熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─

 万葉集巻一・8番歌は、額田王のにき田津たつの船出の歌としてよく知られている。

  後岡本宮のちのをかもとのみやに天の下知らしめしし天皇の代〈天豊あめとよ財重たからいかし足姫天皇たらしひめのすめらみこと、後に後岡本宮に即位あまつひつぎしらしめす〉〔後岡本宮御宇天皇代〈天豊財重日足姫天皇後即位後岡本宮〉〕
  額田ぬかたのおほきみの歌〔額田王歌〕
 にき田津たつに 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)〔𤎼田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜〕
  右、山上憶良大夫の類聚歌林をかむがふるに曰はく、飛鳥岡本宮あすかのをかもとのみやに天の下知らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉の十二月己巳の朔の壬午、天皇太后おほきさき、伊予の湯の宮にいでます。後岡本宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉の春正月丁酉の朔の壬寅、ふね西征して始めて海路にく。庚戌、御船、伊予の熟田津のいは行宮かりみやつ。天皇、昔日むかしよりほしのこれる物を御覧みそこなはし、当時忽すなはち感愛の情を起す。所以そゑに歌詠をつくりて哀傷したまふといへり。すなはちこの歌は天皇の御製おほみうたそ。ただし、額田王の歌は別に四首あり。〔右檢山上憶良大夫類聚歌林曰飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征始就于海路庚戌御船泊于伊豫𤎼田津石湯行宮天皇御覽昔日猶存之物當時忽起感愛之情所以因製歌詠為之哀傷也即此歌者天皇御製焉但額田王歌者別有四首〕
 〔大意〕熟田津に船に乗って出発しようと月を待っていると、月も出、潮もちょうどよいぐあいになった。さあ漕ぎ出よう。(大系本万葉集14~15頁、漢字の旧字体は改めた)

 この歌が歌われたのは、中大兄の三山歌が歌われた後、朝鮮半島へ向けて九州の拠点に赴く途中のことである。百済の将軍からの使いによると、新羅と唐とに挟撃されて壊滅状態なので援軍が求められ、また、人質として倭国に滞在中の王子、ほうしょうを国主に立てたいとの意向であった。斉明天皇は要請を受け入れ、自ら新羅討伐の軍を率いてまず九州へと進撃する。ところが天皇は筑紫にて客死し、さらに二年後の天智二年(663)八月末、白村江の海戦で大敗を喫することになる。梶川2009.に、次のようにある。

 熟田津は伊予国温泉郡、現在の愛媛県松山市に存在した港であったと考えられる。しかし、その正確な位置は不明である。古来、多くの候補地が挙げられて来たが、近年では、松山市内の南部、来住町で発見された石湯行宮の跡ではないかとされる七世紀の遺構との関係が注目される。松山市古三津とする説が有力だったが、松山市南西部の重信しげのぶ川河口とする説も浮上して来た。
 ニキタツという地名は、ニキ・タ・ツと分析することができる。ツが港の意であることは言うまでもないが、ニキはアラ(荒) に対する語。穏やかな、という意味にほかならない。そうした形状言のニキに続くタは、名詞であろう。そこで、『万葉集』から語中にあるタの用例を求めると、田の意と見るのがもっとも穏当である。「熟」という字は、物事が十分な状態になることをも意味するが、ニキタツとは、まさにその表記の通り、理想的な田のような港の意であると見ることができる。すなわち、熟田津はラグーン(潟湖)と呼ばれる、干潟のできる港であったと考えられるのだ。人麻呂の歌には石見国「にき多津たつ」(巻二・一三一)が詠まれているが、それは「大津」などと同様、普通名詞的な地名だったということであろう。
 ラグーンとは、砂嘴などによって海の一部が外海と隔てられた湖沼のことで、八郎潟や浜名湖などがよく知られている。そこは外海からの風波を避けることができ、手頃な水深を持っていて、水底は砂や泥によって構成されているので、船が出入りする際に破損することがほとんどなかったと言う。さらに、干潟とは違って、比較的近いところによく乾いた砂堆のあるラグーンは、船底が平らな古代の船が、潮の満ち干を利用して、着岸と上下船をたやすく行なうことができたと考えられている。熱田津も、そうした天然の良港であったと見ることができる。(91~92頁)(注1)

 古代の船の様子は、埴輪や、少し時代の下った絵巻物などの資料、文献としては円仁の入唐求法巡礼行記から、充分とは言えないまでも窺い知ることはできる。技術的な進歩により、一本の太い木を刳り抜いた丸木舟から何本もの用材を使った構造船へと発展していった。今日では、遣唐使船も復元されている。石井1983.に次のように解説されている。

 遣唐使船の航路には、前期に使われた北路と第七次(七〇二年)以後に主用された南路とがあったとされている。北路は、北九州から朝鮮に渡り、以後は朝鮮西海岸沿いに北上して山東半島の北岸にたどり着くという、地乗り航法に徹したもので、朝鮮海峡と渤海海峡(または黄海の一部)横断を除けば、『魏志』倭人伝にいう「水行」で安全なコースである。これは……、五世紀に倭の五王が中国南朝へ遣使したコースと同じであり、また遣隋使船のコースでもあって、航海経験者も多かったに違いない。
 地乗り航法であれば、夜間の碇泊や食糧・薪・水の補給が随時できるうえに、荒天時の待避も容易なので、船はさして大型の必要はなく、むしろ喫水の浅い方が便利なため、航洋性などはあまり要求されなかったと思う。となると、北路では、当時内航船として主用されていた準構造船でも間に合ったし、またこの方が、頻繁な接岸や荒天時の待避にも適していたから、弥生時代の大陸交通以来、ずっと使われていたと思われる。大きさは排水量で三〇トン前後、長さ三〇メートル程度、幅三メートル前後の大型準構造船で充分と想像され、推進の主力は櫂(または櫓)三〇~四〇挺で、帆は順風時だけの補助的役割以上のものではなかったとみられよう。(19~21頁)

 さらに、東シナ海という外海を航路とする、いわゆる南路のための後期遣唐使船は、これとは少し違って構造船であったとする。円仁の入唐求法巡礼行記から見て、「中国海岸で擱座した円仁便乗の第一船は、「船はついに傾き覆りて……久しからざる頃、船また覆り、人はしたがって右にうつる。覆るに随って処を遷すこと、稍もすれば数度に及ぶ」というありさまであり、これこそ竜骨を中心に、左右にぐらつくV型船底の特徴を示すものであって、平底の船で起こる現象ではないのである。」(同26頁)と指摘する。ただし、熟田津の歌が歌われた時の船は、朝鮮半島へ地乗り航海するための準構造船であり、船底は平たかったと推定される。

船形埴輪(長原高廻り2号墳出土、古墳時代中期初頭、4世紀後葉~末、大阪歴史博物館展示品)

 歌は、そんな船がいま漕ぎ出そうとするときに歌われたと考えられている。西方へ向けて船団が再出発するときの歌、船出を鼓舞して士気を高め、航海の無事を祈った呪術的な歌と解されることが多い。ただ、月と潮の解釈をめぐっては、新大系文庫本に、「この歌は額田王の代表作として有名だが、解釈は難しい。「月待つ」とは、月の出を待つのか、満月になるのを待つのか。「潮もかなひぬ」とは、潮位が高くなって船出に具合が良くなるのか、または航行に都合のよい潮の流れになったのか。詠われている状況が把握しにくい。」(61頁)と簡潔にまとめられている。現在のところ優勢な説では夜の船出が想定され、月が出て明るく、しかも満潮であって、万事順風満帆の意と解されている。
 また、五句目の「今は漕ぎ出でな」のナは、自分の行為については希望や意思を表し、自分たちの行為については勧誘を表わす助詞である。力強く歌い切っている。左注の人のように、斉明天皇の作った歌であると錯覚されるほど、額田王は天皇の代詠を見事に果たしたとされている。なお、左注の初めに見える舒明天皇の伊予行幸の年次には誤りがあるとの指摘もある。
 現在の学説では、四句目の「潮もかなひぬ」とある助詞のモについて、並立の意味として月も潮もかなったという意味にとっている。古橋1994.は、「……「月待てば潮もかなひぬ」は現代語に置き換えるとわかりにくいが、…… 月待てば 月もかなひぬ/潮待てば 潮もかなひぬ という繰り返し表現の変形とみれば、内容がよく理解できる。したがって、短歌もこの[口誦の古い歌謡に見られる]繰り返しという表現法を踏まえていると考えていい。もちろん、月と潮の干満は関係しているからこのような表現がある。」(48頁)と発展的に捉えている。現代語に置き換えるとわかりにくいからと、テキストに手を入れる立場に筆者は立たない。
 潮汐や海流の見地からの検討としては、松山付近では月の出や月の入りから三~四時間ほどで満潮になる。また、潮流は満潮、干潮よりも一~二時間早く、北東流最盛時刻、南西流最盛時刻を迎えるとされている。そこで、満月の頃の深夜の船出がふさわしいとする説がある。阿蘇2006.の整理に、「月の出と満潮の時刻の差のなるべく近い日ということで、三月十九日の深夜と考えた。……*参考 松山港の月の出と満潮の時刻(昭和五十六年の松山港)。/三月十七日 月の出、午後八時二十六分。 満潮、午後十時三十九分。/三月十八日 月の出、午後九時二十分。 満潮、午後十一時十一分。/三月十九日 月の出、午後十時十四分。 満潮、午後十一時四十八分。」(68~69頁)とある。タイミング的にぴったりする時点の可能性は、雲に隠れていた月が出てきたという以外にない。それを「月待てば」と歌うとは考えにくい。筆者はベストの時を探求しようとしている。
 「かなふ」という語は、古典基礎語辞典の「解説」に、「カネ(予ね)アフ(合ふ)の約。カネは、先のことを予期する意の動詞カヌ(予ね)の連用形。他動詞カナフは下一段活用。前もって願ったり期待したり予期したりしたことが現実とうまく合うこと。」(356頁、この項、須山名保子)とする。上代における他の用例としては、「此の烏の来ること、おのづからにき夢にかなへり。」(神武前紀戊午年六月)、他動詞の例としては、「然れども、かみあまなひ、しもむつべば、事をあげつらふにととのほりて、事理ことおのづからに通ふ。」(推古紀十二年四月)とある。願いと現実といった二つの事柄が合致するときに用いられるが、方向性としてうまくいく場合に用いられており、凶兆にカナフとは言わない。身崎1998.は、「……こうした[主体的・意欲的な表現]志向は、この四句めの「潮もかなひぬ・・・・」という語の選択によっても実現されているのではないだろうか。この語が「潮(位・流)」のあるべき(出航にふさわしい)状態に対する主体がわの期待・希求の感情にうらうちされた語としてえらばれていることは、「かなふ」の語義・用例にてらしてもあきらかだし、かりにここを、 潮もかはり・・・ぬ/とか、あるいは、/潮もみちき・・・ぬ/などのように「潮」の状態に密着した表現にしてみたばあいとくらべてみても、それはうべなわれるところなのではないだろうか。」(282~283頁)という。
 すなわち、「月待てば 月もかなひぬ 潮待てば 潮もかなひぬ」といった冗漫な表現に、カナフという言葉は適さないのである。月の出を待っていれば、前日よりも三十分ほど遅れて月は必ず出てくる。次に検討されるべき「潮もかなひぬ」の「潮」の意の理解には、古典基礎語辞典の鋭い解説が欠かせない。

しほ シオ 【潮・汐・塩】名 解説 シホには、①満ち干する海水、②食塩、という二つの意味である。上代における①と②の表記は、『日本書紀』では、①を「潮」、②を「塩」と書き分けている(海路の神と考えられるシホツチノヲヂを「塩土老翁」「塩筒老翁」と表記する例のみが例外)。『古事記』や祝詞では、「潮」の字は一切用いず、①も②も「塩」と表記する。『万葉集』では、①を「潮」と表記する例と、「塩」と表記する例とがある。ただし、②を「潮」と表記することはない。
なお、シホという語形をもつ語には、①②のほかに布を染料にひたす回数、という意味のシホ(入)がある。潮の満ち干によって、海浜や岩礁などが海中に没したり、姿を現わしたりを繰り返す。この現象は布が染料に浸されたり、染料から出されたりの繰り返しとよく似ていることから連想して、この意が生じた可能性がある。そうであれば、染色関係のシホ(入)も潮・塩と語源が同じということになる。
語釈 ①主に「潮」「汐」と書く。「満ち干する」というのがシホ(潮)の最も重要な属性。これに対し、ウシホ(潮)は海水・潮流を指す。……(604頁、この項、北川和秀)

 布を染料に浸す回数のシホ(入)という語との関係の指摘は見事である。上がったり下がったりがシホという語の源流にあると考えられるのである。そして、染色には、色落ちを防ぐために salt を用いることがある。日本列島に住む人々にとってシホ(塩)とは、大潮の際に潮が満ちてきたときのみ海水がかかるような潮だまりが岩窟のような雨のかからない所にあり、そこで結晶化しているのを発見したところから生まれた言葉ではないか。
 「潮」の意味としては、上代に見られる例では、①満ち干する海水、また、海水が満ちることと干ること、②潮流、③海水、の意味が考えられている。筆者は、この②潮流、の用例に疑念を抱く。万葉集に、単語として、①満ち干する海水のことは、「満」を伴うケースが二十五例(万40・121・388・617・919・1144・1165・1216・1394・1669・2734・3159・3243(2)・3366・3549・3610・3627・3642・3706・3891・3985・3993・4045・4211)、「干」を伴うケースが十三例(万271・360・388・917・1064・1163・1164・1386・1671・3710・3852・3891・4034)ある。そのほかの例としては、万8番歌以外に次のような歌がある。

 時つ風 吹かまく知らに 阿胡あごの海の 朝明あさけの潮に 玉藻刈りてな(万1157)
 潮早み いそに居れば 入潮いさりする 海人とや見らむ 旅行くわれを(万1234)
 安治可麻あぢかまの 可家かけみなに 入る潮の こてたずくもか 入りて寝まくも(万3553)
 潮待つと ありける船を 知らずして 悔しくいもを 別れにけり(万3594)
 ……大船に かぢしじ貫き 韓国からくにに 渡りかむと ただ向かふ みぬをさして 潮待ちて 水脈みをびき行けば 沖辺には …… あかときの 潮満ちれば あしには たづ鳴き渡る ……(万3627)

 万1157番歌は干潮、万3553番歌は満潮の意ととれる。万3627番歌の場合、後者は「満」を伴っている。前者は一般に潮流の意とされるが、歌一首に用いられる「潮」の語に二義あるのでは歌を聞く人に混乱を与える。他の万1234・3594番歌も潮流の意と説かれている。これら三例は、すべて船出に関連して詠まれたものである。

