本稿では、古事記の仲哀天皇条に見える香坂王と忍熊王の反乱譚の前半、うけひ狩と戦いのはじまりの部分について検証する。最初に、今日一般に行われている訓読文と原文を示す。
是に、息長帯日売命、倭に還り上ります時、人の心を疑ふに因り、一つ喪船を具へ、御子を其の喪船に載せ、先づ「御子は既に崩ります」と言ひ漏さしめたまふ。如此上り幸す時、香坂王・忍熊王聞きて待ち取らむと思ひ、斗賀野に進み出で、うけひ獦を為。爾くして香坂王、歴木に騰り坐て見るに大きなる怒猪出で、其の歴木を堀る。即ち其の香坂王を咋ひ食む。
其の弟忍熊王、其の態を畏まず、軍を興して待ち向ふる時、喪船に赴き空船を攻めむとす。爾くして其の喪船より軍を下して相戦ふ。此の時、忍熊王、難波吉師部が祖伊佐比宿禰を以て将軍と為、太子の御方は、丸邇臣が祖難波根子建振熊命を以て将軍と為。
故、追ひ退けて山代に到る時、還り立ちて各退かずて相戦ふ。爾くして建振熊命、権りて云はしむらく、「息長帯日売命は既に崩りましぬ。故、更に戦ふべきこと無し」といはしむ。即ち弓絃を絶ちて、欺陽りて帰服ふ。是に其の将軍既に詐を信けて、弓を弭し兵を蔵む。爾くして頂髪の中より設弦を採り出し、更に張りて追ひ撃つ。(仲哀記)
於是息長帯日売命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之御子既崩。如此上幸之時、香坂王・忍熊王聞而思将待取、進出於斗賀野、為宇気比獦也。爾香坂王、騰坐歴木而是大怒猪出、堀其歴木、即咋食其香坂王。其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船将攻空船。爾自其喪船下軍相戦。此時忍熊王、以難波吉師部之祖伊佐比宿禰為将軍、太子御方者、以丸邇臣之祖難波根子建振熊命為将軍。故追退到山代之時、還立各不退相戦。爾建振熊命、権而令云、息長帯日売命者既崩。故、無可更戦。即絶弓絃、欺陽帰服。於是其将軍既信詐、弭弓蔵兵。爾自頂髪中採出設弦、更張追擊。……
香坂王と忍熊王が、神功皇后と後に応神天皇となるその御子が帰還してくるときにクーデターを図っていた。うまくいくかどうかを占うために、斗賀野へ行ってうけひ狩をしている。うけひ狩とは、狩りの成果によって吉兆の判断をしようとする古代の占い法である。
香坂王はクヌギの木に騰って座っていた。すると、大きくて興奮しているイノシシが出てきて、そのクヌギの木の根元を掘って倒し、香坂王のことを噛んで食べてしまった。その弟の忍熊王は、この不吉な予兆を無視して軍を興して戦にうって出、敗死することになる。
原文の「爾香坂王騰坐歴木而是大怒猪出堀其歴木即咋食其香坂王」の「是」字について、諸解説に難点が多い。兼永筆本傍訓に従いココニと訓む説(注1)は劣勢で、多くは宣長説(注2)に従い「見」の誤写とし、さらには「是」字のままにミルと訓んでいる。
爾に香坂王歴木に騰り坐すに、是に大きなる怒猪出でて、その歴木を堀りて、即ち其の香坂王を咋ひ食みき。(全集本240頁)
ここに香坂王、歴木に騰り坐すに、ここに大きなる怒り猪出でて、その歴木を堀りて、即ちその香坂王を咋ひ食みき。(次田1980.190頁)
爾くして、香坂王、歴木に騰り坐して見るに、大きなる怒猪、出でて、其の歴木を掘りて、即ち其の香坂王を咋ひ食みき。(新編全集本250頁)
爾くして、香坂王、歴木に騰り坐して見るに、大き怒猪出でて、其の歴木を堀る。即ち、其の香坂王を咋ひ食みつるに、(新校古事記106~107頁)
尓して、香坂王、歴木に騰り坐而見るに、大きなる怒猪出で、其ノ歴木を掘りて、即ち其ノ香坂王を咋ひ食みき。(思想大系本201頁)
しかして、香坂の王、歴木に騰り坐て見るに、大きなる怒り猪出でて、その歴木を掘りて、すなはちその香坂の王を咋ひ食みき。(古典集成本250頁)
爾に香坂の王、歴木に騰り坐て見るに、大きなる怒猪出でて、其の歴木を堀りて、即ち其の香坂の王を咋ひ食みき。(西郷2006.228頁)
