有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しほやのこのしろ)について

 有間皇子の謀反事件は、蘇我赤兄の裏切りによって未然に露見し、首謀者たちは行幸先へ護送され、皇太子(中大兄)の尋問の後、処罰されている。

 戊子に、有間ありまの皇子みこと、守君大石もりのきみおほいは坂合部連薬さかひべのむらじくすり塩屋連鯯魚しほやのむらじこのしろとを捉へて、きの温泉に送りたてまつりき。舎人とねりにひ部米べのこめ麻呂まろみともなり。是に皇太子ひつぎのみこ[中大兄]、みづから有間皇子に問ひてのたまはく、「何のゆゑにか謀反みかどかたぶけむとする」とのたまふ。答へてまをさく、「あめあかと知らむ。おのれもはらず」とまをす。庚寅に、丹比小沢連国襲たぢひのをざはのむらじくにそつかはして、有間皇子を藤白坂ふぢしろのさかくびらしむ。是の日に、塩屋連鯯魚・舎人新田部連米麻呂を藤白坂にる。塩屋連鯯魚、ころされむとして言はく、「願はくは右手みぎのてをして、国の宝器たからもの作らしめよ」といふ。守君大石を上毛野国かみつけののくにに、坂合部薬を尾張国をはりのくにに流す。〈或本あるふみに云はく、有間皇子、我臣赤がのおみあか・塩屋連小戈・守君大石・坂合部連薬と短籍ひねりぶみを取りて、謀反みかどかたぶけむ事をうらなふといふ。……〉(斉明紀四年十一月)

 首謀者の有間皇子は絞首、塩屋鯯魚と新田部米麻呂が斬首、守大石と坂合部薬が流罪になっている。流罪の二人は後に許されている。刑の重さに差がある理由は何か、特に、塩屋鯯魚と新田部米麻呂の処遇が不審である。有間皇子よりも重い斬首になっている(注1)。舎人にすぎない新田部米麻呂も斬首で、「連」の姓を追贈しているようにも解せられる。なぜ刑場は藤白坂なのか。また、塩屋鯯魚は右手で宝器を作るからと助命嘆願している。大系本日本書紀に、「[谷川士清・日本書紀]通証に「蓋善機巧者也」とあるが未詳。」(345頁)、新編全集本日本書紀に、「何を言おうとしたか未詳。左手に対して右手を浄とみなしたものか。」(③218頁)などとある。孝徳紀大化二年三月条に、「塩屋鯯魚〈鯯魚、此には挙能之慮このしろと云ふ。〉」という訓注が付いている人物である。
 不思議な助命嘆願は、当時誰もが知っていた伝承になぞらえて命乞いをしたものであろう。

 とし百済国くだらのくにより化来おのづからにまうくる者有り。其の面身おもてむくろ、皆斑白まだらなり。しくは白癩しらはた有る者か。其の人になることをにくみて、海中わたなかの嶋にてむとす。しかるに其の人の曰はく、「若しやつかれ斑皮まだらはだを悪みたまはば、白斑しろまだらなる牛馬うしうまをば、国の中にふべからず。また臣、いささかなるかど有り。山丘やまかたく。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為にくほさ有らむ。何ぞむなしくうみの嶋に棄つるや」といふ。是に、其のことばを聴きて棄てず。りて弥山みのやまの形およ呉橋くれはし南庭おほばに構けとおほす。時の人、其の人をなづけて、路子工みちこのたくみと曰ふ。亦の名は芝耆摩呂しきまろ。(推古紀二十年是歳)

 新編全集本日本書紀に、「芝耆摩呂」を「磯城〈しき〉(石で作った城)麻呂」の意か。」(②568頁)とするが、城のキは乙類、耆は甲類である。おそらく、石畳を敷くことと関係させた名で、「路子工」は道路舗装職人の謂いであろう。この渡来人は、近世に城造りにたけた穴太衆のように、石材の加工に優れた石垣職人であったろう。

