橘諸兄の歌─葛城王と𦵮妙観命婦の贈答歌を思い出して─

 橘諸兄は光明皇后とは父親の異なる同母兄弟である。県犬養橘三千代は美努王との間に葛城王(後に臣籍降下して橘諸兄)を、藤原不比等との間に安宿媛(光明子)を設けている。安宿媛が首皇子(聖武)に嫁いだため、橘諸兄は聖武天皇と義理の兄弟になっている。万葉集には橘諸兄が詠んだ歌がいくつか残されている。次の歌群は、左大臣としてあった橘諸兄が宴席で詠んだ歌と、その時に読み上げた二十六年前の葛城王時代に交わした贈答歌から成っている。不思議な構成である。

  十一月二十八日に、左大臣の、兵部卿橘奈良麻呂朝臣のいへつどひてうたげする歌一首〔十一月廿八日左大臣集於兵部卿橘奈良麻呂朝臣宅宴歌一首〕
 高山の いはほふる すがの根の ねもころごろに 降り置く白雪しらゆき〔高山乃伊波保尓於布流須我乃根能祢母許呂其呂尓布里於久白雪〕(万4454)
  右の一首は、左大臣の作。〔右一首左大臣作〕
  天平元年に班田せし時の使の葛城王の、山背国より𦵮妙観せちのめうくわん命婦みやうぶ(注1)等の所に贈る歌一首〈芹子の裹に副へたり〉〔天平元年班田之時使葛城王従山背國贈𦵮妙觀命婦等所歌一首〈副芹子裹〉〕
 あかねさす 昼は田賜たたびて ぬばたまの 夜のいとまに めるせりこれ〔安可祢左須比流波多々婢弖奴婆多麻乃欲流乃伊刀末仁都賣流芹子許礼〕(万4455)
  𦵮妙観命婦の報へ贈る歌一首〔𦵮妙觀命婦報贈歌一首〕
 大夫ますらをと 思へるものを 大刀佩たちはきて かにはの田居たゐに 芹そ摘みける〔麻須良乎等於毛敝流母能乎多知波吉弖可尓波乃多為尓世理曽都美家流〕(万4456)
  右の二首は、左大臣これを読みてしか云ふ。〈左大臣は、是れ葛城王、後に橘の姓を賜はる〉〔右二首左大臣讀之云尓〈左大臣是葛城王後賜橘姓也〉〕

 万4454~4456番の三首をセットで採っている。橘諸兄が万4454番歌で詠み、その後で万4455・4456番歌を思い出したかのように読み上げて続けている。採られている理由について、小田2026.は、「葛城王と薩妙観命婦の明朗な贈答をわざわざ一族集宴の場で披露した諸兄の目的は、天平元年〈七二九年〉時、班田任務中でも遊興的贈答を交わしていたという事実と、班田の任務を上手く全うしてその後出世したという事実を示すところにあったと考える。そうした諸兄の感慨を編纂者が享受した結果……と考えれば落ち着くだろう。」(75頁)と述べている。歴史書を繙いているような見方である。しかるに、万葉集は何を措いても歌集である。史実を超えて歌として目につくことが選定の第一条件ではないか。
 左注に「讀之云尓」とあり、何か書いたものを持ち出して読み上げている。読むという言葉には、なるほどうまい具合に言葉が使われているものだと感心するほどの納得感を示すことがある。数がきちんと合うように対象物を指しながら一、二、三、……と声を発し、一対一対応を確かに行うことを原義としている。ヨムには「読」のほか「数」という漢字が当てられた(注2)。橘諸兄が万4455・4456番歌を「読」んだとあるのは、書いてあるものを読み上げて間違えがないというだけでなく、万4454番歌に添えるにふさわしい歌としてあげていることを表している。万4454幡歌の意を理解する手助けとして万4456・4457番歌は適切なのである。万4454番歌と万4455~4456番歌とが関連することが題詞で強調されているのだから、その点を踏まえた解釈でなければならない。

