていて、鸚鵡返しになっていると見る向きもある。しかし、「たつのま」という新語を作って使っているのだから、その言葉の意味合いをよく理解しているとわかるように示して答えることが、歌のやりとり、応答なのである。言葉が通じていること、それが歌として成り立っているということである。
 それぞれの歌の二首目は次のようになっている。

 うつつには ふよしもなし ぬばたまの 夜のいめにを ぎて見えこそ(万807)
 ただに会はず あらくも多く 敷栲しきたへの 枕去らずて 夢にし見えむ(万809)

 「うつつにはふよしもなし」、「ただに会はずあらくも多く」にある「会ふ」ことについて、これまでの解釈では互いの人どうしが会うことと考えられてきた。その考えではそれぞれの歌どうし、万806番歌と万807番歌、万808番歌と万809番歌のつながりが見出せない。「歌詞両首」と断っているのだから、万806番歌に特別な「歌詞」として「たつのま」が歌われているように、万807番歌でも特別な詞であるはずである。すなわち、「会ふ」対象は「たつのま」と捉えなければならない。現実に青龍に会うはずはない、夜の夢にでも続けざまに見たい、じかに青龍に会うことのできない日が多い、枕を片づけないで夢に見ましょう、と歌い合っている。
 万806番歌で現実に青龍に出会う方法がないとは、架空の動物だから本当に本当のことである。龍は玉を持っていると言われるから「ぬばたまの」という枕詞が出てきて順当である。夢で見たいと言う際に「たつのま」という「詞」を造語してまで使っている理由でもある。言葉遊びにおもしろいから使っている。
 青龍は馬のように乗れるとしているが、その体、とりわけ胴は長い。長いから遠距離をあっという間に行き来できると想っている。その長い体を一晩の夢で見ることはできず、部分的にずつ毎晩見継いでいって全体像を作ることができる。つまり、馬は馬でも、胴をブツ切りにして一晩ずつ夢に見る。だから、タツ(断)+ノ(助詞)+マ(馬)なのである。こういう洒落を言いたいから歌を歌っている。
 万809番歌はその意を汲んで答えている。奈良の都であっても、青龍の幡が掲げられるのは即位式典、元日朝賀だけである。あなたのためにこちらで求めましょうと言ってはみたものの、青龍に会えないことばかりである。そこで万年床にして、枕を置いて夢に見ようという。大伴卿が言っていたのは、「ぬばたまの夜の夢」であった。そうか、暗くないから会えないのだ。だから真っ暗、すなわち、マ(真)+クラ(暗)を導くためにマクラ(枕)は必須アイテムということになる。ずっと真っ暗ならばタツ(断)+ノ(助詞)+マ(馬)もつなぎ合わされて夢に一頭の「たつのま」として見ることができる。そうしたらあなたにお届けいたしましょう、と歌っている。空想の動物をモチーフにした架空の話、二首目に歌われているとおり夢想とも呼べるものを互いに理解しあってやりとりしている。
 このように、漢籍を一生懸命勉強して漢語「龍馬」を翻訳、翻読、翻案してその思想的背景を観念として勝ち取ったのではなく、青龍の描かれた旗のことを念頭に、「たつのま」談義に花を咲かせているのである。「龍馬」はタツ(龍)+ノ(助詞)+マ(馬)だし、タツ(断)+ノ(助詞)+マ(馬)だから「たつのま」だと笑いあっている。彼らは歌をやりとりしているのであって、漢文講読特論の講義をくり広げているものではない。

(注)
(注1)小島1954.に、「「龍の馬」も「龍馬」(一例、玉台新詠襄陽白銅鞮歌「龍馬紫禁鞍」、謝脁送遠曲「方衢控龍馬」)の飜読語の一例であり、その当時新しい歌語として歌人達に新鮮味を感じさせようとしたものであらう。」(327頁)とある。
(注2)露木2000.に、「「書簡文」の文案作成過程から導き出された漢籍からの引用と考えてよいのではなかろうか。」(118頁)とある。
(注3)新大系本には、「「てしか」を含む類歌(二六七六・三六七六・四四三三)における雲・雁・ヒバリと同じく、この「竜の馬」も空を飛ぶものとして想像されている。「竜の馬」は従来八尺以上の馬を言う「竜馬」(周礼など)の翻訳語と解釈されてきたが、漢語「竜馬」は「竜馬とは仁馬、河水の精なり。…骼上に翼有り」(瑞応図・芸文類聚・祥瑞部・馬)と、羽翼を持つものでもあり、さらには周の穆王が天下を巡行するに駕した「八竜の駿」は絶地・翻羽・超影・騰霧・挟翼などとも別称される(晋・王嘉・拾遺記三)飛行する馬であり、仏典の竜王の騎乗する竜馬も「虚空中に於て仏を繞ること三匝」(父子合集経五)と描かれることがある。「大鷦鷯帝の時に、竜馬西に見ゆ」(日本書紀(孝徳紀)・白雉元年)。上の奈良某人の書簡の「披雲を待たまくのみ」は、空飛ぶ「竜の馬」に駕して帰りたいという歌詞に答える表現でもあった。」(457頁)とある。さらに、廣川2015.には、「『漢書』および李善注を含んだ「赭白馬賦」を収載する『文選』は共に、日本上代の貴族官人たちにとって重要な書物であった。また、『芸文類聚』は、奈良朝の貴族たちによく読まれた書物であった。そこには、「龍の馬」と「天馬」とが通じ合う通路が、重層的に確保されていた……。上代奈良朝の貴族官人たちは、右の書物をとおして、龍と友であり「龍」と名付けられる名馬が、虚空に飛び上がり雲の高さまで登り疾駆し、また、万里を跳び越える姿で描かれている表現に出会った……。こうした表現の質を理解したうえでは、……「龍の馬」は、万里を跳び越え、天を翔る「天馬」を喚起する表現として、大宰府と奈良の都との間の〈距離〉を表わし出し、その〈距離〉を認識させる役割を十分に果たしている……。」(262頁)とある。
(注4)荻原2017.には、「龍の馬」は、……『楚辞』の世界からイメージされたものではないだろうか。すなわちそれは従来の説のような漢語「龍馬」 の翻読語ではなく、「の」は「体言の資格をもつ語句二つを結び、同格・性質・所属・所有などの関係をあらわす」助詞の「の」であり、漢籍から翻案した和語としての「龍の馬」(龍が馬の役目をつとめているもの)として理解すべきではないか。」(42~43頁)とある。
(注5)どうして言葉としてあるのか、と考えることは、今日の万葉集研究者の念頭にない。英語の詩である場合、どうしてその言葉があるのかまで遡ってそこに置かれていることを吟味している。例えば、その言葉がラテン語由来のものであるか、ゲルマン語系のものであるかによって、詩人の意図は異なると察せられるからである。これは、その詩人がどういうつもりで使っているのかを知ろうとすることで、必ずしも語源を遡るということにはならない。詩作当時の言葉の状況を理解しなければ詩の理解は満たされないということである。万葉歌においても、奈良時代当時の言葉の理解こそが迫られなければならない肝要点である。大伴旅人は漢籍を勉強したから使っているのだろうと当て推量して事足れりとすることと、どうして「たつのま」という言葉があるのかを問う姿勢とは根源的に異なっている。
(注6)孝徳紀、白雉元年条に見える「龍馬」にはリウメ(内閣文庫本)と付訓が見られる。
(注7)大宰府と都との往復書簡であって、書かれた歌、読み歌であるともされているが、「多都能馬」や「多都乃麻」と書いてあるものは口に唱えてみなければわからない。声の文芸であることに変わりはない。
(注8)それ以前から四神像は描かれていた。高松塚古墳などに残されている。旗として大っぴらに見ることができるようになったのは藤原京時代からで、藤原宮跡からも幢幡遺構が見つかっている。文献資料としては、「大宝元年春正月乙亥朔、天皇御大極殿朝。其儀、於正門烏形幢。左日像、青竜、朱雀幡。右月像、玄武、白虎幡。蕃夷使者、陳-列左右。文物之儀、於是備矣。」(続紀・文武天皇・大宝元年正月)と見える。ただし、平城宮とは旗の並び方が違っている。
(注9)絵図では、胴の長いものもあれば短いものもある。
(注10)「歌詞両首」と「答歌二首」とは私的な交信であり、書簡文と歌とかセットになっていて、歌の部分だけを切り離したら意を伝えることができない代物なのだという倒錯した見方もある。「答歌二首」のほうに書簡文が付されない理由や、歌のやりとりの発端となった最初の書簡(「来書」)を載せる気がない編者の姿勢を訝しがる向きもある。一番シンプルに考えるなら、これは万葉集という歌集であり、あくまで歌が主役であって、書簡文はその前置きに過ぎないということになる。
(注11)大宰府にいる旅人の懐郷の思いをこの歌から読み取ろうとする見方があるが、「行きて来むため」と往復を歌っているのを無視することはできない。

(引用・参考文献)
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新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系 萬葉集一』岩波書店、1999年。
『即位大嘗祭とその周辺』東京経済、平成元年。
露木2000. 露木悟義「龍の歌の贈答歌」『セミナー万葉の詩人と作品 第四巻 大伴旅人・山上憶良(一)』和泉書院、2000年。
仲谷2021. 仲谷健太郎「「たつのま」をめぐって」『美夫君志』第102号、令和3年4月。
原田2001. 原田貞義『読み歌の成立─大伴旅人と山上憶良─』翰林書房、2001年。
文安御即位調度図 『群書類従』(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2559108/1/59~86 )

加藤良平 2023.10.4初出

藤原卿と鏡王女の贈答歌

 万葉集巻二、相聞の部立に藤原鎌足と鏡王女の歌が載る。

  内大臣うちつおほまへつきみ藤原卿ふぢはらのまへつきみの、かがみの王女おほきみつまどふ時、鏡王女の内大臣に贈る歌一首〔内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首〕
 玉櫛たまくし おほふをやすみ けてなば 君が名はあれど 吾が名ししも〔玉匣覆乎安美開而行者君名者雖有吾名之惜毛〕(万93)
  内大臣藤原卿の、鏡王女にこたへ贈る歌一首〔内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首〕
 玉櫛笥 みむまろ山の さなかづら さずはつひに ありかつましじ〈或る本の歌に曰はく、「玉櫛笥 むろやまの」〉〔玉匣将見圓山乃狭名葛佐不寐者遂尓有勝麻之自〈或本歌曰玉匣三室戸山乃〉〕(万94)

 あまり議論されてはいないが、注釈書では解釈に多少の違いがある。比較できるように訳を例示してみる。

  内大臣藤原卿(鎌足)が鏡王女に求婚した時、鏡王女が内大臣に贈った歌一首
 美しい櫛箱の、その蓋(ふた)をするのは簡単だからと、櫛箱を開けるように夜が明けてからお帰りになったら、あなたの御名はさておいて私の名こそ惜しゅうございます。
 (玉くしげ)みもろの山のさな葛、さ寝ずにはとても生きていられないでしょう〈或る本の歌には「(玉くしげ)三室戸山の」と言う〉。(新大系文庫本123~125頁)
  内大臣藤原(鎌足かまたり)卿が鏡王女に妻問いした時に、鏡王女が内大臣に贈った歌一首
 美しい櫛箱くしばこふたが覆うようにまだ関係が外に露見していないのをよいことに、すっかり夜が明けてから帰るなら、あなたの名はともかく私の浮き名の立つのが口惜しいことだ。
  内大臣藤原(鎌足)卿が鏡王女に答え贈った歌一首
 玉櫛笥を開けて見る、みもろの山のさなかずらではないが、さ寝(共寝)をしないでは、とても生きていられないほど耐え難くなるだろう〔ある本の歌に言う、「玉櫛笥を開けて見る、三室戸山の」〕。(多田2009.100~101頁)

 枕詞、序詞の扱いが異なっていて、現代語訳に差が出ている。現在の言葉づかいとは異なるから、訳すのに手こずってニュアンスが伝わりにくい。問題は、修辞的な表現について、どのような意図をもって行われ、どのような実態をなしているか、それをきちんと把握することである。
 例えば、一首目で、玉櫛笥の蓋をするのは簡単だからと、夜が明けてから帰る、ととるのと、玉櫛笥の蓋が覆うように関係が露呈していないのをよいことに、夜が明けてから帰る、ととるのでは、明らかに理解が違う。
 二首目になると、共寝をしないと生きていられない、という嘆き節であるととられている。しかし、それでは、一首目に対する「贈歌」とは呼べない。それぞれの歌に使われている言葉が共通するからといって、贈られた歌に対する「報」であるとは考えられない。歌ってきた内容を捉え返して相手を言いくるめてしまうこと、時には揚げ足取りのようなことであれ、まるごと言葉を返すことがなければダイアローグとしての興趣を生まない。短詩文形式の言語芸術をくり広げている理由は、言語活動として高度であるからおもしろいと認められていたからであろう。恋関連の歌を交わすダイアローグを相聞と言っている。

 要領を得ていない二首目から検討していこう。

 玉櫛笥 みむまろ山の さなかづら さずはつひに ありかつましじ(万94)

 二首目の二句目は、「将見圓山」を「みもろの山」、「みむまど山」などと訓む説もある。
 歌のなかに「ズハ」とある。この「ズハ」については一つの意味ではまとめることができない難解な語法であるとされ、訳出に工夫するようにと注意されている(注1)。しかし、その捉え方、すなわち、「ズハ」を連語として考えることは誤りである。「ズハ」の形の使い方の肝は係助詞「ハ」にある。PハQ、とあれば、ほかのRのことなど知らず、ただただPとQとが分かちがたく一体なのだと言っている。これを少しばかり論理学的に展開した言い回しが、「ハ」の前を否定してみせた「ズ」を伴う形となって現れている。現代の表現にはない言い回しが上代に行われていた。
 基本的には、係助詞「ハ」が、「ハ」の前と「ハ」の後とを結びつけて離さない関係に拘束する役割を果たしていて、それが全体の構文の決め手である。これまで、「ハ」の前の、枕詞を含む多彩な修辞と、後にある表現とが絡みあっていること、係助詞ならではの前後の係わりについて理解されて来なかった。「ハ」が前後を結束させているのだから、その間の絡みを巧みにせずには歌の表現として拙いことになる。そういうところに目が行っていたのが、上代の歌の特色である。
 「玉櫛笥みむまろ山のさなかづらさ寝ず」ハドウイウコトカトイウト「遂にありかつましじ」トイフコトデアル、「玉櫛笥みむまろ山のさなかづらさ寝ず」ハ「遂にありかつましじ」ト同等デアル、と言っている。
 「玉櫛笥」については、櫛がおさめられている容器のことであると思われている。ただ、櫛専用とは言えない。一般に、すてきな櫛笥のこと、櫛笥とは櫛や髪飾りなどを入れておく箱のこととされている。櫛はもともと髪を梳くための道具であり、そのまま髪につけて装飾品にも使うようになっている。ブラシと髪飾りのいずれであれ、その容器は櫛入れ、つまり、櫛笥ということになる。そしてまた、髪を梳くという本来の目的からすれば、自分できれいに梳くためには同時に鏡が必要となる。すなわち、タマクシゲと呼ばれるものには、鏡も一緒に収納されたと推測される。鏡を入れるには鏡の形に合わせて容器は作られる。丸くなければならない。そうであるならクシゲに丸いものを示すタマと冠する理由も説明がつく(注2)。そして、二句目が「みむまろ○○山」と続く理由もはっきりする。ミモロ(三諸)の山のことを地口的になぞった言い方をしているのである。藤原卿がこの歌を歌うために編み出した言葉である(注3)
 山にサナカヅラがあるという。今、サネカズラと呼ばれる。別名をビナンカズラといい、粘液を採って整髪剤に用いていた。「玉櫛笥」で始まる歌に、芋蔓式に連想されて出てきた言葉である。蔓性植物だけにそうなっている。そして、とても興味深いことに、このサナカヅラの粘液は紙漉きにも使われた。後にはトロロアオイの根から抽出した液をネリと称し、紙漉きの際に槽に加えてうまく仕上げる薬剤となっている。繊維を均一に分散させ、水が簾を抜けるスピードを遅くし、繊維を簾に定着させやすくする効用があった。つまり、サナカヅラは、かみくのにも、かみくのにも用いられたのだった(注4)
 五句目にある「かつ」という下二段活用の動詞は、じっとこらえて相手に負けないこと、物事をなし得ることを意味する「克(堪)」字で表す言葉だけでなく、まぜる(糅)の意味にも使われている(注5)。おそらく、四句目の「さ寝ず」のネにはネリ(練)、ネヤス(錬)の頭音を掛ける意識もあったのだろう。粘り気を出すために捏ねたりくねったりすることをいう。

 醤酢ひしほすに ひるきかてて 鯛願ふ われにな見えそ 水葱なぎあつもの〔醤酢尓蒜都伎合而鯛願吾尓勿所見水䓗乃煑物〕(万3829)
 かねあり、きたねやす、(西大寺本金光明最勝王経平安初期点)

 つまり、この歌は、髪についてと紙についてとをパラレルに述べた、高等テクニックの修辞が施された歌なのである。

 玉櫛笥 みむまろ山の さなかづら さずはつひに ありかつましじ(万94)
 玉櫛笥を見たいというミムマロ山のことが思われるのはあなたが「鏡」王女という名だからで、鏡を見て髪を梳いて整えるときに使うサネカヅラが、見ようとしている鏡のように丸いことを表すミムマロ山に生えていて、そのサネカヅラと音つながりの「さ」(下二段)というのは共寝をすることだけれど、共寝をしないということはどういうことかというと、最終的にはどうしたって我慢できないだろうことだ。というもの、玉櫛笥を見たいというミムマロ山のサネカヅラを紙漉きの練りに加えないでいるということは、最後の段階まで混ぜないでいるだろうというのと同じこと、うまくいかないものである。要約すると、サネカヅラを加えないでいては紙がうまく漉けないように、サネカヅラがないといくら鏡に櫛があっても結局のところ髪はうまくは梳けないもので、そうならないようにあなたと私は共寝をするのです。

 二首目がわかったところで、一首目について確認しておこう。

 玉櫛たまくし おほふをやすみ けてなば 君が名はあれど 吾が名ししも(万93)

 「~ヲ~ミ」はいわゆるミ語法で、形容詞の語幹にミをつけた形になっていて、~が~なので、の意を表す。「~ヲ」は名詞をうけるのが原則だから、「覆ふを」ではなく「覆ひを」ではないかとも早くから指摘されており(注6)、ミ語法のヲの上には連用形名詞が来るはずだから「覆ひを安み」でなければならないという(注7)。「覆ひ」は「覆ふこと」の意である。
 玉櫛笥を覆うことは簡単なことだというのが歌の前半で修辞的に前置きされている。なぜ玉櫛笥を覆うことが簡単だと言えるのか。それはこの歌の作者、歌い手が鏡王女だからである。
 鏡王女の持っている「玉櫛笥」は、櫛ばかりではなく鏡も入っていることを言っていて、鏡は丸いものだから丸い蓋がついているということ、つまり、角を合わせる必要がないということである。だから覆うのが簡単だと言える。
 この前半の修辞からつづけて「あけていなば」とあるから、蓋を開けたまま立ち去ってしまうことと、夜が明けてから立ち去ってしまうことが掛かっている。
 夜が明けてから女の家を後にすれば、人目について二人の関係は知られてしまう。ただし、この歌では、名が知られることにばかり目が向いている。顔がバレることではなく、名前を知られることに関心が集まっている。
 「君が名」とは「内」大臣藤原卿のことである。箱が蓋されずに空きっぱなしなのだから、箱の「内」が見えてしまっている。「内」が知られるとはそういうものである。だから、「君が名はあれど」なのであるが、「吾が名し惜しも」と言っていて、特段に自分の名前こそが知られることがもったいない、残念だ、と言っている。箱のうちには鏡が入っていて、それは「鏡」王女の名である。見えてしまうから知られてしまうが、カガミ(鏡)mirror がカガミ(鑑)good example たり得ていない。使い終わったら箱にしまって蓋をしておくのが規範なのに、お行儀の手本となっていないのである。事もあろうにカガミさんが、片づけられない女として知られてしまう。せっかく自らが名に負っているのに名を汚してしまう。だから「惜し」と思うのである(注8)

 玉櫛たまくし おほひをやすみ けてなば 君が名はあれど 吾が名ししも(万93)
 玉櫛笥と呼ばれる箱は丸いから、蓋をするのに角を合わせる必要もなく覆うのは容易だからと、開けておくように夜が明けてからお帰りになったら、あなたの御名のウチは見られてもかまわないでしょうけれど、私の名のカガミはそうとばかりは言えません。なぜといって鏡は使い終わったら箱に大切にしまっておくのが模範、鑑ですから、名前を実現し損なったことになってしまいます。ですから、蓋を開けたままにしておくことは惜しまれることです。そのことは、夜が明けてからお帰りになったら、あなたは夜這いしていることが世に知れ渡ってしまってもかまわないでしょうけれど、噂が立ってうるさくなるのは私には惜しいことであるということを兼ねて申し述べているところでございます。

 内大臣藤原卿と鏡王女との間で交わされた二つの歌は、ともに使用されている言葉を二重の意味でとってパラレルに読み進められるように構えた歌となっている。それぞれの意味に解して歌の最後まで一つの文脈を構成しているとともに、もう一つの文脈と絡み合う関係となっている。短詩文形式の言語表現として、高度な技術を駆使して織り上げられたテクスチャーとなっている。

(注)
(注1)「ズハ」の構文において、仮定条件として捉えられるケース、特殊語法と呼んで分けたケースがあるとされている。前件と後件との関係をさらに考察するとさらに細分化されるという。「ズハ」の歌を訳すのに、「~んよりは」(本居宣長)、「~ないで」(橋本進吉)のほか、「~ないとすれば」、「~しないですむならば」、「~くらいなら~の方がましだ」、「~の場合には」などとも訳し分けている。これが誤りであることは、実は当たり前のことである。そう訳されるような言葉は上代語として、「ヨリハ」や「ズテ」のように別の言葉として存在している。そう言いたいのならその言葉を使えばよいのであり、わざわざ「ズハ」と言う必要はない。そもそも一つの言語系において、完全に一致する意味を表す言葉─とりわけ助動詞と助詞のような基本語彙─が複数存在することはない。
 外来語を受け入れた場合、例えば、電池とバッテリー、後発医薬品とジェネリック医薬品のようにまったく同じ意味の言葉が複数存在することがある。業界用語でこのようなことがよくあり、呼び方に固執するほど幼稚な専門家もいる。そのようなことが上代に通行していたとは想定できない。無文字の人どうしのやりとりで、しかも山一つ隔てた隣村へ行って滅多に会わない人の間に言語コミュニケーションが成り立つためには、最小限の処理コスト(労力)で、最大限の認知効果を得ようと試みられつづけていたであろうからである。関連性理論が成り立たないとは考え難いのである。
 万葉集の歌や記紀歌謡の例として、佐佐木1999.は「ズハ」の用例を66例数えている。66例もあるということは、上代人にとってそれは特別なものではなかったであろう。今日の研究者が理解に難渋するように隣村の人に通じないことが生じたら、ヤマトコトバ人の集合体、ヤマトの国はまとまらなくなる。「ズハ」の所説は最初からボタンの掛け違いをしている。
(注2)タマについては、魂の宿るような神聖な、の意、玉で作った、の意、美しい、の意などを表す接頭語とされている。タマ ball の形状属性から、丸い、の意を表すことはとても自然なことである。
(注3)ゆかの上に玉櫛笥を置いたところを山になぞらえている。「みむまろ山」のマロは、丸いことを表しつつ、高貴な男性のことを表すマロ(麿)でもあるらしい。藤原卿が歌った歌として確かな言葉となっている。なお、旧訓はミムマトヤマである。
(注4)「かみ」という言葉は、「かん」の字音 kan に i を添えた kani の転とする説が有力である。n 声の音が m と発音されるのは、江南から伝わった音、または、朝鮮半島を経由した音であるからとも考えられている。「かみ」、「かみ」ともミは甲類であったろう。
(注5)カツを「克」と「糅」とを兼ねていること、カツ(「且」)の義のもとに一括していることを示唆している可能性も十分にある。上代語の使用特性として、発語を逐次的に説明するのにメタレベルから同じ言葉で説明し、いわゆるカテゴリー錯誤を冒しながらぐうの音も出ないように言いくるめることが行われていた。
(注6)「(下河辺)長流が老後にかける」(契沖・万葉集代匠記初稿本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2552055/1/9)という。
(注7)佐佐木1999.431~435頁。
(注8)拙稿「「あれど」について」参照。

(引用・参考文献)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
佐佐木1999. 佐佐木隆『萬葉集と上代語』ひつじ書房、1999年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。

加藤良平 2023.10.3初出

「あれど」について

 「あれど」は動詞「あり」の已然形に接続助詞「ど」が付いた形である。「ど」は逆接の接続助詞だから、その前で言っていることと後で言っていることが対比されつつ逆の関係、逆の評価を受けるものと考えられる。ところが、単純にアルケレドモと訳しきれない例がある。
 そこで、「あれど」を連語として認め、…もそうでないとは言わないが、しかしそれは別としても、ともかくとして、の意と考える説がある。しかし、ともかく、とにかく、の意に解するのは文構造を無視した意訳に過ぎるとし、そうではないが、以下に対比するような状態ではないが、の意と考える説もある(注1)
 該当すると指摘されている例は、万葉集では次の四首である。

 いもとありし 時はあれども 別れては 衣手ころもで寒き ものにそありける〔妹等安里之時者安礼杼毛和可礼弖波許呂母弖佐牟伎母能尓曽安里家流〕(万3591)
 故郷ふるさとの 明日香あすかはあれど あをによし 奈良の明日香を 見らくし良しも〔古郷之飛鳥者雖有青丹吉平城之明日香乎見樂思好裳〕(万992)
 つく波嶺はねの 新桑繭にひぐはまよの きぬはあれど 君がけしし あやにしも〔筑波祢乃尓比具波麻欲能伎奴波安礼杼伎美我美家思志安夜尓伎保思母〕(万3350)
 玉櫛たまくし おほひをやすみ けてなば 君が名はあれど 吾が名ししも〔玉匣覆乎安美開而行者君名者雖有吾名之惜毛〕(万93)

 阿蘇2006.によれば、これらの「あれども」は現代語の「ともかくとして」(岩波古語辞典)の表現に当たるものとし、「いとしい妻と共にいた時はともかく(……妻と共にいた時は寒さもたいしたことはなかったが)」、「故郷の明日香はともかく(……明日香を見るのも悪くないが)」、「筑波嶺の新桑繭の衣はともかく(……新桑繭の衣も悪くはないが)」、「あなたの名はともかく(……名が傷ついてもたいしたことはないでしょう)」のような意味と理解すべき表現であるという(注2)
 筆者は、このように「あれど」(「あれども」)を連語として特別に考える必要はなく、程度の差こそあれ上に掲げた辞書の意訳は誤解を含んでいて歌の本意を伝えることにならないと考える。

 いもとありし 時はあれども 別れては 衣手ころもで寒き ものにそありける(万3591)

 この歌は遣新羅使の歌の一つである。「あれども」の前と後とを対比させている。彼女と一緒にいたときは衣の袖は寒くはなかったが、別れて来ている今は衣の袖は寒いものだなあ、という意味である。難しいものではない。袖を枕に共寝をしていればぬくもりを感じられて寒くなかったが、一人寝をする今はそこに彼女はいないから寒い、という意を歌っている。「衣手」にこだわって寒いと言っている理由はそこにある。足元が寒い、おなかが冷える、ではなくて、「妹」が不在になった「衣手」が寒いと言っている。一緒にいられなくて寂しいと言うための比喩である。

 故郷ふるさとの 明日香あすかはあれど あをによし 奈良の明日香を 見らくし良しも(万992)

 題詞に、「大伴坂上郎女詠元興寺之里謌一首」とある。「奈良の明日香」とは、平城京の元興寺付近を呼んだ地名である。元興寺はもと蘇我馬子の建てた法興寺、いわゆる飛鳥寺で、それを平城遷都後に平城京左京四条五条の七坊へ移したものである。この歌を、「故郷の明日香」はともかく、今、「奈良の明日香」を見るのはいいんじゃないか、という意であるとする解釈は、歌本来の持つおもしろさを理解したものとなっていない。
 「あれど」を使うのには、その前と後とを対比することに重点がある。同じアスカという名を負った二つの地を対比している。故郷のと奈良のとをである。それは地理的な対比だけでなく、時間的な対比でもある。フルサトとわざわざ言っているのは、そこが古いところ、故京であるということで、今の都と対比している。アスカと言いながら時間の観念を詠んでいるのだから、明日 tomorrow という概念を呼び覚まそうとして使っているのである。明日見るのだったら、過去の都の明日香を見るのではなくて、未来につながる都の明日香を見ることこそが良いことだ、という言い回しである。つまり、明日香には、故郷の明日香というのがあるけれど、アスという名を負う地なら「あをによし奈良の明日香」を見ることこそが良いことだなあ、という歌である。

 つく波嶺はねの 新桑繭にひぐはまよの きぬはあれど 君がけしし あやにしも(万3350)

 筑波の嶺の近くで新しく育てた繭で作った衣はそれはそれで悪くはないが、それはともかくとして、あなたが下さる衣を着たい、という意であると解されている。この歌が持つおもしろさに気づいていない。
 衣服を恋人から贈られるとは、二人の関係が確かなものになったことを意味する。つまり、この歌では、歌い手の女のほうから求婚していることになる。
 「あれど」は、その前後を対比するために使われている。「筑波嶺の新桑繭の衣」と「君が御衣」とが対比されている。そして、対比の構図のなかで強調する言葉は暗黙の裡に置かれている。「あやに」である。ひどく、むしょうに、の意を表す「あやに」(注3)という副詞をわざわざ使っている。
 「筑波嶺の新桑繭の衣」は絹製の衣服である。庶民が身に着けていたとは思われない。「……新桑繭の衣はあれど」と無茶な見栄を張っている。言葉遊びとして歌に詠みこんでいるのであって、それは、「あや(注4)に」作られていた。現実にそうであったということではなく、歌のおこないとして戯れられている。
 つまり、この歌は、筑波の嶺の近くで新しく開墾して育てた桑の葉を餌にして養蚕をして、その蚕が作った繭から糸を取って「綾に」織り上げた衣はあるけれど、私の技量からしたら当たり前に織り上げられて手もとにあるけれど、そんなものより、あなたのお着物を「あやに」着たい、結婚してちょうだい、と歌っている。三句目までは序詞ということになる。

 玉櫛たまくし おほひをやすみ けてなば 君が名はあれど 吾が名ししも〔玉匣覆乎安美開而行者君名者雖有吾名之惜毛〕(万93)

 題詞に、「内大臣藤原卿娉鏡王女時、鏡王女贈内大臣歌一首」とある。歌の中の「君が名」は大臣のこと、「吾が名」は王女のことである。二重に文脈を絡めた高等テクニックの修辞が行われている。大意は、「玉櫛笥」と呼ばれる箱は丸いから、蓋をするのに角を合わせる必要もなく覆うのは容易だからと、開けておくように夜が明けてからお帰りになったら、あなたの御名の内大臣のウチ、内側は見られてもかまわないでしょうけれど、私の名の鏡王女のカガミはそうとばかりは言えません。なぜといって鏡は使い終わったら箱にきちんとしまっておくのが模範、かがみですから、名前を体現し損なったことになってしまいます。ですから、蓋を開けたままにしておくことは惜しまれることです。夜が明けてからお帰りになったら、あなたは夜這いしていることが世に知れ渡ってしまってもかまわないでしょうけれど、噂が立ってうるさくなるのは私には惜しいことであるということを兼ねて申し述べていることでございます(注5)(注6)
 これまで何がわかっていなかったか。洒落がわかっていなかった。歌はただべらべらと喋っているのとは違う。うまいこと言えると思いつかなければ、声を大にして歌うことなどなかったであろう。何かを伝えるのに言葉巧みであるということもさることながら、ただ言葉巧みであるというそのことをもってして万葉集の歌は成立していたとも捉えられる。頓智、洒落、地口など、言葉遊びのレベルにあるのが万葉集の歌である。文字に書いて渡して伝えていたのではなく、聴衆を意識して声に出して歌ったものであった。「万葉歌人」という概念は、話芸の、それもその歌に完結する微視的な側面の強い、今で言えばオヤジギャグと同類の、口達者な言葉の操り手として捉え返さなければならないのかもしれない。

(注)
(注1)ともかくとして、の意として掲げる辞書に、岩波古語辞典(76頁)、新明解古語辞典(55頁)があり、そうではないが、の意として掲げる辞書に、小学館古語大辞典(82頁)がある。前者は伝統的な解釈であって、余意を残す言い回しであると澤瀉久隆氏は説いている。後者は佐伯梅友氏の説に拠っている。
(注2)263頁。
(注3)次のような用例がある。「…… たま たまさしき 股長ももながに さむを あやに な恋ひ聞こし 八千やちほこの 神のみこと 事の 語りごとも をば」(記3)。
(注4)上代語のあやは、現在綾織と呼ばれる技法の、経糸が緯糸を二、三本をこえて交差し、表面に斜めの線を浮き出させているもののほか、綾織組織を地にしながら部分部分に模様を織り出した、紋織といえるものも含めて言っていた。
(注5)拙稿「藤原卿と鏡王女の贈答歌」参照。
(注6)先行研究では、もう一首、例がとられている。

 みちのくは いづくはあれど 塩釜しほがまの 浦ぐ舟の つなかなしも(古今集1088、巻20・東歌)

 解釈として、陸奥みちのくは、ほかの所はともかくとして、塩釜の浦を漕ぐ舟を陸上から引き綱で引いていく様子は、しみじみと心にしみることだ、あるいは、陸奥みちのくは、他のどこもおもしろくはないが、塩釜の浦を漕ぐ舟を陸上から引き綱で引いていく様子は、しみじみと心にしみることだ、などの意であるとされている。
 古今集の歌がどのような人たちによって作られたか、作者の言葉に対する感覚がどのようなものであったか、筆者は門外漢である。それでも言えることは、「いづくはあれど」という言い回しは少し奇異なのではないかという点である。「いづく」は代名詞で、何処どこ、の意、「く」は場所を示す。陸奥みちのくはどうかというと、何処どこ、というのはあるけれど、云々、という言い方をしている。それを、陸奥みちのくのいいところは何処どこかと挙げるとするといろいろあるけれど、塩釜の浦を漕ぐ舟についている綱手縄を以てそこが一番いとおしい、のような意に膨らませて解釈している。そういう印象を醸し出そうとして言葉が置かれている。
 いま少し言葉の音に忠実に考えるなら、陸奥みちのくはどうかというと、イヅクと挙げられるところがあるけれど、塩釜の浦を漕ぐ舟についている綱手縄がいとおしい、の意として解されなければならない。塩釜が陸奥みちのくの名所として歌われているのではなく、塩釜の浦を漕ぐ舟についている綱手縄がいとおしいと歌われている。
 舟を操るために、かぢかいなどで漕ぐばかりでなく、川底や岸を突いて進む竿さをも用いられ、また、川を遡上するときなどにはロープを渡して陸上にいる人がそれを引いて動かすことがあった。この歌の場合、漕ぐ方法と綱手を使う方法が明示されている。すなわち、出航するときは漕ぎ、帰着するときは綱手を引くのである。イヅ(出)は漕ぐ、ツク(着)は綱と役割分担してともにある。だから、イヅ+ツク→イヅクの歌として歌われている。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『万葉集全歌講義 第一巻』笠間書院、2006年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
新明解古語辞典 金田一春彦・三省堂編修所編『新明解古語辞典 補注版 第二版』三省堂、昭和49年。
小学館古語大辞典 中田祝夫・和田利政・北原保雄編『古語大辞典』小学館、1983年。
澤瀉1953. 澤瀉久隆「萬葉集講話 六」『萬葉』第8号、昭和28年1月。52~54頁。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1953
大濱1955. 大濱嚴比古「いもとありしときはあれども」『萬葉』第15号、昭和30年4月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1955
佐伯1938. 佐伯梅友「みちのくはいづくはあれど」『萬葉語研究』文学社、昭和13年。

加藤良平 2023.10.2初出


舎人のハタコ(八多籠)の歌

 万葉集巻二の草壁皇子の死を悼んだ舎人たちの「慟傷作歌」二十三首の最後に次の歌がある。左注がすぐ後ろに付いている。

  (皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)
 八多籠良我夜晝登不云行路乎吾者皆悉宮道叙為(万193)
  右日本紀曰三年己丑夏四月癸未朔乙未薨

 一句目と四句目の訓読には諸説違いがある。

 はたこらが 夜昼よるひるといはず く道を われはことごと みやにぞする
 役民たちが夜昼の別なく行く道を、私たち舎人はみな宮仕えの道にしている。(新大系文庫本172~173頁)
 はたらが 夜昼よるひるといはず 行く道を 我れはことごと みやにぞする
 墓造りの人々が夜昼となく通う道、その道を、われらは終始ひたすら宮仕えの道にしたものだ。(伊藤2009.128頁)
 はたらが 夜昼よるひるといはず く道を われはさながら みやにぞする
 農夫たちが夜昼となく通い行く道なのに、私はさながら宮仕えの道にすることだ。(多田2009.171~172頁)
 はたらが 夜昼よるひるといはず く道みちを われはことごと みやにぞする
 畑で働く農民たちが昼夜かまわず行き来する道を、私たちはそのまま宮への道として通っていることだよ。(阿蘇2006.446~447頁)
 はたこらが 夜昼よるひるはず く路みちを われはことごと みやにぞする
 農夫たちが夜も昼も通る道を自分はいつもいつも宮道として通っている。(稲岡1997.119頁)
 はたこらが 夜昼よるひるといはず く道を われはことごと みやにぞする
 はたたちが 夜昼となく 行く道を われわれ舎人とねりはそのまま 参道にしている(新編全集本126頁)
 はたこらが 夜昼と言はず 行く路を われはさながら みやにぞする
 農夫らがいつも行き来する道だのに、私はさながら宮道のごとくに行くことだ。(中西1978.137頁)
 やたこらが 夜昼といはず 行く道を 我はことごと 宮道にそする
 墓造りのため労役に従っているヤツコたちが昼となく夜となく行き来する道を、舎人であるわたしは、そっくりそのままお墓に参る道にすることだ。(その道を通って草壁皇子のお墓に参ることである。)(吉永1969.103頁)
 はたらが 夜昼よるひると云はず 行く路を 吾はことごと 宮道にぞする
 畑仕事のお百姓たちが夜も昼も通ふ路を自分はすつかり宮仕への道としてゐることだ。(澤瀉1958.335頁)
 はたこらが 夜昼と言はず 行く路を われはことごと みやにぞする
 農夫たちが夜昼といわずに、往来する道を、私は宮道にして毎日通うことである。(大系本103頁)
 はたらが 夜昼よるひるといはず 行くみちを われはことごと みやにぞする。
 農夫等が、夜とも昼ともいわず、行く路であつたものを、今は自分が全く出仕する道とする。(武田1956.514頁)
 はたらが 夜昼といはず 行く道を 吾はことごと 宮道にぞする
 農夫達がひつきりなしに行き通ふ田圃道を私は全く宮道として通つてゐる(橋本1953.58頁)
 やたこらが 夜昼といはず 行く路を 吾はことごと 宮道にぞする
 皇子のみ墓造りの奴たちが、夜といはず昼といはず往来して居る道を、吾はすべて宮仕の道として居る。(土屋1949.176~177頁)

 一句目の「八多籠」を「はたこ」と訓んで畠子(畑子)、それは「田子たこ」という田を耕す人の対をなす畠(畑)を耕す人の意とする考え、また、「はたこ」と訓んで徴子、それは労役に徴発されることを「はたる」ということから労役者のこととする考え、また、「やたこ」と訓んで「やつこ」の母音交替形であるとする考えがある。
 このうち、陵墓造営に携わっているとする人のことと考えるのは、少々飛躍した考え方である。この歌の前にある他の舎人たちの歌22首は、生前に暮らしていた宮との関わりのなかで皇子の殯宮に仕えることを歌っている。かりもがりの次は本葬儀、埋葬だから陵墓を造っているとするのは、近代的な合理性から推し測った考え方である。
 四句目の「皆悉」は「ことごと」と訓む説が多いが、「さながら」と訓む説もある。「ことごと」と訓むと、どの道も皆、の意に、「さながら」と訓むと、まるで……のように、の意になる。
 このように意見が分かれているのは、この歌の修辞方法について理解できていないからである。三句目に「夜晝登不云」と、ことさらに昼と断られているのにはそれなりの理由があると考えられよう(注1)

 夜昼と いふわき知らず が恋ふる 心はけだし いめに見えきや(万716)
 とこにと 吾が行かなくに かなに もの悲しらに 思へりし 吾が児の刀自とじを ぬばたまの 夜昼といはず 思ふにし 吾が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 古郷ふるさとに この月ごろも ありかつましじ(万723)
 父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟のみことは 朝露の やすきいのち 神のむた 争ひかねて 葦原の 瑞穂の国に 家無みや またかへぬ 遠つ国 黄泉よみさかひに つたの おのが向き向き 天雲の 別れし行けば やみなす 思ひまとはひ 猪鹿ししの 心を痛み 葦垣あしかきの 思ひ乱れて 春鳥の のみ泣きつつ あぢさはふ 夜昼知らず かぎろひの 心燃えつつ 嘆き別れぬ(万1804)
 ますらをの うつし心も あれは無し 夜昼といはず 恋ひし渡れば(万2376)
 思ふらむ その人なれや ぬばたまの 夜昼といはず 吾が恋ひ渡る(万2569或本)
 吾が恋は 夜昼かず ももなす こころし思へば いたもすべなし(万2902)

 これら「夜昼」の例では、多くの場合、恋に関連して歌われている。恋は共寝を連想させるから夜を先にした言葉が使われているようである。そしてまた、ただ体だけが目当てではないと言おうとして夜昼の別なく恋していると歌っている。
 舎人が今、「宮道」にして皇子に仕えようとしているのは殯宮である。殯の儀式は夜に行われることがメインである。今日、通夜として名残りをとどめている。「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の前に位置しているのは、「日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」である。「殯宮」は「あらきのみや」と訓まれている。アラキ(キは乙類)はまた、「あら」という意をも表す。新しく開墾して田圃にしたところが「あら墾田きだ」である。「殯宮あらきのみや」へ行くということは「あら墾田きだ」へ行くことと同等である、というのが、言葉と事柄とが相即な関係になるようにものごとを考えていた上代の人たちの思考に合う。つまり、「殯宮あらきのみや」へ宮仕えに夜昼問わずに赴くことは、新しく開墾して作った田へ常ながらに行くということと同じこととされるのである。その意味深い言い方を導くためには、「ひと」を思い起こさせる「はた」という造語がふさわしいことになる。
 田圃へ夜昼と見に行く必要はあまりない。鳥獣から苗や作物を守る必要があると言っても、収穫期になって特に山間部で見張り小屋で一晩中、火を焚きながら見張ることはあるものの、ふだんは鹿しし猪垣がき案山子かかし、鳴子、ししおどし、オオカミの糞を混ぜたものを置いて寄せ付けないといったことが行われる程度であった。収穫期以外の夜間作業としては、大雨が降った時に灌漑設備を点検したり、イナゴ、ウンカ、いもち病が大量に発生した時に虫送りの松明を焚くことが行われた。一方、畠(畑)のほうは獣害がつきものである。昼間は雑草を抜き、水をかけ、枝や蔓を誘引固定し、夜間はイノシシ、サル、シカ、タヌキなどを追い払わなければならない。畑は水田に向かないところに耕される傾向があり、山に近いところに作られたことも災いしていたのかもしれない。成ったものから順次収穫する畑は、ほぼ常時収穫期であるから、夜昼と見に行く必要があった(注2)
 つまり、今、夜昼問わずにアラキ(殯)へお仕えに行くことは、一般的にアラキ(新墾)(田)へ行く「田人」よりももう少し頻繁に、夜でさえも耕作地へ通うことに相当するということで、「八多籠」=「畠子」に登場願ったということになる。
 以上の検討により、万193番歌の訓みと解釈は確定した。

(注)
(注1)「夜昼」について検討した論考は管見に入らない。
(注2)近世の農書に詳細が記されているわけではないが、農薬の進歩や化学肥料の普及を除き、今日の作物管理とさほど変わらないと考える。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第1巻』笠間書院、2006年。
伊藤2009. 伊藤博『新版万葉集一 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡1997. 稲岡耕二『和歌文学大系 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
澤瀉1958. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第二』中央公論社、昭和33年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 万葉集①』小学館、1994年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注・訳『日本古典文学大系 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 三』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
土屋1949. 土屋文明『萬葉集私注 第二巻』筑摩書房、昭和24年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
橋本1953. 橋本四郎「「八多籠」」『萬葉』第9号、昭和28年10月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1953
百姓伝記 古島敏雄校注『百姓伝記(下)』岩波書店(岩波文庫)、1977年。
吉永1969. 吉永登『万葉─通説を疑う─』創元社、昭和44年。

加藤良平 2023.9.23初出


万葉集巻五「員外」の歌について─「雲に飛ぶ薬」をめぐって─

 万葉集巻五に、員外の人の歌が載る。員外とは員外官のこと、律令制で、令に定められた定員以外の官吏のこと、臨時雇いの役人のことである。大伴旅人の梅花歌三十二首に続いており、歌会の行われた宴の際の召使か何かと考えられる(注1)。参考のため、多田2009b.の訳を添える。

  ゐんぐわい故郷ふるさとを思ふ歌両首〔員外思故郷歌兩首〕
 さかり いたくくたちぬ 雲に飛ぶ くすりむとも また変若ちめやも〔和我佐可理伊多久々多知奴久毛尓得夫久須利波武等母麻多遠知米也母〕(万847)
 雲に飛ぶ くすりむよは みやこ見ば いやしきが身 また変若ちぬべし〔久毛尓得夫久須利波牟用波美也古弥婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之〕(万848)
  番外、故郷を思う歌両首
 わが命の盛りもすっかり衰えてしまった。雲の上まで飛び行くほどの仙薬を服したとしても、若さが戻ってくることなどどうしてあろう。
 雲の上まで飛び行くほどの仙薬を服すよりは、都を一目見るなら、この賤老のわが身も再び若返るに違いない。(多田2009.239頁)

 仙薬があって、「雲に飛ぶ」ことができるということになっている。抱朴子などに記述がみられるという(注2)。万葉集の歌の理解に中国文学の知識を外注して解こうとしている。万葉集の歌そのものを、歌の詞に使われているヤマトコトバのありさまから理解しようと試みることから逃げている。その結果得られた解釈では、「思故郷」という題詞のもとに「両首」とまで断って緊密な関係にあるはずの二首の歌を、字句の連携しか見出せずにばらばらにしか理解できていない。問題となるのは、「雲に飛ぶ薬」とは何か、「変若つ」ということと整合性が保たれるか、「いやし」の意味はどういうことか、といった点である。
 「雲に飛ぶ薬」は、それを飲めば空中を飛ぶことができるという仙薬のことであると考えられているが、我が国でそのようなものが実物として、また、観念として通行していたか、定かでない。「雲に飛ぶ薬」という言い方はここにあげた歌に限られていて、一般的な語彙にはなっていない。一般的になっていないということは、歌に歌っても聞く人はわからないということである。中国においても、空中を飛ぶことと若返りとが密接に関係することとして考えられていたわけではない。雲のように飛ぶからといって若返りにつながることは想念として考えにくい。老若を問わず鳥は飛び、老若を問わず人は飛ばない。
 万葉集の歌は題詞によって枠組まれている。「故郷ふるさとを思ふ」と掲げた歌が二首あるなら、二首とも「故郷ふるさとを思ふ」ことと関係があるはずである。そんななか、「故郷ふるさと」と「変若つ」ということの間、また、都を見たら若返るということと「故郷ふるさと」との間はどのような関係になっているのか、まったくわかっていない。作者の「員外」を大伴旅人とする説では、都は平城京のこと、そこが彼の「故郷ふるさと」で、今、遠く離れた筑紫の地で都を思っているものとされている。「いやしき我が身」(注3)は旅人が謙遜して言っているのだというのである。
 これでは何もわからない。そもそも歌としておもしろくない。おもしろくないものは聞かれないから歌われず、歌われないから記録されない。記録されているということは当時の人たちが聞いておもしろくてよくわかるものであったからだろう。「員外」と題詞に明記されているのに大伴旅人のことだと邪推せず、素直に受け取ることが求められている。
 大伴旅人作とする説の根拠としては、歌の文字法が旅人のそれに忠実である点、また、巻三所載の旅人の次の歌との近しさがあげられている。

 わが盛り また変若ちめやも ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ(万331)
 わが命の盛りがまた再び戻ってくることなど、どうしてあろう。ほとんど奈良の都を見ずに終わることになってしまうのだろうか。(多田2009a.280頁)(注4)

 この歌を下敷きにして「員外」の歌は作られているように見える。その場合、同じ旅人が作る可能性もあるが、他の誰かが作る可能性もある。二首目の方に「いやしき我が身」とある「いやし」は、ひどく汚く貧しく、みすぼらしい、いやしい、の意で、蔑視や卑下の対象についていう言葉である。直接的に下賤の者、貧乏人のことを指すだけでなく、自分のことを卑下していう場合もある。「員外」=旅人説は後者の意にとっている。大久保1998.は、「員外」の歌に都と「いやし」との対比を見出している。金光明最勝王経音義に「鄙 伊也之いやし」、新撰字鏡に「鄙 補鮪反、悪也、恥境也、野也、羞愧也。伊也志いやし」と見え、「けがらはしきかな、いやしきかな」(神代紀第五段一書第十一)ともあって、ヒナを表す「鄙」字を「いやし」と訓んでいる。都会風に洗練されたものと対極をなす意識から用いられた点を重視した用字であると指摘するのである(注5)。そこで、もともとは故郷である「奈良の都」にいた大伴旅人が大宰府に長くいて、「いやしき我が身」に成り下がっているというのである。
 この捉え方は矛盾を孕んでいる。そういう考えを披露するとき、相手となるのは都にいる人たちだろう。都の人に対して鄙にいることが「いやし」いことになっていると自嘲的に言うことはできる。だが、同じ鄙の地、大宰府やその管轄地域にいる人たちの間で、自分は鄙にいて「いやし」いと言っても仕方がない。聞いている人たちも皆、「いやし」いことになってしまう。謙遜、卑下に当たらず、蔑視する選民思想のような驕りが感じられる。旅人は太宰帥という立場にある。こんな田舎は嫌だという素振りを見せたら、たちまち部下は離心してしまうだろう。歌詠みに来ているのではなく、仕事で赴任している。
 「いやし」と聞けば、何はさておき、貧しいこと、身分が低いことと受け取られよう。「員外」の人が大宰府で臨時雇用した役人であるなら、その人が歌を詠むときに「いやしき我が身」と歌うことはごくふつうである。身分が低く貧しいその人が「故郷ふるさと」でどういう境遇にあったか考えてみれば、「しもと取る里長さとをさ」(万892)に責め立てられている情景が思い浮かぶだろう。フルサト(故郷)という言葉からは、サト(里)でむちをフル(振)ことをされた辛い記憶がよみがえるのである。里長は徴税官の側面を持っていて、貧乏人から重い税を巻き上げていた。そのため食べるに事欠いた暮らしをしていた。つまりは、仙人が霞を食べて生きているようにひもじい暮らしを迫られていた。霞は「雲に飛ぶ」ものに打ってつけである。
 ただこれだけの理解によって、歌の様相は大きく変わり、ものの見事にはっきりする。

 ゐんぐわい故郷ふるさとを思ふ歌両首
 役所で臨時雇いしている下働きのアルバイトが、ふるさとのことを思う歌、以下のふたつとも。
 さかり いたくくたちぬ 雲に飛ぶ くすりむとも また変若ちめやも(万847)
 私は年の盛りを過ぎてひどく衰えました。だからといって若いころ故郷ふるさとで暮らしていて、里長に責め立てられていたときのように霞を食べるとしてまた若返りたいかと言われれば、とんでもない、若返りたくなどありません。
 雲に飛ぶ 薬食むよは 都見ば いやしき我が身 また変若ちぬべし(万848)
 食うや食わずで、まるで仙人のように霞を食べるよりは、都を見たら、貧乏人でいやしく冴えない私とて、また若返ること間違いなしです。どうか都へ戻る時は一緒に連れて行ってください。

 「思故郷」とは、故郷を思い出すと悪夢がよみがえるというものであった。地方の役所で下男として仕えるしかない身の上の人は、宴でも下働きをする「員外」の人である。都で採用されて大宰帥に任ぜられた大伴旅人に従って筑紫へ来たわけではなく、現地任官した人である。九州のどこか、その人の故郷へ帰れば貧乏な小作人の家のまま、再びあの里長の責め立てが始まるから、とてもではないが若い時分の境遇には戻りたくない。貧乏人の身の上からすれば、そんなことよりも、どうか都へ連れて行って頂けたら、きっと若返るに違いない、そうして頂けませんか、と言っている。
 この歌のおもしろみは、中国かぶれの仙人の考え方を耳にしているけれど、ただ若返って以前のような過酷な生活へ逆戻りしろと言うのか、そんなことはまっぴら御免だ。仙薬とはまさに仙人が食べる霞のようなひもじいばかりのもの、定年だから故郷へ帰りなさいなんてむごいことを言わないで、都へ連れて行っておくんなさいまし、と懇願しているところにある。「いやしき我が身」は、そのような在地の人の発言ならではの重さを持ってくる。「いやし」が貧しくていやしいことと、都から遠く離れて文化的にもいやしいことの二通りを兼ねることになっている。
 従来の解釈で、「員外」とあるのに主人である大伴旅人の歌であると曲解していた。「雲に飛ぶ薬」を「空を飛ぶ薬」と無理に読み替えて霊験あらたかな仙薬のことと誤解していた。「いやし」の意味を、この歌と関係があるのか根拠も薄弱なままに、吉田宜に対する大伴旅人の謙遜と取り違えていた。
 万葉集は歌われた歌を書き残したものである。題詞と歌が書いてあるなら、歌われた状況の枠組みがきちんと設定されていることになり、その歌の理解に欠かせない。当たり前のことだが、その題詞が括る範囲は該当する歌に限られる。万葉集の編者はそうやって歌の内容がきちんと伝わるように書き記している。我々は、題詞と歌とを読むことだけで理解するように努め、そのまま受け取ることができる限りにおいては雑念なくそう受け取らなくてはならない。国語の読解の基本だからである。ところが、そうは受け取らずに枉げるにまかせて中国文学との関係を騒ぎ立て、大伴旅人の都への郷愁が歌にこめられているとあげつらい、梅花歌の宴の歌会と一連のもとに据えて推し量るようなことが行われてきた。研究者たちはいったい何の研究をしているのだろうか。

(注)
(注1)多田氏は、今日有力視されている見方に従って、梅花の宴の歌の付録の意としている。通説では、この「員外」は、梅花歌三十二首以外の歌、あるいは、梅花宴に参加しなかった人の歌といった意味合いにとられている。この誤読には際限がなく、「「員外」は、つまらない歌の意。後世の例だが、『拾遺愚草』に「員外雑歌」とある。謙遜の辞。」(新編全集本49頁)とあったり、大伴旅人が卑下して称しているとする考えが横行している。原文の「文字表記からすれば、旅人と考えられる」(稲岡1976.334頁)など、理論的な補強まで得ている。藤原1985.は、「梅花歌丗二首」、「員外梅花歌両首」ならまだしも、内容が異なる歌に「員外」と記すはずはないと断じている。そこでは、歌の作者の役職名であるとしている。新大系本は、「「員外」は「いやしき我が身」(八四八)の表現がふさわしいような卑官の人。」としつつ、「旅人が卑官の立場に立って詠んだものと見られる。」(477頁)とみている。
 しかし、梅花歌の宴で下働きに働いたアルバイトの歌を書き記すとき、採録者の旅人が「員外」を記したとすれば、すべての思惑は外れるであろう。歌のなかに「いやしき我が身」とあることにも自然とつながる。「員外」の人でなければ歌えない歌を歌っていると考えるべきである。
(注2)小島1964.には、「抱朴子にみえる、金丹を「黄帝服之、遂以昇仙」(金丹篇)、或は仙薬を得て「飛行長生」(仙薬篇)した記事(或は淮南子にみえる、不死の薬を盗んで月の世界に走つた姮娥の有名な話)などの、種々の記事によつたものとみるべきである。」(936~937頁、漢字の旧字体は改めた)とある。胡1998.には、「「雲に飛ぶ薬」の出典については、……神仙伝に見える淮南王の説話によるものであろう。歌のなか歌人は、仙薬より京師のほうがわが身を若返らせるに違いないと歌い、京師への思慕を最大限に誇張する。これは、もとより仙薬を否定するものではなく、仙薬を価値あるものとした上で更に京師を強調するためのレトリックであり、漢詩文によく見られる手法である。」(193頁)とある。新大系本には、「仙薬を服して昇天し、あるいは不老長寿を保ったという神仙説話に基づく。仙童から五色の丸薬をもらって服すると、胸に羽翼が生え、「軽挙すれば風雲を生じ、倏忽として万億を行く」(魏・文帝「郵仙」・芸文類聚・仙道)。」(477頁)とある。澤瀉1960.は、抱朴子の「服神丹、令人寿無窮已、与天地相畢、乗雲駕龍上-下太清。」(内篇・金丹)を引いている(150頁)。
(注3)小島1964.に、「「いやしきあが身」も「微身」(遊仙窟に「卑微」、「賤客」の例があり、遊於松浦河序にも「微者」の例がみえる)などの飜訳語とみなすべきであらう。」(937頁、漢字の旧字体は改めた)とある。大久保1998.も謙遜表現であると考えられている。
(注4)この歌が歌われた背景については、拙稿「大宰府における長屋王の変関連歌(万328~335・955~956)について」参照。
(注5)新撰字鏡には他に、「傍下 鄙人也、諸人之下座人也、賤人也」、「侮 亡甫反、上、猶軽慢也、賤、伊也志いやし、又阿奈止留あなどる、又志乃久しのぐ」ともある。万葉集では、「いやしけどわぎ屋戸やどし思ほゆるかも」(万1573)、「むぐらふいやしき屋戸も」(万4270)、「倭文しづまきいやしき吾が故」(万1809)などとあり、みすぼらしい、貧しい、身分や地位が低い、の意に用いられている。「いやし」という語だけで、都鄙の対立によって雅ではないことを示す例は知られない。

(引用・参考文献)
稲岡1976. 稲岡耕二『万葉表記論』塙書房、昭和51年。
大久保1998. 大久保廣行『筑紫文学圏論 大伴旅人筑紫文学圏』笠間書院、平成10年。
澤瀉1960. 澤瀉久孝『萬葉集注釈第五巻』中央公論社、昭和35年。
胡1998. 胡志昂『奈良万葉と中国文学』笠間書院、1998年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 中』塙書房、昭和39年。
新大系本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集一』岩波書店、1999年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集②』小学館、1995年。
多田2009a. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
多田2009b. 多田一臣『万葉集全解Ⅱ』筑摩書房、2009年。
谷口2000. 谷口孝介「吉田宜の書簡と歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第四巻 大伴旅人・山上憶良』和泉書院、2000年。
中西1996. 中西進『中西進万葉論集 第五巻 万葉史の研究(下)』講談社、1996年。
藤原1985. 藤原芳男「梅花歌と員外思故郷歌」『国語と国文学』第62巻第12号、昭和60年12月。
松田2015. 松田浩「梅花の宴歌群「員外」の歌─大伴旅人の〈書簡〉の中で読む─」『文学』第16巻第3号、岩波書店、2015年5月。

加藤良平 2023.10.1初出

神亀五年の難波行幸歌

 万葉集巻六に、神亀五年の「幸于難波宮時作歌」がある。これまで、記録には載らない難波宮行幸があり、宴会において男女の間で交わされた比喩の歌であると考えられてきた。しかし、歌の解釈はどれも判然とせず、要領を得ていない。よくわからないにもかかわらず、作品論、作歌場面論、歌人論などへと展開されている。

  五年戊辰に難波宮なにはのみやいでましし時に作る歌四首〔五年戊辰/幸于難波宮時作歌四首〕
 大君の さかひたまふと 山守やまもりゑ るといふ山に 入らずはまじ〔大王之界賜跡山守居守云山尓不入者不止〕(万950)
 見渡せば 近きものから 岩隠いはがくり かがよふ玉を 取らずはまじ〔見渡者近物可良石隠加我欲布珠乎不取不巳〕(万951)
 韓衣からころも ならの里の 島松に 玉をし付けむ よき人もがも〔韓衣服楢乃里之嶋待尓玉乎師付牟好人欲得食〕(万952)
 さを鹿の 鳴くなる山を 越え行かむ 日だにや君が はた逢はざらむ〔竿壮鹿之鳴奈流山乎越将去日谷八君當不相将有〕(万953)
  右は、笠朝臣金村の歌中より出づ。或に云はく、車持朝臣千年の作なりといふ。〔右笠朝臣金村之歌中出也或云車持朝臣千年作之也〕

 題詞の書き方として、「五年戊辰」とあってから改行されて「幸于難波宮時作歌四首」と記されている。万948番歌の前に「四年丁卯/春正月勅諸王諸臣子等散禁於授刀寮時作歌一首〈并短歌〉」、万962番歌の前に「天平二年庚午/勅遣擢駿馬使大伴道足宿祢時歌一首」とあるのと同様の書き方である。いつのことなのかはっきりしていて、順を追って採録していることがわかる。これらの歌が歌われたのは神亀五年のことに違いない。
 三首目の三句目は諸本原文に「嶋待尓」とある。意味が通じやすく掛詞的にも優れているからということで「嬬待尓」に改変する注釈書がなお多い。原文に忠実に「島松に」と訓んでいるのは、窪田1950.、大系本、中西1980.、影山1996.、阿蘇2007.、多田2009.などである。

 題詞に、神亀五年の難波宮行幸の折の歌であるとある。しかし、続紀にその記事は見えない(注1)
 神亀五年の続紀の記事を探ると、この歌群と関係しそうなことが載っている。皇太子の死去である。満二歳で亡くなっている。異例なことに、生後間もなく皇太子に定められていた。どこに住んでいて亡くなったか。皇太子だから東宮、今日、東院庭園として整備されているところである。天皇は見舞い(「御」)に行っている。歌の題詞に「幸」とあるのと同じことである。

 八月……○甲申(21日)、みことのりしたまはく、「皇太子の寝病みやまひ、日をれどもえず。三宝さむぽう威力ゐりよくあらざるよりは、なにぞ能く患苦ぐゑんくを解きのがれむ。これに因りて、ゐやまひて観世音くわんぜおむさつみかた一百七十七躯、并せてきやう一百七十七巻を造り、礼仏らいぶつてんきやうし、ひとぎやうだうせむ。此のどくに縁りて平復たひらがむこと得まく欲りす」とのたまふ。又、勅したまはく、「天下あめのした大赦たいしやしてわづらふ所を救ふべし。其のはちぎやくを犯せると、くわんにんのりげてたからを受けたると、監臨げむりむ主守しゆしゆみづかぬすむと、監臨する所に盗むと、強盗がうだう窃盗せつたうの財を得ると、じやうしやゆるさぬとは、ならびゆるかぎりに在らず」とのたまふ。
○壬申(9日)、……(係日錯乱有)
○丙戌(23日)、天皇てんわう東宮とうぐういでます。皇太子くわうたいしの病に縁りてなり。使つかひを遣して幣帛みてぐらもろもろみさざきたてまつらしむ。
○丁卯。……
○九月丙午(13日)、皇太子かむあがりましぬ。
○壬子(19日)、那富なほの山にはふりまつる。時にみとしふたつなり。天皇、甚だいたをしみたまふ。これが為にでうむること三日みかなり。たいをさなよはき為にみもゐやを具へず。但し、きやうに在るくわんにん以下いげない百姓はくせいとはふくすること三日、諸国くにぐにぐんおのおのそのこほりにして挙哀みねすること三日なり(原漢文)。

 天皇は皇太子の容体が悪いと聞いて八月二十一日に勅している。仏教の力を借りようと、観音菩薩像177体、観音経177部を造って礼拝、転読をしようと言い、また、大赦の令を下してそれら功徳によって病気平癒に導こうと言っている。大赦したら皇太子の病気が治ると考えていたとすれば、「所患」はワヅラフトコロであり、天皇自身が縁起を担いでいて気が晴れるというのであれば、「所患」はウレフルトコロと訓むことになる。
 その二日後、二十三日に東宮に出御して見舞い、天皇陵に幣帛を供えさせている。さき(荷向)の制のようなことをしようとしている。荷前とは、毎年各地から奉られる調の初穂のうち、皇太神宮や天皇陵に捧げ、残りを天皇が受領する行事である。
 天皇は東宮に「御」(続紀)している。万950番歌の題詞では「幸」している。さちあれといでましている。にはの宮ではないが、平城京の中の庭である。なかは、ナ(中)+カ(処)の意である。在り、住みと使うカである。つまり、中庭とはナニハなのである。皇太子が亡くなって天皇はたいへん辛い思いをなさったであろうから、憚られて「難波宮」と記し紛らせている。気持ちまで紛らせる効果を狙っている。
 この想定が正しいとすると、歌の様相は現行の解釈から大きく変わる。

 万950・951番歌にある「まじ」の「む」は、「雨・風などの自然現象や病気などが、自然に絶えて消え去る意。」(岩波古語辞典1357頁)、「そのことがら自体が停止と同時になくなる意をあらわす。」(時代別国語大辞典774頁)のであり、自然現象が自然に消える、物事が途切れる、予定が中止になる、病気が治る、感情の昂ぶりが治まる、など多様に用いられるが、ここでは病気平癒のことを言っている。治療法が事実上なかった時代、病気が治るとは緩解していくことである(注2)
 それぞれの歌にある「ズハ」という用法は、今日論じられている「ズハ」の特別な構文ではなく、「……ず」ハ「……」という形を示している(注3)。PハQとは、P≒Q、PはどういうことかというとQということである、PはQと同等のことである、の意である。

 大君の さかひたまふと 山守やまもりゑ るといふ山に 入らずはまじ〔大王之界賜跡山守居守云山尓不入者不止〕(万950)
 「大君の境ひたまふと山守据ゑ守るといふ山に入らず」ハ「止まじ」

 天皇が他の山と区別なさって番人を置いて守るという山に入らないというのはどういうことかというと、病気が治らないということである、と言っている。番人がいる「山」は山陵のことである。山陵へは荷前でもなければ幣を捧げることはしないが、そんなことを言っている場合ではない。藁にもすがる思いでできることは尽くしておこうとしている。ふだん、天皇が境界を立てて番人を置いて守るという山に入らないままに幣帛を捧げないというのは、皇太子の病気が治らないということと同じことです、つまり、皇太子の病が治るように、時季外れだけれど諸陵に幣帛を捧げよう、と歌っている。続紀の対応記事は八月二十三日条である。天皇の気持ちを代詠している(注4)

 見渡せば 近きものから 岩隠いはがくり かがよふ玉を 取らずはまじ〔見渡者近物可良石隠加我欲布珠乎不取不巳〕(万951)
 「見渡せば近きものから岩隠りかがよふ玉を取らず」ハ「止まじ」

 見渡してみて近くにあるけれど岩に隠れている、ゆれて光る玉を取らないままでいるということはどういうことかというと、病気が治らないということと同じことである、と言っている。近くにあればいつでも取れるからと、取るのが厄介なゆらめいて光る玉を放っておいたままにしていると病気は治らない、の意である。「玉」は「たま」と同根の言葉である。皇太子の魂をタマと言っている。天皇のいるところから近いところに皇太子はいる。それを放っておいたら皇太子の病は治らないから見舞いに行こう、と歌っている。この歌も天皇の代詠として機能している。

 韓衣からころも ならの里の 島松に 玉をし付けむ よき人もがも〔韓衣服楢乃里之嶋待尓玉乎師付牟好人欲得食〕(万952)

 再びタマの歌である。万951番歌では、タマが皇太子の魂を救うことを歌い、そのために見舞いに行くことを言っていたが、ここでは、庭園の山斎に植えられている松に玉を付けることで皇太子の魂を救おうと言っている。「島」は庭園の池に造った築島、タマは霊のことである。まだ赤ん坊である皇太子の気持ちを慰めるために、クリスマスの飾りのようなものを見せようとしているらしい。

 いもとして 二人作りし 吾が山斎しまは だかしげく なりにけるかも〔与妹為而二作之吾山齋者木高繁成家留鴨〕(万452)
 ぬしの たま賜ひて 春さらば 奈良の都に 召上めさげたまはね〔阿我農斯能美多麻々々比弖波流佐良婆奈良能美夜故尓咩佐宜多麻波祢〕(万882)

 「吾が主の御霊賜ひて」とは、あなた様のお恵みをもって、の意である。恵みを垂れることは功徳とされるから、仏教的な考え方からすれば現世利益があるということになる。そして、万952番歌では、「島」にかかわるように「玉」のことが述べられている。つまり、シマにマツがあるということは、島流しになって許されるのを待つ者がいて、恩赦を与えてくれる恵みある人が現れることを願うと言っていることになっている。続紀の対応記事は八月二十一日条である。
 子どもだましの飾りつけと恩赦のこととが一つの言い回しで歌われている。
 この、一つの言い回しで二つの意味に受け取ることができる言葉は、上代において、片方をかなえればもう片方もかなうであろうと考えることにつながっていた。言葉と事柄とが同じことであるとする、本来の意味での言霊信仰のもとでの考え方に依拠している。それはまた、祈誓うけひと呼ばれる古代の実践的占い法に通じる。飾りつけと恩赦とを掛けるような歌が歌われたのは、「可大赦天下」と勅されてのことだろう。大いなる恵みが流罪の地の島で恩赦を待っていた人に与えられた。「よき人」として聖武天皇自身はこの世に現れている。だから、今度は、皇太子の住まいである東宮、すなわち、東院庭園へ御幸して、山斎の松に飾りつけすることが求められる。具体的に出御するという段階になって、皇太子の代詠として歌が詠まれている。

 さを鹿の 鳴くなる山を 越え行かむ 日だにや君に はた逢はざらむ〔竿壮鹿之鳴奈流山乎越将去日谷八君當不相将有〕(万953)

 「さを鹿の鳴くなる山を越え行かむ日」とは、狩りに出猟する日である。四句目の「や」は反語である(注5)。狩りに行く日でさえひょっとして会わないでしょうか、いやいやまして狩りに行くのではない日にはやはり会わないでしょう、と言っている。「當」字を「為當」(万74)同様ハタと訓むことに問題はない。もしや一方で、あるいはまた、それとも別に、どう思ってもやはり、など、甲乙二つ並んだ状態があるとき、一方を抑え、他方を取り立てる語である。甲乙両方のケースを論う「はた」という語を登場させてメルクマールとし、「や」が反語であることを明白化している。現行の注釈書では、必ずしもこの意をきちんと汲んでいるわけではない。助詞の「や」の使い方について、いまだ十分に理解されていないからである。

 雄鹿が妻を求めて鳴くのが聞こえる山、そんな山を越えて行かれる日にさえも、あなたはもしかして私に逢っては下さらないのではないでしょうか。(「君が」と訓む説、伊藤1996.351頁)
 さ男鹿が鳴く山を越えていく日だけでも逢いたいのに、その日でさえ、男鹿の声ばかりで、君には、また逢わないのだろう。(「君に」と訓む説、中西1980.39頁)

平城宮跡東院庭園(掻い掘り中)

 「幸」の時の歌に「君」とあるのだから、「君」は天皇を指す。天皇が狩りに行く日に逢うことはなく、そうでない日にはなおさら逢うことはない。誰が逢うかはこの歌が皇太子の見舞いに出御する時の歌だから、皇太子である。赤ん坊だから逢うもなにもないとするのは早計である。歌っているのは左注に名があがっている笠朝臣金村ないしは車持朝臣千年である。いずれも「朝臣」の立場で天皇、あるいは皇太子に仕える身として歌っている。ここでは皇太子の代詠になっている。天皇の出御を促す歌を歌っている。
 皇太子が病に臥せっている場所は東宮、すなわち、東院庭園のあるところである。島、すなわち、水の流れを造って山斎しまを拵えていたにはのところである。ニハという言葉は、garden の意のほかに、猟場 hunting ground のことも指す。

 猟場にはたのしびは、膳夫かしはでをしてなますつくらしむ。自ら割らむに何与いかに。(雄略紀二年十月)

 東宮(東院庭園)へなかなか行こうとしていない天皇に対して、出御を勧めるために歌うに当たり、狩猟のニハのことを思わせる鹿の歌を歌っているのである。
 これら四首は、全体として天皇を中心とする宮廷社会の総意のようなものを詠んでいるものであるが、前二首は天皇の立場に寄っていて、後二首は皇太子の立場に寄っている。歌が翼賛的な性質を呈することをよく示し、また、掛け合いのものである点もよく保っていると言える。

 本歌群にはもう一首付け足しがある。

 かしはでのおほきみの歌一首〔膳王歌一首〕
 あしたには うみあさりし ゆふされば 大和へ越ゆる かりともしも〔朝波海邊尓安左里為暮去者倭部越鴈四乏母〕(万954)
  右は、作れる歌の年つばひらかならず。但、歌の類を以て便ち此のつぎてに載す。〔右作歌之年不審也但以歌類便載此次〕

 この歌が「五年戊辰/幸于難波宮時作歌四首」と同じ時に詠まれたものかわからない。天皇が皇太子の見舞いに出掛けた時のことにそのまま結びつくとは考えにくい。ただし、これは「雁」の歌であり、つまり、カリ(狩猟)のことが歌われている。しかも、カリニハで活躍するかしはでの名を負うかしはでのおほきみによって詠まれている。一句目は「あした」と訓む説もあるが、猟場にはのことにつながる歌なら必ず「あしたには○○」と訓まれたものと推測される。「歌類」として万953番歌とよく似ている。天皇が見舞いに行ったとする記事は続紀にある八月二十三日一度きりである。天皇としては毎日でも見舞いに行きたいところ、諸般の事情によりかなわなかったのだろう。お忍びで行くことはできず、隊列を組んで行幸することになるから簡単にはいかない。幼い子を皇太子に立てたがため、離れている東宮に住んでいて、逢いに行くにはいろいろと形式を踏まなければならなくなっている。ほかには、公衆衛生上の問題として伝染病が多かったから病人に近づくのはためらわれたとも思われ、そもそも父親が乳児を見舞ったからといってその病気がよくなることも期待薄である。
 そう考えると、万954番歌が、聖武天皇が東宮へ見舞いに行った後、宮にあって、雁のようにニハまで一飛びに行けたらなあと思ったであろうことを、膳王が代詠した歌であるとも考えられる。膳王は料理人としての名を負っているから、カリ(狩猟)の獲物となるカリ(雁)のこと、その雁がカリ(漁撈)をすることに気が行っている。漁場のこともニハと言った。そして、雁を捌くのも料理人の仕事で、それは家屋の前後に設けられている空間、すなわち、ニハで行われた。

 武庫むこの海の 庭よくあらし いざりする 海人あま釣船つりふね 波のうへに見ゆ (万3609)
 庭に立つ あさ刈り干し 布さらす 東女あづまをみなを 忘れたまふな(万521)

 万950~953、ならびに954番歌は、聖武天皇が病気の皇太子の住む東院庭園へ見舞いに出掛けることにまつわる歌であった。

(注)
(注1)記録には見えないが、史学の方面では、後期難波宮再興の時期に当たるから視察に行っていたはずだと考える説もある。
(注2)ヤムという言葉には、「止」・「息」で表される意以外に、「む」という語が同音語としてある。「病む」と治らなくて人生すべて「止む」ことと考えられていたからなのか、不明である。ここでは「止」「已」と書いてあるからそのとおりに捉えていれば問題は生じない。
(注3)拙稿「万葉集の「恋ひつつあらずは」について」ほか参照。
(注4)左注に見える笠金村、車持千年のいずれの作であるかについては不明である。影山2000.に、「特定の個性的歌人を作者として要求しないような状況下で課題歌四首が生成したという事情を想定するべきであろうか。……金村や千年を含む供奉官人に広く共有される歌として課題歌は機能したものかもしれない。現に各歌のありようはそうした見方を促すかのように反個性的である。」(155頁)とする指摘は、その限りで当を得ている。歌はその場で声を出して歌われたものだから当たり前のことである。
(注5)「だにや」の形は万葉集に他に一例ある。

 きりやま ゆきの道の 朝霞 ほのかにだにや 妹に逢はざらむ(万3037)

 この歌は、殺目山を往来する道に立つ朝霞のように、ぼんやりとだけでも妻に逢わないだろうか、の意と解されている。否定の語と呼応する「だに」の意味の、「せめて……だけでもと願うが、それも……ない」の意とされ、「や」は疑問の意、五句目へ回して「逢はざらむや」と言い換えてもかまわないかのようである。
 しかし、圧倒的多数の用例をかかえる「だにも」は、「……だけでも」と対象をとり上げるところから「……までも」の意に転じている。

 …… うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば(万210)

 生きていると思っていた妻が、玉のゆらめくようなほのかさのなかにまでも見えないことを思うと、の意である。条件を譲りに譲ってみても、そうでさえ願いはかなわない、と言っている。ここにある「も」は、承ける語を不確実なものとして扱う助詞「も」の本来の義である。譲りに譲っているのに譲っている効果がないということである。では、次のような場合、どのような意になるのだろうか。

 きりやま ゆきの道の 朝霞 ほのかにだに 妹に逢はざらむ(万3037改)

 殺目山を往来する道に立つ朝霞のように、ぼんやりとだけでも妻に逢わないだろう、という意であろう。万3037番歌の例との違いが不明瞭である。きっと逢うことはないだろう、というのとの差を表すとするのであろうが、せっかくの歌の修辞が生きてこない。
 「殺目山 往来の道の 朝霞 ほのかにだにや 妹に逢はざらむ」(万3037)では、「ゆきの道」と言っている。「越え行く道」などとはない。「ゆきの道」と言うことで、行っては帰ることをする道だと主張している。ひょっとすると古代の道に一方通行の道があったのかも知れないが、道は往来するのが原則であり、だから道のことを「往来おうらい」とも呼んでいる。そんなことをわざわざ歌に詠みこんでいる。なぜか。「や」が反語の意を表すからである。表現する意味が往き来する。すなわち、殺目山を往来する道に立つ朝霞のように、ぼんやりとだけでも妻に逢わないでしょうか、いやいやどんなに目を凝らして探しまくっても妻に逢わないでしょう、というのが歌意である。

(引用・参考文献)
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加藤良平 2023.9.11初出

万葉集の序詞の「鳥」が「目」を導く歌

 万葉集のなかに、序詞で「鳥」と言い、「目」を導いた歌が二首ある。巻十二「古今相聞往来の歌の類の下」の「物に寄せて思ひを陳ぶる歌」と、巻十四「東歌」の「常陸国の相聞往来の歌十首」のなかのそれぞれ一首である。

 小竹しのうへに 来居きゐとり やすみ 人妻ひとづまゆゑに われひにけり〔小竹之上尓来居而鳴鳥目乎安見人妻姤尓吾恋二来〕(万3093)
 つくの しげよ 立つ鳥の 目ゆかを見む さざらなくに〔乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能目由可汝乎見牟左祢射良奈久尓〕(万3396)

 万3096番歌から見ていく。

 小竹しのうへに 来居きゐとり やすみ 人妻ひとづまゆゑに われひにけり(万3093)

 一・二句の「小竹しのうへ来居きゐとり」が序詞で、「」を導いていると考えられている。四・五句は、人妻なのに私は恋したことだ、と「故に」の「に」は逆接と解されている。万葉集中の「人妻故に」三例の内、万21・1999番歌が類例である。

 紫草むらさきの にほへるいもを にくくあらば 人妻故に 吾恋ひめやも(万21)
 あからひく しきたへの子を しば見れば 人妻故に 吾恋ひぬべし(万1999)
 うち日さす みやに逢ひし 人妻故に 玉の緒の 思ひ乱れて しそおほき(万2365)(注1)

 序詞のかかり方については諸説ある。結果、三句目の「目を安み」の意が定まらない。見るに快い(美しい)、見た目が安らかなので、見ることがたやすいので、と捉え方に差が出ている。

 ➀むれの意のメにかかる序詞とする説(賀茂真淵・冠辞考(国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/864336/1/22))。
 ➁ささの末に巻いた葉があるのを「芽」というので、そこへ来て居る鳥の心は安かるからとする説(契沖・代匠記精撰本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979064/1/282))。
 ➂初二句は「目安し」(見た目がよい、一目見たすばらしさ、姿がよい、見にくからず)を起こす序と考えればよいとする説(北村季吟・萬葉拾穂抄(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200007744/727?ln=ja)、土屋1977.、稲岡2006.、阿蘇2010.)。
 ➃笹の葉の上に来て鳴く鳥はありふれていて、ありふれて逢うことがしやすい人妻であるとする説(折口信夫・口訳萬葉集(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1663261/1/61))。
 ➄「目を安み」の「目」について、鳥の名にメ(乙類)という接尾語が付く例が多い(カマメ、スズメ、ヒメ、ツバメなど)ので、メは古く鳥を意味したのではないかと考えて序詞とする説。安心した気持で逢えるので、の意(大系本)。
 ➅「目」を網の目と捉え、羅網、鳥網の目の危険がないので心安らかなように、見ることが易しいので、の表裏の意をかけ合わせた修辞とする説(井手1957.)。
 ➅´羅網が張られていないので小鳥たちが安心して篠の上にやってくる、その夫人に逢う機会が多かった(澤瀉1963.)。
 ➅´´網目にかかる心配がない、見た印象がよい(集成本、伊藤1997.)。
 ➅´´´網の目を気にしていない、人目に立つことはないと気を許して(中西1981.)。
 ➆篠の上に止まっている鳥のように、目にすることが容易であるとする説(武田1956.、新大系本)。
 ➇「目」は人目のことで、篠の葉末にいる鳥は人目に立つことがないので、人目を安心なものと見、ひそかに思いを寄せる意を重ねたとする説(多田2009.)。

 どの説も歯切れが悪い。
 古代の人たちは鳥をよく観察し、それに基づいて言葉にして歌に表し、聞いた人もなるほどうまいことを言うねえと感心したのだと思う。コミュニケーションが成り立っているから歌としてあり、4500首余りが万葉集に収められている。
 この歌で、「鳥」が「来居て鳴く」場所は、「小竹しのの上」である。篠とも書くシノは竹の類のなかで小型のもので、笹よりは大型のものを指したようである。小鳥でも笹の上には止まることはできず、シノの上になんとか止まっていると想定しているらしい。湾曲した指を使ってシノを握っている。どこでも止まれるかといえばそうではない。指が回ってしまう細いところではかなり苦労する。飼育されている文鳥の例で考えれば、8㎜の枝にはつかまりたがらず、指が止まり木の三分の一程度を余す12㎜程度以上あるものが好まれている。シノに適用して考えれば、節間の部分では指が回ってしまい、盛り上がっているふしのところを握るようにして止まることになる。むろん、歌は写生によって成っているのではなく、相手をおもしろがらせるための機知として言葉を継いでいる。

鳥の止まり木模式図(左:細すぎて止まれない、右:ちょうど良い)

 鳥が来て止まって鳴いているのはシノのフシ(節)ということである。フシ(節)に止まれば安定しくつろげ、鳥はフシ(伏、臥)の状態に入ることができる。目を閉じて寝られるのである(注2)。だから、「目を安み」と続けている。しっかり握りつかめ、体が安定するから、ストレスなく目を休めて寝ることができる。「目を安み」の「目」は人間が鳥を見る「目」などではなく、鳥自身の「目」である。それがこの序詞のかかり方の妙である。よって「寄物陳思歌」として成り立っている。

 小竹しのうへに 来居きゐとり やすみ 人妻ひとづまゆゑに われひにけり(万3093)
 篠の上に来て止まって鳴く鳥は、そのふしのところを握って体が安定するので目を休めてして寝るというように、相手がたとえ人妻であっても共寝をしたくなるような恋を私はしたことだ。

 万3396番歌も、同様に「鳥」の「目」を比喩として使っていると考えられる。

 つくの しげよ 立つ鳥の 目ゆかを見む さざらなくに(万3396)
 つくの山の繁茂した木々の間から一斉に飛び立っていく多数の鳥のなかの一羽のようにしか、あなたのことを見られないことになるのだろうか、共寝しなかったわけではないのに(注3)

 「目ゆか」の「ゆ」は経由を表し、手段を示すとする説が通行している。類例として次の歌があげられている。

 赤駒あかごまを やまはがし りかにて 多摩の横山 徒歩かしゆからむ(万4417)

 徒歩で、というのと、鳥の目で、というのはちょっと勝手が違う(注4)。助詞「ゆ」は本来、動作の行われるところ、経過するところを表したり、動作の起点を表す。場所の場合でも時間の場合でも同じように使っている。現代語では、ヲ、カラに当たる。

 巻向まきむくの 痛足あなしの川ゆ く水の 絶ゆることなく またかへり見む(万1100)
 ……… 白たへの もとを別れ にきびにし 家ゆもでて 緑児みどりごの 泣くをも置きて ……(万481)

 川を行く水、家から出て、の意であるが、「動作が行なわれる対象そのものを指すという性格はヨリよりも濃い。」(時代別777頁)ものである。川をこそ通って行く水、家からまでも出て、のような自己言及的、陳述副詞的な意味合いを持っている。「立つ鳥の 目ゆかを見む」という言い方は、立つ鳥の目なんかから○○○○○あなたを見ることになるのだろうか、の意であると考えられる。つまり、あなたを見ることが、異性として見ることさえかなわず、人ではない鳥として見る、それも群れを成して飛び立つうちの一羽の目からしか見ることができない、ということを言おうとしている。そういう扱いをあなたは私にされるのでしょうか、共寝をした間柄だのに、と愚痴っていると解される。そんな比喩を使っているところからすれば、相手はとても人気のある人だったのだろう。たくさんの人たちの注目を浴びている。そのなかから選ばれて自分は共寝する関係になった。なのに相手は過去のこと、なかったことにしてきた。どうでもいい有象無象にされてしまったと未練がましい歌を歌っているのである。
 そんな群鳥の居場所をつくとしている。ヲ(尾)にハ(羽)がツク(着)と聞こえ、鳥が密集しているとわかるのである。

 うちなびく 春さり来れば 小竹しのうれに 尾羽をはうち触れて うぐひす鳴くも(万1830)

(注)
(注1)万2365番歌も、「人妻故に」が「玉の緒の思ひ乱れて」までにかかると考えれば、ふつうなら恋しく思うはずのない人妻なのに思いが乱れる、という意とも解される。「みや」は「玉」砂利が敷かれているところを言い、「玉の緒」が切れたから道に散乱しているのだと譬えている。今日までのところ、そのように解した注釈書は管見に入らない。
(注2)文鳥のほか小鳥の多くはスズメ目で、三前趾足をしている。我々には膝に見えつつ逆に曲がっているところは、骨格上、かかとに当たる。その踵を落とすと足裏側の腱が引っ張られて自動的に指が閉じるため、木の枝をぎゅっと握った状態で保つことができ、枝に止まったまま安定するので眠ることができている。
 フス(伏、臥、俯)という言葉は、「うつむいた状態で、床や地面に接する意」(岩波古語辞典1156頁)で、腹ばいになること、うつぶすこと、横たわることや寝ること、を指す。眠っているとは限らないわけだが、居眠りが体勢を立て直しながら行うように落ち着かないことに比べ、伏して横たわることが身を安んずることにつながる。小鳥の場合は踵を落とした姿勢である。

 さ鹿しかの 朝小野をのの 草わかみ かくろひかねて 人に知らゆな(万2267)
 むしぶすま なごやがしたに せれども 妹としねば はださむしも(万524)
 家人いへびとの 待つらむものを つれもなき ありをまきて せる君かも(万3341)

 なお、竹類には例外的に、節間の部分が膨らんだホテイチク、ブッタンチクのような品種もある。
(注3)水島1986.は、「一首は男の歌で、一度ならず自分に許したことのある女性が、如何なる事情によるのか、共寝を拒むようになったことを、いぶかしみ、悲しく思うのであろう。」と解している。阿蘇2011.は個人的抒情歌としての理解は疑問であるとしているが、歌で歌いたいことはその内容ではなく形容である。うまいこと言えているだろうと誇示しているだけで、経験や本心とは無関係であって何ら問題ない。作者を問わずに収集している東歌には、採用の観点からして言葉遊びを重視する傾向が強くなって当然である。
(注4)「加志由加也良牟」を「徒歩かしゆからむ」と訓んで、「徒歩かし」は徒歩かちの上代東国方言であるとされている。ただし、「かしゆからむ」、足枷をつけて送致するようなことになるのだろうか、の意と解することもできる。新撰字鏡に「鏁?鎻 三形同、思果反、䥫也、又璅字、連也、あし加志かし、又加奈保太志かなほだし」とある。「多摩の横山」は多摩川沿いの丘陵地でアップダウンがきつく、足が棒になるほど疲れることを歌っていることに違いはなく、防人に赴任することはまるで罪を犯して流刑になるようなものだという認識があったなら、囚人の護送のようだと歌ったとした方が比喩表現としてより巧みであると考える。

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新大系本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系3 萬葉集 三』岩波書店、2002年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解5』筑摩書房、2009年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 九』角川書店、昭和31年。
土屋1977. 土屋文明『萬葉集私注 六 新訂版』筑摩書房、昭和52年。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
水島1956. 水島義治『萬葉集全注 巻第十四』有斐閣、昭和61年。

加藤良平 2025.1.15初出

万葉集巻二十の冒頭歌─附.「や」+疑問詞について─

 万葉集巻二十の冒頭に、昔、こんな歌のやり取りがあったという歌が載る。

  山村やまむら幸行いでましし時の歌二首
  先の太上天皇おほきすめらみこと陪従したがへる王臣おほきみまへつきみたちみことのりしてのたまはく、「諸王卿等おほきみまへつきみたちよろしくこたふる歌をみてまをすべし」とのたまひて、即ち御口号くちずさみて曰はく、〔幸行於山村之時歌二首/先太上天皇詔陪従王臣曰夫諸王卿等宣賦和歌而奏即御口号曰〕
 あしひきの 山きしかば 山人やまびとの われしめし 山づとそこれ〔安之比奇能山行之可婆山人乃和礼尓依志米之夜麻都刀曽許礼〕(万4293)
  舎人とねりの親王みこの、詔にこたへてこたへ奉る歌一首〔舎人親王應詔奉和歌一首〕
 あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人やたれ〔安之比奇能山尓由伎家牟夜麻妣等能情母之良受山人夜多礼〕(万4294)
  右は、天平勝宝五年五月に、大納言藤原朝臣の家に在りし時、事を奏すに依りて請問ひし間に、少主鈴せいしゆれい山田やまだのふひとひぢ麻呂まろ、少納言大伴宿禰家持に語りて曰はく、「昔、此のことを聞けり」といひて即ち此の歌をめり。〔右天平勝寶五年五月在於大納言藤原朝臣之家時依奏事而請問之間少主鈴山田史土麻呂語少納言大伴宿祢家持曰昔聞此言即誦此歌也〕

 「先太上天皇」は元正天皇のこと、続柄としては「舎人親王」の姪に当たる。藤原仲麻呂邸で、昔の歌のやりとりを山田土麻呂が大伴家持に伝え、その場で歌を吟じてくれたものである。
 新大系文庫本は次のように訳し、解説している。

  山村にお出ましになった時の歌二首
  先の太上天皇(元正)が、付き従っていた廷臣に「諸王卿よ、これに和する歌を作って奏上しなさい」と仰せられて、自らお口ずさみになった歌に言う
 (あしひきの)山を通っていったら、山人が私にくれた山のみやげですよ、これは。(万4293)
  舎人親王が仰せに答えて奉った歌一首
 (あしひきの)山に行ったという山人の心もわかりません。その山人は誰なのでしょうか。(万4294)
 ……この「山づと」は何か、諸説あるが特定しがたい。……平安時代中期には上皇(太上天皇)の御所を「仙洞」と称したが、この時代にも同様だったか。それなら仙洞の住人すなわち上皇も山人となる。「山人」は「仙」の字謎(じなぞ)かも知れない。→一六八二注。舎人親王はこの行幸には従幸せず、土産の品を見て、山に行ったという山人(元正)のお気持も分かりません、その山人が出会ったという山人とは誰のことですかと戯れて詠ったのであろう。(199頁)

 歌は歌われたものである。ここでも少主鈴の山田史土麻呂が声を出して歌っている。字謎は書かれたものにしか生まれない。歌われたものを筆記するときに字謎として書くことは考えられるが、字謎を歌にくちずさんで通じるのは、皆によく知られたものでなければならない。聞いて咄嗟にわからなければ歌とならないからである。仙洞御所という言い方が奈良時代にすでに行われていて一般化していたという証拠はどこにもないから、字謎説は当たらない。
 この解説が参考として引いている万1682番歌は次のようなものである。

  忍壁皇おさかべのみたてまつる歌一首〈仙人やまびとすがたを詠めり〉〔献忍壁皇子歌一首〈詠仙人形〉〕
 とこしへに 夏冬行けや かはごろも あふぎ放たぬ 山に住む人〔常之陪尓夏冬往哉裘扇不放山住人〕(万1682)

 この歌の「仙人」、「山住人」は蝙蝠のことを言っている(注1)。蝙蝠は翼手目の動物で、腕と前肢の指が長く、それらの間に開閉自在の飛膜をつけて翼にして飛翔する。この飛膜は皮膚が伸びてできたもので、扇にも裘にも譬えられる。扇は蝙蝠扇といい、また、後肢を使って枝などに逆さにぶら下がってとまるとき、体を比翼に包むようにして休む。夏は扇子になり、冬はマントになる。まるで人が暑さ寒さをしのぐためにするようなことをしている生き物が山にいるということで、ヤマビト、ヤマニスムヒトと喩えている。
 つまり、この蝙蝠(の死骸)の翼部分が、万4293番歌にある「山つと」である。忍壁皇子当時から山のお土産だと歌われていた。元正天皇はそんな謂れを知っていて、戯れの歌を歌っている。舎人皇子も事の次第を知っていたから和す歌を歌っている。「山人」というのは言葉のあやですね、だってそれは蝙蝠ですから、と。コウモリは古語にカハホリ、カハ(川)+ホリ(掘)、ないし、カハ(川)+モリ(守)の転かとされている。少なくとも「山人」ではなく「川人」のはずだから、「山人」って誰のことを言っているのでしょうか、と言っている。頓智の効いたやりとりが行われている。
 歌意についての釈はそれで足りている。なお一点指摘しなければならない点がある。

 「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人誰」(万4294)とある助詞「や」についてである(注2)
 ヤの用法については、文中のヤと文末のヤとで分けて考えられている。文中のヤにおいて、下に疑問詞が来る形は次のように説明されている。

 これはヤが体言を承けて主格に立ち、下に疑問詞を従えるものである。
  ここにして筑紫何処白雲のたなびく山の方にしあるらし(万葉五七四)
  ここにして春日何処さはり出でて行かねば恋ひつつそ居る(万葉一五七〇)
  ほととぎす来鳴きとよもす橘の花散る庭を見む人(万葉一九六八)
  あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人(万葉四二九四)
 このように「何処いづく」あるいは「たれ」を下に従える構文は、助詞ハによって作られるものと同様である。例えば次のような。
  梅の花散らくいづく(万葉八二三)
 ではこのハとヤの相違は何なのか。「散らくいづく」といえば単に「花が散ったのは何処なのか」と問題を提示して答えを求めただけである。ハは、本質的に、もう一つ別の、しかし同類のものとの対比の観念を含むものである。「散らく」(散ルトコロ)に対して「匂はく」(匂ウトコロ)のような、個と個との対比が陰にある。ところが、「筑紫いづく」「見む人誰」 「山人誰」といえば、ヤが承けるもの「筑紫」「見む人」「山人」は、かねて心の中にすでに確かに保有されており、それが全面的に強く意識されていたことを表わしている。これは単に他と対比しているのではなく、それ一つを思い込んでいることを示す。だからヤの場合は「一体全体筑紫なんて何処なんだ」「花の散る庭を見る人は一体誰なんだ(アナタ以外ニナイノニ訪ネテ来ナイデハナイカ)」「その山人、 山人とは一体誰なんですか」という意味である。ヤは既に心に思い込んでいるものを全面的に強く指すことを読まなくてはならない。(大野1993.281~282頁)

 この解説は、「ヤが、ハ・コツ・ナム・ヤという疑問詞を承けない系列の助詞が共通に持つ性格、 即ち、承ける言葉を確実であるとする、あるいは確定的・既定的であるとする、あるいは旧情報であるとするという性格を、奈良時代にはそのまま具現していたことを示すといえる。」(281頁)と変わりないことを述べている。一方、ヤを説明する時には、カとの対比で解説されることも多い。特に奈良時代の例では、カは疑問、ヤは反語の意を表しているとされている。筆者が大野氏の解説に疑問を持つのは、ヤの反語性について十分に理解していないのではないかと思われる点である。確かなことと思うことを疑問の構図に据えたうえで、その疑問を返す形にすると反語の意が現れる。

 ここにありて つく何処いづち 白雲しらくもの たなびく山の かたにしあるらし(万574)(注3)
 「ここではるかに眺めやれば、筑紫は何処であろう。白雲のたなびく山の方であるらしい。」(大系本一270頁)(注4)

 ヤについて、「一体全体筑紫なんて何処なんだ」の意を表しているということだけでは、その反語性を示し切れていない。この歌は、作者の大伴旅人が大宰府から奈良へと帰京して、筑紫のことを思い返して歌った歌である。カを使う疑問文だと次のようになる。

 ここにありて 筑紫何処 白雲の たなびく山の 方にしあるらし(万574改)
 少し前まで筑紫にいた。今ここ奈良の都にいて、筑紫はどちらの方向に当たるのだろうか、きっと白雲のたなびく山の方向であるらしい。

 この前半部の疑問を示しているところを返すように訳せば、反語的な言い方になる。

 ここにありて 筑紫何処 白雲の たなびく山の 方にしあるらし(万574)
 少し前まで筑紫にいた。だから筑紫のことはよく知っている、今ここ奈良の都にいてもそうだ。筑紫はどちらの方向に当たるのだろうか、いやいやどちらの方向かなど私にとっては愚問である。必ずや白雲のたなびく山の方向であるらしい。

 ヤが反語を示すのは、ヤが承ける言葉が「確定的・既定的」なことだからである。筑紫のことなど当たり前のこと、全部知っていると思っている。だから反語になる。後半に「白雲のたなびく山の方にあるらし」と強意で示すことができる理由である。「筑紫何処」と「筑紫何処」との違いは、後者では、筑紫はどこか、いやいやどこかなどと問うことはおかしなことだ、わかろうはずないではないか、という意味である。「何処」という疑問詞を「確定的・既定的」とするとは、疑問は疑問であって答えられないということである。
 他の例も同様である。

 ここにありて 春日や何処 雨障あまづつみ 出でて行かねば 恋ひつつそ居る(万1570)
 「ここにいて春日はどっちにあたるだろう。雨にさまたげられて出て行かないので、ただ心の中で恋しく思っていることだ。」(大系本二325頁)

 大意としてこれでは不十分である。春日は「かねて心の中にすでに確かに保有されており、それが全面的に強く意識されていたことを表わしている」理由は、この歌の作者が藤原房前の第三子、藤原八束だからである。春日大社は藤原氏の氏神である。
 ここにいて、春日はどの方向にあたるのだろうか、いやいやそんなことは問うだけ野暮、わかりきっている。雨に降りこめられて外出できないので、春日を恋しく思いながら家にいる、という意味である。藤原氏の自負心を歌うためにヤを用いている。

 霍公鳥ほととぎす 来鳴きとよもす 橘の 花散る庭を 見む人やたれ(万1968)
 「ホトトギスが来て鳴きたてる、橘の花の散る庭を見る人は誰であろう。(あなたに相違ありませんね。)」(大系本三82頁)

 大意はこれで正しい。「花の散る庭を見る人は一体誰なんだ(アナタ以外ニナイノニ訪ネテ来ナイデハナイカ)」ということである。反語の意を明らかにするなら、霍公鳥が来て鳴きたてる、橘の花の散る庭を見る人は誰か、いやいや誰かと問うなど愚かなこと、あなた以外にないことですから、ということである。そのためにヤを用いている。

 あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず山人や誰(万4294)
 山に行ったという山人の心持も分りませんが、山人とは誰なのでしょう。(大系本四400頁)

 大意としてこれでは不十分である。「山人とは誰なのでしょう。」、「その山人、 山人とは一体誰なんですか」と、ヤが承ける言葉を確かなものとして捉えるだけでは疑問の強調にすぎなくなる。
 山に行ったという山人の心持ちはさて存ぜぬことです。山人とは誰か、いやいや山人は誰かと問うなど変なこと、山人ではなくむしろ川人のことなのですから、と言うためにヤを用いている。
 反語は高度な言語表現である。皮肉な気持ちを含ませる場合に使われたり、この例のようにおとぼけを表すためにも使われた。一度言っておきながらただちに否定してかかる方法としては、漫才のノリツッコミと類似のものである。万葉集に記録として残されている例から、当時の人たちの言語感覚の巧みさが伝わってくる。

(注)
(注1)拙稿「万1682番歌の「仙人」=コウモリ説」参照。
(注2)助詞の「や」については、時代的な変遷を経ており、平安時代には「や」が「か」の領分を浸食するような展開をみせている。そのため、文法の議論において、奈良時代までの「や」の使い方の際立つところ、すなわち、反語を表すために使われているところ、現代語に用法を持たない反語性のある単語についての説明が尽くし切られていないように見受けられる。
(注3)以下、大野氏の示した訓みと細部に違いを含むが、大勢に影響はない。
(注4)大野氏は、「日本古典文学大系『万葉集』……の訳をつけた当時、私はカとヤとの区別を見分けていなかった。だから訳文においてもカとヤの区別ができていない。」(大野1993.271頁)と自ら語っている。筆者はそれでもなお、ヤの反語性が十分配慮される段階には至っていないと考えている。

(引用・参考文献)
大野1993. 大野晋『係り結びの研究』岩波書店、1993年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(五)』岩波書店(岩波文庫)、2015年。
大系本一・三・四 高木市之助・五味智英・大野晋校注『萬葉集一・三・四』岩波書店、昭和32・35・37年。

加藤良平 2023.9.7初出

高安王の鮒を贈る歌

 万葉集巻四に、女性に鮒を贈って気を引いた王族の歌が載る。

  高安王たかやすのおほきみつつめる鮒を娘子をとめに贈る歌一首〈高安王は後にかばね大原真人のうぢを賜ふ〉〔高安王褁鮒贈娘子歌一首〈高安王者後賜姓大原真人氏〉〕
 おき行き を行き今や 妹がため 吾がすなどれる 臥束鮒ふしつかふな〔奥弊徃邊去伊麻夜為妹吾漁有藻臥束鮒〕(万625)

沖辺を行き岸辺を行って、今あなたのために私が捕った藻伏束鮒です。
▷高安王が包みにした鮒を娘子に贈ったときの歌。「鮒」は、平城ママ木簡の一つに「東市買進上物 雑一翼 鮮鮒十隻 螺廿貝 右物付倭麻呂進上如前天平八年十一月廿五日下村主大魚」とあるように、市で売買されていたことが分かる。高安王も、市で手に入れた鮒を娘子に贈って、戯れに自ら漁したと詠ったのだろう。「沖辺」は岸辺から離れた川の真中の方。「藻伏束鮒」は、藻に隠れている一束(握りこぶし)ほどの長さの鮒。(新大系文庫本389頁)

 諸注釈書とも、おおむねこのような注解が行われている(注1)。到底納得の行くものではない。
 川か池かわからないが、娘子に贈ったフナは、その岸から遠いところで捕ったフナか、岸近くで捕ったフナか、訳ではわからない。どうでもいいことのように思われるかもしれないが、なぜ「おき行きを行き」と贅言を尽くしているのか。市場で買ったのならそういえばいいのに、行き巡ってようやく藻に隠れている7~8㎝サイズのフナを捕まえたからそれを贈りますと言っている。常識的に考えて、身分ある人が女の子にプレゼントとするのに、フナを一匹、それも小さいものをプレゼントするというのはあり得ないだろう。そこを諧謔の趣きと考えるのが今日の通説のようであるが、子供騙しに縁日の金魚すくいの金魚を贈ったといった歌ではなかろう。当時、一般民に観賞魚の風習があったとは考えにくい。
 川や池の中にいるとき、フナは「臥束鮒ふしつかふな」、つまり、藻の生えているところに隠れて棲息している。その性質を利用して柴漬ふしづけ漁が行われていた。ふしと呼ばれる小枝の束を水中に沈め、棲みついた魚やエビを捕まえている。野生動物は突然現れたふしにすぐに近寄ることはない。警戒心があるから時間をかけて入るのを待つことになる。数か月置いておけば藻が生えてきて魚も不自然さを感じなくなり、そこを寝床にするようである。冬に仕掛けて春先に周囲を囲んで逃げられないようにして引き上げた。
 葦や藁などで作られたつとにフナが包まれていたら、柴漬ふしづけのなかに魚が入っているのとよく似ていることになる。意図的に同じような形状にして理解しやすくしていると言える。とはいえ、「吾がすなどれる」と誇れるほどの大きさではない。想定に矛盾があるのではないか。

左:柴漬漁(霞ヶ浦における笹漬、小川良徳「人工漁礁と魚付き」『水産増殖』1968巻臨時号7、昭和43年3月、4頁をトリミング。J-STAGE https://doi.org/10.11233/aquaculturesci1953.1968.Special7_3)、中:柴漬漁(「於朶漁」、日本捕魚図志、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200022092/13?ln=jaをトリミング)、鮒ずし(滋賀県ホームページ「こころに残る滋賀の風景」https://www.pref.shiga.lg.jp/site/kokoro/area_sonota/details/0342_details.html)

 筆者は、贈った苞の中身は「鮮鮒」ではなく、「鮒ずし」(注2)ではないかと考える。平城京木簡に、「天平八年三月十八日鮨鮒○数五十一隻」、「日下「鮒鮨鮒」六升三合」などとある。馴れずしとして完成したフナを藁苞に包んで贈ることは考えられる。一樽に何十匹も入れて漬けたうちから選んで包んで贈ったということであろう。「おき行きを行き」して捕ったたくさんのフナを漬けたということだろう。あるいは漬樽のなかを手でまさぐって取りあげたことを指しているのかもしれない。桶の中央部か周辺部かを表すのに、「おき行きを行き」と言っているのかもしれない。水中でふしを漬けて捕ったフナを馴れずしに漬けている。うまく漬かって発酵した鮒ずしを柴漬ふしづけ様に苞にしている。
 「おき行きを行き今や妹がため吾がすなどれる」とある「今や」の「や」は改めて考えなければならない。既存の説としては管見に入らないが、これは反語を表す。沖辺を行き、岸辺を行って、たった今あなたのために、と訳すのには誤謬がある。反語の本意は、沖辺を行き、岸辺を行って捕ったその今か、いやいやその今ではない、という意味である。「や」は、確定的、既定的なことを承ける。歌のなかの「今」は、漁をしてフナを捕まえた時点を指すのであろう。その決まっている「今」であろうか、いやいやそうではないと言い、かなり時間が経過していることを示唆する表現となっている。馴れずしを作るには、先に塩漬けして水があがってきたら重石をする。夏の初めに水洗いして塩抜きし、硬めに炊いたご飯と一緒に漬け込み、秋から冬に乳酸発酵がすすんで食べ頃となる。十カ月ほどかかっている。しかも柴漬ふしづけ漁なのだから、ふしを沈めてから計算すると一年近く経っている。沈めたときも、「おき行きを行き」していた。いつからあなたのことを思っていたのか。「おき行きを行き」するほどか、いやいやそれどころではない。一年ほども過ぎている。あなたのために捕ったフナを長い間漬けて発酵、熟成させていました。その間ずっと思い続けていました。フナと私の気持ちともどももらってくれますか。
 「束鮒つかふな」は小さなサイズである。小さければ発酵は比較的速く進む。大きいと熟成に二年ぐらいかかる。鮒ずしに作る時には内臓を出してご飯を詰める。やっていることはミイラ作りとよく似ている。一定単位量のフナを樽の中でミイラにする、つまりはに際して横並びに臥させることをしている。そういうことを「臥束鮒ふしつかふな」という言葉に込めているのではないか。「つか」はたばねたものを数える語でもある。「きだごとにたちからの稲二束ふたつかふたたばり」(孝徳紀大化二年二月)とある。漬樽にはご飯とご飯詰めしたフナとを交互に積んでいく。段ごとにフナとご飯とを置いていっている。つまり、「束鮒つかふな」の「つか」は「ふな」にかかってその長さを表しているのではなく、ご飯のもととなるイネの量を勘定したもの言いなのではないか。
 そしてまた、ツカには、土を盛りあげて突いて造った墓のことも表す。冢や塚の字が使われる。鮒ずしの漬樽はフナのお墓なのであり、そこから発掘して苞にくるんで持って行っている。そう考えるなら、苞の中身がフナとご飯の発酵食品であることを示すものとして、苞の素材には稲藁を用いた藁苞であったと想定される。どうしてわざわざ苞にくるんでいると断っていたのかが読み解ける。そして、「束鮒つかふな」という大きさの指定はフナの長さのことを言っているのではなく、十把を一束と数えた助数詞のツカのようにあるフナという意味ではないか(注3)。よく漬かった鮒ずしを一尾ずつ入れて苞とし、それを数珠つなぎにしたもののことを言うのであろう。「沖辺」で捕れたもの、「辺」で捕れたもの、複数あるから束ねているとしていると考えられるのである。
 鮒ずしは好き嫌いが多い食べ物である。たまに食べるのに向いている。一度にたくさん貰ってはいつまでも台所が臭くて困るもので、そんな時には親戚や近所に配るだろう。もはや秘した恋ではなく、高安王は公然と娘子を貰い受けようとしている。娘子やその一族に、鮒ずしのにおいのように強烈な印象を与えようと企てていたのであった。
 左注に、「高安王者後賜姓大原真人氏」とあり、賜姓降下して「大原真人高安」となったことが注されている。オホハラはオホ(大)+ハラ(腹)、食欲旺盛な人を思わせる。「真人」というのもただ何でも食べるというのではなく、人間ならではの嗜好を有していたということを示すのであろう。いわゆるグルメである。魚好きのネコであっても、フナをくわえてどこかへ持って行き、隠れて鮒ずしを作っているという話を聞いたことがない。

(注)
(注1)「人に物を贈るに添えた歌は、……[万782・1460・4455]などにあるが、それらはいずれも、このようにまで苦労した、と言って努力を認めてもらおうとする。この歌も、王と呼ばれる身分でありながら川の中を裾をまくって飛沫を上げながら捕った、その成果が長さたった三寸の鮒、と言うところに戯笑性が感じられる。」(木下1983.253頁)、「上二句の大げさな表現に対し、下の鮒が一握りほどに小さい点が興をそそる。それだけで娘子への誠意が知られるけれども、あるいは、「藻臥束鮒」に、あなたのためにはすべてを投げ出してつつましく控える意を託しているのかもしれない。」(伊藤1996.543頁)などと評されている。
(注2)鮒ずしが奈良時代にどのように作られていたのかについては、推測の域を出ることはない。ここでは製法は今日とさほど変わらないものと考えている。あるいは、この歌がかなり確度の高い文献資料に該当するのかもしれない。
(注3)「つか」を長さの単位とした場合、「束鮒」が7~8㎝のフナということになり、たくさん貰って甘露煮にするならともかく、一尾だけでは扱いに困るであろう。たばねたものを数える単位とした場合、「束鮒」はフナの干物を束にしたものと想定することはできるが、鰹節や身欠き鰊、干鮑のように加工したものが一般的に存在したのか不明である。題詞の「褁鮒」と歌詞の「束鮒」とが両立するべく整合性を考えたとき、鮒ずしの藁苞による個別包装を想定するのがいちばん理にかなっていると思う。

(引用・参考文献)
石毛・ラドル1990. 石毛直道・ケネス-ラドル『魚醬とナレズシの研究』岩波書店、1990年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
木下1983. 木下正俊『萬葉集全注 巻第四』有斐閣、昭和58年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
橋本1974. 橋本四郎「つつむ」『萬葉』第85号、昭和49年9月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1974
橋本2016. 橋本道範編『再考ふなずしの歴史』サンライズ出版、2016年。

加藤良平 2023.9.5初出


弓削皇子の吉野に遊ばす時の歌と春日王の和歌(万242~244番歌)について

 万葉集巻三にげの皇子みこの吉野での歌とそれに和した春日かすがのおほきみの歌があり、別伝一首が付されている。

  げの皇子おほきみ、吉野に遊ぶ時の御歌一首〔弓削皇子遊吉野時御歌一首〕
 たぎの上の ふねの山に る雲の 常にあらむと が思はなくに(万242)〔瀧上之三船乃山尓居雲乃常将有等和我不念久尓〕
  春日かすがのおほきみこたまつる歌一首〔春日王奉和歌一首〕
 おほきみは とせさむ 白雲しらくもも 三船の山に ゆる日あらめや(万243)〔王者千歳二麻佐武白雲毛三船乃山尓絶日安良米也〕
  或本の歌一首〔或本歌一首〕
 み吉野の ふねの山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに(万244)〔三吉野之御船乃山尓立雲之常将在跡我思莫苦二〕
  右の一首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ〔右一首柿本朝臣人麿之謌集出〕

 万242番歌について、土佐2020.の整理に、「滝の上の 三船の山に 居る雲の」が「常にあらむ」にかかるか、「常にあらむと 我が思はなくに」全体にかかるかという解釈の違いによって、「雲」を常住不変の喩とするか、変化流転の喩とするか、意味が変わってくるとされている(注1)。しかし、それらは「居る雲の」の助詞「の」を通説にノヨウニの意ととっているからであり、格助詞として解しても不都合はないもので、土佐2020.は、「表層の解釈としては、「滝の上の三船の山に居る雲常にあるだろう、と私は思わないのに」で充分だろう。」(555~556頁)としている。
 登場する助詞「と」は下に「思ふ」という引用語が承けるように、引用構文とされるものである(注2)。「常にあるだろうと(は)私は思わないのに」という簡潔な言い回しである。引用を表しているのだから、その上の「滝の上の 三船の山に 居る雲の」は、「と」以前に掛かっているとするのが自然である。つまり、「居る雲の」の助詞「の」は第一義的に主格であると考えられる。ノヨウニの意と解する現状では、「滝の上の三船の山に居る雲のように(何かが)常にあるだろうとは私は思わないのに」ととっていて、その何かについて「我が命」のようなものを強引に設定して無常感のようなものを持ち出して説明している。
 今日までの説に、弓削皇子病弱説なるものがあり、二十七歳ぐらいで亡くなっているから無常感を抱いていたとするのであるが、輿に乗せられて行くにせよ病弱な人が吉野へ赴くものだろうか。また、古代において享年二十七が短命とも思われない。
 一般に、吉野は懐風藻に見立てられているところから神仙世界、雲は道教や仏教など外来思想に基づく造形であるとされている。それを推し進めると、土佐2020.に見られる念の入った訳出が行われることになる。

(世間一般では、吉野を永遠なる神仙世界と見ており、吉野の雲も永遠にそこにあるものと考えているだろうが)いま滝の上の三船の山に居るあの雲が、いつも必ずあの場所にあるだろうとは、(たとえ人々がそう言っても、世間はともかく)この私は思わないのになあ。(557~558頁)
(他がどうであろうと)王は永遠の存在でいらっしゃるでしょう。(三船の山にいる雲がいつまでもあるはずがない、と仰るけれども)その白雲だって、三船の山の上から消えてなくなってしまう日が本当にあるでしょうか。(私はそんな日は来ないと思います。)(570頁)

 そして、「弓削皇子は仏教的な視点に立つことで、古代性と道教思想が織り成してきた一般的見解を退けてみせた。対する春日王は、弓削が否定した古代性と道教思想を盾に取って、王権讃美と吉野讃美を行った。……弓削皇子と春日王の二首は、結果的に吉野の雲をめぐる問答といった趣を呈しているが、それが仏教的雲と道教的雲の対立という趣向になっている点に、外来思想をパロディ化する高度な知的遊戯性を認めるべきであろう。」(570~571頁)と結論づけている。現代人による作り話である。
 歌そのものを素直に聞いた時、そのように汲みとらなければならない理由は見られず、左注が付いているわけでもない。説明がなければわからない歌が歌われたとは考えられないし、もしそのように伝えたいのならそのように歌えば良く、そうしていない点は確認されなければならない(注3)
 「雲」を変化流転の喩とすることも難しい。「居る雲」と表現されている。「流るる雲」、「立つ雲」とあれば、流れて行ったり歩いて行ったりしそうであるが、腰を落ち着けて座っている雲は動きそうにない。
 構文は定式である。歌意は定式のうえに立つ。「滝の上の三船の山に居る雲が常にあるだろうとは私は思はないのに」と述べて何を言っているのか、それ自体をきちんと見極めることである。問題点はいくつかある。上代語「たぎ(瀧)(ギは甲類)」は、「水がわき立ち、激しく流れる所。激流。」(岩波古語辞典794頁)の意で、「たぎつ」と同根の語である。瀑布のことは「たる」と言っていた。
 「滝のうへの」と訓まれているが、「うへ」はものの表面、近接した所、あたり、ほとり、接する上部などのことを指す。川の急流のものの表面、上面に「三船の山」があるとするのは、論理的に厳密性をきわめれば変な言い方である。水上に三つの船が浮かんでいる、その「三船」という名を負った「山」が、という意に捉えられるのであるが、急流に船は止まらずに流されるであろう。条件節であるべき上の句のなかにおいてすでに矛盾が生じてしまう。滝は激流だからその上の山ごと流される。雲も居なくなることは必定である。
 用字の「上」は、上面のことではなく、ほとり、あたりの意であると考えられる。ヘ(ヘは乙類)と一音に訓むのが字余りも解消されて適当であろう。「河のの」という例がしばしば見られる。川のほとりには、川の流れの緩急にかかわらず必ずあるものがある。両岸である。

 河のの ゆつ岩群いはむらに 草さず 常にもがもな とこ処女をとめにて(万22)
 河の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢こせはるは(万56)
 川の上の いつの花の いつもいつも 来ませ背子せこ 時じけめやも(万1931)

 両サイドに岸はあるから二つセットにあるものが選ばれて言葉となっている。ツラ(面)は顔を横から見た時のもので、左右にあるからツラツラとなる。また、イツモイツモとも連なっている(注4)
 すなわち、「たぎの ふねの……」とつづく言葉の列に諧謔を感じている。吉野にミフネノヤマという名の山があって、それをおもしろがるために歌が歌われている。「たぎ(ギは甲類)」に両岸あるとは、どちら側もタギ状態にあること、すなわち、言葉に、タギタギシであると感じている。「たぎたぎし(ギは甲類)」は、足がよくきかない、歩きにくい、の意である。曲りくねっていて上下左右を問わずに凹凸があることをいうタギが語基である。

 やがて、かたとばりの宮にいでますに、車駕みくるまける道つち深浅たぎたぎしかりき。悪しき路のこころを取りて、たぎと謂ふ。〈くにひと多支多支斯たぎたぎしと云ふ。〉(常陸風土記・行方郡)
 然れども、今、が足歩むこと得ずして、たぎたぎしく成りぬ。(景行記)

 これが弓削皇子の言いたい洒落である。「たぎ」のほとりの両岸はたぎたぎしくて進まないから船は係留されて、どんなに流れが速くなろうが流されることはない。その名を負っている「三船の山」なのだから、そこに「居る雲」は座っているようにある。「居る雲」と連体修飾しているのは、「滝の上の 三船の山」という言葉の性質に不動性が備わっているからである。言葉は事柄と同じとする、本来の意味での上代の言霊信仰に従って述べられている。「居る」、すなわち、尻を据えて座っているからすぐには動かない。「或本歌一首」には「立つ」雲と変えられているのは、ここが強調箇所であることを示すためである。ヒントのために万244番歌は付け加えられている(注5)
 川の両岸に「三船」が係留されていたとするには少し問題がある。一つの岸に一艘ずつなら両岸に計二艘のはずである。あと一艘はどこに係留されていたのだろうか。この「滝」とされる急流は山間部にある。二筋の流れがY字状に合流しているところを表しているのであろう。そう考えるとY字形の川のほとりは三つの岸を持っていることになり、確かに「三船」を係留することにかなっている。それらが流れ出てきている山が「三船の山」なのである。
 ミフネというのだから「御船」、天皇の乗船するような大切な船である。係留は確実に行われている。だから流されることはないはずであるが、歌の作者にして歌い手は弓削皇子である。弓削とは弓を削り作る人のことである。皇子が弓作り職人であったということではなく、その名を負っているということが大事である。言葉は事柄と同じとする上代の言霊信仰に従って述べられている。弓を削っていくさまを見れば、まっすぐであった材がほんの少しずつ湾曲させられていって最終的にひどく曲げられてしまう。それは、川の浸食と同じである。Y→消防署地図記号→Uと形を変えるというのが、弓削皇子が習い性となっているものの考え方である。名の体現こそ上代の人のアイデンティティの発露であった。そのことは題詞にきちんと明記されている。「弓削皇子吉野時御歌一首」である(注6)。この「遊」字は、注釈書によってアソブ、イデマスの訓に分かれている。
 古典基礎語辞典に、「あそぶ【遊ぶ】」の「解説」に、「日常の業(仕事・任務)から離れた場に身を置いて、解放された身心を活発に動かして楽しむ。奏楽・歌舞・宴会・行楽・舟遊び・遊猟・碁など、その行為は多岐にわたる。上代で既にアソブ内容がさまざまであることを考えると、神事の際の舞楽が原初的なアソビ(遊び)であったとするよりも、奏楽や歌舞が最も頻繁に行われるアソビで、それが神事においても行われたということと思われる。」(30~31頁、この項、白井清子)とある。そしてまた、この動詞の未然形に、上代の尊敬の助動詞「す」の付いた形でも用いられた。やがて一語化して「なさる」の意へと展開していくものである。

 かしこし、我が天皇すめらみことなほ其のおほことあそばせ。(仲哀記)
……  み雪る 冬のあしたは さしやなぎ 根張ねはあづさを 御手おほみてに 取らし賜ひて 遊ばしし 我がおほきみを ……(万3324)

 この題詞も「歌」とあるから「遊」はアソバスと訓むものと考えられる。吉野へ出掛けているのも天皇が行幸に遊ばされたのに随伴したもので、その際に弓削皇子がお遊びになった歌であろう。精神的に日常的な思考から解放された活動として歌が作られている。この歌が日常的な思考とは少し異なるものであることを予感させてくれている。歌は酒の席での座興であり、言葉遊びに徹していることをきちんと伝えている。すなわち、これは大喜利の歌である。
 それを反映して、「常にあらむ」とは思えない境地に考え至っている。酔っぱらったら「常にあらむ」ものである。そのことを歌ってふさわしいのは、弓削と名に負う弓削皇子である。弓削皇子という名の限りにおいて、Y→消防署地図記号→Uと移ろうのであり、そうならざるを得ないよね、と頓智的に主張している。そうでしょう、ご一同様、と皆におもしろい話を披露している。「遊」の歌なのである。
 それに対して、春日王という人が現れて「奉和歌一首」を歌っている。
 諸説に、万243番歌の「おほきみ」を弓削皇子のことを指すとしている。しかし、オホキミと呼ぶのは第一義的には天皇のことである。常套表現としてワガオホキミ、ワゴオホキミなどと使われ、私にとってのオホキミ(「王」「皇」「大王」「大皇」)に当たるあなた様、の意に用いられている。前提なく歌われる場合の「おほきみは 神にし座せば」(万235)等のオホキミは、天皇のことを指している(注7)。単にオホキミの寿命の長からんことを言っている場合も天皇にまつわる言い方である。下の例は、それぞれ、天智天皇、元正天皇である。

 あまはら け見れば おほきみの 御寿みいのちは長く あまらしたり(万147)
 大皇おほきみは 常磐ときはさむ 橘の 殿の橘 ひたりにして(万4064)

 だからといって、万243番歌が、千年天皇でいらっしゃると寿いだ歌であると考えることはできない。弓削の皇子の大喜利の歌に「和」したことにならないからである。そしてまた、万243番歌の「おほきみ」は、弓削皇子を指すものではない。なぜといって、今元気にしていて歌を歌い終わった人はユゲノミコ○○であってユゲノオホキミ○○○○ではないのである。ユゲノミコは、座興の席で自分の名前の「弓削」をもって弓をたわみ曲げる意味の歌を作っているのだからそれに準じなくてはならない。洒落の通じないつまらない歌ではどうしようもない。
 「おほきみ」が誰のことを歌っているかという問いは、歌の作者がカスガノオホキミ○○○○であることで直ちに解消されよう。一般にオホキミは千年もいらっしゃるとされるものだから、不肖わたくしカスガノオホキミも長くこの世にあるのでございましょう、とおちゃらけている。弓削皇子が弓作りのことを歌にしたように、春日王も自らの名によって歌を作っている。

 いすかみ 布留ふるを過ぎて こもまくら 高橋過ぎ 物さはに 大宅おほやけ過ぎ はる 春日かすがを過ぎ つまごもる 小佐保をさほを過ぎ ……(武烈前紀、紀94)
 しまくに 妻きかねて はるの 春日かすがの国に くはを ありと聞きて ……(継体紀七年九月、紀96)
 はるを 春日かすがの山の 高座たかくらの かさの山に 朝さらず くもたなびき ……(万372)

 「春日かすが」は「はる」、「はる」は「春日かすが」と常套的に思われていたことからして、日がつながっていることを表すと考えていたようである。春の日には霞が立ち、日が長くなったことを表すばかりでなく、新しい春の日、新年のことをも含み表している。必ず日はめぐるものであって、結果、新しい年も訪れる。春日王は春日という名を負っているがために、「千歳に座さむ」と具現化して述べて許されるわけである。言葉は事柄と同じとする上代の言霊信仰によっている。
 春日王の歌に、弓削皇子が提題した「滝」云々の件が見られないが、反駁していないわけではない。彼は「奉和」をしている。どのように「こた」えているか。彼の名のカスガが、日が連結されて必ず次の日につながっているように、その連結用具のことをも表していると思われていたようである。それをかすがひ(ヒは甲類)という。鎹は建築用語に材木と材木とをつなぎとめるために打ち込む両端の曲がった大きな釘のことをいうほか、つなぎとめるもの一般を指し、「子は鎹」とは夫婦をつなぎとめるものの例えとされ、戸締りの掛けがねのことも言った。新撰字鏡に、「錄 力玉反、具藉也、弟也、加須加比かすがひ」、「銈銢 二字、加須加比かすがひ」、名義抄に、「鎹 カスカヒ」、催馬楽・東屋あづまやに、「かすがひも とざしもあらばこそ その殿との われささめ おし開いてませ 我や人妻ひとづま」とある。
 掛けて動かないようにするということで、掛けておく船、停泊させている船のことは、かかりぶね(係船、懸船)と呼ばれている。「はるの 春日かすが」と「日」が必ず掛かり続いていくように、鎹(カスガ(春日)+ヒ(日))としての面目から、戸を鎖しかためるためにある鐶同様、船を掛かり止めるための戕牁かし(牫牱)は揺るがないと主張している。戕牁かし(牫牱)の語源は定まらないが、仮に動詞にカスという語を想定するなら、カス+ガ(処)なる場所とは舫い杭が打ち込まれているところということになる。すなわち、弓削皇子の言うようにたとえ川の流路が変って戕牁が打たれた部分を水が流れることがあっても、非常に深く打ち込まれているから、吉野宮近くの急流に係留されている船が流されることはない。その三船の山の上にかかる白雲も絶えることはない。すべては我が名、カスガのごとくであると言い放っている。
 ただし、これだけの意味の歌を春日王という人がしゃしゃり出てきて「奉和」したとは考えられない。反論の歌を歌ったとしても大喜利の場は白けるばかりである。頓智の上塗りを重ねるだけでは興趣に欠けるところがある。弓削皇子が思いついた着想の新しさに匹敵しないことでもある。
 この歌で、春日王は春日王独自のおもしろい着想から歌っているものと思われる。
 彼はカスガという名である。酒の席でカスと言えば酒糟(酒粕)のことが思い起こされる。和名抄に、「糟 説文に云はく、糟〈子労反、賀須かす〉は酒滓なりといふ。」とある。酒糟が千年あるとするのなら、当然、お酒のほうも千年ある。酒造りには玄米を精白して白米にすることが求められる。わけてもおいしい酒にするには、その精白の度合いを高めなければならない(精米歩合(%)は低下)。精白することは古語に「しらぐ(精・白)」と言った。新撰字鏡に、「精〓〔米偏に乍〕粺▢〓〔米偏に蔑〕𦥶〓〔臼偏に乍〕業毇 八字、よね志良久しらく」、和名抄に、「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与祢しらげよね、上は傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米なりといふ。」、「𥽿米 唐韻に云はく、𥽿〈上は蔵洛反、作と同じ、漢語抄に末之良介乃与祢ましらげのよねと云ふ〉は精細米なりといふ。」とある。だから「白雲しらぐも」へと話が続いている(注8)
 長くつづけてたくさん醸造していくのだから、酒槽さかぶねはうずたかく積みあがるほどになる。そのとおり眼前にはミフネノヤマがある。ミフネ(三槽)と思えば数多く酒槽があることと思えるし、ミフネ(御槽)と思えばさぞかしおいしいお酒が醸されていると思える。いずれにせよ、酒糟があり続けることは酒があり続けることであってそれが絶える日などないのである。「白雲」は酒のことを表す隠喩にもなっていて、酒宴にふさわしい酒讃歌、酒寿ぎ歌となっている。
 ここに至って弓削皇子の歌の趣旨である座興、酔っぱらって「遊」の次元にある歌に対して「奉和」した歌としてふさわしいことが確かめられる(注9)
 この二首(三首)に対して諸説に、「無常」感の表明と捉えられてきていた(注10)が、そのようなところは微塵もない。すべては言葉「遊」びに歌われている。題詞は歌の歌われた状況設定を簡潔にして的確に、しかも細大漏らさず言い当てている。その点を顧みずに弓削皇子を悲劇の皇子、病弱な人と推論しても始まらない。道教的神仙思想や仏教的無常感などといった外来思想の反映であると大上段に構えてみても、歌が歌われた「遊」のフレームと交わるところはない。

(注)
(注1)澤瀉1958.にも同じく解説されている。ともに賀茂真淵・万葉考に、「げに高山の雲は常にたえぬを見」とあると引いているが、「げに高山の雲は常にあらぬを見る見る人の世の常なきをおもひ給ふなり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992920/346)と見える。また、山田1943.、井手1993.参照。
(注2)引用の「と」の例をあげる。

 韓人からひとの ころもむと云ふ 紫の 心にみて 思ほゆるかも(万569)
 今更いまさらに いもに逢はめやと 思へかも ここだが胸 いぶせくあるらむ(万611)
 恋は今は あらじとわれは おもへるを いづの恋そ つかみかかれる(万695)
 のちやま 後も逢はむと おもへこそ 死ぬべきものを 今日けふまでもけれ(万739)
 遠くあらば わびてもあらむを 里近く ありと聞きつつ 見ぬがすべなさ(万757)
 狂語たはことか 逆言およづれことか 隠口こもりくの はつの山に いほりせりといふ(万1408)
 解衣とききぬの 思ひ乱れて 恋ふれども 何のゆゑそと 問ふ人もなし(万2969)
 あしひきの 山よりづる 月待つと 人には言ひて 妹待つわれを(万3002)
 防人さきもりに 行くはと 問ふ人を 見るがともしさ 物ひもせず(万4425)

 佐佐木1999.のいう「引用構文」(対立項に「継起構文」)、竹内2005.のいう「引用構文第Ⅰ類」である。広義に捉えて「広義の引用」という呼び方も行われている。今日、カギ括弧で括ることが行われている。
 なお、竹内2005.は別に「~ム(意志)+ト」による構文をあげているが、万242番歌のムは推量を表す。
(注3)常なることの比喩とも常ならぬことの比喩とも取れるとする説が池田2008.にある。
(注4)万22番歌の原文に、「河上乃湯津盤村二草武左受常丹毛冀名常處女煮手」とある。「常」字が二つあるからそれを同じに訓んでカハノヘ構文の典型例に倣うべきと考えられる。現状の訓が誤りである点については他日を期したい。
(注5)初句に「み吉野の」とあったり「御船」と書くものは平凡な歌である。これは、万242番歌は機知に富んだ歌い方をしていることを指し示すためのメモとして機能している。人麻呂歌集に類歌が載っていて参考までにあげたということか。同様にヒントの提示としての異伝記載としては、万25番歌につづく「或る本の歌」(万26)がある。
(注6)万葉集の題詞、左注における「遊」字の使用法は、アソブ内容を指し示す形での提示が多い。「遊獦みかり」(万3題詞・20題詞・1028題詞)、「交遊とも」(万680題詞・3914左注)、「遊覧」(万853題詞・3991題詞・3993題詞・4036題詞・4046題詞・4187題詞・4199題詞・999左注)、「遊行女婦うかれめ」(1492題詞・966左注・4047左注)、「野遊のあそび」(万1880題詞・3808左注)、「遊芸」(万3969題詞)、「遊行」(万90左注・3835左注)、「望遊」(万1472左注)、「出遊いでます」(万415題詞)、「いであそぶ」(万3835左注)、「遊宴うたげ」(万4057左注・4062左注)とある。
 これらは、「遊」の行為が目的的によくわかるものである。狩猟したり見物したり散策したりするといったことである。アソブという語がいろいろ多岐に用いられるうちの何をしているかがわかる。課題とされる万242番歌題詞の「遊」の意味内容について考えるために、その前後に出てくる「遊」字の例を見てみる。

 天皇御-遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首(万235題詞)
 長皇子遊獦路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉(万239題詞)
 弓削皇子遊吉野時御歌一首(万242題詞)
 上宮聖徳皇子出遊竹原井之時、見龍田山死人悲傷御作歌一首(万415題詞)
 遊於松浦河序(万853題詞)

 万235番歌は、天皇の「御遊」、お出まし、行幸である。万239番歌で「獦路の池に遊ぶ」のは狩猟が目的である。万415番歌の「出遊」は万3835番左注に同じく散策である。万853番歌は、序のなかに「遊覧」とあってその意味ととれる。
 万235番歌に天皇の「御遊」としてイデマスという訓を与えている。万242番歌の「遊」について、神堀1997.は、お出かけになることと見、大浦2004.は、宮廷からの遊離と見ているが、それが「吉野」という行幸いでましの地であったとしても、「遊」にイデマスという訓を与えることは憚られる。弓削皇子が友人らを伴ってピクニックなり、静養なりを目的に吉野へ出掛けたとするよりも、天皇の吉野宮行幸に皆付き従って行っていて、そのときにグループで何かアソビをしていると考えた方が蓋然性が高い。題詞だけからはその内容、目的がはっきりしない例であるから、歌の内容とこもごもに意味を定立させていると考え及ぶことが求められる。なぜなら、万葉集の題詞表記の仕方は、簡にして要を得ることを目指していたと認められるからである。
(注7)万205番歌に「おほきみは 神にし座せば」とあり、それは弓削皇子に対する挽歌であり、そのオホキミは弓削皇子である。万204番の長歌に対する反歌であり、「やすみしし わごおほきみ 高光る 日の皇子 ……」で始まっている。作者は「置始おきそのあづまひと」であり、下男が挽歌を作っているのだから許容されたのであろう。
(注8)「白雲」を漢籍出典語と解して穆天子伝・白雲謡に求める説(井手1993.203頁)があるが、巻5・812番歌の題詞にある「白雲之什」は藤原房前が遠い便りのことを示す形容として書簡文に認めたものであって、春日王の歌の中身に絡めることは牽強付会である。
(注9)土佐2009.に、万242・243番歌は二首一連で、「「応答」なくしては、場の秩序を回復することができない」(162頁)としているが誤りである。万20・21番歌の場合は、「天皇遊猟蒲生野時額田王作歌」→「皇太子答御歌」であり、「作」→「答」の状況設定は「天皇遊猟蒲生野時」だから事前のネタ合わせが読み取れるが、当該歌では、「弓削皇子遊吉野時御歌」→「春日王奉和歌」であり、「作」→「和」の基盤に「遊」があって、その主語は歌の作者「弓削皇子」であり、一人で勝手に始めている。
(注10)弓削皇子挽歌の「又短歌一首」に、「ささなみの 志賀しがさされ波 しくしくに 常にと君が おもほせりける」(万206)とあり、「常に」は弓削皇子の生前の口癖だったとする説がある。万242番歌が人口に膾炙していたと考えられて、言葉尻を捉えたのであろう。万242番歌のおもしろさのひとつ、「滝」に両岸あるからタギタギシという諧謔を踏まえて「しくしくに」とくり返し言葉が使われている。「ささなみ」、「さされ波」にも反復がある。「常に」という語は万242番歌に出てきても、「常に」とは「思はなくに」だったのだから、この万206番歌の挽歌の言葉づかいとは異なる。万242番歌の言葉づかいに遡って同じ含意があるとは言い切れない。皇子様は常変わりなくありたいと思っておられましたのに残念です、というのはお悔やみの言葉にはなっても、弓削皇子その人へ向けた個別の追悼歌にはならない。世の大半の人は健康でいたいと思っている。

(引用・参考文献)
池田2008. 池田三枝子「《景》のゆらぎ─「喩」としての力─」『古代文学』第47号、2008年。
井手1993. 井手至『遊文録 萬葉篇一』和泉書院、1993年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
岩野1990. 岩野圭子「弓削皇子の歌〈巻三の二四二番〉についての一考察」『国文目白』第30号、日本女子大学国語国文学会、平成2年12月。
大浦2004. 大浦誠士「〈遊〉の中の万葉和歌」『日本文学』第53巻第5号、日本文学協会、2004年5月。J-STAGE https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.53.5_1
澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈』中央公論社、昭和33年。
影山1999. 影山尚之「弓削皇子の歌」神野志隆光・坂本信幸企画・監修『セミナー万葉の歌人と作品 第三巻』和泉書院、1999年。
神堀1997. 神堀忍「萬葉集における「遊」をめぐって─「( )遊」・「遊( )」と「アソブ」・「カル」など─」『国文学』第75巻、関西大学国文学会、1997年3月。関西大学学術リポジトリ http://hdl.handle.net/10112/2457
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』 角川学芸出版、2011年。
佐佐木1999. 佐佐木隆『萬葉集と上代語』ひつじ書房、1999年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
竹内2005. 竹内史郎「上代語における助詞トによる構文の諸相」国語語彙史研究会編『国語語彙史の研究 二十四』和泉書院、平成17年。
土佐2009. 土佐秀里「ボケる歌、突っこむ歌─万葉歌における応答の機能─」『文芸と批評』第10巻第10号(通巻100号)、文芸と批評の会、2009年11月。
土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。(「弓削皇子遊吉野歌の論─無常の雲と神仙の雲─」『古代研究』第29号、平成8年1月。)
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
山田1943. 山田孝雄『万葉集講義 巻第三』宝文館、昭和18年。(国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1880320

加藤良平 2023.8.23改稿初出

庚辰年の七夕歌(万2033)について

  万葉集巻十の次の七夕歌は、定訓が得られていない。

 あまがは やす川原かはらに 定而神競者磨待無(万2033)〔天漢安川原定而神競者磨待無〕
  此の歌一首はかのえたつの年に作れり。〔此歌一首庚辰年作之〕
  右は、柿本朝臣あそみ人麻呂の歌集に出づ。〔右柿本朝臣人麻呂之歌集出〕

 多くの解説書で二句目までしか訓まれていない。試訓はいろいろと行われている。近年は試訓しない注釈書も多い。「磨」字を「麿」の誤写とする説もある。

 あまがは やす川原かはらの さだまりて こころくらべば ぎ待たなくに(西本願寺本などの旧訓)
 天の川 やす川原かはらの さだまりて こころきほへば ぎて待たなく(中西1980.346頁)
 あまがは やす川原かはらに さだまりて かみきほへば 麻呂まろたなく(阿蘇2009.554頁)
 天の川 やす河原かはらの さだまりて こころきほへば ぎて待たなく(多田2009.117頁)
 天のがは やす川原かはらを さだめてし かみきほはば まろたなくに(土佐2021.55頁)

 歌の事情については左注に記されている。庚辰の年に作られたもので、柿本人麻呂の歌集から出たものであるという。干支が庚辰年に当たるのは天武九年(680)、天平十二年(740)があるが、人麻呂の作歌年代から類推し、また、年号を干支のみで表しているところから天武九年説が妥当であるとする考えが主流となっている(注1)。人麻呂作歌、歌集歌を通じて柿本人麻呂の最初期の歌とされるに至っている。
 筆者はそうは考えない。
 わざわざ干支を記すことで何かを伝えようとしているのではないか。
 また、右は人麻呂の歌集から出たものであると書いてあって、人麻呂の作であるとは書いていないことにも留意しなければならない。
 万葉集巻十がいつ頃編まれたのかについては、巻八、巻九が天平十五年頃までの歌を採っており、巻十が巻八や巻九以前に編纂が始まり終わっていたとは考えにくいから、天平十二年の庚辰の歌を入れることに支障はない。そのとき、人麻呂の歌集はどのように保全されていたのか、確かめることはできない。「柿本朝臣人麻呂之歌集」が紙に書いてあったとすると、紙背を含めて余白があれば、書き込んだり書き足したりする人が出てもおかしくない(注2)。書写されるときもまた同様である。したがって、年代自体を精査することによって「庚辰年」が天武九年か天平十二年かを定めることはできない。何か目的(動機)があってそう書き留めたとするなら、事件として扱われるべきことである。事件性を疑うのであれば天平十二年説は急浮上し、天武九年説は棄て去られるだろう。
 そもそも天武九年に歌人柿本人麻呂は世に知られていなかった。柿本人麻呂と目されている「柿本臣猨」(天武紀十年十二月)が「朝臣」の称号を得るのは天武十三年十一月である。すなわち、「柿本朝臣○○人麻呂之歌集」(注3)は天武九年には存在していなかった。柿本朝臣人麻呂なる人名、称号が人々に知られている時期としては天平十二年のほうがふさわしい。
 何のために干支が書いてあるのか。カノエタツノトシ(庚辰年)を示したいからである。カノ(彼)+エダツ(役)+ノ(助詞)+トシ(年)のことを表したい(注4)。天平十二年十月に、聖武天皇は遷都を目的に大行幸を催している。折しも九州では藤原広嗣の乱があったが、それと関係するのかしないのかわからない行軍を、壬申の乱時の天武天皇の進路をたどりながら約四十日間続け、十二月に恭仁京に到ってそこを都としている。平城京から行くのであれば、まっすぐ進めば奈良山と木津川を越えるだけのこと、ほんの数時間で到着する。やたらと労力を割く形でよくわからない遷都が行われている。新都を建設するのにも多大な労力がいる。人々はエダチ(役)に駆り出されている。
 どうして恭仁京に遷都したのかについては、天皇が「朕縁意」(続紀、天平十二年十月二十六日)と書いてあるだけで理解されていなかった。筆者は、その地が「たぎの宮」として行幸にあずかっていたところであったからと証明した(注5)。フタギとは「ふたぎ」のこと、言い伝えられている神話に神々が参集したところ、安の河原のことを表していると考えられた。すなわち、復古思想に基づいて、古代的思考に絡めとられてヤマトコトバに忠実たらんと遷都したのであった。
 万2033番歌においても「安の川原」と歌われている。天の石屋(石窟)に籠ってしまったアマテラスに出てきてもらうためにはどうしたらいいか、神々は「神集かむつどつどひて」(記上)いる。神々が互いに接近してしまうと取っ組み合いの喧嘩になるから、そうならないように川の下手に築いた堰を塞いでダム湖にし、川沿いの道をところどころ冠水させ分断して行き来できなくし、他所へ逃げ出すこともできなくした。「ふたぎ」のおかげで神々を集めることができて知恵を出し合うことができたのだった。
 万2033番歌にはそのことが詠みこまれている。どうやって川を塞き止めて「ふたぎ」としたか。堰の水門で流れのしもから栓をしたのである。記では伊都之尾いつのを羽張神はばりのかみ天尾羽張神あめのをはばりのかみ)が登場している。男女の交合を教えたセキレイが尾の羽を合わせて丸く作り、水門の穴に栓している。なぜ流れのかみからではなく下手から栓するかと言えば、いざ放流しようとしたとき、上手から嵌めていると水圧がかかって栓を抜こうにも抜けなくなるからである。下手から当てがっていた栓を抜いた実情は紀に記されている。

 また、其の天尾羽張神あめのをはばりのかみは、さかしまに天の安の河の水を上げて、道をふたるが故に、あたし神は行くことじ。(記上)
 五年の夏六月に、人をしていけに伏せ入らしむ。外に流れ出づるを、みつの矛を持ちて、刺し殺すことをたのしびとす。(武烈紀)(注6)

 武烈天皇は栓を抜いて水を放出させ、出てきた人を串刺しにして楽しんでいる。当然、串刺しにする矛はあらかじめ刃先を鋭くしていたであろう。つまり、磨いでいた。

 あまがは やす川原かはらと さだめてし かみきほはば ぎてたなく(万2033)
 中国の伝説を受け入れるに当たり、天の川は天の安の川原だと定められた。織女に逢うためには天の川を渡らなくてはならないが、川幅が広くて渡ることができない。そこで、堰止めている栓を開けて水を抜き、川幅を狭くしようと思う。神々は競い合って我先にと流れ出ていくことになるだろう。樋管から出てくる神を突き刺そうと矛の刃を磨いで待つことなどしない。競い合ってどんどん流れてくれれば、天の川を渡って織女に逢いに行くことができるから。

 七夕の話は伝来したもので、この国に受容されるときに話がアレンジされている。年に一度、七月七日の夜のことである。漢土のように織女が鵲の橋を車で渡って牽牛に逢いに行くのではなく、牽牛が船を漕いで、あるいは徒歩で川を渡って織女に逢いに行くことになっている。そのアレンジの一つに、設定の天の川を天の安の川原と定めようとする傾向があった。天の安の川原は、川原が八洲、八重洲になっていて、入り組んで互いには行き来できない構造となっていた。神々は取っ組み合いの喧嘩をすることができないから円満に話し合い、知恵を出し合うことができ、アマテラスが石屋籠りから出てくる算段を導き出せたのである。そのおかげで世界は再び明るくなっている。それが安の川原の規定である。流れを塞き止めてある。これでは川を渡れないから、栓を抜いて放流してみようと思う。ついては神々にはウォータースライダーを勢いよく滑って行ってほしい。武烈天皇のように悪質ないたずらなどしない。願いは川の水嵩を減らして向こう岸へ渡り、織女に会うことなのだから。
 そして今、折しもかのえたつの年の恭仁京遷都に向けてえだつことが行われている。「ふたぎの宮」だと思われた「たぎの宮」と呼ばれたところへ遷都して新たに恭仁京としようとしている。恭仁くにみやことは国の都の意味である。現在の国家体制の首都というばかりでなく、歴史的、思想的に、開闢したヤマトの国のそもそもの都であるというスローガンのもと遷都している。天の安の川原のあり様が再認識されて人々の心にありありと蘇っている。だからこのような歌が歌われて、人々は理解、納得して聞いたのであった。
 二・三句目は、「……と 定めてし」と訓むのがよいであろう。

 天地あめつちと 別れし時ゆ ひさかたの あまつしるしと さだめてし 天の川原に ……〔天地跡別之時従久方乃天驗常定大王天之河原尓……〕(万2092)

 四句目の「神競者」の「競」字の訓には、キホフ、アラソフが候補である。たくさんの神々、「八十やそがみ」、「八十やそ万神よろづのかみ」は、互いにきそいあう傾向にある。稲羽のがみ比売ひめと結婚しようとして先をあらそって進んでいる。最も遅れをとったのが袋を負わされた大穴牟遅神であった(記上)。古語のアラソフは、強く抵抗して自分の考えをおし通そうとすること、キホフははげしい勢いで先を争うこと、負けまいと張り合うことである。先をあらそうと言うが、それは古語のキホフことそのものである。八十神たちが互いに競争して他に先んじようとすることはキホフことである。当該歌でも我先にと樋管から出て行こうとするに違いないから、「神しきほはば」と訓むものと考える。「きほへば」(競ったので)ではなく「きほはば」(競ったら)なのは、架空の話をくり広げているからである。
 五句目の「待無」については、「無」を形容詞のナシとすると動詞からは続かないから棄却される。助動詞ムとすると字義に合わず控えられたであろう。打消の助動詞「ず」のク語法、ナク、ナクニが候補となる。ここで、土佐2021.は次のように言う。

 同じ助動詞「ぬ(ず)」のク語法でも、「なくに」は文末用法がかなり多い(約百二十例)のに対して、「なく」の場合は、「〜なく思ふ」とか「〜なくも」というように、下に動詞や助動詞が下接する文中用法が中心であって、文末用法はきわめて少ないという違いがある。しかもその少数の文末用法はすべて「~の知らなく」という用法(十三例)のみに極度に偏るという顕著な傾向を示している。つまり、「知らなく」は鞏固な型を有する定型句・定型表現となっており、この用法だけが例外的にナク止めを許容していると考えられる。その定型から外れる「待たなく」は集中の異例となるので、「なくに」に較べると穏当な訓とは言い難い。(36頁)

 そして、「事告無」(万2370)をコトモツゲナク、「公無勝」をキミニアヘナクとする訓を否定的に考えている。
 けれども、「なく」の形は「ず」を含む全体を名詞化するために用いられたク語法である。そこへ「に」が続くと、詠嘆(……しないことだなあ)、逆接(……しないのに)、順接(……しないから)という意味合いになる。「知らなく」は知らないこと、「知らなくに」は知らないことだなあ、知らないことだのに、といった意味合いになる。次の例では「来鳴かなく」まででいったん区切るための用法である。来て鳴くことはない。そのことは、……と続いている。

 此間ここにして がひに見ゆる わが背子せこが かきの谷に 明けされば はりのさ枝に 夕されば 藤の繁みに はろはろに 鳴く霍公鳥ほととぎす わが屋戸やどの うゑたちばな 花に散る 時をまだしみ 鳴かなく〔伎奈加奈久〕 そこはうらみず しかれども 谷かたきて いへせる 君が聞きつつ 告げなくもし(万4207)

 さらに正確を期するには、次の例がわかりやすい。

 うつつには うべも逢はなく いめにさへ 何しか人の ことしげけむ(万2848或本)

 現実には尤もなことに逢うことはない、それに加えて夢でさえ、どうして不条理にも人の噂がうるさいのだろう、の意である。「現には うべも逢はなく」と「夢にさへ 何しか人の 言の繁けむ」とは次元の違う話である。その次元の違いを示すために、ク語法を使って句切れを作っている。名詞化しているのだから体言止めと同じ効果がある。
 「……の知らなく」という形で文末に用いられているのは、「知る」が自動詞、わかる、の義で、理解の範疇外であること、ワカンナイと投げ出していることを表すからであろう。「……なく」の形で強烈な否定を表して名詞化している場合には、「に」と続けて余韻をもって詠嘆、逆接、順接へと結びつけることなどできないところがあるのを物語っていよう。
 当該万2033番歌でも、余韻をもって続けるべきかどうかという意味合いによって、「待たなく」と訓むか、「待たなくに」と訓むかは判断されるべきである。
 神様を串刺しにしようと刃を磨いで待っていることなど、初めから想定の範囲外である。強烈な否定を表すには、「に」と続けることなく「待たなく」と切れていることがふさわしい。
 以上、難訓とされてきた万2033番歌の訓みを呈示した。上のように訓んで正しいことは、それが「庚辰年」、彼の役の年のこと、恭仁京遷都のことと深くかかわっていることに証明される。「たぎの宮」=「ふたぎの宮」、つまり、天の安の川原を作るのに川を堰き止め栓をしていたことに負っている。恭仁京遷都の年だからこそ人々の関心が高まっていて、七夕歌にも観念を膨らませることができた。難訓を解く鍵として左注があり、左注の意味を解く鍵として歌がある。その点は特に難訓歌でなくても同じことである。題詞と歌とが密接な関係にあって、設定された枠組みのもとで歌が歌われている。歌は発語をもってなされたのだから、誰々がいついつに曰く、「……」の体で記されることで、はじめて納得されるものである。ただ歌だけを抜き出して感傷に耽っているのは論外であるし、どうしてその歌が題詞によって拘束されてあるのか説明がつかない場合は真の理解に至っていないことになる。

(注)
(注1)粂川1966.はインパクトの大きな論文で、天武九年説を優勢にした。けれども、万葉集の「左注」の筆を疑うことなくに受け取ったもので浅慮のそしりを免れ得ない。そもそも万葉集中に干支年だけで記した例は、粂川氏もあげているように、万7番歌の左注、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年○○○幸比良宮大御歌、但紀曰、五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯、三月戊寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉、庚辰日天皇幸近江之平浦」と、万4260番歌の題詞、「壬申年○○○之乱平定以後歌二首」に限られている。例外的な書き方がされるのは七世紀だからといい、また、墓誌銘の書き方とあわせて、万2033番歌の左注も七世紀のものであろうというが、何の証明にもなっていない。万4240番歌の題詞は壬申の乱のことを示したいから「壬申年(之乱)」と書いてある。壬申の乱を天武元年の乱とは言わない。万4260・4261番歌の「壬申年之乱平定以後歌二首」は「大君は神にしませば」を歌う歌であり、一首目は壬申の乱時の大将軍が作者であることが要件の歌である。拙稿「「大君は神にしませば」歌(万4260・4261)の語用論的解釈」参照。そう記さなければわからないから必然的にそう記しているのであって、単に紀年の方法としてそうしているわけではない。
 本稿で考えるような頓智的な干支の記し方の例としては、天寿国繍帳の銘文にある「癸酉」がある。拙稿「天寿国繍帳の銘文を内部から読む」参照。
(注2)柿本人麻呂歌集がどのようなものなのか、記されている歌から歌の性格は推測することはできるが、実態がどのようなものであったかは証明しようのないことである。万葉集を編纂した人が、世相を諷喩するような問題作の出所を紛らせるためにそう書いたとしても何の不思議もない。歌の内容によって、秘密警察に知られたらまずいという気持ちがあったとしたら、ごまかすのに好都合なのが柿本人麻呂歌集であった。そこにたくさんの歌が記されていて、たまに三方沙弥(万2315)、石川君子(万2742)といった作者名が伝えられる程度だから差し込んでもわからない。後は歌と左注をよく読んでご理解くださいと留め置かれたと筆者は推測する。
(注3)人麻呂歌集について、後藤1961.は次の歌を例としてあげて述べている。

  忍壁皇子に献る歌一首〈仙人やまひとかたを詠めり〉
 とこしへに 夏冬けや かはごろも あふぎはなたぬ 山に住む人(万1682)

「人麻呂集の歌であるが、慶雲二年(七〇五)に薨去された忍壁皇子に奉った歌であるから、奈良京(七一〇~)に入る前の作であることはあきらかである。このような神仙思想にもとづく歌が奈良京以前にも存在するのであるから、よりポピュラーな神仙思想的題材たる七夕伝説が歌の素材にならなかったなどとは考えられないのである。」(130~131頁)。万1862番歌は、神仙思想に基づいたものではなく、山に住むコウモリの死骸を見つけて「仙人やまひとかた」と呼び、年中、裘にも扇にも使えるものだと詠んだ歌である。拙稿「万1682番歌の「仙人」=コウモリ説」参照。
 七夕歌がいつ頃から定着していたかについては、山上憶良が広めたのをメルクマールとする説があるもののここでは深入りしない。すべての歌を解し尽くした後に考えればよいことであり、その時には自ずと整理できている。歌の解釈がままならないのに議論しても憶測ばかりで建設的ではない。
(注4)カノ(彼・他)は、遠称の指示代名詞カが格助詞ノを伴った連体詞である。用例は少ない。近世には、直接言うのを憚って遠回しに言うときに用いられている。
(注5)拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」参照。
(注6)「みつの矛」はフォーク状の矛のことかとされるが、水に関係する場所だから「罔象みつはの」(紀)、「弥都波能みつはの売神めのかみ」(記)と合致させているのであろう。「次小便。化‐為神。名曰罔象女。」(神代紀第五段一書第四)、「次於尿成神名、弥都波能売神」(記上)とある。

(引用・参考文献)
阿蘇2009. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第5巻』笠間書房、2009年。
伊藤1975. 伊藤博『万葉集の表現と方法 上』塙書房、昭和50年。
稲岡1976. 稲岡耕二『萬葉表記論』塙書房、昭和51年。
大久保1980. 大久保正『万葉集の諸相』明治書院、昭和55年。
粂川1966. 粂川定一「人麿歌集庚辰年考」『国語国文』第35巻第10号、1966年10月。
後藤1961. 後藤利雄『人麿の歌集とその成立』至文堂、昭和36年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
土佐2021. 土佐秀里「人麻呂歌集「庚辰年七夕歌」訓釈考」『古代中世文学論考』第45集、新典社、令和3年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注・原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。

加藤良平2023.8.4 初出

万葉集における「心」に「乗る」表現について

 万葉集において、「心」に「乗る」という表現が見られる。「心に乗りて」、「乗りにし心」、「いもは心に乗りにけるかも」の三つの形がある。


「心に乗りて」
 ももしきの 大宮人は 多かれど こころに乗りて おもほゆるいも(万691)
 赤駒あかごまを うまやに立て 黒駒くろこまを 厩に立てて それを飼ひ が行くがごと 思ひ妻 心に乗りて 高山の みねのたをりに 射目いめ立てて 鹿猪しし待つが如 床敷きて 吾が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
 まかなしみ ればことに出 さなへば 心のろに 乗りてしも(万3466)
 白雲の 絶えにし妹を あぜせろと 心に乗りて ここばかなしけ(万3517)
「乗りにし心」
 楽浪ささなみの 志賀津しがつの浦の ふなりに 乗りにし心 常忘らえず(万1398)
 百伝ももづたふ 八十やそしまを 漕ぐ船に 乗りにし心 忘れかねつも(万1399)
「妹は心に乗りにけるかも」
 あづまひとの さきはこの にも 妹は心に 乗りにけるかも〈禅師〉(万100)
 春されば しだり柳の とををにも 妹は心に 乗りにけるかも (万1896)
 宇治うぢがはの 瀬々せせのしき波 しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも (万2427)
 大船に あし刈り積み しみみにも 妹は心に 乗りにけるかも (万2748)
 駅路はゆまぢに 引舟ひきふね渡し 直乗ただのりに 妹は心に 乗りにけるかも (万2749)
 いさりする 海人あまかぢ ゆくらかに 妹は心に 乗りにけるかも (万3174)

 「乗る」という語について、今日までの語義解釈には一貫性を欠いたところがある。森田1989.は、「のる〔乗る 載る〕自動詞 ある事物(A)が他のもの(B)の上に位置し、Bに身をあずける。」(915頁)とする。それがノルという語の原初的形態であろう。船や馬に乗って、船や馬に身を任せることである。以下の例に不審となるところはない。

 潮騒しほさゐに 伊良虞いらごしま 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒きしまを(万42)
 しほやま うち越えけば 我が乗れる 馬そつまづく 家恋ふらしも(万365)
 おみの くしに乗れる 鏡なす ……(万509)
 御食みけつ国 志摩の海人ならし くまの ぶねに乗りて おき漕ぐ見ゆ(万1033)
 ありがよふ 難波の宮は 海近み 海人あま童女をとめらが 乗れる船見ゆ(万1063)
 君に恋ひ ねぬあさに が乗れる 馬の足音あのとそ われに聞かする(万2654)
 おのれゆゑ らえてれば 𩣭あをうまの 面高おもたか夫駄ぶたに 乗りてべしや(万3098)
 …… ぬばたまの くろに乗りて 川の瀬を 七瀬渡りて ……(万3303)
 大船に 妹乗るものに あらませば 羽ぐくみ持ちて かましものを(万3579)
 …… 海人の少女をとめは ぶね乗り つららに浮けり ……(万3627)
 虎に乗り ふるを越えて 青淵あをぶちに 鮫龍みづち取りむ 剣大つるぎたもが(万3833)
 夏の夜は 道たづたづし 船に乗り 川の瀬ごとに さをさしのぼれ(万4062)

 ところが、「心」に「乗る」意については、すぐさま転義が起こったように解釈されている。白川1995.に、「舟や車、馬などに乗る。旅行や出行のときに用いるものを乗物という。自分を乗せたものの動きにすべてをまかせる。心に乗り移る状態についてもいう。〔万葉〕にこの意の用法が多い。」(602頁)とする(注1)。「心」に「乗る」という比喩的表現を得るに当たり、憑依するとか、心にのしかかって来て困るという意に転じていると解している。しかし、言葉の精神史的視座からすると、上代に安易な転義が生じたとは考えにくい。乗っている人と乗物との関係が意味的に逆転し、主客がひっくり返ってしまうからである。任せて頼りきる対象が船や馬である。「心」もその延長線上に対象としてあると認識していたと考えられる。「道(路)に乗る」という言い方もあり、それは道なりに進むという意味である。

 海原うなはらの みちに乗りてや が恋ひらむ 大船の ゆたにあるらむ 人のゆゑに(万2367)

 道に任せて進んでいる。船や馬に乗る人が乗り物に身を任せるのと同じである。よって、「心」に「乗る」場合だけ、乗物に当たる「心」のほうが乗り主の意向に従わされるという感触はあり得ない。船なら底板一枚下は海であり、いつ抜けて溺れるかもしれず、風向きにより思いも寄らない方向へ進むこともあるであろう。馬ならいつ暴れ出すか知れず、そのとき振り飛ばされても仕方なく、また、道草を食われてちっとも進まないこともあるかもしれない。それでもそんな船や馬に身をゆだねてみている。それがノル(乗)である。今日でも誘いに乗る、話に乗る、景気の波に乗る、などと使われている。万葉集の「乗る」の例は、すべて任せゆだねる意を含むと定めて解釈し直す必要がある。結果的に、「心に乗る」では「心」が船や馬同様、動きの主体としてたち現れなければならない。
 実際の万葉集の例で検証していく。「心に乗りて」については、心に乗りかかって離れず、見方を変えれば、相手が心を占領していることと解釈されることが多い(注2)。そのように転義を安易に認めなくても、本義をもって理解されるのではないか。用字をそろえて再掲する。

 ももしきの 大宮人は 多かれど 心に乗りて 思ほゆるいも(万691)
 赤駒あかごまを うまやに立て 黒駒くろこまを 厩に立てて それを飼ひ が行くがごと 思ひ妻 心に乗りて 高山の みねのたをりに 射目いめ立てて 鹿猪しし待つが如 床敷きて 吾が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
 まかなしみ ればことに出 さなへば 心のろに 乗りて愛しも(万3466)
 白雲の 絶えにし妹を あぜせろと 心に乗りて ここばかなしけ(万3517)

 万691番歌は、題詞に、「大伴宿禰家持、娘子に贈る歌二首」とある。「ももしきの大宮人は多かれど思ほゆる君」は「娘子」一人だけであるというところが歌の眼目である。たくさんいる宮廷女性のなかで自然と思い出されるのは彼女だけである、と自らの心を内省した状況を言葉にし、家持はその気持ちを「娘子」に送信している。その際、「心に乗りて」という修辞を挿入している。自分の心を船に譬えてみて、自分の心が身を任せてかまわないとした人は「妹」ただ一人であったと歌っている。内省を表明すること自体、とてもナイーブな感情表現でありつつ、少しでも我のある女性であれば家持に全面的には心をゆだねることはなく、自己主張することがあるものだが、「娘子」にはそういうところが(本当はあったかもしれないが家持には)見えなかった。大宮人には選ばれたきれいな人や賢い人が多いけれど、変なプライドを持たずに自分のことを100パーセント頼ってくる「妹」のことが忘れられないと言っている。だからこそ自然と思い出されてくるのである。
 恋愛は男女二人の関係で成り立っている。自分が好きな相手のことを追い求めるのも一つのあり方だが、相手から好かれて自分のことを大事にしてくれる場合、それは自分の好み、顔がタイプであるとか、一緒にいたら他人に自慢できるとか、情熱的な恋であるといったこととは別問題で、その人との関係を永続的なものにすると穏やかな気持ちが得られるものである。それこそ心の問題だから、「心に乗りて」という表現は正鵠を射たものであると言える。
 万3278番歌は、赤駒黒駒を厩で大切に育てて馴れさせて主人の言うことをよく聞くように飼っており、乗馬した時、人馬一体となって進むことができるほどである。恋人が私の心に乗って身を任せていて、まことに相思相愛の関係にある。そして、射目を設けてシカやイノシシを待つように床を敷いて来訪を待っているのだから、番犬よ今日はいいから吠えるなよと歌っている。この歌には反歌が付くが、同じように番犬的な存在に言い聞かせている。

 葦垣あしかきの すゑ掻きけて 君越ゆと 人にな告げそ 事はたな知れ(万3279)

 これらの歌は、相手を脅かすなと自戒を込めて言っているものなのかもしれない。
 万3466歌は、共寝をすると人の噂が立って精神的に疲れる。かといって会わないで一人寝をすると、相手は私の心をつなぎとめているもやい綱を伝って乗ってくるように始終思われて疲れる、と言っている。「心の緒」という言い方は、万葉集の題詞のうちに「正述心緒」といったものが見られるから、その「心緒」の訓読語かとする説もある。ただし、万3466番歌に題詞はなく、他に例も見られないので、上のように独特な言い回しであると考えた方がよい。乗物にまつわる「緒」といえば、船の舫綱や駒つなぎの綱があげられる。綱渡りをしてこちらの心へ乗りこんでくると言っている。
 万3517番歌は、別れてしまった元カノが、何故いつまでも自分の心に乗っていて身を任された気でいなければならないのか、自分の気持ちの動揺ぶりを思って歌っている。誰も乗っていないはずの船や馬であるはずなのに、いまだに自分の心に乗っていて、どこかへ行こうとするかのような誤った感覚が湧いてきて悲しいと言っている。
 これらが、「心に乗る」の意である。「乗る」の原義にある、乗った乗物(船や馬など)に身を任せる意を含んで解釈して意を尽くすことができている。四首すべて、自分の「心」という乗物に相手が乗ってくることを、被乗者の側から歌い、乗られた心を乗られた本人が顧みる形をとっている(注3)。とてもナイーブな感情表現である。心に乗り遷る、心にのしかかって離れない、といった転義として扱うことは、微妙な表現を失わせる誤訳であり、そのような大雑把な把握は少なくとも万葉時代には行われていないと考える。
 次に「乗りにし心」について検証する。

 楽浪ささなみの 志賀津しがつの浦の ふなりに 乗りにし心 常忘らえず(万1398)
 百伝ももづたふ 八十やそしまを 漕ぐ船に 乗りにし心 忘れかねつも(万1399)

 「乗りにし心」という表現は「船」と絡めた比喩表現で、として行われている。「寄船」の歌である。いずれも三句目までは序詞である。ところが、現行の注釈書では、万1398番歌は、さざなみの志賀の津の浦で船に乗った、そのようにあの人が乗った心は忘れられない、万1399番歌は、ももしきのたくさんの島々をめぐり漕ぐ船に乗るように、あの人の乗った私の心を忘れることができない、などと訳されることが多い。さらには自分の気持ちに乗った恋人のことが忘れられないとまで解されている(注4)。しかし、これらの歌の眼目は、「乗りにし心常忘らえず」、「乗りにし心忘れかねつも」である。忘れられないの目的語は「心」である。「乗りにし心」とは、「乗り」(動詞「乗る」の連用形)+「に」(完了の助動詞「ぬ」の連用形)+「し」(過去の助動詞「き」の連体形)+「心」(名詞)である。過ぎ去り終わっている自分の心のことが忘れられないと言っている。それは、恋人と一心同体になったときの心のことを指している。蜜月の時の甘く高揚した思いを忘れられないと歌っているのである。乗物として自分の心があり、そこへいとしい相手が確かに乗ってきていた。今となっては取り戻すことはできない自分の「心」である。自分の「心」なのだから継続しているはずなのに継続していない。恋の相手は別の「心」に乗り換えたのである。その喪失感を歌い込もうとして使われている修辞法である(注5)
 その点は、「妹は心に乗りにけるかも」という常套句にも通じる。妹は私の心に乗り、私の心に身を任せてしまったのかもしれない、と、自らの心を船のような乗物に譬えながら対象化して語る語り口である。「乗りにし心」は時間的な相対性があったから対象化して可とされたが、「乗りにけるかも」は、逆に対象化するために、最後にカモという終助詞と目されている詠嘆表現が付けられている。

 あづまひとの さきはこの にも 妹は心に 乗りにけるかも(万100)
 春されば しだり柳の とををにも 妹は心に 乗りにけるかも (万1896)
 宇治うぢがはの 瀬々せせのしき波 しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも (万2427)
 大船に あし刈苅り積み しみみにも 妹は心に 乗りにけるかも (万2748)
 駅路はゆまぢに 引船ひきふね渡し 直乗ただのりに 妹は心に 乗りにけるかも (万2749)
 いさりする 海人あまかぢ ゆくらかに 妹は心に 乗りにけるかも (万3174)

朸に緒で括る(福富草紙、15世紀、クリーブランド博物館https://scrolls.uchicago.edu/view-scroll/138をトリミング)

 万100番歌は、東の人が都まで遠路はるばる荷物を運ぶ、そのためには棄損しないように箱に入れて運ぶのだが、そのとき、担い棒の先につけた荷の箱をとめる紐がぐるぐるに回し渡されるように、ちょっとやそっとでは外れないように彼女は私の心に乗って身を任せてしまったことだなあ、と歌っている。何重にも「」をかけ渡しているということは、何度彼女に自分みたいなものでいいのかと問うても「」と答えてくる、そういう状況であることを表している(注6)。万1896番歌は、春になるとしだれて芽吹く柳の枝のたわむように、彼女は私の心に乗って身を任せ、ブランコ状態でいることよ、と歌っている。体格のいい男性と小柄な女性がくり広げる夜のスポーツを思い起こさせる。「とをを」とあって、ここでも「」の声が聞こえている。万2427番歌は、宇治川の瀬ごとに折り重なってどんどん寄せてくる波のように、絶えることなく彼女は私の心に身を任せ及んだことだなあ、と歌っている。声をあげて歌われた歌なのだから、「瀬々せせ」のしき波とは、「背々せせ」のしき波、すなわち、「諾諾せせ」とくり返し同意してくる女性の声を喩えている。万2748番歌は、大きな船に刈った葦を積み、ぎっしりと隙間がなくなるほどである。それほどまでに、彼女は私の心にすべて頼り切って乗ったことだなあ、と歌っている。葦は茅葺き家屋の屋根や家の周りにめぐらす垣根の材料だから、二人の新居を構える気でいっぱいだということである。万2749番歌は、駅制で駅に来るまでは馬に乗り、次の駅からはまた馬に乗るが、その間に遮っている川を、引船を渡して船の乗って乗物に乗りっぱなしである、それほどに彼女は私の心に頼り切ってずっと乗ってしまっていることだなあ、と歌っている。万3174番歌は、漁をする海人の船檝の音がゆっくりではあるが着実にリズムを刻んで響き続くように、彼女は私の心に着々と任せきって乗ったことだなあ、と歌っている。形容は序詞で完結していて、船檝の音と乗ることとは直接にはつながらないとする考え(注7)もあるが、メトロノームのように響く音を肌身近くに感じたことはないだろうか。相手の心臓の鼓動音である。とても官能的な隠喩のもとに「心に乗る」という表現が駆使されるに至っている。
 以上のように解釈することが、「乗る」という原義を捉えていて正しいと考える。彼女が私の心を占めた→私の心は彼女で夢中、という意味ではない。あくまでも、彼女の方が任せきるように全面的な信頼感をもって依存してきている。「妹」とあるからすべて男性が詠んだ歌である。女性の依頼心を見て取ることが可能であるが、ならば逆に、男性が母性的な女性に対して「心に乗りにけるかも」と言ったことがあるかといえば、万葉集には登場していない。一般的な傾向として、体格的に大きな男性に対して小さな女性が「乗る」と表現されることはあっても、その反対は歌の詞として不釣り合いに感じられる。そんな場合、「心は妹に寄りにけるかも」という表現が行われている(注8)

 秋の野の ばなうれの なびき 心は妹に 寄りにけるかも(万2242)
 明日香川 瀬々せぜたまの うち靡き こころには妹に りにけるかも(万3267)

 これらの歌中の「心」は作者の男性の心である。
 以上、「心」に「乗る」といった場合の「乗る」の解釈の誤謬を正した。

(注)
(注1)白川1995.はまた、「国語の「のる」は、あるものにとりついて、それとともに移動し、その力を利用する意がある。「乗ずる」という語義に近い。」(同頁)と指摘している。この指摘は正しいのだから、すべての「乗る」例に適用できないか思慮を深める必要があった。古典基礎語辞典にも、「直接に物の上に位置をとり、身を預ける意。馬・車・船などの上または中に身を置いて、その動きに身をまかせること。また、その上にいて下の物を操る場合にもいう。「心に乗る」は、相手がいつも自分の心の上にいて、自分の心の動きを操ること、つまり自分が強く相手にひかれてとらわれている状態をいう。また、……」(957頁、この項、依田瑞穂)としていて、語釈にまとまりがない。
(注2)多田2009b.に、「「心に乗る」は、相手のことで心が満たされてしまった状態の形容。」(371頁)、稲岡2006.に、「心に乗りかかって離れないことを言うのであろう。」(397頁)、水島1986.に、「深く心にかかって。相手のことが自分の心から離れないのである。」(325頁)、古典大系本aに、「心にかかって。」(297頁)、古典大系本cに、「心を占めて。心を占領して。」(364頁)、新大系文庫本に、「「心に乗る」は、自分の心を完全に占めてしまう意。」(409頁)、新編全集本bに、「思ひ妻心に乗りて─愛する妻のことが自分の心に乗りかかって念頭から離れないことをいう。」(416頁)、古典集成本aに、「心にしっかりと食い込んで。」(327頁)、木下1983.に、「心ニ乗ルは、まるで相手が自分の心に覆いかぶさったように思われ、他事を顧みる余裕がないばかりであることをいう。」(322頁)、伊藤1996a.に、「心にしっかりと食いこんで。「心に乗る」は相手が心に乗っかって自分を独占してしまうことをいう。」(611頁)、伊藤1997.に、「「心に乗る」は心に乗っかって全体を支配する、の意。男が女の心についていう例に限られる。」(135頁)、阿蘇2006.に、「心に乗りて 思ほゆる 恋する相手のことで自分の心がいっぱいになる意。」(707頁)などとある。
(注3)万3278番歌は、前半の馬を飼って馬に乗って行くといった部分は男の歌と思しく、後半の床を敷いて待つのは女の歌と思しい。その点について議論があるが、ここではひとまず、「心に乗りて」は、女である「思ひ妻」が男の「心に乗」るものと解する。
(注4)万1398番歌は、実のところ今日の注釈書に理解が定まっていない。「乗りにし心」について諸書の指摘は次のとおりである。稲岡2002.に、「舟に乗って漕ぎ出した時のこころ。……新婚当初の気持ちを忘れぬ男の歌。」(267頁)、渡瀬1985.に、「船に乗って漕ぎに漕いだその折の良い心持。女と結ばれた時の気持の意を寓する。」(372頁)、多田2009a.に、「「乗る」は、こちらの意志とは無関係に、対象がおのずとこちらの心にいてしまう意。」(166頁)、古典大系本bに、「相手にひかれていつも気にかかっている心持。」(264頁)、新編全集本aに、「自分を信頼し任せきった彼女の心。」(273頁)、伊藤1996b.に、「いとしい女が荷物として乗りこんでしまって重荷となった心の状態。」(400頁)、古典集成本bに、「自分の心にしっかりと食い込んでしまって、忘れられない状態をいう。」(273頁)、阿蘇2008.に、「相手に引かれれていつも気にかかっている心持ち。相手が乗りかかったように、自分の心にしっかりと食込んでしまって、忘れられない状態をいう。」(391頁)とある。
(注5)鈴木1990.に、「自然物象が歌中にひきよせられたとき、それはもはや単なる外在的な自然なのではなく、心象的自然にほかならない。外界の素材に向かう精神の働きかけが、さらに内面において統一的に再構成される。かくしてこの対応構造は、イマジネーションというきわめて内面的な作用を意味する。結局、和歌におけるこの表現構造とは、イマジネーションに対して節度ある論理的な統制を加えていることになる。そして、外界の物象への独自な認識把提から、その物象は単なる現実とはむしろ対立的であり、そこに和歌は表現上一種の虚構の機構をもつことになる。」(74頁)とある。筆者には、その意味するところが十分に理解できない。自然科学者が言いそうな外在的な自然なるものが自然の観念として古代に存在したのであろうか。逆にまた、ひとりよがりのイマジネーションを繰り広げて精神異常者扱いされずに他の人と認識を共有できるものなのか。言葉とは何か、に思いを致せば、至極当たり前のことを理屈づけているにすぎない物言いである。「虚構の機構」でない和歌があるとすれば、単に凡作にすぎないのではないか。
(注6)大浦2008.に、「一〇〇番歌の「荷の緒」は荷前の荷を結い付ける緒であり、物象叙述に包摂されるようでありながら、「荷の緒にも」はその裏側の「しっかりと」の意を含み持って「乗りにけるかも」に係る修飾語として働き、物象部と心象部が解け合っているかのような様相を呈している。」(34頁)とする。そのように解釈した場合、ニモのモの文法的扱いはどのようなものなのか、筆者にはよくわからない。また、物象から心象への転換を可能ならしめている「共通認識」として祈年祭や春日祭の祝詞に見える諸国からの貢物の上進があったとし、「「荷前の箱の荷の緒」という物象も祈年祭の祝詞のような詞章を背負った物象と考えられるのであり、その場合「荷の緒にも」への転換の契機は「荷前」という物象そのものの持つ指標性の中に、既に存在していることになる。」(38頁)としている。
 「荷の緒ひ堅めて」(延喜式・祝詞・祈年祭)という詞章は、それほど人口に膾炙したものだったろうか。集中にこの一首しか見られない点は不可解に映る。このような飛躍のある表現についての説明として不足を感じる。筆者はその祝詞が成立する基盤として、令制の荷前の制、調を山陵に供献するしきたりがあったものと考える。また、共通認識としては、万96~100番歌の歌群を通じた事柄として、別の事項を含めなければ真の理解に至らないと考える。拙稿「久米禅師と石川郎女の問答歌─万96~100番歌─について」参照。
(注7)北住1953.。
(注8)影山2017.に、「妹が心に乗りにけるかも」と「心は妹によりにけるかも」とを比較し、前者に豊かな表現力を見て取っている。そこに、「「乗る」動作と親和する事物の選択が多様にあったことが汎用を促進したものと解される」(300頁)とするが、表現を生成論から見る場合、船や馬に「乗る」ことが先にあり、その比喩として「心」に「乗る」と言っているのであって、それを反転させて何かを論じようとするのは倒錯に陥っていないだろうか。また、「「乗る」の意義を「ある物体の上方もしくは表面に別の物体(人)が移動する」と言い換えることが許されるならば、他者からも視覚的に認知可能な状態がこの動詞の示すところなので、内省的な「よる」との差異は鮮明になる。」(同頁)とするが、「乗る」の意義は、森田1989.の定義、「のる〔乗る 載る〕自動詞 ある事物(A)が他のもの(B)の上に位置し、Bに身をあずける。」のとおりであり、言い換えることは許されない。身をあずけるという点が、「乗る」の原義に深く根付いていることを弁えなければならない。表現方法の検討には、「心」に「乗る」という表現にひそむ内省性に着眼し、自分の心を対象化する表現方法である点にこそ脚光を当てるべきである。

(引用文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第1巻』笠間書院、2006年。
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伊藤1996a. 伊藤博『萬葉集釋注二』集英社、1996年。
伊藤1996b. 伊藤博『萬葉集釋注四』集英社、1996年。
伊藤1997. 伊藤博『萬葉集釋注七』集英社、1997年。
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集二』明治書院、平成14年。
稲岡2006. 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集三』明治書院、平成18年。
大浦2008. 大浦誠士『万葉集の様式と表現─伝達可能な造形としての〈心〉─』笠間書院、平成20年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
影山2017. 影山尚之『歌のおこない─万葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。
北住1953. 北住敏夫「『萬葉集』における心情表現の特性─「心に乗る」「乗りにし心」といふいひ方について─」『萬葉』第7号、昭和28年4月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1953
木下1983. 木下正俊『萬葉集全注 巻第四』有斐閣、昭和58年。
古典集成本a 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集一』新潮社、昭和51年。
古典集成本b 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集二』新潮社、昭和53年。
古典大系本a 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集1』岩波書店、昭和32年。
古典大系本b 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集2』岩波書店、昭和34年。
古典大系本c 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系6 萬葉集3』岩波書店、昭和35年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本a 小島憲之・木下正俊・東野治之校注訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集2』小学館、1995年。
新編全集本b 小島憲之・木下正俊・東野治之校注訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集3』小学館、1995年。
鈴木1990. 鈴木日出男『古代和歌史論』東京大学出版会、平成2年。
多田2009a. 多田一臣『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
多田2009b. 多田一臣『万葉集全解5』筑摩書房、2009年。
水島1986. 水島義治『萬葉集全注 巻第十四』有斐閣、昭和61年。
森田1989. 森田良行『基礎日本語辞典』角川書店、1989年。
渡瀬1985. 渡瀬昌忠『萬葉集全注 巻七』有斐閣、昭和60年。

加藤良平 2023年8月9日改稿初出

恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─

恭仁京遷都

 天平十二年(740)十月二十六日の東国巡行出発から十七年(745)五月十一日の平城京還都まで、恭仁宮、難波宮、紫香楽宮を渡り遷った五年間は「彷徨五年」と呼ばれている。聖武天皇が何を意図して転々としていたのか、理解されるに至っていない。本稿では、天皇が平城京から旅立つにあたり、「朕縁意」と語った「所意」が何であったか、万葉集に詠まれた恭仁(久邇)京讃歌から解読する。それらの歌が歌として持つ抒情的側面により、天皇の「所意」を代弁していると考えるからである。
 恭仁宮遷都については、橘諸兄の相楽別業が近くにあり、その勢力圏へ誘導したのだとする説があり、聖武天皇の個人的な思いや藤原広嗣の乱による影響といった問題に帰して検討する向きが強い。ほかに、隋唐の複都制に倣って行われたとする説(注1)や、紫香楽の大仏建立の足がかりのためとする説(注2)、畿内豪族の都市集住や元正上皇からの政治的独立を目指したものではないかとする考え(注3)も呈されている。恭仁京、恭仁宮については、もう一つの課題として、その京域、宮域の解明が待たれ、考古学や歴史地理学のテーマに挙げられている。中国を範とした都城制の形に当てはまりにくいためもあって、発掘調査は芳しいとは言えない状況にある(注4)。いずれにせよ、聖武天皇の「所意」の解明がなければ、恭仁京遷都とは何であったかはわからない。

○関東行幸
 己卯(二十六日)に、だいしやうぐん大野おほのの朝臣あそみあづまひとらにみことのりしてのたまはく、「われおもふる所有るに縁りて、今月このつきの末、しまら関東せきのひむかしかむ。其の時に非ずと雖も、事むこと能はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず」とのたまふ。壬午(二十九日)、伊勢国に行幸みゆきしたまふ。(続紀・天平十二年(740)十月)

 藤原広嗣の乱が九州で起こっているけれど、思うところに従って関東へ赴くが、乱の平定に当たっている将軍は惑わされないでこれまでどおり任務を遂行してもらいたい、と言い残して旅立っている。従駕している官人は、藤原広嗣の乱と関係して「伊勢国」へと行幸しているかと思ってしまったらしい。万葉集の大伴家持の歌の題詞に記されている(注5)。後の行程を辿れば、内乱に当たって伊賀から美濃へ行ってその後還った、壬申の乱の時の天武天皇の真似をしていると知れる(注6)。敵がいるところは、近江朝の豪族たちがいた近江とではずいぶん違うが、聖武天皇の頭のなかで同等のことをしているという認識があったからそうしているのだろうと思われる。

○恭仁京の造営
 戊午(六日)に、不破ふはよりちて坂田さかたのこほりかはに至りてとどまり宿る。是の日、大臣だいじんたちばなの宿禰すくねもろ在前さきち、やましろのくにさが楽郡らかのこほり仁郷にのさとを経略す。遷都に擬するを以ての故なり。(天平十二年(740)十二月)

 橘諸兄は自身の別業を拠点にして恭仁宮を整備し始めていたようである。「以遷都故也」という一文は、橘諸兄が恭仁郷を「経略」することについての説明である。「経略」という語は営み治めること、整備することと捉えられている(注7)。しかし、後文に「始作京都矣」とあるのと齟齬を来してしまう。「経略」は攻略すること、戦い奪って自国の領土とすることの意であろう。そこへ都を遷すことにしたとすれば、いかにも遷都したことにあたるからそうしたという意である。恭仁宮は平城宮と山一つ越えた至近距離にある。それまでも甕原みかのはら離宮は営まれていて、平城遷都後の和銅六年に元明天皇が行幸して以来、元正天皇、聖武天皇も何度か訪れている。離宮へ骨休めに行っていたのを、その離宮を都にするということになれば人々に示しがつかない、ないしは、人々は察しがつかないから、格好をつけるために橘諸兄に先に行かせて征服したように見せかけている。壬申の乱に擬して、平城宮から一山越えて即日に恭仁宮へ行ったのではなく、はるばる関東を経由する長旅を経て辿り着いている。

○「大養徳恭仁大宮」命名
 十一月戊辰(二十一日)に、右大臣橘宿禰諸兄まをさく、「此間ここ朝廷みかどいかなる名号を以てか万代よろづよに伝へむ」とまをす。天皇、みことのりしてのたまはく、「なづけて大養徳やまとの仁大宮にのおほみやとす」とのたまふ。(天平十三年(741)十一月)

 「大養徳やまとの仁大宮にのおほみや」は、すでに発せられていた改字令の、「大倭国やまとのくにを改めて、大養徳やまとのくにとす。」(天平九年(737)十二月二十七日)に則りつつ名づけている。本来、山城(山背)国に属するから、ヤマト(大養徳国)は唐や新羅と同列の国名、日本のことを指すとも考えられているが、続日本紀の用例として「大養徳・伊賀・伊勢・美濃・近江・山背等国」(天平十三年九月)などとあり、地方行政単位に使われている。「大養徳やまと」と書き記したのには、天平七年・九年の疫病流行や飢饉などは天子に責があると考え、大いに徳を養って天の望みに応えるべきであると思って改字したとされている。しかし、だからと言って、「大養徳やまとの仁大宮にのおほみや」と号したことでどうしてそれが後世に確かに伝わる名となるのか、その肝要はわからない。おそらく、聖武天皇の「所意」と密接に関連する事柄なのだろう。

「久邇宮讃歌」

 正史たる続日本紀の記事だけからではその意の心まではわからないので、人の心を言葉にしたであろう万葉集を検討することで裏付けを取りたい。「久邇京讃歌」と呼ばれる歌は、大伴家持の一首(万1037)、田辺たなべのさき麻呂まろの九首(万1050~1058)、さかひ部老べのおゆ麻呂まろの二首(万3907~3908)の計十二首ある。題詞や左注から制作年代を測れば、境部老麻呂の歌が大伴家持の歌に先行している。内容としては、歌の数や字句の多さから田辺福麻呂の作が最も充実している。おそらく、田辺福麻呂、境部老麻呂、大伴家持の歌の順に詠まれたものであろう。田辺福麻呂の九首をもって定型化したと考えられる。そこで、まず田辺福麻呂の歌について、訓みの誤りを正して掲げる(注8)

  久邇くにあらたしきみやこたたふる歌二首〈あはせて短歌〉
 あきつ神 わが皇祖すめろきの 天の下 八島のうちに 国はしも さはにあれども 里はしも 多にあれども 山並みの よろしき国と 川並みの 立ち合ふ里と 山代やましろの 鹿背かせやまに 宮柱 ふとき奉り 高知らす たぎの宮は 川近み 瀬のぞ清き 山近み 鳥がとよむ 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば をかしじに いはほには 花咲きををり あなおもしろ 布当の原 いとたふと 大宮おほみやどころ うべしこそ わご大君は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮此処ここと 定めけらしも(万1050)
 反歌二首
 三香みかの原 布当の野辺のへを 清みこそ 大宮所〈一に云はく、此処としめ刺し〉 定めけらしも(万1051)
 山高く 川の瀬清し ももまで かむしみ行かむ 大宮所(万1052)
 わが皇祖すめろき 神のみことの 高知らす たぎの宮は ももなす 山はたかし 落ちたぎつ 瀬のも清し うぐひすの 来鳴く春へは いはほには 山下光り 錦なす 花咲きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は あまらふ 時雨しぐれをいたみ さつらふ 黄葉もみち散りつつ 八千やちとせに れ付かしつつ 天の下 知らしめさむと 百代にも 変るましじき 大宮所(万1053)
  反歌五首
 いづみがは 行く瀬の水の 絶えばこそ 大宮所 移ろひ行かめ(万1054)
 布当山 山並やまなみ見れば 百代にも 変るましじき 大宮所(万1055)
 娘子をとめらが うみくといふ 鹿背かせの山 時し行ければ 都となりぬ(万1056)
 鹿背の山 だちを茂み 朝去らず 来鳴きとよもす 鶯のこゑ(万1057)
 狛山こまやまに 鳴く霍公鳥ほととぎす 泉川 渡りを遠み 此処ここに通はず〈一に云はく、渡り遠みか 通はずあるらむ〉(万1058)
  (右の二十一首は、田辺たなべのさき麻呂まろの歌集の中に出づ。(万1067左注))
  讃久迩新京謌二首〈并短歌〉
 明津神吾皇之天下八嶋之中尓國者霜多雖有里者霜澤尓雖有山並之宜國跡川次之立合郷跡山代乃鹿脊山際尓宮柱太敷奉高知為布當乃宮者河近見湍音叙清山近見鳥賀鳴慟秋去者山裳動響尓左男鹿者妻呼令響春去者岡邊裳繁尓巖者花開乎呼理痛𪫧怜布當乃原甚貴大宮處諾己曽吾大王者君之随所聞賜而刺竹乃大宮此跡定異等霜
  反謌二首
 三日原布當乃野邊清見社大宮處〈一云此跡標刺〉定異等霜
 山高来川乃湍清石百世左右神之味将徃大宮所
 吾皇神乃命乃高所知布當乃宮者百樹成山者木高之落多藝都湍音毛清之鶯乃来鳴春部者巖者山下耀錦成花咲乎呼里左壮鹿乃妻呼秋者天霧合之具礼乎疾狭丹頰歴黄葉散乍八千年尓安礼衝之乍天下所知食跡百代尓母不可易大宮處
  反謌五首
 泉川徃瀬乃水之絶者許曽大宮地遷徃目
 布當山々並見者百代尓毛不可易大宮處
 𡢳嬬等之續麻繋繫云鹿脊之山時之徃者京師跡成宿
 鹿脊之山樹立矣繁三朝不去寸鳴響為鶯之音
 狛山尓鳴霍公鳥泉河渡乎遠見此間尓不通〈一云渡遠哉不通有武〉
(右廿一首田邊福麿之謌集中出也)

 恭仁京を置いたあたりに「たぎ」という地名があり、「たぎの原」、「たぎの野辺」、「たぎの宮」、「たぎ山」と呼んでいる。そのフタギという音から、それは何かしら「ふたぐ」ところとして感じられたのであろう。地名の語源ではなく地名から得られた語感から、そういうところであったに違いないと想像しているのである。上代の言霊信仰下においては、コト(言)=コト(事)であるとされ、名は体を表し、名に負えば名を体現する存在であると思うように志向されていた。
 「ふたぐ」とはフタ(蓋)をして外との接触を断つのが原義である。自動詞は「ふたがる」で、ふさがること、いっぱいになることを表す。

 亦、山にしき神有り。のらかだましき鬼有り。ちまたさいぎみちふたさはに人を苦びしむ。(景行紀四十年七月)

 いっぱいになることの類義語に、タタフ(讃)という語があり、それがために題詞に「讃」という字で表されている。後述する。
 そんな「ふたぐ」ところとして人々の頭をよぎることには、言い伝えに伝えられて人々が共通の認識として抱いているアマテラスのいはごもり(いはごもり)のことがある。その近くの「あめやす河原かはら」(記上)・「天安あまのやすの河辺かはら」(神代紀第七段本文)に神々は参集してにぎわい、互いに知恵を出しあってアマテラスに出てきてもらおうと画策している。
 第一長歌に「あなおもしろ〔痛𪫧怜〕」とある。石屋隠りの時、いろいろな神がさまざまなパフォーマンスをし、神々のための余興を兼ねてアマテラスに出てきてもらおうとした。最終的にはアメノウズメがヌードダンスを披露してとてもおもしろく、一同どっと笑い、アマテラスは何ごとかと石屋の戸を少し開けて覗き見た。そのとき、タヂカラヲが引っ張り出して世界は明るさを取り戻している。この話は当時の誰もが心得ていたものであろう。
 「八島のうちに〔八嶋之中尓〕」というのも古色蒼然としている。オホヤシマクニ(「大八島国」(記上)、「大八洲国」(神代紀第四段本文))という言い方は、イザナキ・イザナミによる国生みでの表現にあらわれている。そしてまた、たくさんの洲が突き出る形でシマ(島)になっていることに通じるものである。その場合、ヤスノカハラと呼ばれ、八洲の河原のこと、八百万の神々はそれぞれの洲にいて、互いに取っ組み合いの喧嘩をすることなく済んだ「安の河原」のことであった(注9)
 「宮柱 ふとき奉り〔宮柱太敷奉〕」という言い方には疑問が呈されている。通常、「宮柱 ふときまして」のように尊敬の意を表わすものである。ところが、ここでは謙譲の意になっている(注10)。これは、「布当の宮」なるものが古くからあったとすることによる。すなわち、神社の社としてのミヤ(御屋・宮)である。地域住民の奉仕によって造られる。神々が参集したヤスノカハラにおいても同じことが行われたと想像できるから、フタギの宮は奉仕によって造られたとされたのである。そんな事情を抱えたところへこのたび新たに遷都することとなり、神社であったフタギの宮は天皇の宮城へ意味転化した。
 「聞かしたまひて〔所聞賜而〕」とあるところ、「遷都の主宰者としての天皇の姿を著しく後退させている。」(吉井1984.284頁)と思われている。また、原文に「君之随」とある個所は、「君ながら」以外にも、「君がまに」と訓む説がある(注11)。これらの考えは歌の役割について見誤っている。筆者は、「君之随」という書き方からして、「君しながら」と訓むことが期待されていると考える。「神ながら」、「皇子ながら」、「山ながら」といった例が、~の本性によって、の意を表わすところ、助詞のシを挟むことで遠慮の気持ちを入れている。絶対君主に対し、下僚の分際で君主の本性によってなどと言えるものではない。もしや君主の御本性によってのことでしょうか、といった控え目な言い回しで歌っている。誰の意見を聞いたのかは書いてないのでわからず、そしてまた、そのようなことを歌に歌う必要もない。これらの歌は、聴衆に訴えかけて皆の心がやすまるように機能したものと思われる。そういう理由でこの地へ遷都することになったのだとわかり、納得している。そして不協和音は解消した。フタギ(布当)の宮には深い謂われがあり、なるほどそれだから大宮所にするのにもってこいであるとお認めになったのだろうと述べている。これまで見逃されてきたが、きちんと歌に歌われていて、それがこの歌の要点であり、ひいては恭仁京遷都を決意した聖武天皇の「所意」そのものであったろう。
 その感想を、「さす竹の 大宮此処ここと 定めけらしも〔刺竹乃大宮此跡定異等霜〕」と述べている。「さす竹の」という枕詞については、「君」、「大宮」、「皇子」、「舎人とねりをとこ」、「節間ごもる」にかかるとされるものの、語義、かかり方とも不明とされている。この例のように「大宮」にかかるのは、宮を建設する場所に標識しめとして地面に竹杭を刺していたからでもあろうし、竹はヨ(乙類)というふしと節の間の空洞部分がつながっていく形で伸びていくものであり、まるで、ヨ(代、ヨは乙類)がつづくこと、天皇の御代が代々つづくことをよく表していると捉えられたからでもあろう(注12)。ために、枕詞「さす竹の」は、「君」「大宮」「皇子」などにかかるとされて使われたと考えることができる。
 フタギの宮の表現では、川→山、秋→春というように、一般的な表現とは順序が異なっている。作歌時期や場所からそうなったとする説(注13)もあるが、アマテラスの石屋隠りのことを想起すれば、「昼夜ひるよるあひかはるわきも知らず。」(神代紀第七段本文)とあるように、順序がわからなくなったことを思い出させる効果を狙ったものであろう。
 つまり、この万1050番歌は「布当の宮」の由来を語ったもので、新しく遷都された都の様子など詠ってはいないのである。反歌の二首も都に定めたことについてしか語っていない。天皇が都をこの地に定められたのは、そういう由緒によるのだと、都を褒めているのではなく都を讃えているのである。ホムとタタフの違いは、対象をそのまま賛美することと、その対象に新しい名称を付けたりして言葉でいっぱいにあふれるばかりに称賛することの違いである(注14)。ここで歌っているのはフタギという名前にまつわる逸話である。そしてそこは「久邇新京」であると名づけられてたたえられている。事情は続日本紀に明記されている。

 十一月戊辰(二十一日)に、右大臣橘宿禰諸兄まをさく、「此間ここ朝廷みかどいかなる名号を以てか万代よろづよに伝へむ」とまをす。天皇、みことのりしてのたまはく、「なづけて大養徳やまとの仁大宮にのおほみやとす」とのたまふ。(天平十三年(741)十一月、再掲)

 福麻呂の歌は「久邇新京」のありさまをそのままに歌っているのではなく、「久邇」に新たに造る都には由緒があってそこを都に定めるにふさわしく、百代までもつづくであろう場所なのだと歌っている。歌の文句も「新京」の、例えば建物が軒を連ねているとか、市は人でごった返しているとかではなく、「大宮所」のこと、その場所の風光明媚なことばかり歌っている。都にされてもされなくても変わらない風景で、どちらかといえば開発などにより変わってしまうかもしれない風景である。古の「ふたぎ」の宮を歌いたいためだからで、その語義がいっぱいになるようにその名にまつわって讃えている。そこは国の始まりからしてミヤとしてあったところであり、「大養徳やまとの仁大宮にのおほみや」とは「やまとの国の大宮」という意である。したがって、題詞にある「讃」はタタフと訓まれて正しい。
 第一反歌の万1051番歌では、広大な「香原かのはら」のうち、「たぎ野辺のへ」の部分が清らかだから「大宮所」として定めたらしいよ、と言っている。「清見社」とある原文からは、清らかであることばかりか、キヨミ社という神社があるかのように思わされる。すでにミヤがあった、ないしはその意味を内包することを予感させる筆記である。「布当の野辺」が実際問題として清らかだという言い分は、自然地理においてどういうことなのかわからない。けれども、言葉の上では、言い伝えに伝えられているアマテラスの石屋隠りにまつわることを物語っていて明らかなことになっている。最終的に神々は、穢れの対象であるスサノヲのひげと手足の爪を切り、お祓いをして、「神やらひやらひ」ている。だから清らかなところである。当時の人たちがフタギという名の地に感じていた意味合いである。
 「三香みかの原」が「たぎ野辺のへ」に被っている。このかかり方は素直なものである。ミカとは甕(𤭖)の意である。「……𤭖みかたかり 𤭖みかはらならべて しるにもかひにもたたへごとまつらむ。」(延喜式・祝詞・祈年祭)とあり、ミカノハラとは甕の中に酒などを入れて醸したり貯えたりすることを表した言葉である。当然、蓋をしてフタグことをしておく。
 第二反歌の万1052番歌では、清らかさについての後付けの説明をする歌になっている。久邇京というのだからクニ(国)のありさま、山があり川が流れていることが要件となる。そこはかつてお祓いをして清らかにしていたところである。そんな観念を支える自然環境は、山が高くて川が流れれば瀬となって速く流れるところである。実際に渓谷があって急流となっていたかどうかは別問題である。伝承されてきたスサノヲ追放の舞台として、清らかなところがイメージされている。「百代まで 神しみ行かむ 大宮所」とあるのは、伝承されてきた観念の世界において神々が行ってきた清らかなところは今日まで長く記憶されて保たれてきたように、現実の世界でもその清らかなところは今後百代経ってもそのまま続くであろうと言っており、そこはすなわち、観念世界でも現実世界でも「大宮所」であると言えるのである。
 長歌と反歌の関係としてふさわしく、互いに相補い合って一つのまとまりを示している。反歌の二首に「大宮所」がくり返されているのは、この歌群が、「大宮」の歌だからである。第一反歌の四句目に「一に云はく、「此処ここしめし」」とあるのは、長歌の「さす竹の」を承けた作風である。「大宮」歌としてのわかりやすさを追求すれば、本歌のようになるであろう。

第二長歌と反歌五首

 第二長歌以降も「大宮」歌の性格は変わらない。ただ、もう少し具体的な地勢を述べようとしている。もちろん、景を叙すつもりはなく、定型的なもの言いを当てはめているだけである。なお、長歌の「八千年尓安礼衝之乍」は、「八千年に 生れ付かしつつ」以外に、「八千に 生れ継がしつつ」と訓む説もあるものの、「衝」をツグと濁音化することには無理がある。
 反歌の一首目、万1054番歌は、「起りえない自然の変化を条件として永久不変を予祝した表現。」(吉井1984.290頁)とされている。なぜ水が絶えることが起こりえないかといえば、川の名が「泉川」だからである。イヅミとはイヅ(出)+ミ(水)の意で、イヅミガハと呼んでいる限りにおいて水は出るものと考えられていた。コト(言)=コト(事)であるとする言霊信仰の下に生きていた。言語遊戯(Sprachspiel)こそが万葉歌の真骨頂である。
 歌を歌うにあたっては、聞く人の興趣をそそるように言葉づかいに工夫が施された。言葉が空中を漂っている間、コト(言)はコト(事)であり、言葉遊びが遊ばれたのである。そうしなければ聞いて覚えるようなことはなく、誰も覚えていない歌は元からなかったものとして扱われたことであろう。
 反歌の二首目、万1055番歌も同様である。「前歌の「川」に対し、「山」の形容を根拠に、久邇京の無窮を予祝している。」(伊藤1996.514頁)とされている。なぜそう言えるかといえば、布当山とはフタギ(塞)をモットーとする山であり、それが「山並」をもって連なっているところから考えると、まったくもって塞ぎの状態は完璧で盤石だからである。実際の地形上で反乱軍が攻めて来られないということではなく、言葉の上でそうだと言っているだけである。蓋をされてタイムカプセルとなれば百代までも変わることはないということである(注15)
 反歌の三首目、万1056番歌の四句目、「時之往者」は、「時の行ければ」と訓む説(注16)もあるが、「時し行ければ」と訓む説が正しい。助詞シは、「…し…ば」の形をとることがとても多い。岩波古語辞典は、「これによれば、「し」は確定的・積極的な肯定的判断を強調する語ではない。むしろ基本的には、不確実・不明であるとする話し手の判断を表明する語と考えられる。従って、話し手の遠慮・卑下・謙退の気持を表わすところがあり、話し手が判断をきめつけずに、ゆるくやわらげて、婉曲に控え目に述べる態度を表明する語と思われる。」(1494頁)とし、用例に、「わが背子は 物な思ほし 事しあらば(事件デモアッタラ) 火にも水にも 吾無けなくに」(万506)をあげている。
 時が移ろっていまや皇城が完成している、というように、「時」を積極的、作為的に主張しているのではなく、もしや時間などが経過したためか皇城となっている、というほどの控え目な言い方をしているのである。
 三句目までの序は実に的確である。麻を繊維として利用できるようになるためには、植物のアサを成育させ、刈り取ってきて束にして煮てから皮を剥ぎ、細く割いたものをつないで(「續む」)長いものにし、苧桶をけにて湿らせたものをつむなどによって撚りをかけて紡軸に巻き取り、それをかせに巻き上げる。そのまま放っておけば、乾燥していくと同時に撚りが安定して糸はできあがる。桛から外すと輪状にまとまっていてそれをかせといい、製品として次の工程(染めや織り)へと受け継がれる。うみを桛に懸けることは、とても手間と時間のかかる糸づくりの最後の段階である。苧續みや撚りかけほどに難しいものではないし、桛に巻き上げておけば後は自然乾燥によって糸となる。
 だから、「時し行ければ〔時之徃者〕」へとつづいている。助詞シの持つ控え目表現はここに生きてくる。時間さえ経過すれば都となるとの考えは、桛に巻き上げられたら糸が出来上がるものだという錯覚に等しい。その前段階として、栽培して刈り取り、蒸したり煮たりして皮を剥ぎ、績んでから撚りをかけていくという苦労に苦労を重ねる作業がある。都となったのには、そのような、目にすることのない前段階が控えていて、そのとき目の前でくり広げられる土木建設工事ばかりで都は完成するものではないと言っている。すなわち、フタギの宮の伝承が控えているからこそそこは都となるのだと、当時の人にとっての正論を述べている。「都と成りぬ」の助詞トは資格を表す。造成して都(のよう)にすることはできようが、都と(してふさわしく)することはできない。
 この「時」を意識した表現は、反歌の五首目に通じている。
 万1058番歌に霍公鳥が出ている。ホトトギスという語は、ほとんど時は過ぎる、の意にかけて用いられることがある(注17)。時間経過を歌う発想は、万1056番歌に予行演習されていた。時間が経過するのは当たり前のことである。だが、第一長歌で、「大宮此処と定め」の主語は現天皇の聖武である。時間が経てばどこでも皇城となるということではなく、聖武天皇が決めたから、今のその時をもって成っている。歌ではその理由について歌っている。フタギという地名の音にかこつけて、フタグ(塞)ところ、天の石屋の言い伝えによってそこは神の参集するところ、ためにミヤが造られた、だからここは新しく都とするのにふさわしいのだといい、天皇もそういうことでお決めになられたのだろうと、「らしも」により推量している。続紀・天平十三年の「大養徳やまとの仁大宮にのおほみや」命名譚は、背後にある思想─古代的意味合いにおいて─を伴って人々に、少なくとも福麻呂のほか多くの宮廷社会の人に知れわたっていたということである。歌は歌い手と聞き手がともに歌意を納得、共有することで伝えられる。天皇による命名譚も、天皇が独り勝手にネーミングして広まらせたということではなく、だってそういうことだろうと、皆を納得させる力を持っていたから看過されることなく定着したのだった。
 ホトトギスという語から思い起こさせる、ほとんど時は過ぎること、最終段階だから必然だというイメージで決められてしまうことは、この歌群の全体的なモチーフにそぐわない。だから、ホトトギスは、声はすれど姿は見えず、ということにしておき、時間は経過していて期は熟していたが、自動的にそうなるのではなく、よくよく事情を悟られた聖武天皇が最終決断を下されてここが都となっているのだということにしている。そしてまた、ホトトギスが通って来てしまうと、ほとんど時は過ぎることが重なって、時間がどんどん進んで行って止まらないから、「百代にも 変るましじき」(万1053・1055)と言えなくなってしまう。そこで、霍公鳥は渡って来ないことになっている(注18)
 反歌の四首目、万1057番歌に「鹿背の山」が出ているのは前の歌を引き継ぐもので、「鶯」が出ているのは長歌にあるのを受けているとされている。あるいは、後の歌に出てくる「霍公鳥」に托卵を受ける鳥であると知られていたことも一因かもしれない。もっと積極的にそこに置かれた要因は、歌群を見渡してはじめてわかる。
 長歌と反歌は一つの歌意を相補い合って表し、全体像を織りなしてあやなすものである。万1056~1058番歌は後から付け加えられたのではないかとも考えられている(注19)が、後付けの短歌を「反歌」とすることはないであろう(注20)。すでに見てきたように長歌はフタギの宮について語っている。石屋隠りの舞台となった天の安の川原に設けられたに違いないミヤのことである。籠り隠れていたアマテラスが再び現れて世界は明るくなった。そういう位置づけとして「布当の宮」=「久邇新京」は見定められている。そのことと対応するように、地理的配置としては、大極殿から東に「布当山」はあり、フタギ(塞)が取れて、すなわち、石屋の戸が開いて朝日が降りそそぐと見てとっている。そして、南に「鹿背の山」があり、木立が茂り、朝ごとにそこからウグイスが飛来して鳴くとしている。フタギが取れて日が「鹿背の山」に差していくことを言いたいから、毎朝のことでなければならない。対して「狛山」は西に当たる。一日の単位で考えるなら、ほとんど時は過ぎる時間帯に太陽は西にある。コマヤマという名は、高麗こまのことを思い起こさせ、倭国から見て海のかなたの西方に位置している。このように東→南→西のそれぞれ水を隔てた山を順に見渡していっている。反歌の流れとしても山の配置はそのようになっている(注21)。「布当の宮」=「久邇新京」から見回している。ぐるっと首を回している。言語遊戯の音遊びにおいては、クビ(ビは甲類)を意識させる鳥に登場願いたい。だから、ウグヒ○○ス(ヒは甲類)というクビの廻れるような名の鳥が来て鳴いて大騒ぎをしている歌が歌われている。「響もす」ほどだから大極殿にいても「声」は聞こえてくる。大極殿で何をしていたかは不明であるが、儀式ばっているなら正装で臨んでいることであろう。くびのしつらえが特徴的な、はうを御召しになっているに違いあるまい。臣下も狩衣などであったろう。和名抄に、「衿 釈名に云はく、衿〈音は領、古呂毛乃久⽐ころものくび〉は頸なり、頸を擁く所以なり、襟〈音は金〉は禁なり、前に交へて風寒きを禁禦する所以なりといふ。」とある。
 天皇は日の御子であり、アマテラスの末裔なのだから東→南→西の順に見渡して行くことは正しいことである。反歌は五首もあるが、みな従来の「反歌」の定義にかなうものである。

上:足利1973.41頁に加筆、下:近年の恭仁京復元案(左:山田邦和案、山田2019.130頁、右:筒井崇史案、筒井2021.274頁)

 以上が田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」の全貌である。ひたすらヤマトコトバにもとづいて歌われている。現代的視点から歌に発展性があるかないかという評価など、田辺福麻呂は意に介しはしない。万葉集の歌の良し悪しは、その歌が歌われたとき、その場において、いかに受けたかにかかっている。大養徳やまとの仁大宮にのおほみやにおいて、よく心得ていて整った歌が歌われていた。

その他の恭仁京讃歌

 「久邇宮讃歌」は万葉集に他に三首ある。

  香原かのはらあらたしき都をたたふる歌一首〈并せて短歌〉
 山背やましろの 久邇くにの都は 春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉もみちばにほひ ばせる いづみの川の かみつ瀬に 打橋うちはし渡し よどには 浮橋うきはし渡し ありがよひ つかへまつらむ 万代よろづよまでに(万3907)
 たたなめて 泉の川の 水脈みを絶えず 仕へまつらむ 大宮所(万3908)
  右は、十三年二月に、右馬みぎのうまのかみさかひべの宿禰すくねおゆ麻呂まろの作なり。
  讃三香原新都謌一首〈并短歌〉
 山背乃久迩能美夜古波春佐礼播花咲乎々理秋左礼婆黄葉尓保比於婆勢流泉河乃可美都瀬尓宇知橋和多之余登瀬尓波宇枳橋和多之安里我欲比都加倍麻都良武万代麻弖尓
 楯並而伊豆美乃河波乃水緒多要受都可倍麻都良牟大宮所
  右十三年二月右馬頭境部宿祢老麿作也
  十五年みづのとひつじの秋八月十六日に、舎人どねり大伴宿禰家持の、にのみやこたたへて作る歌一首
 今造る 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし(万1037)
  十五年癸未秋八月十六日内舎人大伴宿祢家持讃久迩京作謌一首
 今造久尓乃王都者山河之清見者宇倍所知良之

 やはり自然環境を歌っていて、新しく建設された宮都のことは歌っていない(注22)。これらの歌は、制作年次が左注や題詞に記されている。境部老麻呂の歌は、天平十三年二月の作だから前年十二月十五日の恭仁宮遷都から二か月ばかりしか経っていない。歌に、「春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉もみちばにほひ」とあるが、実経験を歌にしたものではない。「久邇」(恭仁)に都したのは、神々が参集したところ、水を堰き止めて塞ぐことをしたフタギの宮地、ないしは、その故地であると認められたからである。すべての神さまが集まっているのだから、春に花を咲かせる神もいれば秋に木の葉を黄葉させる神もいたに違いあるまい。当時の人はヤマトコトバで考えたのだから、ヤマトコトバで考究することで彼らの観念に近づくことができる。
 「三香原」を周回するように「泉の川」、今日の木津川が流れている。それを「帯ばせる」と形容している(注23)。川の流路が変化して、台地上に設けられた新都を横切ったりする恐れはなかったものと考えられる。ミカノハラという言葉自体、そのことを表わしている。甕の腹はでっぷりと太っていて侵食することはないと受け取れる。水は周りを流れるか、中に貯えられている。すなわち、水に浸かることはなく、また、地下水の豊富さが窺われる土地柄ということになる。実際そうであったろうけれど、必ずしも実状を反映している必要はない。すべては言葉遊びである。
 この歌は遷都間もなく歌われている。従来からの国の境界に従って「山背やましろの 久邇の都」と歌い出している。「三香原」は古代の行政区分においてヤマシロ(山背、山城)にある。山のシロ(代)、代わりのものとして「三香原」はある。山の代わりとしてあるから、川はその周りをまるで帯になるようにぐるりとめぐっていると言えるわけである。どんなに「水脈みを」があろうと「久邇の都」に洪水は及ばない。
 およそ九か月後、天平十三年十一月になって「大養徳やまとの仁大宮にのおほみや」と名づけられている。天平九年十二月に、ヤマト(大和)を「大養徳」と好字に改めている。大いなる徳を養うという意味からの用字にした。大いなる徳を養う人物は聖武天皇自身である。聖武天皇は宣命に自らの徳の至らなさを嘆いているから、大いなる徳を養おうと実践していたようである。天皇がいるところは宮であり、わけても聖武自身がいるところは「大養徳」の国でなければならない。つまり、「近江大津宮」などと地方名を冠して宮を名づけるのと同じように「山背やましろ邇宮にのみや」などと呼ばれることを良しとしていないのである。
 橘諸兄と聖武天皇の、「此間朝廷、以何名号、伝於万代」→「号為大養徳恭仁大宮也」という問答は、根拠も結果も確かなものであった。ヤマトのクニのオホミヤと一般名称化してしまえば、万代まで伝えられるに決まっている。恭仁宮は、天皇が大いなる徳を養うことで、大いなる徳をもって人民を養う、そんな国の首都、大いなる宮なのである。やがて紫香楽に大仏を建立しようとしたのも、「大養徳」の実践であったようである。
 大伴家持の歌は、天平十五年八月の作である。遷都して三年近く経っているが、まだ「今造る」といい、「山川」の有様を歌っている。安の河原に当たるところが国都であるのはふさわしい、すばらしいと、言葉遊びに遊んでいる。「今」とは「神代」の対概念なのである。

おわりに

 古代史研究においては、遷る都の様子を含めて、文献史学と考古学を車の両輪として理解が進んでいると思われている。平城京、平城宮のように、八世紀に都が置かれてその後捨てられ、発掘すると木簡などの資料も多数あらわになり、続日本紀や正倉院文書などの資料に書いてあることと整合するところが多く見られ、おもしろいと思われている。しかし、仮に我々が認知的な安定に至ることをおもしろいことだと思っているとしたら、奈良時代から何かを学んでいるのではなく、現代を奈良時代に投影しているだけなのではなかろうか。歴史学自身が端から持つ限界のようである。
 本稿では、恭仁京遷都について、当事者である聖武天皇の「所意」に迫ろうとした。万葉集の歌から間接的に知り得たに過ぎないが、当時の人々が頭の中で考えていたことは、現代におもしろいと思われていることとはおよそ異なる。言い伝えられていた伝承の世界を現実に反映させようとしていたのであった。そうでなくてどうして宮都を歌うのに自然環境ばかり述べ立てるのだろうか。歴史学では、首都を置くことの意義が説かれており、それはおおむね妥当と思われる。すなわち、田舎と都会は違うのだと。ところが、遷都したての華々しくあって然るべき久邇京讃歌に人工物はとり上げられず、自然のさまばかりを気にかけている。この矛盾の原因は、古代に生きていた人の頭の中にある。彼らが日々何を思いながら生きていたか、そのことを知る以上にするべき研究など本当のところありはしない。

(注)
(注1)瀧川1967.。
(注2)瀧浪1991.。
(注3)仁藤2011.。
(注4)京都府教育委員会により発掘調査が続けられている。
(注5)次のとおりである。

  十二年庚辰の冬十月に、大宰少だざいのせう藤原朝臣広嗣ひろつぐの謀反していくさおこせるに依りて、伊勢国に幸す時、かはぐちの行宮かりみやにして舎人どねり大伴宿禰家持の作る歌一首〔十二年庚辰冬十月依大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作謌一首〕
 河口の 野辺のへいほりて 夜のれば 妹がもとし 思ほゆるかも(万1029)〔河口之野邊尓廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨〕

(注6)瀧浪1991.。
(注7)新大系本続日本紀に「経も略も営み治める意。整備すること。」(382頁)と注されている。
(注8)また、本稿では、原文にかかわらず、歌の訓読文においてはオホキミは「大君」、スメロキは「皇祖」と記した。拙稿「田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」考─「現つ神」、「わご大君 神の命の」の正しい理解によって─」参照。
(注9)神代の説話(神話)の舞台は、同じようなところを堂々巡りしている。設定に一貫性を持っていたということである。
(注10)塩沢2010.に、「太敷き奉り」が「天人感応」の理念に従うとする説がある。塩沢氏は、「君之随所聞賜而」について、臣下の進言を聞き入れて都とを定めるという叙述は文選の西都賦、東都賦、西京賦に登場しているとし、さらに、「久邇宮讃歌」は「六合」の考え方を取り入れて、シンメトリックな調和の世界を歌ったものではないかとも述べている。筆者はとらない。
(注11)諸説については下田2005.参照。「君がまに」は「君がまにまに」の約であるという。多くの注釈書で、その「君」は橘諸兄のことを指すとしている。「わご大君は 君がまに 聞かしたまひて」で、聖武天皇は大君であられるままに臣下の橘諸兄の言葉をお聞きあそばして、の意であるといい、歴史的事実として聖武天皇が橘諸兄の言うことを聞き入れて遷都の地を決定したことを物語っていると説明している。しかし、歌のなかで、オホキミは天皇、キミは大臣というように立て続けに表示することがあるのか疑問である。歌が散文的説明に堕していることにならないか。
(注12)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」参照。
(注13)清水1980.146頁。
(注14)ホムとタタフの微妙な使い分けは用例に確認できる。

 因りて蜻蛉あきづめて、此のところなづけて蜻蛉あきづとす。(雄略紀四年八月)
 時に、勅してひの臣命おみのみことめてのたまはく、「いましいさをしさありてまたいさみあり。また能くみちびきいさをし有り。是を以て、汝が名を改めてみちのおみとす」とのたまふ。(神武前紀戊午年六月)
 時に多遅たぢの花、井の中に有り。因りて太子ひつぎのみこみなとす。多遅の花は、今の虎杖いたどりの花なり。かれ多遅たぢひの瑞歯別みつはわけの天皇すめらみことたたまをす。(反正前紀)
 故、其の名をたたへて、上宮かみつみやのうまやとの豊聡耳とよとみみの太子ひつぎのみこと謂す。(推古紀元年)

 第一例のホムはアキヅをほめている。アキヅノをほめているのではない。第二例はヒノオミをほめている。改名してミチノオミとしたとき、ミチノオミとたたえたということになる。第三・四例は、その人たちに長い名前をつけてたたえている。対象に名を充満させることがタタフの意である。雑駁に言えば、よしよしと相手を認めるのがホムであり、新たに名前をつけて讃美するのがタタフである。
 万葉集で「讃」字が使われるのは、地名(「讃岐」)の例を除き、すでにあげた「久邇宮讃歌」とされる三歌群の題詞(万1050~、1037・3907~3908)に偏って現れている。天平十三年十一月記事にあるように恭仁京と名づけたたえたことの反映として万葉集でもそう使われている。それ以外では、万338~350番歌の前にある題詞のみである。

  大宰帥大伴卿讃酒歌十三首

 「大宰帥大伴卿の酒をたたふる歌十三首」と訓むのが正しいであろう。酒を前にして、よしよし、いい子だ、とほめているのではなく、十三首もの歌を作り、言葉を弄して酒のことをほめそやしているのだからタタフの意に当たる。そのうちの一首では、「酒の名を ひじりおほせし いにしへの 大き聖の ことのよろしさ」(万339)と名づけてもいる。なお、「讃」字をタタフと訓むことに今日さして抵抗を感じないが、言葉をもって讃頌する意味でタタフと使われる例が少なかったのか、用例は多くない。名義抄では「頌」にのみタタフという訓がある。
(注15)評者に「予祝」と言われるが、時間的に今後ともそうあることをあらかじめ祝うという考えから歌に詠まれているのではない。コト(言)=コト(事)であるとすると、言葉としてそうであることはこれからもそうであろうから、事柄としてもそうであろうと言っている。期待を込めて願っているのではなく、論理的にそういうことになる、Q.E.D.と述べている。
(注16)上野2005.は、「時の往ければ」と訓み、この歌は「序に続く部分との大きな落差がおもしろいのである。そんな辺鄙な山でも、時が過ぎれば都になったというのである。」(236頁)としているが、どこでも都というわけではない。
(注17)拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。ホトトギスを「時鳥」と記すこととの関連は不明。
(注18)芳賀1986.に、「泉川の川幅の広さを述べ、その大きな景をも都の中に取りこんだ天皇の偉大さに対する讃美の念を余情とするものだろう。」(188頁)とある。このような解釈では、第五反歌は反歌とは見なされないだろう。
(注19)山崎1986.に、「新都の南西部の鹿背山、西部の狛山の愛すべき山容が泉川をはさんで相対し、川の流れも鳥の声も共に澄みとほる風趣を、福麻呂はさながらに新都への讃歌として感じたからであらう。」(251頁)として、捨てがたい風趣を三首の反歌として付け加えたのだとしている。伊藤1996.は、第五反歌は「残念なことに通って来ないという歌になってしまって、讃美にならない」けれども、「ここ鹿背山で一緒に鳴いてくれればよいのにと言った」(515頁)とするなら一応は通じるとしている。遠藤2004.は、「第三~第五反歌は、讃美の対象を京域「全体」に拡大させることによって、京域の広大さをも讃え(同時に帝業の偉大さのより強い讃美でもある)、それによって新京讃美の念が一層強いことを示すことによって新京讃歌全体の閉じ目とする。」(73頁)としている。
(注20)編纂者の誤解などから紛れこむことはありえようが、その場合、左注に断り書きが付されるケースも多いようである。精神史的傾向として、よくわからないことを断言してかかるようなことは少なかった時代だったと言えそうである。
(注21)中国の天子南面の観念は、天皇は日の御子に当たるから受け入れられ易かったと考えられる。けれども、この第二長歌の反歌の発想は中国思想によるものではない。なぜなら、天子が南面すると臣下は北面してしまうからである。天皇と臣下が同じ視線で考えられるものでなければ、歌意に共感、共有は得られず、歌として歌われない。日の道をたどって東→南→西へと目で追っている。
(注22)だからといって、花井2001.の、「自然の相が不変であるごとく都が永遠であることが予祝される。」(二〇頁)、渡部2001.の、「そこは今造られた宮であり、過去を持たない。」(9頁)とするのは思い込みである。
(注23)川について「帯ばせる」、「帯にせる」とする形容には、「かさの山の」(万1102)、「みもろの神の」(万1770・3227)、「神なび山の」(万3266)、「その立山たちやまに」(万4000)といった例が見られる。標高が高い山の周りを川が帯のようにぐるりとめぐっているという表現である。

(引用・参考文献)
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山崎1986. 山崎馨『萬葉歌人群像』和泉書院、昭和61年。
山田2019. 山田邦和「恭仁京復元への試案」京都学研究会編『京都を学ぶ 南山城編─文化資源を発掘する─』ナカニシヤ出版、2019年。
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渡部2001. 渡部亮一「田辺福麻呂の「八島国」─万葉歌を作ること─」『論究日本文学』第75号、立命館大学日本文学会、2001年12月。立命館学術成果リポジトリ http://doi.org/10.34382/00016594

加藤良平 2023.7.31初出

七夕歌の歌一首 并せて短歌(万1764・1765)について

 万葉集の七夕歌は132首を数える。
 巻八  15首  山上憶良1518~1529(うち長歌1(1520))
         湯原王1544~1545
         市原王1546
 巻九   2首  (藤原房前宅)1764~1765(うち長歌1(1764))
 巻十  98首  人麻呂歌集1996~2033
         作者未詳2034~2093(うち長歌2(2089、2092))
 巻十五  4首  柿本人麻呂3611
         遣新羅使人3656~3658
 巻十七  1首  大伴家持3900
 巻十八  3首  大伴家持4125~4127(うち長歌1(4125))
 巻十九  1首  大伴家持4163
 巻二十  8首  大伴家持4306~4313
 「七夕」と題詞は与えられていないが、「七夕」歌だと考えられる歌として、巻九の間人宿禰はしひとのすくねが泉河のほとりで詠んだという二首目の「彦星の かざしの玉の 妻恋つまごひに 乱れにけらし この川の瀬に」(万1686)、巻十一の人麻呂歌集歌からとする「あめにある 一つ棚橋たなはし いかにか行かむ 若草の 妻がりと云はば 足荘厳よそひせむ」(万2361)があげられている。七夕伝説に基づいて詠まれた歌ということである。
 万葉集に詠まれる七夕伝説は、中国の伝説がヤマトへ移入されて内容が少し変化したものである。もとの中国風の考え方は漢詩の世界に踏襲され、懐風藻の詩では中国の考え方そのままに詩が作られている。両者の大きな違いは、中国では、七月七日の日に、織女のほうが車に乗って鵲が翼を並べた橋を渡って逢いに行くのであるが、ヤマトでは、牽牛ひこぼし(彦星)が船を漕いで、あるいは歩いて天の川を渡って織女たなばたつめに逢いに行くというものであった(注1)。次にあげる歌のうち、長歌はその例外であるとされている。

  七夕たなばたの歌一首〈并せて短歌〉〔七夕謌一首〈并短哥〉〕
 ひさかたの あまがはに かみつ瀬に 玉橋渡し しもつ瀬に 船浮けゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 濡らさず やまず来ませと 玉橋渡す〔久堅乃天漢尓上瀬尓珠橋渡之下湍尓船浮居雨零而風不吹登毛風吹而雨不落等物裳不令濕不息来益常玉橋渡須〕(万1764)
  反歌〔反謌〕
 天の川 霧立ちわたる 今日今日けふけふと わが待つ君し 船出すらしも〔天漢霧立渡且今日々々々吾待君之船出為等霜〕(万1765)
  右のくだりの歌は、或は云はく、中衛大ちうゑのだいしやう藤原北卿のいへにて作るといふ。〔右件謌或云中衛大将藤原北卿宅作也〕

 万1764番の長歌は、万葉集の他の七夕歌には見られない不思議な趣を持っていると評されている。裳を濡らさないで天の川を渡るというのであれば、裳を履いている女性側、織女が、船を使ってでなく車に乗って玉橋を渡るという意味に捉えられる(注2)。中国風の七夕伝説に基づいた歌ということになる。ただし、付けられている反歌、万1765番歌は、ヤマトの七夕伝説どおり男性の彦星が船に乗って渡ることになっている。この二首を長歌と反歌のセットにするのはそぐわないのではないかと疑われている(注3)
 長歌では、特徴的に対句表現が用いられている。「上つ瀬に……下つ瀬に……」、「雨降りて 風吹かずとも」、「風吹きて 雨降らずとも」とある。ただし、設置されている渡河手段のうち、浮け据えられた船(注4)は問題ではなく、川に渡された玉橋が大事である。歌の最後にもう一度出てくる。天の川の上手に玉橋を架け渡したから、車に乗っていつでもいらっしゃい、濡れることもないですよ、と言っていると解される。車に乗れば、雨の日も風の日もスカートが濡れることはないというのであるが、橋の上を行くのだから風の日に川の水で濡れることはない。しかし、雨の日には車のなかに身を納めていなければ雨が当たって濡れてしまう。漢土では「鵲影」なる橋の上を、「鳳蓋」なる車で進むことが前提となっていて、藤原不比等の詩でもそう詠じられている。
 中国から伝来した七夕伝説は、ヤマトでは歌の世界で変容して、彦星のほうが織女に逢いに行く話になっている。船を漕いで行くことが多く、また、鵲の橋のモチーフはなくなっている。どうしてかと問うても仕方のないことであるが、魏志倭人伝によればヤマトの国に鵲はいないことになっている(注5)。いなければ想像がつかないからとも思われる。
 そして、それ以上にあまり気づかれていないことであるが、中国では天の川を織女が馬車に乗って渡るのだが、ヤマトの国に馬車はなかった。乗物の車は牛車ぎっしゃであった。これは興味深いことである。ヒコボシとは呼んでいても、ヤマトへ来ても同じく牽牛のことと思われており、万葉集の用字でも多用されている。牛を牽くのが彼の仕事である。とすると、もし天の川に橋が架かっていて車が通れるようになっていたとしても、牽牛が織女のもとへ行かない限り織女は天の川を渡ることはできない。車を牽くための牛を操る人がいなければ、牛車が進むことはない。頓狂な話であるが、七夕の日に二人が逢うためには、いずれにせよ牽牛がいったん天の川を渡ることが条件となっている。そのことをおもしろがって歌った歌が万1764・1765番歌の長短歌なのである。
 万1764番歌は牽牛が歌いかけている。天の川の上流方にすてきな橋をかけた。牽牛側の川岸から工事を始めて対岸の織女側に到達したということであろう。下流方にはいつでも出航できるように船を接岸させている。雨が降って風のない時、風が吹いて雨の降らない時、スカートを濡らさずにいつでも来られるようにすてきな橋を架け渡した。どうですか、と誘っている。
 万1765番歌は織女が歌い返している。天の川に霧が立ちこめています。今日か今日かと私が待っていたあなたこそがようやく船を出すらしい。
 この二つの歌は完全なる問答となっている。織女は車に乗らない限り天の川を渡ることはない。スカートを濡らさずに済むには、雨の日などタクシーの車内でじっとしていなくてはならない。タクシーには運転手が必要である。牛車を進ませるのは牽牛である。早く来てねと言っている。
 ジョークのような話である。本当だろうかと疑う向きもあるだろう。しかし、織女の反歌にはそのことがきちんと詠み込まれている。
 天の川に霧が立ちわたっている。「霧」という言葉はスモッグのことをいうばかりでなく、息吹のことも表した(注6)

 ……𪗾然さがみ咀嚼みて、〈𪗾然咀嚼、此には佐我弥爾加武さがみにかむと云ふ。〉吹きつるふきぎり〈吹棄気噴之狭霧、此には浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理ふきうつるいふきのさぎりと云ふ。〉にまるる神を、号けて心姫こりひめまをす。(神代紀第六段本文)
 沖つ風 いたく吹きせば わぎ妹子もこが 嘆きの霧に かましものを〔於伎都加是伊多久布伎勢波和伎毛故我奈氣伎能奇里尓安可麻之母能乎〕(万3616)
 上気 アクヒ、オクヒ(名義抄)

牛のメタン排出量を示す科学ポスター(https://jp.freepik.com/free-vector/science-poster-showing-cow-methane-emissions_5837852.htm、2023年7月15日閲覧)

 息吹のことはオクビ(噯)やアクビ(噫)ともいう。オクビでもっともよく知られる臭気は牛の吐くゲップである。ゲップという言葉の古い用例は知られないが、仮に上代語にあったとしたら、ケフ、上代音で kepu に近い音で発語されたであろうと推測される。歌ではケフケフ(今日々々)と言っている。一般的な使い方で言えば、今日か今日かと待ち焦がれていたという意味である。しかし、それは七夕の歌としておかしな表現である。今日か今日かという言い方は、今か今かを day 単位に引き延ばしたものである。意味的には、今日か明日かと待ち焦がれることと同じことを言っている。時間軸上をレールカメラが同調して動き、今日か明日かというところを今日か今日かと言っている。七夕歌としておかしいのは、七夕の日にしか二人は逢うことがないのが決まりだからである。二人には来年の今日という日はあっても、明日という日はない。つまり、「今日今日と」待つことは本来の意味ではない。本来以外の意味でなら、今年の「今日」と来年の「今日」と待つという、変てこな、人を食ったような言い分として成っている。
 このケフケフという言い方は、ゲップゲップから授かったものであろう。

 天の川 霧立ちわたる 今日今日と 我が待つ君し 船出すらしも(万1765)
 天の川を牛のゲップが立ちわたっている。ゲップゲップ、今日今日と私が待っている牽牛が、ようやく船出をするらしい。なぜならオクビのことをいう霧が立ちわたっているから。

 左注によれば、あるいは中衛大将藤原北卿、つまり、藤原房前の邸宅で作られたものであるという。中衛府は神亀五年(728)七月に新設されたとされる令外官で、大同二年(807)には再編されてなくなっている。延喜式・左衛門府式に、「凡そ府の牛の蒭秣まぐさは左馬寮より請けよ。〈事は馬寮式に見ゆ。〉但し、あをまぐさは衛士をして刈りて飼はしめよ。〔凡府牛蒭秣請左馬寮。〈事見馬寮式。〉但青蒭者令衛士刈飼之。〕」と規定が残っている。牛を飼育する役職にある藤原房前の屋敷での宴会なのだから、牽牛がひく牛のゲップの話をすることは場にかない、理にかなっている。座興で歌われた機知溢れる七夕歌である。七夕伝説はヤマトの国の文芸として、ラブロマンスばかりでなくラブコメディとしても立派に花開いていた。

(注)
(注1)当時、日本で作られた七夕詩の代表例をあげる。

  七夕  藤原史
 雲衣両観夕 月鏡一逢秋  うん ふたたび観るゆふへげつきやう ひとたび逢ふ秋。
 機下非曽故 梭息是威猷  はたくだるはそうゆゑあらず、むるはこれいう
 鳳蓋随風転 鵲影逐波浮  鳳蓋ほうがい 風にしたがひてひ、じやくえい 波をひて浮かぶ。
 面前開短楽 別後悲長愁  面前めんぜん短楽たんらくを開けども、べつちやうしうを悲しびむ

 漢土と本邦との違いというよりも、詩と歌との文芸様式の差において考えたほうがいいとも言われている(大浦2001.263頁)。どうして内容に違いが出ているかについては、ヤマトでは妻問い婚が基本だったから生活を反映してそうなったとする説が通行している。また、「こうした行事が定着する基盤には、夏秋ゆきあいの祭りに、水を渡って訪れる稀人神を待ち斎くタナバタツメの信仰行事があった。民間においては、七夕を盆行事の一部と考え、精霊しょうりょうさまを迎えるのに先立って、水辺に出て水浴を行い、墓掃除、衣類の虫干し、井戸さらえ、馬飾りなどを行う。」(桜井1976.54頁)というように、民俗を背景に考える見方もある。万葉集の七夕歌と民俗行事とどちらが先に起こっているのか検討を要する。
(注2)天の川に橋を架けるという発想は、中国の鵲橋とは別の考えによってヤマトで行われている。織女はタナバタ(棚機)+ツ(助詞)+メ(女)のことだから機織り機に関連して発想されている。

 はたものの まね持ち行きて 天の川 打橋渡す 君がむため〔機蹋木持徃而天漢打橋度公之来為〕(万2062)
 天の川 棚橋渡せ 織女たなばたの い渡らさむに 棚橋渡せ〔天漢棚橋渡織女之伊渡左牟尓棚橋渡〕(万2081)

 これらの例だけからでもわかることは、七夕伝説の受容にあたって、意識下において否応なく高機の伝播との関わりを持っていたであろうという点である。高機は渡来の技術なのだと再認識されたようである。
(注3)法師のことを引き合いに出して、男性が裳を着ける例もないわけではないからそれを指しているとする説もある(澤瀉1961.178頁、多田2009.305頁)。さらには中国文学を参照しながら考察されることもある。稲岡2002.に次のようにある。

裳は一般に女性の下半身につける衣服だが、人麻呂歌集古体歌「はしきやし逢はぬ子故に徒に是川の瀬に裳襴ぬらしつ」(二四二九)の「裳」は文選・劉孝標の広絶交論に「裳ヲ裂キ足ヲ裏ミ」とあるのや、魏文帝・雑詩に「白露我ガ裳ヲ沾ラス」と見える「裳」と同様、男性の腰から下をおおう衣服をあらわす……。この一七六四の七夕長歌の場合もそうした中国詩における「裳」の用例に準じ男性のものと解し、織女の立場で詠まれていると考えるべきか。……一五二七~二九は、……懐風藻の七夕詩と同様神仙として牛女を詠む。この一七六四・一七六五の長反歌も神仙としての織女が牽牛を待つこころを詠んだとすれば、「裳」を牽牛のものと解してさしつかえはないだろう。(445~446頁)

 こういった議論は問題を曲解していると思う。稲岡氏のあげる万2429番歌は、ヤマトの歌で実際の行いを歌っている。一方、七夕歌は、ヤマトに伝承されて内容を一部改変し、定着した話を歌っている。その際、設定をあまり変えては話としてわからなくなってしまう。七夕歌である万1764番歌において、男性側に裳を着けさせる設定に変更する必然性は見られない。
 男女の間の歌として、万1765・1765番歌は、牽牛と織女とのことであるに決まっていて揺るがすことはできない。万2429番歌は、「子」と「裳襴ぬらしつ」した本人とのことを歌っている。「裳襴ぬらしつ」した歌い手が、恋に狂った年長の女性で、年の若い相手を「子」と呼ぶことはあり得ることだろう。例えば、「人言ひとごとしげ言痛こちたおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る」(万116)において川を渡っているのは但馬皇女で、相手の男性は穂積皇子である。
 万2429番歌は、なかなか逢いに来ない晩熟の若者に対して、年長の女性の方から逢いに行っている歌であると解せられる。うぶな相手だから仕方なく渡っているのは「是川うぢがは」である。無益なことではあるが、女性は自らの「うぢ」が世間に知られてもかまわないと思っていて、そのことを歌に詠んでいるわけである。
(注4)「船浮け据ゑ〔船浮居〕」について、船を並べて固定して渡れるようにした船橋のこととする見方もあるが、他の例(万3991・4398・4408)を考えあわせれば、船を岸に着けていつでも出せるように準備したものとする考え(新大系文庫本75頁)が正しいだろう。
(注5)「其地無牛・馬・虎・豹・羊・鵲。」。
(注6)七夕歌とされる歌で、天の川に「霧」がかかっていると歌う歌は11首ある。このうち、次にあげる「霧」は牛のオクビととっても意味の通じる例である。一般には彦星(牽牛)が船を漕ぐ楫の塵、波立てた飛沫をもって霧に見立てているとされており、筆者も、万1765番歌にのみ特別に、「今日今日と」、「中衛大将」と種明かしされているから、牛のオクビであると確かめられると考える。

 牽牛ひこぼしの 妻迎へぶね 漕ぎらし 天の川原に 霧の立てるは〔牽牛之迎嬬船己藝出良之天漢原尓霧之立波〕(万1527、山上憶良)
 天の川 霧立ちわたり 牽牛ひこぼしの かぢおと聞こゆ 夜のけゆけば〔天漢霧立度牽牛之楫音所聞夜深徃〕(万2044)
 君が舟 今漕ぎらし 天の川 霧立ちわたる この川の瀬に〔君舟今滂来良之天漢霧立度此川瀬〕(万2045)
 天の原 ふりけ見れば 天の川 霧立ち渡る 君はぬらし〔天原振放見者天漢霧立渡公者来良志〕(万2068)

(引用・参考文献)
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
大浦2001. 大浦誠士「たなばた」青木生子・橋本達雄監修『万葉ことば事典』大和書房、2001年。
澤瀉1961. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第九巻』中央公論社、昭和36年。
小島1953. 小島憲之「萬葉集七夕歌の世界」『万葉集大成 第九巻 作家研究篇上』平凡社、昭和28年。
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新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
鈴木1988. 鈴木武晴「萬葉集巻九「七夕歌」の論」『山梨英和短期大学紀要』第22巻、1988年12月。J-STAGE https://doi.org/10.24628/yeiwatandai.22.0_1

加藤良平 2023.7.24初出

「明日香皇女挽歌」について─特異な表記から歌の本質を探って─

 「明日香皇女挽歌」
 万葉集巻第二の明日香皇女挽歌は、柿本人麻呂の作った長い長歌と反歌二首からなる。本稿では、新大系本萬葉集があげる表記の特徴を検討していくことで、この歌群の性質に迫ろうと考える。最初にテキストを掲げる(注1)

  明日あす香皇女かのひめみこきの〔瓦偏に缶、缻の左右反対〕の殯宮あらきのみやの時に、柿本かきのもとの朝臣あそみひと麻呂まろの作りし歌一首〈并せて短歌〉〔明日香皇女木〓〔瓦偏に缶〕殯宮之時柿本人麻呂作歌一首〈并短歌〉〕
 飛ぶ鳥の 明日香あすかの川の かみに 石橋いしばし渡し〈一に云ふ、「石なみ」〉 しもつ瀬に 打橋うちはし渡す 石橋に〈一に云ふ、「石なみに」〉 ひなびける たまもぞ 絶ゆればふる 打橋に ひををれる 川藻もぞ 枯るればゆる なにしかも 大君おほきみの 立たせば 玉藻のもころ やせば 川藻のごとく なびかひの よろしき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮ゆふみやを そむきたまふや うつそみと 思ひし時に 春へには 花折りかざし 秋立てば 黄葉もみちばかざし しきたへの 袖たづさはり かがみなす 見れども飽かず 望月もちづきの いやめづらしみ 思ほしし 君と時どき 出でまして 遊びたまひし 御食みけかふ きのの宮を 常宮とこみやと 定めたまひて あぢさはふ ことも絶えぬ しかれかも〈一に云ふ、「そこをしも」〉 あやにかなしみ ぬえどりの 片恋づま〈一に云ふ、「しつつ」〉 朝鳥あさとりの〈一に云ふ、「朝霧あさぎりの」〉 かよはす君が 夏草なつくさの 思ひしなえて 夕星ゆふつづの か行きかく行き 大船おほぶねの たゆたふ見れば なぐさもる 心もあらず そこゆゑに せむすべ知れや おとのみも 名のみも絶えず 天地あめつちの いや遠長く しのひ行かむ 御名みなにかかせる 明日香あすかがは 万代よろづよまでに はしきやし 大君おほきみの かたにここを〔飛鳥明日香乃河之上瀬石橋渡〈一云石浪〉下瀬打橋渡石橋〈一云石浪〉生靡留玉藻毛叙絶者生流打橋生乎為礼流川藻毛叙干者波由流何然毛吾王能立者玉藻之母許呂臥者川藻之如久靡相之宜君之朝宮乎忘賜哉夕宮乎背賜哉宇都曾臣跡念之時春部者花折挿頭秋立者黄葉挿頭敷妙之袖携鏡成雖見不猒三五月之益目頰染所念之君与時々幸而遊賜之御食向木〓〔瓦偏に缶〕之宮乎常宮跡定賜味沢相目辞毛絶奴然有鴨〈一云所己乎之毛〉綾尓憐宿兄鳥之片恋嬬〈一云為乍〉朝鳥〈一云朝霧〉往来為君之夏草乃念之萎而夕星之彼往此去大船猶預不定見者遣悶流情毛不在其故為便知之也音耳母名耳毛不絶天地之弥遠長久思将往御名尓懸世流明日香河及万代早布屋師吾王乃形見何此焉〕(万196)
  短歌二首〔短歌二首〕
 明日香あすかがは しがらみ渡し かませば 流るる水も のどにかあらまし〈一に云ふ、「水のよどにかあらまし」〉〔明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼尓賀有万思〈一云水乃与杼尓加有益〉〕(万197)
 明日香川 明日あすだに〈一に云ふ、「さへ」〉見むと 思へやも〈一に云ふ、「思へかも」〉 大君おほきみの 御名みな忘れせぬ〈一に云ふ、「御名忘らえぬ」〉〔明日香川明日谷〈一云左倍〉将見等念八方〈一云念香毛〉吾王御名忘世奴〈一云御名不所忘〉〕(万198)

 新大系本萬葉集に次のような指摘がある。

文字表現にも興味深い用法が見える。「望月」の表記「三五月」は、中国文学の知識に拠るもの。梁・王僧孺「月夜詠陳南康新有所納」の「二八人は花の如く、三五月は鏡の如し」(玉台新詠六)、陳の徐陵の楽府「関山月」の「関山三五月、客子秦川を憶ふ」などの例が思い浮かぶ。「慰もる」の表記「遣悶流」の「遣悶」は、二〇七にも所見。正倉院御物の杜家立成に「店に入りて杯を持ち、望むらくはそれ悶(うれへ)を遣()らむ」。……「たゆたふ」の表記「猶預不定」は、漢訳仏典に頻出する。「今菩提心を発すと雖も猶預不定」(大方等大集経十八)、「凡夫の心軽く猶預不定なり」(同上五十二)。「彼の人心猶預不定」(出曜経十五)。「心の物たる猶預不定」(同上二十八)。……「生ひををれる」の原文「生乎為礼流」。「為」は「また」の意で、上と同じ字が重なることを示すと思われる。「もころ」の原文、諸本「如許呂」。金沢本・広瀬本の「母許呂」に拠る。「もころ」は「如し」の意……→三五二七・四三七五。……「形見にここを」の「に」の原文「何」は、妙法蓮華経釈文・中に引用する玉篇逸文に「何…掲也、負也、今皆荷に作る」とあるように、本来は、担うの意であり、後に「荷」の字が代りに用いられるようになった。詩経・曹風・候人に「彼の候人は、戈と祋とを何(にな)ふ」とある。「何 ニナフ」(名義抄)。……「ここを」の「を」、原文「焉」は強意の助字。助詞「を」の表記ではない。→四六二・一三五六・一八〇九。(142~143頁)。

 この解説は「文字表現」(本来、「文字表記」とあるべきところ)のレベルのことを言っている。漢籍や仏典の書き方に倣って書いてある。文字を持たなかったヤマトコトバが漢字を文字に採用して使い始めているばかりなのだから、教科書的な表記でない表記があったり、教科書的以上の表記があることは、何ら不思議なことではない。ただそれだけのことであって、ねぇねぇ、このヤマトコトバはどう書いたらいいの? という素朴な問いに、こういうふうに書いてもいいんじゃないの、という答えがあってそう記されている。その工夫(?)をもって漢籍の知識があるということではない。

「三五月」

 漢文学の影響ではなく、自分の表したいことをいかに文字表記エクリチュールに落し込めるかという問題である。そこにどのような思惟があるかと言えば、メールの絵文字に似た感触がある。深い考えがあるわけではない。ヤマトコトバの「もちづき」を、「望月」(万167・1807)、「十五月」(万3324)ばかりでなく、「三五月」(万196)とも記してみた。なにゆえそう記したかったかについて考えることは、推測の域を出ることはないながら可能である。掛け算表記をした理由は、歌の内容において、当該箇所で用いる「もちづき」に、何かと何かが掛かっているからであろう。

 ……  しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず もちづきの いやめづらしみ 思ほしし 君と時どき 出でまして 遊びたまひし ……

 「鏡なす」について、茂野2019.は適切な見解を述べている。「「鏡なす」が規定する「見」の質は第一にこちらが見、鏡の映像もまたこちらを見返すという対面性・双方向性にこそ求められるだろう。……「鏡なす 見れども飽かず」も、互いに・・・向き合って飽き足らず見続ける、という生前の二人の様子を描写したものと理解され」(10頁)るとしている。そして、「「携はる」には二(以上)を行為主体として、彼らを主体とする別の行動ないし状況の描写を導く」ので、「一九六歌において「携はり」に後続して三連対を構成する「見れども飽かず」「いやめづらしみ」の行為主体が、皇女と夫君との二者として捉えられる」(7頁)と明瞭に解している。
 そのことは、さらに続く「君と時どき 出でまして 遊びたまひし」ことにもつながっている。仲良しカップルにあって個が溶解してしまう状態をうまく示している。すると、「鏡なす」鏡像関係は、皇女と夫君の見合うさまばかりでなく、「鏡」と「もちづき」との対照の意味にも発展しうる。すなわち、「いやめづらしみ 思ほし」ていることは、二人でしている。二人の顔が寄り添ってある。
二人の横顔があわさり満月に見える旧JISマーク
 満月をこのような二人の横顔と見た時、なるほど「もちづき」とは一つのものではなく、二つのものが掛け合わさっているものであると感じ取ることができるであろう。そのアイデアに添った表記が漢土にあると聞けば、ではここではそう表記してみようということになって然りである。この万196番歌の「もちづき」表現をもって「三五月」表記が行われたというわけである。一説にこの「もちづきの」を枕詞とする考えがあるが、「鏡なす 見れども飽かず もちづきの いやめづらしみ」という流れからして、いわゆる枕詞とは言えない。「鏡」も「もちづき」も円形にして輝いていて、ないしは反射していて、それはおそらく太陽光を反射しているに違いないと当時の人たちも知っていたであろうことを予感させるのであり、ともに二人一緒の行いを表している。

「猶預不定」

 「たゆたふ」については、村田2004.に、「「たゆたふ」という歌ことば自体が、人間関係の上に生起する現象についての表現といえよう。……「たゆたふ」と歌うことは妹や背に逢えないことの嘆きであり、ひとりきりになった心の状態を表すといってよかろう。」(134頁)とある。それを踏まえて茂野2019.は、「その心の状態とは、どこともつかず揺れ動いているのではな」く、「枕詞「大船の」はそうした心のあり様を空間的な動きによって表象し、その船の動きは皇女のもとへと幾度も行き来する夫君の行動に重なる。」(16頁)としている。殯において異変の常態化を理解していく過程でのとまどい、「異変を正面から受け止めつつも、ただちにはそれを認めることはできないという認知的不協和」、「「たゆたふ」心情のあり方」の「心理的矛盾」を「大船の たゆたふ」と形容している(18頁)と理解しているように見受けられる。
 上代語の「たゆたふ」の義について理解を深めなければならない。

 吾がこころ ゆたにたゆたに うきぬなは にも沖にも 寄りかつましじ(万1352)

 「ゆたにたゆたに」とあって、「たゆたふ」という語が副詞「たゆたに」と同根で、もとは擬態語に由来することを気づかせてくれる。岩波古語辞典に、「《タは接頭語。ユタはゆるやかで定まらないさま》」(829頁)とある。「辺にも沖にも」どちらにも「寄り」つくことがないというのは、「浮蓴」、すなわち、じゅんさいが波に揺られながら行きつ戻りつしていることを言っている。万196番歌の「…… 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば ……」は、宵の明星が夕方西の空に見えたかと思えばすぐに沈んでしまうことを毎日くり返しているのと同じように、大きな船がたゆたっていると言っている。大きな船が蓴菜のような寄せては返すことをしているとは、具体的にどのような動きか。小川の渡しに「大船」は使わない。「大船」は大海の渡航に使われる。出たとこ勝負で遣唐使船は東シナ海を横断している。

 大船の つるとまりの たゆたひに 物ひ痩せぬ 人の子故に(万122)
 大海に 島もあらなくに 海原の たゆたふ波に 立てる白雲(万1089)
 大船の たゆたふ海に 重石いかり下ろし いかにせばかも 吾が恋まむ(万2738)

 波のことや大船のことが表現されている。ここに、船の停泊方法に新時代の到来を予感させる。準構造船を寄港させる標準的な方法としては、ラグーンで座礁させる形式であった(注2)。潮の干満にしたがって安全に停泊することができた。その方法が廃れたわけではないが、別のやり方が行われている。万2738番歌にあるように、航行中は無理せずに碇を下ろして天候の回復や夜の明けるのを待つことがあった。同様に、接岸においても、港を浚渫して水深を確保したところへ「たゆたふ」形式で係留しておく方法を採るようになったと思われる。もやい船として留めておくのである。「もやふ」は、船が波や潮に上下するのに任せつつ、つなぎ留めておくことである。その場所を波止場はとばというのは、一定の大きさ以上の船を鳩に見立てて、鳩が枝などに止まって上下している様になぞらえた言葉である。紀には「あまの鴿船はとぶね」(神代紀第九段本文)とある。すなわち、「大船の たゆたふ」とは、波止場にロープで係留された大船が、喫水を保ちながらわずかばかりに上下左右前後動をくり返していることを言っている。
 夫君は「きの〔瓦偏に缶〕」に設けられた殯宮へ「か行きかく行き」をくり返している。それは、岸壁の大船の「もやふ」さまと同じようなものだと言うのである。絶対にそうであると言い切れるのは、殯宮とは「喪屋もや」のことだからである。船は、特に大船は、動くのなら大海を渡るように動くはずである。同様に、夫君もどこへでも歩を進めてかまわないのに、きっと他の女性も放っておかないモテ男なのに、ただ自宅←→喪屋を行ったり来たりしている。「きの〔瓦偏に缶〕」とは「きの」(万199)のことだから、単なる地名としてというよりも、古墳の墳丘上に殯宮が設営されていることをいうのであろう(注3)。まことに「舫ふ」様そっくりである。その様子を見るにつけて、「慰もる 心もあらず」と述べている。
 「たゆたふ」の表記が「猶預不定」である点は、指摘されているとおり漢訳仏典によるのだろう(注4)。それが確からしいとわかるのは、「天鴿船あまのはとぶね」に大船の姿を鳩に見て取っている点にある。鳩にもいろいろいるが、身近な鳩はドバトである。語の由来は堂鳩、塔鳩であるとされている。別名をカワラバト(瓦鳩)という。お寺の堂塔の瓦で羽を休めている。そんな鳩のような大きな船によって大陸と交流し、仏教は伝えられた。「たゆたふ」の漢字表記が漢訳仏典に出典とされて然るべしということになる。
 漢語の「猶預(予)不定」とは、モラトリアムのことを言う。この四字熟語をヤマトコトバの「たゆたふ」の表記に当てたのであり、その逆ではない。ヤマトコトバの「たゆたふ」は目に見える具体的な動きを言っていた。それを心の揺れ動きの形容に援用した。心象表現に形容したとき、はじめて「たゆたふ」はモラトリアムの意を獲得したということになる(注5)

「遣悶流」

 「なぐさもる」は、「なぐさむ」の自動詞形である。おのずからなぐさめになることをいう。名詞「なぐさ」は、「《ナグはナギ(凪)やナゴヤカ(和)のナゴと同根。波立ちを静め、おだやかにする意。サは漠然とした方向・場所・場合を示す接尾語》心の波立ちを静めるに役立つかもしれないもの。気休めのもの。」(岩波古語辞典975頁)である。大船の舫いに対応して、波を静めることである。それを「遣悶流」と書いている。煩悶を向こうへることだから義訓として成り立っているとされている。その考え方に誤りはないが、根拠とするには弱い。「大船」とあれば遣唐使船が想定されるから「遣」の字が出てきている。「ぐ」という語は「ながる」と同根の語と考えられており、今日でも嫌なことをうっちゃることを「投げる」、「投げやりになる」などと使っている。すると、投げ去ることをナグサの意ととることができ、「遣」一字にナグサとよむこともできそうな気がし、「悶」字の音はモ(ン)であろうから、「遣悶」でナグサモに当たっていると理解することができる。音と義とにわたって共通するからヤマトコトバの表記として正しいと考えられたものと思われる。
 こういう字並びを発見すると、漢文学からの影響に違いないと考えられて、正倉院御物にある杜家立成の「入店持杯、望其遣悶。」といった字句によると受け取られてしまう。想は得ていたかもしれないが、杜家立成の古訓点に、「店に入りてさかづきを持ち、望むらくは其れ遣悶なぐさもらむ。」とあるのかはなはだ心もとない。万葉集では、ナグサ・ナグサム・ナグサモルといったヤマトコトバに対して、今日、常訓と思われる「慰」字が使われることはなかった。どう書いたらいいの? という素朴な質問に、「遣悶」かな、と答えた異才がいたということかもしれない。筆者は、背景に、殯などに対する応じ方によるところがあったと考える。

 明日くるつひ[舎人王]みまかりぬ。天皇大きに驚きて、乃ち高市皇子・川嶋皇子を遣はす。因りてもがりみそなはしてみねしたまふ。百寮つかさつかさの者、従ひて発哀ねつかふ。(天武紀九年七月)
 癸巳、飛鳥寺の弘聰僧せぬ。大津皇子・高市皇子をつかはしてとぶらはしめたまふ。(天武紀九年七月)
 明日くるつひ、恵妙僧みうせぬ。乃ちみはしらの皇子をつかはしてとぶらはしめたまふ。(天武紀九年十一月)

 天皇は、皇子を代理として弔問させている。その意味は、喪主の心を慰撫するためである。「遣」は、天皇が皇子を、主人が家来を、社長が社員をお使いとして先方へ赴かせることである。本来なら自ら出向かなければ気持ちを十分に伝えられないが、いちいち対応しきれないから慣例上そういうことにしようとしたのではないか。「乙亥に、高麗人十九人、本土もとつくにに返る。是は後岡本天皇のみもに当りて、弔ひたてまつる使の留りて、未だ還らざりし者なり。」(天武紀九年十一月)、「新羅、……幷せて一吉飡金薩儒・韓奈末金池山等をまだして、先皇さきのみかどみもを弔ひたてまつらしむ。〈一は云はく、調使みつきのつかひといふ。〉」(天武紀二年閏六月)などとある。
 「弔使」という表記は、允恭紀四十二年十一月条にすでに見えるが、「遣」という字が兼ね使われているのは、欽明紀三十二年八月条の「新羅、弔使とぶらひのつかひ未叱子失消等を遣して、殯に奉哀みねたてまつる。」というのが早い。外国の使節以外では、孝徳紀白雉四年六月条の、「天皇、旻法師、命せぬときこしめして、使をつかはして弔はしめたまふ。……皇祖母尊及び皇太子等、皆使を遺して旻法師の喪を弔はしめたまふ。」が早い例である。
 すなわち、天武九年頃に、名代を立てて弔問する風が常態的に行われるようになったものと考えられる。 天皇の名のもとに弔意を表し、遺族の心を慰めようとはかっている。みょうだいという語は後代の言葉であるが、名の代わりであることに違いはない。しろという言葉は、令制以前、王族の名を冠してよすがとなるように、国造を通じての掌握から離れてその私有としたところや隷民をいう。「御名みなしろ」(仁徳記)などと見える。「しろ」は代わりのことを表すと同時に「しろ」のことも表す。「城」は奥つ、お墓のことだから、名代が弔問することはヤマトコトバの系のなかで正しいと納得される仕掛けになっている。そして、当該「明日香皇女挽歌」に、明日香皇女を明日香川とともに歌うことは、名代的に歌うこととなっている。名をネタにして歌を歌っていることは、ぐさにしていることである。墓碑銘に名を刻むことは、一人の人が確かに生きた証として、その死が統計ではないことを意味する。ここに、「遣」という字義は、弔問の名代の意味を表して、たとえそれが形式的なものに過ぎないにせよ、心についての用語、「なぐさ」なのだとわかるのである(注6)

「生乎為礼流」「如許呂」「焉」

 新大系本萬葉集に、「「生ひををれる」の原文「生乎為礼流」の「為」は「また」の意で、上と同じ字が重なることを示すと思われる。」とあったが、そういう解釈もできはするものの、また、ヲヲというヤマトコトバ、「唯唯をを」(神武前紀戊午年六月)は「をを」の意で謹んで承諾すること、「為」のことだから、「」を「」ること、よって、「乎為」と書いているのかもしれない。筆者の主張しているのは、ヤマトコトバをいかに漢字を使って表記したかということである。基本的スタンスとして、その逆のことは考えるには及ばない。
 「もころ」は諸本に「如許呂」ともある。「如」を「し」と訓むことに半分由来して、意味的にも「ごとし」のことだから、あるいは「如」だけでも「もころ」と訓めるけれど、親切にも続けて「如許呂」と記したとも考えられる。
 新大系本萬葉集の説明の最後、「「ここを」の「を」、原文「焉」は強意の助字。助詞「を」の表記ではない。」とある点はいただけない。次のような例もある。

 らがいへ やや遠きを ぬばたまの 渡る月に きほひあへむかも〔兒等之家道差間遠焉野干玉乃夜渡月尓競敢六鴨〕(万302)

 そもそもヤマトコトバの「を」が、どういう言葉なのか決め切れていない。助詞として考えられているが、格助詞、終助詞、間投助詞、また、係助詞との解釈もある。文法が先にあるのではなく、すでに人々に使われてあるのが言葉である。ヤマトコトバの「を」は、感動詞「を」(上述の「ヲヲ(乎為)」のような声)を出発点として起った間投助詞「を」から、他の用法の助詞へと派生したと考えられている。「を」を投入するかしないかは気分次第のようなところもある。「新治にひばり 筑波を過ぎて」(紀25)は、「新治 筑波過ぎて」で通じないかと言えば通じる。語調を整えるとともに、「を」を入れると対象化して確かならしめる作用、強意の意味が込められることになる。ヤマトコトバにおいて、文末に終助詞として考えられている「を」の例があって、同じような漢文に「焉」と強めて終っている文章を見つければ、ヤマトコトバの「を」に「焉」と書きましょうと思っても何ら不思議なことではない。また、「を」に「矣」を当てた例は五十例以上ある。
 くり返しになるが、筆者の強調したいことは、漢字の訓みがあってヤマトコトバを書いたのではなく、先行してヤマトコトバがあって歌が歌われ、それをどう書いたらいいか漢籍をアンチョコにしていたばかりであると考えなければならないという点である。したがって、万葉集の意味内容に漢文学の素地を求めることは、漢文学に由来する言葉が露になっている場合を除き、深掘りしても的外れなことになる場合が多い。

出典論の研究

 この万196~198番歌について、最近はあまりとり上げられていない漢文学との関係について検証しておく。小島1964.に、万196番歌の表現に中国文学の影響があるとの指摘がある。

 ……[文選五八、宋文元皇后]哀策文「南ソムキ国門、北ムカフ山園」の表現は、柿本人麻呂の次の歌にも関係する。
  何しかも、わが大君の、立たせば、玉藻のもころ、こやせば、川藻の如く、なびかひし、宜しき君が、朝宮乎賜哉、夕宮乎賜哉………(一九六)
 これは明日香皇女の殯宮をきのに立てた時の作。この「忘れたまふ」や「そむきたまふ」は、朝夕の御機嫌奉伺をした御殿をはなれる意であり、全体として皇女の薨去を示す句である。この「忘る」「背く」は、表現としてやや変つた感じを与へる。萬葉集新考は「背く」について右の哀策文に出典を求めるが、宋謝荘、黄門侍郎劉琨之誄にも「過建春闕庭、歴承明城輦」(芸文類聚四八、黄門侍郎引用)とみえ、このやうな哀悼に関する常套の類句によつて、ソムクの表現が新しく萬葉語として登場したものと思はれる。「忘る」はここでは「背く」の意と大差がない。「背く」が漢籍の飜訳語(飜読語)とみなせば、「忘る」もこれを更に応用したことばと云へるであらう。同じ人麻呂の、
  草まくら旅のやどりに誰がつまか国忘れ○○たる家待たまくに(四二六)
も、やはりこの種の「忘る」である。なほ哀悼文には、霊柩車の泉門への門出の形容として、車を牽く馬の悲しい声の描写がよくみられる。その一例、
  龍轜儼其星駕兮、飛旐翩以啓路、輪按軌以徐進兮、馬悲鳴○○○而跼顧(文選、潘安仁、寡婦賦)
  喪柩既臻、将魏京、霊輀廻軌、白骥悲鳴○○○○(同、曹子建、王仲宣誅)
  旌徘徊而北係、轜逶遅而不転、挽掩隧而辛嘶○○○○○○驥含愁而鳴俛○○○○○○(宋謝荘、黄門侍郎劉琨之誄)
 これらによつて考へると、巻十三挽歌の一つ、三野王を悼んでいななく厩舎の遺愛の駒をよんだ長歌「………なにしかも大分青馬あしげのうまのいなきたてつる」(三三三七)や、その反歌「ころもであしげの馬のいなく音こころあれかも常ゆけに鳴く」(三三二八)も、たとへ事実の描写であつたにしても、やはりその表現の暗示は漢籍の挽歌的な表現より得たのではなかろうか。」(900~901頁)

 「背く」というヤマトコトバの用法に違和感を覚えたらしく、「漢籍の飜訳語(飜読語)」ではないかと考え、「忘る」にも同様の傾向を見てとっている。さらには歌全体の「挽歌」なるものに、漢籍の影響があったと言及している(注7)。議論の導入にある「背く」や「忘る」について、新しい意味合いを持つようになったと考えることはできない

