古事記の諺「堅石(かたしは)も酔人(ゑひびと)を避(さ)く」について

はじめに

 上代の「諺」に「堅石かたしはも酔人ゑひびとを避さく」という言い回しがある。

 又、秦造はだのみやつこが祖おや・漢直あやのあたひが祖と、酒を醸かむことを知れる人、名は仁番にほ、亦の名は須須許理等すすこりらと、参まゐ渡り来たり。故かれ、是の須須許理、大おほ御酒みきを醸みて献たてまつれり。是に天皇すめらみこと、是の献りし大御酒にうらげて、御み歌うた曰よみたまはく、
 須須許理すすこりが 醸かみし御酒みきに 我われ酔ゑひにけり 事こと無な酒ぐし 笑ゑ酒ぐしに 我酔ひにけり(記49)
如此かく歌ひて、幸行いでましし時、御み杖つゑ以て大坂おほさかの道中みちなかの大石おほしはを打ちたまへば、其の石いは走り避さけり。故かれ、諺ことわざに「堅石かたしはも酔人ゑひびとを避さく」と曰ふぞ。(応神記)

 従来の解釈では、酔っぱらいを相手にするな(?)という諺とされてきた(注1)。だが、記紀で「諺」と称される言い方はコト(言=事)+ワザ(技・業)の謂いそのものである。言葉自体が意味を語ってしまい、言辞の次元に飛躍を含んだ言い方になっている。立ち現れているのは論理階梯を無視した洒落である。そのような言い方だからわざわざコトワザという名称をつけてそう呼ぶ。「諺」と断って記されているからには平板なもの言いではなく、「堅石」と「酔人」という二つの言葉の間の「避」の関係に、矛盾や齟齬、亀裂、自家撞着が起こっているものと考えられる。
 歌謡を受けて「如此歌……」とあって「其石走避……堅石避酔人也」と話が進んでいる。口語的感覚からすれば状況は歌謡で活写され、地の文はその歌に対応して構成されていると考えられる。なにしろ地の文とて稗田阿礼のような人によって語られる話し言葉である。歌の要点は「我酔ひにけり」である。

文法的理解

 助動詞「「けり」は、「そういう事態なんだと気がついた」という意味である。気づいていないこと、記憶にないことが目前に現われたり、あるいは耳に入ったときに感じる、一種の驚きをこめて表現する場合が少なくない。……「けり」は、見逃していた事実を発見した場合や、事柄からうける印象を新たにした時に用いられるもので……、真偽は問わず、知らなかった話、伝説・伝承を、伝聞として表現する時にも用いる」(岩波古語辞典1482頁)である。新鮮な驚きの表明である。良い酒には知らず知らずのうちに酔いが回ることがある。さして酔っていないと思って飲んでいて、いざトイレに行こうと立ち上がろうとしてみたら足を取られていた。これが「けり」の示すところである。だから杖が必要になっている。逆に悪い酒はすぐ頭に来る。飲むほどに頭痛が増す。その時、飲んでいて自分が酔っていると気づいている。それを表現すると「我酔ひき」になる。記49歌謡が変わってくる。
 岩波古語辞典は続けて、「「来有り」の転であるという説がおそらく正しいであろう。「事態の成り行きがここまで来ている」と今の時点で認識するという意味が「けり」の基本であり、また「来(き)」と「あり」との複合の音変化 kiari→keri も極めて無理なく説明できるからである。」(同頁)とする。ふと気づいたことには酔いがまわって来ていた、ということである。

  湯原王ゆはらのおほきみの打酒ちゃうしゆの歌一首
 焼刀やきたちの 稜かど打ち放ち 大夫ますらをの 祷ほく豊とよ御酒みきに 吾われ酔ゑひにけり(万989)

 記の話は新しい酒造法をめぐってのものと考えられる。諺を語り始めるにあたっての設定として、「御杖」、「大坂」、「大石」が登場している。杖は歩行補助具であるが、ツヱタラズという枕詞は「八や尺さか」にかかる。一丈つゑ・じょうに足りないからという。

 …… 朝霧の 思ひ惑まとひて 杖つゑ足らず 八や尺さかの嘆なげき 嘆けども ……(万3344)

 長さの単位、一丈の十分の一が尺さかである。また、丈つゑ、尺さかは、布地の面積の単位にも使う。同じサカにはサカ(石・斛・積)という量の単位もある。十升で一斗はこ、十斗で一石さかである。容量の単位も視野に含めてサカという語が使われているらしい。なにしろお酒の話である。ススコリは一斗、二斗といった量ではなく、一気に一石、二石と醸造しているようである。この話のなかで「御杖」、「大坂」、「大石」は縁語になっている。「御杖」と話に出てきたらさぞかしりっぱな杖なのだろう。ひょっとすると長さが一丈に達しそうな勢いで、それは尺さかの単位としてはとても大きい。大坂を示唆しているわけである。大きな石さか(斛・積)のものがその道中にあるとしたら、大坂は山道のうちでもしっかり作った道、切り通しのことに当たり、そこへ大きな岩石が法面を崩落してきて通行の妨げになっていたことを表している。落石が行く手を拒む障害物となることはままある。場所は「大坂の道中」なのだから、「大石おほしは」なるものが「大石おほさか」を表すほどに「逆さかふ」こと、「逆さかる」ことは尤もなことである。サカという言葉をトリック的に、言葉のワザとして使っている。サカという音には「釈迦さか」という訛った語もある。
 「避」はサルかサクか。「其石走避」部分については、「其の石、走り避りさ◯き。」のように訓み、杖で大坂の道にある大きな石を打ったらその石は走り去って行ったと解されることが多い(注2)。不備がある。

