一
本邦におけるケガレについての研究にはいくつか方法がある。民俗学、歴史学、宗教学、神話学、上代文学などである。そのうち、民俗学の一派が議論として主だっている。ケガレとは、ハレ(晴)─ケ(褻)─ケガレ(穢)の構造の中にあるもので、ケガレとは、ケ(褻または気)がカレ(枯または離)ることであるとしている。巷間に使われていた言葉を学術用語化して論じられている(注1)。歴史的にどのようにケガレの概念があったかということとは別に、創作した図式に合うようになかば造語して嵌め込み説明しようとしており、議論のための議論であると言わざるを得ない。白川1995.に、「晴れと褻との別は上代語にみえず、中世のものであろうと思われる。」(317頁)(注2)、西宮1990.に、「奈良朝以降今日まで用ゐられてゐる日本語のケガレは依然として「不浄・よごれる・きたない」が基本的な意味をもち続けてきてゐるが、それだけに精力源、活動源の枯渇といふやうなエネルギーを意識させるやうな意味もまた機能ももちあはせてゐないと考へられるのである。」(131~132頁)とある。
本稿において問題にしたいのは、上代においてケガレはどのように意識されていたかという点である。意識調査もせずに了解の域に達するためには、ケガレという言葉がどのように用いられていたか吟味していくしかない。ケガレという言葉があり、ケガレという意識がある。どのような場面でケガレという言葉が用いられ、どのような場面では用いられていないか、また、形容詞形のケガラハシと類語のキタナシとはいかに区別されているか。それら言葉の使用痕から上代のケガレ意識の実態に近づこうとするものである。
大化薄葬令に、次のようにある。
凡そ畿内より、諸の国等に及るまでに、一所に定めて収め埋めしめ、汚穢しく処々に散し埋むること得じ。(孝徳紀大化二年三月)
「不レ得三汚穢散二埋処々一」とある。当時は墓埋法がなく、どこにでも埋められていたことを表している。その状況を「汚穢」と言っている。墓地と定めた特定の一個所に集中させれば「汚穢しく」はないと孝徳天皇は考えていて、詔を発している。上代におけるケガレ観念のあり様を窺い知る好例である(注3)。
上代に、死の穢れを忌むことに普遍性はなかったとする説がある。土谷1986.は、「穢の用法には時代的な変遷があり、「穢=不浄」として忌避すべきものとする考え方が一般化するのは八世紀頃の仏教との交渉が深まりはじめた時からであり、特に九世紀半ば以降にその強化が進められるようになった。……延喜式にある穢観とそれに伴う規制は、九世紀、十世紀頃を中心とした仏教的不浄観に刺戟されての一学説であろう。……仮にこのことを、神道の発展過程のなかにおける文化的吸収であり、神道心意の拡大と整理であるとするにしても、それは国家観、天皇観、人間観の大きな転換を伴うことである。」(155~156頁)とする(注4)。大本2013.は、記紀万葉に載る「穢」字の特徴として、「一、単独名詞(「穢」が一文字で名詞となっているもの)は全く出てこない。これは「穢」の概念が穢として固定化していないことを示すといえる。当然、触穢の穢と同一の用いられ方をする「穢」はでてこない。二、土谷が述べているように、「穢」は必ずしも「不浄」をあらわしてはいない。三、「穢」の訓は「キタナキ」「ケガス」「ナレ」など多様であることがわかる。」(34頁)とする。上代に、忌避すべきとされるはずのケガレの概念は固定化しておらず、今日知られる触穢の意識も芽生えていないと指摘している。
ただし、ケガレやケガル、ケガス、ケガラハシという言葉は歴として存在している。ケガレというヤマトコトバに漢字の「穢」を当てる固定化には至っていないということである(注5)。ヤマトコトバにいうケガレという概念は時代的な変遷を大きく被ったと考えられる。では、上代においてケガレとはどういうものであったか。その問題にたち返らなければならない。用字としての「穢」は主題ではなく、ケガレと言われていたこと、文字資料の記紀万葉でケガレ、ケガル、ケガス、ケガラハシと訓まれるべき内容について、ひとつひとつどのような意味で用いられているか汲み取っていくことによって捉え直すことが求められている。
二
西宮1990.に、記紀にケガレと訓まれるかもしれない正訓字の諸例、および関連語をあげている。以下、妥当と思われる訓読文を提示した。
古事記
(1)いなしこめしこめき穢き国(伊那志許米上志許米岐穢国)(記上)
(2)此の二神は其の穢繁しき国に到りたまひし時、汚垢に因りて成れる神なり。(此二神者所レ到二其穢繁国一之時、因二汚垢一而所レ成之神者也。)(記上)(注6)
(3)邪き心(邪心)(記上・崇神記・安康記)
(4)穢汚くして奉進ると以為して(以二-為穢汚而奉進一)(記上)
(5)何ぞ吾を穢き死人に比ふる。(何吾比二穢死人一。)(記上)
(6)僕は穢邪き心無し。(僕者無二穢邪心一。)(履中記)
(7)是は義にあらず。(是不レ義)(履中記)
日本書紀
(1)伊弉諾尊、既に還りて、乃ち追ひて悔いて曰はく、「吾前に不須也凶目き汚穢き処に到る。故、吾が身の濁穢を滌ひ去てむ」とのたまふ。則ち往きて筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至りまして、祓ぎ除へたまふ。遂に身の所汚を盪滌ぎたまはむとして、……不須也凶目汚穢、此には伊儺之居梅枳枳多儺枳と云ふ。(伊弉諾尊既還、乃追悔之曰、「吾前到二於不須也凶目汚穢之処一。故当レ滌二-去吾身之濁穢一」。則往至二筑紫日向小戸橘之檍原一、而祓除焉。遂将レ盪二-滌身之所汚一、……不須也凶目汚穢、此云二伊儺之居梅枳枳多儺枳一。)(神代紀第五段一書第六……第七)
