安騎の野の歌、「東野炎立所見而反見為者月西渡」(万48)について

 万葉集、安騎野歌群は議論がかまびすしい。はじめに歌群の原文を示し、今日の一般的な訓読を載せる。

  軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌
 八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須等太敷為京乎置而隠口乃泊瀬山者真木立荒山道乎石根禁樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去来者三雪落阿騎乃大野尓旗須為寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而
  短歌
 阿騎乃野尓宿旅人打靡寐毛宿良目八方古部念尓
 真草苅荒野者雖有葉過去君之形見跡曽来師
 東野炎立所見而反見為者月西渡
 日雙斯皇子命乃馬副而御猟立師斯時志来向(注1)

  軽皇かるのみ安騎あきの野に宿りし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌
 やすみしし 吾が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと ふと敷かす みやこを置きて 隠口こもりくの はつの山は 真木立つ 荒きやまを いはが根 さへ押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへおもひて(万45)
  短歌
 安騎の野に 宿る旅人 うちなびき も寝らめやも 古念ふに(万46)
 ま草る 荒野にはあれど 黄葉もみちばの 過ぎにし君が 形見とぞ来し(万47)
 ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(注2)(万48)
 なみしの 皇子のみことの 馬めて 御猟みかり立たしし 時し来向ふ(万49)

