万葉集の「幄」について(大伴家持作歌)─万3965・4089番歌─

 大伴家持には「幄」字を使った前文、題詞の歌がある。

  じょう大伴宿禰池主いけぬしに贈れる悲しびの歌二首〔贈掾大伴宿祢池主悲歌二首〕
 たちまちに枉疾わうしつに沈み、旬をかさねて痛み苦しむ。百神をたのみてかつ消損せうそんを得たり。而もなほ身体いたつかれ筋力怯軟けふなんにして、未だ展謝にへず。係恋けいれんいよよ深し。方今いまし春朝には春花、にほひを春苑につたへ、春暮にはしゅんあう、声を春林にさひづる。此の節候にむかひて琴罇きんそんもてあそぶべし。興に乗るおもひ有れども、つゑく労にへず。独りあくうちに臥して、いささかに寸分の歌を作り、かろがろしく机下きかに奉り、玉頤ぎょくいを解かむことを犯す。其のうたに曰はく、〔忽沈枉疾累旬痛苦禱恃百神且得消損而由身體疼羸筋力怯軟未堪展謝係戀弥深方今春朝春花流馥於春苑春暮春鶯囀聲於春林對此節候琴罇可翫矣雖有乗興之感不耐策杖之勞獨臥帷幄之裏聊作寸分之歌軽奉机下犯解玉頤其詞曰〕
 春の花 今は盛りに にほふらむ 折りてかざさむ 手力たぢからもがも(万3965)〔波流能波奈伊麻波左加里尓仁保布良牟乎里氐加射佐武多治可良毛我母〕

  独りとばりうちに居て、遥かに霍公鳥ほととぎすの鳴くを聞きて作る歌一首〈并せて短歌〉〔獨居幄裏遙聞霍公鳥喧作歌一首〈并短歌〉〕
 たかくら あまつぎと すめろきの 神のみことの きこす 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥ももとりの 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか きてしのはむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥ほととぎす 菖蒲草あやめぐさ 珠くまでに 昼暮らし 渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし(万4089)〔高御座安麻乃日継登須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久尓能麻保良尓山乎之毛佐波尓於保美等百鳥能来居弖奈久許恵春佐礼婆伎吉乃可奈之母伊豆礼乎可和枳弖之努波无宇能花乃佐久月多弖婆米都良之久鳴保等登藝須安夜女具佐珠奴久麻泥尓比流久良之欲和多之伎氣騰伎久其等尓許己呂都呉枳弖宇知奈氣伎安波礼能登里等伊波奴登枳奈思〕

 今日まで、万3965番歌の「あく」と万4089番歌の「とばり」は同じものであると解釈されている。万3965番歌の前文は漢詩文だからヰアク(帷幄)であり、万4089番歌は題詞だからトバリ(幄)と読み違えているだけで、実質的に同じであると考えられている(注1)
 部屋の使い方、布の仕切りの用途について、きちんと説明されて来なかった。

 獨臥帷幄之裏(万3965)
 獨居幄裏(万4089)

 両者の違いは一目瞭然である。上は寝ている。下は座っている。当然、「帷幄」と「幄」は何かが違う。小泉1995.は簡潔に述べる。「古代の貴族住宅の大きな特徴は一棟一機能で、これが敷地の中にそれぞれ独立して建っていたことである。つまり寝るための寝殿(しょう殿でん)、炊事をするための厨屋、穀物を納めておくための倉、脱穀・精米するためのうす等々と、機能ごとに建物が分かれていたということである。」(75頁)。寝室と居間は別の部屋であった。大伴家持は越中国の国司として派遣されている。昼間は国衙に勤め、夜は国司館に帰って寝る。つまり、3965番歌は、病臥していているから出勤しておらず、官舎の国司館でお休みしている。国司館については出土例が少ないながらも存在は確かである。官舎を与えられる国家公務員の転勤は現在も続いている。他方、4089番歌は、国庁の役所、国衙へ出勤してそこで歌われている。
