聖徳太子の髪型と疫病(えやみ)の関係について

 我が国における爆発的感染パンデミックの最初の記録は、崇神天皇の時代に遡る。卑弥呼の頃、三世紀初めと推測される。

 此天皇之御世伇病多起人民為盡(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1184138/1/17)
 天皇すめらみこと御世みよに、やみさはに起りて、人民おほみたから尽きなむとす。(崇神記)

 中国大陸では西暦220年に後漢が滅ぶ。国の混乱から逃れようとして朝鮮半島を過ぎ、列島へ渡る人もいたことだろう。風土病が伝染病となる契機である。伝染病のことを「伇病」といっている。和名抄に、「疫 説文に云はく、疫〈音は役、衣夜美えやみ、一に度岐乃介ときのけと云ふ〉は民の皆病むなりといふ。」とある。トキノケとは一時的に流行する病気の意味である。今日的表現では、集団免疫をつけて克服する病ということであろう。ほかに、「伇気え(やみ)のけ」(崇神記)、「疾疫えのやまひ」(崇神紀五年)、「疫病えのやまひ」(崇神紀七年十一月)などとある。疫の字は疫病、疫病神の疫である。記の真福寺本にある「伇」字は、万葉集にも「課伇えつき」(万3847)と見える。エはヤ行のエである。
 e(ア行のエ)……得、榎
 ye(ヤ行のエ)……兄、江、枝、柄、胞
 we(ワ行のヱ)……絵、餌、会、廻、恵
 中国で「役」字は、公役にあてられて家から離れて遠く赴き、戦争や土木工事に使役されることをいう。ヤマトコトバでは、「役」をエ、ないし、「つ」と続けてエタチという。各地から徴用され、そのうちの誰かが伝染病の病原体を持っていると、必然的にうつし合う集団感染、いわゆるクラスターを作り、一斉に発病、伝播する。よってエヤミという。「役」をエと訓むのは、「「疫」の中国北方の字音 yek の k の脱落したもの。」(岩波古語辞典201頁)からとされている。釈名に、「疫 伇なり。鬼行有るを伇と言ふなり」とある。「役」は、呉音にヤク、役所、役割、役者など、漢音にエキ、兵役、服役、現役、使役などと使われている。もともとの「役」の字は、彳は道が交差しているところの形、殳はほこを手で持っている様子を示している。よって、人が遠いところへ行かされてこき使われることを表す。古代日本では、溜池、道路、古墳、都城、大仏などを造らされたり、防人に行かされたとき、またその後も前九年の役、文禄・慶長の役、西南の役など、辺地での戦に駆り立てられたときに用いられた。
 古事記に見える「伇」字は、集韻に「役に同じ」とされるが、楊子方言に、「拌 棄つるなり。楚にては凡そ物を揮棄する、之れを拌と謂ふ。或いは之れを敲と謂ふ。淮汝の間、之れを伇と謂ふ」とある。管見であるが、「伇」字が太安万侶によって選択的に使われている理由については、今のところ検討されるに至っていない。
 エ(ye)というヤマトコトバの共通項を考えてみる。は、花を咲かせ実をつける部分で、収穫物が期待できる素敵なところである。分かれていくほどその数が増え、また、幹と違い折れやすい。は、海(湖)岸線が陸地のほうへのびているところで、潮の干満で水没を繰り返しており、船の停泊がかなう素敵な場所である。は、赤ん坊が生まれて後から出てくる後産あとざんで、胎児を包んでいた膜や胎盤のことである。懸命に新しい命が母胎から分かれ出ることを意識した言葉である。は、鎌、鋤、鍬の刃の部分につけたつか(束)である。柄杓の柄のように伸びていてつかみやすく使いやすいが、壊れやすくもあった。柄があるから刃を立てやすくなって農耕や土木は長足の進歩を遂げた。については、古代は末子相続であったため、兄弟の兄のほうは新しく家を構えて進出するフロンティアであり、大成功をもたらすことがあるものの大きなリスクを伴う存在でもあった。
 このエのついた形の髪型と思われるものがある。

 是の時に、厩戸うまやとの皇子みこ束髪於額ひさごはなにして、〈いにしへひと年少児わらはの年、十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にす。十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦然り。〉いくさうしろに随へり。(崇峻即位前紀用明二年七月是時)

 聖徳太子(厩戸皇子)の髪型は「束髪於額ひさごはな」である。ヒサゴは、瓠、匏などと書かれ、瓢箪のことをいう。上の記事は物部守屋と蘇我馬子の戦の場面での記述である。戦争に当たっては髪の毛が煩わしかったから、額部分に瓠の花のようなとんがった形に束ねていて不自然さはない。ちょうど十五六の年恰好の少年がする髪型なのだという。その後も武士は髪を一つにまとめ、さらに長くなるとそれを曲げてわげに結った。相撲取りも取っ組み合うのに危険なので束ねている。幕下ぐらいまでは髪が短く、部屋の兄貴分にならないと結えない。エ(ye)の髪型と言える。

左:ユウガオの花(しぼみかけ)、右:ユウガオの実(熟れきった状態、11月)

 瓢箪はウリ科で、花柄は瓢箪の実のお尻の部分になる。酒や香辛料を入れる瓶の役目を担わせた実をつける植物の名である。半分に割れば水を汲むのに便利な柄杓ひしゃくになる。もとの存在を離れて新しい価値のものになっていて、フロンティアの名として呼ぶのにふさわしい。作るに当たっては中の種子を腐らせて取り出す。戦のなかで命を落とすと敵に生首を取られ、手柄の証拠とされる。束髪の部分が柄のように握られた。やがて毛は抜け中身の脳みそ部分は腐っていく。ちょうど瓢箪と同じ過程を経てしゃれこうべができあがる。額の部分は、瓠同様、酒や水を汲む髑髏杯になった。
 つまり、「束髪於額」がエ(ye)にあたる。徴兵をエタチというのは床山がエを立てるからである。古代律令制において、徭役の要員には、正丁、すなわち、二十歳から六十歳の男子から選ばれた。それは、髪の長さにおいては子どもは短いから除かれ、髪の硬さにおいては女性は柔らかいから外され、髪の濃さにおいては老人は薄いから弾かれるということを表している。結おうにも結えないのである。成年男子だけがヒサゴハナに結うことが可能であった。紀に「古俗……今亦然之。」とあり、論旨に混乱があるとも受け取られかねない注が付けられている。髪型年齢はそのままに、成人年齢だけが十五歳から引き上げられたことの謂いであろう。
 太安万侶は、「役」ではなく「伇」字を好んだ。殳はホコツクリ、また、ルマタという。股は胯と同じである。夸は大きく広がっている様子を表し、足を広げれば跨ぐことになり、大げさな物言いをすれば誇ることになる。瓠とは、瓜の仲間で内側が大きく広がってうつろになったものである。殳=夸である。頭部の髪型を瓠の花のようにし、死しては瓢箪における器扱いをされてしまう頭をした人は楊氏方言にも適っていることになり、「伇」の字で表せばよいことになる。そのような髪型に結える人は村落のなかで兄貴分になったわけで、エ(ye)と呼ぶのにふさわしく、「伇」の字を使いエ(ye)と訓み宛てているのである。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹明広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
尾山2018. 尾山慎「「疫(え)」と「伇(え)」」「古代語のしるべ」第五回、三省堂、2018年。三省堂総合ホームページ https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kodaigo05
白鳥1925. 白鳥清「古代日本の末子相続制度に就いて」池内宏編『東洋史論叢─白鳥博士還暦記念─』岩波書店、大正14年。

加藤良平 2025.3.1加筆初出

記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について

 上代の伝承では、アマテラスのあめいは立て籠もり事件の解決に、シリクメナハが必須アイテムとして登場している。
 天の石屋に閉じ籠ったアマテラスは、外の不思議な気配に身を乗り出したところ、タチカラヲに引きずり出され、後ろにはしめ縄がかけられて戻れないようになった。しめ縄は、標縄、注連縄と書かれ、シメは占有のしるしをいう。神前において不浄なものの侵入を禁ずるために張ったり、立ち入り禁止のしるしとして張り巡らせたりした。今でも神社や神棚、地鎮祭で見られる。

 ……即ち布刀ふと玉命たまのみこと、尻くめ縄を以て其のしりわたして、白して言ひしく、「此より以内うちに還り入ること得じ」といひき。(記上)
 是に中臣神なかとみのかみ忌部神いみべのかみ、則ち端出之縄しりくめなは〈縄、亦云はく、左縄のはしいだすといふ。此には斯梨倶梅儺波しりくめなはと云ふ。〉ひきわたす。(神代紀第七段本文)
 則ち、天児あめのこ屋命やねのみこと太玉命ふとたまのみことひのつな〈今、斯利久迷しりくめなはといふ。是、日影のかたちなり。〉を以て、其の殿みや廻懸ひきめぐらし、大宮売神おほみやのめのかみをして御前みまへさもらはしむ。(古語拾遺)

 記の「尻くめ縄」は原文に「尻久米〈此二字以音。〉縄」とある。和名抄に、「注連 顔氏家訓に云はく、注連して章断すといふ〈師説に注連は之梨久倍奈波しりくべなは、章断は之度太智しとだち〉といふ。日本紀私記に端出之縄〈読みて注連と同じなり〉と云ふ。」とある。「章断しとだち」とは、葬送の時、死霊が家に中に帰って来ないように、出棺のあと門戸にしめ縄をひきわたすことをいう。
 各書に見られる特徴を整理すると、①名称はシリクメナハ、シリクベナハである。②端が出ている。③左に綯った縄である。④日影の形と関係がある、といった点が挙げられる。シメナハと言わずにわざわざシリクメナハと呼んでいるのには理由があるのだろう。八十万の神々が天の安の河原に参集していろいろ準備している。長鳴鳥を鳴かせる、採石・採鉄して鍛冶をする、鏡を作る、勾玉の玉飾りを作る、祝詞をあげる、鹿卜を行う、白幣・青幣も捧げる、植物で襷や髪飾りを作って飼葉桶をひっくり返した舞台で踊る、など、非常に用意周到である。では、最後にひき渡すためのしめ縄は、いつ用意したのか。その記述はない。最初からあったと考えるのが妥当であろう。

 日神ひのかみ新嘗にひなへきこしめさむとする時に及至いたりて、素戔嗚尊すさのをのみこと、則ち新宮にひなへのみやましの下に、ひそかに自ら送糞くそまる。日神、知ろしめさずして、ただみましの上にたまふ。是に由りて日神、みみこぞりて不平やくさみたまふ。(神代紀第七段一書第二)

 この箇所は、記には「亦、其の、大嘗おほにへきこす殿に屎まりちらしき。」、紀本文には「また、天照大神の新嘗きこしめさむとする時を見て、則ちひそか新宮にひなへのみや放𡱁くそまる。」とある。新嘗祭にあたり、板の間に席を設けるが、そこにスサノヲは大便をしている。スサノヲのいたずらについては、アマテラスは良いように捉えようと腐心している。他のいたずら、田のはなち、溝埋めは、田の面積を広げようとしたのだとアマテラスは解釈し直しており、一応は納得できる。天の斑馬ふちこま逆剥さかはぎにして忌服いみはたに投げ込んだのも、斑模様の衣を織るようにとの依頼とも取れなくはない。大便について、記は「屎の如きは、ひて吐き散すとこそ、」としているが、多少無理がある。スサノヲが大便をする場所と勘違いしたとすれば了解が得られやすいだろう。クソマルは、屎るの意であるが、マルは円(丸)と同音で、おまる(虎子)のことが連想される。座る場所でまるいところといえば、円座、すなわち、わろうだである。古語に「わらふだ(藁座、藁蓋)」という。和名抄に、「円座 孫愐に曰はく、〓〔艹冠に榆〕〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ひ、一に和良布太わらふだと云ふ〉はまるき草の褥なりといふ。」とある。藁でできた縄をまるく巻くようにして結いつけ、座布団状にしたものである。現在では、特に渦円座ともいい、神前や洒落た蕎麦屋などに置かれていることが多い。まるいから、古語拾遺の「日影之像」にも合致している。慕帰絵詞には円窓のふさぎとして使われている図がある。スサノヲは藁蓋をおまるの蓋だと思い、それを開けて大便をしたということになる。最終的に、その藁座をとっさに解き、しめ縄としてひき張ったのである(注1)。端がなかったものから端を出したから「端出之縄」と注されている。

左:竹の縁台簀子の上の円座(慕帰絵々詞模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590855/14をトリミング)、右:閑居の裏手の窓のふさぎ(同、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590851/11をトリミング)

 尻くめ縄のクメについては、記紀では神武、顕宗、また、万葉集に載る「来目(久米)部」、「来目(久米)のわく(若子)」を考え合わせなければならない。けの天皇すめらみこと[顕宗天皇]は、「目稚めのわく」(顕宗前紀)とも言った。播磨はりまの国司くにのみこともち来目くめべのだてとの関係からそう呼ばれたとされている。

  博通法はくつうほふ紀伊きのくにに往きて、三穂みほいはを見て作る歌三首
 はだすすき 久米の若子が いましける〈一は云ふ、けむ〉 三穂の石室は 見れど飽かぬかも〈一は云ふ、荒れにけるかも〉(万307)
  和銅四年辛亥、河辺宮人かはらのみやひとの姫島の松原に美人よきひとかばねを見て、哀慟かなしびて作る歌四首
 風早かさはやの 美保のうらの しらつつじ 見れどもさぶし 無き人思へば〈一は云ふ、或は云はく、見れば悲しも 無き人思ふに〉(万434)
 みつみつし 久米の若子が い触れけむ 磯の草根の 枯れまくしも(万435)

 中西2007.は、流竄を性格とするのが「久米の若子」の性格で、久米部が朝廷に仕えるようになって貴種流離の物語に加担する存在になっていくとする。また、三浦2003.も、クメノワクゴという名前には漂泊し放浪する少年のイメージがつきまとうと解している。仁賢(オケ)と顕宗(ヲケ)の兄弟が、受難を耐え忍んで後に凱旋するという物語が受け継がれて、紀伊や播磨の伝承へと転化して万葉集に残ったというのである。伝承が失われたと尤もらしく架空しているが、来目稚子と呼ばれたのは兄弟の一方のみである。
 弘計天皇のヲケ(ケは甲類)は、ヲ(緒)+ケ(異、ケは甲類)と聞こえたのであろう。緒はと同根の語で、撚り合わせた繊維のことである。その緒がなる状態であるとは、撚り方が通常とは異なるということか、使い方が通常とは異なるということだろう。今村2004.は、人の手で綯われたものの99%までは右綯で、神事と葬儀のみ左綯であるとする。そしてまた、緒の使い方が不思議なのは、藁縄が円座になっている時である。緒にはふつう両端があるはずのところ、緒がぐるりと巻かれてしまい端がなくなっている。つまり、ヲケとは、左縄のしめ縄や円座のことを意味している。弘計天皇は尻くめ縄と密接な関係があると考えられる。
 枕詞「みつみつし(ミは甲類)」は、「久米(来目)(メは乙類)」にかかる。万435歌のほか、記10(2例)・11・12歌謡、紀9歌謡に見られる。ミツは「稜威いつ」の音転として、軍事にかかわる久米氏の勇ましく勢いあることを褒めるものと考えられている(注2)。しかし、クメにしかかからない理由について説明されていない。

子をとろ子をとろの図(喜多川季荘・守貞漫稿、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592414/28をトリミング)

 クメにまつわる語に「ひふくめ(比比丘女、ヒ、メの甲乙は不明)」がある。別名を、子をとろ子とろ、ことろことろなどともいう。児童のする鬼ごっこ遊びのひとつで、一人は鬼、一人は親、他はすべて子となり、子は親のうしろにつかまって順に連なる。鬼は最後尾の子を捕えようとし、親はそれを両手を広げて妨げ、その攻防を楽しむ。すると、列の形は蛇行したり、渦巻きになったりする。ちょうど、円座のようになる。ヒ+フ+クメとあるのを+クメと聞いたとすれば、久米(来目)は「みつ(ミは甲類)」に当たるからミツミツシという枕詞を作りあげたと推定されるわけである(注3)。さらに、わらはの遊びだからわらと関係すると思い、クメは若子でなければ話にならないと考えられたと類推されるのである(注4)。藁とはもともと稲穂のことだから御穂みほにまつわると思われ、地名の「三穂」、「美保」から上掲の万葉歌二首はイメージされていったと解される。
 ヤマトコトバと呼ばれる上代語は、言語体系として完結するシステムとしてあった。一つの閉じた系である。外来の言葉を知っていなければ意味が通らないということなどなく、ヤマトの人の間で言葉づかいの片務性など存在しなかった。無文字時代において何の不自由も感じることなく、人々は互いに言葉を交わすことだけで十分にコミュニケーションがとれていた。言葉の下の平等が保たれていた時代であったといえる(注5)

(注)
(注1)この考え方では、しめ縄をほどいたときに屎がついていないかと疑われるが、ついていればいるほど触れないようにするご利益があったと捉え返される。
(注2)例えば、新編全集本古事記に、「いかにも勢いが強いの意。ミツ(厳)は、イツ(厳)と同源。」(154頁)とある。
(注3)神武天皇代の物語にいわゆる久米歌の件がある。紀から抜粋する。

 時に、道臣命みちのおみのみこと[大来目の帥]、乃ちちてうたよみしてはく、
 さかの 大室おほむろに 人さはに 入りりとも 人多に 来入きいり居りとも みつみつし 来目の子らが 頭椎くぶつつい 石椎いしつつい持ち 撃ちてし止まむ(紀9) といふ。時に我がいくさ、歌を聞きて、倶に其の頭椎剣くぶつちのつるぎを抜き、一時もろともあたを殺しつ。虜のまた噍類者のこるもの無し。皇軍みいくさ大きに悦びて、あめあふぎてわらふ。因りて歌して曰はく、
 今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子あごよ 今だにも 吾子よ(紀10)
といふ。今し来目部くめらが歌ひて後に大きにわらふは、是、其のことのもとなり。又歌して曰はく、
 蝦夷えみしを 一人ひだり ももな人 人は云へども 抵抗たむかひもせず(紀11)
といふ。此皆、密旨しのびのみことを承けて歌ふ。敢へて自らたうめなるに非ず。(神武前紀戊午年十月)

 「大室屋」は天の石屋を連想させる。久米歌の後に「咲(哂)ふ」のは藁と関係すると思うからだろう。「だり」が登場するのは、左縄と関係すると思うからだろう。「たうめ」と古訓にあるのは、産婆をいう「専女たうめ」、すなわち、「子取り」を思い起こすからだろう。「子取り」とは、ひふくめのことでも、産婆のことでもある。
 鎌倉中期の名語記に、ひふくめを比比丘女と当て、地蔵菩薩の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四部の弟子を、獄卒が奪い取ろうとする真似である講釈した説が載る。「トリヲヤガトラウトラウヒフクメトイヘルハ、獄(ママ)ガトラウトラウ比丘・比丘尼トイヘル義也」。佐竹2009.は、「ヒフクメということばを「比丘比丘尼云々」で説明した語源説」は、「荒唐無稽な附会でしかな」(320頁)いと断じている。寒川2003.は、「本遊戯[比々丘女]の日本への伝来時期は弥生時代以後が想定されてよい。なぜなら,東アジアでは本遊戯は鶏とかかわっているが,Eberhard……[Eberhard,W., The local cultures of south and east China, E.J.Brill : Leiden,1968.pp.431-32]による中国文化史では,鶏の習俗は,日本に水稲稲作をもたらすことになる揚子江下流域の越文化の要素があるからだ。つまり,本遊戯は越文化の地から直接にあるいは朝鮮半島南部を経て間接に日本にもたらされたものであり,仏教の民衆教化が盛んになる鎌倉時代のころに仏教化が果たされたものと考えられる。」(21頁)と結論づけている。いずれも、言葉と習俗、時代性を考えた見解である。批判の矛先として考えるなら、無文字社会において人々に共通の記憶として伝承されるものは、日々の生活に根づいた感覚と言葉であり、それに「比丘」という文字を当てては誤解するという点に尽きよう。
(注4)無文字文化の基調的な思考法として類推思考があげられている。レヴィ=ストロース1976.参照。
(注5)このあり方は「国家に抗する」(P・クラストル)言語というに等しい。お上に対する批判は時に洒落や地口をもって行われる。人々がひそかに隠し持つ頓智の力の発現である。

(引用・参考文献)
今村2004. 今村鞆「朝鮮の禁忌縄に関する研究(抄)」礫川全次編『左右の民俗学』批評社、2004年。
佐竹2009. 佐竹昭広「「子とろ」遊びの唱えごと」『佐竹昭広集 第二巻』岩波書店、2009年。
寒川2003. 寒川恒夫「鬼ごっこ「比々丘女」の起源に関する民族学的研究」『遊びの歴史民族学』明和出版、2003年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
中西2007. 中西進「古事記を読む 二」『中西進著作集 2』四季社、2007年。
三浦2003. 三浦佑之『古事記講義』文藝春秋、2003年。
名語記 経尊撰、北野克写『名語記』勉誠社、1983年。
レヴィ=ストロース1976. クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房、1976年。

加藤良平 2023.5.31改稿初出

天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─

 記紀にアマテラスがイハヤ(石屋・石窟)に籠る話がある。本稿では、そのイハヤのあり方とその話にまつわるヤマトコトバについて検討する。
 スサノヲの心が「善」いものか「あし」きものか判断するのに、天の安の河をはさんでウケヒ(誓約)合戦をしている。スサノヲは身勝手な解釈をして、勝った勝ったと言い張ってはさまざまないたずらを働く。アマテラスははじめのうちは咎めないで勘違いがあるのだろうと好意的な解釈をしていたが、しまいには天の石屋に籠ってしまう。

 かれここに、天照大御神あまてらすおほみかみかしこみ、あめいはの戸を開きて、刺しこもりしき。……是を以て、八百やほよろづの神、あめやすの河原に神集かむつどひ集ひて、……。……天手力男神あめのたぢからをのかみ、戸のわきかくり立ちて、……。是に、天照大御神、あやしと以為おもひ、天の石屋の戸を細く開きて、内よりらししく、……天照大御神、いよあやしと思ひて、やくやく戸より出でて臨み坐す時に、其の隠り立てる天手力男神、……尻くめ縄を以て其のしりわたして、まをして言はく、「此より以内うち還り入りまさじ」といひき。(記)
 此に由りて、発慍いかりまして、乃ち天石窟あまのいはやに入りまして、いはしてこもしぬ。……時に、八十やそ万神よろづのかみたち天安河辺あまのやすのかはらつどひて、其のいのるべきさまはからふ。……亦、手力雄神たちからをのかみを以て、磐戸のとわきかくしたてて、……。……乃ち御手みてを以て、ほそめに磐戸を開けてみそなは〔穴冠に視〕す。時に手力雄神、則ち天照大神あまてらすおほみかみの手を奉承たまはりて、引き奉出いだしまつる。……則ち端出之縄しりくめなは〈縄、亦云はく、左縄のはしいだすといふ。此には斯梨倶梅儺波しりくめなはと云ふ。〉ひきわたす。(神代紀第七段本文)

 天石屋(天石窟)に籠っている。「天石屋戸」、「磐戸」はあくまでも「戸」である。日本の玄関によく知られる外開きドアであろう。タヂカラヲはいかに力持ちでも、戸に取っ掛かり(ドアノブ)がないから開くことはできない。アマテラスは、外がにぎやかで気になって戸の隙間から窺ってみたが、全体の様子を見渡すことはできなかった。タヂカラヲは「隠-立戸掖」(記)、「立磐戸之側」(紀)っているから、アマテラスの視界には戸が遮りになって容易に隠れられていた。次いで、アマテラスはさらにドアを押し開いたので、その手を取って引きずり出した。その戸が引き戸であることは建具の歴史からもあり得ない。

「開天石屋戸」くこと

 記紀で若干の違いがある。記の原文に「開天石屋戸而刺許母理 〈此三字以音〉坐也」とある点を検討する。「天石屋戸を開きて、刺しこもり坐しき。」と訓める。西郷2005.に、「戸を開いてこもるといういいまわしは日本語としておかしい。書紀にも「天石窟に入りまして磐戸をしてコモしぬ」(本文ならびに一書)とあるし、ここは文句なく「閇」または「閉」であるべきところだと思う。もっとも伝来の諸本みな「開」とあるから、それを重んじようとするのは分る。しかしだからといって「開」をとるならば、文献学的誤謬(fallacy)に陥り、文献に忠勤をはげむあまりかえって日本語をないがしろにする結果になりかねない。」(129~130頁)とある。そして、本居宣長・古事記伝にならって「開」は、「閇」、「閉」の誤字としている(注1)。西宮1975.はこの説を批判し、元来閉じられていた戸を開いて内に入り、お籠りになったという意であると解している。その場合、「刺し」は下接する自動詞の意を強める接頭語で、自発的に籠ったことを表し、天石屋戸は閉じているのが常態だからわかり切ったことは書かないのであるという。この考えを踏襲して、新編全集本古事記も、「もともとは閉じている戸を開いてこもるのである。」(63頁)とする。筆者はこれらの議論に飽き足らない。天石屋戸は自動ドアなのであろうか。
 サシについて、(a)接頭語、(b)鍵をかける、の二義が考えられる。接頭語であったとしても元来の動詞の「さす(刺・指・挿)」に由来しており、原義を留めていることがある(注2)。垂仁記に、「に刺しいだしき。(刺-出城外。)」の例があり、勢いよく出たことを表すとされ、自動詞的接頭語に自動詞が下接し、強意の接頭語であると類型化されている。しかし、稲の俵を積み上げた防御壁から外へ出たのだから、突き抜け出たという方向性を保っている。さしあがる、さしのぼる、さし曇る、さし並ぶ、さし向かふ、さし寄る、など、軽い接頭語とされるが、方向としてまっすぐであることをニュアンスに持っている。アマテラスの「刺しこもり」のサシを接頭語とすると、石屋(石窟)の内でのお籠りの、動きのない状態とはそぐわないことになる。天石屋戸は、アマテラスが難なく開けることができたのに、力の強いタヂカラヲは開けることはできなかった。すなわち、サシは動詞である。「さす(閉・鏁)」は鍵をかけること、「戸さす」の鎖すに当たり、戸に刺して鍵をしめる意である。鍵を「しめる」は、扉の把手を紐で結わえて締めることに由来する語であろう(注3)

左:落とし桟(法隆寺金堂)、右:くるる鉤と唐戸の落とし桟の構造(向日市文化資料館再現展示)

 合田1998.は、古代日本における施錠具には、いわゆる海老錠と呼ばれるものと、くるるかぎやくいつなどと称されるものの二つに大別している(注4)。前者は錠前と鍵のセットで機能するもの、後者はL字状に大きく折り曲げた細長い鉄棒に木の柄をつけた鉤である。海老錠は、いわゆる観音扉につけられていたり、櫃の箱と蓋をさすのに用いられていた。廉価な神棚でも、飾り具として形だけ海老錠をつけているものが多い。一方、鉤は、戸に開いた鍵穴からしのばせて、内側のくるる、すなわち、落とし桟や、かんのき(閂、貫木、関木)(かんぬき)、または、かすがいを外側から操作するものであった。鍵穴の例としては、九世紀後半と目される埼玉県池守・池上遺跡の井戸枠転用の観音開き扉の片方の出土物があり、慕帰絵詞には引戸らしき戸につけられている図も残る。
 文献に見られる「鏁子」は錠前で、「鑰」、「鎰」はくるる鉤であるとされる。新撰字鏡に、「鑰 以灼反、開鑰、止佐志とさし」、「鏁着 戸佐須とさす」とある。和名抄には、「扃 野王案に扃〈音は経、度佐之とさし〉は戸扇の鉄鈕、内に用ゐ以て門をふさぐ所なりといふ。」とある。

 家にありし ひつかぎ刺し〔樻尓鏁刺〕 をさめてし 恋の奴の つかみかかりて(万3816)
 群玉の くるに釘刺し〔久留尓久枳作之〕 固めとし 妹が心は あよくなめかも(万4390)
 かど立てて 戸もしたるを〔戸毛閇而有乎〕 いづゆか 妹が入り来て いめに見えつる(万3117)
 門たてて 戸はしたれど〔戸者雖闔〕 盗人の 穿れる穴より 入りて見えけむ(万3118)
 …… 隣の君は あらかじめ 己妻おのづまれて 乞はなくに かぎさへ奉る〔鎰左倍奉〕 ……(万1738)

 万葉集の一例目は海老錠に鍵をかけること、二例目は枢に釘を刺して戸を開かなくした意、三例目は内側から戸をしめている。四例目も同様ながら下の句に「穴」とあり、鍵穴からの連想とも感じられる。盗人は地面に穴を掘って鍵を無効にしたとも考えられるが、鍵穴から侵入した話としては崇神記の三輪山伝説がよく知られる。ここに、サスとあるのは、細いものを穴に差し込むことで、三・四例目の戸の鍵も枢である可能性が高い(注5)。五例目は、鍵を持つことが主婦の象徴とされたことを示すもので、戸を支配する者から主婦のことをぬしの転で刀自とじという。記紀に見える「鉤」の例には次のようなものがある。

 故、をしへの如くして、旦時あしたに見れば、針に著けるは、戸の鉤穴かぎあなよりき通りて出で、唯に遺れる麻は三勾みわのみなり。(崇神記)
 故、訶和羅之かわらのさきに到りて沈み入りき。故、鉤を以て其の沈みし処を探れば、其のきぬうちよろひかかりて、訶和羅かわらと鳴りき。故、其地そこを号けて訶和羅之前と謂ふ。(応神記)
 門毎かどごとに水をるる舟一つ、かぎ数十とをあまりを置きて、火のわざはひに備へ、恒に力人ちからひとをしてつはものを持ちて[蘇我の]家を守らしむ。(皇極紀三年十一月)

 一例目は「鉤穴」とあり、鉤の存在が確認される。鉤がくるる鉤であるところから、曲っていることを示し、麻が勾(輪)に残っているように記している。二例目、三例目はL字状の道具のことで、どこか特定の鍵として用いられているものではない(注6)。先の曲った金属の棒の転用可能性を示している。
 以上のことを踏まえれば、記に「開天石屋戸而刺許母理〈此三字以音〉坐也」とあったのは、アマテラスが天石屋戸の鉤を持っていて、それを使ってロックを外して戸を開け、中に入ってから再びロックしたと考えることができる(注7)。神社の本殿の鍵を預かる人のことを鍵取り、鍵主、鍵預かりといい、創始に深くかかわった家の人が世襲することがあった。刀自が家の鍵を預かるのに似ている。すなわち、アマテラスは天石屋の戸主、ないし、創始者ということであろう。
 記の話の進め方は巧みである。記で「天石屋戸」、つまり、石屋の戸と考えているものが、紀の場合、「磐戸」、つまり、戸が磐のように堅固なものと形容している。この形容は、ひとつには、戸自体は壊すことができない堅牢な鎧戸のようになっていることを表すものであろう。むろん、戸(トは甲類)は、あくまでも出入口である。和名抄に、「戸 野王案に、城郭に在るをかどと曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとす。」とある。地勢的に出入口のようになっているところもトという。

 天離あまざかる ひなながゆ 恋ひ来れば 明石のより 倭嶋やまとしま見ゆ(万255)

 逆に言うと、出入りができなくなれば、それは戸ではなくなる。「磐戸」は、一見、形容矛盾であるが、堅牢で鎖す機能に優れて動かないけれど、出入りするときには動かすことができることを言っている。それこそが鍵の機能である。正倉院文書に、「不動鎰」、「常鎰」、「挙鍵」、「久留理鍵」、「折鍵」などとあり、その実態は特定できないものの表現したかったイメージは伝わってくる。
 天石屋戸(磐戸)にどのような鍵の機能があるか考究することは、いつ頃の人がその伝承を創作したかを知るヒントになる。今日、記紀のなかの「神話」(注8)と称されるものを、歴史学、考古学、文化史学、そして何より言葉から読み解いていくことであり、それこそが総体としての古代研究の醍醐味である。

イハヤに籠ることと救世観音

 「あめいは天石窟あまのいはや)」のイハは堅牢なさまを表す。天孫降臨条に「あめ石位いはくら(天磐座)」とあって、堅くて確かな神の御座所のことを表している。イハクラのイメージは、山の尾根、馬の背と呼ばれるところに当たる。また、「あまのいは樟櫲くすぶね」、「あま磐境いはさか」、「あめ石靫いはゆき」なども同様である。したがって、イハヤとは、堅固な家屋か岩窟のようなところである。岩窟のことはムロ(窟、室)ともいう。

 是の日に、御窟殿みむろのとのの前におはしまして、倡優わざひとどももの賜ふことしな有り。亦歌人うたひと等に袍袴きぬはかまを賜ふ。(天武紀朱鳥元年正月)
 丙寅に、浄行者おこなひひとななたりを選びて、出家いへでせしむ。乃ち宮中みやのうち御窟院みむろのまち設斎をがみす。(天武紀朱鳥元年七月)
 室〈無戸室附〉 白虎通に云はく、黄帝、室〈音は七、无路むろ〉を作り、以て寒暑を避くといふ。日本紀私記に無戸室〈宇都无路うつむろ〉と云ふ。(和名抄)

