記紀にアマテラスがイハヤ(石屋・石窟)に籠る話がある。本稿では、そのイハヤのあり方とその話にまつわるヤマトコトバについて検討する。
スサノヲの心が「善」いものか「邪」きものか判断するのに、天の安の河をはさんでウケヒ(誓約)合戦をしている。スサノヲは身勝手な解釈をして、勝った勝ったと言い張ってはさまざまないたずらを働く。アマテラスははじめのうちは咎めないで勘違いがあるのだろうと好意的な解釈をしていたが、しまいには天の石屋に籠ってしまう。
故、是に、天照大御神、見畏み、天の石屋の戸を開きて、刺しこもり坐しき。……是を以て、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、……。……天手力男神、戸の掖に隠り立ちて、……。是に、天照大御神、恠しと以為ひ、天の石屋の戸を細く開きて、内より告らししく、……天照大御神、逾よ奇しと思ひて、稍く戸より出でて臨み坐す時に、其の隠り立てる天手力男神、……尻くめ縄を以て其の御後方に控き度して、白して言はく、「此より以内に得還り入りまさじ」といひき。(記)
此に由りて、発慍りまして、乃ち天石窟に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。……時に、八十万神、天安河辺に会ひて、其の祷るべき方を計ふ。……亦、手力雄神を以て、磐戸の側に立てて、……。……乃ち御手を以て、細に磐戸を開けて〓〔穴冠に視〕す。時に手力雄神、則ち天照大神の手を奉承りて、引き奉出る。……則ち端出之縄〈縄、亦云はく、左縄の端出すといふ。此には斯梨倶梅儺波と云ふ。〉界す。(神代紀第七段本文)
天石屋(天石窟)に籠っている。「天石屋戸」、「磐戸」はあくまでも「戸」である。日本の玄関によく知られる外開きドアであろう。タヂカラヲはいかに力持ちでも、戸に取っ掛かり(ドアノブ)がないから開くことはできない。アマテラスは、外がにぎやかで気になって戸の隙間から窺ってみたが、全体の様子を見渡すことはできなかった。タヂカラヲは「隠二-立戸掖一」(記)、「立二磐戸之側一」(紀)っているから、アマテラスの視界には戸が遮りになって容易に隠れられていた。次いで、アマテラスはさらにドアを押し開いたので、その手を取って引きずり出した。その戸が引き戸であることは建具の歴史からもあり得ない。
「開二天石屋戸一」くこと
記紀で若干の違いがある。記の原文に「開天石屋戸而刺許母理 〈此三字以音〉坐也」とある点を検討する。「天石屋戸を開きて、刺しこもり坐しき。」と訓める。西郷2005.に、「戸を開いてこもるといういいまわしは日本語としておかしい。書紀にも「天石窟に入りまして磐戸を閉して幽り居しぬ」(本文ならびに一書)とあるし、ここは文句なく「閇」または「閉」であるべきところだと思う。もっとも伝来の諸本みな「開」とあるから、それを重んじようとするのは分る。しかしだからといって「開」をとるならば、文献学的誤謬(fallacy)に陥り、文献に忠勤をはげむあまりかえって日本語をないがしろにする結果になりかねない。」(129~130頁)とある。そして、本居宣長・古事記伝にならって「開」は、「閇」、「閉」の誤字としている(注1)。西宮1975.はこの説を批判し、元来閉じられていた戸を開いて内に入り、お籠りになったという意であると解している。その場合、「刺し」は下接する自動詞の意を強める接頭語で、自発的に籠ったことを表し、天石屋戸は閉じているのが常態だからわかり切ったことは書かないのであるという。この考えを踏襲して、新編全集本古事記も、「もともとは閉じている戸を開いてこもるのである。」(63頁)とする。筆者はこれらの議論に飽き足らない。天石屋戸は自動ドアなのであろうか。
