万葉集の一番歌
万葉集巻一の巻頭に置かれた歌は、雄略天皇の求婚の歌といわれている。原文と訓読、訳文を示す。訓読は便宜的に四行に分けて記した。
泊瀬朝倉宮御宇天皇代〈太泊瀬稚武天皇〉
天皇御製歌
籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳尓菜採須兒家吉閑名告紗根虚見津山跡乃國者押奈戸手吾許曽居師告名倍手吾己曽座我許背齒告目家呼毛名雄母
泊瀬朝倉宮に天下知らしめしし天皇の代〈太泊瀬稚武天皇〉
天皇の御製歌
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち
この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね
そらみつ 大和の国は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ居れ
吾こそは 告らめ 家をも名をも(万1)
(訳)お籠を持ち、掘串を持つてこの岡に菜を採んでいる娘さん。お家が聞きたい。名をおつしやい。この大和の国は総じてわたしの領国である。すべてがわたしの家である。わたしこそは言いましょう、家をも名をも。(武田1956.28頁、漢字の旧字体は改めた)

作者の雄略天皇は、「大長谷若建」(記)、「大泊瀬武」(紀)と表記され、いずれもオホハツセノワカタケルと訓まれている。埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の刻印にある「獲加多支鹵大王」のことで、熊本県の江田船山古墳出土の太刀銘の欠落もそれと同じであると推測されている。中国南朝の宋(420~479)に使者を送った「倭王武」であることも確実視されている。列島の東西に覇権を確立し、朝鮮半島情勢をにらみながら中国南朝に使節を送る。まさに偉大なる大王であったというのである。
男が女の家や名を聞くのは求婚を意味しているとされている。万1番歌は嬥歌(歌垣)のような民謡調を使った晴れ晴れしい歌とされ、あるいは古事記の八千矛神の求婚の歌のように演劇的な性格があるという。万葉集は御用和歌集であるかのように捉える風潮から、この歌は天皇の権威を讃えてその優しさの表れた歌、なによりも英雄の歌と考えられ、巻頭を飾るにふさわしい歌と褒めちぎられている。ただし、その根拠は印象論に基づいている。万葉集の歌に見られるわずか数例から帰納しただけで、本当にそのように解釈することが正しいのかは判断がつかない(注1)。
二行目の「家聞かな 名告らさね」の部分は、原文では「家吉閑名告紗根」である。ナの音は一つしかない。四行目との兼ね合いから補って考えている。近年の傾向として、「家告らな 名告らさね」と訓む解説書が多い。原文の「吉」字は「告」の誤写、「閑」字は「奈」の草体から誤った字と校異している。かなり強引な意改である。また、三行目の原文に「師告名倍手」とあるのを、本居宣長・万葉集玉乃小琴(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/13387386/1/7)以来、「師吉名倍手」の誤りであるとし、シキナベテと訓んでいる。
嬥歌と神の求婚歌
万1番歌の源流とされる嬥歌(歌垣)とは、山の上や浜辺、市などに、時を定めて方々から男女が集まって飲食を共にし、恋歌の掛け合いや舞踊をして仲良くなるという儀礼である。そして最終的には、性を解放なり共同所有なりをすることになる。稲の実りと、男女が交わって子が産まれることとを照らし合わせて考えたからか、現在の祭りにも性交渉をシンボリックに真似た祭礼が残っているところがある。よその人と交わる機会を設けて、それぞれの共同体の間で遺伝子を交換する機能を担っていたと指摘する人もいる。
嬥歌の起こりとしては、春に山に入ってその年の豊作を祈願する「国見」、「花見」と関係があるとされる。ただ、嬥歌のときにどのように歌の掛け合いがあったか、実例はあまり残っていない。常陸風土記に歌の様子を描写した場面があるが、歌は悲恋や失恋に際してのものである。万葉集の巻十二には、嬥歌のときの歌にふさわしそうな歌が載る。
紫は 灰指すものそ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる児や誰〔紫者灰指物曽海石榴市之八十街尓相児哉誰〕(万3101)
たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか〔足千根乃母之召名乎雖白路行人乎孰跡知而可〕(万3102)
男のほうが、きれいな紫色に染めるためには灰汁につけるものですよ、澄ましていたってしょうがないでしょう、海柘榴市の交差点に逢った子よ、あなたはどなたですか、と尋ねたのに対して女のほうは、母が私のことを呼ぶ名を申し上げたいけれど、道行く人を誰と心得ればよいのでしょうか、と和えている。
