大化改新後の政争において、大化五年(649)、左大臣蘇我倉山田石川麻呂は讒言によって殺された。石川麻呂の娘、造媛は中大兄に嫁いでいて、父親の後を追って自殺している。彼女は名前がいろいろと変わっていて、遠智娘、美濃津子娘とも記されている(注1)。造媛が父親の石川麻呂が斬首にされたことを聞いて、刀を使って実行した人物の名が「塩」といったために salt のシホという言葉を聞くのも嫌がった。
皇太子の妃蘇我造媛、父の大臣、塩の為に斬らると聞きて、心を傷りて痛み惋ふ。塩の名聞くことを悪む。所以に、造媛に近く侍る者、塩の名称はむことを諱みて、改めて堅塩と曰ふ。造媛、遂に心を傷るに因りて、死ぬるに致りぬ。皇太子、造媛徂逝ぬと聞きて、愴然傷怛みて、哀泣ぶること極めて甚なり。是に、野中川原史満、進みて歌を奉る。歌して曰はく、
山川に 鴛鴦二つ居て 偶よく 偶へる妹を 誰か率にけむ 〈其一〉(紀113)
本毎に 花は咲けども 何とかも 愛し妹が また咲き出来ぬ 〈其二〉(紀114)
皇太子、慨然頽歎き褒美めて曰はく、「善きかな、悲しきかな」といふ。乃ち御琴を授けて唱はしむ。絹四匹・布二十端・綿二褁賜ふ。(孝徳紀大化五年三月是月)
造媛の近侍の者たちは、奥方に気を使ってシホと言わずにキタシと言ったという話である。新編全集本日本書紀に、「父を殺した人の名が「塩〈しほ〉」なので、娘造媛は「塩」という言葉を忌み、「堅塩〈きたし〉」といったというのである。キタシはキタシ(堅)シホ(塩)の縮約。キタシとカタシは音通。「堅塩〈きたし・かたしほ〉」は、塩のにがりを除くために土堝に入れて焼き、固い塊となるので「堅塩」という。」(178頁)とする。

注釈として間違ってはいない(注2)が、思慮の浅い解説である。その程度のことをわざわざ後世に伝えようとするほど、無文字時代の上代人の言語能力は低くない。言葉としてずっと込み入った事情を伝えているものと思われる。第一に、忌む言葉として有名な斎宮忌詞に関係する点があげられる。斎宮忌詞(注3)に「涙」を「塩垂」と言っている。延喜式に載る斎宮忌詞がいつからあるかはわからないが、上の記事に、「涙」を流す→……→「塩」というつながりで記されているように感じられる。「傷レ心痛惋、悪レ聞二塩名一」という記述は、「塩」という名を聞くことはそもそもが斎宮忌詞にいう塩垂、涙を流すことを連想させるのに、さらに輪にかけて、物部二田造塩という名の人に父親が首斬られたのだから、悲しみが倍増している。造媛自身、困ったことに自分の名はミヤツコである。物部二田造塩にあってはミヤツコは姓に当たり、悪い奴と同じ名を負っている。なぜ姓が同じぐらいで深刻になるかと言えば、カバネとはシカバネともいうように、亡骸、骨の意だからである(注4)。父親が亡くなっていて、屍の骨がおもちゃにされてしまった。物部二田造塩については人斬り以蔵的なイメージがある。大化五年三月二十六日の出来事は、造媛にとって痛ましく辛かった。
庚午[二十六日]に、山田大臣の妻子及び随身者、自ら経きて死する者衆し。穂積臣嚙、大臣の伴党田口臣筑紫等を捉ゐ聚めて、枷を著け反縛れり。是の夕に、木臣麻呂・蘇我臣日向・穂積臣嚙、軍を以て寺を囲む。物部二田造塩を喚して、大臣の頭を斬らしむ。是に、二田塩、仍ち大刀を抜きて、其の宍を刺し挙げて、叱咤び啼叫びて、始し斬りつ。(孝徳紀大化五年三月)
とんでもない話を聞かされてしまった。父親、家族、召使一家、首を括って自害している。それだけではない。当初、審問官であった穂積臣嚙は凶暴な物部二田造塩を喚び寄せている。息絶えている父親の遺体をたてて(注5)、大声をあげながら首を斬り落とした。それが律にいう斬首の刑(注6)に当たり、はじめての斬として公然と執り行われている。「叱咤啼叫」だから「咄嗟」とでも言って大刀を揮っている。自分の夫が実家の父親を殺させている。指図したわけでなくても不作為にしてそうなっている。自決しているのにさらに死者に鞭打つどころか首を斬り落とさせている。自分の夫である中大兄は、乙巳の変の時に蘇我入鹿を殺させるために掛け声を発していた。「中大兄、子麻呂等の、入鹿の威に畏りて、便旋ひて進まざるを見て曰はく、『咄嗟』とのたまふ。」(皇極紀四年六月)。心を持つまともな人にとっては耐えられることではなかった。造媛は気が狂って父親の後を追ったのではなく、まともだから生き続けることができなかった。