 僧坊、庵室のことも「むろ」(孝徳紀白雉四年五月)という。天武紀の記事は「神話」とされる天石窟のやりとりを再現したものといえよう。そして、イハヤ、ムロと仏教との関わりもにおわせる。石屋(石窟)が堅固な家屋とするなら、屋根が石材系の瓦葺きであることに対応している。瓦葺きの屋根は当時珍しく、天皇の宮殿でさえ飛鳥板蓋宮あすかのいたふきのみやと断っている。寺院建築に先行しており、斎宮忌詞では寺院を「瓦舎かはらや」という。すると、天の石屋条の話は、アマテラスが瓦葺きの寺に籠ってしまったので、アニミズムの神々が集まって安の河原で引き戻そうと談じたものであるとの解釈も成り立つ(注9)。「やす」は八洲やすで、たくさんの洲のある河原のこと、水を間にしているので神さまたちは互いに喧嘩することがない。
 籠って何かをしようとした著名人は聖徳太子である。法隆寺東院の八角円堂を、いま、夢殿と呼ぶのはその名残である。彼はお堂に籠り、良い知恵が浮かぶのを待っていた。瓦を載せたこじんまりとしたお堂は、金堂や五重塔などの大建築とは異なり、僧坊的、石屋的な印象がある。彼の名はイハヤトに似たウマヤト(厩戸皇子)である。夢殿に安置されている仏像は救世観音である。フェノロサが開くまで長く秘仏とされてきた。扶桑略記に、「百済国の客日羅来朝す。身に光明有り。状火焔の如し。廐戸王子相会ひて清談す。日羅合掌して言へらく、「敬礼救世観世音、伝燈東方粟散国」といへり。」(敏達天皇十二年)、日本往生極楽記に、「母妃皇女夢むらく、金色の僧あり謂ひて曰く、吾に救世の願あり、願はくば后の腹に宿らむ。妃問ふ、誰とか為す。僧曰く、吾は救世菩薩なり。家は西方に在り。」、法隆寺東院縁起に、「則ち八角円堂に太子在世に造り給ふ御影、救世観音の像を安置す。」などとある。太子は救世観音であり、救世観音像は太子の等身大像と言われている。
 救世観音の救世とは世の衆生を救うことで、特に観音のことをいう。いわゆる観音経に、「観音妙智力、能救世間苦。」とあることに由来する。法隆寺ではクセ、四天王寺ではクゼと呼び慣わされている。そもそも観音は、「若し無量百千万億の衆生有りて、諸の苦悩を受けん。是の観世音菩薩を聞きて一心に名を称せば、観世音菩薩は即座に其の音声おんじやうを観じて、皆解脱することを得せしめん。(若有無量百千万億衆生受諸苦悩。聞是観世音菩薩。一心称名。観世音菩薩即時観其音声皆得解脱。)」(妙法蓮華経・観世音菩薩普門品)とあるによるとされる。観ることに主眼を置いた仏さまである。実際には見えないこと、未然のことまで観るためには夢に見るのが一法である。だから、お籠りをして眠るのである。
 クセには曲瀬、すなわち、川の浅瀬の砂や石が多く集まったところの意味がある。

 たま久世くせの 清き川原に 身祓みそぎして いはふ命は 妹が為こそ(万2403)

 「玉久世」は地名とされる。「山城の 来背くせの社」(万1286)、「山城の 久世の鷺坂」(万1707)、「山城の 来背くせわく」(万2362)などともある。今の木津川、もとは泉川と呼ばれた川に面した地である。新撰字鏡に、「〓〔灘の隹の代わりに鳥〕灘 同、正、呼早[旱?]反、しをるるかたち也。水にれ乾く也。又かわく為にるる也。涒に同じ。歳申に在る也。加波良かはら久世くせ、又和太利世わたりせ、又加太かた」(天治本)、「灘 佗単反、平、又勅丹・恥叚二反。砂聚まる也。浅き水顕るるを曰ふ也。一に曰はく、大歳申に在り。涒灘とんだんを曰ふ。加波良、久世、又和太世わたせ、又加太」(享和抄本)とある。涒灘は太歳にさるに当たる。詩経・王風・ちゆう谷有蓷こくいうたいに、「中谷にたい有り 其の乾けるを暵かす(中谷有蓷 暵其乾矣)」とあり、蓷(メハジキ)が水切れでしおれるさまを歌っている。つまり、クセとは河原である。お堂に救世の観音があるとは、「かはら」のなかに「河原かはら」があるようなこと、すなわち、河原と瓦とは同じことだということである。河原は見た目に、瓦同様、石ころがごろごろして、それに直射日光が当たってきらきら光っていることだけでなく、建物を瓦葺きにするのは防火の要請によるもので、河原において消火用水に恵まれることと同じことなのである。河原で禊ぎをして潔斎のために夜明かしすることと、お堂にお籠りして過ごすことは、心のお勤めにおいて同じことである。
 新撰字鏡の親切な説明は、衒学のためではなく、古代の言葉を理解するために必要な事柄を記したもので、辞書として面目躍如たるものがある。
 吉田2008.は、玉川、玉浦、玉江とあるようなタマには、「拾い集める宝石・貝などのタマもあるが、……迂回する・くねりめぐる意の動詞タム(回・曲、自動詞四段)の活用形タマの名詞化したもの」(156頁)ということもあると地勢の上に見ている。筆者は、語の展開という意味ではなく、上代の人の言葉遊びに大いにあり得ることだと考える。すなわち、タマクセ(玉久世)は、まわりまわり、めぐりめぐる渦の状態を同語反復的に示す言葉になっている。念の入ったところで念じているという諧謔を歌っている(注10)。木津川が北流へと屈曲する部分を渦が巻くようだと感じたのかもしれない。

左:木津川の「久世」の「空中写真(1945年~1950年)」(国土省国土地理院「地理院地図(電子国土web)」http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.68001,139.778066&z=16&base=std&ls=ort_USA10&vs=c0j0l0u0をトリミング) 右:タマ川の河原(曲っているところは石が堆積している)

 天の石屋は、説話にあって唐突に出現したように思われている。しかし、スサノヲのいたずらのなかに「天の斑馬ふちこま」を投げ入れることがあり、また、石屋の前でアメノウズメが躍った舞台は、「うけを伏せて」作っていた。転がっていたウケ(ケは乙類)とは飼葉桶のことであろうから、石屋は厩を想定したものであったろう。厩と観音堂の共通点は、中に入っているものが大切なものだから鍵をかけること、湿気を嫌うものだから中を板敷にすること、そして、そこで寝ることなどがあげられる。厩の守り神が猿とされ、扉の鍵の落とし桟の別名は猿である。サルのおかげで中で安心して眠ることができる。クセなる涒灘は、太歳に十二支のさるの別称であった。
 安眠、熟睡のことを、「やす」、「うま宿」という。坂本1972.は、ヤスイは一人寝の安眠、ウマイは男女の共寝の相違と捉えている。万葉集にヤスイは、「またも近江の 安の河 安寐も宿ずに〔安寐毛不宿尓〕」(万3157)、「安寐も宿しめず〔安寐不令宿〕」(万4177)、「安寐なしめ〔安宿勿令寐〕」(万4179)、「安寐しさぬ〔夜周伊斯奈佐農〕」(万802)、「安寐も寝ずて〔夜須伊毛祢受弖〕」(万3633・3771)とある。他方、ウマイは、「人の寐る 味宿は寐ずて〔味宿不寐〕」(万2369)、「人の宿る 味宿は寐ずや〔味宿者不寐哉〕」(万2963)、「人の寐る 味宿はずて〔味眠不睡而〕」(万3274)、「人の寐る 味宿は宿ずに〔味寐者不宿尓〕」(万3329)とある。また、「ししくしろ 味宿ねしとに〔于魔伊禰矢度儞〕」(紀96)ともある。シシクシロは「宍串ろ」、肉の串刺しから美味いを導くとされている。ウマイに「人の寐る」と冠するのは、対するヤスイが安らかな眠りのことながら、天のやすの河原のことから神々の眠りを連想させるからであろう。すなわち、八洲やすによって水に隔てられているから、八十万(八百万)の神々は喧嘩せずに参集できており、眠る時もそれぞれ邪魔されずに安眠できた。よって、ヤスイは一人寝と考えて正しい。この河原のことに対して、瓦の載った建物でよく眠れるのは、神のことではないから「人の寐る 味宿」といい、対照的に共寝のことを表したのではなかろうか。石屋(石窟)と似ているものとしての畜舎としての厩は、馬医草紙絵巻の図に瓦葺きが認められ、官衙の駅家に多く瓦の出土例を見る。馬は複数、時に十頭以上が共寝する。ウマイは馬寐としても機能している。
 天の石屋は観音堂さながらの構成をしている。観音像が堂内に安置されている状態は、厨子に収められているのと同じである。厨子はもとは両開きの食器戸棚であったが、玉虫厨子や橘夫人念持仏厨子のように、仏像を安置する仏龕のこともそう呼ばれるようになった。厨子のヅは慣用音で、また、竪櫃とも呼ばれる。扉は両開きで、観音開きと称されている。仏龕の龕は、岸壁や仏塔の下に彫りこんだ室のことを言った。まさに石屋(石窟)である。法隆寺五重塔の仏龕には釈迦の一生が彫塑されている。家具としての厨子も、正倉院に残る赤漆文欟木厨子を見ていると、ケヤキの木目模様から石窟の印象を与えられる。つまり、観音堂は石窟であり、厨子である。

厨子づしつじ

 故、八十万の神を天高市あまのたけちかむつどへつどへて問はしむ。(神代紀第七段一書第一)

 記、紀本文の神々の参集の場所は「天安之河原(天安河辺)」であった。そのとき、かはら河原かはらとが同等であることを示していた。一書第一に「天高市」が出てくるのは、厨子づしつじとが同じということを示すものであろう。水がかりしない高いところに物品を持ち寄って集まり、市が開かれたところを指して「高市たけち」と言っている。籠り堂となる観音堂も高く険しくそびえる岩窟を利用したり、基壇の上に設けられている。高いところから飛び降りる勇気の形容として使われる清水の舞台のような構造物を伴うこともある。

 海石榴市つばいちの 八十やそちまたに 立ちならし 結びし紐を 解かまく惜しも(万2951)
 紫は 灰指すものそ 海石榴市の 八十の衢に 会へる児やたれ(万3101)
 言霊ことだまの 八十の衢に 夕占ゆふけ問ふ うらまさる 妹はあひ寄らむ(万2506)
 …… 百足らず 八十の衢に うらにもそ問ふ 死ぬべき吾が故(万3812)

 交差点になったところに市は開かれ、四つ辻に立って往来の人の言葉を聞いて物事を占った。ゆふ辻占つじうらである。占いは未然のことを観ることである。観音という語が依ってたつ意と同じである。お籠りとは、未然のことを知る知恵を授かるためのものである。すなわち、籠り堂、「厨子づし」は、衢のことをいう「つじ」と同等である。天孫降臨に先立つ場面やイザナミの死ぬ場面に次のようにある。

 「天の安の河の河上の天の石屋に坐す、名は伊都之尾いつのを羽張神はばりのかみ、是つかはすべし。若し亦、此の神に非ずは、其の神の子、建御雷たけみかづち男神をのかみ、此遣すべし。また、其の天尾羽張神あめのをはばりのかみは、さかしまに天の安の河の水をき上げて、道をふさるがゆゑに、あたし神は行くこと得じ。故、こと天迦久神あめのかくのかみを遣して問ふべし」(記上)
 時に、天石窟に住む神、稜威いつの走神はしりのかみみこ甕速日神みかのはやひのかみ、甕速日神の子熯速日神ひのはやひのかみ、熯速日神の子武甕槌神たけみかづちのかみす。(神代紀第九段本文)
 故、斬れるたちの名は、あめ尾羽張をはばりと謂ふ。亦の名は、伊都之尾羽いつのをはばりと謂ふ。(記上)

 「所斬之刀」とは、カグツチを斬った十握剣とつかのつるぎのことを言っている。それが天の石屋にあるという。石屋には厨子があったはずだから、ヲハバリ、ないし、ヲハシリとは、ヅシやツジと関係があることになる。
 新撰字鏡に「躑 馳戟都歴二反、蹢字同、踦也、躅也、乎波志利をばしり」とある。漢語の躑躅テキチヨクは、行っては止まりすること、二、三歩行っては止まること、さらに、片足跳びのケンケンのことをいう。武烈前紀に、「躑躅たちやすら従容たちほこる。」とある。この熟語はまた、ツツジとも訓む。植物のツツジの語源は明らかでないが、和名抄に、「羊躑躅 陶隠居に云はく、羊躑躅〈擲直の二音、伊波都々之いはつつじ、一に毛知豆々之もちつつじと云ふ〉は羊、誤りて之れを食ひ躑躅して死ぬ、故に以て之れを名づくといふ。」とある。今日、レンゲツツジと呼ばれる種とされている。アセビが古語に「あしび」、万葉集に「馬酔木」とも書かれ、馬がこの葉を食べるとすぐに酔うから名づけられたとするのと同様とされている。和名のあしびについては、あししひ(癈)の意かとされている。葉や茎の煎汁を駆虫剤にし、ピクニックの敷物に含ませて活用した(注11)
 羊には、仏教に「羊の歩み」という慣用句があり、源氏物語・浮舟にも使われている。大般涅槃経に、「是の寿命を観ずるに、常に無量の怨讎の遶る処と為り、念念に損減して増長する有ること無し。猶ほ山の瀑水の停住するを得ざるがごとく、亦朝露の勢久しくは停まらざるが如く、囚の市に趣きて歩歩死に近づくが如く、牛羊を牽きて屠所に詣るが如し。(観是寿命、常為無量怨讎所遶、念念損減無有増長。猶山瀑水不得停住、亦如朝露勢不久停。如囚趣市歩歩近死、如牽牛羊詣於屠所。)」(巻第三十八)とある。羊は生贄に捧げられるべき動物とされていたことによるという。すなわち、囚人同様、市中引き回しのうえ獄門である。死のことである涅槃と密接な関係にあると捉えられており、見せしめのために首をさらされる刑場は、人々の集まる河原や大路の交差点であり、辻に牽かれるからヒツジと和訓に名づけられたと考えられる。く、羊とも、ヒは甲類である。推古紀七年九月条に、「百済、駱駝一匹・うさぎうま一匹・羊二頭・白雉しろきぎす一隻を貢れり。」と、本邦に棲息しないものが献上されている。他に、雄略紀二年十月条に、「遂に林泉しま旋憩めぐりいこひ、藪沢やぶさは相羊もとほりあそび、行夫かりひとやすめて車馬みくるまかぞふ。」とある。車輪のだんだん止まっていく様を形容している。
 歩みが遅くなることは、足の病気、アシナヘである。新撰字鏡に「癖 疋亦反、入、腹内癖病也、あし奈戸なへ也」、「䮿 才安反、あし奈戸久なへぐうま」、和名抄に「蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓は阿之奈閇あしなへ、此の間に那閇久なへぐと云ふ〉は行くこと正しからざるなりといふ。」とある。蹇の音がケンなので片足跳びをケンケンというのかもしれない。名義抄には「癖 音へき、ヒヤク、クセ、宿食不消」とある。消化不良の病の字とされ、腹が痛いから脚を曲げて痛みをこらえている形になる。つまり、救世観音のクセとは、「久世」と記された曲瀬ばかりでなく、ツツジを食べて「足なへ」になった羊のことでもあることになり、漢語、躑躅の意とオーバーラップしている。厨子とは辻なのである。
 万葉集では、ツツジバナの用字に「茵花」(万443、3305)とあり、和名抄に「茵芋 本草に茵芋〈因于の二音、迩豆々之につつじ、一に乎加豆々之をかつつじと云ふ〉と云ふ。」、新撰字鏡に「槃 上字同、豆々自つつじ」、「茵芋 岡豆々志つつじ、又云、伊波豆々志いはつつじ」、「羊躑𨅛花 三月に花を採り陰干しにす、毛知豆々自もちつつじ」とある。槃は般に通じ、めぐる、もとほるの意である。茵芋(茵蕷)(注12)は本草経集注に記載がある。茵はしとねである。説文に「茵 車の重席ちようせきなり、艸に从ひ因声」とあり、儀礼・燕礼・大射礼に「司宮、重席をあはせ捲き、賓の左に設けて東を上とす。(司宮兼捲重席、設於賓左東上。)」とある。この座布団は、円座、藁蓋のことと思われたのであろう。縄をまるく巻き、それを車状にとめたものである(注13)。ツツジのツツは、ハブを表すこしきの異称、「筒」のことと考えられたのではないか。羊躑躅のこととされるレンゲツツジをはじめツツジの特徴として、枝が車枝になることが知られる。剣の神が縄の変形であるのは、剣に蛇身を見るからで、蛇はまたクチナハといい、朽ち縄の意かという。馬の毛に見られる旋毛つむじを巻くように、蜷局とぐろを巻いたようになっている。渦巻く様子は円座、藁蓋を髣髴とさせる。したがって、ヲバシリとはツツジである。
 また、「尾羽張」については、つむじ風のとき、鳥は尾、羽をピンと張る。和名抄に「飆 文選詩に云はく、廻飆、高樹を巻くといふ〈飆の音は焱、和名は豆无之加世つむじかぜ〉。兼名苑注に云はく、飆は暴風下より上るなりといふ。」とある。「飄風」(神功前紀仲哀九年三月)、「飃」(万199)、「猛風〈川牟之加世つむじかぜ〉」(霊異記上34)、名義抄に「辻 ツムシ」とあり、馬の旋毛のこともいい、ツジの古形、ないしは同形とされている。やはりぐるぐると巻きあげるイメージである。そして、旋風が起こりやすいのは河原である。水の上と地の上では太陽熱による気温上昇に違いがあり、大気の状態が不安定化しやすい。よって、「尾羽張」と「雄走」とは同じ意味でひとつの言葉、ツジを表し、厨子の変改したものであることを語っている。記では「逆塞-上天安河之水」とある。河の水を堰き止めてダムにすることが「逆」になるには、道具の用法が通常とは反対という意味であろう。円座は、藁蓋なる蓋であるから、上から被せ敷くのが順当なところ、逆に下から持ち上げる形で排水溝にあてがって塞ぐことを言っている。つむじ風が下から上へと逆方向に吹くと、葺いてある屋根瓦が剥がれ飛ぶ。厨子に当たる石屋(石窟)に籠っていたアマテラスは覚悟して再度現れることになっている。ヤマトコトバの言葉の論理のキー、癖のある曲った鉤が開いたということである。論理階梯を踏み越えて和訓が定まった瞬間を物語る説話になっている。
 この話は、枢戸があり鉄製のくるる鉤があること、馬がいて厩の様子がわかること、瓦をカハラとヤマトコトバに理解して瓦葺きの建物を見ていること、観音ならびに観音堂のことを知っていること、といった条件が揃ってはじめて生まれるものである。お堂に籠ることが伝承で聖徳太子に結び付けられている以上、この話は太子によって創られたか、その周辺の産物と見るのが確からしい。相当な知恵をもっての作であることから考えて、並大抵の頭脳ではなかったとされる聖徳太子その人に起因するものと筆者は考える。それを外側から証明する術はない。しかし、言葉の上では、話の内側から完結的に自己定義して閉じた一つの系を得ている。文字を持たなかった人たちが知恵を駆使してすべてを話のなかに落し込みくるみあげてしまったものが、たまたま文字時代の幕開け期に書記化されて記紀の形で残っている。異なる文化圏の異なる考え方による傑作として迎えられなければならない。

(注)
(注1)「○閇、旧印本延佳本共に開とカケるは誤なり、今は一本に依つ、さて多弖々タテテと訓むべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/200、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注2)時代別国語大辞典329頁。
(注3)正倉院の扉は海老錠のうえに封印することで知られる。
(注4)カギとしては、開き戸のあおりどめも絵巻等には見られるがここでは割愛する。
(注5)鎹は掛金とも呼ばれ、その場合は鍵は「かける」ものであろう。
(注6)くるる鉤の場合、長さや曲り具合の角度を調節すればにわか作りのものでも開かないことはない。鍵開け師がどこでも使えるマスターキーとして持ち合わせていたと思えばよいだろう。
(注7)倭姫命世記には、「天の磐戸のかぎあづかり賜はりて」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018230/9?ln=ja参照)とある。
(注8)「神話」という言葉は myth の訳語として明治時代中期に発明されたものである。その呼称に囚われて、神さまのことだから人がすることとは別次元であり、空想の産物であると考えるのは不適切である。
(注9)岩窟に籠る修行も仏教由来かと感じさせられる。この話が創作されたのは、案外新しく、少なくとも弥生時代まで遡ることはできないだろう。
(注10)「玉久世」について、山田1955.は、「按ふに[新撰字鏡]天治本の注の「カハラ」と「クセ」とは二語にして同義のものなるべし。「クセ」といふ語はこれの外に普通には見えねど、地名には山城国に久世郡、久世郷あり。その地は蓋、木津川の渡瀬のありし所なるべし。又巨勢と云へる地名もこの「クセ」の一転せし語ならむ。さてこの歌[万2403]を顧みるに「玉久世」は字のまゝに「タマクセ」とよみ、その久世即ち河原の石の清きを玉になぞへて称美したる語なるべく清き河原といへる語に対して重ねていへる語にして殆ど枕詞といふべき位置に立てりと認むべし。さればこの歌たゞ清き河原に身祓きして妹が為に斎ふといふに止まれるに似たり。」(147頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注11)今日、鹿の食害に悩まされ、庭園のツツジの新芽、花の芽は食べられるため、代りにアセビが植栽されることがある。
(注12)木下2010.378~381頁はシーボルトの標本をも引き、「茵芋」はミヤマシキミではないかと推論している。
(注13)和名抄に「茵〈褥附〉 野王曰はく、茵〈音は因、之土祢しとね〉は茵褥、又、虎・豹の皮を以て之れを為るといふ。唐韻に云はく、褥〈而蜀反、辱と同じ、俗に音は迩久、今案ふるに毛の席の名なり〉は氊褥なりといふ。」、「円座 孫愐に曰はく、䕆〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ひ、一に和良布太わらふだと云ふ〉は円い草の褥なりといふ。」とあり、別項ながら「褥」の一種として円座を捉えている。拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」参照。

(引用・参考文献)
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時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
高橋1985. 高橋康夫『建具のはなし』鹿島出版社、1985年。
西宮1975. 西宮一民「古事記訓詁二題」関西大学国文学会編『吉永登先生古稀記念 上代文学論集』関西大学文学会、1975年。
水野2011. 水野清『記紀万葉語の研究』笠間書院、2011年。
山田1955. 山田孝雄『万葉集考叢』宝文館、昭和30年。
吉田2008. 吉田金彦『吉田金彦著作選2 万葉語の研究 下』明治書院、2008年。

加藤良平 2023.5.31加筆初出

古事記の天之日矛の説話について─牛耕を中心に─

 応神記に天之日矛の説話が載る。前半は新羅での奇譚話、後半はヤマトに至ってからの系譜となっている。ここではその前半部を考察対象とする。

 又、昔、新羅しらき国主こにきしの子有りけり。名はあめ之日のひほこと謂ふ。是の人ゐ渡り来つ。参ゐ渡り来つる所以ゆゑは、新羅の国にあるぬま有り。名は阿具奴摩あぐぬまと謂ふ。〈阿よりしもつかた四字、こゑを以う。〉此の沼のほとりに、あるいやしきをみなひるす。ここに日の耀かかやくことぬじごとく、其の陰上ほとを指す。またある賤しきをとこ有り。其のさましと思ひて、つねに其の女人をみなわざうかがふ。かれ、是の女人をみな、其の昼寝せし時より妊身はらみて、たまを生む。しかくして、其の伺へる賤しき夫、其の玉を乞ひ取り、つねつつみて腰にく。
 此の人、田を山谷やまたにつくれり。故、耕人たがへすひとども飲食を、一つの牛におほせて山谷のうちに入るに、其の国主くにぎみの子、天之日矛に遇逢ふ。爾くして、其の人に問ひて曰はく、「何ぞ飲食を牛に負せて山谷に入る。汝は必ずや是の牛を飲食」といひて、即ち其の人を捕へて獄囚ひとやに入れむとす。其の人答へて曰はく、「われ牛をとするには非ず。ただ田人たがへすひとを送るのみ」といふ。然れどもなほゆるさず。爾くして、其の腰の玉を解きて、其の国主の子にまひなふ。故、其の賤しき夫を赦し、其の玉をて、床のに置けば、即ち美麗うるはしき嬢子をとめる。仍りてまぐはひして嫡妻むかひめ。爾くして、其の嬢子、常に種々くさぐさ珍味ためつものけて恒に其の夫に。故、其の国主の子、心おごりてるに、其の女人をみな言はく、「およの妻とるべきをみなに非ず。吾がおやの国にかむ」といひて、即ちひそかにぶねに乗りて、逃遁わたり来て、なにに留まりき。〈此は難波の比売碁曽ひめごそやしろ阿加流比あかるひ売神めのかみと謂ふぞ。〉(注1)(応神記)

 応神記の天之日矛の説話の前半部分で、太字部分の訓みについては後述する。「又昔」で始まる一ストーリーである。その前には「海人あまなれや、おのが物からねなく」の諺話があり、その後には「秋山あきやました壮夫をとこ春山之霞はるやまのかすみ壮夫をとこ」の説話が控えている。応神天皇の御代に、ああいう話もあった、そういう話もあった、こういう話もあった、というとりあげ方である。一話完結の話が三話続けられている。それぞれの話だけで理解し切れる内容になっているものと考えられる。一つの話でわかり切るためには、話を外側から概観、分析すれば済むというものではなく、話の内側に入り込んでなるほどと得心が行く解釈でなければならない。その話が無文字時代に作られたと想定されるならなおのことである。口頭で伝えられただけでまったくその通りだ、話に一点の曇りもない、と納得されなければ、次の人、次の世代へと伝承されることは難しいからである。話に曖昧な点がないことが肝要である。
 実際の史実を物語っているかどうかは関係がない。一つの「話」としてその話の枠組みが作られていて、その枠組みのなかで話が自己完結しているかどうかが重要である。例えば、家族のなかで何か一つの話が行われると仮定してみよう。その話が円滑に成立するには、それまで営々と築き上げられてきた家族の関係性とその記憶が前提となり、当該の話は成立する。「今日、給食の時間にいじわるされたのよ」と子供が両親に向かって言ったとき、親二人の間には六年以上前のとある日の夜に仲良し行為が行なわれ、その結果新しい命が芽生え、その娘なら娘がゆっくり成長して小学校に入学してあるクラスに入り、その学校には給食があって、といった延々と続く経緯を前提として踏まえて話がなされている。上代の人が応神記の天之日矛の話を唐突に聞かされたとしても、聞く側にきちんと聞き取るだけのキャパシティーがあった。聞き手は、難波にあるとされる比売碁曽の社の郷土保存会の人たちではない。皆、天之日矛の話など初耳の人たちである。それなのに聞いただけで理解して、腑に落ち、他の人に伝えていくだけの力量、自信までも持ち合わせている。そうでなければこの話は伝えられずに消えていたことだろう。
 そこにはある仕掛けがひそんでいる。我々現代人の感覚では、先に前提となる枠組みが定まってあるものとして内容を吟味していく。上の例でいえば、家族のなかでの関係の記憶がそれに当たる。それに対して、無文字時代の人にとっては、話に出てくる言葉が話の枠組みまでも決めていくものと考えられていた。今では少しトリッキーに聞こえるかもしれないが、文字時代ではなく、情報化社会でもないのだから、言葉が自己言及しながら話を構成していくことは、方法論的にたくましい言葉の利用法であったといえる。それがゆえに、ヤマトコトバに言霊ことだま信仰があったとされている。言霊信仰とは、言葉に霊力があったということではなく、ことことであると厳密化して使うことで言葉に力があるように思われたということである。

 天之日矛の話は何の話か。例えば、韓半島との人的交流の歴史について、外側から史料を宛がうのではわからない。あくまでもテキストの内側から、ヤマトコトバで何と話していたのか、きちんと検証することによってのみ話の枠組みも再構成され、それを前提に内容にも理解が向かう。したがって、稗田阿礼の声を太安万侶が書記したことの逆ベクトルをもってヤマトコトバの再現に臨むことが求められる。訓読文の確認こそが議論の焦点になる。
 新羅の国主の子、天之日矛が来朝した次第が述べられている。その理由について荒唐無稽な話が展開されている。新羅にアグヌマという沼があり、そのほとりで身分の賤しい女が昼寝していたら虹のように日が耀いていて陰部を照らしていた。同じく賤しい男が見ていて不思議に思い、その女の様子を窺っていたら、女は昼寝している最中に妊娠したようで玉を産んだ。賤しい男はその玉を欲しがって取ってしまい、いつも包んで腰につけていた。男は山の谷間に田を拓いた開拓者だった。そして、耕作に当たる人たちのために、飲食物を牛の背に乗せて運んでいた。そんなとき、国主の子である天之日矛に遭遇した。天之日矛は、「どうしてお前は食べ物飲み物を牛に背負わせて山谷に入るのか。お前はきっとこの牛を殺して食べるつもりだろう」と言いがかりをつけ、その男を捕まえて牢屋に入れようとした。男は答えて、「自分は牛を殺そうなどとはしていません。ただ耕作に当たる人たちに食べ物を持って行っているだけです」と言った。それでも許さなかったので、男は腰につけていた例の玉を天之日矛に渡して許してもらった。天之日矛はその玉を持ち帰り、寝床のそばに置いておいたら美女に変わった。そこで結婚して妻の一人に加えた。彼女は、いつもいろいろな珍しい食べ物を用意して国王の子である天之日矛に食べさせた。意のままになることで慢心した国王の子は、妻をののしるようになった。すると彼女は、「そもそも私はあなたの妻になる程度の女じゃないわ。お里に帰らせていただきます」と言って、ひそかに小さな船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。
 この話の後段には、天之日矛も後を追って海を渡るが、難波に来ようとしたら渡の神がさえぎって入れず、但馬国で船を泊め、そこで現地の女性と結婚して子をなし、それから代々、誰々という人がいると系譜が紹介されている。そして、天之日矛が持って来た品々が挙げられている。この後段については、事実的に解釈することで済まされるのかもしれない。しかし、前段の荒唐無稽な話については、その荒唐無稽さを解き明かさなければ理解したことにならない。稗田阿礼、太安万侶は、この話のなぞなぞを理解していたから伝えていると考えられる。
 玉を産む奇譚と、牛にまつわる話、代償に払った玉が美女に変身したこと、彼女が海を渡って来朝したことが述べられている。話の流れは支離滅裂とさえ思える。玉に関する奇譚はいかにも奇譚であるから置かれているのだろうと想像される(注2)が、途中の牛の話は何のことか意味不明である。そのうえ、どうして牛に食べ物を乗せて運んでいたら牛を食べると咎められることになるのか。それらについて、これまで訳がわからないままになっている(注3)。上代には訳がわかっていたはずである。その点にスポットを当て検討する。

 日本書紀では垂仁紀に分注形式で同様の記述がある。

 一に云はく、初め都怒我阿羅斯等つぬがあらしと、国にはべりし時に、黄牛あめうじ田器たうつはものおほせて田舎ゐなか将往く。黄牛たちまちせぬ。則ちあとままぐに、あとある郡家すきの中にとどまれり。時に、ひとり老夫をきな有りて曰はく、「いましの求むる牛は、此の郡家の中に入れり。然るに郡公すぐり曰はく、『牛のおほせたる物にりておしはかれば、必ず殺しくらはむとまうけたるなり。し其のぬし覓ぎ至らば、物を以ちてつぐのはまくのみ』といひて、即ち殺しみてき。若し『牛のあたひ何物なにを得むとおもふ』と問はば、財物たからをな望みそ。『便たより郡内すきいはひまつる神を得むと欲ふ』としか云へ」といふ。しばらくありて郡公すぐり等到りてはく、「牛の直は何物を得むと欲ふ」ととふ。こたふること老父おきなをしへの如くにす。其の祭れる神は、これ白き石ぞ。乃ち白き石を以て牛の直にてつ。因りてて来てねやの中に置く。其の神石いし美麗かほよ童女をとめりぬ。是に、阿羅斯等、大きに歓びてまぐはひせむと欲ふ。然るに阿羅斯等、他処あたしところきしに、童女、忽に失せぬ。阿羅斯等、大きに驚きて、おのに問ひて曰はく、「童女、いづにかにし」といふ。対へて曰はく、「東方ひむかしにき」といふ。則ちもとめてぐ。つひに遠く海に浮びて、日本国やまとのくにに入りぬ。げる童女は、難波にいたりて、比売語ひめごそのやしろの神とる。また豊国とよくに国前郡みちのくちのくにに至りて、また比売語曽社の神と為る。ならび二処ふたところいはひまつられたまふといふ。(垂仁紀二年是歳)(注4)

牛に牽かせる唐耒(室町時代、月次風俗図屏風、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0020882をトリミング)

