大伴家持と紀女郎の間では相聞贈答歌が何度か交わされている。「百歳歌群」(巻四・万762〜764)、「戯奴歌群」(巻八・1460〜1463)などである。これらは紀女郎が歌を贈って家持が返している。女性が主導する形で成り立っている。家持という上手な歌い手に対して歌問答を持ちかけ、教えを乞いつつ互いに楽しんでいたということだろう。相聞歌とはいっても、疑似相聞(注1)の恋愛関係の上に成り立つ歌で、「諧謔的技巧」(井手1961.)、「戯笑性」(多田1997.)に遊んだ作品群であると指摘されている(注2)。紀女郎の年齢からしても、ただの恋歌ではなかったとの推測と通じるものである(注3)。
次にあげるいわゆる「黒木歌群」(巻四・万775~781)は、前後の歌の配置から天平十三年(741)の作と推定されている。家持の方から仕掛けた歌のやりとりとして興味深いものである。しかも、家持一+五の計六首に対して紀女郎の側からは一首しか答えていない。その意味合いを探るには、自ずと歌の内容の検討を必要とする。恭仁京遷都時代に歌われたとされている。
大伴宿禰家持の、紀女郎に贈る歌一首〔大伴宿祢家持贈紀女郎謌一首〕
鶉鳴く 古りにし里ゆ 思へども 何そも妹に 逢ふ縁もなき〔鶉鳴故郷従念友何如裳妹尓相縁毛無寸〕(万775)
紀女郎の、家持に報へ贈る歌一首〔紀女郎報贈家持謌一首〕
言出しは 誰が言にあるか 小山田の 苗代水の 中淀にして〔事出之者誰言尓有鹿小山田之苗代水乃中与杼尓四手〕(万776)
大伴宿禰家持の、更に紀女郎に贈る歌五首〔大伴宿祢家持更贈紀女郎謌五首〕
吾妹子が 屋戸の籬を 見に行かば けだし門より 返してむかも〔吾妹子之屋戸乃籬乎見尓徃者盖従門将返却可聞〕(万777)
うつたへに 籬の姿 見まく欲り 行かむと言へや 君を見にこそ〔打妙尓前垣乃酢堅欲見将行常云哉君乎見尓許曽〕(万778)
板葺の 黒木の屋根は 山近し 明日取りて 持ちて参ゐ来む〔板盖之黒木乃屋根者山近之明日取而持将参来〕(万779)
黒木取り 草も刈りつつ 仕へめど 勤しき戯奴と 誉めむともあらず〈一に云ふ、仕ふとも〉〔黒樹取草毛苅乍仕目利勤和氣登将譽十方不有〈一云仕登母〉〕(万780)
ぬばたまの 昨夜は返しつ 今夜さへ 吾を返すな 道の長手を〔野干玉能昨夜者令還今夜左倍吾乎還莫路之長手呼〕(万781)
紀女郎が家持に贈っている歌は万776番歌の一首のみである。この歌は、家持から贈られた万775番歌をそのまま受けた歌なのか疑問とされるだろう。多くの注釈書では、ナンパを仕掛けて言い寄ってきたのは家持の方だから、途中で止めるのはどうかしているわ、と言っているものと捉えられている。事前にアプローチしておきながら、なかなか逢うすべがないと嘆く歌を贈ってくるなんておかしいんじゃないの、という解釈である。しかし、この捉え方は、歌を、わけても相聞歌を、一つのコミュニケーション法と考えると不自然に思われる。歌が贈られたら、その歌に対して真っ向から答えることが求められる。そうでなければダイアローグとして機能しない。歌に歌われた言葉を受けて返すのが歌の贈答であったろう。今日のスマホを使った通信におけるメッセージのやりとりにしても、直前のメッセージに対して答える形で応答が成り立っている。紀女郎の「報」歌に対するこれまでの見方は再考されなければならない。
言出しは 誰が言にあるか 小山田の 苗代水の 中淀にして(万776)
「言出し」について、音韻の訛りからコチデシと訓む説もある(注4)が、二句目に「言」とあるのだからコトと訓むのが穏当である。声に出した言葉としてわかりやすい。その「言出し」のコトとは何か。とりもなおさず、前の歌、贈られた万775番歌を指していると考えられる。どんなことを言って来たか。旧都の平城京にいた時から思っているが、どうしてあなたに逢うすべがないのでしょう、と言っている。これだけを聞いて、歌の真意、本意を悟ることは難しい。実生活において、家持と紀女郎とが顔を合わす機会が限られていたかどうかということは無関係である。とりわけ戯れの歌の性質を思えば、逢うすべがあるかどうかは歌のやりとりのなかで機知をもって互いに理解される事柄ということになる。家持が歌で何を言ってきているのか、よくわからないからさらに続けてほしいと歌をおねだりしたのが紀女郎の歌であったらしいと考えられる。「苗代水」を使った比喩表現がどうして行われているのかについては後に確認する。