「背く」「忘る」

 「背く」には次のような例が見られる。

 …… 頼めりし らにはあれど 世間よのなかを 背きし得ねば …… (万210)
 …… 鳰鳥にほどりの 二人並び 語らひし 心背きて 家さかりいます(万794)
 恐るらくは、天勅すめらみことのみことのりに背きまつらむことを。(継体紀六年十二月)
 何ぞくにつかみに背きてあたしかみゐやびむ。(用明紀二年四月)
 わたくしを背きておほやけくは、是やつこらまが道なり。(推古紀十二年四月、十七条憲法)
 あに敢へていきほひを背かむや。(天武紀元年六月)
 日に背きて幸行いでましつる事、いとかしこし。(雄略記)
 甘露の味をそむかしめ、正法の流を失はしめ、(西大寺本金光明最勝王経巻第六)
 Somuqe, uru, eta. ソムケ, クル, ケタ(背け, くる, けた) 背を向けている……Somuqi, qu, uita. ソムキ, ク, イタ(背き, く, いた) 逆らい反する, または, 破り犯す.(日葡辞書572頁)

 古典基礎語辞典の「そむ・く【背く】」の解説に、「ソ(背、セの古形)とムク(向く)の複合語。 相手に対して自分の背中を向けること。また、その姿勢で相手から離れていくこと。相手を無視したり拒否したりする意思表明の動作にもなり、そこから、背反や叛逆の行動をすることをいうようになる。」(690頁、この項、須山名保子)とある。
 万196番歌の例は、「川藻のごとく 靡かひの 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや」という文脈にある。「朝宮」と「夕宮」を対句仕立てにしている。なぜ「宮」が出てきているか。それは、今や「殯宮」にあるからである。この表現が、

 朝宮を 背きたまふや 夕宮を 忘れたまふや

と逆転することは考えられない。「夕宮」で何をするか。床を共にする。そのとき背を向けることは、仲良しをしないということである。だから、「夕宮を背きたまふ」という言い方は、万葉的な大らかなセクシャリズムの表現として理にかなっている。「朝宮」で何をするか。おはようと挨拶をする。おはようの挨拶がないとは、起きてこないということである。だから、「朝宮を忘れたまふ」という言い方に不思議なところはない。セックスレスや感情的ないさかいから来った離婚の危機ではなく、死別が原因である。いずれの民族であれ、このような日常的な感覚は自ら育まれるものであろう。外国文化に基づく漢籍の飜訳語(飜読語)に依存してはじめて形成されたなどということはあり得ない。

「明日香皇女挽歌」は何が言いたいのか

 明日香皇女挽歌の第二反歌について、鉄野2016.は次のように述べている。「「明日香川」は皇女と「名」を共有し、「形見」となる点で、既に「喩」である。それを序詞的にも用いることで、二重に「喩」として機能させる。そのようにして「喩」たる常在の「明日香川」と、「被喩」たる不在の皇女とを緊密な一体として歌うことが、当該歌の企図であったと考えるのである。」(140頁)とある(注8)。この結論はある意味、当を得ている。
 我々はお悔やみの言葉、お悔やみの文章を知っている。「このたびは突然の訃報にふれ、驚いております。ご家族の皆さまのご心痛はいかばかりかと、言葉もありません。〇〇様はとてもお上品な方で、ご夫婦で仲睦まじくお散歩されているお姿を拝見しては心温まるものがございました。どうぞお気を強く持たれて、お心落しになられませんようご自愛くださいませ。心よりご冥福をお祈り申し上げます。」
 これは何を語っているのか。何か伝達すべき内容や果たすべき目的を持っている言葉かと言えばそうではなく、気持ちのようなものをただ述べている。気持ちのようなものというのは気持ちそのものではなく、その形式に当たる。では、浮ついた言葉なのかといえばそうではなく、社交辞令として重要なものである。社会には、このように社交の側面が内包されている。この社交性を突きつめると、いわゆる目的や内容は不在となる(注9)。明日香皇女と夫君は、「敷栲の 袖携はり 鏡なす 見れども飽かず もち月の いやめづらしみ 念ほしし」関係にあった。二人で(大)社会に対して何かを成し遂げようとしていたのではなく、二人の(小)社会に自適していた。すなわち、何か目的や内容を持った言葉が互いの間に発せられる必要がないほどに、ただ社交の満足に浸っていたと言えるのである(注10)。〄の満月は満足の表れであった。
 そんな折の突然の逝去に対する歌としてふさわしいものとは、二人の間の社交のありさまと同じようにして、あたかも入れ籠のように二重構造に歌を構成することである。特に何かを述べようとして言葉を使って表すのではなく、傍から見ていても二人の仲睦まじさがほほえましいものであったことを歌に交えるばかりである。言葉には何ら内実が込められていないようにしながら、それぞれの言葉の表面は辻褄の合うように帳尻を合わせた歌を歌うことが求められた。目には目を、歯には歯を、喪には「藻」を、「明日香皇女」には「明日香川」を、社交性には社交性を、で対処している。社交性の極致への要請に対して、人麻呂はよくかなえており(注11)、何も言わないためにだらだらべらべら喋っているのである(注12)

(注)
(注1)訓みは新大系本萬葉集140~143頁による。
(注2)拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」参照。
(注3)荷田春満・万葉童蒙抄に、「きがめは大和の地名也。その所にもがりの宮を作りて、もがりし奉りたると見えたり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913096/71)、井上通泰・万葉集新考に、「〓〔瓦偏に缶〕上殯宮は御墓の外に殯宮を営みしにはあらで〓〔瓦偏に缶〕上の御墓を新葬の程殯宮といひしなり。されば〓〔瓦偏に缶〕上殯宮之時は新葬于〓〔瓦偏に缶〕上之時と心得べし」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1225909/137、漢字の旧字体は改めた)とある。
 「もやふ」ことを言っているから「喪屋」であることは確かであり、もがりをしていたと考えられる。この「殯宮」はモガリノミヤであり、アラキノミヤとは訓まない。キノヘは地名というよりも、今日、古墳と呼ばれるところは、上代語につか、また、であり、その、小高いところのことを言っていると思われる。と呼んでふさわしいのは、墳丘の周囲に円筒埴輪が配されて山城にある防衛柵に見え、周濠を設けて防御を固くしているように見えたためであろう。飛鳥の地が開発されつくしてしまい、殯をするにも場所の確保が難しく、ふだんはいわば公園として遊び場になっていた古墳があり、生前二人が遊びに来ていたということではないか。
 〓〔瓦偏に缶〕という字が「缻」の異体字であるならば、ホトキとも訓む字である。ホトキとは、瓦器の胴が丸くて口のすぼまった容器のことをいう。ホトキの音の甲乙は仮名書きがなく知られないが、仏(ホトケ、ト・ケは乙類)と密接な関係にある語であろう。金銅仏が中空構造であるのは、ホトキと同じである。中に米を入れるところは、仏のなかに舎利を入れることと観念的に一致している。古墳時代、本邦に隆盛をみた墓制は、塚を築いてその中に中空の玄室を設けて棺を安置していた。さらに遡れば甕棺墓になる。中空構造のなかに遺骨を納める点を〓〔瓦偏に缶〕と記すことで表そうとしていたとわかるのである。
(注4)一切経音義に「猶豫 音由、説文、玃属也、一曰、隴西謂犬子猶、顧野王云、猶豫不定也、礼記云、卜筮所‐以決嫌疑定猶上レ預也、説文、従犬酋声也」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240629/247~248)とあり、玉篇によったものかもしれない。
(注5)したがって、ここでは、認知的不協和や心理的な矛盾を「たゆたふ」と表現してはいない。「大船の」様子を表すことで、同じような心の舫い感、もやもや感を伝えようとしている。
(注6)「なぐさもる」は自動詞で、おのずからなぐさめになる、の意である。この長歌に、主語の転換を解く議論があるが、不明のものが多い。「…… 大船 猶預不定見者 遣悶流 情毛不在 其故 為便知之也 ……」とある「遣悶流」の主語は明日香皇女の夫君であろう。故人のことが思われて仕方がなく、ご自身の気持ちも自然と穏やかになることはない、と言っている。すなわち、「猶預不定見者」を「たゆたふ見れば」と訓むのは誤りで、「たゆたふ見ゆれば」が正しいと考える。堂々巡りをしているご様子なので、おのずとなぐさめになるような心情ではございますまい、と歌っている。
 上代にはミユが活用語を受けて用いられる時、上に付く活用語が終止形になるという現象がある。

 春日野に 時雨る見ゆ 明日よりは 黄葉かざさむ 高円たかまとの山(万1571)
 さ夜中と 夜はけぬらし 雁が音の 聞こゆる空に 月渡る見ゆ(万1701)
 白栲しろたへの 衣の袖を 麻久良我まくらがよ 海人漕ぎ見ゆ 波立つなゆめ(万3449)

 「形状性用言」(石垣1955.217頁)、「助動詞的用法があったかと疑わせるが、未詳。」(古典基礎語辞典1163頁、この項、筒井ゆみ子)といった説明が行われている。李2015.がいう、「「見ユ」は「現ニ目ニ見エル」こと自体を表す」(79頁)ことを大前提として考えれば、「時雨零る」「月渡る」「海人漕ぎ来」のさまが確かなことで、よく見えていると言っているのであろう。その時の「見ゆ」の主語について、視覚的に存在する対象を形式的な主語とし、実質的な主語を一人称の「我」に帰着させて上代人の「自己中心性係数の高さ」(佐竹1975.480頁)という視点からも説明されている。しかし、形式的な主語を想定しているのは、「現ニ(誰ノ)目ニ(モ明ラカニ)見エル」ことを言っているのであって、それを代表して「我」を措いているに過ぎないと考えたほうがふさわしいであろう。
 形式主語の据え方の転換によって万196番歌を見渡せば、全三段構成であると考えられる。茂野2019.に倣って英語表記を加えておく。

 ➀明日香皇女ハ、(It was thought that Princess Asuka ……)
 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひなびける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひの 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へには 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時どき 出でまして 遊びたまひし 御食向かふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ
 ➁夫君ハ、(It was thought that Prince X ……)
 しかれかも あやに哀しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見ゆれば 慰もる 心もあらず
 ➂私ども参列者ハ、(It was thought that we ……)
 そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名にかかせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の 形見にここを

 ➀段落の「うつそみと 思ひし時に」の「思ふ」の主語は「我」ではないかとの指摘もあろうが、話が皇女の亡くなった後のことばかりになってしまっていたので、生前のことを語ろうとして話を転換しようとしている。時制の変更を行うためには、一端、第三者的視点から見直す必要があり、挿入句が持ち込まれているのである。……, by the way, when she was alive, ……の意味であるが、「うつそみ」という上代人ならではの言葉を使っている。〓〔瓦偏に缶〕が中空の器であったのに対して、その型に象られたもの、蝉の抜け殻に対する成虫の蝉のことである。拙稿「一言主大神について」参照。こういった修辞的形容のためには、成虫の蝉であることを確認する観察者がいて「思ふ」必要があり、挿入句主語表現が登場している。
 形式主語の転換が起きる箇所に、「然れかも」、「そこ故に」と、それまで述べてきたこと全体を指示する語が用いられて、聞く人にわかるように構成されている。➂段落では、何もしてさし上げられないので、お名前をもって追悼いたします、と歌っている。それが短歌二首にも反映されている。
(注7)彼の地では、「轜」は馬車仕立てで馬が牽いたかもしれないが、本邦に馬車の歴史は明治時代までない。牛が牽いていた。拙稿「轜車について」参照。

川藻

(注8)万198番歌に、地名の「明日香川」と人名の「明日香皇女」とがメビウスの輪のように歌い込まれている。万196番歌でも、「殯宮」なのだから、モガリなのだから、喪に服して詠んでいるのだから、「藻」が持ち出されている。拙稿「記紀万葉における「出雲」とは何か」参照。この点、研究者の言及は管見に入らない。人麻呂の歌がけっして不謹慎ではないのは、よすがを偲ぶことに良いも悪いもないからであるとともに、明日香川のなかに生えている「藻」を明日香皇女の姿態を偲ぶ形容にうまく展開していっているからである。
 なお、この第二反歌は解釈が定まっていない。別稿「明日香皇女挽歌の第二反歌(万198)について」で述べる。
(注9)ジンメル1979.に、「純粋な形態における社交は、具体的な目的も内容も持たず、また、謂わば社交の瞬間そのものの外部にあるような結果を持たないものであるから、社交はただ人間を基礎とし、その瞬間の満足─もっとも、余韻が残ることはあろうが─だけが得られればよいのである。」(74頁)とある。それ以上のことはない。
 ところが、万葉集正義に、「……人麿の美学は、明日香川を明日香皇女の形見としたところにある。明日香皇女なので明日香川と結び付けたのではない。明日香皇女の名によって明日香川が特別な川として現れたのである。そこには明日香川という美しい名の起源を、皇女の悲しい死によって語ろうとする人麿の態度がある。短歌にも繰り返されるのは、明日香川と明日香皇女とが一つの伝説となって記憶に残されることへの願いである。」(484〜485頁)などと転倒した論説が行われている。アスカガハという名は「美しい」のか、人麻呂は伝説化を希求して説話文学(歌の序文を含む)を展開しているのか、後に明日香川のことを明日香皇女によって語られた史実があるのか、そういった疑問に答えられるとは思われない。人麻呂は社交の歌を作り、その瞬間の満足以上のことを求めていないと考える。
(注10)柿本人麻呂は長歌を得意とした。彼は門付け歌人であった。セレモニーに呼ばれて長歌を歌いに出かけている。場を盛り上げる役割を担っている。マリノウスキー1967.のいう「言語交際 phatic communication」を熟知していた。「多くの人が寄り合って、とりとめもなく雑談を交すとき、何をと考えたらよいか。それはまさにこの社交性の雰囲気の中に存する。これらの人々の親しい交際という事実に存する。しかし、この雰囲気は実際、言語によって醸成される。そして、すべてかような場合の場は、言葉の交換により、陽気な集まりをつくる特定の感情により、または普通の雑談を成す言葉のやりとりによって創造される。全体の場は言語によって作られる。おのおのの言語表出は、何かしらある社会的情操の絆によって聴者を話者に結ぶ直接の目的に役立つ行為である。言語は、……この機能において、反省の道具ではなくして、動作の様式であるように思われる。」(406頁)。明日香皇女挽歌は、「場」の醸成のための動作の様式であった。
(注11)歌のなかに用いられている言葉と、その歌全体の枠組みとは、論理階梯が異なるはずである。しかし、無文字時代のヤマトコトバの達人たちは、いとも簡単にその両方を行き来する言葉づかいを成し遂げている。上代人はクラインの壺のように言葉を操った。なぜそのようなことをしたかは容易に想像できる。文字を持たない者同士が互いに言葉を正しく伝えるには、異様な厳密性が求められていたからである。言葉を発した瞬間にその言葉自体をその言葉が定義(再定義)するように仕組まなければ、相手の記憶に納得づくで留められないからである。記紀に伝えられている説話は話(咄・噺・譚)として要を得ている。要約されているのではなく、簡潔にして要を得ている。クラインの壺のように解読された時、はじめてそれらの説話は理解されて今日によみがえったということになろう。その時になってようやく、上代人の心性に近づいたと言える。
(注12)万葉集のこの類の歌を「どう読むか」についてであるが、ヤマトコトバの正確な把握なしに形而上学を巻き起こすことはあってはならないし、それをクリアして「読めた」と完了するものでもない。当然ながら、殯宮挽歌の風が途絶えたのは、何日にもわたる殯が行われなくなったからである。薄葬令や火葬化、古墳の終焉にあずかる事情である。万葉集の研究はその枠組みの自覚がまずは求められる。その先にわれわれが見なければならない射程は、言葉とは何か、という点であろう。なぜなら、記紀万葉の大半は無文字時代の言語活動であり、文字時代のそれとは根底的にはミッシングリンクだからである。はからずもこの「明日香皇女挽歌」は、言葉とは何かについて、視点として持つべきヒントを提供してくれている。われわれは「万葉学」、「上代日本文学」を「脱構築」(デリダ)しなければならない。

(引用・参考文献)
石垣1955. 石垣謙二『助詞の歴史的研究』岩波書店、1955年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
太田2004. 太田豊明「「明日香皇女挽歌」考─「話者」について─」『国文学研究』第142集、早稲田大学国文学会、2004年3月。早稲田大学リポジトリ http://hdl.handle.net/2065/43892
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 中─出典論を中心とする比較文学的考察─』塙書房、昭和39年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』 角川学芸出版、2011年。
佐竹1972. 佐竹昭広「「見ゆ」の世界─万葉調を支えるもの─」小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集3 萬葉集二』小学館、昭和47年。
佐竹1975. 佐竹昭広「万葉・古今・新古今」小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集5 萬葉集四』小学館、昭和50年。
茂野2019. 茂野智大「「明日香皇女挽歌」の視点と方法」『文藝言語研究』第76号、筑波大学大学院人文社会科学研究科、2019年10月。つくばリポジトリ http://hdl.handle.net/2241/00157972
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集一』岩波書店、1999年。
ジンメル1979. ジンメル著、清水幾多郎訳『社会学の根本問題─個人と社会─』岩波書店(岩波文庫)、1979年。
平舘1998. 平舘英子『萬葉歌の主題と意匠』塙書房、1998年。
平舘1999. 平舘英子「明日香皇女挽歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第三巻』和泉書院、1999年。
鉄野2016. 鉄野晶弘「明日香皇女挽歌第二反歌試解」『国語と国文学』第93号第11号(通号1116号)、東京大学国文学会、平成28年11月。
土佐2022. 土佐朋子「「明日」と「万代」─柿本人麻呂「明日香皇女挽歌」第二短歌の解釈─」『京都語文』第30号、2022年11月。佛教大学論文目録リポジトリ https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_KG003000011420
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
マリノウスキー1967. ブロニスロー・マリノウスキー「原始言語における意味の問題」C・K・オクデン、I・A・リチャーズ著、石原幸太郎訳『意味の意味』新泉社、昭和42年。
万葉集正義 万葉集正義編集委員会編『万葉集正義 第1』八木書店、2024年。
村田2004. 村田右富実『柿本人麻呂と和歌史』和泉書院、2004年。
李2015. 李長波「上代語の「見ユ」とその活用の展開─活用形と助動詞との接続を中心に─」『同志社大学日本語・日本文化研究』第13号、2015年3月。同志社大学学術リポジトリ http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013976

2023.7.12改稿初出2024.10.31加筆

明日香皇女挽歌の第二反歌(万198)について

 柿本人麻呂の明日香皇女挽歌の第二反歌、万198番歌は解釈が定まっていない。長歌(万196)に対する反歌だから、同じ事柄を別の角度から見て歌って全体で大きなまとまりとなっていると捉えられなければならない。

 明日香川 明日あすだに〈一に云ふ、「さへ」〉見むと 思へやも〈一に云ふ、「思へかも」〉 大君おほきみの 御名みな忘れせぬ〈一に云ふ、「御名忘らえぬ」〉〔明日香川明日谷〈一云左倍〉将見等念八方〈一云念香毛〉吾王御名忘世奴〈一云御名不所忘〉〕(万198)

  明日あす香皇女かのひめみこきの〔瓦偏に缶〕の殯宮もがりのみやの時に、柿本朝臣かきのもとのあそみひと麻呂まろの作りし歌一首〈短歌をあはせたり〉
➀明日香皇女ハ、(It was thought that Princess Asuka ……)
 飛ぶ鳥の 明日香あすかの川の かみに 石橋いしばし渡し〈一に云ふ、「石なみ」〉 しもつ瀬に 打橋うちはし渡す 石橋に〈一に云ふ、「石なみに」〉 ひなびける たまもぞ 絶ゆればふる 打橋に ひををれる 川藻もぞ 枯るればゆる なにしかも 大君おほきみの 立たせば 玉藻のもころ やせば 川藻のごとく なびかひの よろしき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮ゆふみやを そむきたまふや うつそみと 思ひし時に 春へには 花折りかざし 秋立てば 黄葉もみちばかざし しきたへの 袖たづさはり かがみなす 見れども飽かず 望月もちづきの いやめづらしみ 思ほしし 君と時どき 出でまして 遊びたまひし 御食みけかふ きのの宮を 常宮とこみやと 定めたまひて あぢさはふ ことも絶えぬ
➁夫君ハ、(It was thought that Prince X ……)
 しかれかも〈一に云ふ、「そこをしも」〉 あやにかなしみ ぬえどりの 片恋づま〈一に云ふ、「しつつ」〉 朝鳥あさとりの〈一に云ふ、「朝霧あさぎりの」〉 かよはす君が 夏草なつくさの 思ひしなえて 夕星ゆふつづの か行きかく行き 大船おほぶねの たゆたふ見れば なぐさもる 心もあらず
➂私ども参列者ハ、(It was thought that we ……)
 そこゆゑに せむすべ知れや おとのみも 名のみも絶えず 天地あめつちの いや遠長く しのひ行かむ 御名みなにかかせる 明日香あすかがは 万代よろづよまでに はしきやし 大君おほきみの かたにここを(万196)
  短歌二首〔短歌二首〕
 明日香あすかがは しがらみ渡し かませば 流るる水も のどにかあらまし〈一に云ふ、「水のよどにかあらまし」〉(万197)

 諸注釈書で解釈に相違が生まれている。膨大な研究史をとり上げることはここでは控え、近年の研究を参考にして問題点を整理しておく(注1)。第一に、「見む」の目的語を明日香川ととるか、皇女ととるか、第二に、「明日だに」をどう捉えるか、「今日と同様、明日までも」「将来はともあれ、明日だけでも」「今日は駄目でも明日は」「将来でなく明日にでも」など、第三に、「見む」の「む」をどうとるか、「見るだろう」「見たい」、第四に、「やも」(「かも」)を反語や疑問として文意にどう反映させ、反語とした場合、そこで切れるか、下に続くか、第五に、「御名忘れせぬ」(「御名忘らえぬ」)をいかに解するか、といった問題点があげられている。
 拙稿「 「明日香皇女挽歌」について─特異な表記から歌の本質を探って─」で論じたように、反歌は長歌の第➂段落を承ける形で展開したものである。その証拠に、二首とも、➂段落で歌った明日香川という固有名詞で歌い出している。➀段落では「明日香川」と言っていて、必ずしも固有名詞化していない。そして第二反歌では、「吾が大君の御名忘れせぬ(御名忘らえぬ)」とあり、➂段落の「御名」、「吾が大君」という言葉を再び登場させている。「吾が大君」とは亡くなった明日香皇女のことを指す。その名を「御名」と呼んでいる。「吾が大君」と呼びかける立場は夫君ではなく、われわれ参列者である。つまり、アスカノヒメミコという名前を私たちは忘れない、という意味のことを歌にしている。
 第一の問題点、「見む」の主語は私たちである。歌が歌われているのは殯の席である。最後のお別れに明日香皇女のお顔を拝みに来た。その死顔を「明日」見ようという発想はありえない。彼女がよみがえることを祈念し、逢いたいと思うと考えることは、親族の、特に夫君の立場から歌うのであればないことはないかもしれないが、そのとき「念へやも」と反語になることはない。あくまでも私たちが「見む」のであり、目的語は明日香川に決まっている。「明日だに」という言い方が珍しいからといって不思議がることはない。殯は今日的にいえばお通夜だからである。夜間に木〓〔瓦偏に缶〕殯宮に集っていて、木〓〔瓦偏に缶〕では篝火が焚かれている。明日香皇女に名にゆかりがあると歌ってきた明日香川は、そこから離れていようがいまいが、今日、いまから見に行くことはない。行っても暗くて見えやしない(注2)。だから焦って今日これから見に行くことはせず、明日香川の名にちなんで明日、明るくなってから見に行くことが期待され(注3)はするが、馴染みの川でよく知っている。「見む」の主語は一人称の私たちなのだから、助動詞「む」は話し手の意志や希望を表している。明日見に行こうと思うかといえば、知悉していて特にその必要性を感じないから思うことはない。だから「やも」と反語で語っている(注4)。周知の場所の周知の言葉であり、「明日香」の「御名」は忘れたりしないものである。それを「忘れせぬかも」と歌っている。「忘れ」は連用形名詞、忘れること、の意である。「せ」はサ変動詞の未然形、「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形で係り結びになっている。

 明日香川 明日だに見むと おもへやも 吾が大君の 御名忘れせぬ(万198)
 明日香川を、今日は暗くて行っても見ることはできませんから一番近い将来である明日こそ、明日香川というだけに、見ようと思うか、いやいや思いません。なぜなら誰もが十分によく知っていますから、われらが大君さま、明日香皇女さまのお名前を忘れることなど決してございません。

(注)
(注1)鉄野2016.、土佐2022.にまとめられている。
(注2)松明行列を組んで今から出掛けようと企画したりはしない。柿本人麻呂は門付け歌人であって広告代理店ではないし、しめやかな儀式を台無しにして夫君の気持ちを逆撫でするようなことはなかった。
(注3)土佐2022.に、「「明日だに」という異例の表現をとっていることから、この作品が「明日香皇女」の「名」に着想を得た言語遊戯の貫徹を意図していることが窺われる。」(60頁)とある。そのとおりであるが、「だに」は実現されていない事柄について、希望を最小限に限定することで話者の実現に対する願望の強さを表す語である。「すべてを譲った最小限のものや状態を指示し、それ以外を暗示する」(時代別国語大辞典433頁)ものである。時間的に言えば、最接近のところを指示するはずで、「今日だに」、「よひだに」と現在に接続する例が見られている。そんななか、「明日だに」という例外である。言語遊戯を貫徹しようとしているというよりも、それを言語遊戯というのであるし、「今日だに見む」、「よひだに見む」とならない理由は、通夜の後で真っ暗ななか出掛けて行っても見えるはずはなく、誰も思念さえしないからである。
(注4)土佐2022.は、「「吾が大王の御名忘れせぬ」が「明日香川明日だに見むと思へやも」に並列して続けられるという構造になっていると考えられる。「明日香川」という地名から連想される「明日」という限定的な時間を過剰に否定してみせることと、永遠に皇女の名前を忘れない意志の表出とを、並列して組み合せた構成になっている」(65頁)としている。明日だけでなく永遠にという意を汲み取ろうとしているが、明日も明後日も明々後日も「見むと思へやも」と言うことはできるであろう。ただし、そうなるとアスカのアスという音に焦点を当てることは失われ、「御名」とは無関係な言述になり、「だに」と締めることもできない。なお、「忘れせぬ」に意志の表現は見られない。
 上代の「やも」については、佐佐木2014.の整理がわかりやすい。

 ……「…活用語已然形+や」と、その末尾の「や」が「やも」となった形式は、『古事記』『日本書紀』『萬葉集』の歌および『続日本紀』の宣命に、合計して六十四の実例がある。それらの具体的な用法は、已然形と「や/やも」との結合が文のどの位置に現れるか、という視点から次の三種に分類できる。
 Ⅰ「活用語已然形+や(/やも)」が文末に位置し、そこで終止した文が明瞭な反語となるもの。
 Ⅱ「活用語已然形+や(/やも)」が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって信じがたい事態や現象が現実・事実として描写されるもの。
 Ⅲ「活用語已然形+や(/やも)」が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって不本意な事態や意外な事態が推量のかたちで提示されるもの。
 右の三種に属する六十四例のうち、「海人なれや」と同様に末尾に「や」とだけあるものを、一例ずつ『萬葉集』から引用しておく。
 1 慰むる 心し無くは 天さかる ひなに一日も あるべくも安礼也あれや〔十八・四一一三〕
 2 雪こそは 春日消ゆらめ 心さへ 消え失せ多列夜たれや 言も通はぬ〔九・一七八二〕
 3 しましくも 一人ありうる ものに安礼也あれや 島のむろの木 離れてあるらむ〔十五・三六〇一〕
 これら……三種のどれもが明瞭な反語を表す。已然形と「や」とが結合した部分は、そろって作者にとって意外で信じがたいことであり、だからこそその部分は結果的に強い反語となる。已然形と「や」とが結合し、反語で文が終止したあとにまだ表現が続く2と3のような例では、反語のあとにくる表現は、現実を描写したり現実を推量したりするものになる。2の「言も通はぬ」は現在の事実であり、3の「(なのに、どうして)島のむろの木離れてあるらむ」は現実に対する推量である。(30~31頁)
 「已然形+や(やも)」……六十四例のなかには、[已然形+や]が四十八例含まれている。しかし、その場合の「や」はすべて反語の助詞であり、ほかにも已然形と感動の「や」とが直接に結合した確実な例は一つもない。(33頁)(以上、字間、改行、注については適宜改めた)

 「明日香川明日だに見むとおもへやも」と訓読する限り、その表現は反語であってそこで切れる。後につづく「吾が大君の御名忘れせぬ」は現実を描写したものである。都が明日香にあって宮廷人はそこに暮らしている。明日香川を目にするなと言われても目につき、その名はいつまでも明日香川である。あまりに卑近だから、明日香皇女の名前を忘れようにも忘れることなどない。当たり前のことを言っている。
 しかし、鉄野2016.はこのようには解していない。他の反語の歌の例などを見ながら論述しているが文法の理解が覚束ない。鉄野氏のあげている例に即して検討する。行論の都合上、注釈書の心許ない現代語訳も掲げる。

 の山に ただに向へる いもの山 ことゆるせやも 打橋うちはし渡す〔事聴屋毛打橋渡〕(万1193)
 背の山に真っすぐに向かい合っている妹の山は、相手の言葉を聞き入れたのであろうか、板橋が掛け渡してある。(新大系文庫本(二)263頁)

 鉄野氏は、結びで言われているのは現状に即したことで、「打橋が渡してある」のは見たままであろうとしつつ、「上下の事柄は(奇妙なことに)原因─結果の順接で結びつく。「妹の山が承諾したから─打橋が渡してある」……。その間に、「そうではないのに」「そんなはずはないのに」といった気分が挟まるのである。」(133頁)としている。
 少し誤解があるようである。已然形と「や」とが結合した部分は、作者にとって意外で信じがたいことであり、だからこそ結果的に強い反語となっている。反語で文が切れたあとに表現が続いており、それは現実の描写である。この両者を絡めて因果関係や並列関係と捉えると、反語表現にした主旨が失われてしまう。土佐2022.では、「妹山と背山を隔てる紀ノ川にある船岡山を打橋に見立てるという発想からして、旅先での宴会における座興を目的としていることを窺わせる。「事聴せやも」は、「え、ほんとかい」とか「それでいいのかい」という妹山をからかう気分で発せられた言葉であろう。一首の訳としては、「妹山は背山を受け入れるつもりになったのかい、あれれ、そうなの、打橋なんか渡しちゃって」となると思われる。」(64頁)とする。「こと許せやも」が投入された形であることはそのとおりであり、一・二・三・五句目は現実のことを述べていると考えられる。紀ノ川に実際に橋がうち渡されている。そして、「こと許せやも」は、許したのか、いやいや許していない、という反語の意から逸れることはない。已然形と「や」とが結合した部分と、反語のあとにくる表現とは別次元なのである。
 背の山に真っすぐに向かい合っている妹の山は、相手の言葉を聞き入れたのであろうか、いやいや聞き入れたりはしていない。(そんなことはお構いなしに現実の世界では)板橋が掛け渡してある。

 しらゆみ いその山の 常磐ときはなる いのちなれやも 恋ひつつらむ〔命哉戀乍居〕(万2444)
 (白真弓)石辺山の永遠の大岩のような命でもないのに、長恋を続けるのだろうか。(新大系文庫本(三)265頁)

 反語で文は切れる。そのあとにつづく表現は現実を推量している。反語の部分は、作者にとって意想外のことを持ち出し、それにつづく現実的、世俗的なこととを対比させて大袈裟なもの言いとなっている。白真弓を射る、そのイ・ソベ山にある大きな岩のように永遠にある命なのであろうか、いやいやそんなことはない。(その条理とは無関係に)ずっと恋しく思いつづけるのはどうしてなのだろうか。(あなたに逢いたい。)
 壮大な前半部分と、矮小な後半部分とを同次元に混ぜて解しては誤解を生む。反語は乗りツッコミである。……か? いやいやあるわけないやろ、そんなん、の意である。それを前段に定理のように言っておきつつ、身の回りの出来事との間に齟齬があることを強調する。だから、どうしてそうなっているのかと推量している。むろん、その推量の末に理解できるような答えが控えているわけではない。あえて言うならその答えは恋する相手の魅力にこそある。自らの推量を相手に投げかける形で告白している。高度なお笑い技術である乗りツッコミ部分と地の部分とは別次元のもの言いだから、同次元に引き延ばして解してはならない。わざわざ反語にして飛躍させた効果がなくなってしまう。

 朝ゐでに 来鳴きなくかほとり なれだにも 君に恋ふれや 時へず鳴く〔汝谷文君丹戀八時不終鳴〕(万1823)
 朝の井堰(いせき)に来ては鳴くかお鳥よ。お前までもあの方を恋い慕うのか、鳴きやまないのは。(新大系文庫本(三)111頁)

 鉄野氏は、「かほ鳥は君のことなど知らないはずなのに、そのかほ鳥さえ君を恋しがっていつまでも鳴いている、」(136頁)と解している。この歌は、挿入句を入れ込むことで思いを表現している。「なれだにも君に恋ふれや」が挿入部分である。一・二・五句目は現実そのままの描写であった。平叙文に投入句があるものと見なされる。朝のせきに来ては鳴くかお鳥はいつまでも鳴いている。かお鳥よ、お前さえも君のことを恋しがるのか、いやいやそうではないのに、の意である。挿入部分は作者の想念を、それ以外は事実を述べている。作者が「君に恋ふ」ているという内心は、かお鳥の気持ちを推測する(推測しそこなう)想念を述べることではじめて垣間見えている。作者は「君に恋ふ」ているがそのことを事実としては述べず、かお鳥は「君に恋ふ」ているのか、いやいや「恋ふ」てはいない、などと余計なことを言うことによって自らの内心を露わにしている。かお鳥が鳴きやまないのはかお鳥の勝手であり、君を恋しがって鳴いているとは歌っていない。
 反語表現の部分と、それにつづく現実や推量の表現とを、同列、同次元に据えたために誤解が生じていた。

(引用・参考文献)
佐佐木2014. 佐佐木隆「『海人なれや、己が物から泣く』─上代語の表現─」『学習院大学文学部研究年報』第60輯、学習院大学文学部、平成26年3月。学習院学術成果リポジトリ http://hdl.handle.net/10959/3792
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。『同(三)』、2014年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集一』岩波書店、1999年。
鉄野2016. 鉄野昌弘「明日香皇女挽歌第二反歌試解 」『国語と国文学』第93巻第11号、平成28年11月。
土佐2022. 土佐朋子「「明日」と「万代」─柿本人麻呂「明日香皇女挽歌」第二短歌の解釈─」『京都語文』第30号、2022年11月。佛教大学論文目録リポジトリ https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_KG003000011420

加藤良平 2023.7.15初出

「大君は神にしませば」歌(万4260・4261)の語用論的解釈

 万葉集には「大君は 神にしませば」という歌詞を上二句とする歌が全部で六首ある。オホキミは現天皇、皇子、諸王を指すから、天皇を神として考えていたのではないかとする考えが通行している。「いずれも下三句にうたわれる行為を人為を超えた神ゆえの偉業として称揚し、「大君」を賛美する」、「大君は神でいらっしゃるので、の意。」(『万葉神事語辞典』)であるとされている(注1)
 この考え方は完全に誤っている。「大君は 神にしませば」とは、大君はお亡くなりになって神となられているので、または、大君は棺桶に片足突っ込んで神化されておられるので、の意であると筆者は考える(注2)。本稿では製作時期として最も古いとされる二首を取りあげ(注3)、歌われたもの、発話されたものとして語用論的に読み解いていく。

  壬申の年の乱の平定せし以後のちの歌二首〔壬申年之乱平定以後歌二首〕
 大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居たゐを 都と成しつ(万4260)〔皇者神尓之座者赤駒之腹婆布田為乎京師跡奈之都〕
   右一首は、大将軍贈右大臣大伴まへつきみの作〔右一首大将軍贈右大臣大伴卿作〕
 大君は 神にしませば 水鳥の すだくぬまを 都と成しつ〈作者未だ詳らかならず。〉(万4261)〔大王者神尓之座者水鳥乃須太久水奴麻乎皇都常成通〈作者未詳〉〕
   右のくだりの二首は、天平勝宝四年二月二日に聞きて、即ちここに載す。〔右件二首天平勝宝四年二月二日聞之即載於茲也〕

 壬申の乱が終わった後に作られた歌二首である。一首は大将軍贈右大臣大伴卿、もう一首は作者未詳の歌である。通説では「大君」を天武天皇のこと、「都」は飛鳥浄御原宮、または、早くから構想されて後に営まれた藤原宮のことと考えられている。しかし、そうではあるまい(注4)。新京を讃美するための歌ではない。

 大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居たゐを 都と成しつ(万4260)

 壬申の乱に功績があった大将軍が歌を作る場合、自らの功績と絡めて歌にすることはあっても、それ以外のことに関して歌作するとは考えにくい。右大臣を贈られている大伴卿は、大伴家持の祖父安麻呂の兄御行であるとされている。その大伴卿が歌を作ってかまわないが、歌の趣旨からその名前を伏せられ、わざわざ「大将軍贈右大臣」と記されている。軍功に関わらないのなら、「右一首、大伴御行卿作」で十分であり、「壬申年之乱平定以後歌」と断る必要さえない。壬申の乱のことを語りたいがための題詞や左注である。そういう前提で考えと、この歌にある「都」は近江大津宮のこと、「大君」といえばすでに亡くなって「神」になっている天智天皇のことととるのが妥当である。生前に飛鳥の地を離れ、むりやりに近江へ遷都していた。
 それを前提に読み直してみると、「赤駒」が「田居」に「腹這ふ」ということは、「大将軍」が騎乗するべき馬が進まなくなってしまい、打ち棄てられて農耕馬と化したことが照らし出される(注5)。もちろん、想念においてのことである。乗馬と農耕馬は何が違うか。駿馬か否かという、使ってみなければわからない品定めの話ではない。一見してわかることとして、装着しているものが違う。農耕馬には無骨な風情の荷鞍を置く。さらにわかりやすい違いはあぶみを着けないところである。騎乗しないから人が足をかける部品を着ける必要がない。大将軍は鐙に足をかけて騎乗していたが、泥田に足をとられるようなところで進まなくなって乗り捨てた。結果、せっかくの駿馬の「赤駒」が「田居」に使役される農耕馬となってしまった。そんなくだらないところを都としていた愚かな時代であったと言っているわけである(注6)
 なぜそれがおもしろいのか。それは、アブミ(鐙)がアフミ(近江・淡海)という音に通じるからである。不要となったあぶみを打ち棄てた場所に都の資格を与え、近江あふみの宮と命名していた。天智天皇の時代であった。大将軍である我、右大臣大伴卿は鐙に足をかけて壬申の乱に戦い、勝利し、都が置かれるのにふさわしい飛鳥の地へと戻ることができた、と誇っている。「大将軍」にしか歌えないユーモアあふれる名歌である。
 二首目は作者未詳の歌である。一首目の趣向にあわせて追和された歌であろう。都がどこのことなのか明示しないまま謎掛けとし、また、その都はもとは湿地であったところという点でもオーバーラップしている。

 大君は 神にしませば 水鳥の すだくぬまを 都と成しつ(万4261)

左:蹼(堀田禽譜、水禽 かもめ、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0063729をトリミング)、右:瑞垣(春日大社)

 「水鳥」が「すだく」、つまり、集まり騒ぐような「水沼」であるところを、かつて都としたことがある、という歌である。他の野鳥、例えばムクドリの集まりと水鳥の集まりとは何が違うか。最大の違いはその場所である。樹の上ではなく「水沼」に集まっている。水鳥はみづかきを持っている。ミヅカキ(蹼)はミヅカキ(瑞垣)という音に通じる。垣根をめぐらせているのが宮の本性である(注7)。両者のカキの形や色をよく観察すると、よく似ていることに気づくであろう。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
 瑞籬 日本紀私記に瑞籬〈俗に美豆加岐みづかきと云ふ。一に以賀岐いがきと云ふ〉と云ふ。(和名抄)
 蹼 爾雅集注に云はく、蹼〈音は卜、美豆加岐みづかき〉は鳬鴈の足の指の間に幕有りて相連なり著く者なりといふ。(和名抄)

 「水鳥の すだく水沼を 都と成し」たような都とはどこのことか。人々に記憶されて伝えられているところがある。崇神天皇が都した城瑞きのみづかきのみや(師木水垣宮)である。名に負うほどに確実なところである。「大君」とはすでに亡くなられて「神」となっている崇神天皇のことになる。前の万4260番歌と趣向が同じ歌であり、天平勝宝四年二月二日にその歌を聞いたので、大伴家持はともどもに載せることにしたのであった。

 以上のような歌の解釈の仕方は、言語学ではどのように位置づけられるのだろうか。
 歌においてウィットある謎掛けを言っているとする解釈は、通説よりも理解のための処理労力(processing effort)が少なくて済んでいる。関連性理論(relevance theory)からはこれが妥当な理解ということになる。通説では、「大君」というのだから生きている天皇等のことを指すはずで、それが「神」であるというのは矛盾するから天皇即神の思想、天皇が神であるという考えを歌っていると捉えていた。こじつけの屁理屈である。仮にそれが正しいとしても、そのような歌が歌われたら、当時の人のなかに疑問を持つ人が出てきたであろう。そのような場合、歌い手はこうこうこういうことを言っているのだ、と説き伏せていたということになってしまう。
 歌は一回歌われて人々の間になるほどと思われて受け容れられたものである。口頭で行われる芸術であり、文字を持たない人たちに享受されていた。歌の理解に難があっては、もはやその歌に芸術的価値はない。すなわち、人々の間に浸透することなく終ったであろう。歌は説教ではない。主張を大仰に振り回すものではなく、機知を活かして個別具体的に歌い回すものである。三十一音程度の言葉だけで円滑なコミュニケーションが取り結ばれ、その結果として万葉歌は残っている。コミュニケーションテクストをヤマトコトバに即して(則して)解釈する必要がある。
 検討の対象は歌である。発話の現場が再現可能なように万葉集では題詞と左注を伴って記録されている。状況設定として「壬申年之乱平定以後歌二首」、「右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作」というフレーム(スキーマ)が与えられている。壬申の乱後に大将軍であった人が唯一無二に歌ったものとして当てはまらなければ、何のために題詞と左注を付しているかわからないことになる。乱後に飛鳥浄御原宮や藤原宮を作ったとする歌なら、大将軍にして贈右大臣とされた人が歌う必然性がない。そしてまた、歌の内容は、声で聞いてすぐにその場でわからなければ用をなさない。声は消えていくもので二度と耳にすることはない。書いておいたからといっていつでも復元できるというものでもない。現に大伴家持は天平勝宝四年(752)までこれら二つの歌を知らなかった。壬申の乱(672)から八十年も経過している。「大将軍」の歌は、歌われた時に聞き手の心に届いていたものであろう。「大君は 神にしませば」と聞いて、ああ、亡くなられた大君のことだなとすぐにわかった。そして、結句に「都と成しつ」と完了形に表されており、すでに終わった過去のこととして語られている。建設途上や運営中の「都」について、「と成しつ」と突き放した言い方はなされない。
 万葉集の歌は、その時代に、ある特定の公開された場所で現実に歌われたものである。ただしそれは、発話、発表の場ではあっても、論説、講話の場ではなかった。聞いた相手に新規に訴えかけるためのものではなく、相手がすでに思い描きながらも言語化される一歩手前にあるような曖昧な事柄を言葉に結晶化させることにより、なるほどと思わせるものとして機能していた。その“なるほど”化作用をもって歌は歌われるに値した。結果、歌い手、聞き手が互いに持ち合う形で歌は成り立ち、結果、万葉集に記録されている。発話を研究の対象とするのだから、語用論のもとに解釈されなければならない。用いられている言葉について、語義を厳密化させてそれ以外とを区別するのではなく、記号化された概念とコンテキストの相互作用から生じる膨らみを持つものとして見渡していかなければならない。発話解釈のために関連性理論のもとで捉え直す必要があるのである。歌に歌われる言葉について、表意(explicature)ばかりでなく推意(implicature)についても逐次検討していくこと、そのためには当時の人々がどのような百科事典的知識(注8)をもっていたか見極めること、それらを通じてようやく真相に近づくことができる。歌が発話されて媒体として成立し、保持される根拠はそこにあったからである。
 今日万葉集の歌を理解できたと言えるのは、われわれが万葉集に書いてあるその歌を読んでみて、作者が伝えたいと思っていた意味を、受け手である当時の聞き手がどうしてわかったのかまで理解された時である。けっして歌い手のモノローグではない。現代人の解釈規準を持ちこんで万葉集から何事かを得たと錯覚して主張することは許されない。そして、きちんと理解した暁には、その場に自足してたたずむことが長期に渡るであろうことは予想される。なるほどとわかることは、なぜ発話されたのか、話自体(歌自体)の意図を知ることであり、それはすなわち、話のすべてを知ることだからである。付け足すことなど何もない。よって、万葉集の研究は、学問的な姿勢としては訓詁学的な態度をとることが正しいことになる。「読めた」に尽きるのである。
 万4260・4261番歌のおもしろさはウィットある謎掛けにあった。万葉集には掛詞、序詞、枕詞など、巧みな修辞が所狭しとくり広げられている。言語を使う際に創造的能力が発揮されており、広い意味での言葉遊びが張りめぐらされているのである。狭い意味での言葉遊びが湧出しているであろうことは言語表出の傾向として当然である。メッセージそのものを躍り出て、メッセージそのものに焦点が当たってメタ言語的な言及が行われ、それがメッセージの次元と相俟って、“なるほど”化作用を引き起こす。だから味わうのにおもしろい。そのことは当該コミュニケーションの厚みを増すことにつながり、発話形態である歌において自らを確かなものとする有効な手段であった。歌われるものとしての歌、無文字時代のコミュニケーションの場における歌とは何かについて、それらの歌は多くのことを教えてくれている(注9)。既存の研究のパラダイムは刷新されなければならない。

(注)
(注1)現在の通説的見解については菊地2006.参照。いくつかあげておく。
 伊藤1996.に、「大君は神にし坐せば」は「天皇の絶対の権力を示す慣用句。」(32頁)、折口1996.に、「饗宴に於いて、天子を讃美する歌の類型として、「大君は神にしませば」があつた……。天子は神だからと言ふ事を、真向から歌つてゐるのではない。天子は人間だが、こんな事をなさる、と言ふ一つの証明法を文学の上で用ゐて、其を列座の人の興奮を誘ふ中心に置いたのである。」(271頁)、神野志1992.に、「「うつせみ」の人ならざるごとくだという驚嘆を、「神」をもちだして、「おほきみ」(「うつせみ」の側のもの)と「神」という、本来つながらないものをつないで、「大王は神にしませば」という表現にしてみせたのだと考える。「神にしませば」を承けるのは、あくまで現実的具体的なことがらである。」(175頁)とある。また、西郷2011.には、「馬や水鳥たちのものであった田園の風景を都城に作り変え、かつて見たこともないような国家的景観を建設しようとしている専制君主を儀式的にたたえたものに外ならない。」(139頁)とある。この言説はそれ自体においてさえ無理がある。今日に残る大仙陵古墳(仁徳天皇陵)や斑鳩寺(法隆寺)や水城(福岡県)を見学すれば、「かつて見たこともない」と驚き讃えられるものではないと知れる。
(注2)天智天皇と崇神天皇を持ち上げているところからして、「神にしませば」という表現に、俗にいう神にかぶれていたという意を含んでいる可能性は残る。
(注3)他の例については拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」参照。挽歌である。
(注4)歴史地理学的に見て、飛鳥浄御原宮や藤原宮がひどい低湿地にあって大規模な干拓工事をして造営されたとは認められない。新編全集本萬葉集は、「駒が沼田に腹這いになるというのは、飛鳥旧京奪還の戦闘における御行みゆき自身の実体験を現在形で表したものか。……丘陵の小さい谷の間に湿地層が認められており、その中のどこかを中心にして詠まれたものであろう。……この歌の趣もそれと矛盾しない。あるいは幾分、誇張されている可能性もあるか。」(350~351頁)とする。旧京奪還、再開して、「都と成しつ」と歌うだろうか。
(注5)伊藤1998.に、「ここは耕作する赤駒。上代に馬耕が行なわれたことは、巻十四「東歌」に現われる数々の馬の様態によって明白。「赤駒」は格別に元気で活潑な馬を称するのが集中の習いだが、その活潑な馬すらが沼田にはまって難渋している姿を言ったもので、さような沼田地帯さえも難なく都と化した神威のほどを言い表わしたものと見るべきものと思う。」(288頁)と先入観に囚われた見解が見える。
 伊藤氏は契沖・万葉代匠記(初稿本)を引き、「赤駒のはらはふ田井とは、深田にて駒もえすゝまぬなり。天武紀上云。……鯨軍悉解走多殺士卒。鯨乗アヲ 以逃之。馬堕フカ進行。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979065/245、左傍訓は割愛した)を参照としている。きわめて的確な引用である。「大将軍」の作の歌なのだから、「堕泥田進行」したら馬を乗り捨てたであろうことが念頭にある。もともと使われていた農耕馬の様子を言うのではなく、せっかくの乗馬をもったいないことに農耕馬に格下げして使ったことの謂いと見るべきであろう。採録した大伴家持は大伴御行を同族として、大伴と名に負う「もののふ」の家柄であることを誇りにしている。騎馬を無視した解釈などあり得ない。
(注6)人麻呂の近江荒都歌(万29~31)に歌われている。近江遷都を「いかさまに 思ほしめせか」と歌っている。拙稿「近江荒都歌について」参照。
(注7)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」参照。
(注8)万葉集の研究方法として、現代人によくわからない時、漢文学との関連から理解に至ろうとする一派がある。漢籍に書いてある知識を典故として歌に援用したと言うのである。孤例であってもそう主張されることもある。しかし、そのようなことはけっしてなかったと断言できる。歌に詠んだ人が漢籍を渉猟していた知識を得ていた可能性は低く、百歩譲って仮にそうであったとしても、人口に膾炙していない知識をこれ見よがしに披歴してみたところで誰も理解できず記憶に残らず、記録されることもなかったと考えられるからである。
(注9)歌の修辞では、掛詞がそうであるように、同音異義語による並行的な用法が多く用いられる。そのとき、表意(explicature)と推意(implicature)を区別することはできない。中村2006.が、前半句に掛かる意を「第一表意」、後半句に掛かる意を「第二表意」と呼ぶことは理にかなっている。

 はなの色は うつりにけりな いたづらに 我が身よにふる ながめせしまに(小野小町)

 「降る」と「経る」、「長雨」と「眺め」を掛けている。それを推意することによって二つの表意を取るものと解釈されている。

解釈の交差型プロセス(中村2006.54頁を縦横改変)

 そのことに問題はないが、その推意は勝手に(自動的に)行われるべきものとして当然視されていたのであろうか。筆者は先行研究に不案内で次のような見解がすでに提出されているか知らないが、「いたづらに」という語も掛詞なのではないか。「徒に」と「板面に」である。板面には表と裏とがある。その二面を考えろと読み手に命じるための言葉として、つまり、自己言及的に返ってくる言葉として前半句と後半句の綴じ目に据えられているのではないか。「板面」を連想していると思われる事例はすでに万葉集から見える。

 高円たかまとの 野辺のへの秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに(万231)
 たらちねの 母にさやらば いたづらに いましも吾も 事成るべしや(万2517)

 二つの意味を掛けた表現は現代でもしばしば行われており、他の語を完全に排除する用例が見られる。

 カラオケで 音痴バレる日 ○○○○○(タカトシのブログ「ペケポン川柳2」様
ttps://ameblo.jp/takatoshidyo/entry-10719341179.html?frm=theme、2023年7月3日閲覧)

 二つの意味が掛けてあることを条件にして、○○○○○に入る言葉を考えろというのがお題である。「おとずれた」には「訪れた」と「音ズレた」が掛かっていて、唯一の正解であると認められる。二つのソースからくる情報が組み合わされて合体した瞬間に閃くエウレカからである。そして、そこから議論が先へと展開していくことはない。二つの意味(表意)が明らかになったらそれでもうその話は終わりである。我々が求めていたのは“なるほど”化作用である。もちろん、現代において、カラオケというものが卑近な娯楽として多くの人が認知しているから問いとして成り立っており、時代背景に見合った川柳ということになる。大伴卿の歌も、時代と歌い手に見合った歌であった。
 以下に、大伴卿に倣って二つの意味のうち一つが地名になるような拙い英文を作ってみた。比較してみると、万4260番歌では題詞、左注に情報が豊富で、歌はコンテキストによってうまく調整されていて、処理労力をかけずに理解されやすくなっていることが明らかになる。

 A:Ownership of the bottle transfers to where the glass goes.
 B:Well, it seems that it will be Glasgow’s.
 A:I wasn’t able to eat in the best country of my trip to Europe.
 B:Well, it’s Hungary.

 笑い(おもしろみ、おかしみ)を誘う表現は、一般的な言葉の用法としては互いに交わるところであるが、便宜的にジョーク、ユーモア、ウィット、エスプリに分類されている。同音異義語やオノマトペを使った駄洒落は、その場での言葉遊びの様相が強いものでウィットとして扱われる。英語の例として名高いものに次のものがある。

 A:Why can’t a bicycle stand up?
 B:Because it’s two-tyred.

 too tired と同音のため二つの解釈が可能になっている。ただ、これはやはりジョークに分類されるのであろう。答えるのに声を発して初めてオチとしてわかるものである。まず自転車が指示されていてタイヤのことが explicature となって解釈され、記述されるに及んでいる。「B:」に Because it’s too tired. と記されることはない。すなわち、too tired は implicature として控えているからおもしろさが出ている。
 万4260・4261番歌では、題詞に場面設定を施して聞き手を話し手(歌い手)の意図する意味に誘導する。自転車のジョークのようにその意図する言葉の意味が explicature から implicature を浮かび上がらせるのではなく、どちらもが explicature なのだと定まるところに満足感が得られている。歌という形式の発話は、答えを要求しない問い掛けとして成立していたのである。雑歌の部類で一首歌われるだけの歌であっても自明の答えを包含しており、聞き手は歌を聞いただけで納得してその場にいる人々の連帯感(solidarity)を確認することにつながっている。漠たるものを確たるものへと導く“なるほど”化作用を果たしている。そこに雑歌の(全体主義的な)政治性はあるのであって、「大君」=「神」、天皇即神であるというメッセージを(反対意見を封じて)主張するものではなかった。誤解を恐れずに言えば、万葉集の歌の次元は言語活動のレベルにおいて川柳四天王と同格なのである。

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注 十』集英社、1998年。
折口1996. 折口信夫「宮廷生活の幻想」折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集20』中央公論社、1996年。
神野志1992. 神野志隆光『柿本人麻呂研究』塙書房、1992年。
西郷2011. 西郷信綱『西郷信綱著作集 第六巻 文学史と文学理論Ⅰ 詩の発生』平凡社、2011年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集9 萬葉集④』小学館、1996年。
辰巳1985. 辰巳正明「大君は神にし坐せば─壬申の乱平定以後の歌二首─」『国語国文』第54巻第4号、昭和60年4月。
中村2006. 中村秩祥子「和歌の掛詞─関連性理論からの一考察─」『語用論研究』第8号、2006年。日本語用論学会ホームページ https://pragmatics.gr.jp/journal/backnumbers/8.html
東森2006. 東森勲「英語のジョークと川柳の笑いについて─関連性理論による分析─」『言外と言内の交流分野 小泉保博士傘寿記念論文集』大学書林、平成18年。
『万葉神事語辞典』 菊地義裕「おおきみはかみにしませば」国学院大学デジタルミュージアム『万葉神事語辞典』資料ID31785 http://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=31785 (2023年7月3日閲覧)
ヴァーシューレン2010. ジェフ・ヴァーシューレン著、東森勲監訳『認知と社会の語用論─統合的アプローチを求めて─』ひつじ書房、2010年。
ベイトソン2022. グレゴリー・ベイトソン著、佐藤良明訳『精神と自然─生きた世界の認識論─』岩波書店(岩波文庫)、2022年。
スペルベル&ウィルソン1999. D.スペルベル・D.ウィルソン著、内田聖二・中逵俊明・宋南先・田中圭子訳『関連性理論(第2版)─伝達と認知─』研究社、1999年。
ブレイクモア1994. ダイアン・ブレイクモア著、武内道子・山崎英一訳『ひとは発語をどう理解するか』ひつじ書房、1994年。

2023.7.5改稿初出

柿本人麻呂「日並皇子挽歌」の修辞法「春花の 貴からむと 望月の 満しけむと」について

 万葉集の日並皇ひなみしのみ挽歌(万167)について、挽歌とは何かという大きな問題として検討されてきた。殯宮はかりもがりのために設営される宮舎であり、お別れの儀式としてしのひことを言って形を整えることが行われていた。記上や神代紀にはアメワカヒコ(天若日子、天若彦)の殯の儀礼、また、敏達紀十四年八月条には、誄を述べる段において物部守屋と蘇我馬子が口喧嘩をしている様子が活写されている。
 本稿では、挽歌とは何かという大それた議論については深入りしない。日並皇子挽歌のなかで、「春花の」が「たふとくあらむ」を導き、「望月の」が「たたはしけむ」を導くという修辞法について考える。歌はあくまで歌であり、歌われているなかにその本性は宿っていて自ずと露見する。歌い手がどういう位置からどういう立場で歌っているのかは、聞いていれば明らかになるものである。逆に、歌の歌われ方から取り扱われている事柄について、今日所謂歴史的位置づけを探ることは必ずしも有効なことではない。柿本人麻呂が作った挽歌を見渡す限り、どれも下級官吏が門付け的に歌ったものである。殯宮に集まった人に対して、すなわち、お通夜に参列した人たちが外のテントのところで儀式の終わるのを待っている時に、故人を偲ぶにふさわしいそれなりの歌を歌って場を持たせたのが「殯宮之時柿本人麻呂作歌」である。誤解を恐れずに言えば、時間潰しのために必ず長歌が歌われているのであって、人麻呂は故人と親密だったわけではないからだらだらと中身の薄い言葉を並べ立てているのである。
 故人についての知識をほとんど持たない人麻呂は、修辞を駆使して時間潰しの歌をでっちあげている。「春花の たふとくあらむと 望月の たたはしけむと」という言い回しも同様であろう。いずれもゆるやかにつながる修辞であり、比喩的な枕詞と呼ばれている。枕詞ではあるが他に例のある決まり文句ではない。それでも冠辞に違いはなく、それ自体に意味の重きを置くものではないと考えられている。

  日並皇子尊ひなみしみこのみこと殯宮あらきのみやの時に柿本朝臣人麻呂の作る歌一首〈并せて短歌〉〔日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉〕
 天地あめつちの はじめの時 ひさかたの あまはらに 百万ほよろづ 千万神ちよろづかみの 神集かむつどひ 集ひいまして かむはかり はかりし時に あまらす 日女ひめみこと〈一に云ふ、さしあがる 日女の命〉 あめをば 知らしめすと 葦原あしはらの みづの国を 天地の 寄り合ひのきはみ 知らしめす 神のみことと 天雲あまくもの 八重やへかきけて〈一に云ふ、天雲の 八重雲やへくもけて〉 神下かむくだし いませまつりし たからす 日の皇子みこは 飛ぶ鳥の きよの宮に かむながら ふときまして 天皇すめろきの きます国と あまはら いはひらき 神上かむあがり 上りいましぬ〈一に云ふ、神登かむのぼり いましにしかば〉 大君おほきみ 皇子のみことの あめした 知らしめしせば 春花はるはなの たふとくあらむと 望月もちづきの たたはしけむと 天の下〈一に云ふ、す国の 〉 四方よもの人の 大船おほぶねの 思ひ頼みて あまつ水 あふぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき ゆみをかに みやばしら ふときいまし みあらかを たかりまして 朝言あさことに こと問はさず つきの 数多まねくなりぬれ そこゆゑに 皇子の宮人 ゆく知らずも〈一に云ふ、さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす〉〔天地之初時久堅之天河原尓八百萬千萬神之神集々座而神分々之時尓天照日女之命〈一云指上日女之命〉天乎婆所知食登葦原乃水穂之國乎天地之依相之極所知行神之命等天雲之八重掻別而〈一云天雲之八重雲別而〉神下座奉之高照日之皇子波飛鳥之浄之宮尓神随太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上々座奴〈一云神登座尓之可婆〉吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃満波之計武跡天下〈一云食國〉四方之人乃大船之思憑而天水仰而待尓何方尓御念食可由縁母無真弓乃岡尓宮柱太布座御在香乎高知座而明言尓御言不御問日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛〈一云刺竹之皇子宮人歸邊不知尓為〉〕(万167)
  反歌二首
 ひさかたの あめ見るごとく あふぎ見し 皇子のかどの 荒れまくしも〔久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之荒巻惜毛〕(万168)
 あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 渡る月の かくらくしも〈或るふみに、くだりの歌を以て後皇子尊のちのみこのみこと殯宮あらきのみやの時の歌のはんす〉〔茜刺日者雖照者烏玉之夜渡月之隠良久惜毛〈或本以件歌為後皇子尊殯宮之時歌反也〉〕(万169)

 枕詞には、固定的なものと即興的なものの二種類があるとされている。「あしひきの」が「山」、「ぬばたまの」が「黒」や「夜」、「くさまくら」が「旅」にかかるように固定性の高いものがある一方、新たに創作されて一・二例しか例がないものもある。万葉集には400種もの枕詞があるが、うち、200種近くが万葉集に一例だけしか現れず、二例だけのものも60種以上見られるという。それら希少例の「多くは言語遊戯的で、意味やかかり方が明確である。……枕詞には固定的に繰り返し用いられるという側面と同時に、一回的に創作されるという側面があり、その両者はグラデーションのように、截然せつぜんと分かれることなく連続的に存在している。」(大浦2017.7頁)と概括されている。この万167番歌に見られる例でも、「春花」を具体物を示す名詞ととるか、「春花の」を次の言葉を導く枕詞ととるかは比較相対的な傾向にあるということである。
 万葉集に「春花はるはなの」という表現は全部で十一例ある。「春花はるはな」を名詞と考えることができる例は次のとおりである(注1)

 …… 慰むる 心は無しに 春花の○○○ 咲ける盛りに 思ふどち 手折たをりかざさず 春の野の 繁み飛びくく 鶯の 声だに聞かず 娘子をとめらが 春菜摘ますと くれなゐの 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛りを ……(万3969)
 …… あらたまの 年がへり 春花の○○○ うつろふまでに 相見ねば いたもすべなみ ……(万3978)
 水川みづがは いめぐれる 玉くしげ 二上山ふたがみやまは 春花の○○○ 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振りけ見れば ……(万3985)
 世間よのなかは 数なきものか 春花の○○○ 散りのまがひに 死ぬべき思へば(万3963)
 …… 天地の 神言かむこと寄せて 春花の○○○ 盛りもあらむと 待たしけむ 時の盛りそ 離れ居て 嘆かす妹が いつしかも 使のむと 待たすらむ ……(万4106)
 …… 今日けふのみに 飽きらめやも かくしこそ いや年のはに 春花の○○○ 繁き盛りに 秋の葉の 黄色もみちの時に ありがよひ 見つつ偲はめ この布勢ふせの海を(万4187)

 一方、枕詞であると考えられる例は次のとおりである。すなわち、spring flower の意を負う必然性がなく、言語遊戯的な修辞として扱われている。

➀春の花の美しく咲き盛るところから、メヅラシ・ニホフにかかる
 住吉すみのえの 里行きしかば 春花の○○○ いやめづらしき 君に逢へるかも(万1886)
 …… たまきはる 命も捨てて 争ひに 妻問つまどひしける 娘子をとめらが 聞けば悲しさ 春花の○○○ にほえ栄えて 秋の葉の にほひに照れる あたらしき 身のさかりすら 大夫ますらをの こといたはしみ ……(万4211)
➁花の散るところから、ウツロフにかかる
 …… 新世あらたよの 事にしあれば 大君の 引ひきのまにまに 春花の○○○ 移ろひかはり 群鳥むらとりの 朝立ち往けば ……(万1047)
 春花の○○○ 移ろふまでに 相見ねば 月日みつつ 妹待つらむそ(万3982)

 万167番歌の「春花の」をこういったスケールのどの辺に位置づければよいのだろうか。
 spring flower の意を伝えるための用法ではないから枕詞的な傾向が強いと感じられる。しかし、「意味やかかり方が明確である」かというと少々疑問である。「春花の」性格として、美しく咲き盛ること、そして、一斉に咲いたかと思えばほどなく散り去ってしまうことがあげられ、そこから、メヅラシ、ニホフ、ウツロフにかかるとされている。
 メヅラシという語については、メヅ(愛)の展開した形とされることが多いが、「メヅラシのメは目で、見ること、シは形容詞化する接尾語、ツラは連れ立つ意のツル(連る)の活用形で、まれにしかないから見ることを続けたいの意に展開したのではなかろうか。中古によくない物事についてもメヅラシというのは、そのまれにしかない意が生きていたからと思われる。」(古典基礎語辞典1190頁、この項、大野晋)とする考え方が妥当である。春の花には葉に先駆けて咲くものもあり、メ(芽)(花芽)がメ(目)をひくから「春花の」は「いやめづらしき」などという大仰な表現を導いているものと考えられるわけである。言語遊戯的に手が込んでいると評されよう。
 そんななか、春の花が咲くのをタフトシと言い表すことができるとは考えにくい。春に花が咲くことはありふれたことで、どうしてそれをタフトシと形容するに堪えるのか。タフトシ(貴・尊)という言葉は、立派である、壮大であるという意味合いで、高貴な人、父母、仏などをタフトシと捉え、また、玉や雪の光をタフトシと見ることもある。光明を放つ存在として考えている。春の花に特別に光明を見出すことは、夏に咲く仏花の代表、ハスの存在からしても否定的にならざるを得ない。多くの植物において、花は、季節がめぐれば当たり前に目にすることができるものである。
 そのためか、「春花」は漢語の翻読語であるとする説が唱えられている。春花と満月との対句関係も、漢籍の影響かとささやかれている。けれども、明確に典拠となった事例は確認されていない。確認されていないのであるが、中国の天子を讃えた比喩と似ているから、日並皇子に対する讃辞に置き換えられたのであろうとする説が唱えられている(注2)
 しかし、讃辞というには表現が軽い。「~と」と譬えているばかりである。では、なにゆえ、「春花の たふとくあらむと 望月の たたはしけむと」という挿入句がこの箇所に唐突に現れているのだろうか。常用される枕詞のように聞き覚えのあるものではなく、その改変されたもののようにどこか耳に馴染みあるものでもない。聞き手がスムーズに理解したかどうかが問題になる。なにしろ歌は歌われるままに流れていく。聞き手が聞いて、たちどころに意味が通じるものとして挿入句はほどこされているはずである。「春花の」も「望月の」も常套句ではないから、当該歌に特別な意味を込めるために使われた言葉と考えなければならない。
 そのような可能性は、これが日並皇子の挽歌であるという点に尽きる。歌っているのは日並皇子にまつわることである。歌い手の人麻呂にとって、皇太子であった日並皇子は遠い存在であったろう。殯宮に参列している多くの人にとっても、親族である皇族や妻子、親交を結んだ高貴な豪族、また、身の回りの世話をした舎人等以外に近しい人などいない。現代、大きなお葬式やお別れ会、国葬があり、そこにファンが多数訪れたのと事情はあまり変わらない。古代、そんな人たちにとって日並皇子という存在は、それが日並皇子という名を負った人ということばかりだったであろう。そのために名があり、名に負うことが重んぜられ、名こそがその人のメルクマールであった。
 「なみ」という言葉で思い浮かぶのは、イザナキが禊ぎをすることで生まれた三貴士の逸話のなかで、「日にならぶ」(神代紀第五段)存在として「月」が考えられていたことである。ツキ(キは乙類)・ツク(月)が日並皇子の関連語である。だから、日並皇子にまつわる措辞として「望月の」という言葉が用いられている。「春花の」という言葉も、「日並」にかかわるツキ・ツク(注3)(月)との語呂合わせで、ツクシ(土筆)のことであると連想が及ぶ。春になって土手に現れる花のようなものである。植物学的にはスギナの胞子茎である。そしてツクシは塔に見立てられていた。そのアイデアは上代の用例に二つ確認される。ひとつは斉明紀二年条に見える多武峰の観、両槻宮にまつわる話(注4)、もうひとつは継体紀歌謡の「みなしたふ」という枕詞である。

 …… もろが上に 登り立ち が見せば つのさはふ 磐余いはれの池の みなしたふ〔美那矢駄府〕 うをも 上に出てなげく ……(紀97)

左:土筆、右:瓦塔(東京都東村山市多摩湖町出土、奈良時代、8世紀、東博展示品)

 この「みなしたふ」については、ミ(水)+ナ(連体助詞)+シタ(下)+フ(経)、水の下を経て泳ぐ意から「魚」にかかる枕詞であるとする説がある(注5)。しかし、むしろ、ミナシ(見做)+タフ(塔)、すなわち、寺の塔のように上から下まで何層もの屋根に瓦を積んでいるのが魚の鱗に見立てられるところから「魚」にかかると考えたほうがわかりやすい。カハラ(瓦)は石質のもので火事除けになり、防火用水に恵まれたカハラ(河原)と同じ効果を持つ(注6)。建築に懸魚のように魚の意匠を施したのも火事除けの願いからであった。
 これらの例と照応するように、「春花の」はタフ(塔)を導いていて、塔はまた仏舎利を安置する貴い存在だからタフトシにかかる枕詞であると捻られているようである(注7)。「山柄やまからし たふとくあらし〔山可良志 貴有師〕」(万315)の例も、山の屹立するさまをタフ(塔)と見立てて洒落を言っていると考えられる。
 この推論は、日並皇子のもとの名が草壁皇くさかべのみと言っていたことによって確かめられる。草で覆った壁をイメージしてみると、住宅や施設建築、また、塀に積極的に壁面緑化を施したとは思われず、せいぜい竪穴式住居や大壁建築に茅葺き屋根が大きく掛けられていたことが浮かぶ程度である。ただ、それは「草壁」ではなく「草屋」である。「草壁」の語義に近いものを探れば、人工的に建設した河川や地水の堤防が考えつく。土手を作るとそこに草が生えてくる。土壌は表土を欠いてやせており、スギナの繁茂しやすい環境にある。土手つながりで海の堤防のことが思い起こされるから、対句形式に使うのにかなっている。「望月の」が「たたはし」にかかるのは、この場合、通説とは異なり海水が満ちて水を湛えているという発想から結びついているということになる。
 「望月の」は万葉集中に他に三例ある。万196・1807番歌の例は、満月の様子を見ているから通説どおり月の姿かたちの円いことを指している。一方、万3324番歌の場合は、「」(day)のことから十五夜の月の「たたはし」さを引き出している。「たたはし」が「たたふ」と同根の語であるなら、大潮の満潮のことと関連すると思われて使われていると考えられる。

 …… 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉もみちばかざし 敷栲しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の〔三五月之〕 いやめづらしみ おもほしし 君と時々 いでまして 遊びたまひし 御食みけむかふ きのの宮を 常宮とこみやと 定めたまひて ……(万196)
 …… 望月の〔望月之〕 れるおもわに 花のごと みて立てれば ……(万1807)
 …… 何時いつしかも 日足ひたらしまして 望月の〔十五月之〕 たたはしけむと へる ……(万3324)

 万167番歌では、「日並」、すなわち、日に配ぶのものは月だからという一点で引き合いに出されている。これまでの説のように、今は亡き主人公のかつて栄えていたことを物語るものとして「望月の」が持ち出されている、あるいは、即位を待たずに逝去した皇子の姿を重ねている、といったことではない(注8)。「日並」であり「草壁」であるものとしてイメージされるものというだけのことで土手を思い浮かべて歌っている。歌を歌いながら、その歌の文句について、どうしてそういう言葉が登場してふさわしいのか、皆さん、わかりますか、と謎掛けをしている。歌の聞き手はその巧みな問いに知恵をめぐらせて楽しむことになる。リスナー参加型であることは、その場の雰囲気を趣きあるものへと変じさせる仕掛けであり、そうでなくてはいかにセンスある表現をしようと、後になっても語り合い、言い伝えられることにはならない。時は無文字時代である。そして、歌は一度きりしか発声されない。その場の人々に一定の評価を勝ち取るということは、聞き手がよくわかったということに他ならない。作者の主張が聞き入れられたということではなく、歌の文句がなるほど的確であって、まことにうまく言い当てていると認められたということである(注9)
 この日並皇子挽歌には、生前の事績を語るところがないと評されてきた。そして、存命であればきっと「春花の たふとくあらむと 望月の たたはしけむと」治世したであろうと想像しているばかりであると述べられてきた。筆者は、「春花の たふとくあらむと 望月の たたはしけむと」という挿入句を用いることは、それ以上の意味合いを含んでいると考える。日並皇子(草壁皇子)の事績として唯一考えられることに大津皇子謀反事件がある。大津皇子は謀反の廉で死を賜っている。事は天武紀、持統紀に記され、関連する歌が万416番歌に載っている。この事件については、歌を深く読みとると堤防建設工事に絡むものであったことが知れる(注10)。讒言したのは皇太子の地位にあった日並皇子(草壁皇子)で、有能な大津皇子を陥れたようである。すなわち、「春花の たふとくあらむと 望月の たたはしけむと」という句を投入することで、大津皇子を粛清し、当座の政権の安定は図られたかもしれないが、そのことによって皇太子草壁は器量の小ささを露呈して、天皇たるにふさわしくないと周知させてしまったという事情を暗示することになっている。
 「春花の たふとくあらむと 望月の たたはしけむと」の句は、一般に指摘されているように賛辞としてあるように見えつつ、わかる人には皮肉な洒落として効いていたということになる。両義的ととれる方法によって、この歌は多くの聞き手の心をつかんだのである。言語のゲーム性によって言葉は八面六臂なものとなる。柿本人麻呂の才能はそこにこそ見出される。

(注)
(注1)小島1976.に「春花はるはなの」と「はるはな」とを一緒くたにした議論が行われている。そして、「机上で作られたこの枕詞を、これに続く「貴」の字の上にかぶらせた点は、そこにやはり彼の漢字に対する訓詁の知識を見る。枕詞はそれ自身とそれに続く語句との連結によってその効力を発揮する。筆をあやつる時代ともなれば、そのつなぎの仕方にも、外来的なものを移植し、「万葉語」は複雑化してゆく。人麻呂の「ハルハナノ、貴からむと」にみる、枕詞とそのかかり方もその一つの例とみなされる。」(63頁)としている。大きな誤りがある。歌の受け取り手は、書いたものを読んでいるのではなくて耳で聞いている。葬儀の席で葬儀とは無関係の外来思想による言葉をはじめて聞かされて誰が理解できるだろうか。多くの人に対してわからない歌を歌ったとしたら、柿本人麻呂は次回から呼ばれなくなるだろう。
(注2)内田2021.参照。
 (注1)のくり返しになる面があるが、再度確認のために述べておく。小島1976.は「春花はるはなの」という言葉の出処を六朝・唐時代の漢詩の詩語「春花」(chūn huā)に基づくものとしている。そして、宋・鮑照・中興歌などの「春花」の例をあげている。修辞とは言葉のつながりの技法である。鮑照詩に「春花」→「貴」というつながりがあるわけではなく、鮑照詩が当時伝来していたとする証拠もない。仮に伝来していたとして、さらに仮に人麻呂がそれを勉強していたとして、仮に翻訳して比喩的枕詞を創作したとして、日並皇子の殯宮に集まって外のテントで佇んでいる人たちを相手に声を上げて歌うとは考えられない。中宮定子が「香炉峰の雪いかならむ」と問いかけたのは、清少納言との二人だけの閉じた会話に終わるものではなく、結果的にであれ、周囲でその発言を耳にした他の侍女たちもその知識を共有することになったからである。飛鳥時代後期、律令国家体制の萌芽期にあって、どれほどの人が文字を読むことができたかさえあやしく、漢詩を作る人も非常に限られていて文字知識は広まっていない。ましてや参集しているのは高位の人ばかりではない。竪穴式住居から出仕していたかもしれない下級官吏や、雑用に明け暮れている舎人、采女の教養が追いつくところではない。
 白井2005.は、「「タフトシ」に漢語「春花」の喚起する意味を重層させることによって、元来の「タフトシ」のもつ意味に広がりを与えたという方向で捉えられるのではないか。」(40頁)とする。なぜそうしようとしたのか、意図については述べられていない。
(注3)ツクはツキの古形で、ツクヨミノミコト(月読尊)などと用いられている。
(注4)拙稿「多武峰の観とは何か─両槻宮・天宮という名称から見えてくるもの─」参照。
(注5)「下ふ」を「下」の動詞形とする考えもある。
(注6)拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」参照。
(注7)タフトシという形容詞の語源的解釈としてタフ(塔)を持ち出しているのではなく、駄洒落として考案されていると見るべきである。人麻呂の躍如たる言語活動の産物である。
(注8)高桑2016.に、「「望月の」は「満し」に掛かる比喩的枕詞に過ぎないが、この枕詞が選び取られたことで、草壁には「望月」のイメージが付与されることになる。」(140頁)と、転倒した考えが述べられている。草壁は「日並」皇子だから、日に配ぶ月のイメージを付与することが可能であり、聞き手にもすんなり受け容れられたのである。歌は一回性の芸術である。一回歌われただけで受け容れられるには、その表現がすぐさま腑に落ちるものでなければ聞きとどめられることはない。
(注9)日並皇子挽歌についての研究に、話者をいかに捉えるかという議論が行われている。本稿とは直接の関係はないものの、身﨑1994.の議論を引いておく。

 この二作品[日並皇子挽歌・高市皇子挽歌]においては、作中主体=話者〈われ〉は持統宮廷を構成する貴族・官人の共通感情(として期待されるところのもの)を体現するものとして設定され、その話者のたちばからの哀悼感情を表現の基底におくとともに、作中に直接的ななげきの主体として故人にしたしくつかえたひとびと(宮人・舎人など)を配し、かれらの悲嘆のさまを客観的な視点からえがきだし、さらに長歌──反歌の機構のなかでそのふたつのたちばを交錯・融合させることによって、公的・儀礼的でありなおかつ抒情的挽歌たりえているという全体的統一性を保持することに成功している。(191頁)

 注意すべき点は、「客観的な視点」で描かれているという点である。歌の話者がいかに設定されているかは、この「客観的な視点」、言い換えれば俯瞰的な視点から歌っているということをもって、議論として有意義というよりも問い自体がほとんど氷解することになっている。「春花の たふとくあらむと 望月の たたはしけむと」という表現も、それが取ってつけたものであると捉えることこそ、門付けに押しかけて歌を詠じている人麻呂の歌の性質にかなうことである。すなわち、歌の文句が的確というのも、感情移入して的確ということではなく、歌い回し、言葉づかいがうがっていてうまいというだけで、言語遊戯以外のなにものでもない。
(注10)拙稿「大津皇子辞世歌(「ももづたふ 磐余の池に」(万416))はオホツカナシ(大津悲し・覚束なし・大塚如し)の歌である論」参照。

(引用・参考文献)
内田2021. 内田夫美「『萬葉集』柿本人麻呂「日並皇子挽歌」における漢籍の受容─「春花之」と「望月之」の文字表現を中心に─」『京都府立大学学術報告 人文』第73巻、2021年12月。京都府立大学学術機関リポジトリ http://id.nii.ac.jp/1122/00006245/
大浦2017. 大浦誠士「「枕詞は訳さない」でいいのか」松田浩・上原作和・佐谷眞木人・佐伯孝弘編『古典文学の常識を疑う』勉誠出版、2017年。
小島1976. 小島憲之『古今集以前』塙書房、1976年。
白井2005. 白井伊津子『古代和歌における修辞』塙書房、2005年。(「修辞としての枕詞─柿本人麻呂の方法─」『萬葉』第167号、1998年11月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1998
高桑2016. 高桑枝実子『万葉晩夏の表現─挽歌とは何か─』笠間書院、2016年。
芳賀2003. 芳賀紀雄『萬葉集における中国文学の受容』塙書房、2003年。
身﨑1994. 身﨑壽『宮廷挽歌の世界』塙書房、1994年。
※注釈書は省いた。日並皇子挽歌については他に多くの論考があるが、当該表現にまつわらないものは挙げていない。

加藤良平 2023.6.21初出

礪波の関にまつわる大伴家持歌について

 大伴家持の次の歌は、歌われた年月日、歌われた場が正確に記されている。

  天平感宝元年の五月五日に、東大寺の占墾せんこん使ほふし平栄へいえい等をあへす。時に、かみ大伴宿禰家持の、酒を僧に送る歌一首〔天平感寶元年五月五日饗東大寺之占墾地使僧平榮等于時守大伴宿祢家持送酒僧歌一首〕
 やき太刀たちを なみせきに 明日あすよりは もりへ きみとどめむ(万4085)〔夜伎多知乎刀奈美能勢伎尓安須欲里波毛利敝夜里蘇倍伎美乎等登米牟〕

 大伴家持は越中守として赴任していた。東大寺の使者、僧侶の平栄が帰京するというので家持は宴を催し、惜別の思いを歌に詠んでいる。占墾地については続日本紀に記述があり、また、酒を贈ることで送別の意を表したことも他にも例がある。特段難しいところはなく、議論の俎上に載せられることは少ない。

関の様子(白河の関、一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591577/1/18をトリミング)

 礪波の関については、天平感宝元年時点において廃関であったとする主張が行われていた。「現に兵士が置かれているのであれば、家持の歌は全く無意味なものになってしまう」(浅香1988.208頁)という解釈である。「守部」のことを、関に駐留して警備する兵士と考えての言である。これに対して近年、関は機能していたとする見解が提出された。「礪波関の統治者、ならびに差配の権限は、その関を管理している国の国守、大伴家持にあっ」て、「当該歌は、機能している礪波関に、国司の権限でもって守部(兵士)を遣わして引き止めるという、当時の法令に則」(小田2021.49頁)る形にした戯笑歌であったというのである(注1)
 歌とは歌われたものである。その本来のあり方に立てば、日本史的な着眼点から解説しても、歌の背景を照らす一助にはなっても、歌自体を理解するのに資するところは少ない(注2)。国守の大伴家持に関の管理権、統率権があって、「守部」を「遣り添へ」ることが可能であるのはわかりきっている。題詞に「大伴宿祢家持」と予め断ってある。どういう立場で「もりへ」と言っているのか明示されている(注3)。戦国大名ではないから、中央の意向に反した勝手なふるまいはしなかった。
 いま問題としたいのは、当該歌が歌われたことである。歌われた歌について、何が楽しくてそのように歌っているのかという点である。歌は歌われた現場に音の振動として存在している。その生々しい姿を理解しようと努めることが、万葉集研究の一丁目一番地である。後で読み返して再認識することは現代の研究に可能であっても、歌が歌われた現場では一回性の芸術として披露され、すぐに消えゆくものであった。
 万葉集において、歌われた事情は題詞に記され、つづけて歌が綴られている。それしか書いてないのはそれだけで理解できるからである。

 今日までの研究で二点触れられていないところがある。一つは題詞にある「天平感宝元年の五月五日」の意味、もう一つは枕詞「やき太刀たちを」が「なみ」にかかる掛かり方の本意である。「焼太刀を」は、火入れした太刀は「ぐ(トは甲類)」ことが求められるから「なみ」の頭音のト(甲類)にかかるのだとされてきた(注4)。筆者は、それだけでかかっているとは考えない。「を」は間投助詞と見られている。間投助詞「を」は、感動詞の「を」、つまりは Wow のヲに由来する語である。何に感動しているか。太刀が生半可に作られたものではなく、丹念に製作されているところである。火入れをして折り曲げては叩くことをくり返して鍛えている。そして、最終段階として刀身に土置きをしてから炉にいれて焼入れ作業を行う。土が厚く塗られていた部分は焼が浅くゆるやかに入り、土が薄かった刃部は焼が深く入る。礪いでみると見事な刃文が浮かび上がってくる。それが良い太刀の印である。礪ぐと波模様が現れるから、「焼太刀を」はト(礪)+ナミ(波)を導くことになっている。それがこの枕詞の深奥である(注5)

切先の刃文(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/刃文)

 興味深いことに、なみ(ト・ミはともに甲類)というところには関が設けられていた。実際に機能していたかどうかは別として、トナミには関がある、ないしは、あったところとして認識されていた。この、認識されていたということが重要である。関があったがそれが人々に知れ渡っていなかったら、歌として歌っても誰もわからないから歌とはならない(注6)。なぜトナミに関があると人々に認識、共有されるに至っていたか。それは、トナミという地名が、ト(戸、トは甲類)+ナミ(並、ミは甲類)に聞こえるからである。城郭建築のようにたくさんの戸が立ち並んでいたら、通り抜けるのはさぞかし難しかろうと誰でも即座にピンとくる。関の機能そのものである。すなわち、「なみせきに」という句は、それ自体で自己完結的に自らを証明してみせている表現なのである。
 さて、そこへ「明日あすよりは」監視員を派遣してあなたのことを留めるつもりですよ、と言っている。どうして今日ではなく明日以降のことを述べているのか。今日は宴会をしていて「もり」が派遣できないなどという言い訳ではない。あくまでも歌のなかでの言葉である。

 今日は五月五日である。五月五日には薬狩りが行われる習慣があった。大伴家持がこのとき行っていたかは問題ではない。人々の観念のうちにそれが風習だと認識されていたことが重要である。紀にも万葉集にも例がある。

 十九年の夏五月五日に、だのくすりがりす。鶏鳴時あかときを取りて藤原池のほとりつどひ、会明あけぼのを以て乃ちく。粟田細目臣をさき部領ことりとし、額田部比羅夫連をしりへの部領とす。是の日、諸臣のころもの色、皆かうぶりの色に随ふ。各髻華うずせり。則ち大徳・小徳はならびこがねを用ゐ、大仁・小仁はなかつかみの尾を用ゐ、大礼より以下しもは鳥の尾を用ゐる。(推古紀十九年)
 夏五月五日に薬猟して、羽田はたに集ひて、相つづきてみかどまうおもぶく。其の装束よそひ、菟田のかりの如し。(推古紀二十年)
 五月五日に、天皇、かま生野ふの縦猟かりしたまふ。時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆ことごとくおほみともなり。(天智紀七年)
 夏五月の戊寅の朔壬午に、天皇、山科野やましなののに縦猟したまふ。大皇弟・藤原内大臣及び群臣、皆悉におほみともにつかへまつる。(天智紀八年)
  天皇の、蒲生野に遊猟みかりしたまふ時、額田王の作る歌
 あかねさす 紫野行き しめき もりは見ずや 君が袖振る(万20)
  皇太子の答へる御歌〈明日香宮に天下知らしめしし天皇、おくりなして天武天皇と曰ふ。〉
 紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 吾恋ひめやも(万21)
   紀に曰はく、「天皇七年丁卯の夏五月五日に、蒲生野に縦猟したまふ。時に大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従なり」といふ。

 天智紀七年条とその時に歌われた万20・21番歌の例は、推古紀の例にならって行われた薬狩りである。推古紀では馬に乗っていて鹿を狩り、その袋角を獲ったらしいが、天智七年の時は徒歩で薬草を採ったようである。また、「射猟」や「射騎」を見物することに変わることもあった。本来の姿は推古紀のそれで、高位の宮廷人たちが正装して騎馬行進するものと考えられていたのであろう。すなわち、五月五日は馬を並べて大規模な薬狩りが行われる日であった。野守はとても忙しい。狩猟場でブッシュに隠れている鳥獣を追い立てたり、射られて弱った鳥獣を捕まえなければならない。節句である今日、野に出払っているモリ(守)の人を、戸が並んでいるところへ遣るのは間違いである。だから明日からにしている。



 万4085番歌に出てくる「守部」も、その場を守る人の意である。野を守れば「野守」、関を守れば「関守」、国を守れば「国守」である。守るためにそれぞれに役割を担う。行政事務をし、警備巡回をし、防衛的な兵士の立場に立つこともあった。そんな「守部」が登場して違和感がない理由は、宴に饗している相手、平栄が東大寺の占墾地使だからである。寺領となる墾田地を占定するために来ている。墾田地を決めたら同時にガードマンである「守部」も決めてその地に据え、常に監視に当たらせた。そして、帰京するにあたって送別会が催されている。平栄と、平栄に任命された「守部」が宴に招かれている。題詞に「平栄」とあるのはそれを言っている。宴席についている人々の興を誘い、皆の歓心を買って引きつけるべく、占墾地の守部を関の守部に転職させて使うぞと、国の守部である家持がおどけている(注7)。もちろん、そのようなことはしないし、律令制に基づいた中央集権国家体制にあってできることではない。
 以上の考察によって、題詞と歌とが完全に通じ合い、相互に緊密な関係を築いて訴えかけてくるものとして捉えられるものに解された。歌が「読めた」ということである。

(注)
(注1)窪田1967.に「「守部」は、番人の総称で、ここは関の番人。「遣り副へ」は、国庁より遣わして数を増してで、番を厳重にしての意。」(193頁)、中西2010.に「家持は国守である。国守には権限がある。関を閉めることも自由であろう。」(422頁)、新編全集本萬葉集に「帰京する平栄ら一行を引き留めるために、急遽増員せよと下僚に命じた趣。手荒な語調に似るが、客僧に対する親しみを込めた挨拶。」(252頁)などと指摘されている。新編全集本萬葉集では「遣り添へ」を命令形ととっているが、連用形中止法ととるのが一般的である。四句目で句切れさせ、そこまでは下僚に対する言、五句目だけ客僧に対する言とするのには無理がある。
(注2)そのことは、万葉集にたくさんの歌を収める大伴家持について「歌人」と措定し、製作年次を追いながら心情がどう変化していったか、そして、万葉集の編纂とどうかかわるかといったことを問うことにも通じる。近代文学の解釈の枠組を上代の口承文芸に適用することは、接近法としてピントが外れている。個人的な心情、内面について詮索して、歌われた歌の理解に寄与するところが大きいと考えるのは、文字に書かれた「文学」を前提とした現代的な思考方法である。歌詠みのこころは、歌われた場において瞬時に聞き手に共有される必要があった。
(注3)額面どおりに受け取ってはいけないことについては、本稿の最後に述べる。全集本萬葉集は、「家持在任の当時、礪波の関は蝦夷防衛の意義を失い、廃関かそれに近い状態であったので、増員せよといったのである。賓客平栄に対する挨拶である。」(257頁)としている。しかし、それでは、歌が通達の性格を帯びていることになる。万葉集の歌は詔(宣命)とは別物である。
(注4)中西2010.に「「やき太刀たちを」磨ぐから礪波へとつづくが、焼太刀そのものの印象が、音よりさきに飛び込んでくる。それは平栄がこれから越えていかなければならない山路を象徴するために、有効であろう。」(421頁)とある。けれども、礪波を歌枕として詠んだ歌ではなく、「礪波」を導く枕詞として「焼太刀を」という言葉を作っている。一般に、歌枕という発想は万葉時代にはなかったと考える。いわゆる歌枕として成立しているのであれば、他にも多数歌われているはずであるがそのような形跡はない。
 万葉集の歌は、その本性として、古今集以降に見られた歌枕のように、典故となるような土地の記憶や記録を連鎖させて積み重ねることをしていない。なぜなら無文字時代の文化の産物だからである。枕詞がよく表しているように、言葉(音)の高度な論理遊戯として、そのつど言葉を再活性化しては呼び覚ますことでしか顕現していない。文字に依らない言語生活においては、歌は厳密な意味で一回性を帯びていて、初対面の人にも通じるものとして歌い、聞き手もそのつど緊張感をもって歌の言葉に耳を傾けて聞き分けていた。
(注5)古代刀の土置きの技法は完全に解明されているわけではないが、古墳時代には行われていたという。波打つような刃を見せる考古品に蛇行剣がある。熟達者の礪ぎでなくても波立って光り、Wowと驚くほど迫力がある。蛇行剣が中小古墳に出土することから、首長を補佐する立場の人の副葬品であるとされている。刀剣の研ぎ師を顕彰するのに打ってつけの品ではないか。砥石の産地の古墳に出土する例もあるという。思念するところからしてヤマトで生まれた産物であると考える。
(注6)歌はヤマトコトバによって作られ歌われた。歌う人、聞く人の双方が、口頭語の巧みな使い手として無文字時代の言語活動を活発化させていた。誰かが勝手に名づけて地籍簿や戸籍簿に登録して名となっていたのではなく、周囲の多くの人々にそう呼ばれることによってはじめて名であったように、歌は、歌われるだけでなくて聞かれてなるほどそうだ、うまく言い当てていると認められたとき、はじめて歌として屹立する。
(注7)題詞にある「守大伴宿祢家持」は「もり大伴宿禰家持」と訓むべきなのかもしれない。

(引用・参考文献)
浅香1988. 浅香年木『中世北陸の社会と信仰』法政大学出版局、1988年。
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第9巻』笠間書院、2013年。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注 九』集英社、1998年。
小田2019. 小田芳寿「天平感宝元年五月五日時の礪波関の機能」『文学・語学』第227号、2019年12月。J-STAGE https://doi.org/10.34492/bungakugogaku.227.0_41
小田2021. 小田芳寿「天平感宝元年五月五日の大伴家持歌の性格」『百舌鳥国文』第30号、2021年3月。大阪公立大学学術情報リポジトリ http://doi.org/10.24729/00017425
窪田1967. 窪田空穗『窪田空穗全集第19巻 萬葉集評釈Ⅶ』角川書店、昭和42年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集9 萬葉集④』小学館、1996年。
全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集5 萬葉集四』小学館、昭和50年。
中西2010. 中西進『中西進著作集29 大伴家持二』四季社、平成22年。(『大伴家持4 越路の風光』角川書店、平成7年。)

加藤良平 2023.6.10初出2023.10.31加筆

枕詞「山たづの」について

 枕詞「山たづの」は記歌謡と万葉集に計三例用いられている。

 君がき 長くなりぬ 造木やまたづの むかへを行かむ 待つには待たじ〔岐美賀由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能牟加閇袁由加牟麻都爾波麻多〕〈此の、やま多豆たづと云ふは、是今の造木みやつこぎぞ。〉(允恭記、記87)
 君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ〔君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎将徃待尓者不待〕(万90)
 …… たつ田道たぢの をかの道に つつじの にほはむ時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎へまゐむ 君が来まさば〔……龍田道之岳邊乃路尓丹管土乃将薫時能櫻花将開時尓山多頭能迎参出六公之来益者〕(万971)

 允恭記の注にあるとおり、「山たづ」は「造木みやつこぎぞ」のこと、今日、ニワトコと呼ばれている。材が柔らかく、削り掛けを作るのに用いられることがあった。和名抄に、「接骨木 本草に接骨木〈美夜都古岐みやつこぎ〉と云ふ。」とあるものである。
 時代別国語大辞典に、「やまたづの 枕詞。枝葉が対生で、たがいに向かい合っているところから、ムカへにかかる。」(771頁)と説明されており、定説となっている(注1)が、この議論が誤りであろうことは容易に想像がつく。葉が対生に出る植物はニワトコに限らず非常に多く、他のものにならなかった理由が定まらない(注2)
 枕詞は言葉遊びの最たるものである。それが歌に用いられていることから考えてもわかるように、声に発せられた瞬間芸のような性格を有していた。すなわち、「やまたづの」という枕詞が「にはとこの」という枕詞に置き換えられることは可能性としてないわけではないがきわめて低いということである。ただちに消えていく音声のなかで瞬時に聞き手に着実に伝わること、それが歌の言葉の必須要件である。だから、「やまたづの」という言葉を聞いたら、それが「むかへ」という言葉に何かしら機知をもって掛かることが気づかれて、アハ、おもしろいことを言うな、と思われたから枕詞として成り立っているのである(注3)

 筆者は、「山たづの」と枕詞で使われている「山たづ」は、古事記に表記されるとおり「造木みやつこぎ」のこと、そしてそれは、ミヤツコギとニハトコの音の近似性からも今日、いわゆるニワトコのことであると考える(注4)。このニワトコは、接骨木として知られている。材質が柔らかくて加工がしやすいから削り掛けに使われ、おそらく骨折した際に添木として使われるよう細工されていたと思われる(注5)。さらには、人体模型を作ろうと思ったら真っ先に利用された木であろうと思われる。木の枝ぶりが骨を接いだようになっていて連想が利くからである。つまり、人の形の代わりになるものになるのである。それをヤマトコトバに言い換えるなら、ム(身、ミ(身)の古形)+カヘ(代、ヘは乙類)である。だから、「山たづの」は「迎へ(ヘは乙類)」に掛かる枕詞であると認められたのである。

左:ニワトコ、中:人体解剖模型(江戸時代、19世紀、木造、東博「養生と医学」展展示品)、下: ナベヅル(「動物図鑑(Private Zoo Garden)」https://pz-garden.stardust31.com/tori/turu-jyukei/mana-zuru.html(2023年4月15日閲覧)をトリミング)

 そしてまた、「みやつこぎ」が「迎へ」に掛かる枕詞となったのではなく、「山たづの」が枕詞になっている理由も定められるはずである。「たづ」は鶴のことをいう歌語として使われている。そんな鶴に山と冠するのは似つかわしくない。鶴は草原や湿地に生息し、山地には暮らさない。足の構造から木に止まることはできないからである。つまり、山にいないはずの鶴があたかもいるかのように見えるのが「山たづ」という木である。骨ばっている枝ぶりがダンスしている時などの鶴の肢の具合によく似ている。鶴の身代わりとして山にいるというわけで、「山たづ」と名づけられていると思われたようである。ム(身、ミ(身)の古形)+カヘ(代)の存在だから、「山たづの」は「迎へ」に掛かる枕詞であるということになる。
 このような発想はとてもユーモラスであり、次の言葉を導くというただそれだけのために冠辞となるにふさわしい。人は「山たづの」という声を聞いて、接骨木の樹形、人体模型の様を思い浮かべ、それが案の定、ム(身、ミ(身)の古形)+カヘ(代)と同音の「迎へ」という語を登場させていると気づいた時、鮮烈な印象を受けてその歌の歌詞を忘れないことにつながったのだろう。記憶されることを目途として機知ある表現をくり広げたのが上代文芸の特色であった。

(注)
(注1)枕詞「山たづの」についての専論としては、堀1999.があり、袖中抄以来の研究史がまとめられている。今日の通説にニワトコの性質として枕詞と考えられるに至ったのは、「此木葉も枝も対ひ生るものなれば迎へといふ詞の発語マクラコトバに置れしならむ」(木村正辞・萬葉集美夫君志巻一二別記附録に所載の加納諸平・山多豆考(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/874365/1/38、漢字の旧字体は改めた)によるという。また、「山たづの」の「たづ」は鶴の歌語であり、花期のニワトコは鶴が飛び立つ姿に似ているとする見解も散見される。しかし、山の鶴と岸辺の鶴とで飛び立つ姿に特徴が違って現れるとも思われない。
(注2)堀1999.にも指摘されている。
(注3)万葉集などに用例が少ないもの、意味がわからないからきっと枕詞であろうと思われているもので、その形が微妙に変化しているものについて、当時としても意味がわからなくなっていたから多用されることがなく、形も紛れて変化していったと見られることがある。「山たづの」に近似の「山たづね」という形があり、そのように解されている。

  磐姫いはのひめの皇后おほきさきの、天皇すめらみことを思ひて御作つくりたまふ歌四首
 君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ〔君之行氣長成奴山多都祢迎加将行待尓可将待〕(万85)
  右の一首の歌は、山上憶良臣の類聚歌林に載す。

 歌全体で見ても、万85番歌は、記87歌謡・万90番歌によく似ている。伝承されるうちに別の形に変化したことは考えられなくはない。しかし、だからといって、枕詞「山たづの」の意が理解されなくなっていたかどうかを議論することはできない。現代人の勝手な思い込みではないと保証することができず、根拠なき論証に陥っている。
(注4)「山たづ」については、允恭記の歌謡の注からミヤツコギ(造木)のこととされるが、なお種の同定に手こずっている。ニワトコ、接骨木説、タマツバキ、椿の敬称説に分かれている。新撰字鏡に、「檅〈造木〉・𪳤〈上同〉」、「女貞実 八月採実、陰干、比女豆波木ひめつばき、又、造木を云ふ。」、和名抄には「接骨木」のほか、「女貞 拾遺本草に云はく、女貞は一名、冬青〈太豆乃岐たづのき、楊氏漢語抄比女都波岐ひめつばきと云ふ〉、冬月に青翠にして故に以て之れを名づくといふ。」ともある。
 岩波古語辞典は、「みやつこぎ【造木】➀ニワトコの古名。……ニワトコはミヤツコの転。➁タマツバキの異称。……」(1241頁)としている。が、「女貞」をネズミモチととる説もあり、角川古語大辞典や日本国語大辞典ではとっている。
 佐野1999.に、「「山多豆」が常緑樹でしかも目立たない「女貞」であるという理解にたてば、自らは目立たぬながらも変わらぬ情で待っていようというのであるから、巧みに構成されているといえる。しかも虫麻呂と宇合との贈答であるから、『芸文類聚』の「女貞」の記述「清士欽其質而貞女慕其名」を当然踏まえていたと考えられ、ただひたすらに待ち、そして迎えようという「清士」の心を餞として送ったのだと解されるのである。」(36~37頁)と際限のない臆説が展開されている。
(注5)拙稿「允恭天皇即位固辞の理由について」参照。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典  中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第五巻』角川書店、平成11年。
佐野1999. 佐野宏「「山多豆」考─「造木」の注記を中心に─」『文学史研究』40巻、大阪市立大学国語国文学研究室、1999年12月。大阪市立大学学術機関リポジトリ https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_111E0000001-40-3
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第七巻』小学館、2001年。
堀1999. 堀勝博「「山たづの迎へ」考」『日本文学研究』第51巻第2号、関西学院大学日本文学会、1999年9月。
松田1966. 松田芳昭「枕詞の生成についての一考察─「やまたづ」考─」『国語と国文学』第43巻第4号(通巻506号)、昭和41年4月。

加藤良平 2023.5.5初出

紀郎女の怨恨の歌─万葉集の題詞、左注のウラムをめぐって─

 万葉集に「怨恨」の歌がある。もっぱら大伴坂上郎女おほとものさかのうへのいらつめ紀郎女きのいらつめの歌が取り上げられ、彼女らが男性に対して怨恨を抱いたうらみの心情を吐露した歌であると考えられている。しかし、それ以外にも「怨恨」という字面は題詞や左注に現れている。「怨恨」という字面の持っているおどろおどろしさ、ただしそれは現代人が抱いていることにすぎないのであるが、それをもって何か特別なことを二人の女性は言いたかったのではないかとする説が通行している。そして、「怨恨」というお題を一ジャンルとして歌作されていたとまで捉えられている(注1)。筆者は、上代において、ウラムというヤマトコトバを書き表すのに「怨恨」と書記したにすぎないものと考える。「怨恨」、「恨」、「怨」とある表記は、いずれもウラムを書き表したものであろう。
 本稿は、前半において、万葉集巻第四に所載の紀郎女の「怨恨」歌について、それがどのような背景から生まれた「怨恨」であったかを見極めながら検討し、訓みと歌意について修正を求める。後半において、題詞や左注にウラムと記された歌の本質を理解することに努める。現状での解釈を示すため、以下にあげる用例には新大系文庫本の訳をあわせて呈示するが、訓みにおいては従っていない箇所もある。

➀ 紀郎女の怨恨うらみの歌三首〈鹿人かひとの大夫まへつきみむすめ、名を鹿しかと曰ふ。きのおほきみの妻なり。〉〔紀郎女怨恨謌三首〈鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也〉〕
 世の中の をみなにしあらば 吾が渡る あなの川を 渡りかねめや〔世間之女尓思有者吾渡痛背乃河乎渡金目八〕(万643)
(訳)世の常の女であったら、私の渡るあなせの川を渡りかねることなどありましょうか。((一)395頁)
 今は吾は わびそしにける 息の緒に 思ひし君を ゆるさく思へば〔今者吾羽和備曽四二結類氣乃緒尓念師君乎縦左久思者〕
(万644)
(訳)今は私はつらくてたまりません。一筋に命かけて思っていたあなたを手放すと思うと。(同頁)
 白栲しろたへの 袖別るべき 日を近み 心にむせひ のみし泣かゆ〔白細乃袖可別日乎近見心尓咽飯哭耳四所泣〕(万645)
(訳)(白たへの)袖の別れが近いので、心の中でむせび悲しみ、声をあげて泣くばかりです。(同頁)

 題詞の脚注に紀郎女が誰であるか記されており、安貴王の妻であると断られている。安貴王の妻である人が「怨恨」の心を抱いた。歌中でも男性との別れに心を痛めている様子が語られている。後二首でその気持ちは素直に詠まれている。三首連作なのだから、一首目でもそれと相反しない、ないしはその境地へと導く内容が歌われているはずである。心をひどく痛めているのだから、原文に「痛背乃河」とあれば、アナセノカハではなく、イタセノカハと訓まれるべきであろう(注2)
 新大系文庫本は、「この「怨恨」が誰に向けられたものかは不明。「痛背の川」は「ああ背の君よ」の意を掛けるか。所在未詳。「川を渡る」ことにも寓意があるか。→一一六。男との別れを目前にして、世の常の女のように思い切ったことができないのを嘆くのであろう。」(同頁)と解説する。参照すべき万116番歌は次のとおりである。

➁ 但馬皇女たぢまのひめみこの、高市たけちの皇子みこの宮に在りし時、ひそかに穂積ほづみの皇子みこまじはり、事既にあらはれて御作つくりたまひし歌一首〔但馬皇女在高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首〕
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る〔人事乎繁美許知痛美己世尓未渡朝川渡〕(万116)
(訳)但馬皇女が高市皇子の宮にいた時に、ひそかに穂積皇子と関係を結び、その事が露見して、お作りになった歌一首
 人の噂がしきりなので煩わしく思って、私の生涯にまだ渡ったことのない、朝の川を渡ります。((一)135頁)

 ここで「痛」字はコチタシの ita 音に使われている。噂が立てられて心が痛むので、誰の目にもつかないように朝の早い時間帯に川を渡ったというのである。そんな薄暗がりのなか川を渡ることは危ないことだから、良い子も良い大人も真似をしてはならない。
 ➀の万643番歌にあるイタセノカハについて、そういう名称の川があったことは知られない。女が男のもとへ通うと噂を立てられて心がひどく痛むことを比喩にしたもので、激しい急流で渡るのに難儀する瀬のある川という意に用いられているのであろう。それでも相手の男のこと、それは「」と呼ぶ相手である安貴王のことが好きだから、「」を渡るのである。「吾が渡る」とあるのだから、私(紀郎女)は渡っている。同じように、世の中のふつうの女性であれば、渡ることができないなんてことはあるだろうか、いやいやない、と言っている。「渡りかねめや」の主語は、冒頭の「世の中の女」である。自分のような気持ちの小さな人間でも素敵な安貴王のところへ渡っているのだから誰だって渡るものだ、という意である。紀郎女は、自分が「思い切ったことができないのを嘆」いているわけではない。恋のライバルがいて、同じように安貴王のもとへと通っていることに気づいてしまったのである。だから、二首目以降へとつながる(注3)
 その恋敵とは誰か。多く指摘されているように、いな八上やかみの釆うねであろう。注目されるべき記述は、万葉集巻第四において既出である。

➂ 安貴王の歌一首〈并せて短歌〉〔安貴王謌一首〈并短謌〉〕
 遠妻とほづまの ここにあらねば 玉桙たまほこの 道をたどほみ 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日行きて 妹にことひ 吾がために 妹も事無く 妹がため 吾も事無く 今も見るごと たぐひてもがも〔遠嬬此間不在者玉桙之道乎多遠見思空安莫國嘆虚不安物乎水空徃雲尓毛欲成高飛鳥尓毛欲成明日去而於妹言問為吾妹毛事無為妹吾毛事無久今裳見如副而毛欲得〕(万534)
(訳)遠くにいる妻がここにいないので、(玉梓の)道の遠さに、思う心は安らかでなく、嘆く心も苦しいので、大空を行く雲でありたいな。高く飛ぶ鳥でありたいな。明日にでも行って妻と語らい、私のために妻も安穏で、妻のために私も無事で、今もまざまざと思い見ているように、二人寄り添っていたいものだ。(同頁)
  反歌〔反謌〕
 敷栲しきたへの 手枕たまくら巻かず あひだ置きて 年そ経にける 逢はなく思へば〔敷細乃手枕不纒間置而年曽經来不相念者〕(万535)
  右は、安貴王、いな八上やかみのうねを娶りて、係念おもひ極めて甚しく、愛情尤も盛りなりき。時にみことのりして不敬の罪にさだめ、本郷もとつくに退却まからしむ。ここに王、こころを悼みかなしびていささかに此の歌を作れり。〔右安貴王娶因幡八上釆女係念極甚愛情尤盛於時勅断不敬之罪退却本郷焉于是王意悼怛聊作此歌也〕
(訳)(しきたへの)手枕も巻かないで、遠く離れたまま年が過ぎてしまった。あなたに逢えないでいることを思うと。
 右、安貴王が因幡の八上采女を娶ったが、思いは極めて強く、愛情は極めて深かった。然るに、勅命が下って王は不敬の罪に処せられ、(采女は)本国(因幡)に帰された。王はこれを悼み悲しみ、取り敢えずこの歌を作ったという。((一)355頁)

 左注に事情が記されている。安貴王は天皇に仕える身分である采女と恋仲になった。もちろん、当時、采女に手を出すことは禁じられている。紀郎女の歌が歌われたことにより人々に知られるところとなり、不敬の罪に当たるとして本郷に退却するようにと勅断が下されている。安貴王は会えなくなるので心痛が激しくなり、八上采女に向けて想いのたけを伝える歌を歌っている。
 多くの注釈書では「退却本郷焉」について、安貴王に対して断罪するわけにはいかず、八上采女のほうを「本郷」である因幡へ戻したのであろうとしている。しかし、この文章は安貴王を主語として書き始められている。「時勅断不敬之罪退却本郷焉」は天皇が主語であるが、後に続く「于是王意悼怛聊作此歌也」も安貴王を主語として扱っている。「退‐却八上采女本郷焉」とは記されていない。したがって、「退却本郷焉」は「退‐却安貴王本郷焉」の意であるはずである。
 そんなことは考えられない、安貴王は都の人ではないか、そのまま都にいるではないか、というのが今日の人の常識なのだろう。しかし、原文にそう書いてあるのだから、我々は我々の常識の殻を破らなければならない。
 「因幡八上」なる名を聞いて、当時の人なら誰でも思い出すことがあった。言い伝えに聞いているかみ比売ひめのことである(注4)。古事記のなかで、大国おほくにぬしのかみいなしろうさぎに出くわすシーンに登場する。稲羽の八上比売と結婚しようと大国主神の兄弟たちである八十やそかみは稲羽へ出掛けた。そのとき、大国主神、別名、大穴おほあな遅神ぢのかみに袋を背負わせ、従者として連れて行っている。結果、八上比売は大穴牟遅神を選んで結婚しているが、一緒に帰ろうとすると八上比売は大穴牟遅神の正妻である須世理比売すせりひめのことを憚って、産んだ子を木の俣に挟んで自分は返ってしまっている。その子は、木俣神きまたのかみと名づけられている。
 大穴牟遅神が帰って来ていたところ、それが「本郷」である。そして、そこは、「木俣」のあるところ、すなわち、木の国である。木の国とは紀の国のことである。キは乙類である。安貴王の正妻である「紀郎女」のことを指して相同する。古事記のなかで気の多い神として扱われている千矛神ちほこのかみは別名で、大国主神、大穴牟遅神と同じ神である。同様に気の多い安貴王よ、紀郎女のところへ戻りなさい、と「勅断」を受けたのである。
 紀郎女のことは「小鹿」と言うのだと題詞脚注に断られている。通説にヲシカと訓まれている(注5)。「牡鹿」とあってもヲシカである。「鹿人大夫」の娘子なのだから「小鹿」と書いているが、オスのシカ、サヲシカのことと同音で呼んでいたようである。角が生えている。「木俣」のようになっている。
 万535番歌の左注の謎が解けた。となれば、万643~645番歌の「紀郎女怨恨歌三首」の作歌事情も理解に難くない。紀郎女は、八上采女との恋の争いに敗れていると気づき、もう嫌だ、安貴王とは別れようと思って三首の歌を作った。自分の気持ちを吐露する「怨恨」の歌と標榜されている。それがため「勅断」が下ることとなった。そう考えるのに十分な歌である。
 万葉集巻第四において、万535番と万643~645番とは位置が離れている。そのため、これまでの説では、紀郎女の人生経験において時間が経過していると考えられてきた。「巻四はゆるやかな編年配列に内容別分類を所所に加えて編集していると考えられる。」(島田1997.22頁)とされているからである。安貴王の歌は養老五年(723)以後神亀元年(724)以前の作、紀郎女の三首は天平四年(733)以後天平六年(735)以前の作と推定されている。その間9~12年隔たっているというのである。しかし、年代順に排されているという確実な証拠はない。紀郎女の三首の作歌時期を挟み定める年次記事のある歌は、万621番歌の「西海道節度使」が天平四年八月に任命されたものとわかり、また、「天皇」(万530・624・626・721・725の各題詞)が聖武天皇のことという点や、「久邇京に在りて……」歌(万765)は天平十二年(740)十二月から十六年(744)二月の作であるととれる程度で、他は作者の没年を参照しながら定められている。すなわち、紀郎女の三首が天平四年(733)以後天平六年(735)以前の作であると決めつけられはしないのである。万643番歌前の題詞にわざわざ脚注が付けられていることに注目するなら、上に述べた推測のほうが説得力があるであろう。
 今一度、紀郎女の怨恨歌についての現状の解釈を振り返ってみよう。影山2022.は、「鬱々とした心情を抱きつつ歌主[紀郎女]は「川」をいま渡っていて、しかし「世の常の女」でない自分はそれをついに「渡りかねる」というのである。嫉妬や怨念や後悔が胸中に満ちた状態は誰にとっても苦しい。「川」を渡るだけでも十分に困難を伴うものなのに。……すなわち一首の趣旨は、自身が世間並みの女ではないという自負のもとに、夫の浮気の事実を知りながらこのまま結婚生活を続けるという、世間的には肯定される選択──しかし、自身にとっては苦しくてしかたのない選択──を放棄して、夫と潔く離別するという決意であろう。」(176~177頁)としている。この議論は二重の意味で誤解がある。
 第一に、万643番歌で、「吾が渡る」と言いながら「渡りかね」るというのが「歌主」であるとするのは、最後の助詞「や」の反語に対して曲解している。すでに述べたとおり、私が渡る川を世間並みの女が渡りおおせないなどということがあろうか、の意である。第二に、古代の一夫多妻制において、夫の浮気を許さない通念などなかったであろうことに思い至っていない。紀郎女が気にかけたのは、夫の安貴王の別の相手が、よりによって采女の立場にあったから問題だと思ったのである。不敬の罪に当たるとされた。そのことを知りながら黙っていれば、紀郎女とて連座せねばならなかったかもしれない。そこで、歌をもって訴え出たという次第である。それが「紀郎女怨恨歌三首」を真っ当に受け取ったときの事の真相である。紀郎女が「怨恨うら」んでいるのは、浮気に走っている夫に対して忸怩たる思いを述べているといった単純なことではなく、なにもよりによって不敬の罪に当たる采女に通じることはなかろうと言っているのである。
 紀郎女が「怨恨歌三首」を歌わなければ、安貴王の不敬の罪は継続していたかもしれない。しかし、彼女は「怨恨歌三首」を歌った。自らの心情を歌うようにかこつけて、白日の下に曝け出したのである。連座制などたまったものではない。わざわざ声をあげて恨み節を公表している理由に思いを致せば、万葉歌はモノローグでも私小説でもなかったことを再確認させられよう。告発するための方便として、ウラム歌が詠まれていると考えられるのである。ウラム歌が詠まれるということは、それがウラム歌であるということばかりではなく、その歌がウラムものであると表明しているというその状況を指し示していて、その両者を兼ねているわけである。
 そう考えると、注意しなければならない点が浮かびあがってくる。万葉集において、「怨恨」だけでなく、「怨」、「恨」、また仮名書きされたウラム(ウラミ、ウラメシ)の例がある。いずれの表記であっても、歌のなかや序のなかに用いられている場合と、題詞や左注に用いられている場合とは区別して考えなければならないのである。歌中などにウラムとある場合、対象をウラムと述べるにとどまる。表現自体で完結する使用法である。他方、題詞などにウラム歌とある場合、作者がウラム状態にあること、ウラム立場に置かれていることを伝えていることを自ずと示すことになっている。歌の作者は、いま苦しい立場に置かれていると相手に訴えかけている。紀郎女は、安貴王の振舞いをウラムばかりか、現状が打開されることを聞き手となる大勢の人に乞うていることになっている。
 ウラムという語については、古典基礎語辞典の解説に、「ウラ(心)ミル(見る)の転とする語源説がある。ウラはウラガナシ(心悲し)・ウラゴヒシ(心恋し)・ウラナシ(心無し)などのウラと同じである。不当な扱いを受けて、不満や不快感を抱きつつも、それに対してやり返したり、事態を変えたりすることができず、しかもずっとそのことにこだわり続け、こういうことをする相手の本心は何なのだろうとじっと思いつめること。転じて、恨みごとを言う、怨みを晴らす行為や仕返しをするの意。」(208頁、この項、白井清子)とあり、白川1995.に、「「うら」を活用したものには、「うらがなし」「うらさぶ」「うらぶる」など、失意の情をいうものが多い。」(165頁)としている。
 自分の意のままにならぬことが起きる。自分のウラ(心)と相手のウラ(心)とが一致せず、どうすることもできない思いを抱え込むことになる。相手のウラ(心)を操作することはできないから、自分のウラ(心)は忸怩たる思いに沈む。そのことを口に出して相手に直接言ってみたところで、気持ちが通じて簡単に形勢に変化が生じるというものではない。その段階はすでに終わっている。互いの気持ちはもはや同じ方向を向いておらず、やすやすとは通じなくなっている。だからウラムのだが、その言葉にノロフ(呪・詛)やトゴフ(呪・詛)、カシル(呪・詛)のような呪詛、呪言の類の力は持たない。ではなぜそれを口に出しているのか(注6)。上述のとおり、ウラムものであると公表することで、置かれている状況の枠組みを転換させることができる可能性があるからである。当事者間どうしの話し合いでは埒が明かないことでも、第三者の知るところとなれば一気に局面の打開に結びつくことがある。
 万葉集にある他のウラム歌について確認する。「怨恨」とあるのは、題詞に他に三例、左注に一例見える。

➃ 大伴坂上郎女の怨恨の歌一首〈并せて短歌〉〔大伴坂上郎女怨恨謌一首〈并短哥〉〕
 おしてる 難波のすげの ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば まそ鏡 磨ぎし心を ゆるしてし その日の極み 波のむた 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず 大船の たのめる時に ちはやぶる 神かくらむ うつせみの 人かふらむ 通はしし 君も来まさず 玉梓たまづさの 使も見えず なりぬれば いたもすべ無み ぬばたまの よるはすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども しるしを無み 思へども たづきを知らに 幼婦たわやめと 言はくもしるく 手童たわらはの のみ泣きつつ たもとほり 君が使を 待ちやかねてむ〔押照難波乃菅之根毛許呂尓君之聞四手年深長四云者真十鏡磨師情乎縦手師其日之極浪之共靡珠藻乃云々意者不持大船乃〓〔冫偏に馵〕有時丹千磐破神哉将離空蟬乃人歟禁良武通為君毛不来座玉梓之使母不所見成奴礼婆痛毛為便無三夜干玉乃夜者須我良尓赤羅引日母至闇雖嘆知師乎無三雖念田付乎白二幼婦常言雲知久手小童之哭耳泣管俳佪君之使乎待八兼手六〕(万619)
(訳)(おしてる)難波の菅のねんごろにあなたがおっしゃって、年久しく長い間私に言うので、(まそ鏡)研ぎ澄ました志操を緩めたその日を境として、波とともに靡く玉藻のようにあちらこちら揺れ動く心は持たず、あなたを(大船の)頼りにしきっていた時に、(ちはやぶる)神が引き離すのか、(うつせみの)人が妨げるのか、かよって来られたあなたもお越しでなく、(玉梓の)お使いの者も来なくなってしまったので、どうにも為すすべがないままに、(ぬばたまの)夜は夜通し、(赤らひく)日も暮れるまで嘆くけれども、そのかいもなくて、思うけれど、どうしたらよいのか手だても分からず、かよわい女と言われる通り、幼な子のように声を上げて泣きながら、うろうろしてあなたのお使いを待ち切れずにいることでしょうか。((一)385頁)
  反歌〔反謌〕
 初めより 長く言ひつつ たのめずは かかる思ひに 逢はましものか〔従元長謂管不令恃者如是念二相益物歟〕(万620)
(訳)会った初めから長い間言いつづけてあなたが頼りにさせなかったら、こんな思いに会ったことでしょうか。((一)387頁)
➄ 二十二日に、判官じようめの朝臣あそみ広縄ひろなはに贈れる、霍公鳥ほととぎすの怨恨の歌一首〈并せて短歌〉〔廿二日贈判官久米朝臣廣縄霍公鳥怨恨歌一首〈并短哥〉〕
 此間ここにして がひに見ゆる わが背子が かきの谷に 明けされば はりのさ枝に 夕されば 藤の繁みに はろはろに 鳴く霍公鳥 吾が屋戸やどの 植木橘 花に散る 時をまだしみ 来鳴かなく そこは怨みず しかれども 谷かたきて いへせる 君が聞きつつ 告げなくもし〔此間尓之氐曽我比尓所見和我勢故我垣都能谿尓安氣左礼婆榛之狭枝尓暮左礼婆藤之繁美尓遙々尓鳴霍公鳥吾屋戸能殖木橘花尓知流時乎麻太之美伎奈加奈久曽許波不怨之可礼杼毛谷可多頭伎氐家居有君之聞都々追氣奈久毛宇之〕(万4207)
(訳)二十二日に、判官久米朝臣広縄に贈ったホトトギスの怨恨の歌一首と短歌
 ここから後ろに見えるあなたの御領地の谷で、夜明けには榛の枝で、夕方には藤の繁みで、はるかに鳴くホトトギス。我が家に植えた橘が、花に開きながら散ってゆく時がまだ来ないので、来て鳴かないこと、それは怨まない。けれども、谷に接して住んでいるあなたが、聞いていながらそれと知らせてくれないのは残念なことです。((五)141頁)
  反歌一首〔反歌一首〕
 吾が幾許ここだ 待てど来鳴かぬ 霍公鳥 ひとり聞きつつ 告げぬ君かも〔吾幾許麻氐騰来不鳴霍公鳥比等里聞都追不告君可母〕(万4208)
(訳)私がこんなに待っているのに来て鳴かないホトトギスを、一人聞きながら知らせてくれない、あなただなあ。((五)143頁)
➅ 独り江の水に浮かび漂へるこつみを見て、貝玉の依らざるを怨恨うらみて作る歌一首〔獨見江水浮漂糞怨恨貝玉不依作歌一首〕
 堀江より 朝潮満ちに 寄るつみ 貝にありせば つとにせましを〔保理江欲利安佐之保美知尓与流許都美可比尓安里世波都刀尓勢麻之乎〕(万4396)
(訳)一人で堀江の水に浮き漂う芥を見て、貝の玉が寄って来ないことを恨んで作った歌一首
 堀江に朝の潮が満ちるにつれて寄って来る木屑、これが貝だったら家へのみやげにしようものを。((五)243頁)
➆ 商返あきかへし めすとの御法みのり あらばこそ 吾が下衣したごろも 返し賜はめ〔商變領為跡之御法有者許曽吾下衣反賜米〕(万3809)
  右は伝へて云はく、「時にうつくしびらえし娘子をとめ有りき。〈姓名未だ詳らかならず。〉うつくしび薄れし後に、寄物〈俗にかたみと云ふ。〉を還し賜ひき。ここに娘子怨恨うらみて、いささかにこの歌を作りて献上たてまつりき」といふ。〔右傳云時有所幸娘子也〈姓名未詳 〉寵薄之後還賜寄物〈俗云可多美 〉於是娘子怨恨聊作斯歌獻上〕
(訳)売買の取り消しを許可する法律があるのなら、私の下衣をお返し下さってもいいでしょうが。
 右は、言い伝えによると、「ある時、寵幸される娘子がいた〈姓名は未詳〉。寵愛薄らいだ後、相手は預かり物〈俗に「かたみ」と言う〉をお戻しになった。そこで娘子は怨みに思ってこの歌を作って差し上げた」という。((四)271頁)

 ➃の例は、➀同様に恋の「怨恨」である。この恋の対象については不明であり、誰をウラムことになっているのかわからない。一般論として歌を作っているようにも思えるため、中国詩文との関係が取り沙汰されているようである。だが、募る恋心に翻弄されているのを相手のせいにして歌に作っていると見ることもできる。そんなことを公にされたら、相手の男性はよしよしわかったと言って愛情をふりそそぐよりほか解決のしようはない。そううまく運んだのが➃の「大伴坂上郎女怨恨歌」だったのではないか。結果的に相手が誰か知られないままに終わっているのは、丸く収まり、事荒立てることではなくなって、情報として要らないからだろう。
 ➄の「怨恨」の対象は鳴かない「霍公鳥」ではなく、それが鳴いたことを教えてくれない久米広縄である。ホトトギスがこちらが思うように鳴いてくれないのは仕方がないが、ホトトギスの鳴き声を聞いていながら聞いたと言ってこない峡谷住まいの久米広縄に対し、ウラムと大仰に言っている。些細なことなのに大袈裟な物言いにしているところがミソである。仲がいいから、ウラムと言ってもかえって笑いながら許されるのであり、作者の大伴家持から送られた、もっと気さくに付き合って欲しいというメッセージとなっている。
 ➅の例は、万4397番歌の左注に、「右三首二月十七日兵部少輔大伴家持作之」とあるうちの一首である。この歌では「糞」が漂って「貝玉」が寄り付かないことをうらんでいる。きれいな貝があればお土産に持って帰ろうと思って浜辺へ出てみたが、木屑ばかり漂着していて話にならないと言っている。お土産にしようとしていたのにかなわなかったことを、ウラム気持ちがあふれたことにしている。ウラムと公表しておけば、その実どうであったかはともあれ、お土産なしの帰郷でも気にはかけていたという言い訳として最高のものとなっている。
 ➆では、形見の品のつもりで置いてきた下着を返して寄こすのはあまりにひどいと憤慨している。共に楽しく過ごした夜のことを人生の1ページとして互いにいい思い出として持って行きましょうという思いで下衣を置いてきているのに、それすら送り返して来て、なかったことにしようとする相手の気持ちに苛立ち、ウラム思いが炸裂している。メモリーとして置いておいたつもりなのに、と恨み節を歌えば、確かに一夜を共に過ごした事実が逆にあからさまになり、文字どおり、公然の形見と化している。
 大したことではないことについて積極的にウラム気持ちを表明することは、認知的に不協和な状態を低減させる効果がある。歌い手とその対象者ばかりでなく歌の聞き手のオーディエンスを巻き込むことで、互いの気持ちを近づけることに資するのである。もう少し打ち解けて話をしようとか、自分のことを考えてくれてはいたと許してしまったり、なるほど道理でそういうことだったのね、などと納得してもらうことができる。この点が、万葉集でウラム歌が行われた理由である。紀郎女や大伴坂上郎女の題詞に「怨恨」とある歌は、黙っていれば表立たない男女関係について、それを露呈させることで、関係を“是正”させる方向へと作用したものであった。
 単字で「怨」「恨」とある例は題詞に六例、左注に五例ある。⑰以外、訳は省略する。

➇ 忌部いむべのおびと黒麻呂くろまろの、友のおそく来るを恨むる歌一首〔忌部首黒麿友賖来謌一首〕
 山のに いさよふ月の 出でむかと 我が待つ君が はくたちつつ〔山之葉尓不知世経月乃将出香常我待君之夜者更降管〕(万1008)
➈ 大伴家持の霍公鳥のおそく喧くを恨むる歌二首〔大伴家持霍公鳥晩喧謌二首〕
 吾が屋前やどの 花橘を 霍公鳥 来鳴かずつちに 散らしてむとか〔吾屋前之花橘乎霍公鳥来不喧地尓令落常香〕(万1486)
➉ 立夏の四月は既に累日を経て、なほ未だ霍公鳥の喧くを聞かず。因りて作る恨みの歌二首〔立夏四月既經累日而由未聞霍公鳥喧因作謌二首〕
 あしひきの 山も近きを 霍公鳥 月立つまでに 何か来鳴かぬ〔安思比奇能夜麻毛知可吉乎保登等藝須都奇多都麻泥尓奈仁加吉奈可奴〕(万3983)
⑪ うぐいすの晩くくを怨むる歌一首〔鶯晩哢歌一首〕
 鶯は 今は鳴かむと かたてば 霞たなびき 月はにつつ〔宇具比須波伊麻波奈可牟等可多麻氐婆可須美多奈妣吉都奇波倍尓都追〕(万4030)
⑫ 更に霍公鳥の哢くことの晩きを怨むる歌三首〔更霍公鳥哢晩歌三首〕
 霍公鳥 鳴き渡りぬと ぐれども 吾聞き継がず 花は過ぎつつ〔霍公鳥喧渡奴等告礼騰毛吾聞都我受花波須疑都追〕(万4194)
⑬ 霍公鳥の喧かぬを恨むる歌一首〔霍公鳥不喧歌一首〕
 家に行きて 何を語らむ あしひきの 山霍公鳥 一声ひとこゑも鳴け〔家尓去而奈尓乎将語安之比奇能山霍公鳥一音毛奈家〕(万4203)
  判官久米朝臣広縄〔判官久米朝臣廣縄〕
⑭ 古事記に曰はく「軽太子かるのひつぎのみこかるの太郎女おほいらつめたはく。故、其の太子を伊予の湯に流す」といふ。此の時、通王とほしのおほきみ、恋慕に堪へずして追ひ徃く時の歌に曰はく、〔古事記曰軽太子奸軽太郎女故其太子流於伊豫湯也此時衣通王不堪戀慕而追徃時歌曰〕
 君が行き 長くなりぬ 山たづの 迎へをかむ 待つには待たじ〈ここに山たづと云ふは、今の造木みやつこぎなり。〉〔君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎将徃待尓者不待〈此云山多豆者是今造木者也〉〕(万90)
  右の一首の歌は……時に皇后、難波のわたりに到りて、天皇の八田皇女をひつと聞かしていたくこれを恨みたまひ云々……〔右一首歌……時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女大之云々……〕
⑮ いしかはの女郎いらつめの、大伴宿禰ぬしに贈る歌一首〈即ち佐保大納言大伴卿の第二子なり。母はせの朝臣あそみと曰ふ。〉〔石川女郎贈大伴宿祢田主歌一首〈即佐保大納言大伴卿之第二子母曰巨勢朝臣也〉〕
 遊士みやびをと 吾は聞けるを 屋戸やど貸さず 吾を還せり おその風流士みやびを〔遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曽能風流士〕(万126)
  大伴田主、あざな仲郎なかちこと曰ふ。容姿かたち佳艶きらぎらしく、風流ふるまひ秀絶すぐれたり。見る人聞く者、歎息せざるはなし。時に石川女郎有り。自から双栖ともにすむおもひを成して、恒に独守ひとりもることの難きを悲しぶ。こころふみを寄せむとおもひて、未だ良信よきたよりに逢はず。ここに方便たばかりして賤しきおうなに似せて、己れ堝子なべげてねやかたへに到り、哽音蹢足して戸を叩き諮りて曰はく、「東の隣の貧しき女、将に火を取らむと来る」といふ。ここに仲郎、暗きうち冒隠ものにかくせるの形を識るに非ざれば、おもひの外に拘接まじはりの計りごとにへず。念ひのまにまに火を取り、跡に就きて帰り去らしむ。明けて後、女郎すでに自媒の愧づべきを恥ぢ、また心のちぎりの果さざるを恨む。因りてこの歌を作り、以て贈りて謔戯たはぶれとす。〔大伴田主字曰仲郎容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡不歎息也時有石川女郎自成雙栖之感恒悲獨守之難意欲寄書未逢良信爰作方便而似賤嫗己提堝子而到寝側哽音蹢足叩戸諮曰東隣貧女将取火来矣於是仲郎暗裏非識冒隠之形慮外不堪拘接之計任念取火就跡帰去也明後女郎既恥自媒之可愧復心契之弗果因作斯歌以贈謔戯焉〕
⑯ 或る書の反歌一首〔或書反歌一首〕
 哭沢なきさはの 神社もり神酒みわ据ゑ 祷祈いのれども わご大君は 高日知らしぬ〔哭澤之神社尓三輪須恵雖禱祈我王者高日所知奴〕(万202)
  右の一首は類聚歌林に曰はく、「ひのくまの女王おほきみの泣沢の神社を怨むる歌なり」といふ。日本紀をかむがふるに云はく、「十年丙申の秋七月辛丑の朔庚戌、後皇子のちのみこのみことかむあがりましぬ」といふ。〔右一首類聚歌林曰檜隈女王泣澤神社之歌也案日本紀云十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後皇子尊薨〕
⑰ 味飯うまいひを 水にみなし が待ちし かひはさねなし ただにしあらねば〔味飯乎水尓醸成吾待之代者曽无直尓之不有者〕(万3810)
  右は伝へに云はく、「昔娘子をとめ有りき。そのに相別れ、望み恋ひて年を経たり。爾の時に夫の君更にあたしつまを娶りて、ただには来らずして、ただ裹物つとのみを贈れり。此に因りて、娘子、この恨みの歌を作りて、還しこたへき」といへり。〔右傳云昔有娘子也相別其夫望戀經年尓時夫君更娶他妻正身不来徒贈褁物因此娘子作此歌還酬之也〕
(訳)おいしいご飯を醸(かも)してお酒にして、私が待ったかいは全くありません。直接お目にかからないので。
  右は、言い伝えによると、「昔、娘子がいた。夫に別れ、恋慕しつつ何年かが過ぎた。その時、夫は新たに他の妻を娶って、自分自身は来ずにただ贈り物だけをよこした。 そこで娘子はこの恨みの歌を作って、それを送り返して答えた」という。((四)271頁)
⑱ 心には ゆるふことなく 須加すかの山 すかなくのみや 恋ひ渡りなむ〔情尓波由流布許等奈久須加能夜麻須可奈久能未也孤悲和多利奈牟〕(万4015)
  右は、射水いみづのこほりの古江村に蒼鷹おほたかを取り獲たり。……因りて恨みをのぞく歌を作りて、ちて感信しるしあらはせり。守大伴宿祢家持 〈九月二十六日の作なり。〉〔右射水郡古江村取獲蒼鷹……因作却之歌式旌感信守大伴宿祢家持〈九月廾六日作也〉〕

 ➇は気の置けない友が遅刻したことについて、大仰に言って戯れている。➈~⑬はホトトギスやウグイスがなかなか鳴かない、あるいはまったく鳴かないことをウラムと言っている。鳥に対してウラムと言っても鳥は傷つかないし、歌を聞いた人も笑い話として受け取ることができる。⑭は仁徳天皇時代の故事のことを言っていて、嫉妬深い皇后がウラムことがあったと述べている。歌自体とは関係がない逸話である。⑮はつれない対応に対する恨み節を公にして、自らのとった行動を自虐しながら諧謔へと転じている。⑯は挽歌の反歌として加えられた歌である。祈ったが甲斐がなかったことをウラム歌にし、追悼の言葉に代えている。⑰は⑭同様、伝説上の物語を言っている。元カレが自身は来ないで物を贈って寄こしたので、物を返さずに歌を返した。そのことが歌の中の言葉、「かひ」に掛けられている。歌全体の表現に奥深さがあり、ウラムというきつい言い方も許容できる。昔話でもあるから穏やかに聞いていられる。⑱は鷹狩の鷹を逃がしてしまったことをウラムと言っている。相手は鳥である。
 これらの例からは、ウラム歌と言っても今現在においての深刻さは乏しいとわかる。そして、万葉集のなかでウラム歌は数が限られている。その理由は、歌というものはそもそもの前提として、本来、公表されることが期待されているからである。歌われるのが歌である。ぐじぐじとウラム内容を披露して、聞いた側がハッピーになれることはほとんどない。思い余ってウラム言葉を口にして公表した時、得られるものもあるが失うものも多い。裁判所に調停を申し立てたり、弁護士を介してしか話をしないことになれば、もはや関係の修復は難しい。事実であれ公になることによってプライバシーは侵され、互いの信頼は失われる。誹謗、中傷の域に達しかねないことは、今日のSNS事情からも伺い知ることができるであろう。万葉集のウラム歌のなかでは、紀郎女の作が本気で一か八かの掛けとして恨み節を吐露したものであったと考えられる。大伴坂上郎女のそれは、長歌に贅言を尽くしながらおしゃべりを展開しているところからして、ウラム歌と題した甘えの歌であったと捉えるのがふさわしかろう。それ以外のホトトギス問題をウラムとしたような諧謔の歌は、聞いた側までかえって笑いに包まれるほがらかな機知として喜ばれたものであったろう。昔話の場合は、ハナシとして楽しまれたのだろう。そういった次第でウラム歌は万葉集にいくつか残されていると考えられる。

(注)
(注1)怨恨を漢語のエンコンと考え、中国の詩文の影響と見る向きが多い。玉台新詠に見られる「怨詩」、例えば班婕妤・怨詩一首并序などを学び、和歌でも試作しようとしたとする説が唱えられている。浅野1984.、佐野2009.、東1994.、大谷2016.など参照。清水1987.は、中国の漢詩のなかに「怨恨」という詩題はないことを指摘しつつ、大伴坂上郎女は漢詩文の影響下に「うらみ」というテーマに合うように歌を作っているとしている。小野寺1989.も、大伴坂上郎女は漢詩の怨詩の詠法を採り入れているわけではなく、詩題だけを受け入れて「怨恨歌」は生まれているとしている。しかるに、そもそも大伴坂上郎女が万619・620番歌で、紀郎女が万643~645番歌でそれぞれ一回だけ行ったことについて、女の恋歌において「怨恨」が歌題化、文芸化したと措定できるものであろうか。坂上郎女が玉台新詠の怨詩から女性の歌のパターンを学んだなどと主張するのは飛躍がすぎる。彼女らは字が読めたのかさえ疑問である。ならびに、それらの女性の作った歌だけを選んで、他の「怨恨歌」である用例、➄➅➆をオミットして議論は成り立つとも思われない。漢詩文との関係を検討する以前に研究の姿勢が問われるところである。
(注2)西本願寺本、元暦校本などで「痛背乃河」はアナセノカハと訓まれている。類例に「あながは」(万1087)があり、穴師川のことである。万葉集の歌句において「痛」字をアナと訓んでいるのは他に、万344・575・1050・2302番歌の諸例が感動詞の意で訓んでいる。他方、集中において、「痛」字をイタムやイタシ、イタ、コチタシの意に使う例は四十例を超えている。
(注3)文章の構成上、誤解の余地はないと考えるが、現代の注釈書には曲解しているものばかり目につく。「渡りかねめや」の主語を取り違えたり、割り込ませて多重に解したり、川を渡ることの意味を深読みして意を動顛させたり、訳としては正しそうに見えるのに小難しく考える傾向にある。「痛背乃河」をアナセノカハと訓むところに問題があるらしい。
 土屋1950.は、「世間普通の女であるならば、吾が渡る痛背の川を渡りかねはすまいが、吾は夫に去られて居るので、其の連想のある此の川をば渡りがたくするのである。」(172頁)としている。
 武田1957.は、「世間の女だつたら、私の渡る痛背の川を渡りかねることはないでしよう。」(229頁)としつつ、「痛背の河を渡るということの意味がはつきりしない。……獨りよがりの歌というべきだ。」(同頁)と解している。
 澤瀉1959.は、「世間普通の女であつたら私の渡る痛背川をこんなに渡りかねる事がありませうか。」(389頁)とし、「世の常の女であつたら今私が渡りかねてるやうにこの川を渡りかねるやうな事をしようか、ずんずん渡り切つてしまふ事でもあらうか、といふ風な意味に解される。」(同頁)としている。
 大系本萬葉集に、「世間普通の女であれば、思いに耐えかねて私の渡る穴師川を、誰でも思いきって渡ってしまうにちがいない。」(286頁)としている。
 窪田1966.は、「この世に生きている女である限りは、今吾が渡っている痛背の河を渡るということをしかねようか、しかねはしない。」(458頁)としつつ、「歌は女郎が、痛背の河を渡りながら発した感慨で、一方ではその事の尋常でないのを思いつつ、同時に他方では、これは当然なことである、これは吾のみのすることではなく、この世に生きている女である限り、誰しもせずにはいられないことであると、そのことを押返して肯定した心のものである。痛背の河を渡るのを尋常でないとするのは、この河は女郎とその夫の家との間にあるもので、平常だとその河を渡るのは夫であるのに、今は妻の女郎がしているので、尋常ではないとするものと解される。この尋常でないことをあえてするのは、夫が女郎を疎遠にし、関係を絶とうとしているので、それに昂奮しての行動と見なければ、この歌は解せないものとなる。歌そのものも、題詞も、その事をかなりまで明らかに示しているといえる。強い感情と理性との溶け合っている歌といえる。」(458~459頁)と解している。
 古典全集本萬葉集は、「世の常の 女だったら わたしが渡る あなの川を 渡りきれないことがあろうか」(352頁)としつつ、「実際は、作者は世間一般の女でないから渡れないでいることをいう。私だけは夫の裏切りを我慢できないという寓意。」(351頁)と説明する。
 古典集成本萬葉集は、「私がもし世の常の女であったなら、渡るにつけて「あああなた」と我が胸を痛めるこの痛瀬あなせ川を、渡りかねてためらうことなどけっしてありますまい。」とし、「自分の川を渡ってでも逢いに行く……世の常の女のせっぱつまった行為すらできない自分の立場をうらむ歌。」(313頁)と解している。
 中西1978.は、「私が世間尋常の女だったら、「あな背」の川を渡りかねるでしょうか。不運な女だからこそ、この「あな背」という川も渡りなずむのです。」(318頁)とし、「川を渡ることが恋の成就を意味する。」(319頁)と解している。
 木下1983.は、「世間並みの女であったら わたしが渡っている痛背の川を 渡れないことがあろうか。」(272頁)とし、「作者は世間一般の女でないために川を渡れないでいるのである。」(273頁)と解している。
 新編全集本萬葉集は、「世の常の 女だったら わたしが渡りかけている あなの川を 渡れないことがあろうか」(331頁)としつつ、「安貴王の妻という身分が邪魔して奔放に振る舞えないことを嘆いていったのであろう。……アナセに感動詞のアナと背(夫)とをかけて、自分を裏切った男に対する痛恨の情を込めたものか。……川を渡るということは恋の冒険、不倫な関係を結ぶことを暗示する。……作者はなまじ身分があるばかりに今のところ誘惑にかろうじて耐えているというのであろう。」(同頁)と説明する。
 鴻巣1987.は、「世間ノ普通ノ女ナラバ私ガ渡ル痛足川ヲ渡リカネルコトハアルマイニ。私ハ夫ノ後ヲ慕ッテ来テ、痛足川ヲ渡リカネテ困ツタガ、我ナガラ腑甲斐ナイコトダ。」(572頁、漢字の旧字体は改め、傍線は割愛した)とし、「夫の安貴王の変心を怨んで、その後を慕って、痛足河を渡り悩みつつよんだものか。少し意味の分明しない憾はあるが、ともかく強烈な感じが出てゐる。」(同頁)と解している。
 伊藤1996.は、「私がもし世の常の女であったなら、渡るにつけて「ああ、あなた」と私が胸を痛めるあなの川、この川を渡りかねてためらうなどということはけっしてありますまい。」(563頁)とし、「自分の方から川を渡ってでも逢いに行くというのが恋におちいった世の常の女と考えられていたのであろう……。その世の女の行為もなしえない自分の立場を恨んでいる。女が川を渡ることには世間の妨害に抵抗することを意味するのが当時の習い。」(同頁)と解している。
 稲岡1997.は、「私が世間普通の女であったならば……私の渡っている「ああ、あなた」という名の痛背の川を渡りかねてためらうようなことしないでしょう。」(347頁)とし、「題詞に「怨恨歌」とするのは、安貴王に対する怨恨を意味すると思われるが自分の弱さに対する嘆きとする説もある。」(同頁)と解している。
 阿蘇2006.は、「世間の普通の女であったら、私が渡ろうとして渡れないでいる、このあなの川を渡れないことはないでしょう。」(654頁)とし、「六四三は、通常の女性であったら自分の恋を成就させるために実行するであろう行為を、自分は踏み切れず自制してしまうくやしさを詠む。紀女郎の、感情よりも理性を重んじる性格とプライドからくるのであろう。理性もプライドも捨てて相手を引き留めたいと思いながら、それができず、相手を解放しようと心にきめながら、気力をなくしてしまったと詠まずにはいられない六四四、別れの日が近づくにつれて、新たな悲しみがこみ上げ泣かずにはいられない六四五、と三首の歌で、愛する人との別れを悲しむ気持ちを吐露している。作者の悲しみは、相手の心変わりよりも、相手を引き留められない自分自身を責めているようで、題詞の「怨恨」は、相手ではなく自分の奥へ奥へと向けられているようでもある。だが、これは相手に贈った歌で、だからこそ、万葉に記録される機会をもったのであろう。編者は、作歌事情について触れないが、安貴王との別離に際してのものであろう。」(同頁)と解説する。
 多田2009.に、「私が世の中の常の女であるのなら、私が渡ろうとする「あな背(ああ、わが背の君よ)の川」を渡りかねるなどということがあろうか。」(108頁)とし、「世間の女なら穴師川はふつうに渡る。だが、私にはその背の君との逢瀬の川を、とても渡ることができない。裏に男の不誠実をなじる意がある。不誠実ゆえに逢えない、という意。」(同頁)と解している。
(注4)大森1994.も気づいてはいて、「神話的世界との一体化という憧憬の思いを貴紳たちに強くさせた女性であったとも考えられる。」(5頁)と述べている。
(注5)紀郎女は「小鹿」(万762・782・1452)、「紀少鹿女郎」(万1648・1661)とも記され、万1452番歌では大矢本にヲシカと振られている。
(注6)そこで思いつきで導入された安直な考え方が、漢詩の怨詩のあり方を適用したとするものであった。

(引用・参考文献)
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影山2022. 影山尚之『萬葉集の言語表現』和泉書院、2022年。(「悪女になるなら─紀女郎の「怨恨歌」と中島みゆき─」『武庫川国文』第84号、2018年3月。武庫川女子大学・武庫川女子大学短期大学部リポジトリhttp://doi.org/10.14993/00001247)
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2022.11.29初出

田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」考─「現つ神」、「わご大君 神の命の」の正しい理解によって─

 万葉集の「神」という語が天皇即神の表現として用いられていると考えられているなかに、「あきかみ〔明津神〕」(万1050)と「わご大君 かみみことの〔吾皇神乃命乃〕」(万1053)という例がある。いずれの歌も巻第六の終わりあたりに位置し、田辺福たなべのさき麻呂まろの歌集の中にあった歌と注されている。これら二つの言葉はいまだ理解が行き届いていない。本稿ではその二つの語について正しく解し、つづいてそれらの語を使っている田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」を読み解く。

明神あきつかみ」の歌

  久邇くにあらたしきみやこむる歌二首〈あはせて短歌〉
 あきつ神 わご大君の〔明津神吾皇之〕 天の下 八島のうちに 国はしも さはにあれども 里はしも 多にあれども 山並みの よろしき国と 川並みの 立ち合ふ里と 山背やましろの 鹿背かせやまに 宮柱 ふとき奉り 高知らす たぎの宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥がとよむ 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば をかしじに いはほには 花咲きををり あなおもしろ たぎの原 いとたふと 大宮おほみやどころ うべしこそ わご大君は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮此処ここと 定めけらしも(万1050)

 アキツカミという語は万葉集中にこの一例しかなく、古事記には見られない。日本書紀には、「明神御宇日本天皇」(孝徳紀大化元年七月)、「明神御宇日本倭根子天皇」(同二年二月)、「明神御大八洲倭根子天皇」(天武紀十二年正月)と、詔のなかの文言の例がある。それらは、アキツカミアメノシタシラスヤマトノスメラミコト、アキツカミアメノシタシラスヤマトネコノスメラミコト、アキツカミオホヤシマシラスヤマトネコノスメラミコトと訓まれている(注1)
 アキツカミは、現実に姿を現している神のことをいうとされる。別に現人神あらひとがみともいい、人の形となって現れた神のことである(注2)

 みこ、対へて曰はく、「吾は是、現人神あらひとがみの子なり」とのたまふ。(景行紀四十年是歳)
 たきたかき人、対へて曰はく、「現人之神あらひとがみぞ。先づきみみななのれ。然して後にはむ」とのたまふ。(雄略紀四年二月)
  …… 懸けまくも ゆゆしかしこし 住吉すみのえの 現人神あらひとがみ〔荒人神〕 ふなに うしはきたまひ ……(万1020・1021)
 現人神 同[日本紀]私記に現人神〈阿良比度加美あらひとがみ〉と云ふ。(和名抄)

 紀のアキツカミの例で、アキツカミ、と、助詞「と」が訓み添えられている点はわかりやすい。孝徳天皇や天武天皇が皆に向かって発言する時に、自分のことを、現実に姿を現している神であるものとして、と断りながら述べ立てている。奥歯にものが挟まったような言い方になっているのは、言い方として少々憚られると思われていたからであろう。現実に姿を現している神として、と語意を説明している。ふつう神は姿を現わしたりしないからその裏返しである。
 表題の万葉集の例はこの事情に違背する。歌の作者は天皇ではない。天皇のような存在に向かって敬う形でアキツカミと呼びかけているものと捉えられている。天皇自身が詔でアキツカミ、と控え目に言っている時、こんなことはあり得ない。訓み方が間違っている。
 万1050番歌の原文は、「明津神吾皇之」で始まっている。西本願寺本古訓に、アキツカミ ワカスメロキノとなっている。スメロキは皇祖の天皇のこと、また、継いでいく皇統のことをいう(注3)。それをアガスメロキヨ(ワガスメロキヨ)と呼ぶ例として、次の歌がある。

 隠口こもりくの はつ瀬小せをくにに よばひす わが皇祖すめろきよ〔吾天皇寸与〕 奥床おくとこに 母は寝たり どこに 父は寝たり 起き立たば 母知りぬべし 出でて行かば 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明けゆきぬ 幾許ここだくも 思ふごとならぬ こもりづまかも(万3312)

 原文に「天皇寸」とあるからスメロキとしか訓めないわけである。歌の内容からしても、古の雄略天皇の故事を思わせるものがある。皇祖的な天皇に対して親愛の情をもって呼びかけている。
 このような例を目にすると、万1050番歌において、「明津神吾皇之天下八嶋之中尓……」とあるのを、アキツカミワゴオホキミノアメノシタヤシマノウチニ……と訓むのは誤りであると悟られよう。歌では新しい久邇京(恭仁京)のことが歌われている。最終的に、尤もなことにわれらが大君はここに都を定められたに違いない、と言っている。歴史的に言って他の場所に都が置かれては遷されてきたし、今回も他の場所でも良いはずなのに特別に恭仁京に決めたことは正しいと述べている。都の周囲の情景を歌い、そこを都とした天皇の判断について歌っている。
 ところが、通説では二句目をワゴオホキミノ(ワガオホキミノ)と訓み、「高知らす」の主格となっているとしている(注4)。しかし、「八島」は「大八島国」(記上)、「大八洲国」(神代紀第四段本文)といった使い方を念頭に置いた言い方である。国作りの最初からという意味を含ませて時間的な広がりをもたせ、全土のことを語ろうとしている。「わご大君」と訓んで現天皇のことに限ってしまってはその点が浮かび上がらない。「吾皇之」はワガスメロキノと古訓どおりに訓むのが適している。同じく田辺福たなべのさき麻呂まろの歌集中にある万1047番歌は次のようになっている。

 やすみしし わご大君の たかかす やまとの国は 皇祖すめろきの 神の御代より〔皇祖乃神之御代自〕 敷きませる 国にしあれば ……(万1047)

 現在の天皇が宮柱も高く治められている倭の国は、祖先の神代の時代から治められている国なので、と言っている。皇祖を引き合いに出してその正統性、正しくは当然性を示している。
 万1050番歌においても、ワガスメロキということで、天皇の祖先のこと、時代を遡った世の始まりから説き起こして大げさなことを言っている。それに被る「明津神」は、現実に姿を現わした神という意味で使っているということになる。皇祖はすでにお亡くなりになっているからこそ「神」たる存在なのである。紀の詔の訓みにアキツカミ、と、「と」を伴っていた意味は、そういうものとして、の意味で、資格、条件を明示する点にあるが、万1050番歌に「と」を伴わずに許されるのは、過去に現れていて(「明つ」)、すでに亡くなっている(「神」)から、「と」と置く必要はないことになる。
 すなわち、その昔、現実に姿をあらわされたわれらが皇祖が、天の下の八島のうちに国はたくさんあるものだし、里もたくさんあるのだけれど、と、歌い出しに時代の長さ、世界の広さを示したうえで、今という時の、恭仁京という場所をクローズアップさせていっている。

万葉集における「皇」字と「皇祖すめろき」、「神のみこと」の歌

 万葉集において、歌句に「皇」字を用いている例は次のとおりである。現行の訓みをもって記す。

 皇子  ミコと訓む例   万45・49・50・52・162・167(3+1)・168・171・173・199(2+1)・204・239・261・420・478(2)・479・3234・3324
 大皇  オホキミと訓む例 万441・460・3234・3922・4056・4063・4064・4094(2)・4254・4266・4270・4272
 皇   オホキミと訓む例 万235・241・1047・1050・1053・1554・3325(スメラミコか)・4254・4260
 天皇  オホキミと訓む例 万79・543・948・1032・3291・4214・4331・4408
     スメロキと訓む例 万29・167・230・4360
     スメラと訓む例  万973
 天皇寸 スメロキと訓む例 万3312
 皇祖  スメロキと訓む例 万443・1047・2508
 皇祖神 スメロキと訓む例 万1133
 皇御祖 スメロキと訓む例 万4094
 皇神祖 スメロキと訓む例 万322・4111・4205
 皇神  スメカミと訓む例 万894(注5)
 皇都  ミヤコと訓む例  万4261

 「皇子」と書いてある場合、ミコとしか訓めないだろうからそう訓んで正しいと思われる。上にもあげた「天皇寸」はスメロとしか訓めないように添え字がされている。「天皇」はオホキミ、スメロキの両用に訓んでいる。文脈から、現在の天皇のことなのか、その祖先のことなのかで分けている。祖先の意味を表意して、「皇祖」「皇祖神」「皇御祖」「皇神祖」と書いてあればスメロキと訓むものと察せられる。スメロキを仮名書きした例は十例、スメカミを仮名書き式に記した例は六例、スメラヘ・スメラミクサの仮名書きは各一例ある。「天皇」を両用に訓んでいるから、「皇」もオホキミとばかり訓むとは言えないはずであるが、万3325番歌の別訓以外、現状ではオホキミとばかり訓んでいる。文脈的理解が求められよう。以下、まず現在通行している訓み方を呈示し、検討を加えていく。

 わご大君 神のみことの〔吾皇神乃命乃〕 高知らす たぎの宮は ももなす 山はたかし 落ちたぎつ 瀬のも清し 鶯の 来鳴く春へは いはほには 山下光り 錦なす 花咲きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は あまらふ 時雨しぐれをいたみ さつらふ 黄葉もみち散りつつ 八千やちとせに れ付かしつつ 天の下 知らしめさむと ももにも 変るましじき 大宮所(万1053)

 原文に「吾皇神乃命乃……」とある万1053番歌は、通説に「わご大君の 神のみことの……」と訓まれている。しかし、「大君の 命かしこみ」という例は多く見られ、いま、「大君の命」というつながりの間に「神の」と挿入することは余計な形容であり、不可解に思われる。万1050番歌のように、「わが皇祖すめろきの 神の命と……」と訓めないだろうか。「皇祖すめろきの 神のみこと」と訓んでいる例には次のようなものがある。

 たかくら あまつぎと 皇祖すめろきの 神のみことの〔須賣呂伎能可未能美許登能〕 きこす 国のまほらに 山をしも さはに多みと ……(万4089)
 葦原の 瑞穂の国を 天降あまくだり 知らしめしける 皇祖の 神の命の〔須賣呂伎能神乃美許等能〕 御代みよ重ね 天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方よもの国には(万4094)
 高御座 天の日継と 天の下 知らしめしける 皇祖の 神の命の〔須賣呂伎乃可未能美許等能〕 かしこくも 始めたまひて たふとくも 定めたまへる ……(万4098)
 ……石走いはばしる 淡海あふみの国の 楽浪さざなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 皇祖の 神の命の〔天皇之神之御言能〕 大宮は 此処ここと聞けども 大殿は 此処ここと言へども ……(万29)
 皇祖の 神の命の〔皇神祖之神乃御言乃〕 敷きいます 国のことごと 湯はしも さはにあれども ……(万322)

 類似する「皇祖すめろきの 神の」の形をとるものに次のようなものがある。

 …… 何しかも もとなとぶらふ 聞けば のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き 皇祖すめろきの 神の御子の〔天皇之神之御子之〕 いでましの 手火たびの光そ 幾許ここだ照りたる(万230)
 天雲あまくもの むかす国の ますらをと 言はるる人は 皇祖の 神のかどに〔皇祖神之御門尓〕 に 立ちさもらひ 内の重に 仕へ奉りて ……(万443)
 皇祖の 神の宮人〔皇祖神之神宮人〕 ところづら いやとこしくに われかへり見む(万1133)
 皇祖の 神の御門を〔皇祖乃神御門乎〕 かしこみと 侍従さもらふ時に 逢へる君かも(万2508)
 かけまくも あやに畏し 皇祖の 神のおほ御代みよに〔皇神祖乃可見能大御世尓〕 田道間たぢまもり とこに渡り ほこ持ち まゐ出来でこし時 時じくの かくの実を ……(万4111)

 類似する「神のみこと」の形等をとるものに次のようなものがある。

 …… 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神のみことと〔所知行神之命等〕 天雲あまくもの 八重かき別けて 〈一に云はく、天雲の 八重雲別けて〉 神下かむくだし いませまつりし(万167)
 ひさかたの 天の原より きたる 神の命〔生来神之命〕 奥山の さかの枝に しら付け 木綿ゆふ取り付けて ……(万379)
 かけまくは あやに畏し 足日たらしひ 神の命〔可尾能弥許等〕 韓国からくにを 向けたひらげて ……(万813)
 いにしへの 神の時より〔神乃時従〕 逢ひけらし 今の心も つね忘らえず(万3290)

 反対に、通説で「大君」が「神」が絡む表現と思われているのは、上に否定された万1050番歌と、この万1053番歌、「大君は 神にしませば」の諸例、「神ながら わご大君」(万4254・4360)と続く例に限られる。「大君は 神にしませば」という言い回しは、皇子の挽歌やすでに亡くなられている天皇のことを指していること、ならびに、「神ながら わご大君」と使っている「神ながら」が挿入句であることについては別稿で述べた(注6)。現天皇=神であるとしていた通説は否定される。この万1053番歌も、「吾皇神乃命乃」は、ワガスメロキ カミノミコトノと訓まれるものと思われる。われらが皇祖、神となっているミコトが、という意味で、遠い神代の昔に、皇祖が宮殿を作った布当宮ふたぎのみやについて、歌のなかで語っているものと推測される。何らかの謂れを語っているらしい。何を語っているか、以下考察する。

「久邇宮讃歌」

 田辺福麻呂の「久邇京讃歌」とされる歌について、改めて全体を通して見てゆこう。先に論じた万1050番歌から万1058番までの9首で構成される。第一・第二長歌それぞれに反歌二首・五首を伴っている。訓みの誤りを正して掲げる。

  久邇くにあらたしきみやこたたふる歌二首〈あはせて短歌〉
 あきつ神 わが皇祖すめろきの 天の下 八島のうちに 国はしも さはにあれども 里はしも 多にあれども 山並みの よろしき国と 川並みの 立ち合ふ里と 山背やましろの 鹿背かせやまに 宮柱 ふとき奉り 高知らす たぎの宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥がとよむ 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば をかしじに いはほには 花咲きををり あなおもしろ 布当の原 いとたふと 大宮おほみやどころ うべしこそ わご大君は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮此処ここと 定めけらしも(万1050)
  反歌二首
 三香みかの原 たぎ野辺のへを 清みこそ 大宮所〈一に云はく、此処ここしめ刺し〉 定めけらしも(万1051)
 山高く 川の瀬清し 百代まで かむしみ行かむ 大宮所(万1052)
 わが皇祖すめろき 神のみことの 高知らす たぎの宮は ももなす 山はたかし 落ちたぎつ 瀬のも清し 鶯の 来鳴く春へは いはほには 山下光り 錦なす 花咲きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は あまらふ 時雨しぐれをいたみ さつらふ 黄葉もみち散りつつ 八千やちとせに れ付かしつつ 天の下 知らしめさむと ももにも 変るましじき 大宮所(万1053)
  反歌五首
 いづみがは 行く瀬の水の 絶えばこそ 大宮所 移ろひ行かめ(万1054)
 布当山 山並やまなみ見れば 百代にも 変るましじき 大宮所(万1055)
 娘子をとめらが うみくといふ 鹿背かせの山 時し行ければ 都となりぬ(万1056)
 鹿背かせの山 だちを茂み 朝去らず 来鳴きとよもす うぐいすこゑ(万1057)
 狛山こまやまに 鳴く霍公鳥ほととぎす 泉川 渡りを遠み 此処ここに通はず 〈一に云はく、渡り遠みか 通はずあるらむ〉(万1058)
  (右の二十一首は、田辺福麻呂の歌集の中に出づ。(万1067左注))
  讃久邇新京歌二首〈并短歌〉
 明津神吾皇之天下八嶋之中尓國者霜多雖有里者霜澤尓雖有山並之宜國跡川次之立合郷跡山代乃鹿脊山際尓宮柱太敷奉高知為布當乃宮者河近見湍音叙清山近見鳥賀鳴慟秋去者山裳動響尓左男鹿者妻呼令響春去者岡邊裳繁尓巖者花開乎呼理痛𪫧怜布當乃原甚貴大宮處諾己曽吾大王者君之随所聞賜而刺竹乃大宮此跡定異等霜〕
  反謌二首
 三日原布當乃野邊清見社大宮處〈一云此跡標刺〉定異等霜
 山高来川乃湍清石百世左右神之味将徃大宮所
 吾皇神乃命乃高所知布當乃宮者百樹成山者木高之落多藝都湍音毛清之鶯乃来鳴春部者巖者山下耀錦成花咲乎呼里左壮鹿乃妻呼秋者天霧合之具礼乎疾狭丹頬歴黄葉散乍八千年尓安礼衝之乍天下所知食跡百代尓母不可易大宮處
  反謌五首
 泉川徃瀬乃水之絶者許曽大宮地遷徃目
 布當山山並見者百代尓毛不可易大宮處
 𡢳嬬等之續麻繫云鹿脊之山時之徃者京師跡成宿
 鹿脊之山樹立矣繁三朝不去寸鳴響為鶯之音
 狛山尓鳴霍公鳥泉河渡乎遠見此間尓不通〈一云渡遠哉不通有武〉
 (右廿一首田邊福麿之歌集中出也)

 恭仁京を置いたあたりに「たぎ」という地名があり、「たぎの原」、「たぎの野辺」、「たぎの宮」、「たぎ山」と呼んでいる。そのフタギという音から、それは何かしら「ふたぐ」ところとして感じられたのであろう。地名の語源ではなく、地名から得られた語感から、そういうところであったに違いないと想像しているのである。本来の意味での上代の言霊信仰下においては、ことことであるとされ、名は体を表し、名に負えば名を体現する存在であると思うように志向されていた。
 「ふたぐ」とはフタ(蓋)をして外との接触を断つのが原義である。自動詞は「ふたがる」で、ふさがること、いっぱいになることを表す。

 亦山にしき神有り。のらかだましきおに有り。ちまたさいぎみちふたさはに人を苦びしむ。(景行紀四十年七月)

 いっぱいになることの類義語はすでに見ている。題詞に「讃」とあった。後述する。
 そんな「ふたぐ」ところとして人々の頭をよぎることと言えば、言い伝えに伝えられて人々が共通の認識として抱いているアマテラスのいはごもり(いはごもり)のことであろう。その近くの「あめやす河原かはら」(記上)・「天安あまのやすの河辺かはら」(神代紀第七段本文)に神々は参集してにぎわっている。
 第一長歌に「あなおもしろ〔痛𪫧怜〕」とある。石屋隠りの時、いろいろな神がさまざまなパフォーマンスをして何とかアマテラスに出てきてもらおうとした。最終的にはアメノウズメがヌードダンスを披露してとてもおもしろく、一同どっと笑い、アマテラスは何ごとかと石屋の戸を少し開けて覗き見た。そのとき、タヂカラヲが引っ張り出して世界は明るさを取り戻したのであった。この話は当時誰もが心得ていたものであろう。
 「八島のうちに〔八嶋之中尓〕」というのも古色蒼然としている。オホヤシマクニ(「大八島国」(記上)、「大八洲国」(神代紀第四段本文))という言い方は、イザナキ・イザナミによる国生みでの表現にあらわれている。そしてまた、ヤスノカハラは八洲の河原のこと、たくさんの洲が突き出る形でシマ(島)になっていることに通じるものである。八百万の神々はそれぞれの洲にいて、互いに喧嘩することなく済んでいる。
 「宮柱 ふとき奉り〔宮柱太敷奉〕」という言い方には疑問が呈されている。通常、「宮柱 ふときまして」のように尊敬の意を表わすものである。ところが、ここでは謙譲の意になっている(注7)。これは、「たぎの宮」なるものが古くからあったとすることによる。すなわち、神社の社としてのミヤ(御屋・宮)である。地域住民の奉仕によって造られる。神々が参集したヤスノカハラにおいても同じことが行われたと想像できるから、フタギの宮は奉仕によって造られたとされたのである。そんな事情を抱えたところへこのたび新たに遷都することとなり、神社であったフタギの宮は天皇の宮城へ意味転化している。
 「聞かしたまひて〔所聞賜而〕」とあるところ、「遷都の主宰者としての天皇の姿を著しく後退させている。」(吉井1984.284頁)と思われている。また、原文に「君之随」とある個所は、「君ながら」以外にも、「君がまに」と訓む説がある(注8)。これらの考えは歌の役割について見誤っている。筆者は、「君之随」という書き方からして、「君しながら」と訓むことが期待されていると考える。「神ながら」、「皇子ながら」、「山ながら」といった例が、~の本性によって、の意を表すところ、助詞のシを挟むことで遠慮の気持ちを入れている。絶対君主に対して、君主の本性によって、などと面と向かって言えるものではない。もしや君主の御本性によってのことでしょうか、といった控え目な言い回しである。誰の意見を聞いたのかは書いてないのでわからず、そしてまた、そのようなことを歌に歌う必要もない。これらの歌は、聴衆に訴えかけて皆の心がやすまるように機能したのであろう。そういう理由でこの地へ遷都することになったのだと理解、納得した。そして不協和音は解消した。フタギ(布当)の宮には深い謂われがあり、なるほどそれだから大宮所にするのにもってこいであるとお認めになったのだろうと述べている。これまで見逃されてきたが、きちんと歌に歌われている。
 その感想を、「さす竹の 大宮此処ここと 定めけらしも〔刺竹乃大宮此跡定異等霜〕」と述べている。「さす竹の」という枕詞については、君、大宮、皇子、舎人壮とねりをとこ節間ごもる、にかかるとされるものの、語義、かかり方とも不明とされている。この例のように「大宮」にかかるのは、宮を建設する場所に標識しめとして地面に竹杭を刺していたからでもあろうし、竹はヨ(乙類)というふしと節の間の空洞部分(節間)がつながっていく形で伸びていくものであり、まるで、ヨ(代、ヨは乙類)がつづくこと、天皇の御代が代々つづくことをよく表していると捉えられたのであろう。そこで、枕詞「さす竹の」は、「君」「大宮」「皇子」などにかかるとされて使われたと考えることができる(注9)
 フタギの宮の表現に、川→山、秋→春というように、一般的な表現とは順序が異なっている。作歌時期や場所からそうなったとする説(清水1980.146頁)もあるが、アマテラスの石屋隠りのことを想起すれば、「昼夜の相代あひかはるわきも知らず。」(神代紀第七段本文)とあるように、順序がわからなくなったことを思い出させる効果を狙ったものであろう。
 つまり、この万1050番歌は「たぎの宮」の由来を語ったもので、新しく遷都された都の様子など詠ってはいないのである(注10)。反歌の二首も都に定めたことについてしか語っていない。天皇が都をこの地に定められたのは、そういう由緒によるのだと、都を褒めているのではなく都を讃えているのである。ホムとタタフとの違いは、対象をそのまま賛美することと、その対象に新しい名称を付けたりして言葉でいっぱいにあふれるばかりに称賛することの違いである(注11)。ここで歌っているのはフタギという名前にまつわる逸話である。そしてそこは「久邇新京」であると名づけられてたたえられている。事情は続日本紀に明記されている。

 十一月戊辰、右大臣橘宿禰諸兄奏さく、「此間ここ朝廷みかどいかなる名号を以てか万代よろづよに伝へむ」とまをす。天皇、みことのりして曰はく、「号けて、大養徳やまと仁大宮にのおほみやとす」とのたまふ。(続紀・聖武天皇・天平十三年(741)十一月)

 福麻呂の歌は、「久邇新京」のありさまをそのままに歌っているのではなく、「久邇」に新たに造る都は由緒があって定めるにふさわしく、百代までもつづくであろう場所なのだと歌っている。歌の文句も「新京」の、例えば建物が軒を連ねているとか、市は人でごった返しているとかではなく、「大宮」のこと、その場所の風光明媚なことばかり歌っている。都にされてもされなくても変わらない風景である。古の「ふたぎ」の宮を歌いたいためだからで、その語義がいっぱいになるようにその名にまつわって讃えている。すなわち、そこは国の始まりからミヤとしてあったところであり、「大養徳やまと仁大宮にのおほみや」とは倭国の大宮という意である。題詞にある「讃」はタタフと訓むのが正しい。
 第一反歌の万1051番歌では、広大な「三香みかの原」のうち、「たぎ野辺のへ」の部分が清らかだから、大宮所として定めたらしいよ、と言っている。原文に「清見社」とある部分、そこは清らかだからであることばかりか、キヨミ社という神社があるかのように思わせられる。すでにミヤがあった、ないしはその意味を内包していたことを予感させる筆記である。「たぎ野辺のへ」が実際問題として清らかだという言い分は、自然地理においてどういうことなのかわからない。けれども、言葉の上では、言い伝えに伝えられているアマテラスの石屋隠りにまつわることを物語っていて明らかなことになっている。最終的に神々は、汚れた対象であるスサノヲのひげと手足の爪を切り、お祓いをして、「神やらひやらひ」ている。だから清らかなところなのである。当時の人たちは、フタギという名の地をそういう意味に感じていた。
 第二反歌の万1052番歌では、清らかさについての後付けの説明をする歌になっている。久邇京というのだからクニ(国)のありさま、山があり川が流れていることが要件となる。そこはかつてお祓いをして清らかにしていたところである。そんな観念を支える自然環境は、山が高くて川が流れれば瀬となって速く流れるところである。実際に渓谷があって急流となっていたかどうかは別問題である。伝承されてきたスサノヲ追放の舞台として、清らかなところがイメージされている。「百代まで かむしみ行かむ 大宮所」とあるのは、伝承されてきた観念の世界において神々が行ってきた清らかなところは今日まで長く記憶されて保たれてきたように、現実の世界でもその清らかなところは今後百代経ってもそのまま続くであろうと言っており、そこはすなわち、観念世界でも現実世界でも「大宮所」であると言えるのである。
 長歌と反歌の関係としてふさわしく、互いに相補い合って一つのまとまりを示している。反歌の二首に「大宮所」がくり返されているのは、この歌群が、「大宮」の歌だからである。第一反歌の四句目に「一に云はく、此処ここしめ刺し」とあるのは、長歌の「さす竹の」を承けた作風である。「大宮」歌としてのわかりやすさを追求すれば、本歌のようになるであろう。

第二長歌と反歌五首

 第二長歌以降も「大宮」歌の性格は変わらない。ただ、もう少し具体的な地勢を述べようとしている。もちろん、景を叙したのではなくて、定型的なもの言いを当てはめているだけである。なお、長歌の「八千年尓安礼衝之乍」は、「八千やちとせに れ付かしつつ」以外に、「八千やちとせに れ継がしつつ」と訓む説もあるものの、「衝」をツグと濁音化することには無理がある。
 反歌の一首目、万1054番歌は、「起りえない自然の変化を条件として永久不変を予祝した表現。」(吉井1984.290頁)とされている。なぜ水が絶えることが起こりえないかといえば、川の名が「いづみがは」だからである。イヅミとはイヅ(出)+ミ(水)の意で、イヅミガハと呼んでいる限りにおいて水は出るものと考えられていた。言(コト)=事(コト)であるとする本来の意味での言霊信仰の下に生きていた。言語遊戯(Sprachspiel)こそが万葉歌の真骨頂である。
 反歌の第二首、万1055番歌も同様である。「前歌の「川」に対し、「山」の形容を根拠に、久邇京の無窮を予祝している。」(伊藤1996.514頁)とされている。なぜそう言えるかといえば、布当山とはフタギ(塞)をモットーとする山であり、それが「山並やまなみ」をもって連なっているところから考えると、まったくもって塞ぎの状態は完璧で盤石だからである。実際の地形上、反乱軍が攻めて来られないということではなく、言葉の上でそうだと言っているばかりである。蓋をされてタイムカプセルとなれば百代までも変わることはないということである(注12)
 反歌の第三首、万1056番歌の四句目、「時之往者」は、「時の行ければ」と訓む説もあるが、「時し行ければ」と訓む説が正しい。助詞シは、「…し…ば」の形をとることがとても多い。岩波古語辞典は、「これによれば、「し」は確定的・積極的な肯定的判断を強調する語ではない。むしろ基本的には、不確実・不明であるとする話し手の判断を表明する語と考えられる。従って、話し手の遠慮・卑下・謙退の気持を表わすところがあり、話し手が判断をきめつけずに、ゆるくやわらげて、婉曲に控え目に述べる態度を表明する語と思われる。」(1494頁)とし、用例に、「わが背子は物な思ほし事しあらば(事件デモアッタラ)火にも水にも吾無けなくに」(万506)を引いている。
 時が移ろっていまや皇城が完成している、というように、「時」を積極的、作為的に主張しているのではなく、もしや時間などが経過したためか皇城となっている、というほどの控え目な言い方をしている(注13)
 三句目までの序は実に的確である。麻を繊維として利用できるようになるためには、植物のアサを成育させ、刈り取ってきて束にして煮てから皮を剥ぎ、細く割いたものをつないで(「續む」)長いものにし、苧桶をけにて湿らせたものをつむなどにより撚りをかけて紡軸に巻き取り、それをかせに巻き上げる。そのまま放っておけば乾燥していくと同時に撚りが安定して糸はできあがる。桛から外すと輪状にまとまっていてそれをかせといい、製品として次の工程(染めや織り)へと受け継がれる。うみを桛に懸けることは、とても手間と時間のかかる糸づくりの最後の段階である。苧續みや撚りかけほどに難しいものではないし、桛に巻き上げておけば後は自然乾燥によって糸となる。

(東村2004.6頁。東村2011.17頁(第13図)において一部整理されており、出典として①『信貴山縁起』、②『春日権現験記絵』、③④『越能山都登』が示されている)

 だから、「時し行ければ〔時之徃者〕」へとつづいている。助詞シの持つ控え目表現はここに生きてくる。時間さえ経過すれば都となるとの考えは、桛に巻き上げられたら糸が出来上がるのだという錯覚に等しい。その前段階として、栽培して刈り取り、蒸したり煮たりして皮を剥ぎ、績んでから撚りをかけていくという苦労に苦労を重ねる作業がある。都となったのには、そのような、目にすることのない前段階が控えていて、その時に見る土木建設工事ばかりで都は完成するものではないと言っている。すなわち、フタギの宮の伝承が控えているからこそそこは都となるのだとの正論を述べている。「都と成りぬ」の助詞トは資格を表わしている。造成して都(のよう)にすることはできようが、都と(してふさわしく)することはできないのである。
 この「時」を意識した表現は、反歌の五首目に通じている。
 万1058番歌に霍公鳥が出ている。ホトトギスという語は、ほとんど時は過ぎる、の意にかけて用いられることがある(注14)。時間経過を歌う発想は、万1056番歌に予行演習されていたわけである。時間が経過するのは当たり前のことである。だが、第一長歌で、「大宮此処ここと定め」の主語は現天皇の聖武である。時間が経てばどこでも皇城となるということではなく、聖武天皇が決めたから、今のその時をもって成っている。歌ではその理由について歌っている。フタギという地名の音にかこつけて、フタグ(塞)ところ、天の石屋の言い伝えによってそこは神の参集するところ、ためにミヤが造られた、だからここは新しく都とするのにふさわしいのだといい、天皇もそういうことでお決めになられたのだろうと、「らしも」と推量している。続紀・天平十三年の「大養徳やまと仁大宮にのおほみや」命名譚は、背後にある「古代的思想」を伴って人々に、少なくとも福麻呂のほか多くの宮廷社会の人に知れわたっていたということである。歌は歌い手と聞き手がともに歌意を納得、共有することで伝えられる。天皇の命名譚も、天皇が独り勝手にネーミングして広まらせたということではなく、だってそういうことだろうと、皆を納得させる力を持っていたから看過されることはなく、定着したのであった。
 ホトトギスという語から思い起こさせる、ほとんど時は過ぎること、最終段階だから必然だというイメージで決められてしまうことは、この歌群の全体的なモチーフにそぐわない。だから、ホトトギスは、声はすれど姿は見えず、ということにしておき、時間は経過していて期は熟していたが、自動的にそうなるのではなく、よくよく事情を悟られた聖武天皇が最終決断をされてここが都となっているのだということにしている。そしてまた、ホトトギスが通って来てしまうと、ほとんど時は過ぎることが重なって、時間がどんどん進んで行って止まらないから、「ももにも 変るましじき」(万1053・1055)と言えなくなってしまう。そういった意味合いを伝えたくて、霍公鳥は渡って来ないことになっている(注15)
 反歌の四首目、万1057番歌に「鹿背かせの山」が出ているのは前の歌を引き継ぐもので、「鶯」が出ているのは長歌にあるのを受けているとされている。あるいは、後の歌に出てくる「霍公鳥」に托卵を受ける鳥であると知られていたことも一因かもしれない。もっと積極的にそこに置かれた要因は、歌群を見渡してはじめてわかる。
 長歌と反歌は一つの歌意を相補い合って表わし、全体像を織りなしてあやなすものである。万1056~1058番歌は後から付け加えられたのではないかとも考えられている(注16)が、後付けの短歌を「反歌」とすることはないだろう(注17)。すでに見てきたように長歌はフタギの宮について語っている。石屋隠りの舞台となった天の安の川原に設けられたに違いないミヤのことである。アマテラスが籠り隠れていたのが再び現れて世界は明るくなった。そういう位置づけとして「布当の宮」=「久邇新京」は見定められている。そのことと対応するように、地理的配置としては、大極殿から東に「布当山」はあり、フタギ(塞)が取れて、すなわち、石屋の戸が開いて朝日が降りそそぐと見てとっている。そして、南に「鹿背の山」があり、木立が茂り、朝ごとにそこからウグイスが飛来して鳴くとしている。フタギが取れて日が「鹿背の山」に差していくことを言いたいから、毎朝のことでなければならない。対して「狛山」は西に当たる。一日の単位で考えるなら、ほとんど時は過ぎる時間帯に太陽は西にある。コマヤマという名は、高麗こまのことを思い起こさせ、倭国から見て海のかなたの西方に位置している。このように東→南→西の水を隔てた山を順に見渡していっている。反歌の流れとしても山の配置はそのようになっている(注18)。「布当の宮」=「久邇新京」から見回している。ぐるっと首を回している。言語遊戯の音遊びにおいては、クビ(ビは甲類)を意識させる鳥に登場願いたい。だから、ウグヒス(ヒは甲類)というクビの廻れるような名の鳥が来て鳴いて大騒ぎをしている歌が歌われている。「とよもす」ほどだから大極殿にいても「声」は聞こえてくるのである。大極殿で何をしていたかは不明であるが、儀式ばっているなら正装で臨んでいることであろう。くびのしつらえが特徴的な、はうを御召しになっているに違いあるまい。臣下も狩衣などであったろう。和名抄に、「衿 釈名に云はく、衿〈⾳は領、古呂⽑乃久⽐ころものくび〉は頸なり、頸をふたぐ所以なり、襟〈⾳は⾦〉は禁なり、前に交へて⾵寒きを禁禦する所以なりといふ。」とある。
 天皇は日の御子であり、アマテラスの末裔なのだから東→南→西の順に見渡して行くことは正しいことである。反歌は五首もあるが、みな従来の「反歌」の定義にかなうものである。
 以上が田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」の全貌である。ひたすらヤマトコトバにもとづいて歌われている。現代的視点から歌に発展性があるかないかという評価など、田辺福麻呂は意に介しはしない。万葉集の歌の良し悪しは、その歌が歌われたとき、その場において、いかにウケたかにかかっている。筆者には、大養徳やまと仁大宮にのおほみやにおいて、よく心得ていて整った歌であるように感じられる。

(注)
(注1)公式令の詔書式に、「明神御宇日本天皇詔旨云云。咸聞。」、「明神御宇天皇詔旨云云。咸聞。」、「明神御大八州天皇詔旨云云。咸聞。」などと、天皇が詔を下す際の前言文句の書式が示されており、アラミカミトアメノシタシラスヒノモトノスベラガオホムゴトラマトソノコトソノコト。コトゴトクニキキタマヘ。などとも訓まれている。紀に見える表記はこれによる修文である(、また万葉集に同じ)と考えられているが、どちらが先なのか何を根拠に言えるのか不明である。紀と同様に助詞「と」を伴っている点は注目に値する。天皇は「明神」それ自体ではない。「明神」として、「明神」同然に、この国を領知する天皇がこれから言うからそれをよく聞きなさい、と前置きで言っている。
(注2)アキツカミという語が神を表わす場合には住吉大神についていうことが多く、天皇を敬っていう場合と用法を二分しているとされている。以下にも述べる神の特性、ふつうは神は姿を現わしたりしないところ、なぜアラヒトガミと言っているのか説明されていない。
(注3)本稿では、歌の訓読文においては原文にかかわらず、オホキミは「大君」、スメロキは「皇祖」と記した。
(注4)新編全集本萬葉集は、「遠つ神 我が大君」(万5)を同様とする(170頁)が、万5番歌のその部分は回想であり、現天皇を「我が大君(わご大君)」と呼んでいるのではなく、かつてお仕えし、すでに亡くなられて久しい天皇のことを、「遠つ神 わご大君」と言っているものと考える。「遠つ神」は万295番歌にも見え、やはり回想している。現天皇のことを天つ神の御子として遠い昔からつづく血統の形容とする枕詞とみる説があるが、時代別国語大辞典は認めておらず、「遠い昔の神。」(501頁)としている。

 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらぎもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居れば たまだすき 懸けのよろしく 遠つ神 わご大君の〔遠神吾大王乃〕 行幸いでましの 山越す風の 独り居る わが衣手に 朝夕あさよひに 返らひぬれば 大夫ますらをと 思へる我も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人あま処女をとめらが 焼く塩の 思ひそ焼くる 吾が下心(万5)
 住吉の 岸の松原 遠つ神 わご大君の〔遠神我王之〕 幸行しところ(万295)

(注5)スメカミと訓む例は他に次のものがある。皇室の祖先神、またその地域の最高位の神の意である。アキツカミと同様、スメカミでも住吉大神について呼ばれることがある。

 わご大君 ものな思ほし 皇神の〔須賣神乃〕 継ぎて賜へる 我なけなくに(万77)
 神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の〔皇神能〕 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり ……(万894)
 ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも 我れは忘れじ 志賀の皇神〔壮鹿之須賣神〕(万1230)
 …… 千年に 欠くることなく 万代に あり通はむと 山科の 石田の杜の 皇神に〔須馬神尓〕 幣取り向けて 我れは越え行く 逢坂山を(万3236)
 …… 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ 皇神の〔須賣可未能〕 裾廻の山の 渋谿の 崎の荒礒に ……(万3985)
 天離る 鄙に名懸かす 越の 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多に行けども 皇神の〔須賣加未能〕 領きいます 新川の その立山に ……(万4000)
 …… 我が来るまでに 平けく 親はいまさね つつみなく 妻は待たせと 住吉すみのえの が皇神に〔安我須賣可未尓〕 幣奉り 祈り申して 難波津に 船を浮け据ゑ ……(万4408)

(注6)拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」・「「大君は神にしませば」歌(万4260・4261)の語用論的解釈」参照。
(注7)「太敷き奉り」が「天人感応」の理念に従うとする説は、塩沢2010.にある。塩沢氏は、「君之随所聞賜而」について、臣下の進言を聞き入れて都とを定めるという叙述は文選の西都賦、東都賦、西京賦に登場しているとし、さらに、「久邇宮讃歌」は「六合」の考え方を取り入れて、シンメトリックな調和の世界を歌ったものではないかとも述べている。
(注8)諸説については下田2005.参照。「君がまに」は「君がまにまに」の約であるという。多くの注釈書で、その「君」は橘諸兄のことを指すとしている。「わご大君は 君がまに 聞かしたまひて」で、聖武天皇は大君であられるままに臣下の橘諸兄の言葉をお聞きあそばして、の意であるといい、歴史的事実として聖武天皇が橘諸兄の言うことを聞き入れて遷都の地を決定したことを物語っているとされている。けれども、歌のなかでオホキミは天皇、キミは大臣というように立て続けに表示することがあるものか疑問である。歌が散文的“説明”に堕していることにもなる。
(注9)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」参照。
(注10)「久邇宮讃歌」は万葉集に他に二例三首ある。

  十五年癸未の秋八月十六日に、舎人どねり大伴宿禰家持の、久邇京くにのみやこたたへて作る歌一首
 今造る 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし(万1037)
  香原かのはらあらたしき都を讃ふる歌一首〈并せて短歌〉
 山背やましろの 久邇の都は 春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉もみちばにほひ 帯ばせる 泉の川の 上つ瀬に 打橋渡し 淀瀬には 浮橋渡し ありがよひ 仕へまつらむ 万代までに(万3907)
  反歌
 たたなめて 泉の川の 水脈みを絶えず 仕へまつらむ 大宮所(万3908)
  右は、天平十三年二月に、右馬みぎのうまのかみ境部宿禰老さかひべのすくねおゆ麻呂まろの作なり。

 やはり自然環境を歌っていて、建設された宮都のことは歌っていない。だからといって、花井2001.の、「自然の相が不変であるごとく都が永遠であることが予祝される。」(二〇頁)、渡部2001.の、「そこは今造られた宮であり、過去を持たない。」(9頁)などと考えるのは思い込みである。ヤマトコトバの考究によって克服されなければならない。
(注11)ホムとタタフの微妙な使い分けは用例において確認できる。

 因りて蜻蛉あきづめて、此のところなづけて蜻蛉あきづとす。(雄略紀四年八月)
 時に、勅してひの臣命おみのみことめて曰はく、「いましいさをしさありてまたいさみあり。また能くみちびきいさをし有り。是を以て、汝が名を改めてみちのおみとす」とのたまふ。(神武前紀戊午年六月)
 時に多遅たぢの花、井の中に有り。因りて太子ひつぎのみこみなとす。多遅の花は、今の虎杖いたどりの花なり。かれ多遅たぢ比瑞歯別ひのみつはわけの天皇すめらみことたたまをす。(反正前紀)
 故、其の名を称へて、上宮厩かみつみやのうまや戸豊とのとよ聡耳とみみの太子ひつぎのみこと謂す。(推古紀元年)

 第一例のホムはアキヅをほめている。アキヅノをほめているのではない。第二例はヒノオミをほめている。改名してミチノオミとしたとき、ミチノオミとたたえたということになる。第三・四例は、その人たちに長い名前をつけてたたえている。対象に名を充満させることがタタフの意である。雑駁に言えば、よしよしと相手を認めるのがホムであり、新たに名前をつけて讃美するのがタタフである。
 万葉集で「讃」字が使われるのは、地名(「讃岐」)の例を除き、すでにあげた「久邇宮讃歌」とされる3歌群の題詞(万1050~、1037・3907~3908)に偏って現れている。天平十三年十一月記事にあるように恭仁京と名づけたたえたことの反映として、万葉集でもそう使われている。それ以外では、万338~350番歌の前にある題詞のみである。

  大宰帥大伴卿讃酒歌十三首

 「大宰帥大伴卿の酒をたたふる歌十三首」と訓むのが正しい。酒を前にして、よしよし、いい子だ、とほめているのではなく、十三首もの歌を作り、言葉を弄して酒のことをほめそやしているのだからタタフの意に当たる。そのうちの一首では、「酒の名を ひじりおほせし 古の 大き聖の ことのよろしさ」(万339)と名づけてもいる。なお、「讃」字をタタフと訓むことに今日さして抵抗を感じないが、言葉をもって讃頌する意味でタタフと使われる例が少なかったのか、用例は多くない。名義抄では「頌」にのみタタフという訓がある。
(注12)評者に「予祝」と言われるが、時間的に今後ともそうあることをあらかじめ祝うという考えから歌に詠まれているのではない。言(コト)=事(コト)であるとすると、言葉としてそうであることはこれからもそうであろうから、事柄としてもそうであろうと言っている。期待を込めて願っているのではなく、論理的にそういうことになる、Q.E.D.と述べている。
(注13)上野2005.は、「時の往ければ」と訓み、この歌は「序に続く部分との大きな落差がおもしろいのである。そんな辺鄙な山でも、時が過ぎれば都になったというのである。」(236頁)としているが、どこでも都というわけではない。
(注14)拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。ホトトギスを「時鳥」と記すこととの関連はわからない。
(注15)芳賀1986.に、「泉川の川幅の広さを述べ、その大きな景をも都の中に取りこんだ天皇の偉大さに対する讃美の念を余情とするものだろう。」(188頁)とある。このような解釈では、第五反歌は反歌とは見なされないだろう。
(注16)山崎1986.に、「新都の南西部の鹿背山、西部の狛山の愛すべき山容が泉川をはさんで相対し、川の流れも鳥の声も共に澄みとほる風趣を、福麻呂はさながらに新都への讃歌として感じたからであらう。」(251頁)として、捨てがたい風趣を三首の反歌として付け加えたのだとしている。伊藤1996.は、第五反歌は「残念なことに通って来ないという歌になってしまって、讃美にならない」けれども、「ここ鹿背山で一緒に鳴いてくれればよいのにと言った」(515頁)とするなら一応は通じるとしている。遠藤2004.は、「第三~第五反歌は、讃美の対象を京域「全体」に拡大させることによって、京域の広大さをも讃え(同時に帝業の偉大さのより強い讃美でもある)、それによって新京讃美の念が一層強いことを示すことによって新京讃歌全体の閉じ目とする。」(73頁)としている。
(注17)編纂者の誤解などから紛れこむことはありえようが、その場合、左注に断り書きが付されるケースも多いようである。精神史的傾向として、よくわからないことを断言してかかるようなことは少なかった時代だったと言えそうである。無理にでも何かを言わなければと強迫観念にかられている研究者の時代とは違う。
(注18)中国の天子南面の観念は、天皇は日の御子に当たるから受け入れられ易かったと考えられる。けれども、この第二長歌の反歌の発想は中国思想によるものではない。なぜなら、天子が南面すると臣下は北面してしまうからである。天皇と臣下が同じ視線で考えられるものでなければ、歌意に共感、共有は得られないことになり、歌として歌われない。日の道をたどって東→南→西へと目で追っているにすぎない。

(引用・参考文献)
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塩沢2010. 塩沢一平『万葉歌人田辺福麻呂論』笠間書院、2010年。
清水1980. 清水克彦『萬葉論集 第二』桜楓社、昭和55年。
芳賀1986. 芳賀紀雄『万葉の旅─人と風土─➆京都』保育社、昭和61年。
花井2000. 花井しおり「久邇の新京を讃むる歌二首」『人間文化研究科年報』第16号、奈良女子大学大学院人間文化研究科、2000年。
東山2004. 東山純子「古代日本の紡織体制─桛・綛かけ・糸枠の分析から─」『史林』第87巻第5号、2004年9月。福井大学リポジトリ http://hdl.handle.net/10098/8210 (『考古学からみた古代日本の紡織』六一書房、2011年、2012年改訂新装所収)
山崎1986. 山崎馨『萬葉歌人群像』和泉書院、昭和61年。
吉井1984. 吉井巖『萬葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。
渡部2001. 渡部亮一「田辺福麻呂の「八島国」─万葉歌を作ること─」『論究日本文学』第75号、立命館大学日本文学会、2001年12月。立命館学術成果リポジトリ http://doi.org/10.34382/00016594
※本稿は後半部において、歴史学的見地から見渡した拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」と重なる部分が多い。

2022.11.8初出

「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考

 万葉集では、柿本人麻呂作の万38・45番歌に、「神ながら 神さびせすと」という言い回しがある。

  (吉野の宮にいでます時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌)
 やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山あをかきやま 山神やまつみの まつ調つきと 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉もみちかざせり〈一に云はく、黄葉もみちばかざし〉 ふ 川の神も おほ御食みけに 仕へ奉ると かみつ瀬に かはを立ち しもつ瀬に 小網さでさし渡す 山川も りて仕ふる 神の御代みよかも(万38)
  軽皇子の安騎あきの野に宿りましし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと ふとかす みやこを置きて 隠口こもりくの はつの山は 真木まき立つ 荒山道あらやまみちを いはが根 さへ押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎あきの大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて(万45)

 万38番歌は万36番歌の前に書かれている題詞「幸于吉野宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌」の第二長歌である。
 「神ながら 神さびせすと」という言い方は、神としてまさに、神にふさわしい振る舞いをする、という意味であると解されてきた(注1)。この場合、上に冠る語がその主語となり、「(やすみしし)わご大君」が神憑りしている、神としての地位に就いている、神の状態にあるものと捉えられている。それが通説となっていて、天皇が神になっている、あるいは、神扱いされているということに当たるから、天皇の神格化が起こっていたという言説へと展開している。本稿では、その理解の誤りについて検討する。柿本人麻呂が天皇を神格化した表現などどこにもないという解釈である。
 「神ながら」という句は、万38番の長歌に続く反歌にも見える。

 山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも(万39)

 鹿持雅澄・万葉集古義に、「[初めの]二句はカムガラの句へ直に続て意得べからず、第四句へつゞけて聞べし、山神河神までもより来てつかへ給ふ、その瀧つ河内の意なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1127501/226、漢字の旧字体は改めた)とある(注2)。これは尤もな見解である。
 時代別国語大辞典に、「かむながら[神在随](副)神意のままに。ナは連体格の助詞、カラは本性・性格を示す名詞であろう。全体として副詞的に機能しながら、構成要素としてのカムが、独立に連体修飾語を受け、名詞としての性格を残している例もある。」(223頁)と解説されている。
 古典基礎語辞典は、カムナガラの語釈として、「神の本性そのままに。神でおありになるままに。神にましますままに。」(382頁、この項、白井清子) とし、万45・4258番歌を用例に引いている。しかるに、「神の本性そのままに」と「神でおありになるままに」、「神にましますままに」は意味が違う。「神の本性そのままに」とは、「神の本性そのままに」何かがあらわれていると推定されるが、「神でおありになるままに」や「神にましますままに」では、何かが「神でおありになる、そのままに」、何かが「神にまします、そのままに」という意になる。神の血筋・素性・性質を被って何かが顕現しているのであって、すでに神と同一化していてその発露として神らしく振舞うということではない。
 誤解していることはカムサブという語の解釈に透けて見える。時代別国語大辞典に、「かむさぶ[神古・神成](動上二)カミに接尾語サブの接した語。➀神々しい様子を呈する。古色を帯びて神秘的な様子が見える。植物・土地・岩などに多く用い、この意に用いることがもっとも多い。……➁古びたものが神々しい様子を呈するところからいったものであるが、人間に用いて、単に老いている意となる。……➂神にふさわしい振舞いをする。……【考】木や岩や山や森を叙述するのにこの語を多く用いるのは、それらが神のある所と感ぜられたためである。サブは古びるの意が原義で、それから、それらしく振舞う・それらしく見えるの意になった。カムブ・カムシムの語もほぼ同意と考えられる。カミサブの例も見える。」(222頁)とある。しかし、➀➁と➂とでは語の理解に逆転が起こっている。
 この点が十分に理解されないまま混同、あるいは混用するものとしているため、議論が前進していない(注3)
 カムサブという語に木や岩や山や森を表すのに使うことが多いのは、神がある所と考えられたからではなく、時が経過してそういう状態にあることを強調できる対象だからであろう。➀➁にも共通する要素である。変わらずにあるものとして見えたのである。➁の、人について考えるなら、人は時が経過すると老いるから、その老いた状態をカムサブと言っている。➀の不変なるものとは反対の様相を示すが、語義にある、時が経過した状態のこととしては同じことを指している。ここに、➂の、神にふさわしい振舞いをする、という要素は介入しえない。

 時代別国語大辞典の誤解は、カムカラという語にも見られる。「かむから[神随](名)神の性格。神の性格のゆえ。副詞的な意味をもってのみ使われる。カラは国カラ・山カラ・川カラなどのカラと同じく、本性・性質を意味する語であるが、理由を表わす形式名詞に近づいている。」(222頁)としている。誤解の陥穽を広げていっている。挙例は次のとおりである。

 水川みづがは い行きめぐれる たまくしげ 二上山ふたがみやまは 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振りけ見れば 神からや〔可牟加良夜〕 許多そこば貴き 山からや 見が欲しからむ ……(万3985)
 立山たちやまに 降り置ける雪を 常夏とこなつに 見れども飽かず 神からならし〔加武賀良奈良之〕」(万4001)
  そらみつ 大和の国は 神からか〔可无可良可〕 ありがほしき 国からか 住みがほしき ありがほしき国は 蜻蛉あきづしま大和やまと(琴歌譜12)
 …… 泉の川に 持ち越せる 真木のつまを もも足らず いかだに作り のぼすらむ いそはく見れば 神からならし〔神随尓有之〕(万50)
 あきづしま 大和やまとの国は 神からと〔神柄と〕 ことげせぬ国 ……(万3250)

 カハカラの項では「川の性質。川そのもののもっている本性。」(207頁)、クニカラの項には「国柄」という漢字を当てて「国の備えている性格。」(264頁)と説明している。それで完結して誤謬は生まれていない。カムカラも同様に扱い、神の備えている性格のことと解すれば、時間の経過にかかわらず常にある性格のことを言っているとわかる。そのような常態的なことがらとは、常に同じように言葉を使って言い回すときに用いられていることを指しているのだと解されよう。皆が納得する形で一定の言い回しを獲得したら、安定的にずっとそう言い続けるから、それはまるで神がそこに宿っているかのようだと戯れに表しているわけである。「神からや」、「神からならし」、「神からか」と助詞、助動詞を伴って曖昧な表現になっているのは、言ってみればそういうことになるでしょう、と投げかける態度で表明しているからである。万3250番歌に「神からと」あるのは、呼び慣わされて通念となっていることを示している。
 カムカラの間に連体助詞のナが入る形が上述の万39番歌に見える「神ながら」であり、同じ意味である。

 山川も 依りて奉れる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも〔山川毛因而奉流神長柄多藝津河内尓船出為加母〕(万39)
 山も依り、川も依り、奉るように、そういう言い回しはまるで神の本性であるかのようですが、ヨヨと流れ走る川の内へと船をお出しになるのでしょうか、そういうことなのでしょう。

 かかり方は古義の指摘するとおりである。そして、二句目はマツレルと訓まれなければならない(注4)。山は山の御調(みつき)、川は川の御調を奉るからである。

 「依る」のヨは乙類、ヨシノ(吉野)のヨも乙類、ヨシノはヨ(代)+シノ(篠)と捉えた時のヨも乙類、篠はフシ(節)に接続してヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものとしてあり、シノ(篠)と呼ばれる竹類はカハ(皮)をつけたままでつながっていて、だから吉野の情景を表すのにカハ(河)が多用されている。ヨヨは水の溢れ流れるさまを表す擬態語である(注5)。そして、御調をつとにして奉る際、包装用に竹の皮を使ってくるんだ。

 「神ながら 神さびせすと」について用例ごとに具体的に検証してみよう。
 万3985番歌は、「たまくしげ 二上山ふたがみやま」を歌っている。貴重な櫛の入った箱には蓋がついており、そのフタの音がフタガミヤマ(二上山)にかかっている。時間の経過にかかわらずそういう形容を頂く山の名なのだからだろうか、はなはだ貴い、と言っていて、蓋を開けた箱のそこに櫛が納められているから、ソコバタフトキと洒落を言っている。カムカラ(ヤ)という語は、言葉遊びの次元でうまいことできていると言うための表現である。そして、ヤマカラ(ヤ)についても、蓋がついている山だというからか、人情として開けて中を見たくなる、と言っている。万4001番歌では、万年雪の性質、時間の経過にかかわらずにあることを、「神から」なことだと形容している。琴歌譜の例は、「そらみつ 大和の国」という常套句、コロケーションを「神から」なものとみて、いつもそうあるからアリ(有)を起こすための枕詞的用法になっている。言い出したら必ずつづけて口を突いて出てくるのは「神」のなせる業だと開き直っているのである。万50番歌は、通説に、「神ながらにあらし」と訓まれている。解釈としては同じである。枕詞「もも足らず」は百に足りないイ(ソ)(五十)を導くから、そのイ音をもつイカダ(筏)にかかっているのと並んで、イソ音をもつイソハク(勤)様子に反映していることを常なることであると見て、「神ながら」(「神から」)であると形容している。万3250番歌では、「あきづしま」はヤマトにかかる枕詞として常にあるから、そんなヤマトノクニという(国情や国体ではなく)言葉について、もはや議論の余地はない、とり立てて論う必要はない、だから「ことげせぬ国」であると言っている。「あきづしま 大和やまとの国」というコロケーションが行われている様子について、「神から」なことだと形容しているばかりである(注6)
 「神ながら 神さびせすと」という句も、上の検討の延長線上に考えられようから、対象そのものを表す言葉ではなく、対象について表した、その表し方について表した、メタレベルでの形容であり、一連の歌の流れのなかにあっては、投入された挿入句に当たると考えられる。だからこそ長歌において現れている。万葉集の特に長歌の表現方法では、尻取り式に数珠つなぎの連綿的な修飾が多く用いられ、この場合も同様である。上からかかり、下へとかかって、言葉遊びを遊んでいる。
 では、なぜ「神ながら 神さびせすと」と投入されているのだろうか。「~と」と引用符としてあるのだから、すぐ次に続く句にかかるはずである。だが、「~と」とあるなら動詞に続くとも思われて、現状では次のようにかかると解されている。

 ほぼ同じように使われたと考えられる同じ人麻呂の用例なのに、かかり方が違っている。今までの理解は誤っているということである。筆者は、次のようにかかっていると考える。

 万38番歌において、「神ながら 神さびせすと」が「吉野川」にかかる理由は、ヨシノなる言葉を、ヨ(節)+シノ(篠)と聞き分けて、それがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものであるとする頓智に捉え、代々続いてきてこれからも続くことを言い表していると考えて、そのような言葉が地名にあらわれている(注7)ことが、古くからずっとそうであったように、神が定めた性質によっているかのように所与のものだということを言いたいがため、「神ながら 神さびせすと」という定型句(注8)を差し挟んでいるわけである。
 したがって、結句に「神の御代かも」とあるのは、ヨシノなる名を負っている土地だから、神代の昔からあって、同じ状況が今も続いているものとし、そのことの不思議さを示そうとして「かも」と詠嘆している。地名の解釈、それもこじつけととれるものだから、「かも」とでも付けておくしかないのである。

 万45番歌は、「軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌」で、軽皇子がイニシエーションのために出掛けた時の歌である。応神天皇がそうであったように、自らの名を確認するために出掛けている(注9)。呼ばれるものとしての名に加えて、呼ぶものとしての名を自ら獲得することが課題であった。今日的解釈でいえば、青年心理学におけるアイデンティティの獲得作業である。安騎の野歌群は、軽皇子が自らの名を自らのものとして受け止め、自ら発するに足る力を得る機会であった。すなわち、軽皇子と呼ばれているのがどういう意味なのか自ら悟ったのである。カル(軽)なのだから、野に出かけて、草をカル(刈)ことが行われた。名に負う存在として自ら名を体現することが求められたのである。古代において、名に負う存在が社会的人格として認められ、名に負うことで人はコト(事)がコト(言)となり、社会的存在となる。安騎の野の巡幸も成年式として仕組まれており、カル(軽)の皇子と名に負っているから、カル(刈)ことが成年式の第一目標であった。だから、「軽皇子宿于安騎野」、すなわち、野宿をしに出掛け、草を刈って庵(蘆)を作ったのであった。
 万45番歌において、「神ながら 神さびせすと」が「ふとかす」にかかっている。万36番歌に、「…… 山川の 清き河内かふちと 御心みこころを 吉野の国の 花らふ あき野辺のへに 宮柱 太敷きませば ……」とあり、宮を建造するのに太い柱を設置することをいう言葉である(注10)。一般の住居ではないから太い柱を使うのである。庶民は竪穴式住居に暮らしていた。細い柱をたくさん並べ立ててかやをめぐらせて土座に筵を敷いて生活空間としていた。対して宮とするところは高床式に建てており、板張りの床が宙に浮いている。太い柱を直立させているからできるのである。そんなことをしている場所はミヤコである。ミヤコという語は、ミヤ(御屋・御舎)のあるところという意味で、ミヤとは、天皇の住居とともに神社のことも指す。同様に高床式建築である。「太敷かす みやこ」という句は形容として当たり前である。万45番歌においては、「神ながら 神さびせすと」の前にも「やすみしし わご大君」、「高照らす 日の皇子」と、当然の形容のほどこされた常套句が並んでいる。言葉の表現の上で当たり前に飾られる句をうけて、同様の当たり前の形容が行われる句を導いている。長歌において言葉をあやなすのに、尻取り式の数珠つなぎであえてだらだらと冗漫に歌い続けようとしている。そうしたいから、「神ながら 神さびせすと」というメタ・メッセージを咬ませている。
 以上が「神ながら 神さびせすと」という修辞表現の本質である。古くからずっとそうであったように、神が定めた性質によっているかのように、という意味合いを示すことで、歌の作者、歌い手である人麻呂は、言辞の責任を負うことなく済ますことができた。方便的な挿入文句ということもできよう。
 類似する形の「神ながら 神……」という例も、「神ながら 神さびせすと」の修辞表現と同相である。

  筑前国怡土郡深江の村子負こふの原に、海に臨める丘の上に、二つの石有り。大きなるは長さ一尺二寸六分、めぐり一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは長さ一尺一寸、囲一尺八寸、重さ十六斤十両、並皆ともに楕円にして、かたちは鶏の子の如し。其の美好うるはしきはあげつらふにふべからず。所謂いはゆる径尺のたま是なり。〈或に云はく、此の二つの石は肥前国彼杵郡平敷の石なり、うらに当りて取れりといふ。〉深江の駅家うまやを去ること二十許里さとばかりにして、路のほとりに近く在り。公私の徃来に、馬より下りて跪拝せずといふこと莫し。古老相伝へて曰はく、「徃者いにしへ息長足日女命、新羅国を征討ことむけたまひし時に、ふたつの石をちて、御袖の中に挿着さしはさみて、鎮懐しづめと為たまふ。〈実は是、御裳みもの中なり。〉所以ゆゑ、行く人此の石を敬拝す」といふ。乃ち歌を作りて曰はく、
 かけまくは あやにかしこし 足日たらしひ 神のみこと 韓国からくにを 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして いはひたまひし たまなす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐがねと わたの底 沖つ深江の 海上うなかみの 子負こふの原に 御手みてづから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます くしみたま 今のをつつに 貴きろかむ(万813)
  弓削皇子のかみあがりましし時に置始おきその東あづまひとの作る歌一首〈并せて短歌〉
 やすみしし 吾ご大君 高照らす 日の皇子みこ ひさかたの 天つ宮に 神ながら 神といませば そこをしも あやに畏み 昼はも 日のことごと 夜はも のことごと 伏し嘆けど 飽き足らぬかも(万204)

 万813番歌は神功皇后ゆかりの鎮懐石の話をしている。ここで「神ながら 神さびいます」は、昔の神功皇后代の事跡のことだから古くなっているとして言っているのではない。石があるのが深江の村の子負こふの原だからである。どうしてそこにあるかについて、題詞の「或」に、ウラ(占)に当たったから取って来たとしている。地名の「深江」は、江が陸に深く入り込んでいるところのことを想起させ、そのようなところはウラ(浦)と呼ばれていた。確かに当たっている。コフというところは元からあった地名である。神功皇后が産まれないようにしていた子に負う名にふさわしいところであった。偶然の一致に違いないのであるが、神が配剤したかのように受けとられた、ないしはそう受けとるように志向したのであった。そう受けとることは、言=事であるとする、筆者の提唱する言霊信仰において理にかなうことであった。だから、そんな言葉上の一致に対して、「神ながら 神さび座す」と形容しているのである。
 万204番歌の「やすみしし 吾ご大君」、「高照らす 日の皇子」、「ひさかたの 天つ宮」はそれぞれコロケーションである。昔からそう言われてきており、これからもずっとそう言われてゆくことであろう。それはまるで神が定めた性質であるかのようであるということを解説するために、「神ながら 神といませば」と投入している。そのように、言葉の表現がずっと続くように、事柄においても昼夜問わずにずっと五体投地して嘆いても、気持ちが収まることはない、と言っている。言=事であるとする、筆者の提唱する言霊信仰においてそうであると歌っているわけである。今日言われているような、この世に現前している天皇等を神格化して、あなた様は神のような存在だなどと言うものではなかったのである(注11)

 ここまでで触れてきていない「神ながら」の例は次のとおりである。

①…… 天雲の 八重かき別きて〈一に云はく、天雲の八重雲別けて〉 神下かむくだし いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の きよみの宮に 神ながら〔神随〕 ふときまして すめろきの 敷きます国と 天の原 いはを開き 神上かむあがり 上り座しぬ ……(万167)
②…… 渡会わたらひの いつきの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇とこやみに 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら〔神随〕 太敷きまして やすみしし わご大君の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと〈一に云はく、かくもあらむと〉 ……(万199)
③…… ことさへく 百済の原ゆ 神葬かむはふり 葬りいまして あさもよし きのの宮を 常宮とこみやと 高くし奉りて 神ながら〔神随〕 鎮まりましぬ 然れども わご大君の 万代よろづよと 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや ……(万199)
④…… 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷みかど 神ながら〔神奈我良〕 めでの盛りに 天の下 まをしたまひし 家の子と 撰ひたまひて ……(万894)
⑤やすみしし わご大君の 神ながら〔神随〕 高知ろしめす なみの おほの原の ……(万938)
⑥葦原の 瑞穂の国は 神ながら〔神在随〕 言挙げせぬ国 ……(万3253)
⑦朝日さし がひに見ゆる 神ながら〔可無奈我良〕 御名みなに帯ばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま ……(万4003)
立山たちやまに 降り置ける雪の 常夏に ずてわたるは 神ながらとそ〔可無奈我良等曽〕(万4004)
⑨…… 天地あめつちの 神相珍あひうづなひ 皇御祖すめろきの たま助けて 遠き代に かかりしことを が御代に 顕はしてあれば す国は 栄えむものと 神ながら〔可牟奈我良〕 思ほしめして もののふの 八十やそともを 服従まつろへの 向けのまにまに ……(万4094)
蜻蛉あきづしま 大和の国を 天雲に 磐船いはふね浮かべ ともに かいしじ貫き い漕ぎつつ 国見しして 天降あもりまし はらことむけ 千代かさね いやぎに 知らしける 天の日継と 神ながら〔神奈我良〕 わご大君の 天の下 治めたまへば ……(万4254)
⑪あしひきの やつの上の つがの木の いやぎに 松が根の 絶ゆることなく あをによし 奈良の都に 万代に 国知らさむと やすみしし わご大君の 神ながら〔神奈我良〕 思ほしめして 豊宴とよのあかり 今日けふの日は ……(万4266)
天皇すめろきの 遠き御代にも 押し照る 難波の国に 天の下 知らしめしきと 今のに 絶えず言ひつつ かけまくも あやにかしこし 神ながら〔可武奈我良〕 わご大君の うち靡く 春の初めは ……(万4360)

 ここまでの検討から予想される点は、第一に、「神ながら」は挿入句だから括弧に入れて解釈して意が通ずること、第二に、時間の経過を感じさせずにいつでも成立する当然のことを「神ながら」と言い表していること、第三に、時間軸にフラットなことを「神ながら」というのだから、言葉としてかなうのは言い慣わされているコロケーションであることが多いことである。
 ①②の例は、「太敷きまして」を導いている。すでに見た万45番歌の例と同じである。①に「飛ぶ鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして」とあるのは、「飛ぶ鳥の」はアスカ(飛鳥)を導く枕詞で、空を「飛ぶ鳥」が「宮」を作るのであれば、木の上の高いところに巣を作るであろうから、糞尿は下へ落ちて巣は「浄の宮」に保たれる、それと同じように人が作るなら、高床式にするから宮柱を「太敷きまして」ということにつながるのである。成り行きとして当然のことを述べているから、「神ながら」という評価語を投入しているのである。②に「瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして」とあるのも、豊葦原瑞穂の国と呼ばれるように、湿地に生息するアシのようなイネ科植物の繁茂するところに居住する建物を建てるとなると、高床式にする必要があったから、当然の成り行きとしてつながると言いながらに述べているのである。
 ⑥の例は、すでに見た万3250番歌と同様に解される。「葦原の 瑞穂の国」はコロケーションである。⑤の例は、「やすみしし わご大君」というコロケーションをもって「神ながら」を誘引している。⑩も枕詞を伴うコロケーションが「いや嗣ぎ継ぎに」とばかりに登場している。直接的に「神ながら」という語を引き出しているのは、「(いや嗣ぎ継ぎに 知らし来る) 天の日継」であろう。天孫降臨神話に知られるように、為政者は天から降りてきて代々受け継いで統治しているのであるが、どんどん代替わりして続いていく様はお日様が毎日くり返し出てくるのと同じであるのだけれども、その当の為政者のことを指して「天の日継」という言い方を、いつからともなくものすごく昔からしてきており、まさに当を得ていて神の行いであるとさえ言えることであると評されようからということで「神ながら」という語を挿入している。
 ⑦⑧の例は、「立山たちやま」についての歌で、題詞に「敬‐和立山賦一首并二絶」とある。すでに触れた万4001番歌と同様に解される。山が寝ていないで立っているという裏腹な名のとおり、朝日が当たらずに陰になる背中(「がひ」)を見せている。神の山ということではなく、「立山」とうまく名づけられていて、時間の経過にかかわらずそういうことになっていて、名は体を表し、コト(言)はコト(事)と同一なのである。そこで、「神ながら」と評されている。万年雪が残るのは、時間の経過を感じさせない証明にもなるから、「神ながら」と評していたことは正しいことであったとして、悦に入って「とそ」と加えている。
 ⑨の例は、題詞に「賀陸奥国出金詔書歌一首〈并短歌〉」とあり、天保感宝元年四月一日の詔(続紀12詔)を聞いての歌である。東大寺の大仏に貼る金箔とする金が産出したことを喜んだ天皇の詔勅をまとめたのが、「天地の 神相珍なひ …… 食す国は 栄えむもの」の部分である。そう、「神ながら」天皇が「思ほしめして」、という構成になっている。対馬で金が産出したこと(文武二年、大宝元年)、武蔵で銅が産出したこと(和銅元年)を「遠き代に かかりしこと」としていて、金が出たのは単なる資源確保に限られずに治世における祥瑞だからきっと栄えるだろうと自賛を始めている。祥瑞の思想に従い、そう思うのは当然のことだから、「神ながら」にお思いになるのである。天皇が神なのではなく、当然の成り行きとして、自明のこととして、そう思うとしている。
 ⑪の例も、詔に対する歌である。題詞に、「為詔、儲作歌一首〈并短歌〉」とあり、宴の席で天皇が歌を望まれたのに応じて、前もって用意しておいた歌を披露している。参加費無料の宴会に招かれていれば、天皇の統治を讃美するこのような歌も歌われよう。「やすみしし わご大君」が「万代に 国知らさむと」「思ほしめ」すことは「神ながら」のことである。なぜなら、決まり文句ばかりで構成されているからである。「あしひきの 八峰」、「栂の木の いや継ぎ継ぎに」、「松が根の 絶ゆることなく」、「あをによし 奈良の都」と続いている。決まり文句で決まっていることだから、当然の成り行きとして統治していてよいのであり、臣下はお仕えするのがこれまた当然であって、今日は宴だから楽しく過ごして笑い合っているのであって、なんとすばらしいことだろう、と言っている。
 ④の例は、人はたくさんいるけれど、「高光る 日の朝廷」は「愛の盛りに」よく目立つ言っている。天皇のことを「高光る 日の朝廷」と言っているのだから、太陽ほどに光っていたらまぶしくてよく目立つのは当たり前なのである。言葉上における理の当然について、「神ながら」と評する語を投入している。天皇が神になっているわけではない。
 残る③の例は挽歌の例である。「城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ」と殯宮のことを言っている。殯宮を土座にするはずはなく、いつまでも住み続けられるようにという観点からも高床式に作られるが、生きている人の住処ではないから物音もせずに寝静まった状態になっていると述べている。「神ながら」という語は、次項で示すとおり、亡くなって「神」になっていることに対応した使い方である。

 以上の検証によって、上代においては、天皇を神として位置づけることはなかったと言える。そもそも天皇を神として位置づけていたかどうかを探るのに、万葉集のみをもって人々の認識を見ていこうとするのは離れ業であった。方法論的に強引で無理がある。
 次に検討する「大君は 神にしませば」の例も、現行の説では、「いずれも下三句にうたわれる行為を人為を超えた神ゆえの偉業として称揚し、「大君」を賛美する。」(菊地義裕「おおきみはかみにしませば」国学院大学デジタルミュージアム『万葉神事語辞典』資料ID31785 http://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=31785 (2022年10月23日閲覧))とされるが(注12)、誤りである。

  (弓削皇子薨時、置始東人作歌一首〈并短歌〉)
  反歌一首
①大君は 神にしませば 天雲の 五百いほが下に かくりたまひぬ(万205)
  天皇御‐遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
②大君は 神にしませば 天雲の いかづちの上に いほらせるかも(万235)
   右或本云、献忍壁皇子也。其歌曰、
③大君は 神にしませば 雲隠くもがくる 雷山に 宮敷きいます(万235或本)
  (長皇子遊猟路池之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉)
  或本反歌一首
④大君は 神にしませば 真木まきの立つ 荒山中あらやまなかに 海を成すかも(万241)
  壬申年之乱平定以後歌二首
⑤大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居たゐを 都と成しつ(万4260)
   右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作
⑥大君は 神にしませば 水鳥の すだくぬまを 都と成しつ(万4261)作者未
   右件二首、天平勝宝四年二月二日聞之、即載於茲也。

 ①は挽歌である。大君(弓削皇子(ゆげのおほきみ))は神にあらせられますので、お隠れになっていらっしゃる、と言っている。現行の説では例外の例とされている。しかし、人が神になることを亡くなること、薨去することと捉えて不自然なところはない。他の例もそのように読める。
 ②の題詞にある「天皇」が誰のことを指すか、定まっていない。この歌には左注があり、「右或本云、献忍壁皇子也。其歌曰、」として③の歌が記されている。③の「或本歌」では、「雲隠る」と死者表現がある。この歌は忍壁皇子のための挽歌と理解できる。そして、その忍壁皇子の亡くなった時に、②の歌が歌われたと示すために上の左注が記されている。すなわち、忍壁皇子が亡くなった時に詠まれた挽歌には二首あり、②の歌は「献」じたものであるということになる。その題詞には、「天皇御‐遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首」となっている。状況の可能性として、雷岳で営まれた忍壁皇子の殯に「天皇」自身は行っていないが、代理を立て、柿本人麻呂に挽歌を歌わせたものが②の歌であると考えられる(注13)。「御遊」とは、殯の時の振る舞いを指している。古事記では天若日子の殯の様子を「……如此かく行ひ定めて、やう夜八夜よやよ以て、遊びき。」(記上)と表している。記録には「五月丙戌、三品忍壁皇子かむあがりましぬ。使を遣はして喪の事を監護みまもらしむ。」(続紀・文武天皇・慶雲二年五月)とある。天皇の御名代として代行しているから、忍壁皇子の葬儀に名を列ねているのはあくまでも天皇である。そして、柿本人麻呂に歌を作らせるなり、勝手に人麻呂が歌を作るなりしていたということであろう。したがって、題詞の「天皇」は文武天皇、②の歌中の「大君」は③同様、忍壁皇子に当たる。「挽歌」の部類に入れられずに「雑歌」の、それも巻第三の巻頭を飾っているのは、エディターが作歌の事情をよくは把握していなかったからであろう。それでも関連記事を付け足しておいたから、いま誤ることなく理解することができた。
 ⑤については、壬申の乱後のこととて、通説では「大君」を天武天皇のこと、「都」は飛鳥浄御原宮、または後に開かれた藤原宮のことと考えられている。けれども、壬申の乱に功績があった大将軍にして、それによって右大臣を贈られている大伴卿として名を伏せられている人に歌を歌わせるのであれば、「大君」といえば亡くなっている天智天皇のこと、「都」は近江大津宮のことと考えるのが正当であろう。生前からほとんど死者のような考え方をして乗馬の進めないところへ遷都したが、ようやく飛鳥の地へと還ることができた。それはすべて戦に勝利したからである、と誇っているのである。あぶみ近江あふみとのウィットを楽しむべき歌である。⑥はその趣向に応じた歌が追和されたもので、水鳥が集まり騒ぐようなところへ遷都したとあるのは、水鳥のみづかき瑞垣みづかきとのウィットを楽しむべき歌なのである(注14)
 ④は②③と同じく「雑歌」に入れられている。「長皇子遊猟路池之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」として万239番の長歌と万240番の短歌があり、万240番歌の前には「反歌一首」と記されている。その二首で完結していると思われるところへ、④の241番歌が、「或本反歌一首」として付け加えられている。底本で「反歌」が二首あったことは想定されていないように、両者は同時に歌われたとは思われない様変わりぶりを示している。

  長皇子遊猟路池之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉
 やすみしし わご大君 高光る 吾が日の皇子の 馬めて みかり立たせる 弱薦わかこもを かりの小野に 猪鹿ししこそば い這ひをろがめ 鶉こそ い這ひもとほれ 猪鹿ししじもの い這ひ拝み 鶉なす い這ひ廻り かしこみと 仕へ奉りて ひさかたの あめ見るごとく まそ鏡 あふぎて見れど 春草の いやめづらしき わご大君かも(万239)
  反歌一首
 ひさかたの あまゆく月を 網に刺し わご大君は きぬがさにせり(万240)
  或本反歌一首
④大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海を成すかも(万241)

 万239番歌に作者から長皇子への視線は「仰ぎ見」るもので、歌の主眼として歌われている。万240番の短歌も同様の視点から見ている。万241番歌と万239番歌とのつながりは、題詞の「池」を「海」に見立てたという解釈にしかない(注15)。どういう構成の歌群であるか、検討が必要である。
 題詞に設定される場面については、長皇子が猟路の池というところに遊猟に来ているものと捉え、そのとき、柿本人麻呂が歌を作ったのだと考えられている。けれども、その地は所在は知られていない。

 遠つ人 猟道の池に 住む鳥の 立ちても居ても 君をしそ思ふ (万3089)

 同じカリヂの詠まれた歌である。雁(かり)とかけて使われている。遠いところへ行くから「遠つ人」と比喩に使われている。万239番歌の題詞はその見地から読み直されなければならないであろう。西宮1984.は、「遊猟路池」は、「遊猟」の「遊」だから、イデマスとは訓まず、アソビタマフと訓むべきとしている(30頁)。雁とかけているとするならば、「猟路池」に「遊」びに来ているのは、雁なのではないかと推測される。人間が行う狩猟の対象である四足獣の「猪鹿しし」と、なぜか鳥類では小型の飛翔しない「鶉」が登場している。飛ばない者が「仰ぎ見」ている歌として成り立っている。すなわち、長皇子は長い死出の旅路に就いたということである。残された者は飛ぶことはない。長皇子は雁になぞらえられて歌に詠まれている。「遊びたまふ」は②同様、殯宮儀礼のことを言っている。
 長皇子が亡くなった時の挽歌なのである。殯のことはその造作物からアラキ(アラ(荒・粗)+キ(棺))という。アラキのキは乙類で、キ(城)、キ(木)と同音である。④にある「真木の立つ荒山」とはアラキを指すと考えられる。その儀礼行為からはモガリ(モアガリ(喪上)の約)と呼ばれた。そこに「海」を作るとはどういうことかといえば、行われる行事、モガリが、モガリ(モ(藻)+カリ(刈))と同音で、藻刈りは海で行われるからである。「猟路池」とは、遠く旅立つ前にちょっと羽を休めるお休み処、殯の場のことを譬えたものである。雁はカリヂノイケに仮に居て、そこからマカリ出ていく。マカル(罷)という語には、退出する、遠い彼方へ去る、の意のほかに、死ぬ、の意がある。

 楽浪ささなみの 志賀津の子らが 罷道の 川瀬の道を 見ればさぶしも(万218)

 マカリヂ(罷路)という言い方は、マ(真)+カリヂ(猟路)に、そして、マ(真)+カリ(雁)+ヂ(路)に聞える。カリ(雁)+ヂ(路)としてほんまものなのは、鵜のように列島内を移動することではなく、海を渡ることだから、「池」を「海」としたと歌っている。
 一方、万240番歌で月を刺網に捕まえてきぬがさにしているというのは、雁が高く飛んで渡っていく時に、周囲を照らしてよく見えるようにしているということである。殯宮において棺を覆うきぬがさを天空に見立てたのである。大きく張った霞網に月がかかっているのは、地上にたたずむ猪鹿や鶉、これは残された我々人間のことを譬えたものであるが、それらから見ればただ「仰ぎ見」るだけの別世界のことだという言い分である。
 以上から、①~⑥までのすべての「大君は 神にしませば」の用例で、大君はお亡くなりになって神になられたので、大君はお亡くなりになって神になられるのと同然の状態であったので、の意に解されると理解される(注16)。「神ながら 神さびせすと」などの言葉遊び的形容ともども天皇の神格化を表すものではなく、日本古代に天皇即神の観念が定着していたことはなかったと結論づけられる(注17)

(注)
(注1)近年の通釈書でも、多田2009.に「さながらの神として神々しさをお示しなさるとて、」(51頁)、新大系文庫本万葉集に「神の御心まかせに、神らしく振る舞われるべく、」(83頁)と訳されている。
(注2)澤瀉1957.に、古義の説は、「萬葉ぶりを会得しない誤解である。……人麻呂独特の省略的な語法を用ゐたものである。」(296頁、漢字の旧字体は改めた)と誤解している。
(注3)村島2003b.は、「上代の〈名詞─ナガラ〉は、ある動作・状態をとる動作主体の様子をふさわしいと判断した表現主体の判定を表す表現であったと推定される。これは、ある動作・状態をとる動作主体の〈それらしさ・ふさわしさ〉を形容する表現であったと言い換えることができるだろう。」(17頁)とし、品田2007.は、「上代語ナガラには、①名詞に下接する用法 ②動詞に下接する方法 の二つがあり、さらに前者には、①ⅰ上接する名詞が主語と同一の対象を指示する場合 ①ⅱ上接する名詞が主語と異なる対象を指示する場合 に分かれる。」(14頁)として議論している。品田2018.も同様。
 現代語の例を作って理解の助けとしたい。

 五回裏の足をからめた猛攻は、敵ながら、あっぱれであった。
 経済的事情により、昼間は本業を続けながら、夜勤のバイトを始めた。
 特に自分の文章に自信があるわけではないが、我ながら、うまく書けたと思う。
 私は、鳥の糞をモーニングの肩に付けながら、娘の結婚式に出席した。
 部長の恐縮ぶりは、さながら、閻魔王の前に引き出された極悪人のようだった。

 その品詞や意味がどのようなものであれ、ここに意図的に記したように、読点をもって括られる言葉である。~(ナ+)カラによって表されるのは、~そのものではなく、~の性質・本性・特性といった抽象化が施されている。名詞のカラ(柄)が、植物そのものではなく、それを支える茎、幹を指したり、器物の本体ではなく、それに付いていて本体を操作する柄(え)であったり、生身の人それ自体ではなく、人がつづいていく血縁のことを示しているのは、言葉の意味としてパラレルになっていてわかりやすい。その点に比重が置かれると、~(ナ+)カラという言葉は、評価という価値観を(積極的に表すか否かは別として)有するに至る。つまり、同じ文中に置かれたとしても、その部分はメタ化されている。メタ・メッセージとメッセージとは階梯が異なるから、同じ次元におしなべて解そうとすると混乱を来す。「神ながら」という語の理解不足を招いたのはそのためであろう。
(注4)万38番の長歌も、「りてまつれる 神の御代みよかも〔依弖奉流神乃御代鴨〕」と訓まれなければならない。

(注5)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」参照。以下同様。
(注6)今日、通説となっているコトアゲ論は根本的に誤っている。拙稿「「言挙げ」の本質について」参照。
(注7)この点は、上代において地名がどのように捉えられていたかという観点からも注目に値する。今日の人が地名を創作するようなことは基本的にはなかった。(「天皇、此を改め、名けて長津と曰ふ。」(斉明紀七年三月)は例外である。)地名はすでにあって、その命名の理由づけは後から取ってつけたように行うこと(例えば「久須婆くすば」=「くそばかま」(崇神記))はできても、語源を繙いているという意識はなかったらしいということである。
(注8)人麻呂の2例しか見られないから定型化していないとの批判もあろうが、人麻呂は言葉のまとまりとして「神ながら 神さびせすと」という形に定めている。
(注9)拙稿「安騎の野の歌、「東野炎立所見而反見為者月西渡」(万48)について」参照。
(注10)菊地2006.に、「フトシク(フトタカシク[万928])の表現は、宮殿を壮大に造営する意の賛美表現としての使用であるが、シクの語は「宮柱」を立てることによってその地を占有する、領有することを原義としている。」(33頁)としつつ、宮殿の造営に関する賛美表現と、神話的な発想にもとづく統治の表現とする二つの用法が混在しているとしている。
(注11)天皇を神格化した表現が万葉集で、特に柿本人麻呂によって獲得されたとする見解が、伊藤博氏の主張を超克する形で神野志隆光氏によって行われている。神野志1992.は、「「すめろき」「神」←→「おほきみ」(「うつそ(せ)み」)と解すべき……[で]、
 すめろきの─神(のみこと)(二九、三二二、四〇九四等、一二例)
       遠(き)御代(四二〇五、四三六〇)
 おほきみの─任けのまにまに(三六九等、二八例)
       みことかしこみ(三六八等、八例)
と、「すめろきの」に「任けのまにまに」がつづかず、「おほきみの─神のみこと」となることも原則としてなく、いわば、相互排除的に表現としてなりたつ所以を納得しうるのでもある。」 (137頁)と前提を確認しておきながら、長い形而上学的誤認を経て、天皇即神の表現が獲得されるに至っていて人麻呂はすごいのだと曲解している。
(注12)菊地2006.参照。
(注13)西宮1984.に、「「いほりせるかも」とある廬スは、仮宮を建て、一時的に住まうことであり、場所は雷の岡という聖地であり、……この行為は「非日常的な聖なる世界でのわざ」を意味しているのであり、古代ではそれをアソビの語で表現した」(18頁)とある。
(注14)拙稿「「大君は神にしませば」歌(万4260・4261)の語用論的解釈」参照。
(注15)遠山1998.の、「長歌とのあいだに違和感をもたらす。」(145頁)という見方は、窪田1948.の、「此の歌を前の歌に較べると、長歌との関係が稀薄になり、有機的な微妙な味ひが減つて来る」(22頁、漢字の旧字体は改めた)を受けたものである。窪田氏は、「或本」反歌を「初稿」と解している。伊藤1975.は、「二つ[万240・241]とも長歌によく対応する」(21頁)として「或本反歌」を原案であるとするが、表面的にはよく対応していると感じられない。
(注16)荒木田久老・万葉考槻乃落葉(別記)に、オホキミとスメロギとの区別を記し、「須米呂岐スメロギとは、遠祖ミオヤの天皇を申し奉る称」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970574/90、漢字の旧字体は改めた)としている。万葉集に「すめろきの神(のみこと)」(万29・230・322・443・1047・1133・2508・4089・4094・4098・4111・4465)とあるのは、それがずいぶん昔に鬼籍に入られた人だからである。これまで問題にしてきた「おほきみとは、当代天皇より、皇子、諸王までを申称」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970574/89、漢字の旧字体は改めた)であって生きた存在である。そのオホキミに「神」という語が下接するから誤解が生じていた。しかし、「おほきみかみ」の形でつづく例はない。見てきたとおり、「おほきみかみにしませば」の例は、生きているはずのオホキミはどうかというと、亡くなられて神になられているから、という意で使っている。また、「おほきみ神ながら」とつづく例(万938・4266)は必ずカムと発音していて、「おほきみのかみ」+「ながら」ではなく、「おほきみの」+「かむながら」の構成である。縁起でもない気分を与えることは慎まれていたと考えられる。
(注17)続日本紀宣命に、「神ながら」は19例を数える。用字としては、「随神」(1・3・4・5(3例)・6・9・14・23(2例)詔)、「神随」(4・14詔)、「神奈我良母」(13(3例)詔)、「神奈賀良母」(19・54詔)、「神奈我良」(59詔)となっている。
 本居宣長・続紀歴朝詔詞解に、「天皇の御事には、何事にも、神ながら云々と申すことにて、萬葉の哥にもいと多し、天皇は、現御神と申て、まことに神にましますが故に、神にて坐ますまゝに物し給ふよし也、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933886/12、仮名の合字は改めた)と今日に至る誤った通説が述べられている。
 「神奈我良母」と記されているところから、カム(神)+ナ(連体助詞)+ガラ(柄)という語構成が忘れられていたとする意見がある。見てきたとおり、「神ながら」は、神の本性そのままにいつものこととして、時と場の制約を受けずに当然の成り行きとして、という意を表していた。いつでも必ず常套的にそうなるということは、歴史的に長い間にわたってそうであったしこれからもそうであると考えて誤りではない。つまり、カム(神)+ナガ(長)+ラ(接尾語)と解することも大同小異のことである。語源に基づいて義を彫塑するのではなく、コンテキストのなかで膨らみを持つものとして見渡していかなければならない。言葉は使われているから言葉である。
 用法としては、「神ながら(も)思ほしめす」、「神ながら(も)思ほしめさく」、「神ながら(も)思ほします」、「神ながら(も)思ほしまして(なも)」、「神ながら思ほしまさく」の形をとり、自然と思われる、の意を表している。宣命の最初の例に見れば、「……となも、神ながら思ほしめさくと、詔りたまふ天皇が大命を、諸聞きたまへと詔る。」(1詔)は、……であることは、理の当然のことだから自然と思われることであると、それを皆に言って聞かせているのがこの天皇の言葉だからよく聞きなさい、というようにだらだらとねちっこくつづく話し言葉の間に入れる挿句的なもの言いである。
 例外は一例、光仁天皇が桓武天皇に譲位する天応元年(781)四月の、「神ながら知らしめす〔神奈我良所知食〕」(59詔)で、自然とうまいこと知行する、という意を表している。天皇は、この子は幼い時から仁孝に厚かったから、王となってもうまく統治するだろうというのである。この例外的な用法は延喜式・祝詞・遷-却祟神の二例にも転用されている。「……天の御舎みあらかの内に坐す皇神等すめがみたちは、荒びたまひたけびたまふ事なくして、高天の原に始めし事を神ながらも知ろしめして〔神奈我良所知食〕、神直かむなほび・大直おほなほびに直したまひて、……」、「……山川の広く清きところに遷り出でまして、神ながら鎮まりませと〔神奈我良鎮坐世止たたへごとへまつらく……」。
 なお、推古紀八年是歳条の新羅と任那の和睦の誓いに、「天上あめに神します。つちに天皇有します。是の二神ふたはしらのかみきたまひては、いづこにか亦畏きこと有らむや。今より以後のち、相攻むること有らじ。また船柂ふなかぢを乾さず、歳ごとに必ずまうこむ」と上表文を奏っている。しかし、倭の軍が引き上げると、すぐに新羅は任那に侵攻している。天皇は神扱いしておけば兵を引くのだと侮られたということらしい。

(引用・参考文献)
伊藤1975. 伊藤博『万葉集の歌人と作品 下─古代和歌史研究4─』塙書房、昭和50年。
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古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
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品田2007. 品田悦一「神ながらの歓喜─柿本人麻呂「吉野讃歌」のリアリティー─」万葉七葉会編『論集上代文学 第二十九冊』笠間書院、2007年。
品田2018. 品田悦一「古代における天皇神格化の真相─文武天皇即位宣命をめぐって─」芳賀紀雄監修、鉄野昌弘・奥村和美編『萬葉集研究 第三十九冊』塙書房、令和元年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
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村島2003b. 村島祥子「上代の〈名詞─ナガラ〉とカラ」『上代文学』第91号、2003年11月。上代文学会ホームページ http://jodaibungakukai.org/02_contents.html
吉井1990. 吉井巖『萬葉集への視覚』和泉書院、1990年。

2022.10.23初出

「さやけし」考─キヨシ(clean)とサヤケシ(clear)の違いをめぐって─

 「さやけし」という語については、岩波古語辞典のように明晰に定める見解(注1)と、時代別国語大辞典のようにキヨシとの違いをはっきり説明しきれないとする見解(注2)がある。筆者の立場は前者にある。簡潔に言えば、キヨシは clean を、サヤケシは clear を言っている(注3)。視覚的にも聴覚的にも、また、認識的にも、それらの複合的にも用いられる語である。

 大夫ますらをが 得物矢さつやばさみ 立ち向かひ 射る円方まとかたは 見るにさやけし〔大夫之得物矢手挿立向射流圓方波見尓清潔之〕(万61)

 この歌は、三河行幸の折の歌として追記される三首の歌の最後である。前二首が夜の時間帯を歌うのに対して、朝になって明るくなっていることを歌っている(注4)。四句目の「円方」は松阪市東部の地名とされ、そこまでが「円方」を導く序詞である。弓矢で射的をするのに的がよく見えないのでは話にならないから明るい時間帯に行われる。すなわち、「見るにさやけし」とは、見るからにすがすがしいという景色の風情を述べるのではなく、見るのにはっきりしている、ちゃんと見えている、的の星もしっかりと見えているということである。そうでなくてどうして射的のことを序に長々と話すだろう。射手と的との間に雑草が生い茂って見えにくいことも、霧がかかってぼんやりすることもない。一点の曇りもないということを「さやけし」で表している。用字に「清潔」とあるのは、弓矢で射るとき、それが狩猟である場合には、鹿や猪が保護色で周囲に紛れることがあるが、そのようなことがなくクリアに見えていて、獣のほうも射るなら射てみよと堂々と潔く立ち向かっていることを示唆している。三句目の射手の姿勢の「立ち向かひ」に真っ向から対する姿であったということである。

 …… 神風かむかぜの 伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高くたふとし 川見れば さやけく清し みななす 海も広し 見渡す 島も名高し ……〔……神風之伊勢乃國者國見者之毛山見者高貴之河見者左夜氣久清之水門成海毛廣之見渡嶋名高之……〕(万3234)

 これは、川をみると、見る途中に木々が生い茂って見えないということもなくクリアによく見えて、その川はクリーンにきれいであったということである。あきらかにきれいであった、明々白々としてきれいであった、ということである。

 同じき天皇[景行]、行幸いでましし時、此の山の行宮かりみやいまして、徘徊たちもとほり、よもを望みますに、四方よも分明さやけし。因りて分明さやけの村と曰ふ。〈分明を佐夜介志さやけしと謂ふ。〉今はよこなまりて狭山郷さやまのさとと謂ふ。(肥前風土記・養父郡)

 これだけの記事であるが、現状では言葉から遊離した解説が行われている。「景行天皇が巡幸し、眺望がよい場所(「四方分明かりき」)であったために「分明の村」と名付けられたという。天皇の巡幸には、巡行する神が優れた土地を見いだす巡行叙事の論理が蔵されており、サヤケシが聖性を帯びた讃美の語であったことを示している。」(『万葉語誌』169頁、この項、塩沢一平)という。
 単なる命名譚である。天皇はどこか見晴らしのいいところはないかと探し回り、うまい具合のところを見つけたのでそこから四方を見渡した。天気も良くてよく見えた。「徘徊四望、四方分明。」とあるのだから、見えた先がグッドやナイスな所に見えたといったことではなく、見晴らしがよくて四方がクリアに見えたということである。

 この頃の 秋の朝明あさけに 霧隠きりがくり 妻呼ぶ雄鹿しかの 声のさやけさ〔比日之秋朝開尓霧隠妻呼雄鹿之音之亮左〕(万2141)

 秋になって夜明けに霧の中で妻を呼ぶ牡鹿の声がはっきりと聞こえるという歌である。霧に隠れていたらはっきりとは見えないが、声のほうばかりははっきりと聞こえるという対比をなしている。声の良し悪しは関係ない。

 …… 立つ霧の 思ひすぐさず 行く水の 音もさやけく 万代よろづよに 言ひ継ぎ行かむ 川し絶えずは〔……多都奇理能於毛比須具佐受由久美豆乃於等母佐夜氣久与呂豆余尓伊比都芸由可牟加波之多要受波〕(万4003)

 立山たちやまのことを言い伝えていこうというのが歌の主旨である。その最後の部分で、霧が流れ消えるように忘れることなく、流れて行く水の音がきちんと聞こえるように、末永く言い伝えてゆこう、川が絶えない限りは、と言っている。「行く水」は「川」の流れのことである。川が絶えないのだからそのように、ずっとずっと伝えていくと言っていて、それは川の水の流れる音が途切れることがないのと同じことなのである。その際、音量や音質は特に問題ではない。音が継続していることをもって続けていくということに譬えている。はっきりと音がするように、はっきりと次の世代へ伝えていくということである。音曲の優美さを問うものではない。

 はねかづら 今する妹を うら若み いざ率川いざかはの 音のさやけさ〔波祢蘰今為妹乎浦若三去来率去河之音之清左〕(万1112)

 「はねかづら」については連凧ではないかとする説を呈示している(注5)。凧あげをしようよ、しようよとせっついて来る少女の言葉にいうイザと名に負っている率川は、イザ、イザと音を立てて流れている。そのように声を立てているからそういう名に呼ばれているのだ、音がはっきり聞こえるのは自明のことだ、ということを「さやけさ」で示している。

 さざれ波 磯越いそこしなる 能登瀬のとせがは 音のさやけさ たぎつ瀬ごとに〔小浪礒越道有能登湍河音之清左多藝通瀬毎尓〕(万314)

 音がはっきり聞こえるのは、川路が狭くなったり高低差ができたりして急流となっている場所で、流れが速いからザーザー音がしている。そんな瀬になっている個所ごとに音がはっきりしていると言っている。山中の川のことである。流れが速い所と緩慢な所とがある。その川沿いにひらかれている道筋に歩を進めて行く時、もちろん川が見える所もあれば隠れる所もあるわけだが、折に触れてザーザーいっている所が現れて、ああ、能登瀬川が流れているのだなあとそのたびに思われる。「激つ瀬ごとに」澄んだ音が聞こえるのではなく、「激つ瀬ごとに」音がはっきりと聞こえてくるのである。「激つ瀬」でない所では聞こえなくなる時もある。「さやけし」は、視覚や聴覚の対象が澄明であるということではなく、感覚において分明であることを指している。

 淵も瀬も 清くさやけし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも〔布知毛世毛伎与久佐夜気志波可多我波知止世乎万知天須売流可波可母〕(続紀・称徳天皇・宝亀元年三月)

 「淵」はどうかというと流木が何かに引っ掛かってとどまってゴミが集まるような汚い所ではない。そんなことになっているとそこはもはや淵ではなくなって「よど」や「たまり」や「」になりかねない。そのようなことはなくはっきりと「淵」であり、「瀬」はどうかというとそれも同様であるという意である。どうしてそのような言辞になるかといえば、そこがハカタガハだからで、はかがあるのではないかと思われている。墓は死者を葬る場所である。遺骸が埋められていればそこで腐敗していく。汚い所ではないかと感じられたのだろう。とはいえ千年も経てば朽ち果てきってしまい、晴れて澄んだ川になるのではないかと歌に戯れている。「淵」や「瀬」はきれいで、また、たしかにフチやセの性質を堅持して言葉どおりなので「さやけし」という言葉が使われている。
 この歌の解釈としては、千年経てば澄んだ川になるといった予祝的な歌であるとする見方や、高松2007.のように、今がその千年経った時なのだとする説がある。後者の高松氏の説が比較的正しいであろうが、その意味するところは、いつとは知れぬはるか昔にハカタガハと名づけられ、それが今となっては「千歳」経っているから澄んだ川になっているのだなあ、と詠嘆しているのである。地名に名づけられたのは千年以上前のことだろうということである。

 大海の 水底みなそことよみ 立つ波の 寄らむと思へる 磯のさやけさ〔大海之水底豊三立浪之将依思有礒之清左〕(万1201)

 この歌は、磯のはっきりとあることを言っている。どんなに大きな波が起こって来ようとも、それに対応するであろう荒々しく大きな磯がそこにあるのである。そして、それをイソと呼んでいることについて分明であるとしている。
 いそ(ソは甲類)とは、イとソ(甲類)という音のつながりでできている。イは、馬のいななきの声、ソ(甲類)は馬を追う声である(注6)。馬が暴れ、その馬を制御する、その対応をイソという言葉は表している。どんな荒々しさにも対応するもの、それがイソのイソたる由縁ということになる。完全に明らかだから「さやけし」という言葉で形容されている。この場合、視覚的、あるいは聴覚的にはっきりわかるということではなく、認識的に明瞭であるという意である。

 今日けふもかも 明日香あすかの川の 夕さらず かは鳴く瀬の さやけくあるらむ〈或る本の歌の発句はじめのくに云はく、明日香川 今もかもとな〉 〔今日可聞明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武〈或本歌發句云明日香川今毛可毛等奈〉〕(万356)

 「今日もかも」はアスを導いて「明日香の川」にかかり、それら全体は「夕さらず」、毎夕ごとにを導いている。結句で「さやけくあるらむ(さやけかるらむ)」と推量しているのは、発句の「今日もかも」に対応している。「今日もかも……らむ」の形は他にも見られる。

 くしろつく たふさきに 今日けふもかも 大宮人の たま刈るらむ(万41)

 今日も……しているのだろうか、の意である。そのため、万356番歌の解釈として、かつて見た過去の様子と同様に今日もまた、の意と捉えられることがある(注7)。飛鳥古京のことを言っているからそう考えられなくもないが、それでは歌意が台無しである。
 歌は、「明日香の川」の明日を基準点にしている。明日、カハヅが鳴くといい、「夕さらず」、毎夕ごとに鳴くというのなら、今日もまた鳴くということなのだろうか、と戯れている。時制的に未来から現在へ推量するというとぼけたことを言うからには、カハヅが鳴くか鳴かないかということに論点を集中させるのではなく、カハヅが鳴く場所である「瀬」があるかどうかということへ焦点を移している。そんな「瀬」は本当にあるのだろう、明確にあるのだろう、厳然とあるのだろう、という言い分として、「さやけくあるらむ」と言っている。「瀬」の様子がさわやかであるとか、すがすがしく感じられるとか、すがすがしい音を立てているとかいうことではない。言葉のあやとして帰納法的論証を試みた歌なのである。

 つるぎ大刀たち いよよぐべし いにしへゆ さやけく負ひて にしその名そ〔都流藝多知伊与餘刀具倍之伊尓之敝由佐夜氣久於比弖伎尓之曽乃名曽〕(万4467)

 大伴家持が同族の大伴古慈斐宿禰の解任事件に憤慨して作った歌である。大伴氏の誇りを歌っている。オホトモとは大きなとも、弓を射るときに弦の跳ね返りで怪我をしないように左手首に着ける防具のことである。そういう名を負っているのが大伴氏だから、武人として正統な氏族なのだと自負している。だから、刀剣類はますます研ぐのがいい、古来より名を負ってきたその名なのだから、という言い分である。「さやけく負ひて」は、通説のように、けがれなく負っているという意ではない。名を負うことに正邪を問うているのではなく、いつからなのか知られないほど昔から名づけられている。それほど古くから名前を持っていて由緒正しいのである。そして、名前に表れていることは明らかなことである。名前(氏)を持たない人たちがたくさんいるし、後から付けた人も知られるなか、大伴氏はものすごく昔から明白なる名を負って代々続いている。そのさまを「さやけし」と言っている。

 大滝おほたぎを 過ぎてつみに 近くして 清き川瀬を 見るがさやけさ〔大瀧乎過而夏箕尓傍為而浄川瀬見何明沙〕(万1737)

 三句目が難訓である。原文に「傍為而」とあり、旧訓にソヒテヰテとしていたが、「為而」はシテと訓まれるのが通例である。現状ではチカクシテと訓まれることが多い。二句目に「菜摘」という吉野地方の地名が出てくる。原文に「夏箕」とあり、また、「夏身」(万1736)、「夏実」(万375)とあって、ミは乙類である。今当てている「菜摘」ではミが甲類になって音が異なる。地名としては後の当て字で、同所かもしれないが万葉人の心に迫ることの支障となっている。
 ナツミ(ミは乙類)という言い方は、「うら(ミは乙類)」、「磯廻」、「隈廻」、「里廻」などに似せて解されていたのではないか。すなわち、「なつ」とは、夏が入り曲がっためぐりのこと、閏月の謂いと察せられたのである。旧暦の夏、四~六月に梅雨がある。ウルフとは、濡れる、湿る、潤うの意である。機知に富んだ万葉人の心中を察すれば、夏の閏月は梅雨時のことだと得意になっていること請け合いである(注8)

 女の不浄ほとどころを観るときに沾湿うるへる者は殺す。湿うるへざる者はからめて官婢つかさやつことす。(武烈紀八年三月)
 ……づる汗、身をうるひて、声乱れ手わななく。(皇極紀四年六月)
 沃 宇留不うるふ(金光明最勝王経音義)

 万1737番歌の歌詞のつながりは、大滝のしぶきを浴びたままにナツミまで進んできたが着衣は濡れていて、そのままに清らかな川の早瀬を見てみると、肌の感覚として水があると知れているから、映像として目にもはっきりしていると歌っているのである。三句目の「傍為而」は、ソホニシテと訓むのであろう。現在でも「そぼ降る」、「そぼ濡れる」などと用いられている。

 弥彦いやひこ おのれ神さび 青雲の たなびく日すら 小雨こさめそほ降る〔霂曽保零〕〈一に云はく、あなに神さび〉(万3883)
 …… 玉笥たまけには 飯いひさへ盛り 玉盌たまもひに 水さへ盛り 泣きそほち行くも〔儺岐曽褒遅喩倶謀〕 影媛あはれ(紀94)
 添山、此には曽褒里能耶麻そほりのやまと云ふ。(神代紀第九段一書第六)
 故、其の少名毘古那神をあらはし白しし所謂いはゆる久延毘古くえびこは、今には山田の曽富騰そほどぞ。此の神は、足は行かねども、尽く天の下の事を知れる神ぞ。(記上)
 仏造る そほ足らずは〔真朱不足者〕 水たまる 池田の朝臣あそが 鼻の上を掘れ(万3841)

 第三例は、新羅の王都、徐伐(sio-por)を音訳したものであろうとされている。訓に音訳である。「添」は「副」などと同じくソフと訓む。サンズイの字であり、雨にそぼ濡れる様を表していると思われる。第四例は案山子のことである。ソホドの語源は知られないが、雨に濡れても歩かないさまを言っているのではないか。第五例は赤い顔料のことである。ソホが濡れることと赤い顔料のことを兼ねて指しているのは、着衣が濡れて体にまつわりついた時、肌赤の色が浮かびあがるところを着色に見立てているからと思われる。ハダカ(裸)はハダ(肌・膚)+アカ(赤)の約かとされている。再掲する。

 大滝を 過ぎてなつに そほにして 清き川瀬を 見るがさやけさ〔大瀧乎過而夏箕尓傍為而浄川瀬見何明沙〕(万1737)

 大滝を通り過ぎ、 なつというところに着いた。ナツミと聞けば二度めぐってきたような梅雨のことが思われてウルフがごとく我が身はそほ濡れた。清らかな川の瀬を見ると濡れ心地からもたしかに川の瀬を見ていると知れるのだ。
 以上、上代語「さやけし」について見てきた。「さやけし」は clear 、ないしは、it is clear that ……を表す語であることが確かめられた。
 キヨシとサヤケシが同じ「清」という字に当てられるようになったのは、ヤマトコトバにあって漢語にはなかった語の区別があったからとは言い難い。新撰字鏡に、「懭怳 分明也、寛明也、佐也介志さやけし、又何[?]支良介之きらけし」、日本書紀に「其の声、寥亮さやかにして悲し。」(仁徳紀三十八年七月)、法華経単字では「月」、「明」、「白」字にサヤケシという訓を記している。万葉集の用字に、サヤケシ(サヤケサ、サヤニ)のために「清」字を使うことが偏重的に多い。書き癖と見たほうが外れないのかもしれない。後考を俟ちたい。

(注)
(注1)「【分明し・亮し】……《サエ(冴)と同根。冷たく、くっきりと澄んでいる意。視覚にも聴覚にも使う。類義語キヨシは、汚れのない意》①さえて、はっきりしている。……②くっきりと際立っている。」(590頁)
(注2)「明るく清らかである。明るくはっきりしている。すがすがしい。サヤカからの派生。……【考】類義の語にキヨシがあって、同じ漢字で表記され、ほぼ同様な対象の描写に用いられる。……この二語の違いをはっきり説明することは困難であるが、キヨシが対象の汚れのない状態をいうことが多いのに対して、サヤケシはその対象から受けた主体の情意・感覚についていうことが多い。」(342頁)
(注3)本稿では、基本となる語彙について確かめることを優先し、語幹「さや」からの語生成については論じない。「さやけし」に讃美・讃辞を説く野田1995.や霊威や畏怖に基づくものとする『万葉語誌』には多くの誤りがあると考える。
(注4)万57番歌の前に「二年壬寅に、太上天皇の参河国みかはのくにに幸しし時の歌」という題詞があり、作者名の長忌寸奥麻呂ながのいみきおきまろと高市連黒人を左注にする歌を一首ずつ載せ、さらに作者名を題詞とする下の三首がつづいて並んでいる。

  謝女王さのおほきみの作る歌
 ながらふる 妻吹く風の 寒きに 吾が背の君は 独りからむ(万59)
  長皇ながのみの御歌
 宵に逢ひて あしたおも無み ばりにか 長き妹が いほりせりけむ(万60)
  舎人とねりの娘子をとめ従駕おほみともにして作る歌
 大夫ますらをが 得物矢さつやばさみ 立ち向かひ 射る円方まとかたは 見るにさやけし(万61)

(注5)拙稿「万葉集の「はねかづら」の歌」参照。連凧について当時の文献に確例が見られず、遺物等が出土したわけでもないので筆者の不安は尽きないが、万葉集を「読む」立場からは読めてしまっているので引き下がることができないでいる。
(注6)「たらちねの 母が飼ふの 繭隠まよごもり いぶせくもあるか〔馬聲蜂音石花蜘蟵荒鹿〕 妹に逢はずして」(万2991)、「…… 我が大君を 霞立つ 春の日暮らし まそ鏡〔喚犬追馬鏡〕 見れど飽かねば ……」(万3324)とある。いわゆる義訓である。
(注7)澤瀉1958.336頁、西宮1984.231頁、新全集本211頁、稲岡1997.214頁などに見られる。
(注8)陰暦では閏月はおよそ五年に二回、十九年に七回訪れ、一年となるよう調整している。「わが国には漢語の「閏(じゆん)」にあたる観念がなかったので、その読みようがなかったが、同音の「潤(じゆん)」の字は、ぬれる・しめるの意で、ウルフと読むから、それを転用して「閏」の読みとした。」(岩波古語辞典198頁)とある。

(引用・参考文献)
稲岡1997. 稲岡耕二『和歌文学大系1 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 萬葉集①』小学館、1994年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、2007年。(「由義宮歌垣の歌謡─「淵も瀬も」歌謡の解釈を中心に─」『萬葉』第182号、平成14年10月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2002
澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第三』中央公論社、昭和33年。
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
野田1995. 野田浩子『万葉集の叙景と自然』新典社、平成7年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
トリーニ2010. アルド・トリーニ「上古・中古時代の「さやけし」と「さや」語群をめぐって」『教育研究プロジェクト特別講義』第20号、2010年9月。ヴェネツィア・カフォスカリ大学調査報告書 https://arca.unive.it/handle/10278/29595

2022.10.17初出

「心もしのに」探究

 万葉集には、シノニという言葉が十例、うち九例が「心もしのに」という形で慣用句化している。また、シノノニという形で二例あって、シノシノニの約かとされている。

 ①淡海あふみの海 夕波ゆふなみどり が鳴けば 心もしのに〔情毛思努尓〕 いにしへ思ほゆ(万266)
 ②夕月ゆふづく 心もしのに〔心毛思努尓〕 白露の 置くこの庭に 蟋蟀こほろぎ鳴くも(万1552)
 ③海原うなはらの 沖つなは海苔のり うちなびき 心もしのに〔心裳四怒尓〕 思ほゆるかも(万2779)
 ④…… なつく 命かたまけ 刈薦かりこもの 心もしのに〔心文小竹荷〕 人知れず もとなそ恋ふる 息のにして(万3255)
 ⑤あらたまの 年かへるまで 相見ねば 心もしのに〔許己呂毛之努尓〕 思ほゆるかも(万3979)
 ⑥…… あしひきの 山にも野にも 霍公鳥ほととぎす 鳴きしとよめば うち靡く 心もしのに〔許己呂毛之努尓〕 そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば……(万3993)
 ⑦…… 峰だかみ 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内かふちに 朝去らず 霧立ち渡り 夕されば くもたなびき 雲居なす 心もしのに〔己許呂毛之努尓〕 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代よろづよに 言ひ継ぎ行かむ 川し絶えずは(万4003)
 ⑧ぐたちに 寝覚めてれば 川瀬め 心もしのに〔情毛之努尓〕 鳴く千鳥かも(万4146)
 ⑨梅の花 をかぐはしみ 遠けども 心もしのに〔己許呂母之努尓〕 君をしそ思ふ(万4500)
 ⑩秋の穂を しのに押しなべ〔之努尓押靡〕 置く露の かも死なまし 恋ひつつあらずは(万2256)
 ⑪朝霧に しののに濡れて〔之努々尓所沾而〕 よぶどり ふねの山ゆ 鳴き渡る見ゆ(万1831)
 ⑫聞きつやと 君が問はせる 霍公鳥ほととぎす しののに濡れて〔小竹野尓所沾而〕 ゆ鳴き渡る(万1977)

 このシノニという語は古来難語とされ、よくわかっていない(注1)。話に先鞭をつけるために先学の考究を引用する。大浦2007.は、その論稿の最後のところで、➃の表記にある「小竹」という用字から、シノニという語は「その直線性において、「小竹(篠)」とも通底しているのではないか。」(62頁)と見当をつけている。
 そこで、植物のシノ(篠)について見てみる。
 万葉集にはシノ(篠)を詠んだ歌がその複合語をあわせて十一首ある。

 ⑬…… 朝越えまして 玉かぎる 夕去り来れば み雪降る 阿騎あきの大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ〔四能乎押靡〕 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて(万45)
 ⑭池のの つきもとの 細竹しのな刈りそね〔細竹苅嫌〕 それをだに 君が形見に 見つつしのはむ(万1276)
 ⑮かくしてや なほや老いなむ み雪降る 大荒おほあら木野きのの 小竹にあらなくに〔小竹尓不有九二〕(万1349)
 ⑯淡海のや ばせの小竹を〔八橋乃小竹乎〕 矢着やはがずて まことありえむや 恋しきものを(万1350)
 ⑰うち靡く 春去り来れば 小竹のうれに〔小竹之末丹〕 尾羽をは打ち触れて 鶯鳴くも(万1830)
 ⑱小竹のに〔小竹之上尓〕 来居きゐて鳴く鳥 目を安み 人妻ゆゑに 吾恋ひにけり(万3093)
 ⑲妹らがり 我が通ひ路の 細竹しのすすき〔細竹為酢寸〕 我し通へば 靡け細竹しのはら〔靡細竹原〕(万1121)
 ⑳あきかしは うるかはの 細竹の芽の〔細竹目〕 人には忍べ 君にあへなく(万2478)
 ㉑あさかしは うるかはの 小竹の芽の〔小竹之眼笶〕 偲ひて寝れば いめに見えけり(万2754)
 ㉒かむ奈備なびの あさ小竹しのはらの〔淺小竹原乃〕 うるはしみ わが思ふ君が 声のしるけく(万2774)
 ㉓もも小竹しのの〔百小竹之〕 三野みのおほきみ 西のうまやに 立てて飼ふ駒 ひむかしの厩に 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふがに 水こそば 汲みて飼ふがに 何しかも 葦毛の馬の いばえ立ちつる(万3327)

 一見して明らかなように、自然観察的にシノ(篠、slender banboo)を詠んでいるとは言い難い。⑭㉑は動詞「偲ふ」と、⑳は「忍ぶ」と掛けるために使われている。ただし、「偲ふ」のノは甲類、「忍ぶ」のノは乙類である(注2)。⑬に「四能」とノは乙類だが、記紀ではノは甲類である。

 あさ小竹じのはら〔阿佐士怒波良〕 腰なづむ 空はかず 足よ行くな(記35)
 小竹、此には芝努しのと云ふ。(神功紀元年二月)

 また、⑳㉑㉒では、シノがウルワ、ウルヤ、ウルハシとともに用いられており共通項がある。ウルなるものとして感じられていたようである。ウル(潤・湿)という語と関係していると考えられる。さらに、⑩と⑬はよく似た表現となっている。ヤマトコトバの実態として言語遊戯の様相がよく見えてくる。「心もしのに」などと不可解な言い回しが行われているのは、言葉の音に何かを感じ取っていた上代の人、万葉人が、おもしろがって言葉遊びをしていた結果である可能性がきわめて高い。
 シノ(篠)という植物は、大型のタケ(竹)、小型のササ(笹)のあいだの、中ぐらいの大きさ、太さのものを指すと考えられている。厳密な区分があるわけではなく、あいまいに区分けして言葉を使っていたとされている。
 そして、そのシノ(篠)という言葉は、ヨシノ(吉野、ヨは乙類、ノは甲類)という地名の本意を考えるうえで、今日の我々から見ればほとんど駄洒落ではあるが、理解の梃子とされていた(注3)。ヨシノとは、ヨ(節、ヨは乙類)+シノ(篠、ノは甲類)の意で、フシ(節)につないで伸びていく、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものとしてあるものなのだと悟っていたのである。ヨ(節)はヨ(代)と同根かとされる言葉で、代々続くことを言い表すから、ヨシノ(吉野)はとてもおめでたいところだと考えられて離宮が作られ、たびたび行幸していたのであった。
 そしてまた、ヨヨという語は、多く「と」、「に」を伴って使われる擬態語・擬声語である。筍のように水があふれだすことを表す擬態語、さらには涙を流しておいおいに泣くことを表す擬声語としても使われた。

 御づるに、食ひ当てむと、たかうなをつと握り持ちて、しづくもよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
 開けて見るに、悲しきこと物に似ず、よよとぞ泣きける。(大和物語・一四八)
 八月より絶えにし人、はかなくて睦月になりぬるかしとおぼゆるままに、涙ぞ、さくりもよよにこぼるる。(蜻蛉日記・下)

 源氏物語の例に見るように、竹類は春に筍として出てきて非常に多くの水気をもって生育する。小ぶりのシノ(篠)とて同様である。つまり、ヨシノ(節+篠)なるところは「よよ」と瑞々しいのだといい、それはまるで川の流れのたぎつところを思わせるほどであって、その観念のもとに吉野では川こそが持て囃されるにふさわしくあるということになって歌に歌われている(注4)。特にシノ(篠)とされるものは、成長してなお、カハ(皮、葉鞘)の残したままにあるものが見られ、だから、水のたぎるように流れるヨシノ(吉野)のカハ(川)こそ、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なる概念を具現化したところとして歌に詠まれて宜しとされていたのだった。ウル(潤)と関連する言葉である。
 以上がシノという言葉の持つ本意であり含意である。
 そういうものとして「心もしのに」という形容句は成立している(注5)