この「造媛」という人は、蘇我倉山田石川麻呂の娘であるが、そのうちの二番目の子であろう。最初に登場するのは、中大兄に嫁ぐときのことである。今回、皇太子中大兄に讒言して蘇我倉山田石川麻呂を殺すように仕向けた首謀者、蘇我日向、字を身刺という人物は、そのときにも登場している。中大兄は蘇我蝦夷・入鹿のいわゆる蘇我本宗家に対するため、蘇我氏の別流の倉山田石川麻呂の長女を嫁に迎えたらいいのではないかと中臣鎌足の提案を受けて政略結婚が取り決められた。ところがその「長女」は蘇我日向(身狭)に誘拐された。ピンチヒッターに「少女」が立っている。それが造媛、親孝行な娘である。話として、二回とも蘇我日向(身刺)は、中大兄と蘇我倉山田石川麻呂との間の関係を壊す役柄となっている。
是に、中臣鎌子連議りて曰さく、「大きなる事を謀るには、輔有るには如かず。請ふ、蘇我倉山田麻呂の長女を納れて妃として、婚姻の眤を成さむ。然して後に陳べ説きて、与に事を計らむを欲ふ。功を成す路、茲より近きは莫し」とまをす。中大兄、聞きて大きに悦びたまふ。曲に議れるに従ひたまふ。中臣鎌子連、即ち自ら往きて媒ち要め訖りぬ。而るに長女、期りし夜、族に偸まれぬ。〈族は身狭臣と謂ふ。〉是に由りて、倉山田臣、憂へ惶り、仰ぎ臥して所為を知らず。少女、父の憂ふる色を怪びて、就きて問ひて曰はく、「憂へ悔ゆること何ぞ」といふ。父其の由を陳ぶ。少女曰はく、「願はくはな憂へたまひそ。我を以て奉進りたまふとも、亦復晩からじ」といふ。父、便ち大きに悦びて、遂に其の女を進る。奉るに赤心を以てして、更に忌むること無し。(皇極紀三年正月)
結局、倉山田石川麻呂の「少女」の方が自ら進んで中大兄に嫁いでいる訳であるが、彼女の名前をきちんと記した報告書としては天智紀の皇統譜によるしかない。
二月の丙辰の朔戊寅に、古人大兄皇子の女倭姫王を立てて皇后とす。遂に四の嬪を納る。蘇我山田石川麻呂大臣の女有り、遠智娘と曰ふ。〈或本に云はく、美濃津子娘といふ。〉一の男・二の女を生めり。其の一を大田皇女と曰す。其の二を鸕野皇女と曰す。天下を有むるに及りて、飛鳥浄御原宮に居します。後に宮を藤原に移す。其の三を建皇子と曰す。唖にして語ふこと能はず。〈或本に云はく、遠智娘、一の男・二の女を生めり。其の一を建皇子と曰す。其の二を大田皇女と曰す。其の三を鸕野皇女と曰すといふ。或本に云はく、蘇我山田麻呂大臣の女を芽淳娘と曰ふ。大田皇女と娑羅羅皇女とを生めりといふ。〉次に遠智娘の弟有り、姪娘と曰ふ。御名部皇女と阿陪皇女とを生めり。阿陪皇女、天下を有むるに及りて、藤原宮に居します。後に都を乃楽に移す。〈或本に云はく、姪娘を名けて桜井娘と曰ふといふ。〉……(天智紀七年二月)
嬪四人のうちの二人が石川麻呂の娘である。「遠智娘(美濃津子娘、芽淳娘)」と「姪娘(桜井娘)」である。一般的には、「美濃津子娘」は「三野津子娘」などと記されていたのを誤って写したもので、「造媛」のミヤツコがミノツコとなっていると考えられている。ミヤツコを「三野津子」などと表記したのが誤読されてミノツコに変じたという。筆者は、単なる誤写ではなく、意図的、作為的な改変ではないかと考える。彼女は、自分の父親を斬首した物部二田造塩が許せない。血潮にまみれて喜んでいた奴が死んでも許せないと感じていた。きっと物部二田造塩は、血潮のことを斎宮忌詞流に、いい仕事をして「汗」をかいたと笑っていたのだろう。だからこそ、シホという言葉は侍者に忌み言葉として扱われている。後を追って死んでしまった造媛を、名前を同じミヤツコ(ヒメ)と呼んでいてはかわいそうである。浮かばれないではないか。名前を変えてあげよう。ミヤツコヒメ→ミノツコヒメ(ミ・ノ・コはともに甲類)である(注7)。
