拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」(注1)で扱いきれなかった他の「吉野讃歌」について検討する。
題詞にもない「讃」が主題であると勝手に決めてひと括りに「吉野讃歌」と捉え、吉野を讃えることが天皇を讃美することにつながるとするのは誤りである。また、後の作は前の作の模倣と捉え、いちばん最初の人麻呂の影響下にあるとする見方も当てはまらない。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)という語のつながりとして、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……のことだと思って楽しんだ人たちの間で作られ聞かれた歌である。
➃大伴旅人の作(巻三、万315~316)
暮春の月に芳野の離宮に幸す時に、中納言大伴卿、勅を奉りて作る歌一首〈并せて短歌、未だ奏上を逕ぬ歌〉
み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし 清けくあらし 天地と 長く久しく 万代に 変らずあらむ 行幸の宮(万315)
反歌
昔見し 象の小河を 今見れば いよよ清けく 成りにけるかも(万316)
この歌は、神亀元年(714)三月に、新しく即位した聖武天皇が吉野を訪れた時の歌である(注2)。大伴旅人六十歳の作とされている。
「み吉野の 芳野の宮は〔見吉野之芳野乃宮者〕」の「み吉野の」は、ミ(御、ミは甲類)+ヨシノ(吉野、ヨは乙類)+ノ(助詞)であるとともに、「見よ」(命令形、ミは甲類、ヨは乙類)+シノ(篠)+ノ(助詞)という音であり、「吉野」を導くための枕詞的な要素が込められた言葉ではないか。シノ(篠)の特徴をよく見よということである。「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」でみた柿本人麻呂作(万36~39)、笠金村作(万907~912)と同様に、ヨシノ(吉野)がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものと認識されて楽しまれることを強調するために、「み吉野の」と被らせてヨシノという言葉を重ねているものと解せられる。
吉野の宮の地は、山や川のあるところであった。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)という自己言及的な語構成を示していて、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものだから、代+代+代+代+代+……を表すとしておめでたがられた。つまり、「吉野の宮」とはそれ自体がシノ(篠)のようなものであると認められていたのである。篠はタケの仲間で、タケノコ(筍)として芽生えてくる。タケノコを食べた様子はイザナキとイザナミの黄泉国の話にも描かれている。

亦、其の右の御みづらに刺せる湯津々間櫛を引き闕きて投げ棄てたまへば、乃ち笋生る。是を抜き食む間に、逃げ行きます。(記上)
古墳時代に行われていた竪櫛である折曲げ櫛とタケノコは構造がよく似ている。細く割り裂いた竹の束をU字形にたわめ枉げて黒漆が塗られている(注3)。材質も同じで歯が包まれながらぎざぎざに突出している。外皮が黒いタケノコは掘り取るとびしゃびしゃに水がほとばしり出る。ヨヨとしているところを食べるのである。
御歯の生ひ出づるに、食ひ当てむと、筍をつと握り持ちて、雫もよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
歯の並び出てきたのをタケノコに見立てている。イメージは湯津々間櫛の変化と同じである。タケノコが土から突き出ている様は山に見立てられる。また、塔のようでもある。「山からし 貴くあらし」とタフの音つながりで戯れて言っている。瑞々しいところは川に見立てられる。タケノコは皮に包まれており、食べているところも放っておいて成長すれば皮になってしまう部分でさえある。タケ類の皮は鞘(葉鞘)であり、マメ類なら鞘(莢)に相当する。熟してしまえばそこは食せない豆がらとなる。つまり、皮からになる前に食べてしまおうというわけである。「川からし 清けくあらし」と洒落を言っている(注4)。
そんなシノ(篠)、ヤダケのようなものは地から生え、まっすぐにどんどん伸びて、天まで届く勢いである。ヨシノに生えているのだから、代+代+代+代+代+……と「万代に 変らずあらむ」であろうと言ってしまってかまわない。それが今、ここに「行幸」ている宮なのだとおもしろおかしく歌っている。
短歌に、「象の小河」と固有名詞が出ている。キサと呼ばれるところがあったようである。「昔見し」とある点について、作者の旅人が昔見たのだと考えられている。吉野行幸は持統三年に始まり、そのとき旅人は二十五歳と推定されている。その後も何回も行幸しているから、従駕していて見たのであろうと考えても不思議ではない(注5)。この理由づけは、「昔見し」のシ(助動詞キの連体形)について、自己の体験の記憶とするものである。しかし、長歌では一切作者の影を消していて、反歌にばかり自己主張するとは考えにくい。かといって、新帝の聖武天皇の代詠をしているとすると初めて訪れる点と相容れない。助動詞キに対する残された解釈の可能性は、伝聞的記憶ということになる。集合意識として昔見たことになっているとするものである。ただし、見た対象の小川の名が曰くありげである。

