柿本朝臣人麻呂之歌集から出たとされる歌に、求婚に対する許諾を表したと考えられている歌がある。
隼人の 名に負ふ夜声 いちしろく 我が名は告りつ 妻と頼ませ〔早人名負夜音灼然吾名謂孋恃〕(万2497)
(訳)隼人の有名な夜声のように、はっきりと私の名は申しました。妻として信頼してください。(新大系文庫本275頁)
男が女に名を尋ねるのは求婚・求愛の意思表示であり、それに答えて女が自分の名を告げれば承諾の意思表示と解せられたとする考えが定着しており、その証拠としてあげられることが多い歌である。
また、前歌(万2496)の肥人の歌と並べて九州地方の習俗に基づく民謡調の歌であるとも説かれている(注1)。
隼人(早人)は、養老令や延喜式に、①朝廷における儀式への参加、②吠声を発すること、③竹器の製作にあたること、が任務として定められている。警備の役目に就いて①②を果たしていた(注2)。万2497番歌では、夜警の声が明瞭であることを言っていて、その吠声が着目されている。
隼人の吠声は犬の吠える声と見立てられ、そうするように慣わされていた。この歌でも犬の遠吠えの声をもって隼人は夜声をあげているとしている。そして、その声をもって我が名としている。歌のために設けられた架空の話かもしれないが、この女性は自らの名を大きな声で名乗っている。何という名だったか(注3)。
犬の吠える声は、hoo や woo という声で、古語風に端的に言えば「を」という声である。つまり、自分の名を「を」と言ったと言っている(注4)。
「を」という感動詞は、また、女の応諾の声である。
否も諾も 欲しきまにまに 許すべき 貌見ゆるかも 我も寄りなむ(万3796、娘子等和歌九首)
人の召す御いらへには、男は「よ」と申し、女は「を」と申すなり。(古今著聞集331)
「を」は女の返答語として定型化していて、いいですよ、かしこまりました、了解です、と言っていることになる。求婚を受諾したということになる(注5)し、犬がいいですよと言っていることにもなる。犬の仮定は、鷹狩においてスタンバイできましたの合図と考えられる。鷹匠と犬飼が一組になって鷹狩に当たる(注6)。唱和するかのような夫と妻の関係である。それを歌ったのがこの万2497番歌である。ままごとのような求婚譚をただ漫然と陳述しているのでは少しもおもしろくない。機知に富んでいるから歌に歌われて聴衆が聞くに耐えたのである。
(注)
(注1)この点については別に論じたい。
(注2)拙稿「隼人(はやひと)について」参照。
(注3)これまで何という名前だったかについて検討されないまま、形式として大声で名前を言うことで求婚を受け入れて妻になっているのだから信頼するようにと説いているものと受け取られてきた。そこには大きな勘違いがある。
詩文のように文字に起こして抽象的な観念を表出するのと違い、歌は声に出して人々に聞いてもらう一回限りの現場に即した作品であった。とにかく一回きり、声の届く範囲の人に即座に理解されなくてはならない。もちろんつまらないものでは人々の耳目を引かない。いかに興趣ある言い回しでその場の人々にウケる内容になっているか、理屈っぽくならずに具体的に目に浮かぶような表現ができるかにかかっていた。名は言ったが何という名かはわからないというのでは隔靴掻痒、核心に迫ることがない。抽象的な話を歌われてもピンと来なく、場はしらけてしまう。
(注4)「を」という名の人がいるかと言えば、現代でも玉緒という女性名が知られているようにいたに違いないのである。正倉院文書中には「隼人竹乎売、年陸拾歳、丁(老カ)女 」と見える。「を」は男の意にもなるから、ボーイッシュな女性のことを呼んだ名前なのかもしれない。
(注5)万葉集の求婚歌とされる歌で、女性の名が「を」と仮定され、地口として楽しまれただろう歌としては、巻十二の次の唱和歌があげられる。
紫は 灰指すものそ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる児や誰(万3101)
たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか(万3102)
紫に染めるには媒洗剤として椿灰を加えるものですよ、その椿の名を冠する海石榴市の交差点に出会ったあなたはどなたですか、と問うたのに対して、たらちねの母が呼んでいる名前を申し上げたいけれど、行きずりの人が誰だか知らないのでできません、と答えている。民衆の求婚歌として知られているが、民衆とてヤマトコトバを用いていて、その修辞に劣るところは見られなかったから万葉集は採っている。
染め物をするときの染料と媒洗剤を歌に歌い込んでいるのだから、対象物のことも歌われているに違いなく、これが民衆の歌であるならそれは絹ではなく麻や苧である。そこから引き出した繊維のことをヲ(麻)という。たらちねの母は麻笥(苧桶)を使いながら植物性繊維を績んでいっている。
麻苧らを 麻笥にふすさに 績まずとも 明日着せさめや いざせ小床に(万3484)
このように、求婚歌として知られる万葉歌は、問われた女性が自分の名を答えたら求婚に応じることを表していたのではなく、女性の名前が「を」といったがために、それは許諾を表す「を」と同音だったがために受け入れたことを表しているとおもしろがることができるから、その機知を歌にして披露していたのである。すべてはヤマトコトバの修辞の問題で、「を」という名前以外の、例えば「ヌカメ」や「テコナ」のような名では話にならない。
(注6)鷹狩に必ず猟犬を伴ったかどうかは確かめられないが、「主鷹司 正一人。〈掌下調二習鷹犬一事上。〉……」(令義解・職員令)とあり、必要とされていたことがわかる。「行幸供奉飼鷹胡桃衫料細布、人別二丈一尺、袴別八尺。袴緒料帛、以二八尺一充二五腰一〈割レ五〉、飼犬人別押帽子一口〈別紺細布一尺〉、紺布衫一丈八尺、袴七尺五寸、縫縹糸五銖〈衫別三銖、袴別二銖〉、並毎年七月内縫備進二内裏一〈其数臨時定之〉。」(延喜式・縫殿寮)とも見える。
弥生時代にはすでにペットとして飼われていたらしいことが出土した骨から推測されているものの、今日のようにペットばかりに用いられていたとは考えられず、猟犬や番犬として導入されたことは疑いがない。隼人の役目の①②は番犬に擬したものと考えられ、また、③は、あるいは狩猟で得た獲物、例えばウズラを生きたまま運ぶための道具としてあてがわれたものだったかもしれない。
鷹狩に犬が伴われている文献資料をあげておく。
六条の式部卿の宮と申ししは、延喜の帝の一つ腹の御兄弟におはします。野の行幸せさせ給ひしに、この宮供奉せしめ給へりけれど、京のほど遅参せさせ給ひて、桂の里にぞ参りあはせ給へりしかば、御輿とどめて、先立て奉らせ給ひしに、なにがしといひし犬飼の、犬の前足を二つながら肩に引き越して、深き河の瀬渡りしこそ、行幸に仕うまつり給へる人々、さながら興じ給はぬなく、帝も労ありげに思し召したる御気色にてこそ、見えおはしまししか。さて山口入らせ給ひしほどに、しらせうと言ひし御鷹の、鳥をとりながら、御輿の鳳の上に飛び参りて居て候ひし、やうやう日は山の端に入りがたに、光のいみじうさして、山の紅葉、錦をはりたるやうに、鷹の色はいと白く、雉は紺青のやうにて、羽うちひろげて居て候ひしほどは、誠に雪少しうち散りて、折節とり集めて、さることやは候ひしとよ。身にしむばかり思ひ給へしかば、いかに罪得侍りけむ」とて、弾指はたはたとす。(大鏡・道長雑々物語)
加藤良平 2026.10.5初出