多武峰は日本書紀に次のように記されている。
田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。〈田身は山の名なり。〉此には大務と云ふ。復、嶺の上の両つの槻の樹の辺に、観を起つ。号けて両槻宮とす。亦天宮と曰ふ。(斉明紀二年是歳)
「観」とは何か。軍事施設とする説(石母田正)、道教の道観とする説(黒坂勝美、瀧川政次郎)、単なるタカドノ、すなわち楼観とする説(那波利貞、窪徳忠)、神仙思想に基づく宮とする説(和田萃)など諸説ある。タムノミネは現在、多武嶺と呼ばれ、談山神社が所在する。紀に記述の「田身嶺」については、もう少し広く捉えて比定すべきとの意見がある。
門脇2005.に次のようにある。
「田身嶺」の比定には、前提として次の点を確認しておく必要がある。①「田身山」は、7世紀の諸宮があいついで営まれた飛鳥を、東から南に曲って巡る山並みをいった。当然、その山並みには幾つもの嶺(峰)々があった。②今の談山神社のある一画が、〝多武峰(岑)〟と固定して意識され、呼ばれるようになったのは9世紀末葉よりあと、とくに院政期の12世紀より以後のことであった。……「田身嶺」は、その〝田身山〟の一嶺であり、酒船石遺跡の地(両槻宮)からも東南に望見できるし、また同時代の鳳凰塼・天人(飛天)塼像を彫る塼が出土した岡寺旧本堂の載る嶺あるいはそれより少し下った治田神社の嶺に比定するのがやはり妥当、と考える。但し、その「嶺の上の両つの槻の樹の辺に」起てられた「観」は、決して道観─道教寺院などではないと思う。壇上に立つ仏塔としての高い重層の建物であったとみられる。そして、この一画も付属させたのが、後岡本宮より一段高地に築かれた「両槻宮」であり、「天宮」ともいわれたのである。(150頁)
両槻宮の「観」を仏塔ではないかとの推論に共感する。場所の比定については筆者の力の及ぶところではない。ここでは名前の比定に注力したい。
下出1972.は「観」とは何かを探ることから始めている。古訓にタカドノとある点、観という字の使われ方、宮殿をどう表現しているかについて日本書紀の用例を検証している。そのうえで霊異記にある「大観」(下巻廿二)から、「観」という字に含まれたニュアンスを探っている。

わたくしは、春日和男氏の「つきのき」にあてる考えが妥当と思う(26)[岩波日本古典文学大系『日本霊異記』三七七頁頭注一〇]。樹木の名称としての槻の国字は「欟」である。春日氏は、ここにあらわれる「観」は、この国字の「欟」の省文であろうとされるのであるが、まことに卓見だと思う。つまり「観」には、楼観や道観以外に、日本においては「槻」の意もあったのである。とすれば、書紀が両槻宮の説明に「観ヲ起ツ」としたうちには、観に槻をかける意が含められていたのかもしれない。書紀の編者が漢籍の知識に通じ、衒学的というのに近いほど中国文献の語句を援用していることは、河村秀根以来現在に至るまで、諸先学のすでに明らかにせられたところである。観に、表1・2・3を通じて考えたことに加えて、欟=槻の国字の意をも含めていたのではないかと推量することも、あながち荒唐無稽とばかりはいえないのではなかろうか。(281頁)
播磨風土記に「欟折山」、「欟弓」と見える。ケヤキの木があったから観(觀)の字を使ったのではないかというのである。その個所はそのとおりと筆者も考えるものの、上代の人はさらに突っ込んだなぞ掛けをしているように感じる。
木村2009.は「タムの峰(談山)の古義」について次のように述べている。