「象」は elephant のことである。なぜそう呼ばれたかについては、象牙などに木目があり、その筋目模様をキサと言ったからではないかとされている。もちろん、当時列島に象は生息していない。舶来品もほとんど知られず、話にとても大きな体をしているとは聞くが、群盲象を撫でるがごとき認識しかない。ところが、稀にではあるが、ヤマトの人も象を知ることがあった。象の骨、特にエナメル質に覆われた歯が出土するのである。ナウマンゾウが多かったようで、竜骨と呼ばれて薬に使われており、正倉院にも「五色龍歯」と呼ばれる臼歯の化石が宝物として残されている。確かに筋目模様(注6)がついており、皮が何重にも被っているタケノコの様子によく似ている。ヨシノというところにキサというところがあるのは、「いよよ清けく」あることだとわかるだろう、というのである。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……のことであると解明されたから、昔日の「象」が歯としてそこに現れているのは明かなことだなあと詠嘆している。歯は齢に通じ、ヨハヒとはヨ(代)+ハヒ(延・這)の意である。
「さやけし」という語は、岩波古語辞典の見出しに「分明し・亮し」という漢字を使っている。サエ(冴)と同根の語とし、視覚にも聴覚にも使い、「さえて、はっきりしている。」、「くっきりと際立っている。」という訳を当てている(575頁)。類義語のキヨシともども表記に「清」の字を使うことが多くある。時代別国語大辞典は、「キヨシが対象の汚れのない状態をいうことが多いのに対して、サヤケシはその対象から受けた主体の情意・感覚についていうことが多い。」(342頁)と解説する。つまり、この二語は似て非なる形容詞である。土屋1949.に「益々さやかになつたことである。」(118頁、漢字の旧字体等は改めた)、澤瀉1958.に「昔にもましていよいよさやかになつたことよ。」(230頁)と訳しているのはまずは無難なところである。難渋の後が見える訳は、大系本萬葉集の「清潔明亮の風光いよいよ新たになったことを感じる。」(168頁)である。現在通行している訳では、清らかになっている、すがすがしくなっている、としていてどれも誤りである。
太古の昔に見られた象という名を冠した象の小川のことを今見てみると、齢を重ねてまったくもって確かなことになっているらしいよ、吉野だけに、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……、代+代+代+代+代+……なのだものなあ、と言っている(注7)。
➄笠金村の作(巻六、万920~922)
神亀二年乙丑の夏五月、芳野の離宮に幸す時に、笠朝臣金村の作る歌一首〈并せて短歌〉
あしひきの み山もさやに 落ち激つ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺には 千鳥数鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば 見るごとに あやに乏しみ 玉葛 絶ゆること無く 万代に かくしもがもと 天地の 神をそ祈る 畏くあれども(万920)
反歌二首
万代に 見とも飽かめや み芳野の 激つ河内の 大宮所(万921)
皆人の 命も吾も み吉野の 滝の常磐の 常ならぬかも(万922)
この長短歌では、川の水のタギツところを歌っている。ヨシノ(吉野)はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところだから水がヨヨと流れるということである。また、車持千年の「吉野讃歌」に出ている句を流用している。興味深い作りは、長歌の対句表現、「上辺には 千鳥数鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ」である。シバ(数)は数が多いことを表すが、同音の言葉に柴刈りのシバがある。柴は燃料や垣根にする灌木や低木、小枝などのことで、タケ・ササ類も区別されずに柴垣に作られ、また、フシとも言う。
籬 垣なり、竹柴類等垣を籬と曰ふ。志波加支、又竹加支(新撰字鏡)
……天の逆手を青柴垣に打ち成して隠れき。〈柴を訓みて布斯と云ふ。〉(記上)
千鳥がさかんに鳴いている「上辺」は、タケ・ササ類に特徴的な「ふし」が数々あるところということになる。一方、「下辺」では、カハヅが妻を呼んでいる。カハヅはカジカのことか蛙の歌語とされる。水がヨヨと流れるところの水生動物の鳴き声である。同音の言葉に船着場の河津がある。川幅が広くなる下流には対岸への渡し場があって、向こう岸の妻を呼んでいるということであろう。そのような呼びかけ語に「よ」という言葉がある。良い声で呼んでいるらしい。
沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も 与はぬかもよ 浜つ千鳥よ(神代紀第九段一書第六、紀4)
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち ……(万1)
…… 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 吾も通はむ(万79)
