記紀万葉における「出雲」とは何か

 今日までの研究で、いわゆる出雲神話は存在しないことが明らかになっている(注1)。古事記に載るスサノヲによるヤマタノオロチ退治の話は出雲風土記に載っていない。イナバのシロウサギの話は日本書紀にさえ載っていない。なぜそのような話が古事記に語られているかについては、天皇による支配を正統化させるべく物語が作られて所載されたためであると考えられるようになっている。ヤマト朝廷に服属した国々から神話や伝承を集め、統治の正統性を表す筋立てになるように取捨選択するとともに、内容の改変や再構成が行われたというのである。なぜ奇妙奇天烈な話に創られているかについては、これといって納得のいく回答が得られていないばかりか、その問いすら立てられていない。本稿では、「出雲」という語についての上代語のあり方を検討し、上代人の観念のありようを探ってその一助としたい。
 地名としての出雲は、言い伝えのなかで、記紀のなかでもはじめのほうに多く登場している。記の上巻、神代紀、また、崇神・垂仁・景行天皇時代に「出雲」と記された条は次のとおりである。

(1)イザナミの埋葬地
 故かれ、其の、神かむ避さりましし伊耶那いざな美神みのかみは、出雲国いづものくにと伯伎国ははきのくにとの堺さかひの比婆之ひばの山やまに葬はふりまつりき。(記上)
(2)イフヤサカのこと
 故、其の所謂いはゆる黄泉よもつひら坂は、今、出雲国の伊賦夜いふや坂さかと謂ふ。(記上)
(3)スサノヲの降臨地、クシ(イ)ナダヒメの養育地
 故、避さり追おはえて、出雲国の肥ひの河上、鳥髪とりかみといふ地ところに降くだりき。(記)
 是の時に、素戔嗚尊すさのをのみこと、天あめより出雲国の簸ひの川上かはかみに降到いたります。(神代紀第八段本文)
 素戔嗚尊、天よりして出雲の簸の川上に降到ります。(同一書第一)
 是の後に、稲いな田だ宮主みやぬし簀狭之八箇すさのやつ耳みみが生める児こ、真ま髪触奇稲かみふるくしいな田だ媛ひめ、出雲国の簸の川上に遷うつし置すゑて、長養ひたす。(同一書第二)
 両ふたつの脇かたはらに山有り。……出雲の簸の川上の山、是なり。(同第三)
 ……遂に埴土はにを以て舟に作りて、乗りて東ひむかしのかたに渡りて、出雲国の簸の川上に所在ある鳥上とりかみの峯たけに到る。(同第四)
(4)スガの宮の設営地
 故、是を以て、其の速はや須佐すさ之男命のをのみこと、宮を造作つくるべき地ところを出雲国に求めき。爾しかくして、須賀すがといふ地に到り坐まして詔のりたまはく、「吾われ、此地ここに来て、我あが御心みこころすがすがし」とのりたまひて、其地そこに宮を作りて坐いましき。故、其地は、今に須賀すがと云ふぞ。(記上)。
 然して後、行きつつ婚みあはしせむ処を覓まぐ。遂に出雲の清地すがに到ります。〈清地、此には素鵝すがといふ。〉乃ち言ひて曰のたまはく、「吾が心、清清すがすがし。」とのたまふ。〈此今、此の地ところを呼びて清すがと曰ふ。〉彼処そこに宮を建つ。(神代紀第八段本文)
(5)スクナビコナとの出会いの地
 故、大国主神おほくにぬしのかみ、出雲の御大みほの御み前さきに坐います時に、波の穂より、天あめの羅摩かがみの船に乗りて、鵝かりの皮を内うつ剝はぎに剥ぎて、衣服ころもと為て帰より来る神有り。(記)
 自後これよりのち、国の中に未だ成らざる所をば、大己貴神おほあなむちのかみ、独り能く巡り造る。遂に出雲国に到りて、乃ち興言ことあげして曰はく、……初め大己貴神、国平むけしときに、出雲国の五十い狭狭ささの小を汀はまに行到ゆきまして、飲食みをせむとす。……(神代紀第八段一書第六)
