大伴家持「春愁三首」について

 万葉集には絶唱と称されるほどの名歌がいくつかある。近代歌壇が写実主義を重んじ、万葉集を理想として崇拝するなかで評価され、現代の研究者の修正を経ながらもなお人口に膾炙している。ここにあげる大伴家持の三首も歌人たちに好まれた。

  二十三日、興に依りて作る歌二首〔廿三日依興作歌二首〕
 春の野に 霞たなびき うらがなし この夕影に うぐひす鳴くも〔春野尓霞多奈毗伎宇良悲許能暮影尓鴬奈久母〕(万4290)
 我がやどの いささ群竹むらたけ 吹く風の 音のかそけき このゆふべかも〔和我屋度能伊佐左村竹布久風能於等能可蘇氣伎許能由布敝可母〕(万4291)
  二十五日に作る歌一首〔廿五日作歌一首〕
 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば〔宇良宇良尓照流春日尓比婆理安我里情悲毛比登里志於母倍婆〕(万4292)
  春日は遅遅うらうらにして、鶬鶊ひばりまさに啼く。悽惆のこころは歌に非ずははらひ難し。仍りてこの歌を作り、ちてむすぼれしこころぶ。ただ此の巻の中に作者の名字はず、ただ年月・所処・縁起のみをしるせるは、皆大伴宿禰家持の裁作つくれる歌詞なり。〔春日遅々鶬鶊正啼悽惆之意非歌難撥耳仍作此歌式展締緒但此巻中不稱作者名字徒録年月所處縁起者皆大伴宿祢家持裁作歌詞也〕

 今日的な理解を多田2009.(注1)の現代語訳を見てみる。

 春の野に霞がたなびいて、どこかもの悲しい。この夕べの光の中に鶯が鳴くことよ。(万4290)
 わが家の庭のわずかな竹群たけむらを、吹き抜ける風の音のかすかなこの夕べであることよ。(万4291)
 うららかに照っている春の日射しの中に雲雀が真一文字に翔け上がり、心は悲しいことよ。ひとりものを思うと。(万4292)(222~224頁)

 端的に言えば、自然景を歌いながら自らの悲傷感、孤独感を重ね詠んでいるものと読まれている。その間に隔たりがあるため、私的な心情をうたったとする但し書きが「依興作歌」という題詞、また、詩経の詩句を使った左注に現れているとも言われている(注2)
 モノローグの歌と見るこのような通説は肯定できるだろうか。
 現代の我々がではなく、上代の奈良時代の人たちがである。
 万葉集も終わりの頃になると家持の歌ばかりたくさん載っている。見方によっては家持個人のメモ帳のような様相を呈していて、「歌日誌」として捉えられることも多い。誰かに見られることはないものとして独り妄想めいたことを歌に作っていたのだと言ってしまえばそれまでのことではある。だが、そうなると、それはもはや人々に共有されることを前提とした「歌」という概念から外れる。中古の歌の萌芽と見るなら、これらの歌は文字で書かれることを前提とした「和歌」であり、使われている文字も万葉仮名の形をしていながらすでに平仮名と同等の役割を果たしていることになる。
 筆者は、そのような歴史的転換を、万葉集の巻の続くなかで捉えることはできない。「歌」の姿をしているのだから従来どおりの「歌」であったと考える。すなわち、当時の人々が耳にしたならば、ほとんどの人、高位の人ばかりでなくその召使、一般民まで含めた、要するにヤマトコトバを使っている人たちが確かに理解できる意を伝えるものであったと考える。

 春の野に 霞たなびき うらがなし この夕影に うぐひす鳴くも(万4290)

 万4290番歌では次のようなことを言っている。春の野に霞がたなびいていると、霞んでしまって見たくても見えなくなる。見ようとしても霞んで見えないのは、目が霞目になっているのと同じことである。だから霞のことを話題にしている。同じような状況としては、夕方、暮れなずんでしまうと、鶯が鳴いても姿は見えないことがある。この日は二十三日、太陰暦だから下弦とわかり、夜中にならないと月は出ないから薄暗がりである。「この・・夕影」と限定しているのは、月が煌々と照ることはないことを印象づけるためだろう。
 題詞によれば、歌われたのは天平勝宝五年の旧暦二月二十三日である。現在の暦では四月一日に当たる。ハル(春)といっても春の初めではなく十分に春になってしまっている時期である。ハル(という動詞があるならばそ)の已然形、ハレであるはずである。つまり、天気はハレ(晴)であるべきなのに霞がかかっている。それを大げさに「うら悲し」、痛切なことだと表現している(注3)。ジョークを言っているだけなのだから素直に楽しまなければならない。
 ハル(春)も押し詰まってハレでなければならないのだから、そこに登場する鳥はハレ(腫)に似通っているのが望ましい。もってこいの名をした鳥がいる。ウグイスである。膿んで膨らみ腫れものになることを古語でウグヒ(墳)という。俗語をよく伝える日葡辞書に次のようにある。