 記では「飲食」、紀では「田器たうつはもの」を牛に乗せている。どちらも牛を殺して食べようとしている証拠と捉えられている。
 タウツハモノは田を耕す農具のことである。黄牛に背負わせているところから、農耕に牛を使役したことが想起され、牛にひかせる唐耒からすきの類ではないかと推測が向く。それをわざわざ「田器」としている。タウツハモノは、タ(田)+ウツ(打)+ハ(刃、歯)+モノ(物)と聞こえ、先端に鉄の刃がついたすきのことを指しているとわかる。犂を牛が背負っていて、どうしてそれが牛を食べることを表しているのか。次のような用例がある。

 子麻呂等、水を以て送飯いひすき、恐りて反吐たまひつ。(子麻呂等、以水送飯、恐而反吐。)(皇極紀四年六月)
 食 スク、クフ、メス/シキ、曽力(法華経単字、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1192401/1/21)
 〓〔米偏に幺の下に八、その下に㣺〕 スク、呑也(色葉字類抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186813/113)

 食べ物を水で流し込むすすり食いのような食べ方である。皇極紀の例は、寛平・延喜年間の岩崎本写本に依っている。この訓の正しさは、その場面が蘇我入鹿暗殺事件の三韓進調儀式においてのことに示されている。儀式の際に宮殿内で下士官が腹ごしらえをしているのは一見不自然であるが、給禄のひとつに食べ物が振舞われたと解釈されよう。三韓からの貢納品を食べるために、韓半島式の食べ方を真似していたわけであり、慣れないこともあり緊張して反吐している。
 「き(キは甲類)」と「すき(キは甲類)」は同音である。舞台は新羅国の「一郡家」である。従来の訓では「郡家」をムラ、「郡公」をムラノツカサと訓んでいるが、古代朝鮮語に村のことはスキ(キは甲類)、村主のことはスグリである。

 是を以て、百済くだらのこにきしかぞと荒田別・木羅斤資等、共に意流おるすきに会ふ。〈今、州流須祇つるすきと云ふ。〉(神功紀四十九年三月)
 大唐もろこし軍将いくさのきみ戦船いくさぶね一百七十艘をて、白村江はくすきのえ陣烈つらなれり。(天智紀二年八月)
 さの村主すぐりあを(雄略紀二年十月是月)
 鞍部くらつくりの村主すぐり馬達まのたち(敏達紀十三年是歳)
 大友村主高聰おほとものすぐりかうそう(推古紀十年十月)
 磐城いはきの村主すぐりおほ(天智紀三年十二月是月)
 桑原村主くははらのすぐり訶都かつ(天武紀朱鳥元年四月)
 上村主うへのすぐり百済くだら(持統紀五年四月)

 したがって、犂を負った牛は、「郡家すき」では「き」の対象であるととらえられたという話になっている。わざわざ朝鮮語の言い方をするほど念の入った洒落になっている。それをヤマトの人たちが納得するのは、タ(田)+ウツ(打)もの、地面に打ちこむものは「くひ(ヒは甲類)」であり、「ひ(ヒは甲類)」と同音になっているからである。日朝両語において、パラレルに洒落が成り立っている(注5)

 他方、どちらが先かはわからないが、そのアレンジ形と思われるものが記の「飲食」である。この語には、クラヒモノ、ヲシモノといった訓が試みられてきた(注6)。筆者は、紀の用例からみてスキモノという訓がふさわしいと考える。クラヒモノ、ヲシモノという言葉を表す場合には、太安万侶は「食物」と書けば良かったであろうが、ここでは「飲食」と書いている。飲み食べるような動作は「く」行為であり、その対象はスキモノであろう。牛の背に荷物を乗せるには、荷鞍を据えてその上に荷物を載せる。居木部分が面状の板になっている人の乗る鞍とは異なり、横木で前輪と後輪を繋ぐだけではあるが鞍であることには違いない。唐耒を牽くためにも同様に、前枠、後枠を横木によって構成した背鞍(小鞍)を置く。そこから綱を唐耒につないで牽いている。すなわち、牛に何かを載せることは、カラスキ(唐犂)を載せる場合も、スキモノ(喰物)を載せる場合も、同様にヤマトコトバのスキという言葉に直結している。だから天之日矛は、すすり飲んで食べるようなことを考えているに違いないとして罪に問うている。言いがかりであるとばかり見られているが、文化的なギャップも見逃せないところである。
 唐耒の牽引法が本邦と新羅とでは異なっていた。河野1994.によれば、「背鞍を使う胴引き法や首引き・胴引き法は、日本以外のアジア諸国には見られないものであって、それは古く日本人の考案・開発したもの」(230頁)なのである。アジアの牛・水牛の牽引法について、河野氏の分類がわかりやすい。

 「首引き・胴引き法」は、首木と背中の鞍を併用して引くもので、胸繋を欠く場合も多いとされ、「胴引き法」は、首木を使わず背中の鞍のみで引くもので、胸繋は併用するのが普通であるとする(226~229頁)。
 つまり、新羅の国主の子である天之日矛にとって、牛に鞍を載せて何かを背負わせることなど見たことがなかった。ヤマトから半島へ来ていた人のやり方は奇異に映った。垂仁紀の「田器」を載せて行くことは、ヤマトの胴引き法をするつもりでいたこと、応神記の「飲食」を載せて行くことも、着いた山谷の間の田ではやはり鞍を活用して胴引き法でくつもりなのであった。そんな文化的な違いについて語るために、説話において日朝の言葉の意味を取り違えながらごちゃごちゃ言っている。高等テクニックの洒落が上手に散りばめられている。
 皇極紀四年六月条の用字に、応神記の天之日矛説話の牛問答を解く大きなヒントが顕れている。「飯」とある。賤夫は「吾非牛、唯送田人之食耳。」と抗弁している。「送」は「送」でもオクルのであって、「田人之食」を「おくる」のみである。「牛」を「く」のではない。「牛」を「く」気などさらさらないと言っている。
 設定からして穿っている。「山谷之間」に「営田」して、そこで働く「耕人等」の「飲食」を送り届けようというのである。「耕人」はタヒト、タカヘスヒトと訓まれてきた。抗弁の言葉に「田人」とあるからそれはタヒトと訓み、「耕人」はタカヘスヒトと訓むのが良い。田は、毎春、表土を返して柔らかくし、そのあとに水を張りつつ馬鍬などで土塊を砕いて表面を平らに均して田植えをする。「営田」して「耕人」とある場合、タ(田)+カヘス(返)+ヒト(人)の意のタカヘスヒトと訓まれなければならない。天之日矛は牛の背に鞍を置いて農耕に使うなどという天地のひっくり返るようなやり方に驚かされている。その文脈を理解できるように、当初から話の設定が組み立てられていたわけである。言葉だけで話が枠組まれつつ成立して行っている。

 そもそも、「牛」を食べることはそんなに悪いことなのか。仏教の影響から殺生が嫌われていた反映であると考えるのは賢しらである。殺牛祭儀との関わりを説いてみたところで、支配層から咎め立てされる筋合いのことではない。そういうことではなく、「うし」は「大人うし」と同音で、領有・支配する人の総称で、支配者層一般のことを指すことによるのだろう。

 大人うし、何ぞうれへますことはなはだしき。(履中前紀)
 今、群臣まへつきみたちうしはかる。(用明紀二年四月)

 天之日矛の話では、「一賤夫」が「其国王之子」を飲み込んで食べてしまうことを暗示しているとして逮捕して獄に入れようとしていた。そういう背景が組み込まれている。国主の子としては、国が乗っ取られるのではないかと心配して拘禁しようと考えたのである(注7)。それはそれで一理ある言い分ということになる。
 そして、代償として「一賤女」が生んだ「袁玉」を提出している。「日の耀くことぬじの如く」したことに由来する言い方である。虹の古訓はヌジである。

 乃ち河上かはのほとりぬじの見ゆることをろちの如くして、四五丈よつゑいつつゑばかりなり。(雄略紀三年四月)
 伊香保ろの さか堰塞ゐでに 立つぬじの〔多都努自能〕 あらはろまでも さをさ寝てば(万3414)

 ヌジ(虹)はヌシ(主)が持つのが相応だから、差し出すのが良いという発想である。アグヌマ(阿具奴摩)とあったのは、「山谷之間」に「営田」した際に、水利上、上流域の水を貯めるべく、堰を設けていたことを示しているのだろう。上流域の田をアゲタ(「高田」)(記上、神代紀)という。アグ(上)+ヌマ(沼)の意である。
 また、「一賤女」が生んだ「玉」については、「赤玉」と意改した鼇頭古事記に従う傾向にあるが、赤色の琥珀のようなものではない。原文は「袁玉」であり、ヲタマと訓むべきである。ヲ(緒)+タマ(玉)と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、ヤマトの話に不思議な妊娠譚として知られる三輪山伝説の「閇蘇へそ紡麻うみを」(崇神記)のことである。麻を紡んで一条に巻きこんだもので、臍のように作られている。糸を引っ張り出しても内側から引かれるため転がっていかないようになっている。本当なら妊娠するはずはないのにヘソの話になっているのは、「閇蘇へそ」のことだからという洒落である。いま、新羅の話に援用されている。だからこそ日新の文化的対立が極められている。そして、そのとき、「赤玉」ではなく「たま」であることが正しいのは、「虹」のように陰部を照射してできたとも記されているからである。何色の「閇蘇へそ」かといえば、虹を七色と捉えるならば七色の糸を巻きこんだものであったろう。「比売碁曽ひめごそ」と同音の記述である肥前風土記・基肄郡・姫社郷ひめごそのさと(注8)では織女神として祀られている。機織りと関係する玉は「閇蘇へそ」である。それが証拠に、カラフルな糸で織られた最上級の織物のことはにしきという。天之日矛は新羅のこにきしの子であった。すべてが語呂合わせによって成り立っている話である。
 以上、応神記にある天之日矛説話の文脈の frame analysis (注9)を行った。話を読みながらその話を編成する枠組みまでも把握することに努めた。記紀の説話に frame analysis 的解釈が効果的なのは、それらが無文字によって成立したものだからである。記述という手段を介さずに想起しつつ記憶するには、使われている言葉の音以外に頼るところがない。そんな時代の人々に共有されるためには、必然的に、言葉で言葉を語る自己循環的な戦略が求められた。音が空中を飛んでいるその瞬間に、相手がなるほどと納得して記憶が定着しなければならないからである。話が起こされるに当たり、従前の話とは別の話が流れるように起こりながらもそれが一個の話として枠組まれなければ、話は話として成り立たない。話という<図>が、<地>から区別されて立ち上がるためには額縁が必要である。その額縁について話すのと同時並行的に話の内容を作り上げていくことが、上代説話に特徴的な、ミラクルとも言える言語活動である。記紀説話が何を言っているのかわからないからといって、その外部から史実や遺物などを使って解釈しようとすることは、額縁を軽視していて<図>を見誤ることになる。記紀説話を「読む」ためには、その内部から話の額縁を定位しつつ話の内実を探る以外に方法はない。記紀の説話を考えた上代の人たちは、そうやって話を拵えていたのだから、その順序をたどり直せばそもそもの上代人のものの考え方に近づくことができる。それは記紀万葉を対象化して研究することを超えて、臨場して現場検証をすることになる。記紀万葉に生きた人々は、我々とはものの考え方が異なると知ることができて、はじめて「読む」価値のあるものだとの認識に至る。異世界、異文化、異次元のこととして理解され、ようやく本来の姿が日の目を見ることになる。これまでの漫然とした記紀万葉研究は無意味であったと気づかされ、土台から覆されることになるだろう(注10)

(注)
(注1)以下に、真福寺本を底本に校訂したテキストを字体の出力が可能な限りにおいて示す。

又昔有新羅國主之子名謂天之日矛是人參渡来也所以參渡来者新羅國有一沼名謂阿具奴摩〈自阿下四字以音〉此沼之邊一賤女晝寢於是日耀如虹指其隂上亦有一賤夫思異其状恒伺其女人之行故是女人自其晝寢時妊身生袁玉尒其所伺賤夫乞取其玉恒褁著腰此人營田於山谷之間故耕人等之飲食負一牛而入山谷之中遇逢其國主之子天之日矛尒問其人曰何汝飲食負牛入山谷汝必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛唯送田人之食耳然猶不赦尒解其腰之玉幣其國主之子故赦其賤夫将来其玉置於床邊即化美麗孃子仍婚為嫡妻尒其孃子常設種々之珎味恒食其夫故其國主之子心奢詈妻其女人言凡吾者非應為汝妻之女将行吾祖之國即竊乗小船逃遁度来留于難波〈此者坐難波之比賣碁曾社謂阿加流比賣神者也〉

 多くは現行本と同じ校訂となっている。ただし、「……必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛……」の二つの「飲」字は、真福寺本どおりにした。兼永筆本の字について、本居宣長・古事記伝は「殺」の異体字であると認め、以降みな従っている。しかし、「殺」字の異体字、俗字の類に、「煞」、「〓〔ヒトヤネの下にヨを偏として戈〕」、「敏字の毋部分をヨの下に/」(欧陽詢・史事帖、日本書紀(例えば、書陵部本日本書紀、宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430007/4577c33cc21742429c0a379afb7634cf(32/36))とあるものの、似て非なる字である。兼永筆本は「飲」字の欠けを見たように思われる。(図は、「……必飲食是牛即捕其人将入獄囚其人答曰吾非飲牛……」部分、左:真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438931/50をトリミング、右:猪熊本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438706/66をトリミング)

 また、「妊身生袁玉」の「袁玉」は、鼈頭古事記に従い諸本に「赤玉」とするが、「袁玉」で正しいものとした。(図は、「妊身生袁玉」部分、左:真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438931/50をトリミング、中:猪熊本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438706/65をトリミング、右:延佳神主校正・鼈頭古事記、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100181864/127?ln=jaをトリミング)
(注2)神話学では日光感精説話と卵生説話の合体したものであると目されている。中国の史書や仏典や韓半島の思想的な背景をもって天之日矛伝承は育まれて成立し、文章化されて一史料として古事記に収められたと考えられている。それらの議論の根拠は薄弱で、ただ話が似ているからというに過ぎない。だから何なのか、どうして古事記にこのような話が載せられているのか、という本質的な問いに答えようとしていない。昨今は、古事記の字面の書き方のお手本に何を使ったかという、いわゆる出典論(「手紙の書き方」という文献と字面が似ていることを辿っても生産的ではない)に注意が向けられている。三品1971.、福島1988.、王2011.、大村2013.による。
(注3)文献資料から、牛を殺して捧げものとする信仰には、雨乞いを中心とした農耕儀礼に関わるものや漢神を祀って祟りを祓うものがあったことが知られている。「[大旱ニ対シテ]村々の祝部はふりべ所教をしへままに、或いは牛馬を殺して、もろもろの社の神をいのる。」(皇極紀元年七月)、「あるいは、昔在むかし神代に、大地主神おほなぬしのかみ、田をつくる日、牛のししを以てひとに食はしむ。時に、御歳神みとしのかみの子、其の田に至りてあへつはきて還り、かたちを以てかぞまをす。御歳神、怒りを発して、おほねむしを以て其の田に放つ。苗の葉たちまちに枯れせて篠竹しのれり。是に、大地主神、片巫かたかうなぎ志止々しとととり〉・肱巫ひぢかむなぎ〈今のかままた米占よねうらなり。〉をして其のよしを占ひ求めしむるに、「御歳神たたりを為す。白猪・白馬・白鶏しろかけを献りて、其の怒りを解くべし」とまをす。教へに依りてみ奉る。御歳神答へて曰はく、「まことに吾がこころぞ。麻柄あさがらを以てかせひに作りて之を桛ひ、乃ち其の葉を以て之を掃ひ、あめの押草おしくさを以て之を押し、烏扇からすあふぎを以て之を扇ぐべし。若し此の如くして出で去らずは、牛の宍を以て溝の口に置きて、茎形はせがたを作りて之に加へ、〈是、其の心をまじなふ所以なり。〉薏子つすだま蜀椒なるはじかみ呉桃くるみの葉、また塩を以て其のあかち置くべし〈薏玉は都須つすだまといふなり。〉」とのりたまふ。仍りて其の教へに従ひしかば、苗の葉また茂り、年穀たなつもの豊稔ゆたかなり。是、今の神祇官、白猪・白馬・白鶏を以て、御歳神を祭る縁なり。」(古語拾遺・御歳神)といった例が引かれる。殺牛祭祀があったとされるのであるが、天之日矛が祭祀を咎めているとは読み取れない。本邦では一般に、神へのお供え物として捧げたものはお祭りが終わったら下げてきて皆で食べていた。その点を含めて整理した論考はいまだなく、理解は深まっていない。牛に荷を載せて運ぶ姿を見せた途端、牛を食べるのではないかと疑われた日には、農耕、土木、運輸などの肉体労働者はとてもじゃないがやっていられない。天之日矛の言いがかりについて、それが何故行われて然りとされたのか見極められなければならず、論点をすり替えていては何もわからない。佐伯1970.、門田2011.、村上2013.、烏谷2019.等参照。記紀説話の問題点はそのあたりの理屈にあるのではなく、言葉のなぞなぞにある。一回性の語りのなかで本質が直観させられなければ、話は伝わるものではあり得ない。
(注4)以下に原文を、字体の出力が可能な限りにおいて示す。訓読においては、筆者の考えにより、古訓に見られないものも施してある。

一云初都怒我阿羅斯等有國之時黄牛負田器将往田舎黄牛忽失則尋迹覓之跡留一郡家中時有一老夫曰汝所求牛者入於此郡家中然郡公等曰由牛所負物而推之必設殺食若其主覓至則以物償耳即殺食也若問牛直欲得何物莫望財物便欲得郡内祭神云に俄而郡公等到之曰牛直欲得何物對如老父之教其所祭神是白石也乃以白石授牛直因以将来置于寝中其神石化美麗童女於是阿羅斯等大歡之欲合然阿羅斯等去他處之間童女忽失也阿羅斯等大驚之問己婦曰童女何處去矣對曰向東方則尋追求遂遠浮海以入日本國所求童女者詣于難波為比賣語曽社神且至豊國々前郡復為比賣語曽社神並二處見祭焉。

(注5)上代語に「く」、「ふ」と言葉にカテゴライズされている。本邦において、食事はふつうならば「ふ」ものであり、韓半島に「く」のが習慣になっていると把握されていたのだろう。これは、米飯を主とした食べ物に、いかなる調理法で、いかなる食事法で摂っていたかという問題と絡んでくるとも考えられるが、議論が散乱してしまうのでここではこれ以上は深入りせず、ひとまずは、韓半島からの貢ぎ物には乾物系の品が多かったからと理解しておきたい。
(注6)本居宣長・古事記伝に、「○飲食は、久良比母能クラヒモノと訓べし、【飲字にカヽハるべからず、又飲物ノミモノを兼てもくらひものと云べし、土左日記に、おのれし酒をくらひつればなどもあり、】次に食とあるも同じ、書紀神武巻に、盛クラヒモノ、宣化巻に、クラヒモノ天下之本也、天武巻に、以タダビト供養クラヒモノ之など、皆然訓り、【神代巻又持統巻などには、飲食を、ヲシモノ○○○○と訓たれど、はよろしきほどの人に云言と聞ゆ、】」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/302、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注7)佐伯1970.256頁に、延暦期に殺牛祭祀が強く禁じられていた理由に、時の桓武天皇が丑歳であったことと関係するとしている。人々が牛を殺して漢神をまつり、怨霊をなぐさめ、その祟りを国家の支配者たる桓武天皇に向けられることは断じてあってはならないと感じたであろうからとしている。同じ構造が、ヤマトコトバのうし大人うしの間にあったと天之日矛が一人考えていたのであろうと考える。桓武天皇は神経質である一方、天之日矛の話は頓智話である。
(注8)「其の夜、いめに、臥機〈久都毗枳くつびきと謂ふ。〉と絡垜〈多々利たたりと謂ふ。〉と、儛ひ遊び出で来て、珂是古かぜこし驚かすと見き。ここに亦、女神ひめがみなることをりき。即ち社を立てて祭りき。それより已来このかた、路行く人殺害ころされず。因りて姫社ひめごそと曰ひ、今は郷の名と為せり。」(肥前風土記・基肄郡)
(注9)社会学者のゴフマンによる。議論は、現実自体を問うのではなく、どのような状況下で経験や世界はリアルとなるのか、その現実感について問うことから始まる。

思うに、状況がどのようなものか毎回毎回定まるのは、それが個々の出来事、少なくとも社会的な出来事をまとめて体系化する原理・原則に依って立っているからであるし、そんな原理・原則に自ら自身が与っていることに依って立っているからである。すなわち、フレームという言葉を使って進んでゆけば、私にも見極め可能な初歩的な細事に落とし込めるのである。フレームがどう決まるかこそが、私の議論の要である。「フレーム分析」という言い回しをスローガンにして研究の初めの一歩を踏み出せば、経験がいかに体系化されているのかを知ることにつながるのだ。(I assume that definitions of a situation are built up in accordance with principles of organization which govern events―at least social ones―and our subjective involvement in them; frame is the word I use to refer to such of these basic elements as I am able to identify. That is my definition of frame. My phrase “frame analysis” is a slogan to refer to the examination in these terms of the organization of experience.(Goffman, 1974. 10-11pp.))

 言語学者のフィルモアのフレーム意味論では、フレームは経験的知識であり、テキストに接するとき、私たちは心の中にフレームを想起したり、喚起させられたりしているとする。

解釈する人の心の中で、言葉の形や文法構造、言葉遊びが慣習となっていればそれがフレームの指標として働き、自然とこれはそういうフレームなのだと「喚び起こされる」ことになるし、他方、よく定まらない場合でも、解釈する人がテキストの筋が通るように当てがってゆくにしたがって、全体に行きわたる解釈のフレームを「想い起こす」ものである。(On the one hand, we have cases in which the lexical and grammatical material observable in the text‘evokes’the relevant frames in the mind of the interpreter by virtue of the fact that these lexical forms or these grammatical structures or categories exist as indices of these frames; on the other hand, we have cases in which the interpreter assigns coherence to a text by‘invoking’a particular interpretive frame.(Fillmore, 1982. 124p.))

(注10)応神記に天之日矛説話は所載されている。都怒我阿羅斯等の記事は垂仁紀に所載されている。応神天皇は中国の史書に倭の五王の讃に当たるかとする説がある。それによるならば5世紀前半である。一方、本邦において、牛耕で唐耒が用いられ始めたとされている時期は、それよりもずっと遅れて7世紀かとさえ言われている。遺物として唐耒が出土しないからであり、農耕には牛よりも馬がよく使われたとも考えられている。小鞍を載せるようになったのも、馬の鞍に由来すると考えられている。ただし、牛の骨の出土例からすると馬と同じ頃には渡って来ているとも言う。考えなければならないのは牛馬の絶対数である。乗馬のための威信財として馬が盛んに飼育され、そのうちの駄馬は農耕に回されたとすると、馬に馬鍬を牽かせるという本邦に独特な方法も理解できる。数が少ない牛による唐耒の活用法については、馬に倣って独自に開発したと仮定するなら、韓半島に見られない牽引法による牛の一頭引き胴引き法が行われ、それが珍しがられたということもあり得ることである。河野1994.に、「馬が馬鍬で代掻き作業をするときの在来の牽引法は、田鞍や代鞍と呼ぶ背中の鞍による胴引き法であった。」(229頁)とある。理屈としてはそのように解釈可能であるが、時代考証的にはさらに検討が必要である。後考を俟ちたい。
 なお、蔚山地域では、倭人が鉄鉱石の採取活動に関わっていた痕跡があるとされている。

(引用・参考文献)
王2011. 王小林『日本古代文献の漢籍受容に関する研究』和泉書院、2011年。
大村2013. 大村明広「『古事記』天之日矛渡来条に見られる日光感精譚について─出典論を中心に─」『上智大学国文学論集』46、平成25年1月。上智大学学術機関リポジトリ http://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000033255
烏谷2019. 烏谷知子「天之日矛伝承の考察」『学苑』939号、2019年1月。昭和女子大学学術機関リポジトリ https://swu.repo.nii.ac.jp/records/6698
河野1994. 河野通明『日本農耕具史の基礎的研究』和泉書院、1994年。
Goffman, 1974. Erving Goffman, Frame Analysis : An essay on the Organization of Experience, Harper & Row, New York, 1974.
佐伯1970. 佐伯有清『日本古代の政治と社会』吉川弘文館、昭和45年。
Fillmore, 1982.   Charles J. Fillmore, Frame Semantics. In The Linguistic Society of Korea (ed.) Linguistics in the Morning Calm, Hanshin Publishing, Seoul, 111-137pp, 1982.
福島1988. 福島秋穂『記紀神話伝説の研究』六興出版、1988年。
三品1971. 『三品彰英論文集 三巻 神話と文化史』平凡社、昭和46年。
村上2013. 村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』塙書房、2013年。
門田2011. 門田誠一「東アジアにおける殺牛祭祀の系譜─新羅と日本古代の事例の位置づけ─」『佛教大学歴史学部論集』創刊号、2011年3月。佛教大学論文目録リポジトリ https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_RO000100004710(『東アジア古代金石文研究』法藏館、2016年。)

加藤良平 2024.5.3改稿初出

タヂマモリの「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」説話について

 垂仁天皇の晩年に、多遅摩毛理たぢまもり(田道間守)の登岐士玖能迦玖能ときじくのかくのこの(非時香菓)探索の話が載っている。話の次第は次のようなものである。長寿を願う垂仁天皇は、時じくのかくの木の実を手に入れようと考えた。そこで、三宅連等みやけのむらじらの祖先にあたる多遅摩毛理に、常世国とこよのくにへ行って探して来るよう命じた。多遅摩毛理は何年もかけて常世国にたどり着き、入手してようやく持ち帰った。しかし、帰還した時、すでに垂仁天皇は崩御していた。多遅摩毛理はひどく悲しみ、持ち帰った時じくのかくの木の実を飾り立てたもの八個を二つに分け、半分の四個を皇后に献上し、残り半分の四個を天皇の御陵の地に置き、泣き叫んで死んでしまったというのである。

 又、天皇すめらみこと三宅みやけのむらじおや、名は多遅摩毛理たぢまもりを以て常世国とこよのくにつかはして、ときじくのかくのこのを求めしめたまひき。かれ、多遅摩毛理、遂に其の国に到り、其の木実を採りて、かげかげほこほこち来る間に、天皇、既にかむあがりましぬ。しかくして、多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分け大后おほきさきたてまつり、縵四縵・矛四矛を以て天皇の御陵みさざきの戸に献り置きて、其の木実をささげて、さけおらびてまをさく、「常世国のときじくのかくの木実を持ちてのぼりて侍り」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。其のときじくのかくの木実は、是、今のたちばなぞ。(垂仁記)
 九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間たぢまもりみことおほせて、常世国につかはして、非時ときじく香菓かくのみを求めしむ。〈香菓、此には箇倶能未かくのみと云ふ。〉今、たちばなと謂ふは是なり。……
 明年くるつとしの春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国よりかへりいたれり。則ちもてまうでいたる物は、非時の香菓、竿ほこかげなり。田道間守、是にいさ悲歎なげきてまをさく、「おほみこと天朝みかどうけたまはり、遠くより絶域はるかなるくにまかる。万里とほくなみみて、はるか弱水よわのみづわたる。是の常世国は、神仙ひじり秘区かくれたるくにただひといたらむ所に非ず。是を以て、往来ゆきかよあひだに、おのづからにとせりぬ。あにおもひきや、ひとりたかなみを凌ぎて、また本土もとのくにまうでこむといふことを。然るに、聖帝ひじりのみかど神霊みたまのふゆりて、わづかかへまうくること得たり。今、天皇既にかむあがりましぬ。復命かへりごとまをすこと得ず。やつかれけりといふとも、亦、何のしるしかあらむ」とまをす。乃ち天皇のみさざきまゐりて、おらきて自らまかれり。群臣まへつきみ聞きて皆なみたを流す。田道間守は、是、三宅みやけのむらじ始祖はじめのおやなり。(垂仁紀九十年二月〜垂仁後紀九十年明年)

 この話が何の話なのかについては、食物史にお菓子の始まりを述べたものであるとする考え(注1)がある一方、神話学に常世国との関連で考えようとする潮流があり、また、歴史学に三宅連の始祖譚としての重要性を指摘する向きもある(注2)。国文学(上代文学)はタヂマモリとタチバナモリとの類音性を指摘したり、新羅国王の末裔である点を重視している(注3)。新編全集本古事記は、「多遅摩毛理は新羅国王の子孫であり、天皇に対する忠誠心が渡来人にも及んでいることを語る話になっている。」(211頁)という。筆者は、ヤマトコトバを入念に探究して記紀万葉を読解する立場に立つ。話として自己完結していなければ伝承されているはずはないと考えている。
 最初に登場人物を確認しておこう。三宅みやけのむらじの祖先筋に当たるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)である。紀の表記に田道間守とある点から義を考えるなら、田んぼの畦道を守る存在であろうことが見てとれる。朝廷の直轄領である屯倉みやけが置かれたのは、土着勢力がもともと拓いていたところよりも新田開発されたところである。自然のままに水稲栽培に適した水深の浅いところではなく、それまでは水が溜まることがなかったり、水が深いところを田となるように整備したところ、すなわち、畦を整えることではじめてできた田である。ミヤケを名乗る人物の祖先がタヂマモリである所以である。
 田んぼの畦道を守り整える道具は鍬である。土を盛り塗って守っている。アゼ(畦、畔)のことはアと言った。須佐之男のいたずらに「田のあをはなち(離田之阿)」(記上)とある。アという言葉には、畦以外に足のことも指した。「ゆひ〔阿由比〕」(記81)、「よひ〔阿庸比〕」(紀106)とある。どうして畦と足とが同じヤマトコトバ(音)で成っていて違和感を覚えないのか。それは、ともにクハ(鍬)に関係する語だからである。鍬によって作られるのが畦である。鍬の形は柄に直角的に角度をつけて刃となる面がついている。その様子は、足の脛に対して靴に入る足の甲、足のひらのつき方と同じである。
 白川1995.に、「くはたつ〔企・翹〕 下二段。「くは」は鍬。足でいえばかかとから爪先までの部分が、鍬の平らかな刃の部分にあたるので、鍬腹くわはらという。かかとから先をまた「くは」といい、「くはゆぎ(曲肘)」「くびす(跟)」などの語がある。遠くを望み見るとき、そこを立てるのが「くはたつ」で、かかとをあげ、背のびしてみることをいう。「くはたつ」は、仏典の訓読語にみえるほかには、用例は殆どない。「くは」は稲作以前の原始農耕の時代からあったと考えてよい。〔華厳音義私記〕「翹音は交、訓は久波多川くはたつ」、〔名義抄〕に「肢・竚・尅・翹・企クハタツ」、〔字鏡抄〕には企・の二字のみ録する。」(301頁)とある。語史的には、身体用語としてクハという語があり、後に農具として現れたものがその形になぞらえられてクハと呼ばれるようになったと考えられている。
 このことからすると、タヂマモリという人物名は、畦を作っては崩れていないかいつも見守り修繕する人を表していると考えられつつ、足が巧みに働くこと、また、遠くへ行くにはまず先を見渡さなければならないが、そのために企てて背伸びをするのにもってこいであることを示している。名に負う人物として遠い世界へ赴くことが求められているといえる。当然ながら遠路を行くには時間がかかる。その時間という概念をクローズアップさせてみたとき、時間とは無関係なほどに常に畦道を守る人のことが思い起こされている。あるのが当たり前と思われ、時間の概念から解放されているかに見えて、その実、たゆまぬ努力をもってメンテナンスが行われている。見た目が変わらないことを生業の目的とするのがタヂマモリという農道整備者である。だから、天皇としてみれば、その治世、天皇の御代の常にあらむと願うことがあるなら、タヂマモリにかなえてもらおうということになる。そして、ヨ(代、世)が常にあるとされている常世国へと足の達者なタヂマモリを派遣して、それをかなえそうな象徴的なお土産を持ち帰るように指示している(注4)
 それが登岐士玖能迦玖能ときじくのかくのこの(非時香菓)である(注5)。農道整備に使う鍬は、地面を浅く掘り起こし混ぜ返すのに便利な道具である。表面付近に根の張った雑草を根切りしながら土を耕すことができる。草は腐って作物の肥料となる。また、人肥を下肥にするため、農地に混ぜ込むのにも鍬は用いられる。すなわち、鍬はこえと深い関係にある。足を意味するクハも、足を上げることを蹴鞠にコエ(蹴、コユの連用形)といい(注6)、遠く山越え谷越えて移動するのに役立つ。コエ(肥)をコエ(超)て臭いのきつく凌駕するもの、それもアシ(足)なるアシ(悪)きものではなく、良きもので常に覆いつくすようなものが求められることになる。それが、カクなるもの、香しいものである。
 そんな木の実(香菓)があったら持ち帰るようにと言っている。ここで、トキジクノカクノコノミとは何かという問題に向き合わねばならない。「其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。」(記)、「今謂橘是也。」(紀)から、これはミカンの類の橘の実と考えられることが多い(注7)。ただし、お菓子の歴史を研究する側からは、「非時香菓」(紀)と書き示されているからには、日持ちする菓子のことではないかという意見が根強く、お菓子の起源譚であるとされている。持続性、永遠性を求めているのだから、生の菓子に当たるフルーツではなくて、加工された干菓子ではないかというのである。
 「橘」とあるからヤマトタチバナ(ニッポンタチバナ)のことを指すとする見方があるが、ヤマトタチバナは古くから自生しており遠く求める必要はない。柑橘類の総称であろうとする説もあるが、ならばどのような品種か見分けられなければならず、また、長く枝に成っていることを「縵四縵・矛四矛」、「八竿八縵」と受け取るように読むのは少し苦しいように感じられる。葉があるのが縵で、葉をもぎ取ったのが矛や竿とするとして、どうしてそのような小細工で分け隔てをするのか、何か説明されるなり自明でなければならないはずであるものの、理解への糸口はこれまでのところ見出されていない。
 なにより、記紀の言い方は念を押したような形をとっており尋常ではない。

