はじめに
聖徳太子の名にまつわる紀の記事は以下の二つである。
元年の春正月の壬子の朔に、穴穂部間人皇女を立てて皇后とす。是四の男を生れます。其の一を厩戸皇子と曰す。〈更は名けて豊耳聡聖徳といふ。或いは豊聡耳法大王と名く。或いは法主王と云す。〉是の皇子、初め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ。豊御食炊屋姫天皇の世にして、東宮に位居す。万機を総摂りて、行天皇事たまふ。語は豊御食炊屋姫天皇の紀に見ゆ。(用明紀元年正月)
皇后[穴穂部間人皇女]、懐姙開胎さむとする日に、禁中に巡行して、諸司を監察たまふ。馬官に至りたまひて、乃ち厩の戸に当りて、労みたまはずして忽に産れませり。生れましながら能く言ふ。聖の智有り。壮に及びて、一に十人の訴を聞きて、失ちたまはずして能く辨へたまふ。兼ねて未然を知ろしめす。且、内教を高麗の僧慧慈に習ひ、外典を博士覚哿に学びたまふ。並に悉に達りたまひぬ。父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ。故、其の名を称へて、上宮厩戸豊聡耳太子と謂す。(推古紀元年四月)
聖徳太子のもつさまざまな呼び名のバリエーションをまとめると、(a)厩戸、(b)豊聡耳、(c)上宮、(d)聖徳、(e)法王に大別される。それぞれの名の由来は文字に記されているとおりとされている。けだし、厩戸という名は、母親の穴穂部間人皇后が禁中巡行の際、馬官の厩の戸にぶつかって安産したことによる、豊聡耳という名は、一度に十人の訴えを聞いて間違えることがなかったという故事に基づく、上宮という名は、父親の用明天皇が溺愛して、宮殿の南の上殿に住まわせたという出来事から来る、聖徳という名は、神聖視されるようになってからの抽象的な美称である、法王という名は、法華経譬喩品にある仏教用語に由来し、仏教との立場から神聖化した抽象的な美称である、というのである(注1)。
それらの説明は説明としてみても、それ以前のこととしてなぜこれほどたくさんの名を持っているのか疑問である。用明紀に「更名」とあるのは、別称、渾名のことであろう。当時、本名という概念があったか、また別名との間に位置づけの違いがあったか定かではない(注2)。命名の謂れとなっている説話は、紀を編んだ人がわざわざ譚として記すに値すると認めていたものである。古代の人に特徴的な思考法として捉え返さなければならない(注3)。
記紀には人名の命名説話がいくつかあり、天皇や太子のそれには次のような例がある。
既に産れませるときに、宍、腕の上に生ひたり。其の形、鞆の如し。是、皇太后の雄しき装したまひて鞆を負きたまへるに肖えたまへり。〈肖、此には阿叡と云ふ。〉故、其の名を称へて、誉田天皇と謂す。〈上古の時、俗、鞆を号ひて褒武多と謂ふ。〉(応神前紀)
初め天皇生れます日に、木菟、産殿に入れり。……大臣、対へて言さく、「吉祥なり。復昨日、臣[武内宿禰]が妻の産む時に当りて、鷦鷯、産屋に入れり。是、亦異し」とまをす。爰に天皇の曰はく、「今朕が子と大臣の子と、同日に共に産れたり。並に瑞有り。是天つ表なり。以為ふに、其の鳥の名を取りて、各相易へて子に名けて、後葉の契とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて、太子に名けて大鷦鷯皇子と曰へり。木菟の名を取りて、大臣の子に名けて、木菟宿禰と曰へり。(仁徳紀元年正月)
生れましながら歯、一骨の如し。容姿美麗し。是に、井有り。瑞井と曰ふ。則ち汲みて太子を洗しまつる。時に多遅の花、井の中に有り。因りて太子の名とす。多遅の花は、今の虎杖の花なり。故、多遅比瑞歯別天皇と称へ謂す。(反正前紀)
[白髪武広国押稚日本根子]天皇、生れましながら白髪にましまし、長りて民を愛みたまふ。(清寧前紀)
反正天皇の名、多遅比瑞歯別は、生まれながら歯が一本の骨のようにきれいな歯並びで、瑞井という井戸の水を産湯にしたところ、タヂの花、すなわち、今のイタドリの花が井戸のなかに落ちた。それで名とした。イタドリはタデ科の多年草である。茎を噛むと酸っぱく、スカンポと呼ばれる。タヂが持ち出されたのは、一つには、酸っぱくて歯を剥き出すから歯並びのことが思い起こされ、二つには、そのイタ(板)+ドリ(取)という名から、板を取る鋸、古語にノホギリといわれるものを連想させるからである。歯を剥くと鋸のようなきれいな歯並びをしていた、ないしは出っ歯だったということを、直接的には「如二一骨一」といいつつ、間接的には井戸にイタドリの花が落ちたとの逸話を拵えて伝えているものと思われる。ただし、その際、「瑞井」と称しており、仁徳紀の瑞祥話と同じく太子の名にするのにふさわしいとのこじつけが含まれている。仁徳天皇の名以外は生得的な肉体的特徴を名としている。今日でも渾名としてよく聞かれるものである。
聖徳太子の名の場合、あまりに数が多く、また、直接、身体的な特徴を語ることもなく、盛んに逸話めいた話ばかり出てくる。名の由来を語るものが命名説話であるとしても、名は周囲の人から呼ばれてはじめて名となる。数が多すぎてはアイデンティティが拡散してしまう。逸話を真に受けてばかりでは本質に迫ることはできない。本稿では、彼の名が一つの身体的特徴に由来し、多様に言い換えられたものであることを明らかにする。
厩戸
厩戸皇子については、誕生譚に述べられている厩について大掛かりな検討が必要となる。その点については別に論じた(注4)。ここでは結論のみ述べる。厩の戸に当たるものとしては馬が出て来れないようにするもの、マセバウ、マセガキがある。たった一本棒が横に架されただけで馬は出られない。厩戸の本質とは何かと言われれば、そのことだと言って間違いないだろう。だから、ませた餓鬼やませた坊やのこととして命名されている。洒落となぞなぞと知恵を駆使して綽名にうまく嵌め込んでいる。
では、彼の身体的特徴とは何か。皇后は諸司の監察を行っている。いろいろな部署を見てまわっており、馬官の一箇所を重点的に見ているわけではない。馬官では馬の様子をちょっと見たいだけに過ぎない。厩舎を開けて建物の具合や室内の衛生状態をチェックする必要はない。馬の顔を見れば大事にされているかどうか見通せるからである。つまり、彼女にとっての厩の戸は、厨子の上部に付けられた観音開きの戸と同じく覗き窓で十分であった。窓(ドは甲類)は、マ(間、目)+ト(戸)の意といい、和名抄に、「牖 説文に云はく、牖〈与久反、字は片戸甫に従ふなり。末度〉は壁を穿ちて木を以て交へと為す窓なりといふ。」、「窓 説文に云はく、屋に在るを窓〈楚江反、字は亦、牎に作る。末度〉と曰ひ、墻に在るを牖〈已に墻壁具に見ゆ〉と曰ふといふ。兼名苑に一名に櫳〈音は籠〉と云ふ。」とある。諸字の載る名義抄に、「牖 音誘道、マド、向」、「窓 楚江反、マド、亦牎〓〔片偏に忩〕 和ソウ」、「扆 俗通〓〔尸垂に衣〕字、マト」などとあり、清濁両用あった可能性が高い。
マトという言葉には、円、的がある。円いさま、形状のマドカナルところから的のことをいう。的は和名抄に、「的 説文に云はく、臬〈魚列反、万斗、俗に的の字を用ゐ、音は都歴反〉は射る的なりといふ。纂要に云はく、古は射る的を謂ひて侯〈或は堠に作り、音は侯と同じ〉と為、皮を以て的を為るを鵠〈今案ふるに鴻鵠の鵠は射る処なり、古沃反、唐韻に見ゆ〉と為といふ。」とある。「鵠」字には、正鵠を射ると使われる射る的のほか、鳥の名のクグイの意もある。古語に、クグヒ、クビ、コヒ、コフなどというハクチョウのことである。豊後風土記速見郡条に、餅を的にしたら白い鳥になって飛んで行ったとする説話があり、山城風土記逸文(存疑)にも見える。また、「白鳥の」という枕詞は「鷺」にかかることがあり、「白鳥の 鷺坂山の 松蔭に 宿りて行かな 夜も深け行くを」(万1687)といった例がある。的は、白鳥や鷺とイメージが通じていたもののようである。
窓も、当初は円形に開けられるものとして認められていたのではないか。絵巻物では民家に円い窓が開けられている。そして、その円い窓を塞ぐように蓋をするに値するものとして円座、藁蓋がつけられている(注5)。

円座は、稲藁や藺草などを渦巻き状に編んだもので、主に板の間で用いられた。今日でも神殿や囲炉裏の周り、和風の内装にこだわる蕎麦屋などで使われている。宮中では、縁取りに布を縫い付け、官位によってその色を使い分けたという。また、家の壁面に円いものがつく光景としては、家の破風に的を掲げる風習が知られる。正月に行われる的の神事で頭屋を務める家が、的を描いたものを入口の上に出して印としていた。
