「けころも」について

 けころもを 時かたけて いでましし 宇陀うだおほは 思ほえむかも〔毛許呂裳遠春冬片設而幸之宇陁乃大野者所念武鴨〕(万191)

 この歌は、「皇子尊みこのみことの宮の舎人とねり等のかなしびいたみ作る歌二十三首〔皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首〕」のうちの一首である(注1)
 現在では、一句目にある「けころもを」は「褻衣を」と考えて普段着のことを指すという説が大勢となっている。「けころも(けごろも)」については「毛衣」と「褻衣」の二通りがある(注2)

A.名詞(けころも)
①毛衣・裘 (衣服のように覆っているところから)鳥の羽毛、また、羽毛で作った衣服、羽衣。
 とせをかねて遊ぶ鶴のけごろもに思ひまがへらる。(源氏物語・若菜上)
 氅 ケコロモ 昌両反、鶖鳥毛也(色葉字類抄)
②毛衣 毛皮で作った衣服。かわごろも。また、獣の体をおおっている毛皮。
 けさの冬 よき毛衣を 得たりけり(蕪村句集拾遺)
 Ke-goromo ケゴロモ 毛衣 n. Fur-coat, fur clothes.(和英語林集成)
➂褻衣 (「褻」はふだんの意)ふだん着。日常着。けぎぬ。
 すべ神は よき日祭れば 明日よりは あけの衣を けごろもにせむ(神楽歌・神上、或説)(注3)
 故郷ふるさとへ 秋はかへりぬ ぬさひける 山の錦を けごろもにして(賀茂保憲女集104)
 このきぬの 色白妙しろたへに なりぬとも 静心しづこころある けごろもにせよ(和泉式部集431)
 Kegoromo ケゴロモ (cont. of kegare koromo) n. Common or ordinary clothes.(和英語林集成)
B.枕詞(けころもを)
➃褻衣を 着古した普段着を洗うために解くところから、動詞「解く」の連用形「解き」と同音の「時」にかかる。
 けころもを〔毛許呂裳遠〕 時かたまけて いでましし 宇陀うだおほは 思ほえむかも(万191)

 説文に「褻 私服なり。衣に从ひ執声。詩に、是れ褻袢なりと曰ふ。」とある。普段着のこと、褻は、なれる(慣・馴・狎)意味である。「褻狎」は、なれること、「褻瀆」は、なれけがすこと、「褻器」は、なれた容器、つまり、おまるのことである。名義抄に、「𮒸 俗通褻 須列反 ケカル」とある。➂の意をもって万191番歌を解すると、ケガレ(穢)のケは万葉仮名にある「毛」、つまり乙類であるとみなされることになる(注4)
 だが、その解釈には強引なところがある。
 ➃の用例に即し、着古した普段着を洗う時に縫いを解くことはないことはないが、解かないでそのまま洗ってしまった場合も多かった。上等な着物の場合は生地を大切に扱うために、とても面倒ではあるが、ほどいてから洗い、張って皺をなくし、再び縫って仕上げた。一方、着古してしまったものをほどいてまた縫うとなると、すでに弱っている縫い目から裂けてしまうリスクが高い。そんなこともあってかそのまま洗って物干竿に左右の袖を通して奴凧のような形で干されることも多かった。➃「褻衣を」とする解釈では枕詞として意を表すのに不十分な言葉づかいなのである。
 そこで、①②の例にある「毛衣」の意として考えてはどうか。
 歌において、宇陀の大野のことが思い出されることになるだろうと言っているのは、狩猟に出掛けたことを思い出すに違いないという意味である。「時片設けて幸し」とは、狩りの行幸に出掛けるのは今か今かと待っていたというのであるから、その情景に近いことを表現して掛詞、ないしそれと同様の修辞で表しているのだろう。高貴な人なのだから狩りの行幸へは馬に乗って赴いたとするのがふさわしい。馬に乗って遠行する時には両足を覆うようにして安全、防雨の用とするため、また、狩猟の際には獣が騎乗の人めがけて襲ってきても傷を負わないように行縢むかばきを着けた。行縢は毛皮を使って作られている(注5)。すなわち、上着にしていた「ころも」の縫い合わせているところを解き、行縢にリメイクしていつでも遠出の狩りに出掛けられる準備を整えていたという歌なのである。

