オニ(鬼)というヤマトコトバは飛鳥時代ごろに生まれたものと思われる。仏教が中国に入って道教の影響を受けたものが日本へ流れて来て、中世には地獄の獄卒として活躍したのがよく知られる鬼の姿となっている。波状的に中国の思想が到来しているなかでも早い時代の鬼としては、物の怪とも呼ばれる鬼、鬼やらいの鬼などがある。物的証拠として残るものとして古くからあるのは鬼瓦(注1)である。

和名抄の「鬼」

いわゆる語源を探るという立場に筆者は立たない。ヤマトコトバの語源は、現代でのネーミング、商標権などと異なり、極められるものではない。一方、飛鳥時代に、当該語の音の響きを人々がどのように感じ取っていたか、当時の人々の語感については万葉集の表記などから推測することが可能である。むしろ、それが当時の人たちの心の真相であったのではないか。万葉集の用字に、助詞のカモを鳥類の「鴨」という字を多く使っている。すると鳥類のカモを見つけるたびに、もしかしたら、という意味合いを見て取ってしまうということになりかねないだろう。結果として、洒落で言葉を把握していたという側面がある。
紀に、次のようにある。
故、時人、改めて其の河を号けて、挑河と曰ふ。今、泉河と謂ふは訛れるなり。(崇神紀十年九月)
故、其の地を堕国と謂ふ。今、弟国と謂ふは訛れるなり。(垂仁紀十五年八月)
地名の由来が語られている。訛ったのだと真面目に述べられている。今日、このような地名譚について、それを地名の語源と主張する人はいない。真に受けていては気が変だと思われかねない。笑い話ということで何の不都合も生じない。しかし、こういった地名譚ばかりでなく、記紀説話すべてが洒落なのかもしれない。その証明にはすべての説話について検討が必要となるが、おそらく、解明は時間の問題に過ぎない。無文字に暮らしていたら言葉を覚え、伝える術は限られている。
この傾向は書契の時代に失われたが、万葉集の訓詁に携わるなどすれば、訛りによるとする地名譚と同じノリを持つ人がいてもおかしくはない。和名抄にも、実のところ、源順(911~983)がそのつもりで記した箇所があるらしく感じられる。
人神 周易云人神曰鬼〈居傳反和名於邇或説云於邇者隠奇之訛也鬼物隠而不欲顕形故以稱也〉唐韻云呉人曰鬼越人曰〓(「幾」字の「人」の代わりに鬼)〈音蟻又音祈〉四聲字苑云鬼人死神魂也(高松本による。「傳」は「偉」の誤り)
人神 周易に云はく、人神を鬼〈居偉反、和名は於邇。或説に云はく、於邇は隠奇の訛れるなりといふ。鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称すなり〉と曰ふといふ。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は〓(「幾」字の「人」の代わりに鬼)〈音は蟻、又、音は祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死にし神の魂なりといふ。
オニ(鬼)の語源説として、隠の字音、オンが訛ったものだと言われている。その説は和名抄のこの記事に依っている。和名抄の諸本のうち、「隠奇」となく「隠」一字のものがあり、銭(ゼン→ぜに)、盆(ボン→ぼに)のように撥音便を避けて言葉が作られているものと思われている。源順自身が言っているのは「或説云」だけである。彼が「案(按)」じているのではない。そういう説があると紹介しているだけである。
和名抄に、言葉の謂れを記した記述は各種ある。「云」、「謂」、「言」、「云」、「読」などと、巧みに書き分けている。文選に登場する語で、なるほど納得、知恵の働いた訓が付けられているものだなあと源順が感動したものについては、特に「文選……読」という表記が採られている(注2)。
それに対し、ここでは、「或説云」という無責任な表記が行われている。彼自身、言葉として大して興味をそそられることはなかったのだろう。オニがどうしてオニと言われるのか? ある説ではこのように述べられている、と言っている。
