ヤマトタケル譚の尾津前の一つ松をめぐって

尾津の崎の一つ松

 ヤマトタケルは東征からの帰途の終盤、尾を津前つのさきの一つ松のところへ来たところ、以前置き忘れていたで刀がまだ残されていたので感興を覚えて歌を歌っている。記紀で話の展開に相違があって順路が異なるほか、歌謡でも語句が少し違っている。順路以外でも、記においてヤマトタケルの疲弊について雄弁であるのに対して、紀では「是始有二痛身一。」とのみ訥弁であると指摘されている(注1)。話をいかに組み立てていくかという脚本上の違いである(注2)。

 其処そこより発たちて当芸野たぎのの上へに到りましし時、詔のりたまはく、「吾あが心、恒つねに虚そらより翔かけり行ゆかむと念おもふ。然れども、今吾が足、得え歩まずてたぎたぎしく成りぬ」とのりたまふ。故かれ、其地そこを号なづけて当芸たぎと謂ふ。其地より差やや少し幸行いでますに、甚いと疲れませるに因りて御み杖つゑを衝つきて稍やくやく歩みたまひき。故、其地を号けて杖衝坂つゑつきさかと謂ふ。尾を津前つのさきの一つ松の許もとに到り坐して、先さきに御食みをしたまひし時に、其地に忘らえし御刀みはかし、失うせずて猶なほ有りき。爾しかくして、御歌みうた曰よみしく、
 尾を張はりに 直ただに向むかへる 尾を津前つのさきなる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 大刀たち佩はけましを 衣きぬ着きせましを 一つ松 あせを(記29)
 其地より幸して、三み重村へのむらに到りし時、亦、詔りたまはく、「吾あが足、三重に勾まがれるが如くして甚いと疲れたり」とのりたまふ。故、其地を号けて三重と謂ふ。(景行記)
 日本やまと武尊たけるのみこと、是ここに始めて痛身なやみますこと有り。然しかうして稍やうやくに起たちて、尾張に還ります。爰ここに宮みや簀ず媛ひめが家に入らずして、便すでに伊勢に移りて、尾津をつに到りたまふ。昔さきに日本武尊、東あづまに向いでましし歳に、尾津の浜に停とどまりて進食みをす。是の時に、一ひとつの剣つるぎを解ぬきて、松の下もとに置きたまふ。遂に忘れて去いでましき。今、此ここに至るに、是の剣猶なほ存あり。故かれ、歌みうたよみして曰のたまはく、
 尾を張はりに 直ただに向むかへる 一つ松あはれ 一つ松 人にありせば 衣きぬ着せましを 大刀たち佩はけましを(紀27)(景行紀四十年是歳)

 刀剣類を置き忘れたとする筋立てにおいて、紀では東征に赴く途上にて忘れたことになっており、記では「先」とだけあっていつ忘れたかわからないことになっている。新編全集本古事記に、「「先さき」は原則として前の叙述を受ける。しかし、前に食事をしたことは述べられていない。この点で異例であり、疑問を残す。東国に赴く時にここを通って食事をした、その時に忘れた剣がそのままあったのだと受け取られる。」(232~233頁)と、紀の記述を引いた推測が行われている(注3)。考えられるのは、紀同様に東征前に置き忘れたとするケースのほか、帰路において尾津前の一つ松のところに到着後、「御食」にあたって佩いていたのを外してそれを忘れたという事情もあげられよう。後者の考え方はこれまで採られたことはなかったようである。筆者は、記の話の組み立てでは紀とは異なり後者に依っていると考える。
 すなわち、ここにある「先」は、以前に、の意の「さきに」ではなく、「まづ」と訓まれるべきと考える。

