天孫降臨について

 いわゆる天孫降臨神話(注1)は、(1)天神の命令で平定された葦原中国あしはらのなかつくににホノニニギ(あま津日子番能邇つひこほのに々芸命にぎのみことあま彦彦火ひこひこほの瓊杵尊にぎのみこと)がお伴の諸神とともに行くこと、(2)あめ八衢やちまたに立っていたサルタヒコ(さる田毘たび古神このかみ猨田彦大神さるたひこのおほかみ)が先導して降り立つこと、(3)アメノウズメ(天宇受売命あめのうずめのみこと天鈿女命あまのうずめのみこと)の子孫が名をもらって猿女君さるめのきみと称したこと、(4)海鼠の口が裂かれることなどが一連の話になっている(注2)
 (4)のナマコの口の話は古事記にしかなく、ナマコの口の起源譚をされている。それが何を意味しているのか、何の話なのか了解されることなく放置されて今日に至っている。人は大人になると、ナマコの口の話は寓話か童話の類としか捉えず相手にしなくなる。しかし、(1)~(4)は一連の経過として編まれているから同列に扱わなければならない話(咄・噺・譚)である。本稿では、(1)のいわゆる天孫降臨の主話について古事記を中心に考察する。該当する記紀の主な部分を、訓の定まらないところは原文のまま記す。

 かれしかくして、天津日子番能邇々芸命にのりたまひて、あめ石位いはくらを離れ、天の八重やへたな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、あめの浮橋うきはしに、うきじまりそりたたして、つくむかたか千穂ちほ久士布流多気くじふるたけ天降あまくだす。故、爾くして、あめの忍日おしひのみことあま久米命くめのみことの二人、あめ石靫いはゆきを取りひ、頭椎かぶつち大刀たちを取りき、あめ波士はじゆみを取り持ち、あめ真鹿児矢まかごやばさみ、さきに立ちてつかまつる。故、其の天忍日命、〈此は大伴連等がおやぞ〉。天津久米命、〈此は久米直等が祖ぞ〉。是に詔はく、「此地者向韓国真米通笠沙之御前、朝日のただす国、夕日の日照ひでる国ぞ。故、此地ここは、いとところ」と詔ひて、そこいはに宮柱ふとしり、高天原たかあまのはら氷椽ひぎたかしりています。(記上)
 時に、高皇産霊尊たかみむすひのみこと真床追衾まとこおふふすまを以て、皇孫すめみま天津彦彦火瓊瓊杵尊におほひて、あまくだりまさしむ。皇孫、すなは天磐座あまのいはくら〈天磐座、此には阿麻能以簸矩羅あまのいはくらと云ふ。〉をおしはなち、また天八重雲あめのやへたなぐもおしけて、稜威いつわき道別ちわきて、むかたか穂峯ほのたけに天降ります。既にして皇孫の遊行いでまかたちは、くし二上ふたがみあまの浮橋うきはしより、浮渚在うきじまり平処たひらに立たして、〈立於浮渚在平処、此には羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志うきじまりたひらにたたしと云ふ。〉しし空国むなくにを、ひたから国行去とほり、〈頓丘、此には毗陀烏ひたをと云ふ。覓国、此には矩貳磨儀くにまぎと云ふ。行去、此には騰褒屢とほると云ふ。〉吾田あたの長屋のかさ之碕のみさきに到ります。(神代紀第九段本文)
 [猨田彦大神]こたへて曰はく、「天神あまつかみみこは、まさつくの日向の高千穂の槵触くしふるたけに到りますべし。吾は伊勢のなが五十すず川上かはのへに到るべし」といふ。……皇孫、ここに、天磐座を脱離おしはなち、天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、天降ります。つひに先のちぎりの如くに、皇孫をば筑紫の日向の高千穂の槵触くしふるたけに到します。(第九段一書第一)
 故、天津彦火瓊瓊杵尊、日向の槵日のたか千穂之ちほのたけ降到あまくだりまして、膂宍の胸副国むなそふくにを、頓丘から国覓ぎ行去り、浮渚在うきじまり平地たひらに立たして、乃ち国主事勝国勝長くにぬしことかつくにかつながしてひたまふ。対へてまをさく、「是に国有り、取捨ともかくもおほみことまにまに」とまをす。(第九段一書第二)
 一書に曰はく、高皇産霊尊、真床覆衾まとこおふふすまを以て、あま彦国光彦火ひこくにてるひこほの瓊杵尊にぎのみことせまつりて、すなは天磐戸あまのいはとを引き開け、天八重雲を排分けて、あまくだり奉る。時に、大伴連の遠祖とほつおや天忍日命あまのおしひのみこと来目部くめべの遠祖天槵あまくし津大つのおほ来目くめひきゐて、そびらには天磐靫を負ひ、ただむきには稜威いつ高鞆たかともき、手にはあまの梔弓はじゆみ天羽あまのは羽矢はやり、八目やつめの鳴鏑かぶら副持とりそへ、又かぶ槌剣つちのつるぎきて、天孫あめみまみさきに立ちて、遊行降来くだりて、日向の襲の高千穂の槵日の二上峯ふたがみのたけの天浮橋に到りて、浮渚在之平地に立たして、膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去りて、吾田あたながの笠狭の御碕に到ります。(第九段一書第四)
 是の時に、高皇産霊尊、乃ち真床覆衾を用て、皇孫あまひこほの瓊瓊杵ににぎねのみことに裹せまつりて、天八重雲を排披おしひらきて降り奉らしむ。故、此の神をたたへて、天国饒あめくににぎ彦火ひこほの瓊杵尊にぎのみことと曰す。時に、降到りましし処をば、呼びて日向の襲の高千穂の添山峰そへやまのたけと曰ふ。其の遊行いでます時にいたり、云々しかしかいふ。吾田の笠狭のさきに到ります。遂に長屋の竹島たけしまに登ります。乃ち其の地を巡りませば、そこに人有り。(第九段一書第六)

 古事記の話の概要は次のようなものである。天照大御神あまてらすおほみかみ高木神たかぎのかみは、太子おほみこ正勝まさかつ勝々速かつかちはや天忍穂あめのおしほ耳命みみのみことに対して、今や葦原中国は平定し終わったから、委任に従って天降りして統治するようにと詔した。すると、彼は、自分が降りようと準備していたら子どもが生まれた、名はあめ邇岐志にきしくに邇岐志にきしあま津日高日子番能邇つひこひこほのに々芸命にぎのみこと(注3)といい、この子を降ろすのが良いでしょうと言った。この御子は、高木神の娘の万幡豊秋津よろづはたとよあきつ比売命ひめのみことと結婚して生んだ子で、長男は天火明命あめのほあかりのみことで次男に当たる。奏上したとおり天照大御神と高木神は日子番能邇々芸命に命じ、豊葦原水穂国とよあしはらみずほのくにはお前が統治する国であると委任する、命令どおりに天降りしなさいと詔が下った。
 日子番能邇々芸命が天降りしようとした時、天の八衢に、上は高天原を、下は葦原中国を照らす神がいた。天照大御神と高木神は天宇受売命あめのうずめのみことに、お前はか弱い女だが、眼力の強い神と面と向かってもにらみ勝つ神である、ちょっと出かけて行って、我が御子が天降りしようとする道で通せん坊をしているのは誰かと問いなさいと仰った。そのとおりすると、自分は国つ神で名はさる田毘たび古神このかみだ、天つ神の御子が天降られると聞いたので先導しようと出迎えたのだと答えた。
 そこで、天児屋命あめのこやのみこと布刀玉命ふとたまのみこと・天宇受売命・伊斯許理いしこり度売命どめのみこと玉祖命たまのおやのみことの計五人の部族長を分け添えて天降りした。そして、天の石屋戸の話で招き出した八尺の勾玉・鏡・草薙剣と、また、常世とこよの思金神おもいかねのかみ手力男神たぢからをのかみ天石門別神あめのいはとわけのかみを副えた。この鏡は私の御魂として私を祭るように祭り仕えるようにと言い聞かせ、また、思金神は今言ったことを弁えて祭事をしなさいと仰った。以下、神の鎮座所と祖先伝承へと続く。
 日子番能邇々芸命は仰せを受け、天の堅固な神座を離れて、天の幾重にもたなびく雲を押し分け、威風堂々と道を選んで、天の浮橋に「宇岐士麻理蘇理多多斯弖うきじまりそりたたして」、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気くじふるたけに天降りした。天忍日命・天津久米命の二人が天の堅固な靫を背負い、柄頭が握り拳のように膨らんだ太刀を腰につけ、天の黄櫨はじの木で作った弓を手に持ち、天の光り輝く矢を挟んで天孫の御前に立ってお仕えした。
 日子番能邇々芸命は、ここはからの国に相対し、笠沙の岬に通じていて、しかも朝日のまっすぐにさしこむ国、夕日のよく照らす国である。だからとてもいいところだと仰って、岩盤の上に宮柱を揺るぎなく太く立て、高天原に届くほど千木を高くそびえさせてお入りになった。以上が、今日まで解釈されているところの話のあらすじである。気宇壮大な話が構成されている。
 記紀の諸書の間で表現が微細に違っている。焦点を絞ると次の四点である。

①クジフルタケ(クシフルノタケ、クシヒ)
 つくむかたか千穂ちほ久士布流多気くじふるたけ(記)
 くし二上ふたがみあまの浮橋うきはし(紀本文)
 つくの日向の高千穂の槵触くしふるたけ(紀一書第一)
 日向の槵日の高千穂之峯(紀一書第二)
 日向のの高千穂の槵日の二上峯の天浮橋(一書第四)
 日向の襲の高千穂の添山峰そへやまのたけ(一書第六)
②カラクニ(ソシシノムナクニ)+国覓ぎ
 韓国からくにに向ひ、真米通笠沙之御前(記)
 しし空国むなくにを、ひたから国まぎ行去とほる(紀本文)
 膂宍の胸副国むなそふくにを、頓丘から国覓ぎ行去る(紀一書第二)
 膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去る(一書第四)
➂カササノミサキ(アタノナガヤノカササノミサキ)
 かささき(記)
 吾田あたながかさみさき(紀本文)
 吾田の長屋の笠狭の碕(紀一書第四)
 吾田の笠狭の御碕……長屋の竹島たけしま(紀一書第六)
➃ウキジマリソリタタシテ(ウキジマリタヒラニタタシテ)
 うきじまり、そりたたして(記)
 浮渚在うきじまり平処たひらに立たして(紀本文)
 浮渚在うきじまり平地たひらに立たして(紀一書第二)
 浮渚在之うきじまり平地たひらに立たして(紀一書第四)

