(サマリー)
天寿国繍帳の銘文は、飛鳥時代、ヤマトコトバによって記されたもっとも古い文献記録の一つである。聖徳太子が亡くなって夫人の橘大女郎はノイローゼに罹り、推古女帝に嘆願したことから話は始まる。太子が往ったと彼女が妄想する「天寿国」とはテムジクニ(「天竺」に)の訛りである。繍帳は、「母王」と糸を撚るように相次いで亡くなっているということからそのことを捉え返して撚り糸を使って刺繍を施して、言=事をそのまま形象化したものである。干支の「癸酉」の日に「孔部間人公主」が亡くなったとする伝は、孔部間人公主の「孔」性、すなわち、人の間を渡り歩いてお喋りして人と人とをつなぐようなお人柄を表す瑞鳥取、鷹狩に使う鷹のことを表している。ダブル・バインド状況に陥った橘大女郎の意見を尊重しながら、患者がよく眠れるようにとハッピーな図柄の帳を下賜したのだった。
天寿国繍帳とは
天寿国繍帳は、別名を天寿国曼荼羅といい、現在、残存物の多くを中宮寺が所蔵している。飛鳥時代の染織工芸品で刺繍が施されている。銘文によれば、聖徳太子の死を悼んでその妃、橘大女郎が推古天皇に訴え出て作ってもらったという。飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品であり、国宝に指定されている。現存する天寿国繍帳には四か所に亀が描かれ、それぞれの甲羅に四字ずつの漢字が刺繍で表されている。残片一点にも亀形があって、文字数は合計二十字確認されるという。法隆寺資材帳に天武天皇施入の「繡帳弐張〈具帯廿二条 鈴百九十三〉」と見えるのがそれに当たるとも考えられている。文永十一年(1274)に比丘尼の信如が法隆寺の綱封蔵でこの繍帳を発見し、とても傷んでおりながらも四字ずつの銘文が解読されて上宮聖徳法王帝説に写されている。結果、現在、亀が百匹縫われていて、計四百字書かれていたと推測されている(注1)。
天寿国繍帳ならびにその銘文の特徴をあげる。第一に、繍帳は「繡帷」とあり刺繍の緞帳であって、カーテンやタペストリーの類に当たる。寝るときに枕辺を隠す帳であったと考えられる(注2)。今日見られる繍帳は、上・中・下×左・右の計六区画に分かれている。図柄としては、男女の像、水波、蓮華、鳳凰、飛雲、月象、如来像、鐘楼、仏殿、二階建ての高殿、そして字の刻まれた亀が確認される。それを絵として見たときうまいかというと、いわゆるへたうまである。塗り絵がつぎはぎされた六コママンガのようなものである。大橋1995.に、「天寿国繡帳に刺繍されていた天寿国図を当麻曼荼羅に代表されるような画面の中央に阿弥陀如来が坐し、そのまわりを大勢の菩薩が取り囲むパースペクティブな画法で描いた浄土図ではなく、天寿国を構成する各種図像だけが横長の大画面の上に点々と、つまり部分繡いとして刺繡され、いうなれば背景のない、三次元的な空間表現のない画面であったと想定した。」(137頁)とある。「装飾的で平面的な天寿国図」(同頁)という言い方は俗に言うマンガ(注3)である。なお、後代には、曼荼羅に絵すごろくのような品が数多く存在している。それらとの大きな相違は、後述のとおり、絵に額縁がない点である。コマのないマンガという複雑なものである。
第二に、銘文が繍帳本体の図のなかに登場してしまっている。同じく上宮聖徳法王帝説に記載のある法隆寺金堂薬師如来像光背銘や法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘は光背に文字が刻まれている。仏像のお顔やお体に銘の文字が刻まれて見る人に浮き出ているわけではない。当たり前である。

顔に何かが刻まれている例として入れ墨を考える。入れ墨のある顔を見るのは心中穏やかではない。
爾くして、大久米命、天皇の命を以て、其の伊須気余理比売に詔りたまひし時、其の大久米命の黥ける利目を見て、奇しと思ひて歌曰ひて、
あめ鶺鴒 千鳥真鵐 など黥ける利目(記17)
爾くして、大久米命の答へて歌曰ひて、
媛女に 直に逢はむと 我が裂ける利目(記18)
故、其の孃子の白ししく、「仕へ奉らむ」とまをす。(神武記)
詔して曰はく、「……死を免して墨に科す」とのたまひ、即日に黥む。」(履中紀元年四月)
天皇瞋りて、面を黥みて鳥養部としたまふ。……「……今天皇、一の鳥の故に由りて、人の面を黥む。太だ道理無し。悪行しくまします主なり」といふ。」(雄略紀十一年十月)
面黥ける老人(安康記)
神武記の例は、どうして目に入れ墨を入れているのか、「黥け」ているのかについて、君のことをしっかり見ようと目を見開いているから「裂け」ている、とうまい洒落で答えたので、お仕えしましょうという運びとなったという話である。
言葉の洒落なら話として成立する。雄略紀の話も、実は「罪(ミは甲類)」と「積(ミは甲類)(聚積)」の洒落として話が成立している可能性が高い。しかし、実際に目にするのは罪科におけるほどに痛々しいものである。

繍帳銘では繍帳の図の中の亀の甲に銘が見えてしまっている。字の並び順としては和同開珎などコインの字と天寿国繍帳では異なると指摘されている。マンガのようなものであると言ったが、字体もマンガのようである。「公」という字はなかなかお目に掛かれないとぼけた書体である(注4)。通常、マンガにある吹き出しは登場人物の発話や想いを記す。天寿国繍帳ではあくまでも銘が記されている。奇異なことである。美術品に限られることではないが、<図>と<地>の問題で生じている。額縁たる枠組みの外にあるべき<地>が<図>に混入、混在している。これでは何が何だかわからないことになる。絵巻物であれば詞書があって絵が描かれる(注5)。分けられている。掛け軸では、絵から少し離れた上部に画賛は書かれる。屏風絵や曼荼羅に地名や仏菩薩等の名が記されることはあるが、制作の次第が絵のなかにバラバラと書かれることはあり得ない。マンガでもその一コマに状況設定が記されることはあるが、絵とは分けられている。擬音語が絵にかぶさる形で書かれることがあっても、そのコマのなかで発生している音を表している。<図>と<地>が混ざることはない。
字をデザイン化して<図>にしたことは本阿弥光悦の得意としたところ、葦手といった飾り字などいろいろ例は挙げられるが、それらデザインに登場する文字はアート作品と同じ次元にある。作品を「作品」として括弧で括ってその外側から由来次第を説明する「銘」文をぶちこんだものではない。天寿国繍帳の<図>と<地>の混在は枠組み(frame)の溶解を示しているのではないか(注6)。
また、天寿国繍帳の場合、以下に示すとおり銘文自体が会話文の問答を含むような奇妙な内容であり、それを鑑賞者に見せる形で<図>に提示している。とても不可解である。この超マンガ現象は解かれなければならない大問題である。さらに、その銘がどうして亀の甲羅に文字が描かれているのかについても納得のいく解答が求められる(注7)。
この入り組んだ構造をしている天寿国繍帳銘を読むということは、頭を捻って銘文を作り上げた人の頭の捻り具合を追体験することである。繍帳はアニメのような図柄で、しかも約二m✕四mの大画面が二面、そこに亀の背に四文字ずつ漢字が乗って飛んでいた。それが天寿国繍帳銘である。キティちゃんがコスプレして世界を経巡っているような図柄のカーテンである。亀が薄絹地の上に碁石を並べたように配置されていたとも指摘されている。そして、飛んでいる亀の背にへたくそな字が四字ずつあしらわれている。
銘文全体を考えたとき、仮にそれが上代の、飛鳥時代前期、推古朝に書かれた文であるなら、訓読みをもって読まれなければあり得ないと筆者は考える。音読みで意味がわかるとは、漢字を知っていることが前提となる。渡来人が作成した文章を訳しているというのでは、主人公ともいえる「多至波奈大女郎(橘大女郎)」がバイリンガルか何かの設定になり、文章の大枠が崩れてしまう。広く巷間には知られていない音読みされる漢語が会話文中に登場することは、制作年代がいつのものであっても実はあり得ない。コピーライターが台詞部分に聞いただけでは意味の通じない発語を挿入していた日には、デザイナーの側としては台本がひどすぎるよ、わからないから作らないよ、ということになる。銘文を読むということは、銘文を自分が書くつもりになって接する必要があるということである。
筆者の訓読による理解では、この繍帳は、銘文にあるとおり、橘大女郎が、「孔部間人」という「母王」と聖徳太子という「我大王」とが相次いで亡くなってしまい、ノイローゼになって、二人してヨリユク(「従遊」)、つまり、糸を撚るようにして逝ってしまったと思い、逝った先の「天寿国」を見たいけれど見えないから頼りにすべき「図像」が欲しいと、公務に忙しい推古天皇に嘆願してきたため、心配した天皇が「諸采女等」に命じて患者の言葉どおりに糸に撚りをかけて、絹糸の撚り糸を使って刺繍させたものである。大丈夫か? 橘大女郎、という思いから成り立っている。
太子が講義で発していたことかよく分からない「世間虚仮 唯仏是真」なるお経の文句のようなものを唱えている。ここは訓読みすべきところではない。お経は漢語(呉音)の棒読みである。聞いていてよくわからない。わからないから奥に深い意味があるように感じられる。「世間虚仮 唯仏是真」はお経のようでありながら出典は不明である。出典が明らかではないお経のようなものとは何か。どういう念仏か。きっと、彼女の記憶の混乱、妄想によって生まれた文句なのだろう(注8)。
太子はおそらく彼女を安心させるための譬え話として「天寿国」なることを語っていたのだろう。彼女は錯乱して真に受けてしまい、実在すると勘違いをしている。「天寿国」とは何かについて、今日の研究者は程度の差こそあれ、当時の思想としてあったかのように解釈している。しかし、中世の浄土思想のように上代に天寿国思想は広まっていたとは認めがたい。浄土という考え方は種々あったかもしれないが、天寿国繍帳の銘文以外に「天寿国」という言葉は出てこない。それも銘文のなかの発語部分、台詞にしか登場していないとなると、台詞を吐いた橘大郎女の頭の中にしか「天寿国」なるものはなかったと考えるべきである。彼女は精神を病んでいる。この繍帳は荘厳を目的とした作品ではない。
繍帳銘復原文と読み下し文
銘文の会話文はお世辞にもおめでたいとは言いがたい内容である。それが載っている。なぜ繍帳に載せられているのかについては解釈のフレーム自体と関係する可能性がある。すなわち、橘大女郎の主張を推古天皇が捉え返して、あなたがそう言うならそうするわ、ということである。「図像」なら他に絵画でも織物でもかまわないのに、あえて「繡帷」という形式にこだわったのではないかと考えられるのである。いちばん希望に沿えて適切なのが繍帳という形式であったということである。そこまで解析されたとき、この天寿国繍帳銘は読めたということになるのだろう。
飯田2000.(420~421頁)により銘文の復原文を示す。亀の甲に四字ずつに記されたから四字ずつに区切っている。なぜ四字ずつなのかも検討課題である。文章の続きと関係なく四字ずつに区切ることになっている。
斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意 斯波留支 (1)
比里爾波 乃彌己等 娶巷奇大 臣名伊奈 米足尼女 (2)
名吉多斯 比彌乃彌 己等為大 后生名多 至波奈等 (3)
已比乃彌 己等妹名 等已彌居 加斯支移 比彌乃彌 (4)
己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 彌己等為 后生名孔 (5)
部間人公 主斯帰斯 麻天皇之 子名蕤奈 久羅乃布 (6)
等多麻斯 支乃彌己 等娶庶妹 名等已彌 居加斯支 (7)
移比彌乃 彌己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名 (8)
尾治王多 至波奈等 已比乃彌 己等娶庶 妹名孔部 (9)
間人公主 為大后坐 瀆辺宮治 天下生名 等已刀彌 (10)
彌乃彌己 等娶尾治 大王之女 名多至波 奈大女郎 (11)
為后歳在 辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母 (12)
王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩 于時多至 (13)
波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天 皇前曰敬 之雖恐懐 (14)
心難止使 我大王與 母王如期 従遊痛酷 无比我大 (15)
王所告世 間虚假唯 佛是真玩 味其法謂 我大王応 (16)
生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所叵看 悕因図像 (17)
欲観大王 住生之状 天皇聞之 悽然告曰 有一我子 (18)
所啓誠以 為然勅諸 采女等造 繡帷二張 畫者東漢 (19)
末賢高麗 加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻 (20)
新字体に改めた筆者による書き下し文を下に示す。段落分けも適宜行う。読む際に留意した点は、地の文と会話文との区別である。絵画的に<図>と<地>の混同が見られる厄介な代物である。文章においては<図>と<地>をはっきりさせておかなければならない。会話文は14行目の「畏天」から18行目の「之状」までと、同「有一」から19行目の「為然」までである。あくまでも会話文であるから上代の話し言葉としてふさわしい読み方をしなければならない。意味が通じれば良いというレベルではなく、発話された発声音の再現が試みられなければならない。他の読み方は許されないという意味である(注9)。
斯帰斯麻宮(磯城嶋宮)に天下治らしめしし天皇、名は阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等(天国排開広庭尊=欽明天皇)、巷奇大臣(蘇我大臣)、名は伊奈米足尼(稲目宿禰)が女、名は吉多斯比彌乃彌己等(堅塩媛命)を娶きて大后と為たまひ、名は多至波奈等已比乃彌己等(橘豊日尊=用明天皇)、妹、名は等已彌居加斯支移比彌乃彌己等(豊御食炊屋姫尊=推古天皇)を生みたまふ。復、大后が弟、名は乎阿尼乃彌己等(小姉命)を娶きて后と為たまひ、名は孔部間人公主(穴穂部間人皇女)を生みたまふ。斯帰斯麻天皇(磯城嶋天皇)が子、名は蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等(渟中倉太珠敷尊=敏達天皇)、庶妹、名は等已彌居加斯支移比彌乃彌己等を娶きて大后と為たまひ、乎沙多宮(訳語田宮)に坐して天下治らしめし、名は尾治王(尾張皇子)を生みたまふ。多至波奈等已比乃彌己等、庶妹、名は孔部間人公主を娶きて大后と為たまひ、瀆邊宮(池辺宮)に坐して天下治らしめし、名は等已刀彌彌乃彌己等(豊聰耳皇子=聖徳太子)を生みたまふ。尾治大王(尾張皇子)が女、名は多至波奈大女郎(橘大女郎)を娶きて后と為たまふ。
歳辛巳に在りし十二月の廿一の癸酉の日入、孔部間人母王崩りましぬ。明年二月の廿二日の甲戌の夜半、太子崩りましぬ。