……仁徳記歌謡……万葉一二八二……同二九〇……等の「倉橋山」とは多武峰を指している。……倉橋山には、……古事記(仁徳記)歌謡の頃から、倉の梯のように、垂直に切り立って段も成した岩場をもつ山のイメージがあった。一方、タムの山の呼称は、日本書紀斉明紀二年の記事[から、]……タムの嶺が何らかの聖域とされた気配を窺わせる。……タムの峰(山)は、実は、全国各地に同音・類音での呼称の山(峰・岳)が存在する、いわば普通名詞的な地名であったと見られる。現伝の文字表記による音は、タム・タン(ダン)・タフ・トウ(ドウ)と、若干のゆれをもつが、おおむね助詞「ノ・ガ・ケ」を介して、峰・山・岳にかかる名称が、……関東や近畿・四国・九州とほぼ列島全域にわたり点在している。……宛てられた文字は、塔・堂・談・段・丹など様々だが、助詞ノ(ガ・ケ)を介して、山(峰・岳)の性格を特示するありようからも、類同の音と意味をもつ所(地名)だったことは、容易に見てとれるだろう。……それらに共通する特徴とはおおよそつぎの様なところである。①何らかの聖所(土俗信仰・修験道・神道・仏教・道教)であるらしいこと。②墓所とされる所でもあること。③その地域第一の高山か、嶮しい岩場があること。なお、墓所と岩場とは古代しばしば一体である……④近辺に、他に聖地らしい地名があり、それらとも何らかの関係があるらしいこと。(72~76頁)
要約すると、「田身嶺」は、倉橋(倉椅、椋橋)山(記69・70、万290・1282)のことで、高床式倉庫にかける梯のような垂直に切り立って段を成した岩場があるイメージがあったとする。そして、タムの峰(山)については全国的に同類の呼称があり、普通名詞的な地名であると捉えている。塔・堂・談・段・丹+助詞「ノ・ガ・ケ」+峰・山・岳の形である。その意味するところは何らかの聖所であり、墓所とされ、高山か険しい岩場で、近くに聖地らしい地名があるものとする。蓋し卓見である。
紀は、タムノミネという名にこだわっている。仏塔や仏堂がある場所の壇や段、修験者の問答の談と関連する地名である。最終的に「天宮」になっており、今、アマツミヤと訓まれている。伝本の傍訓に次に述べるような例は見られないが、おそらく、タムノミネをテムノミヤと訛って言い換えた洒落なのだろう。古語に訛ることをタム(訛)という。タムの地を言い表すには地口をもってすることこそ必要にして十分なのである。今日、談山神社には十三重の塔が建っている。塔は仏舎利塔で天竺の墓のこと、つまり、棺である。棺は観と同音である。すなわち、タカドノと訓読されている「観」とは仏塔のことである。
ヤマトにおける宮の記述は、記紀において神話とされる箇所でスサノヲ(須佐之男命、素戔嗚尊)の指示によってヤマタノヲロチ(八俣遠呂知、八岐大蛇)が退治され、クシナダヒメ(櫛名田比売、奇稲田姫)と結婚するに当たり清々しいところ、須賀(清地)の地に宮を作ることが嚆矢である(注1)。記紀ともに一番歌が記されている。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣ゑ(紀1)
垣根讃歌が歌われている。宮がふつうの家と異なるのは垣が添えられている点にある。宮には主人とその家族だけでなくお手伝いさん、使用人の掻き添えが住む。宮の宮たるところは、垣根を添えることと従者たる介添人がいること、すなわち、建造物、住人ともにカキゾヘ(キは甲類)を伴っている点にある。垣根があると外からも内からも見えない。目が不自由で見えないと介添人が必要になる。宮はミ(霊)+ヤ(屋)、つまり、お墓の意でもある。目が閉じてしまってよく見えない主人をあの世へ送るには、お練供養のように介添えの舎人が必要である。本邦では、やがて極楽浄土への旅立ちをモチーフにした阿弥陀来迎の話へと発展していった(注2)。先頭を一人で大胆に動きながら行く観音様にあやかりたい。観世音菩薩、観自在菩薩のような観る力がほしい。それが田身嶺でも展開された。「於二田身嶺一冠以二周垣一。復於二嶺上両槻樹辺一、起レ観。号為二両槻宮一。亦曰二天宮一。」である。めぐらされた垣根を越えて遠く望むには観覧台が必要となったのである。
