古事記成立の顛末についてはその序に記されている。
是に、[天武]天皇詔したまはく、「朕聞く、諸の家の賷たる帝紀と本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加へたり。今の時に当りて、其の失を改めずは、未だ幾年を経ずして、其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故、惟れ、帝紀を撰び録し、旧辞を討ね覈り、偽を削り実を定め、後葉に流へむと欲ふ」とのりたまふ。時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年は是二十八。為人聡明くして、目に度り、口に誦へ、耳に拂ひ、心に勒む。即ち、阿礼に勅り語りたまひて、帝皇の日継と先代の旧辞とを誦み習はしめたまふ。然れども、運移り世異り、未だ其の事を行はず。……
焉に、旧辞の誤忤へるを惜しみ、先紀の謬錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安万侶に[元明天皇ガ]詔したまはく、稗田阿礼が誦める勅り語りたまひし旧辞を撰び録して、献上れとのりたまへば、謹みて詔の旨の随に、子細に採り摭ふ。(記上)
天武天皇が昔のことを正しくして後世に伝えたいと思って稗田阿礼に覚えさせ、元明天皇の時代になってそれを太安万侶に撰上させている。
明記されているから疑いが生まれるべくもないことなのである(注1)が、記紀に書かれている説話や逸話の類が何なのか、その受け止め方で話が変わってくる。書契の輩、とりわけ上代文学研究をなりわいとする本の虫の間に、誤解、無理解がはびこることとなっている。そして、古事記ならびにそのもととなったものがどのように書記化されたのかについても議論されることとなっている。最終的に、問題の焦点は、記序にある「誦習」をどう捉えるかに帰結している。大きくは暗誦説と訓読説に分けられているが、暗誦にも字を見て覚えたことの暗誦から、最初からまったく見ていない、つまりは文字が読めない人が聞き伝てに覚えた暗誦というところまでの偏差がある。
テキストを見ているに違いないと考える人は、稗田阿礼の才能を記した箇所を根拠にあげる。「為人聡明、度目誦口、払耳勒心。」の「度レ目」である。目で見ているのは文字なのだと短絡している。
「誦習」について、小島1962.は他の「誦習」の用例をあげて論じている。
宜レ令下二天下一、家蔵二孝経一本一、精勤誦習、倍中加教授上。
宜しく天下をして家ごとに孝経一本を鞍め、精勤しく誦み習ひて、倍教授を加へしむべし。(続紀、孝謙天皇・天平宝字元年四月)
大意として、天下には、家ごとに孝経一巻を所蔵させ、暗誦・学習によく努めさせ、人民に対してますます教えを垂れさせるべきである、と言っている。
官吏の家に孝経を置かせ、それぞれに勉強してすらすら唱えられるようにしておいて、引用して箔をつけながら治めるべき人民に対して訓示を垂れることができるようにしておくのがいいですね、というのである。実際に施策として各家に配布されるほど孝経が書写されたとする記録はなく、漆紙文書で知られることが特記されるほどにしか残っていない。孝経は人民に訓示するときに引用し、相手が耳で聞いて納得するように持っていく、その方便として使うことが奨励されている。勉強して奥義を極めろと言っているのでも、内容に関する筆記テストが課されるものでもない。学令や考課令にいう学問の専門家が「闇読」、「諳読」の域まで勉強することとは質が異なる。今日、ビジネスマンが会社で訓示をするときに折に触れて明言を引くように活用すればいいだけだから、端々が口をついて出てくることが求められている。だからこそ「誦習」が問題となっている。予め自習するに当たっても黙読して理解を深めることよりも、なかの一文を音読して実地の説諭場面で言い当てられるようにするのがのぞましいのである。孝経のなかの読めない字はどうしたか。勉強が苦手な人はどうしたか。役人同士で教えたり教えられたりしていたのだろう。すぐに繙くことができるほどには書物は近くにないし、孝経に書かれた文字をすらすら読みあげる必要もなかったのである。声に出すことが問題なのだから、孝経(の訓み下し文の音声)を丸暗記していた方が都合がよかった。