家持はさらに五首も同じ主題で歌を寄こして来ている。
「籬」の歌二首、「黒木」の歌二首、「道の長手」の歌一首である。最初の歌において、逢う方法がないと嘆いたことから導かれ、訪問先の女郎の家の籬、そして屋根へと視線が移って行っている。この一連の歌は一つのテーマに則って歌われているものとして注目されてよい。
最初の万775番歌は「鶉鳴く」で始まっていた。フル・フリにかかる枕詞ではあるが、ここでは重要な意味を持つ。鶉が近づけないのは籬があるからである。動物避けの柵があってお逢いする算段が立たないと洒落たことを言いたかった。どのような籬かといえば、鉄条網のように棘が立っている柵である。なぜ棘があるとわかるか。それは、彼女の名が「紀女郎」だからである。イラは、草や木の棘のことをいう。新撰字鏡に「莿 且青反、荣也、卉木芒人刺也。伊良」とあり、イラナシ、イラツ、イラナク、イララゲといった言葉を生んでいる(注5)。そこから発想して万777・778番歌は作られている。籬があって家に入れない、もちろん籬を見に訪れているのではない、といった歌である。このモチーフは引き継がれ、饒舌に歌が歌われているものと考えられる。最終的に、万781番歌で、昨晩のように門前払いをするなと歌って完結している。昨晩は特別な用事があって返されたということだろう。それが何であったかがわかれば、この歌群は理解されたと言える。後述する。
女郎の家のまわりに籬がめぐらされている。外から家を見れば籬が邪魔をして家の中は見えずに屋根ばかり見える。それも一番高いところ、甍しか見えない。このイラカ(甍)という語もイラを語根とする言葉である。新撰字鏡に、「屋脊 伊良加」、「甍 上同」、和名抄に、「甍 釈名に云はく、屋脊を甍〈音は萌、伊良加〉と曰ひ、上に在りて屋を覆蒙ふなりといふ。兼名苑に云はく、甍は一名に棟〈多貢反、訓み異なる故、別に置く〉といふ。」とある(注6)。屋根のうち、大棟に当たる部分の雨除けの覆いのことを材質を問わずイラカと呼んでいたようである。
又、天照大神の、方に神衣を織りつつ、斎服殿に居しますを見て、則ち天斑駒を剥ぎて、殿の甍を穿ちて投げ納る。(神代紀第七段本文)
児の名を彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と称す所以は、彼の海浜の産屋に、全く鸕鷀の羽を用て草にして葺けるに、甍合へぬ時に、児即ち生れませるを以ての故に、因りて名けたてまつる。(神代紀第十段一書第一)
屋敷を取り囲む籬の外から家を望むと屋根の上の方ばかりが見えている。紀女郎に逢おうとして逢えないことを、彼女の名にあるイラなるところ、屋根のイラカにまつわって言うために「黒木の屋根」が歌われている。イラカは見えているがイラツメには逢えていないというのである。「黒木の屋根」とは何かが考究されなければならない。
「黒木」を詠んだ歌は万葉集中に他に二首ある。
太上天皇の御製歌一首
はだすすき 尾花逆葺き 黒木もち 造れる室は 万代までに(万1637)
天皇の御製歌一首
あをによし 奈良の山なる 黒木もち 造れる室は 座せど飽かぬかも(万1638)
右は、聞くならく、「左大臣長屋王の佐保の宅に御在して肆宴きこしめすときの御製なり」といふ。
前者は元正上皇、後者は聖武天皇の歌である。長屋王がしばしば詩会を開いた「作宝楼」に、上皇と天皇を招いて宴会を行ったときの歌と考えられている。前者の万1637番歌は、屋根の材料にススキを用い、根元の方を上、穂先の方を下にして葺いていった茅葺き屋根で、樹皮を剥がないままの木を棟の上に据えて雨漏りしないようにしたか、あるいは柱などに用いた建物であるとされている。花穂を持つ「尾花」や「逆葺き」について儀礼的な意味合いを見る解説書があるが、論点がずれている。建物の要点は屋根にあり、雨漏りさせず外へ外へと水を逃がしやるように造ることが第一に求められる。
