記紀説話に見られる殯(もがり)の際のキサリ(岐佐理・傾頭)について

殯とキサリモチ

 記紀説話に見られるもがりの際のキサリ(岐佐理・傾頭)について検討する。キサリという語は、天若あめわか日子ひこ(天稚彦)の殯の記事に登場する。

 かれ天若あめわか日子ひこ下照したでる比売ひめこゑ、風と響きてあめに到りき。是に、天に在る天若日子が父、あまくにたまのかみと其の妻子めこと、聞きてくだり来て哭き悲しび、すなは其処そこ喪屋もやを作りて、河鴈かはかり岐佐理きさりもちさぎははきもちと為、翠鳥そにどり御食みけびとと為、すずめうすと為、きぎしなきと為、如此かく行ひさだめて、八日やか八夜やよ以て遊びき。(記上)
 天稚彦あめわかひこが妻下照姫したでるひめ、哭きいさ悲哀かなしびて、声あめきこゆ。是の時に、あまつ国玉くにたま、其のおらぶ声を聞きて、すなはの天稚彦のすでかくれたることを知り、乃ち疾風はやちつかはしてかばねげて天に致さしむ。便すなは喪屋もやを造りてもがりす。すなは川鴈かはかりを以て持傾頭者きさりもち及び持帚者ははきもちとし、〈あるはく、かけを以て持傾頭者とし、川鴈を以て持帚者とすといふ。〉又すずみを以てつきとす。〈一に云はく、乃ち川鴈を以て持傾頭者とし、また持帚者とす。そびを以て尸者ものまさとす。雀を以てつきとす。鷦鷯さざきを以てなきとす。とびを以て造綿者わたつくりとす。からすを以て宍人者ししひととす。すべもろもろの鳥を以て任事ことよさす。〉しかうして八日やか八夜やよおらび哭き悲しびしのぶ。(神代紀第九段本文)