 こも敷き 蔓菁あをな煮持にも うつはりに 行縢むかばき掛けて 休むこのきみ(万3825)
 行縢 釈名に云はく、行縢〈音は騰と同じ、行縢は無加波岐むかばき〉は騰なりといふ。言ふは脚を裹み以て跳騰し軽便とすべきなればなり。(和名抄)
 武官の礼服 ……錦の行縢。(養老令・衣服令)
 錦の行縢。〈謂ふこころ、騰は緘なり、股脛を覆ひ衣をして飛揚せざらしむ所以の者なり。〉(令義解)

 行き先は宇陀の大野となっていて、そこへ赴いたことがあったのだろうと推測されている。この歌は舎人の歌であり、随伴したことがあってその記憶が今後とも蘇るだろうという意味にとれないことはないが、その事実を知らない人が聞いてもわかるから歌として成り立っている可能性のほうが高い。亡くなったご主人様の思い出を皆で言い合って往時を偲ぼうとするだけでは歌は内輪に終始してしまう。声をあげて歌うとは、知り合いのなかだけの閉じたコミュニケーションではなく、耳にすることの可能な多くの人たちに開かれているということである。狩りの行幸の記憶を共有しなくても歌の中身に賛同、共感できたから、結果、万葉集に収載されていると考えられるのである。
 「毛衣」によって作られた行縢のことからウダノオホノへと言葉が流れていっている。行縢は、中に人が入るように筒状にくるむ形に成形されている。脛に巻く脛巾はばきとは違って大腿部をくるみ覆う。両手で抱えるくらいの大きな径である。その大きさはウダク(抱)という言葉で表される。ウダク(抱)からウダ(宇陀)、オホフ(覆)からオホノ(大野)が導かれている。

 大きなる樹有りて大井河より流れて河曲かはくまに停れり。其の太さ十囲とうだき。(仁徳紀六十二年五月)
 れ、天の下に君として万民おほむたからを治むるひとうだきおほふこと天の如し、うけいるること地の如し。(仁徳前紀)
 毛衣を とき(注6)かたけて いでましの(注7) 宇陀うだ大野おほのは 思ほえむかも〔毛許呂裳遠春冬片設而幸之宇陁乃大野者所念武鴨〕(万191)

 毛皮の胴衣の縫い合わせを解き─時を今か今かと待ちうけて狩りのための行幸をする、そのために行縢を準備したわけで、大きさはひとウダきもあって下半身が完全にオホわれる─宇陀ウダオホ野は、いつまでも思い出されることになるだろうなあ。
 掛詞を駆使して念を入れた言い回しの歌となっている。万葉集で「宇陀」の地が詠まれている歌は他に二首ある。

 やまとの 宇陀の真赤土まはにの さ丹着につかば そこもか人の ことなさむ(万1376、「寄赤土」)
 宇陀の野の 秋萩しのぎ 鳴く鹿も 妻に恋ふらく 我にはさじ(万1609、「丹比真人歌一首〈名闕〉」)

