ヤマトタケル論―ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件―

ヤマトタケルの命名譚

 記紀の説話に、ヤマトタケルという有名人が登場する。
 ここ天皇すめらみこと、其の御子のたけく荒きこころおそりてのりたまはく、「西方にしのかた熊曽建くまそたける二人有り。これまつろはずゐや無き人等ひとどもぞ。かれ、其の人等を取れ」とのりたまひて、遣はしき。此の時に当りて、其の御髪を額に結ひき。しかくして、小碓をうすのみこと、其のをば倭比売やまとひめのみこと御衣みそ御裳みもを給はり、つるぎ御懐みふつくろれて幸行いでましき。故、熊曽建が家に到りて見れば、其の家のいくさ三重みへまろがり、むろを作りてりき。是に、御室みむろのうたげむと言ひとよみて、食物をしものまうけ備へき。故、其のあたり遊行ありきて、其のうたげの日を待ちき。爾くして、其の楽の日にりて、童女をとめの髪の如く、其の結へる御髪をけづり垂れ、其の姨の御衣御裳をして、既に童女の姿と成り、女人をみなの中に交り立ちて、其の室の内に入りいましき。爾くして、熊曽建おと二人、其の嬢子をとめを見かまけて、おのが中に坐せて盛りにうたげしき。故、其のたけなはなる時に臨みて、懐より剣をいだし、熊曽が衣衿ころものくびを取りて、剣を其の胸より刺し通しし時に、其の弟建おとたける、見かしこみて逃げ出でき。すなはち其の室のはしもとに追ひ至り、其のびらを取りて、剣を尻より刺し通しき。爾くして、其の熊曽建がまをしてまをさく、「其のたち動かしたまひそ。やつかれ白すこと有り」とまをす。爾くして、しまらく許して押し伏せき。是に白して言さく、「みことたれぞ」とまをす。爾くして、詔はく、「吾は纒向まきむく日代宮ひしろのみやいましておほ嶋国しまくにを知らす、大帯日おほたらしひ子淤斯呂和こおしろわけの天皇すめらみことの御子、名は倭男やまとを那王なのみこぞ。おれ熊曽建二人、まつろはずゐや無しときこして、おれを取りつけ〔飠偏に攵〕よと詔ひてつかはせり」とのりたまふ。爾くして、其の熊曽建が白さく、「まことしかならむ。西方にしのかたに吾二人をきてたけこはき人は無し。然れども、大倭国やまとのくにに、吾二人に益して、建きいましけり。是を以て、吾、御名みなを献らむ。今より以後のちは、倭建御子やまとたけるのみこふべし」とまをす。是の事を白しをはるに、即ち熟瓜ほそぢの如く振りきて殺しき。故、其の時より御名をたたへて倭建命やまとたけるのみことと謂ふ。しかうして還り上る時に、山の神・河の神とあなの神を、皆ことやはして参上まゐのぼりき。(景行記)
 十二月しはすに、熊襲国くまそがくにに到る。因りて、其の消息あるかたち地形くにかた嶮易ありかたたまふ。時に熊襲に魁帥たけるといふ者有り。名はとろ石鹿文しかや、亦は川上梟帥かはかみのたけると曰ふ。ふつく親族うがらやからつどへてにひむろうたげせむとす。ここに、日本武尊やまとたけるのみこと、髪を解きて童女をとめの姿とりて、ひそかに川上梟帥が宴の時を伺ふ。りてつるぎみそうらきたまひて、川上梟帥が宴のりて、女人をみなどもの中にまじります。川上梟帥、其の童女の容姿かほよきかまけて、則ち手をたづさへてしきゐともにして、さかづきを挙げてさけのましめつつ、たはぶまさぐる。時に、更深よふけ、人うすらぎぬ。川上梟帥、また被酒さけにゑひぬ。是に日本武尊、裀の中の剣をぬきいだし、川上梟帥が胸を刺したまふ。未だ及之死なぬに、川上梟帥叩頭みてまをさく、「しばし待ちたまへ。やつかれ有所言ものまをさむ」とまをす。時に日本武尊、剣をおしとどめて待ちたまふ。川上梟帥、まをしてまをさく、「汝尊いましみこと誰人たれぞ」とまをす。こたへてのたまはく、「吾は是、大足彦天皇おほたらしひこのすめらみことみこなり。名は曰本童男やまとをぐなのたまふぞ」とのたまふ。川上梟帥、亦啓して曰さく、「吾は是、国の中の強力者ちからひとなり。是を以て、当時ときもろもろの人、やつかれ威力ちからへずして、従はずといふもの無し。吾、さは武力ちからひとひしかども、未だ皇子みこごとひと有らず。是を以て、いやしきやつこいやしき口を以て尊号みなたてまつらむ。けだゆるしたまひなむや」とまをす。のたまはく、「聴さむ」とのたまふ。即ち啓して曰さく、「今より以後のち、皇子をなづけたてまつりて日本武皇やまとたけるのみまをすべし」とまをす。まをすことをはりて乃ち胸を通して殺したまふ。かれ、今に至るまでに、日本武尊やまとたけるのみことめ曰す、是れ其のことのもとなり。しかうして後に、弟彦おとひこつかはして、ふつくに其の党類ともがららしむ。余噍のこるもの無し。既にして海路うみつぢよりやまとに還りて、吉備に到りて穴海あなのうみを渡る。其の処にあらぶる神有り。則ち殺しつ。亦、難波にかへりいたころに、柏済かしはのわたりの悪ぶる神を殺しつ。〈済、此には和多利わたりと云ふ。〉(景行紀二十七年十二月)

 記に、「故、自其時御名倭建命。」、紀に、「故、至于今-曰日本武尊、是其縁也。」とあるように、称号譚として話が完結している。すなわち、話の眼目として「倭建命(日本武尊)」という称号がある。命名譚なのだから、この名前の考究をなおざりにして先に進むことはできない(注1)

ヤマトタケル v.s. ヤマトタケ

 今日、ヤマトタケルと言って通用しているが、この呼び名はそれほど確定しているものではない。ヤマトタケではないかとも考えられていた。日本書紀の北野本や熱田本の古訓にはヤマトタケとある(注2)。江戸時代にはすでにヤマトタケルと訓むのか、ヤマトタケと訓むのかという議論があった。伴信友・比古婆衣と本居宣長・古事記伝にそれぞれ次のようにある。

さて此皇子の御名書紀に日本武また余古書どもに倭武とも書きてその武字は例にタケまたタケシなどこそは訓めタケルとはよむまじきがごと思ふ人もあるべけれど、書紀に梟帥と書るを既く古事記に建字を用ひられたるにも准へしるべくまた猛字も武字と同じ義としてつねにタケまたタケシなどよめど書紀に五十猛神と書るなどおもひ合すべし、さて又タケルてふ称の義は記伝に威勢ありて猛き者を云ふ称なりと説はれたるがごとし、なほ述はゞ猛勇きことをタケリタケルなど活して云ふ言の上もて称とせるなり、字鏡に誇挙言也伊比保己留イヒホコル、又云太介留タケル〈類聚名義抄に嘋哮等の字をタケル〉とよめるも元は猛勇き意にてこゝに云ふと同言なるを挙言して猛勇々々しく言ふ方より云ふ一方の訓にとりて注せるものなり〈今の俗にもタケリ起テ云々など云ふこれなり、かくて又此命の又名倭男具那と申せる倭も倭国におきて勝れ給へる由にてかく申す御名義は古事を伝に説はれたるがごとし〉さて景行紀四十三年此命の崩給へる処に日本武尊化白鳥云々、因欲録功名即定武部也と見えたる武部を古訓にタケルべとあり、……(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/33~34、漢字の旧字体は改めた)
倭建御子ヤマトタケノミコ御名義ミナノコヽロ、上文に於大倭云々とあるをウケて見べし、西方には、吾二人に並ぶ、タケき人は無きに、ワレナホマサりて建きは、倭国に有けりと云意以て、タタヘ申せるなり、【又ヤマトと云は、本よりの御名の倭男具那の倭にれるかとも見ゆれどなほ然には非じ、】(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/112、漢字の旧字体は改めた)

 現代の議論としては、まず、西宮1993.に次のようにある。

 ……タケとタケルとの違ひは、人名の核の部分で、
 A 語頭の「建(武)」はタケ
 B 語尾の「建(健・武・猛)」はタケル
の如く、語の頭にくるか、尾(「建」単独も同じ)にくるかによつて訓み分けができるといふわけである。例へば「稚武彦王」(景行紀五十一年初の条)はワカタケ○○ヒコノ王であり、「稚武王」(同上)はワカタケル○○○ノ王である。かくして、「倭命」「日本尊」はヤマトタケル○○○ノミコトと訓む。(424頁)