 病気でもないのに昼間も着替えないでベッドに座る生活をしてしまったら、なかなか難しい事態に陥る。また、江戸時代の長屋や今日のワンルームマンションのように、「臥」と「居」とが同じ場所というのも、はたして良いものなのか判断が分かれるであろう。畳敷きに押入から布団を出して敷き、朝には仕舞って卓袱台にお皿を並べてご飯を食べる。それらは日本的な生活であると思われているが、少なくとも奈良時代にはなかったことである。奈良時代の庶民はどのように暮らしていたか。おそらくほとんどは竪穴式住居に暮らしていたのではないかと思われ、大伴家持の「帷幄」、「幄」とは無縁の生活であったろう。仮にいずれの歌も部屋の仕切り布の「うち」で歌われたとしても、歌われた場所は違う。官舎の寝間と官庁の居間とでは、張り渡す布帛の色など同じではない。センスの問題である。そこらじゅうに同じ柄のカーテンを懸け吊るしていては、生活にメリハリがなく、潤いが失われる。
 文字の義についておさえておく。幄は、新撰字鏡に、「幄 於角反、入、謂大帳也。覆帳謂之幄、即幕也」、和名抄に、「幄 四声字苑に云はく、幄〈於角反、阿計波利あげはり〉は大帳なりといふ。」、帷は、新撰字鏡に、「帷 於佳反、平、□也。唯也。帳也。連林布張也乎」、和名抄に、「帷 釈名に云はく、帷〈音は維、加太比良かたびら〉は囲ひなり、以て自ら障へ囲ふなりといふ。」とあり、狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「按依釈名所_云、則帷後世軍営施之自囲、呼幕者之類、非加太比良也、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438478/65/)と断っている。軍陣に「帷幄」をめぐらしているのはカタビラとは呼ばないという意味である。万4089番歌の「幄」をアゲハリ(アゲバリ)と訓む解説書も見られる(注2)
 では、国司館の「帷幄」、国衙の正殿の「幄」とはそれぞれどのようなものか。寝所の「帷幄」に関しては参考例がある。天寿国繡帳の銘文に「繡帷二張」とある。天寿国繡帳は刺繡を施した「かたびら」であり、横木を渡した木製の台、几帳台に掛けられて几帳とし、寝所の目隠し、音隠し、といった遮蔽幕として使われた。繡帳は横臥する身体の両側に設置された。よって二枚必要とされている(注3)。大伴家持の万4495番歌題詞に、「六日、内庭假植樹木以作林帷而為肆宴歌」とある。樹木を列にして並べ植えて柴垣のようにしている。垣根版の几帳のようなものと理解できる。他方、大伴家持の万3965番歌の前文の「帷幄」は、「幄」字が添えられている。「幄」字は、テントのことを「幄舎」と言うように、天井を覆う点に特徴がある。和名抄では「幄」をアゲハリと訓んでいる。白川1996.は、「〔釈名、釈牀帳〕に「幄は屋なり。帛を以て板にせて之れを施す。形、屋の如きなり」とあり、蒙古パオのような天幕の家をいう。」(9頁)とする。寝所にあって頭の上を覆うほどの布製のシートとは帳台にほかならない。
御帳台(源宗隆・鳳闕見聞図説、国文学研究所・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020290/14?ln=jaをトリミング) 帳台のある光景(左:板橋貫雄模・春日権現験記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287490?tocOpened=1(15~16/17)をトリミング接合、右:類聚雑要抄巻二 宝禮指図、江戸時代、元禄17年(1704)跋、東京国立博物館研究情報アーカイブズ http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017672)
