中大兄の三山歌

 万葉集の巻一の万13~15番歌は、中大兄の三山歌として知られる。新編全集本(32~33頁)によって訓読、原文、現代語訳を示す。

  中大兄なかのおほえ近江宮あふみのみやあめしたをさめたまひし天皇〉の三山みつやまの歌一首〔中大兄〈近江宮御宇天皇〉三山歌一首〕
 香具かぐやまは うね雄雄ををしと 耳梨みみなしと あひあらそひき かみより かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき〔高山波雲根火雄男志等耳梨与相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曾虚蟬毛嬬乎相挌良思吉〕(万13)
 香具かぐやまは うねやまを雄々しく思って 耳梨山みみなしやまと いさかった 神代の昔からして こうであるらしい いにしえも そうだったからこそ 今の世の人も 妻を 奪いあって争うらしい
  反歌〔反歌〕
 香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見にし 印南いなみ国原くにはら〔高山与耳梨山与相之時立見尓来之伊奈美国波良〕(万14)
 香具山と 耳梨山とが いさかいした時 阿菩あぼの大神がわざわざ見に来た 印南いなみなのだなここは
 わたつみの 豊旗雲とよはたくもに いり見し 今夜こよひつく さやけかりこそ〔渡津海乃豊旗雲尓伊理比弥之今夜乃月夜清明己曾〕(万15)
 大海原おおうなばらの 豊旗雲とよはたぐもに 入日を見たその 今夜の月は 清く明るくあってほしい
   右の一首の歌は、今かむがふるに反歌に似ず。ただし、旧本にこの歌をもちて反歌にせたり。このゆゑに、今もなほしこのつぎてに載す。また、いはく、「天豊あめとよ財重たからいかし日足姫ひたらしひめ天皇の先の四年いつに、天皇を立てて皇太わうたいとしたまふ」といふ。〔右一首歌今案不似反歌也但旧本以此歌載於反歌故今猶載此次亦紀曰天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子〕

 この中大兄の三山歌は今日まで諸説紛々で、共通理解に至っていない。ポイントごとに先行研究を紹介しながら検討を進める。争点としては、
 ➀作歌の時点は斉明七年(661)であること。
 ➁三山の性別とそれぞれの関係について。
 ➂歌の外にある風土記の伝説をもちだすことについて。
 ➃万15番歌は反歌とは考えにくいこと。
 ➄万15番歌の原文は、伝本によって「弥」が「沙」や「佐」という異同があり、「入り日射し」と訓むかもしれない点。
 ➅万15番歌の第五句、「清明己曾」の訓について。
が主だって議論されている。確かに大事なことではあるが、もっと肝心な問題点がある。
 ➀戦争に赴く船上で、大和国にある小さな山々の歌を歌って何がおもしろいのか。
 ➁三山の性別を表すことで何がしたいのか。
 ➂万13番歌に「神代」、「古」、「うつせみ」と並立させているのだから、「神代」≠「古」である。
 ➃万葉集の原本は標目、題詞、歌だけだから、左注にとらわれることなく万13~15番歌は一セットの歌謡であり万15番歌も反歌である。
 ➄左注は時代的にかなり早いはずだが、その時点ですでによくわからなくなっている。その精神史的転回とは何か。
 ➅万15番歌で「今夜の月夜」と訓んでいるが、今朝の午前中、のような下手な言い回しをするものなのか。
 三山歌それぞれについても、また、初期万葉の雑歌の性格についても、包括的な理解を目指さなければ真の理解には近づかない。
 まず確認できることは、三山歌が歌われた時点である。多く指摘されているように、百済救援軍の一行が斉明七年正月、艦隊を仕立てて瀬戸内海を西に進んで行った時である。やがて白村江の海戦に敗れる進軍で、船上で歌われた可能性が濃厚である。紀には次のようにある。

 七年の春正月丁酉の朔壬寅(六日)に、ふね西に征きて、始めて海路うみつみちく。甲辰(八日)に、御船、大伯海おほくのうみに到る。時に、大田姫おほたのひめ皇女みこひめみこを産む。りて是の女をなづけて大伯皇女おほくのひめみこと曰ふ。(斉明紀七年正月)

 前年に難波宮に幸し、年が明けてから出航して「大伯海おほくのうみ」、今の岡山県瀬戸内市の旧邑久おくぐんと小豆島との間の海を航行したのが八日である。ちょうどそのときに大海人皇子と大田皇女との間に女の子が産まれ、大伯おおくの(大来)皇女ひめみこと名づけられた。万葉第二期の歌人として知られる。妊婦が船に乗っているほどに豪華客船であったらしい。後の律令・軍防令に、「凡そ征行しやうぎやうせむときは、皆婦女をて、自ら随ふること得じ。」となっているが、古くはヤマトタケルがオトタチバナヒメを随行させるなど、ヤマトの国では将軍クラスは夫婦で従軍する憤習があったとされる。ともあれ、播磨国の沖合を航行している時、中大兄はこの三首連作の歌を歌っている。斉明七年正月七~九日の夕刻に歌っていることになる。
 万13番歌の原文に「雄男志」とある。「雄々ををし」か「を(愛)し」か意見が分かれている。そこから、三山の性別についての議論がかまびすしくなっている。
 A.香具山(♀)・畝傍山(♂)・耳梨山(♂)
 B.香具山(♀)・畝傍山(♂)・耳梨山(♀)
 C.香具山(♂)・畝傍山(♂)・耳梨山(♂)・他山(♀)
 D.香具山(♂)・畝傍山(♀)・耳梨山(♂)
 毛利1995.は、「形容詞においては、現代語と同じく古代語であっても、「胸を痛し。」とか「我を苦し。」などといった、ヲをとり形容詞終止形で文が終わる形はあり得ない。形容詞終止形がヲをとるときは、助詞トがきて、しかもそれに続いて思惟動詞・伝達動詞等が接続するときである。……世間を憂しと思ひて……(13・三二六五)……世の中の厭しとやさしと思へども……(5・八九三)……我が振る袖を無礼と思ふな(6・九六六)……旅をよろしと思ひつつ……(4・五四三)……我を欲しといふ……(11・二三六二)……人言を良しと聞かして……(3・四六〇) このように、ヲを伴う形容詞終止形の場合、助詞トのあとに引用動詞(思惟動詞・伝達動詞等)が位置する。萬葉集で、こうした場合、引用動詞がこない例を全然見出すことが出来ない。」(61~62頁)と指摘している。「雄男志」を「を惜(愛)し」ととるのは解釈として苦しく、香具山は、畝傍山を雄々しいと思って、耳梨山と互いに争ったという意味にとるのが妥当であるとする。三山の性別においてD説は捨てられるべきである。C説を歌に詠むには、「香具山ハ 畝傍耳梨 雄々シト思ヒ 相争ヒキ」のような表現となるだろう。A説は、男性の畝傍山と耳梨山とが、女性の香具山をめぐって争ったということになり、歌の途中で主語が転換することになってしまう。歌は、「香具山は」で始まって「相争ひき」まで一文として続く。
 B説の、香具山(♀)・畝傍山(♂)・耳梨山(♀)は、二人の女性が一人の男性をめぐる争いの形になる(注1)。万葉集中の「葦屋処女あしのやのをとめ」・「菟原うはらの処女をとめ」の話(万1801~1803・1809~1811・4211~4212)、「桜児」・「縵児かづらこ」の話(万3786~3790)のように、一人の女性をめぐっての複数人の男性の争いの例とは異なるものの、人間の話ではなく神代の山の話である。「嬬」の字は、万葉集では男性のつま(万153・194・426・1795など)にも女性のつま(万635・1129・1561・1562・1679・2075・2086など)にも使う。
 現状では、万14番歌において、「香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来し印南国原」と、立って見に来たのは、播磨風土記に登場する菩大神ぼのおほかみであるとする説が根強い(注2)。他に、争っている二山を仲裁するために印南国原が立って大和へ見に来た、あるいは、二山の争いに嫌気がさした畝傍山が、印南=いなみて逃げて、二山は後を追って印南国原まで見に来た、という説も立てられている。
 その後の行軍の展開において、紀には額田王の熟田津の歌として知られる万8番歌の時点が記されている。万葉集巻一のはじめの頃の雑歌の歌は、紀の記述と密接に連携しながら物語を構成しているように見受けられる。

 庚戌(十四日)に、御船、伊予いよにき田津たつ石湯行宮いはゆのかりみやつ。〈熟田津、此には儞枳拕豆にきたつと云ふ。〉(斉明紀七年正月)

 三山歌に戻って考えると奇妙な設定といえる。海上にいるのだから三首目の万15番歌は納得がいく。しかし、朝鮮半島にまで行こうとする船の上で、何がおもしろくて大和三山を題材にして分量の多い歌を歌っているのか。中大兄は何が言いたいのか。斉明天皇は六年十月に百済救済の出陣を決めている。七年正月に出航する前から紀には不吉な記事が続いている。負け戦の前兆ではないかと言っている。

 [六年冬十月に、斉明天皇、]みことのりしてのたまはく、「いくさを乞ひすくひまをすことを、古昔いにしへに聞けり。あやふきたすたえたるぐことは、つねのりあらはれたり。百済国くだらのくにのひとせまきたりて我にるに、本邦もとのくにほろび乱れて、依るところく告げむところも靡しといふを以てす。ほこを枕にしむ。必ず拯救すくひたもてと、遠くより来りて表啓まをす。こころざし奪ひ難きこと有り。将軍いくさのきみわかおほせて、百道もものみちよりともすすむべし。雲のごとくに会ひいかづちのごとくに動きて、倶にたくあつまらば、其の鯨鯢あたりて、倒懸せまれるべてむ。有司つかさつぶさそなへ与へて、ことわりを以てつかはせ」と、云々しかしかのたまふ。〈王子せしむほうしやう及び妻子めこと、其の叔父をぢちうしよう等とを送る。其のまさしく発遣ちし時は、七年に見ゆ。或本あるふみに云はく、天皇すめらみこと、豊璋を立ててこきしとし、さいじやうを立ててたすけとして、礼を以て発て遣すといふ。〉
 十二月の丁卯の朔庚寅(二十四日)に、天皇すめらみこと難波宮なにはのみやおはします。天皇、まさ福信ふくしんまをこころに随ひて、つくいでまして、救軍すくひのいくさらむと思ひて、ここに幸して、諸の軍器つはものを備ふ。
 とし、百済の為に将に新羅をたむとおもほして、すなは駿河国するがのくにみことのりして船を造らしむ。すでつくりをはりて、続麻郊をみのき至る時に、其の船、夜中にゆゑも無くして艪軸へともかへれり。ひとびとつひに敗れむことをさとりぬ。科野国しなののくにまをさく、「蠅群れて西に向ひて、巨坂おほさかを飛びゆ。大きさ十囲といだきばかり。高さ蒼天あめに至れり」とまをす。或いは救軍の敗績やぶれむしるましといふことを知る。童謡わざうた有りて曰はく、
 摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝
といふ。(斉明紀六年十~十二月)

