「弓食」(万2638)をユヅルと訓む理由

 巻十一の「寄物陳思」歌に次のような歌がある。

 あづさゆみ すゑはらに 鷹鳥がりする 君がづるの 絶えむとおもへや〔梓弓末之腹野尓鷹田為君之弓食之将絶跡念甕屋〕(万2638)

 「弓食」と書いてユヅル(弓弦)と訓む理由は不詳とされている。時代別国語大辞典上代編に、「「弓食」は文脈からユヅルの意と思われるが、「食」をツルと訓む理由は不明。「ツル」「ツラ」の誤りなどともいう。」(783頁)とある。諸解説書にほぼ皆わからないとする(注1)。万葉集の難訓についてはそれぞれに果敢なチャレンジが行われ、平安時代からの成果によって、今日大部分の歌が訓めるようになっている。

弓と弓弦と弦巻と弦袋(男衾三郎絵詞、東京国立博物館研究情報アーカイブズ、http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0022413をトリミング)

 「食」字は、文字どおり食べることである。食べ物は食べるとなくなる。食べなくても腐ったりカビが生えたりして食べられなくなる。もちろん料理して食べる。料理に仕立てたときには食べ物はたくさん食卓にあるが、食べてしまったらなくなる。どうしてお腹は減るのだろうか。歌に「腹野」という場所が定められているからそういう疑問が浮かんでいる。食べたらなくなり、また狩りをして獲ってきても食べたらなくなる。そのくり返し、それが「食」である。食べたら尽きるのである。同音のツキ(キは乙類)が moon や month の月である。弓張月というように弓を張った形は月に見える。つまり、「弓食」の字義は弓の消耗品のことである。弓の消耗品とはづるである。切れてはつけかえる。戦に出向く時など、弓弦を入れた弦袋や巻いた弦巻を大刀などとともに腰に佩いて行く。うさゆづると呼ばれている。あらかじめ準備して持って行っていた。
 弓弦は、伸びている弓(むしろ反対側へ少し反っている弓)を強くしならせて弓の両端のゆはずにかけ渡す。そのように弓に弦を装着することをハク(着・著)という。きちんとあるべきところへ身に着けることがハクに当たるようである。

 陸奥みちのくの 安太多良あだたらゆみ はじき置きて らしめなば つらかめかも(万3437)
 梓弓 つら取りけ 引く人は 後の心を 知る人そ引く(万99)
 陸奥みちのくの 安太多良真弓 弦着けて 引かばかの人 こと成さむ(万1329)

 四段活用動詞に対し、下二段活用は使役的であるとされている。同じハクという語には、口から嘔吐することをいうハク(吐)がある。

 時に神、毒気あしきいききて、人物ひとことごとくえぬ。(神武前紀戊午年六月)
 いまししばしばあしきいきを吐きて、路人みちゆくひとくるしびしむ。(仁徳紀六十七年是歳)
 子麻呂等こまろら、水を以て送飯いひすく。おそりて反吐たまひいだす。(皇極紀四年六月)

 吐くとは反吐へどくことで、和名抄に、「歐吐 病源論に云はく、胃の気、逆らば則ち歐吐〈上は於后反、字は亦、嘔に作る。都久つく、又太万比たまひ〉といふ。」とある。ツクには、ツク(給)という語もある。供給することである。

 封畿之内うちつくにすら、なほかざること有り。(仁徳紀四年二月)
 ……別殿ことどのを浄めはらへて、にひしきねどこを高くきて、つぶさがずといふことからしめたまふ。(皇極紀三年正月)
 因りて郡内こほりのうち百姓おほみたからつきゆるしたまふこと一年ひととせ。(天武紀六年十一月)

 和名抄に「歐吐(嘔吐)」にタマヒという訓も載せる。タマヒとはタマフこと、「賜」や「給」という字で表される。上位者が下位者に与えることで、その行為につき、与え手に対し話し手が敬意を表す際に用いる。お与えになる、おやりになる、の意で、補助動詞としても頻繁に用いられるようになっていく。タマフは音に揺らぎの多い語で、タウブ、タブ、タバルといった言い方もある。タブ(賜・給)という語の場合、お与えになることのうちでも特に飲食物を指すことが多いとされる。