サシについて、(a)接頭語、(b)鍵をかける、の二義が考えられる。接頭語であったとしても元来の動詞の「さす(刺・指・挿)」に由来しており、原義を留めていることがある(注2)。垂仁記に、「城の外に刺し出しき。(刺二-出城外一。)」の例があり、勢いよく出たことを表すとされ、自動詞的接頭語に自動詞が下接し、強意の接頭語であると類型化されている。しかし、稲の俵を積み上げた防御壁から外へ出たのだから、突き抜け出たという方向性を保っている。さしあがる、さしのぼる、さし曇る、さし並ぶ、さし向かふ、さし寄る、など、軽い接頭語とされるが、方向としてまっすぐであることをニュアンスに持っている。アマテラスの「刺しこもり」のサシを接頭語とすると、石屋(石窟)の内でのお籠りの、動きのない状態とはそぐわないことになる。天石屋戸は、アマテラスが難なく開けることができたのに、力の強いタヂカラヲは開けることはできなかった。すなわち、サシは動詞である。「さす(閉・鏁)」は鍵をかけること、「戸さす」の鎖すに当たり、戸に刺して鍵をしめる意である。鍵を「しめる」は、扉の把手を紐で結わえて締めることに由来する語であろう(注3)。

合田1998.は、古代日本における施錠具には、いわゆる海老錠と呼ばれるものと、くるる鉤、鑰、鎰などと称されるものの二つに大別している(注4)。前者は錠前と鍵のセットで機能するもの、後者はL字状に大きく折り曲げた細長い鉄棒に木の柄をつけた鉤である。海老錠は、いわゆる観音扉につけられていたり、櫃の箱と蓋をさすのに用いられていた。廉価な神棚でも、飾り具として形だけ海老錠をつけているものが多い。一方、鉤は、戸に開いた鍵穴からしのばせて、内側の枢、すなわち、落とし桟や、かんのき(閂、貫木、関木)(かんぬき)、または、鎹を外側から操作するものであった。鍵穴の例としては、九世紀後半と目される埼玉県池守・池上遺跡の井戸枠転用の観音開き扉の片方の出土物があり、慕帰絵詞には引戸らしき戸につけられている図も残る。
文献に見られる「鏁子」は錠前で、「鑰」、「鎰」はくるる鉤であるとされる。新撰字鏡に、「鑰 以灼反、開鑰、止佐志」、「鏁着 戸佐須」とある。和名抄には、「扃 野王案に扃〈音は経、度佐之〉は戸扇の鉄鈕、内に用ゐ以て門を関ぐ所なりといふ。」とある。
家にありし 櫃に鏁刺し〔樻尓鏁刺〕 蔵めてし 恋の奴の つかみかかりて(万3816)
群玉の 枢に釘刺し〔久留尓久枳作之〕 固めとし 妹が心は 揺くなめかも(万4390)
門立てて 戸も閉したるを〔戸毛閇而有乎〕 何処ゆか 妹が入り来て 夢に見えつる(万3117)
門たてて 戸は闔したれど〔戸者雖闔〕 盗人の 穿れる穴より 入りて見えけむ(万3118)
…… 隣の君は あらかじめ 己妻離れて 乞はなくに 鎰さへ奉る〔鎰左倍奉〕 ……(万1738)
万葉集の一例目は海老錠に鍵をかけること、二例目は枢に釘を刺して戸を開かなくした意、三例目は内側から戸をしめている。四例目も同様ながら下の句に「穴」とあり、鍵穴からの連想とも感じられる。盗人は地面に穴を掘って鍵を無効にしたとも考えられるが、鍵穴から侵入した話としては崇神記の三輪山伝説がよく知られる。ここに、サスとあるのは、細いものを穴に差し込むことで、三・四例目の戸の鍵も枢である可能性が高い(注5)。五例目は、鍵を持つことが主婦の象徴とされたことを示すもので、戸を支配する者から主婦のことを戸主の転で刀自という。記紀に見える「鉤」の例には次のようなものがある。
故、教の如くして、旦時に見れば、針に著ける麻は、戸の鉤穴より控き通りて出で、唯に遺れる麻は三勾のみなり。(崇神記)
故、訶和羅之前に到りて沈み入りき。故、鉤を以て其の沈みし処を探れば、其の衣の中の甲に繋りて、訶和羅と鳴りき。故、其地を号けて訶和羅之前と謂ふ。(応神記)
門毎に水を盛るる舟一つ、木鉤数十を置きて、火の災に備へ、恒に力人をして兵を持ちて[蘇我の]家を守らしむ。(皇極紀三年十一月)
一例目は「鉤穴」とあり、鉤の存在が確認される。鉤がくるる鉤であるところから、曲っていることを示し、麻が勾(輪)に残っているように記している。二例目、三例目はL字状の道具のことで、どこか特定の鍵として用いられているものではない(注6)。先の曲った金属の棒の転用可能性を示している。
