乙巳の変の三者問答について

(はじめに)
 大化改新の発端となった乙巳の変、蘇我入鹿を暗殺するシーンにおいて、入鹿、皇極天皇、中大兄の間で交わされた問答について、これまで十分な検討は行われず等閑視されてきた。本稿では、その三者問答の内容について吟味し、飛鳥時代の人々において対話が納得されるものであったことを明らかにする。

一 乙巳の変の三者問答

 大化改新の発端となった乙巳の変と呼ばれるクーデターは、日本書紀に次のように記されている。

 戊申に、天皇すめらみこと大極殿おほあむどのに御おはします。古人大兄ふるひとのおほえ侍はべり。中臣鎌子なかとみのかまこの連むらじ、蘇そ我入鹿臣がのいるかのおみの、人と為り疑うたがひ多くして、昼夜ひるよる剣たち持はけることを知りて、俳優わざひとに教をしへて方便たばかりて解ぬかしむ。入鹿臣、咲わらひて剣を解ぬく。入りて座しきゐに侍り。倉山田麻呂臣くらのやまだのまろのおみ、進みて三韓みつのからひとの表文ふみを読み唱あぐ。是に、中大兄なかのおほえ、衛門ゆけひの府つかさに戒いさめて、一時もろともに倶ともに十二よもの通門みかどを鏁さしかためて、往来かよはしめず。衛門府を一ひと所ところに召めし聚あつめて、将まさに給禄ものさづけむとす。時に、中大兄、即すなはち自ら長き槍ほこを執とりて、殿とのの側かたはらに隠れたり。中臣鎌子連等ら、弓矢を持ちて為助衛ゐまもる。海あまの犬いぬ養連かひのむらじ勝かつ麻呂まろをして、箱の中うちの両ふたつの剣を佐伯さへきの連むらじ子麻呂こまろと葛かづら城稚犬きのわかいぬ養連かひのむらじ網あみ田たとに授さづけしめて曰はく、「努力々々ゆめゆめ、急須あからさまに斬きるべし」といふ。子麻呂等、水を以て送飯いひすく。恐おそりて反吐たまふ。中臣鎌子連、嘖せめて励はげましむ。倉山田麻呂臣、表文を唱よみあぐること将に尽きなむとすれども、子麻呂等の来こざることを恐りて、流いづる汗あせ身に浹あまねくして、声こゑ乱れ手動わななく。鞍作臣くらつくりのおみ、怪あやしびて問ひて曰はく、「何故なにゆゑか掉ふるひ戦く」といふ。山田麻呂、対こたへて曰はく、「天皇に近ちかつける恐かしこみに、不覚おろかにして汗流いづる」といふ。中大兄、子麻呂等の、入鹿が威いきほひに畏おそりて、便旋めぐらひて進まざるを見て曰のたまはく、「咄嗟やあ」とのたまふ。即ち子麻呂等と共に、出其不意ゆくりもなく、剣たちを以て入鹿が頭あたま肩かたを傷やぶり割そこなふ。入鹿、驚きて起たつ。子麻呂、手を運めぐらし剣を揮ふきて、其の一つの脚あしを傷りつ。入鹿、御お座もとに転まろび就つきて、叩頭のみて曰まをさく、「当まさに嗣位ひつぎのくらゐに居ましますべきは天あめの子みこなり。臣やつこ罪を知らず。乞こふ、垂審察あきらめたまへ」とまをす。天皇大おほきに驚きて、中大兄に詔みことのりして曰はく、「作する所ところ知らず。何事なにごとか有りつるや」とのたまふ。中大兄、地つちに伏して奏まをして曰まをさく、「鞍作、天宗きむたちを尽つくし滅ほろぼして、日位ひつぎのくらゐを傾かたぶけむとす。豈あに天孫あめみまを以て鞍作に代かへむや」とまをす。〈蘇我臣入鹿、更またの名は鞍作。〉天皇、即ち起ちて殿の中うちに入りたまふ。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬る。是の日に、雨下ふりて潦水いさらみづ庭おほばに溢いはめり。席むしろ障子しとみを以て、鞍作が屍かばねに覆おほふ。古人大兄、見て私わたくしの宮に走り入りて、人に謂ひて曰はく、「韓人からひと、鞍作臣を殺しつ。〈韓からの政まつりごとに因りて誅つみせらるるを謂ふ。〉吾が心痛いたし」といふ。即ち臥内ねやのうちに入りて、門かどを杜さして出いでず。(戊申、天皇御大極殿、古人大兄侍焉。中臣鎌子連、知蘓我入鹿臣、為人多疑、晝夜持劔。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劔、入侍于座。倉山田麻呂臣、進而讀唱三韓表文。於是、中大兄、戒衞門府一時倶鏁十二通門、勿使往来、召聚衞門府於一所、将給禄。時中大兄、即自執長槍、隱於殿側。中臣鎌子連等、持弓矢而為助衛。使海犬養連勝麻呂、授箱中兩劔於佐伯連子麻呂与葛城稚犬養連網田、曰、努〻力〻、急湏應斬。子麻呂等、以水送飯、恐而反吐、中臣鎌子連、嘖而使勵。倉山田麻呂臣、恐唱表文将盡而子麻呂等不来、流汗浃身、乱聲動手。鞍作臣、恠而問曰、何故掉戰。山田麻呂對曰、恐近天皇、不覺流汗。中大兄、見子麻呂等畏入鹿威便旋不進、曰、咄嗟。即共子麻呂等出其不意、以劔傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂、運手揮劔、傷其一脚。入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗将傾日位、豈以天孫代鞍作乎。〈蘇我臣入鹿、更名鞍作。〉天皇即起、入於殿中。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、斬入鹿臣。是日、雨下潦水溢庭、以席障子䨱鞍作屍。古人大兄、見走入私宮、謂於人曰、韓人煞鞍作臣、〈謂因韓政而誅。〉吾心痛矣。即入臥内、杜門不出。)(皇極紀四年六月)

 蘇我入鹿暗殺の記事としてよく知られているが、その間の言葉のやりとりは十分には理解されてはいない。すべては三者の問答、蘇我入鹿の訴え、皇極天皇の問い、中大兄の答えに収斂している。そこが問題である。

鞍作(入鹿):「当まさに嗣位ひつぎのくらゐに居ましますべきは天あめの子みこなり。臣やつこ罪を知らず。乞こふ、垂審察あきらめたまへ」(当居二嗣位一天之子也、臣不レ知レ罪、乞垂審察。)
皇極天皇:「作する所ところ知らず。何事なにごとか有りつるや」(不レ知レ所レ作、有二何事一耶。)
中大兄:「鞍作くらつくり、天宗きむたちを尽つくし滅ほろぼして、日位ひつぎのくらゐを傾かたぶけむとす。豈あに天孫あめみまを以て鞍作に代かへむや」(鞍作尽滅二天宗一、将レ傾二日位一、豈以二天孫一代二鞍作一乎。)

 蘇我入鹿の訴えかけは、皇位にあるべきなのは天の子であって私のような下僕には関係ないこと、私にどんな罪があるのか知りません、明らかにしてください、というものである。「当居二嗣位一天之子也」と言及しているところから、内心に含むところがそもそもあったとこじつけられないこともないが、入鹿、天皇、中大兄の三者面談のなかでほじくり返されてはいない。つづく天皇の言は、まず、どうしたらいいのか、式次第にない事態に遭遇して自分はどうしたらいいのかわからない、と言っている。そして、何があったのかと状況を確認すべく問うている。天皇は計画を事前に知らされていなかったとともに、切傷現場にあっても適切な判断を行おうとして聞き取り調査をしている。中大兄は答え、即座に問答は終了し、大極殿での事態は完結して天皇は引き籠って話は完結している。天皇は中大兄の返事を聞いただけで瞬時に理解、掌握し、場を離れている。中大兄のわずかな回答ばかりで完全に納得したということである。

