神亀五年の難波行幸歌

 万葉集巻六に、神亀五年の「幸于難波宮時作歌」がある。これまで、記録には載らない難波宮行幸があり、宴会において男女の間で交わされた比喩の歌であると考えられてきた。しかし、歌の解釈はどれも判然とせず、要領を得ていない。よくわからないにもかかわらず、作品論、作歌場面論、歌人論などへと展開されている。

  五年戊辰に難波宮なにはのみやいでましし時に作る歌四首〔五年戊辰/幸于難波宮時作歌四首〕
 大君の さかひたまふと 山守やまもりゑ るといふ山に 入らずはまじ〔大王之界賜跡山守居守云山尓不入者不止〕(万950)
 見渡せば 近きものから 岩隠いはがくり かがよふ玉を 取らずはまじ〔見渡者近物可良石隠加我欲布珠乎不取不巳〕(万951)
 韓衣からころも ならの里の 島松に 玉をし付けむ よき人もがも〔韓衣服楢乃里之嶋待尓玉乎師付牟好人欲得食〕(万952)
 さを鹿の 鳴くなる山を 越え行かむ 日だにや君が はた逢はざらむ〔竿壮鹿之鳴奈流山乎越将去日谷八君當不相将有〕(万953)
  右は、笠朝臣金村の歌中より出づ。或に云はく、車持朝臣千年の作なりといふ。〔右笠朝臣金村之歌中出也或云車持朝臣千年作之也〕

 題詞の書き方として、「五年戊辰」とあってから改行されて「幸于難波宮時作歌四首」と記されている。万948番歌の前に「四年丁卯/春正月勅諸王諸臣子等散禁於授刀寮時作歌一首〈并短歌〉」、万962番歌の前に「天平二年庚午/勅遣擢駿馬使大伴道足宿祢時歌一首」とあるのと同様の書き方である。いつのことなのかはっきりしていて、順を追って採録していることがわかる。これらの歌が歌われたのは神亀五年のことに違いない。
 三首目の三句目は諸本原文に「嶋待尓」とある。意味が通じやすく掛詞的にも優れているからということで「嬬待尓」に改変する注釈書がなお多い。原文に忠実に「島松に」と訓んでいるのは、窪田1950.、大系本、中西1980.、影山1996.、阿蘇2007.、多田2009.などである。

 題詞に、神亀五年の難波宮行幸の折の歌であるとある。しかし、続紀にその記事は見えない(注1)
 神亀五年の続紀の記事を探ると、この歌群と関係しそうなことが載っている。皇太子の死去である。満二歳で亡くなっている。異例なことに、生後間もなく皇太子に定められていた。どこに住んでいて亡くなったか。皇太子だから東宮、今日、東院庭園として整備されているところである。天皇は見舞い(「御」)に行っている。歌の題詞に「幸」とあるのと同じことである。

 八月……○甲申(21日)、みことのりしたまはく、「皇太子の寝病みやまひ、日をれどもえず。三宝さむぽう威力ゐりよくあらざるよりは、なにぞ能く患苦ぐゑんくを解きのがれむ。これに因りて、ゐやまひて観世音くわんぜおむさつみかた一百七十七躯、并せてきやう一百七十七巻を造り、礼仏らいぶつてんきやうし、ひとぎやうだうせむ。此のどくに縁りて平復たひらがむこと得まく欲りす」とのたまふ。又、勅したまはく、「天下あめのした大赦たいしやしてわづらふ所を救ふべし。其のはちぎやくを犯せると、くわんにんのりげてたからを受けたると、監臨げむりむ主守しゆしゆみづかぬすむと、監臨する所に盗むと、強盗がうだう窃盗せつたうの財を得ると、じやうしやゆるさぬとは、ならびゆるかぎりに在らず」とのたまふ。
○壬申(9日)、……(係日錯乱有)
○丙戌(23日)、天皇てんわう東宮とうぐういでます。皇太子くわうたいしの病に縁りてなり。使つかひを遣して幣帛みてぐらもろもろみさざきたてまつらしむ。
○丁卯。……
○九月丙午(13日)、皇太子かむあがりましぬ。
○壬子(19日)、那富なほの山にはふりまつる。時にみとしふたつなり。天皇、甚だいたをしみたまふ。これが為にでうむること三日みかなり。たいをさなよはき為にみもゐやを具へず。但し、きやうに在るくわんにん以下いげない百姓はくせいとはふくすること三日、諸国くにぐにぐんおのおのそのこほりにして挙哀みねすること三日なり(原漢文)。

