「大原の このいつ柴の いつしかと」歌(志貴皇子)について

 志貴皇子の歌は万葉集に全部で六首残されている(注1)。次の歌は、いつ歌われたのか、何を言うために歌われたのか定かでないものとされている。

  きの皇子みこの御歌一首〔志貴皇子御歌一首〕
 大原の このいつしばの いつしかと が思ふいもに よひ逢へるかも〔大原之此市柴乃何時鹿跡吾念妹尓今夜相有香裳〕(万513)(注2)

 廣岡2020.は、「志貴皇子の歌六首に通じる特色はその巧みな観念詠にある。中西進氏はこれを「想念」という美しい語で包む。」(371頁)という。一方、ソシュールには、「言語事実を持つ以前に一般的観念について語ることは、牛の前に犂をつける如き転倒である。」とあり、「観念詠」なる言の浮薄さを鋭く指摘する。志貴皇子の歌六首に通じる特色はその巧みな「言語事実」に尽きる(注3)
 この歌は、歌の修辞法としては三句目までが序に当たり、「吾が思ふ妹に 今夜逢へるかも」だけを言いたい。この部分だけでも今日、どれだけ理解されているのであろうか。「今夜逢へるかも」とは、今宵逢ったことについて、ああ、まったく、思い続けていたから実際に逢えたのだなあ、と、感慨に耽っていると思われている(注4)。「逢へる」とあるからすでに逢っていて、それを「かも」と詠嘆していると考えられているが、それ以外の逢い方もある。夢に逢うことである(注5)
 夢で妹と逢ったのだなあ、夢に現れたのだなあ、という意味である。そう考えると上の句もかなり鮮明になる。「大原の このいつ柴の いつしかと」は、「大原の このいつ柴の」が「いつしかと」の「いつ」を導いている。つまり、「大原の このいつ柴の」は修辞表現である。歌意の主旨には不要である。問題は、主旨に不要の表現をなにゆえ用いているかである。
 「大原の このいつ柴」とあれば、大きな原っぱがあって、そこには背の低い bush が広がっている。灌木である「柴」が威勢よく繁茂しているから「いつ柴」という語となっている。「柴」は柴垣に用いられるように障害物となる。「大原」全体に「柴」が生えていれば、ほとんど先へ進むことはできない。「いつしかと」思うほどに逢えないと形容するのにもってこいである。
 そんな状況のところは藪である。新撰字鏡に、「藪 素口反、上潤也、澤也、櫢同。也夫やぶ。又、於止呂おどろ」とある。やぶのことはオドロとも言った。名義抄では、藪、棘、榛、蔓荊などの字の訓にオドロとある。古典基礎語辞典の「おどろおどろし」の項に、「オドロは動詞オドロク(驚く)のオドロと同じ。物事が異様で、はっと衝撃を受けるさま。雨・風・地震・物怪もののけなど自然現象に使う。また、人の振る舞いなどが大仰で衝撃を受ける気持ちを表し、良い意味には用いない。」(245頁、この項、依田瑞穂)とあり、「おどろく」の項には、「オドロは形容詞オドロオドロシのオドロと同じである。オドロクは、落ち着いてはいられないような出来事や夢で、はっと目が覚める意。そこから、まるで突然目が覚めたように、はっと大事なことに気づき、予期せぬ重大事に直面して、びっくりする意となった。」(同頁、この項、石井裕啓)とある。

 いめの逢ひは 苦しかりけり おどろきて 掻きさぐれども 手にも触れねば(万741)
 其おりは、やがて通夜して、よもすがらおこなひあかして侍けるに、すこしまどろみたる夢に、内陣より麝香をたまはリて、とくかしこへつけよ、といふ人あるとみて、うちおどろきて夢なりけりとおもふに、これも本尊の御はからひにこそと、たうとくおぼえて、その夜もおこなひあかしぬ。(石山寺縁起・巻三)

 万741番歌は、夢で逢うことはつらいことだった、はっと目を覚まして手探りしたのに手に触れることなどないので、の意である。すなわち、万513番歌における「逢」とは夢のなかで逢ったという意味である。絶対にそうであることは、古語にいめ(メは乙類)だからである。同音に射目いめ(メは乙類)と言い、狩りの時に隠れて獲物を狙うところをいう(注6)。「柴」が繁茂していれば、獲物に見つからない遮蔽になる。「いつしかと」の用字に「何時鹿跡」とあり、鹿狩りが意識されている。そしてまた、「このいつ柴」とあるように、指示代名詞で「この」と間近であることを指しており、それが射目として用いられたからであろうことを予感させる。射目にする柴に自分の手がかかっている。
 夢のなかで逢っているのは、「妹」と作者であるが、それは女性側から呼ばせれば、「背」、「背子せこ」である。