時に多至波奈大女郎、悲哀び嘆息きて白さく、「畏き天皇が前に曰ひて啓すは恐しと雖も、懐ふ心止み難し。我が大王と母王と期しが如く従りて遊く。痛く酷きこと比无し。我が大王、告りたまへらく、『世間虚仮、唯仏是真』とのりたまふ。其の法を玩味ふに、我が大王は天寿国の中に生れたまふべしと謂ふ。而れども彼の国の形、眼所に看叵し。悕はくは図像に因りて大王が住生ひし状を観まく欲し」とまをす。
天皇、之れを聞こしめして悽然みたまひて告曰く、「一の我が子有り。啓せるは誠にして、以為へらく然なり」とのりたまふ。
勅して諸の釆女等に繍帷二張を造らしめたまふ。画ける者は東漢末賢、高麗加西溢、又、漢奴加己利、令者は椋部秦久麻なり。
先に系譜、経緯が書いてあり、第三段落からが本題である。橘大女郎と豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)とのやりとりである。橘大女郎が言っていることは、まず、
天皇に申し上げるには畏れ多いことですが、気持ちを抑えることができないので申し上げます。
と断っている。その上で、
夫の聖徳太子が母君の後を追うように、まるで約束を交わしていたかのように、あの世へ逝ってしまい、辛くて仕方がありません。主人からはつねづね「世間虚仮 唯仏是真」と告げられておりました。その教えを口のなかで噛みしめていると、主人はいま「天寿国」に生きていると思います。ですけれどもその国は私の目には浮かんで来ません。できましたら、図像に頼りまして主人が生きているところを観たいと思っています。
推古天皇はこれを聞いてびっくりして、ひとりごちた。
一人ね、うちのところの若い娘のことなんだけど、心配だわ。啓上してくる心は誠実で、言っていることはその通りなのだけど。
ということで、いろいろ思案した挙句に、詔勅! 大勢の采女らに刺繍の緞帳を造らせた。下絵制作は誰々、材料調達は誰々。
この文章をよく読むと、推古天皇は、「天皇聞レ之、悽然告曰『有二一我子一、所レ啓誠、以-為然』」→「勅」という流れになっている。天皇は「悽然」としている。聖徳太子が亡くなったことそのことについて「悽然」としているのではない。自分ん家の孫娘の橘大女郎の気持ち(精神状態)に「悽然」としているのである。橘大女郎が、畏れ多くも天皇たるこの私に直訴してきた。別に裏があってやっていることではなく、「誠」実そのものである。言っていることも尤も「然」りなことである。
推古天皇の言葉のなかの「所啓誠以為然」は、「所レ啓誠、以-為然」で、「啓せるは誠にして、以為へらく然なり」と訓読されるべきである。
然らずは許さずなり。然りは猶ほ必ずのごとし。亦、是の如きなり。(不然不許、然猶必、亦如是也。)(玉篇逸文)
子曰く、然り、是の言有るなり。堅きを曰はずや、磨すれども磷ろがず。白きを曰はずや、涅すれども緇せずと。(子曰、然、有是言也。不曰堅乎、磨而不磷。不曰白乎、涅而不緇。)」(論語・陽貨)
孔子の言いたいことは、確かになるほどそういったこともある。けれど、もう少し柔軟に考えてみてはどうだろうか、という意味で使われている。推古天皇の言もそういうニュアンスで用いられている。
天皇という立場にあると、奏上された時、その奏上された言葉について、まず、本当かどうか、本心かどうか、見定めなくてはならない。それ以前の問題として、奏上の機会を与えるかどうかといったこともあるが、ここでは省く。聞くに当たり、中立性、公正性が問われる。詐欺、奸計、阿世、讒言などを見極めるために、奏上された言葉の背景、前提、状況、奏上した人物などをよくよく吟味しなければならない。このとき、橘大女郎の「所レ啓」、すなわち、啓上してきたその心根は「誠」実そのものであると判断した。悪い企みがあるわけではない。真心なのである。そこで、第二段階として言っている内容について考えてみた。「以-為然」、思うに、確かになるほどそういうことになるね、である。命題の三段論法において、「ソクラテスは人間である」、「人間は死ぬ」、ならば、「ソクラテスは死ぬ」というところの、ナラバがシカリである。橘大女郎は、「太子は天寿国にいらっしゃるはずである」、「その国を看たいが看えてこない」、ならば、「天寿国の図像(模倣品)があればそれによって今の太子のお姿を観ることができるのではないか」、これはシカリである。
橘大女郎のこのような啓上を聞いたら、気丈な推古天皇とて「悽然」となるだろう。
故、時に復太だ息きます。豊玉姫、聞きて、其の父に謂りて曰はく、「天孫悽然みて数歎きたまふ。蓋し土を懐ひたまふ憂ありてか」といふ。(神代紀第十段本文)
古訓にイタミテとある。天寿国繍帳銘同様、会話文中にある。「悽然」の語はイタミテと訓むべきで、孫娘が痛々しく感じられるのである。橘大女郎は聖徳太子の言いつけを守っている。守り抜いている。洗脳されていると言っていい。太子は生前、「世間虚仮 唯仏是真」と言っていた。これは仏教の哲学らしい。もちろん、太子は譬喩、方便として語っていたのだろう。お話(噺・咄・譚)である。これをまともに、逐語的に聞いてしまった。その結果どういう考えに陥ったか。太子は亡くなった。天国へ行っている。仏の国である。仏の国で永遠に生きている。死んでいる人が天に登って寿の国、「天寿国」に生きている。そういうことを考え出してしまった。考え方がそっちへ行ってしまった。パラドックスに陥ったのである。グレゴリー・ベイトソンのいうダブル・バインド(二重拘束)な状態について考察することで明らかになる。精神的に危険極まりないところへ行ってしまっている。
天寿国繍帳銘の前半は縁故関係に費やされている(注10)。人は生れてきたらやがて死ぬものであること、遺伝子の乗り物にすぎないことは免れようがないことを説いているものと筆者は考える。近親者の死に打ちのめされている人に対しては何もしてあげられないのが現実である。打ちのめされている橘大女郎には、解説の代わりに次の詩一篇を贈りたい。
喪のある景色 山之口貘
うしろを振りむくと/親である/親のうしろがその親である/その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに/親の親の親ばつかりが/むかしの奥へとつづいてゐる/まへを見ると/まへは子である/子のまへはその子である/その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに/子の子の子の子の子ばつかりが/空の彼方へ消えいるやうに/未来の涯へとつづいてゐる/こんな景色のなかに/神のバトンが落ちてゐる/血にそまつた地球が落ちてゐる
「天寿国」=テムジクニ
「天寿国」的な考え方について、飛鳥時代にそのような考え方があったのか議論されている。太子にそういう信仰があったかどうかも突き詰められている。亡くなった人が再度生きるところとして考えられるのは、「世間虚仮 唯仏是真」などとあるから仏教の教えであって浄土ということになり、阿弥陀仏による西方極楽浄土、弥勒菩薩による兜率天浄土、釈迦による霊山浄土、維摩居士による妙喜浄土など、諸説検討、主張されてきた。飛鳥時代にどのような浄土観があったかについても考究されている。ただ、「天寿国」という言葉は、当時においてこの繍帳以外には、経典を含めて見当たらない(注11)。
従来の議論は出発するところの着眼点を間違えている。天寿国繍帳の「天寿国」という言葉は、この銘文の文章で橘大女郎によって語られている。「[我=橘大女郎]玩二-味其法[=世間虚仮 唯仏是真]一、謂三我大王応レ生二於天寿国之中一」とあり、「謂」の主語は橘大女郎である。彼女は、「我大王所レ告二『世間虚仮 唯仏是真』一」とあるように、太子が「告」されていたのを聞いていただけで、仏典を研究していたわけではない。おそらく、識字能力はほとんどなかっただろう。よって、「其法」を「玩味」しているのである。目で字を追っているのではない。「世間虚仮 唯仏是真」と口で何度も唱えて、口のなかでどういうことなのか味わっている。そういう体感をしている。
天寿国への往生(?)は橘大女郎の頭のなかでどのようなことと想定されたか、それが課題となる。銘文に明記されている。「使三我大王与二母王一如レ期。従遊……」とある。「使」という字はセシムと訓み、使役を表す。主語は略されているが、仮想語として「天」であることに違いあるまい。天は聖徳太子をして母王に与えさせしめた。太子のことは古代朝鮮語でセシムである。「百済の太子」(継体紀七年八月)、「[百済の]弟王子」(皇極紀元年二月)などとある。すでに天に登った「母王」が寂しそうだから、「我大王」を「与」えさせしむることとなったのである。その様子は「如レ期」とある。「期」はチキリである。時期を約する意である。名義抄の「期」や「約」の訓にチギルとあり、「期りて」(神代記)などと使われている。一般にチギリと濁音で訓まれているが、清濁両用あったらしい。説文に、「期 会ふなり。月に从ひ其声。」とあって、約束の時期を言っている。会う約束をしていたかのように天に召されてしまった。
「天寿国」とは何かについての諸説のうち、大野1996.に、「天寿国」=天竺説が紹介されている。『仮名源流考』に、「或はこは浄土にあらで、天竺国の事なりといふ説あり。……天竺国説は、繍帳の図中、日月鬼畜などありて、天国浄土のさまにあらざると、天寿と天竺と今の字音の似通ひたるなどより、思ひ寄れるものなるべし。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1087728/43~44、漢字の旧字体は改めた)とあり、大野1996.も、「六朝時代における天寿と天竺は同じ字音であって、天寿国も本来はインドを指す呼称であったと推測される。」(76頁)とする。後漢書・西域伝に、「天竺国一名身毒。在二月氏之東南数千里一。」とある。銘文のこの部分、橘大女郎の口から「天寿国」という言葉が持ち出されている。「我が大王は天寿国の中に生れたまふべしと謂ふ」、アガオホキミハ天寿国ノウチニアレタマフベシトイフと喋ったとしよう。「天寿国」と当てられた元の言葉(発声音)は、可能性として、テンジュコク、テンズコク、テムスクニなどいろいろである。そのような国を想像しているのは彼女一人である。インドのことを表すテンジク(天竺、身毒)については、ヤマトコトバ調に訛ったとすればテムジクぐらいになり得る(注12)。太子が生前、彼女に、仏教はテムジクが発祥の地なのだよと語っていたとして、それをそのまま言葉として発したとしたら、母王と太子が逝った先を赴任先の一つのクニ(国)、播磨国、出雲国、尾張国のような行政単位のように思い、テムジクに行った、から、テムジクニ行った、テムジクニの中に生まれた、という助詞接着化による語展開の可能性を見て取ることができる。
「天寿国」を浄土の一類型と考えるこれまでの説は、銘文に成り立ちにくい文章となっている。「天寿国中」に「生」ずるとはどういうことか。極楽西方浄土、兜率天浄土など、どんな形であれ、それを「天寿国」という言い方で言っているとするなら、「中」に生まれるという意味合いがつかみにくい。繍帳に、卵生、胎生、湿生、化生の四生の変化を表わす図像が見られるともされていて(注13)、その場合、無→有だから、「中」に「生」まれると言えないことはないが、図にあるさまに従えば、「蓮華中」に生まれると記されるべきである。問題点はそこにあるのではなく、むしろヤマトコトバで奈良盆地を呼ぶようにクンナカとでも言えるような表記が行われている点に注目したい。コク(国)ではなくクニ(国)である。テンジュコクではなくテムジクニと彼女が言ったのであれば、それを表記するには天寿国という字をあてるだろう。太子は仏の世界、インドへ、つまり、テムジク(天竺)に生まれ変わると言っていた。それをテムジクニ(天寿国)の中へ生まれ変わるものと思っている。彼女の錯乱ぶりを表すのにとてもうまいやり方である。
橘大女郎がテムジクニと言ったとすると、ヤマトコトバ的にはそもそもが訛っているように聞こえる語である。外来語に特有のン音の撥音便を嫌ってム音へと転訛している。「玩味」と断っていることからも推測される。口腔を言葉がめぐっている。玩味ついでに口をついて言葉が出てきた。クチサキラ(吻、嘴)的な語である。
話 胡快反、モノガタリ、アヤマツ、サキラ、コトハル、ウツ、カタラフ、ハチ、ウレフ、マコト、合會善言也、調也。(名義抄)
たゞいまの世に、才もすぐれ、ゆたけきさきらをいとゞ心していひつゞけたる、いと尊ければ、皆人しほたれ給ふ。(源氏物語・鈴虫)
要するに、銘文の後半は彼女のお話、テムジクニ物語である。天皇の前で流暢に話したことを表している。例えば、バイオリン、バラエティと平べったく言うのではなく、ヴァイオリン、ヴァラエティとネイティヴ流に喋っていたということである。発音ばかり先んじた言葉、意味のついて来ない言葉であることを的確に示している。
第三に、事もあろうに天皇の立場にある推古天皇に直訴している。誰か友だちはいないのか、カウンセラーはいないのか。わざわざ斑鳩から飛鳥まで歩いて来て警護の者に何とかお目通りを言ってきた。斑鳩宮は太子を看病して疲れて亡くなった膳夫人(膳大刀自、膳菩岐々美郎女)も含め、さらにもう一人死者が出かねない。橘大女郎が「従遊」と言っていたように続けざまに亡くなっているのは、実は膳夫人と太子なのであるが、錯乱してわからなくなっている(注14)。とても危険である。自死者など出たら堪らない。若い人が先へ逝くのはもう勘弁してほしい。仏教の盛んな、その象徴のような斑鳩の里が、文字通り葬式仏教のメッカになってしまう。推古朝は仏教を推進する立場に立っていた。困ったものである。
そして第四に、橘大女郎の言っていることは論理的に破綻しているものではなく、「然り」なのではあるがラージミステイクに陥っている。論理階梯が混乱している。どんなに説いても諭しても、通じることはないと直感させられる。彼女は、太子の言っていた論理の枠組みを見極められず、単語の切れ目もわからずに太子の言葉を単線にしか理解できなくなっている。噛み合わない言い合いの例をあげれば、女「痛っ、何でぶつのよ」、男「棒で」、などといったものである。こういった会話に笑いが起こるのであれば、それは論理階梯を混ぜこぜにしていることを認めながらの大人のジョークで済まされるが、真顔の場合はその相手との付き合いは止めた方がよい(注15)。それでも橘大女郎には一筋の救われる道は見えていたと思われる。彼女は、天皇への直訴についてやたらとかしこまって(「畏」、「恐」)いる。かしこまる相手であるし、かしこまる内容である。そう気づくだけの賢さが残っていたからカシコシと言い、賢いからそういう病に陥るともいえる。「懐ふ心止み難し」、オモフココロヤミガタシとは、病堅し、すなわち、変な考えを起こす病がひつこく付きまとっているということ、心の風邪をこじらせていることを含意している。
「繍帳」とは刺繍のトバリのこと、寝る時に枕元にかけ立てて熟睡できるようにした仕切りのカーテンのことである。精神を病んでいる人は、①夜よく眠ること、②それにより十分に休養すること、③ふつうにご飯を食べること、④適度な運動をすること、⑤その結果、規則正しい生活を送って生活リズムを取り戻し、ホメオスタシスによって治癒していくのが最善の方法である。夜に亡くなることが続いて生活リズムも乱れていたのだろう。まずは睡眠薬代わりにトバリが必要である。彼女の願いを最大限聞いてあげるため、「天寿国」とは何かよく分からないが、太子が言っていたらしいことを彼女が真に受けているらしいから、太子はとてもハッピーところへ行ったのだと思わせるようにして安心させてやりたい。うつらうつら微睡んでいる時にハッピーな「天寿国」の様子が見えれば、不安に駆られることなく眠れることだろう。寝返りを打って悪夢に怯えて目が開いても、やはりハッピーな「天寿国」が見えるように左右に計二張必要である。緊急事態だから手続きを踏まずに使える宮中の采女たちに命じた。その作成の次第をそのまま銘文としている。監察が入っても免罪となるようにである。