 安胡あごの浦に 船乗りすらむ 少女をとめらが あかの裾に 潮満つらむか(万3610)
 譬へば、物を船に積みて潮を待つ者の如し。(安康紀元年二月)

 上二例から、船出と関わる「潮」とは、①満ち干する海水のこと、と考えることができる。船は、ラグーン(潟)の縁など若干傾斜のある砂浜のようなところに陸揚げされて停泊しており、潮が満ちて来るのを待って海に浮かぶことになる。今日でも小型ボートを砂浜にあげることはしばしば見られる。すなわち、船は、特に大型船の場合、岸壁につながれて舫っていたのではなく、浅いところに船底を乗りあげて泊まっているのがふつうであった。万3594番歌の「潮待つと」、万3627番歌の「潮待ちて」も、潮が満ちて来るのを待っていると捉えることができる。万3594番歌の「潮待」ちは、大潮まで待たなければ船が浮かばないことを知っていたのなら、もう少し長く彼女のもとにいられたのに、と悔しがった歌であろう。万3627番歌の前者は、潮が満ちて船が浮かんで船出して、その後に、暗礁にぶつからないように水先案内に従って行き沖へ出るとその沖には、という流れになっていると解される。
 万1234番歌は、潮流が速いので、船を出航させないで、磯の曲がって入り込んだところに一人ポツンと佇んでいると、旅路にある私のことを、漁をする海人ではないかと見られるのではなかろうか、と解されている。しかし、船の停泊形態が傾斜のある浜辺に乗り上げるものであるならば、満潮時に船出をしようとしていたのに準備が遅れ、潮の引いていくのが早くて出航のチャンスを逸してとり残された姿を歌にしたものと捉えることができる。それによって「居れば」という語が生きてくる。「居り」は、「上代では、自分の動作についていい、へりくだった意味合いが含まれている。」(古典基礎語辞典1369頁、この項、石井千鶴子)のである。自分の責任で海の旅路から置いてきぼりを食らったことについて、自虐的な表現が試みられている。
 潮の複合語についても見ても、潮の干満の意味で用いられていることがわかる。「朝潮満」(万4396)は朝の満潮のこと、「夕潮」(万1520・1780・2831・4331・4360・4398)は夕方満ちてくる潮のことである。「浦潮」(万3707)は「満ちく」と続いており、また、「潮干」(万229・293・533・536・918・941・958・976・1030・1154・1160・1672・1726・2486・3503・3595・3849・1062)は干潮の状態のことである。「潮騒」(万42・388・2731・3710)は磯辺の波が立ち騒ぐことで、潮の干満によって起こっている。「鳴門の渦潮」(万3638)の潮は、瀬戸内海全体への潮の干満によって生ずるもので、大きな渦が見られるのは日に二回である。
 「潮船」(志富夫祢(万4368)・志保不尼(万4389))、ならびに、枕詞とされる「潮船の」(斯抱布祢乃(万3450)・思保夫祢能(万3556))については、川船ではなく海の船のことを指しているとされる。

 久慈くじかはは さけくあり待て 潮船に かぢしじ貫き は帰りむ(万4368)
 潮船の そ白波 にはしくも おふたまほか 思はへなくに(万4389)
 乎久佐をくさ壮士と 乎具佐をぐさずけと 潮船の 並べて見れば 乎具佐勝ちめり(万3450)
 潮船の 置かれてかなし さ寝つれば 人言ひとごとしげし かもむ(万3556)

 枕詞とされる例から、並べたり、置かれたりするのが「潮船」であると読み取れる。特に万3556番歌は、スロープ状の浜辺に引き揚げられて放置されている状態を一人寝に譬えており、かといって共寝をすれば噂になるからという対比表現として用いられている。岸壁に係留されているのでは、横たわって寝ている譬えとならない。また、万3450番歌は、二人の男を並べて丸裸にして身体検査をしているのだから、船体全部が見えなければならない。船腹が水面下にあっては検査にならないから陸揚げされていると考えるべきである。万4389番歌では、思ってもみない突然の命令を、「潮船の 舳越そ白波」に譬え、白波が船の舳先を越えるはずがないのに越える、という表現であると解されてきた。けれども、海を行く船の舳先を越える波は、少し時化しければすぐ起こる。比喩表現として理解できないことになる。「潮船」は、やはり海浜に引き揚げられた船のことを表していると考えるべきである。きちんと浜に引き揚げておいたのに、俄かに白波が押し寄せ、一気に舳を越えるまでになったと言いたいのである。
 万4368番の防人歌は滑稽味を帯びさせた歌作なのではないか。久慈川を航行するのは小さな川船である。渡しの戕牁かしに繋ぎとめておく。櫓漕ぎか棹使いで進めていたと思われる。オールが両側についた大きな海の船など、すぐに船底を擦ってしまい役に立たない。作者の「久慈郡のまる部佐べのすけ」という人は、防人に徴兵され出征の折に歌っている。久慈川の渡し船に乗る時が、家族や村人との別れの時であったのだろう。ちっぽけな川船との対比で、難波津から防人へ行くときの海船を持ち出し、自分がこれから赴く大きな任務を無事終えて帰って来るよと表現したようである。その大型船は停泊に際して船底を地に乗り上げる。
 以上から、「潮船」の潮についても、潮流のことではなくて干満の潮のことであると定められた。「潮」という語から、②潮流、の可能性が排除された。とはいえ、船が出港する際に、風や波を気にしていた記事は残されている。

 時に、磐金いはかね等、共に津につどひて発船ふなだちせむとして風波かぜなみさぶらふ。(推古紀三十一年(623)是歳)
 五日、風南東に変りてつこと得ず。三更に到りて、西北の風を得て発つ。(円仁・入唐求法巡礼行記・巻四、会昌七年(847)九月五日)
 八日、……風无くして発つこと得ず。船のひとびと、鏡等を捨て神を祭りて風を求む。(同、九月八日)

 入唐求法巡礼行記の例は後期遣唐使船で、帆に適度な追い風を受けることを狙っていた。山東半島の先端の赤山から大海を渡ろうとしている。しかし、推古紀の例は遣隋使時代である。「将発船以候風波。」とあるのだから、船出しようとして風波が収まるのを見守っていたのであって、帆に風を受けようとしたためではない。入唐求法巡礼行記の同年五月五日条に「船に上りて風を候ふ。」、五月十四日条に「黄昏に海州界の東海山の田湾浦に到り、船を泊し風を候ふ。」とあるのも、五月二十四日条に「逆風・猛浪に縁りて、淮路に入ること獲ず。」、六月一日条に「風波、稍く静まり、趁潮に漸く淮に入る。」とあることから考えて、強風が静まるのを待っていたものと解される。時代別国語大辞典に、「さもらふ【候・侍】(動四)」は、「②時の至るのを待つ、風浪の和ぎ静まるのをうかがい待つ場合に用いることが多い。」(341頁)と説かれている。万葉集からわかりやすい例をあげる。

 風吹けば 浪か立たむと 伺候さもらひに 都太つだの細江に 浦がくり(万945)
 大海を さもらみな 事し有らば いづゆ君が しのがむ(万1308)
 天の川 いと河浪は 立たねども 伺候さもらかたし 近きこの瀬を(万1524)
 …… あしが散る なに来居きゐて 夕潮に 船を浮けゑ 朝凪に 向け漕がむと さもらふと わが居る時に ……(万4398)

 万4398番歌は船の航行の手順をよく示している。潮が満ちて船は海に浮かび、傾きがなくなって船として安定し、しかるのち舳先を行く方向へ向け直して、楫、櫂、艪を漕いで進んだのである。そうしたいのであるが、風波が穏やかにならないとできない。出航の際は水深が浅く、ちょっとした岩礁でもぶつかる危険性があり、船体に損傷が起きかねないからである。航行において用心しなければならないのは、水深の深い沖合ではなく、水深の浅い個所である。船体が無事なら漂流しても助かることがあるが、損傷を受けたらひとたまりもない。当時は、まず出港し、その後で風や潮流をみて対応するという、出たとこ勝負の航海術が行われていた。円仁の入唐求法巡礼行記に記されている。
 この考え方は、石井1983.の和船の研究に依っている。万葉集の研究者が想定する夜の船出とは一線を画すものである。いくつか紹介する。
 直木1985.は、「……当然のことながら、航海に風がどんなに大切かが知られる。ただし外洋へ乗り出す場合と内海を行く場合とでは、風向の持つ意味がちがうだろうが、何といっても帆船の航海は風次第である。船人は夜を恐れてはおられないのである。」(109頁)とする。それに対し、吉井1990.は、「月よみの 光を清み 神島の いその浦ゆ 船出そわれは」(万3599)について、「遣新羅使船は、玉の浦……より神島に至り、さらに、その夜、神島より鞆に向つて夜の船出をするのであるが、その船出の第一の理由は鞆において適切な潮流を待つことであつた。第二は備後灘およびひうち灘が、友ヶ島水道、豊後水道の東西の両水道からの潮流が相合し、また東西に分流する分水線となつていて……、船はこの分水線を適切な時間に通過する必要があり、当日は神島に午後二時すぎには到着していて、潮流を待つために少しでも船を進めておくのは好条件であつたことである。第三には、鞆より尾道瀬戸、かり瀬戸のいずれかを経ての長井津……までの約三〇キロメートルの航路は、いずれも潮流の早く複雑な狭い瀬戸を通過しなければならない危険なものであり、神島からの夜の船出は、この危険な夜の航路につづくものではありえず、この危険な航路により好条件で出航するために行なわれた約十キロメートルの夜の船旅であつたことである。……「夜の船出」はやはり通常の場合ではなく、「風向さよければ、船人は夜を恐れずに船出するのである。」というのは、潮流のきわめて複雑な瀬戸内海においては、きわめて危険なことであつたのである。」(114~128頁)と反論する。また、益田2006.は、「楫による手漕ぎは、あくまでも港の出入りに狭い「水脈」を通る時や、風が凪いだ時の補助手段で、主体は帆走でありました。……三津浜から興居島までは、冬季でも、日中ではなく夜間なら東風が吹いていることが多い。その陸風の力を借りて、興居島まで夜の間に乗り切っておかねばならないことが、『万葉』の夜の船出の根本理由でした。」(552~566頁)と述べている。
 しかし、現在でも大型船が出港する際、タグボートの力を借りるなど苦労している。船が海上を進むことと船が港から出ることとは性質の違う作業になる。また、石井1983.のいう、前期遣唐使船の北路を通った「地乗り航法」、「大型準構造船」、「推進の主力は櫂(または櫓)」、「帆は順風時だけの補助的役割」の解説もよく考慮しなければならない。そしてまた、その準構造船の停泊形態についてきちんとした理解が求められる。

[法然上人絵伝]第三四巻、法然が四国へ流されるとき摂津経の島(兵庫)に足をとめて説法した。これは経の島の港のさまを描いたものである。ここでは船を主としてとりあけたが、当時の港は沖に防波堤があるわけでもなければ、岸に岸壁やガンギ(石段)があるわけでもなく、砂浜へそのまま船を艫づけにしたのである。兵庫が港として発達したのは平清盛が、ここに経の島をつくって、これを波よけにし、その島かげを船着場として利用してからのことである。この港にはそれから大型の宋船もはいって来るようになった。宋船はいわゆるジャンク型のものであったと思われる。造船技術は日本よりずっと進んでいて堅牢で吃水もふかかった。高倉院が厳島へ参詣したときには宋船に乗っていった。船が大きくて渚につけることができないから、沖に停泊して、はしけで船と陸の間を往来したという。したがって大型の船が発達して来ると、海岸が砂浜や遠浅のところよりも、入江になって海の深いところの方がよくなって来るわけだが、兵庫経の島の港は砂浜をそのまま利用した昔のままのものであった。しかし港の町はかなりととのっていたもののようで[ある。]……渚のところにとまっている船は苫で屋根を葺いている。あまり高級でない客船のようである。客を乗せて四国路や中国路の港へ向かうものであろうと思われる。船の側面には釘穴のならんでいるのも見えるから丸木造りではなくて[準]構造船と考えられる。当時としてはかなり造船技術の進んでいる船であった。(澁澤1984.54~55頁)

 湖沼や河川と海とでは船の航行に大きな違いがある。海では、潮汐による変化の大きさ、荒れたときの波の激しさがある。防波堤のない岸壁に横付けしておくと、船はタイヤも当てていない岸壁に打ちつけられ続ければ壊れてしまう。和名抄に、「津 四声字苑に云はく、津〈将隣反、〉は水を渡る処なりといふ。唐令に云はく、諸の関、津を渡り、及び船筏に乗り上り下りして津を経る者は皆、当に過所有るべしといふ。」とあり、令集解・営繕令に、「穴云、津、謂泊船処、令无妨障也。」とある。
 日下2012.も、ラグーンに津を設けて、潮の干満を使って平底の準構造船を停泊させていたのではないかと推測している。

 古い時代の船については、土器の線刻画、船形はに、装飾古墳の壁画、さらに地中から掘り出された船体の破片などから、いろいろと推定されている。それによると、船の基本形は単材の丸木舟(刳船くりぶね)から準構造船、構造船へと進んだ(松木哲「船の起源と発達抄史」『古代の船』福岡市立歴史資料館、一九八八)。……大阪府八尾市の久宝寺きゅうほうじ遺跡からは、残存状態のきわめてよい船が発掘され、五世紀初頭の準構造船の様子がかなり具体的なものとなった。この時期をとおして、船底は浅くて扁平で、あまりとがっていなかったらしい。平安時代においても、小型船は単材刳船くりぶね、大型船が準構造船という伝統的な技術段階にあったとされる。
 このような形をした準構造船ないし初期の構造船にとっては、手ごろな水深をもち、しかも外海からの風波をさけることができるラグーンが、港として最適であった。そのうえ、ラグーンの底は砂や泥によって構成されているため、船が出入りをする際に破損することはほとんどなかった。またラグーンでは、干潟と違って比較的近いところによく乾いた砂堆があるため、潮の干満をうまく利用すれば、着岸と上下船をわりあいたやすくおこなうことができたのである。
 わが国の古代の港がどのような施設を備えていたのか、いまのところよくわからない。多分、流れのゆるやかな河口部や入江、そしてラグーンの岸に何本かの杭を打ち込んで、それに板を渡したり、近くから小石や砂利を運んできて、足場をよくした程度のものであったであろう。すでにふれたが、『万葉集』の「水門の葦のうらを誰か手折たおりしわが背子が振る手を見むとわれそ手折りし」(一二八八)が、船着き場のプロトタイプ(原型)の様子をよく示している。[小さい河口の入江にあった船着き場には、アシが一面に茂っており、見とおしはよくなかった。そこで船出していく人(夫か恋人)が手をふる様子を見やすくするために、あらかじめ、アシの穂先を折っておいたというのである。(72頁)]
 木でつくられた杭や桟橋さんばしはやがて腐り、痕跡をなくしてしまう。また渚に敷きつめられた礫や石は、自然の働きや人間の手によって埋められたり、他の場所へ移動したりもする。そのため、古代の港を地下から掘り出すとか、地表景観としてとらえることは不可能に近い。そこで当時の地形をまず復原し、しかるのちに各種の史料、遺構と遺物、地名などからその位置を推測するほかはない。(193~197頁)

