万葉集巻四に、門部王が出雲守に赴任していた時の「恋歌」がある。
門部王の恋の歌一首〔門部王戀謌一首〕
飫宇の海の 潮干の潟の 片思に 思ひや行かむ 道の長手を〔飫宇能海之塩干乃鹵之片念尓思哉将去道之永手呼〕(万536)
右は、門部王の、出雲守に任けらえし時に、部内の娘子を娶く。未だ幾時も有らずして、既に往来を絶つ。月を累ねて後に、更愛の心を起す。仍りて此の歌を作りて娘子に贈り致す。〔右門部王任出雲守時娶部内娘子也未有幾時既絶徃来累月之後更起愛心仍作此謌贈致娘子〕
この歌は上のように訓まれて、歌作の事情は左注のとおりであるとされている。左注をどう捉えるかにより歌の解釈も変わってくる。門部王が出雲守として赴任して娘子と情事を持つ関係になったが、それほど時も経たないうちに通わなくなった。さらに何か月か後に再び愛情が湧いたのでこの歌を作って娘子に贈ったというのである。結句にある「道の長手」について、門部王が娘子に会うために出掛けた道とする(注1)か、出雲国を離れて上京する道とするか意見が分かれるが、昨今の注釈書では後者にとる説が有力なようである(注2)。
後者をとる評言に、「たわいもない由来のようだが、一度切れた関係が再燃したというところが話の種になったのであろう。とくに女性にとっては心のぬくもる話で、享受者に女たちを想定することができる。」(伊藤1996.446頁)、「再会を期しがたい時に当たって、せめて任期中は愛を全うしたかったとの思いにかられたのであろうか。序詞から「片思」を起こす技巧は、下三句のしんみりした気分に反して軽やかで、風流の侍従と称された門部王の作であることを思えば、……」(阿蘇2006.525頁)などと見える。
これらの解説は歌の真意を理解していない。
作者の門部王が帰京する時の歌であるといったことは左注に一切触れられていない。「更起二愛心一。仍作二此歌一」とばかり書いてあるのだから、「行かむ道の長手」は「娘子」のところへ「往来」する道のことであろう。
題詞に「門部王恋歌一首」とある。万葉集中の題詞や左注に「恋歌」とあるのは、他に巻四の万559~562番歌の題詞「大宰大監大伴宿禰百代恋歌四首」、巻十五の万3603~3605番歌の左注「右三首恋歌」、巻十六の万3848番歌左注「忌部首黒麿夢裏作二此恋歌一贈レ友」である。これら「恋歌」について、伊藤1975.は、「現代にあってあまりにもポピュラーなこの語は、万葉集にはいたって少ない。……どれも物語的な歌ばかりで、実用の贈答ではない。……「恋」をテーマにする仮装の歌」(233頁)であるとしている。「実用の贈答ではない」とは実際の恋、実地の恋の贈答歌ではなく、それらしく歌に作ってみたというにすぎないということである。万559~562番歌は、宴席での戯歌として老いらくの恋を歌ったものと考えられている。万3603~3605番歌は「所に当りて誦詠する古歌〔當所誦詠古歌〕」のなかにあって、「誦詠」は宴席などの場で歌を口吟することをいい、古歌としてあるものを口ずさんでいるだけで本人に恋の気持ちがあるわけではない。万3848番歌は、夢のうちに歌を作っていたというものでやはり仮構の歌である。この万536番歌でも門部王は恋心を率直に歌っているわけではなく、「恋」をモチーフにしてでっちあげた歌を拵えているのである。
そのことと呼応するように、左注には「起二愛心一、仍作二此歌一」と記されている。言葉遊びの戯れの結果として語られたことが示唆されている。門部王が娘子に復縁を願って送った歌ではないのである。左注の最後にも「贈二–致娘子一」とあって「贈二娘子一」とはない。「致」字を付けているのは、ただ歌を届けたにすぎず、答歌を求めておらず、今後も没交渉であることを表している。即興的なおもしろさのために、恋心を表しているかのように擬した歌を作ったということである(注3)。
これだけ条件が揃っていながらなにゆえ理解が進んでいないのだろうか。それは、歌の訓みが誤っているからである。