茅葺き屋根は下から上へと葺いていく。茅材を束にして根元の方を下、穂のある方を上にして重ねていき、大きな針で下地とを結いつけることで厚みのある茅葺きができあがっている。そして、軒部分を刈り込んで見栄えよく仕上げていることが多い。十分に厚みがあるから、一部腐ったり、鳥にほじられたりしても、その部分だけ補修(差し茅)をすれば数十年は機能させ続けることができる。屋根の最大の弱点は棟部分で、雨漏りを生じさせない工夫が凝らされている。大棟部分の仕舞い方としては、茅に樹皮を巻いたものを束ねて載せる形態がよく見られた。檜皮葺きの効果を加味しているものと思われる。

万1637・1638番歌は、黒木を使い、茅を逆葺きにした新室について褒めている歌と考えられている。両歌とも原文に「室」とあり、顕宗前紀の室寿きの寿詞の流れを汲むものとも指摘されている。他に新嘗祭の神殿のように捉える解釈もあり、示唆的である(注7)。新嘗祭や大嘗祭の神殿は、儀式が終わったらすみやかに壊される。つまりは、簡易に作られた小屋、仮廬を再現させたものである(注8)。木の皮を剥ぐことなく、茅葺き屋根も重ね積んで刈り揃えることもしない。茅を屋根にばっと掛け広げることを考えれば、茅の根元のほうを束ねたものを使うからそれが自然と屋根の上側になる。直截的に儀礼的な意味合いがあって穂先が下になるように努めているのではなく、簡便に仮廬を建てると自然とそうなるからそうしていたということである。稲刈りした後、稲架に掛けて干すのと同じ要領である。だから、「黒木」とは、そのように葺いた屋根の上に、樹皮を剥がないままの材木を載せて被せとしたということになる(注9)。考えられる可能性として高いのは、イラカとして用いたものと鰹木に使ったものとである。長屋王が新しく造った建物とは、大嘗祭や新嘗祭と一貫する儀礼である肆宴のために設けた室であったと考えられる。皇族がこぞって大嘗祭(新嘗祭)を執り行う気でいたようである(注10)
長屋王は謀反の疑いをかけられ神亀六年(729)二月に滅ぼされている。歌のなかで元正太上天皇や聖武天皇は「万代までに」や「座せど飽かぬかも」と歌っている。つまり、皮肉を言っているのである。長屋王は臣下の身分なのに、大嘗祭に一貫する儀式の施設をこしらえている。分不相応だと難癖をつけられ、見咎められる糸口を与えてしまった。即位した聖武天皇が「座」すことに「飽」きることがないと宮讃めしているのは、大切な祭事である新嘗祭用の建物だから表面上は素直に受け取ったものだろう。とはいえ、そのような建物を自邸に作って人々を招いて直会のように宴会を開くことは、豊明節会に擬しているのであって分不相応であると因縁をつけた物言いに転じ得る。謀反を企てたとして滅ぼされた前年のこと、神亀五年の秋の歌であったと推測される。

万779番歌で大伴家持が持ち出している「黒木の屋根」も、新嘗祭で作られるような鰹木を備えたイラカのことであると筆者は考える(注11)。
次の万780番歌では、「黒木取り草も刈りつつ」と歌っていて、屋根の材料を調達する主題が貫かれており、茅葺き屋根にする「草」が明記されている。前の歌では「板葺き」としていた。
その間の整合性はどう定められるのだろうか。
一つには、屋根の傾斜面は茅葺きで、イラカ部分に木材を使ったとする考え方である。雨をしのぐにあたって屋根の弱点は大棟部分だから、そこを被せるために葺く「黒木」をクローズアップさせて万779番歌は歌われているとするのである。特に、新嘗祭の仮廬を格好つけるために鰹木を載せたいのなら、そのための「黒木」は重宝される。ただし、今日は持って行かず、「明日」なら行くという。なぜなら、今日持って行っても新嘗祭の日だから逢ってはくれないと思うからである。新嘗祭の歌として次の歌は有名である。
誰そこの 屋の戸押そぶる 新嘗に 我が背を遣りて 斎ふこの戸を(万3460)