 安騎の野歌群については、これまでにも何のために宿りに行ったのか検討されてきた。狩猟の折の野営であるとする説が有力視されている。第四反歌に「御猟」とあるからそう考えられているが、それにしては「宿」りのことばかりを歌っている(注3)。他には招魂・鎮魂儀礼、大嘗祭、鎮魂祭、即位への通過儀礼、成年式、郊祀など、古代の祭式や儀礼が基底にあったものとする説が提出されている。このうち、もっとも想定しやすいのは成年式である。このときの主役は軽皇子で、後に文武天皇として即位し、景雲四年(707)に二十五歳で没している。持統七年(693)頃かと推定されている安騎野の野宿の時点では十一歳ということになる。天皇の位に就くまで四年ほどあり、天皇位と関係する大嘗祭や郊祀は除外されよう(注4)。そしてまた、何らヒントもないままに題詞が記され、左注も付されずに疑問なしとして万葉集に編纂されていることから、当時の人にとってよくわかることであったと考えられる。わかるとは、当時の人の常識の範囲内の行動であるということである。当時の人の常識は、今日、第一にヤマトコトバで説明され得ること、そして同時に、記紀に伝えられている逸話のなかに描かれていることである。無文字時代の言葉は、それを担保する文字を持たないから説話や歌謡の形をもって伝えられていた。
 記紀に記されている話のなかに、応神天皇がまだ太子おほみこの時に、高志前こしのみちのくちつの鹿みそぎのために巡幸したという記述がある。安騎野の宿りも、目的は似たようなことと考えられる。成年式というのに軽皇子は若すぎないかと心配するには及ばない。応神天皇の太子時代の巡幸も、「我に御食みけ給へり」などと言って喜んでおり、年齢的には同等であろう。万49番歌に「御猟」という語が出ては来るが、その時が来たとばかり言っていて「御猟」をしたとは言っていない。天武紀に「そのに、菟田うだ吾城あきに到る。」(天武紀元年六月)とあり、奈良県宇陀郡の小地名として安騎はある。以前のことを追想していることに違いはないが、だからといって軽皇子、後の文武天皇が、歌が歌われたときに実際に「御猟」をしたことは確かめられない。数え年で十一歳ぐらいで、弓矢での狩りの頭領となることは難しい。
 反対に、安騎の野に禊ぎの場所があるかと言えば、川が流れていない水がかりの悪い所を「野」と言うのだから、実際に禊ぎの作法が行われたとは考えにくい。とはいえ、応神天皇の場合も、「禊せむとて(為禊而)」(仲哀記)行っただけであり、実際に水を浴びたり浸ったりしたとは記されていない。歌の場の設定として記される題詞には、「軽皇子宿于安騎野」とあって、あきらかに「宿」りそのものが歌意を拘束するように「定義」されている。狩猟前夜の出来事として片づけてしまうことでは理解は深まらない。他に目的は考えにくいので、何かしら皇太子時代の応神天皇と同様の行動がとられたものと考えられる(注5)
 応神天皇が角鹿へ行って実際に得られたことは、「名」についての確認であった。「我に御食みけ給へり」と言って合点が入っている。彼はナという名を持っており、それを自らのものとして認識、確認し、アイデンティティたり得たのが、角鹿禊ぎ巡幸であったと筆者は考えている(注6)。すなわち、呼ばれるものとしての名に加えて、呼ぶものとしての名を獲得したのである。シニフィアンとシニフィエが結びついた時(?)、まぎれもなく一つの言葉として成り立つこととなった。祭式・儀礼の観点から言えば成年式ということになるが、今日的解釈では青年心理学におけるアイデンティティの獲得作業と言ったほうが理解しやすいであろう。そういう話として安騎の野歌群を捉えるなら、軽皇子も自らの名を自らのものとして受け止めて、自ら発するに足る力を得る機会であったと定められよう。
 軽皇子と呼ばれているのがどういう意味なのか自得したのである。カル(軽)なのだから、野に出かけて、草をカル(刈)ことが行われたのである。一人前の大人になるということは、自らが名を体現するということである(注7)。古代においては、名に負う存在が社会的人格としてアイデンティティとされていた。名負氏という言葉で知られるように、名に負うことで人はコト(事)がコト(言)となり、はじめて社会に Sein している。皇子とて同じことで、自分の名をきちんと自らが負っていることを自覚して、ようやく一人の成人として確かになる、同一性を得られると考えられていた。
 イニシエーションに当たることのために、皇子の立場の人が野へ出掛けて行って草刈りをしたのには先例がある。記紀の逸話のなかで明瞭な話がひとつ語られ人口に膾炙している。ヤマトタケルの野火の難の逸話である(注8)。古事記では、ヤマトタケルが相模国に到着した時、そこの国造がヤマトタケルを滅ぼそうと偽りを言って野に誘い出し、火を放って焼き殺そうとした。その時ヤマトタケルは、刀を使って草を刈り払い、火打石で火を打ち出して迎え火をつけて反対に焼き払って危機から脱出した。知恵と勇気を兼ね備えた大人であることを証明した対応であった。出発前には、天皇のたびたびの派兵命令に、「既に吾を死ねと思ほす所以は何」(景行記)などと泣き言をこぼしている。伊勢大御神の祭祀に当たっていた叔母のヤマトヒメに対してである。天皇の命に従わずに皇子の立場はあり得ない。スメラミコトのミコト(命令)の体現者でなければ、皇子に付けられ呼ばれているミコト(命)という称号が泣くことになる(注9)。したがって、今回の安騎の野の巡幸も、成年式として仕組まれているとわかる。カル(軽)の皇子と名に負っているから、カル(刈)ことが成年式の第一目標なのである。
 安騎の野の歌群の解釈は完全に改められなければならない。題詞に記されていることは「宿」りである。草を刈って草葺きの仮小屋、廬を作ってキャンプをしている。すなわち、草を刈ることが第一目標である。野火の難に知恵と勇気で対処できますよと証明して見せることが肝要である。カル(狩)ことはついでにあったかもしれないが、ヤマトタケルは狩りをしてひとかどの成年となったわけではない。安騎の野の「宿」りがヤマトタケルの野火の難の話に由来していることは、他の歌にもきちんと詠み込まれている。

 …… 安騎の大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへおもひて(万45)
 安騎の野に 宿る旅人 うちなびき も寝らめやも 古念ふに(万46)
 ま草る 荒野にはあれど 黄葉もみちばの 過ぎにし君が 形見とぞ来し(万47)