(2)但し親ら泉国を見たり。此既に不祥し。故、其の穢悪を濯ぎ除はむと欲して、(但親見二泉国一。此既不祥。故欲レ濯二-除其穢悪一、)(神代紀第五段一書第十)
(3)月夜見尊、忿然りて作色して曰はく、「穢しきかな。鄙しきかな。寧ぞ口より吐れる物を以て、敢へて我に養ふべけむ」とのたまひて、(月夜見尊、忿然作色曰、「穢哉。鄙矣。寧可下以二口吐之物一、敢養レ我乎」、)(神代紀第五段一書第十一)
(4)素戔嗚尊、対へて曰はく、「吾は元黒き心無し。……濁き心……」(素戔嗚尊、対曰、「吾元無二黒心一。……濁心……」)(神代紀第六段本文)・悪き心……悪しき意(悪心……悪意)(同一書第一)
(5)衆神の曰はく、「汝は是躬の行濁悪しくして、逐ひ謫めらるる者なり。……」(衆神曰、「汝是躬行濁悪、而見二逐謫一者。……」)(神代紀第七段一書第三)
(6)味耜高彦根神、忿然作色して曰はく、「朋友の道、理相弔ふべし。故、汚穢しきに憚らずして、遠くより赴き哀ぶ。何為れか我を亡者に誤つ」といひて、……世人、生を以て死に誤つことを忌む、此其の縁なり。(味耜高彦根神、忿然作色曰、「朋友之道、理宜二相弔一。故不レ憚二汚穢一、遠自赴哀。何為誤二我於亡者一」、……世人悪二以レ生誤レ死、此其縁也。)(神代紀第九段本文)
(7)亦形姿穢陋し。(亦形姿穢陋。)(景行紀四年二月)
(8)台直須弥は、初は上を諫むと雖も、遂に倶に濁れたり。(台直須弥、初雖レ諫レ上、而遂俱濁。)(孝徳紀大化二年三月)
(9)凡そ畿内より、諸の国等に及るまでに、一所に定めて、収め埋めしむべし。汚穢しく処処に散し埋むること得じ。(凡自二畿内一、及二諸国等一、宜下定二一所一、而使中収埋上。不レ得三汚穢散二埋処処一。)(孝徳紀大化二年三月)
(10)凡そ諸の僧尼は、常に寺の内に住りて、三宝を護れ。然るに或いは及老い、或いは患病みて、其れ永に陜き房に臥して、久しく老疾に苦ぶる者は、進止便もあらずして、浄地亦穢る。(凡諸僧尼者、常住二寺内一、以護二三宝一。然或及老、或患病、其永臥二陜房一、久苦二老疾一者、進止不レ便、浄地亦穢。)(天武紀八年十月是月)
(11)素戔嗚尊……天照大神の新嘗しめす時を見て、則ち陰に新宮に放𡱁る。(素戔嗚尊……見二天照大神当新嘗時二、則陰放二-𡱁於新宮一。)(神代紀第七段本文)
(12)是に、兄、著犢鼻して、赭を以て掌に塗り面に塗りて、其の弟に告して曰さく、「吾、身を汚すこと此の如し。永に汝の俳優者たらむ。……」とまをす。(於レ是、兄著犢鼻、以レ赭塗レ掌塗レ面、告二其弟一曰、「吾汚レ身如レ此。永為二汝俳優者一。……」。)(神代紀第十段一書第四)
(13)是に、千熊長彦を新羅に遣して、責むるに百済の献物を濫れりといふことを以てす。(於レ是、遣二千熊長彦于新羅一、責以レ濫二百済之献物一。)(神功紀四十七年四月)
(14)武彦、皇女を姧しまつりて任身ましめたり。(武彦姧二皇女一而使二任身一。)(雄略紀三年四月)
(15)爰に神の名・王の名を以て、人の賂物とするの故に、他の奴婢に入れて、清き名を穢汚す。(爰以二神名・王名一、為二人賂物一之故、入二他奴婢一、穢二-汚清名一。)(孝徳紀大化三年四月)
西宮氏は、キタナシ、ケガレ、ケガスの一覧を作成してそれぞれの語系の由来を探っている。それでも判然としない点も多いためか王朝仮名文学の例を引き、ケガレの意味をまとめている。
(イ)ケガレは、基本的に「不浄・よごれる・きたない」と観念されるものや事柄で、それは「忌み嫌はれる」感情が作用する。
(ロ)「月経」の如く、「にはかに」といつた突然性が考へられる。
(ハ)「清浄汚損」「名誉毀損」とかの如く、「損ずる・そこなふ・傷つく」といふ「よごれ」がある。(125頁)
そして、最終的に、ケガレの語源に、ケガ(怪我)という語幹をみる仮説を私按として提唱している(注7)。
土谷1986.、大本2013.が示唆するとおり、古代以降、ケガレの観念自体が変容している。(ロ)の月経は上代にケガレとされておらず、「にはかに」感も不明である。成清2003.は、弘仁式や延喜式よりも以前の古代においては、「人間の出産を忌む「産穢」などはまだ成立しておらず、記紀神話などにたびたび登場する「産屋」も出産瞥見の禁忌を示すものと考えられるのではないだろうか。」(81~82頁)とする。古事記の美夜受比売の「月経」のことを記す歌謡(記27)も触穢の思想から歌われたものではない。ケガレの概念が上代から中古にかけて大きく転換した。理由としては、特に平安京という都市の衛生問題と、そこに常住して都市化が起こり自然を排除するようになったこと、その際に仏教や陰陽道の思想を利用して管理社会化をすすめ、また、畏怖の感情に訴えかけることでケガレ観が拡張されたからだろうと考えられている(注8)。ケガレが一様な概念として継続していたとは考えられず、上代には上代のケガレ観があったと考えるべきなのである(注9)。
三
