安康記、目弱王物語における都夫良意美の発言「然恃己入坐于随家之王子者死而不棄」について

はじめに

 安康記において、七歳の目弱王まよはのおほきみは義父に当たる安康天皇を暗殺したのち、都夫良意美つぶらおみを頼ってその家に逃げ込んでいる。都夫良意美は大長谷王おほはつせのみこの軍勢に取り囲まれながら堂々と振る舞い、最後は目弱王の言葉どおりに運命を共にしている。劇的に思える物語である。そのクライマックス部分について、今日一般に訓まれている訓み方として新編全集本を引く。

 亦また、軍いくさを興おこして、都夫良意美つぶらおみが家いへを囲かくみき。爾しかくして、軍を興して待ち戦ひて、射い出いだす矢、葦あしの如ごとく来散きちりき。是ここに、大長谷王おほはつせのみこ、矛ほこを以もちて杖つゑと為して、其その内を臨のぞみて詔のりたまひしく、「我わが相あひ言いへる嬢子をとめは、若もし此この家いへに有ありや」とのりたまひき。爾しかくして、都夫良意美つぶらおみ、此この詔命おほみことを聞きて、自みづから参まゐ出いでて、佩はける兵つはものを解ときて、八や度たび拝をろがみて白まをさく、「先さきの日に問ひ賜たまへる女子むすめ、訶良比売からひめは、侍はべらむ。亦また、五いつ処ところの屯宅みやけを副そへて献たてまつらむ〈所謂いはゆる五村いつむらの屯宅みやけは、今の葛城かづらきの五村いつむらの苑人そのひとぞ〉。 然しかれども、其その正ただ身みの参まゐ向むかはぬ所以ゆゑは、往古いにしへより今時いまに至るまで、臣おみ・連むらじが、王みこの宮みや(注1)に隠かくりしことは聞けども、未いまだ王子みこの、臣おみが家いへに隠かくりしことを聞かず。是ここを以もちて思ふに、賤いやしき奴やつこ、意富美おほみは、力を竭つくして戦ふとも、更さらに勝つべきこと無なけむ。然しかれども、己おのれを恃たのみて陋いやしき家に入いり坐ませる王子みこは、死ぬとも棄すてじ」と、如此かく白まをして、亦また、其の兵つはものを取りて、還かへり入りて戦ひき。爾しかくして、力窮つき矢尽つきぬれば、其の王子みこに白まをししく、「僕やつかれは、手て悉ことごとく傷おひつ。矢も、亦また、尽きぬ。今は戦ふこと得ず。如何いかに」とまをしき。其の王子、答へて詔のりたまひしく、「然しからば、更に為すべきこと無し。今は吾あれを殺せ」とのりたまひき。故かれ、刀たちを以もちて其の王子を刺さし殺して、乃すなはち己おのが頸くびを切りて死にき。(安康記)

 この場面で都夫良意美は、まず、天皇家の大長谷王(後の雄略天皇)の「詔命おほみこと」に対して礼儀正しくふるまっている。呼びかけがあったから矢を射る戦を中断し、家の外へ出て武装を解き、大長谷王に八度礼拝してから答えている。問われた訶良比売からひめについては嫁がせますし、その嫁入りに当たっては五か所の屯宅も添えて進ぜましょう、と丁重に答えている。だけれども、それとは別の話として、自分があなた様、大長谷王のもとに参上しない理由はこれこれこういうことです、と滔々と述べている。
 主人のところに家臣がかくまってもらうことは聞いたことがあるけれど、王子の方が家臣の家に隠れることなどない。そんなことが今、自分の家で起こっている。もちろん、全力で戦っても決して王家に勝てるはずはないと知っている。とはいえ、自分のことを恃みにして来た王子には礼を以て接しなければならない。だから戦うことになるが、負けるから王子は死ぬことになる。そうなっても主人を大切にするのが臣下たる務めである、という言い分である。王族を死ぬまでがわずかな時間であれ尊厳をもって接し、死んだ後でも粗末に扱うようなことはしない。戦況の悪化時には年端もいかぬ目弱王にどう対応するかお伺いをたて、自分は王子の意のままにふるまって、その末に自刃して果てている。

問題の所在

 都夫良意美の発言の最後の一文は、本文校訂によって「然恃己入坐于陋・家之王子者、死而不棄」とされている。しかし、真福寺本、兼永筆本では「……于随・家……」とあって揺るがない。また、「而」は通常、テと訓まれることが多いなか、トモと訓んでいる。この二点は再考の必要がある。