 帳台は、浜床はまゆかと呼ばれる一段高くしたゆかを設け、その上の四隅に柱を立てて構とし、帳を垂れて中に貴人が入って寝たり座ったりするところである。建物内テントの様相がある。万3965番歌で大伴家持は病臥している。心地よく安静にしてもらわなければならない。この帳台は、やがて周囲が屏風や障子(襖)で囲まれるようになっていく(注4)。建物自体の建具が発達、改良されたおかげで隙間風も少なくなり、障子や蔀戸によって光が採り入れられるようになった。やがて帳台自体が姿を消すことになる。それでも、清涼殿には夜御殿に御帳台、母屋もやにも御椅子が中にあり、狛犬と獅子が番をする御帳台が伝わっている。夜御殿ではその帳台の中に入って寝ていた。国庁のあり方は都の大極殿や朝堂院の様を模したものであり、儀礼、饗宴、政務の場として同じように機能していたと考えられている(注5)
(源宗隆・鳳闕見聞図説、国文学研究所・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020290/31?ln=jaをトリミング)
 国衙や国司館であっても、都の宮殿の真似事が行われていたのである。国司は、任地においては一番位が高くて一番偉い。国司館の建物は平城宮と比べると貧相であっても、わざわざ国司館を建てて暮らしているのだから帳台のなかで寝るのは当然のことである。「独臥帷幄之裏」とあって、「独○○」というところが中国の独坐詩に通じるところがあると指摘されている(注6)が、大の大人が一人だけ病気になったら、自主隔離的に一人で寝ていてもらうしかない。奥さんの看病があったとしても、ゴボゴボと咳をされたら一緒に寝るのは嫌であり、無理強いする人はいない(注7)。これは病室のカーテンといった類のものではなく、貴人は日常的に帳台を使っていたからその垂れ幕のことを言っている。帳台は柱部以外のところは開いていて、そこに几帳が立てられるケースもあった。いずれにせよ、寝所は帳台であり、それを覆う垂れ幕こそ「帷幄」である。
 昼間居る国衙の正殿の「幄」は「幄舎」の「幄」に当たるから、座ったところの頭上に布製の覆いがあることになる。上にだけ翳される天蓋のようなものも想定はできるが、「裏」に「居」るとなるとやはりこれも帳台であると考えられる。平城宮にあるものを簡略化した昼御座が越中国の国衙の正殿にあり、そこから中央政府の意向を伝えるのである。中央集権的な構図はここに固まる。椅子があったか定かではないが、あったとするとわかりやすい。一人掛けの椅子なのだから「独居」なのは当たり前である。四方全部の幕を垂らしているのではなく、前面は開けて政務を掌っている。部下が言ってきたことに対して答え指示を出したり、ハンコを捺いたりしていたのであろう。ホトトギスの鳴き声を「遙聞」していて、縁側(庇)に出ていたのではないことを表している。部屋の中心にしつらえられた帳台の中で聞いている。後に暖簾となる戸のところに懸けられる垂れ幕や、部屋を仕切る間仕切りのための几帳などではない。帳台の覆いに使われている幕ということになる。建物の戸の代わりの幕や几帳の内側であったなら、ヤ(屋・舎)と言えば済むことで「幄」と断る必要はない(注8)。部屋は広く、その真ん中に国司様は座って居る。