 どこでどう混線しているのかわからなくなっている。天孫降臨の経路は一つの詞章になっており、暗記して語られたものと考えられている。行程の順序さえ異なるところがある。バイアスがそのままに載っている。とはいえ、どの話でもそれぞれの話で辻褄が合うのであれば、それぞれに意味のある筋立てということになる。表現として不思議な言葉が登場している。その形容語について、それぞれの詞章をまたいで意味の一貫性を求めるのは必ずしも賢明とは言えない。どれが正しい、どれが間違っているとは一概に決め難いのである(注4)
 記紀では話を展開して行く時、一気に述べていったのち振り返る形で事情を再度確かめるような語り口が取られることがある。天孫降臨の話においても紀本文に、「既而皇孫遊行之状也者、……」と説明を追加している。先に話した様子について後講釈が行われている。このスタイルが本来の形であるとすると、天降りしたところは、上にあげた①クジフルタケ(クシフルノタケ)であるが、そこを説明し直すと、②カラクニ(ソシシノムナクニ)、➂カササノミサキ(アタノナガヤノカササノミサキ)、➃ウキジマリソリタタシテ(ウキジマリタヒラニタタシテ)といった言葉で表すことが可能であると言っていることになる。本稿では①クジフルタケ(クシフルノタケ)が何を示しているのかを主題に据えて検討し、表現の全体像を把握できるようにする。
 今日まで、天孫とされるホノニニギのことは稲穂と関わりのある神さまであると思われている。「高千穂」については近代になって意が込められていると考えられるようになり、大系本日本書紀の補注は「タカチホのタカは、高、チは数量の多い意。ホは稲の穂。従って稲を高くつみあげた所の意が、最も古い意味であろう。」(372頁)、新編全集本古事記は「高く積み上げられた稲穂の意。現在のどこに比定するか、説が分れるが、現実の地名である必要はない。」(117頁)、新釈全訳日本書紀は「高く積み上げられた多くの稲穂を象徴する名。そこへ新生の力を持った神としての瓊瓊杵尊が降臨する。」(203頁)としている。また、倉野1977.は「「高千穂」は、本来高く積み上げた稲穂(稲積ニフ)で、神降臨の目標と農民の間に信ぜられてゐたものであらう。」(175頁)とする。柳田国男らの主張を踏まえ民俗信仰のレベルからの言説である。この稲穂説についてはほとんど異論が出ておらず、既定化している。そのとおりに解釈できるか、それぞれの筋立てで上の①~➃について一語一語調べ、諸本で意味が通るなら検証できたことになり、そうでなければ覆されることになる。話は言葉でできている。

 記において、天孫降臨の設定は、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気くじふるたけに天降りしたことになっている。紀の「槵触之峯」(紀一書第一)の槵の字は国字である。新撰字鏡に「槵 胡慣反、無槵」とあり、無患子と書かれるムクロジをいう。記の「久士くじ」は紀にクシと清音である。新編全集本日本書紀に「「無患」だからクシ(奇)で、それに霊性を表わす「日」をつけて「奇霊〈くしひ〉の二上山」としたもの。」(120頁)と短絡化されている(注5)
 ムクロジの硬い核は羽根突きの羽根の玉にした。穴を穿ち二枚の鳥の羽をつけたものが羽子(胡鬼の子)で、それを突き合った。江戸時代にはお正月の女の子の遊びとされたり、押絵を貼った飾り羽子板を作って浅草寺の羽子板市で売られるようになった。羽子板は中世の遺跡から出土するが、文献上は室町時代までしか遡れないという。下学集(1444年頃)に「羽木板 コギイタ ハゴイタ〈正月ニ之ヲ用ユ〉」、黒本本節用集(室町末期)に「胡鬼板 コギイタ〈小児正月之を翫ぶ〉」とある。貞成親王・看聞御記に「女中近衛・春日以下、男長資・隆富等朝臣以下、こきの子勝負分方、男方勝、女中負態まけわざ則ち張行、殿上に於て酒宴深更に及び、……」(永享四年(1433)正月五日)、「……宮御方ヘ球杖三枝、玉五〈色々綵色〉、こき板二〈蒔絵置物、絵等風流〉、こきの子五、進められえし言語道断殊勝、目を驚かし了んぬ、御自愛極み無く、若宮まで入られ思し食し、此の如き物進められし条、殊く喜悦珍重也」(永享六年(1435)正月五日)などとあるのが古い例とされる。
 万葉集に、筑波山にかけてツクバネという言葉が出てくる。古くから行われていたものと推測される。筑波山は男体山、女体山の二峰から成り、男女の歌のかけ合い、嬥歌かがいの行われるところとも知られている。紀に、「二上」、「二上峯」と出てくるのは、羽根突きからも連想される事柄と考えられる。そして、意図的に「槵」という文字で表記することにこだわっているから、「槵触之峯」とはどこかという設問よりも「槵触之峯」とは何かを問う方が有意義である。天孫降臨の話は羽根突きと何らかの関係がありそうである。

左:羽子板(今小路西遺跡出土、鎌倉時代、鎌倉歴史文化交流館展示品)、右:ムクロジの実(神代植物公園)

 番能邇々芸命はその地のことを次のように評している。

 此地者向韓国真米通笠沙之御前而(記)

 この部分、「此地ここは、韓国からくにに向ひ、笠沙の御前を真来まき通りて」と訓む説が有力視されている。真福寺本古事記の「米」字を「来」の誤写と見ている。道祥本・春瑜本に「真来通」とあり、紀の該当部分に「国行去とほりて」とあるところから、清音ではあるもののマキトホリテと訓むものとされている(注6)
 伊藤2010.は、真福寺本にある「米」について、「訓字として処理しなければならなくなるのだが、その際に適当な意味を見出すことはできそうもない。」(192頁)とし、澤瀉1940.の言うように「真来」を正しいとしている。そして、記の記述は紀の「国覓ぎ」にあたるのではなく、「国見」なのであるとする。次の木花之佐久夜毗売との結婚の話へと続ける際の「天皇による統治の正当性を説く神話の目的の達成度を高めるため」(211頁)に記紀の間で脚色上の差異が生じているのだという。しかし、万葉集には「国見しして あまり坐し」(万4254)とあり、雲の上に船を浮かべて国見をしている光景が詠まれている。記では天降りした後、「底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて坐す。」ことになっていて、そこから国見をしたとも受け取れる。情景がはっきりしないままでは言葉で表現したことにならない。「真来」説には限界がある。
 「米」字を訓字として考える場合には、稲の粒、ヨネと訓むのがふさわしい。新撰字鏡に「稞 胡買反、穀實也、粳米也、精米也、又莫代反、禾之死也、志良与祢しらよね」、 和名抄に「米 陸詞切韻に云はく、米〈莫礼反、与禰よね〉は穀実なりといふ。」、「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与禰しらげよね、上の音は傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米なりといふ。」、 「糙米 唐韻に云はく、糙米〈上の音は造、漢語抄に云ふ糙米、毛美与禰もみよね、一に云ふ加知之禰かちしね〉は米穀雑るなりといふ。」とある。「真米通笠沙之御前而」を「まことよねかささきかよひて」などと訓んで意味が通じるなら、「真」をマコトと訓む例は記には他に見られないものの万葉集には見られるから、それが正解に近いということになる。
 今日まで、「笠沙之御前」を地名のこと、九州南部の笠沙岬のこととする考えに囚われている(注7)。記は、ヤマトの人、特に奈良盆地の人が作った話である。夷の地名を持ち出してもどこのことかわからない。そうではなく、ただ語の音が洒落につながるから利用されているのだろう。「御前」とあるのは、当該個所近くに先払い役のいることを示すために用いられている。記では、「猿田毘古神……仕-奉御前」、「天忍日命・天津久米命二人、……立御前而仕奉」などとある。紀では「先」という字で表わされている。海岸の突き出たところの意を装いながら、先払いにして賊をはらう役の謂いのようである。だから夷の地名を出して喜んでいる。
 カササ(笠沙)という音はわざとらしい。笠を被った先払いの姿は江戸時代には参勤交代でよく目にする。陣の先頭を行く者が挟み箱という衣裳ケースをかついでいる。先箱ともいう。どうして衣裳ケースが先頭を進むのか筆者には合理的な理解はできないが、歴史的な理解は可能である。飛鳥時代にまで遡り、警蹕けいひつのことを指すと考えられるからである。紀には次のような例がある。

 兵仗つはもの夾み衛り、容儀よそひいつくしく整へて、前駈みさき警蹕ひて、奄然にはかにして至る。(継体紀元年正月)
 仍りて平旦とらの時を取りて、警蹕みさきおひ既に動きぬ。百寮つかさつかさつらを成し、乗輿きみおほみかさして、以て未だ出行おはしますにいたらざるに、……(天武紀七年正月)

左:先箱(歌川広重、保永堂版東海道五拾三次・日本橋 朝之景、天保4~7年(1833~37)、木版刷、メトロポリタン美術館蔵、ウィキペディア東海道五十三次之内 日本橋 朝之景-Stations One- Morning View of Nihonbashi MET DP122174.jpg)、右:挟み竹(?)(狭衣物語絵巻、紙本着色、江戸時代、17世紀、東博展示品)

 警蹕とは、先払い、先追いのことである。名義抄に、「先駈 オホムサキオヒ、サキバラヒ」とある。先頭に立ってそこのけそこのけと邪魔者を散らしていく。「稜威いつわきに道別きて」について、鈴木重胤・日本書紀伝は、次のように説明している。

 [忌部正通・日本書紀]口訣に、稜威道別道別者警蹕払御前謂也と注され、[一条兼良・日本書紀]纂疏に、稜威可畏之意、天孫行幸、警蹕前導、行叱且呵、故曰道別道別と注させ給へる、共に甚奇らしき説なるに就て思ふに大に其謂有り、……唯に雲路を排分させ給ふのみならむには稜威云々とは云ふべからざるを、此は警蹕の所なるが故に実に其語は有るなりけり、(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1047562/1/166、漢字の旧字体は改めた)(注8)

 その先駆の者が江戸時代に衣裳ケースを担っている。挟み箱の前身は挟み竹といい、ズボンプレッサーのように二枚の板で衣類や袴を覆ったものを竹で挟みつけ、持ち運んでいた。寺島良安・和漢三才図会に次のようにある。

 挟箱 波左美波古はさみばこ、二折、大二折、一寸高、二寸高、三寸高等の数品有り。
 按ずるに、挟箱は近代の制なり。古は板二枚を用ゐて、衣服の上下を覆ひ、竹を以て之れを挟み、僕をして之れを担がさしむ。挟竹と名づく。慶長年中より始めて箱を以て棒を挿し、之れを担がさしむ。挟箱と名づく。平士及び庶人は一箇を用ゐ、高官は一人を双び行かしめ、一対の挟箱と謂ふ。〈相伝ふるに、慶長中、秀吉公の僕、布施久内と名づくる者、始めて之れを作り出すといふ。〉

