聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について


厩戸皇子の出生譚

 「厩戸皇子」という名は、いろいろな名前を持つ聖徳太子が生まれたときの逸話として語られている。

 夏四月の庚午の朔にして己卯に、うまや戸豊聡耳とのとよとみみの皇子みこを立てて皇太子ひつぎのみことす。りて録摂政まつりごとをふさねつかさどらしむ。万機よろづのまつりごとを以てことごとくゆだぬ。たちばなの豊日とよひの天皇すめらみこと[用明天皇]の第二子ふたはしらにあたりたまふみこなり。いろは皇后きさきあな部間べのはしひとの皇女ひめみこまをす。皇后、懐姙開胎みこあれまさむとする日に、禁中みやのうち巡行おはしまして、諸司つかさつかさ監察たまふ。馬官うまのつかさに至りたまひて、すなはうまやに当りて、なやみたまはずしてたちまちれませり。れましながらものいふ。ひじりさとり有り。をとこさかりおよびて、ひとたびたりうたへを聞きたまひて、あやまちたまはずしてわきまへたまふ。ねて未然ゆくさきのことを知ろしめす。また内教ほとけのみのり高麗こまほふし慧慈ゑじに習ひ、外典とつふみはかかくに学びたまふ。ならびに悉にさとりたまふ。かぞの天皇、めぐみたまひて、おほみやの南の上殿かみつみやはべらしめたまふ。かれ、其の名をたたへて、上宮厩かみつみやのうまやとの豊聡耳とよとみみの太子ひつぎのみこまをす。(推古紀元年四月)

 話の内容は、皇后の穴穂部間人皇女が懐姙し、出産した日にどうしていたかというと、役所を巡って仕事ぶりを監察して回っていた。馬官のところへ来たとき、すぐに厩の戸に当たって難なく出産した。生れるや否やよく言葉を喋り、聖の知恵がある人であった、というものである。そこから、厩戸皇子という名前が導き出されたという口ぶりである。
 「厩戸」という名について、キリスト降誕説話の伝承が伝来したとする説(久米1988.)、うまや戸部とべ出身の乳母が養育に当たったとする説(井上1996.)、生年の干支の午年生まれに基づく可能性が高いとする説(大山1996.)、地名または氏族名によるとする説(大系本日本書紀(四))、大和国高市郡の厩坂宮(舒明紀十二年四月条)に由来するとする説(古市2012.)、養育した額田部(湯坐)が深くかかわった馬匹に由来するとする説(渡里2013.)、捜神記など中国の志怪小説の影響とする説(前之園2016.)、仏伝によって潤色されているとする説(石井2016.)などが唱えられている(注1)

厩のさまざま

左から、a.厩(馬医草紙、紙本着色、鎌倉時代、文永4年(1267)、東博展示品)、b.彦根城馬屋、c.堅田図(伝土佐光茂筆、室町時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0018303をトリミング)、d.上賀茂神社神馬舎、e.南部曲屋の厩(川崎市立日本民家園、旧工藤家住宅)、f.越前の庄屋の厩(福井市おさごえ民間園、旧城地家住宅)

 厩は、馬を飼っておく独立した建物や、人と一つ屋根の下で馬を飼う部屋のことである。a図では乗馬用の馬を飼っておくために板敷のしつらえとなっている。梁から吊るされた腹綱で引き揚げ、大事な脚を休ませる工夫もしていた。b図でも飼われていたのは駿馬で、駿馬は公家や武家の邸宅、神社、寺社に在籍していた。c図は、あるいは来客者が乗ってきた馬を停めるための厩かもしれない。d図は馬を観覧するために設けられている。e・f図では耕作・運搬用の馬が飼われていた。土間になっていて馬は手綱から解放されている。曲家のように人の家と合体している馬小屋もあれば、独立して馬が外を眺められる馬小屋もある。他に、街道筋の旅籠に置かれた駅家うまやや、競馬をする際に一時的につなぐために設営された厩もあった。それらすべてをウマヤと言っている。
 今日でいえば、乗用車と、耕運機兼軽トラックの格納場所を、「厩」と一括りにして言葉としている。ガレージであって、同じく馬を飼う屋だからウマヤなのである。和名抄に、「厩 四声字苑に云はく、厩〈音は救、上声の重、无万夜むまや〉は牛馬の舎なりといふ。」、「駅 唐令に云はく、諸道に須く駅を置くべきは三十里毎に一駅〈音は繹、無末夜むまや〉置け、若し地勢さがしくへだたり、及び水・草無き処はたよりに随ひ之れを置けといふ。」とある。雰囲気がまるで別物であるものが同じくウマヤと呼ばれている(注2)。厩とは何かについて、分野が跨るためかじっくりとは研究されていない。多くは、馬を飼うための専用の小屋ということで納得されている。万葉集の厩の例をあげる。

 赤駒あかごまを うまやに立て 黒駒くろこまを 厩に立てて そを飼ひ が行くがごと 思ひづま 心に乗りて 高山の みねのたをりに 射目いめ立てて 鹿猪しし待つが如 とこ敷きて が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
 もも小竹しのの ののおほきみ 西の厩 立てて飼ふ駒 ひむがしの厩 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふがに 水こそば 汲みて飼ふがに 何しかも あしの馬の いばえ立ちつる(万3327)
 鈴がの 早馬はゆま駅家うまやの 堤井つつみゐの 水をたまへな いもただよ(万3439)
 今日けふもかも 都なりせば 見まくり 西の御厩みまやの に立てらまし(万3776)
 厩なる なは断つ駒の おくるがへ いもが言ひしを 置きて悲しも(万4429)