 大極殿のような建物がまずある。そのミニチュア版が各国庁にある。国家が国家たらんとして建物が先行している。日本古代国家は形から入って威厳を保っていたようである。そして、とても広い部屋の中に帳台というテントを設営し、一番偉い方はその中に鎮座ましまされた。冬の越中国のことを考えれば、広い部屋の中にテントでも設けなければ寒くていられたものではなかっただろう。高橋1985.に、「奈良時代の住宅の建具は扉だけであった。」(9頁)とある。建具として空間を仕切るものとしては壁と扉しかなく、内部間仕切りのない広いワンルーム建築が行われていた。間仕切りに敷居を設けて引戸や襖障子が走るのは平安時代になってからである。旧藤原豊成の板殿についての文書から推定し、「ほとんど伝統的在来工法によっているなかで、「閾・鼠走・方立・楣・扉」からなる扉口や連子窓、つまり開口部にのみ大陸的な技術が使われている。このことは開口部をつくる伝統的技術をもっていなかったことを示唆するのであろうか。」(10頁)ともある。竪穴式住居のことを思えば、家屋を開け放つという発想がなかったことは頷ける。そんな状況のところへ極端に大きな倉庫式の建物を住居棟としたのだから、いろいろと難点が出てくる。前近代の土蔵住まいや現代の巨大物流倉庫に住むことを想像すれば想像がつく。中は暗く、天井もなくて寒い。ずっと居続けなければならない国司様は、威儀を整えるためにも帳台の中に居るしかない(注9)
 新大系本萬葉集の解説に、「初めの四句[「高御座 天の日継と すめろきの 神の命」]、天皇の御代を讃める表現だが、以下のホトトギスの声を聞く内容から見れば、やや事々しく大げさな感が否めない。「賀陸奥国出金詔書歌」(四〇九四)には、宣命第十三詔と関わりある表現が多いが、その二日前に詠まれたこの歌にも、宣命が意識されているか。「天皇が御世御世、天つ日嗣高御座に坐して」(第十三詔)。」(218~219頁)とある(注10)。宣命を意識していたかどうかはわからないが、宣命を念頭にしてホトトギスの歌を詠うとするのは怪しい。国衙正殿の帳台のなかで詠われた歌であるから、平城宮大極殿の立派な帳台、高御座のことを思い浮かべたものと筆者は考える。題詞から初句へのつながりが素直に理解できる。
 以上のことから、万3965番歌の前文の「帷幄」は国司館の寝所の帳台のこと、万4089番歌の題詞の「幄」は、国衙正殿の国司が居ます帳台のことであると検証された。それぞれをどのように訓んだかについては、万4098番歌の場合は題詞だからヤマトコトバで訓んでしかるべきで、和名抄で「幄」をアゲハリと訓んでいるからそれが正解であろう。トバリという言葉は戸張りの意であり、部屋の内外を仕切る暖簾の前身や、部屋を間仕切りにする几帳の様相が強いから合わない。大伴家持は国司である。平安女流文学の作者であった女官たちが、部屋の隅っこの御簾のたもとや衝立の陰に控えて居たのとは異なる。天皇や中宮などと同じく、トバリからは離れて部屋の真ん中に御座るものである。
 万3965番歌の前文の「帷幄」は国司館の寝所の帳台である。手紙文である。漢語が漢語のまま使われても不自然ではなく、ヰアクでかまわないだろう。あえてヤマトコトバとして訓むのなら、孝徳紀大化二年三月条の「帷帳かたびらかきしろ」に倣い、カタビラアゲハリなどと訓めばよいのだろう。都で天皇がお休みになられる御帳台の布帛ともども、どのような染織品であったかについては後考を俟ちたい。

(注)
(注1)「あく(のうち)」については、大系本萬葉集に「とばりの中。室内。」(202頁)、古典集成本萬葉集に「寝所を囲う布製の衝立ついたて。」(74頁)、完訳日本の古典本万葉集に「張りめぐらした幔幕。地方官が任地の居館内に垂したカーテンをいうことが多い。」((五)357頁)、新編全集本萬葉集に「張り巡らした幔幕まんまく。ここは任地の居館内に垂らしたとばり、病室のカーテンをいう。」(179頁)、新大系本万葉集に「……は部屋の垂れ幕。」(123頁)、橋本1985.に「とばりのこと。大きな室内を区切り隔てる几帳の類。」(140頁)、武田1957.「……は、織物の幕。ここは室内の几帳の類。当時は家屋は、室は大きく、へだてを立てて使用した。