ヤマトタケルの野火の難─「焼遺」をめぐって─

野火の難

 ヤマトタケルの火難の話は、古事記では「相武国さがむのくに」の「やき」での出来事として記されており、同様の話が景行紀四十年是歳条に載る。

 かれしかくして、相武国さがむのくにに到りし時に、其の国造くにのみやつこいつはりてまをししく、「此の野のなか大沼おほぬま有り。是の沼の中に住める神は、甚だはやる神ぞ」とまをしき。是に、其の神を看行みそこなはさむとして、其の野に入りしき。爾くして、其の国造、火を其の野にけき。故、欺かえぬと知りて、其のをば倭比売命やまとひめのみことの給へるふくろの口をき開けて見れば、うち、其のうちに有り。是にづ其の御刀みはかしを以て草を刈りはらひ、其の火打を以て火を打ちいだして、むかを著けて焼き退け、かへでて、皆其の国造どもを切りほろぼして、即ち火を著けて焼きき。故、今にやきと謂ふ。(景行記)
 とし日本やまと武尊たけるのみこと、初めて駿するに至る。其の処のあたいつはり従ひて、あざむきてまをさく、「是の野に、麋鹿おほじか甚だ多し。いきは朝霧の如く、足は茂林しもとはらの如し。いでまして狩りたまへ」とまをす。日本武尊、其の言をけたまひて、野の中に入りて覓獣かりしたまふ。賊、みこを殺さむといふこころ有りて〈王とは、日本武尊を謂ふぞ。〉其の野に放火焼ひつく。王、欺かれぬとしろしめして、則ちひうちを以て火をうちいだして、向焼むかへびつけてまぬかるること得たまふ。〈一に云はく、みこ所佩はかせる剣、藂雲むらくもみづかけて、王のかたはらの草を薙ぎはらふ。是に因りて免るること得たまふ。故、其の剣をなづけて草薙くさなぎふといふ。藂雲、此には茂羅玖毛むらくもと云ふ。〉王ののたまはく、「ほとほどに欺かれぬ」とのたまふ。則ちふつくに其の賊衆あたどもきて滅しつ。故、其の処を号けてやきといふ。(景行紀四十年是歳)

 記紀の間にいくつか違いがある。両者は少し違う。焼津の場所が「相武(相模)」か「駿河」か、欺いた相手が「国造」か「賊」か、誘い文句が沼の神か「麋鹿」か、「火打」(「燧」)を取り出すとき、「嚢の口」を開けることが重要視されているか否か、草を薙ぎ払った剣の名が記されているか否か、といった点である。そして、最後に地名を命名する際、用字として記は「焼遺」、紀は「焼津」と記している。
 古事記の研究者は、従来から二つの問題点を指摘している。「焼遺」と書いてなぜヤキツ(焼津)と訓むのか、また、その焼津は「相武国」ではなくて駿河国ではないのか、という点である。古典集成本古事記は、「「焼遺」を「やきつ」とむのは、「遺」に「つ」の意があり、「つ」が「やきつ」となるのである。「焼津」と書くべきを、文脈上「焼き棄てる」なので、「焼遺」と書いたもの。この地名は、駿河国(静岡県)のやい市に当る。しかし、火攻めの受難と……「さねさし」の歌とはともに相模国であり、文脈上の照応があるなかで、この「焼津」の地名は、地理的に矛盾している。地名説話の興味にまかせた筆のすさびであろう。記中の地理的矛盾の唯一の例。」(163頁)としている。なぜわざわざ難しい用字で記しているのかについて、得心の行く説明ではない。
 真福寺寺本古事記の「焼遺」は、寛永版本では「焼遣」としている(注1)
 筆者は次のように考える。ヤマトタケル東征伝承の一話の締め括りに「焼遺」と記されている。これはその一話のまとめでもあり、話の要になっている。わざわざ太安万侶はややこしく書いて気づかせているのだから、彼の知恵に近づこうとする姿勢が求められる(注2)。記の倭建命の物語の一区切り、野火の話の最後に「焼遺」と記され述べられているからには、この語一語に話の焦点(笑点)が置かれているに違いない。古事記と日本書紀とで少し構成が違うのは、物語作者がどこに笑いのツボを持ってきているか、ネタ帳の違いである(注3)
 焼津が相模に属するという矛盾については諸説に講釈されている。新編全集本古事記は、「ヤキツの地名の起源とみられるが、静岡県焼津市にあたるとみるには地理的に不審が残る。焼津なら駿河で、相模を舞台にするというのと合わない。相模国が古くは駿河まで含んでいたともいわれるが、疑わしく、相模の地名と考えるべきか。「焼遺」をヤキツと読むことにも疑問が残る。」(226頁)とし、西郷2006.は、「神話の語る地誌に、地理学的正確さを求める必要は毫もないと知るべきである。」(74頁)とする(注4)。太安万侶の筆記の智恵に届いておらず、近づこうとする意志も見えない。
 地名であれ、神名であれ、固有名詞である。事柄は言葉と同一であろうと志向した言霊信仰においては、できごとを締め括ることと名を与えることは同一のこととしていたと考えられる。確かな伝本とされる真福寺本に「焼遺」とあるから、太安万侶が「焼遺」と書いたであろうこと、それで意味ある筆記であったこと、また、「焼遣」と書いてあってもそれなりにおもしろい可能性があることを立証しなければならない。そのときはじめて古事記は「読めた」と言えるのだろう。