亀の上に字が乗っている。彼女が字を読めたとは思われない。けれども、それが文字であるということはわかっただろう。なぜ、亀の上なのか。「亀(メは乙類)」は、已に噛んでしまっているという已然形「噛め(メは乙類)」と同音である。話すのが苦手な人はよく噛んでしまう。そこで、笏というカンペを用意して手控えとしていた。そのおおもとの文字が現れたのは亀甲獣骨の上であった。甲骨文字である。亀の上に何らかの記号が記されているとわかりさえすれば、上代の人にはそれは文字であるということが確かに理解されたことだろう。そしてそれを経文の偈にあるような形で四文字ずつに区切っている。
…… 我が国は 常世に成らむ 図負へる 神しき亀も 新代と 泉の河に ……(万50)
「亀」の負っている「図」のことをフミと読んでいる(注16)。ヤマトコトバにおいて亀と文字との関係を考えると、亀の背の文様を文字に近いものと捉えていたという解釈が可能である。外国人や現代の若者が漢字をパターンとして認識するように文字(漢字)は角ばった形に過ぎない。だから「公」の字は顔文字のようになっているのである。「画者、東漢末賢、高麗加西溢、又漢奴加己利」とあるのは、どちらも「画」くものである文字と絵とをともに担ったことを表す表記なのだろう(注17)。
病室のカーテンのデザインとして文字を表すには簡にして要を得ている。もちろん、作る側は適当に字を並べておけばいいというわけではない。文字という担保がない無文字時代にいる彼らは言と事とが一致するように志向していた。その限りにおいてのみ言葉は有意味に存在し得て秩序が保たれた。もし、嘘、偽り、いいかげんなことを書にしてしまうと、それを誰かが読んで言葉に出した暁には、そのまま事柄であるように無理やり現実化しなければならなくなって収拾がつかなくなる。そういう恐れを排除すべく、正しいこと、確かなこと、真を吟味して書くのである。彼女が訴えてきたことをそのままに書き、その訴えはそのままにしつつ捉え返して糸を撚って刺繍にした次第を書く。事を言として表している。それが天寿国繍帳の銘文であり、描かれた「図像」は彼女の頭の中にだけ存在することを入れ籠構造として表しているのである(注18)。
無文字文化のなかにいた上代の人たちは、文章を作るに当たって、言葉が言葉だけで確かなものとなるように、自らが自らを定義するように考えを巡らしていた。言葉が音としてしか存在しないことが当たり前でそれが日常であれば、言葉が言葉自体で説明するようにしておかなければいけない。聞いた相手がわからなくなること、また忘れてしまうことがないように、聞いて考えを廻らす都度なるほどと納得がいくことが言葉としてふさわしい。その時、その言葉は与えられた他人事ではなく、自らが発見したかのような自分事となって確かなものとなる。そのように言葉づかいにからくりを施していく手法はなぞなぞ的であり、古語に「無端事」(天武紀朱鳥元年正月)と言っている。端が無いとはユヱ(由縁・所以)が知られないということで、何か他に依って立つ根拠があるわけではない。根拠がない事柄なのに確かであると了解されるのは、言葉がその言葉自体で自らを説明しているからである。自己言及的な言葉づかいが奥深い知恵として尊ばれ、実践されていた。精神を病んだ橘大女郎とのやりとりが、奇しくも飛鳥時代のヤマトコトバの本性を露わにしている。
「従」=ヨリテ(ヨは乙類)
「従遊」はヨリテユクと訓む。橘大女郎は「母王」の後を追うように続けざまに「我大王」が亡くなったことにショックを受けている。 「従」の字は万葉集で助詞のヨリ(ヨは乙類)に当てられる例が多い。空間的、時間的に動作の起点を表す。「従」と「自」は通用字である(注19)。ここでは、そのヨリの語を、糸を「撚(搓)る(ヨは乙類)」ことと掛詞にしている。撚(搓)るとは、糸を何本かねじり合わせて一本にすることである。絲にする道具はツミ・ツムと呼ばれる紡錘である。回転軸に回転を推進させる車を伴った道具で、撚り合わせて巻きつけることができる。和名抄に、「鍋〈紡続付〉 字書に云はく、鍋〈音は戈、字は亦、楇に作る、漢語抄に云ふ都美〉は紡車、絲を収むる者なりといふ。唐韻に云はく、紡〈芳両反、豆無久〉は続むなりといふ。蒋魴切韻に云はく、績〈則歴反、宇無〉は麻苧を続む名なりといふ。」とある。

錘を使って二本の糸を撚ってゆくことによって絲ができあがる。新撰字鏡に「搓線 糸与留」、和名抄に「絲 文字集略に云はく、絲〈音は司、伊度〉は蚕の吐く所なりといふ。説文に云はく、線〈思翦反、字は亦、綫に作る、訓は縷と同じ、以度須知〉は絲の縷なり、纇〈盧対反、伊度乃布之〉は絲の節なりといふ。」とある。橘大女郎の要請に応えるようにするには何かしら撚った絲を使わなければならない。彼女の言い分に最も合致する「図像」形式は、撚り糸を使った刺繍を施したものである。澤田2006.に、「旧繡帳の図様は、強いZ撚り(左撚り)……の多彩な刺繡糸を用い、返し縫……の技法により、輪郭線で図様を縁取って内部を緻密に繡い表している。一見すると、撚り糸を単に並列したようで平面的で変化に乏しいが、力強さが感じられる。このため、全体に固い印象を受け、絹本来の柔らかな風合いに欠けるが、この強い撚りと緻密さが、現在もなお良好な状態を保っている理由といえる。」(17頁)とある。采女たちは糸を撚って絲にし、針をあっちへ行きこっちへ行きする返し縫いをした。
下地は榺を使って織られた羅や平絹らしい。和名抄に、「榺 四声字苑に云はく、榺〈音は勝負の勝、楊氏漢語抄に云ふ織榺、知岐利〉は織機の経を巻くの木なりといふ。」とある。どのような絵柄に織り上げるかを計算して染め分けた糸を経糸として予め榺にかける。織る前に既に決まっているわけである。その機織用語から派生して、約束されていることを期(契)というようである。橘大女郎はチキリ(期)のようにヨリテユクことを太子の落命に見ている。絹織物を作るのに糸を撚ることがないとなると、彼女の言い分を機織物上に表明するには一工夫必要ということになる。そうしないと天寿国の様子を尋ねる手助けとはならないからである。そこで撚り糸を使った刺繍が画面を覆うことになっている。
錘は「抓(摘)み(ミは甲類)」と関連がある語とされるから、ミは甲類と思われる。桑の一種のヤマグワのことも柘という。ミの甲乙は知られないが、蚕関連だからやはり甲類のように感じられる。そして、罪(ミは甲類)とも洒落られている。「母王」の子(コは甲類)が聖徳太子であり、蚕(コは甲類)が柘を食べた罪から錘によって撚り合わされて絲にされるように、寄り合って逝ってしまった。罪人は手足を縛って拘束するが、それもヨルという。太子の法華義疏に、「有る人其の手足を縛りたり。」(長保点)とある。また、物の怪に憑りつかれることもヨルという。橘大女郎は悪い考えに憑依している。すなわち、撚(縒)と寄(依・縁・因)(ヨは乙類)とは同根の言葉と見られることになっている。そういう主張をしてきた橘大女郎が思い描く「天寿国」を示してあげる「図像」には、撚り絲をもって作る繍帳がふさわしいことになる。
狂気に近づいていた橘大女郎の申し立てに対して、推古天皇が内々に緊急に対応して作成したのが「繡帷二張」である。彼女の言い分を天皇は傾聴して捉えた。そして、言葉のもつ意味合いの含みを使いながら、「大丈夫だよ、安心してね」というメッセージ(メタ・メッセージ)を伝えようとして繍帳を作っている。彼女の考えをきちんと受け止めていることを具現化するために、絹本来の光沢を失いながらもわざわざ撚りをかけて刺繡糸として用いている。彼女がヨリテユクと言ってきたから、ヨリテユク作業を施した撚り糸にしているわけである。その結果、偶然にも、飛鳥時代の色彩が鮮やかに残っている。
一般に、「絹は、複数の繭から糸を引き揃えるだけでよく、特殊な織物を除いて撚りをかける必要がない。実際に、古墳時代の絹織物の繊維は引き揃えただけで撚りはかかっていない(沢田[2005.、48~53頁]……)。また、正倉院に伝わる『調絁』の絹繊維にも撚りはかかっていないことが確認できる(尾形[1999.1~30頁]……)。」(東村2011.、22頁)とある。絹糸の場合、カイコは蛹を作るために一筋の糸を吐いて繭を作っている。そのため、繭を煮て糸口を見つけさえすれば、するすると細くて長い一本の糸が引き出されることになる。それをそのまま糸として撚りをかけずに布に織ることが可能で、その方が染織した糸は光沢を放ちやすく美しく仕上がる。蚕から採れる超長繊維で均質なものは植物繊維からはなかなか取り出しにくい。絹は麻や苧などよりも遅れて大陸から伝来したと考えられている。
橘大女郎よ、太子も母王も、確かに相次いで亡くなったから糸を撚るように思えるかもしれないが、罪のために手足を縛られているのではないのだよ、立派に生きた人ではないか、ましてやあなたが自責の念に駆られることなどはないのだよ、と言いたくて、強いZ撚り(左撚り)の多彩な刺繡糸を用いて繡い表しているのだろう。糸に撚りを強くかけること、それをきれいに染めること、図様の内部をくまなく埋め尽くすこと、それはまさにこの世で計り知れないほどのことを成し遂げて天寿を全うした太子と母王とを顕彰することになり、「天寿国」を示すのにふさわしい方法だと思ったのだろう。一点の曇りもないとはこのことである。そうすることで神仏の咎めだてとする橘大女郎の疑念を払拭しようとしている。「祟 タタルナリ、私酔反、神禍」(新撰字鏡)という語と捉えるのは彼女の勘違いであり、絡垜という糸撚りの道具のことなのだと言い換えている。大切な人を失って辛い思いをしている人には、罪ではなく柘、祟りではなく絡垜、つまり、ヨリテユクようなことは絲のことなのだと、彼女の思い詰めている「世間」をこそ「虚仮」にしなさいと推古天皇は諭したように感じられる。あるいは、ちょっと気晴らしに絲を績んでみたりしたらどうだい、というアドバイスだったかもしれない。絲を撚るには他ごとを考えずに集中しなければならず、脳の異なる部位を使うことになって気分が転換し、精神的に健康になることができる。刺繍に没頭することも同様であり、それは人間にとって必要な「遊」びのうちにある。ヤマトコトバは同じ言葉でも世界の捉え方を変えることができるように整えられている。無文字社会の言語活動の知恵である。
相撲の例を考えれば、ヨル(寄・依・因)とヨル(撚・縒・搓)とに関連を見出したさまは明らかとなる。四つに組んで互いに回しを引きながら、なぜか片方の力士が土俵際まで進むことができる。組んでいるから力が入り、離れることなく勝負が決まる。力士にはそれぞれ右四つ得意、左四つ得意と形があり、その形になると力を発揮する。両者得意の形に持ち込みたいから巻きかえが起こる。一度巻きかえると相手も巻きかえようとして巻きかえがくり返されることがある。糸の撚りにいうZ撚り、S撚りと同じことが繰り広げられる(注20)。がっぷり四つに組んで土俵中央で落ち着きを見せることは、繊維を撚ってその撚りが解消する方向へ力が加わって絡みあい、絲となっていることと相同だと見ることができるのである。古語のスマフ(相撲・捔力)という語はスマフ(争ふ・拒ふ)という動詞から生まれている。相手の働きかけに強く抵抗し拒否することで、相手の力に対して互いにあらがい、嫌がり、断ろうとするため、自縄自縛な状態になる競技なのである。
相撲と同音の語に「住ふ」がある。橘大女郎は、天寿国で「大王[=聖徳太子]が住生ひし状」と言っている。それを承けて、推古天皇や采女等は糸と糸とが互いに撚りをかけ合って絲とし、「図像」に表してあげなければならないと考えた。スマフ(住)という語はスミ(住)+アヒ(合)の約とされる。ずっと住み続ける、一緒に生活する、の義がある。場所との一体性、あるいは、互いの関係の連帯性が感じられる言葉である。ふらふらと幽霊になってさまよったりはせず、気持ちのよい生活を送っておられるに違いないと信じさせるために、相撲でがっぷり四つに組んでいることと相同な撚り糸を以てその図像を表すことが求められ(注21)、推古天皇側はしかと受け取って製作に励んでいる。飛鳥時代の人たちの言葉における感性の鋭さ、言葉を大切にする心性が顧みられるところである。
「遊」=ユク
「遊」はユクと訓む。紀では「遊行」に敬語のイデマスのほか、ユクとも訓んでいる。
天孫の前に立たして、遊行き降来り、……(神代紀第九段一書第四)
「ゆく」は「目的のところに向かって進行する。歳月などが過ぎゆくことをもいう。持続的に経過してゆく意。死ぬことをいうことがある。」(白川1995.776頁)である。「遊」は万葉仮名で呉音に従ってユと訓む。意味として動詞ユクに限りなく近い。中村2001.は、「ゆ(遊)」の項目を立てて、「①存在する。いる。「倶遊」(ともにいる。)……②…している。住に同じ。Ⓟ viharati ……〔サンスクリット語やパーリ語には、英語の…ing に相当する現在進行形がないから、ⓅⓈ carati ⓅⓈ viharati などをもって現在進行形を示す。したがって、漢訳の「遊」はほぼ現在進行形を意味する。〕③へめぐること。旅をして進んで行くこと。Ⓢ vicarati ……Ⓢ prayāṇa ……④一時、くつろいでとどまること。ⓅⓈ viharati ……〔現代のサンスクリット語およびヒンディー語では、子供たちが遊ぶ遊園地やレジャー・センターのことを vihāra-kendra という。〕」(1682頁)と解説する。遊行、遊戯、遊楽という呉音読みが今日にも残っている。音訓が絲のように撚り合わさっている。
橘大女郎は、太子が母王に従って絲を縒り合せるようにして「ゆ(遊・行・往・逝)」くところを「天寿国」であると言い出している。持続的、継続的に…ing として「ゆ」くところ、という意味である。これは浄土と呼んでいいかもしれず、五十六億七千万年滞在しているのかもしれないが、彼女にとっての念仏(?)・題目(?)は「世間虚仮 唯仏是真」だけであり、体系化された理念には関知していない。新しく移入された思想を語っているのではなく、飛鳥時代の信仰形態以前の橘大女郎個人的問題のようである。
そのような人が、「天寿国」という自己矛盾した形容の架空世界を勝手に思念して、その画像を観想したいから作って欲しいなどと、事もあろうに天皇に求めてきた。立場を弁えない直訴であることは自覚していて、「白『畏天皇前曰敬之雖レ恐懐心難レ止……』」ときちんと記されている。橘大女郎の錯乱、乱心、狂気の様子を表している。推古天皇は、橘大女郎の途方もない「天寿国」空想(幻想、妄想)に付き合ってあげたに過ぎない。
聖徳太子という人はとてもユーモアのある人だったのだろう。仏教の経典をお話として推古天皇に講義することができた人であった。
秋七月に、天皇、皇太子に請せて、勝鬘経を講かしめたまふ。三日に説き竟へつ。(推古紀十四年七月)