最古の船着き場の遺構が発掘された原の辻遺跡(壱岐市立一支国博物館「 原の辻遺跡情報 原の辻遺跡概要」http://www.iki-haku.jp/harunotsuji/harunotsuji-1.html)

 現在の港の船着場の様子を見ても、コンクリートスロープが設けられているところがある。ランチャーを使って手軽に揚げ降ろしができるものの、漁船専用のところもある。砂浜海岸では、大型タイヤのランチャーを使っても、重量級ボートではタイヤがめり込んで動かなくなる。専用重機を使った昇降サービスを行う業者もあるが、前期遣唐使船の時代に船の昇降台車や修羅を使い、神楽桟で牽引したのか浅学にしてわからない。航海からの到着時に綱で引っ張った画は絵巻物に見られるから、流されないようにある程度のところまで引き揚げたのであろう。逆に出航する際に、人夫が海のなかに入って船を引くこともあっただろう。船の使用の事情はひとまず共通の理解ができたことにする。
 次に万8番歌の作歌時点について検討する。紀の記事他から斉明天皇が亡くなる頃までの記事を整理して年表とし、当時の状況を確認する。ただし、崩御後の事項は、斉明紀と天智紀とで日付などに入れ違いがある。天智紀に記された部分と風土記記事には*印をつける。

  斉明六年(660)
 九月五日   百済、……「今年の七月に、新羅、力にたのいきほひして、隣にむつびず。唐人もろこしびと引構ゐあはせて、百済をかたぶくつがへす。きみやつこみなとりこにして、ほぼ噍類のこれるもの無し。……」とまをす。
 十月     百済……、まうきて唐の俘一百余人をたてまつる。……又、いくさまをしてすくひを請ふ。……「……天朝みかどまだはべ王子せしむほうしやうを迎へて、国のにりむとせむとす」と、云々しかしかまをす。
 十二月二十四日 天皇すめらみこと難波宮なにはのみやおはします。……[百済の要請に]したがひて、つくいでまして、救軍すくひのいくさらむと思ひて、ここに幸して、諸の軍器つはものを備ふ。
  斉明七年(661)
 一月六日   ふね、西にきて、始めて海路うみつみちに就く。
 一月八日   御船、大伯海おほくのうみに到る。
*       天皇、みことのりを下したまひてこころみに此のさと軍士いくさひとはたりたまひき。即ち勝兵ときいくさの二万ばかりの人を得たまひき。(備中風土記逸文)
 一月十四日  御船、伊予の熟田津の石湯行宮いはゆのかりみやつ。
 三月二十五日 御船、かへりて娜大なのおほに至る。磐瀬行宮いはせのかりみやおはします。天皇、此を改め、名をばながのたまふ。
 五月九日   天皇、朝倉橘広庭宮あさくらのたちばなのひろにはのみやに遷り居します。
 七月二十四日 天皇、朝倉宮にかむあがりましぬ。
*七月     皇太子ひつぎのみこ[中大兄]、素服あさものみそたてまつりて称制まつりごときこしめす。
*是月     皇太子、長津宮ながつのみやに遷り居します。やうやく水表をちかた軍政いくさのまつりごときこしめす。
 八月一日   皇太子、天皇のみも奉徙ゐまつりて、還りて磐瀬宮に至る。
 十月七日   天皇の喪、帰りて海にく。
 十月二十三日 天皇の喪、還りて難波にとまれり。

 年表を通覧すると、急いでいるのかのんびりしているのか疑問だらけである。左注と同じ斉明七年一月六日の出航を、「始就于海路。」としている。ハジメテとは、物事がそこから始まって次々に展開していく、その発端をあらわす。わざわざ「始めて」と副詞を使って表すことは、「海路」であることが今後の話(歴史的事件)の前提、基盤を成していて、その重要性を指摘したいからだろう。最終的に、白村江の海戦に終わった話の発端ということである。その道中に、「大伯海」、「熟田津」、「娜大津(長津)」などはある。
 三月二十五日の記事には、「于娜大津。」とある。本来の航路に戻ったことを指すとされている。不審である。さらに、天智紀の斉明七年七月是月条、皇太子中大兄が長津宮に遷った時、「稍聴水表之軍政。」とある。総大将である斉明天皇の喪に服し、悲しみに暮れていたのがようやく、という意に一応はとれる。しかし、「水表之軍政」とは海外の軍事情勢のことである。遠征する際、事前に十分考えているはずである。朝鮮半島へ行くには対馬海峡を横断しなければならない。内海や沿岸を進んだ難波から娜大津(長津)でさえ二カ月半ほどかかっている。一刻を争う状況の戦争に出掛けているにしては、呑気というか、気が散っているというか、手間取っているというか、納得のいかないことが多い。
 歌の左注記事から、熟田津寄港を物見遊山に出掛けたものと判断するのは早計であろう。一般には天皇の病気治療のため、湯治に立ち寄ったと考えられている。しかし、日本書紀の記者の思いを総合すると、いかにもいい加減な戦時態勢であったようである。最高司令長官の斉明天皇にも、総司令官の中大兄にも、差し迫った緊迫感が見られない。新羅や唐を見くびっていて悠長に構えていたのか。斉明天皇が亡くなり、白村江に大敗北してしまうから、当時の気分は一変してしまい後に伝わらない。その実際の雰囲気を伝える文献資料は、今のところ額田王の万8番歌しかない。
 呑気に構えていたらしいことからか、折口1995.に、「熟田津は、古代から名高くて、今もある伊予国道後温泉に近い海岸、船乗りと言ふのは、何も実際の出帆ではありません。船御遊フナギヨイウと言つてもよいでせうが、宮廷の聖なる行事の一つで、船を水に浮べて行はれる神事なのです。持統天皇の御代の歌、/英虞アゴの浦に船乗りすらむ処女ヲトメらが、たま裳のすそに、汐みつらむか──人麻呂/などゝ同じく、ミソぎに類した行事が行はれるのでせう。「月を待ち受けて、船乗りをしようとしてゐると、汐までが思ひどほりにさして来てゐる。さあ漕ぎ出さうよ」と言ふ式歌シキウタです。女帝陛下には、セイなる淡水タンスイ海水カイスイを求めての行幸が、しばしば行はれたのです。此二首も、やはりさうした場合を背景に考へて見れば、一等よいやうです。」(304頁)とある。戦時中に人員、物資を駆り集めておきながらそんな遊びをしていたら暴動が起きるだろう。
 歌が歌われたのは、娜大津、改め長津に着いたのが斉明七年三月二十五日とあるからその少し前のことであろう。熟田津には一月十四日に着いている。二カ月ほど滞在していたと推測される。その後に出航しようとしたときの歌である。五句目の「今は漕ぎ出でな」という強い呼び掛けの声からして、人々の意欲を高めるものであったことは間違いない。宮廷社会の人々に共有されるような気持ちを歌にして歌うことが額田王の役目であった。とりわけ、その中心人物の天皇を代弁することになりやすい。斉明天皇の代詠と考えていけば、天皇は乗組員たちに向けて士気を高めていることになる。そうは言うものの、この歌はうますぎはしないか。
 熟田津滞在は退屈なものであったろう。左注に、天皇が旧跡を訪ねて感愛の情をもよおしたとある。亡き夫の舒明天皇とともに、現在の道後温泉付近の「伊予温湯宮いよのゆのみや」(舒明紀十一年十二月(639))に旅行している。二十年以上の歳月の流れに思いを寄せて物思いに耽るのも結構であるが、二カ月は長すぎる。徴兵や物資調達をしたとしてもそれほどはかからない。そこで病気説が唱えられている。斉明天皇は病にかかっていて療養のために道後温泉へ立ち寄った。高齢であるし、同年の秋には亡くなっているから、そう解釈されるのも無理からぬところがある。さらには、左注に分け書きされていることから、「「伊予の湯」の道後温泉はスプリング、自然湧出の温泉で、「伊予の熟田津の石湯」は、同じ伊予国内でも場所が離れた三津浜の人工の石湯、近代風にいえばサウナです。」(益田2006.559~560頁)とする説も唱えられている。なお、天武紀十三年十月条に、「壬辰に、人定ゐのときいたりて、大いに地震なゐふる。……時によの温泉うもれて出でず。」とある。
 航海中に天皇が病気をしたという記事は紀に見られない。歌の左注を信じるなら、天皇は心身ともに健康であったらしい。病気療養のために道後温泉へ寄ったとする説には根拠がない。確かに風邪をひいたくらいのものは紀は載せなかったであろう。それでも秋に亡くなるときの記事も素っ気ないものである。

 秋七月の甲午の朔にして丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。(斉明紀七年七月)

 天皇が死の床についた時、紀はつとめて記録を残そうとしている。後継問題が生じかねない重大事である。推古天皇は「臥病みやまひ」(推古紀三十六年二月)とあり、「遺詔のちのみことのり」が告げられたことが書かれている。曖昧な内容であったり、聞いた人が限られていて後継争いが生じている。次の舒明天皇は十三年十月には病の記事はない。後継者が皇極天皇に決まっていた点にもよるのだろう。孝徳天皇は「病疾みやまひ」(孝徳紀白雉五年十月)とあり、大和にいた皇太子(中大兄)・皇祖母すめみおやのみこと(皇極・斉明天皇)、間人皇后はしひとのきさき皇弟すめいろど(大海人皇子)、公卿まえつきみたちが難波宮へ向かったとある。斉明天皇より後の代では、天智天皇に「寝疾不予みやまひ」(天智紀十年九月)とあり、仏の力にすがったことや、病床に呼び寄せた大海人皇子とのやりとりが述べられている。天武天皇の場合は「体不安みやまひ」(天武紀朱鳥元年八月)とあり、三カ月半後に亡くなっている。やはり仏教を中心に多方面に祈らせ、大赦令を発し、占いの結果、草薙の剣に崇りがあると聞けば熱田神宮に奉納している。そして次の持統天皇は三年三カ月間称制している。斉明天皇に病気の記事がないのは、長患いせずに急逝したと考えるのが妥当だろう。
 斉明天皇が亡くなったのは朝倉宮(朝倉橘広庭宮)である。現在の福岡県朝倉市杷木志波はきしわ付近に当たり、筑紫平野に位置する。磐瀬行宮(長津宮)、現在の福岡市南区三宅から、大宰府よりもさらに奥まったところへ遷っている。その理由は、もっぱら言い伝えにある神功皇后の新羅親征の話に由来しているのだろう。神功皇后は橿日宮かしひのみや、福岡市東区香椎から、松峡宮まつをのみや、現在の福岡県朝倉郡筑前町栗田へ遷っている。斉明天皇も神功皇后と同じように遷っている。
 行軍の行動においても、同様の傾向が見られる。中大兄の三山歌(万13~15)に歌われた「南国原なみくにはら」や「大伯海」(斉明紀七年正月)などの兵庫県の明石市から瀬戸内市付近、また、熟田津の歌に関連する「石湯行宮」(斉明紀七年正月)、これは「予湯宮よのゆのみや」(万8左注)と同地かその近くであり、今の愛媛県松山市の道後温泉に当たるようであるが、神功皇后が夫君の仲哀天皇とともに訪れているところである。

 一家あるひと云へらく、なみなづくる所以ゆゑは、あな豊浦とよらの宮に御宇あめのしたしらしめしし天皇すめらみこと[仲哀天皇]、皇后きさき[神功皇后]とともに、筑紫の久麻曽くまその国をことむけむとおもほして、くだでましし時、ふね、印南の浦に宿りましき。此の時、滄海うなばらいたぎ、風波和静しづけかりき。かれ、名づけて入浪いりなみと曰ふ。(播磨風土記・賀古郡)
 十二月の己巳の朔の壬午に、よの温湯ゆのみやに幸す。(舒明紀十一年十二月)
 天皇たちの湯に幸行いでまくだすこと五度いつたびなり。……帯中日子天皇たらしなかつひこのすめらみこと[仲哀天皇]とおほきさきなる息長おきなが帯姫命たらしひめのみこと[神功皇后]とのふたはしらを以て一度と。……をか本天皇もとのすめらみこと[舒明天皇]と皇后きさき[後の皇極・斉明天皇]との二躯を以て一度と為。時に、大殿おほとのむく臣木おみのきとあり。其の木にいかるが此米しめどりすだき止まれり。天皇、此の鳥が為に、枝にいな等をけてひ賜ふ。のちのをか本天皇もとのすめらみこと[斉明天皇]・近江大津宮に御宇しめしし天皇[天智天皇]・浄御原宮きよみはらのみやに御宇しめしし天皇[天武天皇]の三躯を以て、一度と為。(伊予風土記逸文)

 斉明天皇は言い伝えの神功皇后の新羅制服の話のとおりに行動している。ところが、神功皇后であるはずの斉明天皇は朝倉宮で崩御してしまう。死因は伝染病によるものと思われる。

 五月の乙未の朔にして癸卯(9日)に、天皇、朝倉橘広庭宮あさくらのたちばなのひろにはのみやに遷りておはします。是の時に、あさ倉社くらのやしろの木をはらひて此の宮を作りし故に、神忿いかりて殿おほとのこほつ。亦、宮の中におにあらはれぬ。是に由りて、おほ舎人とねり及び諸の近侍ちかくはべるひと、病みてまかれる者おほし。(斉明紀七年五月)

 神社の木を伐ったため、神の忿りに触れて病死者が多数出た(注2)。天皇は五月九日に朝倉宮に入り、七月二十四日に亡くなっている。流行していた疫病で天皇は逝ってしまったらしい。病気の記事がないのは、あっという間に亡くなったからでもあるし、天皇が崇りを受けたことになっていては困るからであろう。とはいえ、なにか崇りであることを予感させる不気味な記事が付け加えられている。八月一日に枢を磐瀬行宮へ移した日の様子が次のように描かれている。