 記の記述では、妻の下照比売の泣く声は、風に乗って天まで届いたので、天若日子の父の天津国玉神や妻子たちは降って来て、泣き悲しんでそこに喪屋を作り、河鴈は岐佐理きさりもち、鷺はははきもちなど各種の鳥が役割分担して殯の儀礼を八日八晩行ったとする。キサリモチやハハキモチのモチは、手に持つことから保ち守る意へと広がる意で、それぞれの担当者、責任者のことを指していると思われる。
 儀式をいろいろな鳥が執り行っている。キサリモチとされるガンのことを「河雁」、「川鴈」とするのは、カモメのことを海雁(海鴈)と認識していたことによるとされている。水面に浮かび、三趾間にある蹼を使って進み、広い嘴で草の種子や葉を集めて食べる。
 ガンにまつわる言い伝えは多い。青森県の陸奥湾の西側、外ヶ浜には雁風呂と呼ばれる風習が伝わる。雁は秋に飛来するとき、そこまでは海を渡ってくるため、途中で海上でも休めるように木をくわえてくる。そこからは陸地続きだから、木ぎれは外ヶ浜に置いていく。翌春、北へ帰るときに外ヶ浜に立ち寄って、ふたたび木をくわえて旅立つという。残った木は、越冬できずに死んだ雁の忘れ形見である。付近の人は、浜辺の木を集めて風呂を焚き、雁の供養にするという。
 また、奈良時代の僧侶の名を冠する行基図という古地図がある。通称、金沢文庫蔵日本図は、南を上にした地図である。十四世紀頃のものと推測され、遠江、越後より東は欠いている。周囲の海には鱗状の帯があって囲まれており、対馬、隠岐はその外側に描かれている。さらに図からはみ出すように異域がある。「龍及(琉球)」、「雨見(奄美)」、「唐土」、「高麗ヨリ蒙古」、「新羅」のほか、「羅刹国」、「雁道」なる不明の地名が載っている。「羅刹国」は地図上方の南に位置し、「女人あつまり、来る人還らず(女人萃来人不還)」とある。他方、「雁道」は「新羅国」の隣にあって、「城有りと雖も人には非ず(雖有城非人)」とある。これがどこなのかは議論が残る。いずれにせよ雁は渡り鳥で、来ては去っていく鳥である。
 天若日子の殯の話に、どうして河雁かはかり(川鴈)が主役級に抜擢されているのか。第一に、カリ・・とモガリ・・(殯)と音が通ずるからだろう。殯をカリモガリとも訓むのは、仮に葬る段階のことだからとされている。無文字文化のなかで言葉を使っているから、音が似通っていれば何がしか義が通じ、概念的に結びついていると考えていたらしいと感じさせられる。
 古代の葬制において、人が亡くなってから葬られるまでの間、遺体を棺に収めた状態で喪屋のうちに安置し、お弔いの儀式をする。それを殯といい、参列者はしのひことを述べるなどする。一説に、招魂儀礼をする習俗であるとされ、喪上がりが訛ってもがりというと考えられている(注1)。「「神上カムアガアガりいましぬ」(万一六七)や「不思オモ保佐佐流ホサザルミマカリアガリ太利たり」(高橋氏文)「无火殯斂、此謂襃那之阿餓利ホナシアガリ」(仲哀紀九年訓注)などのアガリから、語源は=アガリだといわれている。しかしアガルが動詞として使われた場合はともかく、死、もしくは葬の意の名詞アガリが存在したかどうかは確かでない。また喪屋モヤ・モガリの語は主として日本書紀古訓に見えるが、後にはない。葬礼の変遷に伴ってこの語も用いられなくなったものか。ちなみに「殯」は死者を埋葬まで棺におさめて置くこと、および埋葬することの意。」(時代別国語大辞典738頁)とある。いずれ壮大に執り行わたお通夜である。中国では儀礼・士喪礼や礼記・喪大記などにあるように復と呼ばれた。魏志倭人伝に、「其の死するや、かん有れどもかく無く、土を封じてつかを作る。いまし死したらば、なきがらを停むること十余日、時に当りて肉を食はず、喪主そうしゆ哭泣こくきゆうすれど、他人は就きて歌舞飲食す。已に葬らば、家をこぞりて水中にいたりて澡浴そうよくし、以て練沐れんもくの如くす。」とある。考古学では、殯の儀礼が完成した頃に横穴式石室が採用されたとも考えられている(注2)。それが後の両墓制へと発展していく土壌となったと説かれている。火葬の習慣が広がったこともあり、本来の殯の様相はわかっていない。とはいえ、現在でも地方の葬制におもかげを残すものがあると見られている(注3)
 モガリの語義については元来カキの意であるとする説もある。中田1979.は次のようにいう。
 もともと特殊な葬制用語ではなく、広く、かき・籬・矢来などと同義の言葉であると解される。この言葉が特殊な葬制用語の如くになったのは、死屍は「かき」をもってしなければならない存在であったからであり、恐ろしい、また、他の魔性のものの侵入をさけねばならぬタブー的存在であったからと理解する。死霊におかされた人間の霊魂は、いわゆる「凶癘魂」であり、肉親の情の上からもこれを慰め、哭泣し、しのびことをしなければならない性格のものであった。すなわち、鎮魂(鎮霊)の儀礼を経なければならないものであったと理解せられる。そこで、「殯」とは、かかる「凶癘魂」すなわち不安定なアラブル霊魂から、和平なる霊魂へと導くその儀礼を指していったものであり、それを中国の文字を借りて表現したのである。そして、古代の遊部はこのアラブル霊魂を和平なる霊魂へと鎮魂(鎮霊)することを職掌としたものであろう。……従って「殯」の儀礼には招魂性など認められない。殯を行なおうとしている時点では最早や死は厳然たる事実として受けとられていたのである。しかし、時として行なわれている招魂の儀礼(咒術)は、これを「殯」とは区別して考えるのが適当であろう。(119~120頁)
 令集解・喪葬令に「遊部。隔幽顕境。鎮凶癘魂之氏也。終身勿事。故云遊部。」とある。そこで遊部は、殯において荒魂を和魂に転ずる役目を担うと考えられている。しかし、主眼は死霊を鎮めて悪さを働かないよう幽顕の境を隔てること、死と生とをはっきり区別することにあったのだろう。死者が蘇ることを目途としているのではない。天若日子(天若彦)の殯においても、死んだ天若日子と生きている阿遅志貴あぢしきたか日子ひこ根神ねのかみ味耜高彦根神あぢすきたかひこねのかみ)とを混同したことに阿遅志貴高日子根神はひどく怒り、「何ぞ吾をきたな死人しにひとなそふる」(記上)と言って喪屋を切り伏せ蹶り飛ばしている。殯をしている意味がないから喪屋を壊しにかかっているのである。死者は死者の世界、生者は生者の世界にいて、両者は別世界なのだと確認するのが殯の機能となっていたと考えるべきである。したがって、定説をみていない岐佐理きさりもち(持傾頭者)のキサリ(キは甲類)は、死者の霊魂が死者のなかにとどまり、他の生きている霊魂とは混ざらないようにするための葬具であると仮定される。

キサリとは

 古典的解釈として、はやく釈日本紀に「私記曰、問是何者哉。答師、葬送之時、戴死者之食、片行之人也。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12866187/1/9、以下、漢字の旧字体を改め句読点等を付した)とあり、死者の食事を頭の上に戴き行列に参道するか、宣賢本日本書紀神代巻抄に「持傾頭者、謂死人之頭首也、」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/13385453/1/15)とあり、死者の頭部をあげることが想定され、兼俱本日本書紀神代抄に「以川鴈カハカリ―上古ハ、野葬ニ𬼀鳥クワスルソ、一義云此鳥カ喪礼ノスカタヲスルソ、持傾頭キサリモチ持帚ハヽキモチト云ハ、葬礼ヲシテ、沐浴ノ貌ヲ、スルソ、(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1219576/1/73)とあり、沐浴の様相の一つとしている。
 近世では、死者の食物をもって行く人の意とする説が引き継がれた。