では、このマト(窓・的・円)は、太子の何を表しているのであろうか。それを推察させるものに彼の髪型がある。物部守屋と蘇我馬子との戦いの際の記述に次のようにある。
是の時に、厩戸皇子、束髪於額にして、〈古の俗、年少児の、年十五六の間は、束髪於額にし、十七八の間は、分けて角子にす。今亦然り。〉軍の後に随へり。自ら忖度りて曰はく、「将、敗らるること無からむや。願に非ずは成し難けむ」とのたまふ。乃ち白膠木を斮り取りて、疾く四天王の像に作りて、頂髪に置きて、誓を発てて言はく、〈白膠木、此には農利泥といふ。〉「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」とのたまふ。蘇我馬子大臣、又誓を発てて言はく、「凡そ諸天王・大神王等、我を助け衛りて、利益つこと獲しめたまはば、願はくは当に諸天と大神王との奉為に、寺塔を起立てて、三宝を流通へむ」といふ。誓ひ已りて種種の兵を厳ひて、進みて討伐つ。(崇峻前紀)
古代における年齢階梯と髪型については、江馬1976.ほかに論じられている。髪の毛が伸びるにしたがいまとめ方を変えていっていた。ただし、いまだ確定的なことはわかっていない。そもそも髪型は、若者組や職業による決まりごとによって制約を受ける一方、風俗の流行り廃りの影響もあり、また、個人的な好みによっても大きく異なってくる。したがって、一概にどのような髪型をしていたかを定め切れるものではない。むしろ、記紀や万葉集に出てくる言葉によって、個々のケースでどのようなニュアンスを込めているかを見ていくことが大切になる。
束髪は、ヤマトタケルの熊襲征伐の際の記述に見える。
此の時に当りて、其の御髪を額に結ひき。……爾くして、其の楽の日に臨みて、童女の髪の如く、其の結へる御髪を梳り垂れ、其の姨の御衣・御裳を服して、既に童女の姿と成り、女人の中に交り立ちて其の室の内に入り坐す。(景行記)
……日本武尊を遣して、熊襲を撃たしむ。時に年十六。……是に、日本武尊、髪を解きて童女の姿と作りて、密に川上梟帥が宴の時を伺ふ。(景行紀二十七年)
童女の髪とあるのは、髪を束ね揚げずに垂らした髪をいっている。髪型の名としては、髪が短くて束ねられずにばらばらのままの子どもの髪型のワラハ(童)、髪を垂らしたまま項にまとめた形のウナヰ(髫髪)、伸びて長い髪を垂らしたままにした髪型のハナリ(放髪)などがある(注6)。この個所の記述については、結局のところ垂らした髪によって女装したという以上のことはわからない。
一般には、ヤマトタケルと聖徳太子の記事の二つに額に髪を結うことが記されているため、太子はこのとき十五・六歳であったと考えられている。吉田2011.によれば、聖徳太子の年齢については、伝記類ごとに、物部守屋征伐の時に、十六、十四、十五歳説があるという(44~45頁)。崇峻前紀の分注を吟味せずに解釈したところから派生した説であるように思われる。この部分には奇妙なところがある。「古俗……」と紹介しておきながら、「今亦然之」と終っている。昔も今も同じであるにもかかわらず、言わずもがなのことを勿体ぶって言っている。不可解な断り書きの分注を付けるにはそれなりの理由があるのだろう。実は太子の年齢は十七八の間で、「角子」(総角)にすべきところをあえて「束髪於額」にしていたということではないか。ヤマトタケルも変装のために髪型を変えていた。太子が年相応の髪型をしていたり、年齢以上の早熟性を語りたいのなら、「古俗、年少児、年十三四間、髫髪、十五六間、為二束髪於額一。今亦然之。」と記せばよいことだろう。
角子(総角)は、頭上に髪を両分して左右に揚げて巻き輪をつくったものをいう。そして、「束髪於額」はヒサゴハナと訓まれている。これはあまりにも洒落た不思議な訓であり、深い意味合いが隠されているものと考えられる。髪を額に一束に束ねあげると、形状がヒサゴの花、つまり、ユウガオの花に似ているからとされる。花の形が似ているばかりか、下につける実を人間の頭と対照させたことによるものと思われる。実からは干瓢を取る。厩戸に連想されたマド(窓・窗)は、簡略した字体が囱である。囱のなかの字は夕に見えるが、これは木を以て交わらせた格子窓、櫺子窓を意味する字形である。ただ、囱に似た囟は、ひよめきを表す。すなわち、国構の部分が頭部、つまり、顔である。顔が夕となっているから夕顔である。この夕顔については後述する。

太子の身体的特徴、特に、渾名で揶揄される特異点を示しているのである。髪型の名を「束髪於額」と断っている。「額」は和名抄に、「額 楊雄方言に云はく、額〈五陌反、和名は比太非〉は東斉に之を顙〈蘇朗反〉と謂ひ、幽州に之を顎〈五各反〉と謂ふといふ。」、「顱〈髑髏附〉 文字集略に云はく、顱〈落胡反、字は亦、髗に作る。加之良乃加波良〉は脳の蓋なりといふ。玉篇に云はく、髑髏〈独婁の二音、俗に比度加之良と云ふ〉は頭骨なりといふ。」とある。万葉集にも、「吾妹児が 額に生ふる 双六の 特牛の 鞍の上の傘」(万3838)という歌が載る。ヒタヒとは顔面上部のおでこの部分である。太子は頂髪、つまり、髻に四天王像を置いている。白膠木とはヌルデのことで、それを彫塑した。仏像に象るとは、当時、金銅像や脱活乾漆像のように中空であることが一般的であったから、なかが空洞であるほうがふさわしい。ヌルデには、ヌルデノミミフシ(ないし、ヌルデシロアブラムシ)という虫がついて虫瘤ができる。付子(五倍子)である。薬用のほか染色に用いられる。同じく誓いを立てた蘇我馬子はそのようなことはしていない。太子は付子のことを知っていたから、身近に生えていたヌルデの虫瘤を斮り取って彫像している。付子は鉄漿に混ぜてお歯黒に使われた。ヌリデの語源も塗ることと関係するからとされている。白膠木と記されるが、字とは裏腹に黒く塗ることがあった。いかにもわざとらしい話に拵えられている。すなわち、ヌリデによって禿が目立たないようにカモフラージュしたことを表すのだろう。太子の頭は真ん中が禿げていて、窓が開いているようであるとも、正月の奉射の頭屋の印の的のようであるとも譬えられた。十七八歳になっているけれど、髪を両分すると真ん中の禿が目立ってしまい見た目が変なことになる。厩の戸にぶつかった後遺症であるかのような、髪が脱落したたん瘤に見えるし、それはまた、ヌルデノミミフシのようなつるっとした膨らみになっていたのだろう。みっともなくないように、太子はヒサゴハナに結っていた。夕顔の実にはわずかに柔らかい毛が生えている。
太子は、「疾作二四天王像一、置二於頂髪一。」している。頂髪は、髪を手繰り上げて房のように束ねたところ、頭髻である。
是を以て、箭を頭髻に蔵し、刀を衣の中に佩く。或いは党類を聚めて辺界を犯し、或いは農桑を伺ひて人民を略む。(景行紀四十年七月)
時に武内宿禰、三軍に令して、悉に椎結げしむ。因りて号令して曰はく、「各儲弦を以て髪中に蔵め、且木刀を佩け」といふ。(神功紀摂政元年三月)
それぞれ「是以箭蔵二頭髻一」、「各以二儲弦一蔵二于髪中一」とあり、弓で使う箭や予備の弦の儲弦を、束ねてたくし上げてまとめた髪の中に入れて隠していた。髪の毛があるから隠すことができるのであり、太子の場合だけ顕れている。四天王は仏法を守護する持国天・増長天・広目天・多聞天のことである。四つの像を作ったのか、あるいは代表して一つを作ったのか明らかではない。信貴山に伝わる伝承のように、毘沙門天、すなわち、多聞天を彫り上げたとも考えられるが、ヌルデについた虫瘤の、凸部が四つあるものをそれぞれの四天王の様子に見立てられるように、四面一像に象ったと考えたほうがわかりやすい。誓いを立てて建てると言っていた「寺塔」、塔は、東西南北それぞれに顔を持つ。後代の作例では五鈷鈴の周囲に四天王を配置し象ったものが見られる。
「置於」という状況も不思議である。「置く」という言葉は、何かを持ってきて安定したところにものを設置することで、手を放して放置することでもある。自然現象の、雪や霜の降り積もってとどまることにもいう。古典基礎語辞典の「おく【置く・措く】」の解説では、「物に位置を与える意と、手から離してそのままにする意とがある。」(226頁、この項、筒井ゆみ子)とする。また、白川1995.は、「「おく」のうち、ものを置くことには置、ものをとり除くのには除を用いる。「おく」はその両義をかねる語で、〔万葉〕では置をその両義に用い、「隈も置かず」〔九四二〕、「雨間も置かず」〔一四九一〕のようにいう。〔記〕〔紀〕などでは、置と除との字義は正確に使いわけられている。」(174頁)としている。