勧学院の雀は蒙求を囀る、という諺は、漢音で音読することになっているテキストの蒙求は、内容の理解を伴う必要はなくて音を真似ればそれでよいことを暗に言っていて、門前の小僧習わぬ経を読む、という諺とよく似ている。記序にある「誦習」の二字はヨミナラフと訓むことによって「読み習ふ」こと、文字面を目で追っていきながら読み上げることを何度もくり返し、習いとなってよく理解し、誤ることなくすらすら読めるようになることと思われているが、節づけして唱えることの意をより重視するなら、例えば次のような様子が思い浮かぶだろう。音楽の時間に譜面を持ちながらも、楽譜など読めないから目をつぶって隣に合わせて声をあげては何度も練習し、一人になっても歌えるようにマスターすることである。「誦」は read よりも recite の意が強い。このことは洋の東西を問わない。唯一アラビア語で書かれているテキストのコーラン(クルアーン)が諸民族の間で唱えられ続けられている理由もここに説明できる(注2)。文字など見ていない。見ているとしても一節の始まりの文字ばかりである。その一語さえ覚え、あとは丸々諳んじることで全篇唱えることができてしまう。訓示のために使われた孝経についてもそれで十分だった。
つまり、「誦」においては書物(が目の前にあって読む条件が整っていたとしてもそれ)に依っていないのである。
古事記の序文にある「誦習」も同様である。稗田阿礼がすでに書かれてある古いタイプのテキストをもとに声に出したとするならば、それが彼の聡明さだというのならば、文字が読めるのならある程度は文字が書けるはずで、太安万侶の出る幕はなく、阿礼が新しいタイプに従って清書すればよいのである。古いタイプのテキストについては、それがテキストとしてあるのだから太安万侶は勉強して解読を試み、新しいタイプに合わせて当世風にリライトすれば古事記は仕上がるのであって、そうなると稗田阿礼の出番はない。さらに言えば、テキストとしてあり、それがヤマトコトバに照らし合わすのが難しいとき、以下に述べる例でいえば「得レ言」と書いてあってアギトヒキと訓むといったことであるのなら、山田孝雄氏の言うように万葉仮名を併記すればよいわけであり、そのようなことを頼むのに稗田阿礼を呼ぶ必要はなく、大勢いる史官に通常業務としてさせれば済むことだろう(注3)。
稗田阿礼と太安万侶の二人がともに必要とされる理由はただ一つ、天武天皇の口授、古事記のすべてを天皇が唱え聞かせたものを稗田阿礼は聞いて覚え、丸々暗誦できるようになっていた、元明朝になってその声を頼りに文字に書き起こしたのが太安万侶であったということである(注4)。天武天皇の「勅語」は昔のことをまとめなさいと下命したという意味ではなくて、昔のことはこれこれこういうことですと丸々口授したしたことである。まとめよ、というのが「勅語」だったら、時間が経ったという条件のもとに行われなかったというのは何を言っているのかわからない。「然れども、運移り世異り、未だ其の事行はず。」とあるということは、 「運移世異」しない時には行われていたらしいのである。
筆者のシンプルな見解を小島氏の案を下敷きにまとめておく。
(小島1962.172頁)
「*得レ言」(*印は推定原文)
(原古事記) ↓
アギトヒキ(よみを口で伝える)─→(文字化する)「為二阿芸登比一」(古事記)
↑ ↑
阿礼 安万侶
(筆者の見解)
……→天武天皇口述(筆記された原古事記は存在しない)
↓
アギトヒキ(よみを口で伝える)─→(文字化する)「為二阿芸登比一」(古事記)
↑ ↑
阿礼(口述) 安万侶(筆記)
古事記序文の訓読説、ないし擬訓読説には強引さが目につく。小島論文を参考に見てみる。
古事記序の「度目誦口払耳勒心」は、文選などに見られる「目所二一見一、輙誦二於口一、耳所二暫聞一、不レ忘二於心一」など似ている字面が出てくるからとして、「漢籍の句をそのまままねた表現である」(同168頁)という。だが、丸きりそのままではないし、そのままではないということは頭を捻っているということであって、意味内容が漢籍のものとは異なる可能性がある点は見逃せない(注5)。
「「誦習」の「誦」については単に空で口誦暗誦するの意があるが、ここでは筆録物を中心とする「誦」の意、即ち文献の読誦(漢書劉向伝)、誦読(呉志闞沢伝)とみるべきであり、例は漢籍に多い。」(同168頁)としている(注6)。根拠は示されていない。「阿礼の「度レ目誦レ口」と云ふ才能は、文字通り「誦」する前に目にみるべき文献があることを意味する。」(169頁)としている(注7)が、「度レ目」を何と訓んでいるのだろうか。「度」は「渡」に通じ、目ニ渡ル、目ヲ渡ル、と訓まれることが多い。文字が涙の浮かぶ目の川を渡る、目玉が書物のページにある文字の海を渡海する、という比喩表現と解されているようである。「目所二一見一、輙誦二於口一、耳所暫二聞一、不レ忘二於心一。」(薦禰衡表)であれば、「目、一たび見る所、輙ち口に誦し、耳、暫く聞く所、心に忘れず。」、「経レ目而諷二於口一、過レ耳而闇二於心一。」(東方朔画賛并序)とあれば、「目を経て口に諷し、耳を過ぎて心に闇んず。」 と訓むことができる。「経」字が場所を経過することを表すヤマトコトバ、フの例は、稀ではあるが存在する。一方、「度レ目」の「度」を「渡」の意味で理解するには、抽象表現へかなり飛躍しなければならない。ヤマトコトバのワタルにそのように用いられた例は上代に見られず、言葉の前に観念のようなものは存在しない。
