聖徳太子のさまざまな名前について

はじめに

 聖徳太子の名にまつわる紀の記事は以下の二つである。

 元年の春正月の壬子の朔に、あな部間べのはしひとの皇女ひめみこを立てて皇后きさきとす。これよたりひこみこれます。其のひとりうまやとの皇子みこまをす。〈またなづけて豊耳聡聖徳とよみみとしやうとくといふ。あるいは豊聡耳とよとみみののりの大王おほきみと名く。或いは法主のりのうしのおほきみまをす。〉是の皇子、初め上宮かみつみやましましき。後に斑鳩いかるがに移りたまふ。とよ御食みけ炊屋かしきや姫天皇ひめのすめらみことみよにして、東宮みこのみや位居まします。万機よろづのまつりごと総摂ふさねかはりて、行天皇事みかどわざしたまふ。ことは豊御食炊屋姫天皇のみまきに見ゆ。(用明紀元年正月)
 皇后[穴穂部間人皇女]、懐姙開胎みこあれまさむとする日に、禁中みやのうち巡行おはしまして、諸司つかさつかさ監察たまふ。馬官うまのつかさに至りたまひて、乃ちうまやの戸に当りて、なやみたまはずしてたちまちれませり。生れましながらものいふ。ひじりさとり有り。をとこさかりおよびて、ひとたびたりうたへを聞きて、あやまちたまはずして能くわきまへたまふ。ねて未然ゆくさきのことを知ろしめす。また内教ほとけのみのり高麗こまほふし慧慈ゑじに習ひ、外典とつふみはかかくに学びたまふ。ならびことごとくさとりたまひぬ。かぞ天皇すめらみことめぐみたまひて、おほみやの南の上殿かみつみやはべらしめたまふ。かれ、其の名をたたへて、上宮厩かみつみやのうまや戸豊聡耳とのとよとみみの太子ひつぎのみこまをす。(推古紀元年四月)

 聖徳太子のもつさまざまな呼び名のバリエーションをまとめると、(a)厩戸、(b)豊聡耳、(c)上宮、(d)聖徳、(e)法王に大別される。それぞれの名の由来は文字に記されているとおりとされている。けだし、厩戸という名は、母親の穴穂部間人皇后が禁中巡行の際、馬官の厩の戸にぶつかって安産したことによる、豊聡耳という名は、一度に十人の訴えを聞いて間違えることがなかったという故事に基づく、上宮という名は、父親の用明天皇が溺愛して、宮殿の南の上殿に住まわせたという出来事から来る、聖徳という名は、神聖視されるようになってからの抽象的な美称である、法王という名は、法華経譬喩品にある仏教用語に由来し、仏教との立場から神聖化した抽象的な美称である、というのである(注1)
 それらの説明は説明としてみても、それ以前のこととしてなぜこれほどたくさんの名を持っているのか疑問である。用明紀に「更名」とあるのは、別称、渾名のことであろう。当時、本名という概念があったか、また別名との間に位置づけの違いがあったか定かではない(注2)。命名の謂れとなっている説話は、紀を編んだ人がわざわざ譚として記すに値すると認めていたものである。古代の人に特徴的な思考法として捉え返さなければならない(注3)
 記紀には人名の命名説話がいくつかあり、天皇や太子のそれには次のような例がある。

 既に産れませるときに、ししただむきの上にひたり。其の形、ほむたごとし。是、皇太后おほきさきををしきよそひしたまひて鞆をきたまへるにえたまへり。〈肖、此には阿叡あへと云ふ。〉故、其のみなを称へて、誉田ほむたの天皇すめらみことまをす。〈上古いにしへの時、よのひとともひて褒武多ほむたと謂ふ。〉(応神前紀)
 初め天皇生れます日に、木菟つく産殿うぶとのとびいれり。……大臣おほおみこたへてまをさく、「吉祥よきさがなり。また昨日きねふやつかれ[武内宿禰]がこうむ時に当りて、鷦鷯さざきうぶに入れり。是、亦あやし」とまをす。ここに天皇の曰はく、「今が子と大臣おほおみの子と、同日おなじひに共にうまれたり。並にみつ有り。是あましるしなり。以為おもふに、其の鳥の名を取りて、おのおのあひへて子に名けて、後葉のちのよしるしとせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて、太子みこに名けて大鷦鷯おほさざきの皇子みこのたまへり。木菟の名を取りて、大臣の子に名けて、木菟つくの宿すくへり。(仁徳紀元年正月)
 生れましながらみは一骨ひとつほねの如し。容姿みかたちみすがた美麗うるはし。是に、有り。瑞井みつのゐと曰ふ。則ち汲みて太子ひつぎのみこあむしまつる。時に多遅たぢの花、井の中に有り。因りて太子の名とす。多遅の花は、今の虎杖いたどりの花なり。故、多遅たぢ比瑞歯別ひのみつはわけの天皇すめらみことと称へ謂す。(反正前紀)
 [白髪武広国押稚しらかのたけひろくにおしわか日本やまとこの]天皇、生れましながらしらにましまし、ひととなりておほみたからを愛みたまふ。(清寧前紀)

 反正天皇の名、多遅比瑞歯別は、生まれながら歯が一本の骨のようにきれいな歯並びで、瑞井という井戸の水を産湯にしたところ、タヂの花、すなわち、今のイタドリの花が井戸のなかに落ちた。それで名とした。イタドリはタデ科の多年草である。茎を噛むと酸っぱく、スカンポと呼ばれる。タヂが持ち出されたのは、一つには、酸っぱくて歯を剥き出すから歯並びのことが思い起こされ、二つには、そのイタ(板)+ドリ(取)という名から、板を取る鋸、古語にノホギリといわれるものを連想させるからである。歯を剥くと鋸のようなきれいな歯並びをしていた、ないしは出っ歯だったということを、直接的には「如一骨」といいつつ、間接的には井戸にイタドリの花が落ちたとの逸話を拵えて伝えているものと思われる。ただし、その際、「瑞井」と称しており、仁徳紀の瑞祥話と同じく太子の名にするのにふさわしいとのこじつけが含まれている。仁徳天皇の名以外は生得的な肉体的特徴を名としている。今日でも渾名としてよく聞かれるものである。
 聖徳太子の名の場合、あまりに数が多く、また、直接、身体的な特徴を語ることもなく、盛んに逸話めいた話ばかり出てくる。名の由来を語るものが命名説話であるとしても、名は周囲の人から呼ばれてはじめて名となる。数が多すぎてはアイデンティティが拡散してしまう。逸話を真に受けてばかりでは本質に迫ることはできない。本稿では、彼の名が一つの身体的特徴に由来し、多様に言い換えられたものであることを明らかにする。

厩戸

 厩戸皇子については、誕生譚に述べられている厩について大掛かりな検討が必要となる。その点については別に論じた(注4)。ここでは結論のみ述べる。うまやに当たるものとしては馬が出て来れないようにするもの、マセバウ、マセガキがある。たった一本棒が横に架されただけで馬は出られない。厩戸の本質とは何かと言われれば、そのことだと言って間違いないだろう。だから、ませた餓鬼やませた坊やのこととして命名されている。洒落となぞなぞと知恵を駆使して綽名にうまく嵌め込んでいる。
 では、彼の身体的特徴とは何か。皇后は諸司の監察を行っている。いろいろな部署を見てまわっており、馬官の一箇所を重点的に見ているわけではない。馬官では馬の様子をちょっと見たいだけに過ぎない。厩舎を開けて建物の具合や室内の衛生状態をチェックする必要はない。馬の顔を見れば大事にされているかどうか見通せるからである。つまり、彼女にとっての厩の戸は、厨子の上部に付けられた観音開きの戸と同じく覗き窓で十分であった。まど(ドは甲類)は、マ(間、目)+ト(戸)の意といい、和名抄に、「牖 説文に云はく、牖〈与久反、字は片戸甫に従ふなり。末度まど〉は壁を穿ちて木を以て交へと為す窓なりといふ。」、「窓 説文に云はく、屋に在るを窓〈楚江反、字は亦、牎に作る。末度まど〉と曰ひ、墻に在るを牖〈已に墻壁具に見ゆ〉と曰ふといふ。兼名苑に一名に櫳〈音は籠〉と云ふ。」とある。諸字の載る名義抄に、「牖 音誘道、マド、向」、「窓 楚江反、マド、亦牎〓〔片偏に忩〕 和ソウ」、「扆 俗通〓〔尸垂に衣〕字、マト」などとあり、清濁両用あった可能性が高い。
 マトという言葉には、円、的がある。円いさま、形状のマドカナルところから的のことをいう。的は和名抄に、「的 説文に云はく、臬〈魚列反、万斗まと、俗に的の字を用ゐ、音は都歴反〉は射る的なりといふ。纂要に云はく、いにしへは射る的を謂ひて侯〈或は堠に作り、音は侯と同じ〉と、皮を以て的をるを鵠〈今案ふるに鴻鵠の鵠は射る処なり、古沃反、唐韻に見ゆ〉とといふ。」とある。「鵠」字には、正鵠を射ると使われる射る的のほか、鳥の名のクグイの意もある。古語に、クグヒ、クビ、コヒ、コフなどというハクチョウのことである。豊後風土記速見郡条に、餅を的にしたら白い鳥になって飛んで行ったとする説話があり、山城風土記逸文(存疑)にも見える。また、「白鳥しらとりの」という枕詞は「さぎ」にかかることがあり、「白鳥の 鷺坂山の 松蔭まつかげに 宿りてかな 夜も深け行くを」(万1687)といった例がある。的は、白鳥や鷺とイメージが通じていたもののようである。
 窓も、当初は円形に開けられるものとして認められていたのではないか。絵巻物では民家に円い窓が開けられている。そして、その円い窓を塞ぐように蓋をするに値するものとして円座、藁蓋わらふだ・わらうだがつけられている(注5)

左:窓と窓ふさぎの藁蓋(慕帰絵詞模本、鈴木空如・松浦翠苑模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590851/11をトリミング)、右:板葺の家の的(志貴山縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574277/21をトリミング)

 円座は、稲藁や藺草などを渦巻き状に編んだもので、主に板の間で用いられた。今日でも神殿や囲炉裏の周り、和風の内装にこだわる蕎麦屋などで使われている。宮中では、縁取りに布を縫い付け、官位によってその色を使い分けたという。また、家の壁面に円いものがつく光景としては、家の破風に的を掲げる風習が知られる。正月に行われる的の神事で頭屋を務める家が、的を描いたものを入口の上に出して印としていた。
 では、このマト(窓・的・円)は、太子の何を表しているのであろうか。それを推察させるものに彼の髪型がある。物部守屋と蘇我馬子との戦いの際の記述に次のようにある。

 の時に、うまやとの皇子みこ束髪於額ひさごはなにして、〈いにしへひと年少児わらはの、年十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にし、十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦しかり。〉いくさうしろしたがへり。みづか忖度はかりてのたまはく、「はた、敗らるること無からむや。ちかひことあらずは成しがたけむ」とのたまふ。乃ち白膠木ぬりでり取りて、天王てんわうみかたに作りて、頂髪たきふさに置きて、ちかひててのたまはく、〈白膠木、此には農利泥ぬりでといふ。〉「今し我をしてあたに勝たしめたまはば、必ず護世四ごせしわう奉為みために、寺塔てら起立てむ」とのたまふ。我馬子がのうまこの大臣おほおみ、又誓を発ててはく、「おほよ諸天王しよてんわう大神王だいじんわうたち、我を助けまもりて、利益つことしめたまはば、願はくはまさに諸天と大神王との奉為に、寺塔を起立てて、三宝さむぼう流通つたへむ」といふ。誓ひをはりて種種くさぐさいくさよそひて、進みて討伐つ。(崇峻前紀)

 古代における年齢階梯と髪型については、江馬1976.ほかに論じられている。髪の毛が伸びるにしたがいまとめ方を変えていっていた。ただし、いまだ確定的なことはわかっていない。そもそも髪型は、若者組や職業による決まりごとによって制約を受ける一方、風俗の流行り廃りの影響もあり、また、個人的な好みによっても大きく異なってくる。したがって、一概にどのような髪型をしていたかを定め切れるものではない。むしろ、記紀や万葉集に出てくる言葉によって、個々のケースでどのようなニュアンスを込めているかを見ていくことが大切になる。
 束髪は、ヤマトタケルの熊襲征伐の際の記述に見える。

 の時に当りて、其のかみひたひひき。……しかくして、其のうたげの日にのぞみて、童女をとめの髪の如く、其の結へる御髪をけづれ、其のをば御衣みそ御裳みもして、既に童女の姿と成り、女人をみなの中にまじり立ちて其のむろの内に入り坐す。(景行記)
 ……日本やまと武尊たけるのみことつかはして、くまたしむ。時にみとし十六とをあまりむつ。……是に、日本武尊、髪を解きて童女の姿とりて、ひそか川上梟帥かはかみのたけるうたげの時をうかがふ。(景行紀二十七年)

 童女の髪とあるのは、髪を束ね揚げずに垂らした髪をいっている。髪型の名としては、髪が短くて束ねられずにばらばらのままの子どもの髪型のワラハ(童)、髪を垂らしたまま項にまとめた形のウナヰ(髫髪)、伸びて長い髪を垂らしたままにした髪型のハナリ(放髪)などがある(注6)。この個所の記述については、結局のところ垂らした髪によって女装したという以上のことはわからない。
 一般には、ヤマトタケルと聖徳太子の記事の二つに額に髪を結うことが記されているため、太子はこのとき十五・六歳であったと考えられている。吉田2011.によれば、聖徳太子の年齢については、伝記類ごとに、物部守屋征伐の時に、十六、十四、十五歳説があるという(44~45頁)。崇峻前紀の分注を吟味せずに解釈したところから派生した説であるように思われる。この部分には奇妙なところがある。「古俗……」と紹介しておきながら、「今亦然之」と終っている。昔も今も同じであるにもかかわらず、言わずもがなのことを勿体ぶって言っている。不可解な断り書きの分注を付けるにはそれなりの理由があるのだろう。実は太子の年齢は十七八の間で、「角子あげまき」(総角)にすべきところをあえて「束髪於額ひさごはな」にしていたということではないか。ヤマトタケルも変装のために髪型を変えていた。太子が年相応の髪型をしていたり、年齢以上の早熟性を語りたいのなら、「古俗、年少児、年十三四間、髫髪、十五六間、為束髪於額。今亦然之。」と記せばよいことだろう。
 角子(総角)は、頭上に髪を両分して左右に揚げて巻き輪をつくったものをいう。そして、「束髪於額」はヒサゴハナと訓まれている。これはあまりにも洒落た不思議な訓であり、深い意味合いが隠されているものと考えられる。髪を額に一束に束ねあげると、形状がヒサゴの花、つまり、ユウガオの花に似ているからとされる。花の形が似ているばかりか、下につける実を人間の頭と対照させたことによるものと思われる。実からは干瓢を取る。厩戸に連想されたマド(窓・窗)は、簡略した字体が囱である。囱のなかの字は夕に見えるが、これは木を以て交わらせた格子窓、櫺子窓を意味する字形である。ただ、囱に似た囟は、ひよめきを表す。すなわち、国構の部分が頭部、つまり、顔である。顔が夕となっているから夕顔である。この夕顔については後述する。

左:瓢箪のしぼみかけた花、右:ヌルデの虫こぶとヌルデシロアブラムシ

 太子の身体的特徴、特に、渾名で揶揄される特異点を示しているのである。髪型の名を「束髪於額」と断っている。「額」は和名抄に、「額 楊雄方言に云はく、額〈五陌反、和名は比太非ひたひ〉は東斉に之を顙〈蘇朗反〉と謂ひ、幽州に之を顎〈五各反〉と謂ふといふ。」、「顱〈髑髏附〉 文字集略に云はく、顱〈落胡反、字は亦、髗に作る。加之良乃加波良かしらのかはら〉は脳の蓋なりといふ。玉篇に云はく、髑髏〈独婁の二音、俗に比度加之良ひとがしらと云ふ〉は頭骨なりといふ。」とある。万葉集にも、「わぎ妹児もこが ひたひふる 双六すぐろくの 特牛ことひのうしの くらの上のかさ」(万3838)という歌が載る。ヒタヒとは顔面上部のおでこの部分である。太子は頂髪、つまり、髻に四天王像を置いている。白膠木とはヌルデのことで、それを彫塑した。仏像に象るとは、当時、金銅像や脱活乾漆像のように中空であることが一般的であったから、なかが空洞であるほうがふさわしい。ヌルデには、ヌルデノミミフシ(ないし、ヌルデシロアブラムシ)という虫がついて虫瘤ができる。付子ふし(五倍子)である。薬用のほか染色に用いられる。同じく誓いを立てた蘇我馬子はそのようなことはしていない。太子は付子のことを知っていたから、身近に生えていたヌルデの虫瘤を斮り取って彫像している。付子は鉄漿かねに混ぜてお歯黒に使われた。ヌリデの語源も塗ることと関係するからとされている。膠木と記されるが、字とは裏腹に黒く塗ることがあった。いかにもわざとらしい話に拵えられている。すなわち、ヌリデによって禿が目立たないようにカモフラージュしたことを表すのだろう。太子の頭は真ん中が禿げていて、窓が開いているようであるとも、正月の奉射の頭屋の印の的のようであるとも譬えられた。十七八歳になっているけれど、髪を両分すると真ん中の禿が目立ってしまい見た目が変なことになる。厩の戸にぶつかった後遺症であるかのような、髪が脱落したたん瘤に見えるし、それはまた、ヌルデノミミフシのようなつるっとした膨らみになっていたのだろう。みっともなくないように、太子はヒサゴハナに結っていた。夕顔の実にはわずかに柔らかい毛が生えている。
 太子は、「疾作四天王像、置於頂髪。」している。頂髪は、髪を手繰り上げて房のように束ねたところ、頭髻である。

 是を以て、頭髻たきふさかくし、たちころもの中にく。或いは党類ともがらあつめて辺界ほとりをかし、或いは農桑なりはひのときを伺ひて人民おほみたからかすむ。(景行紀四十年七月)
 時に武内宿禰たけしうちのすくね三軍みたむろのいくさのりごとして、ふつく椎結かみあげしむ。因りて号令のりごとして曰はく、「おのおの儲弦うさゆづるを以て髪中たきふさをさめ、まただちを佩け」といふ。(神功紀摂政元年三月)

 それぞれ「是以箭蔵頭髻」、「各以儲弦于髪中」とあり、弓で使う箭や予備の弦の儲弦を、束ねてたくし上げてまとめた髪の中に入れて隠していた。髪の毛があるから隠すことができるのであり、太子の場合だけ顕れている。四天王は仏法を守護する持国天・増長天・広目天・多聞天のことである。四つの像を作ったのか、あるいは代表して一つを作ったのか明らかではない。信貴山に伝わる伝承のように、毘沙門天、すなわち、多聞天を彫り上げたとも考えられるが、ヌルデについた虫瘤の、凸部が四つあるものをそれぞれの四天王の様子に見立てられるように、四面一像に象ったと考えたほうがわかりやすい。誓いを立てて建てると言っていた「寺塔てら」、塔は、東西南北それぞれに顔を持つ。後代の作例では五鈷鈴の周囲に四天王を配置し象ったものが見られる。
 「置於」という状況も不思議である。「置く」という言葉は、何かを持ってきて安定したところにものを設置することで、手を放して放置することでもある。自然現象の、雪や霜の降り積もってとどまることにもいう。古典基礎語辞典の「おく【置く・措く】」の解説では、「物に位置を与える意と、手から離してそのままにする意とがある。」(226頁、この項、筒井ゆみ子)とする。また、白川1995.は、「「おく」のうち、ものを置くことには置、ものをとり除くのには除を用いる。「おく」はその両義をかねる語で、〔万葉〕では置をその両義に用い、「くまも置かず」〔九四二〕、「あまも置かず」〔一四九一〕のようにいう。〔記〕〔紀〕などでは、置と除との字義は正確に使いわけられている。」(174頁)としている。
 太子の束髪於額ひさごはなと記される髪型は、夕顔の花のような膨らんだ形をしていたのであろう。通常のタキフサであれば、そこに白膠木で作った四天王像を差し込むことはできても、太子が曲芸師であったとは記されていないから、フィギュアをそこに「置」くことは不可能である。髪の束の上は安定せず、ゆたかな髪の毛に滑り、反発を受け、転げ落ちるであろう。手を添えていた場合、それは「置」ではなく「載」という字が、また、髷の先を切りそろえてその頂点に貼りつけたのなら、それは「置」ではなく「着」などという字が選ばれるだろう。タキフサに置けたのは、束髪のなかに四天王像を安置して揺るがないスペースがあったことを示している。すなわち、髪の毛が生えていない平らな部分が頭部にあったということである。四天王像をもって相手を威圧しようというのだから、「かく」しや「をさ」めではなく、遠くから見て像が見えなければならない。バーコード状の髪の毛が透け、外から確認できるようによく見えたということだろう(注7)
 太子の頭部には丸い的のように窓が開いていた。円座・藁蓋との関係で言うなら、尻に敷くものと頭に開いた窓との洒落になっている。紀では「頂髪たきふさ」と断られている。たぶさのことである。景行紀、神功紀の北野本別訓にはタブサとある。崇峻紀にタキフサときちんと訓じられてあるのは、尻を隠すべきタフサキ、すなわち、「犢鼻たふさき」という褌とを関連させて洒落としたものではないか。頭部が臀部のようであるとの謂いを強めたいための物言いである。冠位十二階を設けて官人に冠を被らせたことも、実はあれは禿隠し、頭の尻隠しなのであると、無冠の者たちの口さがないささやきが聞こえてくる(注8)

豊耳聡・豊聡耳

 「豊聡耳」については、巷間に、聖徳太子は十人の人が一度に言うことを聞き分け、とても耳が良かったので名に冠するとされている。後に作られた伝記にもある。

 おほきみみこといときなわかくして聡敏さとさとり有り。長大ひととなるに至りて、一時に八人のまをす事を聞きて其のことわりさだむ。又一を聞きて八をさとる。故、号を厩戸豊聡八耳命と曰ふ。(上宮聖徳法王帝説)
 八人時に声を共にして事を白す。太子一一ひとつひとつを能く辨じ、おのもおのもこころを得、復た再びふこと無し。聡敏叡智なり。是を以て名を厩戸豊聡八耳皇子と称す。(上宮聖徳太子伝補闕記)
 政を聴しめす日、宿むかしの訴の未だ決せざる者八人、声を共に事を白す。太子一一に能く辨じ答へ、各其の情緒せいしよを得て、復た再び諮ふこと無し。大臣、群臣已下を率ひて敢て御名を献る。厩戸豊聡八耳皇子と称す。(聖徳太子伝暦)
 太子三つの名あり。一つには厩戸(豊聡耳)皇子と申しき。王の厩のもとにて生まれたまひ、十人一度に愁へ申すことをよく聴きて一事を漏さずことわりたまふによりてなり。二つに聖徳太子と申す。生まれたまひての振舞ひ、よそほひみな僧に似たまへり。勝鬘経、法花経等の疏を作り、法を弘め、人をわたしたまふによりてなり。三つに上宮太子と申す。推古天皇の御世に太子を王宮の南に住ましめて、国の政をひとへに知らしめたまふによりてなり。(三宝絵詞)

 伝暦には、また、慧慈・慧聡に学ぶに、「一を問て十を知り、十を問て百を知る。」というふうに数が出てくる。伝記類での解釈では、十人ではなく八人であるとの説も多い。そして、一見、「耳」をもって聞く能力とするかに見える。「みみ」という言葉の付いた名は古代に散見される。「天忍穂あまのおしほ耳尊みみのみこと」(神代紀)、「ぎし耳命みみのみこと」・「かむ渟名ぬなかは耳尊みみのみこと」・「かむ八井やゐ耳命みみのみこと」(綏靖前紀)、「豊耳とよみみ」(神功紀元年二月)、「すゑみみ」(崇神紀七年八月)などである。神功皇后は「紀直きのあたひおや豊耳」なる人物に、怪異現象の理由を問うている。そこから、「耳」には天文異変の原因を判断できる能力を表すと考える向きもある。しかし、記事では、その人は答えられずに「一老父」が答えている。陶津耳の名は、スヱ(地名)+ツ(連体助詞)+ミミ(霊霊)、すなわち、男子の尊称のことで、スヱ村の村長さんほどの意かという。この伝でいけば、豊聡耳とは、トヨは美称、ミミは男子の尊称だから、実質的にはト(甲類)という名であったことになる。厩戸のト(甲類)と同じ音である。
 新撰字鏡に「聆 令丁反、聡也、聴謀也、止弥々とみみ、又弥々止志みみとし。」とある。「し」のトも甲類で、「研(磨)ぐ」と同根の語である。研ぐものは砥石で、古語に「」といい、粗い目のものは荒砥あらと、細かい目のものは真砥まとと呼ばれた。和名抄に「砥 兼名苑に云はく、砥〈音は旨〉は一名に〓〔石偏に肅〕〈音は篠、末度まと〉、細かき礪石なりといふ。」とある。「砥」でありつつ「窓」、「的」、「円」なものがマトである。
 紀の原文に、「生而能言、有聖智。及壮、一聞十人訴、以勿失能辨、兼知未然。」とある。「生而……。及壮……。」の構文である。大人になって生来の聖智ぶりがこれでもかというぐらいに見られたということにはなっても、「みみ」という言葉自体に聖明叡智さを表す意はない。「聞く」という言葉には、➀音声・言葉などを耳に感じ取る、耳にする、注意して耳を傾ける意、➁聞いて内容を知る、知識を得てそうだろうと思う、言い伝えや噂を耳にする意、➂相手の言葉に従う、承知する、聞き入れる、許す意、➃訊く、人に尋ねて知る、考えや気持ちなど相手の答えを求め問う意、➄訴えを取り上げて裁く、よく聞いて政治的な処理をする、是非を判断する意、➅香をかぎ味わう意、➆酒の良し悪しを味わってみる意、などがあげられ、中古まで➃の例は確認しがたいとされる(注9)。このうちの➄は、「聴訟」の和訓に由来する言い方ではないかという。彼が聞いているのは「訴」である。憲法十七条の五曰には次のようにある。

 五に曰はく、あぢはひのむさぼりを絶ちたからのほしみすることを棄てて、あきらかに訴訟うたへさだめよ。其れ百姓おほみたからうたへひとわざあり。一日すら尚しかるを、いはむや歳をかさねてをや。このごろ訟を治むるひとどもくほさを得て常とし、まひなひを見てはことわりまをすを聴く。便ちたから有るひとが訟は、石をもちて水に投ぐるが如し。ともしき者のうたへは、水をもちて石に投ぐるに似たり。是を以て、貧しきおほみたから所由せむすべを知らず。やつこらまの道亦ここに闕けぬ。(推古紀十二年四月)

 裁判官の心得、司法へのアクセスの保障をうたったものと評価のある条文である。「訴」の訓には、ウルタヘ、ウタヘ、促音便化したウッタヘの形がある。「憂へ訴ふる人」(孝徳紀大化元年八月)とあるように、訴えるとはもともと神に憂いを告げることをいい、審判を仰ごうとしたものである。つまり、推古紀の話は、「訴」を「辨」ずること、裁判の話である。「辨」は、ややこしいことにけじめをつけてわけて処理すること、とりさばくことで、辨理の義である。ワキダムとも訓み、紀では「別」や「節」字も当てている。また、コトワル(判・断)といった古訓でも表される。いずれにせよ聴覚能力が優れているという話ではない。
 用明紀に、「豊耳聡」・「豊聡耳」の両用が記されている。これまで、天寿国繍帳銘に「等已刀弥々乃弥等」、元興寺丈六光背銘に「等与刀弥々大王」などとあることから、「豊耳聡」は「豊聡耳」の誤りであるとされてきた(注10)。ただ、それらの証拠となるものが、はたして当時のものであったかという疑問点も添えられている(注11)。彼が実際に、トヨトミミとしか呼ばれず、トヨミミトとは呼ばれなかったと断定することは不可能である。諸本に「豊耳聡」と書いて伝わっているのでそういう呼び方もあったと考えられる。
 「豊耳聡」は呼び名であり、音として空中を行き交う。漢字の字義に限って伝えるものではない。トヨミミト(ト・ヨは乙類、ミ・ミは甲類、トは甲類)と連なる音には、トヨミ(ト・ヨは乙類、ミは甲類)(響鳴・動)+ミト(ミ・トは甲類)(水門)という意がある。「とよむ」とは、あたり一面に音が鳴り響く、どよめく、とどろくことである。また、ミトには、➀港(湊)、➁水門、➂港湾の船を航行させる水路、澪、の三つの意がある。上代には➀の意が確かとされ、➂は見られず、➁は和名抄に、「水門 後漢書に云はく、水門の故処は皆、河中に在りといふ。〈日本紀私記に水門は美度みとと云ふ〉といふ。」とある(注12)。この意味が確かにあった証拠にミトサギと呼ばれる鷺がいる。和名抄のサギ類の記事を示す。

 蒼鷺 崔禹食経に云はく、鷺に又、一種有り、相似て小さく色、蒼黒く、並びに水湖の間に在りといふ。〈漢語抄に蒼鷺は美止佐岐みとさぎと云ふ〉
 鵁鶄 唐韻に云はく、鵁鶄〈交青の二音〉は鳥の名なりといふ。弁色立成に云はく、鵁鶄〈伊〓いひ〔山冠に微〕〉は海辺に住み、其の鳴くこと極めてかまびすき者なりといふ。
 〓〔睪偏に鳥〕〓〔虞偏に鳥〕鳥 唐韻に、〓〔睪偏に鳥〕〓〔虞偏に鳥〕〈澤虞の二音、漢語抄に護田鳥、於須売止利おすめどりと云ふ〉と云ふ。爾雅集注に云はく、鴋〈音は紡〉は一名に沢虞、即ち護田鳥なり、常に沢中に在りて人を見れば輙ち鳴き、主守官に似ること有るが故に以て之を名づくといふ。
 鷺 唐韻に云はく、〓〔舂偏に鳥〕〓〔鋤偏に鳥〕〈舂鋤の二音〉は白鷺なりといふ。崔禹食経に云はく、鷺〈音は路、佐岐さぎ〉の色は純白にして其の声は人の呼ぶに似れる者なりといふ。

アオサギ(井の頭自然文化園)

 水門にいる鷺がミトサギである。常陸風土記逸文にも「青鷺みとさぎ」(塵袋・第三、存疑)とあり、名義抄に「〓〔兒偏に鳥〕 五狄反、水鳥、アヲサキ」とある。蒼鷺は、今日いうアオサギのことであろうが、動物分類学上の同定に定まらないところがあり、江戸時代にはゴイサギ(五位鷺)やミゾゴイ(溝五位)とする説があった。上の和名抄にも、鵁鶄、イヒ、〓〔睪偏に鳥〕〓〔虞偏に鳥〕、護田鳥、オスメドリ、鴋などとある。また、ウスメドリ、ヒノクチマモリと呼ばれるものもいる。爾雅・釈鳥に「〓〔紡冠に鳥〕 沢虞」とあり、注に「今の〓〔女偏に固〕沢鳥、水鴞に似る。蒼黒色、常に沢中に在り、人を見て輒ち鳴き喚びて去らず。主守之官を象する有り。因りて名けて云はく、俗に護田鳥と呼び為す。」とある。ヒノクチ(樋の口)とは、樋の水門のことである。水路などで水量、水位を調節するために戸口がたてられ、必要に応じて開閉した。導管の樋が丸ければ、土手から覗く口の戸、窓には、円い弁をもって塞ぐことになる。開閉して動くベンの意の弁は瓣の略字である(注13)。辨の略字も弁であり、髪を被うかんむり、冕冠の意の〓〔小冠に白と儿〕の略字も弁でもある。獄訴の時に誓いをたてる辯も略字は弁で、崇峻前紀で太子は戦勝祈願をしていた。
 水をどの田にどの程度配分するかは、洋の東西を問わず人々の利害争いにつながる。 rival という語が river をもととすることによく表れている。正しく分水するとは水の量を適切に捌くことである。それを守る神のような存在がミトサギで、田の水を管理していると譬えられて護田鳥と呼ばれたのだろう。単にヒというだけで樋の口の意もあり、水を堰き止める仕切りの弁を表したらしく、「人をしていけに伏せ入らしむ。外に流れ出づるを、みつほこを持ちて、刺し殺すことをたのしびとす。」(武烈紀五年六月)とある。弁を開けて水とともに流れてくるところを、十文字の矛で突き殺したようである。和名抄に、「池〈楲附〉 玉篇に云はく、池〈直離反、和名は以介いけ〉は水を蓄ふるなりといふ。淮南子注に云はく、つつみさくりて楲〈音は威、和名は伊比いひ〉をひらくといふ。許慎に曰はく、楲はつつみあなを通す所以なりといふ。」とある。イヒのイ音の脱落した形というが、鵁鶄の訓みのイヒとの関係も注目されよう。主守之官とは倉庫番のことである。じっとして動かずに、泥棒が来ても逃げずに声をあげて助けを呼ぶ(注14)
 ミトサギはウスメドリとも呼ばれる。目のところに丸メガネのような模様がある。眼つきが鋭い印象からオスメドリと言われ、訛ったものとされている。あるいは、鷺一般にみられる特徴の、臼に舂くしぐさになぞらえられたことによるものかもしれない。首が長く、その先の頭には前に嘴、後ろにしようとも呼ばれる冠羽をつけている。崇峻前紀で太子が四天王像に彫った白膠木は、別名にカチノキとも呼ばれ、馬子の誓いの言葉にある「利益かち」という訓と符合するものでもある(注15)。鷺が餌を啄む時、まさに横杵で臼を搗くように見え、ウスメドリと呼ぶに値する。また、うずくまるというように、じっとしていることはウズと表現する。名義抄に、「踞 シリウタグ、シリウケヲリ、シリソク、ウズクマル、オゴリ、音據、ウズヰ」とある。
 冠毛のことは耳毛ともいう。サギと同様に耳の形が長いのが特徴的な動物をウサギ(ギは甲類)と呼んでいる。また、サギの耳毛は細く長いから、中国では〓〔絲偏に鳥〕、糸禽ともいう。頭の後ろに糸を二本引いたように見え、針に糸を通した様子に譬え得る。針の孔、めどのことは耳といい、「はりのみみ」(宇津保物語・俊蔭)と言った。耳の付いた縫い針は、弥生時代から見られ、舞錐によって開けられたとされている。細かい砥石のマトを使って毛羽立ったバリを取って仕上げたことだろう。バリを取ってハリ(針)の耳ができあがる。トヨ(豊)+ト(砥)+ミミ(耳)となっている。
 糸は針に付いている。ハリがツクのは磔である。裁きによって磔刑が命じられた。ハリツケには、ほかに貼り付けがある。壁などに紙を貼り付けたものをいう。裁判所のことは「刑部」と記されている。養老令・職員令に刑部省は置かれている。ウタヘタダスツカサと訓まれ、貞観七年三月七日官符に「訴訟うたへ之司のつかさ」を「定訟之司うたへさだむるつかさ」と改めたとある。紀には「刑官うたへのつかさ」(天武紀朱鳥元年九月)、「判事ことわるつかさ」(斉明紀四年十一月・持統紀三年二月)とあるほか、氏姓として「神刑部かむおさかべ」(垂仁紀三十九年十月)、「刑部おさかべ」(允恭紀二年二月、允恭記)、「刑部靫部おさかべのゆけひ阿利斯登ありしと」(敏達紀十二年是歳)(注16)、「刑部造おさかべのみやつこ刑部連おさかべのむらじ」(天武紀十二年九月)などとある。地名の「忍坂」(神武即位前紀戊午年十月)と関係するらしい記事があり、「於佐箇おさか」(紀9)と言っている。また、万葉集にも刑部氏の歌がいくつか載る。
 壁土がボロボロと落ちて来ないように、押さえの紙を貼り付けたものが貼り付けである。磔は、裁判の判決が申し渡され、体を柱、十字架、板、壁に張り付け、動けなくして殺し、晒し者にした。壁に磔にされた場合、雨曝しになったとしたら、ちょうど受刑者の体の跡だけ壁土が残ったのであろう。貼り付けの役を果たして果てている。
 そして、ミトサギ(アヲサギ)も、頭は糸の付いた針のように見えるし、魚を捕るために彫像のようにじっとして動かずにいて、まるで磔にあっているようである。ハリツケなのだから、壁の紙、刑部ということになり、鷺は磔の刑を下してあの世へ送る役割をしているとも見なされる。仏教でいえば閻魔に当たる存在である。記上に、「鷺を掃持ははきもち、」とある。アメワカヒコの殯の場面に登場している。遺体を棺に入れて行う儀式であり、箱張付に相当するものといえる。死者の魂をあの世へ掃くように送るのは、ヒノクチマモリのミトサギが水門を開けて、あるいは箒を使って水を捌(吐)くようにしたという譬えであろう。灰色がかったアオサギの頭部をみると、黒っぽい耳の毛が二筋に後ろに伸び、頭頂部は白くて禿げているように見える。さらに、水門を調節する弁について、樋の口を塞ぐ形が丸く、窓を塞ぐようなものと同じと捉えれば、それは藁蓋のような円いもの、つまり、的であると思われたことであろう。ここに、トヨミミトとトヨトミミとは、ともにアオサギの肉体的、行動的、象徴的特徴を表していることになる。
 新撰字鏡に、「磔 古文〓〔广垂に乇〕、竹格反、入、張也。開也。死身保度己須ほどこす。」とある。藤澤・伊藤2010.に、「磔には、元来、裂く、割る、張る、開く、解くなどの意義があり、刑屍を裸体のまま城上に磔するいいであったが、日本においては、幡物はたもの機物はたものはたものはつつけはつつけ八付はつつけ張付はりつけと呼び、平安朝末期以降、木、板、柱または杭に結び付ける仕方であった。」(49頁)とある(注17)。日本では、拷問の際に身動きを取れなくするやり方もハリツケと言ったようである。串刺、車裂、牛裂、逆磔、水磔、土八付、板張付、箱張付など、いろいろあった。磔の架のことを「幡物はたもの」(今昔物語・巻二十九の三・十)と呼んでいる。寺院で灌頂幡を吊り下げるのにはT字型の旗竿を使う。そのような形の農具にえぶりがある。
 エ(柄)+フリ(振)の意かという。竿の先に横板をつけてT字形にしたもので、穀物の実を集めたり、水田の土を均すのに用いられた。朳の字は扒、捌に通用する。数字の八は大字に捌と書く。伝記類に十人ではなく八人とあったのは、このようなところに生じた異伝かもしれない。すなわち、磔にすること、また、磔刑を申し渡す判断をすることを、サバクといったのではないか。上代にサバク(裁・捌)という語の用例は確かめられない。やがて、手に取って巧みに扱うこと、ばらばらにほぐすこと、入り組んだ物事を適切に処理すること、理非を裁断し裁判すること、意のままにふるまうこと、料理において動物や魚類を解体することを指す語として用いられた。それぞれをそれぞれとして分けることである。裁判で裁くことを指す語の由来ははっきりと身をもって捌くことをいうのであろうから、十字架に縛するような極刑にこそ当てはまる言葉であろう。
 推古紀に「兼知未然。」とつづいている(注18)。この世界の「未然」のことを「」る予知能力は、きわめて特殊な能力と考えられていただろう。それほどのことを「兼ねて」するとある。紀の通例として、「兼ねて」は、合わせて、統合して、かつまた、兼任して、といった意で使われている。推古紀の文章は、何と何とを兼ねていたのかが問題となる。裁判官は重要な役職であり、間違えることがない名判事は偉い。補闕記には、「太子一一能辨、各得情、無復再訪」、伝略に、「太子一一能辨答、各得其情緒、無復再諮」とある。裁きの結果が、訴え出た申立人それぞれのいずれをも得心させ、異議を挟むことがなかった。とはいえ、一つ一つの主張や一つ一つの判決を「兼ねて」いるとするのは当たらない。この「兼ねて」の用法は、万葉集に見られるような「あらかじめ 兼ねて」の意であり、それを伝えるのに必要な何事かを物語ろうとして「知未然」と言っていると考えられる。
 将来の見通しを含め、兼ね合わせて考え、予測する意味の「兼ねて」の例は万葉集にある。

 …… かけまくも あやにかしこく 言はまくも ゆゆしく有らむと あらかじめ 兼ねて知りせば ……(万948)

 アラカジメはク語法の「有らく」たる未来を含めて予測する語で、「兼ねて」と畳み掛けて使われており、事を予知する意である(注19)。「兼ねて知りせば」(万151・3959・4056)の形で用いられている。将来のことは人にはわからないのがふつうである。それが聖徳太子には知れているから、聖、すなわち、日知りと言われる所以であるという論調になりがちであるが、なぜわざわざ、「兼ねて」の紀の常法と異なる使い方をし、しかもヤマトコトバの口語の通例である「兼ねて知りせば」とも異なる使い方をしているのか(注20)。おそらく、まわりの誰でもがそうなると知っている事柄を、しかし常人ならわかっていても認めたがらない事柄を自覚していた、だから聖であるということなのであろう。すなわち、いずれは頭頂に日が出ることを知り、つるっ禿になることを悟っていたのである。蒼鷺が鶴に進化するであろうと自虐的な冗談まで飛ばすほどの鷹揚さがあったということになる。

聖徳

 「聖徳」という名については、生前からそれほど尊ばれるのは不思議だから、後の人のつけた名であろうとか、聖徳太子は実在しないという説の根拠に挙げられることもある。紀には、「豊耳聡聖徳」(用明紀)のほか、「東宮ひつぎのみこ聖徳」(敏達紀四年五月)とある。家永1942.は、今日最もポピュラーな称呼である「聖徳太子」という成語は、天平勝宝三年(751)に書かれた懐風藻の序文あたりを最古とするのではないかとする。また、天平十年(738)年頃に作られた令義解の公式令所引の古記に、諡の説明として、上宮太子を聖徳王と称する類のことであるとあるから、死後に付けられた名前であるという。東野2011.も踏襲しており、慶雲三年(706)の法起寺露盤銘文に「上宮聖徳皇」とあるから、その時点では聖徳と言っていたと推考している。新川2007.は、聖徳という名に紀自身は解説を施さないものの、ひじりという語が圧倒的に多く出て来るので、太子の死亡記事にある「はるかなる聖のいきほひ」という表現を経由して聖徳と尊称するようになったと考えている。仁藤2018.は、死後の称号として聖徳と用いられ、それは日本書紀成立段階には既成のものであったとしている。
 枚挙にいとまがない説には盲点がある。聖徳はシャウトクと読み慣わされている。紀の写本の「聖徳」部分に声点の付けられたものがあり、シヤウトクとの傍訓のあるものもある。釈日本紀にも「シヤウトク 私記云、音読」とある。声点は、聖の字に平声(伊勢本用明紀、兼右本用明紀)、徳の字に入声(図書寮本用明紀、伊勢本敏達紀・用明紀、兼右本敏達紀・用明紀)と付けられている。中国では、聖の字は、集韻に式正切、去声敬韻、シャウ(聖)は呉音である。漢語の聖徳セイトクという語は、知識・徳行ともに優れ、物事に普く通じた至高の境位を指し、天子の御徳を称しても言った。その意味を伝える諡ならば、四声に混乱があれどもセイトクと読まれて伝えられたはずである。河村秀根・書紀集解は、史記・三王正家の「躬親仁義、體行聖徳。」などを引いている。8世紀の新羅王興光の諡に聖徳王とある。本邦ではセイトクワウと読んだことだろう。欽明紀に、6世紀の百済・聖明王をセイメイワウと読むとおりである。そこで、シャウトクは寺院側から出た尊称ではないかという説が早くから行われている。延暦六年(787)の日本霊異記に、「進止ふるまひ威儀よそほひほふしに似て行ひ、しかのみならず勝鬘・法花等の経の疏をつくり、法を弘め物を利し、考績功勲の階を定めたまふ。故、聖徳と曰す。」(上・四)とある。太子の勝鬘経義疏の歎仏真実功徳章の釈に、仏地の万徳円備を称えて「聖徳無量」とあり、まさにその通りなのではないかというのである。だが、もう一方の徳の字を、紀の記載時点ではたしてトクと読んだか確かではない。徳の字は、集韻に的則切、入声職韻で、写本の声点と合致するものの、紀には徳をイキホヒ・ウツクシビといった訓義のほか、音としてトコと読む例が見られる。

(1)トコ
 (a)一般の倭人名……ひのくまの博徳はかとこ(雄略紀)、[蘇我]善徳ぜんとこ難波徳なにはのとこ摩呂まろ(推古紀)、吉博徳きのはかとこ(斉明・孝徳紀)、書智徳ふみのちとこ竹田たけだの大徳だいとこあかそめの徳足とこたりとこ麻呂まろ(天武紀)、おほともの長徳ながとこみみなしの道徳だうとこ中臣徳なかとみのとこ(孝徳紀)、くるくまの徳万とこまろ(天智紀)、勢徳せのとこ(皇極・孝徳・斉明紀)など
 (b)地名 とこ津宮つのみや(仲哀紀)
(2)トク
 (a)一般の倭人名……むなかたの徳善とくぜん(天武紀)
 (b)僧尼の倭人名……鞍部くらつくりのとくしやく(推古紀)、善徳ぜんとく妙徳めうとく徳斉とくさい(崇峻紀)、とく(孝徳・持統紀)
 (c)朝鮮半島・中国の外国人名……徳王とくわう徳執得とくしふとく劉徳高りうとくかうなど
 (d)百済の官品……とくとく徳率とくそちなど
 (e)倭の官位……大徳だいとく小徳せうとく

 万葉集にも、「おほのとこ太理たり」(万3926)、「ものの部歳徳べのとしとこ」(万4415)、そして、「上宮かみつみやの聖徳しやうとこの皇子みこ」(万415)とある。僧尼に徳をトクの音とするのは、高僧の意に「大徳ほふし」(持統紀元年八月)とすることと通じている。おおむね、一般の倭人名の場合、徳はトコと訓む。以上からわかることは、第一に、「聖徳」とあるといって紀の記載がただちに尊号であるとは決められないこと、第二に、太子が得度したとは知られないから「聖徳」はシャウトと呼ばれていた可能性が高いことである。用明紀の分注に、「更名」と明記されていて諡とは一言もない。播磨風土記・印南郡条でも「聖徳王」はシャウトコノオホギミと訓まれている。
 聖の字は、耳と口と壬から成り、耳と口とがまっすぐに伸びていることを表している。まさに鷺である。ヒジリと訓み、ヒ(日)+シリ(知)の意とされる。未然のことを知ることに違いはないが、日とは太陽である。太陽のような円いものが、シリ、すなわち、尻にあるのは円座、藁蓋である。徳をトコと訓むに当たっては、「とこ津宮つのみや」が紀伊続風土記の「薢津郷」に比定されるところから、ヤマイモのことをいうトコロ(野老、冬芋蕷)に同じ音とされ、ト・コはともに乙類である。ただし、この例は上代に遡るものではない。伊吉博徳の用字に「伊吉博得」(孝徳紀)があり、万葉仮名の「得」はト(乙類)なので、トコのトが乙類であることは確かなようである。
 正倉院文書の大宝・養老戸籍に「徳太理」、「徳売」とあり、また、「等許太利」、「止許売」ともある。正倉院文書には上代特殊仮名遣いに揺らぎが見られ、これらが同一の人名とは言い切れないながらも、ト・コともに乙類であることを示唆している。
 新撰字鏡に、「徳 悳同、都篤(反)、得也。厚也。致也。福也。升也。恵也。」とある。升の意味だけ異質に感じられるが、礼記・曲礼上に、「車にりて旌を結ぶ。(徳車結旌。)」とあり、徳車は乗車のことである。紀で「徳」をノリノワザなどと訓むのは、法・則・憲・規・律などのノリ(ノは乙類)の意ばかりでなく、乗車の乗り(ノは乙類)であることを掛けて洒落ているものであろう。洒落でわかったとき、言葉は腑に落ちて理解される。車は馬車、牛車である。牛車の人の乗るところを車のとこ(ト・コは乙類)という。名義抄に「輫 音裴、トコ、クルマノトコ」とある。つまり、徳は訓仮名としてトコなのである。そして、床とはそもそも座るために一段高くした場所のことである。頓智として考えれば、車の床とは、車輪のような形をした座布団、すなわち、円座・藁蓋のことだとわかる。また、磔の話において壁に紙を貼り付けるのにも糊(ノは乙類)を使う。ノリと訓む同様の意の規の字は、ぶんまわしを表す。コンパスのことで、円を描くのに使われる。壁を穿つ窓や矢を当てる的も、規を使って下描きしてから作ったものだろう。すなわち、生まれながらにしてコンパスで測ったように正円を描いたような、いわゆるザビエル型の禿げ頭であったということを示している。海苔(ノは乙類)を貼り付けてカモフラージュしたか、海苔を食べると発毛にいいということがすでに俗信としてあったかは定かではない。
 聖徳太子はいなかったという現代の噂話は、ショウトタイシはいなかったというには正しく、禿げているショウトタイシは実在したのであった。

法王

 「法王」という名は、一般には仏教から来る語とされている。法は略体で、初文は灋である。説文に、「灋 刑也。平らかなること水の如くして水に从ふ。廌は直ならざる者に触るれば去る所以にして去に从ふ」とあり、「廌 解廌は獣なり。山牛に似て一角なり。古者いにしへうたへさだむるに、不直なる者に触れしむ。象形、豸省に从ふ。凡そ廌の属は皆廌に从ふ」とある。タイは、カイなどとも呼ばれる一種の神獣で、曲直をただちに知って邪人に触れるとされるところから、中国では糾弾を掌る御史のことを豸史といい、法冠を獬豸冠といった。
 倭で御史に当たるのは弾正台である。二十巻本和名抄に、「台 職員令に云はく、弾正台〈和名は太々須豆加佐ただすつかさ〉といふ。」とあり、養老令・職員令に、尹、弼、大忠、少忠、大疏、少疏、巡察弾正の役職が定められている。ただすのかみの職掌は、「風俗を粛清し、内外の非違を弾奏することを掌る。」とある。「風俗」について、古記は、「但し此の条の風俗の字の訓は、法なり、式なり、国家の法式を立て糺正すのみ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949629/90)とあり、官人の綱紀粛正をいうとする。憲法十七条が官人の心構えを説いていたのと同じことに当たる。また、弼・大忠・少忠・巡察弾正に、「内外を巡察し、非違を糺弾することを掌る。」とある。巡察するのが仕事である。聖徳太子の母、穴穂部間人皇后は巡察中に産気づいていた。生まれた聖徳太子は、生まれながらにして弾正台の性格を有するにふさわしいことになる(注21)
 太子は弾正台のような検察官の性格を担うことになっていた。だから法王と呼ばれた。用明紀に「豊聡耳法大王」、「法主王」とあり、ノリノオホキミ、ノリノウシノオホキミと訓まれている。後者の「主」は、ヌシ、ウシと訓み、ウシは大人とも書く。領有、支配することを「うしはく」といい、ハクは佩くの意とされる。土地などをあるじとして持っている。領く人がウシである。大系本日本書紀は、「[上宮聖徳法王]帝説にも見える。法主は仏典によれば仏陀・説法者などを意味するから、太子にふさわしい名号として唱え出されたか。」(55頁)と推測し、新編全集本日本書紀ではさらにすすんで、「「法王」は仏法の主。「主」はウシ(大人)ではなく、ヌシであろう。」(500頁)とし、ノリヌシノオホキミとルビを振っている。しかし、ここはウシと訓むのが正しい。太子は在家信者で出家していたわけではない。真面目な意味では、釈尊に比せられるほどではないものの、洒落の意味では、僧侶のように髪の毛がなかったことを指している。
 支配することは「す」ともいう。食す人が「をさ」である。食べ物を食べる意味から領地を支配することへと語義が展開している。収穫した穀物を税としておさめさせて統治するから「をさむ」と言った。収税にまわる在地の行政官は「里長さとをさ」である。中央からは巡察弾正よろしく農村を検分して回る官僚もいた。彼らは国のあるじに当たる。庶民との違いは服装に一目瞭然である。地べたに座らせた百姓たちを前にして、折り畳み椅子の床几に腰掛け、股を開いて威を張って訓辞を垂れたかもしれない。貫頭衣姿の庶民とは異なり、官僚はツーピースのスーツを着ている。第一の特徴は、ズボンに当たる袴を履いている点である。うしはく人たる大人うしくのである。また、牛が草を食すときには、何度も反芻しながら臼のような歯で細かくしている。胃から戻ってきてはいるようだが、牛がくのは地球温暖化に負荷の大きいげっぷだけである。古語で「おくび(ビの甲乙不明)」という。着物の部分をいう袵(衽)も、オクミ、オクビという。
 その袵のついた袍という上着を羽織っているのが第二の特徴である。官吏の勤務服として、文官は脇を縫った縫腋袍ほうえきのほう、武官は脇をあけた闕腋袍けつてきのほうを着た。これがやがて束帯へと変容する。作りとしては、襖、狩衣、水干も同様である。他の和服との違いは襟が立っていることである。袍は、盤領まるえりにして刳形くりかたに沿ってハイカラ(5~6㎝)な襟をめぐらせている。その様子は天寿国繍帳にも見える。和名抄に「袵 四声字苑に云はく、袵〈如甚反、於保久比おほくび〉は衣の前襟なりといふ。」、新撰字鏡に「衽 人任反、去、又千王反。衿也、袪、裳際也、衣前蔽也、宇波加比うはかひ。」とある。衣服の部分を指すオホクビには、➀袍、狩衣などの首の周りをぐるりと囲むように作った前襟、盤領の前襟の称、のぼりともいう、➁方領かくえりの制の直垂、大紋などの襟の称、➂おくみのこと、の三つの意がある。現在のエリ(襟・衿)という語は中世末に見られるようになったもので、古くは、新撰字鏡に「裓 古北反、入。衿也。戒也。古来反、衣襟。己呂毛乃久比ころものくび。」、和名抄に「〓〔衤偏に令〕 釈名に云はく、〓〔衤偏に令〕〈音は領、古呂毛乃久比ころものくび〉は頸なり、頸をく所以なり、襟〈音は金〉は禁なり、前に交へて風の寒きをふせく所以なりといふ。」、天武紀元年六月条に「其のきぬのくびを取りて[馬より]引き堕して」とあるように、クビと呼んでいた。エリとクビが共用されたのち、オホクビから転化したオクミとエリとは、意味範囲を分けるようになったとされている(注22)
 和服にいうおくみは、前身頃に付け足して左右が重なるように身幅を増やしたところを指す。オホクビが訛ってオクビ、オクミとなったのには、当初、袍のように立てた襟を大きく重なるように廻らせていたことに由来するのであろう。新撰字鏡には、また、「〓〔衤偏に令〕 呂窮反、去。領衣上縁也、〓〔君冠に巾〕也、己呂毛乃久比乃毛止保之ころものくびのもとほし。」とあり、モトホスとは廻繞する意である。袍は、上領あげくびから褄となる襴に至るまでダブルに重ねており、その長方形の部分全体をオホクビ(オクミ)と言ったのであろう。盤領の盤の字も、盤曲、盤渦など、蟠る意である。新撰字鏡に「盤 莫香反、又猛音。佐良さら、又久比加志くびかし。」とあり、首に廻らせて自由を奪う首枷のことをも指している。廻らせているから、衽(〓〔衤偏に令〕)は衣の前を蔽ったり、風の寒いのを禁禦したりすると説明されているのである。ウハガヒに同じである。上交うはがひはやがて上前のこと、すなわち、衣服を前で合わせるときに上(外側)になる方の部分を指すことになる。服制としては、養老三年(719)に、「初めて天下の百姓をして、襟を右にして、職事の主典已上に笏を把らしむ。」(続紀)とあり、左前から右前に変更している。うしはく人のえりは、牛の吐くのと同じオクビであるという洒落になっている。
 ノリノウシと訓んで牛を強調していたのには、廌の姿が牛に似ているとされることにもよる。廌という神獣の訓は知られないが、名義抄に「廌 ススム、タツ、ノボル」とある。草冠のついた薦の字と通用している。薦はまた、和名抄に「薦 唐韻に云はく、薦〈作甸反、古毛こも〉はむしろなりといふ。」とある。敷物のむしろのことをコモといい、丸く蟠らせて構成したものは円座・藁蓋であった。また、その材料となる植物もコモと呼んだが、それは今のマコモである。説文に、「薦 獣の食せる艸、廌に从ひ艸に从ふ。古者は神人、廌を以て黄帝に遺す。帝曰く、何を食し何に処すかと。曰く、薦を食し、夏は水沢に処し、冬は松柏に処すと。」とあり、植物の薦を食べて生きていたことになっている。そして、牛同様、角が生えている。牛の角は二つあるが、廌は「似山牛一角」(説文)と記されている。当時の成年男性のふつうの髪型は総角あげまきで、角が二つあるように作っていた。しかし、太子は束髪於額ひさごはなで、角が一つのようにしていた。ウシはウシでも太子は廌、獬豸に当たる。

左:牛と獬豸(中村惕斎・訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11446248/4をトリミング合成)、右:頭の角(総角?(善財童子像、康円作、鎌倉時代、文永10年(1273)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0010128)と束髪於額?(広隆寺弥勒菩薩像、Internet Archive “Japanese Temples and their Treasures, Vol. 2” 14p., https://archive.org/details/JapaneseTempleTreasuresVol2/page/n13/mode/2up(14/157))

 マコモは、水辺に群生する大型のイネ科の多年草で、太く横にはった地下茎があって葉と茎を叢生する。茎は太い円柱状で中空、高さは1~3mに達する。秋につける果実(菰米)は、東アジアでは中国でわずかに救荒作物として食べられた。食用としたのはむしろ茎の部分である。茎の先に黒穂病菌のウスティラゴ・エスキュレンタ・ヘニングスが感染し、茎が肥大化して白っぽくて柔らかい、小さな筍のような状態になって食用となっている(注23)。今日、マコモタケ、コモノコ、コモノネ、カンヅルなどと呼ばれ、漢名を茭白筍こうはくじゆんという。古語に菰角こもづのといい、和名抄に「菰〈菰首附〉 本草に云はく、菰は一名に蒋といふ〈上の音は孤、下の音は将、古毛こも〉。弁色立成に茭草〈一に菰蒋草と云ふ、上の音は穀肴反〉と云ふ。七巻食経に云はく、菰首、味は甘、冷といふ。〈古毛不豆呂こもぶつろ、一名に古毛都乃こもづの〉」とある。神獣の廌が食べた薦も、このマコモタケのことと推量されていたことだろう。マコモタケはそのままにしておくと、植物体内に黒い胞子が満ちてきて食べられなくなるが、その胞子は集められて塗料に用いられた。黒色の真菰墨と呼ばれるもので、お歯黒や眉墨、絵具、彫刻した漆器の塗料に使われる。直径が6~9μと粒ぞろいのため美しく表現できるという。すなわち、廌の一角は菰角であるという洒落である。禿顱部分に黒いチックを塗って目立たなくさせるという意味である。それは、ちょうど、崇峻前紀において、束髪於額ひさごはな姿の太子が、物部守屋討伐の戦場で、ヌルデのフシをもって毘沙門天像を彫塑し、戦勝祈願した時と同じ表現である。ヌルデのフシからも、お歯黒に用いられる黒い染料がとられる。
 以上から、法大王・法主王という名は、髪が薄いために一つの角の姿の束髪於額ひさごはなにした、道徳を説いて巡察してまわる太子の特徴をよく表した渾名であったといえる。

