舎人皇子に献る歌二首(万1683・1684)

 柿本人麻呂歌集から出た(注1)とされる二首一組の作で、解釈が要領を得ていない歌が巻九にある。

  舎人とねりの皇子みこたてまつる歌二首 〔獻舎人皇子歌二首〕
 いもが手を 取りて引きぢ ふさ手折たをり がかざすべく 花咲けるかも〔妹手取而引与治捄手折吾刺可花開鴨〕(万1683)
 春山は 散り過ぎぬとも 三輪みわやまは いまだふふめり 君待ちかてに〔春山者散過去鞆三和山者未含君待勝尓〕(万1684)

 新大系文庫本の訳をあげる。
 「(妹が手を)取って引き寄せ、枝を束にするほど折って私が挿頭(かざし)にする花が咲きました。」(万1683)、「春山の桜は散り果てても、三輪山はまだ蕾(つぼ)んでいます。あなたのお見えを待ちかねて。」(万1684)(37頁)。

 何が言いたいのか意味不明の訳である。
 この二首は柿本人麻呂が舎人皇子に献じた歌と見られている。
 契沖・万葉代匠記(精撰本)に、「此[万1684]ハ大神氏ノ人ノ、時ニアス沈居テ、皆人ハ栄華ノ盛ノ身ニ過ルマテナルニ、我ハ三和山ノ山陰ノ花ノ如クニ、君カ恩光ニ因テ愁眉ヲ開カム事ヲ待カヌルトヨメルニヤ。皇子ニ愁ヘ申テ吹挙ヲ仰ク意アル歟」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979063/1/330、以下、漢字の旧字体は改めた)、荷田春満・萬葉童蒙抄に、「この歌[万1683]は花の盛なるを告げ奉りて、皇子を請し奉らんの意と聞ゆる也」、「この歌[万1684]も皇子を請し奉り度と願ふ意をよめる歌と聞ゆる也。春山は皇子御座所近所なるか。そなたの春山は花散りぬ共、こなたのみわ山は君を待ちがてに未だ咲だにもせぬとの義也。」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1920678/1/252)、藤原雅澄・万葉集古義に、「歌意は、君の来て、御覧ぜむことを待ど、未待得ぬ故に、なべての春山は散過ぬれども、三輪山は未つぼみてありといふなるべし、」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1883802/1/220)といった評言が見られる。寓意のあるなし、三輪山へ何をしに行っているのか、挿頭かざしにする花はサクラだろうなどと、雲をつかむような議論しか行われていない(注2)
 柿本人麻呂が舎人皇子に歌を献上したとすることは題詞に定まっている。当然ながら皇子が喜ぶような歌でなければならない。そしてまた、歌が歌われて人々が聞いたであろうことから耳にした人々もおもしろいと思うものだったはずである。
 人麻呂が舎人皇子と懇意にしていたとは知られず、仮にそうであったとしても、歌が歌われた現場に集っていた人たちにとっては関係のないことである。歌の言葉のなかで歌の意がきちんと伝わること、しかも興味を引く表現で関心を誘うものであることが大事である。
 人麻呂は何を言っているのか。舎人皇子という方については、歌が歌われた席に集っている他の多くの人と同じくほとんど何も知らない。わかっているのはそのお名前がトネリというただ一点である。