新嘗祭の時に、夫を遠ざけてまで潔斎して家に籠っている。つまり、その日、紀女郎に逢いに行っても無駄足ということになる。だから万779番歌にあるように明日に順延しようということになるが、明日になれば新嘗祭は終わっていて、そのための仮廬も必要なくなっている。材木を持って行っても不要であり、始末に困るものでさえある。万780番歌では、一生懸命仕えてみても全然あなたは誉めてはくれないでしょうと歌っている。時宜に合わないことは努力の甲斐がないということである。
黒木取り 草も刈りつつ 仕へめど 勤しき戯奴と 誉めむともあらず〈一に云ふ、仕ふとも〉(万780)
紀女郎と名にあるイラツメが欲しがっている時にイラカにする「黒木」を持って行かずに、必要がなくなってから持って行っても役立たずなのである。歌にツカフという言葉が慎重に用いられている。家持が女郎にツカフ(仕)とはツカヘルことであるが、立場を逆にすれば、女郎が家持をツカフ(使)ことであり、それはまた、屋根材をツカフ(使)ことでもある。新嘗祭が終わったら使えないのであって、家持は使えない男である。「勤しき戯奴」とお褒めいただくことはない、とは、勤勉に働く下僕ではあるが褒めるには値しない、という意味である。「勤し」は「競ふ」、「急ぐ」と同根の言葉とされている。紀女郎からすれば、今日、さっさと持って来たらいいのに、ということになるが、だからと言って今日は潔斎しているから会うことはない、というアンビバレントな状況を歌い当てていることになる。
「戯奴(ケは乙類)」は「別(ケは乙類)」と同音である。「別」は、上代に人の名前につけられることがあり、分流や分遣の意から出たとする説があるが不明とされている(時代別国語大辞典816頁)。大伴氏の祖とされるのは、天孫降臨条の天忍日命(記上・神代紀第九段一書第四)や神武東征説話の道臣命(神武記)、日臣命(神武前紀戊午年六月)とされており、新転地へと赴く時に現れる随臣である。そのことを大伴家持は自負していて、大伴氏はワケなのだ、しかもヤカモチという名なのだから家屋のことなら何でもできるエキスパートのはずだという思いを紀女郎に抱かせながら、ワケはワケでも「戯奴」にさえ当たらないようだと、自虐的なネタにして物語っているものと思われる。動詞「別く」は区別、分別することをいい、已然形の「別け(ケは乙類)」はすでに別けてしまったことを表す。屋根の頂、大棟に載せれば降ってくる雨を屋根面のどちらかに別けてしまうことはできているはずだが、ぐずぐず言ってイラカにする材を必要とする新嘗祭当日は持っていかなかったのだから、ワケの風上にも置けないと戯れているわけである。
最後の万781番歌は、「紀女郎」のキ(紀)から作っている。連作のなかで材木の木(キは乙類)から名前の紀(キは乙類)へと転じている。紀伊国のことである。今いる恭仁京からも旧都の平城京からも、国境を越えてはるかに遠いところにある。「道の長手」は、行政単位である国をまたいで通じるアウトバーン、古代の幹線道路の遠く続くことを言っている(注12)。実際がどうだったかは問題とされない(注13)。今話題としている話のなかでは、昨夜は新嘗祭の潔斎中だからと返された。ここからまた、紀女郎のいるという紀の国まで行くことを考えると大変である。そこでまた返されることを思うと嫌になってしまう。なにとぞ今宵は返さないでほしい、道は遠くてたまらないから、と歌っている。大げさな歌いぶりがおもしろみを生んでいる。
以上の解釈、言語ゲームとしての歌問答であったという理解が正しいことの根拠は、実は万776番歌の紀女郎の少しトンチンカンに思われる歌いぶりがすでに証明している。彼女は、家持の伝えたいことについて気づいていた。だが、わざとわからないふりをしてぞんざいな受け答えをしている。そのような応答のことを、古語にイラフ(動詞)、イラヘ(名詞)という。彼女の名にあるイラに掛けたアクションをとっている。呼びかけに対する適当な返事やあしらい、生半可でいちおう答えておくといった簡単な応答で対処していた(注14)。