 万3278番歌の「床敷きて〔床敷而〕」については、「とこしくに」と訓んで永遠の意であるともされている。筆者は、板敷の厩の連想からこの句は成っていると考える。万3776番歌で、遠い都の彼女を思うのに、どうして厩の外に立っていたかについては、逢引していた場所が厩の外だったからではなく、馬が超特急で今日中に都へと連れて行ってくれる乗物だったからであろう。作者の中臣なかとみの宅守やかもりは越前配流下にあり、国府の東の厩よりも西の厩の方が都に近いためと考えられる。馬に乗るには、まず、馬を厩から引き出して、厩の外で馬の右側から乗ったようである。万4429番歌について、防人に出掛けてしまう夫に対して、縄をはずされた馬はじっとしてはいませんよと言った、という解釈は通じない。防人に該当する人が暮らす場にいる馬は農耕馬である。農耕に使う馬は厩では縄を外して寛がせるものである。厩に閉じ込められたまま、つまりは家に残されたままにされることへの不満を訴えたもので、縄を着けて連れて行って頂戴よ、と言われたものと捉えた方が切なさが身に染みる。ともあれ、万葉集の歌から厩の種類について推量することはできない。
 乗馬用であれ、農耕馬、運搬馬用であれ、厩の形状に共通点は多い。第一に、前面に戸がない。板敷上の駿馬は手綱が橡金に繋がれているから逃げ出すことはない。土間に藁の敷かれたところにいるお馬さんは、横木が渡されていて柵となっていて出て行くことはない。厩の造りにおいて、馬の前方に当たる方に厳重な戸を設けることがあったかなかったか、また、その歴史的な変遷を知ることはできないが、競馬のレース直前に、ゲートのなかで暴れ出してゲート入りを全頭やり直すことがある。ストレスがかかるのである。運搬する場合にも、トラックでは十分な注意が払われている。馬は閉所を嫌う動物であるらしい。そもそも厩は馬を休ませるところだから、健康的に休める環境を整えることが肝要である。暑いのが苦手で、また、湿度が高いのを嫌うようである。体温は38℃ほどで触るとあたたかい。発汗性動物で、汗をかいて体熱を放散させている。特に夏場は風通しを良くしてあげる必要がある。極寒時期でなければわざわざ厩に戸をたてるには及ばないのは、犬小屋に戸がないのと似ている。オオカミ対策は別にして、牧で高い塀を築かずとも逃げて行くことはない。厩は牢獄ではないのであって、厩に戸というのは矛盾した形容の言葉である(注3)
 この自己矛盾、自己撞着の語が人の名として刻まれていることは、ヤマトコトバの言語論理によく合致している。語用論的パラドックスによる、なぞなぞ、頓智の世界である。e・f図の厩の例では横木が渡されている。今ではすっかり民俗語彙になってしまったが、マセ、マセボウ、マセンボウ、マセカキと呼ばれている。