室内に臥して。」(十一・416頁)、澤瀉1967.に「……は、とばりとあげとばり。共に幕の類で、ここは室内の意に用ゐた。」(十七・104頁)、土屋1970.に「帷は囲、幄は幕で、引きめぐらした幕の意である。帷幄を軍営の意に用ゐるのは古いが、かうした用法もあるのである。」(八・435~436頁)、多田2010.に「寝所を囲む布製のとばり几帳きちょうの類。」(6・268頁)、中西1983.に「とばり。」(96頁)、伊藤2009.に「布製の衝立。寝所の囲い。」(53頁)、稲岡2015.に「部屋の帳の中」(194頁)とされている。
 「とばり(の裏)」については、古典集成本萬葉集に「垂れ幕の中、部屋の中、の意。」(139頁)、完訳日本の古典本万葉集に「「あく」とも。カーテン。ここは地方官が任地の居館に張りめぐらした幕をいう。→(五)三九六五前文。」((六)46頁)、新編全集本萬葉集に、「三九六五前文(帷幄)。」(254頁)、新大系本万葉集に「……は「帷幄の裏」(三九六五前文)に同じ。」(218頁)、伊藤1992.に「……は垂れ幕の内側。すなわち部屋の内。」(129頁)、武田1957.に「あげばりは、帷幕で張り廻らして作つた家。しかし、疾に沈んで詠んだ歌(巻十七、三九六五)の前文にも「独臥帷幄之裏」とあつて、ここもそれと同じく、室内の几帳きちようの類をいうのだろう。室内にいての意。」(十二・84頁)、澤瀉1967.に「……は倭名抄(六)に「四声字苑云、幄〈於角反、阿計波利〉大帳也」とある。前にも「独臥帷幄之裏」(十七・三九六五前文)とあつた。部屋の内、の意。」(十八・79頁)、土屋1970.に「(作者及作意)家持が一人室内にこもつてほととぎすの鳴くのを聞いての歌である。」(九・58頁)、多田2010.に「「あく」(三九六五の前)。寝所を囲む布製のとばり几帳きちょうの類。」(7・50頁)、中西1983.に「今のカーテンの類。仕切り・蔽いに布を垂らしたもの。」(168頁)、伊藤2009.に「ここは、部屋の中の意。」(118頁)、稲岡2015.に「(「幄の裏」は三九六五前文の「帷幄の裏」に同じ)」(293頁)とされている。
(注2)布帛のカーテンの類について、呼び方は厳密に分けられていたようではなさそうである。和名抄では、ほかに、「幌 唐韻に云はく、幌〈胡広反、上声の重、止波利とばり〉は帷幔なりといふ。」、「帳〈几帳附〉 釈名に云はく、帳〈猪亮反、俗に音は長、今案ふるに之の属に几帳の名有り、出づる所未だ詳らかならず〉は張なり、床上に施し張るなり、小帳を斗〈俗に斗帳と云ふ。一に屏風帳と云ふ〉と曰ひ、形は覆斗の如きなりといふ。」、「幔 唐韻に云はく、幔〈莫半反、俗の名は字の如し。本朝式に班は之れを万不良万久まふらまくと読む〉は帷幔なりといふ。」、「幕 唐式に云はく、衛尉寺に六幅幕、八幅幕〈音は莫、万久まく〉といふ。」、「帟 周礼注に云はく、平張を帟〈羊盃反、比良波利ひらはり〉と曰ふといふ。」とあって、音読みを交えながら解説されている。新撰字鏡には「幌 窓簾也。止波利とばり」ともある。このトバリは、白川1995.が、「大きな布を、室の中や外部との境に張り垂らして隔てとし、区切りとするもの。類義語の「かいしろ」は垣代の意。〔孝徳紀大化二年〕に、葬礼のときの帷帳かたびらかいしろに白布を用いたことがみえている。壁代かべしろ几帳きちょうともいう。寝所やたかくらにもこれを垂れて用いる。仮名書きの例がなく、トの甲乙を定めがたい。〔大言海〕等に、「戸張り」の意であるとする。……〔戦国策、しん策〕に「がくを張り、えんまうく」とは、帳をめぐらしてその場所を設ける意。戸にかえて、布を張るのである。」(542頁)と解説するものである。