左:トネリコ、右:シマトネリコの花

 トネリという名のお方が挿頭かざしにするものとしてふさわしい植物は、言葉の上でわかり切っている。トネリコである。万1683番歌で歌われている「花」はトネリコの花である。円錐花序という房状の花を咲かせる。花弁がなく、茶色い雄しべが目立って線香花火の塊のように見える(注3)。「ふさ手折り」という表現がよく当てはまる。
 つまり、この歌は、一人称の「」は舎人皇子、二人称の「いも」は舎人皇子の妻であり、人麻呂が舎人皇子に成り代わって代作をしたことになる。こんな歌ができましたがどうでしょう、と献呈している。
 髪飾りの挿頭かざしにする植物には必ずしも咲いている花が求められていたわけではない。蔓の場合も多かった。髪飾りのことをかづらと呼び、植物の方もかづらと言っている。万1684番歌の前半からすると、トネリコの花は終わっていて、実が房成していたところと思われる。
 舎人皇子は歌と同時にトネリコの挿頭も贈られ、髪に刺したことだろう。そして気づくことがあった。歌と違って花は咲いていない。その疑問に答えるべく人麻呂はもう一首作った。万1684番歌では「君」は舎人皇子を指す。
 季節が進んで春山ではもうトネリコの花は散ってしまっている。皇子のお出ましを待っていられなかったからです(注4)と言い訳をしている。そして、挿頭を刺すではないが、三・四句目「三和山者未含」が挿入されている。この部分、一般には「三輪山は いまだふふめり」(注5)と訓み、三輪山ではまだ蕾のままでいます、と訳されている。しかし、原文に非略体歌で「未含」と記されているのだから「いまだふふまず」と訓むべきだろう。三輪山ではまったく蕾になることすらない、の意である。
 どういうことか。
 三輪山はスクナビコノカミが祭られている。薬の神である。トネリコは樹皮を秦皮と言って薬にし、洗眼のための目薬に使った。今、舎人皇子は挿頭に刺して目の前数センチのところにトネリコがある。舎人と目との因縁は深い。トネリはト(ともに)+ネリ(練)の意と受け取られることがあり、一緒に練り歩くのが舎人の役割として重要視された。つまり、トネリ(という言葉)は眼病者の介添え役としてデビューしたものだった(注6)
 三輪山が薬の神の所在地とするなら、三輪山では薬が生産されているに違いない。トネリコからは秦皮がどんどん剥ぎ取られていることだろう。木は養分を失い、花芽をつけるどころではなくなっている。だから、「三輪山は いまだふふまず」ということになっている。「春山」では季節が進んで花は散り、三輪山では木が痛められてそもそも花をつけることはない。いずれにせよ今日この場で花の咲いているトネリコの小枝を舎人皇子に差し出すことはできません、というのである。座興の小道具のわずかな遺漏までも歌にして浄化する人麻呂の腕前に、皇子も集う人々も楽しい気分に浸ることができ、ヤマトコトバという言語の奥深さを共有することに大いなる喜びを噛みしめているのである。

(注)
(注1)万1709番歌の左注に「右は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づる所のものなり。〔右柿本朝臣人麻呂之歌集所出〕」とある。
(注2)諸説については平舘2017.参照。
(注3)トネリコは落葉広葉樹の高木で、東北地方から中部地方にかけての温暖な山地に分布し、湿地を好む。同属のタモノキの仲間とよく似ている。田の畔に植えて稲架木にしたり、硬い材をバットなどに作ることもあった。樹皮は淡褐灰色 で剥がれ落ちやすく、漢方薬の秦皮として利用された。園芸樹木としてシマトネリコが流行り、区別するためにサトトネリコとも呼ばれている。ヤマトネリコと呼ぶようにならなかった理由についてはすでに里で利用されていたからだろう。
(注4)「待ちかてに」のニは打消の助動詞ズの古い連用形で、「かてに」はこらえられず、耐えかねての意であり、できないことを表している。君のお出でを待ちかねて、一方では花が散り、他方では今か今かと蕾の状態を保っていたと意を翻してとることはできない。また、春山では散ったが、三輪山ではまだ蕾で君のお出ましを待ちかねているととるのも不自然さは変わらない。舎人皇子を三輪山へ誘って到着するころにちょうど花開くという意ではなさそうだからである。
(注5)「未含有いまだふふめり」(万792・1363)、「伊麻太敷布売利いまだふふめり」(万4077)の例から臆されている。
(注6)拙稿「舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─」参照。

(引用・参考文献)
阿蘇2009. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第5巻』笠間書院、2009年。
池原2008. 池原陽斉「「献舎人皇子歌」の表現と類想」『東洋大学大学院紀要』 第45集、文学研究科国文学専攻、2009年3月。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 五』集英社、1996年。
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
澤瀉1961. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第九』中央公論社、昭和36年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 七』角川書店、昭和31年。
平舘2017. 平舘英子「「献忍壁皇子歌」・「献舎人皇子歌」とその背景」藏中しのぶ編『古代の文化圏とネットワーク 古代文学と隣接諸学2』竹林舎、2017年。
本田1981. 本田義寿「「献舎人皇子歌」と「舎人皇子御歌」(万葉集巻九)覚え書き」『奈良大学紀要』第10号、1981年12月。奈良大学リポジトリ https://nara-u.repo.nii.ac.jp/records/2001287(『記紀万葉の伝承と芸能』和泉書院、1990年。)
真下1981. 真下厚「人麻呂歌集「献舎人皇子歌」考」『鷹津義彦教授追悼論集』立命館大学人文学会、昭和56年。
真下1983. 真下厚「人麻呂歌集皇子献歌群─(万葉集巻九)と皇子の旅─」『日本文学 伝統と近代 和田繁二郎博士古稀記念』和泉書院、1983年。
渡瀬1973. 渡瀬昌忠「季節歌群と皇子への献歌」『柿本人麻呂研究 歌集編上』桜楓社、昭和48年。(「人麻呂歌集非略体歌制作の場(一)・(二)─季節歌群と皇子への献歌─」『國學院雑誌』第68巻第6・7号、昭和42年6・7月。)

                                     加藤良平 2026.8.25初出

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