厩の造り

 仮にa・b図のような立派な厩に戸をつけるとしよう。扉は、建築構造上、木の形状のままに円柱形をしている柱に直接取り付けるものではない。円柱に角材を取り付け、そこへ扉を納めるようにする。その小柱を方立ほうだてという。建築用語らしく重箱読みである。上代にはほこだち(矛立・桙立)と言った。和名抄に、「棖 爾雅注に云はく、棖〈音は唐、和名は保古多知ほこたち、弁色立成に戸の類を云ふ〉は門の両旁の木なりといふ。」とある。ホコダチの語源は知られない(注4)が、威儀を示すことと関係があるのではないかとの説がある。すなわち、矛(方立部分)と盾(扉部分)とを設けることを表すのではないかというのである。話に矛盾があることを臭わせている。
 開き戸を閉めた時にぶらぶらしないように、扉の上下の部分に当たりをつけている(注5)。家屋の内外を隔てるところは下部は土台部分、敷居となっており、踏んではいけないと躾けられる。古語にしきみである。和名抄に、「閾 爾雅注に云はく、閾〈音は域〉は門限なりといふ。兼名苑に云はく、閾は一名閫〈苦本反、之岐美しきみ、俗に度之岐美とじきみと云ふ〉といふ。」とある。一方、上部は、建てあげてから後、戸の大きさとの兼ね合いを考えながら設置される。まぐさである。楣は新撰字鏡に「門眉 万久佐まぐさ」、和名抄に「楣 爾雅に曰はく、楣〈音は眉、万久佐まぐさ〉は門戸の上の横梁なりといふ。」とある。まぐさ(馬草)との洒落が成り立ち、厩に「戸」を仮定すると、それはマグサに違いないとおもしろがられよう。和名抄に、「秣 漢書注に云はく、秣〈音は末、万久佐まぐさ〉は粟米を以て飼ふを謂ふなりといふ。」とある。この秣という語は、古く清音でマクサと言っていたともされるが、濁っていけないこともなく、世の中は澄むと濁るの違いにて、の小咄かもしれない。厩にマグサはない。あるのはマクサだけだ、といったことである。あるいは、用もなく楣が付いているが、肝心なのは秣である、という洒落かもしれない。戸をつけないのにわざわざ楣を拵えることは民俗の慣習としてままあり、お札を貼ったり絵馬を掲げたりしていた。洒落としての巧妙さを考えた場合、上にも下にもマグサ(楣・秣)があるところが人屋ではなく馬屋(厩)の特色であると言いたいようである(注6)
 基本的に厩に戸(扉)はない(注7)。だから、戸(扉)を取り付けるための方立も必要ないのだが、方立のようなものが中途の高さまで付けられており、両側に穴が穿たれていて、マセ、マセボウ、マセガキとなる横木を渡して馬が出られないようになっている。柱の場合で言えばそれは柱貫に相当する。和名抄に、「欄額 弁色立成に云はく、欄額〈波之良沼岐はしらぬき〉は柱貫なりといふ。」とある。柱と柱とを架け渡すために横に貫いている。「欄額」という字の示す通り、柱と柱の間に楣、欄間など、立派な装飾物を掛け渡すための仕掛けとして考案された。狩谷掖斎の箋注倭名抄には、「按欄額、謂柱上方所貫之材、其状如楯闌而在上、故名欄額、今伊勢神宮屋舎有之、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/991786/1/31、漢字の旧字体は改めた)などとある(注8)。ところが、厩の場合、その柱貫に取り外し可能な丸棒がかけられることになる。横に棒を貫いて柵となり、障害物となって馬は外へ出られない。マセは、塀や垣、柵と同じ機能を担っている。サクという語は地面から垂直に立った障壁を指す語のようである。和名抄に「柵 説文に云はく、柵〈音は索〉は竪木を編むなりといふ。」とある。
 マセが掛けられている方立は柱に添えられている。柱は、鉛直に立てて建物上部の荷重を支える。和名抄に、「柱〈束柱附〉 説文に云はく、柱〈音は注、波之良はしら、功程式に束柱は豆賀波師良つかばしらと云ふ〉は楹なりといふ。唐韻に云はく、楹〈音は盈〉は柱なりといふ。」とある。その柱という語は、上代では神さまや高貴な人を数える助数詞として用いられた。厩戸皇子も、用明天皇の「第二子ふたはしらにあたりたまふみこ」とハシラ扱いされている。次男坊でフタハシラに当たることに興味が向いている。ヒトハシラ(一柱)では戸もマセも作れない。フタハシラだから二つの柱の間にマセが渡される。ハシラと数えられる神さまどうしは一緒にすると喧嘩をするとされ、集会を開くに当たっても「天安あまのやすの河辺かはら」(神代紀第七段本文)で集まっている。大系本日本書紀の補注に、「古語拾遺に「天八湍河原」とあるので、ヤスはヤセ(八瀬)の転であろう。」((一)341頁)とあり、の多いところで川をはさんで対面している情景を想い起こさせる。同根の語かとされるセ(狭)なるセ(瀬)が幾筋もあるようである。柱は別々に立っているものである(注9)
 厩は建物なのに戸(扉)がないこと、また、時に装飾するためでないのに欄額を作ることは、方立という「矛盾」した特徴をよく表現している。あるのはマセばかりである。和名抄に、「籬〈栫字附〉 釈名に云はく、籬〈音は離、字は亦、㰚に作る、末加岐まがき、一に末世ませと云ふ〉は柴を以て之れを作り、疎にして離々なるを言ふといふ。説文に云はく、栫〈七見反、加久布かくふ〉は柴を以て之れを壅ぐといふ。」とある。竹や柴で作った粗い目の垣根である。マセには、籬、馬柵、馬塞、間狭などといった字を当てる。牧の柵、横木を渡して作った垣の棒のこともマセ棒、ウマセ、マセンなどといい、厩と用途、仕様が同じである(注10)。馬が出なければそれでいいのだから、一般の垣根よりも開放的で、ただ横に一~二本、棒が渡してあるだけである。このマセこそ厩においては「戸」に当たる。万4429番歌の「厩なる 縄断つ駒の おくるがへ 妹が言ひしを 置きて悲しも」の侘しさは、駒を曳き立てる縄(=夫)がいなくなって厩に閉じ込められたままにされたとき、マセがあるために自力ではどこへも行くことができず、ただ呆然と日がな暮らさなければならないところにある。