太子の束髪於額と記される髪型は、夕顔の花のような膨らんだ形をしていたのであろう。通常のタキフサであれば、そこに白膠木で作った四天王像を差し込むことはできても、太子が曲芸師であったとは記されていないから、フィギュアをそこに「置」くことは不可能である。髪の束の上は安定せず、ゆたかな髪の毛に滑り、反発を受け、転げ落ちるであろう。手を添えていた場合、それは「置」ではなく「載」という字が、また、髷の先を切りそろえてその頂点に貼りつけたのなら、それは「置」ではなく「着」などという字が選ばれるだろう。タキフサに置けたのは、束髪のなかに四天王像を安置して揺るがないスペースがあったことを示している。すなわち、髪の毛が生えていない平らな部分が頭部にあったということである。四天王像をもって相手を威圧しようというのだから、「蔵」しや「蔵」めではなく、遠くから見て像が見えなければならない。バーコード状の髪の毛が透け、外から確認できるようによく見えたということだろう(注7)。
太子の頭部には丸い的のように窓が開いていた。円座・藁蓋との関係で言うなら、尻に敷くものと頭に開いた窓との洒落になっている。紀では「頂髪」と断られている。髻のことである。景行紀、神功紀の北野本別訓にはタブサとある。崇峻紀にタキフサときちんと訓じられてあるのは、尻を隠すべきタフサキ、すなわち、「犢鼻」という褌とを関連させて洒落としたものではないか。頭部が臀部のようであるとの謂いを強めたいための物言いである。冠位十二階を設けて官人に冠を被らせたことも、実はあれは禿隠し、頭の尻隠しなのであると、無冠の者たちの口さがないささやきが聞こえてくる(注8)。
豊耳聡・豊聡耳
「豊聡耳」については、巷間に、聖徳太子は十人の人が一度に言うことを聞き分け、とても耳が良かったので名に冠するとされている。後に作られた伝記にもある。
王の命、幼く少くして聡敏く智有り。長大るに至りて、一時に八人の白す事を聞きて其の理を辨む。又一を聞きて八を智る。故、号を厩戸豊聡八耳命と曰ふ。(上宮聖徳法王帝説)
八人時に声を共にして事を白す。太子一一を能く辨じ、各情を得、復た再び訪ふこと無し。聡敏叡智なり。是を以て名を厩戸豊聡八耳皇子と称す。(上宮聖徳太子伝補闕記)
政を聴しめす日、宿の訴の未だ決せざる者八人、声を共に事を白す。太子一一に能く辨じ答へ、各其の情緒を得て、復た再び諮ふこと無し。大臣、群臣已下を率ひて敢て御名を献る。厩戸豊聡八耳皇子と称す。(聖徳太子伝暦)
太子三つの名あり。一つには厩戸(豊聡耳)皇子と申しき。王の厩のもとにて生まれたまひ、十人一度に愁へ申すことをよく聴きて一事を漏さずことわりたまふによりてなり。二つに聖徳太子と申す。生まれたまひての振舞ひ、よそほひみな僧に似たまへり。勝鬘経、法花経等の疏を作り、法を弘め、人を度したまふによりてなり。三つに上宮太子と申す。推古天皇の御世に太子を王宮の南に住ましめて、国の政をひとへに知らしめたまふによりてなり。(三宝絵詞)
伝暦には、また、慧慈・慧聡に学ぶに、「一を問て十を知り、十を問て百を知る。」というふうに数が出てくる。伝記類での解釈では、十人ではなく八人であるとの説も多い。そして、一見、「耳」をもって聞く能力とするかに見える。「耳」という言葉の付いた名は古代に散見される。「天忍穂耳尊」(神代紀)、「手研耳命」・「神渟名川耳尊」・「神八井耳命」(綏靖前紀)、「豊耳」(神功紀元年二月)、「陶津耳」(崇神紀七年八月)などである。神功皇后は「紀直が祖豊耳」なる人物に、怪異現象の理由を問うている。そこから、「耳」には天文異変の原因を判断できる能力を表すと考える向きもある。しかし、記事では、その人は答えられずに「一老父」が答えている。陶津耳の名は、スヱ(地名)+ツ(連体助詞)+ミミ(霊霊)、すなわち、男子の尊称のことで、スヱ村の村長さんほどの意かという。この伝でいけば、豊聡耳とは、トヨは美称、ミミは男子の尊称だから、実質的にはト(甲類)という名であったことになる。厩戸のト(甲類)と同じ音である。
新撰字鏡に「聆 令丁反、聡也、聴謀也、止弥々、又弥々止志。」とある。「聡し」のトも甲類で、「研(磨)ぐ」と同根の語である。研ぐものは砥石で、古語に「砥」といい、粗い目のものは荒砥、細かい目のものは真砥と呼ばれた。和名抄に「砥 兼名苑に云はく、砥〈音は旨〉は一名に〓〔石偏に肅〕〈音は篠、末度〉、細かき礪石なりといふ。」とある。「砥」でありつつ「窓」、「的」、「円」なものがマトである。
紀の原文に、「生而能言、有二聖智一。及レ壮、一聞二十人訴一、以勿レ失能辨、兼知二未然一。」とある。「生而……。及壮……。」の構文である。大人になって生来の聖智ぶりがこれでもかというぐらいに見られたということにはなっても、「耳」という言葉自体に聖明叡智さを表す意はない。「聞く」という言葉には、➀音声・言葉などを耳に感じ取る、耳にする、注意して耳を傾ける意、➁聞いて内容を知る、知識を得てそうだろうと思う、言い伝えや噂を耳にする意、➂相手の言葉に従う、承知する、聞き入れる、許す意、➃訊く、人に尋ねて知る、考えや気持ちなど相手の答えを求め問う意、➄訴えを取り上げて裁く、よく聞いて政治的な処理をする、是非を判断する意、➅香をかぎ味わう意、➆酒の良し悪しを味わってみる意、などがあげられ、中古まで➃の例は確認しがたいとされる(注9)。このうちの➄は、「聴訟」の和訓に由来する言い方ではないかという。彼が聞いているのは「訴」である。憲法十七条の五曰には次のようにある。
五に曰はく、餮を絶ち欲することを棄てて、明かに訴訟を辨めよ。其れ百姓の訟、一日に千事あり。一日すら尚爾るを、況や歳を累ねてをや。頃訟を治むる者、利を得て常とし、賄を見ては讞すを聴く。便ち財有るひとが訟は、石をもちて水に投ぐるが如し。乏しき者の訴は、水をもちて石に投ぐるに似たり。是を以て、貧しき民は所由を知らず。臣の道亦焉に闕けぬ。(推古紀十二年四月)
裁判官の心得、司法へのアクセスの保障をうたったものと評価のある条文である。「訴」の訓には、ウルタヘ、ウタヘ、促音便化したウッタヘの形がある。「憂へ訴ふる人」(孝徳紀大化元年八月)とあるように、訴えるとはもともと神に憂いを告げることをいい、審判を仰ごうとしたものである。つまり、推古紀の話は、「訴」を「辨」ずること、裁判の話である。「辨」は、ややこしいことにけじめをつけてわけて処理すること、とりさばくことで、辨理の義である。ワキダムとも訓み、紀では「別」や「節」字も当てている。また、コトワル(判・断)といった古訓でも表される。いずれにせよ聴覚能力が優れているという話ではない。
用明紀に、「豊耳聡」・「豊聡耳」の両用が記されている。これまで、天寿国繍帳銘に「等已刀弥々乃弥等」、元興寺丈六光背銘に「等与刀弥々大王」などとあることから、「豊耳聡」は「豊聡耳」の誤りであるとされてきた(注10)。ただ、それらの証拠となるものが、はたして当時のものであったかという疑問点も添えられている(注11)。彼が実際に、トヨトミミとしか呼ばれず、トヨミミトとは呼ばれなかったと断定することは不可能である。諸本に「豊耳聡」と書いて伝わっているのでそういう呼び方もあったと考えられる。
「豊耳聡」は呼び名であり、音として空中を行き交う。漢字の字義に限って伝えるものではない。トヨミミト(ト・ヨは乙類、ミ・ミは甲類、トは甲類)と連なる音には、トヨミ(ト・ヨは乙類、ミは甲類)(響鳴・動)+ミト(ミ・トは甲類)(水門)という意がある。「響む」とは、あたり一面に音が鳴り響く、どよめく、とどろくことである。また、ミトには、➀港(湊)、➁水門、➂港湾の船を航行させる水路、澪、の三つの意がある。上代には➀の意が確かとされ、➂は見られず、➁は和名抄に、「水門 後漢書に云はく、水門の故処は皆、河中に在りといふ。〈日本紀私記に水門は美度と云ふ〉といふ。」とある(注12)。この意味が確かにあった証拠にミトサギと呼ばれる鷺がいる。和名抄のサギ類の記事を示す。
蒼鷺 崔禹食経に云はく、鷺に又、一種有り、相似て小さく色、蒼黒く、並びに水湖の間に在りといふ。〈漢語抄に蒼鷺は美止佐岐と云ふ〉
鵁鶄 唐韻に云はく、鵁鶄〈交青の二音〉は鳥の名なりといふ。弁色立成に云はく、鵁鶄〈伊〓〔山冠に微〕〉は海辺に住み、其の鳴くこと極めて喧き者なりといふ。
〓〔睪偏に鳥〕〓〔虞偏に鳥〕鳥 唐韻に、〓〔睪偏に鳥〕〓〔虞偏に鳥〕〈澤虞の二音、漢語抄に護田鳥、於須売止利と云ふ〉と云ふ。爾雅集注に云はく、鴋〈音は紡〉は一名に沢虞、即ち護田鳥なり、常に沢中に在りて人を見れば輙ち鳴き、主守官に似ること有るが故に以て之を名づくといふ。