 到二‐坐尾津前一松之許一、先御食之時、所レ忘二其地一御刀、不レ失猶有、爾御歌曰、……

 尾津前の一つ松のもとに到着したら、何はともあれ、まずはじめに食事をしたという意味である(注4)。
 それは、ヲツノサキという地名がよく物語っている。前後の文に、当芸たぎ、杖衝坂つゑつきさか、三重みへ(注5)といった地名が地名譚として展開されている。尾津前のみ地名譚となっておらず、歌謡を伴った構成になっている(注6)。前後との整合性が問われなければならない。
 ヤマトコトバにヲ(尾、緒、雄、嶺)とは伸び出すもののことをいう。ツ(津)は船の停泊場のことをいう。そのような名にあるヲツとは、海のなかに砂州が伸び出して鈎型に曲るなどしていて、船にとっては荒波を防いでくれるので都合のいいところ、という意であろうと推測される。ツ(津)という港湾が果たす役割には、漁船の停泊場、旅客船の停泊場、輸送船の停泊場、が考えられる。ここで、わざわざヲツノサキと断ってある。記29歌謡中に「袁都能佐岐」とあって、尾を津前つのさき(ノは乙類、キは甲類)であるとわかる。サキ(先、崎)は前方へ突き出している部分、先端のことをいうが、ヲツサキではなく、ヲツノサキと言っている。ノサキは荷の前さき(ノは乙類、キは甲類)と同音である。荷前とは、毎年諸国から献上される貢みつきの初物のこと、また、初穂のことをいう。

 東人あづまひとの 荷の前さきの箱の 荷にの緒にも 妹いもは心に 乗りにけるかも(万100)
 諸陵司 正一人。〈陵の霊〈謂ふこころは、十二月に荷前の幣を奉るは是なり。〉を祭り、喪葬、凶礼、諸陵及び陵戸の名籍の事を掌る。〉 (令義解・職員令)

 すなわち、ヲツノサキと聞けば、そこは調の絹織物や初穂などを運ぶための港湾であると理解される。となれば、新米が届いているのだから、何はさておき食事にしようよ、ということになる。よって、古事記の「先」は東征前のことではなく、到着後、マヅと訓むのが正解なのである。記において地理的に順路が違うのではないかと不思議がられている箇所は、ふつうなら海路を通るところ、陸路を通って戻ったことを語ろうとしているためである(注7)。そして、前後のゆかりを示して地名譚とする手法とは逆に、地名を示して話を展開させる新手の地名譚となっているのである。

デルタ河口部の渡船状況

 この考えが正しいことは、記29歌謡の文脈にも確かめられる。「尾張に 直ただに向へる 尾を津前つのさきなる 一つ松 ……」とある。尾張の地と向き合っているのが尾津前である。伊勢湾を海上交通していたことを物語っている。江戸時代の東海道五十三次と同じようなルートである。伊勢湾奥の庄内川、日光川、木曽川、長良川、揖斐川のデルタ地帯を避けるのに合理的であった。おそらく、三角州は後の時代ほどには進行しておらず、対岸であると感じられたのだろう。それが地名に反映している。尾を張はりとは、ヲ(緒)にハリ(針)をつけていると聞え、対して尾津をつが海上へ伸び出して鈎状に曲っているところとするなら、それも釣り針の形を思わせて同じくハリなのである(注8)。互いにヲ+ハリで、番いの関係にあるとして、穿った見方になっている。
 海路をとると、デルタ河口部分で航路を見極めることが必要となる。河上からは絶えず土砂が運ばれてきて堆積をくり返し遠浅な地形となっている。そんななか、河川の水流の延長線上に、ある程度深さを保って水が流れる道がある。それを水脈みをといい、大阪湾、伊勢湾、東京湾、有明海などの内湾奥部に多く見られる。その水脈を使って船を進めた。屈曲、分岐が多く、波や流れにより軟らかい堆積砂泥は形を変えるから注意を要する。きちんと確認しながら進めないと、破損、浸水、座礁、転覆のおそれがある。そんなことになったら荷前の積み荷は台無しになる。どこが比較的深くて船の航行に支障がなく、どこが浅くて難儀なことになるかを知るために、水脈を確かめる船が先に立って偵察することになっていた。和名抄に、「水脈船 楊氏漢語抄に水脈船〈美乎みを比岐能ひきの布弥ふね〉と云ふ。」とある(注9)。

