垂仁紀の綺戸辺記事の、亀が石になったことについて

 垂仁紀三十四年に、天皇が山背に行幸して、その地で評判のかむはた戸辺とべという美人を召し入れたという記事がある。

 三十四年の春三月の乙丑の朔丙寅に、天皇すめらみこと山背やましろいでます。時に左右もとこひとまをしてまをさく、「此の国に佳人かほよきをみなはべり。かむはた戸辺とべまをす。姿形かほかたち美麗し。山背大避やましろのおほさひむすめなり」とまをす。天皇、ここに、みほこを執りてうけひてのたまはく、「必ず其の佳人に遇はば、道路みちみつ見えよ」とのたまふ。行宮かりみやに至りますころほひに、大亀おほかめ、河の中より出づ。天皇、矛を挙げて亀を剌したまふ。たちまちに石と化為る。左右にかたりて曰はく、「此の物に因りておしはかるに、必ずしるし有らむか」とのたまふ。りて綺戸辺をして、後宮うちつみやめしいる。磐衝いはつく別命わけのみことを生む。是は尾君をのきみ始祖はじめのおやなり。是より先に、山背の苅幡かりはた戸辺とべしたまふ。みたりひこみこを生む。第一みあに祖別命おほぢわけのみことまをす。第二つぎ五十足彦命たらしひこのみことと曰す。第三つぎ武別命たけるわけのみことと曰す。五十日足彦命、これ子は石田君の始祖なり。(垂仁紀三十四年三月)

 本文は多くを熱田本によった。原文に「山背大避」とある。一般には、記の「山背大国之大遅」を採って、紀本文に誤字・脱落があると考え「山背大国不遅」と校訂されている(注1)。筆者は、「山背大避」で正しく、記とは別の名義によって語られているものと考える。以下検討する。
 綺戸辺の名に関して、大系本日本書紀に、「綺は、文様が斜めになった織物をいう。従って、語源は斜行する蟹の機 (はた)、蟹繒(カニハタ)であろう。名義抄にはカムバタとあるから、kaniFata→kanFata→kambata という音変化であろう。また、和名抄に「似錦而薄者也〈加無波太〉」とあり、山城国相楽郡蟹幡郷(今、京都府相楽郡山城町綺田付近)を「加無波多」ともある。しかし新訳八十巻華厳経音義私記(奈良朝末)には「綺、加尼波多」とあるから、奈良朝ではカニハタが正しかったであろう。綺戸辺はこの辺の人であろう。記に弟苅羽田刀弁とある。開化記にも苅幡戸弁なる人名がみえ、このあたり、所伝が紛らわしい。」(353~354頁)とある(注2)。カムハタを音便形とし、もともとはカニハタのはずだからここもカニハタと訓むべきであるとの説が通行している。別に神機かむはたを語源とする説も見られる。
 機は経糸たていと緯糸よこいとからなっている。蟹の斜行するような機とはどのようなものか、想像することは難しい。斜めの文様を蟹の横歩きに譬えた時、その見立てでカニハタと呼ぶことがあったとしても、それが語源であるとしてすべてを音転で説明し切れるものか疑問である。紀の傍訓にカムハタとあるのは、それとは別の考え方をし、そう訓むことを正しいと認め、そう訓んでいるものと考えられる。

左:白地山菱文錦(沢田2014.№36図)、右:平地浮文綾の概念図(坂本1999.図1)