以上のことを踏まえれば、記に「開天石屋戸而刺許母理〈此三字以音〉坐也」とあったのは、アマテラスが天石屋戸の鉤を持っていて、それを使ってロックを外して戸を開け、中に入ってから再びロックしたと考えることができる(注7)。神社の本殿の鍵を預かる人のことを鍵取り、鍵主、鍵預かりといい、創始に深くかかわった家の人が世襲することがあった。刀自が家の鍵を預かるのに似ている。すなわち、アマテラスは天石屋の戸主、ないし、創始者ということであろう。
記の話の進め方は巧みである。記で「天石屋戸」、つまり、石屋の戸と考えているものが、紀の場合、「磐戸」、つまり、戸が磐のように堅固なものと形容している。この形容は、ひとつには、戸自体は壊すことができない堅牢な鎧戸のようになっていることを表すものであろう。むろん、戸(トは甲類)は、あくまでも出入口である。和名抄に、「戸 野王案に、城郭に在るを門と曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとす。」とある。地勢的に出入口のようになっているところもトという。
天離る 夷の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 倭嶋見ゆ(万255)
逆に言うと、出入りができなくなれば、それは戸ではなくなる。「磐戸」は、一見、形容矛盾であるが、堅牢で鎖す機能に優れて動かないけれど、出入りするときには動かすことができることを言っている。それこそが鍵の機能である。正倉院文書に、「不動鎰」、「常鎰」、「挙鍵」、「久留理鍵」、「折鍵」などとあり、その実態は特定できないものの表現したかったイメージは伝わってくる。
天石屋戸(磐戸)にどのような鍵の機能があるか考究することは、いつ頃の人がその伝承を創作したかを知るヒントになる。今日、記紀のなかの「神話」(注8)と称されるものを、歴史学、考古学、文化史学、そして何より言葉から読み解いていくことであり、それこそが総体としての古代研究の醍醐味である。
イハヤに籠ることと救世観音
「天之石屋(天石窟)」のイハは堅牢なさまを表す。天孫降臨条に「天之石位(天磐座)」とあって、堅くて確かな神の御座所のことを表している。イハクラのイメージは、山の尾根、馬の背と呼ばれるところに当たる。また、「天磐樟櫲船」、「天津磐境」、「天之石靫」なども同様である。したがって、イハヤとは、堅固な家屋か岩窟のようなところである。岩窟のことはムロ(窟、室)ともいう。
是の日に、御窟殿の前に御して、倡優等に禄賜ふこと差有り。亦歌人等に袍袴を賜ふ。(天武紀朱鳥元年正月)
丙寅に、浄行者七十人を選びて、出家せしむ。乃ち宮中の御窟院に設斎す。(天武紀朱鳥元年七月)
室〈無戸室附〉 白虎通に云はく、黄帝、室〈音は七、无路〉を作り、以て寒暑を避くといふ。日本紀私記に無戸室〈宇都无路〉と云ふ。(和名抄)
僧坊、庵室のことも「房」(孝徳紀白雉四年五月)という。天武紀の記事は「神話」とされる天石窟のやりとりを再現したものといえよう。そして、イハヤ、ムロと仏教との関わりもにおわせる。石屋(石窟)が堅固な家屋とするなら、屋根が石材系の瓦葺きであることに対応している。瓦葺きの屋根は当時珍しく、天皇の宮殿でさえ飛鳥板蓋宮と断っている。寺院建築に先行しており、斎宮忌詞では寺院を「瓦舎」という。すると、天の石屋条の話は、アマテラスが瓦葺きの寺に籠ってしまったので、アニミズムの神々が集まって安の河原で引き戻そうと談じたものであるとの解釈も成り立つ(注9)。「安」は八洲で、たくさんの洲のある河原のこと、水を間にしているので神さまたちは互いに喧嘩することがない。
籠って何かをしようとした著名人は聖徳太子である。法隆寺東院の八角円堂を、いま、夢殿と呼ぶのはその名残である。彼はお堂に籠り、良い知恵が浮かぶのを待っていた。瓦を載せたこじんまりとしたお堂は、金堂や五重塔などの大建築とは異なり、僧坊的、石屋的な印象がある。彼の名はイハヤトに似たウマヤト(厩戸皇子)である。夢殿に安置されている仏像は救世観音である。フェノロサが開くまで長く秘仏とされてきた。扶桑略記に、「百済国の客日羅来朝す。身に光明有り。状火焔の如し。廐戸王子相会ひて清談す。日羅合掌して言へらく、「敬礼救世観世音、伝燈東方粟散国」といへり。」(敏達天皇十二年)、日本往生極楽記に、「母妃皇女夢むらく、金色の僧あり謂ひて曰く、吾に救世の願あり、願はくば后の腹に宿らむ。妃問ふ、誰とか為す。僧曰く、吾は救世菩薩なり。家は西方に在り。」、法隆寺東院縁起に、「則ち八角円堂に太子在世に造り給ふ御影、救世観音の像を安置す。」などとある。太子は救世観音であり、救世観音像は太子の等身大像と言われている。