上宮

 「上宮かみつみや」の名は、父親の用明天皇が、「父天皇愛之、令宮南上殿。」(推古紀元年四月)ことによるとされている。「是皇子初居上宮、後移斑鳩。」(用明紀元年正月)ともある。メグムという語は、端から見るに忍びない意からいとしくて心にかけることをいう。子ども時分から禿げていては、からかわれ、いじめられていたのだろう。そこで宮殿内の離れに住まわせた。少女の、美しく黒い髪の毛が、ゆたかになっていくときの髪型は「はなり」である。場所は宮の南である。ミナミ(ミはともに甲類)は「みなわた(ミは甲類)」のミナと同じ音である。「か黒き髪」に掛かる枕詞である。ヤドカリのことをいうカミナ(蟹蜷)=カミ(髪)+ナ(無)と対照して表現されている(注24)
 宮殿の設計では本殿の南側には大庭を設ける。「南庭おほば」(推古紀二十年是歳)とある。そこに、わざわざ離れを築いている。宮殿の南に面する大きな庭は、朝廷と言われるようにまつりごとを行う儀式の場である。ふだんから広い空間を確保しておかなければ朝賀は行えず、三韓の使節も招き入れることができない。特別に建物を造るのは大嘗祭のときの大嘗宮である。大嘗宮は朝堂院の南庭に造営され、行事が終われば取り壊された。これは民俗行事の新嘗屋と同じく仮小屋である。「上宮」もまた、飛鳥時代の人にとっては仮小屋であると思念されただろう。「上」なる敬称を付けて「上宮」とするも、「かみ(ミは甲類)」は「髪」と同音である。髪の毛は人体のかみに生えるからそう呼ばれたといわれる。万葉集の傍訓にはウヘツミヤとあるが、紀では図書寮本永治点にカムツミヤとある。そして、仮小屋で生活をする生き物といえば、宿を借りているという名のヤドカリ、カミナである。髪が無いから「上宮」に住まわせて然りなのである。
 上宮の場所を、用明天皇の都した池辺双槻宮いけのへのなみつきのみやか、後に聖徳太子が移った斑鳩の地に求めればいいか、考古学の発掘調査も含め議論されている。しかし、「上宮」は、「上宮かみつみやの大娘姫いらつめのみこ」(皇極紀元年是歳)、「上宮かみつみやの王等みこたち」(皇極紀二年十月)とあるように、場所の名ではなく一族の名へと移って行っている。ただし、それはむしろ、地名や族名といったものがもとからあるのではなく、名が名としてあったものを、土地や一族に名として当てたと考えたほうが適当である(注25)。いわゆる上宮家に与えられたとされる名代、乳部みぶ壬生部みぶべとの関連から、さらに確認されることである(注26)
 広く知られるように、髪の毛の薄さはAGA(Androgenetic Alopecia)、男性ホルモン型脱毛症によることが多い。男性ホルモン受容体の感受性の強い遺伝子を引き継ぐことで遺伝的に発現していく。聖徳太子の息子の山背大兄王もその一人であったらしい。蘇我入鹿によって滅ぼされたことを記す皇極紀に童謡わざうたが載り、後文にその解釈が添えられている。山背大兄王は「山羊かましし小父をぢ」(紀107)と歌われ、「山背王の頭髪みかみ斑雑毛ふふきにして山羊かまししに似たるに喩ふ。」(皇極紀二年十一月)と解説されている。「上宮王等」は、髪の毛に特徴が出る家系の人たちを表す隠喩であると捉えることができる。カマシシは列島固有のニホンカモシカのことである。和名抄に、「〓〔鹿冠に霝〕羊 爾雅注に云はく、〓〔鹿冠に霝〕羊〈力丁反、字は亦〓〔羊偏に靈〕に作る、和名は加万之師かましし〉は羊よりとほしろく、大き角なりといふ。内蔵式に云はく、〓〔鹿冠に霝〕羊角は零羊といふ。」とある。カモ(氈)+シシ(鹿)のことといい、和名抄に「氈 野王曰はく、氈〈諸延反、賀毛かも〉は毛の席なり、毛をひねりて席に為るなりといふ。」とあって、毛皮を敷物に用いたところからの命名とされている。ニホンカモシカは山奥に生息するものの、クマと違って人を襲うことも少なく、人が呼ぶと近づいてきてしまうため容易に捕えることができたという。皇極二年十一月、入鹿の急襲を逃れていったんこま(生駒)山に隠れた後、斑鳩寺に自ら帰ってきて潰え果てた様子が描かれている。ニホンカモシカの生態に似たところがあると思われている。
 坂本1989.は、紀にカマシシに山羊という漢字をあてた理由として、山に棲む羊というくらいの意味でカマシシに山羊の字をあてたのであろうとする。しかし、本草和名はカマシシノツノを零羊角と記している。日本書紀編者が大陸のヤギと混同を起こしたとは言い切れない。時代は下るが、運歩色葉集に「毯 ムクケ」とある。ヤギの最大の特徴はその尨毛状態にあると捉えられていたようである。ニホンカモシカの場合は夏毛と冬毛の違いがあり、雪が積もっている冬場、ゆたかな冬毛の毛皮を求めて狩猟の対象となっていた。事件は十一月に起こっている。絶好の冬毛の頃であったことが、そう当てさせた遠因ということになる。
 尾形2001.は、古代中国の獣毛を素材とした染織品はヤギ以外の例を聞かず、正倉院の花氈と色氈の電子顕微鏡による繊維観察でもすべてヤギの毛であることが判明しているとする。ただ、中国では、絨毯などの毛織物が多く残っているにもかかわらず、本邦にはフェルトばかりが残っている。西域、中国、日本の、時代的、気候的、文化的な違いが遺物に表れているのではないかとされるが、確かなところは未解明である。言えることは、我が国ではヤギの毛を使ったフェルトの毛氈を、尻の下に敷くむしろとすることが慣行とされていたらしいということである。聖徳太子のキーワード、円座・藁蓋も敷物であった。太子は、頭にあるべきくるくる巻いているつむじがなくて、尻の下に敷くくるくる巻いた円座・藁蓋をトレードマークにあてられ綽名されていた。同様に、山背大兄王は、巻いて持ち運んだニホンカモシカの毛皮を、やにわに広げて尻の下に敷いていた。それを伝えるための用字として「山羊」が選ばれたのであろう。紀の編者の苦心惨憺ぶりが垣間見られて興味深い。
 また、カマシシという語については、新撰字鏡に「狭 侯夾反。隘也、加万志ヽかましし、古作陿。」とある。そして、カマカマシという言葉を載せる。「佷 又作很、胡墾反。戻也。違也。不測也。顔也。恨也。暴也。世女久せめく、又伊加留いかる、又加太久奈かたくな、又加万ヽヽ志かまかまし。」、「譶 直治反、徒合・徒立二反。利色也。又言音不訥也。疾言利也。加万ヽヽ志かまかまし。」、「猋 不遥反、平。群犬走㒵。加万ヽヽ志かまかまし。」とある。うるさくせっつくことを表している。「法王」の件に見た弾正台のように、道徳をうるさく、やかましく言うことと符合する言葉である。あるいは、番犬のけたたましく吠えることをカマフという。新撰字鏡に、「〓〔犭偏に參の彡部分が氺〕 山監反、上。〓〔犭偏に監〕〓〔犭偏に參の彡部分が氺〕也。一犬聲、犬加万不かまふ也、云々。」とある。「豊耳聡・豊聡耳」の件で見たミトサギが樋の口を守る様子が主守之官、すなわち、倉庫番のようで、動かずにいながら騒ぎ立てることと一致する言葉である。山背大兄王をカマシシと渾名することは、聖徳太子をミトサギや廌と渾名することと連動しているのである。
 聖徳太子が兼ね持つさまざまな名前は、禿頭という身体的特徴から捻られアレンジされた綽名である。用明紀や推古紀に書いてある呼称は諱ではなく、生前から当人に対して、また、周囲の人の間でそう呼ばれていたものである。上代語は現代のわれわれにとってよくわからない言語である。と同時に当時の人にとっても、無文字文化のもと、生活圏を異にしながら共通の言語を話すことにあっては、平板に理解できるものではなかったと推測される。ウィトゲンシュタイン2013.に、「人間に共通の行動の仕方が座標系(参照システム)である。それを手がかりにして私たちは未知の言語を解釈する。」(157頁)とある。当時の人が手掛かりにした参照システムは、ヤマトコトバの間に張りめぐらされた言葉のネットワークであり、それをもって確かなものとして築き上げられ、確かなものと感じられ、確かなものとして使用されていた。言葉が言葉を自己定義するかのように循環論法的な説明をくり返して、頓智、洒落、なぞなぞの如く思われるのは、無文字社会における参照システム構築の都合上、必然の成行きであった。太子のそれぞれの「更名」も、座標系を適切にとれば一つの関数上に定位しているとわかる。太子がさまざまな名前を持つからくりからについて考える際にも、記紀万葉研究の主眼としては、上代語であるヤマトコトバの座標系を正確に捉えることに据えられなければならない。そしてまた、ほとんどそれに尽きるとさえ言える。人は言葉で考える。言葉がわかることはすなわち、当時の人のことがわかるということである。

(注)
(注1)諸解説による。なお、「厩」という字には各種の異体字があり、本文、解説書に各様に用いられているが、本稿では「厩」字にて統一した。引用文中も「厩」字に変えた。
(注2)「更名」の意味合いを、本名と別称のことと捉えてよいものか実は定かでない。現代のように戸籍名があったとしても、源氏名ばかりで生活して他の誰も本名を知らないこともある。また、無戸籍の人の存在も知られていて、本名を自身でさえ知らない人もいる。固有名詞は一般名詞と違い、個別性を有しており、指示代名詞に近い使われ方をする。違いは、指示する対象が不在の時も、指示することが可能である点で、その名を与えられているものが固有名詞である。すなわち、呼ばれるものが名前である。「更名」として愛称を持っていることがあっても不思議ではない。成年式を経て幼名から変わった、得度して法名になった、死後、戒名が授けられたといった時間的な経過によって複数となることはある。また、同時期にもたくさんの役割をはたしていて呼び名がいくつもあることも、職場では部長、家庭ではお父さん、近所ではおじさん、と呼ばれることもある。ただし、その場合は役割の名、演者の名に従っているにすぎず、代役にとって代わられれば固有名詞とはならない。すると、一人の人を指示するためにある名前が異例ともいえるほどたくさんあって、一見とても一つの範疇におさまりきらないような複数名を同時期に有しているという記述を目にしたら、言葉として検討の価値があると勘づかなければならない。
 今日までの聖徳太子研究に、このように真正面から対そうとする姿勢はない。小倉1972.は、「……実に多くの単独称呼があるばかりでなく、それらを組み合せた「厩戸豊聡耳皇子」とか「上宮聖徳法王」とか、種々様々の複合称呼が数々用いられています。この事自体が超人的聖者として伝説化さて[ママ]いる証拠というべきでありましょう。」(22頁)と決めてかかっている。日本書紀に書いてあることをそのままそのとおりに読むこと、そこに辻褄を見出すことが肝要であると考える。
(注3)近現代のものの考え方を当てはめても何もわからない。津田1963.119~120頁、新川2007.24頁参照。
(注4)拙稿「聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について」参照。従来の「厩戸」の由来説に、キリスト教、地名、午年、養育氏族を根拠とするものなどが見られるが、それらでは何のために具体的な出生譚が記されているのか説明がつかない。譚は必ず他に還元できない個別具体性を伴う。
(注5)拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」参照。なお、名義抄の「扆 俗に〓〔尸垂に衣〕に通ず、マト」などから、戸につけられた小窓のことをいうかと考えられるが、厩に戸があって小窓が丸く付いていたという考古資料が確認されているわけではない。
(注6)ハナリである「放髪をした女性は、性愛関係を持つ。」(服藤2005.556頁)とされる。ただし、古代女性の髪型の呼称は訓みが定まらず、時代的にも移ろいがあるらしく未解明な点が多い。
(注7)大阪府八尾市太子堂の大聖勝軍寺、兵庫県揖保郡太子町鵤の斑鳩寺には「植髪太子」像が祀られている。
(注8)「頭隠して尻隠さず」という諺は「雉子の草隠れ」と出自が同じであるとされている。真偽のほどはわからないが、雉のオスには肉冠、いわゆる鶏冠がある。つまり、その部分、頭髪がない。それが本稿といかなるかかわりがあるか、何とも言えない。
(注9)角川古語大辞典23頁参照。
(注10)大系本日本書紀53頁、新編全集本日本書紀500頁など。
(注11)石井2016.51頁参照。
(注12)狩谷棭齋の箋注倭名類聚抄に源君の誤りとの記述がある。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991786/44参照。
(注13)「天尾羽張神あめのをはばりのかみは、さかしまに天の安の河の水を塞き上げ」(記上)ていた道具は、円座・藁蓋であろう。拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」参照。
(注14)これと「蔵人の五位」との関係については識者の言を俟ちたい。
(注15)蘇我馬子の発言、原文は「凡諸天王・大神王等、助-衛於我使利益、願当為諸天与大神王、起-立寺塔-通三宝。」である。兼右本に、「使タマハ使利益カツコト」と傍訓があり、それに従って訓まれている。ただ、下二段活用の動詞ウ(獲・得)は、補助動詞として~できる、の意で上代から用いられている。「もののふの 八十やそ氏川うぢがはの 早き瀬に 立ちぬ恋も われはするかも」(万2714)、「しましくも 一人在りる ものにあれや 島のむろの木 離れてあるらむ」(万3601)などとある。仏典語による表記「利益」を勝つの意に用いているのであり、「使利益」をカチ○○エシメ(タマハ)バと訓むことに実は疑問がない。歌に補助動詞の用例が見られるのだから、会話文中に漢文訓読調のカツコトヲエサシメ……と冗漫に訓むほうが違和感がある。
(注16)大系本、新編全集本とも敏達紀に「刑部をさかべ」と振られている。疑問である。
(注17)文献等により確認されているのが平安朝末期以降ということであり、時代を遡る可能性を否定するものではない。
(注18)未来を予知することができた人としては、紀にやまと迹迹日ととびもも姫命ひめのみことがいる。

 是に、天皇のみをば倭迹迹日百襲姫命、聡明さと叡智さかしくして、能く未然ゆくさきのことりたまへり。(崇神紀十年九月)

 倭迹迹日百襲姫命は箸墓古墳に葬られ、魏志倭人伝の卑弥呼ではないかと推測される人物である。この箇所は、少女の歌う歌の「しるまし」を彼女が読み取り、謀反の企てを未然にキャッチして天皇に教え、鎮圧に導いたときの解説である。
(注19)白川1995.239頁参照。この部分の「兼」について、「かねて(あらかじめ)」の意で用いるのは倭習であるとの指摘が、森2011.179~180頁にある。それはそのとおりなのであるが、日本書紀の倭習部分は後人の加筆であるとしている理由は不明である。万葉集に使われている使い方で「あらかじめかねて」の意で書いてあるのは、単純に、日本書紀がヤマトコトバを表記したものであることの証左とすべきなのではないか。シャープペンシルやサラリーマンが和製英語、つまりは日本語であるのと同じく、ヤマトコトバを漢字で書いたらそうなったということであろう。日本書紀の区分中、歌謡の音が漢音に忠実に再現できるα群であっても、それはβ群と同じくヤマトコトバの歌謡である。外国人(中国人)にヤマトコトバを伝えようとして、上代語のなかでも使い方を伝えにくい言葉をわざわざとりあげて後人が書き添えて何になるのだろうか。
(注20)筆者は、上代語の、日本書紀や万葉集のなかでの言い方を問題にしている。漢籍、仏典の「兼」字の用法との比較検討をしたいわけではない。事が起こる以前から予測していた、という意味合いを、古語にカネテユクサキノコトヲシロシメスと言うことにしていて、それを文字に起こした時に「兼知未然」と書いている。アンチョコ例文集を参考にしながら工夫して書いている。本邦にしか見られない漢字を国字というが、それを間違いであるとするのは相当にサカシラ(賢)であると笑われたであろう。新しい漢字を作って楽しむことは健全な言語活動である。
(注21)天武紀十一年十一月条の詔に、「親王みこたち諸王おほきみたち及び諸臣まへつきみたち庶民おほみたからに至るまで、ことごとくに聴くべし。凡そのりを犯す者を糺弾たださむには、或いは禁省之中おほうちにも、或いは朝廷之中まつりごとどころにも、其の過失あやまちおこらむ処に、即ち見聞かむまにまに、匿弊かくすこと無くして糺弾ただせ。其の犯すこと重き者有らば、まをすべきは請し、捕ふべきはかすゐよ。」とあり、背後に弾正台のような組織のあったことをにおわせるという。
(注22)原色染織大辞典に「「おきみ(置身)」からとの説もある。」(172頁)とある。
(注23)中村2000.参照。
(注24)拙稿「十月(かむなづき)について」参照。
(注25)仁藤2018.は、「「上宮」号は、宮殿名称から派生し地名化するとともに、上宮王が移住した「斑鳩宮」およびその経済的権益や政治的地位を象徴するものとして一族に対しても二次的に用いられたと考える。」(472頁)と解釈している。
(注26)拙稿「壬生部について」参照。

(引用・参考文献)
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吉田2011. 吉田一彦「聖徳太子信仰の基調」同編『変貌する聖徳太子』平凡社、2011年。

加藤良平 2021.2.1改稿初出

聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について


厩戸皇子の出生譚

 「厩戸皇子」という名は、いろいろな名前を持つ聖徳太子が生まれたときの逸話として語られている。

 夏四月の庚午の朔にして己卯に、うまや戸豊聡耳とのとよとみみの皇子みこを立てて皇太子ひつぎのみことす。りて録摂政まつりごとをふさねつかさどらしむ。万機よろづのまつりごとを以てことごとくゆだぬ。たちばなの豊日とよひの天皇すめらみこと[用明天皇]の第二子ふたはしらにあたりたまふみこなり。いろは皇后きさきあな部間べのはしひとの皇女ひめみこまをす。皇后、懐姙開胎みこあれまさむとする日に、禁中みやのうち巡行おはしまして、諸司つかさつかさ監察たまふ。馬官うまのつかさに至りたまひて、すなはうまやに当りて、なやみたまはずしてたちまちれませり。れましながらものいふ。ひじりさとり有り。をとこさかりおよびて、ひとたびたりうたへを聞きたまひて、あやまちたまはずしてわきまへたまふ。ねて未然ゆくさきのことを知ろしめす。また内教ほとけのみのり高麗こまほふし慧慈ゑじに習ひ、外典とつふみはかかくに学びたまふ。ならびに悉にさとりたまふ。かぞの天皇、めぐみたまひて、おほみやの南の上殿かみつみやはべらしめたまふ。かれ、其の名をたたへて、上宮厩かみつみやのうまやとの豊聡耳とよとみみの太子ひつぎのみこまをす。(推古紀元年四月)

 話の内容は、皇后の穴穂部間人皇女が懐姙し、出産した日にどうしていたかというと、役所を巡って仕事ぶりを監察して回っていた。馬官のところへ来たとき、すぐに厩の戸に当たって難なく出産した。生れるや否やよく言葉を喋り、聖の知恵がある人であった、というものである。そこから、厩戸皇子という名前が導き出されたという口ぶりである。
 「厩戸」という名について、キリスト降誕説話の伝承が伝来したとする説(久米1988.)、うまや戸部とべ出身の乳母が養育に当たったとする説(井上1996.)、生年の干支の午年生まれに基づく可能性が高いとする説(大山1996.)、地名または氏族名によるとする説(大系本日本書紀(四))、大和国高市郡の厩坂宮(舒明紀十二年四月条)に由来するとする説(古市2012.)、養育した額田部(湯坐)が深くかかわった馬匹に由来するとする説(渡里2013.)、捜神記など中国の志怪小説の影響とする説(前之園2016.)、仏伝によって潤色されているとする説(石井2016.)などが唱えられている(注1)

厩のさまざま

左から、a.厩(馬医草紙、紙本着色、鎌倉時代、文永4年(1267)、東博展示品)、b.彦根城馬屋、c.堅田図(伝土佐光茂筆、室町時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0018303をトリミング)、d.上賀茂神社神馬舎、e.南部曲屋の厩(川崎市立日本民家園、旧工藤家住宅)、f.越前の庄屋の厩(福井市おさごえ民間園、旧城地家住宅)

 厩は、馬を飼っておく独立した建物や、人と一つ屋根の下で馬を飼う部屋のことである。a図では乗馬用の馬を飼っておくために板敷のしつらえとなっている。梁から吊るされた腹綱で引き揚げ、大事な脚を休ませる工夫もしていた。b図でも飼われていたのは駿馬で、駿馬は公家や武家の邸宅、神社、寺社に在籍していた。c図は、あるいは来客者が乗ってきた馬を停めるための厩かもしれない。d図は馬を観覧するために設けられている。e・f図では耕作・運搬用の馬が飼われていた。土間になっていて馬は手綱から解放されている。曲家のように人の家と合体している馬小屋もあれば、独立して馬が外を眺められる馬小屋もある。他に、街道筋の旅籠に置かれた駅家うまやや、競馬をする際に一時的につなぐために設営された厩もあった。それらすべてをウマヤと言っている。
 今日でいえば、乗用車と、耕運機兼軽トラックの格納場所を、「厩」と一括りにして言葉としている。ガレージであって、同じく馬を飼う屋だからウマヤなのである。和名抄に、「厩 四声字苑に云はく、厩〈音は救、上声の重、无万夜むまや〉は牛馬の舎なりといふ。」、「駅 唐令に云はく、諸道に須く駅を置くべきは三十里毎に一駅〈音は繹、無末夜むまや〉置け、若し地勢さがしくへだたり、及び水・草無き処はたよりに随ひ之れを置けといふ。」とある。雰囲気がまるで別物であるものが同じくウマヤと呼ばれている(注2)。厩とは何かについて、分野が跨るためかじっくりとは研究されていない。多くは、馬を飼うための専用の小屋ということで納得されている。万葉集の厩の例をあげる。

 赤駒あかごまを うまやに立て 黒駒くろこまを 厩に立てて そを飼ひ が行くがごと 思ひづま 心に乗りて 高山の みねのたをりに 射目いめ立てて 鹿猪しし待つが如 とこ敷きて が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
 もも小竹しのの ののおほきみ 西の厩 立てて飼ふ駒 ひむがしの厩 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふがに 水こそば 汲みて飼ふがに 何しかも あしの馬の いばえ立ちつる(万3327)
 鈴がの 早馬はゆま駅家うまやの 堤井つつみゐの 水をたまへな いもただよ(万3439)
 今日けふもかも 都なりせば 見まくり 西の御厩みまやの に立てらまし(万3776)
 厩なる なは断つ駒の おくるがへ いもが言ひしを 置きて悲しも(万4429)

 万3278番歌の「床敷きて〔床敷而〕」については、「とこしくに」と訓んで永遠の意であるともされている。筆者は、板敷の厩の連想からこの句は成っていると考える。万3776番歌で、遠い都の彼女を思うのに、どうして厩の外に立っていたかについては、逢引していた場所が厩の外だったからではなく、馬が超特急で今日中に都へと連れて行ってくれる乗物だったからであろう。作者の中臣なかとみの宅守やかもりは越前配流下にあり、国府の東の厩よりも西の厩の方が都に近いためと考えられる。馬に乗るには、まず、馬を厩から引き出して、厩の外で馬の右側から乗ったようである。万4429番歌について、防人に出掛けてしまう夫に対して、縄をはずされた馬はじっとしてはいませんよと言った、という解釈は通じない。防人に該当する人が暮らす場にいる馬は農耕馬である。農耕に使う馬は厩では縄を外して寛がせるものである。厩に閉じ込められたまま、つまりは家に残されたままにされることへの不満を訴えたもので、縄を着けて連れて行って頂戴よ、と言われたものと捉えた方が切なさが身に染みる。ともあれ、万葉集の歌から厩の種類について推量することはできない。
 乗馬用であれ、農耕馬、運搬馬用であれ、厩の形状に共通点は多い。第一に、前面に戸がない。板敷上の駿馬は手綱が橡金に繋がれているから逃げ出すことはない。土間に藁の敷かれたところにいるお馬さんは、横木が渡されていて柵となっていて出て行くことはない。厩の造りにおいて、馬の前方に当たる方に厳重な戸を設けることがあったかなかったか、また、その歴史的な変遷を知ることはできないが、競馬のレース直前に、ゲートのなかで暴れ出してゲート入りを全頭やり直すことがある。ストレスがかかるのである。運搬する場合にも、トラックでは十分な注意が払われている。馬は閉所を嫌う動物であるらしい。そもそも厩は馬を休ませるところだから、健康的に休める環境を整えることが肝要である。暑いのが苦手で、また、湿度が高いのを嫌うようである。体温は38℃ほどで触るとあたたかい。発汗性動物で、汗をかいて体熱を放散させている。特に夏場は風通しを良くしてあげる必要がある。極寒時期でなければわざわざ厩に戸をたてるには及ばないのは、犬小屋に戸がないのと似ている。オオカミ対策は別にして、牧で高い塀を築かずとも逃げて行くことはない。厩は牢獄ではないのであって、厩に戸というのは矛盾した形容の言葉である(注3)
 この自己矛盾、自己撞着の語が人の名として刻まれていることは、ヤマトコトバの言語論理によく合致している。語用論的パラドックスによる、なぞなぞ、頓智の世界である。e・f図の厩の例では横木が渡されている。今ではすっかり民俗語彙になってしまったが、マセ、マセボウ、マセンボウ、マセカキと呼ばれている。

厩の造り

 仮にa・b図のような立派な厩に戸をつけるとしよう。扉は、建築構造上、木の形状のままに円柱形をしている柱に直接取り付けるものではない。円柱に角材を取り付け、そこへ扉を納めるようにする。その小柱を方立ほうだてという。建築用語らしく重箱読みである。上代にはほこだち(矛立・桙立)と言った。和名抄に、「棖 爾雅注に云はく、棖〈音は唐、和名は保古多知ほこたち、弁色立成に戸の類を云ふ〉は門の両旁の木なりといふ。」とある。ホコダチの語源は知られない(注4)が、威儀を示すことと関係があるのではないかとの説がある。すなわち、矛(方立部分)と盾(扉部分)とを設けることを表すのではないかというのである。話に矛盾があることを臭わせている。
 開き戸を閉めた時にぶらぶらしないように、扉の上下の部分に当たりをつけている(注5)。家屋の内外を隔てるところは下部は土台部分、敷居となっており、踏んではいけないと躾けられる。古語にしきみである。和名抄に、「閾 爾雅注に云はく、閾〈音は域〉は門限なりといふ。兼名苑に云はく、閾は一名閫〈苦本反、之岐美しきみ、俗に度之岐美とじきみと云ふ〉といふ。」とある。一方、上部は、建てあげてから後、戸の大きさとの兼ね合いを考えながら設置される。まぐさである。楣は新撰字鏡に「門眉 万久佐まぐさ」、和名抄に「楣 爾雅に曰はく、楣〈音は眉、万久佐まぐさ〉は門戸の上の横梁なりといふ。」とある。まぐさ(馬草)との洒落が成り立ち、厩に「戸」を仮定すると、それはマグサに違いないとおもしろがられよう。和名抄に、「秣 漢書注に云はく、秣〈音は末、万久佐まぐさ〉は粟米を以て飼ふを謂ふなりといふ。」とある。この秣という語は、古く清音でマクサと言っていたともされるが、濁っていけないこともなく、世の中は澄むと濁るの違いにて、の小咄かもしれない。厩にマグサはない。あるのはマクサだけだ、といったことである。あるいは、用もなく楣が付いているが、肝心なのは秣である、という洒落かもしれない。戸をつけないのにわざわざ楣を拵えることは民俗の慣習としてままあり、お札を貼ったり絵馬を掲げたりしていた。洒落としての巧妙さを考えた場合、上にも下にもマグサ(楣・秣)があるところが人屋ではなく馬屋(厩)の特色であると言いたいようである(注6)
 基本的に厩に戸(扉)はない(注7)。だから、戸(扉)を取り付けるための方立も必要ないのだが、方立のようなものが中途の高さまで付けられており、両側に穴が穿たれていて、マセ、マセボウ、マセガキとなる横木を渡して馬が出られないようになっている。柱の場合で言えばそれは柱貫に相当する。和名抄に、「欄額 弁色立成に云はく、欄額〈波之良沼岐はしらぬき〉は柱貫なりといふ。」とある。柱と柱とを架け渡すために横に貫いている。「欄額」という字の示す通り、柱と柱の間に楣、欄間など、立派な装飾物を掛け渡すための仕掛けとして考案された。狩谷掖斎の箋注倭名抄には、「按欄額、謂柱上方所貫之材、其状如楯闌而在上、故名欄額、今伊勢神宮屋舎有之、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/991786/1/31、漢字の旧字体は改めた)などとある(注8)。ところが、厩の場合、その柱貫に取り外し可能な丸棒がかけられることになる。横に棒を貫いて柵となり、障害物となって馬は外へ出られない。マセは、塀や垣、柵と同じ機能を担っている。サクという語は地面から垂直に立った障壁を指す語のようである。和名抄に「柵 説文に云はく、柵〈音は索〉は竪木を編むなりといふ。」とある。
 マセが掛けられている方立は柱に添えられている。柱は、鉛直に立てて建物上部の荷重を支える。和名抄に、「柱〈束柱附〉 説文に云はく、柱〈音は注、波之良はしら、功程式に束柱は豆賀波師良つかばしらと云ふ〉は楹なりといふ。唐韻に云はく、楹〈音は盈〉は柱なりといふ。」とある。その柱という語は、上代では神さまや高貴な人を数える助数詞として用いられた。厩戸皇子も、用明天皇の「第二子ふたはしらにあたりたまふみこ」とハシラ扱いされている。次男坊でフタハシラに当たることに興味が向いている。ヒトハシラ(一柱)では戸もマセも作れない。フタハシラだから二つの柱の間にマセが渡される。ハシラと数えられる神さまどうしは一緒にすると喧嘩をするとされ、集会を開くに当たっても「天安あまのやすの河辺かはら」(神代紀第七段本文)で集まっている。大系本日本書紀の補注に、「古語拾遺に「天八湍河原」とあるので、ヤスはヤセ(八瀬)の転であろう。」((一)341頁)とあり、の多いところで川をはさんで対面している情景を想い起こさせる。同根の語かとされるセ(狭)なるセ(瀬)が幾筋もあるようである。柱は別々に立っているものである(注9)
 厩は建物なのに戸(扉)がないこと、また、時に装飾するためでないのに欄額を作ることは、方立という「矛盾」した特徴をよく表現している。あるのはマセばかりである。和名抄に、「籬〈栫字附〉 釈名に云はく、籬〈音は離、字は亦、㰚に作る、末加岐まがき、一に末世ませと云ふ〉は柴を以て之れを作り、疎にして離々なるを言ふといふ。説文に云はく、栫〈七見反、加久布かくふ〉は柴を以て之れを壅ぐといふ。」とある。竹や柴で作った粗い目の垣根である。マセには、籬、馬柵、馬塞、間狭などといった字を当てる。牧の柵、横木を渡して作った垣の棒のこともマセ棒、ウマセ、マセンなどといい、厩と用途、仕様が同じである(注10)。馬が出なければそれでいいのだから、一般の垣根よりも開放的で、ただ横に一~二本、棒が渡してあるだけである。このマセこそ厩においては「戸」に当たる。万4429番歌の「厩なる 縄断つ駒の おくるがへ 妹が言ひしを 置きて悲しも」の侘しさは、駒を曳き立てる縄(=夫)がいなくなって厩に閉じ込められたままにされたとき、マセがあるために自力ではどこへも行くことができず、ただ呆然と日がな暮らさなければならないところにある。

厩戸皇子の才能

 皇后が厩の戸に当たって生まれた皇子はどのような能力を持っていたか。「生而能言、有聖智。」である。頓智好きにはたまらない設定である。すぐれた人が厩で生れていることから、後に、聖徳太子伝暦などに、甲斐の黒駒に乗って富士山を駆け登ったとする伝承が成立しそうなことは予感されることである。厩の戸の造りは、戸(扉)の代わりにマセが渡されている点が重要である。「厩戸」とは、このマセ、マセボウ、マセンボウ、マセガキのことを指している。早熟で大人びた子どものことをマセという。ねびる、およすくことである。上代に確例は知られないが、四段動詞マス(増・益)の語意には、他に比べて優っていることをいうことがあり、また、敬語の動詞マス(坐・居)の義にも適うから、その已然形を名詞として捉え、生まれながらにして既に優っていらっしゃったという意に使われたのではないか。マセルという動詞は名詞マセから後で作られたものと推測される。すなわち、ませた餓鬼だからませ籬、ませた坊やだからませ棒なのである。良家の小児のことを、坊や、お坊ちゃん、と呼ぶことがいつからあるか、口語表現のためわからない。それでも、厩戸皇子の場合、「父天皇愛之、令宮南上殿。」とあって、坊(房)を与えて住まわせている。坊やに違いない(注11)。また、子どものことを餓鬼というが、その言い方がいつから一般的になったかも不明である。お行儀を躾け切れず野放図に食べ物を貪ることから言われた比喩のようである(注12)。いずれも仏教から伝えられた言葉であり、早期幼児教育のおかげか仏教に精通した人物を表すにはもってこいの命名となっている。ませた餓鬼、ませた坊やのことは、語用論的形容矛盾表現に集約させて「厩戸」となる。
 「厩の戸に当りて」の「当りて」について、石井2016.は、「ちょうどそのところで、ということ」(58頁)と説明し、場所としてアタルという語を考えている。新編全集本日本書紀は「まさしく戸(入口)の所での意」(530頁)、井上1987.は「うまやの戸につき当たり」(125頁)、宇治谷1988.は「うまやにあたられた拍子に」(87頁)としている。時代別国語大辞典に、「あたる[当](動四) アツ(下二段)に対する自動詞。もとは……あてられる、の意。①あるものが他の何かに触れる。あるいはぶつかる。……②あたる。相当する。二つのものごとの力・価値・意味などが対応しあう。……③ちょうどその時にあう。」(27頁)とある。語釈の③は、時に関してアタルと使うことを示している。中古には状況や方角について同様のアタルという語意は見られるが、上代には見られない。アタリ(辺)とアタル(当)は同根の語であろうが、ウマヤノトニアタリテ(「当厩戸而」)のアタリを、アタリ(辺)という名詞と捉えることは無理である。原文の「而」は接続助詞のテである。
 原文は「皇后懐姙開胎之日、巡-行禁中-察諸司。至于馬官、乃当厩戸而不労忽産之。」で、主語は「皇后」、述語は「巡行」、「至」、「当」、「産」である。いつ当たったか、「乃」である。どこで当たったか、「馬官」でである。誰が当たったか、「皇后」である。何に当たったか、「厩戸」にである。いかに当たったか、結果として「不労忽産之」にである。4W1Hがはっきりしている。皇后が、ふらふらっと「厩戸」にぶつかったと明記されている。上に述べたように、面(plane)としての戸(扉)はない。柵となるマセに当たるように小咄に仕上がっている。柵は縦なるものをいうから、厳密には横なるもの、らちといえば良いのであろう。すなわち、埒が開いたのである(注13)。皇后はマセを手すり代わりにしたところゆるゆるだからスポッと抜け、転ぶような形になって出産した。マセが開いたら馬が出てくる。ウマれたのである。無事な安産であった。案ずるより産むが易し、ということである。

出産と厩形状区画の先例

 出産とフェンスとの関連を示す例は言い伝えに既出である。

 ふたはしらの神、みことまにまに酒をまうく。こうむ時に至りて、へへもかなら大蛇をろちに当りてまむとす。(至産時、必彼大蛇、当戸将児焉。)(神代紀第八段一書第二)

 スサノヲがヤマタノヲロチを退治する場面である。本文に、「乃ち脚摩あしなづなづをして八醞酒やしほをりのさけみ、あはせて仮庪さずき〈仮庪、此には佐受枳さずきと云ふ。〉八間やまを作り、おのもおのもひとさかふねを置き、酒を盛らしめて待ちたまふ。」とある。飼葉桶のような大きな容器八個に酒を入れ、八つ設けた桟敷、すなわち、籠のように編んだ台に置いて、ヤマタノヲロチ(八岐大蛇)の八つの頭がそれぞれの籠台の編目の隙間から入って槽の酒を飲むようにさせている。一書第二では、「将児焉。」時、編目の隙間から伸び入ってきている八つの頭ごとに酒を飲ませている。「児」の代わりに「酒」を呑ませた。ヤマタノヲロチは(コは甲類)を呑もうとして頭を伸ばしてきている。そうするとわかっているから仮庪(桟敷)を編んで作る。編み方は(コは甲類)と同じである。ヤマタノヲロチは、を呑もうとしてに誘導され、酒を飲んで酔っ払ってしまった。
 「(トは甲類)」とあるのは、平面を形成する一枚板の杉戸などではなく、適当に編まれた籬のような戸、その隙間のゆるやかなもの、あたかもマセ棒、マセ籬によって仕切られたところを暗示しているようである。脚摩乳・手摩乳の「ふたはしら」によって準備が整えられている。柱が二つあるから戸口はでき、欄額(柱貫)のように渡されてマセになる。マセのこちら側に飼葉桶、ふねがそれぞれに一つずつある様子は厩と同じである。動物園でも、ヒツジ類は一つの餌場からみな仲良く食べているが、ヤギ類は喧嘩になるから頭数により分けて餌を与えている。ウマは首を出して秣を食む。つまり、ウマヤ(厩)をもってウブヤ(産屋)に譬えられている。バウバウバウを示すことは、一区画のことをいうことによって確かめられる。坊やとは、坊屋のことと思われ、マセ籬によって区割りされた厩のような分譲地区画の謂いであろう。ヤマタノヲロチに応じて八区画整備している。のためにで囲われた坊があてがわれる。良馬、コマ(駒、コは甲類、もとうまの約とされる)が養われることになっているものであり、ヤマタノヲロチはそれぞれの区画ごとに置かれたうまい酒を飲んだ。マセにそれぞれの首を突っ込んだまま酔っ払ったら身動きは取れなくなる。厩図屏風などで手綱で繋がれているのと同じように、大蛇の首は互いに繋がれてしまうことになっている。そしてまた、馬が腹帯で吊られている点は、産屋の力綱さえ連想させる(注14)。「馬」と「うま(殖)はる」との音の関係が意識にのぼる。馬のお腹が張るごとに産まれてはうまいこと馬の数は増えていく。
 一棟の厩で何区画(馬立うまだち)にするかには例がある。ヤマタノヲロチを入れるのに「蛇立」なるものを思考実験したのであろう。コマは駒であり、こまれのこまであり、小さな間のことを言うのであろう(注15)。「八間やま」、すなわち、八コマ作るというのは不自然である。脚摩乳・手摩乳にはすでに「たり少女をとめ」(神代紀第八段本文)があって、年毎に既に呑まれたという。ヤマタノヲロチがその頭数の八人を呑んだのなら、九人目の奇稲くしいなひめは呑まれるはずはないように思われる。頓智話だから何でだろう? と不思議がる必要がある。八間厩のように並列を想定するのではなく、四角い空間に井桁状に仕切りを入れて九コマに分け、「囲」という字に象形されるように想像するのがいいようである。「囲」形の場合、中央一マスには仮庪さずきとなる籠編みを作らず、すなわち、マセ棒を渡さず、周囲の八コマに籠台を設けて槽を置き、八醞酒やしほをりのさけを入れておいたということになる。ヤマタノヲロチが酔っ払い、寝ぼけて編み籠に絡んでいる時を見計らって、中央の通路にスサノヲは自由に入って上側へ抜け、周囲の大蛇の首をぐるりと斬って回ったということになる。反対に、下側へ行って切った時、一つにカチッと鳴り当たったというのがいわゆる草薙剣である。
 上代では「かくむ」という。上述の和名抄の「籬〈栫附字〉」項に「栫〈七見反、加久布〉以柴壅之」とあった。万葉集には、囲まれて八方塞がりになっている状況を示す例が見られる。

 …… 父母は 枕のかたに 妻子めこどもは 足の方に かくて 憂へさまよひ ……(万892)
 …… 妻も子どもも 遠近をちこちに さはかく 春鳥の ……(万4408)

 スサノヲは八方塞状態に自ら陥る形をとって逆にヤマタノヲロチを近い場所に酔っ払わせて眠らせ、一網打尽(?)に斬り殺したということなのであろう。「中区うちつくに蕃屏かくみ」(成務紀四年二年、別訓カクシ)の出典としてあげられる左伝・僖公二十四年条の疏に、「蕃屏者、分地以建諸侯、使京師蕃籬屏扞也。」とある。これはヤツガシラの芋が数を増やすのに匹敵する。漢語では九面芋と書く。収穫期には親イモのまわりに子イモが八つ、親イモと同じぐらいに大きく成長して、しかも癒着した状態になる。外からは八面芋に見えるが、「囲」字の形のように九マスに芋が増すことを言っている。こういう考え方が卑近に見られていたからヤマタノヲロチの話も人口に膾炙することとなり、そこから厩の坊区の割り付けを思考実験することに及んで、「馬」と「うま(殖)はる」こととの関係は訓義の面でも通じていることなのだと、ヤマトコトバのうえで納得したということになる。そこから、どんどんお産を促進させる馬小屋は「囲」字形の外向き厩で、「不労忽産之。」と相成ったのだとする話として形成されたと考えられる(注16)
 厩戸皇子という名は、厩になどないのに、戸の代わりをするマセバウ、マセガキに当ってませた餓鬼やませた坊やが生まれ、坊どころか「上殿かみつみや」を作って愛育したことを物語る、洒落となぞなぞと知恵の押し詰まった命名譚、おもしろ小咄として仕上がっていた。古代における名とは何か。それは呼ばれるものである。綽名と言えばわかりやすいだろう(注18)

(注)
(注1)そのほか、近松門左衛門・用明天王職人鑑・第五に、「御誕生の若宮を、厩戸むまやどの王子と名付け参らせらる、これ駒繫こまつなぎのほとりにて降誕がうたんなりし故ならし。」ともある。
(注2)日本史大辞典に、「うまや 馬を飼っておく独立した建物や家屋内の馬(ときには牛)を飼う部屋で、馬屋とも書き、「まや」とも呼ぶ。……乗馬用の馬を飼う武家屋敷や神社・寺院の馬屋と農耕馬を飼う農家の馬屋とでは構造が異なる。」(781頁、この項、宮沢智士)とある。解説としてはそれに尽きるが、かなり様子の違うものを一緒にしていてよいのか、戸惑うばかりである。鎌倉時代、御家人が、いざ鎌倉へ、と乗ってきた馬は、必ず乗馬用の馬であったか。ふだんは農耕に使っている馬の荷鞍を取り替えて、チャグチャグ馬子のようなことをした貧乏武士もいたのではないか。時代によって馬の大きさが変わる以上に、まず個体差があり、人間の利用目的に従って乗馬用と農耕用で鍛える筋肉が異なり体形が変わってくる。何を大切にすべきかで厩の形態も違ってくるだろう。
(注3)和名抄に、「戸 野王案に、城郭に在るを門と曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとす。」とある。白川1995.は、「と〔門・戸(戶)〕 内外の間や、区画相互の間を遮断し、その出入口のために設けた施設をいう。門を構え、戸を設ける。また河や海などの両方がせまって、地勢的に出入口のようになっているところをもいう。戸は開き戸にするのが普通であった。トは甲類。」(531頁)、古典基礎語辞典は、「と【戸・門】名……両側から迫っていて狭くなっている所。その狭い部分でのみ、水が流れたり、人や物が通ったりできる。また、建造物で人の出入りする所やそこの建具。」(821頁。この項、白井清子)とする。「厩戸」という言葉を考える際、第一に馬小屋の出入口の戸のことであると考えるべきであろう。ト(甲類)としては、「(処)(トは甲類)」、「(トは甲類)」もある。外という語は、戸(門)と語源的に関連があるらしい。所(処)という語はそれらとは異なる義で、それを「厩戸皇子」に当てはめると、万葉仮名の訓仮名の当て字ということになり、「戸」字に表意性がなくなる。管見ではあるが、「厩戸」を厩のそとのことと解する説は見られない。馬が厩の外でお産をしたという変な話は、皇后が外でお産をしたという話とリンクする。ウマヤ(厩)とウブヤ(産屋)とが洒落として考えられているなら、外でのお産をもって名の由来譚とすることは噺として興味深くはある。けれども、「厩の戸に当りて」という文章が捻られているのだから、基本的に、開き戸との衝突のことを念頭に据えて検討すべきことである。「厩皇子」、「馬皇子」、「馬子皇子」、「馬養うまかひ皇子」、「馬部うまべ皇子」、「厩門うまやかど皇子」という名が問題なのではない。
 厩の後ろ側についている扉(aやd)をもって「厩戸」と捉えることも、方便としては可能である。春日権現験記絵に見える厩(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1286816/1/17)の場合は、前(?)ないし横(?)上部が蔀になっているようにも見える。「厩作〈附〉飼方之次第」に、「一、後ノ方、小キヒラキ戸ノ入口ヲ求ルコト有。是ハ極テ明クルコトハ非ス。其廐ノ様子ヨルヘキ也。〈○後ノ方小キ戸ハ、急変・急火ノ時、前へ難出時此口ヨリ馬ヲ出サン為ナレハ、其厩ヨリ便利宜シキナラハ明ル不及也。又ハ前後サシ支へ等有リテ、アカリ入少キ厩ナラハ、夏向ナト掃除ノタメニモ宜シ。故実作法ト云アラス。其時ノ頭入ノ功ヨルヘシ。大寸法ハ極ナケレハ、馬ノ出入成程スへシ。大方五尺、或五尺五寸宜也。〉」(『日本農書全集60』133頁、漢字の旧字体は改めた)とある。その前の項に、厩舎後方は羽目板にして上方は無双窓を付けることが望ましいと記されている。推古紀の記述においては、皇后は、厩舎の後ろ側へ回って戸にぶつかったとは思われない。なぜなら、彼女は、「巡行禁中監察諸司至于馬官」である。身重の皇后が監察して回っていて、馬に対してこそこそと裏から探りを入れるという設定は想定しにくい。ごくふつうに考え、「厩戸」というのは形容矛盾であると捉えるのが適切である。
 乗馬用であれ農耕用であれ、馬の健康面を考えて厩は作られた。中国では早くは呉子・治兵に、「れ馬は必ず其のる所を安んず。……冬は則ち厩を温かにし、夏は則ちひさしを涼しくす。(夫馬必安其処所。……冬則温厩、夏則涼廡。)」とある。本邦では、佐瀬与次右衛門の会津農書・下巻・厩囲に、「馬屋ハ内厩に居なから見る様にしてよく、外厩ハ寒くして馬瘠る。馬屋を広く穴を深く掘るへし。……」(『日本農書全集19』195頁、漢字の旧字体は改めた。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1065840/1/95~96参照)、また、百姓伝記・巻四・屋敷構善悪・樹木集に、「土民、馬屋を間ひろく作り、しつけ[湿気]すくなき処をハ、ふかくほりて、わら草を多く入てふますへし。……冬ハさむくなきやうに、わらにて外をかこひ、夏ハ冷しきやうにして馬をたてよ。……しつけの地にハ屋棟をたかくして、腰板をうち、竹を以垣をするかして、わら草なとの飼やう、多く入やうにすへし。」(『日本農書全集16』123頁)とあり、農業に必要な馬肥を得る方法も記されている。また、比良野貞彦・奥民図彙には、夏の夜に涼しく過ごせるように、木で埒を結った囲いを設けて夏馬屋とすることが描かれている。その厩には、戸どころか壁すらなく柵に囲まれているだけである。
(注4)康煕字典に、楊氏方言註を引き、「棖 ……傾きを救ふ法なり。門のほゝだてなり」と述べている。説文に「棖 つゑなり」ともあり、門が頬杖をついているように見立てたところに由来するものらしい。
(注5)本邦では引き戸は平安時代、寝殿造りにおいて現れるとされている。
(注6)d図のように、マグサ(秣)が下でなく上でもなく真ん中ぐらいに台に載せてある例もある。
(注7)前掲の「厩作〈附〉飼方之次第」に、「厩四節心得ノコト」として、四季の気候に応じて「戸ヲ開キ」、「前後ヲ取払」、「幕ヲ張ル」、「戸ヲ垂テ」などとあって、「戸」のことが記されているが、門戸のことをいうのではなく、窓の意味のことを言っている。通風や保温、採光の話である。むろん、寒さを防ぐためにマセの外から戸を立てることはあっただろうが、それを「厩戸」と呼ぶ例は管見に入らない。
(注8)狩谷掖斎のいう「伊勢神宮屋舎」のそれが何か筆者にはわからない。
(注9)東大寺大仏殿のそれは、束ねたものを一柱とし、それを何本も立てて建物を構築している。神さまは居られず、仏様がいらっしゃる。
(注10)古い時代の牧が外周で囲われていたか疑問視する議論もある。今日は、土地所有の問題や周囲への迷惑から設けられている。家畜として馴らされたウマが、自ら逃げて野生化することのメリット・デメリットなど、多くを考えなければ理解することは難しい。牧が人に放棄された場合はその限りではない。ウマも生きるのに必死になる。
(注11)棒は、歴史的仮名遣いをボウとする説もあるが、鎌倉・室町期の資料からバウであるともされている。呉音にボウなるも、広韻に歩項切、集韻に部項切である。バウバウといった区切られた区画、部屋のことに引きずられて漢音をとった可能性がある。マセによって空間を仕切る際は直線的に仕切ることになり、四角い坊(房)が形成される。和名抄に、「房 釈名に云はく、房〈音は防、俗に音は望と云ふ〉は旁なり、室の両方に在るなりといふ。」、「坊〈村附〉 声類に云はく、坊〈音は方、又、音は房、末智まち〉は別屋なり、又、村坊なりといふ。四声字苑に云はく、村〈音は尊、無良むら〉は野外の聚り居うるなりといふ。」とある。マセ棒を架けるところは方立である。歴史的仮名遣いにハウタテであり、棒立ての意を汲んでいるとも捉えられる。
(注12)拙稿「餓鬼について」参照。
(注13)埒は、馬場の周りに逃げないように設けられた柵のことをいう。駒くらべ(競馬)では埒が左右に設けられる。一遍聖絵に見える厩(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591582/1/15)は、備後国一の宮の馬場に設けられている。ウマはまっすぐに走るのがあまり得意ではなく、埒を目印にして走っているとされている。人を乗せて走ることはウマにとってははなはだ迷惑、不自然なことであり、また、鞭で叩かれながら全速力でひた走るのも不条理極まりない。和名抄に、「馬埒 四声字苑に云はく、埒〈力輟反、劣と同じ、此の間に良知らちと云ふ〉は、戯馬の道なりといふ。」とある。ラチというラ行で始まる言葉がヤマトコトバにもとからあったとは思われず、用例も九世紀のものしか知られないが、馬の到来とともに本邦に伝わった技術として飛鳥時代にも存した言葉と考える。口語表現をよく伝える日葡辞書に、「Rachi. ラチ(埒) 柵・垣.¶比喩.rachiuo aquru.(埒を開くる)物事をうまく解明する.¶Rachino aita fito.(埒の開いた人)素直で,道理にはすぐ服する人.¶Rachiuo coyuru, l, yaburu.(埒を越ゆる,または,破る)規則や禁制条項を破る,または,道理に背く.」(523頁)とある。マセボウ、マセガキと綽名された聖徳太子は、憲法十七条に記されているとおり埒を開けて物事の道理を説く人であった。憲法十七条が推古朝に作られたものではないという説も提出されているが、そういう議論をしても埒が開かない。
(注14)拙稿「稲荷信仰と狐」参照。
(注15)コマ(コは甲類)という語については、上代にどこまで洒落とされていたか不明である。「こまけし(コは甲類)」という語は新撰字鏡に「壌 古万介志こまけし」と見える。粒状、粉状のものを「こま」と称したように感じられる。芝居や映画、マンガのこまという語は近代になってからの語のようであるが、「細」という語ばかりでなく「小間こま」(コは甲類)という語を想定したり、将棋の「駒」という語の連想から生まれたもののように感じられる。将棋の駒は入るマス目が区切られている。また、小間使いという語の文字面からも連想が働いたのではないか。高麗こまという語については、万葉集に「巨麻尓思吉こまにしき」(万3465)という仮名書きがあり、コは乙類かとされるが東歌の唯一例である。「高麗」をなぜコマと訓むかについては諸説あるが定説に至らない。とはいえ、「高」の字がためらいなく用いられているので、コは甲類である可能性がある。古典基礎語辞典の「こま【高麗・狛】」の項に、「†*koma」(515頁)と記され、甲類と推定している。
 和名抄に「馬〈駒字附〉 ……王仁煦に曰はく、駒〈音は倶、古万こま〉は馬の子なりといふ。」とある。こま(コは甲類)は子馬の状態で船に載せられて本邦に連れて来られた。騎馬民族、高麗の人によってである。飼育技術が伴わなければ連れて来ても意味がない。連れてきたのは子馬である。まるで狛犬のように小さい。そんなものに人が乗って早く馳せることができるのだろうか。倭の人は不思議に思っていると、彼らは手を拱いて見ているばかりではなく、飼葉を与えて上手に育て、かつ人に馴らせてよく言うことを聞かせ、人が乗っても猛スピードで走らせることをやってのけた。古語に「こまぬく」という。ぬきのマセを柵として活用していたことが言葉の端々に感じられる。儒者のする挨拶のポーズ、拱手キョウシュは、胸の前で通せんぼの形になる。「是に、古人大兄ふるひとのおほえしきゐりて逡巡しりぞきて、手をこまぬきていなびてまをさく、……」(孝徳前紀皇極四年六月)とある。古人大兄のポーズは、両手を腕の前で重ねて行う礼のような、しかし、それは倭の人にとって、挨拶ではなくて厩のマセのように見えるから、拒絶の意を表すことになっている。
 なお、推古紀元年四月条に、「且習内教於高麗僧慧慈」とある点について、「高麗のほふし慧慈ゑじ帰化まうおもぶく。則ち皇太子ひつぎのみこのりのしとしたまふ。」(推古紀三年五月)と後述される点や、蘇我氏が百済と関係が深かったことなどから、石井2016.は本当に「高麗」の人なのか疑問視している(70~74頁)。来訪して師匠にしたとされる僧侶の慧慈の朝鮮半島でのもとの国籍が、当時においてどれほどの意味を持ったか疑問である。厩戸皇子の話(噺・咄・譚)としてなら、コマ(駒 ≒ 高麗)である点はとてもおもしろく、重要な要素であると思われる。
(注16)「戸」はヤマトコトバでト(甲類)である。万葉仮名としても訓仮名で「(トは甲類)」は常用されている。音読みでは、漢音にコ、呉音にグ・ゴ、上顎音である。広韻に「戸」は侯古切である。音仮名の万葉仮名では、コ(甲類)に「古」があり、広韻に公古切、ゴ(甲類)に「侯」があり、戸鉤切である。仮に戸(コ)という音が音仮名に当てられたとすれば、甲類と感じられたであろう。の意味は、律令制で、戸令に里を構成する単位とされ、「凡そは、じふを以てさとと為よ。」とあり、家父長のことを戸主、独立家屋のことを戸建て住宅という。田令でも、「其れ牛は、いちをしていちはしめよ。」とある。さらに、「」は酒の量をいう語でもある。呑む量が多い人は「上戸じゃうご」、少ない人は「下戸げこ」という。つまり、ヤマタノヲロチの話は、に当ってを呑まずに、ならぬ状のところからいちずつ、全部ではちについて頭を入れて覗き込み、上戸か下戸か知らないが、それぞれという一丁前の酒量を呑んだということなのである。伊呂波字類抄に、「戸 コ〈酒戸也。上戸・中戸・下戸〉」とある。厩戸皇子と書いて、実はウマヤノミコなのだと、漢字のわかるインテリたちにおもしろがらせていたのかもしれない。太子が乗ったのは白馬あをうまだったとされるのは、呑むほどに青くなる人だったからとの推論も可能である。
 律令の「」が推古朝にあるはずはなく、法隆寺献物帳にサインの残る葛木主もヌシである。したがって、ウマヤノミコなる発想はあり得ず、そもそもがウマヤトノミコというのも後人の修文、潤色であると説かれることも多い。しかし、そう片付けてしまうには、このなぞなぞのレベルはあまりにも高い。上代の人の観念、心性に近づかなければ、了解には至らない。
(注17)市村1987.に、「綽名をつける能力の衰退は、間違いなく社会における相互的関心の稀薄化と批評感覚を含む文化水準の低落とを意味しているだろう。」(12頁)とある。今日、為人ひととなりへの関心は薄れ、目の前にしていながらその人の名刺にある肩書、キャリアばかり気にしている。仕事を離れた人と人との関係は築きにくく、ともすれば築く気さえはじめから持ち合わせていない。人と人との関係性、その網の目こそが文化であるとするなら、文化水準は飛鳥時代からひどく低下し、雲泥の差が生じている。日本書紀を頭ごなしに史書としてしか見ない姿勢にもつながっていて、日本書紀の内側に入って読むことは退けられ、外側から議論(のための議論が)されるばかりになっている。演算処理としてしかテキストを読まなくなったらもはや人の学ではない。すべてAIに取って代わられることをしていて空しくないだろうか。
 なお、「厩戸」という綽名の表す他の意味については、拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」参照。

(引用・参考文献)
石井2016. 石井公成『聖徳太子─実像と伝説の間─』春秋社、2016年。
市村1987. 市村弘正『名づけの精神史』みすず書房、1987年。
井上1987. 井上光貞監訳『日本書紀 下』中央公論社、昭和62年。
井上1996. 井上薫「聖徳太子異名論─なぜさまざまな異名をもつのか─」『歴史読本』1996年12月号。
宇治谷1988. 宇治谷孟『全現代語訳日本書紀 下』講談社(講談社学術文庫)、1988年。
大山1996. 大山誠一「「聖徳太子」研究の再検討(上)」『弘前大学国史研究』第100号、1996年3月。弘前大学学術情報リポジトリ http://hdl.handle.net/10129/3146
久米1988. 『久米邦武歴史著作集 第1巻 聖徳太子の研究』吉川弘文館、1988年。
群馬県立歴史博物館2017. 群馬県立歴史博物館編『海を渡って来た馬文化─黒井峯遺跡と群れる馬─』同発行、平成29年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』『同(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
日本史大辞典 『日本史大辞典1』平凡社、1992年。
『日本農書全集16』 岡光夫・守田史郎校注・執筆『日本農書全集16』農山漁村文化協会、昭和54年。
『日本農書全集19』 庄司吉之助翻刻ほか『日本農書全集19』農山漁村文化協会、昭和57年。
『日本農書全集60』 松尾信一・白水完児・村井秀夫校注・執筆『日本農書全集60』農山漁村文化協会、1996年。
古市2012. 古市晃「聖徳太子の名号と王宮」『日本歴史』768号、2012年5月。(『国家形成期の王宮と地域社会━記紀・風土記の再解釈━』塙書房、2019年。)
前之園2016. 前之園亮一「厩戸皇子の名前と誕生伝承」『共立女子短期大学文科紀要』59巻、2016年1月。共立女子大学リポジトリ https://kyoritsu.repo.nii.ac.jp/records/3114
渡里2013. 渡里恒信「上宮と厩戸」『古代史の研究』第18号、2013年3月。

加藤良平 2024.8.31改稿初出

聖徳太子の髪型と疫病(えやみ)の関係について

 我が国における爆発的感染パンデミックの最初の記録は、崇神天皇の時代に遡る。卑弥呼の頃、三世紀初めと推測される。

 此天皇之御世伇病多起人民為盡(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1184138/1/17)
 天皇すめらみこと御世みよに、やみさはに起りて、人民おほみたから尽きなむとす。(崇神記)

 中国大陸では西暦220年に後漢が滅ぶ。国の混乱から逃れようとして朝鮮半島を過ぎ、列島へ渡る人もいたことだろう。風土病が伝染病となる契機である。伝染病のことを「伇病」といっている。和名抄に、「疫 説文に云はく、疫〈音は役、衣夜美えやみ、一に度岐乃介ときのけと云ふ〉は民の皆病むなりといふ。」とある。トキノケとは一時的に流行する病気の意味である。今日的表現では、集団免疫をつけて克服する病ということであろう。ほかに、「伇気え(やみ)のけ」(崇神記)、「疾疫えのやまひ」(崇神紀五年)、「疫病えのやまひ」(崇神紀七年十一月)などとある。疫の字は疫病、疫病神の疫である。記の真福寺本にある「伇」字は、万葉集にも「課伇えつき」(万3847)と見える。エはヤ行のエである。
 e(ア行のエ)……得、榎
 ye(ヤ行のエ)……兄、江、枝、柄、胞
 we(ワ行のヱ)……絵、餌、会、廻、恵
 中国で「役」字は、公役にあてられて家から離れて遠く赴き、戦争や土木工事に使役されることをいう。ヤマトコトバでは、「役」をエ、ないし、「つ」と続けてエタチという。各地から徴用され、そのうちの誰かが伝染病の病原体を持っていると、必然的にうつし合う集団感染、いわゆるクラスターを作り、一斉に発病、伝播する。よってエヤミという。「役」をエと訓むのは、「「疫」の中国北方の字音 yek の k の脱落したもの。」(岩波古語辞典201頁)からとされている。釈名に、「疫 伇なり。鬼行有るを伇と言ふなり」とある。「役」は、呉音にヤク、役所、役割、役者など、漢音にエキ、兵役、服役、現役、使役などと使われている。もともとの「役」の字は、彳は道が交差しているところの形、殳はほこを手で持っている様子を示している。よって、人が遠いところへ行かされてこき使われることを表す。古代日本では、溜池、道路、古墳、都城、大仏などを造らされたり、防人に行かされたとき、またその後も前九年の役、文禄・慶長の役、西南の役など、辺地での戦に駆り立てられたときに用いられた。
 古事記に見える「伇」字は、集韻に「役に同じ」とされるが、楊子方言に、「拌 棄つるなり。楚にては凡そ物を揮棄する、之れを拌と謂ふ。或いは之れを敲と謂ふ。淮汝の間、之れを伇と謂ふ」とある。管見であるが、「伇」字が太安万侶によって選択的に使われている理由については、今のところ検討されるに至っていない。
 エ(ye)というヤマトコトバの共通項を考えてみる。は、花を咲かせ実をつける部分で、収穫物が期待できる素敵なところである。分かれていくほどその数が増え、また、幹と違い折れやすい。は、海(湖)岸線が陸地のほうへのびているところで、潮の干満で水没を繰り返しており、船の停泊がかなう素敵な場所である。は、赤ん坊が生まれて後から出てくる後産あとざんで、胎児を包んでいた膜や胎盤のことである。懸命に新しい命が母胎から分かれ出ることを意識した言葉である。は、鎌、鋤、鍬の刃の部分につけたつか(束)である。柄杓の柄のように伸びていてつかみやすく使いやすいが、壊れやすくもあった。柄があるから刃を立てやすくなって農耕や土木は長足の進歩を遂げた。については、古代は末子相続であったため、兄弟の兄のほうは新しく家を構えて進出するフロンティアであり、大成功をもたらすことがあるものの大きなリスクを伴う存在でもあった。
 このエのついた形の髪型と思われるものがある。

 是の時に、厩戸うまやとの皇子みこ束髪於額ひさごはなにして、〈いにしへひと年少児わらはの年、十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にす。十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦然り。〉いくさうしろに随へり。(崇峻即位前紀用明二年七月是時)

 聖徳太子(厩戸皇子)の髪型は「束髪於額ひさごはな」である。ヒサゴは、瓠、匏などと書かれ、瓢箪のことをいう。上の記事は物部守屋と蘇我馬子の戦の場面での記述である。戦争に当たっては髪の毛が煩わしかったから、額部分に瓠の花のようなとんがった形に束ねていて不自然さはない。ちょうど十五六の年恰好の少年がする髪型なのだという。その後も武士は髪を一つにまとめ、さらに長くなるとそれを曲げてわげに結った。相撲取りも取っ組み合うのに危険なので束ねている。幕下ぐらいまでは髪が短く、部屋の兄貴分にならないと結えない。エ(ye)の髪型と言える。

左:ユウガオの花(しぼみかけ)、右:ユウガオの実(熟れきった状態、11月)

 瓢箪はウリ科で、花柄は瓢箪の実のお尻の部分になる。酒や香辛料を入れる瓶の役目を担わせた実をつける植物の名である。半分に割れば水を汲むのに便利な柄杓ひしゃくになる。もとの存在を離れて新しい価値のものになっていて、フロンティアの名として呼ぶのにふさわしい。作るに当たっては中の種子を腐らせて取り出す。戦のなかで命を落とすと敵に生首を取られ、手柄の証拠とされる。束髪の部分が柄のように握られた。やがて毛は抜け中身の脳みそ部分は腐っていく。ちょうど瓢箪と同じ過程を経てしゃれこうべができあがる。額の部分は、瓠同様、酒や水を汲む髑髏杯になった。
 つまり、「束髪於額」がエ(ye)にあたる。徴兵をエタチというのは床山がエを立てるからである。古代律令制において、徭役の要員には、正丁、すなわち、二十歳から六十歳の男子から選ばれた。それは、髪の長さにおいては子どもは短いから除かれ、髪の硬さにおいては女性は柔らかいから外され、髪の濃さにおいては老人は薄いから弾かれるということを表している。結おうにも結えないのである。成年男子だけがヒサゴハナに結うことが可能であった。紀に「古俗……今亦然之。」とあり、論旨に混乱があるとも受け取られかねない注が付けられている。髪型年齢はそのままに、成人年齢だけが十五歳から引き上げられたことの謂いであろう。
 太安万侶は、「役」ではなく「伇」字を好んだ。殳はホコツクリ、また、ルマタという。股は胯と同じである。夸は大きく広がっている様子を表し、足を広げれば跨ぐことになり、大げさな物言いをすれば誇ることになる。瓠とは、瓜の仲間で内側が大きく広がってうつろになったものである。殳=夸である。頭部の髪型を瓠の花のようにし、死しては瓢箪における器扱いをされてしまう頭をした人は楊氏方言にも適っていることになり、「伇」の字で表せばよいことになる。そのような髪型に結える人は村落のなかで兄貴分になったわけで、エ(ye)と呼ぶのにふさわしく、「伇」の字を使いエ(ye)と訓み宛てているのである。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹明広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
尾山2018. 尾山慎「「疫(え)」と「伇(え)」」「古代語のしるべ」第五回、三省堂、2018年。三省堂総合ホームページ https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kodaigo05
白鳥1925. 白鳥清「古代日本の末子相続制度に就いて」池内宏編『東洋史論叢─白鳥博士還暦記念─』岩波書店、大正14年。

