枕詞に「たたなづく」、また、「たたなはる」という語がある。上代の用例は次のとおりである(注1)。
倭は 国の真秀ろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭しうるはし(記歌謡30)
倭は 国の真秀らま たたなづく 青垣 山籠れる 倭しうるはし(紀歌謡22)
やすみしし わご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣籠り 河次の 清き河内そ ……(万923)
たたなづく 青垣山の 隔りなば しばしば君を 言問はじかも(万3187)
…… 嬬の命の たたなづく 柔膚すらを 剣刀 身に副へ寐ねば ……(万194)
多々那都久□(藤原宮跡出土木簡)
山口2011.は、タタナヅクという語の語構成を探っている。まず、先行研究を四つの類型にまとめている。
(一)〈タタナハリ(畳)+ナミツク(靡付)〉の転(本居宣長・古事記伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/155~161)
(二)〈タタネ(畳)+ツク(付)〉の転(武田1956.94頁、尾崎1966.444頁、倉野1979.204頁、西宮1979.169頁)
(三)〈タタナヒ(畳)+ヅク(接尾辞)〉の約(山路1973.76頁)
(四)〈タタ(畳)+ナヅク(付着)〉の構成(土橋1972.135頁、新編全集本古事記233頁)
そして、(五)〈タタナリヅク(畳付)〉の縮約形であるとする新説を提出している。
……結論を要約すると、次のようなことになる。
①「たたなづく 青垣(山)」[記歌謡30、紀歌謡22、万923、万3187]のタタナヅクは、タタナリヅク(畳付)の縮約形であって、周囲の山並みを、一続きのものが重なり合って緑の垣根のようになったものと捉えた語である。
②タタナヅクが「柔肌」[万194]にかけられた例については、すでに原義の忘れられた段階において、タタナヅクと「青垣(山)」との慣用的な連合関係から、人麻呂がタタナヅクを<なだらかで好ましいさま>を表す語のように見なして、「柔肌」にかけるという用法を生み出したものであろう。
③「畳有 青垣山」[万38]の例については、「畳有」は「畳付」の誤写で、タタナヅクと訓む説を可とすべきである。これも、すでに原義の忘れられた段階において、人麻呂が語構成に関して一つの解釈を試みたものと考えられる。
この「たたなづく」という語は、上代においてすでに原義が忘れられていたものと思われる。それだけに分析がきわめて難しい。(189頁)
語義に焦点が定まらないということのようである。山口氏はよく知られた万葉集の歌を参考にしている。
君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも(万3724)
タタヌ(畳)という古い形があったようである。そして、「ここで注意すべきことは、タタ(畳)という語基を含む動詞タタヌ(畳)・タタム(畳)・タタナハル(畳)は、単に〈重ねる(重なる)〉のではなく、本来〈一続きのものを折り重ねる(一続きのものが折り重なる)〉ことをいうものであるという点である。」(180頁)とする。

筆者は、折り重ねる際に整った波目状にきれいに仕上げること、整った蛇腹状を見せることをいう語がタタムの語義にあると考える。その点、タタミ(畳)という敷物はよく義を表している(注2)。畳製造の棒綜絖に、麻の縒糸の経糸を二本ずつ飛ばしに藺草の緯糸を通す仕組みとなっており、硬く織っていって経糸が表面から見えなく仕上げている(注3)。繊細な心をもって幾重にも重なるように整序だてた折り(織り)にこそ、タタム(畳)という語の真髄はある。折り畳むという言い方が表すように、畳むためには折らなければならないが、折ったからと言って必ず畳めるものではない。
唯衣服をのみ畳みて、棺の上に置けり。(推古紀二十一年十二月)
