万葉集巻第三に、大津皇子の辞世歌ではないかとされる歌が「挽歌」の部立に載る。中西1978.232~233頁の訓みと訳を載せる(字間は適宜改めた)。
大津皇子の被死らしめらえし時に、磐余の池の般にして涕を流して作りませる歌一首〔大津皇子被死之時磐余池般流涕御作歌一首〕
ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ(万416)〔百傳磐余池尓鳴鴨乎今日耳見哉雲隠去牟〕
右は藤原宮の朱鳥元年の冬十月〔右藤原宮朱鳥元年冬十月〕
百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去るのだろうか。
一般に、古来より絶唱と認められてきており、特に議論の余地のない歌と考えられている。以下の解説書に、若干の疑問点について述べられている。
「般」は目録には「陂」とあり、その誤とする説があるが、史記孝武本紀の「鴻漸二于般一」の集解に「漢書音義曰、般、水涯堆也」とあり、攷證に般のまゝでツヽミとしたのに従ふべきである。(澤瀉1958.496頁。漢字の旧字体は改めた)
枕詞「百伝ふ」と地名「磐余」を結びつけているのは、つまり由緒・伝承を意味する〈謂われ〉に他ならない。「百伝ふ」を長い歳月、多くの人びとにより広く伝えられてゆく意ととれば、これほど〈謂われ〉にふさわしい言葉はあるまい。そして「磐余」を同時に〈謂われ〉とすることにより、一首前半の継起・持続の映像がいっそうたしかな手ごたえで伝わってくるだろう。(阪下2012.71頁)(注1)
歌の結句「雲隠る」は、人を尊敬してその死を間接的に表す敬避表現であるから、自らの死について用いるのはおかしい。この歌は、皇子周辺の人の作が皇子の辞世の歌として伝承されたものであろう。(新大系文庫本万葉集293頁)(注2)
日本書紀によれば大津皇子は自宅で自害させられている。監禁されたうえ死を賜っているので磐余の池へ散歩する機会などない。そのことも相俟って、代詠、ないし仮託された伝承歌であるとする考えが生じている(注3)。仮にそうだとするなら、なにゆえそのようなまぎらわしい設定を構えているのか、問題とされなければならないのだが問題とされていない。
題詞は歌が歌われた状況設定を語り、その枠組みにおいて歌が歌われたことを示す。大津皇子が、自身で磐余の池の「般(陂)」に「涕」を流しているさまを歌ったことでなければどうしても伝えられない内容をはらんでいるから、そのような設定に定めていると考えられる。
「磐余池」比定地には二説ある。一つは紀の記録としてみえる。履中紀二年十一月条に「磐余池を作る。」、継体紀七年九月条に「…… 御諸が上に 登り立ち 我が見せば つのさはふ 磐余の池の みなしたふ 魚も 上に出て歎く ……」(紀97)とある。紀97番歌謡は御諸の山、三輪山から眺めたものと思われるが、磐余池の魚がアップアップしていると言っている。桜井市谷・戒重付近説のものかと思われる。もう一つは、近年の発掘調査によってわかった橿原市東池尻町の東池尻・池之内遺跡の堤跡によるものである(注4)。6世紀後半に作られ、ある時期に堤の一部を壊して溝を掘って放流しており、その後7世紀末頃までに堤を積み増して再構築した跡が確認されている。どちらの池も近世まで続いていない。次第に涸れていく運命にあったようである。
「磐余池」は涸れやすい池であると思われていたとすると、万416番歌の「磐余池般流レ涕」についても辻褄が合ってくる。磐余池は大津皇子の作歌時点ですでに問題があった。「般(陂)」に亀裂が生じて水が漏れ出て困っていたのではないか。池を管理する人にとっては「流レ涕」たくなる悲しい事情であり、水漏れを表現するのに「流レ涕」であるとなぞらえることができる。

堤防は、土を盛って築き固めて作る。同じく築き固めることで古墳は作られており、築き固められたところだからツカ(塚、墳)と呼ばれた。堤防の場合、貯めた水の圧力や浸潤にも耐えるだけの土手を築く必要がある(注5)。工法を違えないとうまくいかないところがある。なのに磐余の地では、古墳(ツカ)の如く堤を作っていたために不具合が生じていたということであろう。堤防を築いて水を貯めるには覚束ないところでオホツカナシ(注6)、大きな塚の如くに作った堤防だからオホツカナシ(大塚如し)なところということである。そういうところが磐余であるというのが、人々に知れ渡っていたのではないか。イハレ(磐余)という地名は、イハ(岩)+アレ(生)と聞こえ、土が流れやすくて岩が剥き出しになるように感じられ、溜池を作るには不適で、不吉なところとの認識が人々にあったと推測される。今日の大都会と違って土地に不足はないのだから、わざわざ無理して築き固めて造作する必要はない。言=事であるというのが当時の人々のものの考え方、筆者が考える言霊信仰である(注7)。