 最後の童謡わざうたは奇怪なもので、難訓とされ今日まで訓が付かない。紀の歌謡は独特の難しい文字を仮名として使っていながらも、一字一音だから訓めないというのはおかしい。要するに、征西の軍の成功しないことを諷刺した歌であり、検閲によって読めなくされたか、検閲されても消されないように難しく書いたものなのだろう。「童謡」と書いてワザウタと訓むのは、子どもが歌うことによって事柄の真意、隠された神意が表明されるからという。世相を諷刺する歌を子どもに歌わせるしかなかったらしい。ひどく息が詰まる生きにくい時代だったということで、戦時下ではよくあることである。
 中大兄の三山歌の落ち着きのなさは、おそらく、このような事情によるのだろう。世論調査の支持率が悪く、失政ではないかと批判する諷刺マンガが出た。官房長官である中大兄は記者会見の席でそれを否定する見解を述べ、政策の正当性を主張する演説が求められていた。それも格調高く、人々、わけてもヤマト朝廷を支えている宮廷社会の人たちの心に訴えるすべが必要であった。そのために歌が選ばれ、三山歌が歌われた。船旅をしながら見えもしない大和三山を歌った理由もその辺にあるように思われる。
 童謡の指していることは政策への批判、出兵への反対に違いない。そしてまた、三山争いのことが「神代」のこと、朝鮮半島と倭の国際情勢が「うつせみ」とするなら、「古」のことが抜け落ちているから「古」の言い伝えを拠りどころとした皮肉を童謡が言っていて、それに真っ向から反論し、事実誤認であると述べた歌が三山歌なのだろう。
 万13番歌は、三つの時制について述べている。

 かみより かくにあるらし
 いにしへも しかにあれこそ
 うつせみも 妻を 争ふらしき

 その述べ方において、「神代」と「うつせみ」で推量の助動詞ラシが用いられている。「古」についての言説だけ助詞「こそ」が使われ強く言っている。中村2014.による解説に、万葉集中、「已然形に「こそ」が直接して構成される確定条件順態接続表現は、[帰結句のあるものとしては]十六例存在する。それに、同じはたらきをする形容詞型活用語の語幹相当部分に接尾語「み」を付けて「こそ」に連ねた二例を加えた十八例が、已然形に付く「ばこそ」以前の、それに相当すると思われる該当例である。……[そして、万13番歌の「古も 然にあれこそ うつせみも 嬬を 争ふらしき」とあるのは、]あらかじめ理由に相当することになる具象事例が前文に引かれていて、それを受けて「しかにあれこそ」……として、改めて理由として、周知の現実の背景を推定している、已然形に「こそ」が付いた前件とその後件とである。」(175~177頁)とある。
 「古」において確定している具象事例が周知の事柄として取り扱われている。「神代」と「古」は別扱いされている(注3)。「らし」と言わない「古」のストーリーのみ、当時の宮廷社会の人々にとって誰もがお馴染みの周知の事実として語られているのだろう。宮廷の人たちにとって共通の認識となっている事柄は、記紀に形となって残っている言い伝えである。人々が口々に言い伝えてきたことだから、歌に歌った時、人々の耳に素直に留まる内容だったのだろう。
 記紀において、「古」において三者が競い合うような形の事柄は、三貴子の分治の物語がよく知られる(注4)。三貴子とはアマテラス(天照大御神・天照大神)、ツクヨミ(月読命・月読尊・月弓尊・月夜見尊)、スサノヲ(須佐之男命・素戔嗚尊)のことで、三神によって世界は治められることになっている。記紀の各本によって細部に違いがあるが、記とおおよそ同じ話は神代紀第五段一書第六に見られる。亡くなった妻のイザナミを追いかけてイザナキは黄泉国に至った。けれども、醜い姿を見たことが原因で仲違いして現世に戻ってくる。 穢れた身を清めようと川で禊ぎをした。身につけていたものを脱ぎ捨てていくとそれぞれに神が生まれた。最後に左の眼を洗うとアマテラスが生まれ、右の眼を洗うとツクヨミが生まれ、鼻を洗うとスサノヲが生まれたという。それに先立って、反歌の万15番歌に登場している「わたつみ」の神々も生まれている。出航して沖合にいるのだから、人々にはこの物語が想起されたに違いあるまい。
 三貴子の分治については記紀それぞれの書により少しずつ異同はあるものの、アマテラスが日の象徴、ツクヨミが月の象徴であったことは確かである。そして、記や神代紀第六段一書第十一でスサノヲは海原を治めたことになっている。
 この三貴子の伝説に語られる事柄こそ、中大兄が万13番歌で詠んだ三つの時制、「神代」、「古」、「うつせみ」のうちの「古」に対応する事柄である。飛鳥時代の宮廷社会の人にとって、特に天皇にとっては三貴子の話は絶対確実な物語、当時の言葉でいうならコト(事・言)であると考えていただろう。飛鳥時代の天皇の正統性の主張とも言える(注5)
 万13番歌の長歌に「神代」といっているのが大和三山の争いである。「古」といっているのが三貴子の物語、「うつせみ」とは直面する国際情勢である。その関係を図に示した。三つの時制におけるそれぞれの三者関係は見事に対応している。香具山は天の香具山といわれるとおり天を象徴している。天に輝く太陽の光によって稲は豊かに育つ。ただし、そう言い出したのはそれほど古いことではないだろう。都が香具山に程近いところ、飛鳥の地へ遷ってきて、稲作祭祀が発展したからに違いあるまい。畝傍山と耳梨山が当初から何を象徴していたかは不明である。ここで想定したいのは三者の関係である。三貴子の伝説では、アマテラスが天、ツクヨミが月、スサノヲが海を表象している。そして、今、倭と新羅は百済をめぐって争っている。

 記紀のさまざまな文章からは三貴子の力関係がはっきりしないが、万13番歌では「古も然にあれこそ・・」と強調している。中大兄はアマテラスの優位性を信じている。スサノヲの悪童ぶりは、「天石屋あめのいはや天石窟あまのいはや)」に閉じ籠る事件につながる話として記紀のいずれにも明示されている。アマテラスは弟に当たるスサノヲをずいぶんかばい、好意的な評価をするけれど、結局は愛想が尽きて引き籠ってしまう。スサノヲは、業を煮やした他の神々たちによって高天原というエデンの園から放逐された。
 ツクヨミに関しては記事が少なく、後日談も記述されないが、日中は太陽が、夜は月が輝くことを表し、また、日中に月があったとしても影が薄い。そして、太陽は食物、なかでも稲を稔らせることができるが、月は食物を何も生まないと認められるだろう。アマテラスから見ればツクヨミは取るに足らず、無視されるほどの存在であったと捉えられる(注6)

 時に天照大神あまてらすおほみかみいかりますことはなはだしくしてのたまはく、「いましは是しき神なり。相見じ」とのたまひて、すなは月夜見尊つくよみのみことと、ひとひとへだて離れて住みたまふ。(神代紀第五段一書第十一)

 これらの相対的な力関係を重ね合わせてトレースしてみると、香具山・アマテラス・倭が、耳梨山・ツクヨミ・新羅と争って勝利し、畝傍山・スサノヲ・百済を支配するという展開に至る。中大兄が歌のなかで言わんとしていることが明らかになってきた。
 歌が歌われた当時、実際に争っていたのは新羅と百済である。百済に救援軍を送るのが倭であり、新羅と連合軍を組んだのが唐である。倭の送った軍隊は義勇兵ではなく、天皇を最高司令長官とする正規軍である。元首が戦場へ赴こうとしているのだから百済の救済が目的ではなく、事実上の領有が目的だったのだろう。人質にして倭に留まっていた百済王子のほうしようを百済の王として擁立し、傀儡政権の樹立を画策していた。斉明紀六年十月条の割注に「天皇、立豊璋王、立塞上輔、而以礼発遣焉。」とある。同じようなことは少し後になって新羅が行っている。唐の勢力を朝鮮半島から追い出しにかかる時に滅亡した高句麗に新政府を作って唐と戦わせている。
 中大兄の三山歌は、神代の時代から説き起こし、三貴子伝説を媒介にして日・月・海の三者関係を導き出し、直面する国際情勢を歌った歌である。万13番歌の大意は、香具山は、畝傍山を男らしいと思って、耳梨山と互いに争った。神代からこうであるらしい。古の三貴子もそうであったから、今の世も夫を争うが如き出来事が起きているに違いない、というものである。「神代」、「古」、「うつせみ」の三つの時代を並列させて争いの状況を確認している。三つの時代を歌うことは、紀122歌謡の童謡の意見に反して「倭」の版図が拡大することを示唆するようにしたものだろう。三山の性別については、中大兄が歌いたいのは百済の領有権争いであって、ツマは比喩である。歌のなかで香具山が畝傍山を「雄々し」と言っているから、香具山は女性、畝傍山は男性と推定され、争っている耳梨山は女性と考えるのが順当である。一人の男性を二人の女性が争っている形になる。実際の山容も畝傍山の標高が高くて男性的である。女性としての魅力は香具山の方が耳梨山よりもずっとまさっていると言いたいらしい。
 古の三貴子において、アマテラスは女性、スサノヲは男性のように言い伝えられている。ツクヨミの話はほとんどないから性別は不分明である。万葉集では、「月読つくよみ壮士をとこ」(万985・1372)という例が見られ、平安初期、延暦23年(804)に書かれたとされる皇大神宮儀式帳には馬に乗った男神とされている。しかし、月と女性との関係は生理との関連などから根強く意識されるところでもあり、中大兄の三山歌の時点では男神とは見なされていなかったのではないか。万13番歌では三者の関係上、ツクヨミは女性と考えたほうがわかりやすい。アマテラス同様、禊ぎによってイザナキの目から生れている。
 うつせみにおいて、倭、百済、新羅の関係を考えると、倭は推古天皇(在位、592~628)、皇極・斉明天皇(在位、642~645・655~661)と女帝が長らく君臨している。アマテラスの国の首長には女性が適任との考えに基づくようである。百済は男帝が続いていた。一方、新羅は、七世紀の半ばに善徳ソンドク王(位、632~647)、真徳チンドク王(位、647~654)と二人女王が続いた後、男性の武烈王(位、654~661)が位に就いている。武烈王は紀に「金春秋こむしゆんしう」の名で載る。「むかはり」として来朝しており、「姿顔かほくしてこのみて論笑ほたきことす」(孝徳紀大化三年是歳)と紹介されている。

 香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見にし 南国原なみくにはら(万14)