 ここでわかることは、「いにしへ」という言葉が、軽皇子の父君である草壁皇子を表しているのではなく、ヤマトタケルのことを指している点である。ムカシ(昔)とイニシヘ(古)はヤマトコトバで意味合いに相違がある。心理的に自分とつながりがある過去はムカシ、つながり得ない過去はイニシヘである(注10)。旅人が寝付けなかったのは、伝承にしか知りえないヤマトタケルの野火の難のことを思っていたからであり、火に巻かれないように寝ずの番をしていたためである。そしてまた、ヤマトタケルの一連の征東譚の締めくくりで「あづまはや」と慨嘆したと伝えられている。その言葉にまつわる話として、坂の神が白鹿に変身していてヤマトタケルは戦っている。鹿の目にひる(ヒは甲類)を当てて殺している。記では言葉の由来として、紀では後日談として語られている(注11)

 そこより入りいでまして、ことごとく荒ぶる蝦夷等をことけ、亦、山河の荒ぶる神等かみたちたひらやはして、還り上り幸す時、足柄あしがらの坂本に到りて、御粮みかれひす処に、その坂の神、白き鹿にりて来立つ。しかくして、即ち、其の咋ひ遺せるひるの片端を以て待ち打てば、其の目にあたりて、乃ち打ち殺しき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎きてりたまひて云はく、「あづまはや」といひき。故、其の国を号けて阿豆麻あづまと謂ふ。(景行記)
 時に日本武尊、つね弟橘媛おとたちばなひめしのひたまふみこころまします。かれ碓日嶺うすひのみねに登りまして、東南たつみのかたおせりてみたび歎きて曰はく、「づまはや」とのたまふ。〈嬬、此には菟摩つまと云ふ。〉故、因りて山の東の諸国もろもろのくにを号けて吾嬬国と曰ふ。……則ち日本武尊、信濃に進入いでましぬ。是の国は、山高く谷ふかし。あをたけ万重とほくかさなれり。人つゑつかひてのぼり難し。いはほさがしくかけはしめぐりて、たかたけ数千ちぢあまり、馬頓轡なづみてかず。然るに日本武尊、けぶりけ、霧をしのぎて、遥かに大山みたけわたりたまふ。既に峰にいたりて飢ゑて、山のうちみをす。山の神、みこを苦しびしめむとして、白き鹿かせきりて王のみまへに立つ。王あやしびたまひて、一箇ひとつ蒜を以て白き鹿をはじきかけたまふ。則ちまなこあたりて殺しつ。爰に王、たちまちに道をまどひて、出づる所を知らず。時に白きいぬ自づからまうきて、王を導きまつるかたち有り。狗に随ひて行でまして、美濃に出づることを得たまふ。吉備武彦、こしより出でてまうあひぬ。是より先に、信濃坂をわたひとさはに神のいきを得てえ臥せり。ただ白き鹿を殺したまひしよりのちに、是の山をゆる者は、蒜をみて人及び牛馬に塗る。自づからに神の気に中らず。(景行紀四十年是歳)

 安騎の野での宿りにおいて、当面の課題は眠くても寝ないでいることである。目にヒルを当ててしまうぞという笑い話の脅しにより、誰もが寝ないでいたらしい。誰もの目がひる(ヒは甲類)のつもりになって開けていることを意味している。蒜のエキスが鳥目を治して昼を呼ぶ目薬だったかという実際問題は別として、そういう意味のことを音声として歌っている。言葉として「わかる」からそうしている。
 「黄葉もみちばの 過ぎにし君」というのもヤマトタケルのことで、その「形見」とは、「野」をお膳立てとするということである。原文に「葉」とあるばかりであるが、スギ(過)と続いているので「黄葉もみちば」に当たる。葉っぱが赤や黄色に染まることは季節が秋から冬の初めにかけての謂いであるとともに、燃える炎をイメージさせている。モミチバ(ミは甲類)という音から気づかされるのは、火を付けるに当たって燧杵と燧臼を用いて熾す時、燧杵を手の中で揉み揉みして火の気を熾すことが思い浮かぶ。わずかな火の気をおが屑や乾いた葉に燃え移らせて火を確かなものにする(注12)。その材料には、すぎ(ギは乙類)の枝葉を伐って乾燥させたものが好都合であった。だから、スギ(過、ギは乙類)という言葉が続いていて納得がいくようになっている。
 このような考えにしたがい定訓が得られていない万48番歌を解釈し直す。