 古訓や宣長にヤマトタケ○○ノミコトと訓んでいたのは、「タケルは四段動詞(猛威を振ふ)の終止形であるが、それが「梟帥(夷賊えびすの大将)の如き「人」をいふ意味にも用ゐられると、今度はそのやうな名を避けようとする心理が働いて、タケシの形容詞の語幹タケで訓むことになつたものと考へられる。」(同頁)、「五十猛命いたけるのみこと」(神代紀第八段一書第四・第五)、「建王たけるのみこ」(斉明紀四年五月)と訓んでいるのだから正しいとする。
 一方、中村2009.では「倭建御子」をヤマトタケノミコ、「倭建命」をヤマトタケノミコトとしている。脚注に、「近来「やまとたける」と訓むが「たける」の卑称でたたえるわけがない。平安時代以来の古訓に戻す。」(135頁)とある。詳論は中村2000.に展開されている。ヤマトタケと訓むべきとし、意味的にヤマトタケルノミコと呼ぶのはおかしいと考えている(注3)

 いわば『日本書紀』が西の方の不従反乱の首領を「梟帥」・「魁帥」と表記した時、それは咆え、叫び、馬のように嘶き、獅子のように大怒する野蛮の表現であった。その日本語が「タケル」なのである。天皇を中心に据え、そのミヤコからヒナへの放射の論理の中での、ミヤコの対極ヒナの賤賊いやしきやつこが「タケル」であった。大和の中にあっても、天皇(即位前であっても)の坐す所(ミヤコ)と、不従無礼者の関係は同様であり、出雲も同様である。この関係はそのまま……[川上梟帥による]「是以、賤賊陋口以奉尊号」とある賤しい賊のいやしい口で、尊い御名を奉る、という賤陋と至尊の関係である。その賤陋の代名詞「タケル」を、至尊の小碓命にそのまま献りうる筈がないではないか。(294頁)

 そして、「尊号」についての史記や漢書の例をあげている。しかし、記紀は漢語を借りて書いているだけで、思想をまるごと引き継いでいるわけではない(注4)。中村氏は続けて、「尊号はたてまつられるものであり、この形式が小碓尊に採り入れられたものとみとめられる。この場合、『古事記』では「倭建御子」で、『日本書紀』は「日本武皇子」であるが、「ヤマト タケル ノ ミコ」とか「ヤマト タケ ノ ミコ」の語構成ではなく、「ヤマトタケル ノ ミコ」または「ヤマトタケ ノ ミコ」ということになろう。中国での尊号に卑称が用いられていないことと併わせみれば、「ヤマトタケル」の訓みは成り立ちようのないことがわかる、というものであろう。」(294~295頁、字間の誤りは正した)としている。
 筆者は、ここに議論の盲点を見る。熊曽建や川上梟帥のような賤しい輩から賤しい名前を献上されてそのまま受けたかといえば、小碓命(日本武尊)は受けていないことが明記されている。「自今以後、応倭建御子○○。」(景行記)、「自今以後、号皇子日本武皇子○○。」(景行紀)と、ヤマトタケルノミコという名前にしたらいいではないかと提案されている。しかし、実際には、「故、自其時御名、謂倭建。」(景行記)、「故至于今、称-曰日本武。」(景行紀)となっている。「建」や「武」の訓みがタケルであれタケであれそこが問題ではなく、ミコ(御子・皇子)ではなくミコト(命・尊)というようになっている。タケルという言葉のほうは賤しく感じられるから意味を取り換え、対象を変更することで可能にしている。語構成として、「ヤマト タケル ノ ミコ」を奉ろうとしたら受け取る側はそれをヒントに造語し、「ヤマ ト タケル ノ ミコト」とずらして解釈したということになる。後述する。

名前の変遷

 名前の変遷をまとめると、倭男やまとを那王なのみこ日本童男やまとをぐな)→倭建御子やまとたけるのみこ(日本武皇子)(ミ・コは甲類。この段階では自称していない)→倭建命やまとたけるのみこと(日本武尊)(ミは甲類、コ・トは乙類)という流れで進化していっている。名前が変わると人格の転換があるように思われるが、人はそう簡単に改心したり、自己変容を来たしたりできはしない(注5)。彼も出家、遁世やジェンダー転換の道へと進んだわけではない。性格も特に変わらず、相変わらず外敵の征伐に明け暮れている。一貫しているところはその名の上に反映していなければならない。無文字文化においてのアイデンティティは、意味のある名前にあらわれる。名前とは呼ばれるもの、端的に言えば綽名だからである。守屋1988.に、次のようにある。

 一体、古代の人々の思惟では、人の名はその名で表わされた人そのものであった。単なる記号ではなかったのである。名は実体だったのである。すれば、名はその人にとっては、きわめて大切なものであったとみなければならないのである。時には秘すべきものでもあったのである。だから、神の名や天皇の名ということになれば、重要な意味を持つものになってくるのである。そこから、神や天皇の名の由来を説明する神話や物語が作られてくるのである。記紀が語るように、神話や物語があって、そこから名がでてきたのではなく、まず名があって、そこから神話や物語が引きだされてきたのである。記紀の記述とは順序が逆なのである。……このようにみてくると、この物語にしても、少くともあの会話の部分は、倭建命の名の由来を語るものとして、その名から作られたものとみられるのである。(80頁)

 筆者は、名前と説話は同時に作られて、それが言葉として確立しながらその場で言葉の説明も兼ねていると考えている。言葉を定義しつつ言語体系のなかで定理となるよう、言葉を発したと同時にその言葉の正しいものであることをその場で解き明かしてみせるのである。もともとのヲウスという名の由来については、彼が双生児として生れたことと関係づけられている。

 きさきふたはしらひこみこれます。第一あにをば大碓皇おほうすのみまをす。第二つぎ小碓尊をうすのみことと曰す。〈一書あるふみに云はく、皇后きさきみはしらの男を生れます。其の第三みはしらにあたりたまふみこ稚倭根子わかやまとねこの皇子みこと曰すといふ。〉其の大碓皇子・小碓尊は、ひとに同じにしてふたごに生れます。天皇すめらみことあやしびたまひて、則ちうすたけびたまひき。故、りて、其の二のみこなづけて大碓・小碓とのたまふ。是の小碓尊は、亦のみな日本童男やまとをぐな。〈童男、此には烏具奈をぐなと云ふ。〉亦は日本武尊やまとたけるのみことまをす。わかくして雄略ををしきいきします。をとこざかりいたりて容貌みかほ魁偉すぐれたたはし。たき一丈ひとつゑ、力能くかなへげたまふ。(景行紀二年三月)

 大系本日本書紀の注に、「飯田武郷は栗田寛の説として、伊豆三宅島では産婦が臼にとりつき産する風習があることを参考に挙げたが、中山太郎は、栃木県足利郡において、難産のとき姙婦の夫が臼を背負って家の囲りを廻る習俗や、日高アイヌでは、お産が重いと臼に産婦が腹を押しあてる習俗、愛知県南設楽郡千郷村地方では、他家に嫁して子供ができた娘が初めて生家に帰ったとき、まずその子を臼の中に入れる習俗をあげ、出産と臼が密接な関連をもっていることを論じた。金関丈夫は、難産のとき夫が臼を背負って家を廻る習俗を重要視し、景行天皇も臼を背負って家を廻ったが、一人生れたがまだ終らず、二人生れるまで、重い臼を背負っていなければならなかったので、天皇思わず臼にコン畜生と宣うたのだと解釈している。」((二)61頁)とある。孫引きまである解説で下駄を預けている(注6)。石上1983.には、「碓子 臼 神のありと思われるものは、神そのものと考えられる。臼は、食料調製具、また神をぐ楽器として、重要であったので神聖視され、神体として祀られる。「万葉集」・巻十六、「乞食者詠ほかひびとのうた」(三八八六)に、「庭にたつ臼(碓子)」とあるのも、神座かみくらである臼なのであろう。」(136頁)とある。臼の形が蓮台に似ていることで関係が生まれてくるのかもしれないものの、一般に臼が古く神座と思われていたとは見なせない。むしろ、俗に臼を女性、杵を男性に見立てていることとかかわりがあろうか。臼相手に Wow とか Yeah などと叫んだということである。
 桜井2000.には次のようにある。