「ふし」、「よ」と、声をあげ続けているのは、ヨシノがヨ(節間)+シノ(篠)と名を負った存在だからである。名を体現している(はずの)様子を作り出して歌っている。単なる取り合わせであったろう「千鳥」と「かはづ」から、吉野に適合した意味を抽出している。稀なことで心惹かれ、珍しいと思う事態である。そのことは、こんな山奥に大宮人が大挙して来ていることにも表れている。諧謔に富んだ表現である。
「ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば」と言っている。宮廷人があちらにもこちらにもぎっしりいっぱいにある、とは、吉野の川のあちら岸にもこちら岸にシジニいるということである。片岸ならカタであり、両岸そろっている場合はマと形容する(注8)。つまり、マシジな様子だと言っている。助動詞マシジは「……のはずがないだろう」という打消された事態の推定を表す。ありえないであろうことが起こっているから、「あやに」、霊妙不思議に、言いようもなく、ひどく無性に「乏し」(羨し)、珍しいと思い、心惹かれるように感じていると言っている。言葉遊びに遊んでいるのである。「千鳥」がたくさん鳴き、「かはづ」が妻を呼ぶように声をあげ、大宮人が川を挟んで両岸に参集していることを写実的に捉えてみても、特に珍しくもなく、魅せられるような事態でもない。自然豊かな地へ行幸した情景から受けた印象を語るのではなく、言葉のあり様としておもしろがっている。端的な比喩でいえば、「リンゴは赤い。」ではなく、「リンゴは三文字である。」というメタ言語的機能に対して「あやに乏しみ」であると語っている。
言葉遊びはさらに続き、これが未来永劫つづいて欲しいと天地の神に願うことは、神に対して恐れ多いことであるし、こんな偶然が重なることはもったいないことだと思われることでもあるとしている。そこで、歌を「畏くあれども」で結んでいる。機知に溢れたなぞなぞが歌全体に仕掛けられていた。
➅山部赤人の作(巻六、万923~925・926~927)
山部宿禰赤人の作る歌二首〈并せて短歌〉
やすみしし わご大君の 高知らす 芳野の宮は たたなづく 青垣隠り 河次の 清き河内そ 春べは 花咲きををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いやますますに この河の 絶ゆること無く ももしきの 大宮人は 常に通はむ(万923)
反歌二首
み吉野の 象山の際の 木末には 幾許も騒く 鳥の声かも(万924)
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く(万925)
やすみしし わご大君は み吉野の 秋津の小野の 野の上には 跡見据ゑ置きて み山には 射目立て渡し 朝猟に 鹿猪履み起し 夕狩に 鳥蹋み立て 馬並めて 御猟そ立たす 春の茂野に(万926)
反歌一首
あしひきの 山にも野にも 御猟人 得物矢手挟み 騒きてあり見ゆ(万927)
右は、先後を審らかにせず。但、便を以ての故に此の次に載す。
第一長歌に、吉野宮を「青垣隠り」と形容している。その理由は、ヨシノ(吉野)という言葉がヨ(節)+シノ(篠)に聞こえたから、タケ・ササ類のなかでもシノ(篠)に特徴的な、成長しても皮を落とさない性質のことを言っている。「たたなづく」と言っているのは、タケノコのときの皮が重なりあう様子を畳のように畳みかける風情に見立てている。タタミ(畳)が畳床を伴ったのは後の時代のことであり、当初は今日の畳表に当たるものであった。畳み癖を気にして巻いて仕舞われることも多かったようである。類似する敷物である茣蓙との違いは、その作り方にある。畳では、麻糸を経糸にし、それの二本ごとにイグサの緯糸を表裏させ、筬で強く叩き畳みこむように織り、経糸が見えないようにしている。
ヨシノ(吉野)はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものとされ、皮/皮/皮/……\皮\皮\皮と畳みこまれていたものが伸長していったと捉えられている。つまり、中に宮が包まれているのであれば、それは「たたなづく 青垣隠り」状態になっているということになる。
ミヤ(宮)は当初のあり方からして、スサノヲの造ったスガの宮のように、宮殿建築の豪華さをその特徴とするのではなく、八重にめぐらされる垣根を持つものとして認められていた。ミ(御)+ヤ(屋)と呼ばれるからにはなにより屋根が大切であり、何重にも垣根がめぐらされれば中を窺い知ることはできずに外からは屋根しか見えない。それは、タケノコが何枚もの皮に包まれていることと等しく、「吉野の宮」という表現は宮の概念を徹底させたものであると言えた。タケノコはみずみずしく、「河次」という語へと反映していっている。
プライバシーを確保するために作られたのが宮であった。そこへ「大宮人は 常に通」って何をするのか。「大宮人」は夫婦同伴で来ている。最終的には、夜に仲良し事をするのである(注9)。山奥の別荘へ行った夫婦連れにとって、その夜にすることなど他にあるのだろうか。することをすれば当然、できるものはでき、夫婦は父と母になる。
反歌の一首目、万924番歌に、「象山」という地名が登場する。旅人の万316番歌にすでに見たように、「象」のものだとはっきりわかるのは、ナウマンゾウの歯の化石においてである。漢字としての「歯」は「齢」と同義で用いられ、ヨ(代)を語る文脈で使われてふさわしい。そして、「歯」の訓みはハであり、物の端にあるものはみなハであり、例えば植物ならハ(葉)であった。葉は「木末」にある。そこに鳥が来ている。鳥の最大の特徴は飛翔にあり、ハ(羽)があるからできる。「幾許」と量が多いさまで騒ぐのは、ハをたくさん発見して嬉々としているためである。ハ(羽)を持つ鳥が発見しているのはハ(歯)である。ハハ(母)ということになっている。