「祓ふ」という語は罪、穢れの関連語である(注10)で、。四段活用の「払ふ」は、目の前に物理的に存在しているゴミ、塵芥、露や霜を除き去ることから展開し、人を追い払い追放したり敵対者を払いのけて平定することにも用いられている。対して下二段活用の「祓ふ」は、目の前にはない罪や穢れといった感情での汚れについて、「祓つ物」というシンボリックなものを目の前に提示して、それをうち棄てることで精神面での衛生を保つことである。類推思考に馴染んでいると代償的な行為が優位に働く。すなわち、「祓ふ」は想念上におけるハラフ行為である。祓つ物を払うことが疑似的行為に当たるから、本行為と疑似行為が重なり合ってアヘ(合)の声が混じり約され、ハラフ(払)+アフ(合)→ハラフ(祓)という下二段活用の動詞が構成されていると考えられる。自分の身に付いている罪穢れを、目に見えない箒を使って取り除いている。形代の人形に息を吹きかけて身代わりとして川に流し、自らはきれいになったと心を収めている。実と虚とが合わさっている。「祓ふ」という語の語学的焦点は、アナロジカルな多重性を一語の中に収め秘めているところにある。
「祓ふ」対象としてケガレは存在している。類義語として「きたない」、「よごれ」といった語が思い浮かぶ。ただし、ケガレという語が指すのは、きたないとかよごれているとあくまでも気持ちの上で思っていることである。現実にきたなかったりよごれている場合には、そのままキタナシという語を用いるだろう。きたないとかよごれていると感情的に思うのは、清潔/不潔の問題軸ではなく、清浄/不浄に立って判断している。精神上できたないとかよごれていると感じることがケガレの条件である。神聖な儀式を執り行うためにきれいにしておこうと思って清浄にしている場所にゴミや屎を散らかされると、そこはケガレたところになる。同じ家屋敷でも裏庭の物置小屋の横手に草が伸びていても放っておくが、玄関先では一本の雑草も見逃されずに除去しようとする気持ちが我々にはある。西宮氏は常陸風土記の例をあげ、「この「穢臭」は、人間の排泄物で神域を汚すのであるから、……キタナシ一般ではなく、ケガラハシでなくてはならない。この辺りに、「神聖」との関係が無視できないケガレの特性があると言へる。」(120~121頁)としている。
今、此処に坐せるは、百姓近くに家して、朝夕に穢臭はし、理、坐すべからず。(今所レ坐二此処一、百姓近家、朝夕穢臭、理不レ合レ坐。)(常陸風土記久慈郡)
このように考えたとき、ケガレという言葉は、その言葉によって何をケガレとし、何をケガレとしないのかを自らが語っていることに気づく。ケガレは、人(々)により、時代により、さらにはその場その場で移ろうものである。上代に「産穢」が認められないというのもそのとおりだろう。そして、「死穢」というのも、はたして上代に中古以降のような形で観念として認められていたか疑問である。人の死ぬのは当たり前のことで毎日のように起っている。それをいちいちケガレだと言って忌み嫌っていたら日常生活が立ち行かなくなる。西宮氏は、記紀に「死関係」としてケガレと訓むものがあるとしている。記の(2)、紀の(1)・(2)・(6)・(9)例である。筆者は、それらはケガレと訓むことは正しくても、死そのものに起因するものではないと考える。再掲する。
記(2)此の二神は其の穢繁しき国に到りたまひし時、汚垢に因りて成れる神なり。(記上)
紀(1)伊弉諾尊、既に還りて、乃ち追ひて悔いて曰はく、「吾前に不須也凶目き汚穢き処に到る。故、吾が身の濁穢を滌ひ去てむ」とのたまふ。則ち往きて筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至りまして、祓ぎ除へたまふ。遂に身の所汚を盪滌ぎたまはむとして、……不須也凶目汚穢、此には伊儺之居梅枳枳多儺枳と云ふ。(神代紀第五段一書第六、一云……第七)
紀(2)但し親ら泉国を見たり。此既に不祥し。故、其の穢悪を濯ぎ除はむと欲して、(神代紀第五段一書第十)
紀(6)味耜高彦根神、忿然作色して曰はく、「朋友の道、理相弔ふべし。故、汚穢しきに憚らずして、遠くより赴き哀ぶ。何為れか我を亡者に誤つ」といひて、……世人、生を以て死に誤つことを忌む、此其の縁なり。(神代紀第九段本文)
紀(9)凡そ畿内より、諸の国等に及るまでに、一所に定めて、収め埋めしむべし。汚穢しく処処に散し埋むること得じ。(孝徳紀大化二年三月)

四
紀(9)の例は、死体は一か所に収めて埋めるのをよしとし、てんでばらばらに散らかして埋めることは「汚穢し」であるとしている。死そのものがケガレであるなら一か所に集めようが何しようがケガラハシであろう。気持ちの問題として、乱れて整序を欠いていると思われたからケガレているとし、ケガラハシと形容されている。心のうちで、生きている人の生活の場と死者の葬られる墓地とを分けようと思い始めたということである。ケガレの意識は思い始めた時に生まれる。生者と死者とが混在していると、生きているのか死んでいるのか時に紛らわしくなり、誤った認識に至りかねないから整えようと考え始めたということである。排除の観念がふつふつと湧き出すことになる。

紀(6)は、天稚彦の死に際して味耜高彦根神が葬儀に参列している際の物言いである。一般には、死者全般を「汚穢しき」と思い、近寄るのを憚ると述べたものと捉えられている。しかし、そのような気持ちは上代にはなかった。当たり前のように殯が行われ、誄を言い、盛大にお別れの儀式をするのが慣わしだった。葬儀に参列した後、塩をかけて清めとしたか不明である。少なくとも、今日のように葬儀を簡素化し、死を覆い隠して社会から遠ざけるようなことはなかった。もはや死は、統計や相続にしか現れなくなっている。人間の心にとって大切なものであった死は、文字どおり死んでなくなってしまったのかもしれない。