 東野炎立所見而反見為者月西渡
 あづまはや 野火のび立つ見えて 返しけむ しかせば月は 西に渡らむ(注13)

 ヤマトタケルが野火の難に立ち向かっていたところは、あづまの国である。 全てを征服して帰還するにあたり嘆息している。「あづまはや」である。当時の人にとってこのヤマトタケルの物語が常識として共有されているものであったとすれば、歌の表記に、ただ一文字「東」と記すだけで「あづまはや」と訓まれるであろうことは納得される。「炎」という字面を見てケブリ(煙)のことであると考えるのは誤りである(注14)。野火の話だからである。また、カギロヒ(蜻火)と訓むことも、それは「燃ゆ」るものであって「立つ」ものではないので適当でない。記紀とも「野火のび」という語が用いられているわけではないが、上代にその語があったことは確かである。

 …… 蜻火かぎろひの 燃ゆる家群 妻が家のあたり〔迦藝漏肥能毛由流伊幣牟良都麻賀伊幣能阿多理〕(記76)
 …… 蜻火かぎろひの 燃ゆる荒野に〔蜻火之燎流荒野尓〕 ……(万210)
 …… 高円山に 春野焼く 野火のびと見るまで 燃ゆる火を〔高圓山尓春野焼野火登見左右燎火乎〕……(万230)

 ヤマトタケルは野火が迫り来るのを見、欺かれたと思って対処した。反対に火を放って返している。事の次第は記紀に見えるとおりである。敵が仕掛けたことを捉え返すことで難から逃れている。その術を身に着け、実践することが、ヤマトコトバのなかで生きていく「大人」になるということであった。記紀では東征後にミヤズヒメのところへ戻っている。征服し折り返して還って来ていて、月日は流れている。
 「反見」は「返しけむ」と訓む。「見」という字はミ(甲類)の音との結びつきが極めて強い用字であるが、「反」字は、反切の意でカヘシと訓む例が知られる(注15)。反切を示唆するとすれば、「見」字を音読みしているものととることができる。類例として、「監」「兼」「険」などがあり、ケムと訓んでいる。野火が立っているのを見て野火を立てて返したのだろう、という意味ばかりか、東征をし終って歩を返したのだろう、その途中での苦難を「あづまはや」の一言に込めて言い放ち、無事成年となったのであろう、という意まで拡張的に含んでいる。
 そのことが、今回、軽皇子に求められた課題であった。ヤマトタケルがその状況下でとった行動は草刈りであった。カル(軽)の皇子、お分かりですね、と皇子にもその一行にも歌い聞かせている。そして、寝ずの番をしている様子を、もう少し頑張って続けていけば、やがて時は流れ、月は西に渡っていくだろう、夜は明けるだろうと言っている。
 「為者」はシカセバと訓む。シカスがそのようにするの意の「然す」と、四段動詞「敷かす」の意とを掛けることになっていて正しいと考えられる。ヤマトタケルはそのようにして対処して東国を征服して帰還することができた。最後には、坂に白い鹿が現れてそれを退治して征東は完了している。蒜を目に当てたという話である。発した歎息が「あづまはや」である。そのようにして、の意味のシカセバのなかに、シカ(鹿)という言葉が含まれていてわかりやすい。そして今、軽皇子は、草刈りしたその草を尻にお敷きになって一晩お過しになっている。

 天地あめつちの ともに久しく 言ひ継げと この奇し御魂 敷かしけらしも〔志可志家良斯母〕(万814)
 …… 神ながら 神さびせすと ふと敷かす〔太敷為〕 みやこを置きて ……(万45)
 やすみしし 我が大君の 高敷かす〔高敷為〕 大和の国は ……(万1047)