 如此歌、幸行時、以御杖、打大坂道中之大石者、其石走避。故、諺曰、堅石避酔人也。(応神記)
 爾、執檝者答曰、不能也。亦問曰、何由。答曰。時々也、往々也、雖為取而不得。是以、白不能也。(応神記)

 最後の「也」は強意の符牒である。「故」や「是以」と前を承けて述べる場合、ダカラ~トイウノダ、コウイウコトデ~トイッテイルノダと念を押すような言い方となっている。承ける事象は経験済みのことで、それを根拠にして断定している。経験済みのことは時制でいえば過去、ないしは過去完了に当たる。挙例の前者では諺として通念化していることを示し、後者では「是を以て、能はじと白しつる◯◯ぞ。」のように訓んで確定させている。
 経験と断言は論理的に直結しなければならない。杖で打ったら石が転がってどこか見えないところへ行ってしまった、ということと、堅い石ですらも酔っぱらいを避ける、ということは論理的に結びつかない(注3)。諺の根拠とした経験談では、杖で打ったのは「幸行時」であると明記されている。隊列を組んで進んでいた時、行く手を阻むように大坂の道に大石があった。そこで杖を使って石を打ち、「幸行」が続けられるようにしている。「幸行」の列を除けさえすればよいのである。したがって、「其の石、走り避さけ◯き。」、「其の石、走り避さけ◯ぬ。」のように訓むのが的確である。次の例の「走避」の例では「避」をサクとは訓んでいないが同じ意である。

 死し已りて、復活して、極めて怖畏ふいを生なして、走り避のがれても去るに、嶮けはしき岸に堕つ。(死已復活極生怖畏走避而去堕於嶮岸)(最明寺本往生要集・上)

 「幸行」中、「大坂」を登りつつある時のことだったのだろう(注4)。「大石」を杖で打って行幸の列の横へと転がし後ろへと回り込ませた。スピードが出なければ山道の真ん中を転がることになり、行列にぶつかってしまう。高くなっている路肩へ転がり走ることがあってはじめて隊列の後ろへ送りやることができる。「走避」と記される所以である。割れた、壊れた、砕けたといったことで通せんぼが解消したのではなく、走ったことで問題が解決している。酒さけ(ケは乙類)の話なのだから、「避」字も下二段動詞のサクの未然形・連用形・命令形のサケ(ケは乙類)という音と親和性が高い言葉がふさわしい(注5)。「放さく」は、「自ら離れることを、対象を押し離すように表現するところから成立した意味か。結果として自動詞サカルの意に近い。」(時代別国語大辞典325頁)のである。
 酔いが足に来ていたから杖を使い、その杖で打ったら酒さけの力で避さけた。上代の人の言葉のあやとりによって話が揺るぎないものになっている。以上が状況設定である。
 諺は命題として記されている。その捻りは助詞モに集約されている。助詞モについては、現代の併立の用法とは異なることが指摘されている。大野1993.は、「古典語のモを見ると題目をそれだけと限定・特定しないだけでなく、不確定として提示するところに特質がある。」(64頁)として次のような例をあげている。

 其の葉も枯れず(万4111)
 せむすべも無し(万804)
 雨も降らぬか(万520)
 浜の沙まなごも吾が恋にあにまさらじか(万596)
 逢ふこともあらむ(万3745)

 解説に、「これらは、「其の葉なども」「なにもするすべも」「もしできるなら雨でも」「たぶん浜の砂ですらも」「もしかしたら逢うことも」の意を表わすものである。つまり、……併立肯定の例は上代にはむしろ少なく、上代ではその題目は、不確定、非限定、仮定的なものであり、他に多くのものが潜在的に存在する中からの不特定の例としての提示であることの方が多い。」(同頁)とある。
 「堅石も酔人を避く」にあるモも古代の一般的な助詞のモの使い方である。「堅石なども」「たぶん堅石ですらも」「堅石もなにも」といった漠然とした提題をしている。さらには、「堅石などと仮定されるものも」といった比喩表現かもしれない。「堅石」は、「堅磐、此には柯陀之波かたしはと云ふ。」(雄略紀七年是歳)のカタシハである。カキハ、カシハ、カチハ、トキハなどとも言われるが、「諺」として提示されているのだから必ずカタシハと訓まれなければならない。一語一語一音一音、言葉の持つ義は大きい。「大石おほしは」が諺で「堅石かたしは」になっている点は留意されるべきである。助詞モがあることで、「堅石」以外の他の多くのものが示唆される。すなわち、堅く大きな磐ではなく小さな石ころ、礫が無数にあることを前提にして、この諺は諺として面白い表現となっているのである。細石(礫)のことはサザレイシ、サザレシ、サザライシと言う。後に造られた和製漢語、砂利に当たる。