万葉集中に「思哉」、「念哉」、「念也」などは「思へや」と訓まれることが多い(注4)。已然形+ヤの形である。「念甕屋」(万2638)、「念倍也」(万3013)、「於毛倍也」(万3604)などと仮名書きの例もあって確かである。したがって、次のように訓まれるべきである。
飫宇の海の 潮干の潟の 片思に 思へや行かむ 道の長手を〔飫宇能海之塩干乃鹵之片念尓思哉将去道之永手呼〕(万536)
一・二句目の「飫宇の海の潮干の潟の」は「片思」を導くためだけの序であると考えられてきた。しかし、それほど単純なものではなく、潮の干満と密接に絡んだ事柄を表すのではないか。
「道の長手」という言葉づかいは万葉集に六例あり、本当にすごく長い道のりのことを表すだけでなく、夜這いに通うことのできるほどの近距離を表す例も見られる(注5)。
国遠き 道の長手を〔路乃長手遠〕 おほほしく 今日や過ぎなむ 言問もなく(万884)
ぬばたまの 昨夜は還しつ 今夜さへ 吾を還すな 道の長手を〔路之長手呼〕(万781)
上の例が本来の姿であって、下の例はそれを援用した誇張表現であるとわかる。万536番歌の場合、「道の長手」を誇張表現とするには少々ネックがある。「潮干」状態で「道の長手を」娘子のもとへ通おうとすると干潟を進むということになる。干潟に長い道が現れたかもしれないが、それがいかに長かろうと、次に潮が満ちてくるまでに歩くことができる距離しか表し得ない。何を言っているのだろうか、というところにこの歌の妙味がある。
左注の説明に、「未レ有二幾時一、既絶二往来一。累月之後、更起二愛心一」とあり、「起二愛心一」したのは門部王のほうである。それで再び娘子のところへ通おうと思って「行かむ」と歌っている。その道は飫宇の海、今、中海と呼ばれているところが、弥生時代に潟湖であった砂州が奈良時代当時、崩れたようになっていて、潮が引いたときにのみ現れる道のことを言っていると考えられる(注6)。そして、「飫宇の海の潮干の潟の」は「片思」を導く序でありつつ、反転して「片思」であるから「飫宇の海」は「潮干の潟」になっていると想定している。すなわち、双方向にかかると考えているのである。「片思」だから「道の長手を」「行かむ」と思っているが、娘子のほうに気がないのでは行っても仕方がない。両思いなら行きたいのだが、そうなると「片思」ではないから「潟」はなくなってしまって「道の長手」は水没して行こうにも行くことはできない。もう、どうにもならないね、と興じている。この解釈は、万葉集に特異な「恋歌」という題詞の特徴、その恋が仮装、仮想、仮構されたものであるという意味によく合致し、また、左注の説明書きの文言と齟齬を来すこともない。ゆえに、他の説は棄却され、本説においてのみこの歌は解されて正しいと言える。
飫宇の海の 潮干の潟の 片思に 思へや行かむ 道の長手を(万536)
飫宇の海の潮干の干潟をいう片思いに思うのか、いやいやそうではなく満ち足りた両思いであるのだから長い道のりをあなたのところへ行こうと思うが、そうなると片ではないから潟はなくなり道は水没して消えてしまい行くことができません、いやはやとんだことですね。
(注)
(注1)娘子に会うために出掛けた道とする説の比較的新しいものとして、窪田1949.の見解をあげる。
作歌の事情は、左註で明らかである。管内の一娘子に関係し、中絶した後、再び通つて行かうとした際のもので、この歌は、今夜娘子の家へ行かうとした日、予め使をもつて贈つた歌である。歌はその事情に即したもので、一面には国守として高く地歩を占めつつ、同時に一面には、細心な注意をもつて娘子に訴へてゐ、その矛盾が技巧を生み、それがまた文芸的ともなつてゐるものである。「飫宇の海の鹽干の潟の」は、「片念」の「片」にかかる序詞で、「片念」を強く云はうとしてのものである。今は「片念」といふべき関係ではなく、王自身その点は恃むところあつてのことと思はれるから、これは訴である。又これは、下の「道の長手」に響いてゐるもので、道の労苦を強めていふ意で、同じく訴である。更に又「鹽干」は、ここは夕暮の干潮であらうから、その意では今夜といふこと、或は時刻までも暗示してゐるものである。即ち序詞に他の意味の複雑なものも持たせたもので、これは技巧である。「思ひや去かむ」の「や」の詠歎にも、訴の心があつて、「道の長手を」と響き合つてゐる。一首、心を籠めたもので、かうした実用性の歌が、既に文芸的となつてゐたことを示してゐるものである。(94~95頁、漢字の旧字体は改めた)