「……然恃己入坐于随家之王子者死而不棄……」(4行目14字目~5行目6字目、真福寺本古事記下巻、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1184140/1/18をトリミング回転)

 西條1998.は、和語の接続助詞「~テ」で訓まれる文字に、記では「而」、「以」を当てて書記していると述べている。「而」は漢文では順接と逆接に両用される連詞であるが、記に約五百五十例あるうち、明らかに逆接とみられるのは、この「然恃己入坐于陋家之王子者、死而不棄」(安康記)の一例であるとする。
 この部分、諸解説書に次のように訓まれている。上六例が「陋」、下三例が「随」で訓んでいる。

 「……。然しかれども、己おのれを恃たのみて陋いやしき家に入いり坐ませる王子みこは、死ぬとも棄すてじ」(新編全集本333頁)
 「……。然れども己れを恃たのみて陋いやしき家に入り坐ましし王子みこは、死にても棄うてじ」(西郷2006.233頁)
 「……。然しかれども、己おのれを恃たのみて、陋いやしき家に入いり坐ましし王子みこ(目弱王)は、死ぬとも棄うてまつらじ」(多田2020.245頁)
 「……。然しかあれドモ、己おノれを恃たノみて陋いやしき家いへに入いり坐ましし王子みこ者は、死しに而てモ棄うて不じ。」(思想大系本265頁)
 「……。しかれども、おのれを恃たのみて、陋いやしき家に入いりまししせる王子みこは、死ぬとも棄うてまつらじ」(古典集成本237頁)
 「……。然しかれども己れを恃たのみて陋いぶせき家に入り坐ましし王子みこは、死ぬとも棄てまつらじ。」(古典全書本245頁)
 「……。然れども己れを恃たのみて随やつこの家に入り坐しし王子みこは、死にても棄うてじ。」(倉野1980.196頁)(注2)
 「……。然れども己おのれを恃たのみ、随ともひとの家に入り坐ましせる王子みこは、死ぬとも棄うてまつらじ」(中村2009.210頁)
 「……。然しかあれども、己おのれを恃たのみて随ともが家いへに入いり坐ましし王子みこは、死しぬとも棄すてじ」(新校古事記136頁)

 都夫良意美が大長谷王に向かって放った言葉である。そう啖呵を切った後、再び戦いに戻っている。都夫良意美は大長谷王の軍勢の攻勢に奮戦するも、傷つき、矢も尽きてしまった。そこで、目弱王にどうしたらいいか奏上を立てていて、王子は答えている。もう仕方がないから私のことを殺しなさい。その言葉に応えて刀で王子を刺し殺し、自分も頸を切って死んでいる。
 都夫良意美は最初から負けると思いながらも戦っている。仕方がないではないか。臣下の方が主人を頼ってその宮にかくまってもらうことは聞くけれど、その反対の、王子の方が臣下の家にかくまってもらおうとしたことなどない。身分が違うこともあるし、家の構えとして、すなわち、城としての防御機能が全然違う。都夫良意美は巨大豪族ではなく、勝てっこないのはわかっているけれど、自分のことを王子が頼ってきたのである。王子はまだ七歳、頑張る以外に選択肢はない。そして、結果、万策尽きている。
 上述の諸解説書の訓みは、厳密に論理を辿った場合、奇妙なことのように聞こえる。都夫良意美の娘は大長谷王の許嫁いいなずけであった。そのことを問われたとき、家から出て前に進み、武器を外して再敬礼で拝礼して答えていた。その態度とは裏腹に、再度籠城して矢を射続けている。彼は言っていた。「死ぬとも棄てじ」。死んでも目弱王のことは見捨てないよ、というのである。なのに、死ぬ前に目弱王を殺して、自分も死んでいる。「死ぬとも棄てじ」は都夫良意美の心意気を表明しているのだと考えられているようであるが、そういった言い回しをしたいなら、自分の目の黒いうちは絶対にお守りするよ、という言い方もある。言っていることとやっていることにズレがあり、解釈に誤謬があると感じられる。