 ……出産の民俗では、双子は不祥として忌まれ、臼は女性そのものの象徴とみるのである。景行天皇が双子が生まれて「臼に誥ぶ」というのは、不祥として忌まれた双子を再び生まない呪法だったとみるべきであろう。双子は祝福されなかったのであり、ヤマトタケルは生まれながらにして悲劇的な一面を背負わされていたことになるであろう。(138頁)
 厠は斎屋としても理解されていたのである。その厠で小碓命は兄大碓命を殺害することによって、ヤマトヲグナになることができたのであろう。ヲグナのヲグはヲキすなわち「招き」と同根の語であり、ナは人の意とみてよかろう。すなわちヤマトヲグナとはヤマトの神霊を招き寄せる童子、いわばヤマトの神の憑坐であり、ヤマトの神の子とみられたことであろう。ヤマトヲグナとヤマトの巫女であるヤマトヒメとのかかわり方が解けてくるではないか。(141頁)

 事はそう都合よく民俗的に読み解くことはできない。双子が不祥であるのかどうかもよくわからないし、厠が斎屋となるとおちおち用も足せなくなり、名の因果関係を説くこともまた難しい。ところによっては双子の誕生を喜ぶ習俗も見られる。一般には、おそらく栄養事情から考えて、双子は命のリスクが高くなるからあえて望むことではなかったということか。けれども、生れてきてしまったら生れてきてしまったものである。ただ、ヒトは一度に一人が基本で、双子が生まれることは少なかったため、「畜生腹」、「畜生児」と呼ばれることがあった。民俗の言い伝えの解釈としては、臼は女性そのものに譬えられ、臼に向かって誥ぶこととは多産のイヌのような母胎だと言い放つことになり、それにふさわしい声はイヌの声、それも遠吠えに当たる声を発することを指しているのだろう。臼のなかで反響する音のことが念頭に置かれたと思われるからである。仲間がたくさんいることを確認し合うのが遠吠えだから、多産で大家族を確かめ合っているイヌ科動物の遠吠えほど誥ぶときの声にふさわしいものはない(注7)
 双子で生まれてきたとき、畜生腹かとあやしんで臼に向かって誥んだ。そこから、順序に従い兄を大碓皇子、弟を小碓尊と決めた。注目すべきは、ミコ(「皇子」)とミコト(「尊」)と、紀において注意深く異なる呼び名とされている点である。第三子も「稚倭根子皇子」とミコ称なのだから、小碓においてのみ意図的にミコトにしようとしていたとしか考えられない。これは後にヤマトタケルノミコト(「日本武尊」)へと至る伏線、ないしは、なぞなぞのヒントとして掲げられているのだろう。

大きな臼と小さな臼

 酒造のように大量の精米が必要な場合は大きな臼で米穀を舂くのが効率的である。しかし、お酒が求められるのは原則的に宴の時だけである。だから、兄の大碓命は普段の朝夕の食膳に陪侍しない。結果、ネグ事件として描かれている。

 天皇すめらみこと小碓命をうすのみことのりたまはく、「何とかも朝夕あさよひおほ御食みけゐ出でぬ。もはなむち、ねぎをしさとせ」と此如かく詔ひて以後のちいつに至るまでになほ参ゐ出でず。しかくして、天皇、小碓命に問ひたまはく、「何とかも汝が兄の久しく参ゐ出でぬ。し未だをしへず有りや」ととひたまふに、答へてまをさく、「既にねぎつ」とまをす。又詔はく、「如何いかにかねぎしつる」とのたまふに、答へて白さく、「あさかはやに入りし時、待ちて捕へ、ひだきて其のを引ききてこもつつみて投げてつ」とまをす。是に天皇、其の御子のたけあらこころおそりて詔はく、「西方にしのかた熊曽建くまそたける二人有り。是、まつろはずゐや無き人等ひとどもぞ。かれ、其の人等を取れ」とのたまひて遣はしき。(景行記)

 弟の小碓命という名は、小さな臼で、毎食、米を舂いて脱穀し、ご飯を炊いて食べているということを物語っている。その際、どの程度舂いたか、玄米の歩合がどうであったかや、煮て食べたか蒸して食べたかなど難しい問題はさて措く(注8)。小さな臼で毎回脱穀したと想定して、当時の語の使い方として正しいと認められていただろうことは、臼と呼ばれるもののうち最も小さな形態が火きり臼であるという点から証明される。火きり杵を回転させては摩擦熱を発生させて火をつける。記に、「海布からりて、燧臼ひきりうすを作り、海蓴こもの柄を以て燧杵ひきりきねに作りて、火をり出だして云はく、」(記上)とある。電子レンジやIH調理器のなかった時代、食事をするためには必ず火をおこさなければならなかった。小さな臼は毎回の炊事を表していて正しいことになる。かくのごとくヤマトコトバは練られ作られているわけである。
 農耕によって得られるようになったご飯は掛けがえのないエネルギー源であるものの、そればかりでは栄養が偏り脚気にもなりかねない。肉、魚、野菜、乳製品などまんべんなく食べることは健康に良い。おかずが必要である。おかずのことはヤマトコトバでナ(菜・魚)である。小さな臼は必然的にナを招くことになる。招くことはヤマトコトバにヲク(招)である。桜井2000.は神霊を招くことと捉えていたが、ヲグナという語はそもそもがナを目的語としていると思われていたようである。だから、ヲウス(小碓)は、別名、あるいは、同名として、ヲグナ(童男)ということになる。ヤマトコトバの会意語とでも呼ぶべき様相を示している(注9)
 紀では熊襲討伐の話の初めから「日本武尊」という名で登場している。記では命名譚らしく、話の最後に「倭建命」として書き表されている。これをヤマトタケル○○○ノミコトと言ったか、ヤマトタケ○○ノミコトと言ったかが目下の課題である。語幹をタケ(ケは甲類)とする語は、形容詞のタケシ、動詞のタケブ、タケル、名詞のタケルがある。丈・竹・茸・岳・高などのタケはケが乙類なので別語である。

 …… 勇みたる たけ軍卒いくさと〔多家吉軍卒等〕 ……(万4331)
 たけき芸人わざひとに過ぎたまふ。(綏靖前紀)
 ……素戔嗚尊すさのをのみことの、武健たけくして物をしのこころ有ることを……(神代紀第六段一書第一)
 稜威いつ雄誥をたけび〈雄誥、此には嗚多稽眉をたけびと云ふ。〉……(神代紀第六段本文)
 たててて雄誥をたけびしたまふ。〈雄誥、此には烏多鶏縻をたけびと云ふ。〉(神武前紀戊午年四月)
 大夫ますらをの 思猛おもひたけびて〔思多鶏備弖〕 ……(万2354一云)
 是に浦島子うらしまのこたけりてにす。(雄略紀二十二年七月)
 仙霊毗草 陶隠居に曰はく、淫羊藿〈宇無岐奈うむきな、一に夜末止利久佐やまとりぐさ〉は羊、此の藿を食へば一日に百遍す、故に以て之れを名く。一に剛前と名くといふ。蘇敬に曰はく、俗に仙霊毗草と名くは是といふ。〈漢語抄に仙霊毗草は万良多介利久佐まらたけりぐさと云ふ〉(和名抄)
 誇 苦爪反、平、又下更反、挙言也。伊比保己留いひほこる、又いひ太介留たける。(新撰字鏡)
 嘋哮 二正、タケル、サケフ、ホユ、下文音孝、烏教反。(名義抄)
 やつめさす 出雲建いづもたけるが〔伊豆毛多祁流賀〕 ……(記23)
 八十やそ梟帥たける〈梟帥、此には多稽屢たけると云ふ。〉(神武前紀戊午年九月)