翁いらふるやう、「なしたまひそ。……」といふ。(竹取物語)
……、いとはづかしと思ひて、いらへもせでゐたるを、……(伊勢物語・六十二)
わづらはしくて「まろぞ」といらふ。(源氏物語・空蟬)
声 舒盈反、コヱ、キク、ナ、ラシ、イラフ、アラハス、オト、ナラス、ノノシル、禾者ウ(名義抄)
イラの話をしているなと気づいていたから、イラヘの態度でこたえた。そしてまた、「小山田の苗代水の中淀にして」という特殊な譬えを使っている。稲作の行事である新嘗祭のことを言っているとわかっているから「苗代水」を話題にしているのである。黒木歌群の相聞贈答歌が歌われた日は、ちょうど新嘗祭に当たっていたのだろう。彼女が実際に忌籠りをしたかどうかはわからない。それでも、歌を振ってみた家持の意図は紀女郎に通じていて、話が通じる相手だと嬉しく思い、五首も歌を畳みかけて贈るに至っている。
彼ら、彼女ら上代人は、言葉遊びに興ずることに無上の喜びを覚えていた。これは貴族社会のみに限られる言語活動ではない。無文字時代の口頭言語を主軸にする上代の言語世界全体にかかわることである。社会全体の言語ゲームとしてヤマトコトバは使われていた。言葉は使用されてのみ存在する。地口、洒落、頓智をもとにした芳醇なヤマトコトバの世界がくり広げられていた。文字時代の我々の感覚とは違うから、ともすれば下らないと評されるものでもある。しかるに真の万葉集研究とは、異文化に入り込んで上代人がどのように考えていたのかを探り出すフィールドワークである。文字記号に籠絡された言語活動しか知らない現代のものの見方を適用しても、歌の真意に近づくことはできない。
(注)
(注1)恋愛感情を抜きにして相聞歌が歌われているから「疑似相聞」と見立てている。しかし、そもそも万葉集に記されているのは歌であり、つまりは言葉である。歌を通して恋愛感情を汲み取っている。「相聞」形式の歌があり、その吐露する感情の代表に男女の恋愛関係における言葉があるだけで、その逆ではない。
(注2)用字に関しても紀女郎がかかわっているとする井手氏の考えについては、漢文学との関係を指摘する意見ともどもここでは深入りしない。本稿で述べるように論外だからである。
多田氏は次のようにまとめている。
……家持と紀女郎とのやりとりは、徹底したことばの戯れによって成り立っている。お互いの磨ぎすまされたことばが創りだす世界に浸りこみ、その中での演技を通じて虚構の連帯空間を形成していく、そのような営みをそこに見ることができる。挑発、揶揄、切り返しといった互いの掛け引きを通じたそのやりとりは、もとより純粋な恋歌のそれではない。いわば、戯れの世界の中に、男と女の関係を構築しようとする風雅な遊び心がそこにある。そうした世界に家持を誘い込むについては、むろん、年上である女郎のリードがあったことはたしかであろう。が、繰り返すように、爛熟した天平期の貴族文化のありかたこそが、こうしたやりとりを可能にしたのである。このようなところに、後期万葉の世界を生み出す当時の社交生活の一端をうかがい見ることができるのである。(117頁)
本稿の主旨はこれとは異なる。大伴家持と紀女郎との二人の間の閉じた言葉のやりとりであるとは考えられないからである。前提として「爛熟した天平期の貴族文化」を設定する必要があるとしたら、それは貴族以外には通じない歌であったということになる。平安時代の貴族が源氏物語の世界に没入していたのと同次元で扱うことはできない。歌は歌われて声として存立していた。誰が聞いてもよくわかり、うまいことを言っているとおもしろがることができてこその歌である。ヤマトコトバが、ヤマトという一つの国にまとめあげるのに大いに寄与したことと表裏を成す。ヤマトコトバ語族の言語ゲームとして正しく認識されなければならない。
(注3)年齢については系譜から推定されており諸説ある。例えば、大森1985.。
(注4)万3371番歌にコチデツルカモ〔許知弖都流可毛〕とあることから、「言」+「出」の約とする説を佐竹昭広氏が提唱したようである。万3371番歌は東歌である。