爾に香坂の王、歴木に騰り坐て是るに、大きなる怒猪出でて、其の歴木を堀りて、即ち其の香坂の王を咋ひ食みき。(倉野1979.288頁)
尓して香坂王、歴木に騰り坐而是るに、大きなる怒り猪出で、其の歴木を堀り、其の香坂王を咋ひ食みつ。(中村2009.154頁)
しかして、香坂王、歴木に騰り坐て見るに、大き怒猪出でて、その歴木を堀りて、即ちその香坂王を咋ひ食みき。(多田2020.80~81頁)
いま、うけひ狩をしている。ウケヒは、あらかじめ前言を申し立てておいてそれにかなうかどうかで実際のことを予測する占い法である(注3)。試してみて結果がAであるならば実際にもA´になる、試してみて結果が~Aであるならば実際にも~A´になると言立てておいて、さてどうかと占いにかけるのである。記紀に載るウケヒの例では必ずしも前言が明白でないケースが散見されるが、ここでは狩りをして獲物が得られれば占っている内容、つまり、戦で勝利し、得られなければ戦でもうまくいかないことを言っているものと見られる(注4)。そして、うけひ狩で獲物が得られないどころか獣に襲われて兄王は命を失っている。ならば実際の戦でも敗死するというのがこのウケヒの占いの兆候である。
それなのに弟王は「其の態を畏らず」に打って出ている。ウケヒは占い法で、信じているから占いをしたのだろう。占いの結果を無視したか独自の解釈を下して神功皇后・応神天皇方との戦いに挑んでいる。そのうけひ狩の文章で「是」とあるなら、それは占いが示す事の是非、成否を示すものと考えられる。
十に曰はく、忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各執れること有り。彼是すれば我は非ず。我是すれば彼は非す。我必ず聖に非ず。彼必ず愚に非ず。共に是凡夫ならくのみ。是く非き理、詎か能く定むべけれ。相共に賢く愚なること、鐶の端无きが如し。是を以て彼人瞋ると雖も、還りて我が失を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従ひて同じく挙へ。(十曰。絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。心各有執、彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以彼人雖瞋、還恐我失。我独雖得、従衆同挙。)(推古紀十二年四月)
この例では「是」字を指示詞のコレ、ココばかりでなく、是非の「是」をヨミス・ヨシ(嘉・善)、「非」をアシミス・アシ(悪)と訓んでいる。改めた訓読を示す。
如此上幸之時、香坂王・忍熊王聞而思将待取、進出於斗賀野為宇気比獦也。爾香坂王騰坐歴木而是、大怒猪出堀其歴木、即咋食其香坂王。其弟忍熊王不畏其態興軍待向之時、……
如此[神功皇后・応神天皇側ガ]上り幸す時、香坂王・忍熊王聞きて待ち取らむと思ひ、斗賀野に進み出でてうけひ獦を為。爾くして香坂王、歴木に騰り坐て是せば、大きなる怒猪出で其の歴木を堀り、即ち其の香坂王を咋ひ食む。其の弟忍熊王、其の態を畏まらず軍を興して待ち向ふる時、……
斗賀野へ行ってうけひ狩をした時、香坂王は歴木の木に登って木の股になっているところにどっかりと座って、狩りに成功した良いしるしであると顕示したところ、すぐに興奮した大きな猪が出てきてクヌギを根元から掘り返して倒し、香坂王を食いちぎって食べてしまった。忍熊王のほうは「態」を畏怖せず挙兵している。