鷺 唐韻に云はく、〓〔舂偏に鳥〕〓〔鋤偏に鳥〕〈舂鋤の二音〉は白鷺なりといふ。崔禹食経に云はく、鷺〈音は路、佐岐〉の色は純白にして其の声は人の呼ぶに似れる者なりといふ。

水門にいる鷺がミトサギである。常陸風土記逸文にも「青鷺」(塵袋・第三、存疑)とあり、名義抄に「〓〔兒偏に鳥〕 五狄反、水鳥、アヲサキ」とある。蒼鷺は、今日いうアオサギのことであろうが、動物分類学上の同定に定まらないところがあり、江戸時代にはゴイサギ(五位鷺)やミゾゴイ(溝五位)とする説があった。上の和名抄にも、鵁鶄、イヒ、〓〔睪偏に鳥〕〓〔虞偏に鳥〕、護田鳥、オスメドリ、鴋などとある。また、ウスメドリ、ヒノクチマモリと呼ばれるものもいる。爾雅・釈鳥に「〓〔紡冠に鳥〕 沢虞」とあり、注に「今の〓〔女偏に固〕沢鳥、水鴞に似る。蒼黒色、常に沢中に在り、人を見て輒ち鳴き喚びて去らず。主守之官を象する有り。因りて名けて云はく、俗に護田鳥と呼び為す。」とある。ヒノクチ(樋の口)とは、樋の水門のことである。水路などで水量、水位を調節するために戸口がたてられ、必要に応じて開閉した。導管の樋が丸ければ、土手から覗く口の戸、窓には、円い弁をもって塞ぐことになる。開閉して動くベンの意の弁は瓣の略字である(注13)。辨の略字も弁であり、髪を被うかんむり、冕冠の意の〓〔小冠に白と儿〕の略字も弁でもある。獄訴の時に誓いをたてる辯も略字は弁で、崇峻前紀で太子は戦勝祈願をしていた。
水をどの田にどの程度配分するかは、洋の東西を問わず人々の利害争いにつながる。 rival という語が river をもととすることによく表れている。正しく分水するとは水の量を適切に捌くことである。それを守る神のような存在がミトサギで、田の水を管理していると譬えられて護田鳥と呼ばれたのだろう。単にヒというだけで樋の口の意もあり、水を堰き止める仕切りの弁を表したらしく、「人をして塘の楲に伏せ入らしむ。外に流れ出づるを、三刃の矛を持ちて、刺し殺すことを快とす。」(武烈紀五年六月)とある。弁を開けて水とともに流れてくるところを、十文字の矛で突き殺したようである。和名抄に、「池〈楲附〉 玉篇に云はく、池〈直離反、和名は以介〉は水を蓄ふるなりといふ。淮南子注に云はく、塘を决りて楲〈音は威、和名は伊比〉を発くといふ。許慎に曰はく、楲は陂に竇を通す所以なりといふ。」とある。イヒのイ音の脱落した形というが、鵁鶄の訓みのイヒとの関係も注目されよう。主守之官とは倉庫番のことである。じっとして動かずに、泥棒が来ても逃げずに声をあげて助けを呼ぶ(注14)。
ミトサギはウスメドリとも呼ばれる。目のところに丸メガネのような模様がある。眼つきが鋭い印象からオスメドリと言われ、訛ったものとされている。あるいは、鷺一般にみられる特徴の、臼に舂くしぐさになぞらえられたことによるものかもしれない。首が長く、その先の頭には前に嘴、後ろに勝とも呼ばれる冠羽をつけている。崇峻前紀で太子が四天王像に彫った白膠木は、別名にカチノキとも呼ばれ、馬子の誓いの言葉にある「利益」という訓と符合するものでもある(注15)。鷺が餌を啄む時、まさに横杵で臼を搗くように見え、ウスメドリと呼ぶに値する。また、蹲るというように、じっとしていることはウズと表現する。名義抄に、「踞 シリウタグ、シリウケヲリ、シリソク、ウズクマル、オゴリ、音據、ウズヰ」とある。
冠毛のことは耳毛ともいう。サギと同様に耳の形が長いのが特徴的な動物をウサギ(ギは甲類)と呼んでいる。また、サギの耳毛は細く長いから、中国では〓〔絲偏に鳥〕、糸禽ともいう。頭の後ろに糸を二本引いたように見え、針に糸を通した様子に譬え得る。針の孔、めどのことは耳といい、「はりのみみ」(宇津保物語・俊蔭)と言った。耳の付いた縫い針は、弥生時代から見られ、舞錐によって開けられたとされている。細かい砥石のマトを使って毛羽立ったバリを取って仕上げたことだろう。バリを取ってハリ(針)の耳ができあがる。トヨ(豊)+ト(砥)+ミミ(耳)となっている。
糸は針に付いている。ハリがツクのは磔である。裁きによって磔刑が命じられた。ハリツケには、ほかに貼り付けがある。壁などに紙を貼り付けたものをいう。裁判所のことは「刑部」と記されている。養老令・職員令に刑部省は置かれている。ウタヘタダスツカサと訓まれ、貞観七年三月七日官符に「訴訟之司」を「定訟之司」と改めたとある。紀には「刑官」(天武紀朱鳥元年九月)、「判事」(斉明紀四年十一月・持統紀三年二月)とあるほか、氏姓として「神刑部」(垂仁紀三十九年十月)、「刑部」(允恭紀二年二月、允恭記)、「刑部靫部阿利斯登」(敏達紀十二年是歳)(注16)、「刑部造・刑部連」(天武紀十二年九月)などとある。地名の「忍坂」(神武即位前紀戊午年十月)と関係するらしい記事があり、「於佐箇」(紀9)と言っている。また、万葉集にも刑部氏の歌がいくつか載る。
壁土がボロボロと落ちて来ないように、押さえの紙を貼り付けたものが貼り付けである。磔は、裁判の判決が申し渡され、体を柱、十字架、板、壁に張り付け、動けなくして殺し、晒し者にした。壁に磔にされた場合、雨曝しになったとしたら、ちょうど受刑者の体の跡だけ壁土が残ったのであろう。貼り付けの役を果たして果てている。
そして、ミトサギ(アヲサギ)も、頭は糸の付いた針のように見えるし、魚を捕るために彫像のようにじっとして動かずにいて、まるで磔にあっているようである。ハリツケなのだから、壁の紙、刑部ということになり、鷺は磔の刑を下してあの世へ送る役割をしているとも見なされる。仏教でいえば閻魔に当たる存在である。記上に、「鷺を掃持と為、」とある。アメワカヒコの殯の場面に登場している。遺体を棺に入れて行う儀式であり、箱張付に相当するものといえる。死者の魂をあの世へ掃くように送るのは、ヒノクチマモリのミトサギが水門を開けて、あるいは箒を使って水を捌(吐)くようにしたという譬えであろう。灰色がかったアオサギの頭部をみると、黒っぽい耳の毛が二筋に後ろに伸び、頭頂部は白くて禿げているように見える。さらに、水門を調節する弁について、樋の口を塞ぐ形が丸く、窓を塞ぐようなものと同じと捉えれば、それは藁蓋のような円いもの、つまり、的であると思われたことであろう。ここに、トヨミミトとトヨトミミとは、ともにアオサギの肉体的、行動的、象徴的特徴を表していることになる。
新撰字鏡に、「磔 古文〓〔广垂に乇〕、竹格反、入、張也。開也。死身乎市尓保度己須。」とある。藤澤・伊藤2010.に、「磔には、元来、裂く、割る、張る、開く、解くなどの意義があり、刑屍を裸体のまま城上に磔するいいであったが、日本においては、幡物、機物、機、肇、罧、八付、張付と呼び、平安朝末期以降、木、板、柱または杭に結び付ける仕方であった。」(49頁)とある(注17)。日本では、拷問の際に身動きを取れなくするやり方もハリツケと言ったようである。串刺、車裂、牛裂、逆磔、水磔、土八付、板張付、箱張付など、いろいろあった。磔の架のことを「幡物」(今昔物語・巻二十九の三・十)と呼んでいる。寺院で灌頂幡を吊り下げるのにはT字型の旗竿を使う。そのような形の農具に朳がある。
エ(柄)+フリ(振)の意かという。竿の先に横板をつけてT字形にしたもので、穀物の実を集めたり、水田の土を均すのに用いられた。朳の字は扒、捌に通用する。数字の八は大字に捌と書く。伝記類に十人ではなく八人とあったのは、このようなところに生じた異伝かもしれない。すなわち、磔にすること、また、磔刑を申し渡す判断をすることを、サバクといったのではないか。上代にサバク(裁・捌)という語の用例は確かめられない。やがて、手に取って巧みに扱うこと、ばらばらにほぐすこと、入り組んだ物事を適切に処理すること、理非を裁断し裁判すること、意のままにふるまうこと、料理において動物や魚類を解体することを指す語として用いられた。それぞれをそれぞれとして分けることである。裁判で裁くことを指す語の由来ははっきりと身をもって捌くことをいうのであろうから、十字架に縛するような極刑にこそ当てはまる言葉であろう。
推古紀に「兼知二未然一。」とつづいている(注18)。この世界の「未然」のことを「知」る予知能力は、きわめて特殊な能力と考えられていただろう。それほどのことを「兼ねて」するとある。紀の通例として、「兼ねて」は、合わせて、統合して、かつまた、兼任して、といった意で使われている。推古紀の文章は、何と何とを兼ねていたのかが問題となる。裁判官は重要な役職であり、間違えることがない名判事は偉い。補闕記には、「太子一一能辨、各得レ情、無二復再訪一」、伝略に、「太子一一能辨答、各得二其情緒一、無二復再諮一」とある。裁きの結果が、訴え出た申立人それぞれのいずれをも得心させ、異議を挟むことがなかった。とはいえ、一つ一つの主張や一つ一つの判決を「兼ねて」いるとするのは当たらない。この「兼ねて」の用法は、万葉集に見られるような「予め 兼ねて」の意であり、それを伝えるのに必要な何事かを物語ろうとして「知二未然一」と言っていると考えられる。