 ツラ\/思ふに、笥飯背ケヒセ垂持タリモチと云ことならむか、祁比ケヒ勢多セタと約まる、タリとは、俗言に、物をオフ勢多良セタラオフと云ことあり、そは肩よりかけて垂負タレオフと云意なり、されば私記にイタヾクとあるは、タヾしく頂上イタヽキオクにはあらで、頭をマヘカタムケウツムきて、ウナジよりへかけて、イヒスヱユクなるべし、故書紀に傾頭とは書るか、若シカならば、持字は、傾頭を持には非ずて、持て傾クル ヲ、然らば持食傾頭者などゝこそ書べきに、食など云字なくて、たゞにその持たるサマをのみ書るは、いかゞなれども、こは若くは食字などの有しが、後に脱たるか、さらずとも、如此カクする役は、他事には例なきを、たゞ葬にのみ有て、頭を傾け俯て行がめづらしき故に、其形状を以けたれば、其意を得て、字も形状を以書るにやあらむ、又コトは右の如くにて、名の意は、カブ傾背シセ垂持タリモチにてもあらむか、加夫志カブシツヾマる、さて右の如くして持故に、其飯の名を、カブ傾背シセタリと云をツヾメて、伎佐理キサリと云ならはしたりけむ、其伎佐理キサリの飯を持意なり、如此カク見るときは、書紀の傾頭二字、即飯のことなり、さて私記に、片行とあるは、中に向字などオチて、片向行カタムキユクなどにや、然らざれば、片行と云こと心得がたし、彼此カニカクに此片行に、傾頭字のコヽロばへ有げに見ゆ、さて河鴈のクビのさま、此伎佐理キサリモチ形状カタチたることある故に、此ワザアテたるなるべし、(本居宣長・古事記伝、同https://dl.ndl.go.jp/pid/1920805/1/329)
 私記に。死人之食持と有り。戴死者食と云は。今の大原女の。柴薪を戴行か如く。飯笥を戴て。持運ひたりし故に。物を持ては頭の傾く故に。其義を以て。持傾頭者とは書れたるなるへし。こゝに黒川春村か碩鼠漫筆に。此名義を解て云る説に。カサリモチの義なるへくおもはる。……しかおもひとらるゝ所以は。左京大夫権大夫信実朝臣の。書画一筆とて。聞え高き絵師草紙の巻末に。ホカやうのものゝ。八脚なるに。覆ひしたるを。女の戴き持たる図あり。此は方今稲荷山の社に。神饌を運ひ備ふるさまも。全此風俗なりと。故高島千春云りき。その絵師草紙の絵やう。……記伝にも引れたる。(飯田武郷・日本書紀通釈、同https://dl.ndl.go.jp/pid/1115817/1/28)

 現代に至ると、「河鴈」や「鶏」の体躯の類推から、頭部の曲がった斧や矛の形の呪術的儀器とみる説が現れている。「紀の「傾頭」は、頭槌かぶつちとか頭椎くぶつち、それから都牟刈などの刀剣(ないしは呪具)と同じような形状を示すための用字なのであろう。すなわち、〝雁首がんくび〟状のものなどだ。」(小林1983.73頁)、「「きさり」(傾頭)は、いろいろの形でいまの葬墓制にのこっているとおもう。その一つは柴神しばがみや峠(手向)の神へ手向けるかぎ形の枝(柴折)であり、またサンギッチョに下げたり、墓に挿し立てたりする鎌や鍬である。またそれよりも大きな残存は「龍頭」であるとおもう。……葬列には幡を下げない龍頭が竿の先につけられて行列することがあり、それどころか「たつ」と称して、竿の先を鉤形に曲げて麻糸で縛り(

)、何の飾装もなしに立てるところもある。これこそ「傾頭きさり」と呼ぶに価するとおもう。」(五来1992.328~329頁)とある。ただし、言葉の説明としては、松岡1929.の「(原)キサヒの転か。(義)木製のサヒをいふのであらう。」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1870970/1/263)とする説同様、「鉤状の木の枝(きさり)に呪力をみとめて、死者の荒魂を鎮める鎮魂呪具とした」(329頁)としている。この説は上代には通用しない。記に「岐佐理持」とあり、キサリモチ(キは甲類、モは乙類)である。(キは乙類)とは音が異なる。

「きさり」?を持つ人のいる葬列(『北野天神縁起』吉見資胤刊、明治35年を画像補正加工)

 記の「掃持ははきもち」、紀の「持帚者」は、箒の担当者なのだろう。今日でも、葬列に露払い的な形で竹箒をかざす地方があり、その名残ではないかともいわれている。民俗調査では、棺を安置していた座敷を出棺後に清めるために、目籠ころがし(笊ころがし)と箒で掃き出す風習のある地域がある(注4)。記紀の話に登場するのは殯の場面であり、殯が終わってからの葬列ではキサリやハハキを掲げて参列しているというわけである。すると、キサリには籠状のものがふさわしいと思われるが、これまでのところ籠をもって当てる説は勢いを得ていない。しかし、鉤状の棒は何かを吊るすための龍頭の役目をするものとも思われ、殯の場に籠状のキサリ自体は置いてきて棒だけ持って葬列に参加しているとも考えられる。

類音・字形・字義からのアプローチ

 キサリと似た音のクサリが何かについては知られている。鎖はつなぐもので切れることはない。腐れ縁とは鎖縁である。似た音続きで同類の義を表すことから考えると、キサリも何らかの原因によって逃れることができない状態を言い表していると推測される。そして、紀の用字「傾頭」の表意は頭が傾いていることである。頭が傾くと斜めになる。頭が傾いていて逃れることができないようなものとは何か。漢字では、傾斜を表すために目をななにデザインして強調したトラガシラ(虍)がある。生きた虎を人が目にするためには堅牢な檻が必要である。檻に入れられて頭をゆらゆらさせる虎とキサリという語は関係があるようである。トラはネコ科だが、ネコと比べると体躯に対して頭部が圧倒的に大きく、なわばり維持のために首を振りながら徘徊している。ふだんは単独行動で繁殖期だけ番い、母虎だけが子育てする。子が成長すればそれぞれ単独で暮らす。
 ヤマトにいないという動物について、ヤマトコトバでトラと呼んでいる。実際の生きた姿は知らないが、毛皮を目にし、話に聞いて思いを巡らせることができている。結果、ヤマトの人々の間では皆に了解される言葉としてトラという音で表された。とらくという動詞から派生した語とおぼしい。