厩戸皇子の才能

 皇后が厩の戸に当たって生まれた皇子はどのような能力を持っていたか。「生而能言、有聖智。」である。頓智好きにはたまらない設定である。すぐれた人が厩で生れていることから、後に、聖徳太子伝暦などに、甲斐の黒駒に乗って富士山を駆け登ったとする伝承が成立しそうなことは予感されることである。厩の戸の造りは、戸(扉)の代わりにマセが渡されている点が重要である。「厩戸」とは、このマセ、マセボウ、マセンボウ、マセガキのことを指している。早熟で大人びた子どものことをマセという。ねびる、およすくことである。上代に確例は知られないが、四段動詞マス(増・益)の語意には、他に比べて優っていることをいうことがあり、また、敬語の動詞マス(坐・居)の義にも適うから、その已然形を名詞として捉え、生まれながらにして既に優っていらっしゃったという意に使われたのではないか。マセルという動詞は名詞マセから後で作られたものと推測される。すなわち、ませた餓鬼だからませ籬、ませた坊やだからませ棒なのである。良家の小児のことを、坊や、お坊ちゃん、と呼ぶことがいつからあるか、口語表現のためわからない。それでも、厩戸皇子の場合、「父天皇愛之、令宮南上殿。」とあって、坊(房)を与えて住まわせている。坊やに違いない(注11)。また、子どものことを餓鬼というが、その言い方がいつから一般的になったかも不明である。お行儀を躾け切れず野放図に食べ物を貪ることから言われた比喩のようである(注12)。いずれも仏教から伝えられた言葉であり、早期幼児教育のおかげか仏教に精通した人物を表すにはもってこいの命名となっている。ませた餓鬼、ませた坊やのことは、語用論的形容矛盾表現に集約させて「厩戸」となる。
 「厩の戸に当りて」の「当りて」について、石井2016.は、「ちょうどそのところで、ということ」(58頁)と説明し、場所としてアタルという語を考えている。新編全集本日本書紀は「まさしく戸(入口)の所での意」(530頁)、井上1987.は「うまやの戸につき当たり」(125頁)、宇治谷1988.は「うまやにあたられた拍子に」(87頁)としている。時代別国語大辞典に、「あたる[当](動四) アツ(下二段)に対する自動詞。もとは……あてられる、の意。①あるものが他の何かに触れる。あるいはぶつかる。……②あたる。相当する。二つのものごとの力・価値・意味などが対応しあう。……③ちょうどその時にあう。」(27頁)とある。語釈の③は、時に関してアタルと使うことを示している。中古には状況や方角について同様のアタルという語意は見られるが、上代には見られない。アタリ(辺)とアタル(当)は同根の語であろうが、ウマヤノトニアタリテ(「当厩戸而」)のアタリを、アタリ(辺)という名詞と捉えることは無理である。原文の「而」は接続助詞のテである。
 原文は「皇后懐姙開胎之日、巡-行禁中-察諸司。至于馬官、乃当厩戸而不労忽産之。」で、主語は「皇后」、述語は「巡行」、「至」、「当」、「産」である。いつ当たったか、「乃」である。どこで当たったか、「馬官」でである。誰が当たったか、「皇后」である。何に当たったか、「厩戸」にである。いかに当たったか、結果として「不労忽産之」にである。4W1Hがはっきりしている。皇后が、ふらふらっと「厩戸」にぶつかったと明記されている。上に述べたように、面(plane)としての戸(扉)はない。柵となるマセに当たるように小咄に仕上がっている。柵は縦なるものをいうから、厳密には横なるもの、らちといえば良いのであろう。すなわち、埒が開いたのである(注13)。皇后はマセを手すり代わりにしたところゆるゆるだからスポッと抜け、転ぶような形になって出産した。マセが開いたら馬が出てくる。ウマれたのである。無事な安産であった。案ずるより産むが易し、ということである。

出産と厩形状区画の先例

 出産とフェンスとの関連を示す例は言い伝えに既出である。

 ふたはしらの神、みことまにまに酒をまうく。こうむ時に至りて、へへもかなら大蛇をろちに当りてまむとす。(至産時、必彼大蛇、当戸将児焉。)(神代紀第八段一書第二)

 スサノヲがヤマタノヲロチを退治する場面である。本文に、「乃ち脚摩あしなづなづをして八醞酒やしほをりのさけみ、あはせて仮庪さずき〈仮庪、此には佐受枳さずきと云ふ。〉八間やまを作り、おのもおのもひとさかふねを置き、酒を盛らしめて待ちたまふ。」とある。飼葉桶のような大きな容器八個に酒を入れ、八つ設けた桟敷、すなわち、籠のように編んだ台に置いて、ヤマタノヲロチ(八岐大蛇)の八つの頭がそれぞれの籠台の編目の隙間から入って槽の酒を飲むようにさせている。一書第二では、「将児焉。」時、編目の隙間から伸び入ってきている八つの頭ごとに酒を飲ませている。「児」の代わりに「酒」を呑ませた。ヤマタノヲロチは(コは甲類)を呑もうとして頭を伸ばしてきている。そうするとわかっているから仮庪(桟敷)を編んで作る。編み方は(コは甲類)と同じである。ヤマタノヲロチは、を呑もうとしてに誘導され、酒を飲んで酔っ払ってしまった。
 「(トは甲類)」とあるのは、平面を形成する一枚板の杉戸などではなく、適当に編まれた籬のような戸、その隙間のゆるやかなもの、あたかもマセ棒、マセ籬によって仕切られたところを暗示しているようである。脚摩乳・手摩乳の「ふたはしら」によって準備が整えられている。柱が二つあるから戸口はでき、欄額(柱貫)のように渡されてマセになる。マセのこちら側に飼葉桶、ふねがそれぞれに一つずつある様子は厩と同じである。動物園でも、ヒツジ類は一つの餌場からみな仲良く食べているが、ヤギ類は喧嘩になるから頭数により分けて餌を与えている。ウマは首を出して秣を食む。つまり、ウマヤ(厩)をもってウブヤ(産屋)に譬えられている。バウバウバウを示すことは、一区画のことをいうことによって確かめられる。坊やとは、坊屋のことと思われ、マセ籬によって区割りされた厩のような分譲地区画の謂いであろう。ヤマタノヲロチに応じて八区画整備している。のためにで囲われた坊があてがわれる。良馬、コマ(駒、コは甲類、もとうまの約とされる)が養われることになっているものであり、ヤマタノヲロチはそれぞれの区画ごとに置かれたうまい酒を飲んだ。マセにそれぞれの首を突っ込んだまま酔っ払ったら身動きは取れなくなる。厩図屏風などで手綱で繋がれているのと同じように、大蛇の首は互いに繋がれてしまうことになっている。そしてまた、馬が腹帯で吊られている点は、産屋の力綱さえ連想させる(注14)。「馬」と「うま(殖)はる」との音の関係が意識にのぼる。馬のお腹が張るごとに産まれてはうまいこと馬の数は増えていく。
 一棟の厩で何区画(馬立うまだち)にするかには例がある。ヤマタノヲロチを入れるのに「蛇立」なるものを思考実験したのであろう。コマは駒であり、こまれのこまであり、小さな間のことを言うのであろう(注15)。「八間やま」、すなわち、八コマ作るというのは不自然である。脚摩乳・手摩乳にはすでに「たり少女をとめ」(神代紀第八段本文)があって、年毎に既に呑まれたという。ヤマタノヲロチがその頭数の八人を呑んだのなら、九人目の奇稲くしいなひめは呑まれるはずはないように思われる。頓智話だから何でだろう? と不思議がる必要がある。八間厩のように並列を想定するのではなく、四角い空間に井桁状に仕切りを入れて九コマに分け、「囲」という字に象形されるように想像するのがいいようである。「囲」形の場合、中央一マスには仮庪さずきとなる籠編みを作らず、すなわち、マセ棒を渡さず、周囲の八コマに籠台を設けて槽を置き、八醞酒やしほをりのさけを入れておいたということになる。ヤマタノヲロチが酔っ払い、寝ぼけて編み籠に絡んでいる時を見計らって、中央の通路にスサノヲは自由に入って上側へ抜け、周囲の大蛇の首をぐるりと斬って回ったということになる。反対に、下側へ行って切った時、一つにカチッと鳴り当たったというのがいわゆる草薙剣である。
 上代では「かくむ」という。上述の和名抄の「籬〈栫附字〉」項に「栫〈七見反、加久布〉以柴壅之」とあった。万葉集には、囲まれて八方塞がりになっている状況を示す例が見られる。