向ひ火による脱出劇

 古事記の話は向ひ火による脱出劇である。その話の発端は、相武国さがむのくに国造くにのみやつこに騙されて、野のなかに入りこみ、その沼のなかにいるという神を見ようとしたことであった。なぜ、わざわざ相武国なのか。それは、サガムという音に由来する。アマテラスとスサノヲのうけひの場面で、アマテラスがスサノヲの持っていた十握剣とつかのつるぎをカリカリと噛む情景が描かれている。

 佐賀美邇迦美而さがみにかみて、……(記上)
 𪗾然さがみ咀嚼みて、〈𪗾然咀嚼、此には佐我弥爾加武さがみにかむと云ふ。〉……(神代紀第六段本文)

 サガミニカムとは噛みに噛むという意味である。サガム(相武)という言葉は、一生懸命に噛んでいることを伝えているわけである。無文字文化では、言葉は音がすべてであったからそういうこととして受け取られ、そういうこととしておもしろがられた。サガムという国では皆、一生懸命に噛んでいるのである。カムの原義は、米を歯で噛んで酒を造ること、醸すことだから、さぞや酒造りが盛んな地なのだろうという洒落ができている。サガムノクニへ行けば、ヤマトタケルは酒宴を以て迎えられるものと期待していたに違いないと、お話を聞く人は思うのである。言語感覚として飛鳥時代の人に共有されていた。
 そして、新任の国司が任国へ入る時に、国府の役人が国境まで出迎えて饗応する儀式をサカムカヘ(境迎へ・坂迎へ、ヘは乙類)と言い、遠路はるばる帰って来た人を出迎えて饗応することも言った。「相武国……其国造」が出迎えているのだから、当然、饗応されると思っていた。ところが、野のなかに沼があって、そこに得体の知れない神がいると聞かされた。さぞやおもしろい趣向で酒宴を催してくれると思って出掛けてみるとドッキリが仕掛けられていた。まんまと嵌められて焼かれてしまいそうになっている。「迎」えること自体の逆、「逆迎さかむかへ」である。逆さの概念が登場している。

観世音寺の碾磑下石と野火の難の同心円イメージ概念図、右:瓊(龍文璧、中国、戦国~前漢、前4~前2世紀、東博展示品)

 どこまで嵌められているかというと、「於此野中大沼」という語りから騙りであった。沼などない。沼があれば野火に追われても沼の水で助かる。沼がなかったから、沼の代りとなる火除け地を、草を刈り払うことで作っている。「於是先以其御刀-撥草」とある。「御刀」はミハカシと訓む。大刀は古代において、二本の組紐を以て腰に佩かせるものであった。「はかす」からハカシである。このハカシを使って沼の代りになるものを作る。草を刈り払って燃える枯草を無くしたのである。すなわち、地面から燃料となる枯草をがし、まるで沼ででもあるかのようにかした。ハカシ─ハガシ─バカシの連想によって意が伝わるようにできている。無文字時代の人の語感に負っている。
 次に、袋の中から火打石を持ち出して火を打ち出している。火打石は、石英の一種の燧石すいせき(flint)と、炭素含有の一定程度ある鉄とからなる。打ち合わせたときの衝撃で微小な鉄粉が摩擦熱と酸化熱のために火花となって出るが、着火させるのはなかなか難しい。それでも、袋から火打石を出したところでもはや火は打ち出されていると考えられる。打ち出の小槌ならぬ打ち出の火打である(注5)
 国造たちの仕掛けてきた野火とは、サカムカヘ(逆迎)のための迎え火である。対抗する倭建命は、逆に「著向火」けた。ムカヘヒに立ち向かうのに、ムカヒヒを以て処した。そして、草が燃え尽きたところを逃げ道として、迫って来る火の環から脱出している。なぜ、沼を持ち出しているかについて、ヌ(沼)は、ヌ(瓊)、すなわち、玉環のことを表すからでもある。「天沼矛あめのぬほこ」(記上)は、「あま之瓊のぬ〈瓊は、玉なり。此にはと云ふ。〉ほこ」(神代紀第四段本文)と記される。景行記に、「還出」とある「還」字は、「睘は死者の胸に○(環)を加え、上に目を加えて、復活を祈ることを示す字。還とはこれによって生還することをいう。それで往還の意となる。」(白川1995.248頁)という。「たまたま」抜け出せたことは、玉環たまたまの太さ(内径と外径の差)によるという理屈かも知れない。「沼」はヌ(瓊)と一音で訓まれることが期待されていた。

這ひ這ひの体の灰

 そして、さらに、「皆切-滅其国造等、即著火焼。」となっている。野火から逃れて国造たちを切り殺して滅ぼせば、復讐、征服は完了するが、さらに死骸を焼いてしまっている。火葬すると人体は「はひ(ヒの甲乙不明)」になる。

 …… うつそみと 思ひしいもが 灰にていませば(万213)