 具体的に解釈していく。煩雑ではあるが、もう一度歌を引いて簡便に照らして検証しやすくする。

 ①淡海あふみの海 夕波ゆふなみどり が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ(万266)

 この歌は、夕波千鳥よ、お前が鳴いたら、こちらの心もヨヨと泣けてくるもので、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と何代も何代も遡って太古のことが思われる、と言っている。

 ②夕月ゆふづく 心もしのに 白露の 置くこの庭に 蟋蟀こほろぎ鳴くも(万1552)

 この歌は、夕月の出ている暮れ方、もの寂しくて心もヨヨと泣けてきて涙が出て、その涙が庭に白露となって置き、その庭にコオロギが鳴いている、と言っている。ナク(泣・鳴)をかけている。

 ③海原うなはらの 沖つなは海苔のり うち靡き 心もしのに 思ほゆるかも(万2779)

 この歌は、序詞として、海で沖に延ばした縄に海苔が長く付着、繁茂して靡いているところから「心もしのに」を導き、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と過去の遠くまで思い出されてくると言っている。この場合、海苔の養殖が行われていたということではなく、定置網や船のもやいなどから一定期間、海に縄を張っていたところへ、海苔が繁殖したということと考えられる。縄の長さとその縄を張った時から経過した時間の長さがかかっている。

 ④…… なつく 命かたまけ 刈薦かりこもの 心もしのに 人知れず もとなそ恋ふる 息のにして(万3255)

 解釈が難しい歌である。「なつく」、「刈薦かりこもの」という二つの枕詞がよく理解されていないから当て推量となっているところがある。いずれにせよ、一生懸命に傾注して、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と続くようにヨヨと涙に暮れるほどに、人知れず無性に恋い焦がれている、息も続く限りに、と言っている(注6)

 ⑤あらたまの 年かへるまで 相見ねば 心もしのに 思ほゆるかも(万3979)

 この歌は、年が更新するまで逢わずにいるというようなことは、ヨ(代)が代わるまで逢わずにいるというのと同じことで、ヨヨと涙があふれるように思えてくる、と言っている。

 ⑥…… あしひきの 山にも野にも 霍公鳥ほととぎす 鳴きしとよめば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば……(万3993)

 この歌は、山でも野でもホトトギスが鳴きに鳴いていると、それに従って、我が心もヨヨと泣きたい気持ちになって、心恋しいからという思いを共有する仲間どうし、馬に鞭を打ってそこへ出立してみれば、と言っている。

 ⑦…… 峰だかみ 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内かふちに 朝去らず 霧立ち渡り 夕されば くもたなびき 雲居なす 心もしのに〔己許呂毛之努尓〕 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代よろづよに 言ひ継ぎ行かむ 川し絶えずは(万4003)

 この歌は、朝ごとに霧が立ちわたり、夕方には雲がたなびくほど雲が重なり合い、その重なり合いはヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……たるようなものだからヨヨと泣きたくなるほどで、ちょうど霧が立ち五里霧中になってどうしたらいいかと物思いが消えることがないように、と言っている。
 「朝去らず ~ 思ひ過ぐさず」までは挿入句である。前後の「…… 落ち激つ 清き河内に」と「行く水の 音もさやけき ……」はつながっている。地上の情景を描いたもので、その途中に空中の様子を入れ込んでいる。そして、「心もしのに」という表現を登場させることで、「行く水の 音のさやけく」なるヨヨたる流れと、「万代に 言い継ぎ行かむ」というヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……たる、これから時代の流れていくところをうまく引き出している。

 ⑧ぐたちに 寝覚めてれば 川瀬め 心もしのに 鳴く千鳥かも(万4146)

 この歌は、夜半も過ぎてから目が覚めて座っていると、川の瀬を求めて鳴く千鳥の声がする、というものである。川の瀬の水のたぎつところは、水がヨヨと流れるから千鳥の心もしのになのだろう、そしてまた、夜の帳は降りきっていて暗いから、なかなか見つからずに千鳥は泣いているのだろうと想像していることは、作者のシノフところだから音の重なりをもってうまく言い表していることになる。この歌の題詞は、「夜裏聞千鳥喧歌二首」となっており、もう一首は次のとおりである。

  夜ぐたちて 鳴く川千鳥 うべしこそ 昔の人も 偲ひ来にけれ(万4147)

 昔からヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……にヨヨと続いているのは納得のことと歌っている。

 ⑨梅の花 をかぐはしみ 遠けども 心もしのに 君をしそ思ふ(万4500)

 この歌は、梅の花は香りが強いから、遠く離れていても咲いているのがわかる、それはまるで、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と遠き代に思いをはせることのようで、どんなに遠くにあってもあなたのことを思っている、と恋情を歌っている。空間的距離に時間的距離をからめて表現している。あるいは、死別のような形で、相手との間に時間的距離を得てしまったものかもしれない。
 ここまでが「心もしのに」という言い回しである。

 単にシノニ、また、シノノニと使うものはどうであろうか。くり返しになるが、シノはヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……、のことであり、ヨヨと水が流れることである。

 ⑩秋の穂を しのに押しなべ 置く露の かもしなまし 恋ひつつあらずは(万2256)

 この歌は、秋の稲穂が稔るほどに頭を下ろすのを、それが秋の露が付くことによって重くなるからだと見立てている。ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……とヨヨ、ヨヨ、ヨヨと水気が露に結んで穂の上に置くから、穂は押し靡くようになっている。それは涙にくれて泣くさまを連想させ、こんなに恋に苦しんで涙を流さずとも、朝日が当たって露が消えてゆくように消え果てしまいたい、それほど恋していると言っている。この歌に「露」は、重くのしかかる存在であるとともに、すぐに消えてなくなる存在でもある。自分の心は、シノニなる露の様、前者のそれであることを相手に伝えようとしている。
 この歌には類歌がある。

  秋萩の 枝もとををに 置く露の かも死なまし 恋ひつつあらずは(万2258)

 三句目以下は同じである。秋萩が枝もたわむほどに露が置いている、その露が……と言っている。⑩の歌のほうが格段に表現に念が入っている。

 ⑰うち靡く 春去り来れば 小竹のうれに 尾羽をは打ち触れて 鶯鳴くも(万1830)
 ⑪朝霧に しののに濡れて よぶどり ふねの山ゆ 鳴き渡る見ゆ(万1831)

 ⑪はシノノニの例である。シノニのヨヨ性を強調した形であろう。秋の霧にびっしょりと水に濡れて、ヨブコドリが三船の山から鳴き渡るのが見える、と言っている。同じ「詠鳥」の歌群(万1819~1831)の一つ前が⑰で、シノ(篠)を詠んでいる。シノ(篠)のことを歌にしたら、シノニという言葉が思い出され、強調したシノノニという形で⑪の歌が作られたということだろう。自然物のシノ(篠)を詠むよりもずっと技巧的な歌である。鳥も、ウグイスからヨブコドリに変わっている。ヨブコドリにしたのには訳がある。その鳥が何かをヨブ(呼)ことが起きている。「三船(の山)」とあるからには、大きな船が浮かぶほどに水が潤沢になっている。だから、「しののに濡れて」と形容して全体が安定している。この歌はウグイスではなく、ヨブコドリでなければ成り立たない。歌が歌われながら、言葉が逐次確認されていっている(注7)
 ⑫は問答歌の返しの歌である。

   問答
  卯の花の 咲き散るをかゆ 霍公鳥 鳴きてさ渡る 君は聞きつや(万1976)
 ⑫聞きつやと 君が問はせる 霍公鳥 しののに濡れて ゆ鳴き渡る(万1977)

 万1976番歌は男から女へ歌いかけている。ホトトギスはその女のことを譬えている。女が男を渡り歩いていると言って、自分から離れて行った(と思っている)女性へ歌いかけている。声をあげて渡っていくなんて、と難じている。対して女性からは、そんなホトトギスに譬えられる人は、涙にくれてびしょびしょになってここから泣いて渡って行ったのだと言っている。「此」は、男が「卯の花の咲き散る岳」だと称している自慢のところ、すなわち、その男のところであるが、ひどいところであった、と断じているのである。それは物理的に貧相な家宅であったということも、精神的に相性が悪くておもしろくないということも含んでいるのであろう。シノがヨヨと泣くことばかりか、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……、とつづくことも意味することから考えれば、二度とごめんだよ、あなたのところなんか、と啖呵を切っているものとわかる。
 以上、「心もしのに」、「しのに」、「しののに」について検討した。シノ(篠)という言葉にヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と代々つづくことと、ヨヨと水が流れることとを見出していた万葉人が、巧みに活用したのがそれらの表現であると確認された。

(注)
(注1)これまでの諸説や見解については、中嶋2003.、大浦2007.を参照されたい。
 そのなかの一つ、亀井1985.は、象徴的な「しのに」という語の存在により、動詞「しのぐ」、「しなふ」、「しのふ」を互いにパロニムとして古代人は把握していたとする。ところが、「なかんづく、人麿の作は、悲しみをこめて別離をうたってゐるのである。そこへ、単なる類音・・しゃれ・・・を用ゐてゐるとすれば、それは、あまりにも技巧として軽すぎるといはねばなるまいと、わたくしはおもふ。」(108頁)としつつ、言語現象を言語の表現美として捉えるフォスラー一派の学説を引き、「狭義の[社会的に固定した形態として成立する]コンタミネーションは、すべて、パロニミーにおける意味論的価値関係の転換であり、変革である。そして、えせ語源・・・・(étymologie populaire, Volksetymologie)もまた、この点、おなじである。」(109頁)として、「より大なる表現力への欲求から生まれた機能的形態とみらるべきもの」(同頁)として是認、評価している。本稿では、単なる類音と片づけることのできない「しゃれ」を見出す。言葉が言葉を生んでいく過程である。
(注2)⑳は実は難訓歌である。

 ⑳あきかしは うるかはの 細竹の芽の 人には忍べ 君にあへなく〔秋柏潤和川邊細竹目人不顔面公無勝〕(万2478)

 四・五句の原文に「人不顔面公無勝」とある。⑬の「四」を単なる用字の間違いとすると、⑳にノの音が違うのに無理して「忍ぶ」と訓もうとする意欲は削がれる。「人不顔面」は旧訓にヒト(モ)アヒアハズ、ヒトモアヒミズ、アヒミジなど、「逢ふ」という語ととっていた。大系本萬葉集では「人には逢はね」と訓んでいる。そして、篠の芽のさまを観察すると、ふしごとに互生していることに気づく。確かに水が潤っていることを思わせる川の川辺というのは、川を挟んで両サイドにあるから、篠の芽の両サイドに分かれて生えることとよくマッチした流れになっている。川の流れと歌の言葉の流れがかかっている。節から生えた脇芽が伸びたとき、互いに「逢ふ」ことはない。そのための形容と捉えられる。

 ⑳あきかしは うるかはの 細竹の芽の 人に逢はずも〔人不顔面〕 君にへなく〔公無勝〕

 潤和川の川辺の篠の芽のように互い違いであるように、人に逢わないでいることはできても、あなたに逢わないでいることは堪えられない、ということである。篠の芽から人の目の合うことを引き出していて、それは顔を合わすことだから「逢ふ」ことであり、原文に「顔面」とあるのはそれを表すとともに、「面」でモとも訓むために添えてあると考えた。集中の用字例では「荒磯ありそ〔荒礒面〕」(万220)の例がある。オモ(面)のオの脱落した形である。「逢ふ」と「堪ふ」とは自動詞、他動詞の別はありつつ同根の言葉であり、歌のなかでは逢わないでいることが堪えられるか堪えられないかということを重層的に訴えることになっている。そのように一つの言葉を多重に解釈して正しいのは、そこが「潤和川辺」のことであり、川には両サイドあるから両様に考えることが求められているからである。
(注3)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」参照。
(注4)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」に詳述した。
(注5)「吉野讃歌」とされる歌も、「心もしのに」という表現が使われる歌も、万葉集において柿本人麻呂の作を初出としているようである。ただ、当時の歌を網羅したのかわからない万葉集の用例をもってして表現の発案者が誰であるかを定めることはできず、また、してもあまり意味のないことである。言葉は誰かが言い出したからといって言葉になるのではなく、受けとる側が賛同して受容しなければ言葉とならないからである。今日、表現の創作者としての人麻呂論は数多く展開されているが、あやしいものである。
(注6)拙稿「枕詞「刈薦(かりこも)の」について」参照。
(注7)ヤマトコトバは、歌謡の発達、隆盛によって自由な言語活動が保障され、枕詞も量産されたように比喩が比喩を生んでいて、言語系としてかなり高い確率でオートポイエーシス・システム autopoiesis system となって自己完結的な閉域を構成していた。万葉集はほぼヤマトコトバでできていて片言の文字(漢字等)しか前提としていないのだから、理解のためにはその再帰性に目を向ける必要がある。中国文学と比較することは可能でも、そこから理解しようとすることは不可能である。

(引用・参考文献)
大浦2007. 大浦誠士「「心もしのに」考究」『萬葉語文研究 第3集』和泉書院、2007年。
亀井1985. 亀井孝「「情毛思努爾」『亀井孝論文集4 日本語のすがたとこころ(二)』吉川弘文館、昭和60年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
中嶋2003. 中嶋真也「「心もしのに」考」『国語と国文学』第80巻第8号、平成15年8月。
中嶋2014. 中嶋真也「しのに」多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。

2022.9.29初出

枕詞「刈薦(かりこも)の」について

 枕詞「刈薦かりこもの」についてはほとんどわかっていない(注1)。一般には、刈り取った薦は乱雑になりやすいから「乱れ」にかかり、恋の思いに乱れにもまつわるから「心」にもかかるのだと説明されている。しかし、刈り取った植物が散乱することは薦に限ったことではない。
 薦(菰)とは今日いうマコモのことである。水辺に群生するイネ科の多年草で、横に張る太い地下茎があり、葉と茎を叢生させる。茎は円柱状で中空、高さは1~3mに達する。長い茎や葉は生活に利用された。筵のように編まれ、薦畳(注2)、薦枕など寝具に使われることも多かった。次の歌はそれを指しており、枕詞ではない。

 刈薦かりこもの〔苅薦能〕 ひとを敷きて さ寝れども 君とし寝れば 寒けくもなし(万2520)

 秋につける果実(菰米)は、東アジアでは中国でわずかに救荒作物として食べられたに過ぎず、食用とたのはむしろ茎の部分である。茎の先に黒穂病菌のウスティラゴ・エスキュレンタ・ヘニングスが感染して肥大化し、白っぽくて柔らかな筍に似たものが9~10月ごろにできて食べられている。マコモタケ、コモノコ、コモノネ、カンヅルなどと呼ばれ、漢名を茭白こうはくじゅんという。古語に、菰角こもづのといい、和名抄に、「菰〈菰首付〉 本草に云はく、菰は一名に蒋といふ〈上の音は孤、下の音は将、古毛こも〉。弁色立成に茭草〈一に菰蒋草と云ふ、上の音は穀肴反〉と云ふ。七巻食経に云はく、菰首、味は甘、冷といふ。〈古毛不豆路こもぶつろ、一名に古毛都乃こもづの〉」とある。そうなるかならないかは栽培種と野生種の違いによるともされている。

マコモ(ベランダ園芸栽培品。食用にする大きな菰角は逸したが、タケのふし状の様子は確認。節の部分からは葉が伸びており、見やすくするために剥いだ。タケ・ササ類でいえば皮(葉鞘)に当たるものが残る形態で、シノ(篠)の性質と一致する。)

 マコモタケを放置すると黒い胞子が充満して食べられなくなるが、その胞子を集めて塗料とすることもあった。真菰墨と呼ばれるもので、お歯黒や眉墨のほか、絵の具として、また、彫刻した漆器を塗るのにも使われた。直径が6~9μと粒ぞろいのため、美しく表現できるという。
 おもしろいことになっている。「刈薦」という言葉で表されるものは、コモだと言って刈ってきているであるが、どうしてもコモだとは思われない代物でなぜか食べられたりしている。タケノコとアスパラガスの間のような食感でおいしい。そこで、また刈ってきてねと頼んでみると、時期が外れてもはや食べることはできず、その茎や葉は筵(畳)に作られてしまう。
 食べられると聞いていた。だから筵(畳)になっているのをむしりほどいてコモを取り出してみるが、一向に食べられそうにない。敷物は乱れ、心も乱れてしまう。それがカリコモである。実際にマコモの生えているところを目にしていない人、すなわち、刈りとってきた状態でしか知らない人たちの心は乱れるばかりであった。よって、枕詞「刈薦の」は「乱れ」にかかる。言葉それ自体で聞いておもしろいから枕詞に使われた。

 ささに 打つやあられの たしだしに 寝てむのちは 人はゆとも うるはしと さ寝しさ寝てば 刈薦かりこもの〔加理許母能〕 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば(記79)
 草枕 旅にしれば 刈薦の〔苅薦之〕 乱れて妹に 恋ひぬ日は無し(万3176)
 飼飯けひの海の 庭よくあらし 刈薦の〔苅薦乃〕 乱れて出づ見ゆ 海人あまの釣船(万256)
 柿本朝臣人麻呂の歌に曰はく、飼飯の海の 又曰はく、刈薦の〔可里許毛能〕 乱れてづ見ゆ 海人の釣船(万3609左注)
 が聞きに かけてな言ひそ 刈薦の〔苅薦之〕 乱れて思ふ 君がただそ(万697)
 いもがため 命のこせり 刈薦の〔苅薦之〕 思ひ乱れて 死ぬべきものを(万2764)
 わぎ妹子もこに 恋ひつつあらずは 刈薦の〔苅薦之〕 思ひ乱れて 死ぬべきものを(万2765)
 都辺みやこへに かむ船もが 刈薦の〔可里許母能〕 乱れて思ふ こと告げやらむ(万3640)

 単に「乱れ」という語を接続するための修辞表現として「刈薦の」と使われているかといえば、それだけではなさそうである(注3)。記79歌謡・万3176番歌では、寝ることと関係して出ている。薦枕、畳薦が念頭にあるらしい。万256・3609番歌には「飼飯けひ」という地名が出ている。ケ(笥)+ヒ(飯)に聞こえているから食卓に上るマコモタケのことを連想するのにかなっている。万697番歌は、好きな人の本当の姿とは何なのかわからないということを、マコモの変幻する姿にかけて示そうとしている。万2764・2765番歌は、ひょっとしたらまた好いてくれる時が来るかもしれないことを、越年して翌秋になってまた食べられるようになるかもしれないことにかけて示そうとしている。この場合は刈り残った根株のほうを指していることになる。万3640番歌は、都へ調みつきを運ぶのに、薦で作った筵に巻いて運んだことを底流に描いているようである。
 もうひとつ、「心もしのに」にかかる例がある。

 いにしへゆ 言ひぎけらく 恋すれば 苦しきものと 玉のの 継ぎては言へど 処女をとめらが 心を知らに を知らむ よしの無ければ なつく 命かたまけ 刈薦かりこもの〔借薦之〕 心もしのに 人知れず もとなそ恋ふる 息の緒にして(万3255)

 「刈薦の」のコモはマコモタケ、菰角のことを指している。食用になるマコモタケは、その名のとおり、タケノコ(筍)のような形状で食感もまた同じである。すなわち、シノ(篠)によく似ている。シノという言葉を含んだ「心もしのに」という言い方は慣用化している(注4)から、それを導く枕詞となっていたのであった(注5)

(注)
(注1)そもそも「枕詞」とは何かから問われなければならない。枕詞とは何かについては、「枕詞」を修辞の一つとしてまとめる際に、それこそ話の枕として問われながらも、さしてかんばしい説明を得るには至っていない。その理由としては、現段階において、大きな議論をするのに堪えるほど個々の言葉について味わえていないという点があげられよう。そんななか、廣岡2005.は、地名にかかる枕詞の本質を言語遊戯に求めている。画期的な展望が期待できるものであるが、必ずしも多くの賛同を得ているわけでもないようである。大浦2021.は、「様式性を帯びた枕詞と、一回的・言語遊戯的な枕詞とが連続的に存在するのが枕詞のありようで……、前者を核とし、その周辺を無数の後者が取り巻く星雲のような様相を呈している」(104頁)としている。万葉集に一回しか出て来ないと一回で、万葉集に何回か出て来たら様式性を帯びていると見てとることははたして正しいのだろうか。万葉集に採られなかった歌は数知れずあったと思われ、万葉集に二回目だとどうして数えられるのかもわからない。
 思うに、我々が枕詞としか考えられない言葉は、叙述にひとつの様式を与えているからそう捉えているのであるが、よくわからないからそれで済ませているだけである。どうしてそのような芸当が当時においてかなったか。それは当該枕詞が、言語遊戯性を獲得している言葉で、人々におもしろいと思われたから利用されていたのだろう。大浦氏は、「社会的古文脈」に様式性を帯びた枕詞は置かれているとしている。だが、コロケーションの長短によるだけで「文脈」に当たるか否かと論じているのではないか。役割を進んで引き受けることは「一役買う」、他人のために本気で力を貸すことは「一肌脱ぐ」と、様式化された常套句になっている。「一役買う」や「一肌脱ぐ」、「一泡吹かせる」に廣岡氏が枕詞にみた言語遊戯性はない。もう少し重いかかり方を発案して、歌に歌いやすい五音を中心にいろいろと考えめぐらせた言葉、それが枕詞なのであろう。使用例が一回しか残らないものでも、周到な文脈依存性を帯びているかもしれず、そうでなければ発案して発表して受容されるという事態には至らない。むろん、失敗作や駄作がなかったということではない。
 また、西郷1995.は、特定の語を喚起する力を持っている枕詞について、その現象面を「詩学」として解明しようとしている。枕詞の意味や淵源の解明は等閑視して、現に歌のなかで枕詞が担っている機能、力を詩の問題として解明していこうというのである。確かに我々は個々の枕詞の深い味わいを知り得ていないが、上代の人たちが知らないままに使っていたとは考えにくい。「一役買う」や「一肌脱ぐ」、「一泡吹かせる」が我々にとってほとんど映像として思い浮かぶのと同様に、上代の人は枕詞を使っていた、または、使えるのではないかと提唱していたのではないか。何か他の目的のために丸暗記するための語呂合わせとして「なんと素敵な平城京」と唱えるように、「あをによし奈良」と言っていたわけではあるまい。
 このように考えてくれば、我々は、枕詞とは何かを問うてみたり、歌のなかで枕詞というシステムが様式性を確立しているから、そこからそのシステムについて解明しようといった方策は、実はあまり用をなさないと理解されよう。それぞれの枕詞はそれぞれに使われている。我々は、どうしてそのようにかかって次の言葉を導くのかの理由がわかり、文脈的に見ても居心地よく使われている事情が納得されなければその言葉はわかったことになっていないと直観的に思っている。日常的に言葉を使い、その言葉をもってわかる、わからないを決めているからである。言葉の本性は使用にある。すなわち、個々の枕詞についての問いに一つずつ答えられなければ、何ごとかわかった気になることなどできないのである。大きな議論ヘ向かうよりも、個々の枕詞の意味や淵源の解明こそが、すなわち、あ、おもしろい言い方をしているな、と気づくことだけが、我々にヤマトコトバの豊饒さを教えてくれるものである。そして、その意味や淵源なるものは、言語のなかにあるとしか言えない。なぜなら、当時の人はヤマトコトバを使っていたにすぎない。そのヤマトコトバの情況は、識字能力としては片言程度でしかなく、ほぼ無文字時代のものであった。その点を念頭に置けば、枕詞はブリコラージュ的に作られたとしか考えられない。廣岡氏が説かれたように言語遊戯のなかにある。言葉に対する感性が我々のそれとは違っており、別世界の異文化になっている。ヤマトコトバ、すなわち、上代人の思考の枠組みを知るためには、ひとつひとつパズルを解いていくことが必要とされる。王道はないし、それを拒絶しているのがヤマトコトバである。
(注2)「薦畳」、「畳薦」といった言葉からは、筵のように経糸一本ずつの、組織としては平織りのものではなく、畳のように経糸二本ずつに織っていたのではないかとも考えられるが詳細は不明である。
(注3)枕詞がどこまでを修辞しているかについては難しい問題である。白井2005.参照。
(注4)拙稿「「心もしのに」探究」参照。
(注5)枕詞「なつく」は、①ウナカミ、ウナヒにかかる、②イノチにかかる、の二つのかかり方がある。①は夏麻を引いてそれをむから、ウにかかるとする説と、夏麻を畑の畝から引いてくるから、ウナにかかるとみる説がある。わざわざ「夏麻」と季節を限っているところからは、畝を作って育てないと梅雨時に水浸しになって駄目になるからかとも思われる。また、海上潟ウナカミガタにかかっているところから考えると、夏の麻から取った麻糸を釣糸にしていたこともあるかと考える。
 ②は万3255番歌の例で、夏麻を引いて糸に作るという意から、糸を意味するイにかかるとする説と、イノチにかかるのではなく、麻を傾けて刈るところからカタマケにかかるとする説もある。上の釣糸説からすれば、イノチ(命)は長く伸びるものとしてヲ(緒)とも呼ばれ、「おのを 盗みせむと……」(記22)とある。釣りのヲ(緒)はヲ(麻)を使ったとても長い釣糸のことで、イノチ(命)という語がイ(息)+ノ(助詞)+チ(霊)の意と考えられることとよく適合しており、糸のことを考えに入れた前者の方向性がふさわしいと思われる。

(引用・参考文献)
大浦2017. 大浦誠士「枕詞と様式」『上代文学』第108号、上代文学会、2017年。
大浦2021. 大浦誠士「枕詞とは何か」上野誠・鉄野昌弘・村田右富実編『万葉集の基礎知識』KADOKAWA、令和3年。
西郷1995. 西郷信綱『古代の声 増補版』朝日新聞社、1995年。
白井2005. 白井伊津子『古代和歌における修辞』塙書房、2005年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
レヴィ=ストロース1976. クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房、1976年。

2022.9.30初出

山部赤人の不尽山の歌

 山部赤人が富士山を詠んだ歌はあまりにもよく知られている。

  山部やまべの宿禰すくね赤人あかひと尽山じのやまを望む歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人望不盡山謌一首〈并短謌〉〕
 天地あめつちの わかれし時ゆ かむさびて 高くたふとき 駿するなる 布士ふじたかを あまの原 振りけ見れば 渡る日の 影もかくらひ 照る月の 光も見えず 白雲しらくもも いきはばかり 時じくそ 雪は降りける 語りぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽ふじの高嶺は〔天地之分時従神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隠比照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曽雪者落家留語告言継将徃不盡能高嶺者〕(万317)
  反歌〔反謌〕
 田児たごの浦ゆ うちでて見れば しろにそ 不尽ふじの高嶺に 雪は降りける〔田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺尓雪波零家留〕(万318)

 中央の官人層に当たる人が富士山について作歌したものは、上の山部赤人とそれに続く高橋虫麻呂の歌(注1)だけである。ほかにも富士〔不尽、布士〕を詠んだ歌はあるが、東歌の駿河国の相聞往来の歌(万3355・3356・3357・3358)と、古今相聞往来の歌の類として採られた寄物陳思歌(万2695・2697)に属する。後者は、燃えるような恋心の比喩として噴火するさまを詠んでいる。結局のところ、中央では歌のテーマとして流行っていない。この点には注意が必要である。
 都から遠く離れている富士山を類歌の乏しいなか赤人は歌にしている。旅行する人もガイドブックもない時代、意味が通じたか心許ない。そんななか長歌・反歌の組の歌を作り、都において人前で披露しているらしい。歌として歌うだけで意味が通じたようである。万葉集の編纂の際には、高橋虫麻呂の伝歌もついでに採録されている。
 歌を聞いただけでわかるとは、歌の中の言葉をもって描写が行き届いているということである。その場合、旅行記として聞いているわけではない。富士山のことは初めて聞き知ったが、これから訪れる機会もなければ関心もない。題詞に経緯を細かく記して伝説を伝えているものでもない。それなのにわかるということは、歌のなかで話が完結しているということである。言葉をもって言葉が説明され、皆の納得に至っている。地誌に疎く興味もない都の人がフジという高い山のあることを耳にし、なるほどそういうことなのね、と腑に落ちるような歌ということになる。
 フジは地名である。語源はわからない。フジという山が厳然とあって、その名の意味するところを謎解きしようとしたのがこれらの歌であったろう。それ以外に作歌の動機や表明の意図は考えられない(注2)。歌を聞いた人がちんぷんかんぷんではどうしようもないからである。

富士山(🗻)

 フジを、フ(斑)+ジ(形容詞化する語尾)の意ととって説明しているらしい。フは、しま、特に横縞になっていることを指す(注3)。ジは、~のようなさまである、~のような感じがする、~らしい格好である、の意にする接尾辞である。ジモノの形をとることが多い。別のものなのに本当にそれらしい感じ、様子をしていることを示す(注4)。すなわち、フジの山はどうしたって横縞の様子を示しているとおもしろがって歌っているのである。今日でも多くの人が思い浮かべる富士山の姿は、絵文字🗻にあるように横縞柄である(注5)。ヨコシマという言葉は、雲などが横向きに水平にただよってさまを表すとともに、邪悪な思いを抱いていること、正常でない状態を表す。

 日をかへりてまをさく、「西北いぬゐのかたに山有り。帯雲くもゐにしてよこしまわたれり。けだし国有らむか」とまをす。(神功前紀仲哀九年九月)
 一書あるふみに曰はく、あまてらす大神おほみかみ天稚彦あめわかひこみことのりしてのたまはく、「とよ葦原中国あしはらのなかつくには、是みこきみたるべきくになり。しかれどもおもひみるに、残賊強暴ちはやぶる横悪よこしまなあしき神者かみども有り。かれいましきてけよ」とのたまふ。(神代紀第九段一書第一、日本書紀私記乙本訓)

 ということは、フジという山にいます神を想定すると、それは悪しき神なのである。ヤマトの国は、中央から遠く離れたところへ征討しては従わせ、版図を拡大していった。だからこのフジの山へも討伐するために攻めて行かなければならない。それが反歌で歌われている内容、長歌で縷々述べられたことのオチとして歌われている。
 「田児たごの浦」から「うちでて」いる。タゴ(ゴは甲類)という言葉は、田子たご、すなわち、田を耕し稲作をする農民のことである。そのウラがどういうところかと考えれば、田んぼではなく畑(畠)であろう。お百姓さんは表向き田を耕し稲を作って田租を納めているが、裏の畑では芋や豆、蔬菜類を作っていたりする。二毛作をすれば裏作では田が畑になる。そんなタコノウラからフジノタカネへとち出でてみたら(注6)、フジノタカネは雪が降ってすでに真っ白く横縞を成していた。ハタ(畑)から出陣したら直ちにシロハタ(白旗)をあげて降伏していた、という頓智話を作為しているのである。
 長歌はそのオチへと至るなぞなぞ咄である。
 「天地あめつちの わかれし時ゆ」などと大仰に始まっている。古事記や日本書紀に残されているように、天地が分れて世界は生まれたと思われていた。イザナキ・イザナミ両神が天の浮橋から矛を下ろしてかき混ぜ、滴った塩が固まってできた最初の島はオノゴロ島である。そこへ降り立ち柱を立て、その周りを右から廻ったり左から廻ったり試行錯誤しながら国生みが行われている。ところが、赤人の長歌では、「……かむさびて 高くたふとき」と、天地が分かれた時から古色蒼然と高貴に感じられると形容されている。その対象は「駿する」という言葉である。そこにあるのが「布士ふじたか」である。「駿する」がどうしてそんなに持ちあげられているかといえば、スルガという言葉がスル(擂、摺、擦)+ガ(処の意)を思わせるからである。イザナキ・イザナミの国生みは、右へ左へと廻っている。それぞれの特徴、「成り成りて成り余れる処」と「成り成りて成り合はぬ処」とを合体させてぐるぐる回すことは、ちょうど火鑽杵を火鑽臼に合わせてぐるぐる回して火を熾す作業に当たる。富士山はときおり噴火していたから国生みの場所と類推され、スルガ(駿河)は讃美されて然るべきだろうと頓智を言っている。ジョークなのだから聞く人も真に受けたりはしない。創世神話が書き換えられているのではなく、言葉遊びの語呂合わせが楽しまれているにすぎない。
 つづく「あまの原 振りけ見れば」はそれまで述べてきた天地創世、国生みの舞台である高天原たかまのはら、天空を仰ぎ見ることを大袈裟に表現している。こういったわざとらしさもジョークの一環である。そうして見てみると、「渡る日の 影もかくらひ 照る月の 光も見えず 白雲しらくもも いきはばかり」している。標高の高い山で雲がかかって日月とも隠れてしまうというのである。そして、「時じくそ 雪は降りける」としている。間断なく雪は降っていると気がついた(注7)という。このことを、「語りぎ 言ひ継ぎ行かむ」と主張している。
 そのようなことを伝承していく必要などどこにあるというのだろうか。これも赤人のジョークである。「不尽ふじの高嶺」の特徴は、雪が降っているということである。ユキ(雪、キは甲類)はユキ(行、キは甲類)と同音である。雪がある山のことはユキ(行)していかなければならない。都の皆さんにあらせられましては、遠方の駿河へユキ(行)することはなかなかできないでしょうから、せめて今、歌いました事柄を末永く語り継ぎ言い継ぎしてユキ(行)してください、というのである。
 赤人は長歌で富士山の雪についてジョークを並べ立て、反歌でさらにひねりを利かせている。富士山の「高嶺」のところ、頂部分が雪化粧して横縞になっているからフジ(+ジ(~らしいさま))というのだと語呂合わせをし、よこしまな賊を田んぼのウラに当たるハタ(畑)から攻撃したらすぐに白旗を掲げたというのもそのとおりなのだという話にしてまとめたのだった。
 万葉の時代、歌は声に出して歌われて、その場で人々に理解されて楽しまれた。機知に富んでおもしろく思われたから伝え残そうと万葉集に採られ、編まれている。理屈をこねた言い分を主張してみたとて、一回しか歌われない歌は耳に届かず、心に残らない。へぇー、スルガにはフジという山があるんだって、とても高い山で常に雪が降っているんだって、初耳のその山のことを雪があるから語り継いで行こうって、なになに横縞になっているからフジと言うんだって、邪だから攻撃したら白旗をあげているように見える理由はそこにあるって、ははは赤人さん、おもしろいことを言うねえ(注8)

(注)
(注1)巻三の目録に、「詠不盡山歌一首〈并短歌 笠朝臣金村歌中之出〉」とあり、歌の左注にある「右一首高橋連蟲麿之歌中出焉以類載此」と異動があるが、要は、どちらの作でもかまわないと思われていたということである。今日では、高橋虫麻呂説が多く採られている。
(注2)特に万318番歌が短歌として切り離され、新古今集にも字句を変えて採られ、百人一首にも選ばれている。近代以降、叙景歌であると見なされてきたが、長歌・反歌の組として捉えなければならないとされて叙景歌なのかも疑問視する傾向が出てきた。また、富士山を賞美するようなことは、江戸時代にまで下らなければ一般に広まっていないとも指摘された。21世紀になると、赤人のこれらの歌に関して、「国土讃美の様式を用いて土地の風物の描写がなされるようになった」(井上2010.36頁)のであるとも、「一見風景を描写しているように見える内容であるが、これは讃美目的の虚構表現である。従って叙景歌であるとはみなされない。」(吉村2015.343頁)とも、「当該歌は、東アジア的世界観のなかで、聖武天皇の東国支配の正統性を保証し、讃美する新たな国見歌として、漢詩文の山岳讃美表現を取り込みつつ、神代から雪が降り続ける不尽の永続的な神聖性を構図的に幻視したものと考える。」(遠藤2022.9~10頁)とも、「一見すれば旅先の景を叙したように見える当該歌にも実は国家意識が潜在していたのであった。」(鈴木2024.197頁)とも説かれている。取ってつけた講釈が優勢になってしまっている。教育勅語のようなものが歌に作られていたとして、覚えられるはずがないではないか。

参考図「切文(切斑)」(伊勢貞丈『貞丈雑記』(味の素食の文化センター所蔵、国文学研究資料館・国書データベースhttps://doi.org/10.20730/100249523(615~616 of 1093)をトリミング結合)

(注3)時代別国語大辞典に、「ふ」は、「まだらな斑点を意味するフチとは区別されていたものか。後世、矢羽の横縞をいうキリや、虎の毛皮をいうトラなどの語があることから考えても、横縞の意であろう。」(628頁) とある。
(注4)歌中にある「時じく」の形も、名詞「時」にジをつけて形容詞化したものである。
(注5)富士山は噴火をくり返し形を変えていっているが、有史以降でみると大勢としては変化は少ない。絵画化された例として残されているものとしては聖徳太子絵伝や一遍聖絵などが古いが、絵文字のさまと大差ない。殊更に三峰あるように描かれるようになったのは富士信仰に基づくもので、そのような考え方は古代にはなかった。
(注6)陸路説と海路説が唱えられ定説を見ない。「でて見れば」ではなく、「うちでて見れば」とあり、意を決して海上へ出てみたら、という意味合いになる点が、外海を進むわけではないことにそぐわないと、廣岡2005.は疑問を抱いている。
(注7)「雪は降りける」について、降雪説と積雪説があり、長歌と反歌とで異なる見方をすることが多い。赤人が富士山に登山したことや誰かが登山して経験談を教えてもらったことから作歌しているようには思われない。富士山初冠雪の便りも麓から見て確認できた日に発表されるもので、雲がかかっている日には確認できない。富士山に雪が降っていることは雪が積もっていることによって知られることである。
 助動詞の「けり」について、小田2015.は、「テンス的意味として、①「継承相」(過去に起こって現在まで 持続している、または結果の及んでいる事を表す)と、②「伝承相」(発話者がその事態の真実性に関与していない過去の事態を表す)を、認識的意味として、➂「確認相」(気づかなかった事態に気づいたという認識の獲得を表す[=「気づき」])を表す。」(152頁)としている。認識的意味を示す語釈としては、古典基礎語辞典に、「①過去の事柄や過去からあったという事実に、はじめてそうだったのだと気づいて、あらためて過去を思いめぐらす意。回想(気づき)の意。…た。…てきた。…ている。……②今まで意識していなかったことに、はじめて気づき、感動と驚きの気持ちを表す。詠嘆(気づき)の意。…だったのだなあ。…ていたのだなあ。…だったよ。……➂はじめて聞いた話や伝説などについて、そうだったのだとあらためて確認する意。伝聞(気づき)の意。…だったそうだ。…とかいうことだ。…たとさ。」(473頁、この項、我妻多賀子)としている。どんな内容であれ「気づき」を表している。詠嘆の視点から語釈を考えることは、「有り」の転と考えられる語の出自からして不適当である。
 赤人の用いている当該「雪は降りける」の「けり」については、どちらの歌でも話を作為しているのだから、自分で歌いながら「気づき」を演出しているわけで、回想でも詠嘆でも伝聞でもあると言えるのである。とぼけた赤人の歌声が聞こえてくる。
(注8)この歌は長らく叙景歌の代表として君臨してきた。遅くとも藤原定家の頃にはそう捉えることで名歌と思われていたようである。しかし、本稿により、頓智、なぞなぞ、ジョーク、駄洒落の歌であると確かめられ、コペルニクス的転回を来した。
 万葉集の時代には、歌は声に出して歌われ、その場において耳で聞いている人たちの間で楽しまれた。機知に富んだ言葉の使い方が好まれていた。ところが、文字の時代に入って目で読んで言葉を理解するようになると、すぐにそれまでの言語芸術のあり方がわからなくなってしまった。文字という記号はやがて科学的な思考を生み、文明は高度に発展した。今や機械学習の助けも得てスピーディにして快適な生活を手に入れている。現代人にとって必要な情報処理にはアップデートが欠かせないわけだが、記紀万葉の時代のものの考え方を探るためにはダウンデートが求められる。その結果得られるものは、一般には「くだらない」と評価される代物である。そこに何かの意味を見出すとするなら、多くの人類が辿ったのとは別種の地平があったという文化人類学的興味である。
 人間は言葉で考える。その根本の言葉について、まったく別の方向へと使い方を進化させていた文化が存在していた。その貴重な姿を万葉集は留めてくれている。もはやそれは「文学」という範疇では語れない。高座で話した洒落を落語家が後で解説するのを嫌がるようなもの、学術研究の対象にして高説を垂れてはお門違いになる。

(引用・参考文献)
井上2010. 井上さやか『山部赤人と叙景』新典社、平成22年。
遠藤2022. 遠藤耕太郎「不尽の雪─赤人不尽山歌の「雪は降りける」をめぐって─」『日本文学』第71号第2号、2022年2月。
小田2015. 小田勝『実用詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
坂本2001. 坂本信幸「赤人の富士の山の歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
鈴木2019. 鈴木武晴「山部赤人の「富士の山を望る歌」─享受と創造─」『都留文科大学研究紀要』第90号、2019年10月。都留文科大学学術機関リポジトリ https://doi.org/10.34356/00000485
鈴木2021. 鈴木武晴「山部赤人の「富士の山を望る歌」と高橋虫麻呂の「富士の山を詠む歌」の影響関係」『都留文科大学大学院紀要』第25号、都留文科大学学術機関リポジトリ https://doi.org/10.34356/00000758
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。
廣岡2005. 廣岡義隆『萬葉のこみち』塙書房(はなわ新書)、2005年。
廣川2019. 廣川晶輝「山部赤人「不尽山を望む歌」 について」『甲南大學紀要 文学編』第169号、2019年3月。甲南大学機関リポジトリ https://doi.org/10.14990/00003249
吉村2015. 吉村誠「研究の現状と教材化─『万葉集』山部赤人「不盡山」歌を通して─」『研究論叢 芸術・体育・教育・心理』第64巻、山口大学教育学部、2015年1月。山口大学共同リポジトリ https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/24941
※2000年以前の論考については割愛した。梶川1997.の議論や井上2010.の山部赤人関係文献目録を参照されたい。

2025.1.20初出

「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論

「吉野讃歌」の誤解

 万葉集には、吉野行幸に供奉して詠んだ作があり、一般に「吉野讃歌」と称されている。この「吉野讃歌」という名称は1950年代の論考からすでに見られ(注1)、今日定着している。一般に次のように解説されている。

 万葉集には、柿本人麻呂(一・36~39)に始まり、笠金村(六・920~922)、山部赤人(六・923~927)、大伴旅人(三・315~316)、大伴家持(十八・4098~4100)へと続く吉野讃歌の系譜を確認することができる。それらの歌では、吉野の情景の美しさと吉野宮のすばらしさを讃美することによって、そこを営む天皇を讃美するという論理がうかがわれ、吉野が万葉時代の王権にとって重要な場所であったことがうかがわれる。柿本人麻呂の吉野讃歌では、山川の美しさとともに山の神、川の神が持統天皇に奉仕する様子が歌われ、吉野の神聖性を最もよく示している。持統天皇は在位十一年の間に三十一回の吉野行幸を行ったが、それは吉野がカリスマ的天皇であった夫天武天皇が壬申の乱に勝利をおさめ、679年には、天武天皇の皇子、天智天皇の皇子を集めて不逆の盟約を交わした地であったためであろう。中継ぎ的な天皇であった持統天皇は、カリスマ的天皇であった夫天武天皇の威光を借りることで、天下を維持しようとしたのである。山部赤人の吉野讃歌では、清透な吉野の情景が讃美されるが、それは聖武天皇の治世の安寧を、自然の秩序の安定によって示すものである。大伴旅人、大伴家持の吉野讃歌は、天皇の前で奏上されることのなかったものだが、彼らが天皇讃美のために予め吉野讃歌を作ったことは、吉野と王権とのつながりの深さを物語っている。(大浦誠士「よしの」国学院大学デジタルミュージアム『万葉神事語辞典』資料ID32405、 http://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=32405 (2022年9月9日閲覧))

 今日の解釈において、いわゆる「吉野讃歌」は、「吉野の情景の美しさと吉野宮のすばらしさを讃美することによって、そこを営む天皇を讃美する」ことを目的として歌われていると決めつけられており、それ以外の捉え方は行われていない。
 しかし、それらの歌の題詞に「讃」の字はない。「幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌」、「養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首〈并短歌〉」、(「車持朝臣千年作歌一首〈并短歌〉」、)「暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首〈并短歌〉〈未逕奏上歌〉」、「神亀二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首〈并短歌〉」とあり、吉野の離宮への行幸に従って行ったときに作った歌だというばかりである。
 それらを「吉野讃歌」であるとする見立ては、歌の内容が吉野の情景をことさらに褒め讃えるようになっているからそう捉えているのであろうし、行幸で行っているのだから宮の主人たる天皇までも讃えるものであろうと推量していることによるのであろう。
 筆者はそうは捉えない。それらに共通する特徴、吉野の地をいろいろと讃えている歌い方は、いかにも大げさであり、必ずしも内実を描写しているわけではない。その情景描写が仮に他の地において行われていたとしても、それはそれで歌として成立してしまう。ではなぜ、吉野で多くの歌が似たように褒め讃えられているのか。天武天皇が壬申の乱のときに最初に逃れたところであることや、神仙世界として考えられていたからではないかなど、種々の要素を組み込んで吉野は特別なところ、聖なる地であると解釈しよう試みられてきたのであるが、それらも憶測の域を出るものではない。
 万葉集には、題詞があって歌がある。時には左注がつく。その基本情報だけを頼りにして、吉野の離宮へ行幸した時に官吏の立場にある人たちが似たように吉野の地を褒めるのであれば、行楽なのだからハッピーな気分になり、歌を作っては披露してわあわあ騒いで盛り上がったということであろう。雑駁に言えば、行幸の従駕者たちはその間、日常的な役所の業務から解放され、家事についてもその一端さえ果たす必要もなく、なによりもタダで過ごせたのだから、吉野はいいところだ、なんてすばらしいんだろう、などと褒めちぎっておいて、そうしていればまた来れるだろうという気で歌を詠んでいたということになるだろう。天皇の行幸では、都から遠く離れたところまで遠征することもあるが、吉野宮は安・近・短で気軽に過ごせる格好の行楽地であったと考えられる。だから、他の地、周辺の地と比べてとりたてて風光明媚というわけでなくても讃えているとも考えられる。吉野宮は役人のための福利厚生施設、洒落たコテージだったということである。
 本当にそうなのかについては、個々の歌がそれぞれ何を詠わんとして言葉を選んでいるのかを探ることで教えてくれる。

「吉野讃歌」全例

 「吉野讃歌」と称されている全例を制作年代順に原文で示す。
➀柿本人麻呂の作(巻一、万36~37・38~39)
  幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
 八隅知之吾大王之所聞食天下尓國者思毛澤二雖有山川之清河内跡御心乎吉野乃國之花散相秋津乃野邊尓宮柱太敷座波百礒城乃大宮人者船並弖旦川渡舟競夕河渡此川乃絶事奈久此山乃弥高思良珠水激瀧之宮子波見礼跡不飽可問(万36)
  反歌
 雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟(万37)
 安見知之吾大王神長柄神佐備世須登芳野川多藝津河内尓高殿乎高知座而上立國見乎為勢婆疊有青垣山々神乃奉御調等春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理〈一云黄葉加射之〉逝副川之神母大御食尓仕奉等上瀬尓鵜川乎立下瀬尓小網刺渡山川母依弖奉流神乃御代鴨(万38)
  反歌
 山川毛因而奉流神長柄多藝津河内尓船出為加母(万39)
   右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌
➁笠金村の作(巻六、万907~912)
  養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首〈并短歌〉
 瀧上之御舟乃山尓水枝指四時尓生有刀我乃樹能弥継嗣尓萬代如是二二知三三芳野之蜻蛉乃宮者神柄香貴将有國柄鹿見欲将有山川乎清々諾之神代従定家良思母(万907)
  反歌二首
 毎年如是裳見壮鹿三吉野乃清河内之多藝津白浪(万908)
 山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞(万909)
  或本反歌曰
 神柄加見欲賀藍三吉野乃瀧乃河内者雖見不飽鴨(万910)
 三芳野之秋津乃川之万世尓断事無又還将見(万911)
 泊瀬女造木綿花三吉野瀧乃水沫開来受屋(万912)
➂車持千年の作(巻六、万913~916)(注2)
  車持朝臣千年作歌一首〈并短歌〉
 味凍綾丹乏敷鳴神乃音耳聞師三芳野之真木立山湯見降者川之瀬毎開来者朝霧立夕去者川津鳴奈拜紐不解客尓之有者吾耳為而清川原乎見良久之惜蒙(万913)
  反歌一首
 瀧上乃三船之山者雖畏思忘時毛日毛無(万914)
  或本反歌曰
 千鳥鳴三吉野川之川音止時梨二所思公(万915)
 茜刺日不並二吾戀吉野之河乃霧丹立乍(万916)
  右年月不審但以歌類載於此次焉 或本云養老七年五月幸于芳野離宮之時作
➃大伴旅人の作(巻三、万315~316)
  暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首〈并短歌 未逕奏上歌〉
 見吉野之芳野乃宮者山可良志貴有師水可良思清有師天地与長久萬代尓不改将有行幸之宮(万315)
  反歌
 昔見之象乃小河乎今見者弥清成尓来鴨(万316)
➄笠金村の作(巻六、万920~922)
  神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首〈并短歌〉
 足引之御山毛清落多藝都芳野河之河瀬乃浄乎見者上邊者千鳥數鳴下邊者河津都麻喚百礒城乃大宮人毛越乞尓思自仁思有者毎見文丹乏玉葛絶事無萬代尓如是霜願跡天地之神乎曽禱恐有等毛(万920)
  反歌二首
 萬代見友将飽八三芳野乃多藝都河内乃大宮所(万921)
 皆人乃壽毛吾母三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨(万922)
➅山部赤人の作(巻六、万923~925・926~927)
  山部宿祢赤人作歌二首〈并短歌〉
 八隅知之和期大王乃高知為芳野宮者立名附青垣隠河次乃清河内曽春部者花咲乎遠里秋去者霧立渡其山之弥益々尓此河之絶事無百石木能大宮人者常将通(万923)
  反歌二首
 三吉野乃象山際乃木末尓波幾許毛散和口鳥之聲可聞(万924)
 烏玉之夜之深去者久木生留清河原尓知鳥數鳴(万925)
 安見知之和期大王波見吉野乃飽津之小野笶野上者跡見居置而御山者射目立渡朝獦尓十六履起之夕狩尓十里蹋立馬並而御獦曽立為春之茂野尓(万926)
  反歌一首
 足引之山毛野毛御獦人得物矢手挟散動而有所見(万927)
  右不審先後 但以便故載於此次
➆山部赤人の作(巻六、万1005~1006)
  八年丙子夏六月幸于芳野離宮之時山邊宿祢赤人應詔作歌一首〈并短歌〉
 八隅知之我大王之見給芳野宮者山高雲曽輕引河速弥湍之聲曽清寸神佐備而見者貴久宜名倍見者清之此山乃盡者耳社此河乃絶者耳社百師紀能大宮所止時裳有目(万1005)
  反歌一首
 自神代芳野宮尓蟻通高所知者山河乎吉三(万1006)
➇大伴家持の作(巻十八、万4098~4100)
  為幸行芳野離宮之時儲作歌一首〈并短歌〉
 多可美久良安麻乃日嗣等天下志良之賣師家類須賣呂伎乃可未能美許等能可之古久母波自米多麻比弖多不刀久母左太米多麻敝流美与之努能許乃於保美夜尓安里我欲比賣之多麻布良之毛能乃敷能夜蘇等母能乎毛於能我於弊流於能我名負々々大王乃麻氣能麻久々々此河能多由流許等奈久此山能伊夜都藝都藝尓可久之許曽都可倍麻都良米伊夜等保奈我尓(万4098)
  反歌
 伊尓之敝乎於母保須良之母和期於保伎美余思努乃美夜乎安里我欲比賣須(万4099)
 物能乃布能夜蘇氏人毛与之努河波多由流許等奈久都可倍追通見牟(万4100)

「吉野讃歌」なるものの表現性

 さまざまに表現されているが、吉野(芳野)の永遠なることを述べようとしている。「神の御代」、「神代」、「万代」、「絶ゆることなく」、「いや継ぎ嗣ぎに」、「時も日もなし」、「止む時無し」、「変はらずあらむ」、「常ならぬ」といった語が頻出している。吉野の離宮を歌うのになぜそのように歌われるのだろうか。統治の永続を祈念してのことと考えられているが、それならばふだんからの本来の宮処、飛鳥浄御原宮なり藤原宮なりでそう歌えばよい。宮は遷都するが離宮は遷らないということなのか。
 筆者は、吉野を歌うときにそう歌ったのには語学的な理由があると考える(注3)。ヨシノという固有名詞がそうさせたのである(注4)
 ヨシノという地名が何に由来するかはわからない。山の麓のような水がかりが悪い場所を指す野でありながら、とても良いところなのでヨシノと言ったとされているが、命名された時点に遡ることはできない。飛鳥時代において、すでにヨシノという地名があり、そこへ離宮を築いていた。万葉時代に思うことは、そこがヨシノという名を負った場所であるということだけである。名に負っているのだから、その名を体現する場所であると考えたのである。高度な言語感覚を有していた万葉歌人たちは、ヨシノのヨ(乙類)をヨ(代・世)の意と解したのであろう。ヨ(代・世)はヨ(節)と同根の語と考えられている。ヨ(節)とは、竹類の、ふしとふしの間のことをいう(注5)。竹を見ればわかるように、ヨ・フシ・ヨ・フシ・……のくり返しで成り立っている。フシしかない場合、それはフシとは言わず、ヨしかない場合も同様である。かぐや姫はヨ(節)の中に輝いていて発見された。また、シノ(ノは甲類)をシノ(篠)の意と解したのであろう。シノ(篠)とは細く小さい竹の総称である。「篠、小竹なり。此には斯奴しのと云ふ。」(神代紀第八段一書第一)、「篻 方標反、平、竹也、細竹也、篠也。志乃しの、又保曽ほそたけ、又宇戸うと」(新撰字鏡)、「篠 蒋魴切韻に云はく、篠〈先鳥反、之乃しの、小竹は散々ささ〉は細々の小竹なりといふ。」(和名抄)とある。ヤダケ、メダケなどを言ったようである(注6)

左:ヤダケの仲間、右:メダケの仲間

 竹類のシノ(篠)にはヨ(節)があり、フシ(節)でつながりながら伸びていっている。つまり、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものがシノ(注7)だから、ヨシノとはヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものである。つまり、ヨシノ(吉野)とは、代+代+代+代+代+代+代+代+代+代+……なるものである。吉野というところは、言葉の洒落として、いわば前時代の「歌枕」として、ものすごく昔からずっと続いてきてこれからもずっと続くことを言い表していると捉えられたのである。そして、シノと呼ばれる竹類は、かはを残したまま伸びていく傾向がある。したがって、ヨシノを表現するのには、ヨシノのカハ(川)をもって言い表すのが適している。いわゆる「吉野讃歌」がいずれも必ず川を歌っているのはそのゆえである。
 最上級に昔からなのだから、「神代」以来であり、どんどん続いているから「いや継ぎ嗣ぎに」なのであり、今後とも続くから「万代」なのだというわけである。吉野の神聖性や治世の安寧を語っていないとは否定しきれはしないけれど、冗談を歌にして歌っているとしたほうが適切である。こんなことは歌でなければ行われない。歌はフシ(節)を付けて歌うものである。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……とつながるのは、フシ(節)を付けて歌い表すのがふさわしく、よって「吉野讃歌」は必ず長歌で歌い起されている。歌は言語芸術、言語遊戯(Sprachspiel)であり、統治理論の講術ではない。

柿本人麻呂の「吉野讃歌」

 結論を先に提示してしまったので、個々の歌に確認する作業だけが残されている(注8)。人麻呂の「吉野讃歌」は二組の長歌・短歌の組み合わせから成る。きちんとフシ(節)をつけて歌ったらしい(注9)。竹類のシノの話なのである。

➀柿本人麻呂の作(巻一、万36~37・38~39)
  吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
 やすみしし わご大君の きこす あめの下に 国はしも さはにあれども 山川の きよ河内かふちと 御心を 吉野の国の 花散らふ あき野辺のへに 宮柱 ふときませば ももしきの 大宮人は 船めて 朝川渡る ふなきほひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水たぎつ たぎみやは 見れどかぬかも(万36)
  反歌
 見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑とこなめの 絶ゆること無く また還り見む(万37)
 やすみしし わご大君 かむながら かむさびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山あをかきやま 山神やまつみの まつ調つきと 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉もみちかざせり〈一に云はく、黄葉もみちばかざし〉 ふ 川の神も おほ御食みけに 仕へ奉ると かみつ瀬に かはを立ち しもつ瀬に 小網さでさし渡す 山川も りて仕ふる 神の御代みよかも(万38)
  反歌
 山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも(万39)
   右は日本紀に曰く、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。八月吉野宮に幸す。  四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月吉野宮に幸す。五年辛卯の正月吉野宮に幸す。四月吉野宮に幸すといふは、未だ詳らかに何月の従駕おほみともつかへに作る歌なるか知らず。

 「吉野の国の 花散らふ あき野辺のへに」宮を造っている。「あきづの宮」(万907)とも呼ばれている。蜻蛉とはトンボのことで、トンボの腹を見れば節がつながる形状をしている。代+代+代+代+代+……であると見てとれるというのである。言葉の形容として理にかなっている。言葉があって、それを使っている。それ以上のことはない。
 「かむながら かむさびせすと」という言い方は、神としてまさに、神にふさわしい振る舞いをする、という意味とされてきた。すなわち、「やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 ……」の部分は、あまねく国土をお治めになるわが天皇が、さながらの神として神々しくおられるとて、吉野川の流れ激しい河内に、の意であるというのである。この場合、上に冠る語がその主語となり、「(やすみしし)わご大君」が神憑っている、ないしは、神としての地位に就いている、天皇の神格化が起こっている状況であると捉えられている。しかし、そうではない。「神ながら 神さびせすと」は投入された句であり、地の文とは論理階梯を異にしているからである(注10)
 万葉集の特に長歌の表現方法では、尻取り的な数珠つなぎの連綿修飾が多く見られ、この場合も同様に受けとめられよう。上からかかり、下へとかかる。けれども、「神ながら 神さびせすと」という句は挿入句である。
 「神ながら」は、カミ(神)+ナ(連体助詞)+カラの意と解される。それだけで挿入句である。「神ながら 神さびせすと」という言い方でも同じである。万38番の長歌冒頭の「やすみしし わご大君」という形は、万葉集中に二十六首、二十七例を数える。うち助詞を取らないものが十例、「の」を取るものが十六例、「は」を取るものは万926番歌(山部赤人の「吉野讃歌」第二歌群)の一例である(注11)。この万38番歌は助詞をとる場所ではない。
 どういうことか。それは、「やすみしし わご大君」ということがすなわち、「神ながら 神さびせす」状態なのであり、そういうこととして、「神ながら 神さびせすと」「吉野川」にかかって行っているのである。「やすみしし わご大君」という言い回しは常套句であり、誰もがよく使っている。どうしてそういう言い方になっているかは、枕詞のかかり方であって、もはや神のみぞ知る不思議なことなのである。「やすみしし わご大君」とは、「神ながら 神さびせす」ことなのである。昔からそう言われてきて古びてわからなくなっている。言葉づかいについて評価して、「神ながら 神さびせす」と挿入して述べている。そして、そのことは、まさに、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるようにずっと続いていることであって、「吉野」とつづけるのに正しいのである。さらにそれが、特に「吉野川」を指していることも、川の流れに着目していて一層の的確さを示している。流れがつづき尽きないからであり、言葉としてヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところだからである。「よよ」という語は、多く「と」、「に」を伴って使われる擬声語・擬態語である。水やよだれなどが溢れ滴るさま、嗚咽して涙をしゃくりあげて泣くさまをいう。

 御づるに、食ひ当てむと、たかうなをつと握り持ちて、しづくよよ○○と食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
 開けて見るに、悲しきこと物に似ず、よよ○○とぞ泣きける。(大和物語・一四八)
 八月より絶えにし人、はかなくて睦月になりぬるかしとおぼゆるままに、涙ぞ、さくりもよよ○○にこぼるる。(蜻蛉日記・下)

 源氏物語の例に見るように、竹はおもに春に筍として出てきて非常に多くの水気をもって生育する。ヨシノ(節間しの)なるところは「よよ」と瑞々しいのだといい、それはまるで川の流れのたぎつところを思わせるほどであって、その観念のもとに吉野では川こそが持て囃されるにふさわしくあるということになっていて、ああだこうだと人麻呂は川のことを歌っている(注12)
 二組の長短歌があり、第一長歌の万36番歌は建造の次第を含めて離宮を讃美しており、第二長歌の万38番歌は国見歌の技法を入れ込んだ御代の讃美が行われていると捉えられている(注13)。それら表現の手法に拘泥する(注14)ことなく全体を見てみると、長短全四首とも川のことを歌っている。吉野を、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところとして歌いたいだけだから、水が溢れ滴る様子を「たぎつ」川に求めているのである(注15)。上代語の「たぎ」は川の水の流れが激しくなっているところを言い、今日の滝壺へと水が直下する「たき」とは異なるとされてはいるが、タキも白糸の滝のような例を除けば水流に激しさが感じられ、それも含めてタギと呼んでいたと思われる。そんな水量豊かな川は、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と永続するであろうと、お追従、お上手を戯れに述べているばかりなのである(注16)。いわゆる思想性など欠片もないのだが、仮にヤマトコトバの洒落、頓智を上代の思想であるとするのであれば、十分に政治的思想をもった歌であるとも解釈し直されはするものの、近代的な思想概念から逸脱しており、一様に解することは不可能である。
 行幸において吉野の離宮を褒めてちぎっておけば、時の政権に都合がよく、従駕で参集している行楽気分の宮人たちの受けもよくて場が盛り上がったという次第だろう(注17)。骨休めするのに格好のコテージだから、また来たいねと言いたくて「また還り見む」と大仰に歌っているのだった(注18)

笠金村の養老七年の「吉野讃歌」(注19)

 金村の長歌には訓みに不審な箇所がある。「山川乎清清」をヤマカハヲ キヨミサヤケミと訓み慣わされている。旧訓はサヤケクスメリで、橘千蔭・万葉集略解で改められている(注20)

➁笠金村の作(巻六、万907~912)
  養老七年癸亥の夏五月、吉野の離宮とつみやに幸す時に、笠朝臣金村の作る歌一首〈あはせて短歌〉
 たぎの ふねの山に みづさし しじひたる とがの いやぎに 万代よろづよに かくし知らさむ み吉野の 蜻蛉あきづの宮は 神からか たふとくあらむ 国からか 見がしからむ 山川を みさやけみ うべかみゆ 定めけらしも(万907)
  反歌二首
 毎年としのはに かくも見てしか み吉野の 清き河内かふちの たぎつ白波(万908)
 山高み しら木綿ゆふはなに 落ち激つ たぎの河内は 見れど飽かぬかも(万909)
  或る本の反歌に曰はく
 神からか 見が欲しからむ み吉野の 滝の河内は 見れど飽かぬかも(万910)
 み吉野の あきの川の 万代よろづよに 絶ゆることなく また還り見む(万911)
 はつ瀬女せめの 造る木綿ゆふはな み吉野の 滝の水沫みなわに 咲きにけらずや(万912)

 「さやけし」という語は、岩波古語辞典に「分明し・亮し」という漢字で表意し、サエ(冴)と同根の語と認めて視覚にも聴覚にも使い、「さえて、はっきりしている。」、「くっきりと際立っている。」という訳を当てる(575頁)。類義語のキヨシともども表記するのに「清」の字を使うことが多くある。時代別国語大辞典は、「キヨシが対象の汚れのない状態をいうことが多いのに対して、サヤケシはその対象から受けた主体の情意・感覚についていうことが多い。」(342頁)と解説している。
 この部分、「山川を 清くさやけみ」と訓んで、山や川が清くさやかなので、といった訳出が行われている。それは、山は清くはっきり見えていて、川は清くはっきり聞こえている、という意味なのだろうか。岩肌が隆々としている山とて霧がかかることがあり、川の流れの音が聞こえても豪雨にかき消されることはある。山川がさやかであるという言い方には不審なところがある(注21)
 原文に「清清」と同じ字が記されている。考察しているとおり、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と「いやぎに」つづくことがテーマなのだから、「清清」は一つの言葉がくり返されていると捉えられるなら捉えたいところである。「清き河内かふち」(万908)とあるところからすれば、キヨムという動詞がくり返されているのではないかと考えられる。それが正しそうなことは、「しら木綿ゆふはな」(万909)や「木綿ゆふはな」(万912)との関連から理解される。長歌につづけて並ぶ短歌は、反歌としての性質を有し、ひとまとまりの歌群となって同一のことを多角的に言い表している。「白木綿花」や「木綿花」と譬えられ、ヨシノ(節+篠)たるヨシノ(吉野)に成育するものとしてふさわしいのは、コウヤボウキのことであろう。篠同様に節くれだちながら伸びる植物で、ほうきの素材として竹類同様に用いられている。ほうきは掃き清める道具である。そして、白い木綿のような花をつける(注22)
 「山川乎清清」はヤマカハヲ キヨメニキヨムなどと訓むものと考えられる。くり返し言葉としては、「祓へしめて、神やらひにやらひき。」(記上)、「神祝祝之、此には加武保佐枳保佐枳枳かむほさきほさききと云ふ。」(神代紀第七段一書第二)などの例がある。

 座を掃ひ塗をきよめて用て、(興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝・巻九)
 …… 服従まつろはぬ 人をもやはし 掃き清め〔波吉伎欲米〕 仕へまつりて ……(万4465)

 「山川を 清みさやけみ」と訓むとき、ミ語法として後続文の内容に対して原因・理由を表している。そう捉えると、万907番歌全体は二つの部分を寄せ集めた構造ということになる。そして後段は、神代の昔から定められているらしいことが尤もであると判断される根拠は、山川が清くはっきりしている(?)ことによるということになる。一方、「清清」を動詞の重ね合わせと解せば、宮自身の本性としていろいろあり、宮の一部として機能している山川をも自らが清浄に保っている、事程左様に、神代の昔から定められているらしいことだ、と述懐していることになる。その捉え方が適切である。

 ヲは格助詞である。素敵な吉野の蜻蛉の宮は、神の性格からか尊くあるのだろう、国の性格からか見たくなるのだろう、蜻蛉というぐらいだから羽根を振るように箒で周囲の山川をきれいきれいに掃除している、まったく尤もなことだ、神代の昔からそう定められていたらしいというのは、といった意味である。
 歌の文句には出ていないが、ハハキ(箒・帚)という語は、羽掃き、葉掃き、の意であろうとされている。笠金村は、羽をもって掃い清めるとして宮の名を冠し「蜻蛉の宮」として正しいと言っている。アキヅは付近の地名かとされており、直接に宮の名ではないけれど、ここで金村は少し凝ったことを言おうとして「蜻蛉の宮」としている。すなわち、「み吉野の」が「蜻蛉の宮」にかかる枕詞であるかのように擬している。ミヨ(「見」の命令形、ヨは乙類)+シノ(篠)+ノ(助詞)は、胴体がまるで竹類のように節につなぎながら伸びていっている「蜻蛉」を導くようになっている。アキヅとは、アキ(秋)+イヅ(出)の意を感じさせ、アキアカネなどを代表的なものと考えていたことによく相応する。「蜻蛉あきづしま」というぐらい、水田稲作農耕を進展させてアカトンボの楽園ならしめていたのがヤマトの国である。そんなヤマトの国をもっともよく形容する言葉であるアキヅが名にあらわれている地名があるのだから、神が名づけたとしか言えないものでとても貴いのだろうし、ヤマトの国の最たるところが凝縮して傑出しているはずのところだから自ずと見たくなるのだろうし、そしてまたその名から推測できることに、トンボが羽ばたくようにはたき掃って清めているのである、というように考えられ、まったくもって、神代の昔からそこに宮を定められたということを耳にするのは頷けることだなあ、と言っている。
 上代人の観念に、それはヤマトコトバにと言っても同じことだが、ことことであった。言葉としてあるということは事柄としてもあることだと信じられ、志向されていた。いま、アキヅという地名から、ヤマトコトバの連鎖として「み吉野の 蜻蛉の宮」という言い回しを析出している。かかる結晶化によってさらにわかることは、トンボの腹はカラだということである。シオカラトンボとは、塩が浮き出ているようなカラ(幹、柄、殻)をもったトンボである。アカトンボは稲作を伝えたカラ(唐、韓)から東シナ海を遠く渡って来たものだと思われていたことだろう。話さなければならないのはカラのこと、だから、「神から」や「国から」のことが説き起こされている。
 「み吉野の 蜻蛉の宮」という言葉の並びが成立するとすれば、その名が負うようにまるで神の性質からでもあるように貴く、国の性質からでもあるように再度見たくなるのだろうといい、なぜならそこは、山も川もきれいに掃き清められているからであり、そう歌に歌えるのだから、まったくもって神代の昔から定められていることらしいことは首肯できることなのだ、と述べている。言=事なのだからそれが正しいのである。さらに反歌にコウヤボウキが歌われており、長歌との調和がとれている。
 養老七年の笠金村の吉野の歌では、特定の表現内容がくり返されている。「万代」、「神代」といった言い方である。何代も前からずっと、そしてまたこれから何代も後までもずっと、という言い方である。「万代」を導く「継ぎ嗣ぎに」は序詞が被っており、「繁に生ひたる 栂の樹の いや継ぎ嗣ぎに 万代に」と饒舌に語っている。吉野の(秋津の)宮を表すのにも、「神からか」、「国からか」などと、主張のための主張をしたいがために贅言を尽くしている。最終的に、「神代ゆ 定めけらしも」であることは「諾し」であると思うと感想めいたことを述べて終わっている。
 このことは、この歌が何を言いたいのかについて適切な示唆を与えてくれている。題詞に、「養老七年癸亥の夏の五月に、吉野の離宮とつみやに幸す時に、笠朝臣金村の作る歌一首〈あはせて短歌〉」とある。吉野の離宮に行幸した時に、笠金村が作った歌であって、それ以上でも以下でもないということである。いわゆる「吉野讃歌」にはお決まりの表現のもとに歌われているとされ、万36番歌の柿本人麻呂がその始まりであって、追随する者が模倣したところ大であるとされるのであるが、必ずしもそうはなっていないと見る向きも多い。諸作品に共有されているのは、吉野がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……であるという本意ばかりである。

「神代」とは

 すでに触れてきたことであるが、「神の御代」(万39)や「神代」(万907)とはいつのことを表しているのか確かめておく。
 ふつうに考えればすごく古い時代のことを指すと思われる。記紀の言い伝えでは、イザナキ・イザナミの現れるところまでが「神代七代」(記上)、「神代」(神代紀第二段)であると指示されている。万907番歌の「神代」については、天皇が吉野とかかわり始めた頃のことと捉えられていた。契沖・万葉代匠記は、「まことの神代にはあらす。」「神武天皇をはしめて、おほくのみかと、此山にのほらせたまひけれは、そのはしめて宮つくりせさせたまひたる時をさしていへり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979063/89)としている。また、窪田1950.は、「遠い古へといふ意を具象化して云つたもの。」(219頁)としている。伊藤1996.では、「「神代」は神武天皇以前を漠然とさしているのであろうが、人麻呂の吉野讃歌(1三六~九)を意識したこの歌[万907番歌]では、「山川も依りて仕ふる神の御代かも」(1三八)とうたうその持統朝を、神代に立ち帰る時代として心の底に据えていると見られないこともない。」(281頁)と微妙な言い回しになっている。
 さらに稲岡2002.は、「[万907番歌は]持統朝や天武朝を想起しながら「神代」につながるものとして吉野離宮を讃える。」(96頁)としている。そして、諸説を引き、壬申の乱での天武天皇の吉野入りや、天武八年の六皇子盟約によって吉野は皇位継承の聖地となり、持統天皇による三十一回にわたる行幸がそれを強化し、文武天皇による行幸以降途絶えていたのは、聖武天皇を奉じたこの行幸を期待していたからであるとしている。吉井1984.は、もっとはっきりと「吉野宮」を作った持統天皇時代を「神代」であるとしている。

 金村は今の御代みよを神の御代と歌ってはいないが、持統天皇が吉野宮を造営されたという人麻呂の表現を受けて、持統朝が神の御代であることをこの結句で肯定し、かつ歌っていることに注意しなければならない。そして持統天皇が宮の造営者であったからには、先の「神から」の神にも天皇の姿は濃く揺曳していたはずである。……持統天皇の姿を揺曳させるこの吉野宮を目の前にして、元明、元正両天皇と継がれてきた皇位が、持統天皇の曾孫であり、今まさに即位の期を迎えた聖武天皇に継がれ、しかも永遠に継承されて行くに相違ないという予祝が含まれている。私はここに、金村が人麻呂の讃歌を継承しながら、しかもその作歌の時点での歴史的要請に応えようとして新しく切りひらこうとした意図の具現を見るのである。(21~22頁)

 歌の中に用いられている「神代」という言葉について、歌が歌われた時点から遡って過去のことなのであり、曾祖母時代はもう「神代」であるというのである。神野志2000.はさらに、「金村だけでなく、聖武朝の歌人たちが明確な輪郭をもつ「神代」の意識を吉野宮に関して共有していた」(62頁)こととして、山部赤人の万1006番歌(「神代より」)、大伴家持の万4098番歌(「皇祖の 神の命の」「始め」「定め」)、さらには難波宮を歌った大伴家持の万4360番歌(「うべし神代ゆ 始めけらしも」)を視野に入れている。そして、「天武王朝という点から見るべき皇統意識」があり、「そのなかにある聖武朝において「神代ゆ(より)」というはじまりから天武王朝の歴史として構築することとして、歌がたちあげようとするところは明確な輪郭をもつと見るべきだ。」(64頁)と決めている。
 「天皇すめろきの神のみこと」(万29)、「皇祖すめろきの神の御代より」(万1047)などとあるように、天皇≒神と認められようから万907番歌の「神代」は過去の天皇だと言えるというのが根拠ということのようである。ほかに「現人神あらひとがみ」や「あきかみ」という言い方があって、天皇を表しているように捉えられることがある。現実に姿を現している神という表現で、存命中の天皇を言っているという見解である。しかし、その考え方は誤りである(注23)
 今日、亡くなったら神になると考えられている。万葉時代でもそういう使い方が行われていたと考えることに抵抗はない(注24)。その場合、天皇に限らずすべての人が神になる。ただし、たかが数代前のことを「神代」であるとは言わない。「神代」という言葉がすでに存在し、大昔のイザナミ・イザナキ出現の頃のこと、太古のはるか彼方のことを示して使われている。言葉としてよくわかり安定した状態にあるところへ新たな概念を吹き込んで、今までとは相容れない意味に転用しようとはしたがらないものである。語義をずらしたら混乱が生じる。ことことであるとする言霊信仰の下では、いい加減な言葉づかいは厳に慎まれたと考えられる。もし偉大なる天武・持統天皇時代のことを表したいのであれば、新しい語を作れば誤解を生まずに済む。そうせずに馴染みのある「神代」という言葉を使っているのだから、すごく昔のことの意味で使っているとしか考えられない(注25)
 では、万907番歌に、「諾し神代ゆ 定めけらしも」と、吉野の宮が神代からあることになっているらしいなどと、万葉人はどうして合点できているのだろうか。
 それは、「み吉野の 蜻蛉の宮」と呼んでいることに由来する。
 吉野宮は秋津宮という別称があったのかわからない。吉野の離宮のあるあたりを指す地名がアキヅなのであると解されている。人麻呂の歌に「吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺」(万36)とある(注26)。万葉集の歌の表現ということに絞れば、「花散らふ」は花の種類を問うには及ばず、後ろのアキヅを導く枕詞的性格の語である。アキヅ、すなわち、トンボの羽根がちらちら舞うことを導いている。もはやアキヅは地名なのか、それとも昆虫名なのか、定まらなくなっているがそれでかまわない。吉野の国の、花がちらちら舞い散るように羽根をちらちらさせているトンボが多い野辺、という意味で通っている。ここに行われていることは、地名を入れ込んで情景を詠みこむことではなく、言葉の修飾をてんこ盛りにすることである。万葉集の歌によく見られることで、言葉が、ないしは修辞が先に立ってすべてが解明されるのである。「神代」という語も、ヨシノという語(音)とのかかわりで使われていて、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なる大昔から定められているものなのだ、という言い分のために登場している。そして、「み吉野の 蜻蛉の宮」を主語として文を立てている。この国ないし国土のはじめは、「蜻蛉あきづしまやまと」と形容されて語られる。古くからそう言い慣わされていて特に疑義が挟まれることはない。誰もがそういうものであると認識しているから、ここに「み吉野の 蜻蛉の宮」は、当然のこと、自明のこと、すなわち、「神代」以来続いて来ていることだとされて正しいことなのである。

おわりに

 「吉野讃歌」の全八(車持千年の歌は除外されたので七)歌群の二歌群を見たにすぎない(注27)。それでも結論は得られている。「吉野讃歌」は従来考えられていたような「吉野讃歌」、すなわち、吉野宮を讃美することを通して在位する天皇、ひいては天皇制そのものまでも讃美するといった思想歌ではない。「神ながら 神さびせす」や「神からか」などという語が出てくると、その「神」は天皇のことを指すのだと短絡的に結びつけてしまっていた。ヤマトコトバのハイレベルな修辞技術が理解できなかったから誤った見当をつけていたのである。論理階梯の違いを表出する言い回しは、上代の人にとってみては、こともなげ、言わずもがなのよく用いる表現法であった。万葉集に多くの歌が載っているというだけで「歌人」として見、「歌聖」として崇めようとしていては見誤る。現状では、それぞれの歌が上代にどうしてそういう表現、形容をとっているのか不確かなままに、現代的な議論をしたいがために強引な解釈がほどこされている。
 「誰かがソクラテスに向かって、誰それは旅をしても少しもよくなっていない、と言うと、「そうだろうとも。あの人はあの人自身を一緒に持って出かけたのだから」と言った。」(モンテーニュ1965.52頁)とは名言である。訪日外国人のなかには、魚を素手でつかむ人がいて不衛生に思えて弱ることがある。生まれてからずっとそうしてきたからそうしている、何か悪いことがあるか? といきまくほどである。郷に入れば郷に従えという諺もある。同様に、万葉集を理解しようとする場合、そこは万葉時代なのだから現代を持って行ってはいけない。
 万葉時代の人は吉野(ヨシノという言葉)にヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……の洒落を見ている。その感性を知る旅でなければ、現代の歌作に換骨奪胎して応用しようという目的以外に何のために万葉集の歌を読むのかわからない。ヤマトコトバを通してみれば具体的に理解されることであり、知的好奇心を満足させる格安な旅でもある。そして、言葉とは何かを問うことは、人間とは何かということに直結する問題で、人文科学の第一級の研究対象である。本質的な意味と、誤解だらけの理屈が罷り通っている状況との二つの点で、その道のりはひどく遠いように思われる(注28)

(注)
(注1)武田1956.や澤瀉1957.が用いているわけではなく、土橋1956.に見える。この点、筆者には納得がいく。
(注2)➂車持千年の作(巻六、万913~916)
  車持朝臣くるまもちのあそみとせの作る歌一首〈あはせて短歌〉
 うまごり あやにともしく 鳴る神の 音のみ聞きし み吉野の 真木まき立つ山ゆ 見おろせば 川の瀬ごとに 明け来れば 朝霧立ち 夕されば かはづ鳴くなへ 紐解かぬ 旅にしあれば のみして 清き川原を 見らくししも(万913)
 たぎの ふねの山は かしこけど 思ひ忘るる 時も日も無し(万914)
  或る本の反歌に曰はく
 千鳥鳴く み吉野川の かは成す む時無しに 思ほゆる君(万915)
 あかねさす ならべなくに が恋は 吉野の川の 霧に立ちつつ(万916)
  右は年月つばひらかならず。但、歌の類を以て此のつぎてに載す。或る本に云はく、養老七年五月、吉野の離宮に幸す時に作るといふ。

 これらの歌は、いわゆる「吉野讃歌」の歌に入れられ、車持千年の性別、「君〔公〕」(万915)は誰のことか、といった検討が行われている。吉井1984.は、「金村の作[万907~912]が表の世界での予祝の歌として、千年の作が裏の宮人たちの世界での恋の歌として、その意味で両者の作は一組の作歌であったかもしれない。」(29頁)としている。
 筆者には、歌の内容から、吉野で車持千年が作った歌ではあるが、他の作とは質が異なっているように感じられる。千年は早く帰ろうよと歌っている。左注の言うところは、「右」の万913~916番歌は、いつ作られたかはわからないが、歌は吉野を歌ったものだから「此」の万907~912番歌の「次」に載せることにした。というのも、「或本」には、まったく同じように「養老七年五月、幸于芳野離宮之時作」と書いてあるからだ、ということである。題詞は、「車持朝臣千年作歌一首〈并短歌〉」というにすぎない。吉野宮を主題にして歌っているのではなく、従駕したけれど残してきた愛しい人のことばかりに思いが募るという恋の歌である。
(注3)持統天皇のたび重なる吉野行幸の動機についても同じであると考える。これまでの諸説については、遠藤1969.参照。懐風藻に残る数々の吉野遊覧詩を見て、「吉野行幸の目的がいかにあれ、吉野行幸がその側面に遊覧の場を成立させたことは確かである。」(辰巳1987.129頁)とする指摘がある。また、「吉野讃歌」が時代により要請される目的が変わっていくとする推測も見られる(梶川1987.)が、題詞からも言葉遊びに徹している歌の内容からも汲み取ることはできない。
(注4)吉野が仙境であると認められていたからといったことではない。不老不死の仙薬とされた水銀を産出する鉱脈があったからといった言説は限りなくあやしい。中央構造線上に分布する水銀の産地はすべて仙境にならないか。本邦において、いつ、誰が、水銀を不老不死のための薬にしたのか。
(注5)本稿では「よ」について「節間」と記してみたが、「よ」も「ふし」も漢字で「節」と書くことがある。「節」の字は竹使符の意が本義で、植物の節くれとは何の関係もないという(白川1995.659頁)。「よ」と「ふし」と両方なければ符にならない。
(注6)木下2010.は、大型のタケ、小型のササの中間をシノと称し、ヤダケ、メダケ、アズマザサ、アズマネザサ、スズタケなどをシノ(篠)の候補に挙げている。筆者の観察による推測では、大きさによる(曖昧な)区分だけでなく、長く皮をとどめる性質を持つものをシノと称していたかと考える。
(注7)上代語に、シノニという難語があり、「心もしのに」と慣用句化して使われている。このシノニも、ヨヨの意で解することができる。拙稿「「心もしのに」探究」参照。
(注8)結論を先にするのは議論の仕方として好ましいものではないが、膨大な誤解研究をショートカットするのにやむを得ない。
(注9)武田1956.は、万36・37番歌、万38・39番歌の長歌と反歌がよく対応している点について、「人麻呂の作品の音楽的な性格を語るものである。」(187頁)と評している。
(注10)「神ながら 神さびせすと」という言い回しについては、拙稿「 「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」参照。
(注11)鈴木2020.参照。
(注12)清水1965.は、これらの歌は「おそらくは詔に応じて、天皇に献じたものと考えられる。」(12頁)としているが、題詞に特記されてはいない。命じられてもいないのに、座興のために勝手に歌い出したものではないかと筆者は考えている。
(注13)村田2004.は、万36・37番歌は「宮讃歌」で空間讃美、万38・39番歌は「御代讃歌」で時間讃美が行われ、「そのまったき時空間讃美によって構築されるのは「やすみしし 我ご大君」=持統天皇による統治であった。」(244頁)としている。筆者は、吉野はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……だと洒落に解いてみた興味を二様に表しただけのことと考えている。身﨑2005.は、「吉野讃歌」を「景観の神話化」(198頁)としているが、筆者は、ヤマトコトバの洒落を景観表現に応用展開してこのようになったものと考えている。
(注14)二つの長歌には、別時に作られたとする説と同時に作られたとする説がある。神野志1992.は、万36番歌を「現実世界の具体的なレベル」、万38番歌を「神」性のレベルに及ぶ「大君」との調和と秩序が歌われているとしている。身﨑1999.は、二つの長歌作品の構成は、「重畳性と対偶性とがもたらす荘重な形式美を十分に計算に入れた構想だったといえるだろう。」(179頁)としている。
(注15)西澤1991.は、「「吉野讃歌」における「吉野」は、すでにあるものとしての「吉野」ではなく、それがどのように始まったのかから詠まれるような「吉野」である。」(19頁)としている。筆者は、「吉野」の語源を問うているのではなく、ヨシノという語の語感を詠んでいると考える。かしこまったり、大それたところはない。
(注16)曽倉2020.は、人麻呂が宮廷歌・儀礼歌に、「永遠・永久・永続等の観念と表現を導入し慣用句化させた」(130頁)ことの意義は大きく、永遠の観念は大陸からの渡来であるとしている。筆者は、ヤマトコトバの洒落の才覚によって、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なる永遠の観念は表明されていると考える。毛利1996.は、現実の代を「神の御代」、「神代」と人麻呂は認識・把握し、それは彼自身の考え、思想によるとしている。筆者は、ヨシノというヤマトコトバを、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……のことなのだとおもしろがったことによると考えている。
(注17)橋本1975.は、第一長歌で、「天皇に奉仕し、讃美する主体が宮廷人一般に普遍化している」(134頁)点を人麻呂が新しい型の讃歌の創造を達成する一つの要点であるとしている。筆者は、吉野はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……だと言っていて、披露された頓智は誰も傷つけない都合のいいものであったと考えている。
(注18)影山2020.は、人麻呂が「見る」ことに執着を示すのは、宮が再び自然に帰する滅びの宿命を知るために訴えているとしている。筆者は、また休暇旅行に公費で来たいね、と言っているものと考えている。
(注19)この歌は巻六の巻頭を飾る歌である。巻頭歌の意味については多くの論者が問うているが、エディターが巻の構成をどう考えて配置したかという点については、歌自体の解釈とは別次元の問題である。もちろん、歌の解釈が定まらなければ、どうしてそのように配置したのかを論ずることはできない。万葉集の構成論や成立論は、個々の万葉集の歌の理解の程度によって浮沈するものとなっている。エディターが当該歌をどこまで理解していたのかという視点を欠いたままに立論されているのではないかという危惧さえ覚える。
(注20)小野1995.に精論がある。
(注21)「さやけし」については、拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」も参照のこと。
(注22)清水1980.に、「金村の吉野讃歌における、景の叙述の新らしい性格は、景が、この行幸時に金村の見た吉野の実景にそくして、きわめて明確に表現され得ているということであろう。」(31頁)とし、従来の国見歌の予祝的な願望の投影ではないとしている。実景的なものとは、反歌にある「白木綿花」、「造る木綿花」が最たるものであろう。清水氏はそれらをコウヤボウキであると見ているわけではない。
(注23)「あきかみ」(万1050)についての疑義に関しては拙稿「田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」考─「現つ神」、「わご大君 神の命の」の正しい理解によって─」参照。
(注24)拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」参照。
(注25)万葉集の歌はあくまでも歌である。声に出して歌われて、それを聞いた人が聞いただけで理解が行き渡らなければならない。今言った「神代」は大昔のことか、天武・持統天皇代のことか、などと神経を尖らせながら聞かなくてはならないものではない。歌は一度しか歌われない。その一度でなるほどとわからなければ、その歌はお蔵入りする失敗作である。誰がわからなければならないか。聞いているすべての人である。作っている歌人が自己満足していても始まらない。また、歌人の集まりという言葉のプロがわかればいいというものでもない。万葉歌は、一部の人にしか通じない言葉を使っていたわけではない。
 なお、後の時代に誤解して別の義にも使った例は見られる。訳語上、新しい意味が付与されていった経緯を持つ語も辞書に見られる。漢字で書かれた語の意が、漢籍由来と仏典由来で異なっても同じ書記のうちに同語とされることもある。文字で書記することが基盤となって可能となっていることが多い。文字言語には再認性があるから、語義の転用も比較的容易に起こることになる。
(注26)解説書ではこの「花」はサクラなのだとされており、どういうわけかめでたいものなのだと説かれている。通説の呪縛である。たしかに「花散らふ」とあるのだから、花がちらちらと散り続けているのである。花弁がちらちら散り続けるように思える花の代表はサクラということになるのであるが、サクラでなくては当たらない表現というわけではない。上代にサクラがどこまで卑近であったか、今日のようにいたるところに植樹してしまう異様さからは想像ができない。いまサクラを当たり前に思うのは、人工的に植えているからである。
(注27)以後は拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」参照。
(注28)万葉集は歌集である。柿本人麻呂らは歌詠みである。その単なる歌詠みの作った歌が、天皇制全般について先鋭的な主張をくり広げているなどとどうして考えるのだろうか。古い時代のこととて、ソクラテスは弁論の哲学者であるが、人麻呂らの歌が(近現代的な意味での)思想書であろうはずなどない。

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加藤良平 2022.9.12初出

「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論

 拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」(注1)で扱いきれなかった他の「吉野讃歌」について検討する。
 題詞にもない「讃」が主題であると勝手に決めてひと括りに「吉野讃歌」と捉え、吉野を讃えることが天皇を讃美することにつながるとするのは誤りである。また、後の作は前の作の模倣と捉え、いちばん最初の人麻呂の影響下にあるとする見方も当てはまらない。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)という語のつながりとして、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……のことだと思って楽しんだ人たちの間で作られ聞かれた歌である。

➃大伴旅人の作(巻三、万315~316)

  暮春の月によし離宮とつみやに幸す時に、中納言大伴卿おほとものまへつきみみことのりうけたまはりて作る歌一首〈あはせて短歌、未だ奏上をぬ歌〉
 み吉野の 芳野の宮は 山からし たふとくあらし 川からし さやけくあらし 天地あめつちと 長く久しく 万代よろづよに 変らずあらむ 行幸いでましの宮(万315)
  反歌
 昔見し きさがはを 今見れば いよよさやけく 成りにけるかも(万316)

 この歌は、神亀元年(714)三月に、新しく即位した聖武天皇が吉野を訪れた時の歌である(注2)。大伴旅人六十歳の作とされている。
 「み吉野の 芳野の宮は〔見吉野之芳野乃宮者〕」の「み吉野の」は、ミ(御、ミは甲類)+ヨシノ(吉野、ヨは乙類)+ノ(助詞)であるとともに、「見よ」(命令形、ミは甲類、ヨは乙類)+シノ(篠)+ノ(助詞)という音であり、「吉野」を導くための枕詞的な要素が込められた言葉ではないか。シノ(篠)の特徴をよく見よということである。「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」でみた柿本人麻呂作(万36~39)、笠金村作(万907~912)と同様に、ヨシノ(吉野)がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものと認識されて楽しまれることを強調するために、「み吉野の」と被らせてヨシノという言葉を重ねているものと解せられる。
 吉野の宮の地は、山や川のあるところであった。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)という自己言及的な語構成を示していて、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものだから、代+代+代+代+代+……を表すとしておめでたがられた。つまり、「吉野の宮」とはそれ自体がシノ(篠)のようなものであると認められていたのである。篠はタケの仲間で、タケノコ(筍)として芽生えてくる。タケノコを食べた様子はイザナキとイザナミの黄泉国の話にも描かれている。

竪櫛の構造(木沢直子「南原清渓里清渓古墳群出土竪櫛の特徴と意味」『남원 청계리 청계 고분군과 월산리 고분군 조사성과와 의의』2020年。file:///C:/Users/user/Downloads/남원 청계리 청계 고분군과 월산리 고분군 조사성과와 의의 국제학술대회 발표집.pdf、109頁を一部改変)

 亦、其の右のみづらに刺せる湯津々間ゆつつまくしを引ききて投げてたまへば、乃ちたかみなる。是を抜きむ間に、逃げ行きます。(記上)

 古墳時代に行われていた竪櫛である折曲げ櫛とタケノコは構造がよく似ている。細く割り裂いた竹の束をU字形にたわめ枉げて黒漆が塗られている(注3)。材質も同じで歯が包まれながらぎざぎざに突出している。外皮が黒いタケノコは掘り取るとびしゃびしゃに水がほとばしり出る。ヨヨとしているところを食べるのである。

 御づるに、食ひ当てむと、たかうなをつと握り持ちて、しづくもよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)

 歯の並び出てきたのをタケノコに見立てている。イメージは湯津々間櫛の変化と同じである。タケノコが土から突き出ている様は山に見立てられる。また、たふのようでもある。「山からし たふとくあらし」とタフの音つながりで戯れて言っている。瑞々しいところはかはに見立てられる。タケノコはかはに包まれており、食べているところも放っておいて成長すれば皮になってしまう部分でさえある。タケ類の皮はさや(葉鞘)であり、マメ類なら鞘(莢)に相当する。熟してしまえばそこは食せない豆がらとなる。つまり、皮からになる前に食べてしまおうというわけである。「川からし さやけくあらし」と洒落を言っている(注4)
 そんなシノ(篠)、ヤダケのようなものは地から生え、まっすぐにどんどん伸びて、天まで届く勢いである。ヨシノに生えているのだから、代+代+代+代+代+……と「万代に 変らずあらむ」であろうと言ってしまってかまわない。それが今、ここに「行幸いでまし」ている宮なのだとおもしろおかしく歌っている。
 短歌に、「きさがは」と固有名詞が出ている。キサと呼ばれるところがあったようである。「昔見し」とある点について、作者の旅人が昔見たのだと考えられている。吉野行幸は持統三年に始まり、そのとき旅人は二十五歳と推定されている。その後も何回も行幸しているから、従駕していて見たのであろうと考えても不思議ではない(注5)。この理由づけは、「昔見し」のシ(助動詞キの連体形)について、自己の体験の記憶とするものである。しかし、長歌では一切作者の影を消していて、反歌にばかり自己主張するとは考えにくい。かといって、新帝の聖武天皇の代詠をしているとすると初めて訪れる点と相容れない。助動詞キに対する残された解釈の可能性は、伝聞的記憶ということになる。集合意識として昔見たことになっているとするものである。ただし、見た対象の小川の名が曰くありげである。

ナウマンゾウ臼歯化石(大阪市立自然史博物館展示品)

 「きさ」は elephant のことである。なぜそう呼ばれたかについては、象牙などに木目があり、その筋目模様をキサと言ったからではないかとされている。もちろん、当時列島に象は生息していない。舶来品もほとんど知られず、話にとても大きな体をしているとは聞くが、群盲象を撫でるがごとき認識しかない。ところが、稀にではあるが、ヤマトの人も象を知ることがあった。象の骨、特にエナメル質に覆われた歯が出土するのである。ナウマンゾウが多かったようで、竜骨と呼ばれて薬に使われており、正倉院にも「色龍歯しきりゅうし」と呼ばれる臼歯の化石が宝物として残されている。確かに筋目模様(注6)がついており、皮が何重にも被っているタケノコの様子によく似ている。ヨシノというところにキサというところがあるのは、「いよよさやけく」あることだとわかるだろう、というのである。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……のことであると解明されたから、昔日の「きさ」が歯としてそこに現れているのは明かなことだなあと詠嘆している。歯はよはひに通じ、ヨハヒとはヨ(代)+ハヒ(延・這)の意である。
 「さやけし」という語は、岩波古語辞典の見出しに「分明し・亮し」という漢字を使っている。サエ(冴)と同根の語とし、視覚にも聴覚にも使い、「さえて、はっきりしている。」、「くっきりと際立っている。」という訳を当てている(575頁)。類義語のキヨシともども表記に「清」の字を使うことが多くある。時代別国語大辞典は、「キヨシが対象の汚れのない状態をいうことが多いのに対して、サヤケシはその対象から受けた主体の情意・感覚についていうことが多い。」(342頁)と解説する。つまり、この二語は似て非なる形容詞である。土屋1949.に「益々さやかになつたことである。」(118頁、漢字の旧字体等は改めた)、澤瀉1958.に「昔にもましていよいよさやかになつたことよ。」(230頁)と訳しているのはまずは無難なところである。難渋の後が見える訳は、大系本萬葉集の「清潔明亮の風光いよいよ新たになったことを感じる。」(168頁)である。現在通行している訳では、清らかになっている、すがすがしくなっている、としていてどれも誤りである。
 太古の昔に見られたきさという名を冠したきさの小川のことを今見てみると、齢を重ねてまったくもって確かなことになっているらしいよ、吉野だけに、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……、代+代+代+代+代+……なのだものなあ、と言っている(注7)

➄笠金村の作(巻六、万920~922)

  神亀二年乙丑の夏五月、よし離宮とつみやに幸す時に、笠朝臣金村の作る歌一首〈あはせて短歌〉
 あしひきの み山もさやに 落ちたぎつ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば かみには 千鳥しば鳴く しもには かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに しじにしあれば 見るごとに あやにともしみ 玉葛たまかづら 絶ゆること無く 万代よろづよに かくしもがもと 天地あめつちの 神をそ祈る かしこくあれども(万920)
  反歌二首
 万代に 見とも飽かめや み芳野の 激つ河内かふちの 大宮所(万921)
 皆人の いのちわれも み吉野の たぎ常磐ときはの つねならぬかも(万922)

 この長短歌では、川の水のタギツところを歌っている。ヨシノ(吉野)はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところだから水がヨヨと流れるということである。また、車持千年の「吉野讃歌」に出ている句を流用している。興味深い作りは、長歌の対句表現、「上辺には 千鳥数鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ」である。シバ(数)は数が多いことを表すが、同音の言葉に柴刈りのシバがある。柴は燃料や垣根にする灌木や低木、小枝などのことで、タケ・ササ類も区別されずに柴垣しばかきに作られ、また、フシとも言う。

 籬 垣なり、竹柴類等垣を籬と曰ふ。志波加支しばかき、又たけ加支かき(新撰字鏡)
 ……あめさか青柴垣あをふしかきに打ち成して隠れき。〈柴を訓みて布斯ふしと云ふ。〉(記上)

 千鳥がさかんに鳴いている「上辺」は、タケ・ササ類に特徴的な「ふし」が数々あるところということになる。一方、「下辺」では、カハヅが妻を呼んでいる。カハヅはカジカのことか蛙の歌語とされる。水がヨヨと流れるところの水生動物の鳴き声である。同音の言葉に船着場の河津がある。川幅が広くなる下流には対岸への渡し場があって、向こう岸の妻を呼んでいるということであろう。そのような呼びかけ語に「よ」という言葉がある。良い声で呼んでいるらしい。

 沖つ藻は には寄れども さどこも あたはぬかもよ 浜つ千鳥よ(神代紀第九段一書第六、紀4)
 もよ み籠持ち くしもよ み掘串持ち ……(万1)
 …… 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 吾も通はむ(万79)

 「ふし」、「よ」と、声をあげ続けているのは、ヨシノがヨ(節間)+シノ(篠)と名を負った存在だからである。名を体現している(はずの)様子を作り出して歌っている。単なる取り合わせであったろう「千鳥」と「かはづ」から、吉野に適合した意味を抽出している。稀なことで心惹かれ、珍しいと思う事態である。そのことは、こんな山奥に大宮人が大挙して来ていることにも表れている。諧謔に富んだ表現である。
 「ももしきの 大宮人も をちこちに しじにしあれば」と言っている。宮廷人があちらにもこちらにもぎっしりいっぱいにある、とは、吉野の川のあちら岸にもこちら岸にシジニいるということである。片岸ならカタであり、両岸そろっている場合はマと形容する(注8)。つまり、マシジな様子だと言っている。助動詞マシジは「……のはずがないだろう」という打消された事態の推定を表す。ありえないであろうことが起こっているから、「あやに」、霊妙不思議に、言いようもなく、ひどく無性に「ともし」(ともし)、珍しいと思い、心惹かれるように感じていると言っている。言葉遊びに遊んでいるのである。「千鳥」がたくさん鳴き、「かはづ」が妻を呼ぶように声をあげ、大宮人が川を挟んで両岸に参集していることを写実的に捉えてみても、特に珍しくもなく、魅せられるような事態でもない。自然豊かな地へ行幸した情景から受けた印象を語るのではなく、言葉のあり様としておもしろがっている。端的な比喩でいえば、「リンゴは赤い。」ではなく、「リンゴは三文字である。」というメタ言語的機能に対して「あやに乏しみ」であると語っている。
 言葉遊びはさらに続き、これが未来永劫つづいて欲しいと天地の神に願うことは、神に対して恐れ多いことであるし、こんな偶然が重なることはもったいないことだと思われることでもあるとしている。そこで、歌を「畏くあれども」で結んでいる。機知に溢れたなぞなぞが歌全体に仕掛けられていた。

➅山部赤人の作(巻六、万923~925・926~927)

  山部宿禰赤人の作る歌二首〈あはせて短歌〉
 やすみしし わご大君の 高知らす よしの宮は たたなづく 青垣隠あをかきごもり 河次かはなみの 清き河内かふちそ 春べは 花咲きををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いやますますに この河の 絶ゆること無く ももしきの 大宮人は 常に通はむ(万923)
  反歌二首
 み吉野の 象山きさやまの ぬれには 幾許ここださわく 鳥の声かも(万924)
 ぬばたまの けゆけば ひさふる 清き川原かはらに 千鳥しば鳴く(万925)
 やすみしし わご大君は み吉野の あき小野をのの 野のには 跡見とみ据ゑ置きて み山には 射目いめ立て渡し 朝猟あさかりに 鹿猪ししみ起し 夕狩ゆふかりに 鳥み立て 馬めて かりそ立たす 春の茂野しげのに(万926)
  反歌一首
 あしひきの 山にも野にも 猟人かりびと 得物矢さつや手挟たばさみ 騒きてあり見ゆ(万927)
  右は、先後を審らかにせず。但、便たよりを以ての故に此の次に載す。

 第一長歌に、吉野宮を「青垣隠り」と形容している。その理由は、ヨシノ(吉野)という言葉がヨ(節)+シノ(篠)に聞こえたから、タケ・ササ類のなかでもシノ(篠)に特徴的な、成長しても皮を落とさない性質のことを言っている。「たたなづく」と言っているのは、タケノコのときの皮が重なりあう様子を畳のように畳みかける風情に見立てている。タタミ(畳)が畳床を伴ったのは後の時代のことであり、当初は今日の畳表に当たるものであった。畳み癖を気にして巻いて仕舞われることも多かったようである。類似する敷物である茣蓙との違いは、その作り方にある。畳では、麻糸を経糸にし、それの二本ごとにイグサの緯糸を表裏させ、筬で強く叩き畳みこむように織り、経糸が見えないようにしている。
 ヨシノ(吉野)はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものとされ、皮/皮/皮/……\皮\皮\皮と畳みこまれていたものが伸長していったと捉えられている。つまり、中に宮が包まれているのであれば、それは「たたなづく 青垣隠り」状態になっているということになる。
 ミヤ(宮)は当初のあり方からして、スサノヲの造ったスガの宮のように、宮殿建築の豪華さをその特徴とするのではなく、八重にめぐらされる垣根を持つものとして認められていた。ミ(御)+ヤ(屋)と呼ばれるからにはなにより屋根が大切であり、何重にも垣根がめぐらされれば中を窺い知ることはできずに外からは屋根しか見えない。それは、タケノコが何枚もの皮に包まれていることと等しく、「吉野の宮」という表現は宮の概念を徹底させたものであると言えた。タケノコはみずみずしく、「河次かはなみ」という語へと反映していっている。
 プライバシーを確保するために作られたのが宮であった。そこへ「大宮人は 常に通」って何をするのか。「大宮人」は夫婦同伴で来ている。最終的には、夜に仲良し事をするのである(注9)。山奥の別荘へ行った夫婦連れにとって、その夜にすることなど他にあるのだろうか。することをすれば当然、できるものはでき、夫婦は父と母になる。
 反歌の一首目、万924番歌に、「象山きさやま」という地名が登場する。旅人の万316番歌にすでに見たように、「きさ」のものだとはっきりわかるのは、ナウマンゾウの歯の化石においてである。漢字としての「歯」は「よはひ」と同義で用いられ、ヨ(代)を語る文脈で使われてふさわしい。そして、「歯」の訓みはハであり、物のにあるものはみなハであり、例えば植物ならハ(葉)であった。葉は「ぬれ」にある。そこに鳥が来ている。鳥の最大の特徴は飛翔にあり、ハ(羽)があるからできる。「幾許ここだ」と量が多いさまで騒ぐのは、ハをたくさん発見して嬉々としているためである。ハ(羽)を持つ鳥が発見しているのはハ(歯)である。ハハ(母)ということになっている。
 二首目の万925番歌は、夜の営みをにおわせるように、「ぬばたまの 夜の更けゆけば」と設定している。そこに、「ひさ」が出てくる。ヒサギという植物は、今日、アカメガシワ、キササゲのいずれかであるとされ、アカメガシワ説が有力視されている(注10)。だが、万葉集の歌四首が同一のものを指すのであれば、万1863番歌に「咲く」とあり、また、「落ち」ると言えるのは、花弁のしっかりしたものと考えられ、蕊ばかりで成り立っているように見えるアカメガシワであるとは考えにくい。

 ぬばたまの けゆけば ひさふる 清き川原に 千鳥しば鳴く(万925)
 去年こぞ咲きし 久木今咲く いたづらに つちにや落ちむ 見る人なしに(万1863)
 波の間ゆ 見ゆる小島の 浜久はまひさ 久しくなりぬ 君に逢はずして(万2753)
 度会わたらひの 大川のの 若久わかひさ 吾が久ならば 妹恋ひむかも(万3127)

キササゲの実(翌春まで残った例)

 そう考えるなら、キササゲの実は莢になっていて形状は象の臼歯のようである。そして、キササゲの莢の中の種は綿毛のついた翼状になっていて、それは鳥でいえば羽に当たるものであり、「千鳥しば鳴く」ことを予感させるものである。ヒサギをもって久しいことを言わずに、「千鳥しば鳴く」ことを言っているから、この「久木」はキササゲのことと考えられる(注11)
 さて、その「千鳥」は何と鳴いているか。チドリがしきりに鳴いている声は、チチ、チチに決まっていよう。父になっているのである。第一長歌と短歌二首の関係は、吉野の宮が子作りにいいことを歌った歌であった。実際に子宝に恵まれると伝わる温泉が湧いていたといったことではなく、ヨシノ(吉野)がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるもので代+代+代+代+代+……とつづくのは、人がハハ(母)とチチ(父)になることをくり返すことによってである。詩的な頓智が歌にされ、人々は歌に張りめぐらされた謎解きを楽しんだのであろう。
 第二長歌と反歌では主題が狩猟になっている。歌の文句は狩りの歌の常套句ばかりである。ヨシノ(吉野)という言葉がヨ(節間)+シノ(篠)に聞こえ、どんどん伸びてヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……となるシノ(篠)の代表格がヤダケであり、まっすぐに伸びる性質から、矢のノ(箆)、また、ヤガラ(矢柄)と呼ばれるシャフトに使われた。先端に鏃をつけ、反対側に矢羽をつけた。吉野という地名にゆかりして能力の高い「得物矢さつや」が登場している。
 狩りの舞台は「み吉野の 秋津の小野」である。アキヅとは蜻蛉のことで、上手に飛んで行って虫を捕まえている。「得物矢さつや」の役割も、トンボにあやかるのに足るものであったろう。トンボの胴はヤダケによく似て節づいた姿をしている。地名から得られた観念をもって狩りの歌が作られている。短歌で「得物矢さつや」にばかり収束しているのは、地名由来の話であったことを裏付ける。
 左注の、「右不先後。但、以便故載於此次。」の「右」は万923~927番歌の二群の長短歌のこと、「先後」は、万923~925番と万926~927番歌のことを指すとする説(吉井1984.59頁)が正しいといえる。ひとつの題詞のもとに作られている二群の長短歌である(注12)

➆山部赤人の作(巻六、万1005~1006)

  八年丙子の夏六月、よし離宮とつみやに幸す時に、山部宿禰赤人、みことのりに応へて作る歌一首〈あはせて短歌〉
 やすみしし わご大君の したまふ 芳野の宮は 山高み 雲そたなびく 河速み 瀬のそ清き かむさびて 見ればたふとく よろしなへ 見ればさやけし この山の 尽きばのみこそ この河の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 む時もあらめ(万1005)
  反歌一首
 かみより 芳野の宮に ありがよひ 高知らせるは 山河をよみ(万1006)

 この赤人の歌は、ほぼこれまでの歌の踏襲である。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)で、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものだから、代+代+代+代+代+……なるものだと言っている。山について、「山高み 雲そたなびく」と形容しているのは、山に雲がかかって霧や雨にヨヨと濡れていっていることを、川について、「河速み 瀬の音そ清き」と形容しているのは、水の流れがたぎつほどにヨヨと流れていることを暗示している。また、「見ればさやけし〔見者清之〕」は篠の葉鞘、サヤ(鞘)をかけた使い方である(注13)。メダケが葉鞘を残し群れ立つさまは、まるで矢絣模様を思わせる(注14)
 その後の「この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 む時もあらめ」は、山のように出てくるタケノコが出なくなって川のように水気もほとばしり流れなくなったら、この宮所もなくなる時もあろうが、そのようなことはあるまい、と言っている。ヨシノという名を負っているところは、その名のとおりにいつまでも代+代+代+代+代+……と篠に恵まれ、篠突く雨を川が集めてヨヨと水が流れることだろうというのである。そういう状態はヨシノと名がついてからずっとそうである。それが言=事であるとする本来の意味での言霊信仰に裏打ちされたコトなのである。いつからそのように呼ばれていたか。地名の由来などわかるものではない。ずっと昔、人知の及ばない時代からであり、それに呼応して人々は「神代」から絶えず通っている、山も川もヨシノという名を負っていることをきちんと体現し、それをうけて人々もそうしているというのである。
 ところが、吉野行幸は奈良時代においてこの時が最後である。なぜこれ以降行われなくなったかについては、水害があって吉野の宮所が壊れて復旧せずに放置されたから、歌のあり方に限ってならこのような歌い方はすでにマンネリ化してつまらないと思われたから、疫病の流行と吉野の地がからめて考えられて遠ざかることになったから、など、いくつか仮説が立てられている。筆者は語学的に考え、吉野がヨシノであるための根幹が崩れたからと推測する。ヨシノにあって然るべきシノ(篠)が枯れてなくなったのである。タケ・ササ類は、長い周期、例えばハチク(淡竹)では百二十年に一度の間隔で一斉に開花し、枯れてしまう。枯れた篠を目にするわけにはいかない。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……=代+代+代+代+代+……でなくなってしまうからである(注15)
 上代の人にとって、もしそのようなタケ・ササ枯れが起こっていたとすると、ヨシノなのにヨシノではないというニヒリズムに陥ってとても困ったことだろう。言葉が事柄を表し、事柄が言葉を生むはずの、以前は安定した均衡にあった関係が崩れている。対処法としては、なかったことにすること、見ないことにするしかない。吉野へは行幸せず、吉野のことは思い出さないようにして、話にのぼらせなければ観念の世界の秩序は保たれる。これは仮定の話である。

➇大伴家持の作(巻十八、万4098~4100)

  よし離宮とつみや幸行いでます時の為に、けて作る歌一首〈あはせて短歌〉
 たかくら あまつぎと 天の下 知らしめしける 皇祖すめろきの 神のみことの かしこくも 始めたまひて たふとくも 定めたまへる み吉野の この大宮に ありがよひ したまふらし もののふの 八十やそともも おのへる 己が名負ひて 大君の けのまにまに この河の 絶ゆることなく この山の いやぎに かくしこそ 仕へまつらめ いや遠長とほながに(万4098)
  反歌
 いにしへを 思ほすらしも わご大君 吉野の宮を あり通ひす(万4099)
 もののふの 八十やそ氏人うぢひとも 吉野川 絶ゆることなく 仕へつつ見む(万4100)

 「為-行吉野離宮之時、儲作歌」とあり、事前に準備して作っていた歌である。万4098番の長歌では、前半に祖先が造った宮に天皇がずっと通い続けていることが述べられ、後半に臣下たちも拝命に従って代々仕えようと言っている。そのことは反歌に反映していて、万4099番歌では天皇がその先祖のことを思いながら吉野の宮に通っているであろうことを、万4100番歌では臣下がそれに伴う形で仕えて同道することを歌っている。そのために、「もののふの 八十やそとも」という常套句を登場させている。むしろここでは、そのような常套句があったことに思い至り、ならばその常套句をもって状況を新たな視角から切り取れないだろうかと考えて、臣下が仕える話へと展開させて行っている。それがこの歌の新しさである(注16)
 これまで、吉野というところは、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところと歌われ続けてきた。それに対して、臣下も子々孫々お仕えして行こうというのである。ここで、臣下が仕えるのは天皇だから、吉野の離宮のことなど関係ないように思われる(注17)。しかし、そうではないというのがこの歌の眼目だろう。
 仕えるべき臣下のことを、「もののふの 八十伴やそとも」(万4098)、「もののふの 八十やそ氏人うぢひと」(万4100)と言っている。「もののふの」は枕詞で、武人が射る矢のことからヤソ(八十)、多くの氏があることからウヂ(宇治)にかかるとされている。万4098・4100番歌に共通するのは、モノノフノ ヤソの部分である。このヤやソ(甲類)という音は、掛け声である。ヤは、人に呼びかけるときにいう言葉である。「呵責して言はく、、汝、何ぞ此のきたなき地に居るといひ、」(霊異記・下・七)とある。ソ(甲類)は、万葉集の戯書に「そま〔追馬喚犬〕」(万2645)とあるように、馬を追う声である。たくさんいる「もののふ」を軍隊として機能させるためには、訓練して号令とともに同時に動くことが求められる。将軍は兵隊にヤと掛け声をあげ、兵隊は各々が担当する馬にソと声をあげて進ませるのである。すなわち、「もののふ」とは、将軍としての武人ではなくて多くの氏のひしめく下級武士、馬に騎乗する人ではなくて馬を曳く人のことを指している(注18)。それを「むま」と言ったのだろう。
 歌の前半で天皇が吉野へ通い続けることを歌っていて、それに仕えるのが「もののふ」であるとするなら、天皇を騎乗させるものとして捉えていることになる。実際には輿に乗せて吉野へ向かった可能性が高いが、やっていることは同じである(注19)。吉野へ通う天皇自体が皇祖、アマテラスのむまごに当たるホノニニギの子孫むまごなのだから、同じくむまの名を負うべき臣下は、お仕えするのが当たり前だという理屈を語っている。

 五百いほ城入彦皇子きいりびこのみこむまごなり。(仁徳前紀)
 ねの使主おみ、今より以後のち子々孫々こむまご八十やそ聯綿つづきに、群臣まへつきみたちつらにな預らしめそ。(雄略紀十四年四月)
 孫 爾雅に云はく、子の子を孫〈音は尊、和名は無麻古むまご〉と為といふ。(和名抄)
 陸奥国みちのおくのくに桃生城もむのふのき出羽国いではのくに勝城かちのきを造るにえたてる郡司こほりのつかさ軍毅いくさのきみ鎮兵おさへのいくさ馬子むまご、合せて八千一百八十人は、……(続紀・天平宝字三年九月己丑、擬古訓)

 長歌の、「もののふの 八十やそともも おのが負へる 己が名負ひて」部分は原文に、「毛能乃敷能夜蘇等母能乎毛於能我於弊流於能我名負々々」とくり返し記号が二つ続いている。誤字と見て、もと一つであったとする説が根強く、現状のように訓まれている。しかし、そうではあるまい。見てきたように天皇がムマゴ(孫)なのだから、「もののふ」もムマゴ(馬子)であることが求められている。「々々」というくり返し記号は「夜蘇やそ」を表していると推定される(注20)。「もののふの 八十やそともも おのが負へる 己が名負ふ八十やそ」と訓んで、ヤ・ソと掛け声をかけながら働くことを代々続けるつもりだと主張しているのである。言葉遊びの粋を極めており、「儲作歌」、つまりは頭の体操としてきわめて技巧的な歌に仕上げられている。

(注)
(注1)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」。これまで吉野讃歌と言われてきた歌群の内実は讃歌ではないが、便宜的に括弧付きで「吉野讃歌」と呼ぶこととする。
(注2)聖武天皇は文武天皇以来の十七年ぶりの男帝で、吉野は天武朝の発祥の聖地だから、その霊魂を付着させるためであるとする見方がある。その説の考えに、冒頭の「み吉野の 吉野の宮は」というくり返し表現は、紀126歌謡を踏まえた表現であるとするものがある。

 みえしの えしの鮎 鮎こそは しまき え苦しゑ 水葱なぎもと せりの本 あれは苦しゑ(天智紀十年十二月)

 吉野に逃げ籠った天武天皇の嘆き節を語るような「童謡わざうた」であり、ミエシノノ エシノノと歌っている。ミヨシノノ ヨシノノとは音が異なる。全然ハッピーではない歌謡を連想させる歌を、聖武天皇ならびに居並ぶ歴々に聞かせようとしていたのだろうか。「未奏上歌」になった原因の可能性さえある。この「未奏上」という題詞の断り書きについては、伊藤1975.に専論があるが不可解である。作っておいたけれど場にそぐわないと認められたり、場の様相が変ずれば奏することなく終わって何ら不思議ではない。余興の出しものにすぎない歌を披露せず仕舞いになった時、ネタ帳にだけ書き残すことに何ら疑問は浮かばない。
 「天地と 長く久しく〔天地与長久〕」は漢籍にしばしば現れる「天地長久」の直訳的表現であるとされている。清水1970.は、議論の端緒として、契沖・代匠記(精撰本)の「長久ハナカクヒサシクトモ和スヘキカ」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979062/339)との註の意を深読みし、契沖は「ナガク」と「ヒサシク」とを結合させることに和語らしさを認めるのに躊躇したからかと推測しているが、おそらく「長久」をナガクと訓むべきか、ナガクヒサシクと訓むべきか、考えていたのだろう。小島1964.は、「与天地而長久、等金石而逾固、中岳可転、長河有清。」(梁・王僧孺・礼仏唱道発願文)などを引いて似ているだろうと示している。何が問題か。そもそも本邦における表現の発端が漢籍から得られたものかどうか、証明することはできない。ヤマトコトバで「あめつちと ながくひさしく」と言ったのを「天地長久」風に書き表したのか、漢籍的知識から「あめつちと ながくひさしく」と言うようになったのか、見極める手立てがない。永久の観念の有無について語れるほど、我々は上代の人のものの考え方に明るいとは言えない。
 また、「万代に 変らずあらむ〔萬代尓不改将有〕」にある「改」という字は、歌詞としては万葉集中にここにしか用いられておらず、題詞にはいくつか例が見られるから、この「改」字は漢詩文を出典として使われていることを暗示するとしているという(清水1970.144頁)。そして、いわゆる「不改常典」の法を参照している。それは、続紀・元明天皇・慶雲四年七月十七日・第三詔に初出し、当該歌の歌われたであろう神亀元年三月のひと月前、続紀・聖武天皇・神亀元年二月四日・第五詔でも使われていて、その宣命の文言を踏まえた表現なのであるとしている。「万世改」(第五詔)と「万代迩不改」(万315)は字面が似ているからという。小島1964.に至っては、「天地と長く久しく」、「万代にかはらずあらむ」は「共に宣命にもみられる常套語句であり、宣命の性格に照らしても、まづこれらの歌句が中国的表現に基づくものであると云へる。」(929頁、漢字の旧字体は改めた)と決めてしまっている。
 歌は歌として声に発せられるもので字面ではない。「よろづよにかはるましじき(常の典)」と「よろづよにかはらずあらむ(行幸の宮)」では口にする言葉が少々異なり、かかる言葉にも相通じるところはない。表記の仕方で中国から学んだところが多かったのは、なにしろ漢字ばかりで書いているのだから当たり前のことである。すべての「文字」は漢詩文を出典としている。漢詩文の言葉を出典としているとは言えない。くり返しになるが、似たように書いてあるからといって、漢籍から得た表現かどうかは定められないのである。わかった気になってはならないことは本文で縷述した。ヤマトコトバと文字を有する日本語の間には大きなずれがある。仮名が作られた背景もそこにある。
(注3)亀田1985.は、記紀に所載の櫛の特徴は古墳時代の竪櫛に近いとし、古墳出土の竪櫛に呪術的な役割を付与させる考え方は再検討を要するとしている。
(注4)「山からし 貴くあらし 川からし 清けくあらし」とあるところについて、論語・雍也篇の「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。(知者楽水、仁者楽山。)」に基づくのだという(清水1970.)。このような主張は、もはや不可解としか言えない。宮という建物のことを、どうして智者や仁者として扱うのだろうか。
(注5)高松2007.には、旅人が〈翁〉の立場で祝言を述べているとする説まである。
(注6)和名抄に、「象 四声字苑に云はく、𤉢〈祥両反、上声の重、字は亦、象に作る、岐佐きさ〉は獣の名、水牛に似て大き耳、長き鼻、眼細く、牙長き者なりといふ。」、「蚶 唐韻に云はく、蚶〈乎談反、弁色立成に岐佐きさと云ふ〉は蚌の属、状は蛤の如く円くて厚し、外にすぢめの縦横に有り、即ち今の魽なりといふ。」、「橒 唐韻に云はく、橒〈音は雲、漢語抄に岐佐きさと云ふ。或説に、岐佐きさは蚶の和名なり、此の木の文は蚶貝の文と相似れり、故に取りて名くとす。今案ふるに、和名の者の義の相近きを取るも、此の字を以て木の名と為ること未だ詳かならず〉は木の文なりといふ。」とある。象の場合、象牙を削って現れた木目模様ばかりか歯の化石の表面のぎざぎざをもってキサと名づけたのではないか。
(注7)万葉集の「さやけし」例は二十首ほど、名詞形の「さやけさ」も十首ほどに及ぶ。不適切な解釈が多く、読み直しが必要である。拙稿「「さやけし」について」参照。
(注8)万葉集の戯書に、「左右手」(万1189)と書いてマデ(迄)と訓ませている。
(注9)多田2011.に鳥の声の神秘性を説き、土佐2020.に夜の秘儀が行われていると説いている。研究史についてはそれらを参照されたい。
(注10)木下2010.参照。
(注11)由来は知られないが、キササゲは雷除けとして神社仏閣に植えられる。古事記に、イザナキが黄泉国から逃げる際、黒御縵くろみかづらを投げて蒲子えびかづらのみとなったのを追手が食べ、湯津々間ゆつつまくしを投げたらたかむなとなったのを食べている間に逃げて行っている。その後、話はさらにエスカレートしている。「其のくさのいかづちの神に、千五百ちいほ黄泉よもついくさへて追はしむ。爾くして、御佩みはかしつかの剣を抜きて、後手しりへできつつ逃げ来ますに、猶追ふ。」(記上)となっている。後手に振く様は、右に左に振り返りながら剣を振るうもので、腰に残している鞘のほうも腰のひねりに応じてふらふらと振れていることから近づけずにいたという描写なのであろう。鞘はキササゲの莢のようにも見える。雷除けにされた由緒は正しいものと言えそうである。
(注12)通説では、第二長歌に「春のしげに」(万926)とあるから、作歌時期は神亀元年(724)三月一日~五日の吉野行幸の際のものであると考えられている。しかし、ヨシノ(吉野)という言葉がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と聞こえるというところから言葉遊びを展開しているのがいわゆる「吉野讃歌」の実態である。万926番歌にはすでに、「み吉野の 秋津の小野」と言ってしまっている。秋のことに限らないと赤人は留意しておきたかったのだろう。あくまでも、代+代+代+代+代+……のことであり、「代」は一世代、おおよそ二十年をもって数える時間的な広がりを持ち、四季のことなど問うものではない。歌の主旨に言葉遊び以上のものはなく、実際のところ狩りは行われていないだろう。
(注13)上掲の万315番歌同様、諸注釈書の訳出は馴染んでいない。
(注14)室井1973.3頁に見事に指摘されている。
(注15)2019年頃を中心に竹枯れの時期を迎えている。
(注16)大伴家持が「名」を「負ふ」と歌って自らのアイデンティティを語るとき、「もののふの 八十やそとも」なる文言も併用している(万4094)。その理由は、オホトモ(大伴)という名は大きなともに通じ、鞆とは、弓を射たときに弾いた弦で怪我しないように左手首付近に巻く防具のことである。すなわち、彼自身は律令官僚となっていて武人ではないのだが、昔語りのなかで、その出自なり、その祖の由緒正しいことを証明するものとして歌のなかで歌っているのである。律令制度では不要な自意識であろうが、歌を詠むときにはどうしてその歌を大伴という人が歌っているのかが確かめられ、ブロックチェーンのような役割を果たすことにもつながっていたのであろう。この歌で「もののふの 八十やそとも」などと持ち出しているのは、確かに歌っているのは伴氏に違いないが、大伴氏だけが天皇の吉野行幸に従っているわけではない。話の持って行きようとして、馴染みある常套句を持ち出しているのである。
(注17)新沢2003.は、「臣下は、歴代天皇の吉野宮継承に連動して「己が名」を継承し、その結果として天皇への「仕奉」を完遂するという、天皇と臣下の継承の連動を表現する。」(124頁)とまとめているが、吉野宮継承と臣下の名前の継承が連動していたとすると、ながらく途絶えていた吉野宮行幸時には臣下は名を失っていたことになってしまう。新沢氏のあげた当初の問題点、「出金詔を機に皇統讃美意識や天皇讃歌制作への意欲が高まったのだとしても、それがなぜ吉野行幸歌という形式によって表出されたのかという点」(122頁)は解消していない。
 このような誤解は歴史的なものである。本居宣長・古事記伝、允恭天皇の氏姓を正す条の「天の下の八十やそ友緒とものをの氏姓を定め賜ひき。」に関して、名とは何かを説明している。「古は氏々の職業ワザ各定まりて、世々相て仕奉りつれば、其ワザ家の名なるが故に、【氏々の職業は、もと其先祖の徳功イサヲに因てうけたまはり仕奉るなれば、是もホメたる方にて名なり、】即職業ワザを指ても名と云り、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/394~5、漢字の旧字体は改めた)とあり、一例として万4098番歌も引いて、「これらを以て氏々のワザをもカバネをも名と云ることを知べし、」と述べている。なお、「於能我於敝流於能我名々オノガオヘルオノガナヽオヒ」とあり、「己が負へる 己が名々負ひ」と訓んでいて、「この名々ナヽオヒを今本に、名負名負と誤れり、」としている。歌の解釈に踏み込んだものではないが、家名を負い持つ各氏族が臣下として天皇に仕えることとしか捉えられていない。もしそれが大事なことなら、どうして吉野行幸の折に歌われているのか解かなければならないが、問われてもいない。
(注18)「やそ(八十)」にかかる枕詞「もののふの」のかかり方が有機的であったことが理解されよう。
(注19)家持のこの作は、題詞に「賀陸奥国出金詔書歌一首〈并短歌〉」、左注に「天平感宝元年五月十二日、於越中国守舘大伴宿禰家持作之」とある万4094~4097番歌の次に記され、題詞に「為京家、願真珠歌一首〈并短歌〉」、左注に「右、五月十四日、大伴宿禰家持、依興作」とある万4101~4105番歌の前に置かれている。すなわち、749年5月12日~5月14日に作られたものであると考えられており、万4105番歌の後にある左注の「右」は、当該「為‐行芳野離宮之時、儲作歌一首〈并短歌〉」(万4098~4100)をも指すと考えられている(伊藤1998.527~528頁)。つまり、家持の「吉野讃歌」は「依興作」の歌である。
 小野1980.に、「吉野行幸預作讃歌[万4098~4100]は生まれるべくして生まれたとも言える。それは「陸奥国出金詔書」によって目覚めさせられた皇統讃美意識の落し子であったのだ。」(313頁)とし、その説は今日に継承されている。皇統讃美意識がゼロであるとは言わないが「依興作」である。万4094番歌に「もののふの 八十伴の緒」という文句を使ったことを引き継いで、興にまかせて吉野の離宮への行幸を想定した歌を作っている。越中に地方赴任している身であり、行幸に従駕して多くの人の前で歌を歌う機会など、小野氏の希望的観測とは違い、まずない。聖武天皇の吉野行幸は天平八年(736)に山部赤人の「応詔作歌」(万1005~1006)が歌われたのを最後に行われなくなって久しく、王権讃歌(?)も天平十六年(744)頃と思われる田辺福麻呂の「難波宮讃歌」(万1062~1064)以降行われなくなっている。「家持の心象中の仮想の産物」(高松2007.409頁)なのである。
 そのとき使われている「もののふの 八十」という言葉は、大伴氏の自負の念、矜持の心を引き出すものではない。そしてまた、それにつづく万4101~4105番歌も、都に残している妻に真珠を贈ろうという歌であり、都から遠く単身赴任させられている我が身をかこつような歌となっている。
 陸奥国から金が出たとの聖武天皇の詔書の終わりのほうに、「又大伴・佐伯宿禰は、常も云はく、天皇すめらみかど守り仕へ奉る、事顧みなき人等ひとどもにあれば、いましたちのおやどもの云ひ来らく、海かば みづくかばね、山行かば 草むす屍、おほきみの へにこそ死なめ、のどには死なじ、と云ひ来る人等となも聞こし召す。」(続紀・13詔)とある。昔の大伴氏の功績が讃えられて詔書に接し、それに応じんがために歓び寿いだ歌を作ってはみたものの、気持ちが高揚しているわけではなくて彼の「興」はそこにはなかったということである。
 題詞にある「為‐行芳野離宮之時、儲作歌一首〈并短歌」の真意について、家持が帰京後に吉野行幸に従駕することを期待しての作とする説が通行している。「けて作る」歌とは、それが使われることが必ずあるから予め準備して作っておくというニュアンスよりも、現状ではうまくいっているがそれがもしも駄目になったとき代用されるものを指すのであろう。すなわち、家持は、ほとんどそんな機会は訪れないことを知っている。言葉遊びを遊んでいるだけである。菊池2005.の誤解と疑問、「家持の儀礼歌が君臣和楽を旨とする肆宴の場を志向するものであることは時代の趨勢であり、……この吉野讃歌が臣下の出自を原則として無化する官僚組織の一官人の立場を踏まず、氏の意識を根底に据えていることの異常性は否定できない。」(70頁)点は氷解するであろう。
(注20)原文、西本願寺本に「麻氣能麻久々々」は元暦校本に「麻氣能麻久麻久」とある。「久」字を「尓」の誤写として「けのまにまに」と訓む説がある。しかし、「於能我名負々々」のくり返し記号によって、歌のなぞなぞの出題とするために、ふだんとは違う訓みになるマケノマクマクをそのとおりに訓むことで、「於能我名負々々」についても少し考慮するようにと指示する意図があったとわかる。家持にあっては、エクリチュールについても繊細の精神を宿していたのだった。

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加藤良平 2022.9.16初出

藤原宮の御井の歌

「藤原宮御井歌」の問題点

  藤原宮の御井みゐの歌〔藤原宮御井歌〕
 やすみしし わご大王おほきみ 高照らす 日の皇子みこ 荒栲あらたへの 藤井が原に おほかど 始めたまひて 埴安はにやすの 堤の上に あり立たし したまへば 大和の あを香具かぐやまは 日のたての おほかどに 春山と みさび立てり うねの この瑞山みづやまは 日のよこの 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成みみなしの 青菅山あをすがやまは ともの 大き御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は 影面かげともの 大き御門ゆ くもにそ 遠くありける 高知るや あめかげ あめ知るや 日のかげの 水こそば とこしへ(注1)にあらめ 御井のまみづ〔八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原尓大御門始賜而埴安乃堤上尓在立之見之賜者日本乃青香具山者日經乃大御門尓春山跡之美佐備立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門尓弥豆山跡山佐備伊座耳為之青菅山者背友乃大御門尓宣名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門従雲居尓曽遠久有家留高知也天之御蔭天知也日之御影乃水許曽婆常尓有米御井之清水〕(万52)
  短歌〔短歌〕
 藤原の 大宮仕へ れつくや(注2) 処女をとめがともは ともしきろかも〔藤原之大宮都加倍安礼衝哉處女之友者乏吉呂賀聞〕(万53)
  右の歌は、作者未だ詳らかならず。〔右歌作者未詳〕

 長歌と短歌から成る一群の歌である。題詞にあるとおり、「藤原宮御井」を詠んだ「歌」でいる。一般に、長歌と反歌(反歌の位置にある「短歌」)との関係は、短歌のもつ独自性によって長歌の世界を発展的に展開して結び、その両者が力を合わせる形で一つの趣旨を述べているものと考えられている。この万52・53番歌でもそのとおりであろう。しかし、二つの歌を従来の通釈によったとき、一つの趣旨に収斂しているとは感じられない。
 窪田1951.に、「短歌は、長歌の賀の心から転じて、私情を云つたものである。」(151頁)、武田1956.に、「長歌では主として藤原の宮の自然美を描いたから反歌ではこれを補つて、人間の美を描くのである。」(245頁)、澤瀉1957.に、「長歌では御井を中心にした大宮の景観を讃美し、短歌ではその宮に奉仕する少女を羨む事に寄せてこの宮の長久を祝った。」(361頁、漢字の旧字体は改めた) と、特に疑問視されずにまとめられている。伊藤1983.に、「大宮の御井に仕えるおとめたちへの讃美を羨望のかたちで述べることによって、大宮の無窮をたたえた歌で、長歌と別途の観点から御井をほめたところに転換があり、「短歌」と標示するのにふさわしい。」(220頁)とする。土橋1988.でも、この長短歌を、「[藤原]不比等の側に立つ者の讃歌の方法」(33頁)と見ている。いずれの解説も腑に落ちるものではない。万52番の長歌と万53番の短歌が、内容的にいかに関わっているのか深く検討されないまま、安易に「藤原宮御井歌」に一括されているとして憚るところがない。長歌は、お治めになる「藤井が原」はいくつかの山に囲まれていて、井戸があって水が湧いていると歌っている。それをどのように評価するかについてはさまざまに論じられてきた(注3)が、前のめりにならずに歌そのものを聞く必要があり、それだけで十分である。短歌は、藤原宮に仕える女性たちはうらやましいと歌っている。この両者の関係は何か、明らかになっていない。

井戸讃歌の理由

 万52番の長歌に対しては、古典集成本萬葉集に、「御井の永遠を願う予祝歌だが、国見歌を踏まえた天皇讃歌……の発想を基盤に持っている。山を歌ったのは、山が水をつかさどるという考えによる。」(72頁)と解されている。本当だろうか。
 短歌の「藤原の 大宮仕へ れ付くや 処女をとめがとも」とは、藤原宮に奉仕するべく運命づけられている少女たちということで、「処女をとめがとも」は「鵜飼がとも」のように作業員のことを指しており、雑用に従事する采女に当たるとされている。万52・53番歌をひとまとめにし、井戸によって宮仕えの少女たちがうらやましいというのなら、それは、洗濯の効率がよくて仕事がはかどること、楽に済むことにおいてであろう(注4)。飛鳥浄御原宮では、洗濯するのに明日香川まで出かけて行ってやっていたが、藤原宮に遷都したら、遠くまで行かなくても潤沢な井戸水のおかげか宮の内にできるようになっている。これは楽ちんである。
 藤原宮は洗濯の宮であった。
 「藤原宮御宇天皇代」の持統天皇の「御製歌」も洗濯の歌である。

 春過ぎて 夏きたるらし 白栲しろたへの かわきたるあり 天の香具山(万28)
 乾いた洗濯物を手にして、ほら、よく乾いている、夏が来たんだねえ、と歌っている(注5)。天皇が洗濯の歌を歌うほどである。

 この単純な視点に気づくなら、「藤原宮御井歌」の内容、主旨は自ずと定まってくる。題詞にあるとおり「藤原宮御井歌」であり、それ以上のものではない。題詞はタイトルであって全体を枠組んでいる。「寿藤原宮御井歌」ではなく、持統朝の繁栄を祝ったり悠久を祈ったりする宮廷讃歌ではないのである。すなわち、宮廷讃歌の言葉づかいを借りながら、歌意としては宮にある井戸水を述べるに尽きている。
 万52番長歌の「御井之清水」の「清水」については、最終句を七音で終わらせたいため、マシミヅ、キヨミヅ、スミミヅなどと訓まれてきた(注6)。宮の周囲に山が配置するさまをことさらに歌っている。山に降った雨が湧き出ているとでも言いたいからだろう。「瑞山」は「水山」だとの洒落である。畝傍山のような丘程度の山がどれほど水分を保つものかわからないものの、山の麓には湧水がつきものである。また、「おほかど」、「おほかど」といった修辞がくり返されているのも、宮においては井戸がかどあたりに設置されることの反映と思われる。記紀の伝承では、海神の宮の門のところに井戸があった設定で話が作られている(注7)
 だが、その「御井」とされる井戸は、藤原京造営以前からあった井戸のようである。万52番長歌の前半に「藤井が原」とあり、それがつづまって「藤原」と呼ばれたとも考えられている。呼称の由来の当否はともかく、藤蔓などを用いた釣瓶井戸があったらしい。従来、訓み方の候補としてあげられていたマシミヅ、キヨミヅ、スミミヅは、水の清浄なることを指している。ところが、御井で汲みあげた水の主たる用途が、祭祀用ではなく、調理用でさえなく、洗濯用であると知れると、質より量が確保されているということが大事で、あるいは多少、大腸菌が検出されてもかまわないということになる。
 藤原京に遷都したのは持統八年(694)であるが、すでに元明天皇の和銅元年(708)にはそこから遷都するとの詔が下されている。実際に平城京へ遷ったのは和銅三年(710)である。短期間での移動の理由については確かなことはわからないながら、水質悪化問題が取り沙汰されている(注8)。藤原宮は水は得られているが、きれいな水は得られていなかったという点がネックになっていたと考えられる。「御井」と呼んだ井戸から、実は浄水は得られず、仕方がないから洗濯用に使ってよいことになった。采女は大助かりである。困るのは膳夫である。毎回煮沸して飲み水に当てていくのはたいへんである。人足を用立ててきれいな水を運ばせることもあっただろう。効率が悪いこと甚だしい。なぜそうなったか。
 藤原宮は遷都前の飛鳥浄御原宮よりも下流域に位置する。断続的に続いた飛鳥宮(飛鳥岡本宮(630~636年)、飛鳥板葺宮(643~645年)、後飛鳥岡本宮(656~667年)、飛鳥浄御原宮(672~694年))は生活排水を流していたのだから、飛鳥川を伝ってすでに汚染されていた可能性がある。藤原京遷都以降も、南東に高く北西に低い緩やかな傾斜地では、条坊道路に付随する側溝を流れる水は北方向へ流れる。庶民の糞尿、生活雑排水が王宮の方向へ流れてきてしまう。時間が経っても改善されそうにないと悟ったのだろう。
 万52・53番の「藤原宮御井歌」は、抜本的に読み替えられなければならない。

[──こそは(ば)──め]構文について

 万52番歌の最後の部分は、訓読と理解に覚束ないところがある。
 佐佐木1996.は、[──こそは(ば)──め]の構文について[──こそ──め]との違いについて文法的指摘をしている。[──こそは(ば)──め]の形を取るのは次のような例である。

もよ み籠持ち くしもよ みくし持ち このをかに 菜摘ます児 家聞かな らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそれ しきなべて 我こそせ 我こそは〔我許背歯〕 告らめ〔告目〕 家をも名をも(万1)
②…… 高知るや あめかげ 天知るや 日のかげの 水こそば〔水許曽婆〕 常にあらめ〔常尓有米〕 御井の清水(万52)
③人こそは〔人社者〕 おほにも言はめ〔意保尓毛言目〕 我がここだ しのふ川原を しめふなゆめ(万1252)
④雪こそは〔雪己曽波〕 はるゆらめ〔春日消良米〕 心さへ 消え失せたれや ことも通はぬ(万1782)
うれたきや しこ霍公鳥ほととぎす 今こそは〔今社者〕 こゑるがに 来喧きなとよめめ〔来喧響目〕(万1951)
⑥吾こそは〔吾社葉〕 憎くもあらめ〔憎毛有目〕 吾が屋前やどの 花橘を 見にはじとや(万1990)
⑦高山と 海とこそは〔与海社者〕 山ながら 如此かくうつしく 海ながら しかまことならめ〔然真有目〕 人は花物そ うつせみ世人よひと(万3332)
奈呉なご海人あまの 釣りする舟は 今こそば〔伊麻許曽婆〕 船枻ふなだな打ちて あへて漕ぎめ〔安倍弖許藝泥米〕(万3956)
⑨…… 今こそば〔伊麻許曽婆〕 どりにあらめ〔和杼理邇阿良米〕 のちは どりにあらむを 命は な死せたまひそ ……(記3)
⑩…… こそは〔那許曽波〕 にいませば 打ちる 島の崎々 る 磯の崎落ちず 若草の 妻持たせらめ〔都麻母多勢良米〕 はもよ にしあれば て は無して つまは無し ……(記5)

 佐佐木氏は①の万1番歌の訓みを問うて論じられているのであるが、筆者は①について別の観点を有しており、ここでは扱わないことにする。佐佐木氏は当該②について、「清水」はキヨミヅが最も難のない訓であるとしている(佐佐木1999.170頁)。
 そして、②⑤⑧の三例は、慫慂・勧誘の意をあらわす用法、それ以外は逆接の意をあらわす用法であるとする。⑤は、気に入らないホトトギスだが、今こそは声の嗄れるほどに、来て鳴いて声を響かせてほしい、⑧は、奈呉の海人の釣船は、今こそは船べりを叩いてあえて漕ぎ出してほしい、という意である。逆接の用法は、例えば③は、他の人は何でもないことのように言うけれど、私にはとても慕わしい川原なので、入れないように標を結うことなどけっしてしないでください、という意である。
 では、どうして同じ[──こそは(ば)──め]の構文なのに二つの意味に解されるのだろうか。⑤も⑧も、「今こそは(ば)」の形であらわれている。すなわち、ふだんのことと「今」のこととを対比させている。同様に、③で「人(他人)」と「我」、④で「雪」と「(雪でない)心」、⑥で「吾」と「(吾が屋前の)花橘」、⑦で「高山と海」と「人」、⑨で「今」と「後」、⑩で「」=「」と「」=「」とを対比させている。
 つまり、[Aこそは(ば)──め、B──]と、[A──、Bこそは(ば)──め]の形の違いである。先に出てくるAと後に出てくるBとを対比させ、先行するAを強調したらBは状況が反対になるから逆接に、後行するBを強調したら対比するAはその前提として現状確認となるからBは勧誘的にそうなって欲しいと訴える意になる(注9)。何と何との対比なのかを見極めることが文意の理解に直結する。
 当該②においてはこれまで誤解があった。②は、[Aこそは(ば)──め、B──]の構文なのである。
 荷田春満・萬葉集僻案抄に、最後の句を「御井之みゐの清水しみつは」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001739/viewer/127参照)と訓んでいたのは卓見であった。
 AとBとの対比が、「水(A)こそばつねにあらめ」と「御井みゐみづ(B)は(──)」とによって構成される文なのである。
 すなわち、ここは逆接の意と解さなければならない。
 水こそはあるだろうが、御井という名にふさわしい清水、浄水は(どうなのか)、と言っている。洗濯に使える風呂の残り湯のような水は湧き出ているが、飲み水に安心して使える水が得られていない、とぼやいているのである。そんな水道事情において助かるのは、洗濯にたずさわる采女ばかりであると「短歌」に皮肉っている。「藤原宮御井」は悪水であると、ワンセットの長歌と短歌で歌っている。長歌に藤原京の景観的構造を何だかんだと大仰に述べ立てていたのは、さぞやすばらしい宮都であろうはずが、「藤井」は「御井」たりえていないと言わんがための辛辣な諷刺表現になっている。「常尓有米」は通訓どおり「とこしへにあらめ」と訓むほうが、ブラックユーモアにかなっている。
 「藤原宮御井歌」=寿ぎ歌説は否定された。中国の思想に基づいて作られた東西南北に正方形的な宮都は水問題のために不衛生で非効率、喜んだのは洗濯女だけだとあざけっている。作者が誰だかわからないようになっているのは当然のことである。遣唐使派遣によって最新の中国思想や技術に触れたこともあり、新都を築いて遷ろうということになったようである(注10)

(注)
(注1)「水許曽婆常尓有米」を「水こそば とこしへにあらめ」と訓む説が多いが、佐佐木1999.は、トコシヘニは、「已然形+や/やも」の結合からなる反語表現がうける例が万葉集に二例、日本書紀に一例見られ、万52番歌に反語の意は見出せないから、ツネニと訓むべきであるとする。この点は万52番歌の全体の歌意にかかわる。
(注2)「安礼衝哉」を「れつくや」と訓む説が多いが、「ぐや」とする説もある。竹本2010.は、天皇に永続的に仕奉する氏から氏女が貢進されて采女になるから、「ぐや」と訓むのが良いとしている。水が永遠に湧き出ることや、世代を超えて奉仕し続けることとも響きあってふさわしいのだという。
 「衝」字をツグと濁音表記に当てられるか疑問である。歌は藤原京に遷都して歌われたものだろう。都は遷るものだという意識は誰もが抱いている。「大宮仕へぐ」とは言えても、「藤原の○○○大宮仕へぐ」とは言いにくい。筆者は、後に述べるように、藤原宮時代にたまたま生まれついて采女になった女性は、他の時代に生まれついて采女になった女性とは違ってとてもうらやましい、と言っていると考えている。
(注3)宮殿の御井を讃えることで宮自体や治世までも讃美する歌であるとするのが通説となっている。その根拠として、中国の思想に負うところがあるとする指摘が耳目を集めている。歌中に出てくる吉野山は秦の都、咸陽を守る終南山に見立てられるとする説(中西1995.)、山々を配するのは中国古代の四鎮五獄の思想に基づく発想によるとする説(吉田1986.)である。そのうえで御井の水は天と人の感応によって湧き出した聖水であるとする説(辰巳1997.)があり、これは折衷説である。東西を優位軸としながら南面する都市空間を意識し、外来文化を適宜取り込んでいるとする説(梶川2015.)も同様である。本邦の思想に深く根差すと考えるものとしては、持統天皇と吉野とのかかわりの強さから吉野世界に対する信仰が投影されているとする説(城﨑2004.)、中臣寿詞の「天つ水」神話と関連があるとする説(上野2013.)、祈年祭祝詞の詞章の祭祀的意味を含んでいるとする説(吉村2020.)などがある。いずれも深読みの説である。
(注4)炊事にも水は欠かせないが、必要とする量ははるかに少ない。料理は膳夫が作ったとも考えられ、井戸を掘って水を使う場合、限られた清浄な水は調理に優先され、洗濯は川へ行くように推奨されていただろう。

 山辺やまのへの 御井みゐを見がてり 神風かむかぜの 伊勢処女をとめども 相見つるかも(万81)

 この和銅五年(712)の長田王の歌から、井戸を管理するのは娘たちであったとする見方がある(佐佐木1999.170~171頁)。しかし、習俗としてそう決まっていたとは考えにくい。この歌でさえ、洗濯に来ていたところへ出くわしたものだろう。ふつうに考えられるように、農業用であれば田人が管理し、道路沿いであれば宿駅からの依頼で近隣住民が管理したと思われる。
 竹本2010.は、軍防令・兵衛条の「凡兵衛者。国司簡郡司子弟。強幹便於弓馬。郡別一人貢之。若貢采女郡者。不兵衛之例分一国。二分兵衛。一分采女。」をあげ、「兵衛も采女も地方豪族からの出仕者が主流であった。そして、条文からもうかがえるように、両者の関係は表裏一体なのであり、天皇の地方支配という理念において、五二・五三番歌に共通の要素として捉えられる。地方から出仕してきた御門(御井)を守る兵衛と御井で水仕事をする采女(女官)とが、天皇や王権を讃えるための要素として、申し分のない対比関係をなしている。」(46頁)と説く。「藤原宮御井歌」の長歌と短歌はどこにつながりがあるのか、管見に入った初の試みである。水を扱う役職を令制に探ることにも目配せがある。地方豪族の支配と新都とを絡めているところは新鮮に映る。従来の見方からこの説を推し進めるとすれば、宮殿の勝手口に飛び交うお国言葉をもって宮褒めをしたということになるのだろう。
(注5)訓み方も含めて、拙稿 「「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」(持統天皇作、万28番歌)考」参照。
(注6)武田1956.は六音でかまわないとし、シミヅと訓んでいる。
(注7)カツラの木については触れられていない。宮地に生えていなかったのだろう。「門前有一井。井上有一湯津杜樹。」(神代紀第十段本文)。また、これが宮の新設であることに思い致せば、スサノヲが新たに宮を作ってスガスガシと言っていたことも思い起こされる。「然後、行覓将婚之処。遂到出雲之清地焉。〈清地、此云素鵝。〉乃言曰、吾心清々之。〈此今呼此地清。〉於彼処建宮。」(神代紀第八段本文)、「菅生山辺。故、曰菅生。一云、品太天皇巡行之時、闢井此岡。水甚清寒。於是勅曰、由水清寒、吾意宗々我々志。故曰宗我富。」(播磨風土記・揖保郡)。理論上は、「清水」をスガミヅ、ソガミヅ(ソは甲類)と訓む可能性もある。スガ、ソガを展開させたスガスガシ、ソガソガシは、滞りなくすっきりするさまを表わす。スガミヅ、ソガミヅには、井戸水の停留がないことを表わすのに長けているが用例はない。
(注8)「又如聞、京城内外多有穢臭。」(続紀・文武天皇・慶雲三年(706)三月)。疫病によって死体が放置されたり汚物が処理されずに環境が劣悪になっていたらしい。水も汚染されたことであろう。伝染病のために、墓掘りや側溝の清掃や浚渫にあたる作業員を含めたエッセンシャルワーカーが不足したことも容易に想像がつく。翌慶雲四年(707)二月には、「詔諸王臣五位已上、議遷都事也。」とあってすでに議論は始まっていた。次の平城京が唐の長安城を真似して国威発揚の舞台装置として整えられているから、中国における先端的思想を積極的に取り入れたがっていたことや、既得権益を排除しようとする政策に対する抵抗をかわす狙いがあったとも考えられている。
 「壬寅、始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百五烟、賜布有差。」(続紀・文武天皇・慶雲元年(704)十一月)とある記事は、宮中の戸数としては過大で不審に見られている。京内の街区整理に対しての賠償とする説(岸1984.)、藤原京の造営打ち切りが決定されたとする説(吉川2004.)がある。後者は、遣唐使粟田真人の帰還の四十日後のことで、寄せられた唐の長安城の情報との大きな懸隔に気づき、都城としての理念的欠陥を痛感して造営を打ち切ったのだとしている。筆者は、前者の説の街区整理の実態として、宮の南東側、飛鳥川の上流側の、「宅の(汚水を)宮中に入るる百姓」を宮の北側や飛鳥川の下流側へ強制移住させたもので、立ち退き料を支払ったということではないかと考える。助数詞「烟」には生活感があり、竈から烟が出るなら生活排水も流すことになる。類似の用例の単位は、「人」(白雉元年十月)、「家」(和銅元年十一月)、「人」「者」(天平十四年正月)、「町」(延暦三年六月)とあるから、「烟」を使った書記官の面目躍如たるところが見える。藤原京が京域も含め、当初から周礼・考工記による設計プランによって造営されていたのかといったことはわからないことである。
 遷都の事情とは、理念的なこと、現実的なこと、その他もろもろが複雑に絡みあったものであろう。朱雀大路がメインストリートとしての機能を果たしきれていないことが問題であったと思われているが、それは同時にその側溝の排水が滞ることにつながっている。藤原京の衛生状況の悪化を原因の一つと考えることに何ら不自然なところはない。ゴリラの仲間には、毎日寝場所を変えるのがいるという。人口が集中する都市には衛生問題が浮上するのは必然のことで、藤原京に限ったことではないとする意見がある(仁藤2011.204頁)が、飛鳥宮にはなくて藤原宮に起こった飲み水問題を「藤原宮御井歌」は伝えていると考える。
(注9)「め」(む)について、推量をあらわすとみる注釈と、祈願・希求をあらわすとみる注釈がある。AとBとの対比によるところが大であり、Aの強調に付く「め」は推量の意をもって逆接してBにつづき、Bの強調に付く「め」はAという現状に逆らうことになるから祈願・希求・慫慂・勧誘の意ととるのがふさわしくなる。
(注10)現実の生活問題をごまかすために思想的な領域に転嫁して新しい形式の都城を建設したとも言える。庶民感覚からすれば、鎮護国家という発想も同様のことに映る。記紀万葉から見ればそう透けて見える。万葉集巻第一の「藤原宮」を題詞に掲げる「藤原宮之役民作歌」(万50)(拙稿「 藤原宮の役民の作る歌」参照)、「従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌」(万51)(拙稿「 「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について」参照)から連続して、皮肉な表現からなる歌がつづられている。今日から思えば不思議な言語感覚の時代であった。

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加藤良平 2022.8.7初出

藤原宮の役民の作る歌─「図(ふみ)負へる 神(くす)しき亀」について─

 万葉集巻一の万50番歌は、藤原宮を造営するときに駆り出された労役の民が作った歌として記されている。

  藤原宮の役民えのたみの作る歌〔藤原宮之役民作歌〕
 やすみしし 吾が大王おほきみ 高照らす 日の皇子 荒栲あらたへの 藤原がうへに す国を したまはむと 都宮みあらかは 高知らさむと 神ながら おもほすなへに 天地あめつちも 寄りてあれこそ 石走いはばしる 淡海あふみの国の 衣手ころもでの 田上山たなかみやまの 真木まきさく つまを もののふの 八十やそ氏河うぢがはに 玉藻なす 浮かべ流せれ を取ると 騒くたみも 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 吾が作る 日のかどに 知らぬ国 巨勢道こせぢより 我が国は とこにならむ ふみ負へる くすしき亀も 新代あらたよと 泉の河に 持ち越せる 真木の嬬手を ももらず いかだに作り のぼすらむ いそはく見れば 神ながらにあらし(万50)〔八隅知之吾大王高照日乃皇子荒妙乃藤原我宇倍尓食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等神長柄所念奈戸二天地毛縁而有許曽磐走淡海乃國之衣手能田上山之真木佐苦檜乃嬬手乎物乃布能八十氏河尓玉藻成浮倍流礼其乎取登散和久御民毛家忘身毛多奈不知鴨自物水尓浮居而吾作日之御門尓不知國依巨勢道従我國者常世尓成牟圖負留神龜毛新代登泉乃河尓持越流真木乃都麻手乎百不足五十日太尓作泝須良牟伊蘇波久見者神随尓有之(注1)
  右は、日本紀に曰く、朱鳥あかみとり七年癸巳の秋八月に藤原のみやどころいでます。八年甲午の春正月に藤原宮に幸す。冬十二月庚戌の朔乙卯に藤原宮に遷り居しますといへり。〔右日本紀曰朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地八年甲午春正月幸藤原宮冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮〕

 中西1978.の現代語訳を示しておく。

 あまねく国土をお治めになるわが大君、高く輝く日の皇子は、荒布の藤原の野に領(うしは)く国土を統治なさろうと、宮殿も高々と支配なさろうと、さながらの神としてお考えになる。それにつけても、天も地もあい寄りてお仕えするからこそ、岩ほとばしる水の国近江の、衣の袖の田上山の、真木を析(さ)いた檜(ひのき)の荒材を、もののふも多い八十の宇治川に、玉藻のように浮かべては流していることだ。それを引上げようと立ち働く御民とて、家のことは忘れ、わが身もまったく顧みず、鴨であるかのように水に浮かんでは、日の御子の朝廷を造営する、その朝廷にまつろわぬ国も寄りついて来るという巨勢道から、わが国が永遠に栄えるだろう兆(しるし)の図をもった尊い亀も、新しい御代の初めとして出で来る。「いづ」という名の泉川に運び込んだ真木の荒材を、百足らぬ五十(い)かだに組んでは川をのぼらせているようである。役民たちがせっせと働いているのを見ると、これも天皇がさながらの神だかららしい。(74頁)

材木の運搬ルート(奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室展示解説パネル)

 本歌は、序詞の多用された歌として知られ、表現が入り組んでいてうまくできている。歴史学からは、第一に、藤原宮の建材は近江産であり、現在の木津川を筏で遡り、人力か畜力を借りて奈良山を越えて運ばれたものであること、第二に、亀の背に何かの図が現れていてそれを祥瑞と見てとって詠んだ歌であることと認められている。文学の方面からは、九句にわたる二重の序が挿入されていてあまりにも言葉の修飾が上手なために、「役民」が「作歌」したものではなくて玄人の、例えば柿本人麻呂やさらに高位の人が「役民」の「作歌」に擬したものではないかとする説が提出されている。そのことは瑞兆思想にも通じていたであろうこととも重なるとされている(注2)
 筆者は、木材の運搬事情についてはそう書いてあるからそのとおりであろうと考える。しかし、亀の背に模様が現れていてそれが祥瑞に当たるという指摘や、「役民」に仮託して誰か他の人が作ったのではないかとする説には与しない。問題の焦点は歌中の「圖負留 神龜毛」の二句にある。本稿ではその二句について検討する。
 「圖(図)負留 神龜(亀)毛」の「図」はフミ、アヤの二訓、「神」はアヤシキ、クスシキの二訓が提案されている(注3)

 フミオヘル アヤシキカメモ … 大系本萬葉集、多田2009.
 フミオヘル クスシキカメモ … 武田1956.、澤瀉1957.、中西1978.、窪田1984.、阿蘇2006.
 アヤオヘル クスシキカメモ … 全集本萬葉集、新編全集本萬葉集、稲岡1997.、北野1999.、伊藤2009.、新大系文庫本万葉集、古典集成本萬葉集

 奈良時代には、祥瑞(注4)として特徴的な亀が現れるとされていた。霊亀(715~717)、神亀(724~729)、元亀(770~781)といった年号はそれによっている。ただし、漢籍の知識に染まったそのような考え方が、時代をさかのぼって「藤原宮之役民」にも一般化していたのか不明である(注5)。「藤原宮之役民」は、藤原宮建設のために徴用された作業員のことで、建材を運ぶのに携わり(注6)、そのことをモチーフとして歌を作っている。近江国の田上山から宇治川、木津川を水路で、そこからは陸路、奈良山を越えて奈良盆地を南下して今日の橿原市に位置する藤原宮まで運んだ。時は藤原宮遷都(持統八年(694)十二月)以前、建設途上時のことである。紀の記事で明らかなのは持統四年(690)十月に高市皇子が藤原の宮地を巡視したのが最初の記事である。690~694年頃に、特異な模様をした亀が見つかったとする記事は見られない。亀を祥瑞とする確実な例は霊亀元年(715)まで見られない。凶兆かとされる記事すら天智紀九年にはある。

 六月、邑中獲亀、背書申字、上黄下玄、長六寸許。(天智九年(670)六月)
 辛丑、周芳国、貢赤亀。乃放于嶋宮池。(天武十年(681)九月)
 近江国、献白鱉。(文武元年(697)九月三日)(注7)
 乙卯、長門国、献白亀。(文武四年(700)八月十日)
 丁丑、左京人大初位下高田首久比麻呂献霊亀。長七寸、闊六寸、左眼白、右眼赤。 頸著三公、背負七星。前脚並有離卦。後脚並有一爻。腹下赤白両点。相次八字。(霊亀元年(715)八月二十八日)

 瑞応図とも呼ばれる図像帳のようなものをもって亀の模様を診断したとする記事はさらに遅れる。

 乙卯詔曰、今年九月七日、得左京人紀朝臣家所献白亀。仍下所司、勘‐検図諜、奏称、孝経神契曰、天子孝、則天龍降、地亀出。熊氏瑞応図曰、王者不偏不党、尊‐用耆老、不故旧、徳沢流洽、即霊亀出。(養老七年(723)十月十一日)

 これらの状況を勘案した時、「瑞祥としての亀の出現は、天智朝にはじまるとしても、持統朝においては、極めて斬新な新しい思想であったことを確認しておかねばならない。」(北野1999.161頁)とする考えはいたって怪しい。どのようなことが祥瑞に当たり、時の政府がいかに対処するかについては、儀制令の祥瑞条とその集解(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1878432/102~103)、また、延喜式・治部省の祥瑞条(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991103/338~339)に明文化されているとともに、参考にしたと考えられている芸文類聚・祥瑞部上~下(China-US Million Book Digital Library Project(CADAL)https://archive.org/details/cadal?query=藝文類聚、巻九十八~九十九)のほか、日本書紀、続日本紀の具体例をもとに考えられている。律令制定以前の事柄に関しては、論者によって採るか採らないか判断が分かれるものもある。例えば、東野2017.は「赤亀」(天武紀十年九月)を祥瑞として採りはするが、式に見えないことに注意している。天武紀を読む限りにおいては、珍しい色をした亀が朝廷に献上され、庭の池に放っただけのことと考えられ、それを祥瑞記事と決めてかかる根拠は特にない(注8)
 以上見てきたのは、宮廷の上層部のものの見方である。そんななか宮廷を差し置いて、690年代の前半、万50番歌において、「役民」の言葉として亀の出現が祥瑞であると信じられている、あるいは話としてそういうことが中国の思想にあるらしいと知られている、とはなかなかに考えにくい。この歌には「役民」仮託説があるのだが、仮にそれが真相であったとしても、歌い手を「役民」と定めている限りにおいて、歌う側もその歌を聞く側も第一義的には「役民」であったと想定されなければならない。すなわち、「役民」全般に祥瑞思想が浸透していない限り、風変わりな(?)亀=祥瑞という設定は成り立たないのである。語弊を顧みずに言えば、「役民」は田舎者であり、田舎に亀はいくらでもいて、なかには変てこなのもいた。風変わりな模様だというのも、それはもちろん模様に着目して風変わりだと見ようとするから初めてそう気づくものであって、数多く見ている目には単に個体差であると済まされるに違いない。いま一度整理すれば、7世紀において、「亀、背書申字、上黄下玄、長六寸許。」や「赤亀」、「白鱉」、「白亀」なる特徴は、宮廷の人にとって珍しくはあっても、だからと言って必ずしも祥瑞と考えていたとは認められず、ましてや田舎者の「役民」の発想に浮かぶものではないと言える。
 捉え方を180° 転換しなければならない。
 「圖負留」の「図」は、模様のことではなく、天智紀にある「申」のように、文字のことを指している。「役民」と瑞応図とは無縁である。しかも、それをフミとしか表現できていないところこそ、それが「役民」であることを如実に表している。彼らは基本的に字が読めない。読めなくて不自由しないから学ぼうとしない。何と書いてあるかはわからないが、それがフミ(文字)であることはわかる。歌の筆記者はその事情をうまく伝えるために、「圖(図)」という文字を当てていると思われる。

左:風雨に曝された高札(「家内和親等定、正徳元年五月、明治大学博物館展示品)、右:噛まないための文字=亀(木簡のような材木)イメージ(「いらすとや」様https://www.irasutoya.com/2018/11/blog-post_140.htmlを加工して使用)

 材木の川流しを詠んでいる最中において「圖負留 神龜毛」などと言い及ぶことは、材木に印となる文字が書いてあったからと考えられる。
 材木ではなく「龜(亀)」と歌の言葉にあるではないかとの指摘は、カメという言葉についての認識が甘い。
 亀はカメ(メは乙類)という音であり、噛むという四段動詞の已然形、カメ(メは乙類)と同音である。噛みつく性質から turtle のことをカメと命名したかもしれないほどである。それはともかく、噛むという語は、口を使って物を咀嚼すること、噛みつくことであるが、その動作は、人の口が食道に通じるだけでなく気道に通じていることから、流暢に喋りきれずに言い間違えることまで噛むと言っている。間違えて別の語を話すのではなく、当該語の発音をしくじることである。事前に原稿を用意しておけばそのようなことは少なくなるから、カンペを用意しておいてそれを棒読みすることで噛むのを回避しようとする。古代において、その先駆けとなっているものは、第一に笏であり、第二に祝詞である(注9)。この認識に立てば、「神亀」が「負」へる「図」とはフミのことであるとわかる。材木に文字を書いて運んだということらしい。
 木に文字を書くことは行われていた。荷札である。荷物に木の札をつけてそれに書いた。藤原宮跡からも荷札木簡が出土している(注10)。同じように都へ送る荷物として、いま、材木が登場している。材木自体が木なのだから、荷札を別にする必要はなく、材木自体に文字を書いたのであろう。木簡のお化けである。
 何と書いたか。歌のなかに記されている。「真木まきさく つま」、「真木の嬬手」とくり返されている。材木には木簡に記すのと同じように、硬い建材を表す「真木」などと墨書していたのだろう(注11)
 文字を使わない生活を謳歌している「役民」にとって、ほとんど滑稽とも思えることをしている。マキに「真木」と書いてどうしようというのか。今日、ホームセンターの材木売り場において、ヒノキの材木に「ヒノキ」とシールが貼られているのは、素人にはその木の種類がわからず、帳簿上の整理からもバーコードと紐づけして売られている(注12)。ふだんから林業に従事している「役民」にとってみればばかばかしいことこの上ないのだが、新宮殿建設のためには深い思惑があってそうされているのだろうと思いをめぐらせてみたようである。
 すると、墨書している理由に思い当たるところがあった。墨書していると、その部分は風雨に曝されても残るのである。現存する江戸時代の高札に風雨にすり減っているものがある。墨書された文字の部分ばかり、その黒い色は消えていても、木は凸に出で残り、何と書いてあったか読み取ることができる。「常世にならむ」、ずっと続くものとしてお上はわざわざ荷の名前を書いているのだと、「役民」は気づいたのである。だから、材木は巨大な笏のように噛まないための、否、すでに噛むことを想定内に入れて対処できるように、フミ(図)が書かれてあるというのである。
 したがって、「我が国は 常世にならむ ふみ負へる くすしき亀も 新代あらたよと 泉の川に」の部分は、「わが国が永遠になるであろうため、文字を笏か祝詞のように墨書して、噛んでしまうことを事前に最悪の事態として想定しているかのように有り難く尊く、「噛め」という音の亀のように荒材が水面に浮き沈みしているのも、律令を携えた新時代の文字文化のはじまりとして墨で文字を書けば永遠に表面に残り出でる、その「出づ」という音と同じ泉川に」というのが大意である。
 木簡に文字を書いて送ることが歌に詠みこまれている。材木に直に書くまで文字を使う新時代が訪れている。「図」をアヤと訓んでいては意が通じない。「神」をアヤシキと訓んで怪異としていては宮廷を持ち上げることにならない。クスシキと訓んで、当面は必要性が感じられないのに文字を材木の上に書いた、その神妙さを持ち上げているのである。
 この歌は「役民」が作った歌であることに間違いない。力仕事にこき使われて労働条件は決して良いとは言えなかったし、人民の統制は厳しくて身分として固着されていて反抗することもできない。文化的にも無文字の人たちを置き去りにする形で文字時代が到来し、進行していっている。そんななかで「役民」の放った皮肉の一つが万50番歌であった(注13)

(注)
(注1)原文の異体字は整理した。なお、「役民」は上代に選択的に「伇民」と書いていると思うが、特に問題は生じないので区別していない。拙稿「聖徳太子の髪型と疫病(えやみ)の関係について」参照。
(注2)そのようなことを言い出してかまわないのであれば、どのようなことでも言えてしまうし、それは印象論以上のものではない。検証不可能なことを万葉集のテキストに反して唱えても仕方がないので、出典を含めて踏み込まない。
(注3)組み合わせ上、アヤオヘル アヤシキカメモという訓みも考えられるが、アヤの音がダブるためか採られていない。
(注4)祥瑞とは、めでたい前触れのことで、天皇の治政がよろしければ現れるものとこじつけられていた。中国では、陰陽二気の調和不調和は、為政者の徳不徳の反応とする天人相関的な帝王観があって、その影響下にあった。天皇としては自らの治政を自賛する方便となるし、取り入ろうとする者にとっては祥瑞物を報告、献上することに明け暮れることとなった。 全国の珍景を放送して金一封を提供することに問題はないが、情報化時代でないのにそれをもって時の政治を翼賛することなど起こり得ない。中央集権化や環境の都市化、ならびに思考のドグマ化も伴いながらでなければあり得ないことである。
(注5)霊亀と改元される因となった亀について、左京人、大初位下の高田首久比麻呂が献上したと記されている。漢の明帝の時のことを記した宋書符瑞志を参考にして霊亀であるとしているが、高田首久比麻呂がその知識を持っていたとは考えられないという(福原1974.13頁)。
(注6)紀にこの時の徴発の記事は見られない。制度化していて特別なことではなかったからか。皇極天皇は蘇我蝦夷大臣に、「起是月十二月以来、欲宮室。可於国々取殿屋材。然東限遠江、西限安芸、発宮丁。」(皇極紀元年九月)なる詔を発している。
(注7)「白鱉」はシロキカハカメと訓まれており、すっぽんのことである。
(注8)縁起の良い前触れとするなら何かめでたいことが続けて記されていていいがそのようなこともない。新幹線や京浜急行の黄色い車両を見ると幸せになると伝えられているのは昭和映画の影響であろうか。
(注9)このモチーフが古代に通底していたから、天寿国繍帳には亀の模様の上に文字が描かれている。拙稿「天寿国繍帳銘を内部から読む」参照。
(注10)例えば、「尾張国海部郡魚鮨三斗六升」(藤原京左京六条三坊西北坪)(奈良文化財研究所「木簡庫」https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJCLJ47000101)、「丹波国加佐郡白薬里○大贄久己利魚腊一斗五升和銅二年四月」(藤原京右京七条一坊東北・東南坪)(同https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJHNR84000010)などとある。
(注11)建築時に、墨縄をつけたり、落書きしたり、天地の区別のために「本」などと墨書されることはあっただろう。
(注12)時代が大きく下って産業として林業が発達すると、川流しした時に所有者を区別するために、樹種、伐木所、伐採年、伐木者等を切判で記すことも行われた。古代の状況はわからない。
(注13)この歌を新都造営に携わる人民の熱情、聖なる御代への謳歌であると捉える説があるが、何をか言わんやの域であり、出典を含めて踏み入らない。万葉集にとられている歌の性質について猛省が求められる。近現代に至っても言論統制はいくらでも見られる。そんなときの民の対処の仕方はいろいろである。人の世の常識をわきまえずに文学研究は成り立たない。
 なお、これまでの解釈では「神ながら」について誤りが見られる。拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考 — 」を参照されたい。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第一巻』笠間書房、2006年。
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版 万葉集─現代語訳付き─』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡1997. 稲岡耕二『和歌文学大系1 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
江畑1996. 江畑武「皇極紀三年条の祥瑞記事について─中国に於ける禅譲の歴史より見て─」『日本書紀研究』第二十冊、塙書房、平成8年。
澤瀉1957. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
北野1999. 北野達「藤原宮役民の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第三巻』和泉書院、1999年。
窪田1984. 窪田空穂『萬葉集評釈 第一巻』東京堂出版、昭和59年。
古典集成本萬葉集 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 萬葉集一』新潮社、平成27年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 萬葉集①』小学館、1994年。
全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集2 萬葉集一』小学館、昭和49年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 三巻の一・二』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
田村1983. 田村圓澄「『日本書紀』と陰陽道」『日本佛教史4 百済・新羅』法蔵館、昭和58年。
東野2017. 東野治之「飛鳥奈良朝の祥瑞災異思想」『史料学遍歴』雄山閣、2017年。
直木1975. 直木孝次郎「持統天皇と呂太后」『飛鳥奈良時代の研究』塙書房、昭和50年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
福原1974. 福原栄太郎「祥瑞考」『ヒストリア』第65号、大阪歴史学会、昭和49年6月。

加藤良平 2022.8.1初出

「夕されば 小倉の山に」(万1511・1664)歌について

 万葉集の「夕されば 小倉の山に」歌(万1511・1664)は古来名高い。

   秋のざふ 〔秋雜謌〕
  崗本天皇をかもとのすめらみことの御製歌一首〔崗本天皇御製謌一首〕
 ゆふされば ぐらの山に 鳴く鹿は よひは鳴かず いにけらしも(巻8・1511)〔暮去者小倉乃山尓鳴鹿者今夜波不鳴寐宿家良思母〕
   雑歌〔雑謌〕
  泊瀬はつせの朝倉宮あさくらのみやに天の下知らしめしし大泊瀬幼武おほはつせわかたけるの天皇すめらみこと御製おほみうた一首〔泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製謌一首〕
 夕されば 小倉の山に す鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも(巻9・1664)〔暮去者小椋山尓臥鹿之今夜者不鳴寐家良霜〕
  右は、或る本に曰はく、崗本天皇の御製なりといへり。せいつばひらかにせず。これに因りて以ちてかさねて載す。〔右或本云崗本天皇御製不審正指因以累戴〕

臥す鹿(井の頭自然文化園)

 これら二首の歌は、特に両者の関係、また作者についてしばしば論じられてきた(注1)。歌の内容については、仁徳紀に載る菟餓野とがのの鹿の逸話と絡めて説くものと絡めずに説くものとがある。また、「鳴く」と「臥す」の微妙な違いをこと立てる考えや、「い寝」について、ただ寝るのか、共寝するのかという対立も見られる。中国におけるいわゆる鹿鳴の捉え方との関連を説いたり、その影響を受けて後代になって創作されたものとする考えもある。また、作者について、実作者なのか仮託されたかといった議論もある。さておいても「大泊瀬幼武天皇」は雄略天皇のこととして定まるが、「崗本天皇」は舒明天皇か皇極天皇のいずれかであろうとされている。「小倉の山」の場所を比定する見解もある。これらの意見は、本旨を軽んじて屋上屋を築いた、議論のための議論である。
 両者とも、「夕されば小倉の山に」で始まっていて異同はない(注2)。歌の四句目までの主語は「鹿」である。主語─動詞の関係をすっきりと表したいなら、例えば次のような言い回しになるのではないか。

 小倉山 夕さり来れば 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも

 舞台が小倉山であることがはっきりする。むろん、小倉山であろうがなかろうが、鹿は鳴く(臥す)ものである。わざわざ小倉山に限っている点と、語順が「夕されば 小倉の山に」とつづく点は注目すべきである。ヲグラのヲは接頭語で、小さい意を表す。「ぶね」(万358他)、「小屋をや」(万2825他)、「小野をの」(万239他)、「がは」(万316他)などとある。「夕されば 小倉の山に」とつづく理由は、ヲグラはヲ(小)+クラ(暗、「暗し」の語幹)の意を示そうとしているからであると直感させられる。

 如へばおぐらき夜分には、世間幽冥にして都てゆる所无くして正道を迷失しつ、満月出で已りて諸の暗を皆、除して諸の失道のひと、皆、正路を見るといふがごとし。(地蔵十輪経・巻第八、元慶七年点)
 外の方を眺め出だしたれば、やうやう暗くなりにたるに、虫の声ばかり紛れなくて、山のかた小暗く、何のあやめも見えぬに、いとしめやかなるさまして寄りゐたまへるも、わづらはしとのみ内には思さる。(源氏物語・宿木)
 蒙籠モウロウ ヲクラシ(色葉字類抄)

 「夕されば」、夕方になると、「ぐらの」、少し暗くなっている、と順接に述べて行っている。「夕されば」は、「小倉(の山)」を導く序詞的な役割を果たしている。
 ところが、「よひ」になって鹿は鳴かなくなっている。ヨヒ(宵)は夜の前半のことをいうとされる(注3)。日はすっかり沈んであたりは暗くなっている。明かりを灯さずに差す光は月明りだけである。そんななか、昨日までは鳴いていた、あるいは臥していたことが知られていた(注4)鹿が、今日の夜になって鳴かない。そして、その理由について歌の作者は弁論している。おそらく、寝たからであろう、と。
 そんなどうだっていいようなことを喜んで歌い、どうだっていい歌を聞いた人も喜んでいる。これが雄略天皇の歌であろうが舒明天皇か皇極天皇の歌であろうが、あるいは他の誰かの作であろうが、本質的なところではその喜びに変わりはない。悦楽があったから伝承されていると考えられる。
 何を言わんとして歌っているのか。それは、「夕されば」と言ったときには夕暮れ時の薄明があるが、「よひ」では、ちょっと暗いでは済まされなくなっている点である。仁徳紀の逸話に知られる鳴く鹿の話では、鹿が鳴かなかったのは「月尽つごもり」の日、晦であった(注5)
 どういうことか。月尽(晦)の日は月明りが期待できないから真っ暗なのである。ヲグラ(小暗)→マクラ(真暗)になっている。マ(真)は接頭語で、形状言マの意、真に、完全に、純粋に、全く、を表す。そういうマクラ(真暗)な状態ならば、マクラ(枕)を使って寝ようという話になる(注6)。「臥す鹿」という言い換えはとかく評判が悪いが、歌意を伝えるに十分な表現となっている。鹿が寝るのに枕を使うことはなかろうといった自然科学的でナンセンスなさかしらごとは通用しない。
 古い文献例は確かめられないが、「真っ暗」と言うのは促音便と考えられる。
 知恵の付き始めた幼児の、ねえ、どうして夜は寝なくちゃいけないの? という煩わしい問いかけに、上代の知恵人は容易に答えることができた。マクラ(真暗)な時はマクラ(枕)を使うものだよ、と。
 これが、言葉を知恵として使うことで生きていた無文字時代の常識であった。人から人へ伝え授けるすべが、言葉にしかなかった時代の正しい対応と言える。
 万葉の時代に、伝承なり伝誦されていた古歌が、漢籍の知識などを基にしなければ成立しない歌であることなどあり得ないのである。伝わるということは、その伝える途中のたくさんの人たちが、誰一人欠けることなく歌の内容を理解していたということに他ならない。万葉集が編まれた時代に、個別具体的にある日ある時ある所で宴席が設けられ、漢籍を引いて勿体をつけたお題が呈示されて歌会が開かれることがあったにせよ、その場限りのことであった。文字の読み書きが覚束ない人のほうが圧倒的に多く、今日でさえ総学者社会ではない。万葉歌の歌が、お勉強屋さんのする道楽のようなものだとしたら、生活に追われて日々過ごす人たちはかまけてなどいなかっただろう(注7)
 また、伝承や伝誦の歌ではなく、新たに創作して雄略天皇や舒明・皇極天皇に託けて万葉集の巻、ないしは分類の頭に据えて恰好をつけたのだとする考え方も本来的に当たらない(注8)。古い順に歌を並べることは、エディターの力量として取り立てるほどのことではないし、往年の天皇の名に託けて歌が作られるようなことが古代に行われていたという証拠があるわけでもない。後から作った歌だとの主張に反証の可能性はなく、同時に証明の可能性もない。どういうメリットがあって古代人がわざわざそのような作為を行ったのか説明されなければ、空想的仮説でしかない。
 現在まで続けられてきた天動説的解釈は捨て去らなければならない。自らの視点は動くことはなくて万葉集の歌のほうにぶれがあり、作者や歌詞の一部が異伝となっていたり、仁徳紀の逸話や中国の鹿鳴の捉え方を受けたものだといった見方からは何も得られない。「名歌」とする鑑賞も現代人の視点で言っている。
 地動説はシンプルである。ヲグラ(小暗)→マクラ(真暗)だけですべてを説明できる。言葉遊びの単純な歌である。それをくだらないと評価するのは現代人の思考に基づく。くだらないかどうかを問う点からして根本的にものの考え方を覆す必要がある。コペルニクス的転回である。
 万葉集に記されている歌に何が書いてあるか。恋心や哀しみの情などさまざまであろう。しかし、それらを越えて一つだけ確かな解答がある。万葉集に記され残っている歌にはヤマトコトバが書いてある。歌は言葉でできている。
 言葉に対する考え方、接し方が、今日の文字を持った我々とは異なるのである。口伝えだけで伝えることをしていたヤマトコトバは、歌として発した言葉において、その時その場でそれ自体を定義(再定義)する試みを絶えず行っていた。そうすることでしか、言葉を確かならしめる方法がなかったからである。そうやって示した言葉は、自己循環的、自己言及的な言葉づかいの様相を呈しており、今日の人からすればかなり異質なものとして輝いている。

 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも(巻8・1511)

 夕方になると、つまり、ちょっと暗くなることの謂いにふさわしいヲグラの山に、ふだんなら鳴く鹿は、今宵は鳴かないで寝たらしいよ、そう言えるのは、今宵のヨヒとは日のすっかり沈んだ夜のことだからである。ヨヒ(宵)がユフ(夕)と本当の意味で対立する概念としてあるのは、ヲグラ(小暗)どころではなくマクラ(真暗)な時のことだからである。なぜ対立する概念かというと、ヨヒ(宵)とユフ(夕)とは別の言葉だからで、二つが言葉として存在していて互いに関連するところが見出せないからである。そんなヨヒ(宵)がコヨヒ(今宵)訪れていて、ちょうど晦のマクラ(真暗)な夜を迎えているのである。夕方になって薄暗がりに鳴いていたり臥していたりする姿がぼんやり見えていた鹿は、マクラ(真暗)ななか鳴いていないのは、マクラ(枕)を使って眠りについているにからに違いないではないか。それがマクラ(真暗、枕)という言葉の表れとして適切なことである。言葉と事柄とは同一のもの、それが正しい意味での言霊信仰と呼べるものであるが、そのもとに暮らしていた人たちの言葉づかいなのである。真っ暗ならたとえ何かの鳴き声がしていても、それがいかにも鹿の鳴き声のように聞こえたとしても、不確定性原理さながらに鹿かどうか確かめることはできなくて、鳴いていないのだ、寝てしまったのだ、と、マクラという言葉をすべての前提として通観していくことが、言葉と事柄とは同一のものであるという思想信条において正しい言い方である。
 上代のヤマトコトバでは、枕詞のように過度といえるほど多重に意味を丸め込んで表す修辞が行われていた。枕詞が常用される土壌には、言葉を発する時に自己定義して確認しながら言葉を使う習慣があった。言葉と事柄とは同一のものであるということをモットーにすること、それが上代の人たちの本来の言霊信仰の姿であり、言葉づかいは自ずと論理学的になる。この丸め込み論法を駆使するのに巧みであった天皇としては、日本書紀の記述や万葉集の歌からすぐに察知できる。雄略天皇や皇極・斉明(重祚)天皇である。
 雄略天皇の発言として、「猟場にはたのしびは、膳夫かしはでをしてなますつくらしむ。みづから割らむに何与いかに」(雄略紀二年十月)と、人々の斜め上を行く問いかけがある。群臣はわからずに答えられないでいると、天皇は怒って御者を斬り殺してしまった。御者がなますになっている。斉明天皇はすべてを言いくるめる遷都をしている。「冬十月の丁酉の朔己酉に、はりに、宮闕おほみやを造り起てて、かはらぶき擬将せむとす。又ふかきやまひろきたににして、宮殿みやに造らむと、朽ちただれたる者多し。遂に止めて作らず。是の冬に、飛鳥あすかの板蓋宮いたぶきのみやひつけり。かれ飛鳥川原宮あすかのかはらのみやに遷りおはします。」(斉明紀元年)とある。かはらぶきにしようとして確保した資材は駄目になり、それは火災除けに効果があるものであったが、ならばということで火災に遭ったら川原かはら覆きで代用している。火災のことは忌詞に「出火みづながれ」(斉明紀五年七月)と言うが、失策をすべて水に流している。二人の天皇に対する「百姓おほみたから」の評として、「有徳おむおむしくまします天皇すめらみことなり」(雄略紀四年二月)、「至徳いきほひまします天皇すめらみことなり」(皇極紀元年八月)とよく似た表現が行われている(注9)。曲げた解釈を平気で行う権力者に対して皮肉な持ち上げをしている。
 巻八・万1511番歌では「崗本天皇」、巻九・1664番歌では「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇」と題詞は歌の作者を記している。伝承歌や仮託歌であろうといった議論については、本来求められなければならない課題に思い致す必要がある。万葉集に書きとめる時に、歌の作者を「崗本天皇」や「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇」と定めて是と受けとめていたという点である。上代の人の間で、なるほどそれらの天皇が歌った歌であろうと納得されていたということである。その認識基盤についてこそ検討されなければならない。言葉の屁理屈丸め込み論法の人として名高ければ、いかにもさもありなんとして落ち着いたのである(注10)。「夕されば」歌に「崗本天皇」とあるのは、舒明天皇のことではなくて皇極・斉明女帝であった。
 今日の言葉の利用法と上代の言葉の使用法には隔たりがある。異文化であることをまず理解することが求められる。その先に何が得られるか。コンピュータ言語のように記号化することに向かっている我々には実は得られるものはない。現代の我々とは別の文化が確かに存在し、それは我々の反転世界のようなものだから、同じ地平で多様性などという言い方をしても表せるものではない。AI(人工知能)が両論併記型に回答するのは、論理の組み立て方を違えているだけであって、論理の素となる言葉、文字言語自体を揺るがすことには与していない。識字を棄てて無文字になる勇気のない我々と同じことをしている。対して上代の人たちが使っていたヤマトコトバは、言葉自体への疑問をそのままぶつけて揺るがすことをくり返していた。これまでの万葉集の鑑賞に「名歌」などと評されながら何一つ読めていないのは、上代の人の言葉づかいが本質的なところで現代の言語活動とかすっていないことを暗示している。

(注)
(注1)名歌であるとか、「鳴く鹿」は「臥す鹿」よりも良い、といった鑑賞レベルのことまで含めれば膨大な研究史を有している。みな誤解史なのでここでは触れない。
(注2)「夕されば」、「夕さらば」と訓まれている「暮去者」は、ひょっとすると「よひされば」、「よひさらば」と訓むかもしれないとする説が、山口2022.にある。
(注3)井手2006.参照。時間帯用語については、昼の時間帯と夜の時間帯とで分けていたとする大野晋説(大野1966.)が定着している。山口2022.は、「アサ(朝)─アシタ(朝)/ユフ(夕)─ユフヘ(夕)の関係は、〈昼を中心とした名称─夜を中心とした名称〉というような意味の違いと見るべきではなくて、〈非独立系─独立系〉という機能の対立と捉えるべきものである。」(53頁)としている。
(注4)ヲグラシを真っ暗な、の意と解する説もあるが、ぼんやりとは見えてそれが何かはわかるが、詳細は見分けることができないという意味と捉えたほうが接頭語ヲ(小)の義にかなう。
(注5)「秋七月に、天皇、皇后と高台たかどのしまして、避暑すずみたまふ。時に、毎夜よなよな菟餓野とがのより鹿聞ゆること有り。其の声、寥亮さやかにして悲し。共に可憐あはれとおもほすみこころを起したまふ。月尽つごもりいたりて、鹿の鳴きこえず。爰に天皇、皇后に語りて曰はく、「よひに当りて鹿鳴かず。其れ、何の由りてならむ」とのたまふ。」(仁徳紀三十八年七月)とある。話は鹿が鳴かなかったのは狩られたからで、苞苴おほにへにして進上した佐伯部は所払いになっている。さらに、鹿の夢の話になり、「鳴く牡鹿しかなれや、夢相いめあはせのまにまに」という諺譚へと展開している。この仁徳紀の逸話と「夕されば」歌との共通点は、ふだんは鳴く鹿が鳴かない時があったというだけである。語り手が同じく天皇であるとするのは考え方として間違いである。地位をして語らしめているのであれば、歴代の天皇に鹿鳴譚がなければならない。
 小島1953.に、「この天皇と鹿との話は三輪山伝説などに比して物の哀れを催させるものであり、トガ野の諺と同時に天皇にまつはる話も歌語として語られたものではあるまいか。しかしこの歌語りも大和へ入ると主人公を変へトガ野の鹿もヲグラ山の鹿となつてしまふのは一般の公式であつた……。その主人公は仁徳紀以後の記事を眺めるとわかる通り、最もふさはしい人はやはり雄略天皇に指を屈しなければなるまい(古事記でも同様)。」(52頁、漢字の旧字体は改めた)とある。空想にしたがう虚言、暴論である。
 ただし、「夕されば」歌に鹿が鳴かなかったのは、仁徳紀同様、「月尽」(晦)の日であった。その点は結果的に合致している。
(注6)枕の語源説とマクラ(真暗)→マクラ(枕)の駄洒落とは無関係である。そして、基礎的な語彙においてその語源をたどることは不可能である。
(注7)今日の出典論を重視した研究に、漢籍の重箱をつついたような指摘が行われることがある。しかし、現在でも勉強家諸氏は無教養な人とほとんど没交渉である。同様に、万葉時代の歌人には勉強家が多かったかのように前提して中国風の知識をひけらかしていたなどと議論することはできない。歌会は学会ではない。言葉遊びの歌や庶民の歌、東歌や防人歌を、「歌」として同列に採ることに憚るところがない点も説明できない。多くの人が聞いてわかるから需給が整って「歌」は存立していた。受験勉強でもしなければ覚えられないようなことを当時は共通認識にしていて、それをもとに歌が作られて宮廷を中心に老若男女を問わず楽しまれていた、などと想定することなどできないだろう。
(注8)影山2017.は、「現時点にあってもむろん右諸論[澤瀉1961.、稲岡1970.、伊藤1996b.、小島1953.]の提起が研究史上の意義を失うことはないが、その帰結にもはや追随するべき点はない。一首のほんとうの作者を突きとめようとしたり伝承の経路を「いろいろ」推理したりすることに今日的意義は存しない。「原作の單純素朴な姿」は論者の期待の投映にすぎないし、「も想像される」「と見ることもできる」といたずらに選択肢を追加しても混乱を深めるばかりだからだ。問いかけるべき課題は、ほとんど同一の歌を異なる天皇御製として掲げるそれぞれの巻の意志にある。天皇実作―あるいは仮託―を証明することは不可能であっても、ある天皇作歌を巻頭に据える意味であれば考究する余地が残されている。」(189頁)とする。影山氏は、巻八秋雑歌では秋の代表的景物として鹿をとり、巻九では山を象徴する動物として位置づけているとしている。引用文の前半部について同意見である。後半部の、万葉集のそれぞれの巻の編纂主旨として本当なのかについては触れない。歌そのものに迫らず、括弧に入れた形でエディターの意向を問うても意味がない。
(注9)「有徳天皇」(雄略紀)は、熱田本訓によれば、イキヲヒマシマススメラミコトである。
(注10)なぜそれを天皇のこととしているのかについては、人物像の確かな存在を説話が伝えるのはほとんどが天皇であり、為政者である天皇は言葉を詔ることを文字どおり事としていたからである。言った「こと」が実際の「こと」になるように仕向けるのである。とはいえ、筆者は、そこに「歌」のポリティクスといった説明を加えたりはしない。その言辞は、天動説的視座から発せられている。今日的評価としてくだらないと思えることに興味を持たずには古代の心性に近づくことはできない。言葉とはその使用だからである。

(引用・参考文献)
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伊藤1996a. 伊藤博『萬葉集釈注 四』集英社、1996年。
伊藤1996b. 伊藤博『萬葉集釈注 五』集英社、1996年。
稲岡1970. 稲岡耕二「舒明天皇・斉明天皇 一」『国文学 解釈と鑑賞』第442号、至文堂、昭和45年11月。
大野1966. 大野晋『日本語の年輪』新潮社(新潮文庫)、昭和41年。
澤瀉1961. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第八』中央公論社、昭和36年。
影山2017. 影山尚之「萬葉集巻九雑歌冒頭部の意匠」『歌のおこない─萬葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。(『武庫川国文』第81号、2016年10月。武庫川女子大学・武庫川女子大学短期大学部リポジトリ https://doi.org/10.14993/00001075
金井2019. 金井清一「舒明・雄略御製「夕されば……」錯雑考」『古代抒情詩『万葉集』と令制下の歌人たち』笠間書院、令和元年。
小島1953. 小島憲之「「トガ野」の鹿と「ヲグラ山」の鹿」『萬葉』第9号、昭和28年10月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1953
小島1964. 小島憲之「口頭より記載へ」『上代日本文学と中国文学 中─出典論を中心とする比較文学的考察─』塙書房、昭和39年。
清水1991. 清水靖彦『日本枕考』勁草書房、1991年。
曽倉2020. 曽倉岑「舒明天皇「夕されば」歌について」『萬葉記紀精論』花鳥社、2020年。
寺川2001. 寺川真知夫「仁徳紀聆鹿鳴伝承の意味」『文芸論叢』第56号、大谷大学文芸学会、平成13年3月。大谷大学学術情報リポジトリ https://otani.repo.nii.ac.jp/records/2000507
中西1995. 中西進「雄略御製の伝誦」『中西進万葉論集 第一巻 万葉集の比較文学的研究(上)』講談社、1995年。
野口2019. 野口恵子「「夕されば 小倉の山に」歌について─「文字の歌」と「声の歌」の様相を考える─」『史聚』第52号、駒澤大学大学院史学会、2019年4月。
山口2022. 山口佳紀「ヨヒ(宵)考─上代語を中心に─」『萬葉』第233号、令和4年3月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2022
矢野1996. 矢野憲一『枕』法政大学出版局、1996年。
吉永1955. 吉永登「萬葉小倉山考」『萬葉 その異伝発生をめぐって』関西大学文学部国語国文学研究室、昭和30年。
吉村1981. 吉村誠「『万葉集』鹿鳴歌「今夜は鳴かずい寝にけらしも」の一解釈」『群馬県立女子大学国文学研究』創刊号、昭和56年3月。

加藤良平 2022.6.19初出


笠金村の三香原離宮での歌(万546~548)について─「言寄す」の語義から見えてくるもの─

笠金村の三香原離宮での歌

 笠金村の香原かのはら離宮行幸時の歌は、万葉集の巻四の相聞の部立に載る。

  二年乙丑の春三月、三香原離宮みかのはらのとつみやいでましし時に娘子をとめを得て作る歌一首〈并せて短歌〉〔二年乙丑春三月幸三香原離宮之時得娘子作謌一首〈并短歌〉〕
                          笠朝臣金村〔笠朝臣金村〕
 三香みかの原 旅の宿りに 玉桙たまほこの 道のき逢ひに 天雲の よそのみ見つつ こと問はむ よしの無ければ こころのみ せつつあるに 天地あめつちの かみこと寄せて 敷栲しきたへの 衣手ころもでへて 自妻おのづまと 頼めるよひ 秋の夜の ももの長さ ありこせぬかも(万546)〔三香乃原客之屋取尓珠桙乃道能去相尓天雲之外耳見管言将問縁乃無者情耳咽乍有尓天地神祇辞因而敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜秋夜之百夜乃長有与宿鴨〕
  反歌〔反謌〕
 天雲の 外に見しより わぎ妹子もこに 心も身さへ 寄りにしものを(万547)〔天雲之外従見吾妹兒尓心毛身副縁西鬼尾〕
 よひの 早く明けなば すべを無み 秋の百夜を 願ひつるかも(万548)(注1)〔今夜之早開者為便乎無三秋百夜乎願鶴鴨〕

 神亀二年(七二五)春三月、三香原の離宮に行幸のあった時、娘子を得て作った歌一首と短歌
  笠朝臣金村
 三香の原の旅宿で、(玉桙の)道でめぐり逢って、(雨雲の)よそながら見るだけで言葉をかけるすべもないので、心ばかり苦しく塞(ふさ)がっていたが、天地の神の御はからいによって、(しきたへの)袖をさし交わし、我が妻として頼りきっている今夜は、秋の長夜の百夜分の長さがあってくれないものか。
 (雨雲の)遠くに見た時から、あの子に心も身もすべて寄り添ってしまったよ。
 今夜が早く明けてしまったら、やりきれないので、秋の百夜分の長さをひたすらに願った。(新大系文庫本361~363頁)

 この歌群は、通説では、娘子を得て喜んで作ったものとみられている(注2)。ただ、それが「妻」として受け入れられたものかについて疑問が呈されている。新大系文庫本では、題詞に「娶」となく「得」とあるので、「いわゆる一夜妻か。」(363頁)とし、古くは橘千蔭・万葉集略解に、「此娘子ハ紀路の遊女ならん」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001731/viewer/283)とある。さらに、曽倉2009.は「娘子を妻としていない」(12頁)と解釈するのが妥当で、「宴席歌」であって、「作歌主体を戯画化し、その恋の失敗、挫折を歌った、一種の笑わせ歌を意図したのであろう。」(13頁)、また、「娘子を得られると期待したが(長歌)、結局思いを果たさない内に夜明けを迎えそうだ(反歌)という歌であると考えるべきである。」(曽倉2020.428頁)と捉えている。これらの指摘は見当外れである。長歌のなかで状況を展開させている要の部分、「天地の 神の言寄せ」という表現について正しい理解が求められる。

「言寄す」

 上代語「言寄す(事寄す)」とその派生形「言寄さす(事寄さす)」は、①人々が噂する、噂に立てる、言い立てる、②「天地の神」を冠して神慮を寄せて助ける、神意によってはからう、③ご委任になる、といった意を表すとされている。語義はそのとおりであるが、意味としては分散してまとまりがない。もともとの語の組み立てを理解しないままそれぞれの例に訳を当てはめて理解できても、語の理解にはつながらない。「言寄す(事寄す)」、「言寄さす(事寄さす)」という語が作られている原理を検討する必要がある。
 ①噂する、の意で解釈される例に次のものがある。

 A さの隈 桧隈川ひのくまがはの 瀬を早み 君が手取らば 言寄せむかも〔将縁言毳〕(万1109)
 B 里人の 言寄せ妻を〔言縁妻乎〕 荒垣の 外にや我が見む 憎くあらなくに(万2562)

 Aでは、水の流れが速いから足を取られないように女性の手を取ったら噂になるだろうと言っている。Bでは、噂されて妻扱いされている女性のことを垣根の外から見ようと思う、憎くなどないからと言っている。これらの解釈は歌の深意を汲んだものではない。なぜAに「さ桧の隈 桧隈川の」とダブらせて饒舌な言い回しが行われているのか、なぜBに「言寄せ妻」というほどの相手を「荒垣の外」からしか見られないのか、諸解説書に特段の説明は与えられていない。これらは歌である。わずか三十一音で意を伝え切ろうとしている。歌に気持ちを表明し切ることとは、ヤマトコトバで言い表すことである。どうしてそう言い表して通じているのか。問題は自ずと語用論になる。
 ヤマトコトバのコトという語は、よく知られるように「事」でもあり、「言」でもあった。『万葉語誌』の説明では、「言葉を意味する「こと」と事柄を意味する「こと」とは、元来相通じる概念であった。モノが言葉による認識以前に存在するのに対して、コト(事)は言葉による認識作用・形象作用によってこそ形を与えられるためである。……現代において「さっき話したこと、絶対内緒だよ」などと言った場合の「こと」が言葉であるのか事柄であるのか不明瞭である点にも、それは引き継がれている。」(141頁、この項、大浦誠士)と簡潔である。実際の用例で語釈する際には、「言」の意、「事」の意にそれぞれ傾いている場合が多く、約束、命令、報告、音信、挨拶、言葉、伝承、噂、嘘、任務、行事、儀式、仕事、事件、出来事、事態、事実などと訳されている。とはいえ、コトという語の持つ二面一体性、「言」=「事」であることが暗黙のうちに認めてそのもとに述べられていると考えて読むことが求められる。ヤマトコトバの性質を正しく反映することになるからである(注3)
 Aに、手を取るということはすなわち「事」として二人が寄り添うことであり、それが「言」のレベルで噂立てられることになるのは必定のことだからこのように一つの歌としておさまっている。コトヨスが噂するという意味だからと言って、Aの「言寄せむかも」が、二人は別れたらしいよ、の意を表すことはない。Bに、「里人の言寄せ」が誹謗中傷や陰謀によってくっつけることを表すことはない。「我」は喜んでその「言」を受け入れ、「事」となることを期待している。すなわち、コトヨスとは、「言」と「事」とが一致するベクトルをとっていることを「寄す」と言いつつ、男女の二人の関係が近づくことを「寄す」と表現している。二つのレベルでかみ合うところを妙味に感じ、コトヨスという言い方が生まれて重宝されている。結果的にみたとき、特定の男女について仲良しだと人々が噂することを指すようになっている。

「天地の神」

 ②神が配慮する、の意で解釈される例は、「三香の原」の歌(万546)を含めて二首ある。

 C 三香の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行き逢ひに 天雲の 外のみ見つつ 言問はむ 縁の無ければ 情のみ 咽せつつあるに 天地の 神言寄せて〔神祇辞因而〕 敷栲の 衣手易へて 自妻と 頼める今夜 秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも(万546)
 D …… とこしへに かくしもあらめや 天地の 神言寄せて〔可未許等余勢天〕 春花の 盛りもあらむと ……(万4106)

 Cでは、旅先で声をかけるすべもなく、心のうちで泣いているときに、神の取り計らいで一夜仲良くして過ごしていると言っている。Dでは、ずっとつらい状況がつづくはずはなくて、神の取り計らいで春に花が咲き乱れるようなハッピーなこともあるだろうと言っている。好ましくない状況を知った神が配慮して事態を良い方向へ転換させると解されており、それはそれで通じるものである。人間に及ばない神の力が働いたということである。しかし、なぜ「天地の 神言寄せて」と表現するのか、勘所が捉えられていない。
 C、Dともに、「天地の 神言寄せて」が定型表現となって挿入句として機能している。二例しかないものの、「神言寄せて」には「天地の」が必ず冠している。アメツチは万葉集に六十七例あり、加えて東国方言の防人歌にアメツシ(万4426)が一例ある。戸谷1989.による分析、整理に、「『万葉集』における天地の用法は多様化しているが、多様の中にも発想や表現の上から、(イ)天地の創成、(ロ)天地の悠久性、(ハ)天地の神、(ニ)天地の広大性という四つに分類することができるであろう。」(76頁)としている(注4)。(ハ)の「天地の神」という形をとるものは上述のC・Dの例を含めて二十二例ある(注5)

 …… 平らけく ま幸くませと 天地の 神をみ〔天地乃神祇乞祷〕 いかならむ 歳の月日か ……(万443)
 我が背子し かくし聞こさば 天地の 神を乞ひ祷み〔安米都知乃可未乎許比能美〕 長くとそ思ふ(万4499)
 天地の 神も助けよ〔天地之神毛助与〕 草枕 旅行く君が 家に至るまで(万549)
 天地の 神のことわり〔天地之神理〕 なくはこそ 吾が思ふ君に 逢はず死にせめ(万605)
 思はぬを 思ふと言はば 天地の 神も知らさむ〔天地之神祇毛知寒〕 邑礼左変????(万655)
 …… たまかづら 絶ゆること無く 万代に かくしもがもと 天地の 神をそ祈る〔天地之神乎曽祷〕 畏くあれども(万920)
 蜻蛉あきづしま やまとの国は 神からと ことげせぬ国 然れども 吾は言挙げす 天地の 神もはなはだ〔天地之神文甚〕 吾が思ふ 心知らずや ……(万3250)
 …… 斎瓮いはひべを 斎ひ掘り据ゑ 竹珠たかだまを 間なく貫き垂れ 天地の 神をそ吾が祷む〔天地之神祇乎曽吾祈〕 いたもすべ無み(万3284)
 …… 倭文しつぬさを 手に取り持ちて 竹珠たかだまを しじに貫き垂れ 天地の 神をそ吾が祷む〔天地之神𠮧曽吾乞〕 いたもすべ無み(万3286)
 天地の 神を祈りて〔乾坤乃神乎祷而〕 吾が恋ふる 君いかならず 逢はざらめやも(万3287)
 天地の 神を祈りて〔阿米都知乃可美乎伊乃里弖〕 さつ貫き 筑紫の島を 指して行く我は(万4374)
 …… 木綿ゆふたすき 肩に取り懸け 斎瓮いはひべを 斎ひ掘り据ゑ 天地の 神にそ吾が祷む〔玄黄之神祇二衣吾祈〕 甚もすべ無み(万3288)
 いかにして 恋ひ止むものぞ 天地の 神を祈れど〔天地乃神乎祷迹〕 まさる(万3306)
 天地の 神をも吾は〔天地之神尾母吾者〕 祈りてき 恋とふものは さね止まずけり(万3308)
 …… ことけば 国にけなむ こと離けば 家に放けなむ 天地の 神し恨めし〔乾坤之神志恨之〕 草枕 この旅のに 妻離くべしや(万3346)
 天地の 神を乞ひつつ〔安米都知能可未乎許比都々〕 あれ待たむ はや来ませ君 待たば苦しも(万3682)
 天地の 神無きものに〔安米都知能可未奈伎毛能尓〕 あらばこそ 吾がふ妹に 逢はず死にせめ(万3740)
 …… 天地の 神相珍あひうづなひ〔天地乃神安比宇豆奈比〕 皇御祖すめろきの たま助けて 遠き代に かかりしことを が御世に 顕はしてあれば す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして ……(万4094)
 天地の 神は無かれや〔天地之神者无可礼也〕 うつくしき 吾が妻さかる 光る神 なりはた娘子をとめ 携はり 共にあらむと 思ひしに ……(万4236)
 天地あめつしの 神に幣置き〔阿米都之乃可未尓奴佐於伎〕 斎ひつつ いませ我が背な あれをしはば(万4426)

 ほかに「天地の おほかみたち〔天地能大御神等〕」(万894)、「天地あめつしの いづれの神を〔阿米都之乃以都例乃可美乎〕」(万4392)という例も見られるが、「天地の神」という慣用表現に引きずられて使われたものと思われる。また、「天地」のみで「天地の神」と同義であると解釈されるものが、万50・3241・4487番歌に見られる(注6)

 …… みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ ……(万50)
 天地を 嘆き乞ひ祷み 幸くあらば またかへり見む 志賀の唐崎(万3241)
 いざ子ども 狂業たはわざなせそ 天地の 堅めし国そ 大和島根は(万4487)

 曽倉2020.は、万50・3241・4487番歌は展開形であり、もともとの「天地」の用法と「天地の神」という表現は文学の問題として重要な違いであるといい、新たな表現として「天地の神」は生まれたものであるとしている。空間と神格とは違うからという。受けとる側からすればそうなるが、使う側からのことを考えるなら、「天地の」とある場合の戸谷氏が四つに分類する以前にアメツチという言い方をするに至った理由、根拠となる思考の枠組みから考えなければ本質は見えてこない。
 アメツチという考え方が与えられている(注7)。アメツチは、記紀の冒頭ですべてのはじまりとして所与に唱えられている。紀では若干の前置きがあるものの、天と地とが当たり前にあるものとして話は始まっている。その天と地とはどうして生まれたのかという天地の始原については、話の前提であって話自体には形作られていない。ほとんど語られることのない始原、開闢のことと、所与のものとしてある天と地とのこととを混同してはならない。説話のなかでさまざまに演じられているが、それと演じられる舞台設定は次元が異なる。大道具さんの仕事は幕が開く前に予め整えられるもので、芝居のなかでどうこう言うものではない。天地開闢のことは話の枕であり、話の枕は話に含まれない。
 第一義的にアメツチがあり、アメツチがあるということは世界は始まっているということになっている。そういう考えのもと、アメとツチが分かれて開けて離れて広く大きくなっていて、以来ずっと続いてこれからもそうあり続けるに決まっているものなのである。そのイメージがアメツチにはまとわりついていて万葉集でも使われている。「天地の 初めの時ゆ」(万167・2089・4214)、「天地の 分れし時ゆ」(万317・1520)、「天地と 分れし時ゆ」(万2005・2092)、「天地も 依りてあれこそ」(万50)、「天地の 寄り合ひの極み」(万167・1047・2787)、「天地と 共に終へむと」(万176)、「天地 日月と共に」(万220・3234・4254)、「天地と 長く久しく」(万315)、「天地と 久しきまでに」(万4275)、「天地の いや遠長く」(万196)、「天地と いや遠長に」(万478)、「天地の 共に久しく」(万814)、「天地と 共に久しく」(万578)、「天地の 遠きがごとく」(万933)、「天地の 堅めし国そ」(万4487)、「天地の 底ひの裏に」(万3750)などと見える。
 だから、「天地の神」とは、世界を設定してそれがはじまるように進める作用をもたらすもののことを称していて、具体的に神話的要素を帯びるものではないのである。

「天地の 神言寄せて」

 流れとして自然とそうなっていくことを「天地の 神言寄せて」と評している。仮に現状が芳しくなくても時が経てば事態は改善することを神は予言していたのであって、それに事態が追い付いてくることになる。万葉集の多くの例に「天地の神」は最後の祈りの対象であったり、逆説的に事態はうまくは運ばないことを述べるために持ち出されている。言=事になっていないと思われる現象についても、時間が経過して行けば、起こっている事を言葉に代えて言ってみたり、逆に言ったことが実際に事になったりする。それは、「天地の神」からすれば、コトを寄せる効果を発揮することに当たる。「天地の 神言寄せて」という言い方をして、自然の摂理としてそうなるように予め用意されていた、ということを表している。
 Dの例では、ずっと冬が続くわけではなく必ず春が訪れることを、神は言っていたはずだから皆知っていて、「天地の 神言寄せて」と言っている。季節は必ず巡るもので、いかに厳しい冬であってもやがて春は訪れる。そのとき、天の神の日の光が強くなると同時に地の神の水は温まって、花は盛りに咲くようになる。季節の移り変わりは予定されている。前もって「天地の神」が用意しているというのである。記紀の説話に天地を設けておいたようにである。用意しておくことは上代語に、マク(設・儲)という。

 ゆふさらば 屋戸やど開けけて〔屋戸開設而〕 吾待たむ 夢に相見に 来むといふ人を(万744)
 磯の間ゆ たぎつ山河 絶えずあらば またも相見む 秋かたまけて〔秋加多麻氣弖〕(万3619)
 夏まけて〔夏儲而〕 咲きたるはねず ひさかたの 雨うち降らば 移ろひなむか(万1485)
 如此かく設け備へて〔如此設備而〕、其の御子をむだきて、に刺し出しき。(垂仁記)
 世の商人、先ず務めて貨物をけ聚めて〔先務儲聚貨物〕、然して後に思惟して之を分析す。(高山寺蔵大毘盧遮那仏経疏巻第二永保点)

 Cの例では、気に入った娘がいるが声をかけられずにいたが、自然の成り行きで思うように願いが叶っている。結果的にできているのは、女性と枕を共にすることである。上代語にマク(枕・纏・娶)という。「巻く」と同根の語である(注8)

 上つ瀬に かはづ妻呼ぶ ゆふされば 衣手寒み 妻かむとか〔妻将枕跡香〕(万2165)
 …… たらちねの 母が目れて 若草の 妻をもまかず〔都麻乎母麻可受〕 あらたまの 月日よみつつ ……(万4331)
 八千矛の 神のみことは 八島国 妻まきかねて〔都麻麻岐迦泥弖〕 遠々とほとほし 高志こしの国に ……(記2)
 妾は是、天神の、山祇神をまいとりて〔娶山祇神〕、ましめたる児なり。(神代紀第九段本文鴨脚本訓)
 爰に天皇、隼別皇子の密にきたまへることを知りたまひて恨みたまふ〔知隼別皇子密婚而恨之〕。(仁徳紀四十年二月前田本訓)
 人言ひとごとの 繁きこのころ 玉ならば 手に巻き持ちて〔手尓巻持而〕 恋ひずあらましを(万436)
 …… あらたまの 年の五年いつとせ 敷栲の 手枕たまくらまかず〔手枕末可受〕 紐解かず 丸寝をすれば ……(万4113)

 すべてはマクの頓智話である。ここで、「天地の 神言寄せて」と形容している表現は正解であると確かめられている。望外の願いがかなった訳が、神に願ったからなのかどうか本当のところわかりはしない(注9)。笠金村がどういう手段、手管を繰りだしたのかも不明だが、あたかも自然の成り行き、摂理の結果として成ったことだととぼけ、誇っている(注10)。「心のみ 咽せつつあるに」から「天地の 神言寄せて」をはさんですぐに事の結果である「敷栲の 衣手交へて」へと飛んでいる。途中経過を述べていないのは、洒落が言いたいだけだからである。
 恋の成就自体を喜んでいるのではなく、恋の成就を歌にうまく詠みこめていることを喜んでいる。曽倉2009.に、「頼む」は万葉集中に「頼む」時点からみて未来において期待されている例ばかりであると指摘している。そのとおりで、「自妻と頼める」とあるから妻にはまだなっていない。ワンナイトラブに「衣手易へて」情が深まり「妻」に迎えたく思うようになっているが、家庭事情ないし律令制度などからして都へ連れて帰ることはできないか、娘子のほうもそれを望んでいるとは限らないものでもあろう。だから題詞に「得」とあって「娶」とない。そう考えたとき、題詞、「幸三香原離宮之時、得娘子、笠朝臣金村作歌」の「得娘子」の主語は誰かという疑問も生じる。初期万葉の歌の場合ならば、歌の作者、歌い手は、宮廷社会の中心人物を主語として歌を歌っている。額田王の歌が時の天皇の代詠と映るようにである。聞く人皆が共感する歌が求められていた。もしこの歌群がそれと同じステージにあったとすると、「得娘子」の主語は「幸」の主導者である聖武天皇ということになる。宣命に端を発する「天地の神」という言い方を、従駕官人である笠金村が、歌に初めて使うことにさえ抵抗がないことになる(注11)
 「得娘子」ることはできたが、「娶娘子」ることは諸般の事情から致しかねるということである。「すべをなみ」、どうすることもできないので、せめて今夜が夜の長い秋の日であったらと願っていることだと嘆じている。この行幸、時は春三月であった。
 この歌の妙味は、必然的な時間経過を詠むために「天地の 神言寄せて」と表現したところにある(注12)。必然的に「得娘子」ているが、朝が来れば必然的に別れなければならない。それが「道の行き逢ひに」に枕を共にした「旅の宿り」というものである。言葉を交わすのに「縁の無」いと思われていたのがうまいこといったとしても、その交わりを永続的に保つことはできないと決まっていて、「すべ」なしなのである。道でたまたま出逢っただけで行き先が違うのだから、男女二人は朝を迎えれば別れることになる。そういった条件を、長歌の初めのほうで「旅の宿りに」、「道の行き逢ひに」と助詞「に」で定位している。そして、場所は、三香原離宮である。後に恭仁京となった地であるが、神亀二年段階で立派な離宮が構えられていたとは考えにくい。この時の行幸は続紀にも記されていない。まさしく「旅の宿り」と呼んで正しいものであったろう。すなわち、幔幕を張って野営したのであろう。マクと呼んでいた。

 幕 唐式に、衛尉寺に六幅幕、八幅幕と云ふ。〈音は莫、万久まく〉(和名抄)
 幔 唐韻に云はく、幔〈莫半反、俗の名は字の如し、本朝式に斑は之を万不まぶ良万久らまくと読む〉は帷幔なりといふ。(和名抄)
 衣裳をぎて、所齎もてるものかすうばひて、尽くに帷幕きぬまくを焼く〔尽焼帷幕〕。(継体紀九年四月前田本訓)

 「天地の神」は世界をマク(設)ことをして舞台は整い、記紀の物語のマク(幕)は上がった。笠金村の歌において、すべてはマクの一語にきわまって展開している。言葉の機知が見えるから、人々はおもしろがって受け取ることができた。笠金村の歌は言語芸術として確立していた。
 「天地の 神言寄せて」のコトとは、天地の神が言葉で指示することでありつつ、実際に事柄で具現することでもあった。言っておきながら成さないことなど、「天地の神」にはなかった。春にならない冬はなく、明けない夜はない。きちんと時間が経過していた。

「言寄さす」

 ③ご委任になる、の意で解釈される例には以下にあげる散文がある。用例は一括して検討するので英字記号を振らない。

 ……天沼矛を賜ひて、ことせ賜ふ〔言依賜也〕。(記上)
 即ち、其の御頸珠の玉の緖もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝が命は高天原を知らせ」とのりたまひて、ことせて賜ひき〔事依而賜也〕。……次に月読命に詔りたまはく、「汝が命は夜之食国を知らせ」とのりたまひて、事依せたまふ〔事依也〕。次に建速須佐之男命に詔りたまはく、「汝が命は海原を知らせ」とのりたまひて、事依せたまふ〔事依也〕。……故、伊耶那岐大御神、速須佐之男命に詔りたまはく、「何の由にか汝が事依さえし国〔所事依之国〕を治めずして哭きいさちる」とのりたまふ。(記上)
 今、葦原中国を平げ訖へぬと白す、故、言依せ賜ひし隨に〔隨言依賜〕、降り坐して知らせ。(記上)
 已にして伊弉諾尊、三の子に勅任ことよさして曰はく〔勅任三子曰〕、……(神代紀第五段一書第六兼方本訓)
 然るに、日本武尊・稚足彦天皇・五百城入彦皇子とをきてほか、七十余の子は、皆国郡くにぐにことよさせて〔皆封国郡〕、各其の国にかしむ。(景行紀四年二月熱田本訓)
 則ち川嶋県を分ちて、長子このかみ稲速別にことよさす(応神紀二十二年九月北野本訓)
 そのに、大山守命にことよさして〔任大山守命〕、山川林野をつかさどらしめたまふ。(応神紀四十年熱田本訓)
 田狭をことよさして任那国司にしたまふ〔拝田狭為任那国司〕。……田狭、既に任所ことよさすところきて〔既之任所〕、……(雄略紀七年是歳前田本訓)
 いましよたりまへつきみを以て、ことよさして大将おほきいくさのきみとす〔拝為大将〕。(雄略紀九年三月前田本訓)
 ……我が皇孫之尊すめみまのみことは豊葦原の水穂の国を安国と平らけく知ろしせと事よさし奉りき。如此かく依し奉りし国中くぬち荒振神達あらぶるかみたちをば神問はしに問はし賜ひ神掃ひに掃ひ賜ひて……(延喜式・祝詞・六月晦大祓)

 神の物語では神のうちでも上位者の神が、人の世では上位者の天皇が下位者を任じるときに用いられている。そのため、敬意を表して、コトヨサスというかたちを取っている。この意で用いられている理由は、すでに②で述べたことと同じである。上代語にマク(任)ともいうからである(注13)

 …… ちはやぶる 人をやはせと 奉仕まつろはぬ 国を治めと〈一に云はく、掃へと〉 皇子ながら けたまへば〔任賜者〕 ……(万199)(注14)
 もののふの 臣の壮士をとこは 大君の まけのまにまに〔任乃随意〕 聞くといふものそ(万369)
 天皇、是に、阿知直を以て、始めて蔵官くらのつかさけ〔始任蔵官〕、亦、粮地たどころを給ひき。(履中記)
 即ち当れる国の幹了をさをさしき者を取りて、其の国郡の首長ひとごのかみけよ〔任其国郡之首長〕。(成務紀四年二月熱田本訓)
 既にして国司くにのみこともちまけどころまかりて〔既而国司之任〕、六人は法を奉り、二人は令に違へり。(孝徳紀大化二年三月北野本訓)
 けたまへるところにまかりて〔宜之厥任〕、爾の治す所を慎め。(皇極紀二年十月岩崎本訓)

 任命して役職を務めさせることは、言葉に命令しておいて事柄に実行させることである。そのとき、言=事となって成果があがる。だから、コトヨサスのコトは言でもあり、事でもあり、その両方であることが期待されている。両者が近寄る状況をそのままに示している。上代の人がコトの一語のうちに言も事も言い含めてしまった事情を的確に表す言い方として、コトヨス、コトヨサスという言い回しが行われている。

まとめ

 「言寄す(事寄す)」とその派生形「言寄さす(事寄さす)」の語義を精査することで、笠金村の三香原離宮行幸時の歌、万546~548番歌の真相は了解を得る段階に達することができた。万葉歌の解釈においては、その歌がヤマトコトバでどのように表現されているかばかりでなく、使用されているヤマトコトバがどのように表現されているか、元をたどることが大切である。その大きな理由は、万葉歌の作者たちにヤマトコトバを確かめようとする機運があったからである。そのことは、万葉時代が言葉の生誕期だったからということではない。当時の人は、歌が歌われることをもってそのなかに生きていたということである。言葉が、いまだ文字に絡めとられることのなかったとき、音でだけあったとき、言葉を言葉として確かならしめる唯一の方法は、音のなかに息づかせることだったからである。
 理の当然として、話として話された言葉は話ではあっても歴史ではなく、歌として歌われた言葉は歌であっても日記ではない。笠金村の三香原離宮行幸時の歌において、題詞に記されている次第以上のことはない。すなわち、仮託されたものという設定ではないから仮託されたものではない。そんななか、マクというキーワードのもとで歌っていて、煙に巻くようなことになっている。いわゆる「事実ファクト」をどこまで語っているか探ることはできないし、そのような詮索はおよそナンセンスなものであると悟られよう。現代の感覚からすれば不確かな同定しかできない歌であるが、言語芸術としてみるならば論理哲学を駆使していて高いレベルにあるといえる。現代とは異なる文化にあった人々の「作品」に対して、我々は向き合う姿勢を改めなければならない。相手は象牙の塔の中のラテン語ではなくて、津々浦々家々道々、いたるところで誰もが当たり前に使っていたヤマトコトバである。知識教養の産物ではなく、日常の知恵の塊としてくり広げられていた言葉である。上代文学は「脱構築デイコンストラクション」(デリダ)されなければならず、より正確に言えば、新たに築くことなど不要で、気づくことが求められている。

(注)
(注1)「今夜之」は仙覚・萬葉集註釈に、「このよらの」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200006856/viewer/147)と訓んでいる。
(注2)笠金村の三香原離宮での歌についての現代の評価としては、従駕歌としてふさわしくないとする説、相聞的な主題は宮廷歌として意義があるとする説、謡い物として祝婚歌ないし嬥歌会かがひの歌を踏まえたものとする説、享楽的な宴席で共感を誘い座を盛り上げるひとつの芸であるとする説など、諸説あげられている(池田2000.参照)。巷間に通行している考え方としては、「天地の神の言寄せによって、旅先の娘子を正式に我が妻に迎えたという点がみそ。いかにも事実めかしたこの歌は、前歌群[神亀元年甲子冬十月、紀伊国に幸ましし時に、従駕みともの人に贈らむが為に娘子にあとらへらえて作る歌一首〈并せて短歌〉 笠朝臣金村(万543~545)]と同様仮構の物語歌で、行幸先で公表した歌と見てよい。結婚は生産の予祝で、たいへんめでたいことであった。行幸の賑わいにとっても縁起のよい内容である。」(伊藤1996.458頁)、「行幸先で行きずりに出逢った女性と思いがけず一夜を共にすることのできた喜びを詠む。行幸従駕の男たちの願望を代弁するような歌。自分の体験のごとく歌いなしているが、それが虚構であることは前歌(五四三~五四五)に同じ。」(阿蘇2006.540頁)などとされている。もちろん、「所娘子」といった注記が万546~548番歌の題詞にないのだから、誂えられた歌と考えるのは誤りである。
(注3)二面一体性を表した物証の一例として、石とイシ(巧)、水とミヅ(瑞)の二面性を兼ね備えた噴水装置の石人像があげられる。
(注4)つづけて「(イ)(ロ)は記紀その他にもみられたものであるが、(ハ)(ニ)は万葉歌において発達した表現といってよい。特に(ハ)は『万葉集』の神の表現と関連して注目すべきものである。」(76頁)としているが、その点は筆者と考えが異なる。
(注5)万葉集の用字に、カミを「神祇」と書くのは「天地の神」の例の五例に限られていて、「神祇」とは天神地祇の略で律令用語に準拠した書き方であるとする説が梶川1997.45~46頁にある。職員令の古記によると、天神は伊勢・山代鴨・住吉・出雲、地祇は大神・大倭・葛木鴨・出雲汝神などを指すのだという。万葉集の用字は当て字や戯書のオンパレードである。「天地」と言ったら「日月」とも言いたくなって歌にあらわれているように、カミを二者に対応させるようにつられて「神祇」と書いたということであろう。「天地の神」の用字に「神祇」と書かずに「神」と書く例は、仮名書きの四例を除いても九例もある。
(注6)曽倉2020.397~399頁参照。
(注7)アメツチは記紀や風土記、祝詞、宣命にも多く見られる。ただ、記紀では本当のところは訓が定まるものではなく、他に候補がないからきっとアメツチ訓むのであろうと定められている。古事記では、「天地開闢」、「乾坤初分」、「天地初発之時」、「共天地退奉」などとあり、日本書紀では、「天地未剖」、「開闢」、「天地初判」、「天地未生」、「乾坤之道相参而化」、「有預鎔‐造天地之功」、「広大配乎乾坤、光華象乎日月」などとある。戸谷1989.による分析、整理に、記紀、風土記、祝詞、宣命における「天地に関する表現は、その創成と悠久性を語ることに集中していたといえる」(74頁)とある。
 「天地の神」なるものは、記紀に登場する神々、例えば天照あまてらす大御神おほみかみともたか御産巣みむす日神ひのかみともレベルの違う神であり固有名を持たない。記紀の冒頭付近で述べられているのは、ただ単に世界のはじまりについて「天地」と言っているだけである。拙稿「古事記本文冒頭「天地初発之時」について─アメツチ、ハッ(💡)ノトキニと訓む説─」参照。神が世界を創ったとするのではなく、世界が生まれてからいろいろな神が生まれてきている。曽根2020.が宣命に初出であると指摘するように後発の神である。記紀に「天地の神」は語られておらず、「天地の神」はいなかったが、話のなかで当然の前提としてある「天地」について、それが当たり前に生まれていることを「天地の神」の仕業だと考え、そう呼ぶようになったものと考える。
 記紀において記されているところを抜粋する。

 それ、混元既に凝りて、気象未だあらはれず。名も無くしわざも無ければ、誰か其の形を知らむ。然れども、乾坤初めて分れて、みはしらの神造化むすひはじめれり。陰陽ここに開けて、ふたはしらかみ群品もろもろおやと為れり。所以そゑに、幽顕に出で入りて、日月、目を洗ふにあらはれ、海水うしほに浮き沈みて、神祇、身をすすぐにあらはれたり。かれ太素もと杳冥くらけれども、本教もとつをしへに因りて土を孕み島を産みし時を識れり。(記序)
 天地初発之時、高天原たかまのはらに成りし神の名は、あめ御中主神みなかぬしのかみ。次にたか御産巣みむす日神ひのかみ。次にかむ産巣むす日神ひのかみ。此の三柱の神は、ともひとりがみと成りして身を隠しましき。(記上)
 いにしへ天地あめつち未だわかれず、陰陽めを分れざりしとき、渾沌まろかれたること鶏子とりのこの如くして、溟涬ほのかにしてきざしふふめり。其れ清陽すみあきらかなる者は、薄靡たなびきて天と為り、おもくにごれる者は、淹滞つつゐてつちと為るに及びて、精妙くはしくたへなるが合へるはむらがり易く、重濁れるが凝りたるはかたまり難し。故、天先づ成りて地後に定まる。然して後に、神聖かみ、其の中にれます。故曰はく、開闢あめつちひらくる初めに、洲壌くにつちの浮かれただよへること、譬へば游魚あそぶいを水上みづのうへに浮けるが猶し。時に、天地の中に一物ひとつのものれり。かたち葦牙あしかびの如し。便ち神と化為る。国常立尊くにのとこたちのみことまをす。〈至りて貴きを尊と曰ひ、自余これよりあまりを命と曰ふ。ならび美挙等みことふ。下みな此にならへ。〉次に国狭槌尊くにのさつちのみこと、次に豊斟渟尊とよくむぬのみこと、凡てみはしらの神ます。乾道あめのみち独りす。所以このゆゑに、此の純男をとこのかぎりを成せり。(神代紀第一段本文)
 一書に曰はく、天地あめつち初めてわかるるときに、一物ひとつのもの虚中そらのなかに在り。状貌かたち言ひ難し。其の中に自づから化生なりいづる神います。(神代紀第一段一書第一)
 一書に曰はく、天地まろかれ成る時に、始めて神人かみ有す。可美うまし葦牙彦舅あしかびひこぢのみことと号す。次に国底立尊くにのそこたちのみこと。(同一書第三)
 一書に曰はく、天地初めて判るる時に、始めて倶になりいづる神有す。国常立尊と号す。次に国狭槌尊。……(同一書第四)
 一書に曰はく、天地未だ生らざる時に、譬へば海上うなはらのうへに浮べる雲の根かかる所無きが猶し。其の中に一物生れり。葦牙の初めてひぢの中におひいでたるが如し。便ち人と化為る。国常立尊と号す。(同一書第五)
 一書に曰はく、天地初めて判るるときに、物有り。葦牙の若くして、空の中に生れり。此に因りて化る神を、天常立尊と号す。次に可美葦牙彦舅尊。又物有り。浮膏うかべるあぶらの若くして、空の中に生れり。此に因りて化る神を、国常立尊と号す。(同一書第六)

 こういった話が何をもとにして成り立っているかについては、早くは日本書紀私記から、漢籍の引用箇所である出典をたどり確かめようと試みられている。また、比較神話学から神話のタイプを抽出することも行われている。しかし、思想的に享受したものなのか、ただ字面を飾るために引かれたのか、自らの考えに沿うように書いたのか、編纂の都合上にわか仕込みに書いたのか、軽重を推し量る必要があり、やみくもに推論すると多くの誤りを生む。「天地の神」とは何かについて、天神地祇あまつかみくにつかみのこと、すべての神のこと、神々の汎称、中国の「天地」の概念から成立した神、王権の側が導入した新思想の神、などと諸説唱えられているが、皆誤りであると考える。
 アメツチのはじめのことについて、話として記紀に残されている。話としてそういうことになっている、というところが肝要である。上代の人々が、そんなものであろうと捉えていた。そのアメツチという語をもとに「天地の神」という言葉を宣命に使った時、天皇が詔を下しているのを聞くのは官人である。「天地の神」が万葉歌に使われた時、歌を歌ったり周りで聞く人たちはヤマトの人たちである。ヤマトの人たちとは、ヤマトコトバ語族の人たちということで、使われている言葉は理解できている。「天地の神」について誰かがどこかで使い出した新しい言葉であったにせよ、新しい定義について教授を受けて理解したのではなく、初めて聞く人にもそんなものかとすぐ腑に落ちる意味であった。つまり、言い伝えに聞いているこの世の初めについて、始まったということは天と地が分かれて開けて離れて広く大きくなってできていて、それからはずっとその状態が続いていてこれからも続くに決まっていることを言っているのだと思った。それだけのことが天地の開闢の意味であり、深意であり、ニュアンスである。そうなった所以について「天地の神」と仮に称したにすぎない。だから、「天地の神」はそれまで説話(ないし神話)に語られてきた神々とは別次元の神である。ファースト・インパクト、言うなれば必然について語っている。時間が解決してくれる、結果は後からついてくる、というのと同じことである。放っておいても必ずそうなるように作用するものを「天地の神」と言っている。メタ=神として「天地の神」は設けられた。「天地の神」に神話的要素は見られないとされているのは当然のことで、といって「天地の神」がなければ世界は始まっておらず、何もなく、言葉もない。万葉集に現れる「天地の神」は、万4426番歌の例のように「神話」的要素を伴わないと説かれているが、「神話」の前提のために仮構された「神」である。時が経つと必然的にそういうことになるという意味合いを指している。
 筆者のこのような捉え方は今日通行していない。曽倉2020.は、「天地の神」についての論考を多数所載している(「「天地の神」考」(2007年初出)、「笠金村の「天地の神」」(2009年初出)、「旅の平安と「天地の神」」(2010年初出)、「笠郎女の「天地の神」」(2011年初出)、「万葉集作歌年代不明歌の「天地の神」」(2011年初出)、「万葉集「天地の神」の表現と特性(上)」(2012年初出)、「同(下)」(2013年初出)、以上、391~524頁)。そして、「天地の神」という言い方は記紀、風土記には見られず、万葉集と続日本紀の宣命にあるもので、用例を時系列に並べ置くと宣命の例が先行しており、天皇に恵みをもたらすことを指す語であったとしている。例えば第四詔では、天地の神が銅を産出させたのであると言っている。中国の皇帝の支配の正統性を説くために用いられる天命思想によりながら「天地の神」と言っているという。そして、万546番歌は「この解釈に基づいて言えば、作歌主体は天皇ではないから「天地の神」の恩恵を受けられなかったことになる。」(428頁)とし、娘子は得られていないと曲解している。
 「天地の神」の例のある宣命は次のとおりである。

 此の物は、天にす神・くにに坐すかみの相うづなひ奉りさきはへ奉る事に依りて、うつしく出でたる宝に在るらしとなも、神ながらおもほす。是を以て天地の神〔天地之神〕のあらはし奉る瑞宝しるしのたからに依りて、御世の年号改め賜ひ換へ賜はくと詔りたまふおほみこともろもろ聞きたまへと宣る。(続紀・和銅元年正月、第四詔)
 此れ誠に天地の神〔天地神〕のうつくしび賜ひ護り賜ひ、けまくも畏き開闢あめつちひらけてより已来このかた御宇あめのしたしらしめしし天皇すめらおほたまたちの、穢きやつこどもをきらひ賜ひ棄て賜ふに依りて、又廬舎那如来、観世音菩薩、護法の梵王・帝釈・四大天王の不可思議威神の力に依りてし、此のさかしまなる悪しき奴等は顕れ出でて、悉く罪に伏しぬらしとなも、神ながらも念し行すと宣りたまふ天皇がおほみことを、衆聞きたまへと宣る。(続紀・天平宝字元年七月、第十九詔)
 またにし正月に二七日ふたなぬかの間もろもろの大寺の大法師たちせ奉らへて最勝王経を購読せしめまつり、又吉祥天の悔過を仕へ奉らしむるに諸の大法師等がことわりの如く勤めて坐さひ、又諸の臣等の天下あめのした政事まつりごとを理にかなへて奉仕つかへまつるに依りて三宝も諸天も天地の神〔天地神〕たちも共に示現あらはし賜へるあやしくたふとき大きしるしの雲に在るらしとなも念し行す。(続紀・神護景雲元年八月、第四十二詔)
 然れども、廬舎那如来、最勝王経、観世音菩薩、護法善神の梵天・帝釈・四大天王の不可思議威神の力、挂けまくも畏き開闢けてより已来、御宇しし天皇が御霊、天地の神〔天地神〕たちの護り助け奉りつる力に依りて、其等が穢く謀りて為る厭魅まじわざ、皆悉く発覚あらはれぬ。(続紀・神護景雲三年五月、第四十三詔)

 アメツチという語に形式ばったところはない。「天地の神」が天皇にだけメリットになるよう作用する、天皇に独占された神様であったと捉えることはできない。神の作用ということでいえば、仏教がその昔は他国の神で「蕃神あたしくにのかみ」(欽明紀十三年十月)とされていたが、信仰が広まるにつれて本邦の人にも作用するようになったように、誰のためのものか特定できるはずがないのと同じことである。笠金村が官人で天皇の言葉の用法を知っていてそれに従っているに違いないと定めることは、言葉を発する側としては可能性がなくはないが、言葉は、受けとる側がそのとおりに受けとるからこそ意味を成す。誰彼知らずに聞かれてもきちんと意思が通じるときにのみ言葉である。「天地の神」はテンチノカミと漢語読みしたわけでもないから、世間の常識として「天地の神」が皇統にのみ幸いとなるものだと広まっていたとは考えられないのである。
(注8)時代別国語大辞典に、「……クは、……クの転義であり、……クの原義であるといわれている。……「手枕をまく」が、その連絡をつけるようなもののよう」(668頁)とみている。白川1995.では、「く」は、「「く」「く」と同じ語。」(691頁)とし、「く」はそれと「同源の語。」(同頁)としている。本論におけることとして断っておくが、それらマク(枕、纏、娶、巻)とマク(設、儲)との間に語義的なつながりを認めるものではない。笠金村の万546番歌のなかで洒落として生きていることを筆者は解説している。
(注9)「わかる」ために言葉はある。より正確に言えば、言葉がないところには「わかる」も「わからない」もない。「天地の 神言寄せて」と言ったときに事として成立していて真である。認識とはそういうものである。
(注10)夫婦関係が神意によって結ばれるものだから、万546番歌に「天地の 神言寄せて」とするのだとする説がある。表面的にみているのならば楽天的にすぎる。世界を作ったと思われているイザナキ・イザナミ両神は、天地開闢から少し経って現れている。夫婦になるにあたって「天地の 神言寄せて」一緒になったかといえば、両者の登場自体が「天地の神」のコトヨセと認知されるべきものであって、コトヨサス結果として沼矛を掻きまわしている。トツギの道についていえば、「天地の神」のコトヨセでできたのではなく鶺鴒に教えられている。万葉集でも夫婦になることを「天地の 神言寄せて」と形容している例を見ない。一般にそうは考えられていなかったとわかる。
(注11)実際に歌で初めて使ったのかはわからない。記録されているものとして初めてというだけであることは、宣命についても同じことで、口頭語において従前から「天地の神」と言っていた可能性がある。もちろんそのようなことは研究対象にならない。
(注12)犬養2004.に、「[笠]金村にあつては対象を時間的に把握してこれを表現に持ち来すことの極めて著しいのを見る。」(114頁、漢字の旧字体は改めた)と特徴が捉えられている。
(注13)「自動詞マカル(罷)はマクの派生語で、命令を受けた側からの語。」(古典基礎語辞典1103頁、この項、須山名保子)である。
(注14)「よさしたまへば」と訓む説もある。

(引用・参考文献)
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池田2000. 池田三枝子「娘子を得て作る歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第六巻』和泉書院、2000年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釋注 二』集英社、1996年。
犬養2004. 犬養孝「笠金村」青木周平編『萬葉集歌人研究叢書7 笠金村・高市黒人』クレス出版、2004年。(1944年初出)
梶川1997. 梶川信行「金村の《芸》─「三香原離宮之時得娘子作歌」をめぐって─」森敦司・林田正男編『万葉集相聞の世界 恋ひて死ぬとも』雄山閣出版、平成9年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
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新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
曽倉2009. 曽倉岑「笠金村「得娘子作歌」の作意」『高岡市万葉歴史館紀要』第19号、2009年3月。
曽倉2020. 曽倉岑『萬葉記紀精論』花鳥社、2020年。
戸谷1989. 戸谷高明『古代文学の天と日─その思想と表現─』新典社、平成元年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
『万葉ことば事典』 青木生子・橋本達雄監修、青木周平・神田典城・西條勉・佐佐木隆・寺田恵子・壬生幸子編『万葉ことば事典』 大和書房、2001年。

加藤良平 2022.6.6初出

吉備津の釆女挽歌考

 万葉集巻第二の挽歌に、宮仕えをしていた采女の死を悼む歌がある。稲岡1985.の訳を添え載せる。

  吉備津きびつうねみまかりし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首〈并せて短歌〉〔吉備津釆女死時柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉〕
 秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひれか 栲縄たくなはの 長き命を 露こそば あしたに置きて ゆふへは ゆと言へ 霧こそば 夕に立ちて 朝は すと言へ あづさゆみ 音聞く吾も おほに見し ことくやしきを 敷栲しきたへの 手枕たまくらまきて つるぎたち 身にけむ 若草の そのつまの子は さぶしみか 思ひてらむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと〔秋山下部留妹奈用竹乃騰遠依子等者何方尓念居可栲紲之長命乎露己曽婆朝尓置而夕者消等言霧己曽婆夕立而明者失等言梓弓音聞吾母髣髴見之事悔敷乎布栲乃手枕纒而釼刀身二副寐價牟若草其嬬子者不怜弥可念而寐良武悔弥可念戀良武時不在過去子等我朝露乃如也夕霧乃如也〕(万217)
  短歌二首〔短歌二首〕
 楽浪ささなみの 志我津しがつの子らが〈一に云はく、志我の津の子が〉 罷道まかりぢの 川瀬の道を 見ればさぶしも〔樂浪之志我津子等何〈一云志我乃津之子我〉罷道之川瀬道見者不怜毛〕(万218)
 そら数ふ 大津の子が 逢ひし日に おほに見しかば 今ぞ悔しき〔天數凡津子之相日於保尓見敷者今叙悔〕(万219)

 秋山の色づくように美しい妹、なよ竹のようにしなやかな妹は、どのように思ってか、栲縄のように長い命であるものを、露ならばこそ朝において夕方には消えるというが、霧ならばこそ夕方に立って朝は消えるというが、(梓弓)噂をきいているわたしも、生前にしみじみ見なかったことが悔まれるものを、(敷妙の)妹の手枕をして剣大刀のように添い寝をしたであろう(若草の)その夫の身としては、どれほどさびしく思って寝ているだろうか。どれほど悔しく思って恋い慕っているだろうか。思いがけない時にこの世を去って行った妹がまるで朝霧のように、夕霧のように。(万217)
 楽浪の志我津の采女のこの世を去る道とした川瀬の道を見ると心さびしい。(万218)
 (そら数ふ)大津の宮の采女と逢った時に心をとめず見たことが今になって悔やまれる。(万219)

 この一連の歌について問題点とされるのは、これがいつ歌われた歌なのか、万217番歌に「吾」と出てくるのと「夫」とあるのとの関係について、同じく「髣髴」は旧訓ホノカニをオホニと改めている点とその義について、また、吉備津采女の名が転じているところである(注1)。澤瀉1958.の検討は理解に資するものである。「飛鳥藤原の御代の采女が、たとひ辞任後といへども近江に住むといふ事は納得のゆきかねる事である。近江朝の采女が、廃都の後も夫と共に大津に住みついたといふのならば一応わかる。しかしそれだと天智十年に十七歳の妙齢であつたとしても持統元年には既に卅三歲になつてをり、情熱の歌人をして「秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは……時ならず 過ぎにし子らが……」と歎ぜしめる魅力はないはずである。まして同棲十幾年のふる妻となつては「露こそは 朝に置きて 夕は 消ゆといへ」といふはずもないのである。それに天下の名妓が美女として世にもてはやされるのは「妓」である間であって、何々夫人となってしまってはもはやニュースバリューは無くなり、「おほに見し 事悔しきを」などとは考へないのである。これはやはり現采女でなければならぬ。さて現采女とすれば飛鳥藤原の采女が近江に住むはずはなく、」(480頁)という推測は正しいであろう。
 澤瀉氏は、結論としては近江朝時のことについて仮託、創作した歌であるとしているが、そんなことはされない。記憶は風化するからである。伝説になっていたとする説があり、同類にまの娘子をとめ葦原あしはら娘子をとめの例を挙げるが誤りである。題詞に、「勝鹿かつしかの真間娘子の墓を過ぎし時に山部宿禰赤人の作る歌」(万430)、「葦原処女の墓を過ぎし時に作る歌」(万1801)などとあり、墓を見て想を得ている。万217番歌は、「吉備津の釆女の死りし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」と、死亡時点で作っている。すなわち、標目にある「藤原宮御宇天皇代」、持統天皇の御代のはじまる686年以降、亡くなったその時点で作られた歌である。長歌と短歌を別の時期とする根拠はなく、配列の理由が現代人にとって不審なだけである(注2)。万葉集の編纂時点で疑問があるなら、左注に説明があって不思議ではないがそれもない。今日理解できていないだけのことを、人麻呂の表現の技法が巧みであったからとする議論をしてみても、虚構を積み重ねているばかりである(注3)
 題詞に説明がないのだから、采女は藤原京に生きていた人であり、同時代、同時期、死後数日のうちに歌にしたものが万217~219番歌であると考えなければならない。もとは「吉備津采女」と出身地をもって呼ばれていた者が、なぜか「志我津の子ら」、「志我の津の子」、「大津の子」と呼ばれるようになっていたということである。後者の呼び名群に冠せられた理由は、時代を遡って近江朝のことではないから、なぜならそれではわからないから、地名に由来するのではなく、彼女を抱いた相手の男性に関係してのことと考えるべきであろう。後宮に奉仕する采女と「手枕まきて」「身に副へ寝けむ」ことはあってはならないことであり、「その嬬の子」たる男性は罪人である。当時にあって該当する人物は一人しかいない。大津皇子である。この歌群は、オホを歌うための歌である。
 美人で評判の采女を大津皇子が姦通した。穏便に済まそうとすればできないことはないが、彼女は自殺してしまい事が露顕した。恋敵もいたようである。誰か。草壁皇子、時の皇太子である。その後の経緯は紀に端的に記されている。

 是の時に当りて、大津皇子、皇太子ひつぎのみこ謀反かたぶけむとす。(天武紀朱鳥元年九月)

 「是時」とは、天武天皇のもがりの時である。大津皇子は朝廷に対して謀反を起こしているのではなく、皇太子に対して謀反を起こしている。政権を傾けようとしたのではなく、兄弟げんかをしたのである。いずれも天武天皇の皇子であるが、大津皇子は早く亡くなった大伯皇女の子であり、草壁皇子は鸕野皇女、すなわち天武天皇の皇后で持統天皇になる人の子である。大津が兄で、草壁は弟だが、皇后の子が皇太子の位に就いている。バックアップしてくれる人がいるのといないのとでは大違いである。公平に見ようとしていた父、天武天皇は亡くなってしまった。

 冬十月の戊辰の朔にして己巳に、皇子大津、謀反みかどかたぶけむとして発覚あらはれぬ。皇子大津を逮捕からめて、并せて皇子大津が為に詿誤あざむかれたる直広肆ぢきくわうし八口やくちの朝臣あそみ音橿おとかし小山せうせんきのむらじ博徳はかとこと、おほ舎人とねり中臣朝臣臣なかとみのあそみ麻呂おみまろせの朝臣あそみ多益須たやす新羅しらきの沙門ほふし行心かうじむ、及び帳内とねり礪杵道作ときのみちつくりたち、三十余人をからむ。庚午に、皇子大津を訳語田をさだいへ賜死みまからしむ。時に年二十四なり。みめ皇女ひめみこ山辺やまのへ、髪をくだしみだして徒跣そあしにして、はしりてきてともにしぬ。見るひと歔欷なげく。皇子大津は、天渟あまのぬ原瀛真人はらおきのまひとの天皇すめらみこと第三子みはしらにあたりたまふみこなり。容止みかほたかさがしくして、音辞みことばすぐあきらかなり。天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみことの為にめぐまれたてまつりたまふ。ひととなるいたりてわきわきしくして才学かどす。もと文筆ふみつくることこのみたまふ。詩賦しふおこり、大津よりはじまれり。丙申に、みことのりしてのたまはく、「皇子大津、謀反けむとす。詿誤かれたる吏民つかさひと・帳内は已むこと得ず。今皇子大津、已に滅びぬ。従者ともがら、当に皇子大津にかかれらば、皆ゆるせ。但し礪杵道作は伊豆にながしつかはせ」とのたまふ。又、詔して曰はく、「新羅沙門行心、皇子大津謀反けむとするにくみせれども、われ加法つみするに忍びず。飛騨国の伽藍てらうつせ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)

 九月二十四日に「大津皇子謀-反於皇太子」、十月二日に「謀反発覚」、あざむかれた関係者三十余人を逮捕、翌三日に大津皇子は自宅で自害させられている。そのとき、夫人の山辺皇女は錯乱して後追い自殺している。十月二十九日には関係者のほとんどを免赦している。流罪になったのは帳内の礪杵道作と新羅の沙門の行心である。礪杵道作はその名から采女との密通に導いた人物と目され、行心も同様であったということであろう(注4)。采女を姦淫したのは罪であるが、死なせるほどのことかどうか意見は分かれたであろう。山辺皇女まで巻き込んでしまった。大津皇子にあざむかれたとされる関係者三十余人も、ほとんどが事情を知ったときにもみ消そうとした人だったのだろう。采女自身の自殺によって知れ渡ることになった。その証拠となる言表が万217~219番歌である。
 そう言い切れるのは、上にあげた「吉備津采女」→「志賀津の子ら」、「志賀の津の子」、「大津の子」という名の変更ばかりではない。万217番歌の歌い始めの「秋山のしたへる妹」にある。この句には類句がある。万16番歌の「春秋競憐歌」の「秋山の木の葉を見ては」、「秋山吾は」であり、それは応神記に所載の説話を典故としていた。「秋山あきやました壮夫をとこ」と「春山之霞はるやまのかすみ壮夫をこと」の兄弟げんかの話である(注5)。秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫は兄弟の間柄である。「伊豆志袁登売いづしをとめ」という女神がいて、大勢の神々がプロポーズしてはみな振られていた。兄の秋山之下氷壮夫もその一人であった。兄は弟の春山之霞壮夫に向って、もしお前が伊豆志袁登売と結婚することができたら何だって呉れてやるよと言った。春山之霞壮夫はそのことを一部始終母親に話し、その晩、母は「藤のかづら」を使って衣服や弓矢を作った。そして次の日に、春山之霞壮夫を伊豆志袁登売のもとへやった。すると衣服も弓矢も藤の花に変わった。藤の花を洗面所に掛けておいたところ、不思議に思った伊豆志袁登売は部屋に持って入った。あとをついて行って契りを交わし、一人の子が生れた。
 帰ってきて兄の秋山之下氷壮夫に婚姻がうまくいったことを話したが、兄は約束を果たさなかった。弟の春山之霞壮夫は母親に相談した。母は、神々にならって行動しない兄を怨み、石に塩をまぶして竹の皮にくるんだ。そして、弟にのろいの言葉を言わせた。この竹の葉が青いように、妻えてしおれるように衰えてしまえ、塩に水気が奪われて干からびるように痩せこけてしまえ、石が沈むように病に臥せてしまえというのであった。兄の秋山之下氷壮夫は八年にわたって病み衰え、泣いて許しを請うた。母は呪いの石を取り除き、兄の体は元通りになったという。
 この三者関係に基づいて天智天皇と大海人皇子(後の天武天皇)、母親の斉明天皇のことが位置づけられて万16番歌、春秋競憐歌は額田王によって歌われていた(注6)。天智天皇の気持ちを代弁するように「判之歌」となっていた。誰が事を割ったか。「吾」であった。額田王が天智天皇自身が口憚られることを代弁し、神の言葉のように下していた。お題に沿った解答を提示している。
 いま、大津皇子、草壁皇太子、持統天皇の三者関係も同じ型にすっぽりとおさまる。兄に対して恨みを持った弟が母親に泣きついてその助力を得て兄を苦しめるというものである。秋山之下氷壮夫に当たる兄なる大津皇子と床を共にした吉備津采女は、周りの人、同僚の采女たちや草壁皇太子から責められることになって自殺した。何事があったかと事情が尋ねられて事が明るみになった。事態は重大であった。柿本人麻呂は、かつての額田王のように「吾」として登場し、「おほに見し」と遠くから見たように歌っている。万219番歌に、「大津の子」→「おほに見し」とつなげているのは、実のところ「おほ」と歌うことで「大津の子」を導きたいからである。真犯人告発の様相を呈している。「いかさまに思ひ居れか」は、交わってはならない決まりをなぜ破ったかという意味でもある(注7)。敬語表現を伴わずに述べているのは采女の身分が低かったからであろう。さらには事の顛末として、伊豆志袁登売に対応すべき人がいなくなってお話にならなくなっている。スキャンダルの情報拡散に大いに与った作と言えるだろう。

 このいさかいは謀反であると見なされた。見なしたのは草壁皇太子である。草壁皇太子が大津皇子による采女密通は謀反だと騒ぎ立て、いたたまれなくなって采女はほどなく入水自殺した。怒っている草壁皇太子のために詮議は始められ、十月二日に関係者一同は逮捕されている。万217~219番の人麻呂作歌は、挽歌として美貌で知られた采女の死を悼み、愛し合った大津皇子の気持ちを汲んでいるようでありながらよそよそしいものとなっている。作られたのは二日の日か、あるいはそれ以前で、この歌によって事件は人々に知れ渡ったのであろう。この辺の時間的な前後関係はなお明瞭に定められないが、草壁皇太子は、称制している実母の持統天皇にあらん限りの助力を求めたものと思われる。結果、天武天皇の子の長兄に「賜死」するに至っている。大津皇子は優秀で教養に長け、イケメンでもあった(注8)から、血筋上で皇太子の地位に就いていた草壁皇子には劣等感があったとも思われる。一時的な衝動から「賜死」と言ったら本当に自刃してしまった。それが三日のことである。妃である山辺皇女までとり乱し、後追い自殺することになった。大津皇子のことを心から愛していたのであろう。夫は謀反人として死罪になった。わが身は夫を満足させてあげられなかった。だから采女に手を出したのだ。捉えようによっては謀反の共謀者とさえ言えてしまう。これらはみな皇室内のもめごとである。誰も口出しできず、ただ「見者皆歔欷。」ばかりとなっている。歌においても、「音聞く吾もおほに見しこと悔しきを」(万217)、「見れば寂しも」(万218)、「おほに見しかば今ぞ悔しき」(万219)などと言い、低い身分の出でありながら、手出しのかなわないところにいる采女という存在の哀れさについて、適度な距離感を保って挽歌仕立てに歌っている。
 万217番長歌の冒頭、「秋山のしたへる妹」は、秋山之下氷壮夫の捩りから生まれた詞である。シタフは色づく意と慕う意とを掛けて用いられている。また、歌中の「音聞く吾も」思う「こと悔しき」と、「その嬬の子は」思う「悔しみ」とは、その内容に相違があると考えられる(注9)。「吾も……こと悔しきを」の「を」は接続助詞で、逆接に使われることが多い。「吾」は「おほに見し」と傍観者となりつつ、相手であったオホツノミコを引き出すためにかけ渡している。この歌において秀逸な表現法を見出すとするなら、その語呂合わせこそある。
 万219番の反歌は、訓みに再検討が必要であろう。一句目の「天數」は旧訓にアマカゾフとあったのをソラカゾフとしている。暗算をするかのようにソラで数えると大雑把になるから、オホ(凡)に掛かるのだという考えである。しかし、カゾフという語は、声を出してひとつひとつ数えあげていくことをいう。一対一対応で数え出していっているわけだから間違えることはない。ソラという語とカゾフという語は、相性のいい言葉ではない。万葉集で「天」字をソラと訓む例は「そらみつ」(万29)が一例あるが、多いのは「天雲あまくも」、「天漢あまのがは」のようなアマ、「天下あめのした」、「天地あめつち」のアメ、また、万葉仮名の「」で、ほかにはわずかに「天皇おほきみ・すめろき」の例が散見される。この「天數」はアメカゾフと訓むべきと考える。「あめ之四具礼能のしぐれの」(万82)とあり、アメ(雨)とアメ(天)は同根の語である。雨を数えること、雨粒を数えることは漠としていて厖大であり、オホ(大)であり、オホ(凡)である。しかも、この歌は万217番歌の反歌である。万217番歌の長歌に用いているのは方便で、秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫にある「氷」や「霞」に由来している。それが万218番歌では「川瀬」となって急流を作り、万219番歌では河口の「大津」に集約している。

 あめ数ふ 大津の子が 逢ひし日に おほに見しかば 今ぞ悔しき〔天數凡津子之相日於保尓見敷者今叙悔〕(万219)

 歌人としてデビューし始めたころの作とおぼしき柿本人麻呂の「吉備津釆女死時柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」は、朱鳥元年九月二十四日から十月二日に作られ披露されたのであろう。それが世情にどのような、そしてどれほどの波紋を呼んだのかわからないが、さらに人を死なせることにつながっている。門付けの御用歌人としての役を担った人麻呂としては、歌を貴人の用命で歌ったものが多く残されており、自らのための歌、また、数多くの習作が、万葉集中に入り乱れている。この歌は、その内容からみれば、吉備津采女が入水自殺したことを嘆き、遺された「夫」君である大津皇子のことを詠みこんだものではある。けれども、大津皇子の周辺から望まれて作られたというよりは、宮廷の中枢、持統天皇や草壁皇太子の命を受けたものに思われる。それがうまくいけばいくほど、そのなかで歌われている「言」は「事」として顕現化した。秋山下氷壮夫の運命に大津皇子は渦巻かれて行った。宮廷社会の人々は、そういう三者関係にあるとつねづね捉えていたから、歌が歌われたときにすぐ受け容れられ、まったくそのとおりだと世間に確認され、事態は急展開して行ったのだろう。
 問題の三者関係へのなぞらえは、政権、草壁皇太子にも禍根を残した。痴話話に関して律令の定めを厳格に当てはめるような度量の狭い人間に人望は集まらない。皇太子であったが即位には至らず、天武天皇の皇后持統が称制を続け、草壁皇太子自身は先に亡くなってしまった。朱鳥三年四月のことで、持統天皇は翌四年正月に正式に即位している。
 歌はうまければいいというものではない。政治的にさえ影響力を持つ。注文主の意向を汲みさえすればいいというものでもないようである。歌の表現方法について今日の人の立場から傍観して評価することはいくらでも可能だが、当時の人の現実の受け取り方とは次元が異なることも間々あるに違いあるまい。「わかる」とは何かについて考えなければならない。

(注)
(注1)他にも問題とする論考は見られるが、本稿の主旨と関わってこない。例えば、長歌に霧や露の譬喩がある。はかなくも美しいところが美人薄明にかなっているといった評がなされている。
(注2)佐佐木2000.は、「作者が、なぜそのような大きな時間の幅を設定するかたちで長歌と短歌を組み合わせたのか、そのような時間の幅をふくむ三首が「吉備津の采女の死にし時に、…」という題詞のもとにかかげられることに問題はなかったのか、などといった疑問は依然として未解決のままに残っていると見なければならず、その点は今後の研究に待つしかない。」(143頁)としている。
(注3)身﨑1982.、神野志1992.、菊川1999.、高桑2016.、飯泉2020.など参照。
(注4)拙稿「大津皇子辞世歌(「ももづたふ 磐余の池に」(万416))はオホツカナシ(大津悲し・覚束なし・大塚如し)の歌である論」参照。
(注5)応神記の秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫の兄弟の確執話は次のとおりである。

 故、玆の神のむすめ、名は伊豆志袁登いづしをと売神めのかみいましき。故、八十やそかみ、是の伊豆志袁登売を得むと欲へども、皆ふこと得ず。是に、ふたはしらの神有り。は秋山之下氷壮夫とひ、おとは春山之霞壮夫とふ。かれ、其の兄、其の弟に謂はく、「あれ、伊豆志袁登売を乞へども婚ふこと得ず。なれ、此の嬢子をとめを得むや」といふ。答へて曰はく、「易く得む」といふ。爾くして、其の兄曰はく、「若し汝、此の嬢子を得ること有らば、上下かみしも衣服ころもり、身のたけを量りてみかの酒をみ、亦、山河の物をことごと備設けて、うれづくをむ」といふ。云ふことしかなり。
 爾くして、其の弟、兄の言のごとつぶさに其の母に白す。即ち其の母、ふぢかづらを取りて、ひと宿の間に、きぬはかましたぐつくつとを織り縫ひ、亦、弓・矢を作りて、其の衣・褌等をせ、其の弓・矢を取らせて、其の嬢子の家につかはせば、其の衣服と弓・矢と、悉藤の花に成れり。是に、其の春山之霞壮夫、其の弓・矢を以て嬢子のかはやけき。爾くして、伊豆志袁登売、其の花をしと思ひてち来る時に、其の嬢子のしりへに立ちて其の屋に入り即ち婚ひき。故、一の子を生みき。
 爾くして、其の兄に白して曰はく、「吾は伊豆志袁登売を得つ」といふ。是に、其の兄、弟の婚ひしことを慷愾うれたみて、其のうれづくの物をつくのはず。爾くして、愁ひて其の母に白す時に、おや祖の答へて曰はく、「我が御世の事、能くこそ神を習はめ。又、うつしき青人草あをひとくさを習へや、其の物を償はぬ」といひて、其の兄の子を恨みて、乃ち其の伊豆志いづしかはの河島のひとだけを取りて八目やめあらを作り、其の河の石を取り、塩にへて其の竹の葉につつみ、とごはしむらく、「此の竹の葉の青むが如、此の竹の葉のしなゆるが如、青み萎えよ。又、此の塩のるが如、盈ちよ。又、此の石の沈むが如、沈み臥せ」といふ。如此かく詛はしめてかまどの上に置きき。是を以て、其の兄、とせの間、萎え病み枯れぬ。故、其の兄、患へ泣きて其の御祖にまをせば、即ち其の詛戸とごひとを返さしめき。是に、其の身は本の如、安く平らけし。此は、かむうれづくのことの本なり。(応神記)

(注6)拙稿「額田王の春秋競憐歌について─万葉集16番歌─」参照。万16番歌は次のとおりである。

 近江大津宮御宇天皇代〈天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみことおくりなしててん天皇てんわうと曰ふ〉〔近江大津宮御宇天皇代〈天命開別天皇謚曰天智天皇〉〕
 天皇の内大臣うちつおほまへつきみ藤原朝臣に詔して、春山の万花ばんくわうるはしきと、秋山の千葉せんえふいろどりとをきそあはれましめたまふ時、額田ぬかたのおほきみの、歌を以てこれをことわる歌〔天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌〕
 冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山そあれは〔冬木成春去来者不喧有之鳥毛来鳴奴不開有之花毛佐家礼杼山乎茂入而毛不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見而者黄葉乎婆取而曽思努布青乎者置而曽歎久曽許之恨之秋山吾者〕

(注7)村田2004.は、「「おほに見」たことを「悔し」と感じる話者は決して女性の死を嘆いていない。生前の女性をわずかしか見られなかったことへの自己完結した感情といってよかろう。……女性の死を嘆くことが前提となっている夫[=嬬]の嘆きが冒頭からの表現に託されているとすると、「我[=吾]」はそれに同調することなく、「おほに見し」ことを悔やむ存在として夫の嘆きから異化しているのである。」(170頁)と指摘する。ただ、「「思ひ居れか」は敬語をともなうことなく使用されており、女性[=采女]と当該歌の話者との間の近親性を証する。」(168頁)とある点は、「おほに見し」だけの間柄であった点と矛盾する。一般に采女は、天皇(大王)所有の女性であることから、姦淫のみならずプラトニックな心情を含め、かかわりを持てば 「姦」 の罪に問われたとされている。紀では允恭紀四十二年十一月、雄略紀九年二月、同十二年十月、同十三年三月、舒明紀八年三月に記述が見られ、万葉集では巻第四、万534・535番歌左注に、「右は、きのおほきみ、因幡八上釆女をきて、係念おもひ極めて甚しく、愛情尤も盛りなりき。時に勅して不敬の罪にさだめ、本郷もとつくに退却まからしむ。是に王、こころを悼みかなしびて聊か此の歌を作れり。」とある。
 村田2004.は、「結果的には、当該歌の話者は女性の死を歌うことはあってもその死を嘆くことはなく、自己完結した心情表現に終始することになり、とある男が愛する女性を死なせてしまったという出来事そのものを嘆く歌として成立する。それは、これまでの挽歌とは一線を画しているといわざるを得ない。人の死を悼むものであったはずの挽歌が人の死を歌う歌へと変質する相貌を見て取れる。当該歌は偲ひの文学としての挽歌からの離陸と位置付けられよう。挽歌という表現の枠組みが歌の方法として相対化された瞬間といってもよい。」(182頁)とする。当該歌に対する捉え方はともかく、「挽歌」概念が当初に人の死を悼むものであったのか、実は当時の人に聞いてみなければわからないことである。万葉集に初めて記載されている「挽歌」は巻第二の有間皇子自傷歌である。謀反の廉で捕らえられた人が、政権に対して歌った皮肉な歌である。拙稿「「有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」について」参照。死罪となり、結果的に辞世の歌になっている。
(注8)持統紀以外では懐風藻に描写されている。「[大津]皇子は浄御原の帝の長子なり。じやう貌魁悟ぼうくわいご宇唆遠うしゆんゑん、幼年にして学を好み、博覧にして能く文をしよくす。壮なるに及びて式を愛し、多力にして能く剣を撃つ。性頗る放蕩にして法度に拘らず、節を降して士を礼す。是に由りて人多く附託す。時に新羅の僧行心といふもの有り、天文ト筮を解す。皇子に詔げて曰く、「太子の骨法、是れ人臣の相にあらず、此れを以て久しく下位に在るは、恐らくは身を全うせざらん」と。因りて逆謀を進み、此の詿かいに迷ひて遂に不軌を図る。嗚呼惜しいかな。彼の良才をつつみて忠孝を以て身を保たず、此の姧豎かんじゆに近づきて、つひりくじよくを以て自ら終る。古人交遊を慎しむの意、因りておもひみれば深きかな。時に年二十四。」。同じ懐風藻には、大津皇子の「逆」について、河島皇子が変を告げたと記されている。 「[河島]皇子は淡海帝の第二子なり。志懐温裕しくわいをんゆう局量きよくりようこう、始め大津皇子とばくぎやくの契りを為し、津の逆を謀るに及びて、島則ち変を告ぐ。朝廷其の忠正を嘉し、朋友其の才情を薄んずこと、議者未だ厚薄を詳かにせず。」
(注9)村田2004.参照。すでに(注7)に触れた。

(引用・参考文献)
飯泉2020. 飯泉健司『王権と民の文学─記紀の論理と万葉人の生き様─』武蔵野書院、2020年。
稲岡1985. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第二』有斐閣、昭和60年。
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神野志1992. 神野志隆光『柿本人麻呂研究─古代和歌文学の成立─』塙書房、1992年。
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高桑2016. 高桑枝実子『万葉挽歌の表現─挽歌とは何か─』笠間書院、2016年。
身﨑1982. 身﨑壽「吉備津采女挽歌試論─人麻呂挽歌と話者─」『国語と国文学』第59巻第11号、1982年11月。
村田2004. 村田右富実『柿本人麻呂と和歌史』和泉書院、2004年。

加藤良平 2022.5.1初出


大津皇子辞世歌(「ももづたふ 磐余の池に」(万416))はオホツカナシ(大津悲し・覚束なし・大塚如し)の歌である論

 万葉集巻第三に、大津皇子の辞世歌ではないかとされる歌が「挽歌」の部立に載る。中西1978.232~233頁の訓みと訳を載せる(字間は適宜改めた)。

  大津おほつの皇子みこ被死みまからしめらえし時に、磐余いはれの池のつつみにしてなみだを流して作りませる歌一首〔大津皇子被死之時磐余池般流涕御作歌一首〕
 ももづたふ 磐余いはれの池に 鳴くかもを 今日けふのみ見てや 雲がくりなむ(万416)〔百傳磐余池尓鳴鴨乎今日耳見哉雲隠去牟〕
  右は藤原宮の朱鳥あかみとり元年の冬十月〔右藤原宮朱鳥元年冬十月〕
 百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去るのだろうか。