 Vgu i,gǔ, ǔta. ウグイ,ゥ,ゥタ(うぐい,ふ,うた) ……灸の跡がただれ広がる,または,うんで膿汁が出る.(日葡辞書690頁)

 ウグヒスのスは語尾のスで、カラス、カケス、ホトトギスに同じである。ハレているはずのウグイスが鳴いているのに、夕べの光は乏しくてその姿ははっきりしない。霞目と鳥目はどちらもよく見えない。
 大伴家持は駄洒落を思いついて、より正確に言えばヤマトコトバの連環の妙に気づかされて、「依興」して歌を作っている。言葉のあやを織り成すことを「興」と言っている(注4)
 近代の和歌の世界では、この歌について「気分」(注5)といった語を使いながら勝手に幻想し、称揚した。現代の研究者は訂正しながらも、古代の歌のなかで見れば新しい表現であると評している。洒落、語呂合わせ、地口の多様な詠み合わせが万葉集の言葉づかいであり、その表れであることが読めていない(注6)

 我がやどの いささ群竹むらたけ 吹く風の 音のかそけき このゆふべかも(万4291)

 万4291番歌では次のようなことを言っている。我が家の庭にはいささかの群竹がある、そこを吹き抜ける風の音のか細いことが目立つのは、今宵ならではのことなのかもしれないなあ。前の歌に続き、同じ二十三日の作である。ここでも夕べのことが歌に歌われており、「この・・夕かも」と断っている。
 二十三日の月はなかなか出てこない。十五日は満月で十六日は十六夜、それ以降、立待月、居待月、寝待月、更待月というように、なかなか現れない月を待っている。二十三日であれば、いざいざと待っていてもなかなか出ずに待ちくたびれている。自邸に植えたわずかばかりの竹の植え込みがあってその景色を窺おうにも暗くて話にならない。音だけで気配を知ろうにも風が弱くて音は消え入りそうなほど小さい。なぜなのか。それは、いざいざと月を待っていても月の出る気配はいっこうになく、いざいざと声を出す気も薄れてか細くなって濁音も清音化していくのがふさわしい、それが二十三日である。「いささ群竹」と称するわずかな竹の群生から生ずる風の音が小さいのは当然のことなのであった。いざいざ→いさいさ→いささ、の洒落を言っている。
 枕詞や玉にする素材も含めた竹関連の歌は二十一首二十二例にのぼるが、植生の竹の歌は当該歌以外には二首しかない。当時の人にとっては、竹の景をもって人の情と通じるとは認められていなかった。

 梅の花 散らまく惜しみ 我がそのの 竹の林に 鶯鳴くも(万824、阿氏奥島)
 みそのの 竹の林に 鶯は しば鳴きにしを 雪は降りつつ(万4286、大伴家持)

いささ群竹(?)(竹の生垣、一遍聖絵(写)、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591580をトリミング)