左:七里の渡し(Koshi2016様「佐屋路と周辺の主要街道。」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/七里の渡し)、右:澪標(水咫衝石、安冶川口、秋里籬嶌著、竹原春朝斎画・摂津名所図会、大阪市立図書館デジタルアーカイブズhttp://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=17920010画像管理番号144248をトリミング結合)

 また、水脈、水深の目印とするために水中に澪標みをつくしを立て、水深の浅い河口港での航行に役立てた。ミヲ(水脈)+ツ(連体助詞)+クシ(串)の意である。

 遠江とほつあふみ 引いな佐さ細ほそ江えの 澪標〔水乎都久思〕 吾あれを頼めて あさましものを(万3429)
 澪標〔水咫衝石〕 心尽して 思へかも 此処ここにももとな 夢いめにし見ゆる(万3162)
 凡そ難波津の頭ほとりの海中に澪標みをつくしを立てよ。若もし旧ふるき標しるしの朽ち折るること有らば、捜し求めて抜き去れ。(延喜式・雑式)

 「一つ松」は、ヤマトタケルが到着したときには「尾を津前つのさき」に生えており、地上の立標的な役割を果たしていたのだろう。けれども、一般的な港湾のあり方と湾奥にある大河川のデルタでの港湾の目印とでは果たすべき役割が異なる。外海から場所を特定するために目印が必要なのではなく、浅瀬と水脈との区別にこそ目印は必要とされる。なにしろ、「尾張に 直に向へる」とはっきり対岸は見えている。記では、立標は役に立たないから陸路をたどって来ている。そして、足が疲れている。航路が確立していないから陸路を長々と歩いてきた。行っていたのは東国である。上代東国方言に徒歩かちのことをカシと言い、足を動かなくさせる刑具に「枷かし」がある。

 赤駒あかごまを 山やま野のに放はがし 捕とりかにて 多摩の横山 徒歩かしゆか遣やらむ(万4417、防人歌)
 鏁〓(判読不明)鎻 三形同、思果反、䥫也、又璅字、連也、足あし加志かし、又加奈保太志かなほだし(新撰字鏡)

 ヤマトタケルに命じられているのは、「東方十二道○」の平定である。この個所の航路も整備しておかなければ使命を全うしたことにならない。だから、帰還のルートのなかで前後するかのような形で尾津へ立ち寄っている。
 すなわち、水路標識にするために松の木を切り倒して海中の然るべき位置に澪標みをつくしとして立たせたのである。そうしておけば、今後、荷前の船が尾張と尾を津前つのさきとの間を行き来するのに好都合であり、ヲツノサキなる名がますますその名にふさわしいことになる。言葉と事柄とを一致させることに成功して、言霊信仰は成就していくことになる。言こと向け和平やはすことの完成である。それが東征の深意である。
 記の話において、ヤマトタケルは尾津前の一つ松のところに「御食」した後、一つ松をミ(御)+ハカシ(佩)の意であるミハカシ(御刀)を使いながら切り倒してそれを澪標として設置した。しかる後切り倒したところへ戻ってみると、御刀はそこにそのままなくならずにあった。そのことを言っている。そして、記29歌謡を歌っている。澪標に使われている松の木の柱は、航路を確保するために犠牲とされている。これが人であるなら人柱ということになる。人を斬るのと同じことだから御刀を使って伐ったということである。ミ(水)+ハ(端)+カシ(戕牁)の意に沿っていて、澪標の意味によく合っている。干潮時に川の流れの残るところは水脈として船の航行に適するが、露出する砂泥堆積部分は満潮時に水没しても浅すぎて船は進まない。だから、大潮の干潮時を見計らって澪標は立てられた。そういう港湾土木地形についての譚が歌に作られ、説話として成っている。顕彰される対象であり、大刀を佩かせ、衣を着させるにふさわしい。なにしろ、荷前の荷を運ぶために設けられている。調には絹製品があった。「衣きぬ着せましを」の「衣」は麻製ではなく絹製ということになる。

