皇極紀の「打毱」記事
皇極紀にある「打毱」は、中臣鎌足と中大兄とが厚誼を通ずるきっかけとなった出来事として有名である。脱げた靴を拾ってあげたことが感動的な出来事として扱われてきた(注1)。二人は出会い、後に大化改新へとつながった。藤氏家伝には「蹴鞠」とある。
……中臣鎌子連を以て神祇伯に拝す。再三に固辞びて就らず。疾を称して退でて三嶋に居り。……中臣鎌子連、為人忠正しくして、匡し済ふ心有り。乃ち、蘇我臣入鹿が、君臣長幼の序を失ひ、社稷を𨶳〓〔門構に視の旧字、門構に俞〕ふ権を挟むことを憤み、歴試ひて王宗の中に接りて、功名を立つべき哲主を求む。便ち、心を中大兄に附くれども、䟽然て未だ其の幽抱を展ぶること獲ず。偶中大兄の法興寺の槻の樹の下に打毱うる侶に預りて、皮鞋の毱の随に脱け落つるを候りて、掌中に取り置ちて、前みて跪きて恭みて奉る。 中大兄、対ひ跪きて敬びて執りたまふ。茲より、相び善みして、倶に懐へるを述べ、既に匿すこと無し。後に他の頻に接はることを嫌はむことを恐りて、倶に手に黄巻を把りて、自ら周孔の教を南淵先生の所に学ぶ。遂に路上、往還ふ間に、肩を並べて潜に図る。相協はずといふことなし。(皇極紀三年正月)
更欲レ択レ君。歴二-見王宗一。唯中大兄雄略英徹。可二与撥レ乱。而無レ由二参謁一。儻遇二于蹴鞠之庭一。中大兄皮鞋随レ毬放落。太臣取捧。中大兄敬受レ之。自レ茲相善倶為二魚水一。(家伝上・鎌足伝、天平宝字四年(760))
大系本日本書紀に、「毱は鞠に同じで、まり。打毱は打毬をもいう。打毬には二義があり、一に騎馬で曲杖をもって毬をうつポーロ風の遊戯をいい、荊楚歳時記や史記正義では、蹴鞠(けまり)をいうという。蹴鞠は数人が一団となり、両団が相対して、まりを蹴る競技。競馬の打毬は平安朝に行われたが、ここのは蹴鞠のこと。家伝に「儻遇二于蹴鞠之庭一」とある。クウルの訓、岩崎本の古い朱の傍訓による。蹴の古い活用は、奈良時代の蹴散、クヱハララカスに見られるように、ワ行下二段活用。ここは、その連体形でクウルの実例とみるべきもの。」(217頁)と適切な解説が付されている。一方、新編全集本日本書紀には、「「打毱」は『和名抄』にマリウチの訓がある。蹴鞠けまりとは異なり、打杖で毱まりを打って勝負を争う、今日のポロまたはホッケー風の競技。本条もこれであろう。」(86頁)とある。新編全集本が引くのは、狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に所載の和名抄である。「打毬 唐韻に云はく、毬〈音は求、打毬は内典に或に之れを拍毬と謂ひ、萬利宇知と云ふ。〉は、毛丸打つ者なりといふ。劉向別録に云はく、打毬は昔、黄帝の造る所なり、本兵勢に因りて之れを為るといふ。」とある。他の十巻本諸本にはその記述はなく、「蹴鞠 伝玄弾棊賦序に云はく、漢の成帝之れを好むなりといふ。〈世間に末利古由と云ふ。蹴の字は千陸反、字は亦、蹵に作る。公羊伝注に、蹴鞠は足を以て逆に蹈むなりと云ふ。〉」とある。大系本の注にあるとおり、「打毬」には二義あって、後にダキュウと呼ばれるポロ風の競技と、今日まで伝わる蹴鞠とが一つの漢語で表されていた。狩谷棭斎もそう考えている(注2)。
ダキュウのこと
ダキュウは、西宮記六・五月「幸二武徳殿一」に、「打球者四十人列二殿前一再拝、雅楽挙レ幡奏レ楽。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200019272/198?ln=ja)などと記されるとおり、左右楽を伴って華やかに賑やかに騒々しく行われる宮中行事として伝わっている。その最初の記事は万948・949番歌の左注にみえる。
四年丁卯の春正月、諸の王・諸の臣子等に勅して、授刀寮に散禁せしめし時に、作れる歌一首〈并せて短歌〉
真葛延ふ 春日の山は うち靡く 春さりゆくと 山の上に 霞た靡き 高円に 鶯鳴きぬ もののふの 八十伴の壮は 雁が音の 来継ぐこの頃 かく継ぎて 常にありせば 友並めて 遊ばむものを 馬並めて 往かまし里を 待ちかてに 吾がせし春を かけまくも あやに恐く 言はまくも ゆゆしく有らむと 予め 兼ねて知りせば 千鳥鳴く 其の佐保川に 石に生ふる 菅の根採りて しのふ草 はらへてましを 往く水に 禊てましを 天皇の 御命恐み ももしきの 大宮人の 玉桙の 道にも出でず 恋ふるこの頃(万948)