 万4286番歌で、竹は貴族の邸宅に植えられ、竹苑を形成している。万4291番歌で言っているのは、大伴家持の屋敷にはそれほど大層なものはなく、ちょっとした竹、おそらくは竹は竹でも竹垣が設けられていただけということのようである。歌は「我がやどの」で始まっている。「やど」という言葉には前庭の意だけでなく、家の戸、戸口の意味がある。「屋外やど」から生まれた系列と「屋戸やど」から生まれた系列の語が合体した言葉であると考えられている。ここでは門前にあって目隠しにするもの、あるいは竹製の戸口や境界が竹の生垣などを見ながら戯れに歌っている。一貫してとぼけている。聞いていた召使たちは喜んだ。おもしろいことを仰いますね、ご主人様。
 今日の我々の感覚からすればただの戯れ言のように聞こえるが、大伴家持にとって見れば興味を引く内容であったということになる。合理性のもとに論理を展開していく言葉づかいとは異なって、一語一語についてその語に何か隠されている意味はないかと探りに行っている。言葉が音でしかなかった時代の感覚を反映していて、ヤマトコトバの特性を示した使い方である。
 ただそれだけのことを歌にしている。近現代の人が汲み取ろうとした心象表現とは縁もゆかりもない。通説のように、家持が中国詩文(注7)を学び、その思潮に基づいた思いを述べようと吹聴したものでもない。そのようなことをしても聞く相手が戸惑うばかりになる。家事労働に勤しむべき召使が、給仕の都合で歌の席にたまたま同席してしまうからといって勉強を強いられることはなく、むろん、学校というものもない。コミュニケーションのために言葉を発するものなのに、コミュニケーションを蔑ろにして何をしているというのか。歌が歌われるのは一度きり、問い返しているようでは無粋である。今日の研究者でも意見が分かれるようなよくわからないことを、声を張り上げ、抑揚をつけ、歌い上げ始める人がもしいたとしたら、檻にでも入れて置く必要が出てくる。
 この部分、家持が個人的な日記を書き残したものであるとする立場もあるが、後の人が目にした時に伝わらない可能性のある内容を、限られた資源である貴重な紙を使って綴ることはあり得ない。伝わることを想定するとは、その時の人がふだん使いで使っている言葉を使ってわかりやすく伝えようと意図することに他ならない。コミュニケーションにおいて何が難しいと言って、伝わるかどうかほど難しいものはない(注8)。伝わってはじめて言葉であり、歌である。

 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば(万4292)

 この歌は二日後に歌われている。
 前の歌二首との共通項は同じ春の歌であること、そして、春の鳥として「鶯」に並び「ひばり」が歌われている点である。特に断らずに同じような題詞のもとに並べられているから一応、一連の作とみなすことはできるが、この歌では「廿五日作歌一首」と題されているだけで「依興」とは記されていない。家持が思いついた地口による戯作歌とは少し違うということだろう。左注についてどこまでを範囲とするか議論されるが、微妙に異なる題詞を越えて及ぶとは考えにくい(注9)
 「心悲し」と情意を述べている(注10)。ひばりが飛び上がったのは、春の日が照り「うらうらに」、うららかな陽気に誘われてのことである。どうしてひばりを採りあげているかといえば、ハルヒ(春日、ヒは甲類)の音の転倒になるからである(注11)。春の鳥として違和感はなく、野や田畑などから高く舞い上がる特徴があるから持ち出して齟齬はない。叙景歌としてひばりを見ているのではなく、地口としておもしろいから詠み込んで戯れている。
 この上の句と下の句は連用形中止法で結ばれていながら意味合いに断絶があり、どう続いているの疑問視されている(注12)。「うらうらに」とある「ひばり」の表現と「心悲し」とある「独り」の表現は対立している。「ひばり」に対してヒトリ(ヒは甲類)という新種の鳥を登場させているようである。万4920番歌で「うら悲し」と言っていたが、ここでは「心悲し」に変えている。変えなければならないからである。ひばりには翼があって、翼には裏があり、裏を見せながら羽ばたくことによって空を飛ぶことができている。翼が左右に二つあるから「うらうらに」とダブった言い方で正しいわけである。対するヒトリの場合は人のこと、翼を持たないから裏を見せることはなく、なんとなく悲しいことは「うら悲し」とは言えずに「心悲し」と当てている。倒置を戻せば「独りし思へば 心悲しも」、一人でもの思いに耽ればなんとなく悲しくなることよ、という意味である。上句とつながらないようでいながら、言葉(音)では続いて行っている。
 二十五日のこととして歌われている。二十五日はハツカアマリイツカのほか、十四日を二乗の数と見てフタナヌカと訓む例に照らせばイツイツカとも訓むことも可能である。何時になったらか、何時になったらか、と月待ちの極みのような思いを体現する表現である。
 ひばりの風情に対して自分は「独り」「思」いに耽っていて「心悲し」いと言っている。どうして悲しくなるのか。ヒトリという名の鳥を想定してみると、気分は鳥でも体は人間だから空中に飛び上がることはできない。能力的に劣るのである。
 「ひばり(ヒは甲類)」と「ひとり(ヒは甲類)」という言葉が洒落として成立したきっかけは、機織り用具のヒ(杼、梭 Shuttle、ヒは甲類)にまつわるものと思われる。仁徳記歌謡にすでに見える。