海柘榴市は、現在、奈良県桜井市金屋付近にあったマーケットのことで、嬥歌が行われていたという記事は武烈紀の初めに出てくる。太子である武烈は、物部麁鹿火の娘、影媛を妻に得ようと媒人を立てて結婚の約束をしようとした。ところが影媛は、大臣の息子、平群鮪と姦淫していたので、海柘榴市で会うことを提案した。海柘榴市で武烈は影媛の袖を引いてエスコートしているところへ平群鮪が割って入って喧嘩を売る。このとき恋敵の男同士で歌のボクシングが起きている。結局、平群氏はクーデターによって倒されてしまう。似た内容は清寧記にある。袁祁命(後の顕宗天皇)が菟田首等の娘、大魚を平群臣志毗と争うことになっている。
海柘榴市は商品を介して人々が交流する場だったから嬥歌が行われていた。万葉集巻十二の歌は嬥歌の際の問答歌と考えることができる。男が女の名前を尋ねることが求婚で、それを巡ってやりとりされているとされている。男性の方から歌い掛け、女性がそれに唱和する形をとっている。
同様の歌の掛け合いは、神の求婚の場面でも歌われている。古事記には、八千矛神(大国主神)と沼河比売とがやりとりする歌が載る。彼は彼女の家の前で歌っている。
八千矛の 神の命は 八島国 妻枕きかねて 遠々し 高志の国に 賢し女を 有りと聞かして 麗し女を 有りと聞こして さ婚ひに あり立たし 婚ひに あり通はせ 大刀が緒も いまだ解かずて 襲衣をも いまだ解かねば 媛子の 寝すや板戸を 押そぶらひ 我が立たせれば 引こづらひ 我が立たせれば 青山に 鵺は鳴きぬ さ野つ鳥 雉は響む 庭つ鳥 鶏は鳴く 心痛くも 鳴くなる鳥か この鳥も 打ち止めこせね いしたふや 天馳使 事の 語り言も 此をば(記2)
この歌に対して、沼河比売は戸を開けないで内から歌を返している。
八千矛の 神の命 ぬえ草の 女にしあれば 我が心 浦渚の鳥ぞ 今こそば 我鳥にあらめ 後は 汝鳥にあらむを 命は な殺せたまひそ いしたふや 天馳使 事の 語り言も 此をば 青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 笑み栄え来て 栲綱の 白き腕 沫雪の 若やる胸を そ叩き 叩き愛がり 真玉手 玉手さし枕き 股長に 寝は寝さむを あやに な恋ひ聞こし 八千矛の 神の命 事の 語り言も 此をば(記3)
この歌問答の特徴は、まず長いということ、そして、求婚の歌を女はきちんと聞いていて、その言葉の端々をとりあげながら歌を返した唱和の歌であるということである。もうひとつ、神語り歌である点が指摘されている。
歌の区切れに「事の 語り言も 此をば」と述べているのは、語り部の「天馳使」という。海人族と関係があるともいわれる。三人称で始まった歌が途中から一人称になり、敬語の使い方に混乱が生じている。語り手が初めは物語を客観的に叙述していたが、やがて物語の主人公に成り代わって歌うようになっているからという。神憑りと同じ形態で、演劇によって神を招いていることになるともいわれるが、興に乗ってきてただ没入しているだけであるとも捉えられる。
様式が求婚とどれほど関係するのか定かでない。それよりも、この寸劇の内容のほうが求婚に大きく関係している。笑いを誘う滑稽なものである。大国主神の名前が八千矛神となっているのは男性生殖器の勃起を表現するからという。家の外から武人姿の大人が板戸を揺すっているぞ、戸が開かないうちに鳥が鳴いて夜が明けてしまう、いまいましい鳥め、と歌いかけている。家の中からは、私はその鳥で、今はわかままで言うことを聞かないけれど、後には思いどおりになりましょうから今は殺さないで頂戴、と返ってきて、その後はたいへん官能的な歌になっていく。こういうお芝居があったら観ていてとても楽しいだろう。歌のやりとりをして、相手がかわいいと思えるから、その場が楽しいと思えるから、結ばれたくなるのではないか。
記紀の冒頭にある国生みの伝説にも、陽神(男神)であるイザナキが先に歌い、陰神(女神)であるイザナミがそれに答えて歌うのが正しいやり方であると記されている。そして、女のほうが先に歌うと不具合のある子供が産まれたという話になっている。神代紀第四段や記には、少しずつ文字や音に差異がありながらも同種の掛け合いが記されている。
紀本文
♂「熹哉、可美少女に遇ひぬること」 ♀「熹哉、可美少男に遇ひぬること」
紀一書第一
♂「妍哉、可愛少女を」 ♀「妍哉、可愛少男を」
紀一書第五
♂「美哉、善少女を」 ♀「美哉、善少男を」
記
♂「阿那邇夜志 愛袁登売袁」 ♀「阿那邇夜志 愛衰登古袁」
この問答の特徴は、短いということ、それから求婚の歌に対して女のほうもきちんと聞いていて、その言葉のほとんど全部をとりあげながら、快活に歌を返した唱和の歌であるという点である。