 高山の いはほふる すがの根の ねもころごろに 降り置く白雪しらゆき(万4454)

 一~三句目までが序で、それを承けて「ねもころごろに」という言葉が登場している。以下が本旨で、雪が降って、あたり一面十分真っ白になっている。歌の要の位置に「ねもころごろに」がある。
 「ねもころごろに」は「ねもころ」を発展させた言葉である。

ねもころ【懇・懃】 心をこめて十分にすることをいう。「心」や「思ふ」などに関していう。「根もころ」で、「もころ」はもころ、それと同じ状態にあることをいい、それより懇篤・惻隠そくいんの意となる。「ねもごろ」ともいう。「ねもころに」、また「ねもころごろに」のようにいうこともあり、〔万葉〕の表記のしかたから「根もころ」説をとる人もある。当時そのように解されていたのであろうが、「ころ」という語義が考えにくい。また「ねむころ」「ねむころに」ともいう。コ・ロはともに乙類。(白川1995.593頁)

 歌では、菅の根が繁茂するように雪が降り積もって一面真っ白になっていることを示そうとしている。しかし、その形容は破綻している。
 「高山の 巌に生ふる」と冠している。高山の岩はごつごつしていて植物の根は活着しにくい。ちょっとした窪みに土が溜まり、すかさずスゲが生えているという風情になっている。自然界でよく目にする光景である。歌の修辞として「菅のの」のネを掛けて「もころごろに」と続けているのだが、一面に生え渡っているものではなく、根も張り揃っているわけでもない。十分さが感じられないのにねんごろだと言うのは当たらない。ふだん使う「菅の根の ねもころごろに」という常套句ならではの意味に合わず、表現として失敗している。語の使用にミステイクである。修辞法を巧みに使って捻ったつもりがかえって拙くなっている(注3)
 技巧に溺れてかえって何を言っているのかわからなくなった作例を、かつての自身の歌作からとり上げたのが次の万4455番歌である。

 あかねさす 昼は田賜たたびて ぬばたまの 夜のいとまに めるせりこれ(万4455)

 (あかねさす)昼は班田の田を与える仕事に追われ、(ぬばたまの)夜はその公務から逃れた束の間にあなたのために芹を摘みました、それがこれです、という歌を書いて贈り物の包みに添え、相手のところへ渡るようにしていた。班田の仕事に赴いたのは山背(山城)国で、𦵮妙観命婦たちのいる大和の平城京へ歌を届けている。
 歌を受け取った𦵮妙観命婦はその歌に抜かりを感じている。朝採りで早朝から刈り取って新鮮でみずみずしい野菜を出荷することはあるが、夜、真っ暗な中で農作業をすることはない。見えないのに芹を摘むことはできない。そこでちょっと懲らしめる歌を作って返している。

 大夫ますらをと 思へるものを 大刀佩たちはきて かにはの田居たゐに 芹そ摘みける(万4456)