 香具山と耳梨山とがアフことをしている。「ふ」意で使われているが、歌のなかでアフといえば「ふ」意で使い相聞歌になることが多い。ここで香具山と耳梨山は、どちらも畝傍山に「ふ」ことを望み、そのために「ふ」ことをしている。アフという言葉の深奥へ迫るような使われ方をしている。イナミクニハラへ立って見に来たのはそのためだという言いっぷりである(注7)
 イナミという音はイ(接頭語、神聖なものの意、「」)+ナミ(祈、ノミの母音交替)と聞こえる。ナム(ノム、祈)は首を垂れて祈ることで、歌のなかでは恋の状況において激しく強く神に祈り願うことに用いられる。

 …… かくだにも われむ〔吾者祈奈牟〕 君に逢はぬかも(万379)(注8)
 …… 白たへの たすきを掛け まそ鏡 手に取り持ちて あまつ神 あふみ くにかみ 伏してぬかづき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり われめど ……(万904)
 叩頭、此には迺務のむと云ふ。(崇神紀十年九月)

 第二例の「立ちあざり」の「あざり」については他に例がなく未詳とされるものの、「む」時の姿勢として、居ても立ってもいられずに祈り願うことを言っているものと解し得る。
 つまり、香具山と耳梨山とはアフことについて哲学でもするように探究していて、アフには乞ひ祷むことが条件だと知り、じっとしていられずに立って見に来た、その「いみ」のメッカたるなみ国原であるよ、ここは、と詠じている。印南国原を前に臨んで修辞を述べているのであって、馴染みのない風土記の逸話は無関係である。
 香具山と耳梨山が畝傍山をめぐってアヒ(闘)し時、その心は、香久山も耳成山も畝傍山にアヒ(逢)たくて、逢ひたい逢いたいと強く冀って「いみ」の聖地を訪れたことにしているわけである。このような逸話が神代のこととしてすでに語られていたかといえば、そのようなことはない。万13番歌ではじめて口に出し、「らし」と推測の助詞を伴って歌っている。中大兄のでっち上げである。「神話の生産」(小村2011.26頁)をしているとも言えるが、語り継がれることを目論んでいるのではなく、この歌のなかでこの歌においてのみ役目を果たせばそれで十分な架空の想定小噺をしているのである(注9)
 話として持って行きたい方向性は、香具山が耳梨山との争いに勝って畝傍山と一緒になることである。三者の関係は倭、新羅、百済の関係とパラレルであり、倭は新羅を破って百済と一体化したいのである。相対的な位置関係においても大和三山で香具山が東、畝傍山が西、耳梨山が北に当たるように、倭、百済、新羅は方位を成している。戦争の図上演習を歌のなぞなぞのなかで行っている。
 万15番歌については訓みに関して議論が盛んである。

「伊理比弥之」(元暦校本万葉集、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0007242をトリミング)

 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比弥之 今夜乃月夜 清明己曾
 三句目については伝本に異同がある。元暦校本等に「弥」、西本願寺本等に「祢」、細井本等に「沙」、紀州本に「佐」とある(注10)。現存する古写本の本文を尊重する点からいえば「弥」であるはずで、「入り日し」と訓むのが妥当とされる。
 ところが、それでは文法的に納得がいかないとされている。「入り日見し」について、第一に、佐佐木2003.に、「[実例として、]「住吉に行くといふ道に昨日見し恋忘れ貝…」〔万1149〕という表現は、「住吉に通じているという道で(私が)昨日見た恋忘れ貝…」という意味のものであり、作者が「住吉に行くといふ道」にいてそこで「恋忘れ貝」を見たという状況を描写したものである。「住吉に行くといふ道」にある「恋忘れ貝」を作者が遠い地点から眺めた、という意味の表現ではない。……この種の[──に──(を)見る]という構文は、
 [(表現主体が)──に(いて、その場所で)──(を)見る]
という意味を表すものであ」(6頁)るとする。上一段活用の他動詞「見る」の使われ方が、上代においてすべてそうなのだから、「この歌の作者が「豊旗雲」のある場所にいてそこで「入り日見し」という体験をしたという、事実としてありえない状況を想定せざるをえなくなる」(7頁)としている。そして佐佐木氏は、原文は「伊理比弥之」ではなく「伊理比沙之」を採るべきであるとしている。
 第二の問題は、文の構造における時制(テンス)のことである。山口2011.に、「連用形並立法とは、普通「連用形中止法」と呼ぶ用法のことである。先行の用言を後続の用言と並立させ、前者に後者と同じ構文的資格をもたせる用法である。……並立法においては、テンスは、先行する連用形の部分では決定されず、後続の動詞句で初めて決まる。そもそも、並立関係は、構文的職能を同じくする成分の間で成り立つ関係である。〈動詞連用形〉は客体的概念を表すが、〈動詞+テンス〉は単なる客体的概念ではない。したがって、両者が並立関係に立つ時、前者は後者全体とは並立できない。そのため、後者の動詞のみと関係を構成し、テンスは後から付け加わる形になる。それゆえ、先行の動詞句は、結果的に、後続の動詞句とテンス的に一致することになるのである」(413頁)とある。
 「豊旗雲に入り日射し」とすると、「入り日」が「射」すのを現在の情景、「清明己曾」を未来の情景となり考えにくい。そのうえで、「上代の〈動詞連用形〉には、「動名詞的用法」と呼ぶべきものが存したことが分かっているから、ここもその一例と見て……「入り日」の「入り」が「豊旗雲に」を直接に受けて、「豊旗雲に入ってゆく日」と表現したものと見ることができる。このような語法は、『万葉集』中にもさほど多くの例があるわけではなく、やや古風な語法であったかと思われる」(500~501頁)としている。これに対して佐佐木2003.は反論している。そのような承接関係を構成しているのは東歌の万4407歌と表現に特殊な趣向を加えた記4歌謡に限られ、万15番歌に敷衍するのは無理があるという。
 これらの議論は、万15番歌の「見し」が、上一段活用の他動詞「見る」の連用形に過去を回想する助動詞キの連体形シが続いているものであることを前提としている。他の解釈として、「見る」の尊敬語の「見す」がある。四段活用の連用形で「見し」となる。

 …… もろが上に 登り立ち が見せば つのさはふ 磐余いはれの池の ……(紀97)

 天皇が国見をする時の自称敬語となっている(注11)
 この尊敬の動詞「見す」は、万15番歌においてとても魅力的に感じられる。佐佐木2003.の主張する、[──に──(を)見る]という構文が、[(表現主体が)──に(いて、その場所で)──(を)見る]であるとする原則は、上一段活用の他動詞「見る」のことである。下二段活用の自動詞「見ゆ」には当てはまらないという。問題は、四段活用の敬語の動詞「見す」に当てはまるかどうかであるが、例が少なくてわからない。
 歌い出しは「わたつみの」である。「入り日見し」にせよ「入り日射し」にせよ連体助詞で、「わたつみの豊旗雲」とは海に浮かぶ素敵な雲のことで、cloud の洒落た表現であると解されてきた。
 「渡津海」はワタツミで海の神さまである。和名抄に、「海神 文選海賦に云はく、海童はここに宴語すといふ〈海童は即ち海神なり〉。日本紀私記に云ふ海神〈和名は和多豆美わたつみ〉。」とある。西郷2011.は、「……万葉において「わたつみ」と「海」「大海」「海原」等はまだかなりはっきり使いわけられ、「大海」や「海原」が視覚的平面をさすにたいし、「わたつみ」はもっと霊的なものを喚起する語であった。「わたつみの豊旗雲」の「わたつみ」も、したがってたんに海原とするわけにゆくまい。……豊御酒、豊葦原、豊宴とよのあかり、豊の年などの用語例をあげるまでもなく、豊ということばには呪的讃美をうたいこめるのがならわしであり、形式文法がいうように決して《美称》一般ではなかった。」(83頁)とする。海とまったくの同一語ではない霊的な存在のワタツミが、海の上にただよう雲の直接の形容になるのか疑問である。たとえそれが瑞祥であったとしても不釣り合いで、記紀や風土記ほか背景となる伝承を一切持たないところに生まれる言葉づかいではない。
 万葉集にワタツミは二十二例あり、ワタツミハの一例を除いてワタツミノの形をとっている。

 わたつみの〔海若之〕 沖に持ち行きて 放つとも うれむそこれが よみがへりなむ(万327)
 …… わたつみの〔綿津海乃〕 手に巻かしたる たまだすき 懸けてしのひつ 日本やまとしまを(万366)
 わたつみは〔海若者〕 くすしきものか あはしま 中に立て置きて ……(万388)
 潮満たば 如何いかにせむとか わたつみの〔方便海之〕 神が手渡る 海部未通女あまをとめども(万1216)
 わたつみの〔海神〕 手にき持てる 玉ゆゑに 磯のうらに かづきするかも(万1301)
 わたつみの〔海神〕 持てる白玉 見まくり たびりし 潜きする海子あま(万1302)
 潜きする 海子は告るとも わたつみの〔海神〕 心し得ずは 見ゆといはなくに(万1303)
 …… わたつみの〔海若〕 神のをとめに たまさかに い漕ぎ向ひ 相あとらひ こと成りしかば かき結び とこに至り わたつみの〔海若〕 神の宮の 内のの たへなる殿に ……(万1740)
 わたつみの〔海若之〕 いづれの神を 祈らばか 行くさもさも 船は早けむ(万1784)
 わたつみの〔海若之〕 沖つ玉藻の 靡き寝む 早来ませ君 待たば苦しも(万3079)
 わたつみの〔海若之〕 沖にひたる 縄苔なはのりの 名はさねらじ 恋は死ねとも(万3080)
 わたつみの〔和多都美能〕 沖つ白波 立ち来らし 海人あま少女をとめども 島がくる見ゆ(万3597)
 わたつみの〔和多都美乃〕 海にでたる しかがは 絶えむ日にこそ が恋止まむ(万3605)
 帰るさに いもに見せむに わたつみの〔和多都美乃〕 沖つ白玉 ひりひてかな(万3614)
 …… わたつみの〔和多都美能〕 沖辺を見れば いさりする 海人あま少女をとめは ぶね乗り …… わたつみの〔和多都美能〕 まきの玉を 家苞いへづとに いもらむと ひりひ取り ……(万3627)
 わたつみの〔和多都美能〕 沖つ縄苔 来る時も 妹が待つらむ 月はにつつ(万3663)
 わたつみの〔和多都美能〕 かしこき道を 安けくも なく悩み来て ……(万3694)
 …… わたつみの〔海神之〕 殿のいらかに 飛びかける ……(万3791)
 …… わたつみの〔和多都美能〕 沖つみやに 立ち渡り とのぐもり合ひて 雨もたまはね(万4122)
 わたつみの〔和多都民能〕 神のみことの くしに たくはひ置きて いつくとふ ……(万4220)

