力士舞の歌

 万葉集で鷺を直接歌った歌は一首である。

  白鷺の木をひて飛ぶを詠める歌
 池神いけがみの りきまひかも 白鷺の ほこひ持ちて 飛び渡るらむ(万3831)

 この歌は、伎楽の一つの美女の呉女を追う外道の崑崙のペニスを力士が桙で落とし、それを振って舞う舞のことを詠んだものと解釈され通説化している。この眉唾な説の源は、山田1955.にある。

 抑もここにいふ力士儛とは伎楽即ちかの推古天皇の朝に百済人味麻之の伝へたりといふ呉楽の一曲にして、伎楽は伝来以後専ら仏楽として用ゐられ、奈良朝の盛時に諸大寺に行はれたりしことは記録に存するのみならず、それに用ゐし遺物の法隆寺又は東大寺の正倉院に保存せられて今に伝はるものあるにても思ひ半にすぐるものあり。伎楽は代面をつけて舞ひ、笛と腰鼓と銅鈸子とを伴奏としたるものなり。その曲は……源博雅の笛譜には……九曲……教訓抄[に]十曲とせり。……そがなかにも崑崙と力士とは常に続けるはこれ偶然にあらずして実にこの二曲合せて一曲を構成する者にして、其状、先づ、崑崙の曲にて五人の女灯爐の前に立ち、後舞人二人出で舞ひ五女の内二人を懸想する由を演ず。力士の曲は之を承くる者にして、最初に力士手をたたきて出で、かの五女に懸想せる外道崑崙を降伏せしむる状を演ずるなり。(150~151頁)

 しかし、伎楽は中世には廃れ、現在、書物と伎楽面の遺物、寺院の資材帳などから推定しているにすぎない。最も豊富な史料とされる狛近真・教訓抄(1233年成立)も式次第と楽の要領を簡素に記しているに止まっている。
 教訓抄・巻第四の「他家相伝舞曲物語 中曲等」に伎楽は「妓楽」と記されている。巻四は、胡飲酒、採桑老、抜頭、還城楽、菩薩、迦陵頻、蘇莫者、倍臚、皇麞、清上楽、汎竜舟、河南浦、放鷹楽、蘇芳菲、師子、妓楽、小馬形から成る。内閣文庫蔵本をおさめる植木1973.、宮内庁書陵部蔵本をおさめる教訓抄研究会2008.、井伊家旧蔵本をおさめる岸川・神田2009.によって大要は知ることができる(注1)
 万3831番歌に伎楽が詠み込まれていると断定するには数々の問題点がある。「力士儛」がはたして伎楽の舞を指すものか、教訓抄には師子が舞うものを師子舞、迦楼羅が舞うものは走手舞とあるものの、力士舞という呼称は指定されていない。また、歌の冒頭の「池神」については地名であるとされ、そこで伎楽が練習されていたのだというのだが、どこのことか不明である。白鷺から白衣の舞を連想したというにしては、正倉院宝物の力士脛裳が紫地花唐草文の複様綾組織経錦であることから力士が白装束であったとはコーディネート上考えにくい。また、仏教では、金剛力士像は金剛杵・金剛杖を持って仏法を守護するように立つが、手に持つ金剛杵・金剛杖を鳥が口にくわえると譬えるのは不自然である。さらに、白鷺の木を啄いて飛ぶという木を歌中では桙と言い換えている。それを仏像彫刻にある金剛杵・金剛杖のことであると想定するのは乱暴である。以上あげた点から決しておさまりのいい解釈とはいえない。あるいは絵を見て歌ったものかとの説も提出されている。しかし、絵を見て歌を詠む風習が万葉時代のいつどこであったか解説はない。
 そもそも、歌の題詞に「白鷺の木を啄ひて飛ぶを詠める歌」と状況説明がある。自然の景物を見て人工のものに譬えるとなると、例えば次のようなことになる。夏目漱石の『坊つちやん』の一節である。「『あの松を見給へ、幹が真直で、上が傘の様に開いてターナーの画にありさうだね』と赤シヤツが野だに云ふと、野だは『全くターナーですね。どうもあの曲り具合つたらありませんね。ターナーそつくりですよ』と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙つて居た。……すると野だがどうです教頭、是からあの島をターナー島と名づけ様ぢやありませんかと余計な発議をした。赤シヤツはそいつは面白い、吾々は是からさう云はうと賛成した。此吾々うちにおれも這入つてるなら迷惑だ。おれには青嶋で沢山だ。」となっている。主人公の「坊つちやん」は荒唐無稽な話だと捉えている。