 機は縦横に糸を交差させて織物を作り出す。上代、「綺」がどのようなものであったかについては、実のところ謎としか言えない(注3)。有力な説に、文様を任意に浮かせた浮文錦のうち平組織になる平地浮文錦のことを指すと考えられている。綺羅星の如しという言い方のとおり、綺は羅と同様に薄地に仕上がった絹製品のことだろう。平織の過程で浮き糸を生じさせて浮文様とした。実際に織っていく過程において機とのかかわりで名づけるとするなら、機が正確にきちんと平織りすることができずに噛んでしまっている様子を見ていたのではないか。意図的に噛むようにして浮文様を作る機だからカムハタである。白川1995.に、「かむ〔嚼・醸(釀)〕 四段。歯でよく嚙んで咀嚼そしゃくする。酒を作るときにも、米を嚙み砕いて作ったので、醸造するときの「む」意にも用いる。両者は同源の語である。類義語の「くふ」は食いついてくわえる意。「かむ」は歯を合せて動かすことをいう。」(254頁)とある。歯を合わせて動かすことは、ただ交差させるばかりではない。牛の咀嚼する様子を見ればわかりやすく、反芻も含めて顎を左右にずらしながら噛んでいる。臼歯に入る筋目が縦だから横に擦るようにしている(注4)。そのように、整序的な上下動のみではない点が実は「噛む」ことの真髄である。機織り時にも、上下している糸の整序が崩れて糸が飛びずれていくところを、噛んでいるように見て取っているわけである(注5)。「綺」はカムハタと訓まれてしかるべきと理解でき、対して、正確に織られる単純の平織りの場合は例えばふ機であるとでも思ったのではないか。
 この説話はウケヒ(祈・誓・誓約)にまつわる話である。ウケヒは古代の誓約を伴った占い法である。これから実際の事柄がどのようになるのか知るために、目の前のことでどうなるかを仮定して言葉に発し実験とし、その結果をもって将来のことに写像させて予想した(注6)。狩りの結果をもって事態の成り行きを占うことが行われ、「祈狩うけひがり」(神功紀元年二月)と呼ばれている。ウケヒの代表例としてアマテラスとスサノヲの「誓約うけひ」がよくあげられる(注7)

 故爾かれしかくしておのおのあめやすの河を中に置きて、うけふ時、天照大御神、建速たけはや須佐之すさのをのみことける拳剣つかのつるぎわたして、きだに打ち折りて、ぬなとももゆらにあめ真名井まなゐに振りすすぎて、さがみにかみて、吹きつるふきぎりに成れる神の御名みなは、多紀理毘たきりびめのみこと。……速須佐之男命、天照大御神の左の御みづらにけるさか勾璁まがたま五百津いほつのみすまるのたまを乞ひ度して、ぬなとももゆらに、天の真名井に振り滌ぎて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、正勝まさかつ勝勝速かつかちはやあめ忍穂耳おしほみみのみこと。亦、右の御みづらに纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、あめ之菩卑のほひ能命のみこと。亦、御𦆅みかづらに纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、あま津日子つひこねのみこと。又、左の御手に纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、いく津日子つひこねのみこと。亦、右の御手に纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、くま野久須のくすびのみこと。……(記上)
 ……「ふ、なねのみことと共にうけはむ。誓約うけひみなかに……必ずまさみこを生むべし。やつかれ所生めらむ、これたをやめならばきたなき心有りと以為おもほせ。し是ますらをならば、清き心有りと以為せ」とのたまふ。是に、天照大神、乃ち素戔嗚尊の十握剣とつかのつるぎひ取りて、打ち折りてきだして、天真あまのま名井なゐふりすすぎて、𪗾然さがみ咀嚼みて、……吹きつるふきぎり……に生まるる神を、なづけて心姫こりひめと曰す。……既にして素戔嗚尊、天照大神の髻鬘みいなだき及びたぶさかせる、さか五百箇いほつ御統みすまるひ取りて、天真名井に濯ぎて、𪗾然に咀嚼みて、吹き棄つる気噴の狭霧に生まるる神を、号けまつりてまさ哉吾かあ勝勝速かつかちはや日天忍穂耳ひあまのおしほみみのみことと曰す。……(神代紀第六段本文)

 ウケヒの際にサガミニカム(𪗾然咀嚼)ことが行われた。前言して言葉にしておくことが本来のウケヒの姿であるが、このウケヒでは代替としてサガミニカムことが行われている。垂仁紀三十四年条でも「うけひ」が行われている。だから「綺」は絶対にカム(噛)ことと関係があるのである。カムハタである。そして、出てきたのは「かめ(メは乙類)」である。動詞「噛む」の已然形と同音で、すでに噛んでしまったこと、つまりは前言どおりなのだということを表している。もちろん洒落である。
 本当、亀が出てきただけでどこが「吉」兆なのか知れないのにそう決めてかかっている(注8)。それと同様に、スサノヲはウケヒを行っていながら、占いの結果がどうであれ自分に都合の好いように解釈し、勝った勝ったと勝ち誇っている。ウケヒの判定が言った者勝ちということになっている。

