一
我が国における爆発的感染の最初の記録は崇神天皇の時代に遡る。卑弥呼の頃、3世紀初めと推測される。当時のヤマトの国はおおむね奈良盆地を版図としていたと考えられる。
此天皇之御世伇病多起人民為盡(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1184138/1/17)
此の天皇の御世に、伇病多に起りて、人民尽きなむとす。(崇神記)(注1)
崇神天皇時代、疫病が流行して、人口がゼロになりそうになった、と言っている。これがどういう流行病であったか記述からはわからないものの、それまでになかった感染症が猛威をふるったことは読み取れる。
中国大陸では西暦220年に後漢が滅ぶ。国の混乱から逃れようとして朝鮮半島を過ぎ、列島へ渡る人もいたことだろう。風土病が伝染病となる契機である。伝染病のことを「伇病」と記している。和名抄に、「疫 説文に云はく、疫〈音は役、衣夜美、一に度岐乃介と云ふ〉は民、皆病むことなりといふ。」とある。トキノケとは一時的に流行する病気の意味である。今日的に言えば、集団免疫をつけて克服する病ということになる。ほかに、「伇気」(崇神記)、「疾疫」(崇神紀五年)、「疫病」(崇神紀七年十一月)などとある。疫の字は疫病、疫病神の疫である。記の真福寺本にある「伇」字は、万葉集にも「課伇」(万3847)と見える。エはヤ行のエ(ye)である。
中国で「役」字は、公役にあてられて家から離れて遠く赴き、戦争や土木工事に使役されることをいう。ヤマトコトバでは、「役」をエ、ないし、「発つ」と続けてエタチという。各地から徴用され、そのうちの誰かが伝染病の病原体を持っているとクラスターを作り、そこから一気に伝播する。よってエヤミという。「役」をエと訓むのは、「「疫」の中国北方の字音 yek の k の脱落したもの。」(岩波古語辞典201頁)からとされている。釈名に、「疫 伇也。鬼行有るを伇と言ふなり」とある。「役」は、呉音にヤク、役所、役割、役者など、漢音にエキ、兵役、服役、現役、使役などと使われている。もともとの「役」の字は、彳は道が交差しているところの形、殳はほこを手で持っている様子を示している。よって、人が遠いところへ行かされてこき使われることを表す。古代日本では、溜池、道路、古墳、都城、大仏などを造らされたり、防人に行かされたとき、またその後も前九年の役、文禄・慶長の役、西南の役など、辺地での戦に駆り立てられたときに用いられた。
古事記に見える「伇」字は、集韻に「役に同じ」とされるが、楊子方言には「拌 棄つるなり。楚にては凡そ物を揮棄する、之れを拌と謂ふ。或いは之れを敲と謂ふ。淮汝の間、之れを伇と謂ふ」とある。「伇」字を太安万侶が選択的に使っている理由については今のところ検討されるに至っていない。
二
まず、ヤマトコトバのエ(ye)の意味から考えてみる。ヤマトコトバの ye という音には、ほかに兄、江、枝、柄、胞の意味がある。ヤマトコトバはもともとは文字を持たない音声言語であったから、同じ音として一つの言葉(音)に集約しているということは、それらの間にどこか共通する意味合いを有し、ひとつのカテゴリーとして捉えていた可能性を表している。
e(ア行のエ)……得、榎
ye(ヤ行のエ)……兄、江、枝、柄、胞
we(ワ行のヱ)……絵、餌、会、廻、恵
エ(ye)というヤマトコトバの共通項を考えてみる。枝は、花を咲かせ実をつける部分で、収穫物が期待できる素敵なところである。分かれていくほどその数が増え、また、幹と違って折れやすい性質がある。江は、海(湖)岸線が陸地のほうへのびているところで、潮の干満で水没を繰り返しており、船の停泊がかなう場所である。胞は、赤ん坊が生まれて後から出てくる後産で、胎児を包んでいた膜や胎盤のことである。懸命に新しい命が母胎から分かれ出ることを意識した言葉である。柄は、鎌、鋤、鍬の刃の部分につけた柄(束)である。柄杓の柄のように伸びていてつかみやすく使いやすいが、壊れやすくもあった。柄があるから刃を立てやすくなって農耕や土木は長足の進歩を遂げた。兄については、古代は末子相続であったため、兄弟の兄のほうはフロンティアへ進出して新しく家を構える者であり、大成功をもたらす可能性はあるものの大きなリスクを伴う存在でもあった(注2)。