一つ松を人柱にする

 この「御刀みはかし」、「大刀たち」は、「草那芸剣」とは別のものとされている。ヤマトタケルは東征に当り、倭比売やまとひめの命みことから授けられた「草那芸剣」以外に、天皇から「比々羅木ひひらぎの八や尋矛ひろほこ」(注10)を賜っている。それであろう。「比々羅木の八尋矛」の実態は知られないが、ヒイラギ(柊)の葉のようなとげとげのある長矛のこととするなら、見た目はチェーンソーによく似ている。電動するものではないが、鋸の役目を果たしそうに感じられる。ひいては、「尾を津前つのさきの一つ松の許もとに到り坐して、……」とある個所も、「許もと」という訓み方ではまどろっこしい。松の木は刈かり倒される。だから「許がり」と訓まれてふさわしい。「御食みを」は水脈みを(澪)と掛詞にし、強調して表している。

 到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀不失猶有。……
 尾を津前つのさきの一つ松許がりに到り坐して、先まづ御食みをしたまひし時、其地そこに忘らえし御刀みはかし、失うせずて猶なほ有りき。

 ガリは、……の所へ、……のもとへ、の意である(注11)。

 妹いも許がりと〔妹許登〕 吾が行く道の 川しあれば つくめ結ぶと 夜よそ更ふけにける(万1546)
 妹いもら許がり〔妹等許〕 今いま木きの嶺みねに 茂り立つ 嬬松つままつの木は 古人ふるひと見けむ(万1795)
 富士の嶺ねの いや遠長き 山やま道ぢをも 妹許いもがりとへば〔伊母我理登倍婆〕 日けに及よばず来きぬ(万3356)

 古事記は、稗田阿礼の誦習していたものを太安万侶が筆記したものである。無文字時代の口頭言語は、文字時代の口頭言語以上に口頭言語的である。綴り織られていく口頭言語のテキストは、蜀江錦が表からも裏からもそれぞれの文様として浮かび上がるごとく形を成している。尾津の崎に大きな松が一本生えていてそこでランチを楽しんでいるようにも、すでに航路標の戕牁として澪標が機能しているようにも受け取ることができるのである。「御食みをしたまひし」と敬語表現で読んだ時、ミヲ(水脈)+シタ(下)+マヒ(舞)+シ(過去)と聞くことができ、水脈が海面下で旋回運動するように流れているとわかる(注12)。水流によってマヒ(舞)が生ずると感じた表現は紀に見える。仁徳紀十一年条の茨田堤の造成の件である。

 冬十月に、宮の北の郊原のを掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀ほり江えと曰ふ。又将に北の河の澇こみを防ほそかむとして、茨田まむたの堤つつみを築つく。是の時に、両処ふたところの築かば乃ち壊くずれて塞ぎ難き有り。時に天皇、夢みいめみたまはく、神有ましまして誨をしへて曰まをしたまはく、「武蔵むざし人ひと強頸こはくび・河内かふち人ひと茨田まむたの連むらじ衫子ころものこ〈衫子、此には莒呂母能古ころものこと云ふ。〉二人を以て河伯かはのかみを祭らば、必ず塞せかるること獲えてむ」とのたまふ。則ち二人を覓もとめて得つ。因りて河神かはのかみを祷まつる。爰ここに強頸、泣いさち悲びて、水に没いりて死ぬ。乃ち其の堤成りぬ。唯し衫子のみは全匏おふしひさこ両ふた箇つを取りて、塞せき難き水かはに臨む。乃ち両箇の匏を取りて、水かはの中に投なげいれて、請うけひて曰はく、「河神、崇あふぎて、吾やつかれを以て幣まひとせり。是を以て、今吾、来きたれり。必ず我やつかれを得むと欲はば、是の匏を沈めてな泛うかばせそ。則ち吾、真まことの神と知りて親みづから水の中に入らむ。若もし匏を沈むること得ずは、自づからに偽いつはりの神と知らむ。何いかにぞ徒ただに吾が身を亡ほろぼさむ」といふ。是に、飄風つむじかぜ忽たちまちに起りて、匏を引きて水に没む。匏、浪の上に転まひつつ沈まず。則ち潝々とくすみやかに汎うきをどりつつ遠く流る。是を以て衫子、死なずと雖も其の堤亦成りぬ。是、衫子の幹いさみに因りて、其の身亡ぼざらくのみ。故、時人ときのひと、其の両処を号けて、強頸の断たえ間ま・衫子の断間と曰ふ。(仁徳紀十一年十月)