 其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。(記)
 天皇命田道間守、遣常世国、令非時香菓。〈香菓、此云箇俱能未。今謂橘是也。〉(紀)

 平たく尋常な言い回しから見てみる。「今謂」とする叙述としては他に、記に一例、紀に八例見える。

 故、其の所謂いはゆ黄泉よもつ比良ひらさかは、今、出雲国の伊賦夜いふやさかと謂ふ。(故、其所謂黄泉比良坂者、今謂出雲国之伊賦夜坂也)(記上)
 因りて、なづけて浪速国なにはのくにとす。亦、浪花なみはなと曰ふ。今、なにと謂ふはよこなまれるなり。〈訛、此には与許奈磨盧よこなまると云ふ。〉(因以、名為浪速国。亦曰浪花。今謂難波訛也。訛、此云与許奈磨盧。)(神武前紀戊午年二月)
 かれ時人ときのひと、改めて其の河を号けて挑河いどみがはと曰ふ。今、泉河いづみかはと謂ふは訛れるなり。(故時人改号其河挑河。今謂泉河訛也。)(崇神紀十年九月)
 はかまよりくそおちし処を屎褌くそばかまと曰ふ。今、くすと謂ふは訛れるなり。(褌屎処曰屎褌。今謂樟葉訛也。)(崇神紀十年九月)
 故、其のところを号けて墮国おちくにと謂ふ。今、弟国と謂ふは訛れるなり。(故号其地墮国。今謂弟国訛也。)(垂仁紀十五年八月)
 故、時人、其のうきを忘れし処を号けてうきと曰ふ。今、いくはと謂ふは、訛れるなり。(故時人号其忘盞処浮羽。今謂的者訛也。)(景行紀十八年八月)
 故、時人、五十迹手とて本土もとつくにを号けて伊蘇国いそのくにと曰ふ。今、伊覩いとと謂ふは訛れるなり。(故時人号五十迹手之本土伊蘇国、今謂伊覩者訛也。)(仲哀紀八年正月)
 故、時人、其の処を号けて、梅豆めづ羅国らのくにと曰ふ。今、松浦まつらと謂ふは訛れるなり。(故時人号其処梅豆羅国、今謂松浦訛焉。)(神功前紀仲哀九年四月)
 鳥、此の田を以て、天皇の為に金剛こむがうを作る。是、今、南淵みなぶち坂田さかたの尼寺あまでらと謂ふ。(鳥以此田、為天皇金剛寺。是今謂南淵坂田尼寺一。)(推古紀十四年五月)

 紀の地名譚の七例は「訛」字が続いており、音の変化を「謂」で表している。推古紀の例は寺の名称変更を示している。それらから推して考えると、記上の例も、坂の名を今はそう呼んでいると言っているだけである。
 対して、尋常ではない言いっぷりを見てみる。垂仁記の「是今……也。」とする叙述は、他に記に一例、紀に一例見える。

 此の、やま多豆たづと云ふは、是、今の造木みやつこぎぞ。(此、云山多豆者、是、今造木者也。)(允恭記)
 酒君さけのきみこたへて言さく、「此の鳥のたぐひさはに百済に在り。ならし得てば能く人に従ふ。亦、く飛びてもろもろの鳥をる。百済のひと、此の鳥を号けて倶知くちと曰ふ」とまをす。〈是、今時いまたかなり。〉(酒君対言、此鳥之類、多在百済。得馴而能従人。亦捷飛之掠諸鳥。百済俗号此鳥俱知。〈是、今時鷹也。)(仁徳紀四十三年九月)

 允恭記の例の「山たづ」、「造木みやつこぎ」とも今日に伝わる名称ではなく、ニワトコのことであるとされている。勢い込んで「是今……者也。」と口にしているところから、太安万侶が書いた「今」時点で通称とされていたのではなく、聞く相手に対し、言っていることの頓智を悟れ、と促しているように思われる。みやつこと呼ばれる地方の有力者でありながら中央の被支配者層が、木を使って木に似せたものを造った、それが「造木」である。ニワトコは材質が柔らかく、削り掛けと呼ばれる飾り物の材料に使われた。おもちゃのお金のことを考えるとわかりやすい。お金でおもちゃのお金(ミヤツコガネ?)を買うという不思議なことをしている。
 また、仁徳紀の例は、百済ではたくさんいて、馴らして狩りに使うものでクチと呼ばれている、という点に関して、これは今のたかのことであると注している。この場合、 hawk が新しく種として百済からもたらされたということではない。これまで本邦でも棲息していたものの、飼い馴らし調教して狩りに使うことはしていなかったが、今日ではよく利用されるようになっていて、今言うたかのことを指しているのだと説明を施している(注8)。「造木」、「鷹」とも、種の同定をしているのではなく、人間にとってその動植物はどのような役目を果たしているかという点を考え落ちに語っている。すなわち、改められた概念を呈示している。そのことを謂わんがために、「是今……也。」という念を押す言い方が行われている。
 垂仁記同様、垂仁紀の例でも、最後に「是也。」と強調して終わっている。名称、呼称に変化があったということよりも、以前はその言葉の範疇に収められておらず、新たに認識されてその言葉に組み込まれるようになったと含み伝えるために記されている。田道間守が常世国から持ち帰ったというのはそのとおりだろうから、自生していたヤマトタチバナのことをそのまま言っているのではない。それまで思っていたのとは異なる柑橘類として「非時香菓」が将来したと考えなければならない。「非時香菓」の出現によって「橘」概念が拡張されている。起爆的に従来の「橘」概念が壊され、新しい「橘」概念が築きあげられたということである。
 その可能性の第一はお菓子の到来である。いわゆる「唐果からくだもの」である。大陸から到来した「果物」であり、「木実」に当てがわれている。和名抄に、「果蓏 唐韻に云はく、説文に木の上にあるを果〈古火反、字は亦、菓に作る。日本紀私記に古能美このみと云ひ、俗に久多毛乃くだものと云ふ〉と曰ひ、地の上にあるを蓏〈力果反、久佐久太毛能くさくだもの〉と曰ふといふ。張晏に曰はく、核有るを菓と曰ひ、核無きを蓏〈核は果蓏具に見ゆ〉と曰ふといふ。応劭に曰はく、木の実を菓と曰ひ、草の実を蓏と曰ふといふ。」とある。「唐果」とは、フルーツに似せて作った加工食品、お菓子のことである。加工されて木の実に似せられたお菓子をどのように理解すればよいか。李が伝わった時、ももに似ているのでスモモと呼ぶことにしたことはすでにあったらしい。フルーツなのだからそれで構わない。今回、何だこれは? はたして木の実と言えるのか? という代物が伝わっている。允恭記の「造木」と同様の言語活用法が試されている。
 和名抄に従うかぎり、このは、木の上に成っていて「果」または「菓」の字で表され、俗にクダモノと呼ばれているものである。一般的にいう橘の実がそのまま食用とされることはないが、近縁種のミカン類は食用となっている。和名抄に、「柑子 馬琬食経に柑子〈上の音は甘、加無之かむじ〉と云ふ。」とある。また、橘の実の皮は調味料とされている。和名抄に、「橘皮 本草注に云はく、橘皮は一名に甘皮といふ〈太知波奈乃加波たちばなのかは)、一に岐賀波きがはと云ふ〉。」とある。香り高く、甘味を含んだ風味をつけるために、料理に刻みあえている。
 すると、ニワトコの枝を使って「木」を造ったように、橘の皮を用いながら「菓蓏このみ・くだもの」を造作したものが、トキジクノカクノコノミであると言えるのではないか。そして、カクと冠されるのは、かくからなのか、かくからなのか、その両方からなのかということになるだろう。今日、柚子などの皮が香りづけに用いられているとおり、乾燥保存されて常時用いられていた(注9)。時季に応じることなく、旬にこだわることのなく造作される果物という意味で、トキジクノカクノコノミと言っている。

「かくのあわ」(?)(トルファン出土品、日中友好会館展示パネル)

 和名抄に、「結果 楊氏漢語抄に結果〈形は結ぶ緒の如し、此の間に、亦、之れ有り。今案ふるに、加久乃阿和かくのあわとかむがふ。〉と云ふ。」(注10)とあるのがそれである。結びつけるような形状にして、揚げ句の果てに成ったもの、油で揚げたお菓子のようである。油で揚げれば泡立ち、その泡のしずくのような不思議な形をしたものができている。三次元的に複雑な形状をしていて泡立つようでありつつ、今にも崩壊して泡の如く消えて行ってもおかしくないものである。ぐるぐるっと巻き結んで拵えているところは、自然界ではなかなか見られそうにない。いかにも人工的なお菓子は、逆の意味で「非時」性があり、なるほどトキジクノカクノコノミとは人間の強欲の末にたどり着いた「結果」であると悟ることができる。不老不死というあり得ないことを考えることは、あり得ないものをないものねだりすることであり、世界が反転するほどに訳がわからなくなっている。
 そのような意味合いを含めて「たちばな」という言葉で言いくるめようとしている。そこに第二の可能性が見てとれる。それ自体が果物を求めるものではない樹木の存在、からたちである。いつのことかは不明ながら古い時代に列島に持ち込まれている。

 からたちと うばら刈りけ 倉建てむ くそ遠くれ 櫛造る刀自とじ(万3832)

 名称は、カラ(唐)のタチバナ(橘)の意である。そして、「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話はよく知られている。「橘は淮南に生ずれば則ち橘と為るも、淮北に生ずれば則ち枳と為ると。葉は徒に相似るも其の実の味同じからず。然る所以の者は何ぞや、水土異なればなり。(橘生淮南則為橘、生于淮北則為枳。葉徒相似、其實味不同。所以然者何、水土異也。)」(晏子春秋・内篇・雑下)、「江南に橘有り、斉王、人をして之れを取らしめて、之れを江北に樹うるに、生じて橘と為らずして、乃ち枳と為る。然る所以は何ぞ。其の土地之れをして然らしむるなり。(江南有橘、斉王使人取之、而樹之於江北、生不為橘、乃為枳。所以然者何。其土地使之然也。)」(説苑・奉使)とある。端的に言えば、所変われば品変わる、の意である。橘と枳とには互換性があり、枳が本邦に入ってきたとき、それをカラ(唐)のタチバナ(橘)であると認め、「橘」概念が拡張された。
 こうして、お菓子のことをカラクダモノと言って木の実の範疇に入れることは、からたちたちばなの範疇に入れるのと間にパラレルな関係性が生まれている。タヂマモリがトキジクノカクノコノミを飾り捧げる方法は、「縵八縵・矛八矛」(記)、「八竿八縵」(紀)であった。葉がついたものは「縵」、ついていないものは「矛」や「竿」と解されている。通説では、ミカンの実に葉をつけておくかつけておかないかの差のように考えられているが、そうではなく、カラタチの樹全体に、葉がついているか葉が落ちてしまっているかを指している。柑橘類のなかでも特異な存在として、カラタチには葉を落とす習性がある。葉が完全に落ちていても茎部分に葉緑体があるので生きている。「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話も生き生きとしたものになっている。

左:カラタチの垣根(川崎市立日本民家園)、右:七支刀復元品(鋳造、平成18年復元プロジェクトチーム制作、橿原考古学研究所附属博物館展示品)

 カラタチは刺が出ていて生垣に利用されている。泥棒を含めた獣除けのために果樹園の周囲にめぐらされた。水田に米が稔るのは、田に水がたまる仕掛けに拠っていて、その田の周りは畦がめぐらされていて稔りを守っていたのと同じである。タヂマモリはその名がゆえに耕作地の周りを守る仕事に徹していた。果樹園に果物が実らない最大の理由は鳥獣による被害である。それを防ぐには畦同様の仕掛けが必要となる。葉が茂って「縵」があれば果樹園の中を見えなくし、葉がなくても刺や枝が入り組んでいれば「矛」や「竿」の役目を果たす。侵入できない通せん棒、鉄条網、警備具と化している。とげとげしている様は、まるで七支刀のような矛である(注11)。カラタチが生垣としてあれば、果樹園では果物がよく実り、香り高く熟するまで枝につけておけて美味なるものを収穫することができる。それこそカクノコノミであり、カラタチは果物そのものと等価である(注12)。タヂマモリは、常世国で自らが派遣された理由を理解するのに時間を要したようであるが、ヤマトコトバの論理学において、その名を負わなければ果樹園守の任は果たせなかったのであった。結果、カラタチは樹種的には柑橘類であり、フルーツの「橘」概念を刷新させている。「是今橘者也。」(記)、「今謂橘是也。」(紀)と記されたのは、頓智力の高い考え落ちであった。
 記に、「爾、多遅摩毛理、分縵四縵・矛四矛、献于大后、以縵四縵・矛四矛、献-置天皇之御陵戸而、……」とあるのは、「縵八縵・矛八矛」を半分ずつに分配したということである。荻生徂徠・南留別志に、「ふたつはひとつの音の転ぜるなり。むつはみつの転ぜるなり。やつはよつの転ぜるなり」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100173233/54?ln=ja)とある。すなわち、「や(八)」としてではなく、「よ(四)」としている。「や」は「よ」の母音交替形でその倍数である。どちらも「弥」字で表すように、極めて数が多いことをいうが、垂仁天皇が当初求めた目的は、御代の常ならんことであった。程度の甚だしいことを表す副詞に用いられている。

 …… 堅く取らせ した堅く や堅く取らせ だり取らす子(記102)
 霞立つ 長き春日を 挿頭かざせれど いや懐かしき 梅の花かも(万846)
 夕凪に 寄せ来る波の その潮の いやますますに その波の いやしくしくに わぎ妹子もこに ……(万3243)
 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793)

 つまり、(ヨは乙類)(世、齢)の長かりしことを願っていたのであって、同音の乙類のヨ(四)こそふさわしい数であった。それなのに、いやますますの意味でヤ(ハ)ピース(piece)持ち帰って来てしまった。多いほどいいだろうと考えていたから、光陰の如しというようにヤが飛ぶように時間がかかり、天皇はすでにこの世を去ってしまっていた。必要にして十分なピース数はヨ(四)であった。だから、大后に四ピースを献上し、残りの四ピースを陵墓へと持って行った。間に合わなかった責任は自分にあると思って後悔し、泣き叫んで死んでしまったという話で終わっている。「常世」なのだからトコ(床)+ヨ(四)、つまり、四角形の牀、胡床のことだとまで頓智が利かなかったのは、タヂマモリをしていながらまだ田が条里制以前のことで、四角四辺がヒントなのだと気づかなかったからだろうか。
 タヂマモリの非時香果の説話がこのような様相を呈するように、ヤマトコトバの言語ゲームの粋の賜物としてさまざまな説話が記紀に残されている。

(注)
(注1)「菓子の文化史」参照。
(注2)中村2015.は、「こうした[田道間守がお菓子の神さまとして祭られるにいたる]後世の伝説の進化は、ある種、物語としての宿命なので是非はないが、本来の田道間守と非時香菓の物語は、どういう意図をもって記述されたのかを探る必要はあろう。」(188頁)といい、垂仁陵を青々と飾るために橘の木が選ばれて、三宅氏の陵墓管掌の役割を確かならしめるためにこの話は創作されたのであろうとしている。
(注3)西郷2005.は、タヂマモリの話の意味合いは、《帰化族》の宮廷への忠誠譚であるとし、また、三宅ミヤケ連の祖のことから、武蔵国橘樹タチバナ郡に橘樹郷とヤケ郷とが並んで見えることが、屯倉ミヤケ(宮廷領)とタチバナとの因縁を想わせるという(355~356頁)。
(注4)「土産みやげ」という言葉の出所は未詳であり、いつからある言葉かも定かでない。そのミヤゲ(土産)とミヤケ(屯倉、三宅、ケは乙類)が関係する語なのかも不明ではある。
(注5)「時じ」については、➀絶え間なく〜する、いつでも〜だ、②その時ではない、時節はずれだ、の二つの意味があると考えられている。用例を見ると、いずれかの意味にとれば理解されることが多いため、当初から二つの意味があったように思われている。そして、この「時じくのかくの木実」の場合、➀と②の両方を含んだ重層的な意味合いを表していると指摘されている(佐佐木2007.)。しかし、「時じ」という言葉の原義は、時そのものを内に含んでしまい、時間という概念を超越することであると捉えたほうがわかりやすい。だからこそタヂマモリとは何か、という哲学的な問い掛けが主題を構成するのにふさわしいのである。
 トキ(時)という言葉は、古典基礎語辞典で、「古くは、今あると思ったことが過去となり、やがて来るであろう未来が現前しているというように、次々と移り変わるものとしてトキを意識している。」(827頁、この項、白井清子)と解説されている。それに否定の形容詞を作る接尾語がついているのだから、「時じ」の意味の原型(prototype)は、移り変わりの適時感が失われている点にこそあるのだろう。すなわち、動画の停止ボタンがうまく働かないことを表している。ジャストタイムに停止しないことも、ボタン自体が利かないことも、同じく「時じ」という一語に当たる。
(注6)蹴鞠の足の使い方は独特である。渡辺2000.に、「蹴鞠では鞠を蹴上げる足は何故か右足に限られていた。箸を右手で扱うのが正しい作法であるという観念と共通の文化風土の産物であろう。したがって、一人で続けて鞠を蹴上げる場合、サッカーのリフティングのように歩行と同じリズムで、左・右、左・右と交互に蹴ることはできない。蹴鞠の術語ではフットワークを足踏と言う。連続的に鞠を蹴上げる場合の足踏の要領は次のとおりだった。まず、右足で鞠を蹴上げた後、右足を着地する、次に左足を(挙げて)着地し、しかる後に、右足を挙げて鞠を蹴る。つまり、ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)→ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)、………、という、日常的な歩行とは異なるリズムの繰り返しになった。これを三拍子と呼んだ。」(9頁)とわかりやすく説明されている。足を意識して動かしている。その際、足首を伸ばすことなく鍬同様にL字形に保った動きを繰り返している。
 蹴るの古語は、古くクウ(下二段活用)という言い方があり、「蹴散くゑはららかす」(神代紀第六段本文)という例がある。名義抄には、「蹴 化ル、クユ、コユ」とあり、コユは「越ゆ」と同根とされている。蹴る動作と踏む動作がセットになっている。鍬が土を掘り蹴上げるばかりでなく、反対面を使って泥土を押し撫でつけて畦を作ることができるようになっているのと同じことである。
(注7)ミカン科のなかには、ダイダイ(橙)のように一旦黄色くなったものが翌春になると再び緑色になり、果実が二三年落ちずにいる種もある。筆者はこれをトキジクノカクノコノミに宛がわない。トキジク性を欠いている。
(注8)鷹狩り用の鷹が、空間的に「渡り」鳥であるばかりか時間的にも「渡り」鳥であるように、巧みなレトリック表現としてある点については、拙稿「允恭記の軽箭と穴穂箭について」参照。
(注9)七味唐辛子にはミカンの皮が入っている。人見必大・本朝食鑑の「蕎麦」の項に、「別に蘿蔔汁・花鰹・山葵・橘皮・番椒・紫苔・焼味噌・梅干等の物を用ゐて、蕎切及び汁に和して食す。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569413/1/57)と見える。
(注10)和名抄に菓子類と思われる食べ物が記載されている。食べ物のうち菓子に分類されるものは、その嗜好性によるのであろうが、どこまでを嗜好品としてデザートやおやつに食べるかは判断がつきにくい。太田2005.の挙げるものについて、以下に京本の順にて記す。

餅腅 楊氏漢語抄に云はく、裹む餅の中に鵝鴨等の子、并びに雑菜を納れ煮合せてけだに截るものは、一名に餅腅〈玉篇に腅は達監反、肴なり〉といふ。
糉〈角黍、粽なり〉 風土記に云はく、糉〈作弄反、字は亦、粽に作る、知末岐ちまき〉は菰の葉を以て米を裹み、灰汁を以て之れを煮て爛熟せ令め、五月五日に之れをふといふ。
餻 考声切韻に云はく、餻〈古労反、字は亦、𩝝に作る、久佐毛知比くさもちひ〉は米屑を蒸して之れをつくるといふ。文徳実録に云はく、嘉祥三年の訛言に、今玆ことし三日に餻を造るべからず、母子無きを以てなりと曰ふといふ。
餢飳 蒋魴切韻に云はく、〓〔飠偏に咅〕飳〈部斗ぶとの二音、亦、〓〔麥偏に咅〕𪌘に作る、布止ぶと、俗に伏兎と云ふ〉は油煎餅の名なりといふ。
糫餅 文選に云はく、膏糫は粔籹といふ〈糫の音は還、粔籹は下文に見ゆ〉。楊氏漢語抄に糫餅〈形は藤葛の如き者なり、万加利まがり〉と云ふ。
結果 楊氏漢語抄に結果〈形は緒を結ぶ如し、此の間に、亦、之れ有り、今案ふるに加久乃阿和かくのあわ〉と云ふ。
捻頭 楊氏漢語抄に捻頭〈無岐加太むぎかた、捻の音は奴協反、一に麦子と云ふ〉と云ふ。
索餅 釈名に云はく、蝎餅、䯝餅、金餅、索餅〈無岐奈波むぎなは、大膳式に手束索餅は多都賀たつかと云ふ〉は皆、形に随ひて之れを名くといふ。
粉熟 弁色立成に粉粥〈米粥を以て之れを為る、今案ふるに粉粥は即ち粉熟なり〉と云ふ。
餛飩 四声字苑に云はく、餛飩〈渾屯の二音、上の字は亦、餫に作る、唐韻に見ゆ〉は、餅を肉としてきざみて麺とし之れを裹み煮るといふ。
餺飥〈衦字付〉 楊氏漢語抄に云はく、餺飥〈博託の二音、字は亦、𪍡𪌂に作る、玉篇に見ゆ〉は衦麺、方に切る名なりといふ。四声字苑に云はく、衦〈古旱反、上声の重〉は摩りぶるための衣なりといふ。
煎餅 楊氏漢語抄に云はく、煎餅〈此の間に字の如しと云ふ〉は油を以て熬る小麦の麺の名なりといふ。
餲餅 四声字苑に云はく、餲〈音は蝎と同じ、俗に餲餬と云ふ。今案ふるに餬は食に寄するなり、餅の名とるは未だ詳かならず〉は餅の名、麺を煎りて蝎虫の形に作るなりといふ。
黏臍 弁色立成に黏臍〈油餅の名なり、黏り作り人の膍臍に似せるなり、上の音は女廉反、下の音は斉〉と云ふ。
饆饠 唐韻に云はく、饆饠〈畢羅の二音、字は亦、〓〔麥偏に必〕𪎆に作る。俗に比知良ひちらと云ふ〉は餌の名なりといふ。
䭔子 唐韻に云はく、䭔〈都回反、又、音は堆と同じ、此の間に音は都以之ついし〉は䭔子なりといふ。
歓喜団 楊氏漢語抄に歓喜団と云ふ。〈しなじなの甘物を以て之れをつくる。或説に一名を団喜と云ふ。今案ふるに俗説に梅枝、桃枝、餲餬、桂心、黏臍、饆饠、䭔子、団喜は之れを八種の唐菓子と謂ふ。其の見ゆる有るは、すでに上文に挙ぐ〉

(注11)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」参照。
(注12)カラタチ自体の実のことなどどうでもいいことにされている点が、なるほどと理解に至る考え落ちになっている。頓智にすぐれたおもしろい話として際立つ構成である。このように頭を捻るおもしろ味があるからこそ、本説話は伝承されてきていたと考えられる。話を伝えることが生きる知恵に直結している。カラタチは、名を捨てて実(果樹園のなかの果樹の実)を取ったことになっている。

(引用・参考文献)
太田2005. 太田泰弘「唐菓子の系譜─日本の菓子と中国の菓子─」『和菓子』第12号、虎屋文庫、平成17年3月。
「菓子の文化史」 「菓子の文化史」(平成22年度)『文化史総合演習成果報告』奈良女子大学大学院人間文化研究科(博士前期課程)国際社会文化学専攻、2011年3月。奈良女子大学ホームページ http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/index.html(2024年5月2日閲覧)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』 筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む─声から文字ヘ─』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
次田1980. 次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
中村2015. 中村修也「田道間守と非時香菓伝説新考」『言語と文化』第27号、文教大学、2015年3月。文教大学学術リポジトリ https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/records/3032
渡辺2000. 渡辺融「フットボール、昔と今」『大学出版』第47号、大学出版部協会、2000年10月。大学出版部協会 https://www.ajup-net.com/web_ajup/047/web47.shtml(2024年5月2日閲覧)

加藤良平 2024.5.4加筆初出

蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─

記紀の国生み説話

 ヤマトの名は、記紀の初めにある国生みの説話にすでに見られる。まず、あめの浮橋うきはし天上あまの浮橋うきはし)から天沼矛あめのぬほこあま之瓊のぬほこ)を下して掻き混ぜ、潮が凝りて淤能碁呂おのごろしま(磤馭廬嶋)となったところで、イザナキとイザナミがあひ遘合みとのまぐはひ(共為夫婦・為夫婦・合為夫婦))をした。その結果、いくつかのしま(洲)ができたなかの一つが、おほやまと豊秋とよあきしま(大日本豊秋津洲)であった。

 是に、ふたはしらの神、はかりて云はく、「今が生める子良からず。猶あまかみもとまをすべし」といひて、即ち共に参ゐのぼり、天つ神のみことひき。しかくして、天つ神のみこと以て、ふとまにに卜相うらなひてのりたまひしく、「をみな先に言へるに因りて良からず。亦還りくだりて改め言へ」とのりたまひき。故、爾くして、かへり降りて、更に其のあめ御柱みはしらめぐること先の如し。是に伊耶那いざなきのみこと、先に言はく、「あなにやし、えをとめを」といひ、のちいも伊耶那いざなみのみこと言はく、「あなにやし、えをとこを」といひき。如此かく言ひをはりてあひして、生みし子は、あは道之穂之ぢのほの狭別島さわけのしま。次に、伊予之いよの二名島ふたなのしまを生みき。此の島は、身一つにしておも四つ有り。面ごとに名有り。かれ予国よのくに愛比売えひめと謂ひ、讃岐国さぬきのくに飯依いひより比古ひこと謂ひ、粟国あはのくにおほ宜都比売げつひめと謂ひ、左国さのくに建依別たけよりわけと謂ふ。次に、隠伎之おきの三子島みつごのしまを生みき。亦の名は、あめおし許呂ころわけ。次に、筑紫島つくしのしまを生みき。此の島も亦、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、筑紫国つくしのくにしらわけと謂ひ、豊国とよくにとよわけと謂ひ、肥国ひのくにたけむかとよ久士比泥くじひねわけと謂ひ、熊曽国くまそのくにたけわけと謂ふ。次に、岐島きのしまを生みき。亦の名は、あめ比登ひと都柱つはしらと謂ふ。次に、しまを生みき。亦の名は、あめ之狭手のさでより比売ひめと謂ふ。次に、度島どのしまを生みき。次に大倭豊秋津島おほやまととよあきづしまを生みき。亦の名は、天御あめのみ虚空そら豊秋とよあき津根づねわけと謂ふ。故、此のしまを先に生めるに因りて、おほ島国しまくにと謂ふ。しかくして後に、還りしし時、びのしまを生みき。亦の名は、たけ方別かたわけと謂ふ。次に、小豆あづきしまを生みき。亦の名は、おほ野手比売のてひめと謂ふ。次に、大島おほしまを生みき。亦の名は、おほ多麻流たまるわけと謂ふ。次に、女島ひめしまを生みき。亦の名は、天一根あめひとつねと謂ふ。次に、訶島かのしまを生みき。亦の名は、あめおしと謂ふ。次に、両児島ふたごのしまを生みき。亦の名は、天両屋あめのふたやと謂ふ。〈吉備児島より天両屋島に至るまでは、并せて六つの島ぞ。〉(記上)
 こうむ時に至るに及びて、先づ淡路洲あはぢのしまを以てとす。みこころよろこびざれるなり。かれなづけて淡路洲と曰ふ。すなはおは日本やまと〈日本、此には耶麻騰やまとと云ふ。しも皆此にならへ。〉豊秋とよあきしまを生む。次に予二名洲よのふたなのしまを生む。次に筑紫洲つくしのしまを生む。次に岐洲きのしま度洲どのしまとを双生ふたごにうむ。ひと、或いは双生むこと有るは、此にかたどりてなり。次に越洲こしのしまを生む。次に大洲おほしまを生む。次にびのしまを生む。是に由りて、始めて大八洲国おほやしまのくにおこれり。即ち対馬嶋つしま岐嶋きのしま、及び処処ところどころしまは、皆是しほあわりて成れるものなり。亦は、水の沫の凝りて成れるとも曰ふ。(神代紀第四段本文)  遂に為夫婦みとのまぐはひして、先づひるを生む。便ち葦船あしのふねに載せてながしやりてき。次に淡洲あはのしまを生む。此亦の数にれず。故、還復かへりてあめに上りまうでで、つぶさに其のありさままをしたまふ。時に天神あまつかみ太占ふとまにを以て卜合うらふ。乃ちをしへいでてのたまはく、「婦人たわやめこと、其れすでに先づ揚げたればか。更に還りね」とのたまふ。乃ちとき卜定うらへてあまくだす。故、ふたはしらの神、改めてまたみはしらを巡りたまふ。かみは左よりし、かみは右よりして、既に遇ひたまひぬる時に、陽神、先づ唱へて曰はく、「妍哉あなにゑや可愛少女をとめを」とのたまふ。かみ、後にこたへて曰はく、「妍哉、可愛少男をとこを」とのたまふ。然して後に、宮をおなじくして共に住ひてみこを生む。おほ日本やまと豊秋とよあきしまと号く。次に淡路洲あはぢのしま。次に予二名洲よのふたなのしま。次に筑紫洲つくしのしま。次に岐三子洲きのみつごのしま。次に度洲どのしま。次に越洲こしのしま。次にびのしま。此に由りて、これ大八洲国おほやしまのくにと謂ふ。(神代紀第四段一書第一)
 一書に曰はく、ふたはしらの神、合為夫婦みとのまぐはひして、先づ淡路洲・淡洲あはのしまを以てとして、大日本豊秋津洲を生む。次に伊予洲。次に筑紫洲。次に億岐洲と佐度洲とを双生ふたごにうむ。次に越洲。次に大洲。次に子州。(神代紀第四段一書第六)
 一書に曰はく、先づ淡路州を生む。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に億岐洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に壱岐洲。次に対馬洲。(神代紀第四段一書第七)
 一書に曰はく、おの馭廬ごろしまを以て胞として、淡路洲を生む。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億岐洲と佐度洲とを双生む。次に越洲。(神代紀第四段一書第八)
 一書に曰はく、淡路州を以て胞として、大日本豊秋津洲を生む。次に淡洲。次に伊予二名洲。次に岐三子洲きのみつごのしま。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲。(神代紀第四段一書第九)
 一書に曰はく、陰神先づ唱へて曰はく、「妍哉、可愛少男を」とのたまふ。便ち陽神のみてりて、遂に為夫婦みとのまぐはひして、淡路洲を生む。次にひる。(神代紀第四段一書第十)

 記では、それぞれの「島」について亦の名の神名を記す。一方、紀では、「洲」の名を連ねるに止まる。記では、淡道之穂之狭別島、伊予之二名島、隠伎之三子島、筑紫島、伊岐島、津島、佐度島を生んでから大倭豊秋津島を生んでいる。以上から大八島国といったとする。その後、吉備児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島を生んだとしている。紀本文では、「及至産時、先以淡路洲胞。」とあり、すぐに大日本豊秋津洲を生んでいる。「胞」とは胞衣えなのことで、胎児をくるむ羊膜である。通常、臍帯などと同じく、後産あとざんとして子の出たあとから娩出される。これらをすべて胞衣えなと称するようになっている。胞が先に出てきて子が後から出て来ているのが問題で、順序が逆になっている。その後、伊予二名洲、筑紫洲、億岐洲、佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲の順で生み、以上で大八洲国の名前ができたとする。淡路洲は胞だから大八洲の勘定に入れていない。また、対馬島、壱岐島とその他の諸々の島々は、みな潮の泡が凝り固まってできたものであるとしている。洲と島とを使い分け、厳密な表記を心掛けている。
 紀一書第一では胞の話はなく、大日本豊秋津洲、淡路洲の順で、大島が除かれて大八洲国としている。一書第二から一書第五までは国々の記載はなく、一書第六は、淡路洲・淡洲を胞として大日本豊秋津洲を生み、以下本文と同じである。一書第七は、淡路洲、大日本豊秋津洲、伊予二名洲、億岐洲、佐度洲、筑紫洲、壱岐洲、対馬洲の順である。一書第八になると磤馭慮嶋が胞にされ、淡路洲を生み、次に大日本豊秋津洲、伊予二名洲、筑紫洲、吉備子洲、億岐洲、佐度洲である。一書第九では、淡路洲を胞として大日本豊秋津洲、その後に淡洲が登場し、伊予二名洲、億岐三子洲、佐度洲、筑紫洲、吉備子洲、大洲、一書第十では淡路洲、蛭児を生んで終わっている。異同が多い点が、かえって厳密に記そうとしていた意図を伝えることになっている。