無文字時代の言語活動

 現代の言葉づかいでいえば、それは言葉のあやというもので問題にならないだろうとされるだろう。そのためか、曖昧なままの解釈が罷り通っている。しかし、ここで使われているのは上代語である。無文字時代にあっては、言葉は事柄をそのままに表し、事柄は言葉にそのままに現れる。互いに相即の関係にあると考えられていた。言葉のやり取りにおける担保として「言」=「事」とすることが、文字を持たない言語における暗黙の了解事であった。言葉の上でもコトという一語に集められ、表され、概念となっている(注3)。したがって、「死ぬとも棄すてじ」という「言」と、「刀を以て其の王子を刺し殺し、乃ち己が頸を切りて死にき。」という行為、つまり、「事」とが、言行不一致を来していることになっている。
 この矛盾への解決策は一つしかない。「然恃己入坐于随家之王子者死而不棄」の「而」字を、他の古事記の例と同様、テと訓むのである。そして、「者」は、事物を強調提示する助詞ハである。訓み方は次のようになる。

 「……然恃レ己入二-坐于随家一之王子者死而不レ棄」
 「……然れども、己を恃みて随の家に入り坐せる王子は、死にて、棄てじ」

 「者」は事物を区別し指示する。ヤマトコトバのハであり、取り立ての助詞と解され、主語につくハである。例をあげる。

 故大毘古命者随二先命一而罷二-行高志国一
 故、大毘古命おほびこのみことは、先の命みことの随ままに、高こ志国しのくにに罷まかり行ゆきき。(崇神記)(注4)

 したがって、「者」の後にある動詞「死」ぬの主語は「者」の前にある「〔恃レ己入二-坐于随家一之〕王子」、すなわち、目弱王であり、都夫良意美ではない(注5)。都夫良意美ではないということは、この文章が、話者である都夫良意美自身が死んでも目弱王のことは見捨てない、と宣言しているのではないということである。文章の構成は次のようになる。

 「……然れども、己を恃みて随の家に入り坐せる王子は死にて、[吾(=都夫良意美)ハ]棄てじ」

 死ぬのは「王子」である。王子が死んだとき、その遺骸を私、都夫良意美は無碍に棄てたりはしない、あるいは、晒しものにしないということである。都夫良意美の主張は、語られている時代の天皇周辺の政争による殺害、粛清において、遺体を棄て置いたり、遺族に対して敬意を抱かず無関心に放置したことに関連し、世情を非難する内容になっている。穴穂御子(安康天皇)は大日下王おほくさかのみこを殺してその嫡妻むかひめ、長田大郎女ながたのおほいらつめを我が物にして皇后に据えている。大日下王と長田大郎女との間の遺児が、目弱王である。実父を殺した人の家に、それとは知らされずに育てられている。母親はそのことに無頓着である。そのうえ、「神牀かむどこ」という神殿に備えられたベッドで二人して昼寝をしている。神託を求めるために潔斎して夜寝るためのところで昼間からいちゃつき、おしゃべりしていた。その高床式神殿の床下で目弱王は遊んでいた。天皇は、目弱王が成長して父親を殺したことを知ったら、自分に対して邪心を抱くだろう、それが気がかりだと后の長田大郎女に話した。聞きつけた目弱王は、天皇の寝ているところを暗殺し、都夫良意美のところへ逃げ込んだ。
 異常事態である。安康天皇の弟の大長谷王(雄略天皇)は腹を立てた。彼は「童男をぐな」であった。やんちゃなのである(注6)。同母の兄に当たる黒くろ日ひ子王このみこ、白しろ日ひ子王このみこにどうしたらいいかと持ち掛けたが、どちらものほほんと構えていた。突発的に怒りが湧き起こり、見境もなく残忍なやり方で殺してしまっている。道義、礼節を欠いた時代になっていた。そんな状況に対して都夫良意美は物申していると知れる。

「随」字の訓

 したがって、この個所の従来の訓みには、二点、訂正が求められていたとわかる。再掲する。

 「……然、恃レ己入二-坐于随家一之王子者死而不レ棄」
 「……然れども、己おのれを恃たのみて随ままの家に入り坐ませる王子みこは死にて棄てず」

 本文校訂において、「随」字を「陋」としていたのは誤りである。倉野1980.に「随」をヤツコ、中村2009.に「随」をトモヒト、新校古事記に「随」をトモと訓む訓法が行われていた。主人たる王族の目弱王と、臣下たる都夫良意美との間柄について、ヤツコ、トモヒト、(ミ)トモなどと呼ぶことから推理して訓づけしている。しかし、わざわざ「随」字を使っている理由は不分明である。単に意訳として訓まれるべきではなく、深い理由があって用字が選ばれていると考えられる。太安万侶は、自らの書記の方針として、「意況易レ解、更非レ注」(記序)と述べていた。覚悟を持って書記している。
 「随」字は、副詞のマニマニ、ママニと訓まれる。中古にはママとつづまった形が確立している。事態の成り行きにまかせることを指す。このママという言葉は、「継」という字を当てるママに音が通じている。親子・兄弟の関係において血のつながりのない間柄をいう。自分が選んでそうなったのではなく、近親者が新たに婚姻関係を結んだ結果、成り行きとして親子関係や兄弟姉妹関係が成立してママ(継)の間柄になっている。一つの音列の言葉は一つの意味のもとに収斂されることに落ち着いている。