如かず襞むて之を離房に幽むには〈師古曰、襞畳衣也。離房別房也。襞音璧〉。(上野本漢書楊雄伝、天暦二年点。京都国立博物館編『国宝漢書楊雄伝第五十七』勉誠出版、2019年、印刷見本https://bensei.jp/images/nakami/28046nakami-2.jpg参照、2025年2月3日閲覧)
冬の装束一領を、いと小さくたたみて、みづから持て出でて賜ひ、……(宇津保物語・忠こそ)
帷子一重をうち懸けて、紫苑色のはなやかなるに、女郎花の織物と見ゆる重なりて、袖口さし出でたり。屏風の一枚畳まれたるより、心にもあらで見ゆるなめり。(源氏物語・東屋)
角ある巌石を立て並べて、山を畳み、池を湛へしめたまへるを御覧ぜさせたまはむとて、……(栄花物語・駒競べの行幸)
宮城周十五里。塼を畳むて成せり。(興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝、永久四年点)
其に池有り、石を編むて岸と為り。(石山寺本大唐西域記、長寛元年点)
源氏物語の例に見られる「屏風」を「畳む」例が、タタムことの義そのものである。屏風は、心木の骨を格子桟にして唐紙障子にしてその上から画を貼っている。一枚(面、扇)では倒れるから、何枚かをつないで波状にして初めて自立し衝立として機能する。当初から畳まれることを企図している。蛇腹状に襞々に折って小さくすることがタタムことであり、衣服をタタム場合も、下手に丸めてしまうとかさばる。袋詰めされて売られているワイシャツは、厚紙を使いながら胴部分ばかりか袖部分も上手に折り返して、見栄えの良さと容積の減量がともにうまく図られている。アパレルショップの店員による商品棚の整理も、実に手際よく外内外内に返し折っていっている。一定の長さを保って山折りと谷折りをくり返すとき、初めてタタムという。「巌石」で造られた「山」や「石」で池の護岸にしたり、「塼」で「宮城」の塀にすることなど、何であれ、山折りと谷折りとをくり返していると認められたとき、タタムという形容が彩を成す。なぜなら、それをもって分け隔てに累乗的な実効が生まれるからである(注4)。 この点は枕詞の「たたなづく」にも当てはまる。「青垣山」とは山筋が幾重にも重なっている山並みであり、垣根を八重垣に設えた「須賀宮」(記上)のように、山が何重にもめぐらされていることに冠した言葉である。山が何重にもあるということは、それぞれの山の重なりの間には谷がある。山が八重にあるとは、山谷山谷山谷山谷山谷山谷山谷山のことを指している。言葉の連続の仕方として、「たたなづく」→「青垣山」でありつつ、「たたなづく」←「青垣山」でもあるという旋廻式の構造となっている。無文字時代の上代のヤマトコトバは、人々が互いに共通認識として持ち合うために、言葉が言葉の体系のなかで証明し合う関係を築くことが求められていた。逆言すれば、「青垣山」というもったいぶってこじゃれた言い回しが作られた背景に、「たたなづく」という語の存在と、それとの紐帯をもって寄り合いながら成立する言語体系全体の傾向が見て取れるのである(注5)。
「たたなづく」という語は、「青垣山」と切っても切れない関係にある特殊な語であり、そこに枕詞の言語遊戯性が封じ込められている(注6)。無文字時代のヤマトコトバは文字に依ることができない。したがって、言葉(音)は言葉(音)の群で編成されて全体を保つ。一つ一つの言葉は、その言葉を単一の語構成に集約させて理解するよりも、他の言葉との間の関係、ネットワークをもちながら、複合的、なぞなぞ的に作られていると考えた方が正しい(注7)。青い垣根はいかに織られて山となったかという、科学的合理性からすれば訳のわからない問いを投げかけてこそ、ヤマトコトバの利用者たちの思考に近づくことができる。我々の言語世界とは異なる文化体系なのである。系として存在するヤマトコトバをきちんと理解するためには、言葉に対するメタロジカルな設問とともに、それにまつわる言葉群を隈なく縦覧していくことが求められる。無文字時代のヤマトコトバ世界は、語用論上の論理学が今日より格段に富んでいる。
