万葉集巻十五に、「中臣朝臣宅守の狭野弟上娘子と贈り答ふる歌」がある。目録には「中臣朝臣宅守の、蔵部の女嬬狭野弟上娘子に娶ひし時に、勅して流す罪に断めて、越前国に配ちたまへり。是に夫婦別れ易く会ひ難きを相嘆き、各々慟の情を陳べて贈り答ふる歌六十三首」とある。中臣朝臣宅守が流罪になり、狭野弟上娘子(また、狭野茅上娘子とも伝わる)と会えなくなって、その悲しみ、嘆きを互いに歌いあっている。名歌として知られる「君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」(万3724、狭野弟上娘子)以外にも六十二首あり、次の歌もその一つである。
さす竹の 大宮人は 今もかも 人なぶりのみ 好みたるらむ〈一に云ふ、今さへや〉〔佐須太氣能大宮人者伊麻毛可母比等奈夫理能未許能美多流良武〈一云伊麻左倍也〉〕(万3758、中臣朝臣宅守)
原文では仮名書きである。ナブル、ヒトナブリといった語は用例が少なく、語意がはっきりしているとは言えないが、概ね、もてあそぶ、悩ませる、の意とされている。
壮強ひて入り嬲る。(霊異記・中34)
……啁し呰りて嬲るに、……(霊異記・下19)
……五嫂、為人饒劇とひとなぶりなり、(五嫂為人饒劇、)……(遊仙窟・真福寺本訓、文選読み、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100115923/20?ln=ja)
㛴嬈嬲 三形同、奴道反、𢙉字同、弄也。和豆良波須。(新撰字鏡)
嬲 音㑲、奴了反、舊木・明秘・古押・女衫三反皆未詳、ヒキシロフ、タハフル、ナフル、ナヤマス、マサクル(名義抄)
最初に確認しておきたいのは、今考えたいのは、ヤマトコトバのナブル、ヒトナブリであって、必ずしも「嬲」の字義ではない点である。「嬲」という字を目にすれば、いわゆる3Pセックスのようなものかという考えが浮かぶ。男女を入れ替えた「嫐」という字もある。しかし、この歌のヒトナブリはそのような意味ではない。
ヤマトコトバとして推測してみれば、ナブリは、ナ(刃)+フリ(振)、刀を振り回すことではないかと想像される。伐りつけるために刃物を揮うということではなく、見ている人をはらはらさせる曲芸であり、手玉に取ることと同義ではないか。ジャグリングしてもてあそぶことも見る者をはらはらさせる。すなわち、これらはもともとサーカス用語であったと思われる(注1)。
庚申、[聖武]天皇、北の松林に御しまして、騎射を覧す。入唐の廻使と唐の人、唐国・新羅の楽を奏りて、挊槍る。(庚申、天皇御二北松林一、覧二騎射一。入唐廻使及唐人、奏二唐国・新羅楽一、挊レ槍。)(続紀・天平七年五月)
弄槍 楊氏漢語抄に弄槍〈保古斗利〈已上は本注〉、槍の音は倉、征戦の具に見ゆ〉と云ふ。(和名抄・雑芸類)
弄丸 梁武帝千字文注に云はく、宜遼は楚の人なり、弄丸〈此間に多末斗利と云ふ〉を能くし、八つ空中に在り、一つ手中に在るといふ。今の人の弄鈴は是なり。〈楊氏漢語抄に弄鈴は須々土利と云ふ〉(和名抄・雑芸類)

万3758番歌の大意は、大宮人と呼ばれる者は今でもそうであろう、人を手玉に取ることを好んでいるのだろう、といったことである。これまで、ヒトナブリという語を、もてあそぶことなのか、悩ませることなのか解釈が分かれていた。官人たちがヒトナブリにすることとは、流罪になる前に中臣朝臣宅守がからかわれていたのを思い出してのことなのか、現在も都にいる狭野弟上娘子に対する振舞いが彼女を悩ませていると案じてのことなのか、議論されてきた(注2)。
けれども、この歌の前後に並ぶ中臣朝臣宅守の歌は、二人が離れ離れになってしまったことばかりを嘆く歌である。