丙子に、翹岐が児死去ぬ。是の時に、翹岐と妻と、児の死にたることを畏ぢ忌みて、果して喪に臨まず。凡そ百済・新羅の風俗、死亡者有るときは、父母兄弟夫婦姉妹と雖も、永ら自ら看ず。此を以て観れば、慈無きが甚しきこと、豈禽獣に別ならむや。(皇極紀元年五月)
百済や新羅の習俗では自分の子の死を悼む喪にのぞまないことがある。慈悲心がないからで、まるで禽獣と同じだと叙述されている。本邦ではそのような薄情なことはないという視線で語られている。死穢の気持ちを持たず、慈悲心に篤いから翹岐批判が展開されている。味耜高彦根神が「汚穢しきに憚らずして」と言っている理由としては、亡くなった天稚彦が高天原の命令に背いて寝返ってしまった逆賊だからだろう。
夷の地に朝廷に対する敵対勢力があったとしても、そのこと自体に目くじらを立てることはない。やがて恭順し平定されるべく配剤されていると受け取ることができる。ところが、朝廷の人で征討のために派遣されたにもかかわらず土豪勢力に与して寝返ったとなると反逆者と位置づけられ、その裏切りに対しては怒りを覚えるようになっている。彼は、摂理としてあるべき流れとは逆方向のベクトルを有している。味耜高彦根神は反逆した天稚彦をケガラハシく感じ、顔を合わすのも嫌だと思っていたのだろう(注11)。例えば単なる窃盗犯はそれだけではただの罪人でケガラハシいことはないが、その犯人が当地の名士や要職に在って先生と呼ばれる人、また、防犯パトロールの隊長だったりするとけがらわしく感じられる。社会的事実(E・デュルケーム)の側面がクローズアップされている。
それでも味耜高彦根神は若い頃に親交を結んでいたから、その限りで参列することが望ましいと考えた。ところがいざ弔いに訪れてみると、自分が天稚彦の蘇りであるかのように接遇された。とんでもないことである。生きている人間が死んでしまうことはあるが、死んだ人間が生者に変わることはない。摂理に反することが重なり、遺族に憤りを覚えている。味耜高彦根神はケガラハシと思いながらも弔いに来たら、自分がケガラハシい存在にされてしまい怒髪天を衝いている(注12)。
記(2)、紀(1)・(2)の例は黄泉国との関係からケガレであるとされている。記(2)の「汚垢に因りて成れる神」は「八十禍津日神」と「大禍津日神」のことである(注13)。この二神の名義については、マガはナホ(直)の反対で、曲がっていることを指している(注14)。
允恭天皇時代に盟神探湯が行われた場所は、「味白檮の言八十禍津日の前」(允恭記)、「味橿丘の辞禍戸𥑐」(允恭四年九月)である。虚偽、虚言をあぶりだすことに見合う地名と考えられている。氏姓の曲がりを正そうとしている。熱湯泥に手を入れたり、焼いて赤くなった斧を掌に当てて「実」が問われた。古代の人は言葉の正しさにこだわり、マガコトを去りマコトが求められた。マガコトに邪悪性や凶事性が感じられるのは神意によるのではなく、コトが曲げられているからである。言葉は世界のすべてを語る。事を曲げて言としていたら、あるいは言を曲げて事としていたら、体系は支離滅裂になって秩序は失われる。文字を持たない言葉によって世界を表そうとしているのに、事実に反したり曲げたりする言葉が罷り通ったらカオスでしかなくなる。それを嫌って悪であるとし、凶であるとしたのである(注15)。
八十禍津日神と大禍津日神は「穢繁しき国」と評される黄泉国ですでに現れていて、イザナキの身にまとわりついて来てしまった神である。黄泉国ではマジックが起こっていた。黒き御鬘を投げたら蒲子になり、湯津つま櫛を投げたら笋になっていた。それぞれ似ているものが連想されるとともに、それぞれのもととなる素材をあげている。鬘には葵祭のフタバアオイのように草木が利用されていた。そのなかでもエビカヅラをあげている。秋に色づいて劇的に変化するところが話の題材とするのに好まれたらしい。櫛の歯が林立するところは雨後のタケノコのようであり、櫛の材料にタケが用いられることがあったことから笋に意識が向いたようである。エビカヅラが鬘に、タケが櫛に作られることはあるが、その逆はない。摂理に反して不可逆的なことが起こるかのように描写する世界、それが黄泉国であった。その最たることとは、亡くなって葬られたイザナミ自身が蘇ろうとした点である。「還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ。」(記上)と試みていた。命あるものはみな死ぬ。その逆はない。大前提を曲げてはならない。「其の穢繁しき国に[伊邪那伎命ガ]到りたまひし時、汚垢に因りて成れる神なり」とは、あることないことが入り乱れる国に入って摂理にないことのために成った神ということである。「八十禍津日神」と「大禍津日神」はイザナミの死体から成った神ではなく、死によって成った神でもない。「死」というものを実体視して「八十禍津日神」と「大禍津日神」という象徴、記号の話をしているのではない。まがまがしい誤謬が顔を覗かせたから、身をきれいにして離された存在である(注16)。
五