山口2011.の結論の①タタナヅクはタタナリヅク(畳付)の縮約形かどうか、もはや判断はつかない。しかし、③の例からさらに検討が必要と考える。後述する。②の、人麻呂の歌に、タタナヅクが「柔膚」にかかる理由については、原義が失われたものとは考えない。山口氏が示す現代語訳ともども以下に掲げる。
飛ぶ鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし 嬬の命の たたなづく 柔膚すらを 剣刀 身に副へ寐ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ ……(万194)
〔飛ぶ鳥の〕明日香の川の上の瀬に生えている玉藻は、下の瀬まで流れて触れるが、その玉藻のように、ゆらゆらとしなやかに慕い寄っていた泊瀬部皇女の〔たたなづく〕柔らかな肌さえも、川島皇子は、今は〔剣太刀〕身に添えてお休みになることがないので、〔ぬばたまの〕共寝した夜の床は空しく荒れすさんでいることだろう。(〔〕内は枕詞)(184頁)
川島皇子に寄り靡いて共寝する泊瀬部皇女の柔らかい肌が、どのように絡んでくるかというと、身体の前にも後ろにもあるのである。正対してならば、川島皇子の胸には泊瀬部皇女の胸の肌、川島皇子の背には泊瀬部皇女の腕の肌がある。寝返りを打っても、川島皇子の背には泊瀬部皇女の胸の肌が、川島皇子の胸には泊瀬部皇女の腕の肌がある。柔らかい肌に包まれ、柔らかい肌のミルフィーユ状態になっている。山折り谷折りのくり返された密着感こそ表したい。これが柿本人麻呂の独自表現である。「柔肌」がくっついていて間を置いていない。よって、タタヌ・タタム・タタナハル・タタナヅクの語幹のタタ(畳)の原義を強調している。巧みな言葉遣いである。
③の、「畳有 青垣山」(万38)をタタナハリと訓むか、タタナヅクと訓むかについては、タタナハリと訓むものと考える。②の人麻呂作歌の例でタタナヅクの原義が忘れられた段階にあったのではなく、むしろ、タタナヅクの語本来の意をもって言葉を新たに展開させている。人麻呂は歌詠の言葉を模索する開拓者であった。「畳有」においては、今度は逆に、「青垣山」という語を軸にして新たな使用法を目指している。時代別国語大辞典の「たたなはる」の項に、「【考】記紀歌謡に見える伝統的な枕詞を借りて新規な語に転用することは、柿本人麿に例が多く、ときにはソラミツ─ソラニミツのように語形に変化をみることもある。ここもタタナヅク─アヲカキをタタナハル─アヲカキとしたのではないか。「有」を「付」の誤りとしてタタナヅクとみる説もある。「畳嶺杳不レ極」(懐風藻)の「畳」はこの語、もしくはタタナヅクに当たるもの。」(422頁)との指摘がある。筆者は、上述のとおり、枕詞とそのかかる語との関係は相互方向に通行し合うものと考えている。
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳有 青垣山 山神の 奉る御調と 春べには 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり〈一に云ふ、黄葉かざし〉 逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも(万38)
この歌の根本的な新しさは、国見概念の多様化、ないしは、濫用にあると考える。山に登って下界の国土、遥かなる風光ばかりでなくくり広げられている人々の活動やその形跡を見るのが国見であった(注8)。万2・382・1971・3234・3324・4254番歌、記41・紀34歌謡、記53、雄略記などに垣間見られる。ところが、人麻呂の万38番歌では、持統天皇は、吉野宮の「高殿」に登って山を見ている。次には川も見ている。天皇の視線を追って表現を整えていっている。縷々述べていってよどみなく流れるように歌いあげている。「高殿」には登っているが山頂に登っているわけではない。これがはたしていわゆる「国見」なのか、疑問とされなければならない。吉野宮は、現在の奈良県吉野町の宮滝遺跡に該当するとされている。山間部にある別荘へ行って山や川を見るのは静養を兼ねた物見遊山であろう。そこに政治的、祭祀的な意味合いを見出すには記述としてインパクトが乏しい。中国で治山治水を目的とするような意味など持たない。天皇の観光、物見遊山を「国見」と扱って追従を述べているだけに感じられる。門付け歌人だから、それで目的は達成されている。