「度」はハカルの意と考える。
厥の高きこと、慶、而く彊へ度る可からず。(厥高慶而不可虖彊度)(漢書・楊雄伝、天暦二年点、e国宝https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=101356&content_part_id=0&content_pict_id=0の18 of 57 • 18)
度 ハカル(大般若経字抄)
自ら忖度りて曰はく、「将敗らるることを無からむや。願に非ずは成し難けむ」とのたまふ。 (崇峻前紀、書陵部本訓、書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430006/4b1ef89e5dfc44d4b969f2370767674cの 9/52)
度 俗正、音渡、ワタル、又音鐸、和同、ハカル、タクミ、モロ\/、タビ、ミチスグル、ミル(注8)、ハカリゴト、トコ床、ウリ、ノリ、オク、タス(名義抄、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300086240/461?ln=ja)
品定め、鑑定する目をもっているということである。稗田阿礼は天武天皇の勅語を賜り、そのとき目ではかるとは、高揚してのうわずりや慨嘆、憤慨しての調子などの語っている声ばかりか、天皇の表情やハンドアクションなども含めて意図している意味合いをきちんと受け取っていることを指している。
これまで暗誦説とされている次の見解にも少々誤謬がある。
令二誦_習一とは、旧記の本をはなれて、そらに誦うかべて、其語をしば\/口なれしむるをいふなり、抑直に書には採録しめずして、先ツかく人の口に移して、つら\/誦習はしめ賜ふは、語を重みしたまふが故なり、(本居宣長・古事記伝、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920805/1/47、漢字の旧字体は改めた、以下同じ)
【誦】は帝紀及先代旧辞をよむのに声に節をつけてよんだもので、それぞれよみ方があつたのであらう。そのよみ方はただ発音するといふだけのことでなくて、そのよみ声に上げ下げ長短があつたであらう。……若し専ら文字を使用するだけの事であるならば、誦習せしめるといふは不可解である。若し字の訓み方がわからず、訓みにくいならば、万葉仮名で仮名をつければよい。(山田1935.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1233223/1/89・91)
「旧記の本をはなれて」、天武天皇の言っていることを絶対と信じてそれを誦習している。だから、基本的に、古事記には日本書紀のような別伝はない。記紀として残る昔の事を俯瞰的に見るから、「旧記の本をはなれて」という言い方が成り立つが、天武天皇の言っていることを唯一絶対として誦習している稗田阿礼にしてみれば、そもそも旧記(帝紀、旧辞)などのテキストは知ったことではない。天武天皇としても、諸家が持っている帝紀や本辞には誤りがあると聞いているだけで、どのようなものかを実見し吟味しているのでもない。だから、「朕聞」と述べている。そして、「撰録帝紀 、討覈旧辞」するとしているが、「撰録」も「討覈」も何もないのであって、天武天皇が覚えていることが正しく、その他のことはすべて誤りであると断じている。絶対専制君主たる天武天皇は、自分の思っているところがすべて正しく、諸家の言い分など受け付けない。より端的に言えば、天武天皇には識字能力がなく、必要でもなかった。天武天皇が覚えていて暗誦できるもののみが正しい「歴史」だからである。無文字時代において歴史とは、文字がないのだからコト(事・言)であり、言葉は声に放たれる形でしかなかった。その「正」しい無文字時代のフルゴトを声の形で、すなわち、天武天皇の言っていたとおりに元明天皇の世まで伝えたのが稗田阿礼で、当然ながら稗田阿礼にも識字能力はなく、だからこそ一言半句完璧に覚え、伝えることができたのである。そして、それを元明天皇の御代に文字の形に変換したのが太安万侶だった。