(6)国譲りの問いの場所
 是を以て、此の二ふたはしらの神、出雲国の伊耶佐いざさの小を浜はまに降くだり到りて、十掬剣とつかのつるぎを抜き、逆さかしまに浪の穂に刺し立て、其の剣の前さきに趺あぐみ坐ゐて、其の大国主神に問ひて言はく、……(記上)
 二ふたはしらの神、是に、出雲国の五十い田狭たさの小を汀はまに降到あまくだりて、則ち十握剣とつかのつるぎを抜きて、倒さかしまに地つちに植つきたてて、其の鋒端さきに踞うちあぐみにゐて、大己貴神に問ひて曰はく、……是の時に、其の子、事代主神ことしろぬしのかみ、遊行あるきて出雲国の三穂〈三穂、此には美保みほと云ふ。〉の碕さきに在ます。(神代紀第九段本文)
 時に二の神、出雲に降到あまくだりて、便ち大己貴神に問ひて曰はく、……(同一書第一)
 既にして二の神、出雲の五十い田狭たさの小を汀はまに降到りて、大己貴神に問ひて曰はく、……(同一書第二)
(7)オホクニヌシの御殿の設営地
 出雲国の多芸志たぎしの小を浜はまに、天あめの御舎みあらかを造りて、……(記上)
(8)出雲の神宝にまつわる話
 武日照命たけひなてるのみこと〈一に云はく、武夷鳥たけひなとりといふ。又云はく、天夷鳥あめひなとりといふ。〉の天より将もち来きたれる神宝かむたからを、出雲大神いづものおほみかみの宮に蔵をさむ。是を見みま欲ほし。(崇神紀六十年七月)
(9)ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)の経由地
 道路みちを知らずして、嶋浦しまじまうらうらに留連つたよひつつ、北海きたつうみより廻めぐりて、出雲国を経へて此間ここに至れり。(垂仁紀二年是歳分注)
(10)相撲の元祖、野見宿禰の故郷
 臣やつかれ聞うけたまはる、出雲国に勇士いさみびと有はべり。野の見宿みのすく禰ねと曰ふ。……是に、野見宿禰、出雲より至まういたれり。則ち当摩蹶速たぎまのくゑはやと野見宿禰と捔力すまひとらしむ。(垂仁紀七年七月)
(11)口のきけないホムチ(ツ)ワケノミコの縁故地
 如此かく覚さとす時に、ふとまにに占相うらなひて、何いづれの神の心ぞと求めたまひしに、爾その祟たたりは、出雲大神いづものおほかみの御心みこころなりき。……故、出雲に到りて、大神を拝をろがみ訖をはりて還り上のぼります時に、肥河ひのかはの中に、黒き樔す橋ばしを作り、仮宮かりみやを仕へ奉りて坐いませき。爾くして、出雲国造いづものくにのみやつこの祖おや、名は岐比佐都美きひさつみ、……(垂仁記)
 時に湯ゆ河かは板挙たな、遠く鵠くぐひの飛びし方を望みて、追ひ尋つぎて出雲に詣いたりて捕獲とらへつ。(垂仁紀二十三年十月)
(12)神宝の検校
 屢しばしば使者つかひを出雲国に遣つかはして、其の国の神宝かむたからを検校かむがへしむと雖いへども、分明わきわきしく申言まをす者ひと無し。汝いまし親みづから出雲に行まかりて、検校へ定むべし。(垂仁紀二十六年八月)
(13)形象埴輪の製作人
 則ち使者つかひを遣つかはして、出雲国の土はじ部べ壱佰人ひとももひとを喚めし上げて、自ら土部等たちを領つかひて、埴はにつちを取りて人・馬及び種種くさぐさの物の形を造作つくりて、……(垂仁紀三十二年七月)。
(14)ヤマトタケルの出雲征討
 即ち、出雲国に入り坐ましき。其の出雲建いづもたけるを殺さむと欲おもひて、到りて即ち友うるはしみを結びき。(景行記)