ワザ(態)は、ワザハヒ(災・禍)、ワザヲキ(俳優)、コトワザ(諺)、シワザ(仕業)など、深い意味をこめながら真意を顕在化する術のこと、特にそのあらわれ方が真っ直ぐではなく変化球のように感じられるものを指している。どうして忍熊王は「不レ畏二其態一」といった不遜、不敵な行動に出られたのか。それは、彼がそのワザの何たるかについて正しく理解できなかったからだろう。このウケヒにおいては、何を以てウケヒの吉凶とするかについての確たる前言がない。前言がなければ占いにおいて吉凶の兆しは誰にでも明らかというわけではなく、ワザでしかなかった。見抜ける人には見抜けても、目が節穴の人にはわからない。すなわち、忍熊王はウケヒという古代独自の占い法を信じていなかったのではなく、兆候が読めなかったのである。「爾香坂王騰二-坐歴木一而是、」とあるのは、香坂王が勝手に「騰二-坐歴木一」しただけでいい気になって「是」としていただけだった。
紀には、ほとんど同じように描出されている。
時に麛坂王・忍熊王、共に菟餓野に出でて祈狩して曰はく、〈祈狩、此には于気比餓利と云ふ。〉「若し事成すこと有らば、必ず良き獣獲む」といふ。二の王各仮庪に居します。赤き猪忽に出でて仮庪に登りて、麛坂王を咋ひて殺しつ。軍士悉に慄づ。忍熊王、倉見別に謂りて曰はく、「是の事、大きなる怪なり。此にしては敵を待つべからず」といふ。則ち軍を引きて更に返りて、住吉に屯む。時に……(時麛坂王・忍熊王、共出菟餓野而祈狩之曰、〈祈狩、此云于気比餓利。〉若有成事、必獲良獣也。二王各居仮庪、赤猪忽出之登仮庪、咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰、是事大怪也。於此不可待敵。則引軍更返、屯於住吉。時……)(神功紀元年二月)
「香坂王騰坐歴木」(記)と「二王各居二仮庪一」(紀)と多少異なっているが、高い所にいることがうけひ狩において良しとしていることがわかる。紀では二人の王とも高いところにいて、しかる後、良い獣を得て万々歳という段取りだったらしいとわかる。どこに獣がいるかを高い所から見て、勢子に追い込みをかけさせていた状況を語っている。狩りは獲物の獣の位置や動きを捉え、配下の者をうまく操ることが肝要である。そのため、高い所に陣取りさえすれば九割方狩りは成功する。狩りの定石であり、二王とも桟敷席に高みの見物を決め込んでいた。まさかその高い所へ「赤猪」が登ってくるとは思ってもみなかった。紀の表現では麛坂王・忍熊王とも同じことをしているから、占いの結果についてそれは良くない兆候であると忍熊王も認識することができた。
「是す」と訓むことで忍熊王の無知は白日化する。狩りの場合は相手が獣の戦いであるが、神功皇后・応神天皇方とは人間どうしの戦いになる。知恵比べも必要になってくる。緒戦はすぐに訪れる。
其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船将攻空船。爾自其喪船下軍相戦。
原文の「攻」は校訂本で直されたもので、真福寺本には「政」とあり、兼永筆本に「攻」とあるも傍書に「政」とある。そこで「政」は誤写とされて「攻」をとっている。
戦局は時間の経過に従って記されている。その途中に「宇気比獦」の記事が挿入されている。「宇気比獦」や将軍選定の部分を省くと次のようになる。
於是息長帯日売命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之御子既崩。
其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船将攻[政]空船。
爾自其喪船下軍相戦。
故追退到山代之時、還立各不退相戦。
爾建振熊命、権而令云、息長帯日売命者既崩。故、無可更戦。即絶弓絃、欺陽帰服。於是其将軍既信詐、弭弓蔵兵。爾自頂髪中採出設弦、更張追擊。
一行目で、神功皇后・応神天皇方は「喪船」偽装作戦を採用している。二行目の主語は忍熊王(注5)、三行目の主語は息長帯日売命(神功皇后・応神天皇軍)である。忍熊王は敵方が来るのを「待向」かえ、「喪船」に「赴」いている。「赴」を他動詞でオモブクとし、やりすごすことととると「喪船」はどこかへ行ってしまうことになって奇妙である。「喪船」=「空船」(注6)ととるべきで、真福寺本に「赴喪船将政空船」とあるのをそのまま忠実に訓めば、次のように訓むことができる。