 建具は「とびら」しかなかった時代である。扉は戸がひらひらと開くからトビラというのであろう。カタビラ(帷)は片方から見て図が図としてある文様ということである。表裏があって袷にしていないから、帷を張って中に入ると生地の裏が見えてしまう。綴れ織りではないから仕方がない。トバリ(帳、幌)という語が戸張りとして認識されていたとすれば、戸にかえて布を張ったものと想定されて然るべきである。簾や暖簾は戸にかわるものとは言い難い。戸にしたいが、戸に「扉」しかないのだから布で代用せざるを得ない。その扉は法隆寺に残るもののように分厚いものが多く、トバリも冬用としては、現在考えているカーテンよりもずっと重厚感があるのではないかと推測される。貴人の側近くにある帳台の垂れ布に裏地が見えているカタビラを使うものかわからない。蜀江錦のように裏から見ても文様として見えるものを使ったのかもしれない。幄という字は屋外のテントにも使われる字だから、布製品の良し悪しと字義との間に関係はなさそうである。
 なお、「幔」字の和名抄、マフラマクなるものは何かわからないとし、狩谷棭斎は二十巻本をとり、本文を「……俗名如字本朝式斑幔読万太良万久……」と措定してマダラマクとしている(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438478/66/)。筆者は、十巻本諸本の「……俗名如字本朝式班之読万不良万久……」で正しいと考える。「俗名、字の如し」とあるのは、「幔」の音読みのマンは「万(萬)」に通じる。「よろづかけちゃう」とは帳簿の大福帳(大帳)のことである。和名抄に「幄……大帳也」とあったように、垂れ幕の意味と帳簿の意味とで同じことを指しているとおもしろがっているのである。訓み方のマフラマクは、マ(間)+フラ(振)+マク(幕)の意であると考える。広い空間を間仕切りする幕である。間を振り分けているし、ふらふらと振れている。そんな幕という意味で、「班」のワカツ(アカツ)義の具現化を示している。
(注3)拙稿「天寿国繍帳銘を読む」参照。
(注4)中世には壁として塗られたものがあり、塗籠ぬりごめと呼ばれている。戦乱の時代は宝物を納戸に入れてそこで寝ていた。
(注5)山中1994.参照。
(注6)芳賀2003.に、「独居」とあるのは漢語にいう「独坐」に相当し、六朝・初唐の詠物詩などで発展した技法で、花鳥を擬人化して感情移入しているのであるとする。
(注7)上宮聖徳法王帝説に、かしはでのおほ刀自とじが聖王の看病疲れで一緒に寝ていて先に逝ってしまったことが記されているが、「得労」て「臥病」したのであって、一緒に寝なければならないという決まりなどはなかっただろう。
(注8)山口1996.には次のようにある。

 「帷幄」という語を単に「とばり」とのみ解釈するのは軽率ではなかろうか。中国典籍の用例を見ると、諸例は「帷幄」が主として軍陣の「帳」の意で用いられていることを示す。『芸文類げいもんるいじゅう』服飾部には、帳・屏風・幔などの項があるが、そこには帷幄の項及びその語を含む詩文はなく、武部戦伐項に、帷幄の語を含む作品は採録されている。
 張庸吾氏[張1984.]は『漢書』張良伝を挙げて、「帷幄」は中国では「軍帳」すなわち陣営の帳を意味することを指摘、「文人である家持が『帷幄』を使うのは、いささかの違和感を中国人には与えると思う」と述べている。また小野寛氏[小野1986.]は「帷幄」は戦場の陣営に張り巡らしたものであることを言い、「その『帷幄』を病室に用いた例は見られず、家持は都を遥かに離れて『遠の朝廷』である越中国府の国守館に臥す身を、戦場の『帷幄』の内にある思いで記したのだろうか」とする。