 挟み竹はオールのような形状をしていたと推定される。江戸時代の挟み箱のはこ(コは甲類)の上代音は、羽子はこ(コは甲類)と同音である。つまり、羽子板形をしているのが挟み竹、挟み箱である。羽根突きは厄払いの意味があるとされており、よって同形の挟み竹、挟み箱は、先払い役の者が担うことになっていて違和感がない。行列を見ていると、先頭が通過してだいぶ経ってから主人(陛下、将軍、殿様)がお通りになる。時間軸へ置き換えることができるのが、先払いの「先」の意味である。挟み竹は板に挟んでなかの衣類を押して平らにする。平らげて平定してしまうことを祈念、予祝してのことだろう。記紀のなかでは「葦原中国をことやはたひらげつるかたち」(記上)といった言い方が常套的に用いられている。戦う前に先陣が相手を服従させてしまったと言っている。
 警蹕が先払いをする時にかける掛け声は、オシ、オシオシなどという(注9)。枕草子に、「警蹕など「おし」といふ声聞ゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、……」(『三巻本枕草子』27頁)とある。挟み竹が衣類を押しているのと同じである。その謂いにふさわしくなるように、先払い役は妙なものを担がされていた。オシという声を発する理由は「おし」というもの、すなわち、押機おしに由来する。クマなどの獣を捕まえるのに上から押さえつける罠や、踏むと圧死させられる鼠取り(鼠落し)も圧機おしと呼ばれる。寺島良安・和漢三才図会の「棝斗」の項に、別名として「鼠弩 和名於之おし」とある。人間に対しても、戦で相手方が罠を仕掛けておくと、先頭を行く先払い役は押機によってぺしゃんこにされてしまう。逆に先払い役がオシ、オシと声をかけながら行けば、賊の顔色が変わって押機を仕掛けていると知れ、ならば先にご自身で殿中へ入られよという交渉問答となる。「其の殿の内に押機おしを作りて待ちし時に、」・「乃ち己が作れるおしに打たえて死にき。」(神武記)、「殿おほとのの内におしきて、」・「乃ちおのれ機を蹈みておそはれ死ぬ。」(神武前紀戊午年八月)などとあるのはその例である。羽子板に押絵を貼ることの淵源である。

左:圧機おし(木村孔恭・日本山海名産図会の「陸弩捕熊」(寬政11(1799)年刊、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018806/65?ln=jaをトリミング接合)、中:鼠落とし(寺島良安・和漢三才図会の「棝斗」、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569715/1/54をトリミング)、右:「圧伏」(山田清慶・服部雪斎ほか筆・薏苡仁図解飢饉予備、紙本着色、明治5~18年(1872~85)、東博展示品、ハトムギの耕作法で株を踏みにじっている)

 カササと聞けば、蚊を笹(篠)で除けることも思い起こされる。蚊の忌避法である。和漢三才図会に、「又、酒を篠の葉にそそぎて傍隅かたすみに挿せば、則ち蚊皆其の篠に集まる。」とある。お酒を呑むととりわけ蚊が寄ってくることからの発想か。あるいは、発酵過程で生ずる二酸化炭素に蚊が反応するということか。本当に効果があるかは知れないが、お呪いとしてそういうことが行われていた(注10)。無患だからクシとの考えに符合するように酒のことをクシとも言う。百薬の長である。世にも珍しいことを表す「奇し」から来ているともいわれる。新撰字鏡に「槵 胡慣反、無槵」と自己矛盾する説明があるのは、酒はクシであるが、酒の臭いに誘われて蚊が寄ってくるから体を洗い流したい、その際、石鹸成分のサポニンをムクロジ(槵)の実は含んでおり、奇しくもそれを使って臭いを洗い流すことができるから、いずれの場合でもクシであるといっている。自己撞着を冒しながらすべてを定義してかかるように、ムクロジの実は「槵」に相応している。
 蚊除けのお呪いとして他に羽根突きがある。蚊が出る夏に行うのではなく、予め先立ってお祓いする意味合いがあった。やはり先払いの意である。紀の「槵触之峯」にあった「槵」はムクロジだから羽根突きの羽子の材料である。節用集の「胡鬼こぎ」(コ・ギの甲乙不明)の字は後の当て字だろうが、蚊を食う蜻蛉の姿に似せて作られているとされている。一条兼良・世諺問答(室町後期)に、羽根を蚊を食うトンボに見立て、夏に蚊に食われないお呪いとしてつかせたとする説がある。「[問]曰、おさなきわらはのこきのこといひてつき侍るは、いかなることぞや、答、是はおさなきものの、蚊にくはれぬまじなひ事也、秋の始に、蜻蛉と云虫出きては、蚊を取くふ物也、こきのこと云は、木連子などを、とんばうがしらにして、はねをつけたり、是をいたにてつきあぐれば、おつる時蜻蛉返りのやうなり、さて蚊をおそれしめんために、こきのことてつき侍る也、」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2539229/1/6)とある。世諺問答の説はにわかに謬説とすることはできない。第一に、追い羽の姿が蜻蛉の頭と羽によく似ている。第二に、列島と韓国からくにとの間のやりとりに譬えるのに意味深長である。第三に、羽子板の形と挟み竹の形が似通っている。
 記の、「韓国」は朝鮮半島のうち列島から見て対岸に当たるところを指すと考えられる。海外の国のことを指すカラ(韓・唐)という言葉は、「もとは三~六世紀ごろ、朝鮮半島南部にあった小国「伽羅」を指したが、のちに朝鮮半島全部、やがて隋・唐と国交を開くようになると中国、そして中世以降は南蛮などの外国のことをも指していうようになった。」(古典基礎語辞典388頁、この項、我妻多賀子)。ならば、対馬海峡のこちら側に「槵触之峯」があることになる。両者の間で羽根突きをしている姿を想定することができる。当時の人の発想としてそのような観念が生じていたか、それが問題である。まつ浦佐用比売らさよひめの逸話では、海峡を挟んだ海外のことを指す「韓国」に向かって別れを惜しんでいる。彼女は、大伴佐おほとものさ提比古でひこが朝命により朝鮮半島へ出帆するとき領布ひれを振った。

 とほつ人 松浦佐用比売 夫恋つまごひに 領布振りしより 負へる山の名(万871)
 山の名と 言ひ継げとかも 佐用比売が この山のに 領布を振りけむ(万872)
 万代よろづよに 語り継げとし このたけに 領布振りけらし 松浦佐用比売(万873)

 領布はひらひらする細長く薄い布で、女子が首から肩にかけた。羽衣、長いスカーフの類である。万871番歌の題詞に、「因りて此の山をなづけて領巾ひれふりみねと曰ふ」とある。今日、唐津市の鏡山に比定されている。欽明紀二十三年七月条に歌謡が載る。

 韓国からくにの に立ちて おほ葉子ばこは 領布振らすも 日本やまとへ向きて(紀100)
 韓国の 城の上に立たし 大葉子は 領布振らす見ゆ なにへ向きて(紀101)

 新羅が任那、もと伽羅からと呼ばれたところを滅ぼしたので倭は参戦したが、戦いに敗れて捕虜になったときに歌った歌とされる。ほかに、「蜻蛉あきづ領布ひれ」(万3314)、「あきづ羽の袖」(万376)といった表現もある。蜻蛉の羽のような薄い領布を振ることで、蜻蛉が海峡を渡るように自分も海峡を渡りたいという願いを祈った歌である。
 天孫降臨の話では、領布振る峯ではなく「槵触之峯」となっている。世諺問答で、羽子が蚊を食う蜻蛉の姿に似せて作られているとあった。ヤマトは「蜻蛉あきづしま」である。看聞御記では「こきの子勝負」と言っている。遊びの名前がコギノコ、道具名がコギイタという呼び方について、漢字の「胡鬼」という当て字以外に求め、コギという語の由来が古代に遡る言葉であるとするなら、動詞の「ぐ」の連用形「漕ぎ」(コは乙類、ギは甲類)と関係して、船の漕ぎ板、オールのことと理解されるだろう。形がよく似ていて、また、海峡を渡る船を漕ぐことはリスクの高いチャレンジである。「韓国からくに」を目指して対馬海峡を渡るとき、みな一心に漕いだことだろう。帆船であったとしても、当時の帆はマストに向きは固定されているから順風ならともかく逆風では話にならず、横風には斜め斜めに少しずつしか利用できない。とにもかくにも漕ぐことが大事である。「漕ぎの子勝負」で海峡を渡った。
 「槵触之峯」はどこかではなく何かが問題である。お酒のことを「し」と言ったように、霊妙であるという動詞からクシフル(クシブル)という。紀の訓み方はその点で合っている。記では「久士布流多気くじふるたけ」と清濁が入れ替わっている。このクジフルという語は、上代において馴染みにくい音で素直ではない。筆者は、太安万侶による音読みを使った造語ではないかと推測する。「くじふるたけ」のクジフルについて、クジ(籤)+フル(振)という洒落である。振る籤は算木や筮竹も考えられるが、紀に「短籍ひねりぶみ」という方法が記されている。

 短籍ひねりぶみを取りて謀反みかどかたぶけむ事をうらなふといふ。(斉明紀四年十一月或本)

 細い紙片に別のことを書いて捻っておき、探り取って占いとしたものとされる。捻文には立て文の語義もある。包紙の上下を捻るのでそう呼ばれた。タテブミと聞けば立って踏むことであると聞こえる。立って踏むためには足首から下をぎゅっとねじり捻って踏みつける所作が必要となる。どこを利かせるか。クルブシ(踝)である。紀にあるクシブルに音がよく似ている。太安万侶の洒落のきつさが伝わってくる。踏みにじることを謂わんとしているらしい。
 稲作において踏みにじることは、前年の収穫残の株を泥田に踏みこみ入れて肥料とすることである。いなしびおし(稲株圧)とも呼ばれる。イネという栽培植物は連作障害が少なく、水田を維持管理しておくことが翌年の稔りにつながる。植え付けの直前に代掻きをして田を整える。先んじて先払いをしておくわけである。

 埼玉さきたまの さきの沼に 鴨そはねきる おのが尾に 降り置ける霜を はらふとにあらし(万1744)
 …… いそふる すがの根取りて しのふくさ はらへてましを く水に みそぎてましを ……(万948)
 …… いぎつつ 国見しして 天降あもし 掃ひことけ 千代かさね ……(万4254)

 音読みのクジフは「じふ」のこと、「九十」は続けて書いて「卆(卒)」、亡くなることに当たる(注11)
 亡くなって残るものは骨、仏教にいう舎利である。仏舎利を納める場所は塔であり、塔の形はきのこによく似る。クジフルタケとは「卆茸」のことだと洒落たのだろう。とてもいい臭いがするキノコだけれど毒キノコかも知れず、実態はわからない。傘のあるキノコの形である(注12)

左:池上本門寺宝塔、中:ニホ(一遍聖絵模本、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591577/23をトリミング)、右:カイツブリ(ニホ)とその浮巣のようなもの(井の頭自然文化園、2015.6.10)