 形容詞のタケシは、雄々しいこと、勇猛であることを示す。その動詞化したタケブは、勇み立って怒号する、憤怒して大声を出す、いきり立って荒々しく振る舞うの意である。動詞のタケルは興奮して気持ちがたかぶる、特に色情が昂進して精神が不安定になることをいう。虎や獅子が吼え鳴き叫ぶような大きな声をあげることもタケルこととされている。やはり形容詞タケシの動詞化したものである。「感」字はカマクとも訓む。深い感動や感じ入ることとされている。白川1995.に、「「かまく」はかんの字音によるとする説もあるが、かまと同系の語で、それにまぎれ、さそいこまれる意であろう。」(455頁)とする。大音響のなかに陥ることではカマクもタケルも同じである(注10)。名詞のタケルは、「梟帥」、「魁帥」とも書かれ、威勢がよく勢いのある者のこと、特に地方に威を揮っていた蛮族の長をいう。「魁帥」は「魁帥、此には比鄧誤廼伽瀰ひとごのかみと云ふ。」(神武前紀戊午年八月)と訓注がある。人のこのかみの意であるとされる。
 中村2000.の指摘どおり、タケルという形容は直接的には賤賊、「梟帥」、「魁帥」に似つかわしい。都人たるヤマトの小碓命にはふさわしくないように見える。だからこそ、ヤマトタケルノミコと称したらどうですかという提案を却下して熊曽建、川上梟帥を殺している。ヤマトタケルノミコでは、ヤマト(トは乙類)地域におけるタケル的存在の皇族子弟と理解されてしまう。ヤマトも皇族子弟もそれ自体の属性として賤しくはない。ネグの話にあったことから始まって猛々しくなっているのは、言葉、発言、ことこととなるところである。そこで、ヤマトタケルノミコ(コは甲類)ではなくヤマトタケルノミコト(コは乙類)と言い換えられている。記では「故、自其時御名、謂倭建命。」、紀では「故、至于今、称-曰日本武尊。是其縁也。」とある。熊襲建による名の献呈のままではなく、ヤマトの人の集合意識によって命名されている。ヤマトの人たちがヒントを得てハッと自覚し、以降そう呼ぶようになったということである。

吠え声のこと

 タケルの義のうち、咆哮する意に重きが置かれている。イヌの遠吠えをどのように書記するかは擬声語として定まっているものではない(注11)。ただし、それが蛮族由来のものとするなら、オオカミの遠吠えとして考えるのがふさわしい。タケルの欲情的興奮は動物的な情動を指している。家畜化しておとなしくなっているイヌの対極にオオカミの雄誥びは位置づけられる。オオカミが遠吠えする声こそ、たけびたける声として最もふさわしい。相手は熊曽建(記)であり、川上梟帥(紀)である。クマのような、人里離れた川の上流にいる兇猛な獣に対抗するにはオオカミがふさわしい。大声をあげて動物が叫ぶことはホユ(吠・吼)という。獣がたけり鳴くこと全般に使われている。

 啼 度嵇反、乱㘁也、保由ほゆ(新撰字鏡)
 吠 上字いぬ乃保由留のほゆる(新撰字鏡)
 嘷 玉篇に云はく、嘷〈胡刀反、豪と同じ〉は虎、狼の声なりといふ。唐韻に云はく、吼〈呼后反、字は亦、吽、呴に作る〉は牛の鳴くなり、吠〈符廃反、己上の三字の訓は並びに保由ほゆ〉は犬の鳴く声なりといふ。(和名抄)
 ……山岳やまをかために鳴りえき。これ則ち、神性かむさが雄健たけきがしからしむるなり。(神代紀第六段本文)
 ここよろづへる白犬しらいぬ有り。あふぎて其のかばねほとりめぐゆ。(崇峻前紀)
 流れ星に非ず。是、天狗あまつきつねなり。其の吠ゆる声、いかづちに似たらくのみ。(舒明紀九年二月)
 …… 吹きせる 小角くだの音も あた見たる 虎かゆると 諸人もろひとの おびゆるまでに ……(万199)
 …… が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)

 ヤマトコトバにホユ(吠)、漢語にホウコウ(咆哮)、英語に howl 、みなオノマトペ的造語である。イヌの場合、代表的な声として、bark に Bow-wow、howl に Owooo、growl に Grr、Urr などがある(注12)。けれども、オオカミの場合は howl が中心となる。Owooo とつづく長い発音こそ、雄たけびの代表音だろう。
 日本民俗大辞典の「おおかみ 狼」の項に、「日本人の民俗において、狼の意味は次の三点に集約されるだろう。第一に、農作物を荒らす猪・鹿などを駆除する益獣として期待された。第二に、「虎狼」という表現に示されているように、この動物にはたけだけしい野獣というイメージが付着している。実際家畜、ときには人をも襲う。第三に、山に住む犬的な動物とみなされた。以上の狼観は、日本における狼信仰の成立に際し、大きな役割を果たした。」(233頁、この項、中村禎里)とある。食い足りない説明である。ここで狼の民俗誌について大風呂敷を広げることはしないが、狼の狼たる言葉の所以が、民俗に反映されていないはずはなかろう。山にすむ動物の wolf をオホカミと認識したこと、それがヤマトの人にとっての狼民俗の始まりではないか。近世の三峯神社の「お犬様」のお札は、ついこの間の出来事にしか思われない。
 ヤマトコトバで、オホカミは神の尊称としてオホ(大)+カミ(神)の意であった。wolf に当たる動物をそのオホカミという語に措定した古代の人の捉え方にこそ、狼の意味、狼とは何かという根源的な問いと答えがある。日本書紀などに性質の兇猛である点を譬えとして用いられている。すなわち、本稿でとり上げているその声こそが重要である。声自体は書記されていないから何と吠えたと聞きなしたか定められないが、人の雄誥びの声はいくつか記されている。そしてまた、オオカミの遠吠えが仲間と呼び合う声であることは知られていただろうから、応答の語の声のうち大なるものはそれと似ている可能性が高い。オホクチノ(大口の)という枕詞があり、大きな口を持つ狼の意からマカミにかかっているのは声をあげる特徴をついたものである。

 今、陛下きみ嗔猪ししゆゑを以て舎人とねりを斬りたまふ。陛下、たとへば豺狼おほかみなること無し。(雄略紀五年二月)
 高倉たかくらじ、「唯々をを」とまをすとみてめぬ。(神武前紀戊午年六月)
 大口おほくちの かみの原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに(万1636)
 もろの かむ奈備なびやまゆ とのぐもり 雨は降りぬ あまらひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 いへに至りきや(万3268)

 大系本日本書紀の補注に、「唯唯は承諾のことば。文選、西都賦六臣注に「唯、応敬之詞」とみえる。唯唯の和訓のヲは、間投助詞のヲと同じもので、それを二つ重ねてヲヲというものと思われる。延喜祝詞式、祈年祭条の最初の所に、「集侍神主、祝部等、諸聞食宣。神主・祝部等共称唯。余宣准此」とある所の「唯」も同じくヲヲと訓んでいる。」((一)396頁)とある。応答詞とされるヲヲはいわば動物的反応だから、同じく反射的な発語形態である間投助詞と組成を同じくすることは大いにあり得る。ただし、伴信友・応声考などの解釈書にあるような、きちんと決まりをもっていろは四十八文字なり五十音なりに写されているわけではないだろう。表記と音とが別々に変化していくことがあったから、歴史上言文一致運動のようなことが起きている。ここのヲヲという語についても、wowo としか言わなかったとは考えられず、au や ou や aa や wou や wau や um や wawa など、いろいろなバリエーションがあったと感じられる。また、同じ発声が行われていても、よく似た近接する音と感じられて、を、おお、おう、あう、あふ、おつ、お、などと写されなかったとは言えない。ただし、応答詞について、古い時代に用例が多く残されているわけではないのも事実である。佐藤1999.に次のようにある。

……Vŏは別の古形の名残を留めている。『日葡辞書』には、「うん、そうだ。同意したり、物事を証言したり、許容したりする意を示すのに用いられる語」と説明があるが、その通りの文脈で、『平家物語』(鵺)に「お(異文 を)う」、『宇治拾遺物語』・『八百屋お七』(浄瑠璃)に「おう」、虎寛本狂言に「をを」と種々の形で表記されている。調査が不十分ではっきりと指摘できないが、江戸時代の文献にはこのほかに「あう」「あふ」「おふ」「応」などの形のものもいずれ見いだされるのではないかと期待される。Vŏ は、「を」の交替形「*わ」の長呼とおぼしいが、もっと単純に考えれば、感動の声「を」を二つ重ねたものから出ていると見てもよいであろう。「を」の母音が脱落気味に発せられたのが「う」、「をを」の母音交替形が「ゐゐ」という考え方からすれば、最も古い時期のものに「を」「をを」が見られ、「う」などの形がこれに遅れて登場するのも納得が行くであろう。(237頁、誤りと思われるカギ括弧は省いた)