この趣向は万葉集にも引き継がれ、次のような問答歌となっている。ただし、拒絶されている。
丹比真人の歌一首〔丹比真人歌一首〕
難波潟 潮干に出でて 玉藻刈る 海人媛女ども 汝が名告らさね〔難波方塩干尓出而玉藻苅海未通女等汝名告左祢〕(万1726)
和ふる歌一首〔和歌一首〕
あさりする 人とを見ませ 草枕 旅行く人に 我が名は告らじ〔朝入為流人跡乎見座草枕客去人尓妾名者不敷〕(万1727)
上にあげた万3101・3102番、海石榴市の歌問答と同じく、男性が女性に名を告げるように言い、女性は旅行く人には打ち明けられないと答えている。行路者という点が万1番歌と同じである点は注目される。道行きの求婚がモチーフとして定式化していたことを窺わせる(注2)。
雄略天皇の人物像
万1番歌を歌った雄略天皇とはどのような人か。紀の記述を見ると、雄略天皇は暴君にして独善的で人の言うことに耳を貸さず、何でも自分が正しいと思っていたと記されている。紀には群臣たちと狩猟に出掛けたときのエピソードが活写されている。
冬十月の辛未の朔酉に、吉野宮に幸す。丙子に、御馬瀬に幸す。虞人に命せて縦に猟す。重れる巘に凌り長き莽に赴く。未だ移影かざるに、什が七八を獮る。猟する毎に大きに獲。鳥獣尽きむとす。遂に旋りて林泉に憩ふ。藪沢に相羊び、行夫を息めて車馬を展ふ。群臣に問ひて曰はく、「猟場の楽は、膳夫をして鮮を割らしむ。自ら割らむに何与に」とのたまふ。群臣、忽に対へまをすこと能はず。是に、天皇、大きに怒りたまひて、刀を抜きて御者大津馬飼を斬りたまふ。是の日に、車駕、吉野宮より至りたまふ。国内に居る民、咸に皆振ひ怖づ。是に由りて、皇太后と皇后と、聞しめして大きに懼みたまふ。倭の采女日媛をして酒を挙げて迎へ進らしむ。天皇、采女の面貌端麗しく、形容温雅なるを見して、乃ち和顔悦色びたまひて曰はく、「朕、豈汝が妍咲を覩まく欲せじや」とのたまひて、乃ち手を相携びて、後宮に入りましぬ。皇太后に語りて曰はく、「今日の遊猟に、大きに禽獣を獲たり。群臣と鮮割りて野饗せむとして、群臣に歴め問ふに、能く対へまをすひと有ること莫し。故、朕、嗔りつ」とのたまふ。皇太后、斯の詔の情を知りて、天皇を慰め奉らむとして曰したまはく、「群臣、陛下の遊猟場に因りて、宍人部を置きたまはむとして、群臣に降問ひたまふことを悟らじ。群臣嘿然はべりたることは理なり。且対へまをすこと難みなり。今貢るとも晩からじ。我を以て初とせよ。膳臣長野、能く宍膾を作る。願はくは此を以て貢らむ」とまをしたまふ。天皇、跪礼びて受けたまひて曰はく、「善きかな。鄙しき人の云ふ所の、『貴、心を相知る』といふは、此を謂ふか」とのたまふ。皇太后、天皇の悦びたまふを観して、歓喜盈懐ぎます。更人を貢りたまはむとして曰はく、「我が厨人菟田御戸部・真鋒田高天、此の二人を以て、加貢へて、宍人部とせむと請ひたまふ」とのたまふ。玆より以後、大倭国造吾子籠宿禰、狭穂子鳥別を貢りて、宍人部とす。臣連伴造国造、又随ひて続ぎて貢る。(雄略紀二年十月)
天皇は、獲物をその場で鮮(膾)、すなわち刺し身に調理するのは料理人にさせるのがいいか、それとも自分でするのがいいかと群臣に尋ねている。群臣たちは質問の意図がわからなかったから、顔を見合わせるばかりで返事ができずに黙っていた。すると天皇は怒り出し、近くに立っていた御者を斬り殺してしまったのだという。帰還後、皇太后や皇后がとりなして天皇はようやく事態を理解し、宍人部を設置したという話にまとめられている(注3)。
話の焦点は、群臣たちが面喰って答えられなかった雄略天皇の問い、「猟場之楽、使膳夫割鮮、何与自割。」である。天皇は当たり前のことがどうしてわからないのかと怒っている。コミュニケーションの齟齬は言葉の使い方により生じている。注目すべきはナマスという語である。「割鮮」について、前田本にナマスニツクルのようにあり、多くはそれに従っていて、他にナマスニスと訓むこともある。
是に、膳臣の遠祖、名は磐鹿六鴈、蒲を以て手繦にして、白蛤を膾に為りて進る。(景行紀五十三年十月)
……膾と煮・焼とを為り、雑に造り盛りて、……(高橋氏文・本朝月令六月)
七の牛聞きて、舌を嘗め唾を飲み、膾に切ることを効にし、宍を噉ふこと効にして、……(霊異記・中・五)
盗跖方に率を大山の陽に休みて、人の肝を膾にして之を餔はむとす。(世俗諺文・上、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3438664/1/85)
「白蛤を膾に為」るのように材料をもって膾に調理したことを述べている。これは「人の肝を膾に」するや、「ほととぎす 厭ふ時なし あやめぐさ 縵にせむ日 こゆ鳴き渡れ〔保等登芸須伊等布登伎奈之安夜売具左加豆良尓勢武日許由奈伎和多礼〕」(万4035)のようにあやめぐさを使って髪飾りに作ることと同様である。したがって、雄略紀二年十月条の当該部分に「使」とあれば、使役形ではなく材料を表すととるのが自然である。