 一般に、古来より絶唱と認められてきており、特に議論の余地のない歌と考えられている。以下の解説書に、若干の疑問点について述べられている。

 「般」は目録には「陂」とあり、その誤とする説があるが、史記孝武本紀の「鴻漸于般」の集解に「漢書音義曰、般、水涯堆也」とあり、攷證に般のまゝでツヽミとしたのに従ふべきである。(澤瀉1958.496頁。漢字の旧字体は改めた)
 枕詞「百伝ふ」と地名「磐余」を結びつけているのは、つまり由緒・伝承を意味する〈謂われ〉に他ならない。「百伝ふ」を長い歳月、多くの人びとにより広く伝えられてゆく意ととれば、これほど〈謂われ〉にふさわしい言葉はあるまい。そして「磐余」を同時に〈謂われ〉とすることにより、一首前半の継起・持続の映像がいっそうたしかな手ごたえで伝わってくるだろう。(阪下2012.71頁)(注1)
 歌の結句「雲隠る」は、人を尊敬してその死を間接的に表す敬避表現であるから、自らの死について用いるのはおかしい。この歌は、皇子周辺の人の作が皇子の辞世の歌として伝承されたものであろう。(新大系文庫本万葉集293頁)(注2)

 日本書紀によれば大津皇子は自宅で自害させられている。監禁されたうえ死を賜っているので磐余の池へ散歩する機会などない。そのことも相俟って、代詠、ないし仮託された伝承歌であるとする考えが生じている(注3)。仮にそうだとするなら、なにゆえそのようなまぎらわしい設定を構えているのか、問題とされなければならないのだが問題とされていない。
 題詞は歌が歌われた状況設定を語り、その枠組みにおいて歌が歌われたことを示す。大津皇子が、自身で磐余の池の「つつみ(陂)」に「涕」を流しているさまを歌ったことでなければどうしても伝えられない内容をはらんでいるから、そのような設定に定めていると考えられる。
 「磐余池」比定地には二説ある。一つは紀の記録としてみえる。履中紀二年十一月条に「磐余池を作る。」、継体紀七年九月条に「…… もろが上に 登り立ち 我が見せば つのさはふ 磐余の池の みなしたふ うをも 上に出て歎く ……」(紀97)とある。紀97番歌謡は御諸の山、三輪山から眺めたものと思われるが、磐余池の魚がアップアップしていると言っている。桜井市谷・戒重付近説のものかと思われる。もう一つは、近年の発掘調査によってわかった橿原市東池尻町の東池尻・池之内遺跡の堤跡によるものである(注4)。6世紀後半に作られ、ある時期に堤の一部を壊して溝を掘って放流しており、その後7世紀末頃までに堤を積み増して再構築した跡が確認されている。どちらの池も近世まで続いていない。次第に涸れていく運命にあったようである。
 「磐余池」は涸れやすい池であると思われていたとすると、万416番歌の「磐余池般流涕」についても辻褄が合ってくる。磐余池は大津皇子の作歌時点ですでに問題があった。「般(陂)」に亀裂が生じて水が漏れ出て困っていたのではないか。池を管理する人にとっては「流涕」たくなる悲しい事情であり、水漏れを表現するのに「流涕」であるとなぞらえることができる。

左:磐余池復元図(「東池尻・池之内遺跡、大藤原京左京五条八坊の発掘調査(平成25年度調査)」橿原市教育委員会、平成26年3月2日。かしはら探訪ナビhttps://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/hakkutsu/)、 中:堤の発掘調査風景(東池尻・池之内遺跡展示パネル)、右:現況

 堤防は、土を盛って築き固めて作る。同じく築き固めることで古墳は作られており、き固められたところだからツカ(塚、墳)と呼ばれた。堤防の場合、貯めた水の圧力や浸潤にも耐えるだけの土手を築く必要がある(注5)。工法を違えないとうまくいかないところがある。なのに磐余の地では、古墳(ツカ)の如く堤を作っていたために不具合が生じていたということであろう。堤防を築いて水を貯めるには覚束ないところでオホツカナシ(注6)、大きな塚の如くに作った堤防だからオホツカナシ(大塚し)なところということである。そういうところが磐余であるというのが、人々に知れ渡っていたのではないか。イハレ(磐余)という地名は、イハ(岩)+アレ(生)と聞こえ、土が流れやすくて岩が剥き出しになるように感じられ、溜池を作るには不適で、不吉なところとの認識が人々にあったと推測される。今日の大都会と違って土地に不足はないのだから、わざわざ無理して築き固めて造作する必要はない。言=事であるというのが当時の人々のものの考え方、筆者が考える言霊信仰である(注7)
 大津皇子は家に閉じ込められながら辞世の歌を歌っている。磐余の池は漏水して問題となっている。大津皇子は想像の翼を広げて磐余の池の堤へ出向いている。拘束されて謹慎の身である。ツツミ(慎)はツツミ(包)、ツツミ(堤)と同根の語である。大津皇子は身体は慎んでいるのではあるが、言動は「彼の良才をつつみて忠孝を以て身を保たず(蘊彼良才不以忠孝保身)」(懐風藻・大津皇子伝)(注8)ことになっている。

  大津おほつの皇子みこ被死みまからしめらえし時に、磐余いはれの池のつつみにしてなみだを流して作りませる歌一首
 ももづたふ 磐余いはれの池に 鳴くかもを 今日けふのみ見てや 雲がくりなむ(万416)

 「や」は忸怩たる内心を表す修辞疑問文を作る(注9)。発話者の判断としては「鴨を今日のみ見て」どうこうするものではないのは当然のことだが、いかんせん逮捕、拘禁されている。今日ばかり見て「雲隠」ってしまうことになるのか、あまりに酷いじゃないか、と聞き手に強く訴えかけている。「鴨」という字で助詞の「かも」を表した(注10)から、本気か? というニュアンスを醸し出そうとして用いている。今日を最後に「雲隠」ってしまうぞというのは、今日、鴨を見ることは拘禁されているからできないし、拘禁を解かれてもできることではなかった。すなわち、「鳴く鴨」はそこにはいなかった。題詞は、磐余の池の般(堤)にないていたのは鴨ではなくて人であること、また、鴨がいなかった理由は同じく堤の漏水による水涸れが原因であると言わんとしている。鴨を見ていないのだから死ぬ必要はないはずだと挑戦的に歌っている。歌い手自身による「挽歌」としては他に有間皇子の例が知られる。同様に政権から謀反のレッテルを貼られ、対抗的な感情を露わにしていた(注11)。池にいるはずなのにいない鴨は、今日ばかり見ようにも見ることはできない。
 題詞を素直に受け取れば、彼自身が歌を歌っている。磐余の池の般(堤)は涕(涙)を流すように水が漏れ出てしまっている。なぜわかるか。自分がきちんとツツミ(慎)をしていて泣いている。同じように磐余池はツツミ(堤)に問題があって涕を流すかのような漏水に顕れている。自分が泣かないようになるようにすることは、磐余池をうまく修理して水が漏れ出ないようにすることと同等である。それで万事うまく行き、鴨も安住できるはずだと陳述している。条件を提示しておいて、全体の結果がついてくるだろうという言い方である。上代に独特な「うけひ」と呼ばれる占いの構文となっている。甲という目の前の事態で○○するならば、乙という眼前にはない事態でも○○となると前言しておいて、甲の様子を見て乙の事態に対処しようとするものである。甲乙で事態がパラレルに進行すると言葉に出して決めてしまって、それに従うように縛る物言いである。
 これは、「謀反」(持統前紀)の罪に問われた大津皇子が、置かれている状況を打開しようと持ち出した弁論術である。無文字時代の言霊信仰下にあっては、人々の考え方を拘束するように働きかけるものであった。当然ながら時の政権にとって愉快なものではない(注12)。言霊信仰による思想統制を行えるのは政権側だけでなければならない。政権の中枢にある持統天皇、草壁皇太子側からすれば、そういう言い方をすること自体、大津皇子は自らが政権側に立とうとする野心の現れであるとみなしたであろう。
 言=事とする言霊信仰下にあった時代、この大津皇子による「謀反みかどかたぶ」けむとする歌に対して、二つの否定が同時に行われたと考えられる。第一は、死を賜うことである。第二は、磐余池の堤を壊すことである。久永2021.に、「橿原市の調査によれば、6世紀後半に造られた堤を、ある時期に掘削して壊し、7世紀末頃に粘土や砂質土を交互に積み重ねることで再築堤されているという。堤を壊してまで溝を掘らなければならなかった理由はわかっていない。溝底には流水の痕跡があったことから、何らかの事情で池の水を一度排水したと考えられる。」(41頁)とまとめられている。「何らかの事情」は万416番歌にあった。
 大津皇子からすれば、磐余いはれだから「謂はれ」、由緒をただすことをしたのだと、少々賢しらなことを歌っている。空想の旅に出てみると、イハレというのだから起源からずっと続いてきた磐余の池では鳴く鴨までも、今日だけ見ておいて雲間に隠れるのだろう、でも目にしていないから雲間に隠れるようなことにはならない、としている。それはカモの事情によるのではなく、ひとえに池の事情による。大津皇子は監禁されていて、すべては仮定の話として歌を歌っている。だから「うけひ」的な物言いになっている。
 どうしてこういう歌に仕立てたか。彼はオホツカナシを歌いたかった。オホツ(大津)+カナシ(哀・悲)の辞世の歌である。
 この歌は、音声言語を礎としていた無文字時代のヤマトコトバの用法において完成されている。地口的な言葉づかいに慣れ親しんでいた人にとって、互いにわかりあえる歌として歌われ、享受された。書契の時代に入って人々の言葉の捉え方に合わなくなってしまい、その妙味に気づかれることなく、内容を包み隠したまま現代に至っている(注13)

(注)
(注1)阪下2012.は、磐余と謂われとの関係を柳田国男『伝説』に示唆を受けたとする。ふつうに言葉に触れていれば驚くほどのことではない。拙稿「サクラ(桜)=サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)説」参照。
(注2)全集本萬葉集に、「雲隠ルは死ヌの敬避表現……。正しくは大津皇子自身の言葉でなく、第三者の言葉と考えられる。……この歌は大津皇子の辞世の歌として伝わっていた伝承歌であろう。」(259頁)とある。「敬避表現」という言い方は、森本1940.の、「死者に対する敬意・・から、殊更に「死」の語を避け・・て他の語をもつて婉曲に現した」(119頁)という言い方に負っている。森本氏は、相聞歌では死が現実のことではないから「死ぬ」という言葉は使われるが、挽歌では眼前に目撃する死に対して忌むべき語を避けようとして別の語を用いているのであるとしている。「雲隠る」という語については、「王は 神にしませば 天雲の 五百重が下に 隠り賜ひぬ」(万205)を簡略化して熟語となしたなどとあり、万葉集挽歌における敬避性については、忌詞や敬語との関係や史的展開についていずれ論じて究明したいとしている。
 「雲隠る」という言葉は、文字通りに雲に隠れて見えなくなることをいう場合が多く、鳥が飛んで行って見えなくなることや遠く山を越えて行く人に用いられている。比喩的な言い方として死ぬ意味に「雲隠る」を使った例は、万葉集にほかに二例しか見られない。

  神亀六年己巳、左大臣長屋王、死を賜ひし後に、倉橋部女王の作る歌一首
 大君の みこと畏み おほあらきの 時にはあらねど 雲隠ります(万441)
  反歌(七年乙亥、大伴坂上郎女、尼理願が死去みまかれるを悲しび嘆きて作る歌一首〈并せて短歌〉(万460の前))
 留め得ぬ いのちにしあれば 敷栲しきたへの 家ゆは出でて 雲隠りにき(万461)
   右は、新羅国の尼、名を理願と曰へるが、遠く王徳にかまけて聖朝みかど帰化まゐきたり。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄り住ひて、既に数紀をここに天平七年乙亥を以て、忽ちに運病に沈み、既に泉界に趣く。ここに大家石川命婦、餌薬の事に依りて有間の温泉に徃きて、此の喪に会はず。但、郎女、独り留りて屍柩を葬り送ること既に訖りぬ。仍りて此の歌を作りて温泉に贈り入れたり。

 大津皇子の万416番歌では自身の死について、万461番歌では新羅からの帰化した尼について「雲隠る」と言っている。死ぬことを「隠る」、「山隠る」、「島隠る」と表すこともある。「死ぬ」という語の忌詞としてそれらの語を使ったと見るのが穏当であろう。「敬避表現」という用語が一人歩きしているだけで、万416番歌を大津皇子の歌ではなく仮託した歌であるとする根拠はない。曽倉2020.参照。
(注3)仮託説は多くの論者により唱えられている。悲劇の皇子の話が当時ひとつの物語となっており、後代の人がそれに基づいて寄稿したとするものである。しかし、後の人が作った場合、それとわかるように題詞に記されている。題詞を無理やりに解して仮託であると主張するのは、歌の状況が把握できないために、すっきりしたいと思う研究者の妄想の産物である。この考えの延長線上には万葉集偽書説がある。万葉集の歌はすべて後の時代の人によって仮託されたもので、すべてでっち上げられたものだと言ってかまわなくなる。
(注4)「大藤原京左京五条八坊の調査」参照。大津皇子が言う「磐余池」はこれに当たるかと推測される。ダム式人工池として一番古いとされていた7世紀前半の狭山池を遡ること6世紀の人工池である。「磐余池」と称されるものは、紀が記す飛鳥時代以降、万416番歌と枕草子第38段に限られており、情報としては明瞭なものではない。
(注5)古代の盛り土の高度な技法としては、敷葉・敷葉工法と土嚢積みが東アジアにおいて一般的に行われた。敷粗朶・敷葉工法は、現代でいうところのジオテキスタイル工法に当たる(小山田2009.)。堤の場合、土との相互作用で引張補強効果や排水補強効果があって、構造体全体の安定性が高まるのである。敷粗朶・敷葉工法として確認されているのは、大阪府亀井遺跡(5世紀末~6世紀初頭)が早いもので、大阪府狭山池北堤(616年頃)では土嚢積みの技法も加わっている。中河内地域は韓式系土器が集中的に出土するところであり、渡来人とのかかわりが想定されている。築堤に際しての敷粗朶・敷葉工法も渡来人の手によって伝えられたものと考えられており(田中1989.)、そのような交流の盛んな地域から外れると敷粗朶・敷葉の痕跡は見られないという(山田2008.)。なお、時代的に少し前に当たる大阪府久宝寺遺跡(5世紀中頃~6世紀)に見られる草敷きについては、堰の目つぶし材であり敷葉工法ではないとする説がある(土楽1995.)。

敷葉工法(堤体の断面、大阪府立狭山池博物館)

 対して大和の磐余池の築堤においては、砂質土と粘土とを交互に積んでいっている。これは古墳の盛り土に多く行われる工法のようである。敷粗朶・敷葉工法は確認されておらず、斜面裾部に石敷き、砂利敷き、石列が施されている。履中紀記事は宮の建設とともに記されており、苑池であったかとも考えられている(上遠野2017.)。盛り土は6世紀後半から7世紀末ごろまでくり返され、石敷きの上にもさらに土を盛ってゆき、当初の土手よりも最大1.2m高くなっているという。最終段階でも貯水用の構造体として脆かった可能性がある。途中段階では砂質土と粘土の交互積みもされておらず、水圧の負荷への対応が不十分だったのであろう。亀井遺跡の堤防が、弥生時代の工法の上に新たに敷粗朶工法をとって築堤されていたのとは対照的である。大津皇子は686年に万416番歌を歌っている。664年に筑紫で水城が敷粗朶工法によって作られているが、磐余池では古墳の土盛りと同様だったようである。捕らえられた大津皇子が、無策な公共事業であると批判していたのかもしれない。
(注6)古典基礎語辞典の解説に、「オボはオボメク(はっきりしない、不審に思う意)のオボと同根で、明瞭でない状態。ナシはそのような状態にあることを表す接尾語。対象がはっきりとは認識できない状態をいう。つかみどころがなく不確かなさまや、眼前にない対象について、気にかかっているのだが、様子や動向がよくわからないことを表す。そこから、それを確かにしたいと思う気持ちに転じ、気がかりな相手や愛情を抱いている相手、子供や恋人について、直接会いたい、じかに親密に言葉を交わしたい、とする場合などにも使われた。「覚束なし」は当て字。オボツカナシは、不確かで、予想もできない状況にあるから確かに知りたい、手応えを得たいなど、あくまでも事実を求める」(264~265頁、この項、筒井ゆみ子)とある。
(注7)巷間に言われている「言霊信仰」とは異なる。拙稿「上代語「言霊」と言霊信仰の真意について」参照。
(注8)懐風藻・大津皇子伝では「博覧」と評されているから、朝鮮半島の新しい築堤技術を知っていたということかもしれない。紀には大津皇子の謀反事件の顛末が記されている。

 冬十月の戊辰の朔にして己巳に、皇子大津、謀反みかどかたぶけむとして発覚あらはれぬ。皇子大津を逮捕からめて、并せて皇子大津が為に詿誤あざむかれたる直広肆ぢきくわうし八口やくちの朝臣あそみ音橿おとかし小山せうせんきのむらじ博徳はかとこと、おほ舎人とねり中臣朝臣臣なかとみのあそみ麻呂おみまろせの朝臣あそみ多益須たやす新羅しらきの沙門ほふし行心かうじむ、及び帳内とねり礪杵道作ときのみちつくりたち、三十余人をからむ。庚午に、皇子大津を訳語田をさだいへ賜死みまからしむ。時に年二十四なり。みめ皇女ひめみこ山辺やまのへ、髪をくだしみだして徒跣そあしにして、はしりてきてともにしぬ。見るひと歔欷なげく。皇子大津は、天渟あまのぬ原瀛真人はらおきのまひとの天皇すめらみこと第三子みはしらにあたりたまふみこなり。容止みかほたかさがしくして、音辞みことばすぐあきらかなり。天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみことの為にめぐまれたてまつりたまふ。ひととなるいたりてわきわきしくして才学かどす。尤もと文筆ふみつくることこのみたまふ。詩賦しふおこり、大津よりはじまれり。丙申に、みことのりしてのたまはく、「皇子大津、謀反けむとす。詿誤かれたる吏民つかさひと・帳内は已むこと得ず。今皇子大津、已に滅びぬ。従者ともがら、当に皇子大津にかかれらば、皆ゆるせ。但し礪杵道作は伊豆にながしつかはせ」とのたまふ。又、詔して曰はく、「新羅沙門行心、皇子大津謀反けむとするにくみせれども、われ加法つみするに忍びず。飛騨国の伽藍てらうつせ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)

 技術的な入れ知恵は新羅沙門行心によるかと思われ、といって彼は渡来人でヤマトコトバに皮肉な洒落を解したとは思われず、「朕不加法」ということになるであろう。「但礪杵道作流伊豆」とあるのは、道路の工法にも敷粗朶・敷葉工法が使われていることと関係するように思われる。名は体を表した「名に負ふ」時代のことである。礪杵道作が何を吹聴し、どこに咎があったか不明ながらも、この謀反がらみの万416番歌、火に油を注いだ歌が作られたことと関係したものと思われる。大津皇子逮捕の当初の謀反事件については拙稿「吉備津の采女挽歌考」参照。
(注9)「のみ」と「や」のある形には次のような例がある。

 よそにのみ 見てや渡らも 難波潟 くもに見ゆる 島ならなくに(万4355)
 昼は咲き 夜は恋ひる 合歓木ねぶの花 君のみ見めや 戯奴わけさへに見よ(万1461)
 見てのみや 人にかたらむ 桜花 手ごとに折りて 家づとにせむ(古今55)

 小田2015.に、「発話者に判断が成立しているにもかかわらず、あえて疑問文の形式を用いて聞き手に強く訴えかける文を修辞疑問文という 。そのうち、特に、自己の主張と反対の内容を疑問文の形式で表現したものを反語という。すべての問いの形式、疑いの形式は反語表現になり得る。」(255頁)とある。
 第一例は防人の歌である。有名な難波の干潟へは接近、上陸することなく遠くから見るばかりで九州へ渡ってゆくのだろうか、雲の向こうに見える島でもないのに、と歎いている。この場合、軍団として扱われていて自分の力ではどうにもならないことであり、自己の主張を貫くことはできない。万416番歌の大津皇子も拘束されて自死を促されており、どうすることもできなかった点が似通っている。第二・三例は、上句の反語的なもの言いを、下句において自分の力で解決すべく動いている。実際にできるとき、「や」の用法としては「反語」と呼ぶことに抵抗はないが、第一例のような場合は、忸怩たる思いを訴える修辞疑問文である。
(注10)鳥のカモは、「鴨(モは甲類)」であったらしいが、早い段階からモの甲乙は混用しており、万葉集で助詞の「かも(モは乙類)」を当てるのに「鴨」字が三十例以上用いられている。
(注11)拙稿「「有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」について」参照。
(注12)溜池の保全係が誰であったか不明である。仮に大津皇子であるなら自分を生かしておけばきちんと直すと言っていることになる。履中紀三年十一月条に、「天皇すめらみこと両枝船ふたまたぶね磐余市磯池いはれのいちしのいけうかべたまふ。皇妃みめおのおのわかち乗りて遊宴あそびたまふ。」とある。前年に完成した「磐余池」のこととされている。船を浮かべるということは、船が停泊するところ、津があるということであり、ならば大津なる我が整備して御覧に入れましょう、ということなのかもしれない。疑心を抱いている持統天皇、草壁皇太子側は、両枝船に乗せて沈没させようと企んでいると思ったのかもしれない。二人とも船に乗せ、船を傾けて沈めてしまうミカドカタブケムである。題詞で、堤防のことを泮、畔に通じる「般」字でわざわざ記している。説文に、「般 くるなり。舟のめぐるに象る。舟に从ひ殳に从ふ。殳は旋る所以なり(般 辟也象舟之旋从舟从殳殳所以旋也)」とあり、船遊びを彷彿させる表意を兼ねている。
(注13)この著名な歌は、オホツカナシという語の洒落によって成り立っている。と言って、筆者は万葉集の歌を冒涜するものではない。上代の人の言葉づかいが我々とは異なる点、無文字時代の言語活動、言語感覚の粋について明らかにしようとしている。確かに存した異なる文化について、フィールドワークによって報告しているだけである。そして、今日の「万葉学」とは比べ物にならない大きな成果が期待できる。グローバルに交流して画一化していくかに見える世界情勢に反して、思考方法において、人類には別の可能性があったことを教えてくれている。

(引用・参考文献)
青木2016. 青木敬「土木技術(古墳構築・築堤・道路)」『季刊考古学』第137号、雄山閣、2016年11月。
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加藤良平 2022.4.27初出

「小竹の葉は み山もさやに 乱友」(万133)歌の訓みについて

 柿本人麻呂の石見相聞歌のうち、万133番歌はよく知られながら必ずしも定訓を得ていない。

 小竹ささの葉は み山もさやに 乱友 われいも思ふ 別れぬれば〔小竹之葉者三山毛清尓乱友吾者妹思別来礼婆〕(万133)

 この第三句「乱友」の訓みについては、ミダルトモとサヤゲドモとの二つが有力となっており(注1)、視覚的作用と聴覚的作用のいずれを優先させるかという場外乱闘にさえなっている(注2)。両者の説は、塩沢1997.に議論が整理され、それぞれが他者を排する理由をまとめている。

(A)「ミダルトモ」が「サヤゲドモ」を排する主な理由は、
(1)「乱」を「サヤグ」と確実に訓む例が見いだせない。
(2)第二句の「さやに」は動詞「さやぐ」の語幹に「に」がついたもので、「み山もさやに」という、〈AモBニ〉という形式の定型句に続く句は、「山も狭に 咲ける馬酔木の」(8・一四二八)や「滝もとどろに鳴く蟬の」(5・三六一七)のように、「B」と語幹を同じくする動詞が来た例が見いだせない。……
(B)「サヤゲドモ」が「ミダルトモ」を排する主な理由は、
(1)「ミダル」は、バラバラと散乱するもの、糸のように細長く入り乱れるものに用いられるのみで、枝のままの葉に「ミダル」と用いた例はない。
(2)「トモ」という仮定条件と結句の「別れ来ぬれば」という確定条件との間に齟齬がある。(66~67頁)(注3)

 結局のところ、依然として両説とも命脈を保っている。筆者は、サヤゲドモ説に与する。そう訓まなければ「み山」という表現が意味をなさないからである。岩波古語辞典に、「みやま【み山】《ミは接頭語。霊力の支配する神秘な山が原義。後には、単に、木木がこんもり繁った深山の意になった》①霊力の支配する神秘な山。「小竹(ささ)の葉はーもさやに乱るとも」〈万133〉②御陵。「ーに詣で給ひて」〈源氏 須磨〉③《「外山(とやま)」の対》木の繁った奥深い山。 「ーには霰(あられ)降るらし外山(とやまなるまさきのかづら色づきにけり」〈神楽歌一〉。「深山、ミヤマ」〈饅頭屋本節用集〉miyama」(1277頁)とある。ここで、当該歌はこの①の用法にのみ適うものなのか問われよう。山を敬いほめたたえて言っているとして、前の歌(万132)にある「高角山たかつのやま」のことを言っているのであろうが、なにゆえ「み山」とこの歌のみ言い換えているのか。それは、②御陵の意を見出されることを願っているのではないか。御陵はミサザキと呼ばれた(注4)。和名抄に、「山陵〈埴輪附〉 日本紀私記に山陵〈美佐々岐みさざき〉と云ふ。埴輪〈波迩和はにわ〉は山陵の縁辺に埴の人形を作り、車輪の如く立つる者なりといふ。」とある。ミサザキという言葉(音)に、ササという言葉(音)はざわついている。ざわめくことがサヤグという語の意味である。だから、「乱友」はサヤゲドモと訓むのが正しいのである(注5)。逆接の仮定条件を表すトモではなく、逆接の確定条件を表すドモで適合している。排除的に考察する必要はなく、一点の曇りもなく選択的にそう訓まれて然るべきなのである。
 検証は歌のなかで行うことができる。下句に、「吾は妹思ふ 別れ来ぬれば」とある。上句とのつながりがいまひとつ理解しきれず、トモかドモか論じられることがあったが、その点は解明された。そして、「吾は妹思ふ」理由は、「別れ来ぬれば」と説明されている。ワレ○○ハオモフ←キヌレバである。人麻呂自身の声に、言葉遊びであることが明かされている。上句も下句も言葉遊びに説明されているのであり、万133番歌の表現技法は、言葉の謎かけ、頓智にあった(注6)
 本稿は、この歌の訓にとどまるにはまだ余裕がある。白川1995.に、サヤグが解説されている。少し長くなるが碩学の疑問に答えられた時、上代語のサヤグ問題は解決したと言える。

 さやぐ〔乱(亂)〕 四段。竹の葉などがさやさやと音をたてる、その擬声語の「さや」を動詞化した語。〔古語拾遺〕に「阿那佐夜憩あやさやけささの聲なり〉」とあり、また「たくぶすまさやぐがしたに」〔記五〕のようにもいう。のちの「ざわめく」に近い。音の乱れさわぐことから、またことが乱れさわぐ意に用いる。「そよぐ」の「そよ」はその母音交替形である。
 狭井さゐがはよ雲立ち渡りうねやま佐夜藝(乱ぎ) ぬ風吹かむとす〔記二〇〕
 あしなるをぎの葉左夜藝さやぎ(乱ぎ)秋風の吹き來るなへにかり鳴き渡る〔万二一三四〕
 高浜たかはま下風したかぜ佐夜久さやぐ(乱ぐ)いもを恋ひ妻と言はばやしこと召しつも〔常陸風土記、茨城郡うばらきのこほり
 「小竹ささの葉はみ山もさやさやげども」〔万一三三〕のように、「さやぐ」には乱の字を用いる。そうは「さわく」にあてられる字である。 〔神代紀下〕に 「未平さやげり」、〔神武前紀〕に「猶聞喧擾之響焉なほさやげりなり」とみえ、平静の状態でないことをいう。〔新撰字鏡〕にそうの異体字をあげて「蘇后の反、左也久さやくなり」とし、さらに古文三字を録しているが、みな叟の異文である。その字は〔玉篇〕又部に「〓〔宀冠に火のしたに又〕、蘇后の切、老なり、或いは叟に作る」とし、〔篆隷万象名義てんれいばんしょうめいぎ〕又部にも〔新撰字鏡〕と同じ字形をあげて、「蘇后の反、老、父、聖父」と注する。〔説文〕三下に「老なり。又に従ひ、さい〔宀冠に火〕に従ふ。けつ」とする字であるが、〔新撰字鏡〕がどうしてこの字に「左也久さやく」の訓を加えたのか、その過程を確かめることができない。(376頁、一部漢字の旧字体は改めた)

 「叟」がなぜサヤクなのか(注7)。「老、父、聖父」なるお年寄りはどこにまつられるか。ミサザキ(御陵)である。サザとざわめいている。ミサザキのうち最もよく知られるのは大仙陵古墳、いわゆる仁徳天皇陵である。オホサザキノスメラミコトの寿陵として生前からつくられている。ササがサザとサヤグ(注8)ところが「み山」(万133)なのである。それを「乱」字で書くことが正しいのは、音の乱れだと直感させられるからである。ヤマトコトバは音声言語であった。

(注)
(注1)ミダルトモ説は、大系本萬葉集、稲岡1985.、稲岡1997.、サヤゲドモ説は、古典集成本萬葉集、中西1978.、新編全集本萬葉集、新大系文庫本万葉集、阿蘇2006.、伊藤2009.、多田2009.などに見られる。万133番歌の訓みについての諸論は、他の訓み方も含め、間宮2001.や坂本2010.に列挙されている。
(注2)多くの解説書に、ミダルは視覚的であり、サヤグは聴覚的だとされているが、ミダルは秩序の喪失に関する語であり、感覚において視覚に限定的に結びつくものではない。「秋風、河原風にまじりではやく、草むらに虫の声乱れて聞ゆ。」(宇津保物語・俊蔭)は、ミダルが聴覚の世界に用いられた例である。
 脆弱な基盤の上に視聴対の表現として議論されている。鉄野1989.に、「「吾」は外界から不断に働きかけられているのであって、「吾」は常に「笹の葉」とともに顫動し、かつそれに抗うのである。両者は相克し合う関係とでも言わねばなるまい。囲繞する顫動は、「吾」を占めようとしつつ、まさにそのことによって「別れ来」たことに「吾」を目覚ませずにはおかない。逆に「別れ来」たこと、一人乱れる笹の中にあることに戦く中から、「妹思ふ吾」が立ち上り、「思ふ」ことでその世界を突き破って行こうとする。「思ふ」ことは「別れ来」たことによって初めて発見されるのである。」(113頁)、神野志2010.に、「視覚的に捉えられた笹の葉と、サヤと、山全体に満ちたざわめきをいうのと、併存・対照しているのである。その外界を表現したとき、そのなかで「妹」を思ってあるものとして「我」は明確な輪郭を得る。……それは、表現が立ち上げるのであって、歌うことによってはじめてたしかな心情のかたちを見出された「我」というのが正当であろう。」(211~212頁)などとある。「乱友」の訓みの問題が視覚と聴覚の対立に発展し、さらには近代的自我が文芸によって形成されたかとされる主張が拡張されて人麻呂の自我形成に援用されている。「妹」を思わなかったら「靡けこの山」とは言わなかったろうが、「我」がそれまで定まっていなかったとは言えそうにない。まして「笹の葉」がアイデンティティを惹起しているとは思われず、デカルトのように方法的懐疑が行われた様子もない。
(注3)塩沢氏は、ここではサヤグトモという訓を蓋然性が高いとしている。『万葉語誌』の「さやけし【清けし】・さやぐ・さやに」の項では「さやげども」とし、「笹の葉は全山にわたってざわざわとした葉擦れの音を立てる。これは忌むべき事態の予兆となっている。……別れを自覚した人麻呂は「思ふ」ことによって眼前に妹を引き寄せ止めようとする。……笹の葉の「さやぎ」は、妹の喪失の予兆として、重要な役割を果たしている。」(171頁、この項、塩沢一平)としている。
(注4)万葉集中に、歌語として「御陵」という用字の歌がある。

  山科の御陵みさざきより退まかあらくる時、額田王の作る歌一首
 やすみしし わご大君の かしこきや はか仕ふる〔御陵奉仕流〕 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと のみを 泣きつつありてや もも磯城しきの 大宮人は き別れなむ(万155)

 一般にミハカと訓まれているが、これはサザキと訓むのかもしれない。孝元紀七年二月条に「狭狭城山君ささきのやまのきみ」とあり、雄略前紀安康三年十月条に「近江の狭狭城山君韓帒からぶくろ、言さく」と伝聞の形で登場する人物は、雄略天皇によるいちの辺押磐べのおしはの皇子みこ殺害に加担している。その同族が「近江国狭狭城山君のおや倭帒やまとふくろ宿禰のすくね」(顕宗紀元年二月是月)である。市辺押磐皇子の遺児が顕宗天皇で、顕宗紀元年五月条に「狭狭城山君韓帒宿禰、事、謀りて皇子おしを殺しまつるにかかりぬ。ころさるるに臨みて叩頭みてまをことば極めて哀し。天皇、加戮ころさしめたまふに忍びずして、陵戸みさざきのへに充て、兼めて山を守らしむ。籍帳へのふみたけづてて、山部やまべのむらじけたまふ。ここに倭帒宿禰、いろもおきいさをしに因りて、仍ち本姓もとのかばね狭狭ささきのやまのきみの氏を賜ふ。」と決している。
 山陵に関わらせているのは言葉(音)の同一性に従うものと考えられるから、紀の「狭狭城」はササキよりもサザキと訓まれるのが望ましい。固有名詞であれ、サザキは山と言葉上緊密な関係にあると認識されていた。万155番歌で「御陵」に「山科」、「鏡の山」と続いている。墓標をそなえただけのハカ(墓)よりも、土墳をともなった(ミ)サザキと連繋させて歌われている可能性が高い。聞いていてわかりやすいからである。歌の作者は口承の歌を良くした額田王である。
(注5)間宮2001.は、「サヤニサヤグは副詞サヤニが動詞サヤグを修飾する形になるが、そのような結合関係、例えばソヨニソヨグだとかトドロニトドロクなどはあってもよさそうな表現であるが、文献に実例を見出せない。こういった修飾関係は、おそらく重複した表現になってしまうために、実現しなかったのであろう。」(77~78頁)とあり、訓みの候補から排除する。
 しかし、「み山もさやに〜」という、AもBに〜、体言+助詞モ+状態の副詞+助詞ニ+動詞の形式は、AがBであるほどに〜、AがBであるばかりに〜という表現である。動詞に表す程度がちょうど「AもBに」であると述べているから、Bと動詞とが言葉にダブった表現は想定され得る。万葉集中でも、「を泣く」、「を寝」といったくどい表現は頻繁に行われている。澤瀉1947.は数多くの例をあげ、上代の歌にくりかえしの多いことを示している。
 そしてまた、ソヨニ─ソヨグ、トドロニ─トドロクは同根に語幹をともにしているものの、サヤニ─サヤグでは語の出自が違うかもしれないという疑惑がある。サヤニはサエ(冴)に生じ、はっきりと、の意を持っている。サヤグはざわめく、の意である。くっきりとざわめいている、はっきりとざわざわしているのが聞える、という言い方は重複に当らず、冗長な表現でもない。
(注6)万葉集でサヤグという語は他に二例、記歌謡に三例見られる。歌では、サヤグは多く葉の様子を言う。ほかに葦原中国の騒擾状態を「いたくさやぎてありなり」(〔伊多久佐夜藝弖有那理〕記上・〔伊多玖佐夜藝帝阿理那理〕神武記)と言っている。

 葦辺なる 荻の葉さやげ〔左夜芸〕 秋風の 吹き来るなへに 雁鳴き渡る〈一に云ふ、秋風に 雁が音聞こゆ 今し来らしも〉(万2134)
 笹が葉の さやぐ〔佐也久〕霜夜に 七重着る 衣にませる 児ろが肌はも(万4431)
 …… 綾垣の ふはやが下に むしぶすま にこやが下に たくぶすま さやぐが下に 沫雪の 若やる胸を 栲綱たくづなの 白きただむき ……(記5)
 狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 の葉さやぎぬ 風吹かむとす(記20)
 畝火山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる(記21)

 万葉集で「み山」という語は他に四例見られる。

 あしひきの み山〔御山〕もさやに 落ちたぎつ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば ……(万920)
 やすみしし わご大君は み吉野の 秋津の小野の 野のには 跡見とみ据ゑ置きて み山〔御山〕には 射目いめ立て渡し 朝狩に 鹿猪しし踏み起こし 夕狩に 鳥踏み立て ……(万926)
 夕されば み山〔美夜麻〕を去らぬ 布雲にのぐもの あぜか絶えむと 言ひし児ろばも(万3513)
 梅の花 み山〔美夜万〕としみに ありともや かくのみ君は 見れど飽かにせむ(万3902)

 「み山」について、神の支配する山、畏怖すべき山、聖なる山といった視点から捉えられることが多いが、接頭語ミ(御)は、「古くは、神・天皇・宮廷のものを表わす語。」(岩波古語辞典1246頁)である。万920・926番歌は吉野讃歌であり、御料地を敬って「み山」と言っている。ミサザキ(御陵)が作られたのは御料地である。万920番歌の「み山」がミサザキのことであるとすると、実はとてもわかりやすい。鳥の名にもサザキがある。現在、ミソサザイと呼ばれている。和名抄に、「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼の二音、佐々岐さざき〉は小鳥なり、蒿萊の間に生れ、藩籬の下に長ぜりといふ。」とある。ミソサザイは外敵からの攻撃にあわないように、あえて危険な山中の渓流上に巣を作る。つまり、(あしひきの)山、御料地の山もざわざわと落ちはしるような、ミソサザイも確かに落っこち揉まれるような吉野の川の川の瀬がきれいなのを見ると、……という意味にとることができる。万3513・3902番歌の「み山」は、「深山」と記される意と思われる。
(注7)塩谷1984.は、「集韻には「叟叟」として「浙米聲(米をとぐ声)」という意味が記されている。この「叟叟」は明らかに擬声語と思われるものである。この「叟(〓〔宀冠に火のしたに又〕)」に「サヤグ」の訓が付されていることは、「サヤグ」が擬声語「サヤサヤ」を語源とし、「サヤという音がする」という聴覚主体の意味を持つことを決定づけるものと言えよう。」(264頁)としている。しかし、米をとぐ音をサヤグとする文献例は管見に入らない。
(注8)語幹と見られているサヤにおいて、「さやさや」(紀41・記74)と重なる語のあり方については拙稿「枯野伝説について」参照。擬音語に発すると思われているサヤなのであるが、莢(鞘)と関連づけられて使用されている。狭狭城山君の名に韓帒宿禰、倭帒宿禰などと「帒」とついているのは、鳥のサザキ(鷦鷯)の作る巣のあり様と古墳のサザキ(御陵)のあり様とが、同じく帒(袋)状の様子に通じていることによるのであろう。拙稿「仁徳天皇の名、オホサザキの秘密」参照。古代の人がヤマトコトバをそのように認識していたということである。

(引用・参考文献)
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古典集成本萬葉集 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋元四郎校注『萬葉集一』新潮社、1976年。
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坂本2010. 坂本信幸「笹の葉はみ山もさやに─「乱友」考─」『萬葉』第207号、平成22年9月、萬葉学会ホームページ http://manyoug.jp/memoir/2010(『万葉歌解』塙書房、2020年。) 
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新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『萬葉集(1)』小学館、1994年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
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間宮2001. 間宮厚司『万葉難訓歌の研究』法政大学出版局、2001年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。

加藤良平 2022.2.21初出

久米禅師と石川郎女の問答歌─万96~100番歌─について

 万葉集巻第二の久米禅師と石川郎女の相聞歌は、一・二・二首の計五首から成る。多田2009.の現代語訳を添えて掲出する。

  米禅師めのぜんじの、いしかはの郎女いらつめよばひし時の歌五首
  久米禅師が石川郎女に妻問いした時の歌五首
 みこも苅る しなの真弓 吾が引かば 貴人うまひとさびて いなと言はむかも 〈禅師〉(万96)
 み薦を刈る信濃の真弓を引くように私があなたの心を引いたら、あなたは貴人らしくいやだというだろうかなあ。〔禅師〕
 み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 強佐留行事わざを〔強佐留行事乎〕 知ると言はなくに〈郎女〉(万97)
 み薦を刈る信濃の真弓を引きもしないで、強佐留行事を知っているなどと誰が言えましょう。〔郎女〕
 あづさゆみ 引かばまにまに らめども のちの心を 知りかてぬかも〈郎女〉(万98)
 梓弓を引くように私の心を引いたならあなたの誘いのままに従おうと思うが、後々のあなたの心がわかりかねることだ。〔郎女〕
 梓弓 つる取りけ 引く人は 後の心を 知る人そ引く〈禅師〉(万99)
 梓弓にづるを取り掛けて引くように、あなたの心を引く人は後々までのたしかな心を知る人が引くのだ。〔禅師〕
 あづまひとの さきはこの にも いもは心に 乗りにけるかも 〈禅師〉(万100)
 東国の人の奉る荷前の箱を縛る綱のように、あなたは私の心にしっかりと乗りかかってしまったことだ。〔禅師〕

 これらの歌は、万葉集巻二の相聞の部類に載せられている。題詞によって、お坊さんが女性を口説いている歌と目されている。先行研究(注1)では、主に、万97番歌の四句目、「強作留行事乎」を何と訓むか、また、集中の「石川郎女」とは誰のことで同名の人が何人いるのか、といった点が議論されてきた。歌群全体の構成としては次のように評釈されている。

 以上五首は、鎖のようにからみあって連なりながら、柱が始めと中と終わりの三か所にあって、しかも、最後が最も高く盛り上がって、終わるべきかたちで終わっている。どうやら、五首には、男女が妻問い(共寝)をなしとげる時の模範的なやりとりを示す歌として語り継がれる歴史があったらしい。そこには、法師すらかくうたうという意識を伴う享受の姿勢もあったのかもしれない。
 この場合、五首の男と女とがともに伝未詳の人で、「久米禅師」は、古くから歌儛や物語の伝承に深くかかわった氏族久米氏にちなみの名であること、また、「石川郎女」も、のちの藤原朝に、複数の男性と多彩な戯歌を交わしたなまめかしい女〝石川郎女〟(一〇七~一〇・一二六~九)の風姿を連想させることなどが興味をひく。磐姫皇后の四首(八五~八)と同様、この五首にも〝埋もれた作者〟があり、「久米禅師」と「石川郎女」とは、藤原朝の頃、その作者によって作り出された物語上の人物であった可能性が高い。(伊藤1995.258~259頁)

 のちの藤原朝に創作され、まえの時代の部分に据えられたとする考えは想像に過ぎない。反証の可能性がないため、理解が及ばないとたやすく唱えられる。筆者は、仮にのちの藤原朝に創作されたなら藤原朝に記録されたはずであると考える。あたかもあったことかのように偽る理由はなく、偽ってかまわないとする嘘つきの発想が常態化していたとも思われないからである。そんなことが罷り通っていたら、無文字時代に何が真実で何が虚偽かを判別することができなくなり、世界はカオスに陥る。万葉集に収められている歌は妄言や妖言ではない。言葉は事柄と相即であるとした本来の意味での言霊信仰のもとにあった時代において、広く公に歌われた歌であって、二人の間だけで交わされたのではなく、周りで聞く人がいた。だから歌集に断りなく採られている。
 この歌群を考える上で求められるのは全体の枠組みである。題詞で設定が明示されている。「久米禅師、娉石川郎女時歌五首」である。「娉」はアトフ、ヨバフ、ツマドフなどと訓まれる(注2)。相聞の部立に属している。「娉」の時の歌に、譬えとしてなぜか弓が持ち出されている。譬えが成立している理由を正しく認識する必要がある。そして、最後の万100番歌では、弓の話から荷向(荷前)の篋(箱)の話にすり替わっている。当時の人によくわかるものとして理解されたから、歌が歌われて聞き留められたということであろう。万96~100番歌のすべてに通底する共通認識とはどのようなものであったか。
 歌をやりとりしている二人は久米禅師と石川郎女である。この二人がどのような人であったか不明である。不明であるにも関わらず、歌として成り立っていて万葉集に録されている。知られていない人が意味ありげに相聞の歌を歌い合っていて当時の人の心に届いたということは、当時の人はその名からどのような人であったか理解していたということであろう。名は体を表す。言葉コト事柄コトとが相即の関係にあるからである。
 久米禅師と言って久米を名のるということは、久米くめうた(来目歌)で知られるように兵卒として歌謡に与る人である(注3)。伝承で確かに残されている。

 故、爾くして、あめの忍日おしひのみことあま津久つくめのみことの二人、天の石靫いはゆきを取り負ひ、頭椎かぶつちの大刀を取り佩き、天のはじ弓を取り持ち、天の真鹿児矢まかごやばさみ、さきに立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、〈此は大伴連等がおやぞ〉、天津久米命、〈此はめのあたひ等が祖ぞ〉。(記上)
 是を来目歌と謂ふ。今、楽府おほうたどころに此の歌をうたふときには、猶手量たばかりの大きさ小ささ、及び音声うたごゑふとさ細さ有り。此れ古の遺式のこれるのりなり。(神武前紀戊午年八月)
 凡て諸のうたをば、皆来目歌と謂ふ。此は歌へるひと的取して名くるなり。(神武前紀戊午年十二月)

 久米氏の祖である天津久米命は、弓矢を持った出で立ちで登場している。「天のはじ弓」と「天の真鹿児矢」である。本歌群には「真弓」と「梓弓」が出ている。「禅師」については、仏教語大辞典に、「①坐禅を修行する人。……②禅定に通達した高僧。③法師に対する敬称。高僧一般に用いられた敬称。朝廷からの諡名。日本の古代では禅師は特に修験があり、病をいやし、福を招く、特殊の僧侶に冠せられる敬称で、後世の禅宗の高僧を称するものとは区別される。またこれを行者とよぶこともある。道鏡が禅師といわれたのは呪術力をもっていたからである。……」(854頁)とある。
 一般に、久米禅師については③の意を採り、久米氏族出身の修験の法師とされている。しかし、座禅をしていないかはわからず、この万96~100番の歌は禅問答のようにも見受けられる。また、②の意味で、ゆたかなこころをもって歌問答をしているとも思われる。僧侶として戒律のもとに慎んでいて、実際にセクシャルなことを企てているわけではないらしいと受け取れる。説文に「娉 問ふなり」とあり、しなよく問うことを表していると見える。「法師すらかくうたう」のではなく、そのやりとりが阿吽の呼吸のごとく、あたかも息の合った夫婦のように呼び合っているから「娉」と記しているのではないか。
 相手は石川郎女である。この人がどのような人物であったか、文字時代の考えでは高貴な女性であることぐらいしか定められない。「郎女」はもともと、天皇や皇族を父、皇族関係を母として生まれた女性のことである。それを愛称に使うこともあった。無文字時代の人の言語感覚によれば、イシカハという名から想像されるのは、その言葉(音)のなかに潜んでいるシカ(鹿)と綽名された人ではないか。それが確からしいのは、イシカハは石革の意にもとることができるからである。石と革でできたものに石帯せきたい、今日の飾りベルトがあげられ、バックル部分は鉸具かこと呼ばれて同音の鹿児かこを連想させる。ここに登場している石川郎女という呼び名の郎女は愛称かもしれないけれど、ある程度高位の身分であることが予感され、その身なりにゴージャスな石と革でできたベルトを用いていて不思議ではない。和名抄に、「革帯 唐衣服令に云はく、革帯に玉鈎〈今案ふるに革帯は其の付くる所、金玉、石角等を以て名と、故に白玉帯、隠文帯、馬脳帯、波斯馬脳帯、紀伊石帯、出雲石帯、越石帯、斑犀帯、烏犀帯、散豆帯等の名有り、其の体に、純方、丸鞆、櫛上等の名有り、革帯は是れ其の惣名なり〉つけよといふ。」とある。
 相手が高位の女性であるという設定は、最初の万96番歌に反映されている。禅師は、「貴人さびて 否と言はむかも」と歌いかけている。「貴人」は高位な人である。そしてウマヒトはケンタウルス(?)のような馬人である。鹿のはずなのに馬ぶって「否」と言う、と洒落ている。馬が鳴き声を上げることは「いなく」という。新撰字鏡に、「嘽 土干反、馬平勞也、阿波久あはく、又うま伊奈久いなく」とある。否と鳴くという意に解せられるからそういうことを言っている。枕詞「み薦苅る」として出ているコモ(菰)は大型の抽水植物で、その葉を使って編み作ったものが筵類になる薦である。また、馬の飼葉にも使われていた(注4)。「信濃の真弓 吾が引かば」と仮定条件を示している久米禅師は、久米部に属しているらしく感じられるから弓の話をしているのであろうし、歩兵だから弓を引くには引くが、発射するかどうかは騎乗の指揮官の指図を待つことになる。真弓の産地として信濃は知られていた。さあどうしましょうかと、相手にボールを投げている。

 みこも苅る しなの真弓 吾が引かば 貴人うまひとさびて いなと言はむかも 〈禅師〉(万96)
 み薦を刈る信濃の真弓を私が引いたら、あなたは騎乗する指揮官らしく、馬のようにイナと鳴いて止めるのでしょうかねえ。

 これに対して馬にあてがわれた鹿なる石川郎女は、当意即妙に切り返している。

 み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 強佐留行事乎 知ると言はなくに〈郎女〉(万97)

 四句目の訓には諸説ある。シヒザルワザヲ説の中西1978.は、「み薦を刈る信濃特産のあの弓を引くようにとおっしゃるけれど、気をひいていもなさらない事を、どうして私が知りましょう。」(103頁)と訳す。「強」を「弦」、「佐」を「作」の誤写とみてヲハクルワザヲと訓む説の新大系文庫本は、「(みこも刈る)信濃の真弓をお引きもしないで、弦をつける方法を知っているなどと言わないものですのに。」(125頁)と訳している。「佐」をザと濁音に訓む例は見られず、原文「強」字を強いて「弦」字に改める理由もわからない。
 それ以外にシヒサルワザヲと訓む説があり、間宮2001.は、「(……弓を引くように)あなたは私の気を実際に引きもしないのに、私が自分の気持ちに反して無理に断る(貴人ぶってイヤと言う)ことを、あなたは知るわけがない。」(47~48頁)、室伏1972.は、「名の高い信濃の真弓を引いてみない、それではないが、私の心を引いてみることもしないで、無理にあなたの申し出を拒否するかどうか、前もって分るとは言えませんよ。否か応かは引いてみなければ分りませぬ。」(25頁)と訳している。
 「行事」については万498・1759番歌にその用字例があり、ワザと訓むことで諸説一致している。このワザという言葉について、正確な理解が求められる。白川1995.に、「ある特定の意味を含む行為をいう 。その行為者を「わざをき」、呪詛的な行為の結果としてもたらされる不幸を「わざはひ」という。」(800頁)、古典基礎語辞典に、「ワザは、ワザハヒ(災い、戒める神意のきざしの意)、ワザヲキ(俳優、神意をうかがうために神前で演技をする人の意)のワザに同じである。原義は隠された神意の意で、それの顕在化としての術、また行事をいう。したがって、行いや行事を意味するといっても、それは普通と違って、深い意味や意図が込められているものをいう。」(1331頁、この項、我妻多賀子)とある。これらの指摘は安直な訳を牽制している。時代別国語大辞典に、「①事柄。事態。次第。……②行為。しわざ。おこない。……③習慣化した行動。仕事。……④技芸。所作。技術。」(817頁)と具体例を分類するが、深い意味、意図が伴わない事柄や動作について、それをワザと呼ぶことはない。万97番歌の「行事わざ」においても、深い意味、意図が伴っており、特別感が表れているはずである。ワザを単にコトと現代語変換するのは誤りである(注5)。いくつか例をあげる。

 また常に哭きいさつるを以てわざとす。(神代紀第五段本文)
 是の時に、其の子事代主神、遊行あるきて出雲国の三穂みほ……のさきに在す。釣魚つりするを以てわざとす。或いは曰く、遊鳥とりのあそびするをわざとすといふ。(神代紀第九段本文)
 其の後に、ひじりわざいよいよ高く、きみのりうたた盛りなり。(崇神紀七年二月)
 陛下すめらみこと、国をしろしめして、いきほひわざ、広く天下あめのしたに聞ゆ。(顕宗紀二年八月)
 万機よろづのまつりごと総摂ふさねかはりて、天皇事みかどわざたまふ。(用明紀元年正月)
 汝等いましら習ふわざ何故なにゆゑらざる。(敏達紀元年五月)
 群臣まへつきみまことくは、よろづわざことごとくに敗れなむ。(推古紀十二年四月)
 さいじゃう恒に作悪あしきわざす。(皇極紀元年二月)
 凡そ百済・新羅の風俗くにわざ死亡しにひと有るときは、……(皇極紀元年五月)
 蘇我臣、たくめ国の政をほしきままにして、さは行無礼ゐやなきわざす。(皇極紀元年是歳)
 、入鹿、極甚はなは愚癡おろかにして、たくめ行暴悪あしきわざす。(皇極紀二年十一月)
 今のみの 行事わざにはあらず〔行事庭不有〕 いにしへの 人そまさりて にさへ泣きし(万498)
 あしひきの 山にしれば 風流みやびなみ がするわざを〔吾為類和射乎〕 とがめたまふな(万721)
 …… この山を うしはく神の 昔より いさめぬ行事わざぞ〔不禁行事叙〕 今日けふのみは めぐしもな見そ 事もとがむな(万1759)
 水を多み 上田あげに種き ひえを多み 択擢えらえしわざそ〔択擢之業曽〕 吾が独りる(万2999)
 古に ありけるわざの〔有家流和射乃〕 くすばしき 事と言ひ継ぐ ……(万4211)
 いざ子ども 狂業たはわざなせそ〔多波和射奈世曽〕 天地あめつちの 固めし国そ 大和島根は(万4487)
 行法し難かりしが為にして初めしわざなり。(東大寺諷誦文稿平安初期点)
 我れ三宝を供養するわざに財物を須ゐむとす。(金光明最勝王経・六、西大寺本平安初期点)
 忽然と一たびむに千万のわざあり。(白氏文集・四、天永四年点)
 ひととなりおごり荘るを愛し、行歩にエムなる姿すがたわざありて、男の心を動す。(蘇婆呼童子請問経・蘇磨呼請問法相分第三)

 シヒサルワザと訓んで無理に拒むことと解するのは、シヒサルコトではない理由を説明できないので誤りである。同じことは、シヒザルワザヲと訓んで無理強いすることがないことという解にも当てはまる。ほかの訓み方が求められている。可能性としてコハサルワザヲがある。
 「強」字はコハシ(コは乙類)を示すから、「はさる行事わざを」の意である。求める、欲しがる、祈る、願うの意の「乞ふ(コは乙類)」、「さ」は軽い敬意を表す助動詞スの未然形、「る」は一般に自発・可能・受身・尊敬の助動詞と呼ばれるものの連体形である。乞い求め願う技法のことで、おねだりのために姿態をつくることである。女性がするテクニックを我々は共通認識している。しな○○を作って男性に対する。「しなの真弓」を承ける語としてふさわしい。相手をメロメロにさせる態度を取るには極意あるワザが必要である。「乞ふ」に助動詞スがつく用例は古事記の歌謡に見える。同じく男女のやりとりを歌っている。

 …… 前妻こなみが はさば 立ち蕎麦そばの 実の無けくを こきしゑね 後妻うはなりが 肴乞はさば いちさかき 実の多けくを こきだ削ゑね ……(記9)
 庶幾 僥倖也、又尚、己比祢加波久波こひねがはくは(新撰字鏡)
 弓といへば品なきものを、梓弓、真弓、槻弓、品も求めず、品も求めず。(神楽歌16)

 み薦苅る 信濃の真弓 引かずして はさる行事わざを 知ると言はなくに〈郎女〉(万97)
 (み薦苅る)信濃の真弓を引いてもみないで、どのようにしなを作ってお願いしてくるかなんて、知っているとは言えないじゃないの。

 久米禅師は石川郎女に歌いかけるにあたって「み薦苅る」と始めていた。「み薦苅る」とはコモ(菰)を刈ること、それは薦の葉を刈ってまぐさにしようと始めたことであったが、受け取った石川郎女は別の用途を考えたようである。筵を編むためというよりも、今日言われるマコモダケの収穫を暗示したものである。マコモダケは、また、菰角こもづのと呼ばれる。黒穂病菌により茎が肥大化したもので、それを食用にした。その黒い胞子は眉墨など化粧品として利用された。お化粧してしな○○を作ろうというのである。石川郎女は女性だから、ものの見方を変えて「み薦苅る 信濃の真弓 引く」を捉え、眉引きのことだと合点している。換骨奪胎して話を発展させている。そして、次に、お化粧をしたら準備が整ったから臆せず男と対することはできるが、後々、何かを乞うたとき、それをかなえるだけの胆は据わっているかを問うて次の歌を歌っている。

 あづさゆみ 引かばまにまに らめども のちの心を 知りかてぬかも〈郎女〉(万98)
 梓弓を引いたならば、その引くままに従いますけれども、結婚後のあなたの心のことは知ることができないことよ。

 それに対して久米禅師は、「後の心」の意を展開させて使っている。彼は禅師であり、法師の一員であって、死後のことについて語っているのであろう。行く末の意から死後のことにまで発展させている。

 娘子をとめらが のちのしるしと 黄楊小つげをぐし ひかはりひて なびきけらしも(万4212)
 然らば、乃ち後生のちのよのひと言はまく、吾二人国を破れりといはむ。是、後葉のちのよの悪しき名なり。(舒明前紀)
 但し其の葬事のちのわざは、軽易おろそかなるを用ゐむ。(天智紀八年十月)

 梓弓 つる取りけ 引く人は 後の心を 知る人そ引く〈禅師〉(万99)
 梓弓に弓弦を取り掛けて引く人とは、梓弓で占いをする梓巫女のように死者の言葉を知るように、「後の心」を知っている人が引くものですよ。

梓弓を使う「くちよせみこ」(人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592445/16をトリミング)

 「み薦苅る 信濃の真弓」で投げかけた問いかけは、「梓弓」として返ってきている。石川郎女は真弓と同等に梓弓を用いたのであろうが、今後は、逆に、久米禅師が換骨奪胎して新しい意味に置き換えて捉えている。梓弓は、武具、戯芸具としてばかりでなく、巫女が霊を憑依するときにも用いられた。特に梓巫女と呼ばれ、神の依代として梓の木製の弓の弦を台の上で鳴らし、霊を口寄せした。イチコ(イタコ)の口寄せはその民間習俗の流れによるものであろう(注6)。太鼓や琴、鈴を使う巫女の様子は絵巻物からも窺うことができ、神降ろし、憑依のために音曲が用いられている。それが古代に遡れるものか、どのようなあり様だったかなど確かではないものの、万葉歌の言葉に「梓弓」が「よる」、「爪ひく」、「音」といった語とともに用いられ、武具ではなく楽器の用途となっていることに垣間見ることができる(注7)
 アヅサユミとは、アダ(他)+ウサ(儲)+ユミ(弓)のことを思わせ、うさゆづるの整った弓のこと、控えとしてきちんと揃えてあるもの、いつまでも修繕して引き続けることができるものである。だから「つる取り佩け」と断っている。石川郎女は梓弓を持ち出して先のことはわからないと歌ったが、先のことがわかるように準備されたものこそアヅサユミと呼ぶのであると言って事の必然性を説き据えている。万95番歌の「貴人」から「弦」へと続く流れは、仁徳紀二十二年正月条の歌謡にすでに見える。

 貴人うまひとの 立つる言立ことだて うさゆづる 絶え間継がむに 並べてもかも(紀46)(注8)

 相手は石川郎女である。石帯というベルトを想起して歌いかけていた。ヲ(緒)だろう、と歌いかけつつヲ(諾)だろう、と言っていたわけである。その頓智が石川郎女に通じて上手にお愛想を返してくれている。万96番歌に「いな」(「いなく」)で始めた歌問答は、万100番歌で「」(「」)でまとめている(注9)

 否もも 欲しきまにまに 赦すべき かほ見ゆるかも 我も依りなむ(万3796)
 何むと たがひはらむ 否も諾も 友のなみなみ 我も依りなむ(万3798)
 相見ては とせぬる いなかも 我やしかおもふ 君をし待たむ(万2539)
 又人のめす御いらへには、男は「よ」とまうし、女は「を」とまうす也。(古今著聞集三三一)

 あづまひとの さきはこの にも いもは心に 乗りにけるかも 〈禅師〉(万100)
 東国の人の奉るときに荷前の箱をきちんと縛って荷崩れしないようにするのようにと答えて、あなたは私の心にしっかりと乗りかかってしまったことだ。

 万100番歌の「妹は心に乗りにけるかも」は常套句である(注10)。弓の話から一転して荷物の緒の話になっている。「あづまひと」へ意識が向かったのは、アヅサユミ(梓弓)と音が通じるからでもあり、信濃が出ていたからでもあろう。ここで、久米禅師はさき(荷前)の使いがごとき役を演じて、馬に荷を載せて縛りつけていると歌っている。久米氏は雑兵的役割だから、馬を扱う馬子にも想念上なり得るのであり、禅師だから荷前の使いが天皇陵に絹製品を奉る役にかなうのである。万99番歌の「後の心」が死後のことを言っていたことが確かめられる。
 「さきはこ」と断っている。「さき」とは、さきの使いとして知られる陵墓への幣の奉納のことである。律令制下では、毎年諸国からの貢物(調)として絹や綿が納められたが、そのうち、あらかじめ伊勢大神宮などと諸陵墓へ納める分を取っておき、それを十二月に荷前の使いとして諸所へ派遣して奉った。残りは天皇が受領するという形式だったため、その年の初物は伊勢大神宮や諸陵墓が受けていると捉えられた。延喜式の「荷前」の傍訓には、伊勢大神宮、祝詞にハツニ、ハツヲ、ハツホ、陰陽寮にノサキとある。神前供献の場合は前者の三例の訓で、山陵供献の場合はノサキと訓んでいる(注11)。十二月の行事でハツホとあっても稲の初穂には当たらない。延喜式・中務省式に、「凡そ十二月に諸陵にみてぐらを奉らんには、……、凡そ諸陵に幣を供ふる使の大舎人は、……」とあり、幣にする絹製品が供献されていて、それを「さき」と呼んでいる。
 いま、歌を歌っているのは久米禅師である。陵墓をお守りする役目を実際に担っていたのかは不明ながら、その名の意味するところとなっている。令義解・職員令に、「諸陵みさざきのつかさ 正一人。掌らむこと、陵のみたまを祭らむこと〈謂はく、十二月、荷前の幣を奉るは是なりといふ。〉」とある。東国から調として絹を貢進していて、それは陵墓に納められるものであるという認識があり、「東人の 荷向の篋」という表現が人々にすぐに通じるものとなっていた。久米禅師が荷向(荷前)とかかわりがある点は、陵墓との関わりとともに、久米舞の舞手である点からも理解される。まひ(ヒは甲類)とまひ(ヒは甲類)とは同音である。
 この歌問答は禅問答であった。最初からヲ(緒、諾)という結論は見えており、だから「否」というカマをかけて歌い出していたのである。どう転んだって承諾するよりほかはないから、何重にも「妹は心に乗りにけるかも」の状態だと詠じている。
 これらの歌の応酬は、題詞にある「娉」がうまく行った、ないし、うまく行っていない、といった恋の行方を示すものではなく、「娉」という舞台設定自体を語っている。「娉」とはどういうことなのか、それを「相聞」という歌の形式で解説している。歌い出しに始まり歌い終わりへと展開する恋の駆け引きの話でもない。双方、名が体を表す歌の応酬をしている。すべて話(咄・噺・譚)として構成、成立している。話ばかりが上代の人にとって関心事であった。現実の恋話ではないから二首を一度に贈ることがあり、作者名を歌の下に記す例外的措置がとられている。言葉の理屈ばかりが連なった相聞歌、それが万96~100番歌である(注12)

(注)
(注1)月岡2016.に、先行研究と問題提起が整理されている。そして、歌群全体に見ると、「男→女・女→男・男」という問答と呼応するように、「真弓→真弓・梓弓→梓弓」という切り替えが起こってやりとりが移り変わる点が問題であると提起している。
(注2)大谷2020.は、「「娉」 の用例からは正式な婚姻を意味する確例は認められず、少なくとも求婚の段階であるといえる。『説文解字』の字義[「娉 訪也」]に即していうならば、男性が女性を尋ねること、婚姻について問い合わせることであり、婚姻関係を目指して行われる前段階の行為を指し示す語である。……久米禅師と石川郎女の応酬は、婚姻関係の成立を目指すことが歌のテーマとして設定されているといえる……。ただし、現実的な婚姻は社会的な慣習の中にあるため、男女が恋歌を掛け合って自由に結婚できるものではない。そのことからいえば、「娉」とは自由な恋愛を前提とした求婚のことであり、それは恋歌内部で完結する仮想現実の中で行われる恋愛(擬似的な恋愛)なのだといえる。」(18頁)としている。
(注3)雅楽に久米舞が知られ、令集解に記載されているものの、記紀においては歌ってはいるが舞ってはいない。
(注4)枕詞「み薦苅る」は原文に「水薦苅」「三薦苅」とあり、コモに「薦」字が当てられている。薦は草かんむりに廌という字で、説文に「廌 解廌獣也。山牛に似て一角。古者いにしへうたへさだむるに、不直なる者に触れしむ。象形、豸省に从ふ。凡そ廌の属は皆廌に从ふ」とある。タイは、獬豸カイチなどとも呼ばれる一種の神獣で、形は鹿や馬に似た一角獣である。曲直をただちに知って邪人に触れるとされて裁判官を想起させた。ここでも久米禅師は判断を仰いでいる。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」の「法王」項参照。用字に従って用いられた枕詞の一例である。
(注5)佐竹2000.に、「言語学上、厳密な意味で、類義語は存在しても、同義語というものは存在しえない」(230頁)とある。
(注6)文献に「白頭嫗取梓弓之折」(政事要略・巻七〇、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2561029/39)とあるが北野天神縁起に鳴弦をする男の姿が見える。「四もと覡女かむなぎ也、卜占うら、神遊、寄絃よりつる、由〈一作口〉寄之上手也」(新猿楽記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11606610/8)とあるところは巫女が梓弓を用いていた確例であろう。
(注7)一般には「梓弓」という語を実際の弓のことと、枕詞「梓弓」、言葉を導く用法とするものとに分けて捉えることが行われている。枕詞と考えるとき、その縁語から「音」、「引く」、「張る」(「春」)、「よる」(「よ」)に掛かるとされる。近年、枕詞は、意味がかさなりすぎて重くて訳しきれないものであると理解されるようになってきている。「梓弓」という語を置くことで全体の基調を決めているということである。
 「梓弓」を楽器として見ている万葉集の例をあげる。神降ろしに琴を「」く(仲哀記)ことで神は「る」こととなるから掛かるとされる。そして、「梓弓」も「音」を出して行く「すゑ」の事を言として聞くことができて「寄る」ことになる。万1930番歌では、「引く」と音がするはずなのに何も言わないことを示す「のり」を言い立てている。梓弓は楽器で、本来音がするところから照射された使い方であろう。

 梓弓 すゑはし知らず しかれども まさかは君に 寄りにしものを(万2985)
 梓弓 引きみゆるへみ 思ひ見て すでに心は 寄りにしものを(万2986)
 今さらに 何をか思はむ 梓弓 引きみ緩へみ 寄りにしものを(万2989)
 梓弓 欲良よらの山辺の しげかくに 妹ろを立てて さ寝処ねど払ふも(万3489)
 梓弓 末は寄り寝む 現在まさかこそ 人目を多み はしに置けれ(万3490)
 梓弓 つま夜音よとの とほにも 君がゆきを 聞かくししも(万531)
 …… 狂言たはことか 人の云ひつる 逆言およづれか 人の告げつる 梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 聞けば悲しみ ……(万4214)
 梓弓 ひきなる のりの 花咲くまでに 逢はぬ君かも(万1930)
 …… 玉梓たまづさの 使つかひの言へば 梓弓 おとに聞きて〈一は云はく、おとのみ聞きて〉 言はむすべ むすべ知らに おとのみを 聞きてあり得ねば ……(万207)
 …… 霧こそは ゆふへに立ちて あしたは すと言へ 梓弓 音聞くわれも おほに見し 事くやしきを ……(万217)

(注8)この紀46歌謡についての詳解は、天皇と皇后の一連の歌合戦を含めて検討されなければならない。ここでは、この歌が、循環論法で歌われている点についてのみ述べておく。「立つる言立」と同語反復の示すとおり、タツルなるツル(弦・蔓)があってそれが儲弦であろうこと、また、仁徳朝に近時の「貴人」としては菟道稚郎子が思い浮かび、太子(儲君)に立てられていたことがあり、弓弦と天皇位とにともにスペアをもうけていることが歌われている。
(注9)万96~99番歌に、弓を引くことばかりを歌っていたのが一転、「荷向の篋の 荷の緒」のことになっていて、諸注釈において、禅師が郎女を手に入れた喜びを独詠的に歌っていると解されることが多い。それまでの「相聞」を終えて別時に歌ったものが添付されたとする見方まである。月岡2016.は、この贈答歌群の綴じ目となる万100番歌は、大浦2008.が祈念祭の祝詞の詞章、「陸より往く路は、荷の緒縛ひ堅めて、磐ね木ね履みさくみて、馬の爪の至り留まる限り、長道間なく立ち続けて、……」を挙げているように、テキスト外に存在する「共通認識」を前提として利用して、最終的に弦から荷の緒へと落ち着かせているとしているとしている。
 筆者は、「共通認識」はヤマトコトバそれ自体に内在すると考えている。背後に鹿馬論争が控えていたように、鹿は「あづま」という語と関係が深い。ヤマトタケルが東国から帰るとき、「あづまはや」と歎いている。景行記に、「……還り上り幸す時、足柄あしがらの坂本に到りて、御粮みかれひす処に、其の坂の神、白き鹿にりて来立つ。しかくして、即ち、其の咋ひ遺せるひるの片端を以て待ち打てば、其の目にあたりて、乃ち打ち殺しき。かれ、其の坂に登り立ちて、三たび歎きてりたまひて云はく、「あづまはや」といひき。故、其の国を号けて阿豆麻あづまと謂ふ。」とある。鹿の目に当ったからアヅマというのだ、と伝えられている。イシカ○○ハノイラツ(石川郎女)さんよ、図星だろうと謂わんとしている。そして、万100番歌は、「」は「」であると落ちを示して、一連の歌合戦をまとめる役割を果たしている。
(注10)拙稿「万葉集における「心」に「乗る」表現について」参照。中西1978.に、「緒が固く結ばれた状態を乗る比喩とする。馬に乗せる状態ではない。」(104頁)とある。しかし、なぜ他の緒ではなく、「東人の 荷向の篋の 荷の緒」に限定されているのか説明がない。「乗る」ものの代表に馬があるから、馬に人が乗るのではなく荷鞍を載せてゆわいつけていることを指している。
(注11)荷前の制については、大津1999.、岡田1970.、服藤1991.、伊藤2016.、吉江2018.などに論じられている。
 藤波本神祇令の書き入れに、「延喜同私記云調庸荷前先条神祇号相甞祭後奉▢山陵号荷前也諸國雑物為任宛國用」とある。「条」字は諸解説書に「祭」ととっている。筆者は、「延喜同私記に云はく、調庸荷前、先条の神祇は相甞祭と号け後に奉る。山陵に▢は荷前と号くる也。諸国の雑物、任に国用に宛てんと為る也といふ。」と訓み、相嘗祭の後に大嘗祭(新嘗祭)があるという意味に解した。
 荷前の制によって延喜式・祝詞・春日祭に、「……大海に船満ち続けて、くがより往く道は、荷の緒ひ堅めて、……」と作られている。船荷を陸路で運ぶ場合、馬に載せたと考えられる。春日祭だから、延喜式の傍訓の区分けに従うなら、「荷の緒」とはいえその「荷前」はハツニ、ハツヲ、ハツホと訓み、厳密にはノサキではないことになる。伴信友・比古婆衣・巻之九に、「サキとは諸国の御調の絹布の類をはじめ、くさぐさの中の最物ハツモノを撰びて取分置きて其をまづ天照大御神宮に奉り給ひ、又相嘗に預り給ふ神たちの幣物にも奉り給ひ、また御世々々の山陵に奉り給ひさて其の残りを天皇の受納領す御事になむありける、……荷前とは……荷の先にて早物といはむが如し〈仙覚の萬葉集注釈に、……実は荷前と初穂と同物にはあらず〉四方の国々より進る御調物の荷の先に早く到来れるをまづ神に奉られむ料に取分たるを云ふ称なり」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/98~99、漢字の旧字体等は改めた)とある。
 なお、吉村1997.は、万100番歌の「東人」により、「四方国のなかでも東国の調や東人の荷前が特別の性格を負わされていたこと」を指摘している。しかし、万100番歌では「信濃」の「真弓」、「梓弓」からの連想、語呂合わせによって「あづまひと」や大切な品である「さき」という語が導かれている。すなわち、むしろ逆に、この歌の妥当性を上代の人が観念上認め合った結果、東国の調に特別な意味を付与していったのではないかと考える。
(注12)そんな歌の応酬をして何がおもしろいのか、という素朴な疑問も生じるかもしれない。歌を歌い合っているのに何ら前進していないのは変ではないかとする向きである。かかる違和感は、思考方法の異なりからもたらされる。無文字時代において言葉は音声のみに依っている。文字時代のもとに暮らす我々とは異なる感覚で言葉を使っていた。文字で記録できるようになったとき、言葉は記号となり、記号は抽象的な思考、演算を生む。そうなってはじめて前進的な思考を体得する。無文字時代の上代人は、言葉を確かめることに終始して堂々巡りするのに飽きるところがない。言っていることが正しいのか、聞いていることが正しいのか、それを何によって確かめるのか。言葉のなかで自己循環する論理的定義を間断なく行うしか術がなかった。具体的思考という原理に基づいて、言葉も、説話も、歌も、依って立つ足元を据え直しながらつくられていた。文字(表意文字)が得られた時、言語活動が大転換した様子は想像に難くない。上代の人は我々とは異文化の世界に暮らす人たちであった。記紀万葉を知るためには、我々は自らのものの考え方を脇へ置き、虚心坦懐にして残されている創られた話(咄・噺・譚)に耳を傾けなければならない。

(引用・参考文献)
明川1981. 明川忠夫「巫女「小町」覚書」『同志社国文学』第18号、1981年3月。同志社大学学術リポジトリ http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004950
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釈注一』集英社、1995年。
伊藤2016. 伊藤循『古代天皇制と辺境』同成社、2016年。
大浦2008. 大浦誠士『万葉集の様式と表現─伝達可能な造形としての〈心〉─』笠間書院、平成20年。
大谷2020. 大谷歩「久米禅師と石川郎女の贈答歌」『万葉古代学研究年報』第18号、2020年3月。奈良県立万葉文化館ホームページ http://www.manyo.jp/ancient/report/
大津1999. 大津透『古代の天皇制』岩波書店、1999年。
岡田1970. 岡田精司『古代王権の祭祀と神話』塙書房、1970年。
春日1942. 春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究 本文篇』斯道文庫、1942年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885585
佐竹2000. 佐竹昭広『萬葉集抜書』岩波書店(岩波現代文庫)、2000年。(1980年刊。初出は、佐竹昭広「古代の言語における内部言語形式の問題」久松潜一編『古事記大成 第3巻─言語文化篇─』平凡社、1957年。今西祐一郎・出雲路修・大谷雅夫・谷川恵一・上野英二編『佐竹昭広集 第2巻 ─言語の深奥─』岩波書店、2009年。)
時代別国語大辞典 上代語編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
蘇磨呼童子請問経 築島裕・小林芳規・月本雅幸・松本光隆「仁和寺蔵蘇磨呼童子請問経承暦三年点釈文」『訓点語と訓点資料』第95輯、平成7年3月。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
月岡2016. 月岡道晴「梓弓と真弓─久米禅師と石川郎女との問答歌─」『国語と国文学』第93巻第11号(通号1116号)、平成28年11月。
東大寺諷誦文稿 小林真由美「東大寺諷誦文稿注釈(二):41行〜79行」『成城國文學論集』第37号、2015年3月。成城大学学術情報リポジトリ http://id.nii.ac.jp/1109/00003412/
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
服藤1991. 服藤早苗『家成立史の研究─祖先祭祀・女・子ども─』校倉書房、1991年。
佛教語大辞典 中村元『佛教語大辞典 縮刷版』東京書籍、昭和56年。
間宮2001. 間宮厚司『万葉難訓歌の研究』法政大学出版局、2001。
室伏1972. 室伏秀平『万葉異見』古川書房、1972年。
吉江2018. 吉江崇『日本古代宮廷社会の儀礼と天皇』塙書房、2018年。
吉村1997. 吉村武彦「都と夷(ひな)・東国─古代日本のコスモロジーに関する覚書─」『萬葉集研究 第二十一集』塙書房、平成9年。

加藤良平 2022.2.16初出

万葉集の題詞、左注にあらわれたる「娉」字の読み方について

 万葉集には、「娉」の字が使われた題詞、左注が見られる。

  内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首(万93題詞)
  久米禅師娉石川郎女時歌五首(万96~100題詞)
  大伴宿祢娉巨勢郎女時歌一首〈大伴宿祢諱曰安麻呂也難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子平城朝任大納言兼大将軍薨也〉(万101題詞)
  大伴宿祢駿河麻呂娉同坂上家之二嬢歌一首(万407題詞)
  右郎女者佐保大納言卿之女也初嫁一品穂積皇子被寵無儔而皇子薨之後時藤原麻呂大夫娉之郎女焉郎女家於坂上里仍族氏号曰坂上郎女也(万528左注)
  或曰昔有三男同娉一女也娘子嘆息曰一女之身易滅如露三雄之志難平如石遂乃仿偟池上沈没水底於時其壮士等不勝哀頽之至各陳所心作歌三首〈娘子字曰〓〔娉字の由の代わりに中〕兒也〉(万3788題詞)

 これらの「娉」の字を何と訓むのか検討する(注1)
 「娉」字は、玉篇に「問也。娶妻、及礼賢達、納-徴束帛、相問曰娉」、説文に「娉 問也、从女甹声」、新撰字鏡に「娉〓〔娉字の由の代わりに中〕 二同、疋政反、娶也」とある。礼記・内則に「聘則為妻、奔則為妾。」とある。また、通字とされる「聘」は、説文に「聘 訪也、从耳甹声」とある。
 従来の訓には、ヨバフとするものが多いが、ふさわしいか疑問なしとしない。他の可能性としてはトフ、ツマドフ、アトフといった訓が考えられる。古事記に「娉」や「聘」の例は見られない。日本書紀では「聘」に次のような例がある。

 大泊瀬おほはつせの皇子みこ瑞歯別みつはわけの天皇すめらみことみむすめたちあとへたまはむとす。(安康前紀允恭四十二年十二月、書陵部本訓)
 天皇すめらみこと、大泊瀬皇子の為に、大草香おほくさかの皇子みこいもと幡梭皇女はたびのひめみこあとへむとおもほす。(安康紀元年二月、書陵部本訓)
 朝聘まうでき違ふこと無し。(雄略紀九年三月、前田本訓)
 太子ひつぎのみこ物部麁鹿火大もののべのあらかひのおほむらじむすめ影媛かげひめあとへむと思ほして、媒人なかだちつかはして、影媛がいへに向はしめて会はむことをちぎる。(武烈前紀仁賢十一年十一月、書陵部本訓)
 使つかひを遣はして三国のさか中井なゐむかへて、めしいれてみめとしたまふ。(継体前紀、前田本右訓「迎也」)
 まがりの大兄おほえの皇子みこみづか春日皇女かすがのひめみこむかへたまふ。(継体紀七年九月、前田本訓)
 さきなむぢよばひしことを承けて、吾便すでに許しあはせてき。(継体紀二十三年三月、前田本訓)
 しからずは、恐るらくは滅亡ほろぼされて、朝聘つかへまつること得じ。(欽明紀五年十一月、兼右本訓)
 ここに天皇、もろこしきみとぶらふ。(推古紀十六年九月、岩崎本訓)

 また、アトフと訓む例としては、ほかに「納采」の例その他がある。

 納采あとふるに足らずといへども、僅に掖庭うちつみやの数につかひたまへ。(仁徳前紀、前田本訓)
 黒媛くろひめを以てみめとせむとおもほす。納采あとふることの既に訖りて、(履中前紀仁徳八十七年正月、書陵部本訓)

 新撰字鏡に、「詫 禱也、註也、伊乃留いのる、又久留不くるふ、又阿止戸あとへ」とあるのも「あとふ」の名詞形で、相手に勧めること、誘うことであろうとされている。「娉」ないし「聘」という字は、結婚を申し込む際に結納を致して娶ることを表し、同時に、ヤマトコトバにアトフと言うのではないかと考えられる。
 「あとふ」という語は不思議な言葉である。相手に勧める、勧めて行動に駆り立てる、いざなう、という意味から、求婚する意へと守備領域が広がっている。「あとらふ」、「あつらふ」という言い方もあり、頼んで思うようにさせる、他人に依頼して何かをしてもらう、といったやはり使役的な言葉に発し、注文する、命令する、要求する、呼びかけ誘う、という意味となっていて、今日、「あつらえる(誂)」という言葉につづいている。

 武彦たけひこ廬城河いほきのかはあとたしみて、あざむきて使鸕鷀没水捕魚うかはするまねして、因りて其不意ゆくりもなく打ち殺しつ。(雄略紀三年四月)
 河中かはなかに至りて、わたしもりあとへて、船をみてくつがへす。(仁徳前紀)
 瑞歯別みつはわけの皇子みこひそかさし領布ひれして、あとらへてのたまはく、……(履中前紀仁徳八十七年正月)
 則ち皇后きさきあつらへて曰はく、……(垂仁紀四年九月)
 或いは其のかどいたりて、おのうたへあつらふ。(天武紀十年五月)
 …… 海若わたつみの 神のをとめに たまさかに い漕ぎ向ひ あひあとらひ 事成りしかば ……(万1740)

 この「あとふ」という語がどこから出たものか不明であるが、「とふ(訪・問、トは乙類)」という語があり、誘い求める意から求婚することをいう。トフには、相手の反応をして自分の思いどおりにさせしめる、という意味までは含まれていない。

 …… したわしせ したひに 我がいもを 下泣きに ……(記78)
 高麗こまにしき 紐かはし 天人あまひとの 妻問ふよひぞ われしのはむ(万2090)
 是の物は、今日けふ道に得つるあやしき物ぞ。かれ、つまどひの物ぞ。(雄略記)
 背子せこが かたころも 妻問つまどひに わが身はけじ こと問はずとも(万637)

 結婚は、両性の合意のうえでなければ不可能だから、誘いかけて使役的にその気にさせなければ己は結婚できない。そのため、「とふ」だけでは足りずに、「あとふ」ことが必要になってくる。白川1995.に、「ちようちよう声。ちようと声義が近く、また人をからかう意の調ちようとも声義が通ずる。〔説文〕三上に「相𧦝びて誘ふなり」とあり、ゆうはわが国で「あとふ」とよむ字である。誂を「あとらふ」とよむのと同じく、ともに相手を誘い、いどむことをいう。……好みの条件にあわせて、ものを作るよう依頼することを「あつらふ」というのは、その遺語である。」(543頁)とある。そんなさしまわし的な要件を強調して「あとふ」という言葉は成り立っているようである。
 一方、ヨバフは、ヨブ(呼)に動詞語尾フの下接した形で、呼び続けること、妻問うことをいう。時代別国語大辞典に、「【考】男が女の許に通うという婚姻形態(妻訪い婚)がひろく行なわれたことから、①[呼びつづける。呼ぶことを強調することば。]が②[妻問う。求婚する。]のような特定の意味で用いられるようになったという。」(801頁)とする。ヨバフの名詞形はヨバヒ(ヨ・ヒは甲類)で、②の意味に限られるようである。

 …… すすしきほひ あひ結婚よばひ しける時は ……(万1809)
 他国ひとくにに 結婚よばひに行きて 大刀たちも いまだ解かねば さそ明けにける(万2906)
 …… くはを 有りと聞こして さばひに 有り立たし 呼ばひに ありかよはせ ……(記2)

 万葉集の題詞、ならびに左注において、「娉」字が用いられるケースは二通りに分類されよう。第一は、どこか形式的な関係が見え隠れするケースである。第二は、声がなんともうるさく聞こえてくるケースである。前者は、求婚に向け端緒を切る誘いかけの要素を持ち、後者は、呼びかけ合いを強調している。どちらも人の営みである。その仮定の上で訓むと、次のようになる。

  内大臣うちのおほまへつきみ藤原卿ふぢはらのまへつきみの、かがみの王女おほきみあとふる時、鏡王女の内大臣に贈る歌一首
 玉くしげ おほふをやすみ けていなば 君が名は有れど が名ししも(万93)
  内大臣藤原卿の鏡王女にこたへ贈る歌一首
 玉くしげ みむまろ山の さなかづら さずはつひに 有りかつましじ〈或本の歌に曰はく、玉くしげ むろやまの〉(万94)

  米禅めのぜん石川郎女いしかはのいらつめよばふ時の歌五首
 みこも苅る 信濃の真弓 が引かば 貴人うまひとさびて いなと言はむかも 禅師(万96)
 み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 強作留行事わざを 知ると言はなくに 郎女(万97)
 あづさゆみ 引かばまにまに 依らめども 後の心を 知りかてぬかも 郎女(万98)
 梓弓 つる取りけ 引く人は 後の心を 知る人そ引く 禅師(万99)
 あづまひとの さきはこの 荷の緒にも いもは心に 乗りにけるかも 禅師(万100)

  大伴宿禰おほとものすくね勢郎女せのいらつめあとふる時の歌一首〈大伴宿禰はいみなやす麻呂まろと曰ふ。難波のみかど右大臣みぎのおほまへつきみだい大伴長徳ながとこ卿の第六子にして平城朝ならのみかどの大納言あはせて大将軍にけらえてみまかれり〉
 たまかづら 実ならぬ樹には ちはやぶる 神そくといふ ならぬ樹ごとに(万101)
  巨勢郎女の、報へ贈る歌一首〈即ち近江あふみのみかどの大納言巨勢人卿こせのひとのまへつきみむすめなり〉
 玉葛 花のみ咲きて 成らざるは こひにあらめ が恋ひおもふを(万102)

  大伴宿禰駿する河麻呂がまろの同じ坂上家さかのうへのいへ二嬢おといらつめよばふ歌一首
 はるがすみ 春日かすがの里の うゑ水葱なぎ なへなりと言ひし はさしにけむ(万407)

  京職みさとづかさ藤原大夫ふぢはらのまへつきみの、大伴郎女おほとものいらつめに贈る歌三首〈卿、諱を麻呂まろと曰ふ〉
 娘子をとめらが 玉くしげなる 玉櫛たまぐしの かむさびけむも 妹に逢はず有れば(万522)
 よく渡る 人は年にも 有りと云ふを 何時いつにそも 吾が恋ひにける(万523)
 むしぶすま なごやが下に 臥せれども 妹としねば 肌し寒しも(万524)
  大伴郎女のこたふる歌四首
 佐保さほがはの いしふみ渡り ぬばたまの くろの来る夜は 年にも有らぬか(万525)
 千鳥鳴く 佐保のかはの さざれ波 む時も無し 吾が恋ふらくは(万526)
 むと云ふも ぬ時有るを じと云ふを 来むとは待たじ 来じと云ふものを(万527)
 千鳥鳴く 佐保のかはの 瀬を広み 打橋うちはし渡す と念へば(万528)
  右、郎女いらつめ保大ほのだい納言なごんのまへつきみむすめなり。初め一品いつぽん穂積ほづみの皇子みことつぎ、うつくしびくることたぐひ無し。皇子みまかりましし後時のちに、藤原麻呂大夫、この郎女をよばふ。郎女は坂上さかのうへの里にむ。仍りて族氏うがらなづけて坂上さかのうへの郎女いらつめと曰ふ。

  或に曰はく、昔みたりの男有りき。ともひとりをみなよばふ。娘子をとめ嘆息なげきて曰はく、「一の女の身の易滅けやすきこと露の如く、三のをのここころにきび難きこといはの如し」といふ。遂に乃ち池のほとり仿偟たもとほり、水底みなそこ沈没しづみき。時に其の壮士をとこ哀頽かなしびきはみへずして、おのおの所心おもひべて作る歌三首〈娘子、𦆅かづらと曰ふ〉
 耳成みみなしの 池し恨めし わぎ妹子もこが 来つつかづかば 水は涸れなむ 一(万3788)
 あしひきの やま𦆅かづら 今日くと 吾に告げせば かへましを 二(万3789)
 あしひきの たま𦆅かづらの児 今日のごと いづれのくまを 見つつにけむ 三(万3790)

 万96題詞、万407題詞、万528左注、万3788題詞において、「娉」をヨバフと訓んだ理由は、うるさく聞こえてくるからである。基本的に互いに声を出して呼び合うことをする。万96~100番歌、万522~528番歌は当初から男女の呼び交わし合いを前提に題詞や左注が記されている。前者は、久米禅師が一首、石川郎女が二首、さらに返して久米禅師が二首である。後者は、藤原麻呂が三首贈り、対して大伴郎女が四首返している。声を出して呼びかけつづけ、対するに声を出しつづけて応えている。だから、ヨバフで正しいと考える。万3788~3790番歌は、三人の男が同時に一人の女に言い寄っていて、競うように言い寄られてなす術を知らず、自ら命を絶ったという話になっている。亡くなった後、三人の男は陳述して歌をそれぞれ歌っている。歌の下に「一」、「二」、「三」と記されている。男の側からの声しか聞こえないが、その三人の協和、呼び合いになっており、形式を遷移させたものといえよう。万407番歌は、歌人として知られるおほ伴坂上とものさかのうへの郎女いらつめ、すなわち、坂上さかのうへのいへ大嬢おほいらつめの妹に当たる幼い少女、坂上さかのうへのいへ二嬢おといらつめに対して歌われている。恥ずかしがって出てこない。そこでからかい半分呼びかけた。返歌もなく、万葉集にその人の歌は載らない。同族の親戚が法事か何かで会合した時の宴席ででも歌われたものであろう。隠れている少女に、大きな声で呼びかけている。結果的に呼び合いになってはいないが、歌の名手である大伴坂上郎女の妹なのだから答えられるであろうとの呼びかけであった。呼ぶことを強調し、呼び合いを前提として歌われているから、ヨバフで正しいと考える(注2)
 他方、万93番歌の題詞に、「内大臣藤原卿娉鏡王女時、鏡王女贈内大臣歌一首」とあり、万94番歌の題詞に、「内大臣藤原卿報鏡王女贈歌一首」と対になっている。ヨバフが呼び合う意である限りにおいて、「娉」→「報」という関係はあり得ない。「贈」→「報」になっている。あくまでも歌の贈答である。それを「相聞」という括りで載せている(注3)。この関係は、万101~102番歌の、大伴宿禰と巨勢郎女との間の「娉」→「報贈」の関係も同じである。よって、当初、男性から女性へ一方的にアプローチしたアトフ(娉)ことがされ、その行為に対してオクル(贈)歌やコタフ(報)歌が設けられたということであろう。
 以上により、万葉集の題詞や左注にあらわれる「娉」字は、状況によって「よばふ」、「あとふ」と訓み分けられるべきことが知れた。

(注)
(注1)題詞や左注は漢文表記だから、訓をつけないでも構わないとする見解があり、そういう方針なのか知らないが、澤瀉久孝『万葉集注釋』は最初からこの議論に参戦していない。
(注2)諸注釈書にはアトフの訓みは見られず、ツマドフという苦肉の策が行われている。

 「つまどふ」という訓は、具体的、直接的な意味合いを持っている言葉に感じられ、題詞としてふさわしい語なのか疑問である。「つまふ時の歌」はあり得ても、「つまふ歌」となるとプロポーズの言葉そのものということになる。つまり、「妻問ふ時の歌」が歌われたとしたなら、答えも「其の時の歌」のはずでなる。したがって、万93・101番歌の題詞にツマドフというのは当たらない。ツマドフの訓みが多く当てられている万407番の場合も、歌の内容からしてその題詞に似つかわしくない。歌を再掲する。

 はるがすみ 春日かすがの里の うゑ水葱なぎ なへなりと言ひし はさしにけむ(万407)

 まだ苗だと言っていた枝はもう伸びたでしょうか? と尋ねるような相手である。政略結婚でもないのに本気の求婚場面であると考えるのはなかなか難しい。年で言えば中学生ぐらいに育ったはずだがそこに隠れてしまった少女よ、さあ出ておいでよ、ぐらいの感覚で戯れて歌いかけているように感じられる。推量で述べている段階で、相手に本気で求婚しているのではなく、逆にそれを譬喩としている。万390番から万414番までは一括して「譬喩歌」である。万407番歌は歌の内容を譬喩として作り、歌いかけたもので、返事がないのはお婿さんでも貰ったのかい? とさらにからかっている話であると思われる。直截的なツマドフという言葉よりも、声に出して呼びかける点を強調するヨバフとしたほうがふさわしいだろう。
(注3)「相聞」歌とは何か、という大問題については触れない。

(引用文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
(注2)で参照している注釈書については割愛する。

加藤良平 2022.2.14改稿初出

万葉集の「黄葉」表記について

「黄葉」についての捉え方

 上代の主要文献である万葉集に、モミチ(古く清音であった)を「黄葉」と記すことがきわめて多い。今日、モミジの色づきについて「紅葉」と記すことが一般的である。そこで、どうして古代に「黄葉」の表記が好まれたのか考える。モミチという語は、秋になって木や草の葉が色づくことを意味するモミツという四段活用の動詞に基づき、その連用形を名詞として使い、モミチという言葉として定まっている。モミチを「黄葉」と記していた理由を述べたこれまでの議論に、古代人と現代人とでは色彩感覚が異なる、ないしは、「黄」がカバーする色彩が現代のそれより漠然としていたからだといった点を論拠に据えるものがある(注1)
 よく知られているように、ヤマトコトバに色彩語としてもともとあったものは、アカ(赤)、クロ(黒)、アヲ(青)、シロ(白)だけであった。色彩に関する形容詞が、「赤し」、「黒し」、「白し」、「青し」に限られていた。言葉の形として遺存し、現代語にイ音を付けただけで表現できる色名はこれら四つに限られている。黄や茶の場合、黄色い、茶色い、と「色い」と付けなければ形容詞化できない。緑や紫の場合、緑色の、紫色の、と「色の」と付けなければならない。この事実から遡るに、モミチやモミツに「黄」という漢字を使うことについて、それは単に色調を捉えただけの表記とは考えにくい。今日でも、モミジは赤いからと言っても、「紅葉」とは書いても「赤葉」とは書かない。約束事として決まっている。上代においても、「黄葉」などと書いたのは何かしら約束事があったからと考えた方が理に適っている。色彩認識の差が反映して表記されているわけではないということである(注2)。平安時代の用例ではあるが、和名抄に、「丹黍 本草に云はく、丹黍〈音は鼠〉は一名に赤黍、一名に黄黍といふ。〈阿加岐々比あかききび〉」とある。アカキキビを漢字で書くのに、和名本草では「丹黍」、「赤黍」、「黄黍」としている、と述べている。黍の色を表現するのに、その色がいろいろだったから色目をとって具体的に記しているのではなく、全体として適当に「丹黍」、「赤黍」、「黄黍」としていたということであろう。同様のことは「赭土」、「赤土」、「黄土」についても言える(注3)。モミチの葉の色とて同じことだから、それを「黄葉」とばかり記していたのは何か約束事があったからで、それがなかったらこれほど絞り込まれてはいないだろう。
 その約束事について、「黄葉」は漢籍の用例に倣ったものであるとする主張がある。小島1964.に、モミチ(モミチバ)の用字に、「「黄葉」が殆んどその全部を占めるかは、漢詩類を見れば自ら明かになるものと思はれる。一体、 「もみぢ」に当る「赤葉」「紅葉」の例は六朝より初唐までの詩にも例はあまり多くない。 乱霞円緑水、紅葉○○影飛缸(梁簡文帝、秋晚) 黄花発岸草赤葉○○高樹(梁何遜、答丘長史) 桂密巌花白、梨疎林葉(唐王勃、冬郊行望) など、乏しい例のひとつであるが、大部分はやはり「黄葉」である。この一般に通行する中国の例がそのまま万葉集にも採用されたのではなからうか。」(806頁、漢字の旧字体は改めた)とある。六朝以来の通行文字「黄葉」が本邦にも導入されたとする説であり、今日でも有力視されている。ただ、六朝から初唐の漢詩に「黄葉」とする例としては、「仲秋黄葉下 長風正騒屑」(梁・何遜、日夕望江贈魚司馬)、「秋樹翻黄葉 寒池墮黒蓮」(梁・庾肩吾、侍宴)と見られはするものの、絶対数として一般に通行していたと言えるほど多いのか不明である(注4)。「黄葉」と書いた約束事は別に求める必要がある。

「黄」字について

 本邦の上代文献における「黄」字の使用の実態について確認しておこう。
 古事記の表記に「黄」字は限られている。全十二例中十一例が「黄泉」(注5)関連、一例が「蒲黄かまのはな」である。「黄泉」はよみ方としてヨミ(ノ)、ヨモ(ツ)と言っており、「黄泉よもつくに」(記上)、「黄泉よもつぐひ」(記上)、「黄泉よもつかみ」(記上)、「黄泉よもついくさ」(記上)、「黄泉よもつ比良ひらさか」(記上)、「黄泉津よもつ大神おほかみ」(記上)、「黄泉よもつさか」(記上)、「黄泉よもつ戸大神とのおほかみ」(記上)とある。日本書紀の表記でも「黄」字は全部で二十例と限られている。「黄泉よもつくに」(神代紀第五段一書第六・孝徳紀大化五年三月)、「黄牛あめうじ」(垂仁紀三年是歳)、「黄金こがね」(宣化紀元年五月・推古紀十三年四月)、「黄書きふみの画師ゑかき」(推古紀十二年九月)、「黄巻ふみまき」(皇極紀三年正月)、「なるつち」(皇極紀四年四月)、「くわうてい」(孝徳紀大化二年二月)、「黄耈おいひと」(孝徳紀白雉元年正月)、「上黄下うへきにしたくろし」(天智紀九年六月)、「黄書造きふみのみやつこ」(天智紀十年三月・天武紀元年六月・同十二年九月)、「黄書きふみのむらじ」(持統紀元年八月・同八年三月)、「黄色きそめのきぬ」(持統紀七年正月)とあり、ほかに外国人の人名に用いられた例もある。「黄牛」は飴色をした牛の称、「黄書」は写経などに荼毘紙のような黄色っぽく染められていた紙が用いられたことによるとされる。
 ところが、万葉集では様相が一変し、「黄」字は九十八例を数える。「黄葉」が七十例と圧倒的に多く、これにはモミチ(バ)と動詞モミツとがあり、動詞モミツは「黄変」として六例、「黄反」として一例ある。モミチ関連以外の「黄」字利用としては、「黄楊つげ」が六例、「黄土はにふ」が三例、同じくハニの当て字が一例、「黄泉よみ」が二例、「黄色にほふ・にほへる」が二例、「玄黄あめつち」が一例、「黄染」が一例ある(注6)。とても高い確率で、「黄」という字はモミチ、モミツに用いられている。そしてまた、モミチ、モミツという語はとても高い確率で「黄」という字が用いられている。名詞モミチやその派生形モミチバ、モミチバノなどでは「黄葉」が六十六例、対して「紅葉」は一例、「赤葉」が一例に過ぎず、仮名書きが十二例ある。動詞モミツやその派生形に「黄」を使った「黄色」、「黄葉」、「黄変」、「黄反」、「黄始」などが十五例、「赤」は二例、仮名書きは六例である。万葉集において、モミチ、モミツを表記するのに、「黄(葉)」が特殊的に常套化されていると見て取ることができる。
 モミツ、モミチとその派生形の言葉は、葉が色づくことをそのまま担保した意味を表している。その色を「黄」と見たからだと安易に考えてはならないのは、「紅葉」、「赤葉」、「赤」といった例外があることからもわかる。人によって黄と見た人と紅や赤と見た人がいたということではない。色彩に当てる漢字が統一的に決められていたわけではない時代である。今日でも、あかい色のものをあかいとする場合でも、赤い、紅い、朱い、緋いなどと書くことは教育現場を離れれば勝手であり、専門的な著述以外では、色彩語辞典の見本帳に従って記さなければならないものでもない。黄と赤(紅)とは今日では違う色だと幼少期にクレヨンや絵の具のラベルによって刷り込まれ、その結果違和感を覚え、万葉集の用字に疑問を抱くことに拍車がかかっている。色彩の感覚が今日と異なるかもしれない点、色彩を表す言葉、また、漢字が今日の用法とは異なるかもしれない点、そもそも「黄」という漢字が色彩を表すものだったのかという点など、我々の認識的誤謬を正さなければならないところは多いようである。

万葉集の用字から見えてくるもの

 モミツ、モミチという葉が色づくことを表す語群にあって、その色彩に捕らわれないところへ展開した語として枕詞「もみちばの」がある。色づいた葉が散ってゆくことを人の死に例えていて、「過ぐ」にかかるとされている。常套的に修辞表現となっているから、色づいた葉が何色であったかは言葉の表現において背景に隠れてかまわないところである。だが、万葉集では安定的に「黄」字が選ばれている。

 …… 照る月の 雲かくごと 沖つ藻の なびきしいもは もみちばの〔黄葉乃〕 過ぎてにきと …… (万207)
 松の葉に 月はゆつりぬ もみちばの〔黄葉乃〕 過ぐれや君が 逢はぬ夜の多き(万623)
 もみちばの〔黄葉之〕 過ぎにし子らと たづさはり 遊びしいそを 見れば悲しも(万1796)
 もみちばの〔黄葉之〕 過ぎかてぬを 人妻と 見つつやあらむ 恋しきものを(万2297)
 …… 大船の 思ひたのみて 何時いつしかと 吾が待ち居れば もみちばの〔黄葉之〕 過ぎてい行きと ……(万3344)
 ま草刈る あらにはあれど もみちばの〔葉〕 過ぎにし君が 形見とぞ来し(万47)

 最後の例は人麻呂の略体歌と称される表記を簡略化した書きぶりのものである(注7)
 人の死に例えるのに「黄」字を用いてふさわしいのは、ひょっとして「黄泉」の意に通じるからであると言えるのではないかと思えてくる。仮にそう思われていたとすると、他のモミチ、モミツについても、葉の散る前の老化したところを示すものとして、「黄」字は用いてふさわしいと感じられたと推量できる。
 そこで他の例について検証してみる。
 動詞のモミツとその展開形において、何がモミツことになっているかを見ると、「山」(万1551・2192・2200・4145)、「春日山」(万1513)、「春日の山」(万2195)、「龍田山」(万2211)、「龍田の山」(2194)、「浅茅山」(万3697)、「木」(万4161)、「妻梨の木」(万2189)、「木の葉」(万1516)、「秋山の木の葉」(万2232)、「秋の葉」(万4187)、「萩の下葉」(万1575・1628・4296)、「秋萩の下葉」(万2205)、「草」(万4268)、「丹の穂」(万3266)、「かへるで」(万1623)、「若かへるで」(万3494)、「山さなかづら」(万2296)とさまざまである。
 木や葉がモミツしてやがて散ってゆくことは、枕詞「もみちばの」同様、黄泉との間に連想が働くから「黄」字との親近性は理解されよう。一方、山と黄泉との関係も、山に山陵、古墳の意があり、そこから連想が働いて「黄」字を使いたくなる意識が芽生えたのではないか。
 モミツことになる樹種で万葉集中いちばん多いのは萩である。用例は四例とも「萩の葉」ではなく「萩の下葉」となっている。萩の葉が下の方から色づくことを注視したのではなく、万葉集らしさによると考えるべきところである。上代の人に特有の表現が行われているのである。写生をしているのではなく、言葉が言葉を呼ぶ表現方法である。すなわち、ハギ(萩、キは乙類)とは、ハ(葉)ばかりでできているキ(ギ)(木、キは乙類)なのであると上代の人はおもしろがり、それを言葉において印象づけるために「萩の下葉」と言っている。それが秋山においてキ乙類の黄に色づいていると都合がいい。その意の動詞にシタフという言葉がある。

 秋山の したへる妹〔下部留妹〕 なよ竹の とをよる子らは ……(万217)
 秋山の したひが下に〔舌日下〕 鳴く鳥の 声だに聞かば 何か嘆かむ(万2239)
 …… まそ鏡 ただに見ねば したひ山〔下桧山〕 下ゆく水の 上に出でず ……(万1792)
 秋山あきやました壮士をとこ(応神記)

 秋に葉が色づくことをシタフというのだから、シタハ(下葉)という音はそのシタフの未然形となっていて、そのままでは語義矛盾が起こってしまう。だからシタハ(下葉)からシタフことになると言っている。動詞の活用変化に準えて萩の葉の色づきが語られている。
 上代の人はそうしようと目論んだ。言葉にとても敏感で、誤謬や矛盾が起こることを嫌ったからである。言葉と事柄とを極力相即にして世界の秩序を保とうとしていた人々にとって、発した言葉が矛盾を起したまま放っておくことは由々しき問題だと考えたことだろう。秋の訪れによって葉の色が変化することは、ハギ(萩)の根もと近くの葉の色づきに見て取ったわけではなく、自然観察にハギ(萩)を気に掛けていたのでもなくて、言葉に並々ならぬ興味をおぼえ、言葉にばかり意識が行って歌が歌われたためであった。

慕ひて黄泉へ行く

 そのような思考の傾向から考えると、モミツこと、シタフことと「黄」とは意味的に関係があるから、モミチ、モミチバを「黄葉」と記そうと考えたのであろうと推論される。シタフという語の同音にシタフ(慕)という語がある。シタ(下)オフ(追)の約かとされている。人に隠した心のなかで、ある人、ある物を追う意である。愛着をもってあとを追うことをする。

 …… つれもなき 佐保の山辺に 泣くなす したまして〔慕来座而〕 布細しきたへの いへをも造り ……(万460)
 大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして〔斯多比枳摩斯提〕 息だにも いまだ休めず ……(万794)
 しきよし かくのみからに 慕ひし〔之多比己之〕 妹がこころの すべもすべなさ(万796)
 …… 白栲しろたへの 袖泣き濡らし 携はり 別れかてにと 引き留め 慕ひしものを〔之多比之毛能乎〕 天皇おほきみの みこと畏み ……(万4408)
 したひやま 郡家こほりのみやけ正南まみなみ二十三里なり。古老の伝へて云はく、和爾わに、阿伊村に坐す神、玉日女命をしたひて上り到りき。爾の時に玉日女命、石を以て川を塞へましければ、え会わずして恋へりき。故、恋山と云ふ。(出雲風土記・仁多郡)
 慕 音暮、ネガフ、コヒネカフ、シタフ、シノフ、コノム、和ボ(名義抄)
 Xitai,ǒ,ǒta.シタイ,ゥ,ゥタ(慕ひ,ふ,うた) 後を追って行く,または,倣う. ¶ Voya couo xitǒ.(親子を慕ふ)親がその子いとしさのために,後を追って探しに行く.(日葡辞書781頁)

 これと同じようにあとを追った事績に、言い伝えで有名な話がある。イザナキがイザナミのあとを追って黄泉国を訪問している。

 是に、其のいも伊耶いざ那美命なみのみことを相見むと欲ひて、黄泉よもつくにに追ひ往きき。(記上)
 然して後、伊弉いざ諾尊なきのみこと伊弉いざ冉尊なみのみことを追ひて、黄泉よもつくにに入りて、きて共に語る。(神代紀第五段一書第六)
 若ければ 道行き知らじ まひはせむ したの使〔之多敝乃使〕 負ひて通らせ(万905)

 黄泉国の位置については、それがこの世から見てどの方向に当たるかという議論が行われているが、黄泉のもう一つの義である地中の泉との関連性からすれば、下の方にあると思われて不思議ではない。万905番歌に死後世界のことをシタヘと呼んでいる。すなわち、シタ(下)オフ(追)ことをして「慕ふ」ことになっていると思われる。
 このように、秋になって山の木の葉が色づくこと、シタフことになることは、言葉(音)として黄泉国とつながりのあるものとなっている。説文に「黄 地の色なり」とある点からも、地中の泉が黄泉であることは納得され、Leaves turn red and yellow in autumn. について「黄」字を用いると、ヤマトコトバの体系性を最も正しく表すことになる。そこで用字に「黄」が好まれて使われ、定着化していたと考える。

黄泉がへる

 今日、紅葉の代表とされるカエデは、「かへるで」と呼ばれて万葉集に二首ある。

 吾が屋戸に もみつかへるで〔黄変蝦手〕 見るごとに 妹を懸けつつ 恋ひぬ日はなし(万1623)
 持山もちやま 若かへるでの もみつまで〔和可加敝流弖能 毛美都麻弖〕 寝もとは思ふ どかふ(万3494)

 「もみつかへるで」とは色づいたカエデのことを言っている。和名抄に、「鶏冠木 楊氏漢語抄に鶏冠木〈賀倍天乃岐かへでのき、弁色立成に鶏頭樹を加比流提乃岐かひるでのきと云ふ。今案ふるに是れ一に木の名なり〉と云ふ。」とある。カヘデという語はカヘル(蛙)の手のような形をしているからそう名づけられていると認められている。名詞のモミチは色づいた葉の総称であり、万葉時代には、今日の紅葉の代表格、イロハカエデに限ったものではない。それでも、モミツカヘルデはカエデの色づきを言っていることに違いなく、カヘルと「黄」字との間の親近性に気づかされる。「黄」字は「黄泉」に用いられており、蘇生することを黄泉から帰る、ヨミガヘル(蘇、甦)と言っている。つまり、モミチが樹種にカヘデであるならば、色変化するのに「黄」字を当てて表現したいと上代の人の頭に認められたことが偲ばれるのである。
 このように、「黄」は、万葉集に「黄葉」、また、「黄変」といった表記に優先されていた。「黄」=yellow なる定性的な色彩感覚は根づいておらず、後付けで色の名となったものである(注8)
 時代別国語大辞典に、「き[黄](名)黄色。いまいう黄色よりも、もっと漠然としたもので、赤とある程度重なる面があったらしい。単独例はない。甲乙不明。「ソメ表紙五枚」(古文書一一、天平勝宝二年)「蘖木、一名黄木、岐波多キハダ」(本草和名)「黄疽一云黄病、岐波无夜万比キハムヤマヒ・黄瓜岐宇利キウリ」(和名抄) 「〓〔角偏に王〕・〓〔黃偏に王〕キナリ・黄草キナリ、キバメリ」(名義抄)【考】「黄」は上代文献に多く用いられ、黄葉・黄土などがあるが、それぞれ赤葉・赤土などと差なく用いられており、黄色を独自の色として把握した証拠とはならない。したがってなる語の存在は疑わしい面を残す。……」(237頁)とある。「黄」を色であると第一義的に捉えることは適当ではないものの、なにほどかニュアンスは伝わってくる。「黄」がなぜヤマトコトバにキというのか、その説明はいわゆる和訓を理解しなければならないが、これまでこれといった説明はない。糸口の一つとしてキバムといった語から手繰ると、変化して成り果てた色のことを表すために、キなる新語は造られて使われ始めたのではないかと思われる(注9)
 説文に、「黄 地の色なり。田に从ひ炗に从ふ。炗は亦、声。炗は古文に光。凡そ黄の属は皆、黄に从ふ」とある。黄という字は、地の色でありつつ田んぼの光であるとの解説である。これが魅力的なのは、カエル(カヘル)の卵は田んぼのなかで土気色をし、粒々になって光っているからである。そしてすぐに孵ってオタマジャクシとなり、さらに変化して足が出てきてカエル(カヘル)(注10)に帰るのである。そんなふうにどんどん変化するものを植物の葉に求めれば、カヘルの手のような形をしているカヘデの葉が連想される。今日、紅葉と見て取っている色変化を、ヤマトコトバに「くれなゐ」とするのは一般的ではなかったであろう(注11)。「あか」は夜明け、日の明かりのことに結びついて考えられているから当を得ているとはいえず、color として必ずしも捉えられてはいない「黄」という字を用い、「黄泉」とのつながりを感じさせて表すのがふさわしいと考えられたのでそうしていたようである。
 以上の検討から、万葉集の用字「黄葉」は、漢籍表記を踏襲したものではなく、「黄泉」の意との通底を基に、ヤマトコトバ的な理解を経由して行われていたものであったことが解明された。

(注)
(注1)岩波古語辞典は、「古代の日本人は、黄色を独立した色彩としては区別せずに、赤の範囲に含めて把握していた。色名としての「黄()」が確立するのは平安時代に入ってからのことらしい。」(357頁)、『万葉語誌』は、「黄葉」と表記する「理由は、盛唐頃までの漢籍の影響を受けたためとされるが、大和地方では、実際に赤い葉よりも黄色い葉に親しむ機会が多かったためとも言われる。上代の黄葉は、現代のようにかえでの葉のみを指すわけではなく、はぎなどの他の樹木全般に対してもいう。『万葉集』には、山全体が色づく様を歌う例も見られる。」(380頁、この項、高桑枝実子)とし、佐佐木2021.は、「興味深いのは、動詞の「もみつ」にしても連用形名詞の「もみち」にしても、多くの例が「黄」の字を含んでおり、「紅」「赤」などの字を含む例が極めて少ない、という事実です。しかし、現代では「紅葉」と書くのが普通であるように、我々は「もみじ」という語からは赤い色を連想しがちです。ですから、上代では「もみつ」「もみち」に「黄」が用いられたというのは、意外な感じがします。ただし、それは上代人と現代人との認識の違いを反映するものだ、としか言いようがないことです。」(73~74頁)としている。
(注2)色についての捉え方に、色の三属性、色相、彩度、明度から科学的に理解しようとする向きがある。いま俎上にあげている「黄葉」という表記の問題は、その枠組みでは解決しない。
(注3)上村1979.173頁参照。
(注4)万葉集の表記「黄葉」は上代の人がそれを用字としたのだから、上代の人のものの捉え方を探る必要がある。中国の人の捉え方は本来的には関係がない。影響があったとされれば排除することはできないから検討するのであるが、静永2010.が指摘する「中国の詩文において「もみぢ」はやはり「黄色」と認識・表記されていた。」(128頁)とする確証として、「季秋之月、……草木黄落」(礼記・月令)、「秋風起兮白雲飛、草木黄落兮鴈南帰」(漢武帝・秋風辞)といった例をあげているが役に立たない。「黄落」とあるばかりで「黄葉」とはなっていない。上代に清音の「もみち」に派生したもとの動詞「もみつ」にも、「黄落」とした用字例は万葉集に見られない。一例もないとなると漢籍の表記を踏襲したとは言えない。
(注5)「黄泉」という漢語には、大別して、①地下の泉、②死者のゆくところ、の二義がある。それぞれの例を示せば、「夫れ蚓は、上は槁壌を食ひ、下は黄泉を飲む。(夫蚓、上食槁壌、下飲黄泉。)」(孟子・滕文公下)、「而して之れに誓ひて曰く、「黄泉に及ばずむは、相見ること無けむ」といふ。(而誓之曰、不及黄泉、無相見也。)」(春秋左氏伝・隠公元年)がある。本邦では②の意が優勢で記紀に採用されているが、①の例も見られる。和名抄にはそれぞれの例がある。「枸𣏌 本草に云はく、枸𣏌、根の下は黄泉に潤ひ、其の精霊は多く犬子と為り、或に小児と為るといふ〈枸𣏌の二音、苟起は沼美久須利ぬみぐすり、此の間に音は久古くこ〉。抱朴子に云はく、枸𣏌は一名に杔櫨〈託盧の二音〉、一名に却老といふ。」、「醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古米しこめ〉は或説に黄泉の鬼なりといふ。今、世の人、かしこみて小児のたたへ許々女こゞめ〉とるは此の語の訛れるなり。」。
(注6)原文に「黄染」とあるのを佐竹昭広氏の説により「ぬり」と訓むとされることが多い。万3888番歌の理解を惑わす曲解である。「黄牛あめうじ」から「黄染あめじめ」と訓まれるべきところである。拙稿「怕物歌三首」参照。
(注7)稲岡1972.に、柿本人麻呂によって「黄葉の 過ぎ」の詞句が創られ、挽歌表現や惜別表現に巧みに用いられているとする主張がある。自然現象として秋の木の葉の色づいては散ってゆくことを詠みこんで別れの悲哀を歌っていると進められている。また、山田1932.(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214385/116)に、スギニシがイノチスギニシの意であると説かれている。しかし、枕詞「もみちばの」がスギ(スグ)にかかる理由は深く検討されていない。筆者は、モミツとほとんど同義の言葉のシタフとの関連を考えている。行論のなかで、同音のシタフ(慕)は、イザナミを追って黄泉国へ赴いたイザナキのことを暗示しているとした。イザナミはどうして死んでしまったのか。「みほとをかえて病み臥して在り。……火の神を生みしに因りて、遂にかむしき。」(記上)とある。これは火りによって、火鑽り臼自体に火が回って焼けてしまったことを言っているものと受け取れる。発掘される火鑽り板でもっとも多いのは杉材である。古代体験マニュアル2002.ほか参照。火鑽り杵を回転させるには舞鑽まいきり法がよく知られるが、はずみ車を伴わない揉鑽もみきり法も行われた。手で錐をひたすら揉むのである。枕詞モミチバノがスギにかかる理由の一端はここにあるのだろう。枕詞とは意味が分厚くありすぎて訳せなくなってしまった言葉である。
(注8)佐竹2000.に、「黄色という色彩表象が概念として未だ確立して居らず、そっくり赤色の方に包含されていた上代の状況では、黄色を言い表わさんとする衝動は無いに等しかったであろうから、それから推して古代に「黄」の色名は存在しなくて済んでいたことは想像される。」(94頁)とある。
(注9)「黄」は漢語にクワウ、ワウなどとされているのを、ヤマトの人はキと和訓した。「くがね〔久我祢〕」(万4094)=黄金という用例から、母音交替の法則(有坂秀世)からキ(黄)は乙類ではないかと推測されている。佐竹2000.参照。キ乙類は「」や「」と同じである。奥つは墓所のことである。それを黄泉と考えたか必ずしも定かではないが、死後世界と「黄」とが関連しそうなことは、「黄書」が写経用紙であるなど、当初から葬式仏教としてあった仏教に通底している。説文に「黄 地の色なり」とあり、千字文にも「天地玄黄」とある。五行説を超えて解釈が進み、命がついえると地に帰るものとして認められていたであろうから、整合性のとれた考え方であったと言える。
(注10)応神紀に、吉野の国樔くずひとのルポルタージュに、「つねに山のこのみを取りてくらふ。亦、蝦蟆かへるを煮てよきあぢはひとす。名けて毛瀰もみと曰ふ。」(応神紀十九年十月)とある。今いうアカガエル、また、その煮たものの称という。カヘルとモミとが関連語として構成されている。モミチを含めてヤマトコトバの言語体系を構成する一員のようである。ほかに、ムササビの別名もモミである。皮膜を広げて滑空するとき、モミチバのように見て取ったのであろうか。漢土に、蘇生することをヨミガヘルと言って黄泉からの帰還と捉える見方や、frog と maple とを関連語とする傾向はない。
(注11)小島1964.に、「「紅葉」の例は、盛唐頃より次第に多く用ゐられるやうになるが(盛唐開元の人、陰行先の一例、和張燕公湘中九日登_高「山棠紅葉○○下、岸菊紫花開」)、その例の多い「白氏文集」伝来以後のわが平安朝の漢詩文集に、「黄葉」にかはって、「紅葉」が次第に増加する……。この白詩の影響を受けた平安朝中期以降の詩文を集めた「本朝文粋」その他の詩集類も、「黄葉」に代つて「紅葉」が勢力を占める……。」(807頁)という指摘どおり、白氏文集の影響で「紅葉」と記すようになっていったものと考える。

(引用・参考文献)
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小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 中』塙書房、昭和39年。
古代体験マニュアル2002. 古代体験マニュアルVol.3 「火おこしに挑戦!!」島根県教育庁埋蔵文化財調査センター、2002年3月。 https://www.pref.shimane.lg.jp/education/kyoiku/gakkou/manual/index.data/3_hiokosi.pdf (2022年2月8日閲覧)
佐佐木2021. 佐佐木隆『万葉集の歌とことば─姿を知りうる最古の日本語を読む─』青土社、2021年。
佐竹2000. 佐竹昭広『萬葉集抜書』岩波書店(岩波現代文庫)、2000年。(『佐竹昭広集 第二巻』岩波書店、2009年所収)
静永2010. 静永健『漢籍伝来─白楽天の詩歌と日本─』勉誠出版、2010年。
時代別国語大辞典 上代語編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
西尾2011. 西尾理恵「国文学作品から見た日本のもみじ観とその成立過程」『歴史文化社会論講座紀要』第8号、京都大学大学院人間・環境学研究科歴史文化社会論講座、2011年2月。京都大学学術情報リポジトリ http://hdl.handle.net/2433/141901
日葡辞書 土井忠夫・森田武・長南実編訳『邦訳 日葡辞書』岩波書店、1980年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
山田1932. 山田孝雄『萬葉集講義 巻第一』宝文館、昭和7年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214385

加藤良平 2022.2.8初出

「大原の このいつ柴の いつしかと」歌(志貴皇子)について

 志貴皇子の歌は万葉集に全部で六首残されている(注1)。次の歌は、いつ歌われたのか、何を言うために歌われたのか定かでないものとされている。

  きの皇子みこの御歌一首〔志貴皇子御歌一首〕
 大原の このいつしばの いつしかと が思ふいもに よひ逢へるかも〔大原之此市柴乃何時鹿跡吾念妹尓今夜相有香裳〕(万513)(注2)

 廣岡2020.は、「志貴皇子の歌六首に通じる特色はその巧みな観念詠にある。中西進氏はこれを「想念」という美しい語で包む。」(371頁)という。一方、ソシュールには、「言語事実を持つ以前に一般的観念について語ることは、牛の前に犂をつける如き転倒である。」とあり、「観念詠」なる言の浮薄さを鋭く指摘する。志貴皇子の歌六首に通じる特色はその巧みな「言語事実」に尽きる(注3)
 この歌は、歌の修辞法としては三句目までが序に当たり、「吾が思ふ妹に 今夜逢へるかも」だけを言いたい。この部分だけでも今日、どれだけ理解されているのであろうか。「今夜逢へるかも」とは、今宵逢ったことについて、ああ、まったく、思い続けていたから実際に逢えたのだなあ、と、感慨に耽っていると思われている(注4)。「逢へる」とあるからすでに逢っていて、それを「かも」と詠嘆していると考えられているが、それ以外の逢い方もある。夢に逢うことである(注5)
 夢で妹と逢ったのだなあ、夢に現れたのだなあ、という意味である。そう考えると上の句もかなり鮮明になる。「大原の このいつ柴の いつしかと」は、「大原の このいつ柴の」が「いつしかと」の「いつ」を導いている。つまり、「大原の このいつ柴の」は修辞表現である。歌意の主旨には不要である。問題は、主旨に不要の表現をなにゆえ用いているかである。
 「大原の このいつ柴」とあれば、大きな原っぱがあって、そこには背の低い bush が広がっている。灌木である「柴」が威勢よく繁茂しているから「いつ柴」という語となっている。「柴」は柴垣に用いられるように障害物となる。「大原」全体に「柴」が生えていれば、ほとんど先へ進むことはできない。「いつしかと」思うほどに逢えないと形容するのにもってこいである。
 そんな状況のところは藪である。新撰字鏡に、「藪 素口反、上潤也、澤也、櫢同。也夫やぶ。又、於止呂おどろ」とある。やぶのことはオドロとも言った。名義抄では、藪、棘、榛、蔓荊などの字の訓にオドロとある。古典基礎語辞典の「おどろおどろし」の項に、「オドロは動詞オドロク(驚く)のオドロと同じ。物事が異様で、はっと衝撃を受けるさま。雨・風・地震・物怪もののけなど自然現象に使う。また、人の振る舞いなどが大仰で衝撃を受ける気持ちを表し、良い意味には用いない。」(245頁、この項、依田瑞穂)とあり、「おどろく」の項には、「オドロは形容詞オドロオドロシのオドロと同じである。オドロクは、落ち着いてはいられないような出来事や夢で、はっと目が覚める意。そこから、まるで突然目が覚めたように、はっと大事なことに気づき、予期せぬ重大事に直面して、びっくりする意となった。」(同頁、この項、石井裕啓)とある。

 いめの逢ひは 苦しかりけり おどろきて 掻きさぐれども 手にも触れねば(万741)
 其おりは、やがて通夜して、よもすがらおこなひあかして侍けるに、すこしまどろみたる夢に、内陣より麝香をたまはリて、とくかしこへつけよ、といふ人あるとみて、うちおどろきて夢なりけりとおもふに、これも本尊の御はからひにこそと、たうとくおぼえて、その夜もおこなひあかしぬ。(石山寺縁起・巻三)

 万741番歌は、夢で逢うことはつらいことだった、はっと目を覚まして手探りしたのに手に触れることなどないので、の意である。すなわち、万513番歌における「逢」とは夢のなかで逢ったという意味である。絶対にそうであることは、古語にいめ(メは乙類)だからである。同音に射目いめ(メは乙類)と言い、狩りの時に隠れて獲物を狙うところをいう(注6)。「柴」が繁茂していれば、獲物に見つからない遮蔽になる。「いつしかと」の用字に「何時鹿跡」とあり、鹿狩りが意識されている。そしてまた、「このいつ柴」とあるように、指示代名詞で「この」と間近であることを指しており、それが射目として用いられたからであろうことを予感させる。射目にする柴に自分の手がかかっている。
 夢のなかで逢っているのは、「妹」と作者であるが、それは女性側から呼ばせれば、「背」、「背子せこ」である。

 我が背子が べきよひなり ささがねの 蜘蛛くもおこなひ よひしるしも(紀65)

 背子せこ(コは甲類)は勢子せこと同音である。狩場を包囲して鳥獣を駆り立てる列卒のことである。「大原」が狩場と目されていたことがわかる。なぜなら、大原おほはらというハラ(腹)は、セ(背)に包み囲まれていると身をもって体感できるからである。そこが藪になっているということは、ウバラ(茨・棘・荊)が大繁茂している状況が見えてくる。ハラはハラでも大きなハラなのは、ウバラでいっぱいだから「いつ柴」がぎっしりであると表現するのに的確である。今発した言葉がそのままその言葉を再定義してくる仕掛けになっている。万葉歌の言葉づかいがそのままヤマトコトバの辞書として機能している。言葉っておもしろいなあ、すべてを表しているなあと、人々の記憶のなかに留められた、そういう歌である(注7)

(注)
(注1)元暦校本万葉集の巻第一の目録には、「寧樂宮長皇子與志貴皇子於佐紀宮宴歌」のもと、「長皇子御歌」に続いて「志貴皇子御歌」とあるが本編には見えず、幻の一首とされている。
(注2)原文の「市柴」をイツシバと訓むほかに、イチシバと訓む旧訓に従う説もある。
(注3)拙稿「「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について」、「「石走る 垂水の上の さわらびの」歌(志貴皇子)について」、「葦辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて」歌(志貴皇子)について」、「「むささびは 木末求むと あしひきの」歌(志貴皇子)について」、「万葉集の「磐瀬の社」の歌─志貴皇子作(万1466)を中心に─」参照。
(注4)多田2009.は、「大原のこの神聖な厳柴ではないが、いつになったら逢えるかと私が思っていたあの人に今夜逢えたことだ。」(31頁)と訳出している。
(注5)澤瀉1959.には、「「逢へる」とあつて、今妹を眼前にしての喜びの作である。」(100頁)とあり、これまでの解釈に夢で逢ったとする説は管見に入らない。
(注6)「やすみしし 我ご大君は み吉野の 秋津の小野の 野のには 跡見とみ据ゑ置きて み山には 射目いめ立て渡し 朝猟あさかりに 鹿猪ししみ起し 夕猟ゆふかりに 鳥踏み立て 馬並めて かりそ立たす 春のしげに」(万926)などと見える。夢に見ることも射目に見ることも、こちらからは見えても相手からは見えていないという共通項がある。はっと目覚めたり、はっと音を立てたら、見えていたものはたちまちに消え失せる。
(注7)上代に特徴的なヤマトコトバの論理学が展開されている。言葉と事柄とが相即のもの、すなわち、筆者の言う言霊信仰は、言葉に言葉が籠っているという順接の二重拘束へと発展する。ここでいう言霊信仰は、巷間に語られるような、単に言葉に霊力が籠っているという意味ではない。言葉と事柄とが乖離すれば言葉も事柄も無秩序になるから、そうはならない方向に推し進めるという言語学的特性について述べている。一つの言葉はその言葉が示すフェーズばかりでなく、そのフェーズ自体を決めてかかるように規定しようとする試みである。そこに、ヤマトコトバの使用上の特徴、自己循環的に語義を説明する調べが伴ってくる。発せられた言葉が何の担保もなく確かにそのとおりであると衆人に認められ、話(咄・噺・譚)の落ちとなる。文字を持たない人々が、あたかも文字を嫌うかのような一時代、数百年間を形成していた理由はそこにあると考える。論理術に長けていれば言葉に文字は不要なのである。

(引用・参考文献)
澤瀉1959. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第四』中央公論社、昭和34年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解 2』筑摩書房、2009年。
田中2010. 田中夏陽子「万葉集におけるよろこびの恋歌─志貴皇子五一三番歌の表現をめぐって─」『高岡市万葉歴史館紀要』第20号、平成22年3月。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。

加藤良平 2022.1.31初出

「葦辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて」歌(志貴皇子)について

 万葉集のなかにあるきの皇子みこの歌六首のうち、作歌時点が題詞からわかる唯一の例が次の歌である。

  慶雲三年丙午に難波宮なにはのみやに幸す時に〔慶雲三年丙午幸于難波宮時〕
   志貴皇子の作ります歌〔志貴皇子御作歌〕
 あしく 鴨の羽交はがひに 霜降りて 寒きゆふへは やまとし思ほゆ〔葦邊行鴨之羽我比尓霜零而寒暮夕倭之所念〕(万64)

 706年の文武天皇の行幸に従った時の作である。九月二十五日に出京、十月十二日に藤原京に還御している。太陽暦に換算すると十一月五日から二十一日までのことという。「葦べを泳ぐ鴨の背に霜が降り、寒さが身にしみる夕べは、大和が思われてならない。」(中西1978.80頁)と訳されている(注1)
 叙景歌とは考えにくい。薄暗がりにカモの羽に降るはずもない霜を実見できるとは言い難い。今日では想像の産物であるとする説が有力になっている。問題は、そのような景をどうして思い浮かべて歌にしているかという点である。行幸に陪従して歌っているのだから、行幸に伴った人々に向けて歌われたはずで、聞いた人がなるほどそのとおりだと思える歌であったということになろう。ひとり志貴皇子の歌表現の問題はなく、聴衆が合意する理解はどこから生まれているかが検討されなければならない(注2)
 志貴皇子の歌には、彼がシキノミコという名を負っていたことを踏まえて歌われている例が見られる(注3)。この歌でも、宮廷社会の人々に対して、彼は、言葉にシキノミコという役割を演じている。万51番歌同様、鋤のことをシキと言ったことによるのであろう。難波宮で鋤が活躍する場面は、堀などの開削、浚渫のことが考えられ、水辺に活躍していたことを示す歌となっている。作業中にふと目を葦の生えている方へ向けてみると、カモが泳いでいるのが見えたとしている。

左:「鴨の羽交ひ」に觜入れて羽繕い、右:白氈(奈良時代、8世紀、東博展示品)

 寒い折だからカモの羽が交差する背中に霜が降りているといい、都のある倭が思われるとしている。どうしてカモの背中に霜が降りていてカモは大丈夫なのか。実際に霜が降りるかといえば、雪を被ることはあっても鳥の羽はうまくできていて、水を弾くから凍りつくようなことはない。塗れずに浮いていられるのも、「羽交ひ」にある尾脂腺から出た脂を体の羽全体に塗りつける羽繕いをしているからである(注4)。脂の源泉のところでは水は弾かれ霜となることなどない。つまり、「鴨の羽交ひに霜降」るようなことは決してないから、聞く人はおやと思い、耳をそばだててさらに聞くことになる(注5)。きちんと手入れをしているから、カモ(鴨)は寒がらずに水に浸かりながら泳いでいる。人間も寒くないように身の回りをきちんと手入れしなければならない。何が必要か。カモ(氈)があれば寒くないはずである。和名抄に、「氈 野王に曰はく、氈〈諸延反、賀毛かも〉は毛の席、毛を撚りて席につくるなりといふ。」とある。毛氈が欲しいのだが、こんなに冷えるとは予想していなかったので都に置いてきてしまった。だから帰りたい。そして、氈を用意しておく係は、掃守司と書くカモンヅカサ(カモリヅカサ、カニモリノツカサ)である。職員令に、「掃部司かにもりのつかさ 掌らむこと、こもむしろとこすのことまのこと、及びせち洒掃さいさうのこと、かまあしすだれ等の事。佑一人。令史一人。掃部十人。使部六人。直丁一人。馳使丁廿人。」などと見える。カモと名に負うているから鴨の勤めを果たしてほしい。宮中の清掃や諸行事の床席の設営をつかさどった。すなわち、万64番歌は防寒具を忘れてきた掃守司の失態を歌にしている。
 そして倭を思慕している。皇子の立場から倭へ憧憬の思いを述べた例は、記紀に伝わる言い伝えに有名な件がある。ヤマトタケルの逸話である。東征後に倭へ帰還する途中で衰弱し、望郷の歌を歌い、能煩野のぼので亡くなってから白鳥となって河内国かふちのくに志幾しき(キは乙類)へ飛び至っている。そこに御陵が作られ、しらとりの御陵みさざきと号けられている。同じ音の志貴皇子は、鋤を使って御陵を築くに与った者であったとも自称できるのである。それが名に負うということの意味である。だから、同じ皇子の立場として、英雄のヤマトタケルは亡くなって白鳥となったが、自分も鴨ぐらいには成れると言っている。鴨に霜が降りれば、色は白くなって白鳥に見紛うかもしれない(注6)。だから、「倭し思ほゆ」と言えるのである。
 ヤマトタケルの故事にちなんでいることは、「葦辺ゆく」で始まるところから明らかである。ヤマトタケルは伊吹山での遭難以降、足の自由が利かなくなって難儀している。足から葦が連想されている。

 其処そこより発ちて、当芸野たぎのうへに到りし時に、のりたまひしく、「が心、つねそらよりかけかむとおもふ。然れども、今、吾が足、歩むことを得ずして、たぎたぎしく成りぬ」とのりたまひき。かれ其地そこを号けて当芸たぎと謂ふ。其地よりやや少し幸行いでますに、甚だ疲れたるに因りて、つゑきて、やくやあゆみき。故、其地を号けて杖衝坂つゑつきさかと謂ふ。……其地より幸して、重村へのむらに到りし時に、亦、詔ひしく、「吾が足、三重みへまがれるが如くして、甚だ疲れたり」とのりたまひき。故、其地を号けて三重と謂ふ。そこより幸行して、能煩野のぼのに到りし時に、国をしのびて歌ひて曰はく、
 やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣あをかき 山ごもれる 倭しうるはし(記30)
又、歌ひて曰はく、……歌ひをはりて、即ちかむあがりましき。しかくして、駅使はゆまのつかひ貢上たてまつる。是に、倭にいまきさきたち御子みこ等と、もろもろ下り到りてはかを作りて、即ち其地のなづき田に匍匐はらばめぐりて哭き、うたよみて曰はく、……
 是に、ひろしろとりり、天に翔りて、浜に向ひて飛び行きき。……
 故、其の国より飛び翔り行きて、河内国かふちのくに志幾しきに留りき。故、其地に御陵を作りてしづいませき。即ち其の御陵をしらとりの御陵みさざきと謂ふ。然れども、亦、其処より更に天に翔りて飛び行きき。(景行記)

 志貴皇子は掃守司という役所の部署のしくじりを笑いに変え、昇華するだけの歌の手腕を備えていた。翻ってみれば、そういう機能、役割が歌にはあったのである。万葉集巻第一「雑歌」の部立は、宮廷内における政治的なメッセージの歌を多く含んでいる。

(注)
(注1)よくよく検討すると定められない点が多い。勝俣2017.に、「諸注釈書で解釈が異なる主な点を挙げると、次のようになろう。①「葦辺行く」は、鴨が葦の生えた水辺を泳ぐ様か、飛ぶ様か。②「鴨の羽がひ」とは、何か。左右の羽の交わる所か、単に、羽の意か。また、別の意味があるか。③「霜降りて」は、何処に霜が降るのか。「羽がひ」のみか、辺り一面か。④上三句は実景か、想像の句か。⑤上三句と「大和し思ほゆ」の関係は、如何なるものか。」(409頁)と整理されている。
(注2)この歌は当初、文字で表したものではない。ここでオーディエンス不在のパフォーマンスについて問われることがないのは、そもそもパフォーマンスとはオーディエンスあってのことだからである。実在しない他者、実在していても伝達されない他者をオーディエンスとしてパフォーマンスをすることも可能ではあるが、文字ほか記録媒体を持たない場合、パフォーマンスが行われたこと自体が知られ得ないことになる。
(注3)拙稿「「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について」、「「石走る 垂水の上の さわらびの」歌(志貴皇子)について」参照。
(注4)鵜には尾脂腺がないためびしゃびしゃになり、陸に上がって乾かしている。「鴨の羽交ひ」という語についてこれまで理解されてこなかったが、特に鳥類学に詳しくなくとも、水鳥の様子を鵜と比較してなぜだろうと思い、また、狩りで捕まえてアヒルやガチョウに学べば、なるほど尾脂腺のおかげなのだと知ることは誰でもできよう。
(注5)中西2010.に、「「寒き夕」を何によって歌うかというと、それが「葦辺ゆく鴨の羽交に霜降」る情景である。……実は現実的に葦辺を泳ぐ夜の鴨を見、その羽交に白い霜を見たのではない。身辺にせまる寒さが志貴をして想像させたものが、鴨の羽交にも降っているであろう霜であった。かつこの鴨は離宮での属目において、つねに葦辺を漂っていたものだったのである。そう考えなければ、夜の水面を泳いでいる鴨が実際に霜を帯びていて、それが見えるという事は、不可能だろう。多くの作品が示すように、水鳥は夜の霜に、時おり羽ぶき、それを払うであろう。その羽ばたきの音を、志貴は今聞いている。その音の世界から視覚の世界へと想像していった志貴は、そこで遠く大和を思ったのである。これまた「大和」は今現前にしているものではない。ちょうど都の繁栄が現前になかったように。つねに志貴の思念は遠く非現実の世界へと導かれていくのである。」(168~169頁)と評されている。現代人の深読みは誤りである。志貴皇子が一人で築いた想念の非現実世界を声に発して歌ったとて、すぐに消えていく声についていくことができるオーディエンスなどいなかったであろう。個人的にいかに詩情を高めてみても、聞いてその場で理解する人がいなければ歌として成り立たない。(注2)参照。
(注6)こういうジョークがわからなければ上代人たり得ない。人は言葉に生きている。「白鳥しらとり」とは何かという哲学的な理解は紀に記されている。言葉の使い方、ものの考え方に慣れなければ万葉歌の真意は理解できない。

 閏十一月の乙卯の朔戊午に、越国こしのくに白鳥しらとり四隻よつたてまつる。是に、鳥をたてまつ使人つかひ菟道うぢがはほとりに宿る。時に、蘆髪蒲見あしかみのかまみわけのみこ、其の白鳥をて問ひて曰はく、「いづく白鳥ぞ」とのたまふ。越人こしのひと、答へてまをさく、「天皇すめらみことかぞきみを恋ひたまはして、なつけむとしたまふ。故、貢る」とまをす。則ち蒲見別王、越人に謂ひて曰はく、「白鳥なりといふとも焼かば黒鳥くろとりるべし」とのたまふ。仍りてあながちに白鳥を奪ひて、将てぬ。ここに越人、参赴まうきてまをす。天皇、是に、蒲見別王の、先王さきのきみゐやきことをにくみたまひて、乃ち兵卒いくさを遣してころす。蒲見別王は天皇の異母弟はらことのいろどなり。時人ときのひとの曰はく、「父は是れあめなり。このかみは亦た君なり。其れ天にあなづり君にたがひなば、何ぞつみまぬかるること得む」といふ。是年、太歳壬申。(仲哀紀元年閏十一月)

(引用・参考文献)
尾崎1990. 尾崎暢殃「鴨の羽交」『国学院雑誌』第91巻第4号、平成2年4月。
勝俣2017. 勝俣隆『上代日本の神話・伝説・万葉歌の解釈』おうふう、平成29年。
高橋1986. 高橋由典「自己呈示のドラマツルギー(E・ゴフマン)」作田啓一・井上俊編『命題コレクション社会学』筑摩書房、1986年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
中西2010. 中西進『中西進著作集26 万葉の詩と詩人・万葉の歌びとたち』四季社、平成22年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。

加藤良平 2022.1.18初出

「むささびは 木末求むと あしひきの」歌(志貴皇子)について

 志貴皇子にはムササビを歌った歌がある(注1)

  きの皇子みこの御歌一首〔志貴皇子御歌一首〕
 むささびは ぬれ求むと あしひきの 山の猟夫さつをに 逢ひにけるかも〔牟佐々婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄尓相尓来鴨〕(万267)

 捉え方に振れ幅の大きい歌である(注2)。歌意がわからないからである。「あしひきの」は「山」を導く枕詞である。そしてまた、「あしひきの 山のぬれ」は慣用句的に用いられた(注3)

 …… おくれたる われか恋ひむな 旅なれば 君かしのはむ 言はむすべ むすべ知らに 〈或る書に、あしひきの 山のぬれに、の句あり〉 つたの ……(万3291)
 …… 佐保さほうちの 里をき過ぎ あしひきの 山の木末に 白雲に 立ちたなびくと ……(万3957)
 …… 秋づけば 時雨しぐれの雨降り あしひきの 山の木末は くれなゐに にほひ散れども たちばなの 成れるその実は ……(万4111)
 あしひきの 山の木末の 寄生木ほよ取りて 挿頭かざしつらくは とせ寿くとそ(万4136)
 …… 照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末も 春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜ひて 風まじり 黄葉もみち散りけり ……(万4160)

 これらの語は連鎖する言葉の一群として捉えられていた。いずれ言葉遊びの歌である。それ以上の難しい内容を指すものとは思われない。それを「むささび」という慣れない語と衝突させてできているのが万267番歌である。和名抄に、「鼯鼠 本草に云はく、鼺鼠〈上の音は力水反、又の音は力追反〉は一名に鼯鼠〈上の音は吾、毛美もみ、俗に无佐々比むささびと云ふ〉といふ。兼名苑注に云はく、状は猨の如くして肉の翼、蝙蝠に似て能く高きより下り、下よりは上ること能はず。常に火煙を食ひ、声はわくの如き者なりといふ。」、新撰字鏡に、「猶豫 隴西謂犬子猶々性多々豫在、人前故不决者皆謂之猶豫。又猶如鹿登木健上樹上樹也。牟佐々比むささび」とある。ムササビはモミ以外にも、ノブスマ(野衾)といった別称を持つ。飛膜を広げた形が似ているから命名されたのであろう。飛膜を広げてグライダーの要領で滑空する。ために上へ上へと「ぬれ求む」ことになっている。
 ムササビが木の枝先へ向かっている。のところである。別名のモミが木の枝をミチ(道)にしてその先のハ(葉)にたどりつくということは、モミチバ、黄葉した葉になるということである。「あしひきの 山の黄葉もみちば」などという連続で、慣用句的に用いられることもあった(注4)

 あしひきの 山の黄葉もみちば よひもか 浮かび行くらむ 山川やまがはの瀬に(万1587)
 あしひきの 山の黄葉もみちに しづくあひて 散らむやまを 君が越えまく(万4225)
 九月ながつきの 白露しらつゆ負ひて あしひきの 山の黄変もみたむ 見まくしもし(万2200)

 モミチ(モミヂ)という語には、近世以降の文献資料に鹿の肉の意がある。鹿の肉が赤いことからの連想であろう。取り合わせとされている(注5)。猪は牡丹、馬は桜と言うが、そういうことに決めたということのようである。いずれにせよ、「むささびは ぬれ求むと」、モミチに見立てられ、鹿の肉があると猟夫は気づいて遭遇することになる、と言っている。鹿は猪と違い脚が長いから、猟師が毛皮を作る際に切り落とし剥がしても脚部分が少し残り、ムササビが滑空する時の形姿に似ている。
 モミチ(モミヂ)という語は、また、小麦の挽きかす、いわゆるふすまのことも言った。家畜の飼料に用いられた。ムササビが別名を野衾と言っていたことと通底している。麩を衾に入れて木の枝に吊るしておいて鹿を誘おうというのが「猟夫さつを」の作戦だったということであろう。どうしてだかわからないが、両者がよくマッチしているから「逢ひにけるかも」と歌っている。アフという語は一地点に一致することを指す(注6)。両者が思惑を異にしながら、意味合いでは多重にアフことになっている点を強調して示している。場所は「ぬれ」である。

左:木練柿(?)(2022年1月)、右:相取(捏取)(大和耕作絵抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266538/60をトリミング)

 コヌレ(コは乙類)という音を耳にすれば、コヌ(捏、コの甲乙未詳)という動詞の已然形が意識されよう。上掲の万2200番歌は動詞でモミタムと歌っていて示唆的である。コヌ(捏)はモム(揉)と非常に近しい関係にある。柿の実が木に付いたまま熟し甘くなったものを練柿ねりがきという。冬になってさえ枝先に柿の実が残っている光景を目にする。当初は渋柿だから鳥も口にしない。やがて甘く熟れてくる。ちょうどいい水分量をもって全体に適当な粘度となっている。そうなるには捏ねる役がいるはずだと思われた。餅つきでは臼の傍らにいて、杵を搗く合間合間に手を入れて捏ね返している。その人は捏取こねどり、また、相取あひどりと呼ばれている。タイミングよくアフことをしている。合いの手を入れながら上手に進行している(注7)
 どうしてだかわからないが、ヤマトコトバの体系のなかで、以上にあげた言葉群は互いに干渉しあいながら意味の秩序を形成している。言葉の音義を話として仕立てると、万267番歌のような歌ができあがりました、ということになる。万葉歌が言語ゲームとして歌われた一例であった(注8)

(注)
(注1)ムササビ(ムザサビ)を歌詠したものとしては、他に巻第六の雑歌の部立に一首、巻第七の譬喩歌の部立に一首ある。

  十一年己卯、天皇すめらみこと高円たかまとの野に遊猟みかりしたまひし時に、ちひさきけもの都里みやこの中に泄走す。ここに、たまたま勇士ますらをひて生きながらにられぬ。即ち此の獣を以て御在所おはしますところ献上たてまつるにへたる歌一首〈獣の名はにむざさびと曰ふ〉
 大夫ますらをの 高円山たかまとやまに めたれば 里にりける むざさびそこれ(万1028)
  右の一首は、大伴坂上郎女おほとものさかのうへのいらつめの作れるなり。ただ、未だ奏をぬに小さき獣死斃たふれぬ。此に因りて歌を献ることをとどむ。
  獣に寄す
 国山くにやま 木末に住まふ むささびの 鳥待つがごと われ待ちせむ(万1367)

 作意が未詳だからといって万267番歌を譬喩歌と推定することはできない。巻三の「雑歌」の部立にあり、「譬喩歌」の部立にない。では直叙したものかといえば、万1028番歌では題詞において状況説明が行われており、何によって作となったかが明瞭化されている。それが伴わない万267番歌は、いつ歌われても歌意が理解されるものであったろうから、その場一回限りの直叙ではないと推定される。
(注2)これまでに寓意説、譬喩説、実況直叙詠説、宴席での即興説、同情説などさまざまに捉えられてきた。諸説の詳細は割愛する。大津皇子事件など政治情勢とからめて考察することはいかにも格好がいいが、寓意的、諷刺的、「童謡わざうた」的に歌った歌が残るとは考えにくい。諸説に説かれるような深意が伝わったら即座に処刑されるのではないか。
 歌は歌われて人々に聞かれた時、はじめて歌に命が宿る。万1028番歌は奏上されはしなかったが、仲間内で認められていざ奏上しようという時に肝心のムササビが死んでしまっている。歌は、人々がその歌を聞いて理解したときにのみ歌として確かにある。逆に、聞いてもわからないような歌は、歌とはならず終いで忘れられる。忘れられずに万葉集に編まれている万267番歌は、その場限りでもなく誰もが容易に理解される言葉であったろう。
(注3)巻十三以降の歌に見られるから志貴皇子と同時代とは言えないとされるかもしれない。といって、万葉集中においてヤマトコトバの史的断絶を認めることはできず、特に長歌に用いられているところから語用の親和性が汲みとられる。
(注4)慣用句としては数が少ないという批判は成り立つ。ただし、「山」とモミチ(黄葉)・モミツ(黄変)とがからむ歌はかなり多い。黄葉することをいう動詞モミツの連用形名詞がモミチである。
(注5)起源として、花札の絵柄に由来するとする説、百人一首にも猿丸大夫の歌とされて採られている「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声きく時そ 秋はかなしき」(古今集・秋上、215)に由来するとする説などが挙げられている。筆者は、安土桃山時代や平安時代ではなく、飛鳥時代~奈良時代に淵源が見られると考えている。
(注6)古典基礎語辞典に、「あふ(合ふ・会ふ・逢ふ・遭ふ)」は、「もともとは二つのものが近寄って、しっくりと調和し一つに合体することをいい、うまく重なる、符合する意。『万葉集』には心が同意するところから生じた、契りを結ぶ・結婚する意の例が多い。また、二つのものが互いに近づいて、一つ所でぶつかるところから、出合う、立ちむかうの意。これが、さらに、対抗する・闘う意へと発展した。」(55頁、この項、我妻多賀子)と解説されている。
(注7)和名抄の虫名に、「螻蛄 本草に云はく、螻蛄〈婁姑の二音〉は一名に〓〔穀冠に虫〕〈胡木反、字は亦、〓〔士のしたに冖、そのしたに虫を偏として殳〕に作る、介良けら〉といふ。方言に螻𧍱〈音は室〉と云ふ。蒋魴切韻に云はく、鼫鼠〈上の音は石〉に五つの能有り、能く飛びて屋を過ぐること能はず、能く啼きて声を囀らすこと能はず、能くおよ〈浮き行くなり。音は囚、又、音は游〉ぎてみぞを渡ること能はず、能く縁りて木を窮むること能はず、能く耕して身をおほひかくすこと能はず、人に喩えるにつたなき芸は即ち螻蛄なりといふ。」とある。ムササビは芸達者で何でもできそうでありながら、どれ一つとして一人前にならないところはケラと同じだと言っている。間抜けな奴だと思われて、猟夫なら簡単にアフことができるものと思われていたのかもしれない。
(注8)中西2010.に、「鼯鼠の木末を高く「求む」という姿に、……志貴の求めてやまなかった彼方・・といったものが感じられるではないか。」(170頁)とあるのがこれまでの評釈の到達点であるが、「想念の世界に心をのばしていく抒情」(同頁)など微塵も感じられないことを本稿に示した。聞いた人がついていけなければ歌として成り立って保たれることはない。

(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
高野1999. 高野正美「志貴皇子の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第三巻』和泉書院、1999年。
中西2010. 中西進『中西進著作集26 万葉の詩と詩人・万葉の歌びとたち』四季社、2010年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
吉永1955. 吉永登「むささびは木ぬれ求むと」『萬葉』第17号、昭和30年10月。萬葉学会ホームページhttp://manyoug.jp/memoir/1955

加藤良平 2022.1.11初出

「石走る 垂水の上の さわらびの」歌(志貴皇子)について


 万葉集巻第八の巻頭、「春雑歌」の標目の最初の歌は、高等学校の教科書にも採用されている(注1)。諸注釈書に、題詞の「懽」について何をよろこんでいるのか未詳であるとされている。歌を詠んだ状況設定がわからないということは、歌の内容もわからないということに相違ない。

  きの皇子みこよろこびうた一首〔志貴皇子懽御歌一首〕
 石激いはそそく たるの上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも〔石激垂見之上乃左和良妣乃毛要出春尓成来鴨〕(万1418)(注2)

 梶川2016.に、「勢いよく水しぶきを上げて落下する滝のほとりの、神聖なわらびが、 今まさに芽吹こうとしている春に、なったことだなあ、というほどの意。題詞には「歓びの御歌」とされているが、確かに春の訪れを、感動をもってうたった一首だと言ってよい。」 (68頁)と、現在の通説を語っている(注3)
 しかし、そうであろうか。ワラビ(蕨)が芽生えたことで、たとえそれが冬には凍っていた滝の水が緩んで水しぶきをあげていたからといって、春の訪れをよろこぶというのはあり得るのだろうか。そんなところに「春」を見つけてよろこんだという点が目のつけどころのうまいところで、そこに詩情が見出されるということなのだろうか。ワラビはゼンマイかもしれない山菜で、あく抜きしておひたしや塩漬けにし、今では天麩羅にしても食べられている(注4)。けれども、志貴皇子は食べられるものを見つけてよろこんだとは想定しにくい。もし「春」の訪れを、あるいは献上されたワラビを見つけたと言って興趣があるのなら、万葉歌の他の例に漏れず類似の歌が出てきてよさそうであるが一切ない。「わらび」とあるから神聖なのだと主張されても、ウラジロを正月飾りに使うことの類だとはなかなか思われない。「さ」は小さい、早いの意とも取れ、あるいは、当てこすりの表現かもしれない。「さわらび」は万葉集中に孤語であり、「わらび」という語も古辞書類に見えるものの歌語にはなっていない。正倉院文書に、三月、閏三月、四月に食用とされている。春の雑歌のなかの歌であるが、早春ではなく晩春のことと捉えられ、春の到来のよろこびとするにはふさわしくない。
 志貴皇子が歌った歌に、万51・1466番歌の例がある。それらでは、彼がシキノミコという名を負っていて、鋤の異名、シキのことを含意した歌を歌っている(注5)。具体的に指し示すものがあって、すべて納得づくの洒落となっている。この万1418番歌でも、同様に納得づくの歌であることが予感される。周囲にいてこの歌を耳にした当時の人が、ああ、また、志貴皇子の戯れ歌が始まったよ、いつもおもしろいことを言う皇子様だねえ、と話題になった。話題にのぼるほどだったから万葉集を編むに当たり、編者の考えのもと巻頭歌に据えられていると考える。
 題詞に「よろこび」とある。ヨロコビ、ヨロコブの義で「懽」字が使われている例は、万葉集中、他に二例、題詞に見られ、歌語としてヨロコブルと訓む例が一例知られる。

  大伴家持の霍公鳥ほととぎすを懽ぶ歌一首〔大伴家持懽霍公鳥歌一首〕
 いづには 鳴きもしにけむ 霍公鳥 わぎの里に 今日のみそ鳴く〔何處者鳴毛思仁家武霍公鳥吾家乃里尓今日耳曽鳴〕(万1488)
  逢ふを懽ぶ〔懽逢〕
 住吉すみのえの 里行きしかば 春花の いやめづらしき 君に逢へるかも〔住吉之里行之鹿齒春花乃益希見君相有香開〕(万1886)
  こほろぎに寄せる〔寄蟋〕
 蟋蟀こほろぎの 待ちよろこぶる 秋の夜を 寝るしるしなし 枕と吾は〔蟋蟀之待歡秋夜乎寐驗無枕与吾者〕(万2264)

 いずれも目的語を明示した形で与えられている。万1418番歌では対象を提示していない。暗黙の了解があることで、それは単に春の訪れをヨロコブというような安易にして軽いものではないと考えるべきであろう。なにしろ志貴皇子は成人していて、公衆を前にして歌を歌っている。大人がヨロコビであると唱える事柄は、本能的な食欲、性欲、物欲、金銭欲、承認欲求などではないのではないか。個人的な「懽」を歌い上げて共感が得られるものかも疑問である。宴席でワラビかゼンマイを賞美したとの説も見られるが、春限定メニューでよろこんでもその場限りのことである。下働きの者は給仕を務めており、ご馳走を目にはしても自らは食べられないのだから聞いていておもしろくない。寒かった冬が過ぎて春が来たことをよろこぶ気持ちは皆に共有され得るから、季節の進行を無邪気によろこんでいると考える点は否定しきれないが、それを題詞に「懽」とばかり書いて示すとも思われない。わからないからである。志貴皇子はシキノミコであるから誰もが思う「懽」を歌にして披露したとするのが、題詞本来の役割、歌の筋立てをフレーミングする機能に適っていよう。
 志貴皇子は磯城、芝基、志紀、施基などとも記されている。シキのキは乙類である。磯城は、巌のようなところで城としての機能が十全に発揮されるところのことである。そんな巌についての当時の人々の認識、誰もが常識と考えていた事情があったことに関して、名に負っているシキノミコが「懽」を歌っていると捉えるのがもっとも合理的である。
 歌の表面的な意味は通説のごとくである。タルミと聞いて思い浮かぶのは、体にあって垂れたところに目が付いていて見ているように思われるもののことである。すなわち、女性の乳首が思い当たる。「垂水の上の さわらび」と言えば、乳首のこと、それが「萌え出づる」とあるのだから露出することを言っている。そのような光景は記紀の言い伝えに認められる。アメノウズメ(天宇受売命、天鈿女命)がダンスをする話は当時よく知られていた。

 天宇あめのうめのみことすきあめの香山かぐやまの天のかげけて、天のさきかづらとして、天香山の小竹葉ささばぐさに結ひて、〈小竹を訓みて佐々ささと云ふ。〉天のいはの戸にうけ伏せて、みとどろこし、かむがかりして、むなを掛き出で、をほとにし垂る。しかくして、高天原とよみて、八百やほ万神よろづのかみ共にわらへり。是に、天照大御神あまてらすおほみかみあやしと以為おもほし、天石屋あめのいはやの戸を細めに開け、内よりりたまはく、「吾がこもすに因りて、天原あまのはらおのづからくらく、亦、あし原中はらのなかつくにも皆くらけむと以為すに、何の由を以てか、天宇受売はあそびをし、亦、八百万神ももろもろ咲ふ」とのりたまふ。爾くして、天宇受売、まをしてまをさく、「みことに益してたふとき神坐す。故、歓喜よろこび咲ひあそぶ」とまをす。(記上)
 又、猨女君さるめのきみ遠祖とほつおや天鈿女命あまのうづめのみこと、則ち手に茅纏ちまきほこを持ち、天石窟戸あまのいはやとの前に立たして、たくみ作俳優わざをきす。亦、天香山あまのかぐやま真坂樹まさかきを以てかづらにし、ひかげ〈蘿、此には此舸礙ひかげと云ふ。〉を以てすき〈手繦、此には多須枳たすきと云ふ。〉にして、火処ほところ焼き、覆槽うけせ、〈覆槽、此には于該うけと云ふ。〉顕神明之憑談かむがかりす。〈顕神明之憑談、此には歌牟鵝可梨かむがかりと云ふ。〉是の時に、天照大神、きこしめしておもほさく、「吾、このごろ石窟にこもり居り。おもふに、当に豊葦原中国とよあしはらのなかつくには、必ず為長夜とこやみゆくらむ。云何いかにぞ天鈿女命、如此かく噱楽ゑらくや」とおもほして、……(神代紀第七段本文)

左:金銅装雲珠(群馬県伊勢崎市出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)、右:螺髪(頭が螺髪になっている東大寺大仏、ウィキペディア「螺髪」https://ja.wikipedia.org/wiki/螺髪)

 天宇受売命の返事に、ヨロコビ(歓喜)と記されている。万1418番歌の題詞のヨロコビ(懽)とはこのことである。彼女の名はウズメと言う。それが何によるかはともかくそういう名前である。乳房を露出する踊りに見える乳輪はウズ(渦)を巻いているように見え、一応は神さまの話だから神聖なるワラビ、ゼンマイの巻き巻きの渦だということで接頭語のサを冠してサワラビと呼んだのだと考えられる。人間の肉体の乳首が渦を巻いているようには見えないというのはそのとおりだが、馬具のウズ(雲珠)が乳に見えない人はむしろ少ないであろう(注6)。仏教における「」は渦を巻いて造形されている。梵鐘の装飾に多数の突起物が付けられており、それは「」と呼ばれており、螺髪を表しているとされる。螺髪は仏の頭にたくさんついている丸まった髪の毛のことで、もとはパンチパーマを模したものと言われ、知恵の象徴であるともされる。右巻きの渦を巻いている。神仏の世界のこととして、アメノウズメの乳首に習合的な理解が行われていたと考えられる。
 万1418番歌は、それらを前提として、サワラビという新語で表現を深めようとした試みであった。むろん、当時一般に使われていたわけではなく、志貴皇子がこの歌の修辞のために発案した語なのであろう。当然、新語を唐突に聞く人に、直ちに受け入れられたとは思われない。証明可能の語であったから、なるほどと思われて人々に受け容れられたものと考える。

椹(「庭木図鑑植木ペディア」 https://www.uekipedia.jp/常緑針葉樹/サワラ/ )

 植物のワラビは、また、女房詞にワラとも呼ばれている。ナス(茄子)のことをナスビと言うのと同様である。すると、サワラ─サワラビという語の展開のなかにあったと解釈されうる。そういう語として作り上げたと仮定すれば、他にサワラという語があることに気づく。樹木のサワラ(椹)と魚類のサワラ(鰆)である。その古形はともにサハラと言ったのではないかとも考えられているが、上代に記されることはなかった。樹木のそれは、易林本節用集に「弱檜 サハラ」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543887/24)とある一方、和漢三才図会に「椹 さわらぎ……佐和良」(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569760/9)とある。雌花は1cm弱の球形をしており、翌秋に茶色く熟す。乳首によく似ていると見立てたのだろう。また、材は桶や樽を作るのに重宝された。槽の材料だったのである(注7)
 魚類のそれは、名義抄に「鰆 サハラ」(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586900/11)とある一方、明応本節用集に「鰆 サワラ」(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545062/24)とある。この鰆には、肉を食すだけでなく、ボラ同様、卵巣を加工して珍味のカラスミに作られた(注8)。当時の舶来の墨と形や色が似ているからその名が付けられたとされる。その墨の形状に、棒状のものと球状のものがあり、正倉院文書では助数詞に「廷(挺)」と見えるが、中国ではじめ丸い粒状のものとして出発しており、黒い豆粒のような形のものも使われていたようである(注9)。墨を磨るときはそれを硯の上で潰して使った。揉んで潰して汁まみれにしたところから、乳首によく似ていると見たのだろう。
 ここに、サワラビなる語は、乳首様の色、形のものとして言葉と成立しているのである。そして、アメノウズメは裸踊りをして神々をよろこばせ、磯城、すなわち、巌になっている岩屋に籠るアマテラスに対して、「汝が命に益して貴き神坐す。」と言い放つほどであった。彼女は、うけを伏せて舞台にしてその上で躍っている。ウケは桶の古形であり、同じ用途のものにたるがある(注10)。タルミ(垂水)という言葉は、垂れてきた水を樽がけるところのこと、滝壺のことをよく言い当てている。ウケフセと聞くのにかなっている。「石激いはそそく」という枕詞が冠されているのも、アマテラスの天の石屋ごもりの時のことだったからである。アメノウズメが乳首を見せて踊ったから、よろこびが溢れ、結果、アマテラスは石屋から出てきて世界は再び明るくなった。一陽来復、春が来たということである。
 以上まとめれば、この歌は、記紀の天の石屋前でアメノウズメが上半身を露出したダンスを踊ったことを典拠とした歌である。当時の人々にとって天の石屋の話は周知のことであったから、人々によく理解され、志貴皇子様は、その御名のもとに、またうまいことを歌われてことよ、と喝采したことと思われる。この間の事情は今日、研究者にまったく理解されておらず、高等学校の教科書に採られて憚られていない。

(注)
(注1)梶川2016a.、梶川2016b.、大谷2021.参照。
(注2)第一句「石激」は、イハバシルと訓む説が優勢で、教科書にもそのように採られている。本稿のタイトルもそれを踏襲したが、イハソソクと訓むべきことは大谷2021.に詳論がある。
(注3)多くの注釈書が、宴席での歌であるように捉え、春の訪れを食材をもってよろこんだ歌を作り、人々を和ませたという想定が行われている。それ以外には、加封や位階の昇進をよろこんだとする説があった。契沖・萬葉代匠記(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979063/252)参照。
(注4)木下2010.に、「『和名抄』では薇蕨で「わらび」と訓じ、薇が何であるか明らかにせず、また、『本草和名』でもそれを収載していないのは、古い時代ではワラビとゼンマイが形態的に区別しかねたからであり、これらの文献よりやや古い『新撰字鏡』でかろうじて蕨と薇は別物としたが、別項では同じとしているなどちぐはぐの感は否めない。すなわち、中古代の日本では蕨・薇が正しく理解されていなかったことを示唆する。したがって、志貴皇子の歌にある「さわらび」の基原も、「わらび=ワラビ」とは限らず、再検討しなければならない。
 これまで、「さわらび」が生えている垂水は小さな滝と解釈されてきたが、薇の別名に垂水があり、しかも漢籍の出典とあれば、これまでとは異なる解釈も可能になってくる。結論からいえば、「さわらび」は定説のワラビではなく、ゼンマイそれもおそらくは渓流 沿いによく生えるヤシャゼンマイであり、垂水は「小さな滝」とゼンマイの別名の垂水を掛けているとも解釈できる。志貴皇子が万葉集に残した歌から推察すると相当な教養人であり、漢籍にも深く通じていたにちがいない。冒頭の例歌[万1418番歌]は自らの教養の深さをも詠い込んだものとも解釈できる。また、実際に目にした情景ではなく、情景を想像して詠ったのかもしれない。」(617頁)とし、さらに木下2017.に、「『爾雅』に「薇は垂水なり」……とあるから、志貴皇子は漢籍にいう薇を水辺に生えるゼンマイ(ヤシャゼンマイではなく)と直感し、またその別名が垂水すいすいであることを知っていたと考えても不思議はない。早春の平凡な情景で芽を出したゼンマイに飽き足らず、それを埋め合わせる恰好の情景として、その別名とたまたま同名である垂水たるみを詠み込み、枕詞の「石走る」を加えてより躍動感のある歌に仕上げるのに成功したのである。……「さわらび」の歌こそ自らの教養の深さをアピールするものではなかったか。しかし、薇と蕨の区別は中国でもあいまいであり、またわが国では二つの漢名に対して一つの和名「わらび」しか用意されていなかったため、「わらび」と垂水たるみを掛けた高度な技法が解き明かされることはなかった。」(46頁)としている。
 筆者は、志貴皇子が漢籍に広く深く通暁していたとは考えていない。仮にそうであったとしてさえ、歌に詠み込んだことなどなかったと考える。周囲の人のうちどれだけの人が文字をすらすら読めたのか、そんななか蕨ないし薇について爾雅という辞書を繙いて口承文芸の歌に作るとは考え難い。聞く人がわからないことを歌にしてもコミュニケーションに堪えない。
(注5)拙稿「「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について」、「万葉集の「磐瀬の社」の歌─志貴皇子作歌(万1466)を中心に─」参照。
(注6)アメノウズメの名が馬具によるとする考えについては、拙稿「サルタヒコとサルメ」参照。
(注7)和漢三才図会に、「按属、尾州、騨州之、葉似而微淳朴スナホナリ。木皮濃カニシテ於檜ヨリ。亦。其材、微縦理タテキメナリ。〓〔耒偏に片〕クニ。作扇箱リテ桶及ハシハル。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569760/10、適宜字体等改めた)とある。
(注8)本朝食鑑に、「唐墨〈鰆子也〉集解、鰆多子胞刀豆ナタマメサヤ。曝乾シテタリ華墨キニ。名ケテ唐墨。切ルトキハ騮色ニシテ光膩、味亦甘美ナリ。多ヘバカラ、粘シテ牙唇シブ。或ヲシテ。此レモ亦動ズル之故。近代為賀儀隹肴而賞。擬スル多子。土佐、阿波、讃岐国守献。漁家亦貨。鯔魚唐墨、味レリ于鰆。……」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569421/22~23)、鯔の唐墨については、「然黄赤甘美ニシテレリ于鰆墨。鰆墨色、紫黒ニシテ甘美ナリト而生辣渋、故稍劣レリ矣。」(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569420/16)と解説されている。
(注9)宋の蘇易簡・文房四譜巻五の墨譜に、「漢書云、尚書令僕丞郎、月賜隃麋、大墨一枚、小墨一枚。東宮故事、皇太子、初拝給香墨四丸。」と来歴が記されている。
(注10)上代にタル(樽)という語は文献に確認されないが、垂れてきた液体を承けるものとして考えられた言葉であったと推測される。紀歌謡102の「ほだり」は、銚子、徳利の類のもので、タリは樽の古形かと説かれている。

 みなそそく 臣の嬢子をとめ 秀樽ほだり〔本陀理〕取らすも  秀樽〔本陀理〕取り 堅く取らせ 下堅く 堅く取らせ 秀樽〔本陀理〕取らす子(記102)

(引用・参考文献)
大谷2021. 大谷雅夫『万葉集に出会う』岩波書店(岩波新書)、2021年。
梶川2016a. 梶川信行「万葉歌を読む22 教科書の中の万葉歌─志貴皇子の歌を読む─」『語文』第154輯、日本大学国文学会、平成28年3月。
梶川2016b. 梶川信行「古すぎる教科書の万葉観」同編『おかしいぞ!国語教科書─古すぎる万葉集の読み方─』笠間書院、平成28年。
川上2000. 川上富吉「大宝三年正月の早蕨─「志貴皇子懽御歌」一首考─」『大妻国文』第31巻、2000年3月。大妻女子大学学術情報リポジトリ http://id.nii.ac.jp/1114/00001395/
木下2010. 木下武司『万葉植物文化誌』八坂書房、2010年。
木下2017. 木下武司『和漢古典植物名精解』八坂書房、2017年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
田中2010. 田中夏陽子「万葉集における「よろこびの歌」」高岡市万葉歴史館編『生の万葉集』笠間書院、平成22年。
中西2021. 中西進「さわらびの春─中西進研究Web報告1 2021/11/3─」『さあ、創めよう』 https://www.nakanishisusumu.com/研究報告1%e3%80%802021-11-03/ (2022年1月23日閲覧)
松本2008. 松本尚美「万葉集一四一八番志貴皇子歌」『広島女学院大学大学院言語文化論叢』第11号、2008年3月。広島女学院大学機関リポジトリ http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hju/metadata/10191
綿谷2014. 綿谷正之「墨の文化史 概説」『奈良保育学院研究紀要』第16号、2014年。

加藤良平 2022.1.23初出

万葉集の「磐瀬の社」の歌─志貴皇子作歌(万1466)を中心に─

 万葉集には「磐瀬の社」の歌が三首ある。

  きの皇子みこの御歌一首〔志貴皇子御謌一首〕
 かむ名火なびの いはもりの 霍公鳥ほととぎす なしをかに 何時いつ鳴かむ〔神名火乃磐瀬之社之霍公鳥毛無乃岳尓何時来将鳴〕(万1466)
  刀理宣令とりのせんりゃうの歌一首〔刀理宣令謌一首〕
 もののふの いはの社の 霍公鳥 今しも鳴かぬ 山のとかげに〔物部乃石瀬之社乃霍公鳥今毛鳴奴山之常影尓〕(万1470)
  かがみの王女おほきみの歌一首
 かむ奈備なびの 石瀬の社の 呼子鳥よぶこどり いたくな鳴きそ が恋まさる〔神奈備乃伊波瀬乃社之喚子鳥痛莫鳴吾戀益〕(万1419)

 巻八の、上二首は夏の雑歌、鏡王女作歌は春の雑歌のもとに録されている。龍田にある地名の「磐瀬の社」と「霍公鳥」と「呼子鳥」という鳥名が詠み合わされており、ここにいわゆる歌枕的なものが確立していたと見て取る見解もある(注1)。万1466番歌の場合、作者は「毛無の岳」の近くにいて、「磐瀬の社の 霍公鳥」が眼前の景としてあるわけではない。よって、「磐瀬の社」は「霍公鳥」が多くすだく所であることが人々に周知の事実であったというのである。万1470番や万1419番に類歌がある理由とされている。
 本稿では、そのような先鋭的な見解を含めて、これまで行われてきた解釈が万葉の時代のものとは異なることを述べる。歌枕的な考えから作られていないことは類歌が乏しい点から理解されよう。仮にいわゆる歌枕として成立しているのであれば、巻八に限らず現れてもおかしくないはずである。特に、きわめて数の多い「霍公鳥」歌、全百五十六首のうち二首にしか現れていないことはその仮説の否定に足る証拠となる。万葉集の歌の本性は、古今集以降に見られた「歌枕」のように、人々が典故として歌を作る言葉、記録の連鎖として積み重ねることとは異なっている。例えば万葉集に頻出する「枕詞」は、言葉(音)の高度な論理遊戯であり、そのつど再活性化させて呼び覚ますことでしか顕現化し得ないものであった。文字に頼らない言語生活においては、初対面(注2)の人の前に歌があり、受け手は緊張感をもって歌の言葉に耳を傾けることで聞き取ることができるものなのである。
 「霍公鳥」という鳥の名は、ホト→トギと間髪を入れずに呼び交わされたものと聞き取られていた(注3)。瞬間的な反射、即座の応答を示す言葉である。万1466番歌では、志貴皇子がその「霍公鳥」の特徴を譬えるのに、「磐瀬の社」をもって形容する試みを行っている。「磐瀬」の音、イハセは、イ+ハセから成り立っている。

「イ」
 たらちねの 母が飼ふの 繭隠まよごもり いぶせくもあるか〔馬聲蜂音石花蜘蟵荒鹿〕 いもに逢はずして(万2991)
 もも小竹しのの 三野みのおほきみ 西のうまや 立てて飼ふ駒 ひむかしの厩 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふがに 水こそば 汲みて飼ふがに 何しかも 葦毛の馬の いなき立てつる〔大分青馬之鳴立鶴〕(万3327)
 衣手ころもで 葦毛の馬の いなく声〔大分青馬之嘶音〕 こころあれかも 常ゆに鳴く(万3328)
 嘽 土干反、馬平馬労也、阿波久あはく、又、うま伊奈久いなく(新撰字鏡)
 伊奈加いなかがは ……いなく馬有りて、此の川に遇へり。故、伊奈加川と曰ふ。(播磨風土記・宍禾郡)
「ハセ」
 ぞ能く雪山を指して長くせ、竜池に望みて一たび息ふ者あらむや。(大唐西域記序長寛元年点)
 将に郊野逍遥あそびて、いささかこころたのしびしめてせ射む。(雄略前紀)(注4)
 馳 音池、ハス、トシ、ハシル、オホミユキ、ミチ(名義抄)

 イは馬のいななく声、現在のヒヒーンの声を写し取ったものである(注5)。万3327・3328番歌の「鳴」、「嘶」はイナクかイバユか定まらないが、イ音を発していることだけは確かである。
 ハセ(馳・騁・驚)の挙例のいずれにも「馬」字が見えているように、馬の走るスピード感をうまく表わしたものとして用いられる語である。今でもハッと驚くと言うように、ハスことと言えば馬の走りにこそ結実していると考えられたわけである。馬の渡来は、ハスというヤマトコトバの発生よりも後であったかもしれないが、馬の走りを知っている飛鳥時代の志貴皇子にとっては、そう感じられたということである。
 すなわち、イハセなる地名があれば、それを解釈するに、馬が寄り集まっているところであるという認識に落ち着く。実際に牧があったかどうかとは別問題で、言葉として先に地名があったから、そういうところだと歌に詠むことをしている。では、なぜ馬は集まっているのか。まぎれもなく食べるもの、牧草があるからだと答えられる。反対に、「毛無しの岳」は木ばかりか草も生えていない岡、人工的に作られた古墳のことを示している(注6)。これも実際にそうであったかは不明であり、調査する必要もない。歴史地誌の問題ではなく、ケナシノヲカと呼ばれるところがあり、それを語として用いている人々は、ならばそういうところであろうと観念上認識したということである。
 そして、イハセという言葉は、イ→ハセという条件反射を示すものと受け取ることができる。ある馬がイと声を挙げると他の馬は一斉にハセ参じるのである。一頭が声を挙げて多数が集まるから、それはモリ(杜)であり、モリ(茂、盛)であると悟ることができる(注7)。即応関係において、ホト→トギと鳴き交わすと聞いた霍公鳥と相似している。だから、イハセのもりには霍公鳥がいることとなっており、さて、ケナシノヲカという馬の食べ物のないと思われる地に霍公鳥は来てくれることがあるだろうかと頓智話を披露している。それが万1466番歌である。すっとぼけた歌である。
 なぜこのような歌が生まれたのか。作者である彼の名が、シキノミコ(志貴皇子)という名を負った人だからである。万51番歌は、鋤の異名、シキのことから着想している(注8)。ここも同様に、鋤を使って土木工事をしたこと、すなわち、鋤で土を掘り盛って古墳としたことを念頭に歌を作っている。造成当初の古墳には草木など生えていない。禿山に動物の食べ物はない。ケナシノヲカとは、(ケは乙類)無しの岳でも、(笥)(ケは乙類)無しの岳でもある。もちろん、志貴皇子自身が剃髪していたとか出家していたというのではなく、名に負っていたからそういう洒落を思いついて人前に披露し、聞き手をおもしろがらせて自らも楽しんでいる。
 他の二首も瞥見しておく。

  刀理宣令とりせんりゃうの歌一首
 もののふの いはの社の 霍公鳥 今しも鳴かぬ 山のとかげに(万1470)

 この歌も、ホト→トギと食い気味の返答を意識して作られた歌である。間髪入れずに応答していることが、「今しも鳴かぬ」に反映している。「山のとかげ」は、いつも日陰になっているところのこととされるが、山の北側斜面のことを考える必要はない。ヒカゲがポイントである。ヒカゲとはすなわち、ヒカゲノカヅラのことである(注9)。冠の飾りなどに使われた。這いまつわって長く伸びているものである。葛蔓状になっているからカヅラと言い、被り物に使われるからカヅラ(鬘、蘰)である。誰が一番好き好んで飾りにしたいか。「毛無しの」頭の人であろう。つまり、志貴皇子の万1466番歌を受けて作られたものと考えられるのである。冒頭の枕詞「もののふの」が「石瀬」にかかる理由として、モノノフは部族が多いから「八十やそ」にかかるように「五十」にかかるとされている。ほかに、「もののふ」は一か所に大集結するから、すなわち、イハム(屯、聚)からイハにかかるという説や、弓をイル(射)からイにかかるとする説もある(注10)。それらばかりか、モノノフは武士として騎乗していることも多く、また、呼ばれればいざ鎌倉へ馳せ参じるイ→ハセ的な様相を示しているから言葉が続いていると考えられる(注11)

  かがみの王女おほきみの歌一首
 かむ奈備なびの 石瀬の社の 呼子鳥よぶこどり いたくな鳴きそ が恋まさる(万1419)

 この歌では、「霍公鳥」に代わり「呼子鳥」になっている。呼子鳥の正体は未詳とされるが、おそらく托卵するカッコウのことと考えられる。子の方が親より大きくなっても親を呼ぶからその名があるのだろう。そして、図体の大きな雛が呼べば、その親だと誤解して小さな鳥が相も変わらず餌を運んでくる。子が呼べば親がすぐに応える、そういう反応の早いところは霍公鳥と変わらない。鏡王女はそれを恋心に譬え、恋慕っている相手がいると、呼ばれたら間髪を入れずに応えようと気持ちは募るものであると言おうとしている。そして、呼子鳥がしきりに鳴くのを聞くと、感覚が研ぎ澄まされて気持ちが昂ってしまうと歌っている。馬どうしの声→鳥どうしの声→恋人どうしの声へと連繋している。
 「磐瀬(石瀬)の社」の歌は、声の即答をテーマにした作なのである(注12)

(注)
(注1)伊藤1996.に、「「石瀬の杜」は季節の鳥が真っ先に来て鳴く聖地として名が高かったらしく、」(501頁)、廣岡2020.に、「私の言う「詠み合わせ」が地名「磐瀬の森」と「霍公鳥」「喚子鳥」について成立しており、志貴皇子当時、歌枕としての「いはせのもり」が既に確立していたのである。」(375頁)とある。
(注2)コミュニケーション論の視点からそう呼んでみている。
(注3)拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。
(注4)拙稿「枕詞「隠(こも)りくの」と「泊瀬(長谷)」の伝えるところ」参照。
(注5)上代に現代語のヒ音がなかったからイとしたとする説もあるが、擬声語に写し取るとき人は恣意的である。犬の鳴き声をワンワンと聞く民族もあれば、bowwowと聞く民族もある。犬種の違いよりも聞き取る耳の問題である。中世に「びよ」と聞いたのは遠吠えの音を写したものである。拙稿「犬の遠吠え」参照。
(注6)「毛無乃岳」は旧訓にナラシノヲカとある。春日1955.以降ケナシノヲカ説が有力となり、特定の地名に比定する説(大井1985.)もある。本稿において、その解釈から、必然的にケナシノヲカと訓むべきと知れる。また、それが仏教と関係があることから、死者を埋葬したヲカ、すなわち、古墳を表す可能性についても触れておく。仏教は、今日ならずとも葬式仏教の色彩の強いものである。人工的にヲカを築き上げたとき、はじめは草木が生えていない。1300年経過しているから樹木が生い茂っている。また、歴史的にみて火葬する風習が一気に広がったわけではなく、火葬しはじめたら古墳を作らなくなった、古墳を破壊していったというわけでもない。終末期古墳に火葬墓(墳)である例が知られる。
(注7)古典基礎語辞典に、「もり【森・杜】……動詞モル(盛る、高く積み上げる意)やミモロ(御諸)のモロと同根で、元来はこんもりと高くなっている所を指した。」(1236頁、この項、白井清子)とある。
(注8)拙稿「「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について」参照。
(注9)ヒカゲノカズラのヒカゲは日陰ではなく、日影の意と考えられている。湿気のある山の斜面のひなたに生える。万1470番歌の「山のとかげに〔山之常影尓〕」も光の当たるところの意であろう。周囲からよく見える舞台で鳴いてほしいという気持ちを歌っている。
 万葉集中にはもう一例、「山のとかげに〔山之跡陰尓〕」(万2156)の例がある。

 あしひきの 山のとかげに 鳴く鹿の 声聞かすやも 山田らす(万2156)

 この歌も、通説では、山陰に隠れて姿は見えない鹿が鳴いているのを、山田の番をされているあの人はお聞きになっているのかなあと詠嘆しているとされている。歌の作者は村の家におり、鹿の鳴き声を遠くで聞いていると、田守りの労苦が偲ばれて印象的であるという。しかし、山深い森のなかで鹿が鳴いたとして、村までその鳴き声が聞こえるか不明である。山田の番として野営している恋仲の人を思うのであれば、退屈せずに番をしていてほしいと思うであろう。山の頂上付近に踊り場があって、そこを舞台に鹿が声高らかに鳴いているのを、いい人はたのしく鑑賞していてくれたらなあと思っている、そう捉えた方がふさわしいであろう。万1470・2156番歌ともに、「山のとかげ」とは、声はすれども姿は見えずの「山の常陰に」隠れているのではなく、「山の常影に」スポットライトの照らされるなかで霍公鳥や鹿は歌っていると言っている。常に日の当たらない山あいの意ではなく、月の光のさやかにして姿のよく映るところという意であろう。「とかげ」のカゲは、光、姿、投影の意が多重にかかっているから、それをト(常)と冠して正しくから一つの言葉となっている。
(注10)鴻巣盛広説(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1259662/302)、契沖説(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979063/270)など参照。
(注11)志貴皇子作歌(万1466)と刀理宣令作歌(万1470)は宴席歌であるとも考えられているが、印象論以上のものではない。そのようでもあり、そのようでもなく、肯定も否定もできない。標目に「夏雑歌」とあり集められており、いつ歌われたか記されていない。万葉集の編者にとって、これらの歌はいつ歌われたのかは問題ではなく、関心は言葉遊びにあった。
(注12)万葉集中に、イハセは他に三首ある。万3320番歌は万1419番歌同様、恋心の即応性を歌っている。わざわざ石瀬あるところへ迂回し、直行していないのに即応なのだというところに興趣がある。万4154番歌と万4249番歌は、秣になる萩をともなって馬を登場させ、イ→ハセの呼応性を示している。「馬だき行き」に人と馬との呼応、鷹狩りに人と鷹との呼応、「馬並めて」に二騎の呼応を見てとってそれを前提に歌っている。

 ただに行かず 巨勢道こせぢから いは踏み〔石瀬踏〕 めそ吾がし 恋ひてすべなみ(万3320)
  八日に、白き大鷹を詠む歌一首〈并せて短歌〉
 あしひきの 山坂越えて 行きかはる 年の緒長く しなざかる こしにし住めば 大君の 敷きます国は 都をも ここも同じと 心には 思ふものから 語りけ 見放くる人眼 ともしみと 思ひししげし そこゆゑに こころなぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ いは瀬野せのに〔石瀬野尓〕 馬だき行きて 遠近をちこちに 鳥踏み立て 白塗りの すずもゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ延べ うれしびながら 枕づく 妻屋のうちに 鳥座とくらひ 据ゑてそ我が飼ふ しらの鷹(万4154)
 石瀬野に〔伊波世野尓〕 秋萩しのぎ 馬めて はつ鷹猟とがりだに せずや別れむ(万4249)

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釋注 四』集英社、1996年。
大井1985. 大井重二郎「なし乃岳の所在」『萬葉』第121号、昭和60年3月。萬葉学会ホームページ http://manyoug.jp/memoir/1985
春日1955. 春日政治「「毛無乃岳」の訓」『萬葉』第17号、昭和30年10月。萬葉学会ホームページ http://manyoug.jp/memoir/1955
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。

加藤良平 2022.1.3初出2025.1.25訂正加筆

「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について

 万葉集巻第一に、うねの袖を吹きかえす明日香風を歌ったとされる歌が載る。

  明日あす香宮かのみやよりふぢはらのみや遷居うつりし後に、きの皇子みこ御作つくりたまふ歌〔従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌〕
 うねの そで吹きかへす 明日香あすかかぜ 都をとほみ いたづらに吹く〔婇女乃袖吹反明日香風京都乎遠見無用尓布久〕(万51)

 特に問題とされない歌である(注1)。作者の志貴皇子は天智天皇の皇子で、光仁天皇の父に当たる。采女の袖を吹きひるがえす明日香風、その風も都が藤原の地へ遷り遠くなっているので、今はただむなしく吹いている、といった意と捉えられている。作者の志貴皇子が旧都の飛鳥(明日香)の地を訪れて感じたことを歌ったと考えられており、采女と一緒に廃墟ツアーのピクニックに来ていたわけではなく、采女は新都にいてそこにはいないから「明日香風」は「いたづらに吹く」と歌っていると考えられている。ただし、歌意をどう評価するかに関しては、明朗快活ととるものと断腸悲哀ととるものとがある。両極端を示すのは、上句と下句にギャップがあるからとされている(注2)
 以上の通説はヤマトコトバに対して浅い理解のままに下されている。歌の真相に何ら近づけていない。筆者はそもそもの解釈に誤りがある点を指摘し、当時どのように捉えられていたかに迫りたい。
 采女は官女である。宮室の天皇のそば近くに仕え、身の回りの雑用を担った。それが采女の本来の仕事である(注3)。部屋の掃き掃除、拭き掃除、便所掃除、洗濯、物干し、アイロン(熨)がけ、裁縫、収納、かまどの焚き付け、料理、お膳の上げ下げ、お茶出し、布団敷き、布団干し、蚊帳掛け、物を取ってくること、肩もみ、尻拭い、痰壺替え、介護等々、何でもしなければならなかった。すなわち、采女は、ひとときも着物の袖を垂らしていることはなかった。必ずたすき掛けして、いわゆる袖襷にして袖を上にあげていた。それが采女の労働着たる常の姿である。歌が歌われたのは、飛鳥から藤原へ遷都した後に、旧都の飛鳥の地を訪れてのことらしいが、仮に飛鳥の地にまだ都があったとしても、そこに「明日香風」なる風が吹いたとしてさえ、「采女の袖吹きかへす」ことなどけっしてない(注4)。常に袖襷にしていたからである。

瓜を採る袖襷姿の女(信貴山縁起模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574276/24をトリミング)

 イヤーキャッチ(ear-catch)として「采女の袖」という言葉は使われている。万葉集中、題詞を除き、「采女」という言葉が歌の言葉に登場するのはこの一例のみである。袖と襷については、和名抄に、「袖 釈名に云はく、袖〈音は岫、曽天そで、下の二字は同じ〉は手を受くる所以なり、袂〈音は弊〉は開き張りて臂を以て屈げ伸すなり、袪〈音は居〉は其の中の虚なりといふ。」、「襷襅 続斉諧記に云はく、織りて襷〈本朝式に此の字を用ゐ、多須岐たすきと云ふ。今案ふるに所以、音義とも未だ詳らかならず〉を成すといふ。日本紀私記に手繦〈訓は上に同じ、繦の音は響〉と云ふ。本朝式に、襷襅各一条〈襅は知波夜ちはやと読む、今案ふるに未だ詳らかならず〉と云ふ。」とある。
 都が遷って更地になった場所では、袖襷にしていた采女に代わり農夫が現れている。農作業に袖襷姿である。田をくのが仕事だからタスキ(襷)掛けしている。き返すのではなくき返すのである。鋤の先は板面となっている。土を掘りあげて両側に押しやって行って土を鋤いていく。畑の場合はうねに作るのである(注5)。采女がいなくなって畝ができていると洒落を言っている。イタヅラ(無用)とは、鋤の刃床部の板面いたづらのことを掛け謂わんとしている。

 子麻呂、手をめぐらし剣をきて、其の一つの脚をやぶりつ。(皇極紀四年六月)
 もよ み籠持ち くしもよ み掘串持ち ……(万1)

 鋤のことをフクシ(掘串)というのは、フク(揮)という動作に由来する命名と思われる。ヤマトコトバに明確に現れており、飛鳥時代に行われていたのはこのような解釈である。無文字文化のなかにあり、歌に歌われて言葉が人と人をつないでいる。
 藤原京遷都後の飛鳥の地は、皆引っ越してしまっていて空き地になっている。当時、引っ越しするときには、家財だけでなく家屋も運んだ。木組みを解いて運び、再び組み立てて家を構えている。旧都の飛鳥の地に空き家が残されているわけではなく、空き地が広がっている。あいている所は耕作のために拓かれた。「采女」は歌語として好まれていない。家事労働をする奴隷の一般名をとりあげて歌に歌っても雅でない。それでも持ち出しているのは、ウメネ(采女)がウネ(畝)に音が通じるからであった。
 以上の推論の信憑性の高さは、この歌が志貴皇子によって作られた歌である点に確認される。スキ(鋤)(注6)のことはシキと呼ばれた。成形図説に、「須岐〈書紀、耜の字を訓めり、亦鉏鐰鍬なども書けり〉 志貴シキ 金鉏カナスキ〈以上古事記○古の耜、或は木を用う、故に云〉 柄耜カラスキ……於古志〈土を起すより名とす、即犂也〉……」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569437/8、読点を付した)とある。彼は、鋤を名に負っていた。だから、鋤→畝→采女といった連想が働いた。彼の歌を聞く人もそのつもりで聞いていたから、この歌は人々の間に広く通じて流布したのだった(注7)
 なぜこの歌は歌われたか。藤原京遷都後に旧都の様子を見てくるように指示された志貴皇子が、飛鳥京旧跡地の現地視察を行い、そのありさまを報告した歌であったと考える。歌という形で情報が開示される世の中であった。

(注)
(注1)「吹きかえす」と現在形であり、遷都しているのだから「吹きかへしし」ではないかとする疑問点も、「現在形によって習慣的事実を表わす。」(大系本萬葉集37頁)と片づけられている。
(注2)廣岡2020.に、「一首には底抜けに明るい華やかさと共に、華やかさ故の限りない空しさ淋しさが漂う、いわば二重構造の景の巧みなバランスの中に、この歌は佇っている。その歌詠表現が、相対立する二極の理解を作り上げる。」(375頁)とある。
(注3)節会など祭事において采女が着飾ることはあった。賑やかしのお飾りである。身分は低く、教養もないが、容姿は端麗である。鳥居本2004.参照。ふだんしていない装束や化粧、簪をしている違和感は次のように記されている。

 夜更くるままに、月のくまなきに、采女、水司、御髪上げども、殿司、掃司の女官、顔も見知らぬをり。闈司などやうの者にやあらむ、おろそかにさうぞきけさうじつつ、おどろの髪ざし、おほやけおほやけしきさまして、寝殿の東の廊、渡殿の戸口まで、ひまもなくおしこみてゐたれば、人もえ通りかよはず。(紫式部日記・寛弘五年九月十九日)

(注4)中西2010.は、「「袖吹きかへす」……の表現において、われわれは風の中にひるがえり止まぬ袖を想像する。そしてそれが志貴の幻想なのだと知ると、その幻想は揺れやまぬ明滅にいろどられたものだという事に思い及ぶ。幻想の中に、采女はたしかにいるのではない。時としてち、時として消える美女なのだ。」(164頁)と、現代人の幻想を述べている。
(注5)ふるさとデジタルアーカイブ せいか舎(精華町教育委員会生涯学習課)「鋤による畝(うね)立て」『昔の写真』 http://seikasya.town.seika.kyoto.jp/old-photo/809 参照(2021年12月24日閲覧)。
(注6)大蔵永常・農具便利論に、「鋤は農具の内にては欠べからざるものにて、鍬と並べあげていふときは、仮令ば将棋の飛車角行のごとく用をなす事大かたならず、……惣て鋤はつかひ馴れば至て重宝なる事を覚ゆ、又溝をほり或は麦田の畝底をさらへるに、箱の底のごとくするには、鍬にてはつかい勝手鋤に及ばざることあり、湿地などは猶更鋤にて塊一つも、畝底に散ざるやうせざれば水はき悪し、半田をつくる地は必ず土おもきものゆゑ、是非鋤を用ゆべき事なり。」とあり、さらに「江州鋤」をとりあげ、「近江国栗田郡辺に此鋤を用ゆ、余国に用るとは形いさゝか大いにして、京鋤に類し少しくゞみありて、畝底の土をすくふには至て便利にして、仕業きれいに出来なり、予諸国の鋤の利方を考へあはするに、此鋤田畑ともに用ひて、もつとも便利なると覚ゆるまゝ、人々は此形を写して、つかひおぼえ給へとすゝめし事ありき。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2556764/22~23、漢字の旧字体は改め読点を付し、ルビは省いた)とあって、江州鋤にて畝を作る図が載る。一遍聖絵の鋤(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591577/23参照)と形がよく似ている。
(注7)現在通じていることと、飛鳥時代当時に通じていたことはまったく別のものである。思考法が違うから違っている。無文字文化と文字文化の違い、野生の思考と文明の思考の違い、具体的思考と抽象的思考の違いである。万葉歌一首の論考の注に収まるものではない。

(引用・参考文献)
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
高野1999. 高野正美「志貴皇子の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第三巻』和泉書院、1999年。
鳥居本2004. 鳥居本幸代「采女の装束」『京都ノートルダム女子大学研究紀要』第34号、平成16年3月。
中西2010. 中西進『中西進著作集26 万葉の詩と詩人・万葉の歌びとたち』四季社、平成22年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。

加藤良平 2021.12.24初出

万葉集の「はねかづら」の歌

 万葉集に「はねかづら」の歌が四首ある。多田2009.の訳を付けて挙げる。

  大伴宿禰家持が童女をとめに贈る歌一首
 はねかづら 今する妹を いめに見て こころの内に 恋ひ渡るかも〔葉根蘰今為妹乎夢見而情内二戀度鴨〕(万705)
 成女のしるしの葉根蘰を今つけるあなたの姿を夢に見て、心の中でずっと恋しく思い続けていることだ。(2の141頁)
  童女が来り報ふる歌一首
 はねかづら 今する妹は 無かりしを いづれの妹そ 幾許ここだ恋ひたる〔葉根蘰今為妹者無四呼何妹其幾許戀多類〕(万706)(注1)
 葉根蘰を今つける女性などいなかったのに、どこの女性がそんなにも恋してあなたの夢に現れたのか。(2の142頁)
 はねかづら 今する妹を うら若み いざ率川いざかはの 音のさやけさ〔波祢蘰今為妹乎浦若三去来率去河之音之清左〕(万1112)
 成女のしるしの葉根蘰を今つけるあの子が初々ういういしいので、「いざ(さあ)」と誘おうとする、その率川の音の何とさやかなことよ。(3の33頁)
 はねかづら 今する妹が うら若み みみいかりみ 着けし紐解く〔波祢蘰今為妹之浦若見咲見慍見著四紐解〕(万2627)(注2)(注3)
 成女のしるしの葉根蘰を今つけるあの子がまだ初々ういういしいので、微笑ほほえんだり怒ったりしながら、着衣の紐を解くことだ。(4の397頁)

 「はねかづら」の実態は未詳である。女性の髪飾りの鬘の一種かとする説が古くからある。時代別国語大辞典に、「万葉に見える全四例、すべて今スル妹とつづくことから、何か特定の時期につけたものであろう。……ハネは、㋑鳥の羽根、㋺動詞ハヌの名詞形で、かづらの形状を示すもの、㋩花、㋥お歯黒のカネなどと結びつけて説かれているが、未詳。」(589頁) とある。
 歌を見ると確かに女性が関係しているが、だからといって装身具に限って考えるのは適当ではない。万706番歌に、「童女」は「今する妹は 無かりし」としている。「今」とありつつ過去の助動詞キが用いられている。「今」には二つの意味が考えられる。第一は季節的に時季外れであるというもの、第二は今どきしないというものである。そして、万1112・2627番歌に「うら若み」とあって、かなり若い「妹」が想定されている。おままごとに髪を飾ったものとする説もあり得よう。
 髪を飾るかづらになる植物をかづらと呼んでいる。植物だから季節物であると捉えられる。万705・706番歌の原文に「葉根蘰」と記されている。鬘にしようと蔓を採ってくるにしても、根ごと掘り起こしてくることはなかなか考えにくい。万葉集の表記は借字や戯書が多いから、おもしろがって記しているものであろう。それでも、どこか意味を含めようとしたふしもある。根ごと掘り起こしてきたと想定するならすごく長いものであると考えられよう。クズやカズラの類で長い蔓に先に葉が付いているものである。それが「㋑鳥の羽根」ないし、「㋺動詞ハヌ」(跳)と関係しているとすれば、凧、ひいては連凧のようなものだと考えが及ぶ。凧のことは古くイカノボリと言った。和名抄に、「紙老鴟 弁色立成に云はく、紙老鴟〈世間にらうと云ふ〉は紙を以て鴟の形に為り、風に乗り能く飛ぶといふ。一に紙鳶と云ふ。」とある。凧揚げは昔から冬の風物詩であった(注4)。また、連凧式のイカノボリは、漁村の光景に目にすることがある。イカ(烏賊)を吊り干している。

左:十美図放風筝(清代)、中:蔓を伸ばすヤマブドウ(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマブドウをトリミング)、右:群鴨の飛翔(ヒドリガモ?、一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591579/22をトリミング)

 「はねかづら」が必ず「今する○○妹」に続いていたのは、年頃の女性がいかにも臭うスル○○メ作りを嫌がっている様子を窺わせる。凧を揚げて喜ぶのは「うら若」い幼な児であり、思春期の「今」はしないと言っている。万1112番歌の「いざいざ」などと連続して誘い出している光景は、連凧に凧が続々と連なることとオーバーラップしたもの言いである。むろん、お年頃になれば誘ってもなかなか出て来てくれはせず、「いざいざ」が「清け」く聞えるのは「妹」がまだ「うわ若」くて「はねかづら」を「今する」子どもだからである。万705番歌の、夢のなかで心のうちに「恋ひ渡るかも」と言っているのは、連凧のように鴨が編隊を成して渡る様子を掛けたものであろう。万2627番歌に、「笑みみ怒りみ 着けし紐解く」とあり、「怒(いか○○り)」にイカノボリのイカが含まれており、紐は凧と凧とをつなぎつけるもので男女の紐帯に準えている。
 「はねかづら」をして喜ぶのはまだ子どもの女子である。髪飾りにするにしても、凧揚げを一緒にして遊ぶにしても、成長するにつれて飽きられてしまう。逆に言えば、「はねかづら」に似合っている女はかわいいのだがまだ幼くて恋愛の対象には本来ならない。連凧を「はねかづら(葉根蘰、撥ね蔓)」と見立て、題材とした歌であると推論される。大意を記しておく。

  大伴宿禰家持が童女をとめに贈る歌一首
 はねかづら 今する妹を いめに見て こころの内に 恋ひ渡るかも(万705)
 連凧を今している女子を夢に見て、連凧も編隊の鴨も空をうち渡るように心の内に恋ひ渡るものよ。
  童女が来り報ふる歌一首
 はねかづら 今する妹は 無かりしを いづれの妹そ 幾許ここだ恋ひたる(万706)
 連凧を成長した今になって、しかも季節外れにしている女子はいないものを、どこの女子がそんなに恋い慕っているというのでしょう。
 はねかづら 今する妹を うら若み いざ率川いざかはの 音のさやけさ(万1112)
 連凧を今にするような女子をいざなうに、相手がとても若いので、いざいざとくり返す川の音がそれぞれの凧のうなる音のようにはっきりと聞こえる。
 はねかづら 今する妹が うら若み みみいかりみ 着けし紐解く(万2627)
 連凧を今しているような女子はまだ若く幼いので、うまく行っては微笑み喜び、うまく行かなくては怒ったりしながらに付けた紐、よろしくない彼との関係を、私は解いて別れさせた。

(注)
(注1)「幾許」の訓みについては、ココダ、ソコバと意見が分かれている。新大系文庫本万葉集に、「他人の思いの程度を推し量っているのでソコバと訓む。」(413頁)とある。こちら側の事情かそちら側の事情か、指示代名詞の問題である。報えの歌を歌っている「童女」は「妹」側、女性陣の代表として発言しているからココダと訓むのが良いように感じられる。
(注2)この歌の「いかり」については「紐解く」と相俟って解釈が偏ることがある。多田2009.は、「笑みみ怒りみ」について、「微笑ほほえんだり、ねたりする。男に初めて接しようとする処女の媚態。」(397頁)とあるのは表面上の解釈として穏当である。大系本萬葉集に、「イカリは厳矛いかしほこのイカと起源を同じくする。従ってイカルとは心理的に怒気をふくむのが先ではなく、体をイカラスことが先である。ここで、「笑みみいかりみ」という場合も、ほほえんだり、身をこわばらせたりしての意であって、怒るのではないと思われる。」 (471頁)とある。確かに、イカ(烏賊)は干されて完全に水分がなくなってスルメになればかちかちに身をこわばらせることになるし、イカノボリ(紙老鴟)も竹の骨に身を張りこわばらせている。
 「いかり」は万葉集にこの一首のみ、後にもほぼ詠まれていない。飯泉2020.に、「歌が志向する世界(内省化)と「〈怒り〉の心」(外向化)とが異なるベクトルを示していた。……よって歌では「怒り」の語は詠まれず、〈恨み〉の歌が多く残るのであろう。歌が志向する(散文とは異なる)世界、また万葉人の心のコントロール方法と、歌における感情の表出方法とが、逆に「怒る」歌から窺える。」(243~244頁)とある。自身の内的心理描写が歌の真髄とする考えについて否定はしない。ただ、万2627番歌の「いかり」について大系本説を採っており、身をこわばらせることとして「いかり」の語を認識しているとなると、他の歌謡に身体の表現として「いかり」という語が現れても不思議ではないと思うがどうなのであろうか。歌謡の言葉は声に出して詠まれた音声言語だから、心情表現として「いかり」という語が現れないのは、イカ(烏賊)を干している様やイカノボリ(紙老鴟)が邪魔をして、その剣幕をうまく表せないからかもしれないと思われる。
 イカ(烏賊)が怒気を伴うほどに「いかり」を示すのは、干されたり揚げられたりしているときではなく、水中にあって墨を吐くときである。それは、いかりを下ろしているときである。碇は沈めて効果が出るもので、怒りを鎮めることがヤマトコトバ上、適正な用法ということになる。怒りの声をあげることは言葉に自己撞着を起こすからである。よって、本邦では「怒髪天を衝く」という表現には発展しなかったものと思われる。万葉集には碇の歌が三首ある。

 大船の 香取の海に 碇下ろし 如何いかなる人か 物思はず有らむ〔大船香取海慍下何有人物不念有〕(万2436)
 近江の 沖漕ぐ船の 碇下ろし こもりて君が 言待つ吾ぞ〔近江海奥滂船重下蔵公之事待吾序〕(万2440)
 大船の たゆたふ海に 碇下ろし 如何いかにせばかも 吾が恋まむ〔大船乃絶多經海尓重石下何如為鴨吾戀将止〕(万2738)

 万2436番歌では、原文に「慍」とある。「碇」という語に「いか(如何)」と重ねる言葉遊びも見られる。歌の詞とは音であった。
(注3)下二句について、歌い手の男を主語とする考えもある。大系本萬葉集に、「笑みみ─ミは試みる意。」(211頁)とあり、「ほほえんだり、おこったりして、」という、男が女に言うことを聞かせようとして、女の着物の紐を解くことと解している。だが、「うら若み」はいわゆるミ語法である。……ヲ……ミの形で、……が……なので、の意を表すのが通例である。格助詞ヲに代り、ここではガが使われている。主格がガで表されるのは従属節中である。連用形中止法の連続する「みみ怒りみ」して「紐」を「着け」た主体を「妹」と定めて従属節とするように決めるために、ガが用いられていると推定される。「妹」がうら若く幼いので、「笑み」したり、「怒り」したりしつつ「紐」を「着け」たという意味である。最後の「解く」まで「妹」の所作とすると、格助詞ガが主節の主格を表したことになってしまい、本来なら無助詞で表す上代の主格表現と相容れないことになる。
 まだ幼くて人を知らない娘が、ちょっとひやかしてきた男と一緒になろうと連凧に結びつけるようにくっつこうとしているが、その男は駄目だと引き離した。「はねかづら」をまだやっているほどに子どもなのだから、その調子で大人の関係を持ってはならないと親が禁じた、その次第を歌った歌であると考える。
(注4)凧がいつからどのような形で本邦にあったか、不明である。「多くの未開民族が、原始的な凧を所有していたように、日本にも在来の凧があったと思われるが、その多くが外来の凧に取って代わられたように、日本古来の凧も姿を消していった。」(比毛1997.17頁)とする考えは妥当であろう。ただ、今日見られるほどの連凧が飛鳥・奈良時代にあったのかははなはだ心許ない。
 文献資料として和名抄以前のものとしては田氏家集に確かで、さらに遡るとするものとしては、風土記の「幡」、日本書紀の「鮹旗」がそれではないかと推測されている。

  看侍中局壁頭挿紙鳶諸同志
 風前試翼紙鳶新 何事由来挿壁塵 了-得行蔵能在_我 憐他飛伏必依_人 応鶴滞重皐 孤負鶯遷喬木 向上碧雲如分 憑君莫久縮絲綸(田氏家集48)
 珂是古かぜこ、即ち、はたを捧げて祈祷みて云ひしく、「誠に吾がまつりりするあらば、此の幡、風のまにまに飛び往きて、吾をりする神のに墮ちよ」といひて、便即やがはたを挙げて、風の順に放ち遣りき。時に、其の幡、飛び往きて、原郡はらのこほり姫社ひめこそもりに墮ち、また還り飛び来て、此のやまがはほとりに落ちき。此れに因りて、珂是古、おのづから神のいます処を知りき。其のいめに、臥機くつびき久都毗枳くつびきと謂ふ。〉と絡垜たたり多々利たたりと謂ふ。〉と、儛ひ遊び出で来て、珂是古をし驚かすと見き。ここに、亦、女神ひめがみなることをりき。やがやしろを立てて祭りき。それより已来このかた、路行く人殺害ころされず。因りて姫社ひめこそといひ、今はさとの名と為せり。(肥前風土記・基肆郡)
 ことに沙尼具那等に、鮹旗たこはた二十頭はたち・鼓二面・弓矢二具・鎧二領を賜ふ。……別に馬武等に鮹旗二十頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領賜ふ。(斉明紀四年七月)

 和漢三才図会に、「紙鴟いかのぼり 紙鳶 風箏 紙老鴟〈和名は師労之。今は烏賊と云ひ、関東に章魚と謂ふ〉事物紀源に云はく、高祖の陳豨を征するときに、韓信、中より起らむことを謀りて紙鳶を作り之れを放ち、以て未央宮の遠近を量り以て地を穿り宮中に隧入しめんと欲するなり。是れ蓋し古今に相伝はる説なり。△按ふるに、弁色立成に紙を以て鴟の形とし、風に乗りて能く飛ぶ者なりと云ふ。鴟、烏賊、章魚は形に因りて之れを名く。或に繒布を以て之れを為る。春月、小児多く之れを弄す。大なる者に至りては大人以て戯とす。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2596364/37を訓み下した)とある。今日、正月遊びとされている。「春月」と見え、他書にも十一月から三月にするといった記述も見える。
 清の顧禄の清嘉録に、蘇州での様子が記されている。「……春日放之。以春之風自下而上。紙鳶因之而起。故有清明放断鷂之諺。常昭合志、児童放紙鳶、以清明日止、曰放断鷂。……呉穀人新年雑詠小序云、杭俗、春初競放鐙鷂、清明後乃止。諺云、正月鷂、二月鷂、三月放个[介?]断線鷂。……」(三月・放断鷂、国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200014051/viewer/81~82、一部句点を読点に改めた)と見える。一定の風が吹くときに揚げるから楽しめるのであり、黄砂のなかや梅雨時の雨の止み間、真夏の炎天下や台風の時にするものではない。

(引用・参考文献)
飯泉2020. 飯泉健司『王権と民の文学─記紀の論理と万葉人の生き様─』武蔵野書院、2020年。
澤瀉1962. 澤瀉久隆『萬葉集注釋 巻第十一』中央公論社、昭和37年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、 1967年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『萬葉集 三』岩波書店、昭和35年 。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解2』『同3』『同4』筑摩書房、2009年。
比毛1997. 比毛一朗『凧大百科─日本の凧・世界の凧─』美術出版社、1997年。

加藤良平 2021.12.16初出

万葉集の「月人壮士」をめぐって

 拙稿「「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」(万1068)の解釈の誤りについて」で、七夕歌において「月の船」、すなわち上弦の月は明るすぎて、主役の牽牛、織女の光を打ち消すから雲間に隠れたのであるとする見解を述べた。万葉集ではほかに、「月人つきひと壮士をとこ」という言い方が七夕歌に五首ある。西本願寺本に、「壮」字は「牡」とあるのを元暦校本などにより校訂しているが、諸本に大きな乱れはない。「月人壮士」はツキヒトヲトコ、また、「月読壮士」(注1)はツクヨミヲトコと訓んで間違いない。
 本稿では、月を擬人化した言い方である「月人壮士」、「月人」も、輝きが明るすぎて、彦星と織姫の七月七日一夜限りの逢瀬を邪魔する存在であったのか検討する。以下、原文、訓読、通説によらない解釈の順で示し、細かな注釈を加える。従来の説で訓みに関わらない場合は特に引用しない。

 夕星毛徃来天道及何時鹿仰而将待月人壯
 夕星ゆふつつも かよあまを 何時いつまでか あふぎて待たむ 月人壮士(万2010・巻十・「秋雑歌・七夕」)
 明るい宵の明星(金星)も通っていった天上の道を、輝いている月が通って没するのを天を仰いでいつまで待っていたらいいのだ。私たちは天空ショーを期待しているのに。

 これまでの説に、「月人壮士」は牽牛のこととする説、また、人間の逢瀬が夜の月明かりを頼りとしていたために月の出を待って牽牛は織女のところへ行くとする説、月に向って牽牛(織女)が織女(牽牛)の出現を待つのを問うとする説、これは七夕歌ではなくて月の出を待つ歌であるとする説もある。陰暦七月七日は必ず上弦の月で、夕暮れ時に宵の明星が見えたとき、月は天上に輝いているものである。
 勝俣2017.は、「万葉集の七夕歌を見てみると、当該歌を除く十六首十七例の「待つ」の用例のうち、地上の人間が「待つ」としたものは一首もなく、織女が七首七例、彦星が九首十例で、彦星が七夕の到来を「待つ」としたものが、一番多いのである。」(605頁)(注2)といい、彦星が待つことをしていて月人壮士に呼びかけているとしている。しかし、「仰ぐ」は首を上に向けて高いところを見ることである。天空の彦星が天空の月に対して「仰ぐ」とはならないであろう。地上の人間が「待つ」例が他に見られないからと言って表現してはいけない理由にはならず(注3)、「妹」、「君」と言わない理由はそこにあるのではないか。

 秋風之清夕天漢舟滂度月人壯子
 秋風の きよむるゆふへ 天の川 舟ぎ渡る 月人壮士(万2043・巻十・「秋雑歌・七夕」)
 秋風が大気を清める夕べに、天の川に船を漕いで渡っていく月人壮士よ。

 この歌は一般に、「秋風の きよゆふへに」と訓まれている。万葉集において、「風」に対して「さやか」系統の語で形容した例がないから「きよし」系統で訓まれるべきであると説明されている(注4)。しかし、そうなると、二句目までが風を言っていて、三句目からは渡河を言っていることになる。間に助詞「に」と訓み添えていなければ二句切れも考えられるが、かえって奇妙に連続していないことになっている。ここは、秋風は乾燥していて夜空がきれいに見えることを謂わんとしている。立秋を過ぎ、大陸からの風が吹き、上空は塵芥を清めて澄んだから、七夕の天空ショーにはもってこいということになっている。古代においても風向きはわかり、大陸からの風に七夕が大陸からもたらされた風流であることを通じさせようとしたのだろう。そして、月は空を渡り切って地平線に没し、すごくよく牽牛と織女の星が見えると歌っている。したがって、「清」は他動詞キヨムであると理解される。キヨム(清)の例をあげておく。

 …… ちはやぶる 神をことけ まつろはぬ 人をもやはし 掃き清め〔波吉伎欲米〕 仕へまつりて ……(万4465)
 有司つかさ、山背国の相楽郡さがらかのこほりにして、むろつみててきよはらひて、厚く相たすけ養へ。(欽明紀三十一年四月)

 天原徃射跡白檀挽而隠在月人壯子
 天の原 きてか射むと しらゆみ 引きてかくせる 月人壮士(万2051・巻十・「秋雑歌・七夕」)(注5)
 本来なら七夕なのだから天の川のはずのところ、勘違いして天の原に出かけて行って狩りで射ようとしゃしゃり出ては白真弓を引きしぼって肝心の星も天の川も見えなくしている明るい月には困ったものだ。

 「隠在」にはカクセル、カクセリ、コモレル、カクレルといった訓が行われてきた。弓張月のことを言っているから、弓を隠し持っているという説は当たらず、狩りにおいて獲物に自身の姿を見えないようにしたとする意と解して、四段活用の「かくる」の命令形に状態化辞の助動詞「り」の連体形が接続したカクレル説が有力視され、上弦の月が午後十時頃に西の空に沈み隠れたことを言っているとされている。しかし、そう解すると、歌意の尻つぼみ感が強く、七夕歌であったか確かでなくなる。また、月が山の端にコモレルとするのはツゴモリ(晦)という語との関連からも違和感がある。
 この歌を七夕歌として積極的に認めるに、冒頭に「天の川」ではなく「天の原」とあるところを妙趣とみる。月が明るくて天の川が見えない。月は勝手に天の原へ狩りに出ている。七夕なのに困ったものだとおとぼけの歌を歌っている。

 於保夫祢尓麻可治之自奴伎宇奈波良乎許藝弖天和多流月人乎登祜
 大船に かぢしじ貫き 海原を 漕ぎ出て渡る 月人壮士(万3611・巻十五・「当所誦詠古歌・七夕歌一首」、右柿本朝臣人麻呂歌)
 七夕は小さな星の小舟が川を行き交うものなのに、場違いな大きな船の両舷側に櫂をかけ貫いて海原を漕ぎ出して渡ろうとしている月人壮士よ、考え違いをしないでおくれ。全然星が見えないじゃないか。

 天海月船浮桂梶懸而滂所見月人壯子
 あめの海に 月の船け かつらかぢ けて漕ぐ見ゆ 月人壮士(万2223・巻十・「秋雑歌・詠月」)
 月人壮士が天上の海に月の船を浮かべ、轆轤挽きを連想させる桂の櫓をかけて漕いでいるのが見える。

 この歌は「詠月」の歌で七夕とは関係がない。通説では、月に桂の木が生えているという中国の伝承(注6)を受けて「桂楫〔桂梶〕」としていると考えられている。しかし、仮にその事情が本邦の人々に受け入れられたのだとしても、納得づくでなければ受け入れられなかったと考える。なぜなら、いつの間にか話が楫の材のことに転じているからである。「桂楫」という語は万葉集にこの一例の孤語である。他の例は懐風藻にある。文武天皇作、「五言詠月 一首」(15)である。

 月舟移霧渚 楓楫泛霞浜 台上澄流耀 酒中沈去輪
 水下斜陰砕 樹落秋光新 独以星間鏡 還浮雲漢津

 一・二句目に「月舟」、「楓楫」と出てきて語句がよく似ている。先後関係があるとするなら、万2223番歌が先で、漢詩は後であろう。あまりうまい作と思われない点はすでに指摘されている(注7)
 万2223番歌にある「楫」は櫂のことか、櫓(艪)のことかが問題になる。筆者は、万3611番歌に「真楫しじ貫き」と呼ばれるものは櫂であると考える。両手をマテというように、ワンペアのセットの一揃えがマ(真)を表すから、「真楫」とあれば船の両側に「楫」のあるもの、すなわち、櫂である。一方、万2223番歌にある「桂楫〔桂梶〕」は一本のようである。
 カツラの木は、「湯津ゆつかつら」(記上)、「湯津ゆつ杜木かつら」(神代紀第九段本文)、「湯津ゆつ杜樹かつら」(神代紀第九段一書第一)など天若日子(天稚彦)の門のところや、「湯津ゆつ香木かつら」(記上)、「湯津ゆつ杜樹かつら」(神代紀第十段本文)、「杜樹かつらのき」(神代紀第十段一書第一)など海神の宮門前の井のそばに生えていることが知られていた。門扉は枢戸で、ぼそと戸まらを組み合わせた構造をしていることから、上手に轆轤(注8)を使って丸く成形していることが求められた。また、カツラ剥きという包丁さばきも連想を呼ぶ。それは月の欠けていくことに通じるところがあり、カツラの木の、材としての狂いのなさばかりか葉の丸さからの類推思考ともよくかなっている。そしてまた、門に控える守衛の看督かどのおさが別名、矢大臣と称されて、弓矢を持っている姿も関係し、弓張月が一連の観念のなかにおさまる。さらに、カツラの木は水気を好み、船との間に親近性がある点も言葉としてふさわしいと感じられたのだろう(注9)
 つまり、「月の船」と「桂楫」とは一つのセットになっている。両者は「懸」けてある。轆轤を使った枢構造のカヂとは、櫓のことである。船につけた櫓臍(櫓杭)に、入れ子の凹みをつけた櫓をはめてキーキー音をたてながら操る。轆轤挽きの音とよく似る。ここに「桂楫」なる表現が行われて、記紀の説話を十分に理解している人たちに認められることとなっている。万2223番歌は、言葉の上で掛詞的に活用しているものである。

 黄葉為時尓成良之月人楓枝乃色付見者
 黄葉もみちする 時になるらし 月人の かつらの枝の 色づく見れば(万2202・巻十・「秋雑歌・詠黄葉」)
 黄葉する時季になるらしい。月は丸葉の桂、丸葉の桂は月の、その枝ごとのように月が色づくのを見れば。

 通説に、「見れば」の主語を「月人」として「月人の」の「の」を主格ととって、月人が見ると解され、天空上で月に住む人が月の中の桂樹が色づいたのを見れば、地上でも黄葉する時節になったらしいという意と解されている。しかし、この歌は仲秋の名月を歌ったものと考えられる。月人は満月の擬人化である。「月人の」の「の」は所有・所属を表し、月人の持つカツラの丸い葉、すなわち満月に黄赤く染まることを言っていて、それを今眺めていると、植物も黄葉する時候になったようだと風雅なもの言いをしているのである。「かつらの枝」とあって一枚の丸い葉ではない点は、十五夜の月ばかりでなくその前後の、十四日の月や十六夜も含めて黄色く色づいて見えたことを謂わんとしている(注10)
 以上見てきたように、万葉集において月を擬人化した「月人壮士」という言い方は、せいぜいが0~1等級程度の明るさの星をめでようとする七夕を台無しにする、-10等級(半月)位の明るすぎる存在として捉えられていた。単に月を詠む場合に「月人壮士」、「月人」として使う場合にカツラとともに用いられているのは、カツラの葉の丸いことを満月に見立てたことによるところが基底にあった。

(注)
(注1)万葉集に「月読壮士」の例は二首見られる。

 天尓座月讀壯子幣者将為今夜乃長者五百夜継許増
 天にす 月読つくよみ壮士をとこ まひはせむ 今夜の長さ 五百夜いほよ継ぎこそ(万985・巻六・「湯原王月歌二首」)
 三空徃月讀壯士夕不去目庭雖見因縁毛無
 み空行く 月読壮士 夕去らず 目には見れども 寄るよしも無し(万1372・巻七・「寄月」)

 万985番歌は月を歌った歌であるが、万1372番歌は月にことよせて片想いの男性に近づけないでいることを歌っている。これら「月読壮士」は「月人壮士」では表現としてふさわしくない。あくまでもヨム(読・数)ことにかこつけた歌である。月の形が日にちを数えるすべになっていたから、「五百夜継ぎ」や、「夕去らず」毎日毎日目にすると言っている。この「月読壮士」という語は、月読尊と月人壮士の合成語であろう。
 月を擬人化するにあたって、万葉歌でなぜ男性にしたのか不明である。他の伝承に必ず男性とされたか例が少なくて決定できるものではない。皇大神宮儀式帳に、「月読宮一院……次称月読命。御形馬乗男形。着紫御衣。金作帯大刀佩之。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559060/24に返り点を施した)とあるのは、信仰の都合上、造形化したにすぎないように思われる。
(注2)巻十の七夕歌を数えたかと思われるが数が合わない。当然ながら、誰が待つかばかりか、何を待つかも問題になろう。直接相手を待つのではなく、「秋」になること(万2000・2005)や「日」を待つ(万2012)、「時」を待つ(万2053・2056・2092・2093)、「年」を待つ(万2055)、「み船」を待つ(万2082)、「白浪」の静まるのを待つ(万2085)、「須臾しまし」待つ(万2088)、「何時いつしかと」待つ(万2092)例なども見える。
(注3)「天の川 かぢ聞こゆ 彦星と 織女たなばたつめと よひ逢ふらしも」(万2029)、「彦星と 織女と 今夜逢ふ 天の川門に 波立つなゆめ」(万2040)の話者は地上の人であろう。
(注4)澤瀉1962.265頁参照。
(注5)「徃射跡」は旧訓にユキテヤイムト(類聚古集、西本願寺本)、ユキテヲイムトと間投助詞ヲを訓み添える説(武田1955.)、ユキテイテムト(全集本萬葉集)、イユキテイムト(中西1980.)とする説もある。筆者は、この歌は作者による想像の世界のことだから、古訓に似て疑問の意のカが投入されていると考える。天の原へ狩りに出かけているのだろうか、の意で、月人壯子の行為に疑問を投げかけているのである。

左:「月桂」(?)(落葉したカツラの葉)、右:「星楡」(?)(ウィキペディア、Ronnie Nijboer様「樹皮を剥がすと見つかるキクイムシの食痕」https://ja.wikipedia.org/wiki/ニレ)

(注6)月のなかにカツラの木があるとする中国の伝承によった表現とする説で示される出典は、唐・段成式・酉陽雑俎の、「旧言、月中有桂、有蟾蜍。故異書言、月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創随合。人姓呉名剛、西河人。学仙有過、謫令伐樹。」(巻一・天咫)である。九世紀の例であるが、古くから言い伝えられてきていたもので、それが本邦へも伝えられていたとしている。かなり無理のある議論である。ほかには、芸文類聚・第四巻・歳時中・七月七日・隋江総・七夕詩に、「漢曲天楡冷 河辺月桂秋」とあるのを懐風藻・山田三方・七夕(53)に「金漢星楡冷 銀河月桂秋」と引くのを嚆矢とするかとされている。この「月桂」、「星楡」を月のなかに桂の木があり、星のなかににれの木があるとするという考えに基づくとするのも「旧言」にあったろうと憶測するばかりである。少なくとも船具材の樹種表現にはなり難い。万葉集ではカツラに「楓」字が三例、「桂」字が一例である。満月とカツラの黄葉との類似、星の光とニレの木のキクイムシのつけた痕との類似をもって漢語が作られていると思われてならない。
(注7)江口2000.88頁参照。
(注8)和名抄に、「轆轤 四声字苑に云はく、轆轤〈鹿盧の二音、俗にろくと云ふ〉は円転の木機なりといふ。」、「鋋 漢語抄に云はく、鋋〈辞恋反、又、市連反、路久魯賀奈ろくろかな〉は轆轤の裁る刀なりといふ。」とある。木工用轆轤自体は出土例を見ないが、弥生時代中期以降に轆轤で製作されたと思しい高杯の例が見られるとされつつ、なおその技術導入については5世紀以降とも示唆されている。須藤2009.参照。ちなみに、つき(キは甲類)はつき(キは乙類)とゆかりのない別語である。
(注9)拙稿「記紀にいわゆる海神の宮門について」参照。次の万632番歌の、月の内のカツラとは満月のような丸顔の女性を表している。

 目二破見而手二破不所取月内之楓如妹乎奈何責
 目には見て 手には取らえぬ 月のうちの かつらの如き いもをいかにせむ(万632)

 この歌は、湯原王が娘子に贈った歌二首の一で、贈り合いが十二首くり広げられるその第二番目の歌である。「うはへ無き ものかも人は しかばかり 遠きいへを 帰さく思へば」(万631)と、尋ねて行って逢えずに帰る嘆きを歌った歌につづいている。
 万632番歌の「~の内の~」という言い方は、同じ贈答歌群の湯原王の歌、「草枕 旅には妻を たれども くしげの内の たまとこそ見れ」(万635)に見える。櫛笥のなかに珠を大切にしまい、自分が思うときに眺めて楽しむことを言っていて、人に見せびらかすことを言っていない。限定的なニュアンスをウチ(内)という言葉に込めている。
 万632番歌の、「目には見て 手には取らえぬ」ものは「妹」である。今回帰されてしまったことを言いたいのだから、それを譬えた「(月の内の)楓」なのであろうが、月の中のカツラの木のこととすると齟齬が生じる。「目には見て 手には取らえぬ」ものは、例えば伝承上、月には臼があったり、ウサギか蟾蜍がいたことにもなっている。それらを排除してなぜ「楓」を持ち出しているのか、また、「目には見て 手には取らえぬ」ものはふつうに考えて「月」そのもののはずである。すると、ここでも湯原王はウチ(内)という言葉に凝った使い方をしていると考えられる。すなわち、「月」にも「楓」なる風情なるものに限って、そのようなあなたをどうしようか、と言っている。夜這いするとき、上空には月が輝くが、満月の日は月の出が日没直後、月の入りは日の出直前というように、一番長い時間一緒にいられることを願っての訪問となる。カツラの葉のように丸い満月のような丸顔のあなたのことが一番好きだから、満月の日にあなたのところへ夜這いしているのに逢ってくれなかった。どうしたらいいのだ、というのである。相手へのお上手なメッセージと思えばわかりやすい。
(注10)月と無関係にカツラの枝を女性に見立てた歌もある。そこに丸顔の童顔を見て取るべきか不明である。

 むかの わかかつらの木 しづ取り 花待ついに なげきつるかも(万1359)

(引用・参考文献)
江口2000. 江口孝夫『懐風藻』講談社(講談社学術文庫)、2000年。
澤瀉1962. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第十』中央公論社、昭和37年。
勝俣2017. 勝俣隆『上代日本の神話・伝説・万葉歌の解釈』おうふう、平成29年。
須藤2009. 須藤護「古代の轆轤工と渡来人」『龍谷大学国際社会文化研究所紀要』第11号、2009年6月。龍谷大学図書館 https://opac.ryukoku.ac.jp/webopac/TD00102018
全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『萬葉集三』小学館、昭和48年。
大系本懐風藻 小島憲之校注『日本古典文学大系69 懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋』岩波書店、昭和39年。
武田1955. 武田祐吉『萬葉集全講 中』明治書院、昭和30年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注・原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。

加藤良平 2021.9.21初出

「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」(万1068)の解釈の誤りについて

 万葉集巻第七の巻頭歌は、天を詠んだ歌として知られている。

   雑歌ざふか〔雑歌〕
  天を詠める〔詠天〕
 あめの海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎかくる見ゆ〔天海丹雲之波立月船星之林丹榜隠所見〕(万1068)
   右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。〔右一首柿本朝臣人麻呂之謌集出〕

 大意は、「天の海に雲の波が立ち、月の船が星の林に漕いで隠れて行くのが見える。」(新大系文庫本235頁)といったものである。
 この歌は外国の方に好まれている模様である。英訳をいくつかあげる。

ON the sea of heaven the waves of cloud arise,
And the moon’s ship is seen sailing
To hide in a forest of stars. (Donald Keene)
In the sea of sky
The waves of cloud rise up,
And the moon-boat
Is seen rowing out of sight
Into the forest of the stars. (Edwin A. Cranston)
In the sea of heaven
cloud waves rise and
the moon boat sails
into a forest of stars,
then is seen no more (Janine Beichman)
On the sea of heaven
the waves of cloud rise,
and I can see
the moon ship disappearing
as it is rowed into the forest of stars. (Hideo Levy)
Cloud waves rise
in the sea of heaven.
The moon is a boat
that rows till it hides
in a wood of stars.(Peter MacMillan)

 そういう意味で通っている。天を海、雲を波、月を船、星を林に譬えて、月が天空を渡る様を壮大に描いているものとされている。類するものに次のようなものがあげられている。

 天の海に 月の船け かつらかぢ かけて漕ぐ見ゆ 月人つきひと壮士をとこ(万2223、「詠月」)
 春日かすがなる 三笠の山に 月の船出づ 遊士みやびをの 飲む酒杯さかづきに 影に見えつつ(万1295、(「旋頭歌」))
 月舟げつしううつリしよニ 楓檝ふうしふうかブひんニ(懐風藻、文武天皇「詠月」)

 懐風藻は漢詩集であり、万葉集はヤマトコトバをもとにする歌である。「月人つきひと壮士をとこ」は、月を擬人化して言った言葉である。

 夕星ゆふつつも 通ふあまを 何時いつまでか あふぎて待たむ 月人壮士(万2010、(秋雑歌「七夕」))
 天の原 きて射てむと 白真弓しらまゆみ 引きてかくれる 月人壮士(万2051、(秋雑歌「七夕」))
 大船に かぢしじ貫き 海原を 漕ぎ出て渡る 月人壮士(万3611、「七夕歌一首」)

 これらの例を前にして、万1068番歌の解釈には唐突感、違和感がある。何を詠んでいるかがわからない。漢籍の転用との考慮があるものの、典拠は不明とされている。
 問題は、「月の船」というからには三日月程度は厚みがなければならず、そうであるならかなり明るい。星は一等星、二等星といった見かけの明るさで比べられている。太陽は-26.8等級と非常に明るくて、昼間、他の星は肉眼ではほぼ確認できない。いわゆる「星」の場合、金星が-4.7等級、シリウスが-1.5等級と明るい。それらの明るさは天球全体で他の星を見るのにさして邪魔しないが、月が明るいと天体観測に支障が出る。満月なら-12.7等級、三日月でも-9.7等級ほどであるとされている。
 すなわち、月が星の群れに近づくと、星は見えなくなってしまう。「月」が「隠る」のではなく「星」が「隠る」ことになる。歌意が通らない。
 ハヤシという語の解釈に誤りがある。

 …… おほきみに  吾は仕へむ 吾が角は かさのはやし〔御笠乃波夜詩〕 吾が耳は 御墨のつぼ 吾が目らは すみの鏡 吾が爪は 御弓のはず 吾が毛らは 御筆みふみてはやし〔御筆波夜斯〕 吾が皮は 御箱の皮に 吾がししは 御膾みなますはやし〔御奈麻須波夜志〕 吾が肝も 御膾はやし〔御奈麻須波夜之〕 吾がみげは 御塩のはやし〔御塩乃波夜之〕 いぬるやつこ 吾が身一つに 七重花咲く 八重花咲くと 申しはやさね〔白賞尼〕 申し賞さね〔々々々〕(万3885)
 つる 稚室葛わかむろかづ、築き立つる はしらは、家長いへのきみの 御心みこころしづまりなり。ぐる 棟梁むねうつはりは、此の家長の 御心のはやしなり〔御心之林也〕。…(顕宗前紀)

 「はやし」の意は、立派に見えるようにするもの、映えるようにするもの、いっそう引き立てるもの、栄えあらしめるもの、の意である(時代別国語大辞典595頁参照)。動詞「やす」の名詞形で、動詞は、はえあらしめる、もてはやす、ほめそやす、の意である(同596頁参照)。祭りのお囃子は盛り立て役である。白川1995.の「はやし〔林〕」の項に、「「やす」の名詞形。「生やす」は他動詞形であるが、自然にまかせて繁茂したところの意であろう。……「心の波夜志はやし」は「はやし」、「え」「はやる」「はやす」などみな同系の語で、さかんなさまをいう。」(630頁)と説明されている。
 したがって、「月」は「雲(の波)」に「隠」れて「星」が映えるようにしたと考えるのが妥当である。上にあげた万2051番歌に、弓月が、獲物を狙うために物陰に隠れることの譬えとして歌われていたのが類例とわかる。月の神である「月読尊」は「月弓尊」(神代紀第五段本文ほか)とも記されている。助詞「に」は目的を示す。二句目は終止形で句切れである。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
 君により ことしげきを 故郷ふるさとの 明日香の川に 禊身みそぎく(万626)

 天の海に 雲の波立つ 月の船 星のはやしに 漕ぎ隠る見ゆ(万1068)
 (大意)天の海に雲の波が立っている。月の船は星を映えるようにするために、その雲の波のなかへ漕ぎ隠れて行っているのが見える。

On the sea of heaven cloud waves are rising.
It seems like the moon boat rows and hides into them
so that more stars could be seen well. (Ryohei Kato)

 月の船が雲の波立つところへ漕ぎ隠れていると見立てることは理解に難くない。このように解釈すれば、この歌の正体が何か理解できるようになる。七夕歌である。主演の二人は「織女たなばたつめ」(織姫星)と「彦星ひこぼし」である。今宵、月読壮士はお呼びでない。他の万葉歌との整合性も保たれている。当時の人が聞いてわかる歌である。今日的な解釈による誤読の上の“鑑賞”は、もともとの万葉歌とは別のところにある。

(引用・参考文献)
Donald Keene Donald Keene, 1940. THE MANYŌSHŪ. INTERNET ARCHIVE https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.182951/page/n139/mode/2up
Edwin A. Cranston Edwin A. Cranston, 1993. A WAKA Anthology Volume One: The Gem-Glistening Cup Translated, with a Commentary and Notes. California, Stanford University Press. p.236.
Hideo Levy リービ英雄『英語でよむ万葉集』岩波書店(岩波新書)、2004年、77頁。
Janine Beichman 大岡信著、ジャニーン・バイチマン訳『対訳 折々のうた』講談社インターナショナル、2002年、97頁。
Peter MacMillan ピーター・マクミラン『英語で味わう万葉集』文藝春秋(文春新書)、2019年、155頁。
飯島2018. 飯島奨「はやし・はやす─「乞食者詠」鹿の歌の「はやし」とは何か─」吉田修作編『ことばの呪力─古代語から古代文学を読む─』おうふう、2018年。
勝俣2017. 勝俣隆『上代日本の神話・伝説・万葉歌の解釈』おうふう、2017年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。

(English Summary)
The poem of Manyōshū No.1068 is misinterpreted. Since the moon is brighter than stars, the moon cannot hide in the “forest of stars”. In ancient Japanese, the word “Hayashi” which was forest or woods, also meant to serve as a foil to something else. We can understand that they could see stars well when the moon hid in the cloud.