二 「不知所〇」における場所を表す「所」

 皇極天皇は中大兄に言っている。「不知所作、有何事耶」。これは会話文である。「所」という字が入っている。漢文の訓読に助字の「所」をトコロと訓む習慣が生まれて以降、何の不思議もなくトコロと訓んでいて、「作する所ところ知らず。」などと訓まれている。しかし、もともとのヤマトコトバでトコロは場所を表すのに限られていた。この発語の意味を確定させるためには、当時発語されたままの唯一絶対の言葉の復元が求められる。
 日本書紀中に、「不知所〇」とある「所」を場所の意とする例はいくつか見られ、トコロと訓む。

 於是、彦火火出見尊、不知所求。(神代紀第十段一書第一)
 是に、彦ひこ火火出ほほで見みの尊みこと、求むる所ところを知らず。

 彦火火出見尊が「横刀たちを以て鉤ちを作りて、一ひと箕みに盛りて兄このかみに与ふ」ことまでしても受け取らず、もともと自分が持っていた鉤を返せと責めたてている。なくしてしまった鉤はどこにあるのか、見当がつかなくて途方に暮れている。「所」は場所を表している。釣り糸を垂れた場所は潜って探したのだろう。そこにはなかった。魚がくわえてどこかへ持って行ってしまった。どの魚かわからないし、その魚がどこへ泳いで行ったかもわからない。だから、この例では「所」をトコロと訓んで正しい。

 爰王忽失道、不知所出。(景行紀四十年是歳)
 爰ここに王みこ、忽たちまちに道を失まどひて、出づる所ところを知らず。

 ヤマトタケルが信濃の山中で、白い鹿の眼に蒜ひるをあてて殺した時、迷路から抜け出せなくなっている。山からの出口の場所がわからないのだからトコロと訓んで正しい。

 仍遁山壑、不知所詣。(継体前紀)
 仍よりて山壑やまたにに遁にげほどはしりて、詣いませむ所ところを知らず。

 皇統が絶えたので、遠い親戚筋に当たる倭彦王やまとひこのおほきみに継嗣してもらおうと、礼を尽くしてたくさんの兵隊で迎えに行った。ところがかえって怖がられて遁走された。どこへ逃げ隠れたのかその場所がわからないことを言っていて、トコロと訓んで正しい。

 其南加羅、蕞爾狭小、不能卒備、不知所託。(欽明紀二年四月)
 其の南ありひし加のか羅らは、蕞爾ちひさく狭小すこしきにして、卒にはかに備そなふること能あたはずして、託つく所を知らざりき。

 南加羅が新羅に滅ぼされた理由を語っている。新羅が強かっただけではなく、南加羅は小国だったため、すぐに防御態勢をとることも、他に同盟することもできなかったためであるという。仮に新羅に対抗するために他国と同盟するとすると、その寄託先と不平等条約を結ぶことになって終いには併呑されてしまう恐れがあり、同盟先を見つけることができなかったのである。国の存亡にかかわる重大事をどこに託せばいいかわからないという意味だから、トコロと訓んで正しい。

 小児忽亡、不知所之。(欽明紀六年十一月)
 小児わらは忽たちまちに亡うせて、之ゆける所を知らず。

 子どもがすぐにいなくなって、どこへ行ったかわからなかったという意味である。

 或有逃亡不知所向者。(崇峻前紀用明二年七月)
 或いは逃げ亡うせて、向いにけむ所を知らざる者有り。

 ある人は、逃亡してどこへ行ったかわからない者もあったという意味である。

 以消勿等皆散之、不知所如。(天武紀七年是年)
 以ここをもて消勿せうもつ等ら、皆散あかれて、如いにけむ所を知らず。(天武紀七年是年)

 上の例と同じである。

三 「不知所〇」における場所以外を表す「所」

 一方、「所」が漢文の助字で、場所を示さない例も多くみられる。

 於是、皇后不知所問之意趣、輙対曰、(垂仁紀四年九月)
 是に、皇后きさき、問ふ意趣こころを知ろしめさずして、輙すなはち対こたへて曰はく、

 「所レ問」には助動詞ル・ラル(ユ・ラユ)のニュアンスを含んでおり、問われた意図がわからなかったことだから、「皇后きさき、問はるる意趣こころを知ろしめさずして、」と訓んでも良いだろう。
 このような「所」の用法には注意を要することがある。

 是、阿賢移那斯・佐魯麻都……姧佞之所作也。(欽明紀五年三月)
 是これ、阿賢移那斯あけえなし・佐魯麻都さろまつ……の、姧佞かだみいつはれるが作する所なり。

 これはアケエナシ・サロマツ二人が持っている姧佞の心がために生じたことである、という意味である。しかし、この訓み方には問題がある。無文字時代の口頭言語を基礎にしてできあがっているヤマトコトバにおいては、抽象的な言葉を主語に据えて文章とすることはなかっただろう。また、「姧佞」の主語はアケエナシ・サロマツの二人だから、カダミイツハレ・ルと受身形で訓むと誤解が生じる。カダミイツハルには以下のような例があり、どれも目的語で使われている。

 倶ともに姧偽かだみいつはりを懐きて誘わかつり説く。(倶懐姧偽誘説。)(欽明紀五年二月)
 多く姧佞かだみいつはれることを行はば、任那も建つこと難く、海西わたのにしの諸国くにぐには、必ず事つかへまつること獲じ。(多行姧佞、任那難建、海西諸国必不獲事。)(同三月)
 是これ上かみは天朝みかどを欺あざむきまつりて、転いよいよ姧佞かだみいつはれることを成すなり。(是上欺天朝、転成姧佞也。)(同三月)

 「所作」は、神代紀第七段一書第三に、「石凝戸辺所作八咫鏡、……天明玉所作八坂瓊之曲玉、……天日鷲所作木綿」とあって、「石凝戸辺が作すれる八咫鏡、……天明玉が作すれる八坂瓊之曲玉、……天日鷲が作はれる木綿」と訓んでいる。助動詞ル・ラルを表すために「所」字を使っている。万葉集でも題詞を含めて数多く使われている。欽明紀五年三月条の「作」は実際に何かを作っているとは考えにくいから、スル(為)、ナス(為)の意であると考えられる(注1)。
 訓み方の例としては、「姧佞かだみいつはりが作なせるなり。」、「姧佞かだみいつはりが所作しわざなり。」、「姧佞かだみいつはりが所作すべなり。」、「姧佞かだみいつはりをすらくなり。」といった言い方が想起される。目的語として訓めるのはスラクの形である。ク語法のスラクには次のような例が見える。

 大き戸より 窺うかかひて 殺さむと すらくを知らに〔須羅句塢志羅珥〕 姫遊ひめなそびすも(紀18)
 この岳をかに 小牡鹿をしか履ふみ起おこし うかねらひ かもかもすらく〔可聞可聞為良久〕 君故にこそ(万1576)
 若もし見若し聞きては是の思惟を作すらく、……(若見若聞作是思惟、……)(金光明最勝王経・巻五)(注2)