「三野津子」などと記したことによって生じた訓から生じたことを否定するつもりはないが、それだけの理由で積極的に名前を変えることは上代の言霊信仰下において疑問である。大化改新前の騒動の時、「赤心」(注8)を抱いて自らをいわば犠牲にして政略結婚に応じて中大兄に嫁いだのは、嬪の筆頭にあげられている「遠智娘」で間違いない。誠なる性根だからこそ父親の死にショックを受けて後を追っている。
「遠智娘」という名がいつからあったかはわからない。女の子が何人もいて、最初の子は「長女」で、二番目の子の呼び名である。年下の子はオト(弟・娣)である。さらに三番目の子が登場してしまったので、二番目のオトを叔、オトヲヂ(叔父、伯父に対する語)と捉え直して三番目をそれに対するメヒ(姪)として定めた。すると二番目の娘は女の子だからヲヂではなくてそれに近いものとしてヲチとして落ち着かせたと推定することができる(注9)。
最初の婚姻の個所では、「長女」対「少女」という並びであった。名前などどうでもいい扱いと思われていた。より正確にいえば、呼ばれるもの、それが名前であって、どう呼ばれたかが問題なのである。結果的に、ヲチ(ノイラツメ)と呼ばれている。ヲチといえば、遠いところのヲチ(彼方)の意があり、彼岸へ逝ってしまった人であり、以後のことを示すヲチ(遠)の意がある。結婚騒動で善後策をとってくれた人であるし、元に戻って若々しくあることをいうヲチ(復若)の意があり、若い良い人を亡くしたのでそう呼んで悼んだものと思われる。つまり、死後に授けられた諱である。忌み名の意である。近侍者はシホ(塩)をキタシ(堅塩)という忌み名で呼ぼうと取り決めていた。天皇でもないのに諱で呼ばれ、「遠智娘」という名で呼ばれることとは忌み名の人という意味である。最初に「少女」として登場した時も、「奉以二赤心一、更無レ所レ忌。」とある。厭うことなく寛容であった。日本書紀編纂者の通念として、彼女は「忌」の人、くだけて言えば恨みっこなしの人と認識されている。最終的に、恨みっこなしにはできない事態に遭遇し、看過できずに自らこの世から出て行くこととなった。自己循環的に、名前がそのものとしてから名づけられている。上代の言語論理の特徴に合致していて正しいと知れる。言葉に依って立つ意味をそれ自体に含めてしまう二重化が起こっている。
ミヤツコはミ(御)+ヤツコ(奴)の約とされる。ミノツコはミ(御)+ノ(野)+ツ〈助詞〉+コ(子)、つまり、野辺送りのノ(野)の意味合い、墓守の奴の意へと転化可能である。そしてまた、後追い自殺した人の名とするのにも相当である。それも、彼女の人生の節目の原因をことごとく作った人物、蘇我日向、字を身刺(身狭)という人物が、ヒムカ(日向)、ムザシ(武蔵)という国の名を負っていることに対抗して、ミノ(美濃)という国の名を当てたということだろう。追号されて美濃守を賜っているのに相当する。遠国の日向国や武蔵国ではなく、ずっと都に近い美濃国を与えられている。日向の方、つまり、蘇我日向は左遷されている。「即ち日向臣を筑紫大宰帥に拝す。世人相謂りて曰はく、『是隠流か』といふ。」(孝徳紀大化五年三月是月)(注10)。大宰府は筑紫国にあり、古くは日向も筑紫国の一部であった。神代紀第九段一書第一に「筑紫の日向の高千穂の槵触之峯」とある。
では、なぜ、美濃国が選ばれたか。ミヤツコを「三野津子」などと記されたのが契機となって、「三野」は美濃国の字に用いていた(注11)からそういう流れからそうなったことに違いはない。ただし、それを積極的に支持する上代人の思想がありそうである。野というのは、武蔵野というように台地のことである。それが三つあるのが「三野」である。三つ野があるとは、川が流れて間を区切っていることをいう。河岸段丘になっている。すると、川の流れは字形としてY字、または、人字である。造媛は無実の父親の死に殉ずるに準じた形になっている。漢字の国の儒教道徳に照らしてまことあっぱれな「人」であると認められる(注12)。万葉集でも、「人」という言葉は立派な人のことを指して使われることがある。