猟場の楽は、膳夫を使ひて鮮を割らむ、自ら割らむに何与に。
天皇から問われた群臣が戸惑ったのは、膳夫を材料にしてナマスを作るのと、自らが材料になってナマスを作るのと、どちらが良いかと聞かれたと思ったからである。誰が血祭りにあげられるかわからないと怯えもし、何を言っているのか見当がつかないから即座には返答できずに呆然と立ちつくしていた。
すると天皇は怒り出して、御者として従っていた大津馬飼を斬り殺した。御者は馬を引くために馬の傍に立っていた。馬を操作して車を回せと指示が下るまで立って待っていたのである。天皇はタチマチ(忽)に答えられる問いを発したつもりだったが答えはなかった。だからタチマチ(立待)の人に八つ当たりしてタチ(大刀)を使って斬ってしまっている。群臣たちは問われた時に聞いたとおり、人を材料にしてナマスを作ろうとしているのだと思い、その噂が広まって大和国の民衆は、吉野では御者が使われたが次は我が身かとみな恐怖に慄いたという次第だった。
天皇の真意は、猟場での最大の楽しみは生きている動物をそのまま調理して新鮮なところを味わうことだから、そのために膳夫が必要だということだった。どこかにいい調理人はいないか、誰か連れて来てくれと群臣に言っていたのだが、彼らには通じなかった。~ヲシテと言わずに~ヲツカヒテと言うからわからなくなっていた。ただし、天皇の立場からすれば、人を使って何か事を成すことが常態だからそういう言い方になったとも考えられる。言葉づかいのニュアンスという点で天皇は無頓着だったということである。後文にも、「群臣に歴め問ふに、能く対へまをすひと有ること莫し。」と回りくどい言い方をしている。「……能く対へまをすひと莫し。」や「……能く対へまをさず。」と簡潔に言ってかまわないのではないか。発言にディスコミュニケーションの芽を宿す人だったらしい。
万1番歌と采女童女君
万1番歌は雄略天皇の求婚の歌とされている。しかし、求婚の歌として考えると万1番歌には似つかわしくない点がある。唱和されていない。女のほうの歌が割愛されたという可能性がないわけではないが、そういうことではないように思われる。
歌は二行ずつ、前半と後半に分かれている。前半では二行目において、五音ずつ快調に問い掛けている様子が聞こえる。「この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね」。ただし、求婚にしては態度が不遜、尊大である。
上代に「聞く」という動詞は、耳にする、聞き入れて従う、という意で使われている。この例だけ尋ねるという義を認めている。この点を嫌い誤写説が浮上している。「…… 家問へば 家をも告らず 名を問へど 名だにも告らず ……〔……家問者家乎母不告名問跡名谷母不告……〕」(万3336)の例を参照している。また、「告る」は、神仏や天皇が、その神聖な意向を正式に人民に表明すること、みだりに口にすべきではないことを言うことの意で使われるという。名前は個人情報に当たり、秘密を明かすことになるから「告る」というのだとされる。「…… 国問へど 国をも告らず 家問へど 家をも言はず ……〔……邦問跡国矣毛不告家問跡家矣毛不云……〕」(万1800)のように防人の故郷がどこかをみだりに明かさないとしているのは、この防人は亡くなっていて口にできないからで、そのことを大げさに表現しているのである。
ナやサネは親愛の情を表すものである。「汝が名告らさね〔奈何名能良佐祢〕」(万800)という例もある。ただ、万1番歌では言い方をやわらげてはいるが、脅迫的な物腰に変わりはない。初めて会った若い女性に対して高圧的な態度をとっている。歌の後半では七五調に変わり、自分が天皇であることを居丈高に誇示している。相手の女性など構わず自分のことばかり喋っている。八千矛神の歌にあったような笑い、楽しさは一切感じられない。お茶しない? ドライブしない? といった誘いの常套句が見られない。とても通例のナンパとは思われない。
歌には前半と後半との間に時間差があるように思われる。前半を歌って答えが返ってくるのを待っていた。ところがいくら待っても返事は来ない。別に相手が逃げていったわけではない。女性は籠と掘串を持ったまま、ちょっと後ずさりして茂みに隠れたぐらいだったのだろう。ところが、それだけで雄略天皇は業を煮やして態度が変わる。自分の方から言おう、おれは大王だと。この間のギャップは、求婚の歌が求婚の歌として機能していないことを示している。言葉によるコミュニケーションが成立していないのである。