この仮定を正しいとするなら、「国見」で「青垣山」を見ることは、どのような捉え方をしても奇怪なこととわかり、かえって納得がいく。すなわち、「国見」は山の高いところから望見するから、視線は下方へ向くはずである。ところが、今、高殿から望見しようとして、なお高い山に視界が遮られてしまっている。「青垣山」があって視線は上方へ向き、それでも見晴らすことはできない。そもそも「高殿」は、遠く十里四方を見晴らすために建設されたものではなく、別荘のバルコニーにすぎなかっただろう。山あいにあって見晴らすことができないのに「国見」なるものをするとすれば、山の神も川の神も、見ている天皇に奉っていると読み替えてこそなるほどと理解されるに至る。「国見」概念の拡張である。人麻呂は作戦として、最初に「国見」と言って気を引こうとした。
見晴らしがきかない「青垣山」が登場することは歌う前から明らかである。眼前に迫っている。その場合、常套句である枕詞のタタナヅクという語を「国見」に下接することはしないだろう。タタナヅクアヲカキヤマは、歌を聞く人に慣用句的に記憶されている。いきなり衝突する概念を並べ立てるのではなく、相反するにもかかわらず解釈を変えれば遊覧が「国見」になることも座興としてはあり得ることだと思わせたかった。そのためには言葉づかいに多少の工夫が必要である。人麻呂は少しばかり変化をつけ、タタナヅクという語を変えてタタナハルにした。
筆者は、タタナヅクの語幹タタを、畳の製作、構成にも見ている。叩くように畳みかけて作り、きれいな波打ちが連続して重層を成す。一般的な藁筵が縦にも横にも凹凸をくり返すのと異なり、山の部分、谷の部分が一筋ごとにつづいている。ここにタタナヅクのナヅクは、ナツク(懐)というまつわりつく意、ナヅク(名)という命名の意を併せ含んでいると考える。山の部分が続いてまつわりついているのが幾重にも重なっていて八重垣的な山脈の比喩としてふさわしい。反対に、山々が青畳のイメージだからそれを作る畳機の垂直に立つ様子からしても、タタと名づけてふさわしい。
記紀歌謡や万923番歌で「たたなづく」、「青垣山」、「籠る」が連語となっている。垣根は「籠る」ことと直に連関する。「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(記1)。そして、「籠る」ことは、ある閉所に籠って外からは見えなくなること、隠れることであり、古語では「隠る」ともいう。ゆえに、「畳有 青垣山」(万38)の「畳有」はタタナハルと訓むことが正しいと知れる。人麻呂が造った新語であろう。聞いている人は、万38番歌が歌われた時に初めて耳にする言葉だったかもしれない。国見の本来であれば、ミハルカス(見晴)(注9)はずが、青垣山の方がせり出してハル(張)ことになっている。ハルという言葉の洒落をもってタタナハルという造語は腑に落ちるものとなり、言葉に絡めとられる思考を見事にうっちゃりやって逆転させることに成功している。
ヤマトコトバの探究は、理路整然たる単一な語源を解として求めることにはない。飛躍する論理と絡み合う語感について、それが納得が行って了解できるものなのか、逐一検討していくところにある(注10)。
(注)
(注1)山口2011.に負っている。