反歌一首
梅柳 過ぐらく惜しも 佐保の内に 遊ばむことを 宮もとどろに(万949)
右は、神亀四年の正月に数の王子、及び諸の臣子等の春日野に集ひて、打毬の楽を作す。其の日、忽に天陰り雨ふり雷なり電す。此の時に、宮中に侍従、及び侍衛無し。勅して刑罰に行ひ、皆授刀寮に散禁して、妄りに道路に出づることを得ずあらしむ。時に悒憤しく、即ちこの歌を作れり。作者は未だ詳らかならず。

宮中から人々がいなくなるほどの大スポーツ大会を勝手に催したらしい。職務をさぼって大騒ぎ、大はしゃぎをし、事後、大目玉を食らい、しょんぼりおとなしくしている風情を歌っている。喧噪と静寂が対比されている点が、歌の眼目になっている(注3)。
「打毱」は蹴鞠であること
他方、蹴鞠は、懸りと呼ばれる木の下で、丸く円を描くように並び立って鞠を蹴り合う遊戯であり、私語が禁じられている。現在の蹴鞠儀式でも、観客向けのアナウンスや観衆の歓声以外は静かである。蹴る人が合図に発するアリ(また、ヤクワ、ヲウとも)という言葉以外、本来、無言のゲームである(注4)。平安末期の蹴鞠故実書、藤原成通(承徳元年(1097)~ 応保二年(1162))の成通卿口伝日記に、次のようにある。
一足ぶみのべ足の事。
よの人皆左をさきにたつ。心々の事となれども。右の足を先にふむ。かたがたいみじき事也。是又左をかろくなさん為なり。右を先にたつれば。一またにのびんと思に。のびらるゝ様なり。左を先にふめば。右ふみかへられ。ちがへざればすくれたり。能々心得よ。必ず右の足を先にふむことしつくべし。
一鞠の時の身の振舞の事。
心をゆるに思べからず。心の中に躰をせめよ。あらはにせめつれば。こはくみえてたはやかならず。足を後ろへにがし頭をすゝむるはよしといふ。その様をしつけつれば。猶たはやかならず。只心のうちにおもへば。色にいでぬはたをれたる物からしたゝかなり。又庭にあらむ人とに。心をゆるにすまじ。皆敬ひ畏まりて。うちとくる事なかれ。さりとてにらみはるにはをよばざれ。打とけつれば。しどけなきことの侍也。心を潜めてうはなだらかなるべし。
一鞠に立て。しげく物いふべからず。いたり様に物をしへすべからず。高く笑ふべからず。さりとてにがりたるけしきにみゆまじ。心に面白く思へ。
一鞠にたちて。ゆめゆめべちの事を思べからす。ひとへに鞠に心を入よ。……(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879539/200・202)
また、作者不詳の蹴鞠百五十箇条に、「百三十八 まりの場に出ては。こひごゑの外。うむの事いわぬものなり。」、室町時代の飛鳥井雅康(二楽軒宋世)(永享八年(1436)~永正六年(1509))の蹴鞠百首和歌には、「ありといふ声より外にいふ事は鞠のかかりにせぬとこそ聞け」(各、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936508/42・28)とある。次に蹴る合図にアリという掛け声をかけることだけが許されていた。
なぜそうしたのか。集中しないとできない曲芸なのだからそう約束している。言葉を発してよいのは、蹴られた鞠を次に受ける時に発するアリなどという合図に限られていた。鞋が脱げてまさかのタイムの状態になっていても言葉を発してはならなかった。言葉を発することなく鎌足は中大兄の求める意のままに行動し、意気投合している。このようなことは男女間の恋愛において時に見られる。互いに一目惚れをした時、あるいは、交際中の絶好調の時、お互いに目と目を見つめ合ってウンウンと頷くだけで思いが伝わる。数年経てばあれは誤解であったと気づくのであるが、当人同士は恋に夢中なのでどうしようもない。運命の出会いだと思っている。恋愛は感動的である。鎌足と中大兄の出会いは、状況設定が蹴鞠の場という言葉を発してはならないところで言葉を発せずに意思が伝わったから恋愛のように感動的なのである。
皇極紀の記事には、鎌足が中大兄の「候二皮鞋随レ毱脱落一、取二-置掌中一、前跪恭奉。」に対し、中大兄は「対跪敬執。」とある。終始、無言である。これはパントマイムである。そんな無言劇が演じられた背景を想定するとすれば、舞台設定としておしゃべりが禁じられている蹴鞠だからである。そして、「皮鞋随レ毱脱落」とあるのだから、皮鞋と毱とが当初から密接な関係になければならない。蹴ったから同じ革製品が一緒に飛んで行ったのである。ポロやホッケーの場合、「[自二握手一]杖随レ毱脱落」ということになるし、木製品と革製品とが同時に動いてもおもしろくない。その杖は箸よりも格段に長いから、「取二-置掌中一」というわけにはいかない。