「田身」と同音のタムノキは別名をトネリコという。和名抄に「石檀 蘇敬本草注に云はく、秦皮、一名は石檀〈止禰利古乃岐、一に云ふ太無岐〉、葉は檀に似る、故に以て之れを名くといふ。」とある。秦皮は梣の樹皮で漢方薬になり、また、膠の原料にもする。淮南子・俶真訓に、「夫れ梣木は青翳を已やして、蠃蠡は燭睆を瘉やす、此れ皆目を治するの薬なり。人故無くして此の物を求むれば、必ず其の明を蔽ふ者有り。(夫梣木已青翳、而蠃瘉燭睆、此皆治目之藥也。人無故求此物者、必有蔽其明者。)」とある。梣の字は木偏に岑に作る。「田身山名。」なる分注は字形の頓智を言っている。今いう山の意まで含んでいる。また、今来、すなわち、渡来人のことを思わせる。仏教を伝えたのも渡来人である。雄略即位前紀の「一棺」の話に「新漢」とあって、唐櫃のことを語っている(注3)。舎人は「左右」とも呼ばれる近習の人のこと、モトコは喪床、つまり、棺(キは乙類)のことにも当たり、日月(キは乙類)と同音である(注4)。天はあの世でもあり日月の通うところである。この発想の流れに「天宮」は誕生している。仏教の他界観が入りこんでいる。
「両槻」は二つ棺(キは乙類)と同音である。キ(乙類)には葱があり、洒落て「一文字」とも呼ばれた。葱の特徴は葱坊主である。斎宮忌詞では「塔を阿良良岐(ギは乙類)」と言っている。蘭はノビルのこととされているが、ノビルの零余子、ネギの葱坊主、すなわち、擬宝珠を仏塔の先端の宝珠に見立てているのだろう。「秋葱の転双〈双は重なり。〉納」(仁賢紀六年是秋)とあって、一茎の中に二本の茎が入っていることを指している。「秋葱」は二つ棺なのである(注5)。棺は塔であると納得できる。
フタツキはまた、二月、キサラギのことである。キサラギは、来ては去ること、つまり、来迎の仏である。如来も如去も仏のことをいう。貞観二十年(646)に成った玄奘三蔵・大唐西域記に、「天竺の称は異議糺紛たり、旧に身毒と云ひ、或は賢豆と曰ふ。今正音に従はば印度と云ふべし。」とある。彼の地を「印度」と呼ぶことを推奨しつつ、「印度は唐に月と云ふ。」ともあり、Indu の対音のことを記している(注6)。クシャン朝の大月氏のことを言い含めたものかともされ、大月氏、小月氏の二つの月氏から仏教盛んな天竺はフタツキのことになっているのだろう(注7)。ヤマトの人がいかに理解したかのみが問題である。
「天竺」の語は紀ではいわゆる仏教公伝の記事にある。
且夫れ遠くは天竺より、爰に三韓に洎るまでに、教に依ひ奉け持ちて、尊び敬はずといふこと無し。(欽明紀十三年十月)
竺とは竹が二つ分もある孟宗竹のような竹のことである。節のある形は月の字形に相当する。それが二つあるとすると朋の字になる。ドモ、つまり、吃って訛ることとは「訛む」ことである。田身嶺のタムと同音である。
また、記では筑紫を「竺紫」と表す。「竺紫の日向の橘の小門」(記上)、「竺紫の日向の高千穂」(記上)などとあり、ツクシはヒムカと密接なつながりがあると捉えられている。確かに土筆は土手の日の向かう南斜面によく生える。「土筆誰の子、杉菜の子」といわれるように地下茎をたどっていくとツクシはスギナの胞子茎だとわかる。形状は仏塔さながらである。古語にツクヅクシといい、ツクツクボウシといえば蝉の一種で、法師も仏教用語である。槻はまた「槻弓」(紀28)とあるようにツクとも訓む。「両槻」はツクシが必ず群生していることを思わせる。「冠以二周垣一」した垣とは土手のことである。土手を築いたらツクシが顔を出した。牆、垣、籬はいずれもヤマトコトバにカキ(キは甲類)である。記紀万葉の槻の木は土手と関係することがあり、複数本生えている。
…… 走出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の ……(万210)
池の辺の 小槻が下の 細竹な苅りそね それをだに 君が形見に 見つつ偲はむ(万1276)
池辺双槻宮(用明紀)


今日まで、槻の木と土手(堤)との関係は考察されていない。たまたま土手(堤)に槻の樹が植えられていた、あるいは、聖なる樹種であると見られている。わからないことがあると聖なるもの、祭祀に関連するとすることで違和感を解消しようとする傾向にある。筆者は、語学的に認知されていたからだと考えている。堤(ミは甲類)は包(ミは甲類)と同根の語で、土を高く築いて溜池の水が流れ出ないように包み込んだものを言っている。プレゼントをあげる際、包み紙をして渡すのは、中身が上等で大切なものだからである。古代、政府への貢納品のことは調(キは乙類)と呼ばれていた。包んで献上されていたのだろう。ならば、土手の堤にまつわる樹種としては同音の槻(キは乙類)がふさわしい。結果的に、堤建設の杭打ち工法の際、実用面からも堅い槻の木を使うのがいいということになっていたのではないか。
