垂仁紀三十四年に、天皇が山背に行幸して、その地で評判の綺戸辺という美人を召し入れたという記事がある。
三十四年の春三月の乙丑の朔丙寅に、天皇、山背に幸す。時に左右奏して言さく、「此の国に佳人有り。綺戸辺と曰す。姿形美麗し。山背大避が女なり」とまをす。天皇、玆に、矛を執りて祈ひて曰はく、「必ず其の佳人に遇はば、道路に瑞見えよ」とのたまふ。行宮に至ります比に、大亀、河の中より出づ。天皇、矛を挙げて亀を剌したまふ。忽に石と化為る。左右に謂りて曰はく、「此の物に因りて推るに、必ず験有らむか」とのたまふ。仍りて綺戸辺を喚して、後宮に納る。磐衝別命を生む。是は三尾君の始祖なり。是より先に、山背の苅幡戸辺を娶したまふ。三の男を生む。第一を祖別命と曰す。第二を五十日足彦命と曰す。第三に膽武別命と曰す。五十日足彦命、是子は石田君の始祖なり。(垂仁紀三十四年三月)
本文は多くを熱田本によった。原文に「山背大避」とある。一般には、記の「山背大国之大遅」を採って、紀本文に誤字・脱落があると考え「山背大国不遅」と校訂されている(注1)。筆者は、「山背大避」で正しく、記とは別の名義によって語られているものと考える。以下検討する。
綺戸辺の名に関して、大系本日本書紀に、「綺は、文様が斜めになった織物をいう。従って、語源は斜行する蟹の機 (はた)、蟹繒(カニハタ)であろう。名義抄にはカムバタとあるから、kaniFata→kanFata→kambata という音変化であろう。また、和名抄に「似レ錦而薄者也〈加無波太〉」とあり、山城国相楽郡蟹幡郷(今、京都府相楽郡山城町綺田付近)を「加無波多」ともある。しかし新訳八十巻華厳経音義私記(奈良朝末)には「綺、加尼波多」とあるから、奈良朝ではカニハタが正しかったであろう。綺戸辺はこの辺の人であろう。記に弟苅羽田刀弁とある。開化記にも苅幡戸弁なる人名がみえ、このあたり、所伝が紛らわしい。」(353~354頁)とある(注2)。カムハタを音便形とし、もともとはカニハタのはずだからここもカニハタと訓むべきであるとの説が通行している。別に神機を語源とする説も見られる。
機は経糸と緯糸からなっている。蟹の斜行するような機とはどのようなものか、想像することは難しい。斜めの文様を蟹の横歩きに譬えた時、その見立てでカニハタと呼ぶことがあったとしても、それが語源であるとしてすべてを音転で説明し切れるものか疑問である。紀の傍訓にカムハタとあるのは、それとは別の考え方をし、そう訓むことを正しいと認め、そう訓んでいるものと考えられる。

機は縦横に糸を交差させて織物を作り出す。上代、「綺」がどのようなものであったかについては、実のところ謎としか言えない(注3)。有力な説に、文様を任意に浮かせた浮文錦のうち平組織になる平地浮文錦のことを指すと考えられている。綺羅星の如しという言い方のとおり、綺は羅と同様に薄地に仕上がった絹製品のことだろう。平織の過程で浮き糸を生じさせて浮文様とした。実際に織っていく過程において機とのかかわりで名づけるとするなら、機が正確にきちんと平織りすることができずに噛んでしまっている様子を見ていたのではないか。意図的に噛むようにして浮文様を作る機だからカムハタである。白川1995.に、「かむ〔嚼・醸(釀)〕 四段。歯でよく嚙んで咀嚼する。酒を作るときにも、米を嚙み砕いて作ったので、醸造するときの「釀む」意にも用いる。両者は同源の語である。類義語の「くふ」は食いついてくわえる意。「かむ」は歯を合せて動かすことをいう。」(254頁)とある。歯を合わせて動かすことは、ただ交差させるばかりではない。牛の咀嚼する様子を見ればわかりやすく、反芻も含めて顎を左右にずらしながら噛んでいる。臼歯に入る筋目が縦だから横に擦るようにしている(注4)。そのように、整序的な上下動のみではない点が実は「噛む」ことの真髄である。機織り時にも、上下している糸の整序が崩れて糸が飛びずれていくところを、噛んでいるように見て取っているわけである(注5)。「綺」はカムハタと訓まれてしかるべきと理解でき、対して、正確に織られる単純の平織りの場合は例えば食ふ機であるとでも思ったのではないか。