 ワタツミノに続く言葉としては、「沖」、「神」、「手」、「白玉」ないし「玉」、「持てる」、「手巻き」、「宮」、「殿」といった言葉が見られる。海の神さまは手に真珠らしき白玉を巻き持っていたり、記紀に豊玉姫を娘とする海神は龍宮城のような宮に住んでいたり、浦島子のかたらった処女の話などと関係があると考えられていたようである。白玉については、ワタツミをワ(環)+タツ(龍)+ミ(霊)ととって、龍の持っているとされる玉を暗示しているのかもしれない(注12)
 二句目の「豊旗雲」は修飾語が畳みかけられた言葉である。
 「豊旗雲」は瑞祥の形容であるとの意見は多い(注13)。しかし、そのような漢籍による知識をひけらかされても大多数の無学の聞き手が理解できるべくもない。聞き手がなるほどと納得し、その心に響かなければ自ら覚えることも人に伝えることも起こらない。万葉集の当初の編者がこの歌を採録しているのは、この歌が歌われた場にいた聞き手たちの心に響き、宮廷社会の人々に訴求して余りあるものだと認めたからだろう。
 記紀において、形容語の冠された雲の例としては、固有名詞を除くと、「海上浮雲うなはらのうへにうかべるくも」(神代紀第一段一書第五)、「天叢雲剣あまのむらくものつるぎ」(神代紀第八段本文)、「藂雲むらくも」(景行紀四十年十月)、「天八重雲あめのやへたなくも」(神代紀第九段本文・同一書第四・第六)、「あめ之八重多那のやへたなぐも」(記上)、「青雲あをくもの」(枕詞、神武前紀戊午年三月〔青雲〕、神武記〔青雲之〕)、「雨雲あまくも」(宣化紀元年五月)、「風雲かぜくも」(欽明紀十三年十月)、「五色大雲いつついろのおほきなるくも」(皇極紀二年正月)、「黒雲くろくも」(天武紀元年六月)があげられる。
 万葉集において、「雲」という語の前にそれを形容する修飾語の付いた語は、「旦雲あさくも」(万324)、「天雲あまくも」(万167(2)・199・205・235・319・321・420・443・546・547・553・800・1304・1369・1700・1801・1804・1832・2132・2227・2451・2490・2658・2816・3030・3031・3225・3259・3272・3326・3329・3344・3409・3716・3791・3898・4242・4253・4247・4254)(枕詞アマクモノを含む)、「青雲あをくも」(万161・3329・3519・3883・4403)(枕詞アヲクモノ、東語アヲクムを含む)、「下雲したぐも」(万3516)、「白雲しらくも」(万243・287・317・353・377・509・574・668・758・866・942・971・1089・1282(2)・1520・1681・1740・1747・1749・2026・2041・2332・3179・3329・3360・3517・3602・3957・3958・4003・4006・4122)(枕詞シラクモノ、動詞シラクモガクルを含む)、「浪雲なみくも」(万3276)、「布雲にのくも(注14)(万3513)、「くもす」(枕詞、万430)、「八重やへくも」(万167・2658)(ヤヘクモガクリを含む)があげられる。
 辞書類には、新撰字鏡に「崦〓〔山偏に曇〕 上於牟反、鬱也、不明也、暗昧也、下微等反、黒雲くろくも日乎於保不ひをおほふ」、和名抄に「雲 説文に云はく、雲〈王分反、和名は久毛くも〉は、山川、気を出だすなりといふ。」とある。
 これら諸例から考えると、修飾過剰な「豊旗雲」なる語が普通名詞であるとは認めがたい(注15)
 そこで次に、上代人にとっての旗のイメージを探ってみる。時代別国語大辞典は、「はた【旗・幡】(名)旗。戦争や葬式などのときに用いる。縦に細長い、のぼりのような形のものが多かったらしい。」(579頁)とする。記紀万葉に見える旗の例としては、「はた」(継体紀二十二年十一月)、「幡旗はた」(神代紀第五段一書第五)、「旌旗はた」(神功前紀九年九月・十月、欽明紀十四年十月)、「旗旘はた」(天武紀元年七月)、「旗幟はた」(推古紀十一年十一月・舒明紀四年十月)、「素幡しらはた」(景行紀十二年九月)、「白旗しろはた」(欽明紀二十三年七月是月・推古紀八年二月)、「白旆しろきはた」(神功前紀仲哀九年十月)、「幡荻はたすすき」(枕詞、神功前紀仲哀九年三月)、「幡蓋はたきぬがさ」(欽明紀十三年十月・十六年八月、皇極紀二年十一月)、「幡幢はたほこ」(万3856)、「五色幡いついろのはた」(欽明紀二十三年八月)、「観頂幡くわんぢやうのはた」(推古紀三十一年七月・天武紀十一年八月・持統紀三年正月)、「小幡ちひさきはた」(推古紀三十一年七月)、「五色幡蓋いつつのいろのはたきぬがさ」(皇極紀二年十一月)、「蛸旗たこはた」(斉明紀四年七月)、「はた」(〔波多〕、允恭記88歌謡)、「赤幡あかはた」(清寧記104歌謡)などとある。さらにハタススキという語もあり、万葉集では清音のハタススキ、濁音のハダススキの二形がある(万307・1601・1637・2283・2311・3506・3565・3800・3957、枕詞ハダススキを含む)が、その異同の理由は不明である。旗が風に靡いているように風に靡くススキを表し、枕詞としてはにまつわる語句にかかる。他に、枕詞で「青旗あをはたの」(万148・509・3331)という例がある。山の木々が茂っているさまを導く。
 軍旗や降参する時の白旗、仏会に使う灌頂幡かんじょうばん幡幢はたほこのようにきぬがさほこから飾りとして吊り下げている小旗のことを上代ではハタと言ったようである。きぬがさの骨の出っ張りの端に垂らしているものは幡足はたあしである。

 旟 二形同、以与反、平、旐也、旌也、旗属也、勇也、揚也、波太はた(新撰字鏡)
 旄 七高反、軍陣の旄、波太はた(新撰字鏡)
 憧憧 昌恭反、又徒到反、意不定也、又往来也、比呂女久波太ひろめくはた(新撰字鏡)
 幡〈旒附〉 考工記に云はく、幡〈音は翻、波太はた〉は旌旗〈精期の二音〉の惣名なりといふ。唐韻に云はく、旒〈音は流、波太阿之はたあし〉は旌旗の末の垂るる者なりといふ。(和名抄・征戦具)
 幡 涅槃経に云はく、諸香木の上に五色の幡を懸くといふ〈波太はた、又、征戦具に見ゆ〉。(和名抄・伽藍具)
 宝幢 華厳経の偈に云はく、宝幢、諸幡蓋といふ〈訓は波多保古はたほこ〉。(和名抄・伽藍具)

 次の第一例は、今や新羅は吊り下げられたはたあしのように高麗王の思いのままに振り回されている始末であると言っている。第二例では、服従した蝦夷に叙位するとともに「蛸旗」を与えている。この蛸旗は、平面的な旗の布に蛸の絵を描いたグラフィックデザインではなく、蛸の形をした幡蓋はたきぬがさのことを指しているのだろう。八本の骨の傘で、それぞれの骨の先にはたあしとなる飾りが下がっているものと思われる。鼓、弓矢、鎧とともに授けているので、軍事において使うように指示したものだろう(注16)

 高麗こまこきし、我が国[新羅]を征伐つ。此の時に当りて、かがれるはたあしの若く然なり。(雄略紀八年二月)
 こと沙尼具那さにぐな馬武めむ]等に、蛸旗たこはた二十頭はたち・鼓二面ふたつ・弓矢二具ふたそなへ・鎧二領ふたつを賜ふ。(斉明紀四年七月)
 ……きぬがさ飛雲くもとひるがへし、はた張虹にじとはり、……(常陸風土記・行方郡)
 二年の春正月の壬子の朔のあしたに、五色いつつのいろ大雲おほきなるくも天あめいはおほひて、とらのところけたり。一色ひとつのいろ青霧あをききりよもつちに起る。(皇極紀二年正月)
 時に、五色いつつのいろ幡蓋はたきぬがさ種種くさぐさ伎楽おもしろきおとおほぞら照灼てりひかりて、寺に臨み垂れり。衆人もろひと仰ぎ観、称嘆なげきて、遂に入鹿に指し示す。其の幡蓋等、かへりて黒雲くろきくもに為りぬ。是に由りて、入鹿見ること能得あたはず。(皇極紀二年十一月)

 雲にも旗にも五色と形容されている。続日本紀にも「五色瑞雲」(続紀・神護景雲元年(767)八月)、皇極紀では「五色大雲」、「幡蓋為黒雲」とある。雲と旗には近似性を感じていた。
 中大兄は戦艦「御船」号に搭乗しており、瀬戸内海を西に進んでいる。彼らは記紀に伝えられている言い伝えを信じていて、それを焼き直す形で準えていけばそのとおりの結果が得られるだろうと考えていた。敵は新羅である。神功皇后の親征のようにすれば勝利が近づくと思っている。息長帯日売おきながたらしひめのみこと(気長足姫尊)とほむ陀和だわけのみこと(誉田別皇子)の態勢で臨みたい。誉田ほむたの天皇すめらみことは、「胎中はらのうちにまします誉田天皇すめらみこと」(継体紀六年十二月)、「胎中之帝ほむたのすめらみこと」(同)、「胎中天皇ほむたのすめらみこと」(継体紀二十三年四月)、「胎中之帝ほむたのすめらみこと」(同・宣化紀元年五月)と記される。母胎に子を宿したまま、いわゆる鎮魂石でとどめて出兵したとの逸話になっている。それと同じように、天豊財重日足姫天皇あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと(斉明天皇)と中大兄と対照させている。中大兄の名の「中」の称については、神功皇后と応神天皇の治績に由来したかったのであった。お腹の中という意味である。
 そして、住吉大神を祭りながら艦船を進めれば勝利すると考えていた。住吉大神は単に航海神であるだけでなく水軍の神でもある。

 是に、をしさとかたちつぶさに先の日の如く、「およそ此の国は汝命ながみことはらいます御子の知らさむ国ぞ」となり。しかくして建内宿禰たけうちのすくね、「かしこし、我が大神おほかみ、其の神の腹に坐す御子はいづれの子か」とまをせば、「男子おのこごぞ」と答へりたまふ。爾くして、具にはく、「今、如此かく教へたまふ大神は、其の御名を知らまく欲し」とこへば、即ち答へ詔りたまはく、「是は天照大神あまてらすおほみかみ御心みこころぞ。亦、底筒男そこつつのを中筒男なかつつのを上筒男うはつつのをの三柱の大神ぞ。〈此の時に其の三柱みはしら大神おほかみ御名みなあらはれき。〉今、まことに其の国を求めむと思はば、天神あまつかみ地祇くにつかみ、亦、山の神と河海かはかみ諸神もろもろのかみとに、ことごと幣帛みてぐらたてまつり、我がたまを船の上に坐せて、真木まきの灰をひさごれ、亦、箸とひらでとをさはに作りて、皆皆大海おほきうみに散らし浮けてわたるべし」とのたまふ。……爾くして、其のつゑを以て、新羅の国王こきしかどき立てて、即ち墨江大神すみのえのおほかみあらたまを以て、国の守り神と為て、祭り鎮めて還り渡りき。(仲哀記)
 既にして神のをしふること有りて曰はく、「和魂にきみたま王身みついでしたがひて寿命みいのちを守らむ。荒魂あらみたま先鋒さきとして師船みいくさのふねを導かむ」とのたまふ。(神功前紀仲哀九年九月)