 はひのヒの甲乙は仮名書きの例がないがおそらく甲類であろう。倭建命は、野火からほうほうの体で逃げ出してきた。音転前の形は「ふ」で、動詞「ふ」の連用形ハヒのヒは甲類である。目には目を、歯には歯を、ムカヘヒにはムカヒヒを、ひにははひを、である。言葉のあやとりをもって上代語は奥深い構造を成していて、言葉のなかで通ずると同時に相手に対しても通じるものになっていた。お話として聞いていてわかりやすく、趣き深くも感じられ、ヤマトコトバを使うことに自負を覚えていたことだろう。
 焼いた遺体は国造であった。景行朝当時、国造制度は確立されていないから記述全体が誤りか、後の時代に潤色されたものであるという主張が歴史学からくり返されている。生産的な議論ではない。古事記は歴史叙述ではない。話(咄・噺・譚)として聞く必要がある。クニノミヤツコのミヤツコという語義は、ミ(御)+ヤツコ(奴)であり、ヤツコとは、ヤ(家・屋)+ツ(連体助詞)+コ(子)、つまり、家の使用人、奴婢を指す。国家奴隷が国造という言葉の原義である。地方では偉そうな顔をしているかもしれないが、中央の役人が来ればへいこらしなければならない。「相武国……其国造」がサカムカヘをするという言葉自体、反逆が陰に控えていると知れるのである。奴隷の蜂起である(注6)
 話として「国造」が登場しているのは、古来、ミヤツコギ(造木)と呼ばれている樹木のことからの連想による。ミヤツコギには二種ある。第一に、ニワトコ、接骨木のこと、第二に、タマツバキ、椿の敬称のことである。新撰字鏡に、「檅〈造木〉・𪳤〈上同〉」、「女貞実 八月採実、陰干、比女豆波木ひめつばき、又、造木を云ふ。」、和名抄に、「接骨木 本草に美弥都古岐みやつこぎと云ふ。」、「女貞 拾遺本草に云はく、女貞は一名に冬青〈太豆乃岐たづのき、楊氏漢語抄に比女都波岐ひめつばきと云ふ〉、冬の月に青く翠にして、故に以て之れを名くといふ。」とある。允恭記歌謡に次のように見える。

 君がき 長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ〈此に、やま多豆たづと云ふは、是今の造木みやつこぎぞ。〉(記87)

 ミヤツコギに二義ある点については疑問とされ、「女貞」をネズミモチと取る説によってさらなる混乱を招いている。角川古語大辞典や日本国語大辞典はネズミモチ説に惑わされている。その点、岩波古語辞典は、「みやつこぎ【造木】①ニワトコの古名。……ニワトコはミヤツコの転。②タマツバキの異称。……」(1276頁)とあり確かである。ニワトコがミヤツコの転とする説も載せている(注7)。木下2010.にヤマタヅについて本草書をたどる精解がある。「ニワトコはミヤツコギのミヤツコがミヤトコ、ニヤトコを経て転訛したものと推定される。」とし、結論として、「万葉集にある山タヅはニワトコとしてよいだろう。また、「山たづの」が「迎へ」の枕詞となるのは、ニワトコの奇数羽状複葉の対生する小葉を見立てたからといい、確かに花期のニワトコを見ると、ツルが飛び立つ姿に似ている……。『新撰字鏡』に「𪳤 〈造木〉」とあるのは国字であるが、まず使うことはない。」(578頁)とする。
 筆者は、ミヤツコギなる名称は、国造くにのみやつこの義と必ずや通ずるものと考える。クニノミヤツコとは行政単位ごとに置かれた国の奴婢、奴隷である。夜になって寝るにしても、自らが造った国衙の宮殿には上がれず、ニハ(庭)にトコ(床)を敷かなければならない。きついジョークである。ニワトコの樹皮は厚いコルク質で、髄は太く柔らかい。それをベッドにせよとでもいうことらしい。ニワトコはヤナギなどと同様、削り掛け(削り花)の材料にされた。ナイフで削って、白い木肌を薄く細長く垂らし、御幣に擬せられた。まさに造り木である。造花の起源の一つとされている。都には絹製品は多いけれど田舎には乏しいから、代用として削り掛けを造るというのである。ニワトコの樹様を見ても、枝ぶり、枝のつき方(つぎ方)はノウゼンカズラにも似て「接骨木」と言うにふさわしい。解剖模型に見るように操り人形のようだから、ニワトコが接骨木であることは確かであるし、国造という地方官が中央政府の操り人形に過ぎないこともよく含意している。

媒染剤としての灰

 ミヤツコギに二義あることは、灰の義に二義あることと照応されるべきである。灰として特段するものには、火葬した人骨や仏舎利のほか、紫染めの媒染剤のそれがある。すなわち、一方は国造、ミヤツコの骨をニワトコの木でつくり、他方は、タマツバキ、すなわち、椿を焼いた灰から灰汁あくを取って紫染めの媒染剤にした(注8)

 紫は はひ指すものそ 海石榴市つばいちの 八十やそちまたに 逢へるたれ(万3101)

 和名抄に、「柃灰 蘇敬曰はく、又、柃灰〈柃の音は霊、今案ふるに俗に所謂る椿灰等は是れ〉有り、木葉を焼きて之れを作り、ともに染用に入るといふ。」、「灰汁 弁色立成に云はく、灰汁〈阿久あく〉、淋灰〈阿久太流あくたる、上の音は林〉といふ。」とある。屋代弘賢・古今要覧稿に、「又此樹を焼て灰となしたるを俗に山灰といふ、此灰は古より紫をそむる料に入るゝ故に、万葉集に、ムラサキ灰指物ハヒサスモノ海石榴市之ツハイイノ  (ママ)とよみたり、今あるものはすべて丹波国山辺郡の内より来るといふ〈国史草木昆虫攷〉」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897549/175、漢字の旧字体は改めた)とある。
 タマツバキと敬称を以て迎えられているのは、葉の形の丸っこいものを指していたか、発色の素晴らしさを褒め称えるための言葉だからだろう。媒染剤の素材は慎重を要する。発色の効果もさることながら、下手な浸け方をするとすぐに繊維が傷む。古代の色の復元の実感は次のように記されている。