紀(1)の「吾が身の濁穢」、紀(2)の「其の穢悪」は、「滌ひ去てむ」、「濯ぎ除はむ」対象である。摂理に反することが起こると思う場所へ行ったため気が滅入っている、異常だと思うものを見たのが目に焼き付いて鬱陶しい、そこで感情を浄化しようとしている。黄泉国が不可逆なことを無理やり可逆にしようとするほどに整序を欠いている点がケガレの源泉である。くり返しになるが、イザナミの死、ならびにその死体、あるいは死という概念一般に発しているのではない。記紀の話の上でイザナミは黄泉国以前に死んでいる。「火の神を生みしに因りて遂に神避り坐しき。」(記上)とある(注17)。死んだイザナミはヨモツヘグヒをしたにもかかわらず再び蘇ろうと企てている。自然の摂理に反するから穢れていると感じている。すべからく死が穢れであるなどとは一次資料である記紀に書かれておらず、そのような短絡はなかった。
黄泉国の特徴を「穢繁しき国」と言っている。シケシは草木がぼうぼうになった荒れた状態を指している。火事ぼうぼうという言い方は上代に確認はされていないが、筆者は黄泉国を大陸から伝わった新技術、竈のことと考えている(注18)。一瞬のうちに黒き御鬘に蒲子が成ったり、湯津つま櫛に笋が成るとみなすことができるのは室のなかで高温に焼け焦げた時のことである。
此の二神は其の穢繁しき国に到りたまひし時、汚垢に因りて成れる神なり。(記上)
葦原の しけしき小屋に 菅畳 いやさや敷きて 我が二人寝し(記19)
蕪 穢也、荒也、志介志(新撰字鏡)
現代語で「時化」とは、強風が吹き、海が荒れ、波が高くなったときである。対義語は海面が静まる「凪」である。「時化」は古語のシケシに通じていることが照応される。荒ぶる蝦夷を和ぐことは朝廷が平定していく正しい方向、整序にかなった摂理である。一方、黄泉国、竈の中は、それとは逆方向に事が運ぶシケシきところなのである。新撰字鏡には「穢 薉同、於癈反、去、蕉悪也」ともあり、野放図に荒れ、無秩序状態になっているさまが表されている。エントロピーが増大していくさまである。
允恭天皇時代の盟神探湯も、氏姓が野放図に荒れて無秩序状態に陥っていたから糺そうとして行われた。整序を欠き、順序の不可逆性が曲げられることほど無秩序なことはない。黄泉国でのイザナミ側の態度はまさにそれであった。黄泉国の物語の最後に「事戸を度す」(記上)、「絶妻之誓建す」(神代紀第五段一書第六)ことで世界を遮断している。本来は不可逆な筋道において逆行を言い立てるイザナミの主張を実力行使で断ち、整序を保ったということになる。事と言との関係でいえば、事の独り歩きを許さず、門限で閉ざすことによって事は言との一致を復活させることになっている(注19)。
いわゆるヨミガヘル(蘇・甦)という言葉も、ただ生き返るという意味ではなく、混沌を断って秩序ある世界に立ち戻ることをいう言葉として使われることに落ち着かせようとしている。完全に死んでしまった人が死霊術によって生まれ返ったり、干し鰒に加工されたアワビをまとめて置いておくと生き返るといった、まるで黒い御鬘が蒲子に、湯津つま櫛が笋になるというような逆転現象ではなく、危うくなった時に適切な蘇生術を受けて生き返るような時、あるいは、死ぬ間際に最後の力を振り絞って一言発するような時にのみヨミガヘリと言っている(注20)。オカルトによらず現実に合う形で言葉が使われている(注21)。
時に、日羅、身の光、火焰の如きもの有り。是に由りて徳爾等、恐りて殺さず。遂に十二月の晦に、光を失ふを候ひて殺しつ。日羅、更に蘇生りて曰はく、「此は是、我が駈使奴等が為せるなり。新羅には非ず」といふ。言ひ畢りて死せぬ。(敏達紀十二年是歳)
或る娘子等の、褁める乾鰒を贈りて戯れに通観僧の咒願を請ひし時に通観の作る歌一首
海神の 沖に持ち行きて 放つとも うれむそこれが よみがへりなむ(万327)
黄泉国の語りには整序の乱れが一貫したテーマとして述べられている。無文字時代にあった上代人のヤマトコトバの言葉づかいは、具体的なものに裏付けられているがゆえにも、誤謬の生じる隙間のない厳密な論理学的思考を表している。
六
その他のケガレ記事について瞥見しておく。紀(3)ではツクヨミがケガラハシいと言っている。オホゲツヒメが五穀を産するところを目にしての言である。口から吐き出したものを自分が食べることに異を唱えている。口は食べる器官で口に入れたら飲み込むのが正しい順序である。ところが、吐き出して他者が食するとなると、整序が違ってあるべき摂理に反する気がしてくる(注22)。だからケガラハシいことになり、そのようなものまで搔き集めて食べなければならないとなると食べ物に不自由しているとも見られ、イヤシいことになる。
紀(8)では台須弥の反逆心を指摘している。中堅官吏の様子を一括して述べている。「凡て以下の官人、咸に過有り。其の巨勢徳弥臣が犯せる所は、百姓の中に、戸毎に求め索ふ。仍悔いて物を還せり。而るを尽には与へず。復、田部の馬を取れり。其の介朴井連・押坂連、〈並に名を闕せり。〉二人は、其の上の失てるを正さず。翻りて共に己が利を求む。復、国造の馬を取れり。台直須弥は、初は上を諫むと雖も、遂に倶に濁れたり。」(孝徳紀大化二年三月)。巨勢徳弥、介朴井、押坂、台須弥は、皆、「過」があり、反逆の心を持っていて摂理に背いているとしている。
紀(10)では、僧尼が老いたり病気になると本来の仏道の勤めができなくなり、それでは何のための寺院なのかわからなくなる。本来清浄でなければならないところが在宅看護、介護の現場となっては聖なる場所にしようとする志向性から逸脱する。向かうべきベクトルに逆転しているからケガレるとしている。