 (8)は、出雲大神の神宝を天皇が見たいと欲したときの記事である。対応をめぐって出雲側の主宰者のなかで兄弟の内紛が生じている。兄は、「頃者このごろ、止屋やむやの淵に多さはに菨も生ひたり。願はくは共に行きて見欲し」と誘い出し、偽刀を作っておいて斬り合いして撃ち殺している。内紛は朝廷の知るところとなり、兄も誅された。出雲臣等はそのことに畏怖を抱き、出雲大神を祭らないことがあった。皇太子の活目尊いくめのみこと(後の垂仁天皇)に、小児の言葉を借りて諭す人がいた。小児に神が憑依しての言葉かと進言している(注2)。

 玉たま菨も鎮石しづし。出雲人の祭いのりまつる、真種またねの甘美うまし鏡かがみ。押し羽振はふる、甘美うまし御み神かみ、底宝そこたから御宝主みたからぬし。山河やまがはの水み泳くくる御み魂たま、静しづ挂かかる甘美御神、底宝御宝主。〈菨、此には毛もと云ふ。〉(崇神紀六十年七月)

 この文言から考えると、イヅモ(出雲)のことだからモ(菨=藻)が登場しているのではないかと気づかされる。説文に、「菨 菨餘なり。艸に从ひ妾声」とある。アサザのこと、古語に「あざさ〔阿邪左〕」(万3295)である。
 水野1994.は、出雲厳藻説が提唱している。

 やつめさす〔夜都米佐須〕 出雲建いづもたけるが 佩はける大刀たち 黒葛つづら多さはまき さ身無しにあはれ(記23)
 八や雲くもさす〔八雲刺〕 出雲の子等らが 黒髪は 吉野の川の 奥になづさふ(万430)
 八雲立つ〔夜久毛多都〕 出雲八重やへ垣がき 妻籠ごみに 八重垣作る その八重垣を(記1)

 これらの歌の枕詞の偏差について、「八雲立つ」と「やつめさす」の混合形として「八雲さす」があるとしている。そして、ヤツメ(メは乙類)は「弥津米やつめ」、すなわち、たくさんの海藻の義で、藻は古代人にとって神聖で呪的なものであり、出雲の国名の原義は「厳いつ藻も」に由来するとする(注3)。筆者は、地名の由来を尋ねる立場には立たないが、多くの示唆を与えてくれるものである。
 出雲がメインテーマで出てくる最初の話の舞台は、「出雲国の肥ひ(簸)の河(川)上」である(注4)。「河(川)上」は、カハノヘ(ヘは乙類)とも訓む。

 河上かはのへの〔河上乃〕 ゆつ磐群いはむらに 草生むさず 常丹毛冀名 常處女煮手(万22、四・五句目の訓に疑義あり)
 河上の〔河上乃〕 つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢こせの春野は(万56)
 河上の〔河上乃〕 いつ藻の花の いつもいつも 来ませ我が背子 時じけめやも(万491)
 川上かはのへの〔川上之〕 いつ藻の花の いつもいつも 来ませ吾が背子 時じけめやも(万1931)
 …… 川上かはのへに〔迦波能倍邇〕 生ひ立てる 烏草樹さしぶを 烏草樹の木……(記57)
 川上かはかみの〔可波加美能〕 根ね白じろ高萱たかがや あやにあやに さ寝てさ寝てこそ 言ことに出でにしか(万3497)