(注2)石井1995.は、「アシカの敷皮を「畳」と呼ぶ語例や、敷石を一面に敷いてイシダタミ(石畳)と呼ぶ語例」(160頁)からすると、「日本語タタミ(畳)の語末 -mi も、シゲミ(茂み)、アツミ(厚み)、キリミ(切り身)などの語末ミと同様に、名詞接尾辞と考えられる。」(161頁)とするが、そうではあるまい。新訳華厳経音義私記(奈良時代末期)に、「皆砌 上古諧反、道也、上進也、陛也、下千計反、限也、倭に石太々美と云ふ」とある。万葉集には、「磐畳 恐き山と 知りつつも 吾は恋ふるか 同等にあらなくに」(万1331)とある。
筆者は、魚の切り身一枚をもってキリミというのとは異なり、何枚もが敷きつめられてはじめてイシタタミ、イハタタミというと考える。タタミ(畳)という語をタタム(畳)という動詞の連用形に起ったと考えるのは、稠密に作られた面としての出来、敷物としての極限さに対し敬意を表したとさえいえる語だと感じるからである。その場合、畳表の製造過程に、粗莚のようにほんわかと織ったり編んだりして目が必ずしも整わなくても良しとするのではなく、目が詰まるようにきつきつに畳機で織ること、緯糸である藺草間に隙間ができないよう叩くように詰めていくことの必要性を物語る。整然とした波目模様が構成され、その結果、内部に空気層を確保してクッション性、保温性、面としての存在性を機能させている。タタム(畳)とタタク(叩)とは同根の語なのだろう。「みちの皮の畳八重を敷き」(記上)とあるのは、アシカの皮を敷物にしている。生きているアシカの毛皮の襞をなして波打つ形状をもって「畳」たる語に相当すると認識している。古語にミチというのも道と同じように波打つことがあるのだと洒落のなかに納得している。「…… 韓国の 虎とふ神を 生け取りに 八頭取り持ち来 其の皮を 畳に刺し 八重畳 平群の山に ……」(万3885)とあるのも、虎の皮に見事な縦縞模様があり、その波目模様をもって「畳に刺し」、すなわち、畳状に刺して、という形容につながっていると考えられる。
イシタタミの場合、一般的な印象として、一面に石板が敷きつめられていることと感じられる。石の形、大きさを見極めて、パズルのように組み合わせて目地を限りなく詰めていく途方もないくり返し作業が思い起こされる。表面がほぼほぼ平らになるように石の下に砂を塩梅よく敷いていく。それでも布基礎の上のタイルのようにはできず、波打つようにしか仕上がらない。結果、石の面が屏風の扇のように見立てられ、それを目地の部分がつないでいると見立てられるのである。全体に見れば一定の厚みを持った面としてあって、地盤との間に隔てを保つものとして機能している。だから、イシタタミと称されて然るべきと思われたのだろう。タタミ(畳)の完成後にイシタタミという語は認められている。
この名詞のタタミ(畳)という語のニュアンスは、動詞のタタヌ、タタムと等しいと思われる。具体物となって現れているタタミ(畳表)は粗放な藁筵のイメージとは大きく異なる。タタム、タタヌという動詞は、折り畳み重ねる際に山谷山谷で折り返されつづけていくことを示すのであろうから、叩くように織りあげて整然とした波目模様にできていれば、動詞タタム・タタヌという語の最も原初的な意味合いを具現化していると言い切れる。すなわち、畳を作るのも作られた畳も、タタミの意を表していて表裏一体の語となっていると言える。実際、畳表というものは表裏一体にして表も裏もない物として完結している。畳返しをすれば新しい畳として使うことができる。ここに、タタム・タタヌという動詞に、他動詞、自動詞の区別を明確化しない理由が潜んでいる。
(注3)伊藤1990.に、「弥生時代のムシロに、在来の〝簀の子〟のような手編みとは基本的に異なり、経糸二本を一組としてこれらを二群に分けて操作できる装置(『延喜式』所載の席杼と呼ばれるものや、現代畳織機の小手などと呼ばれるもの)がついた何らかの織機を用いて織られた可能性が高い。」(63頁)とある。小林2013.に「開孔棒綜絖」と記されるものは、「小手」、「席杼」、また、機能を兼ねているので、「筬」とも呼ばれてきた。拙稿「上代語「畳」をめぐって─「隔(へだ)つ」の語誌とともに─」参照。