 庶兄 万ゝまま兄あに(新撰字鏡)
 〓(白偏に丁) 万ゝまま妹いも也(新撰字鏡)
 継父 万ゝまま父ちち(新撰字鏡)
 嫡母 万ゝまま波ゝはは(新撰字鏡)
 〓(女偏に虛) 胡故反、好也、〓(身偏に尤)也、媔也、戯(?)也、悦也、保志支万ゝほしきまま。又阿佐礼和佐須あざれわざす
 継父母 世説に云はく、諸葛宏、継母の族党の為に讒そしらるといふ。又云はく、王祥は後母に事つかふるに甚だ謹つつしむといふ。後母は即ち継母なり、母を謂ふときは父を知るべし。但し和名に継父〈和名は萬々知々ままちち〉、〈萬々波々ままはは〉、継父母は各、其の子を古こと謂ふ、我にはかに生ぜざる義なり。(二十巻本和名抄)
 天皇すめらみこと、其の弟おと、速総はやぶさ別わけの王みこを以て媒なかびとと為して、庶妹ままいも女鳥王めどりのおほきみを乞こひき。(仁徳記)
 態 他載反、去、意心恣也、保志支万ゝ尓ほしきままに(新撰字鏡)
 当まさに衆神もろかみたちの意みこころの随ままに、此より永ひたすらに根国ねのくにに帰まかりなむ。(神代紀第七段一書第三)

 いま、都夫良意美は「女子むすめ」の訶良比売を大長谷王子に嫁がせようとしている。都夫良意美は大長谷王子の義理の父、継父ままちちになる。大長谷王は安康天皇の弟である。安康天皇の妻、長田大郎女の連れ子が目弱王である。目弱王にとって安康天皇は継父、大長谷王は継まま叔父おとをぢ(?)に当たる。そんな目弱王が都夫良意美のところに助けを求めて逃げ込んできている。すなわち、目弱王は、継まま従祖父おほちをぢ(?)の関係にある家をその身の最後の恃みとして訪れたことになる。子は親を選べない。臣下も主人を選べない。好きなように姻戚関係を結ばれて、棄て置かれて虐げられ、いつ命を奪われるかわからない晒し者の存在になる人がいる。その気持ちがわかるから、都夫良意美は目弱王が逃げ込んできたときに門残払いにしなかったとも言える。
 第二に、「…者死而不棄」の「而」は順接仮定の因果関係を表すことになっている(注7)。目弱王にとって実父である大日下王を殺して実母の長田大郎女を奪ったのが安康天皇で、継父である。その天皇を殺した目弱王は、目弱王自身に権力があって天皇になれるのならともかく、少年法もないから死罪になるだろう。とはいえ、大長谷王(雄略天皇)が、同母の兄を次々にむごいやり方で殺していったのと同様にされてはたまらない。尊厳を保つことができるように丁重に扱われなくてはならない。そう都夫良意美は考えている。だから、その遠い姻戚関係を頼って来たからには少なくとも自分だけはと思い、敬意をもって対処している。「死にて棄てず」の精神が必要であった。
 以上が、都夫良意美のところへ逃げ込んだ目弱王の逸話が伝えたいことである。
 校訂面において、「随」は「陋」の誤りではなく、ママと訓み、継父ままちち、継まま従祖父おほちをぢ(stepgrandfather?)などの意とともに、その意向のままに随うことを含み謂わんとしている(注8)。言葉のなかに言葉が塗り込められるように意味を重ね合わせた言い方をしているのである。また、「而」はテと訓み、古事記の他の用例ならびに不読の用例同様、順接の関係を示している(注9)。
 安康記の特質として、系譜の記事がないこと、天皇が殺害される物語が記されていること、話の主体は安康天皇ではなく雄略天皇であることの三点があげられている。いわば雄略前記のような体裁になっている。その理由の一端は、系譜を先に述べてしまうとこの逸話の焦点であって笑点である「継まま」、つまり義理の姻戚関係について初めに種明かししてしまうことになり、興趣が削がれるためである。和睦の条件として都夫良意美は大長谷王(雄略)に娘の訶良比売を差し出して、結果的に目弱王にとって都夫良意美は義理の父の弟の義理の父になっている。大長谷王(雄略)は訶良比売に言い寄ったことがあったため、きっと姻戚になるだろうと目弱王は当てにして、後は随ままよと勢いをつけて都夫良意美の下に走ったのだった。「恃レ己入二-坐于随家一之王子」という表現は、その思いまですべて盛り込んだ形容なのである。