…… 吾を措きて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば …… (万892)
つまり、ミヤツコという名を表記するに当たり、書記者は意図して「三野津子」というように記してミノツコへと改変しようとしたものと考えられる。

実際の美濃国については、古代から紙が特産品として知られていた。美濃紙である。延喜式・内蔵寮式に、「年料に造るところの色紙四千六百張……毎年図書の長上一人を差し、美濃国に遣はして造らしめよ。」とある。古代の紙の需要に一番多かったのは経の書写である。蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いで追討されたのは山田寺である。経の書写には色染めした紙が使われている。防虫効果を狙ったものともいわれる。斎宮忌詞に経のことを「染紙」という。忌詞つながりでも、ミヤツコヒメ(造媛)を改めミノツコヒメ(三野津子媛)とすることに矛盾がない。
また、美濃国の特産品には絁もあげられる。延喜式・大蔵省式に、「蕃客に賜ふ例 大唐皇。〈銀大五百両。水織絁・美濃絁各二百疋。細絁・黄絁各三百疋。……〉。」とあって、渤海王や新羅王に渡す規定のない上等品扱いされている(注13)。唐への朝貢品とするのに、名前にあるアシギヌなる粗悪な絹のイメージは払拭されよう。なぜかアシギヌと言われて通っているが、悪くないのにアシギヌである。そんなキヌと言えば濡れ衣のことである。濡れた衣服を言うことから転じて、無実の罪を受けること、冤罪を示す言葉である。決して悪くないのに悪いように思われてしまった。蘇我倉山田石川麻呂の孝行娘を偲ぶのに、美濃はふさわしいお国柄なのである(注14)。
そして第三に、美濃国という内陸国にして塩を産する。森2009.は、可児市宮之脇遺跡や関市重所遺跡から美濃式製塩土器が出土していることに関して、「付近の土場で荷揚げされた粗塩を再加熱して堅塩を製作する「二次生産地」として機能していた可能性が高い。」(12頁)とする(注15)。つまり、「堅塩」の生産が美濃国で行われていたわけである。この堅塩は、今日でも伊勢神宮に清めの塩として見られる。粗塩を三角錐の土器に詰め込み、忌火を熾して五~六日かけて焼く。堅塩は、その実体そのものが忌みを表し得るものなのである(注16)。忌みの人、造媛に聞かれないように忌詞として「堅塩」と呼んでいたのは、言葉が言葉へと、これでもかと畳みかけるように返ってくる表現となっており、自己循環的な説明を好んでその証明としていた上代の言語感覚に合致した言葉づかいである。
近年、大化五年三月条の「造媛」と天智紀七年二月条の「遠智娘(美濃津子娘)」とは別人ではないかという意見が提出された。「遠智娘(美濃津子娘)」の皇子とされる建皇子の年齢問題を取り沙汰されている。遠智娘の子の建王(建皇子)が斉明四年(658)に八才で亡くなっているとすると、生れたのが白雉二年(651)ということになり、造媛は大化五年(649)に父親の蘇我倉山田石川麻呂の死に落胆して亡くなったはずの記述と合わないからその母親は別人であろうというのである(注17)。
日本書紀の年齢記事には「年○○」といった記述もあるが、ここでは「○○歳」のみとりあげる。年齢をきちんと記すのは実はとても例外的であやしいものばかりである(注18)。同級生や定年という概念の生じることのない社会体制では何歳なのかは問題とならなかったのだろう。通常、天武天皇のような有名人でも年齢を記す習慣はなく、今日の研究者は何年生まれかわからずに憶測を飛ばしている。
次生二蛭児一。雖二已三歳一、脚猶不レ立。(神代紀第五段本文)