 ……しのびみこと奉承けて、能く諷歌そへうた倒語さかしまごとを以て、妖気わざはひはらとらかせり。(神武紀元年正月)
 残れる骨余れる髪の縦横とらけて地の中に在るを見、(西大寺本金光明最勝王経平安初期点)
 我が子を誰ぞほふりて、骨のみを余して地にとらけたる。(同)
 仳 疋視反、平、別也、分也、醜面也、和加留わかる、又止良久とらく(新撰字鏡)

 酒を呑んで酔っぱらうことをトラという。声が自然と大きくなり、ふつうに話しているつもりでも喧嘩しているように受け取られる。また、感覚が弛緩してまっすぐ立っていられなくなり、頭が右に左に揺れてふらふらし、正体がなくなる。古語のとらくとは、かたまっていたものがばらばらに分かれたり、溶解したり、緩みなごむことをいう。酔っ払いが犯罪を犯し、自分がしでかした重大事を覚えていないことはよくある。中国でと呼ばれている動物は、実物は見たことのないが、形は猫のようでいて頭の割合が大きいと聞く。そのためか、顔を阿りながら歩いて行き、猫と違って大声で吼えるのが特徴という。すなわち、酔っ払いをトラと呼んでいたのが先で、tiger には後からトラと名づけたと知れる。和名抄に、「虎 説文に云はく、虎〈乎古反、止良とら〉は山獣の君なりといふ。」とある。
 虎をキサリと訓む直接の理由は見当たらない。姿としては法隆寺に伝わる玉虫厨子の捨身飼虎図に描かれている。トラ同様に見たことのない動物にはゾウ elephant がいる。姿としては正倉院に伝わった臈纈屏風の象木に見られる。象の古語はキサ(キは甲類)である。

 是の月に、天皇すめらみこと使つかひつかはして、袈裟けさ金鉢こがねのはち象牙きさのき沈水ぢむかう栴檀香せんだんかう、及びもろもろ珍財めずらしきもの法興ほうこうほとけたてまつらしめたまふ。(天智紀十年十月)
 象 四声字苑に云はく、𤉢〈祥両反、上声の重、字は亦、象に作る、岐佐きさ〉は獣の名、水牛に似て大耳、長鼻、眼細く、牙長き者なりといふ。(和名抄)

 象の字は象形文字で、上部が頭、下部が胴体と足である。首がとってつけたようについている。木目のことや赤貝のこともキサという。象牙、特に出土するナウマンゾウの歯の化石や赤貝の貝殻にある模様が年輪状であったからそう名づけられたのであろうとされている。象の字は像に通じ、ヤマトコトバにカタである。
 ……[思兼神おもひかねのかみの神[天照大神]のみかたあらはし造りて、招祷たてまつらむ」とまをす。(紀第七段一書第一)
 通字とする像は、「模範や図像の意に用い……よう(樣)と声義の関係があろう。様は模様・様式のように用いる字である。」(白川1995.225頁)。同じく年輪のような木目状の文様の連なりが虎の毛皮に見られる。縦縞模様である。トラの毛皮はきさを有していると見られただろう。
 ゾウを表す字には為(爲)もある。冠の爪の部分が人の手、下部が elephant である。人がゾウを手懐けているさまという。偽の字は像の字同様、その手懐けていることを強調する形である。手懐けられた行いは作為的に映る。すべてがきわめて精巧に模倣された贋物の意味合いとなる。贋作という語は、雁が担っている事柄である。雁の字は格好よく∧の形に角めをつけて編隊を成して飛んでいく鳥を指す。それに貝の字を加えて贋とし、形よく整えた財物の意味から表面だけを似せたもののことを表すようになった。似の字は以が木の耜の形である。道具を使って物の形を整えるところからにせるの意になった。上手に真似たものがキサリであったと推測される。何を真似たか。殯にかかわりがあるのだから対象となるご遺体と推測される。

熟語からのアプローチ

虎落に干す(蒔絵師源三郎ほか・人倫訓蒙図彙、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2592444/1/18をトリミング)