また、「帝紀及先代旧辞をよむのに声に節をつけてよんだもの」が「誦」であるとするに、「帝紀」や「先代旧辞」なる書物があってそれを声に出して読みあげたことをもって「誦」とするわけにもいかない。
於焉、惜旧辞之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安万侶、「撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞以献上」者、謹随詔旨、子細採摭。
焉に、旧辞の誤忤へるを惜しみ、先紀の謬錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安万侶に詔はく、「稗田阿礼が誦める勅り語りたまひし旧辞を撰び録して献上れ」とのりたまへば、謹みて詔の旨の随に、子細に採り摭ふ。
元明天皇は太安万侶に向かって、「稗田阿礼の誦むところの勅語の旧辞を撰録して献上せよ」と命じている。稗田阿礼が誦んでいるところの天武天皇の勅語した旧辞を、撰録して吾のところへ献上せよ、と言っている。
撰二-録稗田阿礼所レ誦之勅語旧辞一以献上
この「誦」は稗田阿礼が声に出していることを指し、「所レ誦」と受身形になってそれが「之」で続いているのは、それがすなわち、天武天皇の「勅語」であったことを示している(注9)。
天武天皇が稗田阿礼に対して誦習を命じただけ(注10)なら、「勅語」の使い方は次のようでなければならない。
撰下-録使二稗田阿礼誦一之勅語旧辞上以献上。(稗田阿礼をして誦ましめしし勅語の旧辞を撰録し以て献上せよ。)
撰下-録勅二-語稗田阿礼一而令レ誦之旧辞上以献上。(稗田阿礼に勅語して誦ましめしし旧辞を撰録し以て献上せよ。)
天武天皇が勅語したこととは、口伝した「旧辞」全体なのである。この表現形によって、文字に記載されたものがない点を併せ示すことになっている。このことに気づいていた本居宣長は次のようにも述べている。
又此にしもかく勅語のとあるを以テ思へば、もと此ノ勅語は、唯に此ノ事を詔ひ属しのみにはあらずて、彼ノ天皇 【天武】の大御口づから、此ノ旧辞を諷誦坐シて、其を阿礼に聴取しめて、諷誦坐ス大御言のまゝを、誦うつし習ほしめ賜へるにもあるべし、【若シ然らずは、此処には殊に勅語のとことわるべきにあらねばなり、されど余の古書どもにも、勅語とはたゞ大御口づから詔ひつくるを云る例なれば、上には唯其意に注しおきつるなり、】もし然るにては、此ノ記は本彼ノ清御原ノ宮ニ御宇シヽ天皇の、可畏くも大御親撰びたまひ定め賜ひ、誦たまひ唱へ賜へる古語にしあれば、世にたぐひもなく、いとも貴き御典にぞありける。(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920805/1/49)
天武天皇は書かれてあったテキストを何遍も読んでいるうちに覚えてしまい、「旧記の本をはなれて、そらに誦うかべて、其語をしば\/口なれしむる」ようになっていたと解しているようである。「勅語は、天皇の大御口づから詔ひ属るなり、【有司をして伝へ宣しめ、又は書にかけるなどをも、たゞ勅とはいへども、そは勅語とはいはず、】かくて此はなほ殊なる意も有ルべきか、」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920805/1/47)といい、稗田阿礼に対して勅語の内容を誦習するようにと勅しているとしている。
この解釈は正しい。「勅語」という言葉について、二重拘束式の定義が成されているようで齟齬があるかに見る向きがあるが、このような言葉の使用法はヤマトコトバにおいてむしろその正しさを示すものである。文字という担保のない時代、言葉の確からしさを証明するには、ただ今発した言葉について、その言葉のなかに自らを証明するような循環論をもって述べてしまう方法しかなかったからである。