 硝 思燋反、平、硭硝也、岩傷人畜之足也、瀬也、佐々良さざら石いし(新撰字鏡)
 細石 説文に云はく、礫〈音は歴、佐々礼以之さざれいし〉は水中の細石なりといふ。(和名抄)
 信濃なる 千ち曲ぐまの川の 細石さざれしも 君し践ふみてば 玉と拾ひろはむ(万3400)
 砂礫さざれしを以て檜隈陵ひのくまのみさざきの上に葺しく。(推古紀二十八年十月)

御杖の実態

 「幸行」の最中、天皇は突如、「御杖」を渡されている。行幸時に天皇が歩くことは想定されておらず、儀仗のために携行していたと考えられなくはないが、おそらくは「大坂道」において調達されたものなのだろう。道沿いから杖になる木を採ってきてにわか拵えした。格好のものとして、虎杖と書くイタドリがある。イタドリ(虎杖)は、路傍、堤防、山地の崩れた崖に先駆的に生える植物である。

イタドリ(左:花、右:茎(ウィキニュースhttps://ja.wikinews.org/wiki/イギリス、イタドリ駆除のために「タデ食う虫」を日本から輸入へ))

 イタドリ(虎杖)は薬とされた。疼取の薬効があったからそう呼ばれたとの説もある。陶弘景・本草経集注に、「虎杖根 微温。主通利月水、破留血癥結。田野甚多此、状如大馬蓼、茎斑而葉円。極主暴瘕、酒漬根服之也。」とある。イタドリには茎に赤い斑点が現れることがあり、それを虎斑になぞらえての漢語らしいとわかる(注6)。若茎は食用にもなる。新撰字鏡に「虎杖根 四月採葉、七月採花、陰干、伊太登利いたどり」、和名抄に「虎杖 本草疏に云はく、虎杖、一名は武杖といふ〈伊多止利いたどり〉。」とある。本草和名に、虎杖根の一名に「武杖」をあげ、「虎諱故也」と注しているが何を語るものか不明である。枕草子には、「見るにことなることなきものの文字に書きてことごとしきもの。……いたどりは、まいて虎の杖と書きたるとか。杖なくともありぬべきかほつきを。」(154段)とある。
 ヤマトコトバでは虎杖のことをイタドリといい、いったんそう呼ばれたら、板+取り、つまり、材から板を取ることが連想される。利器の鋸、古語にノホギリのことである。和名抄に「鋸 四声字苑に云はく、鋸〈音は據、能保木利のほぎり〉は刀に似て歯有る者なりといふ。」とある(注7)

 瑞歯別みつはわけの天皇すめらみこと、去来いざ穂別ほわけの天皇すめらみことの同母弟いろどなり。去来穂別天皇の二年に、立ちて皇太子ひつぎのみこと為りたまふ。天皇、初め淡路宮に生あれませり。生れましながら歯みは、一骨ひとつほねの如し。容姿みかたちすがた美麗うるはし。是に、井有り。瑞井みつのゐと曰ふ。則ち汲みて太子ひつぎのみこを洗あむしまつる。時に多遅たぢひ(注8)の花、井の中に有り。因りて太子の名とす。多遅の花は、今の虎杖いたどりの花なり。故かれ、多遅たぢ比瑞歯別ひのみつはわけの天皇すめらみことと称たたへ謂まをす。(反正前紀)
 弟おと、水歯別命みづはわけのみこと、多治比たぢひの柴垣宮しばかきのみやに坐いまして、天の下を治めき。此の天皇すめらみこと、御身みみの長たけ、九尺ここのさか二寸半ふたきなかばぞ。御歯みはの長さ一ひと寸き、広さ二分ふたきだ、上下かみしも等しく斉ととのひて、既に珠に貫ぬけるが如し。(反正記)

 反正天皇は歯並びがきれいで、瑞歯別天皇と呼ばれた。記に、身長が九尺二寸半、もう少しで一丈になるほどの高さであるという。「堅石も酔人を避く」の諺譚が度量衡と関係があるのと同様の書きっぷりである。上代の人にとって二つの話は通底するものと受け止められていたようである。反正天皇の名前譚において、これまでのところタヂヒについて記紀で別個の話が創られていると捉えられている。新編全集本日本書紀は、「イタドリはタデ科の多年草。七~十月に白色の小さな花を開く。『和名抄』に「本草疏云、虎杖、一名武杖、和名、伊太止里いたどり」。記にはタヂヒの花にまつわる命名説話はない。そして「蝮たぢひ之水歯別命」と「蝮まむし」の字を用い、「蝮部たぢひべ」を定めた(仁徳記)とあり、タヂヒをめぐって記紀の所伝は全く異なる。」(96頁)としている。新編全集本古事記は、「タヂヒは河内国の地名。水歯別命はこの地に住み、この地名を名に負う。」(286頁)とする。時代別国語大辞典は、「虎杖いたどりをタヂヒというが、おそらく形が蝮に似ているのでつけられた名であろう。」(426頁)とする。形がイタドリとマムシとが似ている点をあげるなら、茎に紅紫色の斑点ができることや節々に屈曲しながら伸びているところである。漢語で虎杖と記される植物をヤマトコトバではイタドリ、また、タヂヒと言い、マムシ(蝮)のこともタヂヒと呼んでいた。
 瑞歯別天皇の「歯一骨」の話で虎杖の花が登場していた理由は、イタドリという言葉によるものと悟ることができる。瑞歯別天皇の顔は横にきれいに並んだ歯ばかりが印象に残る。鋸野郎と直接綽名にするわけにもいかず、まろやかな頓知話を構成している。歯茎の崖に歯がきれいに生えている姿が印象的だと譬えられていたわけである。応神記の「大坂」では切り通しの道路が作られていた。道の両サイドの崖に生えたイタドリに囲まれた道ということで、虎杖と書くから「杖」の話に創られていてわかりやすい。