 同じく舎利と呼ばれる米粒を納める場所も、籾を扱き落とすまでの間は塔のような形をした稲積みのところである。稲積みのことは民俗に、ニオ、ニュウ、ニョウ、ノウなどといい、沖縄ではイナマズン、シラと呼ぶところもある(注13)。バリエーションはあるが、標準的なやり方としては、刈り取って少しく乾燥させた稲束を、台を設けて穂のほうを内側、株もとのほうを外側にして塚のように積み上げる。そして、一番上には藁で雨避けの笠を作って被せている。ニオは古語でニホである。新種の巨大なキノコに見える(注14)
 ニホという言葉には二つの意味がある。円筒形の稲積みのことと水鳥のカイツブリの古名である。両者にはともに同じ性質を示す点がある。第一に、カイツブリが浮巣、いわゆる「にほの浮巣」を作ることである。水面の浮遊物を集めて厚い山のような巣を作っている。葦ばかりで作ることが多かったが、今日のような環境下では浮かぶものは何でも、木の枝葉であれ、水草であれ、ビニール袋や布類などのごみであれ利用して作り、その産座に卵を産む。卵の大きさは約3.7×2.5cm、白からクリーム色、茶褐色で、籾粒よりは大きい。雌雄ともども抱卵するが、巣を離れるときには卵の上に巣材で覆いをかける。稲積みに笠がかけられているのとよく似ている。
 カイツブリは淡水の湖沼、河川にごくふつうに生息する。巧みに潜水して小魚を捕食する。足についている水掻きは、カモ類に見られるような指の間に膜のついた蹼ではなく弁足と呼ばれるものである。前方にある三つの指と後ろにつく小さな指にも船の櫂のようなものがついている。漕ぐときはそれを広げて後ろへ掻き、戻すときは畳んで捻るようにする。人間の平泳ぎに譬えられる。この弁足のために地上ではうまく歩行できない。櫂があり、小さな鳥でツブ(粒・頭)と言えるほどに丸くまとまっている姿のため、カイツブリと呼ばれるのかもしれない。また、浮巣の様子から、記に「宇岐士麻理うきじまり」、紀に「浮渚在うきじまり」とあるのではないか。田は古く常湛であったから、まるで湖沼のなかに稲積みのニホが浮かんでいるように見える。その後ろにつづく記の「蘇理多多斯そりたたし」は隆起している、すっくと高くなること、紀の「平地たひらに立たして」は田の平のなかに立っていることを示しているのだろう。
 現代人とは異なり、ニホドリが身近な存在として感じられ、よく観察されている。人々の生活目線は水面の位置にあった(注15)。小さな水鳥である。竹棒や小枝などに鳥黐を塗っておいて捕まえた。それをハガ・ハコ(擌、黐擌)という。 和名抄に「黐〈擌附〉 唐韻に云はく、黐〈丑知反、毛知もち〉は鳥を黏する所以なり、黐擌〈所責反、漢語抄に云ふ波賀はが〉は鳥を捕ふる所以なりといふ。」、和漢三才図会に「擌〈山責切〉 擌、黐擌、和名波加はが、今に云ふ波古はことりもちは灌木類に出づ。をとりは鳥類下に出づ。黐擌は鳥を捕ふる所以の者なり。按ずるに、黐を用ゐ蘆竹及び縄に伝ふは之れをはこと謂ひ、囮の傍に置けば鳥、囮に誘はれ、頡頑とびあがりとびさがり往来して、終に擌に罹る。水禽の如きは、しべを以て擌とし、之れを田沢に設け、名けて流れ擌と曰ふ。」とある。ベタベタするものを縄に結んで流しおいて再び見に行くと獲物がくっついているという仕掛けである(注16)。ハコという音は羽子はこはこと同じである。
 ニホドリは羽子板、漕ぎ板のような、船の櫂のような弁足を持っている。それが擌によって絡めとられてしまう。彼らにとっては手に当たるところが黐でベタベタになっている。解消するにはシャボンを使って洗うしかない。サポニンはムクロジの実の外皮に含まれていて、擦れば泡立つ。すなわち、ニホドリ自体が羽根突きの事柄のすべてを物語っている。そして、多くの水鳥が冬に渡ってくるなか、河川湖沼において留鳥としてすでにいて先払い役を買っている。
 カイツブリの最大の特徴は弁足の水掻きである。「みづかきの」という枕詞は、「ひさし」にかかる。

 処女をとめらを そで布留ふるやまの 瑞垣みづかきの 久しき時ゆ 思ひけりわれは(万2415)
 楉垣みづかきの 久しき時ゆ 恋すれば が帯ゆるぶ 朝夕あさよひごとに(万3262)

 時代別国語大辞典は「神社の玉垣の久しく栄えつづく意で、久シにかかる。」(708頁)としている(注17)。「瑞垣みづかき」については、「玉垣。神社の周囲にある垣を讃めていう。」(同707頁)とする。和名抄に「瑞籬 日本紀私記に云はく、瑞籬〈俗に云ふ美豆加岐みづかきと、一に云ふ以賀岐いがき〉といふ。」とある。家々で使われる垣根にはいろいろあり、神社の垣根にもいろいろある。伊勢神宮の場合、門が五つも続いており、それぞれに垣をめぐらせている。内側から、瑞垣のかど蕃垣ばんがきの御門、内玉垣(玉串)の御門、外玉垣(中重)の御門、板垣の御門と呼んでいる。いちばん内側の最後の砦的な垣根が瑞垣ということになる。伊勢神宮や春日大社では板で、石上神宮では石でできていて、びっしりと隙間を開けずに張られている。一方、出雲大社では、隙間が空いている代わりに屋根がついており、屋根つきの垣根を瑞垣と呼んでいるようである。
 瑞垣が音でミヅカキである以上、水掻きにふさわしい形態でなければ無文字のヤマトコトバを使用する上で適切ではない。カイツブリの持つような船の櫂の形をした、先の三角形に尖った板を並べているのが伊勢神宮や春日大社、石上神宮である。確かにびっしりと並べてあるから、一見、漏れなく垣根でめぐらされているようであるが、重なりを持たせているわけではなく、スリットが入ったように向こう側が透けて見える。屋根のことを考えてみれば、家の母屋をこけら葺きで葺いたときには、重なりを持たせているから雨漏りは起こらない。しかし、そこから張り出して作ったひさし(庇)の部分は屋根もぞんざいに作ってあり、一応は雨を防げても完全とは言えない。雨を防ぐ目的よりも日差しを防ぐために設けられていた。問題は日差しだからヒサシ(廂・庇)というのだろう。よって、ミヅカキノはヒサシにかかる枕詞となっている。
 ニホという稲積みについては技術革新の象徴だったのではないか。弥生時代は石包丁で穂首刈りされていた。穂首刈りした稲穂(穎稲)は、縄文時代以来、クリなどを貯蔵していたフラスコ状の土坑に納められていたとされている。古墳時代、鋸歯のついた鉄鎌が伝来して株ごと刈り取ることが始まった(注18)。その全体を結束し、地干しやハザ(稲架)などで乾燥させてから稲積みにした。稲野1981.は、ニホという「稲干方式は他の方式で乾燥させた後に、一定の方法で集積し、乾湿の繰り返しを防ぎながら徐々に乾燥する方法である。」(99頁)とする。安定的な乾燥と貯蔵にかなっていて有効な方式である。そして、自給用には必要な分だけ脱穀して食べていった。地租分は稲刈り後すぐに大忙しで脱粒し、俵(叺)に詰めて出荷し、残りは積んだままである。なにしろ、脱粒、脱穀には手間ひまがかかる。千歯扱きはないから扱き箸や横槌やくるり棒を使い、唐箕がないから箕を振り大うちわなどを使って飛ばして選別した。土磨臼もないからもっぱら竪杵を使ってひたすら搗いた。現在もよく知られていることであるが、精米してから時間がたつと味は落ちる。乾燥しすぎないようにし、かといって湿るとカビが生える。食べるときに食べる分だけ精米するのが効率的にも実質的にも賢いことになる。よって、生産者である農家は、戦国時代のように刈り取ってまで持って行くような略奪の恐れがない限り(注19)、大量の米をすべて一気に籾にして米倉に鍵をかけて仕舞う必要はなかった。ニホに積んでおく光景がよく見られるものとなっていた。
 稲積みのニホの諸相を見るとさまざまな工夫が施されていることが知れる。地域により、時代により、さまざまな形態が行われていた。基本的には、真ん中に風通しをよくする空洞を設けながら稲束を上へ上へと円筒形に盛り積んで行く。最後に雨除けの笠を被せている。古語にカヅク(被)である。カイツブリのニホ(鳰)がカヅク(潜)のと同じである。白川1995.に、「かづく〔潜(潛)〕」は、「「かづく」と同根の語で、もと頭上に物をせる意。」(234頁)とある。
 枕詞の「にほどりの」は、その生態から「かづく」や同音の「葛飾かづしか」にかかる。

 鳰鳥にほどりの 潜く池水 こころ有らば 君にが恋ふる 情示さね(万725)
 鳰鳥の 葛飾早稲わせを にへすとも そのかなしきを に立てめやも(万3386)

 万3386番歌は新嘗祭を示す歌として有名である。稲積み、水鳥、どちらのニホも、頭が水を突き抜ける事柄となっている。
 稲積みのニホは稲束をることでできている。カイツブリのニホも水鳥の先払い的な意味合いから、やはりモル(守)と感じられたかもしれない。子育てで卵を巣に置いたまま出掛けるときには、蓋(笠・傘・覆)を被せていた。また、雛が孵ってから羽が生えてきてもまだ小さいうちは、我が子を自分の身の上に乗せて運ぶようにして守っている。羽毛にくるまれて背負われている様は、ねんねこにくるまれ背負われた子守の姿に相同である。カイツブリはカモ類より小さく、さらに小さな子をおんぶしている。子どもが赤ん坊を負ぶっているように見える。小さいからツム(粒)のようであり、赤子を積む「船舶つむ」(皇極紀元年八月)のようでもある。親子とも水に浮くから大型船に救命ボートが備えられているようにも見立てられる。そして、櫂のような水掻きで掻いて進んでいる。
 垣根のことをいうカクという語は動詞「く」の名詞形とされている。白川1995.は、「かく〔掻〕」は、「「く」「書く」「く」など、みな同根の語である。」(210頁)とする。

 大君の 八重やへ組垣くみかき 懸かめども を編ましじみ 懸かぬ組垣(紀90)
 恋ひつつも 稲葉掻き別け いへれば ともしくあらず 秋の夕風(万2230)

 水掻きをもってオール(漕ぎ板)とすることは、先払いの役を担うことになる。侵入者を防ぐ垣根も先払いと同様の役目を果たしている。瑞垣で囲まれたなかにニホのあるのは、寺の伽藍内に仏塔が建てられているのと同じであるという謂いのようである。出雲大社の瑞垣と寺院の回廊は構造上よく似ている。稲積みのニホは仏教とともに入ってきた新技術だったのかもしれない。

 また、秦造はだのみやつこおや漢直あやのあたひが祖と、酒をむことを知れる人、名は仁番にほ、亦の名は須々許理すすこり等と、ゐ渡り来たり。かれ、是の須々許理、おほ御酒みきを醸みて献りき。是に、天皇、是の献れる大御酒をうらげて、御歌にのたまはく、
 須々許理が 醸みし御酒みきに われひにけり ことぐし ぐしに 我酔ひにけり(記49、応神記)