ただし、天武天皇の勅語に当たるフルゴトは書記されたテキストをもとにしていたものではなかった。その点、宣長等は誤解している。元明天皇の命に「旧辞」とだけあって「帝紀」が抜けているのは、「紀」という文字で記せば俄かに書物であることを想起させるから排除しているのである。すなわち、天武天皇が阿礼に口伝したものに、書物を読みあげて授けたところは皆無であった。識字能力のない人にとって書物は、無意味、無価値、無関係なものである。文字社会においてはリテラシーがなければ日々困難を来すが、無文字社会においてはリテラシーは無用の長物である(注11)。文化水準としてどちらが優位にあるかという考えは誤りであり、質が異なるものとして受け取らなくてはならない(注12)。文字を得ることでヤマトコトバは変容したと見るのが正解で、決してゆたかになったとは考えられないことは、記紀万葉のゆたかな言語表現を見るにつけ感じられる。その独特のゆたかさは、文字を持たずに口伝てに伝えていくことを言葉に託したがために、今日とは比べ物にならない重さが言葉に備わっていたことによる。
天武天皇が古事記を発案した時、「欲レ流二後葉一。」ことに重きを置いている(注13)。無文字の時代の言語活動では、「誦」ことによって唯一他者に伝わるのである。黙っていたら何も伝わらない。死んでしまったらそこで途絶える。天皇が口授したものを稗田阿礼が完璧に「誦習」していても、そこから他の人に伝えられることがないなら天武天皇の事業は果たされていないことになる。「然れども、運移り世異り、未だ其の事を行はず。」なのである。
オコナフ(行)とは、ある定まった方式に則り、同じベクトルを向くように動作をすることである。
今日の事は、唯吾と爾と自ら行はまくのみ。(綏靖前紀)
我独り得たりと雖も、衆に従ひて同じく挙へ。(推古紀十二年四月)
車座になって稗田阿礼を取り囲み、彼は滔々と話し続ける。人々は話に没入し、そうだそうだと相槌を打ちながら次どうなるのか、さらにどうなるのかと、よそ見をすることも他ごとを考えることもなく集中して聞いていき、自然と話のすべてを皆が一様に記憶してしまうまでになることが期待されていた。しかし、「運移世異」が起きている。無文字時代から文字時代に変わったのである。昔のことを口伝えに話して聞かそうとしても誰もまともに相手をしようとせず、無理に聞かせてもいい加減な気持ちでしか受け止められないから中途半端に受け止められ、人によって取り方が違うところも多く出て、以前の誤忤、謬錯の状態に逆戻りしてしまっていたのである。文字という便利なものがあるのだから、万事、覚える必要などないと決めてかかるようになっている。それよりも大事なのは文明であり、漢籍にたくさんの新知識が載っているからそちらを優先させた方がゆたかで幸せになれるものと思われている。昔のことなどテキトーでいいじゃないかという風潮になっていて、「未レ行二其事一」という事態に陥っていたのである。
うまくいかなくなっていたのは天武天皇が没していたからでも、帝紀の撰録や旧辞の討覈が続行中だったからでもない。時代が変わり、人々の心が別物になり、言葉との向き合い方が変質していたからである。
この大きな時代の転変を理解しないと、記紀万葉とその時代についての研究はあさっての方向を向いたまま続くことになる。
(注)
(注1)拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」、「古事記序文の研究─無文字文化と文字文明のはざまにおいて─」、「猿女とは何かと、稗田阿礼について─上代語の言葉づかいに慣れるために─」ですでに述べている。
(注2)「宮廷に語部なるものがいて、古伝承をすべて暗誦しており、古事記はそれを成書化したものだ、といった素朴な考えは、もはや通用しないだろう。古事記成立の基礎に文献の存することは確実である。」(西郷2005.72頁)という見解は無反省なものである。
(注3)史が大勢いても役に立たないとされた事件に敏達元年五月の王辰爾の話がある。拙稿「烏の羽に書いた文字を読んだ王辰爾」参照。
(注4)いわゆる口授説は、平田篤胤・古史徴開題記(https://dl.ndl.go.jp/pid/1184423/1/68)、亀田鶯谷・古事記序解(https://dl.ndl.go.jp/pid/772110/1/44)、敷田年治・古事記標註(https://dl.ndl.go.jp/pid/772125/1/5)などにすでに説かれている。
後文に、「亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多羅斯、如此之類、随本不改。」とあって、「本の随 に改めず。」と訓み、もともと書いたものがあってそこに「日下」や「帯」と記されていたのを尊重して書くことにしたと太安万侶が言っていると解されている。いつのことかと言えば元明朝のことで、太安万侶が筆録している時である。この「本」をモトと訓んで短絡すれば古事記にはもととなる書物があることになる(次田1924.13頁、思想大系本古事記17頁、新編全集本古事記25頁、西郷2005.88頁、矢嶋2008.64~65頁)が、フミと訓めば他書にそう書いてある事例があるからそれに従ったということになる。