(注5)「父公が楚き目は見せずとしたまひし、」(東大寺諷誦文稿)と見える。
(注6)次項に、「棟 爾雅に云はく、棟は之れを桴〈音は敷、一音に浮、無祢〉と謂ふといふ。唐韻に云はく、〓(木偏に㥯)〈隠の音、去声〉は棟なりといふ。」とある。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄は、「按説文、甍、屋棟也、国語晋語注、西京賦薛綜注、竝云、甍棟也、兼名苑蓋本二於此一、蓋自二屋表一言レ之、則謂二屋脊一為レ甍、自二屋中一言レ之、則為レ棟也、」と愚考している。
(注7)多田2009.312頁。
(注8)穂積2022.は、大嘗祭の建物が「準備された舞台装置のようなパーツ構成」から成る「仮設建物」(214頁)であったとしている。当を得た見解である。
(注9)屋根の造りとしてはさまざまな手法がとられていて、一概に述べられるものではない。樹皮を剥いだ白木を載せた例も見られる。樹皮をつけたままの丸太を載せると、樹皮との間に虫が棲みつくこともある。また、後藤1953.は、板葺屋根の葺代の板そのものではなく、葺板の押さえの木に黒木、皮も剥がない丸木を使っていたことを表しているとしているが、辻褄を合わせようとした後講釈になっている。歌は、歌われた時、声が消えていく前に相手にその言葉が通じるものでなければ用をなさない。説明調の内容が歌に昇華していくことはない。
(注10)新嘗祭は、天皇に限らず各自それぞれが行うことがあった。
丁卯に、天皇新嘗御す。是の日に、皇子・大臣、各自ら新嘗す。(皇極紀元年十一月)
ただし、それぞれが勝手に行うことと、そこへ天皇らを招待するのとでは意味合いが変わってくる気がする。
(注11)「屋根」という言葉を roof とせずに house と捉えて柱などに「黒木」が用いられたとする考えもある。村田2021.は、「屋根」の「根」は接尾辞で「屋」を表して建物のことであり、roof は「板葺き」、「黒木」は柱などの建築部材に使われたものとする説を提唱している。
正倉院文書に見える「黒木」のうち、部材を表したもの以外の、建築物についてかかわるものに、「屋」、「殿」、「倉」がある。
作板葺黒木屋三宇〈各長五丈 広一丈八尺〉工廿人(大日本古文書5巻179頁、東京大学史料編纂所https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0005/0179?m=all&s=0163&n=20)
卅二人作黒木屋三間并庇〈柱穴堀地平并屏壁〉(同186頁、同https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0005/0186?m=all&s=0163&n=20)
卅二人作五丈黒木借板屋三宇〈柱穴堀地平壁屏〉(同350頁、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0005/0350?m=all&s=0335&n=20)
借板屋三宇〈各長五丈 広一丈八尺 高九尺〉並黒木作〈二宇事畢解収一宇不動〉造院政所者 工廿四人(16巻211頁、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0016/0211?m=all&s=0186&n=20)
板葺黒木作殿二宇〈各長五丈 広一丈八尺〉 功一百卅八人(5巻137頁、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0005/0137?m=all&s=0137)
買運破作黒木草葺倉一宇〈長一丈二尺 広一丈〉 功廿四人(同上)
これらの例から、柱や梁などの構造材に黒木、樹皮を剥がないままの木材を用いていることをもって「黒木屋」などとするのだとし、柱の穴を掘っていることからも丸太をそこへそのまま埋めているというのである。
