大伴家持の「独り幄の裏に居て、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて作る歌一首」について

 万葉集巻十八のうち、次の霍公鳥ほととぎすを詠んだ連作は、大伴家持の歌ばかりが並ぶなかにある。

  独り幄とばりの裏うちに居ゐて、遥はるかに霍公鳥ほととぎすの喧なくを聞きて作る歌一首〈并せて短歌〉〔獨居幄裏遙聞霍公鳥喧作歌一首〈并短謌〉〕
 高たか御み座くら 天あまの日ひ継つぎと すめろきの 神の命みことの 聞きこし食をす 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥ももとりの 来居きゐて鳴く声 春されば 聞きの愛かなしも いづれをか 別わきて偲しのはむ 卯うの花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥ほととぎす 菖蒲草あやめぐさ 珠たま貫ぬくまでに 昼暮らし 夜よ渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆なげき あはれの鳥と 言はぬ時なし〔高御座安麻乃日継登須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久尓能麻保良尓山乎之毛佐波尓於保美等百鳥能来居弖奈久許恵春佐礼婆伎吉乃可奈之母伊豆礼乎可和枳弖之努波无宇能花乃佐久月多弖婆米都良之久鳴保等登藝須安夜女具佐珠奴久麻泥尓比流久良之欲和多之伎氣騰伎久其等尓許己呂都呉枳弖宇知奈氣伎安波礼能登里等伊波奴登枳奈思〕(万4089)
 行ゆく方へなく あり渡るとも 霍公鳥ほととぎす 鳴きし渡らば かくや偲しのはむ〔由久敝奈久安里和多流登毛保等登藝須奈枳之和多良婆可久夜思努波牟〕(万4090)
 卯うの花の 共ともにし鳴けば 霍公鳥ほととぎす いやめづらしも 名告のり鳴くなへ〔宇能花能登聞尓之奈氣婆保等登藝須伊夜米豆良之毛名能里奈久奈倍〕(万4091)
 霍公鳥ほととぎす いとねたけくは 橘たちばなの 花散る時に 来鳴きなき響とよむる〔保登等藝須伊登祢多家口波橘乃播奈治流等吉尓伎奈吉登余牟流〕(万4092)
  右の四首は、十日に大伴宿禰家持作る。〔右四首十日大伴宿祢家持作之〕

 題詞にあるとおり、天平勝宝元年四月十日、大伴家持は越中の国司として国衙政庁にいて霍公鳥の鳴く声を聞いている。
 これまでの説では後続する歌とかかわりがあるものと考えられ、特に産金の報告を受けて気分が高揚していたと捉える向きがある(注1)。しかし、万4089~4092番歌に関しての情報としては題詞にあるとおりで、それだけが歌の設定であってそれ以外の情報はない。皇統讃美とは無縁の歌であり、憶測による解釈は憚られる。
 題詞に見える「幄」については、万3965番歌に似た記述があって、多く両者同じものと捉えられている。

 獨臥二帷幄之裏一(万3965)
 獨居二幄裏一(万4089)

 一見してわかるとおり、この二つ、「帷幄」と「幄」は別物である。上は寝ていて下は座っている。寝室と居間は別の部屋である。大伴家持は越中国の国司として派遣されており、昼間は国衙に勤め、夜は国司館に帰って寝る。万3965番歌は病臥していているから出勤しておらず、官舎の国司館でお休みしている。万4089番歌は、国庁の役所、国衙に出勤してそこで歌っている(注2)。万4089番歌の「幄」は帳台であると考えられる。平城宮にあるものを簡略化した昼御座が越中国の国衙の正殿にあり、その場所で中央政府の意向を伝えた。中央集権的な構図はここに固まる。椅子があったか定かではないが、あったとするとわかりやすい(注3)。椅子は一人掛けだから「独居」なのは当たり前である。四方全部の幕を垂らしているのではなく、前面は開けて政務を掌る。部下が言ってきたことに対して応えて指示を出したり、ハンコを捺いたりしていたのだろう。部屋の中心にしつらえられた帳台の中で霍公鳥の鳴き声を「遥聞」していて、縁側(庇)に出ていたのではない。戸のところに懸けられる、後に暖簾となる垂れ幕や、部屋を仕切る間仕切りのための几帳などではない。帳台の覆いに使われている幕が「帳」である(注4)。部屋は広く、その真ん中に国司様は座って居る。

帳台のある光景(板橋貫雄模・春日権現験記、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287490/1/15~16をトリミング接合、奈良時代では建具が限られる)