 天皇は皇太子の容体が悪いと聞いて八月二十一日に勅している。仏教の力を借りようと、観音菩薩像177体、観音経177部を造って礼拝、転読をしようと言い、また、大赦の令を下してそれら功徳によって病気平癒に導こうと言っている。大赦したら皇太子の病気が治ると考えていたとすれば、「所患」はワヅラフトコロであり、天皇自身が縁起を担いでいて気が晴れるというのであれば、「所患」はウレフルトコロと訓むことになる。
 その二日後、二十三日に東宮に出御して見舞い、天皇陵に幣帛を供えさせている。さき(荷向)の制のようなことをしようとしている。荷前とは、毎年各地から奉られる調の初穂のうち、皇太神宮や天皇陵に捧げ、残りを天皇が受領する行事である。
 天皇は東宮に「御」(続紀)している。万950番歌の題詞では「幸」している。さちあれといでましている。にはの宮ではないが、平城京の中の庭である。なかは、ナ(中)+カ(処)の意である。在り、住みと使うカである。つまり、中庭とはナニハなのである。皇太子が亡くなって天皇はたいへん辛い思いをなさったであろうから、憚られて「難波宮」と記し紛らせている。気持ちまで紛らせる効果を狙っている。
 この想定が正しいとすると、歌の様相は現行の解釈から大きく変わる。

 万950・951番歌にある「まじ」の「む」は、「雨・風などの自然現象や病気などが、自然に絶えて消え去る意。」(岩波古語辞典1357頁)、「そのことがら自体が停止と同時になくなる意をあらわす。」(時代別国語大辞典774頁)のであり、自然現象が自然に消える、物事が途切れる、予定が中止になる、病気が治る、感情の昂ぶりが治まる、など多様に用いられるが、ここでは病気平癒のことを言っている。治療法が事実上なかった時代、病気が治るとは緩解していくことである(注2)
 それぞれの歌にある「ズハ」という用法は、今日論じられている「ズハ」の特別な構文ではなく、「……ず」ハ「……」という形を示している(注3)。PハQとは、P≒Q、PはどういうことかというとQということである、PはQと同等のことである、の意である。

 大君の さかひたまふと 山守やまもりゑ るといふ山に 入らずはまじ〔大王之界賜跡山守居守云山尓不入者不止〕(万950)
 「大君の境ひたまふと山守据ゑ守るといふ山に入らず」ハ「止まじ」

 天皇が他の山と区別なさって番人を置いて守るという山に入らないというのはどういうことかというと、病気が治らないということである、と言っている。番人がいる「山」は山陵のことである。山陵へは荷前でもなければ幣を捧げることはしないが、そんなことを言っている場合ではない。藁にもすがる思いでできることは尽くしておこうとしている。ふだん、天皇が境界を立てて番人を置いて守るという山に入らないままに幣帛を捧げないというのは、皇太子の病気が治らないということと同じことです、つまり、皇太子の病が治るように、時季外れだけれど諸陵に幣帛を捧げよう、と歌っている。続紀の対応記事は八月二十三日条である。天皇の気持ちを代詠している(注4)

 見渡せば 近きものから 岩隠いはがくり かがよふ玉を 取らずはまじ〔見渡者近物可良石隠加我欲布珠乎不取不巳〕(万951)
 「見渡せば近きものから岩隠りかがよふ玉を取らず」ハ「止まじ」

 見渡してみて近くにあるけれど岩に隠れている、ゆれて光る玉を取らないままでいるということはどういうことかというと、病気が治らないということと同じことである、と言っている。近くにあればいつでも取れるからと、取るのが厄介なゆらめいて光る玉を放っておいたままにしていると病気は治らない、の意である。「玉」は「たま」と同根の言葉である。皇太子の魂をタマと言っている。天皇のいるところから近いところに皇太子はいる。それを放っておいたら皇太子の病は治らないから見舞いに行こう、と歌っている。この歌も天皇の代詠として機能している。