これによって家持歌にある「板葺きの黒木の屋根」という言い方を説明しようとすると、「屋根」は「屋」のことであるとし、「垣根」などと同様、接尾語ネが付いたものと考えるようになる。そして、「板葺きの黒木の屋根」は、屋根は板葺き、柱などは黒木で造った建物のことを言っているのだとする。針の穴に糸を通すような説が見出されることになる(補注)。
理屈として通らないわけではないが、歌において「板葺きの屋根と黒木は」と詠んでいない理由は示されていない。
万葉集で「屋根」としているのはこの例のみ、「垣根」としているのは万1988番歌のみである。
鶯の 通ふ垣根の 卯の花の 憂きことあれや 君が来まさぬ(万1988)
垣根に卯の花が咲いているのは、柴垣に卯の花が絡みついて咲いているか、卯の花を垣根に仕立てるべく並べ植えて整え刈っているかである。このとき、木は根づいて育っているから、カキ(垣)+ネ(根)と言って正確である。ヤネ(屋根)という言葉も、おそらく、縄文時代以来の竪穴式住居において、草葺きの屋根の下端が地面に埋められていたところから、そう呼ばれてふさわしいと思われていたのではないか。「屋」という言葉が建物 building のことを言い、それに「根」がついて「屋根」と呼んで roof のことを殊更に呼んでいるのは、日本の気候特性に対する建物の役目は雨露をしのぐことであり、作り方がどうであれ、屋根がきちんと葺かれていることが第一要件となっていたからだろう。万葉集の歌の言葉の捉え方としては、ヤマトコトバのニュアンスを重んじることはあっても軽んじることはない。わざわざ「屋根」と言って意図的に言葉を選んでいる。roof の意を排除して building のことだと独立して考えることはできない。
前の歌では「籬」のことが歌われている。その籬越しに家屋を見るとき、建物の下部は見えずに屋根ばかりが見える。だから「屋根」に焦点が当てられて歌われている。これまでの解釈に、「板葺きの黒木の屋根」は、屋根材自体として板葺きの板に樹皮の付いたままの割った木を使っていたものとも、屋根の押さえに丸太を載せ置いていたものとも、あるいは長いものを大棟に被せ据えていたものとも想像されている。諸説の当否はともかく、視点としては正しかったと言える。
建物の系譜を考えるヒントを与えてくれる古墳時代の家形埴輪も、構成の焦点は屋根の表現に当てられていると感じられるものが数多い。切妻造りや入母屋作りの建物の屋根の形を逆台形にしていて破風部分は反り返らせ、奇異に思われることさえある。棟持柱形式にして建物の造りとは別に屋根を被せていることを表しているとも説明されている。その考えがすべてに当てはまるとは思われないが、屋根を表現したくて大きく作ることがあったのは確かだろう。家屋は何のためにあるのか。なによりも雨露をしのぐためである。壁のない竪穴式住居から家屋は出発している。屋根そのものが家であった。そして、大きな家(倉庫を含む)には籬がめぐらされる。人は、少し離れたところから仰ぎ見て知るしかない。逆遠近法で誇張された屋根の形象は、屋根とは何かを伝えるために編み出された形態であったと筆者は考えている。
(注12)拙稿「「君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」(万3724)」参照。
(注13)大伴家持が恭仁京にいて紀女郎は平城京にいるとする説や、二人とも恭仁京にいるとする説、紀女郎の家は建設中であるとする説など、二人の位置関係についてはいろいろあげられている。それらは、言葉の諧謔を楽しむ歌を聞くのに役立つものではない。事情などおかまいなしに言葉遊戯として歌は成立している。
(注14)「いらふ」「いらへ」という語については、語誌としては中古から用いられるようになったとされている。「こたふ」が単純素朴な返答であるのに対し、「いらふ」は自らが適宜判断しながら返事をする場合に多く用いられていたという(日本国語大辞典1375頁)。しかし、ここに、「いらふ」「いらへ」が上代に口頭語として存在していたであろうことが推認される。