鎌足は、天皇家に蘇我氏が並び立っている政治体制を打破したいと考えている。冠位十二階の制定以来、蘇我氏も位を授ける側にあるという通念を打破しなければならない。当たり前だと思われていることを覆すには、たくさんのことを語らなければならない。しかし、世は蘇我氏が牛耳っており、妙な動きが知れれば中大兄ともども身の危険にさらされる。神祇伯を固辞して出仕しなかったり、南淵請安先生のところへ勉強に行くふりをして道々二人だけで語らう時間を作るなど、蘇我氏側、すなわち、時の政権側に悟られないように腐心している。皇極紀の「打毱」の記事は、たくさん話したい→無言劇→たくさん話す、という流れの結節点になっている。わかりやすい構図が示されている。
紀の執筆者は、「打毱」という語の、喧騒と静寂、饒舌と沈黙の両者がまとめられている点に興味をもち、わざわざ「打毱」と記したように思われる。もし、皇極紀の「打毱」がポロ風の競技とすると次のような矛盾にも陥る。鎌足と中大兄はポロの最中にふつうに会話を交わすことができる。そのようにして意気投合したと仮定すると、話が蘇我氏側に聞こえてしまい直ちに拘禁されることになる。戦前の日本やスターリン時代のソ連を思えばわかるように恐怖政治時代である(注5)。話をしているという形式だけでクーデターを計画しているという内容にまで見なされてしまう。そういう意味合いを込め、紀の記述は行われている。逆に、ポロ競技の大騒ぎの最中にパントマイムを演じているとすると、あまりにも場違いで不自然であり、それこそ蘇我氏側に怪しまれるだろう。偶然にも、中大兄は言葉を交わすことが禁じられている蹴鞠をしていた。皇極紀にはきちんと「偶」と記されている。話をせずに好を交わす千載一遇のチャンスであったことが明示されている。「随」や「偶」など、語一語に意味を込めながら録していく史の姿勢は、司馬遷を髣髴させるものがある。
軽皇子像描写による傍証
恐怖政治の下にあっては、安易に人を介して話をしたりすることは慎まなくてはならない。世に知れれば命はないからである。そういう用心深さがあるかどうか、それは蹴鞠の場の無言に耐えられるかどうかに象徴的に表れる。中大兄はそれができたから中臣鎌足の目にも頼もしく映った。それ以前に鎌足が厚誼を通じていた軽皇子(後の孝徳天皇)はそうではなかった。冒頭にあげた日本書紀の中略部分に、軽皇子の挙動が記されている。藤氏家伝には前段記事として載っていて評価も下されている。
時に、軽皇子、患脚して朝へず。中臣鎌子連、曽より軽皇子に善し。故、彼の宮に詣でて、侍宿らむとす。軽皇子、深く中臣鎌子連の意気高く逸れて容止犯れ難きことを識りて、乃ち寵妃阿倍氏を使ひたまひて、別殿を浄め掃へて、新しき蓐を高く鋪きて、具に給かずといふこと靡からしめたまふ。敬び重めたまふこと特に異なり。中臣鎌子連、便ち遇まるるに感けて、舎人に語りて曰はく、「殊に恩沢を奉ること、前より望へるに過ぎたり。誰か能く天下に王とましまさしめざらむや」といふ。〈舎人を充てて駈使とせるを謂ふ。〉舎人、便ち語らへるを以て、皇子に陳す。皇子大きに悦びたまふ。(皇極紀三年正月)
于時軽皇子患レ脚不レ朝。太臣曽善二於軽皇子一。故詣二彼宮一而侍宿。相与言談。終夜忘レ疲。軽皇子即知二雄略宏遠智計過レ人。計下特重二礼遇一全得中其専上。使二寵妃朝夕侍養一。居処飲食甚異二異于人一。太臣既感レ恩。潜告二所レ親舎人一曰。殊蒙二厚恩一。良過レ所レ望。豈無レ令三汝君為二帝皇一耶。君子不レ食レ言。遂見二其行一。舎人伝語二於軽皇子一。皇子大悦。然皇子器量不レ足三与謀二大事一。(家伝上・鎌足伝)
鎌足は舎人を使って伝言を聞くに慎重かどうかを探っている。軽皇子は、「患レ脚」だから蹴鞠ができない。つまり、黙っていることができないことが暗示され、人づての話を真に受ける程度の人物は、「器量不レ足三与謀二大事一。」であると断じられているのである。恐怖政治下においてクーデター計画を練って実行する際、共謀者に求められる資質が述べられている。皇極紀の「打毱」が蹴鞠であることを支持している。