すなわち、現状に満足せずに伸びて行ってハイリスク・ハイリターンを求めるところを、エ(ye)という言葉は示している。楊子方言で「伇」は棄てることであるとしていたのは、ハイリスク・ハイリターンな金融商品は余裕資金で行い、すべてが失われたとしてもかまわないつもりでいるようにというのと同じことである。逆に言えば、じっと我慢する生活に耐え、不便を厭わずただ暮らすことだけを考えるなら、エ(ye)的なものを求める必要はない。エ(ye)は自給自足、不要不急のべたべたの日常から離れたところを指している。人間の活動を伸長させようとすれば自ずと疫病の危険性を伴う、そのことをエ(ye)なる一語によって悟ることができるようヤマトコトバは作られているのである。その痕跡は、奈良時代に用いられた助動詞「ゆ」の連用形のエ(ye)に見て取れ、今日、「あらゆる」、「いわゆる」という形に化石的に残っている。この「ゆ」は、自然の成り行きから自発してすることや、自然の成り行きから可能となること、自然の成り行きとして被る受身の意味を表す。その連用形名詞に当たるエ(ye)という言葉は、それ自体として自然の成り行きとして展開していってしまっていることを自己循環的に表している言葉なのだろう。進取の精神をもつ人間が活動するということは、自然の成り行きとして活動的になり、リスクをはらんでいる。
枝も江も胞も柄も、自然の成り行きで出で来て現れている。木の枝や後産の胞は生命活動としての側面としてそうであるし、海や湖の江部分は波や水の流れから、ひしゃくの柄は使い勝手を考慮すれば付けたくなるのは当然のことである。ただ、あまりにも厳しい時代が訪れた時、それらは求められない。命脈を保つことのみを念頭に置いて耐え忍ぶのが肝要である。木を移植するときに根を痛めることがあるから思い切り枝を伐っておく。出産時はきわめてリスクが高く、後産の胞が出てこないときには残念ながら母親のほうは諦め、子へ継がれた命のバトンが優先される形になっていた(注3)。湖面の水位が下がれば江から一気に水が引いていき、船出は次回の大潮時までお預けであった。柄は壊れやすくて取れてしまうが、なくても器部分さえあれば水を汲めないことはない。命や木(の命)や船(の命)や器(の命)などを当座優先的に考えれば、エ(ye)に当たるものは緊急時には不要なものとして棄て去るべきなのである。
三
「伇」に罹った人は社会から棄てられた(注4)。そうしなければ社会の方を守ることができないからである。強制的に就かされる労役や有無を言わさない強引な徴税とは、家族、国元から引き離され拘束されて使役されたり、自分のものから取り上げられて勝手に使われてしまうことである。村で最小限、最低限の暮らしをなんとか維持していく以上の余剰に当たるところは、自然の成り行きとして棄てなければならない存在であるという考えなのであった(注5)。
では、疫病としての「伇」はどのように防げばいいのだろうか。感染症なのだから、ソーシャル・ディスタンスをとればいい。病原体、ウイルスを持っている人と接しなければ罹らない。周知の真理であり、歴史的に経験則として知られていたものと思われる。だから、疫病の意味を「伇」、「役」字で表している。水際対策、検疫体制、国境封鎖は有効であると常識的に理解されていたことを物語る。対策が甘いとつらいことになる。
標掲文に続く記事をあげる。
爾くして、天皇愁へ歎きて神牀に坐しし夜、大物主大神、御夢に顕れて曰ひしく、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古を以て、我が前を祭らしめば、神の気起らず、 国安らけく平らけくあらむ」といひき。是を以て、駅使を四方に班ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めし時、河内の美努村に其の人を見得て貢進りき。爾くして、天皇の問ひ賜はく、「汝は誰が子ぞ」ととひたまふに、答へて白ししく、「僕は大物主大神の、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶りて生みし子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子にして、僕は意富多多泥古ぞ」と白しき。是に天皇、大きに歓びて詔はく、「天の下平らぎ、人民栄えむ」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以て神主と為て、御諸山に意富美和之大神の前を拝み祭りき。