 秋七月の甲午の朔にして丁巳に、天皇、朝倉宮にかむあがりましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇のみも奉徙ゐまつりて、還りて磐瀬宮に至る。是のよひに、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪のよそほひを臨みる。ひとびと、皆嗟怪あやしぶ。(斉明紀七年七月~八月)

 新羅親征を前にして神の崇りによって亡くなったのは、天皇史上二人目である。最初は仲哀天皇(足仲たらしなかつひこ天皇)である。仲哀天皇と神功皇后(気長おきながたらしひめ皇后)とは、熊襲を平定しようと筑紫へ進軍したが、そこで皇后が神憑りして、海の向こうに「宝有る国」(仲哀紀八年九月)があると託宣を伝えた。真に受けなかった仲哀天皇はあっけなく亡くなってしまった。今、斉明天皇も亡くなっている。言い伝えを信じていた人にとって、これは重要な事柄であったろう。最も信じていたのは斉明天皇自身であったかもしれない。そもそも彼女は、「たからの皇女ひめみこ」(舒明紀二年正月)と言った。「宝有る国」(仲哀紀八年九月)、「財宝国たからのくに」(神功前紀仲哀九年二月)、「財国たからのくに」・「財土たからのくに」(神功前紀仲哀九年四月)、すなわち、新羅のことが頭にこびりついていた。そして舒明天皇(息長足日広額おきながたらしひひろぬか天皇)と再婚した。新旧両カップルの諡を比較する図のようになる。

 「足姫」や「天豊」などは尊称である。神功皇后の「気長」と舒明天皇の「息長」 はともに近江国坂田郡、従前の滋賀県坂田郡近江町、現在は米原市となっているところの地名であり、 息長族の系譜を引いている皇族のことという。だから、舒明天皇と神功皇后の名前はよく似ている。斉明天皇は神功皇后のようになろうとして失敗し、仲哀天皇の運命を担うことになってしまった。名前は「たらし」を共にし、「彦」と「姫」とは男女の対で同じと見なせる。仲哀天皇にあって斉明天皇にないのは 「なかつ」だけである。
 万葉集の巻一の最初の部分の編者が作った「中皇命なかつすめらみこと」(万3・4・10・11・12) という名の「中」とは、仲哀天皇の「足仲彦天皇」によったものであった。最初に、皮肉にしてふさわしい諡号の「天皇財重日足姫天皇」なる長たらしい名前を構想し、大幅に省略して「仲天皇」、それを万葉集の言文一致運動に従って「中皇命」とした。自分が仲哀天皇の運命を担うものであることも知らずに、愚かな外征に赴いたことを揶揄した名づけであると考える。
 「中皇命」については諸説ある。称徳天皇の宣命に「挂万久毛新城大宮天下治給天皇臣等御命之久」(続日本紀・神護景雲三年(769)十月)、大安寺伽藍縁起并流記資財帳(天平三年(731))に「仲天皇奏、妾我妋等炊女而奉」とあることから、中天皇と同様の名称であるとする説がある。また、野中寺弥勒像の銘に、中宮天皇、すなわち、「丙寅年四月大旧八日癸卯開記、栢寺智識之等、詣中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也、友等人数一百十八、是依六道四生人等、此教可相之也」とあることも絡めて捉える説もある。
 しかし、五十年以上も後に現れた、その途中には明確には現れていない言葉と同じ概念とするのは無理である。井上2000.は、「中天皇の語義についても、学者の説はきわめて多岐にわたっているが、問題が錯綜した理由の一つは、先にあげた中宮天皇や『万葉集』の中皇命を、この中天皇と一緒にとりあげるからである。しかし私は、中宮天皇と中天皇を一緒にするのはおかしいとおもうし、『万葉集』の中皇命は、果して天皇かどうかも疑問とすべきだとおもう。言葉をかえていうと、中天皇は中皇命とは別に扱うべきである。」(246頁)と尤もな意見を述べている。さらに、野中寺弥勒像の銘について、東野2010.は、「銘の信憑性に疑念」を抱いている。「像の表面の状態が、戦前と戦後で一変している」こと、「文中に使用されている四つの「之」」や「「六道四生人等」という表現」が、「七世紀の銘文に似つかわしくない」と指摘する(20~21頁)。
 飛鳥時代の万3~4・10~12番歌にある「中皇命」の「中」についてのみ考えた場合、著名な捉え方として、必ずといっていいほど折口説があげられている。

その「中」であるが、片一方への繫りは訣る。即、天皇なるすめらみことと、御資格が連結してゐる。今一方は、宮廷で尊崇し、其意を知つて、政を行はれようとした神であった。
宮廷にあつて、御親ら、随意に御意志をお示しになる神、又は天皇の側から種々の場合に、問ひたまふことある神があつた。その神と天皇との間に立つ仲介者なる聖者、中立ちして神意を伝へる非常に尊い聖語伝達者の意味であつて見れば、天皇と特別の関聯に立たれる高巫であることは想像せられる。すめらみことは、語原論からすれば、天皇以外の御方を指しても、さし支へはなかつた。天皇ばかりを意味することのやうになつて行つたのは、意味の分化でもあるし、又一方からは、天皇のみこともちの上に今一つみこともちを考へ、其を「仲だちの」と限定したものと見ることが出来る。(折口1997.403~404頁)

 神と天皇との仲立ちをする巫女的な存在と考えられている。しかし、紀の記事において、斉明天皇が巫女であったと考えられる事象は、皇極紀元年八月条の雨乞い記事ぐらいしか見当たらない。前兆をとらえる点を過大視していくと、予言者的な「時の人」は皆、いわば「中時人なかつときのひと」ということになってしまう。崇神紀十年九月条で、「少女をとめ」(「童女わらはめ」)は、崇神天皇の伯父であり、義父でもあるおお彦命びこのみことしるましを歌って去って行っている。彼女が「なかつ少女をとめ」(「中童なかつわらは」)であるとは記されていない。
 一方、井上2000.は、「古代には、皇位継承上の困難な事情のある時、先帝または前帝の皇后が即位するという慣行があったのであり、それが女帝の本来のすがたであった、とみるのである。」(228頁)、「これら[元明女帝・倭姫・持統女帝]に共通なことは、女帝の即位がいわば権宜の処置であることで、そのような天皇は、中つぎの天皇に他ならないではないか。」(246頁)とする。「中」=中継ぎであるという論である。女帝を特別視した考え方で、続日本紀の慶雲四年七月条の詔に見える「不改常典の法」に従ってのこととされている。しかし、中継ぎという意味で「中」の語が用いられた例は記紀に見られない。また、「不改常典の法」の内容は不明で、「天智天皇(「近江大津宮に御宇しし大倭根子天皇」)の時期に定まったとされる、直系の皇位継承法のこととしか考えられないであろう。」(吉村2012.162頁)といった程度の理解であり(注3)、いささか仮構にすぎる議論である。
 そもそも、男女に関係なく、すべての人、その一人の天皇は中継ぎである。山之口貘の「喪のある景色」に、「うしろを振りむくと/親である/親のうしろがその親である/その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに/親の親の親ばつかりが/むかしの奧へとつづいてゐる/まへを見ると/まへは子である/子のまへはその子である/その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに/子の子の子の子の子ばつかりが/空の彼方へ消えいるやうに/未来の涯へとつづいてゐる/こんな景色のなかに/神のバトンが落ちてゐる/血に染まつた地球が落ちてゐる」(山之口2013.246~247頁)とある。
 他の説として、「中」は、二人目、あるいは、二代目の義とする。本居宣長・続紀歴朝詔詞解に端を発する。「中天皇は、元正天皇也、平城ナラは、元明天皇より宮敷坐て、元正天皇は、第二世に、坐ますが故に、ナカツとは申給へる也、中昔に、人の女子あまたある中にも、第二にあたるを、中の君といへると同じ、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933886/118)とある。「なかわた童命つみのみこと」・「なかつつのをのみこと」(神代紀第五段一書第六)などの神々や、「中子なかつこなかつひこ」(応神紀二十二年九月)、「足仲彦天皇」(仲哀天皇)は日本やまとたけるのみことなども三人兄弟の「中」の子であるとし、「すみの吉仲皇えのなかつみ」(仁徳紀二年三月)は仁徳天皇の皇后、いは媛命ひめのみことが産んだ四人兄弟の第二子であるとし、「泊瀬はつせのなかのみこ」は聖徳太子の第二子であったらしいからとする。そこから発展させて、「中女なかつみこ」(推古前紀)と呼ばれた推古天皇は、堅塩媛の第四子ながら皇女としては第二子にあたり、「中大兄」は、舒明天皇の皇子のうち、古人大兄につぐ二人目の大兄だからとする。二男・二女の話が嵩じて行って苦し紛れのこじつけになっている。「中皇命」という語自体からは性別さえ決められない。皇極・斉明天皇のこととしても、その系譜は皇極紀の冒頭の皇統譜でしか辿ることはできない。

 天豊あめとよ財重たからいかし〈重日、此には伊柯之比いかしひと云ふ。〉足姫天皇たらしひめのすめらみことは、渟中ぬな倉太珠敷天皇くらのふとたましきのすめらみこと曾孫ひひこ押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとおほえのみこみまごぬのおほきみみむすめなり。いろはをばびつひめのおほきみまをす。(皇極前紀)

 長女か二女か三女かわかろうはずはない。そもそも、中皇命はナカツスメラミコトと訓む。「中」を二人目の、二代目の捉えるなら、二番目のスメラミコトは、初代の神武天皇(かむ日本やまと磐余彦いはれびこの天皇すめらみこと)の次の綏靖天皇(かむ渟名ぬなかは耳天皇みみのすめらみこと)のことになる。問題はそういうところにはない。
 中皇命という名は皮肉なあだ名である。言い伝えが常識として伝わっていれば結構わかりやすいものでだったのではないか。ところが、にわかに文字の時代が到来して誰にもわからなくなってしまった。ただそれだけのことだろう。
 ホラー映画に出てきそうな大笠を着た鬼に似た表現は、斉明紀にはもう一カ所出ている。

 夏五月の庚午の朔に、空中おほぞらのなかたつに乗れる者有り。かたち唐人もろこしびとたり。青きあぶらぎぬの笠を着て、かづら城嶺きのたけより、せて駒山こまのやまに隠れぬ。午の時に及至いたりて、住吉すみのえ松嶺まつのみねの上より、西に向ひて馳せぬ。(斉明紀元年五月)

 悪いことの起こる前兆を記したものと考えられる。容貌が唐人に似ているというのは、唐ならびに唐の服制を取り入れた新羅と戦って敗れることを暗示するものでもあるのだろう。この「青油笠」については大系本日本書紀では合羽に似たものとするが、きぬがさ(衣笠)のことを意識していると思う。天武八年十月条に、「新羅、……天皇・皇后・太子に、金・銀・刀・旗の類をたてまつること各数有り。」ともある「旗」とは、幡蓋、つまり、衣笠のことである(注4)
 それよりずっと以前、神功皇后が筑紫平野へ出張る記事には次のようにある。

 戊子に、皇后きさき、[熊襲のしろ熊鷲くまわしを撃たむとおもほして、橿日宮かしひのみやより松峡宮まつをのみやに遷りたまふ。時に、飄風つむじかぜたちまちに起りて、かさ堕風ふけおちぬ。故、時の人、其処そこなづけてかさと曰ふ。(神功前紀仲哀九年三月)

 おそらくは傘状の地形から名づけられた地名に対し、後からこじつけた地名説話なのであろう。お偉い神功皇后がいらっしゃってふさわしい場所とは、きぬがさをもって覆われるようなところである。導きたいのはカサである。神功皇后のときは笠が飛び落ちた。ところが、それに倣ったはずの斉明天皇の朝倉宮では、気味の悪い笠を身につけた妖怪が現れる。それは同音の「かさ」、すなわち疱瘡、天然痘によって、天皇が亡くなったことを表しているに違いあるまい。「唐人」といった形容があるもうひとつの理由には、伝染病が海外からもたらされることを当時の人も知っていたからだろう。外国の使節団をなかなか都へは入れず、迎賓館に当たる「難波なにはのむろつみ」(継体紀六年十二月、敏達紀十二年是歳)や「筑紫つくしのむろつみ」(持統紀二年二月)、後の鴻臚館に滞在させていたのは防疫態勢の一環で、一定期間隔離させるのと同じ効果を狙っていたのではないか。
 もういちど紀の前後の記事を見てみる。

 [春正月の丁酉の朔にして]庚戌に、御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊つ。
 [三月の丙申の朔にして]庚申に、御船、還りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居します。

 二つの文章の構造に注目したい。両方とも、日にち・「御船」・場所の順に並んでいるが、最後の動詞のあたりに大きな相違がある。後の文章では、船は至り、天皇はいらっしゃったとある。動詞が二つある。前の文章には動詞が一つしかない。船は行宮に停泊したと読むのが順当になっている。石湯行宮が現在の道後温泉付近ではなく、海や川に面していたという解釈が付けられることになる。益田2006.の説では、「伊予湯宮」と「石湯行宮」とが書き分けられているから石湯=海浜のサウナとしていた。歌の左注にあるように、舒明天皇と訪れた昔を偲ぶことができる「昔日猶存之物」をご覧になって感愛の情をもよおしたとあり、往時の「伊予湯宮」には「物」ぐらいしか残っていなかった。
 では、二カ月ほどにもわたる熟田津滞在中、天皇の行在所、「石湯行宮」はどこにあったのだろうか。出掛けていって「感愛之情」を起こしているから、船に缶詰ではなかった。確かに紀の記事からは、船は停泊し、天皇は宿泊した、という意味にも取れないことはない。しかし、船と人間とが一緒くたにされていて文章の座りが悪い。孝徳紀にも次のような文章がある。

 皇太子ひつぎのみこ、乃ち皇祖母すめみおやのみこと[皇極・斉明天皇])・間人皇后はしひとのきさきゐたてまつり、并せて皇弟すめいろど等をて、きてやまとの飛鳥河辺行宮あすかのかはらのかりみやします。(孝徳紀白雉四年是歳)

 いちばん偉い「人」は「居」なものである。斉明紀の記者は何ごとか言い淀んでいるように見受けられる。後の文章の「還」を、本来の行路に戻ったことと考えていた。地図を広げてみても、難波から博多へ向かうのに松山付近を通ったとして、本来のルートから外れているとは思われない。もう一度、歌全体を聞いてみなければならない。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)