 課題とされる皇極紀の「不知所作有何事耶」はどう訓むのがふさわしいか。
 「所」を場所の意味と考える場合、大極殿が建てられている場所がわからないという意味になる。天皇が与り知らぬ間に突然出現した建物ではないから、作る場所を知らないという考え方は似つかわしくない。それでも大極殿という建物は初見だから、これは一体何をするための建物なのかといった意味合いから、「作する所ところを知らず。」と口走っている可能性は皆無ではない。「作」字はスル(為)の意で、行為主体はこの場合、中大兄らを主役とした殺生沙汰のことであり、一連を演劇と見てオホアムドノという舞台はそのようなことをする所なのかと言っていることになる。ただ、次の「何事なにごとか有りつるや」という言い方へとすぐには続かない。
 作為として、行為として、自覚的に三韓の調の儀式を行っている。それが「作」字の使用につながっているのだろう。場所の話ではなく、「所」は助字である。一般の漢文訓読法によって、「知らず、作する所ところ」(大系本230頁)などと訓まれている(注3)が、この訓み方をした場合、「作する」の主語を二人称とし、お前は何をやっているんだの意であるとすると「爾なむぢ」の一語は欠かせないだろう。「不レ知二爾所レ̠_作」、「爾、不レ知レ所レ作」などとあって良いと思われる。
 新編全集本でも「「作する」の主語は中大兄、「知らず」の主語は天皇。」(101頁)と解説している。中大兄の作為を天皇は知らないという意味に解しているのである。上にあげた紀18歌謡の例、「殺さむと すらくを知らに」は、スラクの主語は反乱を起こそうとしている武埴安彦たけはにやすびこ、知ラニの主語は御間城みまき入彦いりびこ(崇神天皇)である。することを知らないのは、する人と知る人とが別だからである。皇極紀の「不知所作、有何事耶」も同様に捉えていることになる。しかし、紀18歌謡、万1576番歌、金光明最勝王経のいずれの例でも、何をすることなのか明示されている。殺そうとすること、あれこれすること、思惟することである。することを知らない、という言い方は曖昧である。何か訳のわからないことをしているぞ= I don’t understand what you are doing. という意味に解釈できないことはないが、そうなると次の文の「何事有りつるや(有何事耶)。」= What happened? というきっぱりとした言が宙に浮いてしまう。温度差のある二文が会話文で連続しているとは考えにくい。
 もっとシンプルに考えるべきだろう。「不知所〇」という常套句、セムスベヲシラズ、セムスベシラズである。どうしたらよいかわからない、の意を表す。スベというヤマトコトバを「所」という字が担っている。用例はとても多い。

 不知所如(垂仁紀四年九月・神功前紀仲哀九年十二月一云・仁徳前紀応神四十一年二月・推古紀三十二年四月・舒明前紀・舒明紀九年是歳)
 不知所為(景行紀十八年四月・允恭紀元年十二月・皇極紀三年正月・天智紀二年六月・天武紀元年七月)
 不知所由(推古紀十二年四月)
 不知所図(欽明紀十五年十二月)
 不知所計(敏達紀元年六月・孝徳紀白雉四年七月)

 ここもそのように訓まれてしかるべきである。

 不知所作、有何事耶。
 所作せむすべ知らず、何事なにごとか有りつるや。

 この場合、「作」と「知」の主語はともに天皇である。実態としてどうであれ、行われているのは三韓の調を貢進する儀式である。大極殿という仰々しい舞台で正式に挙行されている。式次第に従って滞りなく進行されなければならない。一同が座に就き倉山田麻呂が奏上して進行していた。ところが、入鹿が脚を斬られ、天皇の座している近くのオバシマにすがりついて訴えかけてきた。三韓の調の儀式は台無しである。主催者は天皇である。式典催行の次第がわからなくなった。そういう発言として最初の文はある。すなわち、天皇は大極殿内の玉座にあって、当初は翳さしばなどで顔を隠されていて、音ばかりで状況を把握していたのではないか。大きな声しか耳に入らない。最初、倉山田麻呂臣が表文を唱える声が聞こえていた。次になぜか、中大兄の「咄嗟やあ」という声が聞こえて、つづけて入鹿の、「当まさに嗣位ひつぎのくらゐに居ましますべきは天の子みこなり。臣やつこ罪を知らず。乞ふ、垂審察あきらめたまへ」と言ってきた。執り行われているのは三韓の調の儀式ではないのか。訳がわからなくなっている。翳を開けさせて何事があったのかと、現場の庭にいる責任者、中大兄に問うた。皇族である古人大兄は、殿中の、天皇の近くに侍っていた(注4)。

四 中大兄の返事

 中大兄の説明は次の二文である。

A 鞍作(入鹿の別名)は天宗を尽く滅ぼして日位を傾けようとしている。(鞍作、天宗きむたちを尽つくし滅ほろぼして、日位ひつぎのくらゐを傾かたぶけむとす。(鞍作尽滅二天宗一、将レ傾二日位一。))
B どうして天孫をもって鞍作に代えるなどということがあろうか。(豈あに天孫あめみまを以て鞍作に代かへむや。(豈以二天孫一代二鞍作一乎。))

 Bの文について、管見にしてこれまでどれほど議論されてきたのかわからない。新編全集本に、「どうして天孫を鞍作に代えられましょうか」(101頁)と誤訳されている(注5)。主客を取り違えてはならない。どうして天孫でもって鞍作に代えるのでしょうか、の意である。天皇位を天孫ではなく鞍作(蘇我入鹿)に代えることはできないというのではなく、鞍作(saddle making)を天孫が代わりとなって行うことなどできないという言い方である。文字通りに解釈するとそういうことになり、そういう発言を中大兄はしている。そして、天皇はその言葉を聞いて、すぐに起ち上がって殿中に入ってしまっている。中大兄の考えをたちどころに理解した。ヤマトコトバに理解したと認められる。
 Aの文は一見わかりやすい。鞍作(蘇我入鹿)は天皇家の人をことごとく滅ぼして、皇位を傾けようとしている。その事実は、山背大兄王一族を滅ぼしたことで明らかである。皇位が傾いたらどうなるか。傾いたら滑り落ちる。いま、天皇は大極殿にいる。大極殿は、基壇の上に建つ建物である。それを大極殿おほあむどのと言っている。後には屋根に瓦が載り、床も瓦敷きになっている。瓦ばかりあるところとは、川原によく似ているということを意味したものだろう。瓦かはらという語はいわゆる和訓として作られた言葉と思われる。屋根を瓦葺きにする目的は何よりも防火対策である。機能面において、消火用水が手に入りやすい点で類似している。川原にあることと瓦葺きであることとは等価なのである。瓦の色や質感は、川原の石によく似ている。斉明紀元年条の飛鳥川原宮への遷都は飛鳥板蓋宮の火災による(注6)。
 つまり、オホアムドノに出座することとは、川原に来ていることによく似ているのである。天皇が川原に赴くことは、大嘗祭や新嘗祭のための斎戒沐浴の儀式に象徴的である。そこできれいな水を使って身を清める。「浴あむ」のである。天皇がアム(浴)のによく似たところで儀式、この時は三韓の調を受ける儀式であるが、その厳かさを演出する舞台装置としてオホアム・・ドノは機能している。屋根のあるところだからトノ(殿)である。殿のような大きな建物は建物として大きいばかりで、今日のように部屋が壁で仕切られていたわけではなく、ワンルームの大広間に間仕切りとなる几帳や屏風を置いて利用していた。すなわち、間仕切りはアム・・(編)ことによって作られた「席むしろ障子しとみ」であると語られているのである(注7)。儀式が終わったら片づけられるもので、入鹿の屍を覆うのに使っている(注8)。宮廷のオホアム・・ドノ(大極殿)前での事件であったことをよく物語る逸話である(注9)。
 中大兄の「豈あに天孫あめみまを以て鞍作に代かへむや。」は謎めいた言葉である。蘇我入鹿は別名を鞍作と言った。この事件で記される以前にも「大臣児入鹿〈更名鞍作〉。」(皇極紀元年正月)、「此是、経歴数年、上宮王等、為蘇我鞍作、囲於膽駒山之兆也。」(同三年六月)とある。何度も重ねて注されているのは、その言葉に意味するところがあるからに違いない。どうして入鹿のことを鞍作と言ったのか(注10)。鞍作とは人が乗るための馬の鞍を製作する人のことである。馬の鞍は木製の場合、鞍橋くらぼねと呼ばれる。鞍橋は前まへ輪わと後しづ輪わ、ならびにそれをつなぐ居木ゐぎで構成され、居木は鞍壺くらつぼ、鞍笠くらがさとも呼ばれる。骨格ばかりと見紛うクラボネを鞍橋・と書くのは、馬の背を越えていく様を橋の欄干のように見て取ってのことである。体操競技のあん馬は、馬の背を越える時に欄干を握って体を持ち上げるところを見ている。鞍は木製で組まれて馬の背中よりもひと回り大きく作られ、馬が死んで土葬してから何かの拍子に掘り起こした時に白骨化したものが見つかった折に、どこの馬の骨だ? と疑問に思われるようなものになっているからである。