 本稿も同様に考えられ、松の木は澪標にされて人柱に相当する。なにしろ、その澪標は荷の前さきのためのものだったからである。荷前はその年の初物の貢物である。荷前の使つかひとは、伊勢大神宮や陵墓へ荷前の幣を献上するための勅使のことである。尾津前は今の三重県桑名市に当たるとされており、伊勢国に属した。初荷を奉納する話にもってこいの設定である。人柱のように澪標になって命を絶たれた松の木にとってみれば、そこが陵墓にあたっていて葬られていると捉えられるのである(注13)。
 「あせを」という語は、男性への呼びかけの語とも、また、囃し言葉とも解されている。仁徳紀の人柱伝説に同じく、人柱は男性と見立てられ、すてきな人よ、と呼び掛けているのでありつつ、また、かなり汗かく作業であったろうから、アセという語がふさわしいものとして使われているようである。

(注)
(注1)小野2019.170頁参照。
(注2)金澤2019.は、「このような歌にも『古事記』と『日本書紀』それぞれの叙述が語る「歴史」の意図が現れていると考えられる 。……それぞれの書物において、歌と散文をどうよむことをもとめているかという問題として問われる必要がある。」(4頁)としている。
(注3)本居宣長・古事記伝に、「先サキニとは、かの倭比売ノ命の御ミ許モトを発タヽして、東ノ国に趣キ坐スとて、此地ココに来坐シし時を云、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/152)などと見える。
(注4)記に、「先」をマヅと訓む例は多い。マツ(松)の話だからマヅと訓んで正しいと知れる。
(注5)記の地名配置は正しくなく、当芸野→尾津前→三重村→杖衝坂→能煩野という順路が正しいとする説に対し、杖衝坂の比定は確かではないとする説(思想体系本古事記)や、物語の文脈として足の衰えを示す点で都合がよいとする説(新編全集本古事記)がある。
(注6)歌謡について、まことしやかな言説が通行している。例えば小野2019.には、「記29は死を眼前にした物語場面において倭建命の疲弊した姿を印象づける役割を担うとともに、倭建命の東征全体を通観した時に、歌によって倭建命と美夜受比売との恋物語を深め、奥行きを持たせる役割を有するものであった。」 (176頁)とある。また、藤原2014.では、この歌の解釈には従来、「①大刀を守った松への感謝や松褒めの歌とする説  ②尾張の美夜受比売への思慕の歌とする説」(1頁)があるが、「直接松に対する感謝や美夜受比売への思慕を語る表現は含まれていない」から再検討し、「倭建命が天皇として統治権を行使できる……東国で……「……一つ松」を臣下に見立てて授刀、賜衣を行いたいと歌うのである。これが二九番歌の『古事記』倭建命説話中で担う機能である。」(14頁)としている。これらの説は、批判する説も含めておよそナンセンスなこじつけである。古代の思考と相容れない。「役割」や「機能」を問うて歌意としたとして、歌を聞いている人にその場で即座に理解、納得されようはずがない。無文字時代の言語活動に発せられた口頭の言葉は消えていくばかりで、問い返しされることはなく、後講釈など通用しない。無文字の時代、聞いてすとんと腑に落ちる言葉以外、語り継がれる話も歌もない。その場でわからなければ、覚えることも伝えることもできない。
(注7)紀では話の筋立てが異なり、ヤマトタケルは東征の行きも帰りもこの航路を通っており、東征に赴く時に「一剣」を忘れて行っている。尾津前(尾津浜)の場所の比定に関しては、「直ただに向へる」とあることしか記されていないので、大河の河口の反対側ということとしか定められない。
(注8)川の渡船では、ロープを両岸に渡してそれを引っ張って行き交う方法をとる場合がある。尾張と尾津前との間は、もちろん距離が離れており、実際にロープをかけ渡すようなことはないが、頻繁に行き来する人々の意識の上では緒を張っているに等しいと思われていただろう。
(注9)万葉集に水脈に船を引き通すことを歌う例がある。

