「八雲立つ 出雲八重垣」歌をめぐって スサノヲ(須佐之男命・素戔嗚尊)は、宮をつくる場所を出雲国に求めた。スガ(須賀・清地)というところにたどり着き、宮を造って住もうとする。初め宮をつくっていた時に、そこから雲が立ち上…More
Category Archives: 日本書紀
仁徳天皇は「聖帝」か?
仁徳天皇には、「高き屋に のぼりて見れば 煙けぶり立つ 民の竃は 賑ひにけり」(新古今707)なる伝承歌があり、あたかも本当に「聖帝」であったかのように語られることがある。 是に天皇すめらみこと、高き山に登りて四方よ…More
古事記の名易え記事について
題材 応神天皇に名易えの話が載る。 故かれ、建内宿禰命たけうちのすくねのみこと、其の太子おほみこを率ゐて、禊みそぎせむと為て、淡海あふみと若わか狭さとの国を経歴ふる時に、高志こしの前みちのくちの角つぬ鹿がに仮宮を造り…More
「かがなべて」考
ヤマトタケル(倭健命、日本武尊)は東国征伐からの帰還の途において、筑波問答として名高い歌のやりとりをしている。 其そこ[走水海]より入り幸いでまし、悉ことごとく荒ぶる蝦夷えみし等どもを言こと向むけ、亦、山河の荒ぶる神…More
聖徳太子のさまざまな名前について
はじめに 聖徳太子の名にまつわる紀の記事は以下の二つである。 元年の春正月の壬子の朔に、穴あな穂ほ部間べのはし人ひとの皇女ひめみこを立てて皇后きさきとす。是これ四よたりの男ひこみこを生あれます。其の一ひとりを厩うまや…More
聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について
厩戸皇子の出生譚 「厩戸皇子」という名は、いろいろな名前を持つ聖徳太子が生まれたときの逸話として語られている。 夏四月の庚午の朔にして己卯に、厩うまや戸豊聡耳とのとよとみみの皇子みこを立てて皇太子ひつぎのみことす。仍…More
聖徳太子の髪型と疫病(えやみ)の関係について
我が国における爆発的感染パンデミックの最初の記録は、崇神天皇の時代に遡る。卑弥呼の頃、三世紀初めと推測される。 此天皇之御世伇病多起人民為盡(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl…More
記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について
上代の伝承では、アマテラスの天あめの石いは屋や立て籠もり事件の解決に、シリクメナハが必須アイテムとして登場している。 天の石屋に閉じ籠ったアマテラスは、外の不思議な気配に身を乗り出したところ、タチカラヲに引きずり出され…More
天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─
記紀にアマテラスがイハヤ(石屋・石窟)に籠る話がある。本稿では、そのイハヤのあり方とその話にまつわるヤマトコトバについて検討する。 スサノヲの心が「善」いものか「邪あし」きものか判断するのに、天の安の河をはさんでウケヒ…More
大化改新を導いた「打毬」記事について─蹴鞠かポロかホッケーか─
皇極紀の「打毱」記事 皇極紀にある「打毱」は、中臣鎌足なかとみのかまたりと中大兄なかのおほえとが厚誼を通ずるきっかけとなった出来事として有名である。脱げた靴を拾ってあげたことが感動的な出来事として扱われてきた(注1)。…More
古事記の天之日矛の説話について─牛耕を中心に─
一 応神記に天之日矛の説話が載る。前半は新羅での奇譚話、後半はヤマトに至ってからの系譜となっている。ここではその前半部を考察対象とする。 又、昔、新羅しらきの国主こにきしの子有りけり。名は天あめ之日のひ矛ほこと謂ふ。…More
タヂマモリの「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」説話について