 万1376番歌では、思いをかける人の前に出て顔を赤らめることがあり、ために噂が立って弱るものだが、赤土が付いたことでも同じように噂となるのだろうか、と言っている。これまで見てきたように「宇陀」がうだくと関連がある語として用いられているのであるとすれば、ひとうだきもあるような「真赤土のさ丹」の土塊としてのということになり、強調の意を果たしていることになる。
 万1609番歌では、秋萩を押し伏せて鳴く鹿でさえ、妻を恋い慕うことが私以上になることはない、と言っている。「しのぐ」は踏みつけ、押さえる意が原義である。程度の比較をしているから、「宇陀」がうだくと関連がある語としてひとうだきもあるたくさんの秋萩のことを指していて、数量の多さを比喩するのにふさわしい。秋萩が束になっていると折れにくくて撓って反発力があり、鹿はすぐには押さえつけることができず手間取ってしまい、高らかに鳴き声をあげることなどできないだろうというのである。
 これら二例は比喩表現のために地名、「宇陀」が用いられている。万191番歌の場合、実際に狩りに行ったことはあったのだろうか。
 草壁皇子(日並皇子)が宇陀へ行ったことがあるとする傍証として、「そのに、菟田うだ吾城あきに到る。」(天武紀元年六月)という記事があげられている。また、万45~49番歌、「軽皇子宿于安騎野時、柿本朝臣人麿作歌」のなかの万49番歌がそれを証明すると考えられている。安騎の野は宇陀地方にある。

 なみしの 皇子みこみことの 馬めて 御猟みかり立たしし 時しむかふ〔日雙斯皇子命乃馬副而御猟立師斯時志来向〕(万49)

 この歌の存在から否定はできないが、経験していない人にとっては所詮そらごとである。歌が歌本来の役割、聞く人皆が共有できるものとなるには実状を知らない人にまで説得力を持たなければならない。歌の技巧はそのためにも凝らされる。
 数多くの舎人のなかには、側近くに仕える者だけでなく屋敷の清掃などに携わってほとんど主人の顔を知らない者もいたことだろう。題詞に「皇子尊舎人」とあって「皇子尊舎人」とはない。それが二十三首も採られている。そんな舎人等にとって皇子はどういう存在だったか。宮の主人であって名をクサカベ(草壁皇子)、また、ヒナミシ(日並皇子)ということぐらいしか知らなかったのではないか。他所の人と知っていることの点で実は変わらないと、かえって歌が人々に開かれた作りになることにつながって好都合である。
 クサカベ(草壁)と聞いて思い浮かぶのは草の壁、土手のことである。防護壁となる土手を築くと草が生えてくる。壁用の土手として築かれたものとしてはアヅチ(アムツチ)がある。射芸の際に的の後方に築かれ、飛んでくる矢が人に当たって怪我しないようになっている。飛鳥時代当時どのように行われていたかわからないが、笠懸の例から推察することができる。射手は馬に乗って笠状の的に向かって射る。その後ろにアムツチがあり、騎乗の人は行縢を履いている。

 射垛 唐韻に云はく、垛〈他果反、字は亦、𨹃に作る、楊氏漢語抄に云ふ射垛、以久波止古路いくはどころ此間ここに云ふ阿無豆知あむつち、今案ふるに、又、堋の字を用ゐる、音は朋〉は射垛なりといふ。四声字苑に云はく、垜〈音は上に同じ、又、都波反〉は埾なりといふ。」(和名抄)
 天の下造らしし大神のあむつち立ててゆみいたまひし処なり。かれしろといふ。(出雲風土記・大原郡)

笠懸の図(男衾三郎絵巻、鎌倉時代・13世紀、東京国立博物館蔵、e国宝 https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100332&content_pict_id=0をトリミング)(注8)

 ヒナミシ(日並)と聞いて思い浮かぶのは月のことである。記紀の配役として、「日にならぶ」存在としてツクヨミは形作られている。時にツクユミとも訛っている。「次生月神。〈一書云、月弓尊、月夜見尊、月読尊。〉」(神代紀第五段本文)。月弓尊は弓術に関係がありそうである。弓を構えるためには弓弦をかけなければならない。弓弦をかけることは「はき(キは甲類)という。「はき(佩・着・穿、キは甲類)」という語は、細長い本体に取り付けたり嵌め込んだりすることをいう。具体的には、①太刀を身に着けること、②弓弦を弓にかけること、③袴や靴を着用することを指している。②の意が「日にならべてしらすべし」(神代紀第五段本文)とされる月弓尊の名義に関わり、③の意として行縢むかばきという言葉が成っている。弓術の実践に際して穿かれるのだから、ヒナミシ(日並皇子)と呼ばれた方を弔うのに行縢をとり上げるのはふさわしい。
 行縢むかばきを穿いて馬に跨り弓を射るのにあむつちが造られていた。射芸としての騎射で、平安時代には大内裏内の射場の馬場殿(武徳殿)に天皇の行幸を仰いで天覧に供された。