 応神記の「仁番にほ」という名は稲積みのニホを意識している。新醸造技術の伝来は、稲の品種、栽培、収穫、保存、精米法においても新しかったということだろう。根刈り法は新醸造法と密接な関係にあったらしいのである。均質な酒米品種が伝来したということかもしれない。
 この記事で仁番は「参渡来也」となっている。その前の百済朝貢の記事では、百済王が文物と人を「貢上」したとあり、論語や千字文を伝えた「和邇吉師わにきし」は貢上されている。さらにその前の記事では「新羅人参渡来」とある。すなわち、「参渡来」は自発的に渡来したことを示しているのだろう(注20)
 臼で舂いて籾を取った。古代において、米は、常食時には玄米で食べたと考えられている。一方、酒に醸造する時はきちんと精米しようとする傾向があったと思われる。今日でも、精白歩合によって味に違いがあることが知られている。うまい酒が飲みたければ上手に精白しようとする。その精米作業のことをシラグ(精)という。銀舎利は白くしていくものだからシラグといわれる。それをシラギ(新羅)からの渡来人が伝えている(注21)。ヤマトコトバはその事情を秘かに伝えているわけである。

 真床追衾について、紀第九段本文に「高皇産霊尊たかみむすひのみこと真床追衾まとこおふふすまを以て、皇孫すめみまあま彦彦火ひこひこほの瓊杵尊にぎのみことおほひて、あまくだりまさしむ」と「追」字で表されているが、紀第十段一書第四に「内床うちつゆか真床覆衾まとこおふふすまの上にあぐみたまふ」、「真床覆衾とかやとを以て、其のみこつつみて浪瀲なぎさに置き、即ち海に入りてぬ」とあるところから「覆」うものと考えられている。一書第四の前者は、天孫が海神の宮、すなわち、豊玉姫の家に入ってのこと、後者は、豊玉姫が皇孫との子を産むときのことである。延喜式には「衾・ひとへを大嘗宮の愈紀殿に置き奉り」とある。今日では、座布団に代用されているおくるみについて、大嘗祭に用いられるかとする象徴的な意味合いばかりが検討の対象になっている(注22)。しかし、具体的に解釈し直さなければ、記紀の話が作られた飛鳥時代当時の人が納得していた次元に到達することはできない。
 紀一書の「真床覆衾」の字面をもって、真床オフ衾は一段高くなった床を覆う敷布団のことかとされている。大嘗祭に用いる衾は、フス(伏)+マ(裳)を表すとされ、袖や襟のない大きなサイズの掛布団、ないし敷布団というのである(注23)。けれども、今に伝わる近世の夜着には掻巻かいまきを多く目にする。上代の掛布団が掻巻であったかどうかは不明である。「遂に真床覆衾とかやとを以て、其のみこつつみて波瀲なぎさに置き、即ち海に入りてぬ」(紀第十段一書第四)という表現からすると、イズメ(嬰児籠)の籠はないように見受けられる。置き去りにするのだから寝返りが打てないようにしておかないと窒息してしまう。うまくくるまなければならない。

左:いずめこの幼児(狩野永徳筆、上杉本洛中洛外図屏風左隻二扇部分、「伝国の杜だより」Vol.30.https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/fc-newsletter.htm)、右:ふすまの袋で藁がくるまれている(板橋区立郷土資料館展示品)

 建具のフスマには襖の字を当てる。襖障子のことで、なかに木の骨を格子に設けて下張し、上からきれいな紙を張っている。別名を唐紙という。ふすまは、小麦などを挽いて粉にしたときにできる皮の屑、小麦の糠をいい、家畜の飼料や洗粉にし、また、食べ物に混ぜて嵩増しに使うこともある。別名を、からこ、もみじという。以上から、フスマという言葉には、なにかしら膨らませたもののことを指すとわかる。米を玄米で食べるとは、米と米糠の両方を食べることである。栄養価が高くなってかえって良いともされる。米の場合、ふすまと書く。そのような言葉の使い方に従うなら、衾とはわた入れの夜着である。皇孫が被せられているところを考えると、掻巻になっていて赤ん坊が寝ることに使うもの、すなわち、ねんねこ半纏のことである(注24)。ねんねこのぶかぶかに「其の児」を入れ、隙間に「草」を詰め込んで帯を回せば、赤ちゃんは寝返りを打とうにも動けない。お漏らししてもすべて「草」が吸ってくれ、やがては田んぼの肥やしになる。姿は奴凧に緊縛されたような感じである。「覆ふ」という語には形のピッタリ感が備わっているようである。カイツブリが子どもをおんぶしていたことが思い出されるだろう。

左:紀伊國名所圖會二編六之巻上、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2563489/1/20をトリミング、右:掻巻(喜田川季荘・守貞謾稿、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2592405/1/12をトリミング)

 それが本当に「真床追(覆)衾」なのか。マドコオフフスマのマドコオフは、フスマ(衾)にかかる枕詞なのかもしれない。とこ(ト・コは乙類)は一段高くしたところのことをいう。オフは、「追」という用字からは先払いのことが、「覆」という字からは被せておおうことが思い起こされる。「覆ふ」は「負ふ」と同根の語である。背中におんぶすることである。きちんと「覆」ひながら「負」うためには、二人羽織式にするのがいちばんである。それこそがねんねこ姿である。一段高くしながらおんぶするとは、何のことはない、赤ん坊はおしめをあてがわれ、帯を締めた上の高いところにいるのである。古代の大人はふだん下着を着けなかったらしいが、赤ん坊は別である。この状態は、湿田に一段高くしている台(=トコ)を作ったうえにニホに積んでいくのと相同である。穂を内側、藁部分を外側にしている。稲積みのニホの内に通気孔とすべく穴を開けることがあった。それは、新生児の頭蓋骨にはひよめき部分の穴があって、いまだに接合しておらずひよひよと脈打つことに相同である。カイツブリのニホの子もひよひよ鳴くひよこである。ねんねこで背負われている子どもの姿こそ、皇孫とされる番能邇邇芸命をよく示していると言える。
 ねんねこがねんねこと呼ばれる故は、ねんねこで子どもをおぶったとき、姿形が猫背になっているように映るからだろう。ネコ(猫)という言葉は、和名抄に 「猫 野王案ずるに、猫〈音は苗、禰古麻ねこま〉は虎に似て小さく能く鼠を捕り粮と為すとす。」とあるものの上代の用例は乏しい。文献上では記紀万葉に用例がなく、ネコを飼っていたのか、家の周辺にいたのか未詳である。ただ、骨の発掘事例としては弥生時代の壱岐のカラカミ遺跡が古く、古墳時代の須恵器には足跡を残していて存在は確かである。そしてまた、猫背の姿勢は背の曲がったお年寄りの姿として卑近なものだっただろう。古語にクグセ(傴)という。「背傴〈世奈加久々世尓せなかくぐせに〉」(霊異記・下・二十)と見える。クグセのクグはクグム・クグマル(屈)、クグル(潜)と同根と見られ、セは背の意とされている。クグルはもと清音で、水が漏れ流れたり、狭いところを通り抜けること、また、水のなかを潜り行くことを表し、クク(漏)と同根とされている(注25)
 クグムの清音形ククム(褁)は覆って包むことをいい、おくるみに赤ん坊を包むことである。

 敷栲しきたへの 枕ゆくくる 涙にそ うき宿をしける 恋のしげきに(万507)
 いもが寝る とこのあたりに 岩ぐくる 水にもがもよ 入りてまくも(万3554)
 水泳みなくくる 玉にまじれる 磯貝の 片恋のみに 年はにつつ(万2796)
 山吹の 繁み飛びくく うぐひすの 声を聞くらむ 君はいともしも(万3971)
 子の中に、手股たなまたよりくきし子ぞ。(記上)
 泳宮くくりのみや、此には区玖利能弥揶くくりのみやと云ふ。(景行紀四年二月)

 お年寄りとは長く久しくこの世にある方のことである。ヒサシ(久)にかかる枕詞に「みづかきの」(瑞垣)があった。久しい人であるお年寄りの背中は曲がっている。ヒサシは廂・庇と同音の言葉で、廂・庇のもともとの義は日差しのことである。日が差すこととは日が向かうことである。方角としてできた言葉はひむかしであり、それと似た地名にむかがある。「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」とあるヒムカ(日向)とは日差しのことである。音声言語でしかなかったヤマトコトバにとって、話としてわかり合うためには、ヒサシ(日差・廂・久)はお年寄りの猫背のことに意が通じなければならない。お年寄りの猫背とは、お年寄りが立っているのか寝ているのかさえわからない姿勢で散歩していることをいう。そのような枯れた人たちと同じ状態にあるのが、刈り取って植物としては枯れている稲穂をある程度乾かした上で積み上げたニホの形である。いちばん上は廂(庇)となる蓋で覆われた。もうしばらくすると脱穀されて舎利になる。人は動物であり、命あるものとして骨と化すことは逃れようがない。そのお年寄りに与えられている仕事は孫の子守をしながら落穂拾いをすることである。農作業の中心となる根株刈りの稲刈りはスピード仕事で慌ただしく、動作が鈍く作業が遅くなってしまった老人には与えられない。ねんねこで赤ん坊を背負いながら、邪魔にならないところで収穫から漏れた分を拾ってもらうしかない。補助的な仕事ではあるが集めれば案外量は多い。
 ヒサシなのは、日当たりのいい場所に設けられた稲積みのニホに覆蓋を被せて雨除けにすることと悟ることができる。湿って発芽したりカビが生えたりしないようにしている。鼠の害を防ぎたいとの願いから猫背と形容して正しいことになる。むろん、完全に防ぐことはできない。それでも猫がいたり、また、鼠落としを設置しておけば効果的である。鼠落としはネズミをぺしゃんこに圧死させる。警蹕がオシオシと言いながら先払いをしていたのと同じことである。天気のいい日に老人がねんねこを羽織り孫をおんぶしながら散歩をするのは家の周りである。すなわち、ニホの周りである。孫を猫かわいがりするというのは、猫背でかわいがることでありつつ、ネズミを捕るネコと同じ役割の先払い役を担っているからである。加齢臭に赤子のおしめが加わってとてもよく臭う。ニホフ(臭・匂)という語は、色が赤く発色することを指すのが第一の用法である。いま、赤子をおんぶしている。第二の用法は、嗅覚を刺激する香り、臭みが感じられることを表す。「卆茸くじふるたけ」なるキノコは何ともいえない匂いを伴っているとの仮説は着眼としても正しかった。

 橘の にほへるかも 霍公鳥ほととぎす 鳴くの雨の 移ろひぬらむ(万3916)
 君は、万に物の香臭くにほひたるがわびしければいとあさましきには、涙もいでやみにけり。(落窪物語・巻一)