日本書紀のなかで万1番歌が歌われたとはっきりわかる箇所はない。ただし、横柄な求婚の歌に相当しそうな箇所はいくつかある。ひとつは部下の妻をめとって強引に妃にしたところである。雄略七年に、吉備上道臣田狭は大切にしていた妻の稚媛を天皇に奪われている。宮中で同僚と話をしているとき、妻が美人であると自慢しているのを天皇が聞きつけた。そこで天皇は自分のものにしようと思い、吉備上道田狭には朝鮮半島の倭国の総領事館、任那国史に任命して派遣した。その隙に奪取している。
俄ありて、天皇、稚媛を幸したまふ。(雄略紀七年是歳)
吉備上道田狭は恨みに思い、当時、倭国と国交を断絶していた新羅に身を寄せ、百済と通じてをあざむこうとした。話は逸れていって、倭から派遣された討伐軍の大将、これは稚媛が田狭との間にもうけた次男であるが、それが使命を果たさなかったところ、その妻が国家に忠実であったといった話になり、やがて渡来したことに終わっている。話が混線しているが、天皇に対して部下があからさまな叛意を示すものとして紀のなかでも珍しい箇所とされている。
紀の記事には「俄くありて」と短期間の猶予があったらしいことが示されており、その間に天皇は万1番歌を歌って手に入れようとしたのだろうか。しかし、そのようには思われない。豪族の器量良しの人妻が歌の設定にあるように山菜を掘り取っていたというのはおかしいし、天皇の歌に対しても応酬がありそうなものである。歌問答になっていないことの説明がつかない。
他の可能性として、春日和珥臣深目の娘、童女君を得たときがあげられる。皇統譜に人物紹介されている。
次に春日和珥臣深目が女有り。童女君と曰ふ。春日大娘皇女〈更の名は高橋皇女。〉を生めり。童女君は本是采女なり。(雄略紀元年三月是月)
采女は天皇の後宮に仕える最も下級の女官である。地方の豪族、後には地方官の子などが貢ぎ物の形で天皇に献上された。容姿端麗なものが選ばれ、雑事や衣服の裁縫などに従事した。采女の制度が日本書紀に初めて見られるのは大化改新の詔においてであるが、それ以前から何らかの形で存在していたものを整えて制度化したのが大化改新期だったと考えるのが妥当だろう。
紀において天皇が采女と交わって皇子、皇女をつくったと皇統譜に明記されているのは、敏達・舒明・天智天皇である。また、皇柄が断えそうになって迎えられた継体天皇は、即位以前に地方豪族の娘を数多く娶っていたようである。他にも、古い時代の天皇には妻の出自が不明なものもある。当然、時代が古ければ天皇が実在したかどうか、治世の年代も遡って記されたという問題もあり、後宮の制度の程度もわからない。五世紀の雄略天皇と六世紀の敏達天皇、七世紀の舒明・天智天皇を単純に比較することはできない。それでも日本書紀の記事は、天武朝期に理解されるように執筆者によってまとめられたと考えられる。雄略天皇の五世紀の時点で制度として采女はなくとも、それと同等のものがあったから采女と書いたことは確かだろう。
雄略天皇は采女、童女君と関係を結んだ。たった一晩の交わりで子供ができたので天皇は自分の子ではないのではないかと疑っている。神代紀第九段には、降臨した天孫のホノニニギが鹿葦津姫(木花開耶姫)と一晩交わり、妊娠したという場面がある。わずか一晩の交わりで子供ができるのかと疑いをかけたため、木花開耶姫は意地になって産屋に火を放ち、赤子が火傷をしなかったら本当に天神の子供であると誓いを立てたという。童女君の場合、話は異常に生々しく、おとぼけに作られている。一晩に何回交わったかと聞けば、雄略天皇はお盛んなことに七回に及んだと白状している。それを聞いた物部目大連は天皇を諭しにかかり、大仰なことまで言って懇々と説いている。
天皇、一夜与はして脤めり。遂に女子を生めり。天皇、疑ひたまひて養したまはず。女子の行歩するに及りて、天皇、大殿に御します。物部目大連侍ふ。女子、庭を過る。目大連、顧みて群臣に謂りて曰はく、「麗きかな、女子。古の人、云へること有り。娜毗騰耶皤麼珥。〈此の古語、未だ詳ならず。〉清き庭に徐に歩く者は、誰が女子とか言ふ」といふ。天皇の曰はく、「何の故に問ふや」とのたまふ。目大連、対へて曰さく、「臣、女子の行歩くを観るに、容儀、能く天皇に似れり」とまをす。天皇の曰はく、「此を見る者、咸言ふこと、卿が噵ふ所の如し。然れども朕、一宵与はして脤めり。女を産むこと常に殊なり。是に由りて疑を生せり」とのたまふ。大連、曰さく、「然らば一宵に幾廻喚ししや」とまをす。天皇の曰はく、「七廻喚しき」とのたまふ。大連の曰さく、「此の娘子、清き身意を以て、一宵与はしたまふに奉れり。安ぞ輙く疑を生したまひて、他の潔く有るみを嫌ひたまふ。臣、聞る、産腹み易き者は、褌を以て体に触ふに、即便ち懐脹みぬと。況むや終宵与はして、妄に疑を生したまふ」とまをす。天皇、大連に命して、女子を以て皇女として、母を以て妃とす。是年、太歳丁酉。(雄略紀元年三月是月)