古代の道路

 古代の道路事情は文献からはほとんど知られない。

 細石さざれいしに 駒を馳はさせて 心痛み あが思もふ妹いもが 家いへのあたりかも(万3542)
 信しな濃道のぢは 今の墾道はりみち 刈株かりばねに 足な踏ましなむ 沓くつ履は我が背(万3399)

 前者では、馬が走ったのは道路上であった蓋然性が高い。後者では、新道は踏み固められておらず、草が生えては鎌を使って刈ることをくり返していたことを表すものだろう。
 今問題とすべき個所は道の坂の部分である。切り通しを作ることについて、その作業を古代の人がどう捉えていたか。神功前紀に灌漑用水路を造る際、丘を掘削して墾いたとする記事が見られる。

 迹驚岡とどろきのをかに及いたるに、大磐おほいは塞ふさがりて、溝うなてを穿とほすこと得ず。皇后きさき、武内たけしうちの宿禰すくねを召して、剣たち鏡かがみを捧げて神祗あまつかみくにつかみを祷祈いのりまさしめて、溝うなでを通さむことを求む。則ち当時ときに、雷電霹靂かむときして、其の磐いはを蹴ふみ裂さきて、水を通さしむ。故かれ、時人ときのひと、其の溝を号なづけて裂田さくたの溝うなてと曰ふ。(神功前紀仲哀九年四月)

 「雷電霹靂かむとき」という神秘譚になっているが、やっていることは土木工事である。丘に生えている樹木を斧で伐採し、鋤を使って土を掘り取ってよそへ運び、水が流れる高さにまで低くした。木の根があれば斧を使うばかりでなく鋸も用いたことだろう。根が土のなかを延び這っている場合、いかに刃先が鋭利な鋤や斧、鉈であれ、伸びて弾力がついてしまうと刃が噛まずになかなか切断できない。それぞれのところでそれぞれに適うやり方で掘削したものと思われる。「石析神いはさくのかみ(磐裂神)」・「根析神ねさくのかみ(根裂神)」(記上・神代紀第五段一書第六)と呼んでいる。
 結果、最後に岩盤が露出して立ち塞がった。今日なら発破をかけるところ、雷が落ちて磐が裂けて開削に成功したという話になっている。和名抄に、「……霹靂……釈名に云はく、霹靂〈辟歴の二音、和名は加美度計かみとけ〉の霹は析さくるなり、靂は歴ふるなり、歴る所、皆破り坼さくるなりといふ。……」とある。科学的事実かどうか不明であるが、磐が裂けている。「堅石も酔人を避く」とかなり近い状況が生じているらしい(注9)。
 坂道の道路工事の新技術では、切り通したところは雨による浸食やぬかるみのために進めなくならないように石を敷き詰めた側溝を設けている。通行する部分には、方々で楕円形に地面を掘っておいて礫を入れ、その上に黒い土を客土して突き固めている。波板状凹凸と呼ばれている。排水と滑り止めを両立させる工法である。路盤や側溝には小石を使い、路面の安定と雨水の排水を両立させて浸食を防ぎ通行しやすくしていた(注10)。もとの粘土をそのままにして突いたのではぬかるんで意味がないから、浸透性の高い土を持ってきて入れている。この道路築造技術は特に傾斜地において有効だった。平坦地では路面を高くし、側溝を設けるだけでも安定した道路を築くことができていた。だが、坂道の場合は、馬を走らせたり、牛車や修羅に重い荷物を運ばせると、路面に車やコロなどがめり込み、そこがぬかるんだりV字形の浸食が進行して路面自体がえぐれて失われやすかった。側溝と楕円形の斑紋様の砂利敷きによる排水法はうまく機能していた(注11)。
 「堅石も◯……」の助詞モは不確定性を示し、道路には小石、礫は当たり前にあったことが前提とされていた。それは坂道の道路敷設状況に基づいてのことであった。応神天皇は「幸行時」、「御杖」を使う前には輿か牛車に乗って御幸していた。大きな石が法面などから崩落していて進行の邪魔をし、鹵簿が一時停止した。あしからず下車してお歩き下さいという次第の時に「御杖」が差し出され、「大石」を打ったら隊列を避けて転がって行った。結果、再び乗車して乗り物酔いすることになっている(注12)。いつまでも酔いが続く。堅石さえも酔いを醒ますことはできない、それほどたくさんの良い酒を造る技術が渡来したということを物語っている。あくまでも話のレベルにおいてのことであるが、とてもうまく創作されている。
 切り通しに造成された道には楕円形に掘った個所に小石を入れて黒土を築き固め、銭形のような斑点模様となっていた。律令時代には直線道が好まれて構築されていたが、坂道部分では傾斜度を下げるためにゆるやかにくねらせている。まるでマムシが這い登っていくように蛇行した道となっている。語源はともかくとして、マムシ(蝮)のことを古語にタヂヒと言った。