救世観音の救世とは世の衆生を救うことで、特に観音のことをいう。いわゆる観音経に、「観音妙智力、能救世間苦。」とあることに由来する。法隆寺ではクセ、四天王寺ではクゼと呼び慣わされている。そもそも観音は、「若し無量百千万億の衆生有りて、諸の苦悩を受けん。是の観世音菩薩を聞きて一心に名を称せば、観世音菩薩は即座に其の音声を観じて、皆解脱することを得せしめん。(若有無量百千万億衆生受諸苦悩。聞是観世音菩薩。一心称名。観世音菩薩即時観其音声皆得解脱。)」(妙法蓮華経・観世音菩薩普門品)とあるによるとされる。観ることに主眼を置いた仏さまである。実際には見えないこと、未然のことまで観るためには夢に見るのが一法である。だから、お籠りをして眠るのである。
クセには曲瀬、すなわち、川の浅瀬の砂や石が多く集まったところの意味がある。
玉久世の 清き川原に 身祓して 斎ふ命は 妹が為こそ(万2403)
「玉久世」は地名とされる。「山城の 来背の社」(万1286)、「山城の 久世の鷺坂」(万1707)、「山城の 来背の若子」(万2362)などともある。今の木津川、もとは泉川と呼ばれた川に面した地である。新撰字鏡に、「〓〔灘の隹の代わりに鳥〕灘 同、正、呼早[旱?]反、菸るる㒵也。水に儒れ乾く也。又暵く為に竭るる也。涒に同じ。歳申に在る也。加波良、久世、又和太利世、又加太」(天治本)、「灘 佗単反、平、又勅丹・恥叚二反。砂聚まる也。浅き水顕るるを曰ふ也。一に曰はく、大歳申に在り。涒灘を曰ふ。加波良、久世、又和太世、又加太」(享和抄本)とある。涒灘は太歳に申に当たる。詩経・王風・中谷有蓷に、「中谷に蓷有り 其の乾けるを暵かす(中谷有蓷 暵其乾矣)」とあり、蓷(メハジキ)が水切れでしおれるさまを歌っている。つまり、クセとは河原である。お堂に救世の観音があるとは、「瓦」のなかに「河原」があるようなこと、すなわち、河原と瓦とは同じことだということである。河原は見た目に、瓦同様、石ころがごろごろして、それに直射日光が当たってきらきら光っていることだけでなく、建物を瓦葺きにするのは防火の要請によるもので、河原において消火用水に恵まれることと同じことなのである。河原で禊ぎをして潔斎のために夜明かしすることと、お堂にお籠りして過ごすことは、心のお勤めにおいて同じことである。
新撰字鏡の親切な説明は、衒学のためではなく、古代の言葉を理解するために必要な事柄を記したもので、辞書として面目躍如たるものがある。
吉田2008.は、玉川、玉浦、玉江とあるようなタマには、「拾い集める宝石・貝などのタマもあるが、……迂回する・くねりめぐる意の動詞タム(回・曲、自動詞四段)の活用形タマの名詞化したもの」(156頁)ということもあると地勢の上に見ている。筆者は、語の展開という意味ではなく、上代の人の言葉遊びに大いにあり得ることだと考える。すなわち、タマクセ(玉久世)は、まわりまわり、めぐりめぐる渦の状態を同語反復的に示す言葉になっている。念の入ったところで念じているという諧謔を歌っている(注10)。木津川が北流へと屈曲する部分を渦が巻くようだと感じたのかもしれない。

天の石屋は、説話にあって唐突に出現したように思われている。しかし、スサノヲのいたずらのなかに「天の斑馬」を投げ入れることがあり、また、石屋の前でアメノウズメが躍った舞台は、「うけを伏せて」作っていた。転がっていたウケ(ケは乙類)とは飼葉桶のことであろうから、石屋は厩を想定したものであったろう。厩と観音堂の共通点は、中に入っているものが大切なものだから鍵をかけること、湿気を嫌うものだから中を板敷にすること、そして、そこで寝ることなどがあげられる。厩の守り神が猿とされ、扉の鍵の落とし桟の別名は猿である。サルのおかげで中で安心して眠ることができる。クセなる涒灘は、太歳に十二支の申の別称であった。