 紫草の根を麻袋に入れて揉むと、名水の里である[大分県]竹田市の清らかな湧き水に赤紫色が広がる。山で採った椿の木を燃やし、その灰を媒染剤として使う。植物染は時間を要する。経験による勘とひたすら根気の手作業である。絹の糸綛いとかせにゆっくりと色がついていく様子を、竹田の人びとも食い入るようにみつめている。三日目の夕暮れ、ようやく高貴な色にふさわしい濃紫があらわれた。緯糸よこいとだけでも四百株を使って染めたことになる。(吉岡2007.224頁)

 染め物仕事は「食い入るようにみつめ」るものである。

 河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢こせの春野は(万56)

 この歌の歌っているのは、河の両岸に椿が並びに並んで生えていて、媒染剤の材料が豊富にあることへの喜びである。作者、春日かすがの蔵首くらのおびとおゆは、花を見て飽きないと言っているのではない。肩書にあるとおり、資材調達に奔走していて、ここでは染め物に必要な椿灰を獲得しようとしていた。紫色は冠位十二階の制でも最上位に位置しているほどであり、きれいな色彩に染め上げることが最優先課題とされていた。当然、染めの現場にも立ち会ったことがあっただろう。食い入るように見つめる仕草を目の前に広がる光景に転じさせている。見るだに嬉しくなる光景が巨勢の春野の河のほとりに展開していることを発見し、歓喜して歌にしている。技巧が冴えている。
 媒染剤に灰汁を使う。このアクという言葉は、本来居るべき所、事を表す語幹とされ、ハク、ねがハク、フラク、などのク語法に用いられながら、単独では用いられず、「あくがる」、「あかる」などの動詞のなかに息づいてきたとされている。筆者は、動詞「飽く」の第一義に挙げられる、もうこれでいいと満足する、心に十分に満ちることをいう意が、アクという語の本質を的確に表していると推測する。上の万56番歌の歌において「飽く」という動詞が用いられているのは、染色に関係する者として、「飽く」と「灰汁あく」とが同音だから呼び起こされているのだろう。言葉の上で、アクという言葉がク語法に残存する経緯は、媒染剤自体が繊維上に残るものではなく、色だけが残ることに相同である。同じ現象が起こっている。
 そのうえで、万56番歌を読み直すと、「河上かはのへ」は河の両岸のことだから、顔のつら、横顔が右側左側と両側あるように、「つらつら」に椿があるのであり、顔を左右に振って「つらつらに見」つめ、見とれて飽きないのは、灰汁に事欠かないから嬉しがっている。染色の作業に、布や糸の束を液に浸して左右に揺することも行われている。結果、この歌では、原義に迫るような言葉の乱反射シャワーに酔いしれることができている。
 ヤマトタケルの話に戻ると、遺体を焼いたところが「焼遺」という場所である。灰になるまで焼いた。焼き切った。焼くことが完了している。ヤキ(焼)+ツ(完了の助動詞)ということである。「遺」という字には、のこす、のこる、の意のほか、あぶる、あぶす、の意がある。他に「炙」、「溢」などの字も当てる。したがって、「焼遺」という字面から、火が溢れんばかりにまで焼く、もう火がつかないほどに焼き炙り切る、といった意であると知れる。

サガミニカム

サガミニカム(盛岡市動物公園インスタグラムhttps://www.instagram.com/reel/C5xBI9FsPCr/をトリミング)
石臼(小倉城金山奉行所ジオラマ)(注9)

 上述のとおり、「相武」はさ噛みに噛むこととして認識されていた。噛み続けることをよく表している例として、身近な動物にウシがいる(注10)。何回噛み続けるか数えてみるとわかる。飲み込んだらまた次の草を口にして噛みはじめる。それを繰り返し、餌がなくなると今度は反芻する。胃から戻して噛んでいる。五十回ぐらい噛んで飲み込んでいる。臼歯で磨り潰すために左右にずらしながら噛んでいる。噛み癖があるようで、顎が疲れて来ると反対方向へ動かすこともある。サガミニカムという言い回しが適当である。人間はそれほどまではしない。食べ物に下拵えを施し、牛が噛むことの代りになるようにしている。その機能を担うのはウス(臼・碓)である。アクセントの違い(「うし(牛)」HH、「うす(臼)」LH)から言って別系統の語と思われるが、飛鳥時代の人が洒落として使った可能性は十分にある。国造は、在地の人からは「大人うし」、すなわち、「うしは・うすはく」存在と考えられていたようである。
 ウシ(牛)やウス(臼)の特徴を考えれば、噛むことは噛み千切ることや噛み砕くことではなく、磨り潰すことであると理解できる。臼歯の役割が大きい。臼・碓においても、石の方をウスといい、叩く方はキネ(杵)と別名がついている。碾臼ひきうすの場合は上下ともウスである。その石のように堅い歯で磨り潰すことが、サガミニカムことなのである。石のように堅い臼の箇所でなければサガミニカムことはできない。堅い臼こそ摺り潰すところである。スル(摺)+ガ(処)=スルガ(駿河)である。サガム(相武)とは、すなわち、スルガ(駿河)なのである。無文字時代の口頭言語、音声限定のヤマトコトバでは同じ意味を表している。
 焼津は駿河ではないかとする現代人の地理的認識を古事記に当て嵌めようとする見解はここに崩れる。野火の起こるような草だらけのところとは、草食動物がサガミニカムべきところであり、サガム(相武)であれスルガ(駿河)であれ構わないことになっている。国名として名こそ違え、同じ意味を有している。洒落こそが、上代、飛鳥時代に暮らした無文字文化の人びとの知恵であった。記ではサカムカヘの話として説き起こしたかったから、お酒を噛むことを第一印象としたくてサガム(相武)という設定とした。また、相武と書いた時の相の字が、サガ、兆しを示している。話す当たり、これから始まる難事の予兆の符牒になることから得意になって記したものと思われる。