 都には大極殿のような建物があり、そのミニチュア版が各国庁にある。国家が国家たらんとして建物が先行している。日本古代国家は形から入って威厳を保っていた。そして、とても広い部屋の中に帳台というテントを設営し、一番偉い方、国司はその中に鎮座ましますように一人掛けの椅子に腰かけていた。大広間の中央に据えられた帳台の中に、まわりを帳とばりで覆い独り居た。
 「霍公鳥」という鳥については、①ほとんど時は過ぎる、と鳴いているものとも、②ホトと鳴いた声に連れられて間髪を入れずにトギと鳴く鳥であるとも思われていた(注5)。
 万4090番歌は、「行方なく」で始まっている。「ユクヘナシは、動かない(動けない)ことを言う。「あり渡る」はまさにその動かない状態が連続していることを言うのだろう。」(鉄野2007.125頁)。国司は勤務時間中、帳台のなかにいなければならないことを指している。遊覧、散歩することはおろか、縁側に出ることも儘ならない。あんまりではないか、無為に時間が過ぎていく。それをどう表現すればよいかといえば、ほとんど時は過ぎるということで、ホトトギスの鳴き声は言い当てていてよく悟るところとなるのである。

 行ゆく方へなく あり渡るとも 霍公鳥ほととぎす 鳴きし渡らば かくや偲しのはむ(万4090)
 動けないでい続けて興趣が浮かぼうはずもなくても、霍公鳥が鳴き渡ったら、その鳴き声のほとんど時は過ぎる、ほとんど時は過ぎると聞こえて、まったくそのとおりのことだと思って留飲を下すだろう。

 万4091番歌で霍公鳥が名乗り鳴くとは、ホトと鳴けば即座にトギと返すものだとされていることを言っている。どうしてそれが「卯の花」の連れ合いなのかと言えば、ウという音はなかば強制的に諾うと答えざるを得ない状況を表しているからである(注6)。有無を言わせないことを示す花が卯の花であって、ホトと鳴いたら嫌でもすぐにトギと鳴かなければならない宿命にあるのが霍公鳥だと興じられていた。

 卯うの花の 共ともにし鳴けば 霍公鳥ほととぎす いやめづらしも 名告のり鳴くなへ(万4091)
 有無を言わせずに相手に回答を強要して「諾う」と言わせる、そのウではないが、卯うの花が咲くのと一緒に鳴くので、霍公鳥はより一層愛すべき存在であるよ。自分の名を名乗るように、ホトと鳴けば決まって即座にトギと答え鳴くにつれて。

 万4092番歌で橘とともに歌われているのは、橘はタヂマモリが常世の国から持ち帰った不老不死をもたらすとされる「ときじくのかくの木この実み」(垂仁記)(「非時ときじくの香菓かくのみ」(垂仁紀九十年~))であり、両者は、ともにほとんど時は過ぎる存在だったからである。

 霍公鳥ほととぎす いとねたけくは 橘たちばなの 花散る時に 来鳴きなき響とよむる(万4092)
 霍公鳥が大変憎らしいことは、時じくの香かくの木の実として知られる橘の花が散る時に来て、ほら、永遠なんてことはないでしょ、と、ほとんど時は過ぎる、ほとんど時は過ぎるとうるさく鳴くことである。

 万4089番の長歌には、長歌らしい尻取り式の言葉の連続が見られる。霍公鳥を歌うにもかかわらず、前半では天皇を讃美する歌にあるような語句が陳述されていく(注7)。その理由は、越中の国司として赴任している家持が執務するとき、まるで大極殿にある高御座のような帳台に鎮座していたからである。題詞から長歌へ淀みなく続いている。後半では、卯の花、橘、ホトトギスがあわせ詠まれるが、当然ながら実景ではない(注8)。

 高たか御み座くら 天あまの日ひ継つぎと すめろきの 神の命みことの 聞きこし食をす 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥ももとりの 来居きゐて鳴く声 春されば 聞きの愛かなしも いづれをか 別わきて偲しのはむ 卯うの花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥ほととぎす 菖蒲草あやめぐさ 珠たま貫ぬくまでに 昼暮らし 夜よ渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆なげき あはれの鳥と 言はぬ時なし(万4089)
 国衙の政庁の帳台にあって、それは高御座を模したもの、そこに御座するべきは天の日を受け継ぐ者、古に遡れば天皇の御先祖様であり、その方がお治めになる国には秀でたところがあり、秀でたといえば高いところの山がここ越中にも多くあって、いろいろな鳥がやって来て鳴く声がし、その声は春になると聞いていていとおしくあり、別にどの声がいいと言って賞美するわけでもないが、卯の花の咲く月になると、もっと聞きたいと思うように鳴く霍公鳥がいて、菖蒲草を薬玉に貫き通す頃まで、その鳴き声を昼はひねもす夜は夜通し聞いても、聞くたびに心がときめいてはああ、ああ、と溜息をつき、まったくひどく感動をよび起こす鳥だと言わない時はない。