この説話はウケヒ(祈・誓・誓約)にまつわる話である。ウケヒは古代の誓約を伴った占い法である。これから実際の事柄がどのようになるのか知るために、目の前のことでどうなるかを仮定して言葉に発し実験とし、その結果をもって将来のことに写像させて予想した(注6)。狩りの結果をもって事態の成り行きを占うことが行われ、「祈狩」(神功紀元年二月)と呼ばれている。ウケヒの代表例としてアマテラスとスサノヲの「誓約」がよくあげられる(注7)。
故爾くして各天の安の河を中に置きて、うけふ時、天照大御神、先づ建速須佐之男命の佩ける十拳剣を乞ひ度して、三段に打ち折りて、ぬなとももゆらに天の真名井に振り滌ぎて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、多紀理毘売命。……速須佐之男命、天照大御神の左の御みづらに纏ける八尺の勾璁の五百津のみすまるの珠を乞ひ度して、ぬなとももゆらに、天の真名井に振り滌ぎて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。亦、右の御みづらに纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、天之菩卑能命。亦、御𦆅に纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、天津日子根命。又、左の御手に纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、活津日子根命。亦、右の御手に纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、熊野久須毘命。……(記上)
……「請ふ、姉と共に誓はむ。夫れ誓約の中に……必ず当に子を生むべし。如し吾が所生めらむ、是女ならば濁き心有りと以為せ。若し是男ならば、清き心有りと以為せ」とのたまふ。是に、天照大神、乃ち素戔嗚尊の十握剣を索ひ取りて、打ち折りて三段に為して、天真名井に濯ぎて、𪗾然に咀嚼みて、……吹き棄つる気噴の狭霧……に生まるる神を、号けて田心姫と曰す。……既にして素戔嗚尊、天照大神の髻鬘及び腕に纏かせる、八坂瓊の五百箇の御統を乞ひ取りて、天真名井に濯ぎて、𪗾然に咀嚼みて、吹き棄つる気噴の狭霧に生まるる神を、号けまつりて正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と曰す。……(神代紀第六段本文)
ウケヒの際にサガミニカム(𪗾然咀嚼)ことが行われた。前言して言葉にしておくことが本来のウケヒの姿であるが、このウケヒでは代替としてサガミニカムことが行われている。垂仁紀三十四年条でも「祈ひ」が行われている。だから「綺」は絶対にカム(噛)ことと関係があるのである。カムハタである。そして、出てきたのは「亀(メは乙類)」である。動詞「噛む」の已然形と同音で、すでに噛んでしまったこと、つまりは前言どおりなのだということを表している。もちろん洒落である。
本当、亀が出てきただけでどこが「吉」兆なのか知れないのにそう決めてかかっている(注8)。それと同様に、スサノヲはウケヒを行っていながら、占いの結果がどうであれ自分に都合の好いように解釈し、勝った勝ったと勝ち誇っている。ウケヒの判定が言った者勝ちということになっている。
爾くして、速須佐之男命、天照大御神に白さく、「我が心、清く明きが故に、我が生める子は、手弱女を得つ。此に因りて言はば、自づから我勝ちぬ」と云ひて、勝ちさびに、天照大御神の営田のあを離ち、其の溝を埋み、亦、其の大嘗を聞し看す殿に屎まり散しき。(記上)