 しかくして、速須佐之男命、天照大御神にまをさく、「が心、清くあかきがゆゑに、我が生める子は、わやつ。此に因りて言はば、おのづからあれ勝ちぬ」と云ひて、勝ちさびに、天照大御神の営田つくりたのあをはなち、其の溝をみ、亦、其の大嘗おほにへきこす殿にくそまりちらしき。(記上)

 垂仁天皇のウケヒの性格とよく似ている。「因此言者、……」(記上)と「因此物而推之、……」(垂仁紀)とは同類の思考である。どのようにでも解釈し得るものを自分勝手に推量している。そして、その考えを周囲に披歴してそのとおりであろうと強弁している。これによって考えるとそういうことになるだろう、と公言して憚らない。判断の仕方でどうにでも解釈できるのだから言った者勝ちである。記では「勝ちさびに」と形容している。勝ち誇っているから垂仁紀で「ほこ」の話になっている。白川1995.の「ほこる〔誇・矜〕」の項に、「きょうきん声。〔説文〕一四上に「ほこなり」とする。……矜にほこを構えて威厳を示す意があるとすれば、そこから「ほこる」の訓義を導くことができよう。矜をほこに従う字であるが、国語の「ほこる」は「ほこ」とは直接の関係はない。ただ同根の系列語と考えられたものか、矜の字を用いることが多い。」(676頁)とある。古代の人に同根という意識があったか定かではない。言葉は音でできている。同じ音が聞こえたら、もともとの語意がどうであろうと、また、たとえ文脈的に異なろうとも、両者になにかしら関係性を見出そうとしている。言葉が音でしかなかった無文字時代の言語生活においては、そのほうがわかりやすくなるから当然の成り行きだろう。
 亀を見つけている。「比行宮、大亀出河中。」とある。行宮かりみやに近づいてから亀を見つけて矛で突いたことになっている。なぜそのような説明が必要なのか。そもそも何のために「幸山背」しているのか。行幸は狩りのために行われることが多かった。この垂仁天皇の記事も狩りが目的だったのだろう。狩りでは禽獣が捕まえられた。白鳥や鶴、鴨、鹿、猪、雉、菟などである。亀貝に属する亀を狩りの獲物にした例は知られない。この記事では矛を使って亀を刺している。変なカリ(狩)だからカリミヤ(仮宮・行宮)の近くでのこととされているらしい(注9)。そして、亀を刺したら石になったという。
 矛は、諸刃になった尖った刃をしていて、長い柄が付き、突き刺して用いられる。新撰字鏡に、「鉾 保己ほこ」、和名抄に、「戟 楊雄方言に云はく、戟〈几劇反、保古ほこ〉は或に之れを干と謂ひ、或に之れを戈〈古禾反〉と謂ふといふ。」、「矛 釈名に云はく、手戟を矛〈音は謀、字は亦、鉾に作る、天保古てぼこ〉と曰ひ、人の持つ所なりといふ。」とある。長い柄を地面に立てるときには、柄の先を損じないように金属製の保護部材が取り付けられている。中国の青銅器では平らなものをたい、尖っているものをそんと称しているが、我が国ではいずれも石突と呼ばれている。日葡辞書に、「Ixizzuqi. イシヅキ(石突) 杖,槍などの末端に取り付けてある鉄の金具.」(349頁)とある。長い柄のもとが石突でありつつ、刃で刺した亀が石に変じて石を突いた状態になっている。言葉の上では石突と言うにふさわしい。「挙矛刺亀」したことは、矛の矛らしい様子を表しているのである。ホコラシとは誇らし、つまり、勝ちさびにしてウケヒの定番であることになる。内容も勝ちさび的にウケヒの結果を好きなように解釈している。本当に瑞祥であったと認められるのか、秘伝書に裏付けがあるわけではなく、また、実際によいことが続いたということも記されない。ただ「仍喚綺戸辺于後宮」とあるばかりである。ウケヒの文言では、「必遇佳人、道路見瑞」とあった。必ず佳人に遇うのであれば道路で瑞祥が見えると言っておいて、そのとおりになったのならウケヒはまともに機能している。そのとおりにならずに逆の結果に終わってもウケヒはきちんと機能している。ここではどういうわけか亀を見つけて矛で刺したら石になっている。「この亀が石になったことこそが瑞祥であり、きっと佳人に会えるという(綺戸辺が佳人であるという)効験があるだろう、という意。」(新釈全訳日本書紀443頁)とする単純な解釈で意味が通じるとは思われない。亀が石に変じることを霊験あらたかと捉えることもできれば、逆に凶兆と見ることもあるだろう。そのうえ、記事を読む限り、「佳人かほよきひと」に遭遇したのではなく、役人たちに探させて後宮に召し入れている。上辺の解釈では要領を得ない。
 矛と誇るとが言葉の上で何か関係があるかのように感じられて話が作られているようである。ウケヒにおいてホコという音に関係する言葉にホク(祝・祷(禱))がある。よい結果が得られますようにと祝い事を言うことである。無文字文化下に形成された上代の人たちのものの考え方では、言葉は事柄と同一、相即なものであり、あるいは、そうなるように指向されていた。言葉にすれば事柄も同じようになることが期待されていたから、祝い事を言うことは今日以上に意義あることと思われていただろう。ホク(祝・祷)に反復・継続の接尾語がつけばホカフ(寿)となる。その連用形名詞のホカヒは祝い事の意である(注10)