アハヂの謎(虻蜂取らず・蜘蛛の子を散らす)

 生まれる順として、淡路島を出発点にして、本州から四国、九州、日本海側、瀬戸内海へと回るか、四国の次に隠岐、佐渡があって九州が後回しにされるか、記のように本州が大八島国の最後になるかいろいろである。紀に見られる「」は、国が生まれるときの梃子として効いており、淡路島がキーになっている。紀本文に「意所快。故、名之曰淡路洲。」とある。何が気に入らなかったのか、また、アハヂという名がどうして不快を表す名に値するのか。大系本日本書紀に、「第一子は産みそこないをするという当時の伝承がある通り、その第一子は生みそこないであったので、その第一子にアハヂ(吾恥)の島と名づけたという意(これはアハヂ島という、当時すでに存在していた島の名の地名起源説話の一つがここにからんだもの)。意に満たないので、この島は、おそらく流し捨てたのであろう。ここでは淡路州は大八洲の数に入っていない。この部分は古事記のヒルコの話に相当する。」(331頁)とある。新編全集本日本書紀には、それに加えて、「あるいは軽蔑する意の「淡あはむ」をかけたか。」(27頁)ともある。淡路島はヒルコと違って流されずに現在も大きく存在する。国生みの話は、記、紀本文、一書第一~第十まであるが、一書の第二以降は大雑把で噺のレベルに達しておらず、説話として体を成しているのは、記、紀本文および一書第一だけであり、紀本文にのみ何食わぬ顔で淡路島の悪口が書かれている。
 大系本にいうとおり、すでに存在していた地名に託けた地名譚であろう。先に阿波あはという地名があり、それに引きずられてできたであろうあはという地名があった。そのアハヂという地名にからんで説話が創られている。そして、後先かまわず胞が先に出てきていることから、ちぐはぐさを感じさせる内容を表していると考えられる。おそらくこれは、諺の「虻蜂取らず」の訛った形の頓知であろう。虻蜂取らずとは、どっちつかずや中途半端なことの譬えに用いられている。abu+fati→afadi である。自ら張った巣の中央にクモがおり、巣の対角線上にアブとハチとが同時にかかった。両者ともクモにとっては獲物として大物で魅力的だが力も強い。クモは、どちらを捕ろうかと迷っているうちにどちらも捕れないまま逃げられてしまう(注1)。すなわち、畿内にある朝廷は、西方からの侵入者に対し、明石、鳴門の両海峡を防ごうとして、淡路島の真ん中に城を一つ構えて守ろうとしたが叶わなかった。それを虻蜂取らずの淡路島と洒落ている。
 クモの巣は高いところできらきらしている。移動に際して糸を伸ばして風に乗り、海を越える種もあり、それを糸遊いとゆうと呼ぶ。3~7mmの成体のクモが細い糸を吐き、風に乗って移動する現象である(注2)。ただし、一般に糸遊といえば陽炎のことを指す。現象としてはいずれもぼやぼやっとしてちらちらっと目に映る。漢語の「遊糸」は、梁の簡文帝の詩賦などに見えており、芸文類聚にいくつも例が載る。本邦では和漢朗詠集や菅家文章にも見え、また、和訳して「糸遊」という語も作られている。空海は仏典に拠って「陽燄」の語を用いており、陽炎と遊糸がイメージのなかで混同しているとも考えられている。平安朝の仮名文学においても、「かげろふ」はほのかな光の揺らぎ、光ってはかげり、かげっては光る心もとない現象として想起され、人の世やわが身のはかなさの譬えとして表現されている。
 秋津島は淡路島を胞として出てきた。淡路島は、古代以来、一つの島で一つの国、淡路国を形作る。その胞を破って、蜘蛛の子を散らすような状態になった(注3)。ものすごい数のもじゃもじゃが現れた。一つの島(本州)にたくさんの国(近江、丹波、信濃、上総、出雲、伊勢、吉備、紀伊、伊豆、美濃、播磨、……)がある。淡路島と本州との間は明石海峡である。明石はタコが名産である。そのタコを特に蜘蛛蛸と呼んでいる。「蛸」の字は中国ではアシタカグモのことを指し、巣を張らずに家にいてゴキブリなどを食べて生きている。そんな「蛸」に似た水中の昆虫といえば、トンボの幼虫、ヤゴである。

左:アシタカグモ雌成虫(Jinn「アシダカグモ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アシダカグモ)、中:明石のタコ(松岡明芳「明石市内の商業地区魚の棚で販売される明石ダコ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/明石ダコ)、右:コヤマトンボのヤゴ(Keisotyo「ヤゴ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ヤゴ)

 成虫のトンボは空を飛び、糸遊のように高いところで羽根がきらきらしている。したがって、カゲロフである。透き通った羽根がぼやぼやっとちらちらっと見えるのは、縁紋と呼ばれるステンドグラスの鉛線ケイムのような筋が入っていて、模様となっているからである。
 大倭豊秋津島(大日本豊秋津洲)の秋津とはトンボのことで、蜻蛉と記される。和名抄に、「蜻蛉 本草に云はく、蜻蛉〈精霊の二音〉は一名に胡〓〔勑冠に虫〕〈音は勅、加介呂布かげろふ〉といふ。釈薬性に云はく、一名に蝍蛉〈上の音は即〉といふ。兼名苑に云はく、虰蛵〈丁香の二音〉は一名に胡蝶は蜻蛉なりといふ。」とある。「蜉蝣かげろふ」とは、今いうカゲロウ目やウスバカゲロウのようなアミメカゲロウ目の昆虫だけでなく、トンボ一般のことを指した。そして、「陽炎かげろふ」は、光がちらちらと揺れ動くように見える現象をいい、「かぎろひ(ギ・ロは甲類、ヒは乙類)」の転とされ、ヒは火の意である。万葉集では、炎・蜻火・蜻蜓火といった字を当てている(注4)
 万葉集中に、アキヅとして記される例は全部で二十一例である。内訳は、地名のアキヅが七例(「秋津」(万36・911・1368・1713)、「蜻蛉」(万907)、「飽津」(万926)、「蜻」(万3065))、地名のアキヅノが六例(「秋津野」(万693・1345・1406)、「蜻野」(万1405)、「蜓野(万2292・3179))、枕詞のアキヅシマが五例(「蜻嶋」(万2・3250・4254)、「秋津嶋」(万3333)、「安吉豆之萬」(万4465))、昆虫としてのアキヅが二例(「あき津羽づは」(万376)、「蜻領あきづひれ」(万3314))である。

 あき津羽づはの 袖振る妹を 玉くしげ 奥に思ふを 見たまへ吾が君(万376)
 …… たらちねの 母がかたと 吾が持てる まそみ鏡に 蜻領あきづひれ 負ひめ持ちて 馬へ吾が背(万3314)

 「秋津羽の袖」はうすもの製の袖、「蜻領巾」はオーガンジーの領巾のことである。いずれも透けるだけでなく、トンボの羽根の縁紋のように模様が施されていてきらきらと輝くものであったものと思われる。

トンボの羽根模様と秋津島

 このように、アキヅが特別な言葉として扱われた理由は、国生みの説話と関係があるからであろう。トンボは秋になって成熟し、交尾できるようになると、その縁紋は左右の羽根でぴったり揃うようになる。交尾して産卵できるようになった証拠である。万376番歌は、題詞に「湯原王宴席歌二首」とある。女性が成長して高貴な皇子と婚約を発表した宴席に、湯原王が侍して祝った歌と思われる。トンボの縁紋を画に描くと、本州(大倭豊秋津島・大日本豊秋津洲)にたくさんの国のある様を描いた日本地図のようになる。

大日本図(拾芥抄、慶長十二年(1607)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2580206/63~64をトリミング合成)

 今日に伝わる古い日本地図としては、14世紀初めの仁和寺蔵日本図や金沢文庫蔵日本図、14世紀半ばのものを伝える拾芥抄所収の大日本国図が知られている。中世までの日本図を総称して行基図という。仁和寺蔵日本図に「行基菩薩御作」、拾芥抄に「大日本国 ハ行基菩 ノ スル也。」と注記されている。いずれも、今日のものと比べ、本州に関東地方部分からの北方向への屈曲が少なく、また、諸国が丸みを帯びた形でつなぎ描かれている。行基図は独鈷図ともいう。まんなか辺がくびれているのを密教の法具のとっに見立てたようである。拾芥抄には、「此 ノ形如 ノ テ仏法滋盛ナリ ノ形如 ノ ニ金銀銅鉄 ノ珍宝。五穀豊稔ナリ。」とある。地理的には、列島は若狭湾から琵琶湖を通って伊勢湾へ抜けるところが細くなっているから、それが独鈷の中心ということであろう(注5)
 また、金沢文庫蔵日本図に、我が国を取り巻くように、ヘビか何かのような鱗状の模様が描かれている。その外側の異域の記述は、今昔物語集に典拠があるとする考証が応地1996.にある。また、鱗状の模様については、龍を描いて国土が守られるようなデザインであるとの考証が黒田2003.に行われている。龍が描かれるにいたった根源には、龍が雨水を導く雷神と深い関係がある点にあるという。五行説では、青龍は東の方位と位置づけられるが、国を巡る形で描かれていることは古代末期以降の雨の神としての龍神信仰によるものとしている(注6)。ただ、地図は古代からあったと考えるのが自然である。我が国の場合、諸国の編成に分国はあっても異民族に分断されたことはなく、大勢に変化はない。また、宗教的なドグマに支配された暗黒時代も訪れず、名称の点にのみ、行基図、独鈷図と呼ばれた程度で、特段に形が抽象化されたり偏向が行われた形跡は見られない。おそらく、既存の地図を目にしながら、模写や修正を繰り返して新しい地図は作られ続け、結果的に現存する行基図へとつながり、一部に龍のような芸術性を伴ったものが現れたのだろうと推測される。
 古代の地図が仁和寺蔵日本図に遠くないものとすれば、東西に延びている国々の様子は、トンボが羽を広げた姿に準えられて考えられたのではないか。その特徴を一言でいうなら縁紋的である。棚田の広がる風景が、縁紋のつづく様子に合致することも重ね合わせて納得されたに相違あるまい。なかでも、赤トンボの生育環境として田圃ほどふさわしい場所はなく、水田稲作の展開によって我が国では赤トンボがたくさん見られるようになっている。本州は、大倭豊秋津島(大日本豊秋津洲)、赤トンボの島とイメージされたのである(注7)
 国生みのはじめが淡路島なのは、明石海峡の地名によっている。アカシ(証)になるのがアカシ(明石・赤石)である。

 白髪しらかの天皇すめらみことぎてだてつかはして、しるしを持ち、左右もとこ舎人とねりて、あかに至りて迎へたてまつる。(仁賢即位前紀)

 勅使の証は「節」である。竹の節を割ると左右で合うものはほかにないから証明になる。節度使とは、竹の節によって勘合したことからくる名である。中央から勅を授かって地方の行政に当たっている。和名抄で蜻蛉の一名を「胡〓〔勑冠に虫〕」とし、〓〔勑冠に虫〕が勅の虫と記されていたのには深い意味があったようである。成熟したトンボの左右の羽の縁紋の形は、まるで「節」のように対称に揃っている。赤トンボは、子孫を残せるほど成熟した証として縁紋が揃いもし、赤くもなって、二羽が合わさって交尾をし、水田で子をたくさん生む。水田で稲が赤く熟するのと良く合致している。紀では、「秋津あきづしま赫赫さかりにして」(継体紀七年十二月)、「熟稲あからめるいね」(皇極紀元年五月)と表現されている。
 秋津島では秋になると蜻蛉の縁紋が合う。辻褄が合うという言葉で譬えられよう。辻褄とは、万葉集にいう「秋津羽」、「蜻領巾」同様、服飾用語である。辻は縫い目が十文字に合う所をいい、褄は着物の裾の左右がそろう所をいう。そこから、辻褄が合うとは、合うべきところがきちんと合って物事の道理が合うことをいい、辻褄が合わないとはちぐはぐなことをいう。先に胞となって出てしまった淡路島はヤゴではなかった。辻褄の合わない、すなわち、成熟してもトンボにならない蜘蛛、蛸、また、蜘蛛蛸のことを言っていたわけである。ヤマト朝廷の勢力が本州部分において、稲作にかなう地として東西に版図を広げていくなか、文様が左右対称状になっているのを正当なこととするように構想されていた。それが、aki(秋)+tudituma(辻褄)→akidusima(秋津島)である。

トンボと太鼓と雷

 トンボという名は飛ぶ棒の訛りかという。飛ぶ棒といえば太鼓を叩くばち(枹)が連想される。和名抄に、「大皷〈枹付〉 ……兼名苑に云はく、槌は一名に枹〈音は浮、字は亦、桴に作る。俗に豆々美乃波知つづみのばちと云ふ〉は大鼓を撃つ所以なりといふ。」とある。国生みの話では、当初、イザナキとイザナミのあひ遘合みとのまぐはひ(共為夫婦・為夫婦・合為夫婦))において、「あなにやし(あなにゑや)」と唱える順序が逆であったため、蛭児や淡洲が生れて失敗している。そこで、「故、還復上詣於天」している。できちゃった結婚(授かり婚)は駄目で、神前できちんと結婚式をしてからでなければならない。順序がちぐはぐでは罰が当たるという戒めになっている(注8)。文字の点からいえば、「桴」の字は、淡路島は、明石、鳴門とも海峡に挟まれていることから連想される。「かひ」に挟まれている。秋になってできる稲穂とは「かひ」である。また、「枹」の字は「」の字から連想される。「枹」の字はまた、ケラ(螻蛄)をも指す。形はヤゴによく似、地中で生活する。
 ヤゴは別名をタイコムシという。人々にとっての太鼓の原体験はでんでん太鼓である。抱っこされながらあやされるのに用いられる。記紀説話の最初の舞台、淤能碁呂おのごろじま(磤馭廬嶋)は、雷公をイメージしていたようである。オ(感嘆符のOh!)+ノ(助詞)+ゴロ(擬音語)、つまり、雷鳴を表すと考えられる。天沼矛あめのぬほこあま之瓊のぬほこ)のヌは玉飾りのことである。そのような装飾が鞘などに施された、あるいは刀身自体の形容であるなら、きらきら光る矛を高いところから下ろしたとは、稲光をイメージした表現ということになる。民俗において稲妻は、稲を稔らせるパートナーの意であるとされている(注9)
 でんでん太鼓を背負って桴を振り回している様は、風神雷神図として描かれている。現存する古いものとしては、絵因果経、北野天神縁起絵巻、三十三間堂の彫像などが知られる。
 その雷神の持物は桴に違いなかろうが、中がくびれて両端が膨らんだ形をしているようにも思われる。太鼓をたたくふつうの桴ではなく、でんでん太鼓のための桴、すなわち、玉を糸で止めたものに近いように感じられる。両方に振られるのを異時同図に描けば、桴の先端が膨らんでいると捉えれば独鈷にも見立て得るから、日本図を独鈷図と呼んでいたことと通じていることになる。そして、雷は雲のなかに起こる。雷神が握っている物は雲を掴むようなクモ、つまり、蜘蛛や蛸のようなものだと洒落を言っているように聞こえる。それらから総合的に推察すると、古代においては雷神の桴の形としても秋津島は見られていたことになる。紀では黄泉よみの国からの帰還後、イザナキは結果的に雷を生むことになっている。

 一書に曰はく、弉諾ざなきのみこと、剣を抜きて軻遇突智かぐつちり、きだす。其の一段ひときだは是雷神いかづちのかみと為る。(神代紀第五段一書第七)
 時に弉冉ざなみのみこと脹満太高たたへり。うへくさ雷公いかづち有り。伊弉諾尊、驚きてげ還りたまふ。是の時に、雷等いかづちども、皆ちて追ひきたる。時に、道のほとりに大きなる桃の樹有り。故、伊弉諾尊、其の樹のもとかくりて、因りて其の実を採りて、以て雷にげしかば、雷等、皆退走しりぞきぬ。これ桃を用て鬼をふせことのもとなり。時に伊弉諾尊、乃ち其のみつゑなげうててのたまはく、「ここより以還このかた、雷じ」とのたまふ。是を岐神ふなとのかみまをす。此、本のは、来名戸くなと祖神さへのかみまをす。やくさの雷と所謂ふは、かしらに在るは大雷おほいかづちと曰ふ。胸に在るは火雷ほのいかづちと曰ふ。腹に在るは土雷つちのいかづちと曰ふ。そびらに在るは稚雷わかいかづちと曰ふ。かくれに在るは黒雷くろいかづちと曰ふ。手に在るは山雷やまつちと曰ふ。足の上に在るはつちと曰ふ。ほとの上に在るは裂雷さくいかづちと曰ふ。(神代紀第五段一書第九)

秋のヤマトと「山跡」とアキヅシマ

 秋津(蜻蛉)なる赤トンボが飛んでくるのが秋である。稲を刈り、市へ持ってゆき、売り買いする。秋だからあきなひという。分量をはかるのに必要なのがはかりで、天秤棒に吊るす。価値が釣り合うようにしなければならない(注10)。天秤棒の大型のものは杠秤ちぎり(扛秤)といい、雷神の桴に似て棒の中ほどが支点となるので多少細くなっている。左右が釣り合ったところが辻褄が合うところである。もとは織機の経糸を巻く円柱の榺、すなわち、緒巻に由来するという。和名抄に、「榺 四声字苑に云はく、榺〈音は勝負の勝、楊氏漢語抄に知岐利ちきりと云ふ〉は織機のたていとを巻く木なりといふ。」とある。ちぎりとは約束、因縁のことである。今でも契約書には割印を捺す。勘合により確かめられる。
 秋にはかりも渡ってくる。季節をはかる鳥である。肥えた獲物を探して狩りにもゆく。トンボのような形の火鑽杵のような形の弓矢を使って射ると、手負いの獣は血痕を残しながら逃げていく。どこへ、いつごろ逃げて行ったかは、地面に残る血の跡を見れば推しはかれる。和名抄に「蹤血は波加利はかり」とある。山に残る跡だから、秋津島は一つの意味として「山跡やまと」と結びつくことになる。
 万葉集におけるヤマトの用字としては、「山跡」が十八例(万1・91・303・319・484題詞・551・570・1219・1221・1376・1677・1956・2128・3248・3249・4245・4254・4264)、「倭」が二十二例(万29・同或云・35・64・70・71・73・105・112題詞脚注・255・280・894(2)・944・954・966・1129題詞・3128・3236・3250・3254・3333)、「日本」が十七例(万44・52・63・359・366・367・389・810題詞・956・967・1047・1787・1175・1328題詞・2834・3295・3326)、その他に十一例(「山常」(万2)、「八間跡」(万2)、「夜麻登」(万3363・3457・3648・4487)、「夜麻等」(万3608左注)、「也麻等」(万3688)、「大和」(万4277左注(行政単位としての国名))、「夜萬登」(万4465)、「夜末等」(万4466))がある。
 「倭」の用字は魏志による。「日本」は聖徳太子、あるいは、天武天皇時代に新たに作られた国号とされている。それらと同等に数多い用字に「山跡」がある。この表記が好まれたのは秋津島(洲)との関わりがあったからに違いない。もともとのアキヅシマは、奈良盆地南部の地名、御所市室の小地名にすぎなかったのではないかと考えられている。孝安天皇の都の名は「葛城かづらきむろ秋津島宮あきづしまのみや」(記中)、「秋津嶋宮あきづしまのみや」(孝安紀)である。それが奈良盆地全体へと拡張した。トンボが交尾して胴体を丸くしたときの形が、畿内の大和国を取り巻く外輪山に準えられたかららしい。

 三十有一年の夏四月の乙酉の朔に、皇輿すめらみことめぐいでます。因りて腋上わきがみ嗛間丘ほほまのをかに登りまして、国のかたちめぐらしのぞみてのたまはく、「姸哉あなにや、国をつること。〈姸哉、此には鞅奈珥夜あなにやと云ふ。〉うつ木綿ゆふ迮国さきくにいへども、猶し蜻蛉あきづなめの如くにあるかな」とのたまふ。是に由りて、始めてあきしま有り。(神武紀三十一年四月)
 やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣あをかき 山ごもれる 倭しうるはし(記30)

左:稲穂にとまるナツアカネ、右:アキアカネの交尾(産総研ホームページ「赤トンボはなぜ赤い?動物で初めて見つかった驚きのメカニズム」https://www.aist.go.jp/aist_j/aistinfo/bluebacks/no23/)

 アキヅシマの地理的範囲の拡張は、ちょうどやまとが、三輪山や巻向山の山麓付近の一地名であったのが、今の奈良盆地を表す大和やまと、列島全体を表す日本やまとへと拡張していったようにである。神武紀に、「由是、始……」と注意書きされるのは、秋津洲の意味合いも拡張していったことを含意しているからだろう。朝鮮半島南部の加羅からが、半島全体のから、中国のからまで指し示すようになったのと同様である。アキヅシマがヤマトにかかる枕詞となっている例には、先にあげた万葉集の五例のほか、紀62・63歌謡にも見られる。水田稲作の広がりこそがヤマトの広がりであるとの意識が底流にあったようである。日本図に見られる田一枚を一国とするような描きぶりは、ヤマトの版図が、トンボが羽化して羽根を広げていくことに準えていたからと思われる。
 国生みで生んだのはシマである。紀ではシマに「洲」字を当てて表している。地形的には川の中州のように現れたり消えたりするところでありながら、「洲」は「水中可居者曰洲」(爾雅・釈水)、「聚也、人及鳥物所聚息之処也」(釈名)と説明されている。アキヅシマという言い方をすれば、トンボが集まり憩うところということになる。水田が何面も広がって拡大していく版図のことをアキヅシマと名づけて得意になっていたらしい。ヤマトコトバの言語体系において論理的な最適解を得、矛盾なく統合的に表すことができている。縁紋の話だけに、話の辻褄が合っている。

でんでん太鼓のばちのこと

 縁紋のように畦は田の水を取り巻いている。取り巻きといえば女なら芸者、男なら太鼓持ちのことをいう。倭の字は女が身をくねらせて舞っている様を表す。舞は見ていてちらちらする。目がくるめいてちらちらするのは眩暈めまひである。舞舞はかたつむりである。その貝殻はぐるぐる巻いている。頭部の突起がでんでん太鼓の桴に似るからか、でんでん虫という。カタツムリの通った跡は粘液できらきらしている。でんでん太鼓は、また、張鼓はりつづみ振鼓ふりつづみという。立派なものとしては、雅楽に用いられるふりつづみがある。双方に張った小鼓を柄で貫き、両側に糸の玉を垂れた楽器で、柄を振れば玉が鼓の皮に当たって鳴る仕掛けである。和名抄に、「𪔛皷 周礼注に云はく、𪔛〈徒刀反、字は亦、鞉に作る。不利豆々美ふりつづみ〉は皷の如くして小さく、其の柄を持ちて之れを揺すらば、則ち旁の耳還りて自ら之を撃つといふ。」とある。雅楽のほか、追儺の行事で、最後に群臣が鬼を追うのにも用いられた。
 海野2004.は、仁和寺蔵日本図の奥書の最後を、追儺関連の記述と見て次のような興味深い解説を行っている。

 行基の名を日本図に結びつけたのは、ほかならぬ悪鬼を払うついの儀式であったと考えられる。根拠の一つとして挙げられるのは、行基の作であることが明記される仁和寺所蔵図……に「嘉元三年大呂たいりょ(一二月)寒風ヲ謝シテ之ヲ写ス。外見ニ及ブ可カラズ」(原漢文)とあって、書写という行為における自己強制と図そのものの非公開性が強調されていることである。その第二としては、行基を開基とする山崎(山城国)の宝積寺ほうしゃくじの縁起に、追儺のはじまりが慶雲三年(七〇六)の行基の奏上にあるとしていることである(『漢三才かんさんさい図会ずえ』巻四おにやらひの項)。かつて追儺が朝廷における大晦日の行事であったことは、『延喜式』の記事からも明らかであるが、のち広く寺院でも行われ、その際えきが入ってはならない国土の範囲を視覚に訴えるため、日本図が用意されたものと思われる。仁和寺所蔵図の書写の時期すなわち一二月は、この推定を裏付ける有力な証拠である。(91頁)

 陰暦の十二月、追儺行事のために仁和寺蔵日本図は描かれたものではないかとするのである。宮中での追儺より以前から、寺院において鬼やらいは行われていたのであろうが、その点は措く。この仁和寺蔵本には金沢文庫蔵本のような龍様の囲みはない。龍が穢悪疫鬼を防ぐのではなく、追儺の行事を以て異域へと追い払うという解釈である。
 追儺の行事は、当初、周礼をもとに考案されたと考えられている。赤、青、黄の三匹の鬼を、黄金四つ目の仮面を著けた方相氏が大声を上げながら矛と盾を打ち鳴らし、追い払う。その後、公卿が清涼殿の階から桃の弓で矢を放ち、また、殿上人らはでんでん太鼓を振って邪気を一掃した(注11)。鬼を追う全体の様態は、雷神が羯鼓を鳴らしながら暴れ回って驚かせるのととてもよく似ていて受け容れやすかったのではないか。そして、そのでんでん太鼓とは、トンボつりの時に赤トンボがブリという飛び道具によって絡め捕られる様子にとてもよく似ており、だからこそ準えられたのではないか。
 ブリとはトンボ捕りの際に用いられる疑似餌釣りである。糸の両端に、小石などを結びつけ、投げあげる。トンボが小石を餌と間違えて飛びつくと、石についている糸が体に絡みつき、そのまま地上に落下したところを生け捕りにする。かなり高度なテクニックを要するが、夏から秋にかけての夕暮れ時など、トンボが餌を求めて群がり飛んでいる時には上手に放物線を描けば引っかかってくれるという。
 つまり、でんでん太鼓の真ん中に居る雷神は、秋になると赤くなっていく赤トンボ同様、色変化していくものと考えられていたのであろう(注12)。そしてそれは、ヤマトの国の、秋になると稲穂が赤く色づいて一面に拡がる田圃の風景と呼応しているのである。令集解・職員令の鼓吹司に、「伴に、吹の音は呼飢反と云ふ。山海経に曰はく、『東海のうちりうざん有り。獣有りて牛の如く、蒼身にして角无く、水に出入すれば則ち必ず風雨有り。其の光は日月の如く、其の声は雷の如し。其の名をと曰ふ。黄帝之を得て、其の皮を以て鼓を作り、声五百里に聞え、以て天下をおどろかす』といふ。周礼・地官・司徒上に曰はく、『鼓人は六鼓を教ふるを掌る。雷鼓を以て神祀を鼓す。〈雷鼓は八面鼓なり。〉霊鼓を以て社祭を鼓す。〈霊鼓は六面鼓なり。社祭は地祇を祭るなり。〉路鼓を以て鬼享を鼓す。〈路鼓は四面鼓なり。鬼享は宗廟を享すなり。〉賁鼓を以て軍事を鼓す。〈大鼓は之を賁と謂ふ。賁鼓は長さ八尺なり。〉鼛鼓を以て役事を鼓す。〈鼛鼓は長さ丈二尺なり。〉晋鼓を以て金奏を鼓す。〈晋鼓は長さ六尺六寸。金奏は楽を謂ひ、編鐘を撃つに作る。〉』といふ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2570154/25~26)とある。雷神の鼓は八つと決まっていたらしい。クモやタコが八本足であったのに対し、昆虫のトンボは六本だから叩く手が二本足りない。そこで、秤にもなる杠秤のような亜鈴型の桴が考案されたか、トンボ捕りのブリが引き合いに出され、八つの鼓を同時に叩けるとのオチに及んだようである。

トラの話

 鼗同様の打楽器としては外来の銅鑼どらがある。銅鑼は反響が激しく、近場に本当に雷が落ちたほどになる。目上の人が大声で猛烈に怒るのを雷が落ちるという。とらが吼えるほど恐い。同じく外来の物に名づけられたと思われる語である。銅鑼は船の出港のときに鳴らす。もやいを河岸から外すと船はふらふら揺れ始める。トラはネコのようであるが、身体に比べて頭が大きい。バランスが悪いから頭をふらふらさせている。首の揺れる張り子の虎の起源である。

左:張り子の虎(信貴山の縁起物)、右:秋の棚田(日本財団・海と日本PROJECT in 京都「伊根町「新井の棚田」稲刈り体験」https://kyoto.uminohi.jp/event/20170914/をトリミング)

 酔っ払って管を巻いている人のことをトラという。頭がふらふらしている。眠気がさしてまどろむようにとろとろの状態だからである。片栗粉のとろみ、まぐろの身の脂肪に富んだ部位のとろ、川の水深が深くて流れが緩やかなとろ、雷鳴の音のどろどろ、水が混じって粘性を増した土の泥、煮炊きに勢いの乏しいとろ火、皆同じ感覚から生まれた言葉であろう。神武紀元年正月条に、「妖気わざはひはらとらかせり。」とある。列島にいなかったタイガーのことを渡来人から聞いて、その頭のとろとろの揺れと、どろどろの雷のような吼え声からトラと名づけたらしい。蕩かすとは、人に本心をすっかり見失わせて完全に迷わせることをいう。確かにトラを前にしたらすっかり参ってしまうだろう。そして、トラの模様は棚田を高いところから見たような縞模様であり、中国ではしるしの形に合うものとして虎符が用いられていた。
 「倭」の字は、「楽浪の海中に倭人有り。分れて百余国を為す。(楽浪海中有倭人、分為百余国。)」(前漢書地理誌)の場合、音はワである。説文にはヰの音で、「順ふ㒵なり。人に从ひ委声。詩に曰く、周道倭遅ゐちたり」と、詩経・小雅・鹿鳴之什の四牡を引いている。倭は佞と同義で、諂う、媚びる、阿るの意味である。相手の気に入られるように取り入って振舞い、迎合して空気を読み、追従口、おべっか、お世辞を言って回ることである。太鼓持ちの所作をいう。おもねるとは、面練ること、顔を左右に向けることが原義とされる。トラが首を左右に振っているのは、本来は獲物を探しているのかもしれないが、張り子の虎は阿っていると捉えられたようである。

まとめに代えて

 記の上巻や神代紀の叙述について、今日の一般的な解説では、天皇による支配の正統性を主張するために祖先神話が語られているとされている(注13)。けれども、当の紀の巻一初めの「神世七代」以外に、カミノヨと訓むべき箇所はない。イザナキ、イザナミの出現までが「神世」である。巻一・巻二を「神代上」・「神代下」とするのは、他の巻の漢風諡号同様、後の時代に加筆されたものと考証されている。はじめに神があったとするのはイザナキ、イザナミまでのことで、以降ははじめに言葉ありきということのようである。紀冒頭で淮南子を引きながら作為している箇所には次のようにある。

 其れ清陽すみあきらかなるものは、薄靡たなびきてあめと為り、重濁おもくにごれるものは、淹滞つつゐてつちと為るに及びて、精妙くはしたへなるが合へるは搏偏むらがり易く、重濁れるが凝りたるはかたまり難し。(神代紀第一段本文)

 きらきら輝くものがひらひらと天になって、うまい具合にできているものがぴったり合って群がっているとする。まさに赤トンボの形容であろう。本稿で見てきた国生みの話は、全体を俯瞰すればヤマトにかかる枕詞、アキヅシマという言葉をめぐっての壮大ななぞなぞ体系である。記・神代紀第四段の国生みの説話に代表され、それらは倭人がオリジナルに創作したと思しい。そこでも上空できらきら輝くものがぴったりと符合すると語られている。紀の冒頭部分は、その連想から漢籍の字面を引きながら自らの考えを表したものである(注14)。修文、潤色の範囲を超えておらず、和魂漢才の記述である。
 国生みによって生まれた島は、本州、四国、九州とその周辺の島であった。それらの地域をヤマト朝廷が版図におさめたのは、5世紀、倭の五王の時代である。豊秋津島たる本州を、東は伊勢、西は出雲まで治めるに至ったのはその少し前のことであろう。聖徳太子等が記紀の種本となる天皇記・国記・本記を録したのは推古二十八年(620)のことである。その時点で、つい数百年前に過ぎない最近のできごと、伝えられてきていた説話をシリーズ化したということではないか。基本的に無文字社会であった上代人の文化、観念がわかれば、記紀の説話は民族の祖先神話でも、天皇家を正統化する神話でもなく、手の込んだなぞなぞ話であることは理の当然と了解される。そこにあるのはヤマトコトバだけである。無文字に暮らした上代の人たちは知識を盾にして生きたのではない。ヤマトコトバという知恵のかたまりのなかに生きていたのであった。