是歳、皇太子、亦法華経を岡本宮に講く。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。(推古紀十四年是歳)
天皇はお話として勝鬘経や法華経のことを聞いて、よくわかったということになったのだろう。仮に信仰するというレベルでも、この、わかった、のラインで止まるに違いない。そうでないと現実に生きて行くことができなくなる。全人民が補陀落渡海を実行したらどうなるか。橘大女郎の場合、真に受けてしまったから困っている。フィクションをフィクションとして捉えられなくなった時、その精神はピンチである。孫娘にそういうのが一人いる。孫娘まで「従遊」するようなこと、後追い自殺された日には堪ったものではない。すぐに何とかしたい。しかし、天皇という職務、それはすなわち、その立場という形式を保つということに他ならないのだが、それと相容れない。傾聴したり添い寝するために宮を離れるわけにはいかない。
どうしたらよいか。「勅二諸采女等一、造二繡帷二張一」である。公式に「繍帷造司」を設けたのではなく、采女等に直に「勅」して内々に事を進めた。養老令・後宮職員令に定めのある「縫司」を使ったのではない。精神疾患に対する偏見は昔からあっただろうから内々にしか進められないとも思われるし、緊急事態に行政が役に立たないのは今に始まったことではないだろう。下絵も官吏である「画工司」(養老職員令)に属する先生は使えない。「画工白加」(崇峻紀元年是歳)、「黄書画師・山背画師」(推古紀十二年九月是月)といったプロではなくて、アマチュアながら絵が上手いと聞こえる下々の者を呼んできて使っているに違いあるまい。彼らは下書きだけで、キャンバスに絵や字を描くわけではない。刺繍が施されるのである。その刺繍もお針子のプロ、「衣縫」(応神紀四十一年二月是月)、「衣縫部」(雄略紀十四年三月)や「衣縫造」(崇峻紀元年是歳)などではなくアマチュアの「采女」なのである。材料は適当に見繕って役所の蔵から調達してよいと免許を持たせた。「椋部秦久麻」なる人、あとはよろしく、とのことである。人選が早く、あっという間に進んでいる。事が事だけに急を要している。その事柄についてきわめて正確に記されているのが天寿国繍帳の銘文である。
できあがった「繍帷二張」を橘大女郎が観て、おそらく彼女は気持ちが落ち着き、快方へと向かったものと思われる。使用目的を果たした。そして、法隆寺の蔵に繍帳はしまわれて長く日の目を見ることはなかった。なにしろ超マンガのB級品である。絵本の見開き一ページといったほうがむしろ適切かもしれない(注22)。
橘大女郎の病
橘大女郎の症状について、ベイトソンのダブル・バインド理論によりカルテとして整理する。以下、矢野1996.に倣う。
ダブル・バインド理論におけるパラドックスは単なる矛盾をいうのではなく、自己言及性と悪循環を含んだ三つの要素から成り立つ。「行為(言明)」がその「行為(言明)」自身に適用された時、自身を否定してしまい、「行為(言明)」の「意図」の達成を拒んでしまうという自己言及性のある矛盾がパラドックスである。橘大女郎は、「我大王」(聖徳太子)が言っていた「世間虚仮 唯仏是真」に毒されている。太子は亡くなってしまった。まさに「世間虚仮」である。太子は「唯仏是真」であるところの「仏」になってしまった。そうなると「世間」(=世界)を反転させないと訳が分からない。頭蓋骨のなかで、まず口で「世間虚仮 唯仏是真」と唱えながら反転させてみた。「天寿国」なる国を反転世界として仮構したのである。当然、頭蓋骨のなかにある想像の目にも見えて良いはずである。しかし、浮かんで来ない。太子が語っていたことは絶対だからあるはずなのに見ることできない。「世間虚仮 唯仏是真」という言明を「世間虚仮 唯仏是真」という言明自身に及ばせてしまったために、「世間虚仮 唯仏是真」という言明が意図せざる結果に陥ってしまった。パラドックスである。ベイトソンのいうダブル・バインドもパラドックスの一形態である。
ベイトソンのダブル・バインド理論とは、「①非対称の人間関係の場において、②一定のメッセージが与えられ、③しかもそのメッセージを否定するメタ・メッセージが同時に与えられ、④そして犠牲者がその場を逃れることができない状況をダブル・バインド状況といい、⑤それが反復されると弱者の側に分裂病[統合失調症]を生むというものである。」(43頁)。聖徳太子と橘大女郎との間柄は、夫婦である以上に師と弟子のような関係にあったのだろう。そのような一定の相補的、非対称的、支配被支配的な関係性のなかで、繰り返し「世間虚仮 唯仏是真」と言われ続けて刷り込まれてしまい、しかも太子が亡くなるというあり得ないようなメタ・メッセージが科されてしまった。同じ穴のムジナである膳妃まで太子と共に亡くなってしまい慰め合うこともできず、斑鳩宮から逃れ出ることもできない。完全にダブル・バインド状況に置かれている。この事態は、統合失調症に侵される瀬戸際にあるといえる。訳が分からなくなって、事もあろうか天皇である祖母の推古に啓上に及んでいる。
橘大女郎は何を学習しなければならなかったか。
ベイトソンのいう学習の類型において、「学習Ⅱ[習慣形成、性格形成のように、コンテクスト自体が変更されるシステム、選択肢集合自体が変更されていくプロセス]以前の状態から学習Ⅲ[習慣化した前提を問い質し、解釈図式の変革を迫るもの。換言すれば、それまでの自己の行為(言明)のコンテクストのそのまたコンテクストを眼中に収めながら行為(言明)するすべを習得すること。自己システム全体が組み替えられること]への移行は、自己システム全体の変容をもたらす。この時、システムを閉じた個人と捉えてはいけない。」(41頁)と説かれている。橘大女郎も、自己システム全体の変容が、偉大なる推古お婆ちゃん帝との間の繍帳を介した関係のなかにおいて起こっていると思われる。
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学習の システムの 行為論的に見た 認識理論的に見た 具体例
類 型 論理階型 論理階型 論理階型
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学習Ⅲ 自己システ 選択可能な選択肢集合 コンテクストのコ 覚醒・回心
ムの組み替 群がなすシステムその ンテクスト(関係
え ものが修正される変化 パターン)の変化
学習Ⅱ 自己・習慣 選択肢集合自体が変更 コンテクストの変 習慣形成
・性格の形 されていくプロセスの 化
成 名
学習Ⅰ 行為の変化 同一選択肢集合内で選 メッセージの選択 古典的条件
択されるプロセスの名 づけ
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▷生物による学習Ⅳの可能性はベイトソンによって否定されている.ただ,個体
発生上の変化を変化させる系統発生上の変化(進化プロセス)は,学習Ⅳに踏み
込んでおり,これをエコシステムの変化として捉えることができるかもしれな
い.しかし,そうすると自己言及のパラドックス問題に逢着することになる.(37頁)
続けると、「コミュニケーション・システムとしての人間が、本質的に、関係に自己言及するコミュニケーション・システムとして存立していると考えるとき、これまでの学習と呼ばれているものは、すべてコミュニケーション・システムの自己変容として捉えることができる。一般には覚醒を、個人の内面に生じる劇的事態と捉える思考に慣らされているが、私たち[矢野氏ら]は、コミュニケーション論に基づき、コンテクストとメッセージとのパラドックスによってもたらされる関係のダイナミックな自己変容としてそれをみることを主張する。関係が人間の最深部の無意識のレベルで、人間の世界にたいする構えを規定しているとき、関係そのものを意識的努力によって変容させることは、原理的に不可能だと言ってよい。このことが、覚醒と呼ばれる事態がまれにしか生起しない理由を示している。」(41頁)とある。確かに、橘大女郎は、自分の力だけでは世界に対する構えを変容させることはできなかった。そして、太子の言葉である「世間虚仮 唯仏是真」について、自分と同程度、ないしそれ以上に理解のある人物が誰かいないか探してみた。一人いた。推古天皇である。太子の仏教講筵を聞いて感激し、「播磨国水田百町施二于皇太子一」(推古紀十四年是歳)していた。「畏」れ多いことだが、「雖レ恐」関与してもらうしかないのである。
「ところで、関係の自己言及による矛盾によって、関係の自己変容をもたらすものに対話がある。ソクラテスが、非連続的な覚醒をもたらす優れた対話者であることはよく知られている。そして、彼の対話の特徴として、パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファーがあることもよく知られている。これらの特徴は、すべてコミュニケーションの論理階型の混乱と秩序化に関係しており、このような対話の在り方にこそ、関係を変容させ、覚醒をもたらすソクラテス的対話の秘密があると考えられる。」(42頁)とある。推古天皇は聞いて弱った。「悽然」としてしまった。「世間虚仮 唯仏是真」と本気で言っているわ。「皇太子亦講二法華経於岡本宮一」のとき、あの子、いくつだったっけ? しょうがないわねぇ。
私、「天皇」(注23)をやっているの。立場上、対話はできないのよ。公に役人を使うこともできないわ。でも、何とかしなくちゃ。彼女は「天寿国」に「大王住生之状」を「観」るためのよすがとして「図像」があると助かると言っていた。そしたら、彼女がそれを見て覚醒して、世界に対する解釈図式で自己変容を起こさせるようなものを作ってあげたらいいということね。
銅・繍の丈六の仏像、並に造りまつり竟りぬ。(推古紀十四年四月)
信仰が問題ではないから仏像や繍仏を作っても何の役にも立たないわ。荘厳なのはダメなのよ。彼女の言っているテムジクニって何だかよくわからないけれど(注24)、まあ、深くは考えないで、テムジクニ全体がすごくハッピーな感じに「観」えるような「図像」にしたらいいってことよ。刺繍は刺繍でもきりっとしたのは作っちゃダメよ。仏さまがおひとりさまだったら見てて暗くなっちゃうでしょ。ちょうどいいわ、あなたたち采女だったら刺繍が下手だからかしこまらなくて。それにあなたたちに頼むなら大ごとにもならないし。いちばん肝心なことは彼女が笑うこと。前の素敵な笑顔に戻すこと。袋小路から抜け出させるの。「従遊」なんて言ってたけれどただの「遊」でいいのよ。遊戯よ。テムジクニは遊園地のように描くの。味のあるマンガを描く人知らない? 適当に探してきて。ね、わかった、采女たち。超特急で作ってね。頼んだわよ。
仕事を振られた采女らも最初は戸惑ったことだろう。ひょっとすると尼僧に聞いたかもしれない。
……又、汝[鞍作鳥]が姨嶋女、初めて出家して、諸の尼の導者として、釈教を脩行はしむ。(推古紀十四年五月)
作り手にとっての最大の謎は「世間虚仮 唯仏是真」という言葉だっただろう。その内容もさることながら形式においてもである。橘大女郎は采女同様、字が読めないはずである。読む必要性がないから読みたいと思うことすらない。けれど、「世間虚仮 唯仏是真」とお経を読むように声を上げていたらしい。どこでそんな文字を覚えたのであろうか。文字を学ぶ初学書といえば論語か千字文である。
故、命を受けて貢上りし人の名は、和邇吉師、即ち、論語十巻・千字文一巻并せて十一巻を、是の人に付けて即ち貢進りき。(応神記)
四文字ずつなのは千字文からかもしれない。ならば「天寿国」の「図像」を作るにしても四文字ずつ、事の次第をつぶさに記してなかにぶち込んで書いてしまったらいい。亀甲文のなかに亀を描いた図柄が有りなのだから、何だって有りにしてしまおう。橘大女郎が文字を読めなくても彼女が懐く「天寿国」っぽいし、読めたとしたらもう笑うしかないじゃないか。<図>に<地>が紛れ込んでいる。橘大女郎の今、現在進行形が、「天寿国」の「図像」のなかにすでに書いてあるのだもの。現在進行形、…ing とは、それこそ太子がよく仰っておられた「遊」ということだろう。彼女に足りないのは「遊」そのものなのだと天皇も仰っていた。「天寿国」ワンダーランド。そう、「世間虚仮 唯仏是真」をまるごと「虚仮」にしよう。メッセージのメタ・メッセージ化、メタ・メッセージのメタ・メタ・メッセージ化。きっと悟ってくれるさ、反転の反転で。
すなわち、パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファーの豊富な天寿国繍帳を観ることによって、橘大女郎は、世界(世間)とのコミュニケーションの論理階型の混乱状態を再秩序化したのである。「遊び[=ユ]は日常のコミュニケーションを切断し、解釈枠組みの改変を改変し、不断に意味を生みだし、生に輝きをもたらす。」(122頁)ことに成功した。これは実はたいへんなことで、推古天皇は、天寿国繍帳を介してではあるが、橘大女郎と「関係が対称のときには、パラドックスは真性のダブル・バインド状況とはならない。遊び[(パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファー)]は対称のコミュニケーション・システムのなかで、パラドックスを乗り超える快楽といえる。」(103頁)ことをやってのけた。立場上不可能であるのに、寝屋の帳用のカーテン(注25)制作によって無礼講状況にすることを成し遂げたのだった。凄い人物であったとわかる。
「十二月廿一癸酉日入」への疑問
「孔部間人母王」(穴穂部間人皇女)の忌日はいつのことか。銘文中に「歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩」とあることの意味について考察する。干支表記個所である。「歳在辛巳」とは推古二十九年のことである。金沢2001.によれば、当時用いられていた元嘉暦では「十二月廿一癸酉」は間違っており、甲戌のはずであるという。十二月二十日が癸酉、二十一日が甲戌に当たる。そして、後に採用された儀鳳暦においても『日本書紀暦日原典』では同じことになっている。けれども、儀鳳暦の補正値について、複雑な定朔法をマイクロソフト・エクセルのワークシートを使って計算し直してみたところ、推古二十九年十二月朔の干支は一日ずれあがり、二十一日の干支は「癸酉」になるという。よって、元嘉暦ではなく儀鳳暦が使われた持統朝以降に天寿国繍帳の銘文は記された可能性が高いという。これには批判もあり、野見山2011.に、須賀隆氏からの教授として、推古二十九年十二月二十一日が「癸酉」になることから証明できるのは、進朔を行わない定朔の暦法が用いられたことだけであり、暦相互変換プログラム when では儀鳳暦やその次の大桁暦によって計算された場合も干支は癸酉になるという。
話がややこしくなっている。銘文を上代語として読まない姿勢から変なところへ関心が向かっている。原文は違う意味で思った以上に奇妙である。日付の書き方である。亡くなったのは二人ということで銘文の話は進んでいた。二つの日付の記述を比較すると次のようになる。
歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩
明年二月廿二日甲戌夜半太子崩
年月日時間を干支で表したいのか、数字で表したいのか、記述者の意図を量りかねる。下の行はその次の年の明けて二月二十二日、十干十二支で表すと甲戌の夜半、太子は崩御された、とシンプルである。しかし、上の行は歳が辛巳に在る年の十二月二十一、干支で表すと癸酉の「日入」に孔部間人母王は崩御されたとある。この部分は上宮聖徳法王帝説に次のようになっている。
歳在辛巳十二月廿一日癸酉日入孔部間人母王崩
数字で月日を書く時、「○月○日」と書くのが通例である。法王帝説を記した人の気持ちは理解できる。けれども、勘点文などから繍帳銘文は「○月○癸酉日入」が正しいとされている。干支の後に「日」字が離れ、それが「日入」という熟語として解釈されている。思想大系本では「十二月廿一ノ癸酉ノ日入に」と訓んでいる。東野2013.には、「斉明五年(六五九)七月紀に引く伊吉連博徳書に「十五日日入之時」と見える。」(61頁)とある。伊吉連博徳書は、「十五日の日入の時に」という表し方をしている。「日」字が重なっている。なぜ繍帳銘に「十二月廿一癸酉日入」と「日」字をケチって干支を加えた書き方がされているのか、了解どころか疑問さえ提起されていない。干支との間の齟齬にばかり目が行って「不審」という言葉で議論されている。そもそも繍帳銘の「日入」を日没時間帯と決めてかかっていいのか疑問である。記述の要諦が不明である。 元嘉暦であれ儀鳳暦であれ、同二十一日は癸酉の次の甲戌である。読む姿勢を持てば、つまり、書く立場の気持ちを汲めば、実にあやしい書き方が施されていると知れる。月日の数字の後に「日」字を挟まない書き方は尋常ではない。銘文を記した人との知恵比べである。実際に孔部間人母王が亡くなられたのは推古二十九年十二月二十一日のことなのだろう。時間帯は未明で、死亡診断書としてはほとんど前日の十二月二十日に算入しても構わないということが「十二月廿一癸酉日入」という書き方から見て取れる。
なぜ死亡診断書が改竄されなければならないのか。干支を「癸酉」にしたいからである。それは、鎌倉時代に信如という尼が中宮寺を再興しようとした時、太子の御母堂、穴穂部間人皇女の忌日を知りたがって天寿国繍帳を探したという事柄とリンクしている。聖徳太子の「母王」の名は、「穴穂部間人皇女」(用明紀元年正月、推古紀元年四月)、「埿部穴穂部皇女」(欽明紀二年三月)、「間人穴太部王」(欽明記)と記される。アナホベノハシヒトという人の表記は、銘文中では「孔部間人公主」である(注26)。
銘文の他の登場人物のうち、「尾治王」の「治」字は表意文字で記されているが、その他は「阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等」のようにだらだらと一字一音の仮名書きで記されている。だらだら書きが蔓延しているなか、「孔部間人」と表意文字で記している。名が事柄を表意しているということを強調したいからだろう。名とは何か、呼ばれるものである。名づけられた綽名と言っても過言ではない。
「孔部間人」の意味
アナホベノハシヒトさんは、アナホベノハシヒトというからには穴に穂が入っていて端っこにいる人というイメージが浮かぶ。穴に穂を入れて端っこに人がいる様子には、鳥を捕まえるために罠を張って待っている人というニュアンスがある。それは古代、鳥取部、鳥飼部と呼ばれた職掌の人たちが担っていた。穴を掘ってそこへ餌を置いてよび込み、蓋をして出られなくして捕まえる方法が採られていた。雁や白鳥など力が強い大型の鳥に対して、水辺の穴などに餌を置いて誘い込んでは編み籠を使って蓋して捕まえた。
銘文ではわざわざ「孔部」と表記を断っている。「部」とは部曲のことだろう。穴穂天皇(安康天皇)が皇太子時代に設けられた部であるという。それが穴穂部間人皇女とどのように関わるか、今となっては実証不可能である。それよりも、ここに「孔部」と記されてあることに注意したい。説文に「孔 通るなり。乙に从ひ子に从ふ。乙は子を請ひし候鳥なり。乙至りて子を得、之れを嘉美するなり。古人、名は嘉、字は子孔。」とある。「候鳥」とは渡り鳥のことである。気候に応じて見られる。ここで、ハクチョウ(白鳥=鵠)やガン(雁)、ツバメ(燕)を思い浮かべても孔に当たるような頓智は見えてこない。ヤマトに暮らす知恵豊かな上代人が漢字を目にし、その字の解説である説文の文を悟ろうとしたら、あな(孔)が開いて通っていて、しかも渡り鳥になるような事柄こそ「孔」という字に必要十分条件としてあげられていると考えたに違いあるまい。打ってつけの鳥がいる。タカ(鷹)である。
タカは鷹狩に利用される。嘴が鋭い。穴を開け穿ち、刳り抜くのにもってこいの鋭利な鉤状をしている。実際、獲物の胸に孔を開け、真っ先に心臓を食べるという。タカは渡り鳥ではないと思われるかもしれないが、渡り鳥である。鷹狩に使われるタカは調教されて、放たれても人のところへ帰るように訓練されている。それを鷹匠用語で「渡り」と呼ぶ(注27)。自然界のタカは渡り鳥ではないが、鷹狩用のタカは渡り鳥、候鳥である。

本邦で鷹狩が始まったことを記す記事は、仁徳天皇時代のこととして描かれている。
四十三年の秋九月の庚子の朔に、依網屯倉の阿弭古、異しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰さく、「臣、毎に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾て是の鳥の類を得ず。故、奇しびて献る」とまをす。天皇、酒君を召して、鳥を示せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦捷く飛びて諸の鳥を掠る。百済の俗、此の鳥を号けて倶知と曰ふ」とまをす。〈是、今時の鷹なり。〉乃ち酒君に授けて養馴む。幾時もあらずして馴くること得たり。酒君、則ち韋の緡を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕の上に居ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野に幸して遊猟したまふ。時に雌雉多に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽に数十の雉を獲つ。是の月に、甫めて鷹甘部を定む。故、時人、其の鷹養ふ処を号けて、鷹甘邑と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月)
この記事から本邦にそれまでタカがいなかった、百済にはいたから連れて来られたことを示すと捉えるのは上代の言語使用から離れている。記事には、本邦で今まで網にタカの類がかかったことはないと記されている。渡来人に聞いたところ、人に馴れさせて狩りに使うのを百済ではクチと言っているという話である。割注に「是今時鷹也」とある。「今時」、鷹であると言っており、では、往時、何と言っていたかは記していない。クチは百済語である。倭で外来語のクチを採用したわけではなく、タカと言っている。空間的に渡り鳥なばかりか、時間的にも渡り鳥である。巧みなレトリック表現として渡り鳥であることを示唆してくれている。ヤマトコトバのワタル(渡)のワタは海と関係するようである(注28)。
自然科学による種の同定など古代の人は関知しない。飼い慣らされて人間の役に立てる存在になった時、hawk という野生動物がタカとしてありありと人の前に現れる。言葉として立ち上がる。大陸の北方地域には鷹狩に役立ちやすいタカが棲息していたらしく、中華帝国にも伝えられている。鷹狩用の鷹がその技術とともに伝えられ、すなわち、鷹を捕まえるところから養い育て馴れさせ思いどおりに操ることができるようになった。それを紀の記事はきちんと伝えている。「是鳥之類」と書いてある。鷹狩に使うのは、オオタカ、ハヤブサ、クマタカ、ハイタカなど、「類」の鳥であって一種ではない。鷹狩に使う鳥をタカと通称することが言葉の使い方として便利なのである。隼狩という語を造っても混乱が生じるだけである。垂仁記に次のようにある。
故、今高く往く鵠の音を聞きて、始めて阿芸登比為。爾くして、山辺の大鶙を遣はして其の鳥を取らしむ。故、是の人其の鵠を追ひ尋ねて、木国より針間国に到り、亦追ひて稲羽国に越え、即ち旦波国・多遅摩国に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国に到り、乃ち三野国を越え、尾張国より伝ひて科野国に追ひ、遂に高志国に追ひ到りて、和那美の水門に網を張り、其の鳥を取りて持ち上りて献る。故、其の水門を号けて和那美の水門と謂ふ。(垂仁記)
「山辺之大鶙」という人名があるからタカがいたことは間違いない。「和奈美」という地名はワナ(罠)+アミ(網)を示している。ハクチョウを捕まえるのに颯爽とした鷹狩ではなく、鈍くさい罠や網の猟が行われている。仁徳紀と併せて考えれば、本邦の自然界にタカはいたが鷹狩は行われておらず、仁徳朝になって鷹狩技術が伝えられ、人々の意識の上にタカという語がクローズアップされたものと理解される。
鷹狩をする場合、タカを捕まえてから飼い慣らして狩りに使うまでにはかなりの忍耐と努力が必要である。鵜飼に使うウ以上に大変そうである。最終的に縄の繋ぎを取り、放ってしまわなければ狩りに用いることはできない。そのとき、野生に帰ってしまわれてはすべての努力は水泡に帰す。捕獲後の扱いとしては、革製の足皮をつけて拘束し、真っ暗なところで空腹にさせ、人の手から鳩の肉をもらうことから始める。爪も嘴も小刀を使って削り揃える。新修鷹経中に、「攻レ觜法」、「攻レ爪法」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535853/26~27参照)など記されている。人に危害を加えさせないためもあるが、鋭利すぎる嘴を失えば実際の鷹狩の時も肉を食べるのに時間がかかるため獲物の損傷が少なくて済む。鷹狩で大きなハクチョウを捕まえた時、鷹が食べるのに手間取っている間に人が近づき、持参した鳩肉を代わりに与えれば鷹はおとなしくそれを食べてくれる。
つまり、嘴は離されているのである(注29)。仁徳紀に鷹の百済語クチが紹介されているのは洒落を言いたかったのだろう。タカは嘴が特徴的で、それは言葉を話させるための仕掛けとしても見極められていた。漢字においては鳥は嘴、人は吻であるが、ヤマトコトバではどちらもクチバシである。鳥のよく響く甲高い鳴き声を鳥の言葉として認識していたから、言語障害の御子の逸話にオホタカなる名の人物を登場させているのだろう。嘴という器官の持つ意義を見抜いて言葉として成立させている。口は物を食べることと言葉を喋ることの両用を果たす。それを得意ならしめているのが嘴である。そして、言葉を喋る意においてクチバシは口走ることと緊密な関係にある。古辞書にクチバシに関する語は、新撰字鏡に「觜 之髄反、上、喙也、鳥口也、久知波志」、「誆 九王反、禱也、𧥶也、久知波志留、又太波己止、又久留比天毛乃云」、和名抄・羽族部・鳥体に「觜〈喙付〉 説文に云はく、觜〈音は斯、久知波之〉は鳥の喙なり、喙〈音は衛、久知佐岐良、文選に飢えたる鷹、喙を礪ぐといふは是なり〉は鳥の口なりといふ。」、形体部・鼻口類に「脣吻 説文に云はく、脣吻〈上の音は旬、久知比留、下の音は粉、久知佐岐良〉といふ。」ともあり、新訳華厳経音義私記に「吻 無粉反、脣の両角の頭辺を謂ふなり。口左岐良」、名義抄に「呴吽〓(牛偏に口) クチサキラ」、「話 胡快反、モノガタリ、アヤマツ、サキラ、……」とある。つまり、クチバシのクチバシたるものの本質までを決定的に表すのが鷹の嘴である。鷹狩のために飼い慣らされた鷹の嘴は、爪觜小刀によって丸く鈍く整えられている。離されているのである。ハナシという言葉は話でもあり、離(放)しでもある。口から意図的に放って離れさせるものが、クチサキラから放すサキラ、つまり、ハナシ(話)である。
「孔部間人」と用字において表意的に断っているアナホベノハシヒトという言葉は、鷹の嘴に負っている優れた職掌であることを意味しているのである。よくお喋りをする明るい方で、人と人とをつなぐ「渡り」鳥的役割を果たす存在だったのだろう。そして、人と人との間を渡る渡り鳥が鷹狩のために調教された鷹である。鳥を捕まえて献上するのは「鳥取部」、「鳥飼部」と呼ばれた職掌の人たちであった。
是に天皇、其の御子[本牟智和気御子]に因りて、鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を定めき。(垂仁記)
十一月の甲午の朔乙未に、湯河板挙、鵠を献る。誉津別命、是の鵠を弄びて、遂に言語ふこと得つ。是に由りて、敦く湯河板挙に賞す。則ち姓を賜ひて鳥取造と曰ふ。因りて亦、鳥取部・鳥養部・誉津部を定む。(垂仁紀二十三年十一月)
なかでも優秀な人たちは鷹を使う「鷹甘部」(仁徳紀四十三年九月)、後の鷹匠である。養老令・職員令の兵部省のなかに「主鷹司 正一人。〈掌らむこと、鷹犬調習せむ事。〉令史一人。使部六人。直丁一人。鷹戸。」、官員令別記に「鷹養戸、十七戸。倭・河内・津。右経レ年毎レ丁役。為二品部一、免二調役一。」とある。網や罠のような陳腐な道具で大した鳥も貢げない人たちとは違う。大きなハクチョウも捕まえて来る珍しく有り難い存在である。
ハクチョウはなかなか捕まえられない。本牟智和気御子(誉津別命)の話に、「今高く往く鵠の音を聞きて、始めて阿芸登比為。爾くして、山辺之大鶙を遣して、其の鳥を取らしめき。」(垂仁記)、「時に鳴鵠有りて、大虚を度る。皇子仰ぎて鵠を観して曰はく、『是何物ぞ』とのたまふ。」(垂仁紀二十三年十月)にあるクグヒ(鵠・鳴鵠)はハクチョウのことである。言葉の話せない御子が言葉を話せるようになるきっかけを与えた。瑞祥中の瑞祥である。そのような鳥を格好よく捕まえる人たちのことを古語で表すなら、「瑞の鳥取」ということになる(注30)。ミヅノトトリは癸酉と同音である。つまり、アナホベノハシヒトさんの忌日は癸酉の日であって欲しいわけである。それこそ名を以て体を成すこと、言葉が事柄と同じことになる。是が非にまでも言と事との一致を志向した上代人たちにはそうであって欲しかった。ところが、「孔部間人公主」という「母王」は亡くなった日が少しだけ次の甲戌の日にずれ込んでしまった。一~二時間(?)ぐらいと短いから、まあ、そこは大目に見て、癸酉の日に算入してしまって良いではないか。そのほうがわかりやすくて覚えやすいし、記念日として供養したくなるじゃないか、亡き人も喜ぶんじゃないかという発想である。結果、「十二月廿一癸酉日入」なる不思議な表記をもって記されている。
「日入」を古訓ではトリノトキと訓んでいる。酉の刻の意である。酉の刻は午後六時頃、夕暮れ、日の入り時である。すると、上のずれ込み説は当たらないのではないか、算入の意で他に書いた例があるか、との指摘もあるだろうが、ここにも銘文を記した人の知恵が見て取れる。「日入」と書くとトリノトキと訓まれるであろうことは知っている。それでいい。なおのことトリのことが思い浮かぶ。鳥取部のなかでも優秀な鷹飼部のことを思い起こさせる仕掛けになる。銘文の作成者の頭のなかでは、孔部間人という人の名は鷹を使って鳥を捕まえる人のことを表しているということがすべての先に立っている。それが、アナホベノハシヒトという言葉の言動一致事項だからである。言と事とは一致すべしという考えに従った明晰な表記と言えるだろう(注31)。