大津皇子は家に閉じ込められながら辞世の歌を歌っている。磐余の池は漏水して問題となっている。大津皇子は想像の翼を広げて磐余の池の堤へ出向いている。拘束されて謹慎の身である。ツツミ(慎)はツツミ(包)、ツツミ(堤)と同根の語である。大津皇子は身体は慎んでいるのではあるが、言動は「彼の良才を蘊みて忠孝を以て身を保たず(蘊彼良才不以忠孝保身)」(懐風藻・大津皇子伝)(注8)ことになっている。
大津皇子の被死らしめらえし時に、磐余の池の般にして涕を流して作りませる歌一首
ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ(万416)
「や」は忸怩たる内心を表す修辞疑問文を作る(注9)。発話者の判断としては「鴨を今日のみ見て」どうこうするものではないのは当然のことだが、いかんせん逮捕、拘禁されている。今日ばかり見て「雲隠」ってしまうことになるのか、あまりに酷いじゃないか、と聞き手に強く訴えかけている。「鴨」という字で助詞の「かも」を表した(注10)から、本気か? というニュアンスを醸し出そうとして用いている。今日を最後に「雲隠」ってしまうぞというのは、今日、鴨を見ることは拘禁されているからできないし、拘禁を解かれてもできることではなかった。すなわち、「鳴く鴨」はそこにはいなかった。題詞は、磐余の池の般(堤)にないていたのは鴨ではなくて人であること、また、鴨がいなかった理由は同じく堤の漏水による水涸れが原因であると言わんとしている。鴨を見ていないのだから死ぬ必要はないはずだと挑戦的に歌っている。歌い手自身による「挽歌」としては他に有間皇子の例が知られる。同様に政権から謀反のレッテルを貼られ、対抗的な感情を露わにしていた(注11)。池にいるはずなのにいない鴨は、今日ばかり見ようにも見ることはできない。
題詞を素直に受け取れば、彼自身が歌を歌っている。磐余の池の般(堤)は涕(涙)を流すように水が漏れ出てしまっている。なぜわかるか。自分がきちんとツツミ(慎)をしていて泣いている。同じように磐余池はツツミ(堤)に問題があって涕を流すかのような漏水に顕れている。自分が泣かないようになるようにすることは、磐余池をうまく修理して水が漏れ出ないようにすることと同等である。それで万事うまく行き、鴨も安住できるはずだと陳述している。条件を提示しておいて、全体の結果がついてくるだろうという言い方である。上代に独特な「祈ひ」と呼ばれる占いの構文となっている。甲という目の前の事態で○○するならば、乙という眼前にはない事態でも○○となると前言しておいて、甲の様子を見て乙の事態に対処しようとするものである。甲乙で事態がパラレルに進行すると言葉に出して決めてしまって、それに従うように縛る物言いである。
これは、「謀反」(持統前紀)の罪に問われた大津皇子が、置かれている状況を打開しようと持ち出した弁論術である。無文字時代の言霊信仰下にあっては、人々の考え方を拘束するように働きかけるものであった。当然ながら時の政権にとって愉快なものではない(注12)。言霊信仰による思想統制を行えるのは政権側だけでなければならない。政権の中枢にある持統天皇、草壁皇太子側からすれば、そういう言い方をすること自体、大津皇子は自らが政権側に立とうとする野心の現れであるとみなしたであろう。
言=事とする言霊信仰下にあった時代、この大津皇子による「謀反」けむとする歌に対して、二つの否定が同時に行われたと考えられる。第一は、死を賜うことである。第二は、磐余池の堤を壊すことである。久永2021.に、「橿原市の調査によれば、6世紀後半に造られた堤を、ある時期に掘削して壊し、7世紀末頃に粘土や砂質土を交互に積み重ねることで再築堤されているという。堤を壊してまで溝を掘らなければならなかった理由はわかっていない。溝底には流水の痕跡があったことから、何らかの事情で池の水を一度排水したと考えられる。」(41頁)とまとめられている。「何らかの事情」は万416番歌にあった。