 韓衣からころも ならの里の 島松に 玉をし付けむ よき人もがも〔韓衣服楢乃里之嶋待尓玉乎師付牟好人欲得食〕(万952)

 再びタマの歌である。万951番歌では、タマが皇太子の魂を救うことを歌い、そのために見舞いに行くことを言っていたが、ここでは、庭園の山斎に植えられている松に玉を付けることで皇太子の魂を救おうと言っている。「島」は庭園の池に造った築島、タマは霊のことである。まだ赤ん坊である皇太子の気持ちを慰めるために、クリスマスの飾りのようなものを見せようとしているらしい。

 いもとして 二人作りし 吾が山斎しまは だかしげく なりにけるかも〔与妹為而二作之吾山齋者木高繁成家留鴨〕(万452)
 ぬしの たま賜ひて 春さらば 奈良の都に 召上めさげたまはね〔阿我農斯能美多麻々々比弖波流佐良婆奈良能美夜故尓咩佐宜多麻波祢〕(万882)

 「吾が主の御霊賜ひて」とは、あなた様のお恵みをもって、の意である。恵みを垂れることは功徳とされるから、仏教的な考え方からすれば現世利益があるということになる。そして、万952番歌では、「島」にかかわるように「玉」のことが述べられている。つまり、シマにマツがあるということは、島流しになって許されるのを待つ者がいて、恩赦を与えてくれる恵みある人が現れることを願うと言っていることになっている。続紀の対応記事は八月二十一日条である。
 子どもだましの飾りつけと恩赦のこととが一つの言い回しで歌われている。
 この、一つの言い回しで二つの意味に受け取ることができる言葉は、上代において、片方をかなえればもう片方もかなうであろうと考えることにつながっていた。言葉と事柄とが同じことであるとする、本来の意味での言霊信仰のもとでの考え方に依拠している。それはまた、祈誓うけひと呼ばれる古代の実践的占い法に通じる。飾りつけと恩赦とを掛けるような歌が歌われたのは、「可大赦天下」と勅されてのことだろう。大いなる恵みが流罪の地の島で恩赦を待っていた人に与えられた。「よき人」として聖武天皇自身はこの世に現れている。だから、今度は、皇太子の住まいである東宮、すなわち、東院庭園へ御幸して、山斎の松に飾りつけすることが求められる。具体的に出御するという段階になって、皇太子の代詠として歌が詠まれている。

 さを鹿の 鳴くなる山を 越え行かむ 日だにや君に はた逢はざらむ〔竿壮鹿之鳴奈流山乎越将去日谷八君當不相将有〕(万953)

 「さを鹿の鳴くなる山を越え行かむ日」とは、狩りに出猟する日である。四句目の「や」は反語である(注5)。狩りに行く日でさえひょっとして会わないでしょうか、いやいやまして狩りに行くのではない日にはやはり会わないでしょう、と言っている。「當」字を「為當」(万74)同様ハタと訓むことに問題はない。もしや一方で、あるいはまた、それとも別に、どう思ってもやはり、など、甲乙二つ並んだ状態があるとき、一方を抑え、他方を取り立てる語である。甲乙両方のケースを論う「はた」という語を登場させてメルクマールとし、「や」が反語であることを明白化している。現行の注釈書では、必ずしもこの意をきちんと汲んでいるわけではない。助詞の「や」の使い方について、いまだ十分に理解されていないからである。

 雄鹿が妻を求めて鳴くのが聞こえる山、そんな山を越えて行かれる日にさえも、あなたはもしかして私に逢っては下さらないのではないでしょうか。(「君が」と訓む説、伊藤1996.351頁)
 さ男鹿が鳴く山を越えていく日だけでも逢いたいのに、その日でさえ、男鹿の声ばかりで、君には、また逢わないのだろう。(「君に」と訓む説、中西1980.39頁)

平城宮跡東院庭園(掻い掘り中)