 「然せば月は 西に渡らむ」は、順接の仮定条件で、既定的事実についてそれを仮定的に条件としている。対して、「敷かせば月は 西に渡らむ」は、順接の確定条件で、二つの事柄が原因と結果の必然的な関係であることを示している。いにしへにヤマトタケルはそのようにして、月は西へと進んだのであろうといい、また、今に軽皇子は草をお敷きになっていて、月は西へと進むであろうと言っている。二つの意味を掛けて歌うことで、イニシエーションの正当性を説いている。
 方角名に下接させて「渡る」という例はあまり見られない。「渡る」方角は決まっていることが多いからだろう。春になって雁が渡っていくのは北に向けてである。決まっているから語られない。記紀のなかでは、「遂以埴土舟、乗之東渡、到出雲国簸川上所在、鳥上之峯。」(神代紀第八段一書第四)とある。新羅から出雲へ向かおうとして言っている。この歌での「月は西に渡らむ」という言い方は、眠い目をこすりながら頑張って起きていてくださいね、と鼓舞するための言葉である。時間が経てば月が西方へ進むのは当たり前である。また、一週間ほど経過すれば走水、浦賀水道の流れも、潮汐の関係から小潮になって緩やかになるものである。その時、月の形が変わっているのも当たり前である。それをわざわざ言っているのは、わざわざ言うことが歌の眼目だからである。子供じゃないのだから言われなくてもわかっていると言い返すことは、まだ半分子供の大人げない発言ということになる。ぐうの音も出ないように、がんじがらめに二重拘束的に、儀礼と言葉が仕組まれている。事=言の時代が上代であった。
 時に軽皇子は十一歳ほどである。もう子供じゃないのだということのために、安騎の野に宿るというイニシエーションに臨んでいる。だからわざわざ当たり前のことを歌い、参加者は皆でおもしろがっているということになる。ここに至り、題詞をふくめた全体構図のなかに、この歌がきちんと位置づけられていると理解できる。
 シカセバを「為者」と書いたことの傍証となる表記を示しておく。

 勝間田の 池は我れ知る はちすし しか言ふ君が〔然言君之〕 鬚無き如し(万3835)
 荒礒ありそ超す 浪はかしこし しかすがに〔然為蟹〕 海の玉藻の 憎くはあらずて(万1397)
 おも忘れ いかなる人の るものそ 我れはしかねつ〔言者為金津〕 継ぎてし思へば(万2533)
 百足らず 八十やそ隈坂すみさかに 手向たむけせば〔手向為者〕 過ぎにし人に けだし逢はむかも(万427)
 大原の このいち柴の いつしかと〔何時鹿跡〕 吾がおもふ妹に よひ逢へるかも(万513)
 我当為 栄危反、玉篇、敷施也、亦、栄僞反、助也、因也、字従爪。(玉篇逸文、一切経音義・巻第二十七)
 為(爲) 会意。象と手(ゆうそうとを組み合わせた形。象の鼻先に手を加えて、象を使えきするの意となる。「なす、もちいる、つくる、しわざ」の意味に用いる。いんの時代には長江以北にも象が数多く棲息せいそくしていて、象を使って大きな土木工事をし、宮殿などをつくっていたと考えられる。(白川2003.10頁) 