 記に「韓国からくに」とある伽羅からの地を占領したのは新羅である。米をシラグことが想起されていた。新撰字鏡に「精……  米志良久しらぐ」、和名抄に「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与禰しらげよね、上の音は傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米なりといふ。」、「𥽦米 唐韻に云はく、𥽦〈臧洛反、作と同じ、漢語抄に云ふ𥽦米、末之良介乃与禰ましらげのよね〉は精細米なりといふ。」、「糲米 崔禹食経に云はく、烏米、一名は糲米〈上の音は剌、比良之良介乃与禰ひらしらげのよね〉、烏米は一斛の糲を舂きて八斗の米を成すを謂ふなりといふ。」とあって、精白することが記されている。お米を精ぐ際には杵で搗き、食べる方は銀舎利で、食べない残骸は糠、つまり、ふすまである。シラク(白)には髪が白くなる意がある。

 ぬばたまの 黒髪かはり 白髪しらけても 痛き恋には 逢ふ時ありけり(万573)
 …… 若かりし 肌もしわみぬ 黒かりし 髪も白斑しらけぬ ……(万1740)
 黒髪の 白髪しらくるまでと 結びてし 心一つを 今解かめやも (万2602)

 いずれも加齢の話である。お年寄りと精米の関係は、ともにヒサシにしてニホなるものなのである。

 真福寺本古事記の「真米○○通笠沙之御前而」は、米の脱穀、脱稃、精白作業のことを言い表していると考えられる。のぎのついた籾状態の米粒は、羽根突きの羽子と似て固い実に二つの翼がある姿をしている。「通」字はトホル、トホスのほか、カヨフの意にも用いられる。カヨフの義に、行き来する、他方へとどく、出入りする、物事に通じる、のほか、意味が通じて似通う、の意がある。説文に、「通は達なり。辵に从ひ甬声。」とある。

 夫婦をふとめの道は、いにしへも今もかよへるのりなり。(景行紀四年二月)

 したがって、「まことよねかささきかよひて」と訓む。「まこと」とは、誠尤もなことということである。真偽を問うたときに真であるという意味ではなく、よくよく知恵をめぐらせてみたところ、まさに本当に間違いなくそうであったと気づくこと、それを強調するためにマコトという副詞を使っている。

 聞くがごと まことたふとく くすしくも かむさびるか これの水島(万245)
 たらちねの 母を別れて まことわれ 旅のかりに やすく寝むかも(万4348)
 譡 丁蕩帝當二反、貞實辞也。太々志支己止ただしきこと、又、万佐之支己止まさしきこと、又万己止まこと也。(新撰字鏡)

 同じ稲作とは言っても、熟した稲穂を順次穂首刈りしていた採集生活の延長上の様相とは異なり、まるまる株ごと鋸鎌で刈り取っていく先端的な稲作が一部で始められていた。品種が均一化されていて、田植えして育てられ、株刈りにより収穫が一気に進められた。稲作が産業化し、藁も大いに生活資材として活用するようになった。藁とは製品名である。稲の茎、稲柄いながらを水に浸して叩くなどして柔らかくしたもので、藁化することで綯う加工ができるようになり、さまざまな生活用品に作られた(注26)。生活全般が田んぼの稲作に絡めとられていくことで、農耕生活という新時代が始まった。地面に貯蔵穴を掘って埋めておくリスのような貯蔵法もニホという大量の稲束の山積みへと変化した。そして、年間を通して安定してまずくない米を食べること、また、おそらくはこちらの方が重要と考えられただろうが、酒造に適した米が収穫できるようになった。元肥として藁や籾殻を鋤きこみ株を踏みにじることで常湛の田は毎年、稲作をくり返すことができた。田が工場と化し、循環型農業という魔法を手に入れた。年間作業のルーチンワークをこなせば食料と酒が自給できたのである。余剰米も生れて先払いが可能になるほどの技術革新であった。稲作法の大転換を示す言葉がニホとオシである。
 天孫降臨の説話に、サルタヒコやサルメの話が絡んでいた第一の所以は轡と猿轡のもじりである(注27)。猿と関連する語にサル(戯)がある。周辺の音を見てみると、ジャル(戯)はザレル(戯)の変化形で、方言に「じらける」といえばジャレル(戯)ことを意味する。また、シャル(曝・晒)とはサレル(曝・晒)の変化形で、長い間風雨にさらされて色褪せること、特に白っぽくなることをいう。ニホンザルの毛は背側は暗褐色であるものの、腹側、特に顔の周りには灰褐色で白っぽいものが多い。子どものことを砂利といい、米粒のことを舎利という。精米のために臼で搗いていると、米粒は杵にまとわりつきながらじゃれ回っている。天孫降臨の話に猿田毘古神や猿女君の話がまとわりつく第二の所以である。
 ホノニニギの降臨は、稲穂がニホに積まれることを物語ったものと理解される。紀本文に「槵日の二上の天浮橋」(注28)とあるのは、刈り取った稲をハザ(稲架)懸けしている様子を表していると想定できる。稲架は、ハサ、ハセ、ハデ、ホギ、ハッテ、イナグヒ、イナキ、イネカ、イネカケ、ウシとも呼ばれている。刈り取った稲を天日干しにして乾燥させるために、間隔をあけて斜めに組んだ竹竿の足場を建て、上にもう一本の竹竿を横架させて結びつけ、そこに稲束を渡し懸ける装置である。掘っ立て柱に何段も竿を渡した高いものや、脚をいくつも建てて横に長いもの、畔に並べて植えたトネリコなどの木を利用するものなどさまざまである(注29)。そのやぐらのようなハザに懸けるときや外す際、まるで猿のように高いところを行き来して稲束を操っている。天孫降臨と猿との関わりの第三の所以である。
 「槵日」とは、クシブ(奇)の連用形に、「日」を当てて乾燥させる意を加えて固有名詞にした語のようである。天日干しは今でもおいしいと評判である。「稜威の道別に道別きて」というのも、稲束を半分に分けるようにして跨らせることの謂いと推察される。記に、「此地は、……朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚吉き地」とあるのも、天日の下での乾燥、保存に絶好の場所ということだろう。収穫された稲はハザ懸けしてある程度乾燥させてからニホに積んでおき、食べる分だけ稲穂から脱穀し、脱稃し、精米し、調理する。その一連の工程を「槵触之峯」と譬えたようである。
 「天の石位を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天浮橋に、うきじまりそりたたして」(記)、「皇孫、乃ち天磐座をおしはなち、且、天八重雲を排分おしわけて、稜威の道別に道別きて」(紀本文)の「天の石位」、「天磐座」のイハは堅牢な、の意である。天上世界に堅固な場所を求めようとすると論理矛盾が生じる。それでも高いところのクラ(座)である。稲穂を高い座に懸けさせることだとすれば、容易にハザ(稲架)のことを指しているとわかる。そこから、オシはなち、オシわけて来る。オシオシと警蹕の声が聞こえる。「いつのちわきちわきて」、「稜威の道別に道別きて」とあるのは、段重ねのハザが櫓のように組まれているところを鳶職のように行き交うことの謂いではないか。
 「天の八重たな雲」、「天八重雲あめのやへたなぐも」とある。雲海が棚になっているように見えるとは、稲を段々に干し懸けているところを形容していると受け取ることができる。「水田種子たなつもの」は「陸田種子はたつもの」の対義語である。
 乃ち粟稗麦豆あはひえむぎまめを以ては、陸田種子はたけつものとす。稲を以ては水田種子たなつものとす。(神代紀第五段一書第十一)
 水稲がタナツモノと呼ばれていた点について、大系本日本書紀は「タナは種。ツは助詞ノにあたる。種のものの意。稲についていう。」(61頁)とするが、粟稗麦豆や他の植物も多くは種のものである。タナの意は、段重ねにしたハザ(稲架)のことをタナ(棚)と言っている可能性がある。粟・稗・麦・豆類も干すが、本邦において櫓のように段重ねの架に懸けて干す光景が広範囲にわたって行われたのは稲をおいて他にはない。収量の多いものを効率的に干すための方法として伝来した新技術だったのだろう。
 五世紀、大陸から新技術がまとまってやってきた。それぞれの要素は相互に絡み合いながら、倭の人、すなわち、ヤマトコトバを母語とする人たちは受け入れていった。ただし、それは、読み書きすることによってではなく、話し聞くことによって伝えられたものであった。なかにわずかにリテラシーのある人もいたが、彼らも文字という記号に絡め捕られずになぞなぞを駆使して言葉のなかで理解の完結するメタ言語的な頭脳を持っていたと考えられる。そうでなければ周囲の無文字の人たちとコミュニケーションをとることができない。そのような彼ら、人口比でいえばほんのわずかな限られた人が記紀の基となる話を構想、構成していたものと考える。筆者は、その人たちの後ろ姿をおぼろげながら見ることができる。朝廷の中心にいた厩戸皇子や蘇我馬子である。話をまとめるに当たって天皇代ごとに寄せ集めていったため、表面上、天皇制の正統性を主張するかに見える形態になっているが、事の本質は、技術革新を誰でもが理解でき、伝達していくことができるものである。文字を持たない人たちが、技術革新の意味するところを共有するために、話として楽しめる仕掛けが必要とされたのである。皆が知っておかなければならない大事なことだから、ヤマトコトバのなかに深く刻まれ、語り継いでいくことが可能な話として構成された。ところが、多くの人たちが文字を持ってしまって以降今日に至るまで、記紀の話は意味不明のままお蔵入りすることとなってしまった。時に読み返されることがあってもよくわからず、神話として片付けることで認知的不協和から逃れてきたのだった。