二首目の万925番歌は、夜の営みをにおわせるように、「ぬばたまの 夜の更けゆけば」と設定している。そこに、「久木」が出てくる。ヒサギという植物は、今日、アカメガシワ、キササゲのいずれかであるとされ、アカメガシワ説が有力視されている(注10)。だが、万葉集の歌四首が同一のものを指すのであれば、万1863番歌に「咲く」とあり、また、「落ち」ると言えるのは、花弁のしっかりしたものと考えられ、蕊ばかりで成り立っているように見えるアカメガシワであるとは考えにくい。
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く(万925)
去年咲きし 久木今咲く 徒に 地にや落ちむ 見る人なしに(万1863)
波の間ゆ 見ゆる小島の 浜久木 久しくなりぬ 君に逢はずして(万2753)
度会の 大川の辺の 若久木 吾が久ならば 妹恋ひむかも(万3127)

そう考えるなら、キササゲの実は莢になっていて形状は象の臼歯のようである。そして、キササゲの莢の中の種は綿毛のついた翼状になっていて、それは鳥でいえば羽に当たるものであり、「千鳥しば鳴く」ことを予感させるものである。ヒサギをもって久しいことを言わずに、「千鳥しば鳴く」ことを言っているから、この「久木」はキササゲのことと考えられる(注11)。
さて、その「千鳥」は何と鳴いているか。チドリがしきりに鳴いている声は、チチ、チチに決まっていよう。父になっているのである。第一長歌と短歌二首の関係は、吉野の宮が子作りにいいことを歌った歌であった。実際に子宝に恵まれると伝わる温泉が湧いていたといったことではなく、ヨシノ(吉野)がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるもので代+代+代+代+代+……とつづくのは、人がハハ(母)とチチ(父)になることをくり返すことによってである。詩的な頓智が歌にされ、人々は歌に張りめぐらされた謎解きを楽しんだのであろう。
第二長歌と反歌では主題が狩猟になっている。歌の文句は狩りの歌の常套句ばかりである。ヨシノ(吉野)という言葉がヨ(節間)+シノ(篠)に聞こえ、どんどん伸びてヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……となるシノ(篠)の代表格がヤダケであり、まっすぐに伸びる性質から、矢のノ(箆)、また、ヤガラ(矢柄)と呼ばれるシャフトに使われた。先端に鏃をつけ、反対側に矢羽をつけた。吉野という地名にゆかりして能力の高い「得物矢」が登場している。
狩りの舞台は「み吉野の 秋津の小野」である。アキヅとは蜻蛉のことで、上手に飛んで行って虫を捕まえている。「得物矢」の役割も、トンボにあやかるのに足るものであったろう。トンボの胴はヤダケによく似て節づいた姿をしている。地名から得られた観念をもって狩りの歌が作られている。短歌で「得物矢」にばかり収束しているのは、地名由来の話であったことを裏付ける。
左注の、「右不レ審二先後一。但、以レ便故載二於此次一。」の「右」は万923~927番歌の二群の長短歌のこと、「先後」は、万923~925番と万926~927番歌のことを指すとする説(吉井1984.59頁)が正しいといえる。ひとつの題詞のもとに作られている二群の長短歌である(注12)。
➆山部赤人の作(巻六、万1005~1006)
八年丙子の夏六月、芳野の離宮に幸す時に、山部宿禰赤人、詔に応へて作る歌一首〈并せて短歌〉
やすみしし わご大君の 見したまふ 芳野の宮は 山高み 雲そたなびく 河速み 瀬の音そ清き 神さびて 見れば貴く 宜しなへ 見ればさやけし この山の 尽きばのみこそ この河の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 止む時もあらめ(万1005)
反歌一首
神代より 芳野の宮に あり通ひ 高知らせるは 山河をよみ(万1006)
この赤人の歌は、ほぼこれまでの歌の踏襲である。ヨシノ(吉野)はヨ(節)+シノ(篠)で、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものだから、代+代+代+代+代+……なるものだと言っている。山について、「山高み 雲そたなびく」と形容しているのは、山に雲がかかって霧や雨にヨヨと濡れていっていることを、川について、「河速み 瀬の音そ清き」と形容しているのは、水の流れが激つほどにヨヨと流れていることを暗示している。また、「見ればさやけし〔見者清之〕」は篠の葉鞘、サヤ(鞘)をかけた使い方である(注13)。メダケが葉鞘を残し群れ立つさまは、まるで矢絣模様を思わせる(注14)。