将来の見通しを含め、兼ね合わせて考え、予測する意味の「兼ねて」の例は万葉集にある。
…… かけまくも あやに恐く 言はまくも ゆゆしく有らむと 豫め 兼ねて知りせば ……(万948)
アラカジメはク語法の「有らく」たる未来を含めて予測する語で、「兼ねて」と畳み掛けて使われており、事を予知する意である(注19)。「兼ねて知りせば」(万151・3959・4056)の形で用いられている。将来のことは人にはわからないのがふつうである。それが聖徳太子には知れているから、聖、すなわち、日知りと言われる所以であるという論調になりがちであるが、なぜわざわざ、「兼ねて」の紀の常法と異なる使い方をし、しかもヤマトコトバの口語の通例である「兼ねて知りせば」とも異なる使い方をしているのか(注20)。おそらく、まわりの誰でもがそうなると知っている事柄を、しかし常人ならわかっていても認めたがらない事柄を自覚していた、だから聖であるということなのであろう。すなわち、いずれは頭頂に日が出ることを知り、つるっ禿になることを悟っていたのである。蒼鷺が鶴に進化するであろうと自虐的な冗談まで飛ばすほどの鷹揚さがあったということになる。
聖徳
「聖徳」という名については、生前からそれほど尊ばれるのは不思議だから、後の人のつけた名であろうとか、聖徳太子は実在しないという説の根拠に挙げられることもある。紀には、「豊耳聡聖徳」(用明紀)のほか、「東宮聖徳」(敏達紀四年五月)とある。家永1942.は、今日最もポピュラーな称呼である「聖徳太子」という成語は、天平勝宝三年(751)に書かれた懐風藻の序文あたりを最古とするのではないかとする。また、天平十年(738)年頃に作られた令義解の公式令所引の古記に、諡の説明として、上宮太子を聖徳王と称する類のことであるとあるから、死後に付けられた名前であるという。東野2011.も踏襲しており、慶雲三年(706)の法起寺露盤銘文に「上宮聖徳皇」とあるから、その時点では聖徳と言っていたと推考している。新川2007.は、聖徳という名に紀自身は解説を施さないものの、聖という語が圧倒的に多く出て来るので、太子の死亡記事にある「玄なる聖の徳」という表現を経由して聖徳と尊称するようになったと考えている。仁藤2018.は、死後の称号として聖徳と用いられ、それは日本書紀成立段階には既成のものであったとしている。
枚挙にいとまがない説には盲点がある。聖徳はシャウトクと読み慣わされている。紀の写本の「聖徳」部分に声点の付けられたものがあり、シヤウトクとの傍訓のあるものもある。釈日本紀にも「シヤウトク 私記云、音読」とある。声点は、聖の字に平声(伊勢本用明紀、兼右本用明紀)、徳の字に入声(図書寮本用明紀、伊勢本敏達紀・用明紀、兼右本敏達紀・用明紀)と付けられている。中国では、聖の字は、集韻に式正切、去声敬韻、シャウ(聖)は呉音である。漢語の聖徳という語は、知識・徳行ともに優れ、物事に普く通じた至高の境位を指し、天子の御徳を称しても言った。その意味を伝える諡ならば、四声に混乱があれどもセイトクと読まれて伝えられたはずである。河村秀根・書紀集解は、史記・三王正家の「躬親二仁義一、體行二聖徳一。」などを引いている。8世紀の新羅王興光の諡に聖徳王とある。本邦ではセイトクワウと読んだことだろう。欽明紀に、6世紀の百済・聖明王をセイメイワウと読むとおりである。そこで、シャウトクは寺院側から出た尊称ではないかという説が早くから行われている。延暦六年(787)の日本霊異記に、「進止威儀僧に似て行ひ、加ならず勝鬘・法花等の経の疏を制り、法を弘め物を利し、考績功勲の階を定めたまふ。故、聖徳と曰す。」(上・四)とある。太子の勝鬘経義疏の歎仏真実功徳章の釈に、仏地の万徳円備を称えて「聖徳無量」とあり、まさにその通りなのではないかというのである。だが、もう一方の徳の字を、紀の記載時点ではたしてトクと読んだか確かではない。徳の字は、集韻に的則切、入声職韻で、写本の声点と合致するものの、紀には徳をイキホヒ・ウツクシビといった訓義のほか、音としてトコと読む例が見られる。
(1)トコ
(a)一般の倭人名……檜隈博徳(雄略紀)、[蘇我]善徳・難波徳摩呂(推古紀)、伊吉博徳(斉明・孝徳紀)、書智徳・竹田大徳・赤染徳足・徳麻呂(天武紀)、大伴長徳・耳梨道徳・中臣徳(孝徳紀)、栗隈徳万(天智紀)、巨勢徳太(皇極・孝徳・斉明紀)など
(b)地名 徳勒津宮(仲哀紀)
(2)トク
(a)一般の倭人名……胸形徳善(天武紀)
(b)僧尼の倭人名……鞍部徳積(推古紀)、善徳・妙徳・徳斉(崇峻紀)、義徳(孝徳・持統紀)
(c)朝鮮半島・中国の外国人名……威徳王、徳執得、劉徳高など
(d)百済の官品……施徳、固徳、徳率など
(e)倭の官位……大徳、小徳
万葉集にも、「太徳太理」(万3926)、「物部歳徳」(万4415)、そして、「上宮聖徳皇子」(万415)とある。僧尼に徳をトクの音とするのは、高僧の意に「大徳」(持統紀元年八月)とすることと通じている。おおむね、一般の倭人名の場合、徳はトコと訓む。以上からわかることは、第一に、「聖徳」とあるといって紀の記載がただちに尊号であるとは決められないこと、第二に、太子が得度したとは知られないから「聖徳」はシャウトコと呼ばれていた可能性が高いことである。用明紀の分注に、「更名」と明記されていて諡とは一言もない。播磨風土記・印南郡条でも「聖徳王」はシャウトコノオホギミと訓まれている。
聖の字は、耳と口と壬から成り、耳と口とがまっすぐに伸びていることを表している。まさに鷺である。ヒジリと訓み、ヒ(日)+シリ(知)の意とされる。未然のことを知ることに違いはないが、日とは太陽である。太陽のような円いものが、シリ、すなわち、尻にあるのは円座、藁蓋である。徳をトコと訓むに当たっては、「徳勒津宮」が紀伊続風土記の「薢津郷」に比定されるところから、ヤマイモのことをいうトコロ(野老、冬芋蕷)に同じ音とされ、ト・コはともに乙類である。ただし、この例は上代に遡るものではない。伊吉博徳の用字に「伊吉博得」(孝徳紀)があり、万葉仮名の「得」はト(乙類)なので、トコのトが乙類であることは確かなようである。
正倉院文書の大宝・養老戸籍に「徳太理」、「徳売」とあり、また、「等許太利」、「止許売」ともある。正倉院文書には上代特殊仮名遣いに揺らぎが見られ、これらが同一の人名とは言い切れないながらも、ト・コともに乙類であることを示唆している。
新撰字鏡に、「徳 悳同、都篤(反)、得也。厚也。致也。福也。升也。恵也。」とある。升の意味だけ異質に感じられるが、礼記・曲礼上に、「車に徳りて旌を結ぶ。(徳車結旌。)」とあり、徳車は乗車のことである。紀で「徳」をノリノワザなどと訓むのは、法・則・憲・規・律などのノリ(ノは乙類)の意ばかりでなく、乗車の乗り(ノは乙類)であることを掛けて洒落ているものであろう。洒落でわかったとき、言葉は腑に落ちて理解される。車は馬車、牛車である。牛車の人の乗るところを車の床(ト・コは乙類)という。名義抄に「輫 音裴、トコ、クルマノトコ」とある。つまり、徳は訓仮名としてトコなのである。そして、床とはそもそも座るために一段高くした場所のことである。頓智として考えれば、車の床とは、車輪のような形をした座布団、すなわち、円座・藁蓋のことだとわかる。また、磔の話において壁に紙を貼り付けるのにも糊(ノは乙類)を使う。ノリと訓む同様の意の規の字は、ぶんまわしを表す。コンパスのことで、円を描くのに使われる。壁を穿つ窓や矢を当てる的も、規を使って下描きしてから作ったものだろう。すなわち、生まれながらにしてコンパスで測ったように正円を描いたような、いわゆるザビエル型の禿げ頭であったということを示している。海苔(ノは乙類)を貼り付けてカモフラージュしたか、海苔を食べると発毛にいいということがすでに俗信としてあったかは定かではない。
聖徳太子はいなかったという現代の噂話は、ショウトクタイシはいなかったというには正しく、禿げているショウトコタイシは実在したのであった。
法王