ミヅノトトリを「瑞の鳥取」と「癸酉」との洒落をもって記した。銘文において重要な要素、小咄のオチ(サゲ)だから念が入っている。ここで笑えない人は話(噺・譚・咄)の通じない人である。文字を持たない言葉はハナシによってのみ伝えられるもの、つまり、ハナシとは無文字文化の糧である。しかも、この部分の重要性は自己言及的にそれを語っている点にある。話とはサキラであり、クチサキラから上手に話されたこと、才気の現れた弁舌である。重要な事柄であることを自ずと確かに自己言及的に記そうと努めている。繍帳の銘文は、無文字文化華やかなりし頃に製作されたことを自ら証明しているのである。決して文字文化の始まった藤原京以降に下るものではない。古今集でも語呂合わせは多いと思われるかもしれないが、万葉集とは桁が違う。干支との語呂合わせに興じた例があるのだろうか。甲子大黒、丙午の女、庚申信仰の庚待といった干支にまつわる言い方はあるが、言葉の洒落、〇〇と掛けまして✕✕と解く、そのこころは、△△という謎掛けの言語遊戯と関係があるのかわからない。ミヅノトトリの洒落、語呂合わせは、文字文化の時代にはなかなか思い着きにくい発想ではないか。
奈良時代に文字文化の時代の始まっていたことを表す詔が残る。元明天皇代に「畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けしむ。」(続紀、和銅六年(713年)五月)とある。いわゆる好字令である。言葉において聴覚を重視する思考が視覚を重視する思考へと転換していたこと、ないしは、その途上にあることを意味している。両者は文化が違うという言い方がふさわしい。天寿国繍帳の銘文の成立時期は無文字文化の時代である。大宝律令の制定(701年)や好字令の詔よりもかなり以前である。頭の使い方が違うと見て取れる。次の日だけどミヅノトトリに入れてしまおうということを考えもし、それを「日入」などと表記してうまいことやってしまうことは、律令官僚から始まって現代の学者に至るまで住む世界が違うように感じられる(注32)。
その他の付訓
推古天皇の台詞は二度手間のような重なった言い方になっている。「天皇聞之悽然告曰有一我子所啓誠以為然」とある。発語部分を括弧に入れて返り点を施して示すと次のようになる。
天皇聞レ之、悽然告曰、「有二一我子一、所レ啓誠、以為然。」
「之」は橘大女郎の言ってきたことである。橘大女郎の言ってきたこととは、言ってきた言葉と言ってきた内容と言ってきた態度と言ってきた状況をすべて含んでいる。はるばる斑鳩から飛鳥まで歩いてきた(?)ことや、朝から門を叩いて聞いて欲しいと嘆願してきた(?)こと、やつれた顔をしていた(?)こと、声が上ずっていた(?)こと、着物は着の身着のままの風情であった(?)こと、鬼気迫る一点凝視の(?)視線や、言葉がまわりくどい言い方になっていた(?)ことなど、状況の設定を含んでいると考えられる。それらのことをすべて含めて「聞レ之」と記されている。
「以為」は、オモフ(思・念)の意で、オモフ、オモミル、オモヘラクなどと訓まれる。
刀子は献らじと以為ひて、……。(垂仁紀八十八年七月)
弟媛、以為るに、夫婦の道は古も今も達へる則なり。(景行紀四年二月)
以為、祟る所の神を知りて、財宝の国を求めむと欲す。(神功前紀仲哀九年二月)
天下の万民と雖も、皆宜しと以為へり。(允恭即位前紀)
「然」については、白川1995.に「しかり〔然・爾〕 「しか、あり」の約。「しか」「しかく」が「さ」に対してかたい語感をもつものであるように、「しかり」にも訓読語のかたさがある。」(381頁)、古典基礎語辞典に「さ・り 【然り】……副詞のサ(然)に、動詞アリ(有り、ラ変)が付いたサアリが約(つづ)まったもの。上に述べたことを受けて、そうである、そのとおりであると納得をしたり、承認したりするときに用いる。」(573頁、この項、我妻多賀子)とある。上に述べたことを受ける漢文訓読系の語として活躍している。白川1995.は、「〔神代記上[第八段一書第六]〕「唯然」、〔神代紀下[第十段一書第一]〕「然歟」などがみえるが、みな応答の語である。」(381頁)と指摘する。ほかにも例がある。
大己貴神の曰はく、「唯然り。廼ち知りぬ、汝は是吾が幸魂奇魂なり。……」とのたまふ。(神代紀第八段一書第六)
時に高皇産霊尊、其の矢を見して曰はく、「是の矢は、昔我が天稚彦に賜ひし矢なり。血、其の矢に染れたり。蓋し国神と相戦ひて然るか」とのたまふ。(神代紀第九段本文)
「天孫、豈し故郷に還らむと欲すか」とまをす。対へて曰はく、「然り」とのたまふ。(神代紀第十段一書第一)
[神武]天皇……「今我は是日神の子孫にして、日に向ひて虜を征つは、此天道に逆れり。……」とのたまふ。僉曰さく、「然り」とまをす。(神武前紀戊午年四月)
応答の言葉には「諾」、「諾なり」といった言葉がある。両者の違いは、ウ・ウベナリがイナ(否)の対義語であり、英語の yes に当たるのに対し、「然り」という言葉は強く言う場合は that’s right、弱く言う場合は that’s so に当たるということである。すなわち、橘大女郎のものの考え方として、PならばQ、QならばR、であるならば、PならばRであるという論理演算をしていて、それ自体としては正しいと推古天皇は判断している。そうだねえ、そうだねえ、である。けれども、そもそもの提題Pに勘違いがある。大変な境遇にあってそう考えるのは致し方ないと思うけれど、私までその考え方に没入する形で賛同することはできない。世界がひっくり返ってしまう。言っていることに虚言妄語はない(「所レ啓誠」)し、そういう論理展開をしたらそういう結論になるのは尤もだとも思う(「以為然」)と言っている。推古天皇は、「有二一我子一」と言いかけながら、孫の橘大女郎の誕生から生い立ち、聖徳太子に嫁いだ時のことなどが走馬灯のように頭を駆け巡っていたことだろう。そして、ヒトリノワガコアリ、マヲセルハマコトニシテ、オモヘラクシカナリと、三十字ほどの文言をゆっくりと喋ったようである。感慨を「告曰」していて、繍帳制作を「勅」すること別言となっている。
以上、天寿国繍帳の銘文を読むこと、すなわち、銘文の内部から、いつ、何のために、繍帳は作られたのかについて論じた。繍帳は、橘大女郎の精神的な危機を救うために、その訴えの言葉をそのままにまるごと受け止めて推古天皇が作らせた、とても心温まるものであった。長々と論じてきたが、すべてはなぞなぞの種明かし、駄洒落の解説に過ぎない。けれども、それは、上代に作られた銘文を読むことそのもの、無文字文化の本質に迫るものに他ならないのである(注33)。
(注)
(注1)鎌倉時代に、中宮寺の尼僧、信如が、同寺の復興にあたって寺の本願と伝えられる穴穂部間人皇女の忌日を知りたくなった。夢のお告げに繍帳の銘文に記されていると教えられ、法隆寺綱封蔵の泥棒騒ぎのおかげで調査ができ明らかとなった。繍帳はすでに劣化が始まっていたが、当時の専門家が銘文を解読した。上宮聖徳法王帝説に記され、また、宮内庁書陵部蔵の中宮寺尼信如祈請等事(定円の解読)、西尾市立図書館内岩瀬文庫蔵の松下見林本天寿国曼荼羅銘文(平野神社兼輔の解読)などがあって、それらの異同を校訂した飯田氏の研究により全四百字が復原されている。
建治元年(1275)には補修されて新繍のものも作られ、弘安元年(1278)に中宮寺で供養が行われた。現在見られる繍帳のうち汚く見える部分のほうが鎌倉時代の後補部分であるとされている。「原本の下地裂は、紫地平絹に紫地羅(羅はもじり組織の織物)を重ねた部分と、白地羅の部分からなる。」(『日本美術全集』267頁、この項、三田寛之)。建治の新繍の生地は紫綾、部分的に白平絹と異なっていて、繍糸の撚り方も異なっていると研究されている。江戸時代、安永年間(1772~1782)頃に残片を集めて縦二尺九寸(約87cm)✕横二尺七寸(約81cm)の軸装となり、大正時代に現在のような額装にされたという。また、沢田2010.に、「もと法隆寺にあった『天寿国繡帳』の残欠をはじめ、法隆寺系の幡や「法隆寺」、「鵤寺波羅門」……などの墨書銘が記された作品など、法隆寺の列品に含まれている裂の一部が混入されているのです。正倉院から刊行された図書にも図版とともに掲載されています。」(20頁)とあり、注に、『正倉院の宝物一〇』、『正倉院の宝物六』を掲げ、「これらの図書に掲載されている作品以外にもまだあるものと推測されます。」(31頁)との見解を示す(沢田2015.参照。70頁に刺繍についての若干のコメントも載せる)。きっとそうであろうが、こと天寿国繍帳の銘文に関しては上宮聖徳法王帝説等以上のものはないだろう。
(注2)日本書紀に「帷」とあるのは、寝屋を囲むパーテーションの意、ないし、葬儀の際の幔幕の意で用いられている。「帷幕」(景行紀四年二月)、「帷内」(仁徳紀十六年七月)、「帷幕」(継体紀九年四月)、「帷帳」(孝徳紀大化二年三月)。孝徳紀の例について、大系本日本書紀は「棺をおおうためのものか。」(279頁)、新編全集本日本書紀は「棺を蔽うとばり。」(150頁)としている。しかし、記事では少し前に、「夫れ葬は蔵すなり。人の見ること得ざらむことを欲す。」とする中国の故事を載せる。葬儀を行っている様子を傍観されないように、今日、事件現場でブルーシートをめぐらせて見えなくするようなことが推奨されたようである。天寿国を図にした「繡帷二張」は太子の葬儀に用いられたものではないから、前者の、寝屋を囲むものとして用いられたと考えられる。継体紀の記事は半島情勢の話なのでキヌマクなる訓が付けられているが、意は同じである。寝込みを襲われて這う這うの体で逃げ出したという記述である。

橘大女郎の依頼を受けて推古天皇配下の采女たちが制作したと明記されている。その「帷」は橘大女郎に下賜されて、彼女の寝屋を仕切るよう几帳などに掛けられて用いられたのだろう。石山寺縁起絵巻第三段の詞書に、「傅大納言道綱の母〈陸奥守藤原倫寧朝臣女〉、法興院の禅閤かれがれにならせ給し比、七月十日あまりの程にや、当寺に詣でて、よもすがらこの事を祈申けるが、しばしうちまどろみたる夢に、寺務とおぼしき僧、銚子に水をいれて、右の膝にかくるとみて、ふとうちおどろきぬ。仏の御しるへとたのもしくおほえけるに、……」とある。夢見の場面として眠っている人とその夢とが同じ空間に描かれている。西郷2012.に、「昔の人たちは、夢は人間が神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号だと考えていた。蜻蛉日記の作者は石山寺に詣でてある夢を見たとき、「仏のみせ給ふにこそはあらめと思ふに……」と記しているが、昔の人にとっては、夢はこうして神や仏という他者が人間に見させるものであった。夢が神的なものとして信じられるのはこのためで、だからそれは「夢の告げ」であり「夢のさとし」でありえた。「夢の教」という言葉も、すでに記紀に何度か用いられている。」(16~17頁)とある。
夢が神仏からのメッセージとして訪れると信じられていた時、石山寺縁起絵巻は、絵巻の描き方の特徴とされる異時同図法ではなく、夢と現実との「夢現同図法」によって描いている。これは、本稿で疑問とした<図>と<地>の混淆状態、溶融状態である。(注22)に、「世界」を「発見」するための絵本の見開き一ページと考えた点である。frame の溶解を意図的に引き起こしている、ないしは、絵本の見開き一ページには初めから frame といったコマはないと言える。そもそも non-frame に作りたいとき「繍帷」という形式は卓抜であり、撚り糸をもって刺繍することはヨリテユク「天寿国」の表現にはもってこいであった。「視」えないという橘大女郎に審らかに「観」る道具として作られた。そして、彼女は寝る前や中途覚醒時、起き抜けに観て、しばらくして夢にまで見ることができた。微睡むことがあれば夢うつつに「天寿国」が観想できたのである。当たり前である。半分起きていて実見しているのであるが、半分眠っているのであるから夢に見た。夢に見るほうは神仏からのメッセージとして受け止めることができただろう。神仏とは最近仏さまになった太子のことに他ならない。夢現同図がここにかなった。悟ることができた。なぜ繍帷が「二張」なのか。密教の両界曼荼羅が座る人の左右に掲げて宇宙を感得するのと同様、左右のどちらの側にも「帷」があって橘大女郎が寝屋のなかで寝返りをうっても常に見えるようにするためであった。
繍帳はしばらく使われ、彼女のノイローゼが治ったところで用済みとなり、斑鳩宮から隣接する斑鳩寺(法隆寺)に奉納されたのだろう。記録が残っておらず、これ以上詮索できない。
(注3)マンガとは何かはなかなか難しい問題である。棚田2014.は、「読者の想像/創造によって、コマの間が埋められている=繋がれている……この〈繋ぐ〉ということにマンガの本質を見る……。つまり、マンガの基本はコマであって、その中に何が描かれているかはまずは問題外だということである。」(118頁)とする。ところが、新聞のオピニオン欄などには風刺漫画として一コマ(コマは記されずに周囲は論説に埋め尽くされている)が描かれている。中田2014.に、「「どのようなものがマンガなのか」ということについては、だれもが秘かに自信をもっている。……自分にとってのマンガらしさというものは、しばしば個人の確信の次元にあって、議論をしてたしかめたいような事柄だとは思われない。しかし反対に、「マンガ表現とはどのようなものか」ということになると、われわれは一気に自信がなくなってしまう。」(185頁)とあり、「現在のわれわれは、マンガ的表現と言えばまずコマの連続性にもとづく表象を自然に想像してしまう……。しかし、フィギュラシオン・ナラティヴの作品、とりわけアダミの絵画などを見ていると、マンガ表現には連続性や運動を表象するだけではなく、カリカチュアや文体の権能と、造型言語のもつ叙情性や寓意性といった力が、たしかに備わっていたのを思いだすようだ(たとえば、われわれは panpanya のマンガの一コマを見るだけで、登場人物が世界に畏れをいだいていることを了解するが、それはキャラと背景の絵の文体にそれぞれ籠められている、叙情性を感得するからだろう)。」(214頁)と論じている。
(注4)天寿国繍帳の「公」の字体、「‥」の下に「△」の形の例が他に見られないか、王勃集巻二十九(紙本墨書、中国、唐時代、7~8世紀)、何紹基筆「臨張遷碑・石門頌冊」(中国、清時代・同治元年(1862年))、三体石経残石(魏・正始年間(240~248)に垣間見たが見つけることはできなかった。
(注5)絵巻物は一般に「異時同図」という用語で解説される。この解説概念も厄介な問題をはらんでいる。千野2010.は「絵画を見ることは、世界を見ることである。」(225頁)と断言する。そして、「日本の絵画は、多くの場合、異時同図的に描かれていると考えてよい。それはつまり、過去、現在、未来と移り動いていく時間のなかにあって、現在という単一の視点からではなく、過去も未来も含めた複数の視点から、画中の情景が捉えられているということである。また、仮りに同じ時点であっても、上下、左右、遠近、と、さまざまな位置から捉えられた情景が、やはり一画面のなかに複合的に描かれていることが多い。……要するに、視点の位置は自由自在であり、しかも基本的に複数の視点から眺められた情景を一画面のうちにまとめた作品が、日本絵画史の主流を占めているということである。」(226頁)としている。すなわち、日本の絵画というものとして、多くの絵巻物、屏風絵、玉虫厨子の捨身飼虎図などが射程におさめられている。