本鉤 モトノチ(記上)
或本 アルフミ(雄略紀七年八月)
別本 コトフミ(雄略紀七年是歳)
一本 アルフミ(顕宗前紀)
旧本 フルフミ(仁賢前紀)
或本歌 アルフミノウタ(万26題詞)
モトという言葉を時間的に以前のものの意に使う場合、根源、拠りどころの意を引きずって、過去を本来のものとしてそこに価値を置き、旧に復したい気持ちの表れを伴いながら使われているように見受けられる。
…… 平けく 率て帰りませ 本の国家に〔毛等能國家尓〕(万4245)
橡の 衣解き洗ひ まつち山 本つ人には〔古人尓者〕 なほ及かずけり(万3009)
ほととぎす なほも鳴かなむ 本つ人〔母等都比等〕 かけつつもとな 吾を音し泣くも(万4437)
天孫、豈し故郷に還らむと欲すか。〔天孫豈欲還故郷歟〕 (神代紀第十段一書第一)
太安万侶は元明天皇の命に従って書き上げたいのであり、旧に復そうとする気持ちはさらさらない。つまり、モトとは訓み難いのである。
「如此之類」と前置きされ、「日下」や「帯」の類はモトにする書物ではなく別のフミに書いてあったから、その当時、戸籍などにおいて世間で常用されるようになっていたから人名表記に限り援用していることが明示されている。それ以外の類については「本」に依っていない。なぜ依らなかったかといえば、人名表記以外を別のフミに依っていたら、「撰録帝紀、討覈旧辞、削偽定実」しようというのに、 正実とは違い、虚偽を加えることになりかねないからである。あくまでも天武天皇の口述をモトにして書き上げなければならないと、太安万侶は覚悟を決めていたのである。
この記事は、結局、古事記の種本が書物の形で、ないしは断片集であってもかまわないが、書いたものとしては存在していなかったことを裏打ちする仕掛けに働いている。
(注5)丸々引き写した文章も見られるから、両者には差異があると認めなければならないのではないか。紀の例をとりあげた拙稿「日本書紀冒頭部の訓みについて─原文の「搏」や「埸(堨)」とは何か─ 」参照のこと。
(注6)辞書の解説に次のようにあることは古くから指摘されている。
誦 諷也、从レ言甬聲(説文)
以レ声節レ之曰レ誦(周礼・春官・大司楽、鄭玄注)
誦 似用反、去、言也、視レ文曰レ読、背レ文曰レ誦(天治本新撰字鏡)
習 数飛也、从レ羽从レ白、凡習之属皆从レ習(説文)
倉野1973.に、「畢竟するに阿礼の誦習とは、その非凡なる学識(聡明、明恵)によつて、訓み難い古書を古語を以つて繰り返し繰り返し節をつけて読み、これに習熟暗誦するに至ったことに他ならないのである。」(195頁)と同様の見方がある。「古語」は当時もはや使われていない言葉(「此古語未詳也。」(雄略紀元年三月))ということなのか、不明である。
(注7)同様の見解は訓読説をとる人に見られる。
(注8)名義抄の訓にミルとあるのは、ハカル意からの派生と思われる。入声のタク・ダクで、ワタル・ワタスの意は去声のト・ドの音である。詩経・大雅・蕩之什に、「神の格ること、度るべからず、矧んや射ふべけんや。(神之格思、不可度思、矧可射思。)」 と見える。
(注9)本居宣長がすでに指摘していた仔細については以下に示した。
(注10)「口頭で直接に発せられる勅命。天武天皇が誦習を命じたことをいう。」(新編全集本古事記24頁)とある。
(注11)言葉を文字で筆記したり、書にある文字を読むことは史官の仕事である。為政者たるや、刀鍛冶ができなくても佩刀してかまわないし、機織りができなくても絹の錦を身に纏ってかまわないのと同じである。字が読めなくても天皇は恥ずかしくなかった。
(注12)近代の側から見ると、識字能力がないとまるで生きていけないかのように誤解する。次田1924.に、「文字を使用する事は、既にそれより古くから行はれてゐて、皇室や諸家の旧記が幾らも存在した当時に、わざ\/暗誦せしめられる必要のある筈はない。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1918074/1/31)とあるのも文明化を誰しもが是としていたという前提からの発言である。世界中で識字教育が遍く大義となり、相対化する姿勢を持つことさえ忘れられている。