左:相撲図(打虎亭漢墓壁画、中国河南省新密市、後漢時代、2~3世紀)、右:力士形埴輪(今城塚遺跡出土、発掘された日本列島2014展示品)

 予断を排除してみると、りきまひ(ヒは甲類)とあって倭の人がまず思いつくのは、仏教にまつわる芸能、伎楽の力士のことではなく、相撲、古語でスマヒ(ヒの甲乙不明)のことであろう。見宿みのすく当麻蹶速たぎまのくゑはやの逸話が垂仁紀のなかに伝えられている。スマヒという言葉は、大きな二人が組み合って力比べをする格闘技をし、二人でマヒ(舞)を舞っているようなものであると、言葉と形容の両方に掛けて表現されている(注2)。相撲は大陸とつながりがあり(注3)、高句麗の角抵塚や舞踊塚の壁画にも描かれている。本邦でも、わざわざ朝鮮半島の百済からの使者に懐かしかろうと見学させている。

 健児ちからひとことおほせて、[百済王子]げうが前に相撲すまひとらしむ。(皇極紀元年七月)

 「池神」とは何か。池にじっとしている鳥、ヒノクチマモリ(樋口守)、ミトサギ(水門鷺)と呼ばれるアヲサギ(蒼鷺)のことを言っていると考えられる。水門を守っている神のような存在と見立てている。その様子はまるで磔にでもあったように動かず、なのにギャーギャー騒いで人を呼んでいるようである。相撲の立ち合いに「はっけよい」というのは、四肢を土俵にきちんとつけて静止してから始めることによるものである。八卦良いとの俗説もあるが、磔の別の言い方、ハッケが ready の姿勢である(注4)。その姿勢のままアヲサギが動かないでいると洒落ている。題詞に「木」とあるのが、歌中では「桙」となっている。
 新撰字鏡に「槿 保己ほこ、又、保己乃加良ほこのから、又、祢夫利ねぶり」とある。槿の字は植物の木槿むくげのことであるが、玉篇に「槿、柄也」、集韻に「矜、説文、矛柄也。通作槿」ともあって、矜の字は、ほこる、の意である。だから槿はホコのこと、またその柄のことをいうと認められたようである。そんな次第で、キ(木)がホコ(桙)になるものとしてムクゲが一番にあげられるというのである。ホコとは、首の長いアヲサギを見立てたもので、シラサギよりも毛(黒髪)が多いからムクゲのこと、また、木槿を指している。説文に「蕣 木堇、朝華暮落者」、和名抄には「蕣 文字集略に云はく、蕣〈音は舜、岐波知須きはちす〉は地蓮、華は朝に生れ夕に落つる者なりといふ。」とあり、蕣はアサガオにも、ムクゲにも当てられる字である。