(注)
(注1)「天孫降臨」という言い方は一条兼良・日本書紀纂疏に見え、章句立てとして使われている。「神話」という語は明治以降に造られた漢語である。ギリシャ神話のことをいうMythos(ドイツ語綴り)の訳語として造られたとされる。①神々についての物語、②民衆間に信仰をもって語り伝えられた物語、③宗教性・呪術性を存し、社会を規制する力をもった物語、という要件を満たしているものという。
(注2)(2)・(3)については、拙稿「猿田毘古神と猿女君」参照。また、ホノニニギの名義については別に論ずる。
(注3)記の「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命」については、「高」字をタカと訓む説とコと訓む説があるが、「日高」はヒコと訓むのが正解である。拙稿「古事記の「天津日高日子」・「虚空津日高」の「日高」はヒコと訓むべき論」参照。
(注4)西郷2005.に、「この「此地は韓国」にかんしても、同じこと[本文のコラプション]がいえよう。いっそう悪いのは、ここでは本文の乱れと、伝承の間におのずと生じた崩れとがかさなっているらしいことだ。これは記紀時代すでに意味不明の、だがおろそかならぬ聖句として伝えられていた部分であり、そしてその故に本文の乱れをも誘ったのに相違ない。」(78頁)とある。そういうことではない。
(注5)新釈全訳日本書紀には「「槵」はムクロジを指すが、古訓がクシに宛てるのは「串」の訓をとったものか(『通証』が指摘するように、槵の異体字に梙がある)。クシヒは「奇霊」の意。「二上」は頂が二つに分かれた状態をいう。」(203頁)とある。
(注6)当該個所は意味不明として、本文に脱落や竄入があるとする説が多い。諸説は伊藤2010.にまとめられている。
(注7)新編全集本古事記に、「現実[の地名]との厳密な対応を求めることは問題」(118頁)とある。
(注8)西郷2005.はこの説に「賛成」(57頁)という。先払い役の存在は、紀本文に、「先遣我二神駆除平定」、一書第一に、「先往平之」、「先行駈除」、「先駆者」、一書第四に、「立天孫之前」とあることからも意識されていることがわかる。
(注9)高木2008.には、「[神道儀式における]「警蹕」とは、現況からの一例として現代日本語の「オ」の音を同音高で長く引いて「オー」と、平伏または馨折して唱える音声のことで、「ミサキオイ」とも称す声のマジックである。神霊や尊い方の入御、出御の際等に唱えて、声を出すことによって、まわりをいましめ先払いをするのである。神道の祭儀中で最も神秘の行事の折に発声され、現在の神社祭式では普通一声または三声唱えるとされる。……又、現況においても、歴史的にも「警蹕」には「オーシー」、「ケーヒー」等、既述以外にも異なる発声音が存在する。」(53頁)とある。
(注10)拙稿「「かがなべて」考」参照。
(注11)「卆」字は法華義疏や文祢麻呂墓誌銘に残る。拙稿「三輪山伝説」参照。
(注12)紀一書第六に、「竹島」とある個所、傍訓にタカシマとあるが、筆者はタケシマではないかと考える。キノコはタケである。シイタケ、マツタケ、ヒラテケ、ワライタケ、エノキダケ、などなどである。和名抄に「菌 爾雅注に云はく、菌〈音は窘、太介たけ、今案ふるに数種有り。木菌、土菌、石菌。並びに兼名苑に見ゆ〉は形、きぬがさに似る者なりといふ。」とある。なお、塔には五重塔のように層を重ねるものがある。ツクシに見えることがあって、それが「竺紫(筑紫)の日向」という設定を呼んでいるのだろう。ツクシは土手の日の当たる斜面などによく生える。養分の少ない酸性土壌に顔を出す。拙稿「多武峰の観とは何か─両槻宮・天宮という名称から見えてくるもの─ 」参照。
(注13)柳田1978.に、「……この稲の堆積には一つの様式の共通があることで、すべて稲のたばを、穂を内側にして円錐形えんすいけいに積む以外に、最後の一束のみはかさのように、穂先を外に向けておおい掛ける者が今も多く、さらにその上になお一つ、特殊な形をした藁の工作物を載せておくふうが今もまだ見られる。」(256頁)とある。そこに稲の霊が降りて来て宿り籠もると指摘されているが、時代が下ってから行われた後付けの信仰のように感じられる。言葉が先にあり、その言葉に従って思考を広げていくのが常である。言葉がなければ考えることはできない。
(注14)土屋又三郎・耕稼春秋(『日本農書全集4』)に、農作業が解説されている。

 ……稲干〈ほすとハ、稲一把宛四方へ株を上にしてひろけて、堅田ハ其田に干、野川原これ有所ハ田より持出て干なり〉。……稲刈六把宛立置也……。是を束立と云也。雨天に見ゆれハ、其間に穂を外へなして算に積、則三束程有により三束にうと云、堅田ハ其田に積、泥田ハ疇の上に積、四五日過れハ雨降晴の時分風にて干る。後はそうけにうにする〈そうけとハ、二ツを一ツに積、穂を内へするを云、是穂をぬらすましき為也〉、天気続て能れハ三日四日にて能干る。惣して稲ハから能干れハ、おのつから干る。からぬれて、穂ぬれすといへとも籾やわらかに成物也、是稲のから穂にかへる故也。皆泥田にて野河原なき所ハ、稲をはさに懸る〈はさとハ二品有、地はさ、作はさ、かけ木、立用品々あり〉。はさの稲天気能時分は七日程にて能干る。雨天の時分ハ十二三日にて大方よく、但作りはさ多ならさる故、積替とて稲六七束のにうを疇にして、からを能風にふかせ、二三日立て積直す、又風にふかせ七八日程にて能干る。但川原近辺惣して嵐つよき所ハ猶能干る。稲にう大豆小豆にうする。大豆ハ所により木の枝なとに懸置所も有。けらバをする時ハ大ににうを所々にひろけ、風に吹せ取入てけらバとする物也。下旬晩稲稲刈。中稲にうにする、稲数、にう一ツに五百束より千六七百束迄、又ハ弐千束迄もする、比にうをけらバと云。小百姓ハ百四五十束より弐三百束にうとする也〈蓋にハ藁のま大唐藁又ハ常のわらにてする也〉。……(28~31頁、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838302/34~35参照)

(注15)食べたからかもしれないが、おいしくないという感想も聞かれる。
(注16)古い記録として、古今著聞集・巻二七に、「各々相議して、かの水鳥とらんとて、もち縄の具など用意して行き向はんとするを、……」とある。また、農商務省編『狩猟図説』(明治25年)に、「[下総手賀沼]……黐縄ハ方言「ボタ」縄ト唱ヘ秋分ノ頃葦穂ヲ苅リ採リ花ノ実子ヲ脱シ其ノ袴ヲ日光ニ曝シ竹箆ヲ以テ細裂シ之ヲ沸湯中ニ入レテ一煎シ再ヒ之ヲ乾燥シテ綯ヒタルモノニシテ径一分ニ充タズ長サ一千尋ヲ以テ一縄ト唱ヘ之ニ煎黐ヲ塗リ「ヲダ」巻ト名クル滑車ニ絡ヒ置クナリ」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/993625/1/49)とある。
(注17)本居宣長・古事記伝に、「○水垣ミヅガキ宮、凡て水垣と云は、みづみづしき垣と、美称ホメタタヘたるなるを、【水は借字なり、書紀に瑞字を書れたるは、さらにアタらぬことなるを、美豆ミヅに用ふる字なき故に、アマネく此字を書ならへり、】宮号ミヤノナとせられたるなり、【必しも此宮の御垣の、水垣なりし由のには非ず、なほ水垣の事、師の冠辞考に委し、さて歌に、水垣のヒサしとつゞけよむは、は、此号につきてのことと、昔より心得つれども、よく思ふに、然には非ず、抑如此カクつゞけよむことは、萬葉十一に、処女等乎袖振山水垣久時由念来吾等者ヲトメラヲソデフルヤマノヒサシトキユモヒキツアレハ、これ始なり、此歌を四巻には、人麻呂の歌とて載たれど、人麻呂よりは古く聞ゆ、石上イソノカミフル社は、いと上代よりの神社にて、其水垣は、ヒサしき世々をたる故に、ヒサしの枕詞にせしなり、かくて後は、振山フルヤマといはで、たゞ水垣の久しとのみもよむは、右の歌にユダネて、ハブけるなり、若号にツキていはば、水垣宮のとはいはでは、言たらず、水垣とのみにては、宮号にはなりがたかるべし、】」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/933885/1/57、漢字の旧字体は改めた)とある。明解とは言えない。
(注18)弥生時代の穂首刈りについては、均質でない穂ごと、また、熟す時期に合わせた採取法であったという説や、イネは多年草だから湿地にそのままにしておいて、二期作ないし翌年にひこばえから収穫を得たとする説(「禰島ねのしま……粳稲いね常に豊かにして、一たびふたたびをさむ。」(天武紀十年八月))、田植えではなく種を蒔いていたからとする説など、いくつか理由づけされている。
 他方、株もとで刈る方法(根刈り法)は古墳時代から見られはするが、鎌の出現によって一斉に行われたわけではなく、十一世紀になってようやく定着するもので、それまでは穂刈りと根刈りが共存していたとされている(寺沢1991.50~69頁)。そこに、「穂首を竪臼に入れて舂く作業は、脱穀から脱稃までを一度に行えるといった作業の簡略化以上に、根刈りでは収穫に引き続いて集中して行わねばならない乾燥・結束→脱穀・脱稃の多大な労働力を一気に日常的な消費レベルでの家内労働に分散することができる。また、逆にいえばそうした労働力を集中しなければならないはずの脱穀・調整作業が技術的にみて非能率的な段階であったからこそ頴稲としての収穫・貯蔵も意味をなしえたとみることができよう。」(62~63頁)とある。生育の度合いが一定でないから根刈りが困難であること、種稲にする際の品種管理に困るから穎(頴)納が求められたり、湿田の直播のために雑草との共存から穂首刈り以外方法がないこと、藁の大量使用の時代を迎えていなかったことなどを理由としてあげている。しかし、稲積みのニホが乾燥・貯蔵方法として優れていること、なにより選別作業が煩わしいこと、竪臼で舂くことはとても時間のかかることから考えると、穎稲での収穫の事情について通り一辺倒に説明しつくすことはできなだろう。
 安藤1951.は、「穎稲(束)の制度が平安時代まで及んでゐることは何故であるか。……穂首刈と根刈とその刈取る稲茎の上部であるか下部土ぎはであるかの相違に過ぎないけれども、収穫後の作業に可なりの開きがあることがその主因であると思はれる。即ち根刈では穂首刈に比べて貯蔵上遥かに多くの倉を要することであり、臼で脱穀を行ふことも困難であるから穎稲を臼で舂くより便利な脱穀方法が現れぬ限り旧慣が維持せられることは当然であるまいか。」(79~80頁)、「根刈に進むべき機会は早くからあつたのであるが、脱穀の方法としての籾扱が現れなかつたからその実行が著しく遅れたのであらうと想像せられるのである。」(90頁、漢字の旧字体は改めた)とする。また、古島1975.は、「『枕草子』に始めて「扱く」という作業を見るのである。」(167頁)として、「……稲と云ふ物多く取り出でて、若き下衆女どもの汚なげならぬ、其の辺の家の娘、をんななどひきゐて来て、五六人してがせ、見も知らぬくるべき物、二人して引かせて、歌謡はせなどするを、珍らしくて笑ふに、……」(枕草子・第104段)といった記事を紹介している。
 比良野貞彦・奥民図彙に、「コキ竹 長サ三寸計 太サ如図 是ハ稲ノ穂ヲコク具ナリ」とある。『日本農書全集1』には、「古代においては、稲は穂首刈をしたので、稲の穂は木製の臼に入れ、木製の杵で搗いて脱穀と籾摺りとを同時に行った。……その後根刈りになってから、「こき箸」「扱竹」などと呼ばれる脱穀専用の農具が現われて、籾摺りとは別個の作業になった。これは二本の竹の一方の端に節をつけて結び合わせ、これを直立させ、稲株を棒の間に挟んで扱くものである。ふつう棒の長さは四五センチ程度のものである。この図の扱竹は長さが一〇センチていどのものであるから、ふつうの扱竹にくらべて、著しく低能率で実用性にとぼしい。たぶん、農家の片隅に置いてあったものを、見つけ出して紹介したものであろう。」(235~236頁)とある。
 枕草子の「見も知らぬくるべき物」は籾摺臼のことかとされている。そのような先端技術を見るまで、稲扱き具が残っていないからといって脱穀は竪臼で行った、だから穂首刈り指向にあったとは考えにくい。民俗に、千歯扱きに先んじて扱き箸があるのだから、道具を使ったとするなら永らくそれを使っていたと考えるのが妥当だろう。和漢三才図会の「稲扱」の項には「扱竹」と千歯扱きが図示され、千歯扱きは、「其のちかみち扱竹の十倍にして、故、孀婆ごけばばなりはひを失ふ。因りて後家倒しと名づく。」とある。
 飛鳥、奈良、平安時代に根刈りが進まなかった理由は、深い常湛田の場合どうすることもできなかったし、品種が混在して稔りの時期が異なっていたことに大きな理由が求められよう。穂首刈りといっても当然のことながら穂に茎はついていて、そのままに竪臼に入れていては杵を振り下ろす人にとって酷というものである。臼は杵の重さをもって圧としている。ひどい肩こり、腰痛に悩まされる。扱いてから舂くほうがよほど楽である。また、扱き箸をどのくらいの長さにするかや、竹を二本使うヌンチャクタイプにするか、それとも割り竹にするかについて、生産効率から一定の寸法に収斂されると考えるのは誤りである。穂首刈りしたものや落穂拾いをした束ねにくいものには小さな扱き箸が使いやすいし、まとまって大株束になっているものには大きな扱き箸が使いやすい。機械ではなく道具について標準化されていくとは考えにくい。例えば、鑿や台鉋の大きさや形状はバラエティに富んでいる。使う人が使う場所によって使い勝手の良いものに細工する。扱き箸の場合、相手が竹なのだからものの半時もすればできてしまう。そして、サルもしているように手でじかに扱くこともあり、手袋を嵌める方法も考えられる。脱穀の全行程(稲穂から籾粒を外すこと、籾粒から籾殻を外すこと、玄米から糠層を外す精米)を一緒くたにして、すべて竪臼・竪杵で行ったとは言えない。
 万葉集などには、「く」(コは甲類)、「扱入こきる」(コ・キは甲類)の例がある。