2021.5.4初出

額田王の三輪山の歌と井戸王の綜麻形の歌

はじめに

 万17~19番歌は、近江遷都時の三輪山の歌として知られている。原文ならびに新編全集本萬葉集による訓、現代語訳を記す。

  額田王下近江國時作歌井戸王即和歌
 味酒三輪乃山青丹吉奈良能山乃山際伊隠萬代道隈伊積流萬代介委曲毛見管行武雄數毛見放武八萬雄情無雲乃隱障倍之也
  反歌
 三輪山乎然毛隠賀雲谷裳情有南畝可苦佐布倍思哉
  右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰遷都近江國時御覧三輪山御歌焉日本書紀曰六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷都于近江
 綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目尓都久和我勢
  右一首歌今案不似和歌但舊本載于此次故以猶載焉
  額田王、近江国あふみのくにくだる時に作る歌、井戸王ゐのへのおほきみすなはこたふる歌
 味酒うまさけ 三輪みわの山 あをによし 奈良ならの山の 山のに いかくるまで 道のくま いもるまでに つばらにも 見つつかむを しばしばも 見放みさけむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや(万17)
  反歌
 三輪みわやまを しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや(万18)
  右の二首の歌は、山上憶良大夫やまのうへのおくらだいぶ類聚歌林るいじうかりんいはく、「都を近江国にうつす時に、三輪山を御覧みそこなは御歌みうたなり」といふ。日本書紀にほんしょきいはく、「六年丙寅へいいんの春三月、辛酉しんいうつきたち己卯きぼうに、都を近江あふみうつす」といふ。
 綜麻へそかたの 林のさきの さ野榛のはりの きぬに付くなす 目に付く(万19)
(訳)
 額田王が近江国おうみのくにに下った時に作った歌、そして井戸王いのへのおおきみがすぐ唱和した歌
 (うまさけ) みわやまを (あをによし) 奈良ならの山の 山の向こうに 隠れるまで 道の曲り角が 幾重いくえにも重なるまで 存分に 見続けて行きたいのに 幾たびも ながめたい山だのに つれなくも 雲が 隠してよいものか
  反歌
三輪山みわやまを そんなにも隠すことか せめて雲だけでも この気持ちを察してほしい 隠してよいものか
  右の二首の歌は、山上憶良大夫やまのうえのおくらだいぶ類聚歌林るいじゅうかりんに、「近江国おうみのくにに遷都した時、三輪山をご覧になって天智天皇が詠まれたお歌である」とある。日本書紀には、「天智天皇の六年三月十九日、近江に遷都した」とある。
 綜麻形へそかたの 林の端の はりの木が 服によくつくように よく目につくわが君ですね
  右の一首の歌は、今考えてみると、唱和の歌らしくない。ただし、旧本にこの順序に載せてあるので、やはりここに載せておく。

 これらの歌は、左注にもあるように天智天皇が近江へ遷都したときに歌われた歌とされている。都を大和から遷したのは、その四年前、天智二年(663)八月二十八日、白村江の海戦に敗れて以降の情勢による。当時、朝鮮半島では、百済・新羅・高句麗の三国が鼎立していた。そこへ中国の大帝国、唐(618~907)が侵攻を図る。第一ラウンドは、前王朝の隋(589~618)同様、 陸続きの北方から高句麗へ遠征する。何度か失敗を繰り返した後、第二ラウンドとなる。高句麗の背後で結託している百済を先に攻めようというのである。そして唐は、三国のなかでもっとも遠い新羅と連合し、百済を挟み打ちにする。百済は新羅の陸軍、唐の海軍に蹂躙されて都は陥落、倭に人質として留まっていた王子の返還と援軍を要請してくる。倭は、百済救援のために大軍を朝鮮半島に送った。時に唐の海軍は百済の心臓部に迫り、白村江、今の錦江河口、群山付近に陣取っていた。倭の海軍は唐の大艦隊に向かって突撃していく。そしてあっけなく敗れた。百済の要人ともども敗走し、海峡を列島へと渡ったのであった(注1)
 以降、倭国は朝鮮半島の緊張状態の下に、東アジア世界の一員であることを意識した政策がとられた。九州には防人を置き、西日本各地に山城を築いたうえ、近江の地へ遷都している。遷都の理由としては、諸説あげられているが帰一するところがない。白村江の敗戦によって首都防衛のために一国城塞となるようにした、戦勝国である唐の要求による、交通上の要衝で高句麗との連絡や蝦夷を意識した、渡来人が多く居住していて米や木材等生産力が高かった、近江に移住していた亡命百済貴族を重用して律令国家の官僚体制を整えるため、藤原氏、息長氏との関係や旧勢力と新興勢力の対立、飛鳥の地における再開発の頭打ちとなって生産力が低下したため、近江にも大王家の基盤を求めたため、外国使節が幾度も訪れた飛鳥は情報が知れ渡っていて危険である、秦の始皇帝の真似をして水徳を主張して水の都を建設した、といった説があり、それらの複合したものであるとも唱えられている(注2)
 気持ち的には仕方なく近江へ遷都している。そのような状況下で歌われたのが「額田王下近江国時作歌、井戸王即和歌」である。万17番の長歌は、対句が漸次崩れながら進行する形態をとっている。最後の五・三・七音の終わり方は初期万葉の歌によく見られる。急迫した歌い口が印象的である。万18番歌は、一説によると内容的にほとんど変わっていないので、万17番歌と同じときに作られた歌が一緒に伝えられたにすぎず、「反歌」というにはふさわしくないという。四句目の「心あらなも」のナモは、未然形について願望を表す助詞ナムの古い形で、心があってくれよ、の意とされる。
 近江遷都に際して三輪山が歌われている理由については、ヤマトの国作りの神として崇められていたからという説から単なる叙景と捉える説までさまざまである。いずれにせよ公の席において歌われていて、初期万葉の原則どおり、宮廷社会全体の総意となっていたと考えられる。あるいはそうあるべきと捉えられていた。万19番歌は、左注の人の指摘にあるとおり、和した歌とは考えることが難しいと思われている。一句目の「綜麻形」のヘソは紡いだ麻糸を巻いた巻子のことで、三輪山伝説と関係して三輪山の異名であるとする説もある。以前はハギの事かともされた「さ野榛」は、今ではハンノキのことと収まっている。また、五句目の「我が背」は天皇のことか、三輪山の祭神のことかと分れている。さらには、万19番歌は一連の歌ではないものとして完全に除外して考える一派もある。万17・18番歌についても、儀礼歌であるとも抒情歌であるとも解釈され、かなり振れが大きい。歌われたのがいつ、どこでなのかについても旅の途中であるとも近江到着後であるとも出立以前であるとも説かれている。なぜ三輪山が歌われているかに関わってくることであるが、議論は錯綜して定説は得られていない(注3)

東アジア情勢と倭国の対応

 万17~19番歌は、歌が歌われた現場がどこであれ、近江への遷都にまつわる歌である。どうして遷都するに至ったかについては国際情勢にかかわる。当時の東アジア圏の中心は世界帝国、唐である。唐の支配原理は、中国と夷狄とを差別して考える中華思想と、夷狄を皇帝の徳によって統合する王化思想を弁証法的にまとめたものである。正州と呼ばれる中国本土を中心にして、その周辺は正州を守る都護府、さらに君臣関係を結ぶ冊封国、貢ぎ物を献上させる朝貢国というように支配地は同心円構造をとる。漢の時代の版図に倣ってモンゴル、チベット、中央アジアへも遠征している。ところが、漢代に楽浪など四郡(注4)を設けていた朝鮮半島が反抗していて支配体制が築けずにいた。半島の、中国からいちばん遠い新羅は、高句麗や百済の攻撃を受けていたから唐に服属する冊封国となって生き残る道を選んだ。唐は新羅と同盟して先に百済を滅ぼすことになる。最終的な戦いが白村江の海戦であった。百済の残党ならびに倭は大敗する。百済の地がいったん唐の領土、かつての楽浪郡のような位置づけと目されるに至っている。
 倭国にはたくさんの使者が各国から来ている。唐と新羅に滅ぼされそうな高句麗からは援軍の要請、新羅からは国交を正常化させて大国唐に対抗しようとする使節、そして最大の使節団は、唐の支配下に入った百済、すなわち唐領百済からのものであった。この、唐領百済を暫定統治する将軍からの使節団が何をしに倭国を訪れたのか、はっきりした記録は残されていない。日本書紀を見ると長期滞在型の派遣が多い。
 最初は敗戦の翌年、天智三年(664)のことである。

 夏五月の戊申の朔にして甲子に、百済の鎮将いくさのきみ劉仁りうじんぐゑん朝散大てうさんだい郭務悰くわくむそう等をまだして、表函ふみはこ献物みつきとをたてまつる。(天智紀三年五月)
 冬十月の乙亥の朔に、郭務僚等をて遣すみことのりたまふ。是の日に、中臣内臣なかとみのうちつまへつきみ沙門ほふし智祥ちじやうつかはして、物を郭務悰に賜ふ。戊寅に、郭務悰等にあへ賜ふ。(天智紀三年十年)
 十二月の甲戌の朔にして乙酉に、郭務悰等罷り帰りぬ。(天智紀三年十二月)

 「百済鎮将」とは百済の占領軍司令官のこと、「朝散大夫」とは唐の官名であり、外務次官のようなものであろうか。「表函」なるものに何が入っていたかが重要である。この一行は大宰府に長く留まり、五月十七日に来て帰ったのは十二月十二日であった。のろし台であるとぶひみづが設けられたのはその歳のことである。

 是歳、対馬島つしま・壱岐島・筑紫国等に、防人さきもりすすみとを置く。又、筑紫に、おほつつみきて水を貯へ、なづけてみづと曰ふ。(天智紀三年是歳)

 水城は大宰府の北西側に長い堀を築いたことを言っている。使節が都へ来た様子はない(注5)。すると、水城は使節団の目の前で造られている。指導を受けて造られたとしか考えられない。中国では隋代に大運河を開整している。その距離は倭国を縦断して余りある。
 十月一日の「勅」は、水城の工事に関係するもので、だいたいできあがったら後はこちらでできます、ありがとうございました、もう帰っていいですよ、という勅であろう。総理大臣の中臣鎌足から褒美も出、送別会も開かれている。郭務悰は親切で、完成を見届けるまで残っていたらしい。この関係は内政干渉的な屈辱外交とは決めつけられない。新羅のように唐との間で冊封関係に入ったわけではない。仮にそうなれば唐側にも史料が残る。唐側の一回目の使節は百済の鎮将劉仁願から出ている。中国との外交関係は、推古朝の隋との交渉以来、朝貢関係にあり、遣唐使によって守られている。今後とも今までどおりの関係を続けるべく、倭は唐領百済と間で密約を結んだのではないか。最初に使節団が奉った「表函」には、軍事、外交、内政面において、手取り足取り指導する内容の親書が入っていたと考えられる。百済を占領する唐にとっての最大の敵は、同盟を結んで戦ってともに戦勝した相手、新羅である。百済の地を治めるのはどちらか、いまだ共通の敵、高句麗があったとしても戦勝と同時に亀裂が入る。そこで唐は倭との間で同盟関係を築きたかった。倭はすぐに呑んで水城建設の現場監督になってもらっている。
 二回目の使節は翌年、唐の本国から来訪し、都まで上るお膳立てが整っている。

 九月の庚午の朔にして壬辰に、唐国、朝散大夫沂州きしうの司馬しばしゃう柱国ちうこく劉徳高りうとくかう等を遣す。〈等と謂ふは、右戎衛郎いうじゆゑいらうしやう上柱国百済くだらのぐん・朝散大夫柱国郭務悰をいふ。すべて二百五十四人。七月二十八日に対馬に至り、九月二十日に筑紫に至る。二十二日に表函ふみひつを進る。〉(天智紀四年九月)
 冬十月の己亥の朔にして己酉に、大きに菟道うぢけみす。(天智紀四年十月)
 十一月の己巳の朔にして辛巳に、劉徳高等にあへ賜ふ。(天智紀四年十一月)
 十二月の戊戌の朔にして辛亥に、物を劉徳高等に賜ふ。是の月に、劉徳高等罷り帰りぬ。(天智紀四年十二月)
 是歳、小錦せうきむ守君もりのきみの大石おほいは等を大唐もろこしに遣すと、云々しかしかいふ。〈等と謂ふは、小山せうせん坂合部さいかひべのむらじ石積いはつみ大乙だいおつしの岐弥きみ士針しのはりをいふ。蓋し唐の使人を送るか。〉(天智紀四年是歳)

 さらに三回目は、天智六年(667)にやってくる。

 十一月の丁巳の朔にして乙丑に、百済の鎮将劉仁願、熊津都督ゆうしんのととくゆう山県令せんのくゑんのれい上柱国司馬しば法聡はふそう等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫つくしの都督府おほみこともちのつかさに送る。己巳に、司馬法聡等罷り帰る。小山せうせんきのむらじ博徳はかとこ大乙だいおつかさの臣諸石おみもろいはを以て、送使おくるつかひとす。(天智紀六年十一月)

 大宰府で実務会談をしてすぐ帰っており、倭国側から外交官が派遣されており、使者の伊吉博徳は、翌七年(668)一月二十三日に「服命」(復命)している。天智十年(671)には、亡命百済官僚の叙位や軍事指導にかかると思われる来訪がある。

 辛亥に、百済の鎮将劉仁願、守真しゆしん等を遣してふみたてまつる。(天智紀十年正月)
 二月の戊辰の朔にして庚寅に、百済、だい用善ようぜん等を遣して調みつき進る。(天智紀十年二月)
 庚辰に、百済、羿真げいしん等を遣して調進る。(天智紀十年六月是月)
 秋七月の丙申の朔にして丙午に、唐人もろこしびと李守真等、百済の使人等、並に罷り帰りぬ。(天智紀十年六月)

 その後の記事は、高句麗の滅亡(668)以降の情勢の変化を受けて局面が変わっている。新羅が唐に対して反目を明確にするのは670年以降である。676年には旧百済領から唐の勢力を駆逐し、半島南部はすべて新羅の支配下となっている。倭への使者は援軍や武器の支援要請へと変っていったが、国内では天智天皇は亡くなって外交対応どころではなくなっている。

 十一月の甲午の朔にして癸卯に、対馬国司、使を筑紫つくしの大宰府おほきみこともちのつかさに遣してまを、さく、「月ちて二日、沙門ほふしだう筑紫君薩つくしのきみさち野馬やまから嶋勝しまのすぐり娑婆さば布師ぬのしのおびといはたり、唐より来りてまをさく、『唐国もろこしの使人郭務悰等六百人、送使宅孫登たくそんとう等一千四百人、総合べて二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比智ひちしまに泊りて、相かたりて曰はく、今吾輩われらが人船、数衆し。忽然たちまちかしこに到らば、恐るらくは彼の防人、驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやく来朝まうけこころひらまをさしむ』とまをす」とまをす。(天智紀十年十一月)
 元年の春三月の壬辰の朔にして己酉に、内小七位うちのすなきななつのくらゐ阿曇あずみのむらじ稲敷いなしきを筑紫に遣して、天皇の喪を郭務悰等に告げしむ。是に郭務悰等、ことごとく喪服あさのころもを著て、たび挙哀みねたてまつる、東に向ひて稽首をがむ。壬子に、郭務悰等、再拝をがみて、書函ふみはこ信物くにつものとを進る。(天武紀元年三月)
 夏五月の辛卯の朔にして壬寅に、甲冑よろひかぶとゆみを以て郭務悰等に賜ふ。是の日に郭務悰等に賜ふ物は、総合てふとぎぬ一千六百七十三むら・布二千八百五十二むら・綿六百六十六はかり。……庚申に、郭務悰等罷り帰りぬ。(天武紀元年五月)

 十一月の総勢二千人、船四十七隻の来航の時、天智天皇は病床にあった。天智天皇の息子、大友皇子がかつて藤原鎌足が就いていた地位、太政大臣であったが、すでに皇太弟の大海人皇子は近江宮を去っていた。翌年両者は壬申の乱に争い、大海人皇子が勝利して天武天皇となる。
 天智天皇の時代に倭は唐に敵対していたわけではない。遣唐使も従来どおり派遣されていた。有能な官僚には亡命百済人も多かった可能性が高く、しかも百済を占領した唐は、当初は略奪を行ったように記録があるものの、抵抗が続くので占領政策を変更したようである。反乱を起こす者には徹底した弾圧を加えつつ、降伏した者には融和政策をとっていった。百済人を官人として登用し、百済の残党を打ち破ったのも百済の降将であった。百済の鎮将劉仁願はもとは唐人であるかもしれないが、百済の代表者と見なされていたのであろう。
 それは案外早い段階からで、倭にさまざまな軍事技術を教えるとともに、亡命百済人を重く用いるように要請してきたものと推測される。天智四年二月是月条に、「百済国の官位の階級を勘校かむがふ。」とあって、どのように融和させるか考えており、そのときすでに百姓四百人余りを近江に植民させている。翌五年の冬には、二千人余りを東国へ植民させている。その記事に、「三歳に至るまでに、並びにおほやけいひを賜へり。」とあって無料で給食させている。至れり尽くせりの優遇は、百済の鎮将劉仁願の指図であったろう(注6)し、それに対して大きな混乱も生じていない。
 近江遷都の理由について、筆者は、百済を占領した唐との交渉に関わることとして捉えている。政治的、経済的理由が背景にあったことは否めないが、積極的な理由を求めきれるものではない。それら現実問題とは異次元の、観念的なレベルで検討しなければならない。筆者は、ヤマトコトバの「楽浪ささなみの」に当たる地が、唐領百済に迎合するという意味で求められたと考えている(注7)。関わりの中心は百済の鎮将劉仁願であった。漢代に中国が朝鮮半島に版図を広げたときに置かれたのは、楽浪郡である。漢書・地理志に、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ。」とある。倭が意識する中国の出張所は「楽浪」であり、それをヤマトコトバにササナミと訓んでいる。そこで、ささなみしか起らない浪の静かなところ、それは湖である琵琶湖にほかならないから、そんな枕詞に冠される「志賀しが」の地が求められたのだろう。上代の人はヤマトコトバでものを考えている。
 唐領百済の軍事的、技術的、文化的な指示、支援に対して、天智朝の政治はそれを観念のレベルへ翻訳して動いていった。近江に住まわせた百済からの渡来人は、兵法や医術をはじめ進んだ技術や文化を持ち、行政の運営方法も知っていて、新しい国作りに欠かせない人材であったことは疑えない。けれども、急進派勢力の意向から近江遷都を遂行したり、天智天皇が政策の優位性を考えて近江遷都を断行したようには見えない。唐領百済からの意向におもねるように決まっていったようである。保守派との間に紛争が起きていないのは、彼らと交わした密約の条件が、敗戦国なら強いられてやむを得ないであろう大きな負担がほとんどなかったからであろう。

近江遷都と夜の酒宴

 近江遷都の記述は次のとおりである。

 是の冬に、京都みやこの鼠、近江あふみのくにに向きて移る。(天智紀五年)
 三月の辛酉の朔にして己卯に、都を近江に遷す。是の時に、天下あめのした百姓おほみたから、都遷すことを願はずして、あざむく者多し。童謡わざうたおほし。日々夜々ひるよる失火みづながれの処多し。(天智紀六年三月)
 八月に、皇太子ひつぎのみこやまとみやこいでます。(天智紀六年八月)
 七年の春正月の丙戌の朔にして戊子に、皇太子ひつぎのみこ即天皇位あまつひつぎしろしめす。〈或本に云はく、六年の歳次ほし丁卯ひのとのうにやどるとしの三月にみくらゐに即きたまふ。〉壬辰に、群臣まへつきみたち内裏おほうちとよのあかりしたまふ。(天智紀七年正月)

 割注に、六年三月即位説が記されているが、本文上、皇統譜は七年二月条に記されている。六年三月に天皇や側近たち一行が先に近江入りして形式的には遷都していたが、群臣たちが従わずになお留まるものがいたため八月に旧都に早く来るようにと催促に出かけ、七年正月に即位式を行って、二月に立后している。
 万17番歌の前にある題詞には、「額田王下近江国時作歌」と書かれてある。したがって歌が歌われた状況は、額田王を含む諸王や群臣、後宮に仕える人たちの一行が大和から近江の新しい都に到着してからのこと、先に近江宮に入っていた天智天皇と一緒になって開かれた宴の席上であったろう。万17番歌の額田王の長歌には口承性が指摘されていて、文字で書いて作ったものではないと考えられている。あたかも近江下向の最中の旅路で歌われたかのように錯覚する人までいるが、「額田王近江国時作歌」とは書いていない。また、「天皇○○近江国時額田王作歌」とも書いていない。天皇の名が見えない以上、旅路で額田王が歌い出したものではない。額田王は天皇に仕える身であった。時に代詠、代作を指摘されるほど、天皇位にある人のために、そのスポークスマンとして歌を歌っている。その歌詠みが天皇もいないところで公的な歌、初期万葉に「雑歌」と分類される歌を歌うことは考えられない。もちろん日々の鍛練は大事であるから一人ごちていることはあったろう。しかし、そういうものは日記に記すような形でなければ残らない。ノートに書きつけるとなると口承性は生まれてこない。額田王は近江宮に到着して天皇の御前に出たときに、旅の途中の様子を歌うように命じられて歌ったものと推定される。当然ながら、特定のある意思、政治的なメッセージを伝えるためにである(注8)
 額田王の長歌の出だしは、三輪山にまつわる歌謡を踏まえている。崇神紀八年十二月条には二つの歌が記されている。初めが諸大夫の歌で、それに天皇が和えた形になっている。

 味酒うまさけ 三輪の殿の あさにも 出でてかな 三輪の殿門を(紀16)
 味酒 三輪の殿の 朝門にも 押しびらかね 三輪の殿門を(紀17)

 歌の意味は、夜通しの酒盛りのあとで、三輪の社殿の朝門が開くときにでも出ていきたいものだ。そうそう、三輪の社殿の朝門のときにでも押し開いていくがいい、というものである。当時の人々にはお馴染みの、定番の酒宴の歌であったに違いない。額田王が「味酒 三輪……」と歌い出したのは、それが夜の宴の席であったことを物語っている。そんな夜の宴席について紀は雄弁に語っている。天智七年正月壬辰(七日)の「宴」である。
 額田王は、政府のスポークスマンだから、人心の掌握安定を図ることを目的として歌を歌う。ただし、一般民(百姓)に対して歌うのではなく、あくまでも宮廷の中で、宮廷の人に対して歌を歌う。群臣たちを精神的に統率するために歌われたのが政治的メッセージである初期万葉の雑歌である。天智七年正月七日の宴は、即位式の後で行われた晩餐会と位置づけられよう。なおも近江遷都に抵抗感を抱いていた群臣がいたかもしれず、不満をなだめる効果も求めたと考えられる。それを、崇神紀に伝えられる 「味酒 三輪の殿の ……」という君臣唱和の歌の形式をもって表現しようとした。
 崇神紀の紀16・17番歌謡は、ただその時の宴席の歌という意味で把握されていたわけではない。紀によると、崇神五年から疫病がはやり、人口が半減したと伝えている。逃亡者や反乱者も絶えなかった。そこで天皇は占いをして何が原因なのかを調べようとした。すると、倭迹やまとと迹日とびもも姫命ひめのみことが神憑りして神の声、「我は是、倭国やまとのくにさかひの内に所居る神、名を大物おほものぬしのかみふ」を聞き、託宣に従って祭ったがなお効果がなかった。さらに天皇および三人の夢のうちに大物主神の子であるおほ田田根子たたねこを以て祭るようにとお告げがあった。大田田根子は大物主神と活玉依媛いくたまよりひめとの間に生まれた子であった。そのとおりお祭りすると崇神七年になって疫病は終息に向かい、穀物も豊かに実った。
 それを受けて翌八年に大神おほみわ、すなわち大物主神に奉る「掌酒さかびと」、醸造者を定めた。三輪の名の由来は神酒みわにあると考えている。今でも大神神社には大きな酒樽がたくさん奉納されている。その年の冬にできあがった酒を天皇に献った。そのときに歌が歌われている(注9)

 此の神酒みきは 我が神酒ならず やまと成す 大物主の みし神酒 幾久いくひさ 幾久(紀15)

 その御神酒で酒宴が開かれて、「味酒 三輪の殿の ……」の歌が唱和されたのであった。危機から脱出して国が再生していくための新しい門出の歌となっている。
 額田王の歌が歌われたときも、白村江の敗戦によって戦死者も多数出たであろうし、九州で陣を構えた朝倉宮でも疫病がはやって斉明天皇まで亡くなった記事があり、人口が減少した状況は似ていたのであろう。さらに近江遷都に対して人心の乱れもあったことは、天智紀六年三月条に記されるとおりである。
 民衆の反対を押し切った遷都において、最も懸念される点は、新たな国作りを目指すのに、「倭成す大物主」、つまり、ヤマトの国作りの神(注10)、三輪山から離れることへの疑問であった。その力に与りたいはずなのに、どうして見えないところへ行くのか。その疑問は自作自演であるかもしれないながら不安を喚んでいて、それに対する説明のために歌が歌われている。

万17・18番歌と国際感覚

 万17・18番歌は三輪山が見えなくなることを惜しんでばかりいる。気持ちとしては群臣とも百姓とも同じであると言っている。言い伝えを信じている同朋である。国の復興のシンボルから離れて新しい国作りはうまくいくのだろうかという不安に共感している。天皇自身、好んで遷都したわけではなく、唐領百済の防衛協力の一環として遷都した。白村江の大敗から目を逸らすことができず、国を刷新していくことが必要で、新しい国作りにチャレンジしていくことが時代の要請であった。宮廷人なら誰しも頭ではわかっていたことであろうが、これまでの常識、伝承への信仰から心のなかに不安がくすぶり続ける。改革は痛みを伴うものである。
 個人的にも不利益と感じた宮廷人も多かったに違いない。なかには天皇はもはや倭の国の人ではないと感じた人もいたかもしれない(注11)。多くの宮廷人は、天皇との間に距離が生まれていることを感じていた。その距離とは、近江の新都と大和の旧都という地理的な距離でもあり、先に新都に引っ越していた天皇と、大和に残っていたその他の宮廷人との間の時間的な距離でもあった。
 当時の宮廷社会は豪族連合の形を変え、天皇を中心とした集権的な体制へと変わっていく途上にあった。ちょうど遠心分離器にかけたように、中心の天皇と周縁の豪族との間に隔たりが生じ始めていた。百済人官僚の出現によってさらに拍車がかかっていく。その乖離状態をもう一度近づけ、国の再興に一致団結して取り組むためには三輪山憧憬の歌が必要とされた。
 歌の歌い手は額田王であり、政権の主張をプロパガンダするものであったろう。すなわち、天皇を代詠する立場に立つ。天智天皇は皇太子時代、白村江の戦いへと赴く船上で大和三山の歌(万13~15)を歌って戦意を高揚させていた(注12)。その際、伝承に聞くアマテラス・スサノヲ・ツクヨミの三神と大和三山の天の香具山・畝傍山・耳成山とを鼎立的に考えてそれらから倭・百済・新羅の三者関係を説いていた。三貴子は分治に当たっては、記紀それぞれの書により若干の違いがあるが、整理するとおおむね次のようになる。

 異同はあるものの、天照大神が日の象徴、月読尊が月の象徴であったことは確かであろう。そして、記や神代紀第六段一書第十一には素戔嗚尊は海原を治めたことになっている。アマテラスが日神、ツクヨミが月神、スサノヲが海神わたつみを表象している。極東情勢は白村江の戦い以降、また、高句麗の滅亡によって情勢が大きく変化する。連携する必要を持たなくなった新羅と唐が反目するに至る。

 遷都によって三輪山から引き離される原因は、対外情勢、朝鮮半島情勢である。ツクヨミ、月神は、「日にならぶ」存在として意識されている。すなわち、ナラぶものが出てきて倭は大切なものが見えなくなっている。「奈良ならの山」が「三輪山」を隠しているのである。スサノヲは海神に当たるが、海神わたつみは「渡る」ものの神だから、それぞれの海にいてその地方の海・雨・雲・水を司る。その海神が司っている「雲」までも「三輪山」を隠そうとしている。
 国作りの神の座します三輪山を、恐れ多くも「日に配ぶ」ほどのはずであるツクヨミ的存在、新羅が「奈良の山」となって手前に立ちはだかっていて見えなくしている。「なら」であるはずの山が隠すなんておかしなことだと訴えている。平城と書いてナラと訓む理由はナラス(平)義に由来する。額田王の歌では、枕詞「あをによし」を伴っている。枕詞の意味は未詳ながら、青い顔料が得られる場所との説がある。ヤマトはアマテラス、日神の国、赤く明るく輝いているはずが、青いものに引けを取っていてやるせない。そのうえに、百済を治める唐の軍に当たる「海神」の生んだ「雲」までも見えなくしかねない。これら額田王の歌は、中大兄の三山歌(万13~15)を踏まえた歌と考えられ、そこでは、「海神の 豊旗雲に」(万15)と形容されていた。雲は、湧いたり動いたり消えたりする不安定なもの、訳のわからない、実態のつかめないものである。それが大きく垂れ込めている。
 新羅ばかりでなく百済(唐領)までも国作りの神である「三輪山」が見えないところへ追いやろうとしているのか、との嘆きが聞えている。国際情勢を準えたもの言いである。なにしろ雲が晴れたからといって、遠い近江の地からでは三輪山は見えようはずがない。万18番歌では奈良の山は歌の文句から消えてしまい、雲のことばかり気にしている。そのうえ雲に対して誂え、揉み手している。

 味酒うまさけ 三輪みわの山 あをによし 奈良ならの山の 山のに いかくるまで 道のくま いもるまでに つばらにも 見つつかむを しばしばも 見放みさけむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや(万17)
(大意)大物主神の座す三輪山よ、新羅のせいで姿が隠れるまで、紆余曲折があって見えなくなるまで、しっかりとヤマトを立て直したいのに、何度もそれを願っていろいろと画策しているのに、唐はヤマトの心情を察することなく、遷都を当然のこととしているが、そうではないだろう。
  反歌
 三輪みわやまを しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや(万18)
(大意)国作りの神の座す三輪山をそのように本当に隠すのか。新羅は仕方ないにしても、同盟を結んだ唐までも遷都させようとしているのか。せめて唐だけでも配慮する心があってくれたらなあ。三輪山を隠し続ける遷都はどうしても必要なことか、いやいやそうではないだろう。

 文法上、最後のヤは反語を表す。隠すべきではないだろう、と言っている。万17番歌は、周縁の宮廷人から中心にいる天皇への問いかけである。前半では、白村江の敗戦などいろいろ多難の時代であり、新羅にはいま、時の力があって倭国を揺るがせているけれど、天皇に対する忠誠の気持ちは変わらないと歌っている。後半では、唐領百済の意向に沿う形の遷都は、まったくもってやるせないものがあると歌っている。
 万18番歌は、同じテーマを天皇から周辺の宮廷人へ向かって歌っている。「しかも隠すか 雲だにも」と畳みかける助詞のモによって、前の長歌にあった家臣の訴えを聞いて同感であることを強調している。遷都が楽浪にゆかりの唐領百済へのおもねりであったことがわかる。「心あらなも」のナモは願望を表す助詞である。ナの一語で示すよりも遠慮気味に、不可能かと思いつつ希望している表現である。この遷都は、外交交渉によるものではなく、忖度であったことを言っている。それでも宮廷内にアピールする力はあったのであろう。崇神天皇時代の味酒の歌は、諸大夫と天皇との唱和の歌であった。この二首はそれに似せた、額田王の一人芝居による君臣唱和の歌である。
 白村江の敗戦と多大な犠牲から新しい国作りが求められた。国作りのためには、言い伝えに従えば、国作りの神である三輪山が必要とされるわけであるが、それが見えない地へ行って大丈夫なのか、いやいや大丈夫なのだ、という歌が政府の公式見解として額田王に歌われている。長歌と反歌の連作は、同じ事柄を立場を変えて歌っているものであろう(注13)。万17番歌では「雲」に「心」はないが、万18番歌では「雲」に「心」があって欲しいと変えている。けれども歌全体の調子は一様である。言い伝えのなかに思考していた人々に新しい国作りプランを訴えるのに、伝承に国作りと言えば三輪山ブランドを外すわけにはいかず、それを抜きにしては語れないからであった(注14)。結果、主体性を欠いた遷都であることを示しており、敗戦を引きずった暗いムードの漂うものになっている。

井戸王歌と三輪山伝説

 今日まで、井戸王の歌は、額田王の歌の反歌と考えられるには十分に至っていない。しかし、題詞には「額田王下近江国時作歌、井戸王即和歌」と書いてある。この題詞は正しい。そう言い切れるのは、題詞に「即」という字が入っているからである(注15)。臨場感あふれる字である。井戸王という人は、額田王が歌ったのにすかさず和えたのである。左注の人が「不和歌」と言っているが、題詞自体に偽りはない。単に同じときに詠まれたというだけでなく、三首セットの歌である。なぜなら、上にみた万17・18番歌だけでは、もやもや感がぬぐえないからである。国作りの神である大物主神を祭っている三輪山を離れてどうして新しい国作りが可能なのか、古代人の思考に訴えるに十分ではない。
 万19番歌の語句に、つとに三輪山との関係が指摘されている。「綜麻形」、「さ野榛(針)」、「衣に着く」といった表現は三輪山伝承にゆかりある表現と見なされている。紡績や染色に関係する言葉が登場するから、衣料関係にたずさわる女性の詠んだ歌と見て確かなようである。「榛」はハンノキのこととされている。古代では、実や樹皮などを煮出し、各種媒染剤を用いてさまざまな色に染めあげたようである。しかし、この議論の問題点は、印象論的には三輪山伝承につながりがありそうでも、具体的につながっているとまでは確かめられていないところである。結局のところ、なぜ三輪山なのかについて踏み込むことができておらず、万17・18番歌との連動性も不明なままである。
 三輪山伝承は次のようなものである。

 此の意富多多泥古おほたたねこと謂ふ人を、神の子と知れる所以ゆゑは、上に云へる活玉依いくたまより毘売びめ、其の容姿端正かほよかりき。是に壮夫をとこ有り。其の形姿威儀かほすがた、時にたぐひ無し。夜半之時よなかに、儵忽たちまち到来つ。かれ、相でて共婚まぐはひして共住める間に、未だ幾時いくだらねば、其の美人をとめ妊身はらみぬ。爾くして、父母其の妊身はらみし事をあやしびて、其のむすめに問ひて曰はく、「おのづかはらめり。きに何由いかにして妊身はらめる」といへば、答へて曰はく、「麗美うるはしき壮夫をとこ有り。其の姓名も知らず。ごと到来て、共住める間に、自然おのづか懐妊はらみぬ」といふ。是を以て其の父母、其の人を知らむとおもひて、其の女にをしへて曰はく、「赤土はに以て床前とこのへに散し、閇蘇へそうみを針に貫きて、其の衣のすそに刺せ」といふ。故、教の如くして旦時あしたに見れば、針けし麻は、戸の鉤穴かぎあなよりき通り出で、ただ遺れる麻は三勾みわのみなり。爾くして、即ち鉤穴より出でしさまを知りて、糸にまにまに尋ね行けば、美和みわやまに至りて神の社に留まりき。故、其の神の子と知りぬ。故、其の麻の三勾遺れるに因りて、其地そこを名づけて美和と謂ふぞ。(崇神記)

 三輪山がミワヤマと言われるに至った地名譚が語られている。三輪山がミワと名付けられた経緯については、もとより不明である。話(話・噺・譚)のレベルにおいてそう言われ、そう知られている。鞠状の「閇蘇へそ」の「うみ」が伸びていって「三勾みわ」残ったという話である。「赤土はに」をしるしになるように散しておいて、績み麻につける工夫が行われている。「鉤穴かぎあな」を通って出て行っている。その輪から逆に手繰って行ったら、三輪山の「神の社」にたどり着いた。大神神社は今日でも三輪山自体をご神体としており、本殿はない。つまり、元のヘソのところがミワ(三勾)、向こう側もミワ(三輪)ということである。両サイドで釣り合いが取れている。
 「閇蘇へそ」は、績んだを鞠のように巻いた状態のものをいう。これがそのまま糸として織物に使われるわけではなく、撚りをつけて糸としていく。手間暇のかかる糸製造の半製品がヘソである。績んだ麻を指に巻きつけていってヘソの形にする。左手親指に十巻きほど真横に巻き、次は斜めに十数回ずつ方向を変えながら巻いていき、形を見ては巻いたものを指の先へずらしながら全体に大きくしていく(注16)

左:ヘソ(岩手県紫波郡紫波町船久保、昭和44年頃、川崎市立日本民家園展示品)、右:胞衣図(刑死者解剖図、1800年、1842年複写、東洋文庫ミュージアムデジタルブック展示品)

 巻き始めは、麻笥をけにまとめ容れておいた績んだ麻を筵などの上に放り出し、端の三(?)つの輪を見つけて親指に巻き、その周りにくるくると巻いていく。ヘソにはミワの要素があらかじめ内在していたということであろう。そして、次に撚りをかけるために麻を引き出すのには、ヘソの内側の糸口(まだ「糸(絲)」ではないが)から引いていく。引いていく時、転がって行かないところが好都合である。和名抄に、「巻子 楊氏漢語抄に云はく、巻子〈閇蘇へそ、今案ふるに本文未だ詳らかならず。但し、閭巷に伝へる所、麻を續[=績]みて円く巻く名なり〉といふ。」とある。三輪山伝説では、ヘソから出て行った紡麻に従って行って三輪山の社にたどり着いている。
 深い観察に基づいてヘソと呼んでいる。動物の臍と同じということである。胞衣えなの内側へ引かれて胎児に至っている。そのわたのようなのようなつながりをへそという。わたのようなものが繰られている。ワタクリによってワ(輪)+タクリ(手繰)をしたという洒落であろう。活玉依毘売の身籠った理由を探る話である。母胎と胎児とは臍の緒を通して栄養が送られている。臍の緒は撚れるようになっている。だからこそ、「閇蘇」が話題にのぼっている。順当で違和感がない。そしてその時、「赤土はに」で着色されている。臍が臍だと知れるとき、それは出産のときであるが、血のような赤い色が選ばれなければ話にならない。
 万19番歌では、ヘソそのものではなく「綜麻へそがた」と言っている。績んだ麻を巻いた「閇蘇」か、動物の臍かを分別するのではなく、その形に注目が行っている。船の櫓臍の場合、出臍になっている。この出臍の形のことを指してヘソガタと言っている(注17)。櫓臍は擬宝珠の如くろくろ成型されたようにできている。だから紡錘形をした三輪山の形のことになり、前の額田王の三輪山の歌に「即和歌」となっている。
 万19番歌に、「狭野さのはり」とある。和名抄に、「榛 唐韻に云はく、榛〈秦の軽音、字は亦、樼に作る。波之波美はしばみ〉は榛栗なりといふ。」、新撰字鏡に、「榛 士巾反。藂生木曰榛、草藂生曰薄。波自波弥はしばみ」とある。これらハシバミは実を食用にしたものである。ヘーゼルナッツはセイヨウハシバミの実である。万葉集中に「榛」はハリと訓まれて別のもの、ハンノキのことである。染色の材料に有用な植物である。ヤマトコトバに漢字を当てたものだから、「榛」をハリと訓むことが起きていてもそれはそれで正しい。「さ野榛」という言い方は類例が他にも見られる(注18)。そしてまた、榛原をハヒバラと訓むように、榛はハヒ、つまり、這うことを連想させるものである。
 樹木の同定を誤っていると考えるのは短絡的である。古代の人は植物学上の分類をしているのではない。有用性によって品定めしている。この場合、染料の材料になる点をもって考えている。榛の実、樹皮、葉を用い、アルミナ媒染では黄茶色に、銅媒染では黒味のある金茶色に、鉄媒染では緑味を帯びた鼠色に染められた。また幹材を用いるとアルカリ媒染では赤茶色、鉄媒染では紫味のある鼠色に染まる。いろいろな色に化ける染料のため重宝だったと思われる。使えるから名が付けられていて、さまざまな色が生まれるから樹種、名称に混乱が生じている。ハンノキかヤシャブシか、オオバヤシャブシかヒメヤシャブシか、マルバハンノキかケヤマハンノキか、それらは染め物にした時に異なる結果が生ずるのであればこだわる必要があるが、同じ結果、媒染剤による多様な結果が得られるのなら、上代人が植物分類学を適用することはない(注19)
 さまざまな色に染めあがるから、一つの漢字にさまざまな名で呼ばれている。ハリノキが訛ってハンノキと言われているのかどうかも定かではない。カメレオンのようにその時々の情勢に合わせて移ろいゆく体制の新羅のことを暗示するのに十分である。問題は色の出具合である。特に、銅媒染を使った色は黄海松きみるちゃいろ、鉄媒染のものは海松みるいろと呼ばれている。海松は古代に食用とされた海藻である。それがなぜミル(ミは甲類)と呼ばれるかも定かでないが、榛で染めた色をミルと称していることは興味深い。三輪山を「見る(ミは甲類)」ことができないと嘆く歌に和して海松色を生み出す榛が思いつかれて歌われている。「見る」ことができなくてかまわないのは、海松色が欲しいのではなくて、アルミナ媒染の赤い色が求められているからである。アマテラスの国なのだから、赤く明るい色が望ましい。
 今日一般に行われている訓には、これらの混乱をあわせ飲むことができるほどには収拾がついていない。

 綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目尓都久和我勢
 綜麻へそがたの 林のさきの さ野榛の きぬに着く成す 目につく我が背

 「始」字はサキ、また、ハシとも訓まれている。「榛」がハンノキであるとすると、それは多く群生する。染色の材料を得るために植林され、また、畔にハザ(稲架)の目的で人工的に植えられたこともあった。湿地や川沿い、谷筋など、水気の多い地を好む樹木である。「はやし」という語が生やすこと、映やすこと、囃すことの義から生まれた言葉である点からすると、植生地の端っこに植えられているのか不明である。植えているなら群生させてかまわない。また、「榛」が「衣に着く」といっても、ハンノキ林に分け行ったからとてその実や葉の色が衣に染まることもない。煮出したうえ、媒染剤を使わないと染め物にならない(注20)
 そして、「始」字をサキと訓む例は、集中では他に見られない。訓みはハツ、ハジメ、ソメの三種類に限られる(注21)
 すべてを三輪山伝説によるところと考えるなら、次のように訓むものと考えられる。

 綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目尓都久和我勢
 綜麻へそがたの はやしのめの さの榛の きぬに着く成す 目につく我が背

 「榛」は、ハリであり、ハシバミであり、ハヒである。三輪山伝説に衣の裾に針を刺していたが、正体は蛇であったから、その衣はとても幅の狭いものであったろうと考えられる。そこに針を刺したのだから、サ(狭)+ノ(布、ノは甲類)+ハリ(針)ということになる(注22)。ハミ、また、クチハミは蛇の仲間、マムシのことをいい、和名抄に「蝮 波美はみ」とある。確かに蛇は、端っこにむための口がついたもので、意味的に針に等しいことになっている。ここに、榛なる植物が、ハリ(ハンノキ)をもハシバミをもハヒ(這)をも表すことが知れる。染料を示唆する点は、「め」に引きずられる形で、さらに含意を持つものと考えられる。
 三輪山を持て囃した最初は、崇神天皇時代、疫病が流行って人がいなくなるかもしれないとの危機的状況に陥った時であった。そこで国作りの神であった大国主神を奉っていた三輪山祭祀を行った。伝説にあるように「閇蘇へそ」の「うみ」に針を通して夜な夜な訪れる神の衣に刺したことからであった。糸口から糸が出て行っていることと、伝承の端緒を開いていること、識別できるように「赤土はに」で着色していることから、「始」字はソメ(ソ・メはともに乙類)と訓むものと考えられる。ソメという語は、染剤にそめることと、染められることで前とは違った新しい状態になること、その二つの意味を同根として持つ言葉である。三輪山を持て囃し始めたのにはそれが映えるように染めていなければならず、映えるように染められていたことが三輪山祭祀の始まり、馴れそめということになる。同語反復的な定義(再定義)が行われている。
 「赤土はに」で染めたら赤黄色になる。和名抄に、「埴 釈名に云はく、土黄にして細密なるを埴〈常職反、和名は波爾はに〉と曰ふといふ。」とある。また、「丹砂 考声切韻に云はく、丹砂〈丹の音は都寒反、〉は朱砂に似て鮮明ならざる者なりといふ。」とある。硫黄と水銀の化合した鉱物、辰砂しんしゃのことである。同じく赤黄色の植物性染料にハニシがある。和名抄に、「黄櫨 文選注に云はく、櫨〈落胡反、波迩之はにし〉は今の黄櫨木なりといふ。」とある。ハニシという言葉は、また、土師のこともいう。「土師はにしのむらじ」(垂仁紀三十二年七月)とある。ハニシはいずれもハジとも言う。色によって言葉が同定されている。この赤黄色は、万19番歌の歌われたとき、井戸王ならびに額田王ほか、群臣はじめ列席者の目に止まるものであったと考えられる。
 天智天皇は近江へ遷って即位している。即位の式典で天皇が着る服は、黄櫨染こうろぜんのほうである。いま言うハゼノキ、黄櫨はにしの色に染めたほうのことである。ハゼノキ(黄櫨)の黄色い芯材を煎じた汁に灰汁を用いたアルミナ媒染で染めた深い温かみのある黄色を下染めとし、それに蘇芳ないし紫草を上掛けして黄赤色にした。ハニシ色の装束を身にまとって即位式に臨み、その後の夜の宴で歌が歌われている。新しい国作りをするのに国作りの神であるとされていた大国主神、別名、大物主神を奉る三輪山から離れていていいのか、いいのだ、との額田王の自問自答的な鼓舞に和する形で、すぐさまそれらの歌に覆いかぶさるように、絶対にいいのだと訴えるものとなっている。なぜなら、三輪山祭祀の理由の根幹であるヘソが、「目」の前に、「我が背」となって現れているからである。黄櫨染御袍をまとっている天皇は、まことにヘソではありませんか、新しい国作りに何の支障がありましょうや、というのである。
 ハニシによく似た色については本稿ではすでに見ている。榛摺はりずりのことをハニスリ、ハジスリとも言っていた。ハニ(赤土)、ハニシ(黄櫨)系統にハリ(榛)がなるかと言えばなる。梅の木と榛の皮を煎じた汁が赤色に染める染料として用いられていた。和漢三才図会に、「波牟乃木はんのき 正字未だ詳らかならず △按ずるに波牟乃木は山中に生ず。高きは二三丈、葉は栗に似てやはらかく、花は亦、栗の花に似て褐色、実は杉の実に似て、其の木肌、心は白色、日にまみえれば則ち赤に変ず。今、そめものや、梅の木の煎汁を用ゐて中に此の木の屑を投じて宿を経て以て赤色に染む。」とある(注23)。京都の愛宕神社の参道で、当地のみづ尾女をめがシキミを売るのに赤い前垂れを着けていたのはそれによるという。この染色方法は古代に発祥していると推測する。媒染剤も灰汁ばかりで済む。榛(ハンノキ)の心材は白木である。新羅を思わせる。日に当たると赤くなるということは、日神、アマテラスの栄光があれば赤く色変化する。だから、新しい国作りをしようというのである。そしてまた、ハゼという語には、魚のハゼ(鯊)もある。背鰭に糸状に伸びた種がいて、イトヒキハゼと呼ばれている。針につけた績み麻が伸びていっている様子を連想させる。漁獲したときに、口をパクパクさせて噛みつく習性があり、テカミ(手噛)との別称も持つ。クチハミ(蛇、蝮)のことと対照させておもしろがっていたものと思われる。
 これらのヤマトコトバの体系のなかで、井戸王の万19番歌は躍動している。
 綜麻の形をした三輪山を持て囃すようになった馴れそめは、綜麻がはっきり映えるようにはにで染めたことによるのだが、その三輪山伝説に幅の狭い布のようなのが針そのものに見えるくちはみ(蛇)が這っていって三輪山へと導いた、それはハシバミとも呼ばれてふさわしいもので、ハンノキのことをハリともハシバミともハヒとも呼ばれて紛らわしいのは三輪山伝説によるようです。それを衣に刺したら外れずにくっついたように赤黄色としてよくわかるものでした。そんな赤黄色の黄櫨はにし染のお召し物を着て目立っている我が天皇よ。なにしろ天皇は中大兄と呼ばれるように、おなかの臍を名に負っていらっしゃって目立っていらっしゃいますから、まさに三輪山は現人神としてここに現れてお出でになっているということですね。
 歌を歌ったのは井戸ゐのへのおほきみである。歌の内容に関わるから出自の不明な人であっても記名されているのであろう。ヰノヘという語で考えられるのは、第一に、井戸近くの仕事を示唆するためと考えられる。「綜麻形」、「さ野榛」、「衣に著く」といった語が散りばめられており、染織関係に携わっていた人物と見受けられる。第二に、井戸の側でのおしゃべり、いわゆる井戸端会議のようなことと関係するのではないか。左注に、「右一首歌、今案不和歌。但旧本載于此次。故以猶載焉。」とあるのは、今となってはよくわからないと表明するものであるが、いかにもわざとらしい注記である。本当にわからないから注記されているのか、それともわからないふりをして注記されているのか、検討を要する。後者の可能性が高いのは、井戸端会議の産物は得てしてちょっとした軽口を含むものだからである。
 井戸の(ヘは乙類)にあるものは何か。井戸の機構にすぐれたものは車井戸である。滑車がついて力がなくても容易に汲み上げることができた。染色にたずさわる作業場で女性が活躍していたとしたら、女手にも水汲みがしやすい工夫として設置されていた可能性がある。その滑車のことは「せみ」と呼ばれた。船具の帆先につく滑車もそう呼ばれている。空中に蝉が止まっている。ヤマトコトバに直せば、ウツセミ(虚蝉、空蝉)である。ウツセミという語はウツシオミ(現し臣)の約と考えられている。天皇のことを神に対して現人神というのは、神という鋳型にうつしとられた像だという考え方である。「蝉」という語は、セ(背)+ミ(身)のことと考えられる。成虫に脱皮するとき、背から身が出て行っていて、まったく鋳型からうつしとられたような形になっている(注24)。「我が背」という呼びかけが正しいのは、「蝉」という語によって証明される。
 黄櫨染こうろぜんのほうは、黄櫨染はにしそめの御袍みうへのきぬと呼ばれたのであろうか。即位式にいつから着用されるようになったか知れないが、記録としては嵯峨天皇の時のこととして明文化している(注25)。筆者は天智天皇が先駆と想定する。天智天皇は斉明天皇崩御の後、「素服あさものみそ」を着て「称制まつりごときこしめ」していた。称制とは、天皇の位に就かないまま政治を司ることである。天智天皇は近江大津宮に遷都後に即位している。「素服」はまた、「ふぢころも」とも呼ばれる。名の理由は不明ながら、蔓が這い伸びるところから生成りの灰色を示すものかもしれない。ハヒ(這)だからハヒ(灰)であって、ハヒ(榛)のことが思い浮かぶ。そんな灰色の器は須恵器のことで、その対義的な色の器は土師器である。古墳時代から奈良時代にかけて、二大焼物の称である。だから、素服から黄櫨染御袍に変わったことをうまく言い当てて歌が歌われている。
 彼は、中大兄と呼ばれていた。その理由は、皇極・斉明天皇が、自らを神功皇后に擬えて、子を応神天皇に当たるものと言い伝えどおりに朝鮮出兵など企図していたからである。ナカノオホエとは、お腹のナカであって、そこにある大いなるエ(ye)といえば、臍以外のなにものでもない(注26)。すなわち、黄櫨染御袍とは胞衣えなのことだと見ている。このようなことをわいわい言い合っていて、後で知れた時、「我が背」たる天皇の怒りの矛先が向かないようにするにはどうするか(注27)。万葉集の編纂者は左注に書いた。「右一首歌、今案不和歌。但旧本載于此次。故以猶載焉。」である。私は知らないが、そう載っているからそのままに載せるというのである。同時代資料としてこれほど価値の高いものはない。
 井戸王は外交交渉自体は知らなかったと思われるが、その構図は心得ている。そして、遷都の名目、新しい国作りの可能なことを歌っている。染織に従事する者までも、国家の一大事にあって即興的に和している。近江宮での夜の宴会は総決起集会で幕を閉じたということである。額田王によって歌い出された一連の歌は、万19番歌の井戸王の歌をもって完結している。不満の解消から一歩進んで大同団結し、翼賛体制を成立させて歌い切られた。これで宮廷社会は再び一体化した。
 実際がどうであったかは別問題である。歌にできることは、宮廷社会の調和を回復するための人心の予祝行為のみである。宮廷社会の基盤自体を揺るがせているのは外国勢力である。当然ながら新羅にも唐領百済にもヤマトコトバの歌が通じるはずはなく、実効的には無力ではあるが、ヤマトコトバ共同体内の知の体系は保たれたということになる。歌は聞いてくれる人を前提とする。内向きのベクトルが働いている。
 万葉集の編者がこの万17~19番までの連作を採録した理由はすでに明らかになっている。宮廷社会の存立基盤を揺るがす思いも掛けない事柄、すなわち、外圧への対応としての遷都を歌った歌だからである。編者が歌を撰んだと思われる時期の天武朝は、近江朝を倒した政権であった。題詞に「近江国時」(注28)とあるように近江京については低い評価であるが、話すことは自由であった。
 当時、朝鮮半島情勢は急展開している。唐の半島戦略の第三ラウンドは対高句麗に対して新羅とともに挟撃するもので、668年に滅亡する。ところが一転して第四ラウンドには、新羅が半島から唐の勢力を追い出しにかかり、676年にほぼ統一して唐は撤退する。これをもって倭にとっての朝鮮半島の緊張は一挙に解消した。一方、倭も672年の壬申の乱を経て、まったく新しい政権が誕生したかのように装っている。外交政策にも使え、実際、渡来人に頼らずとも律令国家の運営ができるという安心感も広がっていったのであろうし、優遇されていた渡来人も急速に同化していく傾向にあったのではないか。すでに本国の百済も高句麗もなくなっており、待遇も悪くないのだから帰ることは考えなくなり、ヤマトの言葉を覚えて馴染んでいったということだろう。

(注)
(注1)拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」参照。
(注2)仁藤1998.、森2003.、市2019.参照。
(注3)本来であれば先行研究を逐一紹介をすべきところであるが、議論が拡散していて要領を得ていないため、検討する際、随時とりあげることとする。
(注4)高久2012.参照。
(注5)国の使節ではないから追い返されたとする説もある。胡口1996.参照。奈良時代の天平年間に書かれた『海外国記』という書物の逸文には、「非是天子使人、百済鎮将私使。……人非公使、不京」とあって、正式の使節ではないから都入りできなかったとする。しかし、遣唐使において唐の国書をことごとく破棄していた時代の文献で内容を信用することはできない。なにしろ、直前に戦いに敗れた相手である。言うことを聞かずにいられると考えるのは無理がある。
(注6)田辺1983.参照。
(注7)拙稿「近江荒都歌について」参照。
(注8)「歌人」の恋を歌っているとの説もあるが、主観的な感想を歌っても仕方がない。口承段階の歌でそれが「相聞」に分類されない理由について不明と言わざるを得ない。共感する人がたくさんいなければ後世に残そうとは企られない。
(注9)記は歌を伴わず、話は簡潔である。

 此の天皇の御世みよに、やみさはに起りて、人民おほみたから尽きなむとす。爾くして、天皇すめらみこと、愁へ歎きて、神牀かむとこいましし大物おほものぬしの大神おほかみいめに顕れてのりたまはく、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古おほたたねこを以て、我がまへを祭らしめば、神の起らず、国も亦安平たひらぎなむ」とのりたまふ。是を以て、駅使はゆまづかひ四方よもあかちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内かふち努村ののむらに其の人を見得て貢進たてまつりき。
 爾くして、天皇の問ひ賜はく、「が子ぞ」ととひたまふに、答へてまをさく、「は大物主大神の、陶津耳すゑつみみのみことむすめ活玉依いくたまより毘売びめを娶りて生みし子、名は櫛御方くしみかたのみことの子、飯肩いひかたみのみことの子、建甕たけみか槌命づちのみことの子、僕は意富多多泥古ぞ」とまをしき。是に天皇、大きに歓びてのりたまはく、「天の下平らぎ、人民おほみたから栄えむ」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以て神主かむぬしと為て、諸山もろやま意富美和之おほみわの大神おほかみの前ををろがみ祭りき。又、伊迦賀色許しこいかがをのみことに仰せて、天の八十やそびらかを作り、天神あまつかみ地祇くにつかみやしろを定め奉りき。又、宇陀うだ墨坂神すみさかのかみに、赤き色の楯・矛を祭り、又、大坂神おほさかのかみに、黒き色の楯・矛を祭り、又、さか之御のみ尾神をのかみかはの瀬神せのかみとに、悉く遺し忘るること無く幣帛みてぐらを奉りき。此に因りて、伇の気、悉くみ、国家あめのした安平らぎき。(崇神記)

(注10)三輪山が国作りの神とされているのは、大国主神とすく名毘古なびこ那神なのかみとの二柱の神が国作りをしていたけれど、少名毘古那神が常世国とこよのくにへ渡ってしまったために大国主神が途方に暮れていたときに、海上を照らして近づく神がいて、言われるがままにそこへ奉ったからである。大国主神は大物主神ともいい、大和の大物主神は大国主神の和魂にきみたまと捉えられている。「美和みわの大物主神」(神武記)ともある。

 是に大国主神、愁へてらく、「吾独りしていかにか能く此の国を作り得む。いづれの神か吾と能く此の国を相作らむ」とのる。是の時に、海をてらして依り来る神有り。其の神の言はく、「能く我が前ををさめば、吾能く共与ともに相作り成さむ。若し然らずは、国成り難けむ」といふ。爾くして、大国主神の曰はく、「然らば、治め奉るかたち奈何いかに」といふ。答えて言はく、「吾をば倭の青垣あをがきひむかしの山のうへにいつき奉れ」といふ。此は、諸山もろやまの上にいます神ぞ。(記上)

(注11)中大兄については、「韓人からひと」であるとも呼ばれている。それが万19番歌の歌意の焦点にもなっている。拙稿「乙巳の変の三者問答について」参照。
(注12)拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
(注13)反歌とは何かについて、長歌の内容を要約、反復、補足したり、角度を変えて歌ったものとする通説は従うに足りる。
(注14)土佐2020.に微妙にずれた見解が示されている。

……この「三輪山歌」は天智の意志に基づいて作られた「公的」な歌であったと考えられる。この歌は、祭祀では解決がつかない部分、すなわち人々の遷都に対する不満や反感を拾い上げ、「惜別」という情緒に変換することで代弁したものだったのではないだろうか。額田王は、大和に愛着を持つがゆえに近江遷都に後ろ向きにならざるを得ない人々の気持ちを、三輪山と別れたくないという歌によって代弁してみせたのである。そしてそれは結果的に遷都に対する不満や反感を緩和するという機能を担ったのであろう。そうした「情」へと働きかける機能こそ、祭祀と呪歌が持ちえなかった抒情歌特有の機能だったのである。この歌は一見すると遷都の意志に逆行するようであり、「歌と叡慮と相違也」(荷田春満『僻案抄』)と評されたりもするが、右に述べたように、実は遷都を円滑に進めるための手段だったのであり、祭祀の足らざる点を補完するものでもあったのである。当該歌は祭祀歌ではないにもかかわらず、むしろ祭祀歌ではないがゆえに、祭祀と組み合わされることで政治的役割を果たした。当該歌の表現が祭祀から逸脱するものでありながらもなお「三輪山」を主題化するのは、三輪山がこのとき国家的儀礼の「場」であったからであり、この歌が国家的意志を担った歌であったからであろう。歌の公的性格が、公的な「場」の主題化を要請したと見ることができる。(289頁)

(注15)「即和」については、影山2017.参照。
(注16)文化庁文化財保護部1975.26~28頁のシナベソの作り方参照。績んだシナの先端を見つけるのはわけがなく、シナオミの最初に小さな輪が作られているところが目につくからとしている。三輪山伝説の「三勾」も、そんなヘソカキの実働経験に裏打ちされて人々の記憶に留まるところとなったものと考えられる。
(注17)ヘソガタを、ヘソという地名、今日の栗東市へそ、カタは細長い糸筋のこと、アガタ(県)の意、その方面のカタ(方)の意などといった説もある。績んだ麻を巻いたヘソも安定性を保つために出臍形に作ることが多い。
(注18)「真野まのの榛原」(万3801)とあり、海岸段丘上に生えていることをが、野の榛は特別に目立つことを表していると考えられる。
(注19)ハシバミが染料になるのか、筆者は知らない。
(注20)通例は「」るとある。

 いにしへに ありけむ人の 求めつつ きぬりけむ 真野まの榛原はりはら(万1166)
 白菅しらすげの 真野の榛原 心ゆも 思はぬ吾れし ころもに摺りつ(万1354)
 蓁揩はりすり御衣おほみそよそひ(天武紀朱鳥元年正月)
 はりすり(養老令・衣服令・服色)
 榛摺の帛の袍十三領(延喜式・縫殿寮式・鎮魂斎服)

 これらをもって、ハンノキは摺れただけで着色すると考えるのは誤りである。山崎1981.に、「榛摺はりずり 版木を用いてはんのきの葉または果で模様をすった衣。はにすり、はじすりともいう。」(208頁)とある。また、衣服令の順序から推すと、その色については、庶民の服の色として黄茶色ではないかとしている(同頁)。灰汁を使ったアルミナ媒染で出る色である。
(注21)後続の助詞、助動詞の省略を含めて、ハツ(万420・1095・1560・1584・1593・1614・1651・1939・2216・2273・2276・3886・4171・4180・4189・4249・4252・4493)、ハジメ(万52・1530・3329・4160・4284・4516)、ソメ(万612・642・750・963・1332・1495・1869・2023・2178・2179・2194・2195・2211・2430・2488・2542・2650・2680・2899・3130)である。「始水逝」(万4217)の訓は定まらない。強引なことに、契沖・萬葉代匠記は「逝」は「迩」の誤写としてミヅハナニと訓み、万19番歌の「始」字をサキと訓んでいる。
(注22)「狭野榛」を「狭布針」とする解釈は、出所として記紀の三輪山伝説によっていると見なければ「和歌」たりえない。出雲風土記の国引き伝説の「狭布さの稚国わかくに」や、清寧記に記される「針間国はりまのくに」が出雲国と大和国との縫い合わせによると見て取れること、顕宗紀の室寿ぎの「出雲は 新墾にひはり」、「とこたち」といった言葉に国作り伝承をにおわせるが、すでに国作り伝説のなかに結晶化されているものである。
(注23)山崎1989.によれば、室町時代の雑書集に、「唐茶染一伝〈北室伝〉 布一端ニ梅ヲコマカニワリテ水四升ヲ三升二煎テ 其汁ニテ百文目ホト入テ二升煎テ一返引 又スアイニハリノ木ノ皮ヲ少センシテ 但一アワニタスナリ 其中ヘツクルカ子〔鉄〕皿半分ホト入レテ一返引 其上カサ子テ山桃ノ汁二返引 其上椿ノアク一返引 又水ニテフリ上如此トモ色ウスクハ ススク水ニ石灰茶二服ホト入へシ」とあるという。
(注24)拙稿「一言主大神について」参照。
(注25)日本紀略・弘仁十一年二月一日の「詔曰云々。」条に記されている。
(注26)別訓に、ナカノオヒネというものがある。臍の捻り具合を示している。正当な別訓、別称である。
(注27)阿蘇2006.に、「いまだ皇太子の地位にあるとはいえ、天皇に等しい立場と権威をもって君臨し、近江遷都を定めた中大兄皇子に対し、「さ野榛の衣に著くなす目につくわが背」という表現はふさわしいとは思えない。」(99頁)とある。
(注28)「くだる」という言い方は、都から離れることを指す。奈良盆地の倭京を高く評価していることになるが、それを招いたのは白村江敗戦後の唐との関係からである。額田王の歌のなかで「雲」と言っていたものによる。「雲」が垂れこめて泣きの涙雨が降り「下る」ということであろう。

(引用・参考文献)
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加藤良平 2021.9.7初出2025.1.26訂正

万葉集の「泳(くくり)の宮」の歌(万3242)について─「行靡闕矣」の訓みとともに─

 万葉集巻13の3242番歌は、定訓を得るに至っていない。

 百岐年三野之國之高北之八十一隣之宮尓日向尓行靡闕矣有登聞而吾通道之奥十山三野之山靡得人雖跡如此依等人雖衝無意山之奥礒山三野之山
  右一首
 ももきね 美濃の国の 高北の くくりのみやに 日向ひに 行靡闕矣 ありと聞きて 吾が行く道の おきやま 美濃の山 靡けと 人は踏めども かく寄れと 人はけども 心なき山の 奥十山 美濃の山(万3242)
  右は一首

 訓が定まらないのは「行靡闕矣」であるが、訓み方の問題だから前後を含めてあやしいと考えなければならない。それでも、歌意についてはおおよそのことが了解されている。「八十一」は掛け算の九九の義から「八十一隣之宮」は景行紀に出てくる「泳宮くくりのみや」である。そこを訪れるべく出かけては行ったものの、険しい「奥十山」がさえぎって到達することができなかった、そのことを嘆く歌であるとされている。
 先行研究では、「行靡闕矣」のなかでも「闕」字をどう捉えたらよいのかに難渋している。万葉集中には、「闕」を「欠」の意に使う例が見られる。

 世間よのなかは 空しきものと あらむとそ この照る月は 満ちけしける〔満闕為家流〕(万442)
 白髪生ふる 事は思はず 変若をちみづは かにもかくにも〔鹿煮藻闕二毛〕 求めて行かむ(万628)
 三野連〈名をもらせり〔名闕〕〉 もろこしに入りし時に、春日蔵首老の作る歌(万62題詞)

 「闕名」は、紀では定式の書き方である。
 それに従い、「なびかくを」といった訓みが行われ、契沖・万葉代匠記(精撰本)に、「アリク姿ノタヲヤカナルヲ以テ美人ヲ呼ナリ」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979064/317)として雄略紀の童女をみなきみ女子をみなごの姿を例にみている。この訓の難点は、にわかには前後と意が通らないところである(注1)
 また、「闕」には、宮闕、城闕、天闕などの意がある。荷田信名・万葉集童蒙抄に、「闕の字ハ殿闕楼閣なと云て、みやとよむ字なれハ、まふつるみやとか、仕るみやとかよむへき也。」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001741/viewer/1679、漢字の旧字体は改め、句読点を付した)と指摘されている。そこで「行きなむ宮を」、また、「宮闕おほみや」(斉明紀元年十月)という例もあって、「い行き靡かふ 大宮を」と二句に訓む試みも行われている(注2)。この場合は宮の存在を聞いてそれを見に行こうとしているという意味と考えている。
 しかし、この解釈は、「日向尓」に関して捉え方が不確かに思われる。「泳宮くくりのみやに 日向ひに 行靡闕矣 ありと聞きて」と、「~に~に」と続いている点の解釈に難がある。日に向って大宮が建っているとするのは、「泳宮」の「に」が、例えば、平城京のなかに平城宮が東向きに建っているということと聞える。その可能性はないわけではない。「泳宮」を「八十一隣之宮」と表記しているから、そこには碁(将棋)盤目状に条坊があって、その中央部か西端部に東向きの宮殿が構築されているという考えである。ただし、東面する宮殿建築というものがあったのか、寡聞にしてわからない(注3)
 「日向尓」については、「ひむかしに」と訓む説もある。賀茂真淵・萬葉考三に、「日向ひむがし 〈東になり。〉」(大阪府立図書館・おおさかeコレクションhttp://e-library2.gprime.jp/lib_pref_osaka/da/detail?tilcod=0000000005-00141646(12/49))とある(注4)。その場合も、「闕」を大宮のことであるとするなら、今度は西向きに建てられた宮殿建築ということになり、様式として認められるものとは言い難いのであるが、歌の作者が奈良の都側から美濃を歌っているとするのなら正対することにはなる。
 「ひむかしに」と訓んだ場合、設定としては、「闕」を大宮ととるのではなく門のことと考えたほうが自然である。説文に、「闕 門観なり、門に从ひ欮声」、釈名・釈宮室に、「闕 門の両旁に在り、中央闕然として道とるなり」とある。上部ないし両サイドに物見櫓をそなえた門のことである。熟語として宮闕、城闕、天闕などと書いてあるのではなく、一字で記されている。ポピュラーな受け取り方をするなら、「かど」のことと捉えてかなっている(注5)
 「泳宮」の「闕」は宮門のことである。「~に~に」と続く点についてもうまく説明できる。「泳宮に ひむかしに 行きなびかどを ありと聞きて」と訓むのである。宮には東に門があって、それが「行き靡く」ようなゲートだと聞きつけて見に行こうとしている。さすがは宮殿の門だけのことはある。そんなおもしろい門があるのなら実地で見てみたいという話になっている。
 「行き靡く門」とは都の東門である。北は玄武、南は朱雀、西は白虎、東は青龍である。五行説に基づく四神で東は青龍が当たり、それが「行き靡く」者として想念されたのであろう。景行紀に登場していたかなり昔の宮、遠く美濃国へ行幸した際の離宮のことに、外来思想によるそのような門が実在したとは思われない。しかし、万葉時代に、「泳宮」を「八十一隣之宮」と表記した。掛け算の九九が知られたからである。掛け算の九九は外来思想である。第一に、算数の話として、そして、第二に、忘れられがちであるが、クク(九九)と言っているのは音読み、すなわち、外来語だからである。ククリノミヤのククを「九九」だと思った時、その時が外来思想の導入時、発端なのである。この歌が歌われた時、「九九」を想定して歌が歌われ、同時に、五行思想も想定して歌が歌われた。

 大宝元年春正月乙亥の朔、天皇、大極殿におはしましてでうを受けたまふ。其の、正門にけいはたつ。左はじつしやうせいりようしゆじやくの幡、右はげつしやう玄武ぐゑんぶはくの幡なり。ばん使者つかひ、左右に陳列す。文物の儀、是にそなはれり。(続日本紀・文武天皇・大宝元年正月)(注6)

 ヤマトコトバでククリは動詞ククルの連用形である。古典基礎語辞典の「くく・る【潜る】」の 「解説」に、「クク(漏く、もれでる。隙間をくぐる意)と同根。……原義は、詰まっているところの狭い隙間を通り抜けていくこと。特に、水・涙など液体が、狭い空間を漏れたり流れたりするときに使う。また、液体以外のものが、狭い空間を通り抜けるときや、水や土の中にもぐったり、そこを通行する意味でも用いる。なお、水中にもぐる場合には、ククル(潜る)よりも、ミヅククル(水潜る)の形で使うことのほうが多い。」(428~429頁)とし、「語釈」として、「①水などが漏れ流れる。……②狭い隙間を、身をかがめるようにして通る。……③水や土の中にもぐる。また、その中を通る。」(429頁、この項、我妻多賀子)をあげている。名義抄では、「潜」「泳」「湝」にクヽルとみえ、また、「櫳」字にクヾルとみえる。櫳は檻 cage の意味である。

跳ね上げ門扉(上げ簀戸門、冷泉為恭模・春日権現験記絵模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0049960をトリミング)

 ククリノミヤに門があるとすれば、人々は門をくぐって入城するのが言葉の上で望ましい。その構造は上に梁が渡されていて、高いところから監視できるように作られた「闕」であると記すことが適切である。ククリノミヤと呼ぶのにふさわしく、そしてまた、「櫳」字から考えられるように、至極尤もなことに門の装飾に空を泳ぐように行き靡く青龍が付けられている。龍はヤマトコトバにタツである。立つのであり、建つのであり、断つのである。門は建造物として建っているのであり、龍は行き靡いて立ち上がるのであり、ゲートが閉じられれば行き来は断たれるのである。門であれば扉はふつう地面とは垂直に軸を置いて開閉する開き戸であるが、「泳宮くくりのみや」なのだから水面を横になって泳いでいて、水平に軸を置いて伏したり起きたりするしとみやばったん床机様になるはずで、それを具現化したものが宮の東門、青龍門だと言っている。門扉は揚城戸(揚木戸、挙城戸、上げ木戸)となって檻の機能を果たすことが想定されたと考えられる。
 日本書紀に所載の「泳宮」の伝承(注7)では、天皇が行幸してその地に美人がいると聞き、宮で鯉を泳がせて楽しんでいる。おもしろそうだと見に来た弟媛を留め置いてしまうというものである。すなわち、弟媛は、餌の鯉に釣られて罠の檻にはまって泳宮に監禁されたのだった。籠の鳥に捕まえられる仕掛けは、中に入ると揚げ簀戸が下りて出られなくなるものであった。伝承の設定を把握したうえで「かど」のことが歌われている。
 カド(門)という語はカナトという語を原形とするとされている。

 大前おほまへ 前宿まへすくが かなとかげ かく寄り来ね 雨立ちめむ(記80)

 カナトは金属製の門ではなく、「堅固な門の意と見るのが穏当」(山口1985.235頁)とされている。鎖すときの堅牢さを表す語ということである。それは、「櫳」字が金偏でない点からも見て取れよう。春日権現験記絵のように簀に作られ透けた状態であってさえ、一度締められたら出られないようにできている。

 かど立てて 戸もしたるを いづゆか 妹が入り来て いめに見えつる(万3117)
 かど立てて 戸はしたれど 盗人ぬすびとの 穿れる穴より 入りて見えけむ(万3118)

 門は戸を閉めるものであり、そのロック機能のいかにも優れていることを「闕」字は表している。門に欮が加えられている。説文に、「瘚 屰气なり、疒に从ひ屰に从ひ欠に从ふ」とある。せきこむ意であると察しがつく。万民にわかるように設計され、言葉が作られている。また、欮は厥に通じ、掘ること、穿つことをも表す。万3118番歌の発想は漢字の字義に対応したものになっている。これが漢土との思考の類似を表すものなのか、たまたまなのか、不明である(注8)
 歌の作者はそこへ行こうとしてみるのだけれど、行く手を阻むものがある。「おきやま」である。「泳宮」へ行こうとしてなら泳ぐように進むということになるが、「おき」へまで泳いでは行けない。沿岸流に流されてしまう。九九をしていても「」の位になると途端にできなくなる。九九によって得られた外来算術は、十進法で二桁になると役に立たず、ヤマトコトバに戻ってしまう。
 戻ってしまうとは返って来てしまうことで、見ようとしても見ることはできないから、人麻呂調に山に向って靡けと言い放っている。石見相聞歌のパロディにもなっている。

 …… この道の 八十やそくまごとに よろづたび かへり見すれど いや遠に 里はさかりぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎へて 偲ふらむ 妹がかど見む 靡けこの山(万131)

 「泳宮」を導く語に、「ももきね 美濃の国の 高北の」とある。「ももきね」は「美濃(の国)」の枕詞かと思われる。「高北」という美濃国のなかの小地名については未詳であるが、「高」は高低を、「北」は東西南北を意識させる。「闕」(=門)が起伏と方角とに関係することを示唆するために取り入れられた言い回しと考えられる。
 結局のところ、万葉集巻十三の3242番歌は、外来文化と接触して、古くから伝承されている「泳宮くくりのみや」について、その名について換骨奪胎して考え直してみると、以上見てきたように受け取ることができると戯れている歌なのであった(注9)
 万葉集と漢文学との関係を、表記された用字から漢籍に出典を求めることが研究されて久しい。しかし、それらのなかには、万葉集の歌が声に出して歌われ、その声を聞いて享受されたものという観点、すなわち、人々のヤマトコトバの音声識語(識字ではない)についての意識が乏しい。漢字はヤマトコトバの書記のために方便として用いられたにすぎない。万葉集が万葉仮名で仮名書きされたり、ごくまれに「双六すぐろく」といった漢語を使う以外、ヤマトコトバばかりを使って歌われていることからして当然のことである。この歌に外来の知識による九九や青龍の考えが持ち込まれていても、ヤマトコトバを解釈し直して戯れるための方便のようなものであることからも再認識される。万葉歌をものにしていた人たちは、すべからくヤマトコトバ人なのであった(注10)

(注)
(注1)引いている雄略紀の例では、歩き始めた幼児の容儀について述べている。当該歌に、美しい女性の姿を「ありと聞きて 吾が行く」という展開があるとする先入観を抱く向きがある。松田1957.には、「闕」を闕文の意と考えて、「わや」を補う試案が提出されている。また、「行きかくるなく」と訓む説もある。
(注2)「い行き靡かふ大宮を」と訓む説は、中西1981.、阿蘇2011.、倉住2015.などに見える。「闕」を関の意と取って、「行くなき関を」と訓む説もある。
(注3)垣見2016.は、三音句を差し挟む形と捉え、「…… 日向ひに なびく みやを ありと聞きて 吾が行く 道の ……」と訓み、「歌の内容は、ある〈場所〉に名高い〈対象〉があると聞いて、それに惹かれて出かけて行くことを歌う形式であり、〈美濃の国の泳の宮〉に名高い〈みや〉があると聞いて出かけて行くけれども、我が通う道には、美濃の山が立ちはだかって通うのが困難であることを嘆く。」(12頁)ものと解している。「泳宮に」「みや」があると聞いてそれを見に行くというのでは、重要文化財か鰹木を載せた棟が珍しいとかいったことになるが、その場合は後者を「殿舎との」、「大殿おほとの」、「高殿たかどの」などと言い換えてわかりやすくするだろう。同じミヤという語を使い、流れ消えていく声で歌っているとは考えにくい。
(注4)万葉集中に「向」字はムク、ムキ、ムカフと訓まれることが多く、「日向」という字面で「ひむかし」と訓んだ例は見られない。とはいえ、「朝月日向山あさづきのひむかのやまに」(万1294)、「朝月日向黄楊櫛あさづきのひむかつげぐし」(万2500)などとある。方角に関しての例としては、「向南山きたやまに」(万161)という戯書が知られる。「朝月の」は「日向」を導いていると考えられ、万1294番歌には「朝月日向山あさづくひむかひのやまに」と訓む説もあるが、「向」は対向の意と捉えるのが穏当だろう。「朝月」は西の空に沈みかかって反対の東の空に日が出てきて対向している。そのことは万161番歌の「向南山」の戯書にも当てはまる。
 当該万3242番歌の「八十一隣之宮尓日向尓行靡闕矣」では、「八十一」をククと訓ませる戯書がすでに行われている。泳宮に「日」が対向してと考えるには何かしら「朝月」のような性質を「泳宮」が持っていなければならないが、なかなか考えにくい。「朝月日向山あさづきのひむかのやまに」(万1294)の例で考えられる「日向山」は方角的には東に位置すると考えられる。
 紀には次のような例がある。

 時にひむかしのかたみそこなはして左右もとこひとかたりて曰はく、「是の国はただに日出づる方に向けり」とのたまふ。故、其の国を号けてむかと曰ふ。(時東望之謂左右曰、是国也直向於日出方。故号其国曰日向也。)(景行紀十七年三月)
 今、やつかれは是れ日神ひのかみ子孫うみのこにして、日に向ひてあたつは、此れ天道あめのみちさかれり。(今我是日神子孫而向日征虜、此逆天道也。)(神武前紀戊午年四月)

 これらの例で、「日」は朝日のことを言っている。神武紀では、「ひむかしのかた胆駒山いこまのやまえて、中洲なかつくにに入らむとおもほす。」として臨んでいる。朝日があるのは東である。そこから「日に向ふ」という表現が生まれている。東西の方角を念頭においている。
(注5)日本書紀の「闕」一字の例は知恵がまさっている。

 遂に海西わたのにし諸国くにぐに官家みやけをして、長く天皇のみかどつかふること得ざらしめむ。(欽明紀五年三月)
 蝦夷・隼人、ともがら内属まゐきしたがひ、みかどまゐでて朝献ものたてまつる。(斉明紀元年是歳)
 秋七月の辛巳の朔にして甲申に、蝦夷二百余、みかどに詣でて朝献る。(斉明紀四年七月)
 若し国家あめのしたかがあらしめ百姓おほみたからゆたかにするみち有らば、みかどに詣でてみづかまをせ。(天武紀九年十一月)

 必ずミカドと訓んでいる。将軍や大名を殿とのと呼ぶように建物名で呼んでいる。ミカドは「御門」の意を出発点とした語である。皇居の門、宮門のことから、皇居のこと、皇居に住む天皇のこと、さらに皇室、天皇家のこと、朝廷、宮廷のことへと展開している。すなわち、「闕」とは門のなかでも宮殿に付随する御門のことだと言っている。当時、物見櫓を備えた門は、宮殿以外には一時期の蘇我蝦夷・入鹿の館ぐらいしか見出すことはできない。
(注6)大宝元年は西暦701年である。高松塚古墳やキトラ古墳といった終末期古墳の壁画に四神が描かれている。7世紀末から8世紀初頭に築造されたとされている。
(注7)景行紀の「泳宮」の件は次のとおりである。

 四年の春二月の甲寅の朔にして甲子に、天皇、美濃にいでます。左右もとこひとまをしてまをさく、「の国に佳人かほよきおみなはべり。弟媛おとひめまをす。容姿かほ端正きらぎらし。坂入彦皇さかいりびこのみむすめなり」とまをす。天皇、得てみめとせむとおもほし、弟媛が家に幸す。 弟媛、乗輿すめらみこと車駕みゆきすと聞き、則ち竹林たかはらに隠る。是に天皇、弟媛を至らしめむとはかりて、泳宮くくりのみやします。〈泳宮、此には区玖利能弥揶くくりのみやと云ふ。〉鯉魚こひを池にはなちて、朝夕あさよひ臨視みそなはして戯遊あそびたまふ。時に弟媛、其の鯉魚の遊ぶを見むと欲して、ひそかまうでて池をみそなはす。天皇、則ち留めてす。ここに弟媛、以為おもひみるに、夫婦をふとめの道は、古も今もかよへるのりなり。然るをあれにして不便もやもやもあらず。則ち天皇にこひまをして曰さく、「やつこひととなり交接とつぎの道をほりせず。今し皇命おほみことかしこきにへずして、暫く帷幕おほとのの中にされたり。然るをこころよろこびざるに、亦、形姿かほ穢陋かたなし。久しく掖庭うちつみやつかへまつるにへじ。ただ妾がなねはべり。名を八坂入媛やさかのいりびめと曰す。容姿かほ麗美し。こころざし亦、貞潔いさぎよし。後宮きさきのみやめしいれたまへ」とまをす。天皇ゆるしたまふ。仍りて八坂入媛をして妃としたまふ。七のひこみこと六のひめみこを生めり。(景行紀四年二月)

(注8)関(堰)の門戸が閉ざされていればほかにバイパスとなる隙間を作ってククルことは、水であれ人や動物であれ試みるものである。漢語の通用が字体や音によるだけなのか確かめられないので不明とした。
(注9)倉住2015.は「景行紀伝承を背景とした歌である」(66頁)とし、「美濃の国で「佳人」として評判の高かった弟媛のいた「泳の宮」への憧れと、景行天皇の仮宮であった「泳の宮」への讃美の二つの意味があるに違いない。」(65頁)と述べているが、景行紀の伝承をそのまま基として作られた歌ではない。曽倉2005.に、泳宮は歌の製作・享受時に現存しておらず、伝承についても記されておらず、「この歌は全体として虚構の上に立っていると考えなくてはならないであろう。」(95頁)としている。
(注10)学問のグローバル化において、日本は諸外国と比べて被引用論文数の少ないことが指摘されている。英語力の不足が原因とされている。発展途上国の多くが高等教育において母国語の教科書を持たず、多くの学科で英語教科書を使っていることもその差となっているという。逆言すれば、日本語は熟成されているのである。それは、日本語の構造的な性格によるものかと思われる。日本語はヤマトコトバの段階から、訓読みが行われるとともに、訓読を支えるためにいわゆる和訓なる言葉をヤマトコトバのうちへ編み出していた。西洋の見知らぬ観念を見出した近代でも、新たな漢語を訳語として作成したし、今日ではカタカナ語をもって対処し切っている。そんな日本語のからくりの鍵は、はやくも万葉集に見て取ることができるのである。

(引用・参考文献)
阿蘇2011. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 七─巻十三・巻十四─』笠間書院、2011年。
垣見2016. 垣見修司「万葉集巻十三三二四二歌難訓考─行靡闕矣吾通道之─」『同志社国文学』第84号、2016年3月。同志社大学学術リポジトリ http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015429(『万葉集巻十三の長歌文芸』和泉書院、2021年。)
倉住2015. 倉住薫「「泳の宮」の伝承歌─万葉集巻十三と記紀の世界─」古橋信孝・居駒永幸編『古代歌謡とはなにか─読むための方法論─』笠間書院、2015年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
曽倉2005. 曽倉岑『萬葉集全注 巻第十三』有斐閣、平成17年。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
松田1957. 松田好夫「萬葉集「行靡闕矣」考─巻十三・三二四二の本文復原─」『萬葉』第22号、昭和32年1月。萬葉学会ホームページ http://manyoug.jp/memoir/1957(『万葉研究の新見と実証』桜楓社、1968年。)
山口1985. 山口佳紀『古代日本語文法の成立の研究』有精堂出版、昭和60年。

加藤良平 2021.10.1初出

「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」(持統天皇作、万28番歌)考

 持統天皇の御製歌、万28番歌は次のように訓まれている(注1)

   藤原宮御宇天皇代〈高天原広野姫天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇〉
  天皇御製歌
 春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山
 春過ぎて 夏きたるらし 白栲しろたへの ころもしたり あま香具かぐやま(万28)

 持統天皇の御製である。題詞には「天皇御製歌」とだけ書いてある。この歌の解釈は二つの説に大別される(注2)。一つは衣替えの際の洗濯物を歌ったというものである。もう一つは、その洗濯物が民俗の祭礼用の装束と関係があるとするものである(注3)。わずかに字句を変えて百人一首に採られている。その時には本当に洗濯物の歌であると解釈されたのだろう。しかし、万葉集に当初収録された時点で、単なる洗濯物の歌であったとはなかなか考えにくい(注4)。洗濯物を見て歌を歌うという風習が、よりによって天皇によって景物として歌われているとは考えられない(注5)
 この歌の前後を見渡すと、天皇の所在しているところ、すなわち、「宮」に当たるところについての歌が並んでいる。この歌にも、題詞の前に標目が掲げられ、「藤原宮」と明記されている。一連の歌は、行幸先の離宮を含めた王宮に関係する重要な内容の歌が歌われているようである(注6)

  天皇の御製おほみうた
 み吉野の みみの嶺に 時無くそ 雪はりける 間無くそ 雨はりける 其の雪の 時無きがごと 其の雨の 間無きが如 くまも落ちず 思ひつつぞし 其の山道を(万25)
  或る本の歌
 み吉野の 耳我の山に 時じくそ 雪はると言ふ 間無くそ 雨はると言ふ 其の雪の 時じきが如 其の雨の 間無きが如 隈もちず 思ひつつぞ来し 其の山道を(万26)
   右は句々相かはれり。因りてここに重ねて載す。
  天皇の吉野宮にいでましし時の御製歌
 き人の 良しとよく見て しと言ひし よしく見よ 良き人よく見(万27)(注7)
   藤原宮御宇天皇代ふぢはらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ高天原たかまのはら広野姫ひろのひめの天皇すめらみこと元年丁亥、十一年、みくらゐかるの太子ひつぎのみことに譲りたまひ、尊号を太上天皇おほきすめらみことと曰ふ。〉
  天皇の御製歌
 春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山(万28)
  近江の荒れたる都を過ぎる時、柿本朝臣人麿の作れる歌
 玉たすき 畝傍の山の 橿原の 日知ひじりの御世ゆ〈或に云ふ、宮ゆ〉 れましし 神のことごと つがの木の いや継嗣つぎつぎに 天の下 知らしめししを〈或に云ふ、めしける〉 そらにみつ 大和を置きて あをによし 平山ならやまを超え〈或に云ふ、そらみつ 大和を置き あをによし 平山越えて〉 いかさまに おぼほしめせか〈或に云ふ、念ほしけめか〉 天離あまさかる ひなにはあれど 石走いはばしる 淡海あふみの国の 楽浪ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇すめろきの 神のみことの 大宮は 此間ここと聞けども 大殿は 此間と云へども 春草の 茂くひたる 霞立つ はるれる〈或に云ふ、霞立つ 春日か霧れる 夏草か 繁く成りぬる〉 ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも〈或に云ふ、見ればさぶしも〉(万29)
 楽浪の 思賀しが辛崎からさき 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ(万30)
 楽浪の 志我しがの〈一に云ふ、比良ひらの〉大わだ 淀むとも 昔の人に 亦も逢はめやも〈一に云ふ、会はむと思へや〉(万31)
  高市古人の近江の旧堵を感傷いたみて作れる歌〈或る書に云ふ、高市連黒人といへり〉
 いにしへの 人に我あれや 楽浪の ふるみやこを 見れば悲しき(万32)
 楽浪の 国つみ神の うらさびて 荒れたる京 見れば悲しも(万33)
  紀伊きのくにに幸しし時に、川島皇子の御作つくりませる歌〈或に云ふ、山上臣憶良の作れる〉
 白浪の 浜松がの 手向たむけ草 いくまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年は経にけむ〉(万34)
  日本紀に曰はく、朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊国に幸す、といへり。

 上に記した歌は、万23・24番歌の「麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時、人、哀傷作歌」の歌に続くもので、その後は万35番歌の「越勢能山時、阿閇皇女御作歌」となっている。万25~34番歌は「宮」の歌と一括できる。「宮」とはミ(御)+ヤ(屋)の意で、天皇がいるところがミヤだから、行幸先を含めて宮の歌が連続しているのである。
 万28番歌は藤原宮の歌である。ただし、遷都した喜びばかりを述べるために、天の香具山を持ち出して歌っていると考えるのは誤りであろう。おおらかに洗濯物を風景描写しているわけではないことは、前後の歌を見ても皆曰く因縁がありそうだから確かである。原文に記されているのは、標目とその分注、題詞、歌ばかりである。
 宮を詠んだ歌であることに違いはないし、それを出発点として考えるのは妥当なことである。標目から藤原宮であることは明らかである。藤原宮から望む香具山の光景を歌に詠んでいるように思える。目に映るのは香具山であり、それを大仰に「天の香久山」と言っている。何かを幻影していると考えられるわけであるが、持統天皇が勝手に思い描いて歌っているとは考えられない。歌は、歌う人と聞く人とがともに理解し合い、共有し合ってはじめて成立するものだからである。そうでなければ歌がモノローグであったことになってしまう。一人カラオケのようなことがあっても構いはしないが、それが記し留められることはない。コミュニケーションツールとしてあるはずの「歌」になっていないからである。すなわち、聞く人が皆「天の香具山」の曰く因縁のある事柄を、いま見えている香具山になぞらえて歌われているのだと、すぐにわかったということである。
 持統天皇は「天の香具山」に何を見ているのであろうか。具体的形象はわかっている。「白妙能衣乾有」である。「天の香久山」と歌に言うからには、人々の想念の中に共通感覚として「白妙能衣」に当たるものがあったということである。だからあえて持統天皇は洗濯物を歌にしている。藤原京遷都後の宮讃め歌であったろうと考えられる。その手法が、今日の感覚からは想像がつきにくいものになっている。
 歴史上、藤原の地に宮が置かれるのは二回目である。一回目は枝葉末梢的な事実として伝承され、日本書紀に「藤原宮」として記録されている。允恭天皇がその妃、弟姫おとひめ衣通そとほしの郎姫いらつめ)のために建てた宮があった。天皇は皇后を憚って、衣通郎姫を側室として後宮に入れることなく、藤原の地に専用の宮を設けてそこへ住まわせた。允恭紀七年十二月から翌八年二月までわずかな間住み、その後はさらに離れた河内の茅渟ちぬに宮を作って引っ越している。彼女の名前は衣通そとほしの郎姫いらつめである。名の由来を含めて事情が記されている。

 弟姫おとひめ容姿かほ絶妙すぐれてならび無し。其のうるはしき色、よりとほりてれり。時の人、号けて衣通そとほしの郎姫いらつめと曰ふ。……是を以て、宮中みやのうちに近づけずして、則ちこと殿屋とのを藤原にててはべらしむ。大泊瀬おほはつせの天皇すめらみことらしますあたりて、天皇、始めて藤原宮にいでます。……八年の春二月に、藤原に幸す。しのびに衣通郎姫の消息あるかたちたまふ。……天皇、則ちたちどころ宮室みや河内かふち茅渟ちぬ興造てて、衣通郎姫をして居らしめたまふ。(允恭紀七年十二月~八年二月)

 これをもって、天の香具山に衣を結びつけている意味合いが理解される。通郎姫にゆかりの地だからが干してある。万28番歌では「白妙能」の透き通るよう様を言っている。時代は移り、人が変わっても、藤原の地はその拠り所をとどめたまま続いている。その藤原の地の一貫性、正統性を歌に歌っていることになる。したがって、万28番歌原文の「衣乾有」の「衣」はソ(甲類)と訓むべきとわかる(注8)衣通そとほしの郎姫いらつめという名に音を対応させなければわかるものもわからない。そして、二句目の「夏来良之」を「夏キタル○○○ラシ」と訓むのだから、「乾有」はカワキタル○○○アリと訓むべきとわかる(注9)。「かわきたる(キは甲類)」のキタルことがあるから「来たる(キは甲類)」ことであると、証拠に基づく推定を示す助動詞「らし」という語が出来している。言葉の音が助動詞の「らし」を支えている。「らし」は、「その認識が、外部に存在する情報を根拠にして成立したことを表す。」(小田2015.182頁)ものである。根拠となる情報は、確かなものでなければ用をなさない。四季を問わずに洗濯物は干すのだから、根拠たるためには、衣替えのために春の服を洗濯して干してこれからしまうところであるという言い訳となってしまう。万28番歌を額面通りに聞いてそのように聞き取ることはできない。過不足なく歌い上げられたものであり、補うことなく理解可能でなければ口頭言語芸術であった万葉集の歌にそぐわない。
 この歌の解釈に、神事用装束の洗濯物説があった。神事用装束の名称は、「」である可能性が高い。打掛うちかけ(帔、裲襠)やちはやと呼ばれる上っ張りは、袖なしの貫頭衣であった。祭祀にあたって帔(裲襠)を着て舞を舞ったり、神官が襅を着る機会があった。そして、ヤマトコトバに、袖がついた幅の広いトップスをコロモ、袖なしの幅の狭いものをソと呼んで区別していた。何の神事かは歌自身が語っている。衣類がカラカラに乾いているためにはお日様が必要である。昔々のお話がよみがえっている。

 春過ぎて 夏きたるらし 白栲しろたへの かわきたるあり 天の香具かぐやま(万28)
 春が過ぎて夏が確かにやって来た(ナツキタル○○○)ようです。なぜなら、白栲のを干して乾いた(カワキタル○○○)のが手元にあるからそう言えるでしょう。日光が強くなったから乾いたのです。思い出してごらんなさい。その昔、天のいはに籠ってしまった日神、天照大神に出てきてもらうように祈った時、天の香具山の五百箇真いほつまさか(五百津真賢木)を根ごと掘り取ってきていろいろな飾り物を懸けて用意したでしょう。それで再びお日様は輝くことになったのですね。この宮の裏庭の物干し柱もそんなサカキ製なのでしょう。ここ藤原宮から香具山がよく見えるのは、衣通そとほしの郎姫いらつめが住まわっていたところ、を光が通ったと言われるほどの人が住んでいたところです。日の光がそれほどまで強いのですから、夏が来たに違いないではないですか。

 日神が天の石窟に籠ったときの話は次のようなものであった。

 ……亦、手力雄神たちからのをかみを以て、いはとわきかくしたてて、中臣連の遠祖とほつおや天児屋命あまのこやねのみこといむの遠祖太玉命ふとたまのみことあまの香山かぐやま五百箇真いほつまさかねこじにこじて、上枝かみつえにはさかの五百箇の御統みすまるとりかけ、中枝なかつえには八咫鏡やたのかがみ……を懸け、しづにはあを和幣にきて、……しろ和幣にきてとりしでて、相与に致其祈禱のみいのりまをす。又猨女君さるめのきみの遠祖天鈿女命あまのうづめのみこと、則ち手にまきほこを持ち、天石窟あまのいはやの前に立たして、たくみ作俳優わざをきす。亦天香山の真坂樹を以てかづらにし、ひかげ……を以てすきにして、火処ほところ焼き、覆槽うけせ、……顕神明之憑談かむがかりす。……是の時に、天照大神、聞しめしておもほさく、「吾、このごろ石窟にこもり居り。おもふに、当に豊葦とよあし原中はらのなかつくには、必ず為長夜とこやみゆくらむ。云何いかにぞ天鈿女命、如此かく㖸楽ゑらくや」とおもほして、乃ち御手を以て、ほそめに磐戸を開けてみそなはす。時に手力雄神、則ち天照大神のみて奉承たまはりて、引き奉出いだしまつる。是に、中臣神・忌部神、則ち端出之縄しりくめなは……ひきわたす。乃ちまをしてまをさく、「また還幸かへりいりましそ」とまをす。(神代紀第七段本文)
 ……天児屋命あめのこやのみこと布刀ふと玉命たまのみことを召して、あめ香山かぐやま真男まを鹿しかの肩をうつきに抜きて、天の香山の天のははかを取りて、占合うらなひまかなはしめて、天の香山の五百津真いほつまさかを根こじにこじて、かみさか勾璁まがたま五百津いほつすまるの玉を取りけ、中の枝にあたの鏡を取り繋け、下つ枝にしろ丹寸手にきてあを丹寸手にきてを取りでて、此の種々くさぐさの物をば、布刀玉命、ふと御幣みてぐらと取り持ちて、天児屋命、ふとのりごとき白して、天手力男神あめのたぢからをのかみ、戸のわきかくり立ちて、天宇受売命あめのうずめのみことすきに天の香山の天のかげを繋けて、天のさきかづらと為て、ぐさに天の香山の小竹ささの葉をひて、天のいは屋戸やとにうけ伏せて、みとどろこし、神懸かむがかり為て、むなを掛き出だし、をほとにし垂れき。爾くして、高天原たかあまのはらとよみて、八百やほよろづの神、共にわらひき。(記上)

 この歌は、二句目と四句目で切れる。つまり、独立する三つの文で構成されている。

 A.春過ぎて 夏きたるらし
 B.白栲しろたへの かわきたるあり
 C.あま香具かぐやま

 それらが互いに関係し合っているから、ひとつの歌として捉えることができる。Aという推定の叙述は、Bという根拠の叙述によって確かめられ、そのBという叙述はCによって種明かしされている。Aは提題であって、季節感をそのまま表しているわけではない。特に暦に縛られることなく、旧暦の四月ぐらいであれば大体構わない。なぜA「春過ぎて夏来るらし」と確からしく推定して言えるのか、それは、Bにいう「白栲の衣」の「乾」いた状態のものが今ここに「有る」からである。そのこころは、Cの「天の香具山」である。ほら、あそこに見えるでしょう、と言っている。日神である天照大神が石窟から出てくるように祈願してそれがかなったのは、道具立ての天の香具山の真坂樹などが適切だったからである。日の光があふれているから手元にあるシースルー様の袖なしの「白栲の」はよく「乾」いている。衣通郎姫が藤原宮に住んでいて、衣を通って光が照るほどであったことを彷彿させると歌っている。洗うほどに白くなることをもって衣通郎姫を思すことにつながるから、「白栲の衣」と言っている。香具山に物干しの実景など見てはいないのである。

(注)
(注1)阿蘇2006.の「歌意」に、「香具山に干している白い衣服が初夏の強い日光をキラキラと反射させて、周囲の濃い緑に映えている様子から、春の季節が過ぎて夏が来たことを、実感として受け止めて詠んだもの。香具山の周囲に広がっていたに違いない青々とし た稲田、山の上に広がる青い空まで目に浮かぶような印象鮮明な歌である。」(122頁)とある。
(注2)松本2007.は、先行研究から、①訓法、②四季観の発達、③白妙の衣の解釈、の三つの問題点に大別されるとして分析している。最終的に惜春の情があるとしている。筆者は、実は歌のすべてが問題点であると考えている。全然読み解けていないからである。大濱2008.に、「その実態が更衣(代匠記 初・精)にせよ神事の衣裳(折口信夫、渡瀬昌忠氏)にせよ、およそ衣類を「乾す」ときに、現代の都会における狭小な住宅事情で、ドライエリアが制限されるような場合ならまだしも、そういうことは到底考えられない当該歌のような場合、わざわざ香具山の〈西斜面ないしは北西斜面〉に「衣」を「乾」 したりするものであろうか。」(16頁)と、当たり前の疑問を呈していることがよく物語っている。したがって、仮構ばかりの諸説については深入りしない。
(注3)櫻井2000.に、「折口信夫先生は五月女さおとめたちのみそぎの衣だったと推定された……。田植は今日でこそ家々の稲作上の一段階である労働にすぎないものにみえるが、古くはヲトメが奉仕する神ごとであった。……神ごとであった田植に先立って、選ばれた五月女が神域にこもって禊ぎをする。その禊ぎはたぶん埴安の池の水源だったと思われる哭沢なきさわで行なわれたのであろう。「白たへの衣」が禊ぎのたびに干されたに違いない。」(15頁)とある。
 多田2009.に、「栲はこうぞや麻の樹皮の繊維で織った布。洗えば洗うほど真っ白にさらされた。それで製した衣が「白栲の衣」だが、聖なる山である香具山に乾したとあるから、一般人の常用の衣ではなく、夏の神事のための巫女のごろもだろう。」、「季節の到来を歌う歌─季節の到来をうたった歌は多いが、その季節は大半が春や秋である。夏の到来をうたうのは目新しい。季節の到来を感じさせるのも自然現象であることが多い。しかし、この歌では「白栲の衣」を乾すという人為的な営みが季節の推移を感じさせている。ここには、暦によって季節の到来を把握するようになる直前の時間意識が現れている。その背後には藤原京における新たな都市生活の始まりがある。」(42頁)とある。
(注4)拙稿「万葉集における洗濯の歌について」で考察したように、洗濯の歌自体がないわけではない。しかし、それらは洗濯という作業工程を例えにして歌を歌っている。
(注5)儀式用装束のことを指すからとの指摘もあるが、儀式を歌うのであればその最中のことを歌えばよい。準備や後片付けの様子は備忘録にさえほとんど記されない。毛利2012.に、「季節の到来に「らし」(推量)をもつことは、根拠たらしめる作者の目に映じる景に重点があり、その到来の根拠たるものが重要な位置を占め、歌の主眼ともなっていることである。中国暦法が伝来して季節観も深まり、持統天皇の二八番にその影響が考えられるにしても、この歌自体、季節の到来を根拠づける景の「真っ白な衣が干してある、天の香具山に」がきわめて大きな内容を占めており、その上、その根拠は集中に多く存する自然物であることとは異なる希有な在りようとして存在しているということである。」(13頁)と定位されるが、結局のところ何もわからなかったと述べている。
(注6)編纂者が意図をもって歌を並べることは想像に難くないが、そのような視点から俯瞰した研究は管見に入らない。
(注7)原文の「淑人乃良跡吉見而好常言師芳野吉見与良人四来三」をこのように訓むと定説化しているのでそのまま記しておく。
(注8)拙稿「上代語「衣(そ)」の上代特殊仮名遣い、甲乙の異同について」参照。
(注9)万葉集の原文中、「乾」の字の用例には次のものがある。
 フ(上二段活用)
 「衣の袖は る時も無し〔衣之袖者乾時文無〕」(万159)
 「我が衣手は る時もなし〔吾衣手者乾時毛奈志〕」(万703)
 「我が袖めや〔吾袖将乾哉〕」(万1995)
 「袖る日なく〔袖乾日無〕」(万2849)
 「めや我が袖〔乾哉吾袖〕」(万2857)
 ビ(訓仮名、ビは乙類)
 「朝露に 咲きすさびたる〔朝露尓咲酢左乾垂〕」(万2281)
 ブル(訓仮名)
 「うらぶれにけり〔浦乾来〕」(万2465)
 ヒ(連用複合語名詞)(乾・干)
 「由良の崎 しほにけらし〔湯羅乃前塩乾尓祁良志〕」(万1671)
 ホス(四段活用)
 「綱手したり 濡れもあへむかも〔綱手乾有沾将堪香聞〕」(万999)
 ホシ(連用複合語名詞)
 「ほしあはび」(万327題詞)
 カワク(四段活用)
 「濡れにしころも せどかわかず〔沾西衣雖干跡不乾〕」(万1186)
 アメツチ(天地・乾坤)
 「天地あめつちの〔乾坤之〕」(万2089・3346)
 「天地あめつちの〔乾坤乃〕」(万3289)

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『万葉集全歌講義 第一巻』笠間書院、2006年。
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
大濱2008. 大濱眞幸「持統天皇御製歌僻案─「春過ぎて夏来るらし」をめぐって─」『国文学』第92巻、関西大学国文学会、2008年3月。関西大学学術リポジトリ http://hdl.handle.net/10112/1217
櫻井2000. 櫻井満『櫻井満著作集 第六巻 万葉集の風土』おうふう、平成十二年。(『万葉集の風土』講談社(講談社現代新書)、1977年。)
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
松本2007. 松本尚美「万葉持統歌(一・二八)の主題─惜春の抒情について─」『広島女学院大学国語国文学誌』第37号、2007年12月。広島女学院大学リポジトリ https://hju.repo.nii.ac.jp/records/471
毛利2012. 毛利正守「持統天皇御製歌─巻一・二八番をめぐって─」『萬葉』第211号、2012年3月。萬葉学会ホームページ http://manyoug.jp/memoir/2012

加藤良平 2021.8.15初出

鏡王女(かがみのおほきみ)の歌─天智天皇にからんで─

 かがみの王女おほきみの歌は重出を含めて万葉集に五首残されている。ここでは天智天皇がらみの歌について検討する。

  額田ぬかたのおほきみの、近江あふみの天皇すめらみことを思ひて作る歌一首〔額田王思近江天皇作謌一首〕
 君待つと 吾が恋ひれば 我が屋戸やどの すだれ動かし 秋の風吹く(万488)〔君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹〕
  鏡王女の作る歌一首〔鏡王女作謌一首〕
 風をだに 恋ふるはともし 風をだに むとし待たば 何かなげかむ(万489)〔風乎太尓戀流波乏之風小谷将来登時待者何香将嘆(注1)

 新大系文庫本の訳に、「あなたのおいでをお待ちして、恋しい思いをしていると、私の家の簾を動かして、秋の風が吹きます。」、「風をなりと待ち恋うているとは羨ましい。風をなりと来るだろうと思って待つならば、何を嘆くことがあるでしょう。」(337頁)とある。諸解説に大同小異である。「簾動かし 秋の風吹く」と歌うところは、中国の閨怨詩による発想であるとも指摘されて久しい(注2)。「額田王思近江天皇作歌一首」に対して近江天皇、すなわち、天智天皇ではなく鏡王女が応えている。それが「相聞」の部立に配されている。これまでの研究にはさまざまな疑問が呈されている(注3)。「秋の風吹く」には、①錯覚説(失望)、②前兆説(悦待)、③風使説(期待)、④景趣単叙説があるとされる(注4)。また、額田王の歌と鏡王女の歌との間に齟齬があると指摘されている。「風をだに 来むとし待たば 何をか嘆かむ」という状況は特殊なもので、落ち着きがないと思われている。
 額田王の歌と鏡王女の歌には緊張感に落差が感じられる。万488番歌に何ら嘆き節が聞かれないのに、万489番歌に「何か嘆かむ」と息せききって言い返している点は追究されなければならない。喧嘩腰な反応である。筆者は、「秋の風」について、⑤秋山あきやました壮夫をとこ反映説を提唱する。すでに額田王は、万16番歌、春秋競憐歌において「秋山」を偏重する姿勢を示している。それは、秋山之下氷壮夫のことを歌っていた。応神記にある実際の兄弟の戦に、忍熊王と応神天皇の間のものがあり、母親である神功皇后の支援により弟の応神天皇が勝利している。そのときには武内宿禰が補佐している。記に載る秋山之下氷壮夫と春山はるやま霞壮夫かすみをとこ伊豆志袁登売いづしをとめをめぐる争いの説話では、其の母が弟の春山之霞壮夫を援助して勝っている。現時点でも、兄に当たる天智天皇は弟の大海人皇子と争っているように考えて、亡母の斉明天皇の支援が弟側に向いているかに感じ、内臣にあたる中臣鎌足が大海人皇子側についていると思い込んでいる。そんな三者関係をめぐる天智天皇のノイローゼを具現化したのが春秋競憐歌であった(注5)

 額田王は政府のスポークスウーマンだから天皇の立場で歌を歌っていた。万488番歌で「秋の風」と歌っているのも、天皇のノイローゼによる思い込みを同調的に歌っているのである。現実には、額田王は大海人皇子との間に十市皇女を生んでいる。天智天皇のおなりを待っていたわけではなく、天皇の意向を代詠するように恋の歌に仕立てているだけである。一方、鏡王女については、天皇の最側近、内臣にあたる中臣鎌足の「嫡室鏡女王」(興福寺縁起)と伝えられている。関連する「相聞」歌が万93・94番歌にある。天皇のノイローゼ気味の考え方を促進されては困ると鎌足の立場で歌っている。秋風の来るのを思い待つことなどして、伝承の世界に類想を働かせて嘆いてなどいたら政治体制は揺らぐことになるのではないか、というのである。「秋山の 木の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそなげく」(万16)といった感傷の世界を現実界に広げられては困るのである。
 天皇の意を汲んだ歌に対して反論した歌である。朝廷の安定に資するのであれば額田王はいくらでも歌ってくれてかまわないが、天皇一人のノイローゼ気味の意向によって朝廷全体が動揺させられたら大変である。天智天皇の「嘆き」はノイローゼによる曲解なのだから、是正する方向へ認知療法が施されなくてはならない。くだらない考えを振り回すのはやめるようにと鏡王女は歌っている。誰も天智天皇のことを秋山之下氷壮夫のようだなどと思っていない。天皇が被害妄想に取りつかれているだけで、そんな妄想に付き合うのはまっぴらである。すなわち、この歌は、中臣鎌足から天智天皇への諫言を代弁する歌なのである。初期万葉において、政治的メッセージをもった歌は「雑歌」に属されているところ、天皇から周囲への布告であれば「雑歌」であるが、それに反して「相聞」の部立に入れられている。一般に「相聞」は男女の間の恋心をやりとりするものである。それに準える形で上申する歌が歌われている。天智天皇と中臣鎌足とが閣議でやりとりしたことが、代理的に「相聞」の歌の形に表れていることになる。
 天智天皇と鏡王女との相聞歌は、万91・92番歌に見られる。

   近江大津宮あふみのおほつのみやに御宇あめのしたしらしめしし天皇代すめらみことのみよ天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみことおくりなを天智天皇と曰ふ。〉〔近江大津宮御宇天皇代〈天命開別天皇謚曰天智天皇〉〕
  天皇、鏡王女に賜ふる御歌一首〔天皇賜鏡王女御歌一首〕
 いもが家も ぎて見ましを 大和やまとなる 大島のに 家もあらましを〈一に云ふ、妹があたり 継ぎても見むに、一に云ふ、家らましを〉(万91)〔妹之家毛継而見麻思乎山跡有大嶋嶺尓家母有猿尾〈一云妹之當継而毛見武尓一云家居麻之乎〉〕
  鏡王女、こたたてまつる御歌一首〔鏡王女奉和御歌一首〕
 秋山の の下がくり 行く水の われこそ益さめ おもほすよりは(万92)〔秋山之樹下隠逝水乃吾許曽益目御念従者〕

 天智天皇は鏡王女に対してもアプローチしている。その「奉和歌」にも「秋山」が登場している。現天皇からずっと見続けていたいものよと歌って来られたら、受ける気がなくても口では思っていますよと和えざるを得ない。そのとき、「秋山の の下がくり 行く水の」という比喩表現を使った。秋山之下氷壮夫のつもりでいる天智天皇の思いよりも姿は見せないけれど思っていますと、相手をなだめる言葉を差し向けている。すなわち、万91・92番の相聞歌は、万16番の春秋競憐歌の前に歌い交わされ、そこで用いられた「秋山」という語から、天智天皇は自らが秋山之下氷壮夫の立場にあることを亢進させ大っぴらにして行くことになった。政権内における立場もそうだろうと疑心していたのである。秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫の伊豆志袁登売をめぐる争いに鏡王女は準えられてしまい、内臣にあたる中臣鎌足が大海人皇子側についているとの邪推は、鏡王女が鎌足の室で、天皇の妄想を肯定するかのように受け取ったところから生まれたものであろう。そして、天皇は、その間の自分の気持ちを理解してくれるウタ(歌)が歌われることを願い、ウタゲ(宴)、今でいうバーベキューの開催に至っている。「又、舎人等にみことのりして、宴を所々にせしむ。時の人曰はく、『天皇、天命みいのち将及をはりなむとするか』といふ。」(天智紀七年七月)。史実が簡潔に記されている。そして歌われたのが額田王の春秋競憐歌(万16)であった。
 このノイローゼ、何とかならないかという考えは「時の人」の総意であり、鏡王女の「何か嘆かむ」(万489)に表れているのであった(注6)

(注)
(注1)巻第8・万1606~1607番歌に重出している。
   秋相聞
  額田王思近江天皇作歌一首
 君待跡吾戀居者我屋戸乃簾令動秋之風吹
  鏡王女作歌一首
 風乎谷戀者乏風乎谷将来常思待者何如将嘆
(注2)土居1960.は、「清風動帷簾 晨月照幽房 佳人処遐遠 蘭室無容光 ……」(玉台新詠・巻二、張華・情詩五首・其三)を引いている(36頁)。出典論の研究は検証作業を伴うものではなく、万葉集に「簾」歌が当該歌(重出)に限られるのかも考慮の外にある。筆者は、秋になってもかけていたすだれを殊更に言っているのではないかと考えている。なお、簾状編物は、新潟県青田遺跡、神奈川県池子遺跡などに出土例があるが、使用目的は不明である。言葉としてのスダレ(簾)は、新撰字鏡に「掲簾 須太礼阿久すだれあく」、和名抄に「簾 野王曰はく、簾〈音は廉、須太礼すだれ〉は竹を編む帷なりといふ。」と見える。
(注3)土佐2020.所収の「「近江天皇を思ふ歌」存疑」参照。
(注4)古沢1959.参照。
(注5)拙稿「額田王の春秋競憐歌について─万葉集16番歌─」参照。
(注6)鏡王女の出自は不明ながら、「鏡王のむすめ額田姫王ぬかたのおほきみ」(天武紀二年二月)とあり、額田王の姉妹であるとする説があり有力視されている。

(引用・参考文献)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
土居1960. 土居光知『古代伝説と文学』岩波書店、昭和35年。
土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。
古沢1959. 古沢未知男「万葉「簾動之秋風吹」の典拠」『九州中國學會報』第5号、1959年6月。中国・アジア研究論文データベース https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/4503(『漢詩文引用より見た万葉集の研究』南雲堂桜楓社、昭和41年。)

加藤良平 2021.8.30初出2025.1.27一部訂正

万葉集巻七、吉野の歌(「芳野作」)について

 万葉集巻七の目録、雑歌に「芳野作謌五首」とあり、吉野関連の歌が五首おさめられている。

  吉野にして作る〔芳野作〕
 かむさぶる いはこごしき み吉野の 水分山みくまりやまを 見れば悲しも(万1130)〔神左振磐根己凝敷三芳野之水分山乎見者悲毛〕
 皆人の 恋ふるみ吉野 今日けふ見れば うべも恋ひけり 山川やまかは清み(万1131)〔皆人之戀三芳野今日見者諾母戀来山川清見〕
 いめのわだ ことにしありけり うつつにも 見てるものを 思ひし思へば(万1132)〔夢乃和太事西在来寤毛見而来物乎念四念者〕
 皇祖すめろきの 神の宮人みやひと 冬薯蕷葛ところづら いやとこしくに われかへり見む(万1133)〔皇祖神之神宮人冬薯䕘葛弥常敷尓吾反将見〕
 吉野川 いはかしはと ときはなす 吾はかよはむ 万代よろづよまでに(万1134)〔能野川石迹柏等時齒成吾者通万世左右二〕

 この歌群について特に大きな問題があるとは指摘されていない。万1134番歌の第二句の訓に疑義が見られる程度である。
 全体に見て、「芳野作」だから吉野のことが歌われているはずで、万1130・1131・1134番歌に吉野という地名が出てくる。万1132番歌の「いめのわだ」も、吉野川の湾曲部の淵の呼称であるとされている。万1133番歌には地名が出てきていないが、吉野宮は自然に囲まれた場所で、太古からの風景を有していると感じられ、吉野宮にいるのは「皇祖の 神の宮人」と言っているとされている。
 そこまで踏まえてみても、歌意に理解しきれないところがある。
 万1130番歌は、「神々しい岩根がごつごつと角ばって立つみ吉野の水分山を見ると悲しい。」(新大系文庫本251頁)の意である。どうして巌の険しい分水嶺の山を見て悲しくなるのか、ただではわからない。万1133番歌は、「代々の天皇にお仕えする宮人として、(ところづら)いよいよとこしえに私はまた来て見よう。」(同)の意とする。スメロキ(皇祖)には、「①土地の最高位の男。首長。」、「②天皇。」、「③天皇の祖先。」(岩波古語辞典725頁)の意があり、ここでは「皇祖すめろきの神」となっているので③の用例かと考える。「冬薯蕷葛ところづら」と呼ばれたヤマノイモが登場する必然性は何かが問われなければならない。万1134番歌は、「吉野川の岩と柏のように変わりなく、私は通って来よう。いつの代までも。」(同)とし、「いはほかへ」と訓む説のあることをあげている。カシワは落葉樹だから第三句の「常盤ときはなす」に続かないため、柏と通じるかへの意で、側柏このてがしわ扁柏ひのき円柏びゃくしんなど松柏まつかへという言い方に表れるものを指しているというものである。井手1993.は、「「吉野川の巌と川べりの常緑のかやの木のように、いつまでも変ることなく」の意にスムーズに解釈することができると思われるのである。」(326頁)とする(注1)。確かにスムーズにつながりはするが、そう解釈すると説明調でまるでおもしろ味のない歌である。以下検討していく。

 かむさぶる いはこごしき み吉野の 水分山みくまりやまを 見れば悲しも(万1130)

 水分山は分水嶺の山である。歌の表現にその峻険さが伝わってくる。槍のように尖っているということであろう。つまり、この歌の眼目はヤリである。峻険な水分山は水を否応なく仕分けしていく。ばばのようにである。遊郭で客と遊女との取り持ち差配し、遊女の監督をする年配の女のことで、しゃきょうしゃなどとも言われた。単にヤリとも言う。遊女の側の気持ちなど汲むことはない。無理やりに遣られる。「る」という動詞には、水を流れ行かせる意がある。「石どもにおしかかりて、水遣りたる樋の上に折敷どもすゑて、もの食ひて手づから水飯などする心地、……」(蜻蛉日記・中)、「水深う遣りなし、植木どもなどして、今はと静まりたまふ心地、うつつならず。」(源氏物語・須磨)、「一品の宮の御裳着に、入道殿より、玉を貫き、岩を立て、水を遣り、えもいはず調ぜさせたまへる裳・唐衣を、……」(大鏡・昔物語)とあり、庭園設備に遣水やりみづがある。すなわち、水の気持ちを水なのに汲まない遣り手である水分山は、ずいぶんと無情な存在に思え、見ているだけで悲しくなってくる。そういう意を含んだ歌である。

 皇祖すめろきの 神の宮人みやひと 冬薯蕷葛ところづら いやとこしくに われかへり見む(万1133)

左:むかご、右:勾玉(硬玉勾玉、大阪府八尾市郡川西塚古墳出土、古墳時代、5~6世紀、桑野與治郎氏寄贈、東博展示品)

 「皇祖すめろきの神」は③の用例、天皇の祖先のことを言っている。吉野はその名が示すとおり、ヨ(代、世)+シノ(篠)の様子を表している(注2)。篠は竹の小型のものを指し、ヨ(節間)が節を継いで永遠に続いていくようになっている。つまり、代々続いてきたことを物語る地名と考えられ、太古から変わらないところと感じられていた。技術の発達していない大昔には、「宮人みやひと」たちはアクセサリーに玉石ガラス類を使うことはなかっただろう。それによく似た「冬薯蕷葛ところづら」、ヤマノイモの蔓に零余子むかごをつけたものを首飾りにしていたのだろうと洒落を言っている。そのトコロヅラからトコという音をたよりに「とこしくに」と続けている。ヨ(代、世)+シノ(篠)なのだから字句としても円滑に続けられる。ヤマノイモの零余子むかごが勾玉のような姿をしていることは、当時において周知のことであった(注3)

 吉野川 いはかしはと ときはなす 吾はかよはむ 万代よろづよまでに(万1134)

 「ときはなす」は原文に「時齒成」とある。一般に考えられている「常盤ときはなす(トは乙類、キは甲類)」の意以外にも、「はなす(トは乙類、キは甲類)」の意にも解釈可能である。その場合、巌の上に育った柏が台風などで分離したと考えるのはセンスが悪い。解き離れているのは、イハとカシハとである。ifa と kasifa だから、kasi なる音が解かれたと考えられる。吉野川の戕牁かしの意である。河岸に杭が打たれて船をつなぎ留めていた(注4)。吉野へどうやって通うかと言えば、「吉野」や「吉野宮」なら徒歩であろうが、「吉野川」なのだから船で通うものと想定されたのだろう。実際の問題ではなく想念においてそういうことになる。だから、「戕牁かし」という言葉が「はなす」ことが起こり、船をもって「常盤ときはなす」ように私は通おう、いつまでも、と歌っている。「A」という強調は、それなりの意味があったということである(注5)
 以上説明してきたことはいわゆる言葉遊びに属する。触れなかった万1131番歌では、「うべも」という言葉を使って自分が恋い慕ってきたのを「恋ひけり」と相対化しているところがおもしろい。「ケリは、そのことに気がついたという意味を表わす。」(大系本212頁)のである。また、万1132番歌では、地名呼称に過ぎない「いめのわだ」を「うつつ」に見ると戯れている。すべての歌に言葉遊びの機知が宿っており、振り返って題詞に当たる「芳野作」を考えると、「行幸時歌」などと断られているわけではないのだから、「吉野(芳野)」をテーマに「作」った歌というまでのことになる。これら歌群について、以降万1250番歌まで、一般に羇旅の歌であると考えられているが、「羇旅歌」は万1161番歌の前の題詞となっている。都での宴席に、貴人が吉野行幸のことを思い出して吉野をテーマに歌を作らないかと言い出せば、いくつか歌が作られて楽しまれ、そして筆録されたとしてまったく不思議はない。歌は言葉の表れである。きちんと理解されればそれ以上の詮議、例えば、これらの歌は讃歌として歌われたはずだ、などと屋上屋を構えるには及ばない。

(注)
(注1)他に、「「Iuadogaxiuaイワドガシワ 岩もしくは暗礁の上に成長する、苔または植物」(日葡辞書)とあるのはこれか。」(全集本219頁)とする説もある。
(注2)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」参照。
(注3)拙稿「垂仁記の諺「地(ところ)得ぬ玉作(たまつくり)」について」参照。
(注4)拙稿「弓削皇子の吉野に遊ばす時の歌と春日王の和歌(万242~244番歌)について」参照。
(注5)言葉遊びは往々にして川柳の様相を醸し出す。

(引用・参考文献)
井手1993. 井手至『遊文録 萬葉篇一』和泉書院、1993年。(「巻七訓詁私按」『万葉集研究 第七集』塙書房、昭和53年。)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注訳『日本古典文学全集3 萬葉集二』小学館、昭和47年。

加藤良平 2021.8.5初出2024.10.31加筆

「舟公宣奴嶋尓」(万249)(柿本朝臣人麻呂の羇旅の歌八首)の訓

 万葉集巻三の万249番歌は、「柿本朝臣人麻呂の羇旅の歌八首」(注1)の最初の歌である。「宣」という字があって「のる(告・宣)」の意であろうとされているが、いかんせん字数が足りずに難訓とされている。

 三津埼浪矣恐隠江乃舟公宣奴嶋尓
 御津みつの崎 波をかしこみ 隠江こもりえの 舟公宣奴嶋尓(万249)

 この下二句について誤写を認めない形で、「舟公宣奴嶋尓フ子コグキミガノルカヌジマニ」(岸本由豆流・萬葉集攷證、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2570341/161)、「舟公ふなきみはしもりぬ島みに」(武田1955.114頁)、「舟なる君は宣らす野島に」(大濱1956.63頁)、「船なる君は「奴島に」と宣る」(井手1993.44頁)、「船なる君はしまにとる」(伊藤2009.165頁)、「船なる君はらすしまに」(多田2009.229頁)といった試訓が行われている。

「のる(告・宣)」

 万葉集に、「のる(告・宣)」と訓まれる例は、ノラク、ノラスといった変化形を含めれば五十例ほどある。仮名書きの場合以外は確かではないものの、そう訓まれると定説化している数である。動詞「のる」の形のものとしては「名」にまつわる例が非常に多く、二十一例(万1・1727・2139・2407・2441・2497・2531・2639・2696・2700・2747・3076・3077・3080・3177・3336・3339・3374・3488・3730・4011)を数える。また、海藻ホンダワラの古語、ナノリソと絡めて用いられる例が四例(万362・363・509・3076)あるのも顕著である。それ以外には、占いと関係する例が三例(万109・2506・2507)見られ、「のる(告・宣)」の本来の義と関連するからとも考えられている(注2)。他に九例(万1302・1303・1318・1740・1800・3285・3336・3425・3730)あるが、そのうち以下の三例では、「問へば(ど)」→「告る(らず)」、「告る(らず)」→「告る(りつ)」といった対応関係の下で用いられている。

 …… 国問へば 国をもらず 家問へば 家をも云はず ……(万1800)
 …… 家問へば 家をも告らず 名を問へど 家だにも告らず ……(万3336)
 かしこみと 告らずありしを みこしの むけに立ちて 妹が名告りつ(万3730)

 これらの事情から考えると、「のる(告・宣)」という言葉は、発言するかしないかという前提条件を含めて捉えた言葉であると認められる。

「舟公」

 「舟公」を「船なる君」と訓む例は、「舟人」を「船なる人は」(万1996)と訓む例を当てにしている(注3)。ただし、万葉集中、「舟人」(万1225)、「船人」(万283・1228・3627・4150)は、「布奈妣等」(万3349・3643・3658)同様、フナヒトと訓まれて圧倒的に多い。「舟人」を「船なる人」と訓みにくいとなると、万249番歌の「舟公」も「船なる君」とは訓みにくく、フナギミと訓まれるべきなのだろう。日本国語大辞典に「ふなぎみ」は、「①船長(ふなおさ)。②船中の主君。その船旅の長である人。……③水上の私娼。ふなまんじゅう。」(977頁)とあって、②には土佐日記の例をあげている。「舟公」を「船なる君」と訓む説でも、②の意と解して通釈を考えている。「「船なる君」が「野島」を指して「ヌシマ」とられたそのことばを、そのまま歌にして、「シマ」と書いたと解する方向もあるかと思う」(井手1993.50頁)とある。しかし、そうなると、船にいますしかるべき主君は、波浪を警戒して波の多少とも穏やかな江(注4)に入れてしのいでいる船において、ヌシマニと言っていることになり、はたして何を宣告しているかということになる。
 筆者は、「舟公」について、②の船をチャーターしている偉い人のことではなく、①の船長、船頭のことを言っていると考える。当面の課題は、波浪警報下において何とか難破せずにおさめることである(注5)。だから「隠江」に漂っている。碇を下ろして動かないようにしていたのであろうが、風がきつくてままならず、船長は水夫に檄を飛ばしている。船長が船員に対して命令調で言っていることを「のる(告・宣)」という言葉で戯れ表している。強い口調で絶対服従を命じているからであり、「のる(告・宣)」という言葉が持つ意味合いから言葉は繰り返されていると考えられる。

船長のごと

 三津埼浪矣恐隠江乃舟公宣奴嶋尓
 御津の崎 波を畏み 隠江の 舟公ふなぎみりぬ 島に島にと(万249)

 船長は慌てている。波が荒いから恐がって隠江に待機してみたものの、風が強くて碇が利かず流されていく。このままでは島に激突して船は壊れる。水夫よ、棹(注6)を持って島にぶつからないように支えよ、早くしろ、ほら島が近づいて来たぞ、たいへんだ、たいへんだ、島にぶつかる、島にぶつかる、と叫んでいる(注7)。海を行く船の航行において、船長、船頭が「のる(告・宣)」ほどのことは一大事である。たかが船長の地位にすぎないのだから、「出発、進行」の合図は「のる(告・宣)」ことには当たらないだろう。「のる(告・宣)」という表現が適当なのは、乗組員に対して宣告に等しい発声が緊急事態において号令されている時で、ものすごい勢いで命令していて、そのとき言葉はくり返されて発せられているものと思われる。船長が「のる(告・宣)」ことをしている状況は言葉自体で感覚としてわかることだから、原文筆記において「嶋尓」と略述してもくり返されていることは自明だったと見て取れる。

(注)
(注1)原文に「柿本朝臣人麿羈旅歌八首」とあり、「羈」は「羇」に通じるとして「羇旅」とすることが多いので従った。
(注2)『万葉ことば事典』に、「「のる」は本来、神の発話・託宣を意味する語と考えられ、その関連で……神意を表す「うら」と結びついた用例も多くみることができる。記紀では、
 大坂おほさかに ふや嬢子をとめ少女をとめを みちへば ただにはらず 当芸麻道たぎまちたぎ麻道まちる (記七七・紀六四)
の重出歌に用例があり、ここにも託宣的な意味合いがよみとれる。「祝詞のりと」「のり」「みことのり」などの派生語も多い。」(325頁、この項、土佐秀里)とある。
(注3)秋雑歌
  七夕
 天漢水左閇而照舟竟舟人妹等所見寸哉
 天の川 水さへに照る 船泊てて 船なる人は 妹と見えきや(万1996)

 ただし、この歌には脱字説があり、「天漢水左閇而」は「天漢水左閇而」とする鹿持雅澄・万葉集古義(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1217218/44)の説がある。

 能登河之水底并尓光及尓三笠乃山者咲来鴨
 能登川の 水底みなそこさへに 照るまでに 御笠の山は 咲きにけるかも(万1861)

 これに倣って次のようにも訓まれている。

 天の川 水底さへに 照らす船 てし船人ふなひと 妹に見えきや(万1996)

(注4)大浦1999.に、「万葉集において「コモリ+名詞」の形の連合表現には「隠り江」の他に
 隠国の(枕詞) 隠り津 隠り妻 隠り処 隠り沼
などがあるが、いずれも下にくる名詞の表すものが、ひっそりと奥まったところにあり、人目につきにくいことを表しており、下にくる名詞の示すものに隠れる(「妻に隠れる」「沼に隠れる」など)意を持つと考えられるものはない。……「隠り江」は「入江の」の意で「舟」を修飾する連体修飾語となると考えるのが穏当である。」(226頁)とある。「隠り江」を波穏やかな入江でありつつ荒波を避けて隠れるところとする解釈は、二重の理解で疑問というのであるが、そうであろうか。
 「隠り妻」は、人目に立たないところに妻が隠れているから人目につかないし、「隠り沼」は、沼が人目に立たないところに所在するから人目につかないのである。そのとき、当該の妻は他の男の手の付かない自分だけの妻であり続け、沼には開発の手が及ばずに水田に化けることもない。「隠り国」は「はつ」に掛かる枕詞である。国が隠れていてどうするのか疑問に思うかもしれないが、山懐に隠れていることで首都防衛に抜かりがなく、一方、そこは比較的標高の高いところに位置するから出撃する際には下り坂を進むことができ、すばやく騎乗して馳せ出る拠点たり得ている。ハツセという地名についてハッと馳せ出るところとおもしろがっている。二重の意味を含み持つことにこそ表現の特徴を認めるべき言葉づかいである。
(注5)稲岡1973.も、波浪に対しては一度発進したら他の島に上陸することは想定しにくいと考えている。ただし、その試訓は原文を誤写と見て、「宿やどみぬに〔宿美奴馬尓〕」としている。
(注6)棹の表現がないと考えるのは浅はかである。「りぬ」と言っている。ノは乙類である。同じノリ(ノは乙類)に海苔がある。「時に、浜浦はまの上に多に海苔〈くにひと乃理のりと云ふ。〉を乾せりき。是に由りて能理波麻のりはまの村と名づく。」(常陸風土記・信太郡)と見える。ムラサキノリ、トリサカノリ、ヲコノリ、アマノリ、フノリなど種々ある。また、万葉歌ではホンダワラのことをいうナノリソ(ノ・ソは乙類)とも併用されていた。和名抄に、「莫鳴菜 本朝式に云はく、莫鳴菜〈奈々利曽ななりそ〉といふ。楊氏漢語抄に云はく、神馬藻〈奈能利曽なのりそ、今案ふるに本文未だ詳らかならず、但し、神馬は騎莫きの義とかむがふ〉といふ。」、允恭紀十一年三月条に、「故、時人、浜藻を号けて奈能利曾毛なのりそもと謂ふ。」とある。食用だけでなく、藻塩焼きに利用された海藻ともされている。棹の先に鎌のついたものを使って採取していたと考えられ、地域によりメカリガマ、ワカメガマ、メノハガマなどと呼ばれている。ノリに棹は必定だと思われている。
(注7)「島に」上陸させろということは考えられない。航行において陸地を見ながら沖を進むときは安心していられるが、近づきすぎると思わぬ暗礁にぶつかって船は大破する危険がある。波が荒いときに無理して「島に」近づくことはない。

(引用・参考文献)
井手1993. 井手至『遊文録 萬葉集篇一』和泉書院、1993年。
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版 万葉集一 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡1973. 稲岡耕二「万葉びとにおける旅」『国文学 解釈と教材の研究』第18巻第9号、学燈社、1973年7月。
大浦1999. 大浦誠士「羈旅歌八首」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第二巻 柿本人麻呂(一)』和泉書院、1999年。
大濱1956. 大濱嚴比古「「舟公宣奴島爾」私訓─萬葉集結句中間切についての考察─」『山邊道』第2号、天理大学国語国文学会、1956年1月。天理大学学術情報リポジトリ https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2870/
武田1955. 武田祐吉『萬葉集全講 上』明治書院、昭和30年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
田辺2014. 田辺悟『磯』法政大学出版局、2014年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第十一巻』小学館、2001年。
『万葉ことば事典』 青木生子・橋本達雄監修、青木周平・神田典城・西條勉・佐佐木隆・寺田恵子・壬生幸子編『万葉ことば事典』大和書房、2001年。
宮下1974. 宮下章『海藻』法政大学出版局、1974年。

加藤良平 2021.8.12初出

万葉集のトイレットペーパーの歌─山部赤人の吉野の歌、万924・925番歌─

 万葉集巻六の山部赤人の吉野での作歌は、いわゆる「吉野讃歌」(注1)として捉えられている。

  山部宿禰赤人の作る歌二首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作謌二首〈并短歌〉〕
 やすみしし わご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣こもり 川次かはなみの 清き河内かふちそ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いやますますに この川の 絶ゆること無く ももしきの 大宮人は 常に通はむ(万923)〔八隅知之和期大王乃高知為芳野宮者立名附青垣隠河次乃清河内曽春部者花咲乎遠里秋去者霧立渡其山之弥益々尓此河之絶事無百石木能大宮人者常将通〕
  反歌二首〔反謌二首〕
 み吉野の 象山きさやまの ぬれには ここだもさわく 鳥の声かも(万924)〔三吉野乃象山際乃木末尓波幾許毛散和口鳥之聲可聞〕
 ぬばたまの 夜の更けゆけば ひさ生ふる 清き川原に どりしば鳴く(万925)〔烏玉之夜之深去者久木生留清河原尓知鳥數鳴〕
 やすみしし わご大君は み吉野の あきの小野の 野のには 跡見とみ据ゑ置きて み山には 射目いめ立て渡し 朝猟あさかりに 鹿猪しし踏み起し 夕狩ゆふかりに 鳥踏み立て 馬並めて かりそ立たす 春のしげに(万926)〔安見知之和期大王波見吉野乃飽津之小野笶野上者跡見居置而御山者射目立渡朝獦尓十六履起之夕狩尓十里蹋立馬並而御獦曽立為春之茂野尓〕
  反歌一首〔反謌一首〕
 あしひきの 山にも野にも 猟人かりびと 得物矢さつやばさみ 騒きてあり見ゆ(万927)〔足引之山毛野毛御獦人得物矢手挟散動而有所見〕
  右は先後をつばひらかにせず。ただ便たよりを以ての故に此のつぎてに載す。〔右不審先後但以便故載於此次〕

 万923番の長歌は、柿本人麻呂の「吉野宮に幸す時、柿本人麻呂の作る歌」(万36~39)と非常によく似ていると言われている。山部赤人には、「八年丙子の夏六月、吉野の離宮に幸す時に、山部宿禰赤人の、詔に応へて作る歌一首〈并せて短歌〉」(万1005~1006)があり、それも人麻呂の歌によく似ている。「応詔」とある場合、常套句を並べて追従を述べることは考えられることである。また、万923番歌の前に記載の笠金村の歌、「神亀二年乙丑の夏五月、芳野の離宮に幸す時に、笠朝臣金村の作る歌一首〈并せて短歌〉」(万920~922)にも似ている。万927番歌の左注に、「以便故載於此次」とある「此」は笠金村の歌のことを言っている。「右不先後」とあるのは、万923~925番歌と万926~927番歌のどちらが先だったかわからないという意味である。そして、万923番歌が笠金村の歌に似ているから、それを便りとしてこのような順次で載せるとしている(注2)。「此次」とある「次」字は歌句中に見える。「河次かはなみ」である。
 このカハナミという語が理解されていない。万926番歌で、ウマナメテ(馬並めて〔馬並而〕)とあることに対比されよう。馬を並べるとは馬を縦列させて連なることではなく、横列に並ぶことである。そのままカハナミに当てはめればわかるように、川が何本も並行して流れていることを言っている。

 …… 国はしも さはにあれども 里はしも 多にあれども 山並やまなみの よろしき国と 川次かはなみの 立ち合ふさとと ……(万1050)

 東京でいえば、江戸川、中川、荒川、隅田川はその関係にある。もちろん、山部赤人は叙景の歌を歌っているわけではない。なぜなら、柿本人麻呂や笠金村の歌に似すぎているからである(注3)。「応詔作歌」でもない。なのにそれほどまで踏襲した歌を歌う理由としては、パロディである可能性がある(注4)。そう考えてみれば至極簡単なことに気づかされる。「川」という字である。縦のラインが横に三本並んでいる。そういう状態を謂わんとして、カハナミという語を使っているのであろうと直感させられる。
 万926番の長歌とその反歌、万927番の短歌の関係はよくわかる。「馬並めて」の狩りの歌が展開して行っている(注5)。反して、万923番の長歌とその反歌、万924・925番の短歌の関係はよくわからない。「川次かはなみの」の歌が展開して鳥の歌になっている(注6)。筆者は、カハナミは縦に線を刻むことであると考えている。すなわち、数えることである。

 水の上に 数書く如き 吾が命 妹に逢はむと 祈誓うけひつるかも(万2433)

 数を数えるときには地面に線をつけたり、木簡などの上に墨で書いたりした。それ以外には、数取りのために棒や串などを用いる方法もある。物一個一個に合わせて棒を置いていって一対一対応させて数えた。数が多くなる時には別の置き方をするが、基本的には線を刻むのと同じで最初に棒を縦に向けて置き、それと平行に置いていく。「川」という字になるようにしていくわけである。この数取りのための棒のことをチウ、また、チウという。

 …… 山とつもれる しきたへの 枕の塵も ひとりねの 数にしとらば 尽きぬべし ……(蜻蛉日記・上)
 あしたづの よはひしあらば 君が代の 千歳の数も かぞへとりてむ(紫式部日記10歌)
 冬の御扇を数にとりて、一百遍づつぞ念じ申させ給ける。(大鏡・道長下)
 合籌壱具〈木叉〉(大安寺伽藍縁起并流記資財帳、天平一九年(747)二月十一日)
 芳春烟草早朝晴 使客乗興出前庭 廻杖飛空疑初月 奔毬転地似流星 左擬右承当門競 分行群踏虬雷声 大呼伐皷催籌急 観者猶嫌都易成(経国集巻十一、太上天皇・七言 早春観打毬〈使渤海客奏此楽〉一首)

 細長い串状の棒である。木簡を割ったような形である。それは別の目的にも用いられた。投壺の矢に用いられている。和名抄に、「投壺 投壺経に云はく、投壺〈内典に豆保宇知つぼうちと云ひ、一に都保奈介つぼなげと云ふ〉は古礼なり、壺の長さ一尺二寸二分、籌の長さ一尺二寸といふ。〈籌は即ち投壺の矢の名なり、同経に見ゆ〉」とある。そしてまた、大便を拭うための糞箆くそべらとしても使われている。藤原京跡、平城宮跡からも出土している。ところで、便所はどこにあったか。言葉はきちんと伝えてくれている。かはやと呼ばれているように川で用を足していた。水洗便所である。ここに、カハナミという語の巧みさが見て取れよう。赤人は籌木の歌を歌っているのである。数取りの棒だから、カハナミの長歌に対してトリ(取、鳥)の短歌が并さっている(注7)

 又大門ノワキノ河屋ノシドケナキ、モタイナキコト也。籌ノヒシトチリタル、ミグルシキ事也。(高弁述・却癈忘記・上)
 屙ノ後籌ヲ使ヒ、アルヒハ紙ヲ使フ。ソノノチ水辺ニイタリテ洗浄スル。……厠籌ヲモテ地面ヲ劃スルコトナカレ。屙屎退後、スヘカラク使籌スヘシ。マタカミヲモチヰル法アリ。故紙ヲモチヰルヘカラス。字ヲカキタラン紙モチヰルヘカラス。浄籌触籌ワキマフヘシ。籌ハナカサ八寸ニツクリテ三角ナリ。フトサハ手ノ拇指ノ大ナリ。漆ニテヌレルモアリ、未漆ナルモアリ。触ハ籌斗ニナケオキ、浄ハモトヨリ籌架ニアリ。籌架ハ槽ノマヘノ版頭ノホトリニオケリ。使籌・使紙ノノチ、洗浄スル法ハ、……(道元・正法眼蔵・洗浄)

 み吉野の 象山きさやまの ぬれには ここだもさわく 鳥の声かも(万924)
 ぬばたまの 夜の更けゆけば ひさ生ふる 清き川原に どりしば鳴く(万925)

 エレファントのことを「きさ」とヤマトコトバで言ったのは、その牙に木目模様(きさ)のあることと絡めてのことである。骨角器を用いて模様を刻むこと、また骨角器に模様を刻むことをしていたから、その元祖のような象牙の持ち主をしてキサと呼んでいる(注8)。しかも、象の牙は左右に並んで二本伸びている。ノノなる字は巜のように川のことを言っていると見える。「象山の」にあって山と山のマ、つまり、谷になっていて、小さかろうが川が流れている。「ぬれ」には、濡れること、塗れることの連想が効いている。川があれば濡れるし、また、籌木には特定の何かを塗りつけている。漆のようにも見えるねばねばしたものである。さっきまで数取りの棒だと思っていたものが別の用途で用いられ、たくさん捨てられている。数取りの棒だけに、その数を数えると、トリ、トリ、トリ、……とたくさんの鳥が騒ぐように泣いている声がするのかなあ、と厠の歌が歌われている。

左:キササゲの莢実、右:籌木(平城宮資料館展示品)

 二十巻本和名抄に、「楸 唐韻に云はく、楸〈音は秋、漢語抄に比佐木ひさぎと云ふ〉は木の名なりといふ。」とある。このヒサギについて、アカメガシワとする説とキササゲとする説があげられている(注9)。これはキササゲであろう。季語の問題ではなく、キササゲの実のつき方が何本も並んで垂れさがることを言っている。キササゲの莢実の垂れさがるのを川の字に並んだ籌木に見立てた。葉が枯れても久しく莢実を残しており、割れてもがわばかりをとどめる。よって、どれぐらい久しいか日数を数えるのにちょうどいい数取りの棒ではないかと思い描いている。次の歌では思い人が来る日を数えるのに白玉を使っている。

 …… が待つ君は 沖つ波 来寄きよる白玉 つ波の 寄する白玉 求むとそ 君が来まさぬ ひりふとそ 君は来まさぬ 久にあらば 今七日なぬかばかり 早くあらば 今二日ばかり あらむとそ 君はきこしし な恋ひそわぎ(万3318)

 万925番歌では、清き川原であろうはずが夜陰に乗じて用を足すものがいる。そして、数取りの棒だと称されるものが捨てられている。原文に「數」字が使われてシバ鳴くと訓まれている点は注目されるべきである。「千鳥〔知鳥〕」と千本も籌木が使われている。未使用のものを浄籌、使用したものを触籌と言った。キササゲの莢を採って糞箆にして清き川原に捨てているというのである。
 筆者は、ここに、アララギ派が「名歌」に見ていた光景とは別のものを見ている。また、万葉集研究者の見たがっていた祭儀性や讃歌性を見ることもない。

(注)
(注1)清水1976.、坂本1986.、高松2007.、鈴木2017.、土佐2020.などに通称されている。
(注2)吉井1984.にそうした解釈が見られる。
 鈴木2017.はこの左注を詳細に分析しているが、左注の字句にとらわれて歌の解釈の前提を推断するという逸脱をおかしている。「この「不審先後」の注記は、編者が当該二歌群[万923~925番歌と万926~927番歌]両方の作歌年次を知らなかったという事情を示すと共に、少なくとも編者は、二歌群を不可分の一体とは見ていなかったことを物語るのである。」(25頁)、「当該左注は、「右(当該二歌群)」は、「先後審らかならず(いずれも作歌年次が不明である為、時間的な前後関係は知り得ない)」が、「便を以て(歌の内容が金村歌に近いという事情を斟酌して)」この順番で掲載した、ということであったと考える。」(26~27頁)としている。
 本稿でみているように、「山部宿祢赤人作謌二首〈并短歌〉」は万923~927番歌は一群の歌であり、左注が題詞を超えて枠組みを設置することはない。「不先後」と言っているだけで、作歌年次の不明を指摘するものではない。万926番歌の狩りの歌に「春の茂野に」とあるからそれは春にしか詠み得ないと捉えて別の行幸時の作であるとしていては、何のための題詞一括記載なのかわからなくなる。
 「以便」の「便」を、便宜上、便宜的と取る説と、たより、てがかりと取る説があるとされている。この二つの説の違いは曖昧で、笠金村の歌に似ているからそれを「便」として「載於此次」せた結果このようになったと言っている。左注の人の筆はふるっていて、「以便於此次」としている。「故」と記す自信はどこから生まれてくるのか。それは、万924~925番歌が「便」(大便)の歌だからである。和名抄に、「屎 野王案に、糞〈府悶反、久曽くそ、又、糞土は塵土類に見ゆ〉は屎なりとす。説文に云はく、屎〈音は矢、字は亦、𡱁に作る。今案ふるに俗人、牛馬犬等の糞を呼びて弓矢の矢の如しとよぶは、是れ𡱁の訛れるなり〉は大便なりといふ。」とある。わかる人にはわかる籌木の歌をカモフラージュするためにそれ以外の歌は歌われている。
(注3)やすみしし わご大君の きこす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ あきの野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水たぎつ たぎの都は 見れど飽かぬかも(万36、柿本人麻呂)
 あしひきの み山もさやに 落ちたぎつ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば かみには 千鳥しば鳴く しもには かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに しじにしあれば 見るごとに あやにともしみ たまかづら 絶ゆること無く 万代よろづよに かくしもがもと 天地あめつちの 神をそ祈る かしこくあれども(万920、笠金村)
(注4)吉野宮への行幸が聖武天皇に復活されているのだから、歌は吉野のことを讃美しているはず、赤人の叙景はすなわち讃美であったはずであるとする先入観があり、ドグマ化してそこから出ることができていない。
(注5)坂本1976.は、本来なら吉野について歌われるはずの「見れど飽かぬかも」という儀礼的讃美詞章が、「み吉野の 秋津の小野の〔見吉野乃飽津之小野笶〕」と表記の上に隠微な形で拒絶しているとする。
(注6)この点について探究した議論は管見に入らない。かつて、島木1925.が赤人の短歌、万924・925番歌を高く称賛したことがあり、そのとき、万923番の長歌からは切り離されて考えられた。万葉集研究では、長歌に短歌が并せて歌われているから切り離して考えてはならないとしているが、解釈には完遂されていない。
(注7)トリ(取)とトリ(鳥)はアクセントを異にするからこの解釈は成り立たないとする理屈は、洒落のわからぬナンセンスなものである。センスの粋を極めたものが歌であった。トリ(取)とトリ(鳥)の洒落の例には、額田王の春秋競憐歌がある。拙稿「額田王の春秋競憐歌について─万葉集16番歌─」参照。
(注8)「きさ」、「きさ」のキの甲乙は不明であるが、「きざむ」、「」のキは甲類である。
(注9)万葉集にヒサキを歌った歌はほかに三首ある。

 去年こぞ咲きし ひさ今咲く いたづらに つちにや落ちむ 見る人なしに(万1863)

 この歌は「春雑歌」に分類されている。だからと言って春に咲く花木であると考えるのは単純にすぎる。時季外れの今、はやくも狂い咲きしているから「いたづらに地に落ち」るであろうと言っている。久木というのだから久しく時間が経過せずに咲いては困るのである。言葉と事柄とは同じであるとする言霊信仰に基づいた考え方によっている。そしてまた、それがイタヅラ(板面)に利用可能な材だからと戯れ詠んでいると考えられる。延喜式に、「楸の版二枚。〈各長さ一尺二寸、広さ七寸、厚さ六分。」(大学寮・釈奠条)などとあり、楸の材で版を作って祝文を書き、釈奠の儀式が終われば焼却された。

 波の間ゆ 見ゆる小島の 浜久木 久しくなりぬ 君に逢はずして(万2753)
 度会わたらひの 大川の辺の 若歴わかひさ 吾が久ならば 妹恋ひむかも(万3127)

 木を考えるときに花期を問うことにほとんど意味はない。上の二首も樹種などどうでもよい言葉遊びの歌である。植物名としては実用途から捉えられたものがある。木下2010.はアカメガシワを推している。材は軽く、下駄材、薪炭材、キクラゲの榾木などに用いられる。他方、キササゲは材が腐りにくいから「久木」の意にかなうとする説もある。同じように材は軽く、中国で「梓」字を用い、版木に用いられることで知られる。図書を出版することを上梓と言っている。百万塔陀羅尼の木版印刷に再版をくり返したが、銅凸版との説もある。本邦では版木にはサクラを使うことが多い。正倉院文書の「楸木瑟」の材はわからない。
 また、染紙に「比佐木紙」(正倉院文書・天平三年八月十日「写経目録」)、「比佐宜染」(同・天平六年五月一日「造佛所作物帳」)、「楸紙」(同・天平宝字三年十月二十四日「上馬養雑紙注文」)などとある。前田1983.はじめ一般にアカメガシワの葉を使ったものとされているが、キササゲの葉も草木染めができる。造佛所作物帳の記事は椿灰につづいている。

 買椿灰八十五斛二斗〈七十三斛九斗、斗別四文、十一斛三斗、斗別三文、〉
  直銭三貫二百九十五文
 採木芙蓉胡桃皮楸葉等人功直并運車駄賃料銭一貫七百廿八文

 前田1983.は、この記事の最後の行を引いて「胡桃くるみ」について、「胡桃樹皮の灰汁媒染による褐色はその中に仄かな紫色を含み、他の樹皮や紫染の灰汁媒染による黄褐色に比して著しい特徴があって美しい。」(479頁)とし、また「芙蓉ふよう」は、「灰汁媒染では黄褐色で、鉄媒染では鼠色を呈する。天平時代の染紙は写経用であるから、……楸[赤芽槲あかめがしわ]と共に灰汁媒染であったのは明らかである。」(485~486頁)としている。また、久米1995.は、「ひさぎのかみ[楸紙]」をアカメガシワ(赤芽柏)の葉や皮の煎汁で染めた紙とし、「無媒染でも染まるが、灰汁媒染すると、茶色の木蘭色もくらんじきとなり、これは仏門の好む色であった。また鉄媒染すると濃い紫色になる。」(283頁)とする。ただし、最初の行にある椿灰はアルミ媒染に使用する。関連事項として考えると、木芙蓉は花の終った茎葉を刻み煎じて染液とし、アルミ媒染で黄茶色から金茶色に染まる。胡桃皮は樹皮か果皮か不明ながらアルミ媒染で黄味の茶色ややや赤味の薄茶色に染まる。楸葉がキササゲの葉とするとアルミ媒染で黄色に染まる(以上、山崎2012a.同2012b.による。)。アカメガシワがアルミ媒染に何色となるか山崎2012a.に記載はない。
 使われている言葉の性質をみると、万葉歌に言っているのは久しいこと、日数の経過していることであり、それを数えるための数取りの棒としてキササゲの莢を使ったと捉えることがふさわしいと考える。言葉に対する扱いは科学的に証明されることを期待されてはおらず、ずっとストレートであったと思われる。

(引用・参考文献)
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伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注三』集英社、1996年。
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尾崎1960. 尾崎暢殃『山部赤人の研究』明治書院、昭和35年。
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黒崎2009. 黒崎直『水洗トイレは古代にもあった─トイレ考古学入門─』吉川弘文館、2009年。
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坂本1986. 坂本信幸「赤人の吉野讃歌(巻六・九二三~九二七)」『国文学 解釈と鑑賞』第51巻第2号、至文堂、1986年2月。奈良女子大学学術情報センター http://hdl.handle.net/10935/1072
清水1976. 清水克彦「赤人の吉野讃歌」『万葉論集 第二』桜楓社、1980年。(「赤人の吉野讃歌─作歌年月不審の作群について─」『萬葉』第91号、昭和51年3月。萬葉学会ホームページ http://manyoug.jp/memoir/1976
島木1925. 島木赤彦『萬葉集の鑑賞及び其批評 前編』岩波書店、大正14年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954264
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土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。
日本史色彩事典 丸山伸彦編『日本史色彩事典』吉川弘文館、2012年。
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山崎2012a. 山崎青樹『草木染染料植物図鑑1─日本の身近な染料植物120─』美術出版社、2012年。
山崎2012b. 山崎青樹『草木染染料植物図鑑2─日本の身近な染料植物120─』美術出版社、2012年。
吉井1984. 吉井巌『萬葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。

加藤良平 2021.8.2初出

万葉集の「葦垣」の歌について

 万葉集で「葦垣あしかき」という語が登場する歌は次の十首である。「葦垣の」の形で名詞とするものと枕詞とするものがある。実際の情景を詠んだとは言えずに唐突に「葦垣」と出てくる場合、下の語を導くために冠る語、すなわち、枕詞であると解され、次のように分類されている。

 名詞「葦垣」
 葦垣の 中の和草にこぐさ にこやかに 我とまして 人に知らゆな〔蘆垣之中之似兒草尓故余漢我共咲為而人尓所知名〕(万2762)
 葦垣の すゑかき分けて 君越ゆと 人にな告げそ 事はたな知れ〔蘆垣之末掻別而君越跡人丹勿告事者棚知〕(万3279)
 葦垣の ほかにも君が 寄り立たし 恋ひけれこそば いめに見えけれ〔安之可伎能保加尓母伎美我余里多々志孤悲家礼許曽婆伊米尓見要家礼〕(万3977)
 葦垣の くまに立ちて わぎ妹子もこが 袖もしほほに 泣きしぞ思はゆ〔阿之可伎能久麻刀尓多知弖和藝毛古我蘇弖母志保々尓奈伎志曽母波由〕(万4357)
  右の一首は市原郡上丁刑部直千国
 花ぐはし 葦垣越しに ただ一目 相見し子ゆゑ たび嘆きつ〔花細葦垣越尓直一目相視之兒故千遍嘆津〕(万2565)
 ひと間守まもり 葦垣越しに わぎ妹子もこを 相見しからに ことそさた多き〔人間守蘆垣越尓吾妹子乎相見之柄二事曽左太多寸〕(万2576)

 枕詞「葦垣の」
 おしてる 難波の国は 葦垣の りにし里と 人皆の 思ひやすみて つれもなく ありし間に ……〔忍照難波乃國者葦垣乃古郷跡人皆之念息而都礼母無有之間尓……〕(万928)
  弟の死去みまかれるを哀しびて作る歌一首〈并せて短歌〉
 …… 闇夜なす 思ひ惑はひ 射ゆ鹿ししの 心を痛み 葦垣の 思ひ乱れて 春鳥の のみ泣きつつ ……〔……闇夜成思迷匍匐所射十六乃意矣痛葦垣之思乱而春鳥能啼耳鳴乍……〕(万1804)
 …… 天雲の ゆくらゆくらに 葦垣の 思ひ乱れて 乱れ麻の をけをなみと 吾が恋ふる ……〔……天雲之行莫々蘆垣乃思乱而乱麻乃麻笥乎無登吾戀流……〕(万3272)
 我が背子に 恋ひすべながり 葦垣の ほかに嘆かふ あれし悲しも〔和賀勢故邇古非須敝奈賀利安之可伎能保可尓奈氣加布安礼之可奈思母〕(万3975)

 実際のところ、歌に歌われている「葦垣」がどういうものかよくわからない。

 内記、案内よく知れるかの殿の人に問ひ聞きたりければ、宿直人ある方には寄らで、葦垣し籠めたる西にしおもてを、やをらすこしこぼちて入りぬ。(源氏物語・浮舟)

 この例からすれば、葦を素材にして網代に編んだような垣、葦簀よしずを立てかけたような垣、柴垣の柴に葦で代用したようなものとも見受けられるが、万葉集の「葦垣」と同じと考えてよいかは不明で実態はつかめない。葦を刈り取ったものを使った垣か、葦を生やした生垣、例えば環濠に植えるといった工夫をして垣としたものかも定められない。語の構成として、他には「荒垣」、「青垣」、「がき」、「岩垣いはかき」、「竹垣たかがき」、「間垣」、「瑞垣みづかき」といった例が見られる。このうち、材料をして垣根の名前としている例は、「葦垣」十例と「竹垣」一例(万2530)ということになる。「柴垣」は万葉集に見られない。この偏重は謎とすべきであろう(注1)
 「葦垣」という語が好まれて使われている。上代の人は、「葦垣」という語に、言葉遊び的要素を見出したからではないか(注2)。葦の垣を越えるのに、足をきもがくこと、足掻あがくことになるという洒落である。垣の両側で段差があるように思われてならない。
 万3975番歌と万3977番歌とは、一連の大伴家持と大伴池主との歌のやりとりの一節である。長い題詞や長歌、短歌の組み合わせを伴い、漢詩まで織り込まれている。歌の「葦垣のほか」と関連する題詞部分を示すと次のようになる。

  昨日短懐を述べ、今朝耳目をけがす。更に賜書を承り、且、不次を奉る。死罪々々。……
 我が背子に 恋ひすべながり 葦垣の ほかに嘆かふ あれし悲しも(万3975)
   三月五日、大伴宿禰池主
  昨暮の来使は、幸ひに晩春遊覧の詩を垂れ、今朝の累信は、かたじけなくも相招望野の歌をたまふ。一たび玉藻を看て、稍く欝結をのぞき、二たび秀句をうたひて、已に愁緒をのぞく。……
 葦垣の ほかにも君が 寄り立たし 恋ひけれこそば いめに見えけれ(万3977)
   三月五日に、大伴宿禰家持の、病に臥して作る

 「葦垣の外」という言い方に興趣を覚えたから和しているように見える(注3)。「葦垣」という言葉を殊更に使い、前後する言葉との連なりにおもしろさが感じられるから好まれたのであろう。池主が家持からの手紙に恐縮して、「死罪々々」などと書いている点と、「葦垣の外」という言い方とは何か関連がありそうだと感じられる。他の例を見たうえで再度検討したい。
 万1804・3272番歌では、「葦垣の思ひ乱れて」と歌って悦に入っている。枕詞としての「葦垣の」は、一般に、葦の垣根はすぐ古びて乱れやすくまた間を詰めて作ることから、「り」や「乱れ」などに掛かるとされている。この種の説明はわかったようでいてわからない。「思ひ乱れて」の途中の「思ひ」という語を飛ばして「乱れ」に掛かるいうのでは説明になっていない。もっと鋭い言葉遊びが行われていたと考えなければ枕詞として自立することはなかったのではないか。聞いた瞬間にわかることで言葉の命略は保たれる。

チガヤ(ツバナ)

  そこで、「葦垣」の義の第三の可能性について見て取ることにしたい。それは、「葦垣」が、夏越の祓に用いられる茅の輪のことを指しているのではないかとするものである(注4)。茅の輪は、背の低いチガヤばかりで作るものではなく、アシやススキなどを一緒に束ねて作られることが多かったようである。使用目的は祓の用具である。なぜ祓をしなければならないか。「思ひ乱れ」があるからである。茅の輪くぐりの行事が終わった後、輪からチガヤを引き抜いて持ち帰る風習の残るところもある。また、季節を問わず神社で行われているお祓いでは、神職が大幣おおぬさ(大麻)をる仕草をする。穂を出したばなの形によく似ている。だから、「り」に掛かる。夏越の祓と呼ばれている民間習俗も、正式には、神官が茅の輪をくぐるだけではなく、中臣祓詞を唱え、人形ひとがたを一撫一吻し、解縄、大麻の一撫一吻、散米、人形流しなどを行っている(注5)

 祓のための道具である茅の輪のこととすると、祓を必要とする難事に対している場合や、そこで逢う男女が禁断の関係であることを思わせる効果が生まれる。

 葦垣の 中の和草にこぐさ にこやかに 我とまして 人に知らゆな(万2762)

 万2762番歌に、「和草にこぐさ」とあるのは、アシ、チガヤ、ススキ、オギ、スゲなど、イネ科やカヤチリグサ科の多年草のもつごわごわした葉や稈ではない柔らかい草が紛れていたということを言うとともに、本来なら逢ってはいけない不倫関係を指摘するものでもあろう。万葉時代の婚姻関係は大らかであったことが知られるが、かといって浮気されたことが知れれば嫌がる人がいただろうことも容易に想像できる。相愛関係が人に知られないようにと慮っている。
 「葦垣の」が「ほか」に掛かるのは、茅の輪に穂が混ざるところと考えたか、大幣を茅花に例えて茅の穂と見、ホ(穂)+カ(処)の意であると捉えられたからであろう。
 岩波古語辞典に、「ホカは中心点からはずれた端の方の所の意。奈良・平安時代には類義語ヨソは、自分とは距離のある、無関係、無縁な位置関係をいう。また、ト(外)は、ここまでが自分の領域だとする区切りの向うの場所をいう。奈良・平安時代にはウチ(内)・トが対義語であった」 (1190頁)とある。また、ナカについて、「原義は層をなすもの、並立するもの、長さのあるものなどを三つに分け、その両端ではない中間にあたる所の意。」(966頁)とあって、その対義語がホカなのであろう(注6)
 いま、万葉人が戯れている言語遊戯では、茅の輪の束ねられているところがナカ、そこから外れたところはすべてホカと呼んでおもしろがっているものと思われる。人は茅の輪のナカをくぐっているようで、実は束ねられた輪のナカには入ることができない。祓行事に参加しても、いつだってホカ(穂処、外)にいる。

 我が背子に 恋ひすべながり 葦垣の ほかに嘆かふ あれし悲しも(万3975)
 葦垣の ほかにも君が 寄り立たし 恋ひけれこそば 夢に見えけれ(万3977)
 我が背子に恋ふ方法がない、葦で作って垣根のように守る役割を果たす茅の輪で祓をしようにも季節外れで中をくぐれずホカにいるばかりだ。季節が当たっていても結局はホカにいるばかりなのだが。どちらにしても効力がなくてただ嘆くばかりだ。私は悲しい(注7)
 葦で作って垣根のように守る役割を果たす茅の輪のホカにであっても、そこにあなたが寄り立って恋しがっていらっしゃっていたからこそ、私の夢に見えたのでしょう。

 赤駒を 厩に立て 黒駒を 厩に立てて そを飼ひ 吾が行くがごと 思ひ妻 心に乗りて 高山の 峯のたをりに 射目いめ立てて 鹿猪しし待つが如 床敷きて 吾が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
 葦垣の すゑかき分けて 君越ゆと 人にな告げそ 事はたな知れ(万3279)

 万3279番歌の「すゑ」という言い回しは巧みである。茅の輪は円環だから始点も末端もない。くぐりは8の字を重ねるように左、右、左回りして進むという面倒くさい進み方をする。本当は存在しない茅の輪の「末」のところをかき分けるように罪を祓って越えて来ているのだから、その事情を汲んで、犬よ、吠えて人に告げるようなことをするなと長歌の方で言っている。犬がぴょこぴょこ茅の輪を越えることは想像に難くなく、途中でおしっこをひっかけることもあり得ることである。
 万4357番歌は、防人の歌である。「天平勝宝七歳乙未の二月に、相替りて筑紫に遣はさえし諸国くにぐにの防人等の歌」と万4321番歌前に題詞のあるうち、「二月九日に、上総国の防人部領ことり使づかひ少目せうさくわん従七位下茨田連沙弥麻呂のたてまつれる歌の数は十九首、但し拙劣つたなき歌は取り載せず。」と万4359番歌の左注に記されるうちの一首である。

 葦垣の くまに立ちて わぎ妹子もこが 袖もしほほに 泣きしぞ思はゆ(万4357)

 防人に選ばれて出掛けることになった。生還できるかハイリスクな任務である。お祓いをして無事を祈ったということであろう。直面するつらい事態を歌うものである。

 花ぐはし 葦垣越しに ただ一目 相見し子ゆゑ たび嘆きつ(万2565)
 ひと間守まもり 葦垣越しに わぎ妹子もこを 相見しからに ことそさた多き(万2576)

 これらの「葦垣」も茅の輪のことと考えられる。万2565番歌の「花ぐはし」が「葦」に掛かるのは、「葦」がイネ科の総称として用いられていて、「ばな」は若いうちは食用になったから、「花はし」の意にもとっておもしろがったのだろう(注8)。そして、「葦垣越し」に会うということが、罪・穢れを祓わないでいることを表し、結果的に苦難を味わうことを謂わんとしている。その苦難が千倍になっているのは、「」が「」と同音だからである(注9)。万2576番歌の「さた」は「さだむ」の語幹であると考えられており、「人間守り」と人に見られない隙をついているのだが、罪・穢れを祓うべき場を逢瀬の場にしていたら、さだめて人言ひとことはかえって多くなるものであると言っている。人が見ていないからと言って悪いことをするものではないことは、古今東西変わらぬ教えと思われる。

 おしてる 難波の国は 葦垣の りにし里と 人皆の 思ひやすみて つれもなく ありし間に ……(万928)

 難波と葦との関係は、他の例にも知られる。

 ……  いや遠に 国を来離れ いや高に 山を越え過ぎ 葦が散る 難波に来居て 夕潮に 船を浮けすゑ 朝なぎに 向け漕がむと ……(万4398)

 「葦が散る」は、難波が湿地帯の多い地であったことからの修飾語、枕詞とされている。ナニハはナ(魚)+ニハ(庭)、また、ナミ(浪)+ハ(花)の意と捉えられ、海面に風波がちらちら輝くさまと茅花が咲いて揺れ動いてちらちらするさまが同等のものと認識されたからであろう。したがって、万928番歌の「葦垣の」は、「振り」と同音の「古り」に掛かる枕詞でありつつ、「難波の国」によって導き出された修飾語であるとも言える。
 以上から、万葉集の「葦垣」は、茅の輪のことをいう文学的表現であったと理解されよう。
 とはいえ、語学的にどうして「葦垣」が茅の輪のことを指すと言えるのか。
 アシカキと聞けば、水生の哺乳類、アシカ(海驢)のことが思い浮かぶ。当時のヤマトの人はアシカを毛皮でしか目にしたことがなかったかもしれないが、その足が鰭化したものであることだけは了解できたであろう。蝦夷から聞く話でも、這うようにして歩いていることが伝えられていたに違いあるまい。足をいて懸命に歩を進めものの、足をいているからなかなか進まない。茅の輪くぐりでなかなか前へ進めないことを思わせる(注10)。アシカのことは古語ではミチという。「海驢みちの皮八重」(記上)とある。みちにまつわる動物の名となっている。ミチはミ(御)+チ(茅)の意であるとも解釈できる。

左:カリフォルニアアシカ(上野動物園)、右:あじか(和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2596371/14をトリミング)

 そんなアシカによく似た音の語にアジカ(蕢・簣・䈪)がある。竹や葦などで編んだ籠のことである。新撰字鏡に、「篅 上字、時規・市縁二反、舟笥也。小筐也。又、簞に作る。志太美したみ、又、阿自加あじか、又、伊佐留いざる」、和名抄に、「䈪 方言注に云はく、䈪は形小さくて高く、江東に呼びて䈪〈呼撃反、漢語抄に阿自賀あじかと云ふ〉とといふ。今案ふるに又、簣の字を用う。史記に見ゆ。」、「籮 考声切韵に云はく、江南の人、筐の底、方にして上、円なる者を謂ひて籮〈音は羅、之太美したみ〉とといふ。」、「箄 四声字苑に云はく、箄〈博継反、漢語抄に飯箄は以比之太美いひしたみと云ふ〉は甑底を蔽ふ竹筐なりといふ。」とある。シタミ(蘿・籮)は、底が四角く上が丸く作られた笊のことともされている(注11)。しずくをしたたらすことに用いられ、特に酒を濾すために用いられた。
 漢土において、それはチガヤ(茅)で作られ、蕝という字が用いられている。国語・晋語に、「昔成王盟諸侯于岐陽。楚為荊蛮、置茅蕝。」とあって、盟約を結ぶために酒を濾すために茅で作ったしたみを使っている。真ん中をくぼめた形にしたものと考えられる。名義抄に、「凹 クボム、禾[和音]エフ、又、」と訓があって、丸く凹んだものをワと言っていたことが知れる。茅の輪ということになる。霊異記には地名として「片蕝 カタワ」(上・三)とあり、蕝とは輪、すなわち、茅の輪のことであるとわかる。
 説文に、「蕝 朝会束茅表位、曰蕝。从艸絶声。春秋国語曰、致茅蕝坐。」とあって、朝廷の会合の際に位次を表すために立てた茅の束のことを言った(注12)。また、蕝は橇に通じる。アシカは足を欠いてまことに橇のようなものである。史記・夏本紀の禹の治水事業に、「陸行乗車、水行乗船、泥行乗橇。〈集解徐広曰、他書或作蕝。駰案、孟康曰、橇形如箕、擿行泥上。如淳曰、橇音茅蕝之蕝。謂板置泥上以通‐行路也。〉」とある。アシカの毛皮は敷物だから席次にまつわり、それを漢土では茅で示して蕝としている。
 よって、万葉集に「葦垣」とあるのは、「茅の輪」のことであったと推定される(注13)。なぜこれほどまでややこしい表現が用いられたかについては今後の課題である。

(注)
(注1)万葉集に十例を見た「葦垣」は、その後、中古では源氏物語に三例(催馬楽の曲名「葦垣」が他に二例)を見るものの散文ではほとんど見えない。和歌には、「人知れぬ 思ひやなぞと 葦垣の まぢかけれども 逢ふよしのなき」(古今集506)、「葦垣に ひまなくかかる 蜘蛛のの ものむつかしく しける我が恋」(金葉集(二度本)446)、「梅の花 いかでにほひの もりくらむ 葦の中垣 ひまなきものを」(夫木抄15016)といった歌に見られる。枕詞など修辞的な利用目的で葦垣という語は使われることが多い。後の作庭文化においても葦垣が実用上注目されるには至っていない。
(注2)賀古1965.に、「「葦垣」の語は、……万葉集歌中において、相思の男女の忍び逢う場である、女の家の垣のある所、その「忍ぶ恋の場○○○○○の垣●●の意を、「葦垣」などの「垣」の類語に負わせて、その恋情意の思惟の表現要素語として用いられている、特定の意義・用法の性格、すなわち、万葉情意語としての性格のものである」(140頁)としている。どうして「葦垣」という語が負わされたのか説明はない。
(注3)阿蘇1995.参照。
(注4)茅の輪くぐりがいつから行われていたか、はっきりしたことは不明である。大森1958.は、民間行事と国家祭祀とが混淆されたものであるとし、「名越の祓とよばれる行事の内容は、茅の輪を潜り越えることと、水辺に出て麻・木綿などを著けた五十籤を立てて祓を行ふことの二つである。このうち、茅の輪をくぐることが本来の名越の祓であって、水辺の祓は大祓系統のものであらうか。」(3頁)とする。
 茅の輪を腰に着けたことは備後風土記逸文に蘇民将来の記事に見え、また、類似のものとしてか、「すがぬき」、「水無月の輪」、「御輪」とも呼ばれている。ミワと称されることは、疫病をひろめる祟り神をしてあった三輪山との関係を思わせ、祓えの具として認められるに至っていたであろうことが予感される。
 実際の文献としてこれまでもっとも古いとされるのは、執政所抄(12世紀初め)であり、「晦日御祓事 御禊具 八足供物〈茅輪をゑ小幣を立て瓜・茄子・桃を供す〉 麻木綿 折敷供物 茅人形 解縄 散米 居坏……」(新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200021032/viewer/12)とある。茅の輪が立てられたものかどうか定まらないが、拾玉集(1346年)に、「夏つる 今日の祓の すがぬきを 越えてや秋に 成らむとすらむ」(巻六・夏二十首)とあり、ナゴシは越えるものとの観念が定着していっているように思われる。茅の輪はくぐるタイプで、すがぬきは身に着けたり身を通したりするタイプかとも言われている。藤原忠通・法性寺関白御集(12世紀)に「六月祓詩」がある。

 世上久為流例態 林鐘晦日禊除衆 詠無他詠千年頌 期有定期六月風
 苔地燎幽迎夜処 石湍水冷欲秋中 未知何物号菅抜 結草如輪令首蒙

 林鐘は六月の異称、菅抜を首にかけることが祓の所作であったようである。スゲ(菅)で作られていたとする説の一方、スガ(清)ヌキ(抜)ゆえの称とも言われている。到津公弘・宇佐宮斎会式(享徳四年(1455))に宇佐神宮で行われていた御祓会の行事の次第が記されている。史料にて遡ることのできない事柄ゆえ、筆者は絶対の自信をもって「葦垣」=「茅の輪」説を唱えているわけではない。それでも、「葦垣」が単純に葦の垣であると考えられない例証として、「……水蛭子ひるこ。此の子は、葦船に入れて流し去りき。」(記上)や、「葦かびの」という語がある。「葦かびの」が葦の発芽を言うにしても、種子からの発芽ではなく、地下茎からの発芽である。だから「足ひく」にかかる。拙稿「石川女郎と大伴田主の歌合戦について─「みやびを」論争を超えるために─」参照。

 我が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足ひく我が背 勤めぶべし(万128)
   右、中郎の足のやまひに依りて此の歌を贈りて問訊とぶらふそ。

(注5)神祇令に、「凡そ六月・十二月の晦日つごもりの大祓には、中臣は御祓麻おほぬさたてまつれ。東西の文部ふひとべは祓の刀を上り、祓詞はらへよごとを読め。訖りなば、百官の男女を祓の所に聚め集へ、中臣は祓詞をべ、卜部ははらへ除くこと為よ。」とある。
(注6)ヤマトは「葦原中国あしはらのなかつくに」である。葦を抜いて稲を育てた農業国家である。だから、葦の垣のなかは自分のところで、ほかはそれ以外のところという意識があり、語の形成に与ったと取ることは不可能ではないが、他の用例との整合性が保てない。
(注7)万3975番歌の「葦垣の」は枕詞として考えるのは適当でないと言える。もちろん、垣根によって離されているという心理的な距離感、疎外感を言っているものではない。
(注8)「花ぐはし 桜ので」(紀67)の歌について、桜は花の代表だから枕詞「花ぐはし」は「桜」に掛かるとする説は眉唾である。サクラはサクという語(音)をカバーしているから、そういう枕詞を作ったというのにすぎない。万葉時代に桜が愛でられていることはなかったと考えられている。中国の文芸に感化されて梅を愛でることは行われたが、ヤマトにもともとあったものではない。風流という概念で物事を語ることは歴史時代においてそれまで行われたことがなかった。すなわち、今日、パンダがかわいいと思うことは、自然界の原則から逸脱した考えで命にかかわる危険な捉え方である。クマ科の猛獣である。愛玩の対象となるまでには文明の洗礼を受けなければならない。飛鳥時代に都市化が起こって一部の貴族的階級に庭園を造ることがあったが、サクラが植えられた痕跡はない。サクラには実需がある。樹皮が曲物の綴じ皮に用いられている。拙稿「サクラ(桜)=サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)説」参照。
(注9)夏越の祓行事に、「水無月の 夏越の祓へ する人は 千歳の命 延ぶといふなり」(拾遺和歌集292、読人不知)を唱えている。
(注10)本邦の水族館にアシカショーが人気を博している。輪くぐりの曲芸が披露されている。古代に行われたか不明である。
(注11)ずんぐりむっくりのアジカ(蕢・簣・䈪)は脚なしに見え、アシカ(海驢)を意識した語かと思わせる。新撰字鏡に、イザルとあるのは、座ったままで移動すること、膝行することをイザルと言っていたことと符合する。万128番歌に「葦かびの」が「足ひく」とつづくことは、「葦垣」とアシカとの連動を支持するものである。
(注12)文徳天皇実録・斉衡三年(856)十一月壬戌(23日)条に、本邦に三度しかない郊祀、都の南郊に天壇を置いて天帝を祭るものであるとされる最後の例が載り、「設蕝習礼」と記されている。桓武天皇時代、延暦年間の長岡京から平安京へ遷っているのに旧時に倣って交野で行っているという。中国では天子がじきじきに赴くところ、大納言の代拝で済ませている。祝板と供物を携えて交野へ行って郊祀の予行演習をする際に席次を示したものと考えられている。あるいは、この「蕝」は敷物としての藁蓋相当のもの、また、茅の輪のようなものと考えられなくもない。
(注13)源氏物語の実在の「葦垣」については、中古文学のなかでは偏在している。語に対する作者の無理解によるのではないかと臆する。

(引用・参考文献)
阿蘇1995. 阿蘇瑞枝「葦垣のホカに嘆かふ」『萬葉の風土・文学 犬養孝博士米寿記念論集』塙書房、1995年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
大森1958. 大森志郎「茅の輪行事の起源と意義」『東京女子大學論集』第9巻第1号、1958年11月。東京女子大学学術情報リポリトジ http://id.nii.ac.jp/1632/00024824/
賀古1965. 賀古明『万葉集新論─万葉情意語の探究─』風間書房、昭和40年。
木下2017. 木下武司『和漢古典植物名精解』和泉書院、2017年。
黒須2000. 黒須利夫「『日本文徳天皇実録』とその時代─斉衡の郊祀─」『歴史読本』第45巻第9号(724)、2000年6月。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
日本国語大辞典第二版 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞書編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
額田1984. 額田巌『垣根』法政大学出版局、1984年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。

加藤良平 2021.7.18初出2022.12.31加筆

万葉集の「荒垣」の歌について

 万葉集で「荒垣あらがき」という語が登場する歌は次の二首である。

 里人の 言縁妻ことよせづまを 荒垣の よそにや我が見む 憎くあらなくに(万2562)〔里人之言縁妻乎荒垣之外也吾将見悪有名國〕
 金門田かなとだを 荒垣 日がれば 雨をとのす 君をと待とも(万3561)〔可奈刀田乎安良我伎麻由美比賀刀礼婆阿米乎万刀能須伎美乎等麻刀母〕

 万2562番歌の「外」字は、ヨソと訓む説とホカと訓む説がある(注1)。万3561番歌の「安良我伎麻由美」字は、「荒垣」(伊藤2009.381頁)と訓む説のほか、「あらきまみ」(中西1981.285頁)と訓む説もある。
 「荒垣」という語については、万葉集には他に「葦垣」、「青垣」、「がき」、「岩垣」、「高垣」、「間垣」、「瑞垣みづかき」といった用例から、それは粗雑に作られた垣のことではないかと考えられている。ただし、「垣」に冠する形容はさまざまである。修辞は前後関係からいかようにも導かれるもので、同じものを別の言い方をすることもあって歌を賑わせる。日本国語大辞典第二版には、「荒垣」の項で、「①柱と貫(ぬき)の間隔をあらくまばらに作った垣根。……②とくに、清浄なものとして神社などの外側に設けられた目のあらい垣根。」(612頁)という語釈が記されている。①の例に万2562番歌ばかりでなく、催馬楽の「関の安良可支あらかき」ほかを載せる。神社の垣のことは、「斎垣」、「瑞垣」、「荒垣」といろいろに言われている。
 関所の「荒垣」と神社の「荒垣」は設置されるところ、機能面においてよく似ている。関所の場合、通るところが決められてそこで通行手形を改めたり、税を納めたりして通過する。神社の場合も通るところは決められていて、鳥居の下で一礼してからくぐって進むことになっている。それ以外のところから出入りしてはいけなくて、そのための柵となるのが「荒垣」であると理解される。
 通るところは、「(トは甲類)」である。そこには「(トは甲類)」が付けられていることもあった。The ❝ト❞ とはそういうものである。夜間は門戸を閉ざして通れないようにする。江戸時代の町にも木戸番がいて、夜になると閉ざして治安が守られていた。次の例で、防人に出かける男を家族が見送りに来ているのは村の門のところである。

 防人に 立ちし朝明あさけの かなに ばなれ惜しみ 泣きしらはも(万3569)〔佐伎母理尓多知之安佐氣乃可奈刀〓〔亻偏に弖〕尓手婆奈礼乎思美奈吉思兒良婆母〕

 古事記の歌謡にも「かな」は出てくる。大前小前宿禰大臣の屋敷の周囲を軍勢が取り囲んだ時の歌である。

 大前おほまへ 前宿まへすくが かなかげ く寄りね 雨立ち止めむ(記80)〔意富麻弊袁麻弊須久泥賀加那斗加宜加久余理許泥阿米多知夜米牟〕

 カナトという語は金属で扉や柱を堅め飾ることを示すかとされるが、金属製の鎧戸は遺跡として発掘した例がない。似た音の「かなき」が拘束具を表すから、鍵をかけることと関係があるのかもしれない。門戸の場合も、鍵をかけるものならその部分に金属を用いることが生じる。かんぬきの場合、通して支えるためには閂鎹かんぬきかすがいに金属を要する。戸は開き戸だったから、落とし猿を止めるためにも金属製の鎹を付けることで力づくでは壊されないようにしていることが多かった。
 そのように鍵のかかるものを「かな」と称したとすると、万3561番歌の「かな門田とだ」とは、鍵かけて守るような門を持った田の謂いであると知れる。一説のように「あらきまみ」と訓んで田植え前のこと(注2)と解すると、第五句の「君をと待とも」の「君」が未だ生まれざる以前になってしまい違和感が生ずる。「荒垣」は稲の成長の様子を門の横の「荒垣」の隙間から見守るということになってわかりやすい。「君」の生育にはその親兄弟が携わるから、上手に適齢期になるのを祈り見ているということになる。
 そこで、万2562番歌の「外」は「と(トは甲類)」と訓むべきであるとわかる(注3)。字余りも解消する。万葉集中、「外」字はヨソ、ホカ、ト(ド)と訓まれている。

 里人の 言縁妻ことよせづまを 荒垣の にや我が見む 憎くあらなくに(万2562)

 里の人々が噂で私にお似合いだとまるで妻のように言い立てている女性を、まわりに荒垣をめぐらせて閉ざされた門戸の外から私は見るのでしょうか、憎からず思っているのに。

左に間垣と門を伴う富裕層の家、右に「里人」の家(一遍聖絵写、鈴木久治写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591573/13~14をトリミング合成)

 これまで、「外」字をヨソ、ホカと訓んでいた。いずれも、噂が立てられてかえって近づきがたくなってしまったことを残念がる歌として捉えられてきた(注4)。噂 v.s. 気持ちの葛藤のようなことが歌われていると解されていた。そうではなく、格差社会における恋愛事情についての歌であり、ずっと現実味を帯びている。村の人たちは自分と幼馴染の彼女とはお似合いだと言っていて、もはや妻になっているも同然の睦まじい間柄である。ならばさっさと一緒になればいいのであるが、彼女のほうに良い縁談が持ち上がった。裕福な家の御曹司が彼女のことを見初めたのである。その屋敷は豪勢で、周囲に垣がめぐらされ、門構えも立派である。里人レベルには手出しができない。指をくわえて屋敷の中を窺うことになるのだろうか。
 絵巻物に描かれている垣根として大雑把に作られてがきと呼ばれているもののうち、横桟を、あるいは貫に作られているのではないかと思われるものがある。それがいま俎上に載せている万葉集の「荒垣」であろう。神社の「がき」、「瑞垣みづがき」とは、守るべきものが異なってはいるものの、貫に作られる例がある。民家の間垣に神社のそれのように朱に塗られることはないが、〈垣─門〉関係としては同じである。もはや枕詞と考える必要はない。

左下の祠に目の詰まった斎垣、右の鳥居横に間の空いた斎垣(一遍聖絵写、鈴木久治写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591578/12~13をトリミング接合)

 謂わんとしている比喩表現は巧みである。恋敵は屋敷に荒垣をめぐらせている。(戸)を有する資産家である。から見ることになるのだろうか、と大いなる疑念を呟いている。好きだったのになあ、というのである。

(注)
(注1)「外」字は、多くヨソと訓まれる以外にホカと訓む説もある。この二つの訓みについてすでに契沖は指摘している。初稿本にヨソと訓み、「いひさはかれていとゝちかよりかたきなり。きらはしくおもふゆへによそに見るにはあらすとことはるなり」、精撰本にホカと訓み、「外也ヲハホカニヤト読へシ。……言縁妻ナル二依テ弥近ヨリカタケレハ、嫌ハシウ思フ意ハアラネトセム方ナク垣ノ外ヨリヨソメニヤ見ムトヨメルナリ。カキナス人コトヽ読タレハ荒垣アラカキ外也ホカニヤト云ヘルニ其意モコロルヘシ」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979064/167、漢字の旧字体は改めた)としている。
 「荒垣の」を枕詞とするかしないかの違いを言い立てる議論があるが、よくわからない場合、「枕詞」ということにしておこうとする安易な精神があって芳しくない。岩波古語辞典に、「あらがき【粗垣・荒垣】神社などの外まわりにめぐらす目の荒い垣。」として「―の【粗垣の】〔枕詞〕神社の垣の内に入り難い意から、「ほか」にかかる。」(66頁)とある。
(注2)「荒掻き」は言葉的には田起しのことが想定される。田起しした後、水を入れて代搔きをする。代掻きしないでいてお田植え娘、早乙女が斎戒に入るというのはおかしい。田を均さないままに田植えをしても期待した収穫は望めない。代掻きの重要性については、河野1994.参照。
(注3)万葉集に「葦垣のほか」と訓む例があり、垣は隔てるものだから同じであろうとそれに倣って「荒垣のほか」と続け訓もうとする。これは言葉に対する感性が浅い。どうしてそこに「荒垣」となくて「葦垣」とあり、どうしてそこに「葦垣」となくて「荒垣」とあるのか検討されなくてはならない。拙稿「万葉集の「葦垣」の歌について」参照。
 岩波古語辞典に、「ホカは中心点からはずれた端の方の所の意。奈良・平安時代には類義語ヨソは、自分とは距離のある、無関係、無縁な位置関係をいう。また、ト(外)は、ここまでが自分の領域だとする区切りの向うの場所をいう。奈良・平安時代にはウチ(内)・トが対義語であった」 (1190頁)とある。また、ナカについては、「原義は層をなすもの、並立するもの、長さのあるものなどを三つに分け、その両端ではない中間にあたる所の意。」(966頁)とあり、その対義語はホカなのであろう。
(注4)大浦2003.は、「「里人の言寄せ」というのだから共同体の「人言」によって保証された、公認の間柄にある妻のことである。つまり、人言が二人の関係の障害としてあるのではなく、二人の関係を保証するものとして歌われているわけである。」(170頁)、「恋の噂が共同体の人々の口にのぼったとき、事態は当人たちの意志や願望を離れて、運命・必然の力によって、一つの結末に向かって進み始めるのである。その結末とは、恋の破局という悲劇である場合もあれば、結婚という恋の終焉である場合もある。」(177頁)としている。当該歌から一般論を述べているようでいながら当該歌の各論に当たるものではない。

(引用・参考文献)
阿蘇1995. 阿蘇瑞枝「葦垣のホカに嘆かふ」『萬葉の風土・文学 犬養孝博士米寿記念論集』塙書房、1995年。
伊藤2009. 伊藤博訳注『万葉集三 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
大浦2003. 大浦誠士「万葉集の恋歌と禁忌─「人目・人言」をめぐって─」上野誠・大石泰夫編『万葉民俗学を学ぶ人のために』世界思想社、2003年。
河野1994. 河野通明『日本農耕具史の基礎的研究』和泉書院、1994年。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
日本国語大辞典第二版 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞書編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。

加藤良平 2021.7.12初出 

「明石潟 潮干の道を」(万941)考─山部赤人行幸従駕歌の意味合いについて─

 万葉集巻第六に、山部赤人の行幸従駕歌とみられる歌がある。「三年丙寅秋九月十五日、播磨国印南郡に幸しし時、笠朝臣金村の作る歌一首〈并せて短歌〉」(万935~937)に続くものである。神亀三年(726)、都は平城京にあり、聖武天皇の御代である。

  山部宿禰赤人の作る歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作謌一首〈并短歌〉〕
 やすみしし 我が大君の かむながら 高知らせる なみの 大海おふみの原の あらたへの ふぢの浦に しび釣ると 海人あまぶね騒き 塩焼くと 人そさはにある 浦をみ うべもつりはす 浜を良み うべも塩焼く ありがよひ 見さくもしるし 清き白浜(万938)〔八隅知之吾大王乃神随高所知須稲見野能大海乃原笶荒妙藤井乃浦尓鮪釣等海人船散動塩焼等人曽左波尓有浦乎吉美宇倍毛釣者為濱乎吉美諾毛塩焼蟻徃来御覧母知師清白濱〕
  反歌三首〔反謌三首〕
 沖つ波 なみ静けみ いさりすと ふぢの浦に 船そさわける(万939)〔奥浪邊波安美射去為登藤江乃浦尓船曽動流〕
 なみの あさ押しべ さる夜の 長くしあれば 家ししのはゆ(万940)〔不欲見野乃淺茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生〕
 あかがた しほの道を 明日あすよりは したましけむ 家近づけば(万941)〔明方潮干乃道乎従明日者下咲異六家近附者〕

 一般的な解釈としては従来の説が踏襲されている。新大系文庫本万葉集は、「明石潟の潮の引いた海辺の道ではあるが、明日からは心嬉しいことだろう。家が近づくので。▷「潮干の道を」のヲは、歩きにくい道ではあるけれども、という逆接の意を含む。「下笑まし」は顔には出さず、心の中でひそかに喜ぶ気持。動詞「下笑む」から派生した形容詞。ここは、その未然形「下笑ましけ」に助動詞ムが接続した形。」(159頁)と解説する(注1)
 この解釈の問題点は、陸路か海路かというところにあるのではなく、上の句「明石潟 潮干の道を」がどうして下の句「明日よりは 下笑ましけむ 家近づけば」につながるのかという点にある。これまでの指摘では、「潮干の道を」のヲを承ける動詞が記されておらず、「通って」、「行きつつ」などが略されていると解してきた。仮にそうであるとすると、なぜ今日の歩みは嬉しくなくて、「明日よりは 下笑ましけむ」となるのかわからない。「明石」は畿内と畿外とを画するところだからとする考えによるのであろうか。それでは不安定な言い分だと思ってか、新大系文庫本万葉集では、ヲを逆説の意を含むとして、「道だけれど」といった解釈になっている。しかし、「明石潟 潮干の道」は今日は目にしておらず明日目にするものだとしている。その発想はどこから生まれるのであろうか。
 そもそも、「下笑まし」などと内心で笑うような気持ちを歌に表現する理由が説明できていない。「下笑まし」という特別な言葉を使うことで「〈私〉情の表出に成功した。」(鈴木2014.15頁)とするのは、作者である山部赤人に対して赤人研究者がする我田引水的な誉め言葉である。神亀三年九月(続紀では十月)の印南野行幸に付き従って歌われているのだから、天皇以下宮廷の高貴な人にも聞かれる歌を歌っていて大いに受けた歌なのであろう。高貴な人は歌い手の個人的な気持ちなど問題にしない。下級官吏の赤人の〈私〉情など知ったことではない。捨て置かれて当然である。すなわち、多くの人の共感が得られるような歌が歌われているのであって、従駕する人々の多くが「下笑まし」と感じているであろうことを歌に具現化しているから認められているのである。旅行も長くなったからもう帰ろうよ、と思い始めていたことを歌にしている。そして、耳にした天皇までも、まったくそうだねえと思って都へ帰ることに決めたという次第であろう。
 では、なぜ、「明石潟 潮干の道を」が提題されているのか。それは、今述べた歌謡の場の設定からすれば容易に理解される。「印南野の 浅茅押し並べ さ寝る夜の 日長くしあれば 家し偲はゆ」(万940)という歌に続いて歌われている。すでに皆、ホームシックにかかっている。だから帰ろうよ、ということになるのであるが、帰る道には明石を通ることになる。そこで歌に言葉遊びのひねりを加えている。「明石潟」と切り出している。明石には潟湖があった。「吾が舟は 明石のみとに 漕ぎ泊てむ 沖へなさかり さ夜ふけにけり」(万1229)、「赤石あかしのこほりの林のみなと」(播磨風土記・賀古郡)とある。万葉集の「湖」字は西本願寺本に「潮」とあり、いずれにせよ水門、ミト、ミナトとしてあって、明石川河口には潟湖が広がっていて、そこが船の停泊場所となっていたと考えられている。その潟湖の海沿いに、干潮時になると人の渡ることができる天橋立的な地形が現れていた(注2)。実際に行幸の一行がそこを進んだかどうかは事前に歌を歌っているだけだから関係のないことである。
 アカシガタ(明石潟)と耳にして思い浮かぶのは、アカシ(証)+カタ(象)である。証明となる占いの象の義である。「かたき」(万3694)が行われていた。亀卜である。占いに従って行動しなければ災難に遭う可能性がある。だから、占いどおりに行動しようとした。どういう象が出たかといえば、ラグーンである明石潟にできる象とは、潟がそれをもって潟足り得るものだから、小潮の日にはひょっとすると水面下にあって現れないかもしれないが、大潮の日には潮が引き始めるとまもなく見えてくる砂州の道一筋である。占いに出ているのだから、それは神のうら、下心である。それが皆の心のうちと一致しているのだから、「下笑まし」ということになる。なぜ象灼きの占いの話になったかと言えば、長歌に「塩焼く」、「浦を良み」、第一反歌に「藤江の浦」とある音からの連想が働いている。ウミガメを目にして思いついたものかもしれない。
 占い事だからまだ実際にその地に到達してはおらず、長歌に対する反歌三首の構成からして、一続きの歌、一回の宴の席で歌われたものと考えるのがふさわしい。歌謡の場は印南野の陣中であろう。
 「明石潟 潮干の道を」のヲは間投助詞と解される。ヲ(諾)という語に発したとされるもので、英語の oh! 、wow と同じである。長歌の「うべ」、まったくそのとおりだ、という語をうけて使われている。家郷のことが偲ばれるなあ、帰るとなると明石潟のあたりを通ることになるよ。言葉にアカシガタ(証象)というのだから占ってみると、干潮時に一筋の道が浮かび出てくるのが亀卜の象だろう。そこを通って早く帰りなさいということだ、やあやあそうだ、心の中に秘めていた思いと合致して明日からは笑顔になるなあ、家が近づくからだなあ。
 「潮干の道」が文字どおり浮上しているのは、「塩焼く」ことからの連想である。シホという言葉は、①塩 salt、②潮 tidal、③汐 the number of times の意を表す。証象としての明石潟は、亀卜を試みて甲羅の腹側を焼いてみれば必ず砂州が潟湖をふさぐように対岸へとつながり、一筋の道ばかりが浮かび上がるのである(注3)。汽水湖は塩辛くないが海は塩辛く、潮の干満をもって砂州が河口を塞いだり開けたりする。何べんも何べんもくりかえしそのとおりになっている。それが何よりの証なのであって、前歌の万940番歌に「さ寝る夜」とあるから、この歌に「明日」とあるのは日が明ければの意味であり、それは、アカシ(明)を表している。全部が全部言葉がつながっていて、心の底から頓智のおもしろさに興じられて笑えてくるから、「下笑まし」ことになっていて正しいと知れる。
 これをもって「山部赤人の作る歌」は完結している。従駕の歌として面目躍如たるものがある。大仰に「やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる」と前置きしておいて、離宮のある「吉野」ではなく、地方に行幸した「印南野」を褒めたたえたように見せ、来た甲斐があったと歌いながら満喫したからそろそろ帰ってはどうかという人々の総意を、証拠もあると機知を効かせておもしろがった歌を披露している。従駕する人々は、位の高い低いに関わらず、聞いてみてまったくそのとおりだ、ほんとにうまいことを言うねえと思った。歌い手、聞き手の双方が歌意を共有できてはじめて歌は歌として機能する。行幸は折よく帰途に就くように決まっている。公の席で歌が歌われ、その歌が録されたということは、歌が人々に受け入れられたということであり、いかに受け入れられたかを考慮の外に置くことは本来の万葉集研究に値しない(注4)

(注)
(注1)万941番歌について、清原1995.はなにもわざわざ干潟に一時できた道を歩まずとも山陽道は整備されているはずで、潮干や道について検討した結果、むしろ海路を船で進んだのであろうと捉え、「明石潟が明るい潮干の景を呈する頃、海峡を東へ流れる潮干の道で、きっと心楽しい思いをすることであろう。大和がだんだん近くなるので」(204頁)と訳している。鈴木2014.も同じく海上の航路を道と考え、歌群全体を、王権讃美と家郷思慕、〈公〉の意識と〈私〉情、遠景と近景と想像の景といった概念を駆使して読み解こうとしている。しかし、「明石潟 潮干の道を」とあるところを、「明石潟 潮干の」景色を想像しながら、今は海「道を」進んでいると想定することは、助詞ノの用例として他にどのような例があるのだろうか。
(注2)千田2001.、『上池遺跡第3次発掘調査報告書』、『明石地域の地質』参照。明石川からの土砂流入量は比較的少なく、一方、沿岸流は海峡近くにあってかなりはげしい。土砂堆積と浸食作用が均衡状態にあって、河口部に潟湖が展開する条件にあったとされている。
(注3)砂州と砂嘴については、世古・武田2019.参照。
(注4)政策が決定される、その少なくとも伏線となる機能を、初期万葉雑歌の余韻を保って引き続き持っていたことは注目に値する。

(引用・参考文献)
『上池遺跡第3次発掘調査報告書』 『上池遺跡第3次発掘調査報告書』神戸市教育委員会、平成22年。奈良文化財研究所・全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/10771
清原1995. 清原和義「赤人の潮干の道考」犬養孝博士米寿記念論集刊行委員会編『萬葉の風土・文学 犬養孝博士米寿記念論集』塙書房、平成7年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
鈴木2014. 鈴木崇大「山部赤人の神亀三年印南野行幸従駕歌」『東京大学国文学論集』第9号、2014年3月。東京大学学術機関リポジトリ https://doi.org/10.15083/00035090 (『山部赤人論』和泉書院、2024年。)
世古・武田2019. 世古春香・武田一郎「砂州と砂嘴の用語の混乱」『京都教育大学環境教育研究年報』第 27号、2019年3月。京都教育大学附属図書館 http://hdl.handle.net/20.500.12176/9205
千田2001. 千田稔『埋もれた港』小学館(小学館ライブラリー)、2001年。
『明石地域の地質』 水野清秀・服部仁・寒川旭・高橋浩『地域地質研究報告 明石地域の地質(5万分の1地質図幅)』地質調査所、平成2年。産総研・地質調査総合センターホームページ https://www.gsj.jp/sitesearch.html?q=明石地域の地質#gsc.tab=0&gsc.q=明石地域の地質&gsc.page=1

加藤良平 2021.7.9初出

石川女郎と大伴田主の歌合戦について─「みやびを」論争を超えるために─

石川女郎と大伴田主の歌合戦

 万葉集巻2・126~128番歌は、石川女郎と大伴田主の二人による歌問答である。三首目の万128番歌を含めた一歌群であり、三首目まで通観できる理解が得られないうちは正解とは言えない。

  石川女郎いしかはのいらつめ大伴宿禰おほとものすくねぬしに贈る歌一首〈即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母をせの朝臣あそみと曰ふ〉〔石川女郎贈大伴宿祢田主歌一首〈即佐保大納言大伴卿之第二子母曰巨勢朝臣也〉〕
 遊士みやびをと われは聞けるを 屋戸やど貸さず 吾をかへせり おその風流みやび(万126)〔遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曽能風流士〕
   大伴田主はあざな仲郎なかちこと曰ふ。容姿かたち佳艶きらぎらしく風流みやび秀絶すぐれたり。見る人聞く者、歎息なげかざるはし。時に石川女郎といふもの有り。 みづか雙栖ふたりすみおもひを成して、恒に独守ひとりゐの難きを悲しぶ。こころふみを寄せむとおもふも未だ良信よきたよりに逢はず。ここ方便たばかりして賤しきおみなに似せておのれ堝子なべひきさげてねやかたはらに到りて、こゑむせび足にきて戸を叩きとぶらひて曰はく、「東の隣の貧しき女、まさに火を取らむと来れり」といふ。是に仲郎、暗きうち冒隠やつせる形をらず。おもひほかにして拘接まじはりはかりごとへず。おもひまにまに火を取り、跡に就きて帰し去らしめき。明けて後、女郎、既に自らなかだちせしことづべきを恥ぢ、また心のちぎりの果さざるを恨む。因りての歌を作り贈るを以て謔戯たはぶれとす。〔大伴田主字曰仲郎容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡不歎息也時有石川女郎自成雙栖之感恒悲獨守之難意欲寄書未逢良信爰作方便而似賤嫗己提堝子而到寝側哽音蹢足叩戸諮曰東隣貧女将取火来矣於是仲郎暗裏非識冒隠之形慮外不堪拘接之計任念取火就跡歸去也明後女郎既恥自媒之可愧復恨心契之弗果因作斯歌以贈謔戯焉〕
  大伴宿禰田主、こたへ贈る歌一首〔大伴宿祢田主報贈歌一首〕
 遊士みやびをに 吾はありけり 屋戸貸さず 還しし吾そ 風流みやびにはある(万127)〔遊士尓吾者有家里屋戸不借令還吾曽風流士者有〕
  同じ石川女郎、更に大伴田主中郎なかちこに贈る歌一首〔同石川女郎更贈大伴田主中郎歌一首〕
 吾が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足く吾が背 勤めぶべし(万128)〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕
   右、中郎の足のやまひに依りて此の歌を贈りて問訊とぶらふそ。〔右依中郎足疾贈此歌問訊也〕

 通説では、一・二首に「みやびを」問答が行われていて、それとは意を異にする歌が三首目に追加されたかのように前提されて論じられている。一・二首目の解釈において、その語義にばかり注意が走り、あたかも「みやびを」論争の体を成している。最適解は遠い(注1)
 今日、用字の「遊士」「風流士」はミヤビヲと訓まれている。古くはアソビヲ、タハレヲと訓まれたこともあり、ミヤビヲという訓で正しいのかさえ疑われている。筆者は正しいと考える。現在の議論では、「風流」という漢字の意味とヤマトコトバのミヤビとがどのように対照されるのかが疑問視され、決着がつかずにいる。
 これらは歌われた歌にすぎない。歌なのだから声をあげて歌われている。したがって、「風流」という漢語上の語義は二の次で構わない。万126番歌に左注が施され、それがおおむね漢文調だから惑わされている。ただし、左注は歌われた歌を説明しているだけのこと、主役は歌である。歌はヤマトコトバで歌われた。その説明もヤマトコトバで行われた。漢語の奥義を極めるには当たらず、括弧に入れて考えれば良いことである(注2)。漢字の語義にこだわりたいなら、「風流」が題詞や左注に登場しない理由や漢詩文として作られていない理由も問わなければならない。

用字「風流」・「遊」

 菊池2000.は、都市化、都会化がもたらした人々の心情への変化を捉え(注3)、ミヤビという語の出自を探っている。

 ミヤブの名詞形であるミヤビは、宮廷的・都会的なことであり、洗練された文化的な感覚を基調に、上品で優雅なことを内容とする美的理念であった。……年代的に早いのは、藤原の宮の時代の作である大伴ぬしと石川女郎いらつめの贈答歌……のミヤビヲの例である。藤原の宮の時代は、律令国家の形成にともない文物が整えられた時代である。しかも、都は都城制へと移行する……。この時代に整えられた文物が、中央の宮廷を中心とすることはいうまでもなく、都城が恒常化するなかで、そうした文物はひとつの文化的規範として定着することになる。『万葉集』でミヤビの用例がこの時代にみえはじめるのも、こうした時代状況を反映してのことであった。……梅の花がみやびな花としてさかんにうたわれた万葉の後期には、梅に限らず、周囲の自然は官人・貴族たちの宴席を彩る景物として、みやびな目でとらえられ、しだいに季節の景物として固定した。万葉の自然は信仰を基盤としつつも、その一方で、季節を彩る景物としてその美を見いだされたのである。それは、信仰から美へという日本の美意識の展開における基本的な構図でもあった。(253~255頁)

 ミヤビヲという同じ言葉に対しては、「遊士」という字も当てられている。「遊」という字はヤマトコトバではアソブにほかならない。人は誰しも遊ぶ者だと考えるのは上代の語義と乖離する。一般の人は年がら年中仕事をしている。年に数回、お祭りや宴会をしてあそぶ。夜の街の接客業のように、遊びを職業としているわけではない。古代において、「遊ぶ」は、歌舞音曲を楽しむことが原義とされている。葬祭業としてのみ「遊部あそびべ」があった。葬送や招魂の儀礼に歌い奏で、哭き喚き、舞い踊ることをした。それ以外では、動詞に「遊ばす」とあるように、高貴な人の行為を指して言った。生産活動をしないで遊んでばかりいる人たちに対して使われている。そのような人は宮都にいる。今日でも遊びに行くといえば大都会の歓楽街へくり出すことをいう場合が多いのは、そこに遊びの本質を見ているからであろう。高等遊民と呼ばれているらしい人たちも、生活が安定しているか否かに関わらず大都会にしか住んでいない。ポツンと一軒家に暮らしている人たちは、自身では遊んでいると思っているかもしれないが、はたから見ていると農林畜産の作業に没頭している。山奥で窯を開いたりアートを創作している人も、何かを作っていることに変わりない。遊びの本質には蕩尽があり、何かを生み出した途端に反することになる。
 古代において大都会は宮都にしかなかった。したがって、「遊士」なる人はミヤビヲと訓まれて確からしいとわかる。ミヤビという言葉は、宮が大都会と化す過程において生まれた言葉なのである。菊池2000.の指摘に付け加えるならば、ビという接尾語は、そのような状態にするという意味であるから、その言葉の形成過程、時代背景がそのままその言葉に宿ることになっている。言葉の定義を言葉のなかに展開して言葉のなかに収斂してしまうことは、無文字時代のヤマトコトバならではの発想といえよう。
 このようにして生まれた「みやびを」という言葉に対して、どのように書き表すか考えた時、漢語に倣って「遊士」「風流士」と書いてしまおうとした。うまく当てはまるからそう書いた。漢語上、「風流」の意味合いが時代により変化していっているなどという小難しいことは眼中になかっただろう。難しいことを勉強して考え定めているのではなく、ただ単に歌を歌って贈り合っていて、それをただ単に記録に留め置こうとしている。漢土における同字の文字表現例やその思想とは無関係である。

「みやびを」についての歌い合い

 諸説に、石川女郎と大伴田主との間で「みやびを」についての認識に違いがあり、あるいは、概念の多様さを突いて悪口を言い合っているかのように捉えられてきたが誤りである。言葉は空中を飛び交っている。そしてすぐに消える。ああ言えばこう言いの議論をしているのではなく、極めて簡潔な短歌のやり取りをしている。「みやびを」について二首、追加してもう一首あるだけである。語義の曖昧さから議論しているのではなく、言葉の音を捉えて言い返している。なぜそうわかるかと言えば、音声言語はすぐに消えていくからである。あっという間に過去のことになる一回性の音声言語芸術では、ぐずぐずと反論に反論を繰り返すようなことが起こらない。うまいことを言うねえと互いに認め合っているのが歌の問答である。口喧嘩をしているのではなくて洒落を交わしている。
 石川女郎の言い分はこうである。あなたは洗練された都会人、ミヤビヲですよね。ミ(御)+ヤ(屋・舎)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)というのだから、ミヤ(御屋、宮)に止めてくれたっていいじゃないか。全く名前ばっかり格好つけておいて、のろまで間抜けなミヤビヲではないですか、と言っている。
 それに対して大伴田主は、ミ(御)+ヤ(輻)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)なんですよ私は、宿泊業者ではなくてタクシー業者なのですよ、だからきちんとお送りしたのですよ、と答えている。ミヤ(宮)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)がいるのは宮都であり、そこは道路が舗装されている。車輪のスポークに当たるヤ(輻)が製作、維持管理できるようになったとき、はじめて車両は利用可能になった。本邦では牛車に限られ、宮都において貴人を乗せて運行した。平安時代でも牛車はもっぱら京の都のなかで用いられ、貴族専用のマイカーであった(注4)。遠出をしたとしても、石山寺、長谷寺、石清水八幡宮ぐらいまでであろう(注5)。車が宮都以外で人を乗せて運行した例は、明治になって人力車が誕生してからのことである。ミヤビな乗り物は、すてきなヤ(輻)を作るテクノロジーに支えられていたのであり、製作技術者がいなければミヤビを続けることはできない。

左:輻付き車出土状況(桜井市小立古墳、7世紀後半、島根県立古代出雲歴史博物館https://www.izm.ed.jp/cms/cms.php?mode=v&id=385、中:車作(蒔絵師源三郎ほか・人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592444/17をトリミング)、右:路面に残された轍(長岡京跡二条条間北大路、竹井治雄「長岡京期の京都」『昔むかし・・・』京都府埋蔵文化財調査研究センターhttp://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/mukashi/mukashi-top.htm(88頁)をトリミング)

 その次第について、126番歌の左注に詳しく説明されている。「仲郎」とわざわざ「あざな」、すなわち、呼び名が記されている。チウロウなどと音読みしていては当時の呼び名らしくない。ナカチコである。ナ(勿・莫)+カチ(徒歩)+コ(子)という意に聞こえる。移動に歩いたりしないミヤビな男という名を負っている。以下の左注の文章についてもヤマトコトバで読まなければ意味が通らない。火を乞われ、言われるがままに火を与えて「就跡」に帰らせたのはタクシー業者の所業である。彼女が来た時、「蹢足」で来ている。足を引きずってできた「跡」とは、点々とついた足跡ではなく、線状に二本伸びた跡である。そんな跡を忠実に「就」かせるためには、車を出して轍が重なるようにするよりほかない(注6)
 万128番歌の左注に、大伴田主は足に障害があったように記されているが、貴人にしてそういう状況下に置かれていたら、必ず牛車を利用していたに違いあるまいという推測が行われている。なにしろ、彼の名は「田主」である。大規模経営の田圃の主は耕作に牛馬を飼っていた。彼が実際にどうしていたかはともかく、話の上で人々がわかるように言葉の上で明らかにされており、万128番歌の追補が必然的なものであると受け取ることが可能となっている。「みやびを」問答に負けた石川女郎が悔し紛れに捨て台詞を吐いているわけではない。「国語」の授業でそうであるように、答えは本文の中に書いてある。

「葦若未乃」はアシカビノ

 本文の校異として、万126番歌の左注最後に、「因作斯歌以贈諺戯焉」(西本願寺本)とあるのを、諸本の「因作斯歌以贈謔戯焉」と校訂し、また、万128番歌に、同じく「葦若未乃」を「葦若末乃」と意改している(注7)。「葦若末乃」は「足のうれの」と訓みたがることから来るが、アシカビノで正しいのであろう。孤例であるが「足」にかかる枕詞とする説があり、その説に従うには根拠がある。「可美うまし葦牙あしかびひこぢのみこと」(神代紀第一段一書第二・三)とあり、「彦舅、此には比古尼ひこぢと云ふ。」と訓注が付き、記に、「宇摩志阿斯訶備比古うましあしかびひこ遅神ぢのかみ」と対応している。彦舅とは良い夫の意である。これも枕詞に該当しよう。アシカビ、葦の芽生えは、種からのモヤシ(糵)であることもあるが、卑近に知られるのは大群生であり、地下茎の伸展によってもたらされる。白っぽい地下茎が伸びていって発根、発芽を見る。それは枝から小枝が分岐伸長することに同じであり、ヒコバエ(櫱・蘖)と同じだと考えられよう。地上で枝分かれするのではなく、地中、水面下にて枝分かれしているところをおもしろがって枕詞が作られている。よって、アシカビはヒコ(彦)にかかる。
 ヒコ(彦)というニュアンスにヒク(引)という音が重なっている。ヒはともに甲類である。足を引くから「足痛」をアシヒクと訓むことが確かめられる。左注にも「足疾」とあり、アシナヘ(躄、足萎)のことを言っている。和名抄に、「蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓は阿之奈閉あしなへ、此の間に那閉久なへぐと云ふ〉は行くこと正しからざるなりといふ。」とある。ナヘとは、苗のこと、すなわち、カビのことである。言葉の連関がかなっているからこの歌は成立している。石川女郎のしていたことは、「似賤嫗己提堝子而到寝側音蹢足叩戸諮」であった。身をやつして火を貰いに行くのに、なにもわざわざ「堝子なべ」を持って行ったことまで注さなくてかまわないはずのところ、三首目にナヘ(萎)のことを言っているからというので左注を付けた人が脚色しているらしい。「葦若未乃」という原文どおりにみてアシカビノと訓まれなければならない。
 このように、言葉の音を頼りにした歌が歌われている。言葉の音ばかり気にしているのは無文字時代の言語活動からいえば当たり前のことで、言葉そのものに拘っているということに他ならない。「不拘接之計」して、「拘言」しているということである。すると、万126番歌左注に「因作斯歌以贈戯焉」とあるのはあながち誤りとすることもできなくなる。石川女郎が「みやびを」問答を確かにその通りだ、アハ体験したと追認することで「みやびを」のやりとりは結に至る。そのとおりに終っていて、全体は言葉問答に終始している。言い出しっぺの石川女郎は、自らの行動を恥じるとともに、つれなくあしらわれたことに対する恨みを述べている。タハブレ、つまり、ふざけてお茶らかして誤魔化した、ないしは、男を意気地なしだとからかったとだけ評するのは外れている。事の焦点は言葉にある。「因作斯歌以贈諺戯焉」は、「因斯歌以贈諺戯焉」、「因りて斯の歌を作りて贈り諺戯たばかりこととす」などと訓むのかもしれない。「諺」のコトワザという常訓は、上代において言葉の変化球をもってずばりと言い当てた短い言辞のことを指す。記紀では「諺」の例がいくつか伝えられている(注8)。この「諺戯」は、タハワザ、タハコトといった訓も試されようが、自らの「はかりこと」を覆いつくさなければならないから歌を作っている。タバカリゴトと言えば計略として「方便たばかり」に老婆に変装して訪問したことについて、自分のとった行動を完璧に取り繕うことを表す。タハケ、タハレ、タハブレなど、「戯」や「淫」字で表す意の類音としてまとめたものと考えられる。

「耳」はヒコ

 最後に残された課題は、万128番歌の「耳」である。再掲する。

 吾が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足く吾が背 勤めぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)

 今日までの解説に、「耳」とは、耳にした事柄、聞いた噂のことを表すとされている。通じないことはないが、「吾が聞きし 耳によく似る」という言い方は饒舌にすぎる。「我が聞きし ことによく似る」としない理由が説明できず、上代では他の例を見ることもない。「耳」字をヤマトコトバで他に訓めないか検討の余地がある。「耳」字には、ジョウ・ニョウと発音する他義があって、七代あるいは八代目の子孫のことを示す。和名抄に、「仍孫 爾雅に云はく、昆孫の子を仍孫〈仍は重なり、今案ふるに七代の孫なり〉とといふ。漢書注に耳孫と云ふ。仍と耳の声、相近し、蓋し一つのなり。」とある。訓み方は特に記されていない。ただし、上に述べた「ひこ」に関連して、ヒコ(ヒ・コは甲類)と訓んだ可能性がある。和名抄に、「曽孫 爾雅に云はく、孫の子を曽孫〈曽は疎なり、和名は比々古ひひこ〉と為といふ。」とある高松本には「曽孫ヒコ」と右傍訓がある。また、皇極前紀に、「渟中ヌナ倉太珠敷クラフトタマシキ天皇曽孫ヒコ」(兼右本右傍訓)、延喜式・神祇八祝詞・出雲国造神賀詞に、「阿遅須伎あぢすき高孫たかひこみこと」とある。新撰字鏡には、「杪 亡少・弥少二反、木末也。木細枝也。梢也。木高也。木乃枝きのえ、又比古江ひこえ」とある。ここに、校異の「未」・「末」は実はいずれにせよアシカビノと訓まれ得るものであることが知れる。漢土ほどに祖先崇拝が盛んであったとは考えにくい本邦においては、遠い子孫のことは皆、ヒコで一括して捉えられてかまわないように思われる。
 「耳」字をヒコに用いて憚らない理由は、「聞」字に引きずられつつひと捻りされているからとも考えられる。山彦やまびこである。万葉集の用字では「山彦」(万971・1762・1937)のほか、「山響」(万1761)とある。知恵ある人がいて、ヒコがかなり遠い孫のことを表すことを思えば、音の聯なり順は正しいけれど、かなり遠くで発せられて耳にかすかなもののことを山彦と命名したのである。なるほどそういうことかと合点が行って、ヒコに「耳」字を当てて書いている。
 そしてまた、孫、ならびに子孫一般のことは、ムマゴとも呼ばれた。和名抄に、「孫 爾雅に云はく、子の子を孫〈音は尊、和名は無麻古むまご〉とといふ。」とある。ムマゴはウマゴとも言い、馬子、すなわち、仔馬のことである。その仔馬に「好似」、よく似たものにロバ(驢馬)がいる。遠く百済から献上されたものとして「うさぎうま一匹ひとつ」(推古紀七年九月)と訓まれている(注9)。和名抄にも、「驢騾 説文に云はく、驢〈力居反、閭と同じ、宇佐岐無末うさぎむま〉は馬に似て長き耳なり、騾〈音は螺〉は驢の父、馬の母の生む所なりといふ。」とある。ウサギのように耳が長いところからの命名とされている。かなり遠いけれど子孫のようなヒコには「耳」という特徴があるということになる。
 この考えを推し進めると、大伴田主が石川女郎を送った車は、ひょっとすると馬車であったかもしれないことになる。本邦古代に馬車の行われたとする記録はなく、また、漢土に馬車の行われているとの知識からの用字であるかもしれないが、田の経営に、牛耕、馬耕はともに行われていた。貴族の乗り物として牛車が文化的存在として確かなものになったのは平安京においてである。それよりも百年ほど前の藤原京にどの程度普及していたかは未詳である。万128番歌の左注に、「足疾」と殊更に記されていることについて、無文字時代の言語感覚から推測を加えるなら、大伴田主がほんとうに「足疾」であったことを意味して皮肉なもの言いなのかもしれないが、車を引く動力源が「足疾」の動物であった可能性も浮上する。主人も家畜もともに「足疾」であることは、声として飛んで消えていく言葉を納得ずくで理解させるにはとてもふさわしい方便である。二つの次元で「足疾」なのだから、まことにうまく言い当てていると考え落ちることになる。馬は本来、早く走るもので、「疾」走するものであるところ、馬の遠い孫のロバのようにのろまな「足疾」に堕してしまったものがいて、そんな「足疾」の馬に引かれる馬車に乗せられて帰された石川女郎の口をついて出たヒコは、ウサギウマ(驢馬)に値していると考えて「耳」と筆録されたのではないか。「おその風流みやび」のオソとは遅い動きをする(注10)ものであり、この三首が一歌群を成していることをよく物語っている。
 「耳」字をヒコと訓むと次のようになる。

 吾が聞きし ひこによく似る 葦かびの 足く吾が背 勤めぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)
 (大意)私が聞いた「the 男」を表すヒコという言葉のヒコバエとよく似ている、葦の発芽もやしに当たる地下茎の引き伸びていく葦かびの、その足を引くあなた様、ご自愛ください。

 石川女郎にとって、帰されるにしても車に乗せられて帰されるだなんて想定外だったのであろう。言うに事欠いてミ(御)+ヤ(輻)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)と言って来た。どうして車がスタンバイしてあるのよ、御身足がお悪いからですかねえ、ということで言葉を切り返している。歌の切り返しは、道行きの切り返しに対応し、即応している。瞬時の頓智が歌を報贈する要である。状況の説明を歌のなかに入れ込むことで、発した言葉がその言葉をその瞬間に自己拘束的に定義する作為が行われている。上代の無文字時代の思考に合致しており、その賜物というにふさわしい歌である。

おわりに─万葉集研究の現状に対して─

 石川女郎と大伴田主との間でくり広げられた三首の歌は、皆、ヤマトコトバの音に基づいた機知、頓智の歌であった。これまでの説に唱えられていたように、宋玉・登徒子好色賦や司馬相如・美人賦、徐陵・玉台新詠序、遊仙窟など漢籍に典故があるのではない。左注をつけた人は、歌の内容を説明しようとしてヤマトコトバを書記するために、漢籍の文字面をアンチョコに使っている。漢籍を典拠に歌が歌われていないと証明することはできないが、それは悪魔の証明と呼ばれるもので、厩戸皇子が厩に生まれたとするのはキリスト生誕伝承が伝わったからだとの主張を否定できないのと同じことである(注11)
 とはいえ、状況を考えてみれば、漢籍由来の典故で歌が歌われているとする考え方には無理がある。フ(ウ)リウ(風流)が歌に歌われているわけではなく、ミヤビ(ヲ)が歌に歌われている。音が空中を飛んでいる。そしてまた、漢籍を典故としているとするならば、石川女郎、大伴田主、さらにこの歌を書き記した万葉集巻二の編者はもとより、同時代の多くの人々の間で共通の認識として漢籍を典故にしていると認識されていなければ歌として成り立たない。人に聞いてもらえるから歌なのである。周りにいて聞いてしまうのはのは舎人や采女など無教養で平凡な人たちである。当時学校はなかったから、どうやって漢籍の知識を多くの人が身につけたか問われなければならない。漢籍を繙いて勉強する暇があったら、舎人・采女よ、働け、と言われたことだろう。舎人・采女は身の回り、家事全般の雑事に携わるシャドウワーカーである。無観客の歌合戦が閉鎖空間で行われてもおもしろいものではないし、記録されればそれだけでいいとも考えられない。万葉集に記された当時、誰がそれを閲覧して喜んだのか不明である。平安時代には読むことさえ難しく、一部は今日へと続いている。歌が歌われた時には皆がわかっていたから歌われていた。わからないことの朗誦に付き合っていた奇特な人が万葉集編者であったとは考えられない。
 大伴田主は「遊士」だから働かなくて良かったかもしれず、左注にあるとおりいい男であったかもしれない。だが、漢籍の勉強家であったとも思われない。今でもそうであるように、勉強ができるからといってモテるというわけではない。文学好きな人が文学に詳しい異性に惚れるのはマニアックなことであって、「容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡歎息也」とは無関係である。歌い出しているのは石川女郎の方だから、彼女が漢籍の知識を自家薬籠中にするぐらい勉強家だった可能性がないわけではないし、昨今のハロウィーンのように老婆に変装することもあったかもしれないが、そうなると今度はそのギャップを埋める新たな理屈が求められなければならない。
 そして、少しでも知識において互いの間、それは歌の応酬をしている二人の間、ならびに歌を歌う人と周りで聞く人との間の両方であるが、共有しきれていない内容が歌われたとすると、そのときにはすでに歌の基盤に瑕疵が生じていることになる。声に出して歌っているのだから、多くの人は聞いてすぐに理解しなければならない。声は消えてなくなっていく。瞬時に理解できない人が多く出てきたら、歌はもはやコミュニケーションツールとして機能していない。歌はモノローグでもなければ、ダイアローグでもない。 その場にいる人々の間で互いに言葉を確かめ合っては即時共有されるものである。共有される言葉をもってしか歌われることはない。

(注)
(注1)先行研究には筆者を弱らせるものが多い。歌の問答を、評判にも似ぬ間抜けな風流人よ→女を泊めずに帰した私こそ風流人→噂どおり葦の葉先のようにふらふらと足をひきずっている貴方お大事に、というやりとりであるとする説が有力視されているが、それでは子どもの言い合いということになってしまう。石川女郎と大伴田主の「みやびを」像の違いを漢籍の典拠の違い、ないし、その評価の違いに求める説があるが、左注の人が説明を付す際に何ら疑問を持たない万128番歌はなにゆえそこにあるのか、提題さえなされずに議論されている。歌群全体について、作り物語、虚構の作品、中国文学に暗示を得たフィクション的小説といった捉え方、また、左注は大伴田主の作文とする説まであるが、なぜわざわざ仮構したのか、その目的についての言及はなく、単なる印象論がまかり通っている。歌群の全体構成の図面が読めないままでは建物は建たず、ああだこうだと議論のための議論をしている。石川女郎、大伴田主という人物が実在の人物か、そして誰なのか、といったことも検討されているが、事実を求めているのか、史実を求めているのか、とても曖昧である。歌とは何か、言葉とは何かを抜きにした「注釈」、「解説」、「論考」は感想文にすぎない。
(注2)「漢字……[は]その音訓を通じてすでに国字である」(白川1995.15頁)。

(注3)「みやぶ」「みやび」という語を、宮廷風にふるまうこと、文雅を解する宮廷人の意とする安直な説が見られるが、語の本義を掴めていない。「みやぶ」「みやび」の対義語は「ひなぶ」「ひなび」である。鄙へ行って宮廷風にふるまうことは難しい。宮廷文学に触れられなくて残念というばかりではない。今日、アウトレットモールが各地に点在するが、銀座や表参道、新宿でブランド品を買うこととは買い物という体験、行為に質的な違いがある。「文化資本」(ブルデュー)の萌芽を「みやぶ」「みやび」という語の発生は物語っている。後述するように、牛車生活を送ろうにも車師、車作がいなければそうはいかない。物質的なものを排して精神的に「~風にふるまう」ことなどできない。
(注4)京樂2017.は、「牛車は、都の文化そのものなのであった。」(26頁)と端的に述べている。
(注5)櫻井2012.に、「牛車の運行地域は、全国的にみると極めて限定されていた。それは平安京を中心にして畿内の主要道が走る地域であった。これ以外で牛車の使用が確認できるのは、斎王群行での伊勢道、鎌倉幕府の中心・鎌倉、『一遍上人絵伝』での薩摩・大隅八幡宮、江戸時代の和宮降嫁等であり、荷物運搬のうしぐるまでは江戸である。あと、平安時代末期の『更級日記』で上総国(千葉県)での乗車記述があるが、牛車か腰車かがわからない。」 (39頁)とある。
(注6)「跡」は、足跡のことばかりでない。春秋左氏伝・昭公十二年に、「昔穆王欲其心、周行天下、将皆必有車轍馬跡焉。」などと見える。
(注7)澤瀉1958.126~128頁参照。
(注8)「きぎしひた使つかひ」、「ところ得ぬたまつくり」、「さば海人」、「堅石かたしは酔人ゑひひとく」、「海人なれや、おのが物からねなく」の類である。拙稿「記紀の諺」の諸稿参照。
(注9)この時、「百済、駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・しろきぎす一隻ひとつを貢れり。」と、まことに遠い大陸奥地の珍しい動物が贈られている。距離にして、百済が子なら、唐は孫だが、それより遠い曽孫にあたるモンゴル、タクラマカン、チベットの動物と捉えられよう。
(注10)オソについては、拙稿「女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─」参照。
(注11)上代の日本文学と中国文学の関係についての検討は注意を要する。「人草」(記上)とあってヒトクサと訓む言葉はヤマトコトバがある。中国にジンソウという語は見られない。ものを考える際、母語をもって考えるのがふつうのことであり、今日ほどに外国語教育が進んでもバイリンガルな人は数少ない。ラブレターに英語で書いてきたら詐欺を疑ったほうが賢明であろう。記紀万葉に見られる漢語の面をした表記に対し、検索の結果見つけた出典どおりの意味であると定められようはずはない。仮に万葉歌が漢語の背景を豊富に盛り込んだものであるとして、その後の和歌文学へ伝承されていないことはいかに説明されるのか。ヤマトコトバとしか考えられないのに意味のはっきりしない枕詞となぜ同居しているのか。それらの点に思いをめぐらした論考を見ない。

(引用・参考文献)
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京樂2017. 京樂真帆子『牛車で行こう─平安貴族と乗り物文化─』吉川弘文館、2017年。
胡2017. 胡志昂「石川郎女と大伴田主の贈答歌群を巡って」『埼玉学園大学紀要 人間科学部篇』第17号、2017年12月。埼玉学園大学・川口短期大学機関リポジトリ http://id.nii.ac.jp/1354/00001112/
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 中』塙書房、昭和39年。
古代交通研究第13号 古代交通研究会編『古代交通研究』第13号、同発行、2004年5月。
櫻井2012. 櫻井芳昭『牛車(ぎっしゃ)』法政大学出版局、2012年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集一』岩波書店、1999年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集②』小学館、1995年。
鈴木2006. 鈴木淳「みやびを考」『國學院雑誌』第107巻第11号、2006年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
仁平2000. 仁平道明『和漢比較文学論考』武蔵野書院、平成12年。

加藤良平 2021.7.6初出2025.1.29訂正

万葉集における「埋木(うもれぎ)」の歌

 万葉集に、「埋木うもれぎ」の歌は二首ある。時代別国語大辞典に、「うもれ[埋木](名) 埋もれた木。木の幹が土や水の中にながくうまって、炭化し化石のようになったもの。材質は黒檀に似る。」(133頁) と、他の多くの辞書と同様の説明がされている。日葡辞書には、「Vmoregui. ウモレギ(埋れ木) 土に埋没したり,覆われたりしている木.たとえば,谷に落ち込んで土に覆われてしまった木,など.」(693頁)とある。後代に化石化したものを指して言ったかも知れないが、万葉集の「埋木うもれぎ」の例は単に木が埋もれた状態にあることを言っていると考える。そうでないと意味が通らない。

 数多あまたあらぬ 名をしもしみ 埋木うもれぎの 下ゆそ恋ふる ゆく知らずて(万2723)

 多くの注釈書で大意は変わらない 。多田2009b.は、「数多くあるわけではない、一つしかない名を惜しむので、埋もれ木のようにひっそりと心の奥底でばかり恋している。恋の行方もわからないままに。」(442頁)と訳している。「寄物陳思」の歌で、「埋木」という物に寄せて思いをべたことになっている。
 もし、名が知れると恥ずかしいからと心の奥底で恋しているばかりであったなら、恋の行方はわかっている。何も起こらない。恋は成就しない。当たり前である。歌に倒置があるから直してみたとしても、名を惜しんでいたら(相手にもそれと知られないようにしていたら)、片思いは片思いのままで恋に進展はない。「ゆく知らずて」の句は不自然である。これまでの解釈には誤りがある。
 修辞的表現「数多あまたあらぬ名」が表しているのは、その人の一つの名である。それをわざわざ「数多あまたあらぬ」などと言っている。表現のおもしろさを陳述しようとしてのことだろう。「し」という強意の助詞まで伴っている。そんな一つの名が「埋木うもれぎ」になると言っている。すると反対に、「数多あまたある○○名」は埋もれていない何者かということになる。明瞭な対照が見てとれよう。どういう対照か。
 「埋木うもれぎ」の反対は生えている草である。そして、ヒトキ(一木、ヒは甲類、ト・キは乙類)の反対はヒトクサ(人草、ヒは甲類、トは乙類)である。「が国の人草ひとくさひと千頭ちかしらくびり殺さむ。」(記上)とある。一般民衆のように有象無象に生きているのが「人草ひとくさ」である。そんなヒトクサではないヒトキとは、ひとき(ヒは甲類、キは乙類、トは不明)のことである(注1)。和名抄に、「棺 四声字苑に云はく、棺〈音は官、一音に貫、比度岐ひとき〉は屍をるる所以なり、屍〈音は尸と同じ、訓は或に通ふ〉は死人の形躰を屍と曰ふなりといふ。」とある。棺は墳墓に埋葬して埋もれさせる。「埋木」とは棺のこと、すなわち、そのなかに安置されている亡くなった人のことを言っている。
 棺に入れられて埋納された人は、下(心の奥底、地面の下)から隠れて恋している。その恋の行方は不明というしかない。あの世の恋のことは誰にもわからない。限りある人生について深く洞察したうえで人間の恋情を歌った、とてもユーモラスな歌である。

  埋木うもれぎに寄せたる
 かな持ち 弓削ゆげ川原かはらの 埋木うもれぎの あらはるましじき 事にあらなくに(万1385)

 数ある注釈書で大意は変わらない 。多田2009a.は、「立派なかんなを手に持ち弓を削る弓削の河原の埋もれ木のように、表に現れずに済むことでもないのに。」(160頁)と訳し、「埋もれ木─地中に長く埋もれて、化石化した樹木。細工物の用材となる。まだ露顕しない関係を寓意。」と注している。
 三句目までを「あらはるましじき事」にかかる序詞ととることも、大阪府八尾市弓削町の長瀬川の河原で化石化した細工用の用材が採取されたととることも可能ではある。それに対して廣岡2020.は、「激しい濁流が土を抉って、水面上に出て来る埋木を描く。実はその形容をも兼ねるのが第一句である。即ち、やりがんなで木の表面を押し削ってゆくという第一句の枕詞は、水が土砂を洗い流して行く下句の様をみごとに暗示する……。上句の枕詞が下句の描写を暗示する─そういった複相の表現構造を持つ歌と見るのがよい。 」(115~116頁)とする。歌全体のダイナミズムが得られないから、「複層の表現構造」であるとしている。これでは不十分である。

左:弓作り(狩野晴川・狩野勝川、七十一番職人歌合模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017463をトリミング)、右:川が蛇行、浸食する様子(信州大学「教材研究のトビラ」梓川の河原http://kyoushoku3.shinshu-u.ac.jp/smap/modules/sozai/sozai8_1.html)

 「弓削ゆげ」は地名であろうが、「弓削ゆげ川原かはら〔弓削河原〕」とあるのだから、言葉の上に、その川の流れは弓なりに蛇行していると捉えられよう。まっすぐに流れていた川のどこかで蛇行が始まると、蛇行している部分の外側の流れは急になり、蛇行は蛇行を呼んでどんどん蛇行していく。だから、蛇行部分(の外側)に埋もれている木など、表に顕れないでいられなくなる。廣岡2020.の説明では槍鉋が削って表に顕れるかにしているが、仏師や鞍作らが使う槍鉋ではなく必ず弓削でなければならない。黒檀様の材を使った細工物ではなく、絶対に弓でなければならない。「弓削ゆげ川原かはら」なのだから、ちょっとずつではあるが着実に湾曲が進んで行って、遅かれ早かれ「埋木うもれぎ」は露呈すると言っている。外側の浸食面に今は土砂が堆積していて埋もれている木などは、いずれ水流に洗われて姿が顕れるであろうというのである。アラハル(アラハ(顕)になる、アラフ(洗)ことがされる)は掛詞である。まっすぐに見えた木が弓削によって弓に削られるようにという意味を反映している。廣岡氏に倣うなら、「三相の表現構造」になっていると言える。槍鉋で削ること、弓削が木を弓なりに曲げること、川が蛇行して岸を削ることである(注2)
 今日、万葉集の表現について多くの研究が行われている。この「表現」という表現はとても曖昧である。言葉の意味についてはほぼ辞書に記されているとおりとし、その使い方が巧みである点を指摘している論考が多い。けれども、言葉自体に思わぬ含意があり、それをもって用いられるに至っていると知れば驚かされる。この盲点を見極めることが万葉集研究の醍醐味である。何がおもしろくて声を張り上げて歌っているのか。「歌」を「歌」として声に出している意味を問わなければならない。上代において「歌」とは何か、それこそが核心である。ヤマトコトバを使いながら作り、作りながら使っていた時代の言葉づかいを正視する必要がある。歌という形式はヤマトコトバを熟成させる樽のような存在で、そのなかでヤマトコトバは声として反響していた。歌一首のなかで循環論的な弁舌を行い、どうだとばかり得意になっている理由はそこにある。現代人のように、平板な感覚のもと、ただ意味の表出のために引用的に言葉を使うこととは、言葉に対する向き合い方が違う。万葉集の言葉の使い方は、長く使い続けてきて既定の言葉を明示的に使うことに馴らされている我々のそれの反転世界にある。

(注)
(注1)新撰字鏡に、「棺 古丸反、人木」とあり、白川1995.に「「ひと」の意ならばヒは甲類、ト・キは乙類である。」(647頁)としている。
(注2)「埋木うもれぎ」を化石化した材とすることは歌の内容以外からも適当とは言えない。巻七の「譬喩歌」で「寄」せている物は他に、ころも、糸、やまとこと、弓、玉、山、木、草、花、稲、鳥、獣、雲、なるかみ、雨、月、赤土はに、神、河、海、浦沙うらのまなご、藻、船である。 見たことが稀なものはない。多くの人が当たり前に目にしているものではないもの、珍奇なものに「寄」せて歌を歌ったとしたら、聞いた人がすぐにわからないことになる。万2723番歌は埋納された棺のことであった。

(引用・参考文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』​三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
多田2009a. 多田一臣『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
多田2009b. 多田一臣『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
日葡辞書 土田忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、​1980年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。

加藤良平 2021年6.28初出2024.4.30改稿

「玉かぎる」と「かぎろひ」について

 枕詞「玉かぎる」は、万葉集中十一例を数える。岩波古語辞典では、「玉がほのかに光を出すことから「ほのか」「はろか」「夕(ゆふ)」「日」にかかり、岩に囲まれた澄んだ淵の水の底で玉のようにほのかに光るものがあるという意から「岩垣淵」にもかかる。」(823頁)と説明している(注1)。枕詞のかかり方の他の説明同様、到底納得のいくものではない。今日、枕詞と被枕詞との関係がどういう連携で結びついているのか理解されないのは、当時の人々のものの考え方に近づくことができないままだからである。 枕詞のかかり方が理解できないということは、すなわち、万葉集の歌は真には理解できていないことを表している 。残念ながら、歌の言葉を上っ面でしか感じ取れていないのである。 被枕詞ごとにあげる。

夕(去る)
 …… 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる〔玉限〕 夕去り来れば み雪降る ……(万45)
 玉かぎる〔玉蜻〕 夕去り来れば さつ人の つきたけに 霞たなびく(万1816)
イハカキフチ
 …… 大船の 思ひたのみて 玉かぎる〔玉蜻〕 磐垣渕いはかきふちの 隠りのみ 恋ひつつあるに ……(万207)
 まそ鏡 見とも言はめや 玉かぎる〔玉限〕 石垣渕いはかきふちの こもりたる妻(万2509)
 玉かぎる〔玉蜻〕 石垣渕の 隠りには 伏して死ぬとも が名は告らじ(万2700)
ほのかに
 …… うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる〔珠蜻〕 髣髴ほのかにだにも 見えなく思へば(万210)
 玉かぎる〔玉蜻蜒〕 髣髴ほのかに見えて 別れなば もとなや恋ひむ 逢ふ時までは(万1526)
 朝影に 吾が身はなりぬ 玉かきる〔玉垣入〕 ほのかに見えて 去にし子ゆゑに(万2394)
 朝影に 吾が身はなりぬ 玉かぎる〔玉蜻〕 髣髴ほのかに見えて にし子ゆゑに(万3085)
その他
 …… 行く影の 月もゆけば 玉かぎる〔玉限〕 日も重なりて 思へかも ……(万3250)
 はだすすき 穂には咲き出ぬ 恋を吾がする 玉かぎる〔玉蜻〕 ただ一目のみ 見し人ゆゑに(万2311)
 玉かぎる〔玉響〕 昨日きのふゆふへ 見しものを 今日けふあしたに 恋ふべきものか(万2391)

 最後の例は、 古訓に「たまゆらに」とあり、他にも「たまさかに」「まさやかに」「たまあへば」と試訓されており、ここでは検討から除外する。
 「玉かぎる」についての今日までの理解の前提に、「玉がほのかに光を出す」こととしているのは、表記において、トンボのことを表す蜻蛉にまつわる字が見えるからであろう。トンボやカゲロウの類が透き通った羽をしていてちらちらと光を反射して輝くところからそのような類推が行われている。 そのことは、「かぎろひ」という語の表記にも通じている。

 …… 世間よのなかを そむきし得ねば かぎろひの〔蜻火之〕 ゆるあらに 白栲しろたへの あま領巾ひれがくり ……(万210)
 今更いまさらに 雪らめやも かぎろひの〔蜻火之〕 ゆる春べと 成りにしものを(万1835)
 …… あぢさはふ 宵昼よるひる知らず かぎろひの〔蜻蜓火之〕 心潦えつつ 悲しび別る(万1804)
 …… 世の中を 背きし得ねば かぎろひの〔香切火之〕 潦ゆる荒野に 白栲の 天領巾隠り ……(万213)
 …… 平城なら京師みやこは かぎろひの〔炎之〕 春にしなれば 春日山 三笠の野辺に ……(万1047)
 ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月西渡かたぶきぬ(万48)
 はにざか 我が立ち見れば かぎろひの〔迦藝漏肥能〕 燃ゆる家群いへむら 妻がいへのあたり(記76)

 白川1995.に、「かぎろひ〔炎・陽炎〕 「ひ」は火。「玉かぎる」の「かぎる」に火をそえた形。……「かぎろひ」を〔万葉〕には炎・蜻火・蜻蜓火など義訓の字を用いるほか、香切火のような字をあてている。蜻火・蜻蜓火のように、とんぼの羽の繊細なかがやきとして表現するのは、おそらく他に例をみないようなこまやかな感覚である。唐詩には「陽炎」「陽焔」などの語がみえるが、やはり大陸的な感覚の語とされたものか……。「かぎろふ」「かげろふ」という語は、平安期には「蜉蝣かげろふ」という語と なった。〔名義抄〕に「炎・野馬・蛉カケロフ」とみえる。蛉とは蜻蛉をいう。」(209~210頁)とある。用字を解釈の参考にするのはいいが、引きずられてしまってはいけない。万葉集の文字の使い方には、正訓字から単なる当て字まで幅広い偏差がある。
 カギロヒの場合、ヒに火の意味を表すことは徹底されている。ヒは乙類である。燃え盛る火の周囲では局所的に空気の密度が異なるようになり、それが混ざり合う際に光の屈折が起こるために揺らめいて見える。その現象をカギロヒと言っている。トンボと火の間に関係があるとすれば、飛んで火に入る夏の虫程度しか考えが及ばない。しかし、それはトンボに限らない。そこでトンボとの関係をこじつけて考え、トンボの羽がキラキラするのを見立てているのであると考えられてきた。だが、冷静に考えればわかるように、燃える火が放つ光のゆらめくさまは、トンボの羽が日光を反射してきらめいているさまとは少なからず異なる。そこで、日射によって生じるカゲロウのことを持ち出してきてゆらゆらしていると見てとっているわけであるが、カギロヒのヒは(ヒは甲類)ではない。
 しかも、万1047・1835番歌に歌われている季節は春である。日射によるゆらめきが一番感じられるのは、夏の暑い日、かんかん照りの太陽がぎらぎらとアスファルトに照りつけるような時である。古代においても、アスファルト舗装こそなくとも、春ではなく夏の現象と捉えられないのはおかしい。何しろトンボは春の虫ではなく夏の虫である。万1047・1835番歌に春との結びつきを強くしているのは、それが春の山焼きであるからに違いあるまい。春に山焼きをして燃ゆることをするから草が萌ゆるのである。枯れ草が残っていると新しく草が生え出るのを邪魔する。だから野焼きは行われ、牧草地などに当てられている。すなわち、その言葉の同音異義性ばかりか、その音は上位概念にモユ(燃≒萌)という一語が成り立っているのだとおもしろがって、カギロヒノモユルという言い回しが行われている。カギロヒは、必ず火なのである。

左:光背(銅製鍍金、飛鳥または朝鮮・三国時代、594年、法隆寺献納宝物、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0054632をトリミング)、右:不動明王像(平安時代、12世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0006419をトリミング)

 ここに、トンボという昆虫の実態が介在する余地はない。しかし、タマカギルに「玉蜻」などと書いてある。それが単に借字であるかといえば、何か意味的なつながりがあるから好まれて用字されているように見える。タマカギルが「ほのかに」という言葉を導く例があった。それを「髣髴」と書いてある例がある。髣髴は、また、彷彿とも記す。この彷彿という漢語は双声の語であるが、姿がぼんやりと見えることを言っている。何の姿か。字に見えているように、佛(仏)の姿である。ホトケ様は亡くなった人だから実際に目にすることはもはやできないのだが、ぼんやりとそれらしい姿を感じ取ることはできる。居眠りをして亡き人の姿を夢に目にすることは多くの人が経験する。記憶とはそういうものであり、人は記憶のなかに生き続けていることになるから、人は二度死ぬと言われている。記憶している人が死ぬ時が二度目の死である。すなわち、目にはっきりとは見えないけれどぼんやりとは見える。イメ(夢)という言葉はそのことをよく表している。そのホトケを形象化したものが仏像である。美術作品として捉えらえるものではなく、かたどったものだから亡き人の姿を偲ぶよすがとしてあるものである。きれいに展示する必要は本来なく、秘仏でもかまわないわけである。そして、いかにもぼんやりと見ることを促す工夫も古くから施されている。光背を伴う例である。デフォルメが激しいのは不動明王に多く見られる火焔光背で、飛天が付けば飛天光背とも分類されるが、燃え盛る火のなかにホトケが位置していて、逆光になってほのかに感じ取るようになっている(注2)
 燃え盛る火が歌に歌われているのは、燃え盛る火の中で歌を歌っていた人がいたという故事に基づいてフレーミングされている。上代の人の考え方ならではの論理術が行われている。

 さねさし 相模さがむ小野をのに 燃ゆる火の なかに立ちて 問ひし君はも(記24)

 オトタチバナヒメが走水で人柱となって暴浪を凪いだ時の辞世の歌である。ヤマトタケルが野火の難にあっていた時のことを追想した歌である。草薙剣で草をぎ倒したことと浪をぎ倒すことを掛けて歌っている。
 ここでようやく、タマカギルやカギルヒにトンボ(蜻蛉、蜻蜓)の意が含み示されていることが明らかとなる。トンボは、その名を古語にカギルに似たカゲロフとも呼ばれつつ、体躯がホトケ、羽根が光背に当たる存在と見て取られたのである。だから好まれて、タマカギルやカギルヒというヤマトコトバに「蜻」「蜻蜓」という用字を入れ込んだのである。
 整理する。カギロヒは火の燃えることを指している。炎はときに高くめらめらと燃え上っている。一義的に野焼きや大火のことを指し、それが野焼きである場合において、モユ(燃→萌)ことから「春」のことを示唆する語として用いられている。万48番歌に、「東野炎立所見而」とある「炎」は野焼きのことを言っているのであって、明け方の曙光のこととする説はしりぞけられよう(注3)
 タマカギルは、タマ(霊)+カギル(燃え盛る)情景を言っている。「ほのかに」を導くのは髣髴、彷彿、仏像の光背の役割を暗示させるからである。イハカキフチを導くのは、不動明王像などが巌上に坐して火焔光背を伴うからでも、天照大神がいはに籠ったことを思い出しているからとも考えられる。太陽が隠れればはっきりとは目に映らなくなる。皆既日蝕時の状況は、いは屋戸やとによって太陽が欠け、輪郭である淵の部分しかなくなって光が弱まることを言っている。万3250番歌の「月も経ゆけば 玉かぎる 日も重なりて」という言い方は日蝕のことを言っていると理解できよう。日に月が重なることが日蝕であることは理解されていた。万2311番歌に「一目」と続いているのは、不動明王像が片眼を閉じているように見えることによるものかもしれない(注4)
 万45・1816番歌に「夕去り来れば」という場合の「夕」は、古代では昼を中心とした時間の言い方で、アサ、ヒル、ユフの意味、日の暮れ時のことを言っている。夕日は眩しくて逆光となれば姿を認めにくくなるし、「夕去り来れば」という言い方からは夕方が過ぎて日没時のことを言わんとしている。たそがれ(黄昏)時のことである。よく見えなくて誰だかわからない、タ(誰)ソ(強意)と呼ばれる由縁である。万2394・3085番歌に「朝影」という語と共に用いられているのは、朝日の眩しさや低い位置からの日の光による細長い影の意ばかりではなく、起き抜けの目にぼんやりとしか見えないことや、水面や鏡に映る像の小さなことを言っているのであろう。万2509番歌にも「まそ鏡」とある。空間認識で補正して感じ取るように訓練されているから気づきにくいが、鏡から離れれば像は小さくなっている。それを水面に映ることに言い立てて、像が浅いと捉えたからアサ(朝・浅)+カゲ(影)と言って正しいのである。
 以上、「玉かぎる」と「かぎろひ」という二語について検討した。枕詞は、被枕詞との関係で論じられることが多いが、その語が枕詞かどうかさえ区別がつかない例があるほどに定めにくいものである。短歌形式の三十一文字、上代の場合は正確には三十一音において、まるまる五音を費やして余りあるから用いられている。意味が広がって余韻を残すのである。被枕詞との関係ばかりでなく、歌全体へ及ぼす効果があったと考え及ぼさなければならない。たまたま今日、上代語の意味がわからなくなっているにすぎず、意味の含みが膨大だったから重宝して使われていたのだろう。したがって、万葉集の歌を本当の意味で理解するためには、すべての枕詞、すべての上代語、すなわち、ヤマトコトバのネットワーク全体を掌握することが求められているのである。

(注)
(注1)「はろか」の例は霊異記のもので、ここでは検討しない。
(注2)輪光光背、放射状光背はホトケ自身が光を発する後光であるが、それはそれでまぶしくてホトケの姿は見えづらいものであろう。ガンダーラに始まる焔肩仏からの火焔状の光背の展開について、ヤマトの人が由縁等を理解していたとは考えにくい。
(注3)「炎」を「かぎろひ」と訓んだのは、賀茂真淵の個人的創作、発明によるものである。
(注4)大日如来の化身とされる不動明王が像としていつから本邦に所在していたか、あるいは、人々の間で認識されていたか、定かではない。日本の大蔵経に残されているものとしては、菩提金剛三蔵訳とされる大毘盧遮那仏説要略念誦経のなかに「不動明王」は登場している。筆者は、拙稿「熟田津の歌について―精緻な読解と史的意義の検討―」で、碇石について、やはり「不動」の概念が理解されていると考えている。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白井1993. 白井伊津子「枕詞・被枕詞事典」稲岡耕二編『万葉集事典』別冊国文学第46号、学燈社、平成5年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。

加藤良平 2021.6.25初出

安騎の野の歌、「東野炎立所見而反見為者月西渡」(万48)について

 万葉集、安騎野歌群は議論がかまびすしい。はじめに歌群の原文を示し、今日の一般的な訓読を載せる。

  軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌
 八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須等太敷為京乎置而隠口乃泊瀬山者真木立荒山道乎石根禁樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去来者三雪落阿騎乃大野尓旗須為寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而
  短歌
 阿騎乃野尓宿旅人打靡寐毛宿良目八方古部念尓
 真草苅荒野者雖有葉過去君之形見跡曽来師
 東野炎立所見而反見為者月西渡
 日雙斯皇子命乃馬副而御猟立師斯時志来向(注1)

  軽皇かるのみ安騎あきの野に宿りし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌
 やすみしし 吾が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと ふと敷かす みやこを置きて 隠口こもりくの はつの山は 真木立つ 荒きやまを いはが根 さへ押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへおもひて(万45)
  短歌
 安騎の野に 宿る旅人 うちなびき も寝らめやも 古念ふに(万46)
 ま草る 荒野にはあれど 黄葉もみちばの 過ぎにし君が 形見とぞ来し(万47)
 ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(注2)(万48)
 なみしの 皇子のみことの 馬めて 御猟みかり立たしし 時し来向ふ(万49)

 安騎の野歌群については、これまでにも何のために宿りに行ったのか検討されてきた。狩猟の折の野営であるとする説が有力視されている。第四反歌に「御猟」とあるからそう考えられているが、それにしては「宿」りのことばかりを歌っている(注3)。他には招魂・鎮魂儀礼、大嘗祭、鎮魂祭、即位への通過儀礼、成年式、郊祀など、古代の祭式や儀礼が基底にあったものとする説が提出されている。このうち、もっとも想定しやすいのは成年式である。このときの主役は軽皇子で、後に文武天皇として即位し、景雲四年(707)に二十五歳で没している。持統七年(693)頃かと推定されている安騎野の野宿の時点では十一歳ということになる。天皇の位に就くまで四年ほどあり、天皇位と関係する大嘗祭や郊祀は除外されよう(注4)。そしてまた、何らヒントもないままに題詞が記され、左注も付されずに疑問なしとして万葉集に編纂されていることから、当時の人にとってよくわかることであったと考えられる。わかるとは、当時の人の常識の範囲内の行動であるということである。当時の人の常識は、今日、第一にヤマトコトバで説明され得ること、そして同時に、記紀に伝えられている逸話のなかに描かれていることである。無文字時代の言葉は、それを担保する文字を持たないから説話や歌謡の形をもって伝えられていた。
 記紀に記されている話のなかに、応神天皇がまだ太子おほみこの時に、高志前こしのみちのくちつの鹿みそぎのために巡幸したという記述がある。安騎野の宿りも、目的は似たようなことと考えられる。成年式というのに軽皇子は若すぎないかと心配するには及ばない。応神天皇の太子時代の巡幸も、「我に御食みけ給へり」などと言って喜んでおり、年齢的には同等であろう。万49番歌に「御猟」という語が出ては来るが、その時が来たとばかり言っていて「御猟」をしたとは言っていない。天武紀に「そのに、菟田うだ吾城あきに到る。」(天武紀元年六月)とあり、奈良県宇陀郡の小地名として安騎はある。以前のことを追想していることに違いはないが、だからといって軽皇子、後の文武天皇が、歌が歌われたときに実際に「御猟」をしたことは確かめられない。数え年で十一歳ぐらいで、弓矢での狩りの頭領となることは難しい。
 反対に、安騎の野に禊ぎの場所があるかと言えば、川が流れていない水がかりの悪い所を「野」と言うのだから、実際に禊ぎの作法が行われたとは考えにくい。とはいえ、応神天皇の場合も、「禊せむとて(為禊而)」(仲哀記)行っただけであり、実際に水を浴びたり浸ったりしたとは記されていない。歌の場の設定として記される題詞には、「軽皇子宿于安騎野」とあって、あきらかに「宿」りそのものが歌意を拘束するように「定義」されている。狩猟前夜の出来事として片づけてしまうことでは理解は深まらない。他に目的は考えにくいので、何かしら皇太子時代の応神天皇と同様の行動がとられたものと考えられる(注5)
 応神天皇が角鹿へ行って実際に得られたことは、「名」についての確認であった。「我に御食みけ給へり」と言って合点が入っている。彼はナという名を持っており、それを自らのものとして認識、確認し、アイデンティティたり得たのが、角鹿禊ぎ巡幸であったと筆者は考えている(注6)。すなわち、呼ばれるものとしての名に加えて、呼ぶものとしての名を獲得したのである。シニフィアンとシニフィエが結びついた時(?)、まぎれもなく一つの言葉として成り立つこととなった。祭式・儀礼の観点から言えば成年式ということになるが、今日的解釈では青年心理学におけるアイデンティティの獲得作業と言ったほうが理解しやすいであろう。そういう話として安騎の野歌群を捉えるなら、軽皇子も自らの名を自らのものとして受け止めて、自ら発するに足る力を得る機会であったと定められよう。
 軽皇子と呼ばれているのがどういう意味なのか自得したのである。カル(軽)なのだから、野に出かけて、草をカル(刈)ことが行われたのである。一人前の大人になるということは、自らが名を体現するということである(注7)。古代においては、名に負う存在が社会的人格としてアイデンティティとされていた。名負氏という言葉で知られるように、名に負うことで人はコト(事)がコト(言)となり、はじめて社会に Sein している。皇子とて同じことで、自分の名をきちんと自らが負っていることを自覚して、ようやく一人の成人として確かになる、同一性を得られると考えられていた。
 イニシエーションに当たることのために、皇子の立場の人が野へ出掛けて行って草刈りをしたのには先例がある。記紀の逸話のなかで明瞭な話がひとつ語られ人口に膾炙している。ヤマトタケルの野火の難の逸話である(注8)。古事記では、ヤマトタケルが相模国に到着した時、そこの国造がヤマトタケルを滅ぼそうと偽りを言って野に誘い出し、火を放って焼き殺そうとした。その時ヤマトタケルは、刀を使って草を刈り払い、火打石で火を打ち出して迎え火をつけて反対に焼き払って危機から脱出した。知恵と勇気を兼ね備えた大人であることを証明した対応であった。出発前には、天皇のたびたびの派兵命令に、「既に吾を死ねと思ほす所以は何」(景行記)などと泣き言をこぼしている。伊勢大御神の祭祀に当たっていた叔母のヤマトヒメに対してである。天皇の命に従わずに皇子の立場はあり得ない。スメラミコトのミコト(命令)の体現者でなければ、皇子に付けられ呼ばれているミコト(命)という称号が泣くことになる(注9)。したがって、今回の安騎の野の巡幸も、成年式として仕組まれているとわかる。カル(軽)の皇子と名に負っているから、カル(刈)ことが成年式の第一目標なのである。
 安騎の野の歌群の解釈は完全に改められなければならない。題詞に記されていることは「宿」りである。草を刈って草葺きの仮小屋、廬を作ってキャンプをしている。すなわち、草を刈ることが第一目標である。野火の難に知恵と勇気で対処できますよと証明して見せることが肝要である。カル(狩)ことはついでにあったかもしれないが、ヤマトタケルは狩りをしてひとかどの成年となったわけではない。安騎の野の「宿」りがヤマトタケルの野火の難の話に由来していることは、他の歌にもきちんと詠み込まれている。

 …… 安騎の大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへおもひて(万45)
 安騎の野に 宿る旅人 うちなびき も寝らめやも 古念ふに(万46)
 ま草る 荒野にはあれど 黄葉もみちばの 過ぎにし君が 形見とぞ来し(万47)

 ここでわかることは、「いにしへ」という言葉が、軽皇子の父君である草壁皇子を表しているのではなく、ヤマトタケルのことを指している点である。ムカシ(昔)とイニシヘ(古)はヤマトコトバで意味合いに相違がある。心理的に自分とつながりがある過去はムカシ、つながり得ない過去はイニシヘである(注10)。旅人が寝付けなかったのは、伝承にしか知りえないヤマトタケルの野火の難のことを思っていたからであり、火に巻かれないように寝ずの番をしていたためである。そしてまた、ヤマトタケルの一連の征東譚の締めくくりで「あづまはや」と慨嘆したと伝えられている。その言葉にまつわる話として、坂の神が白鹿に変身していてヤマトタケルは戦っている。鹿の目にひる(ヒは甲類)を当てて殺している。記では言葉の由来として、紀では後日談として語られている(注11)

 そこより入りいでまして、ことごとく荒ぶる蝦夷等をことけ、亦、山河の荒ぶる神等かみたちたひらやはして、還り上り幸す時、足柄あしがらの坂本に到りて、御粮みかれひす処に、その坂の神、白き鹿にりて来立つ。しかくして、即ち、其の咋ひ遺せるひるの片端を以て待ち打てば、其の目にあたりて、乃ち打ち殺しき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎きてりたまひて云はく、「あづまはや」といひき。故、其の国を号けて阿豆麻あづまと謂ふ。(景行記)
 時に日本武尊、つね弟橘媛おとたちばなひめしのひたまふみこころまします。かれ碓日嶺うすひのみねに登りまして、東南たつみのかたおせりてみたび歎きて曰はく、「づまはや」とのたまふ。〈嬬、此には菟摩つまと云ふ。〉故、因りて山の東の諸国もろもろのくにを号けて吾嬬国と曰ふ。……則ち日本武尊、信濃に進入いでましぬ。是の国は、山高く谷ふかし。あをたけ万重とほくかさなれり。人つゑつかひてのぼり難し。いはほさがしくかけはしめぐりて、たかたけ数千ちぢあまり、馬頓轡なづみてかず。然るに日本武尊、けぶりけ、霧をしのぎて、遥かに大山みたけわたりたまふ。既に峰にいたりて飢ゑて、山のうちみをす。山の神、みこを苦しびしめむとして、白き鹿かせきりて王のみまへに立つ。王あやしびたまひて、一箇ひとつ蒜を以て白き鹿をはじきかけたまふ。則ちまなこあたりて殺しつ。爰に王、たちまちに道をまどひて、出づる所を知らず。時に白きいぬ自づからまうきて、王を導きまつるかたち有り。狗に随ひて行でまして、美濃に出づることを得たまふ。吉備武彦、こしより出でてまうあひぬ。是より先に、信濃坂をわたひとさはに神のいきを得てえ臥せり。ただ白き鹿を殺したまひしよりのちに、是の山をゆる者は、蒜をみて人及び牛馬に塗る。自づからに神の気に中らず。(景行紀四十年是歳)

 安騎の野での宿りにおいて、当面の課題は眠くても寝ないでいることである。目にヒルを当ててしまうぞという笑い話の脅しにより、誰もが寝ないでいたらしい。誰もの目がひる(ヒは甲類)のつもりになって開けていることを意味している。蒜のエキスが鳥目を治して昼を呼ぶ目薬だったかという実際問題は別として、そういう意味のことを音声として歌っている。言葉として「わかる」からそうしている。
 「黄葉もみちばの 過ぎにし君」というのもヤマトタケルのことで、その「形見」とは、「野」をお膳立てとするということである。原文に「葉」とあるばかりであるが、スギ(過)と続いているので「黄葉もみちば」に当たる。葉っぱが赤や黄色に染まることは季節が秋から冬の初めにかけての謂いであるとともに、燃える炎をイメージさせている。モミチバ(ミは甲類)という音から気づかされるのは、火を付けるに当たって燧杵と燧臼を用いて熾す時、燧杵を手の中で揉み揉みして火の気を熾すことが思い浮かぶ。わずかな火の気をおが屑や乾いた葉に燃え移らせて火を確かなものにする(注12)。その材料には、すぎ(ギは乙類)の枝葉を伐って乾燥させたものが好都合であった。だから、スギ(過、ギは乙類)という言葉が続いていて納得がいくようになっている。
 このような考えにしたがい定訓が得られていない万48番歌を解釈し直す。

 東野炎立所見而反見為者月西渡
 あづまはや 野火のび立つ見えて 返しけむ しかせば月は 西に渡らむ(注13)

 ヤマトタケルが野火の難に立ち向かっていたところは、あづまの国である。 全てを征服して帰還するにあたり嘆息している。「あづまはや」である。当時の人にとってこのヤマトタケルの物語が常識として共有されているものであったとすれば、歌の表記に、ただ一文字「東」と記すだけで「あづまはや」と訓まれるであろうことは納得される。「炎」という字面を見てケブリ(煙)のことであると考えるのは誤りである(注14)。野火の話だからである。また、カギロヒ(蜻火)と訓むことも、それは「燃ゆ」るものであって「立つ」ものではないので適当でない。記紀とも「野火のび」という語が用いられているわけではないが、上代にその語があったことは確かである。

 …… 蜻火かぎろひの 燃ゆる家群 妻が家のあたり〔迦藝漏肥能毛由流伊幣牟良都麻賀伊幣能阿多理〕(記76)
 …… 蜻火かぎろひの 燃ゆる荒野に〔蜻火之燎流荒野尓〕 ……(万210)
 …… 高円山に 春野焼く 野火のびと見るまで 燃ゆる火を〔高圓山尓春野焼野火登見左右燎火乎〕……(万230)

 ヤマトタケルは野火が迫り来るのを見、欺かれたと思って対処した。反対に火を放って返している。事の次第は記紀に見えるとおりである。敵が仕掛けたことを捉え返すことで難から逃れている。その術を身に着け、実践することが、ヤマトコトバのなかで生きていく「大人」になるということであった。記紀では東征後にミヤズヒメのところへ戻っている。征服し折り返して還って来ていて、月日は流れている。
 「反見」は「返しけむ」と訓む。「見」という字はミ(甲類)の音との結びつきが極めて強い用字であるが、「反」字は、反切の意でカヘシと訓む例が知られる(注15)。反切を示唆するとすれば、「見」字を音読みしているものととることができる。類例として、「監」「兼」「険」などがあり、ケムと訓んでいる。野火が立っているのを見て野火を立てて返したのだろう、という意味ばかりか、東征をし終って歩を返したのだろう、その途中での苦難を「あづまはや」の一言に込めて言い放ち、無事成年となったのであろう、という意まで拡張的に含んでいる。
 そのことが、今回、軽皇子に求められた課題であった。ヤマトタケルがその状況下でとった行動は草刈りであった。カル(軽)の皇子、お分かりですね、と皇子にもその一行にも歌い聞かせている。そして、寝ずの番をしている様子を、もう少し頑張って続けていけば、やがて時は流れ、月は西に渡っていくだろう、夜は明けるだろうと言っている。
 「為者」はシカセバと訓む。シカスがそのようにするの意の「然す」と、四段動詞「敷かす」の意とを掛けることになっていて正しいと考えられる。ヤマトタケルはそのようにして対処して東国を征服して帰還することができた。最後には、坂に白い鹿が現れてそれを退治して征東は完了している。蒜を目に当てたという話である。発した歎息が「あづまはや」である。そのようにして、の意味のシカセバのなかに、シカ(鹿)という言葉が含まれていてわかりやすい。そして今、軽皇子は、草刈りしたその草を尻にお敷きになって一晩お過しになっている。

 天地あめつちの ともに久しく 言ひ継げと この奇し御魂 敷かしけらしも〔志可志家良斯母〕(万814)
 …… 神ながら 神さびせすと ふと敷かす〔太敷為〕 みやこを置きて ……(万45)
 やすみしし 我が大君の 高敷かす〔高敷為〕 大和の国は ……(万1047)

 「然せば月は 西に渡らむ」は、順接の仮定条件で、既定的事実についてそれを仮定的に条件としている。対して、「敷かせば月は 西に渡らむ」は、順接の確定条件で、二つの事柄が原因と結果の必然的な関係であることを示している。いにしへにヤマトタケルはそのようにして、月は西へと進んだのであろうといい、また、今に軽皇子は草をお敷きになっていて、月は西へと進むであろうと言っている。二つの意味を掛けて歌うことで、イニシエーションの正当性を説いている。
 方角名に下接させて「渡る」という例はあまり見られない。「渡る」方角は決まっていることが多いからだろう。春になって雁が渡っていくのは北に向けてである。決まっているから語られない。記紀のなかでは、「遂以埴土舟、乗之東渡、到出雲国簸川上所在、鳥上之峯。」(神代紀第八段一書第四)とある。新羅から出雲へ向かおうとして言っている。この歌での「月は西に渡らむ」という言い方は、眠い目をこすりながら頑張って起きていてくださいね、と鼓舞するための言葉である。時間が経てば月が西方へ進むのは当たり前である。また、一週間ほど経過すれば走水、浦賀水道の流れも、潮汐の関係から小潮になって緩やかになるものである。その時、月の形が変わっているのも当たり前である。それをわざわざ言っているのは、わざわざ言うことが歌の眼目だからである。子供じゃないのだから言われなくてもわかっていると言い返すことは、まだ半分子供の大人げない発言ということになる。ぐうの音も出ないように、がんじがらめに二重拘束的に、儀礼と言葉が仕組まれている。事=言の時代が上代であった。
 時に軽皇子は十一歳ほどである。もう子供じゃないのだということのために、安騎の野に宿るというイニシエーションに臨んでいる。だからわざわざ当たり前のことを歌い、参加者は皆でおもしろがっているということになる。ここに至り、題詞をふくめた全体構図のなかに、この歌がきちんと位置づけられていると理解できる。
 シカセバを「為者」と書いたことの傍証となる表記を示しておく。

 勝間田の 池は我れ知る はちすし しか言ふ君が〔然言君之〕 鬚無き如し(万3835)
 荒礒ありそ超す 浪はかしこし しかすがに〔然為蟹〕 海の玉藻の 憎くはあらずて(万1397)
 おも忘れ いかなる人の るものそ 我れはしかねつ〔言者為金津〕 継ぎてし思へば(万2533)
 百足らず 八十やそ隈坂すみさかに 手向たむけせば〔手向為者〕 過ぎにし人に けだし逢はむかも(万427)
 大原の このいち柴の いつしかと〔何時鹿跡〕 吾がおもふ妹に よひ逢へるかも(万513)
 我当為 栄危反、玉篇、敷施也、亦、栄僞反、助也、因也、字従爪。(玉篇逸文、一切経音義・巻第二十七)
 為(爲) 会意。象と手(ゆうそうとを組み合わせた形。象の鼻先に手を加えて、象を使えきするの意となる。「なす、もちいる、つくる、しわざ」の意味に用いる。いんの時代には長江以北にも象が数多く棲息せいそくしていて、象を使って大きな土木工事をし、宮殿などをつくっていたと考えられる。(白川2003.10頁) 

 玉篇逸文を載せる一切経音義は、法華経譬喩品の三車火宅の話の箇所、「是舎唯有一門、而復狭小。諸子幼稚、未有所識。恋著戯処、或当堕落、為火所焼。我当為説怖畏之事。此舎已焼、宜時疾出、無令為火之所焼害。」(妙法蓮華経・譬喩品第三)である。火の車になっている火宅から脱出させるのに、三車、羊・鹿・牛の車をおもちゃを用意して載ってごらんと導いている。車には車をで対応しているところは、野火には野火をで対応したヤマトタケルの知恵と通ずるところがある。我が子を救う親の立場で物事を考えられるようになるとは大人の考え方ができているということでもあるが、ヤマトタケルは自らの脱出劇として迎火を焚いているので、仏典をそのままに翻案したものとは思われない。
 白川静氏の、「為(爲)」字は象を使役している形であると見る説は興味深い。どうして大きな象を使役することができるのか。象がまだ子供のときに鎖につながせて馴れさせたからである。動きたくてあがき暴れるが、身動きが自由にならない。それを学習すると、大きくなっても小さな木に括りつけておくだけで動こうとしなくなる。エレファントシンドロームという言い方もされている。芸文類聚には、「臨邑王献象一、知跪拝、御者使之。」、「献馴象」と見える。鎖につなぐことは足枷あしかせをすることである。馬を自由に操れるのは轡をはめるからであり、牛の場合は鼻緒をつけるからである。つまり、為(爲)字は、象を操ることの所以を含意していると考えることができる。足枷によるのだから、(ア)シカセと訓むことは当を得ていることになる。「為者」はシカセバと訓んで正しい。
 軽皇子が安騎の野に宿った意味は、狩猟が主目的ではなく、草刈りが大目的であった。「月西渡」とは、月がその軌道を通って西方に移行することであるとともに、月日が経過したという意味にも取ることができる。それは、ヤマトタケルが東の国を出て西方に帰ってくるまでの時間経過を表していると言える。歌われた現在に限った詩的抒情に「月かたぶきぬ」というのではなく、実際に「西」に動いて行くことを示さなければならない。
 ヤマトタケルの物語では野火の難につづいて走水で渡海できない事態が生じている。そこでオトタチバナヒメが人柱となり、先へ進むことができた。東国から帰還の際に叫んだ「あづまはや」という言葉は、彼女のことを偲んで「づまはや」と言ったものであると紀では解されている。オトタチバナヒメは海に飲まれてから七日後に、その櫛が海辺に流れ着いている。その櫛を彼女の形見とし、御陵を作って納めたことになっている。万47番歌の「形見」がヤマトタケルのそれであったことは、万48番歌に確かめられることになっている。
 走水で狭い海峡を渡ることができなかったのは、浦賀水道の流れが激しかったからである。潮の干満差が大きかった。新月や満月の頃である。それから七日経てば小潮となって流れは穏やかになる。月の形は半月型、ちょうど櫛の形になっている。歌にある「月西渡」は moon のことでもあり、month 単位のことでもあり、menstruation のことでもある。東征の途上で尾張国でミヤズヒメと契りを交わし、東征の後に返って来ている。その時、おすひというオーバーコートのすそに「月経さはり」をつけていた。そして月問答の歌が歌われている。オトタチバナヒメが半月型の櫛に、ミヤズヒメは満月型の経血のしみに再現されているということであろう(注16)
 軽皇子がいる冬の安騎の野の頭上にも、そんな下弦の月が西へと渡って行くであろうとしている。寝ずに明かそうとする一夜も終わりに近づいて空が白み始め、もうしばらく経てば朝である。月のことが主題になっているから、次の万49番歌の「日並皇子」へとつながっている。「日並」とはまさしく月のことから言い放った言葉であった(注17)

 東野炎立所見而反見為者月西渡
 あづまはや 野火のび立つ見えて 返しけむ しかせば月は 西に渡らむ(万48)
 (大意)「あづまはや」と歎きの叫びをあげたのはヤマトタケルでしたね。彼は、野火が立つのを目にして、草刈りをして野火を返したのだったそうです。そのようにして東征はうまくいって月が西へ渡るように帰途を進んでいったのでしょうし、月日は経過したのでしょうし、いま、草をお敷きになっているので月は西へ進んでいくのでありましょう。同じように大人になりましょうぞ。

 柿本人麻呂が歌を歌う目的は、場を盛り上げるためである。そのために従駕している。その「場」とは何か。安騎の野での「宿」りである。「宿」りそのものが「場」であり、それが目的でそこに野営している。やっていることは何か。軽皇子のカルの皇子としての確認作業、成年式である。ヤマトタケルと同じように野の草を刈った。ヤマトタケルと同じように月を天上に見ている。立派に成年式を成しおおせていっていることを歌っている。門付け歌人、御用歌人としてつき従っているのだから、その場その場で行われている行為の意味付けをうまい具合に詠んでいるばかりである。この「宿」りを狩猟の前日の野営とだけ捉えることは誤りである。今日の考え方からすれば理知的に聞こえるけれど、そこには音声言語のみにものを考えた人に通じない点がある。カルの皇子は「狩」ことよりも「苅」ことをもって確かならしめられる。なぜなら、記紀に伝えられている当時の常識において、皇子がカルことをして「大人」となった例は、ヤマトタケルの草薙剣による刈り払い以外に知られないからである。言葉がなければ考えることができず、言葉による記憶が共有されていなければ歌に歌うことができない。その記憶は上代において、記紀に残されている言い伝えとして共通認識となって人々に保たれていた。言葉が持つ二重の意味に注意を向けなければならない。

(注)
(注1)元暦校本に「時志来向」とあり、他の諸本「時者来向」は誤写であると考える。拙稿「人麻呂作歌、安騎野の歌、万49番歌の「来向ふ」について」参照。
(注2)賀茂真淵・万葉考に、「東、ヒムカシノ……ノニ炎、カギロヒノタツ所見而ミエテ、……反見カヘリミスレツキ西渡カタブキヌ、」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200007129/36?ln=ja)と訓んで以来支持を受けてきた。疑問とする向きもしばしば呈されており、佐佐木2004.は、「ひむがしの 野らにけぶりは 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」(289頁)というかたちでの復元を最適解としている。
(注3)坂下2012.参照。
(注4)ひねくれたものの見方をすれば、皇位継承問題に対する自己主張として狩猟が行われたとも考えられなくはないが、ならば狩猟そのものを歌わないで何をしているのか意味不明である。
(注5)論をすすめるうえで、筆者はあえて見込み捜査的な方法をとっている。なぜなら、記紀万葉の世界は今日の我々とは別世界だからである。異文化の営みを理解するのに、近代の枠組みを当て嵌めて理解しようとしてもできるはずがない。柿本人麻呂の「方法」なるものをアプリオリに設定したとしても、聞いてくれる人がいなければ残されるものも残されないだろう。文化人類学のフィールドワークのように、そのなかに入り込んでその人たちとともに暮らしながら、その人たちの思い描いている世界の全体像が浮かび上がるまで、ジグソーパズルのピースがうまく嵌るまで、粘り強く確かめていく他はない。今日の「柿本人麻呂研究」や「古事記構想論」は象牙の塔の産物である。
(注6)拙稿「古事記の名易え記事について」参照。
(注7)今日でも、社会人たるには、アルバイトではなく就職して一つの仕事に就くことであるとする考えが残っている。あなたは何をしていますか、という質問は、あなたは誰ですか、という質問へと直接的に関わってくる。不審者への質問にある、何をしていますか、は、今何をしているか、ばかりでなく、職業は何をしているかを聞いている。職業がわかれば挙動も理解できることがあり、一方、犯罪行動が無職や職業不詳の人により多く行われるのは、経済的な問題もさることながら、小人閑居して不善をなすという一般論が通じているためであろう。
(注8)拙稿「ヤマトタケルの野火の難―「焼遺」をめぐって―」参照。
(注9)ヤマトタケルが、ヤマトタケルノミコからヤマトタケルノミコトへと進化した事情については、拙稿「ヤマトタケル論―ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件―」参照。
(注10)古典基礎語辞典に、「いにしへ」は「動詞イヌ(往ぬ、ナ変)の連用形イニと助動詞キの連体形シとへ(方)から成る。遥か遠くに過ぎ去っていて、伝承などで自分がその時点のことを聞いていても確かめることのできない過去をいう。類義語ムカシ(昔)は振り返って見たときに自分がその時点のことを思い浮かべられるような、自分とつながりのある過去。したがって、上代では、かつて自分が過ごした日々の意味ではムカシを使うことが多いが、その過去の状況が今はすっかり変わってしまって、かつての日々が遠く感じられる場合にはイニシへを使う。イニシへとムカシの意味の違いは物理的な時間の差ではなく、今の自分とつながりがあるかどうかの心理的な差である。」(137頁、この項、白井清子)と明晰な解説が行われている。
 村田2004.265頁に、万31・32番歌の二例において語義の差異を検出できないとするが、万32番歌の原文「古人尓和礼有哉」は「古人ふるひとに われ有るらめや」と訓む。拙稿「近江荒都歌について」参照。
(注11)拙稿「ヤマトタケルの「あづまはや」について」、また、「ヤマトタケルの野火の難―「焼遺」をめぐって―」、「古事記、走水と弟橘比売の物語について」参照。
(注12)霊異記・中・第二十一に、「信のひきりびを東春にり、熟火もゆるひを西秋にく。」とある。
(注13)他の訓みの可能性がないわけではない。「為」字は「偽」に通じ、マネ(真似)の意として使われることもある。ヤマトタケルの真似を今、我々、軽皇子一行はしているという意味である。

 乃ち、蒭霊くさひとかたを造り、微叱許智みしこちの床に置きて、いつはりてやまひするひとまねにして、襲津そつひこに告げて曰はく、「微叱許智、忽に病みて死なむとす」といふ。(神功紀五年三月)
 為 マネス(名義抄)

 ただし、「まねす」という語は万葉集にないばかりか説明調に過ぎる点、また、上代にマネニスであった可能性が高いため無理がある。
 「為者」をセシカバと訓む可能性もあるが、低いだろう。
(注14)説文に、「炎 火の光の上ぐるなり。重火に从ふ。凡そ炎の属、皆炎に从ふ」とある。古訓では、ホノホ、ホムラとある。
(注15)尾山2019.に、「「見」字と「み(る)」の関係は強固な紐帯を結んでいた」(110頁)とあり、万葉集の歌に「見」字を「み(る)」以外に訓む例は知られない。しかるに、万葉集歌中で「反」字に対して、「勅旨〈かへして大命といふ〉〔勅旨〈反云大命〉〕〉」・「船舳に〈反してふなのへにと云ふ〉〔船舳尓〈反云布奈能閇尓〉〕」(万894)、「〈懸有、反してさけれると云ふ〉〔〈懸有、反云佐家礼流〉〕」(万3839)といった例がある。反切の反の意に使うから、その延長線上にある義訓と捉える可能性が出てくるわけである。なお、最後の例、「家」字は「我」に校異されることが多い。
(注16)その間の話に、酒折宮での御火焼の老人の「日々かが並べて 夜には九夜 日には十日を」という筑波問答の歌が挟まれている。たてつづけに日数の経過にまつわる話が出てくる。
(注17)「日並」は「日にならべてしらすべし」(神代紀第五段本文)と記される月読尊のことである。拙稿「人麻呂作歌、安騎野の歌、万49番歌の「来向ふ」について」参照。

(引用・参考文献)
尾山2019. 尾山慎『二合仮名の研究』和泉書院、2019年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
坂下2012. 坂下圭八『和歌史のなかの万葉集』笠間書院、平成24年。
佐佐木2004. 佐佐木隆『万葉集を解読する』日本放送出版協会(NHKブックス)、2004年。
白川2003. 白川静『常用字解』平凡社、2003年。
村田2004. 村田右富美『柿本人麻呂と和歌史』和泉書院、2004年。
渡瀬1999. 渡瀬昌忠「安騎野の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第二巻 柿本人麻呂(一)』和泉書院、1999年。

加藤良平 2021.6.16初出

人麻呂作歌、安騎野の歌、万49番歌の「来向ふ」について

安騎野の歌

 万葉集、安騎野歌群は議論がかまびすしい。とりわけ万48番歌は、その訓みから議論の対象となっている(注1)。その次の万49番歌は、「時」という表現に新しさをおぼえるとして考察の対象となっている。短歌の構成は、全体として、時系列に従って展開されていると考えられている。本稿では、万49番歌の基本的な読解について検討する。
 はじめに歌群の原文と今日の一般的な訓読を示す。

  軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌
 八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須等太敷為京乎置而隠口乃泊瀬山者真木立荒山道乎石根禁樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去来者三雪落阿騎乃大野尓旗須為寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而
  短歌
 阿騎乃野尓宿旅人打靡寐毛宿良目八方古部念尓
 真草苅荒野者雖有葉過去君之形見跡曽来師
 東野炎立所見而反見為者月西渡
 日雙斯皇子命乃馬副而御猟立師斯時者来向
  軽皇かるのみ安騎あきの野に宿りし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌
 やすみしし 吾が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと ふと敷かす みやこを置きて 隠口こもりくの はつの山は 真木立つ 荒きやまを いはが根 さへ押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへおもひて(万45)
  短歌
 安騎の野に 宿る旅人 うちなびき も寝らめやも 古念ふに(万46)
 ま草る 荒野にはあれど 黄葉もみちばの 過ぎにし君が 形見とぞ来し(万47)
 ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(万48)
 なみしの 皇子みこみことの 馬めて 御猟みかり立たしし 時はむかふ(万49)

 万49番歌はほぼ定訓とされている。一句目と二句目のつづきを「なみし 皇子みこみことの」とする説もある(注2)

万49番歌の「来向ふ」

 今日、結句の「時は来向ふ」について、大風呂敷を広げた議論が通行している(注3)。しかし、単に歌を聞いただけで、皇統譜正統の皇子の再生、「日の皇子」再誕の奇跡、迫り来る時とそれを待ち設ける主体の心情の融合などといった壮大な意味合いを認めることは考えにくい。「時は来向ふ」という表現は、諸解説書に、「……狩を催された、その季節がいよいよ来た。」(新大系本萬葉集47頁)、「…… 狩を催された 同じその時刻になった」(新編全集本万葉集53頁)、「……かつて狩場に踏み立たれた時刻は今まさに到来した。」(古典集成本萬葉集70頁)、「狩を催されたその時が、いよいよ迫ってくる。」(稲岡1997.40頁)、「……猟に踏み立たれたその時刻は、今まさに到来した。」(伊藤1995.151頁)、「……今しも出猟なさろうとした、あの払暁の時刻が今日もやがて来る。」(中西1978.73頁)、「……御狩にお出かけになった時刻が今や迫って来る。」(古典大系本萬葉集35頁)、「……御猟を催された、その季節がやつて来た。」(澤瀉1957.327頁、漢字の旧字体は改めた。)などと訳されている(注4)。「時は来向ふ」という言い方において、「時」の用法として目新しく、新境地を開いたものであると考えられているが、はたしてそうだろうか。もしそうであるなら、ひとつの表現として後に引き継がれていくはずである。しかし、万葉集中にばかりかその後においても、特定の「時」が 「来向かふ」という表現は見られない。類例に次のようなものがある。

  霍公鳥ほととぎすづるこころに飽かずして、おもひを述べて作る歌一首〈并せて短歌〉
 春過ぎて 夏むかへば あしひきの 山呼びとよめ さ夜中に 鳴く霍公鳥ほととぎす 初声はつこゑを 聞けばなつかし 菖蒲あやめぐさ 花橘を 貫きまじへ かづらくまでに 里響め 鳴き渡れども なほししのはゆ(万4180)
 霍公鳥ほととぎす 飼ひとほせらば 今年て むかふ夏は まづ鳴きなむを(万4183)

 季節には四季がある。万4180番歌で、春が過ぎたら夏が来るのは当たり前のことである。万4183番歌は万4180番歌の反歌である。テーマは霍公鳥であり、万葉時代、初夏の景物とされている。季節としては夏しか眼中にない。今年(の夏)を経れば次は(来年の)夏に関心が向く。だから非常に適切な語の使い方として、「夏は来向ふ」、「来向ふ夏」と言っている。やってきて真正面に対峙する形で向き合うことになる。「むかふ」という語は、時代別国語大辞典に、「近づいてくる。迫りくる。」(246頁)、岩波古語辞典に、「(時季が)こちらに向って近づいて来る。」(381頁)と情緒的に釈すが誤謬を含んでいる(注5)。「むか」ではない。
 まったく当たり前のことを歌うために使われているのが「来向ふ」という言葉である。当然やって来ることを示すために用いられている。面と向って真正面な状態になることを意味する「向ふ」を「来」に後付した言葉である。そういう言葉なのだからそういう使い方がふさわしい。万49番歌の「時」を、今日の諸説のように捉え、気分ばかり一人歩きした解釈は差し控えねばならない。

武田祐吉氏の先見の明

 「来向ふ」という言葉が当然の推移を表すとすると、「時は来向ふ」という言い方は落ち着かない表現である。助詞の「は」は、取り立ての助詞とされ、その機能は「分説」と呼ばれている。助詞「も」を「合説」と呼ぶのに対比されている。「分説」とは、「は」が承ける事物を他物と区別して特立させることを指す。小田2015.があげている例を示す。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮[……]かなひぬ今(=他ノ時デハナク、今コソハ)漕ぎ出でな (万8)

 「今」という言い方は、他の時を排除して今こそは、という意味合いを含み持っており、素直に受け取ることができる。しかし、上の万4180番歌に、「春過ぎて夏(=他ノ秋ヤ冬デハナク、夏コソハ)来向ふ」という形は不自然である。「来向ふ」ことは自明の必然を表すのだから、春が過ぎたら次は夏に決まっており、秋や冬ではないとわざわざ言う必要はない。
 この点を万49番歌で確認すれば理解に至らないことがわかる。「御狩り立たしし時(=他ノ時デハナク、出猟サレタ時ハ)来向ふ」と言い回している。「来向ふ」ことは必定の事柄でしかないから、承けていない他物と区別する必要がない。「時」と述べ立てることで何を表したいのであろうか。
 万葉集の「時」の用例については、粂川1978.に網羅的な調査がある。「時は」と続く例は、「時には」(when)の意味で使われている例が多数ある。万292・423・892・929・1703・1809・2341・2852・3030・3036・3951・4231番歌である。そのほかには、「時は成りけり」(万439)、「時はしも何時もあらむを」(万467)、「時は経ぬ」(万469)、「時は今は春になりぬ」(万1439)、「時は過ぐれど」(万1703)、「時は過ぎねど」(万1855)、「時は来にけり」(万2013・3987)、「時は過ぐとも」(万3493或本)、「時はあれども」(万3591)、「時はあれど」(万3891・4301)がある。「時しは」と続く例としては、「時しはあらむを」(万585・3957・4214)がある。時間が経過した、その時に至った、そういう時がある、といった現代でもふつうに使う例ばかりである。
 そんななか、万49番歌だけが異例中の異例であるとは考えられない。助詞の「は」によって取り立てて分説する機能は、「来向ふ」という必然を表す意味に不釣り合いである。
 再度原文を見てみると、西本願寺本などには「者」とある部分が、元暦校本に「志」と記されている(注6)。この「志」は顧みられなければならない。「御狩り立たしし時来向ふ」と訓む場合、この「し」は、やはり取り立ての助詞ではあるが、ただ単に取り立てているだけで、他の事物を排斥する意味を持たない。同じく小田2015.のあげている例を示す。

 大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山 こもれる 大和うるわし(記歌謡30)

 この「し」の場合、「し」がない場合の「大和うるはし」でも意味は一応通じる。大和って素敵ね、とだけ歌っている。 同様に、「御狩り立たしし時し来向ふ」でも、かつて狩りをした時間がやって来て真正面に対する、と言っているまでであり、分説して他の「時」を考える必要がない。出猟なさった時が当然の流れとして顕在化した、ということは、平たく言えば、ちょうど時間となりました、と簡潔に歌っているものと理解される。
 元暦校本の「志」字をとる見解は、武田1955.ですでに示されていた。「時シ、諸本には時者とあるが、元暦校本に時志とあるのがよい。シは強意の助詞で、強く、時を指定する。草壁の皇子様が馬を並べて御猟におでましになった時節は、いま来たり向った。冬の季節の来たのをいう。この歌に至って、はじめて皇子の御名を出して、全篇のしめくくりとした。」(29頁)とある(注7)。ここで「冬の季節」と考えているが、筆者は、狩りが冬に限定されるとは決められない点を含めて、あたりが明るくなってきた時間帯のことを指すものと考える。ちょうど時間となりました、というのが、聞いている人たちに一番わかりやすいからである。 周囲で聞いている凡人にもわかりやすくなければ、誰も聞きとどめることはなく、歌は歌われた瞬間に消えて滅ぶ。高邁な皇統思想を掲げられても、人だかりは散り散りになっていくだけだろう。

万39番歌のおもしろさ

 (注3)に記したように、近現代のものの見方からいろいろな解釈がくり広げられてきた。しかし、言葉の在り方としてあり得ない想定の上に仮構する形而上学には意味がない。万39番歌の表現のおもしろさはむしろ別のところにある。

  なみしの 皇子みこみことの 馬めて 御猟みかり立たしし 時しむかふ(万49)

 「なみしの皇子の命」は、この歌が歌われた現時点において安騎の野に狩りに出掛けて来ている軽皇子の父、草壁皇子のことである。諸説に一致している。この時点で、その草壁皇子は既に他界している。つまり、過去に草壁皇子も狩りに出掛けたことがあって、やはり野営して臨んでいたということであり、それとちょうど同じ光景が今ここにくり広げられている、それを歌っている。これまでの解釈でも行われているところである。
 筆者は、草壁皇子のことを「なみしの皇子の命」と呼んでいる点に注目する。今日、研究者に誤解されているように、日に並ぶというほどに皇統意識が高められているということではない。何を言っているのか。「日」に「並」ぶとか、「馬並めて」というように、並んでばかりいる。その並び方は行列を作って縦に並ぶのではなく、横並びの様を言っている。狩りの時に馬を仮に縦列に進めたとしたら、獣は逃げて行くものだから、先頭の騎乗者しか弓を射ることができず狩りにならない。

 遂にとも遊田かりたのしびて、ひとつ鹿しし駈逐ひて、はなつことこもごもゆづりて、うまのくちを並べて馳騁す。(雄略紀四年二月)
 即ちみその中によろひし、弓矢を取りかし、馬に乗りて出で行き、儵忽たちまちの間に馬よりならびて、矢を抜き其の忍歯王をしはのみこを射落す。(安康記)(注8)
 たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野(万4)
 いは瀬野せのに 秋萩しのぎ 馬並めて はつ鷹猟とがりだに せずや別れむ(万4249)

 万49番歌の歌の眼目は並ぶことの機知にある。日並しの皇子が馬を並べていた、横並びでどんぐりの背比べ、当たり前のことを印象づけ、「御狩り立たしし」が当たり前に訪れた、と人麻呂は歌っている。つまり、狩りの時は当たり前に到来したこと、春が過ぎて夏が来るように必然的な時間の進展であると申し述べている。それを「来向ふ」と表現している。時という言葉に抽象性を認める余地はない。その時が向こうからやって来る(The time is coming from over there.)と言っているのではなく、その時がとうとう訪れた(At last, the time has come.)と言い放っている。
 これは、時計を手にした人たちが思うように、まったく同時刻に狩りが行われたことを示すものではない。並んでいるのだから並んでいるのであって、同様に経過するのは至極当然のことであると言っているまでである。あたりが明るくなってきて狩りが行われようとしている様について、言葉遊び的な使い方として、「並」ぶという言葉なのだから特段のことではなくて並のこと、ふつうのこととして、「時し来向ふ」と歌っている。
 ここに、反歌三首目の「月西渡」の指し示している意が理解されよう。月が西に渡っていったとき、反対に、東から日が出始めている。夜の鵜飼猟と違い、どんなに月光が明るかろうが、日の光によって明るくならなければ馬を駆って狩りなどできない。満月に近い日に安騎の野へ行って一夜を明かしたのである。「月西渡」に対し、四首目は「日東出」を意味していよう。結果的に、「日雙斯皇子命」の「日になら(配)ぶ」こととは月のことを表していると確かめられる。