 神武紀では、「*わ」の長呼を「唯唯をを」と記したのだろう。このヲヲなる音声は、オオカミのほこり吠える大声ととてもよく似る。あるいはヲウと記しても間違いではないと思われただろう。すなわち、もともとの名であるヲウスノミコト(小碓命)は、ヲウ(雄誥びの声)+ス(動詞「為」)+ノ(助詞)+ミコト(命)と捉えることができる。雄誥びを為ることとは雄誥びをあげることである。名替えしたかに思われるヤマトタケルノミコトもそれと同じ意味合いなのだろう。ヤマトにタケルが下接するヤマトタケルという語は、語の本質的理解において、ヤマ(山)+ト(処、トは乙類)+タケル(咆哮)の構成であると感じられる。山中において咆哮することは、本邦に虎や獅子はいないから、オオカミの遠吠えと聞いたことだろう。生まれたときに双子だったため臼に向かって誥んでいた。その声はヲウと記して誤りでない音声である。ヲウという擬声語を発声することこそ山で誥ぶことなのである。
 近代登山では山でヤッホーと声をあげる。ときに山彦となって返ってくる。それはちょうどオオカミが本能的に遠吠えをして仲間に呼びかけたとき、仲間も同じく声をあげてハーモニーを醸し出すことに相当する。オオカミがサイレンに反応して吠えているのは、サイレンが鳴り響いて遠くまで聞こえる効果を狙っているのと同じことをしている。オオカミの場合は答えるものがいるが、人間が大声を出しても反響こそすれ答えて叫びあう本能は持ちあわせていない。結果、何かが山に棲息していて答えているのだろうと思われたものを山彦、木霊と考えた。つまり、山においてヲウなどと応答語で誥べば、それは直ちに山彦、木霊であると捉えられたのである。ヤマトタケルという名自体が山彦ということになる(注13)

 …… 山のそき 野のそき見よと ともを あかつかはし 山彦の 応へむきはみ ……(万971)
 つく波嶺ばねに が行けりせば 霍公鳥ほととぎす 山彦とよめ 鳴かましやそれ(万1497)
 〓(虫偏に免) やま比古びこ(新撰字鏡)
 樹神 内典に樹神〈和名は古多万こだま〉と云ふ。文選蕪城賦に云はく、木魅は山鬼といふ。〈鬼は下文に見ゆ。今案ふるに木魅は即ち樹神なり〉(和名抄)

 「ヤマ+ト+タケル」という語句の塊は、今で言えばヤッホーという言い方が決まり文句となってよく知られているものであった。その昔はヲウであったと推測される。一つの言説として説明されるまとまりを持つ名となっている。

ミコトの奥義

 下接するのはミコトである。名前にミコト(命)とする呼び方には、「国常立尊くにのとこたちのみこと〈至貴を尊と曰ひ、自余を命と曰ふ。並びに美挙等みことと訓む。下皆此に倣へ。〉」(神代紀第一段本文)と断り書きがある。日本書紀では、大国主命、少彦名命といった名が記されている。万葉集や記紀歌謡では以下のような言い方が行われている。

A群(尊称)
 天皇すめろき(皇神祖)の 神のミコトの(万29・322・4089・4094・4098)
 知らしめす 神のミコト(万167)
 我が大君 神のミコト(万1053)
 足日たらしひ 神のミコト(万813・869)
 海神わたつみの 神のミコト(万4220)
 日並しの 皇子のミコト(万49)
 我が大君 皇子のミコト(万167・478)
 しきかも 皇子のミコト(万479)
 我が思ふ 皇子のミコト(万3324)
 たらちねの 母のミコト(万443・1774・3811・3962)
 ははそ葉の 母のミコト(万4164・4214・4408)
 ちちの実の 父のミコト(万4164・4408)
 なびかひし 夫のミコト(万194)
 かぐはしき 親のミコト(万4169)
 箸向かふ 弟のミコト(万1804)
 しきよし おとのミコト(万3957)
 しきよし 妻のミコト(万3962)
 恨めしき 妹のミコト(万794)
 汝が恋ふる 妹のミコト(万2009)
 八千やちほこの 神のミコト(記3・6)
 若草の 妻のミコト(記5)
 いとこやの 妹のミコト(記5)
B類(お言葉)
 大君おほきみの ミコト恐み(万79・297・368・441・443・948・1019・1020・1021・1453・1785・1787・3240・3291・3333・3480・3644・3973・3978・4008・4214・4328・4358・4394・4398・4403・4414・4408・4472)
 大君の ミコトの幸(万4094)
 大君の ミコトのまにま(万4331)
 大君召すと …… かもかくも ミコト受けむと …… 参り来て ミコト受くれば(万3886)
 天皇すめろきの す国なれば ミコト持ち(万4006)
 恐きや ミコトかがふり(万4321)
 しきかも 君がミコト(万113)
 朝言あさごとに ミコト問はすな(万167)
 さにつらふ 君がミコト(万3811)

 ミコトという語は、ミ(接頭語、御)+コト(言・事)という語構成で、お言葉のこと、ご命令のことであったが、神や天皇などを尊んで呼ぶ場合にも……ノミコトという形で尊称として用いられている。コト(言)として尊重される理由について、天皇の言葉をその発話者の位が高貴であるから「こと」であると考えることは、言葉の本質において実は誤りである。言葉が事柄となることが言葉のコトたる所以だからである。絶対に事となる言葉を尊称してミコトといい、政治的権力をもってしてたいていは可能となっている。ミコト(B類)を発するミコト(A類)とは天皇のことである(注14)
 B群の、お言葉の意の使い方を見ると、「大君の」と冠する例が数多い。「ミコト恐み」も慣用句である。天皇の詔のことをミ(御)+コト(言)とするのに異論の余地はない。そんななか、A群に「たらちねの 母のミコト」といった例が見られる。何をもってきわめて個人的な関係にのみある近親者のことをミコトと称して憚らないのか。万葉集の修辞にそんな不遜が許される理由は、枕詞を冠して「たらちねの 母」などとなっているところにある。枕詞を冠しない「母」はミコトと賞する人にはならないが、枕詞を冠すると途端に賞するに値する人へと変じる。なぜなら、タラチネノハハという言い方は絶対にそう続くものであり、絶対にそう続くということはことこととなるに決まっている言葉であって、そんなコトとはミコトと呼んで正しいからである。
 この説明は上代人の気持ちにかなっているだろう。ヤマトタケルノミコ(「倭建御子」・「日本武皇子」)と「応称」として名前を献上されてもそのままは受けず、相手を殺してヤマトタケルノミコト(「倭建命」・「日本武尊」)へ名前をすり替えて何の不審も起こらなかったのである(注15)。言葉の上で、ヤマトタケルは山なる処で咆哮すること、今にしてヤッホー、昔はヲウーという決まり文句となっている山彦を意味した。よくよく考えてみれば言葉に実体が備わっているとわかるという側面は、枕詞の性質と共通する。ヒコという名は、崇神~景行期において天皇家の名前によく現れるヒメヒコ制の名として自然であり、倭比売やまとひめのみことの衣裳を借りて女装していた。景行紀二十七年条にも日本武尊の後に「弟彦」による残党狩りが付記されている。決まり文句だからミコト(命)と呼ぶにふさわしい。ヤマトタケルノミコ○○ではなく、ヤマトタケルノミコト○○○と定まった所以である。

木霊の原理(西尾宣明「木霊(こだま)はなぜ返る?」『工業加熱』第52巻第5号(通巻311号)、2015年9月、48頁。「ヤマトタケルー」と呼べば、返ってくるのは「ヤマトタケ……」と、最後の音の方が混じり合って不明瞭になってしまう)