安眠、熟睡のことを、「安寐」、「味宿」という。坂本1972.は、ヤスイは一人寝の安眠、ウマイは男女の共寝の相違と捉えている。万葉集にヤスイは、「またも近江の 安の河 安寐も宿ずに〔安寐毛不宿尓〕」(万3157)、「安寐も宿しめず〔安寐不令宿〕」(万4177)、「安寐な寐しめ〔安宿勿令寐〕」(万4179)、「安寐し寝さぬ〔夜周伊斯奈佐農〕」(万802)、「安寐も寝ずて〔夜須伊毛祢受弖〕」(万3633・3771)とある。他方、ウマイは、「人の寐る 味宿は寐ずて〔味宿不寐〕」(万2369)、「人の宿る 味宿は寐ずや〔味宿者不寐哉〕」(万2963)、「人の寐る 味宿は睡ずて〔味眠不睡而〕」(万3274)、「人の寐る 味宿は宿ずに〔味寐者不宿尓〕」(万3329)とある。また、「ししくしろ 味宿ねしとに〔于魔伊禰矢度儞〕」(紀96)ともある。シシクシロは「宍串ろ」、肉の串刺しから美味いを導くとされている。ウマイに「人の寐る」と冠するのは、対するヤスイが安らかな眠りのことながら、天の安の河原のことから神々の眠りを連想させるからであろう。すなわち、八洲によって水に隔てられているから、八十万(八百万)の神々は喧嘩せずに参集できており、眠る時もそれぞれ邪魔されずに安眠できた。よって、ヤスイは一人寝と考えて正しい。この河原のことに対して、瓦の載った建物でよく眠れるのは、神のことではないから「人の寐る 味宿」といい、対照的に共寝のことを表したのではなかろうか。石屋(石窟)と似ているものとしての畜舎としての厩は、馬医草紙絵巻の図に瓦葺きが認められ、官衙の駅家に多く瓦の出土例を見る。馬は複数、時に十頭以上が共寝する。ウマイは馬寐としても機能している。
天の石屋は観音堂さながらの構成をしている。観音像が堂内に安置されている状態は、厨子に収められているのと同じである。厨子はもとは両開きの食器戸棚であったが、玉虫厨子や橘夫人念持仏厨子のように、仏像を安置する仏龕のこともそう呼ばれるようになった。厨子のヅは慣用音で、また、竪櫃とも呼ばれる。扉は両開きで、観音開きと称されている。仏龕の龕は、岸壁や仏塔の下に彫りこんだ室のことを言った。まさに石屋(石窟)である。法隆寺五重塔の仏龕には釈迦の一生が彫塑されている。家具としての厨子も、正倉院に残る赤漆文欟木厨子を見ていると、ケヤキの木目模様から石窟の印象を与えられる。つまり、観音堂は石窟であり、厨子である。
厨子と辻
故、八十万の神を天高市に集へて問はしむ。(神代紀第七段一書第一)
記、紀本文の神々の参集の場所は「天安之河原(天安河辺)」であった。そのとき、瓦と河原とが同等であることを示していた。一書第一に「天高市」が出てくるのは、厨子と辻とが同じということを示すものであろう。水がかりしない高いところに物品を持ち寄って集まり、市が開かれたところを指して「高市」と言っている。籠り堂となる観音堂も高く険しくそびえる岩窟を利用したり、基壇の上に設けられている。高いところから飛び降りる勇気の形容として使われる清水の舞台のような構造物を伴うこともある。
海石榴市の 八十の衢に 立ち平し 結びし紐を 解かまく惜しも(万2951)
紫は 灰指すものそ 海石榴市の 八十の衢に 会へる児や誰(万3101)
言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹はあひ寄らむ(万2506)
…… 百足らず 八十の衢に 卜にもそ問ふ 死ぬべき吾が故(万3812)
交差点になったところに市は開かれ、四つ辻に立って往来の人の言葉を聞いて物事を占った。夕占、辻占である。占いは未然のことを観ることである。観音という語が依ってたつ意と同じである。お籠りとは、未然のことを知る知恵を授かるためのものである。すなわち、籠り堂、「厨子」は、衢のことをいう「辻」と同等である。天孫降臨に先立つ場面やイザナミの死ぬ場面に次のようにある。