(注4)山口2011.は、岩石を積み上げる意の場合、岩石は一つ一つ別個の物で、タタムことの意味が拡張されていると解釈する。「このような用法が現れるのは平安後期以降であるから、本来の用法ではなく、漢文訓読によって生じた用法と見てよいであろう。」(182頁)とする。しかし、イメージの展開が漢文訓読に由来すると決めてかかることはできない。「磐畳 恐き山と 知りつつも 吾は恋ふるか 同等にあらなくに」(万1331)という表現が上代に行われていたのだから、むしろタタムという語の本質こそ再考されなければならない。新訳華厳経音義私記のイシタタミの例は、敷き詰められた石板や塼が、多少なりとも波打つように見受けられたところから、屏風の敷石バージョンであると見られたのだろう。古くからそのように見て取れるほど、当時の人にとっては規格サイズにまとまっている岩石の積み上げは、水を隔てたり異人を隔てたりすることにかない、タタムことと認識されて是とされ得る。拙稿「上代語「畳」をめぐって─「隔(へだ)つ」の語誌とともに─」参照。
(注5)「青垣(山)」という表現は、ほかに、「吾をば、倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ(吾者、伊三-都-岐-奉于二倭之青垣東山上一)。」(記上)とある。景行記の例から、「たたなはる 青垣(山)」のことを指しているとわかる。
(注6)廣岡2005.参照。
(注7)言語が言葉の関係性のうちに成り立っているという意味で、言語は「社会」となっているといえる。社会言語学、言語社会学といった領域を指しているわけではない。
(注8)古代の「国見」については数多く語られている。儀礼の側面や民間の慣習など、いろいろな観点から論じられている。ただし、飛鳥時代までにおいて実際に行っている行為は、中国の影響を受けた四方拝とも異なり、作法のようなことが特記されているわけではない。単に高いところから見晴るかすことであったと考える。
(注9)「皇神の 見霽し坐す 四方の国は ……」(延喜式・祝詞・祈年祭)とある。
(注10)例解古語辞典第三版に次のような指摘がある。
語源説明の排除
語形欄では語源に言及することを積極的に避けています。日本語の場合、親縁関係にある言語が確認できないために語源の究明が困難であり、知恵をしぼった独創的な解釈は、多くの場合、考えついた人の頭のよさの証明にしかなりませんし、古典語辞典にとっては、どんなに確実な語源でも、その語の意味を正しく把握するうえで邪魔になります。
現代語の副詞「おそらく」は、平安時代に漢文訓読用語の「恐らくは」にさかのぼります。心配なことに、という意味です。この段階では動詞「恐る」の意味がそのまま生きています。しかし、「おそらく、まだ電車に間に合うでしょう」というのは間に合うことを恐れている表現ではありません。現代語の〈おそらく〉の意味や用法を知りたければ、実際の使われ方を調べるのが正統な手順です。その原則は、いつの時期のことばについても同じことです。
帰納による解釈
日本語の長い歴史からみれば上代の日本語も最近の姿であり、起源的な意味とのずれはたくさんあったと考えるべきですが、『古事記』や『万葉集』を日本語のふるさととみなす錯覚が根強く定着しており、それが語源信仰に結び付いています。《例解方式》では、演繹によらず、帰納に徹して解釈し、推定された語源からその語の意味を説明する立場をしりぞけます。それが古典語辞典の正しい方法だからです。(1045頁)
筆者は、いわゆる語源という言葉をいったん括弧でくくり、記紀万葉時代の語感、当該語に対する当時の人々の意識と捉え直すことを提唱している。語源という言葉は、語の発生地点へ遡っているようであるが、上代での使用例から見た語感とは、上代というヤマトコトバの流れのなかでは扇状地のようなところの様子にすぎない。その場合、「たたむ」、「たたなはる」、「たたなづく」という語の間に関連を見ることは、上代語への接近法として有益である。《例解方式》にしたがって例を列挙して行った場合、「たたなづく」と「たたなはる」は、同じ「青垣(山)」にかかる枕詞である。柿本人麻呂の頭の中や彼の歌を直接聞いた人、万葉集に採録した人たちには、両語は意味的に関連があるものとして捉えられていたに違いないと推定することができる。そうなると、言葉の意味を理解するということに、帰納的か演繹的か、厳格に判別しかねる事態が出来してくる。それは実は当たり前のことである。言葉は使われてはじめて言葉だからである。動態としての言葉を捉えることが大事であり、より正しく言えば、言葉は動態なのである。