垂仁天皇のウケヒの性格とよく似ている。「因レ此言者、……」(記上)と「因二此物一而推之、……」(垂仁紀)とは同類の思考である。どのようにでも解釈し得るものを自分勝手に推量している。そして、その考えを周囲に披歴してそのとおりであろうと強弁している。これによって考えるとそういうことになるだろう、と公言して憚らない。判断の仕方でどうにでも解釈できるのだから言った者勝ちである。記では「勝ちさびに」と形容している。勝ち誇っているから垂仁紀で「矛」の話になっている。白川1995.の「ほこる〔誇・矜〕」の項に、「矜は今声。〔説文〕一四上に「矛の柄なり」とする。……矜に矛を構えて威厳を示す意があるとすれば、そこから「矜る」の訓義を導くことができよう。矜を矛に従う字であるが、国語の「ほこる」は「ほこ」とは直接の関係はない。ただ同根の系列語と考えられたものか、矜の字を用いることが多い。」(676頁)とある。古代の人に同根という意識があったか定かではない。言葉は音でできている。同じ音が聞こえたら、もともとの語意がどうであろうと、また、たとえ文脈的に異なろうとも、両者になにかしら関係性を見出そうとしている。言葉が音でしかなかった無文字時代の言語生活においては、そのほうがわかりやすくなるから当然の成り行きだろう。
亀を見つけている。「比レ至二行宮一、大亀出二河中一。」とある。行宮に近づいてから亀を見つけて矛で突いたことになっている。なぜそのような説明が必要なのか。そもそも何のために「幸二山背一」しているのか。行幸は狩りのために行われることが多かった。この垂仁天皇の記事も狩りが目的だったのだろう。狩りでは禽獣が捕まえられた。白鳥や鶴、鴨、鹿、猪、雉、菟などである。亀貝に属する亀を狩りの獲物にした例は知られない。この記事では矛を使って亀を刺している。変なカリ(狩)だからカリミヤ(仮宮・行宮)の近くでのこととされているらしい(注9)。そして、亀を刺したら石になったという。
矛は、諸刃になった尖った刃をしていて、長い柄が付き、突き刺して用いられる。新撰字鏡に、「鉾 保己」、和名抄に、「戟 楊雄方言に云はく、戟〈几劇反、保古〉は或に之れを干と謂ひ、或に之れを戈〈古禾反〉と謂ふといふ。」、「矛 釈名に云はく、手戟を矛〈音は謀、字は亦、鉾に作る、天保古〉と曰ひ、人の持つ所なりといふ。」とある。長い柄を地面に立てるときには、柄の先を損じないように金属製の保護部材が取り付けられている。中国の青銅器では平らなものを鐓、尖っているものを鐏と称しているが、我が国ではいずれも石突と呼ばれている。日葡辞書に、「Ixizzuqi. イシヅキ(石突) 杖,槍などの末端に取り付けてある鉄の金具.」(349頁)とある。長い柄のもとが石突でありつつ、刃で刺した亀が石に変じて石を突いた状態になっている。言葉の上では石突と言うにふさわしい。「挙レ矛刺レ亀」したことは、矛の矛らしい様子を表しているのである。ホコラシとは誇らし、つまり、勝ちさびにしてウケヒの定番であることになる。内容も勝ちさび的にウケヒの結果を好きなように解釈している。本当に瑞祥であったと認められるのか、秘伝書に裏付けがあるわけではなく、また、実際によいことが続いたということも記されない。ただ「仍喚二綺戸辺一納二于後宮一」とあるばかりである。ウケヒの文言では、「必遇二佳人一、道路見レ瑞」とあった。必ず佳人に遇うのであれば道路で瑞祥が見えると言っておいて、そのとおりになったのならウケヒはまともに機能している。そのとおりにならずに逆の結果に終わってもウケヒはきちんと機能している。ここではどういうわけか亀を見つけて矛で刺したら石になっている。「この亀が石になったことこそが瑞祥であり、きっと佳人に会えるという(綺戸辺が佳人であるという)効験があるだろう、という意。」(新釈全訳日本書紀443頁)とする単純な解釈で意味が通じるとは思われない。亀が石に変じることを霊験あらたかと捉えることもできれば、逆に凶兆と見ることもあるだろう。そのうえ、記事を読む限り、「佳人」に遭遇したのではなく、役人たちに探させて後宮に召し入れている。上辺の解釈では要領を得ない。