喪船に赴き空船を政さむとす。
政 〓(政の旁が攴) 之盛反、マツリコト、ノリ、ヲサム、アラシム、マサシ、ナリ、セム、サカシ、ウツ、カタシ、タタス、ノフ、ナル(名義抄)
敢へて政さずはあらじ。(不敢不政)(史記殷本紀第三)
「政」字をタダスと訓んだ例は数少ないものの、解釈として考えたとき最もふさわしい(注7)。「喪船」はご遺体が載せてあるはずのもので、付き添いや船頭はともかく、それ以外に生きている人は乗っていないと思われる(注8)。だから「空船」かどうかを確認するのである。臨検である。兵士の乗っていない「空船」をただちに「攻」撃はしない。「政」とあって確かである。「赴く」はオモ(面)+ムク(向)の意である。顔が面と向かうことである。そこから、心が向く、そちらへ行く、同意する、従う、といった意味へと展開する。「赴喪船将政空船」という記述からは、忍熊王から先に攻撃したわけではないことが見て取れる。「空船」と思っていた「喪船」を検めようとしていたら隠れていた敵兵がぞろぞろと現われ「下」りてきて戦いになっている。もし忍熊王側が先に「空船」を「攻」めていたら、応神天皇方は「下」りて来ることができず船上での戦いになっただろう。この箇所は忍熊王軍が実戦において抜けていることを表している。喪船=空船のある場所での最初の戦は、応神天皇方の上陸作戦の巧妙さを示すものではなく、油断して喪船=空船と思って近づいたら船底に隠れていた兵士が出てきて襲いかかられ、戦いになっている。
忍熊王方の油断のモチーフはさらに続く。退却して山代に到って戦っているとき、神功皇后・応神天皇方は、将軍の建振熊命が同様に「権」りの策を講じている。自軍の兵士に、神功皇后が崩御したからもう戦う理由がなくなったと言わせている。そして、弓絃を切って帰服する姿勢を示した。忍熊王方の将軍、伊佐比宿禰は真に受けて、自分たちも弓弦をはずして兵器を仕舞った。すると、神功皇后・応神天皇方は、髪の房のなかに隠しておいた控えの弓弦を取り出して弓を張り、追撃している。戦の場にのぞんでは、再三にわたって相手を欺く戦術がとられており、常に先手先手で撃ってきている。作戦は一貫している。そのための叙述としてふさわしい本文は「攻」ではなく「政」であり、タダスと訓むのが正しいと理解される。
以上、仲哀記の香坂王と忍熊王のうけひ狩とその後の戦闘場面においての本文校訂、「是」ならびに「政」の字について検討した。
(注)
(注1)三矢1924.も「是」をココニと訓むべきとしている。
「而」は承上之詞とて、我が「テ」に近似せるより、漢文にては大抵「テ」と訓じたり。其の意によりて、古事記は「而」を用ゐたる中に、唯一つの異例あり。
爾香坂王騰二坐歴木一而是、大怒猪出掘二其歴木一即咋二食其香坂王一〈中六十四丁〉
鈴屋翁は「而是」の「是」を見の誤写としてかく読まれたるが、田中頼庸氏は、諸本を校すれど、皆「是」なるより、戦国斉策に「而此者三」とある高註に「而如也」との訓あるに従ひ「而是」を「如是」と訓じ、「騰リマシヌ、カクテ」を読みたり。此の「而」「如」相通の例は、詩・書・易・左伝・管子・荀子・孟子等に、其例多きことなれど、こゝに適当すとは、考へにくきが如し。更に「而」の字の用法を見るに、「則」に通ずるものあり。易の繋辞伝に「君子見レ幾而作、不レ俟レ終レ日」左伝、僖十五年に「何為而可」楚語に「若レ防二大川一焉、潰而新犯必大矣」であるが如く、又「而」「則」を互用せるには、墨子明鬼篇に「非レ父則母、非レ兄而姒也」史記欒布伝に「与レ楚則漢破、与レ漢而楚破」の如きあり。此の意を以て「騰リマセバコヽ二」を読まば、本文の儘にて亦通ずべし。