大津皇子からすれば、磐余だから「謂はれ」、由緒をただすことをしたのだと、少々賢しらなことを歌っている。空想の旅に出てみると、イハレというのだから起源からずっと続いてきた磐余の池では鳴く鴨までも、今日だけ見ておいて雲間に隠れるのだろう、でも目にしていないから雲間に隠れるようなことにはならない、としている。それはカモの事情によるのではなく、ひとえに池の事情による。大津皇子は監禁されていて、すべては仮定の話として歌を歌っている。だから「祈ひ」的な物言いになっている。
どうしてこういう歌に仕立てたか。彼はオホツカナシを歌いたかった。オホツ(大津)+カナシ(哀・悲)の辞世の歌である。
この歌は、音声言語を礎としていた無文字時代のヤマトコトバの用法において完成されている。地口的な言葉づかいに慣れ親しんでいた人にとって、互いにわかりあえる歌として歌われ、享受された。書契の時代に入って人々の言葉の捉え方に合わなくなってしまい、その妙味に気づかれることなく、内容を包み隠したまま現代に至っている(注13)。
(注)
(注1)阪下2012.は、磐余と謂われとの関係を柳田国男『伝説』に示唆を受けたとする。ふつうに言葉に触れていれば驚くほどのことではない。拙稿「サクラ(桜)=サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)説」参照。
(注2)全集本萬葉集に、「雲隠ルは死ヌの敬避表現……。正しくは大津皇子自身の言葉でなく、第三者の言葉と考えられる。……この歌は大津皇子の辞世の歌として伝わっていた伝承歌であろう。」(259頁)とある。「敬避表現」という言い方は、森本1940.の、「死者に対する敬意から、殊更に「死」の語を避けて他の語をもつて婉曲に現した」(119頁)という言い方に負っている。森本氏は、相聞歌では死が現実のことではないから「死ぬ」という言葉は使われるが、挽歌では眼前に目撃する死に対して忌むべき語を避けようとして別の語を用いているのであるとしている。「雲隠る」という語については、「王は 神にしませば 天雲の 五百重が下に 隠り賜ひぬ」(万205)を簡略化して熟語となしたなどとあり、万葉集挽歌における敬避性については、忌詞や敬語との関係や史的展開についていずれ論じて究明したいとしている。
「雲隠る」という言葉は、文字通りに雲に隠れて見えなくなることをいう場合が多く、鳥が飛んで行って見えなくなることや遠く山を越えて行く人に用いられている。比喩的な言い方として死ぬ意味に「雲隠る」を使った例は、万葉集にほかに二例しか見られない。
神亀六年己巳、左大臣長屋王、死を賜ひし後に、倉橋部女王の作る歌一首
大君の 命畏み 大殯の 時にはあらねど 雲隠ります(万441)
反歌(七年乙亥、大伴坂上郎女、尼理願が死去れるを悲しび嘆きて作る歌一首〈并せて短歌〉(万460の前))
留め得ぬ 命にしあれば 敷栲の 家ゆは出でて 雲隠りにき(万461)
右は、新羅国の尼、名を理願と曰へるが、遠く王徳に感けて聖朝に帰化たり。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄り住ひて、既に数紀を逕。惟に天平七年乙亥を以て、忽ちに運病に沈み、既に泉界に趣く。是に大家石川命婦、餌薬の事に依りて有間の温泉に徃きて、此の喪に会はず。但、郎女、独り留りて屍柩を葬り送ること既に訖りぬ。仍りて此の歌を作りて温泉に贈り入れたり。
大津皇子の万416番歌では自身の死について、万461番歌では新羅からの帰化した尼について「雲隠る」と言っている。死ぬことを「隠る」、「山隠る」、「島隠る」と表すこともある。「死ぬ」という語の忌詞としてそれらの語を使ったと見るのが穏当であろう。「敬避表現」という用語が一人歩きしているだけで、万416番歌を大津皇子の歌ではなく仮託した歌であるとする根拠はない。曽倉2020.参照。
(注3)仮託説は多くの論者により唱えられている。悲劇の皇子の話が当時ひとつの物語となっており、後代の人がそれに基づいて寄稿したとするものである。しかし、後の人が作った場合、それとわかるように題詞に記されている。題詞を無理やりに解して仮託であると主張するのは、歌の状況が把握できないために、すっきりしたいと思う研究者の妄想の産物である。この考えの延長線上には万葉集偽書説がある。万葉集の歌はすべて後の時代の人によって仮託されたもので、すべてでっち上げられたものだと言ってかまわなくなる。