「日雙斯皇子」はヒナミシノミコ

 神野志1992.に、「日雙斯皇子」はヒナミシミコと訓むべきで、特別な存在として位置づけられており、それはこの万49番歌に淵源があるとする。表記上、「日雙斯皇子命」(万49)、日並皇子尊(万110題詞・167題詞)、日並皇子(天平勝宝八歳六月廿一日東大寺献物帳)、日並知皇子尊(続紀文武・元明・元正前紀、天平元年二月甲戌)、日並知皇子命(続紀慶雲四年四月庚辰、天平宝字二年八月戊申)、日並知皇太子(続紀慶雲四年七月壬子)、 日並所知皇子命(万葉集巻第二目録、本朝月令所引右官史記)、日並所知皇子(七大寺年表所引竜蓋寺伝記)、日並御宇東宮(粟原寺娠盤銘)などとあるからという(注9)
 神野志氏は、万49番歌の「日双斯」について、「日にあいならぶ」意の「ヒナミ」に、過去の助動詞「シ」がついたもので、草壁皇子の皇子である軽皇子が、人びとにあいだに正統な皇位継承者として意識されはじめた頃、人麻呂が独自に歌に詠みこんだものと推定している。ただし、まだ正式な称号とみなすことはできず、「日並」や「日並知」は、称号ないし諡号となっているとする。続紀で統一して用いられている「日並知」という表記は、多く皇位継承に関する記事に現れているから、その正統性を喚起しているのだという。その場合の「知」は「シラス」、すなわち統治の意と解されるべきもので、「日並所知」、「日並御宇」などは、さらにその意識が発展した表記なのであると述べている。
 しかし、続紀を記した文官が「好字」を使っていたことと、万葉集の当て字、戯書、万葉仮名の混在する状態を同じ俎上で議論することはできない。ましてや、続紀に「日並知皇子尊」は皇統譜に現れるのが始めであり、正統性がどうということではない。系譜を示すためにのみ現れている。
 ヒナミシノミコノミコトと呼ばれ始めた当初、人々の間でそれが通用したのには、当時の人々が皆、納得するに至ったからそう呼ばれ始めたのに違いあるまい(注10)。当時の人々が常識として持っていた基本的認識がどのようなものであったかは、古事記や日本書紀から推し量ることができる。ヒナミと関わる事柄は、記紀の中で、「日になら」ぶ存在とある月神、ツクヨミを指す(注11)

 次に月の神を生みたまふ。〈一書に云はく、つく弓尊ゆみのみことつく夜見尊よみのみこと月読尊つくよみのみことといふ。其の光彩うるはしきこと日にげり。以て日にならべてしらすべし。〉(次生月神。〈一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊。其光彩亜日、可以配日而治。〉)(神代紀第五段本文)
 つく夜見尊よみのみことは以て日にならべてあめの事をしらすべし。(月夜見尊者可以配日而知天事也。)(同一書第十一)

 月読尊もシラス(治・知)(注12)ことが求められている。神代紀ですでに「知」と書いてある。続紀で「日並知」と出てきても真新しいことは何もない(注13)
 草壁皇子のクサカベという言葉は、日下部とも漢字表記される。月は東に日は西に、と言われるのは、満月の月の出を表している。万48番歌の状況は、訓は定まりきらずとも、日は東に月は西に、であることに間違いない。クサカを日下と書くことが知られていたら、日が下っていって現れる月のことが草壁皇子に例えていることは最初からわかっている。神代紀に記されるとおり、日にならぶ存在だから、ヒナミシノミコノミコト(日雙斯皇子命・日並知皇子尊)というのだとすでに了解されていた(注14)
 神野志氏が、万49番歌の「日雙斯皇子」はヒナミシミコと訓み、ヒナミシノミコとしない過去の助動詞の用い方、「日なみ」は、かつて日に並んだことがある、の意になる。万49番歌の状況は、日は東に月は西に、の真っ最中である。現況を照らし合わせて詠むのにふさわしいのは、過去のこととして突き放すのではなく、ヒナミシノミコノミコトという固有名詞の中に状況が隠れていることを示していると見たほうがふさわしい。シは強意の助詞である。すでに囁かれていた通称を人麻呂は持ち出して歌っている。歌を披露してから、ヒナミシとはクサカベを日下部とも書くから、云々と説明していたのでは、興醒めしてしまうし、そのような伝は伝わっていない。そして、ヒナミシノミコという呼び名は呼びかえた別称なのだから、草壁皇子に限って用いられた特別な称号と考える必要もない(注15)

おわりに

 万49番歌の訓読と解釈を正した。まことにシンプルな解釈を述べたに過ぎない。先行研究でこれまで築き上げられてきた「時」に関する形而上学的解釈は忘れ去られなければならない。もし仮に形而上学が罷り通ると言うのであれば、どこかに後を引き継ぐ類例があるはずである。うまい表現が行われているのなら、それを聞いていた誰かが真似しないはずはないだろう。他に例を見ないでこの歌ばかりをもって、人麻呂の時間表現が先駆的であったと褒め上げてみたところで、それらはすべて虚構である。

(注)
(注1)拙稿「安騎の野の歌、「東野炎立所見而反見為者月西渡」(万48)について」参照。
(注2)神野志1992.に、漢字表記を殊更にとりたてる議論がある。
(注3)多田2017.に、「第四反歌は、一夜を過ごしたあとの払暁の時が描かれる。「時は来向きむかふ」の「時」は、オモヒの呪力によって、向こう側の世界から引き出されてきた「古の時」を意味する。そこに亡き草壁(日並)皇子の姿がはっきりと浮かび上がる。しかも、その草壁の姿は、いままさに出猟しようとする軽の姿とも重ねあわされている。それは、軽を草壁の再生として捉え、即位の資格をたしかなものとするためだった。「日の皇子」再誕の奇跡を成就しようとするところに、この一群の歌の大きなねらいがあった。」(75頁)とある。
 伊藤1995.に、「[万48番歌に]追い継いで、
 日並皇子の命、あの我らの大君が馬を勢揃いして猟に踏み立たれたその時刻は、今まさに到来した。(四九)
という第四首が詠まれ、一連がしめくくられることになる。亡き皇子が猟を踏み立てたかつての一瞬は、そのまま現身うつせみの皇子が猟を踏み立てる現在の一瞬と重なっている。「古」(父)の行為および心情と「今」(子)の行為および心情とがここで重なり、亡き皇子への追慕は完全に果たされたのである。追慕の達成は、軽皇子がすべてにおいて父草壁になりかわったことを意味する。その草壁は単なる皇子ではない。歌そのものがいうように、「日並皇子の命」、つまり日(天皇)に並ぶ皇子なのである。ということは、「み狩立たし時は来向ふ」とうたい納められた時、軽皇子は皇統譜正統の皇子である「日並皇子の命」そのものとして再生されたことを意味する。追慕の達成は、表現における新王者決定の儀式でもあった。ここには、幻視が事実を呼びこんでしまう、古代詩の壮絶な輝きがある。(151~152頁)とある。
 稲岡1991.に、「第四首目は、朝猟りに出で立つ時刻を待つ一行の敬虔な、しかもきびしい緊張感を伝える秀歌である。歌形はまことに単純で、一、二句には固有名詞がそのままとりいれられている。 ……日に並ぶ、すなわち天子と同格の皇子という、文字どおりの賛仰の心が強く印象されるばかりでなく、荒野にのぼる日のイメージさえも、それは喚起する。……結句の「来向かふ」は、たんに「来た」とか「来る」というのとは異なっている。或る時刻の到来を身に沁みて受けとめている気持ちが「来向かふ」にこめられ、過去の助動詞「し」の働きと相いまって、過去の時刻が現前のことのようにあらわされるのである。これをたんに、帰らぬ過去に対する嘆きの表現というのは当らないだろう。「み狩り立たしし時」は、まさしく今迫り来るのであり、人麻呂たちはその時に向きあっている。……「来向かふ」には迫り来る時とそれを待ち設ける主体の心情の融合した特別の表現性がある。……皇子の生前を「古」として想起する長歌および第一反歌から、草壁の出猟を現前のことのように歌う第四反歌まで、想起の深まりとともに、心情的には過去との隔たりを次第に狭める配列になっていることも注目すべきだろう。」(268~269頁)とある。
 伊藤1990.に、「第四短歌は、かつて一つのできごと(草壁の遊猟)をともに体験した集団が、以前と同じ場所(安騎野)で、同じ時刻(曙光さす時刻)に、そのおりにとったのと同一の行動を起そうとするさまを描いていることになる。これによれば、人麻呂たち=軽皇子の遊猟の供奉者たちは、現実と過去(草壁のとき)とがほぼ完全に重なりあった状況に直面していると言ってよい。こうした状況のもとで、あるいは、こうした状況を目のあたりにした体験に基づいて、「日並の皇子の命」の狩の時がいままさに到来せんとしているとうたうとき、人麻呂は、草壁と軽とがさながら同一人であるかのように観じていたものと考えられる。……安騎野の歌の場合もその例にもれないことは、第四短歌に「来向ふ」とあることによって明瞭になろう。「来向ふ」とは、あるものが我れの前方から(未来の方角から)我れのもとに到来して我れときあう(我れに直面する)ことをいう。「来向ふ」時は、かつて草壁皇子が遊猟したその時にほかならない。しかも、その時は、いままさに狩をはじめようとする軽皇子たちの前方、すなわち、彼らにとっての未来から、彼らのもとを訪れ、そこにおいて蘇生(反復)する。それゆえ、安騎野の歌は、第四短歌の時点で、未来の方角から過去を迎えいれていることになる。……したがって、安騎野の歌の時間構造は、「過去→未来」という流れをもつ時間と、「未来→過去」という流れをもつ時間とが絡みあう構造としてとらえられる。そして、この場合、「未来→過去」という流れをもつ時間のなかで未来から到来するものが、じつは過去(草壁皇子の遊猟の時)にほかならない点に留意するならば、その絡みあいのもと、安騎歌の歌の時間は、全体として、円環的な形態をとると言ってよかろう。」(190~192頁)とある。
(注4)「御狩り立たしし時」について、時刻ととるか、季節ととるか、二通りの考え方が行われている。
(注5)多田2010.に、「「来向ふ」は、こちらに向かってやってくる意。……季節が異界から訪れるものであることを意識。」(135頁)などとある。神仙思想によらず、季節はこの世にあるものとして何か不都合があるのだろうか。
(注6)影印は、佐佐木2004.6頁、武田1956.219頁、元暦校本萬葉集第一冊、元暦校本萬葉集〔巻第一〕参照。
(注7)武田1956.に、同じく元暦校本の「時志来向」をとりトキシキムカフと訓んでいる。「キムカフは来つて相対する義で、今や皇子の猟にお立ちになつた、その時節になつたというのである。亡き皇子の遺跡に来て、正に時を同じくした感慨を述べている。……【評語】……人麻呂は、草壁の皇太子の殯宮に奉仕しており、今その遺子である軽の皇子の出遊に御供して無量の感慨があり、ここにその作を成したので、その代表作の一である。」(219~220頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注8)この例は、馬を並べるように接近することで射殺したということであるが、馬を並べて進むことは狩りの時の常套行為だから、装って近づくことができたのである。
(注9)写本等により異動がある点については、新大系本続日本紀241頁参照。
(注10)遠山1998.は、「通称にあらざる表現として、「日雙斯皇子命」が草壁皇子を指すことができるためには、指示が受けてに了解されなければならない。了解は成立したと本論考の筆者は思う。」(240頁)とし、ヒナミシミコノミコトは「安騎野歌内において、誰と分かるように配されている」(246頁)というのであるが、電光掲示板に文字が記されて識字能力のある人たちが読んだものではない。
(注11)万167番歌の前の題詞に、「日並皇子尊の殯宮あらきのみやの時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首、并せて短歌(日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首〈并短歌〉)」とあり、万168番歌の前に、「反歌二首」とあって、二首目にあたる万169番歌に、「あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも」とある。「日」をもって天皇を、「月」をもって皇子を例えているとする説は古くからある。山田1932.に、「この「月」は上の「日」に対して皇子尊をたとへたるなり。而してかく月にたとへ奉ることは「日並皇子尊」と申し奉る意にもよくかなへり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117023/162)と指摘されている。
 神野志1992.はその点について、下注に「或本に、件の歌を以て後皇子尊のちのみこのみこと[高市皇子]の殯宮の時の歌の反と為せり。(或本以件歌為後皇子尊殯宮之時歌反也)」と異伝のあることから、草壁皇子ばかりか高市皇子までも「日並」に比喩されるのは不審としてオミットしている。割注を付けたのは万葉集に採録した人であろう。その人が言っていることは、別の本でこの歌は後皇子尊の殯宮の時の歌の反歌としている、と触れているに過ぎない。彼の判断で万167番の長歌の反歌であると認め、ここに記している。すなわち、「或本」に書いてあることは間違いだろうけれど、一応そういう本があったからここに書き留めておくというものである。草壁皇子を月に例えていることに賛同しているということである。
 なお、筆者は、万169番歌の「日」は太陽のことで、天皇のことを例えているものではないと考える。昼間に殯宮の祭祀が執り行われていることを詠んでいるばかりであって、日は照っているけれど月に当たるクサカベ(草壁・日下部)の皇子はお隠れになって惜しいことであると歌っていると考える。「日並皇子尊殯宮之時」は、持統紀三年三月条に、「乙未に、皇太子草壁皇子尊かむさります。」とある直後のこととされ、天武天皇が亡くなってから皇后(後の持統天皇)が「臨朝称政みかどまつりごときこしめす。」(持統前紀)ことをしていて、すぐに大津皇子の謀反事件のごたごたがあり、持統紀四年正月条に、「皇后きさき即天皇位あまつひつぎしろしめす。」と正式に即位している。天皇位が空位状態の時、天皇のことを例えて歌にするとは思われない。
(注12)「知らす」は「知る」に尊敬の助動詞「す」が付いた形の語である。「す」は奈良時代に四段活用で「知らす」も同様に活用する。「知る」という一つの言葉に、占有・領有・統治・支配の意と、認識・理解の意とが落し込まれている。古典基礎語辞典は「意味的には隔たりがある」(622頁、この項、我妻多賀子)とするが、白川1995.は、「「しる」は全体的に所有すること、「る」ことによってその全体を把握することをいう。「領る」ことは尊貴の人のなすところであるから、「令知しらす」という敬語的な形の語がある。……「知る」から「る」となったのか、「る」から「知る」となったのか、その両説に分れているが、漢字の字義においても、知・領にいずれも「知る」意があり、また支配する意がある。「む」とも関係のある語である。」(405頁)としている。
 神代紀第五段本文に、「其光彩亜日、可以配日而治。」とあるとおり、光がきちんと届いて対象が見えるから「知る」ことも「領る」ことも可能なのである。不確定性原理の基のようなことが述べられている。領有の範囲を示すための占有のしるし(標)が見えないところは、領ることがまともにできないばかりか何が起きているか知ることもできない。
 すなわち、アマテラスが天の下を領有するという発想は、太陽が光を届けるからであり、アマテラス自身が世界を知るところとなり、ならばそのゆえに世界を領有するということにつながるということになる。論理哲学の循環論法のような申し述べがくり広げられている。そのアマテラスを天皇は祖先としているのだから、支配者として国土を領有することになって当たり前であるとその正統性を主張することになる。詭弁ではないかとも考えられるが、「知る」という言葉の語義がそうなっている以上、ヤマトコトバの体系から脱しない限り循環論法に巻かれてしまう。律令以前の無文字社会における古代天皇制の正統性の主張はここにあり、それ以外に何ら付け足すところはない。
(注13)ヤマトコトバにシル、シラスという言葉が既に使われており、それを漢字でいかに表記したかということばかりである。万葉集には、「知る」の未然形シラに「斯良」(万794(2)・797・800・856・878・881・886・888)、仮名書きする記歌謡にも「斯良」(記22・44(2)・73)と用いられている。
(注14)クサカを日下と書くことについては、拙稿「日下」=「くさか」論」参照。
(注15)遠山1998.は、元興寺伽藍縁起に「日並四皇子」とあるのが敏達天皇のことを表していることを指摘し、「日雙斯皇子命」が草壁皇子に限られるものではないから通称ではないとする見解を述べている。筆者は、クサカベを日下部とも書くことからヒナミシノミコと呼ばれたとした。敏達天皇は、紀に「渟中倉太珠敷尊」、記に「沼名倉太珠敷命」と記され、ヌナクラノフトタマシキノミコトのことである。ヌナクラノフトタマシキと聞いて思い浮かぶのは、ヌバタマノという枕詞である。ぬばたまは、黒い珠、黒いヒオウギの実のことかとも考えられており、「黒」「夜」「宵」「月」「夢」などにかかる。「夜」にかかるから関連する「月」にもかかると考えられている。くろくらとはアクセントの相違から語源的に同根の語と言い切れないとされるが、上代において同系の語と捉えられていたのであろう。丸いものが黒光りすることと丸いものが暗い中で光ることは同様の事柄であると認識されていたものと思われる。万葉集には、「ぬばたまの 夜渡る月」(万169・302・1077・1081・1712・2673・3007・3651・3671・4072)という慣用表現のほか、「ぬばたまの その夜の月夜」(万702)、「ぬばたまの 月に向ひて」(万3988)、「ぬばたまの 今夜の月夜」(万4489)といった例が見られる。
 すなわち、ヌナクラノフトタマシキを、ヌ(瓊、ニの母音交替形)+ナ(連体助詞)+クラ(暗)+ノ(連体助詞)+フト(太、美称)+タマ(珠)+シキ(敷、美称)のことだと理解した人が、それに似つかわしいものの代表として、黒真珠ではなくて月をイメージしてヒナミシノミコ(日並四皇子)と当てたということに他ならない。そのような呼び名が敏達天皇の存命中からあったか、今伝わる元興寺伽藍縁起の成立の上限が天平十九(747)年までしか遡らないからその時期に付与されたか、そのいずれであるかと問われれば、知恵の豊かさや「日にならぶ」のは月のこととしか考え及ばない人によると考えられるから、従前から囁かれていたものと考えるのが妥当である。
 ヒナミシノミコという呼び名は草壁皇子に特別な称号ではないばかりか、柿本人麻呂の創作したものでもなく、おもしろおかしくある種、陰口を叩くことであったから、万49番歌を聞いた人々は瞬時に支障なく受け容れたのである。歌は歌われるとともに消えていく一回性の経験にしてアウラ(ベンヤミン)を持っている。いま何と言った? と聞き直すことなく皆に納得されなくてはならない。ヒナミシミコなる新称が門付け歌人の人麻呂によって歌われたわずか数秒をもってして、世の中に流布し始めるようになることなどあり得ない。

(引用・参考文献)
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加藤良平 2021.3.19初出

万葉集において漢字字義とずれるかにみえる用字選択の賢さについて─「結」「音」「乏」「空」「竟」「尽」を中心に─

 万葉集における上代の漢字利用として万葉集の例について検討する(注1)。万葉集は録音記録として残っているのではなく、文字記録として今日に伝わっている。そこに書かれてある漢字は、もともと表したかったヤマトコトバの語義に当てられて記されたものである。結果的に、書かれてある漢字を訓むことが、もとのヤマトコトバを再現することにつながっている。その際、一見、その漢字の字義にそぐわないのではないかと思われるものが見つかる。和語の意味の広がりのままに、本来の字義とは異なりながら漢字を用いているのではないかという疑いが生まれる。奥田2016.は、古事記だけでなく万葉集においても「和化された字義を担う字の用法」があるとして、いくつか例をあげている。筆者は、その発想自体が誤りであると考えている。

「結」

 「結」字は、説文に、「結 締めるなり、糸に从ひ吉声」とある。したがって、次のような用字例は本来の字義とは異なり、和語の守備範囲に同じムスブというから用いられているのだと考えられている。

 命をし さきく良けむと 石走いはばしる たるの水を 結びて飲みつ〔結飲都〕(万1142)
 泊瀬川 早み早瀬を 結び上げて〔結上而〕 飽かずや妹と 問ひし君はも(万2706)

 手で掬う意味は漢字の「結」字にはないから違和感が持たれている。しかし、漢字の「結」字には、締める義のほかにも、聚める義などもある。淮南子・氾論訓の「不於一跡之途」の注に、「結、猶聚也。」とあり、また、「車軌不於千里之外」(文子・自然篇)とあるのは、史記・孝文本紀の「故遣使者、冠蓋相望、結軼於道、以諭朕意於単于。」の注に、「集解韋昭曰、使車往還、故轍如結也。相如曰、結軌還轍。索隠鄒氏軼音逸、又音轍。漢書作轍。顧氏按、司馬彪云、結謂車轍回旋錯結之也。」とある用法と同じであろう(注2)。車の轍の跡が交わるようになっていることを言っている。筋が交差することである。線条に流れているものを一つに聚めることを、漢土では「結」字で表している。
 すると、水の流れを条と見てそれを聚めるのであれば、「結」字で表して確かであると言える。やっていることは掌を上に器状につくってスクフ(掬)ことであるが、水溜りの水をすくいあげるのではなく、水の流れを聚めている。それをムスブと言って「結」の字を用いている(注3)。古語辞典にムスブの一義として、両手の掌を一つに合わせて水をスクフこと、と記す解釈は、表面的、短絡的な解釈であった。そして、「和語」のムスブがために万葉集に「結」字が採用されているという解釈は誤りである。紐をむすぶのと、紐を使ってめるのとはヤマトコトバにニュアンスが異なり、おにぎりのことをおむすびとも言うが、掬うことそのものを表しているとは考えられない(注4)。漢語の「結」においても、締めて聚めること、聚めるために締めることを示しているかと思われ、漢語の「結」とヤマトコトバのムスブの語が表す意味領域はほとんど同じであったとも目される。

「音」

 音声をいう上代語には、オト・ネ・コヱの三種がある。オトははっきり聞こえる物の響きや人畜の声のことをいい、ネは人・鳥・虫などの聞く心に訴える音声のことで、楽器などの情感を含むものもいい、コヱは人や獣の発声器官による音で、音素に書き換えることの可能なものをいうのが原義とされている。そして、オトは、ネやコヱを含んだ広範囲の語であるとされている。

 …… そこ故に 為むすべ知れや 音のみも〔音耳母〕 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ ……(万196)
 なつ引く 海上潟うなかみがたの 沖つ洲に 鳥はすだけど 君は音もせず〔君者音文不為〕(万1176)(注5)

 ここにあげた二例の「音」は、評判や風聞のことをいう。漢土にその意味で「音」と言わないかというとそうでもない。「徳音」や「徽音」、「音徽」といった熟語にその意がある。詩経・豳風・狼跋に、「公孫碩膚 徳音不瑕」、小雅・南有嘉魚之什・南山有台に、「楽只君子 徳音是茂」、詩経・大雅・思斉に、「大姒嗣徽音 則百斯男」、文選・王倹・𬡥淵碑文に、「風儀与秋月明、音徽与春雲潤、」などと、誉れの意に用いられている。名声がやまびこ、こだまのように響き渡ることである。一切経音義に、「谷響 香両反、考声云響者声之応也。孔注尚書云若響之応声也。説文従音郷声也。或作響或従言作響、経従向作嚮非。」(一切経音義、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240226/252)と見える。
 説文の字解では、「𨞰 国の離邑、民の封ぜらる所の郷なり。嗇夫しょくふの別治なり。ほうの内の六郷は、六卿之れを治む。𨞰に从ひ皀声」、「卿 卿は章なり。六卿は、天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、冬官司空。卯に从ひ皀声」、「章 楽の竟るを一章と為。音に从ひ十に从ふ。十は数の終りなり」などとあり、礼楽の届くところを郷と考えているように思われる。お触れが郷に届き、反対に貢物が都に届くことが、打てば響く関係ということになる。
 すなわち、噂のことをいうオト(音)とは、評判が村々に響き渡ることを言っている。郷のことはコホリ(郡・評、コ・ホは乙類)と定められた。「評」は、徴税のために天秤秤が置かれていたことの名称であろうか。村人たちは徴税に苦しめられてな(泣・哭)く。収穫の秋にな(鳴)く虫のことは、蟋蟀こほろぎ(コ・ホ・ロはともに乙類)である。秋に鳴く虫の総称であった。なく声のことはオトであろうし、徴税の基準、何分取るか、上田か中田か下田かといったお触れに対して郷からわきあがるオトであろう。反響音のことはオト(音)だから、評判、風聞、噂のことは「音」字で表して漢字の字義に沿っている。現在、噂という字が常訓であるが、説文に、「噂 聚りて語るなり」とあり、カタラフことと解されてメッセージのこととは捉えなかったと考えられる。ウハサという語は室町時代に確認されるほど遅れて生じた語である。

「耳」

 「耳」は感覚器官を表す語で、風聞の意に「耳」字を使う用法は漢土にないから、和語のミミの意味領域に引きずられて用いられているとされている。このように用いられているヤマトコトバのミミの例としては、万葉集に一例のみ知られる。

 我が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足ひく我が背 つとめ給ぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)

 原文「未」字を「末」に校異することがあり、「足のうれの」とも訓まれている。上代、ミミ(耳)を風聞の意に解される例は他に見られない。別訓の可能性がある(注6)

「乏」

 数が少ないことをヤマトコトバにトモシと言うからそれに当てるのは「乏」字を当てるのは理解でき、一方、うらやましいの意味に「乏」字を当てるのは和語トモシの語義から範疇を広げた用法であり、漢字の字義にはないとされている。次にあげる上二例は漢字の字義に沿っているが、下の三例は和語に従った和化された字義なのであるという。

 倉橋の 山を高みか 夜ごもりに 出で来る月の 光乏しき〔光乏寸〕(万290)
 海山も へだたらなくに 何しかも ごとをだにも ここだ乏しき〔幾許乏寸〕(万689)
 あさもよし ひとともしも〔木人乏母〕 土山つちやま 行き来と見らむ 紀人ともしも〔樹人友師母〕(万55)
 島がくり 吾が漕ぎ来れば 乏しかも〔乏毳〕 大和へ上る ま熊野の船(万944)
 見まく欲り しくもしるく 吉野川 音のさやけさ 見るにともしく〔見二友敷〕(万1724)

 ヤマトコトバのトモシという語には、乏しいの意味のほかに、灯火ともしびというように明かりを灯す意味がある。和名抄に、「照射〈蹤血附〉 続捜神記に云はく、聶支少き時、家貧しく常に照射をし、一つの白き鹿を見て之れを射中てつ。明くる晨、蹤血を尋ぬといふ。〈今案ふるに、俗に照射は土毛之ともし、蹤血は波加利はかりとかんがふ〉」とある。辺りが暗いなか松明を焚いて狩りに出かけていた。そして、獲物を射当てた次の朝に明るくなってから、血痕をたどって白鹿が力尽きて息絶えているのを求め獲ている。この逸話が選択的に和名抄に引かれているのには訳がある。トモシとハカリという二つのヤマトコトバには関連があることが悟られるからである。血の滴り落ちた跡をつけていくように、たどって行ってたずねもとめることは、ヤマトコトバでトム(尋・覓・求)という。

 射ゆ鹿ししを つなぐ川辺の 和草にこぐさの 身の若かへに さ寝し児らはも(万3874)
 ぐたちに 寝覚めて居れば 川瀬め 心もしのに 鳴く千鳥かも(万4146)

 ヤマトコトバのトモシ(乏)は、そのトム(尋・覓・求)と同根の言葉である。和名抄の説明に、幼少期の聶支は照射ともしで夜の狩りを行って、翌朝にトム(尋・覓・求)ことをしていたと例示されている。手掛かりはトモシ(乏)いけれど、わずかな血痕はかりつないで行ってだんだんと血痕の間隔が短く新しくなり、獲物は近いぞと計ることができてたどり着いている。乏しい手掛かりを何とかつないでトムことをしていけば、最終的に獲物をみとめることができるということである。トモシという語が、「乏」の意味でもあり、「照射」の意味でもある点について、なるほど納得の語義説明である。
 弓を射ることは、狩りばかりでなく射芸でも盛んに行われた。その時には危険を回避するために、的の周りにも流れ矢が飛ばないように防護のための工夫がなされていた。ヤマガタ(山形)、ヤフセキ(矢防)と呼ばれている。和名抄に、「皮〈山形附〉 周礼に云はく、郷射の礼に五物あり、其の三を皮と曰ふなりといふ。本朝式に云はく、山形〈夜万賀太やまがた〉はまとの後四許丈に紺の布を張り矢を禦ぐ者なりといふ。」、「射乏〈司旍附〉 文選東京賦注に云はく、乏〈今案ふるに、即ち射乏なり、但し射乏の和名は夜布世岐やふせき〉は革を以て之れをつくり、旍者の矢をふせぐを護り執るなりといふ。司旍〈此の間に末止万宇之まとまうしと云ふ〉は旍と文を執りて射を司り、あたるとき当に之れを挙ぐべしといふ。」とある。
 「乏」字は射乏のことで、流れ矢を防ぐために、的の周囲に立てた衝立や革を張った防御幕のことを言っている。前項に「山形」と呼ばれていたものと機能は同じである。紺の布製の幕が用いられている。内裏式に、「侯のしりへ四許丈に山形を張る。〈紺の布を以て之れを為す。〉侯の辺にともしを設く。〈乏、矢を避くる所以に、板を以て之れを為す。〉」と実施されている。的(侯)の周辺に乏があり、それらの裏側に山形があるところからして、ウラヤマシに対応する字であることがわかる。戦陣を設けるときには防御のために裏山を背にして陣を張った。だから、的外れの矢については裏山が防御の役目を担っていることになっていて、ヤマガタ(山形)と呼ばれるようになったと考えられる。
 この考えは仁徳記の黒日売説話に反映されており、「山形に 撒ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか」(記54)歌に結実している。地の文では「菘(菜)」と記され、タカナとも訓まれるが、アヲナと訓むべき「菘藍スウラン」のことで、藍を採るアブラナ科の二年草、「大青タイセイ」のことと思われる。青く染める染材で、山形にした紺の布はそれで染め上げた物であろう。美しい色だから、ウラヤマシい意に当たって正しいと知れる(注7)
 ヤマトコトバは複雑に織り上げられたテクスチャーである。近代では catalog を型録と訳した例が知られる。外国語をどう書くか熟考した跡である。上代の課題は母語であるヤマトコトバをどう書くかであった。字が先にあってどう訓むかが問われていたのではなく、ヤマトコトバが先にあってどう書くか想いを巡らせていた。

「空」

 「空」は字義は sky である。万葉集ではそれ以外に、用例の上三例は不安定な心地、下三例は不安定な状態を表すために用いられている。

 彦星は 織女たなばたつめと 天地の 別れし時ゆ いなうしろ 川に向き立ち 思ふそら〔思空〕 安けなくに 嘆くそら〔嘆空〕 安けなくに 青波に …… (万1520)
 …… 玉桙の 道をた遠み 思ふそら〔思空〕 安けなくに 嘆くそら〔嘆虚〕 苦しきものを み空行く〔水空徃〕 雲にもがも  ……(万534)(注8)
 …… あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら〔嘆蘇良〕 安けなくに 思ふそら〔念蘇良〕 苦しきものを ……(万4169)
 た廻り 行箕の里に 妹を置きて 心空にあり〔心空在〕 地は踏めども(万2541)
 わぎ妹子もこが 夜戸出よとでの姿 見てしより 心空なり〔情空有〕 つちは踏めども(万2950)
 立ちて居て たどきも知らず 我が心 天つ空なり〔天津空有〕 地は踏めども(万2887)

 上三例は多く下に打消表現を伴って用いられた例である。下三例は、古典基礎語辞典では「空なり」の形で形容動詞として扱っている。これらは、「空」字の漢土における用法に見られないから、和語ソラの意味領域の広さに起因して和化された字義を担うことになっているとされている。白川1995.も、国語独自の表現で、漢字なら「気」と使うところと考えている(注9)。不安定な状態を表す例は、岩波古語辞典に、「➅《何もない空間の意から》うわのそらであること。そぞろであること。」(770頁)の意と解している。
 漢土において「空」という字が不安定な心地や不安定な状態を表すことが絶対になかったかといえば、そうとも言えない。仏典に見られる「空」の用法である。「空」とは、「もろもろの事物は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということ。」(佛教語大辞典278頁)である。解説に、「原始仏教時代からこの考えはあったが、特に大乗仏教において、般若経系統の思想の根本とされるようになった。大別して、人空と法空とに分ける。人空(生空・我空ともいう)は、人間の自己の中の実体として自我などはないとする立場であり、法空は、存在するものは、すべて因縁によって生じたものであるから、実体としての自我はないとする立場である。すべての現象は、固定的実体がないという意味で、空(欠如している、存在しない)である。したがって、空は、固定的実体のないことを因果関係の側面から捉えた縁起と同じことをさす。」(279頁)とある。実体が固定的であるとは思われないことをソラと言っていて「空」と書いて誤りでない。
 この考えが仮に正しいとしたとき、このソラという語が、ヤマトコトバに本来有していたものか、それとも仏教の影響下に生まれたいわゆる和訓であるか、といった別次元の問題が生じる。もとより真偽の確証は得られないものの、諳んじることをソラニスと言っていた。記憶からばかり暗誦している稗田阿礼の仕業には実体がない。そんな「空」に実体を与えようとしたのが太安万侶の書記活動であったわけであるが、稗田阿礼の暗誦は、何べん話させてもまったく同じことを言う誦習であった。何をくり返し話していたか。譚、すなわち、すべての物事の縁起である。仏教語と鏡のごとく対照している。地名の由来まで「よこなまれる」こととして話してくれている(注10)
 すなわち、言葉においてそらにすることが意識されたのは、無文字で充足していたヤマトコトバが、書記される対象になった時に俄かに発見されたことに依っている。和訓であると考えて間違いあるまい。

「竟」「尽(盡)」

 船が停泊することについて、ヤマトコトバにハツという。「泊」字が用いられる(万151・274等)のは字義にかなっているが、「竟」、「尽(盡)」字は和語によるものであるとされている。

 大御船 ててさもらふ〔竟而佐守布〕 高島の 三尾みを勝野かつのの 渚し思ほゆ(万1171)
  秋雑歌 七夕
 天の川 水へて照る 舟てて 舟なる人は 妹と見えきや〔天漢水左閇而照舟竟舟人妹等所見寸哉〕(万1996)

 「竟」字は、礼記・曲礼上に、「入竟而問禁、」とあり、疏に、「竟 界首也」、また、「竟 彊首也」とある。「竟」という字は、境のことも意味し、境界に強首に当たるものがあったとされるのである。つまりは、引き抜けない杭が打ち込まれて境界標になっていた。そんな杭が船に乗って行くところと輿に乗って行く、あるいは徒歩で行くところの間にあるとしたら、船をつなぎ留めておく杭、戕牁かしのことを言っていると悟ることができる。戕牁に船のともづなをかけて流されないようにしている。もやい杭のことである。だから、船の係留のことをいうヤマトコトバのハツに「竟」という字を当てている。

左:有明海で“座礁”させて楽しむ潮干狩り(佐賀空港沖、中尾賢一「地層からみた干潟環境」徳島県立博物館文化の森ホームページhttps://museum.bunmori.tokushima.jp/cc/63.htm) 右:船杭につながれる渡し船(歌川広重・東海道五十三次・平塚、1840年頃、クリーブランド美術館https://www.clevelandart.org/art/1985.237)

 下に示す万葉集の例でも「戕牁かし〔可志〕」(万1190)という語が出てきていて確かである。このことは、実は船の停泊形態として意味が深い。古代の船の停泊には二つの形態があったと考えられている。一つは、ラグーンを停泊地として潮が引いたら船体が陸揚げされた状態になるものである。次の満潮まで綱を用いることなどなく絶対に流されることはない。周りに水がないからである。もう一つは、岸壁などに浮かせたまま係留するものである。海に出る大型船は前者の方が安定的に停泊させることができた。岸壁に船体が打ちつけられて損傷を起こすリスクがない。流れの緩やかな河川の渡し船のような場合、戕牁、もやい杭につないで浮かせて置き、使いたくなった時にいつでも船を出せるようにしていたと考えられる。「竟」字が用いられている万1171番歌の例は、後者のやり方だとわかる。「さもらふ」は様子をうかがいながら機を待つことである。係留して待機し、時化しけや潮流のはやい時間帯の過ぎやった。
 万1996番歌は、七夕歌として難解である。別訓もある(注11)。ここでは、このように訓んで、天の川の水の流れるのを遮って(星の光を目立たなくして)照っている月読つくよみ壮士をとこが漕ぐ月の舟が泊ってしまって(地平線に没して暗くなって)、舟に乗っていた人(牽牛)はフィアンセ(織女)のことだと見えているのかな、という意と解しておく。仮にそうしたとき、「竟」字は川船に見立てているから戕牁のことが思い浮かぶし、月明かりが消えて月の一日が終っているから「竟」字が用いられているとも、月が天を渡りきっているから「竟天」、天の一方から他の一方に達することの意にもとれる。史記・秦始皇紀に、「九年、彗星見。或竟天。」とある。
 すなわち、漢字の字義を悟って「竟」字が選択されているのであり、和語経由に解釈し直して万葉歌の表記に用いたのではない。

 舟てて〔舟盡〕 戕牁かし振り立てて いほりせむ 名児江なごえの浜辺 過ぎかてぬかも(万1190)

 尽(盡)字は、説文に、「盡 器中の空なり。皿に从ひ㶳声」とある。器の中が空になることを言うとしている。一般的に器は丸い。その丸いものが無くなることを「盡」というのであれば、願ったりかなったりのものが一つ思い浮かぶ。月である。つき(キは乙類)は影が尽きるものだからそう呼んでいて得心が得られている。月が尽きるのがつごもりである。舟がその機能を果たさなくなる時、それは、水上を進むことがなくなるとき、停泊したときである。月がその機能を果たさなくなる時は、明るく輝かなくなるとき、晦のときである。両者は符合、対称することだと思い及んで「尽(盡)」字で表したということになる。ラグーン停泊形態が日常的だったから、潮の満ち干にかかる月の状態はとみに密接に感じられていたことだろう。
 何を思ってそうしたかは、歌の設定が「なごえ」というところのことだからである。ごしの祓を行うのは六月三十日の晦である。歌意は、舟を停泊させてもやい杭をしっかりと打ち付けてそこにつないでおき、陸に上がって廬を作って籠ろう。場所はナゴエという浜辺だから、お祓いをしないと通過することはできないだろうから、というものである。諒闇の儀にまで及んで潔斎しようというのである。巻九の「羇旅たびにして作る歌九十首」の一つである。地名をはじめて聞いて連想を広げ、歌が歌われている。歌意が理解されれば、六月から七月への月替わり、夏から秋への行事のことを言っていると気づくことができ、月の尽きること、月の舟が見えなくなることを表すために的確な用字として選ばれているとわかる。和語の意味の守備範囲から用いられるに至った用字ではない。

まとめ

 以上から、奥田氏の指摘した「和化された字義を担う字の用法」(万葉集篇)は、ことごとくその考えの設定に間違いがあることが検証された。古事記における漢字使用の例(注1)と併せ、「和化された字義を担う字の用法」という発想は、古事記・万葉集において認めがたいことが論証され、氏の論拠は覆された。論拠が成り立たないことは、結論の無意味さに通じる。「和語を漢字によって表記する要求が先行していたのであり、本来的な字義との対応関係を厳密にするという意識はむしろ希薄であったと考えられる。」(64頁)とあるが、この言説の無意味さとは、この言説がナンセンスであるということである。「和語を漢字によって表記する要求が先行していた」とか後行していたとかいった問題ではなく、「和語を漢字によって表記する要求」しかなかった。そしてまた、「本来的な字義との対応関係を厳密にするという意識はむしろ希薄であった」のではなく、ヤマトコトバの「本来的な」語義をその使用のなかに深く考え突き詰めたがために、その「対応関係を厳密にするという意識」が冴えわたっていて、一生懸命当てはまる「漢字」を探したのだった。軸足を置いていたのは母語であるヤマトコトバの語義であり、その深奥にかなう記号として「漢字」が求められていた。
 ヤマトコトバを無文字で使っていた人が、漢字という文字を知ってヤマトコトバを記そうと漢字をチョイスしているだけなのである。逆の要素、書かれている漢字、すなわち、漢籍をヤマトコトバに訓むことは、そのとき求められていない、より正確には、求めていない。一字一音(より正確には一音一字)に書き記した箇所が、古事記にも万葉集にも多く見られる。ヤマトコトバの音を字に変換している。それはつまり、ヤマトコトバの言葉を漢字に変換しているのである。漢字をヤマトコトバの言葉に変換しているのではない。外国語学習など視野にない。なぜなら、言語としてのヤマトコトバは必要にして十分であり、他の言語を学ぶには及ばないからである。本当なら、書記の必要もなくて、稗田阿礼や額田王のように暗誦をもってすべてをコミュニケーションとするのに足りている。それが飛鳥時代までの言語形態であり、訓読のための訓読はそれ以降になって、新しい言語観のもと、はじめて行われたものである(注12)

(注)
(注1)拙稿「古事記において漢字字義とずれるかにみえる用字選択の賢さについて─「塩」「控」「画」「走」を中心に─」。
(注2)玉篇に、「結 吉姪反。尚書結于民、孔安国曰、与民結怨也。毛詩心如結兮、伝曰言執義一則用心固也、左氏伝使陰里結之、杜預曰結成也、又曰衣有襘帯結、杜預曰結也、又曰成而不結、杜預曰不結国固也、又曰始結陳好、野王案結猶搆也、楚辞結余軫於西山、王逸曰結旋也、淮南君子行斯手其所一レ結、許叔重曰結要也、呂氏春秋車不軓[軌]、高誘曰結交也、説文結締也、広雅結詘也。」と見える。
(注3)万葉集では仮名書きにムスビと記された歌もある。

 白玉の 五百いほつ集ひを 手に結び〔手尓牟須妣〕 おこせむ海人は むがしくもあるか(万4105)

 「白玉の五百つ集ひ」とは、白玉五百個ほどの集まっている様子である。それを「手に結び遺せむ」と言っている。仮に、ムスブという語が手で掬うことを逐語的に表すのであれば、「手に」と冠する必要はないはずであるが、手以外でも掬うこと、例えば「海人」がタモ網などを使って掬いあげることはムスブとは言わないだろう。この歌の眼目は、海人が手に結び起すことの興趣、ムガシ、美徳であることを歌わんとしている。なぜなら、海人は危険な重労働を冒しながら文句ひとつ言わず白玉をたくさん届けてよこしながら、その名が知られることさえない。新撰字鏡に、「匊 居六反、両手也、四指也、手中也、掬字也、牟須不むすぶ」とある点は、解釈の参考とするのに十分である。ムスブ(匊)の説明に、「両手也」、「手中也」とあるばかりか、「四指也」と記されている。四番目の指は今の薬指のことであるが、上代に、ナナシノオユビと呼ばれていた。和名抄に、「無名指 孟子に云はく、無名指〈奈々之乃於与比ななしのおよび〉といふ。野王案に第四指なりとす。」とある。掌で器を作る仕草がどうして「四指」なのかは俄かに解しがたいが、万4105番歌の歌意はそのとおりであろう。
(注4)童謡に、「結んで、開いて、手を打って、結んで、……」とある。片手ずつグーの手にすると思われる。
(注5)この例は、音沙汰、おとずれ、たよりのことをいう。ヤマトコトバのオトヅレ(訪)は、オト(音)+ツレ(連)の意と考えられており、「音」字を用いることに違和感はない。
(注6)拙稿「石川女郎と大伴田主の歌合戦について─「みやびを」論争を超えるために─」参照。
(注7)拙稿「仁徳記、黒日売説話について」参照。
(注8)「思ふそら〔思空〕」「嘆くそら〔嘆虚〕」が字義の転化、「み空行く〔水空徃〕」は「空」の本来の字義にかなうものと位置づけられている。
(注9)白川1995.442頁。
(注10)語素として「空耳」「空言」「空頼め」、接頭語として「空嘯く」「空恐ろしい」などと展開したところは、「実」に対する「虚」の意味から質を伴わない、表向きだけであるからと説明されている(日本国語大辞典第二版⑧507頁)が、耳がなまっていて聞こえる音、口がなまっていて喋ること、恐怖感の見極めが訛っていてわからないほどに恐ろしい、といった説明のほうが馴染むものと考える。
(注11)代表的な訓に、「天の川 水さへに照る 舟てて 舟なる人は 妹と見えきや」、「天の川 水底みなそこさへに 照らす舟 てて舟人 妹に見えきや」などがある。
(注12)このことは、実は現代においても多くの課題を孕んでいる。現代人はコンプライアンス、エビデンス、ログインパスワードなどといった外来語に翻弄、困惑させられているが、これまでも社会言語学に指摘されてきたように、導入者によるまやかしであることが第一の問題である。と同時に第二の問題として、よくわからないようにするのが恰好いいと思う心情を持ち合わせている点である。生半可に学校で勉強してしまったことが汚点となっている。その格好いいと思う先頭に、官僚や学者や経営者やそのお先棒を担ぐクリエーターやコメンテーターなる人たちがいて、外来語のカタカナ語が押し付けられている。そんなことを飛鳥時代の人はしなかったが、漢籍を読むと新しいかに見える知識が手に入ったがための副産物として行われ始めたようである。したがって、そちら側を志向している限りにおいて、稗田阿礼や額田王の言っていることなど理解することはできないのである。思考の指向方向が異なる。子どもを含めて広く一般に口頭で説明できて理解される内容、事柄、仕方に値するものこそが記紀万葉の題材であろう。伝え得るもののみを伝えて伝わり得たもののみ記紀万葉として今日読むことができている。文字の指向する秘匿性と無文字の指向する公開性とは対照的なものである。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
奥田2016. 奥田俊博『古代日本における文字表現の展開』塙書房、2016年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
日本国語大辞典第二版⑧ 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞書編集部編『日本国語大辞典 第二版 第八巻』小学館、2001年。
佛教語大辞典 中村元『佛教語大辞典 縮刷版』東京書籍、昭和56年。

加藤良平 2021.6.7初出

忌部首黒麻呂作、万葉集巻16・3848番歌を考える─「誦習」しないとはどういうことか─

万葉集巻16・3848番歌の実態

 万葉集の研究に民俗学を持ち込もうとする立場があり、万葉民俗学と呼ばれている(注1)。巻十六の万3848番歌について、太田2019.は、歌中の「ひねひねし」という言葉の語義に関して、さまざまな方言の事例から検討を加えている。新編全集本の訓、原文、口訳を掲げる。

  いめうちに作る歌一首〔夢裏作歌一首〕
 あらきの 鹿猪田ししだの稲を 倉にげて あなひねひねし が恋ふらくは(万3848)〔荒城田乃子師田乃稲乎倉尓擧蔵而阿奈干稲々々志吾戀良久者〕
  右の歌一首、忌部いむべのおびとくろ麻呂まろ、夢の裏にこの恋歌を作りて友に贈る。おどろきてしようしふせしむるに、さきごとし。〔右歌一首忌部首黒麻呂夢裏作此戀歌友覺而令誦習如前〕
 校異:「々々」は西本願寺本では「干稲」、「令」は「不」を見せ消ち。

 新開しんがいの 鹿猪田ししだの稲を 倉に上げ納めて ああひねひねし─恨めしいことだ わたしの恋は
  右の歌一首は、忌部いむべのおびとくろ麻呂まろがこの恋の歌を作って友に贈る夢を見た。目を覚ましてからその友に幾度もしようえいさせてみたら、そのとおりであったそうだ。(④123頁)

西本願寺本万葉集(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242469/1/23をトリミング)

 左注の解釈にはバイアスがある。大系本は、「黒麿が目覚めてから口ずさんでみたら、夢の中の歌そっくりであったとも、黒麿が夢の中で友人に贈ったところが、覚めて後その友人に読誦させてみたら、友人はこの夢の中の歌を現実に記憶していたという不思議さとも解釈できる。」(四・150頁)と指摘している。
 万葉集巻十六は、「由縁有る歌、并せて雑歌」と題されてまとめられている。何か由縁あって歌となったものが集められている。この万3848番歌についても何かしら由縁があるのだろう。その性質が理解されなければ、歌の内容がわかったことにはならない。歌が歌われている内容は、その歌われている枠組みがわからなければわからないという意味である。背景という言い方はふさわしくない。図と地とをわけ隔てる額縁になるものが定まらなければ、何が歌われているか理解できないのである。「由縁有る歌」は、借景の庭のように見ることはできない。解釈にバイアスが生じている状況は、「由縁」たることが理解されていないことを露呈している。枠組みと歌の内容の二つの次元で、なるほどと了解されるまで追究されなければならない。
 左注に書いてある事の次第について、忌部首黒麻呂という人が、夢の中で歌を作ってそれを文字に書き、その書いた木簡、ないしペーパーを友のところに送りつけ、その友がびっくりしたことを表すと考えられる。左注に「覚」という字が使われているのは、その書いてあるものを「誦習」、すなわち、声に出して唱えようとした時に、「あらき田の……」という歌が再生されたのでびっくりしたということになる。左注にある「覚」が歌の理解に効いている。夢の中に作った歌なのだから、夢から覚めてという意味と兼ねあわされて「覚」という字が使われているらしい。ヤマトコトバにサメルである。そしてまた、夢の中のこととうつつのこととの対比が、文字の中のことと声の中のこととに対応している。だからその点を興じ、この歌は「由縁有る歌」として収められたと考えられないことはない。理屈としてはそうだが、大しておもしろいものではない。
 左注の最後の「如前」の「前」が何を指すのか疑問である。通説では当該万3848番歌のことを指し、それが夢の中だから「前」とされていると思われている。しかし、そのような頭の中で空想したことを表した用字であるとは考えにくい。「如」としていない点からも外れている。「如前」は、直前や近くではなくかなり以前の箇所に当たると考えられる。巻十六を見渡せば、次の歌を繙くことができる。

  忌部首の、数種の物を詠める歌一首〈名は忘失せり〉〔忌部首詠數種物歌一首〈名忘失也〉〕
 からたちと うばら刈りけ 倉建てむ くそ遠くまれ 櫛造る刀自とじ(万3832)〔枳蕀原苅除曽氣倉将立屎遠麻礼櫛造刀自〕

 「忌部首」は忌部首黒麻呂のことかどうかは定め切れないが、仮にそうであったとしてみると腑に落ちるところがある。品のない歌である。「由縁有る歌」であるから深い意味が隠されているのかもしれないが、うんこは遠くでしろ、などと声に出して詠みあげる気にならない。万3848番歌と同じ「倉」の歌だから、この歌が「如前」の「前」に当たると考えられる。すなわち、左注原文の校異は誤っていた。

  右歌一首忌部首黒麻呂夢裏作此戀歌贈友覺而誦習如前

  右の歌一首、忌部いむべのおびとくろ麻呂まろ、夢の裏に此の恋歌を作りて友に贈る。めてみ習はざるは、さきの如し。
 歌を贈られた友は、興ざめして声を上げて誦み習わすことをしなかった。「覚」がサメルであるとしたことがここでも確かめられる。サメル(醒)の意に当たっている。読みあげなかったのは、文字の中のことと声に出そうとすることとが違うからではなく、完全に一致しているものだとわかったからであり、それと気づいてびっくり仰天している。そのびっくり具合をよく示すのが、四句目の「干稲干稲志」という表記である。

「ひねひねし」の検討

 ヤマトコトバの形容詞「ひねひねし」については、先行する注釈書に、➀古びたさま、➁恨めしい、の二つの説がある。上代の文献に「ひねひねし」という言葉は孤例なので意味が定め切れないから、新編全集本のように恨めしいといった不思議な解釈も可能となっている。 方言や民俗語彙の「ひね」を取り上げて、恨めしい、という語義があると捉えられているがあり得ないことである。
 一句目から三句目までの 「あらき田の 鹿猪田の稲を 倉にあげて」が、四句目の「ひねひねし」を導く序詞であるとされている。「ひね」という言葉が「干稲」という文字で表されているところが夢→現への結節点なのである(注2)。単に干した稲に悪いイメージは付与されない。本邦の稲作は弥生時代早期以降、水田耕作が主である。この歌に示されている原文「荒城田」=「新墾田」も水田で、陸稲ではない。万一陸稲であったとしても構わない。とにかく稲作においては稲を刈り取ったら干す。現代でも、天日干しによく干された稲は上等のものとして高値で取り引きされている。いかに上手く乾燥させるか、それが米生産の最後の仕事である。湿ったままだとカビが生えたり発芽したりして廃棄せざるを得なくなる。
 「干稲」は、それがどんなに古くなろうが食べることはできる。今日、ヒネという言葉は、新玉ねぎに対してヒネの玉ねぎという使い方がされている。ヒネには新玉ねぎのみずみずしさはなくとも、保存が効き、ふつうに食べられる。「ひね」という言葉は、時間的経過、また、時間的に経過したものを表すと考えられる。和名抄に、「稲 唐韻に云はく、稲〈徒皓反、以祢いね、早晩は和世わせ、晩稲は比祢ひね〉は𥝲稲なりといふ。𥻧〈音は兼、漢語抄に美之侶乃以祢みしろのいねと云ふ〉は青稲白米なりといふ。」とある。
 今日、秋の早い時期に収穫されるものを早稲わせ、遅い時期に収穫されるものを晩稲おくてと呼ばれている。和名抄ではワセ/ヒネの対比としている。新米は水分が多いから、炊くときに水加減は少なめにして炊くととてもおいしく炊きあがる。おいしいものには需要がある。米の流通において、上流階級の富裕層が金に飽かせて求めるほど特別視されていたことは想像に難くない。季節先取り的に旬のものを求める風潮はそんなところから生まれたのだろう。我先に我先にと新米を求めるとすれば、米の品種としてのワセ/オクテの意味ではなく、消費者の需要面で、品質の違いによるワセ/ヒネの対比、炊く際の水加減の違い、おいしさの違いを名として捉えた可能性が見えてくる。和名抄の説明は、米の乾燥度合いをもって分類を試みて漢字に当てはめた記述と考えられる。
 日葡辞書に、「Fine. ヒネ(陳・古) 一年を過ぎた古い種子.」、「Finegome. ヒネゴメ(陳米・古米) Furugome(古米)に同じ. 一年, または, 二年たった古い米.」(233頁)などとあるのは、需給のだぶつきから備蓄米のことを言うようになり、晩稲のことがいつからかオクテと呼ばれるようになったものかもしれない。その結果、ヒネという語が、大人びてこましゃくれていること、ひねくれることといった意味にオーバークロスしていると考えられたのではないか。用字に「干稲」とある点を広義にとらえれば、和英語林集成に記されるように、「Hine ヒ子 老(furu) Old; not new or fresh: hine-gome, old rice; tane ga hine de haenu, the seed is old and will not germinate.」(161頁)ことはあっても、それを食糧とする限り、おいしさを度外視すれば食べられるのである。
 したがって、「ひねひねし」は、時間的にとても久しく、が本来の意であると考えられる。民俗語彙から上代語を捏造してはならない。用例の乏しい語ほど単純な理解が望ましい。それがなぜ恋歌かといえば、通説と異なり、恋心が保存可能なように永久不変にあり続けているよ、という意味に取れるからである。忌部首黒麻呂という人は、少し歳を重ねているのかもしれないが、恋においてはまだまだ現役であると主張している。現役ではあるが、「種がヒネで生えぬ」ことはあるかもしれない。下品な歌を書いて贈られた友は、二度びっくりということで、興醒めするように目が「覚」めることになっている。そうわかるのは、これが夢の歌だからである。寝なければ夢は見ない。忌部首黒麻呂は、老いらくの恋に若い女性と共寝したのであろう。それを友に言ってきている。トモ(友・伴)とは、「かひとも」(記14、万4011)などというように同じような身分のものをいい、フレンドの意味よりも仕事仲間の同類のことを指している。鳥に使う場合、千鳥なら千鳥、鶴なら鶴、鶯なら鶯のことである(注3)

 藤原の 大宮仕へ れ付くや 処女をとめが友は ともしきろかも(万53)
 くさ香江かえの 入江にあさる 葦鶴あしたづの あなたづたづし 友無しにして(万575)

 万575番歌の例は万3848番歌とよく似ている。「あなたづたづし」が「あなひねひねし」に対応し、「友」のことが念頭にのぼっている。トモ(友・伴)は二人以上であることが用件である。複数が重なるから、「たづたづ」や「ひねひね」と重なったもの言いになる。言葉を確かめながら楽しんでいる。そして、万575番歌で「たづ」は「友無し」で一羽である。他のどこかにいる「たづ」とは「たづ」違いになっている。一方、万3848番歌は、「友」は忌部首黒麻呂と同じく歳を取っていたために、忌部首黒麻呂のようには若い女性と交わったりしていない。同じ「ひね」でも違うのである。忌部首黒麻呂は滅多にないトモシ(乏、ト・モは乙類)い人で、歌を贈られた「友」は、仲間として感情を共有する人物、トモ(友・伴)ではないと思った。だから「不誦習」、声に出して歌うことはなかった。万葉集の巻16は、「由縁有る歌」の集である。

原文「倉尓擧蔵而」の訓み

 新墾田あらきだの 鹿猪田ししだの稲を 倉にあげて あなひねひねし が恋ふらくは〔荒城田乃子師田乃稲乎倉尓擧蔵而阿奈干稲々々志吾戀良久者〕(万3848)

 三句目はこの訓みで正しいのだろうか。字余りである。原文「倉尓擧蔵而」は、稲を倉にしまうことの謂いである。倉の機能は、「干す・仕舞う・守る」(安藤2010.)である。乾燥を保ちながら保存、保管する。寒暖差があって結露が生じてはならないし、梅雨時に蒸れを起こしてもいけない。害虫やカビも発芽も困る。高床のようにしておくのは賢明なことで、ネズミなどの害獣の被害を免れ、盗難に遭わないように鍵をかけることも必要である。「倉にみて」、「倉にをさめて」、「倉にかくして」、「倉に仕舞ひて」といった訓み方も候補であることが知れるが、いずれも字余りの解消とならない。次の例が参考になる。

  内大臣藤原卿の、采女うねめの安見児を娶る時に作る歌一首
 吾はもや やす見児みこ得たり 皆人の かてにすとふ〔得難尓為云〕 安見児得たり(万95)
 梅の花 今盛りなり 思ふどち 挿頭かざしにしてな〔加射之尓斯弖奈〕 今盛りなり(万820)

 サ変動詞を「にと」(注4)、「にて」という形で用いている。同様に当該歌も次のように解される。

 あら墾田きだの 鹿猪田ししだの稲を 倉にして〔倉尓擧蔵而〕 あなひねひねし が恋ふらくは(万3848)

 「倉尓擧蔵而」で言いたいのは、高床に上げて干しながら仕舞い守ることである。「擧蔵」と書くことで、「倉」の機能を十全にすることを掲示している。つまり、「倉に」という言い方が行われていたと考える。忌部首黒麻呂が若い女性を娶った、いわゆる囲ったことの蓋然性が高くなってくる。

  いめうちに作る歌一首
 あら墾田きだの 鹿猪田ししだの稲を 倉にして あなひねひねし が恋ふらくは(万3848)
  右の歌一首、忌部いむべのおびとくろ麻呂まろ、夢の裏に此の恋歌を作りて友に贈る。めてみ習はざるは、さきの如し。
 (大意)夢のような日々を送っていて作る歌一首
 新しく開墾した田で、鹿や猪が出て荒らす田に実った稲を倉に上げて干して仕舞うように囲って、ああ久しく続くものよ、私の老いらくの恋は。
  右の歌一首は、忌部首黒麻呂が夢見るような日々のなかでこの恋歌を作ったと言って友に贈ってきたもので、贈られた友は驚き、閉口して、声を出して読みあげられなかったのは、以前、屎の歌でそうだったのと同じである。

 高齢の彼は、若い女性陣のところへ行って「開墾」している。当然ながら、若い男たちは「鹿猪しし」のように荒らし回るように譬えられる。そんな「田」に残った晩秋の「稲」を収穫して、自分の「倉」へ仕舞ったのである。「ひねひねし」が原文「干稲干稲志」とあるように、収穫に当たってきちんと乾燥をほどこしたということであろう。「種がヒネで生えぬ」ほどまでに囲いこみ、閉じ込めたという含みがある。歌を贈られた友は、目がぱっちり見開くほどの「覚」をおぼえたに違いない。適齢期の男性を「鹿猪」に譬え、同じく女性を「新墾田」だと言っている。藤原鎌足が「安見児得たり」と、相手の名をあげて尊び喜んだのとは異質である(注5)。「とも(友)」よ、「ともし」いだろうと書いてきたのであるが、「ともし」の意の、好ましく思われる、羨ましく思われるという気持ちにはならない。同類を「とも(友)」と言うのに、人間相手でなくて動植物扱いの「恋歌」を歌うならそれは人間ではなく、動植物である。千鳥の友が千鳥、鶴の友が鶴であったようにである。年齢に似つかわしくない蛮行で、品性を欠いている。結果、「覚而不誦習」となった。

もはや「友」ではないから「誦習」しない

 古事記の序文に「誦習」という語が登場している。「時に舎人有り。うぢは稗田、名は阿礼、年は是れ廿八。為人ひととなり聡明さとくして、目にはかり、口にみ、耳にはらひ、心にをさむ。即ち、阿礼に勅語みことのりして、帝皇すめらみこと日継ひつぎ先代さきつよ旧辞ふることを誦み習はしむ。(時有舎人姓稗田名阿礼年是廿八為人聡明度目誦口拂耳勒心即勅語阿礼令誦習帝皇日継及先代舊辞)」。稗田阿礼の「誦習」については、古来、暗誦説と訓読説を中心に議論されている(注6)。「誦口」とあるから「誦」は口に出して言うこと、唱えることであるとわかる。そして、「誦習」と続くのは、習慣的に同じく「誦」するからであるとわかる。もう一回言って、と頼むと、まったく同じに一字一句違わず、イントネーションもそのままに同じ調子で言ってくれる。ヤマトコトバで声に出して暗誦したことが稗田阿礼の「誦習」であったのだろう(注7)
 万3848番歌の「友」が「覚而不誦習」であったというのは、歌なのだから声に出して歌わなければならないところ、口にするのも憚られる譬えであり内容であると「覚」ったということである。歌を贈られたら自分でも声に出して「誦」んでみて、味わいを確かめ楽しむものである(注8)。歌は音声芸術だからカラオケのように自分でも口ずさんで楽しむ。そうするのが歌の本来の姿である。けれども途中で嫌になったからやめてしまった。「友」が以後も忌部首黒麻呂の友であり続けたか絶交したかはわからない。忌部首黒麻呂には次の歌もある。

  忌部首黒麻呂、恨友賖来歌一首〔忌部首黒麻呂恨友賖来謌一首〕
 山のに いさよふ月の 出でむかと 我が待つ君が 夜はくたちつつ(万1008)〔山之葉尓不知世経月乃将出香常我待君之夜者更降管〕

 約束したのに「友」が来ないと、忌部首黒麻呂が恨み節を歌っている。深い交友の情を示すものと捉えられており、「賖」字は他に例がなく、名義抄に、「賖 音奢、オキノル、オソシ、ヒロシ、タカラ、クタレリ、ハルカナリ、ツト、トホシ、ユタカナリ、ユルシ、帯」とあることから、「遅く来るを恨む歌」と訓まれている。謝朓・和王主簿怨情詩に、「徒使春帯一レ賖」とあって、「善曰、賖、緩也。」と注されている。しかし、遅く来た時の歌ではなく、なかなか来ない、まだ来ていない時の歌である。または、もう来ないのかもしれない。大智度論・四十八に、「若聞賖字、即知諸法寂滅相、賖多秦云寂滅。」とある。「友」は煩悩の境地を離れて黒麻呂とはもう付き合わない気でいて来ることはないのだろう。名義抄のオキノルは、代金をその場で支払わずに掛けで酒などを買うことをいうように、「賖」字は「除」に通じてオク(置・措)の意で選択されていると考えられる。一切経音義に、「賄賂 上音晦、下音路、韻詮云、賖帛也」とあり、「賖」は「除」に通じるとされている。「忌部首黒麻呂、友の、来るをくを恨む歌一首(忌部首黒麻呂、恨友賖一レ来謌一首)」と訓むことができる(注9)
 「誦習」とは口に出して言葉にすることである。言葉にするとは事柄にすることと同じである。言=事であると考えるのが無文字時代に生きた人々の、言霊信仰の本来の姿である。言葉にしないとは事柄にしないこと、世の中にないことにすること、人でなしとは付き合わないことを態度として明瞭にすることである。その消息を伝えるのが万3848番歌であった(注10)

(注)
(注1)民俗学の知見に依ろうが依らなかろうが、具体的に万葉集の歌が理解できることが本願である。太田 2019.に、柳田国男、折口信夫、櫻井満、山本健吉、池田弥三郎、上野誠らの研究姿勢がまとめられている。筆者は、それらの議論に踏み入ることを躊躇う。主張されている民俗学というものが、「民俗学」なのか「民俗」学なのか不明だからである。一般的に言えば、民俗学とは、少し前の時代の当たり前の生活についてどのようなものであったかを紹介するものである。時代で言えば、昭和、大正、明治、頑張って江戸時代ぐらいまでの暮らしについてが対象となる。近代に入って前近代に当たり前だったことが当たり前でなくなったためによくわからなくなったから、それを解き明かそうとするのが民俗学である。当たり前のことというところがミソであり、当たり前のことは記録としてとどめないから聞き書きするなどしてわかるようにするのである。今日でも語学留学というのがあり、英語圏の地に行って英語に触れ、英語ができるようになることをしている。これが「英語学」かといえば「英語」学のような気がする。英語圏の人は当たり前に英語で話し、当たり前に英語で考え、当たり前に英語で書いている。それを自らのものにしたからと言って、はたしてそれが学問なのかといえば少し違うであろう。このことは、万葉集の歌についても当てはまる。 万葉集の歌が理解されればそれで良い。つまり、「万葉学」ではなく「万葉」学である。文学の研究は書かれた作品がすべてであるというテーゼは、「文学」か「文」学かに素朴な疑問を抱く一般人の場合、無視して構わないことである。「万葉」学に「民俗」学を持ち込むことの是非を問うても意味がない。
(注2)「忌部首黒麻呂、夢裏作此恋歌友」について、黒麻呂が夢の中で友人に歌を贈ったという、夢の交感のようなことは考えにくい。古代の夢に関する考え方は今日のそれと違い、はかりしれないが、題詞と左注の関係として難がある。題詞は、「夢裏作歌一首」と簡潔である。夢の中で歌を贈ったとするのであれば、それが十分に「由縁」となるために、題詞は「夢裏作而贈友歌一首」とでも書かなければ体を成さない。題詞は歌のタイトルであり、歌の体裁、枠組みを決めるものとして与えられている。
(注3)古典基礎語辞典に、「とも【供・伴・友・朋】……このトモは、いつも主たる人のそば近くに寄り添って従う者の意を表す「供・伴」のほうが先に生じ、常にいっしょにいて、志や行動を同じくする者の「友・朋」の意を派生したものであろう。なお、上代の例では、「友・朋」のトモの中でも、部の意で使われているものが多い。部は、農民・漁民・特殊技能者たちから成り、自営的な生活を営んで、皇族・豪族に貢物をしたり、労力を提供したりしていた。このように常に行動を共にし、志を同じくしていた集団をいう。」(851頁、この項、我妻多賀子)とある。
(注4)カテニは、カツ(下二段)の未然形に否定のズの古形ニが接続して成立した語であるが、「難尓」という表記の常態化は、カタシ(形容詞)の語幹カタに助詞ニがついたもので、言葉の混淆コンタミネーシヨンを来しているとする解説が、大系本(一・360~361頁)にある。言葉は生き物で、使う人によっていかに認識されて使われたかを中心にして検討しなければならない。
(注5)殿のお手がついて子を授かったという場合も、大名家では側室として大切に扱われた。遊郭の女郎屋に軟禁されるのとは違った。
(注6)拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」参照。
(注7)西宮1997.参照。
 一時代前、アラビア語圏でのユネスコによる識字教育としてクルアーン(コーラン)が用いられていたことがある。人々は字は読めないがクルアーンは暗唱して覚えている。生徒が読本を読めないでもじもじしていると、先生が冒頭の単語を言ってあげる。すると生徒はそれに続けてどんどん読み進めることができた。似たことは文字文化圏でも容易に起こり得る。中学一年生の英語の授業で He stays in the country. を、彼は田舎に住んでいます。と教えておいて、テストに、He stays in the county. を和訳しなさい、と出題すれば、大多数の生徒は授業のことをおぼろげに思い出して、彼は田舎に住んでいます。と意味も分からず解答して丸をもらっていることだろう。
(注8)この「友」は「贈」られてはじめてこの歌を知ることとなっている。忌部首黒麻呂が歌う顔を見ていない。一般にここの「贈」は、歌を文字に書いた木簡のような形のものを目にしたことと考えられている。一続きの字列を初見し、歌として再現しようと試みた時、ウッ、と思って声にすることをしなかったことだとも考えられる。その作業が「誦習」に当たるというわけである。筆者はそれに反し、稗田阿礼暗誦説を採っている。すなわち、歌を「贈」る際には、使者が立ち、意味は分からずとも丸暗記して伝えていたのだと考える。聞いてもすぐに理解できなかったから、自分で口ずさんでみて理解しようとした。ところが歌い返し出したところ、その内容も言い回しも愚劣なもので、とてもではないが声に表す気にならなかった。言語は音声の形としてあり、自ら言葉にしてしまうとことこととなって認めてしまうことになる。黒麻呂と同等の幼稚で愚劣な人間になることは、良心のある「友」には耐えられず、歌意に気づいて歌うのをやめてしまったのである。
 くり返しになるが、筆者は古事記「誦習」について訓読説を採らず、この万3848番歌でも書いたものがあってそれを読み上げることを「誦習」だとしない。もし木簡の形で送られたとしたら、歌は書いてあるわけで、書いてある歌を読み上げることは、正書法が定まっていない変な書き方だから一生懸命に声にして言葉を復活させようと努めたことだろう。だが、そうなるとそれは機械的な作業であり、途中でやめてしまうことはない。「み習」ってしまった暁には自分まで穢れると思い留まっているのは、文字を声化するという単純作業ではなかったからできたことである。古事記にしても、書いたものがすでにあるのなら、稗田阿礼に負わずとも太安万侶が暗号的な文言をたどたどしくとも読んで行って「誦習」すれば良いことになる。稗田阿礼にしか読めない古代文字を読んでいたという想定はさすがに証拠立てることができない。
(注9)万3848番歌に「干稲ひね」とあって、和名抄に「晩稲」をそう呼んでいたのは、万1008番歌の「賖」がオクに当たることと通わせていた末のことであると捉えることができる。万葉集書記者の選択的用字は、このような細部において見るべきものがある。
 影山2017.は、万3848番歌を万1008番歌とからめて「友」との深い意思疎通の表裏を見、「烏滸な交友のありかたを笑いの料として提示しているのではないか。 教養人としての実在が読者に喚起するのは、冷めた皮肉な笑いである。」(222~223頁)と締めくくる。同性愛感情説(呉哲男)、中国文人の影響による交友の文芸説(辰巳正明)などとの指摘を踏まえたうえで、「説話的次元で意匠されている」(221頁)と落としどころを探り、題詞と左注とを一連の説明文であるとしている。「友」情の裏切りとする考え方は、「覚而不誦習前」の「前」が万3832番歌、屎の歌である点から捨てられよう。忌部首黒麻呂は続紀・天平宝字六年正月に内史局助になったとあり、教養人であったとされるが、学問的教養と人間性は必ずしもリンクしないことは今日でも同じである。
 影山氏は、万3848番歌の「左注原文のうち「令誦習如前」の「令」字を「不」に作る写本があり、それでは文意不明のため『萬葉代匠記』に「不」を衍文と処理したのだったが、現行テキストは大矢本・京大本および西本願寺本左傍書の採る「令」を本文と認めて異説がない。「誦習」の語義に不安を残すものの「暗誦を繰り返すこと」(小学館新編全集『萬葉集』)の意として大きく外れることはあるまい。」(214頁)を前提として顧みることがない。松岡1935.は、「令」はおかしいから「不」で解してみようとしている(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213675/114)。
(注10)道徳的課題として現代にも通じるものがある。ここに至り、「万葉学」でも「民俗学」でもなくて、人間とは何かを常日頃から考えていなければ歌の一つもわからないということが知れるであろう。「人間学」が必要なのではなく、「人間」学が求められている。

(引用・参考文献)
安藤2010. 安藤邦廣・筑波大学安藤研究室『小屋と倉─干す・仕舞う・守る 木組みのかたち─』建築資料研究所、平成22年。
太田 2019. 太田真理「フィールドから読む『万葉集』」上野誠・大浦誠士・村田右富実編『万葉をヨム─方法論の今とこれから─』笠間書院、令和元年。
影山2017. 影山尚之『歌のおこない─萬葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。(「忌部首黒麻呂とその友─巻十六第二部和歌説話の構想─」『叙説』第32巻、2010年3月。奈良女子大学リポジトリ http://hdl.handle.net/10935/1804
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集9 萬葉集④』小学館、1996年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。同『日本古典大系7 萬葉集四』昭和37年。
西宮1997. 西宮一民「阿礼の誦習と安万侶の撰録」『古事記年報』第39号、古事記学会、1997年1月。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
松岡1935. 松岡静雄『有由縁歌と防人歌─続万葉集論究─』瑞穂書院、昭和10年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213675/
和英語林集成 J・C・ヘボン編、松村明解説『和英語林集成』講談社(講談社学術文庫)、1980年。

加藤良平 2021.5.28初出2025.1.31訂正改稿

万葉集のホトトギス歌について

霍公鳥ほととぎすという鳥

 万葉集で、ホトトギスは百五十六首に歌われている。初期に少なく後期になるにつれて増え、なかでも大伴家持は一人で六十五首も詠じている(注1)。ホトトギスには、訓字として「霍公鳥」という特殊な文字が使われている(注2)。また、ホトトギスが歌われた歌には、他の一定の言葉とともに用いられる傾向がある。
 上代文学、なかでも万葉集のなかで、ホトトギスがどのようにイメージされていたかについて、これまでも少なからず研究されてきた。その際、ホトトギスという名前の語源について問う試みが行われている。鳴き声が、ホトトギと鳴くと聞いたからホトトギスというのだというのである。最後のスはウグイス、カラス、キギスなどのスと同類とされている。この点について検証することはできない。語源探求はどこまで行っても仮説の域を出ない。そもそもホトトギスという鳥が何時代にカテゴライズされたかなどわかろうはずがない。文字がなかった時代、記録されることはなかった。ものの考え方として、万葉びとにホトトギスという語がどのように導かれた言葉なのかを考えるべきであろう。そして、記録されている万葉集の用字に、「霍公鳥」とある点についての考証が求められる。彼らの語感に近づくことができるからである。
 中国に「霍公鳥」と書いた例はなく、本邦上代に作られたようである。「霍」は「靃」に同じで、説文に、「靃 飛ぶ声なり、雨ふりてならびて飛ぶ者、其の声靃然たり」とある。雨のなか飛ぶ鳥の羽音であるという(注3)。羽音と関連がありそうな歌としては次の歌のみあげられ得るが、意識した作であるようには思われない。

  霍公鳥と藤の花とを詠める一首〈并せて短歌〉
 …… まそかがみ 二上山ふたがみやまに くれの 繁き谿たにを 呼びとよめ 朝飛び渡り 夕月ゆふづく かそけき野辺のへに 遥々はろばろに 鳴く霍公鳥 立ちくと ぶりに散らす 藤浪ふぢなみの 花なつかしみ 引きぢて 袖に扱入こきれつ まば染むとも(万4192)
 霍公鳥 鳴くぶりにも 散りにけり 盛り過ぐらし 藤波の花〈一は云ふ、散りぬべみ 袖に扱入こきれつ 藤波の花〉(万4193)

ホトトギス概念図

 「霍霍」の一義に声のはやいことを表し、「霍乱」ははげしい吐瀉をともなう病である。鳴いて血を吐くほととぎす、といわれるほど口の中が赤く(注4)、その鳴き声は早く、二羽がならび掛け合って鳴いているのではないかとも思われていたと推測される。なぜなら、雨が降ってならんで進むとき、我々は相合い傘の下に共に入るからである。そのときの彼と彼女のおしゃべりは、心が弾むさまを表して即座の受け答えとなっている。今日の鳴き声の受け取り方では、「テッペン」→「カケタカ」、「トッキョ」→「キョカキョク」と即答し、転調しているように聞こえている。上代では、「ホト」→「トギ」と聞いたということだろう。

「ホト」→「トギ」

 万葉集には、ホトトギスを「名告り鳴く」と表現しているものがある。

 あかときに 名告なのり鳴くなる 霍公鳥〔保登等藝須〕 いやめづらしく 思ほゆるかも(万4084)
 卯の花の ともにし鳴けば 霍公鳥〔保等登藝須〕 いやめづらしも 名告り鳴くなへ(万4091)

 これらの歌で、「めづらしく」と形容されている点と、万4091番歌の解釈については後述する。
 ホトトギスがホトトギ(ス)と鳴く鳴き声からそう歌っている(注5)というわけではなく、ホトトギスどうしが「ホト」「トギ」と互いに名告り合っていると聞きなしたから、歌に機知として歌われている。そうでなければ、例えばカラスにおいて、カァと鳴くからカラスと命名されたと臆せられ、カラスを以て「名告り鳴く」ことにもなってしまうが、そのような表現は行われていない。ホトトギスばかり「名告り鳴く」と表現される理由はそこにある(注6)
 そしてまた、恋の歌にもよく用いられている。

  大伴坂上郎女の霍公鳥の歌一首
 何しかも ここだく恋ふる〔幾許戀流〕 霍公鳥 鳴く声聞けば 恋こそまされ(万1475)

 この歌は、新編全集本萬葉集に、「第二句の原文「幾許恋流」とあり、ソコバク恋フルなどと読み、ほととぎすが鳴くのを妻恋故かなどと解する可能性もなくはない。」(313頁)とある(注7)が、「ここだく恋ふる」が正解である。「ホト」「トギ」と鳴き交わす即応性にホトトギスを恋の象徴と見て取っているからである。ラブラブな間柄を示されると、自らの片思いがいっそうつらくなると歌っている。

 霍公鳥 鳴きし登時すなはち 君がいへに けと追ひしは 至りけむかも(万1505)

 この歌は、「ホト」と言えば「トギ」と相答するような即座性を比喩に使い、すぐに行ったことを歌にしている。

 大夫ますらをの で立ち向ふ 故郷ふるさとの かむ名備なびやまに 明け来れば つみのさ枝に 夕されば 小松がうれに 里人の 聞き恋ふるまで 山彦やまびこの 相とよむまで 霍公鳥 妻こひすらし さ夜中に鳴く(万1937)

 この歌も、「山彦の相響むまで」とあるように、ホトトギスの声が「ホト」と言えば即座に「トギ」と返ってくることを言っている。雌雄関係なく異性の相手をツマという。シカの場合、雄の求愛の大声と雌の警戒声は音量が違い、呼応しているものでもない。ヒトの場合、なかなかホトトギスの鳴き声のように恋はうまくいかず、人は「物思ふ」ようになる。

 旅にして 妻恋すらし 霍公鳥 神名備山に さ夜けて鳴く(万1938)
 吾が衣 君にせよと 霍公鳥 吾をうながす 袖に来居きゐつつ(万1961)
 つく波嶺ばねに 吾が行けりせば 霍公鳥 山彦とよめ 鳴かましやそれ(万1497)
 高くは かつて木植きうゑじ 霍公鳥 鳴き響めて 恋まささらしむ(万1946)
 雨隠あまごもり ものふ時に 霍公鳥〔保等登藝須〕 吾が住む里に 来鳴き響もす(万3782)
 心なき 鳥にそありける 霍公鳥〔保登等藝須〕 物思ふ時に 鳴くべきものか(万3784)
 霍公鳥〔保登等藝須〕 あひだしまし置け が鳴けば ふ心 いたもすべなし(万3785)
 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴きて過ぎにし をかから 秋風吹きぬ よしもあらなくに(万3946)

 次の歌では、「ホト」「トギ」の掛け合いを、「恋ひ死なば」「恋ひも死ね」との掛け合いへと比喩を連動させている。

 恋ひ死なば 恋ひも死ねとや 霍公鳥〔保等登藝須〕 ものふ時に 来鳴きとよむる(万3780)

 間髪を入れずに「ホト」「トギ」とぺちゃくちゃ喋れるのは、二人がとても仲睦まじいことを表していると考えられる。むろん、それがかなっている状況であれば、わざわざホトトギスを持ち出すことはない。そもそも歌というものは、少し離れたところにいる相手に伝えるために声を張って歌うものである。ラブラブな関係で互いの距離が0cmにある時に歌は歌われない。言い換えれば、距離が離れて恋心ばかりが募る時、ホトトギスを以て歌にその気持ちを託すという設定が枠組まれることになる。

 故郷ふるさとの 奈良思ならしをかの 霍公鳥 こと告げりし いかに告げきや(万1506)

 この歌では霍公鳥に伝言に行かせているという想定であるが、その鳴き声のラブラブな関係を前提としていて、実のところ「いかに告げきや」も何もあったものではないところに諧謔の楽しみがある。

 霍公鳥〔保等登藝須〕 此処ここに近くを 来鳴きてよ 過ぎなむ後に しるしあらめやも(万4438)

 この歌で霍公鳥が来て鳴いてからの「験」とは、恋愛が成就するという意味である。時機を逸してはならないことは言うまでもない。

  更に霍公鳥のくことのおそみを怨みたる歌三首
 霍公鳥 き渡りぬと ぐれども われ聞き継がず 花は過ぎつつ(万4194)
 吾が幾許ここだ しのはく知らに 霍公鳥 いづの山を 鳴きか超ゆらむ(万4195)

 万4194番歌では、霍公鳥が鳴いてほうぼうを渡っていると聞くけれど、自分ばかりは聞かずに恋は訪れずに季節はめぐってしまいつつあると言っている。

夜に鳴く

 男女の仲睦まじい関係を鳴き声に聞いているのだから、その声は、必然的に夜聞くことが求められるようになる。人類は年中無休、24時間体制で発情しうる動物ではあるものの、仲良し行動をとる姿態は寝る体勢であり、仲良し行動をとれば疲れるからその後は睡眠をとるのが理にかなっている。以下に夜に鳴く例をいくつかあげる。

 我が屋戸やどに 月おし照れり 霍公鳥 心あれよひ 来鳴きとよもせ(万1480)
 掻きらし 雨の降る夜を 霍公鳥 鳴きて行くなり あはれその鳥(万1756)
 つくよみ 鳴く霍公鳥 見まくり 吾草取れり 見む人もがも(万1943)
 今夜の おぼつかなきに 霍公鳥 くなる声の 音のはるけさ(万1952)
 霍公鳥〔保等登藝須〕 こよ鳴き渡れ 燈火ともしびを 月夜になぞへ その影も見む(万4054)
 あかしも 今夜は飲まむ 霍公鳥〔保等登藝須〕 明けむあしたは 鳴き渡らむそ〈二日は立夏のときあたる。かれ、明けむあした喧かむと謂へり。〉(万4068)
 明日よりは 継ぎて聞こえむ 霍公鳥〔保登等藝須〕 ひとからに 恋ひ渡るかも(万4069)
 霍公鳥 なきをしつつ 我が背子を やす宿な寝しめ ゆめこころあれ(万4179)
 さ夜けて あかとき月に 影見えて 鳴く霍公鳥 聞けばなつかし(万4181)

「斯く恋ふ」とは鳴かない

 ホトトギスがホトトギと鳴くのであれば、それ以外の鳴き声は基本的に排除されると考えなければならない。岩松1990.に、カクコフ(斯恋)と聞きなして、万葉集中に「斯く恋ふ」 と続く例があるとしている(注8)

 いとま無み ざりし君に 霍公鳥 吾斯く恋ふと〔吾如此戀常〕 行きて告げこそ(万1498)

 恋情を歌うのにホトトギスが持ち出されているのは、カクコフ(斯恋)と鳴いていると受け取っていたからであるとの主張を展開している。ホトトギスとカッコウが同類のものとして分け隔てなく把握されていたのではないかとしている。けれども、霍公や郭公という字は、旧仮名遣いで表せばクワクコウとなる。カクコフとは音が続かない。
 「霍公鳥」という字面が「郭公鳥」と似ているのは、ホトトギス科の鳥で形状が似ていることから、それに似せて表記を意識して拵えられたとも考えられなくはないが、逆に「霍公鳥」をもとにして「郭公鳥」と書くようになったのかもしれない。新撰字鏡に、「鴞 為驕反、平、鸋鵊、保止々支須ほととぎす」、「郭公鳥 保止々支須ほととぎす」、和名抄に、「〓〔監偏に鳥〕𪈜鳥 唐韻に云はく、〓〔監偏に鳥〕𪈜〈藍縷の二音、保度々岐須ほととぎす〉は今の郭䲲なりといふ。」、名義抄に、「時鳥 ホトヽギス」。「郭公 ホトヽキス」とある(注9)。和名抄の説明は、奈良時代のホトトギスが平安時代に「郭䲲(公)」などと記されるようになったことを示す、または、源順がそう認識していたというものである。今日カッコウと呼んでいる鳥は、奈良時代にヨブコドリ(喚子鳥・喚児鳥・喚孤鳥・呼児鳥)、平安時代にハコドリ(箱鳥)などと呼ばれていたようである。本邦で「郭公」を音読みした例としては、室町時代の伊京集になってクヮッコウと見られる。日本国語大辞典第二版に、「「かっこう」を「郭公」と表記するようになるのは近代に入ってからのことである。」(792頁)とある。ホトトギスとカッコウは鳴き声が異なり、別々の呼び名があるのは自然なことである。総称、ないし、雌雄の別と捉えていたといった特段の事情がない限り、無理に紛らわす必要はない(注10)
 一つの鳥の鳴き声を、ああも聞き、こうも聞きと言い立てては切りがない。解釈においてではなく、当時その言葉を利用していた上代人の感性に迫ることができないという意味である。ホトトギスの鳴き声がホトトギと言うのであれば、その一声によって全て定義されるのでなければ、音声言語であるヤマトコトバとして互いに理解し合えなかったと考える。反証する材料は足りている。万葉集のホトトギス歌にカクコフはこの一例に過ぎないこと、また、万葉集のホトトギス歌にカク(斯)の例はいくつか見られることである。長歌で「カク(斯)」と「霍公鳥」とが離れたところにある例を除くと次の例があげられる。

 霍公鳥 おもはずありき くれの 斯くなるまでに〔如此成左右尓〕 何か来鳴かぬ(万1487)
 あしひきの の間立ちく 霍公鳥 斯く聞きそめて〔如此聞始而〕 のち恋ひむかも(万1495)
 斯くばかり〔如是許〕 雨の降らくに 霍公鳥 卯の花山に なほか鳴くらむ(万1963)
 ゆくなく あり渡るとも 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴きし渡らば 斯くやしのはむ〔可久夜思努波牟〕(万4090)
  橘の歌一首〈併せて短歌〉
 かけまくも あやにかしこし 皇神祖すめろきの 神のおほ御代みよに 田道間たぢまもり とこに渡り ほこ持ち まゐし時 時じくの かくの実を 畏くも のこしたまへれ 国もに ひ立ち栄え 春されば ひこいつつ 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴くつきには 初花はつはなを 枝に折りて 娘子をとめらに つとにもりみ 白栲しろたへの 袖にも扱入こきれ かぐはしみ 置きて枯らしみ あゆる実は 玉に貫きつつ 手に巻きて 見れども飽かず 秋づけば 時雨しぐれの雨降り あしひきの 山のぬれは くれなゐに にほひ散れども 橘の 成れるその実は ひた照りに いや見が欲しく み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず 常磐ときはなす いやさかえに しかれこそ 神の御代より よろしなへ この橘を 時じくの 香の木の実と 名付けけらしも(万4111)

 万4111番歌で、なぜ「霍公鳥」とカク(斯)とがともに詠み込まれていたか、その理由が明らかとなっている。万葉集中にホトトギスが橘とともに使われている例は後述するようにとても多い。橘が「時じくのかくの木の実」と呼ばれていたことから、カク(斯)という言葉が取り沙汰されているのである。万葉びとが通念として抱いていたのは、中国の伝説ではなくて日本の説話であったと知れる。
 このような理解を敷衍させてわかるのは、当時歌を歌う際、ホトトギスという言葉を使う場合、その「ホトトギス」という音が極めて重要なものであるということである。歌は口頭の文芸である。同様に、無文字時代の言語は口頭によるものでしかなかった。言葉の基本が音声言語なのである。ホトトギスという言葉が鳴き声によるとするならば、ホトトギと鳴いたとしか聞いていないということである。逆に言えば、ホトトギスという鳥がホトトギス(ホ・トは乙類、ギは甲類)と言うのであれば、上代の人はホトトギスの音をもとに事態のすべてを了解し尽くさんとしていたということである。文字を持たなかった時代のヤマトコトバのあり方として当を得た捉え方であろう。
 その流れからすれば、その語構成から意味を読み解くことも行われていたと考えられる。それは語源を繙くというものではなく、当時の人に受けとられた語釈のことである。皆がおもしろがって受け容れ、理解が共有されていた。現代、若者言葉が大流行して広まることと案外似ている。

ホト(殆・幾)+トキ(時)+スグ(過)→「いにしへ

 後の時代にホトトギスを「時鳥」と書いた。ラブラブな時になるか、「ものふ」時になるかに関わるとして、「何時いつ」と絡めて歌われているとされることがある。

 かむ名火なびの いはもりの 霍公鳥 なしをかに 何時いつか来鳴かむ(万1466)
 あさがすみ たなびく野辺のへに あしひきの 山霍公鳥 何時か来鳴かむ(万1940)

 万葉びとは、ホトトギスという言葉のなかにトキ(時)という語を読み取っていたと筆者は考える。彼らがホトトギスの語構成と考えた形は、ホト(ホトホト(殆・幾)の語幹、ホ・トは乙類)+トキ(時、トは乙類、キは甲類)+スグ(過)の約であった(注11)。ホトホトは白川1995.に、「「ほとんど」の古い形。あることがらが実現しようとする寸前の状態にあること。まだ一歩だけ完全な状態に達していないことをいう。そのような状態にあることを、推測していうこともある。」(680頁)とある。

  鳥に寄せたる
 春されば 蜾蠃すがるなす野の 霍公鳥 ほとほと妹に 逢はず来にけり(万1979)

 この歌は、単にホトトギスの音をもってホトホトへと続く序詞にしているだけである。万葉びとの言葉の音に関心を注いでいると知ることができる。
 トギスは、トキスグの転訛(tökisugu → tökisug → tögisu)であろう。結果、ホトトギスという鳥の名は、ほとんど時は過ぎるという意味になる。その洒落の意味において、ホトトギスという言葉は興味深く迎え入れられたらしい。アプリオリにホトトギスという言葉があり、それを万葉時代に独自の解釈を行っておもしろがって使い、意味の派生、展開を楽しんでいたということである。

 うれたきや しこ霍公鳥 今こそは こゑるがに 来とよめめ(万1951)

 この歌にある「しこ霍公鳥」のシコは、冠する言葉の性質が頑迷なまでに愚直なことをいう。つまり、「しこ霍公鳥」とは、完璧なまでにほとんど時は過ぎるようにする鳥だとし、それが「今」来て鳴いたからといって、はたして「今」が「今」でなくなって時は過ぎるものなのか、さあ皆様お立ち合い、どうなるでしょうか、ととぼけたことを歌っている。

 霍公鳥〔保登等藝須〕 今鳴かずして 明日あす越えむ 山に鳴くとも しるしあらめやも(万4052)

 この歌では逆に、「今」という時を進行させて峠越え予定の「明日」へと近づける役割を果たすべくホトトギスは鳴くことを求められている。「今」鳴かないのであれば名のすたれだとしている。

 しななる 須我すがあらに 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く声聞けば 時過ぎにけり(万3352)

 この歌は、スサノヲが清々すがすがしいと言った須賀すがの宮に準えた歌である。出雲ではなく信濃にあり、八重垣をめぐらせる宮があるようなところではなくて荒れた野である。これはいったいどういうことか。それをホトトギスが鳴いて教えてくれた。ほとんど時は過ぎる、ほとんど時は過ぎる、と鳴いていて、なるほど時間は経過していて空間的にも離れたところにたどり着いたと気づかされた、と歌っている。
 ホトトギスは、ほとんど時は過ぎるということだから、古いことを示す語とともに用いられている。「いにしへ」である。

 いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 我がおもへるごと(万112)

 この歌については、中国の蜀魂伝説と結びつける解釈が、北村季吟・万葉拾穂抄(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200007744/82?ln=ja)以来行われており、山口2017.は鳴き声説を提唱している。筆者は、ほとんど時が過ぎる、の意に駄洒落解釈していたと考えている。

  霍公鳥の喧くを聞きて作る歌一首
 いにしへよ しのひにければ 霍公鳥〔保等登伎須〕 鳴く声聞きて 恋しきものを(万4119)
  霍公鳥と時の花とを詠める歌一首〈并せて短歌〉
 時ごとに いやめづらしく 八千やちぐさに 草木花咲き く鳥の こゑはらふ 耳に聞き 眼にるごとに うち嘆き しなえうらぶれ 偲ひつつ 争ふはしに くれの 四月うづきし立てば ごもりに 鳴く霍公鳥 古昔いにしへゆ 語り継ぎつる 鶯の うつ真子まこかも 菖蒲あやめぐさ 花橘を 娘子をとめらが 珠貫くまでに あかねさす 昼はしめらに あしひきの やつ飛び超え ぬばたまの 夜はすがらに あかときの 月に向ひて 行き還り 喧きとよむれど いかに飽きらむ(万4166)

 記紀万葉時代のホトトギスにまつわる「いにしへ」話として代表的なものは、すでに万4111番歌で触れたタヂマモリ(田道間守、多遅摩毛理)の話である。古ぼけた話という意味ではなく、にしの意味を含んだ話である。常世国に橘の実を求め帰還してみると、時は経っていて捧げるべき垂仁天皇はすでに亡くなっていた。ほとんど時は過ぎる状態が生じていた。完全に過ぎ去ったわけではないのは、タヂマモリ自身が生きて帰っていて用命は果たしていたはずで、そしてその話は忘れられずに伝わっているからである。結局、タヂマモリ自身は後追い自殺をしている(注12)。不老不死の実を手に入れても、悲しみに暮れて死んでしまうほどに人の命ははかないものであるということがしみじみと感じられたことだろう。結局のところ、不老不死の実など、人間の性ゆえに手に入れることはできないのである。

 大和やまとには 鳴きてからむ 霍公鳥 が鳴くごとに 亡き人おもほゆ(万1956)

 この歌は、ナキ(鳴)とナキ(亡)との掛詞に過ぎないかもしれないが、垂仁天皇の御陵は奈良市佐紀にあって「大和」のことである。タヂマモリもその御陵で叫び哭いて自死している。

もとつ人」「語り継ぐ」「もと霍公鳥」「もとな」

 ホトトギスが渡り鳥として晩春から初夏に飛来し、鳴き始める季節に合わせたかのように橘の花は咲いている。だから、歌に歌い合せて不都合なことはなかった。橘などの植物とあわせる歌は後に記すが、その前に、タヂマモリのことを「本つ人」と詠んでいる歌を掲げる。

  先の太上おほき天皇すめらみこと御製つくりませる霍公鳥の歌一首〈日本やまと根子ねこ高瑞たかみづきよ足姫たらしひめの天皇すめらみことそ〉
 霍公鳥〔富等登藝須〕 なほも鳴かなむ もとつ人 かけつつもとな をねし泣くも(万4437)

 元正天皇の歌である(注13)。「本つ人」は古なじみの人、旧知の人のことであり、そもそもの話の初めの人、張本人の意味である。霍公鳥がほとんど時が過ぎることを意味するのと絡めて、常世、橘などと一緒に歌われるようになっている。その由縁を生んだ人が「本つ人」であり、しかも古くから語り継がれて来ている人なので、これはタヂマモリのことだとわかる。
 次の万1962番歌は訓みの問題も含んでいて、解釈が難しい歌であるとされている(注14)

 本つ人 霍公鳥をや めづらしみ 今かが来る 恋ひつつ居れば〔本人霍公鳥乎八希将見今哉汝来戀乍居者〕(万1962)

 倒置形を戻してみると次のようになる。
 本つ人、霍公鳥を希しみ、恋ひつつ居れば、汝が来る[ハ]今か
 タヂマモリはホトトギスがたぐいまれにかわいいと思うので、同じように恋い慕いながらいとおしんでいると、あなたは今にも来そうだ、の意ととっておく。タヂマモリの説話の中でホトトギスが登場しているわけではない。何かのご縁があって結ばれているとタヂマモリは感じているという設定である。「めづらし」と言っているのは、不老不死のとても珍しい橘の実を求めて常世国へ探しに行っていたからである。たぐいまれであることから、目に入れても痛くないほどかわいいという気持ちが芽生える。幼ない子をかわいいと思う次元には二段階ある。一般的な意味と、自分の子や孫であるからかわいいという意味がある。よその家の幼子はかわいいとは思っても目に入れても痛くないとは思わない。心に類まれに恋しいと思っていると、あなたが来るのはもうすぐ、今のことかと思われてくる、という意味である。
 次にあげる一番目の歌で「万代に語り継ぐ」と言っているのは、タヂマモリの話が語り継がれてきていることを承けている。二番目の歌も「語り継ぐ」と言っているが、もはや形骸化、ないしは、換骨奪胎している。

  霍公鳥をしのへる歌一首 田口朝臣馬長うまをさの作
 霍公鳥〔保登等藝須〕 今し来鳴かば 万代よろづよに 語り継ぐべく 念ほゆるかも(万3914)
  右は、伝へて云はく、一時あるときに交遊集宴す。此の日此処ここに霍公鳥喧かず。仍りて件の歌を作りて、思慕のこころぶといふ。但、其の宴の所と年月とは、未だ詳審つまひらかにすること得ず。
 霍公鳥〔保等登藝須〕 まづ鳴く朝明あさけ いかにせば 我がかど過ぎじ 語り継ぐまで(万4463)
 「本つ人」から「本霍公鳥」、「本な」という言い方も生まれている。
 あをによし 奈良の都は りぬれど もと霍公鳥〔毛等保登等藝須〕 鳴かずあらなくに(万3919)
 旅にして ものふ時に 霍公鳥〔保等登藝須〕 もと鳴きそ が恋まさる(万3781)

 「本な」は基づくところなく、の意である。ホトトギスと関係する事項、名告ることや、橘(時じくの香の木の実)、ほとんど時は過ぎることなどと無縁に、何のわけもなく、いたずらに鳴いてくれるな、というのである。もちろんレトリックである。「本つ人」を思わせるように仕組んでいて、「旅にして物思ふ」とは「恋」する相手と遠く離れていることを言っている。「ホト」「トギ」と鳴き交わすことができない状態なのに、ホトトギスが鳴いたら状況に矛盾が起こるだろうと歌っている。

「片恋」「ものふ」

 このように、そのラブラブ関係と対照的な片思い、旅の途上などの遠距離恋愛を歌うために霍公鳥が持ち出されることは多い。第一例はたまに逢える喜びを歌っている。

 逢ひがたき 君に逢へる夜 霍公鳥 他時あたしときゆは 今こそ鳴かめ(万1947)
 霍公鳥 無かる国にも 行きてしか 其の鳴く声を 聞けば苦しも(万1467)
  沙弥さみの霍公鳥の歌一首
 あしひきの 山霍公鳥 が鳴けば 家なるいもし 常にしのはゆ(万1469)
 橘の 花散る里の 霍公鳥 片恋しつつ 鳴く日しそ多き(万1473)

 最後の万1473番歌は後述の万1472番歌に対する「和歌」である。妻、大伴郎女を亡くした時の歌で、「片恋」は追慕の情を歌うものと考えられる。タヂマモリの逸話で、タヂマモリが垂仁天皇に先立たれていて慟哭していたことに準えているものと考えられる。

 独り居て 物念ふよひに 霍公鳥 ゆ鳴き渡る 心しあるらし(万1476)
 霍公鳥 いたくな鳴きそ 独り居て 宿らえぬに 聞けば苦しも(万1484)
 物念ふと 宿ねぬ旦開あさけに 霍公鳥 鳴きてさ渡る すべなきまでに(万1960)
 霍公鳥 来鳴くつきの 短夜みじかよも 独りし宿れば 明かしかねつも(万1981)
 旅にして いもに恋ふれば 霍公鳥〔保登等伎須〕 が住む里に こよ鳴き渡る(万3783)
 我が背子せこが 国へましなば 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴かむ五月は さぶしけむかも(万3996)
 めづらしき 君がまさば 鳴けと言ひし 山霍公鳥〔夜麻保登等藝須〕 何か来鳴かぬ(万4050)
 毎年としのはに 来鳴くものゆゑ 霍公鳥 聞けばしのはく 逢はぬ日をおほみ(万4168)
  四月三日に、越前判官こしのみちのくちのじょう大伴宿禰池主に贈れる霍公鳥の歌、る)きをづるこころへずしておもひ)を述べたる一首〈并せて短歌〉
 我が背子と 手携てたづさはりて 明け来れば 出で立ち向ひ 夕去れば 振りけ見つつ 念ひべ 見なぎし山に やつには 霞たなびき 谿たにには 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば 霍公鳥 いやしき喧きぬ 独りのみ 聞けばさぶしも 君とわれ へなりて恋ふる 波山なみやま 飛び超え行きて 明け立たば 松のさえだに 夕去らば 月に向ひて 菖蒲あやめぐさ 玉貫くまでに 鳴きとよめ やす宿しめず 君を悩ませ(万4177)
 吾のみし 聞けばさぶしも 霍公鳥 丹生にふ やまに い行き鳴かにも(万4178)
  二十二日に、判官じょう久米朝臣広縄に贈れる、霍公鳥の怨恨うらみの歌一首〈并せて短歌〉
 此間ここにして 背向そがひに見ゆる 我が背子が かき谿たにに 明けされば はりのさ枝に 夕されば 藤のしげみに 遥々はろはろに 鳴く霍公鳥 吾が屋戸の 植木橘 花に散る 時をまだしみ 来鳴かなく そこは怨みず しかれども 谷片付きて いへせる 君が聞きつつ 告げなくもし(万4207)
 吾が幾許ここだ 待てど来鳴かぬ 霍公鳥 独り聞きつつ 告げぬ君かも(万4208)

 逢ってはいるけれど気持ちが通じず話がはずまない風情や、逢って何を話したらいいかわからない気持ちを霍公鳥に託して歌うこともあった。

  霍公鳥の喧かざるを恨む歌一首
 家に行きて 何を語らむ あしひきの 山霍公鳥 一音ひとこゑも鳴け(万4203)

「橘」「玉」

 「時じくのかくの木の実」である「橘」、また、「玉」を詠み込んだ歌は多い。

 …… 朝さらず 行きけむ人の 念ひつつ かよひけまくは 霍公鳥 鳴く五月には 菖蒲あやめぐさ 花橘を 玉に貫き〈一に云ふ、貫きまじへ〉 かづらにせむと ……(万423)
 霍公鳥 いたくな鳴きそ こゑを 五月の玉に あへ貫くまでに(万1465)
 我が屋戸前やどの 花橘に 霍公鳥 今こそ鳴かめ 友に逢へる時(万1481)
 吾が背子が 屋戸やどの橘 花をよみ 鳴く霍公鳥 見にそ吾がし(万1483)
  大伴家持の霍公鳥のおそくを恨む歌二首
 吾が屋前やどの 花橘を 霍公鳥 来喧かずつちに 散らしてむとか(万1486)
  大伴家持の霍公鳥の歌一首
 霍公鳥 待てど来喧かず 菖蒲草あやめぐさ 玉に貫く日を 未だ遠みか(万1490)
 吾が屋前の 花橘を 霍公鳥 来鳴きとよめて もとに散らしつ(万1493)
 いかといかと ある吾が屋前やどに ももさし ふる橘 玉に貫く 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝にに 出で見るごとに 息のに 吾が念ふいもに まそ鏡 清きつくに ただ一目 見するまでには 散りこすな ゆめと云ひつつ 幾許ここだくも 吾がるものを うれたきや しこ霍公鳥〔志許霍公鳥〕 あかときの うら悲しきに 追へど追へど なほし来鳴きて いたづらに つちに散らせば すべを無み ぢて手折たをりつ 見ませわぎ妹児もこ(万1507)
 妹が見て 後も鳴かなむ 霍公鳥 花橘を 地に散らしつ(万1509)
  霍公鳥を詠める一首〈併せて短歌〉
 鶯の 生卵かひこの中に 霍公鳥 独りうまれて が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野辺のへゆ 飛びかけり 来鳴きとよもし 橘の 花を散らし 終日ひねもすに けど聞きよし まひはせむ 遠くな行きそ 吾が屋戸の 花橘に 住み渡れ鳥(万1755)
 霍公鳥 花橘の えだに居て 鳴き響むれば 花は散りつつ(万1950)
 霍公鳥 来居きゐも鳴かぬか 吾が屋戸の 花橘の つちに散らむ見む(万1954)
 橘の 林を植ゑむ 霍公鳥 常に冬まで 住み渡るがね(万1958)
 霍公鳥 来鳴き響もす 橘の 花散る庭を 見む人やたれ(万1968)
 橘の 花散る里に 通ひなば 山霍公鳥 とよもさむかも(万1978)
 つきやま 花橘に 霍公鳥 こもらふ時に 逢へる君かも(万1980)
  霍公鳥を詠む歌二首
 橘は常花とこはなにもが 霍公鳥〔保登等藝須〕 住むと来鳴かば 聞かぬ日無けむ(万3909)
 珠に貫く あふちを家に 植ゑたらば 山霍公鳥〔夜麻霍公鳥〕 れずむかも(万3910)
  橙橘初めて咲き、霍公鳥かけく。此の時候にむかひて、なにそ志をべざらむ。因りて三首の短歌を作りて、欝結のこころを散らさまくのみ
 あしひきの やまれば 霍公鳥〔保登等藝須〕 立ちき 鳴かぬ日はなし(万3911)
 霍公鳥〔保登等藝須〕 何の心そ 橘の 玉貫く月し 来鳴き響むる(万3912)
 霍公鳥〔保登等藝須〕 楝の枝に 行きてば 花は散らむな 珠と見るまで(万3913)
 橘の にほへるかも 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く夜の雨に 移ろひぬらむ(万3916)
 あれなしと なが背子 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴かむ五月は 玉を貫かさね(万3997)
 …… 霍公鳥〔保等登藝須〕 声にあへ貫く 玉にもが 手にき持ちて 朝夕あさよひに 見つつかむを 置きてかばし(万4006)
 我が背子は 玉にもがもな 霍公鳥〔保登等伎須〕 声にあへ貫き 手に纏きてかむ(万4007)
  独りとばりうちに居て、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて作れる歌一首〈并せて短歌〉
 たかくら あまつぎと 皇神祖すめろきの 神のみことの きこす 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥ももとりの 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか きて偲はむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥〔保等登藝須〕 菖蒲あやめぐさ〔安夜女具佐〕 珠貫くまでに 昼暮らし 渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし(万4089)
 霍公鳥〔保登等藝須〕 いとねたけくは 橘の 花散る時に 来鳴き響むる(万4092)
 …… はしきよし 妻のみことの 衣手ころもでの 別れし時よ ぬばたまの 床片どこかたさり あさがみ きもけづらず 出でてし 月日みつつ 嘆くらむ 心なぐさに 霍公鳥〔保登等藝須〕 来鳴く五月の 菖蒲あやめぐさ〔安夜女具佐〕 花橘に 貫きまじへ かづらにせよと 包みてらむ(万4101)
 霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の ぐはしき 親のこと 朝暮あさよひに 聞かぬ日まねく 天離あまざかる ひなにしれば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら やすけなくに おもふそら 苦しきものを 奈呉なご海人あまの かづき取ると 真珠しらたまの 見が御面みおもわ ただむかひ 見む時までは 松柏まつかへの 栄えいまさね たふとが君〈御面は之を美於毛和みおもわと謂ふ〉(万4169)
 霍公鳥 来喧きなき響まば 草取らむ 花橘を 屋戸には植ゑずて(万4172)
  霍公鳥をづるこころに飽かずして、おもひを述べて作れる歌一首〈并せて短歌〉
 春過ぎて 夏むかへば あしひきの 山呼びとよめ さ夜中に 鳴く霍公鳥 初声はつこゑを 聞けばなつかし 菖蒲あやめぐさ 花橘を 貫き交へ かづらくまでに 里響め 鳴き渡れども なほし偲はゆ(万4180)
 …… そこゆゑに こころなぐさに 霍公鳥 喧く始音はつごゑを 橘の 珠にへ貫き 蘰きて 遊ばむはしも ……(万4189)

 橘と明示されない「玉・珠」も、橘と絡めて考えられている。むしろ、タチバナの実は季節的に時季外れになっているから、縁語としてばかり機能しているとも思われる。

 霍公鳥 始音はつこゑは われにもが 五月の珠に 交へて貫かむ(万1939)

「蔭」

 ホトトギスがどこで鳴くのかについては、屋戸やどそのなどのほか、蔭になっているところの例も見られる。万葉びとの「ことば遊び」(注15)からすれば、ホトトギスという言葉に、ホト(蔭、ホ・トは乙類)の意味を汲み取ったものと考えられる。物の蔭、山の蔭のところだと洒落を言っている。ホトが陰部を表し、それを玉門などとしていたことを思えば、橘の実、玉のことと通じていることになってなるほどと思える次第となっている。

 陰 釈名に云はく、陰〈今案ふるに玉茎、玉門等の通称なり〉は蔭なりといふ。其の蔭翳に在る所なれば言ふなり。(和名抄)
 御陵みはかは、畝傍山の美富登みほとにあり。(安寧記)
 霍公鳥〔保等登藝須〕 懸けつつ君が 松蔭に 紐解きくる 月近づきぬ(万4464)

 この歌で「紐解き放くる」と言っているのは、ホトトギスの音を、ほとんど時が過ぎたという解釈にさらに上塗りし、ホト(殆)にはホト(蔭)を、トキ(時)にはトキ(解、トは乙類、キは甲類)を重ね合わせ、愛し合っている喩えを「ことば遊び」(「依興作之」(万4464左注))で表現して楽しんでいる。

 もののふの いはもりの 霍公鳥 今も鳴かぬか 山のかげに(万1470)
 二上ふたがみの 山にこもれる 霍公鳥〔保等登藝須〕 今も鳴かぬか 君に聞かせむ(万4067)
  霍公鳥を詠める歌一首
 二上の しげに こもりにし その霍公鳥 待てど来鳴かず(万4239)

 これらの歌は、「山のみほと」に鳴くことを歌っている。なかでも最適な場所は、二つの山が連なり合った間の窪みのところなのだろう。

の花」

 霍公鳥と卯の花との取り合わせは、万葉集中に十六例ある。卯の花十八首のうちの大多数が霍公鳥とともに歌われている。卯の花は植物学上、ウツギのことで、初夏から梅雨時にかけて咲き、霍公鳥の鳴く時期と合わさるというが、ついて回るように用いられているのには語学的からくりがあったとしか考えられない。言葉の上で共通点があるために好んで共に使われた。ホトトギスが「ホト」「トギ」と即答で掛け合うのは、互いに肯定し合っているからである。 yes yes のくり返しが行われている。ヤマトコトバで yes は「」である。したがって、卯の花が登場している。季節的にも概ねマッチしている。そういう事情から歌われている 。すでにとりあげた例は除いて以下に示す。

 霍公鳥 来鳴き響もす 卯の花の 共にやしと 問はましものを(万1472)

 この歌には、霍公鳥と関係があるのか不明瞭な左注がついている。「右は、神亀五年戊辰に大宰帥大伴卿の妻大伴郎女、病に遇ひて長逝す。時に勅使式部大輔石上朝臣堅魚を大宰府に遣して、喪を弔ひ并せて物を賜へり。其の事既にをはりて駅使はゆまづかひつかさの諸の卿大夫まへつきみたちと、共に記夷に登りて望遊せし日に、乃ち此の歌を作れり。」とある。「城」は奥つ城を思わせ、墓所へ行ったという意ととれる。大伴郎女の実際の墓所である必要はない。「駅使」と「府諸卿大夫等」とが、「共」にキ(記夷)のキ(城)(キはともに乙類)に登っていることになっている。そこがミソなのであろう。相和していることをカテゴリーミステイク的に歌に詠んでいる。ホトトギスが yes yes 的に鳴くから卯の花が持ち出され、キのキのことだと注されている。次の万1474番歌は大伴郎女の歌であるが、そこにある「おほ」がキノキに当たるようである。キノキだから「大城」と呼べるのである。追憶のためにきちんと「共登記夷城」しているとわかる。

  大伴坂上郎女の筑紫の大城の山をしのぶ歌一首
 今もかも おほの山に 霍公鳥 鳴き響むらむ 吾無けれども(万1474)

  前にあげた次の歌の解釈も自ずと正される(注16)

 卯の花の ともにし鳴けば 霍公鳥〔保等登藝須〕 いやめづらしも 名告り鳴くなへ(万4091)

 一句目の「卯の花」とある箇所は、卯の花がたくさん咲いていることを「鳴く」ことに準えていて、yes yes と言っていると捉えている。だから、卯の花と霍公鳥がともに鳴いているというのである。

  大伴家持の霍公鳥の歌一首
 卯の花も 未だ咲かねば 霍公鳥 佐保のやまに 来鳴き響もす(万1477)
 皆人の 待ちし卯の花 散りぬとも 鳴く霍公鳥 吾忘れめや(万1482)
  大伴家持の、雨の日に霍公鳥のくを聞ける歌一首
 卯の花の 過ぎば惜しみか 霍公鳥 あまも置かず 此間ゆ鳴き渡る(万1491)
 霍公鳥 鳴くうへの 卯の花の きこと有れや 君が来まさぬ(万1501)
 霍公鳥 鳴くこゑ聞くや 卯の花の 咲き散るをかに 田葛くず引く娘女をとめ(万1942)

 この歌は、桜井2000.に「美しい歌」と賞され、「農事とかかわることを暗示している歌のようだ。」(105頁)とあるが、見当違いである。これまでにもしばしば出てきたように、かづらとのかかわりとして、つる性植物のクズが出てきている。またクズは、その這え延びる性質から、「…… ふ葛の いや遠永とほながく 万世よろづよに えじとおもひて ……」(万423)と歌われている。ホトトギスがほとんど時が過ぎるの意で想われている限りにおいて、時間が長く経過したことを表現する比喩のために植物のクズを持ち出しているのである。

 朝霧の 八重やへやま越えて 霍公鳥 卯のはなから 鳴きて越えぬ(万1945)
 月山つきやま 卯の花つく 霍公鳥 聞けどもかず また鳴かぬかも(万1953)
 卯の花の 散らまくしみ 霍公鳥 野に山に入り 来鳴き響もす(万1957)

 この歌に、「野に出山に入り」と歌われている点、中西1983.は「落着きもなく」(332頁)の意とするが、ホトトギスの鳴き声が「ホト」「トギ」の掛け合いであることを言い換えた表現である。

  問答もんだふ
 卯の花の 咲き散る岳ゆ 霍公鳥 鳴きてさ渡る 君は聞きつや(万1976)
 聞きつやと 君が問はせる 霍公鳥 しののにれて ゆ鳴き渡る(万1977)

 これらの歌は「問答」と題されている。あまり意味のない「問答」であるように思われているが、ホトトギスが「ホト」「トギ」という鳴き声のうちに問答をしているのだから「問答」の歌なのである。論理階梯を行き来する敏腕さについていかなければ、無文字時代の音声言語が独自進化していたヤマトコトバの実勢を理解することはできない。

 …… 近くあらば 帰りにだにも 打ち行きて 妹が手枕たまくら 指しへて 寝てもましを 玉桙たまほこの みちはしどほく 関さへに へなりてあれこそ よしゑやし よしはあらむそ 霍公鳥 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯の花の にほへる山を よそのみも 振りけ見つつ ……(万3978)
 藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今そ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴きし響めば うちなびく 心もしのに そこをしも うらごひしみと 思ふどち 馬打ち群れて たづさはり 出で立ち見れば ……(万3993)
 …… なげかくを とどめもかねて 見渡せば 卯の花山の 霍公鳥〔保等登藝須〕 のみし泣かゆ ……(万4008)
 卯の花の 咲く月立ちぬ 霍公鳥〔保等登藝須〕 来鳴き響めよ ふふみたりとも(万4066)

菖蒲あやめぐさ

 植物では菖蒲あやめぐさも、卯の花同様に霍公鳥とともに用いられている。万葉集中に十二例ある菖蒲あやめぐさのうち、十一例が霍公鳥とともに用いられている。次は唯一、霍公鳥とともに歌われていない歌であるが、霍公鳥が出てくる万4101番歌の反歌である。

 白玉を 包みてらば 菖蒲あやめぐさ〔安夜女具佐〕 花橘に へも貫くがね」(万4102)

 アヤメグサの語の由来は、メが甲類だからあや(メは乙類)ではなく、あや(メは甲類)に負っている。岩波古語辞典に、「漢女(あやめ)の姿がたおやかさに似る花の意。」(63頁)とある。しかし、一般に、アヤメグサはサトイモ目の渋い花をつける植物であると同定されている(注17。筆者は、アヤメグサ○○と断っているのだから、草の部分を生活に利用したことを指していると考える。芳香が高いことから、節句に邪気を払うために用いられた。一方、ハナアヤメと呼ばれるものがある。花を見てそう名づけている。もともとの自生種は、今日、ノハナショウブと称されている。
 問題は、なぜあやの意味を植物の名前に当てたかである。漢女は渡来人の女性で、機織りが巧みな人のことであった。「漢機あやはとり」(雄略紀十四年正月)のことで、中国式の高機を操って見事な織物を織り上げていた。織りの組織として綾織りという織り方もあり、地に文様をつけることができた。特に綾織りでなくても、文様をつけて織られたものをよくよく見てみると、花弁の様子と似ていることに気づく。新式の織物のように模様がついていると見立てられたわけである。その結果、「菖蒲」の類をあやと呼ぶようになったと考えられる。似た葉をした植物から少しずつ違う柄の花が咲くのがアヤメ属である。それらが今日のアヤメなのかショウブなのか検討する必要はない。漢女の手にかかれば、いろいろな地模様に織り上げてくれる。命名は植物学の外にある。そして、同類の葉をつけるもので、香気が強くて節句に用いる素材として活用できる植物をアヤメグサと呼び、「菖蒲」という字を使い慣わしていたと考えることができる(注18)

左:ノハナショウブ(ウィキペディア、Qwert1234様「ノハナショウブ」ウィキメディア・コモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:ノハナショウブ02_Iris_ensata_var._spontanea.JPG)、右:茶紫地四弁花入雲気文広東裂(経絣・平組織、正倉院所蔵、沢田むつ代「正倉院所在の法隆寺献納宝物染織品─錦と綾を中心に─」『正倉院紀要』第36号、2014年、55頁のNo.64図をトリミング。宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/api/bulletins/36/pdf/0363039095)

 漢女が機織りをする作業は、本邦で従来行われていた機織りとは大きく違った。高機は、大掛かりに経糸を上下に分離させ行き交わすメカニズムとなっている。文様が生まれるようにあらかじめ経糸を準備(機拵え)しておけば、後は単純作業になる。織るだけで地に文様が浮かび上がる。その高機の操作にパタパタという音を立てる。だから機のことをハタと呼んだのであるが、絶え間なくパタパタと音を立てている。在来の地機で織った織物のことを倭文しつおり(注19)というように、静かに織られていたのとは対照的である。高機の操作に熟練している漢機あやはとりは、パタパタパタパタ連続して音を立てている。 間髪を入れずに受け答えしているさまに似ており、ホトトギスの「ホト」「トギ」の即応にパラレルな関係であると見立てられた。季節的にも、ホトトギスが鳴くのとアヤメグサを刈り取って五月五日の節句に用いるのとが概ね合致するから、歌に合わされている。
 アヤメグサは邪気を払うものとして、五月五日に家の軒にさし掛けたり、身につけたり、薬玉のように作られたかとされている。「菖蒲あやめぐさ 花橘を 玉に貫き」という慣用表現で用いられる。香りが立って邪気を払うとされたものどうしが連なっているわけである。風習としてはもっぱら中国由来のことと考えられており、荊楚歳時記などに見られるという。高機とともに本邦に伝わったということであろうか。今日、端午の節句に菖蒲湯を使う風俗へと続いている(注20)
 ただし、どこまでが中国の風俗に由来したものであるかは不明である。橘は、タヂマモリが常世の国から持ち帰った不老不死をもたらす時じくの香の木の実であり、その際、「かづら」(垂仁記)にも作られている。その橘が万葉集に歌われる際、霍公鳥とともに用いられる傾向にあったのは、両者が、ほとんど時は過ぎると言える存在だったからである。
 「菖蒲あやめぐさ」も、漢女が織りあげるのにはパタパタパタをくり返して、ほとんど時は過ぎている。機織りはとても時間がかかる。そのアヤメ、今日、ノハナショウブと言い当てられている植物だと思って刈り取ってきた葉のなかに、似ても似つかぬ蒲のような花序のものが混じっていた。何か違うのではないかと思っても、必要な知識は植物学にあるのではなく、実用に供すればよいだけだから、類似する葉については一括してアヤメグサと呼んでおけば済むと考えたのだろう。これは頓智である。結果的に、ヤマトコトバのなかで生きていた人々に納得され、歌においては霍公鳥とともに詠まれている。すでにとりあげた例を除き以下に示す。

 霍公鳥 いとふ時なし 菖蒲あやめぐさ かづらにせむ日 ゆ鳴き渡れ(万1955)
 霍公鳥〔保等登藝須〕 いとふ時なし 菖蒲あやめぐさ かづらにせむ日 ゆ鳴き渡れ(万4035、重出)
 …… 霍公鳥〔保止々支須〕 来鳴く五月の 菖蒲あやめぐさ よもぎかづらき さかみづき 遊びぐれど ……(万4116)
  霍公鳥を詠む歌二首
 霍公鳥 いま来鳴きむ 菖蒲あやめぐさ かづらくまでに るる日あらめや(万4175)〈三箇みつことく〉
 我がかどゆ 鳴き過ぎ渡る 霍公鳥 いやなつかしく 聞けど飽きらず(万4176)〈六箇むつの辞を闕く〉

 万4175・4176番歌は、基本的な助詞を使わないで歌を作った歌であると注記されている。なぜそのような試みが行われたのか。ホトトギスの鳴き声が、「ホト」「トギ」だけで成り立っていると認められていたことと関係するのではないか。ホトトギスに負けじと諧謔を弄して、助詞を省いて簡潔な言葉で立ち向かったということだろう。

「藤波」

 霍公鳥とともに詠まれる植物としては、ほかに「藤波ふぢなみ」がある。葛同様に蔓を伸ばす。ホトトギスが鳴く時期に花が咲き、かづらにしたことから持ち出されているのだろう。房が波打つように見えるから「藤波(浪)」と表現することが多く、その複数の花房をつけた状態で採取し蘰にしたらしい。波は次から次へと間断なく押し寄せてくるものである。「ホト」「トギ」と間断なく鳴くホトトギスに由縁して「藤波」という語が選択されている。既出以外の例をあげる。

 藤波の 散らまくしみ 霍公鳥 いまの岳を 鳴きて越ゆなり(万1944)
 霍公鳥 来鳴き響もす をかなる 藤波見には 君はじとや(万1991)
 藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴くべき時に 近づきにけり(万4042)
 明日あすの日の 布勢ふせうらの 藤波に けだし鳴かず 散らしてむかも〈一はかしらに云ふ、保等登藝須ほととぎす〉(万4043)
 藤波の しげりは過ぎぬ あしひきの 山霍公鳥〔夜麻保登等藝須〕 などか来鳴かぬ(万4210)
 霍公鳥 ばたの浦に しく波の しばしば君を 見むよしもがも(万3165)

 最後の万3165番歌は、「藤波」ではないが波のことを言っている。十分な理解に至っていないため、冒頭の「霍公鳥」を枕詞と解する説もある。

「木のくれ

 ほとんど時は過ぎるとは、一日という単位で言えば日が暮れることである。クレ(呉)の国から来た新技術こそ、「漢織」であると言いたいのである。日が暮れそうになると、機織りは一日の作業を終わらせる。見えにくくなると文様が揃わないからであり、明かりを灯してまでしないのは灯油がもったいないからでも、煤が出てはせっかくの織物が台無しになるからでもある。したがって、ホトトギスの歌では、ホトトギスは「のクレ(暗・晩)」で鳴くように仕向けられている。

  霍公鳥を詠む歌一首
 くれの 繁きを 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴きて越ゆなり 今しらしも(万4305)
 くれの 夕闇ゆふやみなるに〈一に云ふ、なれば〉 霍公鳥 いづを家と 鳴き渡るらむ(万1948)
 多胡たごの崎 暗茂くれしげに 霍公鳥〔保登等藝須〕 来鳴きとよめば はだ恋ひめやも(万4051)
 くれに なりぬるものを 霍公鳥〔保等登藝須〕 何か来鳴かぬ 君に逢へる時(万4053)

「網」「夏」「初声」

 ホトトギスは後の時代に網鳥という言い方がされている。記録されている始まりは大伴家持の歌にあり、網をさしてホトトギスを捕まえるからであるとされている。網を使って捕まえてペットとして飼い、翌夏に初声を楽しむためであったと考えられている。

 霍公鳥〔保登等藝須〕 ごゑなつかし 網ささば 花はぐとも れずか鳴かむ(万3917)
 橘の にほへるそのに 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴くと人ぐ 網ささましを(万3918)
 霍公鳥 聞けども飽かず 網取りに りてなつけな れず鳴くがね(万4182)
 霍公鳥 飼ひとほせらば とし経て むかふ夏は まづきなむを(万4183)

 玩弄する目的で捕まえていたか、そうしようという欲望が芽生えていたかしている。他の鳥、例えば文鳥などではなく、ホトトギスに限って網鳥と言われるに至っている。わざわざホトトギスに限って網を持ち出して歌い上げているのは、網という言葉が動詞アム(編)に由来していることと関係するのだろう。編むためには編み棒を両手に二本持って互い違いに交わす。その交わし方が「ホト」「トギ」と即応する鳴き交わしに相応すると見られたからではないか。万4183番歌で、来年のなつに一番に鳴くであろうとするのは、万4182番歌に、それがなついているからであるとナツ音つながりですでに語られている。この点を強調するなら、ホトトギスが鳴くのは夏のことであると定まる。万3984番歌の左注に「霍公鳥者立夏之日来鳴必定」とあるのは、現状では漢詩文の詠物詩の影響を受け、四季と結びつけてホトトギスを歌っているものと考えられている(注21)が、必ずや駄洒落の延長上にあるのだろう。歌を歌う大伴家持に漢詩文を理解しヤマトコトバへと展開する能力があったとしても、その歌を聞く側、周囲にいる家人や召使いがそれを理解できなければ、たちまちのうちに変人、狂人扱いされてしまう。

  大伴家持の霍公鳥の歌二首
 夏山の ぬれしげに 霍公鳥 鳴きとよむなる 声のはるけさ(万1494)
  立夏の四月は既に累日を経て、なほ未だ霍公鳥の喧くを聞かず。因りて作る恨みの歌二首
 あしひきの 山も近きを 霍公鳥〔保登等藝須〕 月立つまでに 何か来鳴かぬ(万3983)
 玉に貫く 花橘を ともしみし この我が里に 来鳴かずあるらし(万3984)
  霍公鳥は、立夏の日に来鳴くこと必定す。又越中の風土は橙橘の有ること希なり。此に因りて、大伴宿禰家持、おもひこころに発していささかに此の歌をつくる。 三月二十九日
  四月十六日に、夜のうちに、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて、おもひを述ぶる歌一首
 ぬばたまの 月に向ひて 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴くおとはるけし 里どほみかも(万3988)
  二十四日は立夏の四月の節にあたる。此に因りて二十三日のゆふへに、たちまちに霍公鳥のあかときかむ声を思ひて作る歌二首
 常人つねひとも 起きつつ聞くそ 霍公鳥 此のあかときに 来喧く始音はつこゑ(万4171)
 月立ちし 日よりきつつ うちじのひ 待てど来鳴かぬ 霍公鳥かも(万4196)

 万4196番歌の「月」は夏四月のことである。

景物

 以上のように、ホトトギスという語自体の特徴から万葉集の霍公鳥の歌を見てきたが、ヤマトコトバの「ことば遊び」以外の、景物として、あるいはとても思い入れを強くした対象としてホトトギスを見た歌もある。ただし、言葉の使い方、他の語との連動性については、それまで作られてきた歌を踏襲する傾向にあり、すでに多くの例をあげてきた(注22)

   霍公鳥を詠む歌一首〈并せて短歌〉
 谷近く 家はれども だかくて 里はあれども 霍公鳥〔保登等藝須〕 いまだ来鳴かず 鳴く声を 聞かまくりと あしたには かどに出で立ち ゆふへには 谷を見渡し 恋ふれども 一声ひとこゑだにも いまだ聞こえず(万4209)

 ホトトギスの声を聞きたくてたまらないといった偏愛ぶりなどは、個人的な感情の吐露に聞こえる。これまでに見てきた歌のあり方とは少し違っている。ヤマトコトバに意味を圧縮させようとしてきた営みが、反対に解凍する方向へと向かう一端が窺える。人々の言語観が変化する片鱗を覗かせている。一語一語の言葉をそらで覚えることですべてを知恵として生きていた時代は幕を下ろし、文字文化に突入して記録によって伝える術を持つようになっていく。知識の時代の始まりである。人々の言語活動は、その半身を麻痺させ始め、現在へと続くこととなった。

おわりに

 万葉集では、ホトトギスは基本的に、その言葉(音)自体の「ことば遊び」をもって歌われている。そして、ホトトギス歌は、ホトトギスという言葉と関連する語ばかりで構成されることになっている。ホトトギス歌には、ホトトギス歌のための言葉のサプライチェーンがあったということである(注23)。このことは、我々が抱いている言語に対する感覚からすれば、計り知れない違和感をもよおす。無文字時代の言語活動は、文字時代の今日までのものとは位相が異なるものであったことを教えてくれている。異文化であると言っても過言ではない。そのことは、人類の可能性として、現代の文明とは違う道があり得たことをも示唆している。その可能性をいま見ることは、万葉集の歌を味わうのに、実は最も実りある鑑賞法なのではないか。現代における万葉集の研究は、ともすればその万葉歌を、漢文学の影響を付会するための検索の基点へと貶めてしまっている。「ホト」「トギ」の即答唱和や、ほとんど時は過ぎるの語釈に愉快を感じていた彼らの心を軽んじて、ホトトギス歌の出典を漢詩文に求めても無意味であって自己満足に過ぎない。街に歌詠みが多数いて、人々は言葉のなかに生きていた。ヤマトコトバに生きていた上代人の心性を顧慮せずにいては、ほとんど時は過ぎることになるだろう 。

(注)
(注1)東1935.に、「集中でも初期の間は馬とか、鹿とか、鴨など手近のものや、狩猟の対象となつた実用的な動物が多く歌はれてゐたのであるが、漸次その末期に近づくにつれて、支那文学の影響を蒙り時鳥や鶯の鳴声を鑑賞する様になつて来たのである。」(227頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注2)以下、万葉集の原文に「霍公鳥」とあるものはそのままに、それ以外の用字については〔 〕に入れて追記する。
(注3)小池2001.は、霍公鳥という字面の「霍」に、雨の中鳴く鳥であることを含意したかったためかとしている。
(注4)荊楚歲時記逸文に、「三月三日。杜鵑初鳴。田家候之。此鳥鳴昼夜。口赤上天乞恩。至章陸子熟乃止。」とある。本邦の人がこれを見て「霍公鳥」と記すようになったとは考えにくい。「杜鵑」とある。荊楚歲時記にはまた、「四月有鳥、名獲榖。其名自呼。農人候此鳥、則犁杷上岸。按爾雅云、鳲鳩鴶鞠。郭璞云、今布榖也、江東呼獲榖。崔寔正論云、夏扈趍耕鋤、即竊脂玄鳥鳴獲榖、則其夏扈也。」とあり、カッコウは「獲榖クワクコク」と自ら双声に呼んでいるとしている。
(注5)伊藤1998.に、「ホトトギスを擬人的に「名告り鳥」と呼ぶことが、遅くとも近江朝の頃には成り立っており、人々のあいだに一般の言葉として定着していたであろう……。……古くから日本人のあいだにあったこの「名告り鳥」の称に想を致し、「名告り鳴く」時鳥の表現に思い至ったのではなかろうか。地の言葉、口頭言語としてホトトギスについて言われ来った語「名告り鳥」がここではじめて「名告り鳴くなるほととぎす」という和歌表現に奉り上げられたのである。」(38~39頁)とある。
(注6)集中には、雁が「名を告る」歌がある。

 ぬばたまの 夜渡るかりは おほほしく 幾夜を経てか おのが名を告る(万2139)

 この歌では雁が名告っている。カリと自ら鳴いていると聞きなして、別名をカリガネ(かり)ともいうことをおどけて言っている。ただそれだけである。雁が鳴いているさまを「名告り鳴くなる○○」とは表現しない。霍公鳥に「名告り鳴くなる」という定型化をもたらしている点に注目すべきなのである。「大伴」という人が「名に負ふ」として曰くある歌を歌っていても、その人のことを「名告り人」と言わないことと同じである。
(注7)山口2019.は、この訓にて解釈を展開している。
(注8)「「かくこふ」のところは掛け詞のように二重写しになっていて、私がこんなに貴方を恋い慕っている・・・・・・・・・・・・・・・・とういう[ママ]ことを、ホトトギスよ、あの方の所へ飛んで行って、『ふ、ふ』と鳴いて伝えておくれ。」という意味に解釈すべきもののように思われる。つまり、「霍公鳥」は「ホトトギス」と言われると同時に実体は「郭公鳥」そのものであり、「カクホフ」即ち「斯く恋ふ」と鳴く鳥なのである。こう解釈してこそ、この歌の意味も深くなり、ホトトギスが此所に登場してくる理由も、「霍公鳥」と書かれた意味も首肯できるというものである。」(18頁)とある。
(注9)「郭公」という漢字も、中国での古い用例は知られていない。集韻に、「〓〔監偏に鳥〕鷜 鳥名、郭公也。」、元の李孝光・寄朱希顔二首の其一に、「会有行人回首処、両辺楓樹郭公啼。」と見える程度である。もともとカッコウには鳲という字を作っているのではないかとされるが、種の同定には至らない。
 木村1901~1911.に、「本集に霍公鳥とかきたるは、皇国にて名づけたる称にて漢名にはあらず、……公はかゝるものに添ていふ文字にて、鶯を黄公、燕を社公、布穀を郭公、蝍蛆ムカデを呉公……といふに同じ、又古此方にて漢名に準へて物名を製したる例は、胡枝子ハ ギを鹿鳴草といひ、梫木アセミを馬酔木などいへるなど是也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/874365/22、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注10)霍公鳥を、種としてホトトギスとカッコウとの総称としたり、混同しているとする見方があり、万葉集中の鳴き場所などから推測して見解をなしているものがある。今日の動物分類学をもって何を示そうとしているのか、言語学的立場からは不明である。
 ソシュール2013.に復刻されているが、丸山2014.からソシュールの発言を引く。「コトバについて哲学者たちがもっている、あるいは少なくとも提供している考え方の大部分は、我々の始祖アダムを思わせるようなものである。すなわち、アダムはさまざまな動物を傍に呼んで、それぞれに名前をつけたという。……コトバの根拠は名詞によって構成されてはいない。……それにもかかわらず、〔哲学者たちの考えには〕コトバが究極的にいかなるものかを見る上で、我々が看過することも黙認する出来ないある傾向の考え方が、暗黙のうちに存在する。それは事物の名称目録という考え方である。

 それによれば、まず・・事物があって、そこから記号シーニュということになる。したがって、これは我々が常に否定することであるが、記号シーニュに与えられる外的な基盤があることになり、コトバは次のような関係によって表わされるだろう。
 ところが、真の図式は、a─b─cなのであって、これは事物に基づく*─aといったような実際の関係のすべての認識の外にあるのだ。」(130~131頁)。
(注11)室伏1966.に、「ホトトキス(グ)」説がある(3頁)が、「ほと(ホ・トは甲類)」と「霍公鳥ほととぎす、ホ・トは乙類)」は音が合わない。
(注12)記紀に載る文章をあげる。

 又、天皇すめらみこと三宅連みやけのむらじ等がおや、名は多遅摩毛理たぢまもりを以て常世国とこよのくにつかはして、ときじくのかくの木実このみを求めしめたまひき。かれ、多遅摩毛理、遂に其の国に到り、其の木実を採りて、縵八縵かげやかげ矛八矛ほこやほこち来る間に、天皇、既にかむあがりましぬ。しかくして、多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分け大后おほきさきたてまつり、縵四縵・矛四矛を以て天皇の御陵みさざきの戸に献り置きて、其の木実をささげて、さけおらびてまをさく、「常世国のときじくのかくの木実を持ちてのぼりて侍り」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。其のときじくのかくの木実は、是、今のたちばなぞ。(垂仁記)
 九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守たぢまもりみことおほせて、常世国につかはして、非時ときじく香菓かくのみを求めしむ。〈香菓,、此には箇倶能未かくのみと云ふ。〉今、たちばなと謂ふは是なり。……
 明年くるつとしの春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国よりかへりいたれり。則ちもてまうでいたる物は、非時の香菓、八竿八縵やほこやかげなり。田道間守、是にいさ悲歎なげきてまをさく、「おほみこと天朝みかどうけたまはり、遠くより絶域はるかなるくにまかる。万里浪とほくなみみて、はるか弱水よわのみづわたる。是の常世国は、神仙ひじり秘区かくれたるくにただひといたらむ所に非ず。是を以て、往来ゆきかよあひだに、おのづからに十年ととせりぬ。あにおもひきや、ひとりたかなみを凌ぎて、また本土もとのくにまうでこむといふことを。然るに、聖帝ひじりのみかど神霊みたまのふゆりて、わづかかへまうくること得たり。今、天皇既にかむあがりましぬ。復命かへりごとまをすこと得ず。やつかれけりといふとも、亦、何のしるしかあらむ」とまをす。乃ち天皇のみさざきまゐりて、おらきて自らまかれり。群臣まへつきみ聞きて皆なみたを流す。田道間守は、是、三宅連みやけのむらじ始祖はじめのおやなり。(垂仁紀九十年二月〜垂仁後紀九十年明年)

(注13)伊藤2009.に、「父草壁、弟文武、母元明が時の元正天皇にとっての亡き人。」(278頁)とある。
(注14)新大系文庫本万葉集に、「一首の意味は判然としない」(145頁)とある。山口2017.は、「〈AヲBミ〉型のミ語法の場合、ヲの後に疑問あるいは詠嘆のヤが入ることは考えにくいから」(68頁)、訓み方を「本つ人 ほととぎすをば めづらしび 今も汝が来る 恋ひつつをれば」としている。ミ語法については、青木2016.参照。
(注15)「ことば遊び」という術語は言語学上いまだ確立途上の概念によるが、上代の「ことば遊び」はさらにその辺縁、あるいは極限に位置づけられるもので、これまで検討されたことはない。ほとんど研究対象とされていないなか、滝浦2005.は、ヤーコブソンにならって「あらゆることば遊びが遊びとしての相互行為性を有する限り,「指示的機能」の背景化の度合いに応じて,……「交話的機能」の機能レベルは上昇する.ここに,ことば遊び全体に共通のコミュニケーション論的機能を見ることができる.」(408頁)としている。ここではその滝浦氏の行論にあえて従って考えることにする。
 上代語であるヤマトコトバは、無文字時代にやりとりされた音声言語である。峠を越えた隣村の人とやりとりするためには、この「交話的機能」が大前提となっていなければならない。そのときはじめて言葉は「指示的機能」を有しうる。反対から言えば、ヤマトコトバは「ことば遊び」でなければ存立しえなかったのである。“伝え合う”行為は、“ともに遊ぶ”行為を条件としていた。そのことは、「ことやはす」という言い方に最もよく理解されるであろう。なぜ言うことによって敵対勢力は和してくるのか。交話可能になって言葉においてともに遊ぶことができれば、ヤマトコトバを共有するものどうしとして、ヤマトコトバ人としてアイデンティティを得て特権的な意識が育まれるからである。ヤマトコトバの生成動態段階と言ってよく、ヤマトコトバ圏の版図の拡大段階に一致する。その「ことば遊び」のコードは、ヤマトコトバの民に共有されるべき基礎的な伝承、すなわち、記紀に記されて残っている共通の記憶体系としての諸説話群を「百科事典的知識」とし、基にしている。その「ことば遊び」のルールは、言葉が一音、一義であるとする約束事に従っていた。現代人のような圏外の人からは、説話は秘儀的に見えるがけっして神話ではなく、新たに加わることとなった周縁地域の人々にとっても速やかに了解され得るものであった。説話自体が「ことば遊び」、なかでも「ゲーム型」に当たる〈なぞなぞ〉の上に成り立っていたからである。〈なぞなぞ〉がヤマトコトバの本質であり、「交話的機能」と「指示的機能」を両立させて最大化することにかなっていた。そのような状況下にあっては、滝浦氏が想定する語用論的な逸脱も、情報性の低減や欠如ももたらさない。
 滝浦2002.は、グライスが「会話者が(特別な事情がないかぎり)遵守するものと期待される大まかな一般原理」とする「協調の原理 Cooperative Principle」のもとに具体的な「格率 maxims」が置かれているとしていることを引き、次のように指摘する。「ことば遊びにおける格率違反は,何はともあれ言葉の流れそのものを撹乱することによって行なわれる違反である。それによって大文脈は背景に退くか,少なくとも一旦は宙吊りにされ,その分だけ情報の伝達性は(意味的にというよりもむしろ,端的に物理的に)阻害されることになる。つまり,その限りにおいて,ことば遊びは,多かれ少なかれ“本当に伝えない”のであって,その点ではまさしく,「合理的」ではないコミュニケーションの一形態であると言わなければならない」(90~91頁。滝浦2000.は、「ただし、《なぞなぞ》のような「論理」遊びはここでは除外して考える。」(23頁)と断っている。)。上代人の言語活動における「ことば遊び」はその限りではない。強いて格率違反であると捉えるなら、滝浦2002.が指摘する「グライスの論じたような「含み」を生み出す“見かけ上の格率違反”」であり、話し手は「協調の原理」を遵守しており、聞き手は、「発話の意味」と「発話者の意味」とがヤマトコトバの体系のなかに一致していることを目の当たり、耳の当たりにして、驚きをもって迎え入れざるを得なかったのである。
 ベイトソンの文脈に則していうところの滝浦氏のいう「ことば遊び」が、「これは遊びだ」というフレーミング(framing)においてのものであるとしている点からして、上代のヤマトコトバの「ことば遊び」はすでに虚を突いている。ヤマトコトバは「ことば遊び」であることを当初から前提としており、「ことば遊び」でなければ言葉ではないのである。ヤマトコトバの「ことば遊び」は単なる to play language ではなく、to play language that is played であること、メタ「ことば遊び」がヤマトコトバなのであった。ふだん使いの言葉が「遊び」であることをモットーとしているので、発言を取り消す気などさらさらなく、発せられた言葉はそのまま残されることを期待している。「交話的機能」と「指示的機能」、“伝え合う”行為と“ともに遊ぶ”行為を同時に成し遂げることが目途とされていた。話し手は言葉の字義をたゆまず再定義していく過程のなかで言葉を発していて、そこに生まれた新たな意味の含みが旧来の意味との整合性をその瞬間に理路整然と証明して見せるほどに気合いの入った発言にこだわっていて、聞き手もそのつもりで本気で聞いていたのであった。すべての言葉は〈なぞなぞ〉のなかでやりとりされている。言葉と事柄との間で相即性を保ち、けっして違わないようにしていた様相については、筆者はそれを「言霊」信仰と呼んでいる。ヤマトコトバの生成者、創出者として生きていた彼ら彼女らは、発言に際して慎重を期し、逆に言葉を手玉に取ることを目指しているかのような入れ籠構造に作った言葉を飛び交わさせるようにしていた。挙句に、今日の人ばかりか中古の人にとっても理解できない枕詞といった独自の言葉の発表大会が、歌の歌われる場面でくり広げられていた。発言、発語、発話に際しては、「ことば遊び」によって生ずる小文脈を大文脈との間の誤謬を意味的に調整することこそ、頭のひねりどころだったわけである。メッセージとメタ・メッセージとを行きつ戻りつする「遊び」、〈なぞなぞ〉の活動こそ、上代人が行っていたヤマトコトバの言語活動(「ことば遊び」)である。無文字時代、音声言語ばかりが言語なのだから、発し発せられる言葉はメタ言語的であることが常に意識の上にあり続け、今日的感覚とは異なる緊張状態が継続していたのである。
 「ことば遊び」の性質としてあげられる、「“伝えつつ伝えない”ことと“伝えないことにおいて伝える”こととの間を往復する運動」である点は、本稿にとりあげている万葉集のホトトギス歌がよく“伝えて”くれている。コミュニケーション論の立場から上代のヤマトコトバとは何かについて定位しておく必要が求められるが、壮大なテーマなのでいつの日か改めて論ずることにしたい。
(注16)中西1983.は、「卯の花が咲くのといっしょに鳴くので、ほととぎすは一層愛すべきであるよ。名告り出るように鳴くにつれて。」(168頁)と訳している。
(注17)クロンキスト体系、新エングラー体系などによる。
(注18)ショウブについて、漢語の菖蒲、石菖、白菖蒲などの総称で、平安時代からそれをシャウブ、サウブと呼ぶようになっている。和漢三才図会(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569772/6)参照。
(注19)「倭文、此には之頭於利しつおりと云ふ。」(天武紀十三年十二月)とある。
(注20)荊楚歳時記に、「五月五日、謂之浴蘭節。四民並蹋百草之戯、採艾以為人、懸門戸上、以禳毒気。以菖蒲或鏤、或屑以泛酒。」などとあるが、藝文類聚に菖蒲の件は載らない。
 続紀・天平十九年五月五日条に、「太上天皇[元正]、詔して曰はく、「昔者むかし、五日のせちには、常に菖蒲あやめもちかづら比来このころ已に此の事を停めぬ。今より後、菖蒲の縵に非ずは、宮中うちに入ること勿れ」とのたまふ。」とあって、菖蒲あやめぐさを蘰にすることが一時期廃れていたところを見ると、節句─蘰─アヤメグサ─ホトトギスという結びつきは弱く、アヤメグサ─漢女─機織り─「ホト」「トギ」スという結びつきが強かったようにも見受けられる。また、大伴家持作歌が全十二首中九首を占めており、万1955・4035番歌は同じ歌だから、家持以外に歌ったのは山前王と田辺史福麿だけで、汎用されていたのか不明である。以下に示す菖蒲蘰の作り方も、復古的な擬作なのかもしれない。藤原師輔・九暦・五月節(天慶七年)条に、「一、造菖蒲蘰之體、用細菖蒲草六筋〈短草九寸許、長草一尺九寸許、長二筋、短四筋、〉以短四筋当巾子・前後各二筋、以長二筋廻巾子、充前後草結四所、前二所後二所、毎所用心葉縒組等、」(大日本古記録https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/06/0901/0061?m=all&s=0055&n=20、漢字の旧字体は改めた)とある。
 また、いわゆる「薬玉」とされるものが、万葉集の「玉(珠)」とどのように関係しているのか、疑問なしとしない。
(注21)靑木1971.に、漢書・楊雄伝第五十七の、「徒恐鷤繯之将鳴兮、顧先百草為不芳。」とある箇所の顔師固注に、「鷤、鴂鳥、一名子規、一名杜鵑、常以立夏鳴、鳴則衆芳歇。」とあるのによるとある。(e国宝https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101356&content_part_id=001&content_pict_id=012&langId=ja&webView=参照)
 橋本1985.はその説をあげつつ、「なお、植木久行氏によれば家持を中心とする日本におけるほととぎす熱愛、ないしは憧憬の念は、六朝以来の中国の詩文の影響下に生まれたものではなく、万葉人独自の美意識によるものであるとしている……。」(204頁)と注している。植木1979.参照。
 なお、この題詞に見られる「暮」をクレと訓むべきかについては不詳である。
(注22)一応の傾向として見ている。万葉集のホトトギスに関連する歌の中でどこまでがホトトギスという語自体にまつわるもので、どこからがホトトギスを自然景として見切っていったものなのか峻別することはできない。作者に聞いてみなければわからないことである。以下の歌はその分類上、分類しきれないままに積み残した。後考を俟つ。

 狛山こまやまに 鳴く霍公鳥 いづみかは わたりを遠み 此間ここに通はず〈一は云ふ、渡り遠みか 通はずあるらむ〉(万1058)
  治田はりだの広瀬ひろせのおほきみの霍公鳥の歌一首
 霍公鳥 こゑ聞く小野をのの 秋風に 萩咲きぬれや 声のともしき(万1468)
 こと繁み 君は来まさず 霍公鳥 なれだに来鳴け あさ開かむ(万1499)
 霍公鳥 今朝けさ旦明あさけに 鳴きつるは 君聞きけむか あさ宿けむ(万1949)
 雨𣋠之 雲にたぐひて 霍公鳥 春日かすがを指して ゆ鳴き渡る(万1959)
 過所くわそなしに 関飛び越ゆる 霍公鳥〔保等登藝須〕 多我子尓毛 止まず通はむ(万3754)

(注23)ホトトギスという語を語るに、パラセームのなかにその意味を語ろうとしていたのである。ソシュール2013.にある、「おのおのそれ自体のために取りあげられた個別的記号という誤り。─あるいは、五〇〇の記号+五〇〇の意義だと思う誤り。─あるいは、「語とその意義」などと堂々と言い放ち、その語が[多くの語ないしパラセーム[parasème、特定共時的な体系内に共存する各辞項]]に取り囲まれていることをすっかり忘れているのに、言語の現象というものをほんの些細なことで示したと思い込んでいるその誤り。」(169~170頁)をおかしてはいなかったということである。

(引用・参考文献)
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加藤良平 2021.4.27初出2025.2.1訂正補筆

万葉集における「色に出づ」表現について

 万葉集に「色にづ」という慣用表現がある。記紀歌謡には見られない。恋の歌に用いられることが多く、「色」を景物の色彩と人間の顔色との掛詞の意に解されることが多い(注1)。しかし、態度や行動、言葉について表す用例もあり、序詞的文脈で用いられることも多い。

 いはが根の こごしき山を 超えかねて には泣くとも 色に出でめやも(万301)
 つく馬野まのに ふる紫草むらさき きぬめ いまだ着ずして 色に出でにけり(万395)
 あしひきの 山橘の 色に出でよ 語らひ継ぎて 逢ふこともあらむ(万669)
 謂ふことの かしこき国そ くれなゐの 色にな出でそ 思ひ死ぬとも(万683)
 秋萩の 枝もとををに 置く露の なばぬとも 色に出でめやも(万1595)
 …… 紐解かず 丸寝をすれば 吾がせる ころもはなれぬ 見るごとに 恋はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬のの 明かしも得ぬを ずに 吾はそ恋ふる 妹がただに(万1787)
 よそのみに 見つつ恋ひなむ くれなゐの 末摘花すゑつむはなの 色に出でずとも(万1993)
 いまろび 恋ひは死ぬとも いちしろく 色には出でじ 朝顔の花(万2274)
 恋ふる日の 長くあれば みそのの 韓藍からあゐの花の 色に出でにけり(万2278)
 さつらふ 色には出でず 少なくも 心のうちに おもはなくに(万2523)
 色に出でて 恋ひば人見て 知りぬべし こころのうちの こもりづまはも(万2566)
 白真しらまな 御津みつ黄土はにふの 色に出でて 云はなくのみそ 我が恋ふらくは(万2725)
 あしひきの 山橘の 色に出でて 吾が恋ひなむを かてにすな(万2767)
 こもりには 恋ひて死ぬとも み苑生の 韓藍の花の 色に出でめやも(万2784)
 紫の 我が下紐の 色に出でず 恋ひかも痩せむ 逢ふよしをみ(万2976)
 あかときの 朝霧ごもり かへらばに 何しか恋の 色に出でにける(万3035)
 …… さつらふ 君が名はば 色に出でて 人知りぬべみ あしひきの 山より出づる 月待つと 人には云ひて 君待つ吾を(万3276)
 恋しけは 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色になゆめ(万3376)
 いかにして 恋ひばかいもに 武蔵野の うけらが花の 色にずあらむ(万3376或本歌)
 安齊可あぜかがた 潮干のゆたに 思へらば うけらが花の 色にめやも(万3503)
 かね吹く 丹生にふそほの 色にて 言はなくのみそ が恋ふらくは(万3560)

 伊原2010.に、「多く相聞の歌の中で、秘めた恋情が顔色や様子にあらわれ、それと知られる、つまり明らかに人目に立つようになることの比喩として詠じられる、〝色に出づ〟がそれである。[万683・1993・3560・2523・2725・2976・395番歌]などで、これらは、紅・真朱(しゆ色)・丹(黄味を帯びた赤色)・黄土(黄─黄褐色)・紫等の、赤系統・紫系統の華麗な色彩、黄の鮮かな色彩で、恋の詠唱において比喩とするに相応しい、相手に好感を持たれ美しい新鮮な感を与えるものと考えられて選ばれたのであろうが、とくに、〝色〟としての意識を強く持っていると考えてよいようである。万葉では、このように、色彩と言うものへの関心、意識が強く、色彩が一首の中で大きな場を占める例が非常に多い。」(324頁)とある。
 怖くなって血の気が引き、顔が真っ青になることがあるが、そういうときに「色に出づ」という表現は使われない。恋心が表にあらわれる時に使うのがもっぱらである。赤系統の色が選ばれているのは、気持ちが明るくなることと関係している。アカシ(明)と同源の語であるアカ(赤)が選ばれている。アカシ(明)はアカシ(証)と義が通じている。証拠となってしまう色にして明らかであることを謂わんとしている。単純なことである。これまで、この点について指摘されていない。ただし、「色に出づ」という表現の問題はそこにだけあるものではない。
 澤瀉1958.は、「[自動詞にも他動詞にも使われる]「いづ」はいづれも「言に」「色に」「音に」「穂に」などにつゞいて、それは秘めた思ひの外にあらはれる場合であつて、意志の問題であると共に意志を超えた問題であるとも云へる場合である。恋人の名を口にしたり、顔を赤くしたりする事は、おさへられない事でもないが、またおさへきれない事でもある。……自他未分の状態とも云へる。」(194~195頁、漢字の旧字体は改めた)と理解している。自動詞でもあり他動詞でもある「出づ」という語をうまく活用して「色に出づ」という言い回しをしているというのである。ただし、「色」は顔色のこととばかりは考えられないともいう。
 駒木1976.に、「「色に出づ」は、思いを表面化・公然化・行動化させ、また人に知られるようになる様相を、顕著で鮮やかな色彩に置換した表現なのである。『萬葉集』の発想の分類で言うならば、寄物陳思歌ないし譬喩歌的発想がそれにあたる。草木が目立つ色の花や実をつけ、また鮮やかな色に染めあがるその具体的形相のなかに、人目を秘している恋の顕在化とそこに生ずる人間心情のあり方を重ね見る発想法こそは、まさしく萬葉的なものである。」(23頁)とし、「発想法としての序詞の構造を見すえ、……「色に出づ」 の意味的機能を考定すれば、「色」……は景物の色を指し、「色に出づ」は景物表現の述語として捉えられよう。それが下の心情表現に転換するとき、譬喩として恋情ないし恋愛の行動を指すことになるのである。」(25頁)とし、「この句[「色に出づ」]は序詞的文脈において成立したものであって、……〝そぶり・行動・言葉にあらわす(あらわれる)〟意とすべきではないか」(26頁)と結論づけている。  「色に出づ」という表現の「色」が、顔色のことでないことはそのとおりであるが、この議論は自己撞着を起こしている。駒木氏は、「この句は静止的な感情の発露(顔色・表情)を意味するのでなく、〝嘆く・そぶりにあらわれる〟などのより動的状態を指している」(22頁)という。草木や花、実の着色が劇的に動的かといえば、人間は傍観者だからそのようには感じ取れない。映像の世紀である現代においても、花の場合、咲いて色づく様子は、100倍速ででも再生しなければ「色に出づ」とは表現できないだろう。 万葉びとが、例えば「末摘花の 色に出でずとも」(万1993)と言うとき、どのような気持ちをもって詠じていたのか、理解できていない。

 が恋ふる の穂のおもわ よひもか 天の川原に 石枕まく(万2003)
 黄葉もみちばに 置く白露しらつゆの 色にも でじと思へば ことしげけく(万2307)

 前者は、恋しく思う人は、丹色が素敵な顔をして、今夜も天の川の河原で石を枕にして一人寝しているのだろうかな、と七夕の織女のことを歌っている。と同根の語で、秀でて目立つところのことを指す。 わざわざ「色」という言葉を使わずとも、具体的な色調を示しさえすればそれで事足りるのである。
 後者は、黄色く色づいた葉の上に乗った小さな露には、黄色い色素が染み出すことはほとんどないけれど、そんなちょっとした色にさえもあらわれないように用心しているのに、人の噂がうるさくて嫌なことだと歌っている(注2)。白露に色移りはしないが、たとえあったとしてもその片鱗さえもわからないようにしていることを言っている。ハを導くために「黄葉」を使っている。わざわざ「色……に……出で」という形をとり、放っておいても恋心が表にあらわれる様を示している。
 これらの例からわかるのは、「色に出づ」という慣用表現は一定のまとまりをもった言い方であり、その「色」が何を表すかと分析することでは、これ以上理解は深まらないということである。そこで、類例となる「出づ」に「……に」が冠する例、澤瀉1958.のあげている「言に」「穂に」「音に」について見ておく。第一例で明らかなように、「言に出づ」と「穂に出づ」は似たような形容として用いられている。

 ことに出でて 云はばゆゆしみ 朝貌あさがほの 穂には咲きぬ 恋もするかも(万2275)
 言に出でて 云はばゆゆしみ 山川の たぎつ心を かへたりけり(万2432)
 …… 卯の花山の ほととぎす のみし泣かゆ 朝霧の 乱るる心 言に出でて 言はばゆゆしみ 波山なみやま ……(万4008)
 めづらしき 君が家なる 花すすき 穂に出づる秋の ぐらくしも(万1601)
 秋萩の 花野のすすき 穂には出でず 吾が恋ひわたる こもりづまはも(万2285)
 はだすすき 穂にはなでそ 思ひたる こころは知らゆ 我も寄りなむ〈七〉(万3800)
 …… おとみこと 何しかも 時しはあらむを はだすすき 穂にづる秋の 萩の花 にほへる屋戸やどを ……(万3957)
 あしひきの 山川水の おとに出でず 人の子ゆゑに 恋ひ渡るかも(万3017)

 これらの意味は、言葉として出して、言葉になって出ると、穂として出すと、穂になって出ると、音として出して、音になって出ると、というように、自動詞・他動詞の区別なく考えることができる。要するに、目立つこと、人目につくことを意識した表現である。「色に出づ」も同様であり、万葉びとに一番好まれたのは「色に出づ」という言い方である。その点が肝要であり、慣用表現を整理する必要があるわけである。出る様は「色」も「言」も「穂」も「音」も同じだと考えていてはいけない。「色に出づ」は、「出づ」という自動詞・他動詞の両様性ばかりでなく、承ける助詞「に」の使いぶりがうまいのである。
 助詞「に」には、変化の結果(~になって)の意味のほか、比喩(~のように)の意味合いで受け取ることもできる。

 〈変化の結果〉
 こもりのみ 恋ふれば苦し 瞿麦なでしこの 花き出よ あさな見む(万1992)
 〈比喩〉
 …… 白栲しろたへの 衣袖ころもで干さず 嘆きつつ 吾が泣く涙 ありやま くもたなびき 雨りきや(万460)

 この用法までも含めて多様に解釈されるように、「色に出づ」という慣用句は構成されているのではないか。色になって出ると、色にして出すと、ばかりでなく、色のように出ると、色のように出すと、の意を含んでいるということである。すなわち、染め物の次第をよく表している。「言」「穂」「音」が具体的な言葉(I love you.)、ススキの穂、水の音であったように、「色」という語も抽象的な言葉として考えられていたわけではない。そのうえまた、「色」が既定的に存するものであるとも考えられていなかった(注3)。染め物において「色に出づ」ることは、一回一回のオーダーメイドであり、たいへんな労力と長年の勘に支えられたプロフェッショナルな流儀であった。紫色を参考にする。

 つぎに媒染ばいせんにうつる。椿は、生の樹の枝と葉を刈りとって、二、三日置く。それを然やして、白い灰の状態で保存しておく。染色をする数日前に、熱湯を注いでからよくかきまぜ、火の成分を十分に溶出させる。この上澄み液(灰汁あく)にはアルミ分が含まれていて、紫を発色させる、つまり媒染剤の役割をするのである。その椿灰の灰汁を水に溶かして媒染の浴槽をつくり、紫根染を終えてよく水洗いした絹布を入れて、ゆっくりと繰る。三十分あまりのち、別の水槽でよく水洗いする。このような紫根染、水洗、媒染、水洗の工程を何日も繰り返すわけで、「深紫」にするには、私の工房では、少なくとも五~七日間を費やす。もちろん、毎日、新しい紫根を使って、朝から石臼で搗く、揉む、という工程を繰り返すのである。(吉岡2002.78~79頁)
 紫草の根を麻袋に入れて揉むと、名水の里である[大分県]竹田市の清らかな湧き水に赤紫色が広がる。山で採った椿の木を燃やし、その灰を媒染剤として使う。植物染は時間を要する。経験による勘とひたすら根気の手作業である。絹の糸綛いとかせにゆっくりと色がついていく様子を、竹田の人びとも食い入るようにみつめている。三日目の夕暮れ、ようやく高貴な色にふさわしい濃紫があらわれた。緯糸よこいとだけでも四百株を使って染めたことになる。(吉岡2007.224頁)(注4)

 つく馬野まのに ふる紫草むらさき きぬめ いまだ着ずして 色に出でにけり(万395)
(大意)託馬野に生えている紫草を採ってきてものすごく手間暇かけて衣に染めた。うまくできたからしめしめと思っていた。なぜといって馬子にも衣裳、きれいなおべべで少しでも私のことをよく思ってもらいたいじゃないの。そんなことをずっと思いながら過ごしていたら、その衣をまだ着て見せていないのに、私の恋心はすでに表にあらわれてしまっていたことに気がついた。そりゃあ、染め物の時にうまく色が出たのだから顔に出ちゃうわよ。

 「色に出づ」という比喩表現は、上代のファッションセンスに基づいた卓抜な表現であった。

(注)
(注1)時代別国語大辞典107頁。白川1995.に、「「しよく」は……色然・しきなどはみな驚き、昂奮する意であり、本来光彩などのことをいう字ではない。国語の「いろ」もいわゆる顔色・好色の意が原義であった。色は人の顔色の美好なることから、色彩の美の意に転じてゆくもので、その点は国語の「いろ」と同じである。」(137頁)とあるが、万葉集の例にそのような傾向は見られない。
(注2)万2307番歌は、「上に置く「白露」には、「黄葉」の色が映る。そこで「色」の比喩になる。」(多田2009.243頁)、「上二句は、「色葉にも出で」を導く序詞。「色葉」は、色づいた葉。恋心の現れた顔色を譬えとしての表現か。」(新大系文庫本万葉集225頁)、「色端」を「顔色の端」(伊藤2009.476頁)といった解釈のほか、「原文、諸本に「色葉二毛」とあり、宣長の誤字説による。「は・も」は強意。表に出すこと。例多数。」(中西1980.396頁)として、「於黄葉置白露之色二葉毛不出跡念者事之繁家口」ととり、「黄葉に置く白露のようには目立たせまいと思っているのに、」とする解釈も行われている。
 「色」という言葉について、上代の人の感覚が理解されていないように感じられる。衣に植物の色素を摺りつけて染めることも行われていた。

 鴨頭つきくさに 衣色どり 摺らめども 移ろふ色と ふが苦しさ(1339)
 月草つきくさに 衣は摺らむ 朝露に れての後は 移ろひぬとも(万1351)
 住吉すみのえの 浅沢あささは小野をのの かきつはた きぬに摺りつけ む日知らずも(万1361)

 植物の色素がそのまま衣に染まることを言っていて、上代の人たちは、衣類に発現するものとして「色」を感じ取っている。では紅葉(黄葉)した葉から赤や黄色の色素を抽出してそれを染め物に使えるかと言えば、ほとんどできない。真っ赤に色づいたモミジの葉を摺りつけても色は移らず、煮出せば赤い液はできるが、繊維に染めることはほぼ不可能で、くすんだ薄いピンク色にしかならない。しっかり赤く染めたければ、紅花や茜などを使う。万2307番歌の、「黄葉に置く白露の色端にも出でじ」とは、「黄葉」が衣類を染めるのに全然役に立つ代物ではないし、ましてやその上の「白露」などまったく発色することはないと言っている。
 「色」の関心の中心はファッションであった。「色に出づ」という表現も、布や糸が染料の色に染まることをもって言葉にしている。
(注3)よく知られるように、古代語において「色」として概念化されていたのはもとは四色に過ぎない。赤・黒・白・青である。現代に色名としてある名詞に、シを後接してそのまま形容詞となるものがもとからあった色の名であると考えられている。今日思われている赤・黒・白・青の色のゾーンとは異なり、「あかし」/「くらし」の二項対立から赤と黒が認識され、また、「しるし」から白、そのほかバイオレット~ブルー~グリーンの領域は漠とした色として「あをし」とする青の一語でまかなっていた。その後の段階で、染料や顔料の原材料の名から、どんどん新しい色名が生まれて行ったものと考えられている。それぞれの民族によって色の認識がそれぞれにあることについてはエヴァンズ=プリチャード1978.参照。このことは、ヤマトコトバに「色」というものがあらかじめ存在しているのではなく、人間が作っていっているという認識、「み苑生」に植物を植えることから始めて根気のいる作業をくり広げた結果得られるものであるという実践感覚であったことを示唆してくれている。
(注4)“The plant from which purple dye is obtained is an endangered species. Mr Yoshioka works with farmers in Taketa to revive its cultivation. Murasakisō (purple gromwell) The colourant is contained in the roots. Successful dyeing requires intimate understanding of the effect temperature and dye concentration. How the thread or close is dipped is also very important. The whole range of purples can be made using dye extracted from just the one type of plant. The colour obtained depends on the number of times the cloth or thread is dipps.”(Victoria and Albert Museum, “In Search of Forgotten Colours – Sachio Yoshioka and the Art of Natural Dyeing” https://www.youtube.com/watch?v=7OiG-WjbCQA&t=11s(13:23~17:40)の字幕文、ピリオドを付した)

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多田2009. 多田一臣『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
吉岡2002. 吉岡幸雄『日本の色を染める』岩波書店(岩波新書)、2002年。
吉岡2007. 吉岡幸雄『日本の色を歩く』平凡社(平凡社新書)、2007年。

加藤良平 2021.4.6初出

万葉集と漢文学─万850番歌の「奪ふ」、「雪の色」は漢語と無関係であること─

 元号「令和」出典である大伴旅人の歌宴は、天平二年正月十三日に執り行われた。少し長めの序が記され、その後に三十二首の歌が歌われている。さらにその歌群を追補する形で四首の歌が載っている。

  後に追ひて梅の歌にこたふる四首
 残りたる 雪にまじれる 梅の花 早くな散りそ 雪はぬとも(万849)
 雪の色を うばひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見む人もがも(万850)
 我が屋戸やどに 盛りに咲ける 梅の花 散るべくなりぬ 見む人もがも(万851)
 梅の花 いめに語らく 風流みやびたる 花とあれふ 酒に浮べこそ〈一に云ふ、いたづらに あれを散らすな 酒に浮べこそ〉(万852)

 本稿では、万850番歌の解釈について検討する。

 雪の色を うばひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見む人もがも〔由吉能伊呂遠有婆比弖佐家流有米能波奈伊麻左加利奈利弥牟必登母我聞〕(万850)

 この歌の表現については、漢籍に学んだものとする説が通行している。「雪の色」、「奪ふ」という語が漢語の使い方に習っているというのである。現在通説となっているこの説を構築した碩学の論考を、小島2018.と小島1992.から重複をいとわずに引く。

 ……このうち「奪ふ」については、この表現が漢詩の表現をまねたものとして、梁簡文帝「梅花賦」の例を頭注に挙げる。この「ウバフ」の例は、『文選』巻十三の名高い謝恵連の「雪賦」にも、「皓鶴鮮」と見える。これは、白い鶴が白いといっても、雪に対すると、その鮮美を 失うかのようだ、の意。すなわち、雪の白さが白鶴の羽の白さを「奪う」といった趣向である。また『藝文類聚』菓部「奈」に見える「紅紫夏藻」(梁楮湮「奈詩」)は、からなしの紅紫色が夏の藻の色を奪うかのようにあざやかな意。これらはいずれも万葉歌人の目に触れた例である。この「雪の色を奪ひて○○○咲ける梅の花」の 「ウバフ」が漢詩に見える「奪」の用法を学び、新しく歌語として生まれたことは、容易に理解されるであろう。しかもこれらの「奪」は色と結ばれる表現を持つことが多い。
 次に「雪の色」は、万葉人の案出した語か、それとも漢語「雪色」(xuě sè)の翻訳語か、ことはそう簡単にはゆかない。しかし諸注はこの語を問題としない。漢語の「雪色」は実はあまり多くの例を見ない。盛唐詩人杜甫はこの語をかなり好んだらしく、その二例を見るが、この「雪の色」とは無関係である。先出の例としては、 六朝陳人徐陵の、
  風光今旦動き、雪色○○故年そこなはる(「春情」、『藝文類聚』人部「美婦人」)
が注意される。しかしこの詩は、六朝艶情集『玉臺新詠』や、『初学記』などの「類書」には見あたらず、はたして万葉人が必ずしも例の多くないこの語をどの詩によって学んだかよくわからない。しかし「雪」に関して、「色」を「奪ふ」という例ならば、例は必ずしも少なくない。たとえば、初唐駱賓王の、
  色奪○○迎仙羽、花避犯霜梅(「寓居洛浜、対謝二兄弟」)は、その条件を満たす。これは「色」すなわち「雪の色」が迎仙のしろい鳥の羽の色を奪わんばかりの意。歌人は、「雪の色」を漢語「雪色」から学んだのではなく、「色」を「奪ふ」から「色を奪ふ」という歌の表現を生み、さらにその上に「雪」をかぶらせたのであろう。この歌の第一・二句は、この関係において眺めるべきであり、「雪の色」は、漢語「雪色」より考えるべきではない。(小島2018.337~338頁、字体を改めたところがある)
 ……「雪の色」は「奪」と同様に恐らく「雪色」の飜読語であらう。楊烈訳にも、「雪色○○銀白、梅花キソヒ雪開」とみえる。「雪色」の例は、六朝陳人徐陵の「春情詩」の冒頭に、
  風光今旦動き、雪色○○故年残る(『藝文類聚』人部「美婦人」)
とみえ、「雪の色」が去年のままあはれにも残る、の意。「雪色」の例は盛唐詩人杜甫にも二、三例ほどみえ、その一つ「臘日」に、
  雪色○○を侵陸するもまた萱草、春光を漏洩して柳條有り
とみえる。この前の句は諸注によつて差があるが、しばらく故鈴木虎雄先生注の「萱草までもが雪の色を侵してあらわれいで」(『岩波文庫本』)に従つて置く。もしこのたぐひの詩語「雪色」が「雪の色」として歌語に適用されたとすれば、「雪の色を奪ひて咲ける……」は、「奪ふ」が漢語「奪」によると同じく、第一・二句は詩的表現をまねたものと推定してもそれなりの理由はあらう。(小島1992.264頁、(注)部分を割愛した)

 「雪の色」については解釈に揺らぎがあるものの、漢文学から影響を受けた言葉によって万850番歌は成立しているとしている。ただし、この歌は倒置形をとっており、よくよく読み返してみても、不自然極まりない字の並びをしている。「雪の色」の解釈に揺らぎを招きかねないものである。

 雪の色を 奪ひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見む人もがも
 梅の花[ノ(ガ)]雪の色を奪ひて咲ける[ハ]今盛りなり、見む人もがも

 「奪ふ」という語の語釈に、「他人の大切にして放すまいとするものなどを、力ずくで取りあげる。」(古典基礎語辞典198頁。この項、筒井ゆみ子)、「他のものが放すまいとするものを、力で無理に取り上げる。他のものをかすめとる、横取りすることをいう。」(白川1995.159頁)、「他人の所有物を無理やりに取り上げる。奪いとる。」(日本国語大辞典第二版394頁)などとある。日本国語大辞典第二版には、「(「志を奪う」などの形で)人の気持などを無理に変えさせる。」の義を載せ、「我は兄王(いろねのきみ)の志を奪(うばふ)可からざることを知れり」(仁徳前紀)という例を載せる。

 おもふに、まさに国を奪はむとするこころざし有りてか。(神代紀第六段本文)
 仍りてあながち白鳥しらとりを奪ひて、ぬ。(仲哀前紀)
 篡簒 所患反、去、奪也。逆而奪取曰篡、字従ム。宇波不うばふ(新撰字鏡)

 仲哀前紀の例は、白鳥も焼いたら黒鳥だと言って無理強いして奪い取ったという話になっている。「奪ふ」という語の無理やり感をよく表している。万850番歌では、色を無理やりに奪った梅の花は雪と同じように白い色をしているという意味であるが、別に無理やりに奪わなくとも構わないのではないかと思われる。そこで、この「奪ふ」という言葉づかいが漢籍に学んだものであるという発想が生まれる。そういう側面がなかったと完全に否定することはできない。しかし、もし仮に、万葉時代、「奪ふ」という言葉においてそのような用法を学んだのであれば、他に例が現れてもおかしくないはずである。けれども、「奪ふ」という語は万葉集中にこの箇所にだけ現れる孤例である。
 このような使い方をする「奪ふ」という言葉は根付かなかったようである。そこが不思議な点である。万850番歌の作者だけが、独りよがりに漢籍を学んで得た知識を披瀝していることは考えにくい。口承文芸である歌のあり方と根本的に相反する。わかる歌として歌は歌われ、人々に共感されたから採録されているに相違あるまい。漢籍を学んだと主張する人たちの見解では、歌の場は漢籍に通暁している人たちに囲まれたサロンであったという。しかし、それならば、「奪ふ」という語に関しておもしろいと思われて、他に流用されて良いはずである。逆に、訳がわからない使い方がされていると思われたなら、歌としてその時点で没であって万葉集に採られることはなかっただろう。この条件をクリアするのは、周囲の人が歌を聞いて理解できたということである。すなわち、特に漢籍とは無関係な意味合いで「奪ふ」という言葉を聞き、今日の解釈とは違う捉え方がされていた。
 拙稿「令和の出典、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」について─「令」が「零」を含意することを中心に─」において、万849~852番歌の「後追和梅歌四首」は、大伴旅人が天平二年正月十三日の歌宴にお題としてあげた序の、漢文調の文章の種明かしをしたものであると解釈した。新元号令和の「令」の字が「零」に通じていること、すなわち、雪のるさまに梅の花の散ることを見立てて歌を作りなさい、というお題であったことを明証するものであった。
 万849~851番歌に「散る」という言葉が使われている。実際に入っているのは、万849・851番歌である。万852番歌も、花びらが散るからこそ盃に注いだ酒に浮かぶと言っている。では、万850番歌に、「散る」という要素はどのように含まれているのだろうか。その隠された表現法のために、「奪ふ」という特別な言葉が使われていると考えられる。「奪ふ」とは、相手から無理やりに取りあげることだから、その取りあげる際に抵抗されて、対象物はちぎり取られてバラバラになる印象がある。散り散りになる感じがあるから「奪ふ」という言葉が使われている。その時初めて、「後追和梅歌四首」が一連の歌として辻褄が合うことになる。
 「雪の色を奪ひて」という言い方が、漢籍の教養のない人にも通じた意味合いとはどういうことか。「奪ふ」の語釈に見られるように、「奪ふ」対象は他人の所有物である。物として形がなければ「奪ふ」という言い方は不自然である。だから漢籍に習ったとされるのであるが、他人に通じない言葉づかいはもはや言葉ではない。周りの人がなぜ理解できたのか、そこにこそこの万850番歌の奥深さがある。
 「色」という言葉についての解説には、「塗料、または染料を加えて物や人体の表面におこす特別な光の反射。また、自然のままの顔色。転じて、美しい彩色、美しい容色をいい、さらにはそれにひかれる性質を表した。」(古典基礎語辞典163頁、この項、筒井ゆみ子)とある(注1)。すなわち、「色」という言葉には、塗料や染料の意味合いが深く根づいている。 雪の色は白い色である。そんな白い色を生み出す塗料、染料の類とは何か。顔料の「しら」であろう。胡粉などとも呼ばれる(注2)。和名抄・図絵具に、「胡粉 張華博物志に云はく、錫を焼きて胡粉と成すといふ。」とあるが、牡蠣の貝殻などから作られたものも利用されていた(注3)。実際に雪や梅を絵画に描いたかどうかはこの際問題とはならないものの、「雪の」とわざわざ断っているのだから、「しら」のことであることは確かである。「雪は白い(雪、白し)」ならともかく、「雪の色は白い(雪の色、白し)」という構文は、万葉びとにとっていぶかしいもの、あるいは、白い雪も泥を塗りたくれば茶色いといった屁理屈への誘発性を感じ取っていたのだろう。
 この「しら」の関連語は、万葉集のなかで「知らに」という言葉に当て字として記されている。「白土」(万5・1792)、「胡粉」(万2677・3255)、「白粉」(万3276)と書いてあり、シラニと訓み、知らないで、知らずに、知らないので、の意味である。万850番歌において、雪が消えてしまって梅の花が咲いている。梅の花は雪があったことを知りはしない。季節が進んで雪は消え失せ、梅の花は咲いている。「梅の花」は「雪の色」を受け継いで白く咲いていると見立てた時、顔料の「白土」を掛詞風の謎言葉として「奪ひて」と表せば、すっぽりはまって微動だにしない表現となる。一気呵成にして無理やりに季節が進んでいっていることをうまく言い当てている。それがこの歌の作者、大伴旅人の狙いであったのだろう。宴は大宰府で行われているから、貝殻付きの牡蠣をご馳走にして酒が進んでいたとも考えられる。口に「むかへて奪ひ取るを簒と曰ふ」ことをしている。そのようなことをしながら歌を作る機会はとても少ない。「奪ふ」という語は以降、利用されなかった。
 ここまで新解釈を展開させれば、もはや「奪ふ」という言葉について、なにほどか漢籍の知識が影響していると考える人はいないだろう。顔料の胡粉が奪われたと言っている。そしてまた、「雪の色」が、漢籍をあら捜しした結果見つかる「セツシヨク」という漢語とは無縁に歌中へ導かれている。すべての理解は、ヤマトコトバ、シラニのなかに完結している。しらを知らに? と大伴旅人は嗤っている。胡粉を使って描かれた雪の絵には臨場感がある。
 歌は、歌の作者と披露された場にいる聞き手との共通理解の産物である。大伴旅人と、その歌を聞いている歌宴に集まった人、正確には、その宴も終わって一夜明けて寝起きの人たち(注4)の間において共有される言葉によってのみ成立している。聞く人に了解されなければ歌は成立しない。当時の地方官吏が遍く漢籍に通じた教養人であったと言えないのは、今日のそれと同じことであろうし、今日の中央官僚でも同じであろう(注5)。学者がぞろぞろと集まるところは学会であって歌会ではない。学会に集まる方にしたところで、万850番歌の注釈書に翻訳語であると指摘されているのを見て知り、慌てて繙いたり検索したりしているのが実情ではなかろうか。
 万葉集は上代の日本語、ヤマトコトバの宝庫である。さまざまな知恵を織り交ぜながら歌が歌われ、音声言語として飛び交っていた。その音声言語を留めたものが万葉集である。書記言語の、いわゆるエクリチュールとして考えるのは、その理解の後に来るもの(meta-Yamatokotoba)である。万葉集は知識をひけらかした賢しらごとではない。万葉集に遺された言葉は、我々が「日本語人」(田中克彦)であることを思い起こさせてくれる原資料なのである。

(注)
(注1)万葉集に「色に出づ」という表現が多く見られる。顔色の意味とされるが、本来の「色」の意味からいかに派生したかについては拙稿「万葉集における「色に出づ」表現について」参照。
(注2)和名抄では水土類に、「堊 唐韻に云はく、堊〈音は悪、和名は之良豆知しらつち〉は白き土なりといふ。」、墻壁具に、「白土 兼名苑に云はく、白土は一名に堊〈已に天地部・水土部に見ゆ〉といふ。」、容飾具に、「粉 文選好色賦に云はく、粉を着ければ則ち大白なりと云ふ。〈粉は之路岐毛能しろきもの」、「白粉 開元式に云はく、白粉三十斤といふ。〈白粉は俗に波布迩はふにと云ふ〉」とあって、白い塗料・顔料類には原料を異にしたいくつかの種類があったようである。正倉院文書を考慮した詳しい検討が伊原2010.にあるが、貝殻由来の物があったことについては従来説に縛られているためか検討されていない。
(注3)成瀬2009.に奈良時代の貝殻胡粉の実相について報告がある。
(注4)「後追和」を、本稿の筆者が勝手に翌朝のことと仮定して述べた。
(注5)小島1964.は、「この宴の会同者は、太宰府の役人の面々を始めとして、筑前・筑後・大隅・薩摩・壹岐・対馬などの役人にも及び、薬師・笇師などの加はつたことは、筑紫に於ける官人、文人を集めた一大集会と云へる。いはば奈良の都に於ける長屋王の詩会を思はせる壮観さである。」(939頁、漢字の旧字体は改めた)として、皆、漢文学に通じていたと思っている。

(引用・参考文献)
伊原2010. 伊原昭『増補版 万葉の色─その背景をさぐる─』笠間書院、2010年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 中』塙書房、1964年。
小島1992. 小島憲之「上代詩歌にみる漢語的表現─「残」を中心として─」吉井巖編『記紀万葉論叢』塙書房、平成4年。(『漢語逍遥』岩波書店、1998年。)
小島2018. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 補篇』塙書房、令和元年。(小島憲之「万葉語の「語性」」小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集 萬葉集四』小学館、昭和50年。)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
田中2017. 田中克彦『言語学者が語る漢字文明論』講談社(講談社学術文庫)、2017年。(『漢字が日本語をほろぼす』角川マーケティング(角川SSC新書)、2011年。)
成瀬2009. 成瀬正和「正倉院伎楽面に用いられた貝殻由来炭酸カルシウム顔料」『正倉院紀要』第31号、2009年。宮内庁ホームページ https://shosoin.kunaicho.go.jp/api/bulletins/31/pdf/0000000257
日本国語大辞典第二版 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典第二版 第二巻』小学館、2001年。

加藤良平 2021.3.16初出

上代語の「数(かず)」と「数(かぞ)ふ」と「数(よ)む」について

 万4番歌の「馬めて」の用字に「馬數而」とある。数(數)の字は、馬を数多く連ねたことを表すもので、数えることを表すものではないとされる。並ぶことを表すが、それは縦列駐車ではない。「船めて」(「船並而」(万933)・「船並弖」(万36))とあるのも、船は並列に並んでいる。馬が同じ方向を向いて横に並んでいる様を上から見たとき、数を書き記したものと同様だからと用いられたのだろう。今日、正の字を書いて数を数えるように、上代は、線を縦に│││││と刻んで数を表した。このことは、ヤマトコトバの「かず」や「かぞふ」について、かなりのことを教えてくれる。
 古典基礎語辞典の「数ふ」の項に、「カズ(数)とアフ(合ふ)が複合して転じた語……。……カゾフは一つ二つと数を合わせていく意。本来は足し算の行為であったと考えられる。そこから、勘定し、合計の数量を求める意で用いられる。また数を追って日数や日付を知る意。」(334頁、この項、筒井ゆみ子)とある。カズ、カゾフについて、使用例の多いものからいうと次のようにまとめられる。

➀ものかず。他のものと同列に取り上げて数えるに足る価値のあるもの。否定を伴って使われる。
 次に淡洲あはのしまを生む。此亦かずれず〔此亦不以充児数〕。(神代紀第四段一書第一)
 不屑〈もの加須尓世須かずにせず〉(新撰字鏡)
 倭文手しつたまき 数にも有らぬ〔数二毛不有〕 いのちもち なにかここだく が恋ひ渡る(万672)
 倭文手纏 数にも在らぬ〔数母不在〕 身には在れど とせにもがと 思ほゆるかも(万903)
 塵泥ちりひぢの 数にもあらぬ〔可受尒母安良奴〕 我ゆゑに 思ひわぶらむ 妹が悲しさ(万3727)
 世間よのなかは 数なきものか〔加受奈枳物能可〕 春花の 散りのまがひに 死ぬべき思へば(万3963)
 …… いにしへゆ 言ひ継ぎらし 世間は 数なきものそ〔可受奈枳毛能曽〕 なぐさむる 事も有らむと ……(万3973)
 うつせみは 数なき身なり〔加受奈吉身奈利〕 山川の さやけき見つつ 道を尋ねな(万4468)
➁数量。分量。自然数。一つ、二つ、三つなど。また、無数。
 掻きかぞふ〔可伎加蘇布〕 二上山ふたがみやまに 神さびて ……(万4006)
 そらかぞふ〔天數〕 大津の子が 逢ひし日に おほに見しくは 今ぞ悔しき(万219)
 松の花 花数にしも〔花可受尓之毛〕 我が背子が 思へらなくに もとな咲きつつ(万3942)
 秋の野に 咲きたる花を および折り 掻き数ふれば〔可伎数者〕 七種ななくさの花〈其の一〉(万1537)
 …… たてまつる 調つき宝は 数へ得ず〔可蘇倍衣受〕 尽しもかねつ ……(万4094)
 たたみこも へだて編む数〔隔編数〕 かよはさば 道の柴草 ひざらましを(万2777)
 逢ふよしの 出で来るまでは 畳薦 隔て編む数〔重編数〕 いめにし見てむ(万2995)
 出でて行きし 日を数へつつ〔日乎可俗閇都々〕 今日今日と を待たすらむ 父母ちちははらはも(万890)
 一人る 夜をかぞへむと〔夜笇跡〕 思へども 恋のしげきに こころもなし(万3275)
➂書き表された数字。
 水の上に 数書く如き〔如数書〕 吾が命 妹に逢はむと うけひするかも(万2433)

 ➀の例の、万3963・3973・4468番歌の「数」は、仏語の「すう」、すなわち、存在の意の翻訳語ではないかとの説もある。当否はともかく、➀の義の定着が成せるわざであろう。➂の例の万2433番歌は、無常の譬えとの説もあるが、古代において数を書(掻)くとは、地面に縦線を掻き刻み、順に並べ加えていくことと考えられる。そのことは、➁の例の、「畳薦 隔て編む数」(万2777・2995)が、薦の繊維を粗い目で編む時、緯糸どうし、経糸どうしが並行になっていることからも窺える。また、枕詞「掻き数ふ」(万4006)が「二上山」の「ふた」にかかることにも見てとれる。本邦の掻き数え記すやり方が縦棒を連ねるものであるとき、│と一本だけ刻んでもはたしてそれが数えあげているものであるとは言い切れない。││とふたつ並んだ時、初めてそれが数を記すために地面を搔きほじっているものと認められる。さらに、枕詞「天数ふ」(万219)が、オホなるツ(ひとつ、ふたつのツ)の「大津」にかかることからも定められよう。ソラカゾフとは空(諳)で数を数えること、すなわち、天のように高いから多いこと、また、諳で数えることは間違えやすいことから大雑把なこと、大概おおよそのことを示すとされる。空という語は、(a)地と対照する天空の高みのこと、また、(b)天と地の間の茫漠たる間のことから、拠りどころのないことを指す。「数ふ」ことは線を掻(書)くことだから、地面でも紙でもない空中を相手にすると、一つ、二つと数えて count することなどできないのである。それがこの言葉の面白味である。
 また、日にち、時間を数える例として、「日を数へつつ 今日今日と」(万890)、「夜をかぞへむと」(万3275)などとある。この「算」は原文では「笇」である。笇の字はものの数を数え、記録するために用いる細長い串、棒の類のものをいう。掻き刻む線と同じ形状といえる。この場合、「日」や「夜」は複数のうちのそれぞれに違いはない。昨日の日(夜)も今日の日(夜)も明日の日(夜)も、日は日、夜は夜であり、その観点からは区別がないのである。だから、「今日今日と」という言葉が続いてくる。串、棒、線のそれぞれに区別がないのと同じである。
 書かずに count するためのより確かな方法に、「む」(ヨは乙類)がある。古典基礎語辞典は、「読む」「詠む」字を掲げ、「一つずつ順次数えあげていくのが原義。古くは、一定の時間的間隔をもって起こる事象に多く用いた。一つ一つ漏らさずに確認・認知する意。……類義語カゾフ(数ふ)は、……指を折りながら加算してゆく意。」(1304頁、この項、筒井ゆみ子)とする。白川1995.は、「数」字も加えて掲げ、「数を数えることを原義とする。こよみは「み」の意。数えるようにして、神に祈り唱え申すことをという。数えるにしても唱えるにしても、いずれも声を出していうことであった。「呼ぶ」とも関係のある語である。のち、しるされた文を読む意となる。」(794頁)とする。ヨムの用例については次のようにまとめられる。

➀数を数える。
 吾[稲羽の素菟]、其の上をみ、走りつつ読みわたらむ〔走乍読度〕。(記上)
 伏超ふしこえゆ かましものを 守らふに 打ち濡らさえぬ 浪まずして〔浪不数為而〕(万1387)
 時守ときもりの 打ちつづみ み見れば〔数見者〕 時にはなりぬ 逢はなくもあやし(万2641)
➁月日を繰る。また、月齢から月のこと、その神格化。
 つく読命よみのみこと〔月読命〕(記上)・つく読尊よみのみこと〔月読尊〕・つく弓尊ゆみのみこと〔月弓尊〕・月夜見尊つくよみのみこと〔月夜見尊〕(神代紀第五段本文)
 月読つくよみ(〔月読〕万670・671・1075・〔月夜見〕3245・〔月余美〕3599・〔月余美〕3622)
 月読つくよみをとこ(〔月読壮子〕万985・〔月読壮士〕万1372)
 月めば〔都奇餘米婆〕 いまだ冬なり しかすがに 霞たなびく 春立ちぬとか(万4492)
 白栲しろたへの 袖解きかへて 還り来む 月日を数みて〔月日乎数而〕 きてましを(万510)
 …… 出でてし 月日数みつつ〔月日余美都追〕 嘆くらむ 心なぐさに ……(万4101)
 春花の 移ろふまでに 相見ねば 月日数みつつ〔月日餘美都追〕 いも待つらむそ(万3982)
 …… 若草の 妻をもかず あらたまの 月日数みつつ〔月日餘美都々〕 あしが散る 難波の御津みつに ……(万4331)
 …… 人のる うまずて 大舟の ゆくらゆくらに 思ひつつ る夜らを 読みもへむかも〔読文将敢鴨〕(万3274)
 …… 人のる うまは寝ずに 大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ 吾が寐る夜らは 数みも敢へぬかも〔数物不敢鴨〕(万3329)(注1)
 ぬばたまの 夜渡る月を 幾夜と 数みつつ妹は〔余美都追伊毛波〕 我待つらむそ(万4072)
➂歌や経文、宣命などを声をあげて唱える。
 乃ち御謡みうたよみしてのたまはく〔乃為御謡之曰〕、〈謡、此には宇哆預瀰うたよみと云ふ。〉……(神武即位前紀戊午年八月)
 故、此の二つの歌は読歌よみうたぞ〔此二歌者読歌也〕。(允恭記)
 こよみのはか固徳王保孫〔暦博士固徳王保孫〕(欽明紀十五年二月)
 故、経を読むことを停む〔停読経〕。(皇極紀元年七月)

 ➂は、書かれた文字を一字一字声を立てて唱え、相手に聞かせることをいう。➀との共通点は、字を一字一字繰ってゆくように進んでいくことである。般若心経なら、観自在菩薩をクワン、ジー、ザイ、ボー、サッー、と唱えていく。すなわち、事柄と言葉とを一対一対応させている。➀は数詞との対応である。稲羽の素菟の例でいえば、ワニを、ひぃ、ふぅ、みぃ、と唱えながら踏んでゆくので、ワニは、ワニ1、ワニ2、ワニ3と numbering されていっている。ここに、ワニ1、ワニ2、ワニ3とある数字は、背番号なので序数詞である。時守の鼓であれば、ドン、ドン、ドンと続く音を、ひぃ、ふぅ、みぃ、と、口中で唱えて確かめている。ドン1、ドン2、ドン3である。口に言う言葉と、目の前にある事柄とが対応しているから確かである。文字を持たない時代に頼りとなる証拠はそこにしかない。
 事柄と言葉が同じことと定める考え方を、筆者は上代にいわゆる言霊信仰の実体であったと考えている。無文字時代に言葉が事柄と違うことを言ってしまったら、理解が困難なカオスとなってしまう。証文のとれない約束事は反故にされることがあるように、世界全体森羅万象、皆、訳がわからないことになる。そうならないために、言葉を事柄と同じになるように努めて使うことが求められた。その副産物として、言葉に霊が宿っているように思わせるふし○○が生まれている。ただし、言葉にはすべからく霊が備わっていて、その言葉を発しさえすれば世界がそのようになるといった一部の新興宗教に見られるようなことが行われていたとは考えられない。「ヨムは、もし漢字を宛てるとすれば、「呪言む」とでもするのが本来的な、原初のニュアンスであった」(藤井1980.106頁)という妄説が罷り通るものではない。
 アマテラス(天照大御神・天照大神)を天の石屋から引き出した時の話に次のようにある。

 布刀ふと玉命たまのみこと、尻くめ縄を以て其のしりわたして、まをして言はく、「此より以内うちに還り入ること得じ」といふ。(記上)
 乃ち[中臣神・忌部神]まをしてまをさく、「また還幸かへりいりましそ」とまをす。(神代紀第七段本文)

 ロープを引き渡したとしても、戻ろうと思えば、外したりくぐったりすれば入ることは可能である。しかし、還り入るなと言葉にすることで、その通りの出来事となっている。上に述べたように、言葉と事柄との関係が同じになるのが約束事として決められているから、その約束事に従って天の石屋での発言は展開されている。現在の土地境界線には標となる杭が打ち込まれているが、それを勝手に掘り起こしてはならないと法律に定められており、登記簿にも記録保管されている。当時は文字がなく、登記することができなかった。そこで、言=事とする言霊信仰にゆだね、秩序を保つように図られていたのであった。
 この意味合いでの言霊信仰においては、数を数えるとき、カゾフことは間違えがあり得るが、言葉にしてヨム際には間違えがないことがわかる。間違えるとワニの方から、あるいは、経文ならば一緒に読んでいる僧侶仲間から、間違えを指摘されて修正を受ける。
 そして、➁の用法は、日(day)をヨム方法が月齢に依っていたことに因むものである。日(sun)の姿を見ても、毎日、形は真ん丸である。月はその形から、moon1、moon2、moon3とあらかじめ numbering されており、day と対応可能なのである。月には背番号がついている。十六夜の日は三日月の日から13日目と読めるのである。したがって、日中は日(day)は読めないが、夜は月(moon)から日(day)が読める。そこで万葉集の例に見られるように、「夜」を対象としてヨムと言っている。
 夜を数える例として、カズ・カゾフの➁の例に、「一人寝る 夜をかぞへむと 思へども 恋の繁きに 情利もなし」(万3275)とあった。夜なのだから、月の形を見れば何日幾夜経ったか一目瞭然である。その際、曇っていた、目が悪いからわからない、といった指摘はおよそナンセンスなものである。そういうことではなく、恋心があまりに激しくて余裕がなく、正気を失って心が利かなくなると、月を拝むことすら念頭に浮かばない、その異常な精神状態を表すために「夜」をカゾヘムという言い方を用いている。月とヨムこととは密接な関係にある。
 ただ、数え方一般のあり方からすると、これは特殊である。数の数え方は、一匹、二匹、三匹と次々に指していく序数的な数え方をする。個数が少なくて一目で数がわかる場合、それは基数的な数え方である。多くの数の観衆、2万人ぐらいという言い方も基数的な数え方であるとされている。スタジアムの収容人数から簡単に割り出されるからである。月の場合、姿を現した段階で背番号が見えてすぐわかる。数字が目に入って読むのと同じことになっている。もちろん、ツクヨミノミコトは月(moon)の個数を数えているのではない。日(day)を定めており、月(month)を数える場合は満ち欠けの一巡をひと月とする。ヨムには定めるというニュアンスが含まれている。
 実はヨムの➀の例でも、「浪まずして」(万1387)とあるのは、水に濡れたのはじゃぶじゃぶと寄せては返す一回ごとの波のことばかりをいうのではなかった。海には干満があり、さらに大潮小潮とあり、あるいは大潮の満潮時だったから濡れたことを表すのであろう(注2)。潮は月の引力によるから、月を読んでいれば濡れなかったに違いない。額田王の歌に、「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」(万8)とあるのも参考になる。
 暦は「み」のこととされる。「かぞへ」という語が造られなかったのは、伝来した暦法が太陰暦で月齢に依っていたこともあろうが、なにより、暦の本によって日(day)が day1、day2、day3と背番号をつけられて numbering されて定められ、なるほどと思えるほどに正しかったからだろう。暦の本とは日めくりと呼ばれるカレンダーである。毎朝当主がめくることで、今日はツイタチ、今日はフツカ、今日はミッカと、着実な一対一対応が可能になっている。
 「かぞふ」ことと「む」ことは、結果的には同じことでも、もともとの意味には相違のあることが理解されるのである(注3)

(注)
(注1)万3274番歌の類歌、万3329番歌は長い歌で、別の意味合いが加わっている。
(注2)多田2014.に、「海辺の難所を波の合間をねらって通過することをヨムと表現した例」とし、「このヨムには波間を計る意がある。」(400頁)とあるが、大縄跳びをするように皆してみぎわで遊んでいるわけではない。
(注3)木村2009.は、『日本方言大辞典』の「かぞえる(数)」の方言分布を載せている。ヨムは畿内、北陸、四国、南西諸島に、カゾエル系統はそれ以外に分布している。民俗学からは柳田国男『蝸牛考』のように興味深いものがあろうが、本稿とは趣旨が異なる。

(引用・参考文献)
木村2009. 木村紀子『原始日本語のおもかげ』平凡社(平凡社新書)、2009年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
多田2014. 多田一臣「よむ【数む・読む】」多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
藤井1980. 藤井貞和『古日本文学発生論─記紀歌謡前史─』思潮社、1980年。

加藤良平 2021.311改稿初出

上代語「衣(そ)」の上代特殊仮名遣い、甲乙の異同について

 時代別国語大事典の「[衣]」の項の「【考】」に、「ソデコロモともいうことを思えば、このソはソデのソと同じ甲類と思われるのに、事実は「在衣辺」 の一例のみを除いてすべて乙類のソを表わす訓仮名に用いられている。乙類のソが甲類のソに比べて絶対数が多いという事情はあるにしても不審である。」(398頁)とある(注1)。万葉集の訓仮名に用いられる「衣」字がソの乙類であることは、着物を意味する名詞の「」までも乙類なのか、それでは言語学的に合わないのではないかという意見である。
 万葉集以外の上代の文献、記紀のなかに「衣」字をもってソ乙類に当てた記述は確かめられない。万葉仮名としての例がなく、すべて訓義を伝えるために用いられている。キヌ、コロモ、ミケシ(御衣)などとも訓まれ、ソと訓まれる例としては、「神衣かむみそ」(神代紀第七段本文、日本書紀私記に、「神衣 美曽みそ」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100247541/14?ln=ja)、「御衣みそ」(垂仁記・景行記)、「通郎姫とほしのいらつめ」(允恭紀)、「通郎姫とほりのいらつめ」(允恭記)、「通王とほりのみこ」(允恭記)などがある。辞書では、色葉字類抄に、「衣 ソ 御衣、神衣等也」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100067791/532?ln=ja)の例があるが、中世に「衣」をソと言っていたのではなく、記紀の傍訓を頼りとして記されているものである。
 記紀のソの例が万葉仮名と同じく乙類であるという保証はない。なぜなら、万葉集に1例、例外的ではあるがソ甲類に当てている万葉仮名があるとともに、万葉集中に「衣」字を字義の clothes としてソと歌っている例が皆無だからである。「」が歌語ではなかったという可能性もないことはないが、記紀でも用例として非常に少なく、特殊な衣服を指すか、次第に使われなくなっていった語ではないかと推測されるのである。
 時代別国語大辞典の「【麻】」の項に、「ソデのソは甲類であり、コロモデと並べてやはり衣服の意かと考えられることから、ソは単に麻という一つの植物の名ではなく、ひろく繊維をとる植物としての苧麻類の、さらには繊維の称であったかとも考えられる。」とし、「」という語も「複合語の中にのみ現われる。」(398頁)と断っている。「」と「」が同根の語であろうと考えるのは、繊維製品を大きく苧麻類に依存していた事情からして当然の流れである。したがって、どこかで「」に、甲類から乙類へ転じる事情があったのではないかと考えられる。
 「衣」は、音仮名エ(ア行、e)に用いられることがあり、両用仮名とも称される。万葉集中での「衣」字をソ乙類に利用する訓仮名、ア行のエに利用する音仮名は、かなり偏在しているように見受けられる。また、ソ甲類の一例、ヤ行のエ(ye)に誤用された一例も見られる。巻ごとの一覧と全例をあげる。万90番歌題詞の例は、今まさに甲乙検討中である。

巻二
 古事記曰、軽太子、奸軽太郎女。故、其太子流於伊豫湯也。此時、衣通王、不戀慕而追徃時謌曰、(万90題詞)
 吾はもや やす見児みこたり〔安見兒衣多利〕 皆人の かてにすといふ 安見児得たり(万95、藤原鎌足)
巻三
 佐保過ぎて 寧良ならむけに 置くぬさは 妹を目離めかれず 相見しめとそ〔相見染跡衣〕(万300、長屋王)
 田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ〔真白衣〕 不尽ふじたかに 雪はりける(万318、山部赤人)
巻六
 …… 大夫ますらをの こころはなしに わやの おもひたわみて 徘徊たもとほり 吾はそ恋ふる〔吾者衣戀流〕 舟梶ふなかぢをなみ(万935、笠金村)
 白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重いほへやま い行きさくみ あた守る 筑紫に至り 山のそき 野の極見よと〔野之衣寸見世常〕 ともを あかつかはし 山彦の 答へむきはみ 谷蟇たにぐくの さ渡る極み ……(万971、高橋虫麻呂)
 山の端の ささらえ壮士をとこ 天の原 と渡る光 見らくしよしも(万983、大伴坂上郎女)の左注に、「右一首謌、或云、月別名曰佐散良衣壮士也、縁此辞此謌。」
巻七
 見渡せば 近きさとを たもとほり 今そ吾が来る〔今衣吾来〕 礼巾ひれ振りし野に(万 1243、古集)
巻九
 荒磯ありそに〔在衣邊〕 着きて漕がさね 杏人からひとの 浜を過ぐれば 恋しくありなり(万1689、柿本人麻呂歌集?)…ソ甲類
巻十
 黄葉もみちばを 散らす時雨しぐれの るなへに さへそ寒き〔夜副衣寒〕 ひとりしれば(万2237)
巻十一
 如是かくばかり 恋ひむものそと〔将戀物衣常〕 おもはねば いももとを かぬ夜も有りき(万2547)
 大夫は 友の騒きに なぐさもる 心も有らむ 我れそ苦しき〔我衣苦寸〕(万2571)
 めづらしき 君を見むとこそ〔君乎見常衣〕 左手の 弓る方の まよ掻きつれ(万2575)
 夕されば 君まさむと 待ちし夜の なごりそ今も〔名凝衣今〕 宿ねかてにする(万2588)
 遠くあれど 君にそ恋ふる〔公衣戀流〕 玉桙たまほこの 里人皆に 吾恋ひめやも(万2598)
 佐保の内ゆ 嵐の風の 吹きぬれば 還るさ知らに 歎く夜そ多き〔歎夜衣大寸〕(万2677)
 わぎ妹子もこに 吾が恋ふらくは 水ならば しがらみ越えて 行くべくそ思ほゆ〔應逝衣思〕(万2709)
 高山ゆ 出で来る水の 岩に触れ れてそ思ふ〔破衣念〕 妹に逢はぬは(万2716)
 しら細砂まなご 三津みつ黄土はにふの 色に出でて 云はなくのみそ〔不云耳衣〕 我が恋ふらくは(万2725)
巻十二
 さ夜ふけて 妹を思ひ 敷栲しきたへの 枕もそよに〔枕毛衣世二〕 歎きつるかも(万2885)
 相思はず 君はいませど 片恋に 吾はそ恋ふる〔吾者衣戀〕 君が姿に(万2933)
 斑鳩いかるがの よるの池の よろしくも 君を言はねば 思ひそ吾がする〔念衣吾為流〕(万3020)
 逢はむとは たび思へど ありがよひ 人目を多み 恋つつそ居る〔戀乍衣居〕(万3104)
巻十三
 如是かくのみし 相思はざらば 天雲の よそにそ君は〔外衣君者〕 有るべくありける(万3259)
 …… ことのゆゑも 無くありこそと 木綿ゆふたすき 肩に取り懸け 斎瓮いはひべを 斎ひ掘り据ゑ 天地の 神祇かみにそむ〔神祇二衣吾祈〕 いたもすべ無み(万3288)
巻十四
 あしひきの やまかづらかげ ましばにも 得がたきかげを〔衣我多奇可氣乎〕 置きや枯らさむ(万3573)
巻十五
 天飛ぶや かり使つかひに 得てしかも〔衣弖之可母〕 奈良の都に こと告げらむ(万3676)
 思はずも まことあり得むや〔麻許等安里衣牟也〕 さの いめにも妹が 見えざらなくに(万3735)
巻十八
 恋ふといふは えも名づけたり〔衣毛名豆氣多理〕 言ふすべの たづきも無きは あが身なりけり(万4078、大伴家持)
 葦原の 瑞穂の国を 天くだり 知らしめしける 皇祖すめろきの 神のみことの 御代重ね 天の日嗣ひつぎと 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方よもの国には 山川を 広み厚みと 奉る 調つきたからは 数へえず〔可蘇倍衣受〕 尽くしもかねつ ……(万4094、大伴家持)
 大君の きのまにまに 執り持ちて 仕ふる国の 年の内の 事かたね持ち 玉桙の 道に出で立ち 岩根踏み 山越え野行き〔也末古衣野由支〕 都へに まゐし我が背を ……(万4116、大伴家持)…ヤ行のエ
 針袋 これはたばりぬ すり袋 今は得てしか〔伊麻波衣天之可〕 おきなさびせむ(万4133、大伴池主)

 稲岡1976.は、「為・射・其などの場合よりも、巻ごとの区別は更に明瞭な形をとっている。」(469頁)と指摘している。巻ごとばかりでなく、「衣」をソ乙類に使う語も、もっぱら助詞のソに使い、極み、はて、辺境のことをいうソキ(極・退)、擬声語で擦れる音を表す副詞のソヨニに各1例と限られている。助詞のソネなどには見られない。意図的に絞られていると考える必要があろう。また、稲岡1976.は、「万葉集や記・紀の表記者に技巧的表記が好まれ、にかわって愛などが用いられた(続日本紀には智王とも智王とも記されたものがある)その間隙にが多用されたものであると。仮名の歴史そのものを示すへの傾きをほとんど覆して、集内の頻度を逆転せしめたものは、技巧的表記意識であったろう。」(470頁)とする。平仮名の「え」への移行を振り返っての言説である。そして、訓仮名「衣」の音をソ乙類としていることに疑いを入れていない。
 筆者は、その「技巧」なるものに、表記上の「技巧」ではなく、本義上の「技巧」、すなわち、言葉そのものへの洞察の結果として、万葉集中に、長屋王、赤人、金村、虫麻呂らの賛同を得て、「衣」はソ乙類であるとする新説が展開されて利用されているものと考える。ヤマトコトバとしてのコロモ、キヌ、ミケシなどに類する「衣」の義は、語学的にみてソ甲類である。なぜ、それをソ乙類に当てがって喜んでいるのか。それは、「衣」の形態が、 cloth から clothes へと展開していったからではないか。貫頭衣から着物へ、反物を縫い合わせて仕立てる方式に変わったということである。結果、素敵な装いができている。ヨソフ(装、ソは乙類)である。幅が二倍のオーバーコートを「襲衣おすひ」(記2・景行記・記27)と呼ぶが、身を覆うように着物を着ることを「おそふ」といい、ソは乙類である。これらに登場する衣を部首とする字がソ乙類を有するのは、背縫いすることで clothes となっているとして、関係を認めたために根づいているのではないか。
 「」の古形は「(ソは乙類)」である。〓〔廾の左上部に﹅、中下部に﹅ふたつ、右下部に﹅、を冠として衣〕・裻という字を名義抄は載せ、「〓〔廾の左上部に﹅、中下部に﹅ふたつ、右下部に﹅、を冠として衣〕 音同、ソヨメク」とある。意味は、新しい衣の衣擦れの音、また、背縫いのことをいう。説文に、「裻 新衣の声、一に曰く、背縫、衣に从ひ叔声」とある。「枕もそよに〔枕毛衣世二〕」(万2885)の例は、義を表そうと工夫した痕跡を見せるものである。そして、説文を読んだ知識人は、「衣 依也。上を衣と曰ひ、下を裳と曰ふ。二人を覆ふ形に象る。凡そ衣の属、皆衣に从ふ」なる記述を納得しようと試みたのだろう。魏志倭人伝(注2)の伝えるところの弥生時代に着ていて、庶民層は奈良時代でも着ていることがある貫頭衣二枚を背縫いしてみると、少し大きめの一人分のチョッキ(waistcoat)のようになる。首を通していたところから先が袖に当たる。これは説文を長屋王らが解釈した可能性を言っているのであり、説文の漢字解釈の正否を問うものではない(注3)。ここに至ってもともと麻(ソ甲類)と同じであるはずのが、今やひょっとすると背(ソ乙類)と同じ音に転じているのではないかという頓智が働き、万葉仮名にソ乙類を表すための訓仮名に「衣」字が用いられるに至ったということではないか(注4)。貫頭衣のような cloth 的な(甲類)の消滅をもって「衣」をソ甲類と呼ぶことがなくなったのと同様に、万葉仮名の「衣」をソ乙類と戯れてみた仮名遣いも一時的な利用にとどまり、洒落のわからぬ後世の人には伝わらなかったということだろう。

直垂の上にちはやを着た神官(北野天神縁起絵巻写)、北野天満宮ホームページhttps://kitanotenmangu.or.jp/story/北野天満宮と牛/参照。

 解説を簡潔にするために、北野天神縁起絵巻の絵をとりあげる。松明を持った神官は、貫頭衣の形式をとどめるちはやを上にかけ、下には直垂を着ている。 cloth の倍の幅を持った clothes がどのようなものであるか読み取れよう。襅を二枚背縫いすると、もと頭を通していたところがスリットになる。これが、装束の歴史に知られる闕腋けってきに相当するわけである(注5)
 このことは、ヤマトコトバの助詞ソの義と対応している。係助詞として知られるゾについて、古典基礎語辞典に、「古くはソと清音。終助詞ソと係助詞ソ、そして代名詞ソ(其)は、同根の語。」(676頁)とあり、「係助詞ゾは、上代以来、特に歌によく使われている。会話文では、女性から男性に対して用いたり、身分的に下位の者が上位の者に対して用いたりすることはほとんどない。これは、ゾがもともと指示・教示を意味する終助詞から発したもので、係助詞化しても、教示の気配を漂わせていたからであろう。」(677頁。この項、我妻多賀子)と解説されている。上位者の下位者に対する教示の現場は、里長が村人に教唆するような場面である。村人は貫頭衣を着て地べたに座っているが、里長、郡司、国司などは着物を着て腰掛、床几、椅子いしに鎮座ましましている。威儀を備えているから指示が指示として重みを持って意味をなす。背縫いされた着物を着ているお偉いさんが、……であるのは其れそのとおりだぞ、と言っているのだから、ここに「衣」は進化していて、そういうファッション・スタイルの設定をもって指示されているということを物語っている。ソ甲類と似ているが非なる音、ソ乙類こそが、新しい「衣」にふさわしいと一部のインテリが見て取ったということである。
 それが証拠に、古事記で文末に多用される「也」字は、指示、教示の助詞ソと訓まれている。「此、稲羽之素菟者也。」(記上)は、「これ、稲羽のしろうさぎそ。」である。断定の助動詞ナリと訓むことができる「也」は指定の意味を持つ(注6)。ソは助詞で活用語ではないから、「にあり」の約とされるナリが用いられるようになったと考えられている。語の出自としてはそういうことであろうが、ナリは「成り」を思わせる。名詞の「成り」は平安時代以降に用いられているが、様態、形状、格好、あり様、様子、身なりの意である。動詞の「成る(為る・生る)」は時の推移につれて別の状態、事態が出来する意であるから、身なりのナリが変化したことを、「(乙類)」のうちに絡めこんで説くことにして万葉仮名が考案、使用されていると検証されるのである。
 よって、万葉仮名の「荒磯辺〔在衣邊〕」(万1689)以外のソ乙類に用いられている「衣」字は、万葉歌人のうちの限られた人の間に捻られ、納得されて使用されたが、後には伝わらなかった語彙を表す訓仮名であると結論される(注7)。磯に当てているソ甲類の「衣」(万1689)は、従前の「衣」の義により使われている訓仮名である。記紀にソとして使われている「衣」字も、すべからくソ甲類である。「神衣」(神代紀)のカムミソ、「御衣」(景行記)のミソ、「衣通郎姫」(允恭紀)のソトホシノイラツメ、「衣通王」(允恭記・万90題詞)のソトホリノミコなどのソは甲類で正しい。冒頭に掲げた時代別国語大辞典の疑問はここに氷解した。

(注)
(注1)古典基礎語辞典に、「そで【袖】」の項に、「従来、衣(ソ)手(テ)の意とする説があるが、「衣」は『万葉集』で係助詞のソに使われており、上代特殊仮名遣いはソ乙類で、ソデのソ(甲類)とは一致しない。また『万葉集』には「衣手」の二字をコロモデと訓む例は多くあるが、ソデと訓む確かな例はないので、ソデの語源を「衣手」とする説はなお考えるべきである。」(685頁、この項、石井千鶴子)とある。筆者は、「(ソは甲類)」の原形を貫頭衣に見ている。貫頭衣は、本来、ノースリーブである。だから、ソデ(袖)などないはずだと考えるのは語用論的には正しく、実際上は誤りである。語用論的に正しい点を突いて、「ちはやぶる」という枕詞は成立している。拙稿「枕詞「ちはやぶる」をめぐって」参照。実際上は、当たり前のことに、腕をおおうものがなければ寒い。ならば付ければよい。貫頭衣に付け伸びた手(腕)部分をソデと呼んだ。だからソデ(袖)である。万葉時代になると、着物に腕部分がついていることが当たり前の仕立て方になってくる。昔言っていたソデ部分に当たるところをきちんと優雅に表したいなら、ころもに伸びたがついているのだから、コロモデ(衣手)と呼ぶに決まっている。
(注2)「男子は皆かいし、木緜を以って頭にく。其の衣は横幅、ただ結束して相連ねほぼ縫ふこと無し。婦人は被髪屈紒くっかいす。衣を作ることたんの如く、其の中央を穿ち、頭を貫きて之れをる。(男子皆露紒、以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連略無縫。婦人被髪屈紒。作衣如単被、穿其中央貫頭衣之。)」とある。
(注3)白川1996.に「襟もとの形。」(17頁)とある。
(注4)万葉集中に使われているソ乙類のための「衣」の利用例に、clothes や(ソは乙類)をイメージさせようしたり、字の連なりから用字が選ばれている可能性を示唆するものが見受けられる。むろん、推測の域を出るものではないが。
 万300番歌の「ぬさ」は織り上げたもので、「相見しめとそ〔相見染跡衣〕」は「染」という字に引きずられて「衣」が出てきている可能性がある。それは、万2725番歌の「色」と同じ状況かもしれない。万318番歌の「真白にそ〔真白衣〕」も富士山の雪化粧を白衣に見立てているのかもしれない。万1243番歌の「今そ吾が来る〔今衣吾来〕」は続く「礼巾ひれ」を惹起し得る。万2237番歌の「さへそ寒き〔夜副衣寒〕」は上着、ないし上掛けが欲しいことを伝えるものかもしれない。万2547・2588・2677・2716番歌も同様である。万2598番歌は、恋人に会うときのお洒落な着物を意識したものかもしれない。万2933・3104番歌も同じことかもしれない。万3259番歌の「よそにそ君は〔外衣君者〕」は、「外衣」を脱ごうとしないことをイメージしたものかもしれない。
(注5)装束の細部についての考証を試みているわけではない。
(注6)春日1955.によれば、万葉集に「ぞ」五十八例、「なり」十七例、記紀歌謡に「ぞ」七例、「なり」一例、宣命に「ぞ」十例、「なり」七例であるという。
(注7)稲岡1964.は、「年次の明らかなものでは天平四年の虫麿の歌が最も新しく、それ以後の用例は今のところ見えない。……記紀万葉の現存諸例から衣ソ(乙)の使用が、天平初頭までと考えることもできると思う。」(9頁)としている。

(引用・参考文献)
稲岡1964. 稲岡耕二「万葉集巻十三表記年代考─借訓文字を中心に─」『国語と国文学』第41巻第2号、 東京大学国語国文学会、昭和39年2月。
稲岡1976. 稲岡耕二『万葉表記論』塙書房、昭和51年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
春日1955. 春日和男「「也」字の訓について─「ぞ」と「なり」の消長─」『国語国文』第24巻第2号 (通号246)、京都大学文学部国語学国文学研究室、昭和30年2月。
小田2015. 小田勝『実例詳解 古典文法総覧』和泉書院、2015年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1996. 白川静『字通』平凡社、1996年。

加藤良平 2021.1.19初出

額田王の春秋競憐歌について(万葉集16番歌)─附.中大兄論─

額田王の春秋競憐歌

 万葉集の16番歌は、額田王の春秋競憐歌としてよく知られている。新大系文庫本万葉集により訓読と訳を示し、原文も添える。

  近江大津宮あふみのおほつのみや宇御あめのしたをさめたまひし天皇すめらみことみよ天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみことおくりなして天智天皇てんちてんわうふ〉
  天皇てんわう内大臣ないだいじん藤原朝臣ふぢはらのあそみみことのりして、春山万花しゆんざんばんくわうるはしきと、秋山千葉しうざんせんえふいろどれるとをきそあはれましめたまひし時に、額田王ぬかたのおほきみの、歌を以てこれをさだめし歌
 冬ごもり 春さりれば 鳴かざりし 鳥もきぬ かざりし 花も咲けれど 山をしみ りても取らず くさふかみ 取りても見ず 秋山あきやまの の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてそしのふ あをきをば きてそなげく そこしうらめし 秋山そあれ(注1)
 (冬ごもり)春がやって来ると、今まで鳴かなかった鳥も来て鳴きます。咲かなかった花も咲きますが、山が茂っているので山に入って取ることもせず、草が深いので手に取って見ることもありません。しかし秋山の木の葉を見ては、赤く色づいたのは手に取って賞()でます、青いのはそのままにしてため息をつきます。その点が何とも残念です。秋山こそよいと思います、私は。(66~67頁)
  近江大津宮御宇天皇代〈天命開別天皇謚曰天智天皇〉
  天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌
 冬木成春去来者不喧有之鳥毛来鳴奴不開有之花毛佐家礼杼山乎茂入而毛不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見而者黄葉乎婆取而曽思努布青乎者置而曽歎久曽許之恨之秋山吾者

 この歌は一般に、春の山の花を美しさと秋の山の葉の美しさと、どちらが趣深いものであるか漢詩を作らせた宴のあと、額田王が歌で裁定を下したものであるといわれている。題詞にあるに「春山万花の艶と秋山千葉の彩とを競ひ憐れ」むことが詩会の題であり、天皇によって内大臣、藤原(中臣)鎌足に提示されたという。新大系文庫本万葉集校注に、「春を秋とを比較して優劣を競うことは、後の和歌にも、「春はただ花のひとへに咲くばかりもののあはれは秋ぞまされる」(拾遺集・雑下)などと詠まれるが、中国の詩文には類例が見られない。額田王の歌の前に男性官人の漢詩の応酬があったことを想像する説があるが、中国の詩文に例のないそのような趣向が、当時の日本人の詩に詠まれた可能性は小さい。そもそも、中国古代の詩文では秋はもっぱら悲傷すべき季節とされ、紅葉の美の表現も見られない。」(67頁)とある。
 この説明は、小島1964.に、文選の潘岳(安仁)・秋興賦に、「冬はきて春は敷くに感じ、夏は茂りて秋は落つるをなげく」とあるのをあげて、「額田王の春秋優劣の判定には、中国的なものが陰にあつたのではなかろうか。」(895~896頁、漢字の旧字体は改めた)とする推測が独り歩きしたことへの反省であろうか。画題に春秋を対にしたものがあり、春秋の具体的な事物をもって比較している。それがいつ頃からあるのか不明である。
 歌の語り口をどう捉えるかについては、諸説ある。かつては、犬養1956.に、「両者[春秋]喜憂の流れを図示すれば、左の如くとなる。
{ 秋  憂→喜→憂→歓喜の岡 春  喜→憂→喜→落膽の谷
 春に心を寄せる者も、秋に心を寄せる者も、心情発展の漸を遂うて一喜一憂、全く飜弄され通しで、しかも両者に一刻たりとも緊張をゆるめる時を与へず、最後のせりあげ・・・・……に持つてゆく呼吸、寸分隙のない構成となつてゐる。私はこの歌を、かやうに見て来て、さきに述べた心情表現の在り方も、必ずや第三者への反応と効果を充分考慮のうちに入れて、構成されてゐると思ふし、また、この歌の成立事情も窺へて来るのではないかと思ふ。かくて、この歌の心情表現は、表現の内面的心理関係の理解の上からも、第三者を意識しての構成の上からも、両者符節を併せて、緊密なる関聯を保ち、しかも女性的情感あふれる巧緻なる表現構造を見せてゐるといふべきである。」(20~21頁、漢字の旧字体は改めた)という捉え方が注目されていた。
 今日の大勢としては、毛利1999.に、「歌を詠みあげるにあたっての「春山」と「秋山」、「春山の万花」と「秋山の千葉」とのあり方や比重の置き方、また春の描写に感情のこもった表現がみられず、秋にのみ記され秋への思い入れのおのずと現れているところなどを眺めてくると、王の歌は、「迷い」をもって詠みあげているようにみえて実はそうではなく、また聴き手を十分意識しみずからの判定を結句まで明かさないといった叙法をもちながらも非論理的な歌なのではなくて、春よりも秋が優るとする結論、即ち「秋山我は」は最初から作者の意識のなかにあったとみて差し支えなく、歌全体の構想がその結論にむかって収斂していく論理性をそなえた歌であると受け止めてよいであろうと考えられるのである。」(128頁)とするのに同調している。
 上原1984.に、「「恨めし」は『時代別国語大辞典』によると、「恨めしい。うらみに思われる。残念である」の意味をもつ。万葉集における他の用例は、次の通りである。……[494、794、2007、3346、3788、4496]……。ここにあげた六例は、憎悪・嫌悪といった強い意味を表わすものはなく、……恨めしく思いながらも、裏返せば感識の情になりうる場合もある。……共通していえることは「憎し」「厭はし」と異なり、感情の程度こそ弱いが、その気持は長く尾を引くような、いわば恨めしく思う対象への執着が感じられる。つまり恨めしく思うことによってその陰にあるものとの関係を保とうとする意識が働いているといえよう。これを一六番歌にあてはめて考えてみると、「青きをば 置きてそ歎く」とするのは完全な否定ではなく、むしろそこにこそ執着があり、作者を秋へとひきつける根拠となりえたのである。」(56頁)とあって、「恨めし」一語の捉え方によって、歌い回しの意味合いがまるで正反対に捉えられるとしている。
 たしかに、歌のなかに「秋山」は二度も出てくるのに「春山」はなく、春を描写したところにはテーマに見られない「鳥」も登場し、心情のこもった表現が見られない。しかし、万16番歌の「恨めし」とは、「青きをば 置きてそ歎く」ことを否定できないことが恨めしいと言っているのに過ぎないのではないか。無いことにしたいのであるが、有るから気になって仕方がない。それが恨めしい、すなわち、「そこし恨めし」なのである。
 また、長歌の言葉の並びの展開については、「味酒 三輪の山 ……」の歌い出しで名高い万17番歌と同様、口承による作品であって、対句を徐々に崩しながら流れるような構造になっているとの指摘も行われている。筆者には、やまと歌の長歌に、きれいに対句を並べるべしという様式が先にあったとは信じられない。記紀歌謡を見ても、漢籍に見られる対句に匹敵するほどきれいな対句列を築こうとする姿勢は見られない。議論が散乱するのでこれ以上は踏み込まないが、長歌の手法とは、三十一文字におさめてすっきりと言い切るのではなく、言葉を弄してあれやこれやと述べてみたり、迂闊には断言できない時にまわりくどくだらだらと言葉を進めるものであったように思われる。長歌とは、端的にいえば、言葉遊びをしながらぐずぐず言っている歌ということである。すなわち、この万16番歌に、毛利1999.の指摘する「論理性」を見ることはできないと考える。結論から言えば、この歌は、実は、結句の「秋山吾者」、アキヤマワレハだけでいい歌と考える。上に引いた岩波新大系文庫本万葉集に、助詞のソが賀茂真淵流に訓読に追加されているが、他の諸先達同様、ソの音はないものと思われる。また、標目の「御宇天皇代」は、アメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ、題詞の「内大臣」はウチノオホマヘツキミ、「艶」はエン、「彩」はサイ、「判之歌」はコトワリシウタという旧訓に従うべきであろう。

春秋競憐歌の作歌時

 この万16番歌、春秋競隣歌が歌われたのはいつのことか。題詞に「内大臣藤原朝臣」とある。これは中臣鎌足のことである。天智八年(669)十月十五日に藤原氏を賜い、翌十六日に没、天武十三年(684)に朝臣の称号を贈られている。作歌の時期は鎌足が天智八年に亡くなる以前のことである。しかも、題詞から、詩会が催されたのは確かであろう。「春山万花之艶」、「秋山千葉之彩」とある熟語から、漢詩に関係があることに間違いない。
 伊藤1983.に、「【考】春秋優劣判定歌と場」として、「その場の様相は、題詞にほぼ明らかである。「天智天皇が、内大臣(元老に与えられた呼称)藤原鎌足に命令して、春山に咲き乱れる万花のあでやかさと秋山の千葉のいろどりと、それぞれの興趣について争わせた時に、額田王が歌によって判定した」という。「歌をもちて」とことさらことわっているのは、漢詩による競争があったからである。天智天皇が上座にいる。そのかたわらあたりに女性たちがいる。大海人皇子も列席して天皇と並んでいたかもしれない。対して、下座に廷臣たちが、おそらく春側と秋側とに分れて並んでいる。その最上席に高く坐る鎌足にれんきそう命令が下される。廷臣たちは漢詩をもって争う。しかし勝負がつかない。その時、最後に、額田王が「歌」によって判定を下した。それが一六番歌なのである。」(80~81頁)とする。漢詩の会が和歌によって閉幕している。これは異常事態であると考えられるが、不思議がられていない。
 漢詩は宴席で詠まれた可能性が高い。中国の三国時代、魏の曹丕(187~226)の行った詩宴がモデルであるともいわれている。紀には東晋の王羲之(303~361)が会稽蘭亭に開いた曲水の宴の真似をしていたことも見える。

 三月上己に、後苑みそのいでまして、めぐりみづとよのあかりきこしめす。(顕宗紀元年三月)

 日本書紀は、通常、十干十二支で期日表記されている。「上巳」とあるのは、中国の風習に倣ったものである。この記事自体はあまりにも古いことなので、実際に行われたことではないと考えられている。それでも、漢詩が詠まれる席が「宴」であることを示してくれている。宴をトヨノアカリと訓むのは、豊かな酒食によって顔が赤らんでくること、すなわち、「豊明とよのあかり」に由来していて大宴会を指す。天智紀に「宴」があった箇所を探っていくと、天智七年(668)正月七日に、「宴」があったことがわかる。

 七年の春正月の丙戌の朔にして戊子[3日]に、皇太子ひつぎのみこ即天皇位あまつひつぎしろしめす。壬辰[7日]に、群臣まへつきみたち内裏おほうちとよのあかりしたまふ。(天智紀七年正月)

 記事は、七年正月三日に皇太子から天皇に正式に即位したとあり、それに引き続いて七日に「宴」があったとしている。人日じんじつの日の宴である。春秋競憐歌が歌われた漢詩の会はこの時に開かれたのであろうか。しかし、即位直後の、しかもお正月の詩会のお題としては似つかわしくない。正月は春であるのに結論は「秋山」である。また、本邦初の漢詩集とされる懐風藻に、天智天皇の皇子、大友皇子の詩が冒頭を飾っている。

  侍宴(宴に侍す)
 皇明光日月 帝徳載天地(皇明くわうめやう 日月じつげつかがやき 帝徳ていとく 天地を載す)
 三才竝泰昌 萬國表臣義(三才 べてたいしやう 万国 臣義をあらはす)

 詩の意味は、天皇のご意向は日月のように光り輝き、御徳は天地のように広く万物を覆い載せたまう。天・地・人の三才は皆やすらけく盛んで、よろずの国々は臣下として恭順の意を示している、というものである。

 懐風藻には、もう一首、大友皇子の詩が載る。

  述懐(懐ひを述ぶ)
 道徳承天訓 塩梅寄真宰(道徳 天訓を承け 塩梅 真宰に寄す)
 羞無監撫術 安能臨四海(羞づらくは監撫の術なきことを いづくんぞ能く四海に臨まん)

 日本書紀では、天智十年(671)条に次のようにあるから、大友皇子の詩はその時に作られたものかもしれない。

 是の日[5日]に、大友皇子を以て太政大臣おほきまへつきみのおほまへつきみす。(天智紀十年正月)

 これらの詩が上手なものか判断できない。懐風藻の序には、壬申の乱以前、文学の士を招いて酒宴の席で多数の君臣唱和や侍宴応詔の詩が作られたが、焼けてしまったと記されている。天智天皇自身、漢文を作ったとあるが、残されていないのだからかなり眉唾物である。彼の読み書き能力リテラシーがどれくらいあったか筆者は疑問視している。かわいい息子の大友皇子が、当時においては珍しく漢詩を作って一目置かれたために採られて残っているだけではないか。いずれにせよ、「侍宴」という詩は、詩の題や内容からいって、天智天皇即位直後の天智七年正月七日人日の「宴」で作られた可能性が高い。「春秋競憐」はそのときの詩会の題ではなかったらしい。
 では、「競-憐春山萬花之艶秋山千葉之彩」の詩題で営まれた詩会の記述がないか、もう少し日本書紀にあたる。天智紀に、「宴」の記述があるのは、他には次の二例である。

 又、舎人とねりどもみことのりして、うたげ所所ところどころにせしむ。時の人曰はく、「天皇、天命将及みいのちをはりなむとするか」といふ。(天智紀七年七月)
 五月丁酉朔辛丑、天皇、西小殿にしのこあんどのに御します。皇太子・群臣、宴に侍り。是に再び田儛たまひおこす。(天智紀十年四月)

 「競-憐春山萬花之艶秋山千葉之彩」の詩題は内大臣、藤原(中臣)鎌足に下されている。鎌足は、天智八年十月十六日に薨っている。したがって、天智十年の田儛を催した宴ではない。万16番歌と対応する紀の「宴」記事は、上の「又、舎人等……」ではじまるかなり奇妙な記事に該当するのではないか。日本書紀に記されていない詩「宴」の可能性はもちろんあるが、「又、舎人等……」の時の「宴」であると仮定してまず検討するのが歴史研究として筋である。
 舎人とは、もとは天皇や皇族に側近く仕えた従者を指し、身辺の護衛や雑務にたずさわった。律令制下では、兵衛、内舎人、大舎人、東宮舎人などと、役職や仕える相手によって細分化規定されている。ここでは下級官吏のことを指しているものと考えられる。つまり、「宴を所所に」したとあるのは、下っ端の役人が宮殿やその周辺のあちこちで芋煮会かバーベキューをしていたものと想定される。
 日本書紀に万16番歌に該当する宴はこれだけだから、これが「春秋競憐」の詩会の宴であるとして考えてみる。舎人たちは「春秋競憐」の題で詩を作るように命じられ、バーベキューをやっている。このような珍事があると、「時の人」はもうお終いだと思うかもしれない。万葉集の題詞と天智紀の記事が符合している。天皇は最初、内大臣の中臣鎌足に詔して漢詩を作らせようとした。周辺に近侍している群臣、皇子、文学の士を自認している者もあわせて、せいぜい二~三十人ぐらいであったのではないか。
 ところが、天皇の出したお題にまともに詩で答えられる者がいない。それは、漢詩の技術的なレベルの話ではなく、どこか天皇の意図した答えとは違う詩ばかりが作られた(注2)か、自ら発表するのを誰もが躊躇ったということではないか。天皇は、側近たちのあまりの不甲斐なさ、空気の読めなさに落胆し、宮廷にいる下級官吏にまでそれぞれの持ち場で詩会を営ませた。最終的に、誰一人として満足な詩を作る者がいなかった。なぜ誰もわからないのか。天皇は苛立ったことだろう。そこでやむなく、伝家の宝刀、額田王に登場願ったのである。詩題を出しているのに詩では答えられず、やまと「「歌」を以てことわりし「歌」」が作られた。とんでもない詩会の結末である。天智七年秋七月、近江宮のことであった。

春秋競憐歌の題詞

 題詞によると、額田王が「歌を以て判りし歌」とあり、いかにも額田王による裁定が下されたように見える。しかし、初期万葉の原則どおり、額田王は、宮廷社会の共通認識、共通感覚を歌によって宣言(宣伝)したものと考えられる。歌からすれば、天智天皇の代詠と考えて間違いない。額田王は政府のスポークスマンなのである。すると、天皇は詩会の題として、「春山万花之艶」と「秋山千葉之彩」とを「競憐」させて尋ねておきながら、天皇自身が判定していることになる。天皇は、「春山万花之艶」と「秋山千葉之彩」とを「競憐」してみたとしたら、朕がどう考えるか当てて見よと問うているのである。答えは初めからわかっている。
 これは不思議なことではない。額田王の歌の内容が最初から「秋山」一辺倒に軍配を上げながら進んでいるからである。歌はこの一首のみ、反歌はない。歌い切られている。答えが決まっているものに、反歌で追加説明するほど野暮なことはない。
 問いは「内大臣藤原朝臣」に対して投げかけられた。それは、理由があってのことであろう。万3・4番歌の「狩りの歌」の題詞に、「間人連老」とあって、意味のある使者の役割を担っていたことが確認されている(注3)
 「大臣藤原朝臣○○」とあるのを見れば、言い伝えの文化のなかに暮らしていた飛鳥時代の人々にとっては、「うち朝臣あそ」(紀28・29番歌)=武内たけしうちの宿すくのことをイメージしていた。忠臣であったとされる武内宿禰に中臣鎌足を準えている。
 家伝上には次のようにある。

 白鳳五年、秋八月、詔して曰はく、「道を尚び賢に任ずるは先王のつねのりなり。功をあつめ徳を報ずるは、聖人の格言なり。その大錦冠、内臣うちつおみ中臣連、功は建内たけしうちの宿すくひとし。位未だ民の望みに充たず。紫冠に起拝し、八千戸を増封す」といふ。

 また、続日本紀によると、慶雲四年(707)四月、文武天皇は藤原不比等に向かって、父親の藤原鎌足が先の孝徳天皇に仕えたことを「建内宿禰命たけうちのすくねのみこと」が仕え奉るのと同じようであったと公然と語っている。

 壬午に、みことのりしてのたまはく、「天皇すめら詔旨おほみことらまとりたまはく、みまし藤原朝臣のつかまつさまは今のみに在らず。けまくもかしこき天皇が御世御世みよみよ仕へ奉りて、今も又まへつきみと為て、あかきよき心を以て、われを助け奉り仕へ奉る事のいかしきいたはしき事をおもほし御意みこころ坐すに依りて、たりまひてややみたまへば、しのぶる事に似る事をしなも、つねいたはしみいかしみおもほし坐さくとりたまふ。又難波大宮に御宇あめのしたしらしめしし掛かけまくも畏き天皇命すめらみことの汝の父藤原大臣の仕へ奉りける状をば、建内宿禰命たけうちのすくねのみことの仕へ奉りける事と同じ事ぞと勅りたまひて、治め賜ひうつくしび賜ひけり。是を以てのりふみせたるをあとと為て、令のまにま長くとほく、今、始めて次次に賜はりかむ物ぞと、食封へひと五千戸いちへ賜はくと勅りたまひおほみことを聞きたまへとる」(詔2)とのたまふ。

 宣明体で書かれている。「藤原朝臣」と後に贈られた称号があっても、当時から事実上そのように呼ばれていたのだろう。あるいは、春秋競隣の詩会を境に、宮廷人にとっての「常識」として無理強いされたものかもしれない。
 武内宿禰(建内宿禰)は記紀のなかで大活躍している。記紀の間に少なからず相違点がある(注4)。ここでは記紀の話の筋を大づかみすることにする。神功皇后と応神天皇の時代のものである。
 仲哀天皇と神功皇后は、熊襲を討とうと筑紫へ赴いた。その地で皇后は神憑りする。忠臣の武内宿禰が琴を弾き、トランス状態の皇后に神のお告げを求めた。すると、新羅を帰属させよと言われた。古代には、琴の音にひかれて神が影となって依り憑くと考えられていたらしい。しかし、その言葉を仲哀天皇は真に受けなかった。よって、神の怒りを買って亡くなってしまう。人々は畏怖して贖罪の品々、ぬさを神に捧げた。すると今度は、いま皇后のお腹のなかにいる御子が国を治めるべきであると告げた。神のいうとおりに軍を整え、臨月のお腹に石を当てて産まれないようにして出兵したところ勝利した。筑紫国へ帰ると御子が生れたので皇太子にした。後の応神天皇である。
 ところが、大和へ凱旋しようとすると都の情勢があやしい。皇后側は喪船を用意して、皇太子はすでに死んだように見せかけた。すると、皇太子の異母兄に当たるかごさかのみこ(香坂王)とおしくまのみことは謀反を起こしていた。二人は戦いに勝ち目があるかどうか知るために「うけひがり(うけひ獦)」をした。古代の占いの一種である。先に結果を誓っておいて、そのとおりになるかならないかで将来予測をしたものである。言と事とが一致するとする言霊信仰の賜物である。

 時にかごさかのみこおしくまのみこ、共に菟餓野とがのでて、うけひがりして曰はく、〈祈狩、此には于気比餓利うけひがりと云ふ。〉「し事を成すこと有らば、必ず良きししを獲む」といふ。(神功紀元年二月)

 そのとき、大きなイノシシが出てきて麛坂王を食い殺してしまった。これは悪い兆である。しかし、慎むことなく忍熊王は戦いを挑んだ。皇后・皇太子側は武内宿禰らが軍事を司った。武内宿禰に追い詰められて忍熊王は近江の瀬田川に投身自殺げした。そのとき辞世の歌を歌っている。

 いざ吾君あぎ 五十狭茅さち宿すく たまきはる 内の朝臣あそが 頭槌くぶつちの いたはずは 鳰鳥にほどりの かづきせな(紀29)

 「五十狭茅宿禰」とは忍熊王方の将軍である。武内宿禰の手痛い攻撃を受けないとは、ニオドリのように水に潜ってしまうことだ、と歌っている(注5)。比喩的な枕詞「鳰鳥の」が終わりの方にある切羽詰まった歌である。これを聞いた武内宿禰は応じている。

 淡海あふみ 瀬田せたわたりに かづく鳥 目にし見えねば いきどほろしも(紀30)

 近江の琵琶湖の瀬田の渡し場で、潜る鳥が水中のどこにいるのか見えなくなったので心配だ、と言っている。数日して下流の宇治川に死体が上がった。武内宿禰はもう一度歌っている。

 淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上たなかみ過ぎて 菟道うぢとらへつ(紀31)

 「田上たなかみ」とあるのは瀬田付近の地名である。琵琶湖から流れ出る川が瀬田川で、やがて宇治川と名を変え、さらに木津川、桂川と合流して淀川となって大阪湾へ注ぐ。
 これら三つの歌には「淡海(近江)」、「鳥」という言葉が見られた。「鳰鳥の」という言葉は、枕詞として「近江」を導くことがある。以上が近江朝で歌われた万16番歌の題詞の前半に関する典故となっている。
 題詞の後半の詩題に当たる部分にも典故がある。応神記に、「秋山あきやました壮夫をとこ」と「春山はるやま之霞のかすみ壮夫をこと」の説話が記載されている(注6)。秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫は兄弟の間柄である。「伊豆志袁登売いづしをとめ」という女神がいて、大勢の神々がプロポーズしてはみな振られていた。兄の秋山之下氷壮夫もその一人であった。兄は弟の春山之霞壮夫に向かって、もしお前が伊豆志袁登売と結婚することができたら何だって呉れてやるよと言った。春山之霞壮夫はそのことを一部始終母親に話し、その晩、母は「藤のかづら」を使って衣服や弓矢を作った。そして次の日に、春山之霞壮夫を伊豆志袁登売のもとへやった。すると衣服も弓矢も藤の花に変わった。藤の花を洗面所に掛けておいたところ、不思議に思った伊豆志袁登売は部屋に持って入った。その後をついて行って契りを交わし、一人の子が生れた。
 帰ってきて兄の秋山之下氷壮夫に婚姻がうまくいったことを話したが、兄は約束を果たさなかった。弟の春山之霞壮夫は母親に相談した。母は、神々にならって言葉どおりに行動しない兄を怨み、石に塩をまぶして竹の皮にくるんだ。そして、弟にのろいの言葉を言わせた。この竹の葉が青いように、萎えてしおれるように衰えてしまえ、塩に水気が奪われて干からびるように痩せこけてしまえ、石が沈むように病に臥せてしまえというのであった。兄の秋山之下氷壮夫は八年にわたって病み衰え、泣いて許しを請うた。母は呪いの石を取り除き、兄の体は元通りになったという。
 弟の春山之霞壮夫が言った呪いの言葉の最初の部分には、次のようにある。

 の竹の葉の青むが如く、此の竹の葉のしなゆるが如く、青み萎えよ。(応神記)

 「青」という語は、白川1995.が、「古くは黒から白までの中間の暗色をいい、「あをうま」は〔和名抄〕に「靑白のまじはれる毛の馬なり」、〔新撰字鏡〕にも「白色、又靑色」とする。」(99頁)と解説するように、竹の葉っぱが干乾びて灰青色に縮れているようなことを指すようである。
 以上により、「秋山」、「春山」、「青」という言葉の関係性が理解された。
 もうひとつ、「千葉」の典故がある。国讃め歌のなかに、やはり応神天皇が近江へ幸するときに、宇治付近で歌った歌がある。

 千葉の かづを見れば ももる にはも見ゆ 国のも見ゆ(記41・紀34)

 春山之霞壮夫が母親に作ってもらった衣服や弓・矢は、「藤の葛」でできていた。葛野と関連する事柄になるのであろう。これらの言葉は題詞に関する典故となっていて、額田王はそれらを踏まえて歌を歌っている。歌を聞く人たちが皆、常識として知っていることだから典故となり得るのである。

三重の三者関係

 三つの典故の出典は、いずれも記紀の応神天皇に関連する箇所にあらわれる。その理由は、応神天皇と母親の神功皇后の間の関係に由来する。偉大なる母とその子の関係が、斉明天皇とその子の関係に準えられているのである。大和三山の歌(万13~15)でも歌われていた天智天皇(中大兄)お気に入りの三重層の三者関係が成立している。今回は、額田王による代詠という形をとっている。彼女は天皇に成り代わって天皇の言いたいことを歌っている。
 忍熊王と応神天皇は異母ではあるが兄弟である。母は神功皇后。応神記の秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫も兄弟である。母は「其の母」とだけ記されている。天智天皇と「皇太弟ひつぎのみこ」の大海人皇子とは兄弟である。母は斉明天皇。この三つの三者関係は、母と兄弟というパラレルな関係にある。言い伝えの二つの話は、いずれも弟側が母親の協力、援助によって兄を滅ぼし、苦しめる形になっていた。天智天皇はその治世の七年(668)七月にどう解釈していたか。
 肝心なのは、天智七年七月のある日、近江宮において天智天皇の頭のなかに描かれていたことである。その脳味噌が近江宮の人々に伝染しかけていたことだけがヴィヴィッドな言い伝えであって、「春秋競憐歌」の真相といえる。
 神功皇后の西征の伝説と秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫の説話の間には、はっきりと共通する部分がある。母と二人の兄弟の話である。共に兄は弟に負けている。また、神のいうことを聞かなかった者が死んだり病に羅っている。この三点は揺るぎないものである。すなわち、兄である天智天皇の運命は、忍熊王や秋山之下氷壮夫と同じである。弟の大海人皇子の運命は、応神天皇や春山之霞壮夫と同じである。天智天皇が少々ノイローゼ気味になっているのは、母親の斉明天皇が亡くなって、庇護、保護してくれる人がいなくなって、独裁者の孤独に陥っていることが大きな要因であるらしい。連想が連想を呼んで、妄想へと発展していったようである。

 万16番歌の題詞の大意は、忍熊王に当たる天智天皇は、近江の地へ追いやられて敗北させようとしている武内宿禰に当たる内大臣藤原鎌足に詔を下した。弟に当たる応神天皇、春山之霞壮夫、大海人皇子と、兄に当たる忍熊王、秋山之下氷壮夫、朕天智天皇とを比べて、どちらがすばらしいか申し述べさせた。そのとき、額田王が、割って入って歌によって筋道を立てて説明した歌。
 万16番歌の歌の大意は、春山之霞壮夫こと、大海人皇子がやってくると、鳴かなかった鳥も鳴き、咲かなかった花も咲いて宮廷は盛んなようだが、奴は山が茂るように権勢をふるっているからこちらは何も満足いくようにならない。草が深いように人望が厚いから誰も朕の言うことを聞かない。秋山之下水社夫の宝である子供たち、とりわけ大友皇子はすばらしいと思う。今のように青く妻えてしおれるようにと放って置かれているのを嘆き、まったく恨めしいばかりだ。朕、天智天皇とは、滅びる運命にある秋山之下水吐夫ではないか。
 詩題になかった「鳥」が出てくるのは、言い伝えを再生するためのキーワードだからである。ただし、これらの言葉に言い伝えの意味合いは含まれていない。無文字社会の宮廷人にとって、歌のなかでは言葉の音こそ重要である。「とり(トは乙類)」は「り(トは乙類)」に通じている。アクセントは一致しないが、わざとらしい駄酒落で強調したいだけでその方がかえって都合がいい。神功皇后、忍熊王、武内宿禰、応神天皇の登場する記紀の話は、題詞の前半において典故として使われている。天智天皇は、この話が偉大な母とその子供の関係にあることから、同じ応神記に載る春山之霞壮夫と秋山之下水壮夫の兄弟の説話を持ち出して謎掛けをしている。なぞなぞが詩題であり、なぞなぞを解いた答えを漢詩に作らせようとしたのであったが、結局、額田王が、漢詩ではなく歌によって解説した。すなわち、ことわりを述べたのである。なぞなぞの種明かしが彼女の歌であった。
 歌は、春山之霞壮夫と秋山之下水社夫の兄弟の説話を下敷きにしている。その説話を主題にしながら、忍熊王と応神天皇、天智天皇と大海人皇子という二組の兄弟を連関させて歌っている。大海人皇子の勢いが強いので、天皇である自分の思うどおりに宮廷が動かないこと、特に、息子の大友皇子を後継に指名したいがうまくいかないと言っている。「千葉」は応神天皇の国讃めの歌に登場するのだから讃められてよい存在を示すのであろう。大海人皇子も、大友皇子は漢詩が上手いと讃めたことがあったのではないか。
 歌の最後の「秋山我は」とは、額田王が、私は秋山のほうが趣深いと思いますという意味ではない。天智天皇が、まったく自分は、「秋山之下水社夫」そっくりだ、と言っている。神罰を受けて滅びる存在だと嘆いている。何を弟の大海人皇子に誓ったかといえば、言うまでもなく、後継指名である。次の天皇たらんと「皇大弟ひつぎのみこ」に大海人皇子を当てているのにその誓いを破り、言行一致を基とする神に背いて、息子の大友皇子に位を譲りたい。そういう願いをスポークスマンたる額田王に歌わせている。
 藤原鎌足以下、群臣、舎人に至るまで、言い伝えを知っていて、天皇が何を聞いているのかわかっていただろうが、答えることはできなかったのであろう。額田王の最後のほうにある「青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし」は、言い伝えにある呪いの言葉どおりである。弟の大海人皇子(春山之霞壮夫)が兄(秋山之下水社夫)を呪っているという声が聞こえてくると言っている。こんな楽しくないテーマで、そもそもが稚拙な水準の漢詩の詩会を開かれた日には宴も盛り上がらない。問いただされた鎌足など、飲むほどに青白くなる「豊青とよのあをみ(?)」であったろうし、舎人もいい迷惑である。時の人が「天皇、天命将及乎。」(天智紀七年七月)と言うのも無理はない。問題はバーベキューという珍事にあるのではなかった。気が変になった為政者にあった。
 額田王は業務上やむを得ず歌ったのであろうけれど、嫌がっている素振りはない。天皇の意を酌んで歌っている。「判」という語には、判定を下すという以前に、漢詩の詩会に割って入ったというメタ・メッセージも含まれていると考えられる。にっちもさっちもいかなくなってしまったからご登場いただいた次第であろう。両義的な歌い方をしている。駄洒落を使って「ことわる」ことができた。判定を下したのではなく、天皇の言いたいことを筋道を正してきちんと言い、わかる人にはわかるように、わからない人にはそのままに、わかりたくない人にはおとぼけに、事態がそれ以上険悪になって揉め事にならないようにした。事を割ったのである。それで宴はお開きになった。さすが見事なお手並みである。
 白川1995.に、「ことわり〔理・義・辞(辭)〕 ものごとが、そのうちに備えている道理・筋道をいう。動詞「ことわる」(四段)の名詞形。「ことわる」は訓読語にみえ、「ことる」が原義で、筋道を立てる、判断するなどの意。道理のような抽象的な意味は、道義のようにそれを人倫の上に及ぼしていることとともに、その拡張用法であろう。のち拒絶する、また謝罪するの意となるが、上代にはその用法はみえない。コ・トは乙類。」(334頁)とある。
 家伝上に、次のようにある。

 七年正月。即天皇位あまつひつぎしろしめす。是に天命開別天皇と。朝廷に事無く、遊覧是れを好み、人に菜色无く、家に余蓄有り。民みな太平のみよと称す。帝、群臣を召し、浜楼に置酒して、酒酣たけなわに歓を極む。是に大皇弟、長槍を以て敷板を刺し貫く。帝、驚き大きに怒りたまひて、将に執害せんとしたまふ。大臣、固くいさめ、帝、即ち止む。大皇弟、初めて大臣が所遇の高きを忌む。茲より以後、殊に親びを重ぬ。後、壬申の乱にあたり、芳野より東土に向ふに歎きて曰はく、「若し大臣生きて存りせば、吾、豈この困びに至らんや」とのたまふ。人の思ふ所、ほぼ此のたぐひなり。

 家伝の伝えるいさかいの原因については、筆者の推測では、とりあげている天智七年七月条の悪酔い事件の時のことを語っているような気がしてならない。天智紀の「又、舎人等……」の奇妙な記事の前には、「又、浜台はまのうてなもとに、もろもろのうを、水を覆ひて至る。」とあり、家伝の「浜楼」と同じところではないかと思われる。琵琶湖に面したデッキであろう。
 それはさて、この歌は言い伝えの再現である。言い伝えが現在に甦ってきている。しかし、応神記の秋山之下水社夫と春山之霞壮夫の説話など、なにもわざわざ甦らせなくてもいいような話である。実際、歴史書の体裁を整えようとした日本書紀には採られていない。初期万葉当時の人は、そういう形で言い伝えを信じていたと思われる。捉えようによって形を変えるのが言い伝えであって、固まっていて縛られるだけのかせではなく、もう少し自由度のある檻のようなものであったらしい。
 記紀の伝説が、後の時代の史実を基にして虚構されたとする説が近年よく見られる。また、歌にも仮託された歌という言い方で解釈しようとする向きもある。しかし、それらは、文字を学び、中国の文化の影響を強く受けた後の事態であろう。初期万葉の時代、飛鳥時代は、言い伝えが言葉(音)として空中を舞っているだけであった。文字はほとんど使われていない。皆言い伝えを諳んじていて常識となっていた。常識の方を後から作りかえることは難しい。文書を改竄することはできても、人々の記憶の中身を取り換えるには覚えている人々が死ぬこと、覚えていることが伝わらぬようにすることが必要である。無文字文化では必ず言い伝えは言い伝えられるから常識を替えることはできない。文字の時代に突入すれば、言い伝えは記録されて済んでしまい、言い伝えられなくなる。おそらく、奈良時代の後半になっても識字能力を得ることができずに取り残された人を除いて、宮廷社会の中心にいる人たちは律令国家の官僚として再出発し、すべての事柄は文書化されていった。そうなるとかえって改変も削除もたやすくなる。頼るところは文字に写された言葉だから、書かれているところを改竄すれば仮託も潤色も修文も造作も容易に行えることになる。とはいえ、史書である日本書紀に対して、意図的にそのようにしていった形跡はあまり見られない。ことことであることをモットーとする言霊信仰が残存していたらしく、紀には古訓なるものが伝えられた。古訓とは、平安時代から読みならわされているとされるが、もともとの言葉をそのまま留めようとする志向であったものと思われる。すなわち、古訓とは、当時の言葉そのもの、空中を飛び交うしかなかった無文字時代の音としての言葉、ないしは、飛鳥時代の新語、いわゆる和訓を含めたヤマトコトバを留めたものである。万葉歌にも現れる和訓語は、歌われて空中を飛び交ったことであろう。文字表記からの歴史研究が全盛であるが、古訓からの歴史研究こそ古代史に肉迫することのできる唯一の方法である。
 初期万葉の時代の歌と言い伝えの関係は、仮託されたものではなく、蘇生されたものであった。都合によって言い伝えに準えるように生きていた。ふるきをたずねて新しきを知るとは、文字の時代、歴史の時代の産物である。言い伝えが生きているという意味は、古い言い伝えに準じながら、新しい言い伝えを順次再生産、増殖させていっていた時代ということでだろう。飛鳥時代の宮廷社会の人びとの精神世界は、言い伝えという培養地のなかにあった。無文字社会の古代人の知恵の最後の爛熟が、記紀万葉の散文、韻文である。それは、文字化、律令化による知識の時代への突入によって駆逐される運命にあった。言葉を使うにしても使う脳の部位が異なるということである。

「中大兄」という呼称

 日本書紀には、明らかに話し言葉が記されている箇所がある。天智天皇(中大兄)という人の話し言葉の言説には、論理的にみて奇妙なことが多く感じ取れる。行動にも不思議に思えるところがある。古代史研究において重要な点と思われるが、これまであまり論じられていない。ここでは、中大兄という呼称について触れておく。
 今日の歴史学に、大兄制というものがあったとする議論がある。井上1965.(184~188頁)は「大兄に関する具体的な意味内容を三つ指摘され、その第一は山背大兄王を除くと、大兄はみな天皇の長子であり、もしくはそのただ一人の子であること、第二は大兄は、生来、天皇たり得べき出生身分であったと考えられるふしがあること、第三は大兄の実例は五世紀の履中にはじまり、七世紀中葉の中大兄皇子の世代に終わっていること、の三点である。そして、大兄の制は日本古代の皇位継承法の一つの制度であると位置づけられた。」(158頁)とまとめ、本間2014.は「大兄の制について六・七世紀における政治過程の中で歴史的意義づけをするならば、令制における皇太子制度が成立するまでの中継的制度として捉えることができる。新王朝である継体朝によって長子相続的観念を内包的にもっていた大兄の制は、皇太子の原初的形態として位置づけることができると考える。」(78頁)としている。
 大兄制なるものの政治的体制については未詳である。紀の「大兄」の傍訓には、オホエばかりでなくオヒネなるものがある。中大兄についてはオヒネという傍訓はないようなのでここでは考えないが、一般に称呼される「中大兄皇子」なる言い方は紀にはない。すべて「中大兄」である。本間2014.の指摘では、門脇1969.を先行論としながら、「皇極四年六月条と孝徳即位前紀にみえる「以中大兄、為皇太子」は、「以葛城皇子、為大兄」と考えた方がより妥当であり、葛城皇子が大兄の地位についたのは蘇我本宗家滅亡後であり、いまだ古人大兄皇子は存在するが……山背大兄王の時と同様に実質的な大兄の地位にはなかったと考える。」(160頁)としている。令制の皇太子制を大兄名称に忠実に投影し、つまり、初めに大兄制ありきと仮定している。しかし、孝徳即位前紀にある「以中大兄、為皇太子」は、「立大兄去来穂別尊、為皇太子」(仁徳紀三十一年正月)とよく似ている。大兄去来穂別尊おほえのいざほわけのみことは後の履中天皇である。そうなると、大兄とは、いちばん上の兄さん程度の意味合いの言葉に思える。そして、中大兄という名は、葛城皇子の別称、綽名(渾名)の類なのではないか。綽名とは何かについて、市村1987.は次のように考究する。

 「綽名」は、……侮辱とさらには愛着と賞讃とを含む、他者への変形作用を担う名前であった。綽名は、づけが本来あだやおろそかに行われるわけにはいかないことを端的に示している。それは対象への周到な観察と的確な表現、つまりは批評力を要請するのである。いうまでもなく綽名には、見立てや喩えやもじりや読みかえなど種々様々の手法が動員されるが、いずれにしても対象の性質や姿形や仕種や癖などについての鋭利な批評によって、その決定的な特徴が抽き出され強調されなければならない。……綽名におけるこの批評力は、賞讃ばかりでなく、よりいっそう悪態や非難に際して充分に発揮されなければならない。相手の存在の核心に的中しなければ、嘲笑や揶揄の効果は挙がらないのであって、したがって悪口の最大限の効果のためには、相手への最大限の関心の注入と微細にわたる注目の集中とを必要とするのである。したがってまた、綽名をつける能力の衰弱は、間違いなく社会における相互的関心の稀薄化と批評感覚を含む文化水準の低落とを意味しているのだろう。(142~143頁)

 中大兄という呼称は、これまで提唱されてきたいくつかの説、「中」は中心の意でもなければ、王子女の長幼を「大」「中」「稚」で表したものでもなければ、二番目の大兄、すなわち皇位継承有力候補者の二番目という意味でもない。神功皇后のお腹の中にいたときから、天皇になることを約束されていた応神天皇(誉田ほむたの天皇すめらみこと)、継体紀に「胎中はらのうちにまします誉田ほむたの天皇すめらみこと」(継体紀六年十二月)、「胎中ほむたの天皇すめらみこと」(同二十三年四月)、「胎中之帝ほむたのすめらみこと」(同六年十二月・宣化元年五月)とも記される人に肖ったものであろう。次期天皇は忍熊王になっていたかもしれないところ、神功皇后や武内宿禰が排除してくれたのであった。大化改新のクーデターは、百済・新羅・高句麗のみつのからくに調みつきを進上する儀式のときに、蘇我入鹿を血祭りにあげて始まった。入鹿斬殺を目の当たりにした古人大兄の発言は注目される。

 古人大兄、見て私の宮に走り入りて、人に謂ひて曰く、「韓人からひとくらつくり臣を殺しつ。〈からの政に因りてつみせらるるを謂ふ。〉吾が心痛し」といふ。即ち臥内ねやのうちに入りて、かどして出でず。(皇極紀四年六月)

 分注は洒落ている。もちろん、外交使節や渡来人が刀を振るったのではない。三韓の調みつきという設定も、暗殺のために剣を解かそうという策略であった。古人大兄はそのような計略が巡らされていることを知らない。びっくりして私邸に戻り、入鹿のことを「鞍作」、中大兄のことを「韓人」と綽名で呼んでいる。「韓人」が「三韓上表」の際に殺人事件を起こしたということである。新羅親征をした神功皇后と胎中の応神天皇のことが念頭にあってのことだろう。古人大兄の発言をそのまま記したために、言葉の無秩序化を逃れようとしてわざわざ回りくどい注を加えている。
 万葉集の最初の編者が、宝皇女(皇極・斉明天皇)の歌の作者に付けたニックネームは、「中皇命」であった。新羅親征を果たすことなく神の怒りを買って亡くなった帯中日子天皇たらしなかつひこのすめらみこと(足仲彦天皇)(仲哀天皇)に由来するものである(注7)。たいへん皮肉な名づけ方である。結果的に「中」の字が母子とも仲良く並んでいる。そして、ともに「名前」と呼べるものではなく、抽象的な概念語ばかりの熟語である。中大兄は、当初、「葛野皇子」(舒明紀二年正月)と記されている。葛野であれば、カヅラの生えている手つかずの自然が残っている場所を表す(注8)
 「中皇命」や「中大兄」という名前には、人としての経験の跡が見られない。母子紐帯ばかり際立っている。そう綽名した人からすれば、二人が「人」ではない、と思えたからでもあろう。古人大兄は「吾心痛矣。」と言っている。心ある人である。自らの手で殺人に及んでおいて平気でいる神経は人としてわからない。わからない人を収めるのに、抽象語で定めるのはうまい方法である。自らを神功皇后に準えている「中皇命なかつすめらみこと」に、生まれた時から次期天皇筆頭候補だよとかわいがられた坊やは、うまい具合に「中大兄なかのおほえ」と綽名されていた。紀に一箇所も「中大兄皇子○○」と記されないのは、「中大兄」が的確な綽名としてすっぽり極まっていたからに相違あるまい。大兄という敬称は、決して天皇になることを約束されたものではない。直木2009.は、「……要するに「大兄」の使用は、史料の語る所では六世紀前半の勾大兄にはじまって七世紀後半の中大兄に終り、元来は皇位継承にかかわる有力な皇子の地位を示す称号であったが、時とともに重みを増して太子に準ずる地位を示すようになり、それとともに「大兄」の称号に尊敬の意味が加わり、中大兄に至っては太子とほとんど同意となったのであろう。大兄制の成立といえるかもしれない。」(258~259頁)とする。最後の「大兄」をもって大兄制の成立とするというのはかなり逆説的な議論であるが、筆者はそれに同意見である。歴史は、斉明天皇の神功皇后に成り損ねの朝倉宮での崩御、白村江の敗戦、唐からの使節団の要請受け入れへと流れた。武内宿禰に成り損ねでもそれらしく振る舞った内臣うちつおみ、内の朝臣あその中臣鎌足によって、宮廷社会の人々の精神の上では世界秩序は保たれていたということであろう。保たれていたから白村江のA級戦犯者たちが近江朝を成している(注9)
 万16番歌において、その精神上の安定を自らが冒してしまおうとする考え、即ち、次期天皇には、「皇弟すめいろど」(孝徳紀白雉四年是歳・同五年十月)=「大皇弟ひつぎのみこ」(天智紀三年二月・七年五月)、すなわち、弟の大海人皇子(後の天武天皇)をと神に誓った約束を破り、自分の息子の大友皇子に継がせたいという考えが沸き起こった時、「又命舎人等、為宴於所々。時人曰、天皇、天命将及乎。」と揶揄されるに至ったのである。そして、「額田王、以歌判之歌」が披露され、お恥ずかしい幕引きとなった。言い伝えは、いわばなぞなぞの形をとって人々の観念に作用していたのであった。

(注)
(注1)本文の訓みの疑義については、拙稿「額田王の春秋競憐歌、「山乎茂入而毛不取草深執手母不見」の訓みについて」参照。
(注2)お題に対してその意図を汲んでいるかどうかをみる傾向は、歌会において行われていたと考える。拙稿「令和の出典、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」について─「令」が「零」を含意することを中心に─」参照。
(注3)拙稿「狩りの歌(万3・4番歌)と舒明天皇即位について」参照。
(注4)言い伝えられたものを後に記録したものであるから違うのは当然であろう。紀が、「神代巻」においていくつも「一云」なる異伝を伝えているのは、編纂時に脚色したものがあるかも知れないが、言い伝えた人の系列が違う点も見逃せないだろう。
(注5)世にズハの用法と誤解されているが、格助詞ハが前後をつないでいるにすぎない。~でないのはどういうことかというと~である、の意である。痛手を負うよりも入水して死んだほうがましだ、と解しては、水死体を発見できずに「憤る」という歌に続かない。拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」参照。
(注6)記に次のようにある。この説話自体で何を表しているのかについては、諸説あるが未詳と言わざるを得ない。