 五月の乙卯の朔にして己未に、河内国の依網よさみの屯倉みやけの前にして、げう岐等きらびて、射猟うまゆみしむ。(皇極紀元年五月)
 辛巳、山背国賀茂祭の日、もろひとあつめて騎射うまゆみすることをいさむ。(続紀・文武二年三月)

 それをおもしろおかしく宇陀の大野へ狩りの行幸に出掛けたことと見立てているようである(注9)。供養するには大げさな方がいい。歌では往年の栄光として皇太子時なのに宇陀行幸○○と讃え、その一地名、安騎野の狩りのことを言い募っているらしくもとれるが、作者の舎人がお伴したかどうかはわからない。嘘をついているのではなく、ものの譬えとして大仰なことを言っている。皇太子は東宮から近くへ、ひょっとすると宮中へ「行幸」したとして、距離的には近くて行縢を着けるに当たらないもののそこで騎射をしたのであれば行縢もドレスコード違反ではなく、宇陀へ行くほどの遠出の行幸に値するものだと見立てたのだろう。
 このように読み取ることによって、皇子尊宮舎人等慟傷作歌は真相に一歩近づけた。誰もが享受できるものがヤマトコトバで綴られた歌である。翼賛的な主張を説いた言説など、お上の御用の者にしか持て囃して喜ぶことはない。言語表現の楽しさの点で雲泥の開きがある。研究者によるこれまでの理解は、万葉集の歌としての神髄について評価し切れていない、ないしはそれに背を向けているきらいが強い。

(注)
(注1)二十三首の歌をひとつひとつきちんと理解しないまま、登場する語彙を表面的に捉えて有徳の君子像を描いているとみたり、その前に記載されている柿本人麻呂の「日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」(万167~170)とで位置づけを考えてみたところで得られるものはない。吉井1970.、身﨑1987.、渡瀬2003.、井実2012.、影山2024.、菊地2025.参照。
(注2)日本国語大辞典参照。万191番歌の「けころも」については菊池1935.に諸説の整理があり、「毛衣を 春冬はるふゆけて」とも訓めるという。萬葉集正義では、鳥の羽でつくった防寒用の服、動物の毛皮の服、褻衣から晴れ着へ着替える、とさまざまな説が入り乱れ解釈が混乱している。

名義抄(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2586898/1/26をトリミング)

(注3)神楽歌の例は諸説あって歌意は定まっていない。神事の衣を褻衣に下ろしたとする説、神事の衣から普段着に着替えたとする説、「千歳の命」に比する「鶴の毛衣」ととる説がある。なお、「あけの衣」については五位の人が着た緋色の袍、アケゴロモとは別とされているが、混同があってもおかしくないところである。衣服令の規定にある「錦の行縢」は、儀式(大祀、大嘗、元日等)に着用したもので、五位以上相当の武官に五位以上の者が任じられている時に着用が認められる正装の一つである。神楽歌の例は、五位の人が明日は精進落としの狩りに出かけるぞという決意表明なのかもしれない。
(注4)白川1995.参照。名義抄に諸字をあげて訓があり、ケガレ、ケコロモが意の通ずるものと見られたかに思える表記となっている。ただ、普段着がすべからく穢れているとは認められないだろう。本稿では万葉集の「けころも」が毛衣の意であることを確認し、上代においてごろもの意とする例はなくなった。ごろもという語、ならびにそれを穢れた衣であるとするのは、少なくとも中古以降の言葉づかいにしか見られないわけである。
(注5)延喜式・左右近衛府には「行騰」(行縢)と「脛巾」の着用の別が定められている。騎射うまゆみは行騰、大射おほいくはは歩射だから脛巾、行幸時にはある程度の人は行騰を着けたが、近ければ地位によりくわのくつがまの脛巾に替えるように指示されている。行縢は、宇陀の大野への遠行や騎射の行事にはふさわしいと見受けられる。
 鈴木2014.は、奈良時代の行縢は短甲附属の小振りのものとしている。この万191番歌では舎人が行縢を用意していると言っていて、それは皇子尊が着するためのものではなく、舎人が自分自身でも身に着けるために胴衣にしていた毛皮を行縢に仕立て直したと戯れていると考える。もちろん、舎人の分際では着用は認められない。
(注6)原文に「春冬」とあるのをトキと訓む点について、狩猟時期が春や冬だったからとする説がある。宮廷人が薬猟の際に美装したことと絡めて述べられるが、恒例の五月五日の薬猟は季節では夏に当たる。筆者は、表記においてもパロディ性を追求した結果としてこのように書かれていると考える。
(注7)万葉集の本文で「いでまし」という言葉が現れるのは、当該万191番歌以外には八例あり、類例とも原文表記とその訓みをここに記す。