 「幸」の時の歌に「君」とあるのだから、「君」は天皇を指す。天皇が狩りに行く日に逢うことはなく、そうでない日にはなおさら逢うことはない。誰が逢うかはこの歌が皇太子の見舞いに出御する時の歌だから、皇太子である。赤ん坊だから逢うもなにもないとするのは早計である。歌っているのは左注に名があがっている笠朝臣金村ないしは車持朝臣千年である。いずれも「朝臣」の立場で天皇、あるいは皇太子に仕える身として歌っている。ここでは皇太子の代詠になっている。天皇の出御を促す歌を歌っている。
 皇太子が病に臥せっている場所は東宮、すなわち、東院庭園のあるところである。島、すなわち、水の流れを造って山斎しまを拵えていたにはのところである。ニハという言葉は、garden の意のほかに、猟場 hunting ground のことも指す。

 猟場にはたのしびは、膳夫かしはでをしてなますつくらしむ。自ら割らむに何与いかに。(雄略紀二年十月)

 東宮(東院庭園)へなかなか行こうとしていない天皇に対して、出御を勧めるために歌うに当たり、狩猟のニハのことを思わせる鹿の歌を歌っているのである。
 これら四首は、全体として天皇を中心とする宮廷社会の総意のようなものを詠んでいるものであるが、前二首は天皇の立場に寄っていて、後二首は皇太子の立場に寄っている。歌が翼賛的な性質を呈することをよく示し、また、掛け合いのものである点もよく保っていると言える。

 本歌群にはもう一首付け足しがある。

 かしはでのおほきみの歌一首〔膳王歌一首〕
 あしたには うみあさりし ゆふされば 大和へ越ゆる かりともしも〔朝波海邊尓安左里為暮去者倭部越鴈四乏母〕(万954)
  右は、作れる歌の年つばひらかならず。但、歌の類を以て便ち此のつぎてに載す。〔右作歌之年不審也但以歌類便載此次〕

 この歌が「五年戊辰/幸于難波宮時作歌四首」と同じ時に詠まれたものかわからない。天皇が皇太子の見舞いに出掛けた時のことにそのまま結びつくとは考えにくい。ただし、これは「雁」の歌であり、つまり、カリ(狩猟)のことが歌われている。しかも、カリニハで活躍するかしはでの名を負うかしはでのおほきみによって詠まれている。一句目は「あした」と訓む説もあるが、猟場にはのことにつながる歌なら必ず「あしたには○○」と訓まれたものと推測される。「歌類」として万953番歌とよく似ている。天皇が見舞いに行ったとする記事は続紀にある八月二十三日一度きりである。天皇としては毎日でも見舞いに行きたいところ、諸般の事情によりかなわなかったのだろう。お忍びで行くことはできず、隊列を組んで行幸することになるから簡単にはいかない。幼い子を皇太子に立てたがため、離れている東宮に住んでいて、逢いに行くにはいろいろと形式を踏まなければならなくなっている。ほかには、公衆衛生上の問題として伝染病が多かったから病人に近づくのはためらわれたとも思われ、そもそも父親が乳児を見舞ったからといってその病気がよくなることも期待薄である。
 そう考えると、万954番歌が、聖武天皇が東宮へ見舞いに行った後、宮にあって、雁のようにニハまで一飛びに行けたらなあと思ったであろうことを、膳王が代詠した歌であるとも考えられる。膳王は料理人としての名を負っているから、カリ(狩猟)の獲物となるカリ(雁)のこと、その雁がカリ(漁撈)をすることに気が行っている。漁場のこともニハと言った。そして、雁を捌くのも料理人の仕事で、それは家屋の前後に設けられている空間、すなわち、ニハで行われた。

 武庫むこの海の 庭よくあらし いざりする 海人あま釣船つりふね 波のうへに見ゆ (万3609)
 庭に立つ あさ刈り干し 布さらす 東女あづまをみなを 忘れたまふな(万521)