蹴鞠の動作のフムとクウ
蹴鞠は難しい。和名抄の「蹴鞠」の項に、「以レ足逆蹈也。」とあった。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄には、「所レ引公羊伝注、宣六年文、原書作二以レ足逆躢曰レ踆、蹋躢同、見二広韻一、蹋踏同、見二集韻一、唯作レ踆与二此所レ引不レ同、按唐石経公羊伝作レ踆、与二今本一同、釈文亦云、踆音存、則源君所レ引似レ誤、然慧琳音義引作二以レ足逆蹋曰レ蹴、五見皆同、蓋古有二作レ蹴本一也、曲直瀬本以足上有二蹴字一、那波本有二蹴鞠二字一、鞠字衍、山田本踏作レ蹈、那波本同、按踏躢皆蹋字異文、踏蹈並訓レ践、然非二同字一、踏与二公羊伝注一合、則作レ蹈誤、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1872112/1/137、漢字の旧字体は改めた)とある。蹴鞠は逆に蹈むことが明示されており、足の行方として、フムとは逆の言葉、上代語のクフについて、きちんとした理解が求められている。
時代別国語大辞典は解釈に苦しんでいる。
くう【蹴】(動下二)蹴る。「若二沫雪一以蹴散〈倶穢簸邏邏箇須〉」(神代紀上)「此雷悪怨而鳴落、踊〈久恵〉二践於碑文柱一」(霊異記上一話興福寺本)「偶預下中大兄於二法興寺槻樹之下一打レ毱之侶上」(皇極紀三年)「当麻蹶速」(垂仁記七年)【考】梁塵秘抄には「馬の子や牛の子にくゑさせてん、ふみわらせてん」のように古形を存しているが、名義抄では「蹢クヱル」のほかに、「蹴 化ル、クユ、コユ」という形も見える。「天皇祈曰、朕将レ滅二此賊一、当下蹶二茲石一、譬如二柏葉一而騰上、即蹶之、騰レ如二柏葉一、因曰二蹶石野一」(豊後風土記直入郡)の「蹶」はクヱとも訓まれるが、フムとも訓めることは次の地名説話との関連においてもいえる。「朕得レ滅二土蜘蛛一者、将レ蹶二茲石一、如二柏葉一而挙焉、因蹶之、則如レ柏上二於大虚一、故号二其石一曰二蹈石一也」(景行紀十二年)。第三例の「打毱」の岩崎本の朱点傍訓はクウル(マリ)とあり、釈日本紀・秘訓にはクユルと見える、名義抄や世尊寺字鏡にあるように、蹴るの意味で、クユという語もあったらしいが、上代における存在は疑わしい。これと関係づけて考えるべきは、新撰字鏡の「〓〔足偏に可〕〓〔足偏に巴〕〓〔足偏に可〕行皃、用力也、立走、又古江奈良不・〓〔足偏に商〕万利古由、又乎止留」、和名抄の「蹴鞠末利古由」、その他「脚ノ指ヲモチテ地ヲ蹴エテ足ヲ壊リツ」(小川本願経四分律甲本古点)「右ノ足ヲ以テ之ニ蹴ユルニ足復粘着ス」(石山寺本大智度論古点)や前掲の名義抄などに見えるコユという語である。これが果たして、いわゆるケルという意味を有する語であったか、あるいは、強く踏む・おどり上がるの意で、むしろ越ユと関係づけられる語であったかなどの点は問題であるが、アゴエという語が、これと足との複合語であったとすれば、この語の上代における存在を想定することもできよう。クユは、あるいは、クウが、このコユへの類推によって変化して、生じた形かもしれないが、また一説には、クウという終止形はなく、古く蹴ルは、クヱ・クヱ・クヱル・クヱル・クヱレ・クヱヨのように下一段活用としたとの考え方もある。→あごえ・ふむ(252頁)
ふつうに考えれば、足を地面へ押し当てるように step , tread することがフムであり、足を使って物を上方ないし前方など、地面とは違う方向へ kick することがクウという言葉であろう。だから、和名抄に「以レ足逆蹈也。」とある。「蹈む」という語の範疇に、「蹴鞠」の「蹴」の語意が、方向として逆であるが含まれている(注6)。上代語のクウ(下二段活用、クヱ・クウ・クウル)という語は、その後廃れてケルという語に取って代られた。その中間的な、他語とないまぜの形として、名義抄に、「蹴 化ル、クユ、コユ」などとあると考えられる。
蹴鞠において、鞠を蹴るということは、なによりも第一に、前段階として、地面を踏むことが必要なのである。ステップすることがキックの要件である。それは、今日のサッカーにおけるリフティングでも同じことなのかもしれないが、蹴鞠では右足だけで蹴ること(注7)、重々しいユニフォームを身に着けていて動きにくいこと、鞠が正球を目指しているわけではなく二球を合体させたようなものであること、懸の木のような煩わしいもののあるところで行うこと、人の輪の方を向いて蹴るのが正式であること、などの条件が課せられている。非常に難しい。ここに、古語の、クウ(蹴)という語とフム(踏・蹈・蹶)という語とが、相反しながら親近する性格が見えてくる。