左:魚見塚遺跡の古代の坂道跡(「松江市で古代道路の一部を発見(山陰道から枝分かれした伝路か)」『続・古代の直線測量の新事実(巨大古墳の謎に迫る』http://simomura-nobuo.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html/、2025.9.3確認)、右:マムシ(環境省ホームページhttps://kinki.env.go.jp/blog/2017/05/post-57.html)

 反正記ではタヂヒ(多治比)を地名のことであるとしている。紀でも「大道を作りて京みやこの中に置き、南門みなみのかどより直ただに指して、丹比邑たぢひのむらに至る。」(仁徳紀十四年是歳)とある。二十巻本和名抄(天正本)に「丹比太知比〈為丹南為丹北〉」とあるのがそれといい、現在の松原市付近と比定されている。
 応神記の「大坂」の場所がどこかを定めるには及ばない。排水や路面の安定を目指して造成された本格的な切り通し道路は「大坂」と呼称されたに違いなく、行幸に耐える道だっただろう。見た目はマムシが這い登って行くようであり、また、脇の斜面を鋸で切ったような崖の法面にはイタドリ(虎杖)が生えていて、通行の邪魔にならないように時折刈りとられていたことだろう。
 すなわち、「大坂」での話とされる応神記の諺譚において「堅石」をカタシハと訓むとき、より正確にはカタシハを「堅石」と表記して、堅い歯をしているものとして瑞歯なる鋸、イタドリ(板取り)のことが思い浮かぶように仕掛けている。イタドリは虎杖と漢語にあるから杖で打った話になっている。深読みするなら、カタシハなる堅い歯は今噛んでいるが、酔人はかなり前に已に噛んでしまっている。ご飯を噛んでから時間が経ち、発酵したものとはお酒のことである。飲み会で今更に噛んで食べている輩と、とうの昔に噛み終わって蕩けてしまったお酒を飲んでいる輩とでは勝負がついている。先にできあがった方が勝ちである。虎杖では虎を御すことはできない。
 酔っぱらいのことを大虎という。上代、酔っぱらいと虎とは関係がある。

 初めて、天皇すめらみこと、天基あまつひつぎを草創はじめたまふ日に、大伴氏おほとものうぢの遠祖とほつおや道臣命みちのおみのみこと、大おほ来目部くめらを帥ひきゐて、密しのびの策みことを奉承うけて、能く諷歌そへうた倒語さかしまごとを以て、妖気わざはひを掃ひ蕩とらかせり。倒語の用ゐらるるは、始めて玆ここに起れり。(神武記元年正月)
 日夜ひるよる常に宮人をみなどもと酒に沈湎ゑひさまたれて、錦繍にしきぬひものを以て席しきゐとす。(武烈紀八年三月)
 酩酊 上莫回反、下丁梃反、並上恵比佐万太留ゑひさまたる(新撰字鏡)

 他動詞「蕩とらかす」は溶解してばらばらにして締まりをなくさせ正体を失わせることである。tiger は列島にいたことはなく、聞いた限りの動物であって知っているのは毛皮だけである。縞々模様の錦繍相当のゴージャスな毛皮を目にしていて、ガオーと大きく吼えると伝えられ、肝をつぶして皆腰を抜かすものだと理解している。形はネコに似ているけれど頭はずっと大きく、歩くたびに揺らしているそうである。酔っぱらいが頭を上下に大きく揺らしながら大声をあげている様とよく似ていると感じている。民芸品として張り子の虎が作られるに至っている。「蕩く」ことは、「沈湎ゑひさまたる」酩酊状態と等しいと判定できる。
 ヤマトコトバは言語として体系を成している。そのなかで「堅石も酔人を避く」という諺は機能している。言葉のワザをいかんなく発揮した言い切り文句である(注13)。