又、伊迦賀色許男命に仰せて、天の八十びらかを作り、天神地祇の社を定め奉りき。又、宇陀の墨坂神に赤き色の盾・矛を祭り、又、大坂神に黒き色の盾・矛を祭り、又、坂の御尾の神と河の瀬の神とに、悉く遺し忘るること無く幣帛を奉りき。此に因りて、伇気、悉く息み、国家安らけく平らぎき。
此の意富多多泥古と謂ふ人を神の子と知りし所以は、上に云へる活玉依毘売、其の容姿端正し。是に壮夫有り。其の形姿威儀、時に比無し。……(崇神記)
三輪山伝説を語り始める文章は、「此謂二意富多多泥古一人所三-以知二神子一者、上所レ云活玉依毘売、其容姿端正。」と訓まれている。意富多多泥古が神の子であると知った理由は、活玉依毘売の容姿が端正であった、云々ということになっている。しかし、神の子だと知った理由を四代前の母方が美人だった点に求めても説明にはならない。
意富多多泥古は、活玉依毘売の玄孫、五世の末裔である。上の告白から、大物主大神が陶津耳命の娘の活玉依毘売と結婚して生んだ櫛御方命の子である飯肩巣見命の子である建甕槌命の子であるのが、意富多多泥古であるとわかる。このことは、意富多多泥古が神の子であると知った理由について、すでに了解済みであるということを示している。訓みが誤っている。
此謂意富多多泥古人所以知神子者上所云活玉依毘売其容姿端正。
此謂二意富多多泥古一人所三-以知二神子一者、上所レ云。活玉依毘売、其容姿端正。
此の意富多多泥古と謂ふ人を神の子と知りし所以は上に云へり。活玉依毘売、其の容姿端正し。
第一の文章は、意富多多泥古と謂う人を神の子と知った理由はすでに上に述べたとおりである、の意味で、前の段落の最後につけるべきものである(注6)。ここまで意富多多泥古時代の伇病の話をしている。次に、遡って活玉依毘売時代の三輪山伝説の段落となる。
五
では、どうして、上の意富多多泥古の告白によって、意富多多泥古という人を神の子と知ったのか。大物主大神や活玉依毘売から玄孫の意富多多泥古に至る系譜を述べていた。それをきちんと答えられることは難しいことであったかもしれないが、それ以上のことを言外に述べている。すなわち、この系譜は、大物主大神―櫛御方命―飯肩巣見命―建甕槌命―意富多多泥古(注7)という男系の系譜である。ヲ(雄・男)の続いていることが文字どおり伝えられている。ヲとは、ヲ(麻・苧)でもあり、ヲ(緒・弦)でもある。ヲ(麻)のことは後の三輪山伝説に続いている。ヲ(緒)のことを今、言っている。撚り合わせた繊維の一筋につづくもので、半永久的に切れずにどんどん長く伸びていく。そこから、「年の緒」、「息の緒」などの意に転用され、命の意味に用いられた。「己が緒を 盗み殺せむと」(記22)と見える。命脈を保つことがヲなのである。非情ではあるが、非常事態だから、エ(胞)のことは顧みずにヲ(命)を優先させている。あくまでも命をつないでいく、その命のことがヲであり、子や孫が死んで老人が生き残っても、それはヲではない(注8)。
したがって、意富多多泥古が男系系譜を告白した時点で、「於レ是天皇、大歓以詔之、天下平、人民栄。」と、希望の表明に至っている。何をすれば良いかがわかったということである。ヲばかりに専念すればいい。そうすればいつの日にか「天下平、人民栄」へと転換できると展望されたのである。「以二意富多多泥古命一、為二神主一而、於二御諸山一、拝二-祭意富美和之大神前一。」と、ヲのことだけ考えてすべての活動を自粛しようと決め、また、「仰二伊迦賀色許男命一、作二天之八十毘羅訶一、定二奉天神地祇之社一。又、於二宇陀墨坂神一、祭二赤色盾矛一、又、於二大坂神一、祭二黒色盾矛一、又、於二坂之御尾神及河瀬神一、悉無二遺忘一、以奉二幣帛一也。」と、ロックダウンしたのである。坂から入ってくるな、山裾から入ってくるな、河から入ってくるな、と標識を立てている。よその人にとっても、異様な盾や矛、幣帛が置かれていたら、奈良盆地は何らかの緊急事態下にあると知れ、近づかないようにしようと気づいたに違いあるまい。
以上のことから、崇神記のこの「伇病」は、呼吸器感染症であった可能性が高いと勘案される。そして、上代の、ヤマトコトバを音声言語としてしか用いていなかった人たちにとって、この逸話は呼吸器感染症に対する有効な手立てをきちんと語り継ぐものになっていた。知恵ある暮らしがあり、知恵ある人々がいた。感染症が蔓延する緊急時にはエ(ye)は棄ててヲに専念せよ、と伝えているのである。