野田2014.は、「『異時同図』はどうやら、……複数の時間と同じ画面のうちにおさめるだけでなく、さまざまな空間をひとつの図に(いわば『異空間同図』として)とらえたり、時間も空間もどちらも異なるものをひとつの図に(いわば『異次元同図』として)とらえたりする、きわめて広範で曖昧な概念として使用されてきたようなのだ。」(112頁)とする。また、加藤2011.は、「「異時同図」ないしは、「連続的物語叙述」をめぐる研究が面白いのは、それが言語テクストと視覚表現という二つの異なったメディアが巧みに組み合わされながら紡ぎだされてくるものだからである。その意味でも、いまのわたしたちにとってさらに必要になるのは、「日本(東洋)」と「西洋」あるいは「芸術」と「視覚文化」という枠組みを越えること、そして、そのような一般化を経たうえで個別事例に接近して分析を行うことなるのではないだろうか?」(26頁)と展望を語る。
これらは、「異時同図」概念の曖昧さをうまく活用して日本絵画を読む行為なのだろう。しかし、その射程のなかに天寿国繍帳は含まれないように思われる。銘文中に「看」、「観」とあって、それがそのまま「図像」中に記されるとなると、「天寿国繍帳とは何か」に迫ることは絵画を読む行為では果しえない。画中画ならぬ画外画をどこかで析出してみなければならない。そのためには銘文を読む行為しか残されていない。本稿は、そこを突破口として天寿国繍帳とは何かに迫る。
(注6)<地>にあるべき銘の字は亀の甲羅のなかに閉じられていると捉えることも不可能ではない。しかし、亀甲文の図柄に閉じられているのではなく、明らかに具体の動物としての亀に見える。百歩譲って亀はマークなのだとして、他にどのような例があるのか、管見にして乏しい例しか思い浮かばない。筆者の気づいた範囲では、古代の鉄剣銘、稲荷山古墳出土金象嵌銘がある。利器として実用するのではなく、威信財であると解釈されている。すごいだろう、と見せびらかすためである。もはや「剣」ではない。直江兼続の兜の「愛」の文字については、筆者は、敵方がひるむようにわざと解釈のフレームを崩してみせたものと考える。実戦において敵方に通じたかどうかはわからないが、少なくとも配下の兵士としては、勘弁してくれよと言いたくなるすごいもの、ある種、兜ではないものに転じている。他に扇面法華経といった例がある。経文の上にかぶさるように下絵が描かれており、さらに扇の要へ向かうにしたがって文字が小さくなっていく。読経目的で作られたものではない。
(注7)小杉1988.に、「日本における亀文には、文字を負う亀と長寿の筆頭としての亀との二つがある……。……文字を負う亀……は中国で古くから亀が文字と関係づけられていたことと、天を支えたり山を負うたりするとされていたことなどから導かれた。」(123頁)とあって、「天寿国曼荼羅の銘文を負う亀」が図に掲示されている。天寿国繍帳はヤマトにおいて制作された。朝鮮半島からの渡来人は関与しているらしいが、亀はあまりにコミカルに描かれている。中国の文化をそのまま引く胡乱な説明は、亀が登場する説明にはなり得ても、めでたいのかどうかわからないような内容の銘文を甲羅に乗(載)せる理由にはならない。
日野2017.には、「天寿国繡帳にみられる亀甲文とその背上文字のデザインとの関係において把握しようとすれば、そこには霊亀長寿の理想を説く神仙思想がつよく影響している事実が窺われ、天寿国という理想世界の図相の由来を物語る文字を象徴的に表現するのにふさわしいものとして着想された趣意が理解できるであろう。」(178頁)とある。文字の指す内容を無視している。
(注8)「世間虚仮 唯仏是真」を音読みしたに違いないことを窺わせる語が記されている。「玩味」である。橘大女郎が口のなかで言葉を弄んでいる。何と言っているのか自身よくわからないけれど、響きを頼りに味を確かめている。「世間虚仮 唯仏是真」なるガムを噛んでいると思えばよい。ここを訓読みすると「玩味」という語が生きて来ない。ヤマトコトバは分かり切っているから口のなかで玩具にして味わうことはできない。即座に腑に落ちてしまう。胃袋へ直行である。
真流1981.に、「……「世間虚仮 唯仏是真」の句は『勝鬘経義疏』一巻の,更に言えばその顚倒真実章の要約に外ならない.『勝鬘経』を典據とするものであることが明らかとなった以上,他に「出典」を求める必要のないものであり,否,そうすることは誤りであると言ってもよいであろう.諸種の史料に伝えられる此の経の講讃のこともここに想い合せられる.天寿国繡帳亀甲文において橘妃によって伝えられたこの一句を妃はある時その講筵に列して聴聞したのかもしれない.あるいは太子に侍した日々の折りふしに胸底にしみいった親しい言葉ばであったかもしれない.そして太子の死に直面して,生死無常の嵐の中で太子を追慕する時,太子の天上からの呼び声として妃の耳によみがえり,鳴り響いたであろう.そしてそれは永遠の太子自身であった。」(274頁)とある。「世間虚仮 唯仏是真」の句はそういった背景があったかもしれない。ただし、天寿国繍帳に描かれている「天寿国」の「図像」は、橘大女郎自身が作ったものではない。推古天皇の勅命のもと、「諸采女等」や「東漢末賢、高麗加西溢、又漢奴加己利」、あるいは「椋部秦久麻」が作ったのであり、どのような理解にあったか知れたものではない。互いに打ち合わせなどしていないだろう。
(注9)飯田2000.のほか、思想大系本聖徳太子集には年月日や干支の表記では音読みを、他の部分では訓読みを重視した読み方が行われ、東野2013.にはより音読みを採り入れた訓読文が提示されている。
(注10)長々と綿密に記されている理由について、橘大女郎の血筋の正統性を明かすためであるという説も呈されている。義江2000.に、「『天寿国繡帳銘』の系譜を「A娶レB生C」の基本要素に着目して分析することにより、双方的に対称的に広がる複数の祖から発して親子関係の連鎖をたどりつつ自己へと収斂する、典型的両属系譜の一事例を検出することができた。」(79頁)とある。出自論や父系制、系譜意識について述べている。他方、北2017.に、「まさに「自分を娶った太子のこと」と「自己の出自の神聖さ」、さらに「間人母王の出自」という三点をアピールした文章だといえるのである。」(585頁)とある。そして、「このような仰々しい系譜、銘文全体の半分以上を占める長大な系譜が、なぜ聖徳太子の死を機に作られた繡帳の如き物に克明に書き込まれる必要があったか、─このことを説明しなければ問題は解決したことにはならない。」(585~586頁)と続けている。過去帳の部分に重みを持たそうとしている。
(注11)赤尾2003.に、「[天寿国とされる]この『華厳経』は六世紀の写本ではなく、二十世紀初頭に造られた偽写本と判定すべきという結論に至り、延昌二年(五一三)の書写奥書も基本的には北魏の延昌年間の本奥書と考えられるのである。また「西方天寿国」……と読まれてきた奥書に関しては、『摩訶般若波羅蜜優婆提舎』(大谷探検隊将来、京都国立博物館所蔵)に見られる「无」の字すがた……─これが五世紀の写本という時代差はあるにしても─を見ると、先の奥書を読む場合にも「西方天寿国」ではなく、「西方无寿国」と読むべきであろう。そして、これらはいずれも二十世紀初頭に書写された偽写本と考えざるを得ない状況なのである。」(44~46頁)とある。
(注12)斉明紀の「天宮」はアマツミヤばかりでなくテムノミヤと言っていた可能性が高い。そこがタムノミネだからであり、とても近い訛った音構成である。タムノミネのタム(訛)という語を含んだ地名だから意識して洒落てみせているわけで、言葉が自己言及的に用いられている例でもある。拙稿「多武峰の観(たかどの)とは何か=両槻宮&天宮考」参照。
(注13)大橋1995.に、「蓮華の中でもっとも注目すべきは、光焔を発する蓮華化生図であろう。前者は天寿国への往生人が生を受けようとしている直前の姿の蓮華で、後者は往生人が今まさに蓮華の中から天寿国へ生れようとしている場面である。経典によると化生とは四生(化生・胎生・卵生・湿生)の一つで、浄土における生命現象であって、無から忽然と生れる超自然的な出生と考えられていた。……私はこの蓮華化生図こそ、天寿国が無量寿仏の無量寿国であることを強く示唆するもっとも重要の図像であると考えている。」(136頁)とある。無量寿国であるならなぜ「天寿国」と言い換えたのか理解できず、その点を考察された論考も管見に入らない。むしろ、蓮華化生の考えを方便として橘大女郎の言う「生於天寿国之中」の「中」を示そうとしただけなのではないか。行政単位としてのクニ(国)の国府、国衙は、クニの境界ではなく、テムジクニ(天竺国)の中にある。ヨリテユク(従遊)とは連なって逝ったこと、ハス(蓮)の音のレン(連)と同じであり、植物のハスは葉、花などが根を通じて続いて行って池の中から花茎を伸ばすことをもって似つかわしいと考えデザイン化したのではないか。インドは暑い国で、ハスの咲く日本の夏季が一年中続く国だと知られていたことだろう。
(注14)上宮王家で数か月中に亡くなっているのは、「母王」こと穴穂部間人皇女、膳夫人(干食王后、膳菩岐々美郎女)、「大王」こと太子の三人である。膳夫人は、病の床についた太子の看病にあたったものの、看病疲れから太子の亡くなる前日に亡くなっている。続けざまに亡くなっているという橘大女郎の言い分からすると、むしろ膳夫人を当てる方がふさわしい。この誤解は要らぬ臆説を呼んでいる。
「法隆寺金堂釈迦三尊の銘文が、母王・太子・膳妃を「三王」とまで言うのとは大いに異なっている。……当然そこには制作主体の相違が反映しており、釈迦三尊は膳氏の強い影響下に造像が行われ、天寿国繡帳は橘大女郎の一族の存在を背景に制作されたことが考えられよう。」(東野2017.13頁)、「太子と共に仲睦まじく死んでいった膳妃に対する橘妃のさびしい嫉妬から作られたのが、この天寿国繍帳なのではないかと考えられてくる。」(北2017.591頁)、「天寿国繡帳は太子の葬送に際して作られた葬具の帷帳であり、そこに記された銘文の文脈や系譜には、太子と共に没した膳妃に対する橘妃の強い対抗感情が表出している。」(同593頁)、「干食王后に対する、皇女としての強烈な自己主張と見るべきでしょう。」(石井2016.221頁)。
天寿国繍帳の制作主体は銘文を読む限り推古天皇である。繍帳を作らせたのが橘大女郎ではなく推古天皇であるとなると、週刊誌ネタのように太子の本妻は自分であると主張したという事実が仮にあったとしても反映されることはなく、推古天皇が膳妃をいなかったことにする理由も解かれない。
天寿国繍帳は物証である。推古天皇が橘大女郎の言い分をきちんと聞いて、その言葉を捉え返して天寿国繍帳を作らせている。天皇は社会秩序を安定させる方向へ舵を切る。ゴシップ騒ぎに後追い的に加担したりはしない。憔悴しきった橘大女郎が錯乱し、太子の亡くなる前日に枕を並べていた膳夫人の亡骸を、殯中で葬らずにいた母王、穴穂部間人皇女だと思いこんでしまったに過ぎない。推古天皇はさぞかし心配したことだろう。
(注15)そのようなジョークの例は、東森2015.参照。
(注16)以下に示す釈日本紀のフミについての「師説」はそれなりの意味を持つものだろう。殷代、亀は「図」を負っていたのではなく懐いていたのだから傍証に過ぎない。
○書字乃訓於不美止読。其由如何。答、師説、昔新羅所レ上之表。其言詞太不敬、仍怒擲二地面一踏。自其後訓云二文美一也。今案、蒼頡見下鳥踏二地面一所レ往之跡上作二文字一。不美止云、訓依レ此而起歟。
(注17)渡来人が登場していることは繍帳銘の音仮名などから理解される。西崎2006.に、「繍帳銘文所用の字音仮名、助辞「之」の不読にするという訓法の若干の考察から見られる「勘点文」について整理しておく。①『繍帳銘』に所用される字音仮名については、古代朝鮮固有名(人名・地名)等に用いられた音仮名に一致するものが多いという事実は、『繍帳銘』の書記・加点に関わった人物として朝鮮半島からの渡来人が想定される。②推古遺文にしか見られない古韓音が多く所用されている点も左証となる。③「弥」字が「ミ甲」「メ甲」に両用されている点は古代朝鮮音との関係が想定される。この点も左証となる。④文末助辞「之」を不読とする訓法も朝鮮漢文の影響によるものと考えられるが、この点も左証となる。」(56頁)とある。
(注18)この銘文が自己言及的な表現をしていることから、銘文の制作は上代にあったことは明らかである。文字文化にどっぷり浸かった後代の人たちに、このような入れ籠構造の文章を捻る理由は見当たらず、実例としても見られないのではないか。
(注19)山田1935.のタイトルにもなっている「よりて」という語は、「接続副詞の如き形式に用ゐること少からず。これは「よる」といふ動詞に複語尾「て」のつける語なること勿論にして、かくの如く固形的に、しかも、接続副詞の如くに頻繁に用ゐらるるに至れるものはこれ亦漢籍の訓読により馴致せられしものなるべきなり。……即ちその漢文の訓読には、恐らくははじめより簡便を尚びて「よりて」とよみ来りしものなること殆ど疑ふべからざるなり。……これ実に漢文訓読の為に新に按出せられし一種の語遣にしてそれが、普通文に用ゐらるるに至りしものといはざるべからざるなり。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173586/115~118、漢字の旧字体は改めた)と説明されている。
とても便利だから使おうよということで、早い段階からヤマトコトバに侵入していた語と思われる。本稿で「従」字をヨリテと訓じた。推古朝の訓点例は知られないが、参考となる用例をあげる。
予悪二夫涕之無レ従也。 予夫の涕の従る無きを悪む。(礼記・檀弓上)
金剛般若経一切諸佛之所二従生一。 金剛般若経は一切諸佛の従りて生れたまふ所なり。(興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝)
是吾剣之所二従墜一。 是、吾が剣の従りて墜ちし所なり。(呂氏春秋・察今)
見二漁人一、乃大驚、問レ所二従来一。 漁人を見て、乃ち大いに驚き、従りて来たる所を問ふ。(陶潜・桃花源記)
所二由入一者隘、所二従帰一者迂、彼寡可三以撃二吾之衆一者、為二囲地一。 由りて入る所の者隘く、従りて帰る所の者迂にして、彼れ寡にして以て吾の衆を撃つ可き者を、囲地と為す。(孫氏・九地)
無三以聴二其説一、則所二従来一者遠而貴レ之耳。 以て其の説を聴くこと無ければ、則ち従りて来たる所の者遠くして之れを貴ぶのみ。(淮南子・修務訓)
従レ此観レ之、齊楚之事、豈不レ哀哉。 此れに従りて之れを観れば、齊楚の事、豈哀しからずや。(文選・上林賦)
業不二従レ縁生一、不下従二非縁一生上。 業は縁に従りても生ぜず、非縁に従りても生ぜず。(中観論・観業品)