「法王」という名は、一般には仏教から来る語とされている。法は略体で、初文は灋である。説文に、「灋 刑也。平らかなること水の如くして水に从ふ。廌は直ならざる者に触るれば去る所以にして去に从ふ」とあり、「廌 解廌は獣なり。山牛に似て一角なり。古者訟を決むるに、不直なる者に触れしむ。象形、豸省に从ふ。凡そ廌の属は皆廌に从ふ」とある。廌は、獬豸などとも呼ばれる一種の神獣で、曲直をただちに知って邪人に触れるとされるところから、中国では糾弾を掌る御史のことを豸史といい、法冠を獬豸冠といった。
倭で御史に当たるのは弾正台である。二十巻本和名抄に、「台 職員令に云はく、弾正台〈和名は太々須豆加佐〉といふ。」とあり、養老令・職員令に、尹、弼、大忠、少忠、大疏、少疏、巡察弾正の役職が定められている。尹の職掌は、「風俗を粛清し、内外の非違を弾奏することを掌る。」とある。「風俗」について、古記は、「但し此の条の風俗の字の訓は、法なり、式なり、国家の法式を立て糺正すのみ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949629/90)とあり、官人の綱紀粛正をいうとする。憲法十七条が官人の心構えを説いていたのと同じことに当たる。また、弼・大忠・少忠・巡察弾正に、「内外を巡察し、非違を糺弾することを掌る。」とある。巡察するのが仕事である。聖徳太子の母、穴穂部間人皇后は巡察中に産気づいていた。生まれた聖徳太子は、生まれながらにして弾正台の性格を有するにふさわしいことになる(注21)。
太子は弾正台のような検察官の性格を担うことになっていた。だから法王と呼ばれた。用明紀に「豊聡耳法大王」、「法主王」とあり、ノリノオホキミ、ノリノウシノオホキミと訓まれている。後者の「主」は、ヌシ、ウシと訓み、ウシは大人とも書く。領有、支配することを「領く」といい、ハクは佩くの意とされる。土地などをあるじとして持っている。領く人がウシである。大系本日本書紀は、「[上宮聖徳法王]帝説にも見える。法主は仏典によれば仏陀・説法者などを意味するから、太子にふさわしい名号として唱え出されたか。」(55頁)と推測し、新編全集本日本書紀ではさらにすすんで、「「法王」は仏法の主。「主」はウシ(大人)ではなく、ヌシであろう。」(500頁)とし、ノリヌシノオホキミとルビを振っている。しかし、ここはウシと訓むのが正しい。太子は在家信者で出家していたわけではない。真面目な意味では、釈尊に比せられるほどではないものの、洒落の意味では、僧侶のように髪の毛がなかったことを指している。
支配することは「食す」ともいう。食す人が「長」である。食べ物を食べる意味から領地を支配することへと語義が展開している。収穫した穀物を税としておさめさせて統治するから「治む」と言った。収税にまわる在地の行政官は「里長」である。中央からは巡察弾正よろしく農村を検分して回る官僚もいた。彼らは国のあるじに当たる。庶民との違いは服装に一目瞭然である。地べたに座らせた百姓たちを前にして、折り畳み椅子の床几に腰掛け、股を開いて威を張って訓辞を垂れたかもしれない。貫頭衣姿の庶民とは異なり、官僚はツーピースのスーツを着ている。第一の特徴は、ズボンに当たる袴を履いている点である。領く人たる大人は履くのである。また、牛が草を食すときには、何度も反芻しながら臼のような歯で細かくしている。胃から戻ってきてはいるようだが、牛が吐くのは地球温暖化に負荷の大きいげっぷだけである。古語で「おくび(ビの甲乙不明)」という。着物の部分をいう袵(衽)も、オクミ、オクビという。
その袵のついた袍という上着を羽織っているのが第二の特徴である。官吏の勤務服として、文官は脇を縫った縫腋袍、武官は脇をあけた闕腋袍を着た。これがやがて束帯へと変容する。作りとしては、襖、狩衣、水干も同様である。他の和服との違いは襟が立っていることである。袍は、盤領にして刳形に沿ってハイカラ(5~6㎝)な襟をめぐらせている。その様子は天寿国繍帳にも見える。和名抄に「袵 四声字苑に云はく、袵〈如甚反、於保久比〉は衣の前襟なりといふ。」、新撰字鏡に「衽 人任反、去、又千王反。衿也、袪、裳際也、衣前蔽也、宇波加比。」とある。衣服の部分を指すオホクビには、➀袍、狩衣などの首の周りをぐるりと囲むように作った前襟、盤領の前襟の称、登ともいう、➁方領の制の直垂、大紋などの襟の称、➂おくみのこと、の三つの意がある。現在のエリ(襟・衿)という語は中世末に見られるようになったもので、古くは、新撰字鏡に「裓 古北反、入。衿也。戒也。古来反、衣襟。己呂毛乃久比。」、和名抄に「〓〔衤偏に令〕 釈名に云はく、〓〔衤偏に令〕〈音は領、古呂毛乃久比〉は頸なり、頸を擁く所以なり、襟〈音は金〉は禁なり、前に交へて風の寒きを禁め禦く所以なりといふ。」、天武紀元年六月条に「其の襟を取りて[馬より]引き堕して」とあるように、クビと呼んでいた。エリとクビが共用されたのち、オホクビから転化したオクミとエリとは、意味範囲を分けるようになったとされている(注22)。
和服にいう袵は、前身頃に付け足して左右が重なるように身幅を増やしたところを指す。オホクビが訛ってオクビ、オクミとなったのには、当初、袍のように立てた襟を大きく重なるように廻らせていたことに由来するのであろう。新撰字鏡には、また、「〓〔衤偏に令〕 呂窮反、去。領衣上縁也、〓〔君冠に巾〕也、己呂毛乃久比乃毛止保之。」とあり、モトホスとは廻繞する意である。袍は、上領から褄となる襴に至るまでダブルに重ねており、その長方形の部分全体をオホクビ(オクミ)と言ったのであろう。盤領の盤の字も、盤曲、盤渦など、蟠る意である。新撰字鏡に「盤 莫香反、又猛音。佐良、又久比加志。」とあり、首に廻らせて自由を奪う首枷のことをも指している。廻らせているから、衽(〓〔衤偏に令〕)は衣の前を蔽ったり、風の寒いのを禁禦したりすると説明されているのである。ウハガヒに同じである。上交はやがて上前のこと、すなわち、衣服を前で合わせるときに上(外側)になる方の部分を指すことになる。服制としては、養老三年(719)に、「初めて天下の百姓をして、襟を右にして、職事の主典已上に笏を把らしむ。」(続紀)とあり、左前から右前に変更している。領く人の領は、牛の吐くのと同じオクビであるという洒落になっている。
ノリノウシと訓んで牛を強調していたのには、廌の姿が牛に似ているとされることにもよる。廌という神獣の訓は知られないが、名義抄に「廌 ススム、タツ、ノボル」とある。草冠のついた薦の字と通用している。薦はまた、和名抄に「薦 唐韻に云はく、薦〈作甸反、古毛〉は席なりといふ。」とある。敷物のむしろのことをコモといい、丸く蟠らせて構成したものは円座・藁蓋であった。また、その材料となる植物もコモと呼んだが、それは今のマコモである。説文に、「薦 獣の食せる艸、廌に从ひ艸に从ふ。古者は神人、廌を以て黄帝に遺す。帝曰く、何を食し何に処すかと。曰く、薦を食し、夏は水沢に処し、冬は松柏に処すと。」とあり、植物の薦を食べて生きていたことになっている。そして、牛同様、角が生えている。牛の角は二つあるが、廌は「似二山牛一一角」(説文)と記されている。当時の成年男性のふつうの髪型は総角で、角が二つあるように作っていた。しかし、太子は束髪於額で、角が一つのようにしていた。ウシはウシでも太子は廌、獬豸に当たる。

マコモは、水辺に群生する大型のイネ科の多年草で、太く横にはった地下茎があって葉と茎を叢生する。茎は太い円柱状で中空、高さは1~3mに達する。秋につける果実(菰米)は、東アジアでは中国でわずかに救荒作物として食べられた。食用としたのはむしろ茎の部分である。茎の先に黒穂病菌のウスティラゴ・エスキュレンタ・ヘニングスが感染し、茎が肥大化して白っぽくて柔らかい、小さな筍のような状態になって食用となっている(注23)。今日、マコモタケ、コモノコ、コモノネ、カンヅルなどと呼ばれ、漢名を茭白筍という。古語に菰角といい、和名抄に「菰〈菰首附〉 本草に云はく、菰は一名に蒋といふ〈上の音は孤、下の音は将、古毛〉。弁色立成に茭草〈一に菰蒋草と云ふ、上の音は穀肴反〉と云ふ。七巻食経に云はく、菰首、味は甘、冷といふ。〈古毛不豆呂、一名に古毛都乃〉」とある。神獣の廌が食べた薦も、このマコモタケのことと推量されていたことだろう。マコモタケはそのままにしておくと、植物体内に黒い胞子が満ちてきて食べられなくなるが、その胞子は集められて塗料に用いられた。黒色の真菰墨と呼ばれるもので、お歯黒や眉墨、絵具、彫刻した漆器の塗料に使われる。直径が6~9μと粒ぞろいのため美しく表現できるという。すなわち、廌の一角は菰角であるという洒落である。禿顱部分に黒いチックを塗って目立たなくさせるという意味である。それは、ちょうど、崇峻前紀において、束髪於額姿の太子が、物部守屋討伐の戦場で、ヌルデのフシをもって毘沙門天像を彫塑し、戦勝祈願した時と同じ表現である。ヌルデのフシからも、お歯黒に用いられる黒い染料がとられる。