 かれの神のむすめ、名は伊豆志袁登いづしをと売神めのかみいましき。故、八十やそかみ、是の伊豆志袁登売を得むと欲へども、皆ふこと得ず。是に、ふたはしらの神有り。は秋山之下氷壮夫とひ、おとは春山之霞壮夫とふ。故、其の兄、其の弟に謂はく、「あれ、伊豆志袁登売を乞へども婚ふこと得ず。なれ、此の嬢子をとめを得むや」といふ。答へて曰く、「易く得む」といふ。爾くして、其の兄曰く、「若し汝、此の嬢子を得ること有らば、上下かみしも衣服ころもり、身のたけを量りてみかの酒を醸み、亦、山河の物をことごと備設けて、うれづくをむ」といふ。云ふことしかなり。
 爾に、其の弟、兄の言の如、つぶさに其の母に白す。即ち其の母、ふぢかづらを取りて、ひと宿の間に、きぬはかましたぐつくつとを織り縫ひ、亦、弓・矢を作りて、其の衣・褌等をせ、其の弓・矢を取らせて、其の嬢子の家につかはせば、其の衣服と弓・矢と、悉藤の花に成れり。是に、其の春山之霞壮夫、其の弓・矢を以て嬢子の厠にけき。爾に、伊豆志袁登売、其の花をしと思ひてち来る時に、其の嬢子のしりへに立ちて其の屋に入り即ち婚ひき。故、一の子を生みき。
 爾に、其の兄に白して曰はく、「吾は伊豆志袁登売を得つ」といふ。是に、其の兄、弟の婚ひしことを慷愾うれたみて、其のうれづくの物をつくのはず。爾に、愁ひて其の母に白す時に、御祖の答へて曰く、「我が御世の事、能くこそ神を習はめ。又、うつしき青人草を習へや、其の物を償はぬ」といひて、其の兄の子を恨みて、乃ち其の伊豆志いづしかはの河島のひとだけを取りて八目やめあらを作り、其の河の石を取り、塩にへて其の竹の葉につつみ、とごはしむらく、「此の竹の葉の青むが如、此の竹の葉のしなゆるが如、青み萎えよ。又、此の塩の盈ちるが如、盈ちよ。又、此の石の沈むが如、沈み臥せ」といふ。如此かく詛はしめてかまどの上に置きき。是を以て、其の兄、八年の間、萎え病み枯れぬ。故、其の兄、患へ泣きて其の御祖にまをせば、即ち其の詛戸とごひとを返さしめき。是に、其の身は本の如、安く平らけし。此は、かむうれづくのことの本なり。(応神記)

(注7)拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
(注8)市村1987.に次のようにある。

 ある空間や場所への命名が、ただの標識ではなく、人々のそれに対する感覚や願望を要約し、生活経験の痕跡をとどめるものであるとすれば、たとえば近代日本の首都の名前は一体何を含意するのであろうか。維新時の「詔書」によって名づけられた「東京」は、そもそも地名と呼ぶにたるものだろうか。ほかでもない「江戸」と比較してみればよい。江戸という地名がどこまで遡ることができ、何に由来するかは必ずしも明確ではないとしても、少なくともその名が、「水門(水戸)」などと類を同じくすること、つまり入江の河口を示唆する。そういう生活的基盤に根をおろしていることは間違いない。いかに世俗化され洗練され、あるいは忘れられようと、その名前はかつて河口で営まれたであろう集落生活の痕跡を背負っている。
 これに対して「東京」とは何か。すでに明治初年に、「東京ハ東ノ都ト謂フコトニシテ地名ニハ非ルナリ。東京ノ地名ハ猶江戸ナルベシ」と主張されていたように、東京とは「東ノ都」という以外の何の意味ももたない名前であった。つまりは方向指示記号であった。ここでは地名は固有性を放棄し、物語性を失いつくしている。そうして、首都はその時代と社会の表現力を担うものとすれば、それは、物事についての伝統的な経験を背負ってきた諸々の名前を、概ね漢語を駆使した官製の用語によって塗りかえてしまおうという、明治国家の一大事業を象徴的に示すものであった。ここに、経験を含まない名前を自己の中心とする、社会と精神の体制が成立することになる。これは名前の精神史における紛れもなく一つの決定的な変質であった。
 ここでただちに想起されるべきは、日本という国名であろう。かつて「日本」が「ヤマト」にとって代ったとき、それは何を意味していたのか。「ヤマト」はヤマのフモトというその社会がよって立つ生活条件にもとづく、「くに」に相応しい名前としてあった。これに対して、「日本」という名前は質的に異なる次元において成立した。「東の方」というそれが内包する意味の抽象性が、すでにそれを示している。その名前は、一方で中華帝国の世界地図の辺境に位置づけられながら、他方で朝鮮半島に対して政治支配的な意思を露わにしつつ、自己の存在を強調する「小帝国」意識を表現するものとしての名前であった。すなわち、それまでの社会的な生活条件を制圧し、それと隔絶する統一的意思をもつ「国家」に貼りつけられるべき名前であった。そうして、明治国家がその「復古」の範としたのは、この律令国家の方であった。
 この国名がなお、内面に対する越権的な呪縛力をもちつづけているとすれば、ここでこそ、たえずホッブス的引き算を復習する必要があるだろう。すなわち、日本とは名前にすぎない、と。そして同時にそれが、名のみで姓を持たないという名前における特例的存在によって、「象徴」されていることに思い到らなければならない。(157~159頁)

 「名づけ」に見てとれる、人間と世界との関わり合い方の大きな変容は、実は古代に遡求されるとの考え方である。「東亜の小帝国」(石母田正)の考え方を引いている。確かに、「天皇」号や「日本」国号など、表面的にみれば、「名前の精神史における紛れもなく一つの決定的な変質」と言い得る。しかし、それは字面である。漢字が読めれば、テンノウ、ニホンと定まっていく。しかし、呉音読みなのか、漢音なのか、ジパングとの関わりからいっても今もってわかっていない。
 筆者は、紀に振られた傍訓、スメラミコト(コ・トは乙類)、ヤマト(トは乙類)という音こそが、飛鳥時代において実体のある言葉であるとの立場に立つ。むしろ、史官である紀の執筆者や万葉集の最初期の編者は、それをシニカルに捉え返す巧みさを備えていたと考える。言語の中心軸がオーラルなところにあった時代、権力者による抽象化とは何を意味するかすでに気づきながら、逆手にとって綽名で抵抗しているようにも見受けられる。枕詞の発表式が、歌のお披露目の場での新語のなぞなぞ大会だったと想定できるとしたら、それに類似の活動であると言うことができる。
(注9)白村江の敗戦後、朝鮮半島では百済を滅亡させるために連合を組んでいた唐と新羅が対立した。以後、唐は倭へ同盟的な関係を築きたく、百済占領軍の司令官、劉仁願は使節を派遣してきている。倭にマッカーサー的な人物が来たわけではなかった。

(引用・参考文献)
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門脇1969. 門脇禎二『「大化改新」論』徳間書店、1969年。
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小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 中』塙書房、昭和39年。
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藤澤2009. 藤澤友祥「秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫─神話の機能と『古事記』の時間軸─」『早稲田大学大学院文学研究科紀要:第3分冊 日本語日本文学・演劇映像学・美術史学・日本語日本文化』第54巻第3号、2009年2月。早稲田大学リポジトリ http://hdl.handle.net/2065/32278
本間2014. 本間満『日本古代皇太子制度の研究』雄山閣、平成26年。
毛利1999. 毛利正守「額田王の春秋競憐歌」神野志隆光・坂本信幸編『万葉の歌人と作品 第一巻』和泉書院、1999年。

2020.12.9改稿初出

熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─

 万葉集巻一・8番歌は、額田王のにき田津たつの船出の歌としてよく知られている。

  後岡本宮のちのをかもとのみやに天の下知らしめしし天皇の代〈天豊あめとよ財重たからいかし足姫天皇たらしひめのすめらみこと、後に後岡本宮に即位あまつひつぎしらしめす〉〔後岡本宮御宇天皇代〈天豊財重日足姫天皇後即位後岡本宮〉〕
  額田ぬかたのおほきみの歌〔額田王歌〕
 にき田津たつに 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)〔𤎼田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜〕
  右、山上憶良大夫の類聚歌林をかむがふるに曰はく、飛鳥岡本宮あすかのをかもとのみやに天の下知らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉の十二月己巳の朔の壬午、天皇太后おほきさき、伊予の湯の宮にいでます。後岡本宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉の春正月丁酉の朔の壬寅、ふね西征して始めて海路にく。庚戌、御船、伊予の熟田津のいは行宮かりみやつ。天皇、昔日むかしよりほしのこれる物を御覧みそこなはし、当時忽すなはち感愛の情を起す。所以そゑに歌詠をつくりて哀傷したまふといへり。すなはちこの歌は天皇の御製おほみうたそ。ただし、額田王の歌は別に四首あり。〔右檢山上憶良大夫類聚歌林曰飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征始就于海路庚戌御船泊于伊豫𤎼田津石湯行宮天皇御覽昔日猶存之物當時忽起感愛之情所以因製歌詠為之哀傷也即此歌者天皇御製焉但額田王歌者別有四首〕
 〔大意〕熟田津に船に乗って出発しようと月を待っていると、月も出、潮もちょうどよいぐあいになった。さあ漕ぎ出よう。(大系本万葉集14~15頁、漢字の旧字体は改めた)

 この歌が歌われたのは、中大兄の三山歌が歌われた後、朝鮮半島へ向けて九州の拠点に赴く途中のことである。百済の将軍からの使いによると、新羅と唐とに挟撃されて壊滅状態なので援軍が求められ、また、人質として倭国に滞在中の王子、ほうしょうを国主に立てたいとの意向であった。斉明天皇は要請を受け入れ、自ら新羅討伐の軍を率いてまず九州へと進撃する。ところが天皇は筑紫にて客死し、さらに二年後の天智二年(663)八月末、白村江の海戦で大敗を喫することになる。梶川2009.に、次のようにある。

 熟田津は伊予国温泉郡、現在の愛媛県松山市に存在した港であったと考えられる。しかし、その正確な位置は不明である。古来、多くの候補地が挙げられて来たが、近年では、松山市内の南部、来住町で発見された石湯行宮の跡ではないかとされる七世紀の遺構との関係が注目される。松山市古三津とする説が有力だったが、松山市南西部の重信しげのぶ川河口とする説も浮上して来た。
 ニキタツという地名は、ニキ・タ・ツと分析することができる。ツが港の意であることは言うまでもないが、ニキはアラ(荒) に対する語。穏やかな、という意味にほかならない。そうした形状言のニキに続くタは、名詞であろう。そこで、『万葉集』から語中にあるタの用例を求めると、田の意と見るのがもっとも穏当である。「熟」という字は、物事が十分な状態になることをも意味するが、ニキタツとは、まさにその表記の通り、理想的な田のような港の意であると見ることができる。すなわち、熟田津はラグーン(潟湖)と呼ばれる、干潟のできる港であったと考えられるのだ。人麻呂の歌には石見国「にき多津たつ」(巻二・一三一)が詠まれているが、それは「大津」などと同様、普通名詞的な地名だったということであろう。
 ラグーンとは、砂嘴などによって海の一部が外海と隔てられた湖沼のことで、八郎潟や浜名湖などがよく知られている。そこは外海からの風波を避けることができ、手頃な水深を持っていて、水底は砂や泥によって構成されているので、船が出入りする際に破損することがほとんどなかったと言う。さらに、干潟とは違って、比較的近いところによく乾いた砂堆のあるラグーンは、船底が平らな古代の船が、潮の満ち干を利用して、着岸と上下船をたやすく行なうことができたと考えられている。熱田津も、そうした天然の良港であったと見ることができる。(91~92頁)(注1)

 古代の船の様子は、埴輪や、少し時代の下った絵巻物などの資料、文献としては円仁の入唐求法巡礼行記から、充分とは言えないまでも窺い知ることはできる。技術的な進歩により、一本の太い木を刳り抜いた丸木舟から何本もの用材を使った構造船へと発展していった。今日では、遣唐使船も復元されている。石井1983.に次のように解説されている。

 遣唐使船の航路には、前期に使われた北路と第七次(七〇二年)以後に主用された南路とがあったとされている。北路は、北九州から朝鮮に渡り、以後は朝鮮西海岸沿いに北上して山東半島の北岸にたどり着くという、地乗り航法に徹したもので、朝鮮海峡と渤海海峡(または黄海の一部)横断を除けば、『魏志』倭人伝にいう「水行」で安全なコースである。これは……、五世紀に倭の五王が中国南朝へ遣使したコースと同じであり、また遣隋使船のコースでもあって、航海経験者も多かったに違いない。
 地乗り航法であれば、夜間の碇泊や食糧・薪・水の補給が随時できるうえに、荒天時の待避も容易なので、船はさして大型の必要はなく、むしろ喫水の浅い方が便利なため、航洋性などはあまり要求されなかったと思う。となると、北路では、当時内航船として主用されていた準構造船でも間に合ったし、またこの方が、頻繁な接岸や荒天時の待避にも適していたから、弥生時代の大陸交通以来、ずっと使われていたと思われる。大きさは排水量で三〇トン前後、長さ三〇メートル程度、幅三メートル前後の大型準構造船で充分と想像され、推進の主力は櫂(または櫓)三〇~四〇挺で、帆は順風時だけの補助的役割以上のものではなかったとみられよう。(19~21頁)

 さらに、東シナ海という外海を航路とする、いわゆる南路のための後期遣唐使船は、これとは少し違って構造船であったとする。円仁の入唐求法巡礼行記から見て、「中国海岸で擱座した円仁便乗の第一船は、「船はついに傾き覆りて……久しからざる頃、船また覆り、人はしたがって右にうつる。覆るに随って処を遷すこと、稍もすれば数度に及ぶ」というありさまであり、これこそ竜骨を中心に、左右にぐらつくV型船底の特徴を示すものであって、平底の船で起こる現象ではないのである。」(同26頁)と指摘する。ただし、熟田津の歌が歌われた時の船は、朝鮮半島へ地乗り航海するための準構造船であり、船底は平たかったと推定される。

船形埴輪(長原高廻り2号墳出土、古墳時代中期初頭、4世紀後葉~末、大阪歴史博物館展示品)

 歌は、そんな船がいま漕ぎ出そうとするときに歌われたと考えられている。西方へ向けて船団が再出発するときの歌、船出を鼓舞して士気を高め、航海の無事を祈った呪術的な歌と解されることが多い。ただ、月と潮の解釈をめぐっては、新大系文庫本に、「この歌は額田王の代表作として有名だが、解釈は難しい。「月待つ」とは、月の出を待つのか、満月になるのを待つのか。「潮もかなひぬ」とは、潮位が高くなって船出に具合が良くなるのか、または航行に都合のよい潮の流れになったのか。詠われている状況が把握しにくい。」(61頁)と簡潔にまとめられている。現在のところ優勢な説では夜の船出が想定され、月が出て明るく、しかも満潮であって、万事順風満帆の意と解されている。
 また、五句目の「今は漕ぎ出でな」のナは、自分の行為については希望や意思を表し、自分たちの行為については勧誘を表わす助詞である。力強く歌い切っている。左注の人のように、斉明天皇の作った歌であると錯覚されるほど、額田王は天皇の代詠を見事に果たしたとされている。なお、左注の初めに見える舒明天皇の伊予行幸の年次には誤りがあるとの指摘もある。
 現在の学説では、四句目の「潮もかなひぬ」とある助詞のモについて、並立の意味として月も潮もかなったという意味にとっている。古橋1994.は、「……「月待てば潮もかなひぬ」は現代語に置き換えるとわかりにくいが、…… 月待てば 月もかなひぬ/潮待てば 潮もかなひぬ という繰り返し表現の変形とみれば、内容がよく理解できる。したがって、短歌もこの[口誦の古い歌謡に見られる]繰り返しという表現法を踏まえていると考えていい。もちろん、月と潮の干満は関係しているからこのような表現がある。」(48頁)と発展的に捉えている。現代語に置き換えるとわかりにくいからと、テキストに手を入れる立場に筆者は立たない。
 潮汐や海流の見地からの検討としては、松山付近では月の出や月の入りから三~四時間ほどで満潮になる。また、潮流は満潮、干潮よりも一~二時間早く、北東流最盛時刻、南西流最盛時刻を迎えるとされている。そこで、満月の頃の深夜の船出がふさわしいとする説がある。阿蘇2006.の整理に、「月の出と満潮の時刻の差のなるべく近い日ということで、三月十九日の深夜と考えた。……*参考 松山港の月の出と満潮の時刻(昭和五十六年の松山港)。/三月十七日 月の出、午後八時二十六分。 満潮、午後十時三十九分。/三月十八日 月の出、午後九時二十分。 満潮、午後十一時十一分。/三月十九日 月の出、午後十時十四分。 満潮、午後十一時四十八分。」(68~69頁)とある。タイミング的にぴったりする時点の可能性は、雲に隠れていた月が出てきたという以外にない。それを「月待てば」と歌うとは考えにくい。筆者はベストの時を探求しようとしている。
 「かなふ」という語は、古典基礎語辞典の「解説」に、「カネ(予ね)アフ(合ふ)の約。カネは、先のことを予期する意の動詞カヌ(予ね)の連用形。他動詞カナフは下一段活用。前もって願ったり期待したり予期したりしたことが現実とうまく合うこと。」(356頁、この項、須山名保子)とする。上代における他の用例としては、「此の烏の来ること、おのづからにき夢にかなへり。」(神武前紀戊午年六月)、他動詞の例としては、「然れども、かみあまなひ、しもむつべば、事をあげつらふにととのほりて、事理ことおのづからに通ふ。」(推古紀十二年四月)とある。願いと現実といった二つの事柄が合致するときに用いられるが、方向性としてうまくいく場合に用いられており、凶兆にカナフとは言わない。身崎1998.は、「……こうした[主体的・意欲的な表現]志向は、この四句めの「潮もかなひぬ・・・・」という語の選択によっても実現されているのではないだろうか。この語が「潮(位・流)」のあるべき(出航にふさわしい)状態に対する主体がわの期待・希求の感情にうらうちされた語としてえらばれていることは、「かなふ」の語義・用例にてらしてもあきらかだし、かりにここを、 潮もかはり・・・ぬ/とか、あるいは、/潮もみちき・・・ぬ/などのように「潮」の状態に密着した表現にしてみたばあいとくらべてみても、それはうべなわれるところなのではないだろうか。」(282~283頁)という。
 すなわち、「月待てば 月もかなひぬ 潮待てば 潮もかなひぬ」といった冗漫な表現に、カナフという言葉は適さないのである。月の出を待っていれば、前日よりも三十分ほど遅れて月は必ず出てくる。次に検討されるべき「潮もかなひぬ」の「潮」の意の理解には、古典基礎語辞典の鋭い解説が欠かせない。

しほ シオ 【潮・汐・塩】名 解説 シホには、①満ち干する海水、②食塩、という二つの意味である。上代における①と②の表記は、『日本書紀』では、①を「潮」、②を「塩」と書き分けている(海路の神と考えられるシホツチノヲヂを「塩土老翁」「塩筒老翁」と表記する例のみが例外)。『古事記』や祝詞では、「潮」の字は一切用いず、①も②も「塩」と表記する。『万葉集』では、①を「潮」と表記する例と、「塩」と表記する例とがある。ただし、②を「潮」と表記することはない。
なお、シホという語形をもつ語には、①②のほかに布を染料にひたす回数、という意味のシホ(入)がある。潮の満ち干によって、海浜や岩礁などが海中に没したり、姿を現わしたりを繰り返す。この現象は布が染料に浸されたり、染料から出されたりの繰り返しとよく似ていることから連想して、この意が生じた可能性がある。そうであれば、染色関係のシホ(入)も潮・塩と語源が同じということになる。
語釈 ①主に「潮」「汐」と書く。「満ち干する」というのがシホ(潮)の最も重要な属性。これに対し、ウシホ(潮)は海水・潮流を指す。……(604頁、この項、北川和秀)

 布を染料に浸す回数のシホ(入)という語との関係の指摘は見事である。上がったり下がったりがシホという語の源流にあると考えられるのである。そして、染色には、色落ちを防ぐために salt を用いることがある。日本列島に住む人々にとってシホ(塩)とは、大潮の際に潮が満ちてきたときのみ海水がかかるような潮だまりが岩窟のような雨のかからない所にあり、そこで結晶化しているのを発見したところから生まれた言葉ではないか。
 「潮」の意味としては、上代に見られる例では、①満ち干する海水、また、海水が満ちることと干ること、②潮流、③海水、の意味が考えられている。筆者は、この②潮流、の用例に疑念を抱く。万葉集に、単語として、①満ち干する海水のことは、「満」を伴うケースが二十五例(万40・121・388・617・919・1144・1165・1216・1394・1669・2734・3159・3243(2)・3366・3549・3610・3627・3642・3706・3891・3985・3993・4045・4211)、「干」を伴うケースが十三例(万271・360・388・917・1064・1163・1164・1386・1671・3710・3852・3891・4034)ある。そのほかの例としては、万8番歌以外に次のような歌がある。

 時つ風 吹かまく知らに 阿胡あごの海の 朝明あさけの潮に 玉藻刈りてな(万1157)
 潮早み いそに居れば 入潮いさりする 海人とや見らむ 旅行くわれを(万1234)
 安治可麻あぢかまの 可家かけみなに 入る潮の こてたずくもか 入りて寝まくも(万3553)
 潮待つと ありける船を 知らずして 悔しくいもを 別れにけり(万3594)
 ……大船に かぢしじ貫き 韓国からくにに 渡りかむと ただ向かふ みぬをさして 潮待ちて 水脈みをびき行けば 沖辺には …… あかときの 潮満ちれば あしには たづ鳴き渡る ……(万3627)

 万1157番歌は干潮、万3553番歌は満潮の意ととれる。万3627番歌の場合、後者は「満」を伴っている。前者は一般に潮流の意とされるが、歌一首に用いられる「潮」の語に二義あるのでは歌を聞く人に混乱を与える。他の万1234・3594番歌も潮流の意と説かれている。これら三例は、すべて船出に関連して詠まれたものである。

 安胡あごの浦に 船乗りすらむ 少女をとめらが あかの裾に 潮満つらむか(万3610)
 譬へば、物を船に積みて潮を待つ者の如し。(安康紀元年二月)

 上二例から、船出と関わる「潮」とは、①満ち干する海水のこと、と考えることができる。船は、ラグーン(潟)の縁など若干傾斜のある砂浜のようなところに陸揚げされて停泊しており、潮が満ちて来るのを待って海に浮かぶことになる。今日でも小型ボートを砂浜にあげることはしばしば見られる。すなわち、船は、特に大型船の場合、岸壁につながれて舫っていたのではなく、浅いところに船底を乗りあげて泊まっているのがふつうであった。万3594番歌の「潮待つと」、万3627番歌の「潮待ちて」も、潮が満ちて来るのを待っていると捉えることができる。万3594番歌の「潮待」ちは、大潮まで待たなければ船が浮かばないことを知っていたのなら、もう少し長く彼女のもとにいられたのに、と悔しがった歌であろう。万3627番歌の前者は、潮が満ちて船が浮かんで船出して、その後に、暗礁にぶつからないように水先案内に従って行き沖へ出るとその沖には、という流れになっていると解される。
 万1234番歌は、潮流が速いので、船を出航させないで、磯の曲がって入り込んだところに一人ポツンと佇んでいると、旅路にある私のことを、漁をする海人ではないかと見られるのではなかろうか、と解されている。しかし、船の停泊形態が傾斜のある浜辺に乗り上げるものであるならば、満潮時に船出をしようとしていたのに準備が遅れ、潮の引いていくのが早くて出航のチャンスを逸してとり残された姿を歌にしたものと捉えることができる。それによって「居れば」という語が生きてくる。「居り」は、「上代では、自分の動作についていい、へりくだった意味合いが含まれている。」(古典基礎語辞典1369頁、この項、石井千鶴子)のである。自分の責任で海の旅路から置いてきぼりを食らったことについて、自虐的な表現が試みられている。
 潮の複合語についても見ても、潮の干満の意味で用いられていることがわかる。「朝潮満」(万4396)は朝の満潮のこと、「夕潮」(万1520・1780・2831・4331・4360・4398)は夕方満ちてくる潮のことである。「浦潮」(万3707)は「満ちく」と続いており、また、「潮干」(万229・293・533・536・918・941・958・976・1030・1154・1160・1672・1726・2486・3503・3595・3849・1062)は干潮の状態のことである。「潮騒」(万42・388・2731・3710)は磯辺の波が立ち騒ぐことで、潮の干満によって起こっている。「鳴門の渦潮」(万3638)の潮は、瀬戸内海全体への潮の干満によって生ずるもので、大きな渦が見られるのは日に二回である。
 「潮船」(志富夫祢(万4368)・志保不尼(万4389))、ならびに、枕詞とされる「潮船の」(斯抱布祢乃(万3450)・思保夫祢能(万3556))については、川船ではなく海の船のことを指しているとされる。

 久慈くじかはは さけくあり待て 潮船に かぢしじ貫き は帰りむ(万4368)
 潮船の そ白波 にはしくも おふたまほか 思はへなくに(万4389)
 乎久佐をくさ壮士と 乎具佐をぐさずけと 潮船の 並べて見れば 乎具佐勝ちめり(万3450)
 潮船の 置かれてかなし さ寝つれば 人言ひとごとしげし かもむ(万3556)

 枕詞とされる例から、並べたり、置かれたりするのが「潮船」であると読み取れる。特に万3556番歌は、スロープ状の浜辺に引き揚げられて放置されている状態を一人寝に譬えており、かといって共寝をすれば噂になるからという対比表現として用いられている。岸壁に係留されているのでは、横たわって寝ている譬えとならない。また、万3450番歌は、二人の男を並べて丸裸にして身体検査をしているのだから、船体全部が見えなければならない。船腹が水面下にあっては検査にならないから陸揚げされていると考えるべきである。万4389番歌では、思ってもみない突然の命令を、「潮船の 舳越そ白波」に譬え、白波が船の舳先を越えるはずがないのに越える、という表現であると解されてきた。けれども、海を行く船の舳先を越える波は、少し時化しければすぐ起こる。比喩表現として理解できないことになる。「潮船」は、やはり海浜に引き揚げられた船のことを表していると考えるべきである。きちんと浜に引き揚げておいたのに、俄かに白波が押し寄せ、一気に舳を越えるまでになったと言いたいのである。
 万4368番の防人歌は滑稽味を帯びさせた歌作なのではないか。久慈川を航行するのは小さな川船である。渡しの戕牁かしに繋ぎとめておく。櫓漕ぎか棹使いで進めていたと思われる。オールが両側についた大きな海の船など、すぐに船底を擦ってしまい役に立たない。作者の「久慈郡のまる部佐べのすけ」という人は、防人に徴兵され出征の折に歌っている。久慈川の渡し船に乗る時が、家族や村人との別れの時であったのだろう。ちっぽけな川船との対比で、難波津から防人へ行くときの海船を持ち出し、自分がこれから赴く大きな任務を無事終えて帰って来るよと表現したようである。その大型船は停泊に際して船底を地に乗り上げる。
 以上から、「潮船」の潮についても、潮流のことではなくて干満の潮のことであると定められた。「潮」という語から、②潮流、の可能性が排除された。とはいえ、船が出港する際に、風や波を気にしていた記事は残されている。

 時に、磐金いはかね等、共に津につどひて発船ふなだちせむとして風波かぜなみさぶらふ。(推古紀三十一年(623)是歳)
 五日、風南東に変りてつこと得ず。三更に到りて、西北の風を得て発つ。(円仁・入唐求法巡礼行記・巻四、会昌七年(847)九月五日)
 八日、……風无くして発つこと得ず。船のひとびと、鏡等を捨て神を祭りて風を求む。(同、九月八日)

 入唐求法巡礼行記の例は後期遣唐使船で、帆に適度な追い風を受けることを狙っていた。山東半島の先端の赤山から大海を渡ろうとしている。しかし、推古紀の例は遣隋使時代である。「将発船以候風波。」とあるのだから、船出しようとして風波が収まるのを見守っていたのであって、帆に風を受けようとしたためではない。入唐求法巡礼行記の同年五月五日条に「船に上りて風を候ふ。」、五月十四日条に「黄昏に海州界の東海山の田湾浦に到り、船を泊し風を候ふ。」とあるのも、五月二十四日条に「逆風・猛浪に縁りて、淮路に入ること獲ず。」、六月一日条に「風波、稍く静まり、趁潮に漸く淮に入る。」とあることから考えて、強風が静まるのを待っていたものと解される。時代別国語大辞典に、「さもらふ【候・侍】(動四)」は、「②時の至るのを待つ、風浪の和ぎ静まるのをうかがい待つ場合に用いることが多い。」(341頁)と説かれている。万葉集からわかりやすい例をあげる。

 風吹けば 浪か立たむと 伺候さもらひに 都太つだの細江に 浦がくり(万945)
 大海を さもらみな 事し有らば いづゆ君が しのがむ(万1308)
 天の川 いと河浪は 立たねども 伺候さもらかたし 近きこの瀬を(万1524)
 …… あしが散る なに来居きゐて 夕潮に 船を浮けゑ 朝凪に 向け漕がむと さもらふと わが居る時に ……(万4398)

 万4398番歌は船の航行の手順をよく示している。潮が満ちて船は海に浮かび、傾きがなくなって船として安定し、しかるのち舳先を行く方向へ向け直して、楫、櫂、艪を漕いで進んだのである。そうしたいのであるが、風波が穏やかにならないとできない。出航の際は水深が浅く、ちょっとした岩礁でもぶつかる危険性があり、船体に損傷が起きかねないからである。航行において用心しなければならないのは、水深の深い沖合ではなく、水深の浅い個所である。船体が無事なら漂流しても助かることがあるが、損傷を受けたらひとたまりもない。当時は、まず出港し、その後で風や潮流をみて対応するという、出たとこ勝負の航海術が行われていた。円仁の入唐求法巡礼行記に記されている。
 この考え方は、石井1983.の和船の研究に依っている。万葉集の研究者が想定する夜の船出とは一線を画すものである。いくつか紹介する。
 直木1985.は、「……当然のことながら、航海に風がどんなに大切かが知られる。ただし外洋へ乗り出す場合と内海を行く場合とでは、風向の持つ意味がちがうだろうが、何といっても帆船の航海は風次第である。船人は夜を恐れてはおられないのである。」(109頁)とする。それに対し、吉井1990.は、「月よみの 光を清み 神島の いその浦ゆ 船出そわれは」(万3599)について、「遣新羅使船は、玉の浦……より神島に至り、さらに、その夜、神島より鞆に向つて夜の船出をするのであるが、その船出の第一の理由は鞆において適切な潮流を待つことであつた。第二は備後灘およびひうち灘が、友ヶ島水道、豊後水道の東西の両水道からの潮流が相合し、また東西に分流する分水線となつていて……、船はこの分水線を適切な時間に通過する必要があり、当日は神島に午後二時すぎには到着していて、潮流を待つために少しでも船を進めておくのは好条件であつたことである。第三には、鞆より尾道瀬戸、かり瀬戸のいずれかを経ての長井津……までの約三〇キロメートルの航路は、いずれも潮流の早く複雑な狭い瀬戸を通過しなければならない危険なものであり、神島からの夜の船出は、この危険な夜の航路につづくものではありえず、この危険な航路により好条件で出航するために行なわれた約十キロメートルの夜の船旅であつたことである。……「夜の船出」はやはり通常の場合ではなく、「風向さよければ、船人は夜を恐れずに船出するのである。」というのは、潮流のきわめて複雑な瀬戸内海においては、きわめて危険なことであつたのである。」(114~128頁)と反論する。また、益田2006.は、「楫による手漕ぎは、あくまでも港の出入りに狭い「水脈」を通る時や、風が凪いだ時の補助手段で、主体は帆走でありました。……三津浜から興居島までは、冬季でも、日中ではなく夜間なら東風が吹いていることが多い。その陸風の力を借りて、興居島まで夜の間に乗り切っておかねばならないことが、『万葉』の夜の船出の根本理由でした。」(552~566頁)と述べている。
 しかし、現在でも大型船が出港する際、タグボートの力を借りるなど苦労している。船が海上を進むことと船が港から出ることとは性質の違う作業になる。また、石井1983.のいう、前期遣唐使船の北路を通った「地乗り航法」、「大型準構造船」、「推進の主力は櫂(または櫓)」、「帆は順風時だけの補助的役割」の解説もよく考慮しなければならない。そしてまた、その準構造船の停泊形態についてきちんとした理解が求められる。

[法然上人絵伝]第三四巻、法然が四国へ流されるとき摂津経の島(兵庫)に足をとめて説法した。これは経の島の港のさまを描いたものである。ここでは船を主としてとりあけたが、当時の港は沖に防波堤があるわけでもなければ、岸に岸壁やガンギ(石段)があるわけでもなく、砂浜へそのまま船を艫づけにしたのである。兵庫が港として発達したのは平清盛が、ここに経の島をつくって、これを波よけにし、その島かげを船着場として利用してからのことである。この港にはそれから大型の宋船もはいって来るようになった。宋船はいわゆるジャンク型のものであったと思われる。造船技術は日本よりずっと進んでいて堅牢で吃水もふかかった。高倉院が厳島へ参詣したときには宋船に乗っていった。船が大きくて渚につけることができないから、沖に停泊して、はしけで船と陸の間を往来したという。したがって大型の船が発達して来ると、海岸が砂浜や遠浅のところよりも、入江になって海の深いところの方がよくなって来るわけだが、兵庫経の島の港は砂浜をそのまま利用した昔のままのものであった。しかし港の町はかなりととのっていたもののようで[ある。]……渚のところにとまっている船は苫で屋根を葺いている。あまり高級でない客船のようである。客を乗せて四国路や中国路の港へ向かうものであろうと思われる。船の側面には釘穴のならんでいるのも見えるから丸木造りではなくて[準]構造船と考えられる。当時としてはかなり造船技術の進んでいる船であった。(澁澤1984.54~55頁)

 湖沼や河川と海とでは船の航行に大きな違いがある。海では、潮汐による変化の大きさ、荒れたときの波の激しさがある。防波堤のない岸壁に横付けしておくと、船はタイヤも当てていない岸壁に打ちつけられ続ければ壊れてしまう。和名抄に、「津 四声字苑に云はく、津〈将隣反、〉は水を渡る処なりといふ。唐令に云はく、諸の関、津を渡り、及び船筏に乗り上り下りして津を経る者は皆、当に過所有るべしといふ。」とあり、令集解・営繕令に、「穴云、津、謂泊船処、令无妨障也。」とある。
 日下2012.も、ラグーンに津を設けて、潮の干満を使って平底の準構造船を停泊させていたのではないかと推測している。

 古い時代の船については、土器の線刻画、船形はに、装飾古墳の壁画、さらに地中から掘り出された船体の破片などから、いろいろと推定されている。それによると、船の基本形は単材の丸木舟(刳船くりぶね)から準構造船、構造船へと進んだ(松木哲「船の起源と発達抄史」『古代の船』福岡市立歴史資料館、一九八八)。……大阪府八尾市の久宝寺きゅうほうじ遺跡からは、残存状態のきわめてよい船が発掘され、五世紀初頭の準構造船の様子がかなり具体的なものとなった。この時期をとおして、船底は浅くて扁平で、あまりとがっていなかったらしい。平安時代においても、小型船は単材刳船くりぶね、大型船が準構造船という伝統的な技術段階にあったとされる。
 このような形をした準構造船ないし初期の構造船にとっては、手ごろな水深をもち、しかも外海からの風波をさけることができるラグーンが、港として最適であった。そのうえ、ラグーンの底は砂や泥によって構成されているため、船が出入りをする際に破損することはほとんどなかった。またラグーンでは、干潟と違って比較的近いところによく乾いた砂堆があるため、潮の干満をうまく利用すれば、着岸と上下船をわりあいたやすくおこなうことができたのである。
 わが国の古代の港がどのような施設を備えていたのか、いまのところよくわからない。多分、流れのゆるやかな河口部や入江、そしてラグーンの岸に何本かの杭を打ち込んで、それに板を渡したり、近くから小石や砂利を運んできて、足場をよくした程度のものであったであろう。すでにふれたが、『万葉集』の「水門の葦のうらを誰か手折たおりしわが背子が振る手を見むとわれそ手折りし」(一二八八)が、船着き場のプロトタイプ(原型)の様子をよく示している。[小さい河口の入江にあった船着き場には、アシが一面に茂っており、見とおしはよくなかった。そこで船出していく人(夫か恋人)が手をふる様子を見やすくするために、あらかじめ、アシの穂先を折っておいたというのである。(72頁)]
 木でつくられた杭や桟橋さんばしはやがて腐り、痕跡をなくしてしまう。また渚に敷きつめられた礫や石は、自然の働きや人間の手によって埋められたり、他の場所へ移動したりもする。そのため、古代の港を地下から掘り出すとか、地表景観としてとらえることは不可能に近い。そこで当時の地形をまず復原し、しかるのちに各種の史料、遺構と遺物、地名などからその位置を推測するほかはない。(193~197頁)

最古の船着き場の遺構が発掘された原の辻遺跡(壱岐市立一支国博物館「 原の辻遺跡情報 原の辻遺跡概要」http://www.iki-haku.jp/harunotsuji/harunotsuji-1.html)

 現在の港の船着場の様子を見ても、コンクリートスロープが設けられているところがある。ランチャーを使って手軽に揚げ降ろしができるものの、漁船専用のところもある。砂浜海岸では、大型タイヤのランチャーを使っても、重量級ボートではタイヤがめり込んで動かなくなる。専用重機を使った昇降サービスを行う業者もあるが、前期遣唐使船の時代に船の昇降台車や修羅を使い、神楽桟で牽引したのか浅学にしてわからない。航海からの到着時に綱で引っ張った画は絵巻物に見られるから、流されないようにある程度のところまで引き揚げたのであろう。逆に出航する際に、人夫が海のなかに入って船を引くこともあっただろう。船の使用の事情はひとまず共通の理解ができたことにする。
 次に万8番歌の作歌時点について検討する。紀の記事他から斉明天皇が亡くなる頃までの記事を整理して年表とし、当時の状況を確認する。ただし、崩御後の事項は、斉明紀と天智紀とで日付などに入れ違いがある。天智紀に記された部分と風土記記事には*印をつける。

  斉明六年(660)
 九月五日   百済、……「今年の七月に、新羅、力にたのいきほひして、隣にむつびず。唐人もろこしびと引構ゐあはせて、百済をかたぶくつがへす。きみやつこみなとりこにして、ほぼ噍類のこれるもの無し。……」とまをす。
 十月     百済……、まうきて唐の俘一百余人をたてまつる。……又、いくさまをしてすくひを請ふ。……「……天朝みかどまだはべ王子せしむほうしやうを迎へて、国のにりむとせむとす」と、云々しかしかまをす。
 十二月二十四日 天皇すめらみこと難波宮なにはのみやおはします。……[百済の要請に]したがひて、つくいでまして、救軍すくひのいくさらむと思ひて、ここに幸して、諸の軍器つはものを備ふ。
  斉明七年(661)
 一月六日   ふね、西にきて、始めて海路うみつみちに就く。
 一月八日   御船、大伯海おほくのうみに到る。
*       天皇、みことのりを下したまひてこころみに此のさと軍士いくさひとはたりたまひき。即ち勝兵ときいくさの二万ばかりの人を得たまひき。(備中風土記逸文)
 一月十四日  御船、伊予の熟田津の石湯行宮いはゆのかりみやつ。
 三月二十五日 御船、かへりて娜大なのおほに至る。磐瀬行宮いはせのかりみやおはします。天皇、此を改め、名をばながのたまふ。
 五月九日   天皇、朝倉橘広庭宮あさくらのたちばなのひろにはのみやに遷り居します。
 七月二十四日 天皇、朝倉宮にかむあがりましぬ。
*七月     皇太子ひつぎのみこ[中大兄]、素服あさものみそたてまつりて称制まつりごときこしめす。
*是月     皇太子、長津宮ながつのみやに遷り居します。やうやく水表をちかた軍政いくさのまつりごときこしめす。
 八月一日   皇太子、天皇のみも奉徙ゐまつりて、還りて磐瀬宮に至る。
 十月七日   天皇の喪、帰りて海にく。
 十月二十三日 天皇の喪、還りて難波にとまれり。

 年表を通覧すると、急いでいるのかのんびりしているのか疑問だらけである。左注と同じ斉明七年一月六日の出航を、「始就于海路。」としている。ハジメテとは、物事がそこから始まって次々に展開していく、その発端をあらわす。わざわざ「始めて」と副詞を使って表すことは、「海路」であることが今後の話(歴史的事件)の前提、基盤を成していて、その重要性を指摘したいからだろう。最終的に、白村江の海戦に終わった話の発端ということである。その道中に、「大伯海」、「熟田津」、「娜大津(長津)」などはある。
 三月二十五日の記事には、「于娜大津。」とある。本来の航路に戻ったことを指すとされている。不審である。さらに、天智紀の斉明七年七月是月条、皇太子中大兄が長津宮に遷った時、「稍聴水表之軍政。」とある。総大将である斉明天皇の喪に服し、悲しみに暮れていたのがようやく、という意に一応はとれる。しかし、「水表之軍政」とは海外の軍事情勢のことである。遠征する際、事前に十分考えているはずである。朝鮮半島へ行くには対馬海峡を横断しなければならない。内海や沿岸を進んだ難波から娜大津(長津)でさえ二カ月半ほどかかっている。一刻を争う状況の戦争に出掛けているにしては、呑気というか、気が散っているというか、手間取っているというか、納得のいかないことが多い。
 歌の左注記事から、熟田津寄港を物見遊山に出掛けたものと判断するのは早計であろう。一般には天皇の病気治療のため、湯治に立ち寄ったと考えられている。しかし、日本書紀の記者の思いを総合すると、いかにもいい加減な戦時態勢であったようである。最高司令長官の斉明天皇にも、総司令官の中大兄にも、差し迫った緊迫感が見られない。新羅や唐を見くびっていて悠長に構えていたのか。斉明天皇が亡くなり、白村江に大敗北してしまうから、当時の気分は一変してしまい後に伝わらない。その実際の雰囲気を伝える文献資料は、今のところ額田王の万8番歌しかない。
 呑気に構えていたらしいことからか、折口1995.に、「熟田津は、古代から名高くて、今もある伊予国道後温泉に近い海岸、船乗りと言ふのは、何も実際の出帆ではありません。船御遊フナギヨイウと言つてもよいでせうが、宮廷の聖なる行事の一つで、船を水に浮べて行はれる神事なのです。持統天皇の御代の歌、/英虞アゴの浦に船乗りすらむ処女ヲトメらが、たま裳のすそに、汐みつらむか──人麻呂/などゝ同じく、ミソぎに類した行事が行はれるのでせう。「月を待ち受けて、船乗りをしようとしてゐると、汐までが思ひどほりにさして来てゐる。さあ漕ぎ出さうよ」と言ふ式歌シキウタです。女帝陛下には、セイなる淡水タンスイ海水カイスイを求めての行幸が、しばしば行はれたのです。此二首も、やはりさうした場合を背景に考へて見れば、一等よいやうです。」(304頁)とある。戦時中に人員、物資を駆り集めておきながらそんな遊びをしていたら暴動が起きるだろう。
 歌が歌われたのは、娜大津、改め長津に着いたのが斉明七年三月二十五日とあるからその少し前のことであろう。熟田津には一月十四日に着いている。二カ月ほど滞在していたと推測される。その後に出航しようとしたときの歌である。五句目の「今は漕ぎ出でな」という強い呼び掛けの声からして、人々の意欲を高めるものであったことは間違いない。宮廷社会の人々に共有されるような気持ちを歌にして歌うことが額田王の役目であった。とりわけ、その中心人物の天皇を代弁することになりやすい。斉明天皇の代詠と考えていけば、天皇は乗組員たちに向けて士気を高めていることになる。そうは言うものの、この歌はうますぎはしないか。
 熟田津滞在は退屈なものであったろう。左注に、天皇が旧跡を訪ねて感愛の情をもよおしたとある。亡き夫の舒明天皇とともに、現在の道後温泉付近の「伊予温湯宮いよのゆのみや」(舒明紀十一年十二月(639))に旅行している。二十年以上の歳月の流れに思いを寄せて物思いに耽るのも結構であるが、二カ月は長すぎる。徴兵や物資調達をしたとしてもそれほどはかからない。そこで病気説が唱えられている。斉明天皇は病にかかっていて療養のために道後温泉へ立ち寄った。高齢であるし、同年の秋には亡くなっているから、そう解釈されるのも無理からぬところがある。さらには、左注に分け書きされていることから、「「伊予の湯」の道後温泉はスプリング、自然湧出の温泉で、「伊予の熟田津の石湯」は、同じ伊予国内でも場所が離れた三津浜の人工の石湯、近代風にいえばサウナです。」(益田2006.559~560頁)とする説も唱えられている。なお、天武紀十三年十月条に、「壬辰に、人定ゐのときいたりて、大いに地震なゐふる。……時によの温泉うもれて出でず。」とある。
 航海中に天皇が病気をしたという記事は紀に見られない。歌の左注を信じるなら、天皇は心身ともに健康であったらしい。病気療養のために道後温泉へ寄ったとする説には根拠がない。確かに風邪をひいたくらいのものは紀は載せなかったであろう。それでも秋に亡くなるときの記事も素っ気ないものである。

 秋七月の甲午の朔にして丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。(斉明紀七年七月)

 天皇が死の床についた時、紀はつとめて記録を残そうとしている。後継問題が生じかねない重大事である。推古天皇は「臥病みやまひ」(推古紀三十六年二月)とあり、「遺詔のちのみことのり」が告げられたことが書かれている。曖昧な内容であったり、聞いた人が限られていて後継争いが生じている。次の舒明天皇は十三年十月には病の記事はない。後継者が皇極天皇に決まっていた点にもよるのだろう。孝徳天皇は「病疾みやまひ」(孝徳紀白雉五年十月)とあり、大和にいた皇太子(中大兄)・皇祖母すめみおやのみこと(皇極・斉明天皇)、間人皇后はしひとのきさき皇弟すめいろど(大海人皇子)、公卿まえつきみたちが難波宮へ向かったとある。斉明天皇より後の代では、天智天皇に「寝疾不予みやまひ」(天智紀十年九月)とあり、仏の力にすがったことや、病床に呼び寄せた大海人皇子とのやりとりが述べられている。天武天皇の場合は「体不安みやまひ」(天武紀朱鳥元年八月)とあり、三カ月半後に亡くなっている。やはり仏教を中心に多方面に祈らせ、大赦令を発し、占いの結果、草薙の剣に崇りがあると聞けば熱田神宮に奉納している。そして次の持統天皇は三年三カ月間称制している。斉明天皇に病気の記事がないのは、長患いせずに急逝したと考えるのが妥当だろう。
 斉明天皇が亡くなったのは朝倉宮(朝倉橘広庭宮)である。現在の福岡県朝倉市杷木志波はきしわ付近に当たり、筑紫平野に位置する。磐瀬行宮(長津宮)、現在の福岡市南区三宅から、大宰府よりもさらに奥まったところへ遷っている。その理由は、もっぱら言い伝えにある神功皇后の新羅親征の話に由来しているのだろう。神功皇后は橿日宮かしひのみや、福岡市東区香椎から、松峡宮まつをのみや、現在の福岡県朝倉郡筑前町栗田へ遷っている。斉明天皇も神功皇后と同じように遷っている。
 行軍の行動においても、同様の傾向が見られる。中大兄の三山歌(万13~15)に歌われた「南国原なみくにはら」や「大伯海」(斉明紀七年正月)などの兵庫県の明石市から瀬戸内市付近、また、熟田津の歌に関連する「石湯行宮」(斉明紀七年正月)、これは「予湯宮よのゆのみや」(万8左注)と同地かその近くであり、今の愛媛県松山市の道後温泉に当たるようであるが、神功皇后が夫君の仲哀天皇とともに訪れているところである。

 一家あるひと云へらく、なみなづくる所以ゆゑは、あな豊浦とよらの宮に御宇あめのしたしらしめしし天皇すめらみこと[仲哀天皇]、皇后きさき[神功皇后]とともに、筑紫の久麻曽くまその国をことむけむとおもほして、くだでましし時、ふね、印南の浦に宿りましき。此の時、滄海うなばらいたぎ、風波和静しづけかりき。かれ、名づけて入浪いりなみと曰ふ。(播磨風土記・賀古郡)
 十二月の己巳の朔の壬午に、よの温湯ゆのみやに幸す。(舒明紀十一年十二月)
 天皇たちの湯に幸行いでまくだすこと五度いつたびなり。……帯中日子天皇たらしなかつひこのすめらみこと[仲哀天皇]とおほきさきなる息長おきなが帯姫命たらしひめのみこと[神功皇后]とのふたはしらを以て一度と。……をか本天皇もとのすめらみこと[舒明天皇]と皇后きさき[後の皇極・斉明天皇]との二躯を以て一度と為。時に、大殿おほとのむく臣木おみのきとあり。其の木にいかるが此米しめどりすだき止まれり。天皇、此の鳥が為に、枝にいな等をけてひ賜ふ。のちのをか本天皇もとのすめらみこと[斉明天皇]・近江大津宮に御宇しめしし天皇[天智天皇]・浄御原宮きよみはらのみやに御宇しめしし天皇[天武天皇]の三躯を以て、一度と為。(伊予風土記逸文)

 斉明天皇は言い伝えの神功皇后の新羅制服の話のとおりに行動している。ところが、神功皇后であるはずの斉明天皇は朝倉宮で崩御してしまう。死因は伝染病によるものと思われる。

 五月の乙未の朔にして癸卯(9日)に、天皇、朝倉橘広庭宮あさくらのたちばなのひろにはのみやに遷りておはします。是の時に、あさ倉社くらのやしろの木をはらひて此の宮を作りし故に、神忿いかりて殿おほとのこほつ。亦、宮の中におにあらはれぬ。是に由りて、おほ舎人とねり及び諸の近侍ちかくはべるひと、病みてまかれる者おほし。(斉明紀七年五月)

 神社の木を伐ったため、神の忿りに触れて病死者が多数出た(注2)。天皇は五月九日に朝倉宮に入り、七月二十四日に亡くなっている。流行していた疫病で天皇は逝ってしまったらしい。病気の記事がないのは、あっという間に亡くなったからでもあるし、天皇が崇りを受けたことになっていては困るからであろう。とはいえ、なにか崇りであることを予感させる不気味な記事が付け加えられている。八月一日に枢を磐瀬行宮へ移した日の様子が次のように描かれている。

 秋七月の甲午の朔にして丁巳に、天皇、朝倉宮にかむあがりましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇のみも奉徙ゐまつりて、還りて磐瀬宮に至る。是のよひに、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪のよそほひを臨みる。ひとびと、皆嗟怪あやしぶ。(斉明紀七年七月~八月)

 新羅親征を前にして神の崇りによって亡くなったのは、天皇史上二人目である。最初は仲哀天皇(足仲たらしなかつひこ天皇)である。仲哀天皇と神功皇后(気長おきながたらしひめ皇后)とは、熊襲を平定しようと筑紫へ進軍したが、そこで皇后が神憑りして、海の向こうに「宝有る国」(仲哀紀八年九月)があると託宣を伝えた。真に受けなかった仲哀天皇はあっけなく亡くなってしまった。今、斉明天皇も亡くなっている。言い伝えを信じていた人にとって、これは重要な事柄であったろう。最も信じていたのは斉明天皇自身であったかもしれない。そもそも彼女は、「たからの皇女ひめみこ」(舒明紀二年正月)と言った。「宝有る国」(仲哀紀八年九月)、「財宝国たからのくに」(神功前紀仲哀九年二月)、「財国たからのくに」・「財土たからのくに」(神功前紀仲哀九年四月)、すなわち、新羅のことが頭にこびりついていた。そして舒明天皇(息長足日広額おきながたらしひひろぬか天皇)と再婚した。新旧両カップルの諡を比較する図のようになる。

 「足姫」や「天豊」などは尊称である。神功皇后の「気長」と舒明天皇の「息長」 はともに近江国坂田郡、従前の滋賀県坂田郡近江町、現在は米原市となっているところの地名であり、 息長族の系譜を引いている皇族のことという。だから、舒明天皇と神功皇后の名前はよく似ている。斉明天皇は神功皇后のようになろうとして失敗し、仲哀天皇の運命を担うことになってしまった。名前は「たらし」を共にし、「彦」と「姫」とは男女の対で同じと見なせる。仲哀天皇にあって斉明天皇にないのは 「なかつ」だけである。
 万葉集の巻一の最初の部分の編者が作った「中皇命なかつすめらみこと」(万3・4・10・11・12) という名の「中」とは、仲哀天皇の「足仲彦天皇」によったものであった。最初に、皮肉にしてふさわしい諡号の「天皇財重日足姫天皇」なる長たらしい名前を構想し、大幅に省略して「仲天皇」、それを万葉集の言文一致運動に従って「中皇命」とした。自分が仲哀天皇の運命を担うものであることも知らずに、愚かな外征に赴いたことを揶揄した名づけであると考える。
 「中皇命」については諸説ある。称徳天皇の宣命に「挂万久毛新城大宮天下治給天皇臣等御命之久」(続日本紀・神護景雲三年(769)十月)、大安寺伽藍縁起并流記資財帳(天平三年(731))に「仲天皇奏、妾我妋等炊女而奉」とあることから、中天皇と同様の名称であるとする説がある。また、野中寺弥勒像の銘に、中宮天皇、すなわち、「丙寅年四月大旧八日癸卯開記、栢寺智識之等、詣中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也、友等人数一百十八、是依六道四生人等、此教可相之也」とあることも絡めて捉える説もある。
 しかし、五十年以上も後に現れた、その途中には明確には現れていない言葉と同じ概念とするのは無理である。井上2000.は、「中天皇の語義についても、学者の説はきわめて多岐にわたっているが、問題が錯綜した理由の一つは、先にあげた中宮天皇や『万葉集』の中皇命を、この中天皇と一緒にとりあげるからである。しかし私は、中宮天皇と中天皇を一緒にするのはおかしいとおもうし、『万葉集』の中皇命は、果して天皇かどうかも疑問とすべきだとおもう。言葉をかえていうと、中天皇は中皇命とは別に扱うべきである。」(246頁)と尤もな意見を述べている。さらに、野中寺弥勒像の銘について、東野2010.は、「銘の信憑性に疑念」を抱いている。「像の表面の状態が、戦前と戦後で一変している」こと、「文中に使用されている四つの「之」」や「「六道四生人等」という表現」が、「七世紀の銘文に似つかわしくない」と指摘する(20~21頁)。
 飛鳥時代の万3~4・10~12番歌にある「中皇命」の「中」についてのみ考えた場合、著名な捉え方として、必ずといっていいほど折口説があげられている。

その「中」であるが、片一方への繫りは訣る。即、天皇なるすめらみことと、御資格が連結してゐる。今一方は、宮廷で尊崇し、其意を知つて、政を行はれようとした神であった。
宮廷にあつて、御親ら、随意に御意志をお示しになる神、又は天皇の側から種々の場合に、問ひたまふことある神があつた。その神と天皇との間に立つ仲介者なる聖者、中立ちして神意を伝へる非常に尊い聖語伝達者の意味であつて見れば、天皇と特別の関聯に立たれる高巫であることは想像せられる。すめらみことは、語原論からすれば、天皇以外の御方を指しても、さし支へはなかつた。天皇ばかりを意味することのやうになつて行つたのは、意味の分化でもあるし、又一方からは、天皇のみこともちの上に今一つみこともちを考へ、其を「仲だちの」と限定したものと見ることが出来る。(折口1997.403~404頁)

 神と天皇との仲立ちをする巫女的な存在と考えられている。しかし、紀の記事において、斉明天皇が巫女であったと考えられる事象は、皇極紀元年八月条の雨乞い記事ぐらいしか見当たらない。前兆をとらえる点を過大視していくと、予言者的な「時の人」は皆、いわば「中時人なかつときのひと」ということになってしまう。崇神紀十年九月条で、「少女をとめ」(「童女わらはめ」)は、崇神天皇の伯父であり、義父でもあるおお彦命びこのみことしるましを歌って去って行っている。彼女が「なかつ少女をとめ」(「中童なかつわらは」)であるとは記されていない。
 一方、井上2000.は、「古代には、皇位継承上の困難な事情のある時、先帝または前帝の皇后が即位するという慣行があったのであり、それが女帝の本来のすがたであった、とみるのである。」(228頁)、「これら[元明女帝・倭姫・持統女帝]に共通なことは、女帝の即位がいわば権宜の処置であることで、そのような天皇は、中つぎの天皇に他ならないではないか。」(246頁)とする。「中」=中継ぎであるという論である。女帝を特別視した考え方で、続日本紀の慶雲四年七月条の詔に見える「不改常典の法」に従ってのこととされている。しかし、中継ぎという意味で「中」の語が用いられた例は記紀に見られない。また、「不改常典の法」の内容は不明で、「天智天皇(「近江大津宮に御宇しし大倭根子天皇」)の時期に定まったとされる、直系の皇位継承法のこととしか考えられないであろう。」(吉村2012.162頁)といった程度の理解であり(注3)、いささか仮構にすぎる議論である。
 そもそも、男女に関係なく、すべての人、その一人の天皇は中継ぎである。山之口貘の「喪のある景色」に、「うしろを振りむくと/親である/親のうしろがその親である/その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに/親の親の親ばつかりが/むかしの奧へとつづいてゐる/まへを見ると/まへは子である/子のまへはその子である/その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに/子の子の子の子の子ばつかりが/空の彼方へ消えいるやうに/未来の涯へとつづいてゐる/こんな景色のなかに/神のバトンが落ちてゐる/血に染まつた地球が落ちてゐる」(山之口2013.246~247頁)とある。
 他の説として、「中」は、二人目、あるいは、二代目の義とする。本居宣長・続紀歴朝詔詞解に端を発する。「中天皇は、元正天皇也、平城ナラは、元明天皇より宮敷坐て、元正天皇は、第二世に、坐ますが故に、ナカツとは申給へる也、中昔に、人の女子あまたある中にも、第二にあたるを、中の君といへると同じ、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933886/118)とある。「なかわた童命つみのみこと」・「なかつつのをのみこと」(神代紀第五段一書第六)などの神々や、「中子なかつこなかつひこ」(応神紀二十二年九月)、「足仲彦天皇」(仲哀天皇)は日本やまとたけるのみことなども三人兄弟の「中」の子であるとし、「すみの吉仲皇えのなかつみ」(仁徳紀二年三月)は仁徳天皇の皇后、いは媛命ひめのみことが産んだ四人兄弟の第二子であるとし、「泊瀬はつせのなかのみこ」は聖徳太子の第二子であったらしいからとする。そこから発展させて、「中女なかつみこ」(推古前紀)と呼ばれた推古天皇は、堅塩媛の第四子ながら皇女としては第二子にあたり、「中大兄」は、舒明天皇の皇子のうち、古人大兄につぐ二人目の大兄だからとする。二男・二女の話が嵩じて行って苦し紛れのこじつけになっている。「中皇命」という語自体からは性別さえ決められない。皇極・斉明天皇のこととしても、その系譜は皇極紀の冒頭の皇統譜でしか辿ることはできない。

 天豊あめとよ財重たからいかし〈重日、此には伊柯之比いかしひと云ふ。〉足姫天皇たらしひめのすめらみことは、渟中ぬな倉太珠敷天皇くらのふとたましきのすめらみこと曾孫ひひこ押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとおほえのみこみまごぬのおほきみみむすめなり。いろはをばびつひめのおほきみまをす。(皇極前紀)

 長女か二女か三女かわかろうはずはない。そもそも、中皇命はナカツスメラミコトと訓む。「中」を二人目の、二代目の捉えるなら、二番目のスメラミコトは、初代の神武天皇(かむ日本やまと磐余彦いはれびこの天皇すめらみこと)の次の綏靖天皇(かむ渟名ぬなかは耳天皇みみのすめらみこと)のことになる。問題はそういうところにはない。
 中皇命という名は皮肉なあだ名である。言い伝えが常識として伝わっていれば結構わかりやすいものでだったのではないか。ところが、にわかに文字の時代が到来して誰にもわからなくなってしまった。ただそれだけのことだろう。
 ホラー映画に出てきそうな大笠を着た鬼に似た表現は、斉明紀にはもう一カ所出ている。

 夏五月の庚午の朔に、空中おほぞらのなかたつに乗れる者有り。かたち唐人もろこしびとたり。青きあぶらぎぬの笠を着て、かづら城嶺きのたけより、せて駒山こまのやまに隠れぬ。午の時に及至いたりて、住吉すみのえ松嶺まつのみねの上より、西に向ひて馳せぬ。(斉明紀元年五月)

 悪いことの起こる前兆を記したものと考えられる。容貌が唐人に似ているというのは、唐ならびに唐の服制を取り入れた新羅と戦って敗れることを暗示するものでもあるのだろう。この「青油笠」については大系本日本書紀では合羽に似たものとするが、きぬがさ(衣笠)のことを意識していると思う。天武八年十月条に、「新羅、……天皇・皇后・太子に、金・銀・刀・旗の類をたてまつること各数有り。」ともある「旗」とは、幡蓋、つまり、衣笠のことである(注4)
 それよりずっと以前、神功皇后が筑紫平野へ出張る記事には次のようにある。

 戊子に、皇后きさき、[熊襲のしろ熊鷲くまわしを撃たむとおもほして、橿日宮かしひのみやより松峡宮まつをのみやに遷りたまふ。時に、飄風つむじかぜたちまちに起りて、かさ堕風ふけおちぬ。故、時の人、其処そこなづけてかさと曰ふ。(神功前紀仲哀九年三月)

 おそらくは傘状の地形から名づけられた地名に対し、後からこじつけた地名説話なのであろう。お偉い神功皇后がいらっしゃってふさわしい場所とは、きぬがさをもって覆われるようなところである。導きたいのはカサである。神功皇后のときは笠が飛び落ちた。ところが、それに倣ったはずの斉明天皇の朝倉宮では、気味の悪い笠を身につけた妖怪が現れる。それは同音の「かさ」、すなわち疱瘡、天然痘によって、天皇が亡くなったことを表しているに違いあるまい。「唐人」といった形容があるもうひとつの理由には、伝染病が海外からもたらされることを当時の人も知っていたからだろう。外国の使節団をなかなか都へは入れず、迎賓館に当たる「難波なにはのむろつみ」(継体紀六年十二月、敏達紀十二年是歳)や「筑紫つくしのむろつみ」(持統紀二年二月)、後の鴻臚館に滞在させていたのは防疫態勢の一環で、一定期間隔離させるのと同じ効果を狙っていたのではないか。
 もういちど紀の前後の記事を見てみる。

 [春正月の丁酉の朔にして]庚戌に、御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊つ。
 [三月の丙申の朔にして]庚申に、御船、還りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居します。

 二つの文章の構造に注目したい。両方とも、日にち・「御船」・場所の順に並んでいるが、最後の動詞のあたりに大きな相違がある。後の文章では、船は至り、天皇はいらっしゃったとある。動詞が二つある。前の文章には動詞が一つしかない。船は行宮に停泊したと読むのが順当になっている。石湯行宮が現在の道後温泉付近ではなく、海や川に面していたという解釈が付けられることになる。益田2006.の説では、「伊予湯宮」と「石湯行宮」とが書き分けられているから石湯=海浜のサウナとしていた。歌の左注にあるように、舒明天皇と訪れた昔を偲ぶことができる「昔日猶存之物」をご覧になって感愛の情をもよおしたとあり、往時の「伊予湯宮」には「物」ぐらいしか残っていなかった。
 では、二カ月ほどにもわたる熟田津滞在中、天皇の行在所、「石湯行宮」はどこにあったのだろうか。出掛けていって「感愛之情」を起こしているから、船に缶詰ではなかった。確かに紀の記事からは、船は停泊し、天皇は宿泊した、という意味にも取れないことはない。しかし、船と人間とが一緒くたにされていて文章の座りが悪い。孝徳紀にも次のような文章がある。

 皇太子ひつぎのみこ、乃ち皇祖母すめみおやのみこと[皇極・斉明天皇])・間人皇后はしひとのきさきゐたてまつり、并せて皇弟すめいろど等をて、きてやまとの飛鳥河辺行宮あすかのかはらのかりみやします。(孝徳紀白雉四年是歳)

 いちばん偉い「人」は「居」なものである。斉明紀の記者は何ごとか言い淀んでいるように見受けられる。後の文章の「還」を、本来の行路に戻ったことと考えていた。地図を広げてみても、難波から博多へ向かうのに松山付近を通ったとして、本来のルートから外れているとは思われない。もう一度、歌全体を聞いてみなければならない。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)

 この歌の特徴は力動感である。船に乗って海に出よう、さぁ今こぞ漕ぎ出そう。そう歌っている。月や潮の様が歌の主題ではなく、人々の動作や自然の動き、すなわち、「乗りせむ」、「かないぬ」、「漕ぎ出でな」 といった言葉が主役である。強い意志が感じられるのは、最後の助詞ナの一語にあるのではない。 これほど息せき切って力強く歌っているのは、ちょうど反対の事情、今までは船に乗って漕ぎ出そうにも漕ぎ出せなかったからではないか。それは何か。たちの悪い座礁であろう。
 船団は瀬戸内海を西へ西へと進んで行った。ところが太陽太陰暦で一月十四日、大潮に近い日に、今の松山付近で浅瀬に乗り上げて座礁した。それも船団の中心、天皇らが乗り組んでいた豪華船「御船」号であった。とりあえず、一部の船には先に進んで博多方面へ行き、大宰府などで待機しているよう指令を出した。足止めを食らった天皇には上陸してもらい、かつての行幸場所へもご案内して寛いでいただいた。
 座礁の可能性はけっして低くない。

 皇后きさき[神功皇后]、ことみふねにめして、くきのうみ〈洞、此には久岐くきと云ふ。〉よりりたまふ。潮くこと得ず。時に熊鰐わにまた還りて、くきより皇后を迎へたてまつる。則ち御船の進かざることを見て、かしこまりて、忽に魚沼うをいけ・鳥池を作りて、ふつくに魚鳥をあつむ。皇后、是の魚鳥のあそびみそなはして、忿いかりの心、やうやくに解けぬ。潮の満つる及びて、即ち岡津をかのつに泊りたまふ。(仲哀紀八年正月)

 西征において、斉明天皇が真似をしている神功皇后の事跡である。検討に値する記事である。
 円仁の入唐求法巡礼行記巻第一に、開成四年(839、日本の承和六年)のこととして、遣唐使船が座礁した際の詳細な記録が残されている。

 四月十一日。午前六時、栗田録事らが舶に乗ったのでまもなく出航、帆を上げて真っ直ぐに進んだ。南西の風が吹く。東海県の西に行こうとしたけれども、風にあおられてすぐに浅い浜に着いてしまった。そこで帆を下ろして櫓を動かしたわけだが、船はますます浅い方に行ってしまう。仕方がないのでさおで海底を突いて船の通る個所をはかるためにしばしば船足を留める始末だった。こうして一日中苦労してやっと東海県に着いたのであるが、潮が引いて船は泥の上に居坐ってしまい動くことができない。夜に入ってそこに停泊した。
 そこに陸から舶に上って来た人がいて彼が言うには「きょう宿城村から手紙があって、その知らせによると、日本の九隻の船のうち第三船は密州の大珠山に漂着した。午後四時、押衙と県令(県知事)の二人が宿城村にやって来て『日本国の和尚を探し出して日本船に戻した』と言っていたという(「覓本和尚却帰船処」)。なおその一船(第三船)は萊州の管内に漂着し、流れに任せて密州の大珠山に着いている。他の八隻の船は海上でいずれも見失って行方不明である、云々」と。午後十時、ともづなを曳いて船を引っ張り、泥の浅瀬から出ようと試みたが、まだ浮かび上がらず動くことができない。
 ○「覓本和尚却帰船処」=「却帰」はふたたび元に帰す。(小)[小野勝年『入唐求法巡礼行記の研究 第一巻』鈴木学術財団、昭和39年]「和尚が船処に却帰せんことを求めぬ」日本の和尚が船から抛却されたところを尋ねた。置き去りの意に解し、(ラ)[ Dr.Edwin Oldfather Reischauer. Ennin’s Diary, THE RECORD OF A PILGRIMAGE TO CHINA IN SEARCH OF THE LAW,1955,RONALD PRESS CO., NEW YORK]はleftと訳し、「圓仁たちが船から離れた場所を尋ねて宿城村にやって来た」とする(堀)[堀一郎訳「入唐求法巡礼行記」『国訳一切経和漢撰述部史伝部二十五』大東出版社、昭和14年]「和尚の船処を覓求して却帰せり」これは帰り戻ったの意(洋)[足立喜六訳注・塩入良道補注『入唐求法巡礼行記1』平凡社(東洋文庫)、昭和45年]「和尚を覓め船処に帰却せり」「和尚を発見して日本船に帰した」。この説をとった。
 十一日卯時粟録事等駕舶便発上帆直行西南風吹擬到東海県西為風所扇直着浅浜下帆揺櫓逾至浅処下掉衝路跓終日辛苦僅到県潮落舶居泥上不得揺動夜頭停住上舶語云今日従宿城村有状報偁本国九隻船数内第三船流着密州大珠山申時押衙及県令等両人来宿城村覓本和尚却帰船処但其一船流着萊州界任流到密州大珠山其八隻船海中相失不知所去云々亥時曳纜擬出亦不得浮去
 四月十二日。明け方、風は東風になったり西風になったりして一定しない。 船はまだ浮かばず動けない。また県庁から連絡の文書が来て良岑判官らに知らせていうには「朝貢使の船のうち第三船は当県の管内に漂着した。この船は先日出港したものである」と。私は正式の書状をまだ見ていない(「先日便発者未見正状」(洋)「先日送った知らせはまだ正確な情報ではなかった」(堀)「先日出港したものであるが、まだ正確な情報ではない」)。風向きはしきりに変わって一定しない。
 十二日平旦風東西不定舶未浮去又従県有状報良岑判官等偁朝貢使船内第三船流着当県界先日便発者未見正状風変不定
 四月十三日。早朝、上げ潮となり、船は出発しようとした。しかし風向きが定まらないので何度も往ったり戻ったりした。午後、風は南西から吹いて向きを変え西風となった。午後二時、潮が満ちて舶は自然に浮かんで東へ流れて行く。そこで帆を上げて進んで行った。東海県の前から東へ向かって出発した。舶上の小舟に上ってお祓いをし、同時に住吉大神を礼拝、海を渡りはじめる。風はかなり強く吹いている。大海に入って間もなく、水夫一人が前々から病いに臥していたが、午後五時ごろ死去した。死体はむしろに包み海中に押し落とすと、波にゆられて流れ去った。海の色はやや澄んでおり、夜に入ると風がしきりに吹く。東を指して真っ直ぐに進んだ。
 十三日早朝潮生擬発縁風不定進退多端午後風起西南転成西風未時潮生舶自浮流東行上帆進発従東海県前指東発行上艇解除兼住吉大神始乃渡海風吹稍切入海不久水手一人従先臥病申終死去褁之以席推落海裏随波流却海色稍清夜頭風切直指東行(圓仁・深谷1990.174~177頁)

 この時の遣唐使船は、特に船の破損もなかったようであるが、船が壊れていく様を目の当たりにして怯えている様子は開成三年七月二日条に見える。これらを参考にすると、万8番歌の「御船」は、本稿の初めの方でも触れたラグーン(潟湖)に寄港したつもりが、そのまま潮が引いてタイダル・フラット(干潟)となり、動けなくなったものと推測される。船は無事だが出航できなくなった。吉田2008.に、「額田王采配さいはいのもとで「月待てば潮もかなひぬ」とあるように、「月読」の神に祈り、「月」の出を待って、満汐の良い時をねらっていたわけである。……特にここは「汐」のことが取り上げられている。それは熟田津の地理条件がある面で軍港というにはふさわしくない、大浦おほうら田沼たぬというような船の停泊するには便利だが、出帆するには苦労するところの、汐満ちの影響を考慮しなければならない潟湖津であったことを示しているのである。しかも〈入港〉も〈出帆〉も同一だということでなかったかもしれぬ。」(100~101頁)とある。「大浦田沼」については、「この「田沼」はタヌと訓まれ、田と沼か、田である沼か分らないと言われるが、「田沼」といっても、それを逆にした「田沼[ママ]」といっても同じで、大浦の地が沼田ぬたの状況であることをいっている。それは「津田」といっても「田津」といっても同じなのと同様の語構成だ。志賀島湾内が潟湖をなし、沼田状になっていることをさしている。」(同25頁)とする。梶川2009.も、写真入りでラグーンにボートが置かれている様を紹介し、そこを「天然の良港」としている。
 日下2012.は、「潟」の意味する地形について的確に表現する。

「潟」という語は、ラグーン(せき)とタイダル・フラット(干潟)の二つの地形(景観)にあてられているといえる。前者すなわちラグーンは、砂やれきからなる高さ二~五メートルの砂堆(砂嘴さし・沿岸浜堤ひんてい)によって外海(湖の場合もある)から隔てられた水域である。この水域は海岸線に平行して細長く延びるのがふつうであり、水深は小さいが、干潮時にも完全に干上がってしまうことはない。外海とは河口や狭いちょうこう(砂堆の切れ目)によってつながっていることが多く、外海より海水、そして汽水をへて淡水域へと移る。また潮の干満によって塩分の濃度は絶えず変化する。汀線付近の傾斜が比較的大きいため、潮の干満による汀線の水平的な移動はあまり大きいものではない。
 それに対し、干潟は傾斜がきわめて小さいため、高潮時には水没し、低潮時に陸化するちょう間帯かんたいの幅は、数キロにも達するのが普通である。たとえばフランスの西海岸では、干潟の幅が約一〇キロであり、わが国の有明海も大きい値を示す。ラグーンが、風波の強い海洋型の海岸に発達するのに対し、タイダル・フラットは、波の静かな内湾に形成される。有明海のほか、岡山市の児島湾の例がよく知られている。
 もっとも、ラグーンの周辺に幅が狭くて規模の小さいタイダル・フラットが形成されるため、両者を厳密に区別することはむずかしい。(80~82頁)

 ラグーンも、タイダル・フラットも、上代の人にとっては同じ「かた」である。言葉として同じ範疇に入れるほど似通った景観であった。砂嘴があるから良港と思って廻りこんで入港したつもりが、干潟になってしまったということであろう。
 高見2004.は良港の条件を整理している。

 港の最も重要な機能は船が安全に停泊できることである。そのためには、主として地形的な次の基本条件を満たす必要がある。
 1 船の出入りに相当した幅と水深の航路がある。
 2 港内は船の数に応じた深さと広さがある。
 3 海底は錨かきがよい。
 4 波が静かである(風よけがある)。
 5 潮の干満の差が小さい。
 近年は土木工学の進歩により、これらの条件を満たすように防波堤、防潮堤、導流堤、岸壁、桟橋などが建設され、昔は港にならなかった場所にも多数の港が作られている。古代には、自然にこの条件を満たすリアス式海岸や潟湖に港が作られた。
 しかし、その港が良港であるためには、前述の基本条件だけでは不十分で、さらに次の条件を満たしていなければならない。
 1 内政、外交、文化交流、物流経済などの目的にあった背後地をもつ。
 2 背後地との交通運輸通信などの連絡が容易である。
 3 港の周囲には、貨物の積み込み・積み下ろし・保管あるいは乗客の休憩・宿泊、船舶の修理、港の保守などの設備がある。
 4 これらの設備の保守および機能維持のための要員が近傍に住んでいる。古代の港も、これらの条件をたとえ小規模であっても満たしていなければ良港とはならない。(140~141頁)

 熟田津は、基本条件の「5 潮の干満の差が小さい」を欠いていたといえる。より正確には、満ち潮の高さが定時的に十分であるという条件を欠いていたと言える。
 「御船」は、前期遣唐使船に想定されるように船底は平らだっただろう。しかし、大きな準構造船であり、豪華客船でありつつ大軍艦である。斉明七年一月六日に出航したのは難波津である。河内湖(草香江)と大阪湾とを結んだ難波堀江にあったとされている。「[難波高津]宮の北の郊原を掘りて、南のかはを引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。」(仁徳紀十一年十月)とある水路に面しているとされている。そこは、「難波なにはの御津みつ」(仁賢紀六年九月)、「難波なにはの三津之みつのうら」(斉明紀五年七月割注・伊吉連博徳書)とも呼ばれる。「御津(三津)」のミは甲類で、「満つ」のミも甲類である。毎日のように水が十分に満ちてきて、出航に手間取らない良港であったということだろう。日下2012.は、万葉歌の「潮待つと ありける船を 知らずして 悔しく妹を 別れ来にけり」(万3594)について、「上町台地(大阪市)の先端から平行して、ほぼ南北方向に走る二本の砂洲に挟まれた細長いラグーンのみなと「難波津」で、潮が満ちて来るのを待っていた。満潮を少し過ぎるころ、十分な水深を利用して、船はラグーンから「難波堀江」に出て、潮とともに下り、明石の門を越えてさらに西方へと向かったのである。」(88頁)とする。ところが、熟田津の場合は、潟湖が干潟に変貌して身動きが取れなくなっている。
 先にみた紀の博多到着の記事に続いて、不思議な文章が紛れ込んでいる。

 天皇、此を改めて、名をばながのたまふ。(斉明紀七年三月)

 「娜大なのおほ」 とあったのを「なが」に改名したというのである。「娜大津」は、那珂津なかつなの(宣化紀元年五月)、「娜太津なたつ」(家伝上(鎌足伝))などとも言われる。名は体を表す。改名するにはそれなりの意味があってのことである(注5)
 「名替え」によって互いの関係が更新されるという考えは、斉明天皇の時代にもあったと思われる。そんななか、斉明天皇は娜大津を長津へと名替えをした。その意味するところは何だろうか。
 紀のきわめて初めのところに、次のような割注が記されている。

 至尊しきそんと曰ひ、自余じよめいと曰ふ。並びに美挙等みことと訓む。(神代紀第一段本文)

 偉いのは「尊」で、次なるは「命」、訓み方はいずれもミコトであると言っている。また、続日本紀・元明天皇の和同六年(713)五月条に、「五月甲子。制。畿内七道諸国郡郷着好字。」と、地名に「き字」を選んで付けるよう命じている。いわゆる好字令である。それらを参照して、長津への改称も好字を当てたにすぎないとする考えがある。しかし、斉明天皇は日本書紀を書いておらず、約五十年後の元明天皇のように文字を意識していたとは考えにくい。この間には大きな文化変容があった。無文字文化から文字文化への移行である。だから「好字」を気にするようになった。それ以前の斉明天皇がどれほど文字(漢字)を読めたか興味深い問題である。そして、この時は字がただ変わったというのではなく、音も少し変わっている。かといって、娜大津を、博多や福岡に変えたというほどには変わっていない。それぐらいに変えたのなら何か深遠な意味合いがあってのこととも思えよう。ところが、ナノオホツやナノツ、ナツ、ナタツと、ナガツとでは、音として変わり映えがしない。「天皇改此、名曰長津。」という表現は、何を改めたものなのか。
 奇妙な改名の話はその後も引きずっている。娜大津の近くの「磐瀬行宮いはせのかりみや」(斉明紀七年三月)が、「磐瀬宮いはせのみや」(斉明紀七年八月)と記されるばかりか、ところによって「長津宮ながつのみや」(天智前紀斉明七年七月是月・同九月)と変わっている。ひょっとしてこれは、娜大津を変えたいがための改名ではなく、磐瀬行宮の名を変えたかったからではないのか。熟田津の「石湯行宮いはゆのかりみや」と音がとてもよく似ている。イハセとイハユは一音違いである。つまり、ナノツやナノオホツ、ナツと呼ばれる船着場部分の場所を、土建国家的に長津と呼ぶことでその付近一帯をナガツという統合的な地名に改変したかったということだろう。イハユを思い出したくないからである。あそこは「津」と呼ぶに値するところではなかった。あんな足止めはもうごめんだよ、そういう声が聞こえてくる。
 翻れば、これらの記事は、「熟田津」という地名について婉曲に何かを物語っているように思われる。つまり、座礁した場所には別の名前があった。◯◯浜、✕✕浦である。横浜とか北浦とか、素朴な名であったのではないか。それを熟田津に名称変更した。あるいは名前などなかったのかもしれない。船着場の意味の津という言葉を使い、船は停泊させるべきところへ停泊させている、というのが戦時下における政府の公式見解であった。座礁の失態は隠蔽されたのである(注6)。当然、紀に詳細が書かれることはない。それでも司馬遷ばりの記者は苦労して文章ひねり出した。「泊」と表記すれば、停泊したことにも宿泊したことにもなる。ただし、意味はとまること、stop である。さらに娜大津を長津と改名したことも記す。磐瀬宮も長津宮になっていたりいなかったりする。その結果、熟田津についても、もともとあった地名ではない可能性を示唆することになっている。仲哀紀の座礁記事でも神功皇后は「忿心」を覚えていて、「魚鳥之遊」をご覧になってようやく解けている。斉明天皇の場合、舒明天皇との思い出の物をご覧になっていた。万6番歌には左注が施されている。

 ……山上憶良大夫まへつきみの類聚歌林に曰はく、「記に曰はく……一書あるふみに云はく、「是の時に宮の前に二つの樹木あり。この二つの斑鳩いかるが比米ひめ二つの鳥さはに集まれり。時にみことのりして多く稲穂を掛けて之れを養ひたまふ。すなはち作れる歌云々しかしか」といへり」といへり。……

 そのようなものを見て心を落ち着かせていたのかもしれない。すなわち、斉明天皇は、憎々しく痛々しく感じていた。憎し、痛し、の語幹に津をつけて、niku+ita+tu→nikitatu と名づけられたと想定することも可能である。山部赤人の歌には、「にき田津たつ」とある。

 ももしきの 大宮人の 飽田津に 船乗りしけむ 年の知らなく(万323)

 赤人は神亀元年 (724)から天平八年(736)の間、生存が確認されている。万323番歌まで、斉明七年(661)からおよそ五十年は経過している。天武十三年(684)の大地震も経ている。「土左国の田苑たはたけ五十余万しろうもれて海と為る。」(天武紀十三年十月)と記されているように、伊予国でも地形変動が起きたことだろう。1946年に起きた昭和南海地震では、愛媛県下の海岸線は四~五十cm地盤沈下し、道後温泉の湧出も六カ月間止まっている。今日、四国の瀬戸内海岸の波打際が迫って感じられるのはそのせいである。赤人がいつのことか年を知らないと歌っているのは詩的な表現である。年が経ってしまったからと納得しているが、場所さえわからなかったのではないか。後世に伝わらないニキタツという地名は臨時に名づけられたものらしい。
 鎌倉時代の仙覚(1203?~1272?)の萬葉集註釋に、伊予風土記を参照したらしい注が付いており、斉明天皇の御歌が記されている。その歌は、「美枳多頭爾みきたづに 波弖丁美禮婆はててみれば 云々」というもので、三句目以下は伝わっていない。ニキタツがミキタヅになるのは音韻が訛る傾向としてあり得る。三句目以下が割愛されて「云々」と書いてあるのは、早い段階で検閲を受けたか自主規制したかして意図的に割愛されたことを予感させる。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)
 (大意)熟田津と名付けられたこの船着場で船出したいと満月の月を待っていたら、大潮の満ち潮はすでに期待以上に満ちてきてしまっている。さあ早く、今はほかのことはどうでもいいから漕ぎ出そう。

 三月望月近くの大潮の日、額田王は、東の空から昇る満月によって高い満潮を導くのを待っていた。確かに「月」は待っていたのであるが、月のことは念頭から離れて「潮」に注意が向いている。月のまだ昇らぬ夕刻から思いもかけず潮の満ち方が急で、今にも船がうまく動き出そうとしている。春の低気圧が発達して通過し、南風も手伝って高潮傾向になったからかもしれない。それで有頂天になってこの歌は歌われた。歌は必ずしも形象を厳密に詠むものではないが、この歌から聞こえてくるテンションの高さは、それなりの何かがなくては生まれないように思われる。
 「潮もかなひぬ」とある助詞のモについては、先に指摘した古橋1994.にある、「月待てば 月もかなひぬ 潮待てば 潮もかなひぬ」のような、単なる並立の意味とは考えにくい。何もかも順調という時に、これほど高揚した声は聞かれない。古典基礎語辞典の「解説」と、上代に名詞を受ける場合の「語釈」を引く。

モは他の係助詞カ・ゾと同じく、「何時いつ」「誰たれ」などの疑問詞の下に付いて使われる。このように、疑問詞に付くことは、モの受ける事柄が不確実なもの、あるいは不確実なことであることを示す役目をする。不確実とは、次のようなことを指す。・推量……・未定……・ 順望……・否定……このようにモは、受ける語を「これ一つではない」と、これと同類のものが他にも存在することを暗示して、掲げたものが不確定・不確実・非限定的・仮定のものとして扱うことを本質としている。これに対して、係助詞ハは、疑問詞に付くことがほとんどなく、数あるもののうちから、上にくる語を特に「これ一つ」として取り立てて、確実・確定的・限定的・既定のものとして扱う。『万葉集』で地名に付くハが多いのは、地名が「これ一つ」という最も明確なものなので、必然的に上の語を確実と扱うハの例が多くなることによる。以上のモの本質からすれば、普通モの文末には打消・推量・疑問など、いわゆる不確定性の陳述がくる。ただ中には「懸けまくも〔母〕 あやにかしこし 言はまくも〔毛〕 ゆゆしきかも」〈万葉四七五〉のように結びが肯定の場合もある。これは、「心にかけて思うのも何とも恐れ多い。口に出して言うのも忌みはばかられることだ」と訳せる一種の常套句で、続けて使われているモは、いずれも上の語を肯定して、「Aも…Bも…である」という、いわゆる並列の意を表している。同類の事柄を列挙するこの並列のモは、上代ではそれほど多くないが、時代が下るにつれて用例数が増加し、やがてモの用法の大部分を占めるよっになって、現代に至っている。こういう意味が生じたのは、モが「ある事」を確実であると確信できない意を示すところから「AもBも」と不確実なものを列挙する気持ちを表した結果である。つまり、並列肯定の用法は、モの不確定という本質の一つの相として現れたことになる。そのほか、係助詞モには、上代から類例暗示、添加、強調・詠嘆、総括など多様な意味用法があり、通時的に盛んに使われている。……
①上にくる語を不確実・非限定・仮定・未定のものとして提示し、下にそれについての説明・叙述を導く。…も。下に打消・推量・願望などの表現を伴うことが多い。 ▷「多遅比野たぢひのに 寝むと知りせば 防壁たつごもも〔母〕 持ちて来ましもの 寝むと知りせば」〈記歌謡七五〉。……②「AもBも」と不確実なものを列挙・並列する意を表す。…も。 ▷「千葉の 葛野かづのを見れば 百千足る 家庭やにはも〔母〕見ゆ 国の秀も〔母〕見ゆ」〈記歌謡四一〉。……③一つを挙げて、該当する他の類例を暗示する意を表す。また、他の同種のものを類推させる意を表す。…も。…なども。…さえも。(…はもちろんのこと)…だって。 ▷「熟田津にきたつに船乗りせむと月待てば潮も〔毛〕かなひぬ今は漕ぎ出でな」〈万葉八〉。……④一つの事柄の上に、同種の事柄をもう一つ加えるという添加の意を表す。…も。…もまた。 ▷「宮人の 足結あゆひの小鈴 落ちにきと 宮人響とよむ 里人も〔母〕ゆめ」〈記歌謡八二〉。……⑤控えめな最小限・最低限の希望を表す。せめて…だけでも。下に仮定や願望の表現を伴うことが多い。 ▷「ぬばたまの夜渡る月をとどめむに西の山辺に関も〔毛〕あらぬかも」〈万葉一〇七七〉。……(1194~1195頁、この項、我妻多賀子)

 古橋説は②の用例の省略形ということになる。モを不確実なものとする解説に反する。そして筆者は、③の例に熟田津の歌が採りあげられていることに異議を唱えたい。月と潮について、「月待てば潮かなひぬ」と先にモが出ていれば、暗示や類推に該当するであろうが、そういう語順にはない。そして、「語釈」では説明不足ながら④の意味に着目する。記81番歌謡の用例は、「宮人は大騒ぎするけれど里人は決して大騒ぎしてはいけないよ」という意味である。「宮人」と「里人」とは、することの方向性が反対である。否定の意味が残っている。この意に寄せて熟田津の歌を考えると、「月を待っていると月はまだ出ていないのに、潮は船出にかなう状態になってしまった」と解することができる。記歌謡や初期万葉歌は、上代においても古い用例である。モの原義である不確実性の提示の意を多分に含んでいると考えたほうが妥当である。予想に反して船がにわかに動き出そうとしていたことを指している。あれよあれよという間に「潮もかなひぬ」と完了してしまっている。だから、みんなで早く、早く、と声を掛け合っている。「今は漕ぎ出でな」と、提題の助詞ハが付いている。
 三句目の「月待てば」の「月」については、月の出を待つのか、満月になるのを待つのか、議論が分かれている。ほかに、雲から月が現れたとする説もある。万葉集中から「月」と「待つ」を兼ね備えた歌を見ると、万8番歌以外に九首ある。

 夕闇ゆふやみは みちたづたづし 月待ちて ませ背子せこ そのにも見む(万709)
 闇のは 苦しきものを 何時いつしかと 吾が待つ月も 早も照らぬか(万1374)
 いもが目の 見まくしけく 夕闇の の葉こもれる 月待つ如し(万2666)
 あしひきの 山よりづる 月待つと 人には言ひて 妹待つわれを(万3002)
 能登の海に 釣する海人あまの 漁火いさりびの 光りにいけ 月待ちがてり(万3169)
 …… あしひきの 山より出づる 月待つと 人には云ひて 君待つ吾を(万3276)
 たらしひめ 御船てけむ まつうみ 妹が待つべき 月はにつつ(万3685)
 月待ちて 家には行かむ わがせる あから橘 影に見えつつ(万4060)
 秋草に 置く白露の かずのみ 相見るものを 月をし待たむ(万4312)

 このうち、万3685・4312番歌は暦としての月の意で、他の七例は天体として夜を照らす月の出を待つ意である。月歴として用いられる場合は、「」や「日にに」など、時間の経過を示す言葉としてわかるように示されることが多い。万3685番歌もそうで、万4312番歌と似た性格を持っている。万4312番歌は、「七夕の歌八首」のうちの一首で、この場合の「月」は来年の七月のことを指している。万3685番歌も帰国すべき予定月のことを言っている。
 万8番歌の「月待てば」の場合、月歴として特定の月を言っているとは考えにくい。出航予定ならともかく、出航予定というのはあり得ない。また、ひと月、ふた月、み月と指折り数えて待つという言い方や、上弦の月が満月になるのを待つという言い方は上代に見られない。よって、月の出を待っていると解すべきである。上に述べたように、助詞のモが不確実性を表すことも考え合わせれば、満月になれば大潮になってすべてうまくいくという予定調和を歌った可能性は非常に低い。月の出を待っていたら思いがけず潮が満ちてきて、さあ漕ぎ出そうと歌っている。
 万8番歌は、座礁からの解放を喜んだ歌であった。「漕ぎ出で」ることが眼目で、「潮」に潮流の意味は含まれていない。難波からの出航当初は二日かけて約100km進み、岡山県の東部に達している。岡山県東部から松山付近までは六日かけて約150km進んでいる。松山付近から博多までは関門海峡を通って約250kmである。三月の望月頃の大潮で船が動き出したとして、到着は三月二十五日、十日ほどかかっている。途中で神功皇后ゆかりの穴門の豊浦宮旧跡地、山口県下関市長府豊浦町へ立ち寄ったことだろうから、日程的にはちょうどいい。紀の「還りて○○○娜大津に至る。」という表現は座礁からの脱出を物語っている。「御船」は、陸から海に「還」ったのである。
 船の安全を祈った呪術的な意味合いは感じられない。二句目の「乗り」という言葉は、乗物に乗って身を任せて行くことをいう。安全無事を祈るというよりも、ようやく船出できる喜びを素直に表現している。乗組員一同の気持ちが一つになった時、この歌は歌われた。人々に共有されるような気持ち、共通する感覚が歌になってほとばしり出ている。
 左注の最後に、「但、額田王歌者別有四首。」とあった。おそらくこの四首は、同じように船出を歌ったものであろう。最大の関心事だからである。座礁した日かそれに近い大潮の日、二月朔日頃の大潮の日、二月望月頃の大潮の日、三月朔日頃の大潮の日。ちょうど四回あってそのたびに船出を予祝する歌が歌われたとすれば四首である。むろん、大自然を相手にして、額田王の歌の力ではどうにもならなかった。最後に歌われた万8番歌は、予祝する歌ではなく、実際に動き出して興奮して作った歌である。歌の出来がいちばんすぐれるのは当然のことである。左注を付けた人が「即此歌者天皇御製焉。」と言っているのは、ほかの四首が冴えなかったから、同一の作者とは思われなかったということかも知れない。
 仮に、西暦2000年の松山(緯度33°51′N、経度132°43′E)の潮汐を、潮汐表aに見る(注7)と、旧暦一月十四日は新暦の二月十八日に当たり、大潮の第一日目である。潮時と潮位を示すと、1:53に最低潮位2cm 、8:42に最高潮位333cm、14:44に90cm、20:21に289cmをつけている。翌日以降、日に約二回ある高潮と低潮のうち、潮時の最高値を旧暦で示すと、十五日344cm、十六日348cm、十七日345cm、十八日337cm、十九日324cm、二十日308cm、二十一日288cm、二十二日265cm、二十三日245cm、二十四日232cm、二十五日236cm、二十六日255cm、二十七日276cm、二十八日294cm、二十九日309cm、三十日319cm、二月一日(新暦三月五日)327cm、二日331cm、三日331cm、四日326cm、五日315cm、六日310cm、七日295cm、八日276cm、九日263cm、十日268cm、十一日288cm、十二日310cm、十三日325cm、十四日334cm、十五日336cm、十六日333cm、十七日327cm、十八日316cm、十九日303cm、二十日302cm、二十一日285cm、二十二日266cm、二十三日248cm、二十四日242cm、二十五日252cm、二十六日271cm、二十七日290cm、二十八日305cm、二十九日318cm、三十日326cm、三月一日(新暦四月五日)338cm、二日343cm、三日340cm、四日311cm、五日329cm、六日312cm、七日291cm、八日277cm、九日278cm、十日290cm、十一日305cm、十二日315cm、十三日321cm、十四日330cm、十五日334cm、十六日332cm、十七日326cm、十八日316cm、十九日282cm、二十日302cm、二十一日287cm、二十二日271cm、二十三日259cm、二十四日260cm、娜大津に着いた二十五日の松山の最高潮位は271cmである。
 最高潮位に注目すると、一月十四日(新暦二月十八日)の333cmに達するのは、同十五・十六・十七・十八日を過ぎると、二月十四・十五・十六日、三月一・二・三日、同月十五日である。きわめて限られている。検潮所での平均的なデータと、「潟」湖の実際とでは開きがあり、また潟湖へ流入する川の水量も加味しなければ実情は不明だが、それでも大いに参考になる。一月十六日の348cmを上回ることはずっとないのである。潮の満ち方が多そうな日を見ると次のとおりである。

 旧暦二月望月頃は午前中に最高潮位を示している。この傾向は、熟田津到着の旧暦1月望月頃にも当てはまる。月の出るはずもない朝から「月待てば」とは歌わないであろう。また、旧暦三月朔日頃の月は見えなかったりか細かったりする。しかも、日中から天上にある月を「月待てば」とは歌わないであろう。旧暦三月望月頃を見ると、「月待てば」と歌いたくなるのは日の入より後に月の出がある日であろうから、三月十五日以降説が有力ではないかと感じられる。以上が、二カ月ほど足止めを食らっていたのではないかと推測できる状況証拠である(注8)
 この歌は、戦争に赴くときの歌ではあっても進軍ラッパではない。中大兄の「三山歌」(万13~15)と同じ道中でありながら、性質は全く異にしている。そして時代感覚の鋭い編者はこの歌を採録した。彼自身が新たに書き加えたのは、標目(「後岡本宮御宇天皇代」)と題詞(「額田王歌」)だけである。あとは紀と見比べて考えて下さいと願っている。そして、紀の方にはわずかな手掛かりが残された。そうまでしなければならなかった経緯を考えると一つの疑問が浮かびあがる。
 紀が書かれたのは天武朝である。書いたのは官吏である。その際、以前の政権の平凡な失敗については、あまり隠さずに書いている。つまらないニュースも結構載っている。ところが、この座礁の事件は語られることなく終わっている。空白の約二カ月が生じている。なぜ書かれなかったのか。あるいは、座礁のきっかけを作ったのが大海人皇子、すなわち、後の天武天皇にあったからではないかとの印象を筆者はいだく。
 船上で大伯皇女が誕生しており、娜大津から名付けられたらしい大津皇子も生まれている。

 をか本天皇もとのすめらみこと[舒明天皇]と皇后きさき[後の皇極・斉明天皇]との二躯を以て一度と為。時に、大殿おほとのむく臣木おみのきとあり。其の木にいかるが此米しめどりすだき止まれり。天皇、此の鳥が為に、枝にいな等をけてひ賜ふ。のちのをか本天皇もとのすめらみこと[斉明天皇]・近江大津宮に御宇しめしし天皇[天智天皇]・浄御原宮きよみはらのみやに御宇しめしし天皇[天武天皇]の三躯を以て、一度と為。(萬葉集註釋による伊予風土記逸文、再掲)

 斉明・天智・天武の三天皇が一緒に来たと記されている。万6番歌の左注に記されるところである。しかし、紀の一連の斉明天皇西征の記事に大海人皇子の名は出てこない。失敗があったから大海人皇子の動静が伝えられていないのではないか。天皇の崩御や白村江の敗戦を後から振り返った時、熟田津の不祥事はその前兆であったと人々は考えるに違いない。その原因は大海人皇子が作った。そう思われては天武天皇は困るし、周りの宮廷人にとっても気まずいものである。
 万8番歌の原文は「𤎼田津尓」で始まる。「𤎼」という字は、紀と万葉集に現れる。「熟」の字の異体字とされるが、管見ながら中国に見られるものではない。おそらく、編者の謎掛けをもとにした造字であろう。よく使われる「熟」の字の下にある点四つ、レッカは火を表す。火がついたように赤く熟しているというのである。そこで、上の部分の「孰」に似た字の「就」をもってきて、字義を伝えるにふさわしい字をこしらえた。

「𤎼田津」(西本願寺本万葉集、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242401/1/12)

 本稿では「就」の字をすでに見ている。「御船西に征きて、始めて海路にく」、「天皇の喪、帰りて海にく」とあった。動詞が一つしかないわざとらしい文も、「𤎼」字を上下に分離して「御船、伊予に泊て、火田津ほたつの石湯行宮にく」と訓めば意が通じる。紀に記される漢語(「御船泊于伊予就火○○田津石湯行宮」)を無理矢理なぞなぞ訓みしてみた。伊予に stop してはいるが、きちんと計画通りに就いているとの体裁にも読める。ただしそれは、火田ほた、つまり焼き畑の、水のない状態の津に石湯行宮はある、という自己撞着した表現になっている。指宿に知られる砂風呂のようなところだったかもしれない。畑という字は国字であり、紀には、「田畝たはたけ」、「田圃たはたけ」、「田苑たはたけ」、「水陸たはたけ」、「陸田はたけつものの種子たね」などと記されており、当時はまだなかった。日下2012.の「潟」の解説にあったように、天然の良港にもなり得る潟湖と遠浅で広い干潟とは、見た目の景観としては判別がつきにくい。満潮時に潟湖と思って入港したところ、実はふだんは干潟のところだった。つまり、「就」が床に就いているような意味合いで使われている。「潮船」状態が長引いたということである。
 石湯行宮とは、座礁船自体のことを「行宮」としていたことを表すのではないか。船に缶詰というわけではないが、大した建物も俄かには造れず、いちばん快適に過ごせるのは「御船」という豪華船中であったろう。斉明天皇は、神功皇后同様、「忿心」を得ていた。怒りを覚えていたのである。「御船」が干潟の上にあるとは、水のあるところでの停泊ならイカリを下すのに、イカリを上げているという洒落が成り立つ。怒りがこみ上げてきて仕方がないような場所にいらっしゃった。イカリ(碇、忿、怒、慍)の用字には次の例がある。

 近江あふみの海 沖漕ぐ船の 重石いかり下ろし しのびて君が こと待つわれぞ(万2440)
 大船おほふねの たゆたふ海に 重石下ろし いかにせばかも が恋まむ(万2738)
 大船の とりの海に いかり下ろし いかなる人か 物思はざらむ(万2436)
 はねかづら 今する妹が うら若み みみいかりみ けし紐解く(万2627)
 十に曰はく、忿こころのいかりを絶ちおもへりのいかりを棄てて、人のたがふことをいからざれ。(推古紀十二年四月)

 万葉集のはじめの三例は碇の意、最後の例のみ怒の意である。万2436番歌は、anchor の意に「慍」の字を用いた借訓である。碇には「沈石」(播磨風土記飾磨郡)との用字もあり、通常は下ろして用をなすものである。怒りがこみ上げてきて仕方がない場所は干上がった畑であり、碇を上げたままに用をなして船は流されることなく泊まっている、ないしは、就いている。じっと滞在して、御在所と呼ぶのに値する。それをイハユの行宮と命名した。イハという語は、実物の石の大きなものの意のほかに、それを材料に使った船の碇の意、霊験性を表す意がある。大石に穴をあけたり、網状にしてそこへ大石を入れたり、木に括りつけたものなど各種ある。碇とイハとはよく似ているのである。つまり、イハ(岩・磐・巌)+アユ(肖)→イハユ(石湯)と名づけてみた。そして、所謂いはゆる行宮が止まっているから終止形を以てして、イハユノカリミヤと呼んでいる。
 万6番歌左注に見える「斑鳩・比米」なる「二鳥」は、イカルガヒメ、すなわち、イカル(怒)+ガ(助詞)+ヒメ(姫)という皇極・斉明天皇のあだ名をもとに作られた伝承であったかもしれない。彼女の肉声は紀に録写されている。大化改新のクーデターが宮中で行われた箇所に、彼女の怒りの声が記されている。

 天皇、大きに驚きて、中大兄に詔してのたまはく、「知らず、る所、何事有りつるや」とのたまふ。(皇極紀四年六月)(注9)

左:碇石(森の宮遺跡、㈶大阪市文化財協会編『事業のあらまし 1979-1999』同発行、1999年、https://www.occpa.or.jp/PDF/aramashi_20.pdf(3/8))、右:不動明王立像(部分)(平安時代、11世紀、東博展示品)(注10)

 碇と怒との関係は、その図像によっても証明される。おおきな石に蔓のロープを絡ませたものを碇に使っていた。他方、怒りを表した忿怒の像、不動明王の頭部は、まるで、碇のように、ロープ状の弁髪や凸凹のある顔つきとなっている。碇を下ろした船は不動であることになる。
 船団がどの程度の規模であったかはわからない。

 五月に、大将軍おほきいくさのきみ大錦中だいきむちう曇比づみのひぶのむらじ船師ふないくさ一百七十ももあまりななそふなて、ほうしょう等を百済国に送りて、みことのりりて、豊璋等を以て其の位を継がしむ。(天智紀元年五月)

 「一百七十艘」という船の数は、後述する白村江の海戦の時の唐軍の船の数と同じである。なお、天智十年十一月に唐領百済から倭に向かった船の数は、四十七隻、人数は二千人とある。そのまま行くとびっくりして一触即発になるだろうからと、事前通告のために使者が来ていると知らせている。この記事は信憑性が高い。斉明天皇の船団の船数を絞り込むことはできないものの、相当数であったことは確かである。
 船団を組んで進んでいた時、大海人皇子が水先案内人パイロット役を担っていたと考える。彼の乳母はその名から、丹後国加佐かさおほしあま郷、現在の京都府舞鶴市付近に拠点を置いていた凡海(大海)氏であり、いわゆる海人族に育てられたとされている。そのつてで航海技術を持った人は雇われていたに違いあるまい。誘導されるままに斉明天皇らの乗った御船号は進んだ。しかし、難波津のある大阪湾や山陰・北陸の日本海側の海岸の状況と、瀬戸内海西部とでは様子が違っていた。潮汐においてである。

※潮汐表a・bによる。*は「日本沿岸736港の潮汐表」や「Anglrタイドグラフ」による。略最高高潮面:満潮時などにこれより高くならないと想定される潮位、大潮升:最低水面から大潮の平均高潮面までの高さ、大潮差:大潮の平均潮差、小潮升:最低水面から小潮の平均高潮面までの高さ、小潮差:小潮の平均潮差、平均水面:潮汐がないと仮定した海面、平均潮差:満潮位と干潮位の平均潮差、平均高潮間隔:月がその地の子午線を経過してから高潮となるまでの平均時間(注11)

 大潮差は、日本列島沿岸では九州の東シナ海側が最も大きく、有明海の佐ノ江では4.6mにも達する。ところが日本海側ではほとんどなく、舞鶴で20㎝に満たない。問題となる松山では2.8m、博多では1.6mである。難波津の値を現在の大阪にとると、1m弱である。潮の干満の大きさに驚いたことであろう。油断して接岸したところ潮が引くと沖合いはるかに干上がっていた。いちばん大きな「御船」号は干潟の奥に取り残された。大海人皇子は皮肉られて仕方のない立場に立たされている。
 古代の船の運航については、上述したように、潮の干満を利用した座礁形式の停泊が行われていた。それがうまくいくためには、船が泊まる津となる場所が、安定的な潮の干満を繰り返していることが望ましい。古代によく利用された難波津(大阪)をみると、大潮の時の平均的な水面の高さ(大潮升)は1.4m、小潮の時のそれ(小潮升)は1.1mである。わずかに30cmしか違わない。つまり、大潮、小潮にあまり関係なく、日に二回、定期的に潮が満ちてくる。これは、船の発着便として必ず日に二回チャンスがあるということであり、時刻表が作成できることを意味する。そして、海が荒れようとも、砂嘴によって守られているラグーン(潟湖)にある難波津は、天然の良港になっていた。
 日本で最も干満差の大きい有明海の住ノ江では、大潮升5.1m、小潮升3.5mである。1.6mも差がある。大潮の時に船で陸地いっぱいまで来て座礁式に停泊をすると、概念的には、十五日後、三十日後、四十五日後、といった日の満潮を待たなければ、船は再び海水の上に浮かぶことはなくて出航できない。そこをタイダル・フラット(干潟)と呼ぶ。熟田津も同じであった。
 白村江の戦いの様子は紀では簡潔に書かれている。天智二年(663)に戦局は急転回する。百済王に擁立された豊璋は、六月になって近侍の者の讒言を聞き入れてしまい、将軍のしつ福信ふくしんと内輪揉めを起こす。福信は滅亡した百済を孤軍奮闘し、どうにか再興にこぎつけた英雄であった。結局彼は、「腐狗くちいぬかたくなやつこ」と奸侫な輩を罵りながら死刑に処せられた。八月十三日には、良将のいなくなったことを知った新羅軍が、百済の王城、州柔つぬを目指して押し寄せる。三国史記・金庾信伝にも記載がある。豊璋は、そのとき牙城であるべき州柔城を抜け出して倭の援軍の来る白村江へ赴く。十七日、敵軍は州柔城を包囲し、また唐の海軍も戦艦百七十艘が白村江に陣を堅固にして位置についた。
 二十七日に倭の海軍の先発隊が白村江に到着し、緒戦に敗れて退却する。決戦は翌二十八日である。

 秋八月の壬午の朔にして甲午(13日)に、新羅、百済くだらのこしきおの良将よきいくさのきみを斬れるを以て、ただに国に入りて州柔つぬを取らむことをはかれり。是に、百済、あたの計る所を知りて、諸将もろもろのいくさのきみかたりて曰はく、「今聞く、大日やま本国とのくに救将すくひのいくさのきみいほはらの君臣きみおみ健児ちからひと万余よろづあまりを率て、まさに海を越えて至らむ。願はくは、諸の将軍等は、あらかじめ図るべし。我自らきて、白村はくすきに待ちへむ」といふ。
 戊戌(17日)に、賊将あたのいくさのきみ、州柔に至りて、其の王城こきしのさしかくむ。大唐もろこし軍将いくさのきみ戦船いくさふね一百七十ももあまりななそふなを率て、白村江はくすきのえ陣烈つらなれり。
 戊申(27日)に、日本やまと船師ふないくさづ至る者と、大唐の船師と合ひ戦ふ。日本、不利けて退く。大唐、つらかためて守る。
 己酉(28日)に、日本の諸将と、百済の王と、気象あるかたちを観ずして、相かたりて日はく、「我等先を争はば、彼おのづからに退くべし」といふ。更に日本のつら乱れたる中軍そひのいくさひとどもて、進みて大唐の陣を堅くせるいくさを打つ。大唐、便ち左右もとこより船をはさみてかくみ戦ふ。須臾之際ときのまに、官軍みいくさ敗続やぶれぬ。水におもぶきておぼほれ死ぬる者おほし。艫舳へとも廻旋めぐらすこと得ず。ちの田来津たくつあめに仰ぎて誓ひ、歯をくひしばりていかり、数十人とをあまりのひとを殺しつ。ここたたかひせぬ。是の時に、百済の王豊璋、数人あまたひとと船に乗りて、高麗こまに逃げ去りぬ。(天智紀二年八月)

 豊璋は高句麗に逃げ、九月七日に州柔は落城する。百済側の内訌や王の単独行動も不可解であるが、倭の海軍も、戦術も何もあったものではない。白村江、錦江の河口を我も我もとただ進んで敗れている。唐の戦艦は十日も前から準備して待っていた。そこへ「気象」を考えないで進軍し、両側から挟まれてすぐに負けている。退却しようにも、「艪舳不廻旋。」となってしまった。
 舳艫とは、もとは船の大きさを示す熟語であった。それを舳と艫とに分解して、船首と船尾とを表そうとした。ところが、どちらがどちらか混乱していく。新撰字鏡には、「舳 以周・治六二反、艪舳、止毛とも」、「艫 力魯反、舟前鼻也、」、和名抄には、「舳 兼名苑注に云はく、船の前頭は之れを舳〈音は逐、楊氏漢語抄に、船の頭の水を制する処なりと云ふ。和名は〉と謂ふといふ。」、「艫 兼名苑注に云はく、船の後頭は之れを艫〈音は盧、楊氏に舟の後に櫂を刺す処と曰ふ。和語に度毛ともと曰ふ〉と謂ふといふ。」とある。名義抄では、区別をあきらめて「舳 ヘ、トモ」、「艫 トモ、ヘ」と両訓をつけている。紀で「舳艫」・「艫舳」の例は全部で五例あり、傍訓ではそれぞれ、トモヘ、ヘトモ、また後者はフネとも振られている。

 ……皇軍みいくさ遂にひむかしにゆく。舳艪ともへげり。まさ難波なにはのみさきに到るときに、……(神武前紀戊午年二月)
 又、筑紫のとのあがたぬしおや五十迹手とて、天皇のいでますをうけたまはりて、五百枝のさかじ取りて、船の舳艫ともへに立てて、……あな引嶋ひこしま参迎まうむかへて献る。(仲哀紀八年正月)
 是歳、新羅の貢調みつきたてまつる使つかひ知万沙ちまささん等、もろこしの国のきものを着て、筑紫に泊れり。朝庭みかどほしきまましわざ移せることをにくみて、訶嘖めて追ひ還したまふ。時に、勢大臣せのおほおみ奏請まをしてまをさく、「まさに今新羅を伐ちたまはずは、後に必ず当にくい有らむ。其の伐たむかたちは、挙力なやむべからず。難波津より、筑紫海のうちに至るまでに、相ぎて艫舳ふねを浮けてて、新羅を徴召して、其の罪を問はば、やすく得べし」とまをす。(孝徳紀白雉二年是歳)
 是歳、百済の為に、まさに新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已につくりをはりて、続麻郊をみのき至る時に、其の船、夜中にゆゑも無くして艫舳へともかへれり。ひとびとつひに敗れむことをさとりぬ。(斉明紀六年是歳)

 紀において、舳艫、艪軸の使い分けに意味があったかどうか筆者には整理がつかない。斉明紀六年是歳条の例は、新造船を続麻郊、現在の宇治山田に近い三重県多気郡明和町まで航行させ、一晩浜辺に陸揚げしておいた。ところが、翌朝になってみると、船首と船尾が反対を向いていたというのである。「其船夜中無故艫舳相反」と書いてあるが、何のことはない、夜中に潮が満ちて船が浮かび、くるりと向きを変えて朝には潮が引いていたということである。宇治山田の大潮差(平均高高潮-平均低低潮)は1.7mである。十分にあり得る値である。「無故」とは理由がないのではなく、潮汐という自然現象がわかっていないことを示した記述に他ならない。前後不覚に「艫舳」と反してしまった。敗戦の予兆を表す記事にふさわしい。
 天智紀二年八月条の白村江の戦いにおいて「艫舳不廻旋。」とある。みじめな敗戦記事を端的に表現している。実際に起ったのは、河口をいったん遡ったらUターンできずに壊滅したという事態である。引き返そうにも向きを変えられず、唐軍に殲滅せられた。百済を救うために新羅と戦うはずが、援軍の唐と戦って敗れている。戦術的にも外交的にも方向転換が利かなかったことを象徴的に表した記事である。
 「気象」は木や風向きなど大気中の変動を表す言葉であるが、ここでは潮位の変化、干満の差の大きさを指し示している。唐の海軍が陣を布いたのは八月十七日である(注12)。月齢と潮汐の関係が、それも季節的な変化について経験的に理解されている。特に秋分点頃がいちばん上げ潮がきついと知っていたに違いない。ちょうどその条件のとき、唐軍は白村江において、干満の具合を確かめながら、艦船はそれぞれの持ち場についている。
 白村江、今の錦江クムガンの河口、群山クンサンでは、大潮差は6.0m、小潮差でも2.8mに及ぶ。単純計算で熟田津の二倍以上である。元嘉暦で記されていると推定する一般の説によれば、天智二年は閏月のない年で、八月は小月に当たって二十九日までである。白村江の決戦は天智二年(663)八月二十八日、朔の二〜三日前に河口で戦っている。潮汐表bによって、韓国、全羅北道の群山(緯度35°59′N、経度126°43′E)における、663年と暦が近似する2002年を参考に見ると、十月四日(旧暦八月二十八日)は、月齢は27.0、月の南中時は10:25である。当日の潮位(潮時)は、614cm(1:33)、136cm(8:30)、574cm(13:51)、83cm(20:40)となっている。約5mもの潮位差がある。今日、セマングムという世界一長い防潮堤が築かれているところである。唐軍は、干満差の激しいことを十七日に着いて知っている。2002年でいえば九月二十三日に当たり、612cm(4:29)、104cm(11:27)、606cm(16:41)、0.7m(23:30)とさらに激しい(注13)
 決戦の時刻が何時頃なのか記載がないが、昼間の戦いであったなら、朝、引いていた潮が、午前中にだんだんと上げ潮になっていって5mほど水位が高まり、その後は反対にどんどん引き潮に変わった。つまり、「艫舳不廻旋。」とは、午前中に川の逆流に乗って先を争って敵に進撃していったところ、両側に陣構えしていた唐の艦船は川の中央へ向って並んで左右から挟むように進み、乱れ進んできたものの流れが止まって動けなくなった倭の艦船を挟み撃ちにした。向きも変えられない倭の艦船に対して火矢を射、次々と焼いた。唐側の資料では、旧唐書・劉仁軌伝に、「仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、焚其舟四百艘。煙燄漲天、海水皆赤。賊衆大潰、余豊脱身而走。」とある。実際の戦闘がいかなるものであったのか確かめられないものの、日本書紀のこの部分を書いた人の表現としては以上のように考えるのが妥当であろう。錦江の逆流を起こす役割を果しているのは、伍子胥ならぬ百済の福信である。海を知らない水軍が、海に敗れたのであった。
 もとより、万葉集の編者がこの熟田津の歌を撰んだのは、極めて杜撰な参戦体制を伝えるためであったろう。狂信的な斉明朝の本質に肉薄するのにとても鋭い切り口である。しかし、それだけを伝えたかったのではない。都に残っていた有力豪族の中には、天智天皇が位につき、中臣鎌足が引き続き内大臣の座に座ることに反感を覚えていた者もあっただろう。天智称制は六年五カ月に及んでいる。その後、近江遷都に批判的な勢力もいたはずである。しかし白村江の敗戦の責任は、司令官の中大兄一人にあるのではなかった。反旗を翻すにも担ぎ上げるに足る皇子がいなかった。大海人皇子の失策こそが敗因となれば大義が立たない。そういう政治力学を編者は伝えたかったのではないか。歌が予祝するもの、時代をリードするものと考えられたなら、斉明天皇代の皇子どうしの力関係だけでなく、次の天智朝を占う意味にも解釈されていたとして過言ではない。
 万葉集の最初の編者は、日本書紀と深く関わりを持っていると筆者は考えているが、紀が書かれたのは早くても天武紀十年(681)三月条にある詔以降のことである。額田王の熟田津の歌の斉明七年(661)から二十年経っている。万8番歌の内実を知っている人が編んでいるが、後の人のつけた左注は要領を得ていない。この額田王の歌は、歌われてからほんの少しの間だけ話題になり、しばらくしてからは人の口に上らなくなったのであろう。斉明天皇の崩御のこともある。戦時中にもかかわらず、政府の失敗からの解放を喜んでいる歌でもある。白村江の敗戦を迎え、熟田津のしくじりが後の戦況に大きく影響しているうえに、経験が教訓として少しも生かされていないとしたら、人々は口を緘したに違いない。潮の干満を、ヤマト朝廷が身に染みて知った最初が熟田津であったということである。そのように考えていくと、万葉集の当初の編纂は、当時の専制政治に対して少なからぬ危険を伴う私秘撰であったと目される。

(注)
(注1)7世紀の遺構については、橋本2012.参照。
(注2)多くの感染症は科学的知見を得るまで「神忿」として捉えられてきた。
(注3)不改常典の法については、皇位は天皇からその子や妻へと継嗣するとは限らず、臨機応変にふさわしい人を当てるのが望ましいというものであったことに関しては、拙稿「「不改常典」とは何か」参照。
(注4)この「笠」については、新川1999.、拙稿「中大兄の三山歌について」
参照。
(注5)記紀のなかでも、大国おほくにぬしのかみはいろいろな名前を持っており、名を替えては変身を遂げ、それまでとは異なる役割を担っている。大己おほあなかみ大穴おほあな遅神ぢのかみ)となれば国作り、八千やちほこのかみとなれば遠くまで婚活に出掛けていた。日本やまと武尊たけるのみこと(倭建命)は、もとは日本やまと童男をぐなやまと男具をぐ那王なのみこ)といった。その名易えの意味合いについては、拙稿「ヤマトタケル論─ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件─」参照。また、応神天皇は皇太子時代、つぬ鹿(敦賀)の気比けひ神宮の大神と名を交換したという話がある。拙稿「古事記の名易え記事について」参照。
(注6)一例としてあげると、1944年に起きた大規模な昭和東南海地震も、情報統制され、被害は隠蔽されている。
(注7)旧暦で閏月の現れる年の前年で、新暦の日付との対応が新暦に二月二十九日があるという点からほぼ同じとみて参照した。
(注8)海上保安庁海洋情報部の「潮汐推算」(https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/TIDE/tide_pred/index.htm)から、斉明七年(661)の松山の潮汐模様が検索可能である。八木2010.、清原2013.らも三月十五日説をとるが、座礁失態とは考えていない。「八番歌の夜の船出は、当事者たちが知恵と経験を縒り合わせ、満月の晩の月と潮の妙なる照応関係を行程上の要件に組み込んで演じたページェントであった」(八木2010.31頁)としている。船の航行において、海を横切ることをことさらに難事とするが、瀬戸内海の漁業者は当時も日常的に船を出して漁をしていたであろう。
(注9)動揺を隠せない発話とすれば、「不知所作有何事耶。」(皇極紀四年六月)は、「知らず。る。何事や有る。」と訓むとも考えられる。
(注10)不動明王像についての儀軌として伝わるもので、飛鳥時代にさかのぼるものは今日見られない。
(注11)潮汐に関する用語については、海上保安庁第六管区海上保安本部・海の相談室「潮汐に関する用語について」(http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic28.htm)において、「広島港の潮位関係図」の図を用いたわかりやすい解説に負っている。
(注12)「銭塘江の海嘯」(http://china.hix05.com/now-2/now211.pororoca.html、2025.2.5確認)参照。アマゾン川のポロロッカと並び称される潮津波、タイダル・ボアである。ポロロッカは春分の頃の朔月の大潮時、銭塘潮は秋分の頃の望月の大潮時に大波が見られる。この現象については、春秋時代、呉越の争いの最中に、奸侫な者の讒言によって、呉王夫差から死を賜った伍子胥の怨念のせいであるという迷信があったらしい。一世紀、王充の論衡・書虚篇には否定的な見解が述べられている。「伝書に言はく、呉王夫差は伍子胥を殺し、之をかまに煮て、乃ち鴟夷のふくろを以て之を江に投ず。子胥恚恨し、水を駆りて涛を為し、以て人を溺殺す。今時会稽の丹徒の大江、銭唐の浙江に、皆子胥の廟を立つ。蓋し其の恨心を慰め其の猛涛を止めんと欲するなりといふ。夫れ呉王の子胥を殺し、之を江に投ずは実なるも、其の恨、急に水を駆りて涛を為すと言ふ者は、虚なり。……涛の起るや、月の盛衰に随ひ、小大満損、齊同ならず。(伝書言、夫差殺伍子胥、煮之於鏤、乃以鴟夷橐投之於江。子胥恚恨、駆水為涛、以溺殺人。今時会稽丹徒大江、銭唐浙江、皆立子胥之廟。蓋欲慰其恨心止其猛涛也。夫殺子胥投、之於江実也、言其恨急駆水為涛者虚也。……涛之起也、随月盛哀、小大満損、不齊同。)」とある。
(注13)二十世紀の朝鮮戦争時、インチョン上陸作戦において、国連軍(アメリカ軍)は潮の干満差の大きいことを十分に検討している。

(引用・参考文献)
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折口1997. 折口信夫「女帝考」折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集18』中央公論社、1997年。
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大系本万葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
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時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新川1999. 新川登亀男「日羅間の調」『日本古代の対外交渉と仏教』吉川弘文館、1999年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山田福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
高見2004. 高見大地「熟田津とはどこか─古代の良港と微地形─」越境の会編『越境としての古代2』同時代社、2004年。
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潮汐表b 海上保安庁水路部編『平成十二年 潮汐表 第2巻─太平洋及びインド洋─』海上保安庁発行、平成12年。
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吉井1990. 吉井巖『萬葉集への視覚』和泉書院、1990年。
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加藤良平 2020.11.26改稿初出

万葉集3223番歌の「日香天之」と1807番歌の「帰香具礼」の解釈

 万葉集3223番歌の「日香天之」と1807番歌の「帰香具礼」について、その語義を明らかにする。

 霹靂かむとけの 日香天之 九月ながつきの 時雨しぐれの降れば かりがねも いまだ来鳴かぬ かむ南備なびの 清き御田屋みたやの 垣内かきつの 池の堤の 百足らず つきが枝に みづさす 秋の赤葉もみちば 巻き持てる すずもゆらに わやに われは有れども 引きぢて みねもとををに ふさ手折たをり 吾は持ちてく 君が插頭かざしに(万3223)〔霹靂之日香天之九月乃鍾礼乃落者鴈音文未来鳴甘南備乃清三田屋乃垣津田乃池之堤之百不足五十槻枝丹水枝指秋赤葉真割持小鈴文由良尓手弱女尓吾者有友引攀而峯文十遠仁捄手折吾者持而徃公之頭刺荷〕

 万3223歌の二句目、「日香天之」は定訓を得ていない。「はたたく空の」(新大系本224頁)、「光れる空の」(中西1981.180頁)、「ひかをる空の」(澤瀉1964.10頁)、「かをる空の」(伊藤2009.242頁)、「曇れる空の」(大系本335頁)、「ひかく空の」(竹生・西2009.128頁)などと試みられている。筆者は、「霹靂」という語について「霹靂之」とあるとき、「霹靂かむとけ」と訓むことは適当ではないと考える。時代別国語大辞典に、「カムトケは、落雷であり、雷によって木や岩の裂けることを意味し、単なる雷鳴とは意味も異なっていよう。」(223頁)とある。その点は日本書紀の用例においても確かめられる。

 則ち当時ときに、雷電霹靂かむときして、其のいはきて、水を通さしむ。(神功前紀仲哀九年四月)
 是の秋に、藤原内大臣の家に霹礰かむとけせり。(天智紀八年八月)
 己亥に、新宮の西庁にしのまつりごとどのの柱に霹靂かむときす。(天武紀七年四月)

 紀の古訓を参考にすれば、万3223歌の一句目「霹靂之」は、カムトキと訓まれるべきである(注1)。シは動詞ス(為)の連用形で、落雷し、の意味である。落雷して今どのような状況であるかというと、「日香天之九月乃鍾礼乃落」なのである。青天の霹靂があり、にわかにかき曇り、九月の時雨が降っている。したがって、「日香天之」の「日」はお日さまのことであると考えるのが順当である。そこで、「はたたく空の」や「曇れる空の」といった見解が出されている。その場合、「天」を空とすることには賛同できない。「日」は空にあるわけではない。ソラ(空)は、「「あめ」と「つち」との中間の、空漠としたところをいう。」(白川1995.441頁)のである。「天」はアメやアマと訓まれなければならない(注2)。アメという語があめをもあめをも表し、同根の語と考えられている。ここでもその方がわかりやすい。アメつながりで時雨の話に移っていっている。時雨という語については、「シは風の意。……グレが「れ」の意。複合して、風が吹いて空が暗くなりさっと降ってくるにわか雨。」(古典基礎語辞典584頁。この項、依田瑞穂)と解されている。言葉の成り立ちとしてどうかはさておくとしても、音声言語の印象として当を得ている。雨の原因を雲の積み重なりに求めているのではなく、暗くなって風が吹いてきてさっと降るところに着目している。日の光が急に失われるニュアンスを含んでいる。

 うらさぶる こころさまねし ひさかたの あめ時雨しぐれの 流らふ見れば(万82)
 おほきみは 神にしせば 雲がくる いかづちやまに 宮敷きいます(万235或本)

 万235番或本歌の「雲がくる」は枕詞で、雲の上にある雷の意によってかかっているとされている。雷は日と同様、ソラにではなくアメにあると考えられていたものと推測される。
 万3223番歌の最初に持ってきている「霹靂」も、まさに青天の霹靂であったらしく唐突に歌い出されている。ドーンと落雷してびっくりして上を向いて見上げると、お日さまがようよう雲に隠れ始めて天が雨に変っていっている。
 そのように解釈すると、「香」という字は、カグルという語に当てられていると考えられる。カグルという語は、一例のみ確認されている。

  勝鹿かつしかまの娘子をとめを詠める歌一首〈并せて短歌〉〔詠勝鹿真間娘子歌一首〈并短歌〉〕
 鶏が鳴く あづまの国に いにしへに 有りける事と 今までに 絶えず言ひ来る 勝鹿かつしかの 真間まま手児名てこなが 麻衣あさぎぬに 青衿あをくび着け ひたを には織り着て 髪だにも 掻きはけづらず くつをだに かず行けども にしきあやの 中につつめる 斎児いはひごも いもかめや 望月もちづきの れるおもわに 花のごと みて立てれば 夏虫の 火に入るが如 みな入りに 船漕ぐ如く 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波のの さわみなとの おく津城つきに 妹がこやせる 遠き代に 有りける事を 昨日きのふしも 見けむがごとも 思ほゆるかも(万1807)〔鶏鳴吾妻乃國尓古昔尓有家留事登至今不絶言来勝壯鹿乃真間乃手兒奈我麻衣尓青衿着直佐麻乎裳者織服而髪谷母掻者不梳履乎谷不着雖行錦綾之中丹裹有齋兒毛妹尓将及哉望月之滿有面輪二如花咲而立有者夏蟲乃入火之如水門入尓船己具如久帰香具礼人乃言時幾時毛不生物呼何為跡歟身乎田名知而浪音乃驟湊之奥津城尓妹之臥勢流遠代尓有家類事乎昨日霜将見我其登毛所念可聞〕

 この万1807番歌の「帰香具礼」は「行きかぐれ」と訓まれ、カグルは未詳ながらも下二段活用の動詞で、この例ばかりの孤例、「「夏虫の火に入る」「湊入りに船こぐ」の二つの比喩が、一つの中心に向かって四方から集まってくる意を表わしているので、寄り集まるの意の方が[求婚する意よりも]妥当ではあるまいか。」(時代別国語大辞典182頁)とする説が有力になっている。ただし、孤例だから説得力はない。筆者は、自動詞「かくる」(下二段活用)の濁音化したものと考える。すなわち、「夏虫の火に入る」「湊入りに船こぐ」とき、そこらじゅうにいた夏虫や船の姿が一斉にかくれて見えなくなり、ただちには復活が望めないことを言っていると捉えるのである。
 「人の言ふ(人乃言)」は、人が言い寄ることと解されているが誤りである。人が噂して言いふらすこと、なかには尾ひれがついて誹謗中傷の内容に至るかもしれないことを指している。

 ももに 人は言ふとも 月草の 移ろふこころ われ持ためやも(万3059)

 万1807番歌は、周囲の同性の友だちからやっかみを受け、噂が立って距離を置かれ、付き合ってくれなくなってひとりぼっちになって精神的に参ってしまい自死に至っている。まわりの女性にとってみれば、真間の手児名がために、相手をしてくれる男性が世の中からいなくなったことが大問題で、「帰香具礼」は、街(市や祭)でお尻を追っかけてくれていた男が、全員「帰隠」してしまったということになるだろう。
 この部分、「行きかぐれ 人の言ふ時」のカグレは下二段活用の連用形で、連用形中止法になっている。「……行きかぐれ」で叙述をいったん切り、下の「人の言ふ時……」へと続けている。「行きかぐれ」の主語は真間にいる適齢期男性たち、そして、「言ふ」の主語である「人」はそれ以外の大多数、下世話な話の好きな人たちということになる。
 カグルという語を隠れるという意であると定めれば、万3223番歌の「霹靂之日香天之九月乃鍾礼乃落……」は、「霹靂かむとけし かぐあめの 九月ながつきの 時雨しぐれの降れば ……」と訓むことができる。ここで「かぐる」は自動詞で、四段活用の連体形と考えられる。清音の「かくる」と同義、あるいは強調した意を表すものと考えられる。隠れていなくなることは見えなくなっていることであるが、存在自体は否定されないから探すことが可能であり、それが隠れん坊という遊びである。濁ってカグルとした場合は、消えてなくなったことを強く印象づけているものと推測される。

 …… 青山に 日がかくらば ぬばたまの は出でなむ ……(記3)

 記3歌謡の場合、日が隠れしっぽりと暮れたら暗い夜が訪れる。もちろん、翌朝になれば日はまた昇る。
 一方、万3223番歌では、落雷を伴うような天気の急変があり、その場合、すぐに元どおりに日が差すことはない。なぜ「九月ながつき」かと言えば、万82番歌に、「あめ時雨しぐれの 流らふ見れば」とあるように、時雨=シ(風)+グレ(暮)なのだから、風が吹いて暗くなってしまう時に降る雨を言っていると同時に、音の響きから長続きすることをニュアンスとして持っているため、そのナガル、ナガラフと音の通じるナガツキが選ばれているのである。この長歌の主旨は、「(秋の赤葉)ヲ吾は持ちて行く」ということばかりであって、その点は反歌にも反映している。

  反歌〔反歌〕
 独りのみ 見れば恋しみ かむ名火なびの 山の黄葉もみちば 手折たをりけり君(万3224)〔獨耳見者戀染神名火乃山黄葉手折来君〕

 万3223番の長歌に表したいこととは、作者である女性の心理的な切迫感である。だからこそ、急に起こった落雷、青天の「霹靂」で歌い起されていてよくわかるのである(注3)

(注)
(注1)万葉集では「霹靂」をカムトケと訓まれる例が多いので、それが正しいのかもしれないが、ここでは紀の使用法に従いカムトキスという動詞と考えている。
(注2)日神はアマテラスに他ならない。
(注3)中西1981.に「神南備の赤葉を插頭にする神事歌謡か。」(180頁)、伊藤2009.に「春をほめる前歌[万3222]に対し、神なび山の秋のもみじをほめる。」(242頁)とあるが、神事歌謡や季節称賛というだけで「霹靂」で始まる歌が作られることなど、筆者には到底想像がつかない。

(引用・参考文献)
澤瀉1964. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第十三』中央公論社、1964年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系 萬葉集三』岩波書店、2002年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系 萬葉集三』岩波書店、1960年。
竹生・西2009. 竹生政資・西晃央「万葉集3223番歌の「日香天之」の解釈について」『佐賀大学文化教育学部研究論文集』第14巻第1号、2009年8月。佐賀大学機関リポジトリ https://saga-u.repo.nii.ac.jp/records/19548
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。

加藤良平 2025.2.5改稿初出

「有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」について

 有間ありまの皇子みこの自傷歌として知られる挽歌は、万葉集の巻二に見られる。

  有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首〔有間皇子自傷結松枝歌二首〕
 磐代いはしろの 浜松がを 引き結ぶ まさきくあらば またかへり見む(万141)〔磐白乃濱松之枝乎引結真幸有者亦還見武〕
 家にあれば に盛るいひを 草枕 旅にしあれば しひの葉に盛る(万142)〔家有者笥尓盛飯乎草枕旅尓之有者椎之葉尓盛〕

 万141番歌の三句目の訓みが第一の問題である。後の人が有間皇子を偲んで「自傷」と仮託したという説も唱えられている。題詞と万142番歌の歌の内容とは関わりがないのではないかとも指摘されている。小さな椎の葉にどうやってご飯を盛りつけたのかも長らく課題のままである。
 有間皇子の性格について日本書紀に記述がある。

 九月に、有間皇子、ひととなりさとくして陽狂うほりくるひすと、云々しかしかいふ。ろの温湯きて、病ををさむるまねしてまうき、国の体勢なりめて曰はく、「ひただところを観るに、病おのづからに蠲消のぞこりぬ」と云々いふ。天皇すめらみこときこしめし悦びたまひて、おはしましてみそなはさむと思欲おもほす。(斉明紀三年九月)

 有間皇子はアリマという名を負っている。そんな彼が湯治へ行くのなら、その名のとおり「有間ありまの温湯」(舒明紀三年九月・十年十月)へ行くべきである。なのに「ろの温湯」へ行っていて「陽狂」の証左となっている。バカなふりをする人物が謀反の廉で捕らえられ、護送される際に歌を詠んでいる。題詞にある「自傷」について、「柿本朝臣人麻呂の、石見国に在りて臨死みまからむとせし時に、自ら傷みて作る歌一首」(万223題詞)と同様のストレートな意味を持つとは考えられない。万141番歌の題詞は「自傷結松枝歌」であり、「自傷作歌」ではない。松の枝を結ぶことが自ら痛むことであった。軍手着用を促す話ではない。結果的に歌が歌われている。歌うことが「自傷」行為であったと推定される。
 初期万葉における歌には政治的なメッセージが込められていることが多い。たとえそれが「挽歌」の部立の筆頭にあげられていても高尚な「挽歌」とは違う。そもそも自らへの「挽歌」であるとは何らかの抗議を示すものであり、センセーショナルな歌であった可能性がある。彼の歌は万葉集にこの二首しか載らない。衆目を浴びたから残っている。
 皮肉たっぷりに、自分を捕らえた政権側への抵抗歌としてこの歌は歌われた。三句目を、「引き結び」と連用形中止法で訓むとする解釈が根強く、一首は最後までひとつづきであると考えられている。

 ○磐代の 浜松が枝を 引き結び○○○○〈引結〉 ま幸くあらば また帰り見む(万葉二・一四一)
 この歌について、ヒキムスブは現在の動作、カヘリミルは未来の動作と考えるのが普通である。しかし、……[連用形中止法(連用形並立法)の連用形の動詞の時制(テンス)は後続の動詞句に決まるという]観点からして、そのような解釈は、まず成り立たない。前半を現在の動作と見るならば、原文「引結」をヒキムスブとして、一旦切るべきである。ただし、それでは歌の流れが中断してまずいなら、ヒキムスビと訓んで、それも未来の動作と考えるべきであろう。マサキクアラバが間に割り込んでいるから、ヒキムスビとマタカヘリミムとの時が変わってもよいような印象を与えるが、それは、連用形並立法の性格をとらえそこなった解釈である。(山口2011.415頁)(注1)
 歌末の「む」と呼応するものだという吉永[1997.]や山口[2011.]の解釈は妥当なものではない。この[「引き結び」]句がつぎの「ま幸くあらば」という仮定表現と呼応して「引き結ぶことによって本当に無事でいられたら」という意味をあらわすものであり、その「ま幸くあらば」の「時」が「引き結び」という連用形にもおよぶために、この連用形があらわす動作もまた作者によって仮想されたものになるのだと解すべきである。」(佐佐木1999.7頁)

 これらの議論は、連用形中止法における決まり事、テンスの一致を適切化させるために、針の穴を通すように考案された解釈である。「引き結び」と連用形に訓んでしまうと、有間皇子はまだ松の枝を引き結んでいない。これからの未来に「引き結び」をすると、それが原因となって「ま幸くあらば」という事態が生じて、「還り見む」ことへとつづけようとしている。「ま幸くあらば」という厄介な挿入句を取り置いた時、意味的には、まだ「引き結」んでいない「浜松が枝」を「また還り見む」と言っていることになっている。これは、文法的に宙ぶらりんの解釈に思われる。佐佐木1999.は、文法構造上よく似た万918番歌からそのように帰納されるとしている。

 磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む(万141)
 沖つ嶋 荒磯の玉藻 しほみち い隠りかば おもほえむかも(万918)

 潮が満ちて隠れてしまったら、の意であるのと同等であるとする。しかし、万918番歌の第五句目にある「む」と万141番歌にある「む」とを同様に推量の意と捉えてよいのか問題が残る(注2)
 「また還り見む」=「また」(副詞)+「還り見る」(動詞)+「む」(助動詞)(万141)
 「念ほえむかも」=「念ほゆ」(動詞)+「む」(助動詞)+「かも」(助詞)(万918)
 万918番歌の「念ほゆ」は、「念ふ」に自発の助動詞「ゆ」が接続した形で、自然と思い出されるという意味である。詠嘆の助詞「かも」がつづくことにより、「む」が推量の意を示すことは確かとなっている。一方、「還り見む」という句だけ見れば、その「む」は、第一義的には自己の行為についての意志・希望を示していると捉えたいところである。意志を表したいとき、その前提となる条件設定がすべて仮想であることは考えにくい。すでに何か実際に行為し、そのうえで、~したい、と言うのが一般的な主張の姿である。何もしないでいて、これから引っ張って結ぶことで幸いであるならば、また還ってきて見よう、という言い方に、人の(強い)意志を込めることは難しい(注3)。だからといって、薄弱な意志であれば推量と言えると考えられるのか。「また還ってきて見ることになるのだろう」という物言いは、何を謂わんとしているのか不明である。助動詞「む」を動詞の後に付けてモダリティ modality 形式にしている(注4)。発話者である有間皇子が、事柄をいかに心のうちで判断評価しているか、それを表そうとして助動詞が用いられている。文の述べ方を示す添付資料として助動詞「む」は働いている。
 助動詞「む」については、岩波古語辞典に、「一人称の動作につけば「…よう」「…たい」と話し手の意志や希望を表わし、二人称単数の動作につけば相手に対する催促・命令を表わし、二人称複数の動作につけば勧誘を表わす。三人称の動作につけば予想・推量を表わす。」(1479頁)と単純化されている。発話者の心の態度を表す部分だから、その使われ方によって意味合いが変わってくる。意志や希望を表す場合には一人称でなければならないが、逆に一人称であれば必ず意志や希望を表すかといえばそうでもない。

 吾が命し ま幸くあらば 亦も見む 志賀の大津に 寄する白波(万288)
 うつそみの 人なる吾や 明日よりは 二上山を いろせが見む(万165)
 水伝ふ 磯のうらの いはつつじ 茂く咲く道を 又も見むかも(万185)

 これらの例では、主語は一人称であるが、「む」の意味は推量で、「寄せる白波をまた見るだろう」、「二上山を弟として見るだろう」、「イワツツジが盛りに咲く道をまた見るだろうか」などの意味である。その場合、「亦も」、「と」、「又も……かも」といった語が共起している点に注意したい。不確実性を表わす「も」や比喩の措定の「と」、詠嘆を示す「かも」が付いてきたら、一人称が語り手になっていても「む」が意志を表わすことにはならない。白川1995.に、「「む」がもつ種々の用義法は、[漢字の]将の……虚詞的な用義と一致するところがある。」(731頁)と興味深い指摘がある。将来の未確定用件に関して希望的観測をもって心の底に思うことが、意志や推量、勧誘、命令といった幅広い用義に広がっているものと言えよう。だから、認識的に「…ろう」という意味を持ったり、行為的に「…たい」、「…よう」という意味を持つという膨らみが出てくる。
 話を万141番歌に戻そう。「引き結び」と連用形中止法に訓む限り、「まだ引き結んでいないけれど、これから引き結ぶことによって本当に無事でいられたら、還ってきて浜の松の枝を見ることになるのだろう」という意味になる。この言い方は、文にモダリティ性を与えているのか、削ぎ落しているのか不明な陳述である。逆説的に捉えて、還ってきて見ることになるのだろうから、松の枝を引き結ぶことは呪術性が高くて効果的に無事でいられる方法である、だから、今から引き結びます、というもって回った言い方であると解釈できないことはないかもしれない。しかし、そんな風に言いたいときには、ヤマトコトバではそのための格好の用法がある。反語の助詞「や」である。それを使わないのは、そう表現したいわけではないからである。
 原文の「引結」を「引き結び」と連用形に訓まなければならない理由は見当たらない。ここは、「引き結ぶ」と終止形で三句切れと考えるのが妥当である。「また還り見む」対象は、「引き結」んだ「磐代の浜松が枝」である。「また還り見む」の対象が、上二句において終止形で閉じられたものである点は重要である。この歌にとって、それこそが「自傷」行為となるもので、題詞にかなう肝心な点である。
 すなわち、紀の湯へ行幸している天皇や皇太子の中大兄をはじめ、宮廷社会の人々全員に対するメッセージとして歌は歌われている。イハシロという地名が喚起するイメージを伝えたいから、わざわざ「磐代の」と断って歌い出している。有間皇子がいま連行されている場所は、しばらく前、天皇が行幸するときに通って歌を詠んだところである。

 君が代も 吾が代も知れや 磐代の 岡の草根を いざ結びてな(君之歯母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去来結手名)(万10)(注5)

 ~シロという言葉は、苗代という言葉が苗を生育するために区切られた培地であるように、特別なところである。また、身代金という言葉が身代わりのお金であるように、等価の物である(注6)。すなわち、イハシロ(磐代)という言葉は、磐と同じ力をもつことを示しつつ、磐を生育させるための場所ということになる。そして、「浜松が枝」、「岡の草根」とつづくのだから、イハシロという地名は、砂「浜」や土砂の堆積した「岡」が、磐のシロなのだと認められていたと理解される。万141番歌でみれば、松は浜に生える。磐にも少しの凹みさえあれば種は発芽し生えてくる。では、砂浜のようなところが磐が生育するかといえば、今日の日本国民であれば、それは確実に生育するであろうことを知っている。火山学の知見ではなく、君が代の歌詞である。君が代は、一般に、古今集の和歌を本歌とすると言われている。

 わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで(古今343、読み人しらず)

 巻七・賀の歌の巻頭歌である。歌いかける相手の命の長からんことを寿ぐ点に眼目がある。そういう修辞法の淵源、萌芽に当たるものは万葉集にすでに見られる。

  いちはらのおほきみの、宴に父のきのおほきみく歌
 春草は のち落易かはらぬ いはほなす 常磐ときはいませ たふとき吾が君(万988)
  樂宮らのみや
  和銅四年歳次辛亥に、河辺宮人かはべのみやひとの姫嶋の松原に嬢子をとめかばねを見て悲しび嘆きて作る歌二首
 妹が名は 千代に流れむ 姫嶋の 子松がうれに 苔むすまでに(万228)
 花らふ このむかの 乎那をなの ひじにつくまで 君がもがも(万3448)

 有間皇子は少し不思議な場所を通過している。「磐代の浜」である。浜は砂浜であろう。磐であり、かつ浜であるところというのは形容矛盾である。そこに松が生えていて、二本の松の枝を引っ張って結び付けている。松は常盤木で長く枯れないことを表す表象とされている。松の力を借りながら、浜の砂が磐になることもあるだろうという類推思考が行われている。だから、イハシロという地名は、いまは砂浜であるが、そのうち磐に成長するところであって、それを促進させる援助として有間皇子は松の枝を引っ張って結ぶ行為をしているということになる。万10番歌で、天皇一行はイハシロの意味を認めていたではないか。その構図に則って自らも陳述しているのである。全体を誓約うけひのような形で主張している。
 「ま幸く有」るとは、自分が幸いなことに存命であれば、という意味であることはそのとおりであるが、それが叶うかどうかは旅の安全を祈るといった対自然界の問題ではなく、謀反の咎に関して政権側がどのような処罰を下すかという対人間界の話にかかっている。だから、まずなによりも、歌いかける相手の政権側、自分を逮捕拘束して強制連行させている天皇に対して、長寿繁栄を祈る言葉を設けている。斉明天皇の治世長からんことを願うと謳いあげて、それは同時に自分が存命であらねばならないことにつながるというレトリックである。現天皇の治世の、砂が磐に生長するまで続くことは、これすなわち、自分の命も長らえることと同じことである。反対に、もし自分の命を奪うようなことがあるなら、天皇の治世も長くはないであろう。そういうことを暗に示して呪言的な脅迫を行っている。
 そのようなコミュニケーション法は、上代の言語活動において常態として行われていた。伝承説話の世界では、コノハナノサクヤビメの逸話が知られる。結末の個所を引く。

 爾くして、大山おほやま見神みのかみ石長いはなが比売ひめを返したまひしに因りて、大きに恥ぢて白し送りて言ひしく、「我がむすめふたり並べて立て奉りし由は、石長比売を使はさば、天神あまつかみの御子の命は、雪り風吹くとも、恒にいはの如くに、ときはかきはに動かず坐さむ。亦、木花このはな之佐久夜毘売のさくやびめを使はさば、木の花の栄ゆるが如く栄え坐さむと、うけひて貢進たてまつりき。く、石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売のみを留むめたまふが故に、天つ神の御子の御寿みいのちは、木の花のあまひのみ坐さむ」といひき。故、是を以て今に至るまで、天皇命すめらみことたち御命みいのち長くあらぬぞ。(記上)
 時に皇孫すめみま、姉は醜しとおもほして、さずしてけたまふ。おとと木花開耶姫このはなのさくやびめ]は有国色かほよしとして、してみとあたはしつ。則ちひと有身はらみぬ。かれ磐長姫いはながひめ、大きにぢてとごひて曰はく、「仮使たとひ天孫あめみまやつこしりぞけたまはずしてさましかば、生めらむみこ寿みいのち永くして、磐石ときはかちは有如あまひ常存とばにまたからまし。今既に然らずして、唯いろどをのみひとり見御せり。故、其の生むらむ児は、必ず木の花のあまひに、移落ちりおちなむ」といふ。一に云はく、磐長姫恥ぢ恨みて、つはいさちて曰はく、「顕見蒼生うつしきあをきひとくさは、木の花のあまひに、しばらく遷転うつろひて衰去おとろへなむ」といふ。これ世人ひと短折いのちもろことのもとなりといふ。(神代紀第九段一書第二)

 姉妹二人が結婚相手に送られている。そのうち、磐を醜いと思ってイハナガヒメを受けなければ命は長くないと大山津見神は言っている。いま、有間皇子はイハシロにおいて、磐を作ろうとして引き結ぶ作業を行っている。松の枝が結ばれてあることは自然界ではふつう見られない。ひとつのしめとして認知される。そしてそれが磐へと固まっていくとしたら、天皇であれば無碍にはできない。言い伝えのもとに生きていたから、「天つ神の御子の御寿みいのちは、木の花のあまひのみ坐さむ。」(記)、「故、其の生むらむ児は、必ず木の花のあまひに、移落ちりおちなむ。」(紀)ということになってしまうと考えるからである。古代には、似たような二つの事案を並立させるようにして考える癖があり、占い法として誓約うけひという形に定式化している。ある条件をあらかじめ設定しておき、その成否によって、本願が叶うかどうかを占うものである。だから文の進行がパラレルになる。類推思考の円熟の賜物とも言える(注7)
 有間皇子の歌は呪詛の言葉として機能した。斉明天皇は、自分の長男である中大兄、後の天智天皇を皇太子に据えている。今、中大兄が「天つ神の御子」に当たる。磐の製造促進を受け入れないと、中大兄は「木の花のあまひのみ坐さむ」ことになってしまうという。かわいいわが子が死ぬかもしれないと思わせられ、斉明天皇は癇に障った。無文字文化において、言葉と事柄とが同一になるとする言霊信仰下にあっては、論理術に正しく言葉に発されてしまうと本当にそうなるだろうということになってしまう。ヤマトコトバの社会において圧力がかかるのである。
 引き結んだ枝は松である。松は常盤木である。長寿を連想させることもさることながら、藤や葛などの蔓性植物ではない点も考慮されなければならない。蔓性植物が自ら「結ぶ」ことはごく自然に起こる。だから、藤や葛は引き結んでも人目にそれとわかる人為にならない。人為的に行われていると知れるから人々の間でわかるのである。標として顕著となり、占有地として人に認めさせることができる。しめ縄が張りめぐらされた結界は、他の人に入るなということを示している。その意味するところは人間には通じても動物には通じない。イノシシやシカのための防護柵を設けることとは別次元である。しめ縄が張りめぐらされていたとしても、逸脱者である本気の泥棒であれば、その内側にある幣の絹織物など財宝を奪っていく。賽銭泥棒と同じで、行うのは簡単である。しかし、神の祟り、天罰が下ると信じられている。常識を弁えていると、恐れ多くて結界に侵入することは憚られる。いま、有間皇子は、砂浜に生えている松の枝を結んで標にして、さざれ石どころか砂から巌を作りましょう、と大風呂敷を広げている。「また還り見む」と言っているのは、自分が個人的に見たいというばかりではなく、さあ、皆さんもご覧になれますよ、と大見得を切っているのである。
 言説が悪質で確信犯的である。「陽狂」して見せたほどの人物像が目に浮かぶ。三句目の「引結」を「引き結び」と連用形中止法と訓むべきか、「引き結ぶ」と句切れに訓むかについて、この解釈からも「引き結ぶ」と句切れに訓むことが正しいと知れる。虚心坦懐に考えるのにふさわしいからである。歌を歌として歌う理由が生じているから歌が歌として歌われている。一人称の主語、有間皇子が、内心に積極的な意志を抱いて「む」という助動詞を用いて一首を歌い切っている。その際に、自分の意志は皆さんの意志にもかかわることでしょうと巻き込むように弁舌を振るっている。初期万葉の歌が持つ政治性はこの歌にも当てはまる。

 磐代の 浜松が枝を 引き結ぶ ま幸くあらば また還り見む(万141)
 磐代の浜に生えている松の枝を引き結びます。(はい引き結びました。こうなったからには、天皇はじめ皆さんよ、もうあなた方に選択肢はないのです。枝の話だけに。磐長姫のお話をご存知ですよね。あなた方もついこの間、この磐代の地で歌を歌って盛り上がっていましたから。あなたの大切な御子君の中大兄がアマヒノミに短命になってもいいのですか。そんなことは私も望みません。ですから、お互いに何も手出しをせずにいましょう。そして、私が刑に処せられずに)本当に無事でいられたら、また還ってきて結んである松の枝を見ましょう。(皆さんも同じように無事に還れますよ。)

 歌意を示そうとすると説明調になり長くなる。その理由は「引き結ぶ」ことの意味が重いからで、だから終止形にして句切れとなっている。ぶっきらぼうに二つの文章が提示されている。

 [私ハ]磐代の浜松が枝を引き結ぶ
 [私ハ]ま幸くあらばまた還り見む

 この二つが連続して不思議でないのは、歌を歌った有間皇子にとっても、それを聞くことが予測されていた紀の温湯に滞在中の斉明天皇、皇太子中大兄、またとり巻きの宮廷社会の人々にとっても、共通の認識の下にあったからである。上代の人の常識なのだから、一見つながらないように思われる二つの命題が、直線的に一つの歌につづけて歌われている。ハッと気づいて納得させられ、やられたと思う内容となっている。論理哲学の授業が紀伊路で繰り広げられている。無文字の時代の言葉は音声だけに依っていた。言葉は一つ一つその底流にそれぞれの背景を背負いながら成り立っている。それらを一つ一つよく理解していたから、互いに得心が行くように伝え合うことができた。コノハナノサクヤビメ、イハナガヒメの話は当時の人の百科事典的な知識として共通認識となっていたから、イハシロは磐を生育させるところでありつつ、君が代ゆかりの天皇家の人々がその寿命のことを気にかけたくなるところだった。イハは大切にしないといけない、有間皇子の言い分は理屈として通っている。聞かざるを得ないではないか、と感じられたのである。
 「また還り見む」という言辞は贅言に聞こえる。カヘリミルには大略、①もう一度やってきて見る、②ふり返ってみる、の二義がある。①の場合、「還る」ことがあれば当然「見る」ことはある。もう一度やってきて見る、という語を発する際、万葉集では「また還り見む」(万37・911・1100・1114・1183・1668・3056・3240・3241)が常套句化している。「ま幸くあらば還り見む」ではなく、「ま幸くあらばまた○○還り見む」と有間皇子が歌ったから踏襲されている。有間皇子の歌の影響は計り知れない。この念の入れようは、言葉に念を込めているところにある。松の枝を結ぶこと自体に何か呪力があるのではなく、念じ込めた言葉のなかに力があると信じられていた。言葉と事柄とは相即の関係にあるとする考えが言霊信仰の真相である。以上のように捉えていくことによって、この歌の意味深さが理解でき、後述する万142番歌に「椎の葉に盛る」といったふざけた表現も行われていると得心するに至る。
 「有間皇子、ひととなりさとくして、陽狂うほりくるひす」(紀)という指摘は正鵠を射ている。少し賢しらであったため、言語の論理学において天皇側に勝ってしまい、時の政権に鋭く突き刺さるような言辞になっている。その結果、かえって政権から憎まれて、「藤白坂にくびらしむ」(斉明紀四年十一月)ということになった。その場所が「藤白」である点にも注意したい。フヂシロという地名からは、藤の栽培促成地であって藤蔓の代わりにも当たるところとの印象を得る。天皇側の言い分はこうである。引き結びたければいくらでも引き結べるように、藤蔓のあるところへ行きなさい。いくら引き結んでもただフジが絡まっているようにしか見えなくて人為的な標にはなりませんよ。その藤蔓であなたの首を括ってあげましょう。アリマ(有間)と言う名前は間がある文様、マダラ(斑)のこと、言い換えればブチ(斑)のことで、あなたにはフヂシロがお似合いですよ、という発想である。藤白坂と紀の温湯の間に磐代は位置する。つまり、有間皇子は、「また還り見」ることができた後、絞殺された。言葉として放った事柄は達成されて、言=事とする言霊信仰に過不足はなかったということになる。
 政変時の歌である。言葉の応酬ばかりである。初期万葉における歌は言葉の応酬である。無文字時代にコト(言)はコト(事)と同一とされていた。そして、政治とは言葉である。初期万葉の歌は政治的表明である。
 次に、万142番歌について検討する。「椎の葉」にご飯を盛るのかについて長く議論されてきたが、なお未解決である。

 家にあれば に盛るいひを 草枕 旅にしあれば しひの葉に盛る(万142)

 「椎の葉に盛る」という表現は、飯を盛るには椎の葉は小さすぎて異様に映る。有間皇子の食べようとするご飯なのか、「紀州磐代の道祖神の神前に供へ」た神饌(注8)なのかで意見が分かれている。今日では前者が優勢である。後者の考えに立つと、歌で表現しようとする「家」と「旅」の対比がうつろになり、「余りにも抽象化し、ふやけた発想になってしま」う(注9)と批判されている。ご飯を「椎の葉に盛る」ことはあり得ないとする再批判には、安楽な家を離れて旅の不自由さの嘆きを表わさんがために詠んでいると強調されている。他に、万141番歌の前にある題詞に、「有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌」とある点との関わりが不明ともされている。
 日本書紀をあわせ読めば、歌が歌われた時点は、万141番歌は有間皇子が謀反の疑いで都から紀温湯へ護送される途中で、万142番歌は申し開きが適わずに紀温湯から都へ護送される途中で歌ったものである。拘束感が違うと読み取れる。万142番歌は、藤白坂で絞殺刑に処せられる直前の作である。

 十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我赤兄臣、語有間皇子曰、天皇所治政事、有三失矣。大起倉庫、積聚民財、一也。長穿渠水、損費公粮、二也。於舟載石、運積為丘、三也。有間皇子、乃知赤兄之善_己、而欣然報答之曰、吾年始可兵時矣。甲申、有間皇子、向赤兄家、登楼而謀。夾膝自断。於是、知相之不祥、倶盟而止。皇子帰而宿之。是夜半、赤兄遣物部朴井連鮪、率宮丁、囲有間皇子於市経家。便遣駅使、奏天皇所。戊子、捉有間皇子、与守君大石・坂合部連薬・塩屋連鯯魚、送紀温湯。舎人新田部米麻呂従焉。於是、皇太子、親問有間皇子曰、何故謀反。答曰、天与赤兄知。吾全不解。庚寅、遣丹比小沢連国襲、絞有間皇子於藤白坂。是日、斬塩屋連鯯魚・舎人新田部連米麻呂於藤白坂。塩屋連鯯魚、臨誅言、願令右手、作国宝器。流守君大石於上毛野国、坂合部薬於尾張国。〈或本云、有間皇子、与蘇我臣赤兄・塩屋連小戈・守君大石・坂合部連薬、取短籍、卜謀反之事。或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人、一日両夜、邀牟婁津、疾以船師、断淡路国。使牢圄、其事易成。或人諫曰、不可也。所計既然、而無徳矣。方今皇子、年始十九。未成人、可成人、而得其徳。他日、有間皇子、与一判事、謀反之時、皇子案机之脚、無故自断。其謨不止、遂被誅戮也。〉(斉明紀四年十一月)

 問題点を整理する。旅先で食べるために盛ったご飯は握り飯なのか、糒(乾飯)、つまり、ホシヒ、ホシイヒ、カレヒ、カレイヒの類なのか、そこがポイントである。「握飯」とすると、「罪人として護送中の囚われの身であれば、そのまま手づかみでたべたのであって、わざわざ食器や椎の葉に盛ってたべるという手間ひまをかける必然性はまったくない」し、「乾飯」とすると、「椎の葉に盛って食べるということはちょっと無理であろう」とフローチャートを組んだ解説が行われている(注10)。「盛る」と明示された作業を考究しなければならない。
 「家に有ればに盛るいひ」とある「(ケは乙類)」とは何か。ご飯をよそう器であると思われている。和名抄に、「笥 礼記注に云はく、笥〈思吏反、和名は〉は食を盛る器なりといふ。」(注11)とある。食器のことを指しながら、そこへよそった食べ物のことも同じく「(餉)(ケは乙類)」と呼んでいる。御食みけあさというケである。関根1969.に次のようにある。

 ……これら笥類の用途であるが、『万葉集』によると、
  家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(一四二)
とあり、飯を盛るという。武烈紀の影媛の歌に「拖摩該玉笥儞播、伊比佐倍母理拖摩暮比玉盌儞、瀰逗佐倍母理」とあり、神功皇后紀十三年条に「命武内宿禰太子角鹿笥飯大神」などとあるのも笥に飯を盛った証左となろう。また近時の藤原宮跡出土木簡にも「コ二大御莒二大御飯笥・・匚」(〈『同概報』〉)とみる。
 まず大笥については、経師〜雑使五八人分として大笥五八合を計上し(⑯六七~六八)、同じく経師〜雑使四四人分として大笥四四合を計上(⑯五一三)しており、人別一合の割となる。ただここで問題となるのは、飯を盛るといっても今日の飯茶碗のように、それで食事をとったのか、あるいは今日のオヒツのように、ただ飯を入れるだけのものであったのかは定かでない。前掲『万葉集』では前者の意になろうか。(307頁)

 茶碗に当たるのか、オヒツ(飯櫃)なのか、決定されていない。和名抄も、「飯を盛る器」としていて、それが銘々の茶碗(お椀、お弁当箱)に当たるものか、オヒツに当たるものか、用途細目には触れていない。筆者は、142番歌の「笥」はオヒツ(注12)に当たると考える。
 歌に、「家にあれば……」と「旅にしあれば……」を対比させている。本当の対比とは、やることがことごとく正反対ということであろう。家では、ご飯は炊いた後、オヒツに入れて余分な水分を木地に吸ってもらって良い頃合いの食感となる。反対に、旅路で糒(乾飯)を食べるときには、水分を与え吸わせてふやけた状態にする。ふやかさなければ硬くて食べられない。糒は携行食であるが、けっして飲みこむものではない(注13)。米粒の水分の出し入れがちょうど反対になるから、家と旅の対比が鮮明になる。わずかな時間に限り、くり返されることなく空中を飛び交って消えていく言葉が歌なのだから、瞬時に聞き取られ聞き分けられるように、そのぐらいはっきりしていて当然である。

 ここ烏賊いかつの使主おみおほみことうけたまはりて退まかる。ほしひころもうちに裹みて坂田に到る。……仍りて七日経るまでに庭の中に伏せて、飲食みづいひ与ふれどもくらはず。しのびみふところの中のほしひくらふ。(允恭紀七年十二月)(注14)
 餱 胡溝反、平、乾飯也。食也。加礼伊比かれいひ、又保志比ほしひ。(新撰字鏡)(注15)

 「椎の葉」は「笥」=オヒツと対となるものである。ほしひ(ヒは甲類)に水分を与える容器に、しひ(ヒは甲類)ほどふさわしいものはない。ホシヒとシヒの洒落は侮れない。歌は空中を飛び交う音声言語だからである。無文字文化のなかでコミュニケーションは独自の豊かさをそなえていた。「旅にしあれば」の「飯」とはホシヒにほかならず、それが「家にあれば」の「飯」の水分調節を「笥」=オヒツが担っていたことを直観させるのである。「椎の葉」に糒を盛って水分を与えることができるかといえば、あまり生産的、効率的、実用的ではないのだが、それが旅路での不便を物語るのにふさわしい。小さな葉一枚一枚に、糒を一粒一粒載せていって、水をポトリ、ポトリと垂らしていく。その結果、「椎の葉」上に、一粒一粒ご飯がよみがえる。それを一粒一粒拾って食べるという話にしている。謀反の大罪を犯した罪人とはいえ、天皇家の皇子、有間皇子である。実際にしたわけではなくても屈辱と感じていたのだろう。政争に敗れても口の減らない嫌味を吐いている。すぐに絞首刑に処せられたから最後の捨て台詞になっている。生かしておいたらどこまで減らず口をたたくか知れたものではない。
 処刑されてお骨になった。お骨の一粒一粒のことは仏教に舎利である。ご飯の一粒一粒も舎利である。色彩、形状が似ているから、言葉の上で同様に扱われた(注16)。すなわち、有間皇子が「自傷」の歌として詠んだという題詞は、この万142番歌においてさらに際立っている。あと何分かで皇子、あなたは舎利になりますよ、と告げられての辞世の歌なのである。命乞いの歌ともとれる。なぜなら、シヒ(ヒは甲類)には、ほかに、メシヒ(盲)、ミミシヒ(聾)などのシヒ(癈、痺)という語があり、どんな不具も受け入れるから命だけは助けてほしいという訴えにも受け取れるからである。日本書紀には、謀反に参加した塩屋しほやのむらじ鯯魚このしろの命乞いが記されている。「塩屋連鯯魚、ころされむとして言はく、「願はくは右手をして、国の宝器たからもの作らしめよ」といふ。」とある(注17)。万142番歌は緊迫した場面での丁々発止のやりとりの反映であった。
 二つの歌が歌われた時点を確かめておく。往路と復路でそれぞれ詠まれている。護送されて行く時に、有間皇子は、藤白坂を通過してから万141番歌を歌い「磐代」と言っている。有間皇子はそのように口に出して歌ってしまった。そして、「ま幸くあらばまた還り見む」と続けている。無事である、良好な状態であるなら、再度見ようと言っている。斉明朝の天下は、完璧に良好な状態を保っているとするのが政府の方針である。全体主義的な国家は言論統制に傾く。そのなかで、言葉として発せられてしまった以上、言霊信仰下にあっては言=事であるから、「また還り見」るところまでさせなければ、「ま幸く」ないことになる。上に見たように、この歌には明示される形で主語が据えられているわけではない。有間皇子一人のこととして理解されるばかりでなく、宮廷社会全体について言い及ぶアジテーションとしても効果を発揮している。斉明朝の政策は、少なくとも歌が広まる宮廷社会のなかでは秩序を保つように向かっていた。したがって、復路において有間皇子が歌を歌った「磐代の浜松が枝を引き結」んだ地点までは生かしておき、「ま幸くあ」ることを「還り見」させることで、社会全体の安寧の揺るぎないことを確定させている。それは天皇や皇太子たちにとっても「ま幸くある」ことにもなるからである。しかる後、有間皇子が藤白坂へさしかかるやすぐに絞首している。藤の蔓を引き結んでも何の標にもならない。まったく同じ道をもどらせて「還り見」させつつ、道(=道徳)にもとると断罪した。題詞の「松が枝を結ぶ」との指定、拘束は、二首目の万142番歌の時点にも生きている。呪縛の貫徹をもって解放され、有間皇子は処刑されている。万142番歌は彼の辞世の歌なのであった。

(注)
(注1)「引き結び」と連用形中止法に訓むことを早く論じた吉永1969.に、「この歌は
      バ────────↴
 ……引き結び……またかへりみ→む
となるのであって、決して「……引き結び……またかへりみむ」でないことは諸注例外がないのである。」(40頁)とある。諸注が研究不足で、解説者も考察不足であった。なお、本稿では、有間皇子自傷歌の先行研究において、訓さえ定まらないまま憶測に終始している数々の論考を紹介しない。連用形中止法についての議論にのみ絞って引用文献として掲げた。
(注2)付け加えると、主語─述語の関係も二つの歌では異なり、文法構造がよく似ているとまでは言えない。主語が変わるかどうかの違いである。万141番歌は、含意を見渡すとその限りではないものの、有間皇子を一人称の主語としてとることができるようになっている。

 [私ガ]磐代の浜松が枝を引結、ま幸くあらば、[私ハ浜松が枝ヲ]また還り見む(万141)
 沖つ嶋荒磯の玉藻[ガ]潮干満、い隠り去かば、[人ニハ荒磯の玉藻ノコトガ]念ほえむかも(万918)

(注3)三田2011.では、助詞の「む」が使われている点に関して、その意味が推量を示すものか、意志を示すものかについて、「ま幸くあらば」という仮定の条件節の読みに置き換え(可能で)、「つまるところ、諦観が表現されるか、積極的な意欲が表現されるかは、仮定表現がおかれた一首全体の状況に支配される。」(15頁)としている。「ま幸くあらば、また還り見む」という言い回しにおいて、本当に無事であったらまた還ってきて見るだろう、というのと、本当に無事であったらまた還ってきて見よう、というのとのバイアスは何とでも受け取れるものだという。そして意見として、「「ま幸く」あることを無条件に信じ得ない境遇のなかで、それでもわずかに「生きていさえすれば必ず」と再訪への意欲をこめた表現と受け止めたい。」(16頁)と述べている。しかし、歌はそもそも思いを込めて作られている。その歌の状況は、そこに使われている言葉づかいに表れているに違いあるまい。
 確かに、連用形中止法に「引き結び」と訓めば、すべての前提条件が仮想されていて、これから松の枝を引き結んで本当に無事であったらまた還ってきて見るだろう、という解釈に進まざるを得ず、漠として要領を得なくなる。そんな仮定に仮定を重ねるようなことを想定するためには、引き結ぶ行為自体がおまじないの所作として確立していると前提されなければならず、きっとそのはずであったと仮構する方向へ向かっていく。白川1995.に、「紐を結ぶことは、古くはけつじょうとして種々の制約に用いたが、のち愛情を約する行為として〔詩〕にもみえ、〔万葉〕にはことにその例が多い。ものを結ぶことは、そこに何らかの霊的なものを結び留める象徴的な行為とされた。草を結び、またものを著けて結びつけることなどもおこなわれた。」(737頁)と解されている。神社に凶などと引かれたおみくじが結びつけられてあるが、力を封じ込めるためのしきたりなのかも知れない。
 とはいえ、結ぶことなら何もかにも呪的行為であり、神秘的な力を発揮するものかと言えばそのようなことはあり得ない。生業全般にわたって日常的に結ぶ作業は行われている。まじないの気持ちで結んだ時、結んだものははじめてまじないの力を有する。
 自然に生えている松の枝を結びつけることが、当時の呪的風習として広がっていたとは考えにくい。松の枝を結ぶことは、万葉集において、有間皇子自傷歌とその追和歌以外では、大伴家持作の万1043・4501番歌に限られる。家持の歌は有間皇子自傷歌に学んだものであろう。自傷歌に出てきているのは、個別具体的に二本の松の木の枝を引っ張ってきて結ぶという行為である。屋外のことで言えば、しりくめ縄を結ぶことや、コマツナギを獣道に結んでおくこともあっただろう。また、松ということで言えば、門松や松飾りの源流のようなことがあるかもしれない。けれども、イハシロという場所の砂浜に生えているものに限って松の枝を引っ張り結ぶことが、当時の通念となってといたとは考え難い。紀の国の磐代は都から遠く離れている。行幸で皆が通ったといっても初見の地である。道祖神に神饌を捧げたとか、その地の民俗風習に松の枝を結んで旅の安全を祈ることが行われていたとする説もあるが、政局に機敏で「陽狂」してみせる天皇家の傍流に当たる要注意人物が民俗学に通じて歌を歌ったところで何としよう。当時の政局において世間を騒がせるかどうかが問題である。政局とのかかわりが大きいので、謀反人として逮捕、連行されていて、宮廷社会の人にとって大事件であり関心の的となっている。その人が唐突に民俗採集を始めても意味あることにはならない。人々の関心を得られないとなると、マスコミはとり上げず、歌が歌われても誰も聞かず、記憶されることもなければ後に記録されることもなく、万143~145番歌が追和されることもない。ショッキングな出来事だったから、有間皇子の歌は人々の心に残り、さらに追和されたと考えられる。
 万141番歌の最後の「む」に、「ま幸くあらば」という条件句が投入されているためにわかりづらくなり、意志の意が乏しく推量とする解釈が通行している。そして、上の句で歌われる松の枝を結ぶ行為の意味づけに波及している。結んだ枝が解けないことと有間皇子が無事であることとが同等のことと呪術思考されたとか、磐代の神への信仰によって磐代の土地神の栄えと有間皇子の命の平安とが一体的なものと把握されたとか、「松」の枝が解けることなく自分を「待つ」存在となることを願ってそのしるしになるように結んだとする考えが提案されている。その結果、歌全体の意味が、死を覚悟してさようならを言っている歌であると捉えられる傾向が強くなっている。そんな諦めの歌ということになると、謀反に問われているとき、罪状を認めて心情として死を受け容れていることになるが、彼は否認している。題詞にある「自傷」という言葉も、単に辞世の歌を示すものとして平板な形象語に捉えられるが、仮にそうなら、世の中は実はとても穏やかなことになる。オーディエンスの心は掻き立てられることはなく、追和の歌が歌われることもなかったに違いない。
 今日でも著名人が世間をお騒がせした場合、謝罪会見を開くことがある。その席上、謝罪の色が窺えないととられたり、真の反省になっていないと受け止められたら、さらなる社会的制裁を受ける。すなわち、その会見での発言が自らを傷めることになる。有間皇子の場合も、「ま幸く有」るのであれば「また還り見」たいと発言してしまった。それが形式的に天皇家の幸を祈るかのような形で行われると、天皇総本家としては、天皇家というものはこのようなことでよいのか、臣下たちへの示しがつくかといった点まで考えざるを得なくなる。結果的に、有間皇子は天皇家のメンバーから除外する、すなわち、この世から抹殺して消し去るしかなくなった。謹慎や出家、勘当では済まされないのが社会的公器としての天皇家であった。余計な歌を歌ったがために、当初の想定以上の重い処分に至ったと見なされる。歌を歌ったことが、かえって自らを傷める結果へとつながったから、「自傷結松枝歌」と細やかに記されている。
(注4)モダリティの英語の例としては、may、must、will、can、should、have to、need to などがあげられる。
(注5)佐佐木1999.に、テナ構文に二類あり、Ⅰ[─てな。(なぜなら)─ため。]、Ⅱ[─。(だから)─てな。]のうち、Ⅱの構文に当たるものであるとする。「一首の全体は、「君の寿命も私の寿命も、知ることなどできるものではありません。(ですから、君の御代の繁栄を祈願して)さあ、磐代の岡の草を結んでおきましょう」というような意味であろう」(335頁)と解している。歌中の「所知哉」についても、「この歌の構文や内部的な意味関係は、君がも吾が代も所知哉。(だから)─磐代の岡の草をさあ結ぼう。」(334頁)になっているはずだから、「知る」は一般に解されているような領有するの意ではなく、知る、認知するの意である。知られようかいやいや知られないと反語で語っているのだから、シレヤと動詞の已然形で訓まれなければならないとする。筆者も同意見である。その場合、「君」や「吾」が誰に当たるかという問題が浮かび上がる。「吾」は作者の「中皇命」、すなわち、斉明天皇自身、「君」は「君」として崇めるべきと推奨されている皇太子、中大兄に当たると考える。
(注6)西宮1990.に、シロという語についての詳論がある。二群に分けられて説かれるシロという語の両者の間には、根底に共通する意義素をもっているがために深い関係があると検討されている。最終的に辞書的な記述として次のような見解が示されている。「しろ〔代〕シル(領知)が原義。㊀占有する、特別な場所。①~となるための特別地。「苗代」「山代」。②~するための特別地。「矢代」「糊代」「城」。③秘密の占有地。④助数詞。土地の広さの単位。㊁領知する人・所・物・事。①代りの人・物・所。「親代」「御名代」「網代」「咲かぬが代に」。③代りの物が本物と同じ機能をもつもの。「物実」。」(361頁)
(注7)拙稿「呪詛の関するヤマトコトバ序説」参照。
(注8)高崎1956.。
(注9)稲岡1973.。
(注10)川上2015.。
(注11)狩谷棭斎・箋注和名抄に、「曲禮上注作簞笥盛飲食、文選思玄賦注引、作並盛食器、与此所一レ引合、按曲禮注又云、圓曰簞、方曰笥、禮記引兌命曰、惟衣裳在笥、然則笥又可衣裳、故説文云、笥、飯及衣之器也、依以上諸書、笥非皇國所[け]、只以飯食之耳、古所謂介、蓋土器、後有銀造者、内匠寮式銀器有御飯笥、不源君所載者、其狀奈何、」とある。源順は、お茶碗に当たるものを「笥」と呼ぶとするのではなくて、「笥」というのは食べ物を盛る器でケというものだよ、と指摘している。「木器」の項に載せているのは、彼の目に木製のものが一番ポピュラーに映ったからであろう。曲物のオヒツのことである。
 延喜式に、「笥」、「板笥」、「飯笥」、「板飯笥」、「銀飯笥」、「熬笥」、「大笥」、「縄笥」、「円笥」、「筥笥」、「平笥」、「藺笥」、「笥杓」、「麻笥」、「水麻笥」とある。金田1999.に、「……延喜式(九二七)では、麻笥と桶とは区別せずに使用しているが、(~)ケと(~)ヲケとは助数詞の合と口によってあきらかに区別されている。」(171頁)と指摘がある。(~)ケ系は十三種三十三例中三十一例に「合」(蓋付き容器)が使われ、(~ヲケ)系は七種四十四例中四十一例に「口」(蓋なし容器)が使われているという。今検討している「」は、蓋付き容器であると考えられる。
 正倉院文書に載る経師~雑使に支給された「大笥」は、重箱でうな重か何かのようにそのまま食べろと渡されたのではなく、オヒツを渡されて各々よそって食べるようにしろということであろう。経師~雑使に采女のような仲居さんが給仕して回るとは思われないからである。余りは持ち帰って家族も食べたのであろう。
 年中行事絵巻などに描かれるように、強飯式のごとく山盛りにご飯が器に盛られた場合、その器に蓋をすることはできない。それが仮に常態であったなら、最初から蓋のないもの、つまり、「口」として数えられる(~)ヲケ系になってしまい、万142番歌は「家にあればヲケ(笥)に盛る飯を……」と字余りになる訓み方をしなければならなくなる。妥当とは言えない。

オヒツ(一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591580/1/31をトリミング)

(注12)オヒツ(飯櫃)は、炊いたご飯をそこへ移し替えて盛り入れ、食事の場へ運んで各々の茶碗へよそうための道具である。オヒツという女房言葉が一般化している。木製の桶形のもの、竹籠様のもの、また、それを保温するための外装品や吊るし懸けるものなど、いろいろあった。水分の出し入れや保温、腐敗の進行を遅らせるなど、時に応じて種々の形態のものを活用していた。ハレの場では、塗物の櫃も使われている。旅館で出てくるオヒツでは、内に布巾をかける工夫もされている。筒江2011.参照。宮本1973.では、「飯櫃めしびつ」と「飯籠めしかご」とに分けて、後者を特に夏季のご飯保存用具としている。用途からの切り口ではなく、製作物としての曲物を総括された論説に、岩井1994.がある。史料文献としては乏しく、守貞漫稿や物類称呼などにしかオヒツについて記されていない。当たり前すぎて気に留めなかったのであろう。
(注13)寺島良安・和漢三才図会に、「不多食、在腹甚膨張」と注意喚起されている。
(注14)「糒裹裍中」という書き方は注目すべきである。直に懐中に入れているらしい。糒はそれ用の弁当箱に入れたのではないかとも考えられるが、必ずしも決まっていたわけではなさそうである。和名抄に、「樏〈餉付〉 蒋魴切韻に云はく、樏〈力委反、楊氏漢語抄に樏子は加礼比計かれひけと云ふ。今案ふるに、俗に所謂いはゆる破子は是。破子は和利古わりこと読む〉は樏子、中に隔ての有る器なりといふ。四声字苑に云はく、餉〈式亮反、字は亦、𩜋に作る、訓は加礼比於久留かれひおくる〉は食を以て送るなりといふ。」とある。樏という字は、中仕切りのある楕円形のお弁当箱を指しており、小判型の中央に仕切りを入れたΘ形は、ちょうど雪を踏むカンジキにそっくりなので字を通用(「欙」とも書く)しているとする説がある。カンジキの語が寒敷に由来するのか筆者は知らない。火を使わない寒食かんじきの食事がお弁当である。半分にご飯、半分におかずを詰めることが多く行われている。破子の片側半分に水を入れて餉(乾飯)をふやかすのに使った可能性もないわけではない。烏賊津使主は持っていないし、「与飲食而不湌」とあるので、お腹がパンパンになったり脱水症状を起こさなかったかと心配になる。ワリコの弁当箱は真ん丸でないいびつな楕円形をしていることが多い。イビツという語が飯櫃いひびつに由来するとの説はかなり正しいのであろう。
(注15)新撰字鏡に所載の字は、「餱」の旁の「侯」部分は「候」である。
(注16)空海・秘蔵記に、「天竺呼米粒舎利。仏舎利亦似米粒。是故曰舎利。」とあるのが早い由来説とするが、サンスクリット語の米の意 sari が遺骨の sarira とに混同があることや、色や形の類似によってもそう感じられるところは誰にも否定できない。米を脱穀する際に臼の中で米粒がうごめくさまを、小さな猿がじゃれる風に見て取ったり、作業現場で砂利の小粒の動きを連想したり、あるいは、サル~サリ~シャリ~ジャリ系の語に共通の思惑を込めた言葉と考えた方が、語学的には正しかろうと考える。
 有間皇子が椎をとりあげている底流には、椎の実が食用となり、まるで糒のように見えることが前提しているのであろう。次の例では、歯の一本一本が、椎の実のようにきれいに粒ぞろいであることを言っている。歯は生きているうちから露出している舎利(お骨・米粒)である。

 …… 遇はし嬢子をとめ 後姿うしろでは だてろかも なみは 椎菱しひひしなす 和邇坂わにさを ……(応神記、記42)

 新編全集本古事記に、「前から見て、歯並びをほめる。椎と菱とを持ち出したのは、形よく並んでいることをいうためか。殻を割って取り出した実の白さから、白いことを形容するという説があるが、従いがたい。」(262~263頁)とある。しかし、両者とも樹上や水面に形よく並んで結実しているとは言い難い。八重歯、乱杭歯といった叢生、また、歯抜けになっていることもある。椎も菱も食用にしたので、殻を剥いてみて大きさが粒ぞろいで歯の形に似て色も白いところからそういう形容をしたと考えた方がしっくりくる。椎の実は、クヌギやコナラの実と違ってあく抜きが不要という。菱の実にもえぐみなどはないという。食べる器官である歯の美しさを讃める謂いとしてふさわしいよう、おいしく食べられるものを選んで譬えとしている。上代人の試みた形容には奥深さがある。
 なお、村上2013.に、「なみは 椎菱しひひしなす」はつづく「櫟井いちひゐの 和邇坂わにさを」にかかって「歯並が椎の実や菱の実のような櫟井の和邇坂の土を」と解する説があるが、長歌のだらだら表現の一句一句の発想の柔軟さが理解されていない。
(注17)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」参照。

(引用文献)
稲岡1973. 稲岡耕二「有間皇子」『萬葉集講座』第五巻、有精堂、1973年。
岩井1994. 岩井宏実『曲物』法政大学出版局、1994年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
金田1999. 金田章宏「笥・麻笥、桶・麻績み桶をめぐる一考察」至文堂編『国文学 解釈と鑑賞』第64巻1号(812号)、ぎょうせい、1999年1月。
川上2015. 川上富吉「椎の葉に盛る考─有間皇子伝承像・続─」『萬葉歌人の伝記と文芸』新典社、平成27年。(『大妻国文』第19号、1988年3月。大妻女子大学学術情報リポジトリ https://otsuma.repo.nii.ac.jp/records/1546
佐佐木1999. 佐佐木隆『萬葉集と上代語』ひつじ書房、1999年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本文学全集 古事記』小学館、1997年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
高崎1956. 高崎正秀「萬葉集の謎を解く」『文芸春秋』昭和31年5月号。
筒江2011. 筒江薫「櫃・イジコ・飯籠[ヒツ・イジコ・メシカゴ]」『食の民俗事典』柊風舎、2011年。
西宮1990. 西宮一民「ヤシロ(社)考」『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。
三田2011. 三田誠司「ま幸くあらばまたかへり見む─有間皇子自傷歌追考─」『岡大国文論稿』第39号、平成23年3月。岡山大学学術成果リポジトリ http://doi.org/10.18926/okadaironkou/60045
宮本1973. 宮本馨太郎『めし・みそ・はし・わん』岩崎美術社、1973年。
村上2013. 村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』塙書房、2013年。(「角鹿の蟹の歌」『萬葉』第208号、平成23年3月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2011
山口2011. 山口佳紀『古代日本語史論究』風間書房、2011年。(「万葉集における時制(テンス)と文の構造」『国文学 解釈と教材の研究』第33巻第1号、学燈社、1988年1月。)
吉永1979. 吉永登『万葉─通説を疑う─』創元社、昭和44年。

加藤良平 2020.3.23改稿初出

枕詞「たたなづく」、「たたなはる」について

 枕詞に「たたなづく」、また、「たたなはる」という語がある。上代の用例は次のとおりである(注1)

 やまとは 国の真秀まほろば たたなづく 青垣あをかき 山ごもれる 倭しうるはし(記歌謡30)
 倭は 国の真秀らま たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるはし(紀歌謡22)
 やすみしし わご大君おほきみの たか知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣ごもり 河次かはなみの 清き河内かふちそ ……(万923)
 たたなづく 青垣山の へなりなば しばしば君を ことはじかも(万3187)
 …… つまみことの たたなづく 柔膚にきはだすらを つるぎたち 身にねば ……(万194)
 多々那都久□(藤原宮跡出土木簡)

 山口2011.は、タタナヅクという語の語構成を探っている。まず、先行研究を四つの類型にまとめている。
(一)〈タタナハリ(畳)+ナミツク(靡付)〉の転(本居宣長・古事記伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/155~161)
(二)〈タタネ(畳)+ツク(付)〉の転(武田1956.94頁、尾崎1966.444頁、倉野1979.204頁、西宮1979.169頁)
(三)〈タタナヒ(畳)+ヅク(接尾辞)〉の約(山路1973.76頁)
(四)〈タタ(畳)+ナヅク(付着)〉の構成(土橋1972.135頁、新編全集本古事記233頁)
 そして、(五)〈タタナリヅク(畳付)〉の縮約形であるとする新説を提出している。

 ……結論を要約すると、次のようなことになる。
 ①「たたなづく 青垣(山)」[記歌謡30、紀歌謡22、万923、万3187]のタタナヅクは、タタナリヅク(畳付)の縮約形であって、周囲の山並みを、一続きのものが重なり合って緑の垣根のようになったものと捉えた語である。
 ②タタナヅクが「柔肌にきはだ」[万194]にかけられた例については、すでに原義の忘れられた段階において、タタナヅクと「青垣(山)」との慣用的な連合関係から、人麻呂がタタナヅクを<なだらかで好ましいさま>を表す語のように見なして、「柔肌にきはだ」にかけるという用法を生み出したものであろう。
 ③「畳有 青垣山」[万38]の例については、「畳有」は「畳付」の誤写で、タタナヅクと訓む説を可とすべきである。これも、すでに原義の忘れられた段階において、人麻呂が語構成に関して一つの解釈を試みたものと考えられる。
 この「たたなづく」という語は、上代においてすでに原義が忘れられていたものと思われる。それだけに分析がきわめて難しい。(189頁)

 語義に焦点が定まらないということのようである。山口氏はよく知られた万葉集の歌を参考にしている。

 君が行く 道のながを 繰りたたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも(万3724)

 タタヌ(畳)という古い形があったようである。そして、「ここで注意すべきことは、タタ(畳)という語基を含む動詞タタヌ(畳)・タタム(畳)・タタナハル(畳)は、単に〈重ねる(重なる)〉のではなく、本来〈一続きのものを折り重ねる(一続きのものが折り重なる)〉ことをいうものであるという点である。」(180頁)とする。

畳機の棒綜絖(世田谷区立次大夫堀公園民家園展示品)

 筆者は、折り重ねる際に整った波目状にきれいに仕上げること、整った蛇腹状を見せることをいう語がタタムの語義にあると考える。その点、タタミ(畳)という敷物はよく義を表している(注2)。畳製造の棒綜絖に、麻の縒糸の経糸を二本ずつ飛ばしに藺草の緯糸を通す仕組みとなっており、硬く織っていって経糸が表面から見えなく仕上げている(注3)。繊細な心をもって幾重にも重なるように整序だてた折り(織り)にこそ、タタム(畳)という語の真髄はある。折り畳むという言い方が表すように、畳むためには折らなければならないが、折ったからと言って必ず畳めるものではない。

 ただ衣服みけしをのみたたみて、ひつきの上に置けり。(推古紀二十一年十二月)
 如かずたたむて之を離房にかくむには〈師古曰、襞畳衣也。離房別房也。襞音璧〉。(上野本漢書楊雄伝、天暦二年点。京都国立博物館編『国宝漢書楊雄伝第五十七』勉誠出版、2019年、印刷見本https://bensei.jp/images/nakami/28046nakami-2.jpg参照、2025年2月3日閲覧)
 冬の装束一くだりを、いと小さくたたみて、みづから持て出でて賜ひ、……(宇津保物語・忠こそ)
 帷子かたびら一重をうち懸けて、紫苑色のはなやかなるに、女郎花の織物と見ゆる重なりて、袖口さし出でたり。屏風の一枚ひとひら畳まれたるより、心にもあらで見ゆるなめり。(源氏物語・東屋)
 角ある巌石を立て並べて、山を畳み、池を湛へしめたまへるを御覧ぜさせたまはむとて、……(栄花物語・駒競べの行幸)
 宮城周十五里。かはらを畳むて成せり。(興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝、永久四年点)
 其に池有り、石をたたむて岸と為り。(石山寺本大唐西域記、長寛元年点)

 源氏物語の例に見られる「屏風」を「畳む」例が、タタムことの義そのものである。屏風は、心木の骨を格子桟にして唐紙障子にしてその上から画を貼っている。一枚(面、扇)では倒れるから、何枚かをつないで波状にして初めて自立し衝立として機能する。当初から畳まれることを企図している。蛇腹状に襞々に折って小さくすることがタタムことであり、衣服をタタム場合も、下手に丸めてしまうとかさばる。袋詰めされて売られているワイシャツは、厚紙を使いながら胴部分ばかりか袖部分も上手に折り返して、見栄えの良さと容積の減量がともにうまく図られている。アパレルショップの店員による商品棚の整理も、実に手際よく外内外内に返し折っていっている。一定の長さを保って山折りと谷折りをくり返すとき、初めてタタムという。「巌石」で造られた「山」や「石」で池の護岸にしたり、「塼」で「宮城」の塀にすることなど、何であれ、山折りと谷折りとをくり返していると認められたとき、タタムという形容が彩を成す。なぜなら、それをもって分け隔てに累乗的な実効が生まれるからである(注4)。  この点は枕詞の「たたなづく」にも当てはまる。「青垣山」とは山筋が幾重にも重なっている山並みであり、垣根を八重垣に設えた「須賀宮すがのみや」(記上)のように、山が何重にもめぐらされていることに冠した言葉である。山が何重にもあるということは、それぞれの山の重なりの間には谷がある。山が八重にあるとは、山谷山谷山谷山谷山谷山谷山谷山のことを指している。言葉の連続の仕方として、「たたなづく」→「青垣山」でありつつ、「たたなづく」←「青垣山」でもあるという旋廻式の構造となっている。無文字時代の上代のヤマトコトバは、人々が互いに共通認識として持ち合うために、言葉が言葉の体系のなかで証明し合う関係を築くことが求められていた。逆言すれば、「青垣山」というもったいぶってこじゃれた言い回しが作られた背景に、「たたなづく」という語の存在と、それとの紐帯をもって寄り合いながら成立する言語体系全体の傾向が見て取れるのである(注5)
 「たたなづく」という語は、「青垣山」と切っても切れない関係にある特殊な語であり、そこに枕詞の言語遊戯性が封じ込められている(注6)。無文字時代のヤマトコトバは文字に依ることができない。したがって、言葉(音)は言葉(音)の群で編成されて全体を保つ。一つ一つの言葉は、その言葉を単一の語構成に集約させて理解するよりも、他の言葉との間の関係、ネットワークをもちながら、複合的、なぞなぞ的に作られていると考えた方が正しい(注7)。青い垣根はいかに織られて山となったかという、科学的合理性からすれば訳のわからない問いを投げかけてこそ、ヤマトコトバの利用者たちの思考に近づくことができる。我々の言語世界とは異なる文化体系なのである。系として存在するヤマトコトバをきちんと理解するためには、言葉に対するメタロジカルな設問とともに、それにまつわる言葉群を隈なく縦覧していくことが求められる。無文字時代のヤマトコトバ世界は、語用論上の論理学が今日より格段に富んでいる。
 山口2011.の結論の①タタナヅクはタタナリヅク(畳付)の縮約形かどうか、もはや判断はつかない。しかし、③の例からさらに検討が必要と考える。後述する。②の、人麻呂の歌に、タタナヅクが「柔膚にきはだ」にかかる理由については、原義が失われたものとは考えない。山口氏が示す現代語訳ともども以下に掲げる。

 飛ぶ鳥の 明日香あすかの河の かみつ瀬に ふる玉藻は しもつ瀬に 流れらばふ 玉藻なす か寄りかく寄り なびかひし つまみことの たたなづく 柔膚にきはだすらを 剣刀つるぎたち 身にねば ぬばたまの どこるらむ ……(万194)
 〔飛ぶ鳥の〕明日香の川の上の瀬に生えている玉藻は、下の瀬まで流れて触れるが、その玉藻のように、ゆらゆらとしなやかに慕い寄っていた泊瀬部皇女の〔たたなづく〕柔らかな肌さえも、川島皇子は、今は〔剣太刀〕身に添えてお休みになることがないので、〔ぬばたまの〕共寝した夜の床は空しく荒れすさんでいることだろう。(〔〕内は枕詞)(184頁)

 川島皇子に寄り靡いて共寝する泊瀬部皇女の柔らかい肌が、どのように絡んでくるかというと、身体の前にも後ろにもあるのである。正対してならば、川島皇子の胸には泊瀬部皇女の胸の肌、川島皇子の背には泊瀬部皇女の腕の肌がある。寝返りを打っても、川島皇子の背には泊瀬部皇女の胸の肌が、川島皇子の胸には泊瀬部皇女の腕の肌がある。柔らかい肌に包まれ、柔らかい肌のミルフィーユ状態になっている。山折り谷折りのくり返された密着感こそ表したい。これが柿本人麻呂の独自表現である。「柔肌」がくっついていて間を置いていない。よって、タタヌ・タタム・タタナハル・タタナヅクの語幹のタタ(畳)の原義を強調している。巧みな言葉遣いである。
 ③の、「畳有 青垣山」(万38)をタタナハリと訓むか、タタナヅクと訓むかについては、タタナハリと訓むものと考える。②の人麻呂作歌の例でタタナヅクの原義が忘れられた段階にあったのではなく、むしろ、タタナヅクの語本来の意をもって言葉を新たに展開させている。人麻呂は歌詠の言葉を模索する開拓者であった。「畳有」においては、今度は逆に、「青垣山」という語を軸にして新たな使用法を目指している。時代別国語大辞典の「たたなはる」の項に、「【考】記紀歌謡に見える伝統的な枕詞を借りて新規な語に転用することは、柿本人麿に例が多く、ときにはソラミツ─ソラニミツのように語形に変化をみることもある。ここもタタナヅク─アヲカキをタタナハル─アヲカキとしたのではないか。「有」を「付」の誤りとしてタタナヅクとみる説もある。「畳嶺杳不極」(懐風藻)の「畳」はこの語、もしくはタタナヅクに当たるもの。」(422頁)との指摘がある。筆者は、上述のとおり、枕詞とそのかかる語との関係は相互方向に通行し合うものと考えている。

 やすみしし わご大君 かむながら かむさびせすと 吉野川 たぎつ河内かふちに 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳有 青垣山あをかきやま 山神やまつみの まつ調つきと 春べには 花かざし持ち 秋立てば 黄葉もみちかざせり〈一に云ふ、黄葉もみちばかざし〉 ふ 川の神も おほ御食みけに つかへ奉ると 上つ瀬に かはを立ち 下つ瀬に 小網さでさし渡す 山川も りて仕ふる 神の御代みよかも(万38)

 この歌の根本的な新しさは、国見概念の多様化、ないしは、濫用にあると考える。山に登って下界の国土、遥かなる風光ばかりでなくくり広げられている人々の活動やその形跡を見るのが国見であった(注8)。万2・382・1971・3234・3324・4254番歌、記41・紀34歌謡、記53、雄略記などに垣間見られる。ところが、人麻呂の万38番歌では、持統天皇は、吉野宮の「高殿」に登って山を見ている。次には川も見ている。天皇の視線を追って表現を整えていっている。縷々述べていってよどみなく流れるように歌いあげている。「高殿」には登っているが山頂に登っているわけではない。これがはたしていわゆる「国見」なのか、疑問とされなければならない。吉野宮は、現在の奈良県吉野町の宮滝遺跡に該当するとされている。山間部にある別荘へ行って山や川を見るのは静養を兼ねた物見遊山であろう。そこに政治的、祭祀的な意味合いを見出すには記述としてインパクトが乏しい。中国で治山治水を目的とするような意味など持たない。天皇の観光、物見遊山を「国見」と扱って追従を述べているだけに感じられる。門付け歌人だから、それで目的は達成されている。
 この仮定を正しいとするなら、「国見」で「青垣山」を見ることは、どのような捉え方をしても奇怪なこととわかり、かえって納得がいく。すなわち、「国見」は山の高いところから望見するから、視線は下方へ向くはずである。ところが、今、高殿から望見しようとして、なお高い山に視界が遮られてしまっている。「青垣山」があって視線は上方へ向き、それでも見晴らすことはできない。そもそも「高殿」は、遠く十里四方を見晴らすために建設されたものではなく、別荘のバルコニーにすぎなかっただろう。山あいにあって見晴らすことができないのに「国見」なるものをするとすれば、山の神も川の神も、見ている天皇に奉っていると読み替えてこそなるほどと理解されるに至る。「国見」概念の拡張である。人麻呂は作戦として、最初に「国見」と言って気を引こうとした。
 見晴らしがきかない「青垣山」が登場することは歌う前から明らかである。眼前に迫っている。その場合、常套句である枕詞のタタナヅクという語を「国見」に下接することはしないだろう。タタナヅクアヲカキヤマは、歌を聞く人に慣用句的に記憶されている。いきなり衝突する概念を並べ立てるのではなく、相反するにもかかわらず解釈を変えれば遊覧が「国見」になることも座興としてはあり得ることだと思わせたかった。そのためには言葉づかいに多少の工夫が必要である。人麻呂は少しばかり変化をつけ、タタナヅクという語を変えてタタナハルにした。
 筆者は、タタナヅクの語幹タタを、畳の製作、構成にも見ている。叩くように畳みかけて作り、きれいな波打ちが連続して重層を成す。一般的な藁筵が縦にも横にも凹凸をくり返すのと異なり、山の部分、谷の部分が一筋ごとにつづいている。ここにタタナヅクのナヅクは、ナツク(懐)というまつわりつく意、ナヅク(名)という命名の意を併せ含んでいると考える。山の部分が続いてまつわりついているのが幾重にも重なっていて八重垣的な山脈の比喩としてふさわしい。反対に、山々が青畳のイメージだからそれを作る畳機の垂直に立つ様子からしても、タタと名づけてふさわしい。
 記紀歌謡や万923番歌で「たたなづく」、「青垣山」、「籠る」が連語となっている。垣根は「籠る」ことと直に連関する。「くも立つ 出雲八重やへがき 妻みに 八重垣作る その八重垣を」(記1)。そして、「籠る」ことは、ある閉所に籠って外からは見えなくなること、隠れることであり、古語では「なばる」ともいう。ゆえに、「畳有 青垣山」(万38)の「畳有」はタタナハルと訓むことが正しいと知れる。人麻呂が造った新語であろう。聞いている人は、万38番歌が歌われた時に初めて耳にする言葉だったかもしれない。国見の本来であれば、ミハルカス(見晴)(注9)はずが、青垣山の方がせり出してハル(張)ことになっている。ハルという言葉の洒落をもってタタナハルという造語は腑に落ちるものとなり、言葉に絡めとられる思考を見事にうっちゃりやって逆転させることに成功している。
 ヤマトコトバの探究は、理路整然たる単一な語源を解として求めることにはない。飛躍する論理と絡み合う語感について、それが納得が行って了解できるものなのか、逐一検討していくところにある(注10)

(注)
(注1)山口2011.に負っている。
(注2)石井1995.は、「アシカの敷皮を「畳」と呼ぶ語例や、敷石を一面に敷いてイシダタミ(石畳)と呼ぶ語例」(160頁)からすると、「日本語タタミ(畳)の語末 -mi も、シゲミ(茂み)、アツミ(厚み)、キリミ(切り身)などの語末ミと同様に、名詞接尾辞と考えられる。」(161頁)とするが、そうではあるまい。新訳華厳経音義私記(奈良時代末期)に、「皆砌 上古諧反、道也、上進也、陛也、下千計反、限也、倭にいし太々美たたみと云ふ」とある。万葉集には、「いはたたみ かしこき山と 知りつつも われは恋ふるか 同等なみにあらなくに」(万1331)とある。
 筆者は、魚の切り身一枚をもってキリミというのとは異なり、何枚もが敷きつめられてはじめてイシタタミ、イハタタミというと考える。タタミ(畳)という語をタタム(畳)という動詞の連用形に起ったと考えるのは、稠密に作られた面としての出来、敷物としての極限さに対し敬意を表したとさえいえる語だと感じるからである。その場合、畳表の製造過程に、粗莚のようにほんわかと織ったり編んだりして目が必ずしも整わなくても良しとするのではなく、目が詰まるようにきつきつに畳機で織ること、緯糸である藺草間に隙間ができないよう叩くように詰めていくことの必要性を物語る。整然とした波目模様が構成され、その結果、内部に空気層を確保してクッション性、保温性、面としての存在性を機能させている。タタム(畳)とタタク(叩)とは同根の語なのだろう。「みちの皮の畳八重を敷き」(記上)とあるのは、アシカの皮を敷物にしている。生きているアシカの毛皮の襞をなして波打つ形状をもって「畳」たる語に相当すると認識している。古語にミチというのも道と同じように波打つことがあるのだと洒落のなかに納得している。「…… 韓国からくにの 虎とふ神を け取りに 八頭やつ取り持ち 其の皮を 畳に刺し 八重やへたたみ ぐりの山に ……」(万3885)とあるのも、虎の皮に見事な縦縞模様があり、その波目模様をもって「畳に刺し」、すなわち、畳状に刺して、という形容につながっていると考えられる。
 イシタタミの場合、一般的な印象として、一面に石板が敷きつめられていることと感じられる。石の形、大きさを見極めて、パズルのように組み合わせて目地を限りなく詰めていく途方もないくり返し作業が思い起こされる。表面がほぼほぼ平らになるように石の下に砂を塩梅よく敷いていく。それでも布基礎の上のタイルのようにはできず、波打つようにしか仕上がらない。結果、石の面が屏風の扇のように見立てられ、それを目地の部分がつないでいると見立てられるのである。全体に見れば一定の厚みを持った面としてあって、地盤との間に隔てを保つものとして機能している。だから、イシタタミと称されて然るべきと思われたのだろう。タタミ(畳)の完成後にイシタタミという語は認められている。
 この名詞のタタミ(畳)という語のニュアンスは、動詞のタタヌ、タタムと等しいと思われる。具体物となって現れているタタミ(畳表)は粗放な藁筵のイメージとは大きく異なる。タタム、タタヌという動詞は、折り畳み重ねる際に山谷山谷で折り返されつづけていくことを示すのであろうから、叩くように織りあげて整然とした波目模様にできていれば、動詞タタム・タタヌという語の最も原初的な意味合いを具現化していると言い切れる。すなわち、畳を作るのも作られた畳も、タタミの意を表していて表裏一体の語となっていると言える。実際、畳表というものは表裏一体にして表も裏もない物として完結している。畳返しをすれば新しい畳として使うことができる。ここに、タタム・タタヌという動詞に、他動詞、自動詞の区別を明確化しない理由が潜んでいる。
(注3)伊藤1990.に、「弥生時代のムシロに、在来の〝簀の子〟のような手編みとは基本的に異なり、経糸二本を一組としてこれらを二群に分けて操作できる装置(『延喜式』所載の席杼むしろひと呼ばれるものや、現代畳織機の小手こてなどと呼ばれるもの)がついた何らかの織機を用いて織られた可能性が高い。」(63頁)とある。小林2013.に「開孔棒綜絖」と記されるものは、「小手」、「席杼」、また、機能を兼ねているので、「をさ」とも呼ばれてきた。拙稿「上代語「畳」をめぐって─「隔(へだ)つ」の語誌とともに─」参照。
(注4)山口2011.は、岩石を積み上げる意の場合、岩石は一つ一つ別個の物で、タタムことの意味が拡張されていると解釈する。「このような用法が現れるのは平安後期以降であるから、本来の用法ではなく、漢文訓読によって生じた用法と見てよいであろう。」(182頁)とする。しかし、イメージの展開が漢文訓読に由来すると決めてかかることはできない。「いはたたみ かしこき山と 知りつつも われは恋ふるか 同等なみにあらなくに」(万1331)という表現が上代に行われていたのだから、むしろタタムという語の本質こそ再考されなければならない。新訳華厳経音義私記のイシタタミの例は、敷き詰められた石板や塼が、多少なりとも波打つように見受けられたところから、屏風の敷石バージョンであると見られたのだろう。古くからそのように見て取れるほど、当時の人にとっては規格サイズにまとまっている岩石の積み上げは、水を隔てたり異人を隔てたりすることにかない、タタムことと認識されて是とされ得る。拙稿「上代語「畳」をめぐって─「隔(へだ)つ」の語誌とともに─」参照。
(注5)「青垣(山)」という表現は、ほかに、「吾をば、やまとの青垣のひむかしの山の上にいつきまつれ(吾者、伊-都-岐-奉于倭之青垣東山上)。」(記上)とある。景行記の例から、「たたなはる 青垣(山)」のことを指しているとわかる。
(注6)廣岡2005.参照。
(注7)言語が言葉の関係性のうちに成り立っているという意味で、言語は「社会」となっているといえる。社会言語学、言語社会学といった領域を指しているわけではない。
(注8)古代の「国見」については数多く語られている。儀礼の側面や民間の慣習など、いろいろな観点から論じられている。ただし、飛鳥時代までにおいて実際に行っている行為は、中国の影響を受けた四方拝とも異なり、作法のようなことが特記されているわけではない。単に高いところから見晴るかすことであったと考える。
(注9)「皇神の 見霽みはるかし坐す 四方よもの国は ……」(延喜式・祝詞・祈年祭)とある。
(注10)例解古語辞典第三版に次のような指摘がある。

 語源説明の排除
 語形欄では語源に言及することを積極的に避けています。日本語の場合、親縁関係にある言語が確認できないために語源の究明が困難であり、知恵をしぼった独創的な解釈は、多くの場合、考えついた人の頭のよさの証明にしかなりませんし、古典語辞典にとっては、どんなに確実な語源でも、その語の意味を正しく把握するうえで邪魔になります。
 現代語の副詞「おそらく」は、平安時代に漢文訓読用語の「恐らくは」にさかのぼります。心配なことに、という意味です。この段階では動詞「恐る」の意味がそのまま生きています。しかし、「おそらく、まだ電車に間に合うでしょう」というのは間に合うことを恐れている表現ではありません。現代語の〈おそらく〉の意味や用法を知りたければ、実際の使われ方を調べるのが正統な手順です。その原則は、いつの時期のことばについても同じことです。
 帰納による解釈
 日本語の長い歴史からみれば上代の日本語も最近の姿であり、起源的な意味とのずれはたくさんあったと考えるべきですが、『古事記』や『万葉集』を日本語のふるさととみなす錯覚が根強く定着しており、それが語源信仰に結び付いています。《例解方式》では、演繹えんえきによらず、帰納に徹して解釈し、推定された語源からその語の意味を説明する立場をしりぞけます。それが古典語辞典の正しい方法だからです。(1045頁)

 筆者は、いわゆる語源という言葉をいったん括弧でくくり、記紀万葉時代の語感、当該語に対する当時の人々の意識と捉え直すことを提唱している。語源という言葉は、語の発生地点へ遡っているようであるが、上代での使用例から見た語感とは、上代というヤマトコトバの流れのなかでは扇状地のようなところの様子にすぎない。その場合、「たたむ」、「たたなはる」、「たたなづく」という語の間に関連を見ることは、上代語への接近法として有益である。《例解方式》にしたがって例を列挙して行った場合、「たたなづく」と「たたなはる」は、同じ「青垣(山)」にかかる枕詞である。柿本人麻呂の頭の中や彼の歌を直接聞いた人、万葉集に採録した人たちには、両語は意味的に関連があるものとして捉えられていたに違いないと推定することができる。そうなると、言葉の意味を理解するということに、帰納的か演繹的か、厳格に判別しかねる事態が出来してくる。それは実は当たり前のことである。言葉は使われてはじめて言葉だからである。動態としての言葉を捉えることが大事であり、より正しく言えば、言葉は動態なのである。
 一時代前の語源研究は、それ自体はほとんど用を成さなかったものの、言葉の成り立ちを顧みると事の本質がわかるのではないかという希望は、人間の癖のようなものでありつつ、実は言葉とは何かをめぐる深い洞察の一片を窺わせることになっていると気づかせてくれた。例えば、洒落がわかることは、言葉について深い洞察をめぐらせられたということと等しい。言葉の理解について、その使用例から調べるのは正統な手順である点は言うまでもないことながら、言葉には、異端的な、訳のわからない使用例、駄洒落や言葉遊びやギャル語などが際限なく展開されている。それが言葉の実態であり、本来のあり方でもあって、言葉の持つ宿命である。そして、上代には、平安時代以降今日に至るまでとは事情の異なる事態がある。無文字時代の痕跡がきわめて濃厚な点である。
 無文字時代の言葉と文字を持つ時代の言葉とは様相が異なる。無文字時代には、すべての言葉は音声言語のヤマトコトバとして理解された。それが基本である。ヤマトコトバが長い間、文字を持たずに、地理的に少しく離れた場所でも同じように伝わり、学習され続けられたのか。それは、言葉自体に張り巡らされたヤマトコトバの体系、テクスチャーのために、その言葉がその言葉でなくてはならないような秘訣が内在していたからである。学校もなく、文字もなく、クニも違うのに理解し合える言葉とは、聞いただけでなるほどそういうことね、と納得するからくりがあったということである。すなわち、ヤマトコトバには、訓(おと)によって意味のネットワークが存在していたということである。これまでの研究者たちは、それを「語源」という言葉で遡ろうとしてきた。ちょっとした錯覚である。記されている言葉としては記紀万葉が最初だから、いちばん古いとただ勘違いした。書き残されているということは、無文字文化の最後の時代の言葉の有り様として記されている。そのように捉え返せば、当時流行の駄洒落が枕詞であるとわかるし、どうしてそのような今日理解しがたい言葉が使われていたかも、文字を持たない人たちの頭の使い方が文字時代の人とは違うのだと理解することができる。異文化なのである。文字なしに互いに言葉を納得するからくりは、なぞなぞと呼ぶことができる。紀には「無端事あとなしごと」(天武紀朱鳥元年正月)と記されている。無文字にして音声が空中を飛び交うばかりの言葉に端緒などあろうはずはない。無いのに答えが有るとはどういうことか。文字を持たないヤマトコトバという閉じた系において、そのなかで完結される洒落のくり返しが存在するから、渦中にいる人たちにとっては、その再帰的なプログラムによってそれぞれの言葉がなるほどと納得づくに悟られた。そのように構成されていたのがヤマトコトバであった。これは日本語の起源論とは次元の異なる議論であるし、また、いかなる言語体系においても同じであるが、証明も反証もできない命題として存在している。
 「たたなづく」といった枕詞一つをあげてみても、その語構成について一通りに解釈し切ろうとする試みは、実数ばかりで解こうとするのに似て解釈にかえって誤謬を来す。虚数を含んだ複素数として枕詞は成っていると譬えられるからである。いくつかの洒落の組み合わせをもって枕詞「たたなづく」は構成されており、同様に、珍しい枕詞「たたなはる」についても、人麻呂が、いくつかの洒落を組み合わせて仕立て上げた新語であったかと推測していくことは、ヤマトコトバ研究の基本姿勢であろう。

(引用・参考文献)
石井1995. 石井博「日本語と朝鮮語─畳・宴・祝を中心に─」『人文社会科学研究』№35、早稲田大学理工学部一般教育人文社会科学研究会発行、1995年3月。
伊藤1990. 伊藤実「たたみの起源を探る─ムシロの考古学─」広島県立歴史博物館編『備後表─畳の歴史を探る─』広島県立歴史博物館友の会発行、平成2年。
尾崎1966. 尾崎暢殃『古事記全講』加藤中道館、1966年。
倉野1979. 倉野憲司『古事記全註釈 第六巻中巻篇 下』三省堂、1979年。
小林2013. 小林桂子『糸から布へ─編む・もじる・組む・交差する・織る技法─』日貿出版社、2013年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
武田1956. 武田祐吉『記紀歌謡集全講』明治書院、1956年。
土橋1965. 土橋寛『古代歌謡と儀礼の研究』岩波書店、1965年。
土橋1972. 土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、1972年。
西宮1979. 西宮一民『新潮日本古典文学集成 古事記』新潮社、昭和54年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
山口2011. 山口佳紀「「たたなづく」考」万葉七曜会編『論集上代文学』第三十三冊、笠間書院、2011年。
山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、1973年。
例解古語辞典第三版 小松英雄主幹『例解古語辞典第三版』三省堂、1992年。

加藤良平 2021.1.6初出

万1895の「幸命在」の訓―垂仁記の沙本毘売命と天皇との問答における「命」字を参照しながら―

 万1895番歌は、次のように訓まれて解されている。

 春去れば まづ三枝さきくさの さきくあらば のちにも逢はむ な恋ひそわぎ〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895)

 春になればまず咲く、サキクサのように、幸くあつたなら、後にも逢おうよ。恋をするなよ、わが妻よ。(全註釈73頁)
 春になるとまづ咲くといふ名のやうに、さきく、無事でゐたならば、後にも逢はう。だからそんなに恋しく思ふな。吾が妹よ。(注釈105頁)
 春になるとまず咲くさきくさのように、さきくあったら、後にも逢おう。そんなに恋うてはいけない、我がいもよ。(新大系438頁)
 春になるとまず咲くさい・・ぐさのように、さい・・わい命さえ無事であるならまたのちにも逢うことができよう。そんなに恋い焦れないでおくれ。お前。(古典集成41頁)
 春になると まず咲くさき・・くさの さきくさえあったら あとでもえよう そう恋しがるなよおまえ(新編全集47頁)
 命さえ長らえているならばきっと後で逢うことができよう。あまり恋に心を苦しめるな、吾妹よ。(古典大系68~69頁)
 春になると真っ先に咲く三枝のように事もなくさきくあるなら、また後にも逢おう。そんなに恋しがるな。あなたよ。(全解51頁)
 春になるとまず最初に咲く三枝のように さきく─無事であったら将来にも逢おう。 恋しく思わないでほしい。わが愛する妻よ。(全注132頁)
 春になると真っ先に咲く三枝のようにさきく(無事で)いたら、後に逢うこともあろう。恋に苦しむな吾妹よ。(全訳注原文付321頁)

 この歌は、万葉集の修辞法の「二重の序」としてとり上げられることがある。伊藤1976.は次のように考えている。

 春去れば まづ三枝さきくさの さきくあらば のちにも逢はむ な恋ひそわぎ〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895)
 春になるといつもまっさきに咲く、その三枝というではないが、達者でいたら、将来、ナニハサテオイテモマッサキニ逢おうぞ、だから、そんなに恋い焦れるな。(伊藤1976.7頁)

 これは「二重の序」であるとみたうえでの拡大解釈である。そして、論理矛盾を引き起こしている。「後にも逢はむ」を「まづさき」の意と絡めてしまうと、その季節は「春」のことなのかという疑念が生じる。四句目の「後にも逢はむ」に掛詞のかかりが見られず、同形反復や同語反復も見受けられない。三句目までで説き起こしておいて、四・五句目を対置的に承けているとしか考えられない。時間的な先後、サキ←→ノチの対比によった言い回しと解される。この歌の主意である「な恋ひそ吾妹」をはっきりと伝えたい。歌の上の方でごちゃごちゃかかりながら、最後の言いたいことへとなだれ込んでいる。
 この歌を「二重の序」とする捉え方には、稲岡2011.も賛同している(注1)。そして、「さきくありて」と訓み下のように解し、「○幸くありて─旧訓サキクアラバが諸注にも採られているが結句との照応を考えサキクアリテとする説(大浦誠士)が良い。」(和歌大系26頁)と注している(注2)

 はるされば まづ三枝さきくさの さきくありて のちにもはむ なひそわぎ〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895)
 春になるとまず咲く三枝のように、幸く(つつがなく)過ごしてまた後にきっと逢おう。だから徒らに恋しがらないでほしい、妻よ。」(和歌大系26頁)

 万葉集中に「幸」とある場合、万5・191・196・295・315・322にイデマシ(幸、幸行、行幸)、万531・543・1032にミユキ(御幸、行幸)のほかは、サキクと訓み、その例は多い。「雖幸有さきくあれど」(万30)、「真幸有者まさきくあれば」(万141・288)、「間幸座与まさきくいませと」(万443)、「幸也吾君さきくやあがきみ」(万641)、「命幸いのちさきく」(万1142)、「幸在待さきくありまて」(万1668)、「幸来座跡さきくきませと」(万2069)、「幸座さきくいますと」(万2384)、「幸有者さきくあらば」(万3240・3241)、「言幸ことさきく」(万3253)、「真幸而まさきくて」(万3538)とある。
 これらサキクと訓む例は「幸」の一字でサキクと訓んでいる。そんななか、万1895の「幸命」をサキクと訓むのだろうか。「幸命」の「命」字を life の意に解しているようであるが疑問である。集中で「命」字はミコト、イノチと訓むのが通例である。

 命幸久吉石流垂水々乎結飲都
 いのちをし 幸くよけむと 石走いはばしる たるの水を むすびて飲みつ(万1142)
 いのち幸く 久しくよけむ 石走いはばしる たるの水を むすびて飲みつ(万1142)

 万1142番歌は、一・二句目をどう句切るかで訓みが分かれている。いずれにせよ、「命幸」をイノチ、サキクと丁寧に訓んでいる。万1895番歌に「幸命」を熟語的にサキクとのみ訓むことには違和感がある。といって、「幸命在」の「命」字をミコト、イノチのいずれにも訓むことはできない。他の用法を考慮する必要がある。

 古事記に「命」字を「令」字に通用し、使役形に使っていると見ることができる例がある。垂仁記の記述である(注3)

 亦天皇、命詔其后言、「凡子名必母名、何称是子之御名」。(垂仁記)
 又命詔、「何為日足奉」。(垂仁記)
 亦天皇、其の后にめたまひて言はく、「……」。
 又、詔らめたまはく、「……」。

 現行の注釈書では「また天皇、其の后に命詔みことのりして言はく、「……」」のように訓んでいる。また、白川1995.に「〔記〕には使役の語にすべて「令」を用いる。」(401頁)とある。しかし、本居宣長・古事記伝では、「命詔」をノラシメタマハク、ノラシメタマヘルニと訓んでいる。そして、「○命詔、命字は令の誤ならむと、師の云れたる、然るべし、上にも、令天皇ニとある令の如し、【ココは、タダに詔ふには非ず、御使して伝へ詔ふなれば、令とあるべきなり、天皇命スメラミコトと書ることも、上巻にあれと、ココは然には非じ、また詔を命詔とも云べけれど、然にもあらじ、】下文の命詔も同じ、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/58)、漢字の旧字体等は改めた)と解説している。
 「命AB」が使役を含む言い方、Aに命じてBせしむ、の意に使われているから使い方としてあり得る。たやすく命じているところから、命じる相手は相対的に身分が低いかとても仲のいい間柄の人であろう。

 公、之れを聞きて怒り、命じて其の人をしりぞけしむ。(公聞之怒、命黜其人。)(世説新語・黜免第二十八)
 聊か故人に命じて之れを書せしめ(聊命故人之)(陶淵明・飲酒二十首序)
 葛城襲津彦の孫玉田宿禰におほせて、瑞歯別天皇のみもがりつかさどらしむ。(命葛城襲津彦之孫玉田宿禰、主瑞歯別天皇之殯。)(允恭紀五年七月)
 屯倉首、ことおほせて竈傍かまわきゑて、左右こなたかなた秉燭ひともさしむ。(屯倉首命居竈傍、左右秉燭。)(顕宗即位前紀)
 有司つかさみことのりして、其の玉を得しよしかむがへ問はしめたまふ。(命有司、推-問其玉所得之由。)(仁徳紀四十年是歳)
 虞人やまのつかさみことのりしてししらしめたまふ。(命虞人獣。)(雄略紀四年八月)

 垂仁記の例は、天皇と、沙本毘さほびこのおほきみの稲城に逃げ入ってしまった后(沙本毘さほびめのみこと)との間の問答である。天皇と后との間には距離があって、直接言っているのではない。ことづけて伝えている。戦闘状態で籠城中の后に伝えるのだから、軍隊にいる斥候なりに「詔」を代わりに言わせている。
 天皇と后との間の問答は状況を変えながら四対話ある。それらをみると、天皇は、最初が「詔」(➁)、二・三回目が「命詔」(➂と➄)、四回目が「問」(➆)によって発語の形になっている。稲城のなかにいる后と、それを包囲している陣にいる天皇は離れたところにいる。物理的な距離を心理的な距離と交えながら表している。

 ➀令白天皇、「若此御子矣、天皇之御子所思看者、可治賜」。
 ➁於是天皇詔、「雖其兄、猶不其后」。
 ➂亦天皇命詔其后言、「凡子名必母名、何称是子之御名」。
 ➃爾答白、「今当火焼稲城之時而火中所生、故其御名宜本牟智和気御子」。
 ➄又命詔、「何為日足奉」。
 ➅答白、「取御母、定大湯坐・若湯坐、宜日足奉」。
 ➆又問其后曰、「汝所堅之美豆能小佩者、誰解」。
 ➇答白、「旦波比古多多須美智宇斯王之女、名兄比売・弟比売、茲二女王、浄公民、故宜使也」。

 ➀は后側から発している。「令白」めなくてはならないほど離れている。使者を立てて天皇のところまで行かせて言いたいことを言っている。➁は「詔」だけしている。その兄を怨むがやはり后は愛しいと言っている。この言葉は后までは聞こえていないのであろう。自軍内での独白である。敵方に聞かせるような内容ではない。だから、「故、即有后之心。」と注釈が続いている。
 次の場面で天皇は、➂と➄においてきちんと后に聞いてもらうように言っている。遠いから使者が立った。それが「命詔」である。➃と➅は后が、その遣わされた使者の問いに答えている。使者は后の前に来ているから「答曰」でいい。➅に続き、「故、随其后白、以日足奉也。」という経過説明があって、➆へとつながっている。時間が経って稲城包囲網はどうなったか。➃に、「今当火焼稲城之時」とあるから稲城に火が放たれて少しずつ延焼して行っている。天皇側は猛攻するわけではなかったが、火が回ってきても最後まで降伏しなかった。だから、最終的に、「然、遂殺其沙本比古王、其伊呂妹亦従也。」ということになっている。死因はともに焼死ということになる。投降すれば助かった命であるし、反撃する手立てもなかったのにそうはしなかった。周りから焼けていくから包囲網は当初よりもずっと狭くなっていて、天皇と后との間の距離は物理的には近づいていた。したがって、➅と➆とで「問其后曰」、「答白」という簡潔な言い回しになっている。呼びかければ直接聞えて直接答えられた。その内容も、「汝所堅之美豆能小帒」の話になっていて、ふぐりの話までしている(注4)。男女間の濃密な関係の相談である。天皇と后という立場で戻ってほしいと願うのではなく、男と女の関係としてどうだろうかと恋慕している。しかし、下働きの女を使えと、やんわり返されてしまった。后は反乱を起こしたその兄のほうに最後まで従った。
 これほどまできちんと書き分けられている。「命詔」という書き方は、それなりの含意があってのことであり、「命詔」を熟語的にミコトノリスと捉えることは誤りである。本居宣長・古事記伝の訓みは正しかった。

 さて、以上から敷衍して万1895番歌の「命」字を考えてみると、「在」であるようにと非常に仲良しの「吾妹」に「命」じているのだと理解できる。すなわち、訓みは、使役の助動詞シムの命令形、シメと訓むことが適当である。シムの命令形シメが歌にあらわれている例は、万葉集中でも垣間見られる(注5)

 佐保過ぎて 寧楽ならむけに 置くぬさは 妹を目れず 相見しめとそ〔佐保過而寧楽乃手祭尓置幣者妹乎目不離相見染跡衣〕(万300)
 布施ふせ置きて 吾は乞ひむ あざむかず ただ行きて あま知らしめ〔布施於吉弖吾波許比能武阿射無加受多太尓率去弖阿麻治思良之米〕(万906)
 …… 上つ瀬の 鮎を食はしめ 下つ瀬の 鮎を食はしめ くはし妹に 鮎を惜しみ 麗し妹に 鮎を惜しみ ……〔……上瀬之年魚矣令咋下瀬之鮎矣令咋麗妹尓鮎遠惜……〕(万3330)
 伊香保ろに 天雲あまくもい継ぎ かぬまづく 人とおたはふ いざ寝しめとら〔伊香保呂尓安麻久母伊都藝可努麻豆久比等登於多波布伊射祢志米刀羅〕(万3409)
 岩のに いかかる雲の かのまづく 人そおたはふ いざ寝しめとら〔伊波能倍尓伊可賀流久毛能可努麻豆久比等曽於多波布伊射祢之賣刀良〕(万3518)
 …… 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとそ〔……都奇多々婆等伎毛可波佐受奈泥之故我波奈乃佐可里尓阿比見之米等曽〕(万4008)
 霍公鳥 夜鳴きをしつつ 我が背子を やすな寝しめ ゆめこころあれ〔霍公鳥夜喧乎為管和我世兒乎安宿勿令寐由米情在〕(万4179)
 たひらけく天皇すめら朝廷みかど伊加志夜久波叡いかしやくはえごとつかまつ佐加叡志米さかえしめたまへと称辞たたへことまつらくとまをす(延喜式・祝詞・春日祭)

 万1895番歌の「命」を助動詞シムの命令形と訓むと、読み添えではないから訓み方にブレはなく、しかも三句目が字足らずから解放される。三句目で切れて四句目でも切れ、言い聞かせている歌である。万4179番歌の例のように、命令形シメが歌の中間にある場合、それまでに言ってきたことと同等のことを、後ろの句でも言っている。万1895番歌に当てはまる。

 春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹
 春去れば まづ三枝さきくさの さきくあらしめ のちにも逢はむ な恋ひそわぎ
 春になるとまず咲くさきくさのように、さきくあるようにしなさい。後にも逢いましょうぞ。そんなに恋い焦がれては身に毒というものです、私のいとしい人よ。

(注)
(注1)稲岡2001.では、「五七の二句あるいは五七五の三句(もっと長い場合は、二四五六歌のように四句のこともある)にわたる序詞を譬喩として、恋の「思い」を立ち上がらせることは、人麻呂が特に力を入れて開発した<文字の歌>の修辞技法レトリックだったと考えられる。」(180頁)としている。枕詞が被枕詞を導いて全体で序詞となってつづく言葉を導いている例や、小序が下の言葉を導いて全体で序詞としてさらに下の言葉を導くといった、雨垂れ式の修飾関係一式と同様に「二重の序」も理解している。しかし、「二重の序」の本質は言葉の連なりが下へ下へと続くばかりか、最後からまた最初へと循環している点にある。文字に書いて作ったのではなく、歌いながら自ら輪唱するように作られている。木霊するような歌であって、口に歌われることによってこそ生まれるものであると考える。拙稿「万葉集の修辞法、「二重の序」について」参照。
(注2)大浦2001.は、万1895番歌について、「幸くあらば」と訓むことに否定的で、「幸くありて」と訓むべきと主張する。原文は「幸命在」で、「ば」が読み添えであるから他の可能性を考えるべきであるとしている。その整理に、「(ま)幸く」は、A《「(ま)幸く」+仮定表現》、B《「(ま)幸く」+命令表現》》、C《「(ま)幸く」+願望・意志表現》、D1《「(ま)幸く」+「て」……「む」》、D2《「(ま)幸く」+「て」……命令表現》、Eその他、と類型化している。そして、「人麻呂歌集略体歌において(塙本の訓によれば)「ば」の無表記例が三三例、表記例が一三例であるのに対し、「て」は無表記例が六二例、表記例が一例と、読み添えの数においても率においても、「て」の読み添えが「ば」の読み添えを大きく凌ぐことから考えて、「幸くありて後にも逢はむ」と訓む可能性も否定できないのである。むしろそう訓んだ方が、結句で「な恋ひそ我妹」と自分を恋しがる妹をたしなめ慰める内容と整合性を持つのではなかろうか。……後世の羈旅歌では「幸く」がかなり強固な類型を以て歌われる……。比較的用例の多い、《「(ま)幸く」+命令表現》の形式とその変形としての《「幸く」+願望・意志表現》の形式の他、《「(ま)幸く」+「て」》の形式では、残る者の立場から歌われる場合には《「(ま)幸く」+「て」~命令表現》の形式を取るのに対して、旅ゆく者の立場から歌われる場合には《「(ま)幸く」+「て」~「む」》の形式を取るというように、かなり明確にその用法の類型を導くことができるのである。」(36頁)と検証している。
(注3)垂仁記の該当部分は、次のように訓むことができる。

 しかくして天皇すめらみこと、「吾はほとほとあざむかえつるかも」とりたまひて、乃ちいくさおこして沙本毘古王を撃つ時、其のみこいなを作りて待ち戦ふ。此の時、沙本毘売命、其の忍びずて、後門しりつとより逃げ出でて、其の稲城にりぬ。此の時、其の后、妊身はらみませり。
 是に天皇、其のきさき懐妊はらみませるをしのびず、またとせいたります。かれめぐれる其の軍、すむやけくは攻迫めず。如此かく逗留とどこほれる間に、其のはらめる御子既にれます。故、其の御子を出して、稲城のに置きて、天皇にまをむらく、「若し此の御子を天皇の御子と思ほしさば、治め賜ふべし」とまをさしむ。是に、天皇、「其のを怨むれども、猶なる其の后を忍びず」と詔りたまふ。故、即ち、后を得たまふ心有り。是を以て、軍士いくさの中に力士ちからびと軽捷はやきを選り聚めてらく、「其の御子を取らむ時に、乃ち其の母王ははみこをもかそひ取れ。しは髪にもあれ或しは手にもあれ、取り獲むまにまつかみていだすべし」とのる。……
 亦、天皇、其の后にめて言はく、「およそ子の名は必ず母のなづくるを、いかにか是の子の御名みなはむ」といふ。爾くして答へてまをさく、「今、火の稲城を焼く時に当りてなかれましぬ。故、其の御名は本牟智和ほむちわけの御子みこふべし」とまをす。又、めたまはく、「いかし奉らむ」とのらしめたまへば、答へて白さく、「おもを取り、大湯坐おほゆゑ若湯坐わかゆゑを定めて、日足し奉るべし」とまをす。故、其の后の白す随に日足し奉りき。
 又、其の后を問ひて曰はく、「かためしみづの小帒をふくろは誰かも解かむ」といへば、答へて白さく、「旦波たにはの比古多々須美ひこたたすみちの斯王しのみこむすめ兄比売えひめおと比売ひめふたはしら女王おほきみきよ公民おほみたからぞ。かれ、使ふべし」とまをす。しかして、遂に其の沙本比古王を殺し、其のいろも亦、従ひき。(垂仁記)

(注4)「汝所堅之美豆能小帒」とある。「帒」字は真福寺本、兼永筆本にいずれにもそうある。「小佩」と見てヲヒモと訓むのが趨勢であるが、新校古事記に「小帒」をコフクロと訓んでいる。小さいながらヲ(雄・男・夫)である基であるから、ヲフクロと訓むべきと考える。陰嚢のことである。「」でなければ性欲の処理に困ると言ったところ、商売女ではない「浄公民」を「宜使也」と返されている。その「」は「旦波たにはの比古多々須美ひこたたすみちの斯王しのみこ」の娘であると言っている。訓字にすれば、丹波彦縦道大人王の意であろうか。「浄」字は記中にこの一例しかない。多く仏教語に用いられた。戒律を遵守して道を正しているということを表しているものと考えられる。ヲ(雄・男・夫)と同音のヲ(峰)の対がタニ(谷)であり、そこからタニハが持って来られているか。タタスは陰茎を「立たす」、ミチ(ミは甲類)は精液を「満ち」、ウシは「大人」とも記されるからであろう。睾丸が二つあるから「兄比売・弟比売、玆二女王」を使うようにと言っているようである。そんなラインまで話は行っていつつ行き違っている。「然」はシカレドモ、シカアレドモと逆接に訓んで、攻撃を引き延ばしたけれども、の意と解する説は誤りである。セックスの話まで公言しても断られているのである。シカシテ、と時間的な前後を示して、「遂殺其沙本比古王、其伊呂妹亦従也。」と話が終っている。
(注5)漢文訓読に、使役形にシムと訓む例は平安時代以降に続いている。平安時代以降、命令形は和文にシメヨ、漢文訓読にシメと区別されている。今日に至っては、シムは漢文訓読に始まったかと感じられるかもしれないが、ヤマトコトバを漢文訓読が踏襲したものである。

(引用文献)
伊藤1976. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 下 古代和歌史研究6』塙書房、昭和51年。
稲岡2001. 稲岡耕二『人麻呂の工房』塙書房、2011年。
大浦2001. 大浦誠士「有間皇子自傷歌の表現とその質」『萬葉』第178号、平成13年9月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2001(『万葉集の様式と表現─伝達可能な造形としての〈心〉─』笠間書院、2008年。)
古典集成 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮古典文学集成 萬葉集三』新潮社、昭和55年。
古典大系 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系6 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『新校古事記』おうふう、2015年。
新大系 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系2 萬葉集二』岩波書店、2000年。
新編全集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注訳『新編日本文学全集8 萬葉集③』小学館、1995年。
全解 多田一臣訳注『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
全注 阿蘇瑞枝『萬葉集全注 巻第十』有斐閣、平成元年。
全註釈 武田祐吉『増訂萬葉集全註釋 八』角川書店、昭和31年。
全訳注原文付 中西進校注『万葉集全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
注釈 澤瀉久孝『萬葉集注釋卷第十』中央公論社、昭和37年。
和歌大系 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。

加藤良平 2020.1.5初出

万葉集における洗濯の歌について

 万葉集で洗濯のあらいを言い表した歌に、次のようなものがある(注1)。全解の訳を添えて示す。

つるばみの あらぎぬの あやしくも ことしき このゆふへかも〔橡解濯衣之恠殊欲服此暮可聞〕(万1314)
 橡染めの解いて洗いざらしにした衣が、不思議にもことさらに着たく思われるこの夕べであることよ。(3-127頁)
B橡の きぬ解き洗ひ 土山つちやま もとつ人には なほかずけり〔橡之衣解洗又打山古人尒者猶不如家利〕(万3009)
 橡染めの衣を解いて洗ってまた打つ真土山─本つ人である古女房には、どの女もやはり及ばないことだった。(5-92頁)
ゆふされば 秋風寒し わぎ妹子もこが 解き洗ひごろも 行きてはや着む〔由布佐礼婆安伎可是左牟思和伎母故我等伎安良比其呂母由伎弖波也伎牟〕(万3666)
 夕べになると秋風が寒い。わが妻が解いて洗いざらした着物を、帰って早く着たい。(6-61頁)
あらぎぬ 取替河とりかひがはの 河淀かはよどの 淀まむ心 思ひ兼ねつも〔浣衣取替河之河余杼能不通牟心思兼都母〕(万3019)
 洗った着物に取り替える取替川の川淀のように、淀んで中絶えするような心など、とても思いかねたことだ。(5-96頁)

不動利益縁起絵巻(14世紀)の洗濯風景(東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0000013・14を接合してトリミング)

 A・B・Cの三例で、洗濯方法として解き洗いをしていたことがわかる。和装では、衣服を仕立てる時、平面的に布地を縫い合わせる。その縫いをいったんほどいて布地に戻してから洗う。それが「解き洗ひ」である。古くは、足踏み洗いが主流であったことが絵画資料から見て取れる(注2)。そして、洗い張りなどの手段できれいに皺もない状態に仕上げた布地を再び縫い合わせて衣服としていた。手間暇の掛かることである。簡易的に、ほどかないでそのまま洗って物干竿に袖を通して干すことも行われていた(注3)。大切な衣類になればなるほど、丁重に縫いを解いて洗い、張板や伸子を使って干してから再び縫っていたものと考えられる。手縫いの針仕事の手間は大変ではあるが、バシャバシャと洗っていちばんダメージを受けるのは縫い合わせた部分である。縫い糸は切れやすくて縫い直しになることもあるし、布地の縫い目部分は弱っているからそこからほつれ、裂けてしまう危険性も高い(注4)。縫いの手間よりも織りの手間の方がはるかに大きい。仕立てるために一日で縫い合わせることはできても、生地を作る機織りは一日で数㎝程度しか進まないこともある。
 A・Bの歌は、「つるばみ」で染めた黒色の「衣」の洗濯に関して、ビフォー、アフターのいずれを良しとするかの審美を歌い込めている。洗濯すると多少の色落ちがあった。そこに判断の別を見ている。Aの歌では、確かに「橡」の素敵な色としては残念なことになっているが、これはこれで微妙な良い色合いに見えると感じている。それは、時間が「ゆふへ」であることとも関係させているのかもしれない。薄明りのもとでは、黒が薄れた色も興趣を誘うと言っているのである。対して、Bの歌は、洗う前の色がやはり素晴らしいものであると言っている。それを、マツチヤマという言葉であやなして歌っている。洗ってまた打つ「又打」から「又打山」を表象し、マツチ─モトツの音の語呂で続けている。それはまるで一つ山を越えるようなことであり、山越えは苦労であるし、越えれば景色は一変する。目に映る色合いが変わることを示している。両歌とも、それを恋する異性のことに準えながら歌っている。いずれの場合も「つるばみ」を良しとしている。

 くれなゐは 移ろふものそ 橡の 馴れにしきぬに なほかめやも(万 4109)
 橡の あはせころも 裏にせば われひめやも 君が来まさぬ(万2965)
 橡の ひところも 裏もなく 有るらむゆゑ 恋ひ渡るかも(万2968)

 万 4109・2965番歌の二例にあるように、橡で染めた衣は馴れ親しんだものと捉えている。ツルバミという言葉の音から「つるぶ」関係性を惹起させるからである。「あはせ」とは体を合わせたこと、万2968番歌の「ひと」とは未だ合わせていないことを言っている。駄洒落に過ぎないのではなく、駄洒落で得心が行くものとなっている。使われている言葉については、音声言語と考えるよりも無文字言語と捉えたほうが正しい。文字言語時代の口頭言語と無文字時代のそれとでは思考方法に違いがある。
 Cの歌は、道行く男が愛する妻のもとへ早く帰りたいという気持ちを、「解き洗ひ衣」を早く着たいという言い方で歌っている。ここで「解き洗ひごろも」とあって「解き洗ひぎぬ」とない。「ころも」は、下衣を含めて体いったいをおおうものを言う。すなわち、男は家に帰って女と一体に包まれる。歌っているのは「夕」である。家に帰ったら「夜」である。合体したいという気持ちを歌っている。素朴な歌いっぷりは素直なエロティシズムにあふれている。
 以上のA・B・Cの三例は、歌の言葉として、その洗濯が解き洗いであったと明記されている。問題はDの歌である。解き洗いという言葉がない。代わりに、「取替」という言葉が入っている。
 この歌のおもしろさはその「取替」にある。縫いの手間を惜しんで洗ったところ、縫っていたところから生地が裂けてしまい、下前身頃ならば下前身頃を取り替えなければならなくなったことを言い含んでいる。「取替河とりかひがは」は「鳥飼川」の語呂合わせである。衣を洗ってその一部を取り替えて修繕することを表し、後半の恋情を導くための序としてうまい比喩表現となっている。
 きぬを取り替えるとは、洗濯に出して控えの衣類を着ることや、衣替えの時期に当たって別の衣類に取り替えること、自動車を修理に出して代車を借りるようなクリーニング店のサービスとしてあるかもしれない衣類レンタルではない。また、衣服をすべてまるまる新調することを言うのでもない。一部を取って別の物に替えるから「取替」である。物が溢れている現代とは異なり、古代ではどんなに裕福な人であっても、古くなって汚れたからそれは捨てて新しいものにしたからといって、それを「取替」とは言わなかったであろう。そのような言い方は感覚の鈍麻であり、人々に受け入れられる表現ではない。したがって歌が伝えられることもない。採寸して新しく仕立てられた衣について、「あらぎぬ」とわざわざ「浣(洗)」という意を持ち出す必要もない。
 現代の注釈書にその点を十分に考慮したものは見られない。したがって解釈は定まっていない。万3019番歌の訳をいくつか挙げてみる。

 洗った着物に取り替える取替川の川淀のように、淀んで中絶えするような心など、とても思いかねたことだ。(全解5-96頁(上掲))
 (洗ひ衣)取替川の川淀の、淀み途絶える気持はとても持つことはできない。(新大系三-169頁)
 あなたのところへ通わずにいる気持を、じっとこらえていることは、とうていできない。(大系三-291頁)
 洗つた着物を取替へるといふ取替河の河淀のやうに、淀みとだえる心を持つ事は出來ないよ。(注釈12-146頁)
 着ていた衣を洗った衣と取り替える、その取替ではないが、取替川の川淀のように淀む気持ちにはなれないよ。(全歌講義6-757頁)
 洗い衣を取替える取替川の川淀のように、ためらう心を持つことができないなあ。(全訳注原文付3-137頁)
 洗った着物に取り替えるという名の、取替川とりかいがわの川淀のように、淀んで通わなくなるような気持を、心に持つようなことは到底できません。(全注12-307頁)
 (洗い衣) 取替川とりかいがわの 川淀かわよどのように 途絶える気などは いっこうにない(新全集3-333頁)
 洗いざらしの着物に取り替えるという取替川の淀みのように、おいでの足の淀みそうなあなたの心を思うと、その苦しさに耐えきれません。(古典集成3-350頁)
 洗った衣に取り替えるという名の取替川の河淀のように、淀みとだえるような気持ちをわたしが持つことはとうてい考えられない。(和歌文学大系3-305頁)
 洗いたての着物に取り替えるという取替川の川淀のように、淀みとだえるような心、そんな心を持つことにはとても堪えられない。(釋注6-616頁)

 「淀む」という語は、流れる水の滞ることと物事が進まず滞ることを表す(注5)。「思ひ兼ねつも」とあって、二つを兼ねていることが述べられており、両方掛かっていなければならない。その結果、「思」う可能性も閉ざされていることが「ねつも[デキヌ]」という真意である。白川1995.に、「かぬ〔兼(〓〔兼の旧字体〕)〕・該・予(豫) 下二段。二つのことをあわせる。将来のことを合せて考え、期待することから、あらかじめの意となる。」(239頁)とある。
 気持ちが逸ってしまい、ほどかないままで洗ったら縫い目がほつれたりそこから裂けたりして、かえって時間がかかっていることをいい、それを恋心へとなぞらえて歌っている。恋を成就させようと焦ってアクションを起こしたところ、今までは気さくに応じてもらっていたのが分け隔てをされるようになってしまった。どこかを新しくしなければならない。さてどこをどう新しくしたらいいのだろうか。そんな恋の袋小路状態を袋小路的に詠んだものである。全部新しくする場合は、恋の相手をチェンジすることに比喩される。

 あらぎぬ 取替河とりかひがはの 河淀かはよどの 淀まむ心 思ひ兼ねつも〔浣衣取替河之河余杼能不通牟心思兼都母〕(万3019)
 洗濯をするとき、特に縫いを解かないままに洗うと、洗った着物の一部を取り替えなければならないことが起こってかえって手間がかかり、その衣はすぐには着られなくなるように、その取替川というのには川に淀むところがあって、淀んで進まないようにためらう気持ちでいる、どう対処したらいいのかわからず、といって忘れることなど到底できない。あるいはこういうことになるかもしれないと当初から予想としてはあったのだけれども、好き過ぎて自分の方から逆プロポーズしてしまった挙句、まったく困ったことになっている。失敗しないためには、洗濯の場合なら最初にきちんと解いてから洗えば良くて、それは恋にも当てはまっていて、順序をひとつひとつ踏んでいかないとこういう羽目になる。わかっていたのにね。

 洗濯の手際を知っていればわかりやすい歌である。洗濯には時としてうまく行かない事態が生ずるものであり、それを恋がうまく行かないことの比喩として序にしていると理解される(注6)。口承で歌われた歌として、その場でなるほどと納得できる。すなわち、歌自体に響き返る自己言及的な歌となっている。うまい譬えをするなあと、洗濯にいそしむ人によく通じる。よって庶民ないし下働きの女性の歌である可能性が高い(注7)
 現行の注釈書にはこのような解釈に及んだものは見られない。第一に、洗濯の実態をかんがみていない。第二に、「淀まむ」、「兼ねつも」という語の行き詰まり感についての語感に思い至っていない。無文字時代の口頭語であるヤマトコトバには、言葉が当該の言葉に跳ね返って説明しようとするところがある。歌は、その時その場で歌われて、聞かれては消えていく一瞬の出来事であった。簡潔にして完結していなければ言葉が意を伝え通じさせることはできない。したがって、記紀万葉の無文字言語の口頭語を筆写したと思われる場合には、一語一語確かめてみること、ヤマトコトバ自体を研究の土台に据えてみることが肝要である。後期ウィトゲンシュタインの言葉へのアプローチを横に見据えながら熟考し続けなければならない。われらが言語は豊かである。無文字時代の言語ゲームの粋を、文化遺産として持っている。

(注)
(注1)洗濯一般についての歌には、次のような例も関連してあげられることがある。織りあげた布を晒したり、ちょっと雨に打たれた着物を乾かすだけのことをいっている場合も含まれているようである。万28番歌については訓みに問題があると考えるがここでは現行のままにしておく。

 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山(万28)
 …… おしてる 難波の国に あらたまの 年経るまでに 白たへの 衣も干さず ……(万443)
 筑波嶺に 雪かも降らる いなをかも かなしきろが にの干さるかも(万3351)
 照る月を 闇に見なして 泣く涙 衣濡らしつ 干す人なしに(万690)
 朝霧に 濡れにしころも 干さずして ひとりか君が やま越ゆらむ(万1666)
 あぶり干す 人もあれやも 濡れぎぬを 家にはらな 旅のしるしに(万1688)
 あぶり干す 人もあれやも 家人いへひとの 春雨すらを 使つかひにする(万1698)
 三川みつかはの ふちも落ちず 小網さでさすに 衣手ころもで濡れぬ 干すはなしに(万1717)
 秋田刈る 旅のいほりに しぐれ降り 我が袖濡れぬ 干す人なしに(万2235)
 沫雪あはゆきは 今日けふはな降りそ 白たへの 袖まき干さむ 人もあらなくに(万2321)
 ぬばたまの 妹が干すべく あらなくに 我が衣手を 濡れていかにせむ(万3712)

(注2)洗濯に関して文献資料は乏しい。限られた絵画資料からその様子を窺うことしかできない。例えば、倉田実「絵巻で見る平安時代の暮らし 第78回『西行物語絵巻』徳川美術館本「嵯峨野の民家」を読み解く ─『更級日記』に見る旅路⑷─」(https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki78、2025年2月6日閲覧)を参照されたい。日本の洗濯史を研究した文献としては、次のものがあげられる。

 斉藤研一「「足踏み洗い」から「手揉み洗い」へ─洗濯方法の変化に関する試論─」藤原良章・五味文彦編『絵巻に中世を読む』吉川弘文館、平成7年。
 花王石鹸株式会社資料室編『日本清浄文化史』花王石鹸株式会社発行、昭和46年。
 小泉和子「家事の近世」林玲子編『日本の近世15』中央公論社、1993年。
 落合茂『洗う風俗史』未来社(ニュー・フォークロア双書)、1984年。
 松本博『東西洗濯史話上巻』白洋舎、昭和17年。

 以上は「洗い」に着目が集中しており、「解き洗ひ」の「解き」がどの程度行われていたか、探究されていない。わかるものではないから仕方がない。前近代でも繊維素材によって洗濯方法に違いがあったと推定されるが、ケース・バイ・ケースだっただろう。図様からはいろいろな方法が行われていたと推測される。例えば、歌川豊国(初代)画・蔦屋重三郎版「洗い張り」(寛政年間(1789~1800年)、江戸東京博物館蔵、江戸東京博物館デジタルアーカイブスhttps://www.edohakuarchives.jp/detail-7478.html、2025年2月6日閲覧)では、丸洗い、伸子張り、板張りの三様の干し方が描かれている。
 明治時代になると、次のように教えられている。「ふく洗濯せんたくをなすにハ、まつ其のひめをくことを知るへし、」(飯島半十郎編・家事経済書(明治26年)、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848246/16)。
(注3)小泉1993.に、「洗い方には丸洗いとほどいて洗う解き洗いがあったが、単衣物が多かったため一般には丸洗いが行われていた。しかし絹のあわせなどには解き洗いが行われた。『万葉集』にも……「ときあらひ」という言葉が見える。解き洗いの場合は、仕上げとして古くからしん張りが行われていた。伸子張りは、竹製の細串の末端を尖らせた伸子を、布の両縁に刺して弓形に張って、布をぴんとさせて乾燥する方法である。水を使う水干すいかんと姫糊を使う糊つけ法で、主として男子を袍系衣服地に用いられた。……このほか仕上げには、打ち上げ、磨き上げなどの方法があった。打ち上げは、衣板きぬた(砧)で布を打って表面を平らにし艶を出す方法で、木綿・麻あこめ、打衣などに用いられた。これも古くは手で打ったが、後には布打ち機が使われるようになった。」(210頁)とある。Bの歌にマツチヤマ(真土山)を「又打山」と記している次第である。
 なお、唐風に立体的に巻きこむように縫い合わせることも一部に行われたかとも思われ、その場合は、一度縫ったら解かなかったであろう。

 住吉すみのえの 波豆麻はづまの君が 馬乗うまのりころも さひづらふ あやを据ゑて 縫へる衣ぞ(万1273)

(注4)伊勢物語第四十一段に、「いやしき男もたる、十二月しはすのつごもりに、うへのきぬを洗ひて、手づから張りけり。心ざしはいたしけれど、さるいやしきわざもならはざりければ、袍の肩を張りりてけり。せむ方もなくて、たゞ泣きに泣きけり。」とある。伸子張りをしたら破れたことを言っていると考えられている。「いやしきわざ」とは、召使のするような賤しい技で、初めてのことで勝手がわからなかったと述べている。袍は参内の時に着用する束帯の上着で、新年に着ていくことを思って櫃から出してみたら汚れや皴、臭いが気になってあわてて洗濯したのであろう。上等の一張羅を丁寧に洗濯しようとしても、下手な伸ばしのために亀裂が入ってしまった。
(注5)「淀む」という言葉は事態が難航することであり、「途絶える」という訳はさすがに当てはまらない。流れはなかなか進まないが、流れないわけではない。同じく「(溜)む」という語であっても、堰を切れば流れる。
(注6)万葉集の歌の序に、自己言及的な性格を持つものがある点については、澤瀉1931.で「二重の序」と称されたのが早い。筆者は、無文字時代に特有の言語活動であると考える。BやD以外にもいくつか例がある。拙稿「万葉集の修辞法、「二重の序」について」参照。
(注7)洗濯が、必ず女性の仕事であったと断定はできないが、一般に衣類関係の家事労働は女性の仕事であったと考えられている。正倉院文書には、洗濯を理由にした休暇願がいくつも残る。天平宝字二年十月二十一日付で、写経生の大原国持が五日間(「大原国持謹解 請暇日事 合伍箇日 右、請穢衣服洗為暇日如前、以解」)、宝亀三年三月二十一日付で、経師の巧清成が三日間(「巧清成解 申請暇事 合三箇日 右件、依穢衣服洗、 請暇如件、 以解」)申し出ている。長く休めるのは解いて洗ってまた縫い直すからであろう。一張羅で着たきり雀だから、その間は出仕できないからと考えたほうが妥当であろう。縫い付けや穴の繕いをするには、針仕事に慣れていなければならない。

 針はあれど いもしなければ 付けめやと 吾を悩まし 絶ゆる紐の緒(万2982)
 今年行く 新島守にひしまもりが 麻衣 肩のまよひは 誰か取り見む(万1265)
 風のの 遠きわぎが 着せしきぬ もとのくだり 紕ひ来にけり(万3453)

 上野2018.は、「干す人なしに」関連の歌(万690、1666,1688、1698、1717、2235、2321、3712)も含めて捉え、「万葉歌においては、「洗濯」が旅先の男たちと、家を守る女たちの心を繫ぐものとして、歌われている」(638頁)とする。「干す人なしに」関連の歌は、旅の定型歌にも見えるから、それをもって洗濯は家にいる女性の仕事と決めてかかるのには抵抗がある。男が衣を脱いでそれを「干す」ことをしている間、何をしているか。当該対象の女を身につけている。色っぽい表現に傾いているのである。筆者は、「心を繫ぐものとして」よりも「体を繫ぐものとして」捉える。
 このDの歌は男性が歌っていると措定することも可能ではある。自分勝手に丸洗いをしたら一部破損して着られなくなってしまった。こんなことなら解き洗いをしてほしいと頼んでおけばよかった。信じあって頼りあっていくのが恋仲とのいちばんいい付き合い方だのにわだかまりができてしまった、という意と取れないことはない。けれども、それでは「取り替ひ」の意が、衣の取り替えと地名の鳥飼にしか掛からない。どちらからプロポーズするのが正当であるか、それを取り替えてしまったがために「淀」みが生じたと聞いた方が歌の気持ちは深く伝わってくる。洗濯が主題ではなく、洗濯を序にして恋模様を歌っている。そのために「二重の序」にまで技巧を凝らしている。その点でも、男女の「心を繫ぐものとして」洗濯がテーマとして存していたのではなく、歌を歌い出すに当たって洗濯を序にしているだけなのである。

(引用・参考文献)
上野2018. 上野誠『万葉文化論』ミネルヴァ書房、2018年。
澤瀉1931. 澤瀉久孝『萬葉集新釋 下巻』星野書店、昭和6年。
小泉1993. 小泉和子「家事の近世」林玲子編『日本の近世15』中央公論社、1993年。
古典集成 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮古典文学集成 萬葉集三』新潮社、昭和55年。
釋注 伊藤博『萬葉集釋注 六』集英社、1997年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新全集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注訳『新編日本文学全集8 萬葉集③』小学館、1995年。
新大系 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系3 萬葉集三』岩波書店、2002年。
全解 多田一臣訳注『万葉集全解3』・『同5』筑摩書房、2009年、『同6』2010年。
全歌講義 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義(巻第十一・巻第十二) 第六巻』笠間書院、2010年。
全注 小野寛『萬葉集全注 巻第十二』有斐閣、平成18年。
全訳注原文付 中西進校注『万葉集全訳中原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
大系 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系6 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
注釈 澤瀉久孝『萬葉集注釈巻第十二』中央公論社、昭和38年。
和歌文学大系 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。

2019.12.17初出

令和の出典、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」について─「令」が「零」を含意することを中心に─

 新元号「令和」の出典として、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」の「于時初春令月、気淑風和。」があげられている。本稿では、その「序」を記した大伴旅人の真意について検討し、元号の出典秘話を紹介する。

  梅の花の歌三十二首〈并せて序〉
 天平二年正月十三日、帥老そちらういへあつまりてえんくわいぶ。時にしよしゆん令月れいげつ、気はく風やはらぐ。梅はきやうぜんひらき、らんはいかうかをらす。加以しかのみならずあけぼのみねに雲を移し、松はうすぎぬを掛けてきぬがさかたぶけ、ゆふへくきに霧を結び、鳥はこめのきぬとざされて林にまとふ。庭には新蝶しんてふ舞ひ、空にはがん帰る。ここに天をきぬがさにし地をしきゐにし、膝をちかづさかづきを飛ばす。ことを一室のうちに忘れ、ころものくびえんの外に開く。淡然として自らほしきままにし、くわいぜんとして自ら足る。翰苑かんゑんにあらずは、何を以ちてかこころべむ。詩は落梅らくばいの篇をしるす。こんれ何そ異ならむ。宜しく園梅ゑんばいして、いささかに短詠たんえいを成すべし。〔梅花歌卅二首〈幷序〉 天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時初春令月、氣淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以攄情。詩紀落梅之篇、古今夫何異矣。宜園梅聊成短詠。〕
 正月むつき立ち 春のきたらば かくしこそ 梅をきつつ 楽しきめ 大弐紀卿(万815)
 梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず 我がの園に ありこせぬかも 少弐小野大夫(万816)
 梅の花 咲きたる園の 青柳あをやぎは かづらにすべく 成りにけらずや 少弐粟田大夫(万817)
 春されば まづ咲く屋戸やどの 梅の花 独り見つつや はる暮らさむ 筑前守山上大夫(万818)
 世の中は 恋しげしゑや かくしあらば 梅の花にも 成らましものを 豊後守大伴大夫(万819)
 梅の花 今盛りなり 思ふどち 挿頭かざしにしてな 今盛りなり 筑後守葛井大夫(万820)
 あをやなぎ 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし 笠沙弥(万821)
 我が園に 梅の花散る ひさかたの あめより雪の 流れ来るかも 主人(万822)
 梅の花 散らくはいづ しかすがに このの山に 雪は降りつつ 大監伴氏百代(万823)
 梅の花 散らまくしみ 我が園の 竹の林に うぐひす鳴くも 少監阿氏奥島(万824)
 梅の花 咲きたる園の 青柳を 蘰にしつつ 遊び暮らさな 少監土氏百村(万825)
 打ちなびく 春の柳と 我が屋戸の 梅の花とを 如何いかにか分かむ 大典史氏大原(万826)
 春されば ぬれがくれて 鶯そ 鳴きてぬなる 梅がしづに 少典山氏若麿(万827)
 人ごとに 折りかざしつつ 遊べども いやづらしき 梅の花かも 大判事丹氏麿(万828)
 梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや 薬師張氏福子(万829)
 万代よろづよに 年は来経きふとも 梅の花 絶ゆることなく 咲き渡るべし 筑前介佐氏子首(万830)
 春なれば うべも咲きたる 梅の花 君を思ふと 夜寐よいなくに 壱岐守板氏安麿(万831)
 梅の花 折りてかざせる 諸人もろひとは 今日けふの間は 楽しくあるべし 神司荒氏稲布(万832)
 年のに 春の来らば かくしこそ 梅をかざして 楽しく飲まめ 大令史野氏宿奈麿(万833)
 梅の花 今盛りなり 百鳥ももどりの 声のこほしき 春来たるらし 少令史田氏肥人(万834)
 春さらば 逢はむとひし 梅の花 今日の遊びに あひ見つるかも 薬師高氏義通(万835)
 梅の花 手折たをりかざして 遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり 陰陽師磯氏法麿(万836)
 春の野に 鳴くや鶯 なつけむと 我がの園に 梅が花咲く 算師志氏大道(万837)
 梅の花 散りまがひたる をかには 鶯鳴くも 春かたけて 大隅目榎氏鉢麿(万838)
 春の野に り立ち渡り 降る雪と 人の見るまで 梅の花散る 筑前目田氏真人(万839)
 春柳 蘰に折りし 梅の花 たれうかべし 酒坏さかづきに 壱岐目村氏彼方(万840)
 鶯の おと聞くなへに 梅の花 我ぎの園に 咲きて散る見ゆ 対馬目高氏老(万841)
 我が屋戸の 梅の下枝に 遊びつつ 鶯鳴くも 散らまく惜しみ  薩摩目高氏海人(万842)
 梅の花 折りかざしつつ 諸人の 遊ぶを見れば 都しぞふ 土師氏御通(万843)
 妹がに 雪かも降ると 見るまでに ここだもまがふ 梅の花かも 小野氏国堅(万844)
 鶯の 待ちかてにせし 梅が花 散らずありこそ 思ふ子がため 筑前掾門氏石足(万845)
 霞立つ 長き春日を かざせれど いや懐かしき 梅の花かも 小野氏淡理(万846)

 梅は中国から移入された樹木であることがわかっている(注1)。弥生時代には来ていたようである。ここで問題なのは、人々は梅の花に関心がなかったらしい点である。記に「梅」字は皆無、紀には音仮名として多く用いられる。唯一例外は、「なかを以て、くちきくくみてを穿ちて、にはかいほりの中に入る。」(天武紀元年七月)とある部分であるが、口に咬ませる枚のことである。梅の木のことではない。
 「梅花歌三十二首」では関心のない花を愛でて歌にしている。しかも正月半ばの宴で歌会として行われている。多くの注釈書に指摘されているとおり、王羲之が永和九年(353)三月三日に、会稽の蘭亭に名士や一族を招いて総勢四十二名で曲水の宴を開いたことを真似しようとした行事である(注2)。馴染みのないことをして、馴染みのない花をモチーフに歌会をしている。当然、「序」をもって説明しなければ、集中において意味不明の歌群になる。くだくだしい「序」は必須である。歌会のお題として「序」は提示されていると考えられる。
 「序」の内容と歌に歌われた事柄とを比較してみると、「序」にある蘭や鳥や蝶や雁は歌われていない。梅が主役である。ただし、梅の花の表現として考えた場合、おおむね凡作と言わざるを得ない(注3)。親しみがない花だから思い入れに欠け、情感あふれる表現ができなかったとも考えられるが、ならばわざわざ三十二首も記録する必要はない。宴会が開かれ歌が作られ、その一首一首に趣きがあるということではなく、宴会の席でお題が与えられて歌を作り合ったという出来事そのこと自体がおもしろく、全体をひっくるめて記録するに足ると思われたから万葉集に採録されていると考えられる。
 梅の花を歌うにあたり、他の景物との絡みがあるものは、蘰や挿頭にする青柳をからめるもの(万817・820・821・825・826・840)、梅の花が散るのを雪の降るのに見立てるように歌ったもの(万822・823・839・844)、梅に鶯の取り合わせを歌ったもの(万824・837・838・841・842・845)、梅の次は桜というもの(万829)、多くの鳥の声を歌うもの(万834)、酒を飲むことを絡めるもの(万821・833・840)がある。また、梅の花の咲いていること、盛りであることを主眼とするもの(万816・817・818・820・825・830・831・834・837)と、散っていくことを主眼とするもの(万822・823・824・838・839・842・844)がある。会稽蘭亭の曲水の酒宴と同じなのだから、歌詞に酒を取り込むことに不思議はない。教養をひけらかして示そうとしている「序」なのだから、蘭亭つながりであることをわかりやすいように「蘭」を登場させているようにも見受けられる。実際、「序」の「蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空帰故鴈。」部分に関わりのある歌は作られていない。
 自然を観察したとき、梅の花とともにウグイスの姿を目にすることはない。見かけるのはメジロである。ホーホケキョというウグイスの鳴き声を聞くのも、梅の花が終わってからが常である。別名を春告鳥とも呼ばれるウグイスが鳴いている場所は、「我が園の竹の林」(万824)、「春の野」(万837)、「岡傍」(万838)、「我が屋戸の梅の下枝」(万842)などと特定され、万841・845番歌では不明である。鶯の鳴き声には、「ひとく」(古今集1011)と聞いて「人来」と掛詞とする例が見られるが、この歌群の解釈には当てはまりそうにない。和名抄に、「鸎 陸詞に曰はく、鸎〈烏茎反、漢語抄に春鳥子は宇久比須うぐひすと云ふ〉は春鳥なりといふ。」とある。序に記されているお題に、「于時初春令月」の初春であることをもって鶯がとり上げられていると考えられる(注4)。初春にしてき月なる時というものを想定しているらしいと捉えられている。
 このことは、青柳をとり上げた歌にも当てはまる。さまざまな樹木のうち、春一番に花咲くのは梅、芽吹くのは柳であり、柔らかい枝ゆえ蘰にするのによくかなっている。冬場には青々した植物は乏しいから装身具に事欠いていたのが、春になってようやくおしゃれを楽しめるということから選ばれているのだろう。むろん、実際に青柳として芽吹くのはもう少し後のことである。「于時初春令月」と言っているから、それに合わせて想像しているに過ぎない。
 梅の花を愛でるという風習がなく、漢籍の知識を得て頭でっかちに作り上げているのが正月十三日の宴での歌会である。問題は、梅の花は咲くことを重点に置くのがふさわしいか、散ることを重点に置くのがふさわしいかである。歌会のお題となる「序」の終盤に決意表明が書かれている。「詩紀落梅之篇、古今夫何異矣。宜園梅聊成短詠。」。中国の詩に「落梅之篇」がある。それを意識して「短詠」しようというのだから、散ることに重点が置かれた歌が求められているはずである(注5)。そして、この「序」は、宴会の主催者が考えたものとするのが適当である(注6)。歌群中には、万822番歌に「主人」の歌が載る。太宰帥であった大伴旅人である。万849~852番歌の「後追和梅歌四首」も旅人の作と考えられている。歌会のお題を作成した人物が歌を詠じているのだから、彼の諸歌を吟味すれば「序」に謂わんとしていた歌会のお題の趣意を見定めることができるはずである。

 我が園に 梅の花散る ひさかたの あめより雪の 流れ来るかも 主人(万822)
  後に追ひて梅の歌にこたへたる四首
 残りたる 雪にまじれる 梅の花 早くな散りそ 雪はぬとも(万849)
 雪の色を うばひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見む人もがも(万850)
 我が屋戸に 盛りに咲ける 梅の花 散るべくなりぬ 見む人もがも (万851)
 梅の花 いめに語らく 風流みやびたる 花とあれふ 酒に浮べこそ〈あるに云ふ、いたづらに 吾を散らすな 酒に浮べこそ〉(万852)