(注4)「大藤原京左京五条八坊の調査」参照。大津皇子が言う「磐余池」はこれに当たるかと推測される。ダム式人工池として一番古いとされていた7世紀前半の狭山池を遡ること6世紀の人工池である。「磐余池」と称されるものは、紀が記す飛鳥時代以降、万416番歌と枕草子第38段に限られており、情報としては明瞭なものではない。
(注5)古代の盛り土の高度な技法としては、敷葉・敷葉工法と土嚢積みが東アジアにおいて一般的に行われた。敷粗朶・敷葉工法は、現代でいうところのジオテキスタイル工法に当たる(小山田2009.)。堤の場合、土との相互作用で引張補強効果や排水補強効果があって、構造体全体の安定性が高まるのである。敷粗朶・敷葉工法として確認されているのは、大阪府亀井遺跡(5世紀末~6世紀初頭)が早いもので、大阪府狭山池北堤(616年頃)では土嚢積みの技法も加わっている。中河内地域は韓式系土器が集中的に出土するところであり、渡来人とのかかわりが想定されている。築堤に際しての敷粗朶・敷葉工法も渡来人の手によって伝えられたものと考えられており(田中1989.)、そのような交流の盛んな地域から外れると敷粗朶・敷葉の痕跡は見られないという(山田2008.)。なお、時代的に少し前に当たる大阪府久宝寺遺跡(5世紀中頃~6世紀)に見られる草敷きについては、堰の目つぶし材であり敷葉工法ではないとする説がある(土楽1995.)。

対して大和の磐余池の築堤においては、砂質土と粘土とを交互に積んでいっている。これは古墳の盛り土に多く行われる工法のようである。敷粗朶・敷葉工法は確認されておらず、斜面裾部に石敷き、砂利敷き、石列が施されている。履中紀記事は宮の建設とともに記されており、苑池であったかとも考えられている(上遠野2017.)。盛り土は6世紀後半から7世紀末ごろまでくり返され、石敷きの上にもさらに土を盛ってゆき、当初の土手よりも最大1.2m高くなっているという。最終段階でも貯水用の構造体として脆かった可能性がある。途中段階では砂質土と粘土の交互積みもされておらず、水圧の負荷への対応が不十分だったのであろう。亀井遺跡の堤防が、弥生時代の工法の上に新たに敷粗朶工法をとって築堤されていたのとは対照的である。大津皇子は686年に万416番歌を歌っている。664年に筑紫で水城が敷粗朶工法によって作られているが、磐余池では古墳の土盛りと同様だったようである。捕らえられた大津皇子が、無策な公共事業であると批判していたのかもしれない。
(注6)古典基礎語辞典の解説に、「オボはオボメク(はっきりしない、不審に思う意)のオボと同根で、明瞭でない状態。ナシはそのような状態にあることを表す接尾語。対象がはっきりとは認識できない状態をいう。つかみどころがなく不確かなさまや、眼前にない対象について、気にかかっているのだが、様子や動向がよくわからないことを表す。そこから、それを確かにしたいと思う気持ちに転じ、気がかりな相手や愛情を抱いている相手、子供や恋人について、直接会いたい、じかに親密に言葉を交わしたい、とする場合などにも使われた。「覚束なし」は当て字。オボツカナシは、不確かで、予想もできない状況にあるから確かに知りたい、手応えを得たいなど、あくまでも事実を求める」(264~265頁、この項、筒井ゆみ子)とある。
(注7)巷間に言われている「言霊信仰」とは異なる。拙稿「上代語「言霊」と言霊信仰の真意について」参照。
(注8)懐風藻・大津皇子伝では「博覧」と評されているから、朝鮮半島の新しい築堤技術を知っていたということかもしれない。紀には大津皇子の謀反事件の顛末が記されている。
冬十月の戊辰の朔にして己巳に、皇子大津、謀反けむとして発覚れぬ。皇子大津を逮捕めて、并せて皇子大津が為に詿誤かれたる直広肆八口朝臣音橿・小山下壱伎連博徳と、大舎人中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・新羅沙門行心、及び帳内礪杵道作等、三十余人を捕む。庚午に、皇子大津を訳語田の舎に賜死む。時に年二十四なり。妃皇女山辺、髪を被して徒跣にして、奔りて赴きて殉ぬ。見る者皆歔欷く。皇子大津は、天渟中原瀛真人天皇の第三子なり。容止墻く岸しくして、音辞俊れ朗なり。天命開別天皇の為に愛まれたてまつりたまふ。長に及りて弁しくして才学有す。尤もとも文筆を愛みたまふ。詩賦の興、大津より始れり。丙申に、詔して曰はく、「皇子大津、謀反けむとす。詿誤かれたる吏民・帳内は已むこと得ず。今皇子大津、已に滅びぬ。従者、当に皇子大津に坐れらば、皆赦せ。但し礪杵道作は伊豆に流せ」とのたまふ。又、詔して曰はく、「新羅沙門行心、皇子大津謀反けむとするに与せれども、朕加法するに忍びず。飛騨国の伽藍に徙せ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)