今日から振り返ったとき、オニ(鬼)という言葉が多義化して膨らんでいろいろと便利に用いられているから、もう少ししっかりと語源を示す記事があるような気がする。しかし、言葉はそれほど科学的にはできていない。「泉河」が「挑河」の訛った形であるということと同列に捉えれば、オニ(鬼)という言葉が「隠」の字音、オンの訛ったものだと言っていても構わない。しかも、当時最高の知識人、源順自身がぶち上げた説ではなく、そんなことらしいという話として述べている。
新撰字鏡の「鬼」
オニ(鬼)という言葉について、今後新しい語源説が唱えられ、検証されることがあるかもしれない。けれども、和名抄の記述に異議を唱えても仕方がないものである。オニ(鬼)=「隠」の字音「オン」の音訛説は、平安時代にそういう説が歴史的事実としてあり、そう考える人たちが当時少なからずいたということを示している。中古語ばかりでなく上代語を理解するうえでこの点は肝心である。
ところが、現代において古辞書の記事を誤読した解釈が現れている。
鬼 九偉反、上、人神曰鬼、慧也、帰也、送身也、遠也(新撰字鏡)
「この「遠」はヲニという音を写していると考えられる。つまりオニを表記する(於邇)の前身に、(遠)という表記があったのである。平安時代にはヲとオが混同されるようになっていたから(6)、ヲニ(遠)がオニ(於邇)となるのに不都合はない。」(山口2016.36頁。注の(6)は「大坪併治著『改訂訓点語の研究』上、風間書房、平成四年刊。」(51頁))(注3)
新撰字鏡は字書である。漢漢辞典のなかにパラパラと万葉仮名で和訓が記されている。万葉仮名で記されているのが和訓である。「○○也」と書いてあるのは、漢字の字義を漢字で説明しているところである。ここは、「鬼 九偉反、上[声]。人神は鬼と曰ふ。慧なり。帰なり。身を送るなり。遠なり」とあって、鬼の説明として、慧いものであること、(あの世に)帰るものであること、身は送って残った霊魂のようなものであること、そして「遠」であるもの、と記されている。和訓は記されていない。「遠」は、論語・学而に、「曽子曰く、終りを慎み遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。(曽子曰、慎レ終追レ遠、民徳帰レ厚矣。)」とある「遠」の意で、先祖のことである。「人神」を「鬼」と言っている。亡くなったご先祖様のことである。
中国で道教や民間信仰が盛んであったことは確かであるものの、それ以上に儒教が盛んであったことも事実である。なかでも論語は基本である。新撰字鏡の著者、昌住(9世紀)はお坊さんで学問全般に通じていて、中国由来の思想、儒・仏・道・陰陽・神仙などのいずれをも視野に字書を作ったものと思われる。「遠」はご先祖様のことだと「也」で断じている。「遠」は万葉仮名として記しているのではなく、「也」も衍字ではない。
他の「遠」字の例を垣間見てみる。新撰字鏡の天治本と享和本を校異していくと次のような記述が見える。
悠々 思也、遠也、宇加大礼、又大伊々々志久
「悠々 思なり。遠なり。宇加太礼、又、大伊々々志久」と読める。書かれてあるのは、悠々の字義は思いやること、遠くはなれていることで、和訓ではウカダレ、また、オホイオホイシクである、と言っている。ウカダレやオホイオホイシクなど、滅多にお目に掛かれない和語を知れる素晴らしい字書である。「太皇太后宮」という言い方がある。天皇の祖母でむかし皇后であったおおおばあ様には、悠々自適にお暮しになられることを望みたいものですとの表明である。「遠」の意味が理解されよう。
斉明紀のオニ(鬼)=神功皇后の「人神」
万葉集で「鬼」字はすべてモノと訓まれている。では、当時、オニ(鬼)という言葉はヤマトコトバになかったかと言えば、筆者はあったと考える。歌語ではないから万葉集ではそうは訓まないが、紀では「鬼」字にオニと古訓が振られている。平安時代に付けられたものだから飛鳥時代にはそうは呼ばれていなかったと言えなくはないが、そう振られているからまずは騙されたつもりであれそう読まなければ話が始まらない。