(注)
(注1)真福寺本に「主宮」とあるを、今日、一般に、兼永本に「王宮」とあるに従っている。その兼永本には「王」の右傍に「主」とある。主人のことを指すアロジはアルジとも訓まれている。臣下が主人の所へ行って匿ってもらうことはあるが、という意味だから「主宮」とあるほうが妥当だろう。すなわち、庶民レベルでにおいても、隣近所の喧嘩で恐くなった弱い者が、一時的に里長のところへ避難することもあっただろうからである。そういった事情を含めて一般論を語っているものと考える。都夫良意美は「自往古至今時」などと大上段に構えて力説している。新編全集本に「「臣」も「連」も姓かばねの一種だが、ここは臣下の総称としていう。」(333頁)とあるとおりだろう。ところが同書では、「允恭天皇の条に、軽太子が大前小前宿禰大臣の家に逃げ込んだ事件が記されており……、この発言は矛盾しているようにみえる。しかし、次に「是を以て思ふに…更に勝つべきこと無けむ」という判断が導かれているところからすると、皇族が臣下の家に隠れるだけでなく、その命を全うすることまでを含んで、そうした事例を聞いていないことを表現したものとみられる。」(333頁)と、手の込んだ解釈をほどこしている。允恭天皇条で、軽太子が大前小前宿禰大臣の家に逃げ入っているのは、允恭天皇崩御後のことで、太子が即位する前に百官と天下の人等が太子に背いて穴穂御子側に付いたからである。どこを拠点に後継天皇の政争を戦うかというだけのことである。軽太子+大前小前宿禰大臣 v.s. 穴穂御子+百官と天下の人等の戦が起こっている。軽太子は匿ってもらおうとして逃げ入ったのではなく、そこで陣を布いたのである。「未聞王子隠於臣家。」の前例にはならない。
(注2)本居宣長・古事記伝でも「随やつこ」と訓んでいる。国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/425参照。
(注3)井手2004.に、「わが国では、ことばを「物」ではなく、「事」であると考える傾向が古くからあり、上代の人々は、言が事とイコールであると信じたのである。そのことは、ことばの上でばかりでなく、事実としても示される。『記・紀』の神話の中に、……ことばどおりに事柄が進行したことをかたった例がしばしば見られるのは、その一つである。……神のことば、……誓うけいのことば、……夢の中でのお告げのことば……が事実となって現われたというのである。……事物にまで霊魂の働きを信じたアニミズム(Animism)的な思考法の残留した上代(特に神話の世界)においては、ことばが事物に作用して、そのことばどおりに事物が実現すると考えることは、今日とは違って、容易なことであった。……神、天皇、英雄などのことばが、地名の起源として説明するにふさわしいものとして、それらの尊貴の土地の平定、開拓等の行為と同等に重要視されていることは、これもまた、言を事と同一視する、ことばのもつ呪力への信仰から来たものといえる。」(200~202頁、用例や名告りの例など割愛した)とある。言と事との同一視について、その源泉を言葉のもつ呪力への信仰に求めている。筆者の考えとは異なる。言ったとおりに物事がなりがちである点について、早くから「予言の自己成就」(R・K・マートン)という見解が社会心理学に認められている。
 佐佐木2013.は「言霊ことだま」について、「古代日本人は、ことばには現実を左右する霊力があると信じていた。そして、よい内容をもつことばを発すればよい現実がもたらされ、よくない内容のことばを発すればよくない現実がもたらされるだけでなく、同じように諺や歌にも霊力がやどると考えていた、というのである。」(9頁)、「『万葉集』に見える三例[(万894・3254・2506)の]……「言霊」が神のもつ霊力だったとすれば、ことばに対する当時の日本人の考えは、既に原始的なアニミズムの領域を脱していたことになるだろう。アニミズムというのは、自分たちの周囲にある多くの物にそれ特有の霊力がやどっており、自分たちが目にするさまざまな現象の一部は、そのような霊力によって引き起こされたものだ、というような考えかたである。一般的にはことばもその例外ではないが、「言霊」については、早い段階で、人間に具そなわっておらず神だけがもつ霊力だと考えられるようになっていたのではないか。」(17頁)とする。これも筆者の考えとは異なる。
 「言」と「事」とが同源の語だとする見解は広く認められている。両義が未分化の状態にあってコトというヤマトコトバの概念範疇が形成されている。言葉を使うのは伝えるためである。何を伝えるか。事柄である。ならば、事柄と言葉とは同じでなければならない。言葉を使うに当たって勝手なことを言うことは可能であるが、それが横行するとどうなるか。フェイクニュース(「妖言およづれこと」(万1408))がはびこることになる。そうならないためには、「言」=「事」であるように縛りを設けておくのが最も適切なやり方である。文字がなく、記録媒体を持たない時代である。事後鑑定する際に証拠となるものがなかったのである。
 「言」=「事」を守っていくことは、見方によっては信仰である。しめ縄を張っておいて中に入るなとする標は、鉄条網ではないから破ろうと思えばあっさり侵入できる。しかし、神の祟りのようなことを嫌って入ろうとしない性善な人が多い。「言霊」という言い方が神の手に存するように感じられるのも、「言」=「事」とする観念が共通認識としてあったからである。「言」=「事」とするヤマトコトバは集合意識(E・デュルケーム)としてヤマトの人々の間に共有された信念、慣行となっていた。その勢力圏、影響圏の拡大こそがヤマト朝廷の版図の広がりと捉えており、「言こと向むけ和平やはす」(景行記)と表されている。言語の側から捉え直すと、言語の論理的厳密性を重視したのがヤマトコトバであったと言える。無文字の言語に正確性、無誤謬性を問い続けると、言葉の一音列は一義であるはずだという原則に従って、今となっては不可思議に思える言葉づかいが行われていたことになる。一音列の一語が示す多義間の関連づけについて、なぞなぞ的な頓智の才を縦横に駆使してまわって解釈を施し、それを認めようとしていたのである。その特徴的な言語活動について、「言霊ことだまの幸さきはふ国」(万894)と自認していた。問題は言語活動そのものにあり、アニミズム云々の次元のことではない。
(注4)兼永筆本に、「随」字の右傍に、マニマニ(マニ+繰り返し記号)とある。
(注5)兼永筆本には、「王子者死」の部分の右傍に、ミコヲハミウストモとある。
(注6)「童男をぐな」の正確な語義については拙稿「上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について」参照。