五 オバシマにオハシマス

 蘇我入鹿のことを鞍作とも呼んだのは、彼が自ら鞍を作って乗馬していると揶揄されるようなところがあったからだろう。欄干のことをオバシマといい、音の似た語にオハシマス(御)がある。ここで筆者は、言葉の語源について論じようとしているのではなく、オハシマス(御)という語を飛鳥時代に使うに当たり、当時の人がオバシマ(檻)と関係させて考え、楽しんでいると推測している。言葉が音声言語でしかなったから、音の類似は語義の奥義を示すものとして考え合わされたことだろう。新撰字鏡に、「楯 順音、禦也、詳尊反、平、禦也、欄檻也、馬夫世支ふせぎ、又於波志万おばしま、又於倍おへ」、和名抄に、「軒檻 漢書注に云はく、軒〈虚言反〉檻は上板なり、檻〈音は監、文選に檻の読みは師説に於波之万おばしま〉は殿上の欄なりといふ。唐韻に云はく、欄〈音は蘭、漢語抄に云ふ欄檻〉は階際の木、勾欄も亦といふ。」、名義抄に、「檻 音監、オバシマ」とある(注11)。すなわち、オバシマの付いているところに居ることとは、オハシマスという尊敬語を使う特権を得たということである。言葉の使用において最も高度な精神活動の一つにジョークがあり、ジョークの通じない輩には言葉を論じる資格さえないとも換言できる。
 寺社の殿舎の縁側の手すりや橋の欄干などのことをオバシマと言っている。喜多村信節・嬉遊笑覧に、「【頭書】おばしま俗に軒檻などを訓り。これはおばします通りを云なり。貴人の御坐の順にあめる高らん也。源氏・野分にまたみかうしもまいらずおはしますにあたれるかうらんおしかゝりてみわたせば云々。源氏の君の寝処の順のかうらん也。(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/992504/1/52、漢字の旧字体や誤字は改め、句読点等を施した)とある。壇は高くなっているのでオバシマを設けて転落防止につとめている。そういう高いところにいらっしゃることをオハシマスとし、言い得て妙となっている。

 天皇すめらみこと大極殿おほあむどのに御おはします。古人大兄ふるひとのおほえ侍り。(皇極紀四年六月、岩崎本)
 天皇、大殿に御おはします。物部目もののべのめの大連おほむらじ侍さぶらふ。(雄略紀元年三月、書陵部本)
 天皇、向小殿むかひのこあむどのに御おはしまして、王卿おほきみまへつきみに大極殿おほあむどのの庭おほばに宴とよのあかりしたまふ。(天武紀九年正月、兼右本)

 基壇の建物の高いところでオハシマス状態にある。皇極天皇が大極殿にいて古人大兄が近くにいて庭の朝議を見守っているのと、雄略天皇が大殿にいて側に物部目が控えていて高いところから庭にいる娘子の歩くさまを見て相談相手になっているのは位置関係が同じである。天武天皇の場合は、側に皇后、後の持統天皇がいて、王卿たちは庭でバーベキューを楽しんでいる。
 オハシマスという語の出自については、古典基礎語辞典に、「オハスは、上代の最大級の敬語であるオホマシマス(大坐します、神仏や天皇を遇する)が変化したオハシマスのマスを省いた形として成立したと考えられ、オハシマスよりオハスのほうが敬意は低い。」(250頁、この項、石井千鶴子)、白川1995.に、「「おはします」という語は、〔宣命〕にしばしば用いられる語で、その系統の用語であろう。」(596頁)と「まします〔坐・在〕」の項に解説されている。宣命には、オホマシマス(「大坐坐」(3詔)、「御坐」(23詔)、「御坐坐」(27詔)、「於保麻之麻須」(45詔))の例があるが、万葉集にはオハシマスと仮名書きされた例は見られない。そこで、本来、敬語的表現のマス(坐)にさらにマスが加わってマシマスがあり、さらにオホ(大)を加えてオホマシマス、約されてオハシマス、さらに約されてオハスという語が生まれたと想定しがちである。しかし、そのように歴史的経緯をたどることにはあまり意味が見出せない。すべては口語的世界のことである。続日本紀の宣命のオホマシマスを基準に考えると自縄自縛になる。
 筆者は、マシマス、オハシマスとも、飛鳥時代にヤマトコトバとしてあったと考えている。オハシマスの語源を定める必要はなく、オバシマ(檻)のあるようなところにマシマス状態にいらっしゃったらオハシマスであると言って正しいと知れるからである。寺社の殿舎の神仏、大極殿の天皇とも、同じく高いところでオバシマの内側にいらっしゃる。オバシマのないところにいらっしゃる場合には、原則としてマシマス、イマスという訓にしなければ少し変だということになる(注12)。

六 オハシマスの探究

 オハシマスには動詞のほか補助動詞的な使い方もある。オバシマとは無関係かと思われる個所でもオハシマスと訓む例が見える。

 皇后、懐妊開胎みこあれまさむとする日に、禁中みやのうちに巡行おはしまして、……(推古紀元年四月、岩崎本)

 推古天皇が禁中を巡行している個所である。身重の天皇が禁中を巡行する時に手すりを設置していたかは不明である。ただ、最終的に厩の戸に当たって子が生まれている。厩戸皇子である。厩の戸は、ませ棒、ません棒と呼ばれる丸い棒が柵にされている。オバシマに相当すると面白がられたのだろう。

 御所おはしますところに遠く居はべりては、政まつりごとを行はむに不便もやもやもあらず。近き所に御おはしますべし。(天武紀元年六月、兼右本)

 壬申の乱の官軍としてオハシマストコロと主張して、馬に乗って来てくれと言っている。壬申の乱で東国入りする際に乗馬の記述がある。はじめ徒歩で進んだが、途中で「鞍馬くらおけるうま」に逢って、「因りて御み駕のりす。乃ち皇后きさきは、輿こしに載せて従みともにまします。」(天武紀元年六月)となっている。オハシマス性は馬上のように高いところにある。戦の最中のことで、威を顕示して隊列を進めるほど同調する人は増えていった。

 仍りて平旦とらの時を取りて、警蹕みさきおひ既に動きぬ。百寮つかさつかさ列つらを成し、乗輿きみ蓋おほみかさ命めして、以て未だ出行おはしますに及いたらざるに、十市皇女とをちのひめみこ、卒然にはかに病発おこりて、宮中みやのうちに薨みうせぬ。此に由りて、鹵簿みゆきのつら既に停とどまりて、幸行おはしますこと得ず。(天武紀七年四月、北野本)

 隊列の中心に天皇はオープン輿に乗り蓋きぬがさをかざしていく。小輿にもオバシマはめぐらされる。

左:小輿と天蓋(板橋貫雄模、春日権現験記第十一軸、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287496/1/14)、右:オバシマのついた反橋(年中行事絵巻、土佐光長絵、谷文晁写、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591099/1/39)


 是の夕ゆふべに、嶋宮しまのみやに御おはします。癸未に、吉野に至りて居おはします。(天武前紀四年十月、北野本)
 皇太子ひつぎのみこ、長津宮に遷うつり居おはします。(天智前紀斉明七年七月是月、北野本)

 それぞれの宮が高床式にしてオバシマがあったか不明ではあるが、嶋宮は庭に島のように設けられた釣殿の造りかと思われる。吉野宮は高原の観覧台もついた別荘である。長津宮は厳島神社のような海岸上の宮かもしれず、実際はともかくその名から印象づけられている。

 天皇、得病おほみここちそこなひたまひて、宮とつみやに還入かへりおはします。(用明紀二年四月、書陵部本)
 蓋けだし有あり間まに幸おはしませるに因りて、新嘗にひなへを闕もらせるか。(舒明紀十一年正月、書陵部本)
 天皇、伊予より至かへりおはします。(舒明紀十二年四月、書陵部本)

 還る際に輿に乗っていて、それにオバシマがついているということだろう。いずれにせよだいぶお疲れの御様子である。

 天皇、是の歌を聆きこしめして、則ち感情めでたまふみこころ有おはします。(允恭紀八年二月、書陵部本)
 心みこころを削とくし志みこころざしを約せめて、従事乎無為しずかにおはします。(仁徳紀四年三月、前田本)