(注)
(注1)古典集成本古事記に、「この諺は、「堅い石も酔っぱらいだけは避ける」の意で「泣く子と地頭には勝てぬ」の類といわれるが、夜道を行く時に石に躓つまずき転ばぬための呪文かという(契沖)。」(193頁)との説をあげている。土橋1972.219頁にも同様の指摘がある。契沖・厚顔抄は、藤原清輔・袋草紙の誦文歌「夜行途中歌」カタシハヤ、ツカセヽクリニ、クメル酒、手酔ヒ足酔ヒ、我レ酔ヒニケリ(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/13394243/1/31)をあげている。袋草紙注釈に、「道で百鬼夜行に会った時の歌──堅い岩だ。私がせっせと働いて作った酒を飲んで、手も酔った。足も酔った。私はすっかり酔ったよ。」(504頁)と訳し、「『袋草紙』の「カタシハヤ」の歌は、百鬼夜行から逃れるためのものとあるが、応神記の歌謡を参照すると、酒に酔った時の歌である。それが同条の「堅石も……」の諺と混同して、酔っぱらいを避ける歌と誤られ、再転して百鬼夜行を避ける歌になったのであろう。」(506頁)と解説されている。袋草紙の歌は誦文(呪文)と記され、記の「堅石も酔人を避る」は諺と記されている。「開けゴマ」は呪文だが諺ではない。
 呪文でない諺としてきちんと認めた解説は管見に入らない。本居宣長・古事記伝には、「かくて諺に云る意は、凡て酒に酔ヒ乱れたる人は、正心マゴヽロならねば、如何イカなるひがわざせむも測ハカりがたければ、堅き石すら恐れ避サクるなれば必ス恐れて避サクべきものぞ、との譬ヘに引て、云りしなり、」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/287、漢字の旧字体は改めた)とある。「意」の説明はされているが、それがどうして「諺」に当たるのか現代の諸説同様検討がない。
 古典全書本古事記に、「酔ひどれには用心せよ、けつして逆ふなといふ教訓を含んだ諺であらうが、ここでは教訓は目的になつてはゐない。この種の諺は、地名起原伝説や故事縁起伝説における地名や故事と同様に、伝承する側からすれば、一種の見出し・・・(置かれる順序は逆であるが、それが伝承の記憶把持のための重要な資料とされてゐる意味において)の役を担つてゐるものと言へる。」(329頁、漢字の旧字体は改めた)とある。さらなる歪曲である。
(注2)「其石走避」、「堅石避酔人也」についての諸説を見ると、現在までのところ、ひと言ひと言に意識して訓まれているとは思われない。本居宣長・古事記伝に、前者を「避さりぬ」、後者を「避さる」、大系本古事記、思想大系本古事記、古典集成本古事記、西郷2006.、次田1980.、相磯1962.、佐佐木2010.に、前者を「避さりき」、後者を「避さく」、新編全集本古事記、武田1956.、中西2007.新校古事記に、前者を「避さりき」、後者を「避さる」、中村2009.に、前者を「避さりつ」、後者を「避さく」、幸田1937.に、前者を「避さりぬ」、後者を「避さくる」、土橋1972.に、前者を「避よきき」、後者を「避く」、神田1968.に、前者・後者ともに「避よく」としている。古典全書本古事記には、前者を「避よけき」、後者を「堅石かきはも避さくる酔人ゑひびと」としている。
(注3)無理に解すれば、堅い石には心があって、過去に打たれて遠くへ転がされて目が回った記憶があるから、またそうなるのではないかと恐がって、酔っぱらいを見ると自ら避ける行動をとるものだ、ととって諺化していると捉えることもできるかもしれない。しかし、堅石を神として扱っていない。
(注4)峠の最高点まで至り、下り始めてから「大石」を打ち、「大石」が向こう側へ行ったと仮定すると、それは避けているのではなく去っていることになる。「走り避さりき」という旧来の訓のとおりである。しかし、それではかなり遠くまで転がっていったとしても、結局は道路上にとどまっていて再び行く手を阻むことになる。他の考え方として、切り通しではなく片側の山肌を削いだ道で、反対側の斜面を転がって行ったとする見方も可能である。山の閣道のことである。和名抄に、「碊道 文字集略に云はく、碊道〈士輦反、上声の重、漢語抄に云ふ夜末乃加介知やまのかけぢ〉は山路の閣道なりといふ。」とある。崖を削って桟道を作っているわけだが、「大坂」のイメージとは食い違う。
(注5)万葉集ではサク(放・離)の活用形(未然形・連用形)サケの用字に「酒」(万1402・3309・3346)が使われている。
(注6)虎と豹とが雌雄を成すとする説があり、狩野山楽の龍虎図屏風(紙本金地着色、妙心寺、17世紀初め)などに描かれる。李朝の絵画にも同様の例を見る。古代中国に同様の思想があってイタドリの紅斑点を虎と見立てたのか不明である。
(注7)鋸の技術史の通説に不可解なものがある。縦挽きのための鋸が中世までなかったから板は材木を割り、手斧がけして作られていたのであると因果関係のうえに説かれている。道具が発明されずに不便であったと考えられてしまっている。そうではあるまい。
 必要は発明の母という言葉は前近代の歴史をかなり説明している。木材がふんだんにあって、木を大量に消費しても困ることはなく、土砂崩れに弱ることも少なくて、温室効果ガスの知識がなければ罪悪感も生まれない。古墳時代に現われた窖窯は効率が悪く、後の登窯で作られる焼物の同じだけ作るには六倍もの木材を必要としていたとか、一回焼くのに四畳半一部屋分の容量の木材を必要としていたとも言われる。製鉄のためにある場所で木炭を作ると、次回は五~六十年後に再び森林が形成されるまで待たなければならないという要領だったらしい。塩を作るのにも大量の木材を燃料とした。雨水に恵まれた列島ならではのことかと思われる。それほど木が多ければ、巨木を伐り出してきて割って分厚い板材として宮殿や寺院の建築に使っても支障はない。縦挽き専用の鋸を使ってえっちらおっちら挽くことは、人口が増えて都市化が起こった江戸時代に専門職としてもてはやされたように、ただただ体力と根気が必要とされる。需給の関係でモノの価値は変わる。材木が有り余っていたとき、製作にはどちらが楽か、板にしたときどちらが狂いが少なく水を弾いて利便性が高いか、などのことを経済合理性に基づいて判断すれば、縦挽き専用の鋸は普及に至らなかったということではないか。そしてまた、小さな板を取るためには、縦挽き専用の歯並びの鋸でなくても挽くことは十分に可能である。
 考古学的に出土する古墳時代の鋸は、貝や骨角を細工するのに適しているという。木材に対する場合、作業現場では実際に携わる人の器量によって仕事は進められる。機能的に仕上げることと直線的に仕上げることとは必ずしも一致しない。幾何学的な精緻さを求めるよりも、木に教えられながら部材を取って組み合わせた方が長持ちすることも経験的に知っていたことだろう。経年変化を勘で計算に入れることは少し経験を積めばわかることである。木には節があり、また、捻れたり反ったり、割けたりするから、その癖を味方につけて作り上げればいい。しかも、うまくいかなかったらやり直すことができるのである。現代の工学的な考えに毒されて完成形を求めるという発想をしていては見誤ることが多い。