 記の「我之御魂坐于船上而」が、紀の「和魂服王身而守寿命、荒魂為先鋒而導師船」に当たる。もともと、底筒男・中筒男・上筒男はイザナキが黄泉国から帰還後に禊ぎをして生まれた神であった。それが墨江大神、すなわち、住吉大社の神で、船に祀られている。あるいは、「御船」自体を神の宿るところと考えていたようである。
 万葉集には次のような例がある。

 住吉すみのえの 現人神あらひとがみ 船舳ふなのへに うしはきたまひ ……(万1020)
 ……住吉の 我がおほかみ ふなに うしはいまし 船艫ふなどもに み立ち坐して ……(万4245)

 円仁の入唐求法巡礼行記にも、「順風を得んが為に、住吉大神を祭る」(巻第一)、「艇を上げて解除はらへを為し、兼ねて住吉大神に礼し、始めて乃ち海を渡る」(巻第一)、「卜部をして神等かみがみを祈禱せしめ、火珠一箇を住吉大神に祭施し、水晶の念珠一串を海龍王に施し、剃刀かみそり一柄を主舶の神に施し、以て本国にたひらけく帰らんことを祈らしめぬ」(巻第一)、「日没の時、船上に於て天神地祇を祭り、亦官私の絹、纐纈こうけち、鏡等を船上の住吉大神に奉上ささげたてまつる」(巻第二)、「猶ほ冥神わたつみのかみやはしたまはざるのすがたと疑ひ、同じく共に発願し、兼ねて解除を為す。船上の霹靂神かむとけのかみを祈祠し、又船上の住吉大神を祭る」(巻第二)などとある。住吉大神をわたつみの神として船に祀っている。どのように祀ったかは定かではないが、船とともにあるものと思われていたようである(注17)
 戦艦「御船」号は、当時の我が国の技術の粋を集めたものだったのだろう。具体的な史料は乏しいものの、絵巻物に描き残された遣唐使船に近いものと推測される。

上左:吉備大臣入唐絵巻(模本)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/C0082424.jpgをトリミング、上右:華厳宗祖師絵伝(模本)、同https://image.tnm.jp/image/1024/E0137898.jpg、下左:唐征伝絵、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使をトリミング、下右:蒙古襲来合戦絵巻写、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2591517/1/12~14をトリミング接合

 船の推進には櫂などで漕ぐこととともに風を帆に受けることも貢献する。帆は、檣(帆柱)を立てて頂点まで身縄を使って引き上げ吊るすことで整えられた。檣の先には小型の滑車があって、それを蟬と言った。高いところできしむ音が木の上で鳴く sicada に見立てられての命名だろう。
 蟬の仕掛けは車になっているところである。車軸が貫いていて回転する。車輪の径を大きくするためには放射状に、スポークを出して作るが、原理は同じでその集まるところをこしき(コは乙類、キは甲類)という。和名抄に、「轂 説文に云はく、轂〈古禄反、楊氏漢語抄に云ふくるま乃古之岐のこしき、俗に云ふどう〉は輻のあつまる所なりといふ。」とある。俗名の「筒」については、賽を振るドウのように音読みされたようである。「……筒をひねりて、とみに打ち出でず」(源氏物語・常夏)などと使われている。
 この轂と同音の語にこしき(コは乙類、キは甲類)がある。蒸し器のことである。新撰字鏡に、「甑 子曽反、牟須己志支むすこしき」、和名抄に、「甑〈甑帯附〉 蒋魴切韻に云はく、甑〈音は勝、古之岐こしき〉は飯をかしぐ器なりといふ。本草に云ふ甑帯灰〈古之幾和良乃波飛こしきわらのはひ〉、弁色立成に云ふ炊単[〈和名は上に同じ〉]」とある。今日の蒸籠のような木製だけでなく、土器製のものもあった。形が似ているから同じ言葉になっているとされている。山上憶良の貧窮問答歌に、「…… かまどには 火気ほけふき立てず こしきには 蜘蛛の巣懸きて いひかしく 事も忘れて ……」(万892)とあるのは、蒸し器である甑の底に轂状に穴が開いており、まるで蜘蛛が巣を張ったような形だというので譬えている(注18)
 中大兄の三山歌の歌われた時点で、その「御船」号ではおめでたいできごとが起きている。「時大田姫皇女、産女焉。」(斉明紀七年正月)。大海人皇子と大田皇女との間に赤ちゃんが誕生している。安産を祝って屋根の棟から甑を落として割るという風習に甑落としがあった(注19)
 甑落としの風習がいつから始まったかはわからない。ただ、甑とお産とが関係することがらといえば、神功皇后の鎮懐石の逸話しか思い浮かばない。御裳、つまり、スカートの糸を取って「いひ」をつけて餌として、アユを釣ったという伝承につながる部分である。

 かれ、其のまつりごと、未だへぬ間に、其の懐妊はらめるを産むに臨みて、即ちはらしづめむと為て、石を取りて御裳みもの腰にきて、竺紫国つくしのくにに渡るに、其の御子はあれしき。かれ、其の御子を生みし地を号けて宇美うみと謂ふ。亦、其の御裳に纒ける石は、筑紫国の斗村とのむらに在り。(仲哀記)

 お腹に石を当てがって産まれないようにしたということは、腹帯ならぬ石のコルセットでがんじがらめにしたということだろう。足は出るように穴が開いているが、お腹をぐるりと取り巻くような石材とは何か。底に穴が開いて灰青色をした甑がかなっている。音までこし(コは乙類)と通じている。神功皇后と応神天皇とが一体となっている状態は甑によって成立していた。中大兄と斉明天皇が一体となって新羅へ攻めこんで勝利を収めるためには、甑は必須アイテムなのである。甑を割って御子が生まれたことが、大田姫皇女の出産によってにわかにヴィヴィッドに立ち現れた。出産というおめでたによって戦勝というおめでたが予祝できることになっている。おめでたい人たちという他ない。
 当時の技術の粋を集めた優れた高速艇は、櫂や艪とともに帆をかけて推進した。水を進むのに達者なところは魚に譬えられる。和名抄に、「鰭 文選注に云はく、鰭〈音は耆、波太はた、俗に云ふ比礼ひれ〉は魚の背の上の鬣なりといふ。唐韻に云はく、鬣〈音は獦、又、馬体に見ゆ〉は鬚鬣なりといふ。」とある。櫂は胸鰭であるのに対して、帆は背鰭、つまりハタに当たるわけである。帆布は機織りで作られた旗のようである(注20)
 帆をかけるために立てた檣の頂点についている蟬のところまで身軽な者がよじ登って甑を落としたのだろう。時は「うつせみ」である。ウツセミという言葉の語源については諸説あるが、船で蟬といえば檣の上にある滑車のことしかない。その仕掛けは轂に負っている。轂の別名のどうは、ツツとも訓読みされたこともあっただろう。轂の中心は筒状になっている。底筒男・中筒男・表筒男の筒に通じている。出産の甑落とし行事が、船上の住吉大神をさらに祭りあげる効果を担っている。
 そのつつという語には、まるい井戸側、筒井筒のことが考えられる。ワタツミを、ワ(輪)+タツミ(立水、潦、ミは甲類)と聞けば、車井戸につけられている滑車のことが連想される。当時の語源意識として、ワタツミという言葉に、海とは汲めども尽きぬ井戸だという思いが控えているようである。神功皇后が新羅に攻め入った時の様子は次のとおりである。

 かれつぶさに教へ覚ししが如く、いくさを整へ船をならべて、わたいでます時に、海原のいをおほちひさきを問はず、ことごとふねを負ひて渡る。爾くして、順風おひかぜ大きに起り、御船、なみに従ふ。故、其の御船の波瀾なみ、新羅之国に押しあがり、既に半国くになかに到る。(仲哀記)
 冬十月の己亥の朔辛丑に、にのよりちたまふ。時に飛廉かぜのかみは風を起し、陽侯うみのかみは浪を挙げて、うみの中の大魚おほいをふつくに浮びてみふねたすく。則ち大きなる風おひかぜに吹きて、つむ波に随ふ。㯭楫かぢかいいたつかずして、便ち新羅に到る。時に、随船潮浪ふななみ、遠く国の中にみちおよぶ。即ち知る、天神あまつかみ地祇くにつかみの悉に助けたまふか。新羅のこきし、是に、戦戦おぢ慄慄わななきて厝身無所せむすべなし。(神功前紀仲哀九年十月)

 御船の進みの良さは魚の助けとなるところとしているのは鰭の謂いだろうし、海水が新羅国の半ばにまで及ぶところはワタツミの力ということだろう。
 そのような汲めども尽きぬ井戸の言い伝え上の初源は、記紀に所載の海神の娘、トヨタマビメ(豊玉毘売、豊玉姫)が住んでいた海神宮わたつみのみやにある。火遠ほをりのみことひこ火火出ほほでみのみこと)を井戸端で見つけている。

 「……魚鱗いろこの如く造れる宮室みや、其れ綿わた見神みのかみの宮ぞ。其の神のかどに到らば、かたはらゐの湯津ゆつ香木かつら有らむ。かれ、其の木の上にいまさば、其の海神わたつみむすめ、見て相議あひはからむぞ」といふ。……しかくして、海神わたつみむすめ豊玉とよたま毘売びめ従婢まかたち玉器たまもひを持ちて水をまむとする時に、かげ有り。(記上)
 たちまち海神わたつみの宮に至りたまふ。其の宮は、雉堞たかがきひめがき整頓ととのへそなはりて、たかどの玲瓏てりかかやけり。かどの前にひとつの井有り。井のほとりに一の湯津ゆつ杜樹かつらのき有り。えだ扶疏しきもし。時にひこ火火出ほほでみのみこと、其のもときて、徒倚よろほ彷徨たたずみたまふ。ややひさしくしてひとり美人をとめ有りて、とびらおしひらきて出づ。つひ玉鋺たまのまりを以て、きたりてまさに水を汲まむとす。因りて挙目あふぎてみそなはす。乃ち驚きてかへり入りて、其のかぞいろはまをしてまをさく、「一の希客者めづらしきひとします。門の前の樹の下にす」とまをす。海神、是に、八重やへ席薦たたみ舗設きて、る。(神代紀第十段本文)