(注)
(注1)拙稿「聖徳太子の髪型と疫病(えやみ)の関係について」参照。なお、崇神紀に、「五年に、国内に、疾疫多くして、民死亡れる者有りて、且大半ぎなむとす。六年に、百姓流離へぬ。或いは背叛くもの有り。」とある。政府を批判したり、コロナ疎開や他県のパチンコ店へ行くといったことをしている。紀では祭祀を行い、「是に疫病始めて息みて、国内漸に謐りぬ。五穀既に成りて、百姓饒ひぬ。」(崇神紀七年十一月)とあり、終息まで二年かかっている。
(注2)古代の、末子相続が原則における兄については、複数の跡取り候補を設けておいて、その年長者から外へ出すのは子孫存続の上で理にかなったやり方と言える。親が老いて育つべきだった弟に何かあった場合、一人前にやっていけている兄を呼び戻せば済むからである。そしてまた、村を出て新田開発をしている兄は、いずれかの場所で感染症が拡大しているときには棄て置かれたことだろう。
歴史的にそもそも末子相続であったのか、やがて長子相続へと変わっていったと定められうるのかについては検証しつくされてはいないが、言葉から考えれば実に整合性がとれており、実態はあったものと考えられる。白鳥1925.参照。
(注3)現代的な感覚と異なるところがあるが、人口が半分になるような状況下では仕方がないと考えられていたと思われる。
(注4)納体袋に入れて、周りの人が決してウイルスに触れない配慮が求められる。死に顔も見ることができないのはつらいが、それが「伇」である。家族のなかで感染者が出た時、子供のいる家庭はどう対処したらいいのか難題であるが、当時は見棄てられたということを太安万侶の用字「伇」は語っている。
(注5)古代の、ヤマトコトバを作り、使っていた人のものの考え方は、江戸時代の人民統治において生かさず殺さず政策が取られていたのに通じるところがあるようである。新型コロナウイルスの感染拡大下で、自粛と補償はセットだと主張する悠長な視点は、ヤマトコトバのエ(ye)の使用には見られない。尾山2018.が「「疫」に「伇」が通用している理由は「え」同士の語義の繋がりではない」(3頁)と断じているのは、現代的視点で見てのことだろう。
(注6)「上所謂建豊波豆羅和気王者、……」(開化記)の例は、「上に謂へる建豊波豆羅和気王は、……」と訓む。「者」字までが主語である。
(注7)先代旧事本紀・地祇本紀に、「九世孫大田田禰古命。亦名、大直禰古命。此命、出雲神門臣女美気姫為妻、生一男。姓氏録云、出雲神門臣天穂日命十二世孫、鵜濡渟命後也。」とある。
(注8)ドーキンス2006.の主張するビークルという考え方は、このヲ(命)の捉え方とよく似ている。あるいは、当該感染症において男性の死亡率が高く、極端にヲ(雄・男)の人口減少を引き起こしていたのかもしれない。死亡数に男女差があったればこそ、三輪山伝説という半月にまつわる伝承に続いているとも考えられる。拙稿「三輪山伝説」参照。
なお、平安時代以降、天皇制において男系男子をもって世継ぎに当てることになっているが、なぜそうなっているかはともかく、ヲに基づいた発想を基底としていると言える。
(参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹明広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
尾山2018. 尾山慎「「疫(え)」と「伇(え)」」「古代語のしるべ」第五回、三省堂、2018年。三省堂総合ホームページhttps://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kodaigo05(2025.7.23確認)
白鳥1925. 白鳥清「古代日本の末子相続制度に就いて」池内宏編『東洋史論叢─白鳥博士還暦記念─』岩波書店、大正14年。
ドーキンス2006. リチャード・ドーキンス著、日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳『利己的な遺伝子 増補新装版』紀伊国屋書店、2006年。
加藤良平 2020.4.20初出