 モガリには殯以外に虎落もがりがある。竹を筋違いに組み合わせて縄で結い固めた柵のことで竹矢来の一種である。とりでの防護柵に用いられた。にわか作りの檻のような立て屋をモガリと称したようで、殯でも荒い柵状の屋舎をしつらえている。漢語では、漢書・爰盎鼂錯伝 に「要害之処、通川之道、調立城邑、毋下千家、為中周虎落。」とあり、注に、「鄭氏曰、虎落者外蕃也、若今時竹虎也。蘇林曰、作虎落於塞要下、以沙布其表、旦視其跡、以知匈奴来入、一名天田。師古曰、蘇説非也、虎落者以竹篾相連遮落之也。」と見える。顔氏説が通っており、「落」は籬のことを指していて、猛獣の虎の柵の謂いかと思われる。つまり、虎落とは、外敵を寄せつけない虎に似た機能を果たすものと納得できる。見方を反転させれば、虎が外へ脱出できない檻でもある。そして、トリデにはとり、相撲取りの意がある。力士は護るのにとても力強い存在だが、決して敵方へ出撃することはない。武器を手にしていないし、いったん砦を出てしまうと守りが薄くなり落城してしまう。モガル(強請)という語に、逆らう、嫌がる、抵抗するという意味があるのは、相撲のことをいう古語、スマヒがすまひの義であることに同じということである。
 虎杖と書いてイタドリと訓んでいる。イタドリ Reynoutria japonica は高さが二m近くに達し、穂状の花をつけるタデ(蓼)科の多年草で山野に自生する。反正前紀に「多遅たぢの花は、今の虎杖いたどりの花なり。」とある。若い茎には淡い紫色の斑点の表れるものが多い。それをそのまま、あるいは塩漬けにしたものを、刺身や膾の薬味にした。酸味や辛味をおぼえる刺激の強いものである。長く這う根は漢方の虎杖根とされ、生理不順や利尿、緩下剤とされた。痛取りの意に由来する名だろう。漢語で虎杖と記した理由を考えると、虎は猫と比べて身長に対する頭部の割合が大きく、当然、頭は傾き、杖を使わないと立つことができないということを示すようである。植物のイタドリはしなだれかかるように生えている。
 虎の杖を暗示させるものには、虎の歯のような刃のついた杖、すなわち、板を取るために使う道具、鋸が考えられる。古語ではノホキリである。縦挽きも可能な鋸によって、堅い材であっても木材の自然な裂け目に従わずに一定面積以上の薄い板を得ることができる(注5)。中心から輪を描くように年輪の現れる板目の板は鋸を使わないと得られない。木目のキサが表れていて、ヤマトコトバの解釈に合致している。
 イタドリは反正紀にタヂ、また、タヂヒといい、それはマムシ(蝮)のことでもある。体の模様は虎や蝮もまだらであるとも、が入っているともいえる(注6)。曼陀羅をマダラともいい、マムジといえば卍のことである。死後世界を説く仏教の言葉と同じことになっている。相撲取りは頭を傾けて仕切り、間合いを合わせる。しきりは頻繁の意で、古語の(如)く、つまり、後から後から続くという意味の動詞の名詞形である。虎の斑も蝮の斑ともども、後から後から同じようでいながら少しずつ異なる模様が現れる。陣痛のこともしきりといい、後から後から痛みが襲ってくるものである。虎杖根は痛め止めに利用され、戦陣の場合は虎落を設けて敵兵が近づけない仕切りとし、野営することができた。兵を発する時に用いられたのが虎符である。
 キサリは雁とからめて記されている。来ては去ることを表しているのだろう。虎はなわばりを持ち巡回するから来ては去る存在である。縦縞模様の虎が殯と関係するとするなら、ご遺体にゆくゆくは現れてくるあばら骨のことが連想される。虎皮の縞模様はあばら骨の表意である。ご遺体の上に虎の毛皮を被せて安置すればきちんと骨となると思われたものか。カハカリ(河鴈)が重要な役を担っていたのは、皮を借りていたと示したいからのようである。残存伝承に、猫が死人の上を飛び越すと死人がムクムクと起き上がるとか、飛び越えた猫が猫股という怪物になって悪さを働くとか、猫が火車となって死者を地獄へと連れて行くという怪しい話が各地に残っている(注7)。そのため通夜では寝ずの番をしたり、刃物を置いておいて猫が近づかないようにしていた(注8)。舶来で高価な虎の毛皮が掛けられないからといって、ご遺体がきれいに白骨化していくことが妨げられないようにと考えられたのだろう。虎ならうまくいくことが、猫では反対の作用をする。猫は死期が迫るとどこかへ出掛けて行ったきり消えてなくなることと関係づけていたのかもしれない。猫が遺体を荒らすと霊が蕩けて猫に乗り移り、怪物になりかねないということだろう。そこで猫も怖がって近づけないように、殯の時には虎の皮を掛けて過ごすようにしたと考えられる。あるいは棒の先に龍頭をつけ、天蓋のように虎の皮を吊るしたものかもしれない。そして、出棺に当たって外された(注9)

縦縞模様(左:アムールトラ(シズカ号、多摩動物公園)、中:あばら骨(一勇斎国芳・滝夜叉姫と骸骨図、同https://dl.ndl.go.jp/pid/1305636をトリミング結合)、右:四十九院(長沢2010.https://www.seikouminzoku.net/sub7-12.html)