その後の「この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 止む時もあらめ」は、山のように出てくるタケノコが出なくなって川のように水気もほとばしり流れなくなったら、この宮所もなくなる時もあろうが、そのようなことはあるまい、と言っている。ヨシノという名を負っているところは、その名のとおりにいつまでも代+代+代+代+代+……と篠に恵まれ、篠突く雨を川が集めてヨヨと水が流れることだろうというのである。そういう状態はヨシノと名がついてからずっとそうである。それが言=事であるとする本来の意味での言霊信仰に裏打ちされたコトなのである。いつからそのように呼ばれていたか。地名の由来などわかるものではない。ずっと昔、人知の及ばない時代からであり、それに呼応して人々は「神代」から絶えず通っている、山も川もヨシノという名を負っていることをきちんと体現し、それをうけて人々もそうしているというのである。
ところが、吉野行幸は奈良時代においてこの時が最後である。なぜこれ以降行われなくなったかについては、水害があって吉野の宮所が壊れて復旧せずに放置されたから、歌のあり方に限ってならこのような歌い方はすでにマンネリ化してつまらないと思われたから、疫病の流行と吉野の地がからめて考えられて遠ざかることになったから、など、いくつか仮説が立てられている。筆者は語学的に考え、吉野がヨシノであるための根幹が崩れたからと推測する。ヨシノにあって然るべきシノ(篠)が枯れてなくなったのである。タケ・ササ類は、長い周期、例えばハチク(淡竹)では百二十年に一度の間隔で一斉に開花し、枯れてしまう。枯れた篠を目にするわけにはいかない。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……=代+代+代+代+代+……でなくなってしまうからである(注15)。
上代の人にとって、もしそのようなタケ・ササ枯れが起こっていたとすると、ヨシノなのにヨシノではないというニヒリズムに陥ってとても困ったことだろう。言葉が事柄を表し、事柄が言葉を生むはずの、以前は安定した均衡にあった関係が崩れている。対処法としては、なかったことにすること、見ないことにするしかない。吉野へは行幸せず、吉野のことは思い出さないようにして、話にのぼらせなければ観念の世界の秩序は保たれる。これは仮定の話である。
➇大伴家持の作(巻十八、万4098~4100)
芳野の離宮に幸行す時の為に、儲けて作る歌一首〈并せて短歌〉
高御座 天の日嗣と 天の下 知らしめしける 皇祖の 神の命の 畏くも 始めたまひて 貴くも 定めたまへる み吉野の この大宮に あり通ひ 見したまふらし もののふの 八十伴の緒も 己が負へる 己が名負ひて 大君の 任けのまにまに この河の 絶ゆることなく この山の いや継ぎ嗣ぎに かくしこそ 仕へ奉らめ いや遠長に(万4098)
反歌
古を 思ほすらしも わご大君 吉野の宮を あり通ひ見す(万4099)
もののふの 八十氏人も 吉野川 絶ゆることなく 仕へつつ見む(万4100)
「為下幸二-行吉野離宮一之時上、儲作歌」とあり、事前に準備して作っていた歌である。万4098番の長歌では、前半に祖先が造った宮に天皇がずっと通い続けていることが述べられ、後半に臣下たちも拝命に従って代々仕えようと言っている。そのことは反歌に反映していて、万4099番歌では天皇がその先祖のことを思いながら吉野の宮に通っているであろうことを、万4100番歌では臣下がそれに伴う形で仕えて同道することを歌っている。そのために、「もののふの 八十伴の緒」という常套句を登場させている。むしろここでは、そのような常套句があったことに思い至り、ならばその常套句をもって状況を新たな視角から切り取れないだろうかと考えて、臣下が仕える話へと展開させて行っている。それがこの歌の新しさである(注16)。
これまで、吉野というところは、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところと歌われ続けてきた。それに対して、臣下も子々孫々お仕えして行こうというのである。ここで、臣下が仕えるのは天皇だから、吉野の離宮のことなど関係ないように思われる(注17)。しかし、そうではないというのがこの歌の眼目だろう。
仕えるべき臣下のことを、「もののふの 八十伴の緒」(万4098)、「もののふの 八十氏人」(万4100)と言っている。「もののふの」は枕詞で、武人が射る矢のことからヤソ(八十)、多くの氏があることからウヂ(宇治)にかかるとされている。万4098・4100番歌に共通するのは、モノノフノ ヤソの部分である。このヤやソ(甲類)という音は、掛け声である。ヤは、人に呼びかけるときにいう言葉である。「呵責して言はく、咄、汝、何ぞ此の穢き地に居るといひ、」(霊異記・下・七)とある。ソ(甲類)は、万葉集の戯書に「杣〔追馬喚犬〕」(万2645)とあるように、馬を追う声である。たくさんいる「もののふ」を軍隊として機能させるためには、訓練して号令とともに同時に動くことが求められる。将軍は兵隊にヤと掛け声をあげ、兵隊は各々が担当する馬にソと声をあげて進ませるのである。すなわち、「もののふ」とは、将軍としての武人ではなくて多くの氏のひしめく下級武士、馬に騎乗する人ではなくて馬を曳く人のことを指している(注18)。それを「馬子」と言ったのだろう。
歌の前半で天皇が吉野へ通い続けることを歌っていて、それに仕えるのが「もののふ」であるとするなら、天皇を騎乗させるものとして捉えていることになる。実際には輿に乗せて吉野へ向かった可能性が高いが、やっていることは同じである(注19)。吉野へ通う天皇自体が皇祖、アマテラスの孫に当たるホノニニギの子孫なのだから、同じく馬子の名を負うべき臣下は、お仕えするのが当たり前だという理屈を語っている。
五百城入彦皇子の孫なり。(仁徳前紀)