 海底国(?)のるのが海神であるという洒落である。ワタツミという海の神さまが示現したのが住吉大神である。
 スミノエという地名については、んでいる江の意とする説明が多いが、当時の語源意識、ないしは語呂合わせとしては、江に人がんでいるという状態を想起したものだろう。江とは、海が陸に入り込んだところ、入江のことをいう。和名抄に、「江 唐韻に云はく、江〈古双反、和名は〉は江海なりといふ。」とある。江に住んでいる人とは水上生活者、海人あまのことである。和名抄に、「泉郎 日本紀私記に云ふ漁人〈阿万あま〉、弁色立成に云ふ泉郎〈和名は上に同じ、楊氏漢語抄の説も又同じ〉、万葉集に云ふ海人。」とある。「泉郎」は字を上下に分離して、「白水郎」(允恭紀十四年、万23・252・999・1167・1204・1245・1246・1253・1318・1322・2622・2743・2798・3170・3225)とも記され、アマと訓んでいる。中国でも同様の表記が散見される。汲めども尽きない筒井戸のあるような海の、ワタツミという神さまは、スミノエと呼ばれるような地の海人がいつく神さまであると、なぞなぞ的に納得できる。海人のアマと天のアマとはアクセントとも同一で迷うところがない。新羅親征を始める神託の神さまにアマテラスと住吉大神(墨江大神)がごっちゃ混ぜになっている。どちらもアマの神さまだからである。
 「豊旗雲」のトヨという美称については、住吉大神を祀るところのことであることや大伯皇女の誕生というおめでたいできごとによるばかりでなく、まさに現況の出兵目的とも絡んでいると考えられる。百済を救援し、倭の傀儡政権を樹立するために百済の王子せしむ、豊璋を同乗させている。連合艦隊の主船には轂と甑があると見、そのコシキとによって豊璋をこきしに擁立しようとしている。ヤマトコトバによる駄洒落的な政治戦略であった。豊璋という漢字名はヤマトコトバに訳せばトヨタマである。言い伝えに刷り込まれているトヨタマビメ(豊玉毘売、豊玉姫)のことが思い浮かぶ。万13・14番歌で想定してきた「古」の説話に登場する海神の娘である。その昔、住吉三神、底筒男・中筒男・表筒男といったツツ、すなわち、コシキの力を以て新羅の王が征服されたという伝承に基づき、準えようとするのに好都合だった。
 かくて、「わたつみの豊旗雲」とは、「御船」号に蟬で吊り上げられている帆を旗のような雲と見立てた表現であると理解できる。その帆に日没の様子を見ている。帆布に透けて落日を目にしている。日影を映すほどに素敵なスクリーンである(注21)。「入り日見し」の「見し」は自称敬語「見す」である。中大兄は「御船」に天皇らとともに乗船している。そこで国威発揚のための歌を歌っている。天皇の立場で代詠をしていて、斉明天皇が入り日をご覧になっていると歌っている。
 四句目を「よひつく」と解すると同語反復になる。「今夜のつきよ」と訓み、最後の「よ」は格助詞ヨリの古い形(ヨは甲類)である。今夜の月よりも、という比較の基準を表している。太陽太陰暦正月七日の半月は、夕刻時、上空にすでにある。三貴子伝説にあるとおり「月」はツクヨミを表している。ツクヨミの表す新羅よりもアマテラスの表す倭を見ている。なぜなら日のほうが月よりもずっと明るくはっきりと見えるからである。百済は救いを求めて、新羅ではなく倭と一緒になりたいと言っていると歌いたかった。
 五句目の最後にあるコソについて、大系本萬葉集に、「奈良時代にコソで終結する歌は、「人目を多みこそ」(巻七、一三七七、巻十一、二三五九)「うち若みこそ」(巻十四、三五七四)、「常を無みこそ」(巻十九、四一六一)「君故にこそ」(巻八、一五七六)「妹が為こそ」(巻十二、三二〇一)「人を見まく欲れこそ」(巻四、七〇四)「君を見にこそ」(巻四、七七八)の八首[佐佐木1996.に、「寝まく欲りこそ」(巻十二、二八四四)がもれていると指摘がある]で、みな…ダカラデアルという理由・原因を示す場合に限られている。」((一)328頁)とある。おおかたの解釈ではダカラデアルの意には感じられないから、この文末のコソは係助詞ではなく、作者の願望・希求を表現する助詞であると捉えられている。しかし、戦時下において、国家を統率する側の天皇や皇太子が歌の最後に願望や希求を公式表明しているようでは兵卒の士気は低下し人心の混乱につながるだろう。このコソは係助詞で、ダカラデアルと完全に肯定して説得している。中村2014.に、万13番歌のコソが係助詞であることが確認されていた。万15番歌でもコソとある。同じ時に同じ作者が歌っている。ダカラデアル調で一貫しているほうが歌い手としても演説のボルテージは高まり、聞き手にとって受け入れやすい。アジテーションに船上は盛り上がったことだろう。
 「清明己曾」のコソが係助詞で順接の確定条件を表すと、その前の「清明」は已然形か、形容詞の語幹にミが付いた形に訓むものである。「あかれこそ」、「あかみこそ」、「清明あきらけみこそ」、「きよれこそ」といった訓が考えられる。ここで「清」はスミと訓みたい。住吉大神のスミと音が重なる。神功皇后の新羅親征のようにその御加護にあやかりたい。澄み切っているから影絵が映える。動詞アカルはあかるでもありあかるでもある。上代においては赤くなることと明るくなることを同じことと捉えられていた。明るくなる色(明度)を赤と称したのである。半月の白く、小さく、はかなげな光よりも、日は大きく、力強く、赤く明るかった。「あかれこそ」が適訓である。
 スミアカルはあかるの意にもとることができる(注22)。いろいろなところへ植民していくことで、蜘蛛の子を散らすように国(播磨国、吉備国、伊予国、……)が生れていったとする国生みの話と似通う(注23)。ヤマトの勢力が大和地方から全国津々浦々に広まったのである。今度はその列島中から兵士を集め、倭の連合艦隊は新羅を攻めようとしている。倭の版図が大陸へも拡張するかと思われた瞬間だった。熟田津はじめ、津々浦々に寄りながら徴兵して軍を増強しながら進んでいる。津々には海人がいて、汲めども尽きない筒井戸のあるような海の、ワタツミという神さま、住吉大神と近しい関係の人たちである。そのかれている人々を、あかれる入り日のもとに集め、弱々しい輝きしかない月を表す新羅を討伐しようというのだった。

 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比弥之 今夜乃月夜 清明日曾
 わたつみの 豊旗雲に 入り日見し よひつきよ あかれこそ(万15)
 (大意)スサノヲの守る、百済を表す海の、その海の神さまが御船にあって、檣にかけられている帆に日影を映している。アマテラスの守る、倭を表す日が水平線に入っていくのをはっきりとご覧になる。わが君がそのように入り日をご覧になるのは、ツクヨミが守るという新羅を表す弱々しい月よりもずっと澄んで赤く明るくなっているからだ。百済が欲しているのは新羅ではなく倭である。我らは今、ヤマトの民として住み散じていた皆の衆を集めて連合艦隊として進軍していることよ。

 万15番歌では、「うつせみ」の気象を「古」の故事を用いて詠じ、参戦することの意義を高らかに歌い上げている。時制はすべて現在である。スサノヲが守る海に浮かぶ船の帆を雲に見立て、そこにはアマテラスが守る日をよく映していると述べ、それに比して月の光の弱いことを論って歌に作っている。百済に侵入する倭が新羅よりも強いことを歌う。予祝的な歌ということになるが、当時の人にとってそれは論理的な説得術だったようである。万15番歌の美しさとは壮観な叙景にあるのではなく、国際政治のパワーバランスを、倭国の言い伝えに立脚しながら船上の夕景と皇女出産のおめでたい出来事とを合わせて歌い込み、士気を高めようとしたところにある。遣隋使が「日出づる処の天子」と言って陽帝(位、604~618)の激怒を買っているほど、赤く明るい日の光を自らのトーテムとする考えは盛んだったらしい。
 この出兵、ならびにはその思想(?)的裏付けとなる三山歌は、白村江の敗戦によって完全に打ち砕かれた。新羅を攻める際、唐の海軍が集結して待ち構える白村江へ軍勢を向けるには及ばなかったように思われる。その以前に、「前将軍まへのいくさのきみ上毛野君稚子かみつけののきみわくご等、新羅の沙鼻さび岐奴江きぬえ二城ふたつのさしを取る。」(天智紀二年六月)とあって、新羅側の防衛線は強固ではない。けれども、倭軍は主戦としては当初より海戦を想定していたようである。神功皇后の新羅親征の話に則ろうとしていたからだろう。そしてまた、この中大兄の三山歌に宮廷の人たちは共鳴、陶酔してしまい、見事な歌であるがゆえに呪縛となって戦術を誤ったようにも思える。その顛末は簡潔に記されている。

 己酉(二十八日)に、日本やまと諸将もろもろのいくさのきみと、百済のこきしと、気象あるかたちずして、相謂あひかたりて曰はく、「我等先を争はば、彼自づからに退くべし」といふ。更に日本のつら乱れたる中軍そひのいくさひとどもて、進みて大唐もろこしつらを堅くせる軍を打つ。大唐、便ち左右もとこより船をはさみてかくみ戦ふ。須臾之際ときのまに、官軍みいくさ敗績やぶれぬ。水におもぶきておぼほれ死ぬる者おほし。艫舳廻旋へともめぐらすこと得ず。(天智紀二年八月)

 満潮時に河口から船を連ねて進入し、潮の勢いに船の自由が利かずに挟み撃ちにあって敗れている。波が押し騰がって進行を助ければ勝てると信じていたようである(注24)
 記紀や初期万葉は、無文字社会の言い伝えを文字に残したものである。その後、怒涛の如く文字文化が押し寄せ、それまでの口承の時代はみるみる遠ざかった(注25)。おおよそ七世紀までのことがらは八世紀にはよくはわからなくなった。文字に馴染んで言葉を使う文明と、文字を知らずに言葉を使う文化は、言葉の使い方の点で位相を異にする。今日でも、幼児期にはなぞなぞにはしゃいでいた子どもたちが、学校で文字教育の洗礼、薫陶を受けると徐々に興味を失い、やがては下らないものとして歯牙にもかけなくなる。識字教育は文明を支える基礎で得られるものは余りある。反面、記紀万葉に確かにあった豊かで独特な言語生活を失うことになっている。記紀万葉に見られる、我らがヤマトコトバによる未開社会の思惟、野生の思考について捉え直すことは、我々が捨てて顧みることのなかった精神の可能性を見つめ直す契機になる。不思議な可能性を秘めたテキストが、真の価値を見出されないまま二束三文に転がっている。