技術的な入れ知恵は新羅沙門行心によるかと思われ、といって彼は渡来人でヤマトコトバに皮肉な洒落を解したとは思われず、「朕不レ忍二加法一」ということになるであろう。「但礪杵道作流二伊豆一」とあるのは、道路の工法にも敷粗朶・敷葉工法が使われていることと関係するように思われる。名は体を表した「名に負ふ」時代のことである。礪杵道作が何を吹聴し、どこに咎があったか不明ながらも、この謀反がらみの万416番歌、火に油を注いだ歌が作られたことと関係したものと思われる。大津皇子逮捕の当初の謀反事件については拙稿「吉備津の采女挽歌考」参照。
(注9)「のみ」と「や」のある形には次のような例がある。
外にのみ 見てや渡らも 難波潟 雲居に見ゆる 島ならなくに(万4355)
昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ(万1461)
見てのみや 人にかたらむ 桜花 手ごとに折りて 家づとにせむ(古今55)
小田2015.に、「発話者に判断が成立しているにもかかわらず、あえて疑問文の形式を用いて聞き手に強く訴えかける文を修辞疑問文という 。そのうち、特に、自己の主張と反対の内容を疑問文の形式で表現したものを反語という。すべての問いの形式、疑いの形式は反語表現になり得る。」(255頁)とある。
第一例は防人の歌である。有名な難波の干潟へは接近、上陸することなく遠くから見るばかりで九州へ渡ってゆくのだろうか、雲の向こうに見える島でもないのに、と歎いている。この場合、軍団として扱われていて自分の力ではどうにもならないことであり、自己の主張を貫くことはできない。万416番歌の大津皇子も拘束されて自死を促されており、どうすることもできなかった点が似通っている。第二・三例は、上句の反語的なもの言いを、下句において自分の力で解決すべく動いている。実際にできるとき、「や」の用法としては「反語」と呼ぶことに抵抗はないが、第一例のような場合は、忸怩たる思いを訴える修辞疑問文である。
(注10)鳥のカモは、「鴨(モは甲類)」であったらしいが、早い段階からモの甲乙は混用しており、万葉集で助詞の「かも(モは乙類)」を当てるのに「鴨」字が三十例以上用いられている。
(注11)拙稿「「有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」について」参照。
(注12)溜池の保全係が誰であったか不明である。仮に大津皇子であるなら自分を生かしておけばきちんと直すと言っていることになる。履中紀三年十一月条に、「天皇、両枝船を磐余市磯池に泛べたまふ。皇妃と各分ち乗りて遊宴びたまふ。」とある。前年に完成した「磐余池」のこととされている。船を浮かべるということは、船が停泊するところ、津があるということであり、ならば大津なる我が整備して御覧に入れましょう、ということなのかもしれない。疑心を抱いている持統天皇、草壁皇太子側は、両枝船に乗せて沈没させようと企んでいると思ったのかもしれない。二人とも船に乗せ、船を傾けて沈めてしまうミカドカタブケムである。題詞で、堤防のことを泮、畔に通じる「般」字でわざわざ記している。説文に、「般 辟くるなり。舟の旋るに象る。舟に从ひ殳に从ふ。殳は旋る所以なり(般 辟也象舟之旋从舟从殳殳所以旋也)」とあり、船遊びを彷彿させる表意を兼ねている。
(注13)この著名な歌は、オホツカナシという語の洒落によって成り立っている。と言って、筆者は万葉集の歌を冒涜するものではない。上代の人の言葉づかいが我々とは異なる点、無文字時代の言語活動、言語感覚の粋について明らかにしようとしている。確かに存した異なる文化について、フィールドワークによって報告しているだけである。そして、今日の「万葉学」とは比べ物にならない大きな成果が期待できる。グローバルに交流して画一化していくかに見える世界情勢に反して、思考方法において、人類には別の可能性があったことを教えてくれている。
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加藤良平 2022.4.27初出