 吉川1978.に、「まず鋸をつくってみると,「横挽き」と「縦挽き」では一般的に「横挽き」のほうがつくるのがむずかしい.手間もかかる.同一寸法の鋸なら一寸当りの歯数と歯形を見ただけでもそれは理解できよう.このことはいまも昔も決して変わるはずがない.むしろ昔のほうがより一層むずかしかったと思う.だから,つくるのにむずかしい鋸が存在して,やさしい鋸がなかった,とはなんとも納得がいかない不思議なことなのだ.つぎに職人の仕事を広く観察すると横縦併用のようなことは数かぎりなくある(唐木屋使用鋸には縦横はない).昔の建築用鋸には手曲りの伐木用鋸の歯を改造して縦挽きにして使用したのも見ている.その逆もある.民衆は生活の必要に応じてさまざまな智恵を働かせる.それだからこそ縦挽き,横挽きの専用鋸も生れた.縦挽鋸が存在したから縦挽きしたのではない.縦挽きしたから「縦挽専用の鋸」が生まれたのだ.」(66頁)とある。村の鍛冶屋は頼まれて作っているのであって、規格品を作っていたのでも新製品開発競争に明け暮れていたのでもない。
(注8)新編全集本日本書紀に「「多遅」は「多遅比」の省略表記。」(96頁)とするのに賛同する。神武紀に、「高倉」を「高倉下」の省略表記とする例がある。ミツハには同音に「水神みづのかみ罔みつ象はの女め」(神代紀第五段一書第二)(「弥都波能みつはの売神めのかみ」(記上))もあるところから、「瑞井」から水を汲んで浴びさせているのだろう。
(注9)白川1995.に、「国語の「さく」には「開く・咲く・割く・裂く・疎く・放く・離く・避く」などの義があり、みな一系の語である。」(358頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注10)実例は多数報告されている。
 木本2016.に、「たとえば、佐賀県吉野ヶ原町の鳥とりの隈くま古代官道跡で発掘された切り通し状の道路遺構……には、底面に小礫を敷きつめ、さらにそれを粘土で固定するという入念な作りの側溝が存在する(佐賀県教育委員会─一九九五[『古代官道・西海道肥前路』])。」(63頁)とあって、側溝には小礫が敷かれていたことが記されている。傾斜する路面がどうなっていたのかについては、「長年月にわたる流水のため、当初の路面はまず残らないと考えられる。」(同頁)とある。
 中山2001.に、「……その凹凸面に充塡された土については、表土や地山とは明らかに異なる砂質の土壌で、場合によっては地山の土より硬く締まっていることがある。その組成は砂粒・小礫・ローム・黒色土等を含み、稀に多量の土器片が混入している場合がある。また、波板状凹凸面が発見される場所は、傾斜地、オープンカットされたような部分、堀や溝を横切る部分等に見られる点、硬化面に類似している。」(108頁)とある。
 近江2006.に、「[波板状凹凸面の分布範囲は]地盤が軟弱な箇所で検出されている事例や……、緩斜面で検出される事例が目立つ……。また、……道路がカーブする部分で検出されているものもある。」(182頁)と指摘し、その成因として、「1 木馬道のように枕木の痕跡と考えられるもの 2 道路の基礎であると考えられるもの 3 足掛け 4 自然発生的なものの[ママ]……に東[和幸「波板状凹凸面に関する第三の見解」『四国とその周辺の考察─犬飼徹夫先生古稀記念論集─』同刊行会、2002年。]の指摘による牛馬歩行痕跡説を付け加えれば、道路遺構に伴い認められるすべての凹凸痕跡はこれらのいずれかによって説明できると考える。」(187~188頁)とある。また、同書には波板状凹凸面検出道路一覧が表となっている。
 なお、古代の道路は律令時代の直線道のイメージが強いが、鹿野2012.に、「古墳時代の道路遺構は、いずれも緩やかにカーブしたり屈曲しており、きわめて直線的なものは4~6世紀をみる限り認められない。」(220頁)とある。考古学における道路敷設の研究は道半ばである。文献にある「自二南門一直指之、至二丹比邑一。」(仁徳紀十四年是歳)の「直」をどう捉えるのか、読みの勘所のようである。
(注11)近世に造語されたとされている砂利という語については定かではない。もし飛鳥・奈良時代からあったとするなら、ヤマトコトバでサリとも呼ばれる舎利と関係があるに違いあるまい。舎利とは仏舎利、つまり、釈迦の遺骨のことから始まって遺骨一般のことをいい、形状、色彩がよく似ているところから米粒のことも舎利という。空海・秘蔵記に、「舎利 天竺、米粒を呼びて舎利と為す。仏舎利、亦、米粒に似たり。故、舎利と曰ふなり、」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/819270/1/16)とあり、以後、引用されて今日に至っているという。本邦で空海まで米粒を舎利と言わなかったとは考えられない。日本書紀では、仏舎利の意味で「舎利」(敏達紀十三年是歳、崇峻紀元年三月、推古紀元年正月・十四年五月・三十一年七月)と記されている。細かい石粒と細かい骨と小さな米粒を似たものと見ることに違和感はない。その砂利が水たまりと関係があるところは、米粒でいえばどぶろくの状態の酒のことだろう。諺の酔人の話に見合っている。ススコリによる醸造法が清酒製作に絡むものであるなら、砂利だまりが泥濁を濾して澄ませるところまで似ていると見立てているのかもしれない。
(注12)「酔人」とあるところは車酔いまで含めたうまい表現になっていると見るが、上代の「酔ゑふ」は酒に酔う例しか見られない。食中毒や車酔いのことを「酔ゑふ」とする実例は今昔物語にまで下る。上代、船酔いなどを何と言っていたか難しい問題である。なお、乗物酔いと酒を飲んで酔うのとは生理的現象上似ているに過ぎず、体の中で起こっているメカニズムは異なるという。
(注13)本稿で積み残した課題がある。人名である。「須須許理すすこり」という渡来系と思われる人によって新酒造法が伝えられ、その造った酒で酔っ払っている。ススコリはマッコリのコリと同じく朝鮮語で、漉す、濾過する意とされている。本名は「仁番にほ」と言っている。ニホは、稲ニホのこと、また、ニホドリ(鳰鳥)、すなわちカイツブリのことである。小さくて丸いから、米の粒のことが印象づけられている。
 新編全集本古事記に、「須々許理らは百済王が献じた人間ではない。自ら朝鮮から渡ってきたのであり、朝鮮が天皇の秩序のもとにあることの証として、ここに並べて述べられる。」(269頁)とある。百済王が貢進した人は「貢上人」と書いてあるから別である。しかし、仮に天皇の秩序が朝鮮半島に及んでいたとして、その証の記事にこの程度のお粗末な技術移転しか見られないのだろうか。亡命か難民か移民か出稼ぎで渡って来ていた。その前の文で、「亦、新羅人参渡来。是以……作二百済池一」とあって、新羅の人が百済池を作ったことになっている。不思議がられている記述であるが、出身地を示さない「仁番(須須許理)」が新羅からの渡来人であることを示唆する記事かもしれない。新酒造法がどのようなものか定められないが、酒を造るには米を精白しなければならない。つまり、精しら(白)ぐことが求められる。新しら羅き(キは乙類)と下二段動詞の精(白)ぐとの間に音の関連があるのかもしれない。枕詞タクヅノノ、タクブスマは、「白しら」や「新羅」にかかる。なぜシラキと呼ばれたのか不確かながら、キ(乙類)は城き(キは乙類)を意味するとする説が優勢である。また、ニホドリは子育て中に浮巣を作り、雛を体に乗せて水面を進むこともある。カイツブリのツブリ的な極みがカイツブリの雛である。百済の船に便乗してやって来たことを示すものか。後考を俟つ。