 …… 父母は 枕のかたに 妻子めこどもは 足の方に かくて 憂へさまよひ ……(万892)
 …… 妻も子どもも 遠近をちこちに さはかく 春鳥の ……(万4408)

 スサノヲは八方塞状態に自ら陥る形をとって逆にヤマタノヲロチを近い場所に酔っ払わせて眠らせ、一網打尽(?)に斬り殺したということなのであろう。「中区うちつくに蕃屏かくみ」(成務紀四年二年、別訓カクシ)の出典としてあげられる左伝・僖公二十四年条の疏に、「蕃屏者、分地以建諸侯、使京師蕃籬屏扞也。」とある。これはヤツガシラの芋が数を増やすのに匹敵する。漢語では九面芋と書く。収穫期には親イモのまわりに子イモが八つ、親イモと同じぐらいに大きく成長して、しかも癒着した状態になる。外からは八面芋に見えるが、「囲」字の形のように九マスに芋が増すことを言っている。こういう考え方が卑近に見られていたからヤマタノヲロチの話も人口に膾炙することとなり、そこから厩の坊区の割り付けを思考実験することに及んで、「馬」と「うま(殖)はる」こととの関係は訓義の面でも通じていることなのだと、ヤマトコトバのうえで納得したということになる。そこから、どんどんお産を促進させる馬小屋は「囲」字形の外向き厩で、「不労忽産之。」と相成ったのだとする話として形成されたと考えられる(注16)
 厩戸皇子という名は、厩になどないのに、戸の代わりをするマセバウ、マセガキに当ってませた餓鬼やませた坊やが生まれ、坊どころか「上殿かみつみや」を作って愛育したことを物語る、洒落となぞなぞと知恵の押し詰まった命名譚、おもしろ小咄として仕上がっていた。古代における名とは何か。それは呼ばれるものである。綽名と言えばわかりやすいだろう(注18)