(注2)解釈史については澤瀉1959.158~160頁参照のこと。他に儀礼歌の形骸化したものとする曲解説が飯田2002.にある。ただし、飯田氏があげている類聚三代格・巻七、「勅、比季国司多娶二所部女子一為二妻妾一。自レ今以後、悉皆禁断。国雖二隔越一不レ得二輙娶一。若嫁与郡司者解二-却見任一、百姓者准下觧二見任一罪上論レ之。但家妻聴二自将去一。」(天平十六年十月十四日)の禁令については後考を俟ちたい。門部王のこの歌がその周囲に受容されているとなると、男女の関係において優越的地位の濫用に当たるような事例であり、「勅」は本歌の余波として発せられているのではないかと疑われる。
(注3)左注は、実態のない恋を詠じた歌に実態を付与するために後付けされたとする被翻弄説が新谷2005.、影山2013.にある。
(注4)「思へや」と訓む点については、拙稿「大宰府における長屋王の変関連歌(万328~335・955~956)について─「思へや(も)」の用法とともに─」も参照されたい。
(注5)ナガテは原文に「長手」、「永手」、「奈我弖」とある。他にナガチが三例あり、原文では「長道」、「奈我道」と記されており、同義とされている。地理的特性を汲み取りながらも、「道の長道」を直線的に延びる古代道路のことをいうとする牽強説が神2011.にあって興味深い。この二語は別語であろう。
(注6)「飫宇の海」のオウは出雲風土記に「意宇」と表記され、「入海」と呼んでいる。現在の中海に当たる。門部王が言っている「長手」が具体的にどこのことを指すか定められないが、モンサンミッシェルや江の島に似た環境であろう。古地理学では、奈良時代には海水準が高くなり、弓ケ浜砂州が途絶えて海水が侵入し、中海中心部より東側では鹹度が上がっていたという。出雲風土記に海産物が見えているのはその影響であると説かれている。
(引用・参考文献)
伊藤1975. 伊藤博『万葉集の歌人と作品 下』塙書房、昭和50年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第2巻』笠間書院、2006年。
飯田2002. 飯田勇「「遊行女婦」をめぐって─万葉歌を読む─」『人文学報』第330号、東京都立大学人文学部、2002年3月。
澤瀉1959. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第四』中央公論社、昭和34年。
影山2013. 影山尚之「門部王の詠物二首について」『武庫川国文』第77号、2013年11月。武庫川女子大学・武庫川女子大学短期大学部リポジトリ https://doi.org/10.14993/00000574
窪田1949. 窪田空穂『萬葉集評釈 巻第四』東京堂、昭和24年。
新谷2005. 新谷秀夫「門部王の「恋の歌」をよむ」『高岡市万葉歴史館紀要』第15号、平成17年3月。
神2011. 神英雄「門部王(かどべのおおきみ)「飫宇の海」歌の景観論的考察」『人文社会科学論叢』第20号、2011年3月。宮城学院女子大学機関リポジトリ https://doi.org/10.20641/00000183
土佐2023. 土佐秀里「二人の門部王─万葉集の「出雲守」「弾正尹」の検討を中心に─」『日本文学論集』第82冊、国学院大学国文学会、令和5年3月。
「宍道湖・中海のおいたち「古地理のうつりかわり」」島根県ホームページ https://www.pref.shimane.lg.jp/infra/kankyo/kankyo/shinjiko_nakaumi/kosyou_suishitu_hozen_keikaku/03/sn_03keikaku_oitachi.html (2023年11月4日閲覧)
加藤良平 2023.11.4初出