 この歌の特徴は力動感である。船に乗って海に出よう、さぁ今こぞ漕ぎ出そう。そう歌っている。月や潮の様が歌の主題ではなく、人々の動作や自然の動き、すなわち、「乗りせむ」、「かないぬ」、「漕ぎ出でな」 といった言葉が主役である。強い意志が感じられるのは、最後の助詞ナの一語にあるのではない。 これほど息せき切って力強く歌っているのは、ちょうど反対の事情、今までは船に乗って漕ぎ出そうにも漕ぎ出せなかったからではないか。それは何か。たちの悪い座礁であろう。
 船団は瀬戸内海を西へ西へと進んで行った。ところが太陽太陰暦で一月十四日、大潮に近い日に、今の松山付近で浅瀬に乗り上げて座礁した。それも船団の中心、天皇らが乗り組んでいた豪華船「御船」号であった。とりあえず、一部の船には先に進んで博多方面へ行き、大宰府などで待機しているよう指令を出した。足止めを食らった天皇には上陸してもらい、かつての行幸場所へもご案内して寛いでいただいた。
 座礁の可能性はけっして低くない。

 皇后きさき[神功皇后]、ことみふねにめして、くきのうみ〈洞、此には久岐くきと云ふ。〉よりりたまふ。潮くこと得ず。時に熊鰐わにまた還りて、くきより皇后を迎へたてまつる。則ち御船の進かざることを見て、かしこまりて、忽に魚沼うをいけ・鳥池を作りて、ふつくに魚鳥をあつむ。皇后、是の魚鳥のあそびみそなはして、忿いかりの心、やうやくに解けぬ。潮の満つる及びて、即ち岡津をかのつに泊りたまふ。(仲哀紀八年正月)

 西征において、斉明天皇が真似をしている神功皇后の事跡である。検討に値する記事である。
 円仁の入唐求法巡礼行記巻第一に、開成四年(839、日本の承和六年)のこととして、遣唐使船が座礁した際の詳細な記録が残されている。

 四月十一日。午前六時、栗田録事らが舶に乗ったのでまもなく出航、帆を上げて真っ直ぐに進んだ。南西の風が吹く。東海県の西に行こうとしたけれども、風にあおられてすぐに浅い浜に着いてしまった。そこで帆を下ろして櫓を動かしたわけだが、船はますます浅い方に行ってしまう。仕方がないのでさおで海底を突いて船の通る個所をはかるためにしばしば船足を留める始末だった。こうして一日中苦労してやっと東海県に着いたのであるが、潮が引いて船は泥の上に居坐ってしまい動くことができない。夜に入ってそこに停泊した。
 そこに陸から舶に上って来た人がいて彼が言うには「きょう宿城村から手紙があって、その知らせによると、日本の九隻の船のうち第三船は密州の大珠山に漂着した。午後四時、押衙と県令(県知事)の二人が宿城村にやって来て『日本国の和尚を探し出して日本船に戻した』と言っていたという(「覓本和尚却帰船処」)。なおその一船(第三船)は萊州の管内に漂着し、流れに任せて密州の大珠山に着いている。他の八隻の船は海上でいずれも見失って行方不明である、云々」と。午後十時、ともづなを曳いて船を引っ張り、泥の浅瀬から出ようと試みたが、まだ浮かび上がらず動くことができない。
 ○「覓本和尚却帰船処」=「却帰」はふたたび元に帰す。(小)[小野勝年『入唐求法巡礼行記の研究 第一巻』鈴木学術財団、昭和39年]「和尚が船処に却帰せんことを求めぬ」日本の和尚が船から抛却されたところを尋ねた。置き去りの意に解し、(ラ)[ Dr.Edwin Oldfather Reischauer. Ennin’s Diary, THE RECORD OF A PILGRIMAGE TO CHINA IN SEARCH OF THE LAW,1955,RONALD PRESS CO., NEW YORK]はleftと訳し、「圓仁たちが船から離れた場所を尋ねて宿城村にやって来た」とする(堀)[堀一郎訳「入唐求法巡礼行記」『国訳一切経和漢撰述部史伝部二十五』大東出版社、昭和14年]「和尚の船処を覓求して却帰せり」これは帰り戻ったの意(洋)[足立喜六訳注・塩入良道補注『入唐求法巡礼行記1』平凡社(東洋文庫)、昭和45年]「和尚を覓め船処に帰却せり」「和尚を発見して日本船に帰した」。この説をとった。
 十一日卯時粟録事等駕舶便発上帆直行西南風吹擬到東海県西為風所扇直着浅浜下帆揺櫓逾至浅処下掉衝路跓終日辛苦僅到県潮落舶居泥上不得揺動夜頭停住上舶語云今日従宿城村有状報偁本国九隻船数内第三船流着密州大珠山申時押衙及県令等両人来宿城村覓本和尚却帰船処但其一船流着萊州界任流到密州大珠山其八隻船海中相失不知所去云々亥時曳纜擬出亦不得浮去
 四月十二日。明け方、風は東風になったり西風になったりして一定しない。 船はまだ浮かばず動けない。また県庁から連絡の文書が来て良岑判官らに知らせていうには「朝貢使の船のうち第三船は当県の管内に漂着した。この船は先日出港したものである」と。私は正式の書状をまだ見ていない(「先日便発者未見正状」(洋)「先日送った知らせはまだ正確な情報ではなかった」(堀)「先日出港したものであるが、まだ正確な情報ではない」)。風向きはしきりに変わって一定しない。
 十二日平旦風東西不定舶未浮去又従県有状報良岑判官等偁朝貢使船内第三船流着当県界先日便発者未見正状風変不定
 四月十三日。早朝、上げ潮となり、船は出発しようとした。しかし風向きが定まらないので何度も往ったり戻ったりした。午後、風は南西から吹いて向きを変え西風となった。午後二時、潮が満ちて舶は自然に浮かんで東へ流れて行く。そこで帆を上げて進んで行った。東海県の前から東へ向かって出発した。舶上の小舟に上ってお祓いをし、同時に住吉大神を礼拝、海を渡りはじめる。風はかなり強く吹いている。大海に入って間もなく、水夫一人が前々から病いに臥していたが、午後五時ごろ死去した。死体はむしろに包み海中に押し落とすと、波にゆられて流れ去った。海の色はやや澄んでおり、夜に入ると風がしきりに吹く。東を指して真っ直ぐに進んだ。
 十三日早朝潮生擬発縁風不定進退多端午後風起西南転成西風未時潮生舶自浮流東行上帆進発従東海県前指東発行上艇解除兼住吉大神始乃渡海風吹稍切入海不久水手一人従先臥病申終死去褁之以席推落海裏随波流却海色稍清夜頭風切直指東行(圓仁・深谷1990.174~177頁)

 この時の遣唐使船は、特に船の破損もなかったようであるが、船が壊れていく様を目の当たりにして怯えている様子は開成三年七月二日条に見える。これらを参考にすると、万8番歌の「御船」は、本稿の初めの方でも触れたラグーン(潟湖)に寄港したつもりが、そのまま潮が引いてタイダル・フラット(干潟)となり、動けなくなったものと推測される。船は無事だが出航できなくなった。吉田2008.に、「額田王采配さいはいのもとで「月待てば潮もかなひぬ」とあるように、「月読」の神に祈り、「月」の出を待って、満汐の良い時をねらっていたわけである。……特にここは「汐」のことが取り上げられている。それは熟田津の地理条件がある面で軍港というにはふさわしくない、大浦おほうら田沼たぬというような船の停泊するには便利だが、出帆するには苦労するところの、汐満ちの影響を考慮しなければならない潟湖津であったことを示しているのである。しかも〈入港〉も〈出帆〉も同一だということでなかったかもしれぬ。」(100~101頁)とある。「大浦田沼」については、「この「田沼」はタヌと訓まれ、田と沼か、田である沼か分らないと言われるが、「田沼」といっても、それを逆にした「田沼[ママ]」といっても同じで、大浦の地が沼田ぬたの状況であることをいっている。それは「津田」といっても「田津」といっても同じなのと同様の語構成だ。志賀島湾内が潟湖をなし、沼田状になっていることをさしている。」(同25頁)とする。梶川2009.も、写真入りでラグーンにボートが置かれている様を紹介し、そこを「天然の良港」としている。
 日下2012.は、「潟」の意味する地形について的確に表現する。

「潟」という語は、ラグーン(せき)とタイダル・フラット(干潟)の二つの地形(景観)にあてられているといえる。前者すなわちラグーンは、砂やれきからなる高さ二~五メートルの砂堆(砂嘴さし・沿岸浜堤ひんてい)によって外海(湖の場合もある)から隔てられた水域である。この水域は海岸線に平行して細長く延びるのがふつうであり、水深は小さいが、干潮時にも完全に干上がってしまうことはない。外海とは河口や狭いちょうこう(砂堆の切れ目)によってつながっていることが多く、外海より海水、そして汽水をへて淡水域へと移る。また潮の干満によって塩分の濃度は絶えず変化する。汀線付近の傾斜が比較的大きいため、潮の干満による汀線の水平的な移動はあまり大きいものではない。
 それに対し、干潟は傾斜がきわめて小さいため、高潮時には水没し、低潮時に陸化するちょう間帯かんたいの幅は、数キロにも達するのが普通である。たとえばフランスの西海岸では、干潟の幅が約一〇キロであり、わが国の有明海も大きい値を示す。ラグーンが、風波の強い海洋型の海岸に発達するのに対し、タイダル・フラットは、波の静かな内湾に形成される。有明海のほか、岡山市の児島湾の例がよく知られている。
 もっとも、ラグーンの周辺に幅が狭くて規模の小さいタイダル・フラットが形成されるため、両者を厳密に区別することはむずかしい。(80~82頁)

 ラグーンも、タイダル・フラットも、上代の人にとっては同じ「かた」である。言葉として同じ範疇に入れるほど似通った景観であった。砂嘴があるから良港と思って廻りこんで入港したつもりが、干潟になってしまったということであろう。
 高見2004.は良港の条件を整理している。

 港の最も重要な機能は船が安全に停泊できることである。そのためには、主として地形的な次の基本条件を満たす必要がある。
 1 船の出入りに相当した幅と水深の航路がある。
 2 港内は船の数に応じた深さと広さがある。
 3 海底は錨かきがよい。
 4 波が静かである(風よけがある)。
 5 潮の干満の差が小さい。
 近年は土木工学の進歩により、これらの条件を満たすように防波堤、防潮堤、導流堤、岸壁、桟橋などが建設され、昔は港にならなかった場所にも多数の港が作られている。古代には、自然にこの条件を満たすリアス式海岸や潟湖に港が作られた。
 しかし、その港が良港であるためには、前述の基本条件だけでは不十分で、さらに次の条件を満たしていなければならない。
 1 内政、外交、文化交流、物流経済などの目的にあった背後地をもつ。
 2 背後地との交通運輸通信などの連絡が容易である。
 3 港の周囲には、貨物の積み込み・積み下ろし・保管あるいは乗客の休憩・宿泊、船舶の修理、港の保守などの設備がある。
 4 これらの設備の保守および機能維持のための要員が近傍に住んでいる。古代の港も、これらの条件をたとえ小規模であっても満たしていなければ良港とはならない。(140~141頁)

 熟田津は、基本条件の「5 潮の干満の差が小さい」を欠いていたといえる。より正確には、満ち潮の高さが定時的に十分であるという条件を欠いていたと言える。
 「御船」は、前期遣唐使船に想定されるように船底は平らだっただろう。しかし、大きな準構造船であり、豪華客船でありつつ大軍艦である。斉明七年一月六日に出航したのは難波津である。河内湖(草香江)と大阪湾とを結んだ難波堀江にあったとされている。「[難波高津]宮の北の郊原を掘りて、南のかはを引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。」(仁徳紀十一年十月)とある水路に面しているとされている。そこは、「難波なにはの御津みつ」(仁賢紀六年九月)、「難波なにはの三津之みつのうら」(斉明紀五年七月割注・伊吉連博徳書)とも呼ばれる。「御津(三津)」のミは甲類で、「満つ」のミも甲類である。毎日のように水が十分に満ちてきて、出航に手間取らない良港であったということだろう。日下2012.は、万葉歌の「潮待つと ありける船を 知らずして 悔しく妹を 別れ来にけり」(万3594)について、「上町台地(大阪市)の先端から平行して、ほぼ南北方向に走る二本の砂洲に挟まれた細長いラグーンのみなと「難波津」で、潮が満ちて来るのを待っていた。満潮を少し過ぎるころ、十分な水深を利用して、船はラグーンから「難波堀江」に出て、潮とともに下り、明石の門を越えてさらに西方へと向かったのである。」(88頁)とする。ところが、熟田津の場合は、潟湖が干潟に変貌して身動きが取れなくなっている。
 先にみた紀の博多到着の記事に続いて、不思議な文章が紛れ込んでいる。

 天皇、此を改めて、名をばながのたまふ。(斉明紀七年三月)

 「娜大なのおほ」 とあったのを「なが」に改名したというのである。「娜大津」は、那珂津なかつなの(宣化紀元年五月)、「娜太津なたつ」(家伝上(鎌足伝))などとも言われる。名は体を表す。改名するにはそれなりの意味があってのことである(注5)
 「名替え」によって互いの関係が更新されるという考えは、斉明天皇の時代にもあったと思われる。そんななか、斉明天皇は娜大津を長津へと名替えをした。その意味するところは何だろうか。
 紀のきわめて初めのところに、次のような割注が記されている。

 至尊しきそんと曰ひ、自余じよめいと曰ふ。並びに美挙等みことと訓む。(神代紀第一段本文)