(注)
(注1)そのほか、近松門左衛門・用明天王職人鑑・第五に、「御誕生の若宮を、厩戸むまやどの王子と名付け参らせらる、これ駒繫こまつなぎのほとりにて降誕がうたんなりし故ならし。」ともある。
(注2)日本史大辞典に、「うまや 馬を飼っておく独立した建物や家屋内の馬(ときには牛)を飼う部屋で、馬屋とも書き、「まや」とも呼ぶ。……乗馬用の馬を飼う武家屋敷や神社・寺院の馬屋と農耕馬を飼う農家の馬屋とでは構造が異なる。」(781頁、この項、宮沢智士)とある。解説としてはそれに尽きるが、かなり様子の違うものを一緒にしていてよいのか、戸惑うばかりである。鎌倉時代、御家人が、いざ鎌倉へ、と乗ってきた馬は、必ず乗馬用の馬であったか。ふだんは農耕に使っている馬の荷鞍を取り替えて、チャグチャグ馬子のようなことをした貧乏武士もいたのではないか。時代によって馬の大きさが変わる以上に、まず個体差があり、人間の利用目的に従って乗馬用と農耕用で鍛える筋肉が異なり体形が変わってくる。何を大切にすべきかで厩の形態も違ってくるだろう。
(注3)和名抄に、「戸 野王案に、城郭に在るを門と曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとす。」とある。白川1995.は、「と〔門・戸(戶)〕 内外の間や、区画相互の間を遮断し、その出入口のために設けた施設をいう。門を構え、戸を設ける。また河や海などの両方がせまって、地勢的に出入口のようになっているところをもいう。戸は開き戸にするのが普通であった。トは甲類。」(531頁)、古典基礎語辞典は、「と【戸・門】名……両側から迫っていて狭くなっている所。その狭い部分でのみ、水が流れたり、人や物が通ったりできる。また、建造物で人の出入りする所やそこの建具。」(821頁。この項、白井清子)とする。「厩戸」という言葉を考える際、第一に馬小屋の出入口の戸のことであると考えるべきであろう。ト(甲類)としては、「(処)(トは甲類)」、「(トは甲類)」もある。外という語は、戸(門)と語源的に関連があるらしい。所(処)という語はそれらとは異なる義で、それを「厩戸皇子」に当てはめると、万葉仮名の訓仮名の当て字ということになり、「戸」字に表意性がなくなる。管見ではあるが、「厩戸」を厩のそとのことと解する説は見られない。馬が厩の外でお産をしたという変な話は、皇后が外でお産をしたという話とリンクする。ウマヤ(厩)とウブヤ(産屋)とが洒落として考えられているなら、外でのお産をもって名の由来譚とすることは噺として興味深くはある。けれども、「厩の戸に当りて」という文章が捻られているのだから、基本的に、開き戸との衝突のことを念頭に据えて検討すべきことである。「厩皇子」、「馬皇子」、「馬子皇子」、「馬養うまかひ皇子」、「馬部うまべ皇子」、「厩門うまやかど皇子」という名が問題なのではない。
 厩の後ろ側についている扉(aやd)をもって「厩戸」と捉えることも、方便としては可能である。春日権現験記絵に見える厩(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1286816/1/17)の場合は、前(?)ないし横(?)上部が蔀になっているようにも見える。「厩作〈附〉飼方之次第」に、「一、後ノ方、小キヒラキ戸ノ入口ヲ求ルコト有。是ハ極テ明クルコトハ非ス。其廐ノ様子ヨルヘキ也。〈○後ノ方小キ戸ハ、急変・急火ノ時、前へ難出時此口ヨリ馬ヲ出サン為ナレハ、其厩ヨリ便利宜シキナラハ明ル不及也。又ハ前後サシ支へ等有リテ、アカリ入少キ厩ナラハ、夏向ナト掃除ノタメニモ宜シ。故実作法ト云アラス。其時ノ頭入ノ功ヨルヘシ。大寸法ハ極ナケレハ、馬ノ出入成程スへシ。大方五尺、或五尺五寸宜也。〉」(『日本農書全集60』133頁、漢字の旧字体は改めた)とある。その前の項に、厩舎後方は羽目板にして上方は無双窓を付けることが望ましいと記されている。推古紀の記述においては、皇后は、厩舎の後ろ側へ回って戸にぶつかったとは思われない。なぜなら、彼女は、「巡行禁中監察諸司至于馬官」である。身重の皇后が監察して回っていて、馬に対してこそこそと裏から探りを入れるという設定は想定しにくい。ごくふつうに考え、「厩戸」というのは形容矛盾であると捉えるのが適切である。
 乗馬用であれ農耕用であれ、馬の健康面を考えて厩は作られた。中国では早くは呉子・治兵に、「れ馬は必ず其のる所を安んず。……冬は則ち厩を温かにし、夏は則ちひさしを涼しくす。(夫馬必安其処所。……冬則温厩、夏則涼廡。)」とある。本邦では、佐瀬与次右衛門の会津農書・下巻・厩囲に、「馬屋ハ内厩に居なから見る様にしてよく、外厩ハ寒くして馬瘠る。馬屋を広く穴を深く掘るへし。……」(『日本農書全集19』195頁、漢字の旧字体は改めた。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1065840/1/95~96参照)、また、百姓伝記・巻四・屋敷構善悪・樹木集に、「土民、馬屋を間ひろく作り、しつけ[湿気]すくなき処をハ、ふかくほりて、わら草を多く入てふますへし。……冬ハさむくなきやうに、わらにて外をかこひ、夏ハ冷しきやうにして馬をたてよ。……しつけの地にハ屋棟をたかくして、腰板をうち、竹を以垣をするかして、わら草なとの飼やう、多く入やうにすへし。」(『日本農書全集16』123頁)とあり、農業に必要な馬肥を得る方法も記されている。また、比良野貞彦・奥民図彙には、夏の夜に涼しく過ごせるように、木で埒を結った囲いを設けて夏馬屋とすることが描かれている。その厩には、戸どころか壁すらなく柵に囲まれているだけである。
(注4)康煕字典に、楊氏方言註を引き、「棖 ……傾きを救ふ法なり。門のほゝだてなり」と述べている。説文に「棖 つゑなり」ともあり、門が頬杖をついているように見立てたところに由来するものらしい。
(注5)本邦では引き戸は平安時代、寝殿造りにおいて現れるとされている。
(注6)d図のように、マグサ(秣)が下でなく上でもなく真ん中ぐらいに台に載せてある例もある。
(注7)前掲の「厩作〈附〉飼方之次第」に、「厩四節心得ノコト」として、四季の気候に応じて「戸ヲ開キ」、「前後ヲ取払」、「幕ヲ張ル」、「戸ヲ垂テ」などとあって、「戸」のことが記されているが、門戸のことをいうのではなく、窓の意味のことを言っている。通風や保温、採光の話である。むろん、寒さを防ぐためにマセの外から戸を立てることはあっただろうが、それを「厩戸」と呼ぶ例は管見に入らない。
(注8)狩谷掖斎のいう「伊勢神宮屋舎」のそれが何か筆者にはわからない。
(注9)東大寺大仏殿のそれは、束ねたものを一柱とし、それを何本も立てて建物を構築している。神さまは居られず、仏様がいらっしゃる。
(注10)古い時代の牧が外周で囲われていたか疑問視する議論もある。今日は、土地所有の問題や周囲への迷惑から設けられている。家畜として馴らされたウマが、自ら逃げて野生化することのメリット・デメリットなど、多くを考えなければ理解することは難しい。牧が人に放棄された場合はその限りではない。ウマも生きるのに必死になる。
(注11)棒は、歴史的仮名遣いをボウとする説もあるが、鎌倉・室町期の資料からバウであるともされている。呉音にボウなるも、広韻に歩項切、集韻に部項切である。バウバウといった区切られた区画、部屋のことに引きずられて漢音をとった可能性がある。マセによって空間を仕切る際は直線的に仕切ることになり、四角い坊(房)が形成される。和名抄に、「房 釈名に云はく、房〈音は防、俗に音は望と云ふ〉は旁なり、室の両方に在るなりといふ。」、「坊〈村附〉 声類に云はく、坊〈音は方、又、音は房、末智まち〉は別屋なり、又、村坊なりといふ。四声字苑に云はく、村〈音は尊、無良むら〉は野外の聚り居うるなりといふ。」とある。マセ棒を架けるところは方立である。歴史的仮名遣いにハウタテであり、棒立ての意を汲んでいるとも捉えられる。