 …… あれきて 人は在らじと ほころへど 寒くしあれば ……(万892)
 やき太刀たちの かど打ち放ち 大夫ますらをの 寿とよ御酒みきに われひにけり(万989)
 時に中臣の遠祖とほつおや天児屋命あまのこやねのみこと、則ち以て神祝かむほさほさきき。(神代紀第七段一書第二)
 すなはち矢を取りて、きてのたまはく、(神代紀第九段一書第一)
 ……室寿むろほきしてのたまはく、……(顕宗前紀)
 言寿き〈古語に許止保企ことほきと云ふ。寿詞と言へるは今の寿觴さかほかひの詞の如し。〉(延喜式・祝詞・大殿祭おほとのほかひ
 …… 少御神すくなみかみの かむ寿き 寿くるほし とよ寿き 寿きもとほし まつ御酒みきぞ ……(記39)
 祠 似慈似移二反、春祭也、継也、々猶食也、保加不ほかふ(新撰字鏡)
 皇太后おほきさきみさかづきささげて太子ひつぎのみこ寿さかほかひしたまふ。(神功紀十三年二月)
 はなひるるは則ち祷言ほかひことす(世俗諺文・上巻)

 実際にはまだ起こっていない良いことを、そうなりますようにと願ってホクことをしている。それをくり返すことがホカフこと、ホカヒである。しかし、結果的に言ったとおりにならないとなると、言葉と事柄とが一致しないことになって問題となる。事柄に裏付けられない言葉を言っていては言葉がその存立基盤を失って世界はカオスに陥る。では、ホカヒしてはならないかと言えば、それでは人情が成り立たない。そこでひと知恵加え、ホカヒ(ヒは甲類)とは言葉が事柄から外れたもの、ホカ(外)+イヒ(言、ヒは甲類)の約縮でもあるとして言葉の安定を得たのである。語源的に言葉がそのように成り来ったということではなく、そのように理解しても間違いではないしわかりやすいから採用したということである。恣意的とも思えるだろうが、言葉は人間が恣意的に作り上げたものである。
 ホカ(外)という語は中心から外れているところ、ある境界の外側のところをいう。ホはハ(端)・ヘ(辺)の母音交替形、カはアリカ(在処)、スミカ(住処)など場所を表す。つまり、ホカ(外)はハタ(端)のことで、はたと同音である。「かむはた戸辺とべ」という言葉はホカ的な名であると印象づけられる。別の形になることは「他形ほかしきかたち」という。亀が石に変わっている。

 かどほか有り。(神代紀第十段一書第一、東山御文庫本訓)
 荒礒ありそ越し ほかく波の ほかごころ われは思はじ 恋ひて死ぬとも(万2434)
 損敗他形〈上滅也、敗沮也、他形は倭に保可之伎可多知ほかしきかたち、又異形〉(新訳華厳経音義私記)

 「綺戸辺」の親の名は熱田本に「山背大避やましろのおほさひ」と訓まれている。山背のヤマには、mountain の意のほかに、山陵、ツカ(塚・墳・墓)の意がある。シロは、代わりとなるもののことである。ツカ(墳墓)には同音にツカ(束・柄)がある。いま、矛という、掴むところばかりが肥大して長くなった武器を手にしている。そして、「避」にサヒと傍訓がある。「ひ(ヒは甲類)」の意で、さひと同音である。

