万葉集、葛井連広成の宴の歌について

 ここにあげる二首の歌については、ほとんど論じられていない(注1)

  冬十二月十二日に、歌儛所うたまひどころ諸王おほきみたち臣子等おみのこたちの、葛井連広成ふぢゐのむらじひろなりが家につどひてうたげする歌二首
  比来このごろ古儛こぶさかりに興り、さいやくやくれぬ。ことわりに共に古情こじやうを尽して、同じく古歌こかを唱ふべし。かれ、此のおもぶきなずらへて、すなは古曲こきよく二節を献る。風流意気の士の、たまさかに此のつどひの中に在らば、あらそひておもひおこし、心々にたいに和へよ。〔冬十二月十二日謌儛所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴謌二首/比来古儛盛興古歲漸晩理宜共盡古情同唱古謌故擬此趣輙獻古曲二節風流意氣之士儻有此集之中争發念心々和古體〕
 わが屋戸やどの 梅咲きたりと 告げらば と言ふに似たり 散りぬともよし〔我屋戸之梅咲有跡告遣者来云似有散去十万吉〕(万1011)
 春されば ををりにををり うぐひすの 鳴くわが山斎しまそ まずかよはせ〔春去者乎呼理尓乎呼里鶯之鳴吾嶋曽不息通為〕(万1012)

 この二首の歌は、歌の前文に「古儛」、「古歳」、「古情」、「古歌」、「古曲」、「古体」と、「古」が強調されている。現状では、古い歌曲にふさわしいように作った歌であろうとされながら、それがどのようなものなのかについては不明なままになっている。
 題詞には、十二月十二日に葛井広成邸に歌儛所(注2)の人たちが集まったとあり、作歌の事情を語っている。現状の解釈では、歌儛所に人たちの集まりだったから、昨今の古儛ブームにあやかって歌でも古歌を歌ってみてはどうかという趣向となり、この二首が披露されたかのように捉えられている。
 一首目では、私の家では梅が咲いたと告げ知らせたら、いらっしゃいと言っているのと同じことで口惜しい、むしろ散ってしまってかまわない、二首目では、春になるとたわみにたわむほどに鶯が鳴く我が庭なのだから、欠かさずにお運びください、という意であるとされている。これらの二首が歌い交わされた歌、「古體」として「和」した歌なのだというのである。雲をつかむような話で納得には至らない。
 理解の鍵はすぐそこに潜んでいる。
 二首目の「ををりにををり」は枝が撓みに撓むという意味で、そこへ直接、鶯が続いているから、枝の撓みは鶯がたくさん止まっているからとも受け取れる。しかし、一首目からの続きとして、梅の花が枝にたくさん咲いているので撓んでいるようだという表現である。その梅の花に誘われて鶯が来て鳴いていると歌っている。鶯の合唱を詠んだ歌ではない。
 すなわち、この二首は呼応の歌として密接に絡み合っている。それぞれに明示こそされないものの、いわゆる梅に鶯の取り合わせの歌が続いている(注3)
 一首目に尋ねれば、「と言ふに似たり」は、主人が友を招くこと、参集した歌儛所の諸王・臣子等に向けて梅の便りを葛井広成が知らせているように擬しているばかりではない。二首目に登場している「鶯」が「と言ふに似たり」の鳴き声を上げている。
 今日、ホーホケキョと聞きなしている鶯の鳴き声は、中古にはヒトクヒトク、すなわち、「ひとひと」と鳴いていると思われていた。

 梅の花 見にこそつれ 鶯の ひとくひとくと いとひしもをる(古今1011)
 すだれ巻き上げてなどあるに、この時過ぎたる鶯の、鳴き鳴きて、木の立ちれに、「ひとくひとく」とのみ、いちはやく言ふにぞ、簾おろしつべくおぼゆる。(蜻蛉日記・中)

 この聞きなしが万葉時代に遡ることは万1890番歌からも知れる。

 春日かすがの ともうぐひすの 鳴き別れ 帰りますも 思ほせわれを〔春日野友鴬鳴別眷益間思御吾〕(万1890)

 春日野というだけあって、濁っている酒を絞ってかすと清酒とに別けたことを題材としている。澄んだ酒ができたからというので鶯は「ひとひと」と鳴いて呼んでいる(注4)。そのとおり人が来て宴となり、終わってから帰る時、せめて帰路の間だけでも私のことを思ってくださいね、と歌っている。御酒が目当てでやって来た友は、飲んでいい気持ちになったら最後、私のことなど忘れて帰途につくが、帰り道だけでも思っていてほしいものだと興じて歌っている。
 同様に、当該二首でも鶯の鳴き声が歌の興趣となっている。

 わが屋戸やどの 梅咲きたりと 告げらば と言ふに似たり 散りぬともよし(万1011)
 我が家の庭の梅が咲いたと告げ知らせたら、ウメはウメでもすでに膿んでしまったことをいう已然形のウメに誘われて、同じく膿んで腫れることをいうウグヒと同音から成る名の鳥、ウグイスがやって来て「ひとひと」と言っているのは、まさに招待しようとして告知しているのとよく似ています。そういうことかと謎が解けた今となっては、もはや散ってしまってもかまいません。
 春されば ををりにををり うぐひすの 鳴くわが山斎しまそ まずかよはせ(万1012)
 春が来れば、枝が曲がるほどまで梅の花がたわわに咲き、そこへ鶯がやって来て鳴くのが山斎を設えた私の庭です。山斎は膨らんでいてまわりが水で囲まれ、まるで膿んだところを表しているようだからウグイスは寄って来たのでしょう。皆さんも怪我をして治りが悪くなること請け合いです。

山斎(平城宮東院庭園、奈良時代後期)