紀(13)では、百済から朝廷に献上されるはずの品物を新羅がすり替えたことを難じている。貢物は正しく献上されなければならないのに中身を賤しいものに代えてそれを百済からの物であると偽った。朝廷に対する悪質な裏切り行為であり、献上のベクトルが新羅へ向くこととなっている。だからケガシであり、中身が劣るものにされているからミダレルとしている。
紀(14)では、皇族の未婚女性を強姦したことをケガスと言っている。尊ぶべき存在を尊ぼうとせずに婢女、賤女扱いして性的関係を持つことは、尊厳のベクトルとは正反対を向いた行為である。
紀(15)では、もともと神や天皇の名としてあったものを、氏族は権利なく勝手に使用して人々や土地に付け、神の名を負っている従属民を他の人に贈与した結果、奴婢となることがあった。それではふつうの名前ではない貴い名が冒されると考えてケガスとしている。何のためにわざわざ神や天皇の名があるかと言えば、ふつうの名とは違って貴いことが認知されるためなのに、貴くない奴婢の名になってしまったら命名の意味がなくなる。そのようなことが罷り通ると、社会全体の秩序が混乱することにつながるだろう。命名によって志向した尊厳のベクトルに反することだからケガスことなのである(注23)。
(注)
(注1)波平恵美子、桜井徳太郎、宮田登らによって理屈っぽく語られている。E・リーチやM・ダグラスは論理的な枠組みからケガレを解こうとしているが、二項対立の境界線?をとりあげて論ずることはそもそもの論理の破綻を意味するのではないか。
(注2)ただし、「[「けがす」ハ]「穢」「褻」を語根とするもので、清浄をそこなうことをいう。仮名書きの例をみないが、〔神楽歌、神上、或説〕「すべ神はよき日祭れば明日よりは朱の衣をけころもにせむ」の「けころも」は「褻衣」の意であり、〔万葉〕の「毛許呂裳」〔一九一〕もその意であるから、ケは乙類音と考えてよい。」(316頁)としている。漢字の「穢」と「褻」に意の通じるところがあるとみている。名義抄の訓で「褻」にケカルとあるところによるものか。「褻 私服なり。衣に从ひ執声。詩に、是れ褻袢なりと曰ふ。」(説文)がもとの意であり、ふだん着のこと、褻は、なれる(慣・馴・狎)意味である。「褻狎」はなれること、「褻瀆」はなれけがすこと、「褻器」はなれた容器、つまり、おまるのことに使われ、「褻」は熟語となってケガレの気持ちを含んでくるのであり、もとの意味が「穢」と通じているわけではない。また、「穢」をケと一音で訓む例も知られない。上代に見られる言葉、ケガル、ケガス、ケガレ、ケガラハシの語根に、ケ(褻、ケは乙類)を想定することには無理がある。拙稿「「けころも」について」参照。
(注3)高取1993.に、「政府は一ヵ所にまとめて埋葬せよといっているのに、民間ではあちらこちら勝手に散らし埋めるものが多いということになる。これは死穢を忌むことが強いとか弱いというのではなく、どういう状態にあることが忌むべきことなのか、禁忌の内容にさまざまなもののあったことを推測させる。日本人は昔から死穢を忌んできたと一律に断定してしまう前に、死の忌みそのもののありようについて、具体的に考えてみる必要は多分にあると思われる。」(197頁)、「死の忌みについて、民間では意外に無頓着な面もあったのに、貴族たちだけが神経質であり、過度に敏感であったとすると、その原因は彼らの地位の特殊性にもとめねばならないし、当然のこととして、外来の文化、思想の影響を考えなければならない。」(283頁)とあり、首肯できる。
殯が積極的に行われていた実例から考えると、伊藤2002.に、「この時代は、生と死が対立したものではなく、連続性があるものと考えられており、生者と死者との距離感が非常に近かったこという事実を暗示している」(5頁)、「死を生の連続性の中で捉えており、死体そのものに対する恐れの観念は希薄だったようである。」(同頁)とするのは概ね合っているだろう。また、「『大化の薄葬令』以降、奈良時代末から平安時代初めにかけ、朝廷側の死体に対する「ケガレ」観念が大きく変化したのは事実であろうと思われる。」(6頁)とするのも蓋然性が高い。律令・假寧令にある「服假」は、喪に服して弔うために休暇を与える規定である。死の穢れに触れているから登庁するなという触穢的発想とは異なる。当初の考え方が変わり、平安時代に入ってから穢れを忌みに結び付けるようになり、拡大解釈が起こるようになっていったのだろう。
(注4)三橋1989.は平安貴族の死の穢の意識として、死体や骸骨を発見した場合、死の時点ではなく初めて見た(臭った)時を以て初めとしていること、室内・屋内で死ななければ穢とはならない、つまり、死そのものへの恐怖とは無関係に理解されていたこと、汚穢物である死体が彼らの生活空間に及ばない限り穢とは認めていないことを指摘している。
(注5)「穢」字でもケガレと訓まない例もある。大意は同じだから同じ字を使っていると見るなら、ケガレという語の意味合いを逆照射することになる。
又、諸の国造、詔に違ひて、財を己が国司に送る。遂に倶に利を求む。恒に穢悪を懐けり。治めずはあるべからず。(又諸国造違レ詔、送二財於己国司一。遂倶求レ利。恒懐二穢悪一。不レ可レ不レ治。)(孝徳紀大化二年三月)
万葉集では「穢」字は、「穢屋戸」(万759)、「夕月夜 不穢照るらむ」(万1874)と用いられている。ケガレ系の言葉は使われていない。
(注6)記(2)の例の「穢繁」は、西宮1990.にケガレシゲキと訓んでいるが、神道大系本、西郷2005.などにシケシキと訓むのに従った。