次生二蛭児一。此児年満二三歳一、脚尚不レ立。(神代紀第五段一書第二)
及二年卌五歳一、謂二諸兄及子等一曰、……(神武前紀)
七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩二于橿原宮一。時年一百廿七歳。(神武紀七十六年三月)
至二卌八歳一、神日本磐余彦天皇崩。(綏靖前紀)
天皇年十九歳、立為二皇太子一。(崇神前紀)
天皇、践祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。時年百廿歳。(崇神紀六十八年十二月)
廿四歳、因二夢祥一、以立為二皇太子一。(垂仁前紀)
九十九年秋七月戊午朔、天皇崩二於纏向宮一。時年百卌歳。(垂仁紀九十九年七月)
六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩二於高穴穂宮一。時年一百六歳。(景行紀六十年十一月)
六十年夏六月己巳朔己卯、天皇崩。時年一百七歳。(成務紀六十年六月)
六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩二於稚桜宮一。〈時年一百歳。〉(神功紀六十九年四月)
摂政六十九年夏四月、皇太后崩。〈時年百歳。〉(応神前紀)
卌一年春二月甲午朔戊申、天皇崩二于明宮一、時年一百一十歳。(応神紀四十一年二月)
天皇年五十七歳、八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩。(継体前紀)
〈百済本紀云、高麗、以二正月丙午一、立二中夫人子一為レ王。年八歳。〉(欽明紀七年是歳)
令レ度二司馬達等女嶋一、曰二善信尼一〈年十一歳。〉 (敏達紀十三年是歳)
年十八歳、立為二渟中倉太玉敷天皇之皇后一。卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩。卅九歳、当二于泊瀬部天皇五年十一月一、天皇為二大臣馬子宿禰一見レ殺。(推古前紀)
五月、皇孫建王、年八歳薨。(斉明紀四年五月)
百済僧常輝封二卅戸一。是僧寿百歳。(天武紀十四年十月)
甲寅、常陸国貢二中臣部若子一。長尺六寸。其生年丙辰至二於此歳一、十六年也。(天智紀十年三月)
斉明紀の建王の薨去年齢は示し方に殊更感がただよう。天智紀七年二月条の皇統譜の本文に、「其三曰二建皇子一。唖不レ能レ語。」とある。唖者で言葉が喋れない。「坊や、いくつ?」と聞かれても答えられない。答えられなければわからない。わからないのに「皇孫建王、年八歳薨。」と書いてある。紀は歴史書だから「八歳」とあれば eight years old に決まっているだろうと考えるてはならない。書いてあるのは噺である。百歳以上の天皇が大勢いるのは噺家の口先三寸による。古代に八歳が何かの区切りであったとは知られない。噺としてなら、建王の母親は天智紀にある「遠智娘」、「美濃津子娘」、「芽淳娘」という人であるが、それは、孝徳紀にあった「造媛」と同一人物である。上に諱であると示した。その証拠を加えると、ミヤツコ(ヒメ)のミコ(御子、皇子)なのだから、差し引きヤツ(八歳)である。ミヤツコ(造)、ミコ(御子、皇子)のミ・コはともに甲類である。いわゆる精神年齢として、ヤツ(八歳)、今日の小学校二年生以上に育つことはないという噺である(注19)。
以上、「造媛」についての考証した。「遠智娘」、「美濃津子娘」、「茅渟娘」は同一人物であり、蘇我倉山田石川麻呂の娘「少女」のこと、父親思いで、「赤心」をもって生きた人であり、政略結婚をして相手の皇太子、中大兄の非道に苦しんだ。産んだ子の一人は持統天皇として即位している。社会制度上どのように扱われようが、一人一人は一人の人間として生きている。紀に非業の死を遂げた造媛の記述があり、人物像が確かに描かれている。人間が生きるということを捨象して時系列に事件を並べて整理して、合理的に理解できて歴史がわかるということはなく、もしそれがあるのなら、もはや「人間の学としての歴史学」ではない。紀の編纂者の筆致から大切なことを学ぶべきだろう。