相撲のフムとクウ
クウとフムは、豊後風土記や景行紀の用例に見られるように、両訓可能な点で概念に重なるところがある。次に挙げる相撲の起源話には、「蹶」という字にクヱともフムとも傍訓が付いている。
……左右奏して言さく、「当麻邑に勇み悍き士有り。当摩蹶速と曰ふ。其の為人、力強くして能く角を毀き鉤を申ぶ。恒に衆中に語りて曰はく、『四方に求めむに、豈我が力に比ぶ者有らむや。何して強力者に遇ひて死生を期はずして、頓に争力せむ』といふ」とまをす。天皇聞しめして、群卿に詔して曰はく、「朕聞けり、当摩蹶速は、天下の力士なりと。若し此に比ぶ人有らむや」とのたまふ。一の臣進みて言さく、「臣聞る、出雲国に勇士有り。野見宿禰と曰ふ。試に是の人を召して、蹶速に当せむと欲ふ」とまをす。即日に、倭直の祖長尾市を遣して、野見宿禰を喚す。是に、野見宿禰、出雲より至れり。則ち当摩蹶速と野見宿禰と捔力らしむ。二人相対ひて立つ。各足を挙げて相蹶む。則ち当摩蹶速が脇骨を蹶み拆く。亦其の腰を蹈み拆きて殺しつ。故、当摩蹶速の地を奪りて、悉に野見宿禰に賜ふ。是以其の邑に腰折田有る縁なり。野見宿禰は乃ち留り仕へまつる。(垂仁紀七年七月)
今日の大相撲の四十八手に、上の例のような足で踏みつけるような技、殺すような仕儀はない。天武紀には隼人の相撲の例が載る。
是の日、大隅の隼人と阿多の隼人と朝廷に相撲らしむ。大隅隼人勝ちぬ。(天武紀十一年七月)
この天覧相撲の場合も、今日の興業に見られるものに近いものであったろう。余興としての性格が強く、ローマのコロッセオのような殺し合いはなかったものと思われる。垂仁紀の「二人相対立。各挙レ足相蹶。」は、今日の相撲において「仕切り」とされる仕儀に当たるのではないか。今日、呼びあげられて土俵に上がり、まず、徳俵のところで「二人相対立。各挙レ手相拍。」という動作となっている。仕切り動作の最初に、拍手を打つ仕種をするのは、手に何も持っていないことを示すためでもあろうし、それが相手に対して足を使って蹴るものではなく、手を使って押したり引いたり投げたりはたいたりする競技であることを誓うものでもあろう。「各挙レ足相蹶。」とは、土俵の隅の塩や水のあるところへ一度行ってからのことで、そこで四股を踏んでいる。
すなわち、野見宿禰は、仕切りの際の準備運動の四股をフム所作を実際の試合のこととしてしまい、いきなり(「則」)フミ(蹶・蹈)つけたということではなかろうか。出雲国出身の田舎者には相撲のしきたりがわからなかったのである。シキリとはシキタリのことである。出雲国から「至れり」とあって、「為来り」とは書いてない。説明がなかったのだから野見宿禰に悪気はない。勝ちは勝ちである。大しておもしろくない洒落であるが、他に考えようがない。そして、言葉としては、フムことがケルことに先んずることを物語っている。蹴鞠の所作と同じである。神代紀にも、スサノヲを迎えるにあたってアマテラスは、髪や服装、装身具、武器を整え、それにつづいて見得を切るような所作をとる。
……堅庭を蹈みて股を陥き、沫雪の若くに蹴散し、〈蹴散、此には倶穢簸邏邏箇須と云ふ。〉……(神代紀第六段本文)
その後、雄叫びをあげている。先に「蹈」んでから「蹴散」、今日の言葉で言えば蹴散らしている。堅い大地を股まで左足は踏みしめて、軸足を確かなものにして、それから勢いよく右足を振り抜いて蹴っている。軸足が不確かでは蹴ることはできない。クウはフムが前提なのである。ここに蹴鞠の絶対的なルールとしての無言劇が立ち現れる。大相撲においても、土俵上で取組中に声をあげることに抵抗感があったり、仕切りの姿勢が行き過ぎると違和感があると評されるのは、人々の意識の底に「相撲とは何か」についての考えが根づいているからだろう(注8)。フムことについての観念が行き渡っている。
フムの奥義