一時代前の語源研究は、それ自体はほとんど用を成さなかったものの、言葉の成り立ちを顧みると事の本質がわかるのではないかという希望は、人間の癖のようなものでありつつ、実は言葉とは何かをめぐる深い洞察の一片を窺わせることになっていると気づかせてくれた。例えば、洒落がわかることは、言葉について深い洞察をめぐらせられたということと等しい。言葉の理解について、その使用例から調べるのは正統な手順である点は言うまでもないことながら、言葉には、異端的な、訳のわからない使用例、駄洒落や言葉遊びやギャル語などが際限なく展開されている。それが言葉の実態であり、本来のあり方でもあって、言葉の持つ宿命である。そして、上代には、平安時代以降今日に至るまでとは事情の異なる事態がある。無文字時代の痕跡がきわめて濃厚な点である。
無文字時代の言葉と文字を持つ時代の言葉とは様相が異なる。無文字時代には、すべての言葉は音声言語のヤマトコトバとして理解された。それが基本である。ヤマトコトバが長い間、文字を持たずに、地理的に少しく離れた場所でも同じように伝わり、学習され続けられたのか。それは、言葉自体に張り巡らされたヤマトコトバの体系、テクスチャーのために、その言葉がその言葉でなくてはならないような秘訣が内在していたからである。学校もなく、文字もなく、クニも違うのに理解し合える言葉とは、聞いただけでなるほどそういうことね、と納得するからくりがあったということである。すなわち、ヤマトコトバには、訓(音)によって意味のネットワークが存在していたということである。これまでの研究者たちは、それを「語源」という言葉で遡ろうとしてきた。ちょっとした錯覚である。記されている言葉としては記紀万葉が最初だから、いちばん古いとただ勘違いした。書き残されているということは、無文字文化の最後の時代の言葉の有り様として記されている。そのように捉え返せば、当時流行の駄洒落が枕詞であるとわかるし、どうしてそのような今日理解しがたい言葉が使われていたかも、文字を持たない人たちの頭の使い方が文字時代の人とは違うのだと理解することができる。異文化なのである。文字なしに互いに言葉を納得するからくりは、なぞなぞと呼ぶことができる。紀には「無端事」(天武紀朱鳥元年正月)と記されている。無文字にして音声が空中を飛び交うばかりの言葉に端緒などあろうはずはない。無いのに答えが有るとはどういうことか。文字を持たないヤマトコトバという閉じた系において、そのなかで完結される洒落のくり返しが存在するから、渦中にいる人たちにとっては、その再帰的なプログラムによってそれぞれの言葉がなるほどと納得づくに悟られた。そのように構成されていたのがヤマトコトバであった。これは日本語の起源論とは次元の異なる議論であるし、また、いかなる言語体系においても同じであるが、証明も反証もできない命題として存在している。
「たたなづく」といった枕詞一つをあげてみても、その語構成について一通りに解釈し切ろうとする試みは、実数ばかりで解こうとするのに似て解釈にかえって誤謬を来す。虚数を含んだ複素数として枕詞は成っていると譬えられるからである。いくつかの洒落の組み合わせをもって枕詞「たたなづく」は構成されており、同様に、珍しい枕詞「たたなはる」についても、人麻呂が、いくつかの洒落を組み合わせて仕立て上げた新語であったかと推測していくことは、ヤマトコトバ研究の基本姿勢であろう。
(引用・参考文献)
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