(注7)日本国語大辞典には「けがれる」の語源について八つの説が載せられている。証明は不可能で、いかようにも解釈が可能だから言った者勝ちで、みな恣意的である。筆者は、基本的に語源を問うという立場に立たない。記紀万葉を伝えていた上代、特に飛鳥時代において、その言葉はそういう意味合いからそう呼ばれているのであろうと人々に納得されていたと思われる語感をもとにしてヤマトコトバを研究している。ケガレ(穢)という言葉について、どうしてケガレ、ケガル、ケガス、ケガラハシといった音により、心が乱れるような汚れ感、きたならしさの自覚を表していると感じたのかについては拙稿「上代におけるケガレ(穢)という語の成り立ちをめぐって」参照。
(注8)現実の都市化とそこに住む人々の心の都市化とは並行して起こるものでありつつ、心の都市化は情報社会化とその管理化を惹起する。一つの時代性を獲得し、社会を一元化に導くのである。
(注9)考古学からは、古墳のあり様から穢れの観念を見出そうとする試みが行われている。古墳の横穴式石室と記紀の黄泉国との関係を説くものである。高橋健自、小林行雄、白石太一郎、土生田純之、和田晴吾らが提唱している。残念ながら、記紀所載のお話の多くの部分は捨象して議論されている。黄泉国の話では、黒い鬘を投げたら蒲子になったとか、櫛を投げたら笋になったとか、桃の実を三つ投げたら黄泉の勢力はみな退散したといった興味深い事件が述べられている。考古学からのアプローチは、これらの要素を小道具に過ぎないとして等閑視し、対照も乏しいまま、「黄泉比良坂」が羨道、「千人所引の磐石」が閉塞石といった舞台装置にあてがい、「黄泉之竈」は横穴式古墳の入り口付近で発見される土製のミニチュア竈一式(竈、釜、甑)のことを表していると決め、埋葬儀礼を示すと強弁している。
(注10)拙稿「大化二年三月の甲申の詔の「愚俗」と「祓除(はらへ)」について」参照。
(注11)矢の行き戻りが話の織り交ぜられている。弓矢を射ればまっすぐに飛ぶが、それが射返されて戻るとなると、それは悖ること、曲がることである。
(注12)脚本上、この妙を語るための仕掛けとして、味耜高彦根神にケガラハシと発言させているものと思われる。
(注13)この個所については、本居宣長・古事記伝に「因ノ字は、所到の上にある意に看て、時之汚垢とつゞけて心得べし。……文のまゝに看ては、いたくことたがへり、」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920805/1/158)とある。宣長の曲解である。「初めて中つ瀬に堕りかづきて滌ぎたまふ時、成り坐せる神の名は、」として挙げられている。滌いでいて「所二成坐一神」とある「坐」字は、他に敬語を用いていないため不審とするが、他の神は滌いだ時に初めて現れた神、「此二神」は「穢繁しき国」なる黄泉国ですでに現れていた神である。その差を「坐」字は示している。イザナキの身にまとわりついて一緒に来てしまった神と考えれば「因」字も「坐」字も了解される。
(注14)白川1995.に、「「まがこと」とは邪悪なことをいう。神意に反する行為によって生ずる「わざはひ」、不都合なことを意味する。……「曲る」「曲ふ」の語幹とみるべきである。」(687~688頁)、古典基礎語辞典に、「マガは、マガル(曲がる)と同根で、原始的な信仰においては凶とされることを表す。マガ(禍)コト(言・事)は、不吉な言葉や不吉な出来事の意。ヨゴト(寿詞)・ヨゴト(吉事)の対義語。」(1098頁。この項、須山名保子)とある。
(注15)万葉集に散見される「言霊」という言葉も、今日通俗的に用いられるのとは違い、言動において言と事とを一致させるよう努めるという原則が貫かれた結果、論理学的に必ず正しさが見て取れるところからそう呼ばれたものである。
(注16)文字のなかった時代、抽象概念から抽象概念を導く形式的操作は行われない。書き留めなければ理解できないようなことが、話す─聞くの間柄で伝達されることはない。
無文字時代におけるヤマトコトバのあり様について言及している。文字を持たなかったとき、ヤマトの人々は約束事として言っていることと起っている事とが同じになるように努めた。言と事とが相即になるように志向したのが言霊信仰である。そうしないと言語活動に確かさが担保されない。言語活動は事柄と一致しなければならないという制約に囚われていたとも言える。とても興味深い状況であり、言葉に発する時、その言葉が確かであると理解されるために、その言葉のなかに語義を塗り込めて言及するような使い方が行われていた。言葉が自己説明を含んで発せられるのである。それは、話している言葉がそのまま辞書的な定義を行い、説明し続けていることにもなる。聞いた人はその場でなるほどそのとおりであると腑に落ちるように仕組まれていたわけである。アハ体験を引き起こすなぞなぞ的な話しっぷりが好まれ行われていたのである。「無端事」(天武紀朱鳥元年正月)がおもしろがられた理由はそこにある。お話において言葉が独り歩きすることを抑止することにつながっている。内容から解放されて命題間で形式的に操作することを拒むのである。対して、文字が流入して慣れ親しんでくると、例えば、万葉後期には、漢籍に学んだ記号変換、五行思想に「金」=「秋」であるからとして、季節のアキを表すのに「金」字に採用している。言語活動は、文字、漢籍という担保を得て、いちいち自らを拘束する必要がなくなった。言葉の使用法が変わり、自己定義的に物語られてきた言い伝えを忘れていくこととなっている。文字時代が到来し、あっという間に記紀に伝わる伝承は理解不能な話になったようである。