 張氏の意見は、家持の越中における立場の認識不十分からの意見であり、小野氏の見解は、結論としては正しいのであるが、なぜ国守館に臥す身を戦場にある思いにすり替えることができたのかの説明がなされていない。前述のごとき遠の朝廷である越中に、「ますらを」として赴任した家持にとっては、国庁は「帷幄」として表現する以外になかったのである。(184頁)

 かなり以前の論考である。「あく」を戦場の本陣の意に用いた例は、本邦では軍記物に見られ、芸文類聚・武部の戦伐項に載る「籌策運帷幄」の和文化であろう。戦場に陣幕をめぐらせるのと作戦をめぐらせるのとを懸けた言葉らしい。芸文類聚では「兼稟帷幄之謀」ともある。芸文類聚は初学書であり、雑多な百科事典である。編集者が見つけた用例として、武部の戦伐項にふさわしいテントであったからそこへ載せている。恣意的な項目立てにとらわれてはいけない。年中行事絵巻に見られるような儀式の際に設営するテントの幄舎について何か文例があるのであれば、あるいは「禮部」にでも収められたであろう。
 漢籍に見える「帷幄」が必ず軍営を表すかといえばそのようなことはない。司馬相如・長門賦に「飄風迴而起閨兮 挙帷幄之襜襜」、曹植・冬至献袜決頌表に「情繫帷幄 拝表奉賀」などとある。また、大伴家持が特に武に優れていたとは実は知られない。彼はたまたま大伴氏に生まれ、オホトモという名前だから弓を射る時の防具の「とも」と関係づけて自らを考え、「名に負ふ」者として自負していた。そこで「ますらを」と自称している。「ますらを」精神を貫いていて国庁の建物を「帷幄」(戦場のテント)と思っていたという想定は難しい。そこは都から離れてはいても「遠の朝廷みかど」である。「朝廷みかど」は安泰であり、「遠の朝廷」も安泰でけっして戦場ではない。国衙や国司館がボロ屋であると愚痴をこぼすために、漢語で「帷幄」と形容しているとも思われない。
(注9)鉄野2007.は、万4089番歌について、「「独居幄裏」とは、ねやに夜独りあることを言うと見られる。……ねやの内から、山に鳴く春の鳥の霍公鳥を想起する当該歌も、……閉塞された状況から、その埒外へと向かう情を敷き並べるように歌うのである。家持は、退屈な毎日を振り返る。そして無為な生活をつらつら思っている現在もまた、無為の時間である。その現在のとりとめのない思いがそのまま言葉になって流れ出ている。」(141頁)とする。寝所に入って眠れない夜間、ホトトギスが鳴いていると想定した作文であろうか。
(注10)この考えは小野1980.によっている。伊藤1992.には、「今の家持にとって、遥かに鋭く鳴きわたるあわれの鳥、時鳥は、単なる風物ではなく、代々の天皇によって統治され来った国のまほらを象徴する鳥として写っている。それは尊き風土の申し子なのである。それ故にこそ、家持は、時鳥には一見不似合いな「高御座天の日継と云々」の六句をもって、一首を歌い起こしたのだと思う。歌は時鳥を通しての国ぼめで、家持の強い官人意識に支えられていると見なしうる。」(132頁)とある。これらが現行の解釈では主流となっている。

(引用・参考文献)
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鉄野2007. 鉄野昌弘『大伴家持「歌日誌」論考』塙書房、2007年。
中西1983. 中西進『万葉集全訳注原文付(四)』講談社(講談社文庫)、1983年。
芳賀2003. 芳賀紀雄『萬葉集における中国文学の受容』塙書房、平成15年。
橋本1985. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。
山口1996. 山口博『万葉集の誕生と大陸文化─シルクロードから大和へ─』角川書店、平成8年。
山中1994. 山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』塙書房、1994年。

加藤良平 2020.10.31改稿初出