 引きぢて 折らば散るべみ 梅の花 袖に扱入こきれつ まば染むとも(万1644)
 秋風の 吹きき敷ける 花の庭 清きつくに 見れど飽かぬかも(万4453)
 椾稲 伊祢古久いねこく(新撰字鏡)
 稲舂けば かかが手を よひかも 殿の若子わくごが 取りて嘆かむ(万3459)

稲を扱く(左:宮崎安貞・農業全書・巻1、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2558568/1/27をトリミング)、右:橘守国・絵本通宝志、享保14年(1729)刊、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023033/20?ln=jaをトリミング)

 この稲扱きは脱粒である。稲を刈り取り、乾かし、もっぱら家の近くまで運んでから、必要な分だけ米にしてご飯やお酒の原料にする。その最初に行う手順である。作業としていえば先払いを担っている。動作としてもはらう姿に見える。後代に遺物が残っていない理由は、手でじかに扱いたり、道具としてなら割竹のままの姿であったため認識されないからとも思われる。手で直接するとあかぎれができるが、それを詠んだ歌が万3459番歌ではないか。「稲舂けば」は「稲[ヲ扱キテ]舂けば」という一連の作業を言うから手が荒れるのである。竹をつかった扱き箸の場合、論理学的に言い表すなら挟み竹と呼ぶことができる。挟み箱の前身の名称と同じである。オシオシと警蹕の声が聞こえてくる。理屈が循環しており、文字を持たない上代の人の考え方に合致している。ことことの一致を極めようとしていたヤマトコトバにあって、語学的証明になっている。
(注19)古墳の副葬品に鉄の武具が多数納められているのは、実際の戦闘が少なくて平和な時代であったからとする説がある。ニホが積まれるに足る条件は揃っていたようである。
(注20)稲作の伝播について、江南からの直接か、朝鮮半島経由かといった議論がある。それは第一次稲作伝来の話である。筆者は、その稲作のやり方の新方式、いわば第二次稲作伝来に、新羅由来の技術があずかっているのではないかと考えている。
(注21)新羅を導く枕詞に「たくふすま」、「栲綱たくづのの」など、たくが関係する言葉もある。栲はこうぞの古名で、樹皮から繊維を取った。丈夫なため、綱や領布、衾の材料に用いられ、後には紙の原料ともされた。コウゾ(カウゾ)はカミソ(紙麻)の変化した語とされている。色が白いので同音の新羅にかかるという。拙稿「神功皇后の新羅親征譚について─新羅(しらき)・百済(くだら)の名義を含めて─」参照。

 栲衾 白山風しらやまかぜの なへども 子ろがおその ろこそしも(万3509)
 栲衾 新羅へいます 君が目を 今日けふ明日あすかと いはひて待たむ(万3587)
 栲綱の 新羅の国ゆ 人言ひとごとを よしと聞かして 問ひくる ……(万460)

(注22)折口信夫は大嘗祭と真床追衾との関連を論じている。『折口信夫全集3』に、「日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、床襲衾ドコオフスマと申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此床襲衾ドコオフスマこそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすが・・・ともなり、皇太子ヒツギノミコの物忌みの生活を考へるよすが・・・ともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。」(188頁)とある。大嘗祭の祭式は日本書紀の記述を参考に作られたものかもしれないが、神代紀第九段の記述は大嘗祭を描いたものではない。紀の解釈の早い時期のものとして、釈日本紀に「真床追衾 私記曰。問。此衾之名、其義如何。答。衾者、臥床之時覆之物也。真者、褒美之辞也。故謂真床追衾。一書文、追字作覆也。訓読相通之故、並用。今世、太神宮以下、諸社神体、奉御衾。是縁耳。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100085022/145?ln=ja)とある。大嘗祭との関わりについては、岡田1990.やそれに対する反論として榎村1991.がある。筆者は、大嘗祭について議論するものではない。日本書紀に登場する「真床追(覆)衾」とはどのようなものを指していっているのか、具体物のありさまについて考えている。無文字文化においては具体的思考しか起こり得ないことは、発達心理学における知見から敷衍されるところである。
(注23)田沼善一・筆の御霊前編巻之六(『新訂増補故実叢書第九』)に、「中右記、台記などにも、夜るの物を、直垂と云ふ事見え、兵範記、保元三年二月九日の条に、聟取の事を記して、男女相伴テ被帳中ニ、下官覆衾、〈直垂也、〉ともみゆ、直垂也とことわり注るは、袖なきふすまとまぎれざらむ為なり 江家次第、新甞祭の条には、内侍率縫司ヲ、供メ寝具ヲ於神座ノ上ニ、退出、〈御衾也、〉とあり、そは直垂ならで、打まかせたる衾なるよしを断れる者なり、」(158頁)とある。
(注24)喜田川守貞・守貞漫稿に、「又小児を負ふ者冬月は半身の掻巻を用ふ者左図の如くす 江戸に有之京阪不之 江俗号之てねんねこ半天と云江俗嬰児赤子をねんねこと云により号之也」とある。
(注25)モルというヤマトコトバには「漏(洩)る」、「る」、「る」があり、漏れ出ることと後二者とどのような関係にあるのか不明である。ただ、そこに籠という媒介が入るとすべてにおいてカバーする概念が浮かび上がる。いずめの姿を見れば、排泄物が漏れることも、収穫物を盛ることも、子守りのために籠らせていることも包含する意が認められるだろう。それは、けっして語源的につながっているということではないが、意図的か偶々なのかはさておいて、言葉の体系としてうまくできていると感心せざるを得ない状況にある。「る」は「」と関連ある語であるとされているが、籠には目があって尿を漏らすから赤ん坊はそこに居続けることができている。言葉のあり様から、子守こもり(コは甲類)とはこもり(コは甲類)なのだと知らされている。拙稿「無目堅間(まなしかたま)とは」参照。
(注26)同時に莚機も舶来したのではないか。
(注27)拙稿「猿田毘古神と猿女君」参照。
(注28)「天浮橋」の浮橋とは何かについて、諸説行われている。寺川2009.にまとめられている。

 Ⅰ 道にあって渡る橋ながら、天地の間なので形態は梯子とする説
1 天地の間を神たちが昇降する道に架かる橋で、天に通う橋なので梯子状であり、神代にはあちこちにあった。〔本居宣長・西宮一民〕
 Ⅱ 基本的には天から地上に降る橋とみる説
2 天から地上に降る橋であった。〔倉野憲司〕
3 高天原から天降る橋であるが、常に「立たして」と表現されているのは、降臨の祭式に由来することを暗示する。〔西郷信綱・荻原浅男〕
4 聖なる世界の辺境には、聖なる世界の一部として俗なる世界に向かってさし出された接点としての構築物で、地上に支える場所がないので浮橋という。〔金井清一〕
5 天に浮く橋で、『古事記』では高天原から地の側に特別な神が天降る、いわば世界関係において、意味をつ特別の場。〔神野志隆光〕
 Ⅲ 天地を結ぶ梯子説
6 天への梯(橋)と観想された大きな岩石。〔松村武雄〕
7 天へ向けてかかる梯子。〔井出至・石母田正他・益田勝実〕
8 古くは二つのものを繋ぐものはすべてハシであるが、ここでは梯子。〔中西進〕
 Ⅳ その他の説
9 戦艦をいう。〔新井白石〕
10 磐船をいう。〔平田篤胤〕
11 虹をいう。〔アストン〕(324~325頁、出典は省略)

(注29)稲野、前掲書や浅野2005.参照。ハザ(稲架)がいつから行われていたか、不明である。記録としては、類聚三代格第八・承和八年(841)閏九月二日太政官符「稲を乾す器を設くべき事」に、「大和国宇陀郡人、田中に木を構へ種穀をかけせり。其の穀の𤍜かはくこと火炎に当るに似たり。俗名、之れを稲機いなばたと謂ふ。今、諸国往々有る所在り。宜しく諸国に仰せて広く此の器を備はすべし。専ら人を利する縁なり。疎略なるを得ず。」とあるのが早い記事ではないかとされている。やっているところではやっているが、やっていないところではやっていないから、やるようにと勧められている。
 立てた木のはざまに稲の束を挟み懸けるからハザなどと言うのかもしれないが、未詳である。

(引用・参考文献)
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岡田1979. 岡田章雄『日本史小百科 動物』近藤出版社、昭和54年。
岡田1990. 岡田荘司『大嘗の祭り』学生社、1990年。
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新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
高木2008. 高木英理子「警蹕(警蹕)音楽─数千人による江戸中期春日若宮おん祭神事のチャント─」三田芸術学会編『芸術学』12号、同発行、2008年。
寺川2009. 寺川眞知夫『古事記神話の研究』塙書房、2009年。
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樋上2016. 樋上昇『樹木と暮らす古代人』吉川弘文館、2016年。
古島1975. 古島敏雄『古島敏雄著作集第六巻 日本農業技術史』東京大学出版会、1975年。
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柳田1978. 柳田国男『海上の道』岩波書店(岩波文庫)、1978年。

加藤良平 2026.5.27改稿初出

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