 万851番歌に「盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ」とある。咲くことよりも散ることを重点に歌うことが求められていたとわかる。そのことは、万822・849・850番歌に、梅の花を雪と譬えることで知れる。梅の花が散るさまと雪が降るさまとを同じ白い切片が空中を舞い落ちることと捉えている。天平二年正月十三日は、太陽暦では二月八日に当たるとされる。実際には散るにはまだ早いかもしれないが、観念の遊びとして蘭亭の曲水の宴を真似て風雅の楽しみをしているのだから機知としてそう考えている。「于時初春令月」なのである。
 諸注釈書は、一様に、「令月」をよき月のことと解釈している。以下に見られるように例があるから、「令月」をよき月と捉えることに問題はないように感じられるかもしれない。

 令月吉日、始加元服。(儀礼・士冠礼)
 今、令月吉日、宗-祀光武皇帝於明堂、以配五帝。(後漢書・明帝紀・二年正月)
 令月簡吉日、啓殯将祖行。(北堂書鈔巻九十二・挽歌三十三・繆襲・挽歌辞)
 嘉辰令月歓無極 万歳千秋楽未央〈雑言詩 謝偃〉(和漢朗詠集・祝(773))

 しかし、「序」のこの部分の典拠として、諸注釈書に、文選に所載の張衡・帰田賦があげられている。

 於是仲春令月、時和気清。(帰田賦)
 于時初春令月、気淑風和。(序)

 これは典拠である。帰田賦にある「令月」の意味は、二月は仲陽だから令月であるとするのが妥当である(注7)。「仲春」はそれだけで二月のことである。「仲春令月」=「二月令月」とだぶっているのだから、仲陽の説明付加形容として加えられていると考えられる。他にも例はある。

 夾鐘二月 伏以、節応佳辰、時登令月。和風払迴、椒気浮空(昭明太子・錦帯書・十二月啓)

 すると、「序」に「初春令月」とするのは、ちょっとした矛盾、ないしは、トリックであると理解される。会稽蘭亭の曲水宴は、三月三日、上巳に行われた。王羲之・蘭亭序には、「永和九年、歳在癸丑。暮春之初、会于会稽山陰之蘭亭。修禊事也。群賢畢至、少長咸集。此地有崇山峻嶺、茂林脩竹。又有清流激湍、映-帯左右。引以為流觴曲水、列-坐其次。雖糸竹管絃之盛、一觴一詠、亦足以暢-叙幽情。是日也、天朗気清、恵風和暢。……」とある。対して大伴旅人が開いた宴席はまだ正月十三日、禊をする行事の日でもなく、寒い日に短詠をするという。冗談のような設定なのだから、深い訳があって行われていると考えるべきである。蘭亭序に、「暮春之初」の「暮春」は三月、「初」は三日を表す。それが「初春令月」となっている。曰く因縁を感じなければならない。芸文類聚では、晋・王讚・三月三日詩に、「招揺啓運、寒暑代新。亹亹不舎、如彼行雲。猗猗季月、穆穆和春。……」、晋・張華・上巳篇に、「仁風導和気、勾芒御昊春。姑洗応時月、元巳啓良辰。密雲蔭朝日、零雨灑微塵。飛軒遊九野、置酒会衆賓。」とある。るのは雨である。
 大伴旅人は、二月ではないのに「令月」であると言っておもしろがっている。「令」は「零」に通じる。漢書にある「丁令」は「丁零」とも記される。陳湯伝の顔師古注に「令与零同。」とある。丁霊とも、後には勅勒とも書くモンゴル北方の地である。つまり、「令」=「零」とは、雪が「る」意である。正月が令月で梅の花を詠むのであれば、雪の零ることに譬えることこそ最もお題にかなった歌であることになる。雪を使った歌は、自作の万822番歌のほか、万823・839・844番歌に見られ、「後追和梅歌四首」にも、万849・850番歌の二首に見られる。それがお題に対して完全に正解の歌である。
 「令月」=「零月」にして「落梅之篇」と言っているのだから、雪のように梅の花びらが「零る」ことを歌うべきで、咲くことを歌っていた人たちはお題にかなっていない不正解の作を作っている(注8)。それを正して謎解きするために、「我が屋戸に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも」(万851)と歌っている。もちろん、出席して歌を披露した人からは、そりゃないよという反論が起こるだろう。おそらくはあまり咲いてもいない梅の花について歌を作らされたのであろうからである。洒落がきつ過ぎないか。
 旅人はこう答えている。わかってないね、すべては空想の産物だ。文明のある中国から新しく梅の木が入ってきていて、貴人の邸宅などの庭に囲って植えられている。花を愛でて漢詩に代わるヤマトコトバの歌を作らなくて何としよう。それが風雅というものだろう。目の前の梅の花の咲きっぷりなど最初から問題ではない。絵空事だって? そうさ、すべては頭の中の知識の問題だ。夢の中の風流、会稽蘭亭の曲水の酒宴になぞらえた宴を催したのだから。

 梅の花 いめに語らく 風流みやびたる 花とあれふ 酒に浮べこそ〈あるに云ふ、いたづらに 吾を散らすな 酒に浮べこそ〉(万852)

 梅の花を擬人化して最後の歌として締めくくっている。雪のる様は直接には表されていないが、おそらく、これは濁り酒で酒粕の浮き沈むところを雪が舞うことに見立てたものと思われる。それまでの歌の凡庸さを一気に突き抜けて、異次元の出来となっている。風流みやびを歌おうとしたお題の設定、枠組(frame)を再確認するために据えられている。
 これらの歌群には後日談のような歌がもう一首ある。事の次第を記した大伴旅人の手紙を受け取った吉田宜がこたえた歌である。

  よろしけいす。伏して四月六日のしようけたまはり、ひざまづきて封函ふうかんを開き、をろがみて芳藻ほうさうを読む。心神こころ開朗かいらうにして泰初たいしよが月をむだくに似、鄙懐ひくわい除袪じよきよしてがくくわうが天をひらくがごとし。へんじやうりよし、きうおもひてこころを傷ましめ、ねんらず。平生へいぜいおもひて涙を落すが若きに至りては、ただ達人たつじんはいやすみし、君子のうれへ無きのみ。 伏してねがはくは、あしたにはきじなつけしばけべ、ゆふへには亀を放ちしすべを存し、ちやうてうひやくだいえ、しようけう千齢せんれいに追はむを。兼ねてすいうけたまはるに、梅苑ばいゑん芳席はうせきに群英のさうべ、松浦まつうらぎよくたん仙媛やまひめの贈答せるは、きやうだん各言かくげんの作にたぐひし、衡皐かうかうぜいの篇になぞふ。耽読たんどく吟諷ぎんぷうし、戚謝せきしや歓怡くわんいす。宜がうしを恋ふるまことは、誠、犬馬にえ、徳を仰ぐ心は、心葵藿きくわくに同じ。而も碧海へきかいは地を分ち、白雲は天を隔て、いたづらに傾延けいえんを積む。いか労緒ろうしよなぐさめむ。孟秋節まうしうせつあたり、伏して願はくは万祐ばんいうひびに新たならむを。今相撲すまひの部領使ことりづかひに因りて、謹みて片紙へんしを付す。よろし、謹みてけいす。 不次ふし。   諸人もろひと梅花うめのはなの歌にこたたてまつれる一首
 おくて 長恋ひせずは そのの 梅の花にも ならましものを(万864)

 この歌は、文法的に「ズハ」の構文であるとされてきたが、誤りである(注9)。全体の構造は、助詞「ハ」によって、P≒Qであることを示している。

 「後れ居て長恋ひせず」ハ「(梅の花にならませば)御園生の梅の花にもならまし」モノヲ

 構造上の意味は、置いてけぼりを食わされて宴に参加できずに、長く慕いつづけることがなく無関心になるのは、どういうことかというと、もし仮に自分が梅の花になるのであれば、もちろんそんなことはないし、望んでもいないけれど、よりによって御屋敷の庭の梅の花になりたいものだなあ、というのと同じことである、ということである。
 歌の作者の吉田宜は、梅花を詠ずる歌宴に参加できなかった。後日、手紙で宴の模様を知り、こたえる歌として作っている。
 吉田宜が手紙を受け取った時には、設定として散りつつあるとされていた大伴旅人邸の梅の花は、もうみな散ってしまったものと考えなければならない。実際にどうであるかは別問題で、旅人が設定したお題に従って考えるならという意味である。宴から日が経っている今、完全に散ってしまって見る影もないはずである。ウメの特徴として、サクラのように花が咲いた後にすぐに葉が出てくるわけではなく、一時的ではあるがまるで枯れたかのような風情となる。風流ぶって楽しむことなどできない。歌会の設定にない他のところの梅はちょぼちょぼとでも咲いていたのであろう。すなわち、今、旅人邸の「そのの梅の花」は梅の花として最悪の花なのである。そんなみじめな梅の花にはなりたくない。
 したがって、歌の真意は、「ハ」の前後、PとQの双方を反転させたものである。宴に参加したかったのに参加できずに残念でした。季節をわきまえずに散ってしまったご邸宅のお庭の梅の花になどにはならないで、咲いているのを愛でられて楽しめるものになりたいです、と言っている。花が咲いていれば人目につく。出席できずにお目にかかることがなかったことへの詫びにもなっている。万862番歌は、大伴旅人の「梅花歌」の歌会を見事に承けた歌となっている。
 以上が、「梅花歌三十二首〈并序〉」の「序」に書いてある「于時初春令月、気淑風和。」の真意である。この部分が元号として用いられている「令和」の出典とされている。日本政府は、「令和」の英訳に Beautiful Harmony と説明している。古典を換骨奪胎しながら新しい意味に作りかえることは詩文の伝統である。そのもととなった万葉集の「序」において、大伴旅人は令が零に通じることを意図して作文していた。大伴旅人的「令和」の英訳は、The snow flickers and the wind calms down. が正しいといえる(注10)

(注)
(注1)澤瀉1959.に、「梅花の作は既に巻三に五首、巻四に三首見えたが、作歌年月から云へば、その最初に出てゐた大伴百代の作(三・三九二)とここの作とが相前後するものと思はれ、他はむしろ後の作と考へてよいであらう。今集中の梅花を詠み入れた作の数を見ると、……数に於いては植物としては萩に次ぐ多数であるが、巻一、二の古い巻や巻十一乃至十六の古歌謡や民謡を含む巻には一首もないといふ事は、この植物が舶来のものであつて、まだ十分国民になじまなかつた事を示すものである。その梅がまづ漢土に近い太宰府に移植せられ、この一聯の作となつた事は当然であり、巻十七にある六首の如きもこの折の追憶の作である事が注意せられる。」(97頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注2)ほかに、この「序」には、構成面や語句では初唐の詩序の影響も指摘されているが、基本、蘭亭序に倣うものである。やっていることが酒宴での歌会だからである。伊藤1996.に席次の推定が行われている。
(注3)表現に幅がないのは、宴会の席での歌会のモチーフが「梅花」と決まっているからで、語句や発想が類似、重複するのは当然のこととする指摘がある。しかし、歌会のあり方が、お題に忠実に正解となる答えを出そうとするもの、いわばクイズに答えようとするものであったとすると、必然的に表現が収斂していくことも予想される。
(注4)日本文学に頻出する梅と鶯の取り合わせは、万842番歌を嚆矢とするものか。ただし、それは今日から振り返って見てとれるということである。「これら三十二首の梅花の歌によって、和歌が花鳥風月や雪月花の美学を獲得してゆく過程が知られよう。」(辰巳2020.145頁)と評するのは、この歌群の解釈からははみ出したもので、クイズの答えを探って間違えていただけである。
(注5)梶川2013.は、「三十二首はしばしば〈散る梅〉が詠まれているが、……「落梅の篇」……に応じたもので、楽府……の「梅花落」の詩群を基にしたものだとされる。つまり、現実にウメが散っていようがいまいが、この日の趣向としては、そう詠むべきものだったのだ。」(167頁)と指摘するが、そうでない歌が詠まれていることについて残念賞であるとは指摘していない。辰巳1987.は、「この「梅花の歌」の多くが梅の花の「散る」ことを詠むという事実」から、「中国楽府「梅花落」を前提とする、共通の知識を以てこの歌宴に臨んだと考えることは間違いあるまい。」(364頁)とするが間違いである。
(注6)「序」の作者を大伴旅人以外に求める意見もあるが、「主人」とある太宰帥が「序」を作って管轄下の役人らを招いた宴席を開いていると考えるのが自然である。
(注7)文選の解説書にこのように記されるものは管見に入らない。
(注8)柳が登場するのでは「風和」に沿わないし、「故雁」ならともかく鶯など意味不明で、いずれも論外である。なお、万葉集で「零」字をフルと訓む例はとても多い。
(注9)拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」参照。
(注10)「令和」という元号が国書を典拠としていることに、殊更な意味合いがあるとは考えられない。天武朝には「朱鳥あかみとり」とする元号があって訓読みしている。

(引用文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
澤瀉1959. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第五』中央公論社、昭和34年。
梶川2013. 梶川信行『万葉集の読み方─天平の宴席歌─』翰林書房、2013年。
辰巳1987. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。
辰巳2020. 辰巳正明『大伴旅人─「令和」を開いた万葉集の歌人─』新典社、2020年。

加藤良平 2019.8.10初出2023.8.31補足

万葉集2433番歌「如数書吾命」とウケヒについて

 万葉集2433番歌は原文に「水上如數書吾命妹相受日鶴鴨」とある。多くの注釈書に次のように訓んでいるが異説もある。

 水の上に 数書く如き 吾が命 いもに逢はむと うけひつるかも(万2433)

 二~三句目についてはいろいろと工夫されている。
 カズカクゴトキ ワガイノチ(古訓、土屋1969.、古典大系、中西1981.、新編古典全集、伊藤1997.、新古典大系、多田2009.、阿蘇2010.)
 カズカクゴトキ ワガイノチヲ(古訓、窪田1951.、武田1956.、澤瀉1962.、大島2005.)
 カズカクゴトク ワガイノチ(童蒙抄、柳沢1992.)
 カズカクゴトク ワガイノチヲ(稲岡1998.)
 カズカクガゴト ワガイノチ(古訓)
 カズカクガゴト ワガイノチヲ(古訓)

 二句目をカズカクゴトキと訓めば連体修飾となって続くワガイノチにかかり、カズカクゴトク、カズカクガゴトと訓めば結句のウケヒツルカモにかかることが可能になる。三句目にヲを添えるかどうかについては順接に解するか逆説に解するかの違いである(注1)。諸注釈書の現代語訳は次のとおりである。

 水の上に数を書く如き、はかない命であるのを、妹に会はうと心に誓つたことである。(土屋1969.77頁)
 水の上に数を書くようにはかないわが命でありながら、妹に必ず逢おうとウケヒをし誓ったことである。(古典大系 175頁)
 水の上に数を書くと、はかなく消えてしまう。そのようなわが命も、妻に逢おうとうけいをしたことだ。(中西1981.28頁)
 水の上に 数を書くように はかないわたしの命だが あのに逢おうと 神に祈誓した(新編古典全集 187頁)
 水の上に数を書くようなはかない我が命、そんな身でありながら、あの子にきっと逢おうと、私は誓いを立てて神様にお祈りをしている。(伊藤1997.101頁)
 水の上に数を書くようにはかない我が命ではあるが、妹に逢おうと神に長久を祈った。(新古典大系 26頁)
 水の上に数を書くようにはかなく消えるわが命だが、あの子に逢おうと神に長久を祈ったことだ。(多田2009.307頁)
 水の上に数を書くようにはかないわたしの命であるが、いとしいあの娘に逢いたいと思って、神に願い祈ったことですよ。(阿蘇2010.161頁)
 水の上に数を記すが如く消え易い我が命であるのに、それを、妹に逢おうと思つて、神に祈つて誓ひを立てたことである。(窪田1951.69頁)
 水の上に数を書くようなわたしの命だのに、妻に逢おうと誓いを立てたことだなあ。(武田1956.421頁)
 水の上に数を書くやうな、はかない私の命であるが、妹に逢はうと神に[ママ]を立てて祈つたことよ。(澤瀉1962.132頁)
 水の上に数を書くような、取るに足らない私の命ではあるが、あの娘に逢おうと神に祈ったことであるよ。(大島2005.103頁)
 水の上に数を書くように、しても甲斐のないまま、私の命をあの娘に逢おうとして祈誓していることだ(柳沢1992.96頁)
 水の上に数を書くように、甲斐もなくわが命を、あのに逢おうとうけひをしたことよ。(稲岡1998.226頁)

 いずれの解釈においても、「水の上に数書く」ことを実際の水面上のことと考えている。荷田春満・萬葉集童蒙抄に、「水上にものを書きては、跡形も無くしるし無きもの也。此歌も命をかけて妹に逢はんと祈りても、験し無きと云事をよせて詠めると聞ゆる也」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1913114/1/119、漢字の旧字体は改めた)、武田祐吉・萬葉集新解に、「数書くとは、一本二本と云ふやうに数を刻するを云ふので、数字を書く意味ではない。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1146624/1/188、漢字の旧字体は改めた)と、字や絵を書くか掻き刻むかの違いはあっても、書くことのできない譬えとしているとする(注2)。また、契沖・萬葉代匠記(精撰本)に、「涅槃経云、 ノ身無 ニ シテ ニ ルコト セ シ ト ト ト トノ、亦 シ クニ ニ テ ケハ ヒテ フカ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979064/1/140、漢字の旧字体は改めた)とあることを引き、それを典故とする歌かとも探られている。いずれにせよ、しても仕方がないこと、徒労であることの譬えとして表していると考えられている(注3)。本当にそうだろうか。
 カク(書)という言葉については、掻、懸などと記されるカクと同根の語であるとされている。語彙としてはそのとおりであるが、万2433番歌の用字に「書」とある。万葉集では題詞や左注に多くの「書」字が用いられ、「一書」、「或書」のようなフミの意に多く用いられている。万1016番歌左注には「書白紙」とあり、文字を筆を使って墨でカク意に用いられている。歌中の「書」字は他に万1344番歌にある。

 とり住む 卯名手うなて神社もりの すがの根を きぬに書き付け〔衣尓書付〕 せむもがも(万1344)

 角川古語大辞典に、「か・く【書・畫】動カ四 ①筆などの道具を用いて手を動かし、可視的な形を表し出す行為をいう。手の動きを主としていう場合と、結果として形あるものが出来上がることをいう場合とがある。文字ばかりでなく絵についても用い、……万一三四四……のように彩色にも用いる。」(712頁)と説明されている。筆を使って字や絵をカク場合、「書」字を用いたと考えられる。万葉集の歌中では、「畫(画)」字はヱと訓む例に限られる(万131・3225・4327)。カクには「掻」(万123・136・167・562・741・973・993・1233・1756・1807・2230・2575・2614(3)・2808・2903・3270・3279)、「削」(万2408)が使われている。「掻」や「削」字は爪で引っ掻くようなような、また、足を掻くように激しく動かす「足掻あがく」ような場合に用いられている。筆墨以前の表記法は掻いて傷をつけることであった。万葉集において「書」字は、字や画をかくことに限った用字法であると整理されよう。
 つまり、「書」は「掻」とはニュアンスを違えるものとして書記されている可能性があるのである。万2433番歌にある「水の上に数書く」は、「水」という字「の上に数書く」ことかもしれない。万葉集中では戯書とされる表記が行われ、「山上復有山」(万1787)で「いで」を表している(注4)。「出」を「山上復有山」と書いたのには典故がある。玉台新詠・巻十・古絶句四首・其一に、「藁砧今何在 山上復有山 何当大刀頭 破鏡飛上天」とある。それによっている。ヤマトの人のオリジナルの発想ではない。文字クイズのレベルで考えるとかなり高度である。それが有りなのだから、「水の上に数書く」も、「水」の上に「二」という数を表す字を書いたという戯書のことを言っていても不思議はない。「永」字になる。
 「水上如数書」が「水」+「二」→「永」とであるとするのは程度の低い書き取りの練習である。「水」字に二本線を書き加えるなどということはくだらない話に思われるかもしれない。しかし、発想として、万2433番歌に登場していることには必然性が認められる。文字を学び始めた黎明期のこととしても大いにあり得る。
 本歌は、人麻呂歌集から出たものであるとされている。「寄物陳思」のうち、「寄川」歌群七首の最後に位置している。

 宇治川の 瀬々のしき波 しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも(万2427)
 ちはや人 宇治の渡りの 瀬を早み 逢はずこそあれ 後も我が妻(万2428)
 はしきやし 逢はぬ子ゆゑに いたづらに 宇治川の瀬に すそ濡らしつ(万2429)
 宇治川の 水泡みなわさか巻き 行く水の 事かへらずそ 思ひめてし(万2430)
 鴨川の のちしづけく 後も逢はむ 妹には我は 今ならずとも(万2431)
 ことに出でて 言はばゆゆしみ 山川の たぎつ心を かへたりけり(万2432)
 水の上に 数書く如き 吾が命 妹に逢はむと 祈ひつるかも(万2433)

 原文に「是川」とあるのはウヂカハと訓み宇治川のことである。万2427~2430番歌は宇治川を歌っている。万2431番歌は鴨川である。万2432番歌は普通名詞で山川を歌っている。対して、万2433番歌がはたして川のことかと問われると、水のことしか語っていない。池や沼、海や湖の水、盥に汲んだ水でもかまわないのに「寄川」の範疇に含められていて何の疑問も持たれていない。理由は一つしかない。「川」という文字が三本線で書かれている点である。今、「水」という字に二本線を加えて「永」という字に成ることを言っている。「水上如数書」が「寄川」歌群に属する本質的な理由である。
 稲岡2011.は、二句目を「数書く如き」と訓む通説を批判し、「「数書く如く」と訓み「うけひつるかも」の連用修飾句とすれば、恋歌のレトリックにふさわしくなる。人麻呂はそのつもりで、この歌を「寄川」の一首に配列したはずであったろう。」(146頁)と結語しているが、根拠は薄弱である。「水」という字「の上に数書く」ことで「永」い「命」のことを言っている。
 万葉集の歌の中で形容を冠した「いのち」という語は、タマキハルやウツセミノといった枕詞以外、「永き命」(万217・3082〔長命〕、万704〔永命〕)、「留め得ぬ命」(万461〔留不得〕)、「もろき命」(万902〔微命〕)、「短き命」(万975〔短命〕・3744〔美自可伎伊能知〕)、「(朝霜の/朝露の)やすき命」(万1375〔消安命〕・1804〔銷易杵寿〕)、「いはふ命」(万2403〔斎命〕)、「知らざる命」(万2406〔不知有命〕)、「常盤なる命」(万2444〔常石有命〕)、「れる命」(万2756〔借有命〕)、「生けらじ命」(万2905〔不生有命〕)、「生かむ命」(万2913〔将生命〕)、「死なむ命」(万2920〔終命〕・3811〔将死命〕)、「朝露の命」(万3040〔旦露之命〕)、「あがふ命」(万3201〔贖命〕)、「たゆたふ命」(万3896〔多由多敷命〕)、「露の命」(万3933〔都由能伊乃知〕)、「しき命」(万4211〔惜命〕)、「とせの命」(万4470〔知等世能伊乃知〕)といった例が見られる。また、命を永いとする形容は卑近である。

 大君の 御寿みいのちは長く〔御壽者長久〕(万147)
 …… たく縄の 長き命を〔長命乎〕 ……(万217)
 たく縄の 永き命を〔永命乎〕 ……(万704)
 …… 命をもとな 永くりせむ〔命本名 永欲為〕 ……(万2358)
 …… おのが命を 長く欲りすれ〔己命乎 長欲為礼〕(万2868)
 我が命の 長く欲しけく〔我命之 長欲家口〕 ……(万2943)
 …… 玉の緒の 長き命の〔長命之〕 ……(万3082)
 うつせみの 命を長く〔命乎長〕 ……(万3292)

 歌の解釈はコペルニクス的転回を来す。

 水の上に 数書く如き 吾が命 いもに逢はむと うけひつるかも(万2433)
 「水」の上に数を書いたように「永」い私の命。これは、彼女に逢おうとウケヒをしてしまったことだからかなあ。

 ウケヒは、古代の卜占の一種である。あらかじめAB二つの事態を予測し、眼前の事態でAが起れば問題としている事態はA´であり、Bが起ればB´であると前もって定めて公表しておき、眼前の事態を見てどうなのかを判断することであった(注5)。前言しておくのが決まりである。この場合、どのように前言してウケヒを行ったのか示されていないが、二つのケースが考えられる。第一に、彼女に逢えるならば自分の命は永いはず、彼女に逢えないのならば自分はもうすぐ死ぬという前言を行った場合である。第二に、彼女に逢えるのであれば自分の命は短命で、彼女に逢えないのならば自分の命は永いという前言を行った場合である。どちらであるかといえば後者であろう。その理由は二つある。
 逢えるなら短命で、逢えないなら永く生きさらばえるという言い方は、命懸けで彼女に逢いたいとする気持ちの表れとしてふさわしい。死んでもいいから彼女に逢いたいと願っている。しかし、彼女は自分に目もくれなかった。片思いであった。むざむざと無駄な人生を永らえている。歌として歌意がよく理解できる。反対に、彼女に逢えたら長生きするという前言は、それがかなって今、共白髪で余生を過ごしているという歌になる。現実にそういうことがあってもかまわないが、そのようなハッピーな老後の話は古代的発想に生まれるべくもない。多くの人の心に訴えかける力はなく、歌として成立しない。
 稲岡1998.が、「「妹に逢えるものならば、わが命を活かし給え、もし逢えないものならば、わが命を死なしめ給え」というウケヒをしたとすれば、この歌のような嘆きが発せられることになろう。」、「命をかけてうけひをしたつもりなのに、手ごたえがなく、生きていても逢えぬ状態が続くので、それを「水の上に数書く如く」だと嘆いたのであろう。」(228頁)とするのは、ウケヒの意味を軽んじた設定である。そのようなウケヒをしたとするなら、それに従って逢えないのだったら自ら命を絶たなければならないことになる。また、阿蘇2010.に、「ウケヒは命をかけることを必要としない。」(162頁)ことは実情としてはそのとおりだったかもしれないが、そうなるとどうして命の話にして歌っているのか訳がわからなくなる。命を賭けて、勝ってではなく負けて、命が永くなっている。
 そう言い切れるのは、命をかけてまで彼女に逢いたいと言われるほど憧れられる女性はごくごく少数に限られるからである。一人の女性を複数の男性が奪い合うときライバル心を燃やして命懸けになることはあろうが、ウケヒとは別の文脈で別の歌い方になる(注6)
 それ以上に重要な理由として、女性と逢うこと(「あひ」・「目合まぐはひ」(記上))と寿命とが関係する考え方は記紀の伝承に脈づいて存在しており、当時の人たちの常識としてあった。コノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)の話である。ニニギノミコト(邇邇芸命)はオホヤマツミ(大山津見神)から、その娘、姉のイハナガヒメ(石長比売)と妹のコノハナノサクヤビメの二人を、百取ももとりつくゑしろの物を添えて差し出されている。しかし、姉は醜かったので送り返して、美人のコノハナノサクヤビメとだけ契りを交わした。そのことに対して、オホヤマツミが二人差し出した理由を述べている。イハナガヒメを召し使ったら御子の命は雪が降り風が吹いても石のようにときわに堅く動かずいらっしゃり、コノハナノサクヤビメを召し使ったら木の花の咲くように栄えていらっしゃるだろうと、ウケヒをした末に奉ったのだと述べている。コノハナノサクヤビメだけを留めたからには、御子の寿命は木の花がすぐ散ってしまうように短くあられることでしょう、と結論づけている。寿命と関係する女性の話がウケヒの話として言い伝えられている。万2433番歌は、涅槃経が典故ではなく、この言い伝えが典故である。

 是に、あま津日高日子番能邇邇芸能つひこひこほのににぎのみこかささきにして、かほよき美人をとめに遇ひたまふ。しかくして、「むすめぞ」と問ひたまふに、答へて白さく、「大山おほやま見神みのかみむすめ、名はかむ阿多都比売あたつひめ、亦の名は木花このはな之佐久夜毘売のさくやびめと謂ふ」とまをす。又、「いまし兄弟はらから有りや」と問ひたまふに、答へて白さく、「我が姉、石長いはなが比売ひめ在り」とまをす。爾くして詔りたまはく、「吾、汝と目合まぐはひせむと欲ふは奈何いかに」とのりたまへば、「白さじ。僕が父、大山津見神ぞ白さむ」と答へ白す。故、其の父、大山津見神に乞ひに遣はす時に、大きに歓喜よろこびて、其の姉、石長比売をへ、百取ももとりつくゑしろの物を持たしめて、奉り出す。故、爾くして、其の姉はいと凶醜みにくきに因りて、見かしこみて返し送り、唯に其のおと木花之佐久夜毘売を留めて、ひと宿あひたまふ。
 爾くして、大山津見神、石長比売を返すに因りて、大きに恥ぢて、白し送りて言はく、「我が女、ふたりを並べて立て奉りしゆゑは、石長比売を使はば、天つ神の御子の命は、雪り風吹くとも、恒にいはの如くに、ときはかたはに動かずさむ。亦、木花之佐久夜毘売を使はば、の花の栄ゆるが如く栄え坐さむとうけひて、貢進たてまつりき。く石長比売を返らしめて、独り木花之佐久夜毘売を留むるが故に、天つ神の御子の御寿みいのちは、木の花のあまひのみ坐さむ」といふ。故、是を以て今に至るまで、天皇命すめらみことたち御命みいのちは長くあらぬぞ。(記上)(注7)

 万2433番歌はとても豊富な情報量を持った歌である。言い伝えどおりにウケヒをした。美人のコノハナノサクヤビメと結ばれていたら短命で、ブスのイハナガヒメとなら長命なのである。今、歌の歌い手は「永」命である。現実世界において、ブスと結婚して永い命を続けているらしい。もちろん、奥さんにそんなことを歌っていると知れたら大変である。だから、「水の上に数書く」などと言って「永」を表そうとしている。伝承をもとにした歌が作られ、暗号化して書記された歌が万2433番歌であった。
 万葉集において典故とされ得る事項は、古くから本邦において語り継がれてきた伝承である。唐突に、海外から伝わったかに見える思想の、些末な断片によって歌が歌われるとは考え難い。一人よがりに歌を歌うことはないからである。聞く相手が理解できなければ歌はコミュニケーションツールでないことになる。山上憶良の中国かぶれの歌には、内容が理解できるように長い前文がついていてきちんと説明が加えられている。理解されない歌は筆記されることもないのである。人麻呂歌集に出たものかとされている万2433番歌は、限られた知識人のサロンでの歌謡、例えば当時の漢詩のようなものではなく、ほとんど文字も知らず、かわら版もテレビやラジオ、インターネットなどを知らない聴衆に受け入れられて残っているものである。どうして題詞も左注もないままに理解されているのか。人々の理解の基となる共通認識、常識の上に成り立っている歌だからである。上代の人々にとって当たり前のことである常識の多くは、今日、記紀に記されたことで残されている言い伝えに負っていたと考えられる。

(注)
(注1)大島2005.参照。
(注2)管見にしてそうでない見解を見ない。
(注3)柳沢1992.参照。
(注4)万葉集における戯書の例としては、数字の組み合わせによるもの(「二二」、「重二」、「十六しし」、「八十一くく」)、擬声によるもの(「牛鳴」、「馬声」、「蜂音」、「喚犬」、「追馬」、「喚鶏つつ」、「神楽声ささ」)、遊戯用語によるもの(「三向一伏つく」、「一伏三起ころ」、「折木四かり」)、義訓のうち捻ったもの(「羲之てし」、「大王てし」、「毛人髪こちたし」、「少熱ぬる」)といった分類がされてあげられている。ここで問題とする「山上復有山」によって「出」を表すといった字形分析にしたがった例は他に見られない。
(注5)ウケヒをウケヒ本来の義とするか、イノリ(祈)の意に転義したものとするかによって解釈は大きく異なる。通説では、ウケヒをイノリの意として解釈しているものが多い。本来の義で解釈が成り立つならば、わざわざウケヒという言葉を選んでいるのだからそれが正しいだろう。
(注6)「如己もころ」(万1809)の歌のような例が見られる。
(注7)神代紀第九段一書第二にこの話とよく似た話が載るが、そこではウケヒの話型とはせず、「とごひ」としている。ウケフとトゴフ(呪詛)、ホク(寿言)との語義の関係については、内田1988.参照。

(引用文献)
阿蘇2010. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第6巻(巻第十一・巻第十二)』笠間書院、2010年。
稲岡1998. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第十一』有斐閣、平成10年。
稲岡2011. 稲岡耕二『人麻呂の工房』塙書房、2011年。
伊藤1997. 伊藤博『萬葉集釈注 六』集英社、1997年。
内田1988. 内田賢徳「ウケヒの論理とその周辺─語義的考察─」『萬葉』第128号、昭和63年2月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1988
大島2005. 大島信生「万葉集、巻十一・二四三三歌(人麻呂歌集)の解釈をめぐって─「如数書吾命」の訓─」『皇学館大学神道研究所紀要』第21輯、平成17年3月。
澤瀉1962. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第十一』中央公論社、昭和37年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、1982年。
窪田1951. 窪田空穂『萬葉集評釈 第八巻(巻第十一)』東京堂、昭和26年。
古典大系 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系6 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
新古典大系 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系3 萬葉集三』岩波書店、2002年。
新編古典全集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集③』小学館、1995年。
武田1956. 武田祐吉『増訂萬葉集全注釈八 巻十 巻十一(上)』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
土屋1969. 土屋文明『萬葉集私注 六』筑摩書房、昭和44年。
中西1981. 中西進『万葉集全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
柳沢1992. 柳沢朗「「水上如数書」という比喩について」『信州短期大学研究紀要』第4巻第2号、1992年12月。

加藤良平 2018.12.14初出

万葉集のウケヒと夢

 ウケヒについての現在の通説は次のようなものである。

 ウケヒは、本来、神意を判断する呪術・占いをいう。その動詞形がウケフ。 あらかじめ「Aという事態が生ずれば、神意はaにある。Bが生ずれば、神意はbにある」というように生ずる事態とその判断を条件として定め、得られた結果を神意と見なして、物事の真偽や吉凶、禍福などを占うものである。条件を口に出してから行うため、言葉の力を発揮させる言語呪術と認められる。狩猟を行い、獲物が得られるかどうかで神意を判断する「うけひ狩り」の例も見える。しかし、次第に意味が広く派生して行き、神にかけて誓いを行うことや、神に祈り願うことも表すようになる。(『万葉語誌』66頁、この項、新谷正雄)

 この説明には小さな誤謬がたくさん見られる。ウケヒは古代の占いの一種であるが、神意を求めるものとするのは短絡的である。あらかじめ言葉で言っておき、眼前の事態がどうなるかによって将来の事態を予測しようと試みている。ヤマトコトバ(の使用)はことことであることを公理としていた。言葉と事柄とは相即の関係にあるものとして使用した言語体系がヤマトコトバである。何でもかんでも言ってしまえばそのとおりになるということではない。「言霊ことだま」という言葉は多く誤解されているが、発した言葉に霊が宿っているのではなく、ヤマトコトバの使い手たちはことことであるように志向して言葉を使っており、言葉が現実の事態となることはあたかも霊が宿っているようだと見立てられ「言霊ことだま」と譬えられただけで、用例としては数が少ない。逆に、前もって言っていたとおりにしない有言不実行をすると、ことことということになり、その人は信用を失う。そのような人がたくさん現れると、誰もが不信感をいだいてコミュニケーションはとれなくなる。言葉によって成り立っている世界の秩序は乱れ、発せられている言葉はもはや奇声にしか聞こえない。言葉が言葉でなくなるのである。社会は成り立たずにカオスに陥る。そうならないよう、ことことであるように努めていた。それが無文字時代のヤマトコトバを支える前提条件、存立基盤であった。
 そのような言語活動のなかで行われた占い法がウケヒである。将来のことでAになるかB(多くは¬A)になるかわからなくて困った時、試しにAになるなら目の前でもαとなり、B(多くは¬A)になるなら目の前でもβ(多くは¬α)になると言っておく。あらかじめ言っておいて実験をする。言っておいたことことなのだから、将来A、Bいずれのことになるかα、βからわかるという考え方である。夢も占いとして活用されたのは、夢のなかでα、βなら実際にA、Bとなることだろうと類推思考が働いたからである。夢のなかに神が現れることがあり、神意を告げることがあるが、夢から覚めて現実世界でどうするかは人間の行いである。人間が行わなければ実際に神意どおりとはならない。神のお告げをこととして、ことが同じになるように努めた当時の人たちの考え方、実践を伴うヤマトコトバ使用こそが占法を支えていたのである。
 万葉集のなかで使われているウケヒの例は次の四例である。みな動詞ウケフの形で使われ、四例中三例が夢と関わる形で詠まれている。

 都路みやこぢを 遠みかいもが このころは うけひて宿れど いめに見えぬ〔都路乎遠哉妹之比来者得飼飯而雖宿夢尒不所見来〕(万767)
 水の上に 数書く如き 吾が命 いもに逢はむと うけひつるかも〔水上如數書吾命妹相受日鶴鴨〕(万2433)
 さねかづら のちも逢はむと いめのみに うけひわたりて 年はにつつ〔核葛後相夢耳受日度年経乍〕(万2479)
 あひ思はず 君はあるらし ぬばたまの いめにも見えず うけひて宿れど〔不相思公者在良思黒玉夢不見受旱宿跡〕(万2589)

 これらウケヒの意味合いについて、現状では祈り願う意に拡張されたものと捉えられているが誤りである。
 上に述べたとおり、夢のなかは現実のシミュレーションとなっている。歌の作者は寝る前に思い人に逢えるかどうかウケヒをして占っている。夢の中に現れて見る(α)のであれば現実にも本当に逢えて見ることになる(A)、現れずに見ることがない(β)のであれば現実にも逢えずに見ることはない(B)、これがウケヒの前言に当たる。実際に布団の周辺できちんと発語する必要はない。夢は当人しか知り得ないことなので、自分の頭のなかで決めているだけで事態は定まる。夢占はある種、ウケヒの簡易版である。
 万767・2589番歌では残念ながら夢に見ることはない。遠距離になって彼女の心も遠くなってしまったからだろうか、相思ではないらしい、と失恋の情を歌っている。
 万2479番歌はもう少し念の入った作り方がされている。現状の解釈は間違っている(注1)

 さねかづら のちも逢はむと いめのみに うけひわたりて 年はにつつ(万2479)
 (訳)(さね葛)後にも逢おうと、夢に見ることを祈誓(うけひ)し続けて年はいたずらに過ぎて行く。(新大系文庫本271頁)

 稲岡1998.は、「「もし後に逢うことを許されるなら、今夜の夢の中でも逢わせ給え。もし後に逢うことが許されぬものなら、今夜の夢の中でも逢わぬようにさせ給え」というようなウケヒをしたものと思われる。……夢の中で逢えても現実に逢えるわけでもなく、いたずらにウケヒを繰り返すばかりでの意味。」(327頁)と解説している。この考え方には矛盾がある。毎晩寝る前に夢に現れてくれ、そうしたら実際にも逢うことができる、とウケヒを続けたというのだろうか。ウケヒという占い法は確立している。夢で逢ったなら現実にも逢わなくてはならない。夢で逢えているのに現実に逢えてないということは、ことことであることを容認することになる。ヤマトコトバの根本原則から逸脱する。αなのにBだからといって再度ウケヒをくり返すとしたら、すでにウケヒの信頼性は失墜している。騙されたとわかっても騙され続けて吉凶のおみくじを引き続ける、ということを歌にしたものではない。もし仮にそうなら、もはやウケヒという言葉など使われず死語になっていただろう。神のお告げを夢に見たときも実践するのは人間である。ウケヒの占いをして夢に逢ったならば、現実においても待ちの姿勢ではなく、雨が降ろうが槍が降ろうが、どんな支障も乗り越えて逢わなければならない。そうしないと、言=事とする言霊信仰に反し、神やらいにやらわれる存在に堕すことになる。
 二句目の「後も逢はむと」という言い回しは、また逢おうと思いながら、そう言っておきながら、実際には逢わずにいることの表現として使われている。言っていることとやっている事が異なるなら、言=事とする言霊信仰に反するのではないかと思われるであろう。天罰は当たらないかと心配されるかもしれない。そういう時、人はいろいろ言い訳をする。

 …… さねかづら 後も逢はむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 磐垣淵いはかきふちの こもりのみ 恋ひつつあるに ……(万207)
 ことのみを 後も逢はむと ねもころに 吾を頼めて 逢はざらむかも(万740)
 月草の れる命に ある人を いかに知りてか 後も逢はむとふ(万2756)
 恋ひつつも 後も逢はむと 思へこそ おのが命を 長くりすれ(万2868)
 恋ひ恋ひて 後も逢はむと なぐさもる 心しなくは 生きてあらめやも(万2904)
 ありありて 後も逢はむと ことのみを かため言ひつつ 逢ふとは無しに(万3113)
 …… さな葛 後も逢はむと 慰むる 心を持ちて ま袖持ち とこうち払ひ うつつには 君には逢はね いめにだに 逢ふと見えこそ あまたるを(万3280)
 …… さな葛 後も逢はむと 大船の 思ひたのめど うつつには 君には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 天の足夜に(万3281)
 ありさりて 後も逢はむと 思へこそ 露の命も ぎつつ渡れ(万3933)

 また逢おうねと言っておきながら逢わずにいることは許されるのか。そこには大人の知恵がある。時間を味方につけている。つまり、いずれ逢うのではあるが今のところはまだ逢っていない、そういう中途半端な状態に今はあると述べている。あげた例では、残念ながらまだ逢うに至っていないと言っている。その場合、傾向として、本当に逢う気でいながらまだ逢っていないと思われる例に万2904・3933番歌があり、逢う気は醒めてしまっているが「後も逢はむ」とかつて言った、あるいは思った都合上の宙ぶらりんの状況にある意を表していると思われる例に万740・3113がある。もちろん、捉え方によってどうとでも取れるところがある。本心か否かは別であって、そういう歌が作られるならいとなっている。歌は言語遊戯の性格を持つ。言葉巧みなマニピュレーターということではなく、誰もがふつうに行う言語活動である。
 万2479番歌の場合は、一応のところまた逢おうねという気持ちは持ち続けていて、寝る前のウケヒの儀式は、あるいは形骸化しているかもしれないが、続けているにもかかわらず夢に見ることがないからそのままあなたと逢わずに年月が経ってしまった、と逢っていないことの言い訳をしていて、それが歌となっている。
 万葉集において夢にウケヒをしている三例で、そのウケヒの語義はウケヒ本来の意である。ウケヒという言葉を使っている以上それはウケヒである。単に祈ったり、誓いを立てたりする意なら、イノリテヌレド、チカヒテヌレドなどと直截に歌えばいい。短歌形式の三十一音しかないところで間の抜けた言葉づかいをするべくもない。

(注)
(注1)内田1988.も、「ウケヒワタルとは、夢に相手を期待しつつ、かなわぬままに幾夜をも過すのであろう。ウケヒは、右の二例[万2589・2479]で、一方的に望ましい帰結を願うことへと傾いている。しかし、同様のホクと異なり、その実現への期待はむしろ裏切られるものと予想されている。或いは、それが適ったからといって(夢に相手を見たからといって)、それが逢瀬を約束すると本気で信じているわけでもない。ウケヒは、ここでその少ない可能性への果敢ない期待としてある。」(36頁)とやはり誤解している。
(注2)万2433番歌について拙稿「万葉集2433番歌「如数書吾命」とウケヒについて」参照。

(引用文献)
稲岡1998. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第十一』有斐閣、平成10年。
内田1988. 内田賢徳「ウケヒの論理とその周辺─語彙論的考察─」『萬葉』第128号、昭和63年2月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1988
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。

加藤良平 2025.2.12改稿初出

万1682番歌の「仙人」=コウモリ説

 万葉集1682番歌は次のように訓まれている。

  忍壁皇おさかべのみたてまつる歌一首〈仙人やまびとすがたを詠めり〉〔献忍壁皇子歌一首〈詠仙人形〉〕
 とこしへに 夏冬行けや かはごろも あふぎはなたぬ 山に住む人(万1682)〔常之陪尓夏冬往哉裘扇不放山住人〕

 この歌については議論が進展していない。柿本人麻呂の歌であろうことと、仙人を描いた絵を見て詠まれた歌であろうとする考えが通行している(注1)。それは誤りである。ここでは歌意を中心に検討する。
 仙人の絵を見たとする説は証拠となる絵が知られないから、肯定も否定もできない。時に、中国明代の1600年になった列仙全伝の絵を参考にすることまで行われている。その挿絵は、麈尾扇しゆびせんないし団扇を手に、獣の毛皮の腰巻か引敷かを着けた李八百(注2)という人の図である。古の仙人で四川の人とされる。夏、殷、周の三王朝を生きて齢八百歳を数え、日に八百里を行き来したためその名がある。この人物が画題として屏風絵などに描かれていたことは知られない。絵のある印刷物の九百年前のことに傍証となるはずがない。天武・持統朝に神仙思想が広まっていたと考えられているが、仮にそうであるとしても、例えば役行者がそのような格好をしていたといった実例が知られない限り、絵に描かれて親しまれていたとは考えられない。有名な故事もなく、ただ絵が絵として描かれてあった場合、鑑賞者はその意を汲み取ることができない。人々の間で共通認識として何が描かれているか定型化、紋切型化していなければ見てもわからない。だからこそ、本邦において絵画作品は故事や物語をもとに描かれ続けられ、粉本の写しに終始していたのであろう。「詠仙人形」が歌として歌われていたことを理解するためには、何か画像があったとしてブラックボックス化するのではなく、確かにそうであると知れる故事や物語を探らなければならない(注3)
 白居易に、「喜老自嘲(老を喜び、自ら嘲る)」詩がある。

 面黒頭雪白 自嫌還自憐
 毛亀蓍下老 蝙蝠鼠中仙
 名籍同逋客 衣装類古賢
 裘軽披白氎 靴暖蹋烏氈
 周易休卦 陶琴不
 任-従人棄擲 自与我周旋
 鉄馬因疲退 鉛刀以鈍全
 行開第八秩 可天年

 おもて黒くかしら雪のごとく白くして、自ら嫌ひた自らあはれむ。
 まう蓍下しかに老い、蝙蝠へんぷく鼠中そちゆうせんなり。
 名籍めいせき かくに同じく、衣装いしやう けんに類す。
 きう軽くして白氎はくでふかうむり、靴暖かにしてせんむ。
 周易しうえき くわを開くをめ、陶琴たうきん 絃をのぼさず。
 人のてきするににんしようし、自ら我と周旋しうせんす。
 てつよつて退き、鉛刀えんたうは鈍を以てまつたし。
 行々ゆくゆく第八秩を開かんとす、天年を尽くせりと謂ふべし。

 岡村2016.の訳に、三~六句は、「まるで蓍(めどぎ)の草むらの下で老いさらばえている毛亀(蓑亀みのがめ)のようであり、ねずみの仲間の中での仙人にも相当する蝙蝠こうもりそっくりである。かくて私は、戸籍の上では俗世を避けた隠者と同じあつかいをされ、日常の衣服も古代の賢人のような時代遅れの身なりをしているが、冬に着る皮衣は白い細織りの毛布を羽織っているので身に軽く、革靴も黒い毛氈もうせんを底に敷いているので足が暖かい。」(507頁)とある。「蝙蝠鼠中仙」についての語釈に、「『爾雅』釈鳥に、「蝙蝠◦◦は、服翼なり」と。西晋の郭璞注に、「斉人は、呼んで蟙䘃と為し、或いは之を仙鼠◦◦と謂ふ」と。また前漢の揚雄(前五三-一八)『方言』巻八に、「蝙蝠◦◦、関よりして東は、之を服翼と謂ひ、或いは之を飛鼠と謂ひ、或いは之を老鼠◦◦と謂ひ、或いは之を(仙)と謂ふ」と。後漢の劉熙『釈名』釈長幼(第十)に、「老いて死せざるをと曰ふ」と。なお、『初学記』巻二十九(獣部・鼠)、鄭氏(氏の誤り?)の『玄中記』を引いて、「百歳の、化して蝙蝠◦◦と為る」と(謝思煒『白居易詩集校注』二六八三頁を参照)。ちなみに、白氏巻六十八、「山中五絶句」其の五「洞中蝙蝠◦◦」詩(三四七九)に、「千年のは化して白蝙蝠◦◦となる」と。」(507頁)とあって、蝙蝠が仙人扱いされていたことを述べている。

左:裘のさま、右:扇のさま(オリイオオコウモリ、上野動物園)

 これをもって万1682番歌のすべての疑問は氷解する。題詞にある「形」はスガタと訓むべきである。万葉集では「形」をカタと訓むほか、スガタ(「妹形矣いもがすがたを」(万2241)、「朝明形あさけのすがた」(万2841))とも訓む(注4)。「仙人」のスガタはどのようなものか、それを詠んでいる。そして、その「仙人形やまびとのすがた」とは、蝙蝠の姿のことを言っている。蝙蝠のことを仙鼠ともいうと漢籍から知られていたとしたら、「仙人」とは蝙蝠のことを言っているとわかる。蝙蝠は翼手目の動物で、腕と前肢の指が長く、それらの間に開閉自在の飛膜をつけて翼にして飛翔する。この飛膜は皮膚が伸びてできたもので、扇にも裘にも譬えられる。扇は蝙蝠扇(注5)といい、また、後肢を使って枝などに逆さにぶら下がってとまるとき、体を比翼に包むようにして休む。
 絵を見て歌を詠んだというのは万葉研究者の作り話である。題詞には、「詠仙人」と注されており、「詠仙人」とはない。ではどうして蝙蝠が提題されたか。歌を献上する相手が忍壁皇子だからである。
 用字に「忍壁」とある。「忍」字は、説文に「忍 能くするなり。心に从ひ刃声」とある。じん声の靭はもと柔皮をいい、関節をつなぐ靭帯はとても強い組織繊維で、強靭の意がある。名義抄には「忍 如𨋎反、シノブ、ツヽム、コハシ、強(?)坎、オソフ、和音ニン」とある。強く伸び縮みして破けない皮革といえば蝙蝠の翼が思い浮かぶ。しかも、オス(押・圧)は、上から重みをかけて動かないようにすることであった。罠の一つである「押機おし」は、踏むと仕掛けが働いて上から石が落ちてきて動けなくするものであった。

 天圧神あめおすのかみ……〈圧、此には飫蒭おすと云ふ。〉 (神武前紀戊午年十一月)
 ……大きな殿を作り、其の殿の内に押機おしを作りて待ちし時に、……(神武記)
 鼠弩 楊氏漢語抄に鼠弩〈於之おし〉は一に鼠弓と云ふなりといふ。(和名抄)

 蝙蝠が川守りの意である(注6)ことを考慮すると、「忍」なる「壁」とは川の堤のことであると理解できる。版築で造った強靭な壁で、水圧に耐えるものになっていた。新撰字鏡に、「坡陂 同作、普何反、平、坎也。以土壅水也。道緩也。佐加さか、又(与?)豆々牟つつむ(新撰字鏡)」とある。オサカベの音にサカとあるとおり、坡陂のことをサカとも言っていた。傾斜のある坂状地形の堤を、上から圧して造ったことを物語る。
 すなわち、オサカベなる人は、川の堤に関係する職掌を担っていると感じられていたのである。律令制に実際にそういった仕事に就いていたかは不明である。それでも、その名を聞けば、川守り役の人ではないかとおもしろがられたに違いあるまい。座興とするに十分である。サカは、蝙蝠が止まるときのさかさ吊りの雰囲気まで醸し出す。そこで、忍壁皇子に献上される歌として、川守りの蝙蝠が歌のテーマとされ、一首作られたのである。

  忍壁皇おさかべのみたてまつる歌一首〈仙人やまびとすがたを詠めり〉
 とこしへに 夏冬行けや かはごろも あふぎはなたぬ 山に住む人(万1682)

 「とこしへに夏冬行けや」の最後のヤは反語である。佐佐木2001.に、「Ⅱ[活用語已然形+や(やも)]が文中に位置し、それ以下に、表現主体が事実だと判断した事態や現象が提示されるもの」(32頁)の文型であるとし、「「いつも夏と冬とが一緒に過ぎて行くはずはないのに、裘と扇を手放さない。山に住む仙人は。」の意である……。……「裘扇放たぬ」という事態は作者にとって不可解なものだから、その事態について作者は……「常しへに夏冬往けや」とおどろきいぶかる、という状況である。」(32~33頁)と解説する。事実だと判断した事態や現象とは、蝙蝠の翼手が裘にも扇にも変化することである。「とこしへに夏冬行けや」の助詞ヤの反語的な意味は、通説の、行かないだろうに、行くはずはないのに、といった余韻を伝えるものではなく、本当の反語である。いま夏と冬が同時進行していないし、これからも同時進行することはない。同時進行するか、いやいやない、の意である。あり得ないのに変てこりんなこと、裘と扇を併せ持っているとおかしがっている。
 万1682番歌は、忍壁皇子の名にちなんで蝙蝠の様子を詠んだ歌である。だから献上された状況を明かしている。蝙蝠は、今日でこそ人家の屋根裏に住み着くこともあるが、天井が張られず屋根裏というものがなかった時代は、山の樹木や洞窟に住むと思われていただろう。その名から川守りと擬人的に捉えることでヤマビトとし、漢籍から「仙人」字を用いて表した。表面的に字面を追って表記しているだけで、神仙思想の意味を導き出すことはできない。

(注)
(注1)多くの万葉学者がこの歌の主旨を神仙思想に基づく仙人の絵姿を詠んだものとして論じている。以下にそれらの注釈書をいくつかあげておく。
 武田1956.に、「即興の作として、皇子の邸にあつたものについて詠んだのであろう。人間世界とは違つた時間の経過を持つていると考えられた仙人の世界が、歌われている。それはそんな世界もあるだろうという憧憬の思いを寄せた、時代の思想を描いている。人麻呂の時代に、仙人が好奇心をもつて迎え入れられた文献として注意される。仙人は、女子の形を採るものもあるが、この歌のは、服装から云つても男子だろう。仙人が、どのような姿でえがかれていたかがわかる。」(263~264頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
 伊藤1996.に、「忍壁皇子の邸宅での歌か。そこに、仙人の姿を描いた画像があり、一首詠めとの仰せに即座に応じて献じたものと見える。ただし、人麻呂が仙人の絵を献ずるに際して添えた歌と見ることも可能である。知識階級の間では、天武・持統朝の頃から神仙趣味が流行した。仙人の画像が珍重されたのはその反映である。……◇山に住む人 「仙人」を翻読した表現。山に住む不老不死の道士。道家における理想的人物。20四二九三~四には「山人やまひと」とある。」(60~61頁)とある。
 新大系本萬葉集に、「結句「山に住む人」は、「仙」の文字を分解した遊びか。「山に住む人」などと言わなくても、和訳としては、「山びと」(日葡辞書)で足りる。題詞の「仙人の形」とは如何なるものであったか、未詳。仙人の描写は仏典にも所見。「(善財童子が)彼の仙人を見るに、栴檀樹の下に在りて、草を敷きて坐し、徒を領すること一万、或いは鹿皮を著け、或いは樹皮を著け、或いは復た草を編みて以て衣服と為し、髻環を鬢に垂れ、前後に囲遶せり」(華厳経六十四)。」(339~340頁)とある。
 稲岡2002.に、「仙人の画像を題材として詠まれた歌。皇子邸にその画像があったのだろう。仙術を身につけた仙人の超人的な性格を、こうした形に詠んだか。なお日本上代は画讃の例に乏しく、空海「勤操大徳影讃」(『性霊集補闕鈔』巻十)などが、日本で作られた画讃の嚆矢とされる。それ以前に中国から渡来したものとして「画図讃文巻第廿七」と題された唐鈔巻子本一巻(東大寺尊勝院聖護蔵旧蔵)の「讃聖迹住法相比神州感通育王瑞像」など三首が知られているが、「鏡中釈霊実集」の讃はそれに並ぶ。この一六八二は仙人の画を見ながら歌ったものと考えられ、題材からしても、中国の画讃や題画詩の影響を受けた可能性が強い。したがって、天武・持統朝には、こうした題画文学の存在がすでに知られていたこともわかるという(鉄野昌弘)。」(404頁)とある。
 金井2003.に、「カタは彩色しない絵をいう。忍壁皇子邸の屏風の絵の仙人像を見て詠んだのであろう、と契沖が注している。……忍壁皇子の家にあった仙人の画像を見て歌ったと想定されているが、皇子は大宝律令の制定に加わっているほどの文化的教養を持った人で、おそらく皇子の周囲には大陸からの渡来人官僚も多くいたであろう。彼らを通じて皇子が入手した大陸風の仙人の画像だったのだと思われる。明代ではあるが『列仙全伝』には、こうした仙人の挿絵がある。仙人に対する興味は、たとえば父の天武天皇が遁甲を能くしたと伝えられ、その諡号「天渟中原瀛真人」も神仙思想に基づくこと、持統天皇の歌「燃ゆる火も取りてつゝみて……」(2・一六〇)なども仙人の方術の一つであろうことから考えると、天武・持統朝の貴族社会には少なからず蔓延していたのであろう。」(47~48頁)とある。
(注2)万1682番歌が李八百そのものを描いた絵を歌ったものではない。葛洪・列仙伝に、「或隠山林、或居廛市」とあって、必ずしも山に住んでいたわけでもない。
(注3)ここで日本の絵画全般にわたって論ずることはしない。スケッチのようなものが木簡や布に残り、山水表現が平安時代の板戸に見られるから自由に何でも描かれていたとして、その一つとして仙人像が忍壁皇子邸にあったとすることには抵抗を覚える。神仙思想が普及していたとしても、唐突に人物が描かれて皆が納得して観覧したとは考えにくいからである。歌が歌われたなら、その歌を聞いた人たちの大多数が、それが仙人像であると認知されていたということでなければならない。わからないことを声を張り上げて歌われても戸惑うばかりである。
 神仙思想と関係があると知られる話としては浦島子伝説がある。万1740~1741番歌には、長い長歌と反歌が歌われている。神仙思想は不思議を語るものだから、きちんと理解されるよう説明調になるものである。万1682番歌に限って、裘や扇を身に着けた人が山に住んでいるよ、と歌われただけで、多くの人が納得するに至るとは考えられない。そのうえ、歌として、仙人の衣装を歌って何がおもしろいのかも不明である。仙人の姿の定義なのだとの主張もあろうが、そのような儀軌は知られない。これまでの解釈には、歌が歌われた状況の確実性、歌を歌ったことの必然性が念頭に置かれていない。筆録者は、題詞、歌、左注を記して読む人の理解の助けとしている。推測の上に妄想を積み重ねても本意に近づくことはない。
(注4)「多く喫飲すれども、形飢饉に似たり。(雖多喫飲、形似飢饉。)」(万3854左注)の「形」もスガタと訓むべきかと考える。
(注5)美術史では、扇は本邦発祥のもので、檜扇に発し、紙を張った扇へと展開したとされている。この考え方は、物質文化の風雅な側面ばかりを見たもので感心しない。道端にコウモリの死骸を見つけ、羽部分をもぎ取って焚きつけの風起こしに用いていたであろうことは容易に想像できる。蝙蝠扇という名を、紙張扇の転であるとする試みは、洒落を言って笑わせているものであると思われる。
(注6)岩波古語辞典に、「川守りの意という」(324頁)とする。

(引用文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 五』集英社、1996年。
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
岡村2016. 岡村繁『新釈漢文大系 第119巻 白氏文集十二下』明治書院、平成28年。
金井2003. 金井清一『萬葉集全注 巻第九』有斐閣、平成15年。
佐佐木2001. 佐佐木隆『萬葉集構文論』勉誠出版、平成13年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系2 萬葉集二』岩波書店、2000年。
武田1956. 武田祐吉『増訂萬葉集全註釈 七 巻の八・九』角川書店、昭和31年。

加藤良平 2018.12.3初出

万葉集1357番歌「足乳根乃母之其業桑尚願者衣尓着常云物乎」について

 万1357番歌は難訓歌と呼ばれるほどではないがよくわかっていない。

 足乳根乃母之其業桑尚願者衣尓着常云物乎

 先行研究として比較的近年の注釈書からいくつか訓読文と現代語訳を拾う。

 たらちねの ははがそのる くはすらに ねがへばきぬに るといふものを
 母が生業なりわいとして育てている桑の木でさえ、ひたすらお願いすれば着物として着られるというのに。(伊藤1996.)
 たらちねの ははがそのなる くはすらに ねがへばきぬに るといふものを
 お母さんがその仕事として育てている桑の木でさえも、心から願えば、衣として着られるというのに。(どうして二人が結婚することは許されないのだろうか)(阿蘇2008.)
 たらちねの 母がそのる くはすらに ねがへばきぬに 着るといふものを
 (たらちねの) 母の仕事の くわでさえ 頼めば衣に 着られるというのに(新編全集)
 たらちねの 母がそのる くはすらに ねがへばきぬに 着るといふものを
 母が自分の生業なりわいとして育てている桑の木でさえも、心からお願いすれば衣として着られるといいますのに。(古典集成)
 たらちねの ははなり くはすらに ねがへばきぬに るといふものを
 (たらちねの)母が生業とする桑でさえも、願えば絹の衣として着ることもできるということなのに(どうして二人で逢うことは許されないのだろうか)。(稲岡2002.)
 たらちねの 母がそのる 桑すらに 願へばきぬに [き]すといふものを
 (たらちねの)母のもので、母が養蚕をしている桑の木でさえもお願いすると、(その桑で蚕を飼い繭を作らせ)絹の着物に作って着せてくれるというのに。(なぜ二人が逢うことはお願いしても許されないのだろう。)(全注)
 たらちねの 母が園なる 桑すらに 願へばきぬに [き]すといふものを
 母親の園にうえてある桑でさえも願えば絹の着物として着せてくれるというのに。(どうしてあなたを自分のものにできないのでしょう。)(古典大系)
 たらちねの 母がそのなる 桑すらに 願へばきぬに 着るといふものを
 (たらちねの)母の園にある桑でさえも、頼めば衣として着られるというのに。(新大系)
 たらちねの 母がそのる くはすらに ねがへばきぬに 着るといふものを
 (たらちねの)母がその仕事とする桑でさえも、願えば衣として着られるというのに。(新大系文庫本)
 足乳たらちねの 母がそのふ くはこすら 願へばきぬに すといふものを
 足乳ねの母が大切に養っているかいこでさえ、願えば衣にして着せてくれるというものを。(中西1980.)

 議論は深まらずに今日に至っている。原文にある「其業」の「其」をソノ(garden)の音借とする説について、ふさわしくないとする考えが提示されている。稲岡2002.に、「母之其業」西にハヽノソノナルと訓まれていたのを略解に、ハヽガソノワザノ、古義にハヽガソノナルとし、古義の訓が広く採用されているが、古義は「園なる」の意と解したのであってその借字説は不自然だし「其のなる桑」という表現には無理も感じられる。古典大系に「他の訓みでは字余りとなり、かつその中に母音母節がないので、しばらくこの訓を採る」として「園なる」説によったのは(新大系も同様に解する)問題の困難さを示しているだろう。本書では「其業」(ソノナリ)と文字の通りに訓み、「そのなりわいである」意に解し、後考をまつ。」(546頁)と補注がある。
 「其」を「園」の意ととるのは、農業史的に見てふさわしくない。日本民俗大辞典に、次のようにある。

くわ 桑 クワ科に属し、元来、熱帯から温帯地域にかけて生育する喬木性、または灌木性の植物。桑を畑一面に植栽するようになったのは明治時代になってからである。それまでは畑の畦に植えるアゼクワ、屋敷周りに植えるクネクワなどで、桑の収量は少なかった。養蚕業が発達する明治以降、畑が桑園化して収量も増大していった。……(552~553頁、この項、板橋春夫)

 桑の園が卑近に見られるようになったのは、明治時代になってからが一般的で(注1)、飛鳥~奈良時代にそのような光景に普遍性はなかった。万葉集の他の「園」の用例に見られる、梅、竹、韓藍からあゐが面として植えつけられているようには桑の植栽は行われていなかったと考える。「其」を「園」と解釈することはできそうにない。
 次に、「業」字について考える。諸説には生業の意と捉える傾向がある。万葉集中、「業」字は他に三例ある。

 わぎ妹子もこが なりと造れる 秋の田の わさかづら 見れど飽かぬかも〔吾妹兒之業跡造有秋田早穂乃蘰雖見不飽可聞〕(万1625)
 水を多み 上田あげに種き ひえを多み 択擢えらえしわざそ が独りる〔水乎多上尓種蒔比要乎多擇擢之業曽吾獨宿〕(万2999)
 荒雄ますらをらは 妻子めこ産業なりをば 思はずろ 年のとせを 待てどまさず〔荒雄良者妻子之産業乎波不念呂年之八歳乎将騰来不座〕(万3865)

 「業」字は、万1625番歌ではナリ、万2999番歌ではワザと訓んでいる。万3865番歌では、「産業」でナリと訓んでいる。ナリはナリハヒ(生業)のことである。ワザはテクニックの意である。稲田に稗が混じるので稗を選んで抜いていっている。その手際のことを「わざ」と言っている。
 万1357番歌の前の、万1354番歌の標題に「寄木」とある。木に寄せた詠物詩である。そこに「桑」とあれば、それは桑の木のことに違いなく、中西1980.がいうような桑子(蚕)のことではない。類歌として扱われることのある歌でも、「たらちねの 母がの 繭隠まよごもり」という説明調の慣用句表現がある。

 たらちねの 母がの 繭隠まよごもり こもれるいもを 見むよしもがも(万2495)
 たらちねの 母がふ蚕の 繭隠り いぶせくもあるか 妹に逢はずして(万2991)
  …… 霞立つ 長きはるを 天地あめつちに 思ひらはし たらちねの 母が養ふ蚕の 繭隠り 息きわたり 吾が恋ふる 心のうちを 人に言ふ ものにしあらねば ……(万3258)

 桑の木がきぬとして着用されることへと変わるには、桑を蚕が食べて繭を作り、その繭から糸が繰り出されて絹となることが必要である。さらにそれを織ることで布になり、縫い付けてきぬに完成する。その転変を言いたいから「わざ」と言っているものと考えられる(注2)。母の生業なりのことを言っていると解釈できないことはないが、蚕の飼育のために桑を栽培することが「母」に限られる仕事であったか疑問である。蚕の面倒を見、糸をとり、織物に仕上げることは母が主役の仕事であったとしても、未婚女性や子供が手伝って何の支障もない。桑の木を植えつけたり桑の徒長した枝を採取すること、わけても木に登るようなことは男性に頼む仕事のように思われる。
 「母之其業」とは、桑→蚕→糸→布→衣に化けさせる術を指している(注3)。したがって、次のように訓むのが正しい。

 足乳根乃母之其業桑尚願者衣尓着常云物乎
 たらちねの 母が其のわざ 桑すらも 願へばきぬに すといふものを(万1357)

 「着」は、ケスと訓んで四段活用の他動詞、「(蓋)す(ケは甲類)」のことである(注4)。「る」に上代の尊敬の助動詞スがついて音転した語とされ、お召しになると訳すことができる。お召しになる着物はお召物である。同時に、食事をお食べになることも召し上がるといい、お蚕様が桑を召し上がるから上等のお召物である絹ができあがる。

 …… せる 襲衣おすひすそに 月立ちにけり(記27)
 …… 我がせる 襲衣の襴に 月立たなむよ(記28)
 が背子が せるころもの はり落ちず 入りにけらしも こころさへ(万514)
 つく波嶺はねの 新桑繭にひぐはまよの きぬはあれど 君がけしし あやにしも(万3350)

 桑の葉のようなごわごわしたものでさえも、母の手腕にかかればさらさらの絹製品へと仕立て上げることができる。それはそれはすごいテクニックを持っていらっしゃることよ、という感嘆の意を示している。三句目にある「尚」の部分については、万葉集中に、スラ、スラニ、スラモ、スラヲ、ニスラ、ヲスラ、ヲスラニとする訓法がある。着衣するのにふさわしくない桑さえも、そのテクニックをもってすれば逸品ができるという意味だから、ここの「尚」はスラモと訓むのがよい。歌の眼目は「たらちねの母が其の業」だから歌の冒頭に置かれている。倒置法である。
      ┌────────────────↴
 たらちねの 母が其のわざ 桑すらも 願へば “きぬす”といふものを(万1357)

 倒置を直すと次のようになる。

 桑すらも願へば、(たらちねの)母が其の業[ヲ以テ]衣に[シテ]着すといふものを
 桑の葉のようなごわごわのものでさえもどうにかしようと乞い願えば、養蚕、製糸、機織というマジックを心得ている母はそのテクニックを使って上等のきぬきぬに変えてお召しになることは決まっているのになあ。

 この歌は何を歌っているのか。多くは、恋の歌と考えられてきた(注5)。しかし、そうではないのではないか。ここに「(たらちねの)母」とある「母」は、歌を歌っている人の縁故者たる「母」ではないということである。
 記紀の話に、特別に章立てて養蚕の起源譚が語られているわけではないが、蚕がどこから生まれたかについては記述がある。オホゲツヒメ(大気都比売神、大宜都比売神)、保食神うけもちのかみのことである。

 又、食物くらひものおほ気津比げつひ売神めのかみひき。爾くして、大気都比売、鼻・口と尻とより、種々くさぐさ味物うましものを取り出だして、種々に作り具へてたてまつる時に、はや須佐之すさのをのみこと、其のわざを立ちうかかひ、穢汚けがして奉進たてまつるとおもひて、乃ち其のおほ宜津比げつひ売神めのかみを殺しき。故、殺さえし神の身にりし物は、かしら生り。二つの目に稲種いなだね生り、二つの耳にあは生り、鼻に小豆あづき生り、ほとに麦生り、尻に大豆まめ生りき。故、是に、かむ産巣むす日御祖ひのみおやのみことの成れる種を取らしめき。(記上)(注6)
 是の後に、天照大神あまてらすおほみかみまたあまの熊人くまひとつかはしてきてしめたまふ。是の時に、保食神うけもちのかみまことに已にまかれり。唯し其の神のいただきに、牛馬化為る有り。ひたひの上に粟生れり。眉の上にかひこ生れり。眼の中に稗生れり。腹の中に稲生れり。陰に麦及び大小豆まめあづき生れり。天熊人、ふつくに取り持ちきて奉進たてまつる。……又口のうちに蠒をふふみて、便ち糸くこと得たり。此より始めて養蠶こがひの道有り。(神代紀第五段一書第十一)

 養蚕の神さまが女神であったことは、その技術の使い手も女性であったことからなんとなくそれらしく信じられている。雄略紀には次のようにある。

 三月の辛巳の朔丁亥に、天皇すめらみこと后妃きさきみめをしてみづかくはこかしめて、こかひの事を勧めむとおもほす。ここ蜾蠃すがる〈蜾蠃は、人の名なり。此には須我屢すがると曰ふ。〉にことおほせて、国内くにのうちを聚めしめたまふ。是に、蜾蠃、誤りてわかを聚めて天皇に奉献たてまつる。天皇、大きにみゑらぎたまひて、嬰児を蜾蠃に賜ひてのたまはく、「いまし、自らやしなへ」とのたまふ。蜾蠃、即ち嬰児を宮墻みやのみかきほとりひだす。仍りてかばねを賜ひて少子部ちひさこべのむらじとす。(雄略紀六年三月)

 この話はコ(蚕・児)の意味の取り違えのエピソードであるが、皇后が養蚕をする伝統は古いものである。礼記・月令に「季春之月、……后妃齊戒、親東郷躬桑、禁婦女観、省婦使以勧蚕事。」と養蚕を奨励している。実地の記録としては、漢書・文帝紀に「朕親率天下農耕以供粢盛、皇后親桑以奉祭服、其具礼儀。」、漢書・元后伝に「春幸繭館、率皇后列侯夫人桑。」とある。最後の「桑」字は、桑をくこと、枝から葉をむしり取ることである。雄略紀の「親桑」も同じである。
 万1357番歌の場合、歌い手が言っている「母」は具体的な存在の母ではなく、保食神たるオホゲツヒメのことを指して歌っているのではないか。つまり、一般論である。一般論と考えた場合、歌全体に及ぼす効果は大きい。「母」に対して歌っているのは、立場上「」であるはずである。それは「」と同根の語、語学的に等しい言葉である。桑を絹糸に変化させる術を行っているのはであるが、養蚕の蚕は人間の飼育下で飼われる品種改良されたものである。人間が管理して育てないと生きていくことはできない。「母」の手を借りなければ生きていけない人間のと同等の存在である。出来上がった絹織物の着物は、「后妃」のような高貴な女性がお召しになるものでありつつ、養蚕の神さまであるオホゲツヒメにお召しになっていただこうと考えるのは成り行きとして当然であろう。
 オホゲツヒメは保食神である。記では、稲種、粟、小豆、麦、大豆など「味物うましもの」が生まれている。オホゲツヒメという名義は、オホ(大)+ゲ(餉)+ツ(助詞)+ヒメ(姫・媛)の意で、たくさん食べる妊婦であることを意味している。鱈腹食べることを一義として含むであろう枕詞「たらちねの」を被って正しい使い方ということができる。紀では、ほかに牛馬、稗も登場している。牛馬は食用ではなく、耕作役のために使われたと考えられる。そんななか、食べ物ではない蚕が保食神から生まれている不思議について、この歌は解いている。一部地方に蚕を蛋白源として食べていた所があるが、そのこととは無関係である。蚕は桑の葉を食べて繭を作る。その繭から人は絹糸をひき出して最終的に織物を作る。従来の麻製品と異なり、染色すれば発色もよく、上等のものだからきぬという語の本来の意、きぬでできていることを指し示している。上流階級の人の高価な着物である。それは世に言うお召物である。召し上がるものは食べ物のことで同じ動詞で表される。だから、穀類と蚕がともに保食神から生まれて何一つ不自然なところはない。そのことを「ものを」、そうと決まっているのに、と歌っている。「召す」は、食う・飲む・着るなど、物を身にとり入れる、着用するの意である。

 戯奴わけがため 吾が手もすまに 春の野に 抜けるばなそ 御食して肥えませ(万1460)
 いは麻呂まろに われ物申ものまをす 夏痩せに よしといふ物そ むなぎ捕りせ(万3853)
 百寮つかさつかさつらを成し、乗輿きみおほみかさして、以て未だ出行おはしますにいたらざるに、……。(天武紀七年四月)

 上代の「召す」の用例に着物をお召しになるという例が見られないのは、「す」という語が存してその領域を侵犯していたからとも考えられる。意味としては同じことであると理解されよう。
 万1357番歌は、壮大なヤマトコトバの体系から、一部を切り出して一つの歌とされたものであった。

(注)
(注1)桑畑を表す地図記号は桑の木を横から見た形を記号にしたものという。徒長枝の切り戻しを繰り返していたことと、根が張っていることをよく表している。畦に植えればその補強に役立ったとわかる。
(注2)新編全集に、「くわ科植物はおおむね樹皮が強靭で、その繊維は糸・縄・布の材料となり、麻・こうぞがその代表。桑からも紙が作られ、やや粗いが布を織ることも可能。この歌はそのような桑布でも衣料となるという諺の類を踏まえたものか。」(261頁)とするが、桑で蚕を育てて糸をとるのではなく樹皮を使って桑布を作ることすらできるという語りはあまりにも皮肉な言い回しに思われる。井手2004.参照。
 「願ふ」の意は、時代別国語大辞典に、「神の心を安らかにする(ネグ)ことによって自分の希望をかなえてもらうように計らう、ということから、現在のネガフに近い意に分化してきたものであろう。他の人に言語をもって希望を述べる意ではなく、心の中でかくあれかしと念ずる意に用いているのは、原義につながるものといえよう。」(558頁)とある。補足すれば、ネグにはもう一義ある。麻のような植物から主に種をこそぎとることをいう。拙稿「上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について」参照。すばらしい絹織物を欲しいと「願ふ」のは十分にわかるが、ごわごわの桑布を「願」って着たいとは思わないし、桑をネグとは桑の葉をくことで、それは養蚕のための餌にはなっても直接繊維をとることにはならない。桑の枝の表皮を剥いで晒すことを表す言葉ではない。
(注3)窪田1984.に「「桑」は、養蚕を言ひかへたもの。」(236~237頁、漢字の旧字体は改めた)というのでは、桑→蚕までのことしか言っていない。
(注4)ケスという語には、呉音から発したかと思われる「す」という言葉も見られる。「魚もして経とみゆ。」(観智院本三宝絵・中・十六「吉野山寺」、984年)といった例がある。合拗音でクヱと表記されることも多い。記紀万葉に例が見られず、ケの甲乙を定めがたいものの、この「化す」との掛詞の可能性もゼロではない。しんへんごんなど、仏教に関連した用語に多く見られる。「狐のへんしたるか。」(源氏物語・手習)と同様に、「桑のしたるきぬ」と思われたのではないかと推測する。絹織物は上等で、貴人の衣裳や高僧の袈裟、荘厳具に多く用いられたようである。よって、尊敬の意を含む「す」と言うのがふさわしいのである。
 養蚕と仏教との関連は、古代の渡来系氏族、秦氏によるところが大きい。「す」は呉音の転によるサ変動詞を意図的に編み出した、いわゆる和訓であったのかもしれない。
(注5)伊藤1996.に、「女の心であろう。男女の恋の成就にとって最も大きな権限を持っていた母親の生業を引き合いに出して、どんなに困難なことでも一心に願えば実るというのに、私の恋は実らないと嘆いている。養蚕は女の困難にして重要な生業であった。すぐれた桑を育てないと立派な蚕はできない。幼虫には柔らかい葉を与えねばならず、成虫にはつやつやとして張りのある葉を与えねばならない。油断をしていると、蚕を好物とする蟻が長蛇の列をなして成虫を全滅させてしまうことがよくある。無事育て上げた蚕の食欲は旺盛で、深夜にはその歯音の響きがさざ波のように聞こえる。桑の葉に毒物があると、蚕たちは一朝にして死す。今でも、蚕を育てる人びとは、蚕のことを「お蚕さま」と呼んでいる。「お蚕さま」は成熟の極に達すると、おヒキさまになる。躰が縮小し曲がって透体を呈するのである。これを拾って藁の床に寝かしてやると、かれらは糸を吐いて二、三日の間にまゆとなる。だが、ヒキ拾いの時期を誤ると、ほれぼれする繭は期待できない。こうした難業の末にできた絹が貴重であることはいうまでもない。桑から繭へ、そして糸から衣ヘ──それは外目にも神秘な過程である。が、当事者にとっては、悲願にも似た祈りが常にこめられている。「桑すらに願へば衣に着る」という表現は、蚕を育てる母親の緊張をよくよく知る者の言葉にちがいない。その難業に我が恋の苦しさを譬えたところが新鮮である。この娘の恋は、当の母親によってさえぎられているのではなかろうか。母の願いはその困難な生業に通じるのに、私の願いはどうして母さんに通じないのか。そのように考えればさらにいっそう生きてくる歌のように思われるが、いかがであろう。」(352~353頁)とある。養蚕は手間がかかり鼠害も心配されるが、「難業」と呼べるような特殊技能ではない。
(注6)「食物」は鼇頭古事記にミケツモノ、訂正古訓古事記にヲシモノと訓んでいる。ここでは新編全集本古事記に従いクラヒモノとしたが、メシ(モノ)とも訓める。「味物」はタメツモノとも訓まれている。

(引用文献)
阿蘇2008. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第4巻(巻第七・巻第八)』笠間書院、2008年。
井手2004. 井手至『遊文録 説話民俗篇』和泉書院、2004年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注四』集英社、1996年。
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
窪田1984. 窪田空穂『萬葉集評釈 第五巻』東京堂出版、昭和59年。
古典集成 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集二』新潮社、昭和53年。
時代別国語大辞典 上代語編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系 佐竹昭広・山田英雄・大谷雅夫・山崎福之・工藤力男校注『新日本古典文学大系2 萬葉集二』岩波書店、2000年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集②』小学館、1995年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
全注 渡瀬昌忠『萬葉集全注 巻第七』有斐閣、昭和60年。
古典大系 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
中西1980. 中西進『万葉集全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
日本民俗大辞典 福田アジオ・神田より子・新谷尚紀・中込睦子・湯川洋司・渡邊欣雄編『日本民俗大辞典 上』吉川弘文館、1999年。

加藤良平 2018.9.26初出

「弓食」(万2638)をユヅルと訓む理由

 巻十一の「寄物陳思」歌に次のような歌がある。

 あづさゆみ すゑはらに 鷹鳥がりする 君がづるの 絶えむとおもへや〔梓弓末之腹野尓鷹田為君之弓食之将絶跡念甕屋〕(万2638)

 「弓食」と書いてユヅル(弓弦)と訓む理由は不詳とされている。時代別国語大辞典上代編に、「「弓食」は文脈からユヅルの意と思われるが、「食」をツルと訓む理由は不明。「ツル」「ツラ」の誤りなどともいう。」(783頁)とある。諸解説書にほぼ皆わからないとする(注1)。万葉集の難訓についてはそれぞれに果敢なチャレンジが行われ、平安時代からの成果によって、今日大部分の歌が訓めるようになっている。

弓と弓弦と弦巻と弦袋(男衾三郎絵詞、東京国立博物館研究情報アーカイブズ、http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0022413をトリミング)

 「食」字は、文字どおり食べることである。食べ物は食べるとなくなる。食べなくても腐ったりカビが生えたりして食べられなくなる。もちろん料理して食べる。料理に仕立てたときには食べ物はたくさん食卓にあるが、食べてしまったらなくなる。どうしてお腹は減るのだろうか。歌に「腹野」という場所が定められているからそういう疑問が浮かんでいる。食べたらなくなり、また狩りをして獲ってきても食べたらなくなる。そのくり返し、それが「食」である。食べたら尽きるのである。同音のツキ(キは乙類)が moon や month の月である。弓張月というように弓を張った形は月に見える。つまり、「弓食」の字義は弓の消耗品のことである。弓の消耗品とはづるである。切れてはつけかえる。戦に出向く時など、弓弦を入れた弦袋や巻いた弦巻を大刀などとともに腰に佩いて行く。うさゆづると呼ばれている。あらかじめ準備して持って行っていた。
 弓弦は、伸びている弓(むしろ反対側へ少し反っている弓)を強くしならせて弓の両端のゆはずにかけ渡す。そのように弓に弦を装着することをハク(着・著)という。きちんとあるべきところへ身に着けることがハクに当たるようである。

 陸奥みちのくの 安太多良あだたらゆみ はじき置きて らしめなば つらかめかも(万3437)
 梓弓 つら取りけ 引く人は 後の心を 知る人そ引く(万99)
 陸奥みちのくの 安太多良真弓 弦着けて 引かばかの人 こと成さむ(万1329)

 四段活用動詞に対し、下二段活用は使役的であるとされている。同じハクという語には、口から嘔吐することをいうハク(吐)がある。

 時に神、毒気あしきいききて、人物ひとことごとくえぬ。(神武前紀戊午年六月)
 いまししばしばあしきいきを吐きて、路人みちゆくひとくるしびしむ。(仁徳紀六十七年是歳)
 子麻呂等こまろら、水を以て送飯いひすく。おそりて反吐たまひいだす。(皇極紀四年六月)

 吐くとは反吐へどくことで、和名抄に、「歐吐 病源論に云はく、胃の気、逆らば則ち歐吐〈上は於后反、字は亦、嘔に作る。都久つく、又太万比たまひ〉といふ。」とある。ツクには、ツク(給)という語もある。供給することである。

 封畿之内うちつくにすら、なほかざること有り。(仁徳紀四年二月)
 ……別殿ことどのを浄めはらへて、にひしきねどこを高くきて、つぶさがずといふことからしめたまふ。(皇極紀三年正月)
 因りて郡内こほりのうち百姓おほみたからつきゆるしたまふこと一年ひととせ。(天武紀六年十一月)

 和名抄に「歐吐(嘔吐)」にタマヒという訓も載せる。タマヒとはタマフこと、「賜」や「給」という字で表される。上位者が下位者に与えることで、その行為につき、与え手に対し話し手が敬意を表す際に用いる。お与えになる、おやりになる、の意で、補助動詞としても頻繁に用いられるようになっていく。タマフは音に揺らぎの多い語で、タウブ、タブ、タバルといった言い方もある。タブ(賜・給)という語の場合、お与えになることのうちでも特に飲食物を指すことが多いとされる。

 いにしへの 人のこせる 吉備きびの酒 病めば便すべなし ぬきたばらむ〔貫簀賜牟〕(万554)
 鈴がの 早馬はゆまうまの つつみ井の 水をたまへな〔美都乎多麻倍奈〕 いもただよ(万3439)
 たましひは 朝夕あしたゆふへに たまふれど〔多麻布礼杼〕 が胸痛し 恋の繁きに(万3767)
 草枕 旅のおきなと おもほして 針そたまへる 縫はむ物もが(万4128)
 衛門ゆけひのつかさひとところに召しあつめて、将にものたまはむとす。(皇極紀四年六月、岩崎本訓)
 あかねさす 昼は田びて〔比流波多々婢弖〕 ぬばたまの 夜のいとまに 摘める芹子せりこれ(万4455)

 言葉をたどっていくと、弓弦というものはくものと思ったからくものかもしれないと思われた。吐くことは食べ物を吐くことで、それは反吐をくことであるから、供給することをくということと関係があると思われた。確かに食べ物はいつでも供給され続けなければならないものである。生きていけなくなる。吐くことはタマヒともいうが、「たまふ」という語はタブとも言って飲食物を与えることを指す。だからタベモノと言って当たっている。食べ物は口に入れるものだが、逆に戻して出してしまうこともある。どちらも口は開いている。大口を開けた形は湾曲した弓の形になぞらえられるから、口と同じ働きを弓が担っているかもしれないと考えてみると、時に銜えて食べてしまったり吐いてしまったりして弓弦が駄目になってしまうことがあると気づく。弓弦は消耗品で、控えのうさゆづるが必ず用意されている。必ず次の弓弦にその座を譲るように前もって決められている。食卓に並ぶ食べ物がにぎやかにあるのは、次の時にも別のものが必ず用意されるように準備が整っていてこそのことである。前もって食糧を倉にしまっておいたり、常時畑で栽培して収穫できるようにしておいたり、山川海からいつでも獲って来れるように罠を仕掛けておいたりしているからかなっている。食べることと相応すると弓に関して言えるのは弓弦のことだからと、「弓食」と手の込んだ義訓(注2)をほどこしていたのである。

(注)
(注1)鹿持雅澄・萬葉集古義に「一説に、食ハ、人良の二字を誤れるなるべし、人はの仮字なりといへり、東人をアヅマヅ○○○○、蔵人をクラウヅ○○○○など云しことも物に見え、……但集中の頃、人をと云しことありしか、おぼつかなし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1883816/1/169)、土屋1969.に「「食」は「弮」の誤であらう。弦の意である。」(224頁)とある。新大系本萬葉集に、「「弦」の字を「弓」と「玄」と二字で表記した所から、「玄」を「食」に誤ったか。」(72頁)、伊丹1964.に「たとえば大漢和辞典を繙くと、「食」字の項に左の如き部分がある。日月の蝕。蝕(中略)に通ず。〔釈名・釈天〕日月虧曰食、……こうして「日月クルコト」が「食」なのであるから、「弓食」で日月─特に月─の「弦」を表わすつもりなのではあるまいか。そうとすると、「弓食」二字をそのままユズルと訓めることになるわけである、と。」(30~31頁)、神道2006.に「名義抄に「食…モチヰル」とあるので、……「弓」は「弓」のことで、義訓としてユヅルと訓んだと考えておきたい。」(26頁)とある。
(注2)万葉集の表記における義訓とは、意義を分析的にあてた用字のことで、「はる」(万1844)、「鶏時あかとき」(万105)、「丸雪あられ」(万1293)、「らし」(万2207)、「大王てし」(万1321)といった例があげられている。ただし、現代人の目から見て書き方を分類しようとしているだけのことである。

(引用・参考文献)
伊丹1964. 伊丹末雄『万葉集難訓考 第三』昭和39年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系本3 萬葉集三』岩波書店、2002年。
神道2006. 神道宗紀「万葉集「末之腹野尓鷹田為」考─巻十一・二六三八番歌の解釈をめぐって─」『帝塚山学院大学研究論集〔文学部〕』第四十一集、平成18年。
土屋1969. 土屋文明『萬葉集私注 六』筑摩書房、昭和44年。

加藤良平 2018.5.17初出

万葉集における「船装ひ」と「船飾り」について

 万葉集中に、「船飾ふなかざり」、「船装ふなよそひ」と関係する歌は四首指摘されている。

 八十やそくには なにに集ひ 船飾り〔布奈可射里〕 がせむ日ろを 見も人もがも(万4329)
  右の一首は、足下郡あしがらのしものこほり上丁かみつよほろたぢ部国人べのくにひと
 なに波津はつに 装ひ装ひて〔余曽比余曽比弖〕 今日けふの日や 出でてまからむ 見るははなしに(万4330)
  右の一首は、鎌倉郡の上丁丸子まろこのむらじおほ麻呂まろ
  二月七日に、相模国さがむのくにの防人部領使ことりづかひかみ従五位下藤原朝臣宿すく奈麻呂なまろたてまつれる歌の数は八首。但し拙劣つたなき歌五首は取り載せず。
 押し照るや 難波の津ゆり 船装ひ〔布奈余曽比〕 あれは漕ぎぬと いもに告ぎこそ(万4365)
 (右の二首は、信太郡しだのこほりの物部道足みちたり
 津の国の 海のなぎさに 船装ひ〔布奈餘曽比〕 も時に あもが目もがも(万4383)
  右の一首は、塩屋郡の上丁丈部はせつかべの足人たりひと
  二月十四日に、下野国の防人部領使、正六位上田口朝臣おほたてまつれる歌の数十八首。但し拙劣つたなき歌は取り載せず。

 これらの歌は、「天平勝宝七歳乙未の二月に、相替りて筑紫につかはさえし諸国くにぐに防人さきもりの歌」という題詞のもとの一群にある。万4365・4383番歌も、それぞれ常陸国と下野国の防人部領使の「進歌」である。
 「船飾り」と「船装ひ」という語をめぐってはこれまでも議論されてきた。「船装ひ」を艤装のこととし、「船飾り」も同一のこととする説と、「船飾り」は大漁旗を掲げるような満船飾や、軍艦にフラッグをかかげるように満艦飾に飾ることとする説がある。上代の「船飾り」の例は万4329番歌に孤例である。したがって、それが艤装のことなのか、旗を掲げるようなことなのか、確かめようがないように一見思われる。瀧川1974.には、防人の用船にも律令に規定のように旗幟を掲げることをしていたとの主張がある(注1)。その際に引かれる用例が万4330番歌で、「装ひ装ひて」と繰り返されているから、「艤装した上に更に旗幟を立てて船を飾ったからであると解すべき」(276頁)としている。万葉集中、動詞が繰り返されている例として、「行き行きて」(万2395)、「有り有りて」(万3113)といった例がある。それらについて、徒歩で行き馬で行き船で行く、多重人格の人間としてある、などと解することはできない。「装ひ装ひて」は、順々に艤装を施していって出航の準備を整えていくことを言っている。そしてまた、万4365・4383番歌の「船装ひ」の歌は、出航のことしか触れられていないので、満艦飾を施していると考えるのはいささか飛躍に過ぎる。「装ひ装ひて」は単に艤装のことであろう。
 では、万4329番歌の「船飾り」は、艤装のことなのか、満艦飾のことなのか。中川2009.は、瀧川1974.説をとり、「艤装した上に更に旗幟を立てて船を飾った」ことをいうとする。その際、日本書紀の「飾(餝)船」、「荘船」の例を引いている。

 六月の壬寅の朔丙辰に、客等まらうとたち難波なにはのに泊れり。是の日に、餝船かざりふね三十みそふねを以て、客等をぐちに迎へて、にひしきむろつみ安置はべらしむ。(推古紀十六年六月)
 初め磐金いはかね、新羅にわたる日に、津にいたころに、荘船かざりぶね一艘ひとふな、海の浦に迎ふ。(推古紀三十一年十一月)

 そして、「迎船の儀式の際、船には鼓吹が備えられ音楽が演奏され、旗や幟が立てられ船をかざっていたようである。上陸してからの使節を迎えるかざり馬(かざり馬)も、金銅の金具で華麗に仕立てられた鞍などでかざられていたようで、かざることは自国の権威を示すと共に、相手国に対する敬意の表現でもあった。」(192頁)という。迎船に旗や幟を立てて飾ることはそのとおりであろう。しかし、中国や朝鮮半島からのお客さんを迎えるための「餝船(荘船)」は、内港だけ航行するためのものであったと考えられる。中国や朝鮮半島からやってきた船が旗や幟を立てていたのか記述はなく、おそらく、そのようなことはしておらず、お客さんを迎える儀礼のために飾り立てた船のことをカザリブネと称していたのであろう。そう定めてみると、万4329番歌の「船飾り」を「飾船(荘船)」と同等に扱うことはためらわれる。「船装ひ」の二例と同様、防人を筑紫へ運ぶ船のことである。防人は足軽兵士である。駐屯地へ行くだけで、大砲を積んだ戦艦を仕立てているわけではなく護送船である。したがって、軍防令を援用して満艦飾を施しているとすることは当たらない。筆者は、多くの注釈書の示すように、「船飾り」とはもっぱら檝を整える艤装のことであると考える(注2)
 防人の乗る船の艤装においては、檝を整えることがなにより重要である(注3)。そう受け取られていたと考える理由は、万葉集の歌に見えるマカヂ(真(二)梶)、マカヂシジヌキ(真(二)檝(楫・梶)繁貫(抜))という表現にある。

 こしの海の つの鹿の浜ゆ 大船おほふねに かぢおろし〔真梶貫下〕 いさなとり ……(万366)
 大船に 檝繁かぢしじき〔真梶繁貫〕 大王おほきみの ……(万368)
 …… 敷栲しきたへの 枕もまかず 桜皮かには巻き 作れる舟に かぢき〔真梶貫〕 が漕ぎ来れば ……(万942)
 朝凪あさなぎに かぢでて〔真梶榜出而〕 ……(万1185)
 大船に 檝繁かぢしじき〔真梶繁貫〕 漕ぎなば ……(万1386)
 …… なにがた 三津みつの崎より 大船に 檝繁かぢしじき〔二梶繁貫〕 白波の ……(万1453)
 大船に 檝繁かぢしじき〔真檝繁抜〕 漕ぐほとも ……(万2494)
 をの取りて 丹生にふやまの 木折きこり来て いかだに作り かぢき〔二梶貫〕 いそ漕ぎつつ 島づたひ ……(万3232)
 …… 大伴の 御津みつの浜辺ゆ 大舟に 檝繁かぢしじき〔真梶繁貫〕 朝凪に ……(万3333)
 大船に 檝繁かぢしじき〔麻可治之自奴伎〕 海原を ……(万3611)
 …… 御津の浜びに 大船に 檝繁かぢしじき〔真可治之自奴伎〕 韓国からくにに 渡りかむと ……(万3627)
 かぢき〔真可治奴伎〕 船し行かずは ……(万3630)
 大船に 檝繁かぢしじき〔真可治之自奴伎〕 時待つと ……(万3679)
 大船に 檝繁かぢしじき〔真梶繁貫〕 この吾子あこを 韓国へる ……(万4240)

船形埴輪(松坂市宝塚1号墳出土、古墳時代、5世紀初頭、松坂市文化財センター展示品。オール受けの穴は進行方向を意識して開けられているという)

 「真檝繁貫き」とは、船の左右両舷に開けた穴に「檝」を据えつけることである。檝を漕いだ時、うまく水を掻くように貫かれていなければならない。今のオール受けの機能である。上の例で見られるように「真檝」という語は圧倒的に「大船」を伴う。小船には一本だけともをつければいいように思われる。一棹の場合、それは「片檝」である。「真檝繁貫き」などとあれば、どうやら四本以上の偶数本、たくさん檝がついているように思われる。防人を護送する船は大型船である。四本、六本、八本、……の檝を装着するための艤装は案外骨の折れる作業であったろう。それを「船装ひ」とふつうは言うところ、万4329番歌では「船飾り」と洒落た言い方をしていたのではないかと考える。
 万4329番歌の歌意について、これまで深い読み方が行われていなかった。たくさんの国の人たちは、今や難波に集まって船を飾っている、そんな日の私を見る人がいて欲しい、といった願いが歌われているとされている(注4)。不思議な歌意であるが、疑問が呈されていない。万4383番歌では、艤装して出航する時に「あも」に会いたいと歌っている。ところが、万4329番歌では、船飾りをする日が来て誰でもいいから見る人がいて欲しいと言っている。仕事っぷりを見てもらいたがっている。歌の作者の足下郡上丁丹比部国人は、なぜそのような思いに至っているのか。それは、彼が、艤装のことと思われる「船飾り」をさせてもらえないからである。その理由は彼の名前による。
 彼の名は、「足下郡あしがらのしものこほりの上丁かみつよほろたぢべの国人くにひと」と断られている。アシガラと聞けば葦柄のことであろうと感じられる(注5)。葦の柄のようなものが檝になるかといえば、縁起でもないのである。全然漕ぐことができず役に立たない。しかも、タヂヒとはマムシのことである。「たぢひみづ別命わけのみこと」(仁徳記)は「多遅たぢひの瑞歯別みづはわけの天皇すめらみこと」(反正前紀)のことである。蛇のようにぐにゃぐにゃ曲がるようでは水を漕ぐときの抵抗力は得られない。そういう名を負った人は艤装に加わらせられない。だから、「八十やそくに」の人はみな艤装に参加することはできても、彼だけは入れてもらえないのであって、いつまでたっても仕事っぷりを目にする人は現れない。だから、このような変な歌を歌ってもおもしろがられ、結果、採録されている。それほどに名が大事であったことは、「名にふ」(万35・480・1034・2418・2477・2497・3638・4466)、「名のみを名児なごやまと負ひて」(万963)、「おのが負へる己が名負ひて」(万4098)という言い方が頻出していることからもわかる。そして、何よりもその地が「なに」であることから確かめられる。「八十国」の人々のそれぞれさまざまな「名には、に集ひ」て「船飾り」を許されている。けれども、アシガラ出身者にしてタヂヒなる名には、それは許されないことであったというのが落ちである。事ここに至って、「船飾り」は船の檝を装備する艤装のことであると検証される。旗や幟を立てる竿に、葦柄のような脆弱なものは務まらないとの考え方も可能ではあるが、タヂヒはマムシのことを指し、蛇行して泳ぐことができる。当時の人はそれを身近に観察して知っていたことだろう。そのような蛇行して航行する船を装備しているのではなく、直進する船にしたいから彼は参加させてもらえないのである。「船装ひ」と「船飾り」とは、名義抄に、「艤 音蟻、カサル、フナヨソヒ」とあり、言葉が混淆していたと考えるのが妥当であろう。万4329番歌は、外国からのお客さんのための迎船を拵えているのではなく、自分たちが九州へ乗って行く船を整備している。「八十国」の人たちは、いかにうまく漕げて安全に渡航できるかにのみ関心が向いており、一生懸命に艤装している。だからこそ不吉な名前の人は排除している。旗や幟を立ててお祭り気分でいるわけではない。
 以上、万4329番歌「船飾り」は艤装のことであることを示した。ヤマトコトバで歌われた歌の歌詞の問題にすぎなく、法制度上の問題にはならない。

(注)
(注1)瀧川1974.に次のようにある。

 鼓吹は各軍団にも備えられていたのでありまして、軍防令には、
  凡軍団、各置皷二面、大角二口、少角四口。通用兵士。分番教習。
とあります。この鼓は軍鼓即ち陣太鼓でありまして、楽鼓のツヅミではありません。大角というのは、今も山伏が吹き鳴らす法螺貝のことであります。防人の交替即ち番代は、征討軍士の発遣に准ぜられていますから、その難波出発に当って、勇壮なる軍楽が奏せられたことは、言うまでもありません。防人らを乗せ畢った主船司の官船は、鼓吹司吹部の号令によって打ち鳴らす太鼓の音によって、一斉に八十楫を貫いて沖へ漕ぎ出したと思います。相模の国の防人が詠んだ、
  難波津によそひよそひて今日の日や出でてまからむ見る母なしに(四三三〇)
という歌の「よそひよそひて」を、[これまで]すべての万葉註釈家は、単に船を艤装することと解していますが、「よそひ」を重ねているのは、動作の継続を意味するに非ずして、艤装した上に更に旗幟を立てて船を飾ったからであると解すべきであります。その一つ前の歌には、
  八十国は難波に集ひ船かざり我がせむ日ろを見る人もがな(四三二九)
とあって、「船かざり」の語も見えています。船飾りと船装いとは、少し意味が違うと思います。
 養老の職員令には、
  鼓吹司
  正一人。掌調習鼓吹。佑一人。大令史一人。少令史一人。吹部卅人。使部十人。直丁一人。鼓吹戸。
とありますが、この吹部は、後に大角長上、鉦鼓長上と呼ばれた軍楽隊の楽長でありまして、鼓吹を奏する吹人は、鼓吹戸の人々が上番します。鼓吹戸は、職員令集解の古記、令釈引くところの別記によりますと、二百十八戸ありますから、吹人の数は相当多かったと、思います。防人の難波発遣に際しては、鼓吹司の官人一人、吹部両三人、吹人十数人ぐらいが、難波に派遣されたと思います。彼等も、兵部省難波支庁若しくはその近所に宿泊していたでありましょう。……防人の難波発遣は当代の盛儀の一つであり、その船出の情景は、都人の見物に値する壮観であったと思うのであります。物見高いは都の常と申しますが、千二百年前の難波京の都人も、その例外ではなく、浜には群衆が堵列して防人の出船を見まもっていたと思います。その群衆の眼の中に、母の眼が無いことが、防人らにとって一入さびしく、悲しかったのであります。
 津の国の海のなぎさに船よそひも時にあもが目もがも(四三八三)
という歌は、この情景を想像してこそ、初めて実感をもって我々に迫るものがあるのでありまして、当代の軍事制度に暗い所謂「万葉学者」に防人歌の本当の鑑賞は出来ないと思うのであります。(296~297頁、改行、字間は適宜改めた)

(注2)和名抄に以下のような語釈が載るものの、上代語にカヂ(檝・楫)は、水を掻いて船を進める道具を言い、後にかいかぢなどと分別されるものの総称とされている。

 棹 釈名に云はく、旁に在りて水を撥ぬるを櫂〈直教反、字は亦、棹に作る。楊氏漢語抄に加伊かいと云ふ〉と曰ひ、水中に櫂し、また櫂を進むなりといふ。
 檝 釈名に云はく、檝〈音は接、一音に集、賀遅かぢ〉舟を捷疾せしむるなりといふ。兼名苑に云はく、檝は一名に橈〈奴効反、一音に饒〉といふ。
 㰏 唐韻に云はく、㰏〈音は高、字は亦、篙に作る、佐乎さを〉は棹竿なりといふ。方言に云はく、船を刺す竹なりといふ。
 艣 唐韻に云はく、艣〈郎古反、魯と同じ〉は船を進むる所以なりといふ。
 舵 唐韻に云はく、舵〈徒可反、上声の重、字は亦、䑨に作る〉は船を正す木なりといふ。漢語抄に柁〈船尾なり、或に柂に作る、和語に太以たいと云ふ。今案ふるに舟人の挟杪を呼びて舵師と為すは是れ〉と云ふ。

 いま櫂と称されるのはカヌーに見られる paddock、ボートに見られる oar であるが、ほかに艪、棹なども手を使う船の推進具である。マカヂシジヌキ(真檝繁貫)と歌われているものを字義通りに解釈するなら、ボート競技のエイトのようなことと捉えるのが妥当であろう。マカヂは左右揃った a pair of oars ということになる。なお、ひと口に艪と言っても、漕ぎ方に物理的な違いがあるとも指摘されている。大野2008.参照。
(注3)艤装には、帆や碇などの調節も必須であるが、凪や時化しけに対して対処するには漕ぐしかない。また、岩礁などがあって危険を伴う沿岸部の航行には、帆を下して漕いだものと思われる。したがって、航海に際して「よほろ」がいちばん重視したのは、己が漕ぐ檝であったと思われる。和名抄に、「艤 唐韻に云はく、艤〈魚綺反、不奈与曽比ふなよそひ〉は舟を整へ岸に向ふなりといふ。」とある。「向岸」は着岸といった意味のようである。着岸時に帆は使わない。檝(楫)や櫂の類、艪(櫓)の類、棹(㰏)の類を用いた。拙稿「古事記の大山守命の反乱譚の「具餝船檝者」について」参照。
(注4)近年の訳注書でも、例えば、多田2010.に、「多くの国の防人たちは難波に集結して、船飾りをしている。その船飾りを私がする日を見送ってくれる人がいてほしい。」(250頁)、稲岡2015.に、「多くの国々の防人がこの難波に集まって、出帆の船飾りを私がするのを、見る人がいるといいなあ。」(467頁)などとある。
(注5)相模国の地名「足柄」は、万葉集にアシガラ、アシガリと出てくる。万3367番歌には、「足柄あしがらぶね」とある。拙稿「万葉集における「足柄」の船表現について」参照。

(引用・参考文献)
稲岡2015. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(四)』明治書院、平成27年。
大野2008. 大野恵三「中世絵画資料に見る艪・楫操作の技法」『民具研究』第138号、日本民具学会、2008年9月。
瀧川1974. 瀧川政次郎『万葉律令考』東京堂出版、昭和49年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解7』筑摩書房、2010年。
中川2009. 中川ゆかり『上代散文─その表現の試み─』塙書房、2009年。

加藤良平 2018.3.20初出

万葉集における「足柄」の船表現について

 万葉集巻十四に「足柄小舟」の歌がある。

 ももつ嶋 足柄あしがらぶね 歩行あるきおほみ 目こそるらめ 心はへど(万3367)

 一般に、「足柄小舟」は多くの島をあちこち漕ぎ廻る意と解されている。顕昭・袖中抄(1185~1190頃成立)に、「顕昭云、あしがらをふねハ相模乃あしがらの小舟也。相模防人が哥也。或人云、葦苅小舩アシガリヲフネ也。らとりと同音也。或人云、足軽アシガラを舟也。らとりと同音也。万葉にハあしがらをバあしがりともよめり。りとらと同音也。あしがりのはこねのゝろ、あしがりのわをかけ山、あしがりの山のこすげのすがまくら。敦隆にハルイ葦鴈アシガリとて此等をカリノ哥に入たり。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200014702/485)とある。小回りの利く船足の軽さが特徴とも推測されている。そして、第三句を導く序詞となっていて、出歩くことが多くて、心には思っていても逢うことは少ないのでしょうと言っている歌と考えられている。
 この歌の作者について、女性の作とする説が根強い。近年の注釈書を見ても次のように訳されている。

 たくさんの島を足柄小舟が行くように、あの方は通う女性が多いので、わたしの所にはあまり来てくださらないのでしょう。心では思っていても。(稲岡2006.457頁)
 島、その島々を経めぐる足柄小舟は、海藻があちこち生えていて立ち廻らねばならぬ所が多いので、その海藻をせっせと刈っているわけよね。(こちらへの目はれてあちこち女を漁っているわけよね)。心の中では思いをかけてくれているんだろうけど。(伊藤1997.305頁)

 伊藤1997.の「海藻」と「目」との掛詞説は傾聴に値する。一方、男性作歌説もある。

 たくさんの島を行きめぐる足柄小舟のように、出歩くことが多いので、直接の目見えは疎遠になっているのだろう。心には思っているのだが。(多田2009.323頁)

 多田2009.は、「男の歌。女に逢えない言い訳。「歩き多み」に通う先の多いことをあてこする意があるとし、女の歌と解する説があるが、従えない。」(323頁)という。助動詞ラムには、発話者自身のことを推量する場合も見られる。混乱した状態にある自分のことを俯瞰して見るもう一人の自分がいることは、精神衛生上とても好ましいことである。同様の「らむ」の用例としては次のようなものがある。

 今更いまさらに いもに逢はめやと おもへかも ここだが胸 いぶせくあるらむ(万611)
 たらちしの 母が目見ずて おほほしく いづち向きてか が別るらむ(万887)
 広瀬川 袖つくばかり 浅きをや 心深めて へるらむ(万1381)
 あひおもはず あるものをかも すがの根の ねもころごろに 吾が念へるらむ(万3054)
 …… 天雲あまくもの 下なる人は のみかも 君に恋ふらむ ……(万3329)

 また、上代に見られるいわゆるミ語法は、「…ヲ~ミ」の形で原因理由を表すことが多く(注1)、「「Aは[BヲCミ]D」という構造として捉えられ、〈主節の主語Aが、Bに対してCという評価・判断を下したためにDのようにする(なる)〉という意味を表すものと考えられる。」(青木2016.208頁)とされている(注2)。本例は格助詞ヲを伴わない例であるが従うと、主語が、「歩行あるき」に対して「多」いという評価・判断を下したために「目こそ離る」のであろうという意味を表していることになる。「歩行」の主語は何か。譬えとしてあげられている「(百つ島)足柄小舟」である。伊藤1997.はそのままに訳しているが、一般には、第一句・第二句は譬えとして「~のように」と訳されている。「(百つ島)足柄小舟」のような存在は男性である。通い婚の時代の風習だから、譬えに用いられて適当である。だから、男性が乗っている「足柄小舟」は、「歩行」を多いと評価・判断し、なかなか逢えないのであろう、と言っているものと捉えられる(注3)。歌のすべての句が男性の側に立って歌われている。そのすべてを括弧で括って、「ということなのでしょうね」と女性から当てこすっていると考えるのは無理であろう。筆者は多田氏の考えに同調する。
 上代語のアルク(歩行)は、移動・進行の面に重点がある言葉とされている。「歩行」くものとして「(百つ島)足柄小舟」があげられている。足柄山から伐り出した木材が船に好都合であったとする解釈がされている。相模風土記逸文に、「足軽アシカラ山は、此山の杉の木をとりて舟につくるに、あしの軽き事、他のにて作れる舟にことなり。よりてあしから足軽の山とツケたりと云々。」とある。その程度の地名譚である。実際に用材の産地として知られていたものではなかろう。風土記(逸文)の地方説話にあるだけで、記紀にそのような記述は見られない。船足が速い高速艇のことを「足柄小舟」と特別に呼称していたと想定して検討するには無理がある。
 筆者は、「足柄小舟」をそのような調子のいい船とは考えない。船足が速ければ、真っ先に女性のもとへ来れるではないか。反対に、一直線に恋する相手のところへ向かうことのできない、肝心の用を足さない粗悪な舟のことと考える。舟の調子が悪いから、少し行っては島を伝うことになっている。「足柄小舟」を葦でできた葦船と捉えるなら、チチカカ湖でも葦船は実用に供している。記上、神代紀第四段一書第一のなかでは、「葦船」に「水蛭子ひるこ(蛭児)」を載せて流しやったと記されている。「歩行あるおほみ」なだけで、沈みそうになって命からがら島にたどり着いているというわけではない。つまり、船自体の素材として葦は特段否定されるものではないのだが、そうではなく、この「足柄小舟」は、推進力となるべき檝が葦の柄でできていてうまく漕げない船を指していると考える。そんな船だから、百もの島に漂着してしまうというのであろう。木のオールではなく「足柄」=アシガラ=葦柄であるなら、枯れた穂の部分を水面下に入れて漕いだということになる。もちろん、船はほとんど進まないし、まっすぐにも進まない。だから、百もの島を廻ると言っている。
 したがって、心の中では思っているのだけれど、なかなか逢いに来られないのは、自分に非があるのではなく乗り物に非があるのだと、男性が言い訳をしている歌であると理解される。乗物のせいで目指しているあなたのもとへなかなかたどり着けないのだと、冗談を言いながらごまかして語っている。そんな語り口だから自分のことについて推量の助動詞ラムが用いられている(注4)。歌の意に適い、文法的にも整合性が取れている。伊藤1997.の「海藻」と「目」との掛詞説は生きていると思われる。檝が岸辺の草、葦の柄でできている。葦の柄を海水に入れて漕ごうとすれば、たちまちにふやけて「海藻」の漂うような状態になりそうである。海藻が波間に漂うようになり、百もの島を廻るように進めないというように、イメージが交わり膨らんでいてわかりやすい。
 足柄と船とが関係あるとする歌が、巻三にある。

 ぶさて 足柄山に ふなり きつ たらふなを(万391)

 この歌については、船材としてではなく他の材として伐ってしまったから船に使えなくなったことの謂いとする説が優勢である(注5)。出だしの「鳥総」については、鳥の総状のものを作ってお供えにした信仰上の行為かとされている(注6)。そのとおりであろう。筆者はその際、鳥の総のように見えるから「鳥総」という語が成っていると考える。冠羽状に見えるもの、例えば葦の穂の残った柄を連想させる役割も果していて、アシガラという語を導いていると考える。そしてまた、「鳥総立て」をするような木の切株は、とても巨木であったろう。そんな大木を船材として大きなまま運んで来たのが目の前にあり、「あたら船木を」と嘆いている。刳船を造るために大きいまま運んでくることは大変である。せっかく運んできてくれたのだが、アシガラという名は漕ごうにも漕げないことを暗示してしまっている。縁起が悪いから船には造らない。海では遭難がつきものだから縁起を担がないわけにはいかない。凶事につながるようなことはできるだけ避けて通る。もったいないことである。このように理解するのが正しいと考える。
 もう一例、巻十四にある。

 足柄あしがりの 安伎奈あきなの山に ふねの しりかしもよ ここばがたに(万3431)

 この歌は、船をしりから引いて下ろしていくように、帰る夫の後を引っぱりたい、今度ここへはなかなか来ないだろうから、という意と解されている。「足柄の安伎奈の山」はどこのことか不詳である。後ろ髪が引かれるというように未練がたっぷりで、帰る夫を進みにくくしたいと歌っているのだろう。ならば地名も、進みにくい船を比喩に表すところがあれば効果的である。船が海や川から山に乗り上げて進むことはないし、ましてやその檝が葦の柄であればなおさらである。したがって、葦柄という、船にとって最悪の汚名を負った地名を持ち出している。「安伎奈の山」は、アキ(飽)+ナ(名)の意であろうか。アシガラという名に飽き飽きしているというように聞こえる。「引こ船」は山から引きずり下ろすという意味ではなく、川船の場合、ロープを使って岸で引いて遡上させていたように、山へ引き上げることを指していると考えられる。もちろん、そのようなことはする必要もないし、できもしない。ましてや先の尖った舳の方からではなく艫のほうを引きあげようとするなど、考えるだけでも可能性は限りなくゼロに近いのである。
 以上、船と関係する「足柄」の歌のイメージについて、万葉集の三つの歌で見た(注7)。上代には、アシガラと「名に負ふ」がために、船には不向きなもの、避けられるべきもの、そぐわないものと思われていた。

(注)
(注1)佐佐木2016.は、万葉集のミ語法の数四百三十六例のうち、原因・理由を提示する用法のものは四百七例あるとする。
(注2)村島2002.は、「「─ヲ─ミ」語法はある動作をとる主体に形式的に指示の他動作をとらせて、その時その人(物)に限った対象の状態を表す語法である。主体に対象の状態を指示させる形によって限定的な状況を表すのが基本で、それが二次的に思惟や原因と重なっていく。……現代語としては「主体には、AがBくて、動作。」の構文が意味の上で最も近く、実際多くの「─ヲ─ミ」語法をこの構文で統一的に理解することができる。その上で、二次的に思惟や原因理由と重なる場合には適宜反映させていくべきであろう。」(55頁)とする。筆者には疑問が残る。名詞節をほどいて省略を補った形で示された例をあげてみる。

 (我)命を惜しみ、玉藻刈りをす。(万24)
 (我)、人言ひとごとしげみ、朝川渡る。(万116)
 沖つ白浪、風を速み、高からし。(万294)
 霍公鳥(ほととぎす)、花を良み、鳴く。(万1483)
 葛、野を広み、延ふ。(万1483)
 雁が音、月を良み、聞こゆ。(万2131)
 秋萩、うら若み、露に枯れけり。(万2095)

 村島氏は、主体が人間ではなく動物や植物、景物になったら思惟認識の動作と認めがたいとし、擬人法と考えるのは無理であろうという。対して、内田1999.は、最後の例(「夕されば野辺の秋萩うら若み露に枯れけり秋待ちかてに」)について、「秋萩は、ここで有情のもののように、自身の枝先を若いと感受して、その若さを我が身に被って、夕方になるとまだ花の咲かぬ枝先を露に傷めてしまう。秋を待ちかねてそうなるのは、逆に言うと、いち早く秋を知るのでもある。作者はそれをいとおしみつつ愛玩している。」(168頁)と解説している。この解説は卓抜である。こういった機微を表すために、「ミ語法」は編み出されているのではないかと思われる。
 村島2002.に、「「─ヲ─ミ」語法独特の効果を直接反映する語法が現代に存在しない点にはなお留意すべき」(55頁)としながら、「駐車場に車を停めた。」といった連用修飾関係に因果関係を認めてしまうと無理が生じるという。けれども、現代語で、「(広くあいていた)駐車場に車を停めた。」という言辞においても、ほらごらん、と当該駐車場を指差しながら取締官に言い放つ時、入り口は開いていたし断り書きも目に入らず、スペースも有り余っていたから停車させたのだと抗弁することはままある。「にぃ」と力んで言うときには、助詞ニを因果関係として用いている。「ミ語法」を「統一的に理解」することばかり優先させることは、何のためにこの語法を上代の人は作り出したのか、に対する動体視力を失っていないだろうか。
 上の例で、万1483番歌と万2131番歌とで、ニュアンスに違いがある。万1483番歌は、ホトトギスが花を良いと評価して鳴いたと単なる擬人法で捉えることができるが、万2131番歌は、内田1999.による解釈でならなければ理解できない。すなわち、雁が音は月を良いと評価・判断して聞こえる、という表現は、雁の鳴き声はその鳴き声を響き渡らせて雁の鳴き声であることを美しく表そうとし、そのためにはその鳴いている雁の姿が人の目に映らなければならないと有情していて、夜でも月が明るく照らしている時をこそふさわしいと思って発しているから、月明かりのもとで聞こえてくるのである。叙景、詠物のために表現を工夫している。
(注3)青木2016.の〈主節の主語Aが、Bに対してCという評価・判断を下したためにDのようにする(なる)〉をそのまま当てはめると、主節の主語A=「(百つ島)足柄小舟」が、D=「目こそ離るらめ」のようになるが、船に目がついているかどうかといった東南アジアの例を持ち出す話ではない。「足柄小舟」は歌の作者である男が自らのことを譬えてみたのであって、そういった融通無碍の語り口に「ミ語法」は適うものであったかとも思われる。なにしろ、判断する主体は「足柄小舟」(「沖つ白浪」、「霍公鳥」、「葛」、「雁が音」、「秋萩」)など、当事者責任を負わせられない相手である。だからこそこの歌では、なんともひねくれたような言い訳に役立っており、その点に、原因理由を述べる、ないしは、こじつける語り口としてうまく表出している。
(注4)角川古語大辞典の「らむ」の項に、「現在する事象を述べる句を「らむ」で結び、その事象成立の理由などを述べる句を「らむ」が構文的に、あるいは連文的に包摂して、理由などを想定・推量する。」ものとして、「理由などを想定する句が順接の確定条件句として表現され、「らむ」止めの事象の句がそれを受ける帰結の句として続く。いわゆる「み」語法によって理由を想定するのも、この型に準じる。」(898頁)の例に、「うちなびく春を近みかぬばたまの今宵の月夜霞みたる良牟(らむ)」(万3831)をあげている。
(注5)澤瀉1958.に、「「船木に伐り木に伐りゆきつ」を船材に伐るべき木をたゞの用材に伐つて行つた、と訳する事はむりである。古義に「百千鳥モヽチドリ 千鳥者雖来チドリハクレド」(十六・三八七二)、「茅草苅チガヤカリ 草苅婆可尓カヤカリバカニ」(十六・三八八七)などの例をあげてゐるやうに、「舟木伐り木に伐り」といふ云ひ方は、上の句の語のくりかへしを略し、舟木として・・・伐つたと見るのが自然であらう。」(438~439頁、漢字の旧字体は改めた)とある。その上で別の場所へ持って行ってしまったとする説を唱えている。

左:「株祭(かぶまつり)之図」(とぶさたて、木曽式伐木運材図会・上巻、中部森林管理局ホームページhttp://www.rinya.maff.go.jp/chubu/koho/batuboku-zyoukan/zyoukan-pdf/zyoukan10.pdf)、右:道祖神に幣を捧げ祀る(志貴山縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2574278/1/12をトリミング)

(注6)杣人は、樹木、特に大樹を、山神よりの下賜品と考えていたとされ、伐り倒した後、切株に末枝を刺し立てて奉謝とした。それが鳥総立てという儀式で、株祭りとも呼ばれている。万葉集にはほかに、「鳥総立て 船木伐るといふ 能登の嶋山 今日見れば だち繁しも 幾代かむびそ」(万4026)という例がある。原生林のようなところへ「船木」となる大木を求めに出掛けている。
(注7)「足柄」については、他に、「さか」と結びつく例が万3371・4423・4372番歌、「坂」と結びつく例が万1800番歌の題詞に見られる。東国との境界を示すと重んじられたとの説が唱えられている。ただし、万葉集歌の「御坂」八例(万1675・1800・3192一云・3371・4372・4402・4423・4424)のうち、他に地名を冠するのは「藤白の御坂」(万1675)のみで、「足柄の御坂」が突出している。「神の御坂」(万1800・4402)例から考えても、「足柄」=アシガラ=葦柄のためにぬさを想起させて旅立ちの折に捧げるのにふさわしい名所と認識されたのではないか。境界をよく表す言葉であると「足柄の御坂」は捉えられていたということである。

(引用・参考文献)
青木2016. 青木博史『日本語歴史統語論序説』ひつじ書房、2016年。
伊藤1997. 伊藤博『萬葉集釈注七』集英社、1997年。
稲岡2006. 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。
内田1999. 内田賢德「人麻呂歌集のミ語法」稲岡耕二編『声と文字─上代文学へのアプローチ─』塙書房、1999年。
澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈巻第三』中央公論社、昭和33年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第五巻』角川書店、1999年。
佐佐木2016. 佐佐木隆『上代日本語構文史論考』おうふう、2016年。
多田2009. 多田一臣『萬葉集全解5』筑摩書房、2009年。
村島2002. 村島祥子「上代の「ヲ─ミ─」語法について」東京大学国語国文学会編『国語と国文学』第79巻第2号(通号939号)、平成14年2月。

加藤良平 2018.3.19初出

万葉集942番歌の「鵜にしもあれや 家念はざらむ」について

 万葉集942番歌の「にしもあれや 家おもはざらむ」については、諸説乱れ、なかなか要領を得ていない。

 たま藻苅もかる からの嶋に しまする にしもあれや 家おもはざらむ(万943)(注1)〔玉藻苅辛荷乃嶋尓嶋廻為流水烏二四毛有哉家不念有六〕

 上代語の文法から構文上の位置づけを確かめた解釈としては、佐佐木1999.に論考があり、佐佐木2001.でも踏襲され、簡潔に説明されている。

「鵜にしもあれや、家念はざらむ」は、これまでさまざまに議論されてきた表現だが、[ーやーむ]という構文は「腑甲斐ない自分の「現在」のあり方をじれったく思いつつそれをどうすることもできない、そのような文型」であるという指摘[木下2000.]……と、……[この歌]にかかわるつぎの諸点を考慮すれば、「鵜などではないのに、家を思わないだろうか(そんなことはない)」という意味の表現であると解さなければならない……。
  ⅰ 反語表現の「あれや」が逆接的な関係で「家念はざらむ」をみちびくこと
  ⅱ 「あれや」のもつ「係り」の統制力が「家念はざらむ」におよぶこと
  ⅲ 上代に三例ある「思はずあらむ/思はざらむ」の用例がみな反語表現であること
  ⅳ [ーやーずあらむ(ざらむ)]の構文に属する……[1343、一云・2792・続紀25詔]の三例がみな反語表現であること
 つまり、「鵜にしもあれや」が反語であることはいうまでもないが、それにつづく「家念はざらむ」も同様に「や」の影響をうけて反語になっている、と解すべきものである。また、「家を思わないだろうか(そんなことはない)」という想定は「家を思うだろう」という想定だから、それは作者にとって不本意な事態である。不本意であるからこそ、みぎの指摘のように「じれったく思いつつそれをどうすることもできない」という心情を表明することになるのである。(佐佐木2001.159~160頁)

 これにより、すべて解決されて然るべきところであるが、その後の注釈書でも不明な訳出が行われている。

 玉藻を刈る辛荷の島で、島を廻りつつ魚を捕る鵜であるからであろうか、家を思わずにいられるとは。(稲岡2002.35頁)
 美しい藻を刈る辛荷の島のめぐりを、餌を求めて回る鵜ででもあるというのか。鵜ではないから、どうして家を思わずにいられよう。(多田2009.346頁)
 玉藻を刈る辛荷の島で、島を回って魚を捕る鵜だからだろうか、家を思わずにはいられるのは。(新大系文庫本161頁)(注2)

 佐佐木氏が指摘するように、「ーやーずあらむ(ざらむ)」の構文から、まず「鵜にしもあれや」が反語であり、そのうえでさらに「家念はざらむ」も反語である。それなのに、現代語訳に、「鵜などではないのに、家を思わないだろうか(そんなことはない)」とだけ記されている。何を言っているのか結局わかっていない(注3)
 「鵜にしもあれや」は反語である。学校文法で強意の助詞とも言う取り立ての助詞シが入っている。なんと、鵜であるからだろうか、いやいや鵜ではないのに、の意味である。もう少し上代語に即して言えば、鵜(ウッ)!であるからだろうか、いやいや鵜(ウッ)!ではないのに、と言った方が似つかわしい。そもそも、鵜という鳥の名は、鵜飼に使うことから名づけられたと思われる。Cormorant は鵜飼用に飼育されて手なずけられ、環か紐で首を結わえつけられ、大きな魚を飲みこむことができず、漁師のもとに引きずられてはウッと吐き戻している。だからその名で呼ばれている。
 「家念はざらむ」も反語である。家を思わないことであろうか、いやいや家を思うことであろう、の意味である。その両方の反語をきちんと伝えなければ正しい理解ではない。すなわち、鵜であると家を思うはずである。(私は)そんな鵜ではないのに、家を思わないだろうか、いやいやそんなことはなくて家を思うであろう、という意味である。

瓦を葺いたように重なる羽を乾かす鵜

 鵜であることが家を思うことと結びつけて考えられていた。その証拠は、鵜葺草うがやふき不合あはせずのみことの逸話に残されている。鵜の羽で産屋の屋根を葺こうとして途中まで進めて行ったが最後まではできず、そこで子を産んでいる。鵜の羽はちょうど瓦葺きの屋根のように葺き下ろされており、甍のところだけ瓦状の羽が被さらない姿をしている。鵜飼に使役され、獲った大魚を飲み込むことができずに胸ばかり膨らませている。ムネが大きいから、甍いらかを葺くべき大棟おほむねのところへ注目が行く。そして、鵜という鳥は他の水鳥と違い、尾脂線からの脂で羽をケアすることがなく、水に濡れたらそのままびしゃびしゃになる。一仕事終えて陸にあがったら羽をばたつかせて乾かしている。釉薬などかけていなかった古代の屋根瓦は、濡れると灰色から黒色になるように変化していた。鵜は必ず家の瓦葺き屋根を連想させていた(注4)
 このことから、鵜であるのならきっと家を思わないことはないだろう、という前提が、上代に常識化していたことが判明する。cormorant は鵜飼用に飼育されていて、まるで家に帰ってくるように獲物を捕ったら必ず帰ってくる。その常識を踏まえ、この歌は歌われている。私はそんな鵜であるからだろうか、いやいやそんな鵜ではないけれど、家を思わずにいるであろうか、いやいや思うことであろう、の意である。この歌は山部赤人の作である。題詞に「辛荷の嶋を過ぎし時、山部宿禰赤人の作る歌一首〈并せて短歌〉」とある。「からの島」に着想を得ている。「玉藻苅る」のカルはカラニを導くというよりも、カラニを強調するために思いついた語である。カラニからカラ(柄)が思い起こされ、鵜飼の鵜の首を結わう藁のカラのことが連想されて鵜が歌の主題に据えられている。「しま」とあるのは、島を廻りながら鵜飼をするのではなく、鵜飼船の周りを鵜が廻ることから用いられている(注5)。船に載せられて沿岸の海上へ連れて行かれて漁をさせられている鵜にとっては、鵜飼船が島に当たる(注6)。カラニ(辛荷)の島だから正しい。漁をする鵜飼船は、漁を進めて獲物であふれかえるまで、カラニ(空荷)の船に当たる。より正確には、どんなにたくさん獲っても最後まで空荷の船である。船には鵜を入れていた鵜籠が置かれている。鵜飼の最中は出払っており、連れて帰るために空けておく。だからカラである。鵜は、鵜飼において、大魚を獲って来ては小魚が与えられて再び漁をする。漁師が納得するまで獲物を捕りきらなければ鵜飼漁は終わらない。鵜がそのことを自覚しているかどうかはわからないが、はたから見ていると、鵜は早く家に帰りたがっているかのようにせっせせっせと漁をこなしている。「嶋廻する鵜」という言い方は言い得て妙である。そのような様子に当てはめて赤人は人間の気持ちを言い表そうとしている。まことによくかなった比喩表現である。だから、カラニの歌が歌われている。カラニは、上代語で、おのずとそういうことになる、ちょっとしたことでそういうことだ、といった必然性を言い含めている。すなわち、語義の説明が歌の中に循環し、歌をもって語り尽くされるようになっている。無文字文化においては、言葉(音)の説明は言葉(音)によるしかなく、辞書の役割を果たすのに最も効果があるのは、ある発語を同時逐語的に自己言及してゆくことであった。AI(人工知能)的な即答が万葉歌の一面ということになる。
 そんな鵜ではないけれど、まるでそんな鵜と同じように、言われたとおりに船をひたすら漕いでいる立場にあるのが、歌を歌っている山部赤人の立場である。彼が実際に水夫として働いていたわけではなかろうが、歌い手の視点は漕いでいる人たちとともにある。船長の言うことに逆らったりせず、鵜と同音の「」と従っている。「かぢき」とあり、船には多数のオールを取り付けている。赤人は、同調して漕いでいるたくさんの水夫の総意を歌っている。息を合わせてオールを揃えなければオールどうしがぶつかって役に立たない。それはまるで鵜飼いの鵜が、鵜匠の巧みな手綱さばきに従って絡まることがないのと同じである。水夫の立場に立つ赤人は、鵜飼に使われている鵜と同等であると感じていることを歌っている。だから、鵜が歌の主題としてとり上げられている。そして、そんな鵜では自分はないのに、鵜が家の屋根を表すような姿のことからも、自らの家のことを思うと言っている。早く帰りたい一心で、鵜飼の鵜さながらに船長の指示通りにウンと答えて一糸乱れず行動している。
 万943番歌の「鵜にしもあれや 家念はざらむ」は二重反語構文であった。上代人の言葉づかいはまるで鵜匠の手綱さばきのように上手な多重構造を成している。現代人には理解しにくく感じられるのは、平板な言語生活しか知らないからである。万943番歌への無理解は、そんな事情を白日の下にさらしている。

(注)
(注1)この歌は、山部赤人の長歌と反歌三首から構成されている。周知のとおり、長歌につづく反歌は長歌と意味連関の強い短歌である。万942番歌の理解なくして万943番歌の理解には至らない。カラ(辛)、カレ(離)、カル(苅)の音連関は当然の結び付きがある。

  辛荷からにの嶋を過ぎし時、山部宿禰赤人の作る歌一首〈并せて短歌〉
 あぢさはふ いもが目れて 敷栲しきたへの 枕もかず 桜皮かには纏き 作れる舟に かぢ貫き が漕ぎ来れば あはの 野嶋も過ぎ 印南いなみつま からの嶋の 嶋のゆ 吾家わぎへを見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重ちへになりぬ 漕ぎむる 浦のことごと 行きかくる 嶋の崎々 くまも置かず 思ひそ吾が来る 旅の長み(万942)
  反歌三首
  たま藻苅もかる からの嶋に しまする にしもあれや 家おもはざらむ(万943)
 嶋がくり 吾がぎ来れば ともしかも 大和へのぼる くまの船(万944)
 風吹けば 浪か立たむと 伺候さもらひに 都太つだの細江に 浦がくり(万945)

(注2)稲岡2002.に「「鵜にしもあれや家思はざらむ」は、いっそ鵜ででもあればよいがという気持で言う。」(35頁)、新大系文庫本に「海鵜は、多くの場合、秋に飛来し、春に北へ帰る冬鳥。下二句は難解だが、旅の鵜に愁いの様子がないのを見て、鵜だからそうなので、私は望郷に苦しまないでおられないという気持の表現であろう。」(161頁)とある。理解できていない。
(注3)応神記、仁徳前紀の諺に、「海人なれや、己が物から泣く」とある。佐佐木2013.に論じられているが、核心までは至っていない。拙稿「記紀の諺「海人なれや、己が物から泣く」について」参照。
(注4)拙稿「鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について」参照。瓦葺きの屋根は海神の宮に想定されており、竪穴式住居が多かった一般民家には見られないが、「家」を思わせないものはない。
(注5)野生に棲息する cormorant について、この歌においてのみ自然観察して歌に詠んでいるとは考えられない。なにしろその鳥は、ウ(鵜)というヤマトコトバに該当しない恐れがある。
(注6)湾内のように波の穏やかな海で、ボラ漁などのために鵜飼が行われていた。

(引用・参考文献)
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
木下2000. 木下正俊「「斯くや嘆かむ」といふ語法」『万葉集論考』臨川書店、2000年。
佐佐木1999. 佐佐木隆『萬葉集と上代語』ひつじ書房、1999年。
佐佐木2001. 佐佐木隆『萬葉集構文論』勉誠出版、平成13年。
佐佐木2013. 佐佐木隆「海人なれや、己が物から泣く─上代語の表現─」『学習院大学研究年報』第60輯、2013年3月。学習院大学学術成果リポジトリ http://hdl.handle.net/10959/3792
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解2』筑摩書房、2009年。

加藤良平 2018.3.16初出

万葉集3617番歌の「蝉」はツクツクボウシである説

 万葉集中に「せみ」という言葉を歌中に詠みこんでいるのは、遣新羅使の一行の道中の万3617番歌一首に限られる。

  芸国きのくにながの島にしていそ舶泊ふなはてして作る歌五首
 石走いはばしる 滝もとどろに 鳴く蝉の 声をし聞けば 都し思ほゆ〔伊波婆之流多伎毛登杼呂尓鳴蝉乃許恵乎之伎氣婆京師之於毛保由〕(万3617)
   右一首はおほいしの蓑麿みのまろ

 題詞に「せみ」という言葉が登場するのは以下の三~四例である。万1479番歌で「晩蝉」と書いてヒグラシと訓むことは、歌中に「日晩」とあるから正しいと思われる。歌われているのはみなヒグラシである。

  蝉を詠む
 黙然もだも有らむ 時も鳴かなむ ひぐらしの〔日晩乃〕 物思ふ時に 鳴きつつもとな(万1964)
  蝉に寄す
 ひぐらしは〔日倉足者〕 時と鳴けども 恋ふるしに わや我は 時わかず泣く(万1982)
  蝉を詠む
 夕影ゆふかげに 鳴くひぐらし〔来鳴日晩之〕 幾許ここだくも 日ごとに聞けど かぬ声かも(万2157)
  大伴家持の晩蝉ひぐらしの歌一首
 こもりのみ ればいぶせみ なぐさむと 出で立ち聞けば 来鳴くひぐらし〔来鳴日晩〕(万1479)

 ヒグラシを歌った歌はほかに五例ある。

  (風を詠む)
 萩の花 咲きたる野辺のへに ひぐらしの〔日晩之乃〕 鳴くなるなへに 秋の風吹く(万2231)
  (新羅につかはさえし使人つかひひとの、別れを悲しびて贈答し、またうなにしてこころいたましめ思ひをぶ、并せて所に当りてうたふ古歌)
 夕されば ひぐらし来鳴く〔比具良之伎奈久〕 駒山こまやま 越えてそが来る いもが目をり(万3589)
   右の一首ははだの間満はしまろ
  (安芸国の長門の島にして礒辺に舶泊して作る歌五首)
 恋繁こひしげみ なぐさめかねて ひぐらしの〔比具良之能〕 鳴く島陰しまかげに いほりするかも(万3620)
  (筑紫のたちに至りて遥かに本郷もとつくにを望みて悽愴いたみて作る歌四首)
 今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松蔭やままつかげに ひぐらし鳴きぬ〔日具良之奈伎奴〕(万3655)
  (八月七日の夜に、かみ大伴宿禰家持のやかたつどひてうたげの歌)
 ひぐらしの〔日晩之乃〕 鳴きぬる時は 女郎花をみなへし 咲きたる野辺のへを 行きつつ見べし(万3951)
   右の一首は大目だいさくわん秦忌寸はだのいみき八千やちしま

 以上をまとめると、万葉集に歌われているセミはヒグラシが九首確認でき、単にセミとして歌っているものは一首のみであることになる。時代別国語大辞典の「ひぐらし」の項に、「【考】古今集以下になると、ひぐらしは秋のもの、せみは夏のものと区別されるが、万葉ではその区別がなく、ひぐらしと受け取りにくいものもあり、「詠蝉」の題のもとにひぐらしが詠まれたりしているので、せみ一般のことを称したという説、あるいは一種の歌語として蝉を詠む時はヒグラシとしたものかとする説などがある。しかし、大部分が秋や夕暮れの景物として詠まれているのだから、やはりかなかなぜみのこととして差し支えない。その特徴的な鳴き声は、せみの中でも、もっとも注意を引きつけたものであろう。」(607頁)とある(注1)
 おおむね妥当な解説ではあるものの、歌を詠むときにヒグラシに注意が向いたのは前例を踏襲しているからであって、人が一般に注意を向けたとは限らない。ミンミンゼミは民主主義の譬えに使われるし、ツクツクボウシの鳴き声は、途中から鳴き声が逆転して最後に余韻を残して鳴くところなど、音楽的な聴覚からすればよほど注意を引く。なのになぜヒグラシばかり持ち上げているのか。ヒグラシの歌の用例を見れば、夏の終わりから秋にかけ、日暮れ時、物思う時、特に恋する人と別れて寂寥感を覚えるときに歌われている。ヒグラシというのだから、日暮れ時のことを歌うのに使われるのは当然である。ヒグラシの生態として、日暮れ時に鳴くからヒグラシと名づけられている。そして、どちらかといえば夏の盛りよりも秋口になるほどよく現れる。さらに、鳴き声がカナカナカナと聞こえてカナカナゼミとも言われるように、それはカナシ(愛・哀・悲)の語幹を表しているから、物悲しさに結びつけて歌われている(注2)。これは駄洒落なのか、それとも、カナシ(愛・哀・悲)という語の語源に関わる事柄なのか、証明しようにもできないことである。理屈について一般の人は考えない。なんとなくそんな気がすると思い、その言葉を使って歌を歌ってみている。いけないことなど何もない。語感が重要なのである。相手に通じればそれでいい。多くの人の共感が得られたから、物悲しいことを表すのにヒグラシを使うようになっている。それ以上でもそれ以下でもない(注3)
 その延長上にとらえて、万3617番歌の「蝉」もヒグラシのこととする考え方がある。けれども、都のことを思っていてヒグラシが鳴いていよいよ思慕の情が深まったという歌ではない。第五句で「都し思ほゆ」と最後に出てくる。蝉の鳴き声を聞いて、その確定条件のもとに都のことが思い出されている。岩波古語辞典に、「文末に、「大和し思ほゆ」「家し偲はゆ」など、自発の意を表わす助動詞「ゆ」を含む語の用いられることが多いが(4)、この場合も、「自然に思われてくる」「自然に偲ばれる」の意で、話し手の気持を自然な流れとして表現するもので、話し手の積極的・作為的な主張を提示するものではない。……自発の助動詞「ゆ」と呼応するものなどには、現代語に適切な訳語が見当らない。現代にはこのようなやわらかな表現法が存在しないからである。……(4)「葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し(大和ナドガ)思ほゆ」<万六四>」(1494頁)とある。すなわち、蝉の鳴き声を耳にして、ふわっと自然な流れで都のことが思い出されると言っている。例にあげられている万64番歌は、そうそうそうだったよなあ、大和も、という思い出し方をしている。万3617番歌で、そうそうそうだったよなあ、都も、という思い出し方をするためには、「蝉の声」から自然に都が思い浮かんだはずである。ヒグラシのカナカナカナという鳴き声から、流れとして円滑に都の情景が彷彿と浮かぶことはない。ホームシックで切なく感じることは表現し得うるが、直接的に声を聞いたから都が自然と思われると捉えることできない。思考回路として入り組んでいて、「都し思ほゆ」の助詞シが「作為的な主張を提示するもの」になってしまい、用法に合致しない。
 橋本2009.は、この万3617番歌の「蝉」はヒグラシではないと論じている。「当時、セミ科の昆虫を表わす歌語は「ひぐらし」と歌うのが通例だった。しかし「ひぐらし」という歌語の性格は、人恋しさや物悲しさなど個人的な憂いにつながっており、蓑麻呂が訴えたかった、誇り高い「都」の生活を歌うには全く適していなかった。そこでやむを得ず漢語の「蝉」を使用したと思われる。蓑麻呂はさまざまな類型によりながらも、いかに「蝉の声」と「都」が直結するかを述べるために趣向を凝らしている。「蝉」という漢語を用いたのもその趣向のひとつであろう。従って『万葉集』においては、「ひぐらし」と「蝉」は全く異なるものと捉えていることになる。」(13頁)とする(注4)。万3617番歌の「蝉」がヒグラシでない点はそのとおりであろう。
 さらに、万3617番歌に、「蝉の声をし聞けば都し思ほゆ」と、強調の「し」を重ねて使っている点について考察を加えている。万葉集中に、「し」を二つ使って思い入れの強さを歌った作として万913番歌をあげている。

 …… 朝霧あさぎり立ち 夕されば かはづ鳴くなへ ひもかぬ 旅にあれば のみして 清きかはを 見らくしも(万913)

 「紐解かぬ旅」とは単身赴任の公務の旅を言っており、助詞シで強調することで、ああこれは一人の寂しい旅なのだ、と確かめられたので、自分だけできれいな川原を見ていることが惜しまれてきて、妻と二人で見たかったという思いを陳述している。万3617番歌でも、蝉の声を聞いてああこれは蝉だ、と確かめられたので、まったくもって都のことが思われることだと述べている。
 これは奇妙なことである。「長門の島」という田園部で蝉の声を聞いて、都市部の「都」の蝉を思い出している。都市部の方が蝉が多いことはない。また、どうして都にいたと思われる官人が、蝉などに強く心を惹かれているのであろうか。ほとほとに頓珍漢な問題である。
 上で「ひぐらし」を歌語(?)としている理由を、その名前にまつわる日暮れ時のことと、その鳴き声のカナカナカナから悲しい情とを結びつけて歌っていると考えた。駄洒落のセンスばかり際立っている。同様に駄洒落のセンスをもって考えるなら、おほいしの蓑麿みのまろ(注5)が言いたかったのは、「蝉」という言葉の別の意味、船のほばしらや寺のはたほこの先端にあって、帆や幡を吊るしあげるための滑車のことであろうと考えられる(注6)。そんな滑車の中で、都で使われて写経師の大石蓑麿にとって身近な存在は、車井戸の滑車しか思い浮かばない(注7)。井戸水を汲みあげて、その水で墨を磨り、紙を染め、飲み水にもした。掘り井戸なのにたくさんの水を得ることができたのは、井戸滑車のおかげであると思うことができる。「石走る滝もとどろに」と表現できる激流の水量ぐらい得ることができたものだと思い出している。つまり、激流的水量のとどろ的鳴声と、蝉という言葉の二義をそれぞれ掛けてこの歌は作られている。
 その滑車としての蝉は、鳴き声としてはカナカナカナではなかろう。ヒグラシの実際の鳴き声の清い音声と、滑車の鳴る音とは似ていない。滑車の軋む音と考えるなら、ギーギーだかジージーだかそういったくり返しの音を発するセミかとも推測される。アブラゼミやクマゼミなどは候補である。しかし、そのような物理的な音響のことを言っているのではなく、蝉にして最も音楽的センスの豊かなツクツクボウシの鳴き声におもしろみを覚えているのではないか。途中から反転するような声は、車井戸の滑車(「蝉」)の回転の反転を表しているようでふさわしい。作者が写経生であっただけに、法師と名づけられているセミには親近性がありそうである。イントロやラストのジーと鳴くところなど、釣瓶から水を移し替えている場面の再現ではないかとさえ感じられる。そして最大の理由は、彼の名がおほいしの蓑麿みのまろというところにある。ツクツクボウシは途中からオーシーツクツクと鳴き声を裏返す。オホイシ蓑麿である。オホイシツクツク、オホイシツクツクと鳴いている。セミは丸いお腹をしてそれに蓑を羽織ったような姿をしている。メタボ気味の彼が、お腹を揺らしながら歌でも歌った日には、からかわれることもあっただろう。そんなからかわれを逆手にとって名歌を残した。名に所縁があるから下級官吏にすぎないのに作者名が記されている。
 以上、万3617番歌の「蝉」は、ツクツクボウシのことで、都の井戸滑車の「蝉」を彷彿とさせて歌った歌であることを語学的に証明した。万葉集研究でしなければならないこととはこのようなことである。

(注)
(注1)東1935.に、「[ヒグラシは、]私は恐らく日中を鳴き暮らすと云ふ意味で、最初は蝉の総名として用ひられたのではなからうかと思ふ。」(410頁)、「尚萬葉集中には「うつせみ」を詠んだ歌が四十首ばかりあつて、空蝉、虚蝉、打蝉、欝蝉、宇都蝉、打背見、宇都世美、宇都勢美などと書かれてゐる。この「うつせみ」は現身うつしみの転じたもので、現身又は現世の意であり蝉の字は勿論借字である。萬葉集中に詠まれた「うつせみ」は全部この意味のもので、蝉とは全く関係ないものである。」(412頁、漢字の旧字体は改めた)とある。「うつせみ」という語については、ミは甲類で、(ミは乙類)と音が異なり、雄略記に見えるウツシオミ(=ウツシ(現)+オミ(臣))の転であることが説かれて今日の通説となっている。また、ここに借字している「蝉」字は、鋳造鋳型の連想に蝉の羽化の状況を捉えたところから、現世に現れた臣下の意を強調する絶好の描写と思われて用いられている。詳細は、拙稿「一言主大神について」参照。そして、ヒグラシは万葉集の用字において「日晩」とある点や歌意から、夕方に鳴くカナカナゼミ、今日でもヒグラシと呼んでいるセミのことであると考えられるに至っている。
 佐々木2004.に、「万葉集の「ひぐらし」の歌にみられるのは、日の暮れ、夕方に鳴くセミの声を聞くことによって、恋情や鬱屈といった内面の晴れやらぬ心情が迫り上る作者の心情提示であった。景と情の融合であった。万葉集が、「蝉」(一首はあるが)ではなく、歌のことば「ひぐらし」を取り上げ九首に歌ってあることは、そして、「日晩」・「日晩之」の表記が五例あることは、万葉集の人々の、日暮れ、夕方に意識される思いと、その時間帯に鳴くセミの聴覚音声・印象とが融合されるものであったことを示していよう。万葉集の「ひぐらし」歌は、夏の終わりから初秋の「日の晩」に、夕べに鳴くセミを取り上げ歌った歌であり、「ひぐらし」は、その「日の晩」、夕べに鳴くセミを、己が心情を通わすことができるものとして捉え歌った歌のことばであったといえよう。」(358頁)とある。指摘のとおり、万葉集での「ひぐらしは、「[奈良朝にあって、懐風藻などに用いられる]詩語「蝉」の世界とは別趣な、抒情世界を形成して」(同頁)いたのであって、漢字文化圏の物色として共通するかのような捉え方は、およそナンセンスと言わざるを得ない。
(注2)万3589番歌を含む歌群の題詞に「遣新羅使人等、悲別贈答、……」(万3578番歌の前)とあり、巻第十五の目次に同様にある。例示した歌では、検討している万3617番歌のほか、「ひぐらし」を歌った万3620・3655番歌も巻第十五に含まれる。白川1995.に、「かなし〔愛・哀・悲〕 どうしようもないような切ない感情をいう。いとおしむ気持が極度に達した状態から、悲しむ気持となる。……〔岩波、古語〕に、思うことのかなわぬ意の動詞「かぬ」の形容詞形、「うれふ~憂はし」と同じ関係であるとし、阪倉篤義説に、自己の不充足感から他を「ね」ようとする心情をいうとする。また柳田国男・吉田金彦説に、感動助詞「かな」の形容詞形とする。この第三説が、その語形を説きやすいようである。」(236頁、漢字の旧字体は改めた)とある。ヒグラシの鳴き声の捉え方からして、筆者も同意見である。
(注3)昨今、東アジアの漢字文化圏のなかに万葉集を位置づけようとする不思議な試みが研究者の間で行われている。漢籍の素養をもって万葉歌がたくさん作られたかのように捉えたがっている。そして、万葉集の原文表記の字面から漢籍を学んだ結果であるとの報告が行われている。もしそれが本当のことなら、当時、ほんの一握りの知識人の間でのみ歌は通行するものだったことになる。万葉集に東歌や防人歌が一緒くたに編まれていることの説明がつかない。懐風藻に東漢詩、防人漢詩があるだろうか。歌として歌われて音声言語としてあったものを筆記したのが、今、万葉集の伝本として伝わっている。ほとんどの言葉がヤマトコトバから成っているのは、ヤマトコトバが話されていたからで、ヤマトコトバでなければ歌われても人々にはわからなかったからであろう。「漢字は、その音訓を通して国語の表記に用いられる限りにおいて、それは国字に外ならぬものであること」(白川2004.2頁)を忘れてはならない。
 井上2008.に、「万葉集の表現のなかでのヒグラシは、秋の物色として認識されていたとみるべきであると考える。……このような物色とは、中国詩文からもたらされた概念を和歌においてどう取り込むかという際にかたち作られていった漢字と和語の混合物ということができる。つまり、漢字文化圏における文字と地域性のある音声言語との関わり方の一例であると捉えている。そして、そのような混合物の形成の背景には、律令という汎東アジア文化の共有があり、国家の形成に伴って四時および物色の概念を取り入れたことが直接の契機であったと考える。」(45頁)とある。
 筆者はそうは考えない。カナカナカナと日暮れ時に鳴くセミのことをヒグラシと、それはそれは昔からヤマトコトバでは呼んでいた。カナカナカナと鳴くから悲しいことと関連があると戯れて歌の言葉に使っている。とても機智のある言葉づかいである。中国詩文からカナカナゼミのイメージを学んだのではなかろう。日暮れ時によく鳴くからヒグラシであり、字を当てる際に「日晩」としただけである。井上2008.には、「漢語において、「日晩」は生物の名にはならない」(46頁)と、自ら芸文類聚や文選の例をあげている。漢語にカナカナゼミのことを表わさないのに「日晩」と書いて納得している。ヤマトの人に限ってのことである。朝鮮半島の人がどのように書いていたかについては措くとして、近くで鳴いているセミの「概念」なるものを、カナカナゼミのヒグラシのことを「日晩」と中国で書かないのに中国詩文から学んだとする見解がどうして提出されるのだろうか。当たり前の話だが、当時においても今日においても、文字言語の歴史よりはるかに長い歴史を背負って音声言語は存在している。カナカナゼミも漢籍が伝わるよりずっとずっと昔から列島で身近に鳴いていたことだろう。
 もちろん、ひょっとすると古生物学にヒグラシが歴史時代になって列島に渡ってきたのかもしれず、また、縄文時代にカナカナとは鳴かずに違う鳴き方をしていて突然変異を遂げたものかもしれないし、人間のほうがカナカナとは別の音として認識していたのかもしれない。よって断言することはできないし、検証できないことは科学ではないが、言葉を科学することだけで言葉がわかるとは到底思われない。
 小学生に向かって、ほら、ヒグラシが鳴いている、夏も終わりだ、悲しいね、などと言った時、子どもが、何で悲しいの? と聞き返したとしよう。だって、カナカナカナと鳴いているじゃないか、と答えるだけでその問答は完了する。もし完了しなかったら、その子は夏休みの終わることの何たるかを知らない長期不登校児か、あるいは言語能力において厄介な問題を抱えていると言わざるを得ない。そして、このようなことは学校で教わるものではない。
(注4)セミ(蝉)を漢語、ないし漢語に由来するとする説はあるものの、新撰字鏡に、「蟬 時旃反、蜩也、世比せび」、「嚖 虎惠反、虫聲、世比乃己惠せびのこゑ」とある。セビという古形があってセミへと転化したとすると、漢語由来であるとは認めがたい。盆をボン→ボニと言いやすいように漢語を変えた言葉は、もっぱらもともと本邦にないもの、観念としてないものだから新語を造ったということになる。列島に cicada が馬(マ→ウマ)などのように連れて来られたのではなかろうから、ヤマトコトバにセミ(セビ)という語はすでにあったと思われる。蝉(セン)という音に近づけるために、セビ→セミへと馴化させた可能性は残る。もちろん、そのようなことがあったとしても、それは単なる口遊びである。
(注5)大石蓑麿という人物は、正倉院文書(大日本古文書・巻之二十四)・天平十八年十二月条に、「王廣麿 冩經百六十(六)張〈之中三枚、依大石䒾万呂先用紙、〉」(東京大学史料編纂所https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0024/0392?m=all&s=0391&n=20)とある人物に当たり、写経生しゃきょうしょうとされている。
(注6)名語記に、「セミ 問 夏ナク セミ如何 答セミハ蟬也 スヱムシノ反 木ノスヱヲコノメル故歟 次 船ノホバシラ乃サキヲセミトナツク如何 蟬ノ形ヲツクリ ツケタルハイフ也」(836頁)、日葡辞書に、「Xemi.セミ(蟬)蟬.¶Xemiga naqu.(蟬が鳴く)蟬が鳴く./Xemi.セミ(蟬)帆を巻き上げたり上へ揚げたりするために,帆柱の先端にある滑車.」(749頁)とある。高いところの物を引き上げるために竿の先につけられた滑車のことを蝉といい、帆船、建築、土木に用いられたものをそう呼んでいる。金沢兼光編・和漢船用集に、「セミ 明律考佼轆カウロクと書。旗竿の蟬、本に同じ。……綱と車と揉合つよく[コガノキの]外の木を用る時ハ火出る者也。古賀の木を用ることハ其災有ことなし。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018378/414~415?ln=ja)とあり、コガノキはカゴノキのことという。木製滑車は摩擦熱で火が出ないように注意が必要だったらしい。それだけ力を受けるのだから、滑車が剥き出しに作られるのではなく、車軸が外れないように上下にロックするように枠組まれていたものが本来の形であったと考えられる。木に止まって鳴くセミの、体が羽の長さ以内に納まるさまと同じである。
 なお、朝鮮半島の寺院に幢竿支柱の遺物は多い。斎藤2003.は、朝鮮半島において、幢竿を檣の名で呼称したことに関して、風水思想に基づいてなされたものであると考えている。「慶州市乾川邑乾川里にある幢竿支柱のについて「金庾信将軍旗幢支柱」といわれ、新羅統一に功をたてた英雄金庾信が百済軍を迎えうつために大軍を駐屯させた時に旗を吊るすために建てたものという伝承がある……。軍旗としての幢竿の類とむすびつけられた伝承として興味深いものがある。」(175~176頁)といい、風水思想との関係がある一例にあげている。筆者は、少なくとも本邦においては、滑車の仕組みにこそ刮目すべき点があって、そのからくりについて蝉という言葉で理解したところに共通項があると考えている。

左:船のセミ(鳥羽市立海の博物館展示品)、右:井戸滑車(一乗谷朝倉氏遺跡の復原井戸)

(注7)考古学では、井戸の滑車はなかなか出土しない。有機質である点や壊れない限り他へ転用された可能性が高いこと、また、そもそもたくさん水を汲みあげる必要のある深い掘り井戸で、撥ね釣瓶では対処しきれない狭いスペースに設置されるもの、といった限られた条件下の稀少な存在であったかもしれない点も考慮しなければならない。現代人は、とかく便利な機械が付いていればいるに越したことはないと考えがちであるが、発展途上国へ援助したまま放置されている機械が多いことも参考になるだろう。メンテナンスが行き届かなければ永続的な利用には結びつかず、電動のものなどは電力が安価で安定的に確保されなければ無用の長物と化す。車井戸とただの釣瓶井戸との違いにおいて、井戸の滑車を支える支柱を掘っ建てた場合、腐るのは時間の問題であるし、そのたびに作りかえるのがコストの面から賢明か否か、また、井戸のそばに穴を掘ることは井戸側の崩壊につながりかねないから注意しなければならない。最悪の事態は、井戸の滑車を子どもがおもしろがって玩具にして遊び、死亡事故につながることである。その点、写経所近くに設けられた平城京の井戸には、高い蓋然性をもって滑車が付けられていたと考えられる。天平期の写経活動は国営事業としてとみに盛んであり、字を写し間違えると写経生は罰金処分にあうといった規律が伝わっており、現在も荼毘紙などに書かれた経典を多数目にすることができる。天平六年(724)に官立の写経所が設けられ、万3617番歌は天平八年(736)の遣新羅使の途上で歌われている。写経司、写経所が何人規模の役所であったか筆者は不勉強で知らないが、正倉院文書には、七百名を超える写経生の名が見えるという。一人で一日三千字写したとされている。国家的大プロジェクトだから水道システムもデラックス版にしたことは窺えよう。その井戸の滑車をセミと呼んでいたと思われる。cicada に姿がよく似ていて、高い木の上に止まっており、軋む音をくり返していた。セミと名づけてとてもわかりやすい。

(引用・参考文献)
井上2008. 井上さやか「「日晩(ひぐらし)」という表語─漢字文化圏における万葉歌の位置を探るために─」『万葉古代学研究所年報』第6号、財団法人奈良県万葉文化振興財団万葉文化研究所、2008年。奈良県立万葉文化館ホームページ https://www.manyo.jp/ancient/report/
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
斎藤2003. 斎藤忠『幢竿支柱の研究─アジアの特殊仏教石造文化財の系譜Ⅰ─』第一書房、2003年。
佐々木2004. 佐々木民夫『万葉集歌のことばの研究』おうふう、平成16年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川2004. 白川静『新訂 字統』平凡社、2004年。
宋2009. 宋成徳「蝉、ひぐらしを詠む万葉歌と中国文学」『京都大学國文學論叢』第20号、2009年2月。京都大学学術情報リポジトリ http://hdl.handle.net/2433/137380
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
橋本2009. 橋本美津子「滝もとどろに鳴く蝉─『万葉集』のまなざし─」『語文』第134輯、日本大学国文学会、平成21年6月。
東1935. 東光治『萬葉動物考 正編』人文書院、昭和10年。
名語記 経尊著、田山方南校閲、北野克写『名語記』勉誠社、昭和58年。

加藤良平 2017.12.25初出

万葉集の「幄」について(大伴家持作歌)─万3965・4089番歌─

 大伴家持には「幄」字を使った前文、題詞の歌がある。

  じょう大伴宿禰池主いけぬしに贈れる悲しびの歌二首〔贈掾大伴宿祢池主悲歌二首〕
 たちまちに枉疾わうしつに沈み、旬をかさねて痛み苦しむ。百神をたのみてかつ消損せうそんを得たり。而もなほ身体いたつかれ筋力怯軟けふなんにして、未だ展謝にへず。係恋けいれんいよよ深し。方今いまし春朝には春花、にほひを春苑につたへ、春暮にはしゅんあう、声を春林にさひづる。此の節候にむかひて琴罇きんそんもてあそぶべし。興に乗るおもひ有れども、つゑく労にへず。独りあくうちに臥して、いささかに寸分の歌を作り、かろがろしく机下きかに奉り、玉頤ぎょくいを解かむことを犯す。其のうたに曰はく、〔忽沈枉疾累旬痛苦禱恃百神且得消損而由身體疼羸筋力怯軟未堪展謝係戀弥深方今春朝春花流馥於春苑春暮春鶯囀聲於春林對此節候琴罇可翫矣雖有乗興之感不耐策杖之勞獨臥帷幄之裏聊作寸分之歌軽奉机下犯解玉頤其詞曰〕
 春の花 今は盛りに にほふらむ 折りてかざさむ 手力たぢからもがも(万3965)〔波流能波奈伊麻波左加里尓仁保布良牟乎里氐加射佐武多治可良毛我母〕

  独りとばりうちに居て、遥かに霍公鳥ほととぎすの鳴くを聞きて作る歌一首〈并せて短歌〉〔獨居幄裏遙聞霍公鳥喧作歌一首〈并短歌〉〕
 たかくら あまつぎと すめろきの 神のみことの きこす 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥ももとりの 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか きてしのはむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥ほととぎす 菖蒲草あやめぐさ 珠くまでに 昼暮らし 渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし(万4089)〔高御座安麻乃日継登須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久尓能麻保良尓山乎之毛佐波尓於保美等百鳥能来居弖奈久許恵春佐礼婆伎吉乃可奈之母伊豆礼乎可和枳弖之努波无宇能花乃佐久月多弖婆米都良之久鳴保等登藝須安夜女具佐珠奴久麻泥尓比流久良之欲和多之伎氣騰伎久其等尓許己呂都呉枳弖宇知奈氣伎安波礼能登里等伊波奴登枳奈思〕

 今日まで、万3965番歌の「あく」と万4089番歌の「とばり」は同じものであると解釈されている。万3965番歌の前文は漢詩文だからヰアク(帷幄)であり、万4089番歌は題詞だからトバリ(幄)と読み違えているだけで、実質的に同じであると考えられている(注1)
 部屋の使い方、布の仕切りの用途について、きちんと説明されて来なかった。

 獨臥帷幄之裏(万3965)
 獨居幄裏(万4089)

 両者の違いは一目瞭然である。上は寝ている。下は座っている。当然、「帷幄」と「幄」は何かが違う。小泉1995.は簡潔に述べる。「古代の貴族住宅の大きな特徴は一棟一機能で、これが敷地の中にそれぞれ独立して建っていたことである。つまり寝るための寝殿(しょう殿でん)、炊事をするための厨屋、穀物を納めておくための倉、脱穀・精米するためのうす等々と、機能ごとに建物が分かれていたということである。」(75頁)。寝室と居間は別の部屋であった。大伴家持は越中国の国司として派遣されている。昼間は国衙に勤め、夜は国司館に帰って寝る。つまり、3965番歌は、病臥していているから出勤しておらず、官舎の国司館でお休みしている。国司館については出土例が少ないながらも存在は確かである。官舎を与えられる国家公務員の転勤は現在も続いている。他方、4089番歌は、国庁の役所、国衙へ出勤してそこで歌われている。
 病気でもないのに昼間も着替えないでベッドに座る生活をしてしまったら、なかなか難しい事態に陥る。また、江戸時代の長屋や今日のワンルームマンションのように、「臥」と「居」とが同じ場所というのも、はたして良いものなのか判断が分かれるであろう。畳敷きに押入から布団を出して敷き、朝には仕舞って卓袱台にお皿を並べてご飯を食べる。それらは日本的な生活であると思われているが、少なくとも奈良時代にはなかったことである。奈良時代の庶民はどのように暮らしていたか。おそらくほとんどは竪穴式住居に暮らしていたのではないかと思われ、大伴家持の「帷幄」、「幄」とは無縁の生活であったろう。仮にいずれの歌も部屋の仕切り布の「うち」で歌われたとしても、歌われた場所は違う。官舎の寝間と官庁の居間とでは、張り渡す布帛の色など同じではない。センスの問題である。そこらじゅうに同じ柄のカーテンを懸け吊るしていては、生活にメリハリがなく、潤いが失われる。
 文字の義についておさえておく。幄は、新撰字鏡に、「幄 於角反、入、謂大帳也。覆帳謂之幄、即幕也」、和名抄に、「幄 四声字苑に云はく、幄〈於角反、阿計波利あげはり〉は大帳なりといふ。」、帷は、新撰字鏡に、「帷 於佳反、平、□也。唯也。帳也。連林布張也乎」、和名抄に、「帷 釈名に云はく、帷〈音は維、加太比良かたびら〉は囲ひなり、以て自ら障へ囲ふなりといふ。」とあり、狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「按依釈名所_云、則帷後世軍営施之自囲、呼幕者之類、非加太比良也、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438478/65/)と断っている。軍陣に「帷幄」をめぐらしているのはカタビラとは呼ばないという意味である。万4089番歌の「幄」をアゲハリ(アゲバリ)と訓む解説書も見られる(注2)
 では、国司館の「帷幄」、国衙の正殿の「幄」とはそれぞれどのようなものか。寝所の「帷幄」に関しては参考例がある。天寿国繡帳の銘文に「繡帷二張」とある。天寿国繡帳は刺繡を施した「かたびら」であり、横木を渡した木製の台、几帳台に掛けられて几帳とし、寝所の目隠し、音隠し、といった遮蔽幕として使われた。繡帳は横臥する身体の両側に設置された。よって二枚必要とされている(注3)。大伴家持の万4495番歌題詞に、「六日、内庭假植樹木以作林帷而為肆宴歌」とある。樹木を列にして並べ植えて柴垣のようにしている。垣根版の几帳のようなものと理解できる。他方、大伴家持の万3965番歌の前文の「帷幄」は、「幄」字が添えられている。「幄」字は、テントのことを「幄舎」と言うように、天井を覆う点に特徴がある。和名抄では「幄」をアゲハリと訓んでいる。白川1996.は、「〔釈名、釈牀帳〕に「幄は屋なり。帛を以て板にせて之れを施す。形、屋の如きなり」とあり、蒙古パオのような天幕の家をいう。」(9頁)とする。寝所にあって頭の上を覆うほどの布製のシートとは帳台にほかならない。
御帳台(源宗隆・鳳闕見聞図説、国文学研究所・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020290/14?ln=jaをトリミング) 帳台のある光景(左:板橋貫雄模・春日権現験記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287490?tocOpened=1(15~16/17)をトリミング接合、右:類聚雑要抄巻二 宝禮指図、江戸時代、元禄17年(1704)跋、東京国立博物館研究情報アーカイブズ http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017672)
 帳台は、浜床はまゆかと呼ばれる一段高くしたゆかを設け、その上の四隅に柱を立てて構とし、帳を垂れて中に貴人が入って寝たり座ったりするところである。建物内テントの様相がある。万3965番歌で大伴家持は病臥している。心地よく安静にしてもらわなければならない。この帳台は、やがて周囲が屏風や障子(襖)で囲まれるようになっていく(注4)。建物自体の建具が発達、改良されたおかげで隙間風も少なくなり、障子や蔀戸によって光が採り入れられるようになった。やがて帳台自体が姿を消すことになる。それでも、清涼殿には夜御殿に御帳台、母屋もやにも御椅子が中にあり、狛犬と獅子が番をする御帳台が伝わっている。夜御殿ではその帳台の中に入って寝ていた。国庁のあり方は都の大極殿や朝堂院の様を模したものであり、儀礼、饗宴、政務の場として同じように機能していたと考えられている(注5)
(源宗隆・鳳闕見聞図説、国文学研究所・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020290/31?ln=jaをトリミング)
 国衙や国司館であっても、都の宮殿の真似事が行われていたのである。国司は、任地においては一番位が高くて一番偉い。国司館の建物は平城宮と比べると貧相であっても、わざわざ国司館を建てて暮らしているのだから帳台のなかで寝るのは当然のことである。「独臥帷幄之裏」とあって、「独○○」というところが中国の独坐詩に通じるところがあると指摘されている(注6)が、大の大人が一人だけ病気になったら、自主隔離的に一人で寝ていてもらうしかない。奥さんの看病があったとしても、ゴボゴボと咳をされたら一緒に寝るのは嫌であり、無理強いする人はいない(注7)。これは病室のカーテンといった類のものではなく、貴人は日常的に帳台を使っていたからその垂れ幕のことを言っている。帳台は柱部以外のところは開いていて、そこに几帳が立てられるケースもあった。いずれにせよ、寝所は帳台であり、それを覆う垂れ幕こそ「帷幄」である。
 昼間居る国衙の正殿の「幄」は「幄舎」の「幄」に当たるから、座ったところの頭上に布製の覆いがあることになる。上にだけ翳される天蓋のようなものも想定はできるが、「裏」に「居」るとなるとやはりこれも帳台であると考えられる。平城宮にあるものを簡略化した昼御座が越中国の国衙の正殿にあり、そこから中央政府の意向を伝えるのである。中央集権的な構図はここに固まる。椅子があったか定かではないが、あったとするとわかりやすい。一人掛けの椅子なのだから「独居」なのは当たり前である。四方全部の幕を垂らしているのではなく、前面は開けて政務を掌っている。部下が言ってきたことに対して答え指示を出したり、ハンコを捺いたりしていたのであろう。ホトトギスの鳴き声を「遙聞」していて、縁側(庇)に出ていたのではないことを表している。部屋の中心にしつらえられた帳台の中で聞いている。後に暖簾となる戸のところに懸けられる垂れ幕や、部屋を仕切る間仕切りのための几帳などではない。帳台の覆いに使われている幕ということになる。建物の戸の代わりの幕や几帳の内側であったなら、ヤ(屋・舎)と言えば済むことで「幄」と断る必要はない(注8)。部屋は広く、その真ん中に国司様は座って居る。
 大極殿のような建物がまずある。そのミニチュア版が各国庁にある。国家が国家たらんとして建物が先行している。日本古代国家は形から入って威厳を保っていたようである。そして、とても広い部屋の中に帳台というテントを設営し、一番偉い方はその中に鎮座ましまされた。冬の越中国のことを考えれば、広い部屋の中にテントでも設けなければ寒くていられたものではなかっただろう。高橋1985.に、「奈良時代の住宅の建具は扉だけであった。」(9頁)とある。建具として空間を仕切るものとしては壁と扉しかなく、内部間仕切りのない広いワンルーム建築が行われていた。間仕切りに敷居を設けて引戸や襖障子が走るのは平安時代になってからである。旧藤原豊成の板殿についての文書から推定し、「ほとんど伝統的在来工法によっているなかで、「閾・鼠走・方立・楣・扉」からなる扉口や連子窓、つまり開口部にのみ大陸的な技術が使われている。このことは開口部をつくる伝統的技術をもっていなかったことを示唆するのであろうか。」(10頁)ともある。竪穴式住居のことを思えば、家屋を開け放つという発想がなかったことは頷ける。そんな状況のところへ極端に大きな倉庫式の建物を住居棟としたのだから、いろいろと難点が出てくる。前近代の土蔵住まいや現代の巨大物流倉庫に住むことを想像すれば想像がつく。中は暗く、天井もなくて寒い。ずっと居続けなければならない国司様は、威儀を整えるためにも帳台の中に居るしかない(注9)
 新大系本萬葉集の解説に、「初めの四句[「高御座 天の日継と すめろきの 神の命」]、天皇の御代を讃める表現だが、以下のホトトギスの声を聞く内容から見れば、やや事々しく大げさな感が否めない。「賀陸奥国出金詔書歌」(四〇九四)には、宣命第十三詔と関わりある表現が多いが、その二日前に詠まれたこの歌にも、宣命が意識されているか。「天皇が御世御世、天つ日嗣高御座に坐して」(第十三詔)。」(218~219頁)とある(注10)。宣命を意識していたかどうかはわからないが、宣命を念頭にしてホトトギスの歌を詠うとするのは怪しい。国衙正殿の帳台のなかで詠われた歌であるから、平城宮大極殿の立派な帳台、高御座のことを思い浮かべたものと筆者は考える。題詞から初句へのつながりが素直に理解できる。
 以上のことから、万3965番歌の前文の「帷幄」は国司館の寝所の帳台のこと、万4089番歌の題詞の「幄」は、国衙正殿の国司が居ます帳台のことであると検証された。それぞれをどのように訓んだかについては、万4098番歌の場合は題詞だからヤマトコトバで訓んでしかるべきで、和名抄で「幄」をアゲハリと訓んでいるからそれが正解であろう。トバリという言葉は戸張りの意であり、部屋の内外を仕切る暖簾の前身や、部屋を間仕切りにする几帳の様相が強いから合わない。大伴家持は国司である。平安女流文学の作者であった女官たちが、部屋の隅っこの御簾のたもとや衝立の陰に控えて居たのとは異なる。天皇や中宮などと同じく、トバリからは離れて部屋の真ん中に御座るものである。
 万3965番歌の前文の「帷幄」は国司館の寝所の帳台である。手紙文である。漢語が漢語のまま使われても不自然ではなく、ヰアクでかまわないだろう。あえてヤマトコトバとして訓むのなら、孝徳紀大化二年三月条の「帷帳かたびらかきしろ」に倣い、カタビラアゲハリなどと訓めばよいのだろう。都で天皇がお休みになられる御帳台の布帛ともども、どのような染織品であったかについては後考を俟ちたい。

(注)
(注1)「あく(のうち)」については、大系本萬葉集に「とばりの中。室内。」(202頁)、古典集成本萬葉集に「寝所を囲う布製の衝立ついたて。」(74頁)、完訳日本の古典本万葉集に「張りめぐらした幔幕。地方官が任地の居館内に垂したカーテンをいうことが多い。」((五)357頁)、新編全集本萬葉集に「張り巡らした幔幕まんまく。ここは任地の居館内に垂らしたとばり、病室のカーテンをいう。」(179頁)、新大系本万葉集に「……は部屋の垂れ幕。」(123頁)、橋本1985.に「とばりのこと。大きな室内を区切り隔てる几帳の類。」(140頁)、武田1957.「……は、織物の幕。ここは室内の几帳の類。当時は家屋は、室は大きく、へだてを立てて使用した。室内に臥して。」(十一・416頁)、澤瀉1967.に「……は、とばりとあげとばり。共に幕の類で、ここは室内の意に用ゐた。」(十七・104頁)、土屋1970.に「帷は囲、幄は幕で、引きめぐらした幕の意である。帷幄を軍営の意に用ゐるのは古いが、かうした用法もあるのである。」(八・435~436頁)、多田2010.に「寝所を囲む布製のとばり几帳きちょうの類。」(6・268頁)、中西1983.に「とばり。」(96頁)、伊藤2009.に「布製の衝立。寝所の囲い。」(53頁)、稲岡2015.に「部屋の帳の中」(194頁)とされている。
 「とばり(の裏)」については、古典集成本萬葉集に「垂れ幕の中、部屋の中、の意。」(139頁)、完訳日本の古典本万葉集に「「あく」とも。カーテン。ここは地方官が任地の居館に張りめぐらした幕をいう。→(五)三九六五前文。」((六)46頁)、新編全集本萬葉集に、「三九六五前文(帷幄)。」(254頁)、新大系本万葉集に「……は「帷幄の裏」(三九六五前文)に同じ。」(218頁)、伊藤1992.に「……は垂れ幕の内側。すなわち部屋の内。」(129頁)、武田1957.に「あげばりは、帷幕で張り廻らして作つた家。しかし、疾に沈んで詠んだ歌(巻十七、三九六五)の前文にも「独臥帷幄之裏」とあつて、ここもそれと同じく、室内の几帳きちようの類をいうのだろう。室内にいての意。」(十二・84頁)、澤瀉1967.に「……は倭名抄(六)に「四声字苑云、幄〈於角反、阿計波利〉大帳也」とある。前にも「独臥帷幄之裏」(十七・三九六五前文)とあつた。部屋の内、の意。」(十八・79頁)、土屋1970.に「(作者及作意)家持が一人室内にこもつてほととぎすの鳴くのを聞いての歌である。」(九・58頁)、多田2010.に「「あく」(三九六五の前)。寝所を囲む布製のとばり几帳きちょうの類。」(7・50頁)、中西1983.に「今のカーテンの類。仕切り・蔽いに布を垂らしたもの。」(168頁)、伊藤2009.に「ここは、部屋の中の意。」(118頁)、稲岡2015.に「(「幄の裏」は三九六五前文の「帷幄の裏」に同じ)」(293頁)とされている。
(注2)布帛のカーテンの類について、呼び方は厳密に分けられていたようではなさそうである。和名抄では、ほかに、「幌 唐韻に云はく、幌〈胡広反、上声の重、止波利とばり〉は帷幔なりといふ。」、「帳〈几帳附〉 釈名に云はく、帳〈猪亮反、俗に音は長、今案ふるに之の属に几帳の名有り、出づる所未だ詳らかならず〉は張なり、床上に施し張るなり、小帳を斗〈俗に斗帳と云ふ。一に屏風帳と云ふ〉と曰ひ、形は覆斗の如きなりといふ。」、「幔 唐韻に云はく、幔〈莫半反、俗の名は字の如し。本朝式に班は之れを万不良万久まふらまくと読む〉は帷幔なりといふ。」、「幕 唐式に云はく、衛尉寺に六幅幕、八幅幕〈音は莫、万久まく〉といふ。」、「帟 周礼注に云はく、平張を帟〈羊盃反、比良波利ひらはり〉と曰ふといふ。」とあって、音読みを交えながら解説されている。新撰字鏡には「幌 窓簾也。止波利とばり」ともある。このトバリは、白川1995.が、「大きな布を、室の中や外部との境に張り垂らして隔てとし、区切りとするもの。類義語の「かいしろ」は垣代の意。〔孝徳紀大化二年〕に、葬礼のときの帷帳かたびらかいしろに白布を用いたことがみえている。壁代かべしろ几帳きちょうともいう。寝所やたかくらにもこれを垂れて用いる。仮名書きの例がなく、トの甲乙を定めがたい。〔大言海〕等に、「戸張り」の意であるとする。……〔戦国策、しん策〕に「がくを張り、えんまうく」とは、帳をめぐらしてその場所を設ける意。戸にかえて、布を張るのである。」(542頁)と解説するものである。
 建具は「とびら」しかなかった時代である。扉は戸がひらひらと開くからトビラというのであろう。カタビラ(帷)は片方から見て図が図としてある文様ということである。表裏があって袷にしていないから、帷を張って中に入ると生地の裏が見えてしまう。綴れ織りではないから仕方がない。トバリ(帳、幌)という語が戸張りとして認識されていたとすれば、戸にかえて布を張ったものと想定されて然るべきである。簾や暖簾は戸にかわるものとは言い難い。戸にしたいが、戸に「扉」しかないのだから布で代用せざるを得ない。その扉は法隆寺に残るもののように分厚いものが多く、トバリも冬用としては、現在考えているカーテンよりもずっと重厚感があるのではないかと推測される。貴人の側近くにある帳台の垂れ布に裏地が見えているカタビラを使うものかわからない。蜀江錦のように裏から見ても文様として見えるものを使ったのかもしれない。幄という字は屋外のテントにも使われる字だから、布製品の良し悪しと字義との間に関係はなさそうである。
 なお、「幔」字の和名抄、マフラマクなるものは何かわからないとし、狩谷棭斎は二十巻本をとり、本文を「……俗名如字本朝式斑幔読万太良万久……」と措定してマダラマクとしている(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438478/66/)。筆者は、十巻本諸本の「……俗名如字本朝式班之読万不良万久……」で正しいと考える。「俗名、字の如し」とあるのは、「幔」の音読みのマンは「万(萬)」に通じる。「よろづかけちゃう」とは帳簿の大福帳(大帳)のことである。和名抄に「幄……大帳也」とあったように、垂れ幕の意味と帳簿の意味とで同じことを指しているとおもしろがっているのである。訓み方のマフラマクは、マ(間)+フラ(振)+マク(幕)の意であると考える。広い空間を間仕切りする幕である。間を振り分けているし、ふらふらと振れている。そんな幕という意味で、「班」のワカツ(アカツ)義の具現化を示している。
(注3)拙稿「天寿国繍帳銘を読む」参照。
(注4)中世には壁として塗られたものがあり、塗籠ぬりごめと呼ばれている。戦乱の時代は宝物を納戸に入れてそこで寝ていた。
(注5)山中1994.参照。
(注6)芳賀2003.に、「独居」とあるのは漢語にいう「独坐」に相当し、六朝・初唐の詠物詩などで発展した技法で、花鳥を擬人化して感情移入しているのであるとする。
(注7)上宮聖徳法王帝説に、かしはでのおほ刀自とじが聖王の看病疲れで一緒に寝ていて先に逝ってしまったことが記されているが、「得労」て「臥病」したのであって、一緒に寝なければならないという決まりなどはなかっただろう。
(注8)山口1996.には次のようにある。

 「帷幄」という語を単に「とばり」とのみ解釈するのは軽率ではなかろうか。中国典籍の用例を見ると、諸例は「帷幄」が主として軍陣の「帳」の意で用いられていることを示す。『芸文類げいもんるいじゅう』服飾部には、帳・屏風・幔などの項があるが、そこには帷幄の項及びその語を含む詩文はなく、武部戦伐項に、帷幄の語を含む作品は採録されている。
 張庸吾氏[張1984.]は『漢書』張良伝を挙げて、「帷幄」は中国では「軍帳」すなわち陣営の帳を意味することを指摘、「文人である家持が『帷幄』を使うのは、いささかの違和感を中国人には与えると思う」と述べている。また小野寛氏[小野1986.]は「帷幄」は戦場の陣営に張り巡らしたものであることを言い、「その『帷幄』を病室に用いた例は見られず、家持は都を遥かに離れて『遠の朝廷』である越中国府の国守館に臥す身を、戦場の『帷幄』の内にある思いで記したのだろうか」とする。
 張氏の意見は、家持の越中における立場の認識不十分からの意見であり、小野氏の見解は、結論としては正しいのであるが、なぜ国守館に臥す身を戦場にある思いにすり替えることができたのかの説明がなされていない。前述のごとき遠の朝廷である越中に、「ますらを」として赴任した家持にとっては、国庁は「帷幄」として表現する以外になかったのである。(184頁)

 かなり以前の論考である。「あく」を戦場の本陣の意に用いた例は、本邦では軍記物に見られ、芸文類聚・武部の戦伐項に載る「籌策運帷幄」の和文化であろう。戦場に陣幕をめぐらせるのと作戦をめぐらせるのとを懸けた言葉らしい。芸文類聚では「兼稟帷幄之謀」ともある。芸文類聚は初学書であり、雑多な百科事典である。編集者が見つけた用例として、武部の戦伐項にふさわしいテントであったからそこへ載せている。恣意的な項目立てにとらわれてはいけない。年中行事絵巻に見られるような儀式の際に設営するテントの幄舎について何か文例があるのであれば、あるいは「禮部」にでも収められたであろう。
 漢籍に見える「帷幄」が必ず軍営を表すかといえばそのようなことはない。司馬相如・長門賦に「飄風迴而起閨兮 挙帷幄之襜襜」、曹植・冬至献袜決頌表に「情繫帷幄 拝表奉賀」などとある。また、大伴家持が特に武に優れていたとは実は知られない。彼はたまたま大伴氏に生まれ、オホトモという名前だから弓を射る時の防具の「とも」と関係づけて自らを考え、「名に負ふ」者として自負していた。そこで「ますらを」と自称している。「ますらを」精神を貫いていて国庁の建物を「帷幄」(戦場のテント)と思っていたという想定は難しい。そこは都から離れてはいても「遠の朝廷みかど」である。「朝廷みかど」は安泰であり、「遠の朝廷」も安泰でけっして戦場ではない。国衙や国司館がボロ屋であると愚痴をこぼすために、漢語で「帷幄」と形容しているとも思われない。
(注9)鉄野2007.は、万4089番歌について、「「独居幄裏」とは、ねやに夜独りあることを言うと見られる。……ねやの内から、山に鳴く春の鳥の霍公鳥を想起する当該歌も、……閉塞された状況から、その埒外へと向かう情を敷き並べるように歌うのである。家持は、退屈な毎日を振り返る。そして無為な生活をつらつら思っている現在もまた、無為の時間である。その現在のとりとめのない思いがそのまま言葉になって流れ出ている。」(141頁)とする。寝所に入って眠れない夜間、ホトトギスが鳴いていると想定した作文であろうか。
(注10)この考えは小野1980.によっている。伊藤1992.には、「今の家持にとって、遥かに鋭く鳴きわたるあわれの鳥、時鳥は、単なる風物ではなく、代々の天皇によって統治され来った国のまほらを象徴する鳥として写っている。それは尊き風土の申し子なのである。それ故にこそ、家持は、時鳥には一見不似合いな「高御座天の日継と云々」の六句をもって、一首を歌い起こしたのだと思う。歌は時鳥を通しての国ぼめで、家持の強い官人意識に支えられていると見なしうる。」(132頁)とある。これらが現行の解釈では主流となっている。

(引用・参考文献)
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新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集 萬葉集4』小学館、1996年。
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山中1994. 山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』塙書房、1994年。

加藤良平 2020.10.31改稿初出

力士舞の歌

 万葉集で鷺を直接歌った歌は一首である。

  白鷺の木をひて飛ぶを詠める歌
 池神いけがみの りきまひかも 白鷺の ほこひ持ちて 飛び渡るらむ(万3831)

 この歌は、伎楽の一つの美女の呉女を追う外道の崑崙のペニスを力士が桙で落とし、それを振って舞う舞のことを詠んだものと解釈され通説化している。この眉唾な説の源は、山田1955.にある。

 抑もここにいふ力士儛とは伎楽即ちかの推古天皇の朝に百済人味麻之の伝へたりといふ呉楽の一曲にして、伎楽は伝来以後専ら仏楽として用ゐられ、奈良朝の盛時に諸大寺に行はれたりしことは記録に存するのみならず、それに用ゐし遺物の法隆寺又は東大寺の正倉院に保存せられて今に伝はるものあるにても思ひ半にすぐるものあり。伎楽は代面をつけて舞ひ、笛と腰鼓と銅鈸子とを伴奏としたるものなり。その曲は……源博雅の笛譜には……九曲……教訓抄[に]十曲とせり。……そがなかにも崑崙と力士とは常に続けるはこれ偶然にあらずして実にこの二曲合せて一曲を構成する者にして、其状、先づ、崑崙の曲にて五人の女灯爐の前に立ち、後舞人二人出で舞ひ五女の内二人を懸想する由を演ず。力士の曲は之を承くる者にして、最初に力士手をたたきて出で、かの五女に懸想せる外道崑崙を降伏せしむる状を演ずるなり。(150~151頁)

 しかし、伎楽は中世には廃れ、現在、書物と伎楽面の遺物、寺院の資材帳などから推定しているにすぎない。最も豊富な史料とされる狛近真・教訓抄(1233年成立)も式次第と楽の要領を簡素に記しているに止まっている。
 教訓抄・巻第四の「他家相伝舞曲物語 中曲等」に伎楽は「妓楽」と記されている。巻四は、胡飲酒、採桑老、抜頭、還城楽、菩薩、迦陵頻、蘇莫者、倍臚、皇麞、清上楽、汎竜舟、河南浦、放鷹楽、蘇芳菲、師子、妓楽、小馬形から成る。内閣文庫蔵本をおさめる植木1973.、宮内庁書陵部蔵本をおさめる教訓抄研究会2008.、井伊家旧蔵本をおさめる岸川・神田2009.によって大要は知ることができる(注1)
 万3831番歌に伎楽が詠み込まれていると断定するには数々の問題点がある。「力士儛」がはたして伎楽の舞を指すものか、教訓抄には師子が舞うものを師子舞、迦楼羅が舞うものは走手舞とあるものの、力士舞という呼称は指定されていない。また、歌の冒頭の「池神」については地名であるとされ、そこで伎楽が練習されていたのだというのだが、どこのことか不明である。白鷺から白衣の舞を連想したというにしては、正倉院宝物の力士脛裳が紫地花唐草文の複様綾組織経錦であることから力士が白装束であったとはコーディネート上考えにくい。また、仏教では、金剛力士像は金剛杵・金剛杖を持って仏法を守護するように立つが、手に持つ金剛杵・金剛杖を鳥が口にくわえると譬えるのは不自然である。さらに、白鷺の木を啄いて飛ぶという木を歌中では桙と言い換えている。それを仏像彫刻にある金剛杵・金剛杖のことであると想定するのは乱暴である。以上あげた点から決しておさまりのいい解釈とはいえない。あるいは絵を見て歌ったものかとの説も提出されている。しかし、絵を見て歌を詠む風習が万葉時代のいつどこであったか解説はない。
 そもそも、歌の題詞に「白鷺の木を啄ひて飛ぶを詠める歌」と状況説明がある。自然の景物を見て人工のものに譬えるとなると、例えば次のようなことになる。夏目漱石の『坊つちやん』の一節である。「『あの松を見給へ、幹が真直で、上が傘の様に開いてターナーの画にありさうだね』と赤シヤツが野だに云ふと、野だは『全くターナーですね。どうもあの曲り具合つたらありませんね。ターナーそつくりですよ』と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙つて居た。……すると野だがどうです教頭、是からあの島をターナー島と名づけ様ぢやありませんかと余計な発議をした。赤シヤツはそいつは面白い、吾々は是からさう云はうと賛成した。此吾々うちにおれも這入つてるなら迷惑だ。おれには青嶋で沢山だ。」となっている。主人公の「坊つちやん」は荒唐無稽な話だと捉えている。

左:相撲図(打虎亭漢墓壁画、中国河南省新密市、後漢時代、2~3世紀)、右:力士形埴輪(今城塚遺跡出土、発掘された日本列島2014展示品)

 予断を排除してみると、りきまひ(ヒは甲類)とあって倭の人がまず思いつくのは、仏教にまつわる芸能、伎楽の力士のことではなく、相撲、古語でスマヒ(ヒの甲乙不明)のことであろう。見宿みのすく当麻蹶速たぎまのくゑはやの逸話が垂仁紀のなかに伝えられている。スマヒという言葉は、大きな二人が組み合って力比べをする格闘技をし、二人でマヒ(舞)を舞っているようなものであると、言葉と形容の両方に掛けて表現されている(注2)。相撲は大陸とつながりがあり(注3)、高句麗の角抵塚や舞踊塚の壁画にも描かれている。本邦でも、わざわざ朝鮮半島の百済からの使者に懐かしかろうと見学させている。

 健児ちからひとことおほせて、[百済王子]げうが前に相撲すまひとらしむ。(皇極紀元年七月)

 「池神」とは何か。池にじっとしている鳥、ヒノクチマモリ(樋口守)、ミトサギ(水門鷺)と呼ばれるアヲサギ(蒼鷺)のことを言っていると考えられる。水門を守っている神のような存在と見立てている。その様子はまるで磔にでもあったように動かず、なのにギャーギャー騒いで人を呼んでいるようである。相撲の立ち合いに「はっけよい」というのは、四肢を土俵にきちんとつけて静止してから始めることによるものである。八卦良いとの俗説もあるが、磔の別の言い方、ハッケが ready の姿勢である(注4)。その姿勢のままアヲサギが動かないでいると洒落ている。題詞に「木」とあるのが、歌中では「桙」となっている。
 新撰字鏡に「槿 保己ほこ、又、保己乃加良ほこのから、又、祢夫利ねぶり」とある。槿の字は植物の木槿むくげのことであるが、玉篇に「槿、柄也」、集韻に「矜、説文、矛柄也。通作槿」ともあって、矜の字は、ほこる、の意である。だから槿はホコのこと、またその柄のことをいうと認められたようである。そんな次第で、キ(木)がホコ(桙)になるものとしてムクゲが一番にあげられるというのである。ホコとは、首の長いアヲサギを見立てたもので、シラサギよりも毛(黒髪)が多いからムクゲのこと、また、木槿を指している。説文に「蕣 木堇、朝華暮落者」、和名抄には「蕣 文字集略に云はく、蕣〈音は舜、岐波知須きはちす〉は地蓮、華は朝に生れ夕に落つる者なりといふ。」とあり、蕣はアサガオにも、ムクゲにも当てられる字である。

左:植物のムクゲ、右:動物のムクゲ

 シラサギがムクゲを啄って持っていくというのは、アヲサギと喧嘩してアヲサギのホコのような長い首についている頭の毛を啄んで持って行ってしまったという意を表しているのであろう。もともとはむくであったアヲサギの頭頂の毛を毟り取っててっぺん禿にしてしまったのではないかとの謂いである。アヲサギは、頭頂部が白くその両側に黒い毛が伸びており、落武者のような風貌をしている。シラサギ━ムクゲ(朝顔)/アヲサギ━ヒサゴ(夕顔)という対比である。周囲の髪を集めて束ねればてっぺん禿は隠れる。「是の時に、うまやとの皇子みこ束髪於額ひさごはなして、〈いにしへひと年少児わらはの年、十五六の間は束髪於額ひさごはなす。十七八の間は分けて角子あげまきにす。今亦しかり。〉いくさしりへに随へり。」(崇峻前紀用明二年七月)とある(注4)。力士は髪を頭上に束ねあげる習いもあったようである。
 アヲサギとシラサギが語らうように見える光景は池へ行くと容易に見られる。相撲のにらみ合いのようにも見受けられる。その後、シラサギだけが飛んでいき、アヲサギだけが残るということもままあるだろう。両者は相撲を取り、シラサギはアヲサギのホコの中央部の黒い毛を啄んで取った、あるいは束ねあげて立っているもとどり、それは桙を立てたように見えたものをつついてばらけさせたら禿げているのが丸出しになった(注5)。それでもアヲサギは土俵にとどまり勝利している。アヲサギが樋口守、水門鷺と呼ばれている由縁は、水門を守るために残ったからだというわけである。この歌の収められている巻十六は「由縁ある、并せて雑歌」の巻である。鳥なのに飛んだり跳ねたりせずに「舞」うと表現されていておもしろい。マフ(舞)という言葉はオドル(踊)とは違って旋回運動を表すとされ、マハル(廻)と同根である。頭頂部にあって廻るものとは旋毛つむじである。アヲサギの頭部の落武者のような髪の様相に着目し、頭頂部が大きな旋毛となっているのはマフ(舞)ことに秀でた存在なのだ、だからリキジマヒ(力士舞)をしているのだと見てとったということだろう。

(注)
(注1)伎楽についての論考については、植木1981.、新川1990.、新川1998.、末吉1998.、今岡2008.が書籍化されている。
(注2)上田1981.によれば、相撲をスマヒと訓むのは、本来は「相舞すまひ」としての神事芸能的側面を持つものであったからで、後に遊戯化して角技のひとつになったとしている。
(注3)汪玉林「中国の「角力」と日本の「相撲」を見る」『人民中国』サイトhttp://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/fangtan/200406.htm(2025年2月11日閲覧)参照。
(注4)拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」参照。
(注5)桙について、アヲサギの長い首を言っているか、立っている髻のことを言っているかについては、類推思考によって、長い首から髻の存在していたであろうことを思い描いていたと考える。

(引用・参考文献)
今岡2008. 今岡謙太郎『日本古典芸能史』武蔵野美術大学出版局、2008年。
植木1973. 植木行宣校注「教訓抄」『日本思想大系23 古代中世芸術論』岩波書店、1973年。
植木1981. 植木行宣「東洋的楽舞の伝来」芸能史研究会編『日本芸能史 第一巻 原始・古代』法政大学出版局、1981年。
上田1981. 上田正昭「古代芸能の形成」芸能史研究会編『日本芸能史1』法政大学出版局、1981年。
教訓抄研究会2008. 教訓抄研究会編「『教訓抄』翻刻(二)自巻四至巻七」二松学舎大学21世紀COEプログラム中世日本漢文班編『雅楽資料集第三輯』二松学舎大学21世紀COEプログラム発行、2008年。
岸川・神田2009. 岸川佳恵・神田邦彦編「『教訓抄』巻第四(彦根城博物館所蔵)翻刻」二松学舎大学21世紀COEプログラム中世日本漢文班編『雅楽資料集第四輯』二松学舎大学21世紀COEプログラム発行、2009年。
新川1990. 新川登亀男「伎楽と鎮護国家」網野・大隅・小沢・服部・宮田・山路編『大系日本歴史と芸能 第二巻 古代仏教の荘厳』平凡社、1990年。
新川1998. 新川登亀男「伎楽演出」諏訪・菅井編『講座日本の演劇2 古代の演劇』勉誠社、平成10年。
末吉1998. 末吉厚「古代の芸能」服部・末吉・藤波著『体系日本史叢書21 芸能史』山川出版社、1998年。
山田1955. 山田孝雄『万葉集考叢』宝文館、昭和30年。

加藤良平 2025.2.11改稿初出

十月(かむなづき)について

 今日、十月の古語、カムナヅキ(カミナヅキ)については、神無月のことという中世の俗解が流布している。平安後期の藤原清輔・奥義抄に、「天下のもろもろの神、出雲国にゆきて、こと国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり」(都留文科大学デジタル化資料https://www.tsuru.ac.jp/soshiki/17/257.html「清輔奥義抄 上 二」(16/32)に適宜、漢字、句点を施した)という説が載る。巷間では、出雲では十月のことを神在月というのだとまことしやかに囁かれている。しかし、古代の文献にそのような記述は見られない。時代別国語大辞典は、「神=ナ=月としてナを古い連体格助詞とみる説がふつうである。十月に神を祭る習俗が古代朝鮮にあり、また秋の収穫の後に行なわれるカガヒ(嬥歌会)などとも関連させて、十月に神を祭る風習があったとするのである。」(224頁)とする。しかし、養老令・神祇令には、十月にあたる孟冬はじめのふゆに祭祀の規定はない。収穫祭関連は、九月にあたる季秋すゑのあき神嘗祭かむにへのまつり、十一月にあたる仲冬なかのふゆ相嘗祭あひむべのまつり大嘗祭おほむべのまつりに定められている。カムナヅキ(カミナヅキ)のカム、カミを神の意と捉えることは疑問とせざるを得ない。
 万葉集には、「十月かむなづき」を歌う歌が五首ある。

 十月かむなづき 時雨しぐれに逢へる 黄葉もみちばの 吹かば散りなむ 風のまにまに(万1590)
 九月ながつきの 時雨の雨の 山霧の いぶせきが胸 を見ばまむ 〈あるは云ふ、十月 時雨の雨降り〉(万2263)
 十月 時雨の雨に 濡れつつか 君が行くらむ 宿かるらむ(万3213)
 十月 あまも置かず りにせば いづれの里の 宿か借らまし(万3214)
 十月 時雨の常か わが背子せこが 屋戸やどの黄葉 散りぬべく見ゆ(万4259)

 十月は冬の始めの月で、時雨の季節で、黄葉の時でもある。九月にも同様の表現がある。俗説や通説の、神の出雲行きや神祭りと関連する歌は一つもない。仮名書きの例がなく、ミの音の甲乙は知られない。虚心坦懐に見れば、十月と神(ミは乙類)とを結びつける証拠はひとつもないから、カミナヅキは髪、上、守などカミ(ミは甲類)との関わりも検討すべきである。万4259番歌に「屋戸やど」とあり、問答歌の万3213・3214番歌には宿を借りる話が出ている。一般に雨宿りの話とされるが、ヤド(宿・屋外・屋門)は、家のある所やその周辺、家、また、宿泊施設のことである。ヤドと季節とは関係がなさそうなのに、わざわざ何度も登場しているのには何か深い因縁があるに違いない。すなわち、これらの歌の妙味は、十月のカミナヅキが、ヤドカリの古名、カミナ(ミの甲類)とかかっている点である。カミナはカムナ、カウナともいった。和名抄に、「寄居子 本草に云はく、寄居子〈加美奈かみな、俗に仮に蟹蜷二字を用ゐる〉は貌、蜘蛛に似る者なりといふ。」とある。
 カミナとは、カニ(蟹)+ミナ(蜷、ミは甲類)の約とされる。ミナはタニシやカワニナなど、淡水生の巻貝をいう。和名抄に、「河貝子 同[崔禹]食経に云はく、河貝子〈美奈みな、俗に蜷の字を用ゐるは非ざるなり、音は拳、連蜷虫の屈む貌なり〉は、殻の上、黒く小さく狭く長くして人の身に似たる者なりといふ。」とある。中国で蜷の字は、虫のかがまりうねるさまを指す。地名の「南淵」に「蜷淵」と当てた例があり、枕詞「御食みけ向かふ」が「南淵山」に掛っているのは、蜷が酒の肴とされたからである。延喜式・内膳司の諸国貢進御贄の旬料、大和国吉野御厨の項に、「但し蜷并に伊具比魚煮凝等、得る随に加進せよ。」とある。
 また、枕詞「みなわた」は万葉集中に五例あり、すべて「か黒き髪」、「か黒し髪」に掛っている。

 …… みなわた かぐろき髪に 何時いつの間か 霜の降りけむ ……(万804)
 あめにある 姫菅原ひめすがはらの 草な刈りそね 蜷の腸 か黒き髪に あくたくも(万1277)
 …… 蜷の腸 か黒き髪に 真木綿まゆふ持ち あざさひ垂れ ……(万3295)
 鴨じもの うきをすれば 蜷の腸 か黒き髪に 露そ置きにける(万3649)
 …… にほひ寄る 子らが同年輩よちには 蜷の腸 か黒し髪を ま櫛もち ここにかき垂れ 取りつかね 揚げてもきみ 解きみだり 童児わらはに成しみ ……(万3791)

 このかかり方の説明として、蜷の腸は青黒い色をしているから、また、食べるときに焼くと黒くなるからという説があるが、いかがなものであろうか。カミナ(蟹蜷)は、巻貝の頭にヤドカリが入っている。ミナノワタ(蜷腸)は、巻貝の頭に巻貝が入っているということである。すなわち、ヤドカリのカミナとは、カミ(髪)+ナ(無)、髪が無いので帽子か冠か鬘を被っていることに当たり、反対に、中身も蜷であるミナノワタは、髪の毛が黒々ふさふさに生えていることに相当する。したがって、ミナノワタは「か黒き髪」、「か黒し髪」を導くのである。
 以上から、十月を表すカミナヅキのミは甲類であり、上代には蟹蜷月カニミナヅキと聞こえていた。無論、これは、カミナヅキ(カムナヅキ)の語源ではない。ヤドカリ、ないし、禿げ頭と十月との関係は、秋の名月の照り輝きを譬えたものとしても大いなる洒落である。枕詞のような言葉遊びに興じていた万葉人の心性を知るにはとても重要なことである。言葉の研究には、どのように思ってその言葉を使っていたかだけが求められる。
 十月を髪+無+月とする洒落に基づいて、次の歌も作られていると考えられる。

 白雲しらくもの たなびく国の 青雲あをくもの むかす国の 天雲あまくもの 下なる人は のみかも 君に恋ふらむ 吾のみかも 君に恋ふれば 天地あめつちに 言葉をてて 恋ふれかも 胸のみたる 思へかも こころの痛き 吾が恋ぞ 日にまさる 何時いつはしも 恋ひぬ時とは あらねども この九月ながつきを わが背子が しのひにせよと 千世ちよにも 偲ひ渡れと 万代よろづよに 語り継がへと 始めてし この九月の 過ぎまくを いたもすべ無み あらたまの 月のかはれば むすべの たどきを知らに いはが根の こごしき道の 石床いはとこの 根延ねはへるかどに あしたには 出でて嘆き ゆふへには 入り座恋ひつつ ぬばたまの 黒髪敷きて 人のる うまは寝ずに 大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ 吾が寐るらは みもへぬかも(万3329)

 巻十三の挽歌の部立に載る。慣用的な表現ばかり頻出する冗漫な歌である。「為むすべの」以下の後半部分は万3274番歌とほとんど同じであり、それには反歌がつけられて相聞の歌とされている。しかるに、慣用的でない「九月ながつき」が唐突にも二回出てくる。通説では、亡くなった彼氏との思い出の出来事が九月にあったからとされている。しかし、特別な思い出となることがあるなら、それを歌えばいいのであるがそれがない。ない以上、「九月」を修辞的に使っていると考えなければならない。誰もが理解でき、納得する歌として歌われ、伝えられたのであろうからである。
 九月が過ぎて月が替わると十月になる。十月は髪無月である。九月ですらできないのだから、黒髪を敷いて寝ると表現される共寝などまったく絶望的になるであろう。また、幾夜過ぎたか月をもうと見上げると、やはり髪無月である。月読つくよみ壮士をとことも擬人化される月の姿が禿げ坊主である。髪型を変えようにも変えられず、毎日満月に照り輝くことになっている。これでは月の形から日にちを数えることができない。すなわち、時間の停止である。そんな別れの絶対性とは、離別ではなく死別であり、恋の歌ではなく挽歌である。その部立に収められている。
 万葉時代には、十月をカムナヅキと言い、その語を髪無月の謂いだと思って楽しんで使っていたのであった。

(引用・参考文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
東1935. 東光治『万葉動物考』人文書院、昭和10年。

加藤良平 2013.3.9初出

万葉集の鞘の歌について

 万葉集に「さや」という言葉の出てくる歌は三首、長歌、旋頭歌、短歌にそれぞれある。

 大君おほきみの みことかしこみ 見れど飽かぬ 平城ならやま越えて 真木まき積む 泉の河の 速き瀬を 竿さをさし渡り ちはやぶる 宇治のわたりの たぎつ瀬を 見つつ渡りて 近江あふみの 相坂山あふさかやまに むけして が越えけば 楽浪ささなみの 志賀の韓崎からさき さきくあらば またかへり見む 道のくま 八十やそくまごとに なげきつつ が過ぎ行けば いやとほに 里さかぬ いや高に 山も越え来ぬ つるぎたち 鞘ゆ抜き出でて〔鞘従抜出而〕 伊香胡いかごやま 如何いかにか吾がむ ゆく知らずて(万3240)
 つるぎたち 鞘ゆいりに〔従鞘納野迩〕 くづ引く吾妹わぎも ま袖持ち 着せてむとかも 夏草刈るも(万1272)
 人言ひとごとを しげみか君の 二鞘ふたさやの〔二鞘之〕 家をへなりて 恋ひつつをらむ(万685)

 鞘は、刀剣などの刃身を保護する目的で作られた筒状のものである。新撰字鏡に、鞘、鞞、琫の字を載せ、また、和名抄に、「剣鞘 郭璞方言注に云はく、鞞〈音は俾〉は剣の鞘なりといふ。唐韻に云はく、鞘〈私妙反、佐夜さや〉は刀室なりといふ。」とある。長歌には、その鞘におさめるツルギタチという言葉が載る。ツルギタチとは、(1)剣の大刀たちの意、(2)枕詞、に大別される。枕詞は、(a)身にふ、(b)(研)ぐ、(c)(己)、(d)太子ひつぎのみこ、(e)石床別いはとこわけ、などにかかるとされる。諸説を総合すると、片刀を「かたな」といい、もろ(双刃)を「つるぎ」という。「大刀たち(太刀)」は物を断(裁)つからタチといい、刀剣類の総称である。剣はそれに内包される下位概念で「剣の大刀」ともいうが、ツルギとタチはしばしば混用されている。
 枕詞のかかり方の理由としては、古代の官人は昼間外出するときには腰に取り佩き、夜に帰宅すると緒を解いて床の辺に置いたから「身に副ふ」にかかるのだとされている。また、「名」にかかるのは、との関連であるとか、「剣大刀」を佩くほどの名のある身分を示すからであるともされている。これらの関係からか、上の長歌と旋頭歌について、剣(大刀)を男性、その鞘を女性のシンボルとして、セックスの描写の比喩と指摘する意見がある。例えば、万3240番の長歌は、中国の伝奇小説、遊仙窟の表現を下地にすると指摘されている。

この歌の続き方は、「剣大刀鞘ゆ抜き出てイカシ」(古義説「イク」から「伊香イカ胡山」へ、更に「伊香胡山」のイカから同音の「如何イカに」へと続くが、通説の「厳シ」の続き方は疑はしい。むしろ「鞘ゆ抜き出て如何イカ」と続き、その同音として、道行き歌の常套手段である固有名詞の「詠み込み」、即ち「イカゴ山」を中に挟んだのではなからうか。これは、遊仙窟の主人公と十娘との刀子をめぐる性的な「意」をもつ場面の詩「渠今、空」(君今し抜き出し後は、むなしき鞘を如何にせむ。十娘詠鞘)から思ひついたとみては如何。この長歌は既成作品を綴り合はせた末技的な技巧をほどこし、あそび的な色調を帯びる。この歌の反歌(三二四一)の左注「但此短歌者、或書云、穂積朝臣老配於佐渡之時、作歌者也」をかりに長歌に及ぼしたとしても、この長歌は老の配流の養老六年 (722)を遡らないものと思はれ、むしろこの長歌のすがたよりみれば、以後のものとみるべきかも知れない……。何れにしても、最も遅い遊仙窟伝来時の一説(養老二年)と牴触するものではない。(小島1964.1023~1024頁、漢字の旧字体は改めた)(注1)

 万1272番の旋頭歌は、底本とする西本願寺本の一・二句目「釼従鞘納野迩」について、「従」を「後」の誤りと見る説があり広まっている。「釼後」を「剣の後」と訓み、「納野(入野)」という地名を導くための序詞とするのである。新編全集本(②238頁)、新大系本((二)159頁)、古典集成本((二)239頁)に採られている。吉田2008.も同じく訓み、「タチとサヤは、それぞれ男性、女性の比喩である。タチ(劔)は「立つ」の掛詞、サヤの相関語。地名「納野」に行為「入る」を掛け、「クズ引く」に女の媚態を暗示する。」(110頁)と、リアル・セクシャルな表現であるという(注2)
 しかし、上二首を見ると、剣を鞘から抜くのと入れるのとの相違がある。剣と鞘の関係の、わずか二例しかない用例において、形容すべきとする生殖器の動作が逆になっている。また、長歌のそれは、イカゴの音を導く序詞として引かれている。性的表現と見なす必要性はない。反歌の万3241番歌の左注に、「右の二首、但し、此の短歌は、或書に云はく、穂積朝臣老の佐渡にながされし時に作る歌なりといふ。」とあり、道行きとみられる平城山、泉川、宇治の渡、近江路、相坂山、志賀の韓崎といった地名が見られる。「伊香胡山」も琵琶湖岸の山と比定されており、吉野のような仙郷のニュアンスはない。また、梨を剥くのに刀子は使うが、両刃の剣では指のほうまで損じてしまう。小島1964.の主張するような「既成作品を綴り合はせた末技的な技巧」や「あそび的な色調」とする捉え方は、遊仙窟を当てはめなければ聞いただけでは生まれてこない。遊仙窟が伝来していたかどうかが問題ではなく、遊仙窟が大勢の人々に当然持つべき教養として、言い換えれば常識となっていなければ、それを知らない人にはわからず馬耳東風の歌になってしまう。素直に考えて、配流に際して歌われる歌意に、セックスも梨も仙郷も詠み込むとは考えられない。漢籍との関連を指摘するのは衒学にして牽強付会の説と言わざるを得ない。
 万1272番歌は、「ふ葛の 引かば寄り来ね したなほなほに」(万3364或本)の例から、「クズ引く」を女の媚態と考えられないことはない。だから、呼びかけ形式の旋頭歌前半の、呼びかけの部分を露骨な性表現であると見ることも不可能なことではない。けれども、剣や鞘という語句の意味は、地名の「納野」を導いて吸収されてしまっている。しかも、それに応じた後半はいっさい卑猥さを感じさせない。中断された猥談が歌の眼目となるとは考えられない。葛については次のような歌もある。

 霍公鳥ほととぎす 鳴く声聞くや 卯の花の 咲き散るをかに 田葛くず引く少女をとめ(万1942)

 クズの蔓から繊維を取る作業をする姿を歌っている。夜のお勤めにこだわる必要はない。さらに、万685番の短歌にある「二鞘の」は「隔つ」にかかる枕詞かとされている。鞘を分かつように家が分かれている。鞘を家に譬えているから、二人の男女はともに剣(大刀)に当たる。剣(大刀)と鞘とが、男性、女性の性器を表しているとの仮説には、三例中一例が反例として存在している。
 なにより、万1272番歌について、現在優勢な訓であるタチノシリ サヤニイリノニの部分は原文を意改したものである。西本願寺本や元暦校本にある「釼従鞘納野迩」のまま、大系本萬葉集(二)239頁や、中西1980.124頁などでは、ツルギタチ サヤイリノニと訓んでいる。万葉集中の「従」の字は、訓み方にもよるが、上代の助詞ユが百十五例、ヨリ(ヨは甲類)が七十八例、他に「侍従」でサモラフと訓むのが二例を数える。○○ユと訓むうち、「○○従」の形が八十六例、「従○」、「従○○」の形が二十九例見られる。助詞のユは、時代別国語大辞典に、「①動作の行なわれるところ・経過するところをあらわす。ⓐ場所の場合。」(777頁)として次の例をあげている。

 巻向の 痛足あなしの川 往く水の 絶ゆる事無く またかへり見む(万1100)
 昨夜きそこそは 児ろとさしか 雲の上 鳴きゆくたづの ま遠く思ほゆ(万3522)
 黄葉もみちばの 散らふやま 漕ぐ船の にほひにでて でてにけり(万3704)

 英語の前置詞 at や in や on などに当たる。上代語のユは、現代語のヨリ、カラに当たる from や since の意に限られない。再掲する。

 つるぎたち 鞘ゆいりに〔従鞘納野迩〕 くづ引く吾妹わぎも ま袖持ち 着せてむとかも 夏草刈るも(万1272)

 大刀たちのなかでの剣の特徴は両刃である点にある。片方にしか刃のついていないかたとは異なる。刀身の両側に刃がついている。「かた」の対語は「」である。下の句は、片袖ではなく「そで」のついた着物を作ろうと言っている。材料は葛の繊維である。その葛を採取している。クズはマメ科の植物で、莢を作ってそこに実入りする。莢に実が入ることに、鞘に刀身が入ることを掛けている。だからわざわざ葛の採集の歌のなかで両刃の剣を登場させている。作者は、イリノという地名と植物のクズの生態を巧みに詠み併せようとした。そもそものサヤ(鞘=莢)という言葉の始源をも表そうとするかのようである(注3)
 振り返って、万3240番の長歌において、剣大刀がイカゴをなぜ導いているかに検討する。大系本は、「剣はイカキ(厳威なる)ものであるから、同音のイカゴ山にかかる。」((三)344頁)、新大系本は、「剣の霊威を「いかし」と形容した。「厳矛、此には伊箇之倍虚(いかしほこ)と云ふ」(日本書紀・舒明天皇即位前紀訓注)。」((三)235頁)とする。剣はイカシタチという意とするのであろう。当らずと雖も遠からずである。大刀のなかでの剣(つるぎ、つるぎたち)の特徴は両刃にあった。両刃の剣の鋒先きっさきは、尖頭で切れ味が鋭い。鋒先の譬えにかます切っ先という言葉がある。カマスという魚は頭が尖り、歯が鋭い。一瞬にして口を開けて噛みつく。その点をよく捉えた命名だろう。

左:カマスの全身と口、右:塩用叺(たばこと塩の博物館展示品)

 また、カマスという言葉には、叺と書く袋がある。蒲簀の意で、孝徳紀大化五年三月条では「綿二かます」と助数詞になっている。この叺は春にとれるイカナゴを入れて運んだ。イカナゴは小さく、何の子かわからない「如何子」の意であるところ、カマスに入れられて来るからカマスゴと洒落て呼ばれていた。魚のカマスもイカナゴもともに細長く、縦に筋目が入りながら銀白色に輝いている。そういったつながりから、剣大刀はイカゴを導く。魚のカマスという字は、魳に作る。上代に有名な剣に「韴霊ふつのみたま」がある。切れ味の鋭いと有名である。字形も掛けて考えられていた、ないしはそういう字を創作していた(注4)
 万葉集の「鞘の歌」三首は、ヤマトコトバをもって素直に読んでわかるものであるし、わかるものとしてなければそもそも歌として歌われていなかったであろう。

(注)
(注1)遊仙窟(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1194481/1/43~44)参照。ナイフを借りて梨を剥きたいという掛け合いの場面である。主人公張郎の、「惜しむ可し尖頭の物 終日皮中に在り(可惜尖頭物 終日在皮中)」との問いかけに、仙女の十娘は、「……きみ今抜き出し後は 空しき鞘を如何にする(渠今抜出後 空鞘欲如何)」と答えている。この「刀子」、「今し抜き出し後は」、「空しき鞘を如何にせむ」と、万葉長歌の「剣刀」、「鞘ゆ抜き出でて」、「如何にかわが為む」という語句とが照応しているから、遊仙窟の相当に性的な場面を踏まえているのではないかとしている。校注・訳に小島氏の加わる新編全集本や、曽倉2005.も踏襲する。
 もし仮に、言葉の続き方に漢籍の世俗小説の知識を必要としているとしたら、ヤマトコトバはすでにクレオールであったとする大議論を展開しなければならない。しかし、そこまで見据えた議論とはなっていない。出典論研究は、言葉の理解を深めもし浅めもする両刃の剣である。
(注2)吉田2008.の議論に、この旋頭歌の前の三句を男からの呼びかけ、後の三句を女が答えた文のリライトとして考えている。「「片歌」を交わす男女の対話を、一首の歌に纏めようとされた」(107頁)という。「変則な対話」としているが、「対話」の範疇に入るものではない。
(注3)岩波古語辞典に、「さや【鞘・莢】」(589頁)と、何の疑問もなく同一項にしている。
(注4)拙稿「神武紀の「韴霊(ふつのみたま)」について」参照。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 中』塙書房、昭和39年。
古典集成本 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋元四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集(二)』新潮社、昭和53年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系本 佐竹昭広・山田英雄・大谷雅夫・山崎福之・工藤力男校注『新日本古典文学大系2・3 萬葉集(二)・(三)』岩波書店、2000年、2002年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集7・8 萬葉集②・③』小学館、1995年。
曽倉2005. 曽倉岑『万葉集全注 巻第十三』有斐閣、2005年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5・6 萬葉集(二)・(三)』岩波書店、昭和34・35年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
吉田2008. 吉田金彦『誤解された万葉語』勉誠出版、2008年。

加藤良平 2024.6.30改稿初出

枕詞「隠(こも)りくの」と「泊瀬(長谷)」の伝えるところ

 「こもりくの」ははつ(長谷、初瀬)を導く枕詞とされている。万葉集に、「隠りくの」が「泊瀬」にかかる例が十八例あるほか、「隠りくの 豊泊とよはつ瀬道せぢは〔隠口乃豊泊瀬道者〕」(万2511)が一例ある。コモリクノの用字としては「隠口乃」が九例(万45・424・1095・1270・1407・1408・1593・3310・3312)、「隠口能」が一例(万428)、「隠来之」が二例(万3330・3331)、「隠来笶」(万3225)、「隠来乃」(万3311)、「隠國乃」(万79)、「隠久乃」(万420)が各一例ずつ、「己母理久乃」が二例(万3263、万3299左注)、ハツセは、「泊瀬」が二十六例(万1標目、万45・79・282・424、万428は題詞も、万912、万991は題詞も、万1107・1108・1382・1270・1407・1408・万1664題詞・万1770・1775・2261・2347・2511・3263・3310・3311・3806)、「長谷」が七例(万425・2353・3225・3226・3312・3330・3331)、「始瀬」が三例(万420・1095・1593)、「泊湍」(万2706)、「波都世」(万3299左注)が各一例となっている。
 地名、人名表記では、紀に「泊瀬」、記に「長谷」とある。泊瀬地区が、長い谷の地形だから「長谷」と書くとされる。けれども、長い谷は全国いたるところにある。また、「こもりくの」のクは、いづという場合のク(処)の意とされる。泊瀬の地勢が籠ったようなところだからかかると考えられている。けれども、そのような小盆地地形は列島に数多くある。他の地名ではなく、唯一、現在奈良県の桜井市に当たる泊瀬地方を限定する理由がなければならない。そうでなければ、枕詞コモリクノの語意は明らかにされたとは言えない。
 雄略紀に「こもりくの 泊瀬」の歌謡がある。

 六年の春二月の壬子の朔にして乙卯に、天皇すめらみことはつ小野をのに遊びたまふ。山野やま体勢なりみそなはして、慨然はげみてみおもひおこしてうたよみしてのたまはく、
 こもりくの はつやまは ちの よろしき山 わしの よろしき山の 隠りくの 泊瀬の山は あやにうらぐはし あやにうら麗し(紀77)
ここに、小野をなづけて道小みちのをふ。(雄略紀六年二月)

 佐佐木2010.に、「「出で立ち」は、突き出て立っている意だとも、家から出て立った所に見える意だともいう。「出立いでたち清き渚に」〔万十三・三三〇二〕は、後者の例か。「よろし」は、景観のすばらしさを表す。」(93頁)とある。大地から突き出て立っているさまのすばらしい山を歌っているとする。また、「走り出」については、「家から走り出て見る意だとも、山裾が横に延びている意だともいう。後者が適切で、麓がなだらかに続く様子をいうか。「走出之はしりでの宜山之よろしきやまの」〔万十三・三三三一〕。」(同頁)とある。しかし、雄略天皇は山容を見て感極まって歌っている。後半に「あやにうら麗し」とあり、同じく、「何とも美しい。「あやに」は、何とも言えず・妙にの意の副詞。これを形容詞が承けるのが原則。「かけまくも綾尓あやにかしこし」〔万三・四七五〕。「うら」は心、「くはし」は特に美しいの意。「宇良具波之うらぐはし布勢の水海みづうみに」〔万十七・三九九三〕。」(同頁)としている。「あやにうらぐはし」をくり返している。すばらしすぎて言葉にできないほどだから、言葉がくり返されている。形容のしようがなくて困っていて、前半も山の形容について言語化がうまくいっていないものと考えられる。「出で立ち」は、岩波古語辞典に「㊁〘名〙①姿を現わしている様子。たたずまい。」(118頁)とあり、その用例として紀77番歌謡があげられている。すなわち、(隠りくの)泊瀬の山は、たたずまいのすばらしい山である、といっているに過ぎない。すばらしいの一言で、細かく麓の形容をする心の余裕は感じられない。
 「わしの」は、「ち」が出立しゅったつのことを連想させるから派生されている。同じく「体勢なり」の言い換えで、走り出す瞬間の姿、勢いをつけてスタートするときの姿勢から、その様子を表していると考えられる。思い切り走り出そうとしているから、その直前に決めのポーズが生まれる。相当なスピードで走るのは、クラウチングスタートをする陸上選手以上に馬のことを言っている。「泊瀬」の用字から、川を船が遡ってそこから陸路を行くところとイメージされている。この場合、実際にそうであったかは問われない。「泊瀬」とある字面から馬に乗り換える駅であると想起されたのである。令に水駅の規定があり、令義解には、「若し水陸兼送に応ふるには、亦船馬並に置けよ。」とある。そのため、最終的に、「小野」は「小野」でも「小野」と名づけられ強調されている。万葉集に「こもりくの 豊泊とよはつ瀬道せぢは 常滑とこなめの かしこき道そ 恋心ゆめ」(万2511)とあるのはこの発想の延長であろう。松井1990.は、厩牧令は古墳の犠牲土壙や牧の所在から、始原は5世紀に遡るものという。厩牧令に、「およそ駅及びでんに乗りて、前所ぜんしよに至りてふべくは、並にすぐすこと得じ。」とある。いわゆる駅令制で、駅伝のはじめである。馬を駅で乗り継ぐから路程の時間が短縮できた。その早馬はゆまは駅馬とも書く。
 白川1995.に、「国語の「はしる」は、〔名義抄〕に「吐ハス」とあることから考えると、吐きだすような勢いをいうもので、もと山川の水の流れをいう語であったと思われる。わが国の川は、流れるのでなく、走るものが多い。そのような自然環境の中からことばが生れ、その語義がやがて一般化してゆくのである。」(615頁)とある。本質をつく鋭い指摘である。これは、記の用字の「長谷」、すなわち、長い谷を水が流れるさまと合致する。他動詞のハセルの場合、馬を走らせることのイメージが強い。馬は人とは比較にならないほど走る勢いが強い。ポン菓子や、ポップコーンを弾かせることは、その勢いからぜるという。雄略紀には「せ射む」(即位前紀安康三年十月)、「馳せかりす」(同)、「馬をせて」(同)、「うまのくちを並べて馳騁せたまふ」(四年二月)、「甲斐かひ黒駒くろこまに乗りて、せて刑所ころすところいたりて」(十三年九月)などとある。乗馬する馬の到来した時代である。
 「泊瀬」と同じところを記す「長谷」(注1)は、今日、ハセと読みならわされている。地形の谷のことは、島根県等に残る方言にエキという。中央の縦谷から左右に派生した小谷、支谷のことを特に言うこともある。つまり、長谷は、エキに長けるという意になり得るのである。馬関連のエキは駅である。思想大系本律令では、「駅」に「やく」とルビが付され、木下2009.は、古代には駅を呉音でヤクと読んだと決めているが、筆者には疑問である(注2)。方言に残るエキという言葉は、駅にするのに好都合な場所ということではなかろうか。しかも、支谷とは、支倉がハセクラと訓むところから、エキとはハセタニのことになる。側で寄り添って支えるあてがいは、斜めで挟みこむように見えてハスカヒという。谷は、山裾と山裾が交わるところでカヒである。駅は馬を乗り換える中継地点、馬のカヒの場である。厩牧令に、「凡そ諸道しよだうに駅置くべくは、卅里ごとに一駅を置け。若し地勢なりへだたさがしからむ、及び水・草無からむ処は、便たよりに随ひて里の数に限らず安置せよ。」とある。長い谷のところであれば水と草に事欠かず、飲み水、かひの心配がない。
 また、地形の谷のことは、また、古語にクラともいったらしい。「うぐひすの 鳴くくらたにに〔奈久々良多尓々〕 打ちはめて 焼けは死ぬとも 君をし待たむ」(万3941)とある。泊瀬朝倉宮の朝倉は、クラ(谷)の浅い入り口という意味であるとする説も唱えられている。つまり、長谷は、クラの「をさ」という意になり得るのである。鞍を管理する駅長のことである。厩牧令に、「凡そ駅には、おのおのをさ一人置け。……其れへむ日に、馬及びあんけらば、並にさきの人にはたれ。」とある。ハセというところは、駅の名を負い、駅にふさわしい場所と認識されるのである。
 ハツセは裸馬のことをいい、ハダセ(裸背)の変化した語ともされている。鞍を置かない馬である。駅だから鞍を外して休ませておく。駅はウマヤ(ムマヤ)と訓む。厩もウマヤで馬舎のことである。駅には厩があって、馬はそのなかに籠らせていた。馬小屋の入り口には柵があって逃げられないようになっている。人にとっては容易に取り外せる横木がわたされている。その横木のことを馬柵うませ・ませという。泊瀬の裸背は厩の馬柵のなかにいる。何かの拍子に逃げ出すと、鞍のかけられていない分さらに速く走る。猛烈なスピードで疾走する。せるのである。感動詞のハッは、急に笑う声、突然のことに驚いたさまなどを表した。裸馬、すなわち、ハツセが突然馳せるのにハッとして、馬がハツセルと洒落ているということになる。

左:腹帯をつけた厩の馬(石山寺縁起模本、狩野晏川・山名義海模、明治時代、19世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055304をトリミング)、右:産屋の図(松下石人「三州奥郡産育風俗図絵」、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456703/14をトリミング)

 そのようなことのないように、厩のなかでは天井からの綱で馬の腹を吊り、厩のなかで暴れないようにしていた。牛のように膝を折って座ることがないため、馬の体躯を支えて脚の負担を軽減し休ませるためともいう。一遍聖絵、馬医草紙、法然上人絵伝、慕帰絵詞など、鎌倉時代から室町時代の絵画にしばしば見受けられ、その後廃れた。厩に猿を飼って守り神とする風習の方は残った。馬に鞍橋くらぼねをつけるときも、固定するために腹に帯を回している。それを「腹帯はるび」という。馬には腹の帯がまつわりついている。
 鞍を置かない馬、すなわち、はだうまのことは、ハツセのほかにハツウマともいう。ハツウマはまた、初馬を意味し、はじめての月経のことも指す。また、新馬あらうま初花はつはなともいう。初潮時にお赤飯を炊いて祝う習慣は今日でも見られる。ウマが月経帯のことを指すというのは、血液を吸い取らせる丁字形のナプキンが馬のものを連想させるからという。あるいは、お産の時の腹帯とも関連させていっているのかもしれない。いずれにせよ、女性は、お産や月経の期間、特設の小屋に忌み籠って寝泊まりし、家族の暮らす家とは別火にする習俗があった。月小屋やうぶである(注3)
 鞍を置かない馬に腹帯して厩に籠らせている。その馬に乗るのはご法度である。お産や月経の際の女にも腹帯をして小屋に籠らせている。産まれるからウマ、月経帯がウマなら、そこはひょっとしてウマヤであろうと洒落たのであろう。その間、男が跨ることはタブーとされた。景行記に、ミヤズヒメ(美夜受比売)が「襲衣おすひ」の裾に「月経さはり」の血をつけていたが、それにかまわずセックスしたという話が載る。記27・28番歌謡を交えた合体譚である。襲衣はオソヒ(ソは乙類、ヒは甲類)ともいい、オシ(押)+オヒ(覆)の約、のしかかることであり、鞍のこともオソヒという。延喜式の龍田風神祭の祝詞に「御蔵オホムオソヒ」とある。ヤマトタケル(倭建命)が騎乗した体位だったということだろう。駄洒落のアネクドートの側面が強い。
 枕詞「ふゆこもり」は「春」にかかる。用字としては「冬木成」(万16・199・971・1705・3221)、「冬隠」(万1336・1824・1891)があり、「時じき」(万382)にかかる例もある。冬の間活動をやめていた植物が芽を出して茂るからとも、冬に活動をやめて籠っていたものが春になると外に出るからとも、冬の終わりのことともいう。しかし、冬に木は茂っていない。遥かに見通せるからハルを導く。馬や女が籠る時にする腹帯は、冬なら誰でも寒いから身に着ける。腹巻きである。「腹帯はるび」だからハルを導く。籠りが厩を連想させて、厩猿を思い起こさせ、葉のない冬の木が茂っているようにゆさゆさするのは猿の仕業だと気づく。そういう用字が行われ、やがて冬は去って「春」ることになるのだろう。古語の「去る」は時間的に過ぎることも来ることもいう。
 泊瀬の地において人が籠るべきク(処)とは、寺のことかもしれない。埼玉県の稲荷山古墳鉄剣銘に「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時(ワカタケル大王の寺、シキの宮に在る時)」とある。シキは磯城、すなわち、奈良盆地東南部を指し、ワカタケル大王に比定される雄略天皇の都した泊瀬朝倉宮に該当する。仏教の公伝は欽明天皇の時代に下るとされており、また、長谷寺の縁起もさらに下るとされている。すると、この「寺」は、原初的な形態の籠り堂であると見ることができる。
 西郷1993.は、古代人がお籠りをして夢のお告げを求めた様子を論説している。観音と、その場の母胎的イメージから、夜と大地からの贈り物を手に入れようとしていたとしている。上代の人にとって、お籠りの逸話としては、第一に、アマテラスの天石屋あめのいはや天石窟あまのいはや)籠り、第二に、聖徳太子の夢殿の夢告があげられる。お籠りに臨むのは、何か問題が生じた時にその解決策がないかと思って知恵を絞るためで、そのことを神から知恵を授けてもらうことだとも考えていた。月経に籠るのも、巫女的な要素があったからではないかとする指摘もある。天石屋の戸のなかに籠ったアマテラスは、スサノヲの扱いに困っていた。結局は、外にいる神々の合議、すなわち、「「みんなの意見」は案外正しい」(スロウィッキー)ことによって解決されている。厩戸皇子がいはのようなお堂に籠ったのは、上宮聖徳法王帝説に、「太子の問ふ義に、師[慧慈ゑじ]通らぬ所有り。太子、夜、夢に、金人来りて、解らぬ義を教ふと見ゆ。太子めて後に、即ち悟る。いまし以て師に伝ふ。」と伝えられている。先生である高句麗の慧慈が「通らぬ」ところを、太子は夢のお告げで理解することができた。
 この「通らぬ」には、仏教の教義の理解の点と、文化的な違いにおける通訳の点が絡んでいるのだろう。すなわち、仏教には、必ず「訳語」、「通事」などと書くヲサが必要とされた。泊瀬には仏教施設がある(注4)から、長谷に「をさ」と記すこともあり得るのである。訳(譯)とは他国の言葉をわかるように中継伝達する人のこと、長は「里長さとをさ」(万3847)のように、お上の命令を人々にわかるように中継伝達する人のことである。そして、「谷」とは、「み谷 ふた渡らす」(記歌謡6)、「丹谷たにかひあひのぞめり」(雄略紀四年二月)とあるように、間を挟んでやりとりする状態を示すことのある語である。
 漢字で表したとき「駅(驛)」、「訳(譯)」は旁に「睪」を等しくする。「睪」は演繹的な意をもつとされている(注5)。駅伝も通訳も中継伝達することで行動や認識の範囲をおし広げる効果がある。「こもりくのはつ」なる場所が注目されて然るべきなのは、地形的に籠もっていて中継伝達とは無関係と一見思われるようなところなのに、意外にもそこに都が置かれた雄略天皇の時代には大いに対外交渉が行われて馬の到来ほか大陸文化を積極的に取り入れていたからである。語学的な面からすれば、逆説的なレトリックを言葉のなかに込め忍ばせることで、事の理解の助けにしようと目論んだ結果であると考えられるのである。
 個々の言葉はそれが使用される言語体系のうちに納まっている。ここでは、数珠のように繋がりながら連携を保って一つの言語体系を成しているヤマトコトバの一端として、枕詞の「こもりくの」とそれが被る言葉(地名)の「はつ」(長谷)について生成論的に検討した。

(注)
(注1)ハツセ、ハセと呼ばれる地が先にあり、それを書記するに当たって漢字を用いたがために地名の意味について新たに思い及んでいったことが大きいと考えられる。
(注2)蒙求の長承三年(1134)点に「驛」の字音をエキと振っている(ColBase https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/B-3179?locale=ja)。
(注3)大藤1968.、瀬川1980.に詳述されている。成清2003.によると、延喜式よりも以前の古代においては、死穢とは異なり、それらを穢れ(産穢、血穢)と捉えていた記述は認められないという。
(注4)万428番歌に、「土形娘子ひぢかたのをとめを泊瀬山に火葬やきはふりし時」の歌が載る。火葬は仏教の葬送方法である。古来から泊瀬が仏教とつながりのある地と考えられていたことによるのかもしれない。続く万429番歌に、「出雲娘子を吉野に火葬」の際の歌があるのも、吉野の比蘇寺に所縁をみた可能性もあるのではないか。
(注5)白川1996.67頁。

(引用文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
木下2009. 木下良『事典 日本古代の道と駅』吉川弘文館、2009年。
西郷1993. 西郷信綱『古代人と夢』平凡社(平凡社ライブラリー)、1993年。
佐佐木2010. 佐佐木隆校注『日本書紀歌謡簡注』おうふう、平成22年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『律令』岩波書店、1976年。
瀬川1980. 瀬川清子『女の民俗誌』東京書籍、1980年。
大藤1968. 大藤ゆき『児やらい』岩崎美術社、1968年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川1996. 白川静『字通』平凡社、1996年。
松井1990. 松井章「家畜と牧─馬の生産─」岩崎卓也・石野博信・河上邦彦・白石太一郎編『古墳時代の研究4 生産と流通Ⅰ』雄山閣、1990年。
成清2003. 成清弘和『女性と穢れの歴史』塙書房、2003年。

加藤良平 2012.6.18初出

「石上(いそのかみ) 布留(ふる)」の修飾と「墫(もたひ)」のこと

 万葉集で「石上いそのかみ(ソ・ミは甲類、ノは乙類) ふる」と続く歌は次のとおりである。

 ➀石上いそのかみ ふるの山なる〔石上振乃山有〕 杉群すぎむらの 思ひ過ぐべき 君にあらなくに(万422)
 ➁石上 振の神杉かむすぎ〔石上振乃神杉〕 かむびにし われ更々さらさら 恋に逢ひにける(万1927)
 ➂石上 振の神杉〔石上振神杉〕 かむさびて 恋をも我は 更にするかも(万2417)
 …… 磯城しきしまの 日本やまとの国の 石上 振の里に〔日本国乃石上振里尓〕 紐解かず まるをすれば ……(万1787)
 ➃石上 振の早稲田わさだを〔石上振之早田乎〕 でずとも なはだにへよ りつつらむ(万1353)
 ➄石上 振の早稲田わさだの〔石上振乃早田乃〕 穂には出でず 心のうちに 恋ふるこのごろ(万1768)
 ➅石上 振の高橋〔石上振之高橋〕 高々たかだかに 妹が待つらむ けにける(万2997)
 ➆石上 振のみことは〔石上振乃尊者〕 弱女たはやめの まどひりて ……(万1019)
 ➇石上 るとも雨に〔石上零十方雨二〕 さはらやめ いもに逢はむと 言ひてしものを(万664)
 ➈わぎ妹子もこや を忘らすな 石上 袖振川そでふるかはの〔石上袖振川之〕 絶えむとおもへや(万3013)

 地名「石上」は地名「布留ふる(注1)を導く枕詞とされる。石上地域の布留ふる地区だからで、そこから展開して「る」や「(降)る」の意にも使われていったという。➆の「石上 振のみこと」は石上いそのかみの乙麿おとまろという人のことである。用字としては圧倒的に「振」字が多い。石上神宮のことは、「石上振いそのかみのふるの神宮かむみや」(履中即位前紀)、「石上坐いそのかみにいます布留魂ふるのみたま神社」(延喜式)とも記されている。顕宗即位前紀には、おたけびとして載る。

 石上 振の神椙かむすぎ もとり すゑおしはらひ いちの辺宮へのみやに 天下あめのしたらしし あめよろづくによろづ 押磐おしはのみことの 御裔みあなすゑ やつこらま(顕宗前紀清寧二年十一月、分注は略)

 播磨国に身を隠した天皇の後裔が身の上を明かす場面である。スヱ(末裔)であることを示すための歌謡に「石上いそのかみ ふる」が出てくる。また、武烈即位前紀には次のようにある。

 石上いすのかみ 布留ふるを過ぎて こもまくら 高橋過ぎ 物さはに 大宅おほやけ過ぎ はる 春日かすがを過ぎ 妻ごもる 小佐保をさほを過ぎ ……(紀94)

 原文に「伊須能箇瀰」とあり、イノカミである。イソノカミとは音に揺れがある。音転の可能性があるのだから、イソ(ス)ノカミは、イシノカメ、すなわち、イシ(石)+ノ(助詞)+カメ(甕、瓶、メは乙類)のことを言い含めていると考えられる。素材があたかも石のように見える甕とは、灰色が特徴的な須恵器の甕が思い当たる。須恵器というのだから、顕宗前紀で末裔を表していた(ミアナ)スヱを導く序詞的な用法にもかなっている。
 須恵器の甕は、火にかけると割れるので煮炊きに使われることはなく、水の貯蔵、保存に用いられた。特に、酒を入れておくのに重宝された。酒は当初、口で噛んで作る口噛み酒であった。「む」の已然形は「め(メは乙類)」である。すでに醸んでしまったものを入れているからカメ(メは乙類)と言って適格である。
 また、井戸から水を汲み上げるための釣瓶にも同類のものが使われた。古語では「もたひ(ヒの甲乙は不明)」と言った。

 即ち、御井みゐりき。かれはり間井まゐといふ。其の処はらず。又、もたひの水あふれて井と成りき。故、からの清水となづく。其の水、あしたに汲むに、朝に出でず。すなはち、酒殿さかとのを造りき。故、酒田と云ふ。(播磨風土記・揖保郡・萩原里)

 風土記の記事に「韓」とあり、渡来人のもたらしたことをにおわせる。また、「井」の形容に用いられている点は興味深い。須恵器は器を地面に「ゑ」て使われたからその名がある。焼成温度が土師器よりも高い須恵器は水を通しにくく、貯蔵に便利で、井戸がそこにあるのと同じ機能を示すことになる。だから、「墫水溢成井。」という表現がまかり通る。話し手と聞き手の間で理解を共有できる。
 水や酒を入れる容器名としては、モタヒのほかに、カメ、ミカ(ミは甲類)、ミワ、ホトキなどがある。当てられる文字も、瓶、甕、瓮、瓫、瓷、罌、甖、墫、樽、罇など多様であり、漢字の訓みに混乱が起きている。ヤマトの人は漢字を作ったわけではなく、あくまでも使ったに過ぎなかった。とはいえ、当時の人にとっても播磨風土記は受け入れられやすいことであったろう。イシノカメからモタヒへとつながる。モタヒの語源については、腹が太くて大きいけれど、酒水をたくさん入れても壊れずに「持ち」+「ふ」ことにあるとする説がある。洒落として考えるなら、色は灰色ながら幅広くて鯛のようだから、これモ(助詞)+タヒ(鯛、ヒは甲類)であろう。黒鯛はモタヒに当たる。黒鯛の別名のチヌは、須恵器が盛んに焼かれた大阪府の和泉地方の地名、茅渟ちぬと同じである。
 イソノカミが磯の本源のこととするなら、海底に岩礁のある磯場である。そこで釣りをして狙うのは、もたひなる黒鯛などの仲間ということになって確からしいとわかる。磯に腰をおろし、釣り上げた鯛を持つ姿は、七福神の恵比寿像に描かれる。西宮戎神社の祭神は蛭子ひるこのみことである。植物のひるの子として連想されるのは、葱坊主とも呼ばれる擬宝珠である。宝珠は仏塔の先端に飾られる。仏塔のストゥーパはもともとは墓であり、舎利が納骨されている。仏舎利を有難がり、勿体ないこととする寺院は瓦葺建築となっている。灰色の瓦の製法は須恵器と同じで、窖窯あながまで焼成される。その技術は大陸から同時期に伝わっている。

 出雲国まをさく、「神戸かむとのこほりに瓜有り。大きさ缶の如し」とまをす。(推古紀二十五年六月)

 「缶」の傍訓にホトキ(ト・キの甲乙は不明)、また、モタヒとある。ホトキとモタヒとの形状の違いはよく分かっていない。前条に、「秋七月に、新羅、奈末なま竹世ちくせいまだして、ほとけみかたたてまつる。」(推古紀二十四年七月)とある。「仏」の訓みはホトケ(ト・ケは乙類)である。七月条の重出記事である。なかが空洞の瓜、特に、途中がくびれたものは、あたかも仏像のようである。仏像は胎内に舎利を納めることがあった。銀舎利という米粒が醗酵してお酒になれば、酒を入れる甕はモタヒである。瓢箪は酒徳利にした。缶という字に、フとクワンの二音があるように、二訓があってかまわない。穀物を入れたらホトキ、酒水を入れたらモタヒに当たるのだろう。
 これらのことから、「石上いそのかみ ふる」とは、もたひ(缶)のことを指していると知れる。腐っても鯛という言葉は、鯛が鮮度を比較的保つ魚であることを知っていて作られた諺であろう。もとの出来が良ければ、古くなっても往時の勢いをそれなりに保つことができる。須恵器のもたひの色は、鯛が古くなって白っぽく変化したような色でもある。そして、もたひのなかでは、お米が腐るような醗酵を起している。ひょっとすると、墫を振ることで醗酵を促したということかもしれない。フル(振)と同音のフル(古)とは過去のこと、過ぎにし時のことである。そのスギ(過)から同音のスギ(杉)に関係してくる。万422・1927・2417、顕宗前紀、紀54歌謡にあるとおり、石上神宮では杉を御神木として斎うことになっている。
 宇治拾遺物語に、「あはれ、もつたいなき主哉。」(巻一・十五)、室町時代の下学集に、「勿躰モツタイ〈躰体體、皆同じ字也。勿は無也。勿躰の二字は即ち正躰無き義也。然るに日本の俗の書状に勿躰無しと云ふは、大いに正理をそむく也。子細に之れを思ふべし。〉」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532290/67)とある。勿体無いの説明で混乱が生じている。もとからある仏教用語ではなく、我が国で作られた造語である。勿体を付ける、勿体振る、とも使われる。内実はそれほどでもないのにうわべを重々しく装うこと、実質的な価値は大したことないのにあたかも凄いものであるかのように思わせることである。勿体ともたひの音はよく似ており、モタヒの音便をとらえた洒落であろう。勿体、すなわち、体無しとは、瓢箪が大きな瓜なのに食べることができないのと同様、立派なタヒなのになかが空洞になっていることの謂いである。老子の説く無用の用に似ている。「しょくせんして以て器をつくる。其の無に当たりて、器の用あり。(埏埴以為器。当其無、有器之用。)」(老子・道徳経)とある。5世紀に渡来人がもたらした須恵器は、それまで使っていた器、土師器と比べて性能の面では水分が浸み出すことのない点が優れていた。火にかけることはできなかったが、祝部土器とも称されたことがあったように祭祀に使われることが多かった。大きなものが作られ、水を貯めること、わけても貴重な酒を量を減らさずに入れておけるから便利であった。そこで、奉納するのにもたひが使われたのである。勿体をつけるのに持って来いの代物であった(注2)
 以上の考察によって、「石上いそのかみ ふる」という言い回しは、器物としてのもたひや内容物としての酒と関係が深い点が語学的、駄洒落的に理解された。

(注)
(注1)現在の地名では「布留」と漢字表記される。「布留連」(天武紀十三年十二月)、「大和皇別布留宿禰」(新撰姓氏録)、「石上郷布瑠村」(同)などが早い例である。石上神宮への神宝の納入は垂仁紀三十九年十月条に遡る。

 五十敷命しきのみこと茅渟ちぬ砥川とのかはかみのみやしまして、つるぎ一千口ちぢを作る。因りて其の剣を名けて、川上部かはかみのともと謂ふ。亦の名は裸伴あかはだがとも〈裸伴、此には阿箇播娜我等母あかはだがともと云ふ。〉と曰ふ。石上いそのかみの神宮かむみやをさむ。是の後に、五十瓊敷命にみことおほせて、石上神宮の神宝かむだからつかさどららしむ。(垂仁紀三十九年十月)

 似た内容の別伝も伝える記事である。茅渟で刀鍛冶をし、完成品を石上神宮へ納めている。本稿本文で、「石上いそのかみ ふる」がもたひのことを指しつつ、モタヒは黒鯛の謂いで、別名をチヌということの不思議さに言及している。ヤマトコトバは曰く因縁を持つように体系化されている。
(注2)勿の字音はフツである。紀で、経津ふつ主神ぬしのかみ武甕たけみか雷神づちのかみは、葦原中国平定譚以来、セットで語られ、フツとミカにはつながりがあるとされていたとわかる。神武記には、石上神宮に伝わる宝剣は、「佐士布さじふ都神つのかみと云ふ。亦の名は、みか都神つのかみと云ふ。亦の名は、つのたま」と記されている。「石上坐いそのかみにいますつのみたま神社」(延喜式)ともいわれる。拙稿「神武紀の「韴霊(ふつのみたま)」について」参照。

加藤良平 2025.2.11改稿初出

三輪で杉の木を「斎(いは)ふ」のは、甑(こしき)による

 万葉歌に「すぎ(ギは乙類)」が登場するのは以下の十二例で、神木(注1)と目されるのは➀~➈である。

 ➀味酒うまさけを 三輪のはふりが いはふ杉〔忌杉〕 手触てふれし罪か 君に逢ひ難き(万712)
 ➁御幣帛みぬさ取り みわの祝が 鎮斎いはふ杉原〔鎮齊杉原〕 たき木伐ぎこり ほとほとしくに をの取らえぬ(万1403)
 ➂もろの 神の神杉かむすぎ〔神之神須疑〕 已目耳矣得見乍共 ねぬ夜ぞ多き(万156)
 ➃かむ南備なびの 神依板かむよりいたに する杉の〔為杉乃〕 おもひも過ぎず 恋のしげきに(万1773)
 ➄かむ名備なびの もろの山に 隠蔵いはふ杉〔隠蔵杉〕 思ひ過ぎめや こけすまでに(万3228)
 ➅何時いつの間も かむさびけるか 香山かぐやまの 鉾椙ほこすぎもとに〔鉾榲之本尓〕 こけすまでに(万259)
 ➆石上いそのかみ 布留ふるの山なる 杉群すぎむらの〔杉村乃〕 思ひぐべき 君にあらなくに(万422)
 ➇石上いそのかみ 布留ふる神杉かむすぎ〔振乃神杉〕 かむびにし われやさらさら 恋に逢ひにける(万1927)
 ➈石上 布留の神杉〔振神杉〕 神さびて 恋をも我は 更にするかも(万2417)
 ➉すぎの野に〔椙野尓〕 さをどきぎし いちしろく にしも啼かむ こもりづまかも(万4148)
 ⑪いにしへの 人の植ゑけむ 杉がに〔杉枝〕 霞たなびく 春はぬらし(万1814)
 ⑫わが背子せこを 大和やまとりて まつしだす 足柄山の 杉のの間か〔須疑乃木能末可〕(万3363)

 「味酒うまさけ(ケは乙類)」は「三輪みわ(ミは甲類)」にかかる枕詞である。枕詞は言語遊戯である(注2)。地名の三輪との関連で、かめの一種のみわ(ミは甲類)(注3)で酒を醸し、そのまま神に供えたために「神酒みわ」(万3229)と呼ぶようになったからとされる。和名抄では「祭祀具」に、「神酒 日本紀私記に神酒〈美和みわ〉と云ふ。」とある。崇神紀七年二月から八年十二月条にかけて大神おほみわ神社の縁起が載る。大物おほものぬしの大神おほかみを父とし、活玉依媛いくたまよりびめを母とし、陶津耳すえつみみの娘であるおほ田田根子たたねこをもって祭らせている。大田田根子は、茅渟県ちぬのあがた陶邑すゑむらに見出されている。5世紀に出現した泉北丘陵の陶邑古窯跡群において、須恵器の生産が開始された。渡来人が新技術を伝えている。地名に見える「茅渟県」のチヌとはクロダイのことである。幅広で黒灰色をした須恵器の様子によく似ている。赤い鯛を土師器に譬えての対比であろう。三輪みわ神酒みわを捧げるために須恵器のみわを用いている。言葉としては、ミワという音が先にあり、たくまれているような展開となっている。
 地名の三輪については、「隠所こもりくの はつの川ゆ 流れ来る …… もろうへに …… ばせる 細紋ささらおびの ……」(紀97)とあるように、山のまわりを川の水がたわんで、ベルトで腰のところに輪を作るようにまわっていることと関係があると思われていたとわかる。「味酒うまさけを かむ名火なびやまの 帯にせる 明日香あすかの川の ……」(万3266)とあって、万3228番歌とともに香具山が「三諸の神名備山」であるとされている。都が飛鳥の地へ遷ったために変わっているようである。御諸とは、ミ(接頭語)+モロ(杜、森、盛と同根)、神名備とは、カム(神)+ナ(助詞)+ビ(傍)、ないしは、カム(神)+ナビ(なばる)の意で、いずれも神の依りつく場所の意である。
 川が回っているのである。字形が縦に三本のラインのところ、三諸にふさわしく横になりかかり、斜めになって彡となる。山頂からぐるりと回る川へと水が浸み出してくる。ミモロが音の似るミ(水、甲類)+モレ(漏、モ・レの甲乙不明)が連想されたとすると、そんなかめこしき(コは乙類、キは甲類)である。甑は米などを蒸すための土器で、蒸籠の焼物版である。円筒形から鉢形になっていて、左右に角状の把手が付き、横から見るとあたかも瓶のようであるが、底にいくつか穴が開いており、簀子状のものを敷いて蒸す調理に使った。中国では古くから青銅器の発掘例がある。3~4世紀にかけて朝鮮半島を伝って伝来したとされ、本邦では5世紀に須恵器や土師器の甑が見られる。須恵器技術の伝来と時を同じくして伝えられたものであろう。崇神紀にある「陶津耳」とは、耳のような把手の付いた須恵器、甑の謂いかと推測される。
 甑は本邦では橧とも書く。播磨風土記・宍禾郡条に、「をかの形も橧・かまど等に似たり。」とある。橧の字は、白川1995.は甑の異文とするが、中国では「橧巣」と使うように、木の枝を積み上げてその上に住むようにした古代の住居のことである。夏暑いから橧に住む。新撰字鏡には、「橧 辞陵反、豕所寝也。草也。己志支こしき」とある。甑が湯気で熱いのと同じで、様子は鳥の巣さながらである。つまり、橧とは、巣+木(キは乙類)、スギである。特に酒造業では甑を使って酒米を蒸し、内部を杉板で覆った麹室のなかで作業する。酒屋の看板の杉玉、いわゆる酒林さかばやしは杉の葉を束ねたもので、箒状の形をしたものもあった。

副葬用の竈形土器(古墳時代、6世紀、葛城市笛吹出土、東博展示品)

 甑(橧)は、竈の上に水を入れた釜を置き、その上に据えられる。釜は、竈の穴に落ちないように縁が広がった形に作られ、特にハガマ(羽釜)と呼ばれる。甑(橧)の字にある曾の字は、上は蒸籠、下は焜炉の象形である。それは、古墳から出土するミニチュア竈型土器と同じ構成になっている。酒を造るためには、米は通常の煮て炊きあげる方法ではなく、甑(橧)による蒸しが必要となる。柾目の杉材と竹の輪などで作られた蒸籠でも可能だから、橧という字が好んで用いられたのかもしれない。和名抄には、「木器」に、「甑〈甑帯附〉 蒋魴切韻に云はく、甑〈音は勝、古之岐こしき〉は飯を炊ぐ器なりといふ。本草に甑帯灰〈古之幾和良乃波飛こしきわらのはひ〉と云ふ。弁色立成に炊単なりと云ふ。」とある。また、新撰字鏡には、「〓〔木偏に甑〕 己志支こしき」とある。
 甑(橧)には、米粒、すなわち、銀舎利が入っている。なかに舎利が入って筒状に高いものは仏舎利塔である。仏塔はツクシの形に似ており、槻の木ともども比喩として用いられていた(注4)。スギナの胞子茎のツクシには、茎を包む羽状の皮があり、ハカマ(袴・鞘)と呼び習わしている。葉が退化したもので硬いから、食するときには下拵えとして取り除かなければならない。五重塔のそれぞれに屋根のある階はこし(コは乙類)、一番下の木製のものは裳層もこしという。コシ(層)+キ(着、甲類)の姿になっている。スギナは車のスポークを連ねたような形をしている。別名を接松つぎまつといい、こしき(コは乙類、キは甲類)のようである。甑と轂は姿が似ているから同じくコシキと言うとされている。和名抄に、「轂 説文に云はく、轂〈古禄反、楊氏漢語抄にくるま乃古之岐のこしきと云ひ、俗に筒と云ふ〉は、あつまる所なりといふ。」とある。
 甑(橧)や層にある曾の字は、カツテ、イムサキとも訓み、時間的に遡ってのことを指す。「過ぎ(ギは乙類)」にし時からスギと関係する。歌中においても「杉」が「過ぎ」や「過ぐ」を導くように使われている。また、スギは常緑の針葉樹でヒノキに似ており、橧の字もひのき字によく似ている。よって、ウマサケ、ミワ、ミモロなどという語は、甑(橧)を介しつつ、杉と関連する言葉である。
 ➀➁例に、神職のはふりが「いはふ」とある。斎、忌などと書くイハフは、二礼二拍手一礼のようなおまじないをして良いことがあるようにと祈ることである。神官はイハっているが、歌の作者はイハっておらず、恋に夢中であったりする。はふりは、「はふる」、「はふる」ことと関係する(注5)。死にまつわる役割を担っている。反対に、恋は生の真っただなかの行為である。相反する点を際立たそうと素材にしているらしい。つまり、底意として、三諸も神南備も、神妙な面持ちの神官によって尤もらしく託けられ、ご大層に有り難がられているに過ぎないとの認識がある。
 以上から、三輪においては、杉の木が斎うべき樹木としてふさわしいと認められていたとわかる。語学的、駄洒落的に、類推志向をして得られた結果である。酒の神を祀るとされる大神神社には、やがて杉製の酒樽が多数奉納されるようになった。スサノヲによるヤマタノヲロチ退治と因縁づけられたことにもよるのであろう。なお、三輪山には、須恵器の到来した5世紀をはるかに遡る祭祀遺跡が確認されている。石上神宮と大神神社は、山そのものを御神体として崇めてきた。太古の人は、鉾(鋒)のような山の形を尊いと考えていたようである。最初は、その流れから杉形すぎなりが好まれ、杉の木に注目が向かっていったかとも思われる。ただ、飛鳥時代の人々の機智はその程度ではとどまらず、三輪山山頂から円周に取り巻く川へと均等に沢ができているさまは、上空から見れば、きっと轂のように見えるであろうと想像したのだろう。山鉾が巡行できるのは、山車だしに輪の車がついてあるからで、そのからくりの要こそ轂である。したがって、ミ(御)+ワ(輪)と崇め奉られてしかるべきことなのであった。

(注)
(注1)言葉の上でそのように扱っているらしいだけで、今日、人々、あるいは神社関係者が考えているのと同じ考え方をしていたかは不明である。
(注2)廣岡2005.参照。
(注3)本稿では、カメに「瓶」字を、ミワに「甕」字を常用とする。
(注4)拙稿「斉明天皇の両槻宮は、スサノヲの須賀宮を仏教的に復刻したものである」参照。
(注5)白川1995.626頁。

(引用・参考文献)
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。

加藤良平 2025.2.12改稿初出

ヤマトコトバを学ぶ人のために

 ヤマトコトバを学ぶ人がどのように学んだらよいか、参考文献や研究方法について述べてみたいと思います。
 まず第一に、言葉とは何か? について考えなくてはなりません。そのために、

ウィトゲンシュタイン『哲学探究』

が良いのですが、これをまともに読んでいくとなると哲学科へ転身しないといけません。野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』や橋爪大三郎氏などの解説書を頼るといいでしょう。
 言葉とは何かを感覚的に会得するのに最良のエッセイとしては、

福田定良『落語としての哲学』

があります。言語学の田中克彦氏や思想史の藤田省三氏も絶賛していました。昭和時代の本である点はお断りしておきます。
 言語学を学ばないといけませんが、記念碑的著作の

ソシュール『一般言語学講義』

から始めようとすると挫折します。これも丸山圭三郎『ソシュールの思想』というすぐれた解説書が役に立ちます。
 ヤマトコトバは無文字時代に立ちあがった言葉ですから、その成り立ちについて考えていくことが求められます。漢字に対しては形から入り、ヤマトコトバに対しては音から入ることだと悟っていた

白川静『字訓』

は名著です。『岩波古語辞典』(助動詞・助詞の文法を含む)、『古典基礎語辞典』『時代別国語大辞典 上代編』『日本国語大辞典 第二版』とともに辞書として欠かせません。漢字に関しては、白川静『字通』諸橋轍次『大漢和辞典』、訓みの入っている『康煕字典』(標註訂正本)です。芸文類聚のようなものをあげないのは、書き方練習のこととヤマトコトバ学とは別物だからです。
 ヤマトコトバが無文字時代に形成されるに当たり、その言葉を自ら証明するように自己言及的な性格を有していたことについては、フレーム理論を理解しなければなりません。どの分野でもかまわないのですが、たまたま筆者は社会学の

アーヴィング・ゴフマン

の著作から学びました。その場その場の都市人類学を展開していますから、その言葉その言葉のヤマトコトバを根気よく研究するのとよく似ています。
 文法に関しては、佐佐木隆氏の論文にあるような面倒くさい議論がそれぞれの言葉について行われていますから、それを読んでいくしかありません。全体像としては小田勝『実例詳解古典文法総覧』がネット上の補遺稿も含めて役立ちます。
 実地に記紀万葉を読んでいくに当たり、テキストとしてすぐれているのは、日本書紀では岩波書店の古典文学大系『日本書紀』です。古事記は、うーん? どれがいいのかなあ、ひょっとすると本居宣長の古事記伝かも。万葉集はハンディで使いやすいから中西進『万葉集 全訳注原文付』です。他のテキストと対照しながら使ってください。
 ヤマトコトバはその当時の社会や技術を背景としてできあがっていますから(ヤマ(山)やカハ(川)は縄文時代からあったでしょうが)、弥生、古墳、飛鳥、奈良時代がどのようであったか知らなければなりませんし、言葉ごとにいちいち百科全書的な知識を持っていないと十分な理解とは言えません。百科全書を目指したものではありませんが、関根真隆『奈良朝食生活の研究』『奈良朝服飾の研究』は見逃せません。百科全書製作の営みとしては江戸時代の和漢三才図会や明治時代の古事類苑があり、江戸時代の風俗関連では守貞謾稿、産業関連では日本山海名産図会日本山海名物図会も参考になりますが、言葉の側面から和名抄のように作られたものではありません。古字書としては新撰字鏡(国語索引)や名義抄も重要です。
 けれども、そのレベルでは駄目なのです。当時の人たちがどういうつもりで個々のヤマトコトバを使っていたのか、当時の人になり切らなければなりません。現代語に訳して理解したつもりになっても、それはつもり○○○でしかありません。当時の人たちの常識、共通認識に染まらなければなければなりません。例えば、
 ネット通販で買い物をした
 さつまいもを食べた
 鉄鍋で料理した
といった言い方をしても、それぞれ、バブルの頃、豊臣秀吉、紫式部には通じませんでした。それぞれの時代にはまだなかったからです。記紀万葉に残されているヤマトコトバを理解するためには、古墳~飛鳥~奈良時代の生活水準、技術水準を自らの内に収めてそれを常識とする必要があるのです。当たり前に使っている電気・ガス・水道はなく、文字が読める人も非常に限られていて、その書き表し方も定まっていません。そんな状況を理解、体得するためには、今のところ自ら開拓していくしか道はありません。例えば、考古学関連の博物館をめぐって個々の展示物についてこれは何か? 当時は何と呼ばれていたものなのか? どうしてそう名づけて満足していたのか? それ以前はどうやって作業していたのか? 今使っているような代替品はなかったのか? といったことを考えながら探っていくのです。コフン(古墳)は考古学の用語で、ヤマトコトバではミサザキ(御陵)やツカ(塚)、ハカ(墓)ですから分けて考えてください。民俗学関連の資料館でも同じことをすれば、道具の名前をたくさん知ることができます。
 絵巻物を逐一繙きながら、言葉では何ということをしている光景なのかを考えていくのもためになります。小松茂美氏の絵解きはかなり正しいと思います。『絵巻物による日本常民生活絵引』やネットで閲覧できる三省堂の辞典・書籍にまつわるコラム・倉田実「絵巻で見る 平安時代の暮らし」(倉田実『図鑑 モノから読み解く王朝絵巻』)も参考になります。虎尾俊哉『訳注日本史料 延喜式』が大成されているのも大いに助かります。だからといって、例えば源氏物語に精通すると書き言葉に慣れてしまい、時代も考え方も違うからかえってヤマトコトバ学からは遠ざかることになるでしょう。
 事典類では『国史大辞典』『日本史大事典』鈴木敬三『有識故実大辞典』中村元『佛教語大辞典』『原色染織大辞典』木下武司『万葉植物文化史』梶島孝雄『資料日本動物史』菅原・柿澤『図説日本鳥名由来辞典』木村陽二郎『図説草木辞苑』、そして、法政大学出版局からシリーズ化している『ものと人間の文化史』も勉強になります。ただし、この文章の後半になって文献類を強調するために改行していないのにはわけがあります。考え方を学ぶことと参考にすることとでは次元が異なるということです。
 そうやってヤマトコトバについて考えて行って、どうして「 weaving machine」のことをハタと呼ぶことにしたのか? ということを問いつづけ、旗、端、鰭、将もハタと言うなあと連想をたくましくしながら、ある日、はたと気づいて、近代になって battery を「電池」とうまく訳した以上にすごいことだ、これこそがヤマトコトバの知恵なのだと得心が行くことがあります。文字を知らない人どうしが互いに通じ合える言葉としてきちんとできあがっているではないか、すごい! と感動を覚えることさえあるでしょう。その時、ヤマトコトバを実際に使っていた人たちと同じ地平に立てたということになります。もちろん、それは、語源というわからないことを調べるということではなくて、記紀万葉の現場にいた人たちと語感を共にしたということです。めでたくヤマトコトバ学に入門できました。
 ヤマトコトバの知恵に慣れるためには、頓智の働きが良くなるようにしておく必要があります。言葉を覚え、文字を習い始めたばかりの幼児期~小学校低学年の子供たちが特異になぞなぞ遊びに興じているさまは、記号操作を伴わない飛鳥時代の人たちとよく似ているようです。ですから、ふだんからの駄洒落づかい、なぞなぞ遊び、二つの意味が掛かっている川柳解きなどがトレーニングとして有効なのかもしれません。そうこうしているうちに、はたしてこれは学問なのか? というところまで考えをめぐらせられたなら、文化人類学的なフィールドワークをしているのだと自らを納得させてその沼にはまっていくか、あるいは、ヤマトコトバ学から無事に卒業(中途退学)ということになるでしょう。
 コンピュータ言語を学ぶと未来および将来は開かれていますが、ラテン語を学んでその先に何があるかというのよりもさらに難問(おそらく愚問)です。考え方は人それぞれですからご自身でお決めになってください。ちなみに筆者のひそかな野望としては、「飛鳥藤原」が世界遺産に認定されたら、つづいて古事記、日本書紀、万葉集をユネスコの記憶遺産(「世界の記憶」)への登録も目指してもらい、達成された暁にはヤマトコトバ博物館を作ることです。ヤマトコトバ学には斜め上への伸びしろがあると思います。

加藤良平 2025.2.12初稿