(注)
(注1)記載のある日本書紀の叙述は話が前後するところがある。
先に話の顛末を言い、それはどのような事情からそうなったのか、と振り返る語り口が、古事記に代表される上代の話に数多く認められる。歴史を時間軸に従って見るのではなく、事柄の解説のために前後して話している。話(咄・噺・譚)の醍醐味が優先された。口頭でやりとりするのにそのほうがずっとわかりやすい。無文字文化のなかに暮らした人たちのものの考え方であった。
(注2)液状のにがりを捨てずに土堝に入れて二度焼きすることでMgCl2をMgOへ変性させるのと、にがりを自然に落として塩とするのと、ほかにもいわゆる「藻塩」のヨード分のための色合いなどにより種々の「塩」の存在が想定されている。和名抄にも、「塩 陶隠居に曰はく、塩に九種有り、白塩は人の常に食する所なりといふ。崔禹食経に云はく、石塩、一名は白塩、又、黒塩有りといふ〈余廉反、之保、日本紀私記に云ふ堅塩、岐多之〉。」とある。古代における塩は大別するとシホ(塩)とキタシ(堅塩)の二形態があったようである。拙稿「角鹿の塩を呪詛忘れ」参照。
(注3)延喜式・斎宮式に、「凡そ忌詞、内七言は、仏を中子と称ひ、経を染紙と称ひ、塔を阿良良伎と称ひ、寺を瓦葺と称ひ、僧を髪長と称ひ、尼を女髪長と称ひ、斎[斎食]を片膳と称ふ。死を奈保留[治]と称ひ、病を夜須美[慰]と称ひ、哭を塩垂と称ひ、血を阿世[汗]と称ひ、打を撫と称ひ、宍を菌[菜・きのこ]と称ひ、墓を壌と称ふ。」とある。
(注4)「姓」をカバネと読むのは、新羅で同様に社会的な地位の上下を示す際、「骨品」という語を用いていたことから、その「骨」に相当するヤマトコトバ、カバネ(骸骨)が当てられたと考えられている。ヤマトコトバのカバネについては、白川1995.に、「かばね〔屍・尸〕 もと骨をいう語であろう。やがて残骨となるものであるから、屍体をもいう。のち「しかばね」という。「ね」は「骨」の「ね」であろう。」(241頁)とある。
(注5)なぜ横たえたまま首を斬り落とすのでは駄目なのか。おそらく、それではすでに死んでいることを認めることになるからだろう。起こし立てて生きていることにして斬首している。どの程度まで起こしたかについては、筆者は、原文に「宍」に通用する「完」字が使われることから、完全に、まるごと、立っている状態に持ち上げられたのではないかとも考える。実際にそうしたかどうかではなく、紀の編纂者の意図としてそういう意味で書いているものと考える。医心方・巻二十二に、「録験方に云はく、妊娠にて体腫るるを治する方。生ける鯉魚、長さ二尺なるもの一頭を、完水二斗を用て煮て五升取り、魚を食ひ、汁を飲めといふ。(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1064408/1/211を読み下した)」とある。鯉を一匹づけで煮込んでいて、それをマロナガラ、サナガラと訓んでいる。とても興味深い訓である。起こし立てられたのは蘇我倉山田石川麻呂という人で、名前は麻呂である。ほかは氏に当たる。マロという語は男の名に付けられることが多いが、「人」であることも指す。サナガラという訓は、今日的感覚では、まるで○○のようだ、の意へとも転じている。死んでしまっているからもはや人ではないのだが、まるで本物の人のようであると伝えたくてこのような通字の「完」字が選ばれているのではないか。しかも、時の都は難波長柄豊碕宮、ナガラなのである。翻って考えるなら、本邦でのみ「完」字を「宍」字の通用させた契機、上代人の言語の感性について、考察の対象を広げられる糸口ともなり得るだろう。通用発生のメカニズムは研究テーマの一つになるとのである。後考を俟つ。
(注6)養老律・名例律に、「死罪二 〈絞斬二死 贖銅各二百斤〉」とある。