スギナ(杉菜)は接松とも呼ばれる。続松とは松明のことである。松明は「焚き松」の音便形であるが、「手火」とも関係があるのだろう。行事としては東大寺などの修二会、また、民俗では葬式の先松明が知られる。万葉集には、「…… 天皇の 神の御子の いでましの 手火の光そ ここだ照りたる」(万230)とある。夜は暗いから辺りは見えず、盲人と同じく不自由である。介添が果たす役割と同じことを松明が果たしている。聖武天皇の眼病平癒を願って建立された新薬師寺のおたいまつはしずしずと進む松明行列である。すなわち、ツクシとは舎人の成り代りである。雄略即位前紀の分注に、「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」とある箇所では、主人と舎人とが一つの棺に合葬されることを問題視している。康煕字典が引く類篇に、「槻、……一に曰く、樊槻の木の皮は、水に漬け墨に和すれば、色脱けずといふ。(槻……一曰。樊槻木皮。水漬和墨。色不脱。)」とある。「槻」字は必ずしもケヤキと同一視してはいなかったとわかる。ツキ(槻)はツクシの親であるかという洒落をも語っていた。それとわかる理由は土手(堤)には槻の木がつきものだからである。
原文に、「起宮室、……号曰後飛鳥岡本宮。……起観、号為両槻宮、亦曰天宮」とある。「為」の字は何のために入っているのか。斉明二年是冬条は公共事業の作為性を示している。山の上に垣をめぐらし「冠」るなどというもったいぶったことをしている。山の頂上に冠垣を作った史上初の珍事である。比叡山や高野山にどこまで垣根はあるのか。古代の人がとりたててそのようなことをしようとした動機について探る必要がある。「冠」なのだから山の嶺上でないと辻褄が合わない。そして、山に登っているのに垣根がめぐらされて見晴らしが利かない。人のすることは何と愚かなことか。司馬遷のような批判的精神を持つ紀の編者は、輪をかけて愚かなことに展望台まで作っていると伝えたかったようである。日本書紀を書物として捉えた場合、国家的な編纂事業や天皇支配の正統性の主張、記述された文字表記に目が行きがちであるが、伏字の歌謡(紀122)が記されるなど、史官の智恵のたくましさについて見直す着眼が求められている。
以上、「両槻宮」、「天宮」と名づけられたその名づけに潜むヤマトの人の心性を展望した。「観」は従来、道観や神仙思想と関わりがあると論じられてきたが、仏教思想に関わるものである。思想は言葉に宿っている。ヤマトコトバの研究なくして古代史研究はあり得ない。
(注)
(注1)拙稿「舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─」参照。
(注2)拙稿「お練り供養と当麻曼荼羅」参照。
(注3)拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字、未詳。蓋是槻乎」の「𣝅」は、ウドである」参照。
(注4)溝口2009.は山田1989.などを引きながら、「「天」と「太陽(日)」、そして「日月」との同一視である。同一視というより、置換可能な概念といったほうがいいかもしれないが、要するにこの三者を、……高句麗や北方遊牧民族の間では、王の権威の源泉として、区別することなく用いているのである。そして日本の初期の天孫降臨神話にも、その痕跡がみられる。しかし中国の古代思想で、「天」と「太陽」、あるいは「天」と「日月」を同一視することはない。」(52頁)とする。しかし、天と日、月との関係において、天孫降臨神話と北方遊牧民族が王権を表すこととに共通性を見出しても、記紀に語られる話と遊牧民との関連性を探れるはずはない。