 …… 大刀たちならば くれさひ ……(紀103)

 鉏のなかでも大きな鉏にして、長い柄のついた物とは矛である。だから、矛を持ち出してウケヒが行われている。
 「綺」は錦や綾のようなもので斜行文様のものであるとされていた。多色の錦に対して綾は単色で、織り筋を斜めに出す。多色にして斜め文様をしているのが「綺」と捉えられていたのではないか。アヤの同音に感動詞のアヤがあり、その形容詞形はアヤシ(怪・奇)である。

 綺 墟彼反、繒也、繍也、阿也あや(新撰字鏡)
 綾〈紋付〉 野王案ずるに、綾〈音は陵、阿夜あや、熟線綾、長連綾、二足綾、花文綾、平綾等の名有り〉は綺に似て細かき者なりといふ。考声切韻に云はく、紋〈音は文〉は呉越に小綾を謂ふなりといふ。(和名抄)
 …… 綾垣あやかきの ふはやがしたに ……(記5)
 是、あやしきつるぎなり。(神代紀第八段本文)
 あやしき鳥来てかつらすゑり。(神代紀第九段本文、丹鶴本訓)
 乃ち金色こがねあやしきとび有りて、飛び来りてゆみはずに止れり。(神武前紀戊午年十二月)
 …… が国は 常世にならむ ふみへる あやしき亀も 新代あらたよと 泉の河に ……(万50)

 万50番歌原文の「神亀」は、クスシキカメともアヤシキカメとも訓める。甲羅の亀甲文の図様のことと考えると、ここはアヤシキと訓んで綾織の文様を連想させたほうが適切だろう。
 「忽化-為石」、亀が石になっている。石のかめの謂いなのだろう。カメのメはいずれも乙類である。石の甕に水を入れておく。設定は山背国であった。ヤマシロが山城の意なら、山城には水をいかに貯えておくかが喫緊の課題である。籠城するのに水がなくなったらおしまいである(注11)。そんな山城に亀が河の中から出てきて石甕になったとするならこれほど幸いなことはない。垂仁天皇の言に瑞祥としている理由である。水があるのだから「みづ」があると言っている。水分のことはしるだから霊験あらたかなしるしでもある。
 山城は戦闘時に要塞として築かれた。砦としての性格が強い。日葡辞書に「Toride.トリデ(砦) 本城の近所にある城,または,要塞で,その本城を一層よく守り,警備するためのもの。下(Ximo)ではDaxixiro(出し城)と言う.」(666頁)とある。戦略攻防において仮設的に構築されるから、ここでも「行宮かりみや」の話になっている。トリデという音はまた鳥手とも聞こえる。鳥の手で水にかかわりがあって瑞なるもの、素敵なものと言えば水掻き(蹼)である。同音に瑞垣がある。

 蹼 爾雅集注に云はく、蹼〈音は卜、美豆加岐みづかき〉は鳬鴈の足指の間に幕有りて相連なり著くる者なりといふ。(和名抄)
 瑞籬 日本紀私記に云はく、瑞籬〈俗に云ふ美豆加岐みづかき、一に云ふ以賀岐いがき〉といふ。(和名抄)
 少女をとめらを そで布留ふるやまの 瑞垣みづかきの 久しき時ゆ 思ひけりわれは(万2415)

左:瑞垣(天狗草紙(延暦寺本)、紙本着色、鎌倉時代、13世紀、東博展示品)、右:蹼(堀田禽譜・水禽・かもめ、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0063729をトリミング)

 山の砦に木柵の垣根を立て囲い、その内側に兵士を配置して守った。斎垣ともいわれる瑞垣には隙間がなく、水も漏らさぬほどに堅牢な防御態勢が敷かれた。まことに水鳥の蹼に等しい。設定が山背ならどう転んでも瑞祥に決まっていることになっている。山背に築かれた山城の砦は仮設だから仮宮で、ふだんの宮から離れたところ、ホカ(外)なるところにあるホカツミヤということになり、その対義語はウチツミヤ(内宮・後宮)である。かむはた戸辺とべはホカの地からウチへとめしいれられている。
 以上がヤマトコトバによってあやしくあやなされた綺戸辺にまつわる逸話である。ヤマトコトバの辞書的な説明が堂々巡りをくり広げて一つの話となっている。話としてあまりにも完成度が高く、自己完結していて、現代の歴史学や神話学の観点からは何を伝えようとしているのか一向にわからない。せいぜい、その時に染織品として綺という織物が伝わっていたことぐらいしか見出すことはできないだろう。この話に対するに、わからない話、荒唐無稽な話が綴られていると見るのではなく、現代人がめぐらす習いとなっている思考の枠組みとは異なる思考法が古代に厳然としてあったと、われわれ自身の固陋な考え方を反省すべきなのである。無文字時代の人々の知恵は我々の追随を許さぬほどに深く豊かで、驚きの言語活動を行っていた。識字によって失われた人類の可能性は測り知れない。