加藤良平 2025.3.1加筆初出

記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について

 上代の伝承では、アマテラスのあめいは立て籠もり事件の解決に、シリクメナハが必須アイテムとして登場している。
 天の石屋に閉じ籠ったアマテラスは、外の不思議な気配に身を乗り出したところ、タチカラヲに引きずり出され、後ろにはしめ縄がかけられて戻れないようになった。しめ縄は、標縄、注連縄と書かれ、シメは占有のしるしをいう。神前において不浄なものの侵入を禁ずるために張ったり、立ち入り禁止のしるしとして張り巡らせたりした。今でも神社や神棚、地鎮祭で見られる。

 ……即ち布刀ふと玉命たまのみこと、尻くめ縄を以て其のしりわたして、白して言ひしく、「此より以内うちに還り入ること得じ」といひき。(記上)
 是に中臣神なかとみのかみ忌部神いみべのかみ、則ち端出之縄しりくめなは〈縄、亦云はく、左縄のはしいだすといふ。此には斯梨倶梅儺波しりくめなはと云ふ。〉ひきわたす。(神代紀第七段本文)
 則ち、天児あめのこ屋命やねのみこと太玉命ふとたまのみことひのつな〈今、斯利久迷しりくめなはといふ。是、日影のかたちなり。〉を以て、其の殿みや廻懸ひきめぐらし、大宮売神おほみやのめのかみをして御前みまへさもらはしむ。(古語拾遺)

 記の「尻くめ縄」は原文に「尻久米〈此二字以音。〉縄」とある。和名抄に、「注連 顔氏家訓に云はく、注連して章断すといふ〈師説に注連は之梨久倍奈波しりくべなは、章断は之度太智しとだち〉といふ。日本紀私記に端出之縄〈読みて注連と同じなり〉と云ふ。」とある。「章断しとだち」とは、葬送の時、死霊が家に中に帰って来ないように、出棺のあと門戸にしめ縄をひきわたすことをいう。
 各書に見られる特徴を整理すると、①名称はシリクメナハ、シリクベナハである。②端が出ている。③左に綯った縄である。④日影の形と関係がある、といった点が挙げられる。シメナハと言わずにわざわざシリクメナハと呼んでいるのには理由があるのだろう。八十万の神々が天の安の河原に参集していろいろ準備している。長鳴鳥を鳴かせる、採石・採鉄して鍛冶をする、鏡を作る、勾玉の玉飾りを作る、祝詞をあげる、鹿卜を行う、白幣・青幣も捧げる、植物で襷や髪飾りを作って飼葉桶をひっくり返した舞台で踊る、など、非常に用意周到である。では、最後にひき渡すためのしめ縄は、いつ用意したのか。その記述はない。最初からあったと考えるのが妥当であろう。

 日神ひのかみ新嘗にひなへきこしめさむとする時に及至いたりて、素戔嗚尊すさのをのみこと、則ち新宮にひなへのみやましの下に、ひそかに自ら送糞くそまる。日神、知ろしめさずして、ただみましの上にたまふ。是に由りて日神、みみこぞりて不平やくさみたまふ。(神代紀第七段一書第二)

 この箇所は、記には「亦、其の、大嘗おほにへきこす殿に屎まりちらしき。」、紀本文には「また、天照大神の新嘗きこしめさむとする時を見て、則ちひそか新宮にひなへのみや放𡱁くそまる。」とある。新嘗祭にあたり、板の間に席を設けるが、そこにスサノヲは大便をしている。スサノヲのいたずらについては、アマテラスは良いように捉えようと腐心している。他のいたずら、田のはなち、溝埋めは、田の面積を広げようとしたのだとアマテラスは解釈し直しており、一応は納得できる。天の斑馬ふちこま逆剥さかはぎにして忌服いみはたに投げ込んだのも、斑模様の衣を織るようにとの依頼とも取れなくはない。大便について、記は「屎の如きは、ひて吐き散すとこそ、」としているが、多少無理がある。スサノヲが大便をする場所と勘違いしたとすれば了解が得られやすいだろう。クソマルは、屎るの意であるが、マルは円(丸)と同音で、おまる(虎子)のことが連想される。座る場所でまるいところといえば、円座、すなわち、わろうだである。古語に「わらふだ(藁座、藁蓋)」という。和名抄に、「円座 孫愐に曰はく、〓〔艹冠に榆〕〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ひ、一に和良布太わらふだと云ふ〉はまるき草の褥なりといふ。」とある。藁でできた縄をまるく巻くようにして結いつけ、座布団状にしたものである。現在では、特に渦円座ともいい、神前や洒落た蕎麦屋などに置かれていることが多い。まるいから、古語拾遺の「日影之像」にも合致している。慕帰絵詞には円窓のふさぎとして使われている図がある。スサノヲは藁蓋をおまるの蓋だと思い、それを開けて大便をしたということになる。最終的に、その藁座をとっさに解き、しめ縄としてひき張ったのである(注1)。端がなかったものから端を出したから「端出之縄」と注されている。

左:竹の縁台簀子の上の円座(慕帰絵々詞模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590855/14をトリミング)、右:閑居の裏手の窓のふさぎ(同、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590851/11をトリミング)

 尻くめ縄のクメについては、記紀では神武、顕宗、また、万葉集に載る「来目(久米)部」、「来目(久米)のわく(若子)」を考え合わせなければならない。けの天皇すめらみこと[顕宗天皇]は、「目稚めのわく」(顕宗前紀)とも言った。播磨はりまの国司くにのみこともち来目くめべのだてとの関係からそう呼ばれたとされている。

  博通法はくつうほふ紀伊きのくにに往きて、三穂みほいはを見て作る歌三首
 はだすすき 久米の若子が いましける〈一は云ふ、けむ〉 三穂の石室は 見れど飽かぬかも〈一は云ふ、荒れにけるかも〉(万307)
  和銅四年辛亥、河辺宮人かはらのみやひとの姫島の松原に美人よきひとかばねを見て、哀慟かなしびて作る歌四首
 風早かさはやの 美保のうらの しらつつじ 見れどもさぶし 無き人思へば〈一は云ふ、或は云はく、見れば悲しも 無き人思ふに〉(万434)
 みつみつし 久米の若子が い触れけむ 磯の草根の 枯れまくしも(万435)

 中西2007.は、流竄を性格とするのが「久米の若子」の性格で、久米部が朝廷に仕えるようになって貴種流離の物語に加担する存在になっていくとする。また、三浦2003.も、クメノワクゴという名前には漂泊し放浪する少年のイメージがつきまとうと解している。仁賢(オケ)と顕宗(ヲケ)の兄弟が、受難を耐え忍んで後に凱旋するという物語が受け継がれて、紀伊や播磨の伝承へと転化して万葉集に残ったというのである。伝承が失われたと尤もらしく架空しているが、来目稚子と呼ばれたのは兄弟の一方のみである。
 弘計天皇のヲケ(ケは甲類)は、ヲ(緒)+ケ(異、ケは甲類)と聞こえたのであろう。緒はと同根の語で、撚り合わせた繊維のことである。その緒がなる状態であるとは、撚り方が通常とは異なるということか、使い方が通常とは異なるということだろう。今村2004.は、人の手で綯われたものの99%までは右綯で、神事と葬儀のみ左綯であるとする。そしてまた、緒の使い方が不思議なのは、藁縄が円座になっている時である。緒にはふつう両端があるはずのところ、緒がぐるりと巻かれてしまい端がなくなっている。つまり、ヲケとは、左縄のしめ縄や円座のことを意味している。弘計天皇は尻くめ縄と密接な関係があると考えられる。
 枕詞「みつみつし(ミは甲類)」は、「久米(来目)(メは乙類)」にかかる。万435歌のほか、記10(2例)・11・12歌謡、紀9歌謡に見られる。ミツは「稜威いつ」の音転として、軍事にかかわる久米氏の勇ましく勢いあることを褒めるものと考えられている(注2)。しかし、クメにしかかからない理由について説明されていない。

子をとろ子をとろの図(喜多川季荘・守貞漫稿、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592414/28をトリミング)

 クメにまつわる語に「ひふくめ(比比丘女、ヒ、メの甲乙は不明)」がある。別名を、子をとろ子とろ、ことろことろなどともいう。児童のする鬼ごっこ遊びのひとつで、一人は鬼、一人は親、他はすべて子となり、子は親のうしろにつかまって順に連なる。鬼は最後尾の子を捕えようとし、親はそれを両手を広げて妨げ、その攻防を楽しむ。すると、列の形は蛇行したり、渦巻きになったりする。ちょうど、円座のようになる。ヒ+フ+クメとあるのを+クメと聞いたとすれば、久米(来目)は「みつ(ミは甲類)」に当たるからミツミツシという枕詞を作りあげたと推定されるわけである(注3)。さらに、わらはの遊びだからわらと関係すると思い、クメは若子でなければ話にならないと考えられたと類推されるのである(注4)。藁とはもともと稲穂のことだから御穂みほにまつわると思われ、地名の「三穂」、「美保」から上掲の万葉歌二首はイメージされていったと解される。
 ヤマトコトバと呼ばれる上代語は、言語体系として完結するシステムとしてあった。一つの閉じた系である。外来の言葉を知っていなければ意味が通らないということなどなく、ヤマトの人の間で言葉づかいの片務性など存在しなかった。無文字時代において何の不自由も感じることなく、人々は互いに言葉を交わすことだけで十分にコミュニケーションがとれていた。言葉の下の平等が保たれていた時代であったといえる(注5)

(注)
(注1)この考え方では、しめ縄をほどいたときに屎がついていないかと疑われるが、ついていればいるほど触れないようにするご利益があったと捉え返される。
(注2)例えば、新編全集本古事記に、「いかにも勢いが強いの意。ミツ(厳)は、イツ(厳)と同源。」(154頁)とある。
(注3)神武天皇代の物語にいわゆる久米歌の件がある。紀から抜粋する。

 時に、道臣命みちのおみのみこと[大来目の帥]、乃ちちてうたよみしてはく、
 さかの 大室おほむろに 人さはに 入りりとも 人多に 来入きいり居りとも みつみつし 来目の子らが 頭椎くぶつつい 石椎いしつつい持ち 撃ちてし止まむ(紀9) といふ。時に我がいくさ、歌を聞きて、倶に其の頭椎剣くぶつちのつるぎを抜き、一時もろともあたを殺しつ。虜のまた噍類者のこるもの無し。皇軍みいくさ大きに悦びて、あめあふぎてわらふ。因りて歌して曰はく、
 今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子あごよ 今だにも 吾子よ(紀10)
といふ。今し来目部くめらが歌ひて後に大きにわらふは、是、其のことのもとなり。又歌して曰はく、
 蝦夷えみしを 一人ひだり ももな人 人は云へども 抵抗たむかひもせず(紀11)
といふ。此皆、密旨しのびのみことを承けて歌ふ。敢へて自らたうめなるに非ず。(神武前紀戊午年十月)

 「大室屋」は天の石屋を連想させる。久米歌の後に「咲(哂)ふ」のは藁と関係すると思うからだろう。「だり」が登場するのは、左縄と関係すると思うからだろう。「たうめ」と古訓にあるのは、産婆をいう「専女たうめ」、すなわち、「子取り」を思い起こすからだろう。「子取り」とは、ひふくめのことでも、産婆のことでもある。
 鎌倉中期の名語記に、ひふくめを比比丘女と当て、地蔵菩薩の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四部の弟子を、獄卒が奪い取ろうとする真似である講釈した説が載る。「トリヲヤガトラウトラウヒフクメトイヘルハ、獄(ママ)ガトラウトラウ比丘・比丘尼トイヘル義也」。佐竹2009.は、「ヒフクメということばを「比丘比丘尼云々」で説明した語源説」は、「荒唐無稽な附会でしかな」(320頁)いと断じている。寒川2003.は、「本遊戯[比々丘女]の日本への伝来時期は弥生時代以後が想定されてよい。なぜなら,東アジアでは本遊戯は鶏とかかわっているが,Eberhard……[Eberhard,W., The local cultures of south and east China, E.J.Brill : Leiden,1968.pp.431-32]による中国文化史では,鶏の習俗は,日本に水稲稲作をもたらすことになる揚子江下流域の越文化の要素があるからだ。つまり,本遊戯は越文化の地から直接にあるいは朝鮮半島南部を経て間接に日本にもたらされたものであり,仏教の民衆教化が盛んになる鎌倉時代のころに仏教化が果たされたものと考えられる。」(21頁)と結論づけている。いずれも、言葉と習俗、時代性を考えた見解である。批判の矛先として考えるなら、無文字社会において人々に共通の記憶として伝承されるものは、日々の生活に根づいた感覚と言葉であり、それに「比丘」という文字を当てては誤解するという点に尽きよう。
(注4)無文字文化の基調的な思考法として類推思考があげられている。レヴィ=ストロース1976.参照。
(注5)このあり方は「国家に抗する」(P・クラストル)言語というに等しい。お上に対する批判は時に洒落や地口をもって行われる。人々がひそかに隠し持つ頓智の力の発現である。

(引用・参考文献)
今村2004. 今村鞆「朝鮮の禁忌縄に関する研究(抄)」礫川全次編『左右の民俗学』批評社、2004年。
佐竹2009. 佐竹昭広「「子とろ」遊びの唱えごと」『佐竹昭広集 第二巻』岩波書店、2009年。
寒川2003. 寒川恒夫「鬼ごっこ「比々丘女」の起源に関する民族学的研究」『遊びの歴史民族学』明和出版、2003年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
中西2007. 中西進「古事記を読む 二」『中西進著作集 2』四季社、2007年。
三浦2003. 三浦佑之『古事記講義』文藝春秋、2003年。
名語記 経尊撰、北野克写『名語記』勉誠社、1983年。
レヴィ=ストロース1976. クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房、1976年。

加藤良平 2023.5.31改稿初出

天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─

 記紀にアマテラスがイハヤ(石屋・石窟)に籠る話がある。本稿では、そのイハヤのあり方とその話にまつわるヤマトコトバについて検討する。
 スサノヲの心が「善」いものか「あし」きものか判断するのに、天の安の河をはさんでウケヒ(誓約)合戦をしている。スサノヲは身勝手な解釈をして、勝った勝ったと言い張ってはさまざまないたずらを働く。アマテラスははじめのうちは咎めないで勘違いがあるのだろうと好意的な解釈をしていたが、しまいには天の石屋に籠ってしまう。

 かれここに、天照大御神あまてらすおほみかみかしこみ、あめいはの戸を開きて、刺しこもりしき。……是を以て、八百やほよろづの神、あめやすの河原に神集かむつどひ集ひて、……。……天手力男神あめのたぢからをのかみ、戸のわきかくり立ちて、……。是に、天照大御神、あやしと以為おもひ、天の石屋の戸を細く開きて、内よりらししく、……天照大御神、いよあやしと思ひて、やくやく戸より出でて臨み坐す時に、其の隠り立てる天手力男神、……尻くめ縄を以て其のしりわたして、まをして言はく、「此より以内うち還り入りまさじ」といひき。(記)
 此に由りて、発慍いかりまして、乃ち天石窟あまのいはやに入りまして、いはしてこもしぬ。……時に、八十やそ万神よろづのかみたち天安河辺あまのやすのかはらつどひて、其のいのるべきさまはからふ。……亦、手力雄神たちからをのかみを以て、磐戸のとわきかくしたてて、……。……乃ち御手みてを以て、ほそめに磐戸を開けてみそなは〔穴冠に視〕す。時に手力雄神、則ち天照大神あまてらすおほみかみの手を奉承たまはりて、引き奉出いだしまつる。……則ち端出之縄しりくめなは〈縄、亦云はく、左縄のはしいだすといふ。此には斯梨倶梅儺波しりくめなはと云ふ。〉ひきわたす。(神代紀第七段本文)

 天石屋(天石窟)に籠っている。「天石屋戸」、「磐戸」はあくまでも「戸」である。日本の玄関によく知られる外開きドアであろう。タヂカラヲはいかに力持ちでも、戸に取っ掛かり(ドアノブ)がないから開くことはできない。アマテラスは、外がにぎやかで気になって戸の隙間から窺ってみたが、全体の様子を見渡すことはできなかった。タヂカラヲは「隠-立戸掖」(記)、「立磐戸之側」(紀)っているから、アマテラスの視界には戸が遮りになって容易に隠れられていた。次いで、アマテラスはさらにドアを押し開いたので、その手を取って引きずり出した。その戸が引き戸であることは建具の歴史からもあり得ない。

「開天石屋戸」くこと

 記紀で若干の違いがある。記の原文に「開天石屋戸而刺許母理 〈此三字以音〉坐也」とある点を検討する。「天石屋戸を開きて、刺しこもり坐しき。」と訓める。西郷2005.に、「戸を開いてこもるといういいまわしは日本語としておかしい。書紀にも「天石窟に入りまして磐戸をしてコモしぬ」(本文ならびに一書)とあるし、ここは文句なく「閇」または「閉」であるべきところだと思う。もっとも伝来の諸本みな「開」とあるから、それを重んじようとするのは分る。しかしだからといって「開」をとるならば、文献学的誤謬(fallacy)に陥り、文献に忠勤をはげむあまりかえって日本語をないがしろにする結果になりかねない。」(129~130頁)とある。そして、本居宣長・古事記伝にならって「開」は、「閇」、「閉」の誤字としている(注1)。西宮1975.はこの説を批判し、元来閉じられていた戸を開いて内に入り、お籠りになったという意であると解している。その場合、「刺し」は下接する自動詞の意を強める接頭語で、自発的に籠ったことを表し、天石屋戸は閉じているのが常態だからわかり切ったことは書かないのであるという。この考えを踏襲して、新編全集本古事記も、「もともとは閉じている戸を開いてこもるのである。」(63頁)とする。筆者はこれらの議論に飽き足らない。天石屋戸は自動ドアなのであろうか。
 サシについて、(a)接頭語、(b)鍵をかける、の二義が考えられる。接頭語であったとしても元来の動詞の「さす(刺・指・挿)」に由来しており、原義を留めていることがある(注2)。垂仁記に、「に刺しいだしき。(刺-出城外。)」の例があり、勢いよく出たことを表すとされ、自動詞的接頭語に自動詞が下接し、強意の接頭語であると類型化されている。しかし、稲の俵を積み上げた防御壁から外へ出たのだから、突き抜け出たという方向性を保っている。さしあがる、さしのぼる、さし曇る、さし並ぶ、さし向かふ、さし寄る、など、軽い接頭語とされるが、方向としてまっすぐであることをニュアンスに持っている。アマテラスの「刺しこもり」のサシを接頭語とすると、石屋(石窟)の内でのお籠りの、動きのない状態とはそぐわないことになる。天石屋戸は、アマテラスが難なく開けることができたのに、力の強いタヂカラヲは開けることはできなかった。すなわち、サシは動詞である。「さす(閉・鏁)」は鍵をかけること、「戸さす」の鎖すに当たり、戸に刺して鍵をしめる意である。鍵を「しめる」は、扉の把手を紐で結わえて締めることに由来する語であろう(注3)

左:落とし桟(法隆寺金堂)、右:くるる鉤と唐戸の落とし桟の構造(向日市文化資料館再現展示)

 合田1998.は、古代日本における施錠具には、いわゆる海老錠と呼ばれるものと、くるるかぎやくいつなどと称されるものの二つに大別している(注4)。前者は錠前と鍵のセットで機能するもの、後者はL字状に大きく折り曲げた細長い鉄棒に木の柄をつけた鉤である。海老錠は、いわゆる観音扉につけられていたり、櫃の箱と蓋をさすのに用いられていた。廉価な神棚でも、飾り具として形だけ海老錠をつけているものが多い。一方、鉤は、戸に開いた鍵穴からしのばせて、内側のくるる、すなわち、落とし桟や、かんのき(閂、貫木、関木)(かんぬき)、または、かすがいを外側から操作するものであった。鍵穴の例としては、九世紀後半と目される埼玉県池守・池上遺跡の井戸枠転用の観音開き扉の片方の出土物があり、慕帰絵詞には引戸らしき戸につけられている図も残る。
 文献に見られる「鏁子」は錠前で、「鑰」、「鎰」はくるる鉤であるとされる。新撰字鏡に、「鑰 以灼反、開鑰、止佐志とさし」、「鏁着 戸佐須とさす」とある。和名抄には、「扃 野王案に扃〈音は経、度佐之とさし〉は戸扇の鉄鈕、内に用ゐ以て門をふさぐ所なりといふ。」とある。

 家にありし ひつかぎ刺し〔樻尓鏁刺〕 をさめてし 恋の奴の つかみかかりて(万3816)
 群玉の くるに釘刺し〔久留尓久枳作之〕 固めとし 妹が心は あよくなめかも(万4390)
 かど立てて 戸もしたるを〔戸毛閇而有乎〕 いづゆか 妹が入り来て いめに見えつる(万3117)
 門たてて 戸はしたれど〔戸者雖闔〕 盗人の 穿れる穴より 入りて見えけむ(万3118)
 …… 隣の君は あらかじめ 己妻おのづまれて 乞はなくに かぎさへ奉る〔鎰左倍奉〕 ……(万1738)

 万葉集の一例目は海老錠に鍵をかけること、二例目は枢に釘を刺して戸を開かなくした意、三例目は内側から戸をしめている。四例目も同様ながら下の句に「穴」とあり、鍵穴からの連想とも感じられる。盗人は地面に穴を掘って鍵を無効にしたとも考えられるが、鍵穴から侵入した話としては崇神記の三輪山伝説がよく知られる。ここに、サスとあるのは、細いものを穴に差し込むことで、三・四例目の戸の鍵も枢である可能性が高い(注5)。五例目は、鍵を持つことが主婦の象徴とされたことを示すもので、戸を支配する者から主婦のことをぬしの転で刀自とじという。記紀に見える「鉤」の例には次のようなものがある。

 故、をしへの如くして、旦時あしたに見れば、針に著けるは、戸の鉤穴かぎあなよりき通りて出で、唯に遺れる麻は三勾みわのみなり。(崇神記)
 故、訶和羅之かわらのさきに到りて沈み入りき。故、鉤を以て其の沈みし処を探れば、其のきぬうちよろひかかりて、訶和羅かわらと鳴りき。故、其地そこを号けて訶和羅之前と謂ふ。(応神記)
 門毎かどごとに水をるる舟一つ、かぎ数十とをあまりを置きて、火のわざはひに備へ、恒に力人ちからひとをしてつはものを持ちて[蘇我の]家を守らしむ。(皇極紀三年十一月)

 一例目は「鉤穴」とあり、鉤の存在が確認される。鉤がくるる鉤であるところから、曲っていることを示し、麻が勾(輪)に残っているように記している。二例目、三例目はL字状の道具のことで、どこか特定の鍵として用いられているものではない(注6)。先の曲った金属の棒の転用可能性を示している。
 以上のことを踏まえれば、記に「開天石屋戸而刺許母理〈此三字以音〉坐也」とあったのは、アマテラスが天石屋戸の鉤を持っていて、それを使ってロックを外して戸を開け、中に入ってから再びロックしたと考えることができる(注7)。神社の本殿の鍵を預かる人のことを鍵取り、鍵主、鍵預かりといい、創始に深くかかわった家の人が世襲することがあった。刀自が家の鍵を預かるのに似ている。すなわち、アマテラスは天石屋の戸主、ないし、創始者ということであろう。
 記の話の進め方は巧みである。記で「天石屋戸」、つまり、石屋の戸と考えているものが、紀の場合、「磐戸」、つまり、戸が磐のように堅固なものと形容している。この形容は、ひとつには、戸自体は壊すことができない堅牢な鎧戸のようになっていることを表すものであろう。むろん、戸(トは甲類)は、あくまでも出入口である。和名抄に、「戸 野王案に、城郭に在るをかどと曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとす。」とある。地勢的に出入口のようになっているところもトという。

 天離あまざかる ひなながゆ 恋ひ来れば 明石のより 倭嶋やまとしま見ゆ(万255)

 逆に言うと、出入りができなくなれば、それは戸ではなくなる。「磐戸」は、一見、形容矛盾であるが、堅牢で鎖す機能に優れて動かないけれど、出入りするときには動かすことができることを言っている。それこそが鍵の機能である。正倉院文書に、「不動鎰」、「常鎰」、「挙鍵」、「久留理鍵」、「折鍵」などとあり、その実態は特定できないものの表現したかったイメージは伝わってくる。
 天石屋戸(磐戸)にどのような鍵の機能があるか考究することは、いつ頃の人がその伝承を創作したかを知るヒントになる。今日、記紀のなかの「神話」(注8)と称されるものを、歴史学、考古学、文化史学、そして何より言葉から読み解いていくことであり、それこそが総体としての古代研究の醍醐味である。

イハヤに籠ることと救世観音

 「あめいは天石窟あまのいはや)」のイハは堅牢なさまを表す。天孫降臨条に「あめ石位いはくら(天磐座)」とあって、堅くて確かな神の御座所のことを表している。イハクラのイメージは、山の尾根、馬の背と呼ばれるところに当たる。また、「あまのいは樟櫲くすぶね」、「あま磐境いはさか」、「あめ石靫いはゆき」なども同様である。したがって、イハヤとは、堅固な家屋か岩窟のようなところである。岩窟のことはムロ(窟、室)ともいう。

 是の日に、御窟殿みむろのとのの前におはしまして、倡優わざひとどももの賜ふことしな有り。亦歌人うたひと等に袍袴きぬはかまを賜ふ。(天武紀朱鳥元年正月)
 丙寅に、浄行者おこなひひとななたりを選びて、出家いへでせしむ。乃ち宮中みやのうち御窟院みむろのまち設斎をがみす。(天武紀朱鳥元年七月)
 室〈無戸室附〉 白虎通に云はく、黄帝、室〈音は七、无路むろ〉を作り、以て寒暑を避くといふ。日本紀私記に無戸室〈宇都无路うつむろ〉と云ふ。(和名抄)

 僧坊、庵室のことも「むろ」(孝徳紀白雉四年五月)という。天武紀の記事は「神話」とされる天石窟のやりとりを再現したものといえよう。そして、イハヤ、ムロと仏教との関わりもにおわせる。石屋(石窟)が堅固な家屋とするなら、屋根が石材系の瓦葺きであることに対応している。瓦葺きの屋根は当時珍しく、天皇の宮殿でさえ飛鳥板蓋宮あすかのいたふきのみやと断っている。寺院建築に先行しており、斎宮忌詞では寺院を「瓦舎かはらや」という。すると、天の石屋条の話は、アマテラスが瓦葺きの寺に籠ってしまったので、アニミズムの神々が集まって安の河原で引き戻そうと談じたものであるとの解釈も成り立つ(注9)。「やす」は八洲やすで、たくさんの洲のある河原のこと、水を間にしているので神さまたちは互いに喧嘩することがない。
 籠って何かをしようとした著名人は聖徳太子である。法隆寺東院の八角円堂を、いま、夢殿と呼ぶのはその名残である。彼はお堂に籠り、良い知恵が浮かぶのを待っていた。瓦を載せたこじんまりとしたお堂は、金堂や五重塔などの大建築とは異なり、僧坊的、石屋的な印象がある。彼の名はイハヤトに似たウマヤト(厩戸皇子)である。夢殿に安置されている仏像は救世観音である。フェノロサが開くまで長く秘仏とされてきた。扶桑略記に、「百済国の客日羅来朝す。身に光明有り。状火焔の如し。廐戸王子相会ひて清談す。日羅合掌して言へらく、「敬礼救世観世音、伝燈東方粟散国」といへり。」(敏達天皇十二年)、日本往生極楽記に、「母妃皇女夢むらく、金色の僧あり謂ひて曰く、吾に救世の願あり、願はくば后の腹に宿らむ。妃問ふ、誰とか為す。僧曰く、吾は救世菩薩なり。家は西方に在り。」、法隆寺東院縁起に、「則ち八角円堂に太子在世に造り給ふ御影、救世観音の像を安置す。」などとある。太子は救世観音であり、救世観音像は太子の等身大像と言われている。
 救世観音の救世とは世の衆生を救うことで、特に観音のことをいう。いわゆる観音経に、「観音妙智力、能救世間苦。」とあることに由来する。法隆寺ではクセ、四天王寺ではクゼと呼び慣わされている。そもそも観音は、「若し無量百千万億の衆生有りて、諸の苦悩を受けん。是の観世音菩薩を聞きて一心に名を称せば、観世音菩薩は即座に其の音声おんじやうを観じて、皆解脱することを得せしめん。(若有無量百千万億衆生受諸苦悩。聞是観世音菩薩。一心称名。観世音菩薩即時観其音声皆得解脱。)」(妙法蓮華経・観世音菩薩普門品)とあるによるとされる。観ることに主眼を置いた仏さまである。実際には見えないこと、未然のことまで観るためには夢に見るのが一法である。だから、お籠りをして眠るのである。
 クセには曲瀬、すなわち、川の浅瀬の砂や石が多く集まったところの意味がある。

 たま久世くせの 清き川原に 身祓みそぎして いはふ命は 妹が為こそ(万2403)

 「玉久世」は地名とされる。「山城の 来背くせの社」(万1286)、「山城の 久世の鷺坂」(万1707)、「山城の 来背くせわく」(万2362)などともある。今の木津川、もとは泉川と呼ばれた川に面した地である。新撰字鏡に、「〓〔灘の隹の代わりに鳥〕灘 同、正、呼早[旱?]反、しをるるかたち也。水にれ乾く也。又かわく為にるる也。涒に同じ。歳申に在る也。加波良かはら久世くせ、又和太利世わたりせ、又加太かた」(天治本)、「灘 佗単反、平、又勅丹・恥叚二反。砂聚まる也。浅き水顕るるを曰ふ也。一に曰はく、大歳申に在り。涒灘とんだんを曰ふ。加波良、久世、又和太世わたせ、又加太」(享和抄本)とある。涒灘は太歳にさるに当たる。詩経・王風・ちゆう谷有蓷こくいうたいに、「中谷にたい有り 其の乾けるを暵かす(中谷有蓷 暵其乾矣)」とあり、蓷(メハジキ)が水切れでしおれるさまを歌っている。つまり、クセとは河原である。お堂に救世の観音があるとは、「かはら」のなかに「河原かはら」があるようなこと、すなわち、河原と瓦とは同じことだということである。河原は見た目に、瓦同様、石ころがごろごろして、それに直射日光が当たってきらきら光っていることだけでなく、建物を瓦葺きにするのは防火の要請によるもので、河原において消火用水に恵まれることと同じことなのである。河原で禊ぎをして潔斎のために夜明かしすることと、お堂にお籠りして過ごすことは、心のお勤めにおいて同じことである。
 新撰字鏡の親切な説明は、衒学のためではなく、古代の言葉を理解するために必要な事柄を記したもので、辞書として面目躍如たるものがある。
 吉田2008.は、玉川、玉浦、玉江とあるようなタマには、「拾い集める宝石・貝などのタマもあるが、……迂回する・くねりめぐる意の動詞タム(回・曲、自動詞四段)の活用形タマの名詞化したもの」(156頁)ということもあると地勢の上に見ている。筆者は、語の展開という意味ではなく、上代の人の言葉遊びに大いにあり得ることだと考える。すなわち、タマクセ(玉久世)は、まわりまわり、めぐりめぐる渦の状態を同語反復的に示す言葉になっている。念の入ったところで念じているという諧謔を歌っている(注10)。木津川が北流へと屈曲する部分を渦が巻くようだと感じたのかもしれない。

左:木津川の「久世」の「空中写真(1945年~1950年)」(国土省国土地理院「地理院地図(電子国土web)」http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.68001,139.778066&z=16&base=std&ls=ort_USA10&vs=c0j0l0u0をトリミング) 右:タマ川の河原(曲っているところは石が堆積している)

 天の石屋は、説話にあって唐突に出現したように思われている。しかし、スサノヲのいたずらのなかに「天の斑馬ふちこま」を投げ入れることがあり、また、石屋の前でアメノウズメが躍った舞台は、「うけを伏せて」作っていた。転がっていたウケ(ケは乙類)とは飼葉桶のことであろうから、石屋は厩を想定したものであったろう。厩と観音堂の共通点は、中に入っているものが大切なものだから鍵をかけること、湿気を嫌うものだから中を板敷にすること、そして、そこで寝ることなどがあげられる。厩の守り神が猿とされ、扉の鍵の落とし桟の別名は猿である。サルのおかげで中で安心して眠ることができる。クセなる涒灘は、太歳に十二支のさるの別称であった。
 安眠、熟睡のことを、「やす」、「うま宿」という。坂本1972.は、ヤスイは一人寝の安眠、ウマイは男女の共寝の相違と捉えている。万葉集にヤスイは、「またも近江の 安の河 安寐も宿ずに〔安寐毛不宿尓〕」(万3157)、「安寐も宿しめず〔安寐不令宿〕」(万4177)、「安寐なしめ〔安宿勿令寐〕」(万4179)、「安寐しさぬ〔夜周伊斯奈佐農〕」(万802)、「安寐も寝ずて〔夜須伊毛祢受弖〕」(万3633・3771)とある。他方、ウマイは、「人の寐る 味宿は寐ずて〔味宿不寐〕」(万2369)、「人の宿る 味宿は寐ずや〔味宿者不寐哉〕」(万2963)、「人の寐る 味宿はずて〔味眠不睡而〕」(万3274)、「人の寐る 味宿は宿ずに〔味寐者不宿尓〕」(万3329)とある。また、「ししくしろ 味宿ねしとに〔于魔伊禰矢度儞〕」(紀96)ともある。シシクシロは「宍串ろ」、肉の串刺しから美味いを導くとされている。ウマイに「人の寐る」と冠するのは、対するヤスイが安らかな眠りのことながら、天のやすの河原のことから神々の眠りを連想させるからであろう。すなわち、八洲やすによって水に隔てられているから、八十万(八百万)の神々は喧嘩せずに参集できており、眠る時もそれぞれ邪魔されずに安眠できた。よって、ヤスイは一人寝と考えて正しい。この河原のことに対して、瓦の載った建物でよく眠れるのは、神のことではないから「人の寐る 味宿」といい、対照的に共寝のことを表したのではなかろうか。石屋(石窟)と似ているものとしての畜舎としての厩は、馬医草紙絵巻の図に瓦葺きが認められ、官衙の駅家に多く瓦の出土例を見る。馬は複数、時に十頭以上が共寝する。ウマイは馬寐としても機能している。
 天の石屋は観音堂さながらの構成をしている。観音像が堂内に安置されている状態は、厨子に収められているのと同じである。厨子はもとは両開きの食器戸棚であったが、玉虫厨子や橘夫人念持仏厨子のように、仏像を安置する仏龕のこともそう呼ばれるようになった。厨子のヅは慣用音で、また、竪櫃とも呼ばれる。扉は両開きで、観音開きと称されている。仏龕の龕は、岸壁や仏塔の下に彫りこんだ室のことを言った。まさに石屋(石窟)である。法隆寺五重塔の仏龕には釈迦の一生が彫塑されている。家具としての厨子も、正倉院に残る赤漆文欟木厨子を見ていると、ケヤキの木目模様から石窟の印象を与えられる。つまり、観音堂は石窟であり、厨子である。

厨子づしつじ

 故、八十万の神を天高市あまのたけちかむつどへつどへて問はしむ。(神代紀第七段一書第一)

 記、紀本文の神々の参集の場所は「天安之河原(天安河辺)」であった。そのとき、かはら河原かはらとが同等であることを示していた。一書第一に「天高市」が出てくるのは、厨子づしつじとが同じということを示すものであろう。水がかりしない高いところに物品を持ち寄って集まり、市が開かれたところを指して「高市たけち」と言っている。籠り堂となる観音堂も高く険しくそびえる岩窟を利用したり、基壇の上に設けられている。高いところから飛び降りる勇気の形容として使われる清水の舞台のような構造物を伴うこともある。

 海石榴市つばいちの 八十やそちまたに 立ちならし 結びし紐を 解かまく惜しも(万2951)
 紫は 灰指すものそ 海石榴市の 八十の衢に 会へる児やたれ(万3101)
 言霊ことだまの 八十の衢に 夕占ゆふけ問ふ うらまさる 妹はあひ寄らむ(万2506)
 …… 百足らず 八十の衢に うらにもそ問ふ 死ぬべき吾が故(万3812)

 交差点になったところに市は開かれ、四つ辻に立って往来の人の言葉を聞いて物事を占った。ゆふ辻占つじうらである。占いは未然のことを観ることである。観音という語が依ってたつ意と同じである。お籠りとは、未然のことを知る知恵を授かるためのものである。すなわち、籠り堂、「厨子づし」は、衢のことをいう「つじ」と同等である。天孫降臨に先立つ場面やイザナミの死ぬ場面に次のようにある。

 「天の安の河の河上の天の石屋に坐す、名は伊都之尾いつのを羽張神はばりのかみ、是つかはすべし。若し亦、此の神に非ずは、其の神の子、建御雷たけみかづち男神をのかみ、此遣すべし。また、其の天尾羽張神あめのをはばりのかみは、さかしまに天の安の河の水をき上げて、道をふさるがゆゑに、あたし神は行くこと得じ。故、こと天迦久神あめのかくのかみを遣して問ふべし」(記上)
 時に、天石窟に住む神、稜威いつの走神はしりのかみみこ甕速日神みかのはやひのかみ、甕速日神の子熯速日神ひのはやひのかみ、熯速日神の子武甕槌神たけみかづちのかみす。(神代紀第九段本文)
 故、斬れるたちの名は、あめ尾羽張をはばりと謂ふ。亦の名は、伊都之尾羽いつのをはばりと謂ふ。(記上)

 「所斬之刀」とは、カグツチを斬った十握剣とつかのつるぎのことを言っている。それが天の石屋にあるという。石屋には厨子があったはずだから、ヲハバリ、ないし、ヲハシリとは、ヅシやツジと関係があることになる。
 新撰字鏡に「躑 馳戟都歴二反、蹢字同、踦也、躅也、乎波志利をばしり」とある。漢語の躑躅テキチヨクは、行っては止まりすること、二、三歩行っては止まること、さらに、片足跳びのケンケンのことをいう。武烈前紀に、「躑躅たちやすら従容たちほこる。」とある。この熟語はまた、ツツジとも訓む。植物のツツジの語源は明らかでないが、和名抄に、「羊躑躅 陶隠居に云はく、羊躑躅〈擲直の二音、伊波都々之いはつつじ、一に毛知豆々之もちつつじと云ふ〉は羊、誤りて之れを食ひ躑躅して死ぬ、故に以て之れを名づくといふ。」とある。今日、レンゲツツジと呼ばれる種とされている。アセビが古語に「あしび」、万葉集に「馬酔木」とも書かれ、馬がこの葉を食べるとすぐに酔うから名づけられたとするのと同様とされている。和名のあしびについては、あししひ(癈)の意かとされている。葉や茎の煎汁を駆虫剤にし、ピクニックの敷物に含ませて活用した(注11)
 羊には、仏教に「羊の歩み」という慣用句があり、源氏物語・浮舟にも使われている。大般涅槃経に、「是の寿命を観ずるに、常に無量の怨讎の遶る処と為り、念念に損減して増長する有ること無し。猶ほ山の瀑水の停住するを得ざるがごとく、亦朝露の勢久しくは停まらざるが如く、囚の市に趣きて歩歩死に近づくが如く、牛羊を牽きて屠所に詣るが如し。(観是寿命、常為無量怨讎所遶、念念損減無有増長。猶山瀑水不得停住、亦如朝露勢不久停。如囚趣市歩歩近死、如牽牛羊詣於屠所。)」(巻第三十八)とある。羊は生贄に捧げられるべき動物とされていたことによるという。すなわち、囚人同様、市中引き回しのうえ獄門である。死のことである涅槃と密接な関係にあると捉えられており、見せしめのために首をさらされる刑場は、人々の集まる河原や大路の交差点であり、辻に牽かれるからヒツジと和訓に名づけられたと考えられる。く、羊とも、ヒは甲類である。推古紀七年九月条に、「百済、駱駝一匹・うさぎうま一匹・羊二頭・白雉しろきぎす一隻を貢れり。」と、本邦に棲息しないものが献上されている。他に、雄略紀二年十月条に、「遂に林泉しま旋憩めぐりいこひ、藪沢やぶさは相羊もとほりあそび、行夫かりひとやすめて車馬みくるまかぞふ。」とある。車輪のだんだん止まっていく様を形容している。
 歩みが遅くなることは、足の病気、アシナヘである。新撰字鏡に「癖 疋亦反、入、腹内癖病也、あし奈戸なへ也」、「䮿 才安反、あし奈戸久なへぐうま」、和名抄に「蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓は阿之奈閇あしなへ、此の間に那閇久なへぐと云ふ〉は行くこと正しからざるなりといふ。」とある。蹇の音がケンなので片足跳びをケンケンというのかもしれない。名義抄には「癖 音へき、ヒヤク、クセ、宿食不消」とある。消化不良の病の字とされ、腹が痛いから脚を曲げて痛みをこらえている形になる。つまり、救世観音のクセとは、「久世」と記された曲瀬ばかりでなく、ツツジを食べて「足なへ」になった羊のことでもあることになり、漢語、躑躅の意とオーバーラップしている。厨子とは辻なのである。
 万葉集では、ツツジバナの用字に「茵花」(万443、3305)とあり、和名抄に「茵芋 本草に茵芋〈因于の二音、迩豆々之につつじ、一に乎加豆々之をかつつじと云ふ〉と云ふ。」、新撰字鏡に「槃 上字同、豆々自つつじ」、「茵芋 岡豆々志つつじ、又云、伊波豆々志いはつつじ」、「羊躑𨅛花 三月に花を採り陰干しにす、毛知豆々自もちつつじ」とある。槃は般に通じ、めぐる、もとほるの意である。茵芋(茵蕷)(注12)は本草経集注に記載がある。茵はしとねである。説文に「茵 車の重席ちようせきなり、艸に从ひ因声」とあり、儀礼・燕礼・大射礼に「司宮、重席をあはせ捲き、賓の左に設けて東を上とす。(司宮兼捲重席、設於賓左東上。)」とある。この座布団は、円座、藁蓋のことと思われたのであろう。縄をまるく巻き、それを車状にとめたものである(注13)。ツツジのツツは、ハブを表すこしきの異称、「筒」のことと考えられたのではないか。羊躑躅のこととされるレンゲツツジをはじめツツジの特徴として、枝が車枝になることが知られる。剣の神が縄の変形であるのは、剣に蛇身を見るからで、蛇はまたクチナハといい、朽ち縄の意かという。馬の毛に見られる旋毛つむじを巻くように、蜷局とぐろを巻いたようになっている。渦巻く様子は円座、藁蓋を髣髴とさせる。したがって、ヲバシリとはツツジである。
 また、「尾羽張」については、つむじ風のとき、鳥は尾、羽をピンと張る。和名抄に「飆 文選詩に云はく、廻飆、高樹を巻くといふ〈飆の音は焱、和名は豆无之加世つむじかぜ〉。兼名苑注に云はく、飆は暴風下より上るなりといふ。」とある。「飄風」(神功前紀仲哀九年三月)、「飃」(万199)、「猛風〈川牟之加世つむじかぜ〉」(霊異記上34)、名義抄に「辻 ツムシ」とあり、馬の旋毛のこともいい、ツジの古形、ないしは同形とされている。やはりぐるぐると巻きあげるイメージである。そして、旋風が起こりやすいのは河原である。水の上と地の上では太陽熱による気温上昇に違いがあり、大気の状態が不安定化しやすい。よって、「尾羽張」と「雄走」とは同じ意味でひとつの言葉、ツジを表し、厨子の変改したものであることを語っている。記では「逆塞-上天安河之水」とある。河の水を堰き止めてダムにすることが「逆」になるには、道具の用法が通常とは反対という意味であろう。円座は、藁蓋なる蓋であるから、上から被せ敷くのが順当なところ、逆に下から持ち上げる形で排水溝にあてがって塞ぐことを言っている。つむじ風が下から上へと逆方向に吹くと、葺いてある屋根瓦が剥がれ飛ぶ。厨子に当たる石屋(石窟)に籠っていたアマテラスは覚悟して再度現れることになっている。ヤマトコトバの言葉の論理のキー、癖のある曲った鉤が開いたということである。論理階梯を踏み越えて和訓が定まった瞬間を物語る説話になっている。
 この話は、枢戸があり鉄製のくるる鉤があること、馬がいて厩の様子がわかること、瓦をカハラとヤマトコトバに理解して瓦葺きの建物を見ていること、観音ならびに観音堂のことを知っていること、といった条件が揃ってはじめて生まれるものである。お堂に籠ることが伝承で聖徳太子に結び付けられている以上、この話は太子によって創られたか、その周辺の産物と見るのが確からしい。相当な知恵をもっての作であることから考えて、並大抵の頭脳ではなかったとされる聖徳太子その人に起因するものと筆者は考える。それを外側から証明する術はない。しかし、言葉の上では、話の内側から完結的に自己定義して閉じた一つの系を得ている。文字を持たなかった人たちが知恵を駆使してすべてを話のなかに落し込みくるみあげてしまったものが、たまたま文字時代の幕開け期に書記化されて記紀の形で残っている。異なる文化圏の異なる考え方による傑作として迎えられなければならない。

(注)
(注1)「○閇、旧印本延佳本共に開とカケるは誤なり、今は一本に依つ、さて多弖々タテテと訓むべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/200、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注2)時代別国語大辞典329頁。
(注3)正倉院の扉は海老錠のうえに封印することで知られる。
(注4)カギとしては、開き戸のあおりどめも絵巻等には見られるがここでは割愛する。
(注5)鎹は掛金とも呼ばれ、その場合は鍵は「かける」ものであろう。
(注6)くるる鉤の場合、長さや曲り具合の角度を調節すればにわか作りのものでも開かないことはない。鍵開け師がどこでも使えるマスターキーとして持ち合わせていたと思えばよいだろう。
(注7)倭姫命世記には、「天の磐戸のかぎあづかり賜はりて」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018230/9?ln=ja参照)とある。
(注8)「神話」という言葉は myth の訳語として明治時代中期に発明されたものである。その呼称に囚われて、神さまのことだから人がすることとは別次元であり、空想の産物であると考えるのは不適切である。
(注9)岩窟に籠る修行も仏教由来かと感じさせられる。この話が創作されたのは、案外新しく、少なくとも弥生時代まで遡ることはできないだろう。
(注10)「玉久世」について、山田1955.は、「按ふに[新撰字鏡]天治本の注の「カハラ」と「クセ」とは二語にして同義のものなるべし。「クセ」といふ語はこれの外に普通には見えねど、地名には山城国に久世郡、久世郷あり。その地は蓋、木津川の渡瀬のありし所なるべし。又巨勢と云へる地名もこの「クセ」の一転せし語ならむ。さてこの歌[万2403]を顧みるに「玉久世」は字のまゝに「タマクセ」とよみ、その久世即ち河原の石の清きを玉になぞへて称美したる語なるべく清き河原といへる語に対して重ねていへる語にして殆ど枕詞といふべき位置に立てりと認むべし。さればこの歌たゞ清き河原に身祓きして妹が為に斎ふといふに止まれるに似たり。」(147頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注11)今日、鹿の食害に悩まされ、庭園のツツジの新芽、花の芽は食べられるため、代りにアセビが植栽されることがある。
(注12)木下2010.378~381頁はシーボルトの標本をも引き、「茵芋」はミヤマシキミではないかと推論している。
(注13)和名抄に「茵〈褥附〉 野王曰はく、茵〈音は因、之土祢しとね〉は茵褥、又、虎・豹の皮を以て之れを為るといふ。唐韻に云はく、褥〈而蜀反、辱と同じ、俗に音は迩久、今案ふるに毛の席の名なり〉は氊褥なりといふ。」、「円座 孫愐に曰はく、䕆〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ひ、一に和良布太わらふだと云ふ〉は円い草の褥なりといふ。」とあり、別項ながら「褥」の一種として円座を捉えている。拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」参照。

(引用・参考文献)
澤瀉1962. 澤瀉久孝『万葉集注釈 巻第十一』中央公論社、昭和37年。
木下2010. 木下武司『万葉植物文化史』八坂書房、2010年。
合田1998. 合田芳正『古代の鍵』ニューサイエンス社、平成10年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第二巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
坂本1972. 坂本信幸「宮人の安宿も寝ず」『萬葉』第78号、万葉学会、昭和47年2月。萬葉学会ホームページ http://manyoug.jp/memoir/1972
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
高橋1985. 高橋康夫『建具のはなし』鹿島出版社、1985年。
西宮1975. 西宮一民「古事記訓詁二題」関西大学国文学会編『吉永登先生古稀記念 上代文学論集』関西大学文学会、1975年。
水野2011. 水野清『記紀万葉語の研究』笠間書院、2011年。
山田1955. 山田孝雄『万葉集考叢』宝文館、昭和30年。
吉田2008. 吉田金彦『吉田金彦著作選2 万葉語の研究 下』明治書院、2008年。

加藤良平 2023.5.31加筆初出

大化改新を導いた「打毬」記事について─蹴鞠かポロかホッケーか─

皇極紀の「打毱」記事

 皇極紀にある「打毱」は、中臣鎌足なかとみのかまたり中大兄なかのおほえとが厚誼を通ずるきっかけとなった出来事として有名である。脱げた靴を拾ってあげたことが感動的な出来事として扱われてきた(注1)。二人は出会い、後に大化改新へとつながった。藤氏家伝には「蹴鞠」とある。

 ……中臣鎌子なかとみのかまこのむらじを以て神祇伯かむつかさのかみす。再三しきり固辞いなびてつかへまつらず。やまひまをして退まかりいでて三嶋にはべり。……中臣鎌子連、為人ひととなり忠正ただしくして、ただすくふ心有り。乃ち、我臣入がのおみいる鹿が、君臣きみやつこらま長幼このかみおととついでを失ひ、社稷くに𨶳〓うかが〔門構に視の旧字、門構に俞〕ふはかりことわきばさむことをいくみ、歴試つたひて王宗きみたちみなかまじはりて、功名いたはりを立つべき哲主さかしききみを求む。便すなはち、心を中大兄なかのおほえに附くれども、䟽然さかりて未だ其の幽抱ふかきおもひぶることず。たまたま中大兄の法興ほふこうつきの樹のもと打毱まりくうるともがらくははりて、皮鞋みくつの毱のまにまに脱け落つるをまもりて、掌中たなうらに取りちて、すすみてひざまづきてつつしみてたてまつる。 中大兄、むかひざまづきてゐやびてりたまふ。これより、むつみして、倶におもへるを述べ、既にかくすこと無し。後にひとしきりまじはることをうたがはむことを恐りて、倶に手に黄巻ふみまきりて、自ら周孔しうこうのり南淵先生みなぶちのせんじやうもとに学ぶ。遂に路上みちのあひだ往還かよころほひに、肩を並べてひそかに図る。相かなはずといふことなし。(皇極紀三年正月)
 更欲君。歴-見王宗。唯中大兄雄略英徹。可与撥_乱。而無参謁。儻遇于蹴鞠之庭。中大兄皮鞋随毬放落。太臣取捧。中大兄敬受之。自茲相善倶為魚水。(家伝上・鎌足伝、天平宝字四年(760))

 大系本日本書紀に、「毱は鞠に同じで、まり。打毱は打毬をもいう。打毬には二義があり、一に騎馬で曲杖をもって毬をうつポーロ風の遊戯をいい、荊楚歳時記や史記正義では、蹴鞠(けまり)をいうという。蹴鞠は数人が一団となり、両団が相対して、まりを蹴る競技。競馬の打毬は平安朝に行われたが、ここのは蹴鞠のこと。家伝に「儻遇于蹴鞠之庭」とある。クウルの訓、岩崎本の古い朱の傍訓による。蹴の古い活用は、奈良時代の蹴散、クヱハララカスに見られるように、ワ行下二段活用。ここは、その連体形でクウルの実例とみるべきもの。」(217頁)と適切な解説が付されている。一方、新編全集本日本書紀には、「「打毱」は『和名抄』にマリウチの訓がある。蹴鞠けまりとは異なり、打杖で毱まりを打って勝負を争う、今日のポロまたはホッケー風の競技。本条もこれであろう。」(86頁)とある。新編全集本が引くのは、狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に所載の和名抄である。「打毬 唐韻に云はく、毬〈音は求、打毬は内典に或に之れを拍毬と謂ひ、萬利宇知まりうちと云ふ。〉は、毛丸打つ者なりといふ。劉向別録に云はく、打毬は昔、黄帝の造る所なり、もと兵勢に因りて之れをつくるといふ。」とある。他の十巻本諸本にはその記述はなく、「蹴鞠 伝玄弾棊賦序に云はく、漢の成帝之れを好むなりといふ。〈世間に末利古由まりこゆと云ふ。蹴の字は千陸反、字は亦、蹵に作る。公羊伝注に、蹴鞠は足を以て逆に蹈むなりと云ふ。〉」とある。大系本の注にあるとおり、「打毬」には二義あって、後にダキュウと呼ばれるポロ風の競技と、今日まで伝わる蹴鞠とが一つの漢語で表されていた。狩谷棭斎もそう考えている(注2)

ダキュウのこと

 ダキュウは、西宮記六・五月「幸武徳殿」に、「打球者四十人列殿前再拝、雅楽挙幡奏楽。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200019272/198?ln=ja)などと記されるとおり、左右楽を伴って華やかに賑やかに騒々しく行われる宮中行事として伝わっている。その最初の記事は万948・949番歌の左注にみえる。

  四年丁卯の春正月、もろもろおほきみ・諸の臣子おみのこ等にみことのりして、授刀寮じゆたうれう散禁さんきんせしめし時に、作れる歌一首〈并せて短歌〉
 くずふ 春日かすがの山は うちなびく 春さりゆくと 山のうへに 霞た靡き 高円たかまとに うぐひす鳴きぬ もののふの 八十やそともは かりの 来継ぐこの頃 かく継ぎて 常にありせば 友めて 遊ばむものを 馬並めて かまし里を 待ちかてに 吾がせし春を かけまくも あやにかしこく 言はまくも ゆゆしく有らむと あらかじめ ねて知りせば 千鳥鳴く 其の佐保さほがはに いはふる すがの根採りて しのふ草 はらへてましを く水に みそきてましを 天皇おほきみの 御命みことかしこみ ももしきの 大宮人の 玉桙たまほこの 道にも出でず 恋ふるこの頃(万948)
  反歌一首
 梅柳 過ぐらくしも 佐保の内に 遊ばむことを 宮もとどろに(万949)
  右は、神亀四年の正月にあまた王子おほきみ、及び諸の臣子等おみのこたちの春日野につどひて、打毬うちまりたのしびす。其の日、たちまちあめくもり雨ふりかみなりいなびかりす。此の時に、宮中にじゆ、及びゑい無し。みことのりして刑罰つみに行ひ、皆授刀寮に散禁して、みだりに道路みちに出づることを得ずあらしむ。時に悒憤おぼほしく、即ちこの歌を作れり。作者は未だ詳らかならず。

左:「打毬(だきゅう)」(宮内庁ホームページhttp://www.kunaicho.go.jp/culture/bajutsu/dakyu.html)、右:蹴鞠(しゅうきく保存会実演)

 宮中から人々がいなくなるほどの大スポーツ大会を勝手に催したらしい。職務をさぼって大騒ぎ、大はしゃぎをし、事後、大目玉を食らい、しょんぼりおとなしくしている風情を歌っている。喧噪と静寂が対比されている点が、歌の眼目になっている(注3)

「打毱」は蹴鞠であること

 他方、蹴鞠は、懸りと呼ばれる木の下で、丸く円を描くように並び立って鞠を蹴り合う遊戯であり、私語が禁じられている。現在の蹴鞠儀式でも、観客向けのアナウンスや観衆の歓声以外は静かである。蹴る人が合図に発するアリ(また、ヤクワ、ヲウとも)という言葉以外、本来、無言のゲームである(注4)。平安末期の蹴鞠故実書、藤原成通(承徳元年(1097)~ 応保二年(1162))の成通卿口伝日記に、次のようにある。

一足ぶみのべ足の事。
よの人皆左をさきにたつ。心々の事となれども。右の足を先にふむ。かたがたいみじき事也。是又左をかろくなさん為なり。右を先にたつれば。一またにのびんと思に。のびらるゝ様なり。左を先にふめば。右ふみかへられ。ちがへざればすくれたり。能々心得よ。必ず右の足を先にふむことしつくべし。
一鞠の時の身の振舞の事。
心をゆるに思べからず。心の中に躰をせめよ。あらはにせめつれば。こはくみえてたはやかならず。足を後ろへにがし頭をすゝむるはよしといふ。その様をしつけつれば。猶たはやかならず。只心のうちにおもへば。色にいでぬはたをれたる物からしたゝかなり。又庭にあらむ人とに。心をゆるにすまじ。皆敬ひ畏まりて。うちとくる事なかれ。さりとてにらみはるにはをよばざれ。打とけつれば。しどけなきことの侍也。心を潜めてうはなだらかなるべし。
一鞠に立て。しげく物いふべからず。いたり様に物をしへすべからず。高く笑ふべからず。さりとてにがりたるけしきにみゆまじ。心に面白く思へ。
一鞠にたちて。ゆめゆめべちの事を思べからす。ひとへに鞠に心を入よ。……(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879539/200・202)

 また、作者不詳の蹴鞠百五十箇条に、「百三十八 まりの場に出ては。こひごゑの外。うむの事いわぬものなり。」、室町時代の飛鳥井雅康(二楽軒宋世)(永享八年(1436)~永正六年(1509))の蹴鞠百首和歌には、「ありといふ声より外にいふ事は鞠のかかりにせぬとこそ聞け」(各、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936508/42・28)とある。次に蹴る合図にアリという掛け声をかけることだけが許されていた。
 なぜそうしたのか。集中しないとできない曲芸なのだからそう約束している。言葉を発してよいのは、蹴られた鞠を次に受ける時に発するアリなどという合図に限られていた。鞋が脱げてまさかのタイムの状態になっていても言葉を発してはならなかった。言葉を発することなく鎌足は中大兄の求める意のままに行動し、意気投合している。このようなことは男女間の恋愛において時に見られる。互いに一目惚れをした時、あるいは、交際中の絶好調の時、お互いに目と目を見つめ合ってウンウンと頷くだけで思いが伝わる。数年経てばあれは誤解であったと気づくのであるが、当人同士は恋に夢中なのでどうしようもない。運命の出会いだと思っている。恋愛は感動的である。鎌足と中大兄の出会いは、状況設定が蹴鞠の場という言葉を発してはならないところで言葉を発せずに意思が伝わったから恋愛のように感動的なのである。
 皇極紀の記事には、鎌足が中大兄の「候皮鞋随毱脱落、取-置掌中、前跪恭奉。」に対し、中大兄は「対跪敬執。」とある。終始、無言である。これはパントマイムである。そんな無言劇が演じられた背景を想定するとすれば、舞台設定としておしゃべりが禁じられている蹴鞠だからである。そして、「皮鞋随毱脱落」とあるのだから、皮鞋と毱とが当初から密接な関係になければならない。蹴ったから同じ革製品が一緒に飛んで行ったのである。ポロやホッケーの場合、「[自握手]杖随毱脱落」ということになるし、木製品と革製品とが同時に動いてもおもしろくない。その杖は箸よりも格段に長いから、「取-置」というわけにはいかない。
 鎌足は、天皇家に蘇我氏が並び立っている政治体制を打破したいと考えている。冠位十二階の制定以来、蘇我氏も位を授ける側にあるという通念を打破しなければならない。当たり前だと思われていることを覆すには、たくさんのことを語らなければならない。しかし、世は蘇我氏が牛耳っており、妙な動きが知れれば中大兄ともども身の危険にさらされる。神祇伯を固辞して出仕しなかったり、南淵請安先生のところへ勉強に行くふりをして道々二人だけで語らう時間を作るなど、蘇我氏側、すなわち、時の政権側に悟られないように腐心している。皇極紀の「打毱」の記事は、たくさん話したい→無言劇→たくさん話す、という流れの結節点になっている。わかりやすい構図が示されている。
 紀の執筆者は、「打毱」という語の、喧騒と静寂、饒舌と沈黙の両者がまとめられている点に興味をもち、わざわざ「打毱」と記したように思われる。もし、皇極紀の「打毱」がポロ風の競技とすると次のような矛盾にも陥る。鎌足と中大兄はポロの最中にふつうに会話を交わすことができる。そのようにして意気投合したと仮定すると、話が蘇我氏側に聞こえてしまい直ちに拘禁されることになる。戦前の日本やスターリン時代のソ連を思えばわかるように恐怖政治時代である(注5)。話をしているという形式だけでクーデターを計画しているという内容にまで見なされてしまう。そういう意味合いを込め、紀の記述は行われている。逆に、ポロ競技の大騒ぎの最中にパントマイムを演じているとすると、あまりにも場違いで不自然であり、それこそ蘇我氏側に怪しまれるだろう。偶然にも、中大兄は言葉を交わすことが禁じられている蹴鞠をしていた。皇極紀にはきちんと「偶」と記されている。話をせずに好を交わす千載一遇のチャンスであったことが明示されている。「随」や「偶」など、語一語に意味を込めながら録していくふひとの姿勢は、司馬遷を髣髴させるものがある。

軽皇子像描写による傍証

 恐怖政治の下にあっては、安易に人を介して話をしたりすることは慎まなくてはならない。世に知れれば命はないからである。そういう用心深さがあるかどうか、それは蹴鞠の場の無言に耐えられるかどうかに象徴的に表れる。中大兄はそれができたから中臣鎌足の目にも頼もしく映った。それ以前に鎌足が厚誼を通じていた軽皇子(後の孝徳天皇)はそうではなかった。冒頭にあげた日本書紀の中略部分に、軽皇子の挙動が記されている。藤氏家伝には前段記事として載っていて評価も下されている。

 時に、軽皇かるのみ患脚みあしのやまひしてまゐりつかへず。中臣鎌子連、いむさきより軽皇子にうるはし。かれの宮に詣でて、侍宿とのゐにはべらむとす。軽皇子、深く中臣鎌子連の意気こころばへ高くすぐれて容止かたちれ難きことをりて、乃ち寵妃めぐみたまふみめ阿倍氏あへしを使ひたまひて、別殿ことどのきよはらへて、にひしきねどこを高くきて、つぶさかずといふことからしめたまふ。ゐやあがめたまふことことなり。中臣鎌子連、便ちめぐまるるにかまけて、舎人とねりに語りて曰はく、「こと恩沢みうつくしびうけたまはること、さきよりねがへるに過ぎたり。たれか能く天下あめのしたきみとましまさしめざらむや」といふ。〈舎人を充てて駈使つかひとせるを謂ふ。〉舎人、便ち語らへるを以て、皇子にまをす。皇子大きに悦びたまふ。(皇極紀三年正月)
 于時軽皇子患脚不朝。太臣曽善於軽皇子。故詣彼宮而侍宿。相与言談。終夜忘疲。軽皇子即知雄略宏遠智計過_人。計特重礼遇全得其専。使寵妃朝夕侍養。居処飲食甚異異于人。太臣既感恩。潜告親舎人曰。殊蒙厚恩。良過望。豈無汝君為帝皇耶。君子不言。遂見其行。舎人伝語於軽皇子。皇子大悦。然皇子器量不与謀大事。(家伝上・鎌足伝)