(注12)拙稿「餓鬼について」参照。
(注13)埒は、馬場の周りに逃げないように設けられた柵のことをいう。駒くらべ(競馬)では埒が左右に設けられる。一遍聖絵に見える厩(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591582/1/15)は、備後国一の宮の馬場に設けられている。ウマはまっすぐに走るのがあまり得意ではなく、埒を目印にして走っているとされている。人を乗せて走ることはウマにとってははなはだ迷惑、不自然なことであり、また、鞭で叩かれながら全速力でひた走るのも不条理極まりない。和名抄に、「馬埒 四声字苑に云はく、埒〈力輟反、劣と同じ、此の間に良知らちと云ふ〉は、戯馬の道なりといふ。」とある。ラチというラ行で始まる言葉がヤマトコトバにもとからあったとは思われず、用例も九世紀のものしか知られないが、馬の到来とともに本邦に伝わった技術として飛鳥時代にも存した言葉と考える。口語表現をよく伝える日葡辞書に、「Rachi. ラチ(埒) 柵・垣.¶比喩.rachiuo aquru.(埒を開くる)物事をうまく解明する.¶Rachino aita fito.(埒の開いた人)素直で,道理にはすぐ服する人.¶Rachiuo coyuru, l, yaburu.(埒を越ゆる,または,破る)規則や禁制条項を破る,または,道理に背く.」(523頁)とある。マセボウ、マセガキと綽名された聖徳太子は、憲法十七条に記されているとおり埒を開けて物事の道理を説く人であった。憲法十七条が推古朝に作られたものではないという説も提出されているが、そういう議論をしても埒が開かない。
(注14)拙稿「稲荷信仰と狐」参照。
(注15)コマ(コは甲類)という語については、上代にどこまで洒落とされていたか不明である。「こまけし(コは甲類)」という語は新撰字鏡に「壌 古万介志こまけし」と見える。粒状、粉状のものを「こま」と称したように感じられる。芝居や映画、マンガのこまという語は近代になってからの語のようであるが、「細」という語ばかりでなく「小間こま」(コは甲類)という語を想定したり、将棋の「駒」という語の連想から生まれたもののように感じられる。将棋の駒は入るマス目が区切られている。また、小間使いという語の文字面からも連想が働いたのではないか。高麗こまという語については、万葉集に「巨麻尓思吉こまにしき」(万3465)という仮名書きがあり、コは乙類かとされるが東歌の唯一例である。「高麗」をなぜコマと訓むかについては諸説あるが定説に至らない。とはいえ、「高」の字がためらいなく用いられているので、コは甲類である可能性がある。古典基礎語辞典の「こま【高麗・狛】」の項に、「†*koma」(515頁)と記され、甲類と推定している。
 和名抄に「馬〈駒字附〉 ……王仁煦に曰はく、駒〈音は倶、古万こま〉は馬の子なりといふ。」とある。こま(コは甲類)は子馬の状態で船に載せられて本邦に連れて来られた。騎馬民族、高麗の人によってである。飼育技術が伴わなければ連れて来ても意味がない。連れてきたのは子馬である。まるで狛犬のように小さい。そんなものに人が乗って早く馳せることができるのだろうか。倭の人は不思議に思っていると、彼らは手を拱いて見ているばかりではなく、飼葉を与えて上手に育て、かつ人に馴らせてよく言うことを聞かせ、人が乗っても猛スピードで走らせることをやってのけた。古語に「こまぬく」という。ぬきのマセを柵として活用していたことが言葉の端々に感じられる。儒者のする挨拶のポーズ、拱手キョウシュは、胸の前で通せんぼの形になる。「是に、古人大兄ふるひとのおほえしきゐりて逡巡しりぞきて、手をこまぬきていなびてまをさく、……」(孝徳前紀皇極四年六月)とある。古人大兄のポーズは、両手を腕の前で重ねて行う礼のような、しかし、それは倭の人にとって、挨拶ではなくて厩のマセのように見えるから、拒絶の意を表すことになっている。
 なお、推古紀元年四月条に、「且習内教於高麗僧慧慈」とある点について、「高麗のほふし慧慈ゑじ帰化まうおもぶく。則ち皇太子ひつぎのみこのりのしとしたまふ。」(推古紀三年五月)と後述される点や、蘇我氏が百済と関係が深かったことなどから、石井2016.は本当に「高麗」の人なのか疑問視している(70~74頁)。来訪して師匠にしたとされる僧侶の慧慈の朝鮮半島でのもとの国籍が、当時においてどれほどの意味を持ったか疑問である。厩戸皇子の話(噺・咄・譚)としてなら、コマ(駒 ≒ 高麗)である点はとてもおもしろく、重要な要素であると思われる。
(注16)「戸」はヤマトコトバでト(甲類)である。万葉仮名としても訓仮名で「(トは甲類)」は常用されている。音読みでは、漢音にコ、呉音にグ・ゴ、上顎音である。広韻に「戸」は侯古切である。音仮名の万葉仮名では、コ(甲類)に「古」があり、広韻に公古切、ゴ(甲類)に「侯」があり、戸鉤切である。仮に戸(コ)という音が音仮名に当てられたとすれば、甲類と感じられたであろう。の意味は、律令制で、戸令に里を構成する単位とされ、「凡そは、じふを以てさとと為よ。」とあり、家父長のことを戸主、独立家屋のことを戸建て住宅という。田令でも、「其れ牛は、いちをしていちはしめよ。」とある。さらに、「」は酒の量をいう語でもある。呑む量が多い人は「上戸じゃうご」、少ない人は「下戸げこ」という。つまり、ヤマタノヲロチの話は、に当ってを呑まずに、ならぬ状のところからいちずつ、全部ではちについて頭を入れて覗き込み、上戸か下戸か知らないが、それぞれという一丁前の酒量を呑んだということなのである。伊呂波字類抄に、「戸 コ〈酒戸也。上戸・中戸・下戸〉」とある。厩戸皇子と書いて、実はウマヤノミコなのだと、漢字のわかるインテリたちにおもしろがらせていたのかもしれない。太子が乗ったのは白馬あをうまだったとされるのは、呑むほどに青くなる人だったからとの推論も可能である。
 律令の「」が推古朝にあるはずはなく、法隆寺献物帳にサインの残る葛木主もヌシである。したがって、ウマヤノミコなる発想はあり得ず、そもそもがウマヤトノミコというのも後人の修文、潤色であると説かれることも多い。しかし、そう片付けてしまうには、このなぞなぞのレベルはあまりにも高い。上代の人の観念、心性に近づかなければ、了解には至らない。
(注17)市村1987.に、「綽名をつける能力の衰退は、間違いなく社会における相互的関心の稀薄化と批評感覚を含む文化水準の低落とを意味しているだろう。」(12頁)とある。今日、為人ひととなりへの関心は薄れ、目の前にしていながらその人の名刺にある肩書、キャリアばかり気にしている。仕事を離れた人と人との関係は築きにくく、ともすれば築く気さえはじめから持ち合わせていない。人と人との関係性、その網の目こそが文化であるとするなら、文化水準は飛鳥時代からひどく低下し、雲泥の差が生じている。日本書紀を頭ごなしに史書としてしか見ない姿勢にもつながっていて、日本書紀の内側に入って読むことは退けられ、外側から議論(のための議論が)されるばかりになっている。演算処理としてしかテキストを読まなくなったらもはや人の学ではない。すべてAIに取って代わられることをしていて空しくないだろうか。
 なお、「厩戸」という綽名の表す他の意味については、拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」参照。