 玉篇逸文を載せる一切経音義は、法華経譬喩品の三車火宅の話の箇所、「是舎唯有一門、而復狭小。諸子幼稚、未有所識。恋著戯処、或当堕落、為火所焼。我当為説怖畏之事。此舎已焼、宜時疾出、無令為火之所焼害。」(妙法蓮華経・譬喩品第三)である。火の車になっている火宅から脱出させるのに、三車、羊・鹿・牛の車をおもちゃを用意して載ってごらんと導いている。車には車をで対応しているところは、野火には野火をで対応したヤマトタケルの知恵と通ずるところがある。我が子を救う親の立場で物事を考えられるようになるとは大人の考え方ができているということでもあるが、ヤマトタケルは自らの脱出劇として迎火を焚いているので、仏典をそのままに翻案したものとは思われない。
 白川静氏の、「為(爲)」字は象を使役している形であると見る説は興味深い。どうして大きな象を使役することができるのか。象がまだ子供のときに鎖につながせて馴れさせたからである。動きたくてあがき暴れるが、身動きが自由にならない。それを学習すると、大きくなっても小さな木に括りつけておくだけで動こうとしなくなる。エレファントシンドロームという言い方もされている。芸文類聚には、「臨邑王献象一、知跪拝、御者使之。」、「献馴象」と見える。鎖につなぐことは足枷あしかせをすることである。馬を自由に操れるのは轡をはめるからであり、牛の場合は鼻緒をつけるからである。つまり、為(爲)字は、象を操ることの所以を含意していると考えることができる。足枷によるのだから、(ア)シカセと訓むことは当を得ていることになる。「為者」はシカセバと訓んで正しい。
 軽皇子が安騎の野に宿った意味は、狩猟が主目的ではなく、草刈りが大目的であった。「月西渡」とは、月がその軌道を通って西方に移行することであるとともに、月日が経過したという意味にも取ることができる。それは、ヤマトタケルが東の国を出て西方に帰ってくるまでの時間経過を表していると言える。歌われた現在に限った詩的抒情に「月かたぶきぬ」というのではなく、実際に「西」に動いて行くことを示さなければならない。
 ヤマトタケルの物語では野火の難につづいて走水で渡海できない事態が生じている。そこでオトタチバナヒメが人柱となり、先へ進むことができた。東国から帰還の際に叫んだ「あづまはや」という言葉は、彼女のことを偲んで「づまはや」と言ったものであると紀では解されている。オトタチバナヒメは海に飲まれてから七日後に、その櫛が海辺に流れ着いている。その櫛を彼女の形見とし、御陵を作って納めたことになっている。万47番歌の「形見」がヤマトタケルのそれであったことは、万48番歌に確かめられることになっている。
 走水で狭い海峡を渡ることができなかったのは、浦賀水道の流れが激しかったからである。潮の干満差が大きかった。新月や満月の頃である。それから七日経てば小潮となって流れは穏やかになる。月の形は半月型、ちょうど櫛の形になっている。歌にある「月西渡」は moon のことでもあり、month 単位のことでもあり、menstruation のことでもある。東征の途上で尾張国でミヤズヒメと契りを交わし、東征の後に返って来ている。その時、おすひというオーバーコートのすそに「月経さはり」をつけていた。そして月問答の歌が歌われている。オトタチバナヒメが半月型の櫛に、ミヤズヒメは満月型の経血のしみに再現されているということであろう(注16)
 軽皇子がいる冬の安騎の野の頭上にも、そんな下弦の月が西へと渡って行くであろうとしている。寝ずに明かそうとする一夜も終わりに近づいて空が白み始め、もうしばらく経てば朝である。月のことが主題になっているから、次の万49番歌の「日並皇子」へとつながっている。「日並」とはまさしく月のことから言い放った言葉であった(注17)

 東野炎立所見而反見為者月西渡
 あづまはや 野火のび立つ見えて 返しけむ しかせば月は 西に渡らむ(万48)
 (大意)「あづまはや」と歎きの叫びをあげたのはヤマトタケルでしたね。彼は、野火が立つのを目にして、草刈りをして野火を返したのだったそうです。そのようにして東征はうまくいって月が西へ渡るように帰途を進んでいったのでしょうし、月日は経過したのでしょうし、いま、草をお敷きになっているので月は西へ進んでいくのでありましょう。同じように大人になりましょうぞ。