(注)
(注1)ほかにも、北野本の「石」字の右傍に、「白イ本」とあり、兼右本の「白石」字の左傍に、「イ无」とある。この部分を「白石」とする考えがある。新編全集本日本書紀に、「白は瑞祥。「白石」は美女の象徴であること、……[垂仁紀二年是歳条一云に、]「白石…美麗かほよき童女をとめに化りぬ」とあり、雄略紀二十二年七月条にも「大亀かめを得たり。便たちまちに女に化為る」とみえる。以上の神異譚は綺戸辺を神聖な女性として、天皇の妻たるにふさわしいことをいうため。」(327頁)とする。古語拾遺に、「しろ・白馬・白鶏しろかけを献る。」(御歳神)とあるのも参考にされているものか。けれども、この話より前に苅幡戸辺が娶られているが、何の話も仕組まれていない。垂仁紀二年是歳条一云の分注記事では、「白石」(「神石」)は「美麗かほよき童女をとめ」に化けたが姿を消してしまって、「比売語ひめごその社神やしろのかみ」となっている。ここに亀が石になったことが神異譚であるとしても、それはウケヒの話であり、亀が綺戸辺に成り代ったわけではない。
(注2)熱田本傍訓にカンハタトヘ、兼右本傍訓にカニハタトヘとある。
(注3)我が国でどのような織物を綺と呼んだか、見本帳が残っているわけではないからわからない。正倉院文書には経巻に「綺緒」、「綺帯」を用い、持統紀四年四月条には朝服に「綺帯」の名称があることから紐状の織物とする見解がある。その形状は、数色の糸を束ねて一縷としたものを緯糸にして絣様の横縞文様に織り上げたものとする説がある(日本染織辞典、染織事典)。一方、紀元前の中国の墓から出土する「綺」は、上代の染織品のうち平地浮文織と称しているものに当たるので、それであるとする説がある(染と織の鑑賞基礎知識)。また、中国でも、綺の意味は時代により異なるともされ、漢代のものは菱形を主とした幾何学模様を斜行組織で織ったもので、唐代のものは二色の色緯糸で文様を表すものをいうという(原色染織大辞典)。
(注4)象の場合は、臼歯に横に筋目が入っているので顎を前後にずらしながら噛んでいる。本邦に、ナウマンゾウがいなくなって久しく、ヤマトコトバのカム(噛)には、人間に同じく縦の筋目のものを横にずらすことが念頭にあったと考えられる。つまり、カムハタ(綺)は、平織で緯糸を通すときに経糸を飛ばして浮模様を構成しているものと考えられる。
(注5)言葉を話すときに流暢にし損なって何度も言い直すことを、現代の口頭語で「噛む」ということと等しい。拙稿「古事記におけるウケヒについて」参照。
(注6)土橋1988.は、「……ウケヒは過去・現在・未来の知ることのできない「真実」(「神意」ではない)を知るための卜占の方法として、また誓約(約束すること)を「真実」なものにするための方法として、実修される言語呪術であり、「もしAならば、A´ならむ」という形式は、「こう言えば、こうなる」という言霊信仰に基づく呪文の形式にほかならない。従来ウケヒを「真実」でなく、神意を知るための方法と解してきたのは、第一に呪術としての卜占の結果を神意の現われとする偏った宗教観念に災されたためであり、第二に「祈」「禱」などの漢字表記に惑わされたためである。」(55~56頁)としている。
(注7)古事記の須佐之男命のウケヒにおいて、予測的仮定明言がないことを不審視する議論が行われている。拙稿「古事記におけるウケヒについて」参照。
(注8)亀を吉兆とする例は、「己卯、左京職、亀を献る。長さ五寸三分、ひろさ四寸五分。其の背にふみ有りて云はく、「天王貴平知百年」といふ。(己卯、左京職献亀。長五寸三分、闊四寸五分。其背有文云、天王貴平知百年。)」(続紀・聖武天皇・天平元年六月)とある。この例を垂仁紀三十四年条に敷衍適用することには無理がある。一方は亀が石になっており、他方は亀の背におめでたい言葉が文字として浮かび上がっている。