矛と誇るとが言葉の上で何か関係があるかのように感じられて話が作られているようである。ウケヒにおいてホコという音に関係する言葉にホク(祝・祷(禱))がある。よい結果が得られますようにと祝い事を言うことである。無文字文化下に形成された上代の人たちのものの考え方では、言葉は事柄と同一、相即なものであり、あるいは、そうなるように指向されていた。言葉にすれば事柄も同じようになることが期待されていたから、祝い事を言うことは今日以上に意義あることと思われていただろう。ホク(祝・祷)に反復・継続の接尾語がつけばホカフ(寿)となる。その連用形名詞のホカヒは祝い事の意である(注10)。
…… 吾を措きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば ……(万892)
焼太刀の 稜打ち放ち 大夫の 寿く豊御酒に 吾酔ひにけり(万989)
時に中臣の遠祖天児屋命、則ち以て神祝き祝きき。(神代紀第七段一書第二)
乃ち矢を取りて、呪きて曰はく、(神代紀第九段一書第一)
……室寿して曰はく、……(顕宗前紀)
言寿き〈古語に許止保企と云ふ。寿詞と言へるは今の寿觴の詞の如し。〉(延喜式・祝詞・大殿祭)
…… 少御神の 神寿き 寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻し 奉り来し御酒ぞ ……(記39)
祠 似慈似移二反、春祭也、継也、々猶食也、保加不(新撰字鏡)
皇太后、觴を挙げて太子に寿したまふ。(神功紀十三年二月)
庚るは則ち祷言す(世俗諺文・上巻)
実際にはまだ起こっていない良いことを、そうなりますようにと願ってホクことをしている。それをくり返すことがホカフこと、ホカヒである。しかし、結果的に言ったとおりにならないとなると、言葉と事柄とが一致しないことになって問題となる。事柄に裏付けられない言葉を言っていては言葉がその存立基盤を失って世界はカオスに陥る。では、ホカヒしてはならないかと言えば、それでは人情が成り立たない。そこでひと知恵加え、ホカヒ(ヒは甲類)とは言葉が事柄から外れたもの、ホカ(外)+イヒ(言、ヒは甲類)の約縮でもあるとして言葉の安定を得たのである。語源的に言葉がそのように成り来ったということではなく、そのように理解しても間違いではないしわかりやすいから採用したということである。恣意的とも思えるだろうが、言葉は人間が恣意的に作り上げたものである。
ホカ(外)という語は中心から外れているところ、ある境界の外側のところをいう。ホはハ(端)・ヘ(辺)の母音交替形、カはアリカ(在処)、スミカ(住処)など場所を表す。つまり、ホカ(外)はハタ(端)のことで、機と同音である。「綺戸辺」という言葉はホカ的な名であると印象づけられる。別の形になることは「他形」という。亀が石に変わっている。
門の外に井有り。(神代紀第十段一書第一、東山御文庫本訓)
荒礒越し 外行く波の 外心 吾は思はじ 恋ひて死ぬとも(万2434)
損敗他形〈上滅也、敗沮也、他形は倭に保可之伎可多知、又異形〉(新訳華厳経音義私記)
「綺戸辺」の親の名は熱田本に「山背大避」と訓まれている。山背のヤマには、mountain の意のほかに、山陵、ツカ(塚・墳・墓)の意がある。シロは、代わりとなるもののことである。ツカ(墳墓)には同音にツカ(束・柄)がある。いま、矛という、掴むところばかりが肥大して長くなった武器を手にしている。そして、「避」にサヒと傍訓がある。「障ひ(ヒは甲類)」の意で、鉏と同音である。