根使主、今より以後、子々孫々八十聯綿に、群臣の例にな預らしめそ。(雄略紀十四年四月)
孫 爾雅に云はく、子の子を孫〈音は尊、和名は無麻古〉と為といふ。(和名抄)
陸奥国桃生城・出羽国雄勝城を造るに役てる郡司、軍毅、鎮兵、馬子、合せて八千一百八十人は、……(続紀・天平宝字三年九月己丑、擬古訓)
長歌の、「もののふの 八十伴の緒も 己が負へる 己が名負ひて」部分は原文に、「毛能乃敷能夜蘇等母能乎毛於能我於弊流於能我名負々々」とくり返し記号が二つ続いている。誤字と見て、もと一つであったとする説が根強く、現状のように訓まれている。しかし、そうではあるまい。見てきたように天皇がムマゴ(孫)なのだから、「もののふ」もムマゴ(馬子)であることが求められている。「々々」というくり返し記号は「夜蘇」を表していると推定される(注20)。「もののふの 八十伴の緒も 己が負へる 己が名負ふ八十」と訓んで、ヤ・ソと掛け声をかけながら働くことを代々続けるつもりだと主張しているのである。言葉遊びの粋を極めており、「儲作歌」、つまりは頭の体操としてきわめて技巧的な歌に仕上げられている。
(注)
(注1)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」。これまで吉野讃歌と言われてきた歌群の内実は讃歌ではないが、便宜的に括弧付きで「吉野讃歌」と呼ぶこととする。
(注2)聖武天皇は文武天皇以来の十七年ぶりの男帝で、吉野は天武朝の発祥の聖地だから、その霊魂を付着させるためであるとする見方がある。その説の考えに、冒頭の「み吉野の 吉野の宮は」というくり返し表現は、紀126歌謡を踏まえた表現であるとするものがある。
み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島辺も良き え苦しゑ 水葱の本 芹の本 吾は苦しゑ(天智紀十年十二月)
吉野に逃げ籠った天武天皇の嘆き節を語るような「童謡」であり、ミエシノノ エシノノと歌っている。ミヨシノノ ヨシノノとは音が異なる。全然ハッピーではない歌謡を連想させる歌を、聖武天皇ならびに居並ぶ歴々に聞かせようとしていたのだろうか。「未レ逕二奏上一歌」になった原因の可能性さえある。この「未レ逕二奏上一」という題詞の断り書きについては、伊藤1975.に専論があるが不可解である。作っておいたけれど場にそぐわないと認められたり、場の様相が変ずれば奏することなく終わって何ら不思議ではない。余興の出しものにすぎない歌を披露せず仕舞いになった時、ネタ帳にだけ書き残すことに何ら疑問は浮かばない。
「天地と 長く久しく〔天地与長久〕」は漢籍にしばしば現れる「天地長久」の直訳的表現であるとされている。清水1970.は、議論の端緒として、契沖・代匠記(精撰本)の「長久ハナカクヒサシクトモ和スヘキカ」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979062/339)との註の意を深読みし、契沖は「ナガク」と「ヒサシク」とを結合させることに和語らしさを認めるのに躊躇したからかと推測しているが、おそらく「長久」をナガクと訓むべきか、ナガクヒサシクと訓むべきか、考えていたのだろう。小島1964.は、「与二天地一而長久、等二金石一而逾固、中岳可レ転、長河有レ清。」(梁・王僧孺・礼仏唱道発願文)などを引いて似ているだろうと示している。何が問題か。そもそも本邦における表現の発端が漢籍から得られたものかどうか、証明することはできない。ヤマトコトバで「あめつちと ながくひさしく」と言ったのを「天地長久」風に書き表したのか、漢籍的知識から「あめつちと ながくひさしく」と言うようになったのか、見極める手立てがない。永久の観念の有無について語れるほど、我々は上代の人のものの考え方に明るいとは言えない。
また、「万代に 変らずあらむ〔萬代尓不改将有〕」にある「改」という字は、歌詞としては万葉集中にここにしか用いられておらず、題詞にはいくつか例が見られるから、この「改」字は漢詩文を出典として使われていることを暗示するとしているという(清水1970.144頁)。そして、いわゆる「不改常典」の法を参照している。それは、続紀・元明天皇・慶雲四年七月十七日・第三詔に初出し、当該歌の歌われたであろう神亀元年三月のひと月前、続紀・聖武天皇・神亀元年二月四日・第五詔でも使われていて、その宣命の文言を踏まえた表現なのであるとしている。「万世尓不レ改」(第五詔)と「万代迩不改」(万315)は字面が似ているからという。小島1964.に至っては、「天地と長く久しく」、「万代に不レ改あらむ」は「共に宣命にもみられる常套語句であり、宣命の性格に照らしても、まづこれらの歌句が中国的表現に基づくものであると云へる。」(929頁、漢字の旧字体は改めた)と決めてしまっている。
歌は歌として声に発せられるもので字面ではない。「よろづよにかはるましじき(常の典)」と「よろづよにかはらずあらむ(行幸の宮)」では口にする言葉が少々異なり、かかる言葉にも相通じるところはない。表記の仕方で中国から学んだところが多かったのは、なにしろ漢字ばかりで書いているのだから当たり前のことである。すべての「文字」は漢詩文を出典としている。漢詩文の言葉を出典としているとは言えない。くり返しになるが、似たように書いてあるからといって、漢籍から得た表現かどうかは定められないのである。わかった気になってはならないことは本文で縷述した。ヤマトコトバと文字を有する日本語の間には大きなずれがある。仮名が作られた背景もそこにある。