(補注)村田2021.は、万1637番歌の儀礼性を「逆葺き」に求め、「黒木」は無関係であるとしている。しかし、この「黒木」が鰹木に用いられたものだとすると大嘗祭の建物のことが思い浮かぶだろう。また、正倉院文書に「買運破作黒木草葺倉一宇」とあるのを儀礼と関係しない根拠としているが、この黒木が柱など構造材のことではなく、屋根の鰹木を表していたとしても記述に問題は生じない。儀礼的な建物について最初から様態が決められていたことはなく、大嘗祭のように一晩使ったら取り壊す場合に自ずと仮廬のように作っていて、それが習わしになっていたということだろう。干すことを省いて「青草」を使っていたのもそれ故である。結果的に「黒木を以て構へ作り、倒に葺け。」、「構ふに黒木を以て、萱を用ゐて倒に葺け。」(儀式)という定めになっている。茅葺き屋根に耐久性を与えるためには茅材の根元の方を下にして重ね被せるように葺き進むが、稠密にしたり厚さや端面を揃えたりするには及ばず、ただ一晩だけ使うために屋根に被せるのであれば、根元の方で束にしている茅材を逆さにして切妻屋根の両側に半分ずつ出るようにして置いていけば事足りる。それが「用レ萱倒葺。」ことなのだろう。束ねている下側が屋根の頂の上に出る形になるが、その様は千木のように現れることになる。
儀式(貞観儀式)・巻第二~三の該当箇所は次のとおりである。
八神殿者為二片廂一、葺以二青草一、内安二竹棚一〈高四尺〉、其上敷レ席為二神座一、蔀廻以レ葦、開二東戸一懸二葦簾一。高萱御倉者葺以二青草一、開二北戸一、以レ葦為レ扉、内作二竹棚一、其上敷レ薦以安二御稲一。稲実殿者葺蔀以二青草一、戸亦用レ草。使宿屋者葺以二青草一、蔀レ之以レ葦、開二南戸一。使政所屋者葺蔀同二宿屋一、開二東戸一。造酒童女宿屋者葺蔀以二青草一、開二南戸一、以レ葦為レ扉。稲実公・物部男宿屋葺蔀以二青草一、開二南戸一、以レ葦為レ扉、物部女宿屋葺蔀以二青草一、開二北戸一、以レ葦為レ扉。並以二黒木一構作倒葺。
神坐殿者構以二黒木一、用レ萱倒葺、内構二楉棚一敷レ席、其上更亦敷レ絁。高萱御倉者以二四枝黒木一為レ柱、用萱片葺、薦為壁代、内構楉棚〈高四尺〉、御稲四束盛韓櫃、承塵庸布五端、白櫃四合、安二於棚上一。御贄殿者構以二黒木一、用レ萱葺レ之、以レ柴蔀レ之、編レ板為レ扉。稲実殿亦如レ之。黒酒殿者構以二黒木一、葺蔀用レ萱、薦為二壁代一。白酒殿者構以二白木一、自余同二黒酒殿一。其倉代・大炊・麴室・臼・鋪設等殿並同二御贄殿一。
……始掘二殿四角柱〓(土へんに舀)一〈〓(土へんに舀)別八鍬〉。然後諸工一時起レ手。其宮地東西廿一丈四尺、南北十五丈、中二分之一、東為二悠紀院一、西為二主基院一。其宮垣〈拵レ柴為レ垣、押二-収八重一。垣末挿拵二椎枝一者。古語所レ謂志比乃和恵〉、正南開二一門一〈高広各一丈二尺。楉為レ扉、諸門亦同。其小門准減〉。内樹二屏籬一〈長二丈〉。正東少北開二一門一、外樹二屏籬一〈長二丈五尺、悠紀国作〉。正北亦開二一門一、内樹二屏籬一。正西少北開二一門一、外樹二屏籬一〈主基国作〉。南北両門間、縦有二中籬一〈長十丈〉。其南端通レ道〈道南籬長一丈、道北籬長九丈、両国中分造レ之〉。中籬以東一丈五許尺、有二悠紀中垣一。其南北両端各開二小門一〈与二南北宮垣一相去各三丈〉。其南北門間有二中垣一。其南縦五間正殿一宇〈長四丈、広一丈六尺、柱高一丈、椽長一丈三尺、以二葛野席一覆二其上一、梲高四尺、以二北三間一為レ室、南戸蔀レ席、以二南二間一為レ堂、甍置二五尺堅魚木八枝一、著二搏風一〉。構以二黒木一、葺以二青草一。其上以二黒木一為二町形一、以二黒葛一結レ之。以二檜竿一為二承塵骨一、以二黒葛一結レ之。以二小町席一為二承塵一。壁蔀以レ草、表用二伊勢斑席一、裡用二小町席一。鋪レ地以二束草一〈所レ謂阿都加草〉、以二播磨簀一加二其上一、簀上加レ席。既而掃部寮以二白端御畳一加二席上一、以二坂枕一施二畳上一。内蔵寮以二布幌一懸レ戸。其堂東南西三面、並表葦簾、裡席障子。但西面二間巻レ簾。
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加藤良平 2025.7.2改稿初出