仁徳記に「枯野」の船の逸話が載る。応神紀にも「枯野」という名の船の説話がある。ただし、場所の設定が違っている。記では巨木伝承から説き起こされる。免寸河の西に大木があり、その影は朝は淡道島、夕方は高安山を越えるものであった。その木から船を造ったら高速船ができた。朝廷は、朝夕に淡道島から名水を宅配させていた。しかし、船が老朽化したので塩作りのために焼いたら焼け残りがあり、それで琴を作ったという話になっている。
此の御世に、免寸河の西に、一つの高き樹有りき。其の樹の影、旦日に当れば、淡道島に逮び、夕日に当れば、高安山を越ゆ。故、是の樹を切りて船を作るに、甚捷く行く船なり。時に、其の船を号けて枯野と謂ふ。故、是の船を以て、旦夕に淡道島の寒泉を酌みて、大御水を献る。玆の船、破れ壊れて、塩を焼き、其の焼け遺れる木を取りて琴を作るに、其の音七里に響む。爾くして歌ひて曰はく、
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の さやさや(記74)
此は、志都歌の歌返しぞ。(仁徳記)
本稿では最初の場所の設定について考える。「免寸河」とある。これについて、トキノカハと訓む説とウキガハと訓む説(注1)がある。筆者は、ウキガハと訓むべきであると考える。その理由は、「免寸河」の西にあった高き樹の影が、朝日に淡道島、夕日に高安山に達していたから、その樹を切って船を作ったらとても速く行く船になったとあるからである。
此之御世、免寸河之西、有レ一高樹。其樹之影、当二旦日一者、逮二淡道島一、当二夕日一者、越二高安山一。故、切二是樹一以作レ船、甚捷行之船也。時、号二其船一、謂二枯野一。故、以二是船一、旦夕酌二淡道島之寒泉一、献二大御水一也。
「故」という接続詞は原因・理由を説明するときに用いられる。「故、切二是樹一以作レ船、」とある。だから、切って作った船は高速であった、と言っている。なにゆえ、だからなのか。それは、免寸という河の西の高い樹木が、一日のうちに、その影を淡道島から高安山まで及ぼすほどに行き来していたからである。免寸(キは甲類)の樹(キは乙類)は、浮木(キは甲類、乙類の順)を示唆する。浮木とは筏のことでもあり、筏とは船のことをも表した。
戊午に、越国言さく、「海の畔に、枯査、東に向きて移り去りぬ。沙の上に跡有り。耕田れる状の如し」とまをす。(孝徳紀大化元年十二月)
査 唐韻に云はく、楂〈鋤加反、字は亦、査、槎に作る。宇岐々〉は水中の浮木なりといふ。(和名抄)
斧取りて 丹生の桧山の 木折り来て 筏に作り 二楫貫き ……(万3232)
漢人も 筏浮かべて 遊ぶとふ 今日そ我が背子 花蘰せよ(万4153)
そんな免寸樹の影が淡道島から高安山を行き来(キは甲類、乙類の順)していた。それでもって造った船で、朝夕、淡道島の寒泉を酌んで天皇の飲み水に宅配させるために行き来させている。「旦夕」は高樹が影を作っていたように朝方と夕方に行き来することだから、アシタユウヘと訓むことで誤りがない(注2)。そうでなければ設定が変わることになり、「故、以二是船一、……」という言い方にはならない。
どうして「免寸河之西」の樹と限定されているのか。ニシとよく似た音の言葉にニジ(虹)がある。また、ヌジとも言った。
虹 毛詩注に云はく、螮蝀〈帝董の二音、螮は亦、蝃に作る。和名は尓之〉は虹なりといふ。兼名苑に云はく、虹は一名に蜺〈五稽反、鯢と同じ。今案ふるに、雄を虹と曰ひ、雌を蜺と曰ふぞ〉といふ。(和名抄)
虹 窮音、尓自(金光明最勝王経音義)
虹蜺 上音紅、又貢、又古巷反、ニシ、……(名義抄)
䗖蝀 帝董二音 ニジ(名義抄)