(注)
(注1)二女一男争いの話は住吉大社神代記に見られる。

 大神、くすしき男神人をかみと現れ賜ひて、宮城みや造作つくしろ材木流運ながさしめて、行事わざをし賜ふ。時に、斯の川に居す女神、妻に成らむと欲ふ。亦、西方にしのかた近くに在る武庫川に居す女神も亦、同じき思を欲す。ふたはしらの女神、寵愛之情みめぐみをもとむるこころを成す。而して、為奈ゐながはめがみ嫡妻之心むかひめなるこころうだきて嫉妬ねたみおこし、大石を取りて武庫川のがみ擲打なげうち、并せて其の川の芹草せりを引取る。故、為奈川には大石無くして芹草生へ、武庫川には大石有りて芹草無し。ふたつの河一つに流れ合ひて海に注く。(住吉大社神代記・為奈河木津河)

 これは上代に珍しい例であるとされて、万13番歌とは無関係と思われているふしがある。しかし、三山歌が歌われたのは、征西の途上の航海においてである。場所は、万14番歌にある「印南国原」付近、広く見積もって今の明石市から加古川市、高砂市、姫路市、相生市、赤穂市、備前市、瀬戸内市、岡山市、玉野市あたりと推定される。梶川2009.は、明石海峡付近の山陽道地域は住吉大社の神領であった点を指摘している。住吉大社の祭神は航海守護の神である住吉三神、ならびに、新羅征討を成功させた神功皇后である。今、新羅との戦争へと向っている。したがって、三山歌と関連があると考えるべきであるが、時代的には万葉歌の方が先んじているから傍証以上のものにはならない。
(注2)歌に登場している播磨の地名は「印南国原」だけである。播磨風土記で揖保郡と印南郡は地理的に離れ、別項である。揖保郡の阿菩大神を引き入れて歌を解釈するのには無理がある。百済救援のための対新羅戦に赴く途上だから、新羅親征を成し遂げた神功皇后のゆかりの地、印南の浦に光を当てていると考えられなくはないが、説明を交えながら訓示が行われているのではない。予備知識のない宮廷人に唐突に歌に歌われても理解できることではない。念のため風土記を引く。

 上岡かみをかの里〈もとは林田の里なり。〉土はなかしもなり。出雲国の菩大神ぼのおほかみ大倭国やまとのくにの畝火・香山・耳梨、三つの山のあひたたかふと聞かして、いさめむとおもほして、上り来ましし時、此処ここに到りて、乃ち闘いみぬと聞かし、其の乗らせる船をせて、いましき。故、神阜かみをかと号く。阜の形、覆せたるに似たり。(播磨風土記・揖保郡)
 印南郡 一家あるひといへらく、印南と号くる所以ゆゑは、あなとよの宮に御宇あめのしたしろしめしし天皇すめらみこと皇后おほきさきともに、筑紫の久麻曽くまその国をことむけむとおもほして、下り行でましし時、ふね、印南の浦に宿りましき。此の時、蒼海うなばらいたぎ、波風やはぎ静けかりき。故、名づけて入浪いりなみこほりといふ。(播磨風土記・印南郡)

(注3)これまで「神代」=「古」と決めつけていたため、中大兄の三山歌は真の理解に近づくきっかけを失っていたものと思われる。
 神野志1999.に、「大和三山をめぐる話は共通の了解としてあり、歌はそれを前提として、歌のなかで話にはふれない(一四歌にも通じる問題である。……)。「神代よりかくにあるらし」という「かく」は、歌の外にあるものにおいてはじめて了解されるといってよい。歌は言語外の文脈に依拠して成り立つのであり、言語表現として自立していない。そのありようは口承の世界のものであったとみるべきであろう。」(108頁)としている。そうだろうか。今、中大兄が歌っていることをもって三山の争いの話は成立したとは言えないか。歌に歌うことによって話を作り騙っているのであり、その場での「歴史認識」として「神代」、「古」、「うつせみ」を提唱している。百済救援軍派遣の途次に歌われている。戦時下にあって人心を統制しようとして決めてかかっているわけである。万葉集中、この歴史観を強いる歌は他にない。敗戦したからである。
(注4)黄泉国から帰還したイザナミの禊、ないし、イザナキ・イザナミの国生みにつづく事項として語られる。
(注5)この点は、現代の歴史学どころか平安朝以降の日本書紀の解釈とも異なる。記紀の文章の中では、きわめて早い部分に「神世かみのよ」という言葉が出てくる。

 次に成りし神の名は国之常立神くにのとこたちのかみ。次に豊雲野神とよくもののかみ。此の二柱の神も亦、独神ひとりがみと成りして、身を隠したまふ。次に神成りし神の名は、宇比地うひぢ邇神にのかみ、次にいも須比智すひち邇神にのかみ。次に角杙神つのぐひのかみ、次に妹活杙神いくぐひのかみ。〈二柱〉次に意富斗能おほとの地神ぢのかみ、次に妹おほ斗乃との弁神べのかみ。次に於母陀おもだ流神るのかみ、次に妹阿夜訶志古あやかしこ泥神ねのかみ。次に伊耶那いざな岐神きのかみ、次に妹伊耶那いざな美神みのかみかみくだりの、国之常立神より以下しも、伊耶那美神より以前さきは、あはせてかむななふ。〈上の二柱の独神は、おのもおのもひとと云ふ。次のならべる十神とをはしらのかみは、各二神を合せて一代と云ふ。〉(記上)
 すべやはしらの神ます。乾坤あめつちの道、相まじりてる。所以このゆゑに、此の男女をとこをみなを成す。国常立尊くにのとこたちのみことより、伊弉諾尊・伊弉冉尊にいたるまで、是を神世七かみのよななと謂ふ。(神代紀第三段本文)

 イザナキ・イザナミの登場以前である。初期万葉時代、飛鳥時代の人にとっては、それ以降は「神代(神世)」ではなく「古」という言葉で認識されていた。今日、記紀に残るような伝承は、彼らによって言い伝えられるお話であり、みな現実感に満ちて生き生きしていた。紀の巻名に「神代上」などとあるのは、漢風諡号同様、後人の書き入れによる。「神話」という語は明治時代に造られた。
(注6)神代紀第五段一書第十一にツクヨミが保食神うけもちのかみを殺す場面がある。食物神を殺すのは、スサノヲが古事記のなかでおほ気都比売げつひめを殺すのと同じである。自ら食物を作ることができないことの証であり、支配者に幣を捧げることを意味すると考えられている。その話自体は五穀の誕生の物語と結びついている。記にはない牛馬や稗が紀一書第十一で五穀に含まれて登場している。紀一書第十一は記の発展形と捉えられる。牛馬や稗が加わっているのは、水田稲作農耕に利用する牛馬や稲の雑草としての稗のことが気になるようになっていたからだろう。
(注7)「立ちて見にし」の主語として、阿菩大神、印南国原、香久山と耳成山の三説がある。小村2011.には、歌の背景に神話を考える点で筆者とは考えが異なるが、「香久山らの移動……は宮廷をあげて筑紫へ下向する途上の一行の出発地・現在地ともおおむね共通性をもったものといえる。」(26頁)とあり、その点では首肯し得る。
(注8)この「奈牟ナム」は助動詞と見る説が優勢だが、コヒナムが母音交替形であるとする要件とするのに十分なほど「む」の形は定式化している。万葉集に八例(万443・904(2)・906・3241・4008・4011・4499) 見られる。
(注9)神野志1999.は、万14番歌は歌のそとにある何らかの伝承を共通理解として成り立っているとするが、歌のそとに既存の伝承があったわけではなく、歌のなかで完結する小噺を拵えているのである。
(注10)澤瀉1982.では、もともと「紗」とあった字をいろいろと誤写したとの説がとられている。
(注11)次もその例かとされるが、五句目は「を見さばしり」と訓むことも可能である。
 うしをには 立たむと言へど 汝夫なせの子が 八十やそ島隠しまがくり を見さば知り〔和乎彌佐婆志理〕(常陸風土記・香島郡)
(注12)遣唐使船では船上に海龍王を祭り、時化た時に海龍王経を読むこともあった。新川1999.参照。
(注13)「豊旗雲」という名称を瑞祥とする説としては、東野1983.に、顕昭(1130?~1209?)の袖中抄が引く、「瑞応図云、豊旗雲者瑞雲也。帝徳至時出現雲也。雲勢似也云々」とある記事を援用している。平安時代の前半の寛平年間に録された藤原佐世ふじわらのすけよの日本国見在書目録・五行家に、「瑞応図十五」、「符瑞図十〈顧野王撰〉」、同・兵家に、「瑞祥兵法二」、「雲気兵法一」といった書名が見える。実生活や戦場において、本当に瑞祥かどうか確認するためには 図入りの手引きが必要であったと思われる。養老令・儀制令に、「凡そ祥瑞応見せむ、若し麟鳳亀竜りんふうくゐりうの類、しょに依るに、大瑞にかなへらば、随ひて即ち表奏へうそうせよ。」とある。いずれの書物も今日には伝わっていないものの、芸文類聚に載る雲についての瑞祥記事としては、「孫子瑞応図に曰く、景雲は太平の応なりといふ。一に曰く、慶雲といふ。気に非ず、煙に非ず、五色の氛氳ふんうん、之れを慶雲と謂ふ。」とある。皇極紀の「五色大雲」は瑞祥を示す記事であろうとされる。八世紀の元号の慶雲(704~708)や神護景雲 (767~770)、唐の景雲(701~702)もこれに由来する。周礼・春官・大史に「大師に、天時を抱かせ、大師と車を同じくす。」とあって、大規模な軍事行動の際には天時を占う図書を携行し、耳の達者な人を同乗させよと指示されている。敵軍の動きを察知しながら占いに従って作戦を練った模様である。戦争に赴くのだから瑞応図を見ていても不思議ではないということである。
 袖中抄(下記)では、雲と同音の蜘蛛は糸を吐いて機織りするように巣を張っていく、機織りでできた布は同音の旗のようである、よって、雲、蜘蛛、機、旗はすべてゆかりのある言葉、縁語であると主張している。万葉集にも漢籍から学んだ観念に依る歌が載る。

 天の河 霧立ち上る 織女たなばたの 雲の衣の かへる袖かも(万2063)

 織女たなばたが自分で織り、身につける衣を雲に見立てている。それが旗のようにはためき飄々と翻ると洒落ている。雲、蜘蛛、機、旗の縁語関係は十分に可能な想定である。
 しかし、顕昭自身、海の雲の古語だと言ってみたり、瑞雲だと言ってみたり、二説唱えるほどに揺れている。豊旗雲に関して伝える袖中抄が引く記事は芸文類聚に見当たらず、袖中抄以外に豊旗雲について漢籍に由来するとの記事が見つからない。もし漢籍に「豊旗雲」という言葉があったならホウキウンなどと読まれ、訳されてトヨハタクモになったと考えられるがそのような痕跡はない。ましてや時代は初期万葉期であり、漢語を巧みに使いこなす層は一握りにすぎなかっただろう。瑞応図から採られた言葉としてトヨハタクモなる語があったとは考えにくい。