垂仁天皇の晩年に、多遅摩毛理たぢまもり(田道間守)の登岐士玖能迦玖能ときじくのかくの木この実み(非時香菓)探索の話が載っている。話の次第は次のようなものである。長寿を願う垂仁天皇は、時じくのかくの木の実を手に入れようと…More
蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─
記紀の国生み説話 ヤマトの名は、記紀の初めにある国生みの説話にすでに見られる。まず、天あめの浮橋うきはし(天上あまの浮橋うきはし)から天沼矛あめのぬほこ(天あま之瓊のぬ矛ほこ)を下して掻き混ぜ、潮が凝りて淤能碁呂おのご…More
鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について
いわゆる記紀神話の最後に登場するウカヤフキアハセズノミコトは、記に、「天津あまつ日高日子ひこひこ波限なぎさ建たけ鵜う葺草かや葺不合命ふきあはせずのみこと」、紀に、「彦ひこ波瀲なぎさ武たけ鸕鷀う草葺かや不合尊ふきあへずの…More
二人の彦火火出見について
日本書紀において、別人物(あるいは別神格)に、彦ひこ火火出見ほほでみという名がつけられている。山幸こと彦ひこ火火出ほほで見みの尊みことと神武天皇の諱ただのみな、彦ひこ火火出見ほほでみである(注1)。紀の本文に、皇孫の天…More
四天王寺創建説話と白膠木のこと
崇峻前紀に、物部守屋を攻め滅ぼす戦の場面がある。厩戸皇子は白膠木を四天王像に作って戦勝祈願をしている。これが四天王寺発願のこととされて今日でも議論の対象となっている。 是この時に、厩戸皇うまやとのみ子こ、束髪於額ひさ…More
隼人(はやひと)について
隼人は、古代の九州南部の人をいい、朝廷で隼人舞や警護の任についた。隼人(はや(ひ)と)の名義については、これまでに多くの説が唱えられてきた。中村1993.の研究史整理をもとにした原口2018.の分類をあげる。 (1)性…More
龍(たつ)という語について
中国から伝わった龍(竜)は、なぜかタツと訓まれることがある。地名「龍たつ田た」に当てられることも多い。空想上の生き物としてのタツは万葉集の例(注1)が名高く、日本書紀にも「龍」は見える。 伏ふして来書らいしよを辱か…More
日本書紀古訓オセルについて
日本書紀の古訓にオセルという動詞がある。「臨睨」、「望見」、「瞻望」、「廻望」、「望」、「遥望」、「遠望」、「望瞻」、「遥視」といった用字に対して訓まれている。上から下を見おろすことをいい、また、押シアリの約かとされて…More
欽明紀の「鐃字未詳」について
日本書紀には字注を入れることがあり、「未詳」と記すことがある。 俄にはかにして儵忽之際たちまちに、鼓つづみ吹ふえの声おとを聞く。余昌よしやう乃ち大おほきに驚きて、鼓を打ちて相あひ応こたふ。通夜よもすがら固く守る。凌晨…More
応神二十八年条の高句麗上表文について─「教」(ヲシフ)字を中心に─
一 日本書紀に、高麗から朝貢の使節がやってきたが、そのときに持ってきた文書を読んで、菟道稚郎子は礼儀知らずと言って怒り、破り捨ててしまったという話が載る。 はじめに問題とする日本書紀の箇所を示す。 廿八年秋九月、高…More
「家内に養ふ鶏の雄者を殺せ」(雄略紀)の真相
雄略紀の朝鮮半島との関連記事に、これまでの解釈では意味の通じない記述がある。 天皇すめらみことの位みくらゐに即つかせたまひしより、是こ歳としに至るまでに、新羅国しらきのくに、背そむき誕いつはりて、苞苴みつき入たてまつ…More
飛騨の匠について─日本紀竟宴和歌の理解を中心に─
日本書紀は講書が行われ、竟宴和歌が作られている。ここにあげる葛井清鑒の歌は、天慶度(天慶六年(943))の作である。左注は院政期に付けられたものと考えられている。講書で教授された日本書紀の該当箇所は雄略紀十二年十月条で…More