乃ち河上に虹の見ゆること蛇の如くして、四五丈ばかりなり。虹の起てる処を掘りて、神鏡を獲。(雄略紀三年四月)
丙寅に、法令を造る。殿の内に大虹有り。(天武紀十一年八月)
是に日の耀虹の如く、其の陰土を指しき。(応神記)
用例の少ない語で、あるいは上代にニシと清音であったかもしれない。和名抄の「之」字はシともジとも訓まれる。日本書紀の傍訓もヌシで、濁音を加えて訓み慣らわしている。「主」の意を掛けた洒落かもしれない。
虹は、雨上がりなどの時に空中の水滴にスペクトルに分光された色の帯を見るものである。太陽とは反対側の空にかかる。一日のうちに見るとすると、朝なら西、夕なら東の空に出る。「旦夕」はアシタユウヘと訓むのが正解である。
平安時代の日本紀竟宴和歌に次のような歌がある。応神紀の枯野伝承を踏まえている。直接、仁徳記の洒落を解いたものではないが、理解されていたらしいことがわかる。
誉田天皇を得たり
右大臣従二位兼行皇太子傅右近衛大将源朝臣光
年経たる 古き浮き木を 捨てねばぞ さやけき響き 遠く聞こゆる(39)
この天皇のたまはく、「官船あり。名は『枯野』。これ、伊豆国の奉れるなり。今は朽ちて用ゐ難し。久しく官物たれば、功、忘れ難し。いかでか、この船の名をして、後の世までは伝ふべき。」とて、その船の木を取りて薪として、塩を焼きて、遍く国々に賜ひて、船を作らしめ給ふ。また、塩の薪として焚く時に、燃え杭の焼けぬあり。あやしみて奉れり。天皇、琴に作らしめ給へるに、その声さやかに、遠く聞こゆ、といへり。(注3)
ウキキ(免寸樹、キは甲類、乙類の順)がウキキ(浮木(査、楂、枯査)、キは甲類、乙類の順)になってユキキ(行来、キは甲類、乙類の順)したという洒落をもとに地口話が作られた。そのために、ウキ(免寸)という場所に設定されている。古事記は基本的に口承伝承である。一度聞いただけで納得がいくことしか伝えられることはなかった。
(注)
(注1)新校古事記に事の次第が説明されている。「兎寸河…「兎」、底は「免」に作る。兼は「卮」に作り、右傍に「免」と記す。底の「免寸河」は借訓表記と見られるが、このままでは訓読が困難である。日本国粋全書『古事記』(一九一七年)が、『播磨国風土記』讃容郡仲川里条に「河内国」の村名として「兎寸村」が見えること(但し最古の写本三条西家本には「免寸村」とある)、また『延喜式』巻第九・神名上・和泉国大鳥郡条に「等乃伎神社」(大阪府高石市富木)の名が見えることに着目して、「免」を「兎」に改めて「兎寸河」(とのきがは)と校訂して以来、これに従うのが趨勢であるが、 「兎」(ト)は『古事記』の主用音仮名体系には存在しないこと、また「兎寸河」が音訓交用表記とすれば以音注が施されるのが通例であることから、従えない。『古事記』の用字法に即して「免寸」は借訓表記と見るのが穏当であろう。「免」を「兎」の俗字と見て(『正字通』)、「兎寸河」と校訂し、ウキガハと訓む。」(294~295頁)とある。
(注2)新校古事記は、「旦夕…アシタユウヘと訓むのが一般的であるが、アシタ・ユウヘは夜を中心にした時間区分(ユフへ→ヨヒ→ヨナカ→アカトキ→アシタ)に属す。ここは昼も夜もの意であるので、アサヨヒと訓む。」(295頁)とする。夜に虹は見えない。
(注3)梅村2010.199頁の翻刻による。振り仮名の多くを割愛した。
(引用文献)
梅村2010. 梅村玲美『日本紀竟宴和歌の研究─日本語史の資料として─』風間書房、2010年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
加藤良平 2019.8.22初出