蹴鞠においておしゃべり、私語がなぜ禁止されているのか、その理由についてはこれまで深く考究されたことはなかった。口伝書に、キックの新技などが盛んに記される陰で、当たり前の事として書かれている。当然のことだからである。第一に、集中しなければ、鞠を地面につけないようにして一定の高さを保って蹴り合い続けることは難しい。スポーツとして、運動の技能としてそのとおりだろう。と同時に、第二に、上手に蹴るためには上手に蹈むことが求められるのである。四股と言いながらも二足歩行動物である。歌いながらダンスをするパフォーマンスは進歩したが、フリートークをしながら同じダンスをすることはかなり難しい。そして第三に、釈日本紀・巻第十六の秘訓一に、有名ながら途方もないこととされている解釈が載っている。
○問。書字乃訓於不美止読。其由如何。○答。師説。昔新羅所レ上之表。其言詞太不敬。仍怒擲レ地而踏。自レ其後訓云二不美一也。今案。蒼頡見二鳥踏レ地而所レ往之跡一作二文字一。不美止云訓依レ此而起歟。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/379)
フミ(文・字・書)を踏むことと、何とかして結びつけて解釈しようとしている。その指向は間違っていないと思われる。フミ(文・字・書)があれば必然的に黙読することができる。黙っていても意味が相手に伝わる。そのようなことは無文字社会ではあり得ないことであった。ということは、逆に、フミという語に関係のある事柄は、黙ってしなければならないことを相即的に約束しなければならない。それが、言霊信仰のもとでの人々の集合意識であった。言と事とが一致するところに、人々の共通認識が設定されていた。そうしなければ、人々の間に伝わるということがなく、社会は成り立たない。言い換えれば、社会とは持続的なコミュニケーションシステムそのものである。
蹴鞠が鞠を蹴るうえで踏むことを前提にしているのは、フミ(文・字・書)としてあって黙って伝えることを、鞠を介して行う競技だと見立てられていたからである。両者は相似を成している。蹴鞠の情報伝達の方法は黙読である。とはいえ、具体物としてのフミ(文・字・書)を備えているわけではない。カンペとなる笏も持たない。弘安九年(1285)の革匊要略集の「二 威儀」に、「一笏事 示云、笏者鞠庭へ不二持出一者也、示云々」(渡辺・桑山1994.211頁)、13世紀末の内外三時抄の「装束篇」に、「釼ハ撤して鞠場に出へし、笏・檜扇同之」(同373頁)とある。フミは「踏」をもって全うしているのである。
蹴鞠という仕儀は、三次元的な広がりの中でありつつ懸の木に邪魔されながら、あるいは、目印、目安にしながら、片足だけである程度の高さへ蹴上げて伝えている。よほどの動体視力と運動能力を必要とする。正球ではなく、また、鞠ごとに違う感触を確かめては、そのときにくり広げられる鞠場の環境を認知して、対面しながら周囲にいる鞠足と呼ばれる選手の力量を探っていっている。膨大な量の情報処理を行っている(注9)。
万葉集にあるフミタツという語が、鳥を追い立てる形容にのみ使われている点は興味深い。「鶉雉履み立て」(万478)、「鳥蹋み立て」(万926)、「千鳥ふみたて」(万4011)、「鳥ふみたて」(万4154)と見える。釈日本紀にあるフミ(文字)は鳥の足跡に由来するとする説と近しい。最も人々に身近な存在となった鳥はニワトリである。すると、鶏と蹴鞠とで、言葉の範疇として、どこかで交差する地点があったかもしれないと推測が行く。鶏と蹴鞠との関係を「鞠場」のニハ(庭)に見た可能性がある。ニハ(庭)という言葉は、神事の場、狩猟・漁労の場、邸内の農作業の場、邸内の庭園、など多様な意味がある。蹴鞠の court の意も含む。
釈日本紀の鳥の足跡説のように、鳥のなかに歩を進めるとき、蹴爪も露わにして地面を踏み蹴っていくものがいて足跡がついている。現代語の「蹴るように歩く」意は、上代語でフム(踏・蹈・践)である。蹴爪を持った鶏が足跡をつけてフムのを観察すれば、釈日本紀説はかなり学問的な解釈に映る。むろん、それはフミ(字・文・書)という語の語源を、フミ(踏・蹈・践)であると考えたわけではなく、平安時代当時の人たちがそのように捉えて納得していたことがよく了解されるという意味である(注10)。古代において、言葉は語源を尋ねるものではなく、どうしてそのように構成されているかをおもしろがるものであったと考えられる。結果的に、記紀万葉のなかでの言葉の使い方は、洒落やなぞなぞが多発していくことになる。無文字文化から文字文化への過渡期にあった飛鳥時代の人たちは、頓智がよく働いていた。