抑「而」の「テ」の義なるは、連用的平接にして「則」の義なるは、前提的順接なるが、此の外に「而ルニ」と訓ずる前提的逆接もあり、更に其の副詞的平接なるもあるは、言語接続自然の現象なるべく、和漢殊に相類せる者あり。こゝの場合は、「則」の字ほどに順接すべきかといふに、余はむしろ副詞的に「ノボリマシヽニコヽニ」と読むを、最適当なりと信ず。逆接の「シカルニ」を同形にして、意は平接なるものなり。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1870085/1/52、漢字の旧字体は改めた)
(注2)「◯而是は、此ノまゝにては、語つゞかず、【もし、而ノ字は、於と草書やゝ似たれば、於是かとも思へど、然には非じ、】又たゞ歴木に騰坐とのみにては何の由とも無ければ而ノ字の下に文脱たるか、【かならず騰リ坐シ而云々と云こと、あるべければなり、】又思ふに、是ノ字は見の誤リか、そは樹ノ上に坐て御狩人の、獣を狩るを、観居賜ふなり、書紀に、二王各居スニ二仮庪ニ一、赤猪云々とあると、合セ考ふべし。其ノさま似たり、故レ姑ク是ノ字を、美多麻布爾と訓つ、」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/222、漢字の旧字体は改めた)
(注3)土橋1988.は相対的に適当な定義をほどこしている。「……ウケヒは過去・現在・未来の知ることのできない「真実」(「神意」ではない)を知るための卜占の方法として、また誓約(約束すること)を「真実」なものにするための方法として、実修される言語呪術であり、「もしAならば、A´ならむ」という形式は、「こう言えば、こうなる」という言霊信仰に基づく呪文の形式にほかならない。従来ウケヒを「真実」でなく、神意を知るための方法と解してきたのは、第一に呪術としての卜占の結果を神意の現われとする偏った宗教観念に災されたためであり、第二に「祈」「禱」などの漢字表記に惑わされたためである。」(55~56頁)。ウケヒが呪術ではないことは拙稿「ウケヒ考」参照。
(注4)「香坂王・忍熊王聞而思将待取、進出於斗賀野、為宇気比獦也。」の「待取」と記す意義を追究する向きがある(壬生2017.)が、うけひ狩に準えられるように表現したものと考える。
(注5)「赴喪船」だけを息長帯日売命として「赴」をツグ(告)と訓む説が尾崎1993.にある。
(注6)「空船」はカラフネ、ムナフネ、ムナシキフネなどと訓まれている。岡田1966.は、カラの船というのは不自然で、もとウツボブネを意味する訓が付せられていたのではないかと推定し、海の彼方から訪れる母子神信仰の核にあるもの、すなわち、幼童の姿をかりた神が密閉された容器に籠って来臨するという信仰の投影が、この「空船」伝承にもみられるのだしている(340~341頁)。また、西郷2006.は、「空船 人の乗っていない船。忍熊王は喪船だから兵士が乗っていないと思い、これを攻めようとしたのである。」(231頁)、新校古事記は、「空しき船(空船)…敵方は人が乗っていると思ったが、実際には乗っていなかったことからいう。」(291頁)、新編全集本は、「兵を乗せていないから「空しき船」という。実は喪船の方に兵を乗せていたから、兵船と見えたのは空船になっていたのである。はかりごとであり、それにまんまとひっかかって、忍熊王らは空の船の方に攻めかかってしまった。なお「喪船を赴けて」は喪船をやりすごすことをいう。喪船=空船ととるのが通説だが、それでは話が合わない。……空船を攻めている間に喪船から軍勢を上陸させた。迎撃された時もっとも危険なのが上陸時であり、それに対して立てた作戦が喪船であった。」(250頁)、多田2020.は、「弟の忍熊王は、御子の柩を乗せた船と偽った「喪船」を襲う。「空船」は、何も乗っていない船で、「喪船」を言い換えたもの。」(82頁)などと意見が分かれている。訓みとしては、軍船を「喪船」に擬装して兵士が乗っていないようにしているものだから、からっぽの船の意を伝えるカラフネが適しているだろう。
なお、「赴」をオモブクと他動詞に訓むのは他の古事記の用例がみな自動詞であるところから否定される(烏谷2014.、壬生2017.)。