 くり返し言葉の多い歌が頻出する。川岸には左岸、右岸の両岸がある。二例目の椿は、硬い材を木刀のように使う武器とされた。手で握るところは鍔つばのあるところに当たるし、先の方もツバ(キ)である。両端ともツバである。それが両岸に連なっているから「つらつら椿」と洒落ている。顔を横顔として見た面つらも顔の両側にあるから、「つらつら椿」は「つらつら」を導いている。三例目のイツモは、何時も、常に、という意味と、水野説にある「厳いつ藻も」の意、すなわち、河の水のなかで神威を受けたかのごとくとても盛んに茂っている藻のことを掛けている。四例目は、「烏草樹さしぶ」、「生ひ立てる」をくり返している。烏草樹さしぶはシャシャンボのことであるが、サシブの音がシブクサを思わせる。シブクサの別名は、ギシギシ(ギの甲乙不明)で、岸岸(キは乙類)を連想させるからであろう。五例目は、もと「河上」とあったものを読み違えて仮名表記したものであろう。
 藻が川床に繁茂していれば、「藻も床とこ」と言い表しうる。床とこは常とこの意味を強く持つ(注5)。安康紀元年二月条に、「荇菜をみなめ」とある。詩経・周南・関雎の「参しん差したる荇菜は 左右之れを流もとむ 窈窕たる淑女は 寤寐之れを求む(参差荇菜、左右流之、窈窕淑女、寤寐求之)」によるとされ、宮中に働く女性のことを表している。和名抄に、「荇 爾雅注に云はく、荇菜〈上の音は杏、字は亦、莕に作る。阿佐々あざさ〉は水中に叢生し、葉は円く端在り、長短は水の深浅に随ふ者なりといふ。」とある。崇神紀の「菨」に同じくアサザのことである。菨は翣に通じ、棺の羽飾りをもいう。左右のことは、垂仁紀ほかに「左右もとこ」とあり、モトコヒトとも訓んでいる。本処、許処の意で、もと、かたわら、側近くのこと、すぐに御用をかなえるために左右に控えている人である。左右両側に控えているのは、左右両岸があるのに同じで、三例目の「いつ藻」の花は、「いつもいつも」と重なる言葉を導いている。
 モトコは、喪床、つまり、亡くなった後に、亡骸を収める寝床である棺(柩)のこととも考えられる。永遠の眠りについているから、棺ほど常とこなる床とこはない。ヒツキ(ヒは甲類、キは乙類)は、日月と同音である。イザナキは黄泉国よみのくにから帰還して禊ぎをする。左の眼からアマテラス(日神ひのかみ)、右の眼からツクヨミ(月神つきのかみ)が生まれている。左右もとこの目は日月である。仏教では、日光・月光菩薩を脇侍とするのは薬師如来である。薬師はクスシと訓まれ、大国主神おほくにぬしのかみ(大己貴神おほあなむちのかみ)とともに国作りをしたスクナビコナが薬の神として崇められている。その後の話にその正体を幸魂さきみたま・奇魂くしみたまであるとしている「奇し」も、クスシと訓む。
 したがって、出雲という地名の音は、喪の風景、および一対の事柄をイメージさせる。病気、医薬、葬送のこと、また、日月、陰陽、男女、閨房のための宮殿の話に出雲の地が設定されている。国生みの話において、イザナキとイザナミの交合の場面で、どちらが先に相手を「え」、つまり、素敵だという言葉を発するか、また、神代紀第四段一書第一では、左右のどちらから国の柱を回るかが重要な要素にあげられている。陰神が左から、陽神が右から回ったら蛭ひる子こや淡洲あはのしまが生まれて失敗したため、天上に占いの教えを請い、反対回りにしたらうまくいって国生みが成功したことになっている。
 また、出雲の地は、国を譲るか否か、「否いな諾さ」を答えさせる場所になっている。「伊耶佐いざさ」(記上)、「五十い田狭たさ」(神代紀)とある。万葉集には「左右」(万1343)をカモカモと訓む例がある。ああでもこうでも、あれこれ、の意を表す。あれかこれかの二者択一を迫る場所として、出雲の地は設定されているわけである。
 スサノヲの話では、箸が上流から流れてきている。二本揃って流れて来なければ、それが箸であるとは確かめられないであろう。上流には、アシナヅチ・テナヅチという老夫・老女の二人がいた。二本がワンセットであることを強調する名前である。また、クシナダヒメを神聖な爪櫛に見立て、みずらに刺したともある。当時の髪型として知られる角髪あげまき(角子)は、左右二つに分けて両耳のあたりにわがねたものであった。
 「藻も」が「喪も」と関係があるなどありえようはずがないと捉えることは、「言語以前の一般的観念について語ること」であり、「牛の前に鋤をつける如き本末転倒である」(ソシュール)。そのことは、助詞「も」が、承ける語を不確実なものとして扱うことからもわかる。喪も藻? 藻も喪! という陳述にきょとんと納得せざるを得ない頓智が行われている。
 以上の検討から次のことが帰納される。イヅモ(出雲)という言葉は、記紀万葉において、それはすなわち、上代の人々の観念体系のなかにおいて、地名としてではなく、あるいは、地名に先んじて、イヅモ、イツモなる音がもとでくり広げられる意味の展開を示す言葉である。これは実は当たり前である。ヤマトコトバは誰が用いた言葉か。そしてその中心はどこの人であったか。まぎれもなくヤマトに暮らしていた人、なかでもヤマト朝廷の人たちであった。ヤマト朝廷の人にとって、イヅモ(出雲)というところは、名前は知っているけれど実情はまったく知らない。そのイヅモとは何かと問われれば、その言葉(音)があやなす意味でしか捉えることができない。無文字時代のヤマトコトバは、その音が荷っている意味合いを、音声ばかりで人々の間にやり取りするものでしかあり得なかった。出雲地方の風光や産物について噛んで含めて言い聞かせてみても、それがイヅモという言葉と何の関係があるのかつながるものでない限り、相手の琴線に触れて理解へと至ることはないのである。すなわち、イヅモ神話が出雲地方に創られて伝えられたのではなく、イヅモ説話はヤマトコトバの音によってヤマトで創られたのである。イヅモは厳藻のことでもある。イツモという語を真にかなえるのは喪の床のことである。今日の人の頭では洒落にしか聞こえないそんなことを、厳密な学としての論理学をもってそのとおりに考えていた。その論理展開にかなうように、説話の舞台としてイヅモ地方が設定されているばかりなのである。記紀の説話に対するこれまでの態度はコペルニクス的転回を求められている。