お盆・伊豆

 国造と倭建命との火の応酬は、「迎へ火」対「向ひ火」であった。ムカヘビといえばお盆の行事が思い起こされる。紀に、「是年より初めて、寺ごとに、四月八日、七月十五日に設斎をがみす。」(推古紀十四年四月)、「盂蘭瓫会うらんぼんのをがみまうく。」(斉明紀三年七月)と見える。盂蘭盆会の仏教的な起源は、梵語のウラバンナ、釈迦の弟子の目連(摩訶目犍連)の母が、あの世(餓鬼道)で逆さまに吊り下げられるように苦しみを受けているのを救おうとしたという話によっている。目連の神通力によって亡くなった母親の姿を探すと、乾き飢えていた。水や食べ物を差し出したが、みな燃えて母親の口には届かなかったという。野火の難同様、逆さにして燃える概念が登場している。本邦では、民俗行事と仏教行事の融合したものになっている。お盆に先祖を迎えるときに焚く火のことで、各家で行う迎え火と、地域共同で行う迎え火がある。迎え火の材料としては、がら(苧殻)、松の根、松葉、ヒノキやシラカバの皮、麦藁などがあり、また、焚く場所も家の前、精霊棚の足下、墓前、道の辻、橋のたもと、川原や海辺などさまざまである。歴史的に多くの習俗が積み重なった結果だろう。
 よく知られた方法は、家の前で、麻幹を焙烙ほうろくの上で焼く。焙烙という語はもとは火あぶりの刑のことである。ウラバンナのことを思い起こさせる。麻幹はスカスカだから、焼いても何も残らないほどに焼け、少しばかり出た灰も軽く、風ですぐ散ってしまう。ご先祖様をお迎えするのに亡くなった時の火葬を思わせず、魂のみの帰還であることを知らせるのに素晴らしい手法である。迎え火で迎えた先祖の霊は、送り火であの世へ送られる。キュウリで作った造り物の馬に乗って速く来られ、ナスで作った造り物の牛でゆっくりと往かれる。遺の字は贈ることである。異本にある遣の字は、やること、派遣の意で、送ることである。ともにオクルと訓む「送」、「贈」、「後(遅)」は同根の語である。牛の造り物に乗ってゆっくりお帰りになるのは、相武という名の地がサガミニカム動物をイメージしていたこととよくマッチする。加えて、動物が造り物である点が、造り物にする材料の木、ミヤツコギ=ニワトコのことを思い起こさせる。また、牛の場合、材料がナスである点から、紫色を思い起こさせる。和名抄に、「茄子 釈氏切韻に云はく、茄子〈上の音は荷〉は一名、紫瓜子といふ。崔禹食経に云はく、茄〈奈須比なすび〉は味甘くゑぐし〈唐韻に力減反、醶は䤘醋味なり、䤘の音は初感反、酢味なり。俗に醶を恵久之ゑぐしと云ふ〉、温にして小毒、蒸し煮、また水を以て之をかもし食ふに快き菜と為すといふ。」とある。「紫瓜子」とあり、紫色であることが明記されている。今日はナスコン(茄子紺)と通称されるが、上代には紫の範疇に捉えられていた。
 倭建命の向火の話はお盆の迎え火と奇妙な共通性を伝えている。自分からみて火を向うへやるから「向ひ火」なのであるが、お盆の行事では、ご先祖様をお迎えするのがムカヘビ、お送りするのがオクリビである。記には、「著向火而焼退、[倭建命]還出皆切-滅其国造等、即著火焼。」とある。「向ひ火」は脱出のための方便で、この世へ還って来ている。そして、切り滅ぼした後、火をつけて焼いている。これが送り火である。国造は生身の人間だから、麻幹や媒染剤のための灰汁用の椿を焼いた時のように粉末状の灰がわずかに残るのではなく、ミヤツコギ=ニワトコのようなごつごつした骨が残る。そこがお盆の行事と違う。焼いてものこるから、焼津の地名表記としては「焼遺」がふさわしいことになる。
 紀にある「焼津」の字面から受け取れる印象は、船の停泊場である津が焼けている様子である。実際の火災現場を思い描けば、船や船着場の渡り板などは焼け落ち、ただ杭ばかりが黒く燃え残って立っていることになる。桟橋の情景が精霊棚と似ている点も注目される。精霊流しの光景を思わせ、迎え火であれ送り火であれ、どこから流れつくのか、あるいは、どこへ流しやるのかと言えば、いずれもあの世である。あの世とは何処いづこ・いづくとも知れないところである。何処の「いづ」と同音に、地名の伊豆がある。「伊豆手いづてふね」(万4336)「伊豆手の船」(万4460)とあるのは、それほどまで遠い所へも通うことのできる船との形容だろう。
 島流しは名例律に「」とある。その配所に遠中近の三流が規定され、延喜式・刑部省式に、伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐などを遠流、信濃・伊予などを中流、越前・安芸などを近流と分けている。平治の乱で源頼朝は伊豆国の蛭ヶ小島に流された。記紀の国生み神話において最初に生まれた蛭子は葦の船に載せて流しやっていたから、それにちなみ、蛭ヶ小島のある伊豆は秋津島に含まれない遠いところと思われたのだろう。
 古事記の倭建命の東征でも、伊勢→尾張→相武(焼遺)→走水→足柄(坂本)→甲斐(酒折宮)→科野→尾張へと移動している。東海道は、それが陸路であれ海路であれ、駿河の先は伊豆、相武と続く。上のヤマトコトバの解説により相武と駿河は同じ意味としても、陸路だと、伊豆を避けて富士山の麓から箱根山の北側の足柄峠方面へ進んだと想定されていることになる。伊豆は半島で、島流しに等しい隔絶感があった。刑部省式に、「伊豆。〈京を去ること七百七十里。〉」と記されており、「遠流」のうちでは都に最も近いが、伊豆は何処いづこ・いづくとも知れない遠い国の象徴とされて筆頭に挙げられている。
 東国、また、伊豆へ向かおうとする地に焼津は位置し、分岐点的な地と考えられたようである。やき(キは甲類)とあき蜻蛉あきづ)(キは甲類)は音が良く似ている。駿河、相武、武蔵は、東海道中である。しかし、伊豆はそのルートから外れると思われたに違いない。出てしまうから「づ」という。そこへ流し遣られて遺されると、投げ遣りな気持ちになって遺書を書きたくなる。心持ちは焼け糞といってもいい。秋津たるトンボの焼け遺りが焼津で、火刑の際の思わず知れずの脱糞が伊豆国である(注11)。まさに送り火であの世へ送られるような気分である。不安な気持ちを代弁して、「焼遺」、ないし、「焼遣」という用字が考案されたとも考えられる。古代の文化地理的な観念を物語る興味深い事例であり、現代の歴史地理学の視点だけではカバーしきれない(注12)。人は言葉によってものを考える。当時の言葉はヤマトコトバであった。