(注7)そもそもの最初の名とされる「造媛」という命名にしても、いつからそのように呼ばれているのか確かではない。皇極三年三月条では「少女」とのみ記されている。彼女は中大兄に嫁いだ。そこで奴婢同然に扱われていたとしたら、ミヤツコと綽名されて周囲の人にわかりやすい。また、「物部二田造塩」という人物について、蘇我氏の一系統が石川氏であるように、物部氏の一系統の二田氏を表しているようである。それがフツタと呼ばれていたことは注目される。フツタとブツタ(仏陀)は似て非なるものである。世の中は澄むと濁るの違いにて、真逆の性格を持つことがあるという洒落と理解できる。仏陀を大切にしていた石川麻呂は、謀反の疑いがかけられて軍を差し向けられた時、茅渟道を通って大和へ向かい、山田寺に入った。一族に正しい道を説き、仏殿を開けてご本尊に、「願はくは我、生生世世に君主を怨みじ」と誓っている。輪廻転生を思うほどに信仰心が篤い。その信仰に支えられて忠義にも篤い。すべての問題は道徳である。正しい道を求めており、石川麻呂が通った道は「茅渟道」(大化五年三月)であった。その後を追った造媛(遠智女、美濃津子娘)が「或本」に「茅渟娘」とあるのは、moral のことと load のことがヤマトコトバに同じミチ(道)という言葉で用いられており、「道」字に「首」字が含まれていることを思って斬首の謂いを含めて考え抜かれた命名なのだろう。
一方のフツタ(二田)については、剣の名に、「韴霊」(神武前紀戊午年六月)とあり、ものを切断する時の擬音語とされている。シホ(塩)については、血潮の意との関連を匂わせる点はすでに指摘した。続日本紀に、「庭の中にして天地と四方とを礼拝み、共に塩汁を歃り、誓ひて曰はく、……」(天平宝字元年七月)とあり、謀反を起こす時の盟約としている。血が流れて良いのだね、と約束しているようである。反対に、服従を誓う時には蝦夷の記事がある。「是に、綾糟等、懼然り恐懼みて、乃ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面ひて、水を歃りて盟ひて曰さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫〈古語に生児八十綿連つづきと云ふ。〉清き明き心を用て、天闕に事へ奉らむ。……」(敏達紀十年閏二月)。真水で行っている。
(注8)「赤心」は古訓にキヨキココロと訓まれている。岩崎本の朱書で少なくとも十世紀からそう訓まれている。字面は漢籍の引用である。荀子・王制に、「功名の就る所、亡を存し危を安んずるの墮ふ所は、必ず将に愉殷なる赤心の所に於いてせんとするなり。(功名之所レ就、存レ亡安レ危之所レ墮、必将レ於二愉殷赤心之所一。)」、後漢書・光武紀上に、「蕭王、赤心を推して、人の腹中に置く。(蕭王推二赤心一、置二人腹中一。)」とある。日本書紀編者は巧みで、血の色を思い出させる用字を採用しているわけである。 (注9)嬪の二人目である「姪娘」は「桜井娘」とも名づけられている。名前について、「……曰二遠智娘一。」と「……名二姪娘一曰二桜井娘一。」と書き分けられている。名づけ方の流儀、深謀の差を示すものではないか。「桜井娘」という名前の由来も検討しなければならない。後考を俟つ。
(注10)「隠流」については、当時の大宰府長官は菅原道真のような待遇ではなく、けっして左遷のようなものには当たらないとも論じられている。けれども、筑紫国は美濃国よりもずっと都から遠い。それどころか、シノビナガシとは、シノブ(忍・隠)ことを目途とする転勤である。問題を追及せずにこらえ、露わにして事立てることなく、ただただ事件の鎮静化をはかるものであった。言い換えれば、なかったことにしようというのである。当事者の蘇我日向が都からいなくなれば、事の真相、特に皇太子中大兄の暗愚さについては、証人喚問も参考人招致もされないから噂程度で済んで闇に葬られる。では、どうして真実がばれてしまって「世人相謂之曰、是隠流乎。」