 朝されば 妹いもが手に纏まく 鏡なす 御津みつの浜びに 大船に 真ま楫かぢ繁しじ貫き 韓国からくにに 渡り行ゆかむと 直ただ向かふ 敏みぬ馬めをさして 潮待ちて 水脈みを引びき行ゆけば 沖辺には 白波高み 浦うら廻みより 漕ぎて渡れば ……(万3627)
 堀江より 水脈みを引びきしつつ 御船さす 賤しつ男をの伴ともは 川の瀬申まうせ(万4061)
…… 難波の宮は 聞し食をす 四方よもの国より 奉たてまつる 御み調つきの船は 堀江より 水脈みを引びきしつつ 朝凪なぎに 楫かぢ引き泝のぼり 夕潮に 棹さをさし下くだり ……(万4360)

 延喜式・雑式に、「凡そ大宰の雑の官物を貢する船、縁海の国に到らば、澪引みをびきして泊つる処を知らしめよ。」とあり、「縁海国」は瀬戸内海諸国をいう。大宰府からは、大陸との交易品のほか外蕃の使節も遣わされた。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「按西鄙及外蕃船舶之至、恐不レ知二海之浅深一、或誤膠二浅処一、不レ得三到二泊涯岸一、使下知二水脈一者、乗二小舟一以引導上、謂二之澪引舟一也、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991786/61、漢字の旧字体は改めた)と説明されている。
(注10)「爾くして、天皇、亦、頻しきりに倭建命に詔はく、『東ひむかしの方の十二とをあまりふたつの道の荒ぶる神とまつろはぬ人等ひとどもを言こと向むけ和平やはせ』とのりたまひて、吉き備臣びのおみ等が祖おや、名は御み鉏友耳建すきともみみたけ日子ひこを副そへて遣つかはしし時、比々羅木ひひらぎの八や尋矛ひろほこを給ひき。」(景行記)とある。対応する紀の箇所には、「則ち天皇、斧をの鉞まさかりを持とりて、日本武尊に授けて曰はく、……」(景行紀四十年七月)となっている。木材伐採が予め設定されていたようである。
(注11)思想大系本古事記では、ガリと訓んでいる。
(注12)拙稿「ミヲシ(進食・御食)のこと─ミヲ(水脈、澪)との関連をめぐって─」参照。「御食之時」は、ミヲシセシトキ、ミヲシシタマヒシトキといった「御食」をミヲシという連用形名詞にしてさらにス(為)という動詞を加えて訓むことは誤りで、ミヲシタマヒシトキと訓むべきであることも述べた。
(注13)記29歌謡にある「尾津前なる」の一句が紀27歌謡にはない。説話との関係からあった方が結びつきが強いとも考えられている。記では東征からの復路にあって「一つ松」のところで食事をし、すぐにその松を伐採して澪標にしたという話だから「尾津前なる」と修飾している。紀では東征への往路の「歳」(景行紀四十年是歳だから同年であるが)に「尾津浜」で食事し、「是時、解二一剣一置二於松下一、遂忘而去。今至二於此一、是剣猶存。」となっている。音声言語の伝達の観点からは、「尾津浜」という言葉づかいによって直接、荷の前さきのことが思い浮かぶものではない。ハマ(浜)はここに海浜であり、塩浜(塩田)であるとすれば調味料としての塩が得られる。だから食事をしようということになる。他の可能性としては、囲碁で盤上から取り除かれた石をハマ(浜)と呼ぶことから、黒白の胡麻塩が思い浮かぶ。なお、胡麻塩の歴史は不明である。桑名地方の時雨蛤が知られていたのかも不明である。いずれにせよ、「尾津浜」から想起される杭は澪標みをつくしではなく、船をつなぎとめる舫杭もやひぐひであろう。
 紀には次のような例もある。