過所なしに 関飛び越ゆる 霍公鳥 多我子尓毛 止まず通はむ(万3754)
愛しと 我が思ふ妹を 山川を 中に隔りて 安けくもなし(万3755)
向かひ居て 一日もおちず 見しかども 厭はぬ妹を 月渡るまで(万3756)
我が身こそ 関山越えて ここにあらめ 心は妹に 寄りにしものを(万3757)
たちかへり 泣けども我は 験無み 思ひわぶれて 寝る夜しそ多き(万3759)
さ寝る夜は 多くあれども 物思はず 安く寝る夜は さね無きものを(万3760)
世の中の 常の理 かくさまに なり来にけらし 据ゑし種から(万3761)
我妹子に 逢坂山を 越えて来て 泣きつつ居れど 逢ふよしもなし(万3762)
旅と言へば 言にそ易き すべもなく 苦しき旅も 言にまさめやも(万3763)
山川を 中に隔りて 遠くとも 心を近く 思ほせ我妹(万3764)
まそ鏡 懸けて偲へと まつり出す 形見の物を 人に示すな(万3765)
愛しと 思ひし思はば 下紐に 結ひ付け持ちて やまず偲はせ(万3766)
右十三首、中臣朝臣宅守
彼が感じているのは、引き離されて再会する見込みがないこと、手玉に取られて自分たちの思いがままならないことだけである。「今もかも」と言っているのは、昔も今もずっとそうなのだろうか、の意である。自分一人が「大宮人」にからかわれたことでも、彼女一人が「大宮人」に悩まされていることでもなく、二人が一緒にいることができない状況のこと、それはまさしくなぶりものにされているのと同じことだと歌っている。人をナ(刃)+フリ(振)のごとき見世物にし、それを見ては喜んでいるのが「大宮人」なのだろうかと推量している。一抹ではあるが、恩赦を願っての言なのである。
漢字の「嬲」「嫐」字はセクシャルな印象を強く意識させる字である。愛し合う二人(だけ)が一つになれないことを一応表意してはいるものの、万葉歌に使われているわけでもそれが本意であるわけでもない。
(注)
(注1)刀を手玉にとる曲技は「跳剣」や「刀玉」とも呼ばれている。弄玉(品玉)の様子は、正倉院宝物の墨絵弾弓や東寺伝来の雑伎彩絵唐櫃(現MОA美術館蔵)にも描かれている。ナ(刃)+フリ(振)の義と解する場合、石山寺縁起に描かれるような、手もとで刀をくるくる振り回すような仕儀かと思われる。文献に見える「弄槍」は、「おそらく舞楽の曲目に編成されて内容が変化した」(角田1981.290~291頁)演技の絵として古楽図に載る。もはやスリリングには見えない。古楽図は日本平安初期に成立とする説のほか、中国唐代成立、遣唐使により将来とする説もある(福島2006.参照)。なお、続紀所載の「挊」字は「弄」の俗字である。
(注2)近年の通釈書でも、新大系文庫本は前者、多田2010.は後者の立場をとっている。
(引用・参考文献)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
多田2010. 多田一臣訳注『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
角田1981. 角田一郎「散楽の芸能」芸能史研究会編『日本芸能史 第1巻』法政大学出版局、1981年。
中川2019. 中川明日佳「『萬葉集』中臣宅守の三七五八歌の表現とその位置づけ─「人嬲り」を中心に─」毛利正守監修『上代学論叢』和泉書院、令和元年。
福島2006. 福島和夫「〔古楽図〕考 付陽明文庫本影印」『日本音楽史研究』第6号、上野学園大学日本音楽史研究所、2006年3月。
吉井1988. 吉井巖『萬葉集全注 巻第十五』有斐閣、昭和63年。
加藤良平 2023.11.1初出