 虎の毛皮は来ては去るものに当たるのである。仏教では、如来のことをによともいい、来ては去り、去っては来るものである。このように(tathā)来れる(āgata)、ないし、行ける(gata)の約である。如は真理のこと、人格の完成者、真理の体現者を表す。仏(佛)のことをホトケ(ト・ケは共に乙類)というのは、中国上古音を日本語風にホトケと写したものとされている。彷彿(髣髴)を彷仏とも書き、ぼんやりと見えること、はっきりしないがそれらしいことである。ホトが女性器を指すとおり、それ自体は空洞にして実体ではないことを示している。ケは接尾語ゲの古形で、なにげなくなどと今日も用い、そのように見える、……らしい、……そう、の意、つまり、如きものである。したがってホトケは、形があるようでいて本当はないものというのが原義で、ご遺体や仏像を指す。仏像が銅造、乾漆造、木造で中空に造られることが多いのは観念の体現であり、胴が膨らんでいて中空の容器をホトキ(瓮・缶)というのに似せてホトケ(仏)と言い出したのだろう。肉を失った虎の毛皮も同等である。模様はになっていていかにも恐そうで獲物をとらえそうに見えるが、動くことはなく専守防衛に努めていて、完全にとらわれの身として存在している。ヤマトコトバにトラフ(虎斑・捕ふ)というわけである。
 殯の形の類型に、青山型、忌垣型、モンドリ型(円錐形)、霊屋型、スヤ型、籠型(注10)、幕垣型、積石型、洞窟型があげられている(五来1992.)。籠型にして霊屋型のような形態もあり、虎の胴体の縞模様を遺しているようにも思われる。
 斎宮忌詞では仏像のことを「なか」(皇大神宮儀式帳、延喜式・斎宮式)、また、「すくみ(立須久美)」(倭姫命世記)という。動かないから立ち竦みである。中子というのは、厨子の中に安置されるからとされることが多いが、堂の中のことかも知れず、むしろ仏像が中空に造られることによる名と考えた方がわかりやすい。ナカ(中)+コ(籠)の意である。無用の用の究極である。そして、像の表面には痩せて体に浮き出たあばら骨、ないしは薄く身にまとった衣の衣文が表されることがある。まるで虎の毛皮にある縞模様のようにである。

 百済くだら聖明王せいめいわう、〈またの名は聖王せいわう、〉西部せいほう姫氏きし達率だちそち怒唎斯致ぬりしちけいまだして、しやなかこ金銅かねのみかたひとはしら幡蓋はたきぬがさ若干そこら経論きやうろん若干巻そこらのまきを献る。(欽明紀十三年十月、北野本訓)

 「傾頭」は「考える人」(ロダン)を思わせる。古語のカムカフ(カンガフ)には勘合の意がある。室町時代の日明貿易で使われた割符は「勘合かんがふ」である。竹の節目によって合わせた時の確認をしたのに始まるとされている。唐代の割符に虎符こふがあり、銅製で虎の形をしていて中に空洞部分を作っている。銅虎符と竹使符をあわせて虎竹といい、徴兵や指揮の役目を節度使に授けた証拠にした。虎の皮を半分に割いて合わせたところで模様が合うかどうか試すことと同じと考えたのだろう。キサリが「傾頭」であることが追認される。
 殯は喪屋もやで営まれる。船をつなぐことは「もやふ」という。水底に打ち込んだかしに船をつないで潮の干満に任せている。キサリが「傾頭」と書かれるのは、カシグとカシラを重ねるとわかりやすいとされたからでもあるだろう。疑問の助詞と係助詞の連結したモヤという形は、……も……であろうかの意である。

 ここ弟媛おとひめ以為おもひみるに、夫婦をふとめの道は、いにしへも今もかよへるのりなり。しかるをあれにして不便もやもやもあらず。(景行紀四年二月)
 御所おはしますところとほざかはべりては、まつりごとおこなはむに便もやもやもあらず。(天武紀元年六月)

 夫婦の相性が問答無用なほどよくないとか、遠いために問いただすこともできないという箇所に用いられている。いずれも美濃の話である。美濃(ミ、ノはともに甲類)は、「御野みの」(ミ、ノはともに甲類)と意識されたのだろう。野はもやのかかりやすいところと思われていた。だだっ広い野には視界を遮るものは何もないはずなのに大気中の水蒸気がいたずらして靄ってしまう。曖昧模糊、ないしは如去にして見えにくい。数々の困難を乗り越えることのできたヤマトタケルも、美濃の伊吹山で油断し遭難している。そして、三重の能煩野のぼの(能褒野)で力尽きて亡くなっている。さらに当地に造られた御陵から、ひろしろどりとなって天を翔け渡ったという話になっている。野辺送り以前の段階においても、予行演習的に靄のかかるような喪屋に安置するものであることを示しているのだろう。
 古代、殯は首長層において盛んに行われ、大化の薄葬令や火葬の普及によってほぼ失われた。その形跡を示す遺物はハエや便の痕跡を残す程で、キサリが具体物として何を示すか証明することは難しい。語学的に、御前相撲をさせた隼人を殯の警備員に当てていることから、とりとりで虎落もがりもがりすまひ、という言葉が互いにあやなすように連鎖していることから、当時の人々のうちでは納得されていただろうと推定されるまでである。

 輪君わのきみさかふは、はやをしてもがりには相距ふせかしむ。(敏達紀十四年八月)(注11)

 無文字時代に流通したヤマトコトバは言葉によってすべてを表そうとした。そのためには、使用する言葉自体が当該言葉をとりまく言葉群によって自己言及的に説明し尽くされるようにしなければならない。そのように構想、構築されて作られていたのがヤマトコトバである。古代に暮らした人々の観念は、網の目のように張りめぐらされたヤマトコトバの体系を繙くことで解き明かすことができる。