 すべてはレトリックである。霍公鳥の鳴き声を聞いて歌を作ろうとして、それにまつわる言い回しをいろいろ思い浮かべて歌の形式に仕立てている。ヤマトコトバの修辞辞典なる事例集があるとするなら、結果的にそれに似た様相を呈している。この歌群をもって、だからどうだ、といったことを導き出そうとすると自ずと誤る。長歌冒頭に展開される虚仮おどしの表現は畏まった宣命の言い方とは異なる。歌で聞き流す分には宜しいが書き言葉にすると小ばかにしているのかと疑われる七五調である。当たり前の話であるが、歌は歌われた時に一回だけ人々の耳に触れ、公的な記録に残されるものではない。当代の事情を記した史書の続日本紀に歌謡は八首を載せるだけで、折節を飾るものではあっても事柄の主題とはなっていない。駄洒落満載のお喋りの延長を法制度内にとり込むなど滑稽でしかない。歌は、歴史を裏側から支える付属資料になることはあっても、正面切って陳述展覧するものではない。

(注)
(注1)伊藤1998.、鉄野2007.、村瀬2021.参照。
(注2)拙稿「万葉集の「幄」について(大伴家持作歌)─万3965・4089番歌─」参照(Edge 推奨)。
(注3)役所に勤める書記官が椅子に腰かけて高さのある机で書き物をしていたとする展示が平城宮跡資料館にあり、藁蓋(円座)を尻に文机でしていたとする展示が東北歴史博物館にある。天皇と国家公務員、国司と地方公務員の立場の違いを示す装置設定として椅子を考えると、後者の方が似つかわしく感じられる。小泉1995.参照。
(注4)建物の戸の代わりの幕や几帳の内側であったなら、ヤ(屋・舎)と言えば済むことで「幄」と断る必要はない。
(注5)拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照(Edge 推奨)。
 音声言語しかないヤマトコトバによってコミュニケーションをはかるためには、言葉をおもしろがり、楽しみ、覚えやすくして盛んに使うことが必要だった。地口はそのために有効な手段で、それによって無文字の言語は確かなものとして通用していた。語呂が揃うから、初めてその言葉を知る人も即座に悟るところとなり、誰も疎外することがなかった。聞いた時にわからないという人が出てくると、その時点でその言葉は後には引き継がれず消えてゆくことになる。それが無文字時代の言語の宿命だった。
 一方、文字のある言語は人を選んで平気で、識字能力の程度によって社会に階層化をもたらす。わからない人を置いてけぼりにしても言語が成り立つのは、文字で表したものに価値を置いてテキスト上の演算式が合っていれば正しいと考えることに集中しているからである。
(注6)鵜うが諾うと答える逸話については、拙稿「事代主神の応諾について」参照。
(注7)「すめろき」という語については、拙稿「田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」考─「現つ神」、「わご大君 神の命の」の正しい理解によって─」参照。
(注8)佐藤2002.は、平城京と越中とは時期が異なるといった風土事情を論じている。

(引用・参考文献)
朝比奈2019. 朝比奈英夫『大伴家持研究─表現手法と歌巻編纂─』塙書房、2019年。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注 九』集英社、1998年。
小野1980. 小野寛『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。
菊池2005. 菊池威雄『天平の歌人 大伴家持』新典社、平成17年。
木下1978. 木下正俊「「斯くや嘆かむ」という語法」『萬葉集研究 第七集』塙書房、昭和53年。
小泉1995. 小泉和子『室内と家具の歴史』中央公論社、1995年。(中央公論新社(中公文庫)、2005年。)
佐藤2002. 佐藤美知子『萬葉集と中国文学受容の世界』塙書房、平成14年。
鉄野2007. 鉄野昌弘『大伴家持「歌日誌」論考』塙書房、2007年。
芳賀2003. 芳賀紀雄『萬葉集における中国文学の受容』塙書房、2003年。
村瀬2026. 村瀬憲夫「大伴家持「独居幄裏遥霍公鳥喧作歌一首」について」『解釈』第72巻、2026年8月。

加藤良平 2026.10.21初出

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