 雲雀ひばりは あめかける たかくや 速総別はやぶさわけ さざき取らさね(記68)

 女鳥王めとりのおほきみが夫の速総別王はやぶさわけのおほきみに対し、つきまとってくるさざき大雀命おほさざきのみこと=仁徳天皇)を捕まえてくれと言っている。この歌には前段があり、彼女が機織りをしているところへ天皇がやってきて愚鈍な問いかけをしたことに始まっている。

 どりの 我がおほきみの ろすはた たねろかも(記66)
 たかくや 速総別はやぶさわけの 襲衣おすひがね(記67)

 女鳥の君が織っておられる機物はどなたの着物の素材ですかねえ、と天皇が問いかけ、高く行く速総別のオーバーオールですよ、と女鳥王が答えたという問答歌である。天皇は女鳥王に気があり、媒酌人に弟の速総別王を立てて召し入れようとしていた。女鳥王は嫌だから速総別王と一緒になった。二か月経過して本人が機屋へ出向いて歌いかけている。あまりののろまさに女鳥王は呆れている。
 織っていたのは襲衣おすひと呼ばれる通常の着物の幅が二倍になっている上っ張りである。織るのに高機を使い、(杼)を使い、伸子針を使っている。伸子針で横幅が狭くならないように工夫していたのである。ヒ(梭、杼)+ハリ(針)だからヒバリである(注13)。当時の人々が皆知っていて常識化していた記歌謡の言葉づかいを典故として大伴家持は歌を作っている。

 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば(万4292)

 うららかに日が照って昼の時間が長くなり、ヒ(梭、杼)とハリ((伸子)針)を使った機織りは順調で、どんどん織り上がっていく。一方、ヒ(梭、杼)の調子が悪いので手に取って、中に入れた緯糸を巻いているクダ(管、筟)と呼ばれる部品を点検し、作業が遅々として進まず悲しくなってくる、と対比して歌にしている(注14)。ヒバリはシュルシュルとすばやく左へ右へ行き交っているが、ヒトリは音もなくクダクダと思い悩んでいることに相当する。アガル(上)に対してクダル(下)である。この対比は、前者が高機、後者が日本在来の織り方、倭文しとりを言っているようである。「倭文神、此には斯図梨俄未しとりがみと云ふ。」(神代紀第九段本文)、「倭文しとり」(垂仁紀三十九年十月)とある。倭文は高機のように独立した機構によらず、腰機のように織り手の体を織機の一部として使うやり方らしい。高機ならパタパタと音を立てながらすばやく織り上げることができるが、倭文では背を丸めて静かに織り進めて行くしかない。織り幅は自分の体(腰)の幅を超えることはなく、肩幅程度のなかで梭を左の手から右の手へと渡し取っている。この調子ではイツイツカ(二十五日)、何時になったら織り上がるのかわからない。ああ、うららかな春なのに気分は暗くなってくる。
 左注にある「春日遅々、鶬鶊正啼」は詩経の字面を引いたものである(注15)。小島1964.ほか、雰囲気が通じるので典拠としているまでであると捉えている。おおよそ正解である。詩経は女の悲しみを訴えるものでもある。しかし、そう解するだけではほとんど関係のないことを無理に左注に示していることになる(注16)
 万葉集の左注などの漢籍引用は、その多くは漢籍の内容を理解して思想を伝えるために行われたものではなく、ヤマトコトバの意味合いを確かに文字表記として定着させるための方便であった。この左注においても事情は同じである。「春日遅々」と引いて何がしたかったのかはその訓み方に自明である。「春日は遅遅うらうらにして」という例文を引きたいがための注である。歌で「うらうらに 照れる春日」と歌ったのだから、「うらうら」がどういう意味なのか、漢字で書くとどうなるかを如実に語ろうとしてあげている。名義抄に「遟々 ウラ\/」とある。この部分を「遅々ちちとして」と音読みしていてはせっかくのヒントがつかめない。何が遅いと言って二十五日の月の出は遅く、倭文織では仕事がなかなか捗らない。意味を二重に詠み込むことができている。
 「うらうら」は柔らかい日ざしがあふれて明るくのどかなさまをいうが、上代では他に確例は見られない。ここでは春の日が暮れるのが遅い様子を表している。日暮れが遅くなるとせわしく仕事をしなくても一日分の仕事量をこなせ、気持ちにゆとりができて喜ばしい。だから良いこと尽くめのようでありながら、作者には「悽惆之意」があるという。月の出が遅く、手に取る梭を見てはなかなか進まない機織り仕事を悩ましく思うのである。高機ではなく昔ながらの倭文織はとにかく遅い。効率が悪くて嫌になっている。
 大伴家持の「春愁三首」は地口を駆使した歌であった。上代の「歌」は人々にお披露目されることで成り立つ口頭言語芸術である。コミュニケーションのために言葉はあるという当然の前提に立ち返れば、その意義は計り知れないことに気づかされる。近現代どころか中古以降の人々が使うのとは違う形、発せられた音を即座に悟ることだけしか意思疎通のチャンスがない緊張感をもって言葉が使われていた。万葉集は、無文字文化という異文化に触れるための数少ないチャネルである。にもかかわらず、言葉のあり様の違いから真相には気づかず、見えているのに控え置かれたままになっているのである。