 あなたは大夫ますらをだと思っておりましたよ、大刀を帯びてかにはの田んぼで芹を摘んでいらしたのですね。
 きついジョークを言って揶揄している。班田の仕事は忙しかったらしく、日の高いうちは忙殺されている。だから夜にならないと自由時間はないというのが建前であり、仕事の隙を見計らって芹を摘んだという話に橘諸兄、当時の葛城王は作った。歌を作って寄越したのだが、誇張が過ぎると見抜かれてしまった。
 𦵮妙観命婦とは内命婦として出仕していた𦵮妙観という人のことである。続紀には「薩妙観」が「従五位上」(養老七年正月)、「賜姓河上忌寸」(神亀元年五月)、「正五位下」(天平九年二月)と見える。
 「ますらを」という言葉については今日誤解されている(注4)
 万葉集で「ますらを」と訓む用字に「建男」(万2386、柿本朝臣人麻呂之歌集)とあり、景行記にも「建男」(タケキヲ)とあってヤマトタケルのことを指している。同じ用字になっているのは偶然にすぎないかもしれないが、人麻呂歌集の用字法にうがった使い方をしているのはひょっとすると古事記の「建男」にも当てはまり「ますらを」と訓むべきものかもしれない。
 ヤマトタケルは荒ぶる心を持っていて、熊曽へ征討に出掛ければ敵将を捕まえて剣を尻の穴に刺し入れて熟瓜ほぞちを切り裂くようにして絶命させている。その一方、熊曽、出雲と征討して帰還してみると軍勢も与えられずにさらに東征を命じられ、天皇は自分に死ねと言っているのかと泣き言を言っている。幼い頃に実兄をネグ(労)ように命じられればその体を解体するネグ(麻採)ことを平気でしておきつつ(注5)、東征で随伴していたオトタチバナヒメが走水の海で人柱となって行路の助けとなったら、東国の地を出る時まで思い続けて足柄の坂に登ってアヅマハヤと嘆いている。ヤマトタケルのこの二面的な性格を「ますらを」という言葉で表した。荒ぶる心を持っているのに辛くなると愁い泣く、この両者が併存することを言っている(注6)
 ここで𦵮妙観という命婦は、歌を贈られた自らの立場が、まるでヤマトタケル(倭建命、日本武尊)に対するヤマトヒメ(倭比売命、倭姫命)の立場にあると見ている(注7)。ヤマトタケル同様、橘諸兄は天皇の命により地方へ派遣されている。天皇の命令は過酷で、昼間、息もつけないほど班田の仕事に追い立てられている。𦵮妙観命婦自身も、伊勢神宮で斎宮として仕えていたヤマトヒメのように、後宮仕えしていて男女の関係を結ぶことのできない立場にある。その名は渡来系の人のため音読みなのだろうが、まるで僧尼の名のようにも聞こえ、俗世から離れることは斎宮と同じスタンスとなっている。そんな自分のところへ勅命が厳しいという歌を寄越したとなると、泣き言を漏らすことができる「叔母」的な存在に匹敵していると見立てているのである。
 だから「大夫と 思へるものを」という歌を返している。助詞の「ものを」は、承ける用言の内容を確かなものとして承認することにはじまっていて、順接にも逆接にも使われる。勅命の仕事が大変だと泣き言を叔母的存在の私に言ってくるとは、あなたのことを「大夫と思へる」のは確かだと述べているわけである。
 「大刀佩きて かにはの田居に」と続くところも、ヤマトタケルとヤマトヒメの間柄に準えての物言いである。泣きつかれたヤマトヒメは草那芸剣(草薙剣)を渡していた。だから「大刀」の話になっている。「かには」は山背国の地名、「蟹幡」、「綺田」のこととされている(注8)。その点を否定するものではないが、大刀のつかを樺巻にすることからの連想なのだろう。

 …… しきたへの 枕もまかず 桜皮かには巻き 作れる船に ……(万942)
 樺 玉篇に云はく、樺〈戸花、胡化の二反、迦邇波かには、今の桜皮に之れ有り〉は木の名、皮は以てたいまつと為すべき者なりといふ。(和名抄)

 草薙剣は火難の一大事から脱出するのに役に立った。火の手の迫る野原で草を刈って延焼を食い止めた。一方、橘諸兄(葛城王)の手にしていたらしい樺巻の大刀は、芹なんかを刈るのに使ったのかもしれないと思うととても滑稽である。班田するにも芹が繁茂していて農民は受け取りたがらなかったとはご難でしたね、と揶揄している。たいそうからかわれている。

 是より先、にし勝宝七歳冬十一月に太上天皇だいじやうてんわう不悆みやまひしたまふ。時に、左大臣橘朝臣諸兄の祗承ししようの人、味宮守みのみやもり告げて云はく、「大臣、酒を飲む庭にして言辞ことばゐや無し。やうやそむさま有り云々しかしか」といへり。太上天皇、優容いうようして咎めたまはず。大臣、之れを知りて後歳のちのとし致仕ちしせり。(続紀、天平勝宝九歳(天平宝字元年)六月二十八日)