「天の安の河の河上の天の石屋に坐す、名は伊都之尾羽張神、是遣すべし。若し亦、此の神に非ずは、其の神の子、建御雷之男神、此遣すべし。且、其の天尾羽張神は、逆まに天の安の河の水を塞き上げて、道を塞ぎ居るが故に、他し神は行くこと得じ。故、別に天迦久神を遣して問ふべし」(記上)
時に、天石窟に住む神、稜威雄走神の子甕速日神、甕速日神の子熯速日神、熯速日神の子武甕槌神有す。(神代紀第九段本文)
故、斬れる刀の名は、天之尾羽張と謂ふ。亦の名は、伊都之尾羽張と謂ふ。(記上)
「所レ斬之刀」とは、カグツチを斬った十握剣のことを言っている。それが天の石屋にあるという。石屋には厨子があったはずだから、ヲハバリ、ないし、ヲハシリとは、ヅシやツジと関係があることになる。
新撰字鏡に「躑 馳戟都歴二反、蹢字同、踦也、躅也、乎波志利」とある。漢語の躑躅は、行っては止まりすること、二、三歩行っては止まること、さらに、片足跳びのケンケンのことをいう。武烈前紀に、「躑躅ひ従容る。」とある。この熟語はまた、ツツジとも訓む。植物のツツジの語源は明らかでないが、和名抄に、「羊躑躅 陶隠居に云はく、羊躑躅〈擲直の二音、伊波都々之、一に毛知豆々之と云ふ〉は羊、誤りて之れを食ひ躑躅して死ぬ、故に以て之れを名づくといふ。」とある。今日、レンゲツツジと呼ばれる種とされている。アセビが古語に「あしび」、万葉集に「馬酔木」とも書かれ、馬がこの葉を食べるとすぐに酔うから名づけられたとするのと同様とされている。和名のあしびについては、足痺(癈)の意かとされている。葉や茎の煎汁を駆虫剤にし、ピクニックの敷物に含ませて活用した(注11)。
羊には、仏教に「羊の歩み」という慣用句があり、源氏物語・浮舟にも使われている。大般涅槃経に、「是の寿命を観ずるに、常に無量の怨讎の遶る処と為り、念念に損減して増長する有ること無し。猶ほ山の瀑水の停住するを得ざるがごとく、亦朝露の勢久しくは停まらざるが如く、囚の市に趣きて歩歩死に近づくが如く、牛羊を牽きて屠所に詣るが如し。(観是寿命、常為無量怨讎所遶、念念損減無有増長。猶山瀑水不得停住、亦如朝露勢不久停。如囚趣市歩歩近死、如牽牛羊詣於屠所。)」(巻第三十八)とある。羊は生贄に捧げられるべき動物とされていたことによるという。すなわち、囚人同様、市中引き回しのうえ獄門である。死のことである涅槃と密接な関係にあると捉えられており、見せしめのために首をさらされる刑場は、人々の集まる河原や大路の交差点であり、辻に牽かれるからヒツジと和訓に名づけられたと考えられる。牽く、羊とも、ヒは甲類である。推古紀七年九月条に、「百済、駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻を貢れり。」と、本邦に棲息しないものが献上されている。他に、雄略紀二年十月条に、「遂に林泉に旋憩ひ、藪沢に相羊び、行夫を息めて車馬を展ふ。」とある。車輪のだんだん止まっていく様を形容している。
歩みが遅くなることは、足の病気、アシナヘである。新撰字鏡に「癖 疋亦反、入、腹内癖病也、足奈戸也」、「䮿 才安反、足奈戸久馬」、和名抄に「蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓は阿之奈閇、此の間に那閇久と云ふ〉は行くこと正しからざるなりといふ。」とある。蹇の音がケンなので片足跳びをケンケンというのかもしれない。名義抄には「癖 音辟、ヒヤク、クセ、宿食不消」とある。消化不良の病の字とされ、腹が痛いから脚を曲げて痛みをこらえている形になる。つまり、救世観音のクセとは、「久世」と記された曲瀬ばかりでなく、ツツジを食べて「足なへ」になった羊のことでもあることになり、漢語、躑躅の意とオーバーラップしている。厨子とは辻なのである。