(注3)亀田1985.は、記紀に所載の櫛の特徴は古墳時代の竪櫛に近いとし、古墳出土の竪櫛に呪術的な役割を付与させる考え方は再検討を要するとしている。
(注4)「山からし 貴くあらし 川からし 清けくあらし」とあるところについて、論語・雍也篇の「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。(知者楽水、仁者楽山。)」に基づくのだという(清水1970.)。このような主張は、もはや不可解としか言えない。宮という建物のことを、どうして智者や仁者として扱うのだろうか。
(注5)高松2007.には、旅人が〈翁〉の立場で祝言を述べているとする説まである。
(注6)和名抄に、「象 四声字苑に云はく、𤉢〈祥両反、上声の重、字は亦、象に作る、岐佐〉は獣の名、水牛に似て大き耳、長き鼻、眼細く、牙長き者なりといふ。」、「蚶 唐韻に云はく、蚶〈乎談反、弁色立成に岐佐と云ふ〉は蚌の属、状は蛤の如く円くて厚し、外に理の縦横に有り、即ち今の魽なりといふ。」、「橒 唐韻に云はく、橒〈音は雲、漢語抄に岐佐と云ふ。或説に、岐佐は蚶の和名なり、此の木の文は蚶貝の文と相似れり、故に取りて名くとす。今案ふるに、和名の者の義の相近きを取るも、此の字を以て木の名と為ること未だ詳かならず〉は木の文なりといふ。」とある。象の場合、象牙を削って現れた木目模様ばかりか歯の化石の表面のぎざぎざをもってキサと名づけたのではないか。
(注7)万葉集の「さやけし」例は二十首ほど、名詞形の「さやけさ」も十首ほどに及ぶ。不適切な解釈が多く、読み直しが必要である。拙稿「「さやけし」について」参照。
(注8)万葉集の戯書に、「左右手」(万1189)と書いてマデ(迄)と訓ませている。
(注9)多田2011.に鳥の声の神秘性を説き、土佐2020.に夜の秘儀が行われていると説いている。研究史についてはそれらを参照されたい。
(注10)木下2010.参照。
(注11)由来は知られないが、キササゲは雷除けとして神社仏閣に植えられる。古事記に、イザナキが黄泉国から逃げる際、黒御縵を投げて蒲子となったのを追手が食べ、湯津々間櫛を投げたら笋となったのを食べている間に逃げて行っている。その後、話はさらにエスカレートしている。「其の八くさの雷の神に、千五百の黄泉軍を副へて追はしむ。爾くして、御佩の十拳の剣を抜きて、後手に振きつつ逃げ来ますに、猶追ふ。」(記上)となっている。後手に振く様は、右に左に振り返りながら剣を振るうもので、腰に残している鞘のほうも腰のひねりに応じてふらふらと振れていることから近づけずにいたという描写なのであろう。鞘はキササゲの莢のようにも見える。雷除けにされた由緒は正しいものと言えそうである。
(注12)通説では、第二長歌に「春の茂野に」(万926)とあるから、作歌時期は神亀元年(724)三月一日~五日の吉野行幸の際のものであると考えられている。しかし、ヨシノ(吉野)という言葉がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と聞こえるというところから言葉遊びを展開しているのがいわゆる「吉野讃歌」の実態である。万926番歌にはすでに、「み吉野の 秋津の小野」と言ってしまっている。秋のことに限らないと赤人は留意しておきたかったのだろう。あくまでも、代+代+代+代+代+……のことであり、「代」は一世代、おおよそ二十年をもって数える時間的な広がりを持ち、四季のことなど問うものではない。歌の主旨に言葉遊び以上のものはなく、実際のところ狩りは行われていないだろう。
(注13)上掲の万315番歌同様、諸注釈書の訳出は馴染んでいない。
(注14)室井1973.3頁に見事に指摘されている。
(注15)2019年頃を中心に竹枯れの時期を迎えている。
(注16)大伴家持が「名」を「負ふ」と歌って自らのアイデンティティを語るとき、「もののふの 八十伴の緒」なる文言も併用している(万4094)。その理由は、オホトモ(大伴)という名は大きな鞆に通じ、鞆とは、弓を射たときに弾いた弦で怪我しないように左手首付近に巻く防具のことである。すなわち、彼自身は律令官僚となっていて武人ではないのだが、昔語りのなかで、その出自なり、その祖の由緒正しいことを証明するものとして歌のなかで歌っているのである。律令制度では不要な自意識であろうが、歌を詠むときにはどうしてその歌を大伴という人が歌っているのかが確かめられ、ブロックチェーンのような役割を果たすことにもつながっていたのであろう。この歌で「もののふの 八十伴の緒」などと持ち出しているのは、確かに歌っているのは伴氏に違いないが、大伴氏だけが天皇の吉野行幸に従っているわけではない。話の持って行きようとして、馴染みある常套句を持ち出しているのである。
(注17)新沢2003.は、「臣下は、歴代天皇の吉野宮継承に連動して「己が名」を継承し、その結果として天皇への「仕奉」を完遂するという、天皇と臣下の継承の連動を表現する。」(124頁)とまとめているが、吉野宮継承と臣下の名前の継承が連動していたとすると、ながらく途絶えていた吉野宮行幸時には臣下は名を失っていたことになってしまう。新沢氏のあげた当初の問題点、「出金詔を機に皇統讃美意識や天皇讃歌制作への意欲が高まったのだとしても、それがなぜ吉野行幸歌という形式によって表出されたのかという点」(122頁)は解消していない。