童女君から生まれた女児が宮殿の庭を横切ったのを見た時に物部目は昔話を始めている。「娜毗騰耶皤麼珥」には「此古語未詳也」と注がついているが、「汝人や母似」と訓まれている。お前はお母さん似か、の意味である。日本書紀の歌の部分は一字一音の書き方で難しい字が連続する。ふつうの会話文は漢文調で書かれている。ここは会話のなかで昔の人の慣用句を引用したところである。大意は、物部目が振り向いて群臣たちに言い伝えを語った。「かわいい女の子がいたら、昔の人はこんな風に言ったものさ。ナヒトヤハバニ? ってね。この場に即していうなら、箒できれいに掃き清めた庭をごゆっくり歩くとは、どちらのお嬢さんですかな? っていう意味さ」と言った。
何とも持って回った言い方である。物部目は天皇を前に座している。そして群臣の方へ振り返って話をしている。声の聞こえている天皇に対してこの子を認知してあげるようにと伝えているのである。しかし、それだけでこれほど回りくどい言い方はしないだろう。物部目が実際にどう話したかではなく、日本書紀の記者がわざわざ面倒くさい書き方をしていることが問題である。女児の父親が問題なのではなく、むしろ母親のほうを問題にしているのではないか。だから、「汝人や父似」ではなく、「汝人や母似」なのではないか。
母親は春日和珥臣深目の娘、童女君であり、もとは采女であったということになっている。ところが、春日和珥氏は大和朝廷の雄族で、妃になるような娘を輿入れすることはあっても采女のように低い身分の女性を捧げる家柄ではない。童女君は春日和珥深目の本当の娘ではないらしい。童女君は春日和珥氏に仕えていた下女か春日地方の百姓の娘のような存在で、天皇は一目惚れした挙句に関係を持った。その時に万1番歌は歌われて采女として採用され、子をもうけたために妃の地位を与えられたということか。ただし、歌から聞こえる印象はそれだけでは説明がつかない。
一番歌の真相と顛末
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち
この岡に 菜摘ます児 家聞かに 名告らさね
そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそ座せ
我こそは 告らめ 家をも名をも(万1)
(大意)バ・バスケットを持ち、ス・スコップを持って、この岡で菜を摘んでいる娘子、そなたの家を聞いたことがないが、名を言っておしまいなさい。……この大和の国は、何であれ押して靡かせて我は居る、誰であれ触って靡かせて我はいらっしゃる。その我こそ家をも名をも告げ知らせよう。なのにお前はいつまで黙っているんだ。
前半は問い掛けである。スコップを手に岡で菜を掘り取っている娘は家なき子なのだろう。家を聞いてもないものは答えられないに違いない。でも、名は答えられるだろうと迫っている。だが、娘は答えない。天皇はその状況を把握できずに興奮して吠えている。それが後半である。狩猟に行って獲物を刺し身にするのは板前さんがいいか、自分でするのがいいか、と聞いたつもりが逐語的に受け取られて意図が通じず、答えが得られず、苛ついてたまたま側にいた御者を斬り殺してしまう天皇である。いつまでも答えない村娘(?)に対してどうしたか、推して知るべしである。最終的に皇統譜に記されるほどの結末となっている。見るに見兼ねる嫌なお芝居が演じられたらしい。
原文「家吉閑名告紗根」の「閑」の字は中国の中古音では ɦʌn で、頭子音は息を大きく吐き出して喉を鳴らす音、母音は口をあまり開かない音で、上代の音にないからヤマトコトバには対応する音がなく、万葉仮名のカやカナには当たらないとする説がある。他の万葉仮名の例を見ると、kam 音に当たる「甘」や「敢」はカ、カムと訓み、kan 音に当たる「漢」や「干」はカ、カニと訓んでいる。それに従えば、「閑」はカ、カニと訓むことができる。「家吉閑」で「家聞かに」と訓み、「に」は否定の助動詞「ず」の古形であると考えられる。
…… そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも〈一に云ふ、さす竹の 皇子の宮人 行方知らにす〉〔其故皇子之宮人行方不知毛〈一云刺竹之皇子宮人帰邊不知尓為〉〕(万167)
昨日今日 君に逢はずて する術の たどきを知らに 哭のみしそ泣く〔伎能布家布伎美尓安波受弖須流須敝能多度伎乎之良尓祢能未之曽奈久〕(万3777)
「家吉閑名告紗根」で「家聞かに 名告らさね」と訓み、家のことはさて聞いたことがない、名前を言ってごらん、と言っている。採集生活者には家がなく、放浪しているのは不思議ではないけれど、彼女は菜を摘んでいるのだから名はあるのだろうという理屈で迫っている。