 感情が確固たるものになったとか、人民の役をなくす善政を行ったといったことにオハシマスという言葉が用いられている。前者の、心が揺れても落ちないものとは、例えてみれば船の揺れに対して落ちないことを表している。船に安全柵のオバシマが付いていると落ちない。だからオハシマスといっている。後者の、「従事乎無為しずかにおはします」は、六韜・文韜・盈虚に、「役作の故を以て、民の耕織の時を害せず。心を削り志を約し、事に無為に従ふ。(不下以二役作之故一、害中民耕織之時上、削レ心約レ志、従二事乎無為一。)」とある字面を下敷きにしている。古訓のシヅカニで何もしないことを言い表している(注13)。柵があって手出しができないでいるわけである。
 翻って蘇我入鹿とオハシマスの関係を探ってみる。彼の人物像は皇極紀元年条に記されている。

 大臣おほおみ[蘇我蝦夷]の児こ入鹿、〈更またの名は鞍作。〉自ら国の政を執りて、威いきほひ父かぞより勝まされり。是に由りて、盜賊ぬすびと恐懾おぢひしげて、路みちに遺おちもの拾とらず。(皇極紀元年正月)

 勝手に国政を専横する人物で、盗賊でさえ道に落ちているものも拾おうとしなかった、それほど威力があったという。常時見張られているということではなく、入鹿が道を行く時にはただならぬ気配を感じたという意味である。大臣クラスの人は隊列を組んで出御する。大名行列でもお先棒が「下にー下に」と言いながら進んだ。警蹕の声をとどろかせている。古く警蹕みさきおひには「おし」の他、「おはしますおはします」と言ったようである。

 警蹕けいひちなど「おし」といふこゑきこゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、……(枕草子・第二十三段)
 三日、また、申さるの時に、一ひと日ひよりもけにののしりて来るを「おはしますおはします」と言ひつづくるを、一日のやうにもこそあれ、かたはらいたしと思ひつつ、……(蜻蛉日記・中・天禄二年一月)
 あさましき人、わが門かどより、例のきらぎらしう追ひちらして、渡る日あり。行ひしゐたるほどに、「おはしますおはします」とののしれば、例のごとぞあらむと思ふに、……(蜻蛉日記・中・天禄二年五月)

 この「おはしますおはします」というののしり声は、蘇我入鹿の警蹕の声の伝統を引き継いでいるように思われる。威力がある。行列の真ん中で入鹿は馬に乗って行進している。建物で言えば基壇のような高い位置にあり、周りには護衛兵が守って近づくことができない。オバシマ(檻)を四囲にめぐらせているのと同じ効果である。入鹿と言うぐらいだから鹿が入る檻のような感じである。入鹿はオバシマごと移動していて、オハシマスオハシマスと警蹕の声があり、オハシマスほどの存在として畏怖されていたということになる。すべては言葉のなかに塗り込められて伝わっている。「為レ人多レ疑」で警護が固く、逆に言えば、檻に入っているのとよく似たことになっている。盗人は収監を恐れて道路の落とし物を拾わなかった。住居に侵入してなら行列の行進とは無関係だから泥棒が減っていたわけではないことを暗に述べている。一口噺に作っている。
 馬の鞍を自作しているに違いないと諷喩したところから「鞍作」と綽名がついたのだろう。馬の鞍に御おはしますとは、オ(御)+ハシ(橋)+マス(居)こと、その橋とは両側に欄干のついた反橋、太鼓橋のことで、鞍の形に相当し、鞍橋と書いている。落っこちないように欄干をめぐらせているというわけである。大極殿で斬りつけられた入鹿はオバシマにしがみついて直訴している。「入鹿、御お座もとに転まろび就つきて、叩頭のみて曰まをさく、「当まさに嗣位ひつぎのくらゐに居ましますべきは天あめの子みこなり。臣やつこ罪を知らず。乞こふ、垂審察あきらめたまへ」とまをす。」とある。天皇は大極殿内、帳台の中にいる。古人大兄も大極殿の基壇上にいる。朝廷で儀式をするために倉山田麻呂は下の庭から表文を読み上げ、入鹿も同じく庭にいた(注14)。

七 鞍と足駄

 鞍は、前輪・後輪と居木とを組み合わせて作られる(注15)。組み立てるのに革紐を使う。その鞍を馬に載せ、人はその上に座ることができる。
 一方、部屋のなかでは倚座具を使う。記紀において「呉床」、「大御呉床」、「胡床」と記されるアグラである。天皇や皇子など身分の高い人が使った。埴輪や出土木器から使用状況がわかり、座面上に趺座あぐらをかく形態のものと腰掛けるものとがあった。出土する簡単な造りの腰掛けでも、台座にあけた枘穴ほぞあなに脚をはめ込むようにして作られているものがある。組み物として納めながら、接着剤、例えば膠にかはを使って固定していたと考えられている。連結の主目的に釘などは用いず、また、紐で結いつけるものでもなかった。
 儀式においては、座具としてのアグラに坐すのはその場の最高位の人物、天皇がいるのなら天皇だけであり、それ以外は、たとえ大臣や皇子たちであってもムシロ(「席」)やシキヰ(「座」)に坐していた(注16)。乙巳の変の三韓の調の儀式においても、蘇我入鹿は「入侍二于座一」している。庭に莚を敷いてその上に座している。立場の違いは着座位置に忠実に反映され、蘇我入鹿の屍は象徴的に「席むしろ障子しとみ」で覆われた。座具に差をつける次第は延喜式に入念に定められている(注17)。

左から、儀式イメージ(旧儀式図画帳第41巻、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0038348)、馬鞍 第8号(宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures/?id=0000010922をトリミング)、腰掛(登呂遺跡、静岡市立登呂博物館ホームページhttps://www.shizuoka-toromuseum.jp/toro-site/people/episode03/をトリミング、2026.8.28確認)、赤漆欟木胡床(宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014625&index=58をトリミング)

 膠という糊を使ったところに就くのが天皇や皇族、天つ日嗣の尊位を示すものである。ヒツギ(日嗣(日継)、ヒ・ギは甲類)というからには、次の日の朝が来ること、それが帰納法的に続くことが求められた。つまり、アシタ(朝)が来ることが絶対条件である。それは足あし駄たと同じ音である。無文字時代に音声言語としてゆたかな知恵を包括しているヤマトコトバからすれば、天皇の座位は足駄の製作法と同じように作られているはずということになる。人々はヤマトコトバのからくりのうちに知恵を伝えていっていたのである。

足駄作り(職人尽図屏風(左隻)、江戸時代、堺市博物館蔵)