 宴席で四半世紀も前の歌を持ち出して示した橘諸兄には後日談がある。家来の佐味宮守により酒の席で不遜な言葉を発していると告発されている。それは他でもない、この歌群の披瀝したことである(注9)
 天平勝宝七歳十一月に昔の歌を持ち出して再解釈した。天平元年の班田は聖武天皇の命によるもので、その時に芹を贈り歌を添えた時にからかわれたことについてその解釈を外し除け、形容の過剰による失敗作だったと定め直したのである。それまでなら、橘諸兄(葛城王)がどんなに逸脱的な行為をしてもヤマトタケルのように受け取られ、荒ぶったり命令に不服を言ったとしても結局のところヤマトタケルのように天皇の意向を忠実に遂行している「ますらを」であると許されたのであるが、歌の本意は他にあると主張し始めた途端、それは聖武の意向を歌に具現化して社会の安定に寄与していた𦵮妙観の認識(及びその枠組み)を覆すことになって、彼には謀反の心があるのではないかと捉え返される可能性を含んだのである。少なくとも「祗承人佐味宮守」はそう考えるようになった。太上天皇であった聖武は「優容」、寛容で咎めることはなかったとある。その昔、芹の歌問答を交わしていたのは内命婦として天皇聖武に仕える𦵮妙観であり、聖武のすぐ側で聖武がよく知る形で広められた出来事であった。𦵮妙観の言語力の高さから当時人々に行き渡ることとなった認識の枠組みについて今となって抗っているのかと、大ごとにする気にもならなかったのだろう。太上天皇、聖武から不起訴処分が下っていたと後になって知った橘諸兄は、面目丸潰れで恥ずかしいと思ったか、天平勝宝八歳二月に「致仕」、官を辞している。
 歌の席は言葉の力が試される場であった。とりわけ政治の中枢にいる皇族らは言葉を正しく、すなわち、政治動向に合致するように使うことが洗練された使い方と目され、それができるかが問われていた。今日でも政治家の発言は言葉として重いものと思われている。政治とは言葉である。古代、歌を歌うことは、意図すると否とにかかわらず、その言葉を多くの(、波及する可能性を考えれば世の中すべての)人々に開陳することになっていた。声となって広がることで無文字時代の人々に訴えかけ、人々の認識をアップデートさせる機能を果たしていた。橘諸兄が四半世紀前から忸怩たる思いを抱いていたことを開陳したとなれば、世界の解釈枠組を変えようとする試みであると捉えられもし、また、今さらそのようなことを言い返しているほどに野暮で、その時、当意即妙の切り返しができなかった言語能力の欠如を自ら曝すことにもなる。しかも、彼は書いたものを読み上げている。息子の奈良麻呂の宅へ出向くのにメモを持参したらしい。無文字の時代に生きた人にとって言葉は声であり、記憶がすべてである。記録に頼らざるを得ないとなると認知能力の衰えを表していて、無文字社会では今日以上にシビアな状況を招いただろう。もはや社会の第一線からは退いてもらわなければならない。この日の宴席で歌を披露したことは、橘諸兄にとっていろいろな意味で取り返しのつかないことであった。

(注)
(注1)続日本紀に「薩妙観」とあり、「薩」は「𦵮」の異体字とも誤写とも見られている。
(注2)拙稿「上代語の「数(かず)」と「数(かぞ)ふ」と「数(よ)む」について」参照。
(注3)伊藤1998.は、「菅の根の ねもころごろに」の言い回しの類型歌が数多くみられるなか、万2857番歌(下の⑤)では天体のさまを修飾していて類想のなかにありながら鮮度に富む一面を持つと評価している。そして、万791番歌(②)と当該歌(⑫)とを比較して、奥に引き込んだ「奥山の岩陰」と目につく「高山の巌」との違いを述べて瑞祥性や清浄性を見て取ろうとしている。問題はそこにあるのではない。
 万葉集のなかで「菅の根の」+「ねもころ(ごろ)」の形は全部で十二例ある。