以上から、法大王・法主王という名は、髪が薄いために一つの角の姿の束髪於額にした、道徳を説いて巡察してまわる太子の特徴をよく表した渾名であったといえる。
上宮
「上宮」の名は、父親の用明天皇が、「父天皇愛之、令レ居二宮南上殿一。」(推古紀元年四月)ことによるとされている。「是皇子初居二上宮一、後移二斑鳩一。」(用明紀元年正月)ともある。メグムという語は、端から見るに忍びない意からいとしくて心にかけることをいう。子ども時分から禿げていては、からかわれ、いじめられていたのだろう。そこで宮殿内の離れに住まわせた。少女の、美しく黒い髪の毛が、ゆたかになっていくときの髪型は「放り」である。場所は宮の南である。ミナミ(ミはともに甲類)は「蜷の腸(ミは甲類)」のミナと同じ音である。「か黒き髪」に掛かる枕詞である。ヤドカリのことをいうカミナ(蟹蜷)=カミ(髪)+ナ(無)と対照して表現されている(注24)。
宮殿の設計では本殿の南側には大庭を設ける。「南庭」(推古紀二十年是歳)とある。そこに、わざわざ離れを築いている。宮殿の南に面する大きな庭は、朝廷と言われるようにまつりごとを行う儀式の場である。ふだんから広い空間を確保しておかなければ朝賀は行えず、三韓の使節も招き入れることができない。特別に建物を造るのは大嘗祭のときの大嘗宮である。大嘗宮は朝堂院の南庭に造営され、行事が終われば取り壊された。これは民俗行事の新嘗屋と同じく仮小屋である。「上宮」もまた、飛鳥時代の人にとっては仮小屋であると思念されただろう。「上」なる敬称を付けて「上宮」とするも、「上(ミは甲類)」は「髪」と同音である。髪の毛は人体の上に生えるからそう呼ばれたといわれる。万葉集の傍訓にはウヘツミヤとあるが、紀では図書寮本永治点にカムツミヤとある。そして、仮小屋で生活をする生き物といえば、宿を借りているという名のヤドカリ、カミナである。髪が無いから「上宮」に住まわせて然りなのである。
上宮の場所を、用明天皇の都した池辺双槻宮か、後に聖徳太子が移った斑鳩の地に求めればいいか、考古学の発掘調査も含め議論されている。しかし、「上宮」は、「上宮大娘姫王」(皇極紀元年是歳)、「上宮王等」(皇極紀二年十月)とあるように、場所の名ではなく一族の名へと移って行っている。ただし、それはむしろ、地名や族名といったものがもとからあるのではなく、名が名としてあったものを、土地や一族に名として当てたと考えたほうが適当である(注25)。いわゆる上宮家に与えられたとされる名代、乳部・壬生部との関連から、さらに確認されることである(注26)。
広く知られるように、髪の毛の薄さはAGA(Androgenetic Alopecia)、男性ホルモン型脱毛症によることが多い。男性ホルモン受容体の感受性の強い遺伝子を引き継ぐことで遺伝的に発現していく。聖徳太子の息子の山背大兄王もその一人であったらしい。蘇我入鹿によって滅ぼされたことを記す皇極紀に童謡が載り、後文にその解釈が添えられている。山背大兄王は「山羊の小父」(紀107)と歌われ、「山背王の頭髪斑雑毛にして山羊に似たるに喩ふ。」(皇極紀二年十一月)と解説されている。「上宮王等」は、髪の毛に特徴が出る家系の人たちを表す隠喩であると捉えることができる。カマシシは列島固有のニホンカモシカのことである。和名抄に、「〓〔鹿冠に霝〕羊 爾雅注に云はく、〓〔鹿冠に霝〕羊〈力丁反、字は亦〓〔羊偏に靈〕に作る、和名は加万之師〉は羊より大く、大き角なりといふ。内蔵式に云はく、〓〔鹿冠に霝〕羊角は零羊といふ。」とある。カモ(氈)+シシ(鹿)のことといい、和名抄に「氈 野王曰はく、氈〈諸延反、賀毛〉は毛の席なり、毛を撚りて席に為るなりといふ。」とあって、毛皮を敷物に用いたところからの命名とされている。ニホンカモシカは山奥に生息するものの、クマと違って人を襲うことも少なく、人が呼ぶと近づいてきてしまうため容易に捕えることができたという。皇極二年十一月、入鹿の急襲を逃れていったん胆駒(生駒)山に隠れた後、斑鳩寺に自ら帰ってきて潰え果てた様子が描かれている。ニホンカモシカの生態に似たところがあると思われている。
坂本1989.は、紀にカマシシに山羊という漢字をあてた理由として、山に棲む羊というくらいの意味でカマシシに山羊の字をあてたのであろうとする。しかし、本草和名はカマシシノツノを零羊角と記している。日本書紀編者が大陸のヤギと混同を起こしたとは言い切れない。時代は下るが、運歩色葉集に「毯 ムクケ」とある。ヤギの最大の特徴はその尨毛状態にあると捉えられていたようである。ニホンカモシカの場合は夏毛と冬毛の違いがあり、雪が積もっている冬場、ゆたかな冬毛の毛皮を求めて狩猟の対象となっていた。事件は十一月に起こっている。絶好の冬毛の頃であったことが、そう当てさせた遠因ということになる。
尾形2001.は、古代中国の獣毛を素材とした染織品はヤギ以外の例を聞かず、正倉院の花氈と色氈の電子顕微鏡による繊維観察でもすべてヤギの毛であることが判明しているとする。ただ、中国では、絨毯などの毛織物が多く残っているにもかかわらず、本邦にはフェルトばかりが残っている。西域、中国、日本の、時代的、気候的、文化的な違いが遺物に表れているのではないかとされるが、確かなところは未解明である。言えることは、我が国ではヤギの毛を使ったフェルトの毛氈を、尻の下に敷くむしろとすることが慣行とされていたらしいということである。聖徳太子のキーワード、円座・藁蓋も敷物であった。太子は、頭にあるべきくるくる巻いているつむじがなくて、尻の下に敷くくるくる巻いた円座・藁蓋をトレードマークにあてられ綽名されていた。同様に、山背大兄王は、巻いて持ち運んだニホンカモシカの毛皮を、やにわに広げて尻の下に敷いていた。それを伝えるための用字として「山羊」が選ばれたのであろう。紀の編者の苦心惨憺ぶりが垣間見られて興味深い。
また、カマシシという語については、新撰字鏡に「狭 侯夾反。隘也、加万志ヽ、古作陿。」とある。そして、カマカマシという言葉を載せる。「佷 又作很、胡墾反。戻也。違也。不測也。顔也。恨也。暴也。世女久、又伊加留、又加太久奈、又加万ヽヽ志。」、「譶 直治反、徒合・徒立二反。利色也。又言音不訥也。疾言利也。加万ヽヽ志。」、「猋 不遥反、平。群犬走㒵。加万ヽヽ志。」とある。うるさくせっつくことを表している。「法王」の件に見た弾正台のように、道徳をうるさく、やかましく言うことと符合する言葉である。あるいは、番犬のけたたましく吠えることをカマフという。新撰字鏡に、「〓〔犭偏に參の彡部分が氺〕 山監反、上。〓〔犭偏に監〕〓〔犭偏に參の彡部分が氺〕也。一犬聲、犬加万不也、云々。」とある。「豊耳聡・豊聡耳」の件で見たミトサギが樋の口を守る様子が主守之官、すなわち、倉庫番のようで、動かずにいながら騒ぎ立てることと一致する言葉である。山背大兄王をカマシシと渾名することは、聖徳太子をミトサギや廌と渾名することと連動しているのである。
聖徳太子が兼ね持つさまざまな名前は、禿頭という身体的特徴から捻られアレンジされた綽名である。用明紀や推古紀に書いてある呼称は諱ではなく、生前から当人に対して、また、周囲の人の間でそう呼ばれていたものである。上代語は現代のわれわれにとってよくわからない言語である。と同時に当時の人にとっても、無文字文化のもと、生活圏を異にしながら共通の言語を話すことにあっては、平板に理解できるものではなかったと推測される。ウィトゲンシュタイン2013.に、「人間に共通の行動の仕方が座標系(参照システム)である。それを手がかりにして私たちは未知の言語を解釈する。」(157頁)とある。当時の人が手掛かりにした参照システムは、ヤマトコトバの間に張りめぐらされた言葉のネットワークであり、それをもって確かなものとして築き上げられ、確かなものと感じられ、確かなものとして使用されていた。言葉が言葉を自己定義するかのように循環論法的な説明をくり返して、頓智、洒落、なぞなぞの如く思われるのは、無文字社会における参照システム構築の都合上、必然の成行きであった。太子のそれぞれの「更名」も、座標系を適切にとれば一つの関数上に定位しているとわかる。太子がさまざまな名前を持つからくりからについて考える際にも、記紀万葉研究の主眼としては、上代語であるヤマトコトバの座標系を正確に捉えることに据えられなければならない。そしてまた、ほとんどそれに尽きるとさえ言える。人は言葉で考える。言葉がわかることはすなわち、当時の人のことがわかるということである。