 和名抄に、「屐 兼名苑に云はく、屐〈音は奇逆反、阿師太あしだ〉、一名に足下といふ。」とある。一木を刳り抜くばかりでなく、古くから枘を穿って材を嵌め込み組み合わせたものが使われていた(注18)。その際、部材が揺るがないことを考えるなら糊付けが行われたと推測される。差歯を固定するために足駄は膠を使って接いでいた。膠は飴のようにどろっとした素材である。和名抄に「飴 説文に云はく、飴〈音は怡、阿女あめ〉、米糵よねのもやしを之れと為なすといふ。」とある。アメ・・ミマ(天孫)(注19)というだけあって、皇統を接いでいくということは飴あめ状の膠によっているということになる。膠の色合いは黄牛あめうじのような黄褐色をしている。日嗣は膠によって保たれ、だから足あし駄たがあり、朝あしたがある。足駄は製作後、ひっくり返して歯を下にして使う。座具の製作法、使用法と同じことである。
 それに対して、蘇我入鹿は鞍作という名を負っている。鞍作は、前輪と居木と後輪とを革の紐を結ゆふことで接いで鞍橋を成している。アシタ(朝・足駄)とユフ(夕・結)は正反対で、ニカハ(膠)とカハ(革)は似て非なるものである。馬上で激しく揺れる鞍を構成するために膠で接着しただけでは心許なく、すぐにバラバラに壊れてしまうだろう。
 姿態として上下が反対になっている。足駄や腰掛けは前後の歯を下にして使うが、鞍橋は前輪・後輪を上にしたままその間に乗って使う。「鞍作、天宗きむたちを尽つくし滅ほろぼして、日位ひつぎのくらゐを傾かたぶけむとす。豈あに天孫あめみまを以て鞍作に代かへむや」という中大兄の発言は、言語学的に、なぞなぞの語用論(pragmatics in riddling)からして理にかなうこととなっている。「将傾二日位一」とは、鞍の造りが足駄の造りを転倒しているからということであり、ゴージャスな倚子いしにはオバシマもついている。状況から言葉を逆定義していることにもなっているわけである。蘇我入鹿(鞍作)の主張を見返してみても納得がゆく。「当まさに嗣位ひつぎのくらゐに居ましますべきは天あめの子みこなり。臣やつこ罪を知らず。乞こふ、垂審察あきらめたまへ」という言葉は、足駄の形をしたものの上に居すべきなのは朝を迎えるのにふさわしい天子であるべきで、私めは鞍作であって関係がございません、よくよくご検討くださいませ、と言っているのである。入鹿(鞍作)がそのような意図をもって発した言葉でなかったとしても、中大兄が言葉尻をとらえるや否や天皇はなるほどそのようであると受け取り、構図が一変して、世界は反転して見えたのである。足駄と鞍の関係の反転状態が対話の中に絡みこまれている。入鹿が天皇に訴えたときの状態は、「傷二其一脚一。入鹿、転二就御座一、」であり、脚を斬られて転んでいる。足駄の足がないのは致命傷で、接着剤としての糊が溶け流れるように、脚からは血糊が溶け流れている。「将傾二日位一」とはどういうことか、天皇は翳を外させて目の当たりにした。
 無文字時代のヤマトコトバは、当時、舞台芸術上のロゴスそのものであった。

(注)
(注1)欽明紀五年三月条には、「熟観所作、都無怖畏。」とある。「熟つらつら作する所を観るに、都かつて怖おぢ畏おそるること無し。」と訓んでいる。作なせるを観るに、所作すらくを観るに、などの訓がふさわしいと考える。「所」をどう訓むかについては、拙稿「上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について」参照。
(注2)春日1985.には「作せラク」(93頁)とある。
(注3)古典全書本に、「所作せむすべを知らず。何の事かある」(五43頁)などとあるほか、かつてはそのように訓まれていたことがある。
(注4)中大兄も本来なら殿中に控えているべきなのだが、三韓の調の式の進行役として庭に立っていたことを、「古人大兄侍焉。」という一文は語っている。
(注5)その他の訳に、「鞍作のために天孫あめみま(神々の後裔である皇族)が滅びるということがあってよいものでしょうか」(井上1987.195頁)、「鞍作をもって天子に代えられましょうか」(宇治谷1988.154頁)、「どうして天孫一族を鞍作ごときに代えることができましょうか」(遠山1993.4頁)、「鞍作のために天孫〔皇孫〕が滅びることがあってよいものでしょうか」(倉本2015.135頁)、「どうして天孫を入鹿に代えられましょうか」(森2016.54頁)、「入鹿のために天孫が滅びることがあってもよいのでしょうか」(坂2018.17頁)とある。これらはみな誤訳である。主客を取り違えている。
 漢文調で書かれている原文は、下の第一の文であり、第二の文ではない。
 豈以二天孫一代二鞍作一乎。
 豈以二鞍作一代二天孫一乎。
 第二の文章であれば、鞍作が天孫の地位をおびやかして取って代わるということになるが、そうはなっておらず、中大兄はそうは言っていない。森2011.が指摘するような「語法の誤り」(230頁)ではない。あくまでも第一の文のように、どうして天孫を以てして、鞍作に代えることなんてありましょうか、と言っている。鞍作は蘇我入鹿の別名で、綽名、通称である。通称であるが、言葉として名づけられているからにはその意味を有していると考えなければならない。実際に馬の鞍を製作する職人さんの意味を有している。すなわち、
 Why do you want to work for saddle-making by people of the imperial family?
 Why do imperial people have to take over the saddle-making job?
 The saddle-making work cannot be replaced by imperial people.
といった意味が示されていると考えられる。
 したがって、この記述についての評価、中大兄「の激語は、この不意の惨劇に色を失った人々の胸を射抜いたであろう。これ以上の政治的効果をあげえたセリフはちょっと考えられまい。」(北山1961.59頁)、「入鹿斬殺の場面は、時代小説さながらの迫真の記述である。」(坂2018.17頁)といった解説、ならびに、後代に日本書紀をまとめる段階で作文されたものであるとする見解についても再考されなければならない。
(注6)拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」参照。
(注7)高橋1985.に、「[開口装置は]扉形式のみであることと、内部空間を仕切る建具のなかったことは、ともに広く奈良時代建築の歴史的特質といえよう。」(10頁)とあり、間仕切りは仮設されるものであった。それを「障子」といい、「障子の最も古い形式は、細い木製の格子を骨組としてその両面に布または紙を貼り、衝立式に台脚の上に立てたものであった。」(23頁)のである。
 筵の製作には民俗に莚機も使われており、大量生産するにはその方が便利である。その場合、莚はオル(織)ことによって作られている。ただし、莚は必ずしも莚機に負うものではない。縄文時代以来、衣服用のクロス同様、編布あんぎんの方法で作られ続けてきた。藁製の包みである薦こもも、こもげた、こもあみなどと呼ばれる器具を使い、つつろとも呼ばれる錘を使って作られていた。
 したがって、莚は語学的にはアム(編)ことによって作られていたと言える。有明地域一帯の状況報告によると、「古くは、コモゲタを組んだ道具……によって、莚や俵(トウラ・タワラ)が編まれた。このコモゲタが姿を消すのはおよそ明治二三(一八九〇)年以降で、このころより、左右からワラを一本ずつ差込んで二人の共同作業によって莚を織り始めた……。編む莚から織る莚への転換であった。」(宮崎1985.240頁)とされている。
(注8)大系本に「屍体の扱いが丁重でなかったことを示すものである。」(231頁)と注されているが、表面的な理解である。
(注9)大極殿という名称は、中国の魏晋南北朝以来の宮殿正殿の太極殿に由来するものとされている。太極とは北極星のことで云々、という説明が谷川士清・日本書紀通證・巻二十九にある。「太安殿見二天武紀及続日本紀一倭名鈔ニ曰太極殿ハ朝堂院ノ正殿ノ名也。拾芥鈔ニ曰八省院ハ天子臨朝即位諸司告朔ノ所、或ハ号二朝堂院一。左経記ニ曰、按太極殿ノ體非レ寝非レ堂所レ謂廟作也。丹陽記ニ曰、太極殿ハ周ノ制路寝也。秦漢曰二前殿一、今称二太極一為二前殿路宮之号一、始レ自レ魏。魏志ノ註至二明帝ノ時一始起二太極殿一徐広晋紀ニ曰、太極殿高八丈長二十七丈広十丈。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12865758/1/25、漢字の旧字体は改めた)。
 すでに定説化しているが本当にそうか、単純に大陸から文化移入したに過ぎないものなのか不明である。筆者はひと捻りあったものと考える。「太」字にあった点がなくなっている。大宰府≒太宰府に同じというだけでは証明にならない。「太」を「大」にして唐朝との軋轢を避けたのであるとのうがった説も見られるが、証拠はない。訳者が意図的に「大」字に改めた可能性がある。その際、天皇は神であり、中国の天子─皇帝の関係とは違うとする考え方もある。やはり証明はできない。筆者は、フトアムドノではなくオホアムドノにしたかったから大極殿と記したもので、ヤマトコトバファーストの訓読大国ゆえのことと考えている。
(注10)人は呼ばれることによって命名される。人々にそう呼ばれたのが名前である。坊ややお嬢ちゃんに特徴的な点が目についたら、人々はそれをもって呼ぶようになる。名前とは本来、綽名である。認識を共通しあうことによって言葉は成り立つ。入鹿がどうして入鹿と呼ばれたのか、海のイルカが潮を吹くのと関係があるような気もする。威勢よく気炎を吐いている。話としては、イルカを捕まえるには大きな網が必要であり、よって大極殿あほあむどのという網の権化のような場所で捕らえられたというオチにつながっているのではないか。イルカ漁では一浦が血の海になることがあった。
(注11)和名抄では元和本に、「於波之萬おばしま」とある。オホシマと読んで納得している点については、拙稿「和名抄の「読」について─「文選」と関わる事項を中心に─」参照。
(注12)アリ・ヲリの尊敬語のマシマスは、(どこどこの場所)にいらっしゃるの用法のほか、補助動詞的に、形状語を丁寧にいう場合、すなわち、(なになにの状態)でいらっしゃるの用法もある。いくつか例をあげる。