(引用・参考文献)
石井2016. 石井公成『聖徳太子─実像と伝説の間─』春秋社、2016年。
市村1987. 市村弘正『名づけの精神史』みすず書房、1987年。
井上1987. 井上光貞監訳『日本書紀 下』中央公論社、昭和62年。
井上1996. 井上薫「聖徳太子異名論─なぜさまざまな異名をもつのか─」『歴史読本』1996年12月号。
宇治谷1988. 宇治谷孟『全現代語訳日本書紀 下』講談社(講談社学術文庫)、1988年。
大山1996. 大山誠一「「聖徳太子」研究の再検討(上)」『弘前大学国史研究』第100号、1996年3月。弘前大学学術情報リポジトリ http://hdl.handle.net/10129/3146
久米1988. 『久米邦武歴史著作集 第1巻 聖徳太子の研究』吉川弘文館、1988年。
群馬県立歴史博物館2017. 群馬県立歴史博物館編『海を渡って来た馬文化─黒井峯遺跡と群れる馬─』同発行、平成29年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』『同(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
日本史大辞典 『日本史大辞典1』平凡社、1992年。
『日本農書全集16』 岡光夫・守田史郎校注・執筆『日本農書全集16』農山漁村文化協会、昭和54年。
『日本農書全集19』 庄司吉之助翻刻ほか『日本農書全集19』農山漁村文化協会、昭和57年。
『日本農書全集60』 松尾信一・白水完児・村井秀夫校注・執筆『日本農書全集60』農山漁村文化協会、1996年。
古市2012. 古市晃「聖徳太子の名号と王宮」『日本歴史』768号、2012年5月。(『国家形成期の王宮と地域社会━記紀・風土記の再解釈━』塙書房、2019年。)
前之園2016. 前之園亮一「厩戸皇子の名前と誕生伝承」『共立女子短期大学文科紀要』59巻、2016年1月。共立女子大学リポジトリ https://kyoritsu.repo.nii.ac.jp/records/3114
渡里2013. 渡里恒信「上宮と厩戸」『古代史の研究』第18号、2013年3月。

加藤良平 2024.8.31改稿初出