 そして、それを平安時代の人たちはヤマトタケと縮めて訓読した。それが誤りかと言えば実はそれも正解である。なぜなら、ヤマトタケルノミコトという名は山彦のことだからである。山でヤマトタケルーと大声で叫べば山彦となって声が返ってくる。オオカミと違って声が加わるわけではなく、発した声の何百分の一かが反響して帰って来るだけである。ヤッホーが、ヤッホ……となって返ってくる。ヤマトタケルーは、ヤマトタケ……ぐらいで返ってくると言っているのである。冗談を言っているわけであるが、第一に語学的証拠がある。山彦のことをなぜだか知らないが木霊ともいう。山の木の霊が答えてくれているものと考えられている。コダマが木のタマであるとすると、木にできるタマとは木の子のことも指している。キノコとはたけである。ヤマトタケルーと叫んで返ってくるのは、本当に小さな音で、まるで玉のようなもので、ヤマトタケともなる(注16)。ヤマトタケルという呼び名を称したことは、山彦、木霊のことなのだから、ヤマトタケに転訛して正しいのである。そして第二に文脈的証拠がある。大きな臼と小さな臼を対比して、その小碓命のことをヤマトタケ(ル)と言っている。
 景行天皇時代とされる記紀のヤマトタケル(≒ヤマトタケ)の話(咄・噺・譚)は、言葉の洒落を核として成立している。今日よく言われるような形で神話的な題材があってそれを基にして形作られているのではない。何かちょっとしたトピックがあった時、それを小ネタとしてどんどんと積み上げ、積み重ねていったものが記紀の説話である。しかし、これまでは全体に筋があるものとしてロジックによって解こうと試みられ、そこに思想があるかのように捻じ曲げて見立てられていた。古代天皇制の統治の正統性を述べるための方便である、世界に通じる神話的な説話がくり広げられている、などとかなり強引な付会が行われている。けれども、実態はヤマトコトバでしか通じない頓智話であり、他言語の人へのメッセージにはなり得ないものである。また、記紀をそれぞれ一巻として全体の構造から解釈しようとしたり、記紀の間の相違点から原話を想起しようとする試みも行われてきた(注17)。それらも方法論的に誤っている。近代のものの見方を持ちこんでも核心から外れており、後講釈のこじつけに終始している。なにしろ無文字の時代である。初めに誰かが発した言葉を見つめ直しながら練り上げ、撚り合わせたものが記紀のテキスト、話(咄・噺・譚)である。無文字文化において、ヤマトコトバという言葉を使う際にその都度、確認、再確認する拠りどころとなり、言語体系の構築、安定のために極めて大きな役割を果たしたのが当の話(咄・噺・譚)、記紀に残された説話群なのである。生きた辞書として機能していたと評されよう。当時の人たちがヤマトコトバを用いる時に羅針盤としていたように、記紀の説話はヤマトコトバによって内部から読み返されることを求めている。

(注)
(注1)津田1963.に、「クマソタケルがヤマトタケルの名を命に上つたといふのも、また説話であつて、ヤマトタケルといふ語はクマソタケル、また古事記の此の物語のすぐ後に出てゐるイヅモタケルと、同様のいひ表はし方である。即ちクマソの勇者イヅモの勇者に対してヤマトの勇者といふ意義である。それがヤマトの物語作者によつて案出せられたものであることはいふまでもなかろう……。」(141頁、漢字の旧字体は改めた)、吉井1977.に、「ヤマトタケルの名はヤマトの人々によって呼ばれた名で、ヤマトの勢威の拡大によって、そのヤマトの意味するところも拡大されていったものと考えてよい。……ヤマトタケル物語が、小碓命、日本童男、ヤマトタケルのそれぞれを主人公とする話を、一つにつづけて作られたものであることを示しているのである。」(27~28頁)とある。これら教科書的解説が何を語らんとしているのか当惑させられる。例えば、グラフが描いてあって、そこから何が読み取れるかという問いは甚だしい戸惑いを起こさせる。見ての通りにするためにグラフ化している。一目瞭然となっていないのであれば、それはグラフ化の失敗例である。記紀の物語はテキストにしてグラフである。肝心なことはグラフの目盛りを見つけることである。
(注2)ヤマトタケと訓んだ初見は、日本紀竟宴和歌35、藤原有実(848~914)の「得日本武尊」歌、初句の「也末度多介やまとたけ」である。岡部1969.は、「「タケの命」といふのも要するにr音の脱落作用によつて平安朝以後(竟宴歌)に訓まれたもの、もしくは字数をそろへるために訓まれたものとな」るとし、「やはり上代は「ヤマトタケル」と訓まれたであらうと断定して差支へないであらう。」(34頁)としている。
(注3)青木2015.は中村2000.に同調している。「……紀の……「いやしきやつこいやしきくち」で「たふとき」をたてまつると言い、「日本やまとたけるの皇子みこ」という名は「川上かはかみ梟帥たける」がたてまつったとある。蛮族ばんぞく・異族の称である「梟帥たける」は、「たける」と同質とはいいにくい。倭地方ではなく「日本」の「武」は、タケルよりタケと読む説(中村啓信『古事記の本性』平12)がふさわしいであろう。やはり……日本を代表する皇族将軍のイメージがある。」(395頁)。中村2000.は印象論を避けてヤマトタケと訓むべきと考えていたが、印象論に戻ってヤマトタケがふさわしいとしている。
(注4)文字を借りているだけで言葉はヤマトコトバ、後に日本語へと変遷したものである。木の種類など、同じ漢字なのに表す種が違うことが多い。思想の例をあげると、仏教は神仏習合を経て受容が定着している。文化財の例をあげるなら、唐三彩と奈良三彩では俑と器財との別があり、製造法を含めて別のものである。
(注5)上田1973.に、記紀の話の共通点として、熊襲のことむけが、女装する小碓命によって、新築を祝う宴において行われ、勇武をたたえて日本武尊(倭建命)と名を奉られていることの三点によって、儀礼的な雰囲気、呪的な祭式、寿詞的な意味合いが述べられているとする。あまりにもうがった考え方である。話を話として聞いた時、単に女装して潜入し、暗殺したにすぎない。男の子が女の服を盗んだらいろいろ疑惑を持たれるが、叔母さんから授かったのなら特に問題にならない。三重に警備しているところへ入るには、新築祝いのパーティでもなければ無理である。名前もそれまでの呼び名と同等で、一貫して勇んでいる。
 吉井1977.は、新嘗祭にかかわる新室ほぎの祝宴の場で、その場面のもつ観念を汲みあげながら物語が成立し、伝承されてきたとする。しかし、新築祝いのパーティに、呪性や儀礼性を見出すことは難しい。熊曽建(川上梟帥)が新嘗祭のために忌み籠りをしているとは読み取れない。紀の時期も十二月に設定されており、寒いから宴会は新室のなかで行われたとして妥当である。
 また、西郷2006.に、「ヲグナが……年齢階層にかかわる語であるならば、これはヲグナからオトナへと生れ変ったことになろう。オホナムヂが大国主神となる意味……を参照されたい。ヤマトタケルという英雄の誕生にも成年式の影が落ちている。ただこの新たな名は敵たるクマソが献じたのである点、かなり変形されていることも否めない。」(51~52頁)とある。通過儀礼に当て嵌まらない話を当て嵌めようとするとわからなくなる。
(注6)『日本産育習俗資料集成』に、「出産に関する俗信・禁忌・呪法」の例があげられている。ある地方の話として大系本の孫引き解説に当たるようなものが載るものの、景行紀の話から民俗的習慣となったものかもしれず、臼と双子との関係は習俗を先にして解かれるとは言えそうにない。
(注7)中村2000.の指摘に、「梟帥」が「咆え、叫び、馬のように嘶き、獅子のように大怒する」とあるが、何のどんな鳴き声なのか定められていない。雰囲気的にそのようだぐらいでは話は伝わらない。どんな声でたけたけぶようにしていたのか、具体的に効果音を含めて喋るから話は伝わる。そもそも獅子(lion)の鳴き声を(漢民族も含めて)聞き知っていたか、不明である。
(注8)料理は、現代の食品加工業は別にして、基本的に実験である。その都度うまくいったりいかなかったりの試行錯誤である。お粥風に煮て食べようとして失敗してうまい具合に一度でも炊きあがれば、これはいい感じであるとしてそうしようと努めたと思われる。その段階に至るのに、弥生時代の数百年を必要としたとは到底考えられない。また、考古学に、土器製の甑が渡来人によって伝えられるまで確実ではないから、蒸す調理法はなかったとされることがあるが、タロイモ文化圏にあったので葉っぱにくるんで蒸していたことは確かだろう。木枠や曲物の蒸し器が出土していないのは、朽ちたか転用されたか、また、土器に簀子を使い二段底にして、あるいはチマキにして蒸すことも可能である。原理は同じである。調理法に決まりはない。
 ただし、筆者は今、「大碓」を酒造と関係すると考えている。酒造りには米をよく舂くこと、また蒸すことが求められる。どのような蒸し器であったか決められない。あるいは、この大碓・小碓の話は、古墳時代になって甑が伝来して来てから創案されたものかもしれない。なお、言葉として、ご飯を「く(焚く)」という言い方は、中世後期頃から用いられるようになったとされている。今日でも言葉づかいに地域差があって、おでんは煮るものか、炊くものか、意見は分れている。古墳時代、ご飯を煮て食べたか、蒸して食べたかという問題設定は、語学的には不毛である。今日のIH炊飯器が自動的に行うような炊き上げるというすばらしい方法について、ひょっとすると女房詞に何か手掛かりがあるかもしれないものの、言葉の上で適合語を持たなかったということのようである。そして、米という主食の加熱調理法についてなら「かしく」とも言われている。新撰字鏡に、「〓(火偏に广の下に䀠、その下に安?) 於縁反、炊五穀也。可志久かしく、又宇牟須うむす」、「鏊〓(金偏に熬) 二同、宜抄反、嫯也。熟飲也。熬字同。奈戸なべ、又加志久かしく」とある。m音始まりを嫌がってウムスと言っているが、「す」である。炊き上げることも蒸し上げることも同じ言葉にまとめている。火を止めてから放置して蒸らす作業工程を含め、過程を無視して一語にまとめている。調理の方法が問題なのではなく、結果的においしく食べられればよいからである。当たり前のことほど念頭に上らず、記録する意欲は起こらない。
(注9)ヲグナという語についてはいくつか論考がある。木村2009.に次のようにある。