万葉集では、ツツジバナの用字に「茵花」(万443、3305)とあり、和名抄に「茵芋 本草に茵芋〈因于の二音、迩豆々之、一に乎加豆々之と云ふ〉と云ふ。」、新撰字鏡に「槃 上字同、豆々自」、「茵芋 岡豆々志、又云、伊波豆々志」、「羊躑𨅛花 三月に花を採り陰干しにす、毛知豆々自」とある。槃は般に通じ、めぐる、もとほるの意である。茵芋(茵蕷)(注12)は本草経集注に記載がある。茵はしとねである。説文に「茵 車の重席なり、艸に从ひ因声」とあり、儀礼・燕礼・大射礼に「司宮、重席を兼せ捲き、賓の左に設けて東を上とす。(司宮兼捲重席、設於賓左東上。)」とある。この座布団は、円座、藁蓋のことと思われたのであろう。縄をまるく巻き、それを車状にとめたものである(注13)。ツツジのツツは、ハブを表す轂の異称、「筒」のことと考えられたのではないか。羊躑躅のこととされるレンゲツツジをはじめツツジの特徴として、枝が車枝になることが知られる。剣の神が縄の変形であるのは、剣に蛇身を見るからで、蛇はまたクチナハといい、朽ち縄の意かという。馬の毛に見られる旋毛を巻くように、蜷局を巻いたようになっている。渦巻く様子は円座、藁蓋を髣髴とさせる。したがって、ヲバシリとはツツジである。
また、「尾羽張」については、つむじ風のとき、鳥は尾、羽をピンと張る。和名抄に「飆 文選詩に云はく、廻飆、高樹を巻くといふ〈飆の音は焱、和名は豆无之加世〉。兼名苑注に云はく、飆は暴風下より上るなりといふ。」とある。「飄風」(神功前紀仲哀九年三月)、「飃」(万199)、「猛風〈川牟之加世〉」(霊異記上34)、名義抄に「辻 ツムシ」とあり、馬の旋毛のこともいい、ツジの古形、ないしは同形とされている。やはりぐるぐると巻きあげるイメージである。そして、旋風が起こりやすいのは河原である。水の上と地の上では太陽熱による気温上昇に違いがあり、大気の状態が不安定化しやすい。よって、「尾羽張」と「雄走」とは同じ意味でひとつの言葉、ツジを表し、厨子の変改したものであることを語っている。記では「逆塞二-上天安河之水一」とある。河の水を堰き止めてダムにすることが「逆」になるには、道具の用法が通常とは反対という意味であろう。円座は、藁蓋なる蓋であるから、上から被せ敷くのが順当なところ、逆に下から持ち上げる形で排水溝にあてがって塞ぐことを言っている。つむじ風が下から上へと逆方向に吹くと、葺いてある屋根瓦が剥がれ飛ぶ。厨子に当たる石屋(石窟)に籠っていたアマテラスは覚悟して再度現れることになっている。ヤマトコトバの言葉の論理のキー、癖のある曲った鉤が開いたということである。論理階梯を踏み越えて和訓が定まった瞬間を物語る説話になっている。
この話は、枢戸があり鉄製のくるる鉤があること、馬がいて厩の様子がわかること、瓦をカハラとヤマトコトバに理解して瓦葺きの建物を見ていること、観音ならびに観音堂のことを知っていること、といった条件が揃ってはじめて生まれるものである。お堂に籠ることが伝承で聖徳太子に結び付けられている以上、この話は太子によって創られたか、その周辺の産物と見るのが確からしい。相当な知恵をもっての作であることから考えて、並大抵の頭脳ではなかったとされる聖徳太子その人に起因するものと筆者は考える。それを外側から証明する術はない。しかし、言葉の上では、話の内側から完結的に自己定義して閉じた一つの系を得ている。文字を持たなかった人たちが知恵を駆使してすべてを話のなかに落し込みくるみあげてしまったものが、たまたま文字時代の幕開け期に書記化されて記紀の形で残っている。異なる文化圏の異なる考え方による傑作として迎えられなければならない。
(注)
(注1)「○閇、旧印本延佳本共に開と作るは誤なり、今は一本に依リつ、さて此は多弖々と訓むべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/200、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注2)時代別国語大辞典329頁。
(注3)正倉院の扉は海老錠のうえに封印することで知られる。
(注4)カギとしては、開き戸のあおりどめも絵巻等には見られるがここでは割愛する。