「行幸能」(万5) いでましの
「御駕之」(万230) いでましの
「幸行處」(万295) いでましどころ
「行幸處」(万322) いでましどころ
「行幸之宮」(万315) いでましのみや
「幸而」(万196) いでまして
「行幸之随」(万1032) みゆきのまにま

 「行幸」とあるような場合、「いでまし」と訓むのが通例である。万191番歌に「幸之」とあるのを万4番歌の題詞にあるような漢文訓読調に「いでまし」と訓むことは、不可能ではないが草壁皇子の生前の行事であったと見ようとして生まれた訓みであり的外れである。上に述べたとおり、行幸時に身に着けることにしていたと認められる行縢のことを歌に詠んでいるのだから、「行幸いでまし」と訓むのが正解である。
(注8)年中行事絵巻の騎射の絵には行縢姿は描かれるが垜は描かれていない。画面のこちら側の埒上に的があり垜を描く構図、スペースにない。
(注9)拙稿「人麻呂作歌、安騎野の歌、万49番歌の「来向ふ」について」参照。飛鳥浄御原宮当時、どこで騎射が行われていたか不明である。

(引用・参考文献)
井実2012. 井実充史「複合作品としての日並皇子尊哀悼歌」『国文学研究』第167号、2012年6月。早稲田大学リポジトリ http://hdl.handle.net/2065/45271
影山2024. 影山尚之「勤しみ、嘆き、うたう舎人─舎人等慟傷作歌二十三首について─」去来草の会編『論集 上代文学の明日を拓く』翰林書房、2024年。
菊池1935. 菊池壽人『萬葉集精考』中興館、昭和10年。
菊地2025. 菊地義裕「草壁皇子の宮の「舎人等慟傷作歌」の性格と意義」『万葉時代の思想と表現』翰林書房、2025年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
鈴木2014. 鈴木敬三「むかばき考」『武器と武具の有識故実』吉川弘文館、2014年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第四巻』小学館、2001年。
萬葉集正義 萬葉集正義編集委員会編『萬葉集正義 第1』八木書店、2024年。
身﨑1987. 身﨑壽「日並皇子舎人慟傷歌群試論」『北海道大学文学部紀要』通巻60号、1987年1月。北海道大学学術成果リポジトリ https://hdl.handle.net/2115/33507
有識故実大辞典 鈴木敬三『有識故実大辞典』吉川弘文館、平成8年。
吉井1970. 吉井巖「舎人の嘆き」『国文学 解釈と鑑賞』第35巻第8号、昭和45年7月。
和英語林集成 J.C.ヘボン、松村明解説『和英語林集成』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
渡瀬2003. 渡瀬昌忠「舎人慟傷作歌群」『渡瀬昌忠著作集 第六巻 島の宮の文学』おうふう、平成15年

2026.5.18 加藤良平

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