「家聞かに」は意味としては「家聞かず」と同じで、家柄が低いどころか私生児の類で家なき子であることを表している(注4)。「閑」は閑静の閑、しずかの意で、音がないこと、噂にも聞いたことがないことを表す義訓としてまで含めて用いられている。家のことを聞いたことがないのは寡聞だからではなく、実際に家を持たないことが想定されているのである。
三行目の原文にある「吾許曽居吾己曽座」の「居」と「座」は、記2番歌謡のように話者が冷静さを欠いていく様子を表すものと受け取れる。すなわち、「居」はヲル、「座」は自称敬語としてのマスである。
また、「師告名倍手」にある「告」の字は「吉」の誤りではない。雄略天皇は他の皇位継承候補者に対して次々に軍を派遣して位に就いているから、字義から師に告ること、いくさだちのお触れを出していることを指している。
国司等に経れて、諸軍を差し発して、急に不破道を塞け。」(天武紀元年六月)
壬申の乱の開始を語る箇所で、軍事動員のお触れを言っている。法令の布告のように師人の通告もお触れである。
万葉集の用字法上、「師告」は熟字の義訓とも見えるが、反切として捉えるなら〔師告切〕となり、隋唐期の北方音では sãok であり、触は tʃ’ɪok と発音したものと推定される。いずれもヤマトコトバではシヨクである。字義でも字音でも符合するようになぞなぞ仕立てで表記されているとわかる。
「触る」という言葉は、法に触れることを触法というように、触れてはならないものに触れる意味がある(注5)。日本書紀のなかでは、三種の神器のうちの八咫鏡が天石窟戸に触れて傷がついてしまったり、大蛇の毒に触れて人が死んでいたり、船が岸や島に触れて難破するなど、差し障りがある例が見られる。歌謡にも例がある。
あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下泣きに 我が泣く妻 片泣きに 我が泣く妻 昨夜こそ やすく肌触れ(紀69)
允恭天皇の太子であった木梨軽皇子が、同母妹の軽大娘皇女と不義の交わりをなしたときの歌で、古事記にも同様の歌が載る(記78)。タブーとされることを侵犯することを語るのに、肌に接触することを絡めた言葉づかいをして歌に仕上げている(注6)。
雄略天皇は家臣からの上申をとりあげることが少なく、武力を万能と信じて軍事クーデターによって位に就いた天皇である。タブーをタブーと思わずに行動するのが常だった。つまり、それまでの常識では手を着けることが憚られたことにも接触を試みて、なし崩し的に自分の意志を実現させていっていたのである。「触れなべて」、つまり、「たやすくは接触しないものに瞬間的にちょっと接触し、反応を感じる」(岩波古語辞典1176頁)ことをしては相手を自分に靡かせていたというのであり、化外の民をヤマトへ組み入れていっていたことをうまく言い表している。なぜそこにいるのかわからない採集民の娘を手籠めにすることも、同化の一つとして見なしている。
その場でいきなり交わらさせられた娘は雄略天皇のあとを付いて来たのではないか。襲われた女性が男のあとを付いて来るかどうかは五分五分の確率だろう。この場合は付いてきた。それで春日和珥氏の娘ということにして采女に採用した。生まれた女児の養育費を出し渋ったのも、身分というよりも種族を越えた関係だったから天皇がためらったためとも想像される。物部目はそれを諌めるために不思議な昔言葉を持ち出した。日本書紀の奇妙な記事は、その一連の展開を何とか後世に伝えようと苦労した形跡のように感じられる。
そう考えると、古事記に記された次の説話の意味も明瞭になる。金鉏の岡の求婚話として雄略記に載せられている。
又、天皇、丸邇之佐都紀臣が女、袁杼比売を婚ひに春日に幸行しし時に、媛女、道に逢ひき。即ち幸行すを見て、岡の辺に逃げ隠りき。故、御歌を作りたまひき。其の歌に曰りたまはく、
媛女の い隠る岡を 金鉏も 五百箇もがも 鋤き撥ぬるもの(記99)
故、其の岡を号けて金鉏岡と謂ふ。
歌の内容は、娘が隠れている岡を、金属製の鋤があれば、五百丁もあれば、ブルドーザーのように一気に土をはねのけて捕まえてしまうものを、というものである。印象は万1番歌の後半とよく似ていて荒っぽい。強引かつ威圧的である。求婚の話なのか奴隷狩りの話なのか、区別がつかなくなっている。
女性の属性もつながっている。記の「丸邇之佐都紀臣」は紀の「春日和珥臣深目」に相当する。名前が佐都紀と深目とで違っているが同一人物である必要はない。天皇が道で出会った名もない「媛女」の代理父に、春日和珥(丸邇)氏はなればよいだけだからである。
「袁杼比売」は「媛女」とクロスオーバーする名で、紀では「童女君」と呼ばれていた。いずれもヲトメ(ヲミナ)という普通名詞をそのまま固有名詞に変えたものである。万1番歌において相手の娘が答えなかったのは、名前がなかったから返事のしようがなかったということである。表しようがないところを名前らしくネーミングした。娘は物体として押したり触れたりして靡かされ、聞こし召されたのである。