左:伊豆国図(江戸時代、19世紀、編脩地志備用典籍、慶応乙丑、東博展示品)、右:行基図(拾芥抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2580206/63~64をトリミング合成)

シホによる念押し

 「焼遺」という字面は記では他に仁徳記に一例見える。「遺」は、のこる、の意である(注13)
 [枯野]の船、破れこほれて、塩に焼き、其の焼けのこれる木を取りて、琴を作るに、其の音、七里ななさとひびきき。(茲船破壊以焼塩、取焼遺・・琴、其音響七里。)(仁徳記)
 焼け遺りは「余燼もえくひ」(応神紀三十一年八月)であり、燃杭のことである。上に述べた「焼津」の印象と同じである。木造船を焼いて燼が残るとは、塊状の木の部分であり、かつ、クヒと呼ばれていたところ、すなわち、艪杭である。舷に凸状の艪杭を設け、艪には受け口を抉ってすっぽりと嵌め、前後左右に動かしても抜けずに梃子が効くようにしてある。「くひ」(ヒは甲類)だから「くひ」(ヒは甲類)、食いついて離れない。何度も何度も艪を漕ぐ姿は、杭の部分がまるで臼になっていて、何かをサガミニカムことに譬えられよう。また、「燃え」の同音に「萌え」がある。話は「枯野」のことであり、冬の終わりに野焼きをして枯草を燃やし、若草の萌え出るのを助けている。「萌ゆ」とは草木の芽吹きのことをいい、なかったところから現れること、すなわち、「出づ」のことである。「焼遺」はヤキ+イヅの意で、ヤキヅと訓むことが再確認される。地名から野火があること、ないしは火を放つことが予測されている。話のオチ(サゲ)としての効果を狙い、物語の終わりに示している。
 後日談として走水においてオトタチバナヒメ入水の話が出てくる。彼女は辞世の歌を詠んでいる。

 さねさし さが小野をのに 燃ゆる火の なかに立ちて 問ひし君はも(記24)(注14)

 「燃ゆる」のは「萌ゆる」ためであると掛けている。「焼遺」のオチの後に出てくることから盂蘭盆会の目連の母の話に通じ、また、「枯野」の船の逸話をも含意する可能性さえある。
 上の仁徳記の記事は次のように結ばれている。

 爾くして、うたよみして曰はく、
 からを 塩に焼き が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良ゆらの なか海石いくりに ふれ立つ なづの木の さやさや(記74)(仁徳記)