という文言が日本書紀という公文書に残されているのか。期日が経ったから機密文書が公開されたのではなく、中大兄(天智天皇)や斉明(皇極)天皇、天武・持統天皇などの世代まではただ単に字が読めなかったからだろう。日本書紀は天武天皇のお達しで、本邦の正しい歴史を編纂するようにということで編まれているが、時の政権に不都合なことでも読まれる可能性はないのだから、とにかく完成させることを優先させてまとめられ、持統天皇の治世の終わりを待って撰上される運びとなっている。その後も講書されることは古くからあり、テキスト批判が行われることが新しくあっても、政権批判の種と認められたことはない。紀の編纂者の意図が読めていないのである。
(注11)国名のミノ(ミ・ノは甲類)には、紀には「美濃」、記では「美濃」、「三野」、万葉集では「美濃」(万1034題詞)、「三野」(万3242)と当てられている。
(注12)春秋左氏伝・文公十三年に、「子秦に人無しと謂ふ無し。(子無レ謂二秦無一レ人。)」、史記・夏本紀に、「是に於て帝尭、乃ち人を求め、更に舜を得。(於レ是帝尭乃求レ人、更得レ舜。)」とある。
(注13)実際には、高麗国使を含め、各国の国使に渡していることが続紀に記録されている。
(注14)早川2000.参照。
(注15)森2009.に、「[東海地方]海岸部で生産した堅塩を運び込まずに現地生産する理由としては、安価な粗塩を購入して現地生産した方が、堅塩の価格が有利であったり、流通ルートの問題などが想定される。」(17頁)とある。流通ルート的には、木曽川、長良川舟運の終港付近に美濃式製塩土器の大量出土遺跡があり、運搬上最も効率的なところまで遡上していることがわかる。塩を作るために大量の燃料材を必要とするため、森林資源のそばまで半製品を運ぶのが合理的だと考えたからだろう。
(注16)西宮1974.参照。
(注17)以前、建王の母親は造媛であるという考えに疑問を呈することは少なかった。大化五年三月条の「造媛」と天智紀七年二月条の「遠智娘(美濃津子娘)」とは同一人物であると解されてきた。直木1985.、青木2003.を参照。ところが、笹川2016.は、遠智娘の子であるはずの建王の生れた年が死後になってしまうから大いに疑問であるとしている。建王の祖母の斉明天皇が、不憫に思って亡くなった時に「不レ忍レ哀、傷慟極甚。詔二群臣一曰、萬歳千秋之後、要合二葬於朕陵一。」とあり、歌を歌わせたり、同年十月に紀温湯へ行く途中でも「憶二皇孫建王一、愴爾悲泣。」して再度歌わせている。それほどなのに同じ墓に入ったとされる資料は見当たらないと指摘する。そこから、日本書紀編者は、建王に関する実情を聴取できずに適当に記事を按配したのではないかと推測している。
(注18)「○○歳」記事ではないが、天智紀十年三月条のみ、年齢が主題になるため正確を期しているように思われるために追記した。
(注19)今般の社会情勢を鑑みたとき差別的な考えは捨てられるべきであるが、日本書紀の記述を研究するうえでのみ述べたものである。
(引用・参考文献)
青木2003. 青木和夫『白鳳・天平の時代』吉川弘文館、2003年。
笹川2016. 笹川尚紀『日本書紀成立史攷』塙書房、2016年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
直木1985. 直木孝次郎『持統天皇』吉川弘文館、1985年。
西宮1974. 西宮一民「「堅塩」考─万葉集訓詁の道─」『萬葉』第83号、昭和49年2月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/1974
早川2000. 早川庄八『日本古代の財政制度』名著刊行会、2000年。
森2009. 森泰通「古代美濃における堅塩の生産・流通・消費」木曽川研究協議会編『木曽川流域の自然と歴史─木曽川学論集─』同会発行、平成21年。
加藤良平 2026.5.1改稿初出