 我が背子が べきよひなり ささがねの 蜘蛛くもおこなひ よひしるしも(紀65)

 背子せこ(コは甲類)は勢子せこと同音である。狩場を包囲して鳥獣を駆り立てる列卒のことである。「大原」が狩場と目されていたことがわかる。なぜなら、大原おほはらというハラ(腹)は、セ(背)に包み囲まれていると身をもって体感できるからである。そこが藪になっているということは、ウバラ(茨・棘・荊)が大繁茂している状況が見えてくる。ハラはハラでも大きなハラなのは、ウバラでいっぱいだから「いつ柴」がぎっしりであると表現するのに的確である。今発した言葉がそのままその言葉を再定義してくる仕掛けになっている。万葉歌の言葉づかいがそのままヤマトコトバの辞書として機能している。言葉っておもしろいなあ、すべてを表しているなあと、人々の記憶のなかに留められた、そういう歌である(注7)

(注)
(注1)元暦校本万葉集の巻第一の目録には、「寧樂宮長皇子與志貴皇子於佐紀宮宴歌」のもと、「長皇子御歌」に続いて「志貴皇子御歌」とあるが本編には見えず、幻の一首とされている。
(注2)原文の「市柴」をイツシバと訓むほかに、イチシバと訓む旧訓に従う説もある。
(注3)拙稿「「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について」、「「石走る 垂水の上の さわらびの」歌(志貴皇子)について」、「葦辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて」歌(志貴皇子)について」、「「むささびは 木末求むと あしひきの」歌(志貴皇子)について」、「万葉集の「磐瀬の社」の歌─志貴皇子作(万1466)を中心に─」参照。
(注4)多田2009.は、「大原のこの神聖な厳柴ではないが、いつになったら逢えるかと私が思っていたあの人に今夜逢えたことだ。」(31頁)と訳出している。
(注5)澤瀉1959.には、「「逢へる」とあつて、今妹を眼前にしての喜びの作である。」(100頁)とあり、これまでの解釈に夢で逢ったとする説は管見に入らない。
(注6)「やすみしし 我ご大君は み吉野の 秋津の小野の 野のには 跡見とみ据ゑ置きて み山には 射目いめ立て渡し 朝猟あさかりに 鹿猪ししみ起し 夕猟ゆふかりに 鳥踏み立て 馬並めて かりそ立たす 春のしげに」(万926)などと見える。夢に見ることも射目に見ることも、こちらからは見えても相手からは見えていないという共通項がある。はっと目覚めたり、はっと音を立てたら、見えていたものはたちまちに消え失せる。
(注7)上代に特徴的なヤマトコトバの論理学が展開されている。言葉と事柄とが相即のもの、すなわち、筆者の言う言霊信仰は、言葉に言葉が籠っているという順接の二重拘束へと発展する。ここでいう言霊信仰は、巷間に語られるような、単に言葉に霊力が籠っているという意味ではない。言葉と事柄とが乖離すれば言葉も事柄も無秩序になるから、そうはならない方向に推し進めるという言語学的特性について述べている。一つの言葉はその言葉が示すフェーズばかりでなく、そのフェーズ自体を決めてかかるように規定しようとする試みである。そこに、ヤマトコトバの使用上の特徴、自己循環的に語義を説明する調べが伴ってくる。発せられた言葉が何の担保もなく確かにそのとおりであると衆人に認められ、話(咄・噺・譚)の落ちとなる。文字を持たない人々が、あたかも文字を嫌うかのような一時代、数百年間を形成していた理由はそこにあると考える。論理術に長けていれば言葉に文字は不要なのである。

(引用・参考文献)
澤瀉1959. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第四』中央公論社、昭和34年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解 2』筑摩書房、2009年。
田中2010. 田中夏陽子「万葉集におけるよろこびの恋歌─志貴皇子五一三番歌の表現をめぐって─」『高岡市万葉歴史館紀要』第20号、平成22年3月。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。

加藤良平 2022.1.31初出