…… 大刀ならば 呉の真鉏 ……(紀103)
鉏のなかでも大きな鉏にして、長い柄のついた物とは矛である。だから、矛を持ち出してウケヒが行われている。
「綺」は錦や綾のようなもので斜行文様のものであるとされていた。多色の錦に対して綾は単色で、織り筋を斜めに出す。多色にして斜め文様をしているのが「綺」と捉えられていたのではないか。アヤの同音に感動詞のアヤがあり、その形容詞形はアヤシ(怪・奇)である。
綺 墟彼反、繒也、繍也、阿也(新撰字鏡)
綾〈紋付〉 野王案ずるに、綾〈音は陵、阿夜、熟線綾、長連綾、二足綾、花文綾、平綾等の名有り〉は綺に似て細かき者なりといふ。考声切韻に云はく、紋〈音は文〉は呉越に小綾を謂ふなりといふ。(和名抄)
…… 綾垣の ふはやが下に ……(記5)
是、神しき剣なり。(神代紀第八段本文)
奇しき鳥来て杜の抄に居り。(神代紀第九段本文、丹鶴本訓)
乃ち金色の霊しき鵄有りて、飛び来りて皇弓の弭に止れり。(神武前紀戊午年十二月)
…… 我が国は 常世にならむ 図負へる 神しき亀も 新代と 泉の河に ……(万50)
万50番歌原文の「神亀」は、クスシキカメともアヤシキカメとも訓める。甲羅の亀甲文の図様のことと考えると、ここはアヤシキと訓んで綾織の文様を連想させたほうが適切だろう。
「忽化二-為石一」、亀が石になっている。石の甕の謂いなのだろう。カメのメはいずれも乙類である。石の甕に水を入れておく。設定は山背国であった。ヤマシロが山城の意なら、山城には水をいかに貯えておくかが喫緊の課題である。籠城するのに水がなくなったらおしまいである(注11)。そんな山城に亀が河の中から出てきて石甕になったとするならこれほど幸いなことはない。垂仁天皇の言に瑞祥としている理由である。水があるのだから「瑞」があると言っている。水分のことは汁だから霊験あらたかな験でもある。
山城は戦闘時に要塞として築かれた。砦としての性格が強い。日葡辞書に「Toride.トリデ(砦) 本城の近所にある城,または,要塞で,その本城を一層よく守り,警備するためのもの。下(Ximo)ではDaxixiro(出し城)と言う.」(666頁)とある。戦略攻防において仮設的に構築されるから、ここでも「行宮」の話になっている。トリデという音はまた鳥手とも聞こえる。鳥の手で水にかかわりがあって瑞なるもの、素敵なものと言えば水掻き(蹼)である。同音に瑞垣がある。
蹼 爾雅集注に云はく、蹼〈音は卜、美豆加岐〉は鳬鴈の足指の間に幕有りて相連なり著くる者なりといふ。(和名抄)
瑞籬 日本紀私記に云はく、瑞籬〈俗に云ふ美豆加岐、一に云ふ以賀岐〉といふ。(和名抄)
少女らを 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけり吾は(万2415)

山の砦に木柵の垣根を立て囲い、その内側に兵士を配置して守った。斎垣ともいわれる瑞垣には隙間がなく、水も漏らさぬほどに堅牢な防御態勢が敷かれた。まことに水鳥の蹼に等しい。設定が山背ならどう転んでも瑞祥に決まっていることになっている。山背に築かれた山城の砦は仮設だから仮宮で、ふだんの宮から離れたところ、ホカ(外)なるところにあるホカツミヤということになり、その対義語はウチツミヤ(内宮・後宮)である。綺戸辺はホカの地からウチへと納れられている。
以上がヤマトコトバによってあやしくあやなされた綺戸辺にまつわる逸話である。ヤマトコトバの辞書的な説明が堂々巡りをくり広げて一つの話となっている。話としてあまりにも完成度が高く、自己完結していて、現代の歴史学や神話学の観点からは何を伝えようとしているのか一向にわからない。せいぜい、その時に染織品として綺という織物が伝わっていたことぐらいしか見出すことはできないだろう。この話に対するに、わからない話、荒唐無稽な話が綴られていると見るのではなく、現代人がめぐらす習いとなっている思考の枠組みとは異なる思考法が古代に厳然としてあったと、われわれ自身の固陋な考え方を反省すべきなのである。無文字時代の人々の知恵は我々の追随を許さぬほどに深く豊かで、驚きの言語活動を行っていた。識字によって失われた人類の可能性は測り知れない。