記号を操作する抽象的な議論をしても古代の思考と相容れない。天上に日や月はある。中国の「天観」にない考えだからといって珍しがる必要もない。本邦の天とはテンではない。アメ、アマである。天照大御神(天照大神)はアマテラスオホミカミであって、テンショウイン(天璋院≒天照院)ではない。記紀の説話が、概念的、抽象的に王権の祖先神話を表そうとしただけなのなら、なぜあれほど訳の分からぬものに仕上げる必要があったのか。神さまと契約を交わした形跡もない。何らかのイデオロギーに基づいて神さまの話を作るとして、記紀の説話のように複雑、乱雑、煩雑に終始することはないだろう。抽象的で難しい話をしても相手に通じないのでは意味がない。具体的な事柄を譬え話としてしていったら、例えばアマテラスとは天で照らすものだから太陽が筆頭で、それに比べ、月も照らすとは言おうと思えば言えるかもしれない程度のわずかな力しかなく、さらに星となると照らすのではなくて輝くというのがふさわしい、といった話をずるずるとしていき、ぐだぐだになってしまったものと考える。
(注5)拙稿「仁賢紀「母にも兄、吾にも兄」について」参照。
(注6)大唐西域記・巻第二に、「詳夫天竺之称。異議糺紛。旧云身毒。或曰賢豆。今従正音。宜云印度。印度之人。随地称国。殊方異俗。遥挙総名。語其所美。謂之印度。印度者唐言月。月有多名。斯其一称。言諸群生。輪迴不息。無明長夜。莫有司晨。其猶白日。既隠宵燭斯継。雖有星光之照。豈如朗月之明。苟縁斯致因而譬月。良以其土聖賢継軌。導凡御物。如月照臨。由是義故。謂之印度。」とある。
(注7)日本書紀の記述されたとき、大唐西域記が参照されたのかわからない。後漢書・西域伝第七十八に、「天竺国、一名身毒、在月氏之東南数千里。俗与月氏同、而卑溼暑熱。其国臨大水。乗象而戦。其人弱於月氏、脩浮図道、不殺伐、遂以成俗。従月氏、高附国以西、南至西海、東至盤起国、皆身毒之地。身毒有別城数百、城置長。別国数十、国置王。雖各小異、而俱以身毒為名、其時皆属月氏。月氏殺其王而置将、令統其人。土出象、犀、玳瑁、金、銀、銅、鉄、鉛、錫、西与大秦通、有大秦珍物。又有細布、好毾㲪、諸香、石蜜、胡椒、薑、黒塩。和帝時、数遣使貢献、後西域反畔、乃絶。至桓帝延熹二年、四年、頻従日南徼外来献。世伝明帝夢見金人、長大、頂有光明、以問群臣。或曰、「西方有神、名曰佛、其形長丈六尺而黄金色。」帝於是遣使天竺問仏道法、遂於中国図画形像焉。楚王英始信其術、中国因此頗有奉其道者。後桓帝好神、数祀浮図、老子、百姓稍有奉者、後遂転盛。」とある。
(引用・参考文献)
門脇2005. 門脇禎二「「田身嶺」について」納屋守幸氏追悼論文集刊行会編『飛鳥文化財論攷 納屋守幸氏追悼論文集』同会発行、平成17年。(『邪馬台国と地域王国』吉川弘文館、2007年。、『邪馬台国と地域王国(読みなおす日本史)』吉川弘文館、2026年。)
木村2009. 木村紀子『ヤマトコトバの考古学』平凡社、2009年。
下出1972. 下出積與「斉明紀の両槻宮について」坂本太郎博士古稀記念会編『続日本古代史論集 上巻』吉川弘文館、昭和47年。(野口鐵郎・酒井忠夫編『選集 道教と日本 第一巻』雄山閣、平成8年。下出積與『日本古代の道教・陰陽道と神祇』吉川弘文館、平成9年。)
溝口2009. 溝口睦子『アマテラスの誕生』岩波書店(岩波新書)、2009年。
山田1989. 山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』東京大学出版会、1989年。
和田1978. 和田萃「〈論説〉薬猟と『本草集注』─日本古代の民間道教の実態─」『史林』第61巻第3号、1978年5月。京都大学学術情報リポジトリ https://doi.org/10.14989/shirin_61_333(『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 中』塙書房、1995年。)
加藤良平 2026.5.28改稿初出