我等所二従来一五百万億国 我等が従り来る所は五百万億国なり(妙法蓮華経・化城喩品)
(注20)一本ずつの撚りの回転方向と、その戻ろうとする力による二本の絡み撚りとが逆方向になることによって、実用に適う安定した絲が構成される。なお、本文中に「絲」字で表した箇所は、古辞書などに記されている場合や二本を撚ったことを強調する場合であってかなり恣意的である。
(注21)原文に、「我大王與母王如レ期従遊」とあり、どのようなところかはさておいてもあの世へ行っている。そして、「我大王応生二於天寿国之中一」と言い、「彼国之形眼所叵レ看」と言い、「欲レ観二大王住生之状一」と言っている。「住生」を「往生」と通用すると捉える説もあるが、「往生之状」は阿弥陀如来に導かれる場面が連想される。彼女の訴えは、「我大王與母王」がすでに辿りついて生活している「天寿国」の「国之形」を「視」ようとしたが見えないから、よりどころとなる「図像」が欲しいというものである。「住生」は「往生」ではなくスマヒである。
(注22)絵本なる概念については天才的な研究が行われている。上にあげた(注3)や(注5)の議論の地平からは到達しえない水準である。志村2004.に次のようにある。
多くの子どもにはそれぞれ、繰り返し読むお気に入りの絵本がある。彼らは時折感嘆の声をあげ、ぶつぶつ小さく呟きながら、まるで初めての本を見ているように長時間熱心に見入っている。その様子をよく観察すると、ページを次々とめくるのではなく、幾つかの特定の画面に長いこと留まっていることが多い。子どもたちは繰り返し読む絵本を、実際どのように体験しているのだろうか?「この絵本のどこが面白いの?」と問うと、「こんな世界にいきたいなぁ」とか「どうやったらここに行けるの?」など意外な答えが、数多く返ってきた。どうやら、子どもたちは、絵本の中のストーリーを繰り返したどっているのではなく、絵本の中に「こんな世界」を発見して、それに繰り返し見入っているらしい。(40頁)……絵本の世界像は、『地』に属する『図』をもつ『地』表現、つまりストーリーには直接絡まず『地』世界に属する活気ある事象をもつ『地』表現の、連続的変化の中に表わされていることがわかった。さらに絵本の世界像の中には、読者が『地』に属する『図』の視覚表現を発見して関係付けるという、読者自身の想像力を駆使する主体的な活動の余地があることがわかった。絵本を読むという営みの中で、作家の創造性と読者の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、その読者独自の豊かな世界像が生成されて享受されるのである。このように、絵本の創造性の働きを、作家と読者の双方から捉える視座の重要性も、新たに明らかになった。(57頁)
志村氏の解明により、天寿国繍帳とは絵本の特定の見開き一ページであり、推古天皇側の創造性と橘大女郎の創造性という双方向からの働きが出会うことによって天寿国という世界像が生成されるという営みが絶えず行われ続けているものであったとわかる。繍帳はアート作品として見るなら下手である。下手だからこそ天寿国なる世界像をありありと想い浮かばせる営みが可能になっている。上手いということは作家の側が全体から細部まで決めてしまうということであり、ひとたび読者側が違和感を覚えたら世界像を結ぶことはなくなる。似顔絵に対するモンタージュ写真は好例である。相互の営みが繰り広げられることが「こんな世界」=「天寿国」を想起させる契機なのである。
(注23)天皇号については、ここに「天皇」とあるから推古朝からあったとする考えと少し遅れて天武朝からとする説が議論されている。しかし、「天皇」という漢字表記はヤマトコトバではスメラミコトと訓む。上代においてはそれがすべてだっただろう。
(注24)三田2008.に、「現存する外区図像は少なくとも『弥勒大成仏経』によって解釈することが可能である。だが、現存断片があまりに少ないこともあり、同経への比定を確信することはできない。しかし、『法華経』や浄土三部経など有力な仏典中に対応し得る記述が見られないことは注目すべきで、その分『弥勒大成仏経』が典拠である可能性は期待される。」(272~273頁)とある。「天寿国」という文言ではなく図像から典拠を求めようとしている。ただし、図像並びに文字の下描きをした「東漢末賢、高麗加西溢、又、漢奴加己利」という人にどれほど仏教の知識があったのかわからない。そもそも推古天皇の指示は、橘大女郎の言い出しているテムジクニ(天寿国)なるものをいいように再現する試みだったのではないか。
(注25)松浦2006.に、「繡仏である天寿国繡帳は太子薨去の六二二年二月二十二日から一年以内には完成されていたはずである。」(14頁)、「聖徳太子の浄土往生のさまを刺繡した帷であるから、当然その帷を垂らした御帳内には聖徳太子の御影が祀られたはずである。また天寿国繡帳は鎌倉時代まで法隆寺に伝来したものであるから、これは法隆寺に祀られた聖徳太子の御影に相当する仏像を荘厳するための「繡帳二張」であったと考えるべきであろう。その聖徳太子の御影に相当する仏像とは、『法隆寺東院資材帳』に「上宮王等身観世音菩薩木像」とある夢殿本尊の救世観音像……に他ならないと考えられる。」(15頁)とある。
天寿国繍帳のようなアニメキャラに作られた「繡仏」例は他にあるのだろうか。橘大女郎の精神の容体は悪いから、一刻を争って病室が整えられたに違いないと考える。
(注26)「公主」という語については、「号」として記された例は本邦に乏しい。だが、芸文類聚に「公主」の項があり、たくさんの例が載る。意味は天子の娘のことである。ヤマトにおいて天子とは、アメノコ、つまり、スメラミコト(天皇)のこと、その娘はヒメミコ(皇女)のことである。ならば、ヒメミコのことを「公主」と書いても何ら間違いではない。律令や令義解に定めがあったとしても、推古朝は時代的に無関係である。飛鳥時代にはヤマトコトバに漢字を当てたのが本筋であってその逆ではない。「公主」をコウシュと読んだのではなく、ヒメミコに「公主」という字を当てている。
(注27)『放鷹』に、鷹の調教の仕方の「渡り」と「振替」が説明されている。
渡り 渡りとは、餌を適当の大きさに切り、地上に落し、其の処に鷹を放ち、餌合子又は、丸鳩にて手元に呼び寄するなり。最初は、丸鳩にて呼び、鷹の様子に依り、餌合子にて呼ぶ。初め鷹には大緒を附し、馴るゝに従ひ、距離を延ばし、水縄又は忍縄を鷹に附して行ふ。之れを、呼渡りと云ふ。尚馴るゝに従ひ、木の枝に肉を置き、其場所に鷹を止まらせ、丸鳩又は餌合子にて手元に呼ぶ。之れを、渡りと云ふ。
振替 丸鳩に、忍縄を附し、五六間離れたる処にて他の者に之れを投げしめ、鷹を放ちて之れを掴ます。又離れたる処より餌合子にて呼ばせ、鷹先方に到らば更に当方より餌合子にて呼び戻す。終に鷹に、水縄・忍縄等を附せずして行ふ事を得るに至る。之れを振替仕込と云ふ。(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512/204、漢字旧字体は改めた)
(注28)ワタル(渡る)という語について、古典基礎語辞典に、「風・雲・霧などがひと所に起こって徐々に広がり、やがては一面を埋め尽くす動きをいうのが原義。他の動詞と複合した「咲き渡る」「荒れ渡る」などの形で使われることが多い。」(1337頁、この項、須山名保子)とあるが、複合動詞の意が原義であるとは考えにくい。白川1995.に、「水面などを直線的に横切って、向う側に着くことをいう。此方から向うまでの間を含めていい、時間のときにも連続した関係をいう。「わた」はおそらく海。「わたす」「わたる」は、海を渡ることが原義であろう。それよりして広く他に及ぶすことをいい、「かけわたす」「みわたす」のように補助動詞として用いる。」(805頁)とあるのが穏当であろう。古典基礎語辞典の指摘に、他動詞ワタス(渡す)には、「時間的範囲を示す用法はない。」(1334頁)と鋭い。タイムトラベルの発想がなかったらしいことが窺える。五十六億七千万年後へと「渡す」という考えはなかったということである。
(注29)ハナシ(話・咄・噺・譚)という言葉は、自動詞ハナル(放・離)─他動詞ハナス(放・離)の関係のうち、他動詞ハナスの連用形から起こった言葉である点は趣き深い。ハナシとは、音声自らが離れていっているのではなく、放たれて飛んで行っているものである。話をするのは人間である。口をついて出てきただけでも言葉となっていれば意味があるものと見られる。それは当人が意識している、いないに関わらないとされる。「言はず。唯歌ひつらくのみ」(神武紀十年九月)という「少女」、「童女」の「歌」にしても、武埴安彦とその妻吾田媛の謀反の兆候であったことになっている。人間が人間であるからには、口から発せられる言葉には意味がある、ないしは、あるものと考えるのが人間の思考である。「誣妄・妖偽を禁ひ断む。」(天智紀九年正月)などとあるのは、騙って詐欺や洗脳するのはいけませんよ、ということだろう。
三保2016.は、万葉集の定訓「手放れ」(万4011)に異議を唱えている。「《手放》は、西園寺入道前太政大臣公経『鷹百首』に、「一よりに手はなしぬれは追さまに鶉むれ立小田のかりつめ」(七一番)と見え、西園寺公経の『鷹百首謌』(後掲、小林祥次郎氏翻字)には「一よりとは。(中略)荒鷹を合事也。大鷹はへ緒などもさゝざる間たばなすを大事とよくなつくる也。合始をいへり。つねにも手よりはなすをいへども、たばなしと云ははじめて合すると心得べし。(後略)」との注釈がある。臂の鷹を放す意である。」(1901~1902頁)と示し、万葉集でも「手放しも」と他動詞で読むのが穏当であるとする。
…… 鷹はしも 数多あれども 矢形尾の 吾が大黒に〈大黒は蒼鷹の名なり〉 白塗の 鈴取り付けて 朝狩に 五百つ鳥立て 夕狩に 千鳥踏み立て 追ふごとに 許すことなく 手放毛 をちもかやすき これをおきて またはあり難し さならへる 鷹は無けむと 心には 思ひ誇りて 笑ひつつ 渡る間に 狂れたる 醜つ翁の 言だにも 吾には告げず との曇り 雨の降る日を 鳥狩すと 名のみを告りて 三島野を 背向に見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去にきと ……(万4011)
万4011番歌は狩りを好んだ大伴家持の歌である。三保氏の指摘は当を得ている。鷹狩において鷹匠は鷹を自在に操る。操る主体が鷹匠であり、鷹が勝手に手から離れていったのでは鷹は野生に帰ってしまうことだろう。自動詞のはずがない。
(注30)日本三代実録、光孝天皇の仁和元年十二月条に、「七日丁巳。天皇幸二神泉苑一。放二鷹隼一。拂二水禽一。」とある。ミヅノトトリを「水の鳥取」に当て得る例はこの例に限られる。天皇の遊獵記事の場所はほとんど「野」である。野行幸ばかりである。江戸時代も将軍家の「御鷹野」が定められている。鷹狩が素晴らしいことをもって「瑞の鳥取」と捉えたものとするのが適当である。
(注31)トヨミケカシキヤヒメという名について、亡くなった後の諡か生前からの尊号か議論されている。最初のトヨは尊称かもしれないが、全体が「尊号」であるとするのは当たらない。抽象名詞ばかりでは当時の人が理解できなかっただろうからである。トヨミケカシキヤヒメという名を現代語訳すると、キッチンガール、台所姉ちゃん、お勝手女、などである。トヨ(豊)+ミケ(御食)+カシキヤ(炊屋)+ヒメ(姫)である。「諡」というには身近でフレンドリーな名前である。名とは何か、呼ばれるものである。
東野2004.に、「内題の称号が諡であることは、「気長足姫尊」(神功皇后)について、この称が追尊の号であることを書紀自身が明記していることから明らかである。」(151頁)とある。神功皇后の諡の記事は次のとおりである。
是の日に、皇太后を追ひ尊びて、気長足姫尊と曰す。(神功紀六十九年十月)
この記事を頼りにして、紀の巻や章立てのタイトルにあたる「内題」と同じだから、紀の内題はすべて諡なのだとすることはできない。何年何月何日に○○と言った、という記事はその日の出来事を記している。歴史書だからで、法令集、判例集ではない。日本書紀の書き方について、日本書紀自身がすべてに及ぶように記す仕方は次のようにある。
至りて貴きをば尊と曰ふ。自余をば命と曰ふ。並に美挙等と訓ふ。下皆此れに效へ。(神代紀第一段本文)
「尊」という称号は、日本書紀全巻にわたるものとして最初の字に注されている。念が入っていて、「下皆效レ此」と定めている。神功皇后の巻は日本書紀巻第九である。「追尊」についても、もし、それぞれの天皇で行われていったとしたら、それぞれの天皇について「是日」という記述が行われないと、つまり、儀式が行われたと記さなければ歴史書として芳しくない。神功紀の「是日」の出来事を紀のすべてに敷衍することはできない。東野氏も指摘する推古天皇の「幼」名記事は次のとおりである。
幼くましまししときに額田部皇女と曰す。(推古即位前紀)
幼い時、ヌカタベノヒメミコと呼ばれていた。この記事を全面的に信用すると、長じてからはヌカタベノヒメミコとは別の呼び名があったかもしれない気になる。しかし、ヌカタベノヒメミコと呼ばれなくなったとは記されていないから、そう呼ばれなくなったかどうかはわからない。しかし、残念ながら、他にそれらしい名は記されていない。そして、生前、トヨミケカシキヤヒメと呼ばれることはなかった、あるいは、禁止されていた、という文章はどこにもない。生前からの尊号を諡にしてはならないとする規定も、不吉だからやめるようにとの慣わしも知られない。では、トヨミケカシキヤヒメ(The キッチンガール)という名とはなにか。それは名前である。呼ばれるものである。The キッチンガールをもって尊号とする考え方について、筆者には研究者の議論の前提するところがわからない。紀の内題に何が書いてあるか。名前が書いてある。それだけではないか。「天皇」号が特別視されたり、諡号が格式付けられたりするためには文字表記が前提となる。漢字に囚われることがなければ成立しない概念である。
(注32)町に哲学者あり、の発想である。キティちゃんのようなパッチワークのカーテンを有り難がっていてはいけない。法隆寺の資材帳に繍帳のことが載っていなかったのは、橘大女郎ひとりのために作られた民芸品風のものであったからだろう。病んでいる人のために急いで作ったから刺繍が塗絵風の直線使いであるし、絹糸なのに風合いを損ねてしまう撚り糸を使ったのは、彼女がヨリテユクと言っていたからに他ならない。法隆寺は格式が高まり南都七大寺に数えられた大寺院である。仏像を荘厳するための品でこのような幼稚なものが飾られていたと想定すること自体、美術史的観点からも違うのではないか。
(注33)「読む」ということは「訓読する」、「訳す」ということと同じことではない。意味内容を深く理解しなければならない。そのためには飛鳥時代へ留学する必要がある。古事記の真似をして落とし噺をひとつ書いてみると良い。漢語を使わずにヤマトコトバだけで文章を作ることは至難の業である。また、和習万葉仮名混交文などを書いていたらばかばかしくなって投げ出したくなるが、そのことにも耐えなければならない。
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加藤良平 2026.6.26改稿初出