 是歳、百済の為に、将に新羅を伐たむと欲おもほして、乃ち駿河国に勅みことのりして船を造らしむ。已に訖つくりをはりて、績麻郊をみのに挽き至る時、其の船、夜中に故も無くして艫舳へとも相反かへれり。衆ひとびと終つひに敗れむことを知さとりぬ。(斉明紀六年是歳)

 新造した船が一夜のうちに舳艫を反転させ、くるりと回ったとする記事である。績麻郊は同じく伊勢湾内の伊勢市祓川河口付近と考えられている。干満の差が大きく、その三倍も干満差のある白村江に敗れる前兆として記されているらしい。拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」参照。当然、湾奥では船の航行に十分気をつけなければならないが、満潮時に七里程度を渡すのであれば水脈みをを気遣うほどではないとの認識により割愛されているのかもしれない。
 紀の行程では、胆吹山→居醒泉→尾張→尾津→能褒野へと順を追って進んでおり、記のように当芸野→尾津前→三重村→杖衝坂といった徒歩での徘徊を示していない。水運の難について述べられていないのである。つまり、紀の「一つ松」は「浜」に生えたままになっている。「昔、日本武尊向レ東之歳、停二尾津浜一而進食。」とあって、そこに剣を忘れたままになっていたのも、今還ってきて松はそのままになっていたからで、伐られずにあったということだろう。東征に当って「尾津浜」で「進食」していたとするのは、河岸かしと同音にカシ(淅)という語がある点に手掛かりがある。水につけてふやかすことを言った。名義抄に、「淅 相亦反、カス、ウルフ」とある。ここはカシ(河岸)で、この松の木はカシ(戕牁)なのだから、持参している糒ほしひ、乾かれ飯ひをカシ(淅)て食事をしようと思い立ち、後で返してもらうつもりでその松のところに剣をカシ(貸)ておいた、という意味である。松の木だけにマツ(待)ことが求められている。
 「日本武尊、於レ是始有二痛身一、然稍起之、還二於尾張一。」という病気の状態で、船を使いながら最小限の労力で帰還を果たそうと進んでいる。紀27歌謡に続いてすぐ、「逮二于能褒野一、而痛甚之。」となり、蝦夷等を神宮へ献上し、天皇への奏上を伝えるために吉備武彦を派遣したが、「既而崩二于能褒野一。時年三十。」と卒っている。記においてヤマトタケルの疲弊について雄弁であったが、もっぱら陸路を歩いて足が疲れたことばかり述べられている。尾張と尾津前との間の航路の難を話にしようとするための誘導としてありつつ、それはそれでおもしろくて楽しめる話である。成熟度として考えれば、口承ならではの巧みな話になっていると言える。

(引用・参考文献)
大脇2016. 大脇由紀子「伊勢と熱田─ヤマトタケルと関わって─」佐藤隆編著『東海の「道」から見た上代文学─東海・東山道を基軸に─』中京大学文化科学研究所、平成28年。
小野2019. 小野諒巳『倭建命物語論─古事記の抒情表現─』花鳥社、2019年。
金澤2019. 金澤和美「『日本書紀』の日本武尊「一つ松」歌と散文について」『昭和女子大学大学院日本文学紀要』第30集、2019年3月。昭和女子大学学術機関リポジトリ https://swu.repo.nii.ac.jp/records/2000383
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
藤原2014. 藤原享和「『古事記』二九番歌─大刀佩けましを 衣着せましを─考」 『同志社国文学』第81号、2014年11月。同志社大学学術リポジトリ https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014301(『上代歌謡と儀礼の表現』和泉書院、2021年。)

加藤良平 2021.11.30初出

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