 水谷2020.は垂仁紀三十四年条の「亀」も瑞祥のひとつとして記されている点は疑いないとし、おそらく持統朝より少し前の時期の観念が反映しているとしている。話がわかっておらず、わかろうともしていない。
(注9)紀では仮宮が設営されたとき、その現代史に当たる天武・持統朝を除き、「行宮」(「離宮」、「行館」)の置かれたところをもって命名されることが多い。「高嶋宮たかしまのみや」(神武前紀乙卯年三月)、「みやこ」(景行紀十二年九月)、「高屋宮たかやのみや」(景行紀十二年十一月)、「高田行宮たかたのかりみや」(景行紀十八年七月)、「飯宮ひのみや」(仲哀紀二年二月)、「耳梨行宮みみなしのかりみや」(推古紀九年五月)、「子代離宮こしろのかりみや」(孝徳紀大化二年二月)、「蝦蟇行宮かはづのかりみや」(大化二年九月是月)、「庫行宮このかりみや」(大化三年十二月)、「やまとの飛鳥河辺行宮あすかのかはらのかりみや」(白雉四年是歳)、「石湯行宮いはゆのかりみや」(斉明紀七年正月)、「磐瀬行宮いはせのかりみや」(斉明紀七年三月)とある。引っ切りなしに遷都するのが常態であった。建築学的に言えば宮が掘っ立て柱形式だったためだろう。
(注10)万3885題詞に「乞食ほかひびとうた二首」、和名抄に「乞児 列子に云はく、斉に貧者有り、常に城市に於いて乞ふ、乞児曰はく、天下の辱は乞に過ぎたるは莫しといふといふ〈楊氏漢語抄に云ふ乞索児、保加比々斗ほかひびと、今案ふるに乞索児は即ち乞児なり、和名は加多井かたゐ〉。」とある。これらホカヒビトが物貰い、乞食の意なのは、祝言を言いながら人家の門に立って食べ物を乞うたからという。
(注11)河村誓真・築城記(1565年)に、「山城ノ事可然相見也。然共水無之ハ無詮候間、努々水ノ手遠ハこしらへべからず。又水ノ有山をも尾ツヽキをホリ切。水の近所の大木ヲ切て、其後水の留事在之。能々水ヲ試て山を可拵也。人足等無躰にして聊爾ニ取カヽリ不然。返々出水之事肝要候條分別有ベシ。末代人数の命を延事ハ山城ノ徳と申也。城守も天下ノ覚ヲ蒙也。日夜辛労ヲ積テ可拵事肝心也。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1879799/1/212、漢字の旧字体は改めた)とある。

(引用文献)
原色染織大辞典 坂倉寿郎・野村喜八・元井能・吉川清兵衛・吉田光邦監修『原色染織大辞典』淡交社、1977年。
坂本1999. 坂本和子「古代の織技術」『Fiber 繊維学会誌』第55巻第7号(通号640号)、1999年7月。J-STAGE https://doi.org/10.2115/fiber.55.7_P235
沢田2014. 沢田むつ代「正倉院所在の法隆寺献納宝物染織品─錦と綾を中心に─」『正倉院紀要』第36号、平成26年。宮内庁ホームページ https://shosoin.kunaicho.go.jp/bulletin/?p=2
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集② 日本書紀①』小学館、1994年。
染織事典 中江克己『染織事典』泰流社、1987年。
染と織の鑑賞基礎知識 小笠原小枝『染と織の鑑賞基礎知識』至文堂、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
土橋1988. 土橋寛『日本古代の呪禱と説話─土橋寛論文集 下─』塙書房、平成元年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
日本染織辞典 上村六郎・辻合喜代太郎・辻村次郎編『日本染織辞典』東京堂出版、昭和53年。
水谷2020. 水谷千秋『日本古代の思想と天皇』和泉書院、2020年。

加藤良平 2026.7.23改稿初出

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