 万950~953、ならびに954番歌は、聖武天皇が病気の皇太子の住む東院庭園へ見舞いに出掛けることにまつわる歌であった。

(注)
(注1)記録には見えないが、史学の方面では、後期難波宮再興の時期に当たるから視察に行っていたはずだと考える説もある。
(注2)ヤムという言葉には、「止」・「息」で表される意以外に、「む」という語が同音語としてある。「病む」と治らなくて人生すべて「止む」ことと考えられていたからなのか、不明である。ここでは「止」「已」と書いてあるからそのとおりに捉えていれば問題は生じない。
(注3)拙稿「万葉集の「恋ひつつあらずは」について」ほか参照。
(注4)左注に見える笠金村、車持千年のいずれの作であるかについては不明である。影山2000.に、「特定の個性的歌人を作者として要求しないような状況下で課題歌四首が生成したという事情を想定するべきであろうか。……金村や千年を含む供奉官人に広く共有される歌として課題歌は機能したものかもしれない。現に各歌のありようはそうした見方を促すかのように反個性的である。」(155頁)とする指摘は、その限りで当を得ている。歌はその場で声を出して歌われたものだから当たり前のことである。
(注5)「だにや」の形は万葉集に他に一例ある。

 きりやま ゆきの道の 朝霞 ほのかにだにや 妹に逢はざらむ(万3037)

 この歌は、殺目山を往来する道に立つ朝霞のように、ぼんやりとだけでも妻に逢わないだろうか、の意と解されている。否定の語と呼応する「だに」の意味の、「せめて……だけでもと願うが、それも……ない」の意とされ、「や」は疑問の意、五句目へ回して「逢はざらむや」と言い換えてもかまわないかのようである。
 しかし、圧倒的多数の用例をかかえる「だにも」は、「……だけでも」と対象をとり上げるところから「……までも」の意に転じている。

 …… うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば(万210)

 生きていると思っていた妻が、玉のゆらめくようなほのかさのなかにまでも見えないことを思うと、の意である。条件を譲りに譲ってみても、そうでさえ願いはかなわない、と言っている。ここにある「も」は、承ける語を不確実なものとして扱う助詞「も」の本来の義である。譲りに譲っているのに譲っている効果がないということである。では、次のような場合、どのような意になるのだろうか。

 きりやま ゆきの道の 朝霞 ほのかにだに 妹に逢はざらむ(万3037改)

 殺目山を往来する道に立つ朝霞のように、ぼんやりとだけでも妻に逢わないだろう、という意であろう。万3037番歌の例との違いが不明瞭である。きっと逢うことはないだろう、というのとの差を表すとするのであろうが、せっかくの歌の修辞が生きてこない。
 「殺目山 往来の道の 朝霞 ほのかにだにや 妹に逢はざらむ」(万3037)では、「ゆきの道」と言っている。「越え行く道」などとはない。「ゆきの道」と言うことで、行っては帰ることをする道だと主張している。ひょっとすると古代の道に一方通行の道があったのかも知れないが、道は往来するのが原則であり、だから道のことを「往来おうらい」とも呼んでいる。そんなことをわざわざ歌に詠みこんでいる。なぜか。「や」が反語の意を表すからである。表現する意味が往き来する。すなわち、殺目山を往来する道に立つ朝霞のように、ぼんやりとだけでも妻に逢わないでしょうか、いやいやどんなに目を凝らして探しまくっても妻に逢わないでしょう、というのが歌意である。

(引用・参考文献)
阿蘇2007. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第3巻』笠間書院、2007年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
梅谷2006. 梅谷記子「万葉集巻六・九五二番歌の考察─「五年戊辰于難波宮時作歌四首」解釈の一環として─」『萬葉語文研究 第2集』和泉書院、2006年。
影山1996. 影山尚之「難波宮行幸時作歌試論(上)」『園田学園女子大学論文集』第31号Ⅰ、1996年12月。
影山2000. 影山尚之「神亀五年の四首の難波行幸歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第六巻─笠金村・車持千年・田辺福麻呂─』和泉書院、2000年。
窪田1950. 窪田空穂『萬葉集評釈 第五巻』東京堂、昭和25年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、昭和42年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳 『新編日本古典文学全集7 萬葉集②』小学館、1995年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
高松1997. 高松寿夫「神亀五年「難波四首」の構想─九五二歌の解釈を軸として─」『古代研究』第30号、1997年1月。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解Ⅱ』筑摩書房、2009年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。

加藤良平 2023.9.11初出