 偉いのは「尊」で、次なるは「命」、訓み方はいずれもミコトであると言っている。また、続日本紀・元明天皇の和同六年(713)五月条に、「五月甲子。制。畿内七道諸国郡郷着好字。」と、地名に「き字」を選んで付けるよう命じている。いわゆる好字令である。それらを参照して、長津への改称も好字を当てたにすぎないとする考えがある。しかし、斉明天皇は日本書紀を書いておらず、約五十年後の元明天皇のように文字を意識していたとは考えにくい。この間には大きな文化変容があった。無文字文化から文字文化への移行である。だから「好字」を気にするようになった。それ以前の斉明天皇がどれほど文字(漢字)を読めたか興味深い問題である。そして、この時は字がただ変わったというのではなく、音も少し変わっている。かといって、娜大津を、博多や福岡に変えたというほどには変わっていない。それぐらいに変えたのなら何か深遠な意味合いがあってのこととも思えよう。ところが、ナノオホツやナノツ、ナツ、ナタツと、ナガツとでは、音として変わり映えがしない。「天皇改此、名曰長津。」という表現は、何を改めたものなのか。
 奇妙な改名の話はその後も引きずっている。娜大津の近くの「磐瀬行宮いはせのかりみや」(斉明紀七年三月)が、「磐瀬宮いはせのみや」(斉明紀七年八月)と記されるばかりか、ところによって「長津宮ながつのみや」(天智前紀斉明七年七月是月・同九月)と変わっている。ひょっとしてこれは、娜大津を変えたいがための改名ではなく、磐瀬行宮の名を変えたかったからではないのか。熟田津の「石湯行宮いはゆのかりみや」と音がとてもよく似ている。イハセとイハユは一音違いである。つまり、ナノツやナノオホツ、ナツと呼ばれる船着場部分の場所を、土建国家的に長津と呼ぶことでその付近一帯をナガツという統合的な地名に改変したかったということだろう。イハユを思い出したくないからである。あそこは「津」と呼ぶに値するところではなかった。あんな足止めはもうごめんだよ、そういう声が聞こえてくる。
 翻れば、これらの記事は、「熟田津」という地名について婉曲に何かを物語っているように思われる。つまり、座礁した場所には別の名前があった。◯◯浜、✕✕浦である。横浜とか北浦とか、素朴な名であったのではないか。それを熟田津に名称変更した。あるいは名前などなかったのかもしれない。船着場の意味の津という言葉を使い、船は停泊させるべきところへ停泊させている、というのが戦時下における政府の公式見解であった。座礁の失態は隠蔽されたのである(注6)。当然、紀に詳細が書かれることはない。それでも司馬遷ばりの記者は苦労して文章ひねり出した。「泊」と表記すれば、停泊したことにも宿泊したことにもなる。ただし、意味はとまること、stop である。さらに娜大津を長津と改名したことも記す。磐瀬宮も長津宮になっていたりいなかったりする。その結果、熟田津についても、もともとあった地名ではない可能性を示唆することになっている。仲哀紀の座礁記事でも神功皇后は「忿心」を覚えていて、「魚鳥之遊」をご覧になってようやく解けている。斉明天皇の場合、舒明天皇との思い出の物をご覧になっていた。万6番歌には左注が施されている。

 ……山上憶良大夫まへつきみの類聚歌林に曰はく、「記に曰はく……一書あるふみに云はく、「是の時に宮の前に二つの樹木あり。この二つの斑鳩いかるが比米ひめ二つの鳥さはに集まれり。時にみことのりして多く稲穂を掛けて之れを養ひたまふ。すなはち作れる歌云々しかしか」といへり」といへり。……

 そのようなものを見て心を落ち着かせていたのかもしれない。すなわち、斉明天皇は、憎々しく痛々しく感じていた。憎し、痛し、の語幹に津をつけて、niku+ita+tu→nikitatu と名づけられたと想定することも可能である。山部赤人の歌には、「にき田津たつ」とある。

 ももしきの 大宮人の 飽田津に 船乗りしけむ 年の知らなく(万323)

 赤人は神亀元年 (724)から天平八年(736)の間、生存が確認されている。万323番歌まで、斉明七年(661)からおよそ五十年は経過している。天武十三年(684)の大地震も経ている。「土左国の田苑たはたけ五十余万しろうもれて海と為る。」(天武紀十三年十月)と記されているように、伊予国でも地形変動が起きたことだろう。1946年に起きた昭和南海地震では、愛媛県下の海岸線は四~五十cm地盤沈下し、道後温泉の湧出も六カ月間止まっている。今日、四国の瀬戸内海岸の波打際が迫って感じられるのはそのせいである。赤人がいつのことか年を知らないと歌っているのは詩的な表現である。年が経ってしまったからと納得しているが、場所さえわからなかったのではないか。後世に伝わらないニキタツという地名は臨時に名づけられたものらしい。
 鎌倉時代の仙覚(1203?~1272?)の萬葉集註釋に、伊予風土記を参照したらしい注が付いており、斉明天皇の御歌が記されている。その歌は、「美枳多頭爾みきたづに 波弖丁美禮婆はててみれば 云々」というもので、三句目以下は伝わっていない。ニキタツがミキタヅになるのは音韻が訛る傾向としてあり得る。三句目以下が割愛されて「云々」と書いてあるのは、早い段階で検閲を受けたか自主規制したかして意図的に割愛されたことを予感させる。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)
 (大意)熟田津と名付けられたこの船着場で船出したいと満月の月を待っていたら、大潮の満ち潮はすでに期待以上に満ちてきてしまっている。さあ早く、今はほかのことはどうでもいいから漕ぎ出そう。

 三月望月近くの大潮の日、額田王は、東の空から昇る満月によって高い満潮を導くのを待っていた。確かに「月」は待っていたのであるが、月のことは念頭から離れて「潮」に注意が向いている。月のまだ昇らぬ夕刻から思いもかけず潮の満ち方が急で、今にも船がうまく動き出そうとしている。春の低気圧が発達して通過し、南風も手伝って高潮傾向になったからかもしれない。それで有頂天になってこの歌は歌われた。歌は必ずしも形象を厳密に詠むものではないが、この歌から聞こえてくるテンションの高さは、それなりの何かがなくては生まれないように思われる。
 「潮もかなひぬ」とある助詞のモについては、先に指摘した古橋1994.にある、「月待てば 月もかなひぬ 潮待てば 潮もかなひぬ」のような、単なる並立の意味とは考えにくい。何もかも順調という時に、これほど高揚した声は聞かれない。古典基礎語辞典の「解説」と、上代に名詞を受ける場合の「語釈」を引く。

モは他の係助詞カ・ゾと同じく、「何時いつ」「誰たれ」などの疑問詞の下に付いて使われる。このように、疑問詞に付くことは、モの受ける事柄が不確実なもの、あるいは不確実なことであることを示す役目をする。不確実とは、次のようなことを指す。・推量……・未定……・ 順望……・否定……このようにモは、受ける語を「これ一つではない」と、これと同類のものが他にも存在することを暗示して、掲げたものが不確定・不確実・非限定的・仮定のものとして扱うことを本質としている。これに対して、係助詞ハは、疑問詞に付くことがほとんどなく、数あるもののうちから、上にくる語を特に「これ一つ」として取り立てて、確実・確定的・限定的・既定のものとして扱う。『万葉集』で地名に付くハが多いのは、地名が「これ一つ」という最も明確なものなので、必然的に上の語を確実と扱うハの例が多くなることによる。以上のモの本質からすれば、普通モの文末には打消・推量・疑問など、いわゆる不確定性の陳述がくる。ただ中には「懸けまくも〔母〕 あやにかしこし 言はまくも〔毛〕 ゆゆしきかも」〈万葉四七五〉のように結びが肯定の場合もある。これは、「心にかけて思うのも何とも恐れ多い。口に出して言うのも忌みはばかられることだ」と訳せる一種の常套句で、続けて使われているモは、いずれも上の語を肯定して、「Aも…Bも…である」という、いわゆる並列の意を表している。同類の事柄を列挙するこの並列のモは、上代ではそれほど多くないが、時代が下るにつれて用例数が増加し、やがてモの用法の大部分を占めるよっになって、現代に至っている。こういう意味が生じたのは、モが「ある事」を確実であると確信できない意を示すところから「AもBも」と不確実なものを列挙する気持ちを表した結果である。つまり、並列肯定の用法は、モの不確定という本質の一つの相として現れたことになる。そのほか、係助詞モには、上代から類例暗示、添加、強調・詠嘆、総括など多様な意味用法があり、通時的に盛んに使われている。……
①上にくる語を不確実・非限定・仮定・未定のものとして提示し、下にそれについての説明・叙述を導く。…も。下に打消・推量・願望などの表現を伴うことが多い。 ▷「多遅比野たぢひのに 寝むと知りせば 防壁たつごもも〔母〕 持ちて来ましもの 寝むと知りせば」〈記歌謡七五〉。……②「AもBも」と不確実なものを列挙・並列する意を表す。…も。 ▷「千葉の 葛野かづのを見れば 百千足る 家庭やにはも〔母〕見ゆ 国の秀も〔母〕見ゆ」〈記歌謡四一〉。……③一つを挙げて、該当する他の類例を暗示する意を表す。また、他の同種のものを類推させる意を表す。…も。…なども。…さえも。(…はもちろんのこと)…だって。 ▷「熟田津にきたつに船乗りせむと月待てば潮も〔毛〕かなひぬ今は漕ぎ出でな」〈万葉八〉。……④一つの事柄の上に、同種の事柄をもう一つ加えるという添加の意を表す。…も。…もまた。 ▷「宮人の 足結あゆひの小鈴 落ちにきと 宮人響とよむ 里人も〔母〕ゆめ」〈記歌謡八二〉。……⑤控えめな最小限・最低限の希望を表す。せめて…だけでも。下に仮定や願望の表現を伴うことが多い。 ▷「ぬばたまの夜渡る月をとどめむに西の山辺に関も〔毛〕あらぬかも」〈万葉一〇七七〉。……(1194~1195頁、この項、我妻多賀子)

 古橋説は②の用例の省略形ということになる。モを不確実なものとする解説に反する。そして筆者は、③の例に熟田津の歌が採りあげられていることに異議を唱えたい。月と潮について、「月待てば潮かなひぬ」と先にモが出ていれば、暗示や類推に該当するであろうが、そういう語順にはない。そして、「語釈」では説明不足ながら④の意味に着目する。記81番歌謡の用例は、「宮人は大騒ぎするけれど里人は決して大騒ぎしてはいけないよ」という意味である。「宮人」と「里人」とは、することの方向性が反対である。否定の意味が残っている。この意に寄せて熟田津の歌を考えると、「月を待っていると月はまだ出ていないのに、潮は船出にかなう状態になってしまった」と解することができる。記歌謡や初期万葉歌は、上代においても古い用例である。モの原義である不確実性の提示の意を多分に含んでいると考えたほうが妥当である。予想に反して船がにわかに動き出そうとしていたことを指している。あれよあれよという間に「潮もかなひぬ」と完了してしまっている。だから、みんなで早く、早く、と声を掛け合っている。「今は漕ぎ出でな」と、提題の助詞ハが付いている。
 三句目の「月待てば」の「月」については、月の出を待つのか、満月になるのを待つのか、議論が分かれている。ほかに、雲から月が現れたとする説もある。万葉集中から「月」と「待つ」を兼ね備えた歌を見ると、万8番歌以外に九首ある。

 夕闇ゆふやみは みちたづたづし 月待ちて ませ背子せこ そのにも見む(万709)
 闇のは 苦しきものを 何時いつしかと 吾が待つ月も 早も照らぬか(万1374)
 いもが目の 見まくしけく 夕闇の の葉こもれる 月待つ如し(万2666)
 あしひきの 山よりづる 月待つと 人には言ひて 妹待つわれを(万3002)
 能登の海に 釣する海人あまの 漁火いさりびの 光りにいけ 月待ちがてり(万3169)
 …… あしひきの 山より出づる 月待つと 人には云ひて 君待つ吾を(万3276)
 たらしひめ 御船てけむ まつうみ 妹が待つべき 月はにつつ(万3685)
 月待ちて 家には行かむ わがせる あから橘 影に見えつつ(万4060)
 秋草に 置く白露の かずのみ 相見るものを 月をし待たむ(万4312)

 このうち、万3685・4312番歌は暦としての月の意で、他の七例は天体として夜を照らす月の出を待つ意である。月歴として用いられる場合は、「」や「日にに」など、時間の経過を示す言葉としてわかるように示されることが多い。万3685番歌もそうで、万4312番歌と似た性格を持っている。万4312番歌は、「七夕の歌八首」のうちの一首で、この場合の「月」は来年の七月のことを指している。万3685番歌も帰国すべき予定月のことを言っている。
 万8番歌の「月待てば」の場合、月歴として特定の月を言っているとは考えにくい。出航予定ならともかく、出航予定というのはあり得ない。また、ひと月、ふた月、み月と指折り数えて待つという言い方や、上弦の月が満月になるのを待つという言い方は上代に見られない。よって、月の出を待っていると解すべきである。上に述べたように、助詞のモが不確実性を表すことも考え合わせれば、満月になれば大潮になってすべてうまくいくという予定調和を歌った可能性は非常に低い。月の出を待っていたら思いがけず潮が満ちてきて、さあ漕ぎ出そうと歌っている。
 万8番歌は、座礁からの解放を喜んだ歌であった。「漕ぎ出で」ることが眼目で、「潮」に潮流の意味は含まれていない。難波からの出航当初は二日かけて約100km進み、岡山県の東部に達している。岡山県東部から松山付近までは六日かけて約150km進んでいる。松山付近から博多までは関門海峡を通って約250kmである。三月の望月頃の大潮で船が動き出したとして、到着は三月二十五日、十日ほどかかっている。途中で神功皇后ゆかりの穴門の豊浦宮旧跡地、山口県下関市長府豊浦町へ立ち寄ったことだろうから、日程的にはちょうどいい。紀の「還りて○○○娜大津に至る。」という表現は座礁からの脱出を物語っている。「御船」は、陸から海に「還」ったのである。
 船の安全を祈った呪術的な意味合いは感じられない。二句目の「乗り」という言葉は、乗物に乗って身を任せて行くことをいう。安全無事を祈るというよりも、ようやく船出できる喜びを素直に表現している。乗組員一同の気持ちが一つになった時、この歌は歌われた。人々に共有されるような気持ち、共通する感覚が歌になってほとばしり出ている。
 左注の最後に、「但、額田王歌者別有四首。」とあった。おそらくこの四首は、同じように船出を歌ったものであろう。最大の関心事だからである。座礁した日かそれに近い大潮の日、二月朔日頃の大潮の日、二月望月頃の大潮の日、三月朔日頃の大潮の日。ちょうど四回あってそのたびに船出を予祝する歌が歌われたとすれば四首である。むろん、大自然を相手にして、額田王の歌の力ではどうにもならなかった。最後に歌われた万8番歌は、予祝する歌ではなく、実際に動き出して興奮して作った歌である。歌の出来がいちばんすぐれるのは当然のことである。左注を付けた人が「即此歌者天皇御製焉。」と言っているのは、ほかの四首が冴えなかったから、同一の作者とは思われなかったということかも知れない。
 仮に、西暦2000年の松山(緯度33°51′N、経度132°43′E)の潮汐を、潮汐表aに見る(注7)と、旧暦一月十四日は新暦の二月十八日に当たり、大潮の第一日目である。潮時と潮位を示すと、1:53に最低潮位2cm 、8:42に最高潮位333cm、14:44に90cm、20:21に289cmをつけている。翌日以降、日に約二回ある高潮と低潮のうち、潮時の最高値を旧暦で示すと、十五日344cm、十六日348cm、十七日345cm、十八日337cm、十九日324cm、二十日308cm、二十一日288cm、二十二日265cm、二十三日245cm、二十四日232cm、二十五日236cm、二十六日255cm、二十七日276cm、二十八日294cm、二十九日309cm、三十日319cm、二月一日(新暦三月五日)327cm、二日331cm、三日331cm、四日326cm、五日315cm、六日310cm、七日295cm、八日276cm、九日263cm、十日268cm、十一日288cm、十二日310cm、十三日325cm、十四日334cm、十五日336cm、十六日333cm、十七日327cm、十八日316cm、十九日303cm、二十日302cm、二十一日285cm、二十二日266cm、二十三日248cm、二十四日242cm、二十五日252cm、二十六日271cm、二十七日290cm、二十八日305cm、二十九日318cm、三十日326cm、三月一日(新暦四月五日)338cm、二日343cm、三日340cm、四日311cm、五日329cm、六日312cm、七日291cm、八日277cm、九日278cm、十日290cm、十一日305cm、十二日315cm、十三日321cm、十四日330cm、十五日334cm、十六日332cm、十七日326cm、十八日316cm、十九日282cm、二十日302cm、二十一日287cm、二十二日271cm、二十三日259cm、二十四日260cm、娜大津に着いた二十五日の松山の最高潮位は271cmである。
 最高潮位に注目すると、一月十四日(新暦二月十八日)の333cmに達するのは、同十五・十六・十七・十八日を過ぎると、二月十四・十五・十六日、三月一・二・三日、同月十五日である。きわめて限られている。検潮所での平均的なデータと、「潟」湖の実際とでは開きがあり、また潟湖へ流入する川の水量も加味しなければ実情は不明だが、それでも大いに参考になる。一月十六日の348cmを上回ることはずっとないのである。潮の満ち方が多そうな日を見ると次のとおりである。