 景行紀の表記「日本童男」から見ると、いかにもヤマト言葉らしいヤマトヲグナとは、男・女の呼称に地名を被せる他の古例、
 やつめさす 出雲タケル・・・・・ける太刀(景行記歌謡)
 つぎねふ 山城やましろの こ くは持ち 打ちし大根おほね (仁徳記紀歌謡)
 み もろの いつ橿かしが本 忌々ゆ ゆ しきかも 橿原かしはらヲトメ・・・(雄略記歌謡)
 ありきぬの 三重のコ・・・・が ささがせる 瑞玉盞みづたまうきに(同)
等から類推しても、どこどこの地の男・女といった部外からの呼称に発した可能性が高い。その場合のヤマトとは、日本国家をいう以前の、崇神陵・景行陵・箸墓なども残る奈良盆地南東部の山沿い地域のヤマトのことで、ヤマトヲグナとは、当の小碓尊をうすのみことの母方の在所である吉備・播磨あたりの人々からの、たとえば「豪家の若様」といった風な呼称だったと考えられないだろうか。……そうでなければ、なぜヲグナがヲトコに排除れた語彙システムが出来たかの辻褄が合わないだろう。(19~20頁)

 また、山口2011.には次のようにある。

 ……ヲグナ(童男)について、一つ考えられるのは、ヲを「小」、クは「男性」の意のキの転、ナは愛称とする解釈である。これだと、ヲミナと一対になって、具合がよい(『新明解古語辞典・補注版』「をとこ」の項を参照)。オキナはあるのに、ヲキナがないからである。しかし、この解釈だと、キがどうしてクに転ずるかの説明がつきにくい。
 もう一つ考えられるのは、ヲは「男」、クは「子」の意のコと同源、ナは愛称とする解釈である。ウ列音とオ列音とが交替した例はかなり多い(いわゆる上代特殊仮名遣いによる甲乙の別を言えば、このオ列音はオ列甲類音である)。
  アラ(足座・胡床)─アラ/ガ(栂)─ガ/イノカミ(石上)─イノカミ/ク(着)─ク/アジ(主) ─アジ/ナタケ(萎竹)─ナタケ
などがそれである。しかも、ウ列音がもとで、後にオ列音に転じたと考えられるものが多い。したがって、コ(子)は古くクと言ったのではあるまいかと思われる。ヲグナのクは、「子」の意であったと考えてもおかしくない。
 ただし、それならば、「少女」を意味するメグナという語がありそうなものであるが、それは見つからない。もっとも、ヲグナも上代に一例だけ発見される語であるから、メグナもかつて存在し、文献に出て来ないだけのことかも知れない。筆者は、第一の解釈よりも、この第二の解釈の方が無理が少ないと思う。(68~69頁)

 新明解古語辞典・補注版(第二版)の西宮一民氏による補注では、「男性はK(g)の音、女性はMの音をもつ表現と、ヲとメとの表現との二系列があったわけである。」(1104頁)とする。
 筆者は、一例しか確かには見られないヲグナという語から、男女の呼称の語彙システムまでも論ずる気にはならない。むしろ、ヲクナではなくヲグナと濁音である点に興味をおぼえる。ヲウス(小碓)とヲグナ(童男)とは、洒落をかませた言葉として同じことを意味すると上に述べた。ヲク(招)+ナ(菜)の意なら清音でいい。名を招く場合も同じである。話の実際としては、倭男やまとを具那ぐな(日本童男)という主人公の姿を述べるために使われている。美少年の両性具有性は今日のアイドルにも受け継がれている。女装した姿に対して熊曽建(川上梟帥)はロリータ・コンプレックスを有していると思われている。記紀に「其嬢子」、「其童女」とあり、紀では「戯弄」とまで書いてある。「其」という指示詞で、今話しているところの、の意を伝えている。熊曽建や川上梟帥は同性愛と知りつつ呼び込んだということかもしれない。性交のことはクナグといった。名義抄に「婚 トツギ、ツルブ、メマク、クナク、シウト、マク、コヒト」とあり、紀のイザナキ・イザナミの話に「とつぎ」の道を教える鳥としてニハクナブリ(鶺鴒)があげられている。クナの音を伴う語には、カタクナ(頑)、クナタブルといった語がある。

 、入鹿、甚だ愚痴かたくなにしてたくめ暴挙あしきわざを行ふ。(皇極紀二年十一月)
 ……しくさかしまに在るやつこ久奈田夫礼くなたぶれ麻度比まとひ、奈良麻呂、古麻呂い、逆なるともがらをいざなひ率ゐて……(天平宝字元年七月、19詔)
 事きてりたまはく、久奈多夫礼らに詿誤あざむかえたる百姓おほみたから京土みさとのうちまむ事きたなみ、……(同上)