(注)
(注1)谷川士清・和訓栞に、「もがり 日本紀に殯をよめり。喪許の義なるへし。一説にもあがりを略す。仲哀紀に无火殯斂をほなしあがりとよめり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2562809/1/3)、日本書紀通證・巻六に、「殯ハ喪阿我利也。仲哀紀无火殯斂、此ニハ褒那之阿餓利、今俗竣事曰阿我利是也。重遠曰、殯竹設行馬ヤラヒ也。今猶国忌有此式。俗称行馬喪我里是其縁也。然ルニ行馬云夜良比也。禁闌入者毛我里、曲鉤也。如行馬而毎節僅枝者可以掛物曝乾、故世俗指愎狠拗戻毛我里、譬触則必怒一也。漢書謂虎落近之。」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1917890/1/15)とある。
 殯についての先行研究として折口信夫の提題がとり上げられることがある。「日本人は、人が死んでも、死んだかどうか判断がつかない。死んだと思つた状態から、蘇生する事が多かつた。今は技術も進み、判断力にも富んで来たが、昔は社会全体が遅れてゐて、死に切らない中に騒いだりして、とにかく、死と生との境が訣らない。それで、或場所に据ゑておいて、生きかへるか死に切るか、はつきりと見定めなければならなかつた。その期間に、魂を身体につける事の呪術を一心に行つた。その招魂術に呼び寄せられて、身体に魂がうまくをさまると、生きかへる事になる。昔はさうした呪術によつて、無造作に活力を持ち直す事も多かつたのである。併し、どうしても魂がもとの身体にかへらなければ、その時から死が始まる。そして、死が始まると俄に、怖しいものになる。その為に、死んだときまつて後は、ハフりを急にしてしまふのである。日本の葬制では、死んだと定まつた後の事は、伝へてゐないので、よく訣らない。怖しいので、詳しくは伝へなかつたのである。」(折口1996.607~608頁)。とても論評するに足る議論とは思われない。
(注2)和田1995.。殯がいつから行われていたかを確かめることは不可能である。
(注3)五来1992.に、埋め墓と詣り墓とを持つ両墓制について、「……古代の殯は二年、三年にわたり、庶民は共同の葬地(三昧さんまい)に殯葬されたため、りよう制と呼ぶ墓制が発生したと私はかんがえている。」(784頁)とある。
(注4)目籠ころがし(笊ころがし)は、茨城県や栃木県など北関東で見られる風習で、通夜を営んだ座敷から葬列が出た後、目籠(笊)を縁側の方へ転がすものである。死霊の舞い戻ることのないようにする呪法と考えられており、箒で掃きだすこととセットになっている。
(注5)一般に、縦挽き用の鋸は時代が下ってから生まれたとされているが、吉川1976.に、「鉄弓がどこまでも挽ける構造をもつことは、[群馬県松井田市愛宕山住居址出土(8世紀)の]「愛宕山鋸」が、たとえ小幅の板にしろ、板を生産する目的の鋸だったことを示している。」(37頁)とある。正倉院に伝わる赤漆文欟木厨子の玉杢の一枚板の製造には、そのような鋸がなくては不可能であろうという。
(注6)前近代の虎の絵画ではメスを豹に作るものがあった。由縁については未詳である。
(注7)葬送習俗における死者と猫に関する伝承には各地でさまざまなものがある。井之口1977.参照。基本的に、魂の抜けた死体に魔性、動物霊が入ることを防ぐために、刃物を置いたり、逆さ屏風を立てめぐらせたり、逆さ箒を立てたりしたと解釈されている。虎落のことをサカモガリ、または逆茂木ともいう。棘のある木の枝を立て並べて結い合わせた柵である。逆さ箒に知られるように、逆さまにして侵入を拒み、早く退散してもらうことを期待している。近づいた猫も、箒で叩かれたり、灰を撒いた膳に猫の足跡がついたら箒で掃きだすことが行われていた。和田1982.は、最近まで残る確かな伝承も、「かつての中国においても猫を死者より隔離しないと、死者が床上を跳ね起きたり、人に害を与えたりするものと考えられて大変恐れられていた」(38頁)ことが伝わって基になっているとしている。京極・多田2000.は、「肉食性の猫は腐臭をかぎわける能力が高く、死体に近づく習性もあった。そのため不吉とされて、死体を飛び越せば、魔が入って死人が動き出すとも、屍体がよみがえって「猫股」というものになるとも信じられた。そうした俗信から「しや」という異なる妖怪とも同一視され、屍体を狙って奪い去る妖怪とされることもあった。」(171頁)という。なお、勝田2012.は、猫が火車とされたのは十七世紀末のこととしている。
(注8)その解釈について井之口1954.は、「死者の魂は呼び戻してでも、元の体に納めて蘇らせたいという念願は痛切であるが、そういう無縁の魂が死体に入り込んでは困る。死体の枕許や胸の上には刃物を横たえて、無縁の魂の侵入を防いでいる。死者の胸の上を猫が跳び超えると、猫魂が入って死者が起ち上るとか、しやが死体を取りにくるとかいう俗説は、すべて無縁の魂をいろいろな形に想定したための結果なのである。墓には狼はじき・犬はじきの竹を立てて防備を怠らない。死体を縛り上げる風習の主因も、ここに求め得べきもののようである。」(22頁)とする。これに対して、五来1992.は、「時代が下るとともに人間性が発達し、死者への哀惜と親愛が増してくる。死霊への恐れもあるが、それを上まわるほど哀惜と親愛が大きくなると、モガリの宗教的機能は逆になる。すなわち死者を保護するものとなって、「犬はじき」「狼はじき」とよばれるように、死者を犬や狼からまもるという説明にかわるのである。現存民俗調査などでモガリの聞書をとればかならずこの段階の説明をきくであろう。しかしだからといって、モガリははじめから使者を保護する構造物とかんがえるならば、古代的霊魂観念や他界観念、あるいは呪術意識などを無視する歴史的錯誤をおかすことになる。」(41~42頁)とする。
 古代の霊魂についての観念は、なにより記紀万葉の文献を頼り考えるべきである。招魂か鎮魂かという次元で議論することは実は危うい。蘇るということについて、黄泉から還ることとされているがこれも怪しい。ご遺体に添える具は、当初、死者から魂が抜け出て他の生き物に乗り移ることを警戒したものではなかったか。他の生き物が近づかないように刃物や狼はじき・犬はじきの竹は設けられ、反対に魂が出て行かないように死体を縛り上げる風習も行われていたと考える。