以上、基本動作であるフム・クウをヤマトコトバのなかで詮議し、皇極紀の大化改新へつながった「打毱」競技が蹴鞠であったことを確かめた。
(注)
(注1)黒田2007.237~238頁、黒田2011.51頁に、感動的ではないとする意見がある。
(注2)狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄の「打毬」の注に、「……七略別録二十巻、漢劉向撰、見二隋書唐書一、今無二伝本一、荊楚歳時記、打毬鞦韆施鈎之戯、注引二劉向別録一云、蹴鞠黄帝所レ造、本二兵勢一也、或云起二於戦国一、初学記題二打毬一、引二別録一、与二歳時記一同、後漢書梁冀伝注引作下蹴鞠者伝言黄帝所レ作、或曰起二戦国之時一、蹴鞠兵勢也上、太平御覧同、按歳時記初学記打毬注引二別録一、其文作二蹴鞠一、則二書所レ謂打毬、即蹴鞠、非二拍鞠一也、而拍鞠亦名二打毬一、唐有二打毬楽一、其伎為下執二曲杖一打二毬子一之勢上、又有下乗レ馬打二毬子一者上、封氏聞見記載、……源君見二其名同一、以二歳時記初学記打毬一、誤為二拍鞠一、遂改二別録蹴鞠字一作二打毬一非レ是、又諸書所レ引、皆無二昔字一、疑是者字譌、或与二黄字一形似誤衍也、……」、「拍毱見二涅槃経梵網経喩伽論一、按毬毱一声之転、蓋同字也、然二字皆説文不レ載、即鞠俗字、慧琳音義、毱亦作レ毬、並俗字也、今俗呼音レ求者、諸字書竝無、毬字正作レ鞠、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1872112/1/137、漢字の旧字体は改めた)と説明する。「打毬」なる字が書いてあるからそれはダキュウ(ポロやホッケー)のことであると短絡して考えるのは、浅学な現代の人に限られることらしい。ダキュウか、蹴鞠か、いずれであるかを冷静に考えたい。
(注3)ポロとしての打毬の様子は、平成二十七年五月三十日、平成天皇皇后両陛下のご傘寿の賀の記念として、皇居にて母衣引ともども古式馬術が披露されている。古式打毬については、marugotoaomori「【青森の魅力】騎馬打毬 - 紅白舞いて、ちはやぶる(八戸市)」https://www.youtube.com/watch?v=8_xE3GUAnbg参照。
(注4)古今著聞集・巻十一にも、「毱を受くるにはヤクワといひ、アリといひ、ヲウと云ふ。」とある。
(注5)恐怖政治(terreur)は、権力者が、自らに反対するものを殺戮、投獄して弾圧することで国民に恐怖心を抱かせ、人々の口封じをして自らの権力を保つような政治体制をいう。それは必ずしも政権に由来するばかりでなく、幕末期の京都でテロリスト集団の新選組が暗躍し、意見を言うことができなくなってしまった状況も同様と言える。
(注6)これに対して現代語では、「蹴って歩く」というように、「蹴る」という語が「蹈(踏)む」という語よりも広い概念として捉えられているかと思われる。
(注7)室町初期まで蹴鞠の宗家としてあった御子左家では左足でだけ蹴ったという。
(注8)現在の大相撲(日本相撲協会)においても、立ち合い前の発声を慎まれている。
(注9)捻挫防止のために、フム・フム・クウの三拍子で足を使うように言っている。池2014.、渡辺2000.参照。
クウ(蹴)については、白川1995.に、鋭い指摘がある。
くう〔蹶・蹴〕 下二段。「くゑ・くう・くうる」と活用する。のち「ける」の形となった。足ではげしく蹴ることをいう。おそらく擬声語であろう。「崩ゆ」とも関係がある語であろう。……蹶は厥声。厥はものを彫刻する剞厥の刀。これで強くものを刳り削ることをいう。そのような状態で足のあたることを蹶という。〔説文〕二下に「僵るるなり」とみえる。またはね起きることを蹶然という。「くゑ」と同じく、擬声語である。(283頁)
ヤマトコトバにクウは擬声語ではないかとしている。漢語でもケツがやはり擬声語であるという。入声のケツは、ケッという音として感じられる。ヤマトコトバのクヱ・クウなどは、クヱ・クゥと感じられたのであろう。蹴鞠(蹶鞠)という語も、クヱ+マリ & ケッ+マリ→ケマリへと転じたとも考えられる。語構成としては、ケル+マリ→ケマリ説ばかりに限られはしないのである。もともとが擬声だからである。説文の説明から、垂仁紀七年条で当摩蹶速が捔力(相撲)に負けたのは、その名のとおりと知れる。僵れて蹶まれたことを嘆いて、感嘆の助詞のハヤと補う名前になっている。