 天皇すめらみこと、台たかどのの上に居ましまして、遠はるかに望みのぞみたまふに、烟気けぶり多さはに起たつ。(仁徳紀七年四月、前田本)
 天皇、耳梨みみなしの行宮かりみやに居まします。(推古紀九年五月、岩崎本)
 既にして宮室おほみやを菟道うぢに興たてて居まします。(仁徳前紀、前田本)
 吾わが主あろじ大伴公おほとものきみ、何処いづくに在まします(雄略紀九年三月、前田本)
 是に、男大迹天皇をほどのすめらみこと、晏然しづかに自若つねのごとくして、胡床あぐらに踞坐まします。陪臣さぶらふひとを斉ととのへ列つらねて、既に帝すめらみことの坐ましますが如し。(継体紀元年正月、前田本)
 是の皇子みこ、初め上宮かみつみやに居ましましき。(用明紀元年正月、書陵部本)
 ……東宮みこのみやに位居まします。(用明紀元年正月、書陵部本)
 天上あめに神有まします。地つちに天皇有まします。(推古紀八年是歳、岩崎本)
 ……、王みこの在まします所を高たか向むくの臣国押おみくにおしに述かたりて曰はく、(皇極紀二年十一月、岩崎本)
 自づからに平安さきくましませ。(神代紀第七段一書第三、弘安本)
 天皇、幼いときなくて聡明さとく叡智さかしくまします。(仁徳前紀、前田本)
 大王きみは、風姿岐㠜みやびいこよかにまします。(仁徳前紀、前田本)
 是に、天皇、皇后きさきの不在ましまさぬときを伺うかかひて、八や田皇女たのひめみこを娶めして、……(仁徳紀三十年九月、前田本)
 天皇、岐㠜かぶろにましますより総角あげまきに至るまでに、……(允恭前紀、書陵部本)
 長このかみにして仁孝ひとをめぐみおやにしたがふみちまします(允恭前紀、書陵部本)
 貴かしこき者ひとにましまさむといふことを知りたてまつらず(允恭紀二年二月、書陵部本)
 長ひととなりて伉健たけくましましきこと、人に過ぎたまへり。(雄略前紀、書陵部本)
 徳おむおむしく有まします天皇なり(雄略紀四年二月、前田本)
 大はなはだ悪あしくますます天皇なり(雄略紀十一年十月、前田本)
 悪行あしくまします主きみなり(雄略紀十一年十月、前田本)
 ……意みこころ豁如ゆたかにまします。(継体前紀、前田本)
 至徳いきほひまします天皇なり(皇極紀元年八月、岩崎本)

 オバシマが付いているところではオハシマスを使い、ないところでマシマスを使うかと思われるものの、厳密な区別は見られない。ただし、日本書紀の古訓は後の時代に付けられたものであり、さらに補読の場合も多いため解明すること自体が困難なのである。今昔物語集では、「有」は「アリ」を表記し、「在」は「マシマス」を表記するという使い分けがあるとされている(佐藤2009.)が、日本書紀でそのような論証はできない。岩崎本で平安時代中期末点にオハシマスとあっても、室町時代点にマシマスと記されている例がある。和文かどうかという仕分けでも解明されない。

 〇オハシマス(降臨)
 如来悲-愍(シ)て又親ミツカラ降-臨オハシマセリシタマヘリ(③三ノ一六七)
 〻〻(此室)諸釈 の建也、擬二セルナリ仏 の居一オハシマサムト〔焉〕(④六ノ一八九)
オハシマスは和文では広く用ゐられるが、訓点では一般に見出されないものであるのに、日本書紀にはその例が見える。訓点では一般に「マシマス」「イマス」を用ゐるのであつて、本[石山寺本大唐西域記]点も他所では「マシマス」「イマス」を用ゐてゐるのである。(築島1963.203頁、漢字の旧字体は改めた)

(注13)古語のシヅカニはオハシマスという語と親和性が高い。

 世尊の身の支は安定と(?)しづかに敦重といつくしくして曾て掉動せず。(観弥勒上生兜率天経賛・巻下)
 是に、男大をほ迹どの天皇すめらみこと、晏然しづかに自若つねのごとくして、……(継体紀元年正月、前田本)

 文選読みで「安全」をシヅカニと訓み、また、日本書紀では「晏然」をシヅカニと訓んでいる。「晏」字は皇極紀の「大極殿」の岩崎本傍訓に「オホ晏トノ」とある。大極殿は、大いにシヅカナル殿、何もしないで済む善政を敷く御殿という意味になる。動きがなく落下することもないことを具象化するのにはオバシマが最適解である。天皇が課役を課さずに御殿にいる場合、理屈としてはオハシマスと訓むのがふさわしいことになる。仁徳紀七年四月条で天皇がいる台上にはおそらく欄干が巡らされているだろうし、課役を停止して三年になるほどシヅカニしていたのだからやはりオハシマスがふさわしいはずだが、古訓ではマシマスと訓んでいる。
(注14)藤氏家伝に、日本書紀とよく似た文章が記されている。「履」の件は家伝にのみ見える。入鹿が庭にいたことが履の明示で強調されている。沖森ほか1999.の漢語を含んだ訓みを示すが、少なくとも会話文に漢語を用いてあるのは不自然である。日本書紀と異なる「帝臨軒」を何と訓むべきか。内裏式・七日会式に、「内侍、東檻に臨て大臣に授く。(内侍臨二東檻一授二大臣一。)」、奏銓擬郡領式に、「巳午の間、内侍、檻に臨て大臣を喚ぶ。(巳午間、内侍臨レ檻喚二大臣一。)」とある。「軒」は「軒檻」のことである。「帝みかど、軒おばしまに臨いでます。」と訓むか。オハシマスの体である。

 戊申、帝臨軒。古人大兄侍焉。使舎人急喚入々鹿々、起立著履、々三廻不著。入鹿心忌之。将還彷徨。舎人頻喚。不得已而馳参。……鞍作恠問曰、何故慄戦。山田臣曰、近侍御前、不覚流汗。中大兄、見古麻呂等、畏入鹿威、便旋不進、咄嗟之。即与古麻呂、出其不意、以剣打傷入鹿頭肩。入鹿驚起。古麻呂運手揮剣、斬其一脚。入鹿起就御座、叩頭曰、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事邪。中大兄伏地奏曰、鞍作尽滅王宗、将傾天位。豈以帝子、代鞍作乎。天皇起入於殿中。
 戊申つちのえさるのひに、帝みかど軒けんに臨のぞみたまひき。古人大兄ふるひとのおほえ侍はべりたまふ。舎人とねりをして急すみやかに入いる鹿かを喚めさしめたまふ。入いる鹿か、起立たちて履くつを著はかむとするに、履くつ三みたび廻かへりて著つかず。入いる鹿か心こころに忌いむ。還かへらむとして彷徨たたずむ。舎人とねり頻しきりに喚めす。已やむこと得えずして馳はせ参まゐる。……鞍作くらつくり恠あやしびて問とひて曰いはく、「何なにの故ゆゑにか慄ふるひ戦わななく」といふ。山田臣やまだのおみ曰いはく、「御前おほみまへに近ちかく侍はべれば、覚おぼえずして汗あせ流いづ」といふ。中大兄なかのおほえ、古麻呂こまろらの、入いる鹿かが威いきほひを畏おそりて、便旋めぐりて進すすまぬを見みて、「咄嗟や」といひたまふ。即すなはち古麻呂こまろと与ともに、其その不意ふいに出いで、剣たちを以もちて入いる鹿かが頭あたま・肩かたを打うち傷やぶる。入いる鹿か驚おどろきて起たつ。古麻呂こまろ手てを運めぐらし剣たちを揮ふきて、其その一脚かたあしを斬きる。入いる鹿か起たちて御座おほみもとに就つきて、叩頭のみて曰まをさく、「臣やつこ罪つみを知しらず、乞こはくは、審察しむさつを垂たれたまへ」とまをす。天皇すめらみこと大おほきに驚おどろきて、中大兄なかのおほえに詔みことのりして曰いひたまはく、「作なす所すべを知しらず、何事なにごとか有ある」といひたまふ。中大兄なかのおほえ地つちに伏ふして奏まをして曰いひたまはく、「鞍作くらつくり、尽ことごとく王宗わうそうを滅ほろぼして、天てん位ゐを傾かたぶけむとす。豈あに帝てい子しを以もちて、鞍作くらつくりに代かへむや」といひたまふ。天皇すめらみこと起たちて殿とのの中うちに入いりたまふ。(164~174頁)