(注7)古事記の「而」字は、書記用漢字、和訓字として、ヤマトコトバのテ(シテ)を表記するために選ばれた文字であるとされている(小林1970.、西條1998.)。漢籍に「而」という文字を和訓するとき、テ、ドモ、シカモ、シカシテ、シカシナガラなどと訓んでいたものが、逆にヤマトコトバを書記するにあたり、テに対して「而」字を常用しようと転じている。この議論は古くから行われている。三矢1924.は、「「而」は承上之詞とて、我が「テ」に近似せるより、漢文にては大抵「テ」と訓じたり。其の意によりて、古事記は「而」を用ゐたる」(76頁)とする。また、小島1962.は、「古事記の「而」の例は漢籍によると考へるよりも、上代人の案出した、むしろ素朴な低度の接続詞であらう。」(275頁)とする。
 西條1998.によれば、「雖為取而不得(取らむと為れども得ず)」といった不読字を除いて、「而」はテと訓んで間違いないという。なぜなら、「宇気比而生子(うけひて子を生まむ)」の「而」は、「宇那賀気理弖(うながけりて)」のような字音仮名の「弖」に重なるものであり、また、漢文で逆接になるべき「然而」が、「然而其兄、作高田者(然して其の兄、高田を作らば)」というように順接になっているのは、和語のシカシテをそのまま文字化したからで、漢語として用いているという意識は希薄になっているからであるとしている(202頁)。
 古事記の「而」字から離れて、ヤマトコトバの接続助詞テという語を考えたとき、辞書はその意味するところを細かく分類している。時代別国語大辞典に、「①(a)時間的な前後をあらわす。……(b)並列をあらわす。……②(a)原因結果の関係をあらわす。……(b)逆接の関係をあらわす。……③情態や手段・方法をあらわして、修飾句を構成する。……④複合語的に一つの動作概念を構成する。」(482頁)とある。ただし、「把握のしかたによって程度の差しか持たないことが多い。」(同頁)としている。古典基礎語辞典でも、「語釈」に、「①いったん成立した動作や状態が継起・継続するときに用い、上の事態が下の事態より時間的に前に確かに起こったことを表す。…て、それから。そうして。……②動作や状態が並立しているときに用い、上下の事態の並立・並存を表す。…して。そして。……③順接の関係でテの前後をつなげるときに用いる。テの前の動作が原因・理由となって、次の動作・状態が生じることを表す。(ア)上の事態が確定である場合。…ので。…のために。……(イ)上の事態が仮定である場合。…ならば。…たら。……④逆接の関係でテの前後をつなげるときに用いる。テの前の動作と、次の動作が逆接の関係にあることを表す。…のに。…が。…けれども。……⑤状態を表して、下にくる用言を修飾し、その内容を限定する。…の状態で。…の様子で。…のありさまで。……⑥下に「思ふ」「聞こゆ」などの感覚動詞を伴って、思考・知覚作用の内容を示す。…ていると。…であると。……⑦補助動詞「あり」「侍り」「候ふ」などの前にきて、それと一体になって状態を表す。…て。…して。……⑧《「もちて」の形で》手段・方法の意を表す。…で。…を使って。……」(814頁、この項、我妻多賀子)とあるも、「解説」に、「テは、動作や状態が確かに成立して、そこでいったん区切れることを表す助詞である。『万葉集』には、千五百例以上あるが、その意味・用法は、ほぼ八つに分類できる。……接続助詞テの意味・用法がきわめて多岐にわたっているのは、意味的に非常に弱く、特定の条件づけをするものでないことにもよる。テは、動作状態がすでに成立していることを示すのが役目であるため、その前後の事実関係により、容易に順接にも逆接にもなりうる。」(813~814頁)としている。
 辞書的な細分類は必ずしも有効ではないわけである。小田2015.は、「「て」は、連用形に付いて、継起関係を表す。」(478頁)、「「て」は前件と後件を単につなぐだけであ」り、「「て」が積極的にそのような[順接確定の因果関係、逆接確定の因果関係、順接仮定の因果関係といった]関係を示しているわけではない。)」(479頁)としている。上下をつなぐただそれだけの機能が、ヤマトコトバのテの本義であると考えられる。書き言葉にするなら、句読点の読点に近いもの。英語のカンマに近いものと言えるかもしれない。
 テを使った合成語に、サテという語がある。サはそれまでの事情全体を承けた言葉であり、テは今の状態や、これから話す事柄とをつなぐ作用を担っている。南京玉すだれの歌に、「あ、さて、あ、さて、あ、さてさてさてさて、さては南京玉すだれ、……」とある。テという言葉の本質を如実に物語っているように思われる。何もないところから、アなどという発語に発起し、南京玉すだれの大道芸が継起してしまっている。サテのテの因果関係は、大道芸人にとっては順接であって、ここでいま営業してかまわないだろう、という訴えかけである。三回目ぐらいまでのサテで、こらこら、こんなところでやるんじゃない、と町役人などが止めに入らなければ、サテと返す見物人の声に、既成事実化してしまうのである。
 翻って、このようなヤマトコトバのテについて、それを「而」字によって書記したことは、上代人の案出した用字術上の高等テクニックであったと考える。そして、西條1998.に、「書き手は、基本的な態度として和語を漢文に翻訳する方針を持たなかったので、訓み手の側も、書かれた文字列を非漢語的に訓むという構えで臨むべきであろう。」(107頁)とあるとおりで、「而」字については、「て(、)」「して(、)」、「、」と機械的に訳したほうが、持続的に使われてきた用法ゆえかえって現代語に正しくてわかりやすいといえるのである。
(注8)目弱王が都夫良意美を頼った理由について、マヨワは巻貝の一種で「石炎螺 弁色立成に云はく、石炎螺〈麻与和まよわ、漢語抄の説は之れと同じ〉といふ。」(和名抄)のこと、ツブは田螺のことをいうから両者は結びつくとする説(西郷2006.227頁)がある。名前が似た者同士だから・・・逃げ込んでいるとする理由づけは逆であろう。
(注9)漢籍の「而」字に逆接の関係を表すものがあることは確かであるが、ヤマトコトバにおいて上代の助詞テが、はたして本当に逆接の関係を表すことがあるのか、筆者は疑問を抱いている。「雖為取而不得(取らむと為れども得ず)」(応神記)の例は不読という解釈で落ち着いている。書記用漢字としての「而」字が「雖」の支配下にあることを示していると認められよう。言葉となっているテで逆接とされている場合も、上接や下接の語のなかに強い意味があって、テを支配下に置いているだけなのではないかと感じられる。辞書に逆接としてとり上げられている用例を見てみる。