(注)
(注1)新谷2009.は、記紀に記される出雲神話を歴史上の出雲世界の実体の反映として、考古学的な発掘情報に求めるには方法論的に困難であるとしている。常識的な見解である。
(注2)垂仁紀十年九月条にも、童女の言に、「言ものもいはず。唯ただ歌ひつらくのみ」という歌の例がある。
(注3)この説は、上田1999.が正当に評価している。
(注4)この「河(川)上」は、西宮1990.に「「上流」の意であることを明らかに示している。」(286頁)とし、「到二出雲国簸川上所在鳥上之峯一。」(神代紀第八段一書第四)とあるから確実といい、カハカミと訓んで正しいとしている。「まだ上に人が住んでゐて箸が流れてきたことを矛盾として咎めることはあるまい。」(同頁)とあって、本居宣長・古事記伝に、「河上は、加波之弁カハノベと訓マむも悪アシからねど、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920805/1/224)なる注に答えたようであるが、管見にして誰が疑義を唱えたかわからない。日本書紀の古訓では、上にあげた神代紀第八段本文に続く箇所、「時、聞三川上有二啼哭之声一。」の「川上」にカハノホトリニ(為縄本)という例が見える。
(注5)上の例に見た万22番歌の四・五句目の原文に見られる対には暗示があるように思われる。

(引用・参考文献)
上田1999. 上田正昭『上田正昭著作集4』角川書店、1999年。
新谷2009. 新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社』講談社、2009年。
西宮1990. 西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。
水野1994. 水野祐『古代の出雲と大和 新装版』大和書房、1994年。

加藤良平 2021.4.18改稿初出

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