コノシロ

 塩屋鯯魚は、その名から「斑白」のイメージが結びついており、あるいは「斑白」と渾名されていたのであろう。コノシロ(コは乙類)という魚は、ひとつひとつの鱗のなかに黒班があり、全体に斑点に見える魚である。小さめをコハダというのも、膚の特徴を言い当てたものかもしれない。和名抄に、「鯯 四声字苑に云はく、鰶〈子例反、字は亦、鯯に作る。和名は古乃之侶このしろ〉は魚の名、〓(魚偏に脊)に似て薄く細き鱗のものなりといふ。」、新撰字鏡に、「鮥 盧各反、己乃志呂このしろ」、「鯯・䱥・鰶 己乃志呂このしろ」、「鮗 上同」とある。ニシン科の硬骨魚で、体長は二十五センチほどになる。背びれのいちばん後ろは糸状に長く伸びる。脊部は青黒く、腹部は銀白色、濃褐色の斑点列がある。日本各地の沿岸生息する。寿司の材料になるコハダ・ツナシはこの中等大のものである。この城を食べるといった連想が働いたり、あぶると屍臭に似た悪臭を発して屍を焼くことを思わせることから切腹魚といわれるなど武家社会では忌まれたことがある(注2)
 そんな塩屋鯯魚は、誅殺されるに当たって、推古期の謂れを語って命乞いをした。「斑白」な人を助けると、須弥山をかたどったものや呉橋のような芸術的ともいえる石造工芸品を作るというのである(注3)。「小戈(注4)」と記されるのは別名ヲホコを示すもので、小さな戈のようなたがねで石を切って加工し、「山丘やま」を作るからである。人工的なヤマの意に祭礼山車の山の形状に作った飾り物がある(注5)。祇園祭の山鉾にあるように、祭礼の山車は山であり、鉾である。そのホコ(鉾)を作るのにより小さなホコを使うから、「小戈」なのだと言っている。山の形の飾り物の例はすでに記に見える。

 是の河下かはしもにして、あをの山の如きは、山と見えて山にあらず。出雲いづも石〓いはくま(石偏に冋)の曾宮そのみやいま葦原あしはら色許しこ男大神をのおほかみちいつくはふり大庭おほにはか。(垂仁記)

 お祭りをする場である庭の構造物が山だといっている。推古紀の南庭の須弥山の形や呉橋に意味が重なってくる。山にはまた、植林地、採木地としての山林の意味もある。「山に至りてつむぐ。」(推古紀二十六年是年)とある。コノシロを、コ(木、コは乙類)+ノ(助詞)+シロ(代、ロはもと乙類)と捉え直したのだろう。シロには、「苗代」のように、~を作るための地、~を採るための地の意がある(注6)。コノシロとは山なのである。
 塩屋鯯魚は、右手を主張している。右(ミ・ギの甲乙は不明)には、左に形を合わせたミギリという言い方がある。あるいは、みぎり(ミ・ギは甲類)と関係させたものかもしれない。古語では、軒下の石畳や敷瓦を敷いたところ、また、水限みぎりの意もあって、境界にあたるところをいう。もとの中国では、説文に「砌 階甃なり、石に从ひ切声、千計切」とある。和名抄には、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階の字を波之はし、一訓に之奈しな〉は堂に登る級なりといふ。兼名苑に云はく、砌は一名に階といふ。〈砌の音は細、訓は美岐利みぎり〉」とある。境のところにある瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段のこと、須弥山像は石が積み重ねられており、呉橋もそれに相当するものなのではないか。
 須弥山は、仏教の世界観において世界の中心にそびえる高い山のことをいう。それを形象化して像として飛鳥の地に置いていた。

 辛丑に、弥山みのやまかた飛鳥寺あすかのてらの西に作る。また盂蘭瓫会うらんぼんのをがみまうく。ゆふへ貨邏人くわらのひとへたまふ。(斉明紀三年七月)
 甲午に、甘檮丘あまかしのをかの東の川上かはらに、須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷えみしに饗へたまふ。(斉明紀五年三月)
 是の月に、……又、石上池いそのかみのいけほとりに須弥山を作る。高さ廟塔めうたふの如し。以て粛慎みしはせ四十七人に饗へたまふ。(斉明紀六年五月是月)

須弥山石(明日香村石神出土、7世紀、奈良文化財研究所 飛鳥資料館展示品)

 辺境の征服した異民族に威信財として見せて脅かしている。明日香村の石神遺跡から発掘された石造品、須弥山石として伝わっている。斉明紀の「時好興事」(斉明紀二年是歳)にまつわる時の人の謗りを伏線にして有間皇子の謀反の話は描かれている。そこに、石を使った土木工事の話が載っている。

 時に興事おこしつくることを好む。すなは水工みづたくみをしてみぞ穿らしめ、香山かぐやまの西より石上山いそのかみのやまに至る。舟二百隻を以て、石上山の石をみてみづまにまに宮の東の山に控引き、石をかさねて垣とす。時の人そしりて曰はく、「狂心たぶれこころみぞ功夫ひとちからおとつひやすこと、三万余。垣造る功夫を費し損すこと、七万余。宮材みやのきただれ、山椒やまのすゑうづもれたり」といふ。又謗りて曰はく、「石の山丘やまを作る。作るまにまおのづからにこぼれなむ」といふ。〈しは未だ成らざる時にりて、此の謗りをせるか。〉(斉明紀二年是歳)