(引用・参考文献)
相磯1962. 相磯貞三『記紀歌謡全註解』有精堂出版、昭和37年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
近江2006. 近江俊秀『古代国家と道路─考古学からの検証─』青木書店、2006年。
大野1993. 大野晋『係り結びの研究』岩波書店、1993年。
神田1968. 神田秀夫校注『新注古事記』大修館書店、昭和43年。
木本2016. 木本雅康「地方の官道─駅路と伝馬─」舘野和己・出田和久編『日本古代の交通・交流・情報─遺跡と技術─』吉川弘文館、2016年。
幸田1937. 幸田成友校訂『古事記』岩波書店(岩波文庫)、昭和12年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1053852
古典集成本古事記 西宮一民校注『新潮古典文学集成 古事記』新潮社、昭和54年。
古典全書本古事記 神田秀夫・太田善麿校注『日本古典全書 古事記 下』朝日新聞社、昭和38年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
佐佐木2010. 佐佐木隆『古事記歌謡簡注』おうふう、平成22年。
鹿野2012. 鹿野塁「道路」一瀬和夫・北條芳隆・福永伸哉編『古墳時代の考古学5─時代を支えた生産と技術─』同成社、2012年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系 1 古事記』岩波書店、1982年。
時代別国語大辞典 上代語編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本古事記 倉野憲司・武田祐吉校注『日本古典文学大系1 古事記・祝詞』岩波書店、1958年。
武田1956. 武田祐吉訳注『古事記』角川書店(角川文庫)、昭和31年。
次田1980. 次田真幸『古事記(中)』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
土橋1972. 土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、昭和47年。
中西2007. 中西進『中西進著作集2 古事記をよむ 二』四季社、平成19年。
中村2009. 中村啓信『新版古事記』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
中山2001. 中山晋「道路遺跡の調査方法」『古代交通研究』第10号、古代交通研究会、2001年。
袋草紙注釈 小沢正夫・後藤重郎・島津忠夫・樋口芳麻呂『袋草紙注釈 上』塙書房、昭和49年。
古橋1986. 古橋信孝「歌謡と和歌─ススコリの謡と呪文歌─」『国語と国文学』第63巻第11号、昭和61年11月。
吉川1978. 吉川金次「古代・中世の縦挽鋸(1)」『金属』第48巻第7号(通巻701号)、アグネ発行、1978年7月。

加藤良平 2026.9.22改稿初出

\ 最新情報をチェック /