(注)
(注1)虻蜂取らず、という言葉の源や、古い用例について詳細は不明である。拙稿「允恭紀、淡路島の狩りの逸話、明石の真珠について」参照。
(注2)錦2005.参照。糸遊は山形県米沢地方で「雪迎え」と呼ばれている現象で、gossamer のことであると特定されている。
(注3)蜘蛛の子を散らす、という言葉の源や、古い用例について詳細は不明である。
(注4)白川1995.の「かぎろひ」の項に、「蜻火・蜻蜓火のように、とんぼの羽の繊細なかがやきとして表現するのは、おそらく他に例をみないような細やかな感覚である。」(209頁)とするが、疑問なしとしない。拙稿「履中記、墨江中王の反乱譚における記75・76歌謡について」参照。
(注5)黒田2003.は次のようにまとめている。考え方は古代のそれとは相容れない。

 行基図の謎解きによって浮かび上がったのは、〈日本図〉が独鈷の〈かたち〉をしていたという事実である。その〈日本図〉を、中世人は役行えんのぎようじや・聖徳太子・天照大神などと同体の仏神である行基菩薩が製作したものと考えた。中世人にとって、聖なる存在は同体だったのである。聖なるモノである独鈷の〈かたち〉も融通ゆうずう無碍むげであり、棒状・柱状をした聖なるモノは、何でも独鈷とイメージで結びつき、独鈷になりえた。結局のところ、行基図とは、仏神が描いた聖なる〈日本図〉なのであり、天皇の印である神璽でもあった。〈国土〉は独鈷の〈かたち〉にかざりたてられ、〈日本〉・震旦・天竺の三国は、それぞれ独鈷・三鈷・五鈷とするシンボリズムによって、荘厳な世界としてイメージされるに至ったのである。(54頁)

(注6)淮南子・墬形訓に、「雷沢に神有り、龍身にして人頭、其の腹をちてたのしむ。(雷沢有神、龍身人頭、鼓其腹而熙。)」、山海経・海内東経に、「雷沢中に雷神有り。龍身にして人頭、其の腹を鼓し、呉の西に在り。(雷沢中有雷神、龍身而人頭、鼓其腹、在呉西。)」とある。
(注7)赤トンボと称されるトンボが種として何に当たるかについて、西日本では主としてウスバキトンボ、東日本では主としてアキアカネのことを指すようである。上田哲行氏は、人間に与えるインパクトの共通性という意味で「文化的同一種」という言葉を提唱しており、示唆的である。いずれの種も、田圃という人為的に管理され、安定した生息環境によって多数発生し、それを人々が親しんで、「風景としての赤とんぼ」と化しているわけである(東・沢辺・上田2004.)。上代の人が赤トンボをいかに捉えたかは、生物学ではなく、文化人類学的な考察が必要である。
(注8)罰が当たるという言葉のバチという慣用音については、仏典によるとも思われるが、上代の用例は不明である。
(注9)雷電のことをイナヅマ(稲妻)というのは、稲が共寝をして子を宿して稔るからという理屈が箋注和名抄や東雅に唱えられ、民俗学で通説化している。和名抄には、「雷公〈霹靂電付〉 ……玉篇に云はく、電〈音は甸、和名は以奈比加利いなびかり。一に以奈豆流比いなつるびと云ひ、又、以奈豆末いなづまと云ふ〉は雷の光なりといふ。」とある。しかし、植物の稲に交尾つるびの譬えをして上代の人々に通じたのか、俄かには信じがたい。
(注10)釣り合わない例として、「高麗こま使人つかひしくまの皮一枚ひとひらを持ちて其の価をはかりて曰はく、『綿わた六十むそはかり』といふ。市司いちのつかさわらひて避去りぬ。」(斉明紀五年是歳)とある。
(注11)夏官・方相氏に、「方相氏。熊皮を蒙り、黃金の四目、玄衣・朱裳、戈を執り盾を揚げ、百隸を帥ひて時にし、以て室をもとめて疫をることを掌る。大喪にきゆうに先だつ。墓に及びて壙に入り、戈を以て四隅を擊ち、方良を敺る。(方相氏。掌蒙熊皮、黃金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時難、以索室驅疫。大喪先柩。及墓入壙、以戈擊四隅、驅方良。)」とある。本邦での実際の様子としては、栄花物語に、「例の有様どもありて、はかなく年も暮れぬれば、今の上、童におはしませば、つごもりの追儺に、殿上人振鼓などして参らせたれば、上ふりけうぜさせ給もをかし。」(巻第一・月の宴)、「つごもりになりぬれば、追儺とのゝしる。上いと若うおはしませば、ふり鼓などしてまゐらするに、君たちもおかしう思ふ。」(巻第三・さまざまの悦)、大江匡房・江家次第に、「殿上人於長橋内射方相、主上於南殿密覧、還御之時、扈従人忌最前方逢方相、振鼓・儺木・儺法師等種々事〈皆故実有〉……」(十一十二月)とある。
(注12)一説に、雷神の肌の色は儀軌に赤と定められていたとされる(田沢2014.320頁)が、根拠は不明である。
(注13)諸説をあげるには及ばない。「神話」という語が明治時代に訳語として登場していることを承知のうえで行われている。たまたま平成から令和時代の初めにかけてドグマと化しているだけである。
(注14)拙稿「日本書紀冒頭部の訓みについて─原文の「搏」や「埸(堨)」とは何か─」参照。

(引用・参考文献)
海野2004. 海野一隆『地図の文化史』八坂書房、2004年。
応地1996. 応地利明『絵地図の世界像』岩波書店(岩波新書)、1996年。
黒田2003. 黒田日出男『龍の棲む日本』岩波書店(岩波新書)、2003年。
産総研ホームページ「赤トンボはなぜ赤い?動物で初めて見つかった驚きのメカニズム」 https://www.aist.go.jp/aist_j/aistinfo/bluebacks/no23/
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
千田2003. 千田稔「聖なる場としての国家領域─「神国」の表象─」『聖なるものの形と場』18号、国際日本文化研究センター、2003年3月。日文研オープンアクセス https://doi.org/10.15055/00002965
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
田沢2014. 田沢裕賀「風神雷神図屏風 俵屋宗達筆」(解説)東京国立博物館・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション編『特別展 栄西と建仁寺』読売新聞社・NHK・NHKプロモーション、2014年。
錦2005. 錦三郎『飛行蜘蛛』笠間書院、2005年。(丸ノ内出版、1972年初出。)
東・沢辺・上田2004. 東和敬・沢辺京子・上田哲行「もう一つの赤とんぼ」上田哲行編著『トンボと自然観』京都大学学術出版会、2004年。

加藤良平 2024.2.19改稿初出

鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について

 いわゆる記紀神話の最後に登場するウカヤフキアハセズノミコトは、記に、「天津あまつ日高日子ひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあはせずのみこと」、紀に、「ひこ波瀲なぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみこと」とあって、ヒコホホデミノミコト(日子穂穂手見尊、彦火火出見尊)とトヨタマビメ(豊玉毘売、豊玉姫)の子で、母親の妹のタマヨリビメ(玉依毘売、玉依姫)に育てられた後、妻として迎えて神武天皇が生まれた話へとつながっている。紀ではウカヤフキアハセズノミコトまでを神代、神武天皇以降を人代としており、「神話」の最後の神さまということになっている。ウカヤフキアハセズノミコトの名は、母親のトヨタマビメが海辺にうぶを造る時、鵜の羽で屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに陣痛が始まり、その中に入って産んだことに由来するとされている。お産の現場を見るなと言ったのに見られて恥をかかされたと言ってトヨタマビメはお里へ帰ってしまい、妹のタマヨリビメが代わりに遣わされて乳母になり、育てられたことになっている。

 是に海神わたつみむすめ豊玉毘売命とよたまびめのみことみづかでてまをさく、「あれすで妊身はらめり。今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其のうみ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。是に其の産殿未だ葺き合へぬに、御腹みはらにはかなるにへず。故、産殿に入りす。爾くして、まさに産まむとする時に、其の日子ひこぢまをして言はく、「おほよ他国あたしくにの人は、産む時に臨みて、本国もとつくにの形を以て産生むぞ。故、妾、今もとの身を以て産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ」といふ。是に其の言をあやしと思ひて、ひそかに其のまさに産まむとするをうかかへば、八尋やひろわにとりて匍匐はらば委蛇もごよふ。即ち見驚きかしこみて退く。爾くして、豊玉毘売命、其の伺ひ見し事を知りて、うらはづかしと以為おもひて、乃ち其の御子を生み置きて白さく、「妾、つね海道うみつぢとほりて往来かよはむとおもへり。然れども吾が形を伺ひ見つること是いとはづかし」とまをして、即ち海坂うなさかへて返り入りき。是を以て、其の産める御子をなづけて、天津日高日子あまつひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあへずのみことと謂ふ。〈波限を訓みて那芸佐なぎさと云ふ。葺草を訓みて加夜かやと云ふ。〉しかくしてのちは、其のうかかひしこころうらむれども、ふる心にへずして、其の御子を治養ひたよしに因りて、其のおと玉依毘売たまよりびめけて、歌をたてまつる。其の歌に曰はく、
  赤玉あかだまは さへ光れど 白玉しらたまの 君がよそひし たふとくありけり(記7)
 しかくして、其のひこぢ、答ふる歌に曰はく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘れじ 世のことごとに(記8)(記上)
 後に豊玉姫とよたまびめはたしてさきちぎりの如く、其の女弟いろど玉依姫たまよりびめひきゐて、ただ風波かざなみをかして、海辺うみへた来到きたる。臨産こうむ時におよびて、ひてまをさく、「やつここうまむ時に、ねがはくはなましそ」とまをす。天孫あめみまなほしのぶることあたはずして、ひそかきてうかかひたまふ。豊玉姫、みざかりに産むときにたつ化為りぬ。しかうして甚だぢて曰はく、「し我をはづかしめざること有りせば、海陸うみくが相通かよはしめて、永くへだて絶つこと無からまし。今既にはぢみつ。まさに何を以てか親昵むつましきこころを結ばむ」といひて、乃ちかやを以てみこつつみて、海辺にてて、海途うみつみちを閉ぢてただぬ。かれ、因りて児をなづけまつりて、彦波瀲武ひこなぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみことまをす。(神代紀第十段本文)  是より先に、別れなむとする時に、豊玉姫、従容おもふるに語りてまをさく、「やつこ已に有身はらめり。風濤かざなみはやからむ日を以て、海辺に出で到らむ。ふ、我が為に産屋を造りて待ちたまへ」とまをす。是の後に、豊玉姫、果して其のことごと来至きたる。火火出見尊ほほでみのみことまをして曰さく、「妾、今夜こよひこうまむとす。請ふ、なましそ」とまをす。火火出見尊、きこしめさずして、猶櫛を以て火をともしてみそなはす。時に豊玉姫、八尋やひろ大熊鰐わに化為りて、匍匐逶虵もごよふ。遂にはづかしめられたるを以てうらめしとして、則ちただ海郷わたつみのくにに帰る。其の女弟いろど玉依姫たまよりびめを留めて、みこ持養ひたさしむ。児のみなを彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊とまを所以ゆゑは、の海浜の産屋に、また鸕鷀かやにして葺けるに、いらかおきあへぬ時に、児即ちれませるを以てのゆゑに、因りてなづけたてまつる。(神代紀第十段一書第一)
 是より先に、豊玉姫、天孫あめみままをして曰さく、「妾已に有娠はらめり。天孫のみこを、あに海の中に産むべけむや。かれこうまむ時には、必ず君がみもとまうでむ。如し我が為にうぶやを海辺に造りて、相ちたまはば、是所望ねがひなり」とまをす。故、彦火火出見尊、已にくにに還りて、即ち鸕鷀の羽を以て、葺きて産屋うぶやつくる。いらか未だふきあへぬに、豊玉姫、自ら大亀おほかめりて、女弟いろど玉依姫をひきゐて、海をてらして来到いたる。時に孕月うむがつき已に満ちて、こうときみざかりせまりぬ。これに由りて、葺き合ふを待たずして、ただに入りす。已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかがふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。既にみこれまして後に、天孫きて問ひてのたまはく、「児のみないかなづけばけむ」といふ。こたへて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号くべし」とまをす。まををはりて、すなはわたわたりてただぬ。時に、彦火火出見尊、乃ちうたよみしてのたまはく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘らじ 世のことごとも(紀5)
亦云はく、彦火火出見尊、婦人をみなを取りて乳母ちおも湯母ゆおも、及び飯嚼いひかみ湯坐ゆゑびととしたまふ。すべ諸部もろとものを備行そなはりて、ひたし奉る。時に、かり他婦あたしをみなりて、を以て皇子みこを養す。これよのなかに乳母を取りて、を養すことのもとなり。是の後に、豊玉姫、其のみこ端正きらぎらしきことを聞きて、心にはなはあはれあがめて、また帰りて養さむとおもほす。ことわりきてからず。かれ女弟いろど玉依姫をまだして、きたして養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌かへしうたたてまつりてまをさく、
  赤玉あかだまの 光はありと 人は言へど 君がよそひし たふたくありけり(紀6)
凡て此の贈答二首ふたうたなづけて挙歌あげうたと曰ふ。(神代紀第十段一書第三)
 是より先に、豊玉姫、出できたりて、まさこうまむとする時に、皇孫すめみままをして曰さく、云々しかしかいふ。皇孫従ひたまはず。豊玉姫、大きに恨みて曰はく、「やつこことを用ゐずして、あれ屈辱はじみせつ。故、今より以往ゆくさきやつこ奴婢つかひびと、君がみもとに至らば、また放還かへしそ。君が奴婢、もとに至らば、亦復還かへさじ」といふ。遂に真床覆衾まとこおふふすま及びかやを以て、其のみこつつみて波瀲なぎさに置き、即ち海に入りてぬ。此、海陸うみくがあひかよはざることのもとなり。あるに云はく、「児を波瀲に置くはし。豊玉姫命、自らいだきてくといふ。ややひさしくして曰はく、「天孫のみこを、此のわたの中に置きまつるべからず」といひて、乃ち玉依姫をしていだかしめて送りいだしまつる。初め、豊玉姫、別去わかるる時に、恨言うらみごと既にひたぶるなり。故、火折尊ほのをりのみこと、其のまた会ふべからざることをしろしめして、乃ちみうたを贈ること有り。已にかみに見ゆ。(神代紀第十段一書第四)

 最初に名号の訓み方について確認しておく。紀の伝本の傍訓にはフキアハセズとある(鴨脚本、兼方本、丹鶴本など)。フキアヘズと訓みたがるのは本居宣長・古事記伝による。「○葺不合は、……不合を、阿閇受アヘズと云る、イト宜し、必古きヨリドコロぞありけむ、是に従ひて訓べし、阿波世受アハセズツヾめて、阿閇受アヘズと云は、古言なり、下巻朝倉御哥に、麻那婆志良マナバシラ袁由岐阿閇ヲユキアヘとあるも、ユキアハなり、此ホカにもアハ阿閇アヘと云る例多し、【フキアハセズノ○○○○○○○命と訓はわろし、あはせずと云言、御名に似つかはしからず、凡て上代の名に、然詞の調シラベあしきは無きをや、】さて凡て屋をフクには、ナタナタノキより、葺上フキノボりて、ムネにて葺合フキアハせて、ヲフることなる故に、葺終るを、葺合フキアハすとは云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/443~444、漢字の旧字体は改めた)とある。「葺終るを、葺合フキアハすとは云なり」と断じていながら、「御名に似つかはしからず」として退けており、必ずしも歯切れのいいものではない。ただ、現行の解釈ではどれもフキアヘズとなっている。葺き終わらないうちに生まれたことを表すという。アフは「敢」、「堪」などの字を当てる下二段活用の動詞で、補助動詞として、終わりまで持ちこたえる意を表している。しっかと〜する、〜しおおせる、の意になっている。一例をあげる。

 常の恋 いまだまぬに 都より 馬に恋ひば になへむかも(万4083)

 アフという語は、打消、疑問、反語と結んで、不可能や困難な意を表すことが多い。すなわち、ウカヤフキアヘズという言い方は、そもそもが鵜の羽を茅葺屋根のように最後まで葺くことなどできようはずがない、ということを含意していると考えられる(注1)
 常識をもって考えれば、鵜の羽をもって屋根を葺くなどという話は奇想天外である。そんな話(咄・噺・譚)が構想され、創作され、伝達されている。天才作家が機智、頓智を駆使して意図的に物語を拵えたものであろう。上代の人たちは、話のなかに散りばめられている機智、頓智をとてもおもしろく感じ、互いによろこびながら話し伝えたものと想像される。
 話(咄・噺・譚)のなかで水鳥のウ(「鵜」(記)・「鸕鷀」(紀))の羽をもってして屋根を葺いている。この発想はとてもユニークである。古く釈日本紀に、「大問云、以此鳥羽産屋。有由緒哉、如何。先師申云、無慥所見。但、廻今案、鸕口喉広、飲-入魚、又吐-出之、容易之鳥也。是以象産出平安、令此羽於産屋者歟。以産屋、称鷀葺屋者、以鸕鷀羽葺之本縁也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12866187/1/25~26、返り点等を付した)とする説が載る。納得できるものではない。産屋とはウム(生)+ガ(助詞)+ヤ(屋)のことだからウ(鵜)+カヤ(草)であろうとする俗説は、着想として考えた場合には当たっているかもしれない(注2)。とはいえ、ウ(鵜 cormorant)という鳥の名がことさらに唱えられており、その羽を葺き草に使ったことを皇子の名前に反映させている。ガチョウやアヒルの羽をもって羽毛布団を作ったというのなら現実的でわかりやすいが、鵜の羽を産屋の屋根材に用いると言っている(注3)。比喩として話しているとしか考えられない(注4)
 何が変か。他の鳥ではなく鵜が選ばれているところである。
 「以鵜羽葺草、造産殿。」(記)などとある。草で屋根を葺くように鵜の羽を使っていると考えられている。訓注に「訓葺草加夜」とある。カヤとは、屋根を葺くのに適した丈の長い葉をした比較的堅い草の総称である。近代に伝わる茅葺屋根の例としては、ススキやアシ、チガヤ、スゲ、カリヤス、ムギなどが用いられた。耐久性の点でススキやアシは好まれたらしい。イナワラを使うこともあったが、数年で駄目になってしまう。それらの草を刈り取って乾燥させて束ねたものを屋根材に使っている。話(咄・噺・譚)ではその代わりに「鵜羽」を用いたことになっている。実際にあり得ないどころか想定することも滑稽である。鵜の実状を見ればわかる。

羽を乾かす鵜

 鵜という水鳥は潜水に特化した種とされている。一般的な水鳥、ハクチョウやカモなどでは、尾脂腺から脂肪分の多い分泌物を出し、嘴を使ってそれを羽に塗りつけることで水をはじいている。浮き進む時、船のように見える。他方、ウの場合、脂が羽に付いておらず、水上で浮かんで進む様子も潜水艦が浮上運行しているように見える。そして魚を捕まえようと水に潜ってはびしゃびしゃになっている。目的を果たした後は陸に上がっては羽を大きく広げ、バタつかせて乾かしている。
 そんな鳥の羽をわざわざ選んで屋根材にしようなどとは誰も思わない。雨漏りしてかなわないではないか。つまり、名義のウカヤフキアへズという言い方自体、自己矛盾を抱えていながらも絶対的に肯定されているのである。鵜の羽を葺草かやにして屋根を葺くなどということはあり得ないし、仮に着手して時間をかけたとしても屋根には仕上がらない。論理学的禅問答を名としているのであった。
 その証拠に、名のなかにカヤという言葉が含まれている。助詞のカヤ(カ、ヤ)は疑問の意を表す。また、詠嘆を表すこともある。

 慨哉うれたきかや大丈夫ますらをにして、〈慨哉、此には于黎多棄伽夜うれたきかやと云ふ。〉いやしきやつこが手を被傷ひて、報いずしてやみなむとよ。(神武前紀戊午年五月)

 この例は、何ともいまいましいことよ、の意である。カ(終助詞)+ヤ(間投助詞)の構成である。他に、カ(係助詞)+ヤ(間投助詞)の形で、特にトカヤという形をとって、……といったか、……とかいうことである、の意を表す場合、また、カ(係助詞)+ヤ(係助詞)の形で、活用語の連体形に下接し、疑問や反語の意を表す場合がある。それらのカヤという意味合いをカヤ(「葺草」)という言葉に塗り込める使い方を行っていると仮定すると、「以鵜羽葺草」という言い方は、鵜の羽をもって葺草とするとはいったいぜんたいどういうことなのか、これはまた何とすごいことか、そんなことはとてもあり得ないよ、といった激しい気持ちを吐露する表現となっている。説明調に置き換えてみれば、「鵜の羽を以て葺草かやるかや」などと畳み重ねた言い方になる。それを簡潔に記している。無文字時代、言語のすべてが口頭の音声言語によるものであった以上、いま発した言葉に自己循環的な論法で言及し、それをこそがなるほど納得の言葉づかいであると考えたに相違あるまい。すなわち、「以鵜羽葺草」という珍妙な形容は、その言葉自体にその言葉のからくりが語られている。鵜の羽でカヤにするとはねぇ、何たることだろうねぇ、という意味を包含しており、言辞自体がわざとらしい珍奇な言い分であることを主張している。
 鵜の羽は始終濡れている。濡れるは古語でヌル(濡)という。ヌルには髪などがゆるんでほどける意がある。

 松浦川まつらがは 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせるいもが すそれぬ(万855)
 家づとに 貝をひりふと 沖辺おきへより 寄せ来る波に 衣手ころもで濡れぬ(万3709)
 嘆きつつ 大夫ますらをのこの 恋ふれこそ わが髪結かみゆひの ぢてぬれけれ(万118)
 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに き入れつらむか(万123)

 束ねようにもほどけてしまうのがヌルである。鵜の羽は濡れていて、屋根材に適用するために束ねようにもその段階からしてできないのである。鳥の名はウ(鵜)である。否応なく、なかば強制的に応諾させられる際の発語は、同音のウ(諾)である(注5)。ウ、ウ、ウと言葉に詰まりながら認めざるを得なくなっている。鵜の羽は屋根材のカヤに当たらないのに、葺けと強要されて否応なくそうしている。だから完成には至らない。最初から決まっている。
 出産を迎えるに当たってトヨタマビメは、その場面を見るなとオモフルニ言っている。ホホデミノミコトはその禁を破って見てしまう。いわゆる見るなのタブーを冒した顛末が描かれている。紀一書第三に、「已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかかふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。」とある。話として古事記とよく似ており、神代紀本文にも「従容おもふるに」要請する描写がある。どうしてオモフルニと形容しているのか。オモフルニはゆったりしたさまを表す。語源はともかく音感からは、オモ(面)+フル(振)ことをしていると感じられる。オモ(面)+フル(振)こととは左右を見ながらゆっくりと歩くことである。ねりようのような所作である。トヨタマビメは用心深く作戦をることをしている。聞かされたヒコホホデミノミコトは、いやに用心深いではないかと思っただろう。相手がネルことをしてきているのだから、こちらはその真相をネラフことで対処しようとする。それが言葉の理にかなっている。ネラフ(狙)とは、ひそかに獲ようと目をつけることである。動物を狩るときの行為である。彼はもともと山幸彦(山佐知毘古)であった。獲物を捕らえるには物陰に隠れて狙う。斥候うかみ(窺見)をするようにウカカフ(覘、窺、伺)のである。他者に知られないように周囲に目を配りながら相手の真意や事の真相をつかもうとすることである。そういう展開にふさわしい言葉が選ばれている。そして、ウカカフという言葉の名詞形、ウカカヒ(ヒは甲類)は、隙を狙うことを表す。生まれてきた子の名前に絡んでいる。ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)とよく似た音である。上代の人にとって、鵜とはウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)のために飼育された動物であった。彼らに動物分類学的な種の同定の意識は薄く、実用面から鵜飼に使う鳥 cormorant のことをウと呼んだのである。一旦飲み込んだ魚をウッと吐き出すからウと名づけたと考える。この箇所に鵜を登場させているのは、山幸彦が海神の宮へ行って学んだ、魚に対する狩猟法こそが鵜飼なのだということを述べているからと考えられる。

 …… おほき戸より うかかひて 殺さむと すらくをらに 姫遊ひめなそびすも(紀18)
 御真木入日子はや 御真木入日子はや おのを 盗みせむと しりつ戸よ いたがひ 前つ戸よ い行き違ひ うかかはく 知らにと 御真木入日子はや(記23)
 このをかに 小牡鹿をしかみ起こし 窺狙うかねらひ かもかもすらく 君ゆゑにこそ(万1576)
 窺狙うかねらふ 跡見とみ山雪の いちしろく 恋ひばいもが名 人知らむかも(万2346)

 古事記には、トヨタマビメが到来していることについて、「「今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其のうみ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。」と語られている。出産するのに実家のある海原うなはらでは駄目で、うみ波限なぎさに来ている。そこに産屋を造って出産準備を整えている。民俗的風習としては、母屋とは別に産屋を造ることは珍しいことではない。だが、実家で出産することに問題があるとは考えにくい。農耕を主体とする人と漁撈を主体とする人との間の関係を示すものとも考えられている。その際、海原うなはらうみへの移動は何を物語るのか。うみ(の波限なぎさ)は海岸の波打ち際のことだから、漁民の領域であるようにも思われる。そんなところへ産屋を建てるのはおかしなことである。満潮時、水に濡れてしまう。だからこそ、鵜の羽はゆるんでほどける意のぬれ○○ることになり、屋根は完成しなかった。
 ナギサ(波限、波瀲、渚、汀)の語源は不明であるが、語の音感として同根の語と思われるナグ(凪、和)と関係がありそうで、海の波が穏やかであることを表すように思われる。と同時に、草が薙ぎ払われたように横倒しになっている様子もイメージされる。「故、其の剣を号けて草薙くさなぎと曰ふといふ。」(景行紀四十年是歳)とある。ふだんは静かでも台風などが来れば生えていた草も家もなぎ倒される。だから、産屋は完成に至っていない。
 記紀の話の五伝(記、紀本文、紀一書第一、第三、第四)のうち、産屋を作ったとする話が三伝(記、紀一書第一、第三)、生まれてきた赤ん坊をかやなどで裹んだとする話が二伝(紀本文、紀一書第四)にある。このうち、産屋を作ったとする話では、ヒコホホデミノミコトが造ったように語られている。紀一書第一や第三では、トヨタマビメ側から造って待っているようにと要請されている(注6)。鵜飼に使う鵜の羽を使って産屋を建てようとしている。鵜に首結いをつけて、大きな魚は食道に留まるようにして、それを吐かせて獲物とした。そのように鵜自体を使って魚を捕まえるばかりでなく、鵜の羽を竿やロープに付けておいて、それを川面に叩きつけるなどしてあたかも鵜が近づいて来たかのように魚に思わせ、驚いて逃げていくところを一網打尽に網で捕獲する漁も行われていた。それも鵜飼の一種とされ、万葉集では「かは(を)立つ」(万38・3991・4023・4190・4191)と言い表している。囲っておいて鵜が来たようにして逃げ惑う魚を捕ったのである。もちろん、その囲い立てに屋根はない。
 鵜の羽だけを使った鵜飼をする場合、鳥の鵜はおらず、つまり、ふつうなら鵜は魚を飲み込んで胸を膨らませているところだがそれがない。鮎を飲み込んでふくらんだ大きな胸は見られないのである。鵜のオホムネ(大胸)が見られないということは、鵜の羽ではオホムネ(大棟)は作れないということである。そのことは鵜の観察から証明されている。鵜の両翼は、背のいちばん高いところへ被さるわけではない。羽を広げて乾かす時など、羽根のない背中が露出している。尾脂腺から脂が出ないから、背中の頂部に羽毛をまとうには及ばない。すなわち、ウカヤフキアハセズという言い方はその言葉自体で論理が完結している。ウカヤなるものが仮にあったとしても、それはフキアフ(葺合)ことは体現され得ず、完成されることは決して望めないものであることがまたしても証明されているのである。
 大棟とは屋根のいちばん高いところのことである。棟木が渡されており、そこを覆う屋根のことをイラカ(甍)と呼んでいる。新撰字鏡に「屋脊 伊良加いらか 甍 上に同じ」、和名抄に「甍 釈名に云はく、屋の脊を甍〈音は萌、伊良加いらか〉と曰ひ、上に在りて屋を覆蒙おほふなりといふ。兼名苑に云はく、甍は一名を棟〈音は多貢反、訓は異なる故に別に置く〉といふ。」とある(注7)
 和名抄では、また、「棟 爾雅に云はく、棟は之れを桴〈音は敷、一音に浮、無祢むね〉と謂ふといふ。唐韻に云はく、檼〈隠の音、去声〉は棟なりといふ。」とある。紀一では「甍未合時」(一書第一)をイラカオキアヘヌトキニ、「屋蓋未合」(一書第三)もヤノイラカイマダフキアヘヌニと訓んでいる。それぞれその前に「全用鸕鷀羽草葺之」、「即以鸕鷀之羽、葺為産屋」と断られている。鵜飼は鵜飼でもやり方が違うからできないのだとわかるようになっている。産屋は産屋でも、鵜の羽で造るということは、鵜の巣にするのがせいぜいのものであって、いわゆるお椀形にしかならない。ウ(鵜)+ス(巣)の形はウス(臼)の形である。甍を載せることなどないのである。
 オホムネのないことが語られている。白川1995.に、「おほむね〔概(槪)・略〕 中心となる重要な点。「むね」は趣旨のあるところで、「むね」「むね」「むね」と同根の語。本来名詞であるが、のち副詞的に用いることがあった。副詞としては概・略などの字を用いる。」(191頁)とある。話の主旨のことから概略のことまで表している。

 二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰をはりのよりどころよろづの国の極宗おほむねなり。(推古紀十二年四月、寛文版本にヲホムネ、岩崎本傍訓に「極」にキハメ、「宗」にムネ、その下にナリとある)
 此則西方南海法徒之大帰オホムネ矣。(南海寄帰内法伝・第一、長和五年頃点)
 みだりに去就して其のおほむねくこと有ること无れ。(大唐西域記・第三、長寛元年点)
 語言は異なりと雖もおほむねに印度に同じ。(同)
 ヲホムネ天子之孝也。(古文孝経・天子章第二、仁治二年点)
 盖 居泰反、フタ、ケダシ、オホフ、キヌガサ、オホムネ、フタ、カブル、禾カイ(名義抄)

 名義抄では、大垣・大分・大都・大底・槩・概・梗槩・略・枑・率・盖といった字にオホムネの訓みを載せている。なかでも「蓋(盖)」をオホムネと訓む例は示唆的である。「屋蓋」(一書第三)はヤノイラカであり、屋根に蓋をすることである。説文に、「蓋 苫なり、艸に从ひ盍声」とある。とまはチガヤの類で、菅茅を編んで作った覆いをいう。覆い被せてフタのように雨露から守る肝心なところがオホムネということになっている。ウカヤフキアヘズとは、主旨も概略もないということ、まとめとして何かがあるということではなく、事の次第としてそうなったのだということを物語っていると考えられる。
 肝心要のオホムネの類義語に、要害、要衝の地、大切な場所を表すヌミという語がある。

 賊虜あたる所は、皆是要害ぬみところなり。(神武前紀戊午年九月)
 凡そ政要まつりごとのぬみ軍事いくさのことなり。(天武紀十三年閏四月)
 新羅に要害ぬまところを授けたまひ、(欽明紀二十三年六月、兼右本左傍訓)

 このヌミにはヌマという別訓も見られる。同音に沼の意がある。古形は一音のヌである。足をア、水をミと言っていたのと同様とされる。幸田露伴『音幻論』に、「沼はヌであり、塗はヌルであり、……海苔・糊・血はすべてノリである。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366/38~39)とあり、ヌには、濡れていて、どろどろしていて、ぬめりのあるものの意があり、糊状のものとは塗るべき対象であるとしている。そして、沼はまた一音でヌともいい、ヌには瓊の意がある。瓊が塗るべき対象かといえば、勾玉を磨く時に、砥石に水を塗ってそこで磨いていくとやがてどろどろとぬめりを帯びてくる。そこで、タマ(玉、瓊)のこともヌと呼ぶことがあったものと思われる。トヨタマビメやタマヨリビメという女性役は、「たけばぬれ」る髪の毛を持っていたと措定していたのではなかろうか。

 行方ゆくへ無み こもれる小沼をぬの 下思したもひに われそ物思ふ このころのあひだ(万3022)
 廼ちあま之瓊のぬ〈瓊は玉なり。此にはと云ふ。〉ほこを以て、指し下してかきさぐる。(神代紀第四段本文)
 其の左のもとどりかせる五百箇いほつみすまるたまひきとき、瓊響ぬなと瑲瑲もゆらに、あまの渟名井まなゐに濯ぎ浮く。(神代紀第七段一書第三)