斉明天皇は女帝で、舒明天皇の皇后、その後を襲って皇極天皇として位に就き、大化改新時に退位して「皇祖母尊」と呼ばれていた。そんなおばあさんが重祚して斉明天皇となり、悠々自適には過ごされずに白村江の戦いに臨もうと九州まで来たところで客死された。その場所で「鬼」が出てくる。
五月の乙未の朔癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。是の時に、朝倉社の木を斮り除ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮の中に鬼火見れぬ。是に由りて、大舎人及び諸の近侍、病みて死れる者衆し。(斉明七年五月)
秋七月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徒りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ。(斉明紀七年七月~八月)
いわゆる鬼火は火の玉であると現代科学では解明されているらしいが、この箇所ではよくわからない神秘的な火としてオニビと呼んだのだろう。万葉集で「鬼」をモノと訓むからといって、モノビという言い方は知られていない。人の前に神が姿を現した例としては、雄略天皇条の葛城の一言主大神がある。姿を現した一言主大神は「神」である。他方、「鬼」は、和名抄に、「鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称すなり」とある。姿が不明瞭なのをオニと呼んだということになる。モノと名の付く神、大物主神の場合、「物」は物の怪のモノに当たるのであろうが、それを祀るべく対象として把握されている、つまり、「神」として崇めてしまうことによってオニではなくなったということを神名のなかに表している(注4)。
「人神」にして「隠」れていて「遠」なるものとは、遠いご先祖様の霊魂のようなものと考えることができる。朝倉宮で人々が怖がった「鬼」とは斉明天皇のご先祖様、その場合、儒教では父系をたどる。斉明天皇がご先祖様と仰いで同じように朝鮮半島へ派兵しようとしているのは神功皇后であった。古く新羅親征を行って成功を収めた。すなわち、神功皇后の霊が「鬼火」となり、「鬼」となってぼやぼやっと顕れるか顕れないかしたということが活写されているのである。むろん、斉明紀の記述においてそうあるというだけで、古代の人びとの一般的、普遍的なものの考え方とはいえない。それでも、斉明天皇の行軍は神功皇后の新羅親征を準えているから、宮廷社会の人々にとってはもはや常識と言えるものだったのではないか。斉明七年(661)時点におけるオニとはご先祖様の亡霊のことを指していた。後々、オニという言葉はいろいろな意味に転用されるようになったが、その出発点として、はじまりは先祖の亡霊のことであったと定められる。和名抄の「周易云、人神曰二鬼一」という説明は当を得ていると言える。
ヤマトコトバのオニ(鬼)は、原初形態として現れてから今日に至るまでにさまざまなオニ(鬼)を見ることとなっている。ただし最初の本流は「人神」であり、「遠」である、先祖の亡霊のことを指していたと言えるのである。
(注)
(注1)林1996.に、「[広州龍生崗の鬼瓦の附く屋根(陶製明器)]は鬼瓦の古い形である。その名称は今のところ不明である。」(191頁)とある。平城京の屋根に載せられた鬼瓦を当時の人が何と呼んでいたか、筆者にも今のところ不明である。
(注2)拙稿「和名抄の「文選読」について」参照。
(注3)山口2016.の論述では、「瘟」がメインで、「瘧鬼」、「疫鬼」に和語のオニのルーツを求めている。導入部分に「遠」字が出ている。
(注4)諸説ある。
(引用・参考文献)
林1996. 林巳奈夫編『漢代の文物』朋友書店、1996年。
山口2016. 山口建治『オニ考─コトバでたどる民間信仰─』辺境社発行、勁草書房発売、2016年。
加藤良平 2025.9.2改稿初出