 旧暦二月望月頃は午前中に最高潮位を示している。この傾向は、熟田津到着の旧暦1月望月頃にも当てはまる。月の出るはずもない朝から「月待てば」とは歌わないであろう。また、旧暦三月朔日頃の月は見えなかったりか細かったりする。しかも、日中から天上にある月を「月待てば」とは歌わないであろう。旧暦三月望月頃を見ると、「月待てば」と歌いたくなるのは日の入より後に月の出がある日であろうから、三月十五日以降説が有力ではないかと感じられる。以上が、二カ月ほど足止めを食らっていたのではないかと推測できる状況証拠である(注8)
 この歌は、戦争に赴くときの歌ではあっても進軍ラッパではない。中大兄の「三山歌」(万13~15)と同じ道中でありながら、性質は全く異にしている。そして時代感覚の鋭い編者はこの歌を採録した。彼自身が新たに書き加えたのは、標目(「後岡本宮御宇天皇代」)と題詞(「額田王歌」)だけである。あとは紀と見比べて考えて下さいと願っている。そして、紀の方にはわずかな手掛かりが残された。そうまでしなければならなかった経緯を考えると一つの疑問が浮かびあがる。
 紀が書かれたのは天武朝である。書いたのは官吏である。その際、以前の政権の平凡な失敗については、あまり隠さずに書いている。つまらないニュースも結構載っている。ところが、この座礁の事件は語られることなく終わっている。空白の約二カ月が生じている。なぜ書かれなかったのか。あるいは、座礁のきっかけを作ったのが大海人皇子、すなわち、後の天武天皇にあったからではないかとの印象を筆者はいだく。
 船上で大伯皇女が誕生しており、娜大津から名付けられたらしい大津皇子も生まれている。

 をか本天皇もとのすめらみこと[舒明天皇]と皇后きさき[後の皇極・斉明天皇]との二躯を以て一度と為。時に、大殿おほとのむく臣木おみのきとあり。其の木にいかるが此米しめどりすだき止まれり。天皇、此の鳥が為に、枝にいな等をけてひ賜ふ。のちのをか本天皇もとのすめらみこと[斉明天皇]・近江大津宮に御宇しめしし天皇[天智天皇]・浄御原宮きよみはらのみやに御宇しめしし天皇[天武天皇]の三躯を以て、一度と為。(萬葉集註釋による伊予風土記逸文、再掲)

 斉明・天智・天武の三天皇が一緒に来たと記されている。万6番歌の左注に記されるところである。しかし、紀の一連の斉明天皇西征の記事に大海人皇子の名は出てこない。失敗があったから大海人皇子の動静が伝えられていないのではないか。天皇の崩御や白村江の敗戦を後から振り返った時、熟田津の不祥事はその前兆であったと人々は考えるに違いない。その原因は大海人皇子が作った。そう思われては天武天皇は困るし、周りの宮廷人にとっても気まずいものである。
 万8番歌の原文は「𤎼田津尓」で始まる。「𤎼」という字は、紀と万葉集に現れる。「熟」の字の異体字とされるが、管見ながら中国に見られるものではない。おそらく、編者の謎掛けをもとにした造字であろう。よく使われる「熟」の字の下にある点四つ、レッカは火を表す。火がついたように赤く熟しているというのである。そこで、上の部分の「孰」に似た字の「就」をもってきて、字義を伝えるにふさわしい字をこしらえた。

「𤎼田津」(西本願寺本万葉集、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242401/1/12)

 本稿では「就」の字をすでに見ている。「御船西に征きて、始めて海路にく」、「天皇の喪、帰りて海にく」とあった。動詞が一つしかないわざとらしい文も、「𤎼」字を上下に分離して「御船、伊予に泊て、火田津ほたつの石湯行宮にく」と訓めば意が通じる。紀に記される漢語(「御船泊于伊予就火○○田津石湯行宮」)を無理矢理なぞなぞ訓みしてみた。伊予に stop してはいるが、きちんと計画通りに就いているとの体裁にも読める。ただしそれは、火田ほた、つまり焼き畑の、水のない状態の津に石湯行宮はある、という自己撞着した表現になっている。指宿に知られる砂風呂のようなところだったかもしれない。畑という字は国字であり、紀には、「田畝たはたけ」、「田圃たはたけ」、「田苑たはたけ」、「水陸たはたけ」、「陸田はたけつものの種子たね」などと記されており、当時はまだなかった。日下2012.の「潟」の解説にあったように、天然の良港にもなり得る潟湖と遠浅で広い干潟とは、見た目の景観としては判別がつきにくい。満潮時に潟湖と思って入港したところ、実はふだんは干潟のところだった。つまり、「就」が床に就いているような意味合いで使われている。「潮船」状態が長引いたということである。
 石湯行宮とは、座礁船自体のことを「行宮」としていたことを表すのではないか。船に缶詰というわけではないが、大した建物も俄かには造れず、いちばん快適に過ごせるのは「御船」という豪華船中であったろう。斉明天皇は、神功皇后同様、「忿心」を得ていた。怒りを覚えていたのである。「御船」が干潟の上にあるとは、水のあるところでの停泊ならイカリを下すのに、イカリを上げているという洒落が成り立つ。怒りがこみ上げてきて仕方がないような場所にいらっしゃった。イカリ(碇、忿、怒、慍)の用字には次の例がある。

 近江あふみの海 沖漕ぐ船の 重石いかり下ろし しのびて君が こと待つわれぞ(万2440)
 大船おほふねの たゆたふ海に 重石下ろし いかにせばかも が恋まむ(万2738)
 大船の とりの海に いかり下ろし いかなる人か 物思はざらむ(万2436)
 はねかづら 今する妹が うら若み みみいかりみ けし紐解く(万2627)
 十に曰はく、忿こころのいかりを絶ちおもへりのいかりを棄てて、人のたがふことをいからざれ。(推古紀十二年四月)

 万葉集のはじめの三例は碇の意、最後の例のみ怒の意である。万2436番歌は、anchor の意に「慍」の字を用いた借訓である。碇には「沈石」(播磨風土記飾磨郡)との用字もあり、通常は下ろして用をなすものである。怒りがこみ上げてきて仕方がない場所は干上がった畑であり、碇を上げたままに用をなして船は流されることなく泊まっている、ないしは、就いている。じっと滞在して、御在所と呼ぶのに値する。それをイハユの行宮と命名した。イハという語は、実物の石の大きなものの意のほかに、それを材料に使った船の碇の意、霊験性を表す意がある。大石に穴をあけたり、網状にしてそこへ大石を入れたり、木に括りつけたものなど各種ある。碇とイハとはよく似ているのである。つまり、イハ(岩・磐・巌)+アユ(肖)→イハユ(石湯)と名づけてみた。そして、所謂いはゆる行宮が止まっているから終止形を以てして、イハユノカリミヤと呼んでいる。
 万6番歌左注に見える「斑鳩・比米」なる「二鳥」は、イカルガヒメ、すなわち、イカル(怒)+ガ(助詞)+ヒメ(姫)という皇極・斉明天皇のあだ名をもとに作られた伝承であったかもしれない。彼女の肉声は紀に録写されている。大化改新のクーデターが宮中で行われた箇所に、彼女の怒りの声が記されている。

 天皇、大きに驚きて、中大兄に詔してのたまはく、「知らず、る所、何事有りつるや」とのたまふ。(皇極紀四年六月)(注9)

左:碇石(森の宮遺跡、㈶大阪市文化財協会編『事業のあらまし 1979-1999』同発行、1999年、https://www.occpa.or.jp/PDF/aramashi_20.pdf(3/8))、右:不動明王立像(部分)(平安時代、11世紀、東博展示品)(注10)

 碇と怒との関係は、その図像によっても証明される。おおきな石に蔓のロープを絡ませたものを碇に使っていた。他方、怒りを表した忿怒の像、不動明王の頭部は、まるで、碇のように、ロープ状の弁髪や凸凹のある顔つきとなっている。碇を下ろした船は不動であることになる。
 船団がどの程度の規模であったかはわからない。

 五月に、大将軍おほきいくさのきみ大錦中だいきむちう曇比づみのひぶのむらじ船師ふないくさ一百七十ももあまりななそふなて、ほうしょう等を百済国に送りて、みことのりりて、豊璋等を以て其の位を継がしむ。(天智紀元年五月)

 「一百七十艘」という船の数は、後述する白村江の海戦の時の唐軍の船の数と同じである。なお、天智十年十一月に唐領百済から倭に向かった船の数は、四十七隻、人数は二千人とある。そのまま行くとびっくりして一触即発になるだろうからと、事前通告のために使者が来ていると知らせている。この記事は信憑性が高い。斉明天皇の船団の船数を絞り込むことはできないものの、相当数であったことは確かである。
 船団を組んで進んでいた時、大海人皇子が水先案内人パイロット役を担っていたと考える。彼の乳母はその名から、丹後国加佐かさおほしあま郷、現在の京都府舞鶴市付近に拠点を置いていた凡海(大海)氏であり、いわゆる海人族に育てられたとされている。そのつてで航海技術を持った人は雇われていたに違いあるまい。誘導されるままに斉明天皇らの乗った御船号は進んだ。しかし、難波津のある大阪湾や山陰・北陸の日本海側の海岸の状況と、瀬戸内海西部とでは様子が違っていた。潮汐においてである。

※潮汐表a・bによる。*は「日本沿岸736港の潮汐表」や「Anglrタイドグラフ」による。略最高高潮面:満潮時などにこれより高くならないと想定される潮位、大潮升:最低水面から大潮の平均高潮面までの高さ、大潮差:大潮の平均潮差、小潮升:最低水面から小潮の平均高潮面までの高さ、小潮差:小潮の平均潮差、平均水面:潮汐がないと仮定した海面、平均潮差:満潮位と干潮位の平均潮差、平均高潮間隔:月がその地の子午線を経過してから高潮となるまでの平均時間(注11)

 大潮差は、日本列島沿岸では九州の東シナ海側が最も大きく、有明海の佐ノ江では4.6mにも達する。ところが日本海側ではほとんどなく、舞鶴で20㎝に満たない。問題となる松山では2.8m、博多では1.6mである。難波津の値を現在の大阪にとると、1m弱である。潮の干満の大きさに驚いたことであろう。油断して接岸したところ潮が引くと沖合いはるかに干上がっていた。いちばん大きな「御船」号は干潟の奥に取り残された。大海人皇子は皮肉られて仕方のない立場に立たされている。
 古代の船の運航については、上述したように、潮の干満を利用した座礁形式の停泊が行われていた。それがうまくいくためには、船が泊まる津となる場所が、安定的な潮の干満を繰り返していることが望ましい。古代によく利用された難波津(大阪)をみると、大潮の時の平均的な水面の高さ(大潮升)は1.4m、小潮の時のそれ(小潮升)は1.1mである。わずかに30cmしか違わない。つまり、大潮、小潮にあまり関係なく、日に二回、定期的に潮が満ちてくる。これは、船の発着便として必ず日に二回チャンスがあるということであり、時刻表が作成できることを意味する。そして、海が荒れようとも、砂嘴によって守られているラグーン(潟湖)にある難波津は、天然の良港になっていた。
 日本で最も干満差の大きい有明海の住ノ江では、大潮升5.1m、小潮升3.5mである。1.6mも差がある。大潮の時に船で陸地いっぱいまで来て座礁式に停泊をすると、概念的には、十五日後、三十日後、四十五日後、といった日の満潮を待たなければ、船は再び海水の上に浮かぶことはなくて出航できない。そこをタイダル・フラット(干潟)と呼ぶ。熟田津も同じであった。
 白村江の戦いの様子は紀では簡潔に書かれている。天智二年(663)に戦局は急転回する。百済王に擁立された豊璋は、六月になって近侍の者の讒言を聞き入れてしまい、将軍のしつ福信ふくしんと内輪揉めを起こす。福信は滅亡した百済を孤軍奮闘し、どうにか再興にこぎつけた英雄であった。結局彼は、「腐狗くちいぬかたくなやつこ」と奸侫な輩を罵りながら死刑に処せられた。八月十三日には、良将のいなくなったことを知った新羅軍が、百済の王城、州柔つぬを目指して押し寄せる。三国史記・金庾信伝にも記載がある。豊璋は、そのとき牙城であるべき州柔城を抜け出して倭の援軍の来る白村江へ赴く。十七日、敵軍は州柔城を包囲し、また唐の海軍も戦艦百七十艘が白村江に陣を堅固にして位置についた。
 二十七日に倭の海軍の先発隊が白村江に到着し、緒戦に敗れて退却する。決戦は翌二十八日である。