(注13)本居宣長・古事記伝は、「欲ノ字は、撰録の上に在ルべき文ノ意なり、」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920805/1/47)と解し、事業の未完成について、天武天皇言う撰録や討覈ができていなかったこととする意見が多く見られる。金井2022.は、「「欲」の位置によって行為の未遂か既遂かを決定すべきならば、「欲」に上接する「定実」は過去形に訓読すべきことになろう。」(90頁)とし、「完成に至らず、したがって後代に伝えることができなかった……のであって、討覈と撰定は大分進行していたとみるべきである。」(同頁)としている。
他方、山田1935.は、「虚偽定実以上は現在のことに属し、後葉に流へる事は将来のことに属するのである。それを欲であらはした。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1233223/1/82)とし、西宮1972.は、「欲」は「将」ではなく「思(…せむとおもふ)」の意に用いられていると訂し、「撰二録帝紀一、討二覈旧辞一、削レ偽定レ実」が「今の時」にあたる─当然この「詔」のあった時が開始であり、それをなすわけである─のであり、さうしてできたものを「欲レ流二後葉一」といふことなのであって論理にはいささかの懸念もない」(45頁) と述べている。矢嶋2008.も同調していて、「帝紀・旧辞の撰録・討覈、削偽定実まではすでに実現されたこととして記述しているのである。」(64頁)と言っている。
そもそも、それがたとえ一部ではあっても、国の歴史について撰録したり討覈したりすることを、身分の知れない稗田阿礼や、高官に登りつめたとはいえたった一人の官吏にすぎない太安万侶が(勝手に)推し進めてしまうことなど、常識的に考えられもしないし許されることでもないだろう。「欲」字が「流二後葉一」の上にある点は文字どおりで、天武天皇の関心事はもっぱら「流二後葉一」ことにあった。そして、エンドレステープにするのにかけがえのない才能を持っている稗田阿礼を見出して、抜擢、登用したのである。
この点、矢嶋2008.は、「阿礼が命じられた「誦習」とは、要するに「後葉に流へ」るために必要とされた行為だったのである。」(65頁)と同じことを言いながら、稗田阿礼に文字の読み方に習熟して読み上げていた役を負わせている。その際、紀の分注を参考としてあげている。
帝王本紀に、多に古き字ども有りて、撰集むる人、屢遷り易はることを経たり。後人習ひ読むとき、意を以て刊り改む。伝へ写すこと既に多にして、遂に舛雑を致す。前後次を失ひて、兄弟参差なり。今則ち古今を考へ覈りて、其の真正に帰す。一往識り難きをば、且く一つに依りて撰びて、其の異なることを註詳す。他も皆此に效へ。(欽明紀二年三月)
矢嶋氏は「習読」を「習誦」として訓んでいる。そして、「ここで問題とされているのは、「古字」の訓みもさることながら、その訓みを介して誦習者が恣意的に文字を改めることが行なわれ、書写の過程で内容自体に変化が及ぶ場合があることである。」(同66頁) としている。古字対策、資料間の文体的差異を整えるべく稗田阿礼は誦習したのだと見ている。
そのようなことは欽明紀には書かれていない。文字表記には伝写の際に改められることが付きものだということが念頭にある。正書法の確立に程遠く、常用漢字表のない時代に文字の統一など出来っこしない。日本書紀の編纂に当たっては正しい姿に戻すことが求められるが、判断のつかないものが残るだろうから一つを選んで異伝を注記するようにと方針を述べている。今日考えられるのとは反対に、文字言語にはブレが多く、音声言語の方がブレが少ない。だからこそ、天武天皇は、自分の言うことの意を十分に理解できる才能のあった稗田阿礼に口授し、誦習させていたのである。欽明朝はおろか天武朝に至っても、世の中の基調は無文字社会であった。言葉とはひとえに声にされたものであり、人はその声を聞くことで事を伝えていっていた。古事記に記されているものは逸話群であっていわゆる歴史の次元には至っていない。無文字時代の人、稗田阿礼が語っていた言葉を記し留めたものだからである。
(引用・参考文献)
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北野2010. 北野達「稗田阿礼の「誦習」─カタリの力─」『山形県立米沢女子短期大学紀要』第46号、2010年12月。山形県公立大学法人学術機関リポジトリ https://yone.repo.nii.ac.jp/records/138
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加藤良平 2026.10.15初出