 柿本人麻呂が歌を歌う目的は、場を盛り上げるためである。そのために従駕している。その「場」とは何か。安騎の野での「宿」りである。「宿」りそのものが「場」であり、それが目的でそこに野営している。やっていることは何か。軽皇子のカルの皇子としての確認作業、成年式である。ヤマトタケルと同じように野の草を刈った。ヤマトタケルと同じように月を天上に見ている。立派に成年式を成しおおせていっていることを歌っている。門付け歌人、御用歌人としてつき従っているのだから、その場その場で行われている行為の意味付けをうまい具合に詠んでいるばかりである。この「宿」りを狩猟の前日の野営とだけ捉えることは誤りである。今日の考え方からすれば理知的に聞こえるけれど、そこには音声言語のみにものを考えた人に通じない点がある。カルの皇子は「狩」ことよりも「苅」ことをもって確かならしめられる。なぜなら、記紀に伝えられている当時の常識において、皇子がカルことをして「大人」となった例は、ヤマトタケルの草薙剣による刈り払い以外に知られないからである。言葉がなければ考えることができず、言葉による記憶が共有されていなければ歌に歌うことができない。その記憶は上代において、記紀に残されている言い伝えとして共通認識となって人々に保たれていた。言葉が持つ二重の意味に注意を向けなければならない。

(注)
(注1)元暦校本に「時志来向」とあり、他の諸本「時者来向」は誤写であると考える。拙稿「人麻呂作歌、安騎野の歌、万49番歌の「来向ふ」について」参照。
(注2)賀茂真淵・万葉考に、「東、ヒムカシノ……ノニ炎、カギロヒノタツ所見而ミエテ、……反見カヘリミスレツキ西渡カタブキヌ、」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200007129/36?ln=ja)と訓んで以来支持を受けてきた。疑問とする向きもしばしば呈されており、佐佐木2004.は、「ひむがしの 野らにけぶりは 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」(289頁)というかたちでの復元を最適解としている。
(注3)坂下2012.参照。
(注4)ひねくれたものの見方をすれば、皇位継承問題に対する自己主張として狩猟が行われたとも考えられなくはないが、ならば狩猟そのものを歌わないで何をしているのか意味不明である。
(注5)論をすすめるうえで、筆者はあえて見込み捜査的な方法をとっている。なぜなら、記紀万葉の世界は今日の我々とは別世界だからである。異文化の営みを理解するのに、近代の枠組みを当て嵌めて理解しようとしてもできるはずがない。柿本人麻呂の「方法」なるものをアプリオリに設定したとしても、聞いてくれる人がいなければ残されるものも残されないだろう。文化人類学のフィールドワークのように、そのなかに入り込んでその人たちとともに暮らしながら、その人たちの思い描いている世界の全体像が浮かび上がるまで、ジグソーパズルのピースがうまく嵌るまで、粘り強く確かめていく他はない。今日の「柿本人麻呂研究」や「古事記構想論」は象牙の塔の産物である。
(注6)拙稿「古事記の名易え記事について」参照。
(注7)今日でも、社会人たるには、アルバイトではなく就職して一つの仕事に就くことであるとする考えが残っている。あなたは何をしていますか、という質問は、あなたは誰ですか、という質問へと直接的に関わってくる。不審者への質問にある、何をしていますか、は、今何をしているか、ばかりでなく、職業は何をしているかを聞いている。職業がわかれば挙動も理解できることがあり、一方、犯罪行動が無職や職業不詳の人により多く行われるのは、経済的な問題もさることながら、小人閑居して不善をなすという一般論が通じているためであろう。
(注8)拙稿「ヤマトタケルの野火の難―「焼遺」をめぐって―」参照。
(注9)ヤマトタケルが、ヤマトタケルノミコからヤマトタケルノミコトへと進化した事情については、拙稿「ヤマトタケル論―ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件―」参照。
(注10)古典基礎語辞典に、「いにしへ」は「動詞イヌ(往ぬ、ナ変)の連用形イニと助動詞キの連体形シとへ(方)から成る。遥か遠くに過ぎ去っていて、伝承などで自分がその時点のことを聞いていても確かめることのできない過去をいう。類義語ムカシ(昔)は振り返って見たときに自分がその時点のことを思い浮かべられるような、自分とつながりのある過去。したがって、上代では、かつて自分が過ごした日々の意味ではムカシを使うことが多いが、その過去の状況が今はすっかり変わってしまって、かつての日々が遠く感じられる場合にはイニシへを使う。イニシへとムカシの意味の違いは物理的な時間の差ではなく、今の自分とつながりがあるかどうかの心理的な差である。」(137頁、この項、白井清子)と明晰な解説が行われている。
 村田2004.265頁に、万31・32番歌の二例において語義の差異を検出できないとするが、万32番歌の原文「古人尓和礼有哉」は「古人ふるひとに われ有るらめや」と訓む。拙稿「近江荒都歌について」参照。
(注11)拙稿「ヤマトタケルの「あづまはや」について」、また、「ヤマトタケルの野火の難―「焼遺」をめぐって―」、「古事記、走水と弟橘比売の物語について」参照。
(注12)霊異記・中・第二十一に、「信のひきりびを東春にり、熟火もゆるひを西秋にく。」とある。
(注13)他の訓みの可能性がないわけではない。「為」字は「偽」に通じ、マネ(真似)の意として使われることもある。ヤマトタケルの真似を今、我々、軽皇子一行はしているという意味である。