 いにしへの 人のこせる 吉備きびの酒 病めば便すべなし ぬきたばらむ〔貫簀賜牟〕(万554)
 鈴がの 早馬はゆまうまの つつみ井の 水をたまへな〔美都乎多麻倍奈〕 いもただよ(万3439)
 たましひは 朝夕あしたゆふへに たまふれど〔多麻布礼杼〕 が胸痛し 恋の繁きに(万3767)
 草枕 旅のおきなと おもほして 針そたまへる 縫はむ物もが(万4128)
 衛門ゆけひのつかさひとところに召しあつめて、将にものたまはむとす。(皇極紀四年六月、岩崎本訓)
 あかねさす 昼は田びて〔比流波多々婢弖〕 ぬばたまの 夜のいとまに 摘める芹子せりこれ(万4455)

 言葉をたどっていくと、弓弦というものはくものと思ったからくものかもしれないと思われた。吐くことは食べ物を吐くことで、それは反吐をくことであるから、供給することをくということと関係があると思われた。確かに食べ物はいつでも供給され続けなければならないものである。生きていけなくなる。吐くことはタマヒともいうが、「たまふ」という語はタブとも言って飲食物を与えることを指す。だからタベモノと言って当たっている。食べ物は口に入れるものだが、逆に戻して出してしまうこともある。どちらも口は開いている。大口を開けた形は湾曲した弓の形になぞらえられるから、口と同じ働きを弓が担っているかもしれないと考えてみると、時に銜えて食べてしまったり吐いてしまったりして弓弦が駄目になってしまうことがあると気づく。弓弦は消耗品で、控えのうさゆづるが必ず用意されている。必ず次の弓弦にその座を譲るように前もって決められている。食卓に並ぶ食べ物がにぎやかにあるのは、次の時にも別のものが必ず用意されるように準備が整っていてこそのことである。前もって食糧を倉にしまっておいたり、常時畑で栽培して収穫できるようにしておいたり、山川海からいつでも獲って来れるように罠を仕掛けておいたりしているからかなっている。食べることと相応すると弓に関して言えるのは弓弦のことだからと、「弓食」と手の込んだ義訓(注2)をほどこしていたのである。

(注)
(注1)鹿持雅澄・萬葉集古義に「一説に、食ハ、人良の二字を誤れるなるべし、人はの仮字なりといへり、東人をアヅマヅ○○○○、蔵人をクラウヅ○○○○など云しことも物に見え、……但集中の頃、人をと云しことありしか、おぼつかなし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1883816/1/169)、土屋1969.に「「食」は「弮」の誤であらう。弦の意である。」(224頁)とある。新大系本萬葉集に、「「弦」の字を「弓」と「玄」と二字で表記した所から、「玄」を「食」に誤ったか。」(72頁)、伊丹1964.に「たとえば大漢和辞典を繙くと、「食」字の項に左の如き部分がある。日月の蝕。蝕(中略)に通ず。〔釈名・釈天〕日月虧曰食、……こうして「日月クルコト」が「食」なのであるから、「弓食」で日月─特に月─の「弦」を表わすつもりなのではあるまいか。そうとすると、「弓食」二字をそのままユズルと訓めることになるわけである、と。」(30~31頁)、神道2006.に「名義抄に「食…モチヰル」とあるので、……「弓」は「弓」のことで、義訓としてユヅルと訓んだと考えておきたい。」(26頁)とある。
(注2)万葉集の表記における義訓とは、意義を分析的にあてた用字のことで、「はる」(万1844)、「鶏時あかとき」(万105)、「丸雪あられ」(万1293)、「らし」(万2207)、「大王てし」(万1321)といった例があげられている。ただし、現代人の目から見て書き方を分類しようとしているだけのことである。

(引用・参考文献)
伊丹1964. 伊丹末雄『万葉集難訓考 第三』昭和39年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系本3 萬葉集三』岩波書店、2002年。
神道2006. 神道宗紀「万葉集「末之腹野尓鷹田為」考─巻十一・二六三八番歌の解釈をめぐって─」『帝塚山学院大学研究論集〔文学部〕』第四十一集、平成18年。
土屋1969. 土屋文明『萬葉集私注 六』筑摩書房、昭和44年。

加藤良平 2018.5.17初出