(注7)「政」という字は記には他に七例ある。すべてマツリゴトと訓んでいる。その場合、天皇の、ないし天皇側の、天皇の命に従った行為を表している。そのため、忍熊王方が「赴喪船将政空船。」とあることに疑念が生じて「攻」に改めたとする説もある。
①「……次に思金神は、前の事を取り持ちて政を為よ。」(思金神者、取持前事為政。)」(記上)
②「何地に坐さば、平らけく天下の政を聞こし看さむ。猶東に行かむと思ふ。(坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。)」(神武記)
③是を以て、各遣はさえし国の政を和平げて覆奏しき。(是以各和平所遣之国政而覆奏。)(崇神記)
④「御子は、遣はさえし政を遂げ、覆奏すべし。(御子者、所遣之政遂、応覆奏。)」(景行記)
⑤故、其の政未だ竟らぬ間に、其の懐妊めるを産むに臨む。(故、其政未竟之間、其懐妊臨産。)(仲哀記)
⑥「大山守命は、山海の政を為よ。大雀命は、食国の政を執りて以て白し賜へ。宇遅能和紀郎子は、天津日継を知らせ。(大山守命、爲山海之政。大雀命、執食国之政、以白賜。宇遅能和紀郎子、所知天津日継也。)」(応神記)
⑦「政は既に平げ訖りて参ゐ上りて侍り。(政既平訖参上侍之。)」(履中記)
①は日子番能邇々芸命の言葉である。②は神武天皇自身の言である。③は崇神天皇の命によって大毘古命と建沼河別命が高志道と東方十二道とへ派遣されたことを指している。④は景行天皇が倭建命に授けた勅命のことを弟橘比売が語っている。⑤は神功皇后の新羅親征のことである。⑥は応神天皇の言で、三王子の分治の意向である。⑦は墨江中王を殺して来いという履中天皇の命令を果たした水歯別命の言である。
以上の説明で一応納得は行くものの、③の「是以各和平所遣之国政而覆奏。」に「国政」とある。その部分が「国之政」とない点で、他の例と少し異なっている。②「天下之政」、④「所遣之政」、⑥「山海之政」、「食国之政」とある。③の「政」を④の例のように征討事業自体をマツリゴトと言っているとするのが正しいだろう。
是を以て各遣はさえし国を和平ぐる政をして覆奏しき。(崇神記)
大毘古命も建沼河別命も、高志道や東方十二道へ遠征しているだけで、国司や封建領主になったわけではない。天皇の命令は「令レ和-二平其麻都漏波奴人等一。」ことだけである。本居宣長・古事記伝に、「政とは、此は帰化ふ者を懐け、不服者をば討て其ノ国を平治むる事を云、其も皇朝に仕奉る事の一ツなればなり、【凡て麻都理碁登とは、臣下の天皇の詔を奉りて、仕奉る事を云称なり、……】……さて政を和平と云は、何とかや穏ならぬ如く聞ゆれども、……書紀舒明ノ巻にも、平二水表ノ政ヲ一とあり、古語には如此さまにも云しなるべし。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/35)とある。この解説はいただけない。舒明紀の「平水表政」にある「水表」は大和朝廷以外の蝦夷などのことを指している。「水表政」とは外国の政権のことである。外国には外国の「政」があるから、それを「平け」ることを言っている。
崇神記の「政」を「国政」と続ける熟語と捉えると、「まつろはぬ人達」がそれぞれに「国政」を担うほどの対抗勢力になっていて、それを「和平」したということになる。そのことを表すのに「所遣之国政」という修飾関係はもって回っている。
是以、各和平[(所遣之国)政]而、覆奏。
「各」は大毘古命と建沼河別命のこと、「所遣之国」は「高志道」ならびに「東方十二道」のことである。大毘古命は「随先命」、「高志国」に罷り行っている。そして、「自東方所遣建沼河別命」と「相津」に会っている。「所遣之国」が具体的にどこの「国」なのか、「高志国」以外に見出せない。諸「国」がそれぞれに「政」を行っていたとは想起できないのである。紀には次のように記されている。