 言ことのみを 後のちも逢はむと ねもころに 吾を頼めて・ 逢はざらむかも(万740)
 …… 名づけ始そめけめ 名のみを 名児なご山やまと負ひて・ 吾が恋の 千重の一重も 慰めなくに(万963)
 音おとのみに 聞きて・目に見ぬ 布勢ふせの浦を 見ずは上のぼらじ 年は経へぬとも(万4039)
 目には見て・ 手には取らえぬ 月の内の 楓かつらの如き 妹をいかにせむ(万632)
 花咲きて・ 実は成らずとも 長き日けに 思ほゆるかも 山吹の花(万1860)
 抱いだきおろされて・、泣きなどはし給はず。(源氏物語・薄雲)

 一~三例目は、上接の語に「のみ」という語が見える。「のみ」と限っているのだから、それ以外は一般化しないことをすでにニュアンスとして伝えている。現代語訳として、「私を当てにさせているが」、「名児山と負っているけれど」、「評判だけを聞いているけれども」とある。はっきりするからそう訳している。しかし、すでに「のみ」と断っていて印象づけは終っている。より正確に訳すなら、「私を当てにさせておきながら」、「名児山と負っていつつ」、「評判だけ聞いていて」としたほうがテの軽さが伝わってくる。四例目は、「には」という語が上下にくり返されている。「目に見えるけれど手に取ることのできない月」と逆接を強調するよりも、「目には見えながら手には取ることのできない月」と並列風に訳したほうがわかりやすい。五例目は、「花咲き」と「実は成らず」とに挟まれている。下接の方に「は」と取り立て、「とも」と逆接仮定条件を示している。「花が咲いて実の方は成らなくても」というように、テについてはただ時間的な前後を表す点を中心と捉えたほうがよいだろう。六例目は、「車から抱き下ろされても」と訳されている。母君から引き離されたときのことだから、逆接的に訳すことに甘んじている。しかし、事情が反対の、「抱きおろされて、泣き、叫び、いさちたまふ。」とあるのが順接で、上のようにあるのは逆接であると捉えるのは少し違う。「泣きなどは・し給はず。」となっている。なぜ泣かなかったかというと、車上で寝ていて抱きおろされたばかりで、事情が飲み込めていなかったからである。後文に、「やうやう見めぐらして、母君の見えぬを求めてらうたげにうちひそみ給へば、……」とある。五例目同様、ただ事の順序を示しているにすぎない。テの機能は上下をつないでいるだけで、それ以上の意味合いは後付けで付いてきた、まことに消極的なものと考えられる。