(注)
(注1)多田氏は補注として「表出の位相」について詳述している。解釈に定まらないところがあるため理屈を付け足すことになっている。
(注2)「春日遅遅、卉木萋萋、倉庚喈喈、采蘩祁祁、」(詩経・小雅・出車)や「春日載陽、有鳴倉庚、……、春日遅遅、采蘩祁祁、」(詩経・豳風・七月)があげられている。「春日遅遅、秋風颯颯、情往似贈、興来如答。」(文心雕龍・物色篇)ほかをあげる説もある。
(注3)「うら悲し」の語義については拙稿「上代語「うら悲し」について」参照。三句目の「うら悲し」が終止形か連体形か問われ、どちらも落ち着かず、挿入句であるとする見方がある(黒田2006.)。「霞たなびき」と連用形中止法をとっているのは二つの事態の並立を表し、「春の野に霞たなびき」と同時に「この夕影に鶯鳴くも」「うら悲し」いと言っている。
(注4)「興」については中国詩文における六義の一つの「興」によるものか、それ以外の感趣、興趣などの意によるものか、また、家持はその語をどのように扱っているかなど、見解はさまざまである。
(注5)窪田空穂氏の主張に述べられている。
(注6)この真実は言葉というものの本質に近づく好材料なのであるが、歌詠みにとっても研究者にとっても快くは思われないだろう。万葉集の歌に対して、一つの歌でも多様な読みが可能であるとする考え方とも相容れない。だが、もしそのようなことがあり得たら、何を言っても恣意的に、都合よく受け取ることが可能となり、言葉がコミュニケーションから締め出された存在ということになってしまうがどうなのだろう。
(注7)次の詩が、竹の葉擦れの音を詩的素材としてとりあげた詠物詩の例として引かれている。

 窓前一叢竹 青翠独言奇 南條交北葉 新筍雑故枝 月光疎已密 風来起復垂 青扈飛不礙 黄口得相窺 但恨従風籜 根株長別離(謝朓・詠竹詩(藝文類聚「竹」所収))