 景行記の「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火」とは、「塩に焼」くこと、製塩のことを背景として説話化されているようである。相武国の国造が、「於此野中大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」と言っていたのは、この炉の中に坩堝があって水がたくさん入っている、その水の中からはちはやふる神のようなマジックでやがて塩が生れるのだ、だから塩は神さまに捧げられる、との前提によるのだろう。
 製塩土器は各地から出土している。延喜式・主計上に、調・庸としての塩の生産地としては、東海道に伊勢や尾張、参河まであげられるが、相模や駿河、伊豆はあげられていない。遠いところから都まで運ばずとも間に合うから自給せよということらしい。野に枯れ草(干し草)が余るほどあるとは、サガミニカム牛の餌に十分である。とはいえ、いくら干し草があっても塩がなければ病気になる。今日、牛を飼うときには鉱塩を与えている。つまり、お話の底流に、枯れ草を少しは塩焼きに使い、塩を与えたほうが賢明であると伝える意図があったようである。
 そして、紫の色を紫根で染めるのに、いくしおも繰り返して染め上げる工程を知っていた人にとっては、シホという言葉についての深い知恵が思い起こされたことだろう。古典基礎語辞典に、「シホという語形をもつ語には、①[満ち干する海水]②[食塩]のほかに布を染料にひたす回数、という意味のシホ(入)がある。潮の満ち干によって、海浜や岩礁などの海中に没したり、姿を現わしたりを繰り返す。この現象は布が染料に浸されたり、染料から出されたりの繰り返しとよく似ていることから連想して、この意が生じた可能性がある。そうであれば、染色関係のシホ(入)もに潮・塩と語源が同じということになる。」(604頁、この項、北川和秀)とある。名解説である。古代染めの紫根や紅花で染める手順では、何シホ(入)目かに至ってこれぞという色合いに染まる到達点が見られる。「食い入るようにみつめ」る所以である。
 景行記の「焼遺」という表記は、倭建命の「相武」の野火の難の説話を一等おもしろくするために、太安万侶が工夫を凝らして書いた上代文学の筆記のなせる技であった。その後の時代の人々は、文字を覚えてしたり顔となり、文字と言葉とが一対一対応の記号変換であると錯覚して憚らなくなった。記紀説話を論じる時にも、使われているヤマトコトバ自体を顧みることが少ないのが現状である。上代の人々が何を、いかに考えていたのか、その真相はほとんど明らかになっていない。