 鎌足は舎人を使って伝言を聞くに慎重かどうかを探っている。軽皇子は、「患脚」だから蹴鞠ができない。つまり、黙っていることができないことが暗示され、人づての話を真に受ける程度の人物は、「器量不与謀大事。」であると断じられているのである。恐怖政治下においてクーデター計画を練って実行する際、共謀者に求められる資質が述べられている。皇極紀の「打毱」が蹴鞠であることを支持している。

蹴鞠の動作のフムとクウ

 蹴鞠は難しい。和名抄の「蹴鞠」の項に、「以足逆蹈也。」とあった。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄には、「所引公羊伝注、宣六年文、原書作足逆躢曰_踆、蹋躢同、見広韻、蹋踏同、見集韻、唯作踆与此所_引不同、按唐石経公羊伝作踆、与今本同、釈文亦云、踆音存、則源君所引似誤、然慧琳音義引作足逆蹋曰_蹴、五見皆同、蓋古有蹴本也、曲直瀬本以足上有蹴字、那波本有蹴鞠二字、鞠字衍、山田本踏作蹈、那波本同、按踏躢皆蹋字異文、踏蹈並訓践、然非同字、踏与公羊伝注合、則作蹈誤、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1872112/1/137、漢字の旧字体は改めた)とある。蹴鞠は逆に蹈むことが明示されており、足の行方として、フムとは逆の言葉、上代語のクフについて、きちんとした理解が求められている。
 時代別国語大辞典は解釈に苦しんでいる。

くう【蹴】(動下二)蹴る。「若沫雪くゑハララカス倶穢簸邏邏箇須くゑハララカス〉」(神代紀上)「此雷悪怨而鳴落、くゑ久恵くゑ践於碑文柱」(霊異記上一話興福寺本)「偶預中大兄於法興寺槻樹之下くうるマリ之侶」(皇極紀三年)「当麻蹶速くゑハヤ」(垂仁記七年)【考】梁塵秘抄には「馬の子や牛の子にくゑさせてん、ふみわらせてん」のように古形を存しているが、名義抄では「蹢クヱル」のほかに、「蹴 化ル、クユ、コユ」という形も見える。「天皇祈曰、朕将此賊、当くゑムニ茲石、譬如柏葉而騰、即くゑタマフニ之、騰柏葉、因曰蹶石野クヱイシノ」(豊後風土記直入郡)の「蹶」はクヱとも訓まれるが、フムとも訓めることは次の地名説話との関連においてもいえる。「朕得土蜘蛛者、将フマムニ茲石、如柏葉而挙焉、因フミタマフニ之、則如柏上於大虚、故号其石蹈石ホムシ也」(景行紀十二年)。第三例の「打毱」の岩崎本の朱点傍訓はクウル(マリ)とあり、釈日本紀・秘訓にはクユルと見える、名義抄や世尊寺字鏡にあるように、蹴るの意味で、クユという語もあったらしいが、上代における存在は疑わしい。これと関係づけて考えるべきは、新撰字鏡の「〓〔足偏に可〕〓〔足偏に巴〕〓〔足偏に可〕行皃、用力也、立走、又古江奈良不こえナラフ・〓〔足偏に商〕万利古由マリコユ、又乎止留」、和名抄の「蹴鞠末利古由マリコユ」、その他「脚ノ指ヲモチテ地ヲエテ足ヲ壊リツ」(小川本願経四分律甲本古点)「右ノ足ヲ以テ之ニユルニ足復粘着ス」(石山寺本大智度論古点)や前掲の名義抄などに見えるコユという語である。これが果たして、いわゆるケルという意味を有する語であったか、あるいは、強く踏む・おどり上がるの意で、むしろ越ユと関係づけられる語であったかなどの点は問題であるが、アゴエという語が、これととの複合語であったとすれば、この語の上代における存在を想定することもできよう。クユは、あるいは、クウが、このコユへの類推によって変化して、生じた形かもしれないが、また一説には、クウという終止形はなく、古くルは、ク・ク・クル・クル・クレ・クヨのように下一段活用としたとの考え方もある。→あごえ・ふむ(252頁)

 ふつうに考えれば、足を地面へ押し当てるように step , tread することがフムであり、足を使って物を上方ないし前方など、地面とは違う方向へ kick することがクウという言葉であろう。だから、和名抄に「以足逆蹈也。」とある。「蹈む」という語の範疇に、「蹴鞠」の「蹴」の語意が、方向として逆であるが含まれている(注6)。上代語のクウ(下二段活用、クヱ・クウ・クウル)という語は、その後廃れてケルという語に取って代られた。その中間的な、他語とないまぜの形として、名義抄に、「蹴 化ル、クユ、コユ」などとあると考えられる。
 蹴鞠において、鞠を蹴るということは、なによりも第一に、前段階として、地面を踏むことが必要なのである。ステップすることがキックの要件である。それは、今日のサッカーにおけるリフティングでも同じことなのかもしれないが、蹴鞠では右足だけで蹴ること(注7)、重々しいユニフォームを身に着けていて動きにくいこと、鞠が正球を目指しているわけではなく二球を合体させたようなものであること、かかりの木のような煩わしいもののあるところで行うこと、人の輪の方を向いて蹴るのが正式であること、などの条件が課せられている。非常に難しい。ここに、古語の、クウ(蹴)という語とフム(踏・蹈・蹶)という語とが、相反しながら親近する性格が見えてくる。

相撲のフムとクウ

 クウとフムは、豊後風土記や景行紀の用例に見られるように、両訓可能な点で概念に重なるところがある。次に挙げる相撲の起源話には、「蹶」という字にクヱともフムとも傍訓が付いている。

 ……左右もとこひとまをしてまをさく、「当麻邑たぎまのむらに勇みこほひと有り。当摩蹶速たぎまのくゑはやふ。其の為人ひととなり、力こはくして能くつのかぎぶ。恒に衆中ひとなかに語りて曰はく、『四方よもに求めむに、あに我が力にならぶ者有らむや。いかにして強力者ちからこはきものに遇ひて死生しにいくことはずして、ひたぶる争力ちからくらべせむ』といふ」とまをす。天皇すめらみこときこしめして、群卿まへつきみたちみことのりしてのたまはく、「われ聞けり、当摩蹶速は、天下あめのした力士ちからびとなりと。けだし此にならぶ人有らむや」とのたまふ。ひとりまへつきみ進みて言さく、「やつかれうけたまはる、出雲国いづものくに勇士いさみびとはべり。見宿みのすくと曰ふ。こころみに是の人をして、蹶速にあはせむとおもふ」とまをす。そのに、倭直やまとのあたひおやなが尾市をちつかはして、野見宿禰をす。是に、野見宿禰、出雲よりまういたれり。則ち当摩蹶速と野見宿禰と捔力すまひとらしむ。二人相むかひて立つ。おのもおのも足を挙げて相む。則ち当摩蹶速が脇骨かたはらほねを蹶みく。亦其の腰をくじきて殺しつ。かれ、当摩蹶速のところりて、ことごとくに野見宿禰に賜ふ。是以これ其の邑に腰折こしをれ有ることのもとなり。野見宿禰は乃ちとどまり仕へまつる。(垂仁紀七年七月)

 今日の大相撲の四十八手に、上の例のような足で踏みつけるような技、殺すような仕儀はない。天武紀には隼人の相撲の例が載る。

 是の日、大隅おほすみ隼人はやひと阿多あたの隼人と朝廷みかど相撲すまひとらしむ。大隅隼人勝ちぬ。(天武紀十一年七月)

 この天覧相撲の場合も、今日の興業に見られるものに近いものであったろう。余興としての性格が強く、ローマのコロッセオのような殺し合いはなかったものと思われる。垂仁紀の「二人相対立。各挙足相蹶。」は、今日の相撲において「仕切り」とされる仕儀に当たるのではないか。今日、呼びあげられて土俵に上がり、まず、徳俵のところで「二人相対立。各挙。」という動作となっている。仕切り動作の最初に、拍手を打つ仕種をするのは、手に何も持っていないことを示すためでもあろうし、それが相手に対して足を使って蹴るものではなく、手を使って押したり引いたり投げたりはたいたりする競技であることを誓うものでもあろう。「各挙足相蹶。」とは、土俵の隅の塩や水のあるところへ一度行ってからのことで、そこで四股を踏んでいる。
 すなわち、野見宿禰は、仕切りの際の準備運動の四股をフム所作を実際の試合のこととしてしまい、いきなり(「則」)フミ(蹶・蹈)つけたということではなかろうか。出雲国出身の田舎者には相撲のしきたりがわからなかったのである。シキリとはシキタリのことである。出雲国から「まういたれり」とあって、「きたり」とは書いてない。説明がなかったのだから野見宿禰に悪気はない。勝ちは勝ちである。大しておもしろくない洒落であるが、他に考えようがない。そして、言葉としては、フムことがケルことに先んずることを物語っている。蹴鞠の所作と同じである。神代紀にも、スサノヲを迎えるにあたってアマテラスは、髪や服装、装身具、武器を整え、それにつづいて見得を切るような所作をとる。

 ……堅庭かたにはみてむかももふみぬき、沫雪あわゆきごとくに蹴散くゑはららかし、〈蹴散、此には倶穢簸邏邏箇須くゑはららかすと云ふ。〉……(神代紀第六段本文)

 その後、雄叫びをあげている。先に「蹈」んでから「蹴散」、今日の言葉で言えば蹴散らしている。堅い大地を股まで左足は踏みしめて、軸足を確かなものにして、それから勢いよく右足を振り抜いて蹴っている。軸足が不確かでは蹴ることはできない。クウはフムが前提なのである。ここに蹴鞠の絶対的なルールとしての無言劇が立ち現れる。大相撲においても、土俵上で取組中に声をあげることに抵抗感があったり、仕切りの姿勢が行き過ぎると違和感があると評されるのは、人々の意識の底に「相撲とは何か」についての考えが根づいているからだろう(注8)。フムことについての観念が行き渡っている。

フムの奥義

 蹴鞠においておしゃべり、私語がなぜ禁止されているのか、その理由についてはこれまで深く考究されたことはなかった。口伝書に、キックの新技などが盛んに記される陰で、当たり前の事として書かれている。当然のことだからである。第一に、集中しなければ、鞠を地面につけないようにして一定の高さを保って蹴り合い続けることは難しい。スポーツとして、運動の技能としてそのとおりだろう。と同時に、第二に、上手に蹴るためには上手に蹈むことが求められるのである。四股と言いながらも二足歩行動物である。歌いながらダンスをするパフォーマンスは進歩したが、フリートークをしながら同じダンスをすることはかなり難しい。そして第三に、釈日本紀・巻第十六の秘訓一に、有名ながら途方もないこととされている解釈が載っている。

 ○問。書字不美フミ読。其由如何。○答。師説。昔新羅所上之表。其言詞太不敬。仍怒擲地而踏。自其後訓云不美フミ也。今案。蒼頡見鳥踏地而所往之跡文字。不美云訓依此而起歟。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/379)

 フミ(文・字・書)を踏むことと、何とかして結びつけて解釈しようとしている。その指向は間違っていないと思われる。フミ(文・字・書)があれば必然的に黙読することができる。黙っていても意味が相手に伝わる。そのようなことは無文字社会ではあり得ないことであった。ということは、逆に、フミという語に関係のある事柄は、黙ってしなければならないことを相即的に約束しなければならない。それが、言霊信仰のもとでの人々の集合意識であった。ことこととが一致するところに、人々の共通認識が設定されていた。そうしなければ、人々の間に伝わるということがなく、社会は成り立たない。言い換えれば、社会とは持続的なコミュニケーションシステムそのものである。
 蹴鞠が鞠を蹴るうえで踏むことを前提にしているのは、フミ(文・字・書)としてあって黙って伝えることを、鞠を介して行う競技だと見立てられていたからである。両者は相似を成している。蹴鞠の情報伝達の方法は黙読である。とはいえ、具体物としてのフミ(文・字・書)を備えているわけではない。カンペとなる笏も持たない。弘安九年(1285)の革匊要略集の「二 威儀」に、「一笏事 示云、笏者鞠庭へ不持出者也、示云々」(渡辺・桑山1994.211頁)、13世紀末の内外三時抄の「装束篇」に、「釼ハして鞠場に出へし、シヤク扇同之」(同373頁)とある。フミは「踏」をもって全うしているのである。
 蹴鞠という仕儀は、三次元的な広がりの中でありつつ懸の木に邪魔されながら、あるいは、目印、目安にしながら、片足だけである程度の高さへ蹴上げて伝えている。よほどの動体視力と運動能力を必要とする。正球ではなく、また、鞠ごとに違う感触を確かめては、そのときにくり広げられる鞠場の環境を認知して、対面しながら周囲にいる鞠足と呼ばれる選手の力量を探っていっている。膨大な量の情報処理を行っている(注9)
 万葉集にあるフミタツという語が、鳥を追い立てる形容にのみ使われている点は興味深い。「鶉雉み立て」(万478)、「鳥み立て」(万926)、「千鳥ふみたて」(万4011)、「鳥ふみたて」(万4154)と見える。釈日本紀にあるフミ(文字)は鳥の足跡に由来するとする説と近しい。最も人々に身近な存在となった鳥はニワトリである。すると、にはとりと蹴鞠とで、言葉の範疇として、どこかで交差する地点があったかもしれないと推測が行く。鶏と蹴鞠との関係を「鞠場まりには」のニハ(庭)に見た可能性がある。ニハ(庭)という言葉は、神事の場、狩猟・漁労の場、邸内の農作業の場、邸内の庭園、など多様な意味がある。蹴鞠の court の意も含む。
 釈日本紀の鳥の足跡説のように、鳥のなかに歩を進めるとき、蹴爪も露わにして地面を踏み蹴っていくものがいて足跡がついている。現代語の「蹴るように歩く」意は、上代語でフム(踏・蹈・践)である。蹴爪を持った鶏が足跡をつけてフムのを観察すれば、釈日本紀説はかなり学問的な解釈に映る。むろん、それはフミ(字・文・書)という語の語源を、フミ(踏・蹈・践)であると考えたわけではなく、平安時代当時の人たちがそのように捉えて納得していたことがよく了解されるという意味である(注10)。古代において、言葉は語源を尋ねるものではなく、どうしてそのように構成されているかをおもしろがるものであったと考えられる。結果的に、記紀万葉のなかでの言葉の使い方は、洒落やなぞなぞが多発していくことになる。無文字文化から文字文化への過渡期にあった飛鳥時代の人たちは、頓智がよく働いていた。
 以上、基本動作であるフム・クウをヤマトコトバのなかで詮議し、皇極紀の大化改新へつながった「打毱」競技が蹴鞠であったことを確かめた。

(注)
(注1)黒田2007.237~238頁、黒田2011.51頁に、感動的ではないとする意見がある。
(注2)狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄の「打毬」の注に、「……七略別録二十巻、漢劉向撰、見隋書唐書、今無伝本、荊楚歳時記、打毬鞦韆施鈎之戯、注引劉向別録云、蹴鞠黄帝所造、本兵勢也、或云起於戦国、初学記題打毬、引別録、与歳時記同、後漢書梁冀伝注引作蹴鞠者伝言黄帝所作、或曰起戦国之時、蹴鞠兵勢也、太平御覧同、按歳時記初学記打毬注引別録、其文作蹴鞠、則二書所謂打毬、即蹴鞠、非拍鞠也、而拍鞠亦名打毬、唐有打毬楽、其伎為曲杖毬子之勢、又有馬打毬子、封氏聞見記載、……源君見其名同、以歳時記初学記打毬、誤為拍鞠、遂改別録蹴鞠字打毬是、又諸書所引、皆無昔字、疑是者字譌、或与黄字形似誤衍也、……」、「拍毱見涅槃経梵網経喩伽論、按毬毱一声之転、蓋同字也、然二字皆説文不載、即鞠俗字、慧琳音義、毱亦作毬、並俗字也、今俗呼音求者、諸字書竝無、毬字正作鞠、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1872112/1/137、漢字の旧字体は改めた)と説明する。「打毬」なる字が書いてあるからそれはダキュウ(ポロやホッケー)のことであると短絡して考えるのは、浅学な現代の人に限られることらしい。ダキュウか、蹴鞠か、いずれであるかを冷静に考えたい。
(注3)ポロとしての打毬の様子は、平成二十七年五月三十日、平成天皇皇后両陛下のご傘寿の賀の記念として、皇居にて母衣引ともども古式馬術が披露されている。古式打毬については、marugotoaomori「【青森の魅力】騎馬打毬 - 紅白舞いて、ちはやぶる(八戸市)」https://www.youtube.com/watch?v=8_xE3GUAnbg参照。
(注4)古今著聞集・巻十一にも、「毱を受くるにはヤクワといひ、アリといひ、ヲウと云ふ。」とある。
(注5)恐怖政治(terreur)は、権力者が、自らに反対するものを殺戮、投獄して弾圧することで国民に恐怖心を抱かせ、人々の口封じをして自らの権力を保つような政治体制をいう。それは必ずしも政権に由来するばかりでなく、幕末期の京都でテロリスト集団の新選組が暗躍し、意見を言うことができなくなってしまった状況も同様と言える。
(注6)これに対して現代語では、「蹴って歩く」というように、「蹴る」という語が「蹈(踏)む」という語よりも広い概念として捉えられているかと思われる。
(注7)室町初期まで蹴鞠の宗家としてあった御子左家では左足でだけ蹴ったという。
(注8)現在の大相撲(日本相撲協会)においても、立ち合い前の発声を慎まれている。
(注9)捻挫防止のために、フム・フム・クウの三拍子で足を使うように言っている。池2014.、渡辺2000.参照。
 クウ(蹴)については、白川1995.に、鋭い指摘がある。

くう〔蹶・蹴〕 下二段。「くゑ・くう・くうる」と活用する。のち「ける」の形となった。足ではげしく蹴ることをいう。おそらく擬声語であろう。「ゆ」とも関係がある語であろう。……けつけつ声。厥はものを彫刻するけつの刀。これで強くものをけずることをいう。そのような状態で足のあたることを蹶という。〔説文〕二下に「たふるるなり」とみえる。またはね起きることを蹶然という。「くゑ」と同じく、擬声語である。(283頁)

 ヤマトコトバにクウは擬声語ではないかとしている。漢語でもケツがやはり擬声語であるという。入声のケツは、ケッという音として感じられる。ヤマトコトバのクヱ・クウなどは、ク・クゥと感じられたのであろう。蹴鞠(蹶鞠)という語も、ク+マリ & ケッ+マリ→ケマリへと転じたとも考えられる。語構成としては、ケル+マリ→ケマリ説ばかりに限られはしないのである。もともとが擬声だからである。説文の説明から、垂仁紀七年条で当摩蹶速が捔力(相撲)に負けたのは、その名のとおりと知れる。たおれてまれたことを嘆いて、感嘆の助詞のハヤと補う名前になっている。
 木村2009.に次のようにある。

 ……「立つ・居る(すわる)・寝る」とは、人の動作の基本的な三態だが、「立つ」時には必ず「踏む」という動作が一体となっている。「立つ」とは全身のありようだが、その時の足のはたらきが「フム」である。したがって「フム」という言葉は、人が自らの身体をそうしたありようを意識し始めた時からあったに違いない古来の言葉である。「フム」とは、足裏の下に土や石や床等を体重によって自然に押し付けることだから、普通に立ったり歩いたりする時のような無意識の場合と、行進の「足踏み」などのような意識的な場合とがある。「踏切」もまた、つまづいたりしないように注意して(意識的に)踏んでいることが多いのだろう。(171頁)

 筆者は、上代語のフムにおいて「普通に立ったり歩いたりする時のような無意識の場合」の存在することを支持できない。蹴鞠が、フム・フム・クウの三拍子を一セットの動作と捉えるとき、それは意識的なものである。「堅庭は向股むかももに蹈みなづみ、沫雪の如く蹶ゑ散かし、いつのたけび蹈みたけびて待ち問ひたまはく、……」(記上)とあるとき、明らかに意識して地面を踏んでいる。椅子に腰かけて足が地面や床に接している時、例えば半跏思惟像の片足などは、フムとは言わないように思われる。万葉集ではフミタツという語は、鳥を追い立てる形容にしか用いられない。それ以外のフミ○○という複合動詞の用例(み起す、踏み越ゆ、蹈み鎮む、踏み平らぐ、踏み通る、踏みならす、踏み貫く、み求む、み渡る)も、動詞+動詞の関係のままにあり、後続の動詞が補助動詞化したり、フミが接頭語化したりはしてはいない。単独で使うフムという動詞の用例のほとんどに、それを明かすための対象物、「石」、「岩根」、「地」、「跡」、「雪」、「足」、「道」といった語(名詞)を伴って説明している。無意識の、ないしは、単に立っている時の step on , tread on の際に、ヤマトコトバのフムという語は用いられていないようなのである。木村2009.の概念規定の説明では、観念の表れとしての言語、記号操作の出発点としての言語、イメージ抽象の元素としての言語、という立場に反すると考える。
(注10)古今集の「忘られん 時しのべとぞ はま千鳥 ゆくへも知らぬ 跡をとどむる」(よみ人しらず、雑下・996)という歌は、記紀歌謡の「浜つ千鳥」(記37・紀4)が一語化し、かつ、中国古代の黄帝時代に、蒼頡そうけつが鳥の足跡を見て漢字を作ったという故事を踏まえて詠まれたとされている。平安時代には、砂浜に残る鳥の足跡を字のようであると感じたり、千鳥が砂浜を踏む意の「踏み」と、手紙の「ふみ」とを掛けて喜んでいる。千鳥のあしらわれた蒔絵の文房具が残ることを傍証とする説もあるが、足跡や踏む様を描いているわけではないため牽強とも思われる。それでも釈日本紀のフミの語義説は、当時の風潮からすれば案外平易なことであったと考えられる。むろん、それは、平安時代当時の感覚としてそうであったというだけのことである。そして、もはや漢字のことなのか仮名のことなのか、どうでもよくなっている。古墳時代に文字(漢字)は流入しており、その5~6世紀にフミという言葉が造られたのであろうと筆者は考える。さまざまな知恵を駆使し、いわゆる和訓として創作されたヤマトコトバなのであろう。

(引用・参考文献)
池2014. 池修『日本の蹴鞠』光村推古書院、平成26年。
木村2009. 木村紀子『原始日本語のおもかげ』平凡社(平凡社新書)、2009年。
黒田2007. 黒田智『中世肖像の文化史』ぺりかん社、2007年。
黒田2011. 黒田智『藤原鎌足、時空をかける』吉川弘文館、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
渡辺・桑山1994. 渡辺融・桑山浩然『蹴鞠の研究─公家鞠の成立─』東京大学出版会、1994年。
渡辺2000. 渡辺融「フットボール、昔と今」『大学出版』第47号、2000年10月。大学出版部協会ホームページ https://www.ajup-net.com/web_ajup/047/dokusho47-2.shtml (2025年2月13日確認)

加藤良平 2020.7.26改稿初出

古事記の天之日矛の説話について─牛耕を中心に─

 応神記に天之日矛の説話が載る。前半は新羅での奇譚話、後半はヤマトに至ってからの系譜となっている。ここではその前半部を考察対象とする。

 又、昔、新羅しらき国主こにきしの子有りけり。名はあめ之日のひほこと謂ふ。是の人ゐ渡り来つ。参ゐ渡り来つる所以ゆゑは、新羅の国にあるぬま有り。名は阿具奴摩あぐぬまと謂ふ。〈阿よりしもつかた四字、こゑを以う。〉此の沼のほとりに、あるいやしきをみなひるす。ここに日の耀かかやくことぬじごとく、其の陰上ほとを指す。またある賤しきをとこ有り。其のさましと思ひて、つねに其の女人をみなわざうかがふ。かれ、是の女人をみな、其の昼寝せし時より妊身はらみて、たまを生む。しかくして、其の伺へる賤しき夫、其の玉を乞ひ取り、つねつつみて腰にく。
 此の人、田を山谷やまたにつくれり。故、耕人たがへすひとども飲食を、一つの牛におほせて山谷のうちに入るに、其の国主くにぎみの子、天之日矛に遇逢ふ。爾くして、其の人に問ひて曰はく、「何ぞ飲食を牛に負せて山谷に入る。汝は必ずや是の牛を飲食」といひて、即ち其の人を捕へて獄囚ひとやに入れむとす。其の人答へて曰はく、「われ牛をとするには非ず。ただ田人たがへすひとを送るのみ」といふ。然れどもなほゆるさず。爾くして、其の腰の玉を解きて、其の国主の子にまひなふ。故、其の賤しき夫を赦し、其の玉をて、床のに置けば、即ち美麗うるはしき嬢子をとめる。仍りてまぐはひして嫡妻むかひめ。爾くして、其の嬢子、常に種々くさぐさ珍味ためつものけて恒に其の夫に。故、其の国主の子、心おごりてるに、其の女人をみな言はく、「およの妻とるべきをみなに非ず。吾がおやの国にかむ」といひて、即ちひそかにぶねに乗りて、逃遁わたり来て、なにに留まりき。〈此は難波の比売碁曽ひめごそやしろ阿加流比あかるひ売神めのかみと謂ふぞ。〉(注1)(応神記)

 応神記の天之日矛の説話の前半部分で、太字部分の訓みについては後述する。「又昔」で始まる一ストーリーである。その前には「海人あまなれや、おのが物からねなく」の諺話があり、その後には「秋山あきやました壮夫をとこ春山之霞はるやまのかすみ壮夫をとこ」の説話が控えている。応神天皇の御代に、ああいう話もあった、そういう話もあった、こういう話もあった、というとりあげ方である。一話完結の話が三話続けられている。それぞれの話だけで理解し切れる内容になっているものと考えられる。一つの話でわかり切るためには、話を外側から概観、分析すれば済むというものではなく、話の内側に入り込んでなるほどと得心が行く解釈でなければならない。その話が無文字時代に作られたと想定されるならなおのことである。口頭で伝えられただけでまったくその通りだ、話に一点の曇りもない、と納得されなければ、次の人、次の世代へと伝承されることは難しいからである。話に曖昧な点がないことが肝要である。
 実際の史実を物語っているかどうかは関係がない。一つの「話」としてその話の枠組みが作られていて、その枠組みのなかで話が自己完結しているかどうかが重要である。例えば、家族のなかで何か一つの話が行われると仮定してみよう。その話が円滑に成立するには、それまで営々と築き上げられてきた家族の関係性とその記憶が前提となり、当該の話は成立する。「今日、給食の時間にいじわるされたのよ」と子供が両親に向かって言ったとき、親二人の間には六年以上前のとある日の夜に仲良し行為が行なわれ、その結果新しい命が芽生え、その娘なら娘がゆっくり成長して小学校に入学してあるクラスに入り、その学校には給食があって、といった延々と続く経緯を前提として踏まえて話がなされている。上代の人が応神記の天之日矛の話を唐突に聞かされたとしても、聞く側にきちんと聞き取るだけのキャパシティーがあった。聞き手は、難波にあるとされる比売碁曽の社の郷土保存会の人たちではない。皆、天之日矛の話など初耳の人たちである。それなのに聞いただけで理解して、腑に落ち、他の人に伝えていくだけの力量、自信までも持ち合わせている。そうでなければこの話は伝えられずに消えていたことだろう。
 そこにはある仕掛けがひそんでいる。我々現代人の感覚では、先に前提となる枠組みが定まってあるものとして内容を吟味していく。上の例でいえば、家族のなかでの関係の記憶がそれに当たる。それに対して、無文字時代の人にとっては、話に出てくる言葉が話の枠組みまでも決めていくものと考えられていた。今では少しトリッキーに聞こえるかもしれないが、文字時代ではなく、情報化社会でもないのだから、言葉が自己言及しながら話を構成していくことは、方法論的にたくましい言葉の利用法であったといえる。それがゆえに、ヤマトコトバに言霊ことだま信仰があったとされている。言霊信仰とは、言葉に霊力があったということではなく、ことことであると厳密化して使うことで言葉に力があるように思われたということである。

 天之日矛の話は何の話か。例えば、韓半島との人的交流の歴史について、外側から史料を宛がうのではわからない。あくまでもテキストの内側から、ヤマトコトバで何と話していたのか、きちんと検証することによってのみ話の枠組みも再構成され、それを前提に内容にも理解が向かう。したがって、稗田阿礼の声を太安万侶が書記したことの逆ベクトルをもってヤマトコトバの再現に臨むことが求められる。訓読文の確認こそが議論の焦点になる。
 新羅の国主の子、天之日矛が来朝した次第が述べられている。その理由について荒唐無稽な話が展開されている。新羅にアグヌマという沼があり、そのほとりで身分の賤しい女が昼寝していたら虹のように日が耀いていて陰部を照らしていた。同じく賤しい男が見ていて不思議に思い、その女の様子を窺っていたら、女は昼寝している最中に妊娠したようで玉を産んだ。賤しい男はその玉を欲しがって取ってしまい、いつも包んで腰につけていた。男は山の谷間に田を拓いた開拓者だった。そして、耕作に当たる人たちのために、飲食物を牛の背に乗せて運んでいた。そんなとき、国主の子である天之日矛に遭遇した。天之日矛は、「どうしてお前は食べ物飲み物を牛に背負わせて山谷に入るのか。お前はきっとこの牛を殺して食べるつもりだろう」と言いがかりをつけ、その男を捕まえて牢屋に入れようとした。男は答えて、「自分は牛を殺そうなどとはしていません。ただ耕作に当たる人たちに食べ物を持って行っているだけです」と言った。それでも許さなかったので、男は腰につけていた例の玉を天之日矛に渡して許してもらった。天之日矛はその玉を持ち帰り、寝床のそばに置いておいたら美女に変わった。そこで結婚して妻の一人に加えた。彼女は、いつもいろいろな珍しい食べ物を用意して国王の子である天之日矛に食べさせた。意のままになることで慢心した国王の子は、妻をののしるようになった。すると彼女は、「そもそも私はあなたの妻になる程度の女じゃないわ。お里に帰らせていただきます」と言って、ひそかに小さな船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。
 この話の後段には、天之日矛も後を追って海を渡るが、難波に来ようとしたら渡の神がさえぎって入れず、但馬国で船を泊め、そこで現地の女性と結婚して子をなし、それから代々、誰々という人がいると系譜が紹介されている。そして、天之日矛が持って来た品々が挙げられている。この後段については、事実的に解釈することで済まされるのかもしれない。しかし、前段の荒唐無稽な話については、その荒唐無稽さを解き明かさなければ理解したことにならない。稗田阿礼、太安万侶は、この話のなぞなぞを理解していたから伝えていると考えられる。
 玉を産む奇譚と、牛にまつわる話、代償に払った玉が美女に変身したこと、彼女が海を渡って来朝したことが述べられている。話の流れは支離滅裂とさえ思える。玉に関する奇譚はいかにも奇譚であるから置かれているのだろうと想像される(注2)が、途中の牛の話は何のことか意味不明である。そのうえ、どうして牛に食べ物を乗せて運んでいたら牛を食べると咎められることになるのか。それらについて、これまで訳がわからないままになっている(注3)。上代には訳がわかっていたはずである。その点にスポットを当て検討する。

 日本書紀では垂仁紀に分注形式で同様の記述がある。

 一に云はく、初め都怒我阿羅斯等つぬがあらしと、国にはべりし時に、黄牛あめうじ田器たうつはものおほせて田舎ゐなか将往く。黄牛たちまちせぬ。則ちあとままぐに、あとある郡家すきの中にとどまれり。時に、ひとり老夫をきな有りて曰はく、「いましの求むる牛は、此の郡家の中に入れり。然るに郡公すぐり曰はく、『牛のおほせたる物にりておしはかれば、必ず殺しくらはむとまうけたるなり。し其のぬし覓ぎ至らば、物を以ちてつぐのはまくのみ』といひて、即ち殺しみてき。若し『牛のあたひ何物なにを得むとおもふ』と問はば、財物たからをな望みそ。『便たより郡内すきいはひまつる神を得むと欲ふ』としか云へ」といふ。しばらくありて郡公すぐり等到りてはく、「牛の直は何物を得むと欲ふ」ととふ。こたふること老父おきなをしへの如くにす。其の祭れる神は、これ白き石ぞ。乃ち白き石を以て牛の直にてつ。因りてて来てねやの中に置く。其の神石いし美麗かほよ童女をとめりぬ。是に、阿羅斯等、大きに歓びてまぐはひせむと欲ふ。然るに阿羅斯等、他処あたしところきしに、童女、忽に失せぬ。阿羅斯等、大きに驚きて、おのに問ひて曰はく、「童女、いづにかにし」といふ。対へて曰はく、「東方ひむかしにき」といふ。則ちもとめてぐ。つひに遠く海に浮びて、日本国やまとのくにに入りぬ。げる童女は、難波にいたりて、比売語ひめごそのやしろの神とる。また豊国とよくに国前郡みちのくちのくにに至りて、また比売語曽社の神と為る。ならび二処ふたところいはひまつられたまふといふ。(垂仁紀二年是歳)(注4)

牛に牽かせる唐耒(室町時代、月次風俗図屏風、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0020882をトリミング)

 記では「飲食」、紀では「田器たうつはもの」を牛に乗せている。どちらも牛を殺して食べようとしている証拠と捉えられている。
 タウツハモノは田を耕す農具のことである。黄牛に背負わせているところから、農耕に牛を使役したことが想起され、牛にひかせる唐耒からすきの類ではないかと推測が向く。それをわざわざ「田器」としている。タウツハモノは、タ(田)+ウツ(打)+ハ(刃、歯)+モノ(物)と聞こえ、先端に鉄の刃がついたすきのことを指しているとわかる。犂を牛が背負っていて、どうしてそれが牛を食べることを表しているのか。次のような用例がある。

 子麻呂等、水を以て送飯いひすき、恐りて反吐たまひつ。(子麻呂等、以水送飯、恐而反吐。)(皇極紀四年六月)
 食 スク、クフ、メス/シキ、曽力(法華経単字、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1192401/1/21)
 〓〔米偏に幺の下に八、その下に㣺〕 スク、呑也(色葉字類抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186813/113)

 食べ物を水で流し込むすすり食いのような食べ方である。皇極紀の例は、寛平・延喜年間の岩崎本写本に依っている。この訓の正しさは、その場面が蘇我入鹿暗殺事件の三韓進調儀式においてのことに示されている。儀式の際に宮殿内で下士官が腹ごしらえをしているのは一見不自然であるが、給禄のひとつに食べ物が振舞われたと解釈されよう。三韓からの貢納品を食べるために、韓半島式の食べ方を真似していたわけであり、慣れないこともあり緊張して反吐している。
 「き(キは甲類)」と「すき(キは甲類)」は同音である。舞台は新羅国の「一郡家」である。従来の訓では「郡家」をムラ、「郡公」をムラノツカサと訓んでいるが、古代朝鮮語に村のことはスキ(キは甲類)、村主のことはスグリである。

 是を以て、百済くだらのこにきしかぞと荒田別・木羅斤資等、共に意流おるすきに会ふ。〈今、州流須祇つるすきと云ふ。〉(神功紀四十九年三月)
 大唐もろこし軍将いくさのきみ戦船いくさぶね一百七十艘をて、白村江はくすきのえ陣烈つらなれり。(天智紀二年八月)
 さの村主すぐりあを(雄略紀二年十月是月)
 鞍部くらつくりの村主すぐり馬達まのたち(敏達紀十三年是歳)
 大友村主高聰おほとものすぐりかうそう(推古紀十年十月)
 磐城いはきの村主すぐりおほ(天智紀三年十二月是月)
 桑原村主くははらのすぐり訶都かつ(天武紀朱鳥元年四月)
 上村主うへのすぐり百済くだら(持統紀五年四月)

 したがって、犂を負った牛は、「郡家すき」では「き」の対象であるととらえられたという話になっている。わざわざ朝鮮語の言い方をするほど念の入った洒落になっている。それをヤマトの人たちが納得するのは、タ(田)+ウツ(打)もの、地面に打ちこむものは「くひ(ヒは甲類)」であり、「ひ(ヒは甲類)」と同音になっているからである。日朝両語において、パラレルに洒落が成り立っている(注5)

 他方、どちらが先かはわからないが、そのアレンジ形と思われるものが記の「飲食」である。この語には、クラヒモノ、ヲシモノといった訓が試みられてきた(注6)。筆者は、紀の用例からみてスキモノという訓がふさわしいと考える。クラヒモノ、ヲシモノという言葉を表す場合には、太安万侶は「食物」と書けば良かったであろうが、ここでは「飲食」と書いている。飲み食べるような動作は「く」行為であり、その対象はスキモノであろう。牛の背に荷物を乗せるには、荷鞍を据えてその上に荷物を載せる。居木部分が面状の板になっている人の乗る鞍とは異なり、横木で前輪と後輪を繋ぐだけではあるが鞍であることには違いない。唐耒を牽くためにも同様に、前枠、後枠を横木によって構成した背鞍(小鞍)を置く。そこから綱を唐耒につないで牽いている。すなわち、牛に何かを載せることは、カラスキ(唐犂)を載せる場合も、スキモノ(喰物)を載せる場合も、同様にヤマトコトバのスキという言葉に直結している。だから天之日矛は、すすり飲んで食べるようなことを考えているに違いないとして罪に問うている。言いがかりであるとばかり見られているが、文化的なギャップも見逃せないところである。
 唐耒の牽引法が本邦と新羅とでは異なっていた。河野1994.によれば、「背鞍を使う胴引き法や首引き・胴引き法は、日本以外のアジア諸国には見られないものであって、それは古く日本人の考案・開発したもの」(230頁)なのである。アジアの牛・水牛の牽引法について、河野氏の分類がわかりやすい。

 「首引き・胴引き法」は、首木と背中の鞍を併用して引くもので、胸繋を欠く場合も多いとされ、「胴引き法」は、首木を使わず背中の鞍のみで引くもので、胸繋は併用するのが普通であるとする(226~229頁)。
 つまり、新羅の国主の子である天之日矛にとって、牛に鞍を載せて何かを背負わせることなど見たことがなかった。ヤマトから半島へ来ていた人のやり方は奇異に映った。垂仁紀の「田器」を載せて行くことは、ヤマトの胴引き法をするつもりでいたこと、応神記の「飲食」を載せて行くことも、着いた山谷の間の田ではやはり鞍を活用して胴引き法でくつもりなのであった。そんな文化的な違いについて語るために、説話において日朝の言葉の意味を取り違えながらごちゃごちゃ言っている。高等テクニックの洒落が上手に散りばめられている。
 皇極紀四年六月条の用字に、応神記の天之日矛説話の牛問答を解く大きなヒントが顕れている。「飯」とある。賤夫は「吾非牛、唯送田人之食耳。」と抗弁している。「送」は「送」でもオクルのであって、「田人之食」を「おくる」のみである。「牛」を「く」のではない。「牛」を「く」気などさらさらないと言っている。
 設定からして穿っている。「山谷之間」に「営田」して、そこで働く「耕人等」の「飲食」を送り届けようというのである。「耕人」はタヒト、タカヘスヒトと訓まれてきた。抗弁の言葉に「田人」とあるからそれはタヒトと訓み、「耕人」はタカヘスヒトと訓むのが良い。田は、毎春、表土を返して柔らかくし、そのあとに水を張りつつ馬鍬などで土塊を砕いて表面を平らに均して田植えをする。「営田」して「耕人」とある場合、タ(田)+カヘス(返)+ヒト(人)の意のタカヘスヒトと訓まれなければならない。天之日矛は牛の背に鞍を置いて農耕に使うなどという天地のひっくり返るようなやり方に驚かされている。その文脈を理解できるように、当初から話の設定が組み立てられていたわけである。言葉だけで話が枠組まれつつ成立して行っている。

 そもそも、「牛」を食べることはそんなに悪いことなのか。仏教の影響から殺生が嫌われていた反映であると考えるのは賢しらである。殺牛祭儀との関わりを説いてみたところで、支配層から咎め立てされる筋合いのことではない。そういうことではなく、「うし」は「大人うし」と同音で、領有・支配する人の総称で、支配者層一般のことを指すことによるのだろう。

 大人うし、何ぞうれへますことはなはだしき。(履中前紀)
 今、群臣まへつきみたちうしはかる。(用明紀二年四月)

 天之日矛の話では、「一賤夫」が「其国王之子」を飲み込んで食べてしまうことを暗示しているとして逮捕して獄に入れようとしていた。そういう背景が組み込まれている。国主の子としては、国が乗っ取られるのではないかと心配して拘禁しようと考えたのである(注7)。それはそれで一理ある言い分ということになる。
 そして、代償として「一賤女」が生んだ「袁玉」を提出している。「日の耀くことぬじの如く」したことに由来する言い方である。虹の古訓はヌジである。

 乃ち河上かはのほとりぬじの見ゆることをろちの如くして、四五丈よつゑいつつゑばかりなり。(雄略紀三年四月)
 伊香保ろの さか堰塞ゐでに 立つぬじの〔多都努自能〕 あらはろまでも さをさ寝てば(万3414)

 ヌジ(虹)はヌシ(主)が持つのが相応だから、差し出すのが良いという発想である。アグヌマ(阿具奴摩)とあったのは、「山谷之間」に「営田」した際に、水利上、上流域の水を貯めるべく、堰を設けていたことを示しているのだろう。上流域の田をアゲタ(「高田」)(記上、神代紀)という。アグ(上)+ヌマ(沼)の意である。
 また、「一賤女」が生んだ「玉」については、「赤玉」と意改した鼇頭古事記に従う傾向にあるが、赤色の琥珀のようなものではない。原文は「袁玉」であり、ヲタマと訓むべきである。ヲ(緒)+タマ(玉)と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、ヤマトの話に不思議な妊娠譚として知られる三輪山伝説の「閇蘇へそ紡麻うみを」(崇神記)のことである。麻を紡んで一条に巻きこんだもので、臍のように作られている。糸を引っ張り出しても内側から引かれるため転がっていかないようになっている。本当なら妊娠するはずはないのにヘソの話になっているのは、「閇蘇へそ」のことだからという洒落である。いま、新羅の話に援用されている。だからこそ日新の文化的対立が極められている。そして、そのとき、「赤玉」ではなく「たま」であることが正しいのは、「虹」のように陰部を照射してできたとも記されているからである。何色の「閇蘇へそ」かといえば、虹を七色と捉えるならば七色の糸を巻きこんだものであったろう。「比売碁曽ひめごそ」と同音の記述である肥前風土記・基肄郡・姫社郷ひめごそのさと(注8)では織女神として祀られている。機織りと関係する玉は「閇蘇へそ」である。それが証拠に、カラフルな糸で織られた最上級の織物のことはにしきという。天之日矛は新羅のこにきしの子であった。すべてが語呂合わせによって成り立っている話である。
 以上、応神記にある天之日矛説話の文脈の frame analysis (注9)を行った。話を読みながらその話を編成する枠組みまでも把握することに努めた。記紀の説話に frame analysis 的解釈が効果的なのは、それらが無文字によって成立したものだからである。記述という手段を介さずに想起しつつ記憶するには、使われている言葉の音以外に頼るところがない。そんな時代の人々に共有されるためには、必然的に、言葉で言葉を語る自己循環的な戦略が求められた。音が空中を飛んでいるその瞬間に、相手がなるほどと納得して記憶が定着しなければならないからである。話が起こされるに当たり、従前の話とは別の話が流れるように起こりながらもそれが一個の話として枠組まれなければ、話は話として成り立たない。話という<図>が、<地>から区別されて立ち上がるためには額縁が必要である。その額縁について話すのと同時並行的に話の内容を作り上げていくことが、上代説話に特徴的な、ミラクルとも言える言語活動である。記紀説話が何を言っているのかわからないからといって、その外部から史実や遺物などを使って解釈しようとすることは、額縁を軽視していて<図>を見誤ることになる。記紀説話を「読む」ためには、その内部から話の額縁を定位しつつ話の内実を探る以外に方法はない。記紀の説話を考えた上代の人たちは、そうやって話を拵えていたのだから、その順序をたどり直せばそもそもの上代人のものの考え方に近づくことができる。それは記紀万葉を対象化して研究することを超えて、臨場して現場検証をすることになる。記紀万葉に生きた人々は、我々とはものの考え方が異なると知ることができて、はじめて「読む」価値のあるものだとの認識に至る。異世界、異文化、異次元のこととして理解され、ようやく本来の姿が日の目を見ることになる。これまでの漫然とした記紀万葉研究は無意味であったと気づかされ、土台から覆されることになるだろう(注10)

(注)
(注1)以下に、真福寺本を底本に校訂したテキストを字体の出力が可能な限りにおいて示す。

又昔有新羅國主之子名謂天之日矛是人參渡来也所以參渡来者新羅國有一沼名謂阿具奴摩〈自阿下四字以音〉此沼之邊一賤女晝寢於是日耀如虹指其隂上亦有一賤夫思異其状恒伺其女人之行故是女人自其晝寢時妊身生袁玉尒其所伺賤夫乞取其玉恒褁著腰此人營田於山谷之間故耕人等之飲食負一牛而入山谷之中遇逢其國主之子天之日矛尒問其人曰何汝飲食負牛入山谷汝必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛唯送田人之食耳然猶不赦尒解其腰之玉幣其國主之子故赦其賤夫将来其玉置於床邊即化美麗孃子仍婚為嫡妻尒其孃子常設種々之珎味恒食其夫故其國主之子心奢詈妻其女人言凡吾者非應為汝妻之女将行吾祖之國即竊乗小船逃遁度来留于難波〈此者坐難波之比賣碁曾社謂阿加流比賣神者也〉

 多くは現行本と同じ校訂となっている。ただし、「……必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛……」の二つの「飲」字は、真福寺本どおりにした。兼永筆本の字について、本居宣長・古事記伝は「殺」の異体字であると認め、以降みな従っている。しかし、「殺」字の異体字、俗字の類に、「煞」、「〓〔ヒトヤネの下にヨを偏として戈〕」、「敏字の毋部分をヨの下に/」(欧陽詢・史事帖、日本書紀(例えば、書陵部本日本書紀、宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430007/4577c33cc21742429c0a379afb7634cf(32/36))とあるものの、似て非なる字である。兼永筆本は「飲」字の欠けを見たように思われる。(図は、「……必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛……」部分、左:真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438931/50をトリミング、右:猪熊本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438706/66をトリミング)

 また、「妊身生袁玉」の「袁玉」は、鼈頭古事記に従い諸本に「赤玉」とするが、「袁玉」で正しいものとした。(図は、「妊身生袁玉」部分、左:真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438931/50をトリミング、中:猪熊本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438706/65をトリミング、右:延佳神主校正・鼈頭古事記、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100181864/127?ln=jaをトリミング)
(注2)神話学では日光感精説話と卵生説話の合体したものであると目されている。中国の史書や仏典や韓半島の思想的な背景をもって天之日矛伝承は育まれて成立し、文章化されて一史料として古事記に収められたと考えられている。それらの議論の根拠は薄弱で、ただ話が似ているからというに過ぎない。だから何なのか、どうして古事記にこのような話が載せられているのか、という本質的な問いに答えようとしていない。昨今は、古事記の字面の書き方のお手本に何を使ったかという、いわゆる出典論(「手紙の書き方」という文献と字面が似ていることを辿っても生産的ではない)に注意が向けられている。三品1971.、福島1988.、王2011.、大村2013.による。
(注3)文献資料から、牛を殺して捧げものとする信仰には、雨乞いを中心とした農耕儀礼に関わるものや漢神を祀って祟りを祓うものがあったことが知られている。「[大旱ニ対シテ]村々の祝部はふりべ所教をしへままに、或いは牛馬を殺して、もろもろの社の神をいのる。」(皇極紀元年七月)、「あるいは、昔在むかし神代に、大地主神おほなぬしのかみ、田をつくる日、牛のししを以てひとに食はしむ。時に、御歳神みとしのかみの子、其の田に至りてあへつはきて還り、かたちを以てかぞまをす。御歳神、怒りを発して、おほねむしを以て其の田に放つ。苗の葉たちまちに枯れせて篠竹しのれり。是に、大地主神、片巫かたかうなぎ志止々しとととり〉・肱巫ひぢかむなぎ〈今のかままた米占よねうらなり。〉をして其のよしを占ひ求めしむるに、「御歳神たたりを為す。白猪・白馬・白鶏しろかけを献りて、其の怒りを解くべし」とまをす。教へに依りてみ奉る。御歳神答へて曰はく、「まことに吾がこころぞ。麻柄あさがらを以てかせひに作りて之を桛ひ、乃ち其の葉を以て之を掃ひ、あめの押草おしくさを以て之を押し、烏扇からすあふぎを以て之を扇ぐべし。若し此の如くして出で去らずは、牛の宍を以て溝の口に置きて、茎形はせがたを作りて之に加へ、〈是、其の心をまじなふ所以なり。〉薏子つすだま蜀椒なるはじかみ呉桃くるみの葉、また塩を以て其のあかち置くべし〈薏玉は都須つすだまといふなり。〉」とのりたまふ。仍りて其の教へに従ひしかば、苗の葉また茂り、年穀たなつもの豊稔ゆたかなり。是、今の神祇官、白猪・白馬・白鶏を以て、御歳神を祭る縁なり。」(古語拾遺・御歳神)といった例が引かれる。殺牛祭祀があったとされるのであるが、天之日矛が祭祀を咎めているとは読み取れない。本邦では一般に、神へのお供え物として捧げたものはお祭りが終わったら下げてきて皆で食べていた。その点を含めて整理した論考はいまだなく、理解は深まっていない。牛に荷を載せて運ぶ姿を見せた途端、牛を食べるのではないかと疑われた日には、農耕、土木、運輸などの肉体労働者はとてもじゃないがやっていられない。天之日矛の言いがかりについて、それが何故行われて然りとされたのか見極められなければならず、論点をすり替えていては何もわからない。佐伯1970.、門田2011.、村上2013.、烏谷2019.等参照。記紀説話の問題点はそのあたりの理屈にあるのではなく、言葉のなぞなぞにある。一回性の語りのなかで本質が直観させられなければ、話は伝わるものではあり得ない。
(注4)以下に原文を、字体の出力が可能な限りにおいて示す。訓読においては、筆者の考えにより、古訓に見られないものも施してある。

一云初都怒我阿羅斯等有國之時黄牛負田器将往田舎黄牛忽失則尋迹覓之跡留一郡家中時有一老夫曰汝所求牛者入於此郡家中然郡公等曰由牛所負物而推之必設殺食若其主覓至則以物償耳即殺食也若問牛直欲得何物莫望財物便欲得郡内祭神云に俄而郡公等到之曰牛直欲得何物對如老父之教其所祭神是白石也乃以白石授牛直因以将来置于寝中其神石化美麗童女於是阿羅斯等大歡之欲合然阿羅斯等去他處之間童女忽失也阿羅斯等大驚之問己婦曰童女何處去矣對曰向東方則尋追求遂遠浮海以入日本國所求童女者詣于難波為比賣語曽社神且至豊國々前郡復為比賣語曽社神並二處見祭焉。

(注5)上代語に「く」、「ふ」と言葉にカテゴライズされている。本邦において、食事はふつうならば「ふ」ものであり、韓半島に「く」のが習慣になっていると把握されていたのだろう。これは、米飯を主とした食べ物に、いかなる調理法で、いかなる食事法で摂っていたかという問題と絡んでくるとも考えられるが、議論が散乱してしまうのでここではこれ以上は深入りせず、ひとまずは、韓半島からの貢ぎ物には乾物系の品が多かったからと理解しておきたい。
(注6)本居宣長・古事記伝に、「○飲食は、久良比母能クラヒモノと訓べし、【飲字にカヽハるべからず、又飲物ノミモノを兼てもくらひものと云べし、土左日記に、おのれし酒をくらひつればなどもあり、】次に食とあるも同じ、書紀神武巻に、盛クラヒモノ、宣化巻に、クラヒモノ天下之本也、天武巻に、以タダビト供養クラヒモノ之など、皆然訓り、【神代巻又持統巻などには、飲食を、ヲシモノ○○○○と訓たれど、はよろしきほどの人に云言と聞ゆ、】」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/302、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注7)佐伯1970.256頁に、延暦期に殺牛祭祀が強く禁じられていた理由に、時の桓武天皇が丑歳であったことと関係するとしている。人々が牛を殺して漢神をまつり、怨霊をなぐさめ、その祟りを国家の支配者たる桓武天皇に向けられることは断じてあってはならないと感じたであろうからとしている。同じ構造が、ヤマトコトバのうし大人うしの間にあったと天之日矛が一人考えていたのであろうと考える。桓武天皇は神経質である一方、天之日矛の話は頓智話である。
(注8)「其の夜、いめに、臥機〈久都毗枳くつびきと謂ふ。〉と絡垜〈多々利たたりと謂ふ。〉と、儛ひ遊び出で来て、珂是古かぜこし驚かすと見き。ここに亦、女神ひめがみなることをりき。即ち社を立てて祭りき。それより已来このかた、路行く人殺害ころされず。因りて姫社ひめごそと曰ひ、今は郷の名と為せり。」(肥前風土記・基肄郡)
(注9)社会学者のゴフマンによる。議論は、現実自体を問うのではなく、どのような状況下で経験や世界はリアルとなるのか、その現実感について問うことから始まる。

思うに、状況がどのようなものか毎回毎回定まるのは、それが個々の出来事、少なくとも社会的な出来事をまとめて体系化する原理・原則に依って立っているからであるし、そんな原理・原則に自ら自身が与っていることに依って立っているからである。すなわち、フレームという言葉を使って進んでゆけば、私にも見極め可能な初歩的な細事に落とし込めるのである。フレームがどう決まるかこそが、私の議論の要である。「フレーム分析」という言い回しをスローガンにして研究の初めの一歩を踏み出せば、経験がいかに体系化されているのかを知ることにつながるのだ。(I assume that definitions of a situation are built up in accordance with principles of organization which govern events―at least social ones―and our subjective involvement in them; frame is the word I use to refer to such of these basic elements as I am able to identify. That is my definition of frame. My phrase “frame analysis” is a slogan to refer to the examination in these terms of the organization of experience.(Goffman, 1974. 10-11pp.))

 言語学者のフィルモアのフレーム意味論では、フレームは経験的知識であり、テキストに接するとき、私たちは心の中にフレームを想起したり、喚起させられたりしているとする。

解釈する人の心の中で、言葉の形や文法構造、言葉遊びが慣習となっていればそれがフレームの指標として働き、自然とこれはそういうフレームなのだと「喚び起こされる」ことになるし、他方、よく定まらない場合でも、解釈する人がテキストの筋が通るように当てがってゆくにしたがって、全体に行きわたる解釈のフレームを「想い起こす」ものである。(On the one hand, we have cases in which the lexical and grammatical material observable in the text‘evokes’the relevant frames in the mind of the interpreter by virtue of the fact that these lexical forms or these grammatical structures or categories exist as indices of these frames; on the other hand, we have cases in which the interpreter assigns coherence to a text by‘invoking’a particular interpretive frame.(Fillmore, 1982. 124p.))