 梅に鶯の取り合わせは、音を等しくする語である腫れ物の譬えから生まれたものであった。ウメ(メは乙類)は梅、むの已然形、ウグヒはウグフ(墳)やウグヒス(鶯)というように、語呂合わせの音つながりから歌語として興じられている。そして、膿んで水膨れして盛り上がっている様子を水が周りをめぐる築山の様子に見立て、両者よく似ているとの妙を言いたいがためにわざわざ「山斎しま」を詠み込んでいる(注5)。誘い文句というよりも悪い冗談を言っている。
 このようなとち狂った歌い交わしの例としては「嬥歌かがひ」(歌垣)がよく知られている。春や秋に野辺に集まり、未婚既婚を問わずにお見合いパーティを開き、歌い掛けに対して即興で機知に富んだ歌い返しをすることで場を盛り上げて享楽していた(注6)
 前文に「理宜共尽古情、同唱古歌。」とあるのは、歌儛所の舞が古儛で今年も暮れて古歳に成りなんとしているのだから、作るべき歌も古い形式の歌、つまりは嬥歌風のものであれと言っている。その際、古情であること、つまり、古くからそう思われていたに違いないと思われていることを内容とする歌が求められている。言葉が新しく造語されたものではなく、昔からあってみればそのように仕組まれ作られていているのであって、古いこころを伝えていると思って正しかろうとされたのであった。
 前文に「争発念、」とあるのは、互いに歌を競い合って、と同時に嬥歌風に作ればその二首は互いに競い合うような作になるからそのように作れという二重の意味を重ね合わせている。また、「心々和古体。」とあるのは、古い形式の嬥歌風の体裁をとって、歌のこころにも言葉の謂れが古に遡ることになるようにと、二重の意味を重ね合わせている。その一例としてあげているのが万1011・1012番歌で、「古曲二節」と呼んでいる。
 歌の大意を振り返ってみれば、古くからの習いとして鶯は「ひとひと」と鳴いている。鶯は、この世にあるようになったときからそのように鳴いていた。誰かがその鳥にウグヒスと名づけ、ヒトクヒトクと聞きなすようにし始めたのかもしれないが、その端緒のことなど誰も知らない。だから「古」がテーマとなっている。
 十二月十二日、おそらくはその年の最後の歌儛所の練習が開けた後、葛井広成の家に集まり打ち上げの宴会をしている。やっていることは忘年会である。今年という「歳」を忘れるために、時計の針を早巻きに巻いて、まだ十二日なのに年が明けたかのようにしてしまおうという企てであった。十二月十二日までをもって今年は終わり、振り返ってみたときにすでに「古歳」となるとしている。十三日以降仕事はしないのか。とち狂った宴の席での戯れであった。

(注)
(注1)中西1968.、近藤2017.など見られるが、何を言おうとしているのか不明である。
(注2)阿蘇2007.は、「歌儛所」を、「宮廷の歌舞を管理する役所。雅楽寮と……別とすれば、……日本古来の歌舞を伝え演じるために、楽器を管理し、楽人、歌人、舞人をおいて教習や演奏を行ったものと考えられる。天平六年(七三四)の二月に朱雀門前で行われた歌垣で歌われた[の]……も、歌舞所で伝習された歌舞であった。」(411頁)と説明している。「二月癸巳朔、天皇御朱雀門、覧歌垣。男女二百三十余人、五品已上有風流者、皆交-雑其中。正四位下長田王、従四位下栗栖王・門部王、従五位下野中王等為頭。以本末唱和、為難波曲・倭部曲・浅茅原曲・広瀬曲・八裳刺曲之音。令都中士女縦観。極歓而罷。賜歌垣男女等禄差。」(続紀・天平六年(734)二月)記事に当たる。
(注3)梅に鶯の取り合わせがなぜ起こったかについては、拙稿「「春日野の 友鶯の 鳴き別れ」(万1890)歌」参照。
(注4)鶯の鳴き声の聞きなしについても、拙稿「「春日野の 友鶯の 鳴き別れ」(万1890)歌」参照。
(注5)懐風藻には「山斎」詩がいくつか採られている。
(注6)嬥歌(歌垣)の歌も恋の歌ではあるが、相聞の歌とは違い、嬥歌という場の設定に多く負うものであった。切なる心情を明かすような歌ではなく、狂宴的、反秩序的、挑発的、反発的な性格を有していて、どんちゃん騒ぎのお祭り気分にかなうものとなっていた。「辛卯、葛井・船・津・文・武生・蔵六氏男女二百卅人供-奉歌垣。其服並著-青摺細布衣、垂紅長紐。男女相並、分行徐進。歌曰、乎止売良尓 乎止古多智蘇比 布美奈良須 尓詩乃美夜古波 与呂豆与乃美夜。其歌垣歌曰、布知毛世毛 伎与久佐夜気志 波可多我波 知止世乎万知天 須売流可波可母。毎哥曲折、挙袂為節。其餘四首並是古詩。不復煩載。時詔五位已上、内舎人及女孺、亦列其歌垣中。歌数闋訖、河内大夫従四位上藤原朝臣雄田麻呂已下奏和儛。賜六氏哥垣人商布二千段、綿五百屯。」(続紀・宝亀元年(770)三月)と見え、歌垣の歌を「古詩」としている。

(引用・参考文献)
阿蘇2007. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第3巻』笠間書院、2007年。
伊藤1990. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
近藤2017. 近藤健史『万葉歌の環境と発想』翰林書房、2017年。
中西1968. 中西進『万葉史の研究』桜楓社、昭和43年。(『中西進 万葉論集 第五巻 万葉史の研究(下)』講談社、1996年。)

加藤良平 2026.4.17初出

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