このような誤解は歴史的なものである。本居宣長・古事記伝、允恭天皇の氏姓を正す条の「天の下の八十友緒の氏姓を定め賜ひき。」に関して、名とは何かを説明している。「古ヘは氏々の職業各定まりて、世々相ヒ継ギて仕ヘ奉りつれば、其ノ職即チ家の名なるが故に、【氏々の職業は、もと其先祖の徳功に因リてうけたまはり仕奉るなれば、是も賛たる方にて名なり、】即チ其ノ職業を指シても名と云り、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/394~5、漢字の旧字体は改めた)とあり、一例として万4098番歌も引いて、「これらを以て氏々の職をも姓をも名と云ることを知ルべし、」と述べている。なお、「於能我於敝流於能我名々負」とあり、「己が負へる 己が名々負ひ」と訓んでいて、「この名々負を今ノ本に、名負名負と誤れり、」としている。歌の解釈に踏み込んだものではないが、家名を負い持つ各氏族が臣下として天皇に仕えることとしか捉えられていない。もしそれが大事なことなら、どうして吉野行幸の折に歌われているのか解かなければならないが、問われてもいない。
(注18)「やそ(八十)」にかかる枕詞「もののふの」のかかり方が有機的であったことが理解されよう。
(注19)家持のこの作は、題詞に「賀二陸奥国出レ金詔書一歌一首〈并短歌〉」、左注に「天平感宝元年五月十二日、於二越中国守舘一大伴宿禰家持作之」とある万4094~4097番歌の次に記され、題詞に「為レ贈二京家一、願二真珠一歌一首〈并短歌〉」、左注に「右、五月十四日、大伴宿禰家持、依レ興作」とある万4101~4105番歌の前に置かれている。すなわち、749年5月12日~5月14日に作られたものであると考えられており、万4105番歌の後にある左注の「右」は、当該「為下幸二‐行芳野離宮一之時上、儲作歌一首〈并短歌〉」(万4098~4100)をも指すと考えられている(伊藤1998.527~528頁)。つまり、家持の「吉野讃歌」は「依レ興作」の歌である。
小野1980.に、「吉野行幸預作讃歌[万4098~4100]は生まれるべくして生まれたとも言える。それは「陸奥国出金詔書」によって目覚めさせられた皇統讃美意識の落し子であったのだ。」(313頁)とし、その説は今日に継承されている。皇統讃美意識がゼロであるとは言わないが「依レ興作」である。万4094番歌に「もののふの 八十伴の緒」という文句を使ったことを引き継いで、興にまかせて吉野の離宮への行幸を想定した歌を作っている。越中に地方赴任している身であり、行幸に従駕して多くの人の前で歌を歌う機会など、小野氏の希望的観測とは違い、まずない。聖武天皇の吉野行幸は天平八年(736)に山部赤人の「応詔作歌」(万1005~1006)が歌われたのを最後に行われなくなって久しく、王権讃歌(?)も天平十六年(744)頃と思われる田辺福麻呂の「難波宮讃歌」(万1062~1064)以降行われなくなっている。「家持の心象中の仮想の産物」(高松2007.409頁)なのである。
そのとき使われている「もののふの 八十」という言葉は、大伴氏の自負の念、矜持の心を引き出すものではない。そしてまた、それにつづく万4101~4105番歌も、都に残している妻に真珠を贈ろうという歌であり、都から遠く単身赴任させられている我が身をかこつような歌となっている。
陸奥国から金が出たとの聖武天皇の詔書の終わりのほうに、「又大伴・佐伯宿禰は、常も云はく、天皇が朝守り仕へ奉る、事顧みなき人等にあれば、汝たちの祖どもの云ひ来らく、海行かば みづく屍、山行かば 草むす屍、王の へにこそ死なめ、のどには死なじ、と云ひ来る人等となも聞こし召す。」(続紀・13詔)とある。昔の大伴氏の功績が讃えられて詔書に接し、それに応じんがために歓び寿いだ歌を作ってはみたものの、気持ちが高揚しているわけではなくて彼の「興」はそこにはなかったということである。
題詞にある「為下幸二‐行芳野離宮一之時上、儲作歌一首〈并短歌」の真意について、家持が帰京後に吉野行幸に従駕することを期待しての作とする説が通行している。「儲けて作る」歌とは、それが使われることが必ずあるから予め準備して作っておくというニュアンスよりも、現状ではうまくいっているがそれがもしも駄目になったとき代用されるものを指すのであろう。すなわち、家持は、ほとんどそんな機会は訪れないことを知っている。言葉遊びを遊んでいるだけである。菊池2005.の誤解と疑問、「家持の儀礼歌が君臣和楽を旨とする肆宴の場を志向するものであることは時代の趨勢であり、……この吉野讃歌が臣下の出自を原則として無化する官僚組織の一官人の立場を踏まず、氏の意識を根底に据えていることの異常性は否定できない。」(70頁)点は氷解するであろう。
(注20)原文、西本願寺本に「麻氣能麻久々々」は元暦校本に「麻氣能麻久麻久」とある。「久」字を「尓」の誤写として「任けの随に」と訓む説がある。しかし、「於能我名負々々」のくり返し記号によって、歌のなぞなぞの出題とするために、ふだんとは違う訓みになるマケノマクマクをそのとおりに訓むことで、「於能我名負々々」についても少し考慮するようにと指示する意図があったとわかる。家持にあっては、エクリチュールについても繊細の精神を宿していたのだった。
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加藤良平 2022.9.16初出