木村2009.に次のようにある。
……「立つ・居る(すわる)・寝る」とは、人の動作の基本的な三態だが、「立つ」時には必ず「踏む」という動作が一体となっている。「立つ」とは全身のありようだが、その時の足のはたらきが「フム」である。したがって「フム」という言葉は、人が自らの身体をそうしたありようを意識し始めた時からあったに違いない古来の言葉である。「フム」とは、足裏の下に土や石や床等を体重によって自然に押し付けることだから、普通に立ったり歩いたりする時のような無意識の場合と、行進の「足踏み」などのような意識的な場合とがある。「踏切」もまた、つまづいたりしないように注意して(意識的に)踏んでいることが多いのだろう。(171頁)
筆者は、上代語のフムにおいて「普通に立ったり歩いたりする時のような無意識の場合」の存在することを支持できない。蹴鞠が、フム・フム・クウの三拍子を一セットの動作と捉えるとき、それは意識的なものである。「堅庭は向股に蹈みなづみ、沫雪の如く蹶ゑ散かし、いつの男建び蹈み建びて待ち問ひたまはく、……」(記上)とあるとき、明らかに意識して地面を踏んでいる。椅子に腰かけて足が地面や床に接している時、例えば半跏思惟像の片足などは、フムとは言わないように思われる。万葉集ではフミタツという語は、鳥を追い立てる形容にしか用いられない。それ以外のフミ○○という複合動詞の用例(履み起す、踏み越ゆ、蹈み鎮む、踏み平らぐ、踏み通る、踏み平す、踏み貫く、履み求む、践み渡る)も、動詞+動詞の関係のままにあり、後続の動詞が補助動詞化したり、フミが接頭語化したりはしてはいない。単独で使うフムという動詞の用例のほとんどに、それを明かすための対象物、「石」、「岩根」、「地」、「跡」、「雪」、「足」、「道」といった語(名詞)を伴って説明している。無意識の、ないしは、単に立っている時の step on , tread on の際に、ヤマトコトバのフムという語は用いられていないようなのである。木村2009.の概念規定の説明では、観念の表れとしての言語、記号操作の出発点としての言語、イメージ抽象の元素としての言語、という立場に反すると考える。
(注10)古今集の「忘られん 時しのべとぞ はま千鳥 ゆくへも知らぬ 跡をとどむる」(よみ人しらず、雑下・996)という歌は、記紀歌謡の「浜つ千鳥」(記37・紀4)が一語化し、かつ、中国古代の黄帝時代に、蒼頡が鳥の足跡を見て漢字を作ったという故事を踏まえて詠まれたとされている。平安時代には、砂浜に残る鳥の足跡を字のようであると感じたり、千鳥が砂浜を踏む意の「踏み」と、手紙の「文」とを掛けて喜んでいる。千鳥のあしらわれた蒔絵の文房具が残ることを傍証とする説もあるが、足跡や踏む様を描いているわけではないため牽強とも思われる。それでも釈日本紀のフミの語義説は、当時の風潮からすれば案外平易なことであったと考えられる。むろん、それは、平安時代当時の感覚としてそうであったというだけのことである。そして、もはや漢字のことなのか仮名のことなのか、どうでもよくなっている。古墳時代に文字(漢字)は流入しており、その5~6世紀にフミという言葉が造られたのであろうと筆者は考える。さまざまな知恵を駆使し、いわゆる和訓として創作されたヤマトコトバなのであろう。
(引用・参考文献)
池2014. 池修『日本の蹴鞠』光村推古書院、平成26年。
木村2009. 木村紀子『原始日本語のおもかげ』平凡社(平凡社新書)、2009年。
黒田2007. 黒田智『中世肖像の文化史』ぺりかん社、2007年。
黒田2011. 黒田智『藤原鎌足、時空をかける』吉川弘文館、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
渡辺・桑山1994. 渡辺融・桑山浩然『蹴鞠の研究─公家鞠の成立─』東京大学出版会、1994年。
渡辺2000. 渡辺融「フットボール、昔と今」『大学出版』第47号、2000年10月。大学出版部協会ホームページ https://www.ajup-net.com/web_ajup/047/dokusho47-2.shtml (2025年2月13日確認)
加藤良平 2020.7.26改稿初出