 蘇我入鹿はオバシマにすがりついて訴えている。この姿態には中国の故事が意識されているのかもしれない。
 前漢の成帝のとき、政治腐敗を諫言しても意に介さなかった皇帝に対して、朱雲がなお諫言した際の出来事である。皇帝が聞かずに朱雲を下げさせて死罪を言い渡しているのに、朱雲はオバシマにすがりついて諫言をやめなかったため、引き立てたところオバシマが折れた。それが折檻という語の起こりとされている。漢書・楊胡朱梅云伝に、「上大いに怒りて曰く、「小臣下に居りて上を訕り、廷にて師伝を辱す。罪死すとも赦さず」と。御史、雲を将きて下る。雲、殿檻を攀ず。檻折る。雲呼おらびて曰く、「臣、下りて龍逢・比干に従ひて、地下に遊ぶを得ば足らん。未だ聖朝の何如を知らざるのみ」と。(上大怒曰、小臣居下訕上、廷辱師伝。罪死不赦。御史将雲下。雲攀殿檻。檻折。雲呼曰、臣得下従龍逢・比干、遊於地下、足矣。未知聖朝何如耳。)」とある。この故事が知られていたのなら、入鹿が天皇に訴えているのはパロディであるといえる。入鹿の場合、オバシマは折れずに体の方が斬れた。オバシマと心中している。
(注15)正倉院に残る鞍橋について、西川2019.は、「居木いぎはいずれも四枚で、前まえ輪わおよび後しず輪わの下面に設けられた切りこみに塡め込み、革紐で絡げて結着する。」(296頁)と解説している。
(注16)小泉1995.に、「この時期[古墳時代]の座具は、当時の豪族たちにとって、自分の「くに」を支配するための権威のシンボルであると同時に、豪族同士の権力誇示のための「武器」であり、さらには国際的にも文化性を表示するものとして重要なものであったということになる。それだけに当時は、座具というものが聖性とか象徴性、呪術性という点で現在からは考えられないほど大きな力を持っていたのであろう。」(43頁)とある。
 「亦、其の山の上に、絁垣きぬがきを張り帷幕あげはりを立てて、詐いつはりて舎人とねりを以て王みこと為して、露あらはに呉床あぐらに坐いませ、百官もものつかさが恭敬ゐやまひ往来かよふ状かたち、既に王子みこの坐す所の如くして、…… 」(応神記)が参照される。
(注17)天皇や皇族などの御座に関しては、延喜式・掃部寮式に、「元正には前さきだつこと一日に、御の座を大極殿だいごくでんの高たか御み座くらに設けよ。……」(26条)、「天皇の即位には、御の座を大極殿に設けよ。元日の儀と同じくせよ。」(51条)、「凡そ御の座は、清涼・後涼等の殿には錦の草墪さうとんを設けよ。〈高麗こま錦の表、薫たき地ぢ錦の縁、緋あけの東絁あづまぎぬの裏。〉紫宸殿には黒柿の木の倚子を設けよ。行幸には赤漆の床子〈並みな錦の褥しとみを敷け〉。其れ神事并びに仁寿殿等の座には、短帖を設くること常儀の如くせよ。中宮の草墪も亦、御に同じくせよ。」(52条)、「凡そ座を設くるには、皇太子は錦の草墪〈襪したうづの錦の表、長副の錦の縁、縹はなだの東絁の裏〉、并びに白木の倚子〈錦の褥を敷け〉。殿上并びに行幸も並みな通はし用ゐよ。親王并びに大臣は両面の草墪〈葡萄の滅紫けしむらさきの両面の表・縁、紺の調布の裏〉、赤漆の小床子〈褥を敷け。殿上・行幸も通はし用ゐよ〉。……」(53条)、弾正台式に、「凡そ庁の座は、親王及び中納言已上は倚子、五位以上は漆塗りの床子、自余は素しら木きの床子。」(148条)と定められている。木製の椅子に着席するのである。その作り方については、木工寮式に、「大倚子いし一脚〈高さ一尺三寸、長さ二尺、広さ一尺五寸〉の料、切釘きりくぎ十二隻〈各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は七人、中功は八人、短功は九人。小倚子一脚〈高さ一尺三寸、長さ一尺五寸、広さ一尺三寸〉の料、切釘十二隻〈各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は五人、中功は六人、短功は七人。大床子しやうじ一脚〈長さ四尺五寸、広さ二尺四寸、高さ一尺三寸〉の料、切釘三十隻〈四隻は各長さ二寸、二十六隻は各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は八人、中功は十人、短功は十二人。小床子一脚〈高さ一尺三寸、長さ二尺、広さ一尺五寸〉の料、切釘八隻〈各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は四人、中功は四人半、短功は五人。檜の床子一脚〈長さ四尺、広さ一尺四寸、高さ一尺三寸〉の料、切釘二十六隻〈四隻は長さ各二寸、二十二隻は長さ各一寸五分〉、膠一両。長功は三人、中功は三人半、短功は四人。」(8条)とあって、釘で止めるばかりでなく膠を接着剤に用いている。
(注18)歯のある下駄には、歯と台を一木を刳りぬいて作る連歯下駄、台に別材の歯を差し入れて作る差歯下駄がある。差歯の材料にはカシ、ケヤキ、ホオなど硬い木が用いられることが多い。差歯の枘が台の表面まで現れているものを露ろ卯ぼう、隠れているものを陰卯いんぼうといい、今日ではほぼ陰卯ばかりであるが、江戸時代までは露卯のものも一般的であったという。
 職人尽歌合では焼火箸で鼻緒の穴をあけているところが描かれているが、囲炉裏場で作業をするのは膠を使った製作の水溶(材質によるが60~70℃のものがある)のためであったり、温めることで接着力が増すこととも関係があるかもしれない。
(注19)天孫あめみまは皇孫すめみまと同じ対象を指す別称である。野口1978.に、「若干の例外……を見るとはいへママ、『書紀』巻二の天海両章に登場する火瓊瓊杵尊、火火出見尊二神が、皇孫、天孫両指称用語を以て各々規則正しく─火瓊瓊杵尊が、地文の中で指称される場合には皇孫、天神系神格を発言者とする会話文の中で指称される場合には皇孫、国神系神格を発言者とする会話文の中で指称される場合には天孫、と各々表記されているのに対して、火火出見尊が地文の中で指称される場合には天孫、国神系神格乃至はそれに準ずるものを発言者とする会話文の中で指称される場合には天孫、と各々表記されている……─表記されている」(382~384頁、漢字の旧字体は改めた)と整理されている。中大兄の口頭語中、スメミマでは通じずアメミマでなければならなかったからそう発せられたと考える。

(引用・参考文献)
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加藤良平 2026.10.24改稿初出

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