 以上、ウガヤフキアヘズノミコトの誕生の説話について考究した。民俗的な風習があってそれを表すために説話が構想されたものではない。ヤマトコトバの理解のために、言葉を循環的に説明すると必然的に生じるおかしな話(咄・噺・譚)が述べられている。今日の人が神話として読みたがる記紀の説話には、ヤマトコトバの自己言及的語釈の要素が必ず含まれている。無文字時代の言語が言語としてあり得たのは、その言葉を声に出して絶えることなく発し続けていたことによる。記録する手段の文字がなく、記憶のみによって残された言葉であった。言葉が言葉として成立する前提がすべて発声に負っているのだから、民族の記憶庫から忘れらないようにときどきは声に出して諳んじてみなければならない。その場合、単なる棒暗記では対応できない。棒暗記の共有は、教育勅語の強制に見られたように限界がある。誰もが興味深く感じ、なるほどと思い、おもしろがることのできるテキストが求められる。洒落と頓智の入り混じった話(咄・噺・譚)がかなっている。記憶を確かなものにして、多くの人へ、また、次の世代に伝えていくのに役立つ。社会言語学的に言えば、ヤマトコトバの世界征服の魂胆が、頓智話に籠められているといえる。記紀説話を創作した構想の一端には、ヤマトコトバファーストをモットーとして、ヤマトコトバ語族を広げて確かならしめようとする野望のようなものが垣間見られる。その限りにおいてのみ、記紀の叙述は、古代において支配の正統性を担保するものであったと言える。

(注)
(注1)筆者旧稿の考えを改め、現行の解釈を凌ぐものとなっている。
(注2)思想大系本古事記に、「鵜の羽で産殿を葺いたというのは、鵜の羽に安産の霊力があると信じられていたためであるという説(可児弘明)がある。鵜の羽を持っていると安産できるという俗信がかつて沖縄にあり、また中国では妊婦が鵜を抱いて安産を願う信仰があったという。ただし産殿(うぶや)の意にあたる「うみがや(うむがや、生むが屋)」の転化がウガヤとなり、そのウが鵜に結びつけられたとする解釈もある。」(361頁)とある。可児1966.には、「豊玉姫神話がウの安産に関してもつ霊力を反映したものだとすれば、なぜ羽だけに限定されたかは別にして、ウによって安産を願う日本の宗教思想はウの胎生説とともに中国から渡ってきたにちがいない。」(49~50頁)と、かなり乱暴な議論が行われている。
(注3)そのようなことは歴史を遡ってみても聞いたことがないばかりか、試そうという気にすらなれない。民俗慣行のおまじないにヒントを求めても、話のなかで鵜の羽をわざわざとり上げて屋根を葺いている理由を説明しきれるものではない。
(注4)仏典に膨大な比喩の話を典拠とするなら、典拠を示すことで研究は完成、終了ということになるだろう。それをもって何を解明したというのだろうか。瀬間1994.は、海宮訪問の表記とストーリーには経律異相と一致するところがあると述べている。書き方の問題は太安万侶の筆には関わろうが、稗田阿礼の誦習とは無関係である。
(注5)拙稿「事代主の応諾について」参照。
(注6)記でも、産気づいて「入-坐産屋」とあるから、それまではそこに近づいていなかったことがわかり、トヨタマビメが自ら産屋を造っていたのではない。
(注7)イラカは、屋根の最も高いところ、大棟の上を覆って雨を屋根の左右へ別ける役割を果たしている。イラカという語については、イロコ(鱗)と同根とする説と、イラ(莿・苛)+カ(処)という構成とする説がある(注11)。イラという語には、草木のとげのことを指すほか、魚の背びれの棘のことも言う。鱗にしても背びれの棘にしても海神の宮にあったとしたらよくかなうものである。異国風の情景を思わせるために、瓦製の甍のことがイラカという言葉の原初であるかもしれない。「海神わたつみの 殿のいらかに ……」(万3791)とある。瓦葺き屋根は波立つ海面の様子にもよく似ている。
 それに対して山幸彦であるヒコホホデミノミコトは、屋根のすべてを葺草かやによって葺こうとしている。海原うなはらうみ(の波限なぎさ)で作ろうとしていたから気づかなかった。もしうみではなくかはへと河口から川を遡っていたら気づいたかもしれない。かはのことは川原かはらとも言う。同音にかはらがある。かはらというヤマトコトバは防火対策に特段の効果があるから注目された結果なのだろう。川原に建物を建てて消防用水に恵まれることと同様だと考えられて和訓となった可能性が高い。

 冬十月の丁酉の朔にして己酉に、小墾田に宮闕おほみやを造りてて、瓦覆かはらぶき擬将せむとす。……是の冬に、飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやひつけり。かれ飛鳥川原宮あすかのかはらのみやうつおはします。(斉明紀元年十月~是冬)

 尤も、イラカという言葉がすべて瓦製のことを指していたとは思われない。
 イラカという語については、角川古語大辞典に、和名抄の解説を受けて、「「甍」の字義よりすれば、瓦葺きの屋根の棟(むね)、また、その棟瓦をさし、「屋背」の字義よりすれば屋根の棟をさし、「在上覆蒙屋」の字義は、棟をさすとも、屋根一般をさすともとれる。しかし上代の用例では、一般の屋根にはいわず、瓦とは断定できないが、みな立派な御殿についていい、中古以降は特に瓦屋根の意に用いられる。」(338頁)とある。また、日本国語大辞典の「語誌」には、「語源については、その形態上の類似から、古来「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かった。確かにアクセントの面からも、両者はともに低起式の語であり、同源としても矛盾はしないが、上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる。」(1375頁)とある。また、古典基礎語辞典の「解説」には、「瓦で葺いた屋根のいちばん高い所。」(157頁、この項、西郷喜久子)とある。上代の用例にイラカ(甍)が瓦製かどうか、文例から完全には掌握できないため何とも言えない。筆者は、元来が他の屋根部分とは異なる造りであることを示した言葉ではないかと考える。結果的に素材の違いになって現れることもあったということである。
 板葺き(杮葺き)や樹皮葺き(檜皮葺)の屋根でも、棟部分だけ、他とは別に丸く包んで押さえる方法がとられている。棟包みと呼ばれる桟に当たるものを使い、棟の端から端まですべてを途切れることなくつなぎ覆っている。記紀では、産屋を造る伝とは別にかやなどで子を裹んだとする文がある。「乃以草裹児、棄之海辺、閉海途而俓去矣。」(紀本文)、「遂以真床覆衾及草、裹其児之波瀲、即入海去矣。此海陸不相通之縁也。」(紀一書第四)。苞にして贈り物を贈るやり方でパッケージングしているのは、屋根の甍の造りと同様だからだろう。ただし、茅葺屋根の棟部分にのみ棟瓦を敷き置いて被覆する方法は、瓦巻き、瓦棟などと呼ばれて現在残されているが、この棟仕舞は明治時代以降の流行と言われている。
 まとめると、面として屋根を葺いたのとは別仕立てで、大棟部分から雨が侵入しないように工夫したところをイラカと呼ぶことにしていたものと考える。イラ(棘)のある籬を動物が避けるように、イラのあるところを雨は左右へ避けるのである。雨は屋根の最下部まで伝って行って流れ落ちている。
 下図の家形埴輪の例は鰹木を載せたイラカとなっている。家や屋根の傾斜以上に大棟部分が肥大して作られており、あたかも甍形埴輪の様相である。当時の人々の関心の所在が明らかとなっている。

左から、天平の甍(新薬師寺)、家形埴輪(今城塚古墳出土、古墳時代、6世紀、今城塚古代歴史館展示品)、東三条殿?(年中行事絵巻模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574885/18をトリミング)、イワヒバを冠した芝棟(川崎市立日本民家園)

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
可児1966. 可児弘明『鵜飼─よみがえる民俗と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
幸田露伴『音幻論』 幸田露伴「音幻論」『露伴随筆集(下)』岩波書店(岩波文庫)、1993年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1126366
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
思想大系本古事記  青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
瀬間1994. 瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』おうふう、平成6年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、1935年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273

加藤良平 2025.1.6改稿初出

二人の彦火火出見について

 日本書紀において、別人物(あるいは別神格)に、ひこ火火出見ほほでみという名がつけられている。山幸ことひこ火火出ほほでみのみことと神武天皇のただのみなひこ火火出見ほほでみである(注1)。紀の本文に、皇孫のあま彦彦火ひこひこほの瓊瓊ににぎのみことが降臨し、鹿葦津姫かしつひめ木花之開耶姫このはなのさくやひめ)と結婚、火闌降ほのすそりのみこと、彦火火出見尊、火明命ほのあかりのみことが生まれたという彦火火出見と、その子、ひこ波瀲なぎさたけ鸕鶿草葺がや不合尊ふきあへずのみことの子である神武天皇として知られる彦火火出見である。

 この点については従前より議論されている。

 神武天皇をここ[第二の一書]に神日本磐余彦火火出見尊という。第三の一書も同じであり、さかのぼって第八段の第六の一書……に神日本磐余彦火火出見天皇といい、くだって神武紀でもそのはじめに、諱は彦火火出見、同元年正月条……には神日本磐余彦火火出見天皇とある。神武天皇をまた彦火火出見尊という理由について、記伝は簡単に、彦火火出見尊の名は「天津日嗣に由ある稲穂を以て、美称奉れる御号なる故に、又伝賜へりしなり」とし、通釈も、ただ彦火火出見尊とだけ書いたのでは祖父の彦火火出見尊とまがうので、神日本磐余彦の六字を加えて区別したという。これらは神武天皇と瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊はもとより別人だが、ともに彦火火出見尊といったと頭からきめてかかった上での解釈である。しかし津田左右吉[『日本古典の研究』]は、神代史の元の形では、瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊が東征の主人公とされていたが、後になって物語の筋が改作され、彦火火出見尊に海幸山幸の話が付会されたり……、豊玉姫や玉依姫の話が加わったり、鸕鷀草葺不合尊が作られたりした。また他方では東征の主人公としてあらたにイワレビコが現われたのだとする。その際、元の話が全く捨てられなかったために神日本磐余彦火火出見尊(天皇)という名が記録されたり、神武の諱は彦火火出見であるという記載が生じたのだという。(大系本日本書紀197頁)
 神武即位前紀に、諱ただのみなとして「彦火火出見」……、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」……とみえる。 これについて諸説がある。一つは、神武天皇と彦火火出見尊(祖父に当る)とは別人だが、同名で紛らわしいので「神日本磐余彦」を冠して区別したとする説。また、元来彦火火出見尊が東征説話の主人公であったが、後に海幸・山幸の話や豊玉姫・玉依姫の話が付加され、鸕鷀草葺不合尊が創作された。そこで神武天皇の諱が彦火火出見となったり、神日本磐余彦火火出見尊(天皇)となったりしたものとする説もある。前説は襲名の慣習を認める観点に立つものであり、後説は同名の箇所に不自然さを認め、合理的な説明を試みようとする観点に立つものである。しかし、いずれも正当性を証明する手だてはない。(新編全集本日本書紀189頁)
 神武紀冒頭に「神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見」とあり、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」とする。これについて『纂疏』は「彦火火出見の名、祖の号を犯せるは、孫は王父の尸為(タ)るが故なり」という。「王父」は祖父の尊称。「尸」は祭祀の際死者に代わって祭りを受ける役……。『礼記』曲礼上に「礼に曰く、君子は孫を抱き、子を抱かずと。此れ孫は以て王父の尸為るべく、子は以て父の尸為るべからざるを言ふなり」。鄭玄注に「孫と祖と昭穆を同じくするを以てなり」。「昭穆」は宗廟における配列の順。中央の太祖に向かい偶数代を右に配し(昭)、奇数代を左に配す(穆)。(新釈全訳日本書紀289頁)

 「総て上代は、神また人名に、同しきさまなるもあまた見えたれと、近き御祖父の御名を、さなから負給はむこと、あるましきことなり。」(飯田武郷・日本書紀通釈、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115817/1/207、漢字の旧字体と句読点は改めた)、「帝皇日嗣の僅か一世を隔てた前と後とに於いて同じ名のが二代ある、といふことは、甚だ解し難い話である」(津田1963.552頁)と捉えるのは考え方として疑問である。中臣なかとみの烏賊津使主いかつのおみという人物は、仲哀紀九年二月条、神功前紀仲哀九年三月条、允恭紀七年十二月条に現れ、前二者と最後の人とは別人と目されている。幡梭はたびの皇女ひめみこは、仁徳紀二年三月条、履中紀元年七月条にあるが別人である。今日でも同姓同名の人は数多い。そして、古代において、名は、名づけられてそう呼ばれることをもって成り立っている。人がそう呼ばれることとは、その特徴からそう呼ばれる。いわゆる綽名こそ名の本質をついている。したがって、ヒコホホデミという名を負った登場人物が二人いたとしたら、その両者に共通する特徴があり、ともにそのように呼ばれたと考えるのが本筋である。
 神武天皇のことをいう「彦火火出見」については、神武紀冒頭に、「かむ日本やまと磐余いはれ彦天皇びこのすめらみことただのみなは彦火火出見。」、すなわち、実名であると記されている。明記されていることを疑っていては虚無を生むばかりである。神武天皇の名の表記としては、「神日本磐余彦尊」(神代紀第十一段本文・一書第一)、「磐余彦尊」(同一書第二)、「神日本磐余彦火火出見尊」(同一書第二・第三)、「磐余彦火火出見尊」(同一書第四)、「神日本磐余彦火火出見天皇」(第八段一書第六)ともある。神代紀を筆録した人がそれと知りながら二人のことを同じ名で呼んで憚っていない。名は呼ばれるものであると認識していたからだろう。
 神武天皇の彦火火出見という名は、系譜上、その祖父に当たる彦火火出見尊と同じ名である。名は体を表す。別人でありながら、人物像、事績に共通項を見出したようである。ヒコホホデミは、ヒコ(彦、男性の称)+ホホデ+ミ(霊)の意と解釈される。ホホデについては、穂穂出、火火出の意が掛け合わされているとされている(注2)。しかし、神武天皇の人物像や事績に、穂や火の意を直截見出すことはできない。違う視点が必要である。
 山幸こと彦火火出見尊と神武天皇のただのみなの彦火火出見は、両者とも、敵対者に対して呪詛をよくしている(注3)

 時に、ひこ火火出ほほでみのみことたまとを受けて、本宮もとつみやに帰りでます。ある海神わたつみをしへまにまに、先づ其の鉤を以てこのかみに与へたまふ。兄いかりて受けず。故、おとのみこと潮溢瓊しほみちのたまいだせば、潮大きにちて、兄みづか没溺おぼほる。因りてひてまをさく、「われまさいましみことつかへまつりて奴僕やつこらむ。願はくは垂救活けたまへ」とまをす。おとのみこと潮涸瓊しほひのたまを出せば、潮おのづからにて、このかみ還りて平復たひらぎぬ。すでにして、兄、さきことを改めて曰はく、「吾はこれいましみことの兄なり。如何いかにぞ人の兄としておととに事へむや」といふ。弟、時に潮溢瓊を出したまふ。兄、見て高山たかやまげ登る。則ち潮、亦、山をる。兄、たかのぼる。則ち潮、亦、る。兄、既に窮途せまりて、去る所無し。乃ち伏罪したがひてまをさく、「吾已にあやまてり。今より以往ゆくさきは、やつかれ子孫うみのこ八十やそ連属つづきに、つねいましみこと俳人わざひとらむ。あるに云はく、狗人いぬひとといふ。ふ、かなしびたまへ」とまをす。弟還りて涸瓊を出したまへば、潮自づからにぬ。(神代紀第十段一書第二)
 よひみみづかうけひてみねませり。みいめ天神あまつかみしてをしへまつりてのたまはく、「あまの香山かぐやまやしろの中のはにを取りて、〈香山、此には介遇夜摩かぐやまと云ふ。〉天平瓮あまのひらか八十枚やそちを造り、〈平瓮、此には毗邏介ひらかと云ふ。〉あはせていつを造りて天神あまつやしろ地祇くにつやしろゐやまひ祭れ。〈厳瓮、此には怡途背いつへ〉と云ふ。亦、厳呪詛いつのかしりをせよ。如此かくのごとくせば、あたおのづからにしたがひなむ」とのたまふ。〈厳呪詛、此には怡途能伽辞離いつのかしりと云ふ。〉天皇すめらみことつつしみて夢のをしへうけたまはりたまひて、依りて将におこなひたまはむとす。(神武前紀戊午年九月)
 是に、天皇すめらみことにへさよろこびたまひて、乃ち此のはにつちを以て、八十やそひらあまの手抉たくじり八十枚やそち〈手抉、此には多衢餌離たくじりと云ふ。〉いつ造作つくりて、丹生にふ川上かはかみのぼりて、天神あまつかみ地祇くにつかみいはひまつりたまふ。則ち菟田うだがは朝原あさはらにして、たとへば水沫みなはの如くして、かしけること有り。(神武前紀戊午年九月)

 ふつう、神に祈りを捧げることは自分たちに良いことがあるように願うものである。それに対して、「とごふ」や「かしる」は、憎む相手に悪いことがあるように願うことであり、本来の祈り方とは真逆のことをやっている。祈りが裏返った形をしている。
 神に祈る際、我々は柏手かしわでを打つ。二回とも四回ともされるが、その拍手はくしゅのことをカシハデと呼んでいる(注4)。小さな我が手を叩いているのを、大きな木の葉の柏になぞらえて有難がろうとするものであろうか(注5)。柏の葉は大きくて、しかも、冬枯れしても離層を作らず、翌春新しい葉が芽生えるまで落葉しないことが多い。その特徴は、ユズリハのように「葉守りの神」が宿ると考えられ、縁起の良い木とされるに至っている。

上左:カシワ(ズーラシア)、上右:落葉しないで越冬するカシワ、下左:ホオノキ、下右:朴落葉

 同じようにとても大きな葉を、カシワ同様、輪生するかのようにつける木に朴木ほおのきがある。古語にホホである。和名抄に、「厚朴〈重皮付〉 本草に云はく、厚朴は一名に厚皮〈楊氏漢語抄に厚木は保々加之波乃岐ほほかしはのきと云ふ。〉といふ。釈薬性に云はく、重皮〈保々乃可波ほほのかは〉は厚朴の皮の名なりといふ。」とある。すなわち、ホホデは、カシハデと対比された表現ととることができる。季語にあるとおり朴の葉は落葉する。しかも、表を下にして落ちていることが多い。葉の縁が内側に巻くことによるのであるが、確かに裏が現れることとは、占いに未来を予言するとき良からぬことが思った通りに起こることを表しているといえる。
 以上のことから、山幸も、神武天皇こと神日本磐余彦も、呪詛がうまくいったという観点から、ホホデ(朴手)的にしてその霊性を有する男性であると知られ、そのように名づけられていると理解できる。だから両者とも、ヒコホホデミ(彦火火出見)なる名を負っている。名は呼ばれるものであり、そう呼ばれていた。それが確かなことである。その呼ばれるものがひとり歩きして二人が紛れるといったことは、少なくとも名が名として機能していた上代にはなかった。文字を持たないヤマトコトバに生きていた上代において、人の名とは呼ばれることが肝心なのであり、己がアイデンティティとして主張されるものではなかった。自分が好きな名をキラキラネームで名乗ってみても、共通認識が得られなければ伝えられることはなく、知られないまま消えてなくなる。人が存在するのは名づけられることをもって現実化するのであり、その対偶に当たる、名づけられることがなければその人は存在しなかったかのように残されないものであった。「青人草あをひとくさ」(記上)、「名をもらせり。」(紀)として終わる(注6)。それで一向に構わない。それが無文字時代の言葉と名の関係である。
 近世の国学者と近現代の史学者の誤った説に惑わされない正しい考え方を示した。

(注)
(注1)古事記では、神武天皇にヒコホホデミという名は与えられていない。
(注2)語の理解を助ける解釈についてはいずれも説の域を出ず、証明することはできない。ホホデについてその出生譚から炎出見、ホノホが出る意、また、ホノニニギに見られるように農耕神の性格から穂出見、稲穂が出る意とが掛け合わされていると考えられることが主流である。他説も多くあるだろう。
(注3)呪詛の詳細については、拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」参照。
(注4)「柏手(拍手)」にカシハデと訓の付いている文献は実は古代には見られない。とはいえ、神前にて心を整え神妙な面持ちで間隔をあけて手を打つことと、スタンディングオベーションで興奮しながら何十回、何百回と打ち鳴らすことでは、込めている気持ちが違うことは認められよう。
(注5)貞丈雑記・巻十六神仏類之部に、「手をうつ時の手の形、かしはの形に似たる故、かしは手と名付くる由也、」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/1003?ln=ja)とある。
(注6)十訓抄に由来する「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」という戒めの言葉があるが、上代における名づけとは位相が異なる。

(引用・参考文献)
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
津田1963. 津田左右吉『日本古典の研究 上 津田左右吉全集第一巻』岩波書店、昭和38年。
日本書紀纂疏 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編『天理図書館善本叢書 和書之部 第二十七巻 日本書紀纂疏・日本書紀抄』天理大学出版部、昭和52年。

加藤良平 2025.2.13改稿初出

隼人(はやひと)について

 隼人は、古代の九州南部の人をいい、朝廷で隼人舞や警護の任についた。隼人(はや(ひ)と)の名義については、これまでに多くの説が唱えられてきた。中村1993.の研究史整理をもとにした原口2018.の分類をあげる。

(1)性行説
隼人の名義がその性質・性格・行動・しぐさによるとする説。
○敏捷・猛勇な隼人の性行が、古語でハヤシなどということにもとづくとする説(本居宣長)。
○「凶暴な人」を意味するチハヤビトにもとづくとする説(内田銀蔵)(注1)
(2)地名説
○『新唐書』にみえる「波邪」という地名にもとづくとする説(喜田貞吉)。
(3)方位説
○マリアナ語では南を「ハヤ」といい、南風を意味する「ハエ」と同様に「ハヤ」が南方をさすとする説(松岡静雄など)。
○四神思想で南方を意味する朱雀は、漢籍では「鳥隼」と関係があるとされる場合もあり、隼人の名義がここから採用されたとする説(駒井和愛・中村明蔵・原口耕一郎)。
○隼人・熊襲・蝦夷の名義は、天・陸・水という宇宙三界を表象するという説(大林太良)。
(4)職掌説
隼人の朝廷における職掌によるものとする説。
○ハヤシビト(囃し人)にもとづくとする説(清原貞雄)。
○隼人の歌舞のテンポが他の歌舞よりも早かったことによるとする説(井上辰雄)。
○隼人の狗吠/吠声から「吠人(はいと)」とされたことによるとする説(高橋富雄・菊池達也)。(原口2018.73~74頁に原口氏説を加えた)

 どうしてハヤヒトと呼ばれていたかを問うことはあまり生産的なことではない(注2)。言葉の語源を正すことは、歴史的に、すなわち、文献的に証明されるもの、例えば近代に生まれた翻訳語のように証明されるものならともかく、なぜ spring のことをヰ(井)というのかを考えても始まらない(注3)。地名のうちのかなりのものも、所与のものとしてあり、それを後からこじつけて何を表しているのか考えているだけである(注4)。このハヤヒトの場合も、由来を辿って行き着くところがあったとしても、そのことを「証明」と呼ぶことはできない。その点を承知のうえで筆者なりの意見を述べるなら、海人族として海に潜っていたことと関係があるかと考える。素潜りだから長く息を止める。ナガ(長)+イキ(息)、約してナゲキ(嘆)である。ナゲク(嘆)様子は助詞のハヤに表される。だからハヤヒト(隼人)である。文字によらない口語的世界、ブリコラージュとしての言葉遊びのなかで輝いて聞こえる言葉である。
 終助詞のハヤは、感動、感嘆、哀惜など、歌謡の例にあるように口に出して発話する言葉として用いられた。崇神紀十年九月条に「御間城みまき入彦いりびこはや」とあり、何かを言っているのではなくただ歌っているだけであるという。景行記に「あづまはや」とあり、倭建命やまとたけるのみことが東征からの帰路で溜息まじりにつぶやいている。同じく「その大刀たちはや」ともあり、自分から離れてしまったことに言葉が続かなくなっている。雄略紀十二年十月条に「いひし工匠たくみはや あたら工匠はや」とあり、処刑されそうな大工を惜しんでいる。允恭紀四十二年十一月条に「うねめはや、みみはや」とあり、朝貢した新羅人がうねやま耳成山みみなしやまを嘆き讃えた声が訛っていて、朝廷側は采女と姦通したのではないかと疑っている。
 海人族のナガ(長)+イキ(息)からナゲキ(嘆)の声、ハヤを冠する族名となっている。海人族は他にも多いから、他の地域の海人もハヤヒトと呼ばれておかしくないが、南九州の人のみそう呼ばれている。どうしてそう落ち着いたのかは不明であるが、翻って、ハヤヒトと呼ばれたことを出発点として議論は始まることになる。「隼人はやひとの名に負ふ」(万2497)とはどういうことかと組み立てて行っている。史料や木簡などには「隼人」という用字が常用されている。当時の人たちの共通認識として、そう宛てがうのがふさわしいと感じられたからだろう。先にハヤヒトという言葉があり、それに漢字を当てている。もし「隼人」という漢字が先にあって律令制のもとに初めて定められたとするなら、音読みしてシュンジンなどと名づけられていたのではないか(注5)。上代の人はハヤヒトとあることについて疑問を持つことなく、否定することはまったくなく、その名に値する行動をとるように集合意識として求めていくことになっている。

 凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人かんにん二人・史生二人、大衣おほきぬ二人・番上の隼人二十人・いまの隼人二十人・白丁びやくちようの隼人一百三十二人を率て、分れて応天門おうてんもん外の左右に陣し〈蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず〉、群官初めてらば胡床あぐらよりち、今来の隼人、吠声はいせいを発すること三節〈蕃客入朝は、吠の限りに在らず〉。(延喜式・隼人司)
 凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉ぐぶせよ。〈番上已上は、みな横刀を帯び馬にれ。但し大衣已下は木綿鬘ゆふかづらけよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ。〉其の駕、国界及び山川道路のまがりを経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
 凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近きみゆきは吠せざれ。(延喜式・隼人司)
 凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。すべて大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
 朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初めそむき、後にしたがふなりと。うべなふに請ひて云はく、すでに犬と為り、人君に奉仕つかへまつらば、此れ則ち隼人となづくるのみと。(令集解・巻五)
 歌儛教習けうしふせむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)

 養老令や延喜式にみられる隼人の任務としては、①朝廷における儀式への参加、②吠声を発すること、③竹器の製作にあたること、の三つに大別される(注6)。延喜式では、宮廷に仕える隼人は、元日即位の日や外国使節の入城、践祚大嘗祭に、応天門の外に異様ないでたちで立ち、赤い模様に飾られた楯と槍を持ち、吠声を発する決まりになっている。また、行幸に際しても、同行して国境や曲がり角で吠声を発することになっている。ハヤヒトという名から役割が整えられていっており、ハヤヒトという名ゆえに言い伝えにも反映したものとなっている(注7)。海幸山幸の話のなかで、最後に相手が屈服して仕えると誓ったとき、それを「隼人」の祖であるとし、「狗」とし、「俳優」としている。「隼人」、「狗」、「俳優」がヤマトコトバのなかで同一にカテゴライズされて納得が行っている。

 ここを以てほの芹命せりのみこと苗裔のちもろもろ隼人はやひとたち、今に至るまで天皇すめらみこと宮墻みかきもとを離れずして、よよに吠ゆる狗にして奉事つかへまつる者なり。世人よのひとせたる針をはたらざるは、これ、其のことのもとなり。(神代紀第十段一書第二)
 照命でりのみこと〈此は、隼人の多君たのきみおやぞ〉。(記上)
 ほの降命そりのみことは、即ち田君たのきみはし本祖とほつおやなり。(紀本文)
 [火酢芹命ノ曰サク]「吾已にあやまてり。今より以往ゆくさきは、やつかれ子孫うみのこ八十やそ連属つづきに、恒にいましみこと俳人わざひとと為らむ。あるに云はく、狗人いぬひとといふ。はくはかなしびたまへ」とまをす。(神代紀第十段一書第二)
 [火酢芹命ノ曰サク]「……願はくは救ひたまへ。し我をけたまへらば、やつかれ生児うみのこ八十やそ連属つづきに、いましみこと垣辺かきへを離れずして、俳優わざをきたみたらむ」とまをす。(同第四)
 [火照命ノ]頓首ぬかつきてまをししく、「やつかれは、今より以後のち汝命ながみこと昼夜ひるよる守護まもりびとて仕へ奉らむ」とまをしき。かれ、今に至るまで其のおぼほれし時の種々くさぐさわざ絶えずして、仕へ奉るぞ。(記上)

 海幸山幸の話の末尾で、ホノスセリが屈服した様子を「いぬ」に喩えている(注8)。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢をとり、屈服を表明していると見受けられる。そして、儀式や行幸の際には、隼人が犬の吠声をたて、あるいは辟邪を司ったとされている。

 …… 犬じもの 道に伏してや いのち過ぎなむ〈一に云ふ、我が世過ぎなむ〉(万886、山上憶良)
 ……其の大県あがたぬしかしこみ、稽首ぬかつきてまをさく、「やつこにし有れば、奴ながさとらずして、あやまち作れるはいとかしこし。かれ、のみの幣物まひものたてまつらむ」とまをして、布を白き犬にけ、鈴をけて、おのうがら、名は腰佩こしはきと謂ふ人に、犬の縄を取らしめて献上たてまつりき。(雄略記)
 冬十月の壬午の朔にして乙酉に、みことのりしたまはく、「犬・馬・器翫もてあそびもの献上たてまつること得じ」とのたまふ。(清寧紀三年十月)
 新羅のこきし献物たてまつるものは、馬ふた・犬三頭みつ・鸚鵡ふたかささぎ二隻及び種々くさぐさの物あり。(天武十四年五月)

 雄略記の例のように、犬を献上することで犬のように屈服、恭順していることを表明することがあった。鷹狩り用の犬も献上されていた(注9)。飼主の言いつけに従わない犬というのはいない。人に噛みついたり、狂犬病を発症した犬は殺された。雑令に規定されるほか、厩庫律・幖幟羈絆条(逸文)に、「凡畜産及噬犬、有蹹齧人、而幖幟羈絆不法、若狂犬不殺者、笞卅、以故殺傷人者、以過失論、若故放令‐傷人者、減闘殺傷一等、即被雇療畜産、〈被倩者、同過失法〉及無_故触之而被殺傷者、畜主不坐」とある。
 この要件は犬的な人である隼人にも当てはまる。履中即位前紀に、住吉仲皇すみのえのなかつみの「近くつかへまつる隼人」が、ひそかに瑞歯別みつはわけの皇子みこから褒美をあげるといわれて主人を暗殺し、挙げ句の果て、自分の主君を殺すのはけしからんということで殺されている。主人や鷹を傷つけた犬は即刻殺されるということである。飼い犬に手をかまれるとの諺になっている。記では、「墨江すみのえの中皇なかつみに近くつかへたる隼人、名は曾婆加理そばかり」といい、紀には、「近くつかへまつる隼人有り。さし領巾ひれと曰ふ。」と指定されている。
 犬の躾には、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする(注10)。意のままに動くさまを舞と見立てたのが隼人舞である。
 舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名からはやすことが期待されている。お囃子をつかさどって隼人は「俳優わざをき俳人わざひと」となっている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるように、元日や即位の際の儀式において左右に分かれて位置して「吠声」を発している。延喜式・隼人式に、「分陣応天門外之左右一二、……今来隼人発吠声三節」とあるとおりである。そんな掛け合いがなされるのは、まるで山にいるオオカミの遠吠えの掛け合いのようである。猟犬、番犬である飼犬もつられて呼応したものだったろう。まことにうまい形容である。ヨバフ声を発していたわけである。
 ヨバフは、ヨブ(喚)に反復、継続の動詞語尾フのついた形である。その際、聞かせるべき相手は必ずどこかにいる。くり返し大きな声をあげて相手に向って注意を向けさせようとしていたり、見えないけれど必ずいるはずの答えてくれるべき相手を探すように声をあげている。よく通る声でなければならない。崇峻前紀では、鳥部とりべのよろづが犬のように地に伏し、誰かまっとうに話のできる相手はいないかとヨバフことをしている。この話にはよろづの飼っていた犬の話などがエピローグとして付いている(注11)。「犬(狗)」とは何かについて深く考えられている。

 隼人はやひとの〔早人〕 名にごゑ いちしろく が名はりつ 妻とたのませ(万2497)
 かきしに 犬呼び越して がりする君 青山の しげやまに 馬休め君(万1289)
 隼人、多に来て方物くにつものたてまつる。是の日に、大隅隼人と阿多隼人と、朝廷みかど相撲すまひとる。大隅隼人勝つ。(天武紀十一年七月)
 五月丁未の朔にして己未に、隼人大隅にへたまふ。丁卯に、隼人の相撲とるを西のつきもとる。(持統紀九年五月)

 万2497番歌では原文に「早人」とあり、ハヤト、ハヤヒトという名に負うのが大きな夜声であるとしている。令集解・職員令にも「已為犬、奉‐仕人君者、此則名隼人耳。」とある。隼人舞や犬の吠え声から囃す人のこと、敏捷で動作が速い、隼人舞のテンポの速いこととする説などがあげられている。しかし、犬の本義に近づいていない。猟犬として使うのは鷹狩においてである。鷹狩に使うはやぶさは、猟犬同様、飼い主に忠実である。狩りで捕まえたのだから自分で食べてしまえばいいのに食べずにいる。感嘆に値するし、食べてしまったらお仕置きが怖いから食べることができずに彼らは嘆息しているように見える。嘆く時に使う助詞はハヤである。鷹狩には鷹、隼、鷲など猛禽類が使われるが、そのなかで隼は最も人に馴れやすく、ペット化しやすい。犬と同等である。