(注10)応神記に天之日矛説話は所載されている。都怒我阿羅斯等の記事は垂仁紀に所載されている。応神天皇は中国の史書に倭の五王の讃に当たるかとする説がある。それによるならば5世紀前半である。一方、本邦において、牛耕で唐耒が用いられ始めたとされている時期は、それよりもずっと遅れて7世紀かとさえ言われている。遺物として唐耒が出土しないからであり、農耕には牛よりも馬がよく使われたとも考えられている。小鞍を載せるようになったのも、馬の鞍に由来すると考えられている。ただし、牛の骨の出土例からすると馬と同じ頃には渡って来ているとも言う。考えなければならないのは牛馬の絶対数である。乗馬のための威信財として馬が盛んに飼育され、そのうちの駄馬は農耕に回されたとすると、馬に馬鍬を牽かせるという本邦に独特な方法も理解できる。数が少ない牛による唐耒の活用法については、馬に倣って独自に開発したと仮定するなら、韓半島に見られない牽引法による牛の一頭引き胴引き法が行われ、それが珍しがられたということもあり得ることである。河野1994.に、「馬が馬鍬で代掻き作業をするときの在来の牽引法は、田鞍や代鞍と呼ぶ背中の鞍による胴引き法であった。」(229頁)とある。理屈としてはそのように解釈可能であるが、時代考証的にはさらに検討が必要である。後考を俟ちたい。
 なお、蔚山地域では、倭人が鉄鉱石の採取活動に関わっていた痕跡があるとされている。

(引用・参考文献)
王2011. 王小林『日本古代文献の漢籍受容に関する研究』和泉書院、2011年。
大村2013. 大村明広「『古事記』天之日矛渡来条に見られる日光感精譚について─出典論を中心に─」『上智大学国文学論集』46、平成25年1月。上智大学学術機関リポジトリ http://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000033255
烏谷2019. 烏谷知子「天之日矛伝承の考察」『学苑』939号、2019年1月。昭和女子大学学術機関リポジトリ https://swu.repo.nii.ac.jp/records/6698
河野1994. 河野通明『日本農耕具史の基礎的研究』和泉書院、1994年。
Goffman, 1974. Erving Goffman, Frame Analysis : An essay on the Organization of Experience, Harper & Row, New York, 1974.
佐伯1970. 佐伯有清『日本古代の政治と社会』吉川弘文館、昭和45年。
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福島1988. 福島秋穂『記紀神話伝説の研究』六興出版、1988年。
三品1971. 『三品彰英論文集 三巻 神話と文化史』平凡社、昭和46年。
村上2013. 村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』塙書房、2013年。
門田2011. 門田誠一「東アジアにおける殺牛祭祀の系譜─新羅と日本古代の事例の位置づけ─」『佛教大学歴史学部論集』創刊号、2011年3月。佛教大学論文目録リポジトリ https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_RO000100004710(『東アジア古代金石文研究』法藏館、2016年。)

加藤良平 2024.5.3改稿初出

タヂマモリの「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」説話について

 垂仁天皇の晩年に、多遅摩毛理たぢまもり(田道間守)の登岐士玖能迦玖能ときじくのかくのこの(非時香菓)探索の話が載っている。話の次第は次のようなものである。長寿を願う垂仁天皇は、時じくのかくの木の実を手に入れようと考えた。そこで、三宅連等みやけのむらじらの祖先にあたる多遅摩毛理に、常世国とこよのくにへ行って探して来るよう命じた。多遅摩毛理は何年もかけて常世国にたどり着き、入手してようやく持ち帰った。しかし、帰還した時、すでに垂仁天皇は崩御していた。多遅摩毛理はひどく悲しみ、持ち帰った時じくのかくの木の実を飾り立てたもの八個を二つに分け、半分の四個を皇后に献上し、残り半分の四個を天皇の御陵の地に置き、泣き叫んで死んでしまったというのである。

 又、天皇すめらみこと三宅みやけのむらじおや、名は多遅摩毛理たぢまもりを以て常世国とこよのくにつかはして、ときじくのかくのこのを求めしめたまひき。かれ、多遅摩毛理、遂に其の国に到り、其の木実を採りて、かげかげほこほこち来る間に、天皇、既にかむあがりましぬ。しかくして、多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分け大后おほきさきたてまつり、縵四縵・矛四矛を以て天皇の御陵みさざきの戸に献り置きて、其の木実をささげて、さけおらびてまをさく、「常世国のときじくのかくの木実を持ちてのぼりて侍り」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。其のときじくのかくの木実は、是、今のたちばなぞ。(垂仁記)
 九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間たぢまもりみことおほせて、常世国につかはして、非時ときじく香菓かくのみを求めしむ。〈香菓、此には箇倶能未かくのみと云ふ。〉今、たちばなと謂ふは是なり。……
 明年くるつとしの春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国よりかへりいたれり。則ちもてまうでいたる物は、非時の香菓、竿ほこかげなり。田道間守、是にいさ悲歎なげきてまをさく、「おほみこと天朝みかどうけたまはり、遠くより絶域はるかなるくにまかる。万里とほくなみみて、はるか弱水よわのみづわたる。是の常世国は、神仙ひじり秘区かくれたるくにただひといたらむ所に非ず。是を以て、往来ゆきかよあひだに、おのづからにとせりぬ。あにおもひきや、ひとりたかなみを凌ぎて、また本土もとのくにまうでこむといふことを。然るに、聖帝ひじりのみかど神霊みたまのふゆりて、わづかかへまうくること得たり。今、天皇既にかむあがりましぬ。復命かへりごとまをすこと得ず。やつかれけりといふとも、亦、何のしるしかあらむ」とまをす。乃ち天皇のみさざきまゐりて、おらきて自らまかれり。群臣まへつきみ聞きて皆なみたを流す。田道間守は、是、三宅みやけのむらじ始祖はじめのおやなり。(垂仁紀九十年二月〜垂仁後紀九十年明年)

 この話が何の話なのかについては、食物史にお菓子の始まりを述べたものであるとする考え(注1)がある一方、神話学に常世国との関連で考えようとする潮流があり、また、歴史学に三宅連の始祖譚としての重要性を指摘する向きもある(注2)。国文学(上代文学)はタヂマモリとタチバナモリとの類音性を指摘したり、新羅国王の末裔である点を重視している(注3)。新編全集本古事記は、「多遅摩毛理は新羅国王の子孫であり、天皇に対する忠誠心が渡来人にも及んでいることを語る話になっている。」(211頁)という。筆者は、ヤマトコトバを入念に探究して記紀万葉を読解する立場に立つ。話として自己完結していなければ伝承されているはずはないと考えている。
 最初に登場人物を確認しておこう。三宅みやけのむらじの祖先筋に当たるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)である。紀の表記に田道間守とある点から義を考えるなら、田んぼの畦道を守る存在であろうことが見てとれる。朝廷の直轄領である屯倉みやけが置かれたのは、土着勢力がもともと拓いていたところよりも新田開発されたところである。自然のままに水稲栽培に適した水深の浅いところではなく、それまでは水が溜まることがなかったり、水が深いところを田となるように整備したところ、すなわち、畦を整えることではじめてできた田である。ミヤケを名乗る人物の祖先がタヂマモリである所以である。
 田んぼの畦道を守り整える道具は鍬である。土を盛り塗って守っている。アゼ(畦、畔)のことはアと言った。須佐之男のいたずらに「田のあをはなち(離田之阿)」(記上)とある。アという言葉には、畦以外に足のことも指した。「ゆひ〔阿由比〕」(記81)、「よひ〔阿庸比〕」(紀106)とある。どうして畦と足とが同じヤマトコトバ(音)で成っていて違和感を覚えないのか。それは、ともにクハ(鍬)に関係する語だからである。鍬によって作られるのが畦である。鍬の形は柄に直角的に角度をつけて刃となる面がついている。その様子は、足の脛に対して靴に入る足の甲、足のひらのつき方と同じである。
 白川1995.に、「くはたつ〔企・翹〕 下二段。「くは」は鍬。足でいえばかかとから爪先までの部分が、鍬の平らかな刃の部分にあたるので、鍬腹くわはらという。かかとから先をまた「くは」といい、「くはゆぎ(曲肘)」「くびす(跟)」などの語がある。遠くを望み見るとき、そこを立てるのが「くはたつ」で、かかとをあげ、背のびしてみることをいう。「くはたつ」は、仏典の訓読語にみえるほかには、用例は殆どない。「くは」は稲作以前の原始農耕の時代からあったと考えてよい。〔華厳音義私記〕「翹音は交、訓は久波多川くはたつ」、〔名義抄〕に「肢・竚・尅・翹・企クハタツ」、〔字鏡抄〕には企・の二字のみ録する。」(301頁)とある。語史的には、身体用語としてクハという語があり、後に農具として現れたものがその形になぞらえられてクハと呼ばれるようになったと考えられている。
 このことからすると、タヂマモリという人物名は、畦を作っては崩れていないかいつも見守り修繕する人を表していると考えられつつ、足が巧みに働くこと、また、遠くへ行くにはまず先を見渡さなければならないが、そのために企てて背伸びをするのにもってこいであることを示している。名に負う人物として遠い世界へ赴くことが求められているといえる。当然ながら遠路を行くには時間がかかる。その時間という概念をクローズアップさせてみたとき、時間とは無関係なほどに常に畦道を守る人のことが思い起こされている。あるのが当たり前と思われ、時間の概念から解放されているかに見えて、その実、たゆまぬ努力をもってメンテナンスが行われている。見た目が変わらないことを生業の目的とするのがタヂマモリという農道整備者である。だから、天皇としてみれば、その治世、天皇の御代の常にあらむと願うことがあるなら、タヂマモリにかなえてもらおうということになる。そして、ヨ(代、世)が常にあるとされている常世国へと足の達者なタヂマモリを派遣して、それをかなえそうな象徴的なお土産を持ち帰るように指示している(注4)
 それが登岐士玖能迦玖能ときじくのかくのこの(非時香菓)である(注5)。農道整備に使う鍬は、地面を浅く掘り起こし混ぜ返すのに便利な道具である。表面付近に根の張った雑草を根切りしながら土を耕すことができる。草は腐って作物の肥料となる。また、人肥を下肥にするため、農地に混ぜ込むのにも鍬は用いられる。すなわち、鍬はこえと深い関係にある。足を意味するクハも、足を上げることを蹴鞠にコエ(蹴、コユの連用形)といい(注6)、遠く山越え谷越えて移動するのに役立つ。コエ(肥)をコエ(超)て臭いのきつく凌駕するもの、それもアシ(足)なるアシ(悪)きものではなく、良きもので常に覆いつくすようなものが求められることになる。それが、カクなるもの、香しいものである。
 そんな木の実(香菓)があったら持ち帰るようにと言っている。ここで、トキジクノカクノコノミとは何かという問題に向き合わねばならない。「其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。」(記)、「今謂橘是也。」(紀)から、これはミカンの類の橘の実と考えられることが多い(注7)。ただし、お菓子の歴史を研究する側からは、「非時香菓」(紀)と書き示されているからには、日持ちする菓子のことではないかという意見が根強く、お菓子の起源譚であるとされている。持続性、永遠性を求めているのだから、生の菓子に当たるフルーツではなくて、加工された干菓子ではないかというのである。
 「橘」とあるからヤマトタチバナ(ニッポンタチバナ)のことを指すとする見方があるが、ヤマトタチバナは古くから自生しており遠く求める必要はない。柑橘類の総称であろうとする説もあるが、ならばどのような品種か見分けられなければならず、また、長く枝に成っていることを「縵四縵・矛四矛」、「八竿八縵」と受け取るように読むのは少し苦しいように感じられる。葉があるのが縵で、葉をもぎ取ったのが矛や竿とするとして、どうしてそのような小細工で分け隔てをするのか、何か説明されるなり自明でなければならないはずであるものの、理解への糸口はこれまでのところ見出されていない。
 なにより、記紀の言い方は念を押したような形をとっており尋常ではない。

 其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。(記)
 天皇命田道間守、遣常世国、令非時香菓。〈香菓、此云箇俱能未。今謂橘是也。〉(紀)

 平たく尋常な言い回しから見てみる。「今謂」とする叙述としては他に、記に一例、紀に八例見える。

 故、其の所謂いはゆ黄泉よもつ比良ひらさかは、今、出雲国の伊賦夜いふやさかと謂ふ。(故、其所謂黄泉比良坂者、今謂出雲国之伊賦夜坂也)(記上)
 因りて、なづけて浪速国なにはのくにとす。亦、浪花なみはなと曰ふ。今、なにと謂ふはよこなまれるなり。〈訛、此には与許奈磨盧よこなまると云ふ。〉(因以、名為浪速国。亦曰浪花。今謂難波訛也。訛、此云与許奈磨盧。)(神武前紀戊午年二月)
 かれ時人ときのひと、改めて其の河を号けて挑河いどみがはと曰ふ。今、泉河いづみかはと謂ふは訛れるなり。(故時人改号其河挑河。今謂泉河訛也。)(崇神紀十年九月)
 はかまよりくそおちし処を屎褌くそばかまと曰ふ。今、くすと謂ふは訛れるなり。(褌屎処曰屎褌。今謂樟葉訛也。)(崇神紀十年九月)
 故、其のところを号けて墮国おちくにと謂ふ。今、弟国と謂ふは訛れるなり。(故号其地墮国。今謂弟国訛也。)(垂仁紀十五年八月)
 故、時人、其のうきを忘れし処を号けてうきと曰ふ。今、いくはと謂ふは、訛れるなり。(故時人号其忘盞処浮羽。今謂的者訛也。)(景行紀十八年八月)
 故、時人、五十迹手とて本土もとつくにを号けて伊蘇国いそのくにと曰ふ。今、伊覩いとと謂ふは訛れるなり。(故時人号五十迹手之本土伊蘇国、今謂伊覩者訛也。)(仲哀紀八年正月)
 故、時人、其の処を号けて、梅豆めづ羅国らのくにと曰ふ。今、松浦まつらと謂ふは訛れるなり。(故時人号其処梅豆羅国、今謂松浦訛焉。)(神功前紀仲哀九年四月)
 鳥、此の田を以て、天皇の為に金剛こむがうを作る。是、今、南淵みなぶち坂田さかたの尼寺あまでらと謂ふ。(鳥以此田、為天皇金剛寺。是今謂南淵坂田尼寺一。)(推古紀十四年五月)

 紀の地名譚の七例は「訛」字が続いており、音の変化を「謂」で表している。推古紀の例は寺の名称変更を示している。それらから推して考えると、記上の例も、坂の名を今はそう呼んでいると言っているだけである。
 対して、尋常ではない言いっぷりを見てみる。垂仁記の「是今……也。」とする叙述は、他に記に一例、紀に一例見える。

 此の、やま多豆たづと云ふは、是、今の造木みやつこぎぞ。(此、云山多豆者、是、今造木者也。)(允恭記)
 酒君さけのきみこたへて言さく、「此の鳥のたぐひさはに百済に在り。ならし得てば能く人に従ふ。亦、く飛びてもろもろの鳥をる。百済のひと、此の鳥を号けて倶知くちと曰ふ」とまをす。〈是、今時いまたかなり。〉(酒君対言、此鳥之類、多在百済。得馴而能従人。亦捷飛之掠諸鳥。百済俗号此鳥俱知。〈是、今時鷹也。)(仁徳紀四十三年九月)

 允恭記の例の「山たづ」、「造木みやつこぎ」とも今日に伝わる名称ではなく、ニワトコのことであるとされている。勢い込んで「是今……者也。」と口にしているところから、太安万侶が書いた「今」時点で通称とされていたのではなく、聞く相手に対し、言っていることの頓智を悟れ、と促しているように思われる。みやつこと呼ばれる地方の有力者でありながら中央の被支配者層が、木を使って木に似せたものを造った、それが「造木」である。ニワトコは材質が柔らかく、削り掛けと呼ばれる飾り物の材料に使われた。おもちゃのお金のことを考えるとわかりやすい。お金でおもちゃのお金(ミヤツコガネ?)を買うという不思議なことをしている。
 また、仁徳紀の例は、百済ではたくさんいて、馴らして狩りに使うものでクチと呼ばれている、という点に関して、これは今のたかのことであると注している。この場合、 hawk が新しく種として百済からもたらされたということではない。これまで本邦でも棲息していたものの、飼い馴らし調教して狩りに使うことはしていなかったが、今日ではよく利用されるようになっていて、今言うたかのことを指しているのだと説明を施している(注8)。「造木」、「鷹」とも、種の同定をしているのではなく、人間にとってその動植物はどのような役目を果たしているかという点を考え落ちに語っている。すなわち、改められた概念を呈示している。そのことを謂わんがために、「是今……也。」という念を押す言い方が行われている。
 垂仁記同様、垂仁紀の例でも、最後に「是也。」と強調して終わっている。名称、呼称に変化があったということよりも、以前はその言葉の範疇に収められておらず、新たに認識されてその言葉に組み込まれるようになったと含み伝えるために記されている。田道間守が常世国から持ち帰ったというのはそのとおりだろうから、自生していたヤマトタチバナのことをそのまま言っているのではない。それまで思っていたのとは異なる柑橘類として「非時香菓」が将来したと考えなければならない。「非時香菓」の出現によって「橘」概念が拡張されている。起爆的に従来の「橘」概念が壊され、新しい「橘」概念が築きあげられたということである。
 その可能性の第一はお菓子の到来である。いわゆる「唐果からくだもの」である。大陸から到来した「果物」であり、「木実」に当てがわれている。和名抄に、「果蓏 唐韻に云はく、説文に木の上にあるを果〈古火反、字は亦、菓に作る。日本紀私記に古能美このみと云ひ、俗に久多毛乃くだものと云ふ〉と曰ひ、地の上にあるを蓏〈力果反、久佐久太毛能くさくだもの〉と曰ふといふ。張晏に曰はく、核有るを菓と曰ひ、核無きを蓏〈核は果蓏具に見ゆ〉と曰ふといふ。応劭に曰はく、木の実を菓と曰ひ、草の実を蓏と曰ふといふ。」とある。「唐果」とは、フルーツに似せて作った加工食品、お菓子のことである。加工されて木の実に似せられたお菓子をどのように理解すればよいか。李が伝わった時、ももに似ているのでスモモと呼ぶことにしたことはすでにあったらしい。フルーツなのだからそれで構わない。今回、何だこれは? はたして木の実と言えるのか? という代物が伝わっている。允恭記の「造木」と同様の言語活用法が試されている。
 和名抄に従うかぎり、このは、木の上に成っていて「果」または「菓」の字で表され、俗にクダモノと呼ばれているものである。一般的にいう橘の実がそのまま食用とされることはないが、近縁種のミカン類は食用となっている。和名抄に、「柑子 馬琬食経に柑子〈上の音は甘、加無之かむじ〉と云ふ。」とある。また、橘の実の皮は調味料とされている。和名抄に、「橘皮 本草注に云はく、橘皮は一名に甘皮といふ〈太知波奈乃加波たちばなのかは)、一に岐賀波きがはと云ふ〉。」とある。香り高く、甘味を含んだ風味をつけるために、料理に刻みあえている。
 すると、ニワトコの枝を使って「木」を造ったように、橘の皮を用いながら「菓蓏このみ・くだもの」を造作したものが、トキジクノカクノコノミであると言えるのではないか。そして、カクと冠されるのは、かくからなのか、かくからなのか、その両方からなのかということになるだろう。今日、柚子などの皮が香りづけに用いられているとおり、乾燥保存されて常時用いられていた(注9)。時季に応じることなく、旬にこだわることのなく造作される果物という意味で、トキジクノカクノコノミと言っている。

「かくのあわ」(?)(トルファン出土品、日中友好会館展示パネル)

 和名抄に、「結果 楊氏漢語抄に結果〈形は結ぶ緒の如し、此の間に、亦、之れ有り。今案ふるに、加久乃阿和かくのあわとかむがふ。〉と云ふ。」(注10)とあるのがそれである。結びつけるような形状にして、揚げ句の果てに成ったもの、油で揚げたお菓子のようである。油で揚げれば泡立ち、その泡のしずくのような不思議な形をしたものができている。三次元的に複雑な形状をしていて泡立つようでありつつ、今にも崩壊して泡の如く消えて行ってもおかしくないものである。ぐるぐるっと巻き結んで拵えているところは、自然界ではなかなか見られそうにない。いかにも人工的なお菓子は、逆の意味で「非時」性があり、なるほどトキジクノカクノコノミとは人間の強欲の末にたどり着いた「結果」であると悟ることができる。不老不死というあり得ないことを考えることは、あり得ないものをないものねだりすることであり、世界が反転するほどに訳がわからなくなっている。
 そのような意味合いを含めて「たちばな」という言葉で言いくるめようとしている。そこに第二の可能性が見てとれる。それ自体が果物を求めるものではない樹木の存在、からたちである。いつのことかは不明ながら古い時代に列島に持ち込まれている。

 からたちと うばら刈りけ 倉建てむ くそ遠くれ 櫛造る刀自とじ(万3832)

 名称は、カラ(唐)のタチバナ(橘)の意である。そして、「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話はよく知られている。「橘は淮南に生ずれば則ち橘と為るも、淮北に生ずれば則ち枳と為ると。葉は徒に相似るも其の実の味同じからず。然る所以の者は何ぞや、水土異なればなり。(橘生淮南則為橘、生于淮北則為枳。葉徒相似、其實味不同。所以然者何、水土異也。)」(晏子春秋・内篇・雑下)、「江南に橘有り、斉王、人をして之れを取らしめて、之れを江北に樹うるに、生じて橘と為らずして、乃ち枳と為る。然る所以は何ぞ。其の土地之れをして然らしむるなり。(江南有橘、斉王使人取之、而樹之於江北、生不為橘、乃為枳。所以然者何。其土地使之然也。)」(説苑・奉使)とある。端的に言えば、所変われば品変わる、の意である。橘と枳とには互換性があり、枳が本邦に入ってきたとき、それをカラ(唐)のタチバナ(橘)であると認め、「橘」概念が拡張された。
 こうして、お菓子のことをカラクダモノと言って木の実の範疇に入れることは、からたちたちばなの範疇に入れるのと間にパラレルな関係性が生まれている。タヂマモリがトキジクノカクノコノミを飾り捧げる方法は、「縵八縵・矛八矛」(記)、「八竿八縵」(紀)であった。葉がついたものは「縵」、ついていないものは「矛」や「竿」と解されている。通説では、ミカンの実に葉をつけておくかつけておかないかの差のように考えられているが、そうではなく、カラタチの樹全体に、葉がついているか葉が落ちてしまっているかを指している。柑橘類のなかでも特異な存在として、カラタチには葉を落とす習性がある。葉が完全に落ちていても茎部分に葉緑体があるので生きている。「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話も生き生きとしたものになっている。

左:カラタチの垣根(川崎市立日本民家園)、右:七支刀復元品(鋳造、平成18年復元プロジェクトチーム制作、橿原考古学研究所附属博物館展示品)

 カラタチは刺が出ていて生垣に利用されている。泥棒を含めた獣除けのために果樹園の周囲にめぐらされた。水田に米が稔るのは、田に水がたまる仕掛けに拠っていて、その田の周りは畦がめぐらされていて稔りを守っていたのと同じである。タヂマモリはその名がゆえに耕作地の周りを守る仕事に徹していた。果樹園に果物が実らない最大の理由は鳥獣による被害である。それを防ぐには畦同様の仕掛けが必要となる。葉が茂って「縵」があれば果樹園の中を見えなくし、葉がなくても刺や枝が入り組んでいれば「矛」や「竿」の役目を果たす。侵入できない通せん棒、鉄条網、警備具と化している。とげとげしている様は、まるで七支刀のような矛である(注11)。カラタチが生垣としてあれば、果樹園では果物がよく実り、香り高く熟するまで枝につけておけて美味なるものを収穫することができる。それこそカクノコノミであり、カラタチは果物そのものと等価である(注12)。タヂマモリは、常世国で自らが派遣された理由を理解するのに時間を要したようであるが、ヤマトコトバの論理学において、その名を負わなければ果樹園守の任は果たせなかったのであった。結果、カラタチは樹種的には柑橘類であり、フルーツの「橘」概念を刷新させている。「是今橘者也。」(記)、「今謂橘是也。」(紀)と記されたのは、頓智力の高い考え落ちであった。
 記に、「爾、多遅摩毛理、分縵四縵・矛四矛、献于大后、以縵四縵・矛四矛、献-置天皇之御陵戸而、……」とあるのは、「縵八縵・矛八矛」を半分ずつに分配したということである。荻生徂徠・南留別志に、「ふたつはひとつの音の転ぜるなり。むつはみつの転ぜるなり。やつはよつの転ぜるなり」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100173233/54?ln=ja)とある。すなわち、「や(八)」としてではなく、「よ(四)」としている。「や」は「よ」の母音交替形でその倍数である。どちらも「弥」字で表すように、極めて数が多いことをいうが、垂仁天皇が当初求めた目的は、御代の常ならんことであった。程度の甚だしいことを表す副詞に用いられている。

 …… 堅く取らせ した堅く や堅く取らせ だり取らす子(記102)
 霞立つ 長き春日を 挿頭かざせれど いや懐かしき 梅の花かも(万846)
 夕凪に 寄せ来る波の その潮の いやますますに その波の いやしくしくに わぎ妹子もこに ……(万3243)
 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793)

 つまり、(ヨは乙類)(世、齢)の長かりしことを願っていたのであって、同音の乙類のヨ(四)こそふさわしい数であった。それなのに、いやますますの意味でヤ(ハ)ピース(piece)持ち帰って来てしまった。多いほどいいだろうと考えていたから、光陰の如しというようにヤが飛ぶように時間がかかり、天皇はすでにこの世を去ってしまっていた。必要にして十分なピース数はヨ(四)であった。だから、大后に四ピースを献上し、残りの四ピースを陵墓へと持って行った。間に合わなかった責任は自分にあると思って後悔し、泣き叫んで死んでしまったという話で終わっている。「常世」なのだからトコ(床)+ヨ(四)、つまり、四角形の牀、胡床のことだとまで頓智が利かなかったのは、タヂマモリをしていながらまだ田が条里制以前のことで、四角四辺がヒントなのだと気づかなかったからだろうか。
 タヂマモリの非時香果の説話がこのような様相を呈するように、ヤマトコトバの言語ゲームの粋の賜物としてさまざまな説話が記紀に残されている。

(注)
(注1)「菓子の文化史」参照。
(注2)中村2015.は、「こうした[田道間守がお菓子の神さまとして祭られるにいたる]後世の伝説の進化は、ある種、物語としての宿命なので是非はないが、本来の田道間守と非時香菓の物語は、どういう意図をもって記述されたのかを探る必要はあろう。」(188頁)といい、垂仁陵を青々と飾るために橘の木が選ばれて、三宅氏の陵墓管掌の役割を確かならしめるためにこの話は創作されたのであろうとしている。
(注3)西郷2005.は、タヂマモリの話の意味合いは、《帰化族》の宮廷への忠誠譚であるとし、また、三宅ミヤケ連の祖のことから、武蔵国橘樹タチバナ郡に橘樹郷とヤケ郷とが並んで見えることが、屯倉ミヤケ(宮廷領)とタチバナとの因縁を想わせるという(355~356頁)。
(注4)「土産みやげ」という言葉の出所は未詳であり、いつからある言葉かも定かでない。そのミヤゲ(土産)とミヤケ(屯倉、三宅、ケは乙類)が関係する語なのかも不明ではある。
(注5)「時じ」については、➀絶え間なく〜する、いつでも〜だ、②その時ではない、時節はずれだ、の二つの意味があると考えられている。用例を見ると、いずれかの意味にとれば理解されることが多いため、当初から二つの意味があったように思われている。そして、この「時じくのかくの木実」の場合、➀と②の両方を含んだ重層的な意味合いを表していると指摘されている(佐佐木2007.)。しかし、「時じ」という言葉の原義は、時そのものを内に含んでしまい、時間という概念を超越することであると捉えたほうがわかりやすい。だからこそタヂマモリとは何か、という哲学的な問い掛けが主題を構成するのにふさわしいのである。
 トキ(時)という言葉は、古典基礎語辞典で、「古くは、今あると思ったことが過去となり、やがて来るであろう未来が現前しているというように、次々と移り変わるものとしてトキを意識している。」(827頁、この項、白井清子)と解説されている。それに否定の形容詞を作る接尾語がついているのだから、「時じ」の意味の原型(prototype)は、移り変わりの適時感が失われている点にこそあるのだろう。すなわち、動画の停止ボタンがうまく働かないことを表している。ジャストタイムに停止しないことも、ボタン自体が利かないことも、同じく「時じ」という一語に当たる。
(注6)蹴鞠の足の使い方は独特である。渡辺2000.に、「蹴鞠では鞠を蹴上げる足は何故か右足に限られていた。箸を右手で扱うのが正しい作法であるという観念と共通の文化風土の産物であろう。したがって、一人で続けて鞠を蹴上げる場合、サッカーのリフティングのように歩行と同じリズムで、左・右、左・右と交互に蹴ることはできない。蹴鞠の術語ではフットワークを足踏と言う。連続的に鞠を蹴上げる場合の足踏の要領は次のとおりだった。まず、右足で鞠を蹴上げた後、右足を着地する、次に左足を(挙げて)着地し、しかる後に、右足を挙げて鞠を蹴る。つまり、ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)→ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)、………、という、日常的な歩行とは異なるリズムの繰り返しになった。これを三拍子と呼んだ。」(9頁)とわかりやすく説明されている。足を意識して動かしている。その際、足首を伸ばすことなく鍬同様にL字形に保った動きを繰り返している。
 蹴るの古語は、古くクウ(下二段活用)という言い方があり、「蹴散くゑはららかす」(神代紀第六段本文)という例がある。名義抄には、「蹴 化ル、クユ、コユ」とあり、コユは「越ゆ」と同根とされている。蹴る動作と踏む動作がセットになっている。鍬が土を掘り蹴上げるばかりでなく、反対面を使って泥土を押し撫でつけて畦を作ることができるようになっているのと同じことである。
(注7)ミカン科のなかには、ダイダイ(橙)のように一旦黄色くなったものが翌春になると再び緑色になり、果実が二三年落ちずにいる種もある。筆者はこれをトキジクノカクノコノミに宛がわない。トキジク性を欠いている。
(注8)鷹狩り用の鷹が、空間的に「渡り」鳥であるばかりか時間的にも「渡り」鳥であるように、巧みなレトリック表現としてある点については、拙稿「允恭記の軽箭と穴穂箭について」参照。
(注9)七味唐辛子にはミカンの皮が入っている。人見必大・本朝食鑑の「蕎麦」の項に、「別に蘿蔔汁・花鰹・山葵・橘皮・番椒・紫苔・焼味噌・梅干等の物を用ゐて、蕎切及び汁に和して食す。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569413/1/57)と見える。
(注10)和名抄に菓子類と思われる食べ物が記載されている。食べ物のうち菓子に分類されるものは、その嗜好性によるのであろうが、どこまでを嗜好品としてデザートやおやつに食べるかは判断がつきにくい。太田2005.の挙げるものについて、以下に京本の順にて記す。

餅腅 楊氏漢語抄に云はく、裹む餅の中に鵝鴨等の子、并びに雑菜を納れ煮合せてけだに截るものは、一名に餅腅〈玉篇に腅は達監反、肴なり〉といふ。
糉〈角黍、粽なり〉 風土記に云はく、糉〈作弄反、字は亦、粽に作る、知末岐ちまき〉は菰の葉を以て米を裹み、灰汁を以て之れを煮て爛熟せ令め、五月五日に之れをふといふ。
餻 考声切韻に云はく、餻〈古労反、字は亦、𩝝に作る、久佐毛知比くさもちひ〉は米屑を蒸して之れをつくるといふ。文徳実録に云はく、嘉祥三年の訛言に、今玆ことし三日に餻を造るべからず、母子無きを以てなりと曰ふといふ。
餢飳 蒋魴切韻に云はく、〓〔飠偏に咅〕飳〈部斗ぶとの二音、亦、〓〔麥偏に咅〕𪌘に作る、布止ぶと、俗に伏兎と云ふ〉は油煎餅の名なりといふ。
糫餅 文選に云はく、膏糫は粔籹といふ〈糫の音は還、粔籹は下文に見ゆ〉。楊氏漢語抄に糫餅〈形は藤葛の如き者なり、万加利まがり〉と云ふ。
結果 楊氏漢語抄に結果〈形は緒を結ぶ如し、此の間に、亦、之れ有り、今案ふるに加久乃阿和かくのあわ〉と云ふ。
捻頭 楊氏漢語抄に捻頭〈無岐加太むぎかた、捻の音は奴協反、一に麦子と云ふ〉と云ふ。
索餅 釈名に云はく、蝎餅、䯝餅、金餅、索餅〈無岐奈波むぎなは、大膳式に手束索餅は多都賀たつかと云ふ〉は皆、形に随ひて之れを名くといふ。
粉熟 弁色立成に粉粥〈米粥を以て之れを為る、今案ふるに粉粥は即ち粉熟なり〉と云ふ。
餛飩 四声字苑に云はく、餛飩〈渾屯の二音、上の字は亦、餫に作る、唐韻に見ゆ〉は、餅を肉としてきざみて麺とし之れを裹み煮るといふ。
餺飥〈衦字付〉 楊氏漢語抄に云はく、餺飥〈博託の二音、字は亦、𪍡𪌂に作る、玉篇に見ゆ〉は衦麺、方に切る名なりといふ。四声字苑に云はく、衦〈古旱反、上声の重〉は摩りぶるための衣なりといふ。
煎餅 楊氏漢語抄に云はく、煎餅〈此の間に字の如しと云ふ〉は油を以て熬る小麦の麺の名なりといふ。
餲餅 四声字苑に云はく、餲〈音は蝎と同じ、俗に餲餬と云ふ。今案ふるに餬は食に寄するなり、餅の名とるは未だ詳かならず〉は餅の名、麺を煎りて蝎虫の形に作るなりといふ。
黏臍 弁色立成に黏臍〈油餅の名なり、黏り作り人の膍臍に似せるなり、上の音は女廉反、下の音は斉〉と云ふ。
饆饠 唐韻に云はく、饆饠〈畢羅の二音、字は亦、〓〔麥偏に必〕𪎆に作る。俗に比知良ひちらと云ふ〉は餌の名なりといふ。
䭔子 唐韻に云はく、䭔〈都回反、又、音は堆と同じ、此の間に音は都以之ついし〉は䭔子なりといふ。
歓喜団 楊氏漢語抄に歓喜団と云ふ。〈しなじなの甘物を以て之れをつくる。或説に一名を団喜と云ふ。今案ふるに俗説に梅枝、桃枝、餲餬、桂心、黏臍、饆饠、䭔子、団喜は之れを八種の唐菓子と謂ふ。其の見ゆる有るは、すでに上文に挙ぐ〉

(注11)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」参照。
(注12)カラタチ自体の実のことなどどうでもいいことにされている点が、なるほどと理解に至る考え落ちになっている。頓智にすぐれたおもしろい話として際立つ構成である。このように頭を捻るおもしろ味があるからこそ、本説話は伝承されてきていたと考えられる。話を伝えることが生きる知恵に直結している。カラタチは、名を捨てて実(果樹園のなかの果樹の実)を取ったことになっている。

(引用・参考文献)
太田2005. 太田泰弘「唐菓子の系譜─日本の菓子と中国の菓子─」『和菓子』第12号、虎屋文庫、平成17年3月。
「菓子の文化史」 「菓子の文化史」(平成22年度)『文化史総合演習成果報告』奈良女子大学大学院人間文化研究科(博士前期課程)国際社会文化学専攻、2011年3月。奈良女子大学ホームページ http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/index.html(2024年5月2日閲覧)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』 筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む─声から文字ヘ─』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
次田1980. 次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
中村2015. 中村修也「田道間守と非時香菓伝説新考」『言語と文化』第27号、文教大学、2015年3月。文教大学学術リポジトリ https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/records/3032
渡辺2000. 渡辺融「フットボール、昔と今」『大学出版』第47号、大学出版部協会、2000年10月。大学出版部協会 https://www.ajup-net.com/web_ajup/047/web47.shtml(2024年5月2日閲覧)

加藤良平 2024.5.4加筆初出

蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─

記紀の国生み説話

 ヤマトの名は、記紀の初めにある国生みの説話にすでに見られる。まず、あめの浮橋うきはし天上あまの浮橋うきはし)から天沼矛あめのぬほこあま之瓊のぬほこ)を下して掻き混ぜ、潮が凝りて淤能碁呂おのごろしま(磤馭廬嶋)となったところで、イザナキとイザナミがあひ遘合みとのまぐはひ(共為夫婦・為夫婦・合為夫婦))をした。その結果、いくつかのしま(洲)ができたなかの一つが、おほやまと豊秋とよあきしま(大日本豊秋津洲)であった。

 是に、ふたはしらの神、はかりて云はく、「今が生める子良からず。猶あまかみもとまをすべし」といひて、即ち共に参ゐのぼり、天つ神のみことひき。しかくして、天つ神のみこと以て、ふとまにに卜相うらなひてのりたまひしく、「をみな先に言へるに因りて良からず。亦還りくだりて改め言へ」とのりたまひき。故、爾くして、かへり降りて、更に其のあめ御柱みはしらめぐること先の如し。是に伊耶那いざなきのみこと、先に言はく、「あなにやし、えをとめを」といひ、のちいも伊耶那いざなみのみこと言はく、「あなにやし、えをとこを」といひき。如此かく言ひをはりてあひして、生みし子は、あは道之穂之ぢのほの狭別島さわけのしま。次に、伊予之いよの二名島ふたなのしまを生みき。此の島は、身一つにしておも四つ有り。面ごとに名有り。かれ予国よのくに愛比売えひめと謂ひ、讃岐国さぬきのくに飯依いひより比古ひこと謂ひ、粟国あはのくにおほ宜都比売げつひめと謂ひ、左国さのくに建依別たけよりわけと謂ふ。次に、隠伎之おきの三子島みつごのしまを生みき。亦の名は、あめおし許呂ころわけ。次に、筑紫島つくしのしまを生みき。此の島も亦、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、筑紫国つくしのくにしらわけと謂ひ、豊国とよくにとよわけと謂ひ、肥国ひのくにたけむかとよ久士比泥くじひねわけと謂ひ、熊曽国くまそのくにたけわけと謂ふ。次に、岐島きのしまを生みき。亦の名は、あめ比登ひと都柱つはしらと謂ふ。次に、しまを生みき。亦の名は、あめ之狭手のさでより比売ひめと謂ふ。次に、度島どのしまを生みき。次に大倭豊秋津島おほやまととよあきづしまを生みき。亦の名は、天御あめのみ虚空そら豊秋とよあき津根づねわけと謂ふ。故、此のしまを先に生めるに因りて、おほ島国しまくにと謂ふ。しかくして後に、還りしし時、びのしまを生みき。亦の名は、たけ方別かたわけと謂ふ。次に、小豆あづきしまを生みき。亦の名は、おほ野手比売のてひめと謂ふ。次に、大島おほしまを生みき。亦の名は、おほ多麻流たまるわけと謂ふ。次に、女島ひめしまを生みき。亦の名は、天一根あめひとつねと謂ふ。次に、訶島かのしまを生みき。亦の名は、あめおしと謂ふ。次に、両児島ふたごのしまを生みき。亦の名は、天両屋あめのふたやと謂ふ。〈吉備児島より天両屋島に至るまでは、并せて六つの島ぞ。〉(記上)
 こうむ時に至るに及びて、先づ淡路洲あはぢのしまを以てとす。みこころよろこびざれるなり。かれなづけて淡路洲と曰ふ。すなはおは日本やまと〈日本、此には耶麻騰やまとと云ふ。しも皆此にならへ。〉豊秋とよあきしまを生む。次に予二名洲よのふたなのしまを生む。次に筑紫洲つくしのしまを生む。次に岐洲きのしま度洲どのしまとを双生ふたごにうむ。ひと、或いは双生むこと有るは、此にかたどりてなり。次に越洲こしのしまを生む。次に大洲おほしまを生む。次にびのしまを生む。是に由りて、始めて大八洲国おほやしまのくにおこれり。即ち対馬嶋つしま岐嶋きのしま、及び処処ところどころしまは、皆是しほあわりて成れるものなり。亦は、水の沫の凝りて成れるとも曰ふ。(神代紀第四段本文)  遂に為夫婦みとのまぐはひして、先づひるを生む。便ち葦船あしのふねに載せてながしやりてき。次に淡洲あはのしまを生む。此亦の数にれず。故、還復かへりてあめに上りまうでで、つぶさに其のありさままをしたまふ。時に天神あまつかみ太占ふとまにを以て卜合うらふ。乃ちをしへいでてのたまはく、「婦人たわやめこと、其れすでに先づ揚げたればか。更に還りね」とのたまふ。乃ちとき卜定うらへてあまくだす。故、ふたはしらの神、改めてまたみはしらを巡りたまふ。かみは左よりし、かみは右よりして、既に遇ひたまひぬる時に、陽神、先づ唱へて曰はく、「妍哉あなにゑや可愛少女をとめを」とのたまふ。かみ、後にこたへて曰はく、「妍哉、可愛少男をとこを」とのたまふ。然して後に、宮をおなじくして共に住ひてみこを生む。おほ日本やまと豊秋とよあきしまと号く。次に淡路洲あはぢのしま。次に予二名洲よのふたなのしま。次に筑紫洲つくしのしま。次に岐三子洲きのみつごのしま。次に度洲どのしま。次に越洲こしのしま。次にびのしま。此に由りて、これ大八洲国おほやしまのくにと謂ふ。(神代紀第四段一書第一)
 一書に曰はく、ふたはしらの神、合為夫婦みとのまぐはひして、先づ淡路洲・淡洲あはのしまを以てとして、大日本豊秋津洲を生む。次に伊予洲。次に筑紫洲。次に億岐洲と佐度洲とを双生ふたごにうむ。次に越洲。次に大洲。次に子州。(神代紀第四段一書第六)
 一書に曰はく、先づ淡路州を生む。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に億岐洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に壱岐洲。次に対馬洲。(神代紀第四段一書第七)
 一書に曰はく、おの馭廬ごろしまを以て胞として、淡路洲を生む。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億岐洲と佐度洲とを双生む。次に越洲。(神代紀第四段一書第八)
 一書に曰はく、淡路州を以て胞として、大日本豊秋津洲を生む。次に淡洲。次に伊予二名洲。次に岐三子洲きのみつごのしま。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲。(神代紀第四段一書第九)
 一書に曰はく、陰神先づ唱へて曰はく、「妍哉、可愛少男を」とのたまふ。便ち陽神のみてりて、遂に為夫婦みとのまぐはひして、淡路洲を生む。次にひる。(神代紀第四段一書第十)

 記では、それぞれの「島」について亦の名の神名を記す。一方、紀では、「洲」の名を連ねるに止まる。記では、淡道之穂之狭別島、伊予之二名島、隠伎之三子島、筑紫島、伊岐島、津島、佐度島を生んでから大倭豊秋津島を生んでいる。以上から大八島国といったとする。その後、吉備児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島を生んだとしている。紀本文では、「及至産時、先以淡路洲胞。」とあり、すぐに大日本豊秋津洲を生んでいる。「胞」とは胞衣えなのことで、胎児をくるむ羊膜である。通常、臍帯などと同じく、後産あとざんとして子の出たあとから娩出される。これらをすべて胞衣えなと称するようになっている。胞が先に出てきて子が後から出て来ているのが問題で、順序が逆になっている。その後、伊予二名洲、筑紫洲、億岐洲、佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲の順で生み、以上で大八洲国の名前ができたとする。淡路洲は胞だから大八洲の勘定に入れていない。また、対馬島、壱岐島とその他の諸々の島々は、みな潮の泡が凝り固まってできたものであるとしている。洲と島とを使い分け、厳密な表記を心掛けている。
 紀一書第一では胞の話はなく、大日本豊秋津洲、淡路洲の順で、大島が除かれて大八洲国としている。一書第二から一書第五までは国々の記載はなく、一書第六は、淡路洲・淡洲を胞として大日本豊秋津洲を生み、以下本文と同じである。一書第七は、淡路洲、大日本豊秋津洲、伊予二名洲、億岐洲、佐度洲、筑紫洲、壱岐洲、対馬洲の順である。一書第八になると磤馭慮嶋が胞にされ、淡路洲を生み、次に大日本豊秋津洲、伊予二名洲、筑紫洲、吉備子洲、億岐洲、佐度洲である。一書第九では、淡路洲を胞として大日本豊秋津洲、その後に淡洲が登場し、伊予二名洲、億岐三子洲、佐度洲、筑紫洲、吉備子洲、大洲、一書第十では淡路洲、蛭児を生んで終わっている。異同が多い点が、かえって厳密に記そうとしていた意図を伝えることになっている。

アハヂの謎(虻蜂取らず・蜘蛛の子を散らす)

 生まれる順として、淡路島を出発点にして、本州から四国、九州、日本海側、瀬戸内海へと回るか、四国の次に隠岐、佐渡があって九州が後回しにされるか、記のように本州が大八島国の最後になるかいろいろである。紀に見られる「」は、国が生まれるときの梃子として効いており、淡路島がキーになっている。紀本文に「意所快。故、名之曰淡路洲。」とある。何が気に入らなかったのか、また、アハヂという名がどうして不快を表す名に値するのか。大系本日本書紀に、「第一子は産みそこないをするという当時の伝承がある通り、その第一子は生みそこないであったので、その第一子にアハヂ(吾恥)の島と名づけたという意(これはアハヂ島という、当時すでに存在していた島の名の地名起源説話の一つがここにからんだもの)。意に満たないので、この島は、おそらく流し捨てたのであろう。ここでは淡路州は大八洲の数に入っていない。この部分は古事記のヒルコの話に相当する。」(331頁)とある。新編全集本日本書紀には、それに加えて、「あるいは軽蔑する意の「淡あはむ」をかけたか。」(27頁)ともある。淡路島はヒルコと違って流されずに現在も大きく存在する。国生みの話は、記、紀本文、一書第一~第十まであるが、一書の第二以降は大雑把で噺のレベルに達しておらず、説話として体を成しているのは、記、紀本文および一書第一だけであり、紀本文にのみ何食わぬ顔で淡路島の悪口が書かれている。
 大系本にいうとおり、すでに存在していた地名に託けた地名譚であろう。先に阿波あはという地名があり、それに引きずられてできたであろうあはという地名があった。そのアハヂという地名にからんで説話が創られている。そして、後先かまわず胞が先に出てきていることから、ちぐはぐさを感じさせる内容を表していると考えられる。おそらくこれは、諺の「虻蜂取らず」の訛った形の頓知であろう。虻蜂取らずとは、どっちつかずや中途半端なことの譬えに用いられている。abu+fati→afadi である。自ら張った巣の中央にクモがおり、巣の対角線上にアブとハチとが同時にかかった。両者ともクモにとっては獲物として大物で魅力的だが力も強い。クモは、どちらを捕ろうかと迷っているうちにどちらも捕れないまま逃げられてしまう(注1)。すなわち、畿内にある朝廷は、西方からの侵入者に対し、明石、鳴門の両海峡を防ごうとして、淡路島の真ん中に城を一つ構えて守ろうとしたが叶わなかった。それを虻蜂取らずの淡路島と洒落ている。
 クモの巣は高いところできらきらしている。移動に際して糸を伸ばして風に乗り、海を越える種もあり、それを糸遊いとゆうと呼ぶ。3~7mmの成体のクモが細い糸を吐き、風に乗って移動する現象である(注2)。ただし、一般に糸遊といえば陽炎のことを指す。現象としてはいずれもぼやぼやっとしてちらちらっと目に映る。漢語の「遊糸」は、梁の簡文帝の詩賦などに見えており、芸文類聚にいくつも例が載る。本邦では和漢朗詠集や菅家文章にも見え、また、和訳して「糸遊」という語も作られている。空海は仏典に拠って「陽燄」の語を用いており、陽炎と遊糸がイメージのなかで混同しているとも考えられている。平安朝の仮名文学においても、「かげろふ」はほのかな光の揺らぎ、光ってはかげり、かげっては光る心もとない現象として想起され、人の世やわが身のはかなさの譬えとして表現されている。
 秋津島は淡路島を胞として出てきた。淡路島は、古代以来、一つの島で一つの国、淡路国を形作る。その胞を破って、蜘蛛の子を散らすような状態になった(注3)。ものすごい数のもじゃもじゃが現れた。一つの島(本州)にたくさんの国(近江、丹波、信濃、上総、出雲、伊勢、吉備、紀伊、伊豆、美濃、播磨、……)がある。淡路島と本州との間は明石海峡である。明石はタコが名産である。そのタコを特に蜘蛛蛸と呼んでいる。「蛸」の字は中国ではアシタカグモのことを指し、巣を張らずに家にいてゴキブリなどを食べて生きている。そんな「蛸」に似た水中の昆虫といえば、トンボの幼虫、ヤゴである。

左:アシタカグモ雌成虫(Jinn「アシダカグモ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アシダカグモ)、中:明石のタコ(松岡明芳「明石市内の商業地区魚の棚で販売される明石ダコ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/明石ダコ)、右:コヤマトンボのヤゴ(Keisotyo「ヤゴ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ヤゴ)

 成虫のトンボは空を飛び、糸遊のように高いところで羽根がきらきらしている。したがって、カゲロフである。透き通った羽根がぼやぼやっとちらちらっと見えるのは、縁紋と呼ばれるステンドグラスの鉛線ケイムのような筋が入っていて、模様となっているからである。
 大倭豊秋津島(大日本豊秋津洲)の秋津とはトンボのことで、蜻蛉と記される。和名抄に、「蜻蛉 本草に云はく、蜻蛉〈精霊の二音〉は一名に胡〓〔勑冠に虫〕〈音は勅、加介呂布かげろふ〉といふ。釈薬性に云はく、一名に蝍蛉〈上の音は即〉といふ。兼名苑に云はく、虰蛵〈丁香の二音〉は一名に胡蝶は蜻蛉なりといふ。」とある。「蜉蝣かげろふ」とは、今いうカゲロウ目やウスバカゲロウのようなアミメカゲロウ目の昆虫だけでなく、トンボ一般のことを指した。そして、「陽炎かげろふ」は、光がちらちらと揺れ動くように見える現象をいい、「かぎろひ(ギ・ロは甲類、ヒは乙類)」の転とされ、ヒは火の意である。万葉集では、炎・蜻火・蜻蜓火といった字を当てている(注4)
 万葉集中に、アキヅとして記される例は全部で二十一例である。内訳は、地名のアキヅが七例(「秋津」(万36・911・1368・1713)、「蜻蛉」(万907)、「飽津」(万926)、「蜻」(万3065))、地名のアキヅノが六例(「秋津野」(万693・1345・1406)、「蜻野」(万1405)、「蜓野(万2292・3179))、枕詞のアキヅシマが五例(「蜻嶋」(万2・3250・4254)、「秋津嶋」(万3333)、「安吉豆之萬」(万4465))、昆虫としてのアキヅが二例(「あき津羽づは」(万376)、「蜻領あきづひれ」(万3314))である。

 あき津羽づはの 袖振る妹を 玉くしげ 奥に思ふを 見たまへ吾が君(万376)
 …… たらちねの 母がかたと 吾が持てる まそみ鏡に 蜻領あきづひれ 負ひめ持ちて 馬へ吾が背(万3314)

 「秋津羽の袖」はうすもの製の袖、「蜻領巾」はオーガンジーの領巾のことである。いずれも透けるだけでなく、トンボの羽根の縁紋のように模様が施されていてきらきらと輝くものであったものと思われる。

トンボの羽根模様と秋津島

 このように、アキヅが特別な言葉として扱われた理由は、国生みの説話と関係があるからであろう。トンボは秋になって成熟し、交尾できるようになると、その縁紋は左右の羽根でぴったり揃うようになる。交尾して産卵できるようになった証拠である。万376番歌は、題詞に「湯原王宴席歌二首」とある。女性が成長して高貴な皇子と婚約を発表した宴席に、湯原王が侍して祝った歌と思われる。トンボの縁紋を画に描くと、本州(大倭豊秋津島・大日本豊秋津洲)にたくさんの国のある様を描いた日本地図のようになる。

大日本図(拾芥抄、慶長十二年(1607)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2580206/63~64をトリミング合成)

 今日に伝わる古い日本地図としては、14世紀初めの仁和寺蔵日本図や金沢文庫蔵日本図、14世紀半ばのものを伝える拾芥抄所収の大日本国図が知られている。中世までの日本図を総称して行基図という。仁和寺蔵日本図に「行基菩薩御作」、拾芥抄に「大日本国 ハ行基菩 ノ スル也。」と注記されている。いずれも、今日のものと比べ、本州に関東地方部分からの北方向への屈曲が少なく、また、諸国が丸みを帯びた形でつなぎ描かれている。行基図は独鈷図ともいう。まんなか辺がくびれているのを密教の法具のとっに見立てたようである。拾芥抄には、「此 ノ形如 ノ テ仏法滋盛ナリ ノ形如 ノ ニ金銀銅鉄 ノ珍宝。五穀豊稔ナリ。」とある。地理的には、列島は若狭湾から琵琶湖を通って伊勢湾へ抜けるところが細くなっているから、それが独鈷の中心ということであろう(注5)
 また、金沢文庫蔵日本図に、我が国を取り巻くように、ヘビか何かのような鱗状の模様が描かれている。その外側の異域の記述は、今昔物語集に典拠があるとする考証が応地1996.にある。また、鱗状の模様については、龍を描いて国土が守られるようなデザインであるとの考証が黒田2003.に行われている。龍が描かれるにいたった根源には、龍が雨水を導く雷神と深い関係がある点にあるという。五行説では、青龍は東の方位と位置づけられるが、国を巡る形で描かれていることは古代末期以降の雨の神としての龍神信仰によるものとしている(注6)。ただ、地図は古代からあったと考えるのが自然である。我が国の場合、諸国の編成に分国はあっても異民族に分断されたことはなく、大勢に変化はない。また、宗教的なドグマに支配された暗黒時代も訪れず、名称の点にのみ、行基図、独鈷図と呼ばれた程度で、特段に形が抽象化されたり偏向が行われた形跡は見られない。おそらく、既存の地図を目にしながら、模写や修正を繰り返して新しい地図は作られ続け、結果的に現存する行基図へとつながり、一部に龍のような芸術性を伴ったものが現れたのだろうと推測される。
 古代の地図が仁和寺蔵日本図に遠くないものとすれば、東西に延びている国々の様子は、トンボが羽を広げた姿に準えられて考えられたのではないか。その特徴を一言でいうなら縁紋的である。棚田の広がる風景が、縁紋のつづく様子に合致することも重ね合わせて納得されたに相違あるまい。なかでも、赤トンボの生育環境として田圃ほどふさわしい場所はなく、水田稲作の展開によって我が国では赤トンボがたくさん見られるようになっている。本州は、大倭豊秋津島(大日本豊秋津洲)、赤トンボの島とイメージされたのである(注7)
 国生みのはじめが淡路島なのは、明石海峡の地名によっている。アカシ(証)になるのがアカシ(明石・赤石)である。

 白髪しらかの天皇すめらみことぎてだてつかはして、しるしを持ち、左右もとこ舎人とねりて、あかに至りて迎へたてまつる。(仁賢即位前紀)

 勅使の証は「節」である。竹の節を割ると左右で合うものはほかにないから証明になる。節度使とは、竹の節によって勘合したことからくる名である。中央から勅を授かって地方の行政に当たっている。和名抄で蜻蛉の一名を「胡〓〔勑冠に虫〕」とし、〓〔勑冠に虫〕が勅の虫と記されていたのには深い意味があったようである。成熟したトンボの左右の羽の縁紋の形は、まるで「節」のように対称に揃っている。赤トンボは、子孫を残せるほど成熟した証として縁紋が揃いもし、赤くもなって、二羽が合わさって交尾をし、水田で子をたくさん生む。水田で稲が赤く熟するのと良く合致している。紀では、「秋津あきづしま赫赫さかりにして」(継体紀七年十二月)、「熟稲あからめるいね」(皇極紀元年五月)と表現されている。
 秋津島では秋になると蜻蛉の縁紋が合う。辻褄が合うという言葉で譬えられよう。辻褄とは、万葉集にいう「秋津羽」、「蜻領巾」同様、服飾用語である。辻は縫い目が十文字に合う所をいい、褄は着物の裾の左右がそろう所をいう。そこから、辻褄が合うとは、合うべきところがきちんと合って物事の道理が合うことをいい、辻褄が合わないとはちぐはぐなことをいう。先に胞となって出てしまった淡路島はヤゴではなかった。辻褄の合わない、すなわち、成熟してもトンボにならない蜘蛛、蛸、また、蜘蛛蛸のことを言っていたわけである。ヤマト朝廷の勢力が本州部分において、稲作にかなう地として東西に版図を広げていくなか、文様が左右対称状になっているのを正当なこととするように構想されていた。それが、aki(秋)+tudituma(辻褄)→akidusima(秋津島)である。

トンボと太鼓と雷

 トンボという名は飛ぶ棒の訛りかという。飛ぶ棒といえば太鼓を叩くばち(枹)が連想される。和名抄に、「大皷〈枹付〉 ……兼名苑に云はく、槌は一名に枹〈音は浮、字は亦、桴に作る。俗に豆々美乃波知つづみのばちと云ふ〉は大鼓を撃つ所以なりといふ。」とある。国生みの話では、当初、イザナキとイザナミのあひ遘合みとのまぐはひ(共為夫婦・為夫婦・合為夫婦))において、「あなにやし(あなにゑや)」と唱える順序が逆であったため、蛭児や淡洲が生れて失敗している。そこで、「故、還復上詣於天」している。できちゃった結婚(授かり婚)は駄目で、神前できちんと結婚式をしてからでなければならない。順序がちぐはぐでは罰が当たるという戒めになっている(注8)。文字の点からいえば、「桴」の字は、淡路島は、明石、鳴門とも海峡に挟まれていることから連想される。「かひ」に挟まれている。秋になってできる稲穂とは「かひ」である。また、「枹」の字は「」の字から連想される。「枹」の字はまた、ケラ(螻蛄)をも指す。形はヤゴによく似、地中で生活する。
 ヤゴは別名をタイコムシという。人々にとっての太鼓の原体験はでんでん太鼓である。抱っこされながらあやされるのに用いられる。記紀説話の最初の舞台、淤能碁呂おのごろじま(磤馭廬嶋)は、雷公をイメージしていたようである。オ(感嘆符のOh!)+ノ(助詞)+ゴロ(擬音語)、つまり、雷鳴を表すと考えられる。天沼矛あめのぬほこあま之瓊のぬほこ)のヌは玉飾りのことである。そのような装飾が鞘などに施された、あるいは刀身自体の形容であるなら、きらきら光る矛を高いところから下ろしたとは、稲光をイメージした表現ということになる。民俗において稲妻は、稲を稔らせるパートナーの意であるとされている(注9)
 でんでん太鼓を背負って桴を振り回している様は、風神雷神図として描かれている。現存する古いものとしては、絵因果経、北野天神縁起絵巻、三十三間堂の彫像などが知られる。
 その雷神の持物は桴に違いなかろうが、中がくびれて両端が膨らんだ形をしているようにも思われる。太鼓をたたくふつうの桴ではなく、でんでん太鼓のための桴、すなわち、玉を糸で止めたものに近いように感じられる。両方に振られるのを異時同図に描けば、桴の先端が膨らんでいると捉えれば独鈷にも見立て得るから、日本図を独鈷図と呼んでいたことと通じていることになる。そして、雷は雲のなかに起こる。雷神が握っている物は雲を掴むようなクモ、つまり、蜘蛛や蛸のようなものだと洒落を言っているように聞こえる。それらから総合的に推察すると、古代においては雷神の桴の形としても秋津島は見られていたことになる。紀では黄泉よみの国からの帰還後、イザナキは結果的に雷を生むことになっている。

 一書に曰はく、弉諾ざなきのみこと、剣を抜きて軻遇突智かぐつちり、きだす。其の一段ひときだは是雷神いかづちのかみと為る。(神代紀第五段一書第七)
 時に弉冉ざなみのみこと脹満太高たたへり。うへくさ雷公いかづち有り。伊弉諾尊、驚きてげ還りたまふ。是の時に、雷等いかづちども、皆ちて追ひきたる。時に、道のほとりに大きなる桃の樹有り。故、伊弉諾尊、其の樹のもとかくりて、因りて其の実を採りて、以て雷にげしかば、雷等、皆退走しりぞきぬ。これ桃を用て鬼をふせことのもとなり。時に伊弉諾尊、乃ち其のみつゑなげうててのたまはく、「ここより以還このかた、雷じ」とのたまふ。是を岐神ふなとのかみまをす。此、本のは、来名戸くなと祖神さへのかみまをす。やくさの雷と所謂ふは、かしらに在るは大雷おほいかづちと曰ふ。胸に在るは火雷ほのいかづちと曰ふ。腹に在るは土雷つちのいかづちと曰ふ。そびらに在るは稚雷わかいかづちと曰ふ。かくれに在るは黒雷くろいかづちと曰ふ。手に在るは山雷やまつちと曰ふ。足の上に在るはつちと曰ふ。ほとの上に在るは裂雷さくいかづちと曰ふ。(神代紀第五段一書第九)

秋のヤマトと「山跡」とアキヅシマ

 秋津(蜻蛉)なる赤トンボが飛んでくるのが秋である。稲を刈り、市へ持ってゆき、売り買いする。秋だからあきなひという。分量をはかるのに必要なのがはかりで、天秤棒に吊るす。価値が釣り合うようにしなければならない(注10)。天秤棒の大型のものは杠秤ちぎり(扛秤)といい、雷神の桴に似て棒の中ほどが支点となるので多少細くなっている。左右が釣り合ったところが辻褄が合うところである。もとは織機の経糸を巻く円柱の榺、すなわち、緒巻に由来するという。和名抄に、「榺 四声字苑に云はく、榺〈音は勝負の勝、楊氏漢語抄に知岐利ちきりと云ふ〉は織機のたていとを巻く木なりといふ。」とある。ちぎりとは約束、因縁のことである。今でも契約書には割印を捺す。勘合により確かめられる。
 秋にはかりも渡ってくる。季節をはかる鳥である。肥えた獲物を探して狩りにもゆく。トンボのような形の火鑽杵のような形の弓矢を使って射ると、手負いの獣は血痕を残しながら逃げていく。どこへ、いつごろ逃げて行ったかは、地面に残る血の跡を見れば推しはかれる。和名抄に「蹤血は波加利はかり」とある。山に残る跡だから、秋津島は一つの意味として「山跡やまと」と結びつくことになる。
 万葉集におけるヤマトの用字としては、「山跡」が十八例(万1・91・303・319・484題詞・551・570・1219・1221・1376・1677・1956・2128・3248・3249・4245・4254・4264)、「倭」が二十二例(万29・同或云・35・64・70・71・73・105・112題詞脚注・255・280・894(2)・944・954・966・1129題詞・3128・3236・3250・3254・3333)、「日本」が十七例(万44・52・63・359・366・367・389・810題詞・956・967・1047・1787・1175・1328題詞・2834・3295・3326)、その他に十一例(「山常」(万2)、「八間跡」(万2)、「夜麻登」(万3363・3457・3648・4487)、「夜麻等」(万3608左注)、「也麻等」(万3688)、「大和」(万4277左注(行政単位としての国名))、「夜萬登」(万4465)、「夜末等」(万4466))がある。
 「倭」の用字は魏志による。「日本」は聖徳太子、あるいは、天武天皇時代に新たに作られた国号とされている。それらと同等に数多い用字に「山跡」がある。この表記が好まれたのは秋津島(洲)との関わりがあったからに違いない。もともとのアキヅシマは、奈良盆地南部の地名、御所市室の小地名にすぎなかったのではないかと考えられている。孝安天皇の都の名は「葛城かづらきむろ秋津島宮あきづしまのみや」(記中)、「秋津嶋宮あきづしまのみや」(孝安紀)である。それが奈良盆地全体へと拡張した。トンボが交尾して胴体を丸くしたときの形が、畿内の大和国を取り巻く外輪山に準えられたかららしい。

 三十有一年の夏四月の乙酉の朔に、皇輿すめらみことめぐいでます。因りて腋上わきがみ嗛間丘ほほまのをかに登りまして、国のかたちめぐらしのぞみてのたまはく、「姸哉あなにや、国をつること。〈姸哉、此には鞅奈珥夜あなにやと云ふ。〉うつ木綿ゆふ迮国さきくにいへども、猶し蜻蛉あきづなめの如くにあるかな」とのたまふ。是に由りて、始めてあきしま有り。(神武紀三十一年四月)
 やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣あをかき 山ごもれる 倭しうるはし(記30)

左:稲穂にとまるナツアカネ、右:アキアカネの交尾(産総研ホームページ「赤トンボはなぜ赤い?動物で初めて見つかった驚きのメカニズム」https://www.aist.go.jp/aist_j/aistinfo/bluebacks/no23/)

 アキヅシマの地理的範囲の拡張は、ちょうどやまとが、三輪山や巻向山の山麓付近の一地名であったのが、今の奈良盆地を表す大和やまと、列島全体を表す日本やまとへと拡張していったようにである。神武紀に、「由是、始……」と注意書きされるのは、秋津洲の意味合いも拡張していったことを含意しているからだろう。朝鮮半島南部の加羅からが、半島全体のから、中国のからまで指し示すようになったのと同様である。アキヅシマがヤマトにかかる枕詞となっている例には、先にあげた万葉集の五例のほか、紀62・63歌謡にも見られる。水田稲作の広がりこそがヤマトの広がりであるとの意識が底流にあったようである。日本図に見られる田一枚を一国とするような描きぶりは、ヤマトの版図が、トンボが羽化して羽根を広げていくことに準えていたからと思われる。
 国生みで生んだのはシマである。紀ではシマに「洲」字を当てて表している。地形的には川の中州のように現れたり消えたりするところでありながら、「洲」は「水中可居者曰洲」(爾雅・釈水)、「聚也、人及鳥物所聚息之処也」(釈名)と説明されている。アキヅシマという言い方をすれば、トンボが集まり憩うところということになる。水田が何面も広がって拡大していく版図のことをアキヅシマと名づけて得意になっていたらしい。ヤマトコトバの言語体系において論理的な最適解を得、矛盾なく統合的に表すことができている。縁紋の話だけに、話の辻褄が合っている。

でんでん太鼓のばちのこと

 縁紋のように畦は田の水を取り巻いている。取り巻きといえば女なら芸者、男なら太鼓持ちのことをいう。倭の字は女が身をくねらせて舞っている様を表す。舞は見ていてちらちらする。目がくるめいてちらちらするのは眩暈めまひである。舞舞はかたつむりである。その貝殻はぐるぐる巻いている。頭部の突起がでんでん太鼓の桴に似るからか、でんでん虫という。カタツムリの通った跡は粘液できらきらしている。でんでん太鼓は、また、張鼓はりつづみ振鼓ふりつづみという。立派なものとしては、雅楽に用いられるふりつづみがある。双方に張った小鼓を柄で貫き、両側に糸の玉を垂れた楽器で、柄を振れば玉が鼓の皮に当たって鳴る仕掛けである。和名抄に、「𪔛皷 周礼注に云はく、𪔛〈徒刀反、字は亦、鞉に作る。不利豆々美ふりつづみ〉は皷の如くして小さく、其の柄を持ちて之れを揺すらば、則ち旁の耳還りて自ら之を撃つといふ。」とある。雅楽のほか、追儺の行事で、最後に群臣が鬼を追うのにも用いられた。
 海野2004.は、仁和寺蔵日本図の奥書の最後を、追儺関連の記述と見て次のような興味深い解説を行っている。

 行基の名を日本図に結びつけたのは、ほかならぬ悪鬼を払うついの儀式であったと考えられる。根拠の一つとして挙げられるのは、行基の作であることが明記される仁和寺所蔵図……に「嘉元三年大呂たいりょ(一二月)寒風ヲ謝シテ之ヲ写ス。外見ニ及ブ可カラズ」(原漢文)とあって、書写という行為における自己強制と図そのものの非公開性が強調されていることである。その第二としては、行基を開基とする山崎(山城国)の宝積寺ほうしゃくじの縁起に、追儺のはじまりが慶雲三年(七〇六)の行基の奏上にあるとしていることである(『漢三才かんさんさい図会ずえ』巻四おにやらひの項)。かつて追儺が朝廷における大晦日の行事であったことは、『延喜式』の記事からも明らかであるが、のち広く寺院でも行われ、その際えきが入ってはならない国土の範囲を視覚に訴えるため、日本図が用意されたものと思われる。仁和寺所蔵図の書写の時期すなわち一二月は、この推定を裏付ける有力な証拠である。(91頁)