九月の丙戌の朔にして甲午に、大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別をもて東海に遣す。吉備津彦をもて西道に遣す。丹波道主命を丹波に遣す。因りて詔して曰はく、「若し教を受けざる者有らば、乃ち兵を挙げて伐て」とのたまふ。既にして共に印綬を授ひて将軍とす。(九月丙戌朔甲午、以大彦命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彦遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰、若有不受教者、乃挙兵伐之。既而共授印綬為将軍。)(崇神紀十年九月)
冬十月の乙卯の朔に、群臣に詔して曰はく、「今し反けりし者悉に誅に伏す。畿内には事無し。唯し海外に荒ぶる俗のみ、騷動くこと未だ止まず。其れ四道将軍等、今し急に発れ」とのたまふ。丙子に、将軍等、共に発路す。十一年の夏四月の壬子の朔にして己卯に、四道将軍、戎夷を平けたる状を以て奏す。是歳、異俗多く帰て、国内安寧なり。(冬十月乙卯朔、詔群臣曰、今反者悉伏誅、畿内無事。唯海外荒俗、騷動未止。其四道将軍等、今急発之。丙子、将軍等共発路。十一年夏四月壬子朔己卯、四道将軍、以平戎夷之状奏焉。是歳、異俗多帰。国内安寧。)(崇神紀十年十月~十一年是歳)
征服する対象について、「海外」、「四道」、「戎夷」、「異俗」などと漠然としか示しておらず、独立した国家がどこかにあるようには描かれていない。つまり、他国へ政治介入して征服したことを表すものではない。
(注8)「喪船」がどのようなもので誰が乗船しているか問う向きがある(瀧口1994.)が、「天皇の喪、帰りて海に就く。(天皇之喪帰就于海) 」(斉明紀七年十月)といった例があるほどで、儀礼においてうるさく法令に定められていたものか不確かである。
(引用・参考文献)
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倉野1979. 倉野憲司『古事記全註釈 第六巻 中巻篇(下)』三省堂、昭和54年。
古典集成本 西宮一民『新潮古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
思想大系本 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
新編全集本 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『古事記』小学館、1997年。
全集本 荻原浅男・鴻巣隼雄校注・訳『日本古典文学全集1 古事記 上代歌謡』小学館、1973年。
多田2020. 多田一臣『古事記私解Ⅱ』花鳥社、2020年。
瀧口1994. 瀧口泰行「神功皇后論─古事記における伝承構成とその素材について─」『古事記研究大系6 古事記の天皇』高科書店、1994年。
次田1980. 次田真幸『古事記(中)』講談社(講談社学術文庫)、1980年。
土橋1988. 土橋寛『日本古代の呪禱と説話─土橋寛論文集 下─』塙書房、平成元年。
中村2009. 中村啓信『新版古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川文庫)、平成21年。
三矢1924. 三矢重松『古事記に於ける特殊なる訓法の研究』文学社、大正14年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1870085
壬生2017. 壬生幸子「香坂王・忍熊王の反乱─息長帯比売軍の策略と「赴喪船将攻空船尓自其喪船下軍相戦」の解釈を中心に─」『共栄大学研究論集』第15号、2017年3月。共栄大学機関リポジトリ https://doi.org/10.15067/00000533
加藤良平 2026.11.6改稿初出