 この詩は「形似之言」の典型で「言外之言」のなかった例とされている。万葉歌の解釈では、この詩の「一叢竹」を翻訳して「いささ群竹」という言葉ができたのだという説も現れている。また、懐風藻からも竹には交友への志向が読み取れるとし、この歌でもそうなのだと唱えられている。竹林の七賢の交わりを理想とする風潮が奈良朝文人にはあったというのである。いずれも印象論で、万葉集には竹の葉擦れの類歌さえ見られない。
(注8)誰でもわかること、それが相手の心に最も響く言葉である。CMの言葉がわかりやすいのは、お客さんになる可能性のある聞き手をして、その商品やサービスを手に取るようにさせるためである。たとえわからない言葉が一語含まれたとしてもそれはおまじないの言葉に当たるものであって、それ以外はすべてわかる言葉を使っている。伝えようとするから伝わるようにやさしくアピールしている。笑えるほどくだらなくていわゆるお勉強とは無関係なことほど相手に通じやすく、コミュニケーションの実態にかなっている。言葉とは使用である。
 なお、それでも家持が個人的な寂寥感を述べたと主張することは可能である。もし仮にそうだとして、たった一人の古代の人のそのときの気分について一生懸命に取り沙汰し、心の病に罹患した人の竹妄想から来る錯誤した表現を解明したからといってはたして何になるのだろうか。
(注9)中西1980.は両者は連続した作品と扱うべきではないとしたが、峻別すべき積極的な理由を見出しているわけではないようで、以降の諸説も決め手を欠いたまま折衷案を講じて打開しようとしている。この点は、歌の内容がわかれば自ずと整理がつく。結論を述べれば、「春愁三首」、「絶唱三首」という括りは、そもそも「春愁」でも「絶唱」でもないから意味がない。
 問題はその点に止まらない。左注が漢詩文((注2)参照)をもって説明されているために、歌自体にまで漢語の影響下にあるとする指摘が絶えないのである。例えば鉄野2007.は、「「春日遅々、鶬鶊正啼」は、家持が、春、生動する外界に刺激されて、他者との交流を志向していることを示すと見られる。かつ、それが「悽惆之意」を導いていることは、その他者がいないことによって、明るい外界がかえって悲哀を惹起していることを表す。」(359頁)と説いている。歌に付けられている左注は歌の理解を深めるうえで役に立つが、歌を置いてけぼりにして解釈を展開しても得られるものはない。中国詩文との関連を重視する考え方に見られる盲点は、歌というものは歌を一生懸命に捻り作った人の頭の中を覗き込んでも半分ぐらいしかわからないというところにある。歌われて、聞く人がいて、聞いた人が理解できて、はじめて歌として成り立つ。歌を聞いていた家持の館にいる召使たちが、ご主人様はおもしろいことをいうねえ、と喝采したとき、記し残すに耐えると判断して家持は録っているのだろう。中国詩文にも見られる感慨、例えば孤独感を述べたいのであれば漢詩を作ればいいわけで、それでは思いが伝わらない(「悽惆之意、非歌難撥耳、仍作此歌)からヤマトコトバで物申している。ヤマトコトバのあやを楽しみたいからである。
(注10)春はなんとなく悲しく感じられることを指しているとする見方が大勢を占めている。そのようなモノローグを声をあげて歌われたら聞いている方は弱ってしまう。ノイローゼ患者を相手にできるのはその手の専門医か、共感力の強い人に限られる。歌い手と聞き手が持ち合う形でできている古代の歌のあり方に合致せず、解釈する前提、歌に対面する立ち位置に誤りがある。
(注11)音の語呂合わせによる安直な言葉遊びである。複雑になれば音をたどることが難しくなって誰の耳にも明らかとはならなくなる。言葉遊びとして通用しないことは白けるから最初から行われない。
(注12)上と同様に、その点をもって新しい表現が模索されているとも曲解されてもいる。上句から下句へ順接していると考えるのも誤りである。
(注13)拙稿「女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─」参照。

ヒ(梭、杼)からクダ(管、筟)を出したところ

(注14)和名抄に、「杼 通俗文に云はく、緯を受くるを䇡〈今案ふるに即ち杼の字なり、〉と曰ひ、亦、之れを梭〈蘇禾反、莎と同じ〉と謂ふといふ。説文に云はく、杼は機の緯を持つ者なりといふ。」、「繀筟 説文に云はく、筟〈芳無反、敷と同じ、楊氏漢語抄に云ふ筟、久太くだ〉は繀糸の管なりといふ。弁色立成に云ふ管子〈和名は上に同じ、新撰万葉集に亦、之れを用ゐる〉。」とある。

(注15)「鶬鶊」の種について難しく考える向きもあるが、和名抄には「雲雀 崔禹食経に云はく、雲雀は雀に似て大といふ〈比波利ひばり〉。楊氏漢語抄に云ふ鶬鶊〈倉庚の二音、訓は上に同じ〉。」とある。
(注16)大谷2024.は、家持が春に友(大伴池主)の不在を悲しむ男の情を描くために、春を悲しむ女の情を語る詩経の文言を引き合いに出したものであるとし、この歌が近代に高く評価されたのは、人間としての孤独と春愁の発見をそこに見出したからであるとまとめている。我田引水の議論の一つの到達点である。

(引用・参考文献)
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新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(五)』岩波書店(岩波文庫)、2015年。
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加藤良平 2026.6.2初出

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