◯くものはたて(8)
  夕されば雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人恋ふる身は
 顕昭云、雲のはたてとは空の広き心なり。はたは将といふ心也。手はよろづの事にわたりたる事なり。常には夕の雲の旗の手に似たるを、雲のはたてとはいふとあまたのふみに申したれど、万葉集の長歌を見るに、国のはたてに咲きにける桜の花と詠みたれば、国には旗手ありといふべくもなければ、空の広きをば雲のはたてといひ、地の広きをば国のはたてと詠めるにやと、なずらへて思ふなり。たとひ雲のはたてと言ふべくは、花の色々に咲きみちたるを旗手といふべきにや。それはなほ心ゆかず。古歌をば歌ひとつに付きてはいみじく釈するほどに、あまたの歌を見る時にたがふ也。たとへば、おほ舟のゆたのたゆたといふ事を、船の湯かく手のたゆき由を言ふ程に、ねぬなはのゆたのたゆたといふ歌にては、大きにたがふが如し。
 万葉第八巻長歌云、
  をとめらが かざしのために たはれをの かつらのためと しきませる 国の波多弖ハタテに 咲きにける 桜の花の  にほひはもあなに
此の長歌のことばに心得あはすべきなり。
 無名抄云、とよはた雲といふ、雲のはたてといふも同事也。日の入らむとする時に、西の山ぎはにあかく様々なる雲の見ゆるが、旗の足の風に吹かれて騒ぐに似たる也。其旗に似たる雲の絶間より入日のさして入りぬれば、三日許は雨降らずして空もこゝろよく照るなり。されば万葉歌に、わたつみの豊旗雲に入日さしこよひの月夜すみあかくこそとよめり。次に雲のはたての歌は、そのとよはた雲のさだめもなく騒ぎかはりゆくやうになむおぼゆると詠む也。其雲の空にあるものなれば、うはの空なる人を恋ふるによそふる也。是を又蜘蛛といふ虫の手は八つあれば、その蜘蛛の巣は軒に見ゆるものゝ、手をくみたる様に見ゆれば、それによそへて詠む也。是も事の外の僻事になきにや。
 重之が、死にたる蜘蛛のゝけざまに臥したるに風の吹きければ、生きたる様に手のはたらきけるを見て詠める歌、
  さゝがにの蜘蛛のはたての騒ぐかな風こそ雲の命なりけれ
これを見れば、虫の手をもくもでと言はんにとがなし。
 奥義抄云、蜘蛛の手をくものはた手とはいふ也。きぬゝの織るやうなればよそへていふ也。くもでといふにつきて、空の雲によそへて天つ空なる人恋ふる身はと詠めり。雲のはたてに物思ふとは、蜘蛛のいはとかくかきたれば、ひとすぢならずとかくなん思といふ心也。雲でに物を思ころかなといふ歌もこの心にこそ。
 今案云、とよはた雲とくものはたてと別事也。古語云、とよはた雲とは海の雲の古語也。瑞応図云、豊旗雲者瑞雲也。帝徳至時出現雲也。雲勢似也云々。
 又たとひ旗手といふにても雲にてあるべし。天つ空に寄する故也。蜘蟵の手を機織るに寄せて、いかゞは又二重に雲には寄すべき。あまりに任意なる義なり。但重之が歌を蜘蟵の死にたるを見てよみたれば、虫とは詠みきりたる。さらば蜘蛛といふ虫の機手にて雲の旗手には寄すべからず。重之が集を見れば、蜘蛛の手一つ落ちたるが二三日まで動くを詠めるとて、第三句は動くかな風を命に頼むなるべし、とあり。これは古今の雲のはたてといふ歌をくもといふ詞同ければ、蜘に詠みなしたるなるべし。藤を淵と詠みなすが如し。
 又源順が仮名序にも、
  思ふ心くものはたてにありながらおりたちてしも言はむかたなし
と書けり。これも雲の旗手を機に寄せて織立と詠めるにや。いかにも国のはたてに思ひ合はすべきなり。(川村2000.37~40頁)

(注14)この例からも布帛と雲とは似通うものと認識されていたことがわかる。
(注15)時代が下って文徳天皇実録に、「天安二年[858]六月庚子。早旦、白雲有りて、艮より坤に亘る。時人之れを旗雲と謂ふ。」とあるにはあるが、さらに「豊」と冠さなければならない。
(注16)船上でも同様に旗や鼓が見られる。士気向上の道具であった。
(注17)民俗事例では船霊が祀られることがある。田村1990.に、「船霊を祀る場所をタツという。タツとは船をもやうときの綱を結んである場所である。房総半島では船のともの両弦に立っている角柱を指すことばである。ところが、三陸一帯では、船の前方にある、一般的にボウズといっている角柱のことをタツと呼んでいる。そして、オフナダマサマはこのタツの隠れた前方の面、一尺ばかり下がったところに彫りこみを入れて納め、その上から厚い板状の木片でキッパメ(封じ込め)をして、表面をカンナで平らにする。」(75頁)とあり、五穀やサイコロ、銅銭、髪の毛、折り紙の人形などであった。船の構造の変遷については資料が乏しいとはいえ、今日の研究では船のタツは鎌倉期以降に登場したとされている。今日でも見られる場合があるらしいが、それ以前には船のつつの部分に祀られたのではないかとされる。筒とは、檣を支えるために船側に設けられた台座となる支柱部分を指す。今西氏家舶縄墨私記(1813)に、「筒と子持へほばしらを建る、此具合能くなくしては船遅しと言。遅早ちそにかかわる大事場所也」とある。艫側の面に溝を付けて檣の襟肩をはめる。また、その下部両サイドに穴を刳り抜き、船霊さまをお祀りする(小嶋2012.)。そのツツという名称から、サイコロなどを一緒に入れるという発想が生まれたものだろう。一説に、底筒男・中筒男・表筒男という神名に登場する「筒」との関連から、上部には蟬がある檣の根本こそが祀るにふさわしく、逆に、神名の起源は船の構造部名によるとの意見もある。ただ、そもそも船霊と住吉大神とを完全に同一視してよいものかわからない。住吉大神は船の神さまではなく海の神さまである。
 延喜式・神名帳には、「住吉郡二十二座〈大十座 小十二座〉 住吉に坐す神社四座〈みな名神大、月次・相嘗・新嘗〉……船玉神社……」とあって、船玉神社は摂社の扱いを受けている。虎尾2000.に、船玉神社は、「住吉大社神代記に住吉神の子神の一つとして「船玉神〈今謂、斎祀紀国紀氏神、志麻神、静火神、伊達神本社〉」とあり、また同書船木等本記に神功皇后が熊襲と新羅を征した際に大田田命と神田田命が造り献上した船を征討後「令斎祀武内宿禰」め、それが志麻神・静火神・伊達社の三神であるという。」(543頁)とある。また、神功紀の、「和魂は王身に服ひて寿命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」と二分割の祀り方が行われるが、それを説明するのは困難である。入唐求法巡礼行記には幣を捧げている箇所がある。水夫かこたちは、帆の上げ下げなどする際など奉納された場所を回避しながら作業したのか、疑問は増すばかりである。
(注18)甑に橧の字を当てることもあった点については、拙稿「三輪で杉の木を「斎(いは)ふ」のは、甑(こしき)による」参照。
(注19)甑落としの習俗に関しては、建礼門院が安徳天皇を出産した時のことを記す文献がよく知られている。平家物語に、「次に后御産の時、御殿の棟より甑をまろばかす事あり。皇子御誕生には南へ落し、皇女誕生には北へ落すを、これは北へ落されたりければ、「こはいかに」と騒がれて、取り揚げて落し直したりけれども、悪しき御事に人人申しあへり。」(巻三・公卿揃)、山槐記に、「此間自日陰間、上転甑破三分〈兼破之、以麻仮結之、落後為令破也。召使持之、兼在棟北、随其告可落之由誡仰云、而誤落北方、不足言事也。仍更取上之、侍所司盛光相副令落之。件甑自社所有大原渡内膳、大炊令用之後渡庁、於庁破結云々。〉」(治承二年(1178)十一月十二日、国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949545/89)などとある。予め割っておいて落とすのは失敗しないための工作であろう。徒然草にも、「さんの時、甑落す事は、定まれる事にはあらず。おん胞衣えな滞る時の呪ひなり。滞らせ給はねば、この事なし。下ざまより事おこりて、させる本説ほんせちなし。大原の里の甑をめすなり。ふるき宝蔵の絵に、賤しき人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり。」(第61段)とある。
(注20)船の帆の材料としては古く莚が使われていたようである。面積が大きくても丈夫で壊れにくかった。絵巻物の絵にもそのように描かれているように見える。しかし、だからといって麻のような繊維で織られた布を帆に用いることがなかったとは言えない。万葉集のなかでハタススキ(ハダススキ)という枕詞がホを導く例は、いずれも穂の意ではあるが、ヤマトコトバでは上部に秀でて目立つところをホと言っていて、だから sail のこともホ(帆)と呼んだようである。装飾古墳の壁画で船上に見える旗のようなものは、ススキの穂のようでもあり、破れかかっている帆のようでもある。
(注21)日の丸の旗の最も古い例である。
(注22)「人々は皆ほかにすみあかれて、故郷にひとり、いみじう心ぼそく悲しくて、……」(更級日記)などと見える。
(注23)拙稿「蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─」参照。
(注24)日本史学界には、倭を「東夷の小帝国」(石母田正)と見る説がある。新川1999.は、新羅の態度からしてとても当を得た表現とはいえないと指摘している。新羅は白村江の戦いでは唐と同盟して百済の残党を掃海した。それ以降は、今度は半島から唐の勢力を追い出しにかかるというしたたかな離れ業を見事にやってのけて統一新羅を樹立している。筆者の見方では、新羅が「東夷の小帝国」で、倭は「なぞなぞ大帝国」であったがゆえの敗戦だったということになる。
(注25)古事記は稗田阿礼が「誦習」していたものを太安万侶が「撰録」したものであると序に書いてある。稗田阿礼は無文字時代の人で天武天皇が語っていた言い伝えを暗唱していた。それを太安万侶が文字時代に合うように翻訳して記した。両時代の狭間でもがいた人の苦労も知らずに、今日、帝紀や旧辞を稗田阿礼が読み上げたものを太安万侶が書きとめたのだとする説が優勢となっている。帝紀や旧辞がすでに書いてあるのなら、阿礼や安万侶の仕事はそもそも不要なのではなかったか。文字に書きとめられている古事記を今読んで、文字時代の人の手による作文と思う人は、その国語力が疑われるだろう。拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」参照。

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加藤良平 2026.8.5改稿初出

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