(注)
(注1)ほかにも、北野本の「石」字の右傍に、「白イ本」とあり、兼右本の「白石」字の左傍に、「イ无」とある。この部分を「白石」とする考えがある。新編全集本日本書紀に、「白は瑞祥。「白石」は美女の象徴であること、……[垂仁紀二年是歳条一云に、]「白石…美麗かほよき童女をとめに化なりぬ」とあり、雄略紀二十二年七月条にも「大亀かめを得たり。便たちまちに女に化為なる」とみえる。以上の神異譚は綺戸辺を神聖な女性として、天皇の妻たるにふさわしいことをいうため。」(327頁)とする。古語拾遺に、「白猪・白馬・白鶏を献る。」(御歳神)とあるのも参考にされているものか。けれども、この話より前に苅幡戸辺が娶られているが、何の話も仕組まれていない。垂仁紀二年是歳条一云の分注記事では、「白石」(「神石」)は「美麗童女」に化けたが姿を消してしまって、「比売語曾社神」となっている。ここに亀が石になったことが神異譚であるとしても、それはウケヒの話であり、亀が綺戸辺に成り代ったわけではない。
(注2)熱田本傍訓にカンハタトヘ、兼右本傍訓にカニハタトヘとある。
(注3)我が国でどのような織物を綺と呼んだか、見本帳が残っているわけではないからわからない。正倉院文書には経巻に「綺緒」、「綺帯」を用い、持統紀四年四月条には朝服に「綺帯」の名称があることから紐状の織物とする見解がある。その形状は、数色の糸を束ねて一縷としたものを緯糸にして絣様の横縞文様に織り上げたものとする説がある(日本染織辞典、染織事典)。一方、紀元前の中国の墓から出土する「綺」は、上代の染織品のうち平地浮文織と称しているものに当たるので、それであるとする説がある(染と織の鑑賞基礎知識)。また、中国でも、綺の意味は時代により異なるともされ、漢代のものは菱形を主とした幾何学模様を斜行組織で織ったもので、唐代のものは二色の色緯糸で文様を表すものをいうという(原色染織大辞典)。
(注4)象の場合は、臼歯に横に筋目が入っているので顎を前後にずらしながら噛んでいる。本邦に、ナウマンゾウがいなくなって久しく、ヤマトコトバのカム(噛)には、人間に同じく縦の筋目のものを横にずらすことが念頭にあったと考えられる。つまり、カムハタ(綺)は、平織で緯糸を通すときに経糸を飛ばして浮模様を構成しているものと考えられる。
(注5)言葉を話すときに流暢にし損なって何度も言い直すことを、現代の口頭語で「噛む」ということと等しい。拙稿「古事記におけるウケヒについて」参照。
(注6)土橋1988.は、「……ウケヒは過去・現在・未来の知ることのできない「真実」(「神意」ではない)を知るための卜占の方法として、また誓約(約束すること)を「真実」なものにするための方法として、実修される言語呪術であり、「もしAならば、A´ならむ」という形式は、「こう言えば、こうなる」という言霊信仰に基づく呪文の形式にほかならない。従来ウケヒを「真実」でなく、神意を知るための方法と解してきたのは、第一に呪術としての卜占の結果を神意の現われとする偏った宗教観念に災されたためであり、第二に「祈」「禱」などの漢字表記に惑わされたためである。」(55~56頁)としている。
(注7)古事記の須佐之男命のウケヒにおいて、予測的仮定明言がないことを不審視する議論が行われている。拙稿「古事記におけるウケヒについて」参照。