名とは呼ばれるものである。人々からそう呼ばれているものが名である。しかし、人が通わない岡を一人経巡って採集生活をしている未開の民には、そもそも他者との交渉が皆無であり、呼ばれることがないから名前というものがなかった。そして、おそらく言葉も持っていない。それが名がないということの背後に控えている事情である。古墳時代当時、実際にそのような人が列島に暮らしていたかは不明であるが、応神紀には吉野の山奥で暮らす国樔のルポルタージュが記されている。彼らは集団で暮らしていたから蝦夷と同様、ヤマトコトバとは異なる言語を使い、一人一人には名前もあっただろう。他方、言葉を持たず、識別する理由もなく名がない場合には、見出された時に普通名詞をもって命名して固有名詞とするのが落ちだろう。アイデンティティを表すうえで、少女Aというよりも The 少女と言った方が適している。
万葉集の一番歌は、天皇が浮浪する化外民と遭遇し、野合に及ぶや一晩に七回レイプするに至った時の歌である。この歌が巻頭に掲げられているということは、これまでの万葉集観を大きく揺るがすものだろう。そしてまた、その答え合わせが日本書紀を見比べ検めるうちにできるということは、日本書紀の編纂に関わった人との濃密な連繋を物語る。あるいは日本書紀の編纂者が、種本に載っていたが紀に清書することが憚られた歌謡をメモして家に持ち帰り、万葉集の巻頭に据えたのではなかったか。それはまるで箴言を引用して見返しを飾るように、歌とは何かを質しながら現存最古の歌集は私秘撰の形で編まれ始めたようである。何が書いてあるのか訓めない万9番歌のように、意図的に難訓にしている理由はそのへんにあるらしい。しかるに、センセーショナルな歌集として始まった万葉集は、文字時代の到来という言語活動上の大転換に見舞われて当初の意図は伝わらなくなり、歌集の性質も大きく様変わりしていったようである。
(注)
(注1)名前を知らない男女が会って名前を聞いて答えたらそれでプロポーズは成功で即結婚となるのだという提題に結びつくのは、全四千五百首を数える万葉集の歌において、万1番歌と、万1726・1727番歌の丹比真人の歌、万3101・3102番歌の海柘榴市での問答歌程度である。今日、家や名前を教えたら犯罪に巻き込まれかねないから教えないのが賢明だとされているところ、万葉時代には即結婚へと結びつくものなのだという牧歌的にして非常識な眉唾説を築くにはあまりにも根拠薄弱ではないか。
(注2)拙稿「丹比真人の「名告さね」の歌」参照。名前を尋ねることが求婚であることを主題としているというよりも、旅路にある人に対する常套的な断り方について歌に作っているように感じられる。
(注3)講評として次のような記事が続いている。
天皇、心を以て師としたまふ。誤りて人を殺したまふこと衆し。天下、誹謗りて言さく、「大だ悪しくまします天皇なり」と。唯、愛寵みたまふ所は、史部の身狭村主青・檜隈民使博徳等のみなり。(雄略紀二年十月是月)
この天下の声は日本書紀の編集デスクの創作と考えられる。四年二月条に、天皇が葛城山に狩猟した際、一事主神に出会う場面がある。古事記にも同じストーリーが載っている。記では一事主神に対して天皇が、「其の名を告れ」と喧嘩腰に問い、相手が神であると知って恐れ入っている。紀では話の結末に、「是の時に百姓、威に言さく、「徳しく有します天皇なり」とまをす。」(雄略紀四年二月)とある。評価は正反対であるが言述の形式は同じである。記者はこれを借りて雄略天皇の実像を伝えたかったらしい。激怒型で人の言うことに耳を貸そうとせず、イエスマンばかりを周囲に置きたがる偉ぶった人はいつの世にもいる。
(注4)この歌の「家」については、氏素性・家族、family のことをいうとする説と、建物・土地区画、house のことをいうとする説がある。この点を問題とすること自体、ナンセンスと言わざるを得ない。放浪者には house、family の二つともない。さらに彼女には名前もなかった。
(注5)諸辞書で、フル(触)(四段、下二段)の義に禁忌に対する触法性を強調する解説は見られず、白川1995.でも「触(觸)」字は国語の「障る」と語義が近いとしている(636頁)。岩波古語辞典には、「後難のあるものなどに、ふとさわる。」(1176頁)との注釈がある。
(注6)類例は万葉集にも見られる。
神樹にも 手は触るとふを うつたへに 人妻といへば 触れぬものかも〔神樹尓毛手者触云乎打細丹人妻跡云者不触物可聞〕(万517)
味酒を 三輪の祝が 斎ふ杉 手触れし罪か 君に逢ひ難き〔味酒呼三輪之祝我忌杉手触之罪歟君二遇難寸〕(万712)
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加藤良平 2026.10.1初出