(注5)鎹は掛金とも呼ばれ、その場合は鍵は「かける」ものであろう。
(注6)くるる鉤の場合、長さや曲り具合の角度を調節すればにわか作りのものでも開かないことはない。鍵開け師がどこでも使えるマスターキーとして持ち合わせていたと思えばよいだろう。
(注7)倭姫命世記には、「天の磐戸の鑰領かり賜はりて」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018230/9?ln=ja参照)とある。
(注8)「神話」という言葉は myth の訳語として明治時代中期に発明されたものである。その呼称に囚われて、神さまのことだから人がすることとは別次元であり、空想の産物であると考えるのは不適切である。
(注9)岩窟に籠る修行も仏教由来かと感じさせられる。この話が創作されたのは、案外新しく、少なくとも弥生時代まで遡ることはできないだろう。
(注10)「玉久世」について、山田1955.は、「按ふに[新撰字鏡]天治本の注の「カハラ」と「クセ」とは二語にして同義のものなるべし。「クセ」といふ語はこれの外に普通には見えねど、地名には山城国に久世郡、久世郷あり。その地は蓋、木津川の渡瀬のありし所なるべし。又巨勢と云へる地名もこの「クセ」の一転せし語ならむ。さてこの歌[万2403]を顧みるに「玉久世」は字のまゝに「タマクセ」とよみ、その久世即ち河原の石の清きを玉になぞへて称美したる語なるべく清き河原といへる語に対して重ねていへる語にして殆ど枕詞といふべき位置に立てりと認むべし。さればこの歌たゞ清き河原に身祓きして妹が為に斎ふといふに止まれるに似たり。」(147頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注11)今日、鹿の食害に悩まされ、庭園のツツジの新芽、花の芽は食べられるため、代りにアセビが植栽されることがある。
(注12)木下2010.378~381頁はシーボルトの標本をも引き、「茵芋」はミヤマシキミではないかと推論している。
(注13)和名抄に「茵〈褥附〉 野王曰はく、茵〈音は因、之土祢〉は茵褥、又、虎・豹の皮を以て之れを為るといふ。唐韻に云はく、褥〈而蜀反、辱と同じ、俗に音は迩久、今案ふるに毛の席の名なり〉は氊褥なりといふ。」、「円座 孫愐に曰はく、䕆〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ひ、一に和良布太と云ふ〉は円い草の褥なりといふ。」とあり、別項ながら「褥」の一種として円座を捉えている。拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」参照。
(引用・参考文献)
澤瀉1962. 澤瀉久孝『万葉集注釈 巻第十一』中央公論社、昭和37年。
木下2010. 木下武司『万葉植物文化史』八坂書房、2010年。
合田1998. 合田芳正『古代の鍵』ニューサイエンス社、平成10年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第二巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
坂本1972. 坂本信幸「宮人の安宿も寝ず」『萬葉』第78号、万葉学会、昭和47年2月。萬葉学会ホームページ http://manyoug.jp/memoir/1972
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
高橋1985. 高橋康夫『建具のはなし』鹿島出版社、1985年。
西宮1975. 西宮一民「古事記訓詁二題」関西大学国文学会編『吉永登先生古稀記念 上代文学論集』関西大学文学会、1975年。
水野2011. 水野清『記紀万葉語の研究』笠間書院、2011年。
山田1955. 山田孝雄『万葉集考叢』宝文館、昭和30年。
吉田2008. 吉田金彦『吉田金彦著作選2 万葉語の研究 下』明治書院、2008年。
加藤良平 2023.5.31加筆初出