 乃ち、蒭霊くさひとかたを造り、微叱許智みしこちの床に置きて、いつはりてやまひするひとまねにして、襲津そつひこに告げて曰はく、「微叱許智、忽に病みて死なむとす」といふ。(神功紀五年三月)
 為 マネス(名義抄)

 ただし、「まねす」という語は万葉集にないばかりか説明調に過ぎる点、また、上代にマネニスであった可能性が高いため無理がある。
 「為者」をセシカバと訓む可能性もあるが、低いだろう。
(注14)説文に、「炎 火の光の上ぐるなり。重火に从ふ。凡そ炎の属、皆炎に从ふ」とある。古訓では、ホノホ、ホムラとある。
(注15)尾山2019.に、「「見」字と「み(る)」の関係は強固な紐帯を結んでいた」(110頁)とあり、万葉集の歌に「見」字を「み(る)」以外に訓む例は知られない。しかるに、万葉集歌中で「反」字に対して、「勅旨〈かへして大命といふ〉〔勅旨〈反云大命〉〕〉」・「船舳に〈反してふなのへにと云ふ〉〔船舳尓〈反云布奈能閇尓〉〕」(万894)、「〈懸有、反してさけれると云ふ〉〔〈懸有、反云佐家礼流〉〕」(万3839)といった例がある。反切の反の意に使うから、その延長線上にある義訓と捉える可能性が出てくるわけである。なお、最後の例、「家」字は「我」に校異されることが多い。
(注16)その間の話に、酒折宮での御火焼の老人の「日々かが並べて 夜には九夜 日には十日を」という筑波問答の歌が挟まれている。たてつづけに日数の経過にまつわる話が出てくる。
(注17)「日並」は「日にならべてしらすべし」(神代紀第五段本文)と記される月読尊のことである。拙稿「人麻呂作歌、安騎野の歌、万49番歌の「来向ふ」について」参照。

(引用・参考文献)
尾山2019. 尾山慎『二合仮名の研究』和泉書院、2019年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
坂下2012. 坂下圭八『和歌史のなかの万葉集』笠間書院、平成24年。
佐佐木2004. 佐佐木隆『万葉集を解読する』日本放送出版協会(NHKブックス)、2004年。
白川2003. 白川静『常用字解』平凡社、2003年。
村田2004. 村田右富美『柿本人麻呂と和歌史』和泉書院、2004年。
渡瀬1999. 渡瀬昌忠「安騎野の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第二巻 柿本人麻呂(一)』和泉書院、1999年。

加藤良平 2021.6.16初出