 秋八月の壬午の朔にして甲午(13日)に、新羅、百済くだらのこしきおの良将よきいくさのきみを斬れるを以て、ただに国に入りて州柔つぬを取らむことをはかれり。是に、百済、あたの計る所を知りて、諸将もろもろのいくさのきみかたりて曰はく、「今聞く、大日やま本国とのくに救将すくひのいくさのきみいほはらの君臣きみおみ健児ちからひと万余よろづあまりを率て、まさに海を越えて至らむ。願はくは、諸の将軍等は、あらかじめ図るべし。我自らきて、白村はくすきに待ちへむ」といふ。
 戊戌(17日)に、賊将あたのいくさのきみ、州柔に至りて、其の王城こきしのさしかくむ。大唐もろこし軍将いくさのきみ戦船いくさふね一百七十ももあまりななそふなを率て、白村江はくすきのえ陣烈つらなれり。
 戊申(27日)に、日本やまと船師ふないくさづ至る者と、大唐の船師と合ひ戦ふ。日本、不利けて退く。大唐、つらかためて守る。
 己酉(28日)に、日本の諸将と、百済の王と、気象あるかたちを観ずして、相かたりて日はく、「我等先を争はば、彼おのづからに退くべし」といふ。更に日本のつら乱れたる中軍そひのいくさひとどもて、進みて大唐の陣を堅くせるいくさを打つ。大唐、便ち左右もとこより船をはさみてかくみ戦ふ。須臾之際ときのまに、官軍みいくさ敗続やぶれぬ。水におもぶきておぼほれ死ぬる者おほし。艫舳へとも廻旋めぐらすこと得ず。ちの田来津たくつあめに仰ぎて誓ひ、歯をくひしばりていかり、数十人とをあまりのひとを殺しつ。ここたたかひせぬ。是の時に、百済の王豊璋、数人あまたひとと船に乗りて、高麗こまに逃げ去りぬ。(天智紀二年八月)

 豊璋は高句麗に逃げ、九月七日に州柔は落城する。百済側の内訌や王の単独行動も不可解であるが、倭の海軍も、戦術も何もあったものではない。白村江、錦江の河口を我も我もとただ進んで敗れている。唐の戦艦は十日も前から準備して待っていた。そこへ「気象」を考えないで進軍し、両側から挟まれてすぐに負けている。退却しようにも、「艪舳不廻旋。」となってしまった。
 舳艫とは、もとは船の大きさを示す熟語であった。それを舳と艫とに分解して、船首と船尾とを表そうとした。ところが、どちらがどちらか混乱していく。新撰字鏡には、「舳 以周・治六二反、艪舳、止毛とも」、「艫 力魯反、舟前鼻也、」、和名抄には、「舳 兼名苑注に云はく、船の前頭は之れを舳〈音は逐、楊氏漢語抄に、船の頭の水を制する処なりと云ふ。和名は〉と謂ふといふ。」、「艫 兼名苑注に云はく、船の後頭は之れを艫〈音は盧、楊氏に舟の後に櫂を刺す処と曰ふ。和語に度毛ともと曰ふ〉と謂ふといふ。」とある。名義抄では、区別をあきらめて「舳 ヘ、トモ」、「艫 トモ、ヘ」と両訓をつけている。紀で「舳艫」・「艫舳」の例は全部で五例あり、傍訓ではそれぞれ、トモヘ、ヘトモ、また後者はフネとも振られている。

 ……皇軍みいくさ遂にひむかしにゆく。舳艪ともへげり。まさ難波なにはのみさきに到るときに、……(神武前紀戊午年二月)
 又、筑紫のとのあがたぬしおや五十迹手とて、天皇のいでますをうけたまはりて、五百枝のさかじ取りて、船の舳艫ともへに立てて、……あな引嶋ひこしま参迎まうむかへて献る。(仲哀紀八年正月)
 是歳、新羅の貢調みつきたてまつる使つかひ知万沙ちまささん等、もろこしの国のきものを着て、筑紫に泊れり。朝庭みかどほしきまましわざ移せることをにくみて、訶嘖めて追ひ還したまふ。時に、勢大臣せのおほおみ奏請まをしてまをさく、「まさに今新羅を伐ちたまはずは、後に必ず当にくい有らむ。其の伐たむかたちは、挙力なやむべからず。難波津より、筑紫海のうちに至るまでに、相ぎて艫舳ふねを浮けてて、新羅を徴召して、其の罪を問はば、やすく得べし」とまをす。(孝徳紀白雉二年是歳)
 是歳、百済の為に、まさに新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已につくりをはりて、続麻郊をみのき至る時に、其の船、夜中にゆゑも無くして艫舳へともかへれり。ひとびとつひに敗れむことをさとりぬ。(斉明紀六年是歳)

 紀において、舳艫、艪軸の使い分けに意味があったかどうか筆者には整理がつかない。斉明紀六年是歳条の例は、新造船を続麻郊、現在の宇治山田に近い三重県多気郡明和町まで航行させ、一晩浜辺に陸揚げしておいた。ところが、翌朝になってみると、船首と船尾が反対を向いていたというのである。「其船夜中無故艫舳相反」と書いてあるが、何のことはない、夜中に潮が満ちて船が浮かび、くるりと向きを変えて朝には潮が引いていたということである。宇治山田の大潮差(平均高高潮-平均低低潮)は1.7mである。十分にあり得る値である。「無故」とは理由がないのではなく、潮汐という自然現象がわかっていないことを示した記述に他ならない。前後不覚に「艫舳」と反してしまった。敗戦の予兆を表す記事にふさわしい。
 天智紀二年八月条の白村江の戦いにおいて「艫舳不廻旋。」とある。みじめな敗戦記事を端的に表現している。実際に起ったのは、河口をいったん遡ったらUターンできずに壊滅したという事態である。引き返そうにも向きを変えられず、唐軍に殲滅せられた。百済を救うために新羅と戦うはずが、援軍の唐と戦って敗れている。戦術的にも外交的にも方向転換が利かなかったことを象徴的に表した記事である。
 「気象」は木や風向きなど大気中の変動を表す言葉であるが、ここでは潮位の変化、干満の差の大きさを指し示している。唐の海軍が陣を布いたのは八月十七日である(注12)。月齢と潮汐の関係が、それも季節的な変化について経験的に理解されている。特に秋分点頃がいちばん上げ潮がきついと知っていたに違いない。ちょうどその条件のとき、唐軍は白村江において、干満の具合を確かめながら、艦船はそれぞれの持ち場についている。
 白村江、今の錦江クムガンの河口、群山クンサンでは、大潮差は6.0m、小潮差でも2.8mに及ぶ。単純計算で熟田津の二倍以上である。元嘉暦で記されていると推定する一般の説によれば、天智二年は閏月のない年で、八月は小月に当たって二十九日までである。白村江の決戦は天智二年(663)八月二十八日、朔の二〜三日前に河口で戦っている。潮汐表bによって、韓国、全羅北道の群山(緯度35°59′N、経度126°43′E)における、663年と暦が近似する2002年を参考に見ると、十月四日(旧暦八月二十八日)は、月齢は27.0、月の南中時は10:25である。当日の潮位(潮時)は、614cm(1:33)、136cm(8:30)、574cm(13:51)、83cm(20:40)となっている。約5mもの潮位差がある。今日、セマングムという世界一長い防潮堤が築かれているところである。唐軍は、干満差の激しいことを十七日に着いて知っている。2002年でいえば九月二十三日に当たり、612cm(4:29)、104cm(11:27)、606cm(16:41)、0.7m(23:30)とさらに激しい(注13)
 決戦の時刻が何時頃なのか記載がないが、昼間の戦いであったなら、朝、引いていた潮が、午前中にだんだんと上げ潮になっていって5mほど水位が高まり、その後は反対にどんどん引き潮に変わった。つまり、「艫舳不廻旋。」とは、午前中に川の逆流に乗って先を争って敵に進撃していったところ、両側に陣構えしていた唐の艦船は川の中央へ向って並んで左右から挟むように進み、乱れ進んできたものの流れが止まって動けなくなった倭の艦船を挟み撃ちにした。向きも変えられない倭の艦船に対して火矢を射、次々と焼いた。唐側の資料では、旧唐書・劉仁軌伝に、「仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、焚其舟四百艘。煙燄漲天、海水皆赤。賊衆大潰、余豊脱身而走。」とある。実際の戦闘がいかなるものであったのか確かめられないものの、日本書紀のこの部分を書いた人の表現としては以上のように考えるのが妥当であろう。錦江の逆流を起こす役割を果しているのは、伍子胥ならぬ百済の福信である。海を知らない水軍が、海に敗れたのであった。
 もとより、万葉集の編者がこの熟田津の歌を撰んだのは、極めて杜撰な参戦体制を伝えるためであったろう。狂信的な斉明朝の本質に肉薄するのにとても鋭い切り口である。しかし、それだけを伝えたかったのではない。都に残っていた有力豪族の中には、天智天皇が位につき、中臣鎌足が引き続き内大臣の座に座ることに反感を覚えていた者もあっただろう。天智称制は六年五カ月に及んでいる。その後、近江遷都に批判的な勢力もいたはずである。しかし白村江の敗戦の責任は、司令官の中大兄一人にあるのではなかった。反旗を翻すにも担ぎ上げるに足る皇子がいなかった。大海人皇子の失策こそが敗因となれば大義が立たない。そういう政治力学を編者は伝えたかったのではないか。歌が予祝するもの、時代をリードするものと考えられたなら、斉明天皇代の皇子どうしの力関係だけでなく、次の天智朝を占う意味にも解釈されていたとして過言ではない。
 万葉集の最初の編者は、日本書紀と深く関わりを持っていると筆者は考えているが、紀が書かれたのは早くても天武紀十年(681)三月条にある詔以降のことである。額田王の熟田津の歌の斉明七年(661)から二十年経っている。万8番歌の内実を知っている人が編んでいるが、後の人のつけた左注は要領を得ていない。この額田王の歌は、歌われてからほんの少しの間だけ話題になり、しばらくしてからは人の口に上らなくなったのであろう。斉明天皇の崩御のこともある。戦時中にもかかわらず、政府の失敗からの解放を喜んでいる歌でもある。白村江の敗戦を迎え、熟田津のしくじりが後の戦況に大きく影響しているうえに、経験が教訓として少しも生かされていないとしたら、人々は口を緘したに違いない。潮の干満を、ヤマト朝廷が身に染みて知った最初が熟田津であったということである。そのように考えていくと、万葉集の当初の編纂は、当時の専制政治に対して少なからぬ危険を伴う私秘撰であったと目される。

(注)
(注1)7世紀の遺構については、橋本2012.参照。
(注2)多くの感染症は科学的知見を得るまで「神忿」として捉えられてきた。
(注3)不改常典の法については、皇位は天皇からその子や妻へと継嗣するとは限らず、臨機応変にふさわしい人を当てるのが望ましいというものであったことに関しては、拙稿「「不改常典」とは何か」参照。
(注4)この「笠」については、新川1999.、拙稿「中大兄の三山歌について」
参照。
(注5)記紀のなかでも、大国おほくにぬしのかみはいろいろな名前を持っており、名を替えては変身を遂げ、それまでとは異なる役割を担っている。大己おほあなかみ大穴おほあな遅神ぢのかみ)となれば国作り、八千やちほこのかみとなれば遠くまで婚活に出掛けていた。日本やまと武尊たけるのみこと(倭建命)は、もとは日本やまと童男をぐなやまと男具をぐ那王なのみこ)といった。その名易えの意味合いについては、拙稿「ヤマトタケル論─ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件─」参照。また、応神天皇は皇太子時代、つぬ鹿(敦賀)の気比けひ神宮の大神と名を交換したという話がある。拙稿「古事記の名易え記事について」参照。
(注6)一例としてあげると、1944年に起きた大規模な昭和東南海地震も、情報統制され、被害は隠蔽されている。
(注7)旧暦で閏月の現れる年の前年で、新暦の日付との対応が新暦に二月二十九日があるという点からほぼ同じとみて参照した。
(注8)海上保安庁海洋情報部の「潮汐推算」(https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/TIDE/tide_pred/index.htm)から、斉明七年(661)の松山の潮汐模様が検索可能である。八木2010.、清原2013.らも三月十五日説をとるが、座礁失態とは考えていない。「八番歌の夜の船出は、当事者たちが知恵と経験を縒り合わせ、満月の晩の月と潮の妙なる照応関係を行程上の要件に組み込んで演じたページェントであった」(八木2010.31頁)としている。船の航行において、海を横切ることをことさらに難事とするが、瀬戸内海の漁業者は当時も日常的に船を出して漁をしていたであろう。
(注9)動揺を隠せない発話とすれば、「不知所作有何事耶。」(皇極紀四年六月)は、「知らず。る。何事や有る。」と訓むとも考えられる。
(注10)不動明王像についての儀軌として伝わるもので、飛鳥時代にさかのぼるものは今日見られない。
(注11)潮汐に関する用語については、海上保安庁第六管区海上保安本部・海の相談室「潮汐に関する用語について」(http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic28.htm)において、「広島港の潮位関係図」の図を用いたわかりやすい解説に負っている。
(注12)「銭塘江の海嘯」(http://china.hix05.com/now-2/now211.pororoca.html、2025.2.5確認)参照。アマゾン川のポロロッカと並び称される潮津波、タイダル・ボアである。ポロロッカは春分の頃の朔月の大潮時、銭塘潮は秋分の頃の望月の大潮時に大波が見られる。この現象については、春秋時代、呉越の争いの最中に、奸侫な者の讒言によって、呉王夫差から死を賜った伍子胥の怨念のせいであるという迷信があったらしい。一世紀、王充の論衡・書虚篇には否定的な見解が述べられている。「伝書に言はく、呉王夫差は伍子胥を殺し、之をかまに煮て、乃ち鴟夷のふくろを以て之を江に投ず。子胥恚恨し、水を駆りて涛を為し、以て人を溺殺す。今時会稽の丹徒の大江、銭唐の浙江に、皆子胥の廟を立つ。蓋し其の恨心を慰め其の猛涛を止めんと欲するなりといふ。夫れ呉王の子胥を殺し、之を江に投ずは実なるも、其の恨、急に水を駆りて涛を為すと言ふ者は、虚なり。……涛の起るや、月の盛衰に随ひ、小大満損、齊同ならず。(伝書言、夫差殺伍子胥、煮之於鏤、乃以鴟夷橐投之於江。子胥恚恨、駆水為涛、以溺殺人。今時会稽丹徒大江、銭唐浙江、皆立子胥之廟。蓋欲慰其恨心止其猛涛也。夫殺子胥投、之於江実也、言其恨急駆水為涛者虚也。……涛之起也、随月盛哀、小大満損、不齊同。)」とある。
(注13)二十世紀の朝鮮戦争時、インチョン上陸作戦において、国連軍(アメリカ軍)は潮の干満差の大きいことを十分に検討している。

(引用・参考文献)
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加藤良平 2020.11.26改稿初出