 陰暦の十二月、追儺行事のために仁和寺蔵日本図は描かれたものではないかとするのである。宮中での追儺より以前から、寺院において鬼やらいは行われていたのであろうが、その点は措く。この仁和寺蔵本には金沢文庫蔵本のような龍様の囲みはない。龍が穢悪疫鬼を防ぐのではなく、追儺の行事を以て異域へと追い払うという解釈である。
 追儺の行事は、当初、周礼をもとに考案されたと考えられている。赤、青、黄の三匹の鬼を、黄金四つ目の仮面を著けた方相氏が大声を上げながら矛と盾を打ち鳴らし、追い払う。その後、公卿が清涼殿の階から桃の弓で矢を放ち、また、殿上人らはでんでん太鼓を振って邪気を一掃した(注11)。鬼を追う全体の様態は、雷神が羯鼓を鳴らしながら暴れ回って驚かせるのととてもよく似ていて受け容れやすかったのではないか。そして、そのでんでん太鼓とは、トンボつりの時に赤トンボがブリという飛び道具によって絡め捕られる様子にとてもよく似ており、だからこそ準えられたのではないか。
 ブリとはトンボ捕りの際に用いられる疑似餌釣りである。糸の両端に、小石などを結びつけ、投げあげる。トンボが小石を餌と間違えて飛びつくと、石についている糸が体に絡みつき、そのまま地上に落下したところを生け捕りにする。かなり高度なテクニックを要するが、夏から秋にかけての夕暮れ時など、トンボが餌を求めて群がり飛んでいる時には上手に放物線を描けば引っかかってくれるという。
 つまり、でんでん太鼓の真ん中に居る雷神は、秋になると赤くなっていく赤トンボ同様、色変化していくものと考えられていたのであろう(注12)。そしてそれは、ヤマトの国の、秋になると稲穂が赤く色づいて一面に拡がる田圃の風景と呼応しているのである。令集解・職員令の鼓吹司に、「伴に、吹の音は呼飢反と云ふ。山海経に曰はく、『東海のうちりうざん有り。獣有りて牛の如く、蒼身にして角无く、水に出入すれば則ち必ず風雨有り。其の光は日月の如く、其の声は雷の如し。其の名をと曰ふ。黄帝之を得て、其の皮を以て鼓を作り、声五百里に聞え、以て天下をおどろかす』といふ。周礼・地官・司徒上に曰はく、『鼓人は六鼓を教ふるを掌る。雷鼓を以て神祀を鼓す。〈雷鼓は八面鼓なり。〉霊鼓を以て社祭を鼓す。〈霊鼓は六面鼓なり。社祭は地祇を祭るなり。〉路鼓を以て鬼享を鼓す。〈路鼓は四面鼓なり。鬼享は宗廟を享すなり。〉賁鼓を以て軍事を鼓す。〈大鼓は之を賁と謂ふ。賁鼓は長さ八尺なり。〉鼛鼓を以て役事を鼓す。〈鼛鼓は長さ丈二尺なり。〉晋鼓を以て金奏を鼓す。〈晋鼓は長さ六尺六寸。金奏は楽を謂ひ、編鐘を撃つに作る。〉』といふ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2570154/25~26)とある。雷神の鼓は八つと決まっていたらしい。クモやタコが八本足であったのに対し、昆虫のトンボは六本だから叩く手が二本足りない。そこで、秤にもなる杠秤のような亜鈴型の桴が考案されたか、トンボ捕りのブリが引き合いに出され、八つの鼓を同時に叩けるとのオチに及んだようである。

トラの話

 鼗同様の打楽器としては外来の銅鑼どらがある。銅鑼は反響が激しく、近場に本当に雷が落ちたほどになる。目上の人が大声で猛烈に怒るのを雷が落ちるという。とらが吼えるほど恐い。同じく外来の物に名づけられたと思われる語である。銅鑼は船の出港のときに鳴らす。もやいを河岸から外すと船はふらふら揺れ始める。トラはネコのようであるが、身体に比べて頭が大きい。バランスが悪いから頭をふらふらさせている。首の揺れる張り子の虎の起源である。

左:張り子の虎(信貴山の縁起物)、右:秋の棚田(日本財団・海と日本PROJECT in 京都「伊根町「新井の棚田」稲刈り体験」https://kyoto.uminohi.jp/event/20170914/をトリミング)

 酔っ払って管を巻いている人のことをトラという。頭がふらふらしている。眠気がさしてまどろむようにとろとろの状態だからである。片栗粉のとろみ、まぐろの身の脂肪に富んだ部位のとろ、川の水深が深くて流れが緩やかなとろ、雷鳴の音のどろどろ、水が混じって粘性を増した土の泥、煮炊きに勢いの乏しいとろ火、皆同じ感覚から生まれた言葉であろう。神武紀元年正月条に、「妖気わざはひはらとらかせり。」とある。列島にいなかったタイガーのことを渡来人から聞いて、その頭のとろとろの揺れと、どろどろの雷のような吼え声からトラと名づけたらしい。蕩かすとは、人に本心をすっかり見失わせて完全に迷わせることをいう。確かにトラを前にしたらすっかり参ってしまうだろう。そして、トラの模様は棚田を高いところから見たような縞模様であり、中国ではしるしの形に合うものとして虎符が用いられていた。
 「倭」の字は、「楽浪の海中に倭人有り。分れて百余国を為す。(楽浪海中有倭人、分為百余国。)」(前漢書地理誌)の場合、音はワである。説文にはヰの音で、「順ふ㒵なり。人に从ひ委声。詩に曰く、周道倭遅ゐちたり」と、詩経・小雅・鹿鳴之什の四牡を引いている。倭は佞と同義で、諂う、媚びる、阿るの意味である。相手の気に入られるように取り入って振舞い、迎合して空気を読み、追従口、おべっか、お世辞を言って回ることである。太鼓持ちの所作をいう。おもねるとは、面練ること、顔を左右に向けることが原義とされる。トラが首を左右に振っているのは、本来は獲物を探しているのかもしれないが、張り子の虎は阿っていると捉えられたようである。

まとめに代えて

 記の上巻や神代紀の叙述について、今日の一般的な解説では、天皇による支配の正統性を主張するために祖先神話が語られているとされている(注13)。けれども、当の紀の巻一初めの「神世七代」以外に、カミノヨと訓むべき箇所はない。イザナキ、イザナミの出現までが「神世」である。巻一・巻二を「神代上」・「神代下」とするのは、他の巻の漢風諡号同様、後の時代に加筆されたものと考証されている。はじめに神があったとするのはイザナキ、イザナミまでのことで、以降ははじめに言葉ありきということのようである。紀冒頭で淮南子を引きながら作為している箇所には次のようにある。

 其れ清陽すみあきらかなるものは、薄靡たなびきてあめと為り、重濁おもくにごれるものは、淹滞つつゐてつちと為るに及びて、精妙くはしたへなるが合へるは搏偏むらがり易く、重濁れるが凝りたるはかたまり難し。(神代紀第一段本文)

 きらきら輝くものがひらひらと天になって、うまい具合にできているものがぴったり合って群がっているとする。まさに赤トンボの形容であろう。本稿で見てきた国生みの話は、全体を俯瞰すればヤマトにかかる枕詞、アキヅシマという言葉をめぐっての壮大ななぞなぞ体系である。記・神代紀第四段の国生みの説話に代表され、それらは倭人がオリジナルに創作したと思しい。そこでも上空できらきら輝くものがぴったりと符合すると語られている。紀の冒頭部分は、その連想から漢籍の字面を引きながら自らの考えを表したものである(注14)。修文、潤色の範囲を超えておらず、和魂漢才の記述である。
 国生みによって生まれた島は、本州、四国、九州とその周辺の島であった。それらの地域をヤマト朝廷が版図におさめたのは、5世紀、倭の五王の時代である。豊秋津島たる本州を、東は伊勢、西は出雲まで治めるに至ったのはその少し前のことであろう。聖徳太子等が記紀の種本となる天皇記・国記・本記を録したのは推古二十八年(620)のことである。その時点で、つい数百年前に過ぎない最近のできごと、伝えられてきていた説話をシリーズ化したということではないか。基本的に無文字社会であった上代人の文化、観念がわかれば、記紀の説話は民族の祖先神話でも、天皇家を正統化する神話でもなく、手の込んだなぞなぞ話であることは理の当然と了解される。そこにあるのはヤマトコトバだけである。無文字に暮らした上代の人たちは知識を盾にして生きたのではない。ヤマトコトバという知恵のかたまりのなかに生きていたのであった。

(注)
(注1)虻蜂取らず、という言葉の源や、古い用例について詳細は不明である。拙稿「允恭紀、淡路島の狩りの逸話、明石の真珠について」参照。
(注2)錦2005.参照。糸遊は山形県米沢地方で「雪迎え」と呼ばれている現象で、gossamer のことであると特定されている。
(注3)蜘蛛の子を散らす、という言葉の源や、古い用例について詳細は不明である。
(注4)白川1995.の「かぎろひ」の項に、「蜻火・蜻蜓火のように、とんぼの羽の繊細なかがやきとして表現するのは、おそらく他に例をみないような細やかな感覚である。」(209頁)とするが、疑問なしとしない。拙稿「履中記、墨江中王の反乱譚における記75・76歌謡について」参照。
(注5)黒田2003.は次のようにまとめている。考え方は古代のそれとは相容れない。

 行基図の謎解きによって浮かび上がったのは、〈日本図〉が独鈷の〈かたち〉をしていたという事実である。その〈日本図〉を、中世人は役行えんのぎようじや・聖徳太子・天照大神などと同体の仏神である行基菩薩が製作したものと考えた。中世人にとって、聖なる存在は同体だったのである。聖なるモノである独鈷の〈かたち〉も融通ゆうずう無碍むげであり、棒状・柱状をした聖なるモノは、何でも独鈷とイメージで結びつき、独鈷になりえた。結局のところ、行基図とは、仏神が描いた聖なる〈日本図〉なのであり、天皇の印である神璽でもあった。〈国土〉は独鈷の〈かたち〉にかざりたてられ、〈日本〉・震旦・天竺の三国は、それぞれ独鈷・三鈷・五鈷とするシンボリズムによって、荘厳な世界としてイメージされるに至ったのである。(54頁)

(注6)淮南子・墬形訓に、「雷沢に神有り、龍身にして人頭、其の腹をちてたのしむ。(雷沢有神、龍身人頭、鼓其腹而熙。)」、山海経・海内東経に、「雷沢中に雷神有り。龍身にして人頭、其の腹を鼓し、呉の西に在り。(雷沢中有雷神、龍身而人頭、鼓其腹、在呉西。)」とある。
(注7)赤トンボと称されるトンボが種として何に当たるかについて、西日本では主としてウスバキトンボ、東日本では主としてアキアカネのことを指すようである。上田哲行氏は、人間に与えるインパクトの共通性という意味で「文化的同一種」という言葉を提唱しており、示唆的である。いずれの種も、田圃という人為的に管理され、安定した生息環境によって多数発生し、それを人々が親しんで、「風景としての赤とんぼ」と化しているわけである(東・沢辺・上田2004.)。上代の人が赤トンボをいかに捉えたかは、生物学ではなく、文化人類学的な考察が必要である。
(注8)罰が当たるという言葉のバチという慣用音については、仏典によるとも思われるが、上代の用例は不明である。
(注9)雷電のことをイナヅマ(稲妻)というのは、稲が共寝をして子を宿して稔るからという理屈が箋注和名抄や東雅に唱えられ、民俗学で通説化している。和名抄には、「雷公〈霹靂電付〉 ……玉篇に云はく、電〈音は甸、和名は以奈比加利いなびかり。一に以奈豆流比いなつるびと云ひ、又、以奈豆末いなづまと云ふ〉は雷の光なりといふ。」とある。しかし、植物の稲に交尾つるびの譬えをして上代の人々に通じたのか、俄かには信じがたい。
(注10)釣り合わない例として、「高麗こま使人つかひしくまの皮一枚ひとひらを持ちて其の価をはかりて曰はく、『綿わた六十むそはかり』といふ。市司いちのつかさわらひて避去りぬ。」(斉明紀五年是歳)とある。
(注11)夏官・方相氏に、「方相氏。熊皮を蒙り、黃金の四目、玄衣・朱裳、戈を執り盾を揚げ、百隸を帥ひて時にし、以て室をもとめて疫をることを掌る。大喪にきゆうに先だつ。墓に及びて壙に入り、戈を以て四隅を擊ち、方良を敺る。(方相氏。掌蒙熊皮、黃金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時難、以索室驅疫。大喪先柩。及墓入壙、以戈擊四隅、驅方良。)」とある。本邦での実際の様子としては、栄花物語に、「例の有様どもありて、はかなく年も暮れぬれば、今の上、童におはしませば、つごもりの追儺に、殿上人振鼓などして参らせたれば、上ふりけうぜさせ給もをかし。」(巻第一・月の宴)、「つごもりになりぬれば、追儺とのゝしる。上いと若うおはしませば、ふり鼓などしてまゐらするに、君たちもおかしう思ふ。」(巻第三・さまざまの悦)、大江匡房・江家次第に、「殿上人於長橋内射方相、主上於南殿密覧、還御之時、扈従人忌最前方逢方相、振鼓・儺木・儺法師等種々事〈皆故実有〉……」(十一十二月)とある。
(注12)一説に、雷神の肌の色は儀軌に赤と定められていたとされる(田沢2014.320頁)が、根拠は不明である。
(注13)諸説をあげるには及ばない。「神話」という語が明治時代に訳語として登場していることを承知のうえで行われている。たまたま平成から令和時代の初めにかけてドグマと化しているだけである。
(注14)拙稿「日本書紀冒頭部の訓みについて─原文の「搏」や「埸(堨)」とは何か─」参照。

(引用・参考文献)
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応地1996. 応地利明『絵地図の世界像』岩波書店(岩波新書)、1996年。
黒田2003. 黒田日出男『龍の棲む日本』岩波書店(岩波新書)、2003年。
産総研ホームページ「赤トンボはなぜ赤い?動物で初めて見つかった驚きのメカニズム」 https://www.aist.go.jp/aist_j/aistinfo/bluebacks/no23/
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
千田2003. 千田稔「聖なる場としての国家領域─「神国」の表象─」『聖なるものの形と場』18号、国際日本文化研究センター、2003年3月。日文研オープンアクセス https://doi.org/10.15055/00002965
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
田沢2014. 田沢裕賀「風神雷神図屏風 俵屋宗達筆」(解説)東京国立博物館・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション編『特別展 栄西と建仁寺』読売新聞社・NHK・NHKプロモーション、2014年。
錦2005. 錦三郎『飛行蜘蛛』笠間書院、2005年。(丸ノ内出版、1972年初出。)
東・沢辺・上田2004. 東和敬・沢辺京子・上田哲行「もう一つの赤とんぼ」上田哲行編著『トンボと自然観』京都大学学術出版会、2004年。

加藤良平 2024.2.19改稿初出

鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について

 いわゆる記紀神話の最後に登場するウカヤフキアハセズノミコトは、記に、「天津あまつ日高日子ひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあはせずのみこと」、紀に、「ひこ波瀲なぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみこと」とあって、ヒコホホデミノミコト(日子穂穂手見尊、彦火火出見尊)とトヨタマビメ(豊玉毘売、豊玉姫)の子で、母親の妹のタマヨリビメ(玉依毘売、玉依姫)に育てられた後、妻として迎えて神武天皇が生まれた話へとつながっている。紀ではウカヤフキアハセズノミコトまでを神代、神武天皇以降を人代としており、「神話」の最後の神さまということになっている。ウカヤフキアハセズノミコトの名は、母親のトヨタマビメが海辺にうぶを造る時、鵜の羽で屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに陣痛が始まり、その中に入って産んだことに由来するとされている。お産の現場を見るなと言ったのに見られて恥をかかされたと言ってトヨタマビメはお里へ帰ってしまい、妹のタマヨリビメが代わりに遣わされて乳母になり、育てられたことになっている。

 是に海神わたつみむすめ豊玉毘売命とよたまびめのみことみづかでてまをさく、「あれすで妊身はらめり。今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其のうみ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。是に其の産殿未だ葺き合へぬに、御腹みはらにはかなるにへず。故、産殿に入りす。爾くして、まさに産まむとする時に、其の日子ひこぢまをして言はく、「おほよ他国あたしくにの人は、産む時に臨みて、本国もとつくにの形を以て産生むぞ。故、妾、今もとの身を以て産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ」といふ。是に其の言をあやしと思ひて、ひそかに其のまさに産まむとするをうかかへば、八尋やひろわにとりて匍匐はらば委蛇もごよふ。即ち見驚きかしこみて退く。爾くして、豊玉毘売命、其の伺ひ見し事を知りて、うらはづかしと以為おもひて、乃ち其の御子を生み置きて白さく、「妾、つね海道うみつぢとほりて往来かよはむとおもへり。然れども吾が形を伺ひ見つること是いとはづかし」とまをして、即ち海坂うなさかへて返り入りき。是を以て、其の産める御子をなづけて、天津日高日子あまつひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあへずのみことと謂ふ。〈波限を訓みて那芸佐なぎさと云ふ。葺草を訓みて加夜かやと云ふ。〉しかくしてのちは、其のうかかひしこころうらむれども、ふる心にへずして、其の御子を治養ひたよしに因りて、其のおと玉依毘売たまよりびめけて、歌をたてまつる。其の歌に曰はく、
  赤玉あかだまは さへ光れど 白玉しらたまの 君がよそひし たふとくありけり(記7)
 しかくして、其のひこぢ、答ふる歌に曰はく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘れじ 世のことごとに(記8)(記上)
 後に豊玉姫とよたまびめはたしてさきちぎりの如く、其の女弟いろど玉依姫たまよりびめひきゐて、ただ風波かざなみをかして、海辺うみへた来到きたる。臨産こうむ時におよびて、ひてまをさく、「やつここうまむ時に、ねがはくはなましそ」とまをす。天孫あめみまなほしのぶることあたはずして、ひそかきてうかかひたまふ。豊玉姫、みざかりに産むときにたつ化為りぬ。しかうして甚だぢて曰はく、「し我をはづかしめざること有りせば、海陸うみくが相通かよはしめて、永くへだて絶つこと無からまし。今既にはぢみつ。まさに何を以てか親昵むつましきこころを結ばむ」といひて、乃ちかやを以てみこつつみて、海辺にてて、海途うみつみちを閉ぢてただぬ。かれ、因りて児をなづけまつりて、彦波瀲武ひこなぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみことまをす。(神代紀第十段本文)  是より先に、別れなむとする時に、豊玉姫、従容おもふるに語りてまをさく、「やつこ已に有身はらめり。風濤かざなみはやからむ日を以て、海辺に出で到らむ。ふ、我が為に産屋を造りて待ちたまへ」とまをす。是の後に、豊玉姫、果して其のことごと来至きたる。火火出見尊ほほでみのみことまをして曰さく、「妾、今夜こよひこうまむとす。請ふ、なましそ」とまをす。火火出見尊、きこしめさずして、猶櫛を以て火をともしてみそなはす。時に豊玉姫、八尋やひろ大熊鰐わに化為りて、匍匐逶虵もごよふ。遂にはづかしめられたるを以てうらめしとして、則ちただ海郷わたつみのくにに帰る。其の女弟いろど玉依姫たまよりびめを留めて、みこ持養ひたさしむ。児のみなを彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊とまを所以ゆゑは、の海浜の産屋に、また鸕鷀かやにして葺けるに、いらかおきあへぬ時に、児即ちれませるを以てのゆゑに、因りてなづけたてまつる。(神代紀第十段一書第一)
 是より先に、豊玉姫、天孫あめみままをして曰さく、「妾已に有娠はらめり。天孫のみこを、あに海の中に産むべけむや。かれこうまむ時には、必ず君がみもとまうでむ。如し我が為にうぶやを海辺に造りて、相ちたまはば、是所望ねがひなり」とまをす。故、彦火火出見尊、已にくにに還りて、即ち鸕鷀の羽を以て、葺きて産屋うぶやつくる。いらか未だふきあへぬに、豊玉姫、自ら大亀おほかめりて、女弟いろど玉依姫をひきゐて、海をてらして来到いたる。時に孕月うむがつき已に満ちて、こうときみざかりせまりぬ。これに由りて、葺き合ふを待たずして、ただに入りす。已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかがふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。既にみこれまして後に、天孫きて問ひてのたまはく、「児のみないかなづけばけむ」といふ。こたへて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号くべし」とまをす。まををはりて、すなはわたわたりてただぬ。時に、彦火火出見尊、乃ちうたよみしてのたまはく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘らじ 世のことごとも(紀5)
亦云はく、彦火火出見尊、婦人をみなを取りて乳母ちおも湯母ゆおも、及び飯嚼いひかみ湯坐ゆゑびととしたまふ。すべ諸部もろとものを備行そなはりて、ひたし奉る。時に、かり他婦あたしをみなりて、を以て皇子みこを養す。これよのなかに乳母を取りて、を養すことのもとなり。是の後に、豊玉姫、其のみこ端正きらぎらしきことを聞きて、心にはなはあはれあがめて、また帰りて養さむとおもほす。ことわりきてからず。かれ女弟いろど玉依姫をまだして、きたして養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌かへしうたたてまつりてまをさく、
  赤玉あかだまの 光はありと 人は言へど 君がよそひし たふたくありけり(紀6)
凡て此の贈答二首ふたうたなづけて挙歌あげうたと曰ふ。(神代紀第十段一書第三)
 是より先に、豊玉姫、出できたりて、まさこうまむとする時に、皇孫すめみままをして曰さく、云々しかしかいふ。皇孫従ひたまはず。豊玉姫、大きに恨みて曰はく、「やつこことを用ゐずして、あれ屈辱はじみせつ。故、今より以往ゆくさきやつこ奴婢つかひびと、君がみもとに至らば、また放還かへしそ。君が奴婢、もとに至らば、亦復還かへさじ」といふ。遂に真床覆衾まとこおふふすま及びかやを以て、其のみこつつみて波瀲なぎさに置き、即ち海に入りてぬ。此、海陸うみくがあひかよはざることのもとなり。あるに云はく、「児を波瀲に置くはし。豊玉姫命、自らいだきてくといふ。ややひさしくして曰はく、「天孫のみこを、此のわたの中に置きまつるべからず」といひて、乃ち玉依姫をしていだかしめて送りいだしまつる。初め、豊玉姫、別去わかるる時に、恨言うらみごと既にひたぶるなり。故、火折尊ほのをりのみこと、其のまた会ふべからざることをしろしめして、乃ちみうたを贈ること有り。已にかみに見ゆ。(神代紀第十段一書第四)

 最初に名号の訓み方について確認しておく。紀の伝本の傍訓にはフキアハセズとある(鴨脚本、兼方本、丹鶴本など)。フキアヘズと訓みたがるのは本居宣長・古事記伝による。「○葺不合は、……不合を、阿閇受アヘズと云る、イト宜し、必古きヨリドコロぞありけむ、是に従ひて訓べし、阿波世受アハセズツヾめて、阿閇受アヘズと云は、古言なり、下巻朝倉御哥に、麻那婆志良マナバシラ袁由岐阿閇ヲユキアヘとあるも、ユキアハなり、此ホカにもアハ阿閇アヘと云る例多し、【フキアハセズノ○○○○○○○命と訓はわろし、あはせずと云言、御名に似つかはしからず、凡て上代の名に、然詞の調シラベあしきは無きをや、】さて凡て屋をフクには、ナタナタノキより、葺上フキノボりて、ムネにて葺合フキアハせて、ヲフることなる故に、葺終るを、葺合フキアハすとは云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/443~444、漢字の旧字体は改めた)とある。「葺終るを、葺合フキアハすとは云なり」と断じていながら、「御名に似つかはしからず」として退けており、必ずしも歯切れのいいものではない。ただ、現行の解釈ではどれもフキアヘズとなっている。葺き終わらないうちに生まれたことを表すという。アフは「敢」、「堪」などの字を当てる下二段活用の動詞で、補助動詞として、終わりまで持ちこたえる意を表している。しっかと〜する、〜しおおせる、の意になっている。一例をあげる。

 常の恋 いまだまぬに 都より 馬に恋ひば になへむかも(万4083)

 アフという語は、打消、疑問、反語と結んで、不可能や困難な意を表すことが多い。すなわち、ウカヤフキアヘズという言い方は、そもそもが鵜の羽を茅葺屋根のように最後まで葺くことなどできようはずがない、ということを含意していると考えられる(注1)
 常識をもって考えれば、鵜の羽をもって屋根を葺くなどという話は奇想天外である。そんな話(咄・噺・譚)が構想され、創作され、伝達されている。天才作家が機智、頓智を駆使して意図的に物語を拵えたものであろう。上代の人たちは、話のなかに散りばめられている機智、頓智をとてもおもしろく感じ、互いによろこびながら話し伝えたものと想像される。
 話(咄・噺・譚)のなかで水鳥のウ(「鵜」(記)・「鸕鷀」(紀))の羽をもってして屋根を葺いている。この発想はとてもユニークである。古く釈日本紀に、「大問云、以此鳥羽産屋。有由緒哉、如何。先師申云、無慥所見。但、廻今案、鸕口喉広、飲-入魚、又吐-出之、容易之鳥也。是以象産出平安、令此羽於産屋者歟。以産屋、称鷀葺屋者、以鸕鷀羽葺之本縁也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12866187/1/25~26、返り点等を付した)とする説が載る。納得できるものではない。産屋とはウム(生)+ガ(助詞)+ヤ(屋)のことだからウ(鵜)+カヤ(草)であろうとする俗説は、着想として考えた場合には当たっているかもしれない(注2)。とはいえ、ウ(鵜 cormorant)という鳥の名がことさらに唱えられており、その羽を葺き草に使ったことを皇子の名前に反映させている。ガチョウやアヒルの羽をもって羽毛布団を作ったというのなら現実的でわかりやすいが、鵜の羽を産屋の屋根材に用いると言っている(注3)。比喩として話しているとしか考えられない(注4)
 何が変か。他の鳥ではなく鵜が選ばれているところである。
 「以鵜羽葺草、造産殿。」(記)などとある。草で屋根を葺くように鵜の羽を使っていると考えられている。訓注に「訓葺草加夜」とある。カヤとは、屋根を葺くのに適した丈の長い葉をした比較的堅い草の総称である。近代に伝わる茅葺屋根の例としては、ススキやアシ、チガヤ、スゲ、カリヤス、ムギなどが用いられた。耐久性の点でススキやアシは好まれたらしい。イナワラを使うこともあったが、数年で駄目になってしまう。それらの草を刈り取って乾燥させて束ねたものを屋根材に使っている。話(咄・噺・譚)ではその代わりに「鵜羽」を用いたことになっている。実際にあり得ないどころか想定することも滑稽である。鵜の実状を見ればわかる。

羽を乾かす鵜

 鵜という水鳥は潜水に特化した種とされている。一般的な水鳥、ハクチョウやカモなどでは、尾脂腺から脂肪分の多い分泌物を出し、嘴を使ってそれを羽に塗りつけることで水をはじいている。浮き進む時、船のように見える。他方、ウの場合、脂が羽に付いておらず、水上で浮かんで進む様子も潜水艦が浮上運行しているように見える。そして魚を捕まえようと水に潜ってはびしゃびしゃになっている。目的を果たした後は陸に上がっては羽を大きく広げ、バタつかせて乾かしている。
 そんな鳥の羽をわざわざ選んで屋根材にしようなどとは誰も思わない。雨漏りしてかなわないではないか。つまり、名義のウカヤフキアへズという言い方自体、自己矛盾を抱えていながらも絶対的に肯定されているのである。鵜の羽を葺草かやにして屋根を葺くなどということはあり得ないし、仮に着手して時間をかけたとしても屋根には仕上がらない。論理学的禅問答を名としているのであった。
 その証拠に、名のなかにカヤという言葉が含まれている。助詞のカヤ(カ、ヤ)は疑問の意を表す。また、詠嘆を表すこともある。

 慨哉うれたきかや大丈夫ますらをにして、〈慨哉、此には于黎多棄伽夜うれたきかやと云ふ。〉いやしきやつこが手を被傷ひて、報いずしてやみなむとよ。(神武前紀戊午年五月)

 この例は、何ともいまいましいことよ、の意である。カ(終助詞)+ヤ(間投助詞)の構成である。他に、カ(係助詞)+ヤ(間投助詞)の形で、特にトカヤという形をとって、……といったか、……とかいうことである、の意を表す場合、また、カ(係助詞)+ヤ(係助詞)の形で、活用語の連体形に下接し、疑問や反語の意を表す場合がある。それらのカヤという意味合いをカヤ(「葺草」)という言葉に塗り込める使い方を行っていると仮定すると、「以鵜羽葺草」という言い方は、鵜の羽をもって葺草とするとはいったいぜんたいどういうことなのか、これはまた何とすごいことか、そんなことはとてもあり得ないよ、といった激しい気持ちを吐露する表現となっている。説明調に置き換えてみれば、「鵜の羽を以て葺草かやるかや」などと畳み重ねた言い方になる。それを簡潔に記している。無文字時代、言語のすべてが口頭の音声言語によるものであった以上、いま発した言葉に自己循環的な論法で言及し、それをこそがなるほど納得の言葉づかいであると考えたに相違あるまい。すなわち、「以鵜羽葺草」という珍妙な形容は、その言葉自体にその言葉のからくりが語られている。鵜の羽でカヤにするとはねぇ、何たることだろうねぇ、という意味を包含しており、言辞自体がわざとらしい珍奇な言い分であることを主張している。
 鵜の羽は始終濡れている。濡れるは古語でヌル(濡)という。ヌルには髪などがゆるんでほどける意がある。

 松浦川まつらがは 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせるいもが すそれぬ(万855)
 家づとに 貝をひりふと 沖辺おきへより 寄せ来る波に 衣手ころもで濡れぬ(万3709)
 嘆きつつ 大夫ますらをのこの 恋ふれこそ わが髪結かみゆひの ぢてぬれけれ(万118)
 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに き入れつらむか(万123)

 束ねようにもほどけてしまうのがヌルである。鵜の羽は濡れていて、屋根材に適用するために束ねようにもその段階からしてできないのである。鳥の名はウ(鵜)である。否応なく、なかば強制的に応諾させられる際の発語は、同音のウ(諾)である(注5)。ウ、ウ、ウと言葉に詰まりながら認めざるを得なくなっている。鵜の羽は屋根材のカヤに当たらないのに、葺けと強要されて否応なくそうしている。だから完成には至らない。最初から決まっている。
 出産を迎えるに当たってトヨタマビメは、その場面を見るなとオモフルニ言っている。ホホデミノミコトはその禁を破って見てしまう。いわゆる見るなのタブーを冒した顛末が描かれている。紀一書第三に、「已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかかふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。」とある。話として古事記とよく似ており、神代紀本文にも「従容おもふるに」要請する描写がある。どうしてオモフルニと形容しているのか。オモフルニはゆったりしたさまを表す。語源はともかく音感からは、オモ(面)+フル(振)ことをしていると感じられる。オモ(面)+フル(振)こととは左右を見ながらゆっくりと歩くことである。ねりようのような所作である。トヨタマビメは用心深く作戦をることをしている。聞かされたヒコホホデミノミコトは、いやに用心深いではないかと思っただろう。相手がネルことをしてきているのだから、こちらはその真相をネラフことで対処しようとする。それが言葉の理にかなっている。ネラフ(狙)とは、ひそかに獲ようと目をつけることである。動物を狩るときの行為である。彼はもともと山幸彦(山佐知毘古)であった。獲物を捕らえるには物陰に隠れて狙う。斥候うかみ(窺見)をするようにウカカフ(覘、窺、伺)のである。他者に知られないように周囲に目を配りながら相手の真意や事の真相をつかもうとすることである。そういう展開にふさわしい言葉が選ばれている。そして、ウカカフという言葉の名詞形、ウカカヒ(ヒは甲類)は、隙を狙うことを表す。生まれてきた子の名前に絡んでいる。ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)とよく似た音である。上代の人にとって、鵜とはウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)のために飼育された動物であった。彼らに動物分類学的な種の同定の意識は薄く、実用面から鵜飼に使う鳥 cormorant のことをウと呼んだのである。一旦飲み込んだ魚をウッと吐き出すからウと名づけたと考える。この箇所に鵜を登場させているのは、山幸彦が海神の宮へ行って学んだ、魚に対する狩猟法こそが鵜飼なのだということを述べているからと考えられる。

 …… おほき戸より うかかひて 殺さむと すらくをらに 姫遊ひめなそびすも(紀18)
 御真木入日子はや 御真木入日子はや おのを 盗みせむと しりつ戸よ いたがひ 前つ戸よ い行き違ひ うかかはく 知らにと 御真木入日子はや(記23)
 このをかに 小牡鹿をしかみ起こし 窺狙うかねらひ かもかもすらく 君ゆゑにこそ(万1576)
 窺狙うかねらふ 跡見とみ山雪の いちしろく 恋ひばいもが名 人知らむかも(万2346)

 古事記には、トヨタマビメが到来していることについて、「「今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其のうみ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。」と語られている。出産するのに実家のある海原うなはらでは駄目で、うみ波限なぎさに来ている。そこに産屋を造って出産準備を整えている。民俗的風習としては、母屋とは別に産屋を造ることは珍しいことではない。だが、実家で出産することに問題があるとは考えにくい。農耕を主体とする人と漁撈を主体とする人との間の関係を示すものとも考えられている。その際、海原うなはらうみへの移動は何を物語るのか。うみ(の波限なぎさ)は海岸の波打ち際のことだから、漁民の領域であるようにも思われる。そんなところへ産屋を建てるのはおかしなことである。満潮時、水に濡れてしまう。だからこそ、鵜の羽はゆるんでほどける意のぬれ○○ることになり、屋根は完成しなかった。
 ナギサ(波限、波瀲、渚、汀)の語源は不明であるが、語の音感として同根の語と思われるナグ(凪、和)と関係がありそうで、海の波が穏やかであることを表すように思われる。と同時に、草が薙ぎ払われたように横倒しになっている様子もイメージされる。「故、其の剣を号けて草薙くさなぎと曰ふといふ。」(景行紀四十年是歳)とある。ふだんは静かでも台風などが来れば生えていた草も家もなぎ倒される。だから、産屋は完成に至っていない。
 記紀の話の五伝(記、紀本文、紀一書第一、第三、第四)のうち、産屋を作ったとする話が三伝(記、紀一書第一、第三)、生まれてきた赤ん坊をかやなどで裹んだとする話が二伝(紀本文、紀一書第四)にある。このうち、産屋を作ったとする話では、ヒコホホデミノミコトが造ったように語られている。紀一書第一や第三では、トヨタマビメ側から造って待っているようにと要請されている(注6)。鵜飼に使う鵜の羽を使って産屋を建てようとしている。鵜に首結いをつけて、大きな魚は食道に留まるようにして、それを吐かせて獲物とした。そのように鵜自体を使って魚を捕まえるばかりでなく、鵜の羽を竿やロープに付けておいて、それを川面に叩きつけるなどしてあたかも鵜が近づいて来たかのように魚に思わせ、驚いて逃げていくところを一網打尽に網で捕獲する漁も行われていた。それも鵜飼の一種とされ、万葉集では「かは(を)立つ」(万38・3991・4023・4190・4191)と言い表している。囲っておいて鵜が来たようにして逃げ惑う魚を捕ったのである。もちろん、その囲い立てに屋根はない。
 鵜の羽だけを使った鵜飼をする場合、鳥の鵜はおらず、つまり、ふつうなら鵜は魚を飲み込んで胸を膨らませているところだがそれがない。鮎を飲み込んでふくらんだ大きな胸は見られないのである。鵜のオホムネ(大胸)が見られないということは、鵜の羽ではオホムネ(大棟)は作れないということである。そのことは鵜の観察から証明されている。鵜の両翼は、背のいちばん高いところへ被さるわけではない。羽を広げて乾かす時など、羽根のない背中が露出している。尾脂腺から脂が出ないから、背中の頂部に羽毛をまとうには及ばない。すなわち、ウカヤフキアハセズという言い方はその言葉自体で論理が完結している。ウカヤなるものが仮にあったとしても、それはフキアフ(葺合)ことは体現され得ず、完成されることは決して望めないものであることがまたしても証明されているのである。
 大棟とは屋根のいちばん高いところのことである。棟木が渡されており、そこを覆う屋根のことをイラカ(甍)と呼んでいる。新撰字鏡に「屋脊 伊良加いらか 甍 上に同じ」、和名抄に「甍 釈名に云はく、屋の脊を甍〈音は萌、伊良加いらか〉と曰ひ、上に在りて屋を覆蒙おほふなりといふ。兼名苑に云はく、甍は一名を棟〈音は多貢反、訓は異なる故に別に置く〉といふ。」とある(注7)
 和名抄では、また、「棟 爾雅に云はく、棟は之れを桴〈音は敷、一音に浮、無祢むね〉と謂ふといふ。唐韻に云はく、檼〈隠の音、去声〉は棟なりといふ。」とある。紀一では「甍未合時」(一書第一)をイラカオキアヘヌトキニ、「屋蓋未合」(一書第三)もヤノイラカイマダフキアヘヌニと訓んでいる。それぞれその前に「全用鸕鷀羽草葺之」、「即以鸕鷀之羽、葺為産屋」と断られている。鵜飼は鵜飼でもやり方が違うからできないのだとわかるようになっている。産屋は産屋でも、鵜の羽で造るということは、鵜の巣にするのがせいぜいのものであって、いわゆるお椀形にしかならない。ウ(鵜)+ス(巣)の形はウス(臼)の形である。甍を載せることなどないのである。
 オホムネのないことが語られている。白川1995.に、「おほむね〔概(槪)・略〕 中心となる重要な点。「むね」は趣旨のあるところで、「むね」「むね」「むね」と同根の語。本来名詞であるが、のち副詞的に用いることがあった。副詞としては概・略などの字を用いる。」(191頁)とある。話の主旨のことから概略のことまで表している。

 二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰をはりのよりどころよろづの国の極宗おほむねなり。(推古紀十二年四月、寛文版本にヲホムネ、岩崎本傍訓に「極」にキハメ、「宗」にムネ、その下にナリとある)
 此則西方南海法徒之大帰オホムネ矣。(南海寄帰内法伝・第一、長和五年頃点)
 みだりに去就して其のおほむねくこと有ること无れ。(大唐西域記・第三、長寛元年点)
 語言は異なりと雖もおほむねに印度に同じ。(同)
 ヲホムネ天子之孝也。(古文孝経・天子章第二、仁治二年点)
 盖 居泰反、フタ、ケダシ、オホフ、キヌガサ、オホムネ、フタ、カブル、禾カイ(名義抄)

 名義抄では、大垣・大分・大都・大底・槩・概・梗槩・略・枑・率・盖といった字にオホムネの訓みを載せている。なかでも「蓋(盖)」をオホムネと訓む例は示唆的である。「屋蓋」(一書第三)はヤノイラカであり、屋根に蓋をすることである。説文に、「蓋 苫なり、艸に从ひ盍声」とある。とまはチガヤの類で、菅茅を編んで作った覆いをいう。覆い被せてフタのように雨露から守る肝心なところがオホムネということになっている。ウカヤフキアヘズとは、主旨も概略もないということ、まとめとして何かがあるということではなく、事の次第としてそうなったのだということを物語っていると考えられる。
 肝心要のオホムネの類義語に、要害、要衝の地、大切な場所を表すヌミという語がある。

 賊虜あたる所は、皆是要害ぬみところなり。(神武前紀戊午年九月)
 凡そ政要まつりごとのぬみ軍事いくさのことなり。(天武紀十三年閏四月)
 新羅に要害ぬまところを授けたまひ、(欽明紀二十三年六月、兼右本左傍訓)

 このヌミにはヌマという別訓も見られる。同音に沼の意がある。古形は一音のヌである。足をア、水をミと言っていたのと同様とされる。幸田露伴『音幻論』に、「沼はヌであり、塗はヌルであり、……海苔・糊・血はすべてノリである。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366/38~39)とあり、ヌには、濡れていて、どろどろしていて、ぬめりのあるものの意があり、糊状のものとは塗るべき対象であるとしている。そして、沼はまた一音でヌともいい、ヌには瓊の意がある。瓊が塗るべき対象かといえば、勾玉を磨く時に、砥石に水を塗ってそこで磨いていくとやがてどろどろとぬめりを帯びてくる。そこで、タマ(玉、瓊)のこともヌと呼ぶことがあったものと思われる。トヨタマビメやタマヨリビメという女性役は、「たけばぬれ」る髪の毛を持っていたと措定していたのではなかろうか。

 行方ゆくへ無み こもれる小沼をぬの 下思したもひに われそ物思ふ このころのあひだ(万3022)
 廼ちあま之瓊のぬ〈瓊は玉なり。此にはと云ふ。〉ほこを以て、指し下してかきさぐる。(神代紀第四段本文)
 其の左のもとどりかせる五百箇いほつみすまるたまひきとき、瓊響ぬなと瑲瑲もゆらに、あまの渟名井まなゐに濯ぎ浮く。(神代紀第七段一書第三)

 以上、ウガヤフキアヘズノミコトの誕生の説話について考究した。民俗的な風習があってそれを表すために説話が構想されたものではない。ヤマトコトバの理解のために、言葉を循環的に説明すると必然的に生じるおかしな話(咄・噺・譚)が述べられている。今日の人が神話として読みたがる記紀の説話には、ヤマトコトバの自己言及的語釈の要素が必ず含まれている。無文字時代の言語が言語としてあり得たのは、その言葉を声に出して絶えることなく発し続けていたことによる。記録する手段の文字がなく、記憶のみによって残された言葉であった。言葉が言葉として成立する前提がすべて発声に負っているのだから、民族の記憶庫から忘れらないようにときどきは声に出して諳んじてみなければならない。その場合、単なる棒暗記では対応できない。棒暗記の共有は、教育勅語の強制に見られたように限界がある。誰もが興味深く感じ、なるほどと思い、おもしろがることのできるテキストが求められる。洒落と頓智の入り混じった話(咄・噺・譚)がかなっている。記憶を確かなものにして、多くの人へ、また、次の世代に伝えていくのに役立つ。社会言語学的に言えば、ヤマトコトバの世界征服の魂胆が、頓智話に籠められているといえる。記紀説話を創作した構想の一端には、ヤマトコトバファーストをモットーとして、ヤマトコトバ語族を広げて確かならしめようとする野望のようなものが垣間見られる。その限りにおいてのみ、記紀の叙述は、古代において支配の正統性を担保するものであったと言える。

(注)
(注1)筆者旧稿の考えを改め、現行の解釈を凌ぐものとなっている。
(注2)思想大系本古事記に、「鵜の羽で産殿を葺いたというのは、鵜の羽に安産の霊力があると信じられていたためであるという説(可児弘明)がある。鵜の羽を持っていると安産できるという俗信がかつて沖縄にあり、また中国では妊婦が鵜を抱いて安産を願う信仰があったという。ただし産殿(うぶや)の意にあたる「うみがや(うむがや、生むが屋)」の転化がウガヤとなり、そのウが鵜に結びつけられたとする解釈もある。」(361頁)とある。可児1966.には、「豊玉姫神話がウの安産に関してもつ霊力を反映したものだとすれば、なぜ羽だけに限定されたかは別にして、ウによって安産を願う日本の宗教思想はウの胎生説とともに中国から渡ってきたにちがいない。」(49~50頁)と、かなり乱暴な議論が行われている。
(注3)そのようなことは歴史を遡ってみても聞いたことがないばかりか、試そうという気にすらなれない。民俗慣行のおまじないにヒントを求めても、話のなかで鵜の羽をわざわざとり上げて屋根を葺いている理由を説明しきれるものではない。
(注4)仏典に膨大な比喩の話を典拠とするなら、典拠を示すことで研究は完成、終了ということになるだろう。それをもって何を解明したというのだろうか。瀬間1994.は、海宮訪問の表記とストーリーには経律異相と一致するところがあると述べている。書き方の問題は太安万侶の筆には関わろうが、稗田阿礼の誦習とは無関係である。
(注5)拙稿「事代主の応諾について」参照。
(注6)記でも、産気づいて「入-坐産屋」とあるから、それまではそこに近づいていなかったことがわかり、トヨタマビメが自ら産屋を造っていたのではない。
(注7)イラカは、屋根の最も高いところ、大棟の上を覆って雨を屋根の左右へ別ける役割を果たしている。イラカという語については、イロコ(鱗)と同根とする説と、イラ(莿・苛)+カ(処)という構成とする説がある(注11)。イラという語には、草木のとげのことを指すほか、魚の背びれの棘のことも言う。鱗にしても背びれの棘にしても海神の宮にあったとしたらよくかなうものである。異国風の情景を思わせるために、瓦製の甍のことがイラカという言葉の原初であるかもしれない。「海神わたつみの 殿のいらかに ……」(万3791)とある。瓦葺き屋根は波立つ海面の様子にもよく似ている。
 それに対して山幸彦であるヒコホホデミノミコトは、屋根のすべてを葺草かやによって葺こうとしている。海原うなはらうみ(の波限なぎさ)で作ろうとしていたから気づかなかった。もしうみではなくかはへと河口から川を遡っていたら気づいたかもしれない。かはのことは川原かはらとも言う。同音にかはらがある。かはらというヤマトコトバは防火対策に特段の効果があるから注目された結果なのだろう。川原に建物を建てて消防用水に恵まれることと同様だと考えられて和訓となった可能性が高い。

 冬十月の丁酉の朔にして己酉に、小墾田に宮闕おほみやを造りてて、瓦覆かはらぶき擬将せむとす。……是の冬に、飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやひつけり。かれ飛鳥川原宮あすかのかはらのみやうつおはします。(斉明紀元年十月~是冬)

 尤も、イラカという言葉がすべて瓦製のことを指していたとは思われない。
 イラカという語については、角川古語大辞典に、和名抄の解説を受けて、「「甍」の字義よりすれば、瓦葺きの屋根の棟(むね)、また、その棟瓦をさし、「屋背」の字義よりすれば屋根の棟をさし、「在上覆蒙屋」の字義は、棟をさすとも、屋根一般をさすともとれる。しかし上代の用例では、一般の屋根にはいわず、瓦とは断定できないが、みな立派な御殿についていい、中古以降は特に瓦屋根の意に用いられる。」(338頁)とある。また、日本国語大辞典の「語誌」には、「語源については、その形態上の類似から、古来「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かった。確かにアクセントの面からも、両者はともに低起式の語であり、同源としても矛盾はしないが、上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる。」(1375頁)とある。また、古典基礎語辞典の「解説」には、「瓦で葺いた屋根のいちばん高い所。」(157頁、この項、西郷喜久子)とある。上代の用例にイラカ(甍)が瓦製かどうか、文例から完全には掌握できないため何とも言えない。筆者は、元来が他の屋根部分とは異なる造りであることを示した言葉ではないかと考える。結果的に素材の違いになって現れることもあったということである。
 板葺き(杮葺き)や樹皮葺き(檜皮葺)の屋根でも、棟部分だけ、他とは別に丸く包んで押さえる方法がとられている。棟包みと呼ばれる桟に当たるものを使い、棟の端から端まですべてを途切れることなくつなぎ覆っている。記紀では、産屋を造る伝とは別にかやなどで子を裹んだとする文がある。「乃以草裹児、棄之海辺、閉海途而俓去矣。」(紀本文)、「遂以真床覆衾及草、裹其児之波瀲、即入海去矣。此海陸不相通之縁也。」(紀一書第四)。苞にして贈り物を贈るやり方でパッケージングしているのは、屋根の甍の造りと同様だからだろう。ただし、茅葺屋根の棟部分にのみ棟瓦を敷き置いて被覆する方法は、瓦巻き、瓦棟などと呼ばれて現在残されているが、この棟仕舞は明治時代以降の流行と言われている。
 まとめると、面として屋根を葺いたのとは別仕立てで、大棟部分から雨が侵入しないように工夫したところをイラカと呼ぶことにしていたものと考える。イラ(棘)のある籬を動物が避けるように、イラのあるところを雨は左右へ避けるのである。雨は屋根の最下部まで伝って行って流れ落ちている。
 下図の家形埴輪の例は鰹木を載せたイラカとなっている。家や屋根の傾斜以上に大棟部分が肥大して作られており、あたかも甍形埴輪の様相である。当時の人々の関心の所在が明らかとなっている。

左から、天平の甍(新薬師寺)、家形埴輪(今城塚古墳出土、古墳時代、6世紀、今城塚古代歴史館展示品)、東三条殿?(年中行事絵巻模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574885/18をトリミング)、イワヒバを冠した芝棟(川崎市立日本民家園)

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
可児1966. 可児弘明『鵜飼─よみがえる民俗と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
幸田露伴『音幻論』 幸田露伴「音幻論」『露伴随筆集(下)』岩波書店(岩波文庫)、1993年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1126366
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
思想大系本古事記  青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
瀬間1994. 瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』おうふう、平成6年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
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加藤良平 2025.1.6改稿初出

二人の彦火火出見について

 日本書紀において、別人物(あるいは別神格)に、ひこ火火出見ほほでみという名がつけられている。山幸ことひこ火火出ほほでみのみことと神武天皇のただのみなひこ火火出見ほほでみである(注1)。紀の本文に、皇孫のあま彦彦火ひこひこほの瓊瓊ににぎのみことが降臨し、鹿葦津姫かしつひめ木花之開耶姫このはなのさくやひめ)と結婚、火闌降ほのすそりのみこと、彦火火出見尊、火明命ほのあかりのみことが生まれたという彦火火出見と、その子、ひこ波瀲なぎさたけ鸕鶿草葺がや不合尊ふきあへずのみことの子である神武天皇として知られる彦火火出見である。

 この点については従前より議論されている。

 神武天皇をここ[第二の一書]に神日本磐余彦火火出見尊という。第三の一書も同じであり、さかのぼって第八段の第六の一書……に神日本磐余彦火火出見天皇といい、くだって神武紀でもそのはじめに、諱は彦火火出見、同元年正月条……には神日本磐余彦火火出見天皇とある。神武天皇をまた彦火火出見尊という理由について、記伝は簡単に、彦火火出見尊の名は「天津日嗣に由ある稲穂を以て、美称奉れる御号なる故に、又伝賜へりしなり」とし、通釈も、ただ彦火火出見尊とだけ書いたのでは祖父の彦火火出見尊とまがうので、神日本磐余彦の六字を加えて区別したという。これらは神武天皇と瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊はもとより別人だが、ともに彦火火出見尊といったと頭からきめてかかった上での解釈である。しかし津田左右吉[『日本古典の研究』]は、神代史の元の形では、瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊が東征の主人公とされていたが、後になって物語の筋が改作され、彦火火出見尊に海幸山幸の話が付会されたり……、豊玉姫や玉依姫の話が加わったり、鸕鷀草葺不合尊が作られたりした。また他方では東征の主人公としてあらたにイワレビコが現われたのだとする。その際、元の話が全く捨てられなかったために神日本磐余彦火火出見尊(天皇)という名が記録されたり、神武の諱は彦火火出見であるという記載が生じたのだという。(大系本日本書紀197頁)
 神武即位前紀に、諱ただのみなとして「彦火火出見」……、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」……とみえる。 これについて諸説がある。一つは、神武天皇と彦火火出見尊(祖父に当る)とは別人だが、同名で紛らわしいので「神日本磐余彦」を冠して区別したとする説。また、元来彦火火出見尊が東征説話の主人公であったが、後に海幸・山幸の話や豊玉姫・玉依姫の話が付加され、鸕鷀草葺不合尊が創作された。そこで神武天皇の諱が彦火火出見となったり、神日本磐余彦火火出見尊(天皇)となったりしたものとする説もある。前説は襲名の慣習を認める観点に立つものであり、後説は同名の箇所に不自然さを認め、合理的な説明を試みようとする観点に立つものである。しかし、いずれも正当性を証明する手だてはない。(新編全集本日本書紀189頁)
 神武紀冒頭に「神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見」とあり、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」とする。これについて『纂疏』は「彦火火出見の名、祖の号を犯せるは、孫は王父の尸為(タ)るが故なり」という。「王父」は祖父の尊称。「尸」は祭祀の際死者に代わって祭りを受ける役……。『礼記』曲礼上に「礼に曰く、君子は孫を抱き、子を抱かずと。此れ孫は以て王父の尸為るべく、子は以て父の尸為るべからざるを言ふなり」。鄭玄注に「孫と祖と昭穆を同じくするを以てなり」。「昭穆」は宗廟における配列の順。中央の太祖に向かい偶数代を右に配し(昭)、奇数代を左に配す(穆)。(新釈全訳日本書紀289頁)

 「総て上代は、神また人名に、同しきさまなるもあまた見えたれと、近き御祖父の御名を、さなから負給はむこと、あるましきことなり。」(飯田武郷・日本書紀通釈、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115817/1/207、漢字の旧字体と句読点は改めた)、「帝皇日嗣の僅か一世を隔てた前と後とに於いて同じ名のが二代ある、といふことは、甚だ解し難い話である」(津田1963.552頁)と捉えるのは考え方として疑問である。中臣なかとみの烏賊津使主いかつのおみという人物は、仲哀紀九年二月条、神功前紀仲哀九年三月条、允恭紀七年十二月条に現れ、前二者と最後の人とは別人と目されている。幡梭はたびの皇女ひめみこは、仁徳紀二年三月条、履中紀元年七月条にあるが別人である。今日でも同姓同名の人は数多い。そして、古代において、名は、名づけられてそう呼ばれることをもって成り立っている。人がそう呼ばれることとは、その特徴からそう呼ばれる。いわゆる綽名こそ名の本質をついている。したがって、ヒコホホデミという名を負った登場人物が二人いたとしたら、その両者に共通する特徴があり、ともにそのように呼ばれたと考えるのが本筋である。
 神武天皇のことをいう「彦火火出見」については、神武紀冒頭に、「かむ日本やまと磐余いはれ彦天皇びこのすめらみことただのみなは彦火火出見。」、すなわち、実名であると記されている。明記されていることを疑っていては虚無を生むばかりである。神武天皇の名の表記としては、「神日本磐余彦尊」(神代紀第十一段本文・一書第一)、「磐余彦尊」(同一書第二)、「神日本磐余彦火火出見尊」(同一書第二・第三)、「磐余彦火火出見尊」(同一書第四)、「神日本磐余彦火火出見天皇」(第八段一書第六)ともある。神代紀を筆録した人がそれと知りながら二人のことを同じ名で呼んで憚っていない。名は呼ばれるものであると認識していたからだろう。
 神武天皇の彦火火出見という名は、系譜上、その祖父に当たる彦火火出見尊と同じ名である。名は体を表す。別人でありながら、人物像、事績に共通項を見出したようである。ヒコホホデミは、ヒコ(彦、男性の称)+ホホデ+ミ(霊)の意と解釈される。ホホデについては、穂穂出、火火出の意が掛け合わされているとされている(注2)。しかし、神武天皇の人物像や事績に、穂や火の意を直截見出すことはできない。違う視点が必要である。
 山幸こと彦火火出見尊と神武天皇のただのみなの彦火火出見は、両者とも、敵対者に対して呪詛をよくしている(注3)

 時に、ひこ火火出ほほでみのみことたまとを受けて、本宮もとつみやに帰りでます。ある海神わたつみをしへまにまに、先づ其の鉤を以てこのかみに与へたまふ。兄いかりて受けず。故、おとのみこと潮溢瓊しほみちのたまいだせば、潮大きにちて、兄みづか没溺おぼほる。因りてひてまをさく、「われまさいましみことつかへまつりて奴僕やつこらむ。願はくは垂救活けたまへ」とまをす。おとのみこと潮涸瓊しほひのたまを出せば、潮おのづからにて、このかみ還りて平復たひらぎぬ。すでにして、兄、さきことを改めて曰はく、「吾はこれいましみことの兄なり。如何いかにぞ人の兄としておととに事へむや」といふ。弟、時に潮溢瓊を出したまふ。兄、見て高山たかやまげ登る。則ち潮、亦、山をる。兄、たかのぼる。則ち潮、亦、る。兄、既に窮途せまりて、去る所無し。乃ち伏罪したがひてまをさく、「吾已にあやまてり。今より以往ゆくさきは、やつかれ子孫うみのこ八十やそ連属つづきに、つねいましみこと俳人わざひとらむ。あるに云はく、狗人いぬひとといふ。ふ、かなしびたまへ」とまをす。弟還りて涸瓊を出したまへば、潮自づからにぬ。(神代紀第十段一書第二)
 よひみみづかうけひてみねませり。みいめ天神あまつかみしてをしへまつりてのたまはく、「あまの香山かぐやまやしろの中のはにを取りて、〈香山、此には介遇夜摩かぐやまと云ふ。〉天平瓮あまのひらか八十枚やそちを造り、〈平瓮、此には毗邏介ひらかと云ふ。〉あはせていつを造りて天神あまつやしろ地祇くにつやしろゐやまひ祭れ。〈厳瓮、此には怡途背いつへ〉と云ふ。亦、厳呪詛いつのかしりをせよ。如此かくのごとくせば、あたおのづからにしたがひなむ」とのたまふ。〈厳呪詛、此には怡途能伽辞離いつのかしりと云ふ。〉天皇すめらみことつつしみて夢のをしへうけたまはりたまひて、依りて将におこなひたまはむとす。(神武前紀戊午年九月)
 是に、天皇すめらみことにへさよろこびたまひて、乃ち此のはにつちを以て、八十やそひらあまの手抉たくじり八十枚やそち〈手抉、此には多衢餌離たくじりと云ふ。〉いつ造作つくりて、丹生にふ川上かはかみのぼりて、天神あまつかみ地祇くにつかみいはひまつりたまふ。則ち菟田うだがは朝原あさはらにして、たとへば水沫みなはの如くして、かしけること有り。(神武前紀戊午年九月)

 ふつう、神に祈りを捧げることは自分たちに良いことがあるように願うものである。それに対して、「とごふ」や「かしる」は、憎む相手に悪いことがあるように願うことであり、本来の祈り方とは真逆のことをやっている。祈りが裏返った形をしている。
 神に祈る際、我々は柏手かしわでを打つ。二回とも四回ともされるが、その拍手はくしゅのことをカシハデと呼んでいる(注4)。小さな我が手を叩いているのを、大きな木の葉の柏になぞらえて有難がろうとするものであろうか(注5)。柏の葉は大きくて、しかも、冬枯れしても離層を作らず、翌春新しい葉が芽生えるまで落葉しないことが多い。その特徴は、ユズリハのように「葉守りの神」が宿ると考えられ、縁起の良い木とされるに至っている。

上左:カシワ(ズーラシア)、上右:落葉しないで越冬するカシワ、下左:ホオノキ、下右:朴落葉

 同じようにとても大きな葉を、カシワ同様、輪生するかのようにつける木に朴木ほおのきがある。古語にホホである。和名抄に、「厚朴〈重皮付〉 本草に云はく、厚朴は一名に厚皮〈楊氏漢語抄に厚木は保々加之波乃岐ほほかしはのきと云ふ。〉といふ。釈薬性に云はく、重皮〈保々乃可波ほほのかは〉は厚朴の皮の名なりといふ。」とある。すなわち、ホホデは、カシハデと対比された表現ととることができる。季語にあるとおり朴の葉は落葉する。しかも、表を下にして落ちていることが多い。葉の縁が内側に巻くことによるのであるが、確かに裏が現れることとは、占いに未来を予言するとき良からぬことが思った通りに起こることを表しているといえる。
 以上のことから、山幸も、神武天皇こと神日本磐余彦も、呪詛がうまくいったという観点から、ホホデ(朴手)的にしてその霊性を有する男性であると知られ、そのように名づけられていると理解できる。だから両者とも、ヒコホホデミ(彦火火出見)なる名を負っている。名は呼ばれるものであり、そう呼ばれていた。それが確かなことである。その呼ばれるものがひとり歩きして二人が紛れるといったことは、少なくとも名が名として機能していた上代にはなかった。文字を持たないヤマトコトバに生きていた上代において、人の名とは呼ばれることが肝心なのであり、己がアイデンティティとして主張されるものではなかった。自分が好きな名をキラキラネームで名乗ってみても、共通認識が得られなければ伝えられることはなく、知られないまま消えてなくなる。人が存在するのは名づけられることをもって現実化するのであり、その対偶に当たる、名づけられることがなければその人は存在しなかったかのように残されないものであった。「青人草あをひとくさ」(記上)、「名をもらせり。」(紀)として終わる(注6)。それで一向に構わない。それが無文字時代の言葉と名の関係である。
 近世の国学者と近現代の史学者の誤った説に惑わされない正しい考え方を示した。

(注)
(注1)古事記では、神武天皇にヒコホホデミという名は与えられていない。
(注2)語の理解を助ける解釈についてはいずれも説の域を出ず、証明することはできない。ホホデについてその出生譚から炎出見、ホノホが出る意、また、ホノニニギに見られるように農耕神の性格から穂出見、稲穂が出る意とが掛け合わされていると考えられることが主流である。他説も多くあるだろう。
(注3)呪詛の詳細については、拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」参照。
(注4)「柏手(拍手)」にカシハデと訓の付いている文献は実は古代には見られない。とはいえ、神前にて心を整え神妙な面持ちで間隔をあけて手を打つことと、スタンディングオベーションで興奮しながら何十回、何百回と打ち鳴らすことでは、込めている気持ちが違うことは認められよう。
(注5)貞丈雑記・巻十六神仏類之部に、「手をうつ時の手の形、かしはの形に似たる故、かしは手と名付くる由也、」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/1003?ln=ja)とある。
(注6)十訓抄に由来する「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」という戒めの言葉があるが、上代における名づけとは位相が異なる。

(引用・参考文献)
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
津田1963. 津田左右吉『日本古典の研究 上 津田左右吉全集第一巻』岩波書店、昭和38年。
日本書紀纂疏 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編『天理図書館善本叢書 和書之部 第二十七巻 日本書紀纂疏・日本書紀抄』天理大学出版部、昭和52年。

加藤良平 2025.2.13改稿初出

四天王寺創建説話と白膠木のこと

 崇峻前紀に、物部守屋を攻め滅ぼす戦の場面がある。厩戸皇子は白膠木を四天王像に作って戦勝祈願をしている。これが四天王寺発願のこととされて今日でも議論の対象となっている。

 の時に、厩戸皇うまやとのみ束髪於額ひさごはなにして、〈いにしへひと年少児わらはの、年十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にし、十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦しかり。〉いくさうしろしたがへり。みづか忖度はかりてのたまはく、「はた、敗らるること無からむや。ちかひことあらずは成しがたけむ」とのたまふ。乃ち白膠木ぬりでり取りて、天王てんわうみかたに作りて、頂髪たきふさに置きて、ちかひててのたまはく、〈白膠木、此には農利泥ぬりでといふ。〉「今し我をしてあたに勝たしめたまはば、必ず護世四ごせしわう奉為みために、寺塔てら起立てむ」とのたまふ。我馬子がのうまこの大臣おほおみ、又誓を発ててはく、「おほよ諸天王しよてんわう大神王だいじんわうたち、我を助けまもりて、利益つことしめたまはば、願はくはまさに諸天と大神王との奉為に、寺塔を起立てて、三宝さむぽう流通つたへむ」といふ。ちかをはりて種々くさぐさいくさよそひて、進みて討伐つ。……みだれしづめてのちに、摂津つのくににして、天王寺てんわうじを造る。(是時、厩戸皇子、束髪於額、〈古俗、年少児、年十五六間、束髪於額、十七八間、分為角子。今亦為之。〉而随軍後。自忖度曰、将無見敗。非願難成。乃斮取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髪、而発誓言、〈白膠木、此云農利泥。〉今若使我勝敵、必当奉為護世四王、起立寺塔。蘇我馬子大臣、又発誓言、凡諸天王・大神王等、助衛於我、使獲利益、願当奉為諸天与大神王、起立寺塔、流通三宝。誓已厳種々兵、而進討伐。……平乱之後、於摂津国、造四天王寺。)(崇峻前紀)