①あしひきの 山にひたる 菅の根の ねもころ見まく しき君かも(万580、余明軍)
②奥山の 岩陰に生ふる 菅の根の ねもころ我も 相思あひおもはずあれや(万791、藤原久須麻呂)
③菅の根の ねもころ君が むすびてし 我が紐の緒を 解く人はあらじ(万2473、人麻呂歌集)
④菅の根の ねもころいもに 恋ふるにし ますらを心 思ほえぬかも(万2758)
⑤菅の根の ねもころごろに 照る日にも めや我が袖 妹に逢はずして(万2857、人麻呂歌集)
あさ葉野はのに 立ちかむさぶる 菅の根の ねもころ誰故たれゆゑ 我が恋ひなくに(万2863、人麻呂歌集)
⑦あしひきの 山菅の根の ねもころに 我はそ恋ふる 君が姿に(万3051)
⑧あしひきの 山菅の根の ねもころに まず思はば 妹に逢はむかも(万3053)
⑨相思はず あるものをかも 菅の根の ねもころごろに 我がへるらむ(万3054)
⑩菅の根の ねもころごろに 我がへる 妹によりては ことさへも 無くありこそと 斎瓮いはひべを いはひ堀りゑ 竹玉たかだまを なく貫き垂れ 天地あめつちの 神をそむ いたもすべみ(万3284)
⑪み吉野の 真木まき立つ山に 青く生ふる 山菅の根の ねもころに 我がふ君は 大君の まけのまにまに〈或る本に云はく、大君の みことかしこみ〉 ……(万3291)
⑫高山の いはほふる 菅の根の ねもころごろに 降り置く白雪しらゆき(万4454、橘諸兄)

「菅の根の」+「ねもころ(ごろ)」がどのような位置で使われているかという形式と、何を形容するために用いられているかという内容において、いくつかに分類される。

A「菅の根の」の前に修飾語がないもの(「菅の根の」ではじまる歌、枕詞「あしひきの」ではじまって「山」を導き「山菅の根の」とつづくもの)
  ③④⑤⑦⑧⑩
B「ねもころ(ごろ)」が抒情(精神活動)で心情を表すもの
  ①②④⑥⑦⑧⑨⑩⑪
C「ねもころ(ごろ)」が行為であるもの
  ③
D「ねもころ(ごろ)」が叙景であるもの
  ⑤⑫

 Aの場合、単に「ねもころ(ごろ)」という言葉を導きたいがために「菅の根の」という言葉が置かれている。決まり文句、枕詞的な用法である。その後ろで何を言おうが差し障りが生じることはない。Bのように、スゲの根の様子を言っておいてそれを譬えとして心情の表現へ展開していくのは自然なものである。もともとそのために開発された言い回しだったと考えられる。Cの③の例は心を込めて結ぶという表現で、Bの発展形である。譬えと主旨とを切り離して考えることができるし、譬えの言葉が主旨に浸潤していると見たとしても、スゲの根のように絡み合って結ばれた紐の緒は誰も解きたがらないだろうということになり、形容がダブルで順行していてうまい言い回しと認められるのである。Dの⑤でも、スゲの根の様子を言っておいてねんごろな照る日の様子を述べることに問題は起きない。譬えとして言っていることが完全な譬えになっていて、本旨とは無関係だから違和感を覚えることはない。
 ところが、⑫の、今とり上げている万4454番歌の場合、高山の岩に生える菅の根のように、ねんごろに降り積った雪よ、とつづけると、地上の様子を表そうとするのに同じ地上の様子を譬えとして使うことになって混乱が生じる。「ね」という音だけを介することにとどまらず、実景上のつながりがあるように受け取られてしまい、その時それぞれの意味合いが逆行、抵触している。レトリックを駆使しようとして墓穴を掘っている。
(注4)拙稿「舎人皇子と舎人娘子の歌の掛け合い─「ますらを」考─」参照。
(注5)拙稿「上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について」参照。
(注6)姨の倭比売命に愚痴をこぼす代表的な部分を引いておく。