 「石山丘」とある石を使った大土木工事が批判されている。「若……」の割注は本当に崩れたことをカモフラージュしたもの言いであろう。二年にすぐに崩れてしまったが、三年七月には「須弥山像」を、五年三月には「須弥山」を建造し、六年五月是月にはその高さが「如廟塔」とタワーに見えるほどになっても崩れなかった。その技術の始まりは、推古紀二十年条の路子工みちこのたくみ芝耆摩呂しきまろ)に見え、塩屋鯯魚が助命嘆願した四年十一月時点では、「山丘」のように石を積み上げる土木工事のイノベーションに躍起になっていたと知れる。
 処刑の場は藤白坂である。有間皇子の絞殺につづき、塩屋鯯魚・新田部米麻呂の斬殺についてもわざわざ「藤白坂」と断っている。塩屋鯯魚は、自分の名のとおり造垣功夫として石切りをさせてくれれば、うまくいかない須弥山を作り上げてご覧にいれましょう、などと余計な洒落を言った。それは皮肉にも嫌味にも聞こえ、黙っていれば流罪で済んだところ、意趣返しに首を斬られることになったらしい。後の職制律に、「凡そ乗輿を指斥するに情理切害あらば斬。〈政事の乗る乖失を言議して、乗輿に渉れらば上請せよ。〉」とある不敬罪である。石切りから首切りが連想された。「ふぢ」は「ぶち」と音が似通っており、推古紀の「斑白まだら」とはフチシロと訓めるほどに同じものである。「さか」は「さかふ」、「さかしら」と音が通じている。有間皇子の場合、目につく嶺のことを「あり」、「あり」というように、アリマが目立つ馬のことを指していると思われたらしい。藤白は「斑馬ふちこま」を連想させる。推古紀の嘆願に、「白斑しろまだらなる牛馬うしうま」とあった。
 上代に人の名は、推古紀に「時人号其人、曰路子工。」とあるように、人から呼ばれてそう成ったものであった。戸籍制度があり、誕生と同時に命名されるものではなく、人にそう呼ばれて名を体していた。今でいう綽名に近いものである。その名に負う人が名の体現に努めたのは、自己循環的なアイデンティティの確保行為であった。そういうことだからそういうことにし、そういうことだからそういうこととして暮らしていたのである。言事一致、言行一致を志向したのは、文字を持たない文化において確からしい状況に落ち着くからであった。世の中をカオスに陥らせない唯一の方法として、ことことであるように努めたのである。

(注)
(注1)賊盗律に、「凡そ謀反及び大逆せらば皆斬。……其れ謀大逆は絞。」、「凡そ叛謀れらば絞。已に上道せらば皆斬。」とある。
(注2)慈元抄の「昔有馬の王子零れ給ひて、……」の話に、コノシロの歌(「東路の 室のやしまに 立つ煙 誰が子の代に つなし焼くらん」)が詠まれている。

呉橋(宇佐八幡宮内、Sanjo氏「呉橋」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/呉橋)


(注3)宇佐八幡宮に呉橋があり、銘菓にも形がとられている。屋根つきの木造橋で、廻廊のようである。これと推古紀のそれとがどうかかわるのか確かではないものの、アーチ橋の製作を指すと見て辻褄は合っている。
(注4)大系本日本書紀は、「小戈」は「木代」の誤写とする説をとる(347頁)。
(注5)祭礼の山車について、上代からヤマ、ホコと呼ばれていたとする証拠はない。
(注6)西宮1990.は、「しろ〔代〕シル(領知)が原義。㊀占有する、特別な場所。①~となるための特別地。「苗代」「山代」。②~するための特別地。「矢代」「糊代」「城」。③秘密の占有地。④助数詞。土地の広さの単位。㊁領知する人・所・物・事。①代りの人・物・所。「親代」「御名代」「網代」「咲かぬが代も」。②代りのものが本物と同じ機能をもつもの。「物実」。」(361頁)と辞書的記述でまとめている。
(引用・参考文献)
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。『同4 同③』、1998年。
大系本日本書紀 大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
西宮1990. 西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。

加藤良平 2012.8.22初出

\ 最新情報をチェック /