金沢産虎人形(西沢笛畝『うなゐの友』第八編、本田義多郎発行(芸艸堂)、大正10年初版(昭和39年改訂)、36頁。)
また、『巨泉玩具帖』おおさかeコレクションhttps://da.library.pref.osaka.jp/content/detail/03-0003351(2026.7.23確認)参照。

(注9)とてもよく似た使い方をする虎に金沢の郷土玩具(呪具)の土人形がある。川崎1935.に、「加賀金沢其附近で魔除の虎と云ひ不幸があつてイザ出棺と云ふ間際に門口で此虎をボンと叩き毀すものだと云はれてゐる、虎は獅子と共に百獣の王とされ、中にも虎は千里を走ると云ふ諺により死者の再び我家に帰つて来ない呪禁だと云ふ、或はこれを副葬品として共に埋めたとも云はれてゐる。」(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1188547/1/19、漢字の旧字体は改めた)大きさは、高さ一寸余、横二寸七八分、生土に胡粉を塗り黄色をかけて墨で斑紋を描いている。
(注10)目籠ころがしの風習について、籠型殯との関係を捉えつつ籠の呪術性を説く議論が五来1992.にある。「……私は籠の呪術性はその封鎖呪術にあることを主張したい。もがりの機能が封鎖呪術にあることはすでにしばしばのべたところであるが、メカゴ出しも目に見えむ邪霊、死霊に対して、捕獲幽囚される危険を知らせる標示ということができる。」(148頁)。籠一般の呪術性から説いているが、古代において本当に籠に呪術性を見ていたのか不明である。気になって日常使いができなくなる。さらに、ことさら目籠ころがしに当てはめて論ずることについても、根拠は薄弱であると言わざるを得ない。
(注11)三輪君逆がサカフという名で説話化されている点も、モガリという語と関係するものと思われる。

(引用・参考文献)
井之口1954. 井之口章次『仏教以前』古今書院、昭和29年。
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折口1996. 折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集16』中央公論社、1996年。
勝田2012. 勝田至「火車の誕生」『国立歴史民俗博物館研究報告』第174集、2012年3月。国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ https://doi.org/10.15024/00002026
川崎1935. 川崎巨泉『おもちや画譜』第10集、川崎末吉、昭和10年。
京極・多田2000. 京極夏彦・多田克己『妖怪図巻』国書刊行会、2000年。
小林1983. 小林吉一「「岐佐理持」覚書」『国学院雑誌』第84巻第5号、昭和58年5月。
五来1992. 五来重『葬と供養』東方出版、1992年。(『五来重著作集 第十一巻 葬と供養(上)・第十二巻 葬と供養(下)』法蔵館、2009年。)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
長尾1967. 長尾善三『虎』郷土玩具研究会、昭和42年。
長沢2010. 長沢利明「葬送施設としての四十九院」『民俗学の散歩道』第12回、西郊民俗談話会、2010年10月。 https://www.seikouminzoku.net/sub7-12.html(2025.8.10確認)
中田1979. 中田太造「殯・(もがり)における民俗学的考察」『葬制墓制研究集成 第二巻 葬送儀礼』名著出版、昭和54年。(『近畿民俗』第54号、近畿民俗学会、昭和46年10月。『大和の村落共同体と伝承文化』名著出版、平成3年。)
中村1981. 中村元『佛教語大辞典』東京書籍、昭和56年。
松岡1929. 松岡静雄『日本古語大辞典 語誌篇』刀江書院、昭和4年。
三橋健「神道における「喪」の心とその形 」『キリスト教文化研究所紀要』通号32号、2013年。上智大学学術情報リポジトリ https://doi.org/10.69341/2014930
吉川1976. 吉川金次『鋸』法政大学出版局、1976年。
和田1982. 和田謙寿「仏教葬送事物の発展比較考 その三」『駒澤大学仏教学部研究紀要』第40号、昭和57年3月。駒澤大学学術機関リポジトリ https://doi.org/10.69200/0002000716
和田1995. 和田萃『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 上』塙書房、1995年。

加藤良平 2026.7.30改稿初出

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