 ……勢大せのおほかみの宮にゐ入りて、神の朝廷みかどをろがみて、即ち其のをば倭比売やまとひめのみことまをさく、「天皇すめらみことの既にあれを死ねと思ふ所以ゆゑなにか。西の方の悪しき人等ひとどもを撃ちにつかはして、返り参ゐのぼし間に、未だいくばくの時も経ぬに、軍衆いくさびとを賜はずして、今更にひむかしの方の十二とをあまりふたつの道の悪しき人等をたひらげに遣す。此に因りて思惟おもひみるに、猶吾を既に死ねとおもほしすぞ」とまをして患へ泣きて罷りし時に、倭比売命、くさぎのつるぎを賜ひ、亦、御囊みふくろを賜ひて、……。(景行記)

(注7)ストーリーの展開としては記紀とも似ているが、日本書紀では天皇の命令に弱音を吐くシーンが描かれない。
(注8)「かには」の音から蟹のように這いつくばって収穫しているのだとする説がある。掃部かにもりの由来を蟹守かにもりとする説が古語拾遺に載るように、語呂合わせによる類推思考は多く行われていた。筆者は姿勢のことではなく、大刀を蟹のハサミよろしく使って摘んでいると言い表したものかとも考える。
(注9)鉄野2016.は、万4454~4456番歌の歌は失言のあった当の宴である可能性があると見ている。昔話に興じている諸兄の認識は甘く、生起しつつある事態が飲み込めていないことを記録として暴いているという。しかし、これでは核心を捉えたことにならない。「言辞無礼」とは、万4455・4456番歌を皆の前で万4454番歌と同列に扱い披瀝したこと自体である。𦵮妙観命婦の歌とは聖武公認、公式の見解を歌の形で発布したと同然のことだったのに、その捉え方を傾けている。失脚の自発点として当該歌があったことが把握されなければ、万葉歌の持っていた歌の力、言葉の力についての本質的な理解に達していない。鉄野氏は万4456番歌の左注の細字、「左大臣、是葛城王、後賜橘姓也」を「歌日誌」の編纂者によって諸兄の人生が総括されているようなものと見ているが、そのような面倒なことではない。万4455・4456番歌が昔交わした歌で、天平元年当時はまだ「葛城王」と言っていた事実を正確に伝えるための注記である。
 万葉集は歌集である。あくまでも歌が中心にある。研究者の間で歌人の個性や境遇、編纂者の考え方が問われるようになって久しいが、そもそもの歌をきちんと理解することが何より求められている。

(引用・参考文献)
阿蘇2015. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第10巻』笠間書院、2015年。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注 十』集英社、1998年。
大浦2023. 大浦誠士「『あかねさす日は照らせれど』考─人麻呂『日並皇子挽歌』における『日』と天武皇統」『萬葉集研究 第四十二集』塙書房、令和5年。
小田2026. 小田芳寿「葛城王と薩妙観命婦の贈答歌の性質─天平元年の班田を歌う橘諸兄の歴史認識を手がかりに─」『上代文学』第136号、令和8年4月。
鉄野2016. 鉄野昌弘「諸兄と家持─巻二十を中心に─」『萬葉』第222号、平成28年5月。(萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2016
都倉2005. 都倉義孝「橘諸兄の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第十一巻』和泉書院、2005年。
土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。(「天平元年の班田と万葉集─律令官人の言説と制度─」國學院雑誌第118巻第8号、2017年8月。國學院大学学術情報リポジトリ https://doi.org/10.57529/00000297
山﨑2005. 山﨑健司「萬葉集巻第二十の編纂をめぐって」稲岡耕二編『萬葉集研究 第二十七集』塙書房、平成17年。

加藤良平 2026.6.23.初出

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