左:植物のムクゲ、右:動物のムクゲ

 シラサギがムクゲを啄って持っていくというのは、アヲサギと喧嘩してアヲサギのホコのような長い首についている頭の毛を啄んで持って行ってしまったという意を表しているのであろう。もともとはむくであったアヲサギの頭頂の毛を毟り取っててっぺん禿にしてしまったのではないかとの謂いである。アヲサギは、頭頂部が白くその両側に黒い毛が伸びており、落武者のような風貌をしている。シラサギ━ムクゲ(朝顔)/アヲサギ━ヒサゴ(夕顔)という対比である。周囲の髪を集めて束ねればてっぺん禿は隠れる。「是の時に、うまやとの皇子みこ束髪於額ひさごはなして、〈いにしへひと年少児わらはの年、十五六の間は束髪於額ひさごはなす。十七八の間は分けて角子あげまきにす。今亦しかり。〉いくさしりへに随へり。」(崇峻前紀用明二年七月)とある(注4)。力士は髪を頭上に束ねあげる習いもあったようである。
 アヲサギとシラサギが語らうように見える光景は池へ行くと容易に見られる。相撲のにらみ合いのようにも見受けられる。その後、シラサギだけが飛んでいき、アヲサギだけが残るということもままあるだろう。両者は相撲を取り、シラサギはアヲサギのホコの中央部の黒い毛を啄んで取った、あるいは束ねあげて立っているもとどり、それは桙を立てたように見えたものをつついてばらけさせたら禿げているのが丸出しになった(注5)。それでもアヲサギは土俵にとどまり勝利している。アヲサギが樋口守、水門鷺と呼ばれている由縁は、水門を守るために残ったからだというわけである。この歌の収められている巻十六は「由縁ある、并せて雑歌」の巻である。鳥なのに飛んだり跳ねたりせずに「舞」うと表現されていておもしろい。マフ(舞)という言葉はオドル(踊)とは違って旋回運動を表すとされ、マハル(廻)と同根である。頭頂部にあって廻るものとは旋毛つむじである。アヲサギの頭部の落武者のような髪の様相に着目し、頭頂部が大きな旋毛となっているのはマフ(舞)ことに秀でた存在なのだ、だからリキジマヒ(力士舞)をしているのだと見てとったということだろう。

(注)
(注1)伎楽についての論考については、植木1981.、新川1990.、新川1998.、末吉1998.、今岡2008.が書籍化されている。
(注2)上田1981.によれば、相撲をスマヒと訓むのは、本来は「相舞すまひ」としての神事芸能的側面を持つものであったからで、後に遊戯化して角技のひとつになったとしている。
(注3)汪玉林「中国の「角力」と日本の「相撲」を見る」『人民中国』サイトhttp://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/fangtan/200406.htm(2025年2月11日閲覧)参照。
(注4)拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」参照。
(注5)桙について、アヲサギの長い首を言っているか、立っている髻のことを言っているかについては、類推思考によって、長い首から髻の存在していたであろうことを思い描いていたと考える。

(引用・参考文献)
今岡2008. 今岡謙太郎『日本古典芸能史』武蔵野美術大学出版局、2008年。
植木1973. 植木行宣校注「教訓抄」『日本思想大系23 古代中世芸術論』岩波書店、1973年。
植木1981. 植木行宣「東洋的楽舞の伝来」芸能史研究会編『日本芸能史 第一巻 原始・古代』法政大学出版局、1981年。
上田1981. 上田正昭「古代芸能の形成」芸能史研究会編『日本芸能史1』法政大学出版局、1981年。
教訓抄研究会2008. 教訓抄研究会編「『教訓抄』翻刻(二)自巻四至巻七」二松学舎大学21世紀COEプログラム中世日本漢文班編『雅楽資料集第三輯』二松学舎大学21世紀COEプログラム発行、2008年。
岸川・神田2009. 岸川佳恵・神田邦彦編「『教訓抄』巻第四(彦根城博物館所蔵)翻刻」二松学舎大学21世紀COEプログラム中世日本漢文班編『雅楽資料集第四輯』二松学舎大学21世紀COEプログラム発行、2009年。
新川1990. 新川登亀男「伎楽と鎮護国家」網野・大隅・小沢・服部・宮田・山路編『大系日本歴史と芸能 第二巻 古代仏教の荘厳』平凡社、1990年。
新川1998. 新川登亀男「伎楽演出」諏訪・菅井編『講座日本の演劇2 古代の演劇』勉誠社、平成10年。
末吉1998. 末吉厚「古代の芸能」服部・末吉・藤波著『体系日本史叢書21 芸能史』山川出版社、1998年。
山田1955. 山田孝雄『万葉集考叢』宝文館、昭和30年。

加藤良平 2025.2.11改稿初出