(注)
(注1)諸解説による。なお、「厩」という字には各種の異体字があり、本文、解説書に各様に用いられているが、本稿では「厩」字にて統一した。引用文中も「厩」字に変えた。
(注2)「更名」の意味合いを、本名と別称のことと捉えてよいものか実は定かでない。現代のように戸籍名があったとしても、源氏名ばかりで生活して他の誰も本名を知らないこともある。また、無戸籍の人の存在も知られていて、本名を自身でさえ知らない人もいる。固有名詞は一般名詞と違い、個別性を有しており、指示代名詞に近い使われ方をする。違いは、指示する対象が不在の時も、指示することが可能である点で、その名を与えられているものが固有名詞である。すなわち、呼ばれるものが名前である。「更名」として愛称を持っていることがあっても不思議ではない。成年式を経て幼名から変わった、得度して法名になった、死後、戒名が授けられたといった時間的な経過によって複数となることはある。また、同時期にもたくさんの役割をはたしていて呼び名がいくつもあることも、職場では部長、家庭ではお父さん、近所ではおじさん、と呼ばれることもある。ただし、その場合は役割の名、演者の名に従っているにすぎず、代役にとって代わられれば固有名詞とはならない。すると、一人の人を指示するためにある名前が異例ともいえるほどたくさんあって、一見とても一つの範疇におさまりきらないような複数名を同時期に有しているという記述を目にしたら、言葉として検討の価値があると勘づかなければならない。
今日までの聖徳太子研究に、このように真正面から対そうとする姿勢はない。小倉1972.は、「……実に多くの単独称呼があるばかりでなく、それらを組み合せた「厩戸豊聡耳皇子」とか「上宮聖徳法王」とか、種々様々の複合称呼が数々用いられています。この事自体が超人的聖者として伝説化さている証拠というべきでありましょう。」(22頁)と決めてかかっている。日本書紀に書いてあることをそのままそのとおりに読むこと、そこに辻褄を見出すことが肝要であると考える。
(注3)近現代のものの考え方を当てはめても何もわからない。津田1963.119~120頁、新川2007.24頁参照。
(注4)拙稿「聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について」参照。従来の「厩戸」の由来説に、キリスト教、地名、午年、養育氏族を根拠とするものなどが見られるが、それらでは何のために具体的な出生譚が記されているのか説明がつかない。譚は必ず他に還元できない個別具体性を伴う。
(注5)拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」参照。なお、名義抄の「扆 俗に〓〔尸垂に衣〕に通ず、マト」などから、戸につけられた小窓のことをいうかと考えられるが、厩に戸があって小窓が丸く付いていたという考古資料が確認されているわけではない。
(注6)ハナリである「放髪をした女性は、性愛関係を持つ。」(服藤2005.556頁)とされる。ただし、古代女性の髪型の呼称は訓みが定まらず、時代的にも移ろいがあるらしく未解明な点が多い。
(注7)大阪府八尾市太子堂の大聖勝軍寺、兵庫県揖保郡太子町鵤の斑鳩寺には「植髪太子」像が祀られている。
(注8)「頭隠して尻隠さず」という諺は「雉子の草隠れ」と出自が同じであるとされている。真偽のほどはわからないが、雉のオスには肉冠、いわゆる鶏冠がある。つまり、その部分、頭髪がない。それが本稿といかなるかかわりがあるか、何とも言えない。
(注9)角川古語大辞典23頁参照。
(注10)大系本日本書紀53頁、新編全集本日本書紀500頁など。
(注11)石井2016.51頁参照。
(注12)狩谷棭齋の箋注倭名類聚抄に源君の誤りとの記述がある。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991786/44参照。
(注13)「天尾羽張神は、逆まに天の安の河の水を塞き上げ」(記上)ていた道具は、円座・藁蓋であろう。拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」参照。
(注14)これと「蔵人の五位」との関係については識者の言を俟ちたい。
(注15)蘇我馬子の発言、原文は「凡諸天王・大神王等、助二-衛於我一使レ獲二利益一、願当下奉三為諸天与二大神王一、起二-立寺塔一流中-通三宝上。」である。兼右本に、「使使レ獲二利益一」と傍訓があり、それに従って訓まれている。ただ、下二段活用の動詞ウ(獲・得)は、補助動詞として~できる、の意で上代から用いられている。「もののふの 八十氏川の 早き瀬に 立ち得ぬ恋も 吾はするかも」(万2714)、「しましくも 一人在り得る ものにあれや 島のむろの木 離れてあるらむ」(万3601)などとある。仏典語による表記「利益」を勝つの意に用いているのであり、「使レ獲二利益一」をカチエシメ(タマハ)バと訓むことに実は疑問がない。歌に補助動詞の用例が見られるのだから、会話文中に漢文訓読調のカツコトヲエサシメ……と冗漫に訓むほうが違和感がある。
(注16)大系本、新編全集本とも敏達紀に「刑部」と振られている。疑問である。
(注17)文献等により確認されているのが平安朝末期以降ということであり、時代を遡る可能性を否定するものではない。
(注18)未来を予知することができた人としては、紀に倭迹迹日百襲姫命がいる。
是に、天皇の姑倭迹迹日百襲姫命、聡明く叡智しくして、能く未然を識りたまへり。(崇神紀十年九月)
倭迹迹日百襲姫命は箸墓古墳に葬られ、魏志倭人伝の卑弥呼ではないかと推測される人物である。この箇所は、少女の歌う歌の「怪」を彼女が読み取り、謀反の企てを未然にキャッチして天皇に教え、鎮圧に導いたときの解説である。
(注19)白川1995.239頁参照。この部分の「兼」について、「かねて(あらかじめ)」の意で用いるのは倭習であるとの指摘が、森2011.179~180頁にある。それはそのとおりなのであるが、日本書紀の倭習部分は後人の加筆であるとしている理由は不明である。万葉集に使われている使い方で「あらかじめかねて」の意で書いてあるのは、単純に、日本書紀がヤマトコトバを表記したものであることの証左とすべきなのではないか。シャープペンシルやサラリーマンが和製英語、つまりは日本語であるのと同じく、ヤマトコトバを漢字で書いたらそうなったということであろう。日本書紀の区分中、歌謡の音が漢音に忠実に再現できるα群であっても、それはβ群と同じくヤマトコトバの歌謡である。外国人(中国人)にヤマトコトバを伝えようとして、上代語のなかでも使い方を伝えにくい言葉をわざわざとりあげて後人が書き添えて何になるのだろうか。
(注20)筆者は、上代語の、日本書紀や万葉集のなかでの言い方を問題にしている。漢籍、仏典の「兼」字の用法との比較検討をしたいわけではない。事が起こる以前から予測していた、という意味合いを、古語にカネテユクサキノコトヲシロシメスと言うことにしていて、それを文字に起こした時に「兼知未然」と書いている。アンチョコ例文集を参考にしながら工夫して書いている。本邦にしか見られない漢字を国字というが、それを間違いであるとするのは相当にサカシラ(賢)であると笑われたであろう。新しい漢字を作って楽しむことは健全な言語活動である。
(注21)天武紀十一年十一月条の詔に、「親王・諸王及び諸臣、庶民に至るまで、悉に聴くべし。凡そ法を犯す者を糺弾さむには、或いは禁省之中にも、或いは朝廷之中にも、其の過失発らむ処に、即ち見聞かむまにまに、匿弊すこと無くして糺弾せ。其の犯すこと重き者有らば、請すべきは請し、捕ふべきは捉よ。」とあり、背後に弾正台のような組織のあったことをにおわせるという。
(注22)原色染織大辞典に「「おきみ(置身)」からとの説もある。」(172頁)とある。
(注23)中村2000.参照。
(注24)拙稿「十月(かむなづき)について」参照。
(注25)仁藤2018.は、「「上宮」号は、宮殿名称から派生し地名化するとともに、上宮王が移住した「斑鳩宮」およびその経済的権益や政治的地位を象徴するものとして一族に対しても二次的に用いられたと考える。」(472頁)と解釈している。
(注26)拙稿「壬生部について」参照。
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加藤良平 2021.2.1改稿初出