 この記述については、前後の文章と筆法が異なると指摘され、日本書紀の編纂の最終段階で挿入されたと考えられることがある。ただし、所詮は推測に過ぎず、根拠は薄弱である(注1)。日本書紀を編纂している人たちは、史上ほぼ初めて自分たちが使っている言葉を文字に書き起こしている。使っていた言葉とはヤマトコトバである。話し言葉としてあり上手に話していた。それを中国語に訳そうと漢文風に書いたのではなく、試しに漢文調で書いてみて、ヤマトコトバで理解できるように工夫している。ヤマトの人たちの間で通じればいいのであり、倭習と呼ばれる書き方は間違いではない。だからこそ今日の我々でも理解できる。
 森2002.は、㋑「今亦然。」、㋺「成。」、㋩「蘇我馬子大臣発誓言、」、㋥「助衛我使獲利益、」、㋭「誓已種種、而進討伐○○。」が倭習、筆癖、潤色箇所であると指摘している。㋭は、小島1962.が、金光明最勝王経・護国品の「、発向彼国、欲為討伐○○。」によるものであろう(467頁)と推測する箇所である。
 金光明最勝王経の義浄訳は703年に成ったから、それ以降に書かれたもの、つまり、この文章全体はすべて後から付け足されたものと決めつけている。しかし、清書する前の段階であれば何度でも書き足すことは可能であり、この文章がまるごといっときに追加されたものなのかはわからない。もとより、金光明最勝王経に依った文飾と、「又」は「亦」でなければならないとチェックする採点とでは次元を異にする。可能性として、㋑〜㋥は日本書紀の種本となる「天皇記すめらみことのふみ国記くにつふみ」(皇極紀四年六月)にそう書いてあったからそのまま引き写し、㋭に関してのみ後に潤色したということも考えられる。日本書紀は、すべからく日本書紀区分論を反映して書かれていなければならないと考えるのは本末転倒な研究姿勢である。
 それ以上に困ったことに、文章の印象から後に加えられたものであるとする議論がある。榊原2024.は、「その内容は、物語性が強く、不自然で、いかにも説話的であり、創作されたものであろう。当時の人々の間で自然に発生した伝承ではないと思われる。これまでの研究においても、崇峻即位前紀七月条……の[四天王寺]創建説話に記された内容は、歴史的な事実とは考えられず、創作された説話だとする見解が繰り返し提示されてきた。」(311~312頁)としている。
 断っておきたいのは、日本書紀に書いてあることをもって四天王寺の創建説話ととることは、日本書紀の本意ではない点である。日本書紀に書いてあることは、崇峻前紀であれば崇峻天皇が即位する前にどんなことがあったかということである。四天王寺が自らの創建を日本書紀に求めることはかまわないが、その逆はない。また、榊原氏の言う「物語性」、「不自然」、「説話的」、「創作されたもの」という位置づけにおいて、それはいわゆる「歴史的な事実」とは相容れないものとして低い評価しか与えられていない。その底流には近代の価値観があるのだが、それで上代の文献を切り取ろうとしても大した成果は得られないだろう。なにしろ、日本書紀に書いてあることはヤマトコトバであり、話し言葉である。当時伝えられていた言葉は話し言葉として伝わっている。物語的、説話的、創作的であって自然なのである(注2)
 義浄訳金光明最勝王経に依っているとする説では、「護世四王」と「白膠」という文字面を気にしている。「護世四王」という言い方は他の仏典にも見えるが、「白膠」は義浄訳金光明最勝王経を待たなければ現れず、厩戸皇子の所作と祈願はその渡来以降に創られた話なのだとされている。「白膠木で四天王像を作ったという記述も、[仏教伝来記事]同様に『金光明最勝王経』の思想と用語に基づいて記述されたものとしてよいだろう。」(吉田2012.101頁)という。
 この議論はおかしい。義浄訳金光明最勝王経に出てくる「白膠」は、洗浴の法として香薬を三十二味を取れと言っている中の一つである。「牛黄」、「松脂」、「沈香」、「栴檀」、「丁子」、「鬱金」などに混じり、「白膠 〈薩折羅婆〉」とある。西大寺本金光明最勝王経においては、「膠」字にカウと白点(平安初期点)が付けられている(巻七・金光明最勝王経大弁財天女品第十五、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1885585/1/72)。つまり、この「白膠」はビャクカウのように読まれるものである。
 白膠は、鹿の角などから得られる香材である(注3)

 白膠 味甘平、温無毒。主傷中労絶、腰痛、羸瘦、補中益気、婦人血閉無子、止痛安胎。療、吐血下血、崩中不止、四肢酸疼、多汗淋露、折跌傷損。久服軽身延年。一名鹿角膠。生雲中、煮鹿角作之。得火良、畏大黃。/今人少復煮作、惟合角弓、猶言用此膠爾。方薬用亦稀、道家時又須之。作白膠法、先以米瀋汁、漬七日令軟、然後煮煎之、如作阿膠法爾。又一法、即細剉角、与一片乾牛皮、角即消爛矣、不爾相厭、百年無一熟也。(陶弘景・本草経集注)
 白膠 一名鹿角膠。和名加乃都乃々爾加波かのつののにかは(本草和名)

 金光明最勝王経の「白膠」は、日本書紀で記されている植物のヌルデ(白膠木)とは無関係である。字面として「白膠」が義浄訳の金光明最勝王経に見えるからと言って、それをもとにヌルデの木のことを崇峻前紀で「白膠木」と書いたとは決められない。すでに本草経集注にも見えている(注4)
 ヌルデの木のことは、新撰字鏡に、「檡 舒赤・徒格二反。正善也、梬棗也。奴利天ぬりで木也」、和名抄に、「㯉 陸詞切韻に云はく、㯉〈勅居反、本草に沼天ぬでと云ふ〉は悪しき木なりといふ。弁色立成に白膠木と云ふ。〈和名は上に同じ〉」とある。「㯉」は「樗」の異体字である。医心方には「樗鷄 和名奴天乃支乃牟之ぬでのきのむし」とある。ヌルデの木についた虫こぶが、鶏冠のような形状を示していたからこのように書かれたものと推測される(注5)

ヌルデの虫こぶ

 ヌルデの木を材として仏像彫刻とした例は知られない。ウルシ科の落葉高木で、樹液は白く、塗料や接着剤に使うことができた。塗る材料の意を表してヌリデと称したというのは合っていると思われる。わざわざ皮膚がかぶれかねないウルシ科の木材を使って彫像することはない。そんなヌルデ(古名ヌリデ)を漢字表記するのに、樹液が白くて膠のような性質を帯びているからということで「白膠木」と記すことに特段の不思議はない。筆者は、厩戸皇子は、ヌルデの虫こぶが膨らんでいるのを四天王像に見立てたものと考えている(注6)。ヌルデの木に注目が行って実用としているのは、医心方にあるとおりその虫こぶであったと考えられる。虫こぶからは付子ふし(五倍子)が取れ、薬用のほか、黒色の染料として用いられた。太子はヌルデの虫こぶを斮り取って彫像しつつ付子によって髪の毛の薄いのを誤魔化すことをしていた。最終的に摂津の国に四天王寺を建立することになったのは、付子はお歯黒に用いられたからで、口の中にはがいっぱいだから、ふさわしいのはツの国だということに相成ったのであろう。ヤマトの人は、母語であるヤマトコトバでものを考えている。
 崇峻前紀に記されている「白膠木ぬりで」は話の素材として欠かせないものである。話し言葉のヤマトコトバにとてもよくマッチした話(咄・噺・譚)に仕上がっている。古代の人のものの考え方に近寄ろうとしないで独りよがりな議論を展開してはならない。

(注)
(注1)文字(漢字)の使用法をもってすべてがわかるほど、書かれた文章が言葉の多くを占めているわけではない。また、程度の問題としても、書いてあることからわかることは、書くことに慣れた近現代人よりもずっとわずかなことしか理解されないことを悟らなければならない。
(注2)「歴史」は書き言葉、文字によって作られた。ヘロドトス『歴史』、司馬遷『史記』のようにである。日本書紀は言い伝え、すなわち、話し言葉を基礎とする言葉を文字に落とし込もうとして、漢籍の字面を応用している。出典研究が行われて久しいが、漢籍を典拠として新たに物語ろうとして創作された文章はわずかであろう。なぜなら、書き残そうとしていることはヤマトの昔のことで、中国の思想的背景とは脈絡が合わないし、当時のヤマトの人はほとんど知らない。ヤマトの昔のことごとは近代の価値観に基づいて見たところの歴史的事実ではないかもしれないが、話(咄・噺・譚)として一話完結で成り立っていて、当時の人々のなかで自然に発生した伝承である可能性がきわめて高いと考えられる。おもしろくてわかりやすいから語り継がれる。馴染みのない中国の伝承が語り継がれることは至難である。
(注3)満久1977.によれば、中国や日本にはインドボダイジュやウドンゲノキがないから、日本の真言宗ではヌルデが護摩木に代用されたという。白い汁が出る木をもって代えて使うようにと仏典に指示があるという(139頁)。ヌルデは香木というわけではなく、和名抄に「悪木」扱いされているから、吉田2012.が推測するように霊木であったとも考えられない。新修本草にある楓香脂の一名に白膠ビャクキョウコウとあるが、フウの樹脂を基原とするという(木下2017.307頁)。
(注4)久米邦武・上宮太子実録に、「四天王像の原料白膠木・・・は、倭名ヌリテ、異名を勝軍木という、香脂にして木材にはあらず。本草綱目に楓香脂、一 ハ白膠香とあり、李時珍の註に、 ニ香楓、金光明 ニ其香須薩折羅婆香、即此木謂漆也とある、脂といひ、にへといひ、漆といふ、今ならばゴム質といふべき物なり。其香膠にて作りたる小き像によりて、四天王寺の大伽藍を起せりとは一笑談なれど、勝軍木にちなみたる落想なるべし。釈日本紀に、白膠木(ぬりての木)私記曰、大政殿下 テ曰、白膠木之意如何、 シ云、師説不たしか其後問 ノ有識、或 フ白膠者甚有霊之木也、故修法之壇、取此木乳而塗用也、或 ニ シ仏之心[]入 ハ此木、取 ルニ_霊、及不朽乎、 ハ華山僧 ノ諸儀軌之文説とあれば、亦有霊の意にも取たるなり。要するに白膠は仏像に塗る用にして、仏像を刻むべき原料にあらず。俗にシヤク旃壇センダンの霊木と称ふるも、此楓香脂を誤認したるにてあるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/780770/1/74、漢字の旧字体は改めた)とあり、これを受けて村田1966.は、「勝軍木または呪薬香だから用いたことが察せられる。」とし、「白膠については北涼曇無讖訳『金光明経』になく、隋釈宝貴の「合部金光明経大弁天品第十二「一切悪障悉得除滅……是故我説呪薬之法……白膠香」とあり、義浄訳『金光明最勝王経』大弁才天女品第十五 「如是諸悪為障難者、悉令除滅……当取香薬三十二味、所謂…白膠〈薩折羅婆〉 」とある。」(76頁)と註している。
(注5)いずれも我が国独自の用字であるという。木下2017.150頁参照。
(注6)「乃斮‐取白膠木四天皇像、」とあり、すぐにできあがっている。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」参照。ヌルデの虫こぶ一つを四面の像と仮定したが、虫こぶは鈴なりに成ることがあるから、一枝に四つできた虫こぶを「四天王」だと洒落て見立てたということかもしれない。戦にあっては、あまりの緊張から萎縮することがある。それを除くためには適度のリラックスが必要であり、厩戸皇子は自らおどけながら仏法による加護が得られることを期待してみせて、軍勢に対して安心感を与えつつ鼓舞することにも成功したという話であると考える。

(引用・参考文献)
春日1969. 春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』勉誠社、昭和44年。
木下2017. 木下武司『和漢古典植物名精解』和泉書院、2017年。
小島1962. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 上』塙書房、昭和37年。
榊原2024. 榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建─「厩戸皇子」像の検討─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。
本草経集注 陶弘景校注『本草経集注』南大阪印刷センター、昭和47年。
満久1977. 満久崇麿『仏典の植物』八坂書房、1977年。
村田1966. 村田治郎「四天王寺創立史の諸問題」『聖徳太子研究』第2号、昭和41年5月。
森2005. 森博達「聖徳太子伝説と用明・崇峻紀の成立過程─日本書紀劄紀・その一─」『東アジアの古代文化』122号、2005年2月。
吉田2012. 吉田一彦『仏教伝来の研究』吉川弘文館、2012年。

加藤良平 2024.10.4初出

隼人(はやひと)について

 隼人は、古代の九州南部の人をいい、朝廷で隼人舞や警護の任についた。隼人(はや(ひ)と)の名義については、これまでに多くの説が唱えられてきた。中村1993.の研究史整理をもとにした原口2018.の分類をあげる。

(1)性行説
隼人の名義がその性質・性格・行動・しぐさによるとする説。
○敏捷・猛勇な隼人の性行が、古語でハヤシなどということにもとづくとする説(本居宣長)。
○「凶暴な人」を意味するチハヤビトにもとづくとする説(内田銀蔵)(注1)
(2)地名説
○『新唐書』にみえる「波邪」という地名にもとづくとする説(喜田貞吉)。
(3)方位説
○マリアナ語では南を「ハヤ」といい、南風を意味する「ハエ」と同様に「ハヤ」が南方をさすとする説(松岡静雄など)。
○四神思想で南方を意味する朱雀は、漢籍では「鳥隼」と関係があるとされる場合もあり、隼人の名義がここから採用されたとする説(駒井和愛・中村明蔵・原口耕一郎)。
○隼人・熊襲・蝦夷の名義は、天・陸・水という宇宙三界を表象するという説(大林太良)。
(4)職掌説
隼人の朝廷における職掌によるものとする説。
○ハヤシビト(囃し人)にもとづくとする説(清原貞雄)。
○隼人の歌舞のテンポが他の歌舞よりも早かったことによるとする説(井上辰雄)。
○隼人の狗吠/吠声から「吠人(はいと)」とされたことによるとする説(高橋富雄・菊池達也)。(原口2018.73~74頁に原口氏説を加えた)

 どうしてハヤヒトと呼ばれていたかを問うことはあまり生産的なことではない(注2)。言葉の語源を正すことは、歴史的に、すなわち、文献的に証明されるもの、例えば近代に生まれた翻訳語のように証明されるものならともかく、なぜ spring のことをヰ(井)というのかを考えても始まらない(注3)。地名のうちのかなりのものも、所与のものとしてあり、それを後からこじつけて何を表しているのか考えているだけである(注4)。このハヤヒトの場合も、由来を辿って行き着くところがあったとしても、そのことを「証明」と呼ぶことはできない。その点を承知のうえで筆者なりの意見を述べるなら、海人族として海に潜っていたことと関係があるかと考える。素潜りだから長く息を止める。ナガ(長)+イキ(息)、約してナゲキ(嘆)である。ナゲク(嘆)様子は助詞のハヤに表される。だからハヤヒト(隼人)である。文字によらない口語的世界、ブリコラージュとしての言葉遊びのなかで輝いて聞こえる言葉である。
 終助詞のハヤは、感動、感嘆、哀惜など、歌謡の例にあるように口に出して発話する言葉として用いられた。崇神紀十年九月条に「御間城みまき入彦いりびこはや」とあり、何かを言っているのではなくただ歌っているだけであるという。景行記に「あづまはや」とあり、倭建命やまとたけるのみことが東征からの帰路で溜息まじりにつぶやいている。同じく「その大刀たちはや」ともあり、自分から離れてしまったことに言葉が続かなくなっている。雄略紀十二年十月条に「いひし工匠たくみはや あたら工匠はや」とあり、処刑されそうな大工を惜しんでいる。允恭紀四十二年十一月条に「うねめはや、みみはや」とあり、朝貢した新羅人がうねやま耳成山みみなしやまを嘆き讃えた声が訛っていて、朝廷側は采女と姦通したのではないかと疑っている。
 海人族のナガ(長)+イキ(息)からナゲキ(嘆)の声、ハヤを冠する族名となっている。海人族は他にも多いから、他の地域の海人もハヤヒトと呼ばれておかしくないが、南九州の人のみそう呼ばれている。どうしてそう落ち着いたのかは不明であるが、翻って、ハヤヒトと呼ばれたことを出発点として議論は始まることになる。「隼人はやひとの名に負ふ」(万2497)とはどういうことかと組み立てて行っている。史料や木簡などには「隼人」という用字が常用されている。当時の人たちの共通認識として、そう宛てがうのがふさわしいと感じられたからだろう。先にハヤヒトという言葉があり、それに漢字を当てている。もし「隼人」という漢字が先にあって律令制のもとに初めて定められたとするなら、音読みしてシュンジンなどと名づけられていたのではないか(注5)。上代の人はハヤヒトとあることについて疑問を持つことなく、否定することはまったくなく、その名に値する行動をとるように集合意識として求めていくことになっている。

 凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人かんにん二人・史生二人、大衣おほきぬ二人・番上の隼人二十人・いまの隼人二十人・白丁びやくちようの隼人一百三十二人を率て、分れて応天門おうてんもん外の左右に陣し〈蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず〉、群官初めてらば胡床あぐらよりち、今来の隼人、吠声はいせいを発すること三節〈蕃客入朝は、吠の限りに在らず〉。(延喜式・隼人司)
 凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉ぐぶせよ。〈番上已上は、みな横刀を帯び馬にれ。但し大衣已下は木綿鬘ゆふかづらけよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ。〉其の駕、国界及び山川道路のまがりを経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
 凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近きみゆきは吠せざれ。(延喜式・隼人司)
 凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。すべて大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
 朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初めそむき、後にしたがふなりと。うべなふに請ひて云はく、すでに犬と為り、人君に奉仕つかへまつらば、此れ則ち隼人となづくるのみと。(令集解・巻五)
 歌儛教習けうしふせむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)

 養老令や延喜式にみられる隼人の任務としては、①朝廷における儀式への参加、②吠声を発すること、③竹器の製作にあたること、の三つに大別される(注6)。延喜式では、宮廷に仕える隼人は、元日即位の日や外国使節の入城、践祚大嘗祭に、応天門の外に異様ないでたちで立ち、赤い模様に飾られた楯と槍を持ち、吠声を発する決まりになっている。また、行幸に際しても、同行して国境や曲がり角で吠声を発することになっている。ハヤヒトという名から役割が整えられていっており、ハヤヒトという名ゆえに言い伝えにも反映したものとなっている(注7)。海幸山幸の話のなかで、最後に相手が屈服して仕えると誓ったとき、それを「隼人」の祖であるとし、「狗」とし、「俳優」としている。「隼人」、「狗」、「俳優」がヤマトコトバのなかで同一にカテゴライズされて納得が行っている。

 ここを以てほの芹命せりのみこと苗裔のちもろもろ隼人はやひとたち、今に至るまで天皇すめらみこと宮墻みかきもとを離れずして、よよに吠ゆる狗にして奉事つかへまつる者なり。世人よのひとせたる針をはたらざるは、これ、其のことのもとなり。(神代紀第十段一書第二)
 照命でりのみこと〈此は、隼人の多君たのきみおやぞ〉。(記上)
 ほの降命そりのみことは、即ち田君たのきみはし本祖とほつおやなり。(紀本文)
 [火酢芹命ノ曰サク]「吾已にあやまてり。今より以往ゆくさきは、やつかれ子孫うみのこ八十やそ連属つづきに、恒にいましみこと俳人わざひとと為らむ。あるに云はく、狗人いぬひとといふ。はくはかなしびたまへ」とまをす。(神代紀第十段一書第二)
 [火酢芹命ノ曰サク]「……願はくは救ひたまへ。し我をけたまへらば、やつかれ生児うみのこ八十やそ連属つづきに、いましみこと垣辺かきへを離れずして、俳優わざをきたみたらむ」とまをす。(同第四)
 [火照命ノ]頓首ぬかつきてまをししく、「やつかれは、今より以後のち汝命ながみこと昼夜ひるよる守護まもりびとて仕へ奉らむ」とまをしき。かれ、今に至るまで其のおぼほれし時の種々くさぐさわざ絶えずして、仕へ奉るぞ。(記上)

 海幸山幸の話の末尾で、ホノスセリが屈服した様子を「いぬ」に喩えている(注8)。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢をとり、屈服を表明していると見受けられる。そして、儀式や行幸の際には、隼人が犬の吠声をたて、あるいは辟邪を司ったとされている。

 …… 犬じもの 道に伏してや いのち過ぎなむ〈一に云ふ、我が世過ぎなむ〉(万886、山上憶良)
 ……其の大県あがたぬしかしこみ、稽首ぬかつきてまをさく、「やつこにし有れば、奴ながさとらずして、あやまち作れるはいとかしこし。かれ、のみの幣物まひものたてまつらむ」とまをして、布を白き犬にけ、鈴をけて、おのうがら、名は腰佩こしはきと謂ふ人に、犬の縄を取らしめて献上たてまつりき。(雄略記)
 冬十月の壬午の朔にして乙酉に、みことのりしたまはく、「犬・馬・器翫もてあそびもの献上たてまつること得じ」とのたまふ。(清寧紀三年十月)
 新羅のこきし献物たてまつるものは、馬ふた・犬三頭みつ・鸚鵡ふたかささぎ二隻及び種々くさぐさの物あり。(天武十四年五月)

 雄略記の例のように、犬を献上することで犬のように屈服、恭順していることを表明することがあった。鷹狩り用の犬も献上されていた(注9)。飼主の言いつけに従わない犬というのはいない。人に噛みついたり、狂犬病を発症した犬は殺された。雑令に規定されるほか、厩庫律・幖幟羈絆条(逸文)に、「凡畜産及噬犬、有蹹齧人、而幖幟羈絆不法、若狂犬不殺者、笞卅、以故殺傷人者、以過失論、若故放令‐傷人者、減闘殺傷一等、即被雇療畜産、〈被倩者、同過失法〉及無_故触之而被殺傷者、畜主不坐」とある。
 この要件は犬的な人である隼人にも当てはまる。履中即位前紀に、住吉仲皇すみのえのなかつみの「近くつかへまつる隼人」が、ひそかに瑞歯別みつはわけの皇子みこから褒美をあげるといわれて主人を暗殺し、挙げ句の果て、自分の主君を殺すのはけしからんということで殺されている。主人や鷹を傷つけた犬は即刻殺されるということである。飼い犬に手をかまれるとの諺になっている。記では、「墨江すみのえの中皇なかつみに近くつかへたる隼人、名は曾婆加理そばかり」といい、紀には、「近くつかへまつる隼人有り。さし領巾ひれと曰ふ。」と指定されている。
 犬の躾には、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする(注10)。意のままに動くさまを舞と見立てたのが隼人舞である。
 舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名からはやすことが期待されている。お囃子をつかさどって隼人は「俳優わざをき俳人わざひと」となっている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるように、元日や即位の際の儀式において左右に分かれて位置して「吠声」を発している。延喜式・隼人式に、「分陣応天門外之左右一二、……今来隼人発吠声三節」とあるとおりである。そんな掛け合いがなされるのは、まるで山にいるオオカミの遠吠えの掛け合いのようである。猟犬、番犬である飼犬もつられて呼応したものだったろう。まことにうまい形容である。ヨバフ声を発していたわけである。
 ヨバフは、ヨブ(喚)に反復、継続の動詞語尾フのついた形である。その際、聞かせるべき相手は必ずどこかにいる。くり返し大きな声をあげて相手に向って注意を向けさせようとしていたり、見えないけれど必ずいるはずの答えてくれるべき相手を探すように声をあげている。よく通る声でなければならない。崇峻前紀では、鳥部とりべのよろづが犬のように地に伏し、誰かまっとうに話のできる相手はいないかとヨバフことをしている。この話にはよろづの飼っていた犬の話などがエピローグとして付いている(注11)。「犬(狗)」とは何かについて深く考えられている。

 隼人はやひとの〔早人〕 名にごゑ いちしろく が名はりつ 妻とたのませ(万2497)
 かきしに 犬呼び越して がりする君 青山の しげやまに 馬休め君(万1289)
 隼人、多に来て方物くにつものたてまつる。是の日に、大隅隼人と阿多隼人と、朝廷みかど相撲すまひとる。大隅隼人勝つ。(天武紀十一年七月)
 五月丁未の朔にして己未に、隼人大隅にへたまふ。丁卯に、隼人の相撲とるを西のつきもとる。(持統紀九年五月)

 万2497番歌では原文に「早人」とあり、ハヤト、ハヤヒトという名に負うのが大きな夜声であるとしている。令集解・職員令にも「已為犬、奉‐仕人君者、此則名隼人耳。」とある。隼人舞や犬の吠え声から囃す人のこと、敏捷で動作が速い、隼人舞のテンポの速いこととする説などがあげられている。しかし、犬の本義に近づいていない。猟犬として使うのは鷹狩においてである。鷹狩に使うはやぶさは、猟犬同様、飼い主に忠実である。狩りで捕まえたのだから自分で食べてしまえばいいのに食べずにいる。感嘆に値するし、食べてしまったらお仕置きが怖いから食べることができずに彼らは嘆息しているように見える。嘆く時に使う助詞はハヤである。鷹狩には鷹、隼、鷲など猛禽類が使われるが、そのなかで隼は最も人に馴れやすく、ペット化しやすい。犬と同等である。

止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)

 鷹狩に使う鷹(隼)を調教する際(「振替ふりかえ」)にも、ホッ、ホッと静かに、そして通るように鷹を呼ぶ。ワンワン(bow-wow)言ったら近づいてこない。ホォー(howl)と遠吠えする声が「吠声はいせい」である。
 番犬として考えた場合、ドーベルマンのように警護の役に就くことには整合性がある。警護のために使う道具は楯である。平城宮跡から隼人の楯は出土している。犬という存在は、主人の楯となって主人を守る楯の役割を果たす。猟犬の記憶、さらにはオオカミの記憶としては、主人以外の人に対して敵対行動をとり、飼犬が楯となって守るのである。その際、誰をご主人様と思うかによって拒絶する相手は変わってくる。延喜式・隼人司に、「凡元日即位及蕃客朝等儀、……」、「凡践祚大嘗日、……」、「凡遠従駕行者、……」、「凡行幸経宿者、……」などとある各条は、すべて天皇を主人として隼人が振る舞うために定められた条項である。
 門番と考えるならそれは仁王に値する。大隅隼人と阿多隼人との二地域をあげたのは、左右(東西)に配置させるためで、力自慢の力士による天覧相撲が開かれている。九州南部の人の身長は低かったとされており、大相撲ではなく、犬相撲、闘犬に近い。ガードマンは通せん坊をする。入って来ようとするのを「いなぶ」ことをする。嫌がり拒むことは、古語で「すまふ」ともいうから「相撲すまひ」を取っている(注12)
 人がいちばん嘆くのは大切な人が亡くなった葬儀の時である。亡くなることは古語で「ぬ」という(注13)。死ぬことは姿が見えなくなることだから、婉曲的に死ぬことをイヌ(去・往)(万1809)と言い、人は死ぬとき横になって眠るような姿態をとる。だから、イヌという言葉が両方の意味を表していてわかりやすい。なにしろ、動詞イヌ(寝・去・往)を名詞のイヌ(犬)が体現している。イヌ(犬)がイヌ(去)ことをしたという例(桜井田部連膽渟の例、崇峻前紀用明二年七月)もある。まるで、辞書の用例として載っている一連の例文をもって一つの話にまとめられたかのようである。語学的にとても丁寧な解説となっている。ヤマトコトバはヤマトコトバをもってして、言葉を了解的に循環説明し、納得の域に達せしめている。わかりやすく、おもしろくてためになる。そんな話(咄・噺・譚)が披露されている。何のための話なのかといった問いはもはやナンセンスである。この件は辞書的説明が説話の形を整えたものである。イヌ(犬・寝・往)という言葉の本意を伝えるために話が成っている。
 犬であるハヤヒトにも活躍の場が設けられている。隼人はもがりに参列し、番犬の役割として警備に当たる。ゆえに守護人となって隼人司は衛門府に属している。忠犬よろしく殉死することもあったように描かれる(注14)

 輪君わのきみさかふ、隼人をして殯庭もがりのには相距ふせかしむ。(敏達紀十四年八月)
 冬十月の癸巳の朔にして辛丑に、大泊瀬おほはつせの天皇すめらみこと丹比高鷲たぢひのたかわしはらのみさざきに葬りまつる。時に隼人、昼夜みさざきほとり哀号おらび、くらひものたまへどもくらはず、七日なぬかにして死ぬ。有司つかさ、墓を陵のきたのかたに造り、ことわりを以てかくす。(清寧元年十月)

 犬は飼い主に忠実であるが、ホォー(howl)と遠吠えする声は何を言っているのかわからず、ただ嘆いているばかりに聞こえる。今日でも、愛犬が救急車のサイレンに反応して遠吠えを始めたら、飼い主は何が起こっているのか戸惑うばかりで、大丈夫だよと声をかけてなだめている。九州南部出身者の方言は、外国語に勝るとも劣らぬほどわからなかったといわれ、まるで犬の声のようであったというのは話のオチのようなことであるが、そこから翻って彼らをハヤヒトと名づけたかどうかはわからない。
 以上のことごとを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことを記録するものであるとか、時代的に言っていつのことに当たるのか、ハヤヒトがいつからそう呼ばれ定められていったかについては問うことができない(注14)。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁民と同様であったろう。たまたまハヤヒトという名を持っていたから、役回りとして上のようなことを担うように要請されたと語学的に証明された。今日的な概念規定、例えば「服属儀礼」、「華夷思想」、「呪力」といった術語タームで考察しようとしても的外れである。

(注)
(注1)宮島1999.は彼らが海人族で、「執檝者かぢとり」に速い人とする説を唱えている。
(注2)『鹿児島市史Ⅰ』が「いくらその語のもつ意味を正確にとらえたところで、大した意義はないように思う。」(100頁)、『鹿児島県史第一巻』が「ハヤに特種の意味を持たせる事は果して適当であらうか。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261640/1/49、漢字の旧字体は改めた)という言い方に、中村氏は反発している。
(注3)幸田露伴の音幻論など、見るべきものがないわけではない。
(注4)くずの地名の由来について古事記は語っている。「皆たしなめらえて、くそ出で、はかまに懸る。かれ其地そこなづけてくそばかまと謂ふ。〈今は久須婆くすばと謂ふ。〉」(崇神記)。
(注5)文字によらずにハヤヒトという言葉があるということは、歴史のない文化を発祥とするということであり、名義の始期を問うことは筋違いである。今日、歴史学では、天武朝からハヤヒトと呼ばれたとし、記紀の説話は後付けで創作された文飾であると考えられるに至っている。文献を歴史学的視座からしか見ていないとそうなる。記紀に書いてあることは話(咄・噺・譚)である。文字を持たずに言葉を操っていた話の時代があり、その話の言葉を文字に書き写して残そうとしたものなのである。ことことでなければ収拾がつかなくなるから、必ずことことになるように話(咄・噺・譚)とした。嘘をつくことは固く戒められ、ありもしないことをでっちあげることは慎まれた。火のないところに煙が立つようなデマは伝えられることなくかき消されただろう。情報化社会とは真逆で、基本的に人の口から口へ、一人から一人へしか伝達の術はなかったからである。その間の誰か一人でも覚えることをしなかったら伝わることはないのである。積極的に相手に覚えさせようとするための「おもしろさ」こそが話(咄・噺・譚)の命であった。
(注6)➂の竹器製作の理由については拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」参照。
(注7)言い伝えが先か、条文が先かを問うことに関心が向かっているが、見当違いである。言葉として言い当てた時からすべては始まる。話としても法としても創られていく。
(注8)官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である。令集解に「朱云、凡此隼人者良人也。」とあるとおりである。
(注9)「貢上犬壱拾伍頭、起六月一日尽九月廿九日、并一百四十七日、単弐仟弐伯伍頭、食稲肆伯肆拾壱束、〈犬別二把〉」(正倉院文書・天平十年筑後国正税帳)と見える。
 なかには貴族邸で完全に愛玩用に飼われていた犬もいたようである。『平成29年度平城宮跡資料館新春ミニ展示「平城京の戌」リーフレット』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所https://sitereports.nabunken.go.jp/21939参照。
(注10)犬の動作については、それが飼犬である限りにおいて、人によって決められている。基本的な躾に従った動きが求められる。柳亭種彦・足薪翁記に「犬のさんた」のことが記されている。

 犬にさんたせよ\/といへば、前足をあげとびつく事のありしが、他国はしらず。江戸にてさる戯をする者を見ず。手をくれといふが此餘波ともいはん歟。三太はでつち又小僧などいふ下童の通称なれば、かのでつちの狂ひまはるまなびをせよと云事なるべし。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2553925/1/63、漢字の旧字体は改めた)

(注11)拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」参照。物部守屋もののべのもりやの「資人つかひと」という立場であるが、「犬」という言葉をよく写したものになっている。
(注12)佐佐木2007.は、「いないなび・び・犬」は音が似通っていて、イメージとして連想される言葉であると指摘する。もちろん、実際の使用においては文脈に依存する。
(注13)寝ることは「ぬ」(下二段動詞)、死ぬことも「ぬ」(ナ変動詞)である。

 大原の りにしさとに いもを置きて われねかねつ いめに見えこそ(万2587)
 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐宿ねにけらしも(万1511)
 …… 隠沼こもりぬの したへ置きて うち嘆き 妹がぬれば ……(万1809)
 おくて われはや恋ひむ いな見野みのの 秋萩見つつ なむ子ゆゑに(万1772)
 明日よりは いなの川の 出でてなば とまれる吾は 恋ひつつやあらむ(万3198)
 まことまさに遠く根国ねのくにね。(神代紀第五段本文)

(注14)殉死が盛んだった中国殷代の様子を白川2000.にみると、殷代の殉葬には、(a)身分関係の如何を問わず、王との親近関係によって、王の歿後においても、なおその側近にあることを要求される親信貴戚・武人・輿馬侍衛・包丁膳宰・𠬝・妾の類と、(b)専らその墓域を修祓潔斎する目的を以て、犬や牛羊とともに埋死された女子小人・閹寺、あるいは同様の目的を以て殉殺される羌・南等の外族犠牲の二種があるという。清寧紀元年十月条の記事は、犬牲の色彩を強くにじませた内容となっている。
(注15)文字言語のもとにある文明ではなく、無文字時代の口頭言語の文化の産物である。無文字文化に「歴史」はない。記憶と記録の違いである。(注5)参照。
 なお、隼人が人間として従ったのではなく、犬の立場に立つ形で仕えたということから、南九州地方に古墳がないことを説明できるかもしれない。埴輪は殉死の代わりとして供えられたという考えが垂仁紀二十八・三十二年条に表れている。今日の歴史学では時代的に合わないこと、殉死の風はヤマトに顕著とは言えず実態を伴わないこと、埴輪の発祥は吉備の特殊器台から転じた円筒埴輪に求められ、形象埴輪を語る記述はあやしいことから、その記述は否定的にばかり見られている。しかし、埴輪とはすなわち古墳を造ることであると据えてみれば、古墳を造ることは殉死の代わりになることと定位することができる。隼人=犬を埋葬するのに、犬の墓に犠牲の犬を求めることは辻褄が合わないから、ヤマト朝廷は南九州の勢力には古墳を作らせることがなかったと理解できるのではないか。日本書紀の記述について、まだまだ感覚として読めていないところが多いと感じさせられる。

(引用・参考文献)
伊藤2016. 伊藤循『古代天皇制と辺境』同成社、2016年。
『鹿児島県史第一巻』 『鹿児島県史第一巻』鹿児島県、昭和14年。国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1261640
『鹿児島市史Ⅰ』 鹿児島市史編さん委員会編『鹿児島市史Ⅰ』昭和44年。
熊谷2019. 熊谷公男「蝦夷・隼人と王権─隼人の奉仕形態を中心にして─」仁藤敦史編『古代王権の史実と虚構』竹林舎、2019年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川2000. 白川静「殷代の殉葬と奴隷制」『白川静著作集4』平凡社、2000年。
高林1977. 高林實結樹「隼人狗吠考」横田健一編『日本書紀研究 第十冊』塙書房、昭和52年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
中村1998. 中村明蔵『古代隼人社会の構造と展開』岩田書院、1998年。
永山2009. 永山修一『隼人と古代日本』同成社、2009年。
原口2018. 原口耕一郎『隼人と日本書紀』同成社、2018年。
前川1986. 前川明久「隼人狗吠伝承の成立」『日本古代氏族と王権の研究』法政大学出版局、1986年。
松井1995. 松井章「古代史のなかの犬」『文化財論叢Ⅱ』同朋舎出版、平成7年。
宮島1999. 宮島正人『海神宮訪問神話の研究─阿曇王権神話論─』和泉書院、1999年。
守屋1973. 守屋俊彦「隼人舞と犬吠え」『記紀神話論考』雄山閣、昭和48年。

加藤良平 2024.10.14改稿初出

龍(たつ)という語について

 中国から伝わった龍(竜)は、なぜかタツと訓まれることがある。地名「たつ」に当てられることも多い。空想上の生き物としてのタツは万葉集の例(注1)が名高く、日本書紀にも「龍」は見える。

  して来書らいしよかたじけなみ、つぶさほううけたまはる。たちまち隔漢かくかんの恋を成し、またはうりやうこころを傷ましむ。ただねがはくは、去留きよりうつつみ無く、遂にうんを待たまくのみ。〔伏辱来書具承芳旨忽成隔漢之戀復傷抱梁之意唯羨去留無恙遂待披雲耳〕……
 たつも 今も得てしか あをによし 奈良の都に きてむため〔多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠尓与志奈良乃美夜古尓由吉帝己牟丹米〕(万806)……
 龍の馬を あれは求めむ あをによし 奈良の都に む人のたに〔多都乃麻乎阿礼波毛等米牟阿遠尓与志奈良乃美夜古邇許牟比等乃多仁〕(万808)……
 豊玉姫とよたまびめみざかりこうまむときにたつ化為りぬ。(神代紀第十段本文)(注2)
 大将軍おほきいくさのきみ紀小弓宿きのをゆみのすくたつのごとくあがり、とらのごとくて、あまね八維やもる。(雄略紀九年五月)
 其の馬、時に濩略もこよかにして、たつのごとくにぶ。(雄略紀九年七月)
 さかりいたりておほとりのごとくのぼり、たつのごとくひひり、ともがらことたむらえたり。(欽明紀七年七月)
 大鷦鷯おほさざきのみかどの時、龍馬りゆうめ西に見ゆ。(白雉元年二月)(注3)
 ……空中おほぞらのなかにしてたつに乗れる者有り。……西に向ひて馳せぬ。(斉明紀元年五月)

 想像上の動物である「龍」は中国で考えられていたものである。日本で昔ながらのものとしてヤマタノヲロチや、ヤヒロワニ、クラオカミ、クラミツハは龍に似ていると思われているが、「龍」字を当てることも、○○タツと呼ばれることもない。万葉歌や雄略紀、斉明紀の例に見られるタツは、空を飛び駆ける馬のような存在として認識されている。トヨタマビメがお産のときに変じていたという「龍」については、古事記や紀一書第一・第三ではヤヒロワニになっていたとされている。
 「龍」は天駆ける馬であり、それをヤマトコトバでタツと造語している。どうしてそう命名したか、ながらく疑問とされている。説として、身を立てて天にのぼるところからタツ(立・起)と言ったのだろうという説が古くから行われている。瀬間2024.は説文、玉篇、易経、管子などを渉猟し、龍に「身を立つ」に相当する記述はないと指摘し、漢字の一部を取って訓としたという説を提示している。「龍(竜)」字のなかに「立」字があるからタツと命名した字形訓であるという(注4)
 この説は興味深いものだが、なかなかにあり得ない。なぜなら、その字を知らない人にとっては何を言っているのかわからないからである。
 虎についても日本には生息していないが、話に頭が大きくて揺らしながら歩くネコのような生き物だと伝えられた。毛皮を見せながら説明されたのだろう。それを字音でコと言っても誰にも通じないから、頭を揺らしては時折大声を張り上げる生態の生き物のことを連想している。酔っ払いである。彼らは「とらかせる」状態にあるから、トラと命名している。酔っぱらいのことを指してオオトラというのは、tiger に先んじて考えられていた言葉ということになる。
 龍という生き物は天駆ける馬のことだと考えている。もちろん、天駆けるような horse がいて駿馬だとありがたがられていても、実際に天駆ける horse というものはいない。つまり、龍は龍であり、馬は馬である。天上を駆けるのと地上を駆けるのとで種類は別である。
 この間の事情を物語る逸話を紹介する。列仙伝の馬師皇に次のようにあり、賛が付いている(注5)

 馬師皇者、黄帝時馬医也。知馬形気生死之診、治之輒愈。後有龍下向之、垂耳張口。皇曰、此龍有病、知我能治。乃鍼其唇下口中、以甘草湯飲之而愈。後数数有疾龍出其波、告而求治之。一且龍負皇而去。
  師皇典馬 厩無残駟 精感群龍 術兼殊類 霊虬報徳 弭鱗御轡 振躍天漢 粲有遺蔚

 黄帝の時に名獣医がいた。その馬師皇に診てもらった馬は必ず良くなった。そうしているうちに、龍が空から下ってきた。皇は龍が病気だと言い、鍼治療をし薬を与えた。口コミで龍がたくさん訪れるようになり、治してやっていた。ある日、龍は皇を背に乗せてどこかへ行ってしまった。そういう話である。
 賛の部分をいま仮に訓む。

 師皇 馬をつかさどるに、うまやに残れるくるま無し。群れる龍をくはしくるに、すべ兼ねてたぐひつ。くすしきみづち いきほひこたへ、いろこととのくつわらしむ。 天漢あまのがはおどりて、しらげてのこせるよもぎ有り(注6)

 馬を診るのと龍を診るのとでは種類が違うのだから、馬医ではなく龍医でなくてはならないはずである。もちろん、龍は空想上の動物であり、龍医という職業はない。たぐいまれな馬医であった師皇の医術は、馬にも龍にも通じ兼ねたものであって、種類の分け隔てを断つものであった。
 この逸話がどれほどヤマトの人に知られていたかは定かではない。ただ、「たつの馬」と歌にいきなり歌われるぐらいだから、龍は馬と近類だと考えられていたことは確かである。筆者が列仙伝のこの賛に注目したのは、「つ」というヤマトコトバゆえである。「殊儛たつづのまひ」という舞がある。大系本日本書紀は、「タツヅはタツイヅの約であろうか。立つのと、進むのとを合わせいう語か。殊は断(たつ)の意があるために、立つに通用させたものか。」(111頁)と注している。

 だてかたりて曰はく、「可怜おもしろし。願はくはまた聞かむ」といふ。天皇、遂に殊儛たづつのまひ〈殊儛、古に立出儛たつづのまひと謂ふ。立出、此には陀豆豆たつづと云ふ。かたちは、あるいはち乍いはて儛ふなり。〉たまふ。たけびてのたまはく、
 やまとは そそはらあさはら おとやつこらま。
 小楯、是に由りて深く奇異あやしぶ。更にはしむ。天皇、誥びて曰はく、
 石上いそのかみ ふる神榲かむすぎ〈榲、此には須擬すぎと云ふ。〉もとり すゑおしはらひ、〈伐本截末、此には謨登岐利もときり須衛於茲婆羅比すゑおしはらひと云ふ。〉いちの辺宮へのみやに 天下あめのしたしらしし、天万あめよろづ国万くによろづ押磐おしはのみこと御裔みあなすゑやつこらま。(顕宗前紀)

 「殊儛たづつのまひ」は龍の舞をイメージしているようである。「殊」という字をあえて用いている。ふだんの舞い方と類を異にしているのに一類に入れて「舞(儛)」であるとするように込めた言葉だからだろう。現在の市川團十郎(十三代)が高校在籍中、授業のダンスがうまくできず、「先生、舞えません」と訴えていたという。ダンスは舞ではない。長崎くんちの龍踊に見られるように、龍は日本舞踊のように腰を低くし続けるものとは違い、竿を使って上下動をくり返す踊りである。
 「龍」は、言葉の範疇として、馬と近縁性を持ちつつ類を殊にすることをもってうまいこと立つことを示すようにヤマトコトバにうつしとられ、タツと呼ばれるようになったのではないかと考えられるわけである。むろん、了解されるという次元のことであり、語源を正したというものではない。

(注)
(注1)拙稿「万葉集の「龍の馬(たつのま)」について」参照。
(注2)他書では八尋わになどに変じている。ここで龍を登場させた理由は不明であるが、お産の苦しみにおいて腹這ひもがくようにではなく、踊るようにもがいていたと表したかったからかもしれない。
(注3)この例では中国の祥瑞記事に倣い、音読みされる。
(注4)161〜163頁。宮崎1929.に、「糴」をイリヨネ、「莣」をワスレグサ、「禾(芒)」をノギと訓む例をあげている。それと同様に考えようというのであるが、ノギははたしてノという片仮名が生まれた後、はじめて使われた語なのだろうか。古事記には「頃者このころ赤海鯽魚たひのみどのぎありて、物を食はずとうれへ言へり。」(記上)とある。
(注5)国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300051310/12?ln=ja参照。日本国見在書目録の雑伝の最後に「列仙伝三巻〈劉向撰〉」 と記載されている。
(注6)「天漢」は万806番歌の題詞にある「隔漢之恋」と通じている。天の川は、空中をも水中をも進む龍を表すのにうってつけの舞台である。

(引用・参考文献)
瀬間2024. 瀬間正之「漢字が変えた日本語─別訓流用・字注訓・字形訓の観点から─」『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(『日本語学』第41巻第2号、2022年夏。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
宮崎1929. 宮崎道三郎「漢字の別訓流用と古代に於ける我邦制度上の用語」『宮崎先生法制史論集』岩波書店、昭和4年。

加藤良平 2024.9.23初出

日本書紀古訓オセルについて

 日本書紀の古訓にオセルという動詞がある。「臨睨」、「望見」、「瞻望」、「廻望」、「望」、「遥望」、「遠望」、「望瞻」、「遥視」といった用字に対して訓まれている。上から下を見おろすことをいい、また、押シアリの約かとされている(注1)。「押スは平面に密着して力を加える意。そのように、力をこめて下界を見る意。」(大系本日本書紀(一)131頁)と説明がある(注2)

「背骨の曲がった男」(病草紙断簡、鎌倉時代、文化庁蔵。文化庁文化財第一課『国有品図版目録』文化庁、2022年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12360121/1/2)

 大系本日本書紀や岩波古語辞典の語構成による説明、押シアリ説は誤りであろう。オセルは、語幹オセに動詞化するルが付いた形と考える。オセとは、曲がった背、猫背のことをいう。「おせたかくて龍のわだかまりたるやうなるものあり」(紙本著色病草紙断簡(背骨の曲がった男)、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/589900)とある。また、オセグムは、背が曲がる、猫背であることをいう。「たけ高くおせぐみたるもの、赤鬚にて年五十ばかりなる、太刀はき、股貫ももぬきはきて出できたり。」(宇治拾遺物語・九・五)とある。つまり、オセルとは背を丸めて見ることを言っている(注3)。上の二例にあるとおり、くぐつのように小さく縮こまるのではなく、背の高いものが屈みこむ姿勢を言っている。

 したがって、高いところにのぼって下界を睥睨するようなときに用いられる言葉であると推定される。日本書紀の用例にそのように受けとれるならそれで正しいことになる。以下、網羅の保証はないが多くの例を見てみる。
 まず、オセルと訓んで確かと思われる例について見る。

A.オセルと訓んで確かと思える例
 是の時に、勝速日天忍穂耳尊かちはやひあまのおしほみみのみことあまの浮橋うきはしに立たして臨睨おせりてのたまはく、「くに未平さやげり。不須也いな頗傾かぶししこ目杵之国めきくにか」とのたまひて、……(是時、勝速日天忍穂耳尊、立于天浮橋、而臨睨之曰、彼地未平矣。不須也頗傾凶目杵之国歟、……)(神代紀第九段一書第一)
 九月の甲子の朔にして戊辰に、天皇すめらみこと菟田うだ高倉山たかくらやまいただきのぼりて、くにうち瞻望おせりたまふ。(九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。)(神武前紀戊午年九月)
 因りて腋上わきがみ嗛間丘ほほまのをかに登りまして、国のかたちめぐらしおせりてのたまはく、「姸哉乎あなにや、国をつること。……(因登腋上嗛間丘、而廻望国状曰、姸哉乎国之獲矣。)(神武紀三十一年四月)
 則ち藤山ふぢやまを越えて、みなみのかた粟岬あはのさきおせりたまふ。(則越藤山、以南望粟岬。)(景行紀十八年七月)
 亦相模さがむいでまして、上総かみつふさみたせむとす。海をおせりて高言ことあげして曰はく、「是ちひさき海のみ。立跳たちをどりにも渡りつべし」とのたまふ。(亦進相模、欲往上総。望海高言曰、是小海耳。可立跳渡。)(景行紀四十年是歳)
 かれ碓日嶺うすひのみねに登りて、東南たつみのかたおせりて三たびなげきて曰はく、「づまはや」とのたまふ。(故登碓日嶺、而東南望之三歎曰、吾嬬者耶。)(景行紀四十年是歳)
 便ち高きをかに登りて、はるか大海おほみおせるに、曠遠ひろくして国も見えず。是に、天皇、神にこたへまつりて曰はく、「われ周望みめぐらすに、わたのみ有りて国無し。……」とのたまふ。(便登高岳、遥望之大海、曠遠而不見国。於是、天皇対神曰、朕周望之、有海無国。)(仲哀紀八年九月)
 丁酉に、高台たかどのに登りましてはるかみそなはす。時にみめひめはべり。西にしのかたおせりておほきになげく。……こたへて曰さく、「近日このごろやつこかぞいろはおもこころはべり。便ち西にしのかたおせるに因りて、おのづからに歎かれぬ。……」とまをす。(丁酉、登高台而遠望。時妃兄媛侍之。望西以大歎。……対曰、近日、妾有恋父母之情。便因西望、而自歎矣。……)(応神紀二十二年三月)
 時に皇子みこ、山のうへよりおせりて、野のなかたまふに、物有り。其の形いほの如し。乃ち使者つかひつかはしてしむ。(時皇子自山上望之、瞻野中、有物。其形如廬。乃遣使者令視。)(仁徳紀六十二年是歳)
 太子ひつぎのみこ河内国かふちのくに埴生坂はにふのさかに到りましてめたまひぬ。なにかへりおせる。火の光をみそなはして大きに驚く。……則ち更に還りたまひて、そのあがたいくさおこして、従身みともにつかへまつらしめて、龍田山たつたのやまよりえたまふ。時に数十人とをあまりのひとの、つはものりて追ひる有り。太子、はるかみそなはしてのたまはく、……(太子到河内国埴生坂而醒之。顧望難波。見火光而大驚。……則更還之、発当県兵、令従身、自龍田山踰之。時有数十人執兵追来。太子遠望之曰、……)(履中前紀)

 「天浮橋」、「腋上の嗛間丘」、「藤山」、「碓日嶺」、「高き岳」、「高台」、「山の上」、「河内国の埴生坂」、「龍田山」から、葦原中国、「域の中」、「国」、「南粟岬」、「海」、「東南」の平野部、「大海」、「西」、「野の中」、「難波」のほうを見晴らしている。観察者は標高の高いところにいて、見る対象の方が低い。全体を一望のもとに掌握できている。その時、視線は下を向いており、体勢としては少し背中が曲がることになる。よってオセルという言葉が適当であるとわかる。
 応神紀の例で、天皇は見巡らせているからミソナハス、妃の兄媛は西の方角の故郷一点を見つめてうなだれているからオセルと訓んでいる。同じ漢字で「望」と書いても、オセルとは訓まない確かな例となっている。仲哀紀や応神紀、履中紀の「周望」、「望」、「見」字にオセル以外の訓みがあるのは、必ずしもオセル姿勢になっていないということである。

B.オセルとは訓まないであろう例
 また那羅ならやまりて、進みて韓河からがはに到りて、埴安彦はにやすびこと河をはさみていはみて、おのおのあひいどむ。……埴安彦みのぞみて、彦国葺ひこくにぶくに問ひてはく、……(更避那羅山、而進到輪韓河、与埴安彦挟河屯之、各相挑焉。……埴安彦望之、問彦国葺曰、……)(崇神紀十年九月)
 九月の甲子の朔にして戊辰に、周芳すはのくに娑麼さばに到りたまふ。時に天皇すめらみこと、南にのぞみて、群卿まへつきみたちみことのりして曰はく、「南のかた烟気けぶりさはつ。ふつくあたらむ」とのたまふ。(九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。時天皇南望之、詔群卿曰、於南方烟気多起。必賊将在。)(景行紀十二年九月)
 時にかは板挙たな、遠くくぐひの飛びし方をのぞみて、追ひぎて出雲いづもいたりて捕獲とらへつ。(時湯河板挙、遠望鵠飛之方、追尋詣出雲而捕獲。)(垂仁紀二十三年十月)
 十七年の春三月の戊戌の朔にして己酉に、子湯県こゆのあがたいでまして、もの小野をのに遊びたまふ。時にひむかしのかたみそなはして、左右もとこひとかたりて曰はく、「是の国はなほく日の出づるかたに向けり」とのたまふ。(十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯県、遊于丹裳小野。時東望之、謂左右曰、是国也直向於日出方。)(景行紀十七年三月)
 四年の春二月の己未の朔にして甲子に、群臣まへつきみたちみことのりして曰はく、「われ高台たかどのに登りて、はるかみのぞむに、烟気けぶりくにうちに起たず。……七年の夏四月の辛未の朔に、天皇、たかどのうへしまして、はるかみのぞみたまふに、烟気さはに起つ。(四年春二月己未朔甲子、詔群臣曰、朕登高台、以遠望之、烟気不起於域中。……七年夏四月辛未朔、天皇居台上、而遠望之、烟気多起。)(仁徳紀)
 即ち羅山らのやまを越えて、葛城かづらきみのぞみてみうたよみして曰はく、……(即越那羅山、望葛城歌之曰、……)(仁徳紀三十年九月)
 今大王きみ、時を留めもろもろさかひて、号位なくらゐを正しくしたまはずは、臣等やつこら、恐るらくは、百姓おほみたからのぞみえなむことを。……願はくは、大王、もろもろねがひに従ひたまひて、あながち帝位みかどのくらゐきたまへ。(今大王留時逆衆、不正号位、臣等恐、百姓望絶也。……願大王従群望、強即帝位。)(允恭前紀~元年十二月)
 四年の春二月に、天皇すめらみこと葛城山かづらきやま射猟かりしたまふ。たちまちたきたかき人を見る。きたりて丹谷たにかひあひのぞめり。面貌かほ容儀すがた、天皇に相似たうばれり。(四年春二月、天皇射猟於葛城山。忽見長人。来望丹谷。面貌容儀、相似天皇。)(雄略紀四年二月)
 丙戌に、あしたに、朝明あさけのこほり迹太とほかはにして、天照太神あまてらすおほみかみ望拝たよせにをがみたまふ。(丙戌、旦、於朝明郡迹太川辺、望拝天照太神。)(天武紀元年六月)

 「望」を希望のノゾムの意としたり、望み見るのであるが高いところに立っているわけではない場合や、上方や遠方を見たり、河や谷を挟んで反対側を見る時、また、遠く神さまを遥拝する時には背は屈まらないからオセルとは訓まない。景行紀や仁徳紀の烟気を見る場合も、烟気が立ちのぼる様を確認する作業だから、高台から見ていても烟気の立ちのぼるところへと目が追っていき、また、遠くの烟気を探すために頭を動かしていくから前屈みに固まる姿勢が印象づけられるものではなく、オセルという言い方はふさわしくない。仁徳紀三十年条の「那羅山」から「葛城」を見通す時も、奈良盆地の北側の標高の高いところから、南側の標高の高いところを遠望する様だから首がうなだれることはない。
 以上をもってオセルの使い方の基本は概ね定まるが、なお曖昧な例が見られる。次にその例をあげるが、二種に類別されるようである。

C.オセルと訓むか決めかねる例
①睥睨しているのか瞭然としない例
 是の時に、石瀬河いはせのかはほとりに、人衆ひとども聚集つどへり。是に、天皇はるかおせりて、左右もとこひとみことのりして曰はく、「其のつどへる者は何人ぞ。けだあたか」とのたまふ。(是時、於石瀬河辺、人衆聚集。於是、天皇遥望之、詔左右曰、其集者何人也。若賊乎。)(景行紀十八年三月)
 〈時に天皇、あはしまいでまして遊猟かりしたまふ。是に、天皇、西にしのかたみそなはすに、数十とをあまり麋鹿おほしか、海に浮きてきたれり。〉(〈時天皇幸淡路嶋、而遊猟之。於是、天皇西望之、数十麋鹿、浮海来之。〉)(応神紀十三年九月)
 天皇、高台たかどのしまして、ひめが船をみそなはして、みうたよみして曰はく、「あはしま いやふたならび 小豆あづきしま いやふたならび ろしき嶋々しましま かたあらちし 吉備きびなるいもを あひつるもの」とのたまふ。(天皇居高台、望兄媛之船以歌曰、阿波旎辞摩、異椰敷多那羅弭、阿豆枳辞摩、異椰敷多那羅弭、予呂辞枳辞摩之魔、儾伽多佐例阿羅智之、吉備那流伊慕塢、阿比瀰菟流慕能。)(応神紀二十二年四月)
②見てこわがっている例
 やつかれこのかみ兄猾えうかしさかしまなるわざをするかたちは、天孫あめみま到りまさむとすとうけたまはりて、即ちいくさを起しておそはむとす。皇師みいくさいきほひ望見おせるに、へてあたるまじきことをぢて、乃ちひそかに其のいくさかくして、……(臣兄々猾之為逆状也、聞天孫且到、即起兵将襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潜伏其兵、……)(神武前紀戊午年八月)
 然るにはるか王船みふねおせりて、あらかじめ其の威勢いきほひぢて、心のうちにえ勝つまじきことを知りて、ふつくに弓矢を捨てて、のぞをがみてまをさく、「あふぎて君がみかほれば、人倫ひとすぐれたまへり。けだし神か。姓名みなうけたまはらむ」とまをす。(然遥視王船、予怖其威勢、而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拝之曰、仰視君容、秀於人倫。若神之乎。欲知姓名。)(景行紀四十年是歳)
 新羅しらきこきしはるかおせりて以為おもへらく、非常おもひのほかつはものまさおのが国を滅さむとすと。ぢてこころまとひぬ。……(新羅王遥望以為、非常之兵、将滅己国。讋焉失志。……)(神功前紀仲哀九年十月)
 是に、倭彦やまとひこのおほきみ、遥かに迎へたてまつるつはものおせりて、懼然おそりておもへりあやまりぬ。(於是、倭彦王、遥望迎兵、懼然失色。)(継体前紀)
 ここに、船師ふないくさ、海にいはみてさはに至る。両国ふたつのくに使人つかひ望瞻おせりて愕然かしこまりおづ。乃ち還りとどまる。(於是、船師満海多至。両国使人、望瞻之愕然、乃還留焉。)(推古紀三十一年是歳)
 夏四月に、陪臣へのおみ、〈名をもらせり。〉船師ふないくさ一百ももあまり八十やそふなひきゐて、蝦夷えみしつ。あぎしろ二郡ふたつのこほりの蝦夷、おせぢてしたがはむとふ。(夏四月、阿陪臣、〈闕名。〉率船師一百八十艘、伐蝦夷。齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞降。)(斉明紀四年四月)

 C①の、睥睨しているのかはっきりしない例は、Aのオセルと訓んで確かな例としてあげた応神紀二十二年三月条、「望」をミソナハス、オセルと別々に訓んでいる例が参考になる。天皇は高台から遠いところをさまざまに「みそなはす」ことをしているが、隣にいる妃、兄媛は、西の方にある故郷の一点を「おせる」ことをしている。対象を見やって動かない場合にオセルという語が用いられている。同様に仲哀紀八年九月条の例でも、対象物をはっきり捉えようとして「おせる」ことをしているが、見えなかったから他にないかいろいろと探したと強調するため、「周望みめぐらす」と答えている。まとめると、屈みこむ姿勢に固まって一点を見続ける場合はオセルと訓み、それ以外の首を動かしてあちこち見回すようなときはオセルとは訓まない。
 C①の用例で言えば、対象が動かない「人衆聚集」の一点を見続ければオセルと訓み、「数十麋鹿、浮海来之。」や「兄媛之船」の動くのを見る場合は、高台から見ていたとしてもオセルとは訓まないとわかる。
 C②の、見て怖気づいている例は、言葉とは何かを知るうえでとても興味深いものである。四例目の継体前紀の例に、「おせりて、懼然おそりて」と見える。そう表現している理由は明確で、似た音のオセルとオソルの地口である。こうなると、もはや、視点の高さや対象物をはっきりと捉えているかどうかなど二の次となる。音をオセルとオソルに揃え合わせなければならないと直観させられる。言葉とは伝えるためのツールなのだから、音声言語の優位性が適用されて然るべきである。
 「皇師の威を望見おせるに、敢へて敵るまじきことをおそる。(望見皇師之威、懼不敢敵。)」(神武前紀戊午年八月)と句点で切れる。「然るに遥に王船をおせりて、予め其の威勢をおそりて、……(然遥視王船、予怖其威勢、……)」(景行紀四十年是歳)、「新羅の王、遥におせりて以為へらく、非常の兵、将に己の国を滅さむとすと。おそりて志失ひぬ。……(新羅王遥望以為、非常之兵、将滅己国。讋焉失志。……)(神功前紀仲哀九年十月)、「両国の使人、望瞻おせりて愕然おそる。乃ち還り留る。(両国使人、望瞻之愕然、乃還留焉。)」(推古紀三十一年是歳)、「齶田・渟代、二郡の蝦夷、おせおそりて降はむと乞ふ。(齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞降。)」(斉明紀四年四月)である。古訓では、「威勢をおそれて、」(景行紀四十年十月、熱田本訓)と見える程度であまり意識されていない。しかし、言葉を吟味すればオヅよりもオソルと訓んだほうがよく、音感としてもかなっている。
 古典基礎語辞典は、「[オヅは、]相手に直面して恐怖感を抱き、身体的に萎縮してしまう意。[気持ちが萎えることで、どちらかというと、心的また内面的に変化する場合に使われる。]……オソルは、相手に直面していない場合も含めて、危険を予想し、心配したり畏縮したりすることで、特に身体的な変化は伴わない。オビユは、相手に恐怖感を抱く点ではオヅと似ているが、すっかり生気を失ったり、ぶるぶると震えたりなど、身体的変化が顕著に表れる。」(239頁、この項、我妻多賀子)と解説する。すなわち、オヅは怖気づいて委縮すること、オビユはこわいと感じてびくびくすること、オソルは「畏」と書くこともある畏怖の念も含んでおそれをなすこと、という違いがある。
 C②の用例は、皆、戦おうにも敵兵の勢力、威勢を一目見て、まともではとてもかなわないと直観している。身体的反応を起こして身動きが取れなくなったり、泡を吹いているわけではない。武装解除して投降したり、策略を案じ潜入して騙し討つ作戦に切り替えている。そのことを表す言葉はオソルである。
 神功前紀の例では、これまで「ぢてこころまとひぬ。(讋焉失志。)」と訓まれており、「讋」字について、書紀集解以来、説文や漢書・武帝紀の顔師古注にある、「讋 失気也」を引いているものとされている。しかし、気を失い、心が乱れた、という言い方は、撞着を含んだ畳語的な言い方である。後漢書・班固伝の「陸はおそれ水はおそれ、奔走して来賓せざるは莫し。(莫陸讋水慄、奔走而来賓。)」部分の注に、「爾雅曰、讋、懼也。音之渉反」とある。それによるなら、「讋焉失志」は恐懼して気が動転した、という意に解することができてわかりやすい。それはまた、継体前紀の例の、「懼然おそりておもへりあやまりぬ」、怖くなってふだんの表情でなくなった、とも照合するものである。
 神田喜一郎氏の言に、「一、古訓の漢土訓詁学上より見て極めて正確なること 一、古訓の一見疑はしきものも、必ず何等かの典拠に本づくものなること」(神田1983.415頁、漢字の旧字体は改めた)とある。他に二点指摘があるが、これら二条を補完する但し書きのようなものである。要するに、古訓は相当に正しく、今の常識で生半可に疑ってかかるほうが浅知恵の賢しらごとである。