止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)

 鷹狩に使う鷹(隼)を調教する際(「振替ふりかえ」)にも、ホッ、ホッと静かに、そして通るように鷹を呼ぶ。ワンワン(bow-wow)言ったら近づいてこない。ホォー(howl)と遠吠えする声が「吠声はいせい」である。
 番犬として考えた場合、ドーベルマンのように警護の役に就くことには整合性がある。警護のために使う道具は楯である。平城宮跡から隼人の楯は出土している。犬という存在は、主人の楯となって主人を守る楯の役割を果たす。猟犬の記憶、さらにはオオカミの記憶としては、主人以外の人に対して敵対行動をとり、飼犬が楯となって守るのである。その際、誰をご主人様と思うかによって拒絶する相手は変わってくる。延喜式・隼人司に、「凡元日即位及蕃客朝等儀、……」、「凡践祚大嘗日、……」、「凡遠従駕行者、……」、「凡行幸経宿者、……」などとある各条は、すべて天皇を主人として隼人が振る舞うために定められた条項である。
 門番と考えるならそれは仁王に値する。大隅隼人と阿多隼人との二地域をあげたのは、左右(東西)に配置させるためで、力自慢の力士による天覧相撲が開かれている。九州南部の人の身長は低かったとされており、大相撲ではなく、犬相撲、闘犬に近い。ガードマンは通せん坊をする。入って来ようとするのを「いなぶ」ことをする。嫌がり拒むことは、古語で「すまふ」ともいうから「相撲すまひ」を取っている(注12)
 人がいちばん嘆くのは大切な人が亡くなった葬儀の時である。亡くなることは古語で「ぬ」という(注13)。死ぬことは姿が見えなくなることだから、婉曲的に死ぬことをイヌ(去・往)(万1809)と言い、人は死ぬとき横になって眠るような姿態をとる。だから、イヌという言葉が両方の意味を表していてわかりやすい。なにしろ、動詞イヌ(寝・去・往)を名詞のイヌ(犬)が体現している。イヌ(犬)がイヌ(去)ことをしたという例(桜井田部連膽渟の例、崇峻前紀用明二年七月)もある。まるで、辞書の用例として載っている一連の例文をもって一つの話にまとめられたかのようである。語学的にとても丁寧な解説となっている。ヤマトコトバはヤマトコトバをもってして、言葉を了解的に循環説明し、納得の域に達せしめている。わかりやすく、おもしろくてためになる。そんな話(咄・噺・譚)が披露されている。何のための話なのかといった問いはもはやナンセンスである。この件は辞書的説明が説話の形を整えたものである。イヌ(犬・寝・往)という言葉の本意を伝えるために話が成っている。
 犬であるハヤヒトにも活躍の場が設けられている。隼人はもがりに参列し、番犬の役割として警備に当たる。ゆえに守護人となって隼人司は衛門府に属している。忠犬よろしく殉死することもあったように描かれる(注14)

 輪君わのきみさかふ、隼人をして殯庭もがりのには相距ふせかしむ。(敏達紀十四年八月)
 冬十月の癸巳の朔にして辛丑に、大泊瀬おほはつせの天皇すめらみこと丹比高鷲たぢひのたかわしはらのみさざきに葬りまつる。時に隼人、昼夜みさざきほとり哀号おらび、くらひものたまへどもくらはず、七日なぬかにして死ぬ。有司つかさ、墓を陵のきたのかたに造り、ことわりを以てかくす。(清寧元年十月)

 犬は飼い主に忠実であるが、ホォー(howl)と遠吠えする声は何を言っているのかわからず、ただ嘆いているばかりに聞こえる。今日でも、愛犬が救急車のサイレンに反応して遠吠えを始めたら、飼い主は何が起こっているのか戸惑うばかりで、大丈夫だよと声をかけてなだめている。九州南部出身者の方言は、外国語に勝るとも劣らぬほどわからなかったといわれ、まるで犬の声のようであったというのは話のオチのようなことであるが、そこから翻って彼らをハヤヒトと名づけたかどうかはわからない。
 以上のことごとを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことを記録するものであるとか、時代的に言っていつのことに当たるのか、ハヤヒトがいつからそう呼ばれ定められていったかについては問うことができない(注14)。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁民と同様であったろう。たまたまハヤヒトという名を持っていたから、役回りとして上のようなことを担うように要請されたと語学的に証明された。今日的な概念規定、例えば「服属儀礼」、「華夷思想」、「呪力」といった術語タームで考察しようとしても的外れである。

(注)
(注1)宮島1999.は彼らが海人族で、「執檝者かぢとり」に速い人とする説を唱えている。
(注2)『鹿児島市史Ⅰ』が「いくらその語のもつ意味を正確にとらえたところで、大した意義はないように思う。」(100頁)、『鹿児島県史第一巻』が「ハヤに特種の意味を持たせる事は果して適当であらうか。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261640/1/49、漢字の旧字体は改めた)という言い方に、中村氏は反発している。
(注3)幸田露伴の音幻論など、見るべきものがないわけではない。
(注4)くずの地名の由来について古事記は語っている。「皆たしなめらえて、くそ出で、はかまに懸る。かれ其地そこなづけてくそばかまと謂ふ。〈今は久須婆くすばと謂ふ。〉」(崇神記)。
(注5)文字によらずにハヤヒトという言葉があるということは、歴史のない文化を発祥とするということであり、名義の始期を問うことは筋違いである。今日、歴史学では、天武朝からハヤヒトと呼ばれたとし、記紀の説話は後付けで創作された文飾であると考えられるに至っている。文献を歴史学的視座からしか見ていないとそうなる。記紀に書いてあることは話(咄・噺・譚)である。文字を持たずに言葉を操っていた話の時代があり、その話の言葉を文字に書き写して残そうとしたものなのである。ことことでなければ収拾がつかなくなるから、必ずことことになるように話(咄・噺・譚)とした。嘘をつくことは固く戒められ、ありもしないことをでっちあげることは慎まれた。火のないところに煙が立つようなデマは伝えられることなくかき消されただろう。情報化社会とは真逆で、基本的に人の口から口へ、一人から一人へしか伝達の術はなかったからである。その間の誰か一人でも覚えることをしなかったら伝わることはないのである。積極的に相手に覚えさせようとするための「おもしろさ」こそが話(咄・噺・譚)の命であった。
(注6)➂の竹器製作の理由については拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」参照。
(注7)言い伝えが先か、条文が先かを問うことに関心が向かっているが、見当違いである。言葉として言い当てた時からすべては始まる。話としても法としても創られていく。
(注8)官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である。令集解に「朱云、凡此隼人者良人也。」とあるとおりである。
(注9)「貢上犬壱拾伍頭、起六月一日尽九月廿九日、并一百四十七日、単弐仟弐伯伍頭、食稲肆伯肆拾壱束、〈犬別二把〉」(正倉院文書・天平十年筑後国正税帳)と見える。
 なかには貴族邸で完全に愛玩用に飼われていた犬もいたようである。『平成29年度平城宮跡資料館新春ミニ展示「平城京の戌」リーフレット』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所https://sitereports.nabunken.go.jp/21939参照。
(注10)犬の動作については、それが飼犬である限りにおいて、人によって決められている。基本的な躾に従った動きが求められる。柳亭種彦・足薪翁記に「犬のさんた」のことが記されている。

 犬にさんたせよ\/といへば、前足をあげとびつく事のありしが、他国はしらず。江戸にてさる戯をする者を見ず。手をくれといふが此餘波ともいはん歟。三太はでつち又小僧などいふ下童の通称なれば、かのでつちの狂ひまはるまなびをせよと云事なるべし。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2553925/1/63、漢字の旧字体は改めた)

(注11)拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」参照。物部守屋もののべのもりやの「資人つかひと」という立場であるが、「犬」という言葉をよく写したものになっている。
(注12)佐佐木2007.は、「いないなび・び・犬」は音が似通っていて、イメージとして連想される言葉であると指摘する。もちろん、実際の使用においては文脈に依存する。
(注13)寝ることは「ぬ」(下二段動詞)、死ぬことも「ぬ」(ナ変動詞)である。

 大原の りにしさとに いもを置きて われねかねつ いめに見えこそ(万2587)
 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐宿ねにけらしも(万1511)
 …… 隠沼こもりぬの したへ置きて うち嘆き 妹がぬれば ……(万1809)
 おくて われはや恋ひむ いな見野みのの 秋萩見つつ なむ子ゆゑに(万1772)
 明日よりは いなの川の 出でてなば とまれる吾は 恋ひつつやあらむ(万3198)
 まことまさに遠く根国ねのくにね。(神代紀第五段本文)

(注14)殉死が盛んだった中国殷代の様子を白川2000.にみると、殷代の殉葬には、(a)身分関係の如何を問わず、王との親近関係によって、王の歿後においても、なおその側近にあることを要求される親信貴戚・武人・輿馬侍衛・包丁膳宰・𠬝・妾の類と、(b)専らその墓域を修祓潔斎する目的を以て、犬や牛羊とともに埋死された女子小人・閹寺、あるいは同様の目的を以て殉殺される羌・南等の外族犠牲の二種があるという。清寧紀元年十月条の記事は、犬牲の色彩を強くにじませた内容となっている。
(注15)文字言語のもとにある文明ではなく、無文字時代の口頭言語の文化の産物である。無文字文化に「歴史」はない。記憶と記録の違いである。(注5)参照。
 なお、隼人が人間として従ったのではなく、犬の立場に立つ形で仕えたということから、南九州地方に古墳がないことを説明できるかもしれない。埴輪は殉死の代わりとして供えられたという考えが垂仁紀二十八・三十二年条に表れている。今日の歴史学では時代的に合わないこと、殉死の風はヤマトに顕著とは言えず実態を伴わないこと、埴輪の発祥は吉備の特殊器台から転じた円筒埴輪に求められ、形象埴輪を語る記述はあやしいことから、その記述は否定的にばかり見られている。しかし、埴輪とはすなわち古墳を造ることであると据えてみれば、古墳を造ることは殉死の代わりになることと定位することができる。隼人=犬を埋葬するのに、犬の墓に犠牲の犬を求めることは辻褄が合わないから、ヤマト朝廷は南九州の勢力には古墳を作らせることがなかったと理解できるのではないか。日本書紀の記述について、まだまだ感覚として読めていないところが多いと感じさせられる。

(引用・参考文献)
伊藤2016. 伊藤循『古代天皇制と辺境』同成社、2016年。
『鹿児島県史第一巻』 『鹿児島県史第一巻』鹿児島県、昭和14年。国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1261640
『鹿児島市史Ⅰ』 鹿児島市史編さん委員会編『鹿児島市史Ⅰ』昭和44年。
熊谷2019. 熊谷公男「蝦夷・隼人と王権─隼人の奉仕形態を中心にして─」仁藤敦史編『古代王権の史実と虚構』竹林舎、2019年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川2000. 白川静「殷代の殉葬と奴隷制」『白川静著作集4』平凡社、2000年。
高林1977. 高林實結樹「隼人狗吠考」横田健一編『日本書紀研究 第十冊』塙書房、昭和52年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
中村1998. 中村明蔵『古代隼人社会の構造と展開』岩田書院、1998年。
永山2009. 永山修一『隼人と古代日本』同成社、2009年。
原口2018. 原口耕一郎『隼人と日本書紀』同成社、2018年。
前川1986. 前川明久「隼人狗吠伝承の成立」『日本古代氏族と王権の研究』法政大学出版局、1986年。
松井1995. 松井章「古代史のなかの犬」『文化財論叢Ⅱ』同朋舎出版、平成7年。
宮島1999. 宮島正人『海神宮訪問神話の研究─阿曇王権神話論─』和泉書院、1999年。
守屋1973. 守屋俊彦「隼人舞と犬吠え」『記紀神話論考』雄山閣、昭和48年。

加藤良平 2024.10.14改稿初出

万1895の「幸命在」の訓―垂仁記の沙本毘売命と天皇との問答における「命」字を参照しながら―

 万1895番歌は、次のように訓まれて解されている。

 春去れば まづ三枝さきくさの さきくあらば のちにも逢はむ な恋ひそわぎ〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895)

 春になればまず咲く、サキクサのように、幸くあつたなら、後にも逢おうよ。恋をするなよ、わが妻よ。(全註釈73頁)
 春になるとまづ咲くといふ名のやうに、さきく、無事でゐたならば、後にも逢はう。だからそんなに恋しく思ふな。吾が妹よ。(注釈105頁)
 春になるとまず咲くさきくさのように、さきくあったら、後にも逢おう。そんなに恋うてはいけない、我がいもよ。(新大系438頁)
 春になるとまず咲くさい・・ぐさのように、さい・・わい命さえ無事であるならまたのちにも逢うことができよう。そんなに恋い焦れないでおくれ。お前。(古典集成41頁)
 春になると まず咲くさき・・くさの さきくさえあったら あとでもえよう そう恋しがるなよおまえ(新編全集47頁)
 命さえ長らえているならばきっと後で逢うことができよう。あまり恋に心を苦しめるな、吾妹よ。(古典大系68~69頁)
 春になると真っ先に咲く三枝のように事もなくさきくあるなら、また後にも逢おう。そんなに恋しがるな。あなたよ。(全解51頁)
 春になるとまず最初に咲く三枝のように さきく─無事であったら将来にも逢おう。 恋しく思わないでほしい。わが愛する妻よ。(全注132頁)
 春になると真っ先に咲く三枝のようにさきく(無事で)いたら、後に逢うこともあろう。恋に苦しむな吾妹よ。(全訳注原文付321頁)

 この歌は、万葉集の修辞法の「二重の序」としてとり上げられることがある。伊藤1976.は次のように考えている。

 春去れば まづ三枝さきくさの さきくあらば のちにも逢はむ な恋ひそわぎ〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895)
 春になるといつもまっさきに咲く、その三枝というではないが、達者でいたら、将来、ナニハサテオイテモマッサキニ逢おうぞ、だから、そんなに恋い焦れるな。(伊藤1976.7頁)

 これは「二重の序」であるとみたうえでの拡大解釈である。そして、論理矛盾を引き起こしている。「後にも逢はむ」を「まづさき」の意と絡めてしまうと、その季節は「春」のことなのかという疑念が生じる。四句目の「後にも逢はむ」に掛詞のかかりが見られず、同形反復や同語反復も見受けられない。三句目までで説き起こしておいて、四・五句目を対置的に承けているとしか考えられない。時間的な先後、サキ←→ノチの対比によった言い回しと解される。この歌の主意である「な恋ひそ吾妹」をはっきりと伝えたい。歌の上の方でごちゃごちゃかかりながら、最後の言いたいことへとなだれ込んでいる。
 この歌を「二重の序」とする捉え方には、稲岡2011.も賛同している(注1)。そして、「さきくありて」と訓み下のように解し、「○幸くありて─旧訓サキクアラバが諸注にも採られているが結句との照応を考えサキクアリテとする説(大浦誠士)が良い。」(和歌大系26頁)と注している(注2)

 はるされば まづ三枝さきくさの さきくありて のちにもはむ なひそわぎ〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895)
 春になるとまず咲く三枝のように、幸く(つつがなく)過ごしてまた後にきっと逢おう。だから徒らに恋しがらないでほしい、妻よ。」(和歌大系26頁)

 万葉集中に「幸」とある場合、万5・191・196・295・315・322にイデマシ(幸、幸行、行幸)、万531・543・1032にミユキ(御幸、行幸)のほかは、サキクと訓み、その例は多い。「雖幸有さきくあれど」(万30)、「真幸有者まさきくあれば」(万141・288)、「間幸座与まさきくいませと」(万443)、「幸也吾君さきくやあがきみ」(万641)、「命幸いのちさきく」(万1142)、「幸在待さきくありまて」(万1668)、「幸来座跡さきくきませと」(万2069)、「幸座さきくいますと」(万2384)、「幸有者さきくあらば」(万3240・3241)、「言幸ことさきく」(万3253)、「真幸而まさきくて」(万3538)とある。
 これらサキクと訓む例は「幸」の一字でサキクと訓んでいる。そんななか、万1895の「幸命」をサキクと訓むのだろうか。「幸命」の「命」字を life の意に解しているようであるが疑問である。集中で「命」字はミコト、イノチと訓むのが通例である。

 命幸久吉石流垂水々乎結飲都
 いのちをし 幸くよけむと 石走いはばしる たるの水を むすびて飲みつ(万1142)
 いのち幸く 久しくよけむ 石走いはばしる たるの水を むすびて飲みつ(万1142)

 万1142番歌は、一・二句目をどう句切るかで訓みが分かれている。いずれにせよ、「命幸」をイノチ、サキクと丁寧に訓んでいる。万1895番歌に「幸命」を熟語的にサキクとのみ訓むことには違和感がある。といって、「幸命在」の「命」字をミコト、イノチのいずれにも訓むことはできない。他の用法を考慮する必要がある。

 古事記に「命」字を「令」字に通用し、使役形に使っていると見ることができる例がある。垂仁記の記述である(注3)

 亦天皇、命詔其后言、「凡子名必母名、何称是子之御名」。(垂仁記)
 又命詔、「何為日足奉」。(垂仁記)
 亦天皇、其の后にめたまひて言はく、「……」。
 又、詔らめたまはく、「……」。

 現行の注釈書では「また天皇、其の后に命詔みことのりして言はく、「……」」のように訓んでいる。また、白川1995.に「〔記〕には使役の語にすべて「令」を用いる。」(401頁)とある。しかし、本居宣長・古事記伝では、「命詔」をノラシメタマハク、ノラシメタマヘルニと訓んでいる。そして、「○命詔、命字は令の誤ならむと、師の云れたる、然るべし、上にも、令天皇ニとある令の如し、【ココは、タダに詔ふには非ず、御使して伝へ詔ふなれば、令とあるべきなり、天皇命スメラミコトと書ることも、上巻にあれと、ココは然には非じ、また詔を命詔とも云べけれど、然にもあらじ、】下文の命詔も同じ、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/58)、漢字の旧字体等は改めた)と解説している。
 「命AB」が使役を含む言い方、Aに命じてBせしむ、の意に使われているから使い方としてあり得る。たやすく命じているところから、命じる相手は相対的に身分が低いかとても仲のいい間柄の人であろう。

 公、之れを聞きて怒り、命じて其の人をしりぞけしむ。(公聞之怒、命黜其人。)(世説新語・黜免第二十八)
 聊か故人に命じて之れを書せしめ(聊命故人之)(陶淵明・飲酒二十首序)
 葛城襲津彦の孫玉田宿禰におほせて、瑞歯別天皇のみもがりつかさどらしむ。(命葛城襲津彦之孫玉田宿禰、主瑞歯別天皇之殯。)(允恭紀五年七月)
 屯倉首、ことおほせて竈傍かまわきゑて、左右こなたかなた秉燭ひともさしむ。(屯倉首命居竈傍、左右秉燭。)(顕宗即位前紀)
 有司つかさみことのりして、其の玉を得しよしかむがへ問はしめたまふ。(命有司、推-問其玉所得之由。)(仁徳紀四十年是歳)
 虞人やまのつかさみことのりしてししらしめたまふ。(命虞人獣。)(雄略紀四年八月)

 垂仁記の例は、天皇と、沙本毘さほびこのおほきみの稲城に逃げ入ってしまった后(沙本毘さほびめのみこと)との間の問答である。天皇と后との間には距離があって、直接言っているのではない。ことづけて伝えている。戦闘状態で籠城中の后に伝えるのだから、軍隊にいる斥候なりに「詔」を代わりに言わせている。
 天皇と后との間の問答は状況を変えながら四対話ある。それらをみると、天皇は、最初が「詔」(➁)、二・三回目が「命詔」(➂と➄)、四回目が「問」(➆)によって発語の形になっている。稲城のなかにいる后と、それを包囲している陣にいる天皇は離れたところにいる。物理的な距離を心理的な距離と交えながら表している。

 ➀令白天皇、「若此御子矣、天皇之御子所思看者、可治賜」。
 ➁於是天皇詔、「雖其兄、猶不其后」。
 ➂亦天皇命詔其后言、「凡子名必母名、何称是子之御名」。
 ➃爾答白、「今当火焼稲城之時而火中所生、故其御名宜本牟智和気御子」。
 ➄又命詔、「何為日足奉」。
 ➅答白、「取御母、定大湯坐・若湯坐、宜日足奉」。
 ➆又問其后曰、「汝所堅之美豆能小佩者、誰解」。
 ➇答白、「旦波比古多多須美智宇斯王之女、名兄比売・弟比売、茲二女王、浄公民、故宜使也」。

 ➀は后側から発している。「令白」めなくてはならないほど離れている。使者を立てて天皇のところまで行かせて言いたいことを言っている。➁は「詔」だけしている。その兄を怨むがやはり后は愛しいと言っている。この言葉は后までは聞こえていないのであろう。自軍内での独白である。敵方に聞かせるような内容ではない。だから、「故、即有后之心。」と注釈が続いている。
 次の場面で天皇は、➂と➄においてきちんと后に聞いてもらうように言っている。遠いから使者が立った。それが「命詔」である。➃と➅は后が、その遣わされた使者の問いに答えている。使者は后の前に来ているから「答曰」でいい。➅に続き、「故、随其后白、以日足奉也。」という経過説明があって、➆へとつながっている。時間が経って稲城包囲網はどうなったか。➃に、「今当火焼稲城之時」とあるから稲城に火が放たれて少しずつ延焼して行っている。天皇側は猛攻するわけではなかったが、火が回ってきても最後まで降伏しなかった。だから、最終的に、「然、遂殺其沙本比古王、其伊呂妹亦従也。」ということになっている。死因はともに焼死ということになる。投降すれば助かった命であるし、反撃する手立てもなかったのにそうはしなかった。周りから焼けていくから包囲網は当初よりもずっと狭くなっていて、天皇と后との間の距離は物理的には近づいていた。したがって、➅と➆とで「問其后曰」、「答白」という簡潔な言い回しになっている。呼びかければ直接聞えて直接答えられた。その内容も、「汝所堅之美豆能小帒」の話になっていて、ふぐりの話までしている(注4)。男女間の濃密な関係の相談である。天皇と后という立場で戻ってほしいと願うのではなく、男と女の関係としてどうだろうかと恋慕している。しかし、下働きの女を使えと、やんわり返されてしまった。后は反乱を起こしたその兄のほうに最後まで従った。
 これほどまできちんと書き分けられている。「命詔」という書き方は、それなりの含意があってのことであり、「命詔」を熟語的にミコトノリスと捉えることは誤りである。本居宣長・古事記伝の訓みは正しかった。

 さて、以上から敷衍して万1895番歌の「命」字を考えてみると、「在」であるようにと非常に仲良しの「吾妹」に「命」じているのだと理解できる。すなわち、訓みは、使役の助動詞シムの命令形、シメと訓むことが適当である。シムの命令形シメが歌にあらわれている例は、万葉集中でも垣間見られる(注5)

 佐保過ぎて 寧楽ならむけに 置くぬさは 妹を目れず 相見しめとそ〔佐保過而寧楽乃手祭尓置幣者妹乎目不離相見染跡衣〕(万300)
 布施ふせ置きて 吾は乞ひむ あざむかず ただ行きて あま知らしめ〔布施於吉弖吾波許比能武阿射無加受多太尓率去弖阿麻治思良之米〕(万906)
 …… 上つ瀬の 鮎を食はしめ 下つ瀬の 鮎を食はしめ くはし妹に 鮎を惜しみ 麗し妹に 鮎を惜しみ ……〔……上瀬之年魚矣令咋下瀬之鮎矣令咋麗妹尓鮎遠惜……〕(万3330)
 伊香保ろに 天雲あまくもい継ぎ かぬまづく 人とおたはふ いざ寝しめとら〔伊香保呂尓安麻久母伊都藝可努麻豆久比等登於多波布伊射祢志米刀羅〕(万3409)
 岩のに いかかる雲の かのまづく 人そおたはふ いざ寝しめとら〔伊波能倍尓伊可賀流久毛能可努麻豆久比等曽於多波布伊射祢之賣刀良〕(万3518)
 …… 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとそ〔……都奇多々婆等伎毛可波佐受奈泥之故我波奈乃佐可里尓阿比見之米等曽〕(万4008)
 霍公鳥 夜鳴きをしつつ 我が背子を やすな寝しめ ゆめこころあれ〔霍公鳥夜喧乎為管和我世兒乎安宿勿令寐由米情在〕(万4179)
 たひらけく天皇すめら朝廷みかど伊加志夜久波叡いかしやくはえごとつかまつ佐加叡志米さかえしめたまへと称辞たたへことまつらくとまをす(延喜式・祝詞・春日祭)

 万1895番歌の「命」を助動詞シムの命令形と訓むと、読み添えではないから訓み方にブレはなく、しかも三句目が字足らずから解放される。三句目で切れて四句目でも切れ、言い聞かせている歌である。万4179番歌の例のように、命令形シメが歌の中間にある場合、それまでに言ってきたことと同等のことを、後ろの句でも言っている。万1895番歌に当てはまる。

 春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹
 春去れば まづ三枝さきくさの さきくあらしめ のちにも逢はむ な恋ひそわぎ
 春になるとまず咲くさきくさのように、さきくあるようにしなさい。後にも逢いましょうぞ。そんなに恋い焦がれては身に毒というものです、私のいとしい人よ。

(注)
(注1)稲岡2001.では、「五七の二句あるいは五七五の三句(もっと長い場合は、二四五六歌のように四句のこともある)にわたる序詞を譬喩として、恋の「思い」を立ち上がらせることは、人麻呂が特に力を入れて開発した<文字の歌>の修辞技法レトリックだったと考えられる。」(180頁)としている。枕詞が被枕詞を導いて全体で序詞となってつづく言葉を導いている例や、小序が下の言葉を導いて全体で序詞としてさらに下の言葉を導くといった、雨垂れ式の修飾関係一式と同様に「二重の序」も理解している。しかし、「二重の序」の本質は言葉の連なりが下へ下へと続くばかりか、最後からまた最初へと循環している点にある。文字に書いて作ったのではなく、歌いながら自ら輪唱するように作られている。木霊するような歌であって、口に歌われることによってこそ生まれるものであると考える。拙稿「万葉集の修辞法、「二重の序」について」参照。
(注2)大浦2001.は、万1895番歌について、「幸くあらば」と訓むことに否定的で、「幸くありて」と訓むべきと主張する。原文は「幸命在」で、「ば」が読み添えであるから他の可能性を考えるべきであるとしている。その整理に、「(ま)幸く」は、A《「(ま)幸く」+仮定表現》、B《「(ま)幸く」+命令表現》》、C《「(ま)幸く」+願望・意志表現》、D1《「(ま)幸く」+「て」……「む」》、D2《「(ま)幸く」+「て」……命令表現》、Eその他、と類型化している。そして、「人麻呂歌集略体歌において(塙本の訓によれば)「ば」の無表記例が三三例、表記例が一三例であるのに対し、「て」は無表記例が六二例、表記例が一例と、読み添えの数においても率においても、「て」の読み添えが「ば」の読み添えを大きく凌ぐことから考えて、「幸くありて後にも逢はむ」と訓む可能性も否定できないのである。むしろそう訓んだ方が、結句で「な恋ひそ我妹」と自分を恋しがる妹をたしなめ慰める内容と整合性を持つのではなかろうか。……後世の羈旅歌では「幸く」がかなり強固な類型を以て歌われる……。比較的用例の多い、《「(ま)幸く」+命令表現》の形式とその変形としての《「幸く」+願望・意志表現》の形式の他、《「(ま)幸く」+「て」》の形式では、残る者の立場から歌われる場合には《「(ま)幸く」+「て」~命令表現》の形式を取るのに対して、旅ゆく者の立場から歌われる場合には《「(ま)幸く」+「て」~「む」》の形式を取るというように、かなり明確にその用法の類型を導くことができるのである。」(36頁)と検証している。
(注3)垂仁記の該当部分は、次のように訓むことができる。

 しかくして天皇すめらみこと、「吾はほとほとあざむかえつるかも」とりたまひて、乃ちいくさおこして沙本毘古王を撃つ時、其のみこいなを作りて待ち戦ふ。此の時、沙本毘売命、其の忍びずて、後門しりつとより逃げ出でて、其の稲城にりぬ。此の時、其の后、妊身はらみませり。
 是に天皇、其のきさき懐妊はらみませるをしのびず、またとせいたります。かれめぐれる其の軍、すむやけくは攻迫めず。如此かく逗留とどこほれる間に、其のはらめる御子既にれます。故、其の御子を出して、稲城のに置きて、天皇にまをむらく、「若し此の御子を天皇の御子と思ほしさば、治め賜ふべし」とまをさしむ。是に、天皇、「其のを怨むれども、猶なる其の后を忍びず」と詔りたまふ。故、即ち、后を得たまふ心有り。是を以て、軍士いくさの中に力士ちからびと軽捷はやきを選り聚めてらく、「其の御子を取らむ時に、乃ち其の母王ははみこをもかそひ取れ。しは髪にもあれ或しは手にもあれ、取り獲むまにまつかみていだすべし」とのる。……
 亦、天皇、其の后にめて言はく、「およそ子の名は必ず母のなづくるを、いかにか是の子の御名みなはむ」といふ。爾くして答へてまをさく、「今、火の稲城を焼く時に当りてなかれましぬ。故、其の御名は本牟智和ほむちわけの御子みこふべし」とまをす。又、めたまはく、「いかし奉らむ」とのらしめたまへば、答へて白さく、「おもを取り、大湯坐おほゆゑ若湯坐わかゆゑを定めて、日足し奉るべし」とまをす。故、其の后の白す随に日足し奉りき。
 又、其の后を問ひて曰はく、「かためしみづの小帒をふくろは誰かも解かむ」といへば、答へて白さく、「旦波たにはの比古多々須美ひこたたすみちの斯王しのみこむすめ兄比売えひめおと比売ひめふたはしら女王おほきみきよ公民おほみたからぞ。かれ、使ふべし」とまをす。しかして、遂に其の沙本比古王を殺し、其のいろも亦、従ひき。(垂仁記)

(注4)「汝所堅之美豆能小帒」とある。「帒」字は真福寺本、兼永筆本にいずれにもそうある。「小佩」と見てヲヒモと訓むのが趨勢であるが、新校古事記に「小帒」をコフクロと訓んでいる。小さいながらヲ(雄・男・夫)である基であるから、ヲフクロと訓むべきと考える。陰嚢のことである。「」でなければ性欲の処理に困ると言ったところ、商売女ではない「浄公民」を「宜使也」と返されている。その「」は「旦波たにはの比古多々須美ひこたたすみちの斯王しのみこ」の娘であると言っている。訓字にすれば、丹波彦縦道大人王の意であろうか。「浄」字は記中にこの一例しかない。多く仏教語に用いられた。戒律を遵守して道を正しているということを表しているものと考えられる。ヲ(雄・男・夫)と同音のヲ(峰)の対がタニ(谷)であり、そこからタニハが持って来られているか。タタスは陰茎を「立たす」、ミチ(ミは甲類)は精液を「満ち」、ウシは「大人」とも記されるからであろう。睾丸が二つあるから「兄比売・弟比売、玆二女王」を使うようにと言っているようである。そんなラインまで話は行っていつつ行き違っている。「然」はシカレドモ、シカアレドモと逆接に訓んで、攻撃を引き延ばしたけれども、の意と解する説は誤りである。セックスの話まで公言しても断られているのである。シカシテ、と時間的な前後を示して、「遂殺其沙本比古王、其伊呂妹亦従也。」と話が終っている。
(注5)漢文訓読に、使役形にシムと訓む例は平安時代以降に続いている。平安時代以降、命令形は和文にシメヨ、漢文訓読にシメと区別されている。今日に至っては、シムは漢文訓読に始まったかと感じられるかもしれないが、ヤマトコトバを漢文訓読が踏襲したものである。

(引用文献)
伊藤1976. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 下 古代和歌史研究6』塙書房、昭和51年。
稲岡2001. 稲岡耕二『人麻呂の工房』塙書房、2011年。
大浦2001. 大浦誠士「有間皇子自傷歌の表現とその質」『萬葉』第178号、平成13年9月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2001(『万葉集の様式と表現─伝達可能な造形としての〈心〉─』笠間書院、2008年。)
古典集成 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮古典文学集成 萬葉集三』新潮社、昭和55年。
古典大系 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系6 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『新校古事記』おうふう、2015年。
新大系 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系2 萬葉集二』岩波書店、2000年。
新編全集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注訳『新編日本文学全集8 萬葉集③』小学館、1995年。
全解 多田一臣訳注『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
全注 阿蘇瑞枝『萬葉集全注 巻第十』有斐閣、平成元年。
全註釈 武田祐吉『増訂萬葉集全註釋 八』角川書店、昭和31年。
全訳注原文付 中西進校注『万葉集全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
注釈 澤瀉久孝『萬葉集注釋卷第十』中央公論社、昭和37年。
和歌大系 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。

加藤良平 2020.1.5初出