 愚かで狂った性交渉としてはアナルセックスや獣姦などがあげられ、輪にかけて倒錯しているのが同性愛のそれである。そのような下卑た悪評価の事柄について言葉でつとめて表そうとする場合、濁音が用いられることがある。例えば、小さいの古語、チヒサシが濁音化して、悪評的差別的な揶揄の称としてチビと呼ぶようになっている。まともな性交渉ではないからクナブの語幹クナがグナへと変化し、ヤマトヲグナと言っている。もともとヲウス(小碓)とされていたのも、ウス(碓・臼)が女性器の凹みの謂いであるからヲ(緒・男・雄)であるはずはなく、自己矛盾した形容であった。名に負う存在として、男同士のホモセクシャルの女役として成立させられていたわけである。後代にヲグ(招)と変化したとされるように、濁音をもって強調されていたと推測する。
(注10)猪股2016.に、「「室」は「家」のあたり(「辺」)に、「家」と呼ばれる建築物とは別に「楽」の空間として新たに作られている。「家」は厳重に警護していて容易に入ることはできないが、「室」は違う。「楽」の日には「女人」どもが「囲」みの中へ、外から「入」って「坐」すことができるのである。「室」はまた、「西方有熊曽建二人。是、不伏無礼人等」(景行天皇)とされた西の国人、クマソタケルたちが作った宴のための建築物である。」(249頁)とある。しかし、新築の建物を別にした新築祝いは考えられない。記には、「其のの内に入り坐しき」と書いてある。「辺」はヘ(甲類)と訓んで「三重みへ(ヘは甲類)」に「軍」が「団」ることを述べようとしている。校異において「圍」(囲)ととる意見もあるが、真福寺本古事記に「團」(団)とあり、それが正しいだろう。三重に軍勢がマロガルことをしていたら、賊の拠点は「室」と称するのにふさわしい丸いものとわかる。矢の的のデザインのように三重丸になっているから、「室」はムロなのだがヤ(矢、屋)に当たるところなのである。
 警備はなお厳重であったとしても、「楽」の日に気に入られて室に入れられている。「見-咸其嬢子」(記)、「感其童女之容姿」(紀)とある。「咸」、「感」はメデルと訓まれることが多い。メデルは賞美の意で、鑑賞する眼が備わっていることになる。「感」には他にカマクという訓がある。その場合、美少女か美少年かに興奮し、理性を失い思慮を欠いた状態に陥っていることを伝える。鼻息が荒い川上に棲息するクマのような動物が「かま」けると、弱点とされる胸元の「かま」の形をした白い月の輪模様をのぞかせながら、宴会のどんちゃん騒ぎのように「かま」しい騒ぎに陥る。クマは相手をおとなしい雌の子犬だと見くびっていたのであるが、宴が終わりに近づいて静かになったところで狼男へと変身した。そう考えるとわかりやすいから、おそらくカマクと訓まれるべきなのだろう。
(注11)拙稿「犬の遠吠え」参照。
(注12)犬には甘えた声でキュンやエンと聞こえる声もある。イヌという語の語源について、甘え声のエヌから来ている可能性も指摘されている。
(注13)「山幸彦」(神代紀第十段一書第三)という名は、山の幸にちなむ男の呼称だから、またぎのような狩猟民を表すようである。「山人やまびと」(万4293・4294)というのは仙人に当たり、「杣人そまひと」(万1355)というのは木樵りを指すようである。
(注14)古代においては、天皇や神のお言葉は実現されて当然こととされ、ミコトをノル(詔・勅)人にミコトという称号が与えられていた。とはいえ、その前提として、誰しも口に出して言ったことは必ず実行すべきであると暗黙の裡に認められていたことがある。実際の事柄を言葉にすることは良くても、虚偽の言葉に変えることは許されなかったのである。当然のことと思われるかもしれないが、昨今のフェイクニュースの頻発を見るにつけ、古代とは明らかに認識に違いがある。高齢者をねらった特殊詐欺が後を絶たないが、詐欺の手口の多くは電話のやりとりによっている。契約で関係が成り立つ点は古代もそれ以降も同じである。ただし、無文字時代の古代には契約書というものがなく、音声言語ばかりが頼りであった。だからかえってそれにふさわしくなるように、言葉には巧妙なまでの正確性が求められていた。嘘をつくために言葉巧みになっていたのではなく、発語する言葉を確かにするために同音異義語でさえ意味が通底するように練り上げられていて、ヤマトコトバは言語体系として入り組んだ構成を成していたのである。原則として、天皇や神にしても事実に反することは言えず、どのようにしても実現不可能なことも口にすることは許されなかった。ことこととを常に一致させるべく働くことで社会は維持されていたのである。
(注15)記紀にユルス(許、聴)とあり、時間的猶予を与えてしばらく殺さずにいたり、名の献上を認めたりしている。結局は殺してしまったり、別の名へと替えていて、言葉と事柄とが完全一致しているようには見えない。この点にはヤマトタケルの属性が絡んでくる。彼は、言葉を捉えるときに文脈を読まずに逐語的に解する傾向があった。上にあげたネグの話では、懇ろにするという意味ではなく麻採することと捉えて麻の種をこき剥くように兄の体から手足をもぎ取って殺してしまっている。拙稿「上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について」に詳述した。
 この場面でも、記において、熊曽建くまそたけるから刀を動かさないでくれと乞われて「暫許押伏」しているのは、暫時は刀を動かないでいたということであり、やがて動かしても咎め立てられる筋合いはないと考えてのこと、紀において、川上梟帥かはかみのたけるから僭越ながら尊号を奉りたいがいいかと言われて「聴之」しているのは、助命歎願であるとは受け取らずに奉りたいなら奉ってくれてかまわないという思いでいたということなのだろう。このような自由な捉え方がされているのは、それがユルスという語に対してだからであると理解できる。ユルスはユルシ(緩)などと同根の言葉で相手の自由を認める意を表す。相手に自由を与えるのは、自由な解釈をするのと引き換えということになっている。
(注16)キノコのことをいう「たけ(菌)」という語のケの甲乙については、仮名書きの例がなく定まっていない。

 菌茸 崔禹食経に云はく、菌茸〈而容反、上は渠殞反、上声の重。爾雅注に菌に木菌、土菌有り、皆、多介たけと云ふ〉は之れを食ふに温、小毒有り、状は人の笠を著るが如き者なりといふ。(和名抄)
 䓴 而元反、上、弥ゝ太介みみたけ(新撰字鏡・享和本)
 〓(草冠に困) 因音、馬之屎茸(新撰字鏡)
 このゆゑに、みやこに遠からずと雖も、もとより朝来まうくることまれなり。しかれどもこれより後、しばしば参赴まうきて、土毛くにつものたてまつる。其の土毛は、栗・たけ年魚あゆたぐひなり。(応神紀十九年十月)
 しし多気たけふ。(皇太神宮儀式帳)

 キノコのことをタケ(茸)とするのは、いま、マツタケ、シイタケ、エノキダケなどと呼ぶのに続いている。岩波古語辞典に、「たけ【茸】《タケ(長)と同根。高くなるものの意》きのこ。」(797頁)とある。そう捉えるとタケのケは乙類に当たる。しかし、茸はあまり背が高くならず、なっても数日すると跡形もなく消えてしまう。ウドの大木という言い方があるのは、ウドが木ではないことが周知のうえで行われる修辞表現である。竹の食べる部分は竹の子(筍・笋)である。古語ではタカムナという。竹の子の様態が「蜷貝みな」に似ているからそう命名されているという説が有力である。そして、茸の子が筍(笋)であると見立てられるとも思われない。
 汎用される漢字の「茸」字は、本邦においてタケの意としている。説文に、「茸 艸の茸茸たる皃、艸に从ひ聦の省声」と、草の茂りみだれる様、また、鹿茸というように鹿の袋角をいう。キノコとは無関係の字である。説文にキノコのことは、「菌 地蕈なり。艸に从ひ囷声」、「蕈 桑䓴、艸に从ひ覃声」、「蕈 木耳なり。艸に从ひ耎声、一に萮茈」などとある。中国では、木の子のことを木の耳であると考えたようである。忌詞に茸のことをタケ、またクサヒラ(草枚)と言うのは、キノコの笠を一枚、ニ枚と数え、蔬菜類に含めて捉えているからだろう。
 無理に使っている茸の字義の鹿茸は、強精薬とされ、インポテンツにも効果があるとされている。タケル(建・感)ことに通じている。そのタケルのケは甲類である。キノコの形には陰茎を思わせるものがあり、それを語源とするとする説もある。たけのケも甲類と見なされるべきではないか。
(注17)話の組み立てが記紀の説話の他の部分と似ているとして議論されることが多い。ヤマトタケルがクマソを討つ話は、神代のホデリノミコトがホオリノミコトに臣従する物語と共時関係にあって、それを歴史化したものと考えられたり、ヤマトタケルノミコト像に神代のスサノヲの面影を見て取り、支配者にはなれない征討者の宿命が共通していると捉えたりしている。そう捉えようと努めれば捉えられなくもないが、強いてそう捉えなければならない必然性はない。ヤマトタケルノミコトの話が言い伝えられて書いてある。それだけのことと捉えられるなら、最もシンプルな考えこそ一番正解に近いものだろう。
 中村2000.は、日本書紀と古事記の文章の違いを検討して、「省略・抽象化の筆削も、添加・具象化の加筆のいずれもが太安萬侶の手にかかるものであろうことは確実とみてよい。」(314頁)とする。無文字文化における伝承は伝言ゲームである。編纂時になかば創作したものではなく、伝えられてきた話自体に記紀二通り、さらには紀の一書のバイアスがあった。文字を知っている人、エディターの都合でまとめられたとするなら、記のように長らくお蔵入り状態になることはなく、読まれ続けなければ不自然である。また、数多くの人たちの功業を一人の姿に投影、統合してヤマトタケル像が語られているものでもない。文字やビデオのない時代に人の行ったことを伝えるのに必要十分なのは言葉ばかりである。ヤマトコトバが人よりも先にある。第一義的に言葉を用いたお話(咄・噺・譚)である。先に話ができている。今日の人が勝手に背景を拡張してファンタジーとして扱うことは上代にはなかったことである。なぜなら、好みが違って通じない人が途中で一人でも介在したらその話は伝達されず、とり巻く自然は生命を脅かすほど危険なものだったからである。話し発している言葉がその時その場で逐次、当該の言葉自体を説明してゆくものであるゆえ、すべての人に理解されて一人も取り残さずに共通の認識となるお話となっている。アイヌ民族は、その地の意味を地名とすることで人々の間で通じるテキストとし、実用に供していた。ヤマト民族は、記紀の説話を共通の認識として分かちあい、ヤマトコトバの辞書として活用していた。発する言葉をいちいち自己言及的に言うことによって正しさを主張し、洒落を交えて伝えては誤謬を与えずに伝え切っていたのであった。

(引用・参考文献)
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加藤良平 2025.5.12改稿初出