(注8)亀を吉兆とする例は、「己卯、左京職、亀を献る。長さ五寸三分、闊さ四寸五分。其の背に文有りて云はく、「天王貴平知百年」といふ。(己卯、左京職献レ亀。長五寸三分、闊四寸五分。其背有レ文云、天王貴平知百年。)」(続紀・聖武天皇・天平元年六月)とある。この例を垂仁紀三十四年条に敷衍適用することには無理がある。一方は亀が石になっており、他方は亀の背におめでたい言葉が文字として浮かび上がっている。
水谷2020.は垂仁紀三十四年条の「亀」も瑞祥のひとつとして記されている点は疑いないとし、おそらく持統朝より少し前の時期の観念が反映しているとしている。話がわかっておらず、わかろうともしていない。
(注9)紀では仮宮が設営されたとき、その現代史に当たる天武・持統朝を除き、「行宮」(「離宮」、「行館」)の置かれたところをもって命名されることが多い。「高嶋宮」(神武前紀乙卯年三月)、「京」(景行紀十二年九月)、「高屋宮」(景行紀十二年十一月)、「高田行宮」(景行紀十八年七月)、「笥飯宮」(仲哀紀二年二月)、「耳梨行宮」(推古紀九年五月)、「子代離宮」(孝徳紀大化二年二月)、「蝦蟇行宮」(大化二年九月是月)、「武庫行宮」(大化三年十二月)、「倭飛鳥河辺行宮」(白雉四年是歳)、「石湯行宮」(斉明紀七年正月)、「磐瀬行宮」(斉明紀七年三月)とある。引っ切りなしに遷都するのが常態であった。建築学的に言えば宮が掘っ立て柱形式だったためだろう。
(注10)万3885題詞に「乞食者の詠二首」、和名抄に「乞児 列子に云はく、斉に貧者有り、常に城市に於いて乞ふ、乞児曰はく、天下の辱は乞に過ぎたるは莫しといふといふ〈楊氏漢語抄に云ふ乞索児、保加比々斗、今案ふるに乞索児は即ち乞児なり、和名は加多井〉。」とある。これらホカヒビトが物貰い、乞食の意なのは、祝言を言いながら人家の門に立って食べ物を乞うたからという。
(注11)河村誓真・築城記(1565年)に、「山城ノ事可レ然相見也。然共水無レ之ハ無レ詮候間、努々水ノ手遠ハこしらへべからず。又水ノ有山をも尾ツヽキをホリ切。水の近所の大木ヲ切て、其後水の留事在レ之。能々水ヲ試て山を可レ拵也。人足等無躰にして聊爾ニ取カヽリ不レ可レ然。返々出水之事肝要候條分別有ベシ。末代人数の命を延事ハ山城ノ徳と申也。城守も天下ノ覚ヲ蒙也。日夜辛労ヲ積テ可レ拵事肝心也。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1879799/1/212、漢字の旧字体は改めた)とある。
(引用文献)
原色染織大辞典 坂倉寿郎・野村喜八・元井能・吉川清兵衛・吉田光邦監修『原色染織大辞典』淡交社、1977年。
坂本1999. 坂本和子「古代の織技術」『Fiber 繊維学会誌』第55巻第7号(通号640号)、1999年7月。J-STAGE https://doi.org/10.2115/fiber.55.7_P235
沢田2014. 沢田むつ代「正倉院所在の法隆寺献納宝物染織品─錦と綾を中心に─」『正倉院紀要』第36号、平成26年。宮内庁ホームページ https://shosoin.kunaicho.go.jp/bulletin/?p=2
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集② 日本書紀①』小学館、1994年。
染織事典 中江克己『染織事典』泰流社、1987年。
染と織の鑑賞基礎知識 小笠原小枝『染と織の鑑賞基礎知識』至文堂、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
土橋1988. 土橋寛『日本古代の呪禱と説話─土橋寛論文集 下─』塙書房、平成元年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
日本染織辞典 上村六郎・辻合喜代太郎・辻村次郎編『日本染織辞典』東京堂出版、昭和53年。
水谷2020. 水谷千秋『日本古代の思想と天皇』和泉書院、2020年。
加藤良平 2026.7.23改稿初出