(注)
(注1)仁藤2001.の「注」に、「用字については「焼遺」「焼遣」とする写本もあるが、津の古字を誤写したものと考えられる。(日本思想大系本『古事記』岩波書店、一九八二年、一八二ページ、西宮一民説)」とする。「津」の古字「〓(之繞に𦘔)」の誤写説についての論考としては、福島2002年.がある。古事記の地名譚であれば、「故号其地謂○○也」と記されるはずだが、ここには、「故於今謂焼遺也」とあり、仲哀記に、「故於今謂気比大神也」とあるから、火難の記事を締め括るに相応しい表現であろうとしながらも、用字については不明なので「津」の古字との関係を指摘している。
(注2)本文校訂はそればかりで完遂することはない。必ず読む姿勢が求められる。その際、当時の人々がどのように考えたか、暮らしの常識を見定めないと的外れなことになる。参考文献参照。
(注3)記紀の差異について、筆者のように記紀に所載されているのはお話(咄・噺・譚) story であって history ではないと捉える考え方は稀である。多くは自らの立場を補完するために隣接諸学の助けを得ようとし、結果、袋小路に陥っている。参考文献参照。
(注4)東海道は海によって進んだとする海道説があり、焼津が相模国にあるとする混乱が起こったとも言われる。しかし、東海道海道説が古事記に反映されて説話化されたと仮定しても、ヤマトの人たちの間で焼津が駿河国ではなく相模国に属すると認識されていたとは考えにくい。海上の感覚によっても、焼津は駿河国に属すると考えられて然るべきである。伊豆半島(伊豆国)をぐるっと廻って「相武国」に属するとは思いにくい。焼津は重要な港だから地名譚として成り立つから、駿河国に所在することは知られていたのではないか。海岸伝いに目印を見ながら航行していた古代の航海法からして、駿河湾から見た富士山と、相模湾から見た富士山の、距離、方角を取り違える船乗りはおらず、間違えようがない。もし間違えたら遭難する。
(注5)「打ち出の小槌」という言葉が上代にあったという保証はない。ただし、大国主命は古事記に描かれており、それがすなわち大黒様であることは疑われずに今日に来っている。神仏習合は仏教伝来と同時に始まった。そのように始めなければヤマトの人たちに仏教とは何か理解することはできない。「蕃神あたしくにのかみ」(欽明紀十三年十月)とあって自然である。
(注6)ヤマトタケルの東征説話を国造層の征服物語と捉えるのは、言葉のあやの理解として誤りである。また、記紀の説話には、同じような件が波状的に表れているように受け取られる個所が散見される。この部分も、二度目の征討が邇々芸命の二度目の降臨と似ていると整理されることがある。しかし、そう指摘することで何が得られるのか不明である。
(注7)ミヤツコギと関わるタマツバキについては、時代別国語大辞典に、「もくせい科の常緑低木でたまつばきと称するものに当たる。」(717頁)とする。本草和名の「女貞 〈美也都古岐みやつこぎ、一名、多都乃岐たづのき〉」の、「女貞」を採った新撰字鏡に難があるのだが、ヒメツバキ、タマツバキといっていて、ツバキに類するところまで迫っている。
(注8)原色染色大辞典に、媒染とは、「繊維に直接染着性のない染料(媒染染料[=繊維との結合力が乏しく金属塩を媒介剤とする染料])の染着の媒介をすること。又、媒染をする薬剤を媒染剤という。繊維を媒染染料で染色する場合、予め繊維を薬剤で処理し、繊維に薬剤を吸収させてから染色する必要がある。」(823頁)とある。つまり、媒染剤とは、布と染料の仲立ちとなって、水に溶ける染料を繊維に色止めし、色出ししてくれるものである。紫色を染めるのには、紫根、ムラサキ科の紫草の根茎を用い、そのなかに含まれるナフトキノン類のシコニンという含有色素が、灰汁媒染によって紫色の色調を発色することによるとされている。今日、アルミナ媒染では、ミョウバンと炭酸ナトリウムを応用している。
 吉岡2002.に、「つぎに媒染ばいせんにうつる。椿は、生の樹の枝と葉を刈りとって、二、三日置く。それを然やして、白い灰の状態で保存しておく。染色をする数日前に、熱湯を注いでからよくかきまぜ、火の成分を十分に溶出させる。この上澄み液(灰汁あく)にはアルミ分が含まれていて、紫を発色させる、つまり媒染剤の役割をするのである。その椿灰の灰汁を水に溶かして媒染の浴槽をつくり、紫根染を終えてよく水洗いした絹布を入れて、ゆっくりと繰る。三十分あまりのち、別の水槽でよく水洗いする。このような紫根染、水洗、媒染、水洗の工程を何日も繰り返すわけで、「深紫」にするには、私の工房では、少なくとも五~七日間を費やす。もちろん、毎日、新しい紫根を使って、朝から石臼で搗く、揉む、という工程を繰り返すのである。」(78~79頁)とある。
(注9)紀には、「曇徴どむてうは五経を知れり。また能く彩色及び紙墨を作り、并せて碾磑みづうすを造る。蓋し碾磑を造ること、是の時に始まるか。」(推古紀十八年三月)、「是歳、水碓みづうすを造りて冶鉄かねわかす。」(天智紀九年是歳)と記されており、太宰府の観世音寺には「碾磑」が残っている。記に「」とあるところから、筆者はサガミニカムことを石臼に見ていると考える。天智紀の例からミヅウスを水力仕掛けの臼とする説もあるが、みづなる臼の謂いとも捉えることができる。本邦では長く行われず、鎌倉・室町時代に一般に普及したとされている(三輪1978.)。粉体に加工する摺臼としての石臼は、搗き臼の杵の形状によって代用可能であったことが大きく影響するとも指摘されている。古代において技術革新の成果として知られていたのか確かめることはできず、その技術をベースに説話が作られたと断定することもできない。ただし、野火の難の話にははっきりと火打が出てきている。石と鉄からなる熱を発する道具である。石臼の摺りの摩擦熱も侮れないものがあり、本文の概念図に示したとおり、摩擦熱(サガミニカム石臼)には摩擦熱(火打ち)を、石()には石(火打石)を、の対処であったとする話に仕立てられていると考えるのが合理的であると考える。
(注10)牛は古墳時代後期に本格的に大陸から移入され始めているから、この話もそれ以降に創られたものと考えられる。時代考証として四世紀とも目される景行朝とは合わない。記紀の話は飛鳥時代に通行していた話(咄・噺・譚)であって今日考えられるような歴史叙述ではない。
(注11)拙稿「蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─」参照。
(注12)行基図と呼ばれる古い日本地図に、伊豆は本州に食いこまれるように描かれている。盂蘭盆会の話のもととなった逆さ吊りの形をそこに見たかはわからない。説話の話し手、聞き手がその認識を共有していたかどうかも不明である。
(注13)拙稿「枯野伝説について」参照。
(注14)「火中に立つ」影を描いているのは、先に述べたように、「遺」の字義に、あぶる、あぶす、があることによる。同義の「炙」、「溢」は、アブル、アフルを常訓とし、新撰字鏡に「漝 以舟反、上、溢也。弥知阿夫留みちあふる」、康煕字典に「漝 〔集韻〕席入切、音習、影也。一曰、滀漝水貌」とあって事情がのみ込める。

(引用・参考文献)
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新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
鈴木2024. 鈴木正信「廬原国造と珠流河国造のクニ─ヤマトタケル焼津火難伝承の前提として─」『成城文芸』第264号、2024年4月。成城大学リポジトリ https://seijo.repo.nii.ac.jp/records/2000407
仁藤2001. 仁藤敦史「ヤマトタケル東征伝承と焼津」焼津市総務部市史編さん室編『焼津市史研究 第2号』焼津市、平成13年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部『日本国語大辞典 第二版 第十二巻』小学館、2001年。
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吉岡2007. 吉岡幸雄『日本の色を歩く』平凡社(平凡社新書)、2007年。
和田1988. 和田萃「東国への海つ路」上田正昭編『探訪古代の道 第二巻─都からのみち─』法蔵館、1988年。
Victoria and Albert Museum「In Search of Forgotten Colours – Sachio Yoshioka and the Art of Natural Dyeing」 https://www.youtube.com/watch?v=7OiG-WjbCQA&feature=emb_logo(2026年4月1日確認)

加藤良平 2020.8.11改稿初出、2026.4.7再改稿

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