(注)
(注1)リを完了の助動詞とする説もある。
(注2)新編全集本日本書紀は、古訓にとらわれずにノゾムといった訓を与えている。中村1993.は、漢字表記においてそのように感じられないとし、「臨睨以下、望、望見等の語は本来、「力を加えて見る」こととは無縁であるから、「オシ有り」は望文生義的な造語であり、削除すべき訓であると結論しておきたい。もちろん、古代における邪視や、見ることの威力への信仰は否定するものではないが、書紀本文はこれとは無関係に、あくまでも字義に即して正確に付訓すべきものと考える。」(81頁)と、古訓自体を存疑としている。
(注3)動詞オセルが名詞オセから派生したと考えるよりも、語幹オセを共にする一群の言葉として、オセ、オセル、オセグムという語が成っていると考えるべきであろう。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集 第二巻』同朋舎出版、昭和58年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2・3・4 日本書紀①・②・③』小学館、1994・1996・1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)~(五)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
中村1993. 中村宗彦「『日本書紀』訓釈十題」『山邊道』第37巻、天理大学国語国文学会、1993年3月。天理大学学術情報リポジトリ https:/opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3066/

加藤良平 2024.2.26初出

欽明紀の「鐃字未詳」について

 日本書紀には字注を入れることがあり、「未詳」と記すことがある。

 にはかにして儵忽之際たちまちに、つづみふえおとを聞く。余昌よしやう乃ちおほきに驚きて、鼓を打ちてあひこたふ。通夜よもすがら固く守る。凌晨ほのぐらきに起きてひろの中を見れば、おほへること青山あをむれの如くにして、旌旗はた充満いはめり。会明あけぼの頸鎧あかのへのよろひひと一騎ひとうまくすびせる者〈鐃の、未だつばひらかならず。〉二騎ふたうま豹尾なかつかみのをせる者二騎、あはせ五騎いつうま有りて、連轡うちととのひて到来いたりて問ひて曰はく、……(俄而儵忽之際、聞鼓吹之声。余昌乃大驚、打鼓相応。通夜固守。凌晨起見曠野之中、覆如青山、旌旗充満。会明有着頸鎧者一騎、挿鐃者〈鐃字未詳。〉二騎、珥豹尾者二騎、并五騎、連轡到来問曰、……)(欽明紀十四年十月)

 この「未詳」との注釈は、日本書紀の筆録者がよくわからないから注として入れたものだとされている。書き写す際に正しいのかどうかわからないということで入れたのだろうと思われている。けれども、雄略紀の例にあるとおり、筆録者が意図的に入れたもの、考え落ちを示すところと捉えたほうがいいだろう(注1)。彼らは筆録者というよりも述作者であり、作文をしているのだから、書きながら意味がわからないと注することは態度としてむしろ不自然である。
 日本書紀について、出典論を重んじ、その書き方手本をもとに再構成しようとする立場の人は、元ネタの漢籍をよく理解しないままに誤ったものであると強引に押しつけてしまう。
 「鐃」とは何か。クスビ、クスミと訓まれている。

 鐃 小鉦也。軍法、卒長執鐃。从金堯声。(説文)
 鐃 似鈴無舌、軍中所用也。(玉篇)
 鉦者、似鈴柄中上下通也。饒者、如鈴無舌有柄、執鳴之而止皷也。(令義解・喪葬令)

 これらの説明を読めば、鐃は二枚合わせて音を出すシンバルや空也上人が首から下げる円形の鉦ではなく、鐸の中に舌のないもので、上に向けて下に柄をさしこんでその柄を持ち、槌で敲いて音を出すものであったと理解されるだろう。現在残るのは銅製部分だけであるが、木製の柄をつけ、それを腰帯なり着物の合わせなりへ挿し込んでいたと考えられる(注2)
 ところが、むしゃこうじ氏は「翹」の誤写説を提唱している。そして、次のような文献をあげている。

 花、以猛獣皮・若鷲鳥羽之、置杠上。若所謂豹尾者、今人謂之面槍。将軍花、不物名、其数或多或少、其義未詳。鈴、行路置駄馬上、或云鐸。(三国史記・巻四十・志・職官下・武官)

 欽明紀の原史料は、猛獣皮のものを「豹尾」としたのに対して鷲羽のものを「翹」 とした可能性があるとし、その「翹」を「鐃」とどこかの段階で誤ってわからなくなり、「饒字未詳」と書き込んでいるのではないかというのである。
 瀬間氏はさらに、推古紀や旧唐書を追加し、梁職貢図の復元模型を補足資料として呈示している(瀬間2024.364頁)。髻花として豹尾と鳥尾が見られ、その鳥尾が「翹」だというのである。

 十九年夏五月五日……是日、諸臣服色、皆随冠色。各著髻花。則大徳小徳並用金。大仁小仁用豹尾。大礼以下用鳥尾。(推古紀十九年五月)
 高麗官之貴者、則青羅為冠、次以緋羅、挿二鳥羽及金銀飾。(旧唐書・巻一百九十九上・列伝第一百四十九上・東夷)

 鐃を軍令を伝える小鉦とした場合、「挿」はおかしいから日本書紀編述者(あるいは養老の講書のときの学者(むしゃこうじ1973.228頁))は不審の念を抱いて「鐃字未詳」と表示したものと見ている。そして、「編述者は、高句麗・新羅・倭国の風習を知らなかったが故に未詳とのみ記述するに留まったと考えられる。東夷諸国の風習を知っていれば、雄略紀459割注「擬字未詳。 蓋是槻乎。」のように「鐃字未詳。蓋是翹乎。」とすることが可能だったはずである。」(瀬間2024.365頁)と我田引水の議論に進んでいる。
 しかし、記事は百済と高麗(高句麗)とが陣を向かい合わせている戦時のものである。「鐃」ではなくて「翹」であると強く言えるものではない。夜間に高麗側の「鼓吹之声」が聞こえたから、百済側は「打鼓」して応じて守りを固めている。「鼓」を叩くのを止めさせる合図に「鐃」を打った。撤退の合図かもしれない(注3)
 瀬間氏はこの部分、編述者が大幅な潤色を施していると見ている。編述者に中国系渡来人を想定するに至っているが、大幅な潤色が施せるぐらいなら言葉について鋭敏でよく理解していたことは確かであろう。そして、「鐃」字には古訓としてクスビという訓みが伝えられている。下に図版としてあげたもののことをヤマトコトバとしてクスビと呼んでいたのである。
 「鐃」字は「金」と「堯」から成っている。「堯」は高いという意味である。説文に「堯 高也。从垚在兀上、高遠也。」とある。高い金ならタカガネ、約してタガネとなっておかしくない言葉である。だが、タガネには鏨の意味がある。対して「鐃」をクスビと言っている。クスビはクサビ(楔)とよく似た音である。クサビ(楔)とタガネ(鏨)は横から見るとともにV字型の打ち込み部分があり形がよく似ている。一体で柄を有するのはタガネ(鏨)であり、刃を鋭利にして木の柄をつけたらノミ(鑿)になる。クサビ(楔)、タガネ(鏨)、ノミ(鑿)の先は一枚で尖っているが、クスビ(鐃)では分れて空洞となっている。ただし、シルエットとしては皆よく似ており、木の柄をつけたものとしてはノミ(鑿)とクスビ(鐃)は相対していることになる。
 だから、「鐃」という文「字」はどうしてそういう字なのかわからず、クスビという「」はどうしてそういう名なのかわからないと思い、「鐃字未詳。」と言っているのである。
 この日本書紀編述者=筆録者=述作者は、ヤマトコトバと併せて漢字の形を考えている。「挿鐃」ことに何の疑問も抱いていない。言葉を理解しすぎるほどに理解していて、余裕をもって割注を入れて洒落を飛ばしている。今日までの出典論や日本書紀区分論などは、それ自体としてはともかく、日本書紀をきちんと読むための根拠とするにはおよそナンセンスであり、履き違えた結論を導いている。日本書紀はヤマトコトバを書き表したものであり、対外的に流伝させるために作られたものではない。ヤマトの国の自己満足の史書とさえ言えるものであった。

(注)
(注1)拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論」、拙稿「雄略前紀の分注「称妻為妹、蓋古之俗乎。」について」参照。

左:青銅 獣面文鐃(せいどうじゅうめんもんどう)(商時代、前16~前11世紀、高18.2・15.7・13.7㎝、和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアムhttps://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/005/0050035000.htmlをトリミング)、右:鐃(鉦)と桴を持つ騎乗の人(成都青杠坡三号墓画像磚模写、後漢時代末期)

(注2)林1976.の插図9-7(180頁)は「鉦」であるが、その小型のものを「鐃」と呼んだとする。左に示した久保惣記念美術館蔵品も令義解の説明どおり、銅の柄の部分(甬)は中空で舌のない鈴部へ筒抜けになっている。「正面を打ったときと側面を打ったときと、1つのどうで2音、この組み合わせでも6音の音階をもったことになる。宮殿や廟だけでなく、軍征行旅のとき、狩猟の際にも携行して打ち鳴らされたものであろう。林巳奈夫氏によってしょうと呼ぶのが正しいと考証されているが、いまは旧称のままにした。」(和泉市久保惣記念美術館2004.50頁)と解説されている。
(注3)周礼・地官・鼓人の「以金鐃止鼓」の鄭玄注に、「鐃、如鈴、無舌有秉、執而鳴之、以止擊鼓。」とあり、賈公彦疏に、「是進軍之時擊鼓、退軍之時鳴鐃。」などと見える。

(引用・参考文献)
和泉市久保惣記念美術館2001. 『第三次久保惣コレクション─江口治郎コレクション─ 図版編』和泉市久保惣記念美術館、平成13年。
和泉市久保惣記念美術館2004. 『第三次久保惣コレクション─江口治郎コレクション─ 解説編』和泉市久保惣記念美術館、平成16年。
瀬間2024. 瀬間正之「欽明紀の編述」『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。
『中国音楽史図鑑』 劉東昇・袁荃猷編著、明木茂夫監修・翻訳『中国音楽史図鑑』科学出版社東京、2016年。
林1976. 林巳奈夫編『漢代の文物』京都大学人文科学研究所、昭和51年。
むしゃこうじ1973. むしゃこうじ・みのる「『日本書紀』のいくさがたり─「欽明紀」を例として─」『日本書紀研究 第七冊』塙書房、昭和48年。

加藤良平 2024.9.9初出

応神二十八年条の高句麗上表文について─「教」(ヲシフ)字を中心に─

 

 日本書紀に、高麗から朝貢の使節がやってきたが、そのときに持ってきた文書を読んで、菟道稚郎子は礼儀知らずと言って怒り、破り捨ててしまったという話が載る。
 はじめに問題とする日本書紀の箇所を示す。

 廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰、高麗王教日本國也。時太子菟道稚郎子讀其表、怒之責高麗之使、以表狀無禮、則破其表。(応神紀二十八年九月)

 これを古訓に従いながら次のように訓んでいる(注1)

 二十八年の秋九月ながつきに、高麗こまこきし使つかひまだして朝貢みつきたてまつる。りてふみたてまつれり。其の表にまをさく、「高麗の王、日本国やまとのくにをしふ」とまをす。時に太子ひつぎのみこ道稚郎子ぢのわきいらつこ、其の表を読みて、いかりて、高麗の使をむるに、表のかたちゐやきことを以てして、すなはち其の表をやりすつ。(応神紀二十八年九月)

 何が問題となるかというと、本当にそのようなことはあったのかということと、「教」という字をヲシフと訓むのが正しいのかということである。
 当時の東アジア情勢をかんがみた時、本当にそのようなことがあったのか疑問視されている。「五世紀前半の高句麗は好太王・長寿王父子の治政で、日本とは常に敵対関係にあり、日本に対する朝貢や上表の事実があったとは考えられない。」(大系本日本書紀215頁)、「五世紀前半のこととするならば、『三国史記』によれば、高句麗は広開土王(三九二~四一三)・長寿王(四一三~四九一)父子の治政で、日本への朝貢や上表は疑問。」(新編全集本日本書紀492頁)、「「教日本国」との表文が問題になったという話が中心記事であり、目的は太子菟道稚郎子の識見を称讃するにある。表文に日本国などとある筈がなく、高麗使の来朝も史実と見做し難い。撰者の造作と見る外はない。」(三品1962.253頁)などとある。
 撰者の造作であるとして、ならばどうしてそのような造作が行われているのかが次の課題として浮かび上がる。字が読めたら偉いのか、称讃に値することなのか。この応神紀の文章も、菟道稚郎子が上表文を読んで高麗の使者に無礼であると叱責して破り捨てたというだけである。称讃の話と捉えることはできない。
 そこで関わってくるのが、もうひとつの疑問、「教」をヲシフと訓むので正しいのかという点である。
 菟道稚郎子が上表文を読んでいることは疑い得ない。読んで意味がわかるということは、まずまず日本語として読んでいるということになる。本居宣長・漢字三音考に、「彼皇子ノサバカリ ク了達シタマヒテ。同御世ニ高麗国王ヨリ使ヲ奉遣マダセシ時ニ。其表ヲ読タマフニ。無礼ナル詞ノアリシニヨリテ。其使ヲセメタマヒシヿナドモ見エタレバ。当時ソノカミ既二此方ニテ読ベキ音モ訓モ定マレリシナリ。 シ音訓ナクバ。イカデカ ク読テ其表文ノ無礼ナルヲ弁へ リタマフバカリニハ了解サトリタマハム。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200002911/16?ln=ja)とある。どこが「無礼」なのかといえば、「高麗王教日本國也」としか書いてないから「教」字によるのだろうと思われている。
 伝本の「教」字付近には、熱田本、北野本、兼右本、内閣文庫本、徳久邇文庫本、寛文版本の傍訓に「ヲシフト云」とある。仮名日本紀、谷川士清・日本書紀通証、河村秀根・書紀集解もヲシフとしている。飯田武郷・日本書紀通釈では、別の箇所の古訓から「ノル」と訓むのがよいと述べている(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115832/1/321)。瀬間2001.は「ミコトノル」がよいとしている。瀬間氏は多方面から考察し、論拠を確かにしようと努めている。まず、中国周辺諸国での「教」字の意味合いについての検討があり、朝鮮半島やベトナムなどでは「詔」字は中国皇帝以外に認められていないから用いられておらず、それに代えて「教」字を使用していると考証する。次いで日本書紀での「教」字の例について調査している。そのなかに、ミコトノリ、ミコトという古訓が見られるから、当該応神紀二十八年条はミコトノルと訓むべきであろうと述べている(注2)
 瀬間氏は、述作者が「教」字の半島での使い方をよく知っていて、それをここに当て嵌めて詔勅を下している表現とし、そのことに菟道稚郎子が気づいたから「無礼」であると言っているのだとしているようである(注3)。高麗の王様が日本国に対して詔ることをしているとなると、高麗王は日本国をも支配しているということになり、国の面子を潰そうとしていることになるから親善外交とは言えないというわけである。
 とはいえ、そう訓んだところで完全には疑問は解消しない。高麗王は日本国に何とミコトノってきているのかわからない。王様が話をすることをヤマトコトバにミコトノルというだけのことではないのか。日本国の庶民はミコトノルことをしないが、天皇は妻子にひそひそ話をする場合もミコトノルと言っていて、日本書紀では中国皇帝が使うように平気で「詔」字を使っている。高麗王が喋りたいのであればいくらでもミコトノってくれてかまわないような気もするし、確実にミコトノルと訓ませたいのなら、「高麗王日本國也」と書けばいいだろう。日本書紀述作者は朝鮮半島での文字使用をよく心得ていたから「教」字を用いているのだと言えばそうなのだが、そんなことを言わんがために、当時、没交渉ともいえる高麗を持ち出している理由はどこにあるのだろうか。
 また、ヲシフという訓み方であっても、立場的に上位者が下位者に対してすることに当たる(注4)。白川1995.に、「ことに対処する方法を告げ知らせる。また誤りを正して指導し、あるいは知識や技芸を人に伝えることをいう。……いくらか強制の意を含むものであるから、「をさむ」との関係などが考えられよう。」(821頁)とある。たとえ知識や技芸の上だけであったとしても、そこに相手を見下している意識がないかといえばやはり存在する。そして、「教」字は「勅」や「詔」と互換可能であることを知っていて適用されたのだとも考えられはする。とはいえ、上下の分別を欠いているから菟道稚郎子は怒ったのだとしても、そんなことを言うために史実にないことをでっちあげ、フェイクニュースを流した動機は奈辺にあるのだろうか。

 

 漢字ばかりで書かれている日本書紀の巻第十に五十五文字紛れ込ませている。日本書紀述作者は何がしたいのか。
 高麗との外交文書記事には興味深いやりとりがある。敏達紀に、高麗からの外交文書を王辰爾だけが読み解いたという話が載っている。

 丙辰に、天皇、高麗こま表䟽ふみを執りたまひて、大臣に授けたまふ。諸のふひとを召しつどへて読み解かしむ。是の時に、諸の史、三日みかの内に皆読むこと能はず。爰に船史ふねのふひとおや王辰わうじん有りて、能く読み釈きつかへまつる。是に由りて、天皇と大臣と倶に為讃美めたまひて曰はく、「いそしきかな辰爾、きかな辰爾。いまし、若しまなぶことをこのまざらましかば、誰か能く読み解かまし。今より始めて、殿のうち近侍はべれ」とのたまふ。既にして、東西やまとかふちの諸の史に詔して曰はく、「汝等、習へるわざ、何故からざる。汝等おほしと雖も、辰爾にかず」とのたまふ。又、高麗のたてまつれる表䟽ふみ、烏のに書けり。、羽の黒きままに、既にひと無し。辰爾、乃ち羽をいひに蒸して、ねりきぬを以て羽にし、ことごとくに其の字を写す。朝庭みかどのうちふつくあやしがる。(敏達紀元年五月)

 この話が史実によるものかここでは問わない。文の前半は、高麗(高句麗)の表䟽を諸史に読み解かせたが三日経っても誰も読むことができず、船史の祖である王辰爾のみ能く読み釈いた。天皇と大臣はともに讃めて、お前が学ぶことをしていなかったら誰も読み解けなかっただろう、今後は殿中に近侍せよと言い、他方、東西の諸史に対しては、お前たちが習っているワザはどうして身についていないのか、多数いても王辰爾一人に負けているではないかと言っている。
 文の後半は、高句麗の表䟽は烏の羽に書いてあり、文字は羽の黒さにまぎれて識別できる者がいなかった。王辰爾は羽を飯炊きの蒸気にあてて布帛を羽に押し当て、ものの見事に写し取った。朝庭の人たちは皆あやしがった、と言っている(注5)
 これらの不思議な話は、高麗の表䟽ふみに関してのもので、同様の事象がすでに応神紀のふみの記事に示されているということらしい。敏達紀の表䟽は手紙であり、草書で書かれるのが大陸の習慣となっていた。楷書や隷書ばかりに慣れ親しんでいた東西諸史には判読できなかったが、王辰爾は読むことができた。草書を読むためにはその書き方の癖のようなものを知らないといけないから、王辰爾はすでに草書を目にしていた、あるいは隷書を自分で速書きしていたということだろう。王辰爾は「学」んでいたが、東西諸史は「習」うことしかしていなかったと日本書紀は語っている。両者の違いを表す示唆深い話をしている。この箇所でも大陸の表䟽ふみの手法を知っていて話が作られている。応神紀で大陸での「教」という字の使用法を知っていたというのと同様の作りになっている。
 烏の羽に字を書いたという記事と、この菟道稚郎子がゐや無しと思った記事とはモチーフとして通じるところがあるようである。史実としてではなく、述作者の話術としてである。
 烏の羽が持ち出されているのは、それが鳥だからと考えられる。書いてあるはずなのはフミである。ヤマトコトバに文字のことをフミという理由については、早く釈日本紀・巻第十六・秘訓一に解釈が載る。「○問。書字乃訓於不美フミ読。其由如何。○答。師説。昔新羅所上之表。其言詞太不敬。仍怒擲地而踏。自其後訓云不美フミ也。今案。蒼頡見鳥踏地而所往之跡文字不美フミ云訓依此而起歟。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/379)である。鳥の足跡説、踏むからフミであるという説が広まっていたとすれば、上書きして文字の読み取れない黒い対象物にふさわしいものとして烏の羽は捉えられたと考えられる。全身真っ黒なカラスを表すために「鳥」字から目を除くことで「烏」字を作ったとする説はよく知られている。
 何と書いてあるのかよくわからないとは、どう言っているのかよくわからないということである。「ひ」(ヒは甲類)がわかるために「いひ」(ヒは甲類)の気を用いて対処している。口にするもの、口にすることをイヒ(飯・言)と言っていて、両語は同根の語と考えられている。相手が「烏」なのだから「枯らす」ことが問題だと知って蒸気によって湿らせている。目には目を、歯には歯を、で知るところとなっている。そのワザは「写す」ことである。文字は書き写すことをもって伝えられるものであった。白川1995.は、「しやはもと寫に作り、べんせきとに従う。宀は廟屋、舃は儀礼のときに用いるくつでその象形字。〔説文〕七下に「物を置くなり」とし、形声とする。〔玉篇〕に「盡く」「除く」の訓がある。履をぬぐので除の訓があり、すべてものを他の器に移すことを寫という。」(154~155頁)と解説する。すなわち、写したら鳥の足の形そのものではないが、ゲソ痕がバレて犯人の名(「」)はわかるのである。
 説文はまた、「吐 寫なり。口に从ひ土声」ともする。吐瀉の意である。ヤマトコトバにハクである。shoes もなぜか知らないがハク(履)ものである。取調室で吐いた言葉が自供である。「いひ」と「ひ」とが同根であるように、口から出すもの、出すこととしてハクという語もこじつけて考えられたらしい。ハク(吐)とハク(履)とに通じるところがあるという意味である。ハク(吐)ことが「寫(写)」だと舶来の権威ある字書に定義されているのを参考にして、ハク(履)ものだと推定して行ったわけである。もたらされた「表䟽ふみ」は「高麗こま」からのものである。「高麗こま」は「こまこま)」と同音であったと考える。「こま」はうまの約である。「表䟽ふみ」は「み」と同音で関連づけられて思われていた(注6)。馬が足に履くものは馬の草鞋わらじである。草を編んで作る。したがって、コマのフミは草である。草書体で書かれていたことの裏が取れた。
 これらはヤマトコトバにおいてのみ理解可能な頓智、なぞなぞである。ヤマトコトバ的思考のなせるワザである。菟道稚郎子の時の上表についても同じように捻られていると予想される。

 

 「高麗王教日本國也」の「教」はミコトノリの意味ではあるが、そう訓んでは身も蓋もない。「教」はヲシフと訓んではじめてヤマトコトバとして意味が通じる。ヲシフとはどういうことか考え及んでいるのである。ヲシフのヲシはヲシカハ(韋)のヲシである。

 酒君さかのきみ、則ちをしかはあしをを其の足にけ、すずを以て其の尾に著けて、ただむきの上にゑて、天皇すめらみことたてまつる。(仁徳紀四十三年九月)
 韋 唐韻に云はく、韋〈音は闈、乎之賀波をしかは〉は柔皮なりといふ。(和名抄)
 滑革 ナメシ(運歩色葉集)
 Namexi.l,Namexigaua.ナメシ.または,ナメシガワ(鞣.または,鞣革) なめした革(日葡辞書)
 ……さなかづらの根を舂き、其の汁のなめを取りて、其の船の中のばしに塗り、むにたふるべく設けて、……(応神記)(注7)
 今、大倭国やまとのくに山辺郡やまのへのこほり額田邑ぬかたのむら熟皮高かはをしのこは、是其の後なり。(仁賢紀六年是歳)

 「熟皮をしかは」という名前に使われているヲシは動詞ヲス(なめらかにする)の連用形と思われている。応神紀の話では高麗は朝貢したことになっている。高麗からの献納品として有名なものに虎の毛皮がある。フ(斑)のあるヲシカハ(韋)のことが念頭にあってヲシフと器用に述作されている。
 生きている獣を捕獲し、解体処理して皮を取り、腐らないように加工する。付いている肉や毛をとってきれいにし、揉んだり乾かしをくり返し、脳漿に和えたりする方法がとられていた(注8)なめしの技法である。だからヲシカハ(韋)のことはナメシガハ(鞣革)とも、ただナメシ(滑)とも言う。刷毛に着いた液を皮に塗ることを、まるで唾液の着いた舌で(嘗)めるようなことだと譬え見なしたのかもしれない。そのナメシと同じ音に、ナメシ(無礼)という言葉がある。宣命の例にあるとおり、「無礼ゐやなし」は「なめし」とほぼ同じ意味である。今日でも「なめんなよ」と使っている。

 仮令たとひ後にみかどと立ちて在る人い、立ちの後にいましのために無礼ゐやなくして従はず、なめく在らむ人をば帝の位に置くことは得ずあれ。(仮令後在人、立乃多米仁无礼之天不従、奈米久乎方許止方不得。)(続紀・淳仁天皇・天平宝字八年十月、29詔)
 倭道やまとぢは 雲がくりたり 然れども わが振る袖を 無礼なめしとふな〔無礼登母布奈〕(万966)
 何の故か二つの国のこきしみづから来り集ひて天皇のみことのりを受けずして、なめく使をまだせる。(継体紀二十三年四月)

人工皮革で作ったスルメイカ

 高麗が「をしふ」と言ってきたことがナメシ(無礼)だとして菟道稚郎子は怒っている理由が明らかになった。もちろん、立場の上下を弁えていないことから正そうとしたものではあるが、それを「いかり」にして表すには及ばない。イカリとして表したのは、イカ(烏賊)がスルメイカとして朝廷に献上されていて菟道稚郎子も食べていたであろうからである。菟道稚郎子は太子であり、国を治める人として嘱望されていた。国をヲス(食)人が、食べるを意味する尊敬語、ヲスものとしてスルメイカはあった。スルメイカの様態はヲシカハ(韋)ととてもよく似ている。為政者の立場にある人が、朝貢とともに上表された文章のなかにヲシ(フ)とあったから、イカ(リ)を発するに至っている。
 ナメシ(韋、鞣、滑)の話になっているのには、上表を寄こしたのが高麗こまだからでもある。こまこま)をもたらした国であり、たくさんの馬が生産された。死ぬと皮はことごとく鞣されて活用された。馬とその使用法、ならびにその生産方法ばかりか、死後の活用法も同時に高麗から移入された(こととして理解されていた)。馬の脳を使って馬の皮を鞣した(注9)。ヤマトの人は言葉、いわゆる和訓を造る際、意味を重ね、塗り込め、抱え込むように工夫していた。それがヤマトコトバであった。奥深い知恵がヤマトコトバのなかに造形されていることについてよく心得つつ活用していたのである。それによって書き表された「高麗王教日本國也」の八文字は、簡にして要を得た端的な物言いで、上代語表現のミクロコスモスの感をなしている(注10)
 応神紀で「教」という字を用いたのは、大陸でのその文字の使用法を知りつつ、ヤマトコトバでヲシフという言葉が表す深い意味、頓智を深く理解していたからである。だから、イカリ(怒)の文脈で滞りなく披露している。敏達紀で、大陸で表䟽の書体が草書体であることを知りつつ、ヤマトコトバでイヒやハクという言葉が表す深い意味、頓智を披露していたのと同じである。日本書紀述作者はヤマトコトバに通暁した人たちであった(注11)

(注)
(注1)「王」はキミ、「曰」はイハク、「破」はヤブリツ、ヤブリスツなどとも読まれている。
(注2)日本書紀の他の例に見られる「教」字では、岩崎本平安後期点(10~11世紀)として、「(ウチ)ツノリ」(推古紀元年)、「(ホトケの)ミノリ」(推古紀三年五月)、「トホ(の)ミノリ」(推古紀十四年五月)、「所教ヲシヘ」(皇極紀元年七月)、「周孔之ノリ」(皇極紀三年正月)、前田本(11世紀写)に「脩教マツリコトセシム」(継体紀元年三月)、書陵部本(12世紀写)に「ヲシフ」(清寧前紀)、鴨脚本(嘉禎二年(1236)写)に「勅教ノ□フコト」(神代紀第九段一書第二)、兼方本(弘安九年(1286)写)・兼夏本(嘉元元年(1303)写)に「ウケタマハリミコトノリ(を)」(神代紀第六段本文)などと見える。
 なお、ミコトノリスの形の古訓が行われたことはあるが、ミコトノルと動詞に訓んだ例は見出されていない。
(注3)瀬間氏の論文では当初の問題提起、「菟道稚郎子は何故怒ったのか」から議論が逸れて行っていて、断言はされていない。
(注4)日本書紀通証や書紀集解は、「表」と「教」字について釈名を引いている。「下言於上  也。」、「教 倣也下所法倣一 スル也」とあり、ベクトルは反対ながら上下の関係にあることを示している。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1917894/1/20、https://dl.ndl.go.jp/pid/1157899/1/215参照。
(注5)以下のことは拙稿「烏の羽に書いた文字を読んだ王辰爾」参照。
(注6)フミはカミ(紙)が kan(簡)に i が付いてニがミに交替した形と同じく、フミ(文)は fun(文)に i が付いて交替したものと考えられている。そのばあい、ミは甲類である可能性が高い。
(注7)和名抄に、「㿃 釈名に云はく、痢の赤白を㿃〈音は帯、赤痢は知久曽ちくそ、白痢は奈女なめ〉と曰ふといふ。滞りて出で難きなるを言ふ。葛氏方に云はく、重下〈俗に之利於毛しりおもと云ふ〉は今の所謂、赤白痢なりといふ。下部をして疼き重からしむ故に以て之を名づくと言ふ。」とある。このナメは血を含まない下痢便を指している。皮を鞣すときに使う、馬・鹿・牛などの脳を一年ほど熟成させた脳漿とよく似ていて、白痢のことをナメと言って正しいと思われたと考えられる。
(注8)延喜式・内蔵寮の造皮功条に次のように記されている。

 牛の皮一張〈長さ六尺五寸、広さ五尺五寸〉、毛をおろすに一人、膚肉たなししを除すに一人、水にひた潤釈くたすに一人、さらし踏みやはらぐるに四人。皺文ひきはだを染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、かしの皮を採るに一人、麹・塩を合せちて染め造るに四人。
 鹿の皮一張〈長さ四尺五寸、広さ三尺〉、毛を除し、曝し涼すに一人、膚宍たなししを除し、浸し釈すに一人、削り曝し、なづきを和ちてり乾かすに一人半。
 くりに染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、焼き柔げ熏烟ふすぶるに一人、染め造るに二人。(原漢文)

 ヲシカハ(韋)の製造法とヲシフ(教)との間には、イメージに似通ったところがある。何かを教える時、そのまま現物を持ってくることは、持って来られるようなものであればそれが最善であるが、その場合、教え教えられの関係にあるのではなく、見て直感しているだけである。本邦に棲息しない虎を教えるのに、その毛皮を見せることで教えることは、教えることの本来の意味に当たるだろう。抽象的な概念でも、鞣しの方法のように、本質を抽出し、相手にわかるように揉みくだいでわからせるようにしている。どうしたらわかってもらえるか脳を使っていて、時にはアレンジを加えながら、どこへ行っても決して腐ることなく説明を続けている。言葉の普及活動は布教活動のようである。それがヲシフ(教)という言葉の眼目である。
(注9)厩牧令・官馬牛条に、「凡そ官の馬牛死なば、おのおの皮、なづき、角、れ。若しわう得ば、ことたてまつれ。」とある。
(注10)無文字時代のヤマトコトバの最大の特徴としてかねがね指摘しているところであるが、ひとつの言葉が当該言葉(音)をもって自己循環的に定義し直されながら、そのことにより言葉自体の正しさを証明しつつ言明が進行していっている。この応神紀の五十五文字からなる挿話では、一つの言葉のなかにある深い知恵について賢明で名高い菟道稚郎子に語らせていて、物語の精度をあげている。
(注11)ヤマトコトバのあり様、上代の人たちの言葉の使い方が問われなければならない。文字時代の今日の言語とは異なる使用法がとられていた。これまでの研究はその肝心な点を等閑視して進められており、得られる成果は限られている。

(引用・参考文献)
川村1953. 川村亮『皮のなめし方』天然社、昭和28年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2021. 瀬間正之「菟道幼稚郎子は何故怒ったのか─応神二十八年高句麗上表文の「教」字の用法を中心に─」『古事記年報』六十三、令和3年3月。(『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
三品1962. 三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証 上巻』吉川弘文館、昭和37年。(天山舎、平成14年。)

加藤良平 2024.9.16改稿初出

「家内に養ふ鶏の雄者を殺せ」(雄略紀)の真相

 雄略紀の朝鮮半島との関連記事に、これまでの解釈では意味の通じない記述がある。

 天皇すめらみことみくらゐかせたまひしより、としに至るまでに、新羅国しらきのくにそむいつはりて、苞苴みつきたてまつらざること、今までにとせなり。しかるを大きに中国みかどみこころおそりたてまつりて、よしみ高麗こまをさむ。是に由りて、高麗のこきし精兵ときいくさ一百ももたりりて新羅を守らしむ。
 しばらく有りて、高麗の軍士いくさびと一人、取仮あからしまに国に帰る。時に新羅人を以て典馬うまかひ〈典馬、此には于麻柯比うまかひと云ふ。〉とす。しかうしてひそかかたりて曰はく、「いましの国は、吾が国の為に破られむことひさに非じ」といふ。〈一本あるふみに云はく、汝が国、果して吾がくにに成ること久に非じといふ。〉其の典馬、聞きて、いつはりて其の腹をむまねにして、退まかりて在後おくれぬ。遂に国に逃げ入りて、其のかたらへるを説く。
 ここに新羅のこきしすなはち高麗のいつはまもることを知りて、使つかひつかはしてせて国人くにひとげてはく、「ひと家内いへのうちやしなとり雄者をとりころせ」といふ。国人、こころりて、ことごとく国内くにのうち高麗こまひところす。ここのこれる高麗こまひと一人有りて、ひまに乗りてまぬかるること得て、其の国に逃げ入りて、皆つぶさ為説ふ。高麗の王、即ち軍兵いくさおこして、……(雄略紀八年二月)

 新羅と高麗(高句麗)との間の攻防についての記述である。新羅は、倭が攻めてくるだろうと恐れ、高麗に精鋭部隊を派遣するように友好条約を結んだ。その時、一人の高麗兵が休暇をとって帰ることがあった。馬の世話をさせた新羅人とともに帰路についていたが、その兵士はいずれ高麗は新羅を滅ぼすだろうとひそひそ話をした。新羅の馬の世話人は、おなかの具合が悪いと言って列から遅れ離れて国へ帰ってその旨を説いた。情報は新羅王のもとに届き、王は高麗との間の条約は偽計であったと悟り、国中の人に対して国内にいる高麗人を殺そうと図った。そのときに用いた布告の言葉が三段落目にある「人殺家内所養鶏之雄者」である。その結果、「国人知意、尽殺国内所有高麗人」ということになった。それでも一人生き残った高麗人がいて、国へ帰って状況を話した。そこで高麗国は兵をあげ、全面戦争へとつながっている。
 話の肝となる部分が理解されていない。どうして「人殺家内所養鶏之雄者」という言葉が、高麗人一斉殺害の暗号として機能したのか。これまでに検討された見解を三つ示す。

 「水戸公所修史新羅伝曰悉人頭折風形如士人捕二鳥新羅諷告蓋指乎」(河村秀根ほか・書紀集解、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100258449/447?ln=ja)
 「「鶏之雄者」は高句麗の将兵を示唆した表現であることは明らかである。……高句麗人を「鶏之雄者」といったのは、……[軍人の]服飾や標識によったとも考えられる。……[また、]新羅では軍隊の単位をと呼んだ。幢は……「毛thŏrŏk, mo」、現訓は thŏr で、鷄の古訓 tork, tok, tak と通用する。……進駐中の高句麗軍に対して、「鶏の雄者」すなわち tork(鶏→幢・対盧)を謎々的に示唆したものと解し得るのである。話そのものが謎的であるから、むしろこの方の解釈が妥当しよう。」(三品2002.103頁)
 「[三品氏の]いずれの説を採るにせよ、「人殺家内所養鶏之雄者」の表現は、三韓の習俗、言語に精通していなければ為し得ない表現であることに違いない。とすれば、この記事は半島系の原資料に依拠した可能性が高い。」(瀬間2024.23頁)

 「人殺家内所養鶏之雄者」→「国人知意、尽殺国内所有高麗人」という流れである。「高麗人」が殺され、生き残った「高麗一人」が生還している。これは、「精兵一百人」のうちの「高麗軍士一人」が休暇で帰り、残りの九十九人を殺そうと謀ったが、九十八人は殺したものの一人は生還したということなのだろうか。そうではなく、新羅国王は、民間人を含めて国中にいる「高麗人」を一掃しようとしたということではないのか。三品氏の前提は誤っていると考える(注1)
 そもそも、朝鮮半島記事だからといって、ヤマトの末裔である日本人がよくわからないのは仕方がないと考えるのは間違いである。なぜなら、日本書紀は、対外的に流布させようと企図して作られたものではなく、ヤマトの人が理解できるように書かれた書物だからである。自己満足の史書であると言っても過言ではない。読者として想定されているヤマトの人がわかるように暗号文を創作しているはずなのである。朝鮮半島の風習や言語に依拠していてよくわからないというのでは話にならない(注2)
 ヤマトコトバで考えた時、雄鳥の訓みのヲトリとは囮(媒鳥)のこと、すなわち、ヲキ(招)+トリ(鳥)の約であるとされている。鳥をもって鳥を捕まえる猟法である。いざ高麗との間で戦争になれば、派兵されている高麗の精鋭部隊だけでなく新羅国内の親高麗派の人たちも呼応蜂起して混乱に陥れ、新羅は敗れることになるだろうというのである(注3)。国家存続の危機感をいだいて新羅王はお触れを出している。
 「所養鶏」の部分、「やしなふ鶏」と訓まれている。ヤシナフは、やすに複語尾のナフが付いた形で、す~うしなふ、ふ~まひなふ、ぐ~ねぎらふ、と同様の語形変化であるとする説がある。幼児を育て養うことはヒダスといい、また、ハグクムという。ヤシナフは生活全般に及ぶ語で語義が広いとされている(注4)。問題は、鶏を飼うことをヤシナフと言っていることにある。聞いただけで何か変だなと気づくことであろう。「所飼鶏」ではなく「所養鶏」と明示してある。
 鶏はヤシナフという言葉で表されるような対象なのか。家畜として動物を飼う場合、ウカヒ(鵜飼)、タカカヒ(鷹飼)、ウマカヒ(馬飼)などといい、また、コ(蚕)を飼うからカヒコ(蚕)という(注5)。ヤシナフトリとは豪勢なことである。
 鶏の雌鳥は卵を産むから大事にされた。民家の内に鶏を飼う場合、一羽飼うのなら、昼間は家の外へ出していても夜はイタチなどに襲われかねないから家へ入れ、高い止り木に掴まらせて身の安全を確保した。その場合、飼っているのは雌鳥で卵を取っていた。記事では「雄者」と指定されているから数多く飼育していたことになる。多数鶏がいれば、人との同居は収拾がつかなく困難だから別にヤカ(宅、舎)を設け鶏舎で飼ったと思われる(注6)。一部は孵らせて雛鳥として育てて大きくし、雌鶏ならばさらに卵を取ろうと目論む。求められているのはもっぱら雌鶏である。飼育され続けている「雄者」、つまり雄鶏は何をしているのか。卵を取るためでも若鶏の肉を取るためでもなく、動物として本来の寿命、すなわち、繁殖のため、受精のために生かされている。雄鶏一羽で雌鶏五羽の相手ができるそうである。自然界と同じ営みである。ただし、鶏は家畜化された鳥類であり、人間のもとでのみ生を永らえている。しかも雄鶏は、去勢された畜牛馬のように人間のために使役されることもない。それをヤシナフトリと呼んでいる。われているのではなくやしなわれていると言えるのである。
 ヤシナフトリとしての雄鶏は何不自由なく暮らしている。止り木にとまってコケコッコーと鳴き叫んだり、けたたましくせわしなく動き回っている。止り木を備えた鳥小屋が与えられ、その小屋は騒がしく揺れんばかりである。ヤ(屋、舎)+シナフ(撓)ほどなのである。中にいるとりは、をどりでも踊っているように見える。踊るとは、足で弾みをつけてジャンプするような動きをいう。歩きながら小刻みに上体、顔を上下に、また前後に動かしている。足踏みして跳躍する動きをしている(注7)
 飼育動物のなかでそのような動きをするものとしては馬があげられる。馬が驚いて跳びあがるさまは踊っているように見える。単発的な跳躍だけでなく、継続的な跳躍も馬はする。細かな足さばきをしながら軽く走る軽速歩である。この軽速歩を操るためには、騎乗者は馬上で立ったり座ったりして上下の反動を抜く乗り方をする。騎乗者が立ったり座ったりするというのは、立つのはあぶみに着けた足を踏ん張ること、座るのはそれを緩めて鞍に座ることである。馬が踊っているとともに騎乗する人も踊っている。それを細かくくり返す。だから、踊りをする雄鶏とは、馬のことをいうこまのこと、また騎乗している精兵、軍士のことを言っていて、つまりは高麗こまのことを指しているとわかる。植民者として高麗人はすでに存在していた。
 高麗の野心が伺い知れたのも、出張中の高麗精鋭が新羅で雇った典馬うまかひが送っていった時に聞きつけたからであった。馬を飼うこととは、ただその馬に食事を与えたり洗ってあげたりするメンテナンスに限らず、交尾させて繁殖させることも含まれる。馬が年を取って死んでしまったら、典馬は馬飼いではなくなってしまう。産まれてきた仔馬のことは特にこまとも呼ぶ。典馬が高麗軍から聞き出した秘密は信憑性が高いとわかるのである。
 典馬になった新羅人は高麗兵が連れてきた馬の世話をしていただけだと思っていたが、高麗が考えていたのは新羅で高麗こま人を繁殖させて「うまはる」(注8)ことなのだと悟ったのである。駒(仔馬)が来て、牡馬と牝馬に育てば繁殖して数が増える。そこらじゅう駒だらけになって、つまりは高麗人だらけに陥り新羅は滅亡する。そういうシナリオを描いて精鋭部隊まで駐屯させている。上げ膳据え膳で養っていては大変なことになる。高麗の陽動作戦に引っ掛かったら国は傾くということである。だから、「家内いへのうちやしなとり雄者をとりころせ」と命じて、皆、殺すようにと言っている。それぞれの家は人間(新羅人)の家よりも鶏舎を大事にしていてはいけない、本末転倒になると警鐘を鳴らしている。

(注)
(注1)高麗から民間人は来ていなかったとする考え方もなくはないが、国境に壁が作られていたわけでもパスポートやビザの制度があったわけでもない。
(注2)三品氏や瀬間氏は朝鮮半島の習俗、言語によった表現であるとし、半島系の原資料に依った表現であると考えているが、そのような資料は見出せていない。
(注3)現今の世界情勢を鑑みても、親ロシア派が住む地域はロシアの占領下に入って行っている。在留ロシア人の保護のために戦うというのがロシア側の言い分である。
(注4)白川1995.766頁。
(注5)「養」字でカフと訓む例もあるが、雄略紀のこの部分、書陵部本、前田本、熱田本ともヤシナフと訓んでいる。
(注6)鶏の飼い方は、宮崎安貞・農業全書に記されている。

  にはとり第二
 には鳥は人家に必ずなくて叶はぬ物なり。鶏犬の二色は田舎に殊に畜ひ置くべし。……
 多く畜はんとする者は、広き園の中にきびしくかき[垣]をし廻し、狐狸犬猫の入らざる様に堅く作り、戸口を小さくしたる小屋を作り、其中にとやを数多く作りて、高下それぞれの心に叶ふべし。尤わらあくたを多く入れ置きて、巣に作らすべし。さて園の一方に粟黍稗を粥に煮てちらし置き、草を多くおほ[覆]へば、やがて虫多くわき出づるを餌とすべし。是時分によりて三日も過ぎずして虫となる。其虫を喰尽すべき時分に、又一方かくのごとく、年中絶えず此餌にて養へば、鶏肥へて卵を多くうむ物なり。園の中を二つにしきりをくべし。又雑穀のしいら[しひな]、其外人牛馬の食物ともならざる物を多く貯へて、[喰]み物常に乏しからざる様にすべし。卵も雛も繁昌する事限なし。甚だ利を得る物なれども、屋敷の広き余地なくては、多く畜ふ事なり難し。凡雄鳥二つ雌鳥四つ五つ程畜ふを中分とすべし。春夏かいわりて廿日程の間はひな[雛]巣を出でざる物なり。飯をかはかして入れ、水をも入れて飼ひ立つべし。
 甚だ多く畜ひ立つるは、人ばかりにては夜昼共に守る事なり難く、狐猫のふせぎならざる故、能よき犬を畜ひ置きてならはし守らすべし(但しかやうにはいへども、農人の家に鶏を多く飼へば、穀物を費し妨げ多し。つねのもの是をわざ[業]としてもすぐしがたし。しかれば多くかふ事は其人の才覚によるべし)。(325〜326頁、漢字の旧字体は改めた)

(注7)踊るように見えない雄鶏は元気がないから繁殖用に適さない。
(注8)雄略紀には次のような用例がある。

 是に高麗こま諸将もろもろのいくさのきみこにきしまをしてまをさく、「百済くだら心許こころばへ非常おもひのほかにあやし。やつこ、見るごとに、おもほえず自づからにまとふ。恐るらくは、また蔓生うまはりなむか。こひねがはくは、逐除おひはらはむ」とまをす。(雄略紀二十年冬)

 高麗は百済を滅ぼしたが、残党は飢えに苦しみながらもそのままでいた。これを許してその地に留めたら再興しようとするに違いないから、この期に一掃してしまってはどうかと進言している。地盤があるところに居続けたら次の選挙の時どうなるかというのと同じである。どぶ板活動をして支持者を増やしていく。それを「蔓生うまはる」という言葉で表している。高麗こまの諸将は駒が増えていくこととはウマハルことなのだと自覚、認識していたということである。

(引用・参考文献)
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
瀬間2024. 瀬間正之「雄略紀朝鮮半島記事の編述」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝承』雄山閣、令和6年。
三品2002. 三品彰英『日本書紀朝鮮関連記事考證 下巻』天山舎、2002年。
宮崎安貞・農業全書 宮崎安貞編録、貝原楽軒刪補、土屋喬雄校訂『農業全書』岩波書店(岩波文庫)、昭和11年。

加藤良平 2025.2.3初出

飛騨の匠について─日本紀竟宴和歌の理解を中心に─

 日本書紀は講書が行われ、竟宴和歌が作られている。ここにあげる葛井清鑒の歌は、天慶度(天慶六年(943))の作である。左注は院政期に付けられたものと考えられている。講書で教授された日本書紀の該当箇所は雄略紀十二年十月条である。併せて掲げる。

  秦酒はたのさけのきみを得たり〔得秦酒公〕
               外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〔外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〕
 琴のの あはれなればや 天皇君すめらきみ 飛騨のたくみの 罪をゆるせる〔己止能祢濃阿波麗那礼波夜数梅羅機㳽飛多能多久美濃都美烏喩留勢流〕(竟宴歌謡50)(注1)
 わかたけの天皇すめらみこと、飛騨の匠御田みたおほせて、楼閣たかどのを作らしめ給ふに、御田、楼閣に登りてく走ること、飛ぶが如し。これを、伊勢の采女、あやしみ見るほどに、庭にたふれて、ささげたる饌物みけつものこぼしつ。天皇すめら、采女を御田がおかせるかと疑ひて、殺さんとする時に、酒公さけのきみ、琴をきて、そのこゑを天皇に悟らしめて、罪を赦さしめたり。(日本紀竟宴和歌)
 冬十月の癸酉の朔にして壬午に、天皇すめらみこと木工こだくみげの御田みた一本あるふみ猪名いなべの御田みたと云ふは、けだあやまりなり。〉にみことおほせて、始めて楼閣たかどのつくりたまふ。是に、御田、たかどのに登りて、四面よも疾走はしること、飛びくがごときこと有り。時に伊勢の采女うねめ有りて、楼の上をあふぎてて、く行くことをあやしびて、庭に顛仆たふれて、ささげらるるみけつもの〈饌は、御膳之物みけつものなり。〉をこぼしつ。天皇、便たちまちに御田を、其の采女ををかせりと疑ひて、ころさむと自念おもほして、物部もののべたまふ。時に秦酒はたのさけのきみおもとはべり。琴のこゑを以て、天皇に悟らしめむとおもふ。琴をよこたへて弾きて曰はく、
  神風かむかぜの 伊勢の 伊勢の野の さかを 五百経いほふきて が尽くるまでに 大君に 堅く つかまつらむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠たくみはや あたら工匠はや(紀78)
 是に、天皇、琴の声を悟りたまひて、其の罪をゆるしたまふ。(雄略紀十二年十月)

 雄略紀にある「闘鶏御田」がいつの間にか「飛騨の匠」であることになっている。不審であるというので、「[竟宴]和歌は『日本書紀』の内容を読み替えて歌われ、その解釈は同時期に実在する飛騨工とリンクしながらも、一方で実在から離れたイメージ(解釈)としての飛騨の匠を生み出していっているともいえる。」(水口2024.118頁)と認識されるに至っている。その分析では、「御田」=「飛騨の匠」という概念は、日本書紀講書の初期の段階から解されており、院政期に作成されたと思われる左注も疑いを抱いておらず、受け継がれていたことがわかるという。
 飛騨の匠(「飛騨工」)は律令制のもとで実在している。

 凡そ陁国だのくには、庸調俱にゆるせ。里毎さとごとに匠丁十人てむせよ。〈四丁毎に、廝丁かしはで一人給へ。〉一年に一たび替へよ。余丁よちやう米をいだして、匠丁しやうちやうじきに充てよ。〈正丁しやうちやうに六斗、次丁しちやうに三斗、中男ちうなむに一斗五升。〉(賦役令)

 実態としては、「徴発された匠丁は、木工寮、造宮省、修理職などに配属され、一日に米二升を支給さて作業に従事したが、その労働条件は苛酷であったらしく、逃亡する匠丁も多く、またその技術のためか匠丁をかくまう者もあり、しばしばその禁令が出された。仕丁の制度の一変型とみられ、飛驒国が都に比較的近く、山林が多いので特に木工の供給地とされたらしい。」(国史大辞典936頁、この項、中村順昭)という(注2)
 しかし、「[賦役令の]この条のように一国のみを対象とした規定は律令のなかでも特異なものである。」(思想大系本律令593頁)と奇異に見るのが大勢である。竟宴和歌で「闘鶏御田」=「飛騨の匠」と同義とされて何の疑いも入れていないことも疑問である。どうしてそういう人がいるのか、どこから生まれてきた考え方なのか。その謎を解いて当時の人たちの考え方に迫ろうとするのでなければ、賦役令も竟宴和歌も理解したことにはならない。古代の人たちの心性に近づいていないからである。飛騨国に限らずとも大工や木工職人などは必ずいる。どうして飛騨の匠は特別扱いされて造宮や修理に重用されていたのか、それが問題である。
 タクミ(匠、工)の例としては次のような記事がある。

 是歳、百済国より化来おのづからにまうくる者有り。其の面身おもてむくろ、皆斑白まだらなり。しくは白癩しらはた有る者か。其の人になることをにくみて、海中わたなかの嶋にてむとす。然るに其の人の曰はく、「若しやつかれまだらはだを悪みたまはば、しろまだらなる牛馬をば、国の中にふべからず。また臣、いささかなるかど有り。能く山丘やまかたく。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為にくほさ有りなむ。何ぞむなしく海の嶋に棄つるや」といふ。是に其のことばを聴きて棄てず。仍りて弥山みのやまの形及び呉橋くれはし南庭おほばに構かしむ。時の人、其の人をなづけて、路子みちこのたくみと曰ふ。亦の名は芝耆摩呂しきまろ。(推古紀二十年是歳)

 「芝耆摩呂しきまろ」という名はおそらく石畳を敷くことと関係させたもので、「路子工みちこのたくみ」は道路舗装職人の謂いであろう。この渡来人は、近世に城造りにたけた穴太衆のように、石材の加工に優れた石垣職人であったろう。
 この逸話は有間皇子事件のときに振り返られている。塩屋しほやの鯯魚このしろという家来が助命嘆願するのに、「願はくは右手みぎのてをして、国の宝器たからものを作らしめよ」(斉明紀四年十一月)と小理屈を述べている(注3)。右(ミ・ギの甲乙は不明)を指す言葉には、ヒダリ(左、ヒは甲類)に形を合わせたミギリという言い方がある。ここでは、みぎり(ミ・ギは甲類)と関係させて言っているものと推測される。古語では、軒下の石畳や敷瓦(磚)を敷いたところ、また、水限みぎり(ミ・ギは甲類)の意もあって、境界にあたるところをいう。説文に「砌 階の甃なり。石に从ひ切声、千計切」とある。和名抄には、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階の字を波之はし、一訓に之奈しな〉は堂に登る級なりといふ。兼名苑に云はく、砌は一名に階〈砌の音は細、訓は美岐利みぎり〉といふ。」とある。境のところにある瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段のこと、推古紀にある「呉橋」はそれに相当するものではないか。また、「須弥山」は、仏教の世界観において世界の中心にそびえる高い山のことをいう。それを形象化して像として飛鳥の地に置いている。

 辛丑に、弥山みのやまかたを飛鳥寺の西に作る。また盂蘭瓫会うらんぼんのをがみまうく。ゆふへ貨邏人くわらのひとへたまふ。(斉明紀三年七月)
 甲午に、甘檮丘あまかしのをかひむかし川上かはらに、須弥山を造りて、陸奥みちのくこしとの蝦夷えみしに饗へたまふ。(斉明紀五年三月)
 又、石上いそのかみのいけほとりに須弥山を作る。高さ廟塔めうたふの如し。以て粛慎みしはせ四十七人に饗へたまふ。(斉明紀六年五月是月)

 斉明朝は土木・水利事業が推められた時代であった。石造の噴水も作られており、亀の形をした水の流れ出る祭祀遺跡も出土している。技術的要請として、生活用水、農業用水の適切な給排水を求めていたという時代背景が考えられる。

左:埤湿ふけの田(深田)の排水方法(大蔵永常・農具便利論、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2556765/1/34をトリミング)、右:狭山池東樋(飛鳥時代、大阪府立狭山池博物館展示パネル)

 そんな時、ヒダ(ヒは乙類)のタクミという音を聞けば、ヒ(樋)+タ(田)なる巧妙な仕掛けを作った人たちなのだと理解されよう。水田に用水を取排水するのに、それぞれの田の水位が一定になるように、樋(楲)が設けられているということである。溜池による用水の確保や、沖積平野への展開が進んでいったのがヤマトコトバの爛熟期、古墳時代から飛鳥時代に当たる。土木技術を駆使した灌漑、排水装置を伴った田が運営されて行っていた。「味張あぢはり忽然たちまち悋惜をしみて、勅使みかどのつかひ欺誑あざむきてまをさく、「此の田は、天旱ひでりするにみづまかせ難く、水潦いさらみづするにみ易し」とまをす。」(安閑紀元年七月)などと記述されている。溜池の底樋のつくりなどには確かな水密性が求められ、渡来人等によって伝えられた高度な技術の賜物と言えよう。そのための巧みな工作技術を担ったはずなのがヒダの匠ということになり、飛騨人というだけで重んじられた。実際にどのような形のヒ(樋)が行われていたか、必ずしも全体像がわかっているわけではないが、ヒ(樋)+タ(田)と呼ぶのに遜色ないものと思われる(注4)

 五年の夏六月に、人をしていけに伏せ入らしむ。に流れ出づるを、みつほこを持ちて、刺し殺すをたのしびとす。(武烈紀五年六月)

 水量を計測的に保って流す仕掛けとしては、都の人の周知するところとなっている。中大兄(天智天皇)が作ったこくである。

 又、皇太子ひつぎのみこ、初めてこくを造る。おほみたからをして時を知らしむ。(斉明紀六年五月是月)
 夏四月の丁卯の朔にして辛卯に、こくあらたしきうてなに置く。始めて候時ときを打つ。かねつづみとどろかす。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇すめらみことの、皇太子ひつぎのみこまします時に、始めてみづか製造つくれるぞと、云々しかしかいふ。(天智紀十年四月)

 漏刻(漏剋)は水の流れを正確に測って時間を告げている。きちんと水をげた時に、確かな時をげることができている。
 ここに、ツゲノミタ(闘鶏御田)という人は、漏刻(漏剋)のように正確に水流を測って流すことができる樋(楲)を造作していたということになる。言葉としてそう認識され、「名に負ふ」人として活躍していたと考えられるのである。時を告げるに値するように、田のなかでも天皇のための田、御田の生育をきちんと管理できるような導排水の仕組みを拵えたというのである。ツゲ(黄楊)の木は狂いが生じにくく、櫛のような細工物に多く用いられている。細密な木工である。
 つまり、並みいる諸国の匠のなかでもヒダの名を冠する飛騨の匠こそ、精密な樋を作るのに長けた匠であるということになる。これは、ヤマトコトバを常用しているヤマトの人たちにとって、通念であり、常識とされた。ことことであると認めていた人たちにとっては、言葉が証明していることになっている。飛騨の匠について日本書紀に書いてないのに講書の竟宴和歌に登場しているのは、日本書紀の精神、すなわち、ヤマトコトバの精神を汲んでいるからである。竟宴和歌に歌われて違和を唱えられずに伝えられていることから翻って考えれば、日本書紀はヤマトコトバで書かれていることの紛れもない証明となっている(注5)。漢籍に字面を求める出典論は日本書紀研究の補足でしかない。

(注)
(注1)梅村2010.は、「琴の音色が素晴らしかったからであろうか、天皇が飛騨の匠の罪を許したのは。」(214頁)と訳している。「あはれなればや」の「や」は反語を表す。天皇が飛騨の匠の罪を許したのは、琴の音色が素晴らしかったからであろうか、いやいやそうではない、の意である。
(注2)水口2024.は、飛騨工ひだのたくみについて次のように位置づけている。すなわち、大宝令以降に定められたものであり、藤原宮の造営のように木工に対する需要が高まってきたことと関係がある。そして、木工寮は木作採材を司る宮内省被官の官司、また、八世紀初頭から史料に現れる造宮省(職)は、 宮城の造営を司る令外官であり、平城宮・平安宮などの造宮には大いに活動した。奈良朝から散見する修理職は弘仁期から常置され、宮殿の修理造作に従う令外官であった。飛騨工は、律令制定時ぐらいから造宮に携わり、奈良〜平安前半(少なくとも九世紀段階)の間、飛騨工は造宮(修理)に当たる者であるという認識があった。
(注3)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」参照。
(注4)日本書紀や万葉集のなかで飛騨に関する記述としては次のようなものがある。筆者は、仁徳紀六十五年条の異様な人物は、飛鳥の石神遺跡出土の石人像の噴水の形とよく似ていると思う。

 六十五年に、騨国だのくに一人ひとりのひと有り。宿すくと曰ふ。其れ為人ひととなりむくろひとつにしてふたつかほ有り。面おのおのあひそむけり。いただき合ひてうなじ無し。各あし有り。其れひざ有りてよほろくびす無し。力さはにしてかろし。ひだりみぎつるぎきて、よつの手にならびに弓矢をつかふ。是を以て、皇命みことに随はず。人民おほみたから掠略かすみてたのしびとす。是に、珥臣にのおみおや難波なにはの根子ねこ武振熊たけふるくまつかはしてころさしむ。(仁徳紀六十五年)
 又みことのりしてのたまはく、「新羅しらきの沙門ほふし行心かうじむ皇子みこ大津謀反みかどかたぶけむとするにくみせれども、われ加法つみするにしのびず。飛騨国の伽藍てらうつせ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)
 冬十月の辛亥の朔にして庚午に、進大しんだいを以て、白き蝙蝠かはぼりたるひと飛騨国の荒城あらきのこほりのひと弟国部弟おとくにべのおとに賜ふ。あはせふとぎぬむら・綿もぢ・布むらを賜ふ。其の課役えつきは、身を限りてことごとくゆるす。(持統紀八年十月)
 白真弓しらまゆみ 斐太ひだほその〔斐太乃細江之〕 菅鳥すがとりの 妹に恋ふれか かねつる(万3092)
  黒き色を嗤笑わらふ歌一首
 ぬばたまの 斐太ひだ大黒おほぐろ〔斐太乃大黒〕 見るごとに 巨勢こせぐろし 思ほゆるかも(万3844)
 斐太ひだひとの〔斐太人之〕 真木まき流すといふ 丹生にふの川 ことかよへど 船そ通はぬ(万1173)
 かにかくに 物は思はじ 斐太人の〔斐太人乃〕 打つ墨縄すみなはの ただ一道ひとみちに(万2648)

 語呂合わせの地口にヒダノタクミと言っているに過ぎないから、高度な技術を持っていたかは不明であり、ちょっとした水口用の細工だけでもかまわない。それまでの掛け流し灌漑と違う方法で、畦畔に樋口をつけるだけであっても一枚の田が崩壊せずに済むことは、場所によってはとてもすばらしい新技術であったろう。
(注5)上代、人の名は、名に負う存在だからその体現に努めたとされるが、その名とは呼ばれるものであった。戸籍があって誕生と同時に命名されるものではなく、人にそう呼ばれることで名を体した。今日いう綽名に近いものである。そういうことだからそういうことにし、そういうことだからそういうこととして暮らしていた。文字を持たない文化は、言事一致、言行一致を求めることで確からしい全体状況に落ち着くことができた。その前提が崩れたら、無文字社会はカオスに陥ってしまう。

(引用・参考文献)
梅村2010. 梅村玲美『日本紀竟宴和歌─日本語史の資料として─』風間書房、2010年。
工楽1991. 工楽善通『水田の考古学』東京大学出版会、1991年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、平成2年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1976年。
西崎1994. 西崎亨『本妙寺本日本紀竟宴和歌 本文・索引・研究』翰林書房、平成6年。
日本紀竟宴和歌・下 藤原国経ほか『日本紀竟宴和歌 下』古典保存会、昭和15年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1115791
水口2024. 水口幹記「日本書紀講書と竟宴和歌─「飛騨の匠」の形成と流布─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。

加藤良平 2024.11.14初出