言語がこのように束縛を受けながら用いられていたことが他の民族にあったのか、筆者には不案内である。記紀万葉などから顧みることのできる飛鳥時代の言語活動は、「形式的操作」(J・ピアジェ)の段階に至らないままにあった。仮説演繹的思考は行われず、言い伝えに伝えられている類型をなぞらえる形でのみ、その時とその時以降のことを語って理解しようとする傾向にあった。ひとり真新しい仮説を立てて考えをめぐらすことは、言=事となるべき共同体では行われなかったのである。もちろん、伝承の類型を自らに都合よく解釈し、言=事であると主張することは行われており、特に政治の中枢にいた天皇周辺では通用しやすかった。無文字であるヤマトコトバは、権力の集中に多分に貢献するほど政治的色彩が強かった。初期万葉の雑歌は額田王のような代詠歌人によって歌われた。政権のスポークスマンと化していて、同時代的なイデオロギーを喧伝したのである。それが多くの人々に受け入れられたのは、当時の共通認識であった言い伝えの内容になぞらえて歌われていたからである。人々は得心が行き、翼賛した。くり返しになるが、何か斬新な発想から語りかけるものではなく、言い伝えの範囲に限られて思考をめぐらせていた。なぞなぞ的なものの考えが重んじられ、いかに知恵ある捻り方ができるかということばかりに関心が向いていた。文字時代になって訪れた律令制の、知識中心主義の世界とはまったく異質なものであった。
(注17)「軻遇突智が為に、焦かれて終りましぬ。 」(神代紀第五段一書第二)、「火産霊を生む時に、子の為に焦かれて、神退りしぬ。 」(同第三)、「火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。 」(同第五)、「火神軻遇突智が生るるに至りて、其の母伊奘冉尊、焦かれて化去りましぬ。 」(同第六)、「伊奘諾尊、其の妹を見まさむと欲して、乃ち殯斂の処に到す。是の時に、伊奘冉尊、猶生平の如くにして、出で迎へて共に語る。」(同第七)ともある。
(注18)黄泉国の全体構想は、五世紀に導入された大陸由来の新技術、カマドに基づいて語られている点については、拙稿「古事記、黄泉国の桃三箇の話─カマドの内部構造─」、「黄泉国と禊祓について─アハキハラ、天狗、タチバナ、カマド─」参照。
(注19)記では「黄泉国」に入るところに「自二殿縢戸一出向之時」とある。「殿縢戸」は「殿の縢戸」と訓み、門を限って閉ざすことのできる装置と考えられる。退出時の「事戸を度す」(記上)、「絶妻之誓建す」(神代紀第五段一書第六)に対応した仕掛けである。話の始まりに戸のカギを開け、終わりに鎖している。新編全集本古事記に、「殿舎の戸はたいてい錠のかかるもののはずであり、疑問が残る。」(44頁)とあるのは考えすぎで、話をわかりやすくするために言っている。
(注20)イザナキは蘇っているが、(注17)に示すとおりイザナミはそれ以前に死んだことになっていて蘇ることはない。
(注21)ヨリガヘリという言葉の出発点となった「黄泉国」についても、単なる死者の国の表現形と捉えるのは誤りである。一般的な解釈では「黄泉国」は死の世界であるとされるが、(注16)にも述べたとおり、無文字時代の言語活動において抽象的な事柄を抽象的な事柄へと写像変換させて事足れりとすることはなかった。ひとりそのような考えをめぐらせても、誰かに伝える際、書いて伝えることはなく、図表もグラフも持ちあわせていない。話して伝えるしかない。話して伝えるとき、相手がわからなければその話はそこで途絶える。比喩的に言えば算数と数学の違いである。算数の鶴亀算は未知数xを表すことがない。文字を持たないということは、このxという記号による思考が行われないということである。記号の操作が必ず具体的なものに裏打ちされていなければならない段階に留まっていた。目の前の事象を話の次元の譬え話に仕立てることはできても、それはあくまでも譬え話であり、その譬え話はよくよく考えてみれば具体的な事象に還流される。具体的な何かを表しているからなるほどうまいことを言うねとその場で理解され、記憶され、伝承されてきた。他にからくりはない。今日、記紀の話を、創世神話やそれに続く天皇制の正統性を説くための言説であると捉えたがる傾向があるが、ただの丸暗記で覚え切れる性質のものでもない。口頭では伝達不可能な荒唐無稽な話をもって王権を讃美するために創話しても始まらないだろう。大きな勘違いが罷り通っている。
(注22)鳥は虫を取って吐き戻して雛に与えるが、人は哺乳で育つ。
(注23)ここで言っているのは個別の名を穢しているということではなく、清くあるべき名前一般についてケガスことになるということである。今日、名誉棄損の事案でケガされたと叫ばれることがあるが、それが少し誇張表現に聞こえるのは、当該個別当事者にもともと人々から尊ばれるような振舞いがあったと知られないためではないか。一方、商標権のような金銭問題の場合は争点としてはっきりしていることが多い。
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加藤良平 2026.7.22改稿初出