(引用・参考文献)
井手2004. 井手至『遊文録─説話民俗編─』和泉書院、2004年。
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
倉野1980. 倉野憲司『古事記全註釈 第七巻 下巻篇』三省堂、昭和55年。
古典集成本 西宮一民『新潮古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
古典全書本 神田秀夫・太田善麿校註『古事記 下』朝日新聞社、昭和38年。
小島1962. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 上』塙書房、昭和37年。
小林1970. 小林芳規「上代における書記用漢字の訓の体系」『国語と国文学』第47巻10号、昭和45年10月。広島大学学術情報リポジトリ https://hiroshima.repo.nii.ac.jp/records/2009842
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第七巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
西條1998. 西條勉『古事記の文字法』笠間書院、平成10年。
佐佐木2013. 佐佐木隆『言霊とは何か─古代日本人の信仰を読み解く─』岩波書店(岩波新書)、2013年。
思想大系本 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
多田2020. 多田一臣『古事記私解Ⅱ』花鳥社、2020年。
中村2009. 中村啓信『新版古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川文庫)、平成21年。
三矢1924. 三矢重松『古事記に於ける特殊なる訓法の研究』文学社、大正14年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1870085
壬生1999. 壬生幸子「古事記の目弱王像─七歳という年齢を中心に─」太田善麿先生追悼論文